1972年近代映画協会制作
91分
平安時代を舞台とする能の『鉄輪』を現代劇に翻案したもの。
いつの世も変わらぬ男の浮気心と女の嫉妬の凄まじさを描く。
鉄輪とは、丸い輪っかに三本の長い足の付いた昔の鉄製の調理器具(五徳とも言う)で、上に鍋ややかんや焼き網などを置いて火にかける。
これを逆さにして、そそり立つ三本の角ごとに蝋燭を刺して火を灯し、ティアラのように頭にかぶる。
その格好で毎晩、貴船神社(京都)に丑の刻参りをすれば女は鬼となり、憎い夫と若い愛人を呪い殺すことができる。
夫(観世栄夫)に捨てられた中年の妻を演じる乙羽信子が不気味で恐い。
監督の新藤が乙羽の実際の亭主であることを思うと、「よく自分の妻にこんな役をやらせて平気だなあ、怖くないのかなあ」と感心する。
おのれの品行方正に自信があるゆえだろうか。
それとも、ほかの女に目がゆかないほど乙羽を愛していたからであろうか。
――と思って調べたら、なんと新藤と乙羽は不倫の恋をしていたのであった。
二人が出会って恋仲になったとき、すでに新藤には妻子がいた。
つまり、新藤は自分の身に起こった実体験を描いたのであって、映画の中の観世栄夫が新藤自身、乙羽信子が前妻、夫を魅了する若い愛人(フラワー・メグ)が若き日の乙羽ということになる。
それを知ってから作品を見直すと、妻の影におびえる観世の演技がよりリアリティをもって感じられる。
日本の伝統芸能である能が原案であり、映画の中でもストーリーと重ね合わさるように能『鉄輪』の上演シーンが挟まれる。
それゆえ、一見、文芸調とか芸術調の映画と思われるかもしれないが、なんのことはない、はっきり言ってポルノである。
かつての日活ポルノ映画のどれよりもセックスシーンが多く、フラワーメグと来た日には最初から最後までほぼ全裸で、スタイル抜群の美しき姿態を観客に見せつける。
丑の刻参りで乙羽(前妻)が藁人形の股間に五寸釘を打ち込むと、メグ(愛人)もまた股間を抑えてのたうち回るのだが、その姿はどう見ても「ただいまオナニー中」としか見えない。
この映画を鑑賞する多くの男性は、股間にもう一本角を立てることであろう。
『鉄輪』を翻案するというアイデアも、平安と昭和の二つの時代をダブらせるという仕掛けも、実際の能舞台を取り入れるという趣向も悪くはないのだが、いま一つ工夫がほしかった。
同じシーン(たとえば闇の中をひたすら走る乙羽信子、前妻からのいたずら電話に怯える不倫カップル)が何度も繰り返されるので、しまいには退屈してしまうのだ。
「繰り返される電話のベルがいやならば、受話器を外しておけばいいじゃん」とか、観ていてイラついてしまう。
「繰り返される電話のベルがいやならば、受話器を外しておけばいいじゃん」とか、観ていてイラついてしまう。
リアルであるべき現代シーンに、顔を白塗りしたホテル従業員を登場させる前衛的な演出も成功しているとは言い難い。(当時、前衛と言えば「白塗り」って相場が決まっていたのだろうか?)
時がたつと前衛が陳腐になるのは、アダルトビデオに飽きるのと同じく、避けられない運命なのか?
91分という上映時間が長く感じられた。
時がたつと前衛が陳腐になるのは、アダルトビデオに飽きるのと同じく、避けられない運命なのか?
91分という上映時間が長く感じられた。
おすすめ度 :★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損