2018年フランス
113分
原題:Maria by Callas
20世紀最高の歌姫マリア・カラスの人生を、映像と朗読と彼女自身の歌声でつづったドキュメンタリー。
カラスが書き残した未完の自叙伝(そんなものがあったのか!)や友人に宛てた手紙を、自身映画『永遠のマリア・カラス』(2002)でカラスを演じたことのあるファニー・アルダンが朗読している。
これはもうファン垂涎の一品である。
本邦というか世界初公開のカラスの舞台および舞台裏映像、インタビュー風景、プライベート映像が盛りだくさん。
よくこれだけ集めたなあと感心する。
とくに、モノクロフィルムに当時の写真をもとに着色した映像が新鮮。
これまでに何度も目にしていた骨董品的映像が、色を付けられることで臨場感と華やぎが増し、撮影されたその場・その時代の空気を感じ、マリア・カラスが血の気の通った存在として蘇るような気がした。あたかも彫像が動き出したような。
彼女が最も得意とした『ノルマ』の舞台映像やルキノ・ヴィスコンティの演出風景、カラス唯一の映画主演作『メディア』(パゾリーニ監督)の撮影風景など、レアな映像の数々に目が釘づけ、もちろんその奇跡の歌声に耳が釘付けとなった。
映画のロケハンで、くもった眼鏡(カラスはド近眼だった)を磨くのにレンズに自分の唾を垂らすカラスの姿からは、エレガンスの粋を極めた彼女の本質が庶民にほかならないことを、あますことなく伝えている。
映画のロケハンで、くもった眼鏡(カラスはド近眼だった)を磨くのにレンズに自分の唾を垂らすカラスの姿からは、エレガンスの粋を極めた彼女の本質が庶民にほかならないことを、あますことなく伝えている。
登場する50~60年代の世界のセレブたちの顔触れも凄い!
最初の夫バティスタ・メネギーニ(実業家)、最愛の男アリストテレス・オナシス(海運王)、最後の恋人と言われたジュゼッペ・ディ・ステーファノ(テノール歌手)はじめ、エルビラ・デ・イダルゴ(ソプラノ歌手・恩師)、ジャクリーン・ケネディ(元米国大統領夫人)、ヴィットリオ・デ・シーカ(俳優・映画監督)、オマー・シャリフ(俳優)、ブリジット・バルドー(女優)、カトリーヌ・ドヌーヴ(女優)、グレース・ケリー(女優・モナコ公妃)、エリザベス・テーラー(女優)、ウィンストン・チャーチル(元英国首相)、エリザベス女王、フランコ・ゼフィレッリ(映画監督・オペラ演出家)、ルドルフ・ビング(メトロポリタン歌劇場支配人)・・・・等々。
どこに行っても膨大なファンとマスコミに取り囲まれ、容赦ないフラッシュと意地悪な質問を浴びせられる。その光景のすさまじさに比べられ得るのは、故ダイアナ妃のそれくらいであろうか。
よっぽどタフでないとつとまるまい。
個人的には、やはり映画の中で流されるカラスの歌声に圧倒された。
若い時分から最盛期そして晩年近くまで、録音された歌を通して聴いていると、声質や声域の変化や劣化、表現力の深化などはあるものの、生涯にわたって共通しているもの――なによりもカラスの声を特徴づけていたもの――は、“悲哀さ”だったのだと分かる。
声自体の美しさでは他のソプラノ歌手の後塵を拝すとしても、悲哀さにおいては追随するものがいなかった、いや今に至るまでいない。
その悲哀さゆえに聴衆は呪縛され、胸を鷲づかみにされ、涙腺を破壊されてしまったのだ。
エドガー・アラン・ポーがどこかで「美の本質は悲哀さにある」と書いていたのを思い出す。
皮肉なのは、その悲哀さがカラスの――マリアの人生にも浸透してしまったことである。
あるいは、カラスが演じたヒロインたちの悲劇が、マリアに乗り移ったのだろうか。
あるいは、カラスが演じたヒロインたちの悲劇が、マリアに乗り移ったのだろうか。
あれほどの成功、あれほどの栄誉、あれほどの人気を獲得しながらも、一人の女性としてのマリアの人生を鑑みるときに「幸福」という言葉は出てこない。
もちろん「不幸」ではない。世の女性が、いや世の人間が、滅多に手に入れられない歴史に残る名声を得たのは間違いないのだから。
芸術の神にかくも愛されたのだから。
芸術の神にかくも愛されたのだから。
幸福とは平凡な人間にのみ許される特権なのだろうか。
その生、その死――悲哀に満ちた美しさがある。