2022年岩波書店
この本、面白かった。
著者がいみじくも「あとがき」で書いているように、「文化人類学、民俗学、社会学、地理学などのごった煮」風なのであるが、それがかえって、特定の専門分野の研究書にありがちな硬直と無味乾燥から免れる結果を生み、幅広い読者の楽しめるものに仕上がっている。
日本を含むアジアの歴史の中に多様な「性」が存在してきたことを、令和日本人に知ってもらうためには有益なことである。
そもそも「性」というテーマを語るのに、上記のような専門分野はどれもあまりにも間口も奥行きも狭すぎる。
欧米では「セクソロジー(性科学)」という学問分野が確立していて、セクソロジスト(性科学者)という専門研究者が大学などで、性医学、心理学、生物学、性教育などの研究や講義を実践している。
日本の大学に「セクソロジー」を専門とする学部や専攻があるのかどうか、ソルティは聞いたことがない。(講義レベルではあると思うが)
本書で著者が扱っているテーマは、どちらかと言えば理系的アプローチの「性科学」とは異なり、文系的アプローチによる「性文化現象学」とでも名付けたいような、まったく新しい領域である。
文化人類学、民俗学、歴史学、地理学、社会学、文学、芸術、そして性科学などを横断しまた統合する「性文化現象学」――これこそ、「性」の多様性の長い歴史と伝統を誇る我が日本が、世界に先駆けて開拓・創造できる学問分野なのではなかろうか。
著者の三橋順子は1955年埼玉県生まれの性社会文化史研究者(←という肩書をつくるほかなかったのだろう)
自身トランスジェンダーすなわち「性別越境者」として生きてきた人である。
最近よくマスコミに上るLGBTの「T」である。
「トランスジェンダー」には二つの定義がある。まず、現象・行為としては、社会によって規定されたジェンダー、とりわけ性別表現を越境することである。その場合、越境が男女の間を行ったり来たりする時限的なものか、男性から女性へ、あるいは女性から男性へ行ったきりの永続的なものかは問わない。また、人物として定義する場合は、誕生時に指定された性別とは違う性別で生活している人となる。この場合も、その理由は問わない。
本書では、『日本とアジア 変幻するセクシュアリティ』という副題通り、実にさまざまな時代、さまざまな地域の「通常(多数)とは違った」ジェンダーやセクシュアリティをもつ人びとの様相が語られている。
例を挙げると、
- 平安時代の上流貴族で、自ら耽る同性間セックスの模様を日記(『台記』)に細かく記した藤原頼長(1120-56)
- 薩摩藩(鹿児島県)の青少年組織「兵児二才(へこにせ)」組において、江戸時代から明治初期まで伝わってきた男色の習俗
- 江戸時代の最強力士であった谷風梶之助(1750-95)が実は女性であった、という伝承が残る九州の里
- インドのサード・ジェンダー(第三の性)で現代も存在する「ヒジュラ」の実態
- 清朝時代の中国に存在し「芸能・接待・売春」を専らとした女装の美少年「相公(しゃんこん)」
- 朝鮮半島における移動芸能集団「男寺党(ナムサダン)」における男色文化
江戸時代の陰間とよく似た、芸能と売春を兼ねた女装の少年たちが、インドや中国や朝鮮やタイ(「カトゥーイ」と呼ばれる)にも存在した(している)のである。
日本の場合、陰間以外にも、年長の男が少年を愛でる男色は、中世の僧侶や武士たちの間で広く習慣化していたことは良く知られる。
トランスジェンダーについても、古くは『古事記』に登場するヤマトタケルの女装譚に始まり、各地の祭りにおける女装の伝統、歌舞伎の女形、宝塚の男役、美輪明宏、カルーセル麻紀、はるな愛、マツコ・デラックスに至るまで、日本は性別越境者に「やさしい」文化であり続けた。
著者によると、「夜の街を安全に歩ける」「レストランに入っても追い出されない」「仲間が集まれるお店がある」日本は、韓国や欧米から来た女装者にとって「パラダイス」なのだという。
もちろん、その背景には古来神道や仏教が、同性愛や性別越境を禁じたり否定したりする教えをもたなかったことにある。
欧米のキリスト教圏のトランスジェンダーたちは、アジア地域(日本を含む)のように伝統的・土着的なサード・ジェンダー文化の基盤を受け継ぐことができず、異性装や同性間性愛を禁じるキリスト教の宗教規範と命がけで闘いながら、社会の中で一から自らのポジションを作っていかざるを得なかった。
日本という国の素晴らしさの一つ、日本人のユニークネス、そして欧米文化をはるかに凌駕する“先進性”は、性の多様性に対する受容精神にこそあるのではなかろうか。
俗に言う、大らかな性である。
そう思うと、いったい我々日本人にとっての「保守」とは一体なんなのか、ということに思い及ばざるを得ない。
現在の保守右翼たちが掲げる「美しい国、日本」の偶像は、文明開化から戦前までの日本の姿にある。すなわち、大日本帝国だ。
その「儒教的かつキリスト教(西欧)的」倫理にもとづく性観念・性道徳・家族像が彼らの守りたい価値なのである。(まさにそこが統一教会の教義と合致するところだった!)
だが、それは長い日本の歴史の中のたった80年足らずの期間(1867~1945)のことに過ぎない。
保守右翼が忌み嫌い押し潰そうとする、多様なセクシュアリティやジェンダーのあり方を認めようとする多くの民の声こそ、古来日本の伝統や日本人本来の感性につながる、本当の「保守」なのである。
P.S. 現在放映中のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、三代将軍源実朝(柿澤勇人)は、どうやらゲイという設定で、彼の思い人はいとこで三代執権となった北条泰時(坂口健太郎)らしい。
三橋も書いているように、この時代「男色」という行為はあっても、「男色者あるいは同性愛者(ゲイ)」というセクシュアル・アイデンティティは存在しなかった。
おそらくは、LGBTやBLファンの視聴者をあてこんだ脚本家・三谷幸喜のサービスであろうが、大河ドラマの主要人物に悩めるゲイキャラが当てられるのはじめてではなかろうか。