ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

映画・テレビ

● 千葉真一がエモすぎ! 映画:『沖縄やくざ戦争』(中島貞夫監督)

1976年東映
96分

 チャカが出てくるヤクザ映画は好きじゃないが、日本返還後の沖縄が舞台というので、当時の風俗や街の匂いが伺えたらと思い、借りてみた。

沖縄やくざ戦争DVD

 戦後沖縄のヤクザ抗争は、スターこと又吉世喜を親分とする那覇派と、ミンタミーこと新城喜史を親分とするコザ派の対立から始まったとされる。
 このあたりの模様は、真藤順丈著『宝島』に実名のままに描かれている。
 1972年の返還を前に、本土最大組織である山口組が沖縄を配下に収めようと乗り込んできた。
 これをきっかけに、那覇派とコザ派(やんばる派と改名)は大同団結した。
「ヤマトンチュウに沖縄を奪われてたまるものか!」というわけだ。
 いったん状況は落ち着いたかに見えたが、そこは抑えの効かない狂犬の集まり。
 やんばる派で起きた内部抗争が引き金となって、那覇派、山口組も入り混じえた全島を揺るがす壮絶な闘いが勃発する。

 本作は、このやんばる派の内部抗争を描いた実録風ドラマである。
 もちろん、冒頭クレジットではフィクションと銘打ってあり、登場人物に実名は使われていない。
 が、ヤンバル派⇒国頭派、新城喜史⇒国頭正剛(千葉真一)、又吉世喜⇒翁長信康(成田三樹夫)、山口組⇒旭会、と変換されていることは、ちょっと調べれば分かる。
 本作の主役である中里英雄のモデルは、新城喜史とは兄弟分でありながら、内輪もめからやんばる派を脱会することになり、その後、組織から追われることになった上原勇吉という実在した男。
 演じるは松方弘樹である。

 どこまでが事実でどこからが創作か、誰が実在した人物で誰が創作上のキャラクターか、いちいち調べる気はないけれど、全編に溢れかえる暴力と残虐と怒りと愚かさだけは、現実にあったものと変わらないだろう。
 中里の子分の一人が、国頭組に拉致監禁されたうえ、ペンチで陰茎を捩じ切られるシーンが出てくる。
 見ていて思わず腰を引いてしまった。(これは実際にあったことらしい)
 こういった映画を観ていると、ある種の男にとって、暴力とは問題を解決する手段ではなくて、目的そのものなのだとつくづく感じる。
 暴力のための暴力。
 実に阿修羅とはこういう存在を言う。

阿修羅
 
 国頭正剛を演じる千葉真一が、異次元の怪演をみせている。
 酒場で一般人相手に暴れまくったり、上半身裸になって沖縄民謡に合わせて空手の型を見せたり、猿のようにテーブルに飛び乗ったり、人間離れした無頼ぶりが精彩を放っている。
 この千葉真一の演技は一見の価値がある。
 
 ほかに、ぴちぴちジーンズ姿が若々しい渡瀬恒彦や、あいかわらず悲惨な役柄の尾藤イサオ、旭会(=山口組)幹部役の梅宮辰夫、国頭組の冷酷にしてニヒルな参謀石川役の地井武男など、東映スター大集結といった豪華さが感じられる。

 残念ながら、ある事情があって、本作は沖縄ロケを敢行できず、ほぼ全編京都撮影となったそうだ。(ウィキ「沖縄やくざ戦争」より)
 返還直後のリアルな沖縄の風景は見られなかった。

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松方弘樹と千葉真一、手前は地井武男




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損








● 映画:『蠅の王』(ピーター・ブルック監督)

1963年イギリス
87分、白黒

 原作は、英国作家ウィリアム・ゴールディング(1911-1993)のノーベル文学賞受賞作。
 「蠅の王」とは聖書に出てくる悪魔ベルゼバブのこと。
 と言っても、オカルト映画ではない。
 『十五少年漂流記』の闇バージョンといった内容で、無法状態におかれた少年たちが陥った狂気を描く反ヒューマニズム・サバイバル・サスペンスである。

 飛行機事故により南海の孤島に取り残された数十人の少年たち。
 最初のうちはリーダーやルールを決めて、みんなで協力し合い、サバイバル生活を送っていた。
 が、リーダーを快く思わない一部が離反し、集団は二つに分かれる。
 次第に野性をむき出しにして獣のように狂暴になっていくグループと、最後まで人間らしく文化的に生きようとするグループ。
 次第に、狩猟にすぐれた前者に荷担していく者が増える。 
 そのうち前者は悪魔に憑りつかれたようになって、カリスマ性あるリーダーの命令のもと、後者を一人また一人と血祭りにあげていく。 

 原作を読んだのは学生時代だった。
 夏休みだったが、うなじから背中に氷を入れられたような冷感に襲われた。
 ゴールディングが本作を書いたきっかけとなったのは、彼が小学校の教員をしていた時の体験だと、解説に書かれていたのを覚えている。
 つまり、身の回りの少年たちの言動の中に常日頃、“悪魔”的なものを見ていて、それをもとにこの小説を作り上げたのである。
 「ずいぶんと観察眼ある、しかし性悪説の作家だなあ」と当時ソルティは思った。
 「よほど、生徒たちに振り回され、痛い目にあったんだろうなあ」
 
 むろん、これは一種の寓意小説である。
 少年の集団に仮託して、ゴールディングが描きたかったのは、人間の奥底に潜む支配欲や攻撃性や獣性、集団となったときの人間が帯びる負のグループダイナミズムやファッショの狂気である。
 沖縄戦や南京虐殺における日本軍の蛮行、アウシュビッツにおけるユダヤ人大量虐殺、連合赤軍やオウム真理教内部で起きていたこと、キリングフィールド(殺戮場)と呼ばれたカンボジア、スハルト政権下のインドネシア、十字軍のイスラム教徒蹂躙、関東大震災時に起きた朝鮮人虐殺や福田村事件、ルアンダの悲劇・・・・人類史に例は事欠かない。

 ただ、これを獣性とか鬼畜の所行と言ってしまうのは、譬えられる動物にとって迷惑千万な話であり、動物は普通ここまで同じ種に対して残虐な仕打ちはしない。
 本能によって限界が設けられている。
 本能の壊れた=自我を持つ人間だけが、この世に地獄を作り出せる。

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野獣グループが神と仰ぐ「蠅の王」

 原作の設定でもそうだったのかよく覚えていないのだが、悪魔化していく少年グループのコアメンバーは、もともと教会の聖歌隊であった。
 彼らは讃美歌を口ずさむながら、人間狩りをする。
 ここには強烈な皮肉がある。

 本作のラストは、「蠅の王」への贄を求める狂気集団の標的とされた元リーダーの少年が、島中を逃げ回り、あわや捕らえられる絶体絶命の瞬間、救助に来た大人と砂浜で遭遇するシーンで終わる。
 助かった!
 孤島の殺戮劇は終了した。
 最後のカットは、燃える森をバックに、安堵の涙を流す少年のアップである。

 しかし、原作のラストは違った。
 助けに来たのは、島の近くを通りかかった戦艦の乗組員、すなわち兵士であった。
 少年の瞳には、兵士が島に漕ぎつけるのに使用したボートのはるか向こうを遊弋する、巨大な戦艦の姿が映る。
 ――ジ・エンド。
 少年たちの殺戮ゲームを裁ける資格を、大人は持っているのか。
 
 この重要なラストシーンがなぜ映画ではカットされたのか、不明である。
 『蠅の王』は、1990年にハリー・フック監督によって再映画化されている。
 そちらの最後はどうなんだろう?

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軍艦島
Jordy MeowによるPixabayからの画像



おすすめ度 :★★★

★★★★★
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● その火を飛び越して来い 映画:『潮騒』(森永健次郎監督)

1964年日活
82分、カラー

 三島由紀夫原作のこの有名なロマンスはこれまでに5回映画化されている。
  • 1954年(昭和29年) 監督:谷口千吉 主演:青山京子&久保明
  • 1964年(昭和39年) 監督:森永健次郎 主演:吉永小百合&浜田光夫
  • 1971年(昭和46年) 監督:森谷司郎 主演:小野里みどり&朝比奈逸人
  • 1975年(昭和50年) 監督:西河克己 主演:山口百恵&三浦友和
  • 1985年(昭和60年) 監督:小谷承靖 主演:堀ちえみ&鶴見辰吾
 ソルティ世代(60年代前半生まれ)は、百友コンビの1975年版に思い入れが深い。
 団塊の世代なら、当然、小百合サマ主演の本作であろう。
 同時上映が、石原裕次郎&浅丘ルリ子の『夕陽の丘』(松尾昭典監督)だったというから、今思えば最高に贅沢なプログラムである。
 他にも、個性的な風貌とたしかな演技力で気を吐いた石山健二郎、清川虹子、高橋とよ等ベテランが脇を固めており、伊勢湾にある神島の美しい風景や中林淳誠による抒情的なギターBGMと相俟って、質の良い映画に仕上がっている。
 半世紀以上前の日本の小島の漁村文化の風景は、記録としても興味深い。
 (神島に行ってみたいな)

神島
ウィキペディア「神島」より

 原作者である三島は第1作の1954年版を気に入っていたらしいが、本作はどう評価したのだろうか?
 気になるところである。
 とりわけ、主役の漁師久保新治を演じた浜田光夫をどう思っただろう?
 ソルティの受けた感じでは、浜田は演技は悪くないが、都会的な匂いが多分にあり(潮の匂いというより地下鉄の匂い)、漁師としての肉体的逞しさにも欠けるように思う。
 ふんどしも似合わないだろう。(有名な「その火を飛び越して来い」のシーンではふんどし姿にならない)
 個人的には過去5作の新治役の中では鶴見辰吾が一番イメージ的にしっくりくるが、まあ全作観ていないので何とも言えない。

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有名な「火越え」シーン
原作の書かれた50年代には神島にジーンズは入ってなかったろう

 小百合サマはあいかわらず可愛らしく華がある。
 美少女には間違いないけれど、角度によっては意外と芋っぽく見える瞬間があり、島の長者の娘初江として、それほど場違いな感じはしない。
 なにより溌剌としたオーラーが若さを発散して惹きつける。
 
 島の海女たちのリーダーおはる(高橋とよ)が、初江(小百合)が生娘かどうか確かめるため、仕事を終えた仲間と語らう浜辺で、初江の乳房を観察するシーンがある。
 80年代までなら上映に際して別になんら問題の生じなかったシーンであるけれど、令和の現在はなんらかの脚色(=取り繕い)が必要になって来よう。
 この小説が、85年を最後に映画化されていないのは、そのあたりの事情もあるのかな?
 昭和文学ってのは、ジェンダー視点からはかなり悪者になってしまった。
 
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小百合の乳房を確認する高橋とよ
このあと「おらのは古漬けだ」というセリフが来る






おすすめ度 :★★★

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● 映画:『メイズ・ランナー』(ウェス・ボール監督)

2014年アメリカ
113分

 原作はジェームズ・ダシュナーが2009年に発表したヤングアダルトSF小説。
 『メイズ・ランナー』の題名で角川文庫から邦訳が出ている。
 巨大な迷路(Maze)の真ん中に閉じ込められた若者たちの脱出劇を描くシチュエイション・スリラーである。

迷路
 
 意識と記憶を奪われて、ある日突然、迷路の中に放り込まれた若者たち。
 迷路をつくる分厚い壁は日々縦横無尽に移動し、迷路の中には獰猛醜悪なサソリを思わす怪物が棲んでいるので、容易には抜け出すことができない。
 外的環境の厳しさのみならず、主導権を巡っての仲間割れなど内的事情もなまなかなものではない。

 観ていて想起したのは、貴志祐介のサバイバル・ホラー『クリムゾンの迷宮』。
 あの作品と同様、迷路の中の若者たちを外部からモニターで監視する大人たちがいる。
 その目的はいったい何なのか?

 借りたときは気づかなかったが、映画は原作同様3部作仕立てであった。
 よって、謎が解明されず、若者たちの置かれている状況も理解できず、無事迷路を脱した者たちの苦難も去らないまま、続編に続く。
 しかし、ソルティはもう続きを追うことはないだろう。
 あくまでヤングアダルト向け。
 内容も映像もゲーム感覚である。
 いち早く抜けることにした。
 
 


おすすめ度 :★★

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★     読み損、観て損、聴き損







 

● R65-(65歳以上、鑑賞注意) 映画:『パーフェクト・ケア』(J・ブレイクソン監督)

2020年アメリカ
118分

 介護業界の闇をテーマにしたクライムサスペンス。
 原題は I Care a Lot 「ケアにかかりきり」ってところか。
 
 医師によって認知症の診断を下された独り暮らしの高齢女性ジェニファーが、高級老人ホームに無理矢理閉じ込められて、家や車や財産など一切合切を悪徳後見人マーラに巻き上げられてしまうまでが前半。
 ジェニファーの息子ローマンは実は裏社会のボスであることが判明し、母親を取り戻そうとするローマン一味とそれに抗うジェニファーとが死闘を繰り広げるのが後半。

 女だてらに(と言うと男女差別の叱りを受けそうだが)元ロシアンマフィアのボスに逆らい、瀕死の目にあわされながらも驚異的なガッツでサバイバルし、あまつさえボスに復讐を企てるマーラの闘志とパワーがとにかく凄い。
 アクション満載の後半は、最後までどう決着するか読めないスリリングな展開で、映像から目が離せない。
 マーラを演じるロザムンド・パイクは、デヴィッド・フィンチャー監督『ゴーン・ガール』でも、目的の為なら手段を選ばぬソシオパス(反社会性人格障害)の妻を好演していた。
 かつてジェーン・オースティンの名作『プライドと偏見』(ジョー・ライト監督2005年)で純粋でお人好しのお嬢様ジェーン・ベネットを演じていたのと同じ人間と思えない、女優としてのたしかな成長ぶり。
 しかも、ここでパイクが演じるマーラはレズビアンという設定で、恋人女性とのラブシーンもある。
 生きるのに男を必要としない女性2人が、男尊女卑の父権社会に敢然と立ち向かい、自力でのし上がっていくフェミニズムな物語と読むこともできる。
 その意味で、リドリー・スコット監督『テルマ&ルイーズ』(1991)を想起した。

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Victoria_WatercolorによるPixabayからの画像

 しかしながら、本作の最も独創的でゾッとするところは、淡々とした前半である。
 認知症高齢者の身上保護や財産管理を後見する人間が、もし悪徳で強欲だった場合、何が起こりうるかを描いて、この上なく恐ろしい。

 ジェニファー・ピーターソン(往年の名女優ダイアン・ウィースト演ず)は、一人暮らしなれども何不自由ない快適な老後を送っていた。
 ある日突然、後見人を名乗る女が戸口に現れて、「あなたは認知症のため、医師と裁判所の指示により医療保護のもとに置かれることになりました。私があなたの後見人です」と告げる。
 誰かに連絡とる暇も与えられず、警官付き添いで車に乗せられ老人ホームに連れていかれ、そのまま一室に閉じ込められる。
 安全とプライバシーの名のもと、外に出ることも電話をかけることも叶わない。
 その間に、財産は整理され、車と家は売却され、銀行の個人金庫は空にされる。
 以上すべてが、正式な医師の診断書と裁判所の公式な手続きのもとに遂行されていく。

 ジェニファーは実際には認知症ではなかった。
 マーラと手を組んだ悪徳医師が偽の診断書を作成し、マーラの息のかかった高級老人ホームに“合法的に”送致されたのであった。つまり、グルなのだ。
 知らないうちに認知症にさせられ、それを否認する言葉を周囲の誰も信じてくれないという恐怖。(なぜなら、「認知症患者の多くは自らが認知症だとは認めない」というのは通説になっているから)
 本人にしてみれば、カフカの小説の主人公が味わうような悪夢であろう。
 実際にありそうな話だから怖い。

 しかしながら、当人が本当に認知症であったとしても、一方的に診断を受け、無理矢理施設に入れられる理不尽と恐怖は同じようなものだろう。
 自分を認知症と思っていない本人は、全然納得していないのだから。
 ソルティが介護施設に務めていた時、ベッド脇のナースコールをマイクのように握りしめて、「もしもし、すぐに110番してください。わたしは誘拐されてここに閉じ込められています。助けに来てください」と日々繰り返していた80代の女性がいた。
 戦争も貧苦も乗り越えて80過ぎまで生きてきて、最後にこんな目に遭わされるなんて!
 彼女の目には、介護者であるソルティもまた、恐ろしく冷酷な牢番に映っていたであろう。

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Gerd AltmannによるPixabayからの画像

 日本でも認知症、知的障害、精神障害など判断能力が十分でない人の権利と財産を守るための成年後見制度というものがある。
 たいていは、妻や夫や娘息子など家族が後見人になるのだが、身寄りのない人や家族が適任でないとみなされた場合は、弁護士や行政書士などが選任される。
 後見人がこの映画のマーラーのような人物だったら、当人はそれこそ尻の毛まで抜かれてしまうだろう。
 また、後見人でなくとも、悪徳老人ホームの理事長が認知症入居者の財産を掠め取っていたという話はしばしばニュースにのぼる。
 財産ってのは、あればあるでトラブルが絶えないものだ。(負け惜しみ)

 お金持ちの65歳以上の人は余計な不安が募ると思うので、本作の鑑賞をお勧めしない。




おすすめ度 :★★★★

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● 切られた人格 映画:『スプリット』(M・ナイト・シャマラン監督)

2017年アメリカ
117分

 『シックス・センス』『サイン』『ヴィレッジ』など、どんでん返し型サスペンスミステリーの作り手として有名なナイト・シャマラン監督。
 多重人格(医学用語では解離性同一性障害)の男に囚われた3人の女子高生の血も凍るような地獄の体験が描かれる。
 原題の Split は「分裂する」の意だろう。

多重人格

 23の人格を持つ多重人格者を演じるジェームズ・マカヴォイの演技が見物である。
 幼少の頃に親から虐待を受けた本来の人格ケビン、ファッションデザイナーのオネエさんバリー、9歳の無邪気な男の子ヘドウィグ、強迫障害をもつ潔癖症の男デニス、歴史オタクの中年オーウェル、ヒステリー気質の女パトリシア、インスリン注射の欠かせない糖尿病患者ジェイド、そして他のほとんどの人格にも主治医の精神科医にも隠されていた24番目の人格ビースト。
 作中、マカヴォイは少なくとも8つの人格を演じ分けている。
 しかも、ある人格(デニス)が別の人格(バリー)のフリをして精神科医をたぶらかすなんて、複雑で難しい演技も求められている。
 役者冥利に尽きるような役であるが、なかなか見事な演技である。

 精神科医役のベティ・バックリーも、ユーモアと人情味ある経験豊富な女医を演じていて良い。
 拉致される女子高生の一人でやはり被虐待経験をもつ少女ケイシーを演じるのは、アニャ・テイラー=ジョイという名の女優兼モデル。冴え冴えした美貌が光っている。
 借りてきたDVDにはメイキングがついているが、それを観ると、完成版(公開版)ではまったく出てこないサブキャラ(演ずるのは黒人俳優)が登場している。
 つまり、彼の出るシーンはすべて切られてしまったのだ。
 シビアな世界だなあと、切られた人格(キャラ)にちょっと同情した。

 決してつまらない作品ではないけれど、児童虐待や多重人格をテーマにしたサスペンス映画は履いて捨てるほどあるので、目新しさはない。
 演出にもこれといった斬新さもなく、結末も凡庸。
 この監督、なかなか『シックス・センス』を超えられないのがつらいところだ。





おすすめ度 :★★

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● 2022年の映画ベストテン

 今年は66本の映画(ドキュメンタリー含む)を観た。
 月に5本以上、自宅DVD鑑賞が中心であった。
 鑑賞した順でベストテンを上げる。
(ただし、初見のものに限る。『砂の器』『おはよう』など本来ベストテンに入れるべき再鑑賞作品はのぞく)
  • 日本の夜と霧(大島渚監督)・・・実際には2021年12月末に観ている。昨年のベストテン選出に間に合わなかった。1960年頃の共産党や新左翼を描いたもの。組織を守るために空疎な理論を振り回す共産党幹部が醜悪。
  • マイ・バック・ページ(山下敦弘監督)・・・青春映画の傑作。1971年の朝霞自衛官殺害事件の顛末を描いた川本三郎の手記がもとになっている。今年はずいぶん左翼運動について学んだ年だった。
  • リンダ・リンダ・リンダ(山下敦弘監督)・・・高校を舞台にした少女たちの青春。山下監督を知ったのは今年の大きな収穫だった。近藤龍人というキャメラマンも。
  • (阪本順治監督)・・・『どついたるねん』阪本監督の力量および役者藤山直美の巧さを再確認した。
  • ひめゆりの塔(今井正監督)・・・米軍による爆撃シーンの圧倒的リアリティに慄いた。まさに鉄の暴風。水浴びする教師役の津島恵子と女生徒達の姿が忘れ難い。吉永小百合主演の舛田利雄監督版も悪くない。
  • 沖縄戦 知られざる悲しみの記憶(太田隆文監督)・・・本作が直接的なきっかけとなって、11月末の沖縄戦跡めぐりに至った。
  • 手をつなぐ子等(稲垣浩監督)・・・主役の少年寛太を演じた初山たかしの無邪気な笑顔に癒された。母親役の杉村春子も素晴らしい。
  • 薔薇の葬列(松本俊夫監督)・・・若きピーターの魔性とモノクロ映像の芸術性。ギリシア悲劇に通じるラストも衝撃的!
  • アンテベラム(ジェラルド・ブッシュ&クリストファー・レンツ監督)・・・今年一番の衝撃作。規模は小さくともアメリカで実際に起りえる(起こっている?)話だと思う。KKKは今も健在である。
  • 硫黄島からの手紙(クリント・イーストウッド監督)・・・さすがイーストウッド。かつての西部劇のヒーローであるこの男を、石原慎太郎のような脳筋マッチョに分類するのは誤りである。
  • 次点  『私は、マリア・カラス』(トム・ヴォルフ監督)・・・世紀の歌姫カラスの過去の稀少な舞台映像に興奮した。タイムマシーンがあったら、最盛期の彼女の舞台を観に行きたいソルティ。

 来年はどんな映画との出会いがあるだろう?


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沖縄旅行で立ち寄った那覇の桜坂劇場
沖縄の映画ファンのオアシスである
 
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1階には映画関連図書やDVD、パンフレットなども販売している
お洒落なカフェもある









● 死に軍、ふたたび 映画:『硫黄島からの手紙』(クリント・イーストウッド監督)

2006年アメリカ
141分、パートカラー
日本語

 1945年2月19日から3月26日にかけて小笠原諸島の硫黄島で行われた日米の戦いを、日本軍の視点から描いた作品。
 3月10日に東京大空襲があり、4月1日に沖縄本島上陸があったことからも分かるように、太平洋戦争末期のすでに日本の敗北が明らかな状況における軍(いくさ)、いわば死に軍である。
 日本兵たちは、生きて祖国に還れぬことが分かっていた。
 双方の攻撃がもたらす火炎のみカラー、それ以外はくすんだセピア色で統一した映像が、物哀しいBGMとともに、日本軍を被っている疲弊と悲愴と絶望とを表現してあまりない。
 一気に話に引きこまれる。 

 どこまでが史実でどこからが創作なのかという点は措いといて、まず、勝者アメリカの映画監督が、敵国だった日本軍の視点に立って過去の日米戦を描き出せる度量と技量がすごいと思う。
 渡辺謙、二宮和也、伊原剛志、加瀬亮、中村獅童ら日本人の役者を使って日本語で撮るのは当然の前提だが、描き出される日本人像が同じ日本人であるソルティが見ても、まったく違和感がない。
 多くの洋画で描かれてきたステレオタイプのアジア人像あるいは日本人像という型にはまらず、いわんや、米軍を最後まで悩ました敵として「憎々し気に、恐ろし気に、あるいはカミカゼやハラキリに象徴される狂気の民族として」描かれるのでもなく、郷土に残してきた家族を思い死を恐れる、米兵と変わりない市井の人間として描かれている。

 同じことをやった日本人作家がこれまでにいただろうか?
 たとえば、過去の日中戦争の一シーンでもいいが、侵略される中国人の視点から、中国人の役者を起用して中国語で撮影し、しかも現代の中国人が見ても違和感ないレベルの作品に仕上げたことのある日本人監督はいただろうか?
 それだけ考えても、イーストウッド監督の人間的度量と映画監督しての技量がわかろうものだ。

 そのうえに、本作はソルティがこれまでに観た戦争映画の中でも屈指の傑作である。
 戦場のリアリティは抜群で、役者がみな優れた感性と演技により個性あるキャラを打ち出し、抑制の効いたプロットと演出は格調高く、撮影も印象的である。(火炎以外にもう一箇所、カラーが使われるショットがある)
 戦争の怖ろしさと無意味さ、国家主義の非人間的な残酷さがあますところなく描き出されている。
 人民の本当の敵は、国家が想定し「悪」として祭り上げる敵国ではない。
 国家主義を押しつけ、「全体のために個を犠牲にせよ」と唱導する連中なのだ。
 ロシアや中国を見ればその事情は明らかではないか。
 人民がそのことに気づかない限り、日本はまた死に軍をすることになる。

硫黄島の闘い
日本軍が立て籠もった摺鉢山に星条旗を掲げるアメリカ軍
(従軍カメラマンのジョー・ローゼンタールによる撮影)

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摺鉢山





おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 吉田監督、追悼 映画:『炎と女』(吉田喜重監督)

1967年松竹
101分

 人工授精をテーマとする夫婦の愛憎劇。
 主演はもちろん、吉田監督の生涯のパートナーである岡田茉莉子。

 人工授精は夫の精液を用いる「配偶者間人工授精(AIH)」 と第三者男性からの提供精液を用いる「非配偶者間人工授精(AID)」に分けられる。
 夫の精液を用いる場合(AIH)は、通常の性交による膣への精液注入を他の手段に置き換えただけの話なので、合意のある夫婦間にさしたる問題は生じなかろう。
 たとえば、妻がHIV感染している場合、コンドームを使わない通常の性交だと夫にHIVをうつしてしまう可能性がある。
 安全な方法での妊娠を望むなら、夫の精液をビーカーなどに取っておいてそれをシリンジを使って妻の膣に注ぐという手がある。
 感染している母親から胎児・乳児にHIVがうつる確率は、先進国ではほぼゼロに近づけることができるので、これなら母親がHIV感染者であっても子供を安全につくることができる。
(ちなみに、父親がHIV感染者である場合でも、精液の科学的処理と体外受精によって子供を安全につくることができる)

 夫婦間に、あるいはのちのち親子間に問題が生じやすいのは、夫が無精子症などのため第三者の精液を使用したAIDの場合であろう。
 性交による授精ではないにしても、妻は夫でない男の精液を体内に注入され、夫でない他の男を遺伝上の父親とする子供を産んで育てなければならない。
 夫は、自分でない男の精液が妻に注がれ、遺伝上の実子ではない子供をおのれの子として育てなければならない。
 生まれてきた子供は、いつの日か自らがAIDによってできたことを知るかもしれない。
 血液型では判定できなくとも、遺伝子検査をすれば簡単にわかる。
 子供はショックを受けるかもしれない。
 自分の実の父親が誰なのか知りたがるかもしれない。
 家族関係が微妙に変わるかもしれない。

 本作で描かれるのは、このAIDを行なった夫婦の姿である。

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Clker-Free-Vector-ImagesによるPixabayからの画像

 子供は欲しいがつくることができない夫・真五を木村功が演じ、夫との愛ある生活があれば別に子供はいらなかったのに人工授精を強いられて産むことになってしまった妻・立子を岡田茉莉子が演じている。
 AIDにより子供をつくったことによって、穏やかに暮らしていた夫婦に亀裂が生じ始める。
 真五は自分が本当の父親でないことに引け目を感じ、血のつながった立子と息子・鷹士の母子関係を前に、自分が疎外されているような感覚を抱く。
 立子がほかの男と浮気しているという妄想を抱く。
 一方の立子は、精子の提供者=鷹士の本当の父親が誰なのか気になってならない。
 十分納得した上でつくった子供ではないので、生んだ鷹士への愛情もどこかなげやりである。
 このような境遇に自分を追いやった真五に対する恨みが払拭されないままでいる。

 そんな微妙な二人の関係に、やはり複雑な関係にあるもう一組の夫婦が絡まる。
 真五の友人である坂口(日下武史)と妻のシナ(小川真由美)。
 二人は愛情のない打算的な結婚をし、見かけだけの夫婦生活を送っていた。
 坂口は立子に思いを寄せており、シナは2人の関係を疑っている。
 しかも厄介なことに、坂口こそが鷹士の真の父親=精子提供者であり、そのことを真五だけは知っていたのであった。

 なんつー、面倒な四角関係であろうか?
 わけても、精子提供者である坂口と交友関係を結び続け、あまつさえ何も知らない妻や息子(坂口の遺伝上の実子)と合わせ続ける真五の倒錯性がこわい。
 自らを傷めたいマゾヒストなのか?

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左から、岡田茉莉子、小川真由美、日下武史、木村功

 話が全般暗く、人工授精に対する観念も古臭く、吉田監督の好きな男女のドロドロがここでも執拗に描かれるので、ソルティは途中でうんざりしてしまった。
 アラン・レネ監督の『去年マリエンバードで』を思わせるスタイリッシュなショットの連鎖と洗練されたセリフは見事である。
 
 一番の見どころは、岡田茉莉子、小川真由美、木村功、日下武史という実力派4大スターの競演であろう。
 映画的演技の巧みな岡田茉莉子&木村功ペアに対し、いかにも演劇的演技の小川真由美(当時は文学座所属)&日下武史(劇団四季)ペアという対比も面白いし、茉莉子と真由美の気の強い美女対決も楽しい。(茉莉子のほうが6つ年上)
 後者について言えば、監督が夫であるため茉莉子の美貌がひたすらに強調されているのは、『樹氷のよろめき』『情念』『水で書かれた物語』同様。
 愛妻家だったのだなあ。

 吉田喜重監督は本年12月8日に亡くなられた。享年89歳。
 ご冥福をお祈りします。





おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






 

● 今年一番の衝撃作 映画:『アンテベラム』(ジェラルド・ブッシュ&クリストファー・レンツ監督)

2021年アメリカ
106分

アンテベラム


 2022年もあと半月で終わろうとしているが、今年観た中で一番衝撃的な映画、それは間違いなく本作である。
 残り半月で、これを超えるものに出会えるとは思えない。

 どれくらい衝撃的かと言うと、ソルティは本作を2晩続けて観た。
 観終わったら、もういっぺん最初から観直さずにはいられないくらい、奸智に長けたトリッキーな作品なのだ。
 なんという脚本の隙の無さ! 
 なんという象徴性!
 一方、観終わってすぐに、早送りで観直すことはできなかった。
 内容が衝撃的すぎて、重すぎて、あっと驚くどんでん返しが仕組まれた他のよく出来たパズラーやサスペンスのようには、簡単に再生ボタンを押せなかったのである。

 この衝撃と重さに近い作品を上げるとするなら、テリー・ギリアム『未来世紀ブラジル』(1985)、ラース・フォン・トリアー監督『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000)、ジェニファー・ケント監督『ナイチンゲール』(2020)あたりだろうか。
 本作はジャンル的にはホラーサスペンスに分類されている。
 それは間違ってはいないけれど、むしろ社会派ドラマと言ってもいいくらい底の深い、現代的な内容である。
 たいして期待せず、暇つぶしの軽い気持ちで観始めたソルティは、途中で度肝を抜かし、居住まいを正し、胸を鷲づかみにされ、ラストは完全に持っていかれた。
 超弩級の問題作であるのは間違いない。

プランテーション

 アンテベラム(Antebellum)とは、ラテン語で「戦前」の意。
 アメリカでは特に「南北戦争前」の時代のことを指して言う。
 そのタイトル通り、本作は南北戦争時代のアメリカ南部の典型的な風景からスタートする。
 陽光降りそそぐプランテーション、緑鮮やかなる芝、影濃き木立、白亜のお屋敷、ドレスに日傘をまとった優雅な貴婦人、一面の綿花畑、風にはためくアメリカ連合国(南軍)の旗、軍服を着て銃を担ぎ行進する兵隊、そして庭や畑で働く黒人たち・・・・。
 かの名作『風と共に去りぬ』の幕開けシーンそのもの。

「ああ、これはコスチュームプレイ(時代劇)だったのか・・・」
 と、セットや美術の素晴らしさや照明・カメラワークの見事さに感心しながら観ている間もなく、惨たらしいシーンが続く。
 白人領主らによる黒人奴隷への虐待である。
 殴る、蹴る、銃殺する、レイプする、首に縄をかけて馬で引きずり回す、鞭で打つ、焼き鏝を背中に当てる、奴隷としての名前をつける・・・・e.t.c.
 目を覆うばかりの非道さ。

「ああ、これは『アンクル・トムの小屋』や『マンディンゴ』や『それでも夜は明ける』のような人種差別をテーマにした真面目な話なのか・・・」
 と、予想していたB級ホラーサスペンスとは異なる展開に、半ば残念な気持ちを抱きながらも“この時代の”黒人差別の酷さに怒りを覚えながら見続けていると、不意に場面は転じて、現代アメリカの高学歴高所得のインテリ黒人女性の日常へと話は飛ぶ。
 かつての黒人奴隷もいまや、人種差別・性差別撤廃のフェミニズムの闘士である。

「なにこれ? 二つの別の時代を交互に描いていく手法? あるいは、もしかしたら、輪廻転生がテーマ?」
 なるほど、DVDパッケージのデザインには輪廻転生の象徴である蝶があしらってある。
 また、映画の最初のクレジットには、アメリカの最も偉大な作家ウィリアム・フォークナーの言葉の引用があった。曰く、
「過去は決して死なない。過ぎ去ることさえしない」
 スピリチュアルホラーなのか・・・?

アメリカ連合国国旗
アメリカ連合国(南軍)の国旗
一般に、奴隷制や人種差別のシンボルとして忌避されている

 ここから先は書かない。
 蝶とフォークナーで暗示をかけられたソルティが真相を悟ったのは、物語もかなり進んでからであった。
 2度目の鑑賞により、真相を知る手がかりはあちこちに散りばめてあったことに気づいた。
 バイアスというのはままならない。

 真相を知った時、この身が震えるほどの衝撃が走った。
 それは見事にだまされていたことの衝撃だけではない。
 それ以上のものだ。
 暴かれた真相のあまりの狂気、あまりの非人間性、あまりの怖さ、そしてあまりの現代性に震えた。

 制作国であるアメリカでは本作の評価はかなり低かったらしい。
 そのことの意味を考えると、この映画が持っているホラーネス(怖さ)はいや増してくる。
 ただの陰謀論?
 いやいや、我々は、「カルト宗教団体が与党を支配している」という話を「陰謀論」と笑い飛ばせない現実を知っているではないか。

 はたして、松明を片手に高く掲げるヒロインの照らし出すものはなんなのか?
 軍服をはおり剣を空に突き立てジャンヌ・ダルクのごと馬駆けるヒロインが、帰る先はどこなのか?





おすすめ度 :★★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




 
 
 

● TVドラマ:『名探偵・金田一耕助シリーズ・悪霊島』

1999年TBS系列放映
94分
原作 横溝正史
演出 原田眞治

悪霊島

 『悪霊島』と聞けば、なんと言っても岩下志麻の鬼気迫る演技が鮮烈な1981年角川映画版が脳裏に浮かぶ。
 横溝正史の原作はほとんど覚えていないが、岩下志麻が演じた二重人格「神聖なる巴御寮人=男狂いのふぶき」の凛とした美しさ、しとやかさ、母性、奔放さ、淫らさ、狂気が入り混じった着物姿のショットの数々を忘れることができない。
 ある意味、横溝正史の原作を岩下志麻の怪演が凌駕してしまった作品である。

 その巴御寮人をやはり着物のよく似合う山本陽子が演じているというので、借りてみた。
 山本陽子もまた志麻サマ同様、気の強い役や異常性格な役のはまる女優というイメージが強い。
 ソルティの中では、松本清張『黒革の手帳』(1982年テレビ朝日)の男を手玉に取る銀座クラブのママ、『凄絶! 嫁姑戦争 羅刹の家』(1998年テレビ朝日)の姑いびりの嫁にして嫁いびりの姑、それに映画『デンデラ』(2011年東映)の姨捨山で逞しく生きる老婆の(素顔をさらした)演技が忘れ難い。
 さらに、フィクションを離れた実生活においても、山本陽子はスキャンダラスな女優であった。
 田宮二郎、沖田浩之、恋愛関係が噂された2人の男がそろって自殺するという悲劇は、逆に山本陽子に「魔性の女」という勲章をもたらした。
 聖なる美しさと男を破滅させる魔――『悪霊島』のヒロインを演じるにふさわしい。

 ――と期待して観たのだが、残念ながらこれはあまりにひどい出来であった。
 1977年に『犬神家の一族』という傑作でスタートを切った古谷一行=金田一耕助シリーズも、22年という歳月の間にどんどん質が落ちていったのだなあ、と再確認する思いがした。
 本作は2時間ドラマスペシャル『名探偵・金田一耕助シリーズ』として制作されたのだが、片平なぎさが主演しラストは崖の上で終わるような他の2時間サスペンスドラマとなんら変わり映えしない陳腐なミステリーに終始している。
 横溝正史の愛読者でこれを受け入れられる者が果たしているだろうか?

 シリーズ開始当初、30代前半だった古谷一行もいまや50代半ば。
 飄々として愛嬌ある風来坊の青年でいることはもはや難しく、金八先生のような説教癖のある疲れた中年オヤジに様変わりしている。
 山本陽子の美貌も最盛期は過ぎているため、映画における岩下志麻ほどの磁力は発揮されない。
 だが、まあそこは多言を弄しまい。(昨今はルッキズムの誹りを受けることなく映像表現を語るのが難しい)

 この作品の致命的な欠陥は脚本にある。
 横溝の原作とかなり離れているのは、時代の変化やテレビ放映という性質上、致し方ない部分はある。
 たとえば、原作や角川映画にあるシャム双生児の描写などは、人権の観点からいまやそのまま放映するのは難しかろう。
 だが、問題はそこにはない。
 一貫しない登場人物のキャラ設定、人間の感情や心理を無視した筋書きありきの強引な展開、ご都合主義、説明ゼリフの多さ、犯行動機や犯行手段の説得力の無さにはあきれかえるばかり。
 結局、なぜ「鵺のなく夜に気をつけろ」なのか、これで理解できた視聴者がいるとは思えない。
 正直、この脚本で演技することを要求された役者たちに同情した。
 
 今週末に最終回を迎えるNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見ると、脚本の三谷幸喜がいかにセリフに意を砕き、それぞれの役者のために見せ所・演じ所を作っているかが、よく分かる。
 それあってこそ役者は一番いい芝居をしようと張り切るし、ドラマは俄然面白くなる。
 12/11放送の北条政子(小池栄子)が並みいる御家人を前におこなった有名な演説シーンなど、脚本と演出と芝居が高レベルで溶け合った実に素晴らしいものであった。
 脚本は大切だとつくづく思う。






おすすめ度 :

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 前田高地の奇跡 映画:『ハクソー・リッジ』(メル・ギブソン監督)

2016年アメリカ、オーストラリア
139分

 1945年4月から始まった日米沖縄戦で死闘を極めた前田高地の闘いが舞台である。
 前田高地の峻厳たる地形をアメリカ軍は Hacksaw Ridge(弓鋸の崖)と呼んだ。

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ハクソー・リッジ(前田高地)
標高約120~140mの丘陵。
ここから約4キロ南西に首里の軍司令部があった。

 本作はしかし、沖縄戦がテーマあるいは戦争一般がテーマというよりも、一人の新米兵士の堅い信念と英雄的な行為が描かれる伝記映画という感じ。
 それもそのはず、この映画は沖縄戦で衛生兵として従軍したデズモンド・ドスの実体験をもとにしているのである。

 デズモンド(アンドリュー・ガーフィールド)の堅い信念とは、「絶対に人を殺さない。銃は持たない」ということであり、そこには子供の頃に喧嘩で弟を危うく殺しかけた苦い体験と、その後のデズモンドのキリスト者としての信仰があった。
 また、デズモンドの英雄的な行為とは、激しい戦闘を経て部隊が前田高地から一時退却したあとも、ただひとり、日本軍が見回る戦場に残り、負傷し取り残された同僚を何十人も手当し救い出したことであった。
 こんな人間が米軍にいたとは驚きである。

 ただ、ソルティがより驚いたのは、「銃は持たない」「人は殺さない」と堂々と宣言し実際に銃の訓練を拒否する一兵卒を、軍隊に居続けさせるアメリカ軍の度量というか法治性である。
 かつての日本軍なら、おそらくその場で殴って従わせるか、それでも駄目なら仲間と引き離して投獄し拷問をかけ、強制除隊させるだろう。
 銃を持たない者=敵と戦う意志のない者など邪魔なだけである。
 戦争とは人を殺しに行くところなのだ。

 デズモンドの上官らは、説得してもダメなことを知ると、まずデズモンドが精神異常であることの言質を取ろうと試みる。
 精神異常であれば除隊させられるからだ。
 しかし、デズモンドがその手に乗らないことが分かると、上官の命令に従わないという理由で軍法会議にかける。
 軍法会議で違反となれば投獄された上、除隊となる。
 だが、結果的には軍法会議より上位にある合衆国憲法の規定により、「従軍の意志がある者の参加を軍は拒むことができない」「個人の信仰を侵して武器の使用を強制することはできない」という理屈が通って、デズモンドは衛生兵として銃の訓練を受けずに従軍することになる。
 合衆国憲法がデズモンドの味方をしたのだ。

 戦時にもかかわらず、憲法を絶対的に尊重する法治性がすごいと思う。
 否、戦時だからこそ、憲法が守られなければならないのだ。
 平和な時の憲法を国が守るのは難しくない。
 戦時という非常時に国が守ってこそ、憲法の最高法規たるゆえんがある。
 これが実話なら、やはり法と論理重視のアメリカに、「考えたくないことは考えない、考えなくてもみんなで頑張ればなんとかなる」という法と論理軽視のニッポン・イデオロギーが敗北するのも無理はないと思う。

 ハクソー・リッジでの戦闘の様子は凄まじいかぎりのリアリティ。
 これを見れば誰だって、「戦争に行きたくない」「戦争なんかしたくない」「絶対に戦争はしてはいけない」と思うのが普通だろう。
 負けたら地獄は当然だ。
 けれど、勝っても天国は待っていない。
 この映画の優れた点は、過去の従軍体験のトラウマによってアル中に陥り、その後の人生を自暴自棄に生きるデズモンドの父親をあらかじめ描くことで、「ハクソー・リッジを落として万歳!」「アメリカが日本に勝って万歳!」で終わらせる戦意高揚的ハッピー・エンドを回避しているところである。
 衛生兵としてのデズモンドの活躍は奇跡としか言いようがない立派なものだが、負傷兵を救うよりは、最初から負傷する人間を作らないほうがいいに決まっている。

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嘉数高台から望む前田高地





おすすめ度 :★★★

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● 274分の意味 映画:『ボストン市庁舎』(フレデリック・ワイズマン監督)

2020年アメリカ
274分

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 原題は City Hall
 邦題の通り、ボストン市庁舎で働く市長はじめ市職員たちの日頃の仕事ぶりを撮ったドキュメンタリー。

 『パリ・オペラ座のすべて』『ナショナルギャラリー 英国の至宝』『ニューヨーク公共図書館』など公共施設を撮ってきたワイズマン監督が、次なるターゲットに選んだのが市役所。
 インタビューにおいて監督は、「6つの市役所に撮影許可を求めたところ、ボストンだけが受けてくれたのでここになった」と語っている。
 結果的にそれが金的を射止め、さまざまなルーツをもつ多民族から構成されるボストン市において、市民自治を実現すべく精力的に動き回るマーチン・ウォルシュ市長はじめ市の職員たち、そして市政に積極的に関わり自らの意見を堂々と述べる市民たちの姿を通して、多様性社会アメリカの現時点における民主主義の到達点が描き出されていく。
 一言で言えばそれは、ワイズマン監督自らが述べているように、「トランプが体現するものの対極にある」政治であり、とりもなおさず、安倍政権の流れを汲む現在の日本の自民・公明連立政権が体現するものの対極にあるということである。
 トランプの熱狂的支持者による連邦議事堂襲撃など民主主義の危機が叫ばれるアメリカであるけれど、やっぱり、「人民の人民による人民のための政治」という建国理念は生きている、アメリカの強さの秘密はここにあるのだなと感じさせる。

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Gordon JohnsonによるPixabayからの画像

 日々ボストン市庁舎のさまざまなセクションで行われている市民のための業務が、ボストン市の街並みや由緒ある建築物のショットを挟みながら、次々と映し出されていく。
 総合相談窓口、治安維持のための警察との会議、同性同士の結婚式、住民の強制的立ち退きを防止する策の検討、地域企業を集めての温暖化対策、若者のホームレス支援、ゴミ回収、公共施設の改善を求める障害者の集まり、麻薬対策、道路の舗装工事、中華料理のワークショップ、保護犬のワクチン接種、民家のネズミ駆除、大麻ショップ出店に対する地域の話し合い、賃金格差是正を求めるラテン女性の集まり・・・e.t.c. 
 すべての現場に市職員が出向き、多様な市民の意見を聴き、集会を重ね、施策にまとめていく。
 そこには高度のヒアリング能力とコーディネート能力、それに人権尊重を基盤とした民主主義に対する確固たる信念が必要とされる。
 むろんそれは、ボストン市民ひとりひとりにも求められるものである。

 本作を観ながら、ソルティは笠井潔が『新・戦争論 「世界内戦」の時代』で書いていた一節を思い出した。

国家の統治形態でない本物の民主主義は、さまざまな国や地域から吹き寄せられてきた、難民のような人々が否応なく共同で生活する場所、先住民と移民とが雑居していたニューイングランドや、カリブ海の海賊共同体のような場所で生まれます。

 『ボストン市庁舎』で描き出されていること、人口約71万のマサチューセッツ州ボストン市で日々起きていることは、まさに上記のことである。
 さまざまな人種・民族・宗教・文化・言語をもつ人々、障害者、LGBTQ、高齢者、ホームレス、戦時トラウマに苦しむ帰還兵などのマイノリティ。
 多様な背景をもつ人々が、それぞれの権利を主張しつつ、互いの違いと基本的人権を認め合いながら、平和的手段で合意形成を図っていく気の遠くなるような対話が日々繰り返される現場――それが民主主義を選択した市民が担わざるを得ない義務と使命なのだと、映画は語っている。
 この骨の折れる、誰もが自らの価値観を点検し修正せざるをえない衝突と葛藤と気づきと妥協を通して、市民は他者との共生のための流儀を学び、成熟していく。
 一枚岩でない多様性は地域を強くする。文化的にも経済的にも。
 真の民主主義を日本に根付かせるために、「移民を無制限に受け入れよ」という笠井潔の発言が実に理に適っていることが、本作を観ると実感される。

 274分という上映時間はたしかに長い。
 劇場でいっぺんに観るには、かなりの体力と気力を必要とする。
 しかし、「どこか削って、せめて3時間にまとめてくれれば・・・」と思っても、削ってもいいと思われる部分が指摘できない。
 一つ一つのエピソードが、一つ一つの対話や市長コメントが等価に重要。
 それが民主主義というものなのだ。
 
 「同性愛は非生産的」とか、「女性はいくらでも嘘がつける」とか、チマチョゴリやアイヌ民族衣装を「品格がない」と貶める発言をする人間を国会議員にしておく、あまつさえ内閣の要職につけている日本は、いったい何周遅れだろう?




おすすめ度 :★★★

★★★★★
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● 小津監督の遺作 映画:『秋刀魚の味』(小津安二郎監督)

1962年松竹
113分、カラー

 「秋刀魚の味」というタイトルが示すのは「庶民の哀歓」といったほどの意味だろうか。
 作中、東野英次郎演じる元教師が元生徒たちにご馳走されて泣いてよろこぶ鱧(ハモ)は出てくるが、サンマは出てこない。

 かつて原節子が演じた年頃の未婚の娘を、21歳の岩下志麻が演じている。
 岩下の小津作品出演は『秋日和』(1960)が最初だが、そのときは端役であった。
 2作目にしてヒロイン抜擢。凛とした美しさと原節子にはなかった快活感が光っている。
 岩下にとっては世界的大監督との貴重な共演機会となったわけであるが、後年の岩下の演技派女優としての活躍ぶりを思うと、俳優を型にはめ込む小津演出では岩下の真価は発揮できなかったであろうし、岩下自身もそのうち飽き足らなく感じたであろう。
 本作で小津演出に嵌まり込んで上手くいったのは、志麻サマが新人女優だったゆえ。
 その意味でも貴重な邂逅と言える。
 
 一方、父親役の笠智衆はこのとき58歳。
 若い頃から老け役を演じてきたが、ついに実際の年齢が役に追いついた。
 年相応の哀感あふれる演技は年輪を感じさせる。
 やっぱり実際に歳をとらないと出てこない味や風格、老けメイクではどうにもならないものがあることをフィルムは証明している。
 本作の笠の演技は、数多い出演作の中でも高評価に値しよう。
 それにしても、昭和の58歳は令和の70歳くらいの感覚だ。

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笠智衆58歳

 中村伸郎、東野英治郎、杉村春子、高橋とよ、三宅邦子ら小津作品のお馴染みは、それぞれに手堅い演技のうちに個性が醸し出されて楽しい。
 岸田今日子が珍しい。小津作品はこれ一作のみではなかろうか。
 翌年の文学座脱退騒動で仲違いした杉村春子との数少ない最後の映画共演作ということになる。(出番は重ならないが)

 娘のような若い嫁をもらって夜毎に励み、友人の平山(笠智衆)から「不潔!」と非難されてしまう男を北竜二という役者が演じている。
 これまで注目したことのない役者であるが、渋くて端正で、いい味出している。
 しかし「不潔!」はあんまりじゃないか・・・・。

 『晩春』(1949)で確立された小津スタイルが踏襲され、妻を亡くした男と婚期の娘、あるいは家族を失って孤独になった老境の男、すなわち家族の崩壊や老いというテーマもこれまで通り。
 ただ、どうにも気になるのは、本作は『晩春』や『東京物語』などとくらべて全般暗い。
 話の暗さや照明の暗さではない。
 原節子が出ていないからでもない。
 零落した元教師を演じる東野英次郎の演技が、あまりに真に迫っているからでもない。
 画面全体を厭世観のようなものが覆っている感があるのだ。
 この暗さはなにゆえだろう? 
 同じ年の初めに、小津が最愛の母親を亡くしたせいだろうか。
 体調の異変で死を予感していたのだろうか。
 『晩春』や『東京物語』の時とは違って、小津監督はもはや自らが撮っている世界を信じていない、愛していない。
 そんな気配が濃厚なのである。
 その暗さの中で唯一光を放っていた娘(志麻サマ)が家を出ていって、小津作品は幕を閉じる。

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嫁ぐ娘を演じる岩下志麻




おすすめ度 :★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 実朝供養

 先週日曜日(11/27)のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、源実朝(柿澤勇人)が鶴岡八幡宮の石段で公暁(寛一郎)に暗殺された。
 ネット上には実朝ロスの声が氾濫している。
 純粋で誠実すぎるゆえに周囲と齟齬をきたしてしまうナイーブな実朝を演じきった柿沢勇人は、確かに素晴らしかった。
 ゲイセクシュアリティを匂わす主人公に、ここまで世論が味方する時代になったのだな~、と時代の変化に感じ入った。

 ソルティはこの機会に源実朝の自選集『金槐和歌集』を読み、時代を超越した詩心に驚嘆した。
 ドラマの進展に合わせてツイッターに放った歌を、テーマごとにまとめて再掲載し、実朝供養としたい。

【孤独】
 実朝の孤独は、青春期にある若者なら誰でも感じるような淋しさであると同時に、生まれる時代と場所を間違えた天才ゆえの孤独である。
 王朝時代風の文学的な資質を持ちながら、武蔵という辺境の武家社会に生を享けた。
 古代から中世へと移り変わる時代に生きながら、内面的には近代的な青年そのものであった。
 実朝の孤独は、近代人の孤独――夏目漱石や正岡子規や島崎藤村や三島由紀夫や我々がもつ実存的孤独と、とっても近い。 
 それだけに、周囲に実朝の心を理解できる人間なぞ誰もいなかった。 
 
ながめつつ 思ふも悲し 帰る雁
行くらむ方の 夕暮の空
(ねぐら目指して帰る雁が夕暮れの空に吸い込まれていく。悲しくてやりきれない)

ひとり臥す 草の枕の 夜の露は
友なき鹿の 涙なりけり
(旅先で独り寝ている私の枕は露でしとどに濡れる。いいや、この露は友のいない鹿の涙なのだ)

苔の庵(いほ)に ひとりながめて 年も経ぬ
友なき山の 秋の夜の月
(心のうちを語らう友もないままに苔むすほど馴染んだ独り住まい。月の光だけが差し込んでいる秋の夜だよ)

秋風は やや肌寒く なりにけり
ひとりや寝なむ 長きこの夜を
(秋風が吹いて肌寒くなってきた。今夜も独りで長い夜を過ごさなければならないのか)

四国遍路1 2822



【恋】
 そんな実朝も恋をすれば普通の男。
 相手が同性なのか異性なのか、はたまた想像上のキャラなのかは知らないが、古今東西に通じる恋心を詠んでいる。
 ただ、「山に住む木こり」の心を想像するとか、「陸奥の金山の鉱夫」の境遇に思いを馳せるとか、平安&鎌倉時代の普通の男の感性ではない。
 自らとかけ離れた庶民、それも身分的には最底辺に置かれていたであろう山の民の内面に関心を示すあたりが、実朝の近代性を表している。
 つまり、「自分とは異なる存在=他者」を意識した人なのである。

天の原 風にうきたる 浮雲の
ゆくへ定めぬ 恋もするかな
(風に流される浮雲のように、私の恋もゆくえの見えないことだ)

君ならで 誰にか見せむ わが宿の
軒端ににほふ 梅の初花
(ただ君だけに見せたいんだ。こんなに見事に咲いた我が家の梅を)

あしびきの 山に住むてふ 山がつの
心も知らぬ 恋もするかな
(山に住んでいるという木こりの心のうちなど誰が知ろう? 私の恋する人の心のうちも知りようがない)

黄金掘る みちのく山に 立つ民の
いのちも知らぬ 恋もするかも
(みちのくの山で金を掘っている鉱夫のごとく、命がけの恋をしているこの私)

わが兄子(せこ)を 真土(まづち)の山の 葛かづら
たまさかにだに くるよしもがな
(愛しの君とたまにでもいいから会いたい。なんとか手繰り寄せる手段はないものかな)

夏深き 森の空蝉 おのれのみ
むなしき恋に 身をくだくらむ
(真夏の森の蝉の抜け殻のような空しい恋ばかりしている私。この身がばらばらに砕けそうだ)

さむしろに 独り空しく 年も経ぬ
夜の衣の 裾あはずして
(独りぼっちで寝るようになってずいぶんになる。着物の裾を合わすほどの人もいないままに)

四国遍路1 2907



【乱世】
 時は戦国。 
 源頼朝亡き後の鎌倉幕府の実権を誰が握るかで、陰謀や裏切りや謀殺や仲間割れが日常茶飯であった。
 3代将軍実朝は、北条義時をはじめとする周囲の御家人たちの陰謀術数や血で血を洗う争いに巻き込まれざるを得なかった。
 誠実で潔癖な人柄だけに、罪悪感や自責の念を背負うことになる。

宮柱 ふとしき立てて よろづ世に
いまぞ栄えむ 鎌倉の里
(社殿に立派な柱を立てて、万世も栄えあれ、わが鎌倉よ)

もののふの 矢並つくろふ 籠手のうへに
霰たばしる 那須の篠原
(那須の篠原では御家人たちが箙に差した矢の並び具合をたしかめている。その籠手の上に霰が勢いよく降りかかっている。狩りが始まる)

世の中は つねにもがもな 渚こぐ
海人の小舟の つなでかなしも
(波打ち際を綱に引かれながら漕いでいる小舟。なんとしみじみと平和な光景だろう。こんな世が続くといいのになあ~)

みよしのの 山に入りけむ 山人と
なりみてしがな 花に飽くやと
(ああ、鬱陶しい鎌倉を離れて、吉野の山奥に行きたいなあ。飽きるほど桜を見たいものだ)

身につもる 罪やいかなる つみならむ
今日降る雪と ともに消ななむ
(この身に積もった罪はいったいどれくらいの深さか。降ったばかりの今日の雪のように消えてくれたらどんなによいことか)

炎のみ 虚空に満てる 阿鼻地獄
ゆくへもなしと いふもはかなし
(今さら言ってもせんないことだが、この身は地獄の底に落ちて灼熱の炎で焼かれる宿めにあるのだ)

大海の 磯もとどろに 寄する波
割れて砕けて 裂けて散るかも
(とどろくばかりに押し寄せる磯の波のごとく、私の身も心も、割れて砕けて裂けて散るのだ)

四国遍路1 2811


【無常】
 心を寄せた御家人たちのあいつぐ死、親子兄弟間の醜い諍い。
 最終的には、この世の無常さや儚さ、人間の測り知れない煩悩と無明のさまを達観していただろう。
 自らの最期もある程度は受け入れていたと思われる。 
 なんと言っても、1052年から末法の世に入っていた。

月影も さやには見えず かきくらす
心の闇の 晴れしやらねば
(月の姿もはっきり見えない。悲しみにくれた心の闇が晴れないので)

うつせみの 世は夢なれや 桜花
咲きては散りぬ あはれいつまで
(この世は夢のようなもの。桜の花が咲いては散っていくように儚いものだ。この身もいつまであることか)

かくてのみ ありてはかなき 世の中を
憂しとやいはむ あはれとやいはむ
(かくも儚い世の中。つらいとか悲しいとか言うことすらむなしい)

世の中は 鏡に映る 影にあれや
あるにもあらず なきにもあらず
(世の中は鏡に映る影のようなもの。実在でもなく非在でもなく)

神といい 仏といふも 世の中の
人の心の ほかのものかは
(神とか仏とかいったところで、結局は人の心がつくったものでしかない)

四国遍路1 2745


【純真】
 源実朝がどんな人であったかは、『吾妻鏡』のような歴史書よりも、むしろ彼が詠んだ歌から想像するのが真実に近いと思う。
 次にあげる歌などは、実朝の純真さや、小林一茶に通じるような動物や子供など弱い者に対する慈しみの心を感じさせる。

ものいはぬ 四方の獣(けだもの) すらだにも
あはれなるかなや 親の子を思ふ
(言葉を知らない獣でさえ、親が子を思う気持ちを持っているではないか。親兄弟で争い合う人間たちの愚かしさよ)

時により 過ぐれば民の 嘆きなり
八大龍王 雨やめたまへ
(八大龍王よ。いくら天候を司る力がある次の歌からと言って、過ぎたるはなお及ばざるがごとし。もう雨を止めてくれ。民が泣いているのが見えぬのか)

旅を行きし あとの宿守 おのおのに
私あれや 今朝はいまだ来ぬ
(私が昨夜遅くに旅から帰ってきたことを知らないためか、今朝はまだ誰も出仕していない。それぞれに用事があるのだろう。閑散とした御所の静けさよ)

乳房吸う まだいとけなき 嬰児(みどりご)と
ともに泣きぬる 年の暮れかな
(生まれて間もない赤ん坊が母親の乳房を吸いながら泣いている。それを見ている私も知らず泣いてしまった。ああ、また一年が終わろうとしている)

谷深み 人しも行きて 告げなくに
鶯いかで 春を知るらむ
(鶯が鳴いている。谷が深いので誰も春の訪れを知らせに行くことができないはずだのに、どうやって春が来たのを知ったのだろう)

 
 以上28首。
 源実朝の享年と同じ数である。


四国遍路1 2813




● アニメ映画:『竜とそばかすの姫』(細田守監督)

2021年スタジオ地図
121分

 細田守監督の『時をかける少女』(2006)、『サマーウォーズ』(2009)はとても良かった。
 とくに後者!
 サイバー空間のカラフルで緻密で魔術的な映像と、平和で美しい信州の日常風景との対照が面白かった。
 IT時代の脅威といった現代的テーマも興味深く、監督の才能に感嘆した。

 本作もまた、IT時代ならではの数々の現象が描かれている。
 匿名による中傷やいじめ、デマの瞬時の拡散、現実生活における鬱憤やコンプレックスを覆い隠し反転させるネット上の「もう一人の自分」いわゆるアバター、国や民族や人種を超えた情報共有とつながり、驚異的な再生回数が示す超短時間でのネットスターの誕生、そしてネット外の現実生活の希薄化・・・・。
 まさに今の時代にふさわしい素材だなあと思う。

 一方、物語的には「普段はさえない少年/少女が不思議な力を身につけて、ヒーロー/ヒロインに変身して大活躍。大切なものを守るために闘う」という、少年/少女漫画に類型的なパターン。
 ただ、「大活躍」する場所が主人公が生きる現実世界でも宇宙空間でもタイムワープした過去や未来でもなく、サイバー空間であるところがミソであり、「変身」とはすなわちネット上のアバターになること、である。
 そのうえ、本作はディズニーアニメにもなったシャルル・ベローの童話『美女と野獣』のパロディでもある。
 IT全盛で現実世界より“リアルな”サイバー空間の登場という環境の変化はあれど、人々が希求する物語の質は変わらない。
 
 気になったのは、『サマーウォーズ』では、主人公らが生きる現実の信州の田舎の日常が、サイバー空間の非日常より生き生きと描写され「サイバー空間=虚妄」という視点が強かったのだが、本作ではなんだか「現実の日常生活=虚妄」のような逆転現象が感じられるところ。
 登場人物たちのリアリティはサイバー空間のほうにあるみたいで、現実の日常生活における存在感や生命力や説得力が乏しいのである。

 たしかに、列車内で一心にスマホを覗き込んでいる人々をみるにつけ、「いまや、人々のリアルは、窓外を流れる景色や目の前に立っている妊婦さんではなく、スマホの中にあるんだなあ」と、たまに嘆息するソルティである。
 また、サイバー空間における匿名の“開かれた”関係のほうが、現実世界における見栄や同調圧力で歪められた“偽り”の関係よりリアル(本当)である――という現実はある。
 ハンドルネームやアバターこそが「本当の自分」と思っている人も少なくないだろう。
 サイバー空間と現実世界の“リアル”の反転は、十分に現代的テーマとなり得るものである。

スマホと脳
 
 が、本作の場合、そこまで意図的とは思えない。
 本作の現実世界におけるリアリティの欠如は、単純に脚本の不備のためだろう。
 たとえば、主人公少女と父親との他人行儀な関係とか、家庭内暴力を振るう男のもとに少女が単身乗り込むとか、それを父親を含む大人たちが誰も止めようとも一緒に行こうともしないとか、ちょっと非常識な設定が目立つ。(この父親の態度こそ、放置という名の児童虐待だろうに・・・)
 サイバー空間の「ありえない」はあり得るが、現実世界での「ありえない」は物語を根幹から揺るがしてしまう。
 映像については「凄い!」の一言に尽きる。

 主人公少女の声と歌を担当したのは歌手の中村佳穂。
 この人をはじめて知ったが、耳に残る歌唱である。
 ほかに声優として、森山良子、清水ミチコ、坂本冬美、岩崎良美、役所広司、石黒賢、佐藤健らが出演している。
 せっかくの豪華キャスト。森山や坂本や岩崎にもっと歌わせてほしかった。






おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 
 

● 生まれ変わりは希望? 映画:『インフィニット 無限の記憶』(アントワーン・フークア監督)

2021年アメリカ
106分

 マーク・ウォールバーグ主演のSFアクション映画。
 見せパンの元祖でやんちゃ者のマーキー・マークもいまや51歳。
 いったいいつまでこんな激しいアクション映画の主役を張るんだろう?
 どこまで若作りして、マッスルな体を晒すつもりなのだろう?
 と、話の筋より余計なことばかり考えてしまう。
 いい加減、こういう役は若い俳優に譲って、演技派バイプレイヤーにシフトチェンジしてもよいのではなかろうか。
 余計なお世話か。 
 
 本作をレンタルしたのは、輪廻転生がテーマだからである。
 世界に500人しかいない、すべての前世の記憶を保持しているインフィニットたち。
 いくつもの前世で身につけた様々な知識や特技を備えている超人である。
 数世紀前から彼らは、二つのグループに分かれて戦っていた。
 一つは、「もうこの酷い人間界に生まれ変わるのは懲り懲りだから、すべての生命を解脱させ、この世界を終わりにしよう」と目論むグループ。ニヒリスト(虚無主義者)と呼ばれる。
 もう一つは、「生まれ変わっていくうちに人類は学び進歩することができる。輝かしい未来がある」というポジティブなグループ。ビリーバー(信じる者)と呼ばれる。
 ニヒリストの首領であるバサーストは、前世において、人類を絶滅させる“エッグ”という装置を開発した。
 が、使用する前にビリーバーのトレッドウェイに奪われてしまった。
 両者ともに生まれ変わった現世で、バサースト(演:キウェテル・イジョフォー)と元トレッドウェイであるエヴァン・マコーリー(演:マーク・ウォールバーグ)の“エッグ”の行方を巡る熾烈な戦いが始まる。
 
 物語そのものは荒唐無稽。
 派手なアクションシーンの連続で、CG多用の特撮技術には驚くほかない。
 予想通り、トレッドウェイらの活躍によって“エッグ”は破壊され、人類は破滅から救われ、輪廻転生は続く。
 戦いで命を失ったトレッドウェイが、インドネシアに生まれ変わったことを伝えるシーンで映画は終わる。(バサーストは特殊な銃弾を浴びて魂をチップに封じ込められ、生まれ変われなくなったという無理筋)
 伝統的アメリカ映画らしい勧善懲悪である。

生まれ変わり
 
 しかしながら、「もはや生まれ変わることはありません」という輪廻転生からの解脱こそが、ブッダが追い求め、修行と悟りの果てに実現し、弟子たちに推奨したところであるのは間違いない。
 本来の仏教の目標はそこにある。
 もちろん、それは個々人の意志において求められるところであって、ハザーストのように、生命すべてを個々の意志に反して道連れにすることは許されない。
 ハザーストがこの人間界を嫌悪し生まれ変わりたくないなら、仏道修行によっておのれ一人の悟りと解脱を目指すべきである。
 その意味で、ニヒリストグループの動機と行動は許容できるものではなく、「悪」と言っていいものではある。
 が一方、輪廻転生を進歩と希望の名によって肯定し「善」とするビリーバーの動機と行動は、究極の楽天思考という気がしないでもない。
 少なくともそれは仏教とは別の道であるので、本作でビリーバーグループの者たちが、仏像の前で坐禅や瞑想をしているシーンや、「生まれ変わるたびにアンコールワットで再会する恋人たち」といったロマンチックエピソードには、首をひねらざるを得ない。(良い転生を狙っての修行と解せばいいのか?)
 監督や脚本家は、仏教をまったく理解していないか、あるいは、仏教徒=ニヒリストというあらぬ誤解を観る者に与えるのを避けるべく、仏教をビリーバー側に引き寄せたのだろうか。
 悟り&解脱という目的を伴わない輪廻転生は苦である、というのがブッダの仏教の根本である。
 
 そもそもが荒唐無稽な娯楽作品なので、どうでもいいことではあるが・・・・。
 

 
おすすめ度 :★★

★★★★★
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● 映画:『9人の翻訳家 囚われたベストセラー』(レジス・ロワンサル監督)

2020年フランス、ベルギー
105分、フランス語

 サスペンスミステリー。
 原題は Les traducteurs 「翻訳者たち」

 世界的大ヒットのミステリー『デダリュス』完結編を各国語に翻訳するために、出版元によって人里離れた豪邸の地下室に閉じ込められた9人の翻訳家。
 それは世界同時発売前の内容流出を未然に防ぐための措置であり、翻訳が完成するまでの2ヶ月間、各自の携帯電話など通信機器は取り上げられ、外部との連絡は一切できない。

 しかるに、出版元の計らいを嘲笑うかのように、ネットには原稿の一部が流出され、脅迫メールが出版エージェントのもとに届く。
「この先の流出を防ぎたいなら500万ユーロ払え」
 いったい、9人のうちの誰が、どんな手を使って、原稿を流しているのか?
 そして、その目的は何なのか?

著作権

 フォレスト出版の『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』(宮崎伸治著)を読むと、出版翻訳家という職業がいかに身分不安定で、出版社によっていいようにこき使われ、理不尽な目に合わせられるか、なまなましく迫ってくる。
 とくに未熟な契約社会である日本は、フリーランスで仕事をしている人たちの立場が非常に弱い。
 いっとき欧米ミステリーの翻訳家に憧れたこともあるソルティだが、昨今の出版不況というか出版オワコンに言及するまでもなく、結局のところ、翻訳では食っていけなかっただろう。
 慢性的に人材不足である介護業界に目を向けて良かった。 
 いや、そもそもそんな英語力ないか・・・・・。

 宮崎伸治のような痛い体験を持つ翻訳家ならば、非人道的な仕打ちを受ける9人の翻訳家に共感至極だろうし、傲岸不遜で金の亡者のような出版エージェントが報復される結末に、喝采の叫びを上げ留飲を下げるだろう。
 ミステリーとしては強引な展開が目立つ。

 本映画の設定は実際にあったことで、『ダ・ヴィンチ・コード』で世界的ベストセラー作家となったダン・ブラウンの第4作『インフェルノ』出版に際して、出版元がダン・ブラウンの同意のもと、各国の翻訳家を地下室に隔離して翻訳を行なわせたという。
 ダン・ブラウンのイメージ爆落ち。





おすすめ度 :★★

★★★★★ 
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● ポワロ殿と13人 TVドラマ:『オリエント急行殺人事件』(三谷幸喜脚本)

2015年フジテレビ放映
前編170分、後編163分
原作 アガサ・クリスティー
監督 河野圭太

 フジテレビ開局55周年特別企画として制作された5時間を超える長編ドラマ。
 三谷幸喜の脚本と豪華キャストが話題となった。 

 原作や海外での2度の映画化作品と大きく違うところは2点。
 一つは、原作と同じ1930年代前半を時代設定にしながらも、場所がヨーロッパから日本に変換されている点。
 登場人物はすべて日本人であり、下関から東京に向かう豪華寝台列車「特急東洋」(英語にするとオリエント)が殺人現場に設定されている。
 この変換は、原作に見られる豊かな国際色や乗客の多様性の面では興趣を削がれている感なきにしもあらずだが、そこは島国で多民族国家でない日本ゆえ、致し方ないところ。
 おおむね、不自然さを感じさせない変換に成功している。
 もちろん名探偵ポワロもベルギー人から日本人・勝呂(すぐろ)に変換されている。

 いま一つは、犯罪が起きてから事件が解決するまでを描いた原作や映画化作品とは違って、犯人が犯行に至るまでの経緯をじっくりと描いた点。
 つまり、列車の中での殺人事件発生とポワロの活躍が中心となる探偵視点の前編に加えて、犯行の動機となった過去の出来事や犯罪計画実施に至るまでの苦心惨憺を描いた犯人視点の後編が付け加えられている。
 別の言い方をすれば、推理ドラマに加えて人間ドラマの味が濃厚になっている。

 むしろ、本作の大きな特徴はこちらのほうにあるだろう。
 脚本家である三谷の創作モチベーションを高め、腕の見せどころと言えるのも前編より後編にある。
 それがうまく行っているかどうかは、原作ファンそれぞれの感想にまかせるほかあるまい。
 ソルティ自身は、2017年にケネス・ブラナー監督&主演で映画化された作品のほうが、人間ドラマとして感動大であった。
 三谷は根がコメディ作家であるので、観る者に瞬発的な衝撃は与えられても、深い人間悲劇を描くには向かないように思う。いまやっている『鎌倉殿の13人』を観てもそれは感じる。
 とは言え、クリスティの原作から想像を発展させて犯人たちの心模様や人間関係を描こうとしたチャレンジ精神は、敢闘賞に十二分に価しよう。
 なんと言っても、5時間超えのドラマを退屈させずに見せる筆力は尋常ではない。

蒸気機関車
 
 ポワロ(勝呂)役の野村萬斎、ハーバード夫人(羽鳥夫人)役の富司純子――2015年の映画ではミッシェル・ファイファーの好演が光った――が芝居巧者ぶりを発揮している。
 轟侯爵夫人(草笛光子)のメイドを演じる青木さやかも意外なうまさ。お笑いタレントの印象が強いが、もはや立派な女優だろう。
 『鎌倉殿』でも重厚感と存在感を見せつけた西田敏行と佐藤浩市の至高のバイプレイヤーぶりは言うまでもない。この二人は三國連太郎で結びついてるのだな、きっと。
 


 
おすすめ度 : ★★★

★★★★★
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● TVドラマ:『横溝正史シリーズ・仮面舞踏会』

1978年毎日放送
55分×4回
脚本 椋露地桂子
演出 長野卓

 古谷一行=金田一耕助シリーズの一作。
 同シリーズ『悪魔が来りて笛を吹く』にも出ていた草笛光子が、今度は離婚4回の大女優・鳳千代子役で登場している。
 この人は市川崑監督×石坂浩二主演の東宝・金田一耕助シリーズにも毎回顔を出していた。
 警部役の加藤武や長門勇とともに、横溝正史の世界(および橋田寿賀子の世界)に住んでいるような気がする。

 あいかわらずの探偵ぶりを発揮しまくる金田一耕助。
 千代子の婚約者である飛鳥忠熙(木村功)に調査を依頼された金田一の周りで、4人の人物が殺され、2人が自害する。
 たぶん、金田一が関わらなかったほうが被害は少ない。(射殺された看護婦さんは明らかに金田一によって巻き込まれた被害者である)
 いったいなんのために雇われたのやら?
 金田一耕助は事件を解決するというより、良く言って事件の目撃者、悪く言えば死神である。
 そのうえ、ラストで真犯人が自殺するのをいつも防ぐことができない。
 『犬神家の一族』しかり、『悪魔が来りて笛を吹く』しかり、この『仮面舞踏会』しかり。

 そんな金田一に出し抜かれる警察も実にだらしがない。
 スコットランドヤードのレストレード警部のほうがまだましである。
 加藤武も長門勇もドラマの陰惨さを中和する道化役に甘んじている。

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左から、草笛光子、古谷一行、長門勇、乙羽信子

 横溝正史作品、少なくとも金田一耕助シリーズは、推理小説としても捕物帳としても正直、出来は良ろしくない。
 斬新なトリックがあるわけでなし、見事なひらめきと論理展開による推理があるわけでなし、真犯人と探偵の手に汗握る闘いが繰り広げられることもない。
 なのに、どうしてこうやって惹きつけられてしまうのか?
 真犯人は十中八九、出演陣の中でもっとも有名な女優が扮しているキャラであることが、あらかじめ分かっているのに。(この『仮面舞踏会』はその例外である)

 思うに、このシリーズの本当の主役は人間の「業」なのだ。
 先祖由来の因縁や過去のふとしたあやまちや人間関係のもつれが、時の中で発酵し内圧を高め、ついに表面に現れてくる瞬間に、金田一耕助は立ちあうことになる。
 真犯人は「業」なので、ひとりの人間の力ではどうにも防ぎようがなく、せいぜいできることは「業」が表面化し結実するのを促進して、早く終結まで持っていくことくらい。
 「業」の力に振り回された関係者たちが、それぞれの因縁を生き抜いて、あるいは因縁によって命を奪われて、それぞれの積もりに積もった感情が表沙汰にされ爆発するとともに「業」がガス抜きされ、ひねこびた人間関係のバランスが解消されて、それぞれがあるべきところに落ち着く。
 陰惨と残虐このうえないプロットにもかかわらず、最後はいつも心地良いカタルシスを与えられるのは、ひとつの事件の解決=ひとつの「業」の解消、であるためなのだ。

 本作でも、事件のそもそもの発端を作った人物が最後に自害するが、その人物は肌身離さず毒薬を持っていた。
 つまり、常にいつ死んでもいいように覚悟を決めていた。
 自らが過去に作ったあやまちの責任を、いつか自ら取らなければならなくなることを予期していたのであろう。

 金田一耕助は探偵というより狂言回しなのだと思う。




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