2001年ちくま新書

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 田中圭一(1931-2018)は新潟県佐渡生まれの歴史学者。高校教諭を経て、筑波大学、群馬県立女子大学の教授を歴任。専門は近世史。
 「どこかで聞いたような名前・・・・」と思ったら、『うつヌケ』『ペンと箸』の漫画家と同姓同名であった。

 『日本の歴史をよみなおす』を書いて「日本は農業中心社会」「百姓=農民」という固定観念を打ち破った網野善彦同様、本書において田中圭一もまた、江戸時代について、あるいは江戸時代の百姓について、我々が歴史の授業で習いテレビ時代劇で補強された固定イメージを払拭せんとしている。

 これまで、江戸時代は封建支配者が暴力的・強制的、あるいは経済外的な強制によって、無権利の人民に対して法と制度を押しつけ、庶民はその暴政のもと、悪法に苦しみ、ときには法に反抗しながら270年を経過した、と考えられてきた。わたしはそうした歴史理解について、いささか考えを異にする。
 村を回っていると、庶民は力を合わせて耕地をひらき、広い屋敷と家をもち、社を建て、大きな寺院を建てている。百姓の子弟の多くは字を読み、計算をし、諸国を旅した者も多い。婚礼の献立は驚くほど立派である。日頃の粗食は貧しさだけが理由ではない。それは生活信条なのである。一口に言って、百姓は元気なのである。

 日本の江戸時代史を勉強する上で、これまで欠けていた点を一つ挙げるとするなら、百姓・町人を歴史の主役としてみることがなかったという点だ。あらゆる禁令や制度を支配者の意志による政策として疑わなかった。だから、法と制度だけで歴史をえがいてしまったのである。

 田中がこのような結論をもつに至ったのは、新潟県史編纂事業のため、幕府最大の直轄領であった佐渡の260に及ぶ村の資料調査を行ったことがきっかけらしい。
 国に残る支配者寄りの資料ではなく、村々に残る庶民寄りの資料――地域の実態を細やかに示し、文面から庶民の肉声が聴こえてくるような――を丁寧に読み込むことで、これまで多くの歴史学者が語ってきたのとは相貌を異にする江戸時代像、百姓像が浮かび上がって来たのである。
 天意でなく民意を汲んだ歴史学ってところか。
 百姓の訴状により勘定奉行がクビになった例とか、百姓一揆が幕府の理不尽で一方的な契約違反に対する民衆運動であったとか、著者が資料と共に示す様々な事例を読むと、これまで自分が江戸時代の百姓を「愚かで無力で情動に生きる子供のような存在」として捉えてきた安直さに気づかされる。
 たしかに一口に江戸時代といっても、初期と中期と後期とでは変化があって当然であるし、地域差も無視できないだろう。 

 網野史学や田中史学が、中世史や近世史の研究フィールドにどういう影響を及ぼし、現在どういう評価を得ているか、歴史の教科書にどう反映されてきたかは知るところでない。
 が、歴史教科書の内容が、時の権力の都合のいいように捻じ曲げられてしまう実態は、ドキュメンタリー映画『教育と愛国』で明らかである。
 「誰が、どのよう意図をもって、どんな資料をもとに、歴史を語っているか」
 歴史リテラシー能力を高める必要性を感じた。





おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損