2020年原著刊行
2021年NHK出版(冨永星 訳)

 今回の秩父リトリートに持って行った一冊。
 200ページに満たない小冊子ほどの分量であるが、なにせ量子論である。
 すっきりした頭と心と体で、じっくり時間をかけて集中して読まないと到底読みこなせないと思い、リトリートまで読むのを待っていた。

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 カルロ・ロヴェッリは1956年イタリア生まれの理論物理学者。
 最先端科学の知見を、ソルティのような科学素人にもわかりやすく説き明かしてくれる文学センスに恵まれた書き手で、同じNHK出版から出ている『時間は存在しない』は世界的ベストセラーとなった。(ソルティ未読)
 アインシュタインの相対性理論とハイゼンベルクの量子論との結合を研究目標としているという。
 
 科学音痴のソルティ、とりわけ物理は大の苦手で高校時代はいつも赤点だった。
 それでも量子論に惹かれるのは、量子論が我々の生きる世界のありようについての従来の解釈を決定的に打ち壊し、いわゆるパラダイム変換させるものを含んでいるからにほかならない。
 つまり、ニュートンに代表される古典物理学――人間(科学者)が物質(対象)を客観的に観測し、物質が持っている様々な性質を見極め、また物質間に存在する恒常的な物理法則をつきとめて公式化する――が、どうやら量子の世界では通用しないらしく、現象を解釈するための新たな枠組みが必要とされている。
 その新たな枠組みとして俄然注視を浴びているのが、ほかならぬ仏教なのである。
 ひとりの仏教徒として関心を持たざるを得ない。
 瞑想とウォーキングと脱アルコールと節食とでクリアにした頭をもって二度読みし、なんとかカルロの言葉についていった。
 
 まず、カルロは量子論誕生の背景を語る。
 立役者は23歳のドイツの青年ハイゼンベルク。
 ハイゼンベルクと彼の師であるニールス・ボアとマックス・ボルン、そして同僚のパスクアル・ヨルダンとヴォルフガング・パウリ、これらの面子が量子論誕生の中心となった。
 続いて、イギリスのポール・ディラックや猫のたとえ話で有名なシュレーディンガーが登場する。
 このあたりの記述は、偶然と興奮と驚嘆と激論と感動がついて回る科学的大発見の物語として面白く読める。
 シュレーディンガーが“女ったらし”だったとは知らなかった。

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箱の中の猫は起きているのか、寝ているのか
 
 次に、カルロが描くのはあまりに不可解な量子のふるまい(量子現象)と、それを説明するためにこれまで専門家によって唱えられた解釈の列挙である。 
  • 量子飛躍・・・・量子は一つの軌道から別の軌道に瞬時に飛ぶ
  • 量子干渉・・・・量子を観測しようとしただけで、そのふるまい方が変わる
  • 量子もつれ・・・遠く離れた二つの量子の一方を観測した結果が、もう一方の量子に瞬時に伝わる
 これまでの物理法則では説明しがたい現象をなんとか合理的に説明しようとして、専門家はいくつかの説を編み出した。 
  • 「多世界解釈」理論・・・・この世界は一つでなく、観測と同時に分裂し、無限に存在する
  • 「隠れた変数」理論・・・・我々には決して見えず測定できない波(変数)があって、それが量子に影響を及ぼしている
  • 「自発的収縮」理論・・・・(これは説明を読んでもよくわからなかった)
  • 「QBイズム(認識論的解釈)」・・・・観測する我々の認識にそもそも非合理なものがある(ってことを言っているらしい)
 カルロは上記の解釈をすべて退けて、自説を打ち出す。
 それが本書の核心であり、タイトルの意味するところ、すなわち関係論的解釈である。

 その答えの鍵、とわたしが信じているのは――同時にこの本のさまざまな着想の要でもあるのだが――科学者も測定機器と同じように自然の一部である、という単純な観察だ。そのとき量子論は、自然の一部が別の自然の一部に対してどのように立ち現れるのかを記述する。
 量子論の関係を基盤とする解釈、すなわち関係論的な解釈の核には、この理論が、量子的な対象物のわたしたち(あるいは「観測」という特別なことをする主体)に対する現れ方を記述しているわけではい、という見方がある。この理論は、一つ一つの物理的対象物が、ほか任意の物理的対象物に対してどのように立ち現れるかを記述する。つまり、好き勝手な物理的存在が、別の好き勝手な物理的存在にどう働きかけるかを記述するのだ。

 一つ一つの対象物は、その相互作用のありようそのものである。ほかといっさい相互作用を行なわない対象物、何にも影響を及ぼさず、光も発せず、何も引きつけず、何もはねつけず、何にも触れず、匂いもしない対象物があったとしたら・・・・・その対象物は存在しないに等しい。(中略) わたしたちが知っているこの世界、わたしたちと関係があってわたしたちの興味をそそる世界、わたしたちが「現実」と呼んでいるものは、互いに作用し合う存在の広大な網なのである。そこにはわたしたちも含まれていて、それらの存在は、互いに作用し合うことによって立ち現れる。わたしたちは、この網について論じているのだ。

 量子論は、物理的な世界を確固たる属性を持つ対象物の集まりと捉える視点から、関係の網と捉える視点へとわたしたちを誘う。対象物は、その網の結び目なのである。

 このような解釈を唱えるカルロが、「この奇妙な世界像を理解するための、観念的基盤」を求めていたところ、ぶち当たったのがなんとナーガルジュナ(龍樹)であった。

龍樹(150―250ころ)
インドの最大の仏教学者。原名はナーガルジュナ。南インドの出身。
当時のインド諸思想を学んだのち北インドに赴いて、仏教、とくに新興の大乗仏教思想に通暁して、その基礎づけを果たし、晩年は故郷に帰った。
主著に『中論』『大智度(だいちど)論』その他がある。
『中論』において確立された空(くう)の思想は、彼以後のすべての仏教思想に最大の影響を与えている。すなわち、実体(自性)をたて、実体的な原理を想定しようとするあり方を、この書は徹底的に批判し去り、存在や運動や時間などを含むいっさいのものが、他との依存、相待、相関、相依の関係(縁起)のうえに初めて成立することを明らかにする。
(小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』より抜粋)

 どうだろう?
 まさに関係論的解釈そのものではないか!
 「我意を得たり!」のカルロの驚きと喜びを想像するのは難しくない。

 何ものもそれ自体では存在しないとすると、あらゆるものは別の何かに依存する形で、別の何かとの関係においてのみ存在することになる。ナーガルジュナは、独立した存在があり得ないということを、「空」(シューニャター)という専門用語で表している。

 しかし、テーラワーダ仏教を学ぶ者なら誰もが知っている。
 専売特許はナーガルジュナにない。
 上記の内容は、「諸行無常」「諸法無我」「縁起」「因縁」という言葉をもって2000年以上前にブッダが説き明かしている。
 諸行無常で諸法無我だから「空」なのだ。縁起と因縁が存在の様式なのだ。
 ブッダは『阿含経典』の中で、五蘊――すなわち色(物質)・受(感覚)・想(観念やイメージ)・行(意志や感情や思考)・識(認識)――がどれも無常であり無我であり苦であると明確に語っている。

 五蘊の原理は無我(Anatta)であることを示す。「人間の生命」は様々な構成要素の集まりであり、そしてこれらの構成要素の集まったものも自我ではない。それぞれの構成要素も自我ではない。また、これらの構成要素とは別に自我であるものもありえないことを示す。このように見ると、自我に固執することを止めることができる。
(ポー・オー・パユットー著『仏法』サンガ出版より)

 カルロの量子論は実に仏教そのものである。(ただし、カルロは輪廻転生の類いは信じていないらしい。自身を「ハードコアな唯物論者で自然主義者」と言っている)

 ここにおいてソルティは、「宗教」と「哲学」と「科学」の三者に関する次のような歴史的洞察を披露したいという誘惑に抗しきれない。
 すなわち、
  1. 大昔(たとえば原始社会)において、宗教と哲学と科学は同じ一つのもの(三位一体)であった。(キリスト教原理主義者やイスラム教原理主義者にとってはいまも一つのままである)
  2. 古代ギリシアにおいて、哲学と科学が宗教から独立した。
  3. 中世ヨーロッパでは、宗教(キリスト教)が哲学と科学の上に立った。
  4. ルネサンスから近代を経て、宗教が玉座から転がり落ち(「神は死んだ」by ニーチェ)、哲学と科学が隆盛になった。
  5. 近現代、哲学も袋小路に陥り、科学万能の時代が到来した。
  6. 量子論は、宗教と哲学と科学をふたたび結合させる可能性を示唆している。ただし、その場合の宗教とは仏教である。
 本書においてカルロは、量子現象の関係論的解釈が、人間の発する「問い」の表現を変えてしまう可能性を指摘している。 
 ごく単純なレベルで言えば、問いを発する際の主語が「私( I )」という一人称単数から、「私たち(We)」とか「世界(World)」とか「生きとし生けるもの(All Living Being)」に変わっていくやもしれない。
 環境問題を語るときにすでにそうなっているように・・・・。


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おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損