1983年日本、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド
123分、日本語&英語
本作は、リアルタイムで劇場で観た初めての大島渚作品だった。
というより、初めて観た大島渚であった。
当時人気絶頂のビートたけしと坂本龍一、演技素人の二人が主役級で出演。
ロック界の大物スター、デヴィッド・ボウイと坂本との東西を代表する美形対決。
坂本の作曲した印象に残るテーマ音楽が繰り返しCMで流された。
話題に事欠かず、前評判から高かった。
ロック界の大物スター、デヴィッド・ボウイと坂本との東西を代表する美形対決。
坂本の作曲した印象に残るテーマ音楽が繰り返しCMで流された。
話題に事欠かず、前評判から高かった。
蓋を開けたら予想をはるかに上回る大ヒット。
映画館には若者、とくに戦争映画には珍しく若い女性たちの列ができた。
ある意味、1981年公開の深作欣二監督『魔界転生』と並んで、日本における“腐女子熱狂BL映画”の幕開けを宣言した記念碑的作品と言えよう。
キャッチコピーの「男たち、美しく」は、まさに時代の需要を敏感に汲み取ったものである。
ソルティもそのあたり期するものあって鑑賞したと思うのだが、一言で言えば「よくわからない」映画であった。
腐女子的楽しみという点をのぞけば、なぜこの映画がそれほど高い評価を受け、世界的な人気を博しているのか、理解できなかった。
最初から最後まで残酷な暴力シーンに満ちているし、それらは太平洋戦争時の日本軍の外国人捕虜に対する行為なので同じ日本人として罪悪感や恥ずかしさを持たざるを得なかったし、それを全世界に向けて何の言い訳もせずに手加減なく晒してしまう大島監督に対する怒りとは言えないまでも不愉快な思いがあった。
「なんで日本人の監督が、わざわざ日本人の恥部を今さら世界中に見せるんだ!」
「なんで日本人の監督が、わざわざ日本人の恥部を今さら世界中に見せるんだ!」
同じように太平洋戦争時の東南アジアにおける日本軍の日常を描いた、市川崑監督『ビルマの竪琴』と比べると、その差は歴然としている。
さらに、テーマがわかりにくかった。
日本軍の旧悪を暴き日本人という民族の奇態さを描きたいのか、戦争の狂気や愚かさを訴えたいのか、日本軍に代表される東洋と連合軍に代表される西洋との文化的・思想的・倫理的違いを浮き彫りにしたいのか、それとも敵同士の間にさえ生まれる男同士の友情に焦点を当てたいのか、ホモフォビア社会の中でいびつになった同性愛者を描きたいのか・・・・。
いろいろな要素がごっちゃ混ぜになっている感を受けた。
本作は、実際にインドネシアのジャワ島で日本軍の捕虜になった南アフリカの作家・ローレンス・ヴァン・デル・ポストの体験記を原作としているので、ある一つのテーマに基づいて作られた作品というより、現実のいろいろな見聞を盛り込んだ「ザ・捕虜生活」としてあるがままに受け取るのが適当なのかもしれない。
本作は、実際にインドネシアのジャワ島で日本軍の捕虜になった南アフリカの作家・ローレンス・ヴァン・デル・ポストの体験記を原作としているので、ある一つのテーマに基づいて作られた作品というより、現実のいろいろな見聞を盛り込んだ「ザ・捕虜生活」としてあるがままに受け取るのが適当なのかもしれない。
実際、海外では『Furyo』(俘虜)というタイトルで上映された国も少なくない。
そういうわけで、公開時は「よくわからない」映画だったのであるが、約40年ぶりに見直してみたら、それもその間に、『青春残酷物語』『太陽の墓場』『日本の夜と霧』『日本春歌考』『マックス、モン・アムール』『御法度』といった大島渚監督の他の作品を何本か観た目で見直してみたら、新たに気づくところが多かった。
まず、顕著なのが、坂本龍一演じるヨノイ大尉であるが、これは明らかに三島由紀夫、あるいは三島由紀夫に対する大島ならではのオマージュである。
ヨノイ大尉は、2・26事件に参与できなかった悔恨を抱える国粋主義者で、剣道と文学をたしなむクローゼット(隠れホモ)という設定。原軍曹(ビートたけし)を典型とする野蛮で暴力的な日本兵の中で、ストイックなまでの神道精神を貫いている。晩年の三島を彷彿とさせる。
そういう男があまつさえ敵方の外国男を好きになってしまうという矛盾と葛藤が面白い。
次に、大島の遺作である松田龍平主演『御法度』(1999)において極められた「マチョイズム(ホモソーシャル社会)の中に投げ込まれた同性愛(ホモセクシュアル)」というテーマの先鞭をつけた映画である。
生き死にがかかっている闘いの場においては、規律ある上下関係と集団の大望成就のために自己を放棄するマチョイズムこそ、重要であり役に立つ。
上下関係を曖昧にし集団より自己の欲望や特定の仲間との関係を重視する同性愛は、集団の規律やモラルを乱しかねない。
だから、デヴィッド・ボウイ扮するセリアズ少佐に惚れてしまったヨノイ大尉は、軍のリーダーとして役に立たなくなってしまった(更迭させられた)のであり、美貌の剣士である加納惣三郎(松田龍平)は、新選組を内側から崩壊させる危険因子として、最後には沖田総司(武田真治)に斬られてしまうのである。
敵と戦い打ち倒すためには、「男(マッチョ)」でありつづけなければならない。
敵と戦い打ち倒すためには、「男(マッチョ)」でありつづけなければならない。
次に言及すべきは、ビートたけしの存在感。
演技力がどうのこうのといったレベルを超えたところで、強く印象に刻まれる。
当時お笑い一筋でテレビ芸人としてのイメージの強かったたけしを、この役に抜擢した大島の慧眼には驚くばかり。
有名なラストシーンでの艶やかな顔色と澄み切った笑顔は、たけしが映画作りの面白さに目覚めた証のように思える。
本作では原軍曹とロレンス中佐(トム・コンティ)の間で、何度か「恥」をめぐる会話が交わされる。
敵の捕虜になること自体を「恥」と考える日本人と、捕虜になることは「恥」でも何でもなく、捕虜生活をできるだけ快適に楽しく過ごそうとする西洋人。
捕虜になって辱めを受けるくらいなら切腹を選ぶ日本人と、それを野蛮な風習としか思わず、何があっても生き抜くことこそ重要とする西洋人。
戦地における傷病者や捕虜に対する待遇を定めたジュネーブ条約(1864年締結、日本は1886年加入)の意味を理解できない日本人と、一定のルールの下に戦争することに慣れている西洋人。
東洋と西洋、いや日本人と欧米人とのこうした違いは、『菊と刀』や『海と毒薬』はじめ、いろいろなところで語られてきた。
映画公開後に「毎日新聞」(1983年6月1日夕刊)に掲載された大島渚自身による自作解題によると、外国のマスコミから受けた本作に対する様々な質問の中に、次のようなものがあったそうだ。
オーシマは、この映画で日本の非合理主義が敗れ、ヨーロッパの合理主義が生き残ったとしている。後者が前者よりすぐれていると思っているのか。
それに対して大島はこう答えたそうな。
ニッポンは戦争で示した非合理主義を戦後の経済や生産の中に持ちこんで、それを飛躍的に発展させたかもしれない。しかしそのエネルギーは負けたことから来たのだ。そしてそれを支えた我々はもう疲れた。次の世代は合理主義を身につけて世界の中で生きるだろう。
40年経って、日本人はどれくらい合理主義を身に着けたのだろう?
P.S. 驚いた! 記事投稿後に知ったが、今日1月15日は大島渚監督の9回目の命日だった。あの世の監督に「書かされた」?
P.S. 驚いた! 記事投稿後に知ったが、今日1月15日は大島渚監督の9回目の命日だった。あの世の監督に「書かされた」?
おすすめ度 :★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損