日時: 2023年1月22日(日)13時30分~
会場: すみだトリフォニーホール 大ホール
曲目: 
  • バッハ(シェーンベルク編曲): 前奏曲とフーガ
  • マーラー: 交響曲第9番
指揮: 森口真司

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錦糸町駅北口(墨田区)

 フライハイト(Freiheit)とはドイツ語で「自由」の意。
 1996年創設時の第1回演奏会の曲目も、このマーラー交響曲第9番だったという。
 団員にとっては深い思い入れのある曲であろう。

 旗揚げ公演にこの曲を選ぶってのもユニークである。
 マーラーが完成させた最後の交響曲となった9番は、やり切れないほど切なく哀しい曲調で、作曲者の指示により「死に絶えるように」終わる。
 そのため、死や別れのイメージで語られることが多い。
 旗揚げにマーラーを選ぶなら、景気よく終わって人気も高い1番や5番あたりが無難であろう。
 そういった固定観念に縛られない姿勢こそが、オケ名の由来かもしれない。

 最初のバッハは、手ならしといったところか。
 独奏も合奏も安定して、よくまとまったオケの力が伺い知れた。
 多彩な色調のシェーンベルク編曲のバッハからマーラーへ、というプログラム構成もうまい。
 たしかに、9番を聴くにはそれなりの心の準備が要る。
 いきなり突き落とされてはかなわない。 

 9番をライブで聴くのは実はこれが初めて。
 やっぱり、家でディスクで聴くのとは違って、一つ一つの音が立ち上がって、ホログラムのごとく客席上の空間に像を結ぶ。
 家で聴くと陰々滅滅とした印象ばかりが先立ち、イメージがなかなか広がらなかった。
 空間もまた、オーケストラの重要な楽器の一つなのだ。

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すみだトリフォニーホール

 今回受けた印象を一言で言えば・・・・母胎回帰。
 第一楽章の初っ端、マーラーにしては素朴で単調にして優しいメロディが歌われる。
 甘美にしてどこか懐かしい。
 それはまるで子守歌のよう。
 遠い記憶の底、揺りかごの中で聞いた母の声。

 疾風怒濤の彼の人生を表すような第2楽章・第3楽章を経て、第4楽章はまた、泣く子をあやす声がけのような単調な「ミ・ファミレ♯ミ」の繰り返し。
 その途中、第一楽章冒頭の子守歌が顔を出す。
 子守歌で始まり、子守歌で終わる。
 その円環が、母胎回帰という印象につながったのである。
 
 この第9番は第1番『巨人』の焼き直し、というかバージョンアップ決定版という感じがする。
 幼少⇒青春⇒「明」と「暗」の綱引き・・・・と展開するマーラーの個人史だ。
 若かりし第1番ではまだ未来が見えなかったがゆえに、無理なこじつけ感のある「明」で仕上げた第4楽章であったが、今ははっきりした正体を現しているがゆえに、自然な流れで第1~第3楽章から引き取られている。
 それはやはり「明」ではなかった。
 と言って「暗」でもない。
 すべてを受け入れる優しい「哀」である。
 つまり、第1番でマーラー自身が提出した問いの答えが、第9番だったのではないか。

 放っておくと“陰キャ”に陥りがちなマーラーを、“陽キャ”に引き上げてくれるエレメントは、自然(3番、4番)、エロス(5番、6番)、神(2番、8番)の3つであった。
 うち、エロスの源の最たるものが最愛の妻アルマであったのは言うまでもない。
 しかるに、この9番にはもはや、自然も、エロスも、神も、見当たらない。
 9番を完成させたあとに降りかかったアルマの不倫事件を持ち出すまでもなく、いずれのエレメントもマーラーには効かなくなってしまったようである。

 空漠とした心を抱えたマーラーが行きついた先は、母の胸だったのではないか。
 (その解釈から言えば、第8番のラストの『ファウスト』の有名な一節、「永遠にして女性的なるもの、われらを牽きて昇らしむ」は、まさに母性原理以外のなにものでもない)
 
 母胎とは生と死の境である。
 第9番は、「生まれたところに還る旅」なのではあるまいか。
 
 その意味で、まさにフライハイト50回記念にふさわしい選曲。
 長々と続いた拍手も納得至極の好演であった。

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