IMG_20220614_142025

2021年河出書房新社

 ソルティにとって忍者と言ったら、「サスケ、カムイ、赤影、花のピュンピュン丸、風車の弥七、服部半蔵、忍者ハットリくん」あたりであるが、ウィキ「忍者」の項をみると「忍者をテーマにした代表的な漫画は『NARUTO ーナルトー』」とあり、ちょっとビックリしてしまった。
 もはや『伊賀野カバ丸』ですらないのか・・・・。

 在野の民俗研究家・筒井によると、 
黒覆面に黒装束、背中に柄の長い直刀を負って、蜘蛛のように城の石垣を登ったり、「草木も眠る丑三つどき」に闇の中を風のように駆け抜けていく姿など虚像にすぎず、現実にはまず存在しなかったろう。

 漫画や映画やテレビ時代劇に描かれる忍者像は架空のものであり、歴史上(主に戦国時代)に暗躍した忍者の実像とはかけ離れているらしい。
 そもそも「忍者」という言葉ができたのも大正か昭和初期で、それまでは「忍び」「草」「悪党」「スッパ」などと呼ばれていた。(スッパが「すっぱ抜き」の語源とのこと。忍者の如く極秘情報を抜きとる、ということか)

 では、実在した忍びはどんな働きをしていたのか。

 忍びの仕事は大きく分けて、正規軍とは別に奇襲・遊撃隊を担当することと、いわゆる諜報活動の二つであったらしい。前者は、やや集団的で、ことの性質上、外部の目を完全に遮断することが難しいのに対して、後者はしばしば個別に行われ、かかわった当事者以外には何があったのかわからず、記録に残されることもまずない。

 わかりやすく現代風に言えば、「傭兵とスパイ」といったことになろう。
 いずれにせよ、忍びに関する学問的研究はこれまでほとんどされてこなかったようで、結果的に虚実入り混じった忍者像が独り歩きしているのである。
 2017年三重大学に国際忍者研究センターが設立され、2018年同大学に日本初の専門科目「忍者・忍術学」が導入されたというから、今後の調査研究によって忍びの実像が露わになっていくことが期待される。

IMG_20220614_143127

 そういうわけで、本書の内容も忍びについて総論的に語るのでなく、各論となっているのは止むをえまい。
 信頼性の高い資料から史実と認められる戦国時代の4つの忍びのケースが取り上げられている。
 章題をそのまま用いると、
  
第1章 北条氏配下の忍び軍団「風間一党」のこと
 もちろんこれは『鎌倉殿の13人』に出てくる執権・北条氏ではなく、戦国大名で関東を一時支配した後北条氏(小田原北条氏)のこと。北条氏が傭兵として要所に配していたならず者部隊が、のちに風魔小太郎伝説で有名となった風間一党である。

第2章 一条兼定へ放たれた忍び植田次兵衛のこと
 土佐(高知県)の有力大名であった一条兼定が、新勢力の長宗我部元親の放った刺客・入江左近により瀕死の重傷を負った。入江左近の手伝いをした忍びが猿回しの植田次兵衛である。

第3章 伊賀・甲賀の忍びとは、どんな集団だったか
 忍者の里と言えば伊賀・甲賀であるが、なぜこの二つが忍びで有名になったかを、今も当地に数多くの遺構が残る方形土塁の武家屋敷を手がかりに推理する。

第4章 伊達氏の「黒脛巾(くろはばき)組」と会津・摺上原の合戦
 伊達政宗が使役していたと言われる忍び部隊「黒脛巾組」は本当にあったのか、どんな働きをしていたのか。政宗の晩年に仕えていた小姓・木村右衛門の覚書から探る。
 
 1章と3章が傭兵的な忍び、2章と4章がスパイ的な忍びのケースと言えるだろう。
 いずれのケースも、複数の古い資料の読解と照合をもとに、筒井の柔軟にして洞察力に満ちた推理が組み立てられていく。
 歴史ミステリーの面白さを存分味わえる。

手裏剣

 中でもっとも筒井が関心を抱き、力を注いで取材や資料調査を行っているのは、一条兼定暗殺事件を扱った第2章である。
 本書中の白眉と言える面白さだった。
 
 一条兼定(1543-85)は土佐一条家の4代目当主であるが、名前から推察されるように、一条氏はもともと京都に長く住み代々の天皇を補佐した上級貴族であった。
 関白の地位まで登った一条教房が応仁の乱の戦火を逃れ、土佐の領地に都落ちしたのがことのはじまり。
 息子の房家が土佐一条の初代となり、房冬、房本と、土佐最強の大名家として名を馳せる。
 が、4代目兼定のときに最大の敵・長宗我部元親(1539-99)が現れる。
 土佐一国のみならず四国支配を狙う元親は、兼定を亡きものにしようと謀り、もともと一条家の重臣だった入江左近を手なずけて味方に引き入れる。
 そうとは知らない兼定は、「累代主従の厚恩」を口にして潜伏中の島を訪れた左近をこころよく受け入れて、一献交わしてしまう。
 その夜、暗殺事件は起こったのである。
 入江左近は恩ある主人を裏切った不届きものとして今も評判良ろしくないようである。

 筒井の『猿まわし 被差別の民俗学』(河出書房新社)に詳しいが、猿回しは当時、各地を歩き回りながら牛馬の祈祷を専らとした賤民であった。
 土地勘すぐれ、厩を持つ武家屋敷に入り込みやすく、馬の扱いにも長けた猿回しは、忍びとして恰好の存在だったろう。
 植田次兵衛は、入江左近の指図のもと謀略を助けたのである。
 
 この話が史実らしいのは、高知県の四万十川近くの山中に猿飼という名の村が今もあり、そこの住人たちの姓は最近まですべて植田だった。しかも次のような村の言い伝えが残っている。
「先祖の植田次兵衛は入江左近の家来だった人で、一条の殿様の暗殺に手を貸した。だから、この村の者は中村(現・四万十市中村町)にある一条神社にお参りしない」
 ぬあんて面白いんだ!
 
四万十川
四万十川

 四国遍路で高知県を歩いていた時のこと。
 四万十川を越えてしばらく行ったところで、ソルティの足は止まった。
 遍路道の右手に大文字山が見えたのである!
 伐採されて裸になった山の斜面に、くっきりと「大」の字が浮かび上がっている。
 場所が場所だけに、とうてい観光目的とも地域のお祭りのために作ったとも思えない。
 「なぜこんなところに大文字山が???」
 不思議な思いでシャッターを切った。

大文字山(高知) (2)

 その先に看板があった。

大文字山の送り火
今から五百有余年前、前関白一条教房公は、京都の戦乱をさけて家領の中村に下向され、京に模した町づくりを行った。東山、鴨川、祇園等京都にちなんだ地名をはじめ、町並みも中村御所(現在は一条神社)を中心に碁盤状に整然と整備し、当時の中村は土佐の国府として栄えた。
この大文字山の送り火も、土佐一条家二代目の房家が祖父兼良、父教房の精霊を送るとともに、みやびやかな京都に対する思慕の念から始めたと、この間崎地区では言い伝えられている。現在も旧盆の十六日には、間崎地区の人々の手によって五百年の伝統は受け継がれている。
高知県環境共生課


 土佐一条時代の中村は、「土佐の京都」「小京都」と呼ばれていたという。
 4代目兼定の死をもって土佐一条家は滅亡したが、大文字は500年の時を越えて残り、今も道行く遍路たちを見守っている。





おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損