2009年ちくま新書

 最寄り駅に街宣車がやって来た。
 一時間近く、大音量で檄を飛ばし、「9条廃止」「赤旗せん滅」と繰り返し唱和し、軍歌を流していた。
 現行憲法で保障されている言論・表現の自由があるので、どういった思想であれ、公共の場で喧伝する権利を認めるにやぶさかでないが、鼓膜を破るほどの大音量は騒音公害以外の何物でもない。
 演説場所から300mほど離れている我が家に居て、窓をぴったり閉めてさえ、うるさくて読書に集中できないほどだった。
 すぐそばの家や店の住人たちはたまらなかったろう。
 市民から「嫌われよう、憎まれよう」としているとしか思えない。
 ひょっとしたら、右翼の仮面をかぶった反保守・反自民組織による、逆効果を狙った戦略だったのかもしれない。
 ならば、とても成功したと思う。
 ソルティはその一時間でかなり左傾化した(笑)
 
騒音公害

 池上彰、佐藤優共著『真説 日本左翼史』(講談社現代新書)を皮切りにこのところ左翼に関する本を読み続けてきたが、やはり一方だけ学ぶのは片手落ちであろう。
 右翼についても少し齧ってみようと思った。
 とは言え、ここ数十年の右翼の思想家兼活動家としてソルティが名前を挙げられるのは、「在日特権を許さない市民の会」初代会長の桜井誠と、「一水会」現顧問の鈴木邦夫くらいである。前者は到底許容できる範囲にはいない。
 鈴木邦夫と一水会の名は『朝まで生テレビ』で右翼特集が組まれた90年代初頭から知っており、「これまでの右翼とはちょっと違う人」という印象は持っていた。
 何がどう違うかはよく分からなかったけれど、凝り固まった思想を持つ問答無用タイプの右翼とは違い、まともに議論できる理知の人というイメージをもった。
 本書の目次をざっと見たところ、戦前・戦後の代表的な右翼の大物についても紹介して、その生き様や言説を記している。
 右翼デビュー本としては手頃なのではないかと思った。
 
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 街宣車、軍歌、特攻服、旭日旗、ヤクザ(暴力団)、威嚇、改憲推進、天皇制護持、靖国賛美、北方領土問題、反共、三島由紀夫と楯の会、児玉誉士夫、笹川良一、日本会議、在特会、ヘイトスピーチ、権力(自民党、資本家)の番犬、ネトウヨ・・・・・。

 現在、大方の人が持つ右翼イメージはこんなところだろう。
 が、これらの多くは戦後の右翼に特徴的なものであって、戦前の右翼と共通するのは、天皇制護持と反共くらいのようだ。
 街宣車を発明したのは大日本愛国党の赤尾敏(1899-1990)で、昭和30年から平成2年まで続けていた銀座・数寄屋橋での街宣に端を発するらしい。
 社会人になったばかりのソルティは銀座で飲んだり映画を観に行ったりするたびに目の端にとらえていた。あのお爺ちゃんは銀座の日常風景と化していた。
 また、ヤクザと右翼が結託するようになったのは、戦後政財界の黒幕であった児玉誉士夫が、表と裏の世界をつなぐフィクサーとして君臨したことによると言う。

 右翼としての児玉がその実力をいかんなく発揮したのが岸政権下の60年安保のときだった。左翼運動の高揚に「左翼による革命前夜」と危機感を強めた右翼陣営は、政財界だけでなく裏社会にも顔の利く児玉を頼った。そこで児玉は、全国の親分衆に、「(任侠社会での)抗争を廃してお国旗のもとへ結集せよ」と呼びかけた。

 アイゼンハワー米大統領訪日反対運動の高まりに対抗して、警察力の不足を補うために、ヤクザやテキヤの大量動員が計画された。このとき、自民党幹部からの要請で、全国のヤクザに顔が利く大物親分を動かしたのが、児玉だった。

 いわば、ヤクザと右翼が一体化して時の政権に奉公するという動きがこのときから始まったのだ。それも体制側のお墨付きによってだ。

 なるほどそうだったのか・・・と納得がいったが、国家や巨大資本家といった体制側が組合や民衆運動をつぶすためにヤクザを利用すること自体は戦前にもあった。
 夏目雅子主演の映画『鬼龍院花子の生涯』や住井すゑ著『橋のない川』にも、そうした場面が描かれている。白土三平の『カムイ伝』に如実に描かれているように、社会から疎外されている者・忌み嫌われている者を手なずけて自らの番犬として使役することは、昔から権力がよく用いる手なのである。
 児玉はそれを組織的・全国的・徹底的に行ったのであろう。
 かくして、右翼=ヤクザ=自民党・資本家の犬、というイメージが刻印されてしまった。

 戦前の右翼思想家はみな資本主義体制に批判的だった。右翼は決して「資本家の犬」でないと、痛烈に資本家を批判する。そこが戦後の右翼との大きな違いだ。

 右翼は「反共」だというイメージがある。それは間違いないが、正確にいうと、マルクス・レーニン主義、ソ連・中国型の共産主義(体制)に対する「反共」であり「反社会主義」であって、広い意味でとらえると、すべての右翼が経済制度としての社会主義に反対していたわけではない。とくに戦前の右翼はそうだった。

 戦前の右翼運動は「国家革新運動」といわれたように、世直しの思想を持っていた。国家社会主義や農本主義の潮流が右翼のなかに存在した。

 戦前と戦後で右翼はずいぶん変貌したようだ。
 鈴木邦夫と一水会が「新右翼」として話題をさらったのは、まさに児玉誉士夫や笹川良一に代表されるような戦後の堕落した右翼に檄を入れようと、右翼の右翼たる原点に回帰しようとしたからであろう。
 ようやっと、一水会の位置づけが分かった。

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 さて、鈴木はこう書いている。

 もともと右翼は左翼との論争を嫌う。左翼は論理で迫るが、右翼は、天皇論、日本文化論などは日本人として当然の考え、常識と思っているし、それ以上に信仰的な確信をもっている。だから、左翼とははじめから相容れない。論争など無用と思っている。「言挙げ」を嫌うのだ。憂いや憤怒は和歌をつくって表現すればよい。(ゴチックはソルティ付す)


 右翼というものが上記の通りの存在であるなら、なにも左翼だけでなく誰であろうと、右翼と対話することは不可能である。言葉が通じない。
 キリスト教原理主義者やイスラム教原理主義者の例を見るまでもなく、自らの思想を絶対視して決して枉げない相手とは議論するだけ徒労である。
 自分が正しいと思い込んでいるのだから。

 ところが、右翼であるはずの鈴木邦夫は議論上手で、左右問わず、どんな相手とも対談してきた。
 テロを無くすには言論の場を確保すればいい、とさえ主張している。
 言葉の力を、対話の価値を信じているのだ。
 つまりそれは「人が変わる」可能性を信じているってことである。

 最近の鈴木邦夫についてネットで調べて驚いた。
 憲法改正に「待った!」をかけている。
 死刑廃止に賛同している。
 外国人参政権を支持している。
 反韓デモを批判している。
 立憲民主党の応援演説に立っている。
 もはや左の人と言ってもいいくらいではないか!
 なんていう面白い人だ!(新書のプロフィールに自らの住所と電話番号を載せているのも含めて)
 
 右翼は言論の敵か?
 鈴木の“転向?”ぶりから察するに、言論こそが右翼の敵なのだ。
 街宣車のあの切れ間のない大音量の主張攻勢は、他者との対話を阻もうとする必死の抵抗なのだろう。


おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損