日時 2021年12月22日(水)19時~
会場 東京芸術劇場(池袋)
曲目
  • J.S.バッハ : 甘き喜びのうちにBWV729
  • J.S.バッハ : カンタータ《神の時こそいと良き時》BWV106より第1曲「ソナティーナ」
  • J.S.バッハ : トッカータとフーガ ニ短調 BWV565
  • ベートーヴェン : 交響曲第9番《合唱》ニ短調
指揮 小林研一郎
合唱 東京音楽大学
ソリスト
 オルガン:石丸由佳
 ソプラノ:市原愛
 アルト:山下牧子
 テノール:錦織健
 バリトン:青戸知


 2年ぶりの《第九》。
 前回(2019年12月)はコロナの「コ」の字もなかった。
 骨折手術後の松葉杖姿で何とか会場まで辿りつけた「喜び」でいっぱいだった。

 今年はあちこちで《第九》演奏会が復活しているが、嵐の前の静けさならぬ、オミクロン爆発前のフェルマータ(休止)といった印象で、演奏する方も聴きに行く方もどこかおずおずと遠慮がちで、歳末の華やぎはまだまだ薄い。
 本日の合唱隊もみなマスクを着けたまま歌っていた。

フェルマータ【 fermata 】
〈休止〉〈停止〉を原義とする西洋音楽の用語。イタリア語では記号の形状からコロナcoronaともいう。大別して(1)正規の拍節が停止されて音符や休符が延長されること(延長記号)、(2)曲の区切りや終止、の二つの意味がある。(1)の意味では、音符や休符の上に置かれてその音価を任意に長くする。しかし、とくに長い休符に付される場合には、必ずしも延長を意味せず、適当な長さの休みを漠然と要求している。(平凡社『世界大百科事典 』第2版より抜粋)


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フェルマータまたはコロナマーク


 コバケンの《第九》と言えば「情熱」という形容詞が定番なのであるが、今回は第一楽章から予想に反していた。

 流麗で繊細で優しい!

 「こんな優しい第一楽章は聴いたことがない」と思っていたら、そのまま、第2楽章も第3楽章も、合唱付きの第4楽章も、流麗で繊細で優しい!
 情熱とか湧き上がる歓喜といった激しさは影をひそめ、ひたすら曲そのものが持つ美しさの展開に力点が置かれていたように感じた。

 コバケンから「情熱が消失した、手を抜いている」というのではない。
 これはむしろ枯淡の境地というやつではなかろうか。
 楽譜に対する圧倒的に繊細な読みはそのままに、夢見るようなメロディをその指の先から紡ぎ出していた。
 それはベタな言葉で言えば「癒し」。
 
 ここ最近の巷のニュース――東京の列車内で起きた傷害事件、大阪のクリニックの放火事件、神田沙也加の転落死、各地の地震や火山の噴火、もちろんオミクロン株の不気味な広がり――に触れて、なんだか不穏な気配を感じて気分が塞ぎがちになっているのは、ソルティだけではあるまい。
 自然の乱れに呼応するように、人心も乱れている。
 2年に亘ろうとする自粛とソーシャル・ディスタンスとマスク着用のおかげで、人と人との触れ合いが減って、町の風景からさりげない声がけやあたたかい笑顔が消えてしまった。
 そのことが、孤独や人間不信や絶望を深め、人々の生きる気力を萎えさせていく。

 たとえば、列車内や店内での見知らぬ人からの「ありがとう」とか「大丈夫ですか?」といったほんの一言、自分に向けられた店員や子供の笑顔、セクハラではないちょっとしたスキンシップ――そんなちょっとしたことが実はとても大事だったと気づかされたのが、このコロナ禍ではなかったろうか。
 ソルティも松葉杖を使っていたとき、そうした小さな心遣いにどれだけ助けられ、感謝したことか!
 
 いま社会に必要なのは「情熱」ではない。
 お互いへの小さな「優しさ」とそれを示す「勇気」だ。
 今回のコバケン×日フィルの《第九》はそんなことを伝えているように感じたし、客席もそのメッセージを十分受け取っていたように感じた。

 
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東京芸術劇場前のXmasイルミネーション