2008年講談社
14人の有識者による多角的視点からの団塊の世代論。
14人の構成は、社会学者、経済学者、政治学者、作家、新聞社コラムニスト、トヨタの会長、イベントプロデューサー、元官僚等々で、年齢は30~60代、うち6人が団塊の世代当事者(1947~1950年生まれ)である。
これら多彩な論者によって、団塊の世代の特徴や歴史的位置づけ、政治・経済・文化における志向や影響、定年後の方向性などが語られる。
御厨(みくりや)の前書きによると、本書のもとになったのは財務省が各方面の有識者を集めて開催した団塊の世代をテーマとする勉強会だという。
そこでの毎回の議論の盛り上がりが、本という形に結実したのである。
団塊の世代について語ると良くも悪くも盛り上がる。
そこにまず、この世代の特徴があるのだろう。
つまり、日本で世代論が成り立つほとんど最後の世代なのではなかろうか。
それは600万とも700万とも言われる突出した世代人口の多さによるばかりでなく、一つの世代がある程度共通した価値観や生活様式を保ちながら生きてこられた最後の世代、という意味において。
団塊の世代以降の世代、たとえばソルティが属する新人類世代(1960年代生まれ)ともなれば、価値観の多様化(つまりオタク化)や個人主義(連帯を嫌う心性)はもう明らかで、共通基盤はもろく、世代を統合し得る神(シンボル)もない。
わかりやすい話、70年代までのNHK紅白歌合戦であれば、お茶の間でテレビを観ている一家は、出場歌手の顔と名前、その持ち歌をあらかた知っていた。
80年代以降は知っての通り、「どういう基準で選んでいるのかわからない」というラインナップが定着した。日本人の音楽嗜好は多様化し、お茶の間も消失した。
職業に関しても、年功序列×護送船団方式で一つの職場に生涯居続けるのを当たり前とする感覚は、団塊の世代が最後であろう。
新人類世代以降は、「最初に就職した職場に生涯居続けられるなんてラッキーだ(あるいは奇特な人)」くらいの感覚であろう。
ある時期に生まれた一つの世代を、共通のキーワードや概念でくくるのが難しくなったのである。
また、本書の書き手の顔触れを見てすぐに気づくのは、14人のうち女性がたった1名(残間里江子)しかいないという点である。
ここにもまた団塊の世代の特徴、というか限界が透けて見える。
つまり、男尊女卑の日本社会から数々の恩恵を受け、そこから抜けきれなかった最後の男たちの世代ということである。
もちろん、新人類世代以降だって男尊女卑の男たちはたくさんいる。
が、雇用機会均等法(1986年)や男女共同参画社会基本法(1999年)の施行、あるいはフェミニズムの興隆やジェンダーフリー教育の登場、セクハラやパワハラに対する社会的制裁などがあって、「女性差別にご用心!」ってことは、多かれ少なかれ新人類以降の世代の男たちには意識づけられている。
公平であるべき行政の主宰する会合のメンバーが男ばかりという状況に、「これ、大丈夫かな?」と思うくらいの意識はある(と思う)。
「団塊の世代とは何か」を議論する会合に、世代の半数を占める女性の声を伝える代表者がたった1名っていうのは、どう考えてもいびつだろう。
以下、興味深く思った発言を引用する。
要するに、団塊の世代というのは、戦争を経験した若い人たちの子供であるということです。命がけで、ある価値観を共有させられていた父親世代が、ちょうどエディプス・コンプレックスの対象として、対立的な世代として上に乗っかっている、それが団塊の世代だ、と言うことができるでしょう。(作家・平野啓一郎の発言)では、なぜ団塊の世代に民主党支持や無党派が多いのか。理由をいろいろ考えるとすれば、先ほど述べたような学生時代までの精神形成期に得た経験や感覚――その後、挫折したり体制順応の中でしまい込んできたようなもの――が、どこかに生き続けているということではないでしょうか。つまり、学生時代に体制変革を求めた気持ちからして、自民党は支持したくないという気持ちがいまも強いのですが、さりとてもはや現実を知らぬ訳ではないし、野党にも裏切られてきたから、おいそれと野党も支持できない。簡単に言えば、そんなところでしょうか。(朝日新聞社コラムニスト・若宮啓文の発言)団塊の世代の特徴1 ホームルーム民主主義(多数決信奉)2 楽観的である3 人口圧力の恐怖にさらされてきた(老化人口圧力へと続いている)4 「世界復帰」への渇望をもつ(国連信奉)5 教養主義(本が好き、説教が好き)6 なにかと回想したがる(作家・関川夏央の発言)団塊の世代の家族の特徴を一言で言うならば、前の世代に比べると「豊かでない家族の中で育ち、豊かな家族生活にあこがれ、それを作りだしたが、子へのバトンタッチに失敗した世代」だと言うことができると思います。(中央大学教授・山田昌弘の発言)恋愛に関する統計を見てわかることは、団塊の世代は「鏡を見なければ、今も青春」と思っているようだということです。つまり、いまもバリバリ現役だと思っているということです。なぜ母親(ソルティ注:団塊の女性たち)が(娘の)結婚に対して否定的なのかと言えば、自分は結婚したくない、あるいはもっと何かやりたかったのに世の中が結婚という道筋しか作ってくれなかったという怨念があるからです。自分の結婚と出産・育児に対して誇りを持っている人、すばらしいことだと自信を持っている人が、団塊の女たちには非常に少ない。多くの人が、仕方なく結婚し、子供を持ったのだと思います。団塊の世代は、まだ見ぬ自分に対する投資と、健康に対する投資は惜しまない、ということです。とにかく子供の世話にはなりたくない、と思っています。まあ、本当はなりたいようですが、なりたくないと言ってしまった以上はポックリ死にたいという願望を持っている。そのため、心身ともに現役でいるために、健康コストはそうとう費やします。ジムにも行くし、健康のためなら死んでもよいという人たちがいるくらいです。(イベントプロデューサー・残間里江子の発言)
最後に、団塊の世代の政治家を上げる。
菅義偉、甘利明、舛添要一、川崎二郎、鳩山由紀夫、鈴木宗男、西村眞悟、中村喜四郎・・・
う~ん、微妙・・・・
おすすめ度 :★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損
新左翼の運動参加者のその後の人生の物語だけでは、絶対に、見えてこない深層の事実というものがあるに違いない。メディア市場の表面には決して現れない事実というものがあるに違いない。事件報道にも事故報道にもなりえない、無数の無名の人生の物語があるに違いない。
私はごく最近、『阿含経典 1』を読みながら、考える事ですが、私(74歳になりました)を含めて、日本語の思考力が素晴らしく落下していくのを感じます。増谷さんの注解を読む限り、日本語の適切な訳文でないと感じます。本当に原文の通りなのか、釈迦のことばなのか、私には腑に落ちないところばかりです。はっきり言うなら、増谷さんの翻訳力を疑うのです。
その様な感想を現在の言論者に対しても感じています。
ソルティはかた
が
しました