宿は国際通りから東に伸びる浮島通りにあった。
 ゆいレールの県庁前駅から歩いて10分、最寄りのバス停には5分、コンビニには2分。
 どこに行くにもまったく便利な位置でありながら、国際通りに面していないので静かだった。
 ホテルや旅館ではなく、普通のマンションの一室(1K、バストイレ付)を宿として提供しているので、滞在中は自宅にいるような気分で、とてもくつろげた。
 もちろん、フロントも食堂もルームサービスもない。
 他の宿泊客と顔を合わせることもなかった。

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清潔で明るくゴロ寝ができる部屋

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火は使えないがキッチンもついている

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ボディソープ、シャンプー、タオル、ドライヤーも完備

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電子レンジ、オーブントースター、冷蔵庫あり

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真綿色の照明と南国風の飾り布が安らぎを演出
また泊まりたい宿である。

 3日目は那覇から北上して宜野湾市に行った。
 米軍の普天間飛行場を間近に見下ろせる嘉数高台(かかずたかだい)に登った。
 そのあと、1992年に米軍に返還させた土地に建てられた佐喜眞美術館に足を運んだ。
 ここには、広島「原爆の図」で有名な丸木位里・俊夫妻の描いた「沖縄戦の図」が展示されているのだ。
 本日は当地に住む知人が車を出してくれた。

日時 2022年11月26日(土)
天候 曇り一時雨
行程
 8:00 国際通り
 8:20 嘉数高台
10:00 佐喜眞美術館
12:30 国際通り

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早朝の国際通り
怪しい空模様

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国際通りのPCR検査センター
ソルティは地元市役所発行の4回目ワクチン接種証明書を持参して沖縄入りした。

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嘉数高台公園
標高84.3メートル、東西に伸びる約1キロの丘である。
沖縄戦の最初にして最大の激戦地となった。
1945年4月1日に中部西海岸から上陸した米軍がここを抜くのに16日間を要した。
戦死傷者は日本軍 64,000人、アメリカ軍 24,000人、住民の半数以上が亡くなった。

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弾痕のある塀
民家の豚小屋の外にあった塀と言われる。

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日本軍の陣地壕
高台の南斜面にある

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壕の中
米軍の空爆が終わると、ここから飛び出て北側から攻める敵に反撃した。

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地球デザインの展望塔

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北側に広がる普天間飛行場
宜野湾市の1/4を占める

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オスプレイ
展望台で出会った地元のジョガーマンによれば、飛行場の騒音はとくに基地の南側と北側で喧しいのだそう。(彼は東側に住んでいる)

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北西に残波岬を望む
1945年4月1日、米軍はこの湾一帯から上陸を開始した。
岬の突端に集団自決のあった読谷村のチビチリガマがある。

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南に前田高地を望む
嘉数が米軍に占拠された後、次の激戦地となった。
これもジョガーマンからの情報だが、2016年にメル・ギブソン監督が撮った『ハクソー・リッジ』という映画は、前田高地の戦いを描いている。
Hacksaw Ridge とは「弓鋸の崖」の意。 

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北東に沖縄国際大学を望む(右上端のオレンジの建物群)
2004年8月13日に米軍の大型ヘリコプターが構内に墜落、爆発、炎上した。
幸い夏休みだったため、学生はいなかった。

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日本軍の作ったトーチカ(入口側)
トーチカ(tochka)はロシア語で「城塞」の意。
コンクリートや鉄板で作った陣地のこと。
高台の北斜面にある。

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トーチカの内部
結構広い
くり抜いた穴から銃を出して敵を狙った。

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北側(敵面)の風貌
弾痕が無数にある

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京都の塔
ここで亡くなった62師団の多くの兵士が京都出身であったことから、1964年に建てられた。
「再び戦争の悲しみが繰り返されることのないよう、また併せて沖縄と京都とを結ぶ文化と友好の絆がますますかためられるよう、この塔に切なる願いをよせるものである」(碑文より)

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北斜面にあった亀甲墓
原型をほとんど失っている。
頑丈で中の広い亀甲墓はトーチカや防空壕として利用された。

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普天間飛行場返還後の跡地利用計画が進んでいる。
飛行場の地下には、観光資源となる大きな鍾乳洞が3,4ヵ所もあるという。
嘉数高台は沖縄の過去、現在、未来を見ることのできる場所なのだ。

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嘉数高台公園でゲートボールに興じる高齢者たち

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佐喜眞美術館
嘉数高台から基地の東端に沿って約4km北上したところ(上原)にある。
1994年11月23日開館。
館長である佐喜眞道夫のコレクションを中心に展示している。
戦争で息子と孫を失ったケーテ・コルヴィッツというドイツの女性画家と、20代を軍隊で過ごした浜田知明(1917-2018)という日本の版画家の作品が展示されていた。
丸木夫妻の「沖縄戦の図」は言葉で表現しようがない。
沖縄に行ったら絶対に見ておくべき!

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美術館のすぐ隣は普天間基地すなわち治外法権区域

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緑の多い美しい美術館である
庭には亀甲墓(1740年ごろ建立)や県立盲学校生徒たちのユニークな作品などが展示されている。

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美術館の屋上から東シナ海を望む
びっくりしたのだが、基地の周囲は深い森に囲まれていた。

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ソルティが訪れた時、ちょうど埼玉から修学旅行生が来ていた。
これ幸いと教員の振りして、「沖縄戦の図」を前に、生徒たちと一緒に佐喜眞館長の話を聴かせてもらった。曰く、
「投降して捕虜になったら、男は戦車の下敷きにされ、女はなぶりものにされる。そう言って日本軍は住民たちに自決を迫った。なぜそんなことを言ったのか。おそらく、日本軍がまさにそうしたことを大陸で中国人や朝鮮人相手に行っていたからだろう。自分たちがやったことを敵もやると考えたのだ」
ソルティもその可能性を思っていた。
関東大震災時の朝鮮人虐殺の扇動者となった自警団の男たちもまた軍役経験者が多かった。
人は自分の物差しで他人を測るのだ。

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嘉数高台の展望塔の屋根の下にいたちょうどその時、豪雨来襲。
宜野湾市だけに降っているようであった。
10分ほどして雲が行き過ぎると、晴れ間がのぞいた。
いろいろ教えてくれたジョガーマンはびしょぬれになったことだろう。
(沖縄の人は傘を差さないというから慣れっこか)