3回目のコロナワクチン(ファイザー)を接種した。
 いわゆるブースター。
 ソルティは一応、“エッシェンシャル・ワーカー”の端くれなので、一般より早く打たせてもらった。

 先に打った同僚たちは、発熱や関節痛などの副反応を訴えていた。
 接種した日を含め3日間熱が下がらなくて寝込んだという人もいた。
 1,2回目接種後には何ともなかった人も、「全然大丈夫と思っていたら、夜中に熱発して翌日は寝ていた」と言う。
 ソルティの場合、1回目は強い倦怠感を当日と翌日に感じ、2回目はほぼ無症状だった。
 3回目はどうなるか予測がつかないので、三連休が取れた週末の初日に打った。

 職場では、ワクチンを接種するもしないも自由である。
 強制されることはない。
 自分がもし高齢者や病人と日常的に接するような仕事をしておらず、80を超える両親と同居していなかったら、ワクチンを打たなかったかもしれない。
 まさにそういう環境にいる40代の友人は、いまも一回も打っていない。(しかも彼の場合、テレワークができる職業に就いている)
 そう考えると、自分のためというよりは他人のために打っているのかもしれない。
 主体性がないように聞こえるが、たとえこの先どこかでコロナワクチン接種による有害な副作用すなわち薬害が生じることがあるとしても、「もう半世紀以上生きてきたし、子供を作ることもないからいいや」という、ある種の覚悟と諦観は持ちつつ、一応自己決定したのである。

 先日テレビを観ていたら、都内の街頭インタビューでマイクを向けられたマスク姿の若者たちが、「他人に迷惑をかけたくないから、気をつけて行動している」と判で押したように言っているのを聞いて、「日本人やな~」とつくづく思った。
 「他人に迷惑をかけたくない」という理由が、自身の行動を制御するもっとも大きなインセンティヴ(誘因)になるのは、昔も今も、老いも若きも、日本人は変わらない、変わっていないのだろう。
 メディアがそういう発言をしそうな感じの若者を選んで、インタビューした、あるいは編集したという可能性も否定できないが・・・。

 対照的に、海外とくに欧米では自粛やロックダウンやワクチン接種に反対する人々が多い。
 反対デモをする人々が、びっしり埋まった人波の中で、マスクもせず声を上げている映像が映し出されるのを見るたび、彼我の違いを思ってしまう。
 個人の自由という価値をなにより重んじる文化に生きているのだなあ、と実感する。
 「リベラル」という言葉は、いろいろな意味で使われていて、日本ではなんとなく左翼っぽい(革新的な)イメージを帯びがちだけれど、欧米では右も左も関係なく、「個人主義」と親和性を持つものなのだ。

 幸か不幸か、日本人は聖徳太子の「和をもって貴しとなす」の呪縛からずっと抜けられないでいるので「和=世間」の力が強い。
 和をみだすこと=世間に迷惑をかけること、が何より忌避されてきた。
 それは日本人の「右へならえ」の統率力の良さや世界に名だたる気配りの精神を生んできた一方で、同調圧力からくる息苦しさやいじめのような弊害をも生んでいる。
 今回のコロナ禍においては、そうした日本人の特性が、欧米諸国のような爆発的感染を抑止するメリットとして働いた反面、マスクをしていない人、ワクチンを打たない人、感染した人に対する差別的視線というデメリットとして表面化しているように思う。

 「他人に迷惑をかけたくない」からワクチン接種したソルティもまた、純日本人の一人であると認めるにやぶさかでないが、同調圧力に加担しないようには気をつけたい。

 結局、3回目のワクチン接種はまったく副反応なしで、拍子抜けした。


P.S. ブースターという言葉がどうにも可愛い感じがするのは、幼児の頃に大好きだったテレビ番組『怪獣ブースカ』を連想するからである。はあ~、ラーメン食いたい。


ラーメン