本当は、地元の人が案内してくれる戦跡パッケージツアーに参加したかった。
 が、時期的にちょうど良いのがなかった。
 施設の場所や開設時間や交通機関などはネットで調べて旅程を立てることができるけれど、肝心の沖縄戦にまつわるエピソードや見るべきポイントなどは、やはり詳しい案内がほしいところ。
 どうしようかと思っていたら、近所の図書館で恰好の本を見つけた。
 大島和典著『歩く 見る 考える 沖縄』(2021年高文研発行)。 
 
大島和典『沖縄』

 1936年香川県生まれの大島和典氏は、四国放送で技術や制作の仕事に携わり、退職後に沖縄移住。
 沖縄戦の研究をはじめ、米軍基地建設反対運動の記録を撮りビデオ作品として発表するほか、戦跡を案内するガイドツアーを10年以上(計1000回以上)つとめてきた。  
 その背景には、大島氏の父親が沖縄戦に出兵し、激戦地の南部で戦死したという事情があった。
 当時、父親は33歳、和典氏は小学3年生だった。
 本書は、大島氏が修学旅行生相手にいつも行なってきた、自身の思いや願いのこもった戦跡ガイドを、語り口調そのままに収録したものである。
 取り上げられている場所は、ひめゆりの塔、平和祈念公園、魂魄の塔、米須海岸、嘉数高台、安保の見える丘。
 まさに最適のガイドブック。
 出発前に2回通読し、見るべきポイントを頭に入れた。
 さらに、沖縄に詳しい友人に尋ねたところ、南風原文化センター(沖縄陸軍病院壕)や集団自決のあったチビチリガマ、辺野古座り込みテントなどもすすめられた。
 3日間ですべてを回るのは時間的にも体力的にも無理なので、今回は南部を中心に回ることにした。

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平和祈念公園から臨む島南端の海岸
 
日時 2022年11月24日(木)
天候 曇り一時雨
行程
 8:50 開南バス停(50番バス乗車)
 9:43 具志頭バス停(82番バスに乗り換え)
 9:53 健児の塔入口下車
     健児の塔~平和祈念公園~平和祈念資料館
12:52 平和祈念堂入口バス停(82番バス乗車)
13:00 ひめゆりの塔前下車
     昼食~ひめゆりの塔~ひめゆり平和祈念資料館~魂魄の塔
16:43 ひめゆりの塔前バス停(82番バス乗車)
17:00 糸満バスターミナル(89番バスに乗り換え)
18:00 那覇バスターミナル

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宿最寄りの開南バス停で地元の人に雑じってバス待ち
桃色のマニキュアを塗った女性の爪のようなトックリキワタの花があでやか
アオイ目アオイ科の落葉高木である

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乗り換えのバス待ち
純白の漆喰で塗り固めた赤瓦屋根
沖縄らしい民家の軒先に旅情を感じた

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健児の塔
沖縄戦に召集され命を失った沖縄師範学校の教師と生徒319名が祀られている
1946年3月建立

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ひめゆり女子学徒たち同様、学校のあった中部から南部へ移動し、海岸に追いつめられたあげく、非業の死を遂げた。

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このあたりの地形は険しい
こうした岩陰に隠れて米軍の攻撃から身を守ったのだろう

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平和祈念公園全景
くまなく見るには丸1日は必要とする広さと深さ

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国立沖縄戦没者墓苑
この地域には各県の戦没者慰霊碑が並んでいる
沖縄戦で亡くなった日本兵は、県外出身約6万6千人、県出身約2万8千人
犠牲となった一般県民約9万4千人と推定される(県資料による)

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平和の礎(いしじ)
国籍や敵味方、軍民の区別なく、沖縄戦で亡くなった20万人余の氏名を刻んだ記念碑

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朝鮮半島の人たちの礎
上記の大島氏の本によると、1万3千~4千人の朝鮮人が沖縄戦のため半島から連れて来られ、1万1千~2千人が亡くなったという
だが、ここに刻まれている名前はたった500名弱
その理由は推して知るべし

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平和の火
米軍が最初に上陸した沖縄県座間味村の阿嘉島で採取した火、広島の平和の灯(ともしび)、長崎の誓いの火、3つの火を合わせ、1995年6月23日「平和の礎」除幕式典において点火された。

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平和の火を囲む修学旅行の小学生たち
子供たちが真剣に学んでいるのを見るとホッとする

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ギーザパンダ(慶座集落の崖)
平和の火がある広場から見える風景
米軍はあの崖をスーサイドクリフ(自殺の崖)と呼んだ
日本国民は捕虜になるより自決せよと教え込まれていた

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公園内にあるガジュマルの木
遺体の集積場、焼却場があった場所
今でも土の中から銃弾や砲弾の破片が見つかるという

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沖縄県平和祈念資料館
生き残った人々の証言が圧巻!
広島および長崎の原爆資料館とともに生涯一度は訪れておきたい
とりわけ政治家と国家公務員は!

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資料館の展望室から見る景色
77年前にここに地獄が現出した

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平和への道はない
平和が道である
(マハトマ・ガンジー)

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ひめゆりの塔
大島氏によると、目の前にある「優美堂」のサーターアンダーギーは日本一
たしかに外はカリッと中は栗のようにほっこり、豊かな味わいだった

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看護要員として動員されたひめゆり学徒は、軍とともに中部から南部に移動
教師13名、生徒123名が亡くなった
第三外科壕として当てられたこのガマ(鍾乳洞)は最も死者が多かった

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こちらが最初に作られたひめゆりの塔
娘をここで失った金城和信氏が1946年4月5日に建てた

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ひめゆり平和祈念資料館(1989年6月23日設立)
生き残った元ひめゆり学徒たちの手によって設立された。
沖縄陸軍病院(南風原)における生徒たちの必死の救護活動、第三外科壕の模型、亡くなった生徒や教師たち一人一人の名前や写真、生き残った人々の証言など、戦火を生きた少女たちの姿が見え、声が聴こえてくる。
無事に生き残ったことがこれほど彼女たちを苦しめるとは!

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「戦争はいつも身近にあったのに、本当の戦場の姿を私たちは知らなかった」という元ひめゆり学徒の言葉が突き刺さる。本当の戦場の姿を知らぬままに、「天皇陛下、万歳」の軍国少女に仕立てられていったのだ。(資料館の前庭に咲くベンガルヤハズカズラ)

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資料館の中庭
見聞した事柄について、ゆっくり考えたり、気持ちを整理したり、共感して苦しくなってしまった心を和らげたりするのに恰好の場である

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魂魄(こんぱく)の塔
ひめゆりの塔から1.5kmほどの海岸沿いにある
戦後このあたりの至る所に散乱していた遺骨を集め、その上に建てられた。
3万5千人の遺骨が収められているという

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糸満バスターミナルへ向かうバスの中から
この日、沖縄の海は哀しい色をしていた