2021年岩波新書
狂言に『宗論』という演目がある。
旅先で知り合った法華宗の僧侶と浄土宗の僧侶が、どちらの教えが優れているか論争する話で、最後はそれぞれのお題目(南無妙法蓮華経)と念仏(南無阿弥陀仏)を相手に負けじと大声で唱えているうちに、知らず題目と念仏が入れ替わってしまい・・・・という滑稽な話。
「坊主が2人いれば、宗派が3つできる」と知り合いの僧侶が言っていた。
むろん仏教に限らず、宗教あるところ宗論はついて回る。
キリスト教ならカトリックv.s.プロテスタントが「史上最大の対決」であろうし、同じカトリック内でもたとえばウンベルト・エコー著『薔薇の名前』にみるように、聖書の解釈をめぐってそれこそ命を懸けた議論の応酬がなされた歴史がある。
イスラム教のシーア派v.s.スンニ派の対立は、国家同士の争いにまで発展している。
「仏教史上最大の対決」は、おそらく紀元前後より始まった伝統仏教(小乗仏教)と新興仏教(大乗仏教)の対立であろう。
伝統仏教の流れを組むテーラワーダ(上座部)仏教は、最初期の経典(ブッダの直説と言われる阿含経典)とともにタイ・スリランカ・ミャンマーなどに伝わり、今も国教のような存在となっている。
一方、インドから各地に広がった大乗仏教の流れの一端は、中国や朝鮮半島を経て、大量の創作経典(ブッダの直説ではない)とともに6世紀初め日本に伝わったことは、よく知られるところである。いわゆる北伝仏教。
なので、本書で書かれている最澄と徳一の対決は、北伝の大乗仏教の中の日本仏教における「最大の対決」である。
そして、論争の当事者であった最澄も徳一も、こうした歴史的・文献学的背景について適確な情報や視座を得られる時代には生きておらず、どれがブッダの直説か――少なくともそれに一番近い教えと言えるのか――現代の我々のようには知り得なかった。
この点をまず押さえておくことが肝要と思われる。
著者の師茂樹(もろしげき)は1972年生まれの仏教研究者。日本では非常にレアな因明(仏教論理学)の研究者でもある。
なにせ平安時代初期の宗論に関する本であるから、古文や漢文の引用が主となるのはもちろんのこと、古いお経の引用も多い。
当時の日本の仏教界の勢力図やそれぞれの派閥の宗旨、そこにつながる流れを作ってきたインド・中国をも含む古い時代からの師弟関係・・・・。
こういった事柄が扱われるので、率直、ある程度仏教についての知識がないと読みこなすのは難しいかもしれない。
だがそこさえクリアできれば、骨子はすっきりしており、因明研究者らしく(?)論旨も通っている。文章も分かりやすい。
天台宗の開祖で歴史の教科書に肖像画付きで載っている超セレブ・最澄と、この最澄との宗論によってのみ名前を残すことになった僻地会津の僧侶・徳一の地獄落ちも覚悟の――というのも正法(ブッダの教え)を誹謗する者は地獄行きと言われているから――真剣な一戦。
とても面白く読んだ。
最澄と徳一はいったい、①何をテーマに、②どういう風に議論したか。そして、③どちらに軍配が上がったか。
まず、①議論のテーマであるが、単純に言えば「仏性の有無について」である。
仏性とは「ブッダに成れる資質」。
最澄および彼が代表する一派(天台宗、鑑真上人系、大安寺系など)は、「すべての人には仏性があり、遅かれ早かれブッダに成れる」と説いた。
仏教を信仰する者に用意されたゴールは一つなので、むろん乗り物も一つ。ゆえに一乗説と言う。
一方、徳一が代表する法相宗は、乗り物は3つ(三乗説)と説く。
仏道のゴールは、
- 師から教えを聞き、修行によって阿羅漢となって解脱・涅槃する(声聞種姓)
- 師から教えを聞くことなく独力で解脱・涅槃する(独覚種姓)
- 菩薩となって大衆を助けたのちブッダとなる(菩薩種姓)
の3つである。
より正確には、
- どの乗り物に乗るか定まっていない(不定性)
- どの乗り物にも乗れず永遠に輪廻転生する(無性)
の5つの分類があるので「五姓格別説」と呼ばれる。
後ろ盾となる経典は、『西遊記』の三蔵法師として知られる玄奘が訳した大乗経典の『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』『解深密経(げじんみっきょう)』『成唯識論』である。
最後の経の名前からわかるように、玄奘はインドの世親(ヴァスバンド)が大成した唯識論の中国への伝承者であり、法相宗の開祖となった。
法相宗は、653年に遣唐使として中国に派遣され玄奘の愛弟子となった道昭が、帰国後に日本に広め、のちに南都六宗の一つに数えられるほどの勢力となった。
法相宗の僧である徳一は、三乗説の唱道者であると同時に、世親→玄奘→道昭・・・の流れを汲む唯識論の信者でもあった。
徳一(法相宗)と最澄(天台宗)との仏性の有無をめぐる「三一論争」が起こるよりもっと前から、法相宗は別のテーマをめぐって、同じ南都六宗の仲間である三論宗と宗論を繰り返してきた。
「空有の論争」と呼ばれている。
「この世界のすべては空である(一切皆空、色即是空)」というインドの龍樹(ナーガルジュナ)が確立した「空の思想」に対して、「いや、すべては空ではない。すべては識である。ただ識のみが有る」という世親の唯識論を対置させたものである。
三論宗は前者、法相宗は後者の立場をとった。
古代インドにおいて始まった空有の論争が、中国に輸入されて彼の地でも繰り返され、日本に輸入されてまたしても繰り返されたわけである。
すべては空か、それともすべては識(有)か?
すべては空か、それともすべては識(有)か?
ここで面白いなあと思うのは、現在スピリチュアル業界で流行っている非二元(ノンデュアリティ)は「私=識=世界(あるいは梵我一如)」という唯識論のニュアンスを多分に含んでいる点である。
一方、日本人が一番好きでおそらく一番頻繁に唱えられているお経である『般若心経』は、「色即是空、空即是色」という有名な文句にみる通り、空の思想に基づいたものである。
これをテーラワーダ仏教のスマナサーラ長老は、『般若心経は間違い?』(宝島社新書)という著書の中でタイトルそのままに一刀両断にしている。
いわく、「色即是空はいいが、空即是色はおかしい」「“無い無いづくし”の『般若心経』は虚無主義に転落する」・・・・等々。
伝統仏教(初期仏教、テーラワーダ仏教)の立場からすれば、「諸法無我」の教えと反する唯識論は間違いであり、「空」を「無」とすり替えてしまっている『般若心経』もまた間違いということになる。(空有の論争そのものについて言えば、伝統仏教は「空」の立場だろう)
2007年宝島新書発行
同じように、最澄と徳一の三一論争もまた、伝統仏教の立場から見るとナンセンス。
というのも、『阿含経典』においてお釈迦様は「仏道修行する者のゴールは阿羅漢になって解脱・涅槃すること」と明確に語っており、断じて「ブッダに成ること」ではない。
仏性についてはなにも語っていない。
「これこそブッダの真意だ!」と、正統性をめぐって激しくやりあった三論宗と法相宗の「空有の論争」も、徳一と最澄の「三一論争」も、お釈迦様の手のひらの上にも乗っていなかったという不都合な真実・・・。
大乗とは「偉大な道」といった意味であるが、先にも述べたように、これは伝統的な教団(部派)に伝承されている教えは完全な教え(了義)ではない、つまり小乗=劣った道であり、不完全な教え(未了義)である、という言明とセットになっている。このような他の権威の否定と自身の正統性の主張は、「小乗」に対してだけでなく、先行する大乗仏教にも向けられる。大乗仏教は、言わば「何がブッダの教えなのか」を争う運動であり、「問いの絶えざる提出とそれへの新たな回答」による「正統性の絶えざる更新」によって、「真のブッダの教え」がどんどん遠ざかっていくような構造になっている(下田2020)。(本書より引用、以下同)
次に、②どういう風に二人は議論したか。
過去の仏典に根拠をもとめて、それぞれの論の正統性・正当性を主張したのは上に書いた通り。
京都と会津では実際に会って口角泡飛ばすというわけにはいかないので、ZOOM討論ならぬ手紙のやり取りとなるのも必定である。
本書の大きな特徴は、二人がどういったスタイルで、つまりどういった論法を用いて議論したか、を具体例を挙げて著述しているところにあり、そこが著者の面目躍如たるところ。
すなわち、因明である。
因明とは、「ヘートゥ・ヴィドヤーというサンスクリット語の訳語である。ヘートゥは「原因」といった意味であるが、ここでは「知識を生み出す原因」、すなわち理由や論拠などを意味する。ヴィドヤーは「学問」といった意味である。つまり因明は、「論拠(因)についての学問(明)」という意味になる。もともとはインドの討論術を起源とするが、仏教内でも研究され、唯識学派の陳那(ディグナーガ、420-500頃)が論理学・認識論の体系として大成した(桂1998)。その著作が玄奘によって漢訳、紹介され、東アジアで広まった。
ここでもまた玄奘サマサマなのである。
『西遊記』って馬鹿にならない。
仏教における論理学、討論術である因明は、もちろん日本にももたらされ、宗派を超えて学ばれた。
因明の形式で書かれているお経は多いので、それを習得するのは僧侶にとって必須であったであろうし、ましてや他の宗派の僧と何らかのテーマをめぐって討論しようと思うのなら、因明に長けていることは当たり前田のクラッカーである。
著者によれば、学僧だけでなく、貴族など一般の知識人の間でも一種の教養となっていたらしい。
現代日本人が、上手く使いこなせるかどうかは別として、慣れ親しんでいる西洋論理学や弁術のスタイルとはかなり異なる。
詳しくは本書を読んでほしいところであるが、一例を上げると、
主張 あの山には火がある。理由 煙があるから。例喩 かまどのように。因明では、立論者が論証したいと思っている主張・結論(宗)を最初に述べる。次に、論証するための根拠となる理由、論拠(因)を述べる。「因明」の「因」はこの理由のことである。そして最後に、理由を裏づける前例(喩)を述べる。因明における正しい論証は、必ずこの宗・因・喩の三つで構成されることから、三支作法とよばれる。
西洋論理学の三段論法とはずいぶん違っている。
なんかツッコミどころ満載のようにも思える(笑)が、他方、「自分がよりどころとする教説と矛盾する主張をすること」(自教相違)や、「あらゆる言明はすべて虚妄である」というような論理のパラドクスに陥る主張をすること(自語相違)は過失(=論理破綻)であるといった、現代の我々でも十分理解し納得しうるルールもある。
以下の文章もまた納得できよう。
究極の真理は言葉で表現することはできないという考え方は、大乗仏教全般で共通するものであり、法相宗でもそれは共有されている。因明はあくまで言葉を使って何かを考えたり、コミュニケーションやプレゼンテーションをしたりするための(仏教的に言えば世俗諦の)技法であって、どんなに言葉を積み重ねても、それだけでブッダの悟った究極の真理に到達することはできない。
最後に、③最澄と徳一のどちらが勝利したのか。
これは論争の途中で最澄が亡くなってしまったので、「勝敗なし」とするのが公正なところだろう。
三一論争自体は、その後も(鎌倉時代くらいまで)継承されたらしい。
ただ、現代日本の代表的な大乗仏教の宗派(浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、曹洞宗、臨済宗)の祖師たちが、最澄の開いた比叡山で学び修業したことはよく知られるところで、大雑把に言えば最澄の弟子たちである。
「すべての人に仏性がある」という一乗説は、「あるがままのこの具体的な現象世界をそのまま悟りの世界として肯定する」天台本覚思想と結びついて、鎌倉仏教の各宗派の基底音とも通低音ともなっている。
「悪人なおもて往生をとぐ(親鸞)」とか「修証一如(道元)」とか「念仏や題目を唱えさえすれば救われる(法然、日蓮)」といった教えは、一乗説あってゆえだろう。
そればかりか、古来からアミニズムになじんでいた日本人にとって、仏性の領域をさらに広げて「山川草木悉有仏性」という美しい思想を手に入れるのに苦労はなかった。
そう考えると、日本人の宗教観や日本文化への影響に関して言えば、時は最澄に味方したと言っていいだろう。(ただし、仏教離れの現代においては両者共倒れの感が否めない)
著者は、三一論争を概観したあとに、「歴史を書くこと」という章を別に設けている。
ここがまた本書のユニークなところで、著者の歴史研究に対するスタンスや研究者としての態度が伺える興味深い一節となっている。
著者が言及しているイギリスの哲学者マイケル・オークショットの提唱した二種類の過去――「実用的な過去」と「歴史学的な過去」――という対概念が面白い。
「実用的な過去」とは、個人や集団が抱える問題を解決したり、生存戦略・戦術として用いたりする「過去」であり、「歴史学的な過去」とは、歴史学者などによって行われる、没利害的で、過去を知ることそれ自体を目的として研究されるような過去のことである(ホワイト2017)。
なので、「実用的な過去」は恣意的・主観的・便宜的なものであり、最近、洋の東西で炎上を生んでいる歴史修正主義につながりやすい。
一方、「歴史学的な過去」は、科学的・客観的な事実を突きつけて人々の幻想(信仰、信念、夢など)を破壊する暴力に転じやすい。わかりやすい例を挙げると、皇統(天皇制)における欠史八代――。
言うまでもないが、純粋に客観的な真実の歴史なんてものはない。
いかに科学的な研究がベースになっていようが、歴史を語る際にはどうしたって語り手の知識量はもちろん、人となりやバックグラウンドや様々なレベルの損得勘定が入り込んでくる。
すなわち、語り手自身がバイアスとなる。
師茂樹はその点に非常に自覚的・意識的な研究者であり、書き手である自分を「 」に括ってメタ化(相対化)する習性をもっているらしいことが伺える。
ソルティはそこに1972年生まれの師茂樹が持つある種の時代性、『大乗非仏説をこえて』の大竹晋(1974年生まれ)や『仏教思想のゼロポイント』の魚川祐司(1979年生まれ)と共通するような、日本では70年代から顕著になった「セルフツッコミ文化」の影響を嗅ぎ取ったものである。
おすすめ度 :★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損
・・・と日記には書いておこう
(1973年浅田飴のCMより)
(1973年浅田飴のCMより)
おすすめ度 :★★★★
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★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
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