連休前半に宮城・山形・福島をまわる旅をした。

 主たる目的は、2年前から行方知れずになっている仙台の旧友・X君の捜索、および一昨年の正月に亡くなった山形の旧友・K君の墓参りである。
 一人旅の多いソルティであるが、今回はX君・K君とは共通の友人であり、現在は東京に暮らしていてたまに会って食事する間柄のP君と部分的に同行した。
 X君、K君、P君、そしてソルティの4人は、世代こそ異なれ、ソルティが仙台にいた頃(90年代)に参加していたセクシャル・マイノリティのサークルEのメンバーであった。

 せっかくの、そして久しぶりの仙台行なので、東日本大震災による被災と運行休止を経て2020年3月14日についに全線復旧を果たした常磐線を使い、被災11年後の沿線風景をこの目で確かめることにした。
 あとは足の向くまま気の向くまま、ゴールデンウィークの人混みもおよそ関係ない、普通列車4日間の“乗りテツ”を楽しんだ。

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東京都区内~仙台~山形~福島~大宮~川越のJR乗車券
常磐線→仙山線→奥羽本線→東北本線→宇都宮線→川越線を乗り継ぐ
(上野・山形往復より1000円以上安くなる!むろん途中下車可)


4月28日(木)晴れ 上野~仙台(常磐線)
 
 津波による被害が甚大だったのは、海岸線に近い久ノ浜駅(福島県)~亘理駅(宮城県)間であった。
 このうち最後まで不通になっていた富岡~浪江間(20.8キロ)は、津波の被害はもとより、福島第一原発事故の放射線汚染による避難区域となり、復旧が遅れた。この区域の沿線は、いまだに更地や整備中の土地が多く見られ、津波の被害を受けていない内陸側の沿線でも、人が住んでいる(戻って来ている)のかどうかは定かではないが、荒れ果てた物寂しい光景が目に付いた。

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JR東日本ホームページ掲載の路線図より

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JR常磐線・富岡駅

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 東日本大震災のことをまったく知らない人(たとえば外国人観光客)がいま常磐線に乗って沿線風景を目にしたら、おそらく、ここが地震と津波に襲われて壊滅的被害を受けたとはとても信じられないだろう。
 それほどまでに復興している。
 ただ、観察力のある人がこう思うだけだ。
 「なんだか沿線の住宅も駅もみんな新しいな。やけに墓地が多いな」

 福島県の最北にある新地駅で途中下車した。
 この駅はもとは海岸から200m弱のところにあり、ホームの一部と跨線橋以外すべてが押し流された。
 停車中の列車に乗り合わせていた乗客40名は、警察官の誘導で高台に避難し、全員が無事だったという。

新地駅(旧駅舎)
被災前の新地駅

新地駅・常磐線
被災直後の新地駅周辺

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現在の新地駅
海岸から500m弱の位置に移設された

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新地駅・海岸側

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新地駅・内陸側

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かつての田園風景は失われてしまった

 列車を乗り継ぐこと数回、上野から延々10時間かけて20時に仙台駅着。
 ソルティが仙台にいた頃、仙台駅2階コンコースのステンドグラス前に伊達政宗騎馬像があった。
 県外から列車で来た人にとっては「ああ、仙台に来た!」という感慨に浸れる場所であり、渋谷におけるハチ公のような恰好の待ち合わせの場所でもあった。
 実際、インターネットも携帯電話もない当時、サークルEの月に一度の集合場所は騎馬像前であった。(それを告知するのはゲイ専門の月刊誌であった)
 現在、新しい騎馬像が駅3階に設置されているが、やっぱりステンドグラス前にないのは淋しい限り。
 駅近くのカプセルホテル「とぽす」に泊まる(4800円)

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仙台駅

 
4月29日(金)曇りのち雨、一時みぞれ 仙台 

 午前中は定禅寺通りにある仙台市立図書館(仙台メディアテーク内)に行く。
 昔住んでいたアパート(家賃35,000円だった)のあった界隈なので無性に懐かしい。
 思えば、震災のあった年に被災した友人・知人を訪れて以来だから10年ぶりの来仙である。
 が、街を歩いていて思い出すのは、10年前のことでなく、30年前のあれやこれやである。自分が年をとったせいなのか、あるいは思い出にふけられるほど震災ショックが和らいだせいなのか・・・。
 定禅寺通り突き当りの市民会館前には中国人一家が経営していた美味しいラーメン屋があった。今やフォルクスワーゲンのショールームが入っているビルに代わっている。もうあの味は消えたのか?
 
 図書館に来たのは地方紙のデータベース検索が目的。
 行方不明のX君は2年前にある事件に巻き込まれて、地方紙に名前が載った。
 その後いっさい連絡がつかなくなった。フェイスブックも更新ストップしたままである。
 その後の彼の動向を教えてくれるような記事が同じ地方紙に載っていないか、確認しに来たのである。
 残念ながら――ホッとしたことにと言うべきか――検索には引っかからなかった。

 その後、仙台でHIV関連の市民活動を共にやっていた仲間の一人(♀)と会って、カフェで2時間ばかり談笑した。
 互いに“アラ還(60前後)”と言える年齢になって、出てくる話の一等は親の介護。
 親を見送るのはつらいし悲しい。けれど、長生きしてもらって病気や老衰で治療や介護が必要になった時、先立つのはお金とケアしてくれる人の手。嫌でも向き合わなければならないのは、それまでに築いてきた(築きそこなった)親との関係。
 そして、互いの親の話をしながらも、二人ともに「次は自分たちの番なのだ」と暗に思っている。
 順繰りにやって来るだけの話なのだが、若い時分には身に迫らなかった。

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ケヤキ並木の鮮烈なる定禅寺通り

 東京から到着したばかりのP君と在仙のS氏と勾当台公園で待ち合わせて、S氏の出してくれた車でX君探しの開始。
 S氏もまたX君の古い友人である。X君と連絡が取れないのを不審に思い、住んでいた仙台のアパートを訪れたところ、すでに退去していた。その後、くだんの地方紙にX君の名前あるのを見つけて、P君に連絡くれたのがS氏である。
 ソルティはS氏と会うのははじめてであった。
 
 探す手段として、県北にいるはずのX君の母親(再婚して別の家庭をもっている)のもとを訪ねて、じかに居場所を尋ねてみるのがいいだろう――ということになった。
 とは言え、母親の連絡先も住所も再婚後の姓も知らない。数年前にX君と一緒に列車で訪ねたことがあるというP君のおぼろげな記憶を頼りに、最寄り駅までドライブし、そこから歩いて母親の家を探す。
 なんだか雲をつかむようなとりとめのない話。家の場所も確かでなく、今もそこに母親が住んでいるのか定かでなく、連休の祝日に家にいるかもわからない。たとえ、運よく会えたとして、快く話をしてくれるかもわからない。 
 「たぶんこの家だろう」と半信半疑で玄関のチャイムを推すP君。
 しばらく間があって、出てきたのはまさにX君の御母堂その人だった!
 
 ここまではラッキーだったが、探索はそこでストップ。
 御母堂もまたご子息の行方も連絡先も知らず、数年前から訪問はおろか、一本の電話もメールももらっていないという。
 「亡くなった夫と数年前に大喧嘩して、それからこちらには一度も顔を出していない」
 よくある話であるが、X君は母親の再婚相手すなわち義理の父親とは昔から仲が良くなかった。義理の父親は一年前に亡くなっていた。
 それなら実の父親と連絡取り合っていないかと思い、その所在について伺うと、「前の夫もすでに亡くなったと人づてに聞きました」・・・・

 母親という、何かあればもっとも連絡してきそうな人に連絡して来ないのであるから、これ以上の探索はいまのところ難しいであろう。
 帰りの車で、「本人から何か言って来るまで待つしかないね」ととりあえずの結論に達した。
 その後、P君の発案で、やはりサークルEのメンバーであったオネエのS様のお墓参りをした。
 仙台市内の高台にある緑美しい墓地で拝んでいると、急に雨足が強くなった。
 「あんたたち、来るのが遅すぎるわよ!」とS様になじられている気がした。


続く