1956年フランス映画
112分、白黒

 ルネ・クレマン監督は『禁じられた遊び』、『太陽がいっぱい』の世界的巨匠。
 原作はフランスの自然主義文学の大家エミール・ゾラの同名小説(L'assommoir)。
 19世紀後半パリの下層社会に生きる庶民のありのままの姿を描いている。

 原作は未読なのでどうか知らないが、少なくとも映画で物語の主要な舞台となるのは「居酒屋」ではない。主人公ジェルヴェーズが経営する「洗濯屋」である。
 「居酒屋」というタイトルから想像されるストーリー、たとえば木の実ナナ&五木ひろしのデュエット「居酒屋」(1997年発売)、高倉健主演『居酒屋兆治』(1983年)、あるいは昭和の歌姫ちあきなおみの新宿西口『紅とんぼ』(1988年)のような、渋い大人の恋愛模様や庶民の哀歓を期待していると肩透かしを食らうかもしれない。
 本作は、一人の可愛い女の波乱含みの半生と哀れな顛末を描いた悲劇である。
 岩下志麻主演で邦画化されたモーパッサン原作『女の一生』や木下惠介監督『永遠の人』に近い。
 すっかり身を持ち崩して安酒場で一人うらびれているラストなどは、ヴィヴィアン・リー主演『美女ありき』(1941年)を想起した。
 つまり、男に振り回されて一生を棒に振った可哀想な女の物語である。

 その意味で、本作をフェミニズム的視点から読むことはたやすい。
 DVDパッケージの作品紹介で映画評論家の山田宏一が書いているように、「貧困にあえぎ、卑怯で狡猾で自堕落な男たちに苦しめられ、転落の運命をたどる薄幸の女の一生」という解説はまったくその通りで、公開当初からそのような見方をされて評価されてきたのは間違いなかろう。

 若く美しいジェルヴェーズは、ハンサムな遊び人ランティエにかどわかされ、結婚しないままに二人の子を生むが、ランティエは他の女と浮気し駆け落ちしてしまう。
 貧困のうちに洗濯女をしながら子育てするジェルヴェーズに、屋根職人のクーポーが求婚する。二人は結ばれ、やっと幸福が訪れたかと思いきや、クーポーは屋根から落ちて大怪我してしまう。仕事ができなくなったクーポーはアルコールに溺れ、すさんでいく。
 ジェルヴェーズを優しく見守り、洗濯屋を始める資金を貸してくれたのが、鍛冶屋のグジェ。ジェルヴェーズの息子の一人を徒弟として面倒見てくれてもいる。
 洗濯屋が軌道に乗り、やっと安定した生活が送れるかと思った矢先、女と別れたランティエが街に戻ってくる。クーポーはこともあろうに、住まいを探すランティエに自宅の一室を提供する。
 かくしてジェルヴェーズは元の恋人と今の亭主との奇妙な同居生活を送ることになる。

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左からランティエ役のアルマン・メストラル、クーポー役のフランソワ・ペリエ、
ジェルベーズ役のマリア・シェル

 自分を裏切った元の恋人ランティエ、怪我がきっかけで自堕落になった今の亭主クーポー、そしてプラトニックな関係ながら相思相愛の第三の男グジェ。三角関係ならぬ四角関係に翻弄される女主人公。
 たしかに、「卑怯で狡猾で自堕落な」ランティエとクーポーが、ジェルヴェーズの幸福をことごとく潰す。誠実で優しいグジェは街を去り、ジェルヴェーズは破滅に追いやられる。
 「悪い男の犠牲となった弱い女」というよくあるパターン。

 しかしながら、ソルティは健気で可愛いジェルヴェーズの姿に、どうしても大竹しのぶをダブらせてしまったのである。
 大竹しのぶは若い頃、まさに“健気で可愛い”感じで売っていた。その一方、TBSディレクターや明石家さんまとの結婚をはじめ、演出家の野田秀樹や若手俳優など、いったん狙った男を逃さない握力の強さで「男日照り」と無縁な生涯を送ってきた(ように見える)。
 しかも、つき合った男たちをことごとく芸の肥やしにし、いまや泣く子も黙る天下の名女優。あのさんまでさえ、彼女の前では脇役になってしまう。
 一見、“健気で可愛い”ブリっ子、実はしたたかで確たる自己愛の持ち主。
 同じことは松田聖子にも言えるかもしれない。
 
 思うに、女というものは本質的にそのようなものではなかろうか。
 長い男社会の歴史の中で、そのような戦略をとることこそ有利な条件下で生き残れるがゆえに、身についてしまった体質というべきか。
 あるいはまた、少しでも良い遺伝子(=精子)を受け取るために、選択肢(=候補となる男)は多くしておこうという、利己的遺伝子の生物学的戦略か。
 
 つまりソルティは、元の恋人と今の亭主と本命の男の3人に囲まれて苦悩するジェルヴェーズの姿に、竹内まりや『けんかをやめて』的な女の自己陶酔の匂いを感じたのである。どこかでジェルヴェーズはそういった状況を楽しんでいるんじゃないかな・・・と。
 でなければ、元の恋人ランティエを同じ屋根の下に住まわせるという非常識で世間体の悪いことを、いくら今の亭主が強く言ったって、そのまま許してよいはずがない。亭主に押し切られたような形をとって、自ら許しているのである。
 男と女の間のことで「どっちか一方だけが悪い」というのは基本ないだろう。
 ジェルヴェーズは本来、「喧嘩上等」の気の強さとたくましい生活力をもつ、しっかり者なんである。一方的に男たちの犠牲になった弱い女という見方は、一面的に過ぎる気がする。

 “健気で可愛い”大竹しのぶや松田聖子が、男を手玉に取って成功街道を突き進んでいったのに比して、“健気で可愛い”ジェルヴェーズは、男に翻弄されるのを(自ら許して)転落への道をたどっていった。
 その差にフェミニズムの意義が存在するのだろう。  


 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損