ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●映画・テレビ

● 火星人襲来! 映画:『宇宙戦争 次の世紀』(ピョトル・シュルキン監督)

1981年ポーランド
97分

 ソルティの映画鑑賞歴も40年以上になるが、この監督の名前はついぞ聞いたことなかった。
 ピョトル・シュルキン(1950-2018)は、1970年代末~80年代にかけて社会主義体制下のポーランドで映画を撮っていた監督である。
 彼の作品は本国では一時上映禁止となり、商業的にはポーランド国外に知られることなく、当然、西側諸国で上映されることもなかった。
 今回の渋谷のイメージフォーラムでのSF《文明の終焉4部作》の上映が、日本劇場初公開だという。
 《文明の終焉4部作》
 『ゴーレム』(1979)
 『宇宙戦争 次の世紀』(1981)
 『オビ・オバ 文明の終わり』(1985)
 『ガガ 英雄たちに栄光あれ』(1986)

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イメージフォーラム

 4部作の一つを観て、「こんな監督がいたんだ!」、「こんな怖ろしい作品が、日本中がバブルに浮かれていた頃に撮られていたんだ!」という衝撃に襲われた。
 4部作を連続で観ることもできたのだが、あまりの衝撃の重さにとても消化しきれず、1本だけ観て渋谷の街をあとにした。(残り3本はおいおい観たい)

 難しい映画ではない。
 陳腐と言えるほどオーソドックスなSF映画である。
 地球にやって来た火星人が、友好の顔を見せながら、人類を支配下に置き、洗脳していくさまが描かれる。
 当然、CGやVFXなんてないし、ハリウッドSF大作のように金をかけているわけもない。
 しかし、観ている間じゅう背筋が凍るようなリアリティと怖ろしさとで、場内の暖房がいつの間にか冷房に切り替わったのではないかと思うほどだった。

 怖ろしさのもとは、火星人ではない。
 白いもこもこしたダウンジャケットを着たゴムまりのような体型の“平たい顔族”の火星人は、バブルの頃の日本人をモデルにしたんじゃないかと一瞬思ったが、自己卑下が過ぎるかもしれない。
 彼らは、人類をはるかに超越した知能と技術で人間たちを意のままに操っていく。
 あくまでも表面上は、人間側が火星人への友情を示すために“進んで”火星人に協力している、という自己決定の形を装いながら。(GHQに進んで協力した戦後日本人のように)
 怖ろしさの源は、最高権力者である火星人に忖度して、自ら支配機構の従順な番犬や羊になり下がっていく地球人の姿である。
 独裁体制が成立するのは、カリスマ的な独裁者の力のみならず、さまざまな動機からそれを陰に陽に支えていく民衆あってのことなのである。

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 むろん、この映画が揶揄しているのは、すなわちシュルキン監督が火星人侵略に仮託して描き出そうとしたのは、ソ連の番犬となったポーランド社会主義&全体主義国家の現実であった。
 であればこそ、この作品は上映禁止になったのだろうし、国外にフィルムが流れることもなかったのである。
 しかるに、ソルティが観ていて感じた怖ろしさは、80年代のポーランドをはじめとするかつての社会主義国家の全体主義の様相だけではなかった。
 トランプのアメリカが今まさに“火星人侵略”の過程にあり、それに追随する日本もまた、この作品で描かれている不条理を現実化しようとしている。
 その予感に震えたのである。
 作品中で、シュルキン監督が主人公の男の口を借りて語るポーランド人の国民性、すなわち、「従順で受動的で他者に迷惑をかけないことを美徳とする」は、まさに日本人のことではないか。
 45年以上前のポーランド映画が、こんなにも現代日本に重ねられる日が来るとは!
 こんなに怖ろしい映画体験は滅多ない。




おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 衝撃の70秒 映画:『黒の牛』(蔦哲一朗監督)

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2024年日本、台湾、アメリカ
114分、白黒&カラー

 禅の十牛図がモチーフになっている。

十牛図(じゅうぎゅうず)は、悟りにいたる10の段階を10枚の図と詩で表したもの。「真の自己」が牛の姿で表されているため十牛図といい、真の自己を求める自己は牧人(牧者)の姿で表されている。十牛禅図や牧牛図ともいう。作者は、中国北宋時代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵。
(ウィキペディア『十牛図』より抜粋)

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尋牛(牛を探す)
 
 ソルティが十牛図を初めて知ったのは、今から30年前の30代前半。
 バグワン・シュリ・ラジニーシ(osho)の講話録『究極の旅』という本によってであった。
 当時、ずいぶんラジニーシにはまった。
 数冊立て続けに読んだ。
 今なら、ラジニーシがいかにいかがわしく危険な男であるかをネットで知ることができるけれど、当時ネットなどなかった。
 生と死の神秘を授けてくれるインドの覚者、といったイメージを抱いた。
 内容は忘れてしまったけれど、ラジニーシの解き明かす十牛図は魅力的だった。
 その後、ラジニーシを糾弾する元信者の本『堕ちた神(グル)』(第三書館)を読んだこともあって、ソルティの関心はクリシュナムルティに移っていった。
 精神世界の旅人が通る道である。

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見跡(牛の足跡を見つける)

 いまひとつ。
 十牛図と言えば、京極夏彦の『鉄鼠の檻』である。
 悟りを求める修行僧たちが起居する禅寺で起こる殺人事件の解明をめぐって、探偵役の中禅寺秋彦が十牛図に触れる箇所があった。
 このとき、十牛図はもともと八牛図であって、最後の二図はのちに廓庵が付け加えたという説があるのを知った。

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見牛(牛を見つける)

 十牛図をどう解釈するか、牛を何の比喩ととらえるかは、いろいろな説がある。
 牛=「真の自己」「悟り」「仏性」「心」「真理」「私(自我)」・・・など、解釈はさまざま。
 その曖昧さと多義性こそが、かえって十牛図を謎に満ちた、奥深いものに思わせ、今日まで重んじられてきたのだろう。
 
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得牛(牛をつかまえる)

 監督の蔦鉄一朗の名ははじめて聞いた。
 1984年徳島県生まれ(満42歳)。
 80年代に甲子園優勝を何度も果たして一躍有名になった徳島県池田高校野球部の蔦文也監督(1923-2001)の孫とのこと。
 蔦文也の足跡をたどる記録映画も撮っているらしい。
 2018年秋にソルティが四国遍路で池田町を歩いたとき、地元の人が、「このへんで有名なのは蔦文也監督と祖谷(いや)のかずら橋」と言っていたのを思い出す。
 亡くなった後も町民に慕われているのを感じた。

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牧牛(牛をなだめる)

 蔦が十牛図をどのようにアレンジして用いているのだろうと思ったら、ほぼまんま十牛図をなぞっていた。
 全編を10章(正確には9章)に分けて、それぞれの章の冒頭に各図のタイトルを提示する。
 山奥に棲み、家も財産も家族も持たない知恵遅れのような青年が、老婆に拾われ、一緒に暮らし、田んぼの仕事を教わる。
 老婆の世話をし、やがて老婆を見送り、ひとりになる。
 牛を見つけ、牛を捕まえ、牛を家に連れて帰る。
 通りがかりの禅僧と出会い、牛の使い方を教わる。
 牛を飼いならし、耕作し、牛と生活する。
 やがて牛を失い、またひとりになる。
 最後は家を出ていく。
 十牛図の映像化と言ってもいいくらい、まんま十牛図であった。

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騎牛帰家(牛に乗って家に帰る)

 映像ならではの良さとしては、全編フィルム撮影による生々しい手触りによって、大自然が焼き付けられているところ。
 CG全盛のいまどき、これほど実直な全編ロケ作品が撮れたとは奇跡のよう。
 黒々とテカる牛が発散する生命力、画面を真白にするほどの大雨、素足で走るのが痛いようなごつごつした岩肌、牛が鋤引きする水田の泥の重さ。
 五感を刺激する映像体験がここにある。 
 白黒画面が観る者にもたらすリアルな触感と映像美は、黒澤明や溝口健二を思い起こさせる。

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忘牛在人(牛を忘れ人が在る)

 一方、ゆったりとした時の流れを延々と映し出すカット、およびセリフの少なさがもたらす非ドラマ性は、タルコフスキーやカール・T・ドライヤーのよう。
 観る者に忍耐を強いる。
 ソルティも眠気とたたかった。
 牛とは「眠気」のことなのか?(笑)

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人牛俱忘(人も牛も忘れる)

 ひとりの男の(魂の)遍歴が描かれること、白黒作品であり光と影のコントラスト表現が秀逸であること、木や川や大地や草や空など自然のありさまが映し取られていること、そういった点からヴァーツラフ・マルホウル監督の『異端の鳥』(2019)を連想したのだが、テーマの違いは措いといて、より「映画的」なのは『異端の鳥』のほうである。
 『黒の牛』の眠気の原因は、ドラマにも映画にも十分成り切れていないってところにあるように思う。
 最後の爆発(原爆?)ショットやラストクレジット終了後に示される第10図タイトル提示の意図を含め、監督がいったい何を言いたいのか分からないし、映像美はふんだんにあるものの、観る者を驚かし眠気を吹っ飛ばしてくれるような才知あるショットは少なかった。

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返本環源(すべては源に還る)

 ひとつだけ、衝撃的なショットがあった。
 それは第7図から第8図に移る際にスクリーンを蔽う約70秒間のショット。
 こういったショットを見た記憶は、ソルティの長い映画マニア人生にもなかった。
 これはテレビではちょっとできないだろう。
 ユニークで勇気ある試み。
 このショットにおいて覚醒した。

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入鄽垂手(店に入って手を垂れる)

 主演のリー・カンションの無垢なる表情とたたずまいは素晴らしい。
 演技で無垢を演じるくらい難しいものはないだろう。
 「うまく演じよう」という動機そのものが、無垢から人を遠ざけるからだ。
 禅僧役の田中泯を見ると、それがよくわかる。
 田中泯の役者として自己(エゴ)の強さは、人間国宝の女形(@『国宝』)には向いていても、悟った禅僧には向いていない。(『鉄鼠の檻』に出てくるような悟りに憑りつかれた禅僧には向いている) 

 思うに蔦の描きたかったのは、大自然の中に無心に生きる人間の美しさなのかもしれない。

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祖谷のかずら橋

 

おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損







● 映画:『白昼の通り魔』(大島渚監督)

1966年松竹
99分、白黒

 原作は『ひかりごけ』の武田泰淳。
 昭和32年に関西で実際に起こった婦女連続暴行殺人事件をモデルとしている。
 いわゆるシリアルキラーである。

 この殺人犯の異常性は、死んだ女や意識を失った女を犯すことに欲情を催すところ。
 つまり、ネクロフィリア(屍姦症)。
 サディズム(加虐性愛)の一種とみなされるが、その奥底には、対象相手の生体が発する意志と正面から向き合うことができない人間のコンプレックスが潜んでいる。
 このテーマを扱った有名な小説に川端康成の『眠れる美女』がある。
 阿部定を描いた『愛のコリーダ』しかり、BLを描いた『戦場のメリークリスマス』や『御法度』しかり、チンパンジーとの獣愛を描いた『マックス・モン・アムール』しかり、大島監督は人間の異常心理に強い関心があった。

 シリアルキラーを演じる佐藤慶が素晴らしい。
 くっきりした硬い顎のラインと陰鬱な眼光が、獣性と鬱屈との混合を表出している。
 この人はテレビドラマの悪役でならしたが、武智鉄二監督『白日夢』で愛染恭子とホンバンを行うなど、役者根性が据わっている。

 この作品が映画デビューとなった川口小枝(さえだ)が鮮烈な印象を刻んでいる。
 情熱的で生命力の強い田舎娘にピタリとはまっている。
 大島は『太陽の墓場』(1960)でも新人の炎加世子をどこからか見つけ出してきて、作品に強い生命力を吹き込むのに成功した。
 『戦メリ』のビートたけしや坂本龍一の起用を上げるまでもなく、キャスティングの才が凄い。
 川口小枝は、上記の武智鉄二の娘である。
 本作のあと、父親の作品はじめ何作か映画出演し、その後、母親・川口秀子が創流した日本舞踊川口流の家元を継いだ。
 2016年に68歳で亡くなっている。

 1966年なら当然カラー撮影可能だったはずである。
 1960年に大島が撮った『青春残酷物語』も『太陽の墓場』もカラーだった。
 つまり、意図的に白黒にしたのである。 
 それが見事に効いて、ニュース映像的なドキュメンタリータッチを作品に与えるとともに、カットの速さとあいまって、日常生活のリアリティを再現するよりはむしろ、登場人物の心象風景に焦点を当てるものとなっている。
 ところどころ差し挟まれる目のアップなど、まさに登場人物の内面に鑑賞者を引き込む効果を生んでいる。
 大島監督の才気に唸らされる。

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小山明子と佐藤慶

 篠田監督の『夜叉ヶ池』を観たばかりだったので、どうしても両監督を比較せずにはいられなかった。
 大島渚、篠田正浩、吉田喜重の3人は、その新進気鋭の姿勢から1960年代に「松竹ヌーベルバーグ」と並び称された。
 美人女優を妻にもったことでも共通項がある。
 ソルティは、どうもこの3人を同列に論じるのは間違いではないかという気がしてならない。

 大島渚と吉田喜重は、確かに「ヌーベルバーグ」と言うにふさわしい。
 既存の価値観や方法論を打ち破る独自の映画スタイルと作家性を持っている。
 が、篠田正浩はつまるところ大衆好みの娯楽作家と思うのだ。
 もちろん、大衆好みの娯楽作品を撮るのが悪いわけでは全然ない。
 大ヒットして映画賞を総なめにした『瀬戸内少年野球団』(1984)も『少年時代』(1990)も、日本映画史に残る作品である。
 が、「ヌーベルバーグ」を冠せるほどの作家性はそこにはない。
 篠田が60年代に撮った石原慎太郎原作の『乾いた花』(1964)はなかなか良かったが、大手映画会社から脱して自己プロダクションとATG製作で撮った『心中天網島』(1969)は、スタイルこそ目新しかった(前衛的)ものの、テーマ的には凡庸――というより近松門左衛門の原作をなぞったものでしかなかった。

 篠田監督は見るからに温厚で“いい人”っぽく、美しい妻を得て、大衆に愛されて、円満な人生を送られた。
 大島や吉田のような強い反体制思想は持っていなかったんじゃなかろうか?
   




おすすめ度 :★★★★

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● 松竹130年伝説的珍品 映画:『夜叉ヶ池』(篠田正浩監督)

1979年松竹
2021年4Kデジタルリマスター版公開
120分

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 池袋・新文芸坐でかかっているのを知って、仕事帰りに鑑賞。
 泉鏡花原作&坂東玉三郎主演のこの作品を観ていなかったのは不覚であった。

 ――と思ったら、観ていないのも不思議でなかった。
 この映画、79年に公開され、81年にテレビ朝日で一度放映されたきり、封印されていたのである。
 再上映はおろか、VHSビデオにもDVDにもなっていなかった。
 ウィキによると、「一部の権利者がソフト化を拒否」したとの由。
 公開時もテレビ放映時も見損ねたソルティが、観たことないのも無理なかった。
 2020年に篠田監督と玉三郎が再会し、両人監修のもと音や映像の修復作業を行い、4Kデジタルリマスター版を完成させ、実に42年ぶりの再上映が叶ったのである。

夜叉ヶ池
夜叉ヶ池(福井県と岐阜県の境界付近にある)
Alpsdake - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

 泉鏡花と玉三郎は“白雪姫フィット”ならぬ“シンデレラフィット”の組み合わせであることは今さら言うまでもないが、篠田監督が泉鏡花を撮れるとは思えず、ちょっと怖いもの見たさであった。
 そしたら、まさに的中。
 怖いもの(笑)であった。

 この怖さをどう言葉にしたらいいものか。
 篠田監督はアーティスティックな映画は撮れる(たとえば『心中天網島』)、時代劇も撮れる(たとえば『鑓の権三』)、おどろおどろしい作品も撮れる(たとえば『悪霊島』)、哀しい性もつ女も撮れる(たとえば『はなれ瞽女おりん』)
 が、耽美や幽玄を撮れる資質はない。
 自身それを分かっていたのかどうかは知るところでないが、結果的に、泉鏡花のエッセンスは完全に干上がってしまい、特撮妖怪パニック映画になってしまった。
 これが溝口健二なら、黒澤明なら、市川崑なら、実相寺昭雄なら、大林亘彦なら、もっと鏡花世界を構築できただろうに・・・・と残念に思う反面、自らの才能の限界を知って(?)中途半端にアーティスティックにも文芸調にも怪談風にもしなかった篠田の潔さを称えるべきなのかもしれない。
 鑑賞途中までは、「世紀の駄作」「篠田と玉三郎の生涯最大の汚点」「封印が正解」「松竹の恥」「カノッサの屈辱」といった最悪の感想しか持てず、席を蹴る寸前まで行ったのであるが、「陰極まれば陽に通ず」、幾度も押し寄せる荒唐無稽の波がついに喫水線を超えてパラダイム変化を生ぜしめ、上映終了時には「これはこれで天晴なり!」の大洪水に流される。
 邦画史上、指折りの怪作、珍作、奇作と言っていい。
 水野晴男の『シベリア超特急』シリーズのごとく、この先、カルト映画として熱狂的なファンがつく可能性は十分にある。
 篠田作品で残してほしいベスト3を選ぶなら、『渇いた花』、『悪霊島』、そして本作である。
 謹んで、ウミウシ映画の称号を贈呈したい。

 公開当時29歳の玉三郎の美しさと芸の高さは折り紙付き。
 とくに、所作の美しさときたら!
 これだけ美しい動きのできる女優は、現在、日本中いや世界中探してもいやしない。
 玉三郎が画面に登場すると、否応なく惹きつけられてしまう。
 歌舞伎で鍛えた口跡も見事。
 玉三郎の突出した存在感と才能と鏡花作品に対する熱い思いに、共演者もスタッフもついていくことができず、物語が進むにつれそのギャップが広がっていったことも、ヘンテコリン映画になってしまった一因かもしれない。(白雪姫の姥役の丹阿弥谷津子はかろうじてついていってる)
 そのヘンテコぶりが積み重なって堪えがたくなる寸前に、松竹スタジオに設営した20トンのタンクおよびロバート・デ・ニーロ主演『ミッション』で一躍有名になったイグアスの滝をロケに使っての“すべてを水に流す”大洪水と、ひたすら神々しい白雪姫ご一行のひらひら昇天。
 このカタルシスにより、壮大なファンタジーを観たような錯覚に酔わされる。

 加藤剛、山﨑努、常田富士男、阿藤海、浜村純、三木のり平、矢崎滋、小林トシ江、唐十郎、金田龍之介など錚々たる役者陣に加え、音楽に冨田勲、美術に粟津潔、特撮に矢島信男という80年代バブルを予告するゴージャスな顔ぶれ。
 松竹130年の伝説的珍品として、一度見る価値は十分にある。


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Nancy MartinezによるPixabayからの画像





おすすめ度 :★★★★

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● 映画:『クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん』(髙橋渉監督)

2014年日本
97分、アニメ
原作 臼井儀人
脚本 中島かずき

クレしん・ロボとーちゃん

 原恵一が監督した『嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』(2001)と『嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』(2002)は、クレヨンしんちゃん映画シリーズの2大傑作としてつとに知られている。
 その後の作品を作るスタッフにとって、「超えられない壁」となって立ちはだかっている。
 本作は、両作を凌ぐほどではないにせよ、それに次ぐ感動作として上げられることが多い。

 タイトルどおり、しんちゃんの父親・野原ひろしが悪組織の手でロボットにされてしまうことで起こる大騒動が基本プロット。(実は、ひろしの記憶がロボットの脳というかAI?にコピーされただけで、本物のひろしは悪組織の実験室で意識不明のまま捉えられている)
 「ウチの父ちゃんが、何でもできるロボットだったらいいなあ~」という子供たちの願いをテーマに設定したのである。
 ロボとーちゃんの八面六臂の活躍や、しんちゃん・ひろし・ロボとーちゃんがタッグを組んでの悪組織との対決シーン、そしてロボとーちゃんとの別れなど、子供が喜び感動するストーリーテリングはさすがである。
 しんちゃんならではのお下品や下ネタは、『週刊漫画アクション』連載時代からのお約束なので、目くじらを立てるのはお門違い。
 『クレしん』に子供を連れて行く親たちは、そこを当然と理解した上で鑑賞しているはずである。
 それが受け入れられない親には、『ドラえもん』シリーズがある。

 一方、そうしたお下品や下ネタがあるからという理由とはまったく別に、『クレしん』は“大人でも楽しめる”作品と言われることが多い。
 その称号を得るのに寄与した代表的作品が、まさに『オトナ帝国の逆襲』と『戦国大合戦』なのである。
 本作もまた、“父権の失墜”という、戦後日本に顕著にみられるようになった社会的現象が、主要モチーフとして取り上げられている。
 妻の尻に敷かれ、子供には煙たがられ、濡れ落ち葉となって休日の公園に屯する父親たち。
 父親の権威も威厳もありゃしない。
 「地震、かみなり、火事、親父」はいつ時代のことやら?
 子供の隣で本作を観る父親たちの共感と哀感を呼ぶことは十分予期される。
 つまり、「父親とは何か?」が隠れテーマとなっているのである。

 ソルティは父親でないので、残念ながらそれほど感動しなかった。
 父親である鑑賞者は、本作を観て、感じ考えるところ大かもしれない。
 ただ、「愛する家族を守るために戦うのが父親(あるいは男)」という、本作が観た者にインプットするであろう概念は、国家に利用されるとそのまま戦争を肯定する言説につながるようで、ソルティは昔からあまり好きでない。

国と父権



おすすめ度 :★★

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● 本:『写楽殺人事件』(高橋克彦著)

1983年講談社

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 第29回江戸川乱歩賞受賞作。
 江戸時代の浮世絵師・写楽の正体を追求する若手研究者の周りで起こる連続不審死。
 自殺か他殺か、それとも単なる事故死か?
 名誉と権威をめぐる学界のドロドロを背景に、浮世絵に憑りつかれた男たちの暗躍が描かれる。

 昨年のNHK大河ドラマ『べらぼう』では、まさに写楽誕生の経緯がドラマ化されていた。
 巨悪・一橋治済(生田斗真)を成敗するため、蔦屋重三郎(横浜流星)を中心とする絵師や戯作者のグループは、治済が罠にかけて殺したはずの平賀源内(安田顕)が生きているという噂を広める。そのための方策が、架空の絵師写楽を作り上げることだった。
 つまり、蔦屋の工房(本屋)で写楽は生まれた。 
 もちろん、これは一つの説であり、写楽の正体はいまも謎のままである。

 本書では、「写楽改め昌栄」という名の書き込みのある古い絵が地方で発見されたのをきっかけに、「ついに写楽の正体、判明か!」と騒ぎになっていく。
 その過程で、これまで美術研究者らによって写楽ではないかと推定された複数の人物の名があげられ、それぞれの説の適否が登場人物によって語られていく。
 ドラマを観る前に、本書を読んでおけば良かったなあとつくづく思った。

 一方、ドラマを観ていたからこそ、小説内に登場する人物が親しみやすく感じられ、各人の名前や人間関係が頭に入りやすくもあった。
 たとえば、北尾重政(橋本淳)とか朋誠堂喜三二(尾美としのり)とか山東京伝(古川雄大)とか・・・・。
 年を取ったせいで、登場人物の名前と素性を覚えるのに苦労を感じるようになったのだ。
 長編小説、とくに推理小説には登場人物表をつけることを鉄則としてもらいたい。

 本書の前半は写楽の正体をめぐる謎とその解明、後半が現代の殺人事件をめぐる謎とその解明、という構成。
 よく書けていて興味をそそられるのは前半。
 歴史ミステリーならではの面白さがある。
 それに比べると、後半はぐだぐだで、ミステリーとして出来が良ろしくない。
 プロットが整理されていないので、読んでいて状況がよくわからない。
 推理の詰めも甘い。
 探偵(小野寺刑事)も魅力に欠ける
 前半がなければ、江戸川乱歩賞は難しかったろう。
 期待していただけにちょっとがっかりした。
 まあ、乱歩賞は新人の登竜門なので、完成度を求めるのは酷なのかもしれない。 

 ソルティはミステリー好きを自称するわりには、江戸川乱歩賞受賞作をほとんど読んでいない。
 評判の良いものを中心に、これから読んでいこう。


 
おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● ここでは時間が御馳走 映画:『お坊さまと鉄砲』(パオ・チョニン・ドルジ監督)

2023年ブータン、フランス、アメリカ、台湾
112分

お坊様と鉄砲

 『ブータン 山の教室』でデビューした監督の2作目。
 前作同様、ブータンの地方村の自然に囲まれたのどかな風景と、昔ながらの落ち着いた暮らしぶりが描かれている。
 いいなあ~。

 ソルティは還暦を過ぎた今、海外旅行には興味薄れているのだが、ブータンだけは行ってみたいなあと思う。
 首都ティンプーは、ドルジ監督の前作で描かれていたように、近代化が進んで、もはや日本の都市と変わらない有り様のようだが、田舎に行けば“昔の日本”にタイムスリップした感覚を味わえるんじゃないか。
 “昔の日本”がいつ頃なのか、しかと分からぬが。
 1980年代には、「台湾に行けば“昔の日本”と出会える」という謳い文句を旅行雑誌によく見かけた。
 ホウ・シャオシェンの映画を観ながら台湾に憧れたものだ。(結局、行く機会を逸した)
 2018年秋に四国遍路で出会った台湾の青年の話では、台湾では開発が進んで環境破壊が社会問題になっているとのこと。
 “昔の日本”も失われてしまったかもしれない。
 
山肌掘削
愛媛県の遍路道で見た景色

 本作は2006年のブータンの山奥の村が舞台。
 前年に第4代国王ジグミ・シンゲ・ワンチュクが、退位と選挙制による民主化(立憲君主制)への移行を表明したため、2007年にブータン初の総選挙が行われることになった。
 選挙や議会がどういうものか想像もつかない村人たちのために、役人たちは地方を回って模擬選挙を実施する。
 そこで起こる混乱やハプニングをユーモラスなタッチで描いた作品である。

 模擬選挙の実施を前に、村中から敬われている老僧はひとつの決断をし、弟子に申し付ける。
「鉄砲を2丁用意せよ」
 弟子は山を下りて、村中を巡って、鉄砲を探す。
 一方、銃コレクターの米国人は、南北戦争時代の古い鉄砲を村人が所有していることを知り、破格の高値でそれを買おうと試みる。
 鉄砲は、老僧を敬愛する持ち主によって、無償で弟子に手渡された。
 弟子に先起こされた米国人は、彼を追って山に登り、老僧がとり行う儀式に参列することになる。
 いったい、老僧は何を考えているのか?
 儀式とは何なのか? 

 まず、西洋人をはじめとする世界各国の人々が命をかけて闘って勝ち取ってきた民主主義が、ブータンでは国王から与えられたというところが面白い。
 国民の多くは国王に対する深い敬愛の念を持ち、今の制度や生活に満足していた。
 取りたてて変化は望んでいなかった。
 上から与えられた民主主義なのである。
 君主制と民主制、どっちが国民にとって良かったのか。
 結果はこれから先に見えてくるのだろう。

 ブータンの仏教も興趣深い。
 国民の多くはチベット仏教を信仰している。
 チベット仏教は、テーラワーダ仏教(小乗仏教)、大乗仏教、密教、タントラ、土着のボン教、転生活仏(ダライ・ラマ)などをごった煮した「仏教の総合デパート」みたいな、よく分からないものなのだが、とりわけ、インドの後期密教に由来するタントラ色(性的要素)の強さが、現代日本人からするとビックリ仰天である。
 ブータンではいまも男根信仰が一般的で、力のシンボルとして、あるいは魔除けとして、男根を家の外壁に描いたり、簡素化したオブジェを軒先に吊るしたりすると言う。
 本作においても、老僧がとり行う重要な儀式の際に、立派な男根のオブジェが用いられる。
 このオブジェの最終的な行方には吹き出した。

金精大明神
秩父巡礼で通った金精大明神
日本でもかつては男根信仰がよく見られた

 本作を観たあと、TVで現在建設中のリニア中央新幹線の映像を観た。
 最高時速500kmに及ぶ超電導磁気浮上式リニアモーターカーで、東京ー名古屋間を40分で結ぶ。
 開業は2037年以降の見込みという。
 移動経過そのものが旅の楽しみの一つであるソルティにしてみれば、東京-名古屋を40分で移動することに「何の意味があるの?」という感じしか持てない。
 原則トンネル内を走るので、外の景色もほとんど見られない。(時速500kmでは富士山も楽しめまい)
 「いや、仕事で使えるでしょ?」と言う声もあろうが、インターネットやZOOMがある現在、高い経費を払ってわざわざ移動したり出張したりする必要があるのだろうか? 

 はたと気づいた。
 ソルティが求めている“昔の日本”とは、つまるところ、「時間の豊かさ」を意味しているのだ。
 なにものにも追われない、ゆったりとした濃密な時間。
 過去にも未来にもせかされない「今ここ」の生。
 目の前の相手だけが大切な、一期一会のこころ。
 茶道に通じるようだが、なんのことはない、誰でも知っている子供の頃の日常である。
 最適化とか効率とか費用対効果とか役に立つ付き合いとか、そういった功利的な概念に冒されない世界でこそ味わえる時間の豊かさ。
 この映画に出てくるブータンの田舎の人々は、そういう時間を生きているのである。

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おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損














● なんなら、奈良24(奈良大学通信教育日乗) 豊臣兄弟の手柄?

 昨年12月半ばに受けた書誌学の試験結果が郵送されてきた。
 無事、合格(80点)。
 ほっとした。

 事前に提示されている5つの設題のうち、当日出題されたのは「初印本と後印本の区別の方法について述べよ(出題番号9)」だった。
 もちろん、ソルティは5つの設題すべてについて自分なりに回答を作成し、がむしゃらに暗記して試験に臨んだ。
 が、5つの中で一番自信が持てない回答がまさに9番だった。
 字数は500字に届かず、答案用紙の1/3も満たない。
 これで大丈夫だろうか?
 試験直前、「9」という数字が板書されたのを見たとき、「あちゃー!」と心の中で叫んだ。
 記憶したままを書き写すほかなかったが、20分ほどで終えてしまい、試験会場から一番早く退出した人間になってしまった。
 正直、合格するかどうか自信がなかった。
 高尾山初詣(DA・I・KI・CHI!)が効いたのかもしれない。

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高尾山頂から

 今回、書誌学を学んで初めて知り、「へえ~」と感心したことの一つは、豊臣秀吉と活字印刷との関係であった。
 日本の印刷は古来、版木に文字を左右逆に彫ってその上に墨を塗り、料紙を置き、バレンでこすって印刷する、いわゆる製版印刷が主流であった。
 室町時代になって活字印刷が始まるのだが、そのきっかけを作ったのが秀吉の朝鮮侵攻(1592文禄の役&1597慶長の役)だったのである。
 秀吉の武将である小西行長、加藤清正らが、書物や工人とともに銅活字を略奪してきたのが、日本における活字印刷の端緒となった。
 これを古活字版と言う。
 ちなみに、活字印刷とは、1字ずつ独立した文字を彫刻し、これを配列組み合わせて原版にし、印刷する方法である。

 実は、活字印刷の流入にはもう一つ別のルートがあった。
 天正18年(1590)、布教のために長崎にやって来たスペインやポルトガルのキリスト教宣教師たちもまた、活字印刷機・アルファベット活字・付属器具・印刷技師を持ち込み、印刷を始めた。
 これをキリシタン版と言う。
 よく知られるように、徳川家康は厳しい禁教対策をとった。
 慶長18年(1613年)に出されたキリスト教禁止令により、キリシタン版は姿を消すことになり、以後は古活字版のみが定着した。
 キリシタン版は、宣教師やキリシタン学校の教師用の教科書(『平家物語』や『後漢朗詠集』などの文学書もあった)と、修道士や信徒用の宗教書など、禁止までの約20年間に50点に及ぶ書籍が印刷されたと思われるが、現存するのは約30点のみである。

踏み絵
江戸時代の踏み絵

 秀吉のもたらした古活字版は、江戸時代初期に隆盛を極め、徳川家康自らが銅活字を鋳造し出版事業を行ったほか、『日本書紀』、『万葉集』、『伊勢物語』、『竹取物語』、『枕草子』、『古今集』、『太平記』などが初めて出版され、多くの人が日本の古典に触れる機会をつくった。
 また、印刷出版が商売として成り立つ基礎がつくられ、京都の本屋新七をはじめとする本屋が生まれた。
 これが、昨年のNHK大河ドラマ『べらぼう』で描かれた寛政期の蔦屋重三郎ら出版プロデューサらの輩出につながるのである。(もっとも、古活字版は50年ほどで廃れたので、『べらぼう』に出てきた本は、基本的に製版印刷の袋綴である)

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徳川家康鋳造の銅活字

 今年の大河ドラマはまさに『秀吉兄弟』。
 豊臣秀吉と秀長の天下取りまでの苦難と兄弟愛が描かれる。
 秀吉の朝鮮侵攻と活字印刷のはじまりも描かれるかなあ~と思ったが、調べてみると弟・秀長が亡くなったのは、天正19年(1591)、朝鮮侵攻の前年である。
 秀長は朝鮮侵攻に関わっていないのであった。
 ドラマで朝鮮侵攻まで描かれるか分からない。 
 秀吉の右腕で、ただ一人直言できるいさめ役であった秀長が生きていれば、秀吉の無謀な朝鮮侵攻はなかったかもしれない。
 でも、その場合、古活字版は登場しなかった。
 日本の印刷の歴史は違ったものとなっていたかもしれない。

 奈良大学で歴史文化財を学ぶようになって得た特典の一つは、大河ドラマを見る楽しみが格段と増したことである。
 とくに今回は、秀長を演じる仲野太賀と、秀吉を演じる池松壮亮の両人とも、演技が達者(かつイケメン)なので、見ごたえがある。

飛雲閣
京都の飛雲閣(国宝)
秀吉が建てた聚楽第の一部を移築したものではないかと言われる。






























● 映画:『けものがいる』(ベルトラン・ボネロ監督)

2025年フランス・カナダ
146分

けものがいる

 原題は La bete
 フランス語で「獣」の意。
 ヘンリー・ジェイムズの『密林の獣(The Beast In The Jungle)』という小説が元ネタだというが、原作とはまったく別物と考えていいだろう。

 本作はいろいろな映画を思い起こさせる。
 一番近いのはウォシャウスキー姉妹(もと兄弟)の撮った『クラウドアトラス』ではないかと思う。
 つまり、輪廻転生をテーマにした人間ドラマなのである。

 3つの時代が行き来され、ガブリエルという名の女性と、ルイという名の男性の、互いに強く惹かれ合いながら結ばれることのない関係が描き出される。

 まず、20世紀初頭のパリの上流社会。
 人形制作会社の社長夫人でピアニストのガブリエルと独身貴族のルイは、パーティでの再会をきっかけに何度も逢瀬を重ね、関係を深めていく。
 しかし、ガブリエルの抱える精神的問題――自分も世界もやがて破滅するという予感――や人妻という立場がネックとなって、2人は結ばれることのないまま、人形工場の火災に巻き込まれて死んでしまう。

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SecouraによるPixabayからの画像

 次は、2014年のロサンゼルス。
 売れないモデルのガブリエルは、30歳にして童貞のルイにストーカーされる。
 ガブリエルはルイを受け入れようとするが、自らの人生や社会を呪うルイの心をほぐすことはできず、仮住まいの豪邸のプールでルイに射殺されてしまう。

 2025年、なにか破滅的なことが人類に起こった。(これはくわしく語られない)
 その結果、人間社会はAI管理社会に移行し、人類の多くはAIに仕事を奪われる。
 感情を制御することのできる人間だけが高等な仕事を与えられ、それができない人間は単純労働しか与えられない。
 感情を制御するためには、DNAを浄化することによって前世から持ちこしたトラウマを取り除く作業が必要で、それには専用の装置に入って、自らの前世を追体験しなければならない。

 2044年、単調な仕事に飽き飽きしたガブリエルは、やりがいある仕事を得るためにDNA浄化を考える。
 が、自らの感情を失ってしまうことに大きな不安を覚える。(感情を失えばもちろん恋もできなくなる)
 そんなとき、自分と同じく職探しをしているルイと出会う。
 DNA浄化を決断したガブリエルは、装置の中で自らの前世をたどり、繰り返されるルイとの関係を記憶によみがえらせる。
 20世紀初頭のパリで、2014年のロスで、前世で幾たびも出会い、互いに惹かれ合い、結ばれる直前まで行きながら、それぞれの不安や自信の欠如や恐れから成就することのなかった恋の相手だったことを知る。
 それを知ったいま、何百年の時を超えてついにルイと結ばれる時が来たと喜びにときめくガブリエルだったが・・・・・。

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Hello Cdd20によるPixabayからの画像

 20世紀初頭のシーンは、上流社会の贅沢な生活ぶりとそこで交わされるウィットに富む会話のさまが、ヴィスコンティの『イノセント』やアラン・レネの『去年マリエンバードで』を想起させる。
 オペラ『蝶々夫人』やシェーンベルクの音楽などが言及されるなど、全体に文芸調である。この部分はヘンリー・ジェイムズの小説世界にもっとも近い。
 1910年1月に起きたセーヌ川氾濫によるパリ水没など、実際の事件を取り入れてリアリティを高めている。

パリの洪水

 2014年のシーンは、ストーカーにつけ狙われる若く美しい女性というプロットのため、『サイコ』を筆頭とするサイコサスペンス映画の様相をみせる。
 ここでも、2014年8月に起きたマグニチュード6のロサンゼルス地震をサスペンスを高めるのに利用している。

 2044年のシーンは、近未来という点でSF仕立てである。
 科学(AI)が人類を支配する社会、人類の感情が平板化しロボット化する社会という点で、『マトリックス』や『ガダカ』あたりを連想する。
 DNAに書き込まれた前世のトラウマを取り除き、感情に振り回されない人間になることが求められるという設定が、あたかも、瞑想修行によって悟りをひらき「欲(貪)」と「怒り(瞋)」と「無知(痴)」によって駆動する輪廻転生からの解脱を目指す仏教の言説をなぞっているようで、面白かった。
 たしかに、仏道を徹底するところに恋愛は成立しない。 
 人間的感情を捨象したところに仏教の悟りはあるからだ。
 その意味では、ジブリの『かぐや姫の物語』とも符合する。

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 コスチュームプレイとサスペンスとSF、そして恋愛とスピリチュアル。
 1つの作品で5つの映画を観たようなオトク感がある。
 写実に富みながらもスタイリッシュな映像も見ごたえ十分。
 同一のセリフやシチュエイションを3つの時代で共起させ、輪廻転生の不可思議を感じさせる脚本もよくできている。
 おそらく、一度観ただけでは設定や構成がわかりにくく、無駄に長いと感じる人も多いかと思う。
 が、観るたびに作り手が仕組んだ仕掛けを発見するパズルのような映画と思う。
 ソルティは気づかなかったが、主役の2人(ガブリエルとルイ)以外にも、3つの時代に共通して登場する転生者、すなわち同じ役者がいるのではないかと思う。 
 そもそも、「けもの」とはいったい何なのだろう?




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


● アニメ開拓宣言 映画:『AKIRA』(大友克洋監督)

1988年日本
124分、アニメ  

AKIRA

 1月3日にNHK教育で放映されたものを録画視聴。
 20代の時にリアルタイムで劇場で観たような気もするのだが、内容をまったく覚えていなかった。
 ソルティはアニメ映画がそれほど好きでなかったし、バイクや戦車や戦闘機などメカニックにも興味持てないし、大友の描く世界は暴力的・マッチョ的匂いが感じられたので、惹かれなかったのだろう。

 ただし、1980年に発表された『童夢』だけは例外で、漫画という視覚芸術のもつ表現の豊かさと、ストーリー(いわゆるネーム)の形づくる文学性とが、日本漫画史上最高の完成度において結実したのがあの作品だと、今でも思っている。
 大友克洋の名前は『童夢』とともに残るであろう。

童夢
双葉社発行

 公開から38年経ってあらためて観た『AKIRA』には驚かされた。
 なんと言っても映像表現の凄さである。
 CGによる高度で自由自在な動画制作が可能となった今においても、まったく古さや稚拙さを感じさせない。
 88年の段階で、日本のアニメはここまでのレベルに達していたのかと驚嘆させられた。
 現在、世界各国から若者たちが日本にやって来るが、彼らの動機には「日本のアニメが好きだから」「子供の頃から観ていたから」というのが非常に多い。
 ソルティのまったく聞いたこともないような日本製のアニメの名前やキャラクターの名前を彼らが嬉しそうに口にするのを見ると、冗談のような気がしてしまう。
 日本のアニメの国際化(とくにネット時代に入ってからの)に対する自分の不明を突きつけられる。
 まさにその先鞭をつけたトップランナーが、この『AKIRA』と宮崎駿作品なのだろう。
 現在活躍する海外のクリエイターのどれだけ多くが、少年少女時代に『AKIRA』を観て、衝撃を受け、映像の道を進むきっかけとしたことか。
 その意味で、日本アニメ史における記念碑的作品と言っていいのだろう。

 ただし、最初から最後まで映像の凄さには驚嘆させられたものの、プロット的には不完全燃焼というか、尻切れトンボというか、『童夢』ほどの衝撃はなかった。
 作画のリアリティほどには、ストーリーのリアリティは担保されておらず、ラストに近づくにつれ、どんどん話が荒唐無稽のご都合主義になっていき、登場人物たちの心理もよくわからない突発的なものになっていく。
 まるで少年漫画のよう・・・・・
 ――ってこれは漫画だった。

  そう、ソルティがその昔アニメから“卒業”したのは、ストーリーのリアリティの無さ、単純で紋切り型のキャラクター、悪と正義の対決といった平板な世界観に飽いたからだった。
 以来、実写映画専門になった。

 しかるに、アニメもここ数十年でずいぶん変わった。
 大人の鑑賞に堪える――という言い方はいささか“差別的で”好きでないが――観た後に深い余韻を残すアニメも数多くある。
 たとえば、『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』(1995)、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』(2001)、『かぐや姫の物語』(2013)、もちろん『もののけ姫』、『風立ちぬ』などの宮崎駿作品・・・・。
 今年はアニメ映画をもっと開拓して行こう。



おすすめ度 :★★★★

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 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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