ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●映画・テレビ

● 映画:『梟 フクロウ』(アン・テジン監督)

2022年韓国
118分

 韓国で大ヒット、数々の賞を受賞した映画。
 たしかに、17世紀李氏朝鮮時代の宮廷サスペンスドラマとして面白いのだが、そこまで人気を博し評価が高いのには、ちと解せないものがある。
 なんでだろう?
 ――と思ったら、これは朝鮮人ならだれでも知っている史実を基にした物語だったのである。

 李朝第16代国王仁祖(インジョ、1595-1649)は、明王朝を倒し新しく起こった清王朝に屈辱的な従属を強いられていた。仁祖の息子の昭顕世子(ソヒョンセジャ)は人質として清に取られていた。
 1645年、人質を解かれて帰国した世子は、清王朝の進んだ文明を朝鮮に取り入れようとはかり、仁祖と対立する。
 2か月後、世子は謎の死を遂げる。
 全身が黒く変色し、目・耳・鼻・口など7つの穴から血を流していた凄まじい死にざまは、何者かに毒を盛られたとしか思えなかった。

 史書である『仁祖実録』に記されたこの怪死事件、父王によるものではないかという説が根強くあるらしい。
 王位を死守するために息子を毒殺する父親。
 この歴史の闇に埋もれた禁断の謎が、今もなお韓国の人々の関心を引き付けて止まないのだろう。
 我が国で言えば、豊臣秀吉と、その甥っ子で子供のできなかった秀吉の養子となった豊臣秀次との関係のようなものだろうか。
 秀次の死もまた、茶茶(淀君)との間に待ちに待った実子秀頼ができた秀吉が、秀頼を後継とするために、秀次に謀反の罪を着せて死に追いやったという説が濃厚である。
 権力を手にした者が、親族を含め周囲を信用できなくなり、狂気の振る舞いに及ぶようになることは、どこの国でも同じである。

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京都瑞泉寺にある豊臣秀次の墓

 本作では、盲目の鍼医ギョンス(演:リュ・ジュンヨル)という架空のキャラクターを創造し、鍼の腕を買われ宮廷に使えることになったギョンスの“目を通して”、世子怪死事件の謎に迫っている。
 事件の目撃者が盲目である(実はフクロウのように昼は見えないが闇の中では目がきく)ところが一つのポイントである。
 これは、「権力を持たない者が面倒ごとに巻き込まれないためには、上に立つ人間の不正を見ても、“見ないふり、聞こえないふり”をして口を噤んでいなければいけない」という自己保身の比喩となっているのだ。
 権力の亡者どもの毒々しい謀略にはからずも巻き込まれ、あまつさえ世子殺害の濡れ衣を着せられてしまったギョンスは、もはや見えないふりをしているわけにはいかない。どうやってピンチを切り抜け、真相を暴いていくか。
 15世紀の朝鮮王宮を舞台とした『王様の事件手帖』同様、絢爛豪華のコスチュームプレイとしての見ごたえと、二重三重の底が仕込まれたミステリーサスペンスとしての面白さ、そして、権力の恐ろしさと愚かさという、いつの時代どこの国にも通じる人間の無明テーマ。
 韓国娯楽映画のレベルの高さは健在である。
 ただ、勧善懲悪のご都合主義に終わったラストについては、評価が分かれるところだろう。
 主役を演じたリ・ジョンヨルは、藤原道長もとい柄本佑に似ている。

フクロウ



おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● まっさかさーまに堕ちて 映画:『紙の月』(吉田大八監督)

2014年日本
126分

紙の月

 『桐島、部活やめるってよ』が良かったので、吉田監督の他の作品を借りてみた。
 角田光代による同名小説を原作とするサスペンス犯罪ドラマである。

 夫と二人暮らしの梅澤梨花(演:宮沢りえ)は、銀行の契約社員として顧客回りを担当していた。夫(演:田辺誠一)との関係に物足りなさを感じていた梨花は、ふとしたことから、年下の大学生光太(池松壮亮)との不倫にはまってしまう。ある日、光太が借金を抱えていることを知った梨花は、顧客の金に手をつけて、光太にそっくり渡してしまう。それをきっかけに梨花の欲望は堰を切ったようにあふれ、次から次へと横領を重ね、光太との贅沢な遊びにつぎ込むようになる。上司の隅より子(演:小林聡美)は梨花の行動に不審の目を光らせていた。

 会社や顧客の金を横領し惚れた相手に貢いでいたのが発覚して大騒ぎ――というバブルの頃によくあった事件をなぞっている。
 ソルティは恋愛がらみの横領事件と言うと、既婚男のために1億3千万円を1日で横領しその後マニラに逃れた三和銀行の伊藤M子事件(1981年)と、数年かけて14億円以上を横領しその大半をチリ人女性アニータに渡していた青森県住宅供給公社の千田Y司事件(2001年発覚)を想起する。
 今となっては景気の良かった日本を思うばかりである。
 本作の設定も、バブル破綻の影響がまだ現れていない1994年となっている。

 ソルティは原作を読んでいない。
 なので映画からだけの印象であるが、梨花が顧客の金を横領した動機について、「好きな男に貢ぐため」という三面記事が好みそうなベタなものとは、ちょっと違ったニュアンスで描かれているのを感じた。
 表面的に見れば、年下の光太の関心をつなぎとめるため、なりふり構わずやってしまったようにとれる。愛のために盲目になった愚かな女性というふうに。
 しかるに、ソルティがこの梨花という主人公を見てどうにも連想せざるを得なかったのは、やはりバブル崩壊直後に発生し世間を騒がせた東電OL殺人事件であった。

東電OL殺人事件とは、1997年(平成9年)3月9日未明に、東京電力の管理職であった女性が、東京都渋谷区円山町にあるアパートで殺害された未解決事件。被疑者としてネパール人の男性が犯人として逮捕・有罪判決を受け、横浜刑務所に収監されたものの、のちに冤罪と認定され無罪判決を得た。(ウィキペディア『東電OL殺人事件』より抜粋)

 この事件が世間を騒がせた一番の要因は、有名大学卒で一流企業で働いていたエリートOL(当時39歳)が、夜な夜な渋谷のラブホテル街に出没し、不特定の男相手に安い金額で売春していたという事実が発覚したからであった。
 昼間は大企業の社員、夜は娼婦という、「ヤヌスの鏡」のような二面性が衝撃的だったのである。
 彼女は、好きな男のためでもなく、生活のためでもなく、貯蓄を増やすためでもなく、だれかに恐喝されてでもなく、自らの意志で街頭に立っていた。
 マスコミは、真犯人探しよりはむしろ、彼女が売春していた動機をめぐって色めき立った。
 事件を題材とした書籍やドラマがたくさん作られたのは、これがある種の“時代の証言”すなわち、バブルという華やかな時代に空虚な心を抱えて生きた一つの女性像としてとらえられたからであろう。(中森明菜の『DESIRE』はそうした女性の心象を唄った当時のヒット曲である)
 ちなみに、動機をめぐって飛び交ったさまざまな説の中で、ソルティがもっとも納得いったのは「父の娘」説である。

渋谷

 本作の梨花の場合も、犯罪に手を染めることになった真の動機は、好きな男に貢ぐためでもなく、生活のためでもなく、だれかに唆されたからでもない。
 ラスト間際の、小林聡美演じる“お堅い”(おそらくはオールドミスの)上司との対話シーンで暗示されるように、梨花は、日本銀行券(紙幣)が実質ただの紙でしかないように、光太との恋愛も、バブリーで贅沢な生活も、「本物ではない」ことは分かっていた。分かっていたけれど、そうした“幻想”に飛び込むことで満たしたい(あるいは忘れたい)何かを抱えていたのである。

 その心の闇の背景を示唆すべく、キリスト教系の教育を受けた少女時代の梨花の体験が描かれる。海外の貧しい人たちを助ける募金活動に際し、父親の財布から盗み取ったお金を寄付する梨花の姿が。
 このエピソードが後年の「貧しい学生を助けるために他人の金を横領する」の伏線となっているわけだが、残念なことに、「少女時代に犯した過ちを大人になってから繰り返しました」というだけの重複に終わってしまい、梨花の心の闇の由来を暗示するものにはなっていない。
 ここはたとえば、少女時代の親との満たされない関係を描くなど、もうひと工夫ほしかった。(原作そのままなのかもしれないが)
 さすれば、作品に奥行きが生まれたであろう。

 梨花を演じる宮沢りえがその冴え冴えとした美貌もあって圧倒的存在感。難しい役どころを天才的勘でつかんでいる。
 劣らず素晴らしいのが、上司を演じる小林聡美。大林宜彦監督『転校生』や三谷幸喜脚本『やっぱり猫が好き』の頃から巧い役者と注目していたが、こういう複雑な内面を持った大人の女性を演じられる女優になったのだと感嘆した。
 梨花の年下の同僚で上司と不倫中の「いまどき」OL恵子を、元AKBの大島優子が演じている。自らはつゆとも知らず、梨花を悪の道に引き込む狂言回し的役柄である。見事なバランス感覚で画面におさまっている。
 ほかにも、恵子の不倫相手である近藤芳正、梨花の顧客を演じる石橋蓮司と中原ひとみ、梨花の年下の恋人に扮する池松壮亮など、いい役者が揃っており、見ごたえは十分。
 吉田監督は、大人の鑑賞に値する作品が撮れる人である。




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 映画:『ラヂオの時間』(三谷幸喜脚本&監督)

1997年フジテレビ、東宝
103分

ラヂオの時間

 三谷幸喜の初監督作品。
 これは文句なく面白かった。
 もとが三谷が設立した劇団「東京サンシャインボーイズ」の舞台劇であったこともあり、三一致の法則に則った、空間的カセ(ラジオ局のスタジオ内)と時間的カセ(生放送ドラマの制作)による劇的効果が最大限発揮されている。
 そのうえに、業界的カセ――主演女優はじめ役者たちのプライドやわがまま、スポンサーへの配慮、シナリオ上のリアリティなど――がドラマ制作チームの肩にのしかかる。
 やはり、カセがあるとドラマは生きる。
 デビュー作ならではの絵的ぎこちなさは随所に見られるものの、これまでに観た三谷作品の中では、これが一番良かった。

 端役に至るまで役者たちがイキイキと芝居しているのがなんとも気持ちいい。
 藤村俊二、井上順、小野武彦、並樹史朗、モロ師岡、梶原善、梅野泰靖、近藤芳正の愛すべき個性的魅力。
 鈴木京香、布施明、渡辺謙の配役の意外性の魅力。
 西村雅彦、戸田恵子、細川俊之の芝居達者な魅力。
 当時トレンディドラマのスターだった唐沢寿明がカッコよすぎて若干浮いている気もするが、興行的効果を考えれば真っ当な配役だったのだろう。

 三谷作品にあっては、「脇役こそが主役」という不可思議なパラドックスが成立している。
 下手に主役に抜擢されるよりは、脇に使ってもらったほうがかえって印象に残るのである。
 本作では、個人的に近藤芳正が良かった。
 本作の醸し出している風合いとイコールで結ばれるべきは、鈴木京香でも西村雅彦でも戸田恵子でもなく、近藤芳正だと思う。
 映画を観る者は、おそらく、近藤芳正演じる車のセールスマン鈴木四郎の立場に身を置いて、すなわち市井の庶民の一人として、目の前で展開する騒々しい業界ドラマを見物している。
 だから、鈴木四郎の名がドラマの役名ジョージとしてラストクレジットでアナウンスされる瞬間、おもがけない感動に足をすくわれるのである。
 それは、観る者もまたこのドラマに参与する瞬間であるからだ。

 三谷には、大物になりすぎてどうにも動きがとれなくなっている“裸の王様”木村拓哉の再生に挑戦してほしいものである。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
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● オタクの逆襲 映画:『桐島、部活やめるってよ』(吉田大八監督)

2012年日本
103分

桐島部活

 浅井リュウ原作の青春ドラマ。
 一時ずいぶん話題になったが、原作は未読、映画も未見だった。
 神木隆之介が気になってレンタルしたのだが、正直、こんないい映画だとは思わなかった。
 こういう作品に出会い頭ぶつかるから、映画を観るのをやめられない。

 テーマは「THE 高校生活」。
 とりたてて大きな事件が起こるわけでなく、平凡な高校生たちの日常の一コマが描かれる。
 友情あり、片思いあり、恋愛あり、希望あり、迷いあり、コンプレックスあり、見栄あり、嫉妬あり、失恋あり、挫折あり、将来への不安あり、無気力あり、怠惰あり、葛藤あり・・・。
 平成時代の青春ドラマである。
 ちょっと変わっているのは、3日間の学校生活の中で起こる出来事を、複数の登場人物の視点から、繰り返し描いていく手法である。
 つまり、映画の中で時間が何度かループし、確たる主人公は指摘できない。
 この手法および高校生活というテーマが、ムラーリ・K・タルリ監督の『明日、君がいない』(2006)を連想させる。
 複数の登場人物はそれぞれが、他人に言えない悩みや苦悩を抱えながらも、表面上は取りつくろって無難な日常生活を送っている。
 『明日、君がいない』の場合は、最終的に登場人物の一人の自死という悲劇的結末に終わる。 
 本作はそこまで深刻ではなく、ラストに屋上でのちょっとした騒ぎはあるものの、穏やかな結末となっている。

 また、タイトルに出てくる肝心の「桐島」が、最初から最後まで出てこないというのもミソである。
 これは、サミュエル・ベケットの『ゴトーを待ちながら』や三島由紀夫の『サド侯爵夫人』と同じ手法である。
 桐島はいわば、台風の目のように、周囲に怒涛のドラマを巻き起こす真空としての役割を担っている。
 学園のヒーローである桐島が「部活をやめる」というただそれだけのことが、池の中心に石が落とされたように、波状的に影響を広げていく。
 そのさざ波の中で揺れ動く高校生たちの心模様をとらえたドラマということができる。
 またひとつ、青春映画の傑作の誕生である。

秩父札所めぐり2日 026

 この映画には、しかし、もう一つのテーマを読むことができる。
 「THE高校生活」を表のテーマとすると、裏のテーマは「映画の勝利」あるいは「オタクの逆襲」である。
 容姿や運動神経や成績や恋愛経験値や親の収入などによってクラス内カーストが形成されてしまう高校生活において、映画部の少年たちはカーストの底辺に位置する。
 陰キャ、見た目がダサい、キモイ、気が弱い、女子に無視される、不器用、幼稚っぽい、二次元偏愛・・・つまり、オタクの集まりである。
 神木隆之介演じる前田はその代表格で、カッコよくて女子にもてるカースト上位の桐島や菊池(東出昌大)と対照的な存在である。
 好きになった女子(橋本愛)と普通に会話を交わすこともできず、またたく間に失恋してしまう。
 だが、さえないオタク少年として終始描かれてきた前田が、最後の最後になって堂々のメインキャラに躍り出てくる。
 それがほかならぬ、「カメラを通して世界を見る」という、そのことによってであるところがなんとも感動的なのである。

 校舎屋上における映画部とバレー部の喧嘩騒ぎが済んだあと、ほんの気まぐれから前田の持つカメラを借りてファインダーを覗き込んだ菊池は、そこに、映画への愛や将来の夢を語る前田の姿を見る。
 ふだん教室の中では関心を持たず、接点もなく、知ることもなかった、前田というクラスメートの生き生きした顔と輝きをレンズの向こうに見る。
 そう、はからずも菊池は、カメラという無機物によって、ふだんは見えない人間の“真の姿”が映し出されてしまうからくり(=映像のマジック)に気づくのだ。
 次に、カメラを返された前田がファインダーを覗き、菊池を見る。
 そこに写された菊池は、いつもどおりのカースト上位らしいカッコよさ(なんと言っても東出である)。
 前田はそのルックスに感嘆の声を上げる。
 が、菊池は戸惑いを隠せない。
 カメラによって映し出されたであろう自分の“真の姿”に自信が持てないからだ。
 前田における映画のように、あるいは野球部の先輩のように、一心に打ちこめるもの、損得を超えて愛することのできるものを持たない空っぽの自分、輝いていない自分を、前田の目を借りて直視するからだ。
 菊池は前田に対してはじめて劣等感を抱く。(前田はまったくそこに気づかない)
 カーストが一瞬ひっくり返るこの瞬間こそ、オタクの逆襲であり、映画の勝利なのである。
 実際、映画の前半では東出のカッコよさに一方的に押され、芝居的には喰われる一方だった神木が、ここに来て東出を圧倒する存在感を獲得する。
 そこに、おそらくは原作にはない映画ならではの、吉田監督のたくらみがあったのではないかと思う。

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 東出昌大、神木隆之介、橋本愛、仲野太賀、山本美月、松岡茉優など、現在活躍中の実力派若手俳優が奇跡的に集結している。
 というより、本作の出演がきっかけとなって、それぞれが羽搏いていったのだろう。
 東出はその後スキャンダルを起こし、役者人生の危機に見舞われたが、やはり、テレビ業界はともかく、映画界や演劇界はいい俳優は見捨てない。ルックスの良さは別にしても、光るものがあることは、本作で証明されていた。
 神木はCMでいつも思うが、表情づくりの天才。シチュエイションが要求するものを、演出家のプランや指示を超えて、巧みに表現する能力がある。この人はいつか本当に映画を撮る(監督になる)のではなかろうか。
 橋本愛のクールな存在感も素晴らしい。印象的な瞳がスクリーンに映える。

 言い落してはならないのが撮影の素晴らしさである。
 だれが撮っているのだろう?
 調べたら、山下敦弘監督と組んで『天然コケッコー』や『マイ・バック・ページ』を撮った近藤龍人ではないか。
 やっぱり、名キャメラマンである。
 ラストの屋上シーンの美しさはまさに映画の勝利を語っている。




おすすめ度 :★★★★

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● 映画:『THE 有頂天ホテル』(三谷幸喜監督)

2006年東宝、フジテレビ
136分

有頂天ホテル


 役所広司、松たか子、佐藤浩市、香取慎吾、篠原涼子、戸田恵子、生瀬勝久、麻生久美子、YOU、オダギリジョー、角野卓造、寺島進、近藤芳正、川平慈英、梶原善、石井正則、原田美枝子、唐沢寿明、津川雅彦、伊東四朗、西田敏行 e.t.c
 オールスターキャストの贅沢なコメディ。
 東宝だけではこれだけ集められないだろう。
 テレビ完全勝利のアピールのようにも思えるが、それもまた過去の栄光。
 今となっては、道長のごとき栄華を誇ったフジテレビの落日最後の輝きのように思える。
 少なくとも、出演者の顔ぶれに関しては・・・。

 『記憶にございません!』、『ステキな金縛り』と、三谷幸喜脚本&監督作品の面白さに唸らされてきたが、ここで小休止。
 天才もいつも成功するとは限らない。
 本作は失敗作である。
 観ながら、「早く終わらないか」とイライラしてしまった。

 失敗の原因を察するに、本作がグランド・ホテル形式の作品であることが上げられよう。
 命名のもととなったグレタ・ガルボ主演『グランド・ホテル』のように、「あるひとつの場所を舞台に、特定の主人公を設けず、そこに集う複数の登場人物の人間ドラマを並行して描く物語の手法」(byウィキペディア「グランド・ホテル形式」)である。
 であるがゆえに、たくさんの主役級スターを、それぞれの個性や演技力を生かしながら、不自然なく、共演させることが可能となるわけだ。
 邦画なら遊郭を舞台にした川島雄三監督『幕末太陽傳』が典型であり、洋画ならクリスティ原作の『オリエント急行殺人事件』(豪華列車が舞台)や『ナイル殺人事件』(豪華客船が舞台)もその類型と言えるだろう。

 様々なキャラクターが右往左往し様々な人間ドラマが展開される、言ってみれば「社会の縮図」がそこにあるわけで、観る者はそれを俯瞰する立場に身を置く。
 一つの作品で複数のドラマを楽しめる一方、一歩間違えれば、浅い人間ドラマの詰め合わせになってしまうリスクがある。
 残念ながら、本作は一歩間違えてしまったケースである。

 そもそも三谷幸喜は根っからのコメディ作家であって、深い人間ドラマを得意とする人ではない。
 大人の男女の複雑な機微や、家族間の深刻なトラウマや、深刻かつ挑発的な社会問題をテーマに持ってきて、観る者の心に一生刻まれるような感動や衝撃を与える作品を書かない(書けない)。
 天才的発想のプロットを骨子に、既存のありふれた喜怒哀楽ドラマの型を巧みに組み合わせ、コメディ仕立てにするのが巧いのである。
 浦沢直樹コミックのドラマ版と言えば近いだろう。
 描き出される人間ドラマ自体は少年漫画のように凡庸で浅いものなので(悪口ではない)、複数のドラマが進行するグランド・ホテル形式をとることで、一つ一つのドラマはさらに浅くなる。
 そのうえにコメディ仕立てなので、全編に『ドリフの大爆笑』のようなギャグ風味が漂う結果となった。
 それならいっそ、ドリフやバスター・キートンのようなスラップスティック・ナンセンス・コメディに徹してしまえば良いのだが、変に人間ドラマとしての感動を真面目に狙ったりしているものだから、どこぞの局の『〇〇時間テレビ』のような安っぽい感動のバーゲンセールみたいになってしまった。
 子供は騙せても、大人の観客はうんざりするばかりだろう。

  天才もたまには失敗するということを知って、凡人の一人としてほっとした。
 泉ピン子と赤木春恵の「幸楽」嫁姑戦争から解放された角野卓造の溌溂とした演技が見物である。


卵くん



おすすめ度 :

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● カーク艦長の黒歴史、あるいは公民権運動以前 映画:『侵入者』(ロジャー・コーマン監督)

1962年アメリカ
84分、白黒

侵入者

 ロジャー・コーマンはB級映画の帝王として名を馳せた人で、最も知られている作品はミュージカルになって大ヒットした『リトル・ショップ・オブ・ホラー』(1960年)であろう。日本でも何度も舞台化されている。
 エドガー・アラン・ポーの小説を原作とする怪奇映画でも知られており、『アッシャー家の惨劇』(1960年)、『恐怖の振子』(1961年)、『姦婦の生き埋葬』(1962年)、『赤死病の仮面』(1964年)、『黒猫の棲む館』(1964年)などがある。
 ミステリーファンのソルティが一時はまったのは言うまでもない。

 本作はロジャー・コーマン唯一の社会派映画で、まったくもってB級ではない。
 日本劇場未公開で、DVD発売は2012年というから、実に半世紀たってのお目見えである。
 こんな映画を撮っていたとは思いもよらなかった。
 それも非常によく出来た傑作で、脚本といい、演出といい、撮影といい、演技といい、音楽といい、間然とするところがない。
 なぜ日本で公開されなかったのか不思議である。

 白人至上主義団体KKK(クー・クラックス・クラン)をバックに持つ組織から南部のある町に派遣されたアダム(演・ウィリアム・シャトナー)は、法律で決まった「人種統合政策」に反感を抱く町民たちを巧みな演説で焚き付け、組織化し、町に住む黒人少年少女らが地元高校に入学するのを阻止しようと企む。
 黒人の地位向上に不満をたぎらせていた町民たちは、アダムを中心に反対運動に連なるが、次第に暴徒化していく。
 黒人たちの教会を爆破して牧師を殺害し、統合政策に賛成する白人の新聞記者を集団リンチし、当のアダムですらコントロールできなくなっていく。

 60年代のアメリカの人種差別をめぐるリアルな状況が、生々しく、迫力たっぷりに描かれている。
 リンカーンによる奴隷解放宣言(1863)から100年経っても、現実はこのようなものだったのだ。
 それを思うと、その後の半世紀のアメリカの人権状況の向上は十分評価に値しよう。
 やはり、マルコムXやマーティン・ルーサー・キングに象徴される50~60年代の公民権運動は偉大であった。

 他人事のように言っているが、実のところ本作を観ていて思ったのは、「現代日本人の他人種に対する意識のありようは公民権運動以前のアメリカ人に等しいかもしれない」ってことであった。
 埼玉県川口市におけるクルド人問題を筆頭に、いま日本各地で外国人移住者と地元民との間で軋轢や紛争が起こっている。(それもなぜか非難されるのは非白人種ばかり)
 排外主義的な言動はこれまでになく高まっており、ネットでなんらかの他人種・他文化に対する差別発言や敵対的言動を見ない日はない。
 そもそも日本は、在日朝鮮人や在日中国人、東南アジアから日本に働きに来る外国人労働者に冷たい国であった。
 日本の多文化共生政策、日本人の公民権意識向上に本腰を入れるべきはこれからなのであって、黒人差別をする白人を批判する資格も余裕もないのである。

 侵入者アダムを演じるイケメン白人のウィリアム・シャトナーはどこかで見た覚えがあると思ったら、なんと『スタートレック』のカーク艦長ではないか!
 TV シリーズ『宇宙大作戦』の開始が1966年だから、その4年前の出演作ということになる。
 ここではカーク艦長とは真逆の悪役であるが、それがかえってシャトナーの演技力の高さを証明してあまりない。
 大衆を前に人種統合政策反対の演説をぶつシーンは、ヒトラーもかくやとばかりの素晴らしいスピーカーぶりを発揮して、TVモニターの前にいてさえ陶然となり、思わず賛同してしまいそうになる。
 おそらく映画史の中で最高の演説シーンの一つであろう。
 このシーンを見るだけでも、この映画を観る価値はある。

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演説するカーク艦長もといウィリアム・シャトナー

 原作はチャールズ・ボーモントの小説 “The Intruder”。
 原作者自身も校長先生役で出演しており、なかなかの好演である。




おすすめ度 :★★★★

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● 映画:『ステキな金縛り』(三谷幸喜脚本&監督)

2011年東宝、フジテレビ
142分

ステキな』金縛り

 崖っぷち弁護士のエミは、妻殺しの容疑で逮捕された男を助けるため、被告のアリバイを証言できる落ち武者の幽霊を、証人台に立たせようと奮闘する。

 どうやってこういった奇抜なアイデアを思いつくのやら。
 目玉となるアイデアさえ生まれたら、あとは三谷にとってお茶の子さいさいなのだろう。
 笑ったり、泣いたり、セリフや演出や役者の演技に感心したりしているうちに、142分が過ぎた。

 弁護士役の深津絵里も検事役の中井貴一もよいが、何と言ってもこのコメディの成功は落ち武者役の西田敏行にある。
 西田以上にはまる役者が思い浮かばない。
 裁判長役の小林隆もいい味出している。
 脇役の魅力を引き出す三谷の上手さは、市川崑に似ている。

 前記事で、これまで日本になかった三谷作品のコメディカラーを『奥さまは魔女』に比したけれど、本作を見て合点がいった。
 三谷は、『或る夜の出来事』『我が家の楽園』などで知られるフランク・キャプラに心酔している、つまりスクリューボール・コメディに影響を受けたのだ。
 ほかに、ハワード・ホークス『赤ちゃん教育』(1938)やエルンスト・ルビッチ『ニノチカ』(1939)などがよく知られている。
 面白いはずだ。 

スクリューボール・コメディ(Screwball comedy)は1930年代初頭から1940年代にかけてハリウッドでさかんに作られたコメディ映画のサブジャンル。常識にとらわれない登場人物、テンポのよい洒落た会話、つぎつぎに事件が起きる波乱にとんだ物語などを主な特徴とする。「スクリューボール」は当時のクリケットや野球の用語で「スピンがかかりどこでオチるか予測がつかないボール」を指し、転じて突飛な行動をとる登場人物が出てくる映画をこう呼ぶようになった。(ウィキペディア『スクリューボール・コメディ』より抜粋)

 西田演じる落ち武者・更科六兵衛が、証拠物件として、主家である北条氏から拝領した陣羽織を自ら裁判長に提出するシーンで一番笑った。
 この間合いこそ、三谷カラー。




おすすめ度 :★★★★

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● イ・ソンギュンを悼む 映画:『王様の事件手帖』(ムン・ヒョンソン監督)

2017年韓国
114分
原題:The King's Case Note

王様の事件手帖

 舞台は15世紀の朝鮮。
 国家は、一族代々資本を握り、陰で政治を操る官僚たちに支配されていた。
 彼らに暗殺された兄王のあとを継いだ国王イェジョン(演:イ・ソンギュン)は、持って生まれた卓抜なる頭脳と身につけた剣の腕、なにより高邁不羈の心をもって、国を改革しようと努めていた。
 地方からやって来た新人史官のイソ(演:アン・ジェホン)は、抜群の記憶力と忠誠心が買われ、王の秘書兼用心棒に抜擢されるが、ドジばかり踏んでしまう。

 ホームズとワトスン、というよりジーヴズとバーティのような凸凹コンビが、怪事件に挑み、推理によって謎を解き明かし、陰謀をたくらむ陰の勢力やその手先と縦横無尽のバトルを繰り広げる。
 文句なく楽しめる歴史劇&娯楽ミステリーである。
 男同士の主従コンビという点で、どうしてもちょっと前に見た『バスカヴィル家の犬 シャーロック劇場版』(西谷弘監督、2022年)と比較してしまうのだが、すべてが段違いのレベルで、制作費の多寡は言い訳にならない。
 それが証拠に同じ2022年には、どう見ても制作費1000万円いかないと思われる『MONDAYS このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない』(竹林亮監督)が公開されているからである。
 日本の映画制作関係者は『MONDAYS』を観て、頭を丸めなければならない。 

 『王様の事件手帖』は、カンヌグランプリを獲った『パラサイト 半地下の家族』(2019)出演で世界的スターとなったイ・ソンギュンを主役に据え、豪華なロケセットや迫力あるVFXも見物で、かなりの予算をかけていると思われる。
 が、そればかりでなく、脚本や演出もよく練られていて、イ・ソンギュンとアン・ジェホンの息の合ったコンビネーションも楽しい。
 とくに、ドジでちょっととろいが、ここ一発大事なところで底力を発揮するイソ役のアン・ジェホンがいい。
 日本の俳優なら、矢本悠馬が適役だろう。
 敵対する勢力の手先を演じるキム・ヒウォンも渋くて味がある。 

 イ・ソンギョンは2023年12月17日に48歳で亡くなった。
 警察に麻薬使用の疑いがかけられていた最中であり、自殺と推測されている。
 この凸凹コンビによる続編が見たかったな。



おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 映画:『記憶にございません!』(三谷幸喜監督)

2019年
127分

記憶にございません
 
 三谷幸喜が天才であることは、最初期の仕事である『やっぱり猫が好き』(フジテレビ、1988-1990)をリアルタイムで観ていて察知した。
 「ああ、日本にこれまでにないタイプのコメディ作家が出てきた」と思った。
 落語風でもドリフ風でも吉本新喜劇風でもない、どちらかと言えば『奥さまは魔女』に近い欧米風にソフィストケートされたお笑いである。

 その後約20年、ソルティは“テレビ&映画離れ”してしまったので、三谷の名を一躍高めた田村正和主演『古畑任三郎』シリーズも、NHK大河ドラマ『新選組!』や『真田丸』も、大ヒットした映画『THE 有頂天ホテル』(2006)や『ザ・マジックアワー』(2008)も観なかった。
 このブログを書くようになってやっと、フジテレビ制作のドラマ『オリエント急行殺人事件』や映画『12人の優しい日本人』(中原俊監督)をDVDレンタルし、また、2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』をリアルタイムで観て、三谷の昔と変わらぬコメディセンスの冴えと役者使いの上手さを確認した。
 これからおいおい過去作をさらっていきたい。

 本作もまた役者使いの上手さが際立つ。
 主演の総理大臣役の中井貴一を取り囲む、秘書役のディーン・フジオカと小池栄子、妻役の石田ゆり子、官邸料理人の斉藤由貴、刑事転じてSP役の田中圭、黒幕官房長官役の草刈正雄、すさんだフリーライター役の佐藤浩市、けばいニュースキャスター役の有働由美子など、それぞれのタレントの新たな魅力を引き出し、見せ所をきちんと作ってあげるあたりが、役者たちが発奮し、三谷の次作にも出たいと思う理由であろう。
 自然と常連化し、チームワークも良くなる。
 撮影現場の雰囲気の良さは画面やスクリーンを通して視聴者に伝わるので、とくにコメディドラマではチームワークは重要である。
 小池栄子と斉藤由貴と有働由美子のコメディエンヌの才には瞠目させられた。

 野党からの追及に対し「記憶にございません!」を連発する悪徳総理大臣が、演説中に頭に石をぶつけられて記憶喪失になるというアイデア、それがきっかけとなって誠実な男に生まれ変わるというプロットも面白い。
 ほどほどに日本の政治や政治家に対する風刺も効いているし、なにより漫画的なご都合主義がかえって楽しい。
 政治ドラマをリアリティもって扱うと、どうしても話が暗く毒々しくなるので、このくらいの「ありえねえ~」塩梅がコメディにはちょうどいい。
 ポテチでもつまみながら気楽な気持ちで観て笑える作品である。 

 しかるに、「ありえねえ~」のおふざけ演出が、公開数年後、シリアスになってしまった。
 2022年7月12日の安倍元首相暗殺事件、2023年4月15日岸田首相襲撃事件である。
 両事件の犯人がこの映画を見て犯行を思いついたとはよもや思わないが、2022年7月以降の公開だったら、この映画はお蔵入りになっていたかもしれない。

 この映画のように、あのとき安倍さんに当たったのが小石で、それをきっかけに安部さんが誠実な政治家に生まれ変わっていたのであれば良かったのに・・・。

 

 
おすすめ度 :★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● ロック・ハドソン、「男」を演ず 映画:『風と共に散る』(ダグラス・サーク監督)

1956年アメリカ
100分

風と共に散る

 原題は Written on the Wind  
 50年代ハリウッドの香り漂う、上質のメロドラマである。

 とにかく主役のロック・ハドソンとローレン・バコールの美男美女ぶりにため息が漏れる。
 なんと似合いのカップルか! 
 この二人が芝居の上だけでなく実生活でも付き合って、結婚して、子供を作ったら、どんなに美しいスターチャイルドが生まれたことかと思うが、人の世は皮肉かつ喜劇である。
 ロック・ハドソンは1985年にエイズを発症した際、ゲイであることをカミングアウトし、全米に衝撃を与えた。
 彼こそは、アメリカンマッチョ社会の理想的ダチ、理想的カレシ、理想的父親を演じ続け、実像もそのようなものと世間に思われていたからだ。
 邦画界に置き換えて言えば、高倉健や渡哲也が「ゲイでオネエだった」というような感じだろうか。

 本作でのローレン・バコールやドロシー・マローンを始め、エリザベス・テーラー、ドリス・デイ、ジーナ・ロブリジーダ、クラウディア・カルディナーレなど世界に名だたる美人女優たちと共演を重ね、ラブシーンを演じたが、本人はまったく“その気”にならず、恋愛に発展する可能性もなかったのだから、世の(ヘテロの)男たちにしてみれば「もったいない」ことこの上ないし、世の(ヘテロの)女性たちにしてみれば「なんとなく騙された」気にもなろう。
 共演女優にしてみれば、これ以上ない安心できるパートナーだったわけだが。 

 ある意味、ロック・ハドソンは二重に演じていたのである。
 つまり、スクリーンで男らしく格好いいいキャラクターを演じると同時に、ファンを含む対マスコミ的にはノンケ(ヘテロ)の男を演じていた。(ただ、役者仲間の間では彼の同性愛は公然の秘密だったという) 

 そうした事実が明らかになった現在、ロック・ハドソンの芝居を見ると、いろいろなことが思い浮かぶ。
 昨今では日本でも、『おっさんずラブ』の林遣都や『エゴイスト』の鈴木亮平のように、ノンケの男優がゲイの役を演じることは珍しくなくなった。
 が、リアリティもって演じるのはなかなか難しいようである。
 吉田修一原作、李相日監督の『怒り』(2016年)では、ゲイのカップルを演じた妻夫木聡と綾野剛が、役作りのために撮影期間を通じて同棲したというエピソードもあるほどだ。
 男が男を愛する――自らの感性では容易には理解しがたい感情だろうし、ヘテロ社会にゲイというマイノリティとして生きる気持ちも想像しがたいだろうし、典型的なゲイ像というものがないので、どう演じたらいいのか悩むと思う。(「ゲイ=女装姿のオネエ」という典型的イメージは過去のものになりつつある)

 翻ってみれば、ロック・ハドソンにしろ、モンゴメリー・クリフトにしろ、アレック・ギネスにしろ、ジャン・マレーにしろ、ダーク・ボガードにしろ、ゲイでありながらノンケの男の役を当たり前に演じ、その演技を絶賛されてきた。
 それは、幸か不幸か、少年時代に自らが周囲の男子と違うことに気づき、それがばれないよう、周囲の男を観察し、模倣し、対人場面で「男」を演じ続けてきたことの長年の努力と経験の賜物だったろう。
 ノンケの俳優がたまたまゲイの役を与えられて、「それでは2丁目にでも行って勉強してみるか」と役作りに励むような“付け焼刃”ではないのである。
 言ってみれば、演じることが第二の天性になっているわけで、昔からゲイの役者に名優が多いのも当然と思う。

 本作の冒頭、ロック・ハドソン演じるミッチが、ローレン・バコール演じるルーシーに、仕事現場ではじめて出会うシーンがある。
 ミッチがドアを開けて部屋にはいると、ポスターを貼った衝立が視界を遮るように並んでいて、ルーシーの姿はすぐには見えない。
 見えるのは衝立の下の空きスペースからのぞくルーシーの両足である。
 カメラはローレン・バコールの素晴らしく美しい足をここぞとばかり映し出す。
 演出の狙いは明らかで、ミッチがルーシーの足に強烈なセックスアピールを感じ、恋愛の始まりを予感するところにある。
 映画を観る者もまた、監督の狙いどおりに二人の恋愛の始まりを予感する。 
 しかるに、実際には、ゲイのロック・ハドソンはバコールの足を見てもなんら性欲をそそられることなく、普通に「足」としか思わなかったろう。せいぜいが、「素敵なハイヒールだなあ」くらいにしか思わなかったろう。
 もちろん、ロック・ハドソンは演出をちゃんと理解し、「おっ、なんていい足なんだ。そそられるぜ!」という表情をしてみせる。
 そうした演出と実際のギャップを思うと、興味深い。

 共演のロバート・スタックのコンプレックスに苛まれた若社長の演技、ドロシー・マローンの我がままで放埓な社長令嬢の演技も見物である。
 ダグラス・サークの演出は粋で、テンポがよく、小気味いい。




おすすめ度 :★★★

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