ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

映画・テレビ

● 時には将校のように 映画:『日本のいちばん長い日』(岡本喜八監督)

1967年東宝
157分、白黒
原作 大宅壮一編・半藤一利著『日本のいちばん長い日』
脚本 橋本忍

 ポツダム宣言受諾間際の大日本帝国首脳部のごたごたを描いた歴史ドラマ。
 とりわけ、終戦を受け入れられない陸軍青年将校たちが起こした8月14日深夜のクーデター未遂、いわゆる宮城事件がメインに描かれる。

 とにかく全編に漲る緊迫感が凄い!
 ドラマというよりドキュメンタリーのようなリアリティと臨場感に満ちていて、出だしから一気に引きずり込まれた。
 157分をまったく長いと感じなかった。
 政府や軍の様々な組織に属する多数の(実在した)人物が登場する錯綜した話を、見事に捌いた橋本忍の脚本。
 戦時下の空気を再現しつつサスペンスを持続させる岡本のダレのない演出。
 そして、東宝35周年記念作に、ここぞと集められた錚々たる役者陣の白熱した芝居。
 実に見ごたえあった。

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陸軍大臣(三船敏郎)と海軍大臣(山村聡)の火花散るやり取り
その奥に鈴木首相役の笠智衆がおっとり構えている
 
 昭和を代表する人気男優総出演とでも言いたいような顔触れに、斜陽化にあったとはいえ、名門東宝の底力を感じた。
 阿南惟幾(陸軍大臣)を演じる三船敏郎を筆頭に、鈴木貫太郎(内閣総理大臣)役の笠智衆、東郷茂徳(外務大臣)役の宮口精二、米内光政(海軍大臣)役の山村聡、昭和天皇役の八代目松本幸四郎、ほかに志村喬、加藤武、戸浦六宏、高橋悦史、黒沢年男、石山健二郎、藤田進、伊藤雄之助、天本英世、二本柳寛、中村伸郎、小林桂樹、児玉清、加東大介、加山雄三、ナレーターに仲代達矢。
 あたかも、黒澤映画と小津映画の男優陣合体のような贅沢さ。
 (一方、セリフのある女優は新珠三千代ただ一人)
 
 中でも、クーデターの首謀者となった畑中健二少佐を演じる黒沢年男の熱演に驚いた。
 ソルティの中で黒沢年男は、昭和45年(1978)に大ヒットした『時には娼婦のように』のふしだらな大人のイメージと、バラエティ番組の髭面にニッカ帽のボケキャライメージしかなく、役者としての実力を知らなかった。
 本作では、主役の三船敏郎を食うほどの鮮烈な印象を刻んでいる。

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上官(高橋悦史)に決起をうながす畑中(黒沢年男)
 
 また、予科練の少年達を扇動して鈴木首相暗殺を謀る狂気の軍人を天本英世が演じている。
 いつものことながら“面しろ怖すぎる”怪演。
 官邸と首相私邸の焼き討ち事件は実際にあったことで、首謀者の佐々木武雄は数年間潜伏して逃げ回ったのち、戦後は大山量士の名で世間に舞い戻り、「亜細亜友の会」を設立した。
 なんか無茶苦茶な人だ。

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佐々木武雄を演じる天本英世の禍々しさ

 ソルティは宮城事件も首相官邸焼き討ち事件もよくは知らなかったのだが、敗戦を受け入れるってのは実に大変なことだったのだ、とくに軍人にとっては身を切られるようなことだったのだ、と改めて思った。
 冷静な目で客観的に見れば、どうしたって本土決戦なんかできる余力はなく、ポツダム宣言を拒否して抵抗し続ければ、第2、第3の広島・長崎が誕生するのは明白だった。
 それこそ今度は皇居や大本営のある東京に落とされたかもしれなかった。
 そしたら国体護持どころの話ではない。
 思うに、暴走した軍人たちの胸のうちにあったのは、「敗北を認めるくらいなら、日本が滅んでもかまわない」だったのではなかろうか。
 ウクライナとロシアの例に見るまでもなく、戦争は始めるより終わらせるほうがずっと難しい。
 泥沼化は必至である。
 
 本作のクレジットでは原作大宅壮一となっているが、大宅はその名を貸しただけで、実際に執筆したのは当時『文藝春秋』編集者だった半藤一利だった。
 2015年に原田眞人監督の手により再映画化(松竹)されたバージョンでは、原作半藤一利と訂正されている。
 こちらも、役所広司、山崎努、本木雅弘、松坂桃李、松山ケンイチなど実力派豪華キャストを揃えている。
 見較べてみたい。



 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 砂上の楼閣 映画:『ドント・ウォーリー・ダーリン』(オリヴィア・ワイルド監督)

2022年アメリカ
122分

 サスペンスホラーSF。
 砂漠の中にあるヴィクトリーという街に、夫ジャックと暮らす専業主婦アリス。
 美しく立派な家、ハンサムで優しい夫、仲の良い女友達、パーティやお稽古事や買い物に追われ・・・・すべてが完璧で絵にかいたような幸福な日々。
 街の男たちは、毎朝高級車に乗って、砂漠の中にある会社に出かけていく。
 そこは社員以外の住民は立ち入り禁止であった。
 夫は、いったいなんの仕事をしているのだろう?
 ヴィクトリー計画とはなんのことか?
 「心配するな、ダーリン」
 ジャックは何も教えてくれない。

 センスのいいスタイリッシュな映像と隠された真相への興味で、最後まで飽きさせない。
 ネタばらしはしないでおくが、ある有名なSF映画のアイデアを彷彿とさせる。
 一見ユートピア、実はディストピアという、ジャ×ーズ帝国のような物語。

 「砂上の楼閣」という言葉は中国の故事から来ているものと思っていたが、そうではなく、聖書の「マタイによる福音書」の中のイエスの次の言葉が由来らしい。

 わたしの言葉を聞いて実践する者は、岩の上に家を建てた賢い男のようなものだ。
 雨が降り、川があふれ、風が吹きつけようとも、その家はびくともしなかった。
 岩の上に建てられたからだ。
 
 わたしの言葉を聞いて実践しない者は、砂の上に家を建てた愚かな男のようなものだ。
 雨が降り、川があふれ、風が吹きつけると、その家は倒れて崩壊した。 

 英語では a house built on sand となる。
 ヴィクトリーという街はまさに砂上の楼閣であった。

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Paul BrennanによるPixabayからの画像

 ここに描かれる幸福像は、夫が働き妻は家事と育児をするという(トランプ元大統領の熱狂的サポーターが求める)50年代アメリカの典型的理想の家庭である。
 その後ウーマンリブが来て、フェミニズムが来て、世の男女関係も夫婦関係も一変したけれど、結局男たちの夢は50年代の「古き良きアメリカ」「パパはなんでも知っている」にあるのだろうか。
 女性監督であるオリヴィア・ワイルドはそう揶揄っているようだ。
 
 
 
おすすめ度 :★★

★★★★★
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 映画:『眼の壁』(大庭秀雄監督)

1958年松竹
95分、白黒

 松本清張の社会派ミステリー。
 原作は読んでない。
 小泉孝太郎主演で昨年TVドラマ化されたらしいが、知らなかった。
 よもや、こういう“フカ~い”話とは思わなかった。

 敬愛していた上司が約束手形詐欺にあい、責任を感じて自害した。
 部下の萩崎(佐田啓二)は、新聞記者の友人(高野真二)の助けを借りて、詐欺グループについて調査を開始する。
 行く先々で現れる謎めいた美女・絵津子(鳳八千代)に翻弄される萩崎。
 次々と殺されていく関係者。
 すべての背景には、政治家や右翼のフィクサーが関わる大がかりな犯罪組織があった。

 上の内容だけなら、よくある裏社会絡みの犯罪ミステリー、いわゆるフィルム・ノワール日本版で済むのだが、本作の一番の押さえどころは、くだんの犯罪組織の出自をそれとなく匂わせている点にある。
 清張も大庭監督も作品中でそれとはっきり名指ししなかった(できなかった)ので、気づかない人は気づかないまま観終わってしまうだろうが、本作の底には被差別部落問題が横たわっている。

 萩崎が調査に訪れた信州の村で、硫酸で肉を溶かす工場が出てくる。
 それが本作に使われるトリックの一つで、犯人一味が死体を硫酸で溶かすことによってその白骨化を速め、死亡推定時刻を混乱させたことがあとで判明する。
 このトリックが当時の検屍レベルにおいて成り立ったかどうか知らない。(榊マリコのいる現在の科捜研ではまず無理だろう)
 が、ここで押さえるべきは、食用に適さない屑肉を様々な方法で溶かして油脂や肉骨粉にし、石鹸や家畜の飼料や肥料をつくる、いわゆるレンダリング(化整)の仕事は、長いこと部落産業の一つとされてきたという点である。
 その村こそ、犯罪組織のボスや絵津子が生まれ育った土地だった。

水平社博物館
水平社博物館(奈良県御所市柏原)
部落の歴史や仕事、解放運動の歴史について学ぶことができる

 周囲から厳しい差別を受け、貧しい暮らしを強いられた部落の青年が、正体を隠して(三国人=朝鮮人のフリをしている)都会に乗り込み、才覚をもって身を立て、表では政治家に影響力をもつ右翼のフィクサーとなり、裏では犯罪組織のボスとなる。
 彼の手下となって働く一団こそ、同じ部落出身の仲間たち。
 自分たちを差別する社会や世間に対する複雑な思いを共にする、強い絆で結ばれた同志である。
 
 ウィキ『眼の壁』には、当時清張の小説が部落解放同盟から「差別を助長する」と批判を受け、いろいろやり合った経緯が書かれている。
 原作についてはわからないが、少なくとも本映画については、「差別を助長する」ものとは思えなかった。
 といって、部落問題がそれと判らぬようにうまく隠してあるからではない。
 社会や世間から蔑視され不当な差別を受け疎外され続けてきた人々が、社会や世間に対して恨みを抱き、グレたり復讐の念をもったりするのは、ある意味、当たり前の話であって、それを否定するのはかえって不自然である。
 自身部落出身を公言している作家の角岡伸彦が『はじめての部落問題』(文藝春秋)に書いているように、『なんらかの背景や理由があるから、人はヤクザになるのであって、それを見ずして「差別反対、暴力はいけません」「部落はけっして怖くありません」などと言うのはきれいごとに過ぎない』。
 現実に「ある」ものを「ない」と糊塗することでは、問題はいつまでたっても解決しない。
 「ある」ものは「ある」と認め、原因を探り対策を講じていくことが肝要である。
 「眼の壁」とはずばりタブーのことだ。
 タブーをタブーのままにして見過ごすことが、どれだけ当事者を苦しめ、社会をいびつにするかは、いまのジャニーズ問題をみれば明らかであろう。

 本作は、ボスの壮絶死と犯罪組織の解体によって事件が解決し、萩崎と絵津子の恋の成就を暗示させるシーンで終わる。
 萩崎は当然、事件捜査の過程で絵津子の出自を知った。
 でもそれは恋の前には関係ない。
 このラストが暗い物語を救っている。
 
 佐田啓二、鳳八千代、新聞記者役の高野真二、部落の老人を演じる左卜全、いずれも好演である。
 
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佐田啓二と鳳八千代 



おすすめ度 :★★★

★★★★★
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● 映画:『福田村事件』(森達也監督)

2023年日本
137分

福田村事件

 本作は関東大震災100年後の9月1日に公開された。
 なかなか評判になっているようで、9月9日(土)池袋シネマロサでの午後の回は8割くらい埋まっていた。
 どんどん全国拡大し、ロングランしてほしい。
 一人でも多くの人に観てほしい。

 100年前の史実である福田村事件をじっくり丁寧に描いている。
 クライマックスとなる香川の行商9人(胎児含めると10人)虐殺に向かって、その数日前から、舞台となった千葉県野田村の様子を描き込んでいく。
 日本に併合された韓国から帰ってきた夫婦、シベリア出兵で戦死した夫の遺骨を持ち帰る寡婦、デモクラシーを唱える村長を馬鹿にして村を仕切る元軍人たち、蔓延する在日朝鮮人への偏見、女子供とジジババが銃後を守る村や家庭の様子、男尊女卑の家制度、皇国史観が横行する大正末期の世相、軍隊や警察(特高)が威張りくさる軍国主義の風潮、国策に順応するマスコミ・・・。
 どのような背景・前提のもとで、この事件が起こったかを十分に観る者に知らしめる。

 その中に、物語の中心となるべき人物が据えられる。
 片や、朝鮮半島から故郷の福田村に帰国してきた男、澤田智一(井浦新)と妻の澤田静子(田中麗奈)。
 この二人は史実には出てこない創作上の人物であり、映画を観る者の視点、つまり日本人ではあるものの大日本帝国臣民の価値観には完全には染まっていない人間として、観客の感情移入しやすいキャラに設定されている。
 うまい仕掛けである。
 観客は、この智一と静子の二人を通して、事件の推移につき合っていくことになる。

 片や、香川から野田村にやって来た薬売りの一行である。
 大人と子供の総勢15人、中に妊娠した女もいる。
 頼りがいのある親方(永山瑛太)のもと仲良く行商しているが、彼らには人に知られてはならない秘密があった。
 被差別部落の民だったのである。

 前半、滔々と(ややぎこちなく)進んできた流れが、9月1日の関東大震災を機に一気に速度を速め、荒々しさを増していく。
 それまで個々に描かれてきた登場人物たち各々の物語――智一と静子の破綻寸前の微妙な夫婦関係、夫を戦争で亡くした寡婦と渡し守の男との人に後ろ指さされる恋、部落差別を背負いながら生きる行商一行の哀しみと逞しき商魂と強い絆、唯々諾々と国策に従って紙面を作ろうとする上司に抗う女性新聞記者の意気地、東京にいる夫が震災時に朝鮮人に殺されたと聞き悲嘆する若妻、戦争に行っている間に妻が自分の父親と関係したと勘繰る夫、等々――のエピソードが、打ち鳴らされる警鐘とともに香取神社の建つ利根川岸でひとつに収斂し、血みどろの殺戮劇に発展する。
 よくできた脚本である。

 しかし、なんといっても本作最大の魅力にして成功のポイントは、役者たちの熱意だろう。
 主役の澤田夫妻を演じる井浦新と田中麗奈、色男の渡し守を演じる東出昌大、行商の親方を演じる永山瑛太、この4人は甲乙つけがたく素晴らしい。
 いずれも、それぞれの役者人生における最高の演技ではないだろうか。
 演技の技術そのものよりも、この作品に対する、それぞれの役に対するひたむきな思いが彼らの演技を支えて、芝居を本物にする磁力が生じている。
 この磁力がスクリーンの密度を高め、観る者を最後まで引っ張っていく。
 とりわけ、不倫問題によって芸能界を締め出された東出の、逆境によって一皮むけた不逞なる存在感が印象的。
 倫理やら道徳やらを持ち出しバッシングに熱を上げる大衆とそれに迎合する無責任なメディアによって村八分にされた東出ほど、この福田村事件の因を成す群集心理の怖さを身をもって知る者はいまい。
 村の女たちの欲求不満のはけ口にされる軽薄な色男という、いかにも世間が東出に抱くイメージを自ら戯画的に演じながら、狂気にかられる村人たちから行商を守ろうと盾になる。
 東出は本作で本物の役者になったと思う。
 森監督が東出を起用してくれたことに感謝したい。
 本作のリアリティを一気に高める柄本明の起用は言うに及ばず。

香取神社
事件の舞台となった野田の香取神社参道

 ソルティは、森監督が本作を撮るにあたって、どこまで部落問題に踏み込むのか興味津々であった。
 部落問題に触れるのがタブーだからというのではない、
 森監督ほどタブーと向き合って、タブーを破ってきた表現者はいない。
 そうではなく、朝鮮人差別や集団パニックだけでも扱うのに大きなテーマなので、そこに部落差別というテーマを絡ませることで、焦点がぼやける可能性を思ったのである。
 福田村の自警団をはじめとする村人たちが香川の行商を殺害したのは、彼らを朝鮮人とみなしたからであって、彼らが部落民だったからではない。村人は行商たちの素性を最後まで知らなかった。
 つまり、そこに部落差別を組み込む必要はない。
 しかし、史実である以上、まったく部落問題に触れないのも不自然だ。
 どう処理するのかな?――と思っていたら、なんと水平社宣言という裏技を出してきた。
 ・・・・・!
 そうだった。
 関東大震災および福田村事件が起きたのは1923年9月。
 それに先立つ一年前の3月3日、京都で全国水平社が結成された。
 史実がどうだったかは知るべくもないが、全国各地を旅して回る香川の行商たちがどこかで水平社宣言を読み、どこかで活動家の講演を耳にし、歓喜に震え、解放運動に目覚めていたとしても、決しておかしな話ではない。
 それだけに、解放と平等への希望を抱いて行商していた一行が、同じように日本人によって差別されている朝鮮人と間違えられて虐殺されるという顛末は、あまりに酷く、悲しく、絶望的だ。
 「なんで? なんで? なんで?・・・」
 殺戮を目撃し生き残った行商の少年の慟哭に答えられる者はいるのか?

 森監督、本作に希望を盛り込まなかった。
 おそらく、監督の分身は女性新聞記者であろう。
 彼女は福田村事件の惨状を目の当たりにし、記事に書くことを決意する。
 福田村村長は泣いて懇願する。
 「私たちはこれからもこの土地で生きてゆかねばならない。どうか書かないでくれ」
 彼女は答える。
 「書くことでしか、これまで朝鮮人差別を黙って見逃してきた自分を許せない。亡くなった香川の行商たちに償いえない。」
 森監督も本作を撮るにあたって、同じように自問自答したのだろう。

 ラストシーン。
 船で川へと漕ぎ出す澤田夫妻。
 妻は問う。「ねえ、どこへ行くの?」
 夫は答える。「・・・教えてくれ」
 二人の乗った行先わからぬ船は、“新しい戦前”を漂う現在日本の比喩に違いない。
 
 
 
おすすめ度 :★★★★★

★★★★★ 
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● 楽園の中の地獄 映画:『野火』(塚本晋也監督)

2015年日本
87分

 塚本晋也の作品はこれがはじめてだが、噂通りたいへん才能ある監督と納得した。
 制作、脚本、監督、撮影、編集に加え、なんと主演までやってのけ、いずれも高い水準の出来栄えである。
 とくに演技がこれほど巧いとは意外であった。

 最近観た市川崑による『野火』と自然比較してしまう。
 脚本つまりシーン構成はほぼ同じと言っていい。
 市川作品(105分)よりセリフが刈り込んであるぶん、引き締まってスピーディーな感がある。
 なによりの違いはやはりカラーであるところ。
 南国(レイテ島)の美しさが際立って表現されている。
 透き通った海、鮮やかで幻想的な夕焼け、原色のエロチックな花々、緑濃き森、蒼い闇に飛び交う夜光虫・・・・。
 撮影が素晴らしい。
 「ああ、ここは戦争さえなければ、兵隊さえいなければ、まんま楽園なのだ。」
 日本の兵隊たちは楽園にあって地獄を生きているのだ、と観る者に教えてくれる。
 
 一方、カラーであることは別の部分で容赦ない効果を生む。
 米軍の圧倒的な武力によって虫けらのごとく殺される日本兵たちの死に様が、実にグロテスクで生々しい。
 血しぶきが飛び、千切れた腕や頭部が散乱し、内臓や脳漿がドロドロと流れ出し、びっしりとウジ虫が蝟集する。
 ここまで凄惨なリアリティは市川作品にはなかった。
 欧米なら年齢制限がつくのでなかろうか。

 市川作品が、生き残った主人公が野火に向かって歩き出すシーン、すなわち米軍への投降を暗示することで終わったのにくらべ、塚本作品では帰国した主人公の戦後の姿も描いている。
 この違いも大きい。
 塚本は主人公の職業を物書きと設定し、作家として世過ぎしながらトラウマに苦しむ男の姿を描く。
 いわゆる、PTSD(心的外傷後ストレス障害)だ。
 彼にとって、戦争はまだ終わっていない。地獄は続いている。
 確かにベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争を経た令和の現在、本作を映画化するならそこまで描かなければ意味はなかろう。
 結果、市川作品より悲劇の重厚性は勝っている。

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David MarkによるPixabayからの画像

 楽園と地獄のコントラスト。
 これが市川作品にはない本作のコンセプトであり、一番の仕掛けであろう。
 銃や手榴弾を捨てれば、戦いを止めれば、日本兵たることを捨てれば、「お国や天皇のために戦うことこそ日本男児」という共同幻想から解かれれば、今いる地獄はそのまま楽園に転じる。
 野火を焚いて神に祈る原住民のように、自然とともに生きる平和で豊かでエロチックな暮らしが眼前にある。
 地獄はまさに主人公の頭の中にのみ存在し、戦い殺し合う人間の心のうちにその種を持ち、その根と茎をのばし、その毒々しい花を咲かせる。
 楽園と地獄――それは自然と人間の対峙でもある。
 この世に地獄を作り出すのは、神でも悪魔でも阿修羅でも閻魔大王でもない。
 人間の心なのである。

 本作で主人公が最後まで自らに決して問いかけないセリフがある。
 「なぜ、自分は闘っているのだろう?」
 その問いが奪われたところに、兵士たちの悲劇がある。
 それにくらべれば、カニバリズム(人肉食)なんて、たいしたテーマではない。

 個人的には、市川作品より塚本作品を推したい。



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
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● ストライキ上等! 映画:『豚と軍艦』(今村昌平監督)

1961年日活
108分、白黒

 米軍基地のある街・横須賀の戦後間もない風景をリアルに切り取った社会風俗ドラマ。
 今村自身はこれを「重喜劇」と呼んだ。
 たしかに、米兵の金に群がるヤクザや娼婦やポン引きが登場し、人殺しやレイプや銃撃戦が繰り広げられるシリアスな「重さ」はあるものの、一方で、黛敏郎のマーチ風音楽に象徴されるテンポの良さと軽快さ、あるいはラスト近くで路地に溢れる豚の大群シーンに見られるような滑稽感もあり、全体として諧謔味に溢れている。
 ちょうど、エミール・クストリッツァ監督の『アンダーグラウンド』(1995)のようだ。
 パワーあふれる人間喜劇。

 その重喜劇的諧謔を体現する主役の若者が、ヤクザのチンピラ欣太。演じるは長門裕之である。
 長門は『太陽の季節』(1956)で主役をとったが、あまりいい出来ではなかった。
 演技力どうこうの問題ではなく、湘南の不良お坊ちゃま愚連隊である「太陽族」が、長門のイメージにまったく合っていなかった。
 長門もまた名のある芸能一族に生まれたお坊ちゃまには違いないのだが、下町の御用聞き風の顔立ち(桑田佳祐そっくり!)や、ニヒリズムやダダイズムとは縁遠い、地に足着いた生活臭の濃さが、石原慎太郎の描く太陽族とはカラーが違いすぎた。
 結果的に、脇役の岡田真澄や端役の石原裕次郎の、作品の質と釣り合った存在感に喰われてしまって、代表作にはなり得ていない。
 その意味で、今村監督との出会いは長門にとって非常に幸運であったというほかない。(逆もまた然り。長門との出会いは今村にとっても幸運であった)
 長門裕之という俳優の特質が、まさに今村作品の質と釣り合ったものであることが、ここに証明されている。

 他の役者たちもそれぞれにリアリティある魅力的キャラをふり当てられ、実に人間臭い充実の芝居をしている。
 ヤクザの組員で欣太の兄貴分・鉄次を演じる丹波哲郎のふてぶてしくもクールな存在感、その妻を演じる南田洋子の艶々しさ(本作公開の年に長門と結婚した)、欣太の組員仲間を演じる大坂志郎、加藤武、小沢昭一らの滑稽感ある達者なチームワーク(とりわけサイコパス風の加藤武が秀逸!)、貧しい庶民を演じたら右に出るものがないベテラン菅井きんと東野英次郎。
 そこに、当時まだ高校2年生だった新人の吉村実子が体当たり演技で加わって、ベテランたちに負けない鮮烈な印象を刻んでいる。(吉村実子は吉村真理の妹だとか)

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左から小沢昭一、加藤武、長門裕之、丹波哲郎、一人はさんで大坂志郎
こんがりと焼いた豚肉をみんなで頬張る作中一番の滑稽シーン
このあとにとんでもない事実が発覚し・・・

 ソルティは戦後混乱期の風俗や裏社会の仕組みに詳しくないので、物語の筋は実のところあまりよく理解できなかった。
 が、徹底的にリアルを追求した骨太の作風のうちに、ありのままの人間の欲や情熱や愚かさや醜さや猥雑さやバイタリティがこれでもかと描き出されて、圧倒された。
 戦後80年たって、無菌化・無臭化・IT化・孤立化し、政府やメディアや世間によって牙を抜かれ家畜化した日本人が失ってしまったものが、ここには焼き付けられている。
 



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
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● 映画:『ウォーデン 消えた死刑囚』(ニマ・ジャウィディ監督)

2019年イラン
90分、ペルシア語

 原題 Sorkhpust は、調べたところペルシア語で「インド人」って意味らしいのだが、なぜインド人なのか不明。
 ウォーデン(warden)は英語で「刑務所長」の意である。
 
 イランの砂漠の中にある巨大刑務所のお引越し中に、死刑囚が一人いなくなった。
 脱獄でもされた日には大事件である。
 刑務所長は、男がまだ所内のどこかに身を隠していると確信し、部下を集めて必死に探し回る。
 死刑囚のことをよく知るソーシャルワーカーの女性がやって来るが、彼女は男の無実を訴え、刑務所長と対立する。
 完全撤退の期限が刻々と迫るなか、刑務所長は、男を隠れ処からおびき出すべく、ある作戦を決行する。
 
 かくれんぼミステリーという、わかりやすい設定。
 沢口靖子主演の『科捜研の女』に出てくるような最新科学機器を使えば、すぐに男の居場所がわかりそうなものなのに、全館に向けて拡声器で投降を呼びかけたり、捜査犬を使ったり、ごきぶりバルサンのように煙でいぶり出そうとしたり、非常に原始的。
 イランの地方刑務所ってまだこんなレベルなの?――と思ったら、これは1960年代を舞台とする話であった。
 たしかに、中庭に置かれた首吊りの死刑台は前世紀の遺物である。

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kalhhによるPixabayからの画像

 一つ一つのショットが素晴らしい。
 構図も色彩も照明もカメラワークも手練れている。
 そのため、刑務所があたかも中世のお城のように美しく見える。
 最後まで死刑囚の姿を映し出さないやり方も巧い。
 姿の見えない主人公が、かえって存在感を増して、サスペンスを高めている。
 三島由紀夫の『サド侯爵夫人』を思い出した。

 ソーシャルワーカーの女性が元AKBの前田敦子そっくりである。
 敦ちゃん、いつの間にイラン映画にデビューしたの?・・・と思った。
 男尊女卑のイメージの強いイスラム教国の、男性社会の権化である刑務所という空間に、ヒジャブをつけない一人の女性ソーシャルワーカーがこうやって人権擁護の仕事をしていることに驚いた。
 60年代のイランで、こんな状況があったのだろうか?

 刑務所長を演じる男優は、一見、貫禄ある冷徹な物腰のうちにナイーブさと優しさを秘めた男を作り上げている。
 邦画で言えば、往年の松竹三羽ガラスである上原謙・佐分利信・佐野周平を足して3で割った感じ。(かえってよくわからない?)
 すなわち、イイ男である。

 物語的には予想通りのヒューマニズムな結末でそこに意外性はないが、脚本、演出、撮影、演技、音響効果ほか非常に完成度の高い作品で、またひとりイラン映画に一流監督が誕生したことを告げてあまりない。





おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
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● 映画:『野火』(市川崑監督)

1959年大映
105分、白黒
脚本 和田夏十
音楽 芥川也寸志

 大岡昇平の原作を読んだのは高校生の時。
 テーマを受け止めるには重すぎた。
 カニバリズム(食人)の衝撃だけがあとに残った。
 読後まもなく、佐川一政のパリ人肉事件(1981年)が起こった。
 実際にそういうことがあるのだとびっくりした。
 佐川の場合、飢えからでなく、性愛からの行為だったと記憶する。
 猟奇殺人として世間を騒がした。

 市川の映画で描かれるのは、カニバリズムの猟奇性より、恐怖と飢えという極限状態に置かれた人間のありさまである。
 太平洋戦争末期のフィリピンのレイテ島で、米軍に敗れ、ジャングルの中をばらばらになって遁走する日本兵たち。
 米軍の爆撃や銃弾も怖い。米軍に協力する現地住民の反乱も怖い。
 鬱陶しい雨季のジャングルも、ぬかるみもしんどい。
 しかし、一番の問題は飢えである。
 芋が尽き、塩が尽き、ヒルや草を食べる日々。
 極度の空腹から幻覚を見る兵士。
 力尽きて倒れる兵士。
 主人公である田村(船越英二)も米軍への投降を考える。
 そんななかで出会った永松(ミッキー・カーチス)と安田(滝沢修)は、猿を撃ち殺して、その肉を食べているという。

 ほとんどが野外ロケである。
 ボロ靴のごとく草臥れた敗残兵たちの恰好や爆撃シーンなど、迫力あるリアルな映像は、さすが大映、さすが市川崑。
 某大河ドラマとはレベルが違う。
 CGでは出せない即物性がある。
 芥川也寸志の音楽もよい。
 芥川はマーラーの影響をかなり受けているように思う。
 マーラー風の不安と狂気を映像に結びつけている。 

 船越英二は、どの映画出演作でもあまり強い印象を与えない役者であるが、この一作は素晴らしい。
 どことなくハーフめいた彫りの深い顔立ちと恬淡として虚ろな眼差しが、牧師のように世俗離れした雰囲気を醸して、むごい運命に流され、周囲の欲深な兵隊たちに馬鹿にされる、受動的な兵士像を造り出している。
 この役者の生涯の一本と言っていいだろう。(水谷豊主演『熱中時代』の校長先生も捨てがたいが・・・)
 海千山千のあこぎな上官下官コンビを演じる滝沢修とミッキー・カーチスも素晴らしい。
 ミッキー・カーチスが上官の滝沢を撃ち殺して、その肉にしゃぶりつくシーンは実にグロテスクで、貴志祐介の『クリムゾンの迷宮』を想起した。
 ここはカラーでなく白黒映画で良かったと思った。

野火 (2)
左から2人措いて、3人目が船越英二、滝沢修、ミッキー・カーチス

 食人と言えば、スターリン時代のウクライナで大飢饉が起こり、数百万人が亡くなった。
 飢えに苦しむ人々は、鳥や家畜や雑草はもちろん、病死した馬や人の死体を掘り起こして食べたり、時には、我が子の一人を殺して他の家族に食べさせることもあったと言う。
 なんともひどいのは、この飢饉がソ連政府による人為的かつ計画的なものであった可能性が示唆されていることだ。
 ナチスによるユダヤ人大虐殺であるホロコーストに倣って、ホロドモールと呼ばれている。
 ウクライナとロシアの間には深い因縁があるのだ。




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


● 日活ヒロインと「泥中の蓮」論 映画:『霧笛が俺を呼んでいる』(山崎徳次郎監督)

1960年日活
80分

 トニーこと赤木圭一郎の代表作として名高い。
 同名で発売したレコードもヒットした。

 撮影期間一ヶ月、いわゆる量産体制のプログラムピクチャーであるが、質は高い。
 山崎徳次郎監督についてはよく知らないが、脚本を担当しているのがその後日本を代表する国際的監督となった熊井啓、美術が『東京流れ者』、『ツィゴイネルワイゼン』、『火まつり』、『夢見るように眠りたい』、『親鸞 白い道』、『帝都物語』、『ドグラ・マグラ』などを手がけた木村威夫、音楽が「大きいことはいいことだ」の山本直純である。
 今となってみれば、贅沢極まりないスタッフ陣。
 構図の斬新さ、色彩の見事さ、セリフの良さに、痺れる。
 日活アクション映画と言えば、ヒーローがどれだけ気障なセリフを真顔で吐けるかが勝負である。
 本作の2大名ゼリフ。

杉敬一(赤木圭一郎): 友情なんてものは、ガキのはしかみたいなもんだ。一度はかかるが、そのうちケロッと消えちまうもんさ。

刑事(西村晃): おい、どこに行くんだ!
   (船の汽笛がボーと鳴る)
敬一: そうさな、霧笛に聞いてくれ。どうやら霧笛が俺を呼んでいるらしいぜ。

霧笛1
赤と青を対比させたショットが多い

霧笛2
縦の構図で立体感と奥行きが生まれている

霧笛3
鏡の中に親友(赤木)と妹(吉永)の姿を見る浜崎(葉山良二)

 吉永小百合が『拳銃無頼帖 電光石火の男』に続いて出演している。
 日活2作目である。
 難病と闘う健気な少女という、のちの『愛と死を見つめて』を予感させる、小百合にふさわしい役柄。
 やはり、可憐さと清純なオーラは半端でない。
 すでに脇役におさまらないレベルの輝きを放っている。
 
 しかし、本作で赤木の相手役となるヒロインは芦川いづみである。
 芦川いづみは美人で品があって芝居も上手い。
 本作では歌も披露しているが、これが実に美声で味があって聞き惚れる。
 吉永小百合と芦川いづみ、そしていま一人の日活ヒロインである浅丘ルリ子、3女優を比べたとき、吉永小百合の特異性がくっきりと浮かび上がる。
 これらのヒロインは、犯罪や暴力がテーマとなる日活アクションドラマにおける、いわば「泥中の蓮」である。
 脛に傷もつ男ばかりが右往左往し、容易に足抜けすることのできない汚泥のような裏社会に、すくっと咲いた一輪の蓮の花。
 が、同じ蓮の花でも、水面からの高さが違う。
 芦川いづみは水面に近いところに咲いていて、花びらに泥はねがついている。
 どことなく陰のある風情は、まかり間違えば、泥に吸い込まれそう。
 浅丘ルリ子はもう少し高いところに咲いていて、ガクに泥がついている。
 泥と馴染むことはできるが、自らは汚されることはない凛とした強さを持っている。
 吉永小百合は最初から絶対に泥がつかない圧倒的な高さで咲いている。
 そこからは周囲の葉に隠れて、水面が見えないほどである。
 住んでいる世界がまったく違うので、アクションドラマのヒロインは無理である。

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Charlie YoonによるPixabayからの画像

 ほかの出演者では、敬一の元マドロス仲間で無二の親友だった浜崎を演じる葉山良二と、刑事役の西村晃がいい。
 葉山良二の着る紫のシャツが、妙に美輪明宏チックで印象的である。

 ここまで3作、赤木圭一郎主演作を観たが、いずれもラブシーンがなかった。
 女性との一夜を暗示するようなシーンもない。
 本作でも、最後は芦川いづみ演じるヒロインと結ばれるかと思いきや、霧笛に引かれて街を去っていく。
 このストイック性が赤木の清潔感を生んでいるのかもしれない。
 赤木圭一郎もまた、別の意味で、「泥中の蓮」みたいなところがある。
 (そのうちラブシーンが見られるのかな?)




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 杉村春子と原節子 映画:『わが青春に悔なし』(黒澤明監督)

1946年東宝
110分、白黒

 この黒沢作品は観てなかった(かもしれない)。
 京大事件、ゾルゲ事件を材にした反戦映画と言われるが、そういった歴史に疎くても、面白く鑑賞できる。
 というのも本作は、一人の女性を主人公とした恋愛ドラマかつ成長ドラマの面が強いからだ。
 その意味で、岩下志麻主演『女の一生』(1967)や、司葉子主演『紀ノ川』(1966)に通じるものがある。

 大学教授の一人娘でわがままに育ったお嬢様・八木原幸枝(原節子)が、反戦活動家・野毛隆吉(藤田進)とのつらい恋を経て世間を知り、自分自身に目覚め、「非国民、スパイ」と周囲に嘲られながらも自らの意志を貫いて厳しい生き方を選んでいく姿が、感動的に描かれる。
 原節子は難役を見事にこなしている。
 とりわけ、監獄で亡くなった夫・隆吉の実家に赴いて、泥と汗まみれの畑仕事に従事する後半が素晴らしい。
 小津安二郎監督の『晩春』や『東京物語』の美しく上品な原節子とはまったく違った、文字通りの“汚れ役”を性根の据わった演技で見せている。
 内に秘めた情熱と強い意志を示す表情が素晴らしい。
 これをして「大根役者」というなら、いまの女優たちは「かいわれ役者」である。

 本作は、途中までは、「巨匠黒沢にしては力不足かな?」という、ちょっと期待外れの印象を受ける。
 「やっぱり黒沢は、男を描くのは上手くとも、女はイマイチかな・・・」と。
 が、後半になると、「やっぱり黒沢は凄い!」となる。
 幸枝が隆吉の実家に飛び込んでからが巨匠の本領発揮。
 観る者を圧倒し、心を鷲づかみにするボルテージの高さとリアリティの深みがある。
 そして、後半のドラマを第一級の演技でしっかりと支え、間然するところなきドラマに押し上げているのが、隆吉の父親役の高堂国典と母親役の杉村春子。
 この二人の名役者の存在感と鬼のような演技力は、本作の白眉である。

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高堂国典と杉村春子

  「スパイの家」と村八分にされた隆吉の父母は、家に引きこもって、夜しか外に出られない。
 絶望した父親は、日がな一日、働きもせず囲炉裏ばたに座し、一言も発しようとしない。
 なかば強引に野毛家に住み込んだ幸枝は、隆吉の母親を見習いながら、田んぼを耕し始める。
 いまのように耕運機も田植機もない時代、農作業は困難を極める。
 それでも、嫁と姑は力を合わせて田植えを終える。
 が、喜びも束の間、悲劇が待っていた。
 村の心ない連中が、田植えをすませたばかりの田んぼを滅茶苦茶に荒らした。

 ある朝、それを知って家に駆け込み土間に打ち伏して泣き喚く姑(杉村)、それを聞くや病床から飛び出して畑に駆けつける幸枝(原)、目の前の惨状に呆然とたたずむ二人、やがて身をつらぬく怒りをばねに田んぼを片付け始める嫁、それを見て我もと手伝う姑、そこへついに百姓の血が覚醒して駆けつける舅(高堂)。
 このシークエンスは、おそらく黒沢作品中でも一、二を競う素晴らしさ! 
 名優二人に負けていない原の存在感もやはり大変なものである。

 しばしば、原節子が演技開眼したのは小津監督の出会いによると言われる。
 しかし、本作を観て思ったのは、杉村春子との共演を重ねることで、原は女優として育てられたのではないかということである。
 本作で二人が共に経験した農作業の苦労が、『晩春』以降の二人の息の合った演技につながっているのではなかろうか。




おすすめ度 :★★★★

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