クラースヌイとはロシア語で「赤」あるいは「美しい」「情熱」を意味する言葉だという。
2018年に発足した20~30代中心のアマオケで、ロシア音楽を中心に演奏している。
発足時にはよもや今のような状況になるとは思わなかっただろう。
ロシアのウクライナ侵攻が始まって、ロシアの国際評価は急降下。
海外で活躍するロシア出身の音楽家たちも肩身の狭い思いをしている。
配布プログラムによれば、当オケの団長さんも、「このままロシア音楽中心のオケでいいものだろうか」と逡巡したそうだ。
しかし、音楽自体に罪はないこと、そして、特定の国家の文化をすべて拒絶してしまうことは、その国家への差別や偏見を生み、果ては惨事を生み出す基となると考え、音楽活動を継続することを決意しました。(第4回定期演奏会プログラムより抜粋)
そのとお~り!
音楽にお国柄はあっても国境はない。
むしろこういう時期だからこそ、人間らしさ・庶民らしさてんこ盛りのロシア音楽の神髄を市民に送り届けて、ロシア国民もまた日本人を含む全世界の人々同様、赤い血潮に満ち、愛する人のために熱い涙をこぼす人間であることを訴えてほしい。
日時 2022年10月29日(土)18:00~
会場 和光市民文化センター・サンアゼリア大ホール
指揮 山上 紘生
曲目
- 伊福部 昭: SF交響ファンタジー 第1番
- G. スヴィリードフ: 組曲《時よ、前進!》
- A. モソロフ: 交響的エピソード《鉄工場》
- D. ショスタコーヴィチ: 交響曲第1番 ヘ短調
和光市民文化センター・サンアゼリア
まずもって選曲のユニークさに惹かれた。
《SF交響ファンタジー第1番》は、伊福部昭が音楽を担当した東宝の『ゴジラ』『キングコング対ゴジラ』『宇宙大戦争』『フランケンシュタイン対地底怪獣』『三大怪獣 地球最大の決戦』『怪獣総進撃』の6本の特撮映画の楽曲から構成されている。
幼い頃からスクリーンやTVモニターを通して聴いたことある曲ばかりだが、生演奏で聴くと迫力が違う!
金色に輝くチューバの巨大な朝顔部分を、キングギドラの首と錯覚した。
映画音楽作家としての伊福部昭の才能はいまさら言うまでもないところだが、ソルティが特に感心したのは、東宝の『日本誕生』である。
古代が舞台の物語において、ヤマト(和風)、熊襲(中国・朝鮮風)、蝦夷(アイヌ風)と場面ごと民族ごとにふさわしい調子で書き分ける器用さには舌を巻いた。
昨今、『砂の器』などシネマコンサートが流行りであるが、デジタルリマスタ―した『日本誕生』も上演候補リストに入れてもよいのではなかろうか。
アマテラスを演じる原節子の類なき美貌や、ヤマトタケルを演じる三船敏郎の名演とともに、伊福部の天才を若い人々に伝導する機会となること間違いなし。
G. スヴィリードフとA. モソロフは初めて耳にする名前。
むろん曲を聴くのも初めて。
組曲《時よ、前進!》は、1965年にソ連で上映された同名のドラマ映画のために作られた。1930年代の製鉄所を舞台とする話だとか。
一方、交響的エピソード《鉄工場》は、1926年に作曲された短い(たった4分)管弦楽曲。タイトル通り、人類初の社会主義国家として誕生したばかりのソ連の製鉄所の風景が描かれている、いわゆる叙景音楽。
製鉄という共通項がある。
ソ連の国旗を見ると分かるが、鎌と槌こそは農民と労働者階級との団結を示し、共産主義の最終的勝利を象徴するシンボルだった。
リズミカルに力強く響きわたる鉄打つ槌の音に、指導者も人民も、古い世界を打ち壊して新しい世界を創造する「希望と力と連帯」とを感じ取ったのだろう。
いまや100年も昔の話である。
《鉄工場》の最後のほうに、舞台上で実際に鉄板を木槌で打ち鳴らす箇所がある。
プログラムには、理想の鉄板を求めて徳島の鉄工所まで旅する団員達のエピソードが載っていた。
苦労の甲斐あって、本番では「希望と力と連帯」を感じさせるイイ音を発していた。
鉄板奏者に限らず、全体的に金管楽器奏者の奮闘が目立った。
最後のショスタコーヴィチ。
衝撃的であった!
ソルティは今年1月に、東京大学音楽部管弦楽団の定期演奏会でショスタコーヴィチを初めて聴いた。
交響曲第5番《革命》、指揮は三石精一であった。
そのときに、スターリン独裁の地獄と化してしまった全体主義国家における、一人の芸術家の苦悩と鬱屈、抑圧され歪んでしまった才能を感じ取った。
滅多にない素晴らしい才能であるのは間違いないけれど、ショスタコーヴィチの本来の感性や生まれもっての個性が不当に歪められ押し潰されている。
そんな印象を受けた。
今回衝撃だったのは、第1番を聴いて、ショスタコーヴィチの本来の感性や個性がいかなるものであるか知らされた気がしたからである。
そう、第1番作曲は1925年。誕生して間もないソ連では革命の英雄レーニンが亡くなり、スターリンが最高指導者に就いたばかり。ショスタコーヴィッチはまだ19歳の学生だった。
スターリンによる大粛清が始まったのは30年代に入ってからなので、この頃はまだ自由に好きな曲が作れたわけである。
1937年に作られた第5番との曲想の違いがとてつもない。
同じ作曲家の手によるものとは思えないほどだ。
なにより驚いたのが、全曲に染み渡っている〈美と官能〉。
まるでワーグナーとシェーンベルクの間に生まれた子供のようではないか。
とりわけ、第3楽章、第4楽章のエロスの波状攻撃ときたら、客席で聴いているこちらのクンダリーニを刺激しまくり、鎖を解かれた気の塊が脊髄を通って脳天に達し、前頭葉からホールの高い天井に向けて白熱する光が放射されている、かのようであった。
こんなエロチックで情熱的な作曲家だったなんて!
まさに、モーツァルト、マーラー、ワーグナー、サン・サーンス、シェーンベルク、モーリス・ラヴェル、R.シュトラウスら“官能派”の正統なる後継ではないか。(スクリャービンは聴いたことがありません、あしからず)
クラシック作曲家の才能とは結局、音を使って「美」を表現する天賦の才のことだと思うが、その意味ではショスタコーヴィチの天賦の才は、ひょっとしてワーグナーやマーラーを超えるものがあったのではなかろうか。
というのも、19歳でこのレベルなのだから。
交響曲第1番は、これから作曲家として世に出ようとする将来有望な若者が、美の女神に捧げる贈り物であると同時に、人生を音楽にかける決意といった感じ。
この才能が、体制によって歪められたり矯正されたり忖度を強いられたりすることなく、そのまま素直に伸びていったら、どんなに凄い(エロい?)作曲家になっていたことだろう。
いや、いまだって十分に凄いわけであるが、進取の気と創造力と愛欲みなぎる人生の数十年間を、無駄に費やしてしまったのではないか?と思うのである。
この美と官能の世界に見事にジャンプインして、巧みに表現した山上紘生には恐れ入った。
初めて接する指揮者であるが、貴公子然とした清潔感あふれる穏やかな風貌の下には、おそらくエロスと情念の渦がうごめいているのだろう。
若いオケとの相性もばっちり。
次回(2023年3月11日)は、ショスタコーヴィチ第7番《レニングラード》をクラースヌイ&目白フィル合同で振るという。
これは聴きに行って事の真偽を確かめなければ。
ホール内にあったハロウィン飾り