2021年講談社現代新書

 左翼の歴史について大まかなところを学びたいなあと思っていたら、恰好な本が出た。
 『宗教の現在地 資本主義、暴力、生命、国家』(角川新書)で相性の良さを証明した池上&佐藤の博学コンビによる戦後左派(1945-1960)についての対談である。

IMG_20211217_092856


 今回も、池上の見事な手綱さばきに身をまかせるかたちで、青春時代に日本社会党を支える日本社会主義青年同盟(社青同)に属し、その後外務官僚となってロシア外交の主任分析官として活躍した佐藤優が、広い見聞と鋭い分析をもとにトリビアな知識もたっぷり、日本左翼史を概観する。
 佐藤の話が脱線したり拡散しそうなところで池上が本流に戻し、そこまでに出てきた概念を整理し、前後の脈絡をつけて、一つの歴史に編み上げていく。
 テレビ現場で鍛えた池上の編集力はさすがというほかない。
 「説」ではなく「説」と銘打っているところに、二人の自信のほどが伺える。

 革マル派、中核派、新左翼、セクト、ブント、樺美智子、重信房子、よど号ハイジャック、浅沼稲次郎刺殺・・・・・。

 折に触れていろいろなところで見聞きしてきたこれらの単語が、いったいどういった意味を持つのか、どういう影響を日本社会にもたらしたのか、ソルティはよく知らなかったし、率直に言ってあまり興味もなかった。
 戦後の左翼運動に一つの決着をつけたと言われる1972年の連合赤軍あさま山荘事件の時はまだ物の道理も分からない子供であったし、大学に入学してキャンパスの片隅で拡声器を手に演説やビラ巻きをしている活動家を見たときは“時代遅れ感”しか覚えなかった。別の一角で勧誘活動していた原理研(統一教会の学生組織)との区別もつかなかった。
 ソルティは他の多くの同世代同様に、ノンポリだったのである。

 その後、1989年のベルリンの壁崩壊や東欧諸国の民主化、とどめに91年のソ連消滅があって、「社会主義は終わった」という実感を持った。
 多くの日本人がそうであったろう。

 といって、「資本主義の勝利」とか「資本主義こそ正しい」と単純に思ったわけではない。
 利益追求、弱肉強食の資本主義は、何の規制も倫理もなければ、格差の増大や環境破壊や弱者の人権蹂躙などのゆゆしき問題を生むのは目に見えている。
 対抗概念としての社会主義が終わった今、「世界はどうなってしまうんだろう?」という懸念を持った。
 そのあたりから(30歳前後)ソルティは左傾化し、市民活動や人権支援などの運動に関わり始めたのである。

berlin-wall-50727_1280
ベルリンの壁


 本対談を通じて、日本の近現代史を「左派の視点」から捉え直す作業をしようと思った理由として、佐藤は次のように語っている。

佐藤 まず一つ目の理由として、私は「左翼の時代」がまもなく到来し、その際には「左派から見た歴史観」が激動の時代を生き抜くための道標の役割を果たすはずだと考えているからです。

 格差や貧困といった社会矛盾の深刻化(とくにコロナ以降)、アメリカに典型的にみられる民主主義の機能不全、北朝鮮や中国との戦争の危機・・・・。
 こうした脅威に対処するには、「格差の是正、貧困の解消、反戦平和、戦力の保持」といった問題で議論を積み重ねてきた左翼の論点が重要となるというのである。

佐藤 第二の理由は、左翼というものを理解していないと、今の日本共産党の思想や動向を正しく解釈できず、彼らの思想に取り込まれる危険があるということです。

 そう、今や旧社会党の末裔たる社民党は風前の灯火、一度は政権を奪った民主党の衣鉢を受け継ぐ立憲民主党も前回の選挙では票が伸びず、党首交代の憂き目を見ている。
 左派野党では共産党だけが元気なようで、昨今では格差社会に憤る若者の支持も増えていると聞く。
 ソルティも実は前回の比例区では共産党に入れたのだが、別に共産党を支持しているわけでも社会主義や共産主義を信奉しているわけでもない。
 右傾化(とくに安倍元首相周辺)の重しが増えて天秤のバランスが悪くなるのを防ぐために、反対側の皿に重しを置いているのだ。(たぶん、今のソルティの政治的位置は、左翼席の一番右あたりだろう。本書によれば「右派左翼=社会民主主義者」か)
 ソ連崩壊後の、かつ今の中国の実態を目の前にしての、日本共産党の位置づけというのがソルティには正直良く分からない。 

 実を言えば、共産党と旧社会党の区別も関係性もよく分かっていなかった。
 共産党が一番左、その右隣が旧社会党となんとなく思っていたのだが――というのも社会主義は共産主義に至る前段階と学校で習っていたから――本書によればそう事は単純ではないらしく、共産党より社会党のほうが過激な時代もあったという。(新左翼と言われる革マル派や中核派は、共産党より社会党左派とシンパシー感じていたとか)
  
 本書の帯には「左翼の歴史は日本の近現代史そのものである」と書いてある。
 戦後の日本人が出発点において、「もう二度と戦争はごめんだ!」、「国家主義や全体主義はいやだ!」、「飢えはもうたくさんだ!」というところから始まったことを思えば、大衆の中で社会主義に期待する声が高まったのも十分うなづける。
 ソ連の失敗はまだ表沙汰になっていなかったし、現在の中国や北朝鮮のありさまなど想像できるわけなかったろうし・・・・。
 日本の近現代の政体は、左に触れていた針がだんだんと中心に戻って、中心を過ぎて右に傾いてきた――っていう感じだろうか。

 それにしても、平和と平等の理想社会を目指した社会主義者や共産主義者たちが、思想や手段の違いから内部分裂を繰り返し、互いを批判し、内ゲバに至るありさまを読んでいると、結局、男というものは「自分のほうが上だ」のマウンティング体質から抜けきれないのだなあ、と慨嘆せざるをえない。
 猿山の猿か。
 これには右も左も関係ない。
 思想や理念の前にジェンダーの問題だ。

 日本でほぼ死語になっている社会主義(socialism)という言葉が、ヨーロッパのみならず伝統的に社会主義に対する抵抗感の強い米国においても、最近、頻繁に用いられるようになっている。日本でも近未来に社会主義の価値が、肯定的文脈で見直されることになると思う。
 その際に重要なのは、歴史に学び、過去の過ちを繰り返さないように努力することだ。日本における社会主義の歴史を捉える場合、共産党、社会党、新左翼の全体に目配りをして、その功罪を明らかにすることが重要だと私は考えている。
(佐藤優による「おわりに」より)

 次の対談では、学園紛争、70年安保闘争、あさま山荘事件などが語られる予定。
 発行が楽しみ。




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損