2022年言視舎

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 「考えたくないことは考えない、考えなくてもみんなで頑張ればなんとかなる」という、日本に固有の自己欺瞞的な精神構造を「ニッポン・イデオロギー」と定義し、それが日本社会における「空気」の支配と歴史意識の欠落をもたらしていることを検証した『8・15と3・15 戦後史の死角』(2012年NHK出版)を読んで、ソルティは笠井に大いに共鳴した。
 重要な問題ほど議論を後回しに、決定を先送りにし、いざとなるとその場の空気に引っ張られて成り行き決行するニッポン・イデオロギーは、太平洋戦争(8・15)や福島第一原発臨界事故(3・15)だけでなく、このたびの安倍元首相国葬においても遺憾なく発揮されていた。

 上記書で笠井は、このニッポン・イデオロギーを克服するための処方箋として、「原発拒否」と「親鸞」という2つのキーワードを上げていたが、いまひとつピンと来ないところがあった。
 笠井潔という、たいへんな博識で理論家で鋭い世界認識と深い洞察力をもつ人間が、いったい何を目指しているのか、笠井の政治的立ち位置がどこらにあるのか、よく分からなかった。
 若い頃に学生運動をやっていたことは確かだし、彼の手による『オイディプス症候群』などのミステリーを読めば、いまも左の人・反権力の人であるのは間違いないのだが・・・。

 本書を読んで、やっと笠井の目するところが見えてきた。
 ちょっと驚愕した。
 
 21世紀の今日、アメリカと中国で同時革命が勝利し、樹立された新政府が国際ルールを合意してしまえば、世界はそれに従わざるをえないことになる。ただし、その新権力は、なにもしません。なにもしないことに意味がある。大衆蜂起の自己組織化運動を肯定し、容認しているだけでいい。そして大小無数の自己権力体が下から積み上げられて国の規模まで成長し、あるいは国境を越えて横に連合していく過程で、静かに退場していくこと。なにもしないことを「する」、これが樹立された「革命」政権の仕事ならざる仕事です。

 わたしは全共闘時代にルカーチ主義のコミュニストでした。連合赤軍事件や『収容所群島』の体験からポリシェヴィズムは放棄し、マルクス主義批判に転じましたが、ラディカルであることをやめたつもりはありません。だからリベラリストとは立場が違います。リベラルというのは主権国家、主権権力は否定できないものとして前提にしたうえで、そこから自由の領域を少しずつ拡大していこうという立場です。・・・・・(略)
 ラディカリストが求めるのはリベラル、リバティとしての自由ではなくフリーダムです。日本語にしてしまうと同じ「自由」ですが、リバティとフリーダムの違いについてはハンナ・アレントが『革命論』で論じています。どう違うかというと、フリーダムは権力と関係がないのです。権力に関係した、権力からの相対的な自由ではなく、権力とは無関係である自由、いわば絶対的自由です。

 主権国家・主権権力を否定し絶対的自由の獲得を目指すというと、反国家主義・反近代主義の無政府主義者のように思えるが、このへんの正確な定義はソルティにはわからない。
 笠井が最終的に目しているのは「世界国家なき世界社会」というもので、それを実現する手段は、「自治・自律・自己権力を有する無数の集団を下から組織し、近代的な主権国家を解体していくこと」だという。
 う~ん。ソルティの貧困な想像力では今ひとつイメージが結ばれない。
 ともあれ、ここまでラディカルな人だとは思わなかった!
 もはや社会主義者・共産主義者という枠組みにすらはまらない。

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 本書は、『自閉症裁判』『ルポ 認知症ケア最前線』『評伝 島成郎』などの著作をもち、『飢餓陣営』という批評誌を発行している佐藤幹夫の問いかけに対して笠井が答えるという形式をとっている。
 語り言葉なので読みやすい。
 一番の特色は、「戦争論」と冠しているように、近代以降の戦争の特質の変容についての笠井の解釈が呈示されていることである。
 近代以降の戦争を、19世紀の国民戦争(植民地をめぐる列強同士の戦争)⇒20世紀の世界戦争(第1次、第2次世界大戦~冷戦)⇒21世紀の世界内戦(湾岸戦争~アメリカ同時多発テロ~現在)という3つの時代区分でとらえ、それぞれの特徴を世界情勢と絡めてわかりやすく説明している。
  • 国際法というルールの下で“紳士的”に行われた国民戦争は、日露戦争を最後に途絶えたこと。
  • 世界戦争とは、国家間の争いを終結してくれる強い力を持つ“メタ国家”を抽出するための、国家総動員体制による勝ち抜き戦であったこと。
  • その勝者となったアメリカの覇権と核の平和によって一時は「歴史の終わり」が宣言されたものの、2001年9月11日の同時多発テロを契機にアメリカもまた世界国家(世界警察)としての地位から転落したこと。
  • 世界はいまや複数の国家や武装ボランティア組織や民間軍事組織などが入り混じる、大義もルールもない修羅場と化し、いわば世界内戦の状態にあること。
  • また、近代的な福祉国家というものが、国家総動員を旨とする世界戦争の国内体制として必然的に生じたこと。
  • それが世界内戦時代への移行によって「自国ファースト」の新自由主義に取ってかわり、福祉政策の縮小や排外主義や格差社会をもたらしたこと。
  • 秋葉原事件の加藤智大、やまゆり園事件の植松聖など、いわゆる“中流”の没落によって疎外された者の暴力はこうした文脈でとらえることができること。
 まさに戦争こそが人間社会を駆動する力学であり、人間社会の質を定めていく主要モチーフであることがまざまざと解き明かされていく。
 人類はホモ・サピエンスならぬ、ホモ・ミリターレ(homo militare たたかうヒト)なのだ。

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剣の騎士

 次に、こういった世界情勢の変貌のもと、日本はどんな立場に置かれてきたかが概観される。
 鎖国で近代化の遅れた日本は、明治維新後、懸命に近代化をはかり、列強の仲間入りを果たそうとした。
 その成果が、不平等条約の改正と、国民戦争の形式で行われた最後の戦いである日露戦争の勝利であった。
 その後、世界戦争で敗北し、憲法9条と日米安保で縛られる“アメリカの犬”となった。
 アメリカの傘の下、奇跡的な復興を果たし、戦後70年以上続いた平和と経済的発展を謳歌した。
 その歴史上稀なるお花畑的安寧も、バブル崩壊と世界王者アメリカの権威失墜と世界内戦の始まりによって風前の灯火となっている。
 北朝鮮の挑発やロシアのウクライナ侵攻や中国の脅威を前に、天皇と日米安保と平和憲法と沖縄問題の四すくみで動きが取れなくなっている。
 その根本的な原因は、日本の「不徹底な敗戦」にある。必要なのは「本土決戦」のやり直しだ、というのが笠井の説である。

 日本の「68年」世代がドイツの同世代と違ったのは、親たちの思想的不徹底性と退廃がさらに痛切に感じられた点でした。なにしろ本土決戦さえやらないで、天皇を担いで一目散に逃げだしたわけだから。親たちの世代が自己保身から不徹底な「終戦」に逃げ込み、悪かったのは軍閥や戦争指導部で、自分たち一般国民は軍国主義と侵略戦争の被害者だと居直っている。その結果の平和で豊かな戦後民主主義社会には、その根本のところで倫理的な欠落や空白があって、そのため自分たちは生の不全感を抱え込んで苦しんでいる。この空虚感を埋めて本当に生きるためには、親世代が自己保身的に放棄した本土決戦を再開し、最後までやりぬくことだ・・・・・。

 ここまで率直に内面を開示してくれた全共闘世代の発言を見るのは初めてかもしれない。
 むろん、すべての全共闘世代の思いを代弁するものではなかろうが、彼らの親世代に対する不信感の根底にはこのような感情があったのかと、腑に落ちるものがあった。
 しかし、今の時代にやり直せる「本土決戦」とは何なのか。
 それに対する笠井の答えが面白い。
 「移民を無制限に受け入れること」である。

 そうなると市民社会のいたるところで、隣近所レヴェルでも言葉の通じない外国人と否応なく付き合わなければならなくなる。ごみの捨て方を教えるというレヴェルから始めて、さまざまなコミュニケーションの努力が求められることでしょう。・・・(略)・・・国家の統治形態でない本物の民主主義は、さまざまな国や地域から吹き寄せられてきた、難民のような人々が否応なく共同で生活する場所、先住民と移民とが雑居していたニューイングランドや、カリブ海の海賊共同体のような場所で生まれます。(ゴチはソルティ付す)

 つまるところ、笠井の言う「本土決戦」の先にある徹底的な敗戦とは、ニッポン・イデオロギーや天皇制のような“国体”を棄却して、他者との共生から生まれる新たな共同体、本物の民主主義を生み出すためのガラガラポンなのだろう。
 せっかくの無条件降伏によって日本は(ドイツのように)生まれ変わる機会を得たのに、GHQの戦略による中途半端な占領政策=敗戦処理によってその機を逸してしまった、ということだ。
 笠井のこの見解が的を射ているものなのかどうか、ソルティには判断できない。
 広島や長崎への原爆投下ほどの決定的な本土決戦=敗北があるのか、という異論も出てこよう。
 もし、1945年に皇統が絶たれ天皇制が廃止されていたら、何か大きな変容が日本人に訪れていただろうか?(安保闘争以上に、天皇制復活運動が盛り上がったのではあるまいか)

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教皇

 本書の発行は2022年9月30日だが、佐藤による笠井へのインタビューは2020年9月と2022年6月の2回に分かれている。
 ロシアによるウクライナ侵攻という異常事態の発生を機に、2回目のインタビューが持たれた。
 第3章では、世界内戦時代を背景とするロシア×ウクライナ戦争について論じられている。
 ここでも国民戦争⇒世界戦争⇒世界内戦の流れの中でロシア=ソ連がどのような立場にあったかが検証されるとともに、ロシアの核使用の現実性やメディア戦略を組み入れたハイブリッド戦争の様相が語られる。
 アメリカやNATO諸国が唱える「武力による現状変更は許さない」という一見“正義の味方”的言説が、実質的には既得権を持つ国家の権益維持であるがゆえ、既得権を持たぬ国々に対しては何ら説得力を持たず、戦争の抑止にはつながらないというのはもっともなところ。

 本書を手に取ったのは、国防について考えるための『蒙古襲来』『新・国防論』に続く教材第3弾としてであった。
 早くも第3弾において、ソルティは自らの限られた視野と思考の壁を思い知った。
 なぜなら、本書は戦争論は語っていても国防は語っていないからである。
 日本という主権国家をあくまでも守らなければならないというのが国防論であるなら、主権国家の否定すら射程に入れる本書は国防論ではない。
 そう、何のための国防なのかという視点がそもそもソルティには欠けていた。
 領土や国体やニッポン・イデオロギーを守るための防衛なのか。
 それとも市民――行政機構として国の下に置かれる「市」の民という意味ではなく、自己決定権を持った自立した自由な個人という意味での市民――を守るための防衛なのか。
 
 国家を守るための国防軍か、市民を守るための市民軍か。この選択を正面から提起しなければならない。市民軍の本格的な組織化に向けて構想を練る必要があります。個人や家族、自立的な民間組織を基礎的な戦闘単位として位置づけるとか、それを自治体ごとに集約するとか。絶対主義の常備軍以来の中央集権的な軍隊に対する、分散的に自由に運動する小規模な戦闘単位が、必要な場合は集結して戦えるような下からの組織。反復訓練によって、規範を内面化し身体化する規律訓練システムは、軍隊からはじまって監獄や病院から学校や工場にまで広まったわけですが、それとはまったく異なる分子的な戦闘主体を産出しなければならない。
 自衛隊の国軍化に9条平和主義を対置するのではなく、現代的な戦争機械として市民軍の組織化を対置すべきです。

 人民の権力は憲法という紙切れの中にあるのではない、議会という閉じられた特権的な場所にあるわけでもない。人民の権力は街頭から生じる。蜂起する大衆の意志こそが人民主権の実質をなしている。

 笠井潔は本気である。
 青雲の志をかくも失っていない男も珍しい。
 「凄いな」と思う一方、連合赤軍や革マル派の残党と同じく、見果てぬ夢を追い続けている少年革命家(ゆたぼん?)という印象を拭うこともできない。
 笠井の目する世界の実現を信じるには、ソルティはあまりに性善説からほど遠い。
 もっとも、ソルティがたまに夢想するアーサー・C・クラーク的世界平和プロセス――圧倒的な力を持つ宇宙人が飛来し、地上の独裁者や核を一瞬のうちに消滅させ、既存の国家機構や差別的な制度を取っ払って、地上に平和をもたらしてくれる――にくらべれば現実性があるけれど。

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愚者
 



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損