2006年吉川弘文館
2022年再版

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 もう愛読者の一人と言っていいだろう。
 王朝時代をネタにこれまでほとんど研究されてこなかったテーマ、それもユニークで斬新で極めて人間臭いテーマを、当時の文献をもとに紹介してくれる。
 それがことごとくソルティの壺にはまる。
 今回も、平安京を跋扈した陰陽師たちの呪詛・呪術について様々な視点から解き明かして、興味は尽きない。

呪詛――王朝時代の権力の亡者たちは、しばしば政敵を追い落とす手段として呪詛を選んだ。貴人の流血を忌避する平安貴族たちは、呪詛という陰湿な方法をもって競争相手を葬り去ろうとしたのである。呪詛、それは静かで邪悪な実力行使であった。
 そして、平安時代中期の貴族層たちの陰謀に荷担して呪詛を実行したのは、多くの場合、陰陽師であった。(本書より引用、以下同)

 陰陽師と言えば羽生結弦、もとい安倍晴明である。
 天皇や藤原道長など時の権力者の信任篤く、自らも上級貴族の一員であった安倍晴明が、得意の呪術を用いて妖魔退治や宿敵・蘆屋道満と呪力合戦するというイメージが強いが、これはフィクションの世界のことであって、史実上の晴明が呪詛を行なったり式神を操ったりした記録は残っていないという。
 晴明は官人すなわち国家公務員であって、官人は呪詛することが禁じられていたからである。
 官人陰陽師の基本的な仕事は、卜占、暦の作成、天文学、時刻の計測などであった。
 呪詛を行なったのは、自ら頭を剃り勝手に法師を名乗る民間の僧侶(私度僧)であり、これを法師陰陽師という。
 道満もまたそうした一人であったと目される。

 平安京には呪詛を請け負う法師陰陽師がたくさんいたらしい。
 殺生を忌む仏教の影響が強く、刃傷沙汰のような実力行使を起こしにくかったこともあろうが、まず陰湿な世界である。
 この時代もっとも呪詛の標的にされた人物が、ほかならぬ道長であった理由を説明する必要はないだろう。
 呪詛はたいてい下位の身分の力の弱い者が、上位の身分の力の強い者に対し、密かに行うのである。

 本書では法師陰陽師たちがどのような方法で呪詛を行なったかが、具体的に記されていて面白い。
 一般的に、陰陽師が作成した呪物(文字が書かれた器、頭髪、呪符など)を狙った相手の住居の敷地に埋めるか、井戸に投げ込むという方法がとられたらしい。
 呪物が見つかって、呪詛の依頼者や引き受けた陰陽師が特定されると、彼らは処罰された。
 いったんかけられた呪詛はそのままにしておくわけにはいかないので、呪詛返しあるいは呪詛の効力を無くすための禊払いが行われる。
 この禊払いは晴明のような官人陰陽師もやっていたようだ。

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 本書の冒頭で、『僧円能等を勘問せる日記』という当時の文書が紹介されている。
 寛弘6年(1009年)2月、一条天皇の御代に内裏で呪物が見つかり、上を下への大騒ぎとなった。
 呪詛をしかけた陰陽師がまもなく捕まった。それが円能である。
 上記の文書は、検非違使によって取り調べを受けた円能の供述調書なのである。
 
 それによると、円能が呪詛をかけた相手は、一条天皇の中宮・彰子、第二皇子の敦広親王、左大臣藤原道長の3人だった。
 望月の如き“欠けたるもの無き”権力者・道長とその実の娘と孫、親子三代に対して呪詛がかけられたのである。
 この恐れ知らずの所行を企んだ張本人として円能がその名を白状したのは、道長の亡兄・藤原道隆の息子、つまり道長の甥にあたる藤原伊周(これちか)の取り巻き4名であった。
 取り調べの結果、円能は禁錮刑に処せられ、伊周は4ヶ月の参内停止、伊周の母方の叔母・高階光子と伊周の妻の兄弟である源方理は官位を奪われた。光子は行方をくらました。
 伊周はこの呪詛事件により完膚なきまでに力を削がれたのであった。

 藤原道隆亡き後の道長と伊周の執権・関白の座をめぐる争いは有名で、その激しい抗争の中で、伊周の妹であり一条天皇の愛姫であった皇后・定子が悲惨な境遇に追いやられていったさまは、定子に仕えた清少納言の『枕草子』を読むと感得できる。
 道長は勝つためなら手段を選ばない強引にして抜け目ない策略家であった。
 本書の記述からでは推測の域を出ないが、ソルティはなんとなくこの事件は陰謀めいた感じがする。
 つまり、呪術による政権奪取を目指した伊周一派によるなんとも頼りない陰謀と言うのではなくて、目障り至極な伊周一派を徹底的に排除するために道長自身が仕掛けた陰謀という意味である。

 この事件のキーパーソンであり自白をした陰陽師・円能が、本来なら絞首刑になるところを免れて禁固刑で済んだこと、しかもわずか1年10ヶ月で釈放されたことなど、なんとなく裏があるような気がしてならない。(禁固と言ったところでどんなものか不明。庶民の囚人と同様の処遇を受けたとは限らない)
 ソルティの道長仕掛け人説の一番の根拠とするのは、藤原道長という人はそもそも呪術を本気で信じて恐がるような人だったろうか?――という点にある。
 出典は覚えていないが(『大鏡』だったか?)、この人は若い頃に内裏で肝試しがあったとき、兄の道隆・道兼は恐がって途中で引き返してきたのに、平気で化け物の出るという大極殿まで一人で歩いて行って証拠の品を持ち帰ったという武勇伝がある。
 呪術なんかに怯えるタマだろうか?

藁人形


 本書の魅力は他にもある。
 一つは、「王朝物価一覧」というのが掲載されていること。
 貨幣が一般に流通していなかった当時、物々交換とくに米や塩や布を貨幣の代わりにすることが多かった。
 『源氏物語』や『枕草子』を読んでいると、なにか覚えのめでたいことをした者に対し、上位の者が衣装や絹を賜わる場面がよく出てくる。
 その際、「これはどのくらいの価値があるんだろう?」、「もらってどれほど嬉しいものなのだろう?」という疑問をいつも抱いていた。
 この王朝物価一覧によると、絹1疋(=2反=着物2人分)は1000~2000文にあたり、1石(=10斗=100升=1000合)の米に相当する。一日5合食べる家族の場合、200日分である。
 結構な褒美じゃないか!
 また、絹一疋で馬2~3頭と交換できる。

 こういったことを知ると、王朝時代の文学作品などを読むとき、ずっと理解が深まる。
 たとえば、『今昔物語』に有名な『わらしべ長者』は、1本のわらしべが、ミカン→絹1反→弱った馬1頭→長者の屋敷、と変わっていく。
 ミカンから絹への変化で有頂天になった主人公が、次の弱った馬1頭でガックリくる理由が、この物価一覧で理解できよう。

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王朝物価一覧

 本書のもう一つの魅力は、あとがきの後に置かれた『補論 呪禁師のいない平安時代』という一文。
 おそらく、初版にはなく今回の再版のために書き下ろしたものと思われるが、呪禁師(じゅごんし)という存在が律令制度の中に位置づけられていたのをはじめて知った。
 日本の律令制度は奈良時代に唐のそれをまねて作られたので、もともとの唐の律令制度の中にこの役職があったのだという。
 陰陽師が実際には呪術とは無関係な官職であったのにくらべ、呪禁師はまさに呪術を職掌としていた。
 それが、平安時代にはほぼ形骸化して名前ばかりの役職になっていた。
 日本ではなぜ呪禁師が機能しなかったのか。
 その理由の検討が興味深い。
 このあたり、そのうち稿を新たに追究してほしいところである。

わらしべ長者



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損