1998年講談社
2001年文庫化
単独の航空機によるものとして史上最多の犠牲者を出したJAL(日本航空)123便の墜落事故が起こったのは、今から37年前、1985年8月12日の19時頃だった。
ソルティの場合、実家で20時から日本テレビ『ザ・トップテン』を観ている最中に臨時ニュースが入り、同局アナウンサー小林完吾によって123便の所在不明を知った。
墜落現場が群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(標高1,565メートル、通称御巣鷹の尾根)と判明したのは翌朝のこと。
その時から連日のように凄まじい報道合戦が繰り広げられた。
おそらく多くの日本人もそうだったのではないかと思うが、ソルティの記憶に鮮明に残っているのは、当時中学生だった川上慶子さんがヘリコプターから降ろしたロープに括られて、自衛隊員にうしろから抱きかかえられながら上空に吊り上げられる映像である。
彼女は乗客乗員524人のうち、生き残った4名に入った。
焼け焦げた山肌に散らばる機体の残骸の中から、緑濃き尾根尾根を背景に澄みきった夏の青空へと吸い込まれていく少女の姿に「奇跡」という言葉が浮かんだ人は少なくなかったと思う。
著者の飯塚訓(さとし)は、1937年生まれの元群馬県警察官。
墜落事故後、遺体の身元確認責任者に任命され、遺体が収容された群馬県藤岡市民体育館に通いつめ、127日間に及ぶ検屍および身元確認作業に従事した。
定年退職後の60歳になって、当時の記憶や様々な資料、関係者の証言などをもとに書き上げたのが本書である。
検屍場はたちまちにして、凄惨な場と化した。二階観覧席の左右に配置した12基の照明灯が22ヵ所の検屍場を煌々と照らす中で、200人近くの警察官と150名を越す医師、歯科医師、看護婦たちがあわただしく動きまわる。検屍開始にあたって測定した外気温は35度を超えていた。
- 関係者以外の立ち入りを防ぐため閉め切った体育館(もちろんクーラーはない)
- マスコミの無断撮影を防ぐため黒いカーテンで覆いつくされた窓
- マスクにゴム長スタイルの数百人の作業員
- もうもうと立ち込める線香の煙
- 次々と運ばれてくる蛆のたかった腐乱死体
- 腐臭に引かれてやって来るハエや野良犬
- 洗浄・検屍の済んだ遺体が納められた棺がびっしりと並んだフロア
- 身元確認に訪れた被害者遺族の叫び、号泣、嗚咽、怒り
- 殺到するマスコミ
まさに地獄絵図である。
520人の死者に対して行われた検屍は2065体。
この意味を説明するまでもないだろう。
墜落事故の衝撃の甚大さと被害の凄絶ぶりを物語っている。
ドッジボールのように丸く固まった肉塊の中から耳介(外耳の一部)が発見された。さらに時間をかけてていねいに解凍をつづけながら肉片をはがしていくと、後頭部の頭皮、右側の耳介、腰部に至るまでの背皮が繋がって現れた。
身元確認作業は、520人分の人体図を用意しておいて、血液型や歯の治療記録や指紋や肉体的特徴、あるいは所持品や衣服や家族の面接などによって当人と確定された部位を塗りつぶしていく――という方法が採られた。
つまり、山中の墜落現場で発見され体育館に持ち込まれた肉体の破片が、520人のうちの誰のものかをできる限り特定し、より完全体に近い形で家族に返そうとしたのである。
作業にあたった警察官、検視官、医師、歯科医師、看護婦のプロ意識と精神力の高さには頭が下がる。
もちろん、墜落現場で遺体の回収にあたっていた自衛隊員や医療関係者にも。
一方で、こうしたプロ意識の欠如こそが事故の原因となった点も指摘しなければなるまい。
123便はこの7年前(1975年)に機体尾部を破損する尻もち事故を起こしていたが、その際の修理に不備があったのである。
123便墜落事故をモデルにした山崎豊子の小説『沈まぬ太陽』では、当時の日本航空の腐敗体質と企業倫理の欠如が事故の遠因になったことが暴き出されている。
123便墜落事故をモデルにした山崎豊子の小説『沈まぬ太陽』では、当時の日本航空の腐敗体質と企業倫理の欠如が事故の遠因になったことが暴き出されている。
亡くなった520人の中には、アメリカ人、イギリス人、韓国人など22名の外国人がいた。
彼らの遺族にも当然、訃報や遺体の詳細は告げられたが、日本人の遺族とはまったく異なる反応を示したという。
日本人の遺族は、亡くなった当人の欠けた部位(たとえば右腕、左足)が「見つかるまで探してほしい」というのが多かったのに対し、外国人の遺族の場合、「死んだことは分かったから、遺体はそちらで始末してください」というのがほとんどだった。
「死んでいるということは精神が宿っていないのだから物体と同じではないか。だから、すべてをまとめて火葬にすればいいだけである」という。日本人は来世を信じ、そこでも生きると考える。いや、そうありたいと欲するのかもしれない。したがって、死んだ後も完全な死体が必要になり、死体を生きた人間と同じように扱うことにもなる。
死に対する彼我の宗教観の違いが浮き彫りにされたのである。
事故から37年経った現在はどうだろう?
日本人は当時より一層、西洋風にドライな考え方をするようになっていると思うが、2011年の東日本大震災時の津波被害後の遺族たちの様子から察するに、本質的には変わっていない気がする。
検屍場に使われた藤岡市民体育館はその後取り壊され、藤岡市民ホールに生まれ変わった。
そのお隣の藤岡公民館の敷地内に「日航機墜落事故遭難者遺体安置の場所」の碑が建っている。
おすすめ度 :★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損