1982年原著刊行
1993年増補版刊行
2021年ナチュラルスピリット社(訳者:立花あゆみ)
本書の第1部「旅」は、1989年に『自己喪失の体験』というタイトルで紀伊国屋書店から刊行された。(訳者:雨宮一郎、志賀ミチ)
ソルティはスピリチュアル・ショッピングをしていた30代の頃にそれを読んだ。
元修道女だったキリスト教徒の普通の主婦におきた不思議な体験をつづったもので、読んだ印象としては、当時めるくまーる社より刊行されていた『クリシュナムルティの神秘体験』(中田周作訳)に似ていると思った。
どちらも、自己感覚を喪うとともに訪れた強烈な“経験”を、言葉で表現できるぎりぎりのところで書き記そうとしたもので、文中にしばしば登場する「他在」とか「それ」とか「彼のもの」といった表現が、スピリチュアルなだけなくオカルト的な興味のツボを刺激した。
要は、覚者(悟った人)の身に何が起こるのか、覚者は何を見ているのか、悟りとは何なのか――といったテーマ。
その後、ロバーツは体験談を読んだ周囲の人からのさまざまな問いに答え、自らの体験についてより深い見地から考察を加え、続編となる第2部「さらなる観察」を書いた。
このたびの新訳は、第1部「旅」と第2部「さらなる観察」の合本である。
バーナデット・ロバーツは1931年生まれのアメリカ人。
キリスト教の信仰深い家庭に育ち10代の頃より自然の中で神秘的な体験を重ねる。カルメル会修道女として10年間生活したのちに還俗して結婚、4人の子供の母となる。
その後、40代になって本書で記されている体験に遭遇した。
彼女の体験(=自己喪失の体験)は、2段階に分かれていた。
第1段階は、自己と神との合一です。これは精神的な統合プロセスと並行しており、自己が、自らの静寂点かつ存在の源である神との永続的な合一を達成する過程で起こる、内なる試練や「暗夜」に焦点をあてます。このプロセスで私たちは、自己が失われないことを認識します。そればかりか、最も深奥の新しい自己が姿を現すのです。私たちが、自己も、最も密な神との結びつきも超えてさらに先へと進む準備ができたとき、「自己なき生」とも言うべき新しい生に突入します。第2段階の始まりであることのほかに自己の喪失と、喪失後に残る「それ」に遭遇することによって特徴づけられます。最初の旅(ソルティ注:第1段階)では、自分の本性と神の恩寵のあいだに激しい葛藤がありますが、最終的に「全体性」の中に吸収されるというパワフルな感覚に包まれます。自己エネルギーはもはや、神の永遠の活動とともに働くので、すべては外に向けて表現しなければなりません。同様にして、第二の旅(同:第2段階)でも最後に「合一」を体験しますが、それは最初の合一とは完全に異なるものです。つまりそれは、自己も神も合一さえも越えた「それ」自身の合一なのです。ここでは外に向けて表現するためのいかなるエネルギーも得られず、「すること」という行為の衝動のみが残されています。
簡潔に言うと、第1段階では自己と神とが合一し、第2段階では自己も神も喪失する「無=それ」に突入する。
これを東洋的な悟りの概念に置き換えると、第1段階は「梵我一如」(昨今流行りの「非二元」)に、第2段階は「解脱」に相当するように思われる。
キリスト教徒であるロバーツは、第1段階の「神との合一」までは過去の聖者の書き残した物などを読んで知っていたので驚かなかった。が、第2段階についてはキリスト教の教えや過去の聖典などには類似の現象が含まれず、わずかにキリスト教神秘主義者のマイスター・エックハルトの著作の中に暗示的に見られるだけで、非常に戸惑ったことが記述よりうかがわれる。
仏教でも大乗仏教の修行のゴールは、「極楽浄土に行くこと」「良い転生を得ること」「菩薩や仏と一体化すること」が一般で、禅のみが曖昧ながらも第2段階を目指していると言えよう。
初期仏教(小乗仏教)の流れを汲むテーラワーダ仏教では、4段階の悟りの階梯を説いている。曰く、預流果、一来果、不還果、阿羅漢果。
ただし、サマタ瞑想(集中瞑想)で得られる「梵我一如」のような神秘体験はとりたてて重視されず、ヴィッパサナー瞑想(観察瞑想)によって「無常と無我と苦」の真理をとことん知って自己の幻想性を悟り、最終的には“自己のまったく無い”阿羅漢となって解脱することが勧められる。
いわば、最初から第2段階を目指す旅だ。
いわば、最初から第2段階を目指す旅だ。
ここには、「究極の悟りとはなにか」「修行のゴールはどこにあるか」「悟るための方法はあるのか」という古来からの修行者の悩ましい問いかけ(妄想)が絡んでいる。
キリスト教の環境で生まれ育ったロバーツは骨の髄までクリスチャンなので、本書で使われる用語や概念は必然、キリスト教的なものが多い。神にせよ、キリストにせよ、三位一体にせよ、恩寵や復活や十字架上の試練にせよ・・・・。
その点で、キリスト教に馴染みのないソルティのような読者にしてみれば、単純にして深甚なる悟りの中味は措いといても、よく理解できない部分や共感できない解釈が多い。
せっかく第2段階に至って「自己」や「神」という幻想から脱することができたのに――すなはち初期仏教でいう「阿羅漢」になったのに――なぜまた、神やキリストや聖書の文言を持ち出して、そこに新たな自己流の解釈を吹き込もうとするんだろう?――と不可解に思ったりする。
その点をのぞけば、本書は「自己の正体」について関心をもつ者にとって、非常に示唆するところの多い、幾度でも読み返す価値のある良書である。
ともかく自己がある限り、感情の構造は人生という土壌に根を張った頑強な木に成長し、大人たちの拠り所になります。そしてこの木の難点は、良い実も悪い実も結ぶことであり、実を生みだす力がある限りいずれかの実がなるということです。つまり、科学や文化の功績を生み出す知識が支払う対価には、多大な恩恵を与えてくれるものもありますが、リスクもあるわけで、しかもこの木に実を結ぶもので永遠なるものなどひとつもないのです。要するに自己は、人間が存在するうえでの一時的な側面であって、人は最終的に自己なしで生きることを学ばなければならず、それが今でないにしても、いずれその時がやってくるのです。
おすすめ度 :★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損