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第4巻『美しい季節Ⅱ』(1923年発表)
第5巻『診察』(1928年)
第6巻『ラ・ソレリーナ』(1928年)
第7巻『父の死』(1929年)
1984年白水社より邦訳刊行

 3泊4日のみちのく旅行に携えていった4冊。
 鈍行列車乗車の計14時間でどこまで読み通せるかなと思っていたら、丸々4冊読み終えてしまった。
 ほぼクロスシートを独占できて、疲れたら車窓を流れる景色で目を休めることができるし、空いている車内には気を散らすものもないし、読書には最適の空間であった。

 もちろん、小説の面白さあってこそ。
 チボー家の息子アントワーヌとジャック、読売新聞と朝日新聞のごとき相反する性格をもつ2人の若者の青春が躍動し、それが僭主のごとく振舞った父親の壮絶な死というクライマックスで幕切れを迎える。
 ストリーテリングの巧さと魅力ある登場人物の描写に、知らぬ間に残りページが少なくなっていることに気づき、いつのまにか終点が近いことに驚く。
 現実のみちのくの旅と、本の中の100年前のフランスの旅、二重に体験しているような感覚であった。
  
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JR仙山線沿線・山寺

 第4巻はずばり「恋」の章。二組の大人たちの恋愛模様が描かれる。
 中年のフォンタナン夫妻のぬかるみに嵌まり込んだような奇態な依存関係は、成瀬巳喜男監督の名作『浮雲』の森雅之と高峰秀子のよう。『浮雲』に見るような腐敗臭ある暗さから救っているのは、フォンタナン夫人の堅い信仰である。
 一方、アントワーヌとラシェルの恋は若者らしい一途さと情熱と性愛の率直さで彩られる。
 アフリカやヨーロッパを放浪し人生経験豊かなラシェルによって、仕事一筋の堅物であったアントワーヌが異なった価値観に触れ人生に開かれていく様が描かれる。
 ラシェルがアントワーヌに語る蛮地での奇想天外なエピソードの数々、長年の愛人であったイルシェという男の不気味な存在感、このあたりの描写には同時代のフランス作家アンドレ・ジッド同様、反文明・反近代を志向する著者デユ・ガールの一面が伺えた。

 第5巻はアントワーヌが完全主役。
 有能で誠実で人望ある医師としての彼の一日が描かれる。「赤ひげ」候補といった感じか。
 このアントワーヌの成長は、ラシェルとの激しく熱い恋と唐突な別れがもたらしたものである。
 その意味では、本小説は19世紀以来の教養小説――青年が様々な経験をして成長していく物語――の流れを汲んでいる。
 人間の“成長”が信じられた時代。

 第6巻はしばらく行方不明になっていたジャックの動向が描かれる。
 親友ダニエルの妹ジェンニーとの関係のもつれや父親への反発から家を飛び出したジャックは、すべての知り合いとの連絡を断って、スイスで物書きへの道を歩み始めていた。
 ひょんなことから居所を知ったアントワーヌは、ジャックをパリに連れ戻すべく、一人スイスに向かう。
 2人の父親であるチボー氏が瀕死の状態にあったのだ。
 それぞれ自分の道を歩み始めた兄弟が再会し、愛憎半ばする父親の臨終に立ち会う。

 第7巻『父の死』は物語的にドラマチックな場面には違いないが、ここで扱われているテーマもまた深い。
 一つは安楽死。父親の苦しむ姿に耐えきれなくなったアントワーヌとジャックは、モルヒネを注射することでその苦痛を終わらせる。(現代では尊厳死にあたるから違法にはならないだろう)
 いま一つは宗教と信仰の問題。父親の葬儀のあとで司祭と対話するアントワーヌの言葉に、読者は神を信じられないアントワーヌの唯物論的精神をみるだろう。それは典型的な近代人の姿でもある。
 
十字架

 本書を読んでいると、欧米人にとって父親の存在というのは非常に大きいものなのだとあらためて感じる。
 フロイトは「エディプス・コンプレックス」という概念を提唱したけれど、あれはキリスト教を基盤とする欧米文化ならではのものであって、日本をはじめとするアジア文化にはそぐわないものだと思う。つまり、人類一般に適用できる心理現象ではなかろう。
 「絶対神=父」という構造と刷り込みがまずあって、クリスチャン家庭の中の父親が「神」のごとく敬われていく文化が強化される。家族の成員は父の背後に「神」を見ざるをえない。このとき、家父長制とキリスト教は強固に支え合っている。
 「父に歯向かうことは神に歯向かうこと」という暗黙のルールが支配する社会にあって、自立(自分らしさ)を求める息子・娘たちはどうしたって葛藤に陥る。それが信仰深い家庭の子女であればなおのこと。
 チボー家の「父の死」は「神の死」のひとつの象徴である。
 神の軛から解かれた世界で、アントワーヌとジャックはどのように生きていくのやら・・・。