第1~13巻(1922~1940年発表)
1952年白水社より邦訳刊行
1984年白水Uブックス

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 前回6で『チボー家』の記事は終わりにするつもりだったが、全巻読み終わって(ブログを書き終わって)しばらくしてから、何か言い足りないことがあるような気がした。
 それは、「『チボー家』にはチボー(希望)がない」と言い切ってしまったことで、この作品が読むに値するものではないと思わせてしまうのではないか、という懸念と関連している。
 それはソルティの本意ではない。

 『チボー家の人々』はストーリー性豊かで面白いし、キャラクターがよく描けているので登場人物たちに愛着もてるし、青春について、恋愛について、家族について、戦争について、国家について、死について、生きる意味について、深く考えさせてくれる堂々の大河ドラマ、オールマイティ小説である。
 青春や恋愛や家族関係が主題となる前半に比べ、社会主義思想や第一次世界大戦がテーマとなる後半は内容的にも用語的にも難しく、とくに死を前にしたアントワーヌの内面を描く最終巻は思弁的・哲学的になる。
 言ってみれば、第1~7巻は中学~大学生レベル、第8~11巻は社会人レベル、第12~13巻は脱世間レベルといった趣き。
 読み手のレベルによっては、途中挫折もやむを得ないかもしれない。
 だんだんと深みを増していく小説なのである。 

 つまりそれは、主役であるアントワーヌの成長過程に即しているからである。
 アントワーヌの精神的成長に応じて内容も深化していく、あるいは世界情勢と身の上の深刻度に応じてアントワーヌの精神的成長が深まっていく。
 この物語の大きなテーマの一つは、アントワーヌという一人の男の精神的成長を描くことを通じて、「人間の成熟とはなにか?」を問うているところにあると思う。

 医師としての世間的成功と栄達だけを目的とし信仰心を持たない俗物的人間であったアントワーヌは、ラシェルとの恋愛によって世間に対する目がひらかれていく。
 医師として実力と自信を身に着け、父親の遺産で思い通りの生活を送れるようになったアントワーヌは、自分でも気づかぬうちに、伝統と慣習に固まった父親そっくりの保守主義者になる。人妻との浮気もお手のもの。
 が、第一次大戦が勃発し兵に取られ、戦場の悲惨を身をもって知ることで、人生観が一変する。
 自ら瀕死の患者となったことで、戦争の愚かさや国家の詐欺、ナショナリズムの馬鹿らしさを痛感する。
 個人的成功と栄誉のために生きてきた半生を後悔し、ようやく弟ジャックの生き方を理解し始める。
 だが、それももう遅い。
 医師である彼には自らの寿命の長くないことがわかる。 
 残り少ない時間のなか、アントワーヌは生きる意味について考える。
 
 《人生の意味いかん?》こうした無益な質問を、全面的に払いのけることはとうていできるものではない。このおれ自身にしても、わが身の過去を反芻しながら、いくたびとなく、こうわれとわが胸にたずねているのに気がつく。《それは何を意味しているのだろう?》と。
 ところで、それは、何を意味してもいないのだ。何一つ意味してなんぞいないのだ。こうした事実をみとめること、それははじめちょっとむずかしい。それというのも、骨の髄までしみこんだ、十八世紀間にわたるキリスト教というやつがあるからなのだ。だが、考えれば考えるだけ、そして、身のまわり、心の中をはっきりみつめればみつめるだけ、《それが何も意味していない》ことの明白な事実に直面せずにはいられない。何百万何千万という人間がこの地殻の上に生みだされ、それがほんの一瞬蠢動したと見るまに、やがて解体し、姿を消し、ほかの何百万何千万に取ってかわられる。しかも、そうやって取ってかわったものも、あすになれば解体する。そうしたつかの間の出現、それにはなんの《意味》もないのだ。人生には意味がない。そして、そうした仮の世にはかなく生きているあいだ、せめては不幸を少なくしようとつとめる以外、そこにはなんの意味もないのだ・・・・ 

 人間の《成熟した精神》がこのような結論に至るのは一種の不条理であろう。
 つまるところ、そこに信仰が、宗教が、介入する隙が生まれる。
 アントワーヌとジャックの父であるチボー氏は、神や天国を信じていたがゆえに、その死に際してすがるものを持ち得た。
 一方、神と決別したジャックもアントワーヌも、不条理のうちに死んでいくほかなかった。
 
 20世紀初頭にデュ・ガールが到達し小説の形で見事に描ききったこの「哲学的命題」は、答えのないままに21世紀に持ち越されている。
 だから、本小説は読み継がれる価値をいささかも失っていないのである。
 
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