深大寺の国宝・釈迦如来仏に会いたくて、台風前の曇天を調布に出かけた。
今回は深大寺から1キロほど離れたところにある同じ調布市内の祇園寺にも足を延ばす。
もちろん、深大寺蕎麦に舌鼓を打つことも予定のうち。
国宝・釈迦如来仏の由来は、貴田正子著『深大寺の白鳳仏』に詳しい。
深大寺を開基した満功上人の腹違いの弟である高倉福信が、武蔵から京に上って大出世し、聖武天皇や光明皇后や橘諸兄の愛顧を得てこの見事な仏像を賜わり、故郷で僧侶していた兄に手渡した――というのが、貴田の説であった。
加うるに、最初に仏像が納められたのは深大寺ではなく祇園寺、と貴田は推理する。
その裏には、満功上人の生誕地と言われる祇園寺こそは、高句麗系渡来人であった一族の菩提寺であり、調布地域を開拓した渡来人たちの生活と信仰の中心であり、おそらくは深大寺より先に創られたであろう、という読みがある。
いずれにせよ、ブロンズの滑らかな曲線と上品な輝き、童子のように可愛らしい佇まい、両性具有的なアルカイックな微笑み、実に魅力的な仏像である。
門前の店に飛び込んだ。
胃袋が落ち着いたところで、祇園寺へと向かう。
曇ってはいるが湿度が高く、汗だくになった。
祇園寺もまた深大寺同様、天平年間(729~749)に満功上人よって開かれたお寺である。
もともとは法相宗であったが、平安に入って天台宗に改宗し、現在に至っている。
法相宗から天台宗への移行は、日本仏教史上最大の論争が徳一(法相宗)と最澄(天台宗)の間に繰り広げられたものであることを思うとき、すごい飛躍というか寝返りに映る。
やはり時代の趨勢は無視できなかったのか。
当時の住職(中西悟玄)の息子・中西悟堂の歌碑
悟堂は僧侶にして「日本野鳥の会」の創設者である
当寺で坐禅修行の日々を送ったことが知られる
当寺で坐禅修行の日々を送ったことが知られる
参拝後、本堂前の御影石のテーブルでしばし休む。
整然として静かで、落ち着くお寺である。
天台宗ではあるが、座禅会などもやっているようであった。
1キロ強歩いて、京王線・布田駅に。
本日の探訪はこれにて終了。
――と思いきや、真の探訪はここからであった。
祇園寺でソルティが一番注意を惹かれたのは、山門入ってすぐのところにある石像であった。
祇園寺でソルティが一番注意を惹かれたのは、山門入ってすぐのところにある石像であった。
神社の狛犬のごとく、左右一対で置かれている。
見た目どうも和風ではなく、朝鮮風。
花崗岩の摩滅具合から見て、せいぜい遡っても100年くらい前のものか。
向かって左側
すぐに思い浮かんだのは、朝鮮半島の村落に見られる将軍標(チャングンピョ)。
日本の道祖神みたいなもので、村落の境界を示すとともに外敵を防ぐ魔除けである。
天下大将軍と地下女将軍の男女の将軍が対になっているのが特徴で、埼玉県の西武池袋線・高麗(こま)駅の駅前広場にあるトーテムポールがよく知られる。(県民以外は知らないか)
渡来人ゆかりのお寺だけのことはあるなあと感心したが、やはり当てずっぽうはいけない。
なんの像か確かめたい。
帰宅してからネットで調べてみたら、いろいろな説が載っていた。
- 将軍標説
- 深沙大王説(深大寺開山の謂れとなったインドの神様。『西遊記』の沙悟浄である)
- 七福神の福禄寿説(祇園寺は「調布七福神めぐり」の一つになっている)
- 満功上人の父母を記念するために作った説(これはソルティ推測)
2と3の場合、像が2体あることの説明が必要だろう。
お寺に直接電話して聞いてみようと思ったところ、ある記事を見つけた。
深田晃二という人が書いた『朝鮮石人像を訪ねて(1)』というレポートである。
神戸にある「むくげの会(無窮花会)」の機関誌『むくげ通信230号』(2008年9月発行)に掲載されたもので、当会は1971年1月に設立された「朝鮮の文化・歴史・風俗・言葉を勉強する日本人を中心としたサークル」との由。
このレポートにまさに祇園寺の石像のことが書かれていた。
抜粋する。
寺の住職に由来を尋ねると、「戦前か戦中に付近の山にあった4体をこの寺に運んだと聞いている。2体は市立郷土博物館に移した」とのこと。引き続き2駅先の調布市立郷土博物館に向かった。年配の職員に由来を聞くと、「昭和49年にこの博物館はできた。そのとき祇園寺から2体移設した。調布一体は昔は別荘地帯で銀行や企業の保養所がたくさんあった。祇園寺の住職から以前聞いた話だが、“付近の山”という所は今、北部公民館のある場所で池貝鉄工の別荘があった場所だ。そこで装飾用に置かれていた物であろうとのことだった。」という。4体が2体ずつに別れた事情は判明したが、最初の4体をいかにして入手・所有したのか不明のままである。
近所の別荘の装飾用に用いられていたとは!
深田氏によると、「日本の各地には半島から渡ってきたと思われる石人像や石羊などが数多く見られる。これら朝鮮石造物は王陵や士大夫の陵墓の前の墓守として建てられたもの」だという。
士大夫とは文武官すなわち高級官僚のことである。
石人像には文人像と武人像があり、「故人が文人であった場合は文人石像を、武人であった場合は武人石像を建てる」。
文人像は冠をかぶり笏(しゃく)を手にし、武人像は鎧を着て刀を持っている。
祇園寺の石像は明らかに文人像である。
よもや朝鮮の墓守り人とは思わなかった。
祇園寺の本堂裏手には墓地がある。半島からの渡来人ゆかりのお寺という点も合わせて、二重の意味でふさわしい場所に移設されたわけである。
驚いた。
深田氏の『朝鮮石人像を訪ねて』は、2008年9月から2022年7月まで同機関誌に連載されていた。
全75回である。
驚くべき知的好奇心と研究熱心さ、そして各地を取材するフットワークの軽さ。
ソルティも定年後はかくありたいものである。
記事のアップロードに感謝!
無窮花(むくげ)
同記事を読んで、はっと胸を射抜かれ、考えさせられたことがあった。
なぜ日本にこれほど多くの朝鮮石造物があるのか。
それは日本が朝鮮を占領していた時代(1910~1945)に、日本人が朝鮮半島から工芸品や文化遺産を略奪し持ち帰ったからである。
その数は、少なくとも100,000点に上るという。
たとえば、初代朝鮮総督の寺内正毅は、書画1855枚、書物432冊、2000に及ぶ工芸品を集め日本に持ち帰った。
大英帝国がインドやアフリカの植民地から数々の財宝を力づくで奪い本国に持ち帰ったのとまったく同じことを、大日本帝国もやっていたのである。
当時の富裕層は、そうした略奪品を植民地の役人や民間収集家から買い取り、自らの屋敷や別荘に飾ったのであろう。
胸糞悪い話であるが、これまで考えたことなかった自分にも腹が立った。
日本人の所有者の中には後になって、自らのコレクションを韓国に返還した立派な人もいる。
上記記事によれば、2001年7月には三重県に住む会社経営者である日下守氏が、所有していた約70点の石造物を韓国に返還したことが、米TIME誌に掲載された。
また、日本に現在ある朝鮮石造物のすべてが略奪されたものというわけではなく、正当なルートで購入・譲渡されたものや、戦後インテリアとして新たに国内で造られたものもあるようだ。
文字が刻印されていないこれらの石像は、故郷を離れると由来が分からなくなってしまうのが普通。
おそらく祇園寺の石人像もまたその一つであるが、使命ある持ち場(墓)から連れ去られ、海峡を越え、人から人の手に渡った最後に、ここ祇園寺――古代朝鮮半島からやって来て調布を拓き、数々の技術を日本に伝えた渡来人が眠る寺――に安息の地を得て本来の使命を果たしているわけで、その不思議な因縁は、深大寺の国宝・釈迦牟尼仏の来歴に勝るとも劣らない。






















