ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

映画・テレビ

● アデュウ! 映画:『海の沈黙』(ジャン=ピエール・メルヴィル監督)


1947年フランス
87分、白黒

 舞台はナチスドイツ占領下のフランスの田舎町。

 足の悪い老人と美しい姪が穏やかに暮らしている家に、ドイツ軍将校イーブルナックが数ヶ月居候することになる。
 敵の滞在を拒むことのできない叔父と姪は、せめてもの抵抗として沈黙を貫き、イーブルナックとの会話を拒む。
 イーブルナックは二人の祖国愛と強い意志を称賛するとともに、姪の美しさに惹かれていく。
 毎晩のように自室から居間に降りてきては、祖国ドイツへの愛、若い頃からのフランス文化や芸術への憧れ、自らの恋愛経験、そして仏と独の理想的な“結婚(融和)”について独り語りするイーブルナック。
 その礼儀正しさと魅力的な振る舞いに、叔父と姪の心はいつしか和らいでいく。 

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左から叔父役ジャン=マリ・ロバン、将校役ハワード・ヴェルノン、姪役ニコル・ステファーヌ
 
 これが「ヌーヴェルヴァーグの父」と言われるジャン=ピエール・メルヴィル(1917-1973)の長編処女作というから驚く。
 全編に行きわたる品格と無駄のないカットの連鎖は、作家としてすでに完成の域に達しているかのよう。
 しかも30歳のときの作品と来ては・・・・!
 戦時下のような危機は、人を否が応でも大人にするのだろう。

 ロシアのウクライナ侵攻をめぐる各国さまざまな人の発言をテレビやネットで見聞きするに、祖国愛というものについて思う昨今である。
 「国のために闘う」「国のために死ぬ」「国を誇りに思う」等々――日本人の多くが77年前にはあたりまえに思い口にしていた言葉、そして帝国主義への反省と資本主義的ミーイズムから戦後希薄化した言葉――が盛んに飛びかっている現実に、戦前にタイムスリップした感さえする。
 少なくとも、祖国愛を強調しなければいけない情況ってのはあまり幸福でないのは確かである。
 
 74年前に作られたこの映画が今とっても新しく思えるのは、いいことなのか、どうなのか。
 
 世間知らずのイーブルナックの仏独“結婚”の幻想は、ナチスのユダヤ人虐殺を知るに及んで見事に打ち砕かれてしまう。
 絶望から自ら前線を志願し出立するイーブルナックに、叔父と姪は初めて口を開く。 



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● アレキサンダー大王が目撃したもの 映画:『ポンペイ』(ポール・W・S・アンダーソン監督)


2014年アメリカ、カナダ、ドイツ
105分

 東京国立博物館の『ポンペイ特別展』を鑑賞したら、当然、この映画が観たくなった。

 ポール・アンダーソン監督は『イベント・ホライゾン』、『バイオハザード』などSFパニック映画やアクション映画を得意とする人。
 本作も紀元79年のヴェスヴィオ山の噴火によってポンペイの人々が被った未曽有の災害を、大量のエキストラとCGを巧みに使いながら、迫力ある映像で描ききっている。

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CGで再現されたポンペイとヴェスヴィオ
 
 地震大国、火山大国、海洋国家である日本人にとって、まったくのところ他人事でない。
 観ればどうしたって、1995年1月の阪神淡路大震災や2011年3月の東北大震災&津波被害の記憶がよみがえり、人によってはつらい思いを持たざるを得ないけれど、「今ここにある危機」から目を背けるのは決して得策とは言えまい。

 ここには火山の噴火によって起こりうる災害のすべてが描きつくされている。
 大地震、地割れ、家屋の倒壊、ミサイルの如く降り注ぐ火山弾、広がる火の手、空を真っ黒に染める火山灰、煮えたぎる海と街を飲み込む津波、時速100キロを超えるスピードで押し寄せる数百度の火砕流、そして逃げ惑う群衆を襲うパニックと圧死・・・・。
 これはフィクションではなく、史実であり、ドキュメンタリーである。

 この映画に描かれるような地獄がまさに現実に出現して、ポンペイの人々を恐怖と苦痛のどん底に突き落としたと思うと、『ポンペイ展』の意味が180度変わってくる。
 あれは単なる博物展、美術展ではなくて、広島原爆資料館のような“断ち切られ破壊された日常生活の記録”なのだった。
 富豪の邸宅にモザイクで描かれたアレキサンダー大王は、彼が在位中に経験したいかなる戦場にもまして凄惨な、世界の終わりのごとき光景をその目に焼き付けていたのである。

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 物語的には、皇帝のいるローマと地方都市ポンペイの権力格差であるとか、市民の娯楽として供される競技場での奴隷(グラデュエーター)同士の闘いであるとか、自由を求める黒人奴隷の叫びであるとか、ローマ軍に惨殺された辺境民族の生き残りの復讐であるとか、男同士の友情や憎悪であるとか、身分を超えた恋であるとか、ローマの悪代官から愛する女を奪回するイケメン戦士であるとか(あたかも『ギリシア神話』に出てくる冥界の王ハデスに略奪された美女ペルセポネを救い出すヘルメスのよう)、定石どおり『ベン・ハー』や『クォ・ヴァディス』同様に往年のハリウッド古代ローマ時代ものらしい要素が詰まっている。

 ただし、結末はハリウッド式ハッピーエンドとは程遠い。
 ポンペイで生き残ることは事実上、不可能であった。
 迫りくるマグマを背景についに結ばれたヒーローとヒロイン含め、映画に登場するすべての人物が最後には死んでしまう。
 すべての人間の営為が無に帰し、100分近く紡いできた物語が終焉するという、『そして誰もいなくなった』を何万倍にもした究極のリアリティが待っている。

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おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 映画:『天然コケッコー』(山下敦弘監督)

2007年日本
121分

 『マイ・バック・ページ』が良かったので、山下監督の過去作を借りてみた。
 やはり、ソルティのキネマ・アイに狂いはなかった。
 素晴らしい映像作家である。
 連鎖するカットの見事さに、「ああ、これはスクリーンの大画面で観て埋没したかった」と心の中で叫んだ。
 撮影も『マイ・バック・ページ』の近藤龍人。
 光線の撮り方が実に繊細かつ印象的で、フランス映画界の巨匠フランソワ・トリュフォーやエリック・ロメールの作品を想起した。
 ということは、彼らとたびたび組んだキャメラマン、ネストール・アルメンドロスか(褒めすぎ?)

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このシーンが好き(鉄オタ)

 出演者では主役の少女・右田そよを演じる夏帆が光っている。
 そよの父親役の佐藤浩市は、存在感といい、芝居の上手さといい、歳を重ねるごとに親父(三國連太郎)との血のつながりを思わざるを得ない。
 この世代(60年生まれ)では、他の追随を許さない名優と言っていいだろう。
 脇役も魅力的。村の郵便局員役の廣末哲万やそよの学校の先生たちがなんとも素朴でゆるい味わいを出して、タイトル通りの“天然ぶり”を発揮している。
 天然を演じることくらい難しいものはなかろうに。
 
 島根のド田舎の町に暮らす少年少女の初恋ストーリーという、なんてことない平凡な物語。
 なんてことない平凡な物語がじゅうぶん映画になり得るということを、大先輩・小津安二郎のごとく、山下監督も証明している。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 茉莉子の美貌よ、永遠に! 映画:『樹氷のよろめき』(吉田喜重監督)

1968年現代映画社制作
98分、モノクロ

 岡田茉莉子35歳の主演作。
 谷崎潤一郎も讃嘆した比類なき美しさの絶頂期、そのほとんど最後の記録ではなかろうか。
 散り際の染井吉野を思わせる、一種の危機を孕んだ美貌が存分に味わえる。
 この映画のメインテーマの一つが、日本映画界の至宝としての岡田の美を焼き付けることにあるのは間違いなかろう。
 その義務を背負った吉田監督は、実生活上の岡田のパートナーであるから、まさに適任であった。

 遠くから近くから、正面から真横から、俯角から仰角から、逆光からまたは鏡像として、闇をバックにあるいは反射する雪に取り巻かれて、あらゆる手段と技術を用いて映し出される岡田の隙のない美しさには、驚嘆するほかない。(あえて隙を指摘するなら、西洋風な顔立ちとはアンバランスな純日本的な体型であろうか)
 この美貌の主が、本作ではいわゆる“魔性の女”を演じるのだから、のめり込み、翻弄され、血迷い、人生を棒に振る男がわんさか出てくるのも無理ないところである。
 翻弄される二人の男を、木村功と蜷川幸雄が演じている。

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岡田茉莉子と木村功のラブシーン
 
 物語的には男女の三角関係をネタにした陰鬱でドロドロしたメロドラマである。
 ソルティは昔からこういった話は見ても聞いてもうんざりするばかりで、そのうちイライラして来るので、「勝手にやってろ」という感想しかない。途中から退屈した。

 ドロドロした愛憎の醜さや重さを救っているのは、二つ。
 一つは舞台となる北海道の雪原風景。
 白い大地のまばゆいまでの輝きと開放感と冷たさは、人間的感情を超越している。
 今一つは池野成による音楽。
 『サザエさん』の劇中音楽を短調にしたような、どことなく滑稽感あるBGMが、死者の出現をもって終わるドラマの悲壮感を緩和している。
 それをチグハグと感じる向きもいるかもしれない。
 
 吉田監督の絵作りの手腕は言わんかたない。
 どのショットも見事な構図と光線具合で、「さすが松竹ヌーヴェルヴァーグ」と唸らせられた。


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おすすめ度 :★★★

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★     読み損、観て損、聴き損




● 映画:『ブータン 山の教室』(パオ・チョニン・ドルジ監督)

2019年ブータン
109分、ゾンカ語

 ブータン映画初体験。
 しかも、ブータンの人々でさえなかなか行くことのできない標高4800メートルの秘境の村が舞台とあって、興味津々。
 「日本沈没の際に移住するならここ」とソルティが筆頭候補に考えている、“世界で一番幸福な国”の真実を垣間見られたらと思い、レンタルした。

 映画の冒頭で、主人公ウゲンが暮らすブータンの首都ティンプーが映し出される。
 高層住宅が立ち並び、大通りを車が行き交い、宅地開発が進み、夜はネオン瞬く。
 都市化・西洋化していく街の様子に、「ブータンよ、お前もか」といった感慨が募る。

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ブータン

 ティンプーで祖母と生活するウゲンは、音楽とスマホが欠かせない現代青年。
 歌手になるためオーストラリアに行くことを夢見ている。
 いま目の前にいる相手よりスマホの中の情報が大事、春を告げる鳥の声よりヘッドホンの中の音楽が大事。
 ブータンの若者も先進諸国の若者と変わらない。
 「世界一幸福な国」に住みながら、幸福を求めて海外に旅立つという逆説。
 若者というのは、いつの時代もそうしたものなのだろう。
 「今ここ」よりも「いつかどこか」を夢見るものなのだ。 

 ウゲンは数ヶ月の期限で、ルナナという山奥の村に教師として派遣されることになる。
 その務めが終われば、晴れてオーストラリアに旅立てる。
 ティンプーから8日間かけて苦労の末たどりついたルナナは、電気も通ってなければ、ガスも上下水道もない。
 紙は貴重品なので、トイレの始末は葉っぱを使い、焚き付けには渇いたヤクの糞を使う。
 村長に案内された教室には黒板も満足な教材もなく、10名ほどの子供たちは車を見たこともない。
 村人たちは美しくも厳しい自然に囲まれて、ヤクを大切に飼い、代々伝わる民謡を歌いながら、昔ながらの貧しい、しかし謙虚な生活を送っている。
 
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ルナナの宝、ヤク
 
 物語的には予想通りの展開。
 はじめは一刻も早くティンプーに戻りたがったウゲンが、村人の素朴であたたかい心に触れ、子供たちの純真なまなざしと向学心に打たれ、数ヶ月の滞在を受け入れることになる。
 可愛い子供たちと若き教師との交流シーンは、木下惠介『二十四の瞳』やチェン・カイコー『子供たちの王様』を彷彿させる。
 可愛くて利発的な級長をつとめる少女ペム・ザムは、実際にルナナに住む少女(本名同じ)で生まれてから一度も村を出たことがないという。
 スマホもヘッドホンも役に立たない僻地で、ウゲンは何を見つけるのか? 

 ブータンと言えば仏教国として有名だが、ここではむしろ日本古来の神道に似たアニミズムの精神が息づいているのを伺うことができる。
 出てくるブータン人の顔立ちも、日本人にかなり近い。
 日本人とブータン人にはどこか共通するものがあるような気がする。
 ブータンの美しい山岳風景と山の民の伝統的な生活風景が味わえる良作である。




おすすめ度 :★★★

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● 鉄道ファン必見! 映画:『張込み』(野村芳太郎監督)

1958年松竹
116分、モノクロ

 松本清張原作×橋本忍脚本×野村芳太郎監督の『砂の器』トリオによる清張ミステリー映画第一弾である。
 このトリオでは、ほかに『ゼロの焦点』『影の車』がある。
 清張作品は山田洋次『霧の旗』や斎藤耕一『内海の輪』など、いろいろな監督が撮っているけれど、やはり野村芳太郎が一番しっくりくる。
 その理由は、野村監督自身が大のミステリー好きだったこともあろうが、本作冒頭の横浜駅から佐賀駅までの列車の旅の長大なシークエンスであからさまなように野村が鉄道マニアであること、そして『砂の器』で示されたように野外ロケとくに地方ロケが巧みなことが、大きい気がする。
 鉄道と旅は、清張ミステリーのトレードマークだからである。

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鉄道マニア垂涎の冒頭シーン(特急「かもめ」)

 36作もある清張ミステリー映画には当然ながら出来不出来があって、原作者自身が気に入ったものは少なかったと言われる。(その例外が『砂の器』であることは言を俟たない)
 ソルティはこれまでに8作しか観ていないので評価を下すは早計に過ぎるが、この『張込み』は『砂の器』や『天城越え』と共にベスト10に入れてもいいような気がする。
 モノクロ撮影が非常に美しく、脚本も役者の演技も素晴らしく、エンターテインメントとしても刑事サスペンスとしても人間ドラマとしても見ごたえがある。

 ベテラン刑事役の宮口清二は、家庭持ちの中年男の生活臭漂わすリアリティある演技。独身若手刑事を演じる大木実との相性も良い。役者としては地味な二人のたたずまいは、決して目立ってはいけない張込み役にリアリティをもたらす。
 犯人のかつての恋人役の高峰秀子は、一見、野村作品のカラーとは合わない感がある。が、なかなかどうして好演。作品の色に染まるカメレオン女優の面目躍如たる。  
 
 ソルティにとって、数十年前の清張ミステリー映画を観る楽しみの一つは、ドラマそのものよりもむしろ、「鮮やかに記録された昭和の日本」を懐古するところにある。
 映画の撮られたその時々の日本の風景――都会と地方、自然と繁華街、家屋や店舗や道、乗り物や駅頭や鉄道沿線、庶民の部屋のしつらいや日々の暮らし、その時代を生きる日本人の顔や仕草や体臭など――が、“社会派ミステリー”と称された原作の特質ゆえにリアリティ豊かに描き込まれているからだ。
 借りたDVDには特典映像として『シネマ紀行』という短い一篇がついていた。
 映画『張込み』の舞台となった佐賀県のあちこちを、女性ナレーターが追慕しながら旅し、作品の解説&観光案内する趣向である。
 その際、映画の中に出てきたいくつかの野外シーンが、現在の――と言っても『シネマ紀行』が制作されたおそらく2000年代の――風景に重ね合わせられる。
 その移り変わりように嘆息する。

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松竹映画『張込み』特典映像「シネマ紀行」より

 「昔は良かった」というのは年寄りの錯覚に過ぎない。
 それは分かっているけれど、横浜から佐賀まで延々20時間以上かけて移動した時代と、飛行機で2時間で移動できる時代とでは、日本人の時間感覚や地理感覚や旅行観に大きな違いがあるのは間違いない。
 80年代中頃、20代のソルティは「青春18きっぷ」を使って、東京から長崎まで鈍行列車の旅をした。
 途中下車してあちこち寄り道し、数日かけてやっと関門海峡を渡り、九州を横断してついに長崎駅に到着した。すでに終電近かった。
 改札口を出たとたん目に飛び込んだのは、夜の稲佐山の裾を取り巻く光の帯。
 あのとき感じたほどの旅情をふたたび経験するには、30年後の四国遍路を待たなくてはならなかった。


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おすすめ度 :★★★

★★★★★
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● ソヴィエトの真実 映画:『DAU. ナターシャ』(イリヤ・フルジャノフスキー監督)

2020年ドイツ、ウクライナ、イギリス、ロシア
139分、ロシア語

 第70回ベルリン国際映画祭で銀熊賞(芸術貢献賞)を受賞、世評かまびすしい問題作である。
 その理由はこの映画の制作手法そのものにある。 

 2009年9月、ウクライナ・ハリコフの廃墟となったプールの敷地内に「物理技術研究所」が建設された。実在したソヴィエトの研究機関にインスパイアされた、この広大な機能を備えた実験研究施設は、ヨーロッパに建設された最大の映画セットになった。アーティスト、ウェイター、秘密警察、普通の家族など、時間と空間から隔離された何百人もの厳選された意欲的な参加者たちが実際にセットの中で暮らし、科学者たちもそこに住みながら、自分の実験を続けることができた。
 
 過去(1938年~1968年)に戻された参加者は当時のソ連の人々と同じように生活し、働き、当時の服を着て、愛し、互いを非難し、憎しみ合った。この台本のない人生は、2009年10月から2011年11月まで続き、その全期間にわたって断続的に撮影された。彼らが着ていた服から使用した言語まで、彼らの存在は研究所に設定された時間=1952年、1953年、1956年のものに統一されていた。

 すなわち、1991年に消滅したソヴィエト連邦社会をできる限り正確に再現したコミュニティを実際に創り上げ、キャストとして選ばれそこで暮らすことになった人々のありのままの生活風景を素材に、撮影・脚本・演出・編集がなされたのである。
 いっとき日本でも人気を集めたリアリティ番組の究極版ってところか。
 撮影されたフィルムは700時間にも及ぶというから、この第1弾『DAU.ナターシャ』及びすでに昨年公開されている上映6時間9分の第2弾『DAU. 退行』を皮切りに、今後もDAUシリーズが世に出てくるものと思われる。
 壮大なプロジェクトに驚嘆するが、なんだかその手法自体が社会主義的な感もする。

 第1弾となる本作は、研究施設の食堂で働く中年女性ナターシャの身に起こる出来事を描いている。
 前半90分くらいは、ナターシャのありふれた日常生活が映し出されるばかりで、途中アダルトビデオばりの激しいベッドシーンは挟まれるものの、総じて退屈である。
 上記のプロジェクトについて事前に知らなければ、途中放棄してしまうところだろう。
 ソルティは事前に知っていたので、どこまでが芝居でどこからが現実なのか、どこまでが台本でどこからがアドリブあるいは出演者の肉声なのか、どこまでが演出でどこからがドキュメンタリー(記録)なのか、なんとか興味を保ちつつ観ることができた。

 残り50分からが本領発揮。
 ついにスターリン独裁下の全体主義管理社会の怖ろしい姿が顔をのぞかせる。
 ナターシャの受難から一時も目が離せなくなる。
 日本を含む西側諸国の市民が享受しているのとさして変わらないような、喜怒哀楽に満ちた平凡な市民的日常が、独裁者の統べる管理社会の上澄みを覆っているだけであり、器のほんの一揺れで(管理者の気まぐれ一つで)、みじんもなく剥奪・破壊されてしまう。
 前半90分でリアリティ豊かに描かれたナターシャ個人の「愛」だの「悩み」だの「価値観」だの「人生」だのといった近代個人主義的観念は、まったくの世迷言に過ぎないことが赤裸々にされる。
 個人の尊厳を奪い去ることで人としてのプライドや意志をくじき、組織に隷属させ、相互監視社会・密告社会をつくりあげる全体主義管理国家のやり口には恐懼するばかり。

 しかもこれはほんの序章に過ぎないという。
 第2弾のDVD化が待たれる。
 
 我々はきっとまだ本当のソヴィエトを知らない。本当のショスタコーヴィッチも・・・。

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ヨシフ・スターリン


おすすめ度 :★★★

★★★★★
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● 映画:『風花』(木下惠介監督)

1959年松竹
78分、カラー

 同じタイトルで相米慎二監督が2001年に発表した映画がある。
 30歳超えてアイドル臭がいまだ抜けないキョンキョンこと小泉今日子が、幼い娘を持つ風俗嬢を見事に演じ、完全にアイドル脱皮を果たした記念碑的作品。
 舞い散る風花の中で優雅に踊るキョンキョンの姿が印象的であった。
 
 こちらの『風花』はその40年以上前のクラシック。
 昭和30年代の地方の農村を舞台とする家族ドラマである。
 場所は信濃川の流れる長野盆地(善光寺平)。北信五岳(斑尾山、妙高山、黒姫山、飯縄山、戸隠山)を望む胸のすくような美しい光景が広がる。
 が、そこは哀しい田舎の性。
 身分違いの恋や年上女房を許さない男尊女卑の家制度が強く根づいていた。
 
 大地主の名倉家に嫁いできた祖母(東山千栄子)は夫より8つ年上のため後ろ指をさされ続けた。その次男英雄は小作人の娘・春子(岸恵子)と身分違いの恋をして心中を図る。英雄は死に、生き残った春子はお腹の子供と共に名倉家に使用人として引き取られる。捨雄と名付けられた子供(川津祐介)は成長して、いままた、同じ屋根の下で育った従妹・さくら(久我美子)への叶わぬ恋に苦しんでいた。
 
 東山千栄子さすがの名演。剣呑で頑固な姑ぶりは観ていて憎らしくなるほど。が、嫁いできた頃に周囲から受けた冷たい仕打ちが、彼女を頑なにしたのであった。
 岸恵子も存在感たっぷり。この女優はどんな作品にどんなチョイ役で出演しても存在感だけは一等である。一人息子を愛する着物姿のたおやかな母親ぶりに、後年の市川崑監督『悪魔の手毬唄』の犯人が重なる。
 木下監督の秘蔵っ子たる川津祐介。ここでは『惜春鳥』の不良青年、さらには『青春残酷物語』のニヒルな犯罪青年とはまったく違う、憂愁に沈む真面目な青年役を与えられている。監督の意のままにどんな役柄にも染まる川津のカメレオン性は特筆すべき。
 小津映画以上に木下映画の常連である笠智衆が、名倉家の使用人役で登場する。やはり、演技者としては決して巧みとは言えない。この人は役を演じるということが基本的にできないのだと思う。人間としての地の良さが、役柄に何とも言えない風情と好ましさを与えるのだ。むろんソルティは大好きだ。
 
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川津祐介と岸恵子

 木下監督の作品には、こういった日本の田舎の因循姑息たる閉鎖性を批判する系列が存在する。
 北海道の開拓地を描いた『死闘の伝説』が最たるものだが、『永遠の人』『楢山節考』『遠い雲』『野菊の如き君なりき』、それに一般に明るい牧歌風コメディとされている『カルメン故郷に帰る』などはその系列に入るだろう。未見だが、『破戒』『生きてゐる孫六』もおそらくは・・・。
 ソルティはそこに、おそらくはゲイであった木下惠介監督のマイノリティとしての抵抗と自由への希求を読むのである。
 
 今から60年以上前の作品で、さすがに令和の日本の田舎はここまで旧弊じゃないよな、と思いたいのだが、今回のコロナ禍で地方ではかなり酷い感染者差別が起こっていると聞く。村八分文化がいまだ残存している現実がある。
 ソルティはたまに「晩年は田舎暮らししようかな~」とか思うのであるが、都会の孤独と無関心の方がやっぱり性に合っているかもしれない。
 

 
おすすめ度 :★★★

★★★★★
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● 青春映画の傑作 映画:『マイ・バック・ページ』(山下敦弘監督)

2011年
141分

 原作は川本三郎の同名エッセイ
 20代前半の川本の身に起きた衝撃の出来事をつづったノンフィクションである。

 しかるに本映画に関しては、川本の原作とも、川本三郎本人とも、まったく関係ない次元で語りたい。
 というのも、映画単体としての出来が素晴らしいからである。

 監督の山下敦弘は『リンダ リンダ リンダ』(2005)、『天然コケッコー』(2007)、清野とおる原案のTVドラマ『山田孝之の東京都北区赤羽』(2015)などの演出で知られている。
 ソルティは本作で初めて接したが、「映画作家」という言葉で語ることのできる数少ない才能の持ち主。
 最初から最後まで、映画的時間と空間がスクリーン(モニター)に投影されていて、物語の切なさとは裏腹に、観ていて幸福な気持ちに包まれる。

 妻夫木聡演じる新聞記者・沢田雅巳(モデルは川本三郎)と、松山ケンイチ演じる赤邦軍リーダー・梅山とが初めて出会い、一緒にCCRの『雨を見たかい』を歌うシーンなど、あまりのフラジャイルな美しさに卒倒しそうであった。
 二人の配置、間に置かれたテーブルの緑色の天板と赤い座布団のコントラスト、テーブルの上のビール瓶とコップの微妙な距離(小津っぽい)、立ち昇る沢田の煙草のけむり、二人の沈黙にかぶさる列車の響き・・・・。
 すべてが計算されているはずだろうが、それが自然な域に達している。
 見事・・・・・!

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妻夫木聡と松山ケンイチ

 撮影がまた素晴らしい。
 物語の背景は全共闘はなやかなりし1970年前後。
 ソルティは生まれてはいるものの、その時代の東京の街の空気感は知るところではない。
 本映画がそれを正確に再現しているかどうかは判定できない。
 が、少なくとも80年代以降の東京の空気とはまったく相容れない、まったくアナログな時代の質感が映し出されている。
 これはたとえば、太平洋戦争時の話を描いたNHK制作『スパイの妻』が、一応戦前らしいセットや小道具や衣装やセリフを整えながらも、空気感だけは令和になっているのと雲泥の差である。(フィルムをいじれないテレビの限界かもしれないが)
 撮影は近藤龍人。是枝裕和監督の『万引き家族』(2018)を撮っている。

 役者は、妻夫木も松山も好演。
 とくに松山がいい。この人は性格破綻な役をやると本当にはまる。
 沢田の先輩記者役の古舘寛治、味のある芝居で印象に残る。
 それとチョイ役に過ぎないが、新聞社上役の三浦友和の貫禄と迫力はさすが。
 
 居酒屋のラストシーン。
 沢田(妻夫木)が、久しぶりに会った昔馴染みの「生きてりゃいいのよ」という言葉にハッとして思わず泣き出すのは、おそらく「生きて」さえいられなくなった自衛官や雑誌のカバーガールだった少女のことに思い至ったからなのだろう。
 ソルティはそう受け取った。
 
 時代や社会風俗や思想性という部分を拭い去ってみると、これはやっぱり青春映画、それも『真夜中のカウボーイ』や『ベティ・ブルー』や『時をかける少女』のような、ほろ苦く切ない青春映画の傑作である。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
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     読み損、観て損、聴き損





● コロナ禍のドサクサ? 映画:『スパイの妻』(黒沢清監督)

2020年NHK
115分

 テレビドラマとして制作・放映されたのち、劇場版が公開された。
 ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞(最優秀監督賞)受賞、キネ旬1位と評価の高い作品であるが、その理由は、ドラマとしてあるいは映画としての出来云々よりも、黒沢清監督のネームバリューおよびこの作品が扱っているテーマによるところが大きいのではないかと思う。
 つまり、第二次世界大戦時の日本軍731部隊の人体実験という史実を描くとともに、その悪行をなんとかして世界に知らしめようと苦闘する同時代の日本人を主役に置いたところに、しかもそれを日本の公共放送たるNHKが制作・放映したところに、世界は喝采したのではなかろうか。
 自らの犯した罪を罪として認めること、それを隠蔽することなく後世に伝えること、その際にヒューマニズムと正義の視点を忘れないこと。こういったあたりが、内外の映画人やマスメディアに評価されたのではないかと推測する。
 もちろん、主演の高橋一生と蒼井優の堂に入った演技は賛嘆に値する。
 東出昌大はここでは下手丸出し。時期的に、KEとの不倫報道で役作りに身が入らなかったか・・・?

 エンターテインメントとしてはまずまず面白いけれど、プロットがいささか不自然。
 蒼井優演じる福原聡子が平気で夫の甥っ子(坂東龍汰)を憲兵に売ったり、そのことを夫・福原優作(高橋一生)が簡単に許したり、憲兵が優作に嫌疑をかけながら留置も拷問もせずに釈放したり、ツッコミどころがいろいろある。
 
 NHKが安倍政権下に、ウヨッキーが憤りそうな反“愛国”的ドラマを企画・制作し、BSではあれ放映し得たことが、ちょっと驚き。
 コロナ禍のドサクサゆえだろうか・・・・? 

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おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


● 上書きされた街 映画:『ゼロの焦点』(野村芳太郎監督)

1961年松竹
95分、白黒
原作 松本清張
脚本 橋本忍・山田洋次
音楽 芥川也寸志

 松本清張の原作を読んだのは中学1年になって間もない頃だった。
 シャーロック・ホームズや江戸川乱歩の推理小説が好きだったソルティに、担任の社会科の先生がすすめてくれた。
 ホームズや乱歩は偕成社やポプラ社などの子供向けに書かれたものを読んでいたが、さすがに清張に子供向けはない。
 はじめて新潮文庫を買った。
 つまり、ソルティが初めて読んだ大人の本は松本清張だった。
 ちなみに外国文学については、やはり中1の秋に読んだマーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』(新潮社刊・大久保康雄訳)がデビューだった。

 担任が勧めてくれたのは、時刻表を使ったトリックで有名な『点と線』と『ゼロの焦点』だった。
 『点と線』は非常に面白かった。
 これが現代日本の大人のミステリーか・・・・!
 新しい世界の扉が開き、ワクワクした。
 と、続いて手にした『ゼロの焦点』で、いきなり大人社会の闇に遭遇したのであった。

 そう、世に「売春」という職業があるのを知ったのは、『ゼロの焦点』によってである。
 セックスそのものについては小学生の頃からティーンの芸能雑誌である『明星』『平凡』を愛読していたので知識としてはもっていた。
 が、性を商品のように売り買いするオソロシイ世界があるとは知らなかった。
 「不潔ッ!」と思ったのかどうか覚えていないが、なにか退廃的で忌まわしい感がした。
 (『風と共に去りぬ』にもレッド・バトラーの愛人であるベル・ワトリングという娼婦が登場する。中学生のソルティはこの女が嫌いだった)
 しかも、『ゼロの焦点』で描かれているのはただの売春ではなかった。
 戦後間もない頃にGHQの米兵相手に売春していた女、いわゆる「パンパン」が殺人事件のカギを握っていたのである。

 戦後の混乱期、生活のために東京でパンパンをしていた女が、今では遠い北陸の地で名士の奥方として何不自由なく暮らしている。
 だが、ある日、彼女の過去を知る男が現れ、今の優雅な生活や名声がおびやかされる。
 「この男さえ消えてくれれば・・・・」
 日本海を見下ろす崖の上で、女は男の背中を一突きする。

 こんなに重くて哀しい殺人動機は乱歩にもホームズにもなかった。
 これが大人の小説か・・・・。
 暗澹たる思いと共に、一挙にポプラ社と偕成社を卒業した。
 (あとから知るのだが乱歩にも『妖虫』や『孤島の鬼』のような重くて哀しい殺人はあった。子供向けはオブラートに包まれていたのである)

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ラストシーンの舞台となった能登半島のヤセの崖

 
 最初の映画化である本作は、久我美子、高千穂ひづる、有馬稲子という当時の人気女優が妍を競っている。60年代初頭の北陸の海岸沿いや金沢の町の風景が、白黒フィルムのため、より寒々と寂しい風情をみせている。
 共演の南原宏治、西村晃、加藤嘉、高橋とよは、さすがの存在感。
 のちに2時間ドラマの定番となった崖上の対決は、この映画のラストシーンが端緒を開いたと言われる。
 広末涼子、中谷美紀、木村多江共演による2009年公開の二度めの映画化は観ていない。
 
 61年の時点で、この小説および映画は十分な説得力があった。
 つまり、「犯人が相手を殺す理由も分からないではないな」と観客は納得し共感できた。
 “パンパンをしていた過去の暴露”は、それだけ犯人にとって致命的であること、社会的な死にも等しいことを、観客もまた理解していた。
 ソルティがはじめて原作を読んだ70年代もまだそれが通じた。
 たとえば、女性タレントが過去の売れない時代に「アダルトビデオ――この言葉はなかった。ブルーフィルムと言った――に出ていた」「風俗で働いていた」といった噂が立てられるのは致命的スキャンダルだった。
 夜の世界で働いている女(玄人)と、そうでない女(素人)の間には、明確な境界線があった。
 前者には強いスティグマ(烙印)が付与された。
 であればこそ、森村誠一の『人間の証明』が共感を呼び、大ヒットしたのである。
 その後、80年代バブルを通過し、性風俗のカジュアル化はどんどん進んでいった。
 手っ取り早くお金を稼ぐ手段として、女子大生が性風俗に流れた。 
 玄人と素人の境が薄れていった。
 2009年の観客たち、とくに平成生まれの若者にとって、“パンパンをしていた過去”はどのくらいの重みと衝撃をもって受け止められるのだろうか?
 今でも人を殺す動機として成り立つのだろうか?

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 ところで、40数年ぶりに『ゼロの焦点』に触れて、「あっ、そうだったのか・・・」とハタと膝を打ったことがある。
 犯人が若い時にパンパンをしていた土地は、東京の立川だったのだ!
 もちろん、立川には米軍基地があった。(現在は昭和記念公園になっている)
 立川駅周辺には米兵相手の歓楽街があった。
 当然、赤線と呼ばれた合法の性風俗業も、青線と呼ばれた非合法のそれもあった。
 夜の街には原色のドレスを身にまとった日本の女たちが立ち並び、客を引いた。
 
 ソルティは数年前までJR中央線沿いの高齢者介護施設で働いていた。
 立川駅に近く、利用者には昔からの地域の住民が多かった。
 戦後のことをよく覚えていて話してくれる高齢者がたくさんいた。
 ある90歳の女性は当時立川駅の近くの薬局で働いていたという。
 「しょっちゅう、パンパンがアメ公と一緒に薬を買いに来た。ときどき警察の手入れがあると、彼女たちがウチのお店に逃げてくるから、店の奥にかくまってあげたのよ」
 ある80代の男は米軍の軍属(使い走りのようなものか?)をしていたという。
 「日本人がみな物がなくて苦しんでいた時代に、自分は米軍から粉や砂糖やタバコなんかをもらうことができて運が良かった。よくアメ公にパンパンを世話してやったよ」
 立川でずっと一人暮らしをしていた80代の女性は、重い認知症で、もはや自分の名前くらいしか言えなかった。会話が成り立たなかった。
 ときどき彼女は、菊池章子の『星の流れに』のメロディを口ずさんでいた。
 こんな女に誰がした、という歌詞でしめくくられる哀しい歌。 
 ひょっとすると彼女は・・・・・?
 
 現在のJR立川駅周辺はすっかり開発されて、道は広々と美しく、コンクリートとガラスの高層ビルが立ち並び、その間をモノレールが音もなく往来し、まるで未来都市のようである。
 昭和記念公園は、都内有数の桜の名所になっている。
 『ゼロの焦点』の本当の舞台はここだったのだ。

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立川駅周辺


おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
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● アニメ映画:『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(押井守監督)

1984年東宝
98分
脚本 押井守
原作 高橋留美子

 『うる星やつら』の映画版を観るのは初めて。
 高校時代に友人からコミックを借りて読み、大学時代にテレビアニメをたまに観ていたが、基本的にそれほど好きな漫画ではなかった。
 高橋留美子なら『めぞん一刻』のほうが好きだった。

 「なぜ急に本作を?」と言えば、カルロ・ロヴェッリ著『世界は「関係」でできている』を読んだあとネットで他の人の感想を拾っていたら、カルロの本が押井守脚本・監督の本作に似ている、というコメントがあったからである。
 押井守と言えば、SFサイバーアクション映画『アヴァロン』や『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』で、現実とサイバー上の虚構が反転するディック的世界を鮮やかに創り出した映像の魔術師である。
 カルロが描いた量子の世界の神秘に、今から40年近く前にすでに押井が迫っていたとしたら、凄いことではないか。

 ――と期待して観たのであるが、これはまったく量子力学とは関係なかった。
 カルロの唱えている「関係論的解釈」すなわちナーガルジュナの説いた「空」とも、般若心経の「色即是空」とも違う。
 ネタ晴らしになってしまうが、主人公・諸星わたる&ラムちゃんら登場人物たちが「現実」と思っていた日常(それが次第に非日常へと変貌してゆく)が、実はラムちゃんの“夢”の産物であったというオチである。
 視聴者をコケにするような安易な「夢落ち」と微妙に異なるのは、ラムちゃんが最後に「ハ~ア~」とあくびして目覚めることで“世界”が終わる、という単純なからくりではないところ。
 もう少し複雑なつくり。仏教とのからみで言えば「唯識論」に近いかもしれない。
 ラムちゃんの“識”(意識と無意識を含む)が世界を創っている――みたいな。

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 1984年の時点で、『マトリックス』(1999年)よりずっと前にこういった現実と虚構、意識と無意識とを越境するような作品を世に問うていたところは凄い。
 途中で、SF映画の古典『ダークシティ』(アレックス・プロヤス監督)で出てくるのとそっくりの仰天シーンが登場して、一瞬、「押井さん、パクったな」と思ったが、『ダークシティ』は98年公開なので本作の方が早い。
 しかも、浦島伝説をからませた本作のほうが文学性に富み、センスがいい。

 人の夢を実現させてしまう妖怪「夢邪鬼(むじゃき)」の声優が上手い。
 関西弁の厚かまし気なオッサン口調から鶴瓶かと思ったが、84年では鶴瓶はここまで上手くなかった。
 誰だろう?と調べたら、藤岡琢也だった。
 ウィキによれば、俳優として売れる前は声優をしていたらしい。
 さすが、「岡倉」の店主である。
 
 『うる星やつら』シリーズのなかの異端であるのは確かだろう。
 



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
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● 男たち、美しく 映画:『戦場のメリークリスマス』(大島渚監督)

1983年日本、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド
123分、日本語&英語

 本作は、リアルタイムで劇場で観た初めての大島渚作品だった。
 というより、初めて観た大島渚であった。

 当時人気絶頂のビートたけしと坂本龍一、演技素人の二人が主役級で出演。
 ロック界の大物スター、デヴィッド・ボウイと坂本との東西を代表する美形対決。
 坂本の作曲した印象に残るテーマ音楽が繰り返しCMで流された。
 話題に事欠かず、前評判から高かった。

 蓋を開けたら予想をはるかに上回る大ヒット。
 映画館には若者、とくに戦争映画には珍しく若い女性たちの列ができた。
 ある意味、1981年公開の深作欣二監督『魔界転生』と並んで、日本における“腐女子熱狂BL映画”の幕開けを宣言した記念碑的作品と言えよう。
 キャッチコピーの「男たち、美しく」は、まさに時代の需要を敏感に汲み取ったものである。

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左から坂本龍一、デヴィッド・ボウイ、ビートたけし、トム・コンティ

 ソルティもそのあたり期するものあって鑑賞したと思うのだが、一言で言えば「よくわからない」映画であった。
 腐女子的楽しみという点をのぞけば、なぜこの映画がそれほど高い評価を受け、世界的な人気を博しているのか、理解できなかった。
 最初から最後まで残酷な暴力シーンに満ちているし、それらは太平洋戦争時の日本軍の外国人捕虜に対する行為なので同じ日本人として罪悪感や恥ずかしさを持たざるを得なかったし、それを全世界に向けて何の言い訳もせずに手加減なく晒してしまう大島監督に対する怒りとは言えないまでも不愉快な思いがあった。
「なんで日本人の監督が、わざわざ日本人の恥部を今さら世界中に見せるんだ!」
 同じように太平洋戦争時の東南アジアにおける日本軍の日常を描いた、市川崑監督『ビルマの竪琴』と比べると、その差は歴然としている。

 さらに、テーマがわかりにくかった。
 日本軍の旧悪を暴き日本人という民族の奇態さを描きたいのか、戦争の狂気や愚かさを訴えたいのか、日本軍に代表される東洋と連合軍に代表される西洋との文化的・思想的・倫理的違いを浮き彫りにしたいのか、それとも敵同士の間にさえ生まれる男同士の友情に焦点を当てたいのか、ホモフォビア社会の中でいびつになった同性愛者を描きたいのか・・・・。
 いろいろな要素がごっちゃ混ぜになっている感を受けた。
 本作は、実際にインドネシアのジャワ島で日本軍の捕虜になった南アフリカの作家・ローレンス・ヴァン・デル・ポストの体験記を原作としているので、ある一つのテーマに基づいて作られた作品というより、現実のいろいろな見聞を盛り込んだ「ザ・捕虜生活」としてあるがままに受け取るのが適当なのかもしれない。
 実際、海外では『Furyo』(俘虜)というタイトルで上映された国も少なくない。

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 そういうわけで、公開時は「よくわからない」映画だったのであるが、約40年ぶりに見直してみたら、それもその間に、『青春残酷物語』『太陽の墓場』『日本の夜と霧』『日本春歌考』『マックス、モン・アムール』『御法度』といった大島渚監督の他の作品を何本か観た目で見直してみたら、新たに気づくところが多かった。

 まず、顕著なのが、坂本龍一演じるヨノイ大尉であるが、これは明らかに三島由紀夫、あるいは三島由紀夫に対する大島ならではのオマージュである。
 ヨノイ大尉は、2・26事件に参与できなかった悔恨を抱える国粋主義者で、剣道と文学をたしなむクローゼット(隠れホモ)という設定。原軍曹(ビートたけし)を典型とする野蛮で暴力的な日本兵の中で、ストイックなまでの神道精神を貫いている。晩年の三島を彷彿とさせる。
 そういう男があまつさえ敵方の外国男を好きになってしまうという矛盾と葛藤が面白い。

 次に、大島の遺作である松田龍平主演『御法度』(1999)において極められた「マチョイズム(ホモソーシャル社会)の中に投げ込まれた同性愛(ホモセクシュアル)」というテーマの先鞭をつけた映画である。
 生き死にがかかっている闘いの場においては、規律ある上下関係と集団の大望成就のために自己を放棄するマチョイズムこそ、重要であり役に立つ。
 上下関係を曖昧にし集団より自己の欲望や特定の仲間との関係を重視する同性愛は、集団の規律やモラルを乱しかねない。
 だから、デヴィッド・ボウイ扮するセリアズ少佐に惚れてしまったヨノイ大尉は、軍のリーダーとして役に立たなくなってしまった(更迭させられた)のであり、美貌の剣士である加納惣三郎(松田龍平)は、新選組を内側から崩壊させる危険因子として、最後には沖田総司(武田真治)に斬られてしまうのである。
 敵と戦い打ち倒すためには、「男(マッチョ)」でありつづけなければならない。 

 次に言及すべきは、ビートたけしの存在感。
 演技力がどうのこうのといったレベルを超えたところで、強く印象に刻まれる。
 当時お笑い一筋でテレビ芸人としてのイメージの強かったたけしを、この役に抜擢した大島の慧眼には驚くばかり。
 有名なラストシーンでの艶やかな顔色と澄み切った笑顔は、たけしが映画作りの面白さに目覚めた証のように思える。
 
 本作では原軍曹とロレンス中佐(トム・コンティ)の間で、何度か「恥」をめぐる会話が交わされる。
 敵の捕虜になること自体を「恥」と考える日本人と、捕虜になることは「恥」でも何でもなく、捕虜生活をできるだけ快適に楽しく過ごそうとする西洋人。
 捕虜になって辱めを受けるくらいなら切腹を選ぶ日本人と、それを野蛮な風習としか思わず、何があっても生き抜くことこそ重要とする西洋人。
 戦地における傷病者や捕虜に対する待遇を定めたジュネーブ条約(1864年締結、日本は1886年加入)の意味を理解できない日本人と、一定のルールの下に戦争することに慣れている西洋人。
 東洋と西洋、いや日本人と欧米人とのこうした違いは、『菊と刀』や『海と毒薬』はじめ、いろいろなところで語られてきた。
 映画公開後に「毎日新聞」(1983年6月1日夕刊)に掲載された大島渚自身による自作解題によると、外国のマスコミから受けた本作に対する様々な質問の中に、次のようなものがあったそうだ。

 オーシマは、この映画で日本の非合理主義が敗れ、ヨーロッパの合理主義が生き残ったとしている。後者が前者よりすぐれていると思っているのか。

 それに対して大島はこう答えたそうな。

 ニッポンは戦争で示した非合理主義を戦後の経済や生産の中に持ちこんで、それを飛躍的に発展させたかもしれない。しかしそのエネルギーは負けたことから来たのだ。そしてそれを支えた我々はもう疲れた。次の世代は合理主義を身につけて世界の中で生きるだろう。

 40年経って、日本人はどれくらい合理主義を身に着けたのだろう?



P.S. 驚いた! 記事投稿後に知ったが、今日1月15日は大島渚監督の9回目の命日だった。あの世の監督に「書かされた」?

 



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
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● シネマ・コンサート:『砂の器』(野村芳太郎監督、東京フィルハーモニー交響楽団)

1974年松竹
143分
上映日 2022年1月9日(日)15時~
会場  東京国際フォーラム(有楽町)
指揮:和田薫
ピアノ:入江一雄

 しばらく前からシネマ・コンサートというイベントが話題になっている。
 人気の高い映画の再上映に際して、BGMの部分を観客の目の前で楽団が演奏するという形式である。
 『砂の器』を筆頭に、『雨に唄えば』『E.T.』『ジュラシック・パーク』『ニュー・シネマ・パラダイス』『鉄道員 ぽっぽや』『ルパン三世 カリオストロの城』などが演目に上がっている。

 もともと無声映画の時代には、観客が白黒画面を観ている傍らで弁士が解説やセリフを喋り、ヴァイオリンやピアノあるいはオーケストラがBGMを奏でるというのは普通にあったから、今に始まったことではない。
 が、トーキーになって音楽も録音・再生できるようになってから、わざわざ指揮者と生オケ呼んでライブでBGMつけるなんて贅沢の極みというほかない。
 本上映会のチケット代も、S席 9,800、A席 7,800 (税込)と破格であった。
 
 バブル華やかなりし頃、単発イベントとしてシネマ・コンサートが催されたことがあった。
 ソルティが観た(聴いた)ので記憶しているのは、映画の父と言われるD・W・グリフィスの『イントレランス』(1916年)と、上映時間6時間でラストシーンで画面が3倍広がる(シネラマになる)アベル・ガンツの『ナポレオン』(1927年)であった。
 物好きな年頃だった。

 映画のサウンドの質が向上した、つまり録音・再生技術が非常に優れている現在、わざわざ生オケ呼んでBGMをつけてもらう必要はないと思うので、高い金出してシネマ・コンサートに行く気は基本的にない。
 ただし例外がある。
 そのBGMがスクリーンなしで単独で聴いても優れた曲であり、また音楽自体が物語の主要なテーマになっているような場合、シネマ・コンサート形式は燦然たる効果を放つ。
 その例外が『砂の器』であることは言うを俟たない。

砂の器ポスター


 5000席を超える東京国際フォーラム・ホールAは満席に近かった。
 昨秋チケットを取ったときはコロナの谷間だったが、ご承知の通り、今年に入ってオミクロン急増。しかもデルタを凌ぐ感染力。
 不織布マスクでしっかり鼻まで覆った上に眼鏡タイプのフェイスシールドをつけて鑑賞した。
 予想はしていたが、観客は50~70代が大半だった。

 舞台上の大きなスクリーンの下にオーケストラ席がしつらえてある。
 楽団員がぞろぞろ入って来て、最後に指揮者とピアニストが登場。
 そう、本作のBGMは菅野光亮(1939-1983)作曲『ピアノと管弦楽のための組曲 宿命』で、それはまた本作の主人公である天才作曲家にしてピアニスト・和賀英良(加藤剛)が自らの宿命を綴った一世一代の名曲でもある。
 指揮棒が上がり、ゆっくりと主要動機(メインテーマ)が流れ、スクリーンにクレジットが映し出される。
 生演奏の臨場感、迫力、波動の力は半端なく、もうこの時点でウルっと来てしまった。
 やばい。この先大丈夫か?

 スクリーンの進行に音楽を合わせていくのは随分と難しいのではないか、とくにスクリーンに映し出される手の動きに合わせてピアノを弾いていくのは至難の業ではないか、と素人目には思うが、そこはやはりプロ。まったく不自然なく、途中からはほとんど生オケであることも忘れて映画に没頭していた。
 感動の源はもちろん、残酷な宿命を背負わされた父と子の不憫さと絆、誰にもわかりえない主人公の苦しみと孤独、それを察する刑事たちの心情、そして悲哀と慟哭の音楽にある。
 だが、人生4度目の鑑賞、それも初回から40年以上の月日が経っている現在、もういろいろなことが感動のポイントとなる。
 撮影時に残っていた日本の風土、海岸線や稲田や農村の美しさ、昭和の街の風景、人々の艶のあるひたむきな表情、クーラーのない夏の暑さ、国電の列車、車窓を流れる景色、そしてすでに鬼籍に入った役者たち――主役の加藤剛や丹波哲郎はもちろん、渥美清、笠智衆、佐分利信、緒形拳、加藤嘉、菅井きん、穂積隆信・・・・。
 主要登場人物で今も残っているのは、元千葉県知事の森田健作、島田陽子、山口果林、それに子供時代の和賀英良を演じた春田和秀(現在55歳)くらいではないか。
 最初に観たとき、出演者のうち自分より年下は春田和秀だけだったのに、いまや森田健作や加藤剛はもちろん、丹波哲郎も緒形拳も渥美清も超えてしまった。
 次に観る時はおそらく佐分利信も加藤嘉も超えていることだろう。
 そう、今となっては、この映画の隠されたテーマは「波にさらわれた砂の器のごとく、失われた昭和、失われた日本の風土、失われた人、失われた時」なのだ。
 だから、話の筋も結末も感動のポイントも熟知しているにも関わらず、見るたびに感涙にむせぶのである。

 一方、「失われた昭和や日本の風土」をただ懐かしんでいるばかりではない。
 この作品の核をなすハンセン病差別は前近代的な日本の風土の中にこそ根付いていた。
 あの美しい海岸線、桜並木、緑なす山々、きらめく河川、蝉しぐれ、素朴な民衆の中に、無知や偏見が組み紐のように織り込まれていた。その観点からスクリーンを目にするとき、日本の風土の美しさが深い哀しみの色を帯びてくる。 
 映画の最後の字幕にあるように、「現在ではハンセン病は治療できる病いで、本浦千代吉のような患者はいない」。
 患者を家族と離れ離れにし、施設収容する必要もない。 
 天下の悪法・らい予防法は1996年に廃止された。 
 平成・令和生まれで、半世紀近く前に作られたこの映画を、主人公・和賀英良の背負った十字架の重みを、予習なしに理解できる人はそういないかもしれない。
 それはやっぱりいいことだ。  
 失われてよいものもある。

 上映終了後は拍手の嵐。
 アンコールでメインテーマが奏でられた。(今も頭の中に鳴り続けている) 

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国際フォーラム内のトラ門松


おすすめ度 :★★★★★

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● 永遠の田宮二郎 映画:『白い巨塔』(山本薩夫監督)

1966年大映
149分、モノクロ

 「白い巨塔」と言えば財前五郎、財前五郎と言えば田宮二郎。
 ――というのがソルティの固定観念であるけれど、山崎豊子原作のこの社会派医療ドラマは実に6回もテレビドラマ化されている(国内のみ。韓国でもドラマ化されている)。
 主役の財前五郎=友人にしてライバルの里見脩二=財前の愛人のホステス・花森ケイ子、主要3人の過去の配役を並べると、

1966年映画   田宮二郎=田村高廣=小川真由美
1967年テレビ  佐藤慶=根上淳=寺田史
1978年テレビ  田宮二郎=山本學=太地喜和子
1990年テレビ  村上弘明=平田満=池上季実子
2003年テレビ  唐沢寿明=江口洋介=黒木瞳
2019年テレビ  岡田准一=松山ケンイチ=沢尻エリカ

 その時代のトップ中堅スターが抜擢されてきたことが分かる。
 ソルティがこれまで観たのは78年テレビ版のみで、財前がガンで亡くなる最終回直前に田宮二郎の猟銃自殺があったため、なんだかドラマ(虚構)と日常(現実)の境が溶けるような奇妙な印象が生じ、そうでなくともハマリ役であった田宮=財前が強く脳裏に刻まれた。
 おそらくリアルタイムで78年版を観ていた多くの人も同じであろう。

 田宮二郎が財前を演じた最初にして、今のところ唯一の映画化が本作である。
 やはり素晴らしくハマっている。翳りある冷徹な二枚目ぶりはその後のどの財前も及ぶところではない(と勝手に思っている)。
 俳優だけでなく事業にも手を伸ばした野心家であり、ポスターの名前の序列をめぐって大映とケンカ別れするほどプライドが高く、妻子ある身で山本陽子と浮名を流し、最後は精神を病んで自害に至った田宮二郎の素そのものが、財前五郎というキャラと重なるのである。
 まるで財前五郎を演じるために生まれてきたかのよう。

 本作のラストは、誤診で患者遺族に訴えられた財前が裁判に勝利して、“白い巨塔”のトップに昇り詰め、有名な院内大名行列する場面で終わる。
「あれ、ここで終わり? 財前って最後は死ぬはずでは・・・・?」
 と思ったら、本作が撮られた66年の段階では山崎豊子の原作(65年出版)はここで完結していたのである。
 ところが、読者の反響すなわち「里見が象徴する正義が通らず財前が象徴する悪が勝つこと」への批判が凄かったため、山崎は続編を書くはめになったらしい。
 続編は69年に出版されているので、ソルティが観た78年テレビ版はもちろん、勧善懲悪バージョンだったのだ。
 まあ、そうでなければこれほど何回もドラマ化されないだろう。

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ただいまより財前教授の総回診が始まります

 本作の魅力は、田宮、田村、小川のみならず出演陣の豪華な顔触れと質の高い演技にある。
 東野英治郎、小沢栄太郎、加藤嘉、加藤武、藤村志保、石山健二郎、滝沢修、船越英二・・・・。
 なんとまあ実力派を揃えたことか!
 中でも、財前五郎の義理の父を演じる石山健二郎の「この世のすべては銭でっしゃろ!」の浪花ごうつく親爺ぶりが傑作である。
 この人は黒澤明の『天国と地獄』でも叩き上げのボースン刑事役として得難い個性を発揮していた。
 日本が誇る素晴らしきバイプレイヤーの一人である。
 観客を決して飽きさせない橋本忍の脚本も、『真空地帯』で示した山本薩夫の演出もゆるぎない。

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娘婿の教授拝命を喜び芸者と踊る財前又一(石山健二郎)

 タイトルの「白い巨塔」とは、「封権的な人間関係と特殊な組織で築かれ、一人が動いても微動だにしない非情な」医学界の意である。
 このたびのコロナ禍ではっきりしたように、白い巨塔はウイルス対策のような臨機応変の柔軟な対応を必要とされる事態に滅法弱い。
 利権、既得権、縦割り、派閥(学閥)、ピラミッド型組織、政財界との癒着、身内同士のかばい合い、パワハラ・・・・。
 目に見えないウイルスは、強固につくられ微動だにしない塔の隙間から自在に入り込んで、内側から塔を蝕んでいく。
 今回のコロナ禍になにかしらの益があるとしたら、昔ながらの白い巨塔がいくらかでも風通しのいいものになってくれるところにあると思いたい。



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 新年一本目 映画:『惜春鳥』(木下惠介監督)

1959年松竹
102分、カラー

 白虎隊で有名な会津若松を舞台に、5人の青年の友情と裏切りと成長を描く青春ドラマである。

 まず何と言っても、昭和30年代の会津若松の自然や町の美しさに目を奪われる。
 木造建築の温泉旅館やアールデコ調のカフェなど、木下監督の美意識がそこここで光る。
 
 5人の青年にはそれぞれ屈託がある。
 牧田康正(津川雅彦)は妾の子であり、母親が経営するカフェでバーテンをしている。
 峰村卓也(小坂一也)は温泉旅館の跡取りであり、父親は浮気相手の寝床で急死した。
 手代木浩三(石濱朗)は貧乏士族の家柄で、組合活動に専心する薄給サラリーマン。
 馬杉彰(山本豊三)は漆塗りの職人の息子で、片方の足を引きずっている。
 岩垣直治(川津祐介)は愛のない家庭に育ち、東京でアルバイトしながら大学生活を送っている。

 それぞれが何かしらの傷を抱えているところで5人の友情は育まれた。

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左から小坂一也、川津祐介、山本豊三、津川雅彦、石濱朗

 自刃した白虎隊の志士への敬愛を胸に固い友情で結ばれていたかに見えた5人だが、成長して就職し、それぞれが世間の波にもまれるようになるにつれ、関係が微妙に変わっていく。
 中でも、東京に行った岩垣はいつの間にか大学をやめて詐欺や泥棒を働くようになっていた。
 そうとは知らず、帰郷した岩垣を温かく迎え、岩垣に頼まれるがまま金を工面してやる4人。とくに仲の良かった馬杉は久しぶりの邂逅を喜び、5人揃ったことで共に剣舞に励んだ昔日に戻ったような気分の高揚を感じていた。

 5人それぞれのキャラクターがしっかりと書き分けられ、かつ演技力ある若い役者らによって演じられているので、見ごたえがある。
 デビュー間もない津川雅彦の華と色気、歌手でもあった小坂一也の感性と見事な歌声、演技派・石濱朗の安定感、山本豊三の愛すべき庶民性、そして顔立ちの可愛らしさと相反する川津祐介の計算された大人の演技。
 それぞれの魅力を引き出す木下演出の肝は、ジャニー喜多川と比すべき炸裂するイケメン愛である。
  
 本作は日本初のゲイ映画とも一部で言われていて、確かに足の悪い馬杉の岩垣に対する思いや態度は、友情を越えた恋情のレベルにある。馬杉がゲイである可能性は高い。
 しかるに、本作のゲイっぽさは話の内容そのものというより、木下の演出にあると見るべきだろう。
 冒頭の川津と小坂の入浴シーン、後半の津川と小坂の入浴シーンなどの演出は、温泉宿で旧交をあたため打ち割った話をするのに共に風呂に入るシーンがあるのは自然な流れとは言え、その自然が自然に収まらず、不自然に達するほどの耽美な雰囲気――ヴィスコンティかデレク・ジャーマンを想起するレベル――を醸し出している。
 つまり確信犯だ。

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津川雅彦と小坂一也の入浴シーン
 
 本作ほど木下惠介が、自分の撮りたいテーマをお気に入りの役者を集めて撮りたいように撮った映画はないんじゃなかろうか。
 5人の役者から見れば大先輩たる佐田啓二と有馬稲子が昔ながらの“心中する男女(芸者と肺病持ち)”を演じてさすがの貫禄を見せてはいるが、物語的には狂言回しに過ぎない。

 令和の現在、5人の個性的な若い男優を集めて、よりBL色鮮明にして再ドラマ化したら受けるんじゃなかろうか?



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 若者よ、体を鍛えておけ 映画:『日本の夜と霧』(大島渚監督)

1960年松竹
107分

 封切り4日で公開打ち切りという伝説の映画。
 制作元の松竹は客の不入りを理由としたが、『真説 日本左翼史』の佐藤優の言によれば、「あまりに政治性の強い内容に(松竹が)恐れをなした」云々。
 たしかに、おめでたいはずの結婚式の会場が参列者による口角泡飛ばす政治討論&暴露合戦の場となり、最後は警察(公安?)介入による修羅場と化していくという、現在ではちょっと考えられないようなシチュエーションである。
 「こんな時代があったんだ」「こんなに政治意識の高い若者たちがいたんだ」という驚きと、カットの少ない長回しの多用でナマの舞台のような緊張感を生みだしていく大島監督の手腕にあらためて感嘆した。
 ウィキによれば、カットの少なさは上からの制作中止の声を恐れた大島ができるだけ早く撮影を済ませるための苦肉の策だったとか。
 出演者がセリフをとちったり忘れたりしているのが、かえって臨場感を生んで、若さゆえのもどかしさや不器用さの表現みたいに見えるのが面白い。

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一人だけ優雅な空気をまとっている小山明子(大島渚夫人)
 
 実際に映画が「不入り」だったかどうかは知るところでないが、本作は時代背景(1950~60年)や当時の左翼運動(とくに共産党)の動向を知っていないと、まったくのチンプンカンプンであろう。
 現在の渋谷あたりで歩いている若者をつかまえてこの映画を見せたらどういう感想を持つか、興味深い。(おそらく上映開始10分で寝落ちするか、スマホいじりを始める)
 かくいうソルティも、もし『真説 日本左翼史』を事前に読んでいなかったら、まったく内容や面白さが理解できず、アラン・レネ監督『去年マリエンバードで』のような難解な前衛映画の一種?と勘違いしそうである。
 1950年のコミンフォルム(共産党・労働者党情報局)による日本共産党の平和革命論批判、からの武装闘争路線への転換、からの1955年武装闘争路線の放棄、からの党の方針を批判し離脱した学生らによる新左翼の誕生、からの1960年日米安保改定騒動下の全学連デモ(樺美智子の死)・・・・・という一連の流れと、二転三転する党本部の方針に苛立ちや懐疑を募らせた若者たちの心境を理解してはじめて、本作の深みと面白さが十全に味わえる。
 当時の日本人(あるいは若者)の何割が、この映画を咀嚼できるアタマと見識を持っていたのだろう?
 その意味では、インテリ・ブルジョア映画と言えるかもしれない。

 保守右翼の看板的存在であった津川雅彦が、新左翼の尖った若者を演じているのが興趣深い。 
 池上彰の解説付きで上映会したら面白いだろうなあ。



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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● 本:『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』(ランサム・グリス著)

2011年原著刊行
2016年潮文庫

 アメリカ発のヤングアダルト・ファンタジー小説。

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 体の中に蜂を飼っている少年、空中浮遊する少女、透明人間、怪力娘、火を自在に操れる美少女、泥人形に命を吹き込むオタク少年、植物を成長させる少女・・・・等々、不思議な力を持つ奇妙なこどもたちが、時間を操ることができるミス・ペレグリンの見守りのもと、1940年9月3日を幾万回もループしながら生きている。
「これ、映画にしたら面白そうだな」と思いながら読んでいたのだが、2016年に映画化されていた。
 監督は、『ビートルジュース』『バットマン』『シザーハンズ』『チャーリーとチョコレート工場』などで知られるファンタジー映画の巨匠・ティム・バートン。
 これは観なくてはなるまい。

 小説としては、主人公の少年ヤコブの祖父が終生抱えていた秘密と数々の奇妙な写真の謎が解き明かされる途中までは良かったのだが、怪物との闘いがメインとなってくる後半が書き急いだように雑な感じで、最後はバタバタと余韻なく終わる。
 金持ちのボンボンであるヤコブの性格もあまり共感持てなかった。
 続編はおそらく、時の扉(過去に作られたループ)を探しながら、こどもたちが持ち前の特異能力を発揮して怪物と闘う――って展開になるのだろうが、読むかどうか迷うところ・・・・。
  



おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● VAMOS!今年一番面白かった映画 :『ぐらんぶるGRAND BLUE』(英勉監督)

2020年日本
107分

 2021年はまだ終わっていないけれど、今年観た84本の映画のベスト10を上げるなら(順不同)

(清水宏監督、1941)
セックスチェック 第二の性(増村保造、1968)
寝ても覚めても(濱口竜介、2018)
クロッシング(キム・テギュン、2008)
パッチギ(井筒和幸、2005)
ボーダー 二つの世界(アリ・アッバシ、2015)
残菊物語(溝口健二、1939)
蜘蛛巣城(黒澤明、1957)※再鑑賞
さらば友よ(ジャン・エルマン、1968)※再鑑賞
ぐらんぶる(英勉、2020)

 単純に一番面白かったのは、この『ぐらんぶる』であった。

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左:滝丈星涼、右:犬飼貴丈

 原作は講談社『good!アフタヌーン』連載中の井上堅二作のギャグ漫画で、2018年にテレビアニメ化されたらしいが、ソルティはまったく知らなかった。
 若い男二人が水中ではしゃいでいるDVDのパッケージを見て、高校の水泳部か水球部かシンクロ部のインターハイに向けての奮闘を描いた青春スポ根ギャクタッチドラマかと思った。
 妻夫木聡主演『ウォ-ターボーイズ』(2001)や林遣都主演『DIVE』(2008)のような。
 
 美しい南の島での楽しいキャンパスライフを期待してやって来た青年・北原伊織(竜星涼)。
 叔父さんが経営するお洒落なショップ「GRAND BLUE」兼下宿先に到着したら、そこで出会ったのは夢に見た美少女。

 ――とここまでは『めぞん一刻』型の青年コミックお決まりの出だし。
 と、いきなり物語は異次元へワープする。
 伊織の衆人環視の全裸シーンが延々と続き、そこにもう一人の主役・今村耕平(犬飼貴丈)の全裸も加わり、いったいこのイケメンヌード2乗の「ウホッ!」感はなに??
 あっけにとられて見ていると、タイムスリップ物のSFドラマのような様相を帯びてくる。
 このドラマはいったい???
 ちなみに竜星涼は仮面ライダーシリーズの、犬飼貴丈はスーパー戦隊シリーズのヒーローを務めた人気沸騰中の俳優である。
 
 結局、叔父さんはスキューバダイビング店を経営しており、タイムスリップ(タイム・ストリップ?)と思ったのは、地元のダイビングチーム Peek a Boo(ピーカブー)所属の屈強な男たちの歓迎の儀式(=悪戯)と分かるのだが、この奇想天外な激しいプロローグにすっかり掴まれた。
 その後も、ボリウッド映画つまりインド映画のような「いきなりみんなで激しく踊り狂う」シーン(しかも裸の男どもがお立ち台に乗って!)が頻発したり、ふだん真面目な役の多い髙嶋政宏が紫のパンツ一つでとんでもない弾けっぷりを見せてくれたり、とにかくこちらの予想を超える奇抜なシーンの連続に度肝を抜かれた。
 むろん面白い原作あってのことだが、英勉監督のギャグセンスの素晴らしさは紛うことなし。

 本映画の最大の爆笑ポイントは、「VAMOS!」という謎の掛け声とともに始まる、郷ひろみ「GOLDFINGER '99」とオールブッラクスのハカ踊りを掛け合わせたようなダンス&ミュージックであるが、これは原作にはなく映画オリジナルの演出という。

 この映画及び高嶋政宏の怪演ぶりは、おそらくカルト映画として熱狂的なファンの間で語り続けられることであろう。
 畏れ入った。

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「ごちそうさま」


P.S. 1 VAMOS!とはスペイン語で「行くぞ!」の意。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 崖の上のなぎさ TVドラマ:『横溝正史シリーズ 女王蜂』(富本壮吉演出)

1978年毎日放送
各55分×3回

 京マチ子の演技が素晴らしかった『犬神家の一族』に続き、同じシリーズの『女王蜂』を40数年ぶりに再見。
 演出の富本壮吉は三島由紀夫原作の『獣の戯れ』(1964年)を撮っている。
 むろん、金田一耕助は古谷一行である。
 
 本作は推理ドラマとしては凡庸なのだが、伊豆沖の孤島に住む源頼朝の血を引く美しき令嬢・大道寺智子に魅せられた男たちが、女王蜂に群がる雄蜂のごとく無残に命を奪われていく。しかも、謎解明のカギは20年前に起きた智子の父親の死にあるらしい――という大時代にしてドラマチックな設定が読者や視聴者の興味を引く。
 2度の映画化、5度のTVドラマ化がその証拠である。
 
 ソルティの一番の関心は、女王蜂と名指されるほどの絶世のカリスマ美女・智子をどの若手女優が演じるか、そして智子の家庭教師で本ドラマの影の主役たる神尾秀子をどの芝居達者な女優が演じるか、という点に尽きる。
 これまでの7作のカップリング(智子―神尾)は以下のごとし。

 1952年映画  久慈あさみ―荒川さつき
 1978年映画  中井貴恵―岸惠子
 1978年テレビ 片平なぎさ―岡田茉莉子
 1990年テレビ 井森美幸―小川知子
 1994年テレビ 墨田ユキ―沢田亜矢子
 1998年テレビ 川越美和―池上季実子
 2006年テレビ 栗山千明―手塚里美
 
 個人的には、智子役のベストは栗山千明、神尾役のベストは岸恵子なのであるが、両者揃って及第点と思えるのは、この1978年テレビ版ということになる。(ただし、1952年版は観ていないし、女優のことも知らない) 
 当時デビュー間もない19歳の片平なぎさのはち切れんばかりの若さと匂い立つような美しさは眼福もの。
 子どもの頃リアルタイムで見た時は、「絶世の美女ってほどじゃないじゃん」と辛らつな見方をしていたが、40年以上経た今見ると、「これなら周囲の男たちが浮足立つのも無理ないなあ」と素直に思える。
 つまり、片平なぎさはデビュー当初、年下や同年代の男の子向けのアイドルとして売り出したけれど、それは戦略ミスであって(思ったほど売れなかった)、実際のところは川島なお美同様の中年キラー、オジサマ受けするタレントだったのである。
 だから、後年になって中高年視聴者が多い2時間ドラマの女王足りえたわけである。
 19の彼女を「ぬあんて可愛いんだ!」と思うソルティもすっかりオジサマになった。

 2時間ドラマ絡みで言えば、本作の冒頭とラストシーンの舞台は、海に浮かぶ月琴島の断崖絶壁の上である。
 なぎさの崖ストーリーはここから始まっていた。

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左から、片平なぎさ、長門勇、古谷一行

 子供の頃は玩味するすべを持たなかった大人の役者の魅力も、40年経た今ようやく味わえるようになって、脇をつとめるベテランの上手さというのに新鮮な驚きを覚えた。
 日和警部役の長門勇と山下巡査役の三谷昇のコミカルな味、岡田茉莉子のグレタ・ガルボばりの目の演技、新劇で鍛えた南美江の安定感と発声の見事さ、時代劇などの悪役(「おぬしも悪よなあ~」)でならした川合伸旺の凄み、神山繁のダンディな渋さ・・・・・昭和の俳優ってやっぱり素晴らしい。

 だいたいテレビドラマの最盛期は70~80年代にあると思うのだが、当時、各映画会社の撮影所で育てられドラマづくりのノウハウを一から学んだ役者や演出家やスタッフらが映画業界の斜陽と共にテレビ業界に入り込んで、一線で活躍していた。
 映画と比べてテレビは馬鹿にされていたけれど、それでも令和の現在のテレビドラマと比べたら、役者の演技も演出も美術も撮影も音楽も、質の差は歴然。
 本作に横溢する70年代日本の空気が妙に懐かしいのは、ソルティの懐古趣味ばかりでなく、失われたアートに対する哀惜なのだ。

 それにつけても、予告された殺人を阻止するために大道寺家にやって来た金田一耕助の目の前で、5人の男が殺され、1人が自害し、当人も頭を殴られ大事な鍵を盗まれるという体たらく。
 今さらではあるが、名探偵ではないよな・・・・。

 
 
おすすめ度 :★★★

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