1970年岩波新書
個人的に2022年一番良かったのは、沖縄戦跡めぐりをしたことだ。
人生の中でもやって良かったことの上位に入る。
なにがそんなに良かったのか説明するのは難しい。
強いて言えば、行かなければならない場所に行き、見聞きしなければならないものを見聞きし、知らなければならないことを知り、祈るべき人たちのために祈ったという、かねてからの気がかりをようやく解決したという安堵感である。
沖縄戦を知り、沖縄の戦跡とくに言語を絶する惨状を呈した南部の海岸を自分の足で歩いたことで、自分もやっと日本の歴史につながったという思いがした。
しかるに、なぜにもっと早く訪れなかったのか。
アラ還になるまで待たずとも、広島原爆ドームや長崎平和祈念公園を訪れた20~30代の暇あれば旅していた頃に、あるいは仕事で沖縄を訪れる機会のあった40代の頃に、沖縄戦跡も行けたじゃないか。
ひめゆりの塔は1989年には開館していた。平和の礎(いしじ)の除幕式は1995年だった。
行こうと思えばもっと早く行けたはずである。
戦争を厭い平和を願う気持ちは人並みにずっとあったのだから・・・。
沖縄戦跡に足が向かなかった理由、沖縄戦や沖縄問題に関心が行かなかった理由はいろいろあるのだが、大きいところではまず自分の問題で手一杯だったというのがある。
「ゲイ」というセクシュアリティと向き合い、仲間と出会い、疎外感を払拭し、内面化されたホモフォビアに気づき、ありのままの自分を受け入れ自己肯定する――それだけで青春のあらかたを費やしたのである。
ソルティは30代初めからHIV/AIDSに関する市民活動に関わってきたが、性や差別の問題と強く結びついて感染者の支援や予防啓発活動に関わることが自らの問題の解決にもつながるからこそ、この問題に携わってこられたのであり、それ以外の人様の困りごとや社会問題にまで関心を抱き何らかの行動をする余裕はなかった。
自分が問題を抱えているのに他人の問題に首を突っ込むのは賢明ではあるまい。
いま一つの理由は、本土に生まれた日本人の一人として、沖縄問題に“うかつに”関わることにより「罪責感」に襲われそうな予感があった。
バブル絶頂期に青春を過ごしたノンポリ新人類らしく、社会人になってもソルティは政治経済や国際問題や近代史にはまったくの門外漢であり続けた。
けれど、さすがに沖縄の米軍基地にまつわる理不尽な事件の数々はニュースなどで耳にしていたし、本土との格差(本土による差別)は知っていた。
けれど、さすがに沖縄の米軍基地にまつわる理不尽な事件の数々はニュースなどで耳にしていたし、本土との格差(本土による差別)は知っていた。
日米安保のもと勝者アメリカから敗者日本に、防衛の名において押しつけられる負担の多くが沖縄に課せられていて、その犠牲の上に本土の人間があぐらをかいているという構図は認識していた。
また、沖縄戦において、すでに背水の陣にあった大日本帝国司令部が、沖縄を本土決戦の時間稼ぎのための「捨て石」「防波堤」とした事実も、そのためにひめゆり学徒隊をはじめとする多くの一般住民が戦争に巻き込まれ、「鉄の暴風」と言われた激しい攻撃に身を晒し、あたら命を失ったことも聞きかじっていた。
それゆえに、本土の人間である自分にとって罪責感なしに沖縄問題に関わること、自己嫌悪せず沖縄戦を学ぶことはあり得ないという予感があったのである。
若い頃のソルティはくだんの事情で自己肯定感が低く、たやすく自己嫌悪や自己否定に陥りやすかったので、さらなる罪責感を上乗せすることで精神的安定を保てなくなる可能性大であった。
そんなわけで、沖縄は実際の距離以上に遠くにあったのである。
本書はノーベル文学賞作家の大江健三郎が、沖縄返還を目前に控えた1969~70年に記したエッセイである。
大江は当時35歳。代表作とされる『個人的な体験』や『万延元年のフットボール』を上梓し、海外作家との交流が増え、名実ともに日本を代表する若手作家の一人であった。
60年日米安保においては石原慎太郎、浅利慶太らと共に反対の声を上げ、65年には『ヒロシマノート』を書き、反戦・反核・反天皇制の反体制の作家として気を吐いていた。
当然本書も、反戦・反米・反基地・反自民の力強いメッセージがあふれていると思うところ。
が、本書を覆いつくす一番のムードは、まさに本土の人・大江健三郎の罪責感であり、自己嫌悪・自己卑下なのである。
僕はやがてこの、日本人らしく醜い、という言葉を、単なる容貌の範囲をはるかにこえて、認識してゆくことになった。そしてそれは沖縄こそが、僕をそのような認識にみちびいたのだと、そしてその認識が、より多くのことどもにかかわって僕を、日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないのか、という無力な嘆きのような、出口なしのつきあたりでの思考へと追いやっているのだと、あらためて僕のいま考える、そもそもの端緒であった。(ゴチはソルティ付す)
この「日本人とはなにか、このような日本人でないところの日本人へと自分をかえることはできないのか」という問いは本書でたびたび繰り返される。
『沖縄ノート』は、1972年の沖縄返還を前に、本土と沖縄とアメリカの三角関係にあって過去の因縁により生じている様々な問題を、本土出身の護憲派の作家が沖縄の人々の立場に身を置いて論じている一種の社会評論ではあるけれど、それ以上に、大江自身が「沖縄を核として、日本人としての自己検証をめざす」と言っているように、日本人論の向きが強い。
それもかなりネガティブな日本人論である。
日本人とはなにか、という問いかけにおいて僕がくりかえし検討したいと考えているところの指標のひとつに、それもおそらくは中心的なものとして、日本人とは、多様性を生きいきと維持する点において有能でない属性をそなえている国民なのではないか、という疑いがあることもまたいわねばならない。・・・・沖縄についていくらか知識を確かにするにしたがって、ますます奥底の償いがたく遠ざかる恐ろしい深淵について思わないではいられなかった。その深淵がなぜ恐ろしいのかといえば、それは、日本人とはこのような人間なのだと、自分自身の疾患からふきあげてくる毒気をもろにかぶってしまうような具合に、眼のくらむ嫌悪感ともども認めざるをえない、凶まがしいものの実質を、内蔵しているところの深淵にほかならないからである。
日本人のエゴイズム、鈍感さ、その場しのぎの展望の欠如、しかもそれらがすけてみえる仮面をつけてなんとか開きなおりうる、日本の「中華思想」的感覚・・・・・。この百年間において、沖縄の人間の事大主義が発揮される現場には、それこそ形影相伴うごとくに日本人がいた。日本人の政治家が、官僚が、商人が、学者がいた。それは沖縄の民衆の事大主義にちょうどみあうだけの、ほかならぬ事大主義的性向の日本人がそこにはいりこんでいたということである。事大主義は、沖縄の人間と日本人とのあいだに張りつめられたロープのごときものですらあったというべきであろう。・・・・・ただ、沖縄の人間が、その事大主義についてはしばしば自覚的であったのに対して、本土の日本人は、沖縄の人間の劣等感を踏み台にすることで、かれ自身の事大主義に頬かぶりする逃げ道をえたのである。
どうだろう?
日本嫌悪、日本人否定のオンパレードである。
ちなみに、事大主義とは、「自分の信念をもたず、支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身を図ろうとする態度・考え方」(小学館『大辞泉』より)のことを言う。
大江健三郎のパーソナリティという面はかなりあると思う。
大江自身、自らの感じ方・考え方の底に、「ペシミスティックに、危機的な深い淵へおちこんでゆこうとする」傾向があることを認めているし、それこそが大江健三郎という文学者のデビュー当時からの特性ではあった。
また、連載中の本エッセイを読んだ本土の友人たちから「被害妄想の徴候」があると指摘されたことも記している。
それはまさに、令和の保守右翼の人たちが口を酸っぱくして批判する「祖国を愛し誇りを持つことできない自虐史観に侵された戦後日本人」の最右翼ならぬ最左翼であろう。
しかるに、本書が刊行された70年当時の日本では、大江のような意識の持ち方は今よりずっと一般的だったはずだ。
それは保守右翼の言う「自虐史観教育」を受けた人が多かったからではなく、それとは逆の「忠心愛国教育」を子供の頃に受けて戦争を体験した人が多くいたからであって(1935年生まれの大江もその一人であろう)、その国家的洗脳こそが一億玉砕という過ちに日本を導いたことを痛みをもって記憶し反省していたからである。
その事情は、戦争を知らない世代、すなわち「自虐史観教育」を受けた世代の比率が増すにしたがって、むしろ日本全体が右傾化しているのを見れば知られよう。
大江健三郎と認識を同じくする日本人は、70年代には全共闘の若者たちを含め日本人の相当数を占めて主流に近いところにいたはずであるが、それが半世紀を経て、どんどん数が減って、どんどん“左”に追いやられていった。
この『沖縄ノート』をソルティはかなり共感をもって読んだし、現在でも十分通用し読まれるべき内容――なぜなら沖縄問題は解決していないのだから――と思ったけれど、保守右翼は論外として、どうだろう、令和日本人(沖縄の若い世代も含めて)の中には、「半世紀も前の終わった話だろう?」あるいは「なんで本土の人間が罪責感を持たなければいけないの?」と、大江の回りくどく難解な文体ともども退ける者が多数いるのではなかろうか。
大江健三郎と座標上の対極に位置する安倍元首相や日本会議の面々、雑誌『Hanada』に寄稿する論者のような「愛国者」たち、辺野古基地建設の反対運動する人々を高見から馬鹿にするひろゆきや高須某などの言動を見聞きするにつけ、そして彼らに誘発されたネトウヨのコメントを目にするにつけ、ここ半世紀の日本人の変容を思わずにはいられない。
少なくとも、ソルティが日本人を誇りに思えない最たる原因は、歴史認識と弱者への想像力を欠いた上記の保守右翼の面々の陋劣な品性にある。
少なくとも、ソルティが日本人を誇りに思えない最たる原因は、歴史認識と弱者への想像力を欠いた上記の保守右翼の面々の陋劣な品性にある。
この前の戦争中のいろいろな出来事や父親の行動と、まったくおなじことを、新世代の日本人が、真の罪責感はなしに、そのままくりかえしてしまいかねない様子に見える時、かれらからにせの罪責感を取除く手続きのみをおこない、逆にかれらの倫理的想像力における真の罪責感の種子の自生をうながす努力をしないこと、それは大規模な国家犯罪へとむかうあやまちの構造を、あらためてひとつずつ積みかさねていることではないのか。沖縄からの限りない異議申立ての声を押しつぶそうと、自分の耳に聞こえないふりをするのみか、それを聞きとりうる耳を育てようとしないこと、それはおなじ国家犯罪への新しい布石ではないのか。
閑話休題。
ソルティが今回沖縄戦跡めぐりをした直接的なきっかけは、ドキュメンタリー『沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』を観たことにある。
で、『沖縄戦』を観るきっかけとなったのは、吉永小百合主演の『ひめゆりの塔』であり、『ひめゆりの塔』を観るきっかけとなったのは、同じ吉永小百合主演の『伊豆の踊子』であった。日活時代の小百合サマの可憐な魅力に参って作品を追っていたのだ。
『伊豆の踊子』を観たいと思ったきっかけは何かと、記憶を過去のブログ記事に探っていったら・・・・これが驚き、夏の秩父の巡礼路で出会った道端の花だったのである。
名も知らぬピンク色の可愛い花である。
のちにサフランモドキという名を知った
この花を見たときに吉永小百合を連想し、夏の秩父の巡礼路が伊豆の天城越えと重なった。
その時には自分が今年中に沖縄戦跡めぐりをするなんて、まったく予想だにしていなかった。(今思えば、「ハイビスカスに似ているなあ」と思ったことも沖縄へつながっていたのかもしれない)
なので、ある種の罪責感混じりの義務感にかられて「行きたい」と意志したわけではなく、こういった因縁によって自然と「行くことになった」のである。
むろん、ロシアによるウクライナ侵攻や7月の参院選で自民党が圧勝したことが、日本の戦争傾斜への危機意識を高め、ソルティの背を押したのは間違いない。(「全国旅行支援」という国家の政策を利用して、沖縄戦跡に行ってやろうじゃないか!という魂胆もあった)
現地ではいろんな物事が自然とうまく運んでいるような感覚があった。
現地ではいろんな物事が自然とうまく運んでいるような感覚があった。
物事は起こる時には起こるべくして起こるものだなあ~と、スピリチュアルな感慨に打たれた一件である。
おすすめ度 : ★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損
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