日時 2022年1月30日(日)14時~
会場 東京芸術劇場コンサートホール(池袋)
曲目
- チャイコフスキー: 幻想序曲『ロメオとジュリエット』
- グラズノフ: バレエ音楽『四季』Op.67より「秋」
- ショスタコーヴィッチ: 交響曲第5番
指揮 三石精一
東京大学管弦楽団は、数ある大学オケの中でもトップクラスの実力という評判。
今年に入ってからオミクロン急増でなかなか思うように練習できなかったのではないかと思う。
出だしこそ危なっかしいところもあった。
が、尻上がりに調子を上げ、メインのショスタコーヴィッチは圧巻の迫力と抜群のチームプレイを見せてくれた。
評判に違わない上手さ。
拍手も大きかった。
拍手も大きかった。
実はソルティ、ショスタコーヴィッチを聴くのはこれが初めて。
20世紀のロシアの作曲家ということくらいしか知らなかった。
無調や不協和音だらけの現代音楽なのだろうと勝手に思い込んで、敬遠しているところもあった。
が、今回交響曲第5番を聴いたら、マーラーみたいなロマン派っぽい雰囲気濃厚で、曲の構成もそれほど複雑でなく、美しいメロディもあり、楽しんで聴けた。
事前になんの下調べもせず、入口で配布されたプログラムも読まずに、なるべく先入観持たずに聴いた。
浮かんでくるのは、「不穏、不安定、不信、不透明」というネガティヴな言葉ばかり。
決して前向きでも明るくもない。
第4楽章で、ベートーヴェン『第9』さながら「暗から明へ」の転換が見られるのは確かだが、これをそのまま“ネガからポジへ”の飛躍と受け取っていいものかどうか。
はなはだ疑問に思った。
むしろ、絶え間ない苦悩と息苦しい抑圧の先に訪れた唯一の救いにして解放――それは「狂気の世界」であった、という不条理の極みのような物語を思った。
ここには、ベートーヴェンが最終的に身をまかせた偉大なる父(=神)の手はないし、マーラーが逃避先として求めたエロスと自然の悦びもない。
指揮者のバトンがおりた後も、しばらく拍手に加われなかった。
帰りの列車でプログラムを読んだら、ショスタコーヴィッチはロシア革命後のソ連に生きて、全体主義管理社会に陥った社会主義国家の桎梏をもろ被ったようだ。
スターリン独裁下では権力の意に沿ったプロパガンダ風作品しか発表できなかったという。
芸術家として翼をもがれたようなものだったろう。
共産主義には当然、神も仏もいない。
エロスさえも管理される。
マーラー以上に逃げ場がなかったのではあるまいか?
そう考えると今回のプログラムの妙に唸らされる。
帝政ロシア末期に生きたチャイコフスキー、ロシア革命(1917)前後の理想国家建設の気運を肌で味わったグラズノフ、そしてスターリン独裁と革命の失敗という現実に直面し暗黒の時代を生きたショスタコーヴィッチ――激動のロシア史そのままのラインナップなのであった。
チャイコフスキーの音楽に感じとれる近代に生きる個人としての悲愴や苦しみが、民族愛と自由の息吹の感じられるグラズノフを経て、「不穏、不安定、不信、不透明」な抑圧的管理社会における表現者ショスタコーヴィッチにつながっていく。
近代的自我の苦悩が味わえる社会ってまだ幸せなのかもしれない。
近代的自我の苦悩が味わえる社会ってまだ幸せなのかもしれない。
歴史と音楽史との切り離せない関係を思った。
東京芸術劇場