ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●映画・テレビ

● 映画:『ナイル殺人事件』(ケネス・ブラナー監督)

2022年アメリカ、イギリス
127分

 ケネス・ブラナー監督&主演による『オリエント急行殺人事件』(2017)は良かった。
 同じアガサ・クリスティ原作で、エジプトが舞台で映像ばえする『ナイル殺人事件』に期待が高まるのも当然である。
 多くの鑑賞者同様、ソルティもまた、筋書きも犯人もトリックも知っているので、見どころは疑似エジプト旅行を味あわせてくれる豪華な映像と、スター俳優たちの競演という点にある。

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Peace,love,happinessによるPixabayからの画像

 映像はまったく素晴らしい。
 ナイル川の広々とした悠久の風景、ピラミッドやアブシンベル神殿など神秘的な古代エジプト遺跡、金持ち御用達の豪華客船、美しい衣装やアクセサリー、スタイル抜群の美男美女。
 一気に物語の世界に運んでくれる。

 役者もそれぞれ好演なのだが、残念なことに出演俳優の中でソルティが見知っているのは、ケネス・ブラナーただ一人だった。
 これは、ソルティが最近の映画を観ていないのと、記憶力が減退しているので役者の顔を一度で覚えられないのが大きな理由だろう。
 調べてみたら、サイモン・ドイル役のアーミー・ハマーはルカ・グァダニーノ監督のBL映画『君の名前で僕を呼んで』の恋人役を演じているし、ポワロの親友ブーク役のトム・ベイトマンは『オリエント急行』に続く出演だし、ブークの母親役のアネット・ベニングはサム・メンデス監督『アメリカン・ビューティ』で英国アカデミー主演女優賞を受賞している名優であった。
 観る人が観れば、今を時めく豪華スター総出演なのかもしれない。
 それでもやはり、1978年版『ナイル殺人事件』の出演陣――ピーター・ユスティノフ、ジェーン・バーキン、ベティ・デイヴィス、ミア・ファロー、ジョン・フィンチ、オリヴィア・ハッセー、ジョージ・ケネディ、アンジェラ・ランズベリー、マギー・スミスほか――に比べると、小物感が漂い、見劣りする感がある。
 そんな中でも、サロメ・オッタボーンを演じるソフィー・オコネドーという黒人女優が、素晴らしい歌声と酸いも甘いも知る成熟した女性の魅力を醸していて、印象に残る。
 原作ではサロメ・オッタボーンは、ハーレクイン小説まがいの性愛小説を書き散らすアルコール中毒の作家だった(アンジェラ・ランズベリー演ず)が、ここではポワロが好意を抱く人気ブルース歌手に変えられている。

 前作『オリエント急行』でもそうであったが、本作においてもエルキュール・ポワロという人物像の掘り下げが見られる。
 ベルギー人ポワロは、どんな過去を持ち、どんな恋愛をしてきたのか?
 なぜ生涯結婚しなかったのか?
 なぜ髭を生やすことにしたのか?
 クリスティが書かなかった人物背景が創作されている。
 現代という時代は、「名探偵」という肩書一つでドラマが作れる、視聴者が満足する時代ではなくなったのである。
 
 さらに現代性という点で言えば、1978年版の主要登場人物が全員白人だったのにくらべ、2022年版の人種の多様性は驚くべきものである。
 ハリウッド映画界のダイバーシティ(多様性)尊重のあらわれだろう。
 それに反対するつもりは毛頭ないが、有産階級のリネット・リッジウェイの幼馴染や従兄弟が黒人であったり、白人男性が黒人女性を結婚相手に選ぶなど、物語の時代背景(1930年代)を無視した設定にはさすがに不自然を感じる。
 史実は史実である。
 史実を曲げる形での原作変更は好ましいとは思えない。
 そんなことしたら、「きびしい差別があった」という事実さえ、観る者は学べなくなってしまう。




おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


  

● 彼は笑う TVドラマ:『ソドムとゴモラ』(ジョセフ・サージェント監督)

1993年アメリカ
112分

ソドムとゴモラ

 ソドムとゴモラと言ったら、神の怒りを買って一夜にして滅ぼされた悪徳の町である。
 とくにソドムの破滅は男色行為の蔓延が主たる原因とみなされ、肛門性交を表す「ソドミー」という言葉の語源となった。
 ソドムが滅ぼされたのが住民たちの男色行為によるものなのかどうかは、研究者によって意見が異なる。
 旅人のふりをして町を訪れた二人の神の使いを足蹴にしたことが原因とする説もある。(旅人を家に泊めてもてなしたロト一家だけが、崩壊する街から逃れることができた。ただし、ロトの妻は逃げる途中、神の使いの言いつけを破って後ろを振り返ったため、塩の柱にされてしまう)
 ともあれ、ソドムは、男色行為も含め人々のありとあらゆる欲望が充満し、節制や親切や勤勉といった美徳が欠落した町だったのである。
 出典はもちろん『旧約聖書』だ。

 本作は、アメリカ制作の「歴史スぺクタクル超大作」という売り文句で、DVDジャケットには火の海となったソドムの絵が使われている。
 酒池肉林のソドムの映像(BLエロシーンあり)や、ポール・アンダーソン監督『ポンペイ』のようなVFXを駆使した迫力たっぷりの派手な破壊シーンが観られるのかと思って、レンタルした。

 ところがどっこい、看板に偽りあり。
 思っていたのとは違っていた。
 それもそのはず、本作の原題は Abraham「アブラハム」。
 つまり、『旧約聖書』創世記に出てくる最初の預言者で、すべてのユダヤ人、すべてのアラブ人の祖と言われる聖人の伝記だったのである。
 しかも、20分に一度くらい映像が途切れて暗くなる瞬間がある。
 映画ではなくて、CMタイム折り込み済みのTVドラマであった。
 となると、「スぺクタクル超大作」という煽りも空しいばかり。
 ソドムの破壊シーンは、円谷プロ『ウルトラシリーズ』ほどの迫力もなかった。

 期待は見事に裏切られたものの、ドラマとしてはなかなか面白かった。
 ソルティは『旧約聖書』の内容をしっかり把握していないので、アブラハムの生涯とソドムの破壊がどう関わるか、知らなかった。
 アブラハムと言えば、たしか神に命じられて自分の息子を生贄に捧げようとした男だったな、くらいの印象であった。
 妻サラとの間に子供ができなかったため妻の召使と関係して最初の息子イシュマエルを作ったとか、齢100歳過ぎてから90歳のサラとの間に息子イサクが生まれたとか、ユダヤ人が割礼の習慣を持つそもそもの起源がアブラハムと神との交信にあったとか、はじめて知ることが多かった。
 それにしても、「男児が生まれたら、8日目に包皮を切りなさい」と命令する神様の意図ってなに?


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Engin AkyurtによるPixabayからの画像

 アブラハム役のリチャード・ハリスは、『ハリー・ポッター』シリーズ第1、2作でダンブルドア校長を演じた名バイプレイヤー。
 このTVドラマがそれなりに見ごたえあるのは、彼の演技の質の高さによるところが大きい。
 100歳にして授かった息子イサクを生贄に捧げるシーンの苦悩の表現(その裏返しとしての神への帰依の表現)は、役者経験と人生経験の蓄積あってこその深み。
 信者の帰依の度合いを確かめたがる神様のパワハラ気質への不快も、ハリスの名演によって緩和されよう。

 「ああ、そうなのか」と知ったことの一つ。
 アブラハムの息子イサクの英語読みはアイザック。
 つまり、物理学者アイザック・ニュートン、SF作家アイザック・アシモフ、ヴァイオリン奏者アイザック・スターン、物理学者ジェローム・アイザック・フリードマンと同じである。
 ユダヤ系男子に多い名で、上記のうちニュートン以外はユダヤ系である。
 その意味は「彼は笑う」なのだと。




おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 大正役者の”味” 映画:『気違い部落』(渋谷実監督)

1957年松竹
134分

 きだみのるの小説『気違い部落』シリーズを原作とする。
 きだみのる(1895-1975)は鹿児島県出身の小説家。フランス留学の経験を生かし、『ファーブル昆虫記』の翻訳もしている。
 戦中戦後、東京都南多摩郡恩方村(おんがたむら、現:東京都八王子市)の廃寺に20年ほど籠もるように暮らした。
 そのときの見聞をもとに書いたのが『気違い部落周游紀行』(1948年)で、一躍ベストセラーになった。
 「気違い」扱いされた恩方村の人々にしてみれば、たまったもんじゃない。
 きだに向って鎌を振りかざし、村からの立ち退きを迫ったという。

 恩方村は童謡『夕焼け小焼け』誕生の地でもある。
 作詞の中村雨紅がこの里のお宮の子供であった。
 ソルティは山登りの帰りに寄ったことがあるが、緑豊かな長閑な里といった印象を受けた。
 なお、この小説および映画のタイトル中の「部落」は被差別部落のことではない。
 本来の語義である「集落」の意である。

恩方村の夕暮れ
八王子市恩方

 国立映画アーカイブの2階ホール(310席)はほぼ満席であった。
 95%は中高年男性だった。
 古い邦画を愛する映画マニアにとって、見逃せない作品なのである。
 というのも、一見タブーの2乗のような物騒なタイトルをもつ上、実際に作品中でも放送禁止用語が頻発する本作は、TV放映NGはもちろんのこと、DVDにもなっておらず、旧作専門の映画館でも上映される機会が滅多にないからである。
 のっけから、ナレーターを務める森繁久彌が「きちがい」を連発するわ、犬を撲殺して皮を剥ぎ肉鍋にするシーンは出てくるわ、肺病患者や共産党員(アカ)を差別するセリフは飛び出すわ、セクハラ・パワハラは空気のように当たり前で、“令和コンプライアンス”に違反することだらけである。
 加えて、部落の男どもときたら、博打は打つわ、酒を飲んでくだを巻くわ、殴り合いの喧嘩をするわ、妻がいるのに女工に手をつけるわ、酒に水増しするあこぎな商売はするわ、密猟するわ・・・、片や女どもは寄ると触ると人の悪口を言うわ、猥談するわ、ノーパンでワンピースを着るわ・・・。
 前近代的で閉鎖的な村社会に生きる色と欲と偏見にまみれた男女の姿が、赤裸々に描き出される。
 前半は戯画的かつコミカルなタッチで。
 後半は悲劇的かつシニカルなタッチで。

 昭和30~40年代に首都圏のベッドタウンに生まれ育ったソルティは、こうした地方の“村社会”文化に直接触れたことはない。
 が、TVドラマや映画や小説や漫画を通じて、あるいは地方で生まれ育った知人から話を聞いて、「田舎の暮らしとはそういうものか」と思っていたので、いまさらその実態に驚くことはない。
 むしろ、新鮮な驚きは、昭和の頃の自分なら何とも思わなかったであろう「きちがい」というセリフの連発や犬殺しのシーンにショックを覚え、「これはちょっとマズいんじゃないの?」とドギマギしている、令和の自分を発見したことであった。
 つまり、昭和から平成を通過して令和に至る数十年で、表現の自由に対する自らのしきい値、つまりNGラインがいかに変わったかに気づかされた。
 その変化は、良く言えば、人権意識の向上、ソフィストケイト、紳士化、民度の向上、SDGs理解の深まりってことであるが、反面から見れば、社会に洗脳されて“いい子”になった、表現の自由の範囲を狭めようとする世の潮流に知らず押し流されていた、ということでもある。
 だいたい、戦争映画やホラー映画で人が虐殺されるシーンは平気で観ているのに、一匹の犬が殴り殺されるシーンに、「見ていられない!」「残酷だ!」「許されない!」と思ってしまうあたりが、世間の恣意的なNGラインの設定と、ソルティの洗脳されっぷりを示しているではないか。
 実際、犬撲殺シーンでは、観客席から非難とも悲鳴ともつかない声が上がっていた。

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国立映画アーカイブ

 さすが「国立」を冠する施設だけある。
 フィルムの保管方法が良いのだろう。画質と音声は信じられないくらいクリアであった。(あまり上映されないせい?)
 出演者がみんな上手く、味がある。
 部落一の権力者・良介を演じる山形勲は、高峰三枝子共演『点と線』を観た時も思ったが、岸田首相に似ている。メガネをかけたらクリソツなのではないか。権威を笠にきる俗物っぽい男を好演。
 その取り巻きを演じる藤原鎌足、三井弘次、信欣三らのコミカルな演技は秀逸。
 良介の妻役の三好栄子は、木下惠介『カルメン、純情す』や小津安二郎『おはよう』での怪演ぶりが記憶に残るが、ここでもエグイほどのキャラ立ちで観客を楽しませてくれる。男優なら天本英世にならぶ希有な怪物役者だ。三好栄子特集をどこかで組んでくれないものか。(新文芸坐 or 神保町シアター or ラピュタ阿佐ヶ谷?)
 今井正監督『橋のない川』で名優ぶりを知った伊藤雄之助。ここでも地か芝居か区別つかないような渾身の演技を見せる。演じることに対する凄まじい情熱は、後輩の三國連太郎と比肩しうる。
 若い恋人役を演じる、まぎれもない美男美女の石濱朗と水野久美は、有象無象が跋扈する部落にあって唯一の清涼剤。石濱朗は、美空ひばりとコンビを組んだ『伊豆の踊子』で、水もしたたる美青年ぶりを見せていた。やっぱり、目鼻立ちが菅田将暉を思わせる。
 ほか、うれしいサプライズは、伴淳三郎、淡島千景、清川虹子、桂小金治、もちろんナレーターの森繁久彌。

 『気違い部落』というだけあって登場人物がみなそもそも個性的なのであるが、そればかりでなく、昔の役者の個性豊かさはどうだろう?
 高齢者介護施設で働いていた時に思ったのだが、大正生まれの人は個性的で面白い人が多かった。
 結構わがままで職員泣かせなのだが、どこか剽軽で憎めない。
 風変りなエピソードを持っている人も多かった。
 育った時代の空気というものだろうか。
 そのうち入所者が昭和生まればかりになってくると、日本人から個性とユーモア精神が抜けたような気がした。
 戦後生まれともなると、さらに画一化。
 役者についても当然それはあてはまる。
 本作は、大正生まれの役者たちの“味”の証言とも言える。

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階段に掲示された昔の映画ポスター
 
 前述したように、きだみのるは恩方村の人々から恨まれた。
 が、言うまでもなく、きだが言いたかったのは、恩方村は日本の縮図であり、「気違い部落」とはそのまま日本の姿だということである。
 本作の最後のナレーションでも、「このような部落は日本中どこでもあります」と言っている。
 おそらく、フランス留学で西欧文化に触れたきだは、日本の前近代性をしこたま痛感し、なかば絶望したのだろう。
 たとえば、権力への盲従、談合、根回し、同調圧力、掟、村八分、「なあなあ」主義、本音と建て前の使い分け、組織の無責任体質、男尊女卑の家制度、重要なことは会議でなく料亭や居酒屋で決まる、よそ者を嫌う閉鎖性・・・・e.t.c.
 恋人を結核で亡くし「気違い部落」に愛想をつかした石濱朗が故郷を捨てるラストシーンに象徴されるように、はたして令和日本人は、「気違い部落」の住人であることを止めたのだろうか。
 
 こういった本質的テーマを無視して、「気違い」や「犬殺し」で目くじらを立て(あるいは自己規制して)フィルムをお蔵入りさせてしまう風潮は、まったく好ましくない。
 テレビ放映は無理でも、「観る or 観ない」を一個人が選択できるDVD化はされて然るべきと思う。
 



おすすめ度 :★★★★★

★★★★★ 
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● 事実は小説より・・・ 映画:『主人公は僕だった』(マーク・フォースター監督)

2006年アメリカ
112分

 原題は Stranger than fiction
 「事実は小説より奇なり」(Truth is stranger than fiction)から取られている。

 税務署に勤めるハロルド(演・ウィル・フェレル)は、真面目一辺倒の独身者で、家と職場を往復する単調な毎日を繰り返している。
 ある日、どこからか女性の声が聞こえてくる。
 それは、あたかも小説家が登場人物を描くように、ハロルドの一挙手一投足や心の動きを描写する女性の声であった。
 専門家の統合失調症という診断を受け入れられないハロルドは、謎の声の正体を探ろうと、文学理論に詳しいヒルバート教授(演・ダスティン・ホフマン)のもとを訪ねる。
 ヒルバートはハロルドに、「聞こえてくる声をすべて書きとめてみろ」と助言し、そこに展開される物語の質の分析を試みる。
 2人が発見した語り手の正体は、現役の女性作家カレン・アイフル(演・エマ・トンプソン)であった。
 カレンの小説では、常に主人公は最後に死ぬ決まりとなっていた。

 現実と虚構(フィクション)が入り混じるメタフィクション・コメディである。
 虚構が現実に忍び込み、現実を支配し、現実を生きるハロルドに脅威を与え、ハロルドはそこから逃れようとあがく。
 逆の見方をすれば、自らの生きる現実が虚構であることを知ったハロルドが、意志の力で虚構を自分の思いどおりに変えようとする。  
 作者とその創造したキャラクターの対決とは、言ってみれば、神様と人間の対決、あるいは定められた運命との対決みたいなもので、面白い仕掛けだなあと思った。

 想起したのは、大学生の時に観たルイジ・ピランデルロの戯曲『作者を探す6人の登場人物』である。
 題名通り、作者が執筆の途中で筆を折ったため、宙ぶらりんで放り出された6人の登場人物が、物語の完成を求めて、続きを書いてくれる作者を探す話である。
 ラストの衝撃は、クリスティの『アクロイド殺し』を読んだ時に匹敵するものだった。
 メタフィクションという言葉を初めて知り、その威力に打ちのめされ、鑑賞後は言葉を失った。
 もっとも、『作者を探す~』は『主人公は~』と違って、悲劇あるいは不条理劇であったが。

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 ダスティン・ホフマン、エマ・トンプソンというベテラン名優の出演は、お得な気分にさせられる。
 どちらも貫禄十分でありながら、コメディの登場人物として要求される“軽み”を過不足なく体現している。
 ハロルドが、カレンの書いた原稿(=自らの“物語”のラスト=自らの死という結末)をバスに揺られながら読むシーンから、ジョン・シュレンダー監督の名作『真夜中のカウボーイ』(1969)のラストシーンを連想した人は少なくなかろう。
 むろん、「ダスティン・ホフマン」と「死」がキーワードである。

 ハロルドが恋に落ちたアナ役のマギー・ジレンホールは、『ブロークバック・マウンテン』でゲイのカウボーイを演じたジェイク・ジレンホールの姉。
 可愛らしくコケティッシュな趣きが、フランスの女優ジュリエット・ビノシュの若い頃に似ているなあと思った。(間違っても、ここ最近のビノシュではない)

 マーク・フォスター監督とウィル・フェレルのコメディセンスが光る作品である。





おすすめ度 :★★★

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● オオクボレンセキ? NHKドラマ:『クライマーズ・ハイ』

2005年NHK制作
150分
原作:横山秀夫
演出:清水一彦、井上剛

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 JAL123便墜落事故20周年の節目に、原田眞人監督×堤真一主演の映画版に先駆けて、NHKが制作・放映したもの。
 来年で40周年と思うにつけ、月日の速さをつくづく感じる。
 と同時に、520人が亡くなった事故の衝撃の大きさと、いまだ治まることのない事故原因や事故後の対応をめぐる疑惑の噴出ぶりに、いっこうに鎮まらない心をもてあます。
 昭和・平成・令和と60年生きてきて、国内のいろんなニュースに接してきたが、こんな未消化で不快な思いを引き摺る事件はほかにない。
 府中3億円強奪事件(1968)やグリコ・森永毒入り菓子事件(1984)など犯人が捕まらないまま時効となった未解決事件、あるいはオウム真理教地下鉄サリン事件(1995)や薬害エイズ事件(1997年裁判和解)など多数の被害者を出した悲惨な事件はあったけれど、JAL123便墜落事件ほどの不気味さや後味の悪さはない。
 間違いなくそれは、森永卓郎が書いたように、この事件がいまも巨大な政治的圧力によってタブー視されていることと関係している。
 事件の詳細について知れば知るほど、そこに深い闇があるのを感得せざるをえないのだ。

 映画版にしろ、このTV版にしろ、本作の肝となるメッセージをしっかりと受け止めるためには、この闇に触れないわけにはいかない。
 なぜ、「日航全権デスク」を託された主人公悠木和雄は、部下を駆使して掴んだ「事故原因は圧力隔壁の損壊」というスクープの掲載を最後の最後に断念したのか。
 結果として、全国紙に出し抜かれる“ミス”を犯してしまったのか。
 悠木という男の性格、すなわち過度の慎重さ(あるいは優柔不断や臆病)に原因を帰するならば、この物語は単に、「ここ一番で勝負できず、周囲の期待を裏切った男」の失敗譚に終わってしまう。
 同僚にしてライバルの田沢が言うように、「いざとなると腰を引いてしまう悪い癖」がまたしても出たのだと。
 が、そうではない。
 「圧力隔壁の損壊」という事故原因は疑わしい=真相は別にあるということを、悠木という男の振る舞いを通して読者や視聴者に暗示したかった――というのが作り手の隠された意図であろう。
 であればこそ、TV版において、新聞をもらいに社を訪れた遺族母子が悠木に向けて放ったセリフ、「事故で亡くなった人の為にも真実を伝えて下さい」が生きてくる。
 映画版においてラストに映し出されるテロップ、「再調査を望む声は、いまだ止まない」が効いてくる。
 要は、「機体後部の圧力隔壁の損壊」という事故原因を安易に信用せず、寸でのところでスクープを思いとどまった悠木を、“クライマーズ・ハイ”という精神の興奮が引き起こす麻痺状態から「降りてきた」男として描いたのである。

 その意味で、原作者の横山秀夫はもとより、NHKドラマ制作班も原田眞人監督はじめ映画制作者も、「タブーに挑んだ」ということができる。
 とくに、国営放送であるNHKであってみれば、政府公式発表に疑問を抱く現場サイドがなし得るぎりぎりの抵抗が、本作の制作と放映だったのかもしれない。(今回の都知事選のNHK政見放送で、このタブーを堂々と破った泡沫候補がいたのには驚いた。)

宇宙人襲来

 このTV版、第43回ギャラクシー賞などいくつかの賞をもらい、評価が高い。
 実際、非常によく出来ている。
 映画版とほぼ同じ150分の尺で、映画版よりずっと話が整理されて分かりやすく、より濃いドラマが生み出されて、感動を呼ぶ。
 まず、脚本が上手い。
 映画版ではバランスを誤った3つのテーマ――墜落事故の様相、新聞社で働く男たちの群像、谷川岳登山をめぐってあぶり出される父子関係――が、適切な比重をもってバランス良く描き出されている。
 ナレーションや字幕の使用によって、視聴者が混乱しないような工夫もされている。
 映画版ではなんのことやら分からなかったベテラン記者たちの言葉「オオクボレンセキ」が、連続女性強姦殺人事件の犯人大久保清と、あさま山荘で有名な連合赤軍事件のことだと、TV版を観て知った。
 どちらも同じ1971年に群馬県で起きた事件だったのだ。

 北関東新聞社の社長と悠木の母親の浅からぬ関係、佐山とともに事故現場に足を運んだ神沢記者(映画では滝藤賢一、TVでは新井浩文演ず)の精神不安と自殺――両エピソードが省かれているのは、映画版との大きな違いであるが、話をシンプルにするためには、これは削って正解だった。
 このようなスケールの大きな話の場合、原作そのままを決められた尺(約150分)で映像化するのはどだい無理なのだから、どこかを思い切って削らなければならない。
 エピソードを詰め込み過ぎて映像作品としての質が落ちては、元も子もない。
 そこを理解してくれる原作者の存在は、映像化に際して非常に有難いところであろう。

 役者については、映画版に負けず劣らず、TV版も良かった。
 悠木役の堤真一と佐藤浩市のどちらがいいかは好みの問題だろう。
 暑苦しいほどの存在感はTV版の佐藤が一頭地抜いているが、男たちの群像劇として見れば、逆にそこがちょっと鼻につく。
 佐山役は、映画版の堺雅人のほうが若々しい切れがあって印象に残る。
 が、TV版の大森南朋のやさしい顔立ちは、生き馬の目を抜くマスコミ業界で「24時間戦う」昭和の男たちが互いに容赦なく罵り合う、観る者が思わず引いてしまう“喧嘩・パワハラ上等”場面にあって、貴重な癒し効果を生んでいる。
 社長役は、映画版の山崎努が個性際立つキャラを作って気を吐いていたが、出番の少なさを思えばTV版の杉浦直樹の威圧感ある眼差しもエグい。
 TV版の社員たち――岸部一徳、塩見三省、光石研、松重豊、岡本信人ら――は、それぞれが役者自身の個性や顔立ちとかぶるような役柄で、いい味を出している。
 悠木の妻役の美保純だけはちょっと××クソ。

 “ワースト・オブ・ワースト”の異名をとる谷川岳の衝立岩に登るスリリングなシーンは、巨大スクリーンを前提とした映画版こそバエるはずであるが、どういうわけかソルティは、TV版のほうが観ていてゾッとした。
 これはしかし、映画館のスクリーンのために撮られた映像をDVDでテレビモニターで観るよりも、あらかじめTV放映を念頭に置いて撮られた映像をテレビモニターで観るほうが、迫力があるってことなのかもしれない。
 映画とTVドラマでは、キャメラの使い方が違って当然である。 

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谷川岳
KanenoriによるPixabayからの画像


 
 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★
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● インティマシー・コーディネーターのいない7月 映画:赤い殺意(今村昌平監督)

1964年日活
150分、白黒

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 ガラス壁面に蔽われたビルディングの反射光ですら、焼けるように熱い午後の池袋。
 東池袋駅から歩いてたどりついた新文芸坐の適度な空調と柔らかいシートに包まれ、ほっと一息ついたが、「上映時間150分」という場内アナウンスを耳にして不安にかられた。
 120分でも長く感じる昨今のソルティ。
 最後まで起きていられるかしら?
 ボリウッド映画『RRR』(179分)や岡本喜八版『日本のいちばん長い日』(157分)のような全編みなぎる緊迫感と面白さがなければ、寝落ちのリスクは高い。
 適当なところで一時停止して休憩がとれる自宅での映画鑑賞に軍配が上がる理由の一つである。

 始まってすぐ、白黒画面の画質の荒さと暗さに不安は高じた。
 デジタルリマスターしてないのか。
 見づらい・・・・。
 北林谷栄扮するお婆ちゃんが登場して東北弁でもごもご喋る。
 セリフが分かりづらい・・・・。
 これは寝落ち確定だなと思いながら観ていると、『太陽にほえろ!』のヤマさんでお茶の間の人気者となった露口茂が登場した。
 わ、わかい。
 カッコいい。
 ヤマさん、こんなイケメンだったのか!
 こんなセクシーだったのか!

 鬱屈した表情をした32歳の露口茂が、東北の田舎の村に住む平凡な顔した小太りの女をつけ狙う。
 春川ますみである。
 ソルティの中では、『江戸を斬る』、『暴れん坊将軍』の長屋のカミさんイメージが圧倒的に強い脇役専門女優だ。
 と、刑事のヤマさんが長屋のカミさんを、露口茂が春川ますみを、強姦する。

 !!!

 一気に覚醒した。
 そこからは、画質の荒さもセリフの聞き取りづらさも超えて、ドラマに入り込んだ。

 露口が演じるのは、心臓病持ちの孤独な男、平岡。
 東京でパンパンをしていた母親を亡くし、いまは仙台のストリップ小屋でバックミュージックを演奏している。
 春川が演じるのは、宮城県北の東北本線沿線に暮らす主婦、貞子。
 ただし、主婦とは言っても正式に入籍されておらず、夫吏一(西村晃)との間にできた息子勝は、戸籍上は吏一の父親の子となっている。
 貞子の母は吏一の祖父の妾腹にできた子であった。
 母親亡きあと行く当てのなかった貞子は、吏一の実家で女中として働き、そこで吏一の子を身籠ったのである。
 吏一と貞子は、祖父を同じくする事実婚の夫婦ということになる。
 出自の賤しい貞子は、吏一の一族から下に見られ、ぞんざいに扱われている。
 そのうえ、吏一には貞子とできる前から付き合っている同じ職場の愛人義子(楠侑子)がいた。
 
 家父長制と男尊女卑と村社会。
 いかにも昭和の地方ならではの因循姑息たる風土。
 その中で二重三重に縛られた一人の鈍くさい女が、強姦をきっかけに強く、したたかになっていく過程が描き出される。
 と同時に、女の性を描こうとしているところに、60年代という制作時における本作の話題性はある。
 
 70年代日活ロマンポルノ以前に、女の性をテーマに可能なかぎりの写実表現に挑戦した今村の創作意欲は称賛に値する。
 乳首さらけ出しのオールヌードやそのものずばりの交接シーンこそない(たとえば、強姦シーンは轟音で通過する汽車の映像によって暗喩されている)ものの、性に興味を抱き、男に抱かれることの快楽に囚われていく女性の姿が、リアリティ豊かに描かれている。

 貞子を演じる春川ますみは一世一代の熱演で、これ一作で映画史にその名が刻まれよう。
 十人並みの器量で、愚鈍だが気のいい娘であるこの貞子という役は、若尾文子でもなく、高峰秀子でもなく、岡田茉莉子でもなく、大竹しのぶでもなく、田中裕子でもなく、やっぱり春川ますみだからこそハマる。
 1975年にTVドラマ化(ソルティ未見)で貞子を演じた市原悦子もなるほど適役とは思うけれど、エロの濃度では春川に及ばないだろう。
 春川ますみは、女優になる前、浅草ロック座や日劇ミュージックホールでダンサーとして活躍していたのである。

赤い殺意2
露口茂と春川ますみ

 80~90年代フェミニズムを通過した令和の現在、ここで描かれる「家」制度や男尊女卑が噴飯たるものである、ましてやいかなる形であれ相手の意志を無視したセックスが許されないのは言うまでもないが、60年代の日本の(とりわけ地方の村の)現実の描写としては、決して間違ったものではない。
 大島渚監督『儀式』にも見るように、このような日本があった。
 では、女の性の描き方についてはどうだろう?
 実はそこがソルティの引っかかったところである。

 平岡に強姦された貞子は、身を恥じて自殺を試みるが失敗する。
 一方、貞子を好きになってしまった平岡は、しつこく貞子に付きまとい、会ってくれなければ夫にばらすと脅し、ふたたび貞子を強姦する。
 貞子が身籠ると、それが自分の種と思い込んで、夫を捨てて一緒に東京で暮らそうと迫る。
 強姦魔で、悪質ストーカで、恐喝犯で、完全な自己中人間。
 しかるに、その平岡に抱かれるうちに貞子は“感じて”しまい、次第に平岡に惹かれるようになっていく。
 ここである。

 それが強姦であっても、やられているうちに女は“感じて”しまい、体を重ねるうちに男の匂いを忘れ難くなり、いつの間にか男を愛するようになる。
 この「嫌よ嫌よも好きのうち」、「今に好くなるよ」、「なんだかんだ言って濡れているじゃないか」ストーリーは、ほんとうに女の性の一部であろうか?
 ソルティは女性を強姦したことがないし、女性が強姦されている場面もTVドラマや映画などのフィクションでしか見たことないので断言できないのだが、やっぱりこれは「男にとって都合のいい妄想」であろう。
 たとえ、強姦された女性が強姦した男に従順になったとしても、それは快楽や憐みや愛からではなく、恐怖や絶望によって精神が麻痺したため、あるいは生き延びる方策のため、いわゆるストックホルム症候群である。

 こうした「雨降って地固まる、強姦転じて愛」のような勘違いはどうも男に共有されがちらしく、今村より前に巨匠黒澤明が『羅生門』において、野武士(三船敏郎)に強姦された貴族の妻(京マチ子)の表情の変化において、この種の妄想を表現している。(芥川龍之介の原作『藪の中』はどうだったか覚えていない)
 その後、日活ロマンポルノ(とくにSM作品)やアダルトビデオやアダルトコミックで、男の「強姦転じて愛」妄想は爆発的に映像化され漫画化され商品化され、スタンダードな女の性のあり方の一つとして、世の男たちの脳に刷り込まれてしまったようである。
 だが、それを女の性の“真実”とするのは間違っているし、スタンダードなアダルトビデオのジャンルとして一般化するのは適切ではあるまい。
 そのファンタジーを“真実”と信じた若い男たちが勘違いして、手が後ろに回るリスクも生む。生んでいる。(セックスの最後は顔射で終わるものと勘違いする若者がいるように)

 なぜ、男は「強姦愛」妄想を抱くのだろう? 好むのだろう?
 それを考察すると話が長くなるので、やめておく。
 観点を一つだけ上げるなら、男のセックスが征服欲(サディズム)と結びつきやすいところにある。
 相手を力で征服し、下に組み伏し、馴致させるところに勝利の快楽を覚える気質が、多かれ少なかれ、男という種には存する。
 いわゆるマッチョイズムだ。 

お姫様だっこ

 最近、インティマシー・コーディネーター( Intimacy Coordinator )という耳慣れない言葉をネットで見かける。

インティマシー・コーディネーターは、映画・テレビや舞台など視覚芸術の製作にかかわる職種のひとつ。一般に、俳優らの身体的接触やヌードなどを演出上必要とする際に、演出側と演者側の意向を調整して、演者の尊厳を守りつつ効果的な演出につなげる職種と理解されている。(ウィキペディア『インティマシー・コーディネーター』より抜粋) 

 ドラマ制作現場におけるセクハラやパワハラが欧米で大きな問題となった2017年頃に誕生した職種らしいが、今後日本のテレビや映画や舞台の現場でも欠かせないものとなっていくのは間違いあるまい。
 名匠・巨匠と言われる監督や舞台演出家でさえ、このルールの適用を免れることはできないだろう。

 セクハラやパワハラの概念がなく、一個人が社会に向かって内部告発し“# Mee too”によって味方が得られるSNSもなく、撮影現場における監督の力が絶大だった60年代、しかも役者使いの荒いことで知られる今村昌平監督のロケにあって、主演の春川ますみがどれだけのセクハラやパワハラを被ったことか。
 それを、「売れるためには仕方ない、いい作品を作るためには止むをえまい、この業界で生きていくことを選んだからには文句言うまい」と、自らに幾たび言い聞かせたことか。

 そんなことを想像しながら観ていたら、眠くなる間もなかった。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● モッくんがいたではないか 映画:『日本のいちばん長い日』(原田眞人監督)

2015年松竹
136分

日本のいちばん長い日

 半藤一利著『日本のいちばん長い日』の2度目の映画化。
 1945年8月15日の玉音放送に至る、終戦間際の大日本帝国本営(内閣、陸海軍、天皇)の動向が描かれる。

 実際の戦場を、あるいは8月15日を記憶しているスタッフと役者たちによって制作された岡本喜八版(1967年)と比べるのは酷という気がしないでもないが、映画としての出来は前作にまったく及ばず、いい役者を揃えているだけに残念であった。
 しかし、塚本晋也監督『野火』(2015)が、市川崑監督『野火』(1959)に匹敵する、あるいは後者を凌駕する出来栄えであったことを思うと、作られた時代や作り手の体験の有無を言い訳にすることはできないと思う。
 作り手の才能と技術不足に原因を帰するほかない。

 なにより脚本が良くない。
 これもまた、『砂の器』、『切腹』、『七人の侍』、『八つ墓村』など日本映画史上の傑作を何本も手掛けた天才橋本忍による旧作と比べるのはあまりにも酷であるが、もう少しなんとかならなかったものか。
 『クライマーズ・ハイ』でも感じたが、原田監督は脚本には手を出さないほうがいいと思う。
 物語を構成するセンスを欠いている。
 題材の取捨選択ができず、エピソードを詰め込み過ぎる。
 そのため、どのエピソードも中途半端な描かれ方に終わって、あたかも不発弾のよう。
 例を上げると、宮城事件に呼応して首相官邸を焼き討ちした国民神風隊の佐々木武雄(旧作では天本英世の怪演がエモい!)の扱いである。
 原田版では国民神風隊を結成する経緯がまったく描かれず、最後の最後に松山ケンイチ扮する佐々木が唐突に首相官邸前に出現する。
 歴史を知らない者にしてみれば、「これは誰? どっから出て来たの? なんで官邸に火をつけるの????」であろう。
 松山ケンイチだって、これでは演じようあるまい。
 阿南陸軍大臣(役所広司)の戦死した次男をめぐるエピソードもとってつけたような描かれ方で、観る者に何ら感動をもたらさない。
 上映時間との兼ね合いを見て、エピソードを絞る決断が必要である。

 シーンの配置も良くない。
 複数のエピソードが同時に進行しているとき、各シーンを交互に描くことは普通にあることだが、転換があまりに速すぎて、観る者が感情移入できるだけのゆとりがない。
 阿南大臣の切腹シーンにおいてとりわけ顕著で、あたかもCMがしょっちゅう入るTVドラマのようにシーンが寸断されてしまい、せっかくの役所の渾身の演技が台無しになってしまった。
 観る者のうちになんらかの感動を呼び起こしたいのなら、ある程度の時間の持続が必要である。

 同じことはカット割りにも言える。
 全般にカットが短い上に、撮影方向がめまぐるしく切り換わるので、観ていて疲れるし、キャラクターの表情がしっかりと観る者の記憶に刻み込まれない。
 有名な役者以外は、誰が誰だか見分けつかないうちに映画が終わってしまう。
 なんとなく、『犬神家の一族』など市川崑作品のカット割りを意識しているような気がするが、形だけまねても意味はない。
 ひとつひとつのカットが、なぜこの方向から、この角度で、この距離で、この長さで、この動きでないといけないのか、考えて作っているのであろうか?
 カットの連鎖こそ映画の命であるのに。
 撮影(柴主高秀)や美術(原田哲男)がいいだけに、長回しを入れないのはもったいない。
 原田監督、セッカチな人なのではなかろうか?

 『クライマーズ・ハイ』を観た時も思ったが、とにかく事件の背景をあらかじめ知っている人でないと、ほとんど理解できない作りである。
 悪いことは言わない。
 少なくとも脚本は別の人にまかせたほうがいい。

 役者では、昭和天皇に扮する本木雅弘、鈴木首相を演じる山崎努がいい。
 以前の記事で、ジャニーズ出身の役者ベスト3として、草彅剛、岡田准一、二宮和也の名を挙げたが、モッくんこと本木がいるのを忘れていた。
 本木はもはやジャニーズ出身というのを忘れるほど、役者として自立している。
 それに樹木希林一派というイメージのほうが強い。




おすすめ度 :★★

★★★★★
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     読み損、観て損、聴き損






● これは一つのギャグハラではないか 映画:『アリバイドットコム2 ウェディング・ミッション』(フィリップ・ラショー監督)

2023年フランス
88分
原題:Alibi.com 2

アリバイドットコム2

 『世界の果てまでヒャッハー!』で監督&役者として類い稀なるコメディセンスを見せたフィリップ・ラッショーの別シリーズ。
 北条司の人気もっこり漫画『シティーハンター』を原作とする『シティーハンター THE MOVIE 史上最香のミッション』(2019)を含むコメディ10作がすでに公開されている。
 ソルティはまだ2作しか観ていないので断言はできないものの、国際的に言って、英国のローワン・アトキンソン(Mr.ビーン)、米国のジム・キャリー以来の天才コメディアンの出現と言っていいんじゃなかろうか。
 着想、脚本、演出、演技、いずれも観客の心をつかんで離さないテクニックと個性的魅力にあふれている。
 エロ系や動物虐待系のきわどい笑いもあるけれど、次から次へと繰り出す少年漫画的なギャグの応酬に、真面目に批判するのも阿保らしくなる。
 というか、“真面目”を手玉に取ることこそ笑いの骨頂である。

 スタイル的には往年のドリフのコントみたいなドタバタ&ナンセンスなのであるが、気持ちよく笑えるのはラショー監督の世界観、人生観が投影されているがゆえだろう。
 それは、多様性に対する理解と人間愛である。
 このあたり、さすが、おフランス。
 しかも、ラショー監督はシリアス社会派ドラマや恋愛ドラマでも十分通用するイケメン。
 ドリフのコントから、一瞬にしてシリアスな家族ドラマあるいはハートウォーミングな恋愛ドラマに転換して、それが不自然でない。
 イケメンはお得である。

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 面白いコメディ映画は、「こうあるべき」という思想に凝り固まった人間、他人の些細な言動にいちいち目くじらを立てる人間には作れない。
 最近では、セクハラ、アカハラ、パワハラから始まって、アルハラ、マタハラ、モラハラ、カスハラ、テクハラ、スメハラ、フキハラ、ワクハラ・・・・と、何でもかんでもハラスメントの対象になってしまう。
 何でもかんでもハラスメントにしてしまう行為に対して、ハラハラ(ハラスメント・ハラスメント)という言葉さえ生まれている始末。
 誰もが自分の言動にも他人の言動にも過敏になり過ぎて、他人を傷つけることにも自分が傷つけられることにも敏感にまたナーバスになり過ぎて、気をつかうことばかりで人間関係が七面倒くさくて仕方ない。
 これじゃ、令和の若者が恋愛も結婚もできない、したくないと言うのも当然だろう。

 たとえば、昭和の頃、ちょっとした猥談は職場の潤滑油みたいな位置づけであった。
 いまや性や恋愛やジェンダーやルックスに関する話題は触れないに越したことがない。
 それが、各々の個性を認め合い多様性と人権を尊重するって方向で、人々の言動やマナーが自発的に改善していくのなら結構なことであるが、どうも日本人の場合、周囲から非難を受けたり陰口を叩かれたりしないように、各々の個性を押し隠し周囲に同調させるという方向に流れがち。
 つまり、互いを牽制し合う形での人間の画一化。
 その結果として、「ハラスメントが減った」というのはちょっと違うよなあと思う。

 言いたいことは、そのような状況おいては、この映画に観るようなユーモアや笑いは生まれないだろうってことである。



 
おすすめ度 :★★★

★★★★★
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● 昇天者たち 映画:『クライマーズ・ハイ』(原田眞人監督)

2008年日本
145分

クライマーズハイ

 原作は横山秀夫の同名小説。
 1985年8月12日に起きた日航123便墜落事故の現場となった群馬県の地方新聞社の奮闘を描いたドラマ。
 クライマーズ・ハイとは「登山者の興奮状態が極限までに達すると恐怖感が麻痺してしまう状態」を言うそうだが、これを新聞記者が特ダネをつかんだ際の心理状態とかけている。
 ひょっとしたら、「高く上った者=昇天者」の意も含んでいるのかもしれない。

 横山秀夫は墜落事故があった当時、実際に群馬県の上毛新聞の記者であった。
 自らの体験がもとになっているのだ。
 新聞社内部のリアリティと臨場感ある描写はそれゆえだろう。
 ソルティは原作を読んでいない。

 どちらかと言えば、話の中心は123便の事故そのものより、地方新聞社の実態を描くほうにある。
 急を要する大事件が起きた時ほど、普段隠れている社内の部署間や人間関係のさまざまな軋轢が浮き上がってくる。
 過去の取材時の因縁であったり、地位や論功恩賞をめぐる男同士の争いや嫉妬であったり、限られた紙面を奪い合う各部署間の駆け引きであったり、広告・販売・編集各局間の積年の怨みであったり、社内の派閥であったり、単純な好き嫌いであったり・・・・。
 それは、520人の命が一夜にして奪われるような世紀の大事件に際して、人々の感情が大きく波打ち、言動が浮足立ち、普段見栄や理性で抑えているものが露わになってしまうからである。
 墜落事故に関する紙面づくりの“全権”を任された主人公悠木(演・堤真一)の視点を通して、昭和時代の一地方新聞社の実態が観る者に生々しく迫ってくる。
 群像劇としての面白さが際立っている。

 一方、墜落現場となった御巣鷹の尾根の惨状であるとか、事故原因であるとか、遺族の声であるとか、政治状況(たとえば戦後初の首相による靖国神社参拝)であるとか、当時を知る者なら忘れられない、事件を語る上で欠かすことのできない要素も描かれている。
 渡辺謙主演『沈まぬ太陽』を観たとき同様、あの事件の大きさ、あの夏の印象がソルティの中でまざまざと蘇った。

 逆に言えば、リアルタイムで事件を知らない世代がこの映画を観た時、どう感じるだろうか気になった。
 背景に関する説明不足から、内容を理解し難く、感情移入しにくいのではないか。
 つまり、観る者の記憶や体験におもねることで、作品として成り立っている部分があるような気がする。
 当時大学生だったソルティはむろん、JAL123便墜落事故に関する記憶や体験を持ってしまっているので、それを持っていない目から観た時、この映画がどう見えるかが分からないのである。 
 
 その意味でも、冒頭および所々で挿入される事故数十年後の悠木の登山シーンは思い切って削っても良かったと思う。
 中途半端な同僚との登山挿話および表面的なだけの悠木親子の愛憎譚を入れたため、物語の肝となる事故原因をめぐる詳細が浅く触れられるだけで終わってしまったからだ。
 “日航全権“である悠木は、事故調査委員会(つまりは日航&政府)の公式発表「機体後部の圧力隔壁の破壊」という情報を、部下を使った独自取材で事前に掴み、読売や朝日など全国紙に先んじる特ダネとして第一面に掲載する準備をしていた。
 が、最後の瞬間になってそれを取りやめる。「ダブルチェック」できていないからという理由で。
 その決断によって、逆に他紙におくれを取ってしまい、社長はじめ全社員を失望させ、総スカン食うことになる。
 悠木は自らを可愛がってくれた社長に辞表を出すことになる。

 この事故原因の紙面掲載に関わるシーンこそが本作のクライマックスなのだから、そこはもっと時間をかけて背景を丁寧に描くべきであった。
 もっとも、登山シーンをすべて省いてしまったら、『クライマーズ・ハイ』というタイトルの意味が薄れてしまうが・・・・。
 少し前に『セクシー田中さん』問題があったが、原作小説をTVドラマ化あるいは映画化する際の難しさを感じる。

 役者では、主演の堤真一、泥だらけになって墜落現場を取材する堺雅人、野望を秘めた女性記者の尾野真千子、車椅子に乗った社長役の山﨑努、悠木の天敵である等々力社会部長を演じる遠藤憲一がいい。
 原田監督は、役者づかいの上手い人と見た。

 映画のラスト、次の文が掲示される。

航空史上未曾有の犠牲者を出した日航機123便の事故原因には、諸説がある。事故調は隔壁破壊と関連して事故機に急減圧があったとしている。しかし、運航関係者の間には急減圧はなかったという意見もある。再調査を望む声は、いまだ止まない。

 特ダネを見送った悠木の判断の正否について、いまだ答えが出ていない。



 
おすすめ度 :★★★

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● 映画:『神々の深き欲望』(今村昌平監督)

1968年日活
175分、カラー

 南海の孤島での一年間におよぶ過酷なロケに、大ベテラン嵐寛寿郎が脱走を試みた、三國連太郎は破傷風にかかって片足切断の危機に陥った、新人沖山秀子は今村監督に毎晩抱かれていた・・・・と、作品内容のみならず、「鬼の今村」の役者づかいの荒さにおいても、文字通り“神話的に”語られている作品である。
 とくに、足に鎖をつけられ、始終泥水の中で演技させられた三國連太郎の苦労は、並大抵ではなかったろう。
 この太根吉という役は、演技の鬼の三國がいたからこそ可能だったのだと思われる。
 息子の佐藤浩市もいい役者だが、この難儀な役がはたして演れるかどうか。

 もっとも、このように時間と経費と手間のかかる贅沢この上ない映画を現在ではとても制作できないし、今村のように日本的土俗を生々しく描ける作家はいなくなった。
 その意味で、民俗学者柳田国男の作品と同様、日本の下層階級における土着文化の共通イメージ的な記録として価値がある。
 この作品(68年発表)より前に生まれたソルティですら、これが令和日本と地続きとは到底思えないのだから、平成生まれの人間が見たら、まったくの絵空事、ファンタジーかSFの世界としか感じられまい。
 実際、上映終了後に文芸坐から池袋の街に出たときのタイムスリップ的ギャップが凄かった。(沖縄民謡転じて、「ビーック、ビックビック、ビックカメラ」)

Ikebukuro_Station_East
Dick Thomas Johnson, CC BY 2.0, via Wikimedia Commons

 ソルティは若い時分、こうした土臭い物語、因習の束縛のような話が好きでなかった。
 今村昌平を敬遠していた。
 昭和にはまだそうした前近代的因習の名残があって、自分自身がそういった束縛を受けていたからだ。
 楽しんで鑑賞できるようになったのは、自分も含めて日本人がまがりなりにもここ数十年で“近代化”し、本作に描かれた“物語”を、距離を置いて眺めることができるようになったからであろう。
 しかし、日本人の原点はここにあるし、清潔で合理的で礼儀正しい振る舞いを身につけた、つまり“民度”の上がった令和日本人の存在の深みには、やはりクラゲ島の民のような迷信深さや、性と暴力への止みがたき欲求が潜んでいるのは間違いなかろう。

 ときは終戦直後、場所は沖縄近辺の孤島。(日本領土とされているので、返還前の沖縄ではないと思われる)
 島民は、先祖代々の土俗信仰ときびしい掟のもと、漁をし、サトウキビを作って、細々と暮らしていた。
 代々神に仕える家柄である太(ふとり)家は不品行と不運が続き、村八分にされていた。
 家長である太山盛(嵐寛寿郎)は実の娘とまぐわって根吉(三國連太郎)を産ませ、根吉は実の妹ウマ(松井康子)と愛し合っている。
 根吉の息子である亀太郎(河原崎長一郎)は、島の古臭い因習から逃れるため東京に行きたいと思っている。
 そんななか、新たにサトウキビ工場を作るべく測量技師の刈谷(北村和夫)が東京からやって来る。
 刈谷は島の開発を押し進めようと孤軍奮闘するが、島の区長である竜元(加藤嘉)の裏表ある言動に翻弄されて、一向に進まない。
 そのうち、亀太郎の妹で知的障害のあるトリ子(沖山秀子)の熱意にほだされて、ねんごろになってしまう。

 鬼の今村によって、また熱帯の大自然によって、極限状況に置かれた役者たちの剥き出しの個性と生命力がスクリーンに焼き付けられている。
 嵐寛寿郎の傲岸、三國連太郎の執念、河原崎長一郎の朴訥、沖山秀子の狂気、北村和夫のインテリ性、加藤嘉ののらりくらり、浜村純の語り部性、松井康子の母性と娼婦性。
 どの役者も地なのか演技なのか見分けがつかないような域に達して、役を生きている。

 音楽は黛敏郎。
 一般には現代音楽の旗手とみなされる黛だが、不思議と、この土臭く猥雑な物語に馴染んでいる。

 ほぼ3時間の上映時間。
 気力体力あるときに鑑賞したい。

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おすすめ度 :★★★★

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