2021年文藝春秋
著者は1952年生まれの元朝日新聞記者。事件報道の第一線で働いてきた人である。
その海千山千の男が生涯忘れることのできないという事件、「自分の人生のテーマとなった」とすら述べる事件が、1972年11月8日に早稲田大学文学部キャンパスで起きた新左翼・革マル派による川口大三郎君虐殺である。
樋田は当時、早稲田の文学部に籍を置く学生で、殺された川口君は同じ学部の一年先輩だった。
60年代後半の学園紛争後、早大キャンパスは革マル派によって支配された。
政治運動とは一定の距離を置く一般学生たちは、この抑圧的状況に普段から不満と苛立ちを募らせていたが、自分たちと同じ一般学生でどこのセクトにも属していない川口君が、革マル派のメンバー数名によって学生自治会室に拉致され、凄惨なリンチを受けて殺害されたことに衝撃を受けた。
政治的な言葉を操って罪を逃れようとする革マル派、その革マル派を擁護するかのような大学本部の無作為、無責任。
学生たちの怒りは頂点に達し、ついに革マル派排除を合言葉に立ち上がった。
その先頭に立ったのが、元来ノンポリに近かった樋田であった。
本書は、樋田をはじめとする自由と平和を愛する非力な学生たちが、鉄パイプやヘルメットで武装した革マル派相手に、徒手空拳で闘った一部始終を描いたノンフィクションである。
正直、驚かされた。
一つには、私大の雄たる名門・早稲田大学において、かくも苛烈な革マル派によるテロル(恐怖政治)が敷かれていたことに。それも同年2月の連合赤軍・あさま山荘事件以降に、かくなる状態が持続していたことに。
左翼運動とくに暴力革命を唱える新左翼の運動は、一連のあさま山荘事件で露呈した活動家たちの悪魔的な残虐ぶりにすっかり信を失い、世間から見放され、勢力を失ったものと思っていた。
が、キャンパスの外と中とでは様子が違っていたのである。
学生自治会を乗っ取り、巨額な自治会費を懐に入れ、学生のみならず教員や職員も恫喝と暴力によって従属させる革マル派の姿は、まったくのところ暴力団そのものである。
大学キャンパスが山口組に乗っ取られたみたいなものだ。
バンカラで自由な校風を誇りとする早大キャンパスが、こんな無法地帯のような状況にあったとは思いもよらなかった。
今一つの驚きは――実はこっちの方がショックだったのだが――革マル派による学園支配が、つい最近まで続いていたという事実である。
つまり、樋田らの闘いは頓挫したのだ。(ただし、文学部に関しては、その後革マル派の自治会は公認されなかったというから、闘ったことの意味はあったと言うべきだろう)
本書「エピローグ」によれば、1994年に奥島孝康が総長に就任して徹底的な革マル派排除に乗り出すまで、大学本部は革マル派が主導する早稲田祭実行委員会、文化団体連合会(文化系サークルの連合体)、商学部自治会と社会科学部自治会の公認を続けていたという。「大学を管理運営する理事会に革マル派と通じた有力メンバーがいるという噂まで流れていた」(本書より)というから、たまげる。
1994年を「つい最近」と言うと異論が出そうだが、72年の事件発生から20年以上放置されていたことを思えば、あまりに遅い変革である。
自分が左翼のサの字も暴力のボの字も知らないような、平和で牧歌的なノンポリ学生生活を送っていた80年代前半に、同じ都内の早大で70年代の怨霊がいまだ跋扈していたとは思いもよらなかった。(たぶん、早大に行った友人からなにかしら耳にしていたのだろうが、記憶に残らなかったのだと思う)
それにしても不思議に思うのは、なぜ大学当局は革マル派の横暴を許し続けていたかという点である。
在籍する学生を守り学問の自由を保障するのは、大学当局のもっとも重要な使命であろうに!
それが果たされてこそ、学生たちに入学金や授業料を請求する、つまりは職員が給料や研究費をもらう資格が得られるであろうに!
それが果たされてこそ、学生たちに入学金や授業料を請求する、つまりは職員が給料や研究費をもらう資格が得られるであろうに!
令和の現在からすれば、何も悪いことをしていない学生がこともあろうにキャンパス内で拉致監禁され、凄惨なリンチの果てに殺されるなど、総長や理事会の首が吹っ飛ぶくらいの不祥事と思える。
文部省も何をやっていたのか!
東大安田講堂の時のように警察でも機動隊でも導入して革マル派を一掃すれば・・・・とつい思ってしまうが、このあたりの事情は当時子供だったソルティにはよくわからない。
あるいは、文部省や大学当局がもっとも恐れたのは共産党による学園支配であり、それを抑えてくれる革マル派を必要悪と思っていたのか?
いずれにせよ、こんな大学に20年間手塩にかけて育てた我が子を入れて、みすみす殺されてしまった親御さんがあまりに不憫。
大隈重信は草葉の陰で嘆き悲しんだことだろう。(念のため、早稲田を侮辱する意図はありません)
革マル派がそもそもどんな理論的バックボーンを持った組織なのかよく知らないが、本書で見る限り、70年代初頭において、その正体はもはや暴力団とまったく変わらない。
いや、「世界革命」とか「解放」とか立派な御託を並べないだけ、暴力団の方が可愛くさえ思える。
まかり間違って、このような組織による革命が成功して彼らが権力を握るようになった暁には、どんな恐ろしい国家が誕生することか。
政権維持のために、反対意見を封殺し、体制に異を唱える者を暴力によって抑圧することは目に見えている。
かつて革命の名のもとに上に向かって発動された暴力が、今度は下に向かう。
暴力は癖になる。
暴力は癖になる。
「暴力は暴力しか生まない」というのは人類数千年の歴史の証明するところである。
その意味で、本書を貫く主要テーマ――樋田らが革マル派との闘いにおいて最後までこだわり続けたこと――すなわち「非暴力」あるいは「非寛容に対してさえ寛容であり続けること」は、とてつもない重みをもって読む者に考察を求める。
特定の政治色のない民主的な自治会をつくろうとする樋田らの活動を快く思わない革マル派は、反逆する学生らを捕まえては恐喝や暴力を繰り返す。
樋田自身もキャンパス内で革マル派に囲まれて鉄パイプで滅多打ちされ、一ヶ月の入院を余儀なくされる。
次第に、「自衛のための武装をしよう」という声が樋田の周辺から現れだす。
日増しに大きくなるその声に最後まで抵抗していた樋田であるが、闘いの仕方をめぐって意見が割れ組織が分裂するのを見るに至って、闘いをやめる決断をする。
川口大三郎君の虐殺事件が起きた後、私は文学部キャンパスでたまたま一番最初に、「革マル派を許せないと思う人は、この指とまれ」と指を差し出した。その指に、何千もの学生たちの指が積み重なった。その重さに耐えられなくなりそうなことが何度もあったが、これまでなんとか持ちこたえてきた。だが、セクト間の内ゲバが激化し、それに巻き込まれるような形で武装化をめぐって自治会が分裂していく中、重ねられた指は次第に離れてゆき、最後に、元の一人の指に戻った。そして、私は自分の指をポケットの中に戻した。早稲田に自由を取り戻したい。その強い思いがあったからこそ、あらゆるものを犠牲にしてでもこれまで闘うことができた。だが、もうこれ以上仲間たちを理不尽な暴力に晒すことはできないという思いが、何よりも私の中にはあった。これからは一人の学生として生きてゆくことになる。肩の荷をおろすことで、どこかでホッとしてもいたが、不寛容に対して寛容でどう闘い得るのかという自らに課した課題は道半ばで頓挫せざるを得なかった。
不寛容に対して寛容でどう闘い得るのか?
この問いは、人類の永遠のテーマかもしれない。
憲法9条を擁し平和主義を国是とする日本人すべてにとって、常に問われ続ける課題である。
とくに、ロシアのウクライナ侵攻という国際的危機にある現在、「日本もウクライナと同じ目に合わないとも限らない」という声が高まっている。
ソルティは、最後まで非暴力主義を貫かんとする樋田青年の姿勢を「まっとう」と思い、全面的に支持しつつ本書を読み終えたものだが、「なにをケツの青い、生ぬるいこと言ってる!」、「目には目を、歯には歯を!」、「自国が守れてこそ自立した国家の証」、「寛容など弱虫の体裁に過ぎない」、「目の前で家族が殺されても同じことが言えるのか!」と反論する人がたくさんいるであろうことは重々承知している。
本書では、当時革マル派の幹部として文学部自治会を牛耳ったものの、その後「転向」した二人の男が紹介されている。
一人は自治会の委員長だった田中敏夫氏、もう一人は副委員長だった大岩圭之助氏。
前者は川口君の事件から1年後に自己批判書を書き、「学生運動とは完全に手を切る」と宣言し、群馬県の実家に戻り、その後の人生を世捨て人のようにひっそりと生き、2019年3月心筋梗塞で亡くなった。著者が会うことは叶わなかった。
後者は、事件から2年後に転向し、カナダやアメリカを放浪し、米国の大学で文化人類学の博士号を取得、帰国後は明治学院大学で教鞭をとっている。
本書巻末には、樋田と大岩の対談が収録されている。
50年前の暴力行為の被害者側と加害者側の対談には、意見のすれ違いが見られるものの、「暴力は醜い無意味なものであり、寛容な精神こそ大切である」という点では一致を見る。
そのことをホモ・サピエンスが学ぶまで、あとどのくらいの時間が残されているのだろう?
川口大三郎君が亡くなって半世紀経って出版された本書は、まさに今このタイミングで発表されるべき、読まれるべき書である。
おすすめ度 :★★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損
P.S. 本記事は、現在日本で活躍中のウクライナ出身歌手ナターシャ・グジーのCD『ナタリア』をBGMに書きました。ウクライナにもロシアにも平和あれ!
ソルティ氏、いつもたくさん本を読んでいますね。
岸山は今仕事で精一杯の状況で今日は長く書けないので少し書きます。
岸山は1972年4月早稲田大第ニ文学部に入学しました。岸山は1953年生まれで虐殺された川口大三郎さんと樋田さんより1歳下です。岸山は昼間は生活協働組合の売店で働いていました。毎日毎日、革マル派の学生たちが模造紙やマジック、ガリ切りの原紙を買いに来るので、彼らとはよく話をしましたよ。
第一文学部も夜間の第二文学部の自治会役員、全員、革マル派でした。生協で働いていたから、岸山は共産党系だろうと睨まれながらも夜のキャンバスで彼らは岸山によく声をかけてくれた。その話が実に楽しかったんです。
岸山は彼らと共存したかった。
川口君が殺された翌日、岸山は倉庫の前に立ち、業者さんから、わらばん紙の束を受け取りながら倉庫にしまって行った。そのわらばん紙だって革マル派が使うものだった。業者さんから川口君の死を聞き、わらばん紙の束を落としてしまった。
その日から革マル派の学生が夜の闇の中で殴られ続けるのを見ました。岸山と親しく話をした人たちは次々に逮捕されていきました。岸山は民主化闘争に加わった。けれども逮捕された人たちのことが心配でした。
11月8日がくるたびに川口大三郎君のことを思い出しては胸が痛む。
ソルティ氏が言っているように、大学当局やときの政府は岸山を含めた反体制の若者たちを革マル派によって弾圧したかったんです。49年経った今もときどき、革マル派のことも彼らと闘った民主的な学生たちのことも考えます。
死ぬ前に岸山は樋田さんとは違った見方と考え方で70年代の激しく暗い夜を描いてみたいです。ケアマネを辞めて早く書いておいた方が良いのかもしれないんですが、そうもいかないんです。
もっと書きたいけど仕事があるので。途中で失礼します。
ソルティはかた
が
しました