2011年原著刊行
2012年早川書房より邦訳(大田直子 訳)
2016年文庫化

 「自由意志はあるか?」という命題は、ここ数年ソルティが追っているテーマの一つであり、このブログでもたびたび関連本を取り上げ、考察してきた。
 「自由意志は存在しない。あるとしても、とても主役と言えるような代物ではない」というのが、どうやら現代科学の最先端の回答のようである。

 これを別の切り口から捉えなおすと、クリシュナムルティなら「私たちは完全に条件づけられているのです」となり、ベンジャミン・リベットなら「我々が意志するより先に脳は勝手に動き出している」となり、ユヴァル・ノア・ハラリなら「生命はアルゴリズムに過ぎない」となり、ニコラ・テスラなら「私たちは自動機械(オートマシーン)である」となり、本邦の前野隆司においては「受動意識仮説」となり、山口修源においては「如何ともし難い因果の関係性」となり、非二元(ノン・デュアリティ)にあっては「すべては起こるべくして起こっている」と言い表され、初期仏教では「諸行無常、諸法無我」と教える。
 「自由意志は存在しない」はすなはち、「自己は幻想である」の謂いでもある。

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 本作は、あたかも自由意志の命題に決着をつけるかのような総覧的内容となっている。
 人間の五感というものが、錯覚をはじめとする認知バイアスに見るように極めて当てにならないものであることの証明から始まって、意識に比したときの無意識の測り知れない大きさと役割の重さを指摘し、その意識の中味である思考や信念や意志ですら「自らがアクセスできない」無意識領域に支配されている数々の証拠を並べる。
 我々の言動が、脳内の微量のホルモンや神経伝達物質の影響下にあり、“適者生存”という法則のもと何万年もの歳月を経て最適化された脳、ひいては遺伝子によって統制されていることを明らかにする。
 そう。邦題にある通り、意識は主役ではなく脇役、無意識の演じる芝居の傍観者に過ぎないのだ。 
 脳の一部が病気や事故で損傷した人に起こった言動や性格の変化など、論拠として挙げられる様々なエピソードが実に興味深い。

 私たちには自分の行動、動機、さらには信念を、選択したり説明したりする能力はほとんどなく、舵を取っているのは、無数の世代にわたる進化的淘汰と生涯の経験によってつくり上げられた無意識の脳である・・・・。
 
 自由意思があるという私たちの希望や直感に反して、その存在を納得のいくように確定する論拠は今のところない。

 本書は「自分探しの旅」ならぬ「自分壊しの旅」である。
 著者の幅広く容赦ない証明によって次々と「自分」が壊されていくことに快感を感じるソルティは、一種のマゾであろうか。

 一方、「自由意志はない。自己は幻想である」という結論は、難しい問題を招来する。
 つまり、すべてが自身がコントロールできないところで決まっているのなら、犯罪者を裁くことができないではないか?

 生まれか育ちかのことをいえば、重要なのは、私たちはどちらも選んでいないという点だ。私たちはそれぞれ遺伝子の青写真からつくられ、ある環境の世界に生まれてくるが、いちばん成長する年齢には環境を選択できない。遺伝子と環境が複雑に相互作用するということは、この社会に属する市民がもつ視点は多種多様で、性格は異なり、意思決定能力もさまざまであるということだ。これらは市民にとって自由意思の選択ではない。配られた持ち札なのだ。 

 最近よく聞く「親ガチャ」という言葉を想起する。
 自分の意志で選べなかった「生まれと育ち」の結果、犯罪を起こしやすい性質が備わるならば、その当人を責めたり罰を下したりするのは理不尽じゃないか――という見解。
 これについて著者のデイヴィッドは、犯罪を起こした者に必要なのは「処罰でなく更生」と訴え、神経科学の新たな発見を法律、刑罰、更生にどう活かせるかを研究するプロジェクトを主宰している。
 研究室にこもって真実の究明や個人的栄誉のために研究しているだけでなく、研究成果を社会に還元し、人道的な益に結びつけようと具体的に行動を起こすところがクールである。
 逆に言えば、そういう社会的行動を起こすほどに、「自由意志はない」という結論がデイヴィッドにとって揺るぎないものであるってことだ。
 
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 「自由意志はない、自己は幻想である」という命題は、「すべては脳(遺伝子)の仕業である」というような唯物論的還元主義に結びつきやすい。
 「あらかじめすべてが決まっているのだから、何をやっても無駄だ」というネガティヴな宿命論に、あるいは心(精神)の存在や価値を懐疑させ、ともすれば危険な人間機械論に陥りやすい。
 デイヴィッドは、しかし、これに与さない。

 微小な世界へと向かう一方通行の道をたどるのは、還元主義者が犯すまちがいであり、私たちはそのわなを避けなくてはならない。「あなたはあなたの脳である」というような短絡的な表現を見て、神経科学は脳を単なる原子の巨大な集まりかニューロンの広大なジャングルとして理解するという意味だと考えてはいけない。むしろ、精神に対する理解の前途は、ウエットウェアのうえで続く活動パターンを解読することにある。そのパターンは内部の駆け引きだけでなく周囲の世界との相互作用にも左右される。
(ソルティ注:「ウエットウェア」とは「脳、あるいは人間」の意だろう。ここは注釈入れないと「水着」か「雨具」のようにとられかねない) 

 この著者は、自由意志や自我を否定するくらいには還元主義者だけれど、宿命論や人間機械論を拒否するくらいにはポジティブでスピリチュアルなヒューマニストなのである。
 


おすすめ度 :★★★★

★★★★★
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損