2007年吉川弘文館

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 この本を読んでいるときに、「北朝鮮のミサイル、日本上空を通過」のニュースがあった。
 元寇時の鎌倉幕府の対応や庶民の様子と、令和日本の政府の対応や国民の様子とを、自然くらべながら読むことになった。
 もちろん、令和の今のほうが冷静で落ち着いているが、逆に言えば、「危機感が足りない」という向きもあろう。

 本書を手にしたのは、自分なりに国防について考えてみようなどと大それたことを思ったからである。
 そのための出発点としてまず思いついたのが、元寇であった。
 というのも、長い日本の歴史の中で、他国から先制攻撃を受けた唯一のケースと言えるのが元寇だからである。
 このことがまず奇跡的。
 むろん、先史時代には南方騎馬民族による原住民蹂躙と王朝支配があったやもしれない。
 また、太平洋戦争時にはアメリカによる本土攻撃と戦後GHQによる占領があった。
 しかし、大和朝廷が樹立して以降、つまりは天皇制が始まって以降は、他国(多民族)によって道理もなく一方的に攻撃され占領された経験がないのは確かである。
 その意味で、日本は幸運な国だ。

 その最も大きな理由は、四方を海に囲まれた極東という地の利にあろう。
 長いこと日本は、東や南から来る者については心配するに及ばなかった。
 北(蝦夷)と西(中国大陸や朝鮮半島)から来る者だけに心を砕いていればよかった。
 特に、常に日本より高い文明や強い武力を持ち続けた中国との関係は重要であった。
 それゆえ、古代から大和朝廷の王たちは中国に朝貢してきたわけだし、聖徳太子は小野妹子を遣隋使として送り、吉備真備や阿倍仲麻呂、最澄や空海は遣唐使船に乗ったわけである。
 つまりは外交政策である。
 おかげで日本は、中国や朝鮮から一方的に攻められることはなかった。(豊臣秀吉のように朝鮮を一方的に攻めることはあっても)
 では、なぜ元すなわち蒙古はそのバランスを崩して、日本を襲ったのだろうか?

クビライ・ハーン
モンゴル第5皇帝、元朝初代皇帝クビライ・カアン


 本書を読んで、ソルティが元寇について持っていた知識――高校時代に歴史の授業で習い、うろ覚えしていたもの――にいくつか訂正を迫られることになった。

 一つは、蒙古はいきなり通告もなしに攻めてきたわけではなかった。
 皇帝であるクビライ・カアンは、再三にわたり日本に勅使を送り、まず国交を求めてきた。
 ところが、北条時宗を執権とする鎌倉幕府も京都の朝廷もこの要望を繰り返し無下にし、あまつさえ、勅使を殺してしまったのである。
 いつまで待っても返事は来ない、送った使いは殺される。
 クビライ・カアンが切れるのも無理はない。日本が自分をわざと怒らせて、戦にもちかけようとしている、と思うのが自然であろう。
 むろん、幕府も朝廷もみずからの権力を保つことで手一杯、他国と一戦交える気なぞ毛頭なかった。
 なんという悪手を打ったことか!
 
 もう一つは、元寇と言えば神風であるが、神風は2度は吹かなかった。
 台風によって強大な蒙古軍が壊滅状態に追いやられたのは2回目の弘安の役(1281年)の時であって、1回目の文永の役(1274年)の時は圧倒的な軍事力の差を見せつけたあと、蒙古軍はみずから日本を去ったのである。
 つまり、「蒙古軍はこんなに強いぞ!」ということを幕府や朝廷に誇示し脅かすことで、「態度を改めよ」と警告したわけだ。
 ところが、どういうわけか、幕府はその後改めてクビライが送ってきた勅使もまた殺してしまう。
 怒り心頭に発したクビライは、1回目を上回る大量の軍勢を用意し、今度は日本侵略をも視野に入れて再征したのであった。
 どうも元寇の要因の一つは、鎌倉幕府や朝廷の外交政策の失態にあったようだ。
 
 で、なぜこんなお粗末な外交政策しか取れなかったのかを考えたときに、「ああ、そうか!」と思わず膝を叩いたことがある。
 894年に菅原道真の提言により遣唐使が廃止されてからというもの、日本は中国や朝鮮との民間レベルでの貿易はあっても、国と国との正式な外交は持たなかったのである。
 中国との日明貿易、朝鮮との日朝貿易が、国同士の正式な交渉によって開始されたのは、室町幕府3代将軍足利義満のときであり、およそ1400年頃である。
 すなわち、約500年間、日本は外交を持たなかった。
 江戸幕府200年の鎖国政策もビックリの唯我独尊!
 
 執権北条時宗の時でさえ、すでに400年近く外交から離れている。
 しかも、草深い東国の武士たちの集まりである鎌倉幕府に外交の何たるかが分かるべくもない。
 本書には、クビライ・カアンからの国書を目にしたときの幕府と朝廷のパニックぶりが書かれているが、実際「寝耳に水」であったろう。
 江戸末期に浦賀に黒船がやって来た時の幕府や庶民の慌てふためきぶりと見事に重なる。
 
 廷臣が国書の文面に「和睦」を理解しながら、いっぽうでは国書の到来そのものに「異国の賊徒」襲来を感じ驚愕した。この時代の為政者はまったく国際情勢にうとく、また諸国間の接触経験については、なきに均しい状態であった。いわば無知と外交の未経験が国書を前にして、かれらを硬直させてしまったのである。なにしろ、これまで外交の経験がないのであるから、仕方のないことではあるが、外交上の技術にも暗かった。相手に対する対応としては、「返牒をだすか出さぬか」の一点に絞り、あとは国家安泰の祈願や、政治の刷新を目標とする徳政について審議する以外にはなかった。
 
kamikaze

 弘安の役の際に、もし神風が吹かなかったら日本はどうなっていたことやら。
 鉄砲(火薬を詰めた鉄球)や毒矢をもち国家統制された蒙古の大軍勢に対し、わが幕軍ときたら、重い甲冑を身に着けた騎馬戦がメインで、いきなり敵前に飛び出て、「やあやあ我こそは何の何某・・・」と名乗りを上げる、クニよりもイエが大事の郎党どもの集合体であった。
 勝敗は目に見えていた。 
 蒙古軍の東進によって朝廷は滅ぼされ、天皇制は断絶していたかもしれない。
 鎌倉幕府は滅ぼされ、日本はクビライ・カアンとその末裔を王とする国になっていたかもしれない。
 カミカゼ、万歳!

 一方、この神風による奇跡的な勝利によって、その後の日本人が太平洋戦争敗戦まで続く特異な思想を身に着けてしまったことは言うまでもない。

モンゴル軍撃退の「神風」を弾みにして、神国思想は巨大なうねりとなって日本列島の全土を覆いつくした。弓箭兵仗甲冑(きゅうせんへいじょうかっちゅう)の武装武者が夜叉鬼神を覆滅するという信念は、神国思想を媒介にいっそう飛躍し、神霊に加護される「武勇」は対外戦争でも絶対無敵のつよさをもつという武力観をうみだした。これは「神国」の空想のうえに創り出されたから、客観性に乏しく合理性にも欠けていた。そのぶんひとりよがりな武力観にもなりやすかったといえる。

 こののちわが国では、中世・近世・近代を通じて、対外的な危機と緊張を繰り返すたびに、神国思想が頭をもたげるのである。しかも降魔・無敵の武力観をともなって、頭をもたげるのである。

 岸田首相は外交が得意のようである。
 内憂外患のいま、客観性に秀で合理性に富み「迷信を排除した」外交と国防を期待したいのだが、あまりに内(閣)憂が大きすぎる。
 困ったことだ。
 
 



おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損