2018年岩波新書
お釈迦様が亡くなった後、最高の悟りに達した500人の弟子たちが一堂に会して、お釈迦様の教えと教団(サンガ)の規則を確認し、暗唱した。いわゆる結集である。
ここで確定されたお釈迦様の教え(経)とサンガの規則(律)――すなわち結集仏典は、以後およそ400~500年にわたって出家者たちによって口頭で伝承された。
紀元前後になって仏典は書写されるようになる。
その頃、仏教教団はいくつかの部派に分かれていたが、それぞれの部派は結集仏典として伝えられていた「経」と「律」を書写・編集し、仏法を緻密に分析し体系化した仏教哲学たる「論」(アビダンマ)と合わせて、「経・律・論」の三蔵という形に整えた。
一つの部派の三蔵がほぼ完全な形で今に残っているのは、パーリ語で伝えられたスリランカの上座部大寺派の『パーリ三蔵』のみで、他は、説一切有部・化地部・宝蔵部・大衆部などで伝えられてきた三蔵がそれぞれ部分的に残っているそうである。
これらの部派によって伝えられた「経」が、いわゆる“小乗仏教”の主要経典であり、一般にお釈迦様の“直説”と言いならわされている『阿含経典』である。
しかしながら、『阿含経典』のすべてがお釈迦様の“直説”すなわち結集時に弟子たちによって確定された教えかと言えば、あやしいところである。
数百年の口頭での伝承の間に、伝言ゲームのように(作為の有無はともかく)いろいろなものが混じったり抜けたり変化したりする可能性は無きにしもあらずだし、書写し編集する過程においてもまた、創造力に富んだ編者が親切心から新たなお釈迦様と弟子のエピソードを盛り込んだ可能性もある。
一例であるが、お釈迦様の最後の旅を記した『阿含経典』内の『大般涅槃経』では、お釈迦様より先に死んでいるはずのサーリプッタ尊者が登場する。
第一回結集に参加したアーナンダやマハー・カッサパがそんな出鱈目を許すわけがなかろう。
明らかに後世の創作である。
本書で著者は、書写が始まる前の口頭伝承時代の仏教を「初期仏教」と定義している。
つまり紀元前の仏教である。
そして、「歴史的読解」という方法を通じて、初期仏教において結集仏典の核となるテーマを特定し、そこからお釈迦様の教えをたどろうと試みている。
馬場紀寿(のりひさ)は1973年青森生まれの仏教学者である。
歴史的読解とは、仏典を歴史的文脈で読み解く作業である。仏典を資料として批判的に検証した上で、仏典を取り巻く歴史的状況を考察し、恣意的な解釈を慎み、文献学的に正確な読解を目指す。(本書より引用、以下同)
はじめに、古代インドの歴史の叙述から始まって、『ヴェーダ』を聖典とするバラモン教の支配する社会において、ジャイナ教をはじめとする六師外道らと同時期に、まったく新しい世界観・人間観・社会観・道徳観を備えた仏教が登場した経緯が描き出される。
形式的で権威主義に陥ったバラモン教に対するお釈迦様のパラダイム刷新は、ユダヤ教に対するイエス・キリストのそれと実に符合する。
形式的で権威主義に陥ったバラモン教に対するお釈迦様のパラダイム刷新は、ユダヤ教に対するイエス・キリストのそれと実に符合する。
次に、文献学にもとづく近代的な仏教研究の成果をもとに、各部派に残る『阿含経典』の片鱗や律を精密に比較検討し、最大公約数的な共通テーマを取り出し、それが作られた時代が紀元前までさかのぼれることを立証する。
その際の論拠として言及されるガンダーラ写本なるものをソルティは初めて聞いた。
ガンダーラ写本の発見は、旧ソ連のアフガニスタン侵攻(1979-89)によるアフガニスタン内戦の長期化により、仏教写本が国外に流出し、90年代中頃から古美術マーケットにかけられたことが発端とのこと。
ガンダーラ写本の発見は、旧ソ連のアフガニスタン侵攻(1979-89)によるアフガニスタン内戦の長期化により、仏教写本が国外に流出し、90年代中頃から古美術マーケットにかけられたことが発端とのこと。
ガンダーラ写本は、それまでに見つかっていた写本の制作時期をはるかにさかのぼり、紀元前後のものもあるという。書かれていた経はまさに口頭伝承から書写に移る刹那のものである可能性が高い。
現在、ロシアのウクライナ侵攻が国際社会を揺るがしているけれど、戦争が貴重な仏典発掘のきっかけになるとは、なんという皮肉か。
ともあれ、歴史的読解によって馬場が明らかにしたのは、以下のようなことである。
- 結集仏典にあったと推定されるのは、三蔵のうちの「律」及び現存する『阿含経典』5部のうち「長部」「中部」「相応部」「増支部」の4部であり、韻文スタイルの「小部」はなかった。
- 初期仏教においてお釈迦様の教えとして特定し得るのは、「布施」「戒」「四聖諦」「縁起」「五蘊」「六処」である。
1.については馬場以外の研究者も指摘しているらしいが、これが本当ならちょっとした事件である。
というのも、「小部」の中にある『スッタニパータ』や『ダンマパダ』こそ、文献学的に最も古い仏典であり、お釈迦様の直説である可能性が高いとこれまで言われてきたからである。
であればこそ、中村元先生は「経の集まり」の意である『スッタニパータ』を岩波文庫で訳すにあたって、『ブッダのことば』というタイトルをつけられたのであろう。
同じ中村元訳・岩波文庫の『真理の言葉(ダンマパダ)・感興のことば(ウダーナヴァルガ)』もまた、『阿含経典』の「小部」に収録されている経である。
これらが結集仏典でない=お釈迦様の直説でないとすると、いったいどういうことになるのであろうか?
岩波書店は何とチャレンジングな道に踏み込んだのだろう。
これら(ソルティ注:小部)の仏典には、仏教特有の語句がほとんどなく、むしろジャイナ教聖典や『マハーバーラタ』などの叙事詩と共通の詩や表現を多く含む。仏教の出家教団に言及することもなく、たとえば「犀角」は「犀の角のようにただ一人歩め」と繰り返す。多くの研究者が指摘してきたように、これらの仏典は、仏教以外の苦行者文学を取り入れて成立したものである。
第4章以降は、上記2.の「布施」「戒」「四聖諦」「縁起」「五蘊」「六処」について、簡潔にして分かりやすく論じている。
この部分を読むと、馬場が単なる探究心旺盛で有能な仏教研究者というばかりでなく、鋭い智恵をもった真摯な仏教者であることが洞察される。(ついでに言えば、随所に見られる比喩の性質からして、馬場はソルティ同様、音楽愛好家だろう)
四聖諦や五蘊(色・受・想・行・識)や六処(眼・耳・鼻・舌・身・意)の説明が要を衝いて見事であると同時に、各々の有機的関係を鮮やかに解き明かしていて隙がない。
次の文章などは、仏教における「自己」という概念のもつ二面性――すなわち古くからの「ゴルビアスの結び目」的テーマである「無我と輪廻の矛盾」について核心に迫ったもので、本書中の白眉と言えよう。
生存は、常に危うい状態にある。思いもかけないところから統制のきかない事態に陥り、日常に自明だと思っていたことが覆ってしまう。このような状態は潜在的に続いていて、たとえ多くの人が安定していると思っていても、何らかのきっかけで顕在化する。したがってこの過程では、認識主体・行為主体・輪廻主体としての「自己」の存在を認めることはできない。自己は諸要素の集合に過ぎず、諸要素を統一する主体などないからである。この意味で仏教は「主体の不在」を説いている。生存そのものは、繰り返し「自己を作り上げる」ことによって成り立っている。未来に向けて努力すれば、よりよい世界が開けるのであり、それを怠れば、どんどん状態は悪化していく。良い方向であれ、悪い方向であれ、そのように次から次へと新たな自己を作り上げることによって、生存を維持するために生存を維持するという無限の反復に陥っている。この過程では、渇望があるかぎり、執着が起こり、生存が繰り返し作られる。諸要素の集合に過ぎない非主体的なこの生存を仮に「自己」と呼ぶなら、仏教は「自己の再生産」をも説いていると言える。(ゴチックはソルティ付す)
本書もまた、仏教研究書としての一面と、仏教入門書としての一面を備えた「ヤヌスの鏡」的(笑)良書と言える。
双頭神ヤヌス(杉浦幸ではない)
おすすめ度 :★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損