ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●映画・テレビ

● 鶯の身をさかさまに初音かな TVドラマ: 『横溝正史シリーズ・獄門島』

1977年TBS系列で放送
190分(全4回)
脚本 石松愛弘
監督 斎藤光正

 金田一耕助=古谷一行シリーズの初期作。
 『犬神家の一族』、『悪魔が来りて笛を吹く』、『女王蜂』など、1977~78年放送の作品は、総じて質が高い。
 古谷一行は2005年までテレビで断続的に金田一耕助を演じていたが、それはちょうど昭和から平成のTVドラマの質および視聴者のドラマ鑑賞力の低下を段階的に証明するような具合だった。
 先ごろ亡くなった山本陽子主演の『悪霊島』(1999年放送)なんか、ほんとにひどい出来だった。

 ドラマの質の低下という点では、やはり、映画畑でしっかり先輩について訓練を積んだあと、映画の斜陽と共にTV業界に入ってきたスタッフらが、だんだんと減っていったことによるものだろう。
 70年代制作のものは、演出はもちろん、美術や照明なども非常に凝っていて、それだけでも見ごたえある。
 一方、視聴者の鑑賞力の低下という点では、入場料を払って暗闇に閉じ込められる映画館とは違って、TVは「つまらない」と思ったらすぐにチャンネルを変えられる、席が立てる。
 パソコンゲームの普及で、より多くの刺激とよりスピーディーな展開を求めるようになった視聴者は、昭和のドラマのスピードをかったるく思うようになった。
 放送開始当時、横溝正史シリーズはおどろおどろしいストーリーとショッキングな映像とでお茶の間を凍らせ、次週が待ち遠しかったものだが、今観ると、「なんてのんびりした展開なんだ」と驚くばかりである。
 孤島での連続殺人事件を描いたこの全4回の『獄門島』でも、最初の殺人が起こるのは、やっと1回目のラスト(開始40分)に至って。
 令和のミステリードラマで、死体シーンが出るまで40分待つなんて、ありえないだろう。 
 のどかな時代、というか視聴者に忍耐力があった。

 45年ぶりに本作を観て、いくつか再発見したことがあった。

1.映画とTVドラマとでは真犯人が違う。
 横溝映画の犯人は、たいてい主演クラスの大女優と決まっている。
 その伝にのっとり、市川崑監督の映画では司葉子が犯人役であった。
 その印象が強いので、てっきり本作では浜木綿子が犯人かと思っていた。
 が、違っていた。
 犯人は女性ではなかった。
 TVドラマのほうが原作に忠実なのであるが、ソルティは原作もTVの筋もすっかり忘れていた。

2.羽生結弦は若い頃の三善英史に似ている。
 三善英史が、殺される3人の娘をかどわかす色男役で出演している。
 ソルティ世代にとって、三善英史と言えば『雨』を歌った演歌歌手(森昌子と同期)、および化粧パフ「シルコット」のCMでの女装姿が印象に強い。〽化粧落として、熱いシャワーを浴びて
 その後、バイセクシュアルであることを公表している。
 羽生がバイセクシュアルだという意味合いではなく(そうであっても何ら問題ないが)、端正な和風の顔立ちや持っている雰囲気がよく似ている。

3.三つの俳句すべてが松尾芭蕉作ではなかった。
 本作は、いわゆる「見立て殺人」物である。
 次の三つの俳句に詠まれている内容にしたがって、殺人が行われていく。

   鶯の 身をさかさまに 初音かな 
   むざんやな 冑の下の きりぎりす
   一つ家に 遊女も寝たり 萩と月 

 最初の犠牲者は梅の木に逆さに吊られた状態で発見され、二番目はお寺の重い鐘の下に閉じ込められ、三番目の遺体の口には萩の花が差してあった。
 この俳句の作者を、ソルティは松尾芭蕉と思い込んでいた。
 が、二番目と三番目の作者はたしかに芭蕉であるが、一番目は芭蕉の弟子の宝井其角(たからいきかく)であった。
 三つの見立て殺人を完成させるまで、金田一耕助が犯人を泳がせておくのはいつものことである(笑)

鶯
きちがいじゃが、仕方ない

 出演者では、磯川警部役に有島一郎、島一番の権力者・嘉右衛門役に滝沢修、巡査役に河原崎長一郎、気狂いの与三松役に仲谷昇など、舞台出身の実力派が揃っている。
 このあたりも、昭和ドラマの質の担保に大いに寄与していた部分。
 狂言回し的な女性を演じる着物姿の浜木綿子が、艶やかにして、色っぽい。
 薄幸のヒロイン早苗を演じているのは、島村佳江という女優。
 あまり聞かない名であるが、TVドラマ中心に活動した後、藤間紫の息子と結婚し、現在3代目藤間紫の母である。
 藤間紫と言えば、一時、浜木綿子から市川猿之助(香川照之の父親)を奪った女性として世間を騒がせたことが記憶によみがえる。
 ここで、浜木綿子と共演しているのは何かの因縁だろうか。 

 リアルタイムで観ていた中学生の頃は全然思わなかったが、今観ると、若い日の古谷一行って、すごく色気がある。

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浜木綿子と古谷一行




おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損








● 驚異のVFX 映画:『バーフバリ』 (S・S・ラージャマウリ監督)

バーフバリ

インド映画
第1部『伝説誕生』2015年、138分
第2部『王の凱旋』2017年、141分

 世界中で大ヒットしたボリウッド発の叙事詩的ヒーロアクション。
 古代インドの大国マヒシュマティ王国を舞台に、王位をめぐる2人の王子バーフバリ(父)とバラーラデーヴァの従兄弟同士の対決、および、奸計によって国王の座をもぎとったバラーラディーヴァを倒し、捕えられた母を救うバーフバリ(息子)の激動の半生を、最新のVFX技術を駆使して描く。
 父バーフバリ―と息子バーフバリ―を、南インド出身の俳優プラバース(1979年生まれ)が一人二役で演じている。

 『RRR』同様、とにかく頭をからっぽにして楽しめる映画。
 国籍や民族や地域や時代を超えて、人類の遺伝子に書き込まれた普遍的な「物語」の強さというものを、ひしひしと感じさせられる。
 それが神話の力というものなのだろう。
 人の心の奥に潜む情動を揺り動かすので、悪用されると恐ろしい。

 観ていて思ったが、インド映画にもっとも近いのはイタリアオペラではなかろうか。
 わかりやすいご都合主義の物語。
 歌と音楽(と踊り)の目覚ましい効果。
 色彩の氾濫。
 愛と闘い。
 エロティックなくすぐり。
 エグいまでの残虐性。
 自由を求める大衆の声。
 インド映画に会ってイタオペにないものの筆頭は、野性の動物たちの愛敬だろう。
 
 そうそう、普遍的な「物語」と言ったが、本作で特徴的なのは、女性の登場人物たちの強さである。
 バーフバリ親子に関わる女性たち(マヒシュマティ王国の女王シヴァガミ、父バーフバリの妃デーヴァセーナ、息子バーフバリ―の恋人アヴァンティカ)が、そろって男勝りの自立した女性として描かれている。
 このあたりは、フェミニズムに目覚めた現代の女性観客を意識してのことと思われる。
 一方、男勝りの鼻っ柱の強い女性の固い鎧を脱がして一人の恋する“おんな”にしてしまう、バーフバリ―の男性的魅力をさらに爆上げする手段、とも解される。
 暑苦しいヒゲ面と筋肉隆々の中年男子こそ、インドのイケメン。
 日本では都会のジムに行かないとお目にかかれない。(結構の確率でゲイだったりする)  





おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 芹明香という奇跡 映画:『㊙ 色情めす市場』(田中登監督)

1974年日活
83分、パートカラー
R指定

 神保町シアターに初めて行った。
 小学館運営とは知らなかった。
 昭和の古い映画を中心にプログラムを組んでいる劇場で、2/23まで『女優魂――忘れられない「この1本」』という特集をやっていた。
 その一本が、芹明香(せりめいか)主演の本作であった。

 本作は2022年に、第78回ベネチア国際映画祭クラシック部門に選出された。
 もともと日活ロマンポルノの最高傑作と評判高かったが、国際的にも認められたわけだ。
 ソルティは未見であった。
 ピンク映画を神保町で観る、しかも小学館運営の劇場で――という、なかなかクールなふるまいに心は踊った。
 平日夕方5時からの鑑賞は、99席のうち半分くらい埋まった。
 女性観客もチラホラ見受けられた。
 
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神保町シアター

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地下にホールがある
 
 とにかく凄い映画である。
 凄い、としか言いようがない。 
 フィクションには違いないけれど、70年代の大阪釜ヶ崎のドヤ街の様子がありのままに写し撮られている。
 行政上、「あいりん地区」と呼ばれる一画だ。
 日雇い労働者、路上生活者、暴力団、娼婦、女衒、ポン引き、アル中、ラリ中、指名手配された犯罪者など、社会の底辺をさまよう者たちが、戦後日本の高度経済成長から零れ落ちるように、その日暮らしの生活をしている。
 この街で娼婦をしている若い女性トメ(芹明香)が主人公である。

 同じ釜ヶ崎を舞台とする大島渚の『太陽の墓場』(1960)や、戦後の佐世保を舞台とする熊井啓の『地の群れ』(1970)同様の、戦後日本の暗部をえぐった作品と言うことができる。
 だが、本作はあくまでポルノ映画。
 しっかりと男性観客を興奮させるに十分な濡れ場が用意され、内容が重すぎて“OTOKO”がタたなくならない程度に、脚本も演出も演技も適度にコミカライズされている。
 社会派映画としてマジで撮ったら、そりゃあもう、縮むわ。
 ・・・・・。 

 どうもセクハラチックな物言いになってしまうが、実際のところ、本作は令和コンプライアンス的には、とんでもない描写の連続である。
 テレビで放映できないのは当然だが、今現在、本作をそのままの脚本でリメイクして再映画化するのは、まず無理だろう。
 知的障害者の性と自死、姉と弟の近親相姦、母から娘に乗り換えようとするヤクザのヒモ、動物虐待・・・・・。
 成人指定のポルノ映画とは言え、「よくまあ、こういう映画が撮れたなあ」と、昭和時代の表現の自由の寛容度には驚くほかない。
 バリバリのフェミニストやガチガチの人権派やコチコチの性風俗反対派が、本作を観たら、怒り心頭に発するのではなかろうか。
 ソルティは自分を、平均的な男に比べれば「人権派のフェミニスト」と思っているけれど、こと芸術表現に関しては、「実際に“ある”ものを描くぶんには、表現規制するのはよくない」と思っている。
 たとえば、実際に“ある”差別を覆い隠して、きれいごとを描くのは、偽善であるばかりか、かえって当事者の声や存在を無視する非・人権的行為と思う。
 どんな人間にも、どんな社会にも、暗部はある。
 本作で描き出されているのは、暗部を逞しく生きる、ありのままの人間の「生」であり、「性」なのだ。
 それを否認するところから生まれるのは、宗教的独善だけであろう。

 芹明香演じる娼婦トメは、どこか投げやりで人生すてているふうでいて、“自分”をちゃんともっている。他人の手づるで客を斡旋されることを拒否し、一匹狼となって、街頭で客を引く。
 「セックスは商売」と割り切るドライな一面を持つ一方、菩薩のようなやさしさを覗かせる。
 とりたてて美人でも肉感的でも演技派でもベッドシーンに長けているわけでもない女優だが、あとにも先にも、この一作でその名が長く記憶されるに十分なインパクトを放つ。
 共演者も素晴らしい。
 『四畳半襖の裏張り』でも魅せた宮下順子のただならぬエロスの奔流、トメの母親・よねを演じる花柳幻舟のケツまくった熱演、トメの知的障害の弟・実夫(さねお)を演じる夢村四郎の凄絶な演技、ヤクザのヒモを演じる高橋明のふてぶてしいリアリティ。
 フィルムから放射されるボルテージの高さは、はんぱない。
 
 知的障害の弟・実夫は、姉トメとの初体験を成し遂げた後、雄鶏を連れて通天閣のてっぺんまで上り、その後、首を吊る。
 その深みが分からないうちは、人権派を自称するには早かろう。
 
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神保町と言えば『ボンディ』のカレー

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ビーフカレー(1600円)
雨夜にかかわらず、客がひっきりなしだった





おすすめ度 :★★★★★

★★★★★ 
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★★    いい退屈しのぎになった
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● ミーハーの語源 映画:『雪之丞変化』(市川崑監督)

1963年大映
109分

 これは市川崑の最高傑作と言っていい。
 ソルティ的には、「市川崑の一本を選べ」と言われたら、市川雷蔵主演の『炎上』、『破戒』でもなく、岸恵子主演の『おとうと』、『黒い十人の女』でもなく、大ヒットした『ビルマの竪琴』、『犬神家の一族』、『細雪』でもなく、本作を推したい。(『東京オリンピック』は未見)
 舶来好きスタイリッシュな映像作家としての市川の個性が爆発している。

 時代劇らしからぬ西洋芝居的な構図や演出。
 「これぞ市川印!」の細かく素早いカット割り。(一人二役の演出に役立っているのが面白い)
 光と闇の画家カラヴァッジョを思わせるライティングの冴え。
 細君である和田夏十の脚本とセリフの見事さ。
 もちろん、長谷川一夫300本記念映画に参集した大映スターの錚々たる顔触れ。
 山本富士子、若尾文子、市川雷蔵、勝新太郎、船越英二、八代目市川中車、二代目中村鴈治郎。
 完成度の高さは、大映の映画史上10本の指に入るのではあるまいか。
 市川崑の評価がこれ一作で爆上がりした。

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 本作は、長谷川にとって2度目の『雪之丞変化』。
 衣笠貞之助監督による1度目は、女形出身の美形役者だった20代後半の長谷川(当時の芸名は林長二郎)を押しも押されもせぬトップスターに押し上げた。
 つまり、当たり役である。
 「ミーハー」の語源は、当時の女性が熱狂した二つのもの――「つまめ」と「やし」――の頭文字をとったというのだから、人気のほどが知られよう。
 本作公開後、長谷川はあと一作出演して映画界を去った。
 つまり、花道を飾った作品と言える。
 
 舞台と違ってアップやバストショットの多い映画では、55歳という年齢はさすがに隠しようないものの、観ているうちにそれを忘れさせるのは、ほかでもない、長谷川の芸の高さ。 
 所作の美しさ、眼差しの艶っぽさ、立ち居振る舞いの優雅さ、セリフ回しの気品。
 しかも、女形と盗賊の一人二役を完璧に演じ分けている。(途中までソルティは別々の役者だと思っていた。市川の演出が上手すぎ!)
 女形役者では美輪明宏といい勝負である。(美輪サマも1970年にテレビで雪之丞を演じている。なんとか観たいものだ)
 雷さまも、勝新も、山本富士子も、若尾文子も、脇に回してしまう貫禄とオーラは、不世出の天才と言うにふさわしい。
 ただ一人、存在感で拮抗しているのは、憎々しい敵役に扮する二代目鴈治郎
 やっぱり、この人も天下の名優だ。

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雪之丞と闇太郎の二役を演じる長谷川一夫
おそらく中央の柱でフィルムをつないでいるのだろう
 
 それにつけても、不思議なるは日本の性愛文化
 長谷川一夫演じる雪之丞と若尾文子演じるお初は、恋い慕う間柄になる。
 女を演じる男(女形)と、その女形に恋する女。
 二人のラブシーンは、形の上ではレズビアンとしか見えない。
 外国人とくに西洋人がこれを理解できるのだろうか?
 こうした倒錯をなんてことなく楽しめる日本人って、すごいんじゃない?
 
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思いを打ち明けるお初(若尾文子)と雪之丞(長谷川一夫)



 
おすすめ度 :★★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 映画:『奇蹟の人 ホセ・アリゴー』(グスタボ・フェルナンデス監督)

2022年ブラジル
108分

 1955~1971年にかけて、200万人を無償で治療したブラジルの心霊手術師ホセ・アリゴーを描いたノンフィクションドラマ。
 原題は、Predestinado, Arigo e o Espirito do Dr. Fritz 「運命、アリゴーとフリッツ医師の霊」

ホセアリゴー

 この医師の奇跡については、子供の頃(70年代)にテレビの超能力特集番組でよく観たものである。
 つのだじろうの漫画『うしろの百太郎』にも紹介されていた記憶があるし、手塚治虫『ブラックジャック』でも名前こそ挙げられていないが、心霊手術を行う外国人とBJとの対決がテーマになっていた回があった。(令和の人権感覚からすると、「ちょっとどうかな?」と思われるBJのセリフがある)

 そんなわけで、懐古趣味とオカルト的興味からの軽い気持ちでレンタルしたのであったが、開けてビックリ、とてもいい映画であった。
 それこそ、扇情的なバラエティ番組風のもの、ブラジル制作らしいベタで騒々しいタッチを予期していた。
 しかるに、真正面から人間を描いた正統派ドラマで、役者たちの演技も、脚本も、映像も、演出も、質が高い。
 とくに、アリゴーを演じる男優と、その妻役の女優の演技が、ともに主演賞レベルで見ごたえある。
 誇張や粉飾をせず、事実に忠実で丁寧なつくりも好感持てる。
 オカルト次元を超えてスピリチュアルに達していた。
 久しぶりに映画を観て、泣いた。

十字架

 子供の頃は、アリゴーの起こした奇跡にばかり目が向き、最大の関心事はその真偽にあった。奇跡は本物なのか、それとも何らかのトリックがあるのかってところに・・・。
 いま大人の目で、それが起こった当時のブラジルの騒ぎやアリゴーの周囲の人間模様を見るにつけ、「大人社会の難しさを子供の頃はなにも分かっていなかったなあ」、とつくづく思う。
 アリゴーを敵視する地元のカトリック神父や正規の医師たちの苛立ちや恐れ。
 国中から患者が押し寄せるアリゴーの集客力に目をつけて、営業に訪れる製薬会社の思惑。
 村の平凡な雑貨店の親父からカリスマ心霊治療師に変わってしまったアリゴーに、振り回されると同時に放っておかれる妻や子供たちのストレスや寂しさ。
 裁判に訴えられたアリゴーを裁く判事や、有罪となったアリゴーを収監する刑務官の心の動揺。
 なにより――平凡な生活を望んでいたのに、ドイツ人の医師フリッツの霊に憑依されて心霊治療師として生きざるを得なかったアリゴーの苦悩と、運命の受容。
 一つの奇跡のうしろに、こんなにもドラマがあることに思い及ばなかった。
(それにつけても、ネット時代の現在だったら、それこそ世界中を引っくり返すような騒ぎになるだろう)
 
 アリゴーは自らの死を予言していて、そのとおりに亡くなった。
 53歳だった。

 心霊手術の不思議より、運命の不可思議を味わうべき映画である。

 
 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 映画:『フィア・インク』(ビンセント・マシャーレ監督)

2016年アメリカ
91分

 原題は、Fear, Inc.
 B級ドタバタホラー。
 
 感想を書くのすら億劫に思われる駄作。
 『デスパレートな妻たち』に、メアリー・アリスの怪しい夫役で出ていたマーク・モーゼスが出演しているのが拾い物というくらい。
 しかし、こんな映画に出なくても・・・。

 ああ、90分。
 瞑想修行に使えたのに・・・・

羅漢山1




おすすめ度 :

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● オペラライブDVD: グルベローヴァの『椿姫』

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ジュゼッペ・ヴェルディ作曲『ラ・トラヴィアータ』

収録日 1992年12月
場所  フェニーチェ劇場(ヴェネツィア)
キャスト
  • ヴィオレッタ・ヴァレリー: エディタ・グルベローヴァ(ソプラノ)
  • アルフレード・ジェルモン: ニール・シコフ(テノール)
  • ジョルジョ・ジェルモン: ジョルジョ・ザンカナーロ(バリトン)
指揮:カルロ・リッツィ
演出:ピエル・ルイジ・ピッツィ
オケ&合唱:フェニーチェ座管弦楽団&合唱団

 グルベローヴァ46歳のみぎりのライブである。
 あえて年齢を書いたのは、ほかでもない。
 最盛期の声が記録されていることを言いたいがためである。
 この2年前にソルティは渋谷オーチャードホールで開かれた彼女のリサイタルに行った。
 人間のものとは思えない銀色の玉のような声と、ITコントロールされているかのような超絶技巧、それでいて人情味あふれる温かくふくよかなタッチは、本作でも十分発揮されている。
 そのうえ、長年の経験で身につけた“声の”演技の見事さ。
 どのフレーズも完璧にドラマ的に、つまり多彩な感情表現で、色付けされている。
 そのため、有名なアリアや重唱だけでなく、レチタティーヴォ(セリフにあたる部分)も聴きどころたっぷりで、最初から最後まで耳を休めるヒマがない。
 もとがコロラトゥーラソプラノという鈴が転がるような声質のため、軽やかなパッセージが要求される第一幕の類いない完成度に比べれば、重くドラマチックな表現が要求される第二幕が「いささか弱いかな」という向きはあるが、ないものねだりというものだろう。
 スポーツカーの敏捷性とダンプカーの重量性を兼ね備えたマリア・カラスの声と比べるのは酷である。(サナダ虫ダイエットしたと噂されたマリア・カラスのモデル体型とも)

 アルフレード役のニール・シコフは、眼鏡をかけ、苦学生のような雰囲気を醸している。
 尻上がりの熱演。
 
 聞き惚れるのは、アルフレードの父親役のジョルジョ・ザンカナーロ(本名と役名が同じ!)
 歌唱も舞台姿も、スタイリッシュで品格あって、カッコいい。

 オペラを聞き始めた若い頃は、どうしたってソプラノ歌手やテノール歌手に注意が向いてしまうものだ。
 ソルティも多分にもれず、グルベローヴァやマリア・カラスはじめ、ジューン・サザランド、モンセラ・カバリエ、キャスリーン・バトル、ナタリー・デッセイなど、ソプラノ歌手を味わうのが一番の目的だった。
 ものの本には、「バリトン歌手を味わえるようになったら、一人前のオペラ鑑賞家」とあったが、その兆候はなかなか見られなかった。
 が、40歳を過ぎた頃からだろうか、バリトンの魅力を知るようになった。
 レナード・ウォレン、エットーレ・バスティアニーニ、ティト・ゴッビあたりが好みである。(しかし、古い世代ばかり)

 考えてみれば、映画やTVドラマにしても、いまは主役よりも脇役に目が行く。
 脇役の中にうまい役者を発見するのが楽しみになった。
 小津安二郎の映画は、セリフも動きも間合いもあらかじめ決められていて、「型にはまった芝居」と悪口を言われることが多いが、脇役の面白さや味わいの深さは比類がない。
 杉村春子、高橋とよ、中村伸郎、加藤大介、高橋貞二、高堂國典、島津雅彦・・・・ 
 「型にはめる」からこそ滲み出てくる個性というものがあるのだろう。

 演出・美術はオーソドックスで、奇を衒ったところがない。
 『椿姫』はやはり、タキシードとドレスで飾られたパリの社交界(文字通り「パリピ」)が舞台でないと映えないよな。

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 naobimによるPixabayからの画像





● 離被架 映画:『HUNGER/ハンガー 静かなる抵抗』(スティーヴ・マックイーン監督)

2008年イギリス
96分

 北アイルランド紛争をテーマとするノンフィクション刑務所ドラマ。
 『SHAME シェイム』、『それでも夜は明ける』のスティーヴ・マックイーン監督の長編デビュー作であり、両作で主役を務めているマイケル・ファスベンダーが、強い意志でもってハンガーストライキをやり遂げる囚人を演じている。
 
 しばらく前まで、リアルタイムなイギリスを舞台にした小説を読んだり映画を観たりすると、決まって北アイルランド問題に触れられていた。
 IRA(アイルランド共和軍)とか、アルスター義勇軍(UVF)とか、血の日曜日事件とか、ロンドン地下鉄の爆弾テロとか、穏やかでない言葉が出現するたびに、「紳士の国とか言われるわりには物騒なところだな」、と思った。
 ソルティは2000年にロンドンを訪れる機会があって、その際にはじめて北アイルランド紛争について調べたのだが、とにかく紛争の歴史が長く、経緯も複雑で、よくわからなかった。(ウィキのない時代である)

 大雑把なところで、アイルランドという島がいろいろな因縁から、南部のカトリック派と北部のプロテスタント派に分かれてしまい、北部は同じプロテスタントである英国の一部となった。
 が、北部にもカトリックの人々がいて、その人たちは英国から離脱してのアイルランド統一を願った。
 そこで、親・英国のプロテスタント派と脱・英国のカトリック派が争うことになり、当然、英国は前者の、南部アイルランドは後者の味方につく・・・・という図式で理解した。

 面白い(といったら語弊があるが)のは、英国という巨大権力にプロテスト(抵抗)しているのがカトリックであるという逆説である。
 考えてみたら、かつてソ連であったウクライナの東部でいま起きていること――親・ロシア派と脱・ロシア派の対立――と構造的によく似ているのかもしれない。
 
google map より
 
 本作は、長きに渡る北アイルランド紛争の中で、1981年に発生した北アイルランドの刑務所内での出来事に焦点を当てている。
 アイルランド統一のために闘うIRAの若者たちが、親・英国側に捕らえられ収容されている。
 そこでは、囚人に対する凄まじい虐待がある一方で、祖国統一を夢見る囚人たちの不屈の精神によるレジスタンスが行われている。
 時の英国首相は、“鉄の女”マーガレット・サッチャーであった。

 カメラは前半、一致団結して抗議行動する囚人たちの様子を映していく。
 「自分たちはテロリストでも罪人でもない。祖国のために闘う政治活動家だ」という誇りから、囚人服の着用を拒み、寒い牢内でも素っ裸に毛布一枚で過ごす男たち。
 待遇の改善を求め、牢内に設置されているトイレを使わず、尿を通路に垂れ流し、便を壁に擦りつける。(これは絵的にキツイ!)
 それに対する刑務所側は、彼らを牢から引きずり出して、殴り、蹴り、突き飛ばし、体中の穴という穴を調べ尽くし、無理やり体を押えつけて髪を切り、浴槽に放り込んでデッキブラシで体を擦り上げる。
 その報復として、牢の外にいるIRAの仲間は、休日の刑務官をつけ狙い、銃で射殺する。
 暴力シーンの連続に、言葉を失う。
 セリフの少ないことが、暴力だけが支配する世界の残酷さを強調する。
 キリストはどこにいるのやら?
 
 囚人たちのリーダーであるボビー(演・マイケル・ファスベンダー)は、ついに、ハンガーストライキを決行する。
 映画の後半は、凄惨な餓死に至るボビーの様子が映し出される。
 やせ衰え、体中にひどい褥瘡(床ずれ)ができ、自力で立つ力を失い、最後は妄想のうちに家族に見守られながら息を引き取る。
 これは実際にあったことで、ボビー・サンズは1981年3月1日から5月5日までの66日間の絶食の果てに亡くなった。27歳だった。(ウィキペディア Bobby Sands より)
 
 介護施設で働いていたとき、自力で体を動かせなくなり、あちこちに褥瘡ができた高齢者をずいぶんと見た。
 褥瘡は、足のかかとや臀部や肩甲骨や肘など、寝具や椅子に触れる骨張ったところにできやすく、栄養失調や皮膚の湿潤により悪化する。
 ひどい場合は、タオルケットを掛けるくらいの圧力でさえ、悪化し、痛みを訴える。
 そんなときは、毛布が直接患部に触れないよう離被架(りひか)というアーチ状の架台を使う。
 映画の中で、骨と皮だけになったボビーが離被架を使っているのを見て、懐かしく思った。

りひか
離被架(りひか)

 刑務所で働く看護師たちは、ボビーの褥瘡に軟膏を塗ったり、柔らかい毛皮の敷物をマットの上に広げたり、離被架を使用したりと、プロに徹して必要なケアを施すのだが、最後まで決して、点滴で栄養補給することはしない。
 あくまで、ハンガーストライキを邪魔せず。たとえ死のうが、受刑者の自己決定を尊重する。
 こうした刑務所の(英国の)姿勢が、虐待の様相とちぐはぐで、なんだかおかしい。
 日本の刑務所だったら、どうするかな?
 
 1998年に英国とアイルランドの間で結ばれたベルファスト合意により、北アイルランド問題は一応の解決を見た。
 時の英国首相は、トニー・ブレアであった。





おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● アルジェント風ホラー 映画:『ポスト・モーテム 遺体写真家トーマス』 (ベルゲンディ・ピーテル監督)

2021年ハンガリー
116分、ハンガリー語、ドイツ語

 ハンガリー産ホラーを観たのは初めてかもしれない。

 一般に、ホラー映画の質は、制作国の宗教や信仰と切り離せない関係にある。
 キリスト教圏なら悪魔が、イスラム教圏ならジン(精霊)が、ユダヤ教圏ならゴーレムが、そして仏教圏なら鬼や幽霊(物の怪)が、ラスボスとなって、物語の中の生者や、映画を鑑賞する者を畏怖させる。
 ハンガリーはキリスト教圏なので、アメリカやイギリスやイタリアのホラー映画と同じく、悪魔こそが準主役にして恐怖の源であり、悪魔との闘いにやぶれた主人公が地獄落ちするのが、考えられる最悪の結末である。
 本作でも、悪魔の使いらしき邪悪な黒い影がハンガリーの寒村を跳梁し、次第に激しさを増すポルターガイストが村人たちを怯えさせ、パニックに襲われた人々は教会に逃げ込み、クライマックスでは主人公があわや地獄落ちかというスリルが用意されている。
 系統としては、『エクソシスト』、『オーメン』、『サスペリア』、『ダーク・アンド・ウィケッド』などのキリスト教圏ホラーに連なる作品である。
 
 Post Mortem とは「死後」の意。

 主人公のトーマスはドイツ人。第一次大戦に従軍し、戦場で爆撃に会い、九死に一生を得た。
 その後、ハンガリーで遺体撮影(Post Mortem Photo)の仕事をしている。遺族から注文を受け、亡くなった人の遺体に死化粧を施し、記念撮影する。
 ある日、仕事場に現れた少女アナに誘われ、アナの住む村を訪れることになる。
 そこには、スペイン風邪などで亡くなった村人たちの死体が、地面が凍っているため土葬されないまま、納屋に保管されていた。
 トーマスは、遺族の依頼で遺体撮影を開始する。
 が、彼が村に来ることを決めたのは、仕事のためだけではなかった。
 戦場で仮死状態にあったトーマスの目の前に天使のごとく現れ、繰り返し彼の名を呼び、この世に戻してくれた少女。それこそがアナだったのである。

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Thanks for your LikesによるPixabayからの画像
 
 本作の奇妙な味わいを作っているのは、悪魔系ホラーという“王道”に重ね合わせて、遺体写真家という、なんとも悪趣味で罰当たりな職業を主人公にふっているからである。
 美しい写真を撮るため、遺体の関節を折り曲げてポーズをとらせるシーンはグロテスクそのもの。
 勝手に被写体にされた死者の霊が憤って、トーマスになんらかの復讐を企てても、仕方ないのではないかと思う。
 現代日本なら「死体損壊」になりかねないと思うところだが、遺族が望んでいる点を踏まえると、これを罰する法はないかもしれない。
 エンバーミングとかエンゼルケアってのもあるし・・・・。

 まもなくトーマスは、人間でない邪悪ななにものかが、村に憑りついていることを知る。
 仲良くなったアナとトーマスは、悪霊を退治するべく、ホームズ&ワトスンのごとくタッグを組んで村人に聞き込み調査を開始し、証拠写真や音声を記録しようとする。
 そうした二人の行動を嘲笑うかのように、身の毛のよだつ現象が頻繁に生じるようになり、やがて村中が大騒ぎとなる。
 悪霊どもを地獄に返す方法を思いついたトーマスは、いままさに死の淵にあるアナの叔母のもとに、村じゅうの死体を集めるよう、村人たちに指図する。

 説得力に欠けたご都合主義のストーリーで、結局、悪霊の目的が何だったのか、最後までわからぬままである。
 説明もなく、謎のまま放置されたエピソードも多々ある。
 たとえば、
  • アナは一体何者なのか? なぜ村人の一部はアナを恐れるのか? アナの持っている二体の人形にはどういった意味があるのか?
  • トーマスの体に戦場で受けた傷跡が残っていないのはなぜか?
  • 一部の村人が頭に袋をかぶっているのはなぜか?
  • クライマックスシーンで、家の外は火事なのに、家の中は水浸しって、どういうこと?
  • アナの叔母さんはなぜトーマスを憎む?
  • 村人たちがトーマスに従順なのはなぜ?
  • ラストシーンで、アナとトーマスは新しい村に行って何をするつもり?
 よくわからない、消化不良を起こす類いの映画なのである。
 こうした回収されない謎の多さは、表面上のストーリーの裏に何らかの意味が隠されていることを匂わせ、観る者をして自分なりの解釈を紡ぎたい誘惑を抱かせしめる。
 ひょっとしたら、この物語全体がハンガリーという国や歴史の寓意になっている?
 ひょっとしたら、トーマスは実際には戦場で死んでいて、ここはすでに「死後」の世界?

 ソルティのひとつの解釈として、トーマスは自らが戦場で死んだことを悟っていなくて、魂の運び役をつとめるアナは、それを気づかせようとしたのでは?――と思った。
 つまり、『シックスセンス』や『アザーズ』や『月下の恋』のパターンである。
  
 この解釈が妥当かどうか確かめるべく、早送りしつつ3度見直したが、無駄に終わった。
 たぶん、謎には最初から答えが用意されていない。
 この監督は、ストーリーの整合性などたいして気にすることなく、撮りたい絵を、撮りたいシーンを、撮りたいように撮っただけ――それが真相に近いと思う。
 たとえば、青年と美少女のタッグに匂うロリコン志向、髪をなびかせ浮遊する少女、袋をかぶった少年、車いすをカタカタ動かす老婆、大理石の屋敷に飾られた遺体、地盤沈下していく民家、遺体撮影という悪趣味・・・・e.t.c.
 つまり、この監督の作風にもっとも近いのは、イタリアB級ホラーの帝王ダリオ・アルジェントではないか。
 ゆめ考え過ぎるべからず。
 
 
  
おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 日日是好日 映画:『パーフェクト・デイズ』(ヴィム・ヴェンダース監督)

2023年日本、ドイツ
124分

 1987年公開の『ベルリン・天使の詩』以来、実に37年ぶりにヴェンダース作品を観た。
 ハリー・ディーン・スタントンとナスターシャ・キンスキー共演で大ヒットした『パリ、テキサス』の砂漠の青空の印象が強いせいか、「ヴェンダース=青色系」というイメージがあるのだが、やはり本作も「青色系」であった。
 ただし、BLUEやINDIGOのような主張の強い「青・藍」ではなく、淡く曖昧な寒色系といった「あお」である。
 この色彩感覚が、ヴェンダース作品が日本人に好まれる理由のひとつではないかと思う。
 「あお」で描き出される東京、とりわけ下町が本作の舞台である。

 都内の公衆トイレの清掃員である平山(演・役所広司)の何気ない日常を切り取った、ただそれだけの映画。
 大きな事件も起こらず、濃い人間ドラマが展開することもなく、ことさら観る者の感情を煽るような仕掛けもない。
 波乱万丈のストーリー、起承転結あるプロットを期待する者は肩透かしを喰らうだろう。
 カメラは、ほぼ一週間、朝から晩まで平山に密着し、平凡な初老の男の日常を映す。
 つまらないと言えば、これほどつまらない話もあるまい。
 だれが60歳をとうに過ぎた独身男、それもトイレ清掃員の日常生活を追いたいと思う?
 
 そういう意味で、観る人によって評価が分かれる作品、観る者を選ぶ映画と言える。
 おおむね、将来ある若者や現役バリバリの中年世代より、一線をリタイアした高齢者のほうが共感しやすいと思うし、いわゆる「勝ち組」よりは「負け組」のほうが胸に迫るものがあると思うし、富や出世や成功など目標達成的な生き方を好む人より、日常の些細な事柄の中に喜びを見つけるのが得意な人のほうが、本作のテーマをより理解しやすいと思う。
 批評家の中条省平が本作をして、「日常生活そのものをロードムーヴィ化している」と評したそうだが、まさにそれに尽きる。
 ソルティ流に言うなら、こうだ。
 
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四国遍路・別格7番金山出石寺付近
 
 本作のミソは、主人公・平山の背景や過去が語られないところにある。

  年はいくつなのか?
  出身はどこなのか?
  どういう人生を歩んできたのか?
  もともと何の仕事をしていたのか?
  結婚したことがあるのか?
  子供はいるのか?
  なぜ、トイレ掃除の仕事をしているのか。
  なぜ、安アパートで一人暮らしなのか。
  なぜ、無口なのか。
  いつから、なぜ、こういう生き方をするようになったのか?
  ・・・・・等々
 
 観る者は、役所広司演じる平山の表情や振る舞いや趣味嗜好を通して、平山の背景や過去を想像、推理するほかない。
 たとえば、
  • 外見からは60代~70代(役所は68歳)だが、姪っ子(妹の娘)がハタチそこそこに見える。若く見つもって50代後半~60代前半? いや、しかし、聴いている音楽は70年代に流行った洋楽ばかりで、しかもカセットテープ世代である。愛用しているカメラもデジタルではなくフィルム式。となると、60代後半?
  • ノーベル文学賞作家のウィリアム・フォークナー、『流れる』『木』の幸田文、『太陽がいっぱい』『11の物語』のパトリシア・ハイスミスを愛読しているからには、かなりのインテリ。大卒の一流企業社員であったのかもしれない。あるいはカメラ関係の仕事か。
  • 疎遠になっている裕福そうな妹がいて、二人の父親は認知症で老人ホームに入っているらしい。平山は、この父親とかなり険悪な関係であったようで、今も会う気はない。子供の頃、虐待を受けていたのか?
  • 結婚して家庭をもったけれど、うまくいかず、離婚したのか。妻子に死なれたのか。あるいはゲイ?(それなら、父親との関係も説明がつく)
  • 整理整頓の習慣が身についているのは、ひょっとして、自衛隊にいた? あるいはムショ暮らしが長かったのか。(前科者ゆえ、出所後に就ける仕事が限られたのかもしれない)
  • 住んでいる地域は映像から見当がつく。スカイツリーの近くで、「電気湯」という名の銭湯や浅草駅や亀戸天神に自転車で通える範囲で、隅田川にも荒川にも出られる。となると、墨田区曳舟だろう。
  • ひとつ確かなことがある。平山は今も「昭和」に住んでいる。

駄菓子屋
 
 主人公の過去をあえて饒舌に語らないでいることは、観る者に想像の余地を与えて、その空白部分に観る者自身の過去を投影させる。(たとえば、上記でソルティが平山をゲイと仮定したように)
 観る者は、平山を通して自らの過去を点検する。と同時に、平山の「現在」と自らの「現在」を自然と比べてしまうことだろう。
 「ああ、自分はトイレ掃除で日銭を稼ぐような、落ちぶれた独り者にならなくて良かった」と思う人もいよう。
 「自分の境遇は平山よりずっと恵まれているのに、なぜ自分は平山のように安穏と生きられないのだろう? 熟睡できないのだろう? 女にモテないのだろう?」と思う人もいよう。
 要は、世間的には「負け組」のカテに放り込まれるであろう平山の「現在」を通して、幸福の意味の問い直しを促すところに、本作のテーマはある。
 
 どんな人も、人生のある瞬間に――たいていは老年になってから――自らの過去を振り返り、そこに後悔や未練や失敗や恥を見る。
 他人から見て、すべてを手に入れ成功した人生(パーフェクト・ライフ)を歩んできたように見えても、当人の中では、「こんなはずじゃなかった」と思っている場合も少なくない。
 そこで過去に囚われて、「あるべきはずだった人生」と「そうはならなかった人生」をくらべて落ち込み、残りの人生を鬱々と過ごす人も多い。
 そのとき、もはや繰り返される日常は、苦痛で退屈で疎ましいものでしかなくなる。
 過去の記憶が、現在の幸福を邪魔する。
 
 正確に覚えていないのだが、『パリ・テキサス』の中で、ハリー・スタントン演じる男は、こんなセリフを吐く。
 「二人にとっては、毎日のちょっとしたことがすべて冒険だった」
 そう、平山にとっても、毎日が冒険と発見の連続なのだ。
 毎朝出がけのBOSSの缶コーヒー、通勤途中のスカイツリーへの挨拶、トイレ掃除を通じて起こる些細な出来事、苗木との出会い、公園のホームレスとの無言の存在確認、見知らぬ誰かとの〇×ゲーム、仕事仲間の恋愛に巻き込まれること、古本屋の店主とのマニアックな会話、家出してきた姪っ子とのサイクリング、妹との再会、飲み屋のママの過去を知ってしまうこと、その元亭主のうちわ話を聞くこと、爽やかな早朝の大気、刻々と色彩を変える夕空、突然の土砂降り、木漏れ日のきらめき、荒川の水面に映るネオンサイン・・・・。
 同じことの繰り返しのように見える毎日毎日の暮らしの中に、さまざまな新しい出会いが生じ、その都度「生」は我々に応答をもとめている。日常の中に潜む美しさや深さは、常に発見されるのを待っている。(ドイツ人監督であるヴェンダースによって撮られたあおい TOKYO が、異国のように美しくエキゾチックに感じられるのは、まさにその一例だ。普段、自らの頭の中に拵えた“東京”に安住している我々は、その美しさに衝撃を受ける)
 
 生きている限り、毎日、いろんなことが起こっている。変化している。
 同じ一日、同じ一時間、同じ瞬間、同じ出会いはあり得ない。
 それこそ諸行無常。
 いいことも、悪いことも、一瞬ののちには去り行く。
 ならば、いっそ諸行無常を楽しんだほうが得であるのは間違いない。
 平山が見つけた幸福の極意は、おそらく、ここにある。
 
灌頂滝の虹
 
 映画のタイトルは、アメリカ出身のミュージシャンであるルイス・アレン・リードが1972年に発表した楽曲から採られている。映画の中でも、平山のお気に入りの一曲として、仕事場へ向かう車の中でカセットデッキで流される。
 ソルティは洋楽に詳しくないので、どういう歌なのか知らないのだが、本作において『パーフェクト・デイズ』が意味するところを、我々日本人がよく見聞きする言葉に置き換えるなら、これだろう。
 
 本作で役所広司は、日本人としては『誰も知らない』の柳楽優弥以来19年ぶりに、カンヌ国際映画祭男優賞を獲得した。
 それも十分納得の名演であるが、凄いところは、鑑賞直後よりも半日後、半日後よりも24時間後、24時間後よりも3日後・・・・というように、時がたつほどに映画の中の「役所=平山」の表情や仕草が眼前に鮮やかに浮かび上がってくるところである。
 それに合わせて、映画の感動もじわじわと心身に広がっていく。むろん、評価もまた。
 こういう、あとから効いてくる、中高年の筋肉痛のような作品は珍しい。

 ほかの出演者では、平山の仕事仲間でいまどきの若者を演じる柄本時生(柄本明の次男坊)、スナックのママ役の石川さゆり、その元亭主の三浦友和、公園のホームレス役の田中泯など、印象に残る演技である。
 平山の行きつけの写真店の主人を演じているのは、アメリカ文学者にしてポール・オ-スターの小説を翻訳している柴田元幸。
 なぜ、この人が???
 
 最後に――。
 平山と姪っ子が自転車で並んで走るシーンは、まず間違いなく、小津安二郎『晩春』へのオマージュだろう。
 ヴェンダースの小津愛が感じられて、うれしかった。
 
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 小津安二郎監督『晩春』の宇佐美淳と原節子
 
 
おすすめ度 :★★★★

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