ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

映画・テレビ

● 女優!女優!女優! :小津安二郎展 @横浜

 久しぶりの横浜。
 前回がいつだったか思い出せない。
 目的は神奈川近代文学館で開催中の小津安二郎展である。
 今年は生誕120年、没後60年の節目なのだ。
 小津の人生はその映画スタイルのようにきっちりしていて、60歳の誕生日(12/12)に亡くなった。
 なかなかできることではない。

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マリンタワー
ソルティの中の横浜は「マリンタワー、氷川丸、中華街」で止まっている
いつの時代だ

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港の見える丘公園

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レインボーブリッジ?
いやいや、横浜ベイブリッジ

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マリンタワーと氷川丸

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巨大ガンダム
ここ(山下埠頭)にあったのか・・・

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神奈川近代文学館
来たことあるような、ないような・・・

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一般800円、月曜休館
近代文学と神奈川の関わりを辿った一般展示も見ることができる
三島由紀夫の『午後の曳航』は横浜港が舞台だったのか・・・

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入口にあった撮影コーナー(会場内は撮影禁止)
小津の代名詞であるローポジションを体感することができる
テーブルの上にカメラやスマホを置くと・・・

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小津調となる
これは『秋刀魚の味』のワンシーン

展示はとても内容が濃くて、見ごたえあった。
  • 小学校時代の小津の作文や写真(かわいい!)
  • 母親や親友たちとやりとりした手紙
  • 幻の第1作『懺悔の刃』のあらまし(フィルムが残っていない)
  • 全作品の内容紹介
  • 往年の大スターてんこもりのポスターやスチール
  • 監督デビューのきっかけとなった「カレーライス事件」など様々な逸話
  • 中国大陸従軍中の様子を伝える新聞記事や現地からの絵葉書
  • 山中貞雄、志賀直哉、谷崎潤一郎など同時代の映画監督や文学者とのつきあい
  • 愛用していた数々の日用品(机、撮影用椅子、帽子、パイプ、スーツ、時計、ライター等)
召集された小津は、南京虐殺(1937年12月)から間もない時期に南京入城している。
おそらく、いろいろな見聞あったことだろう。
戦後、小津は戦時中のことをほとんど語らなかったし、映画のテーマに据えることもなかった。
どんな思いを抱えていたのだろう?
戦争体験がどのように作品に影響したか興味ある。

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『晩春』のワンシーン
この作品は『東京物語』と並び、世界的評価が高い。
やっぱり原節子は日本映画史上一の美貌と思う。
ほかにも、栗島すみ子、山田五十鈴、高峰三枝子、高峰秀子、岡田茉莉子、久我美子、山本富士子、岩下志麻など、錚々たる大女優の写真がずらり。
「昔の女優さんは品があってきれいだね」
ご高齢夫婦が横で会話しているのが耳に入った。

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館内にある喫茶店で一服
なんと入館から3時間も経っていた

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喫茶店からベイブリッジを望む

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港の見える丘公園は薔薇園で有名
まさに見頃であった

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その後、中華街を散策
修学旅行の高校生でいっぱいだった

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店を冷やかしながらの肉マン食べ歩きは楽しい
横浜中華街=値段が高い、というイメージがあったが、千円以下で6点セット(ご飯、スープ、副菜2点、小籠包、デザート)の定食を提供している店がたくさん並んでいた。

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中華街のソウルスポット、横濱媽祖廟(よこはままそびょう)

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媽祖様は「天上聖母」とも呼ばれ、仏教、儒教、道教における最高位の女神とされる
中国人が熱心に礼拝していた

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横浜スタジアムを抜けて、JR桜木町駅まで歩いた
本日の歩数は約25000歩









● 魔性の顔 映画:『叫』(黒沢清監督)

2007年
104分

 ホラー映画。
 怖くもないし、不気味でもないし、深遠でもないし、スピリチュアルでもないし、とくに映像が凝っているわけでもないし、ビックリ仰天が待っているわけでもない。
 つまらないわけではないが、特別面白いわけでもない。
 この映画を撮りたいというモチベーションはどこにあったのだろう?

 正直、ソルティは、黒沢清が才能ある監督であることを認めるにやぶさかでないが、これほど高い国際的評価を得ている理由がよく分からない。
 ちなみに、これまで観た黒沢映画は、『CURE』、『カリスマ』、『回路』、『岸辺の旅』、『スパイの妻』である。

 本作で印象に残ったのは、その昔、真田広之やイチローを虜にした“魔性の女”、葉月里緒奈の研ぎ澄まされた美貌。

窓とおばけ




おすすめ度 :★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● ここには悪意がない 映画:『ミッドサマー』(アリ・アスター監督)

2019年141分
アメリカ、スウェーデン

 ミッドサマー(夏至)を祝うという習慣は日本では聞かれないが、キリスト教国とくに北欧では一般的らしい。
 長くひと際寒い冬のある国にとって、夏の訪れは格別なものなのだろう。
 この時期は白夜が続くので、遊ぶのにも祭りをするのにも、もってこい。
 ベルイマンの映画『夏の夜は三たび微笑む』に見るとおり。
 
 スウェーデンの秘境にある古い共同体の夏至祭に招かれたアメリカの大学生たち。
 はじめのうちは、美しくのどかな風景の中、素朴な村人との交流や珍しい風習を楽しんでいた。
 が、明るい光に満ちた神聖な祭りが始まるや、様子がおかしいことに気づく。
 一人、また一人、学生たちの姿は消えていく・・・・
 
 尋常でないグロと狂気に、ルカ・グァダニーノ監督の怪作『サスペリア』を想起した。
 が、あちらが「暗」「闇」だとすると、こちらは「明」「光」。
 白夜の明るさ、緑あふれる美しい村落、近代以前の簡素な暮らしぶり、白い衣装を身に着けた村人たちの清潔で敬虔なふるまい・・・・一見、楽園かと思えるような共同体だけに、一皮むいた真実の姿が恐ろしい。
 なにより怖いのは、ここにはまったく悪意がない。
 描かれるのはグロと狂気なのに、映像はあくまで美しい。
 犠牲者にとっての悲劇が、村人たちにとっては真面目なお祭り。
 このアンバランスがなんとも奇妙な味わいをもたらす。
 夜9時を過ぎても明るい白夜さながらに。

 ヴィスコンティ監督『ベニスに死す』で永遠の美少年タッジオに扮し、老いていく者(ダーク・ボガード)の無惨を観る者に突きつけたビョルン・アンドレセンが、半世紀を経た今、衝撃の老いの始末を見せてくれる。
 感慨深い。 

 141分が短く感じられた。
 アリ・アスターは才能ある監督には間違いない。


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スウェーデンの夏至祭風景
endlessboggieによるPixabayからの画像

 

おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




 
 

● 死んだほうがマシ 映画:『ニューオーダー』(ミシェル・フランコ監督)

2020年メキシコ・フランス合作
86分
原題:Nuevo Orden

 セレブたちの集うメキシコ上流階級の結婚式。
 明るい陽射し降りそそぐ豪邸で、着飾った男女がグラス片手に新郎新婦を祝い、笑いさざめく。
 幸福感あふれる光景に文字通り水を差すのは、この家の主婦がひねった蛇口から流れ出た緑の液体。
 いったい・・・・・?
 遅れてやってきた祝い客は口々に言う。
 空港が混乱、交通規制、デモ隊・・・・。
 街で何かが起こっているらしい。
 不穏な空気が高まる中、緑のペンキを顔にかけられた女性客が登場する。
 そこから事態は急展開。
 あとは息つく暇もない惨劇、予想を超えた展開の連続。
 見る見るうちに一つの社会が崩壊し、新しい秩序(ニューオーダー)が生まれていくのを、観る者は目撃することになる。
 テロリズムからの軍事政権の誕生。

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 これは、ナチスドイツやソ連のスターリニズム、そして大日本帝国の軍部独走への過程をなぞったような政治陰謀映画であり、現在のミャンマーやロシアやタイを思わせるディストピア映画であり、格差社会の果てに起りうるテロリズムを描いた社会派映画であり、圧倒的な軍事力を備えた民主主義の法治国家が一歩間違えば辿りかねない地獄を予見した近未来SF映画である。
 リアリティある卓抜なショットの連鎖と、観る者の読解力を試すかのように余計な説明を省いたスリムな脚本、そして人間的感情を手加減なく踏みしだいて突き進むサイコパスのごとき演出によって、言語を絶するほどの恐怖と絶望がフィルムに焼き付けられている。
 この映画を観たあとには、「人間であることが厭になる」、「この世に生まれたことが不幸としか思えなくなる」・・・・
 その意味で、反出生主義を裏書きするような作品で、青少年にはあまり観せたくない。

 映画の冒頭で、豪邸の壁に飾られている一見キュビズムのようなカラフルな現代絵画が映される。
 その絵画のタイトルがラストクレジットで明かされる。
 『死者だけが戦争を終わらせることができる』
 すなわち、「人類は生存している限り、戦争を止めることはできない」という皮肉である。
 ミシェル・フランコ監督は、相当のペシミストか、あるいは現実主義者なのだろう。
 だが、ソルティもまた、こんなふうになった日本を見るくらいなら、死んだほうがマシだ。
 
 本年一番の衝撃映画。
 2度見した。

緑のペンキ


おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 
 
 

● 映画:『パブリック 図書館の奇跡』(エミリオ・エステベス監督)

2019年アメリカ
109分

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 エミリオ・エステべスと言えば、マーティン・シーンの息子で、チャーリー・シーンの兄である。
 チャーリー・シーンは、80~90年代、トム・クルーズと並ぶイケメン人気スターだった。
 『地獄の黙示録』ほか名作出演が多い偉大な父親と、暴力事件やHIV感染など何かとお騒がせな弟の陰に隠れて、エミリオはあまり目立たない存在だったが、いつの間にやら映画監督になっていた。
 テレビ映画をのぞけば、本作は6本目の監督作品となる。
 前々から、なぜ父親や弟と姓が違うのだろうと不思議に思っていたが、エステべスは本名であり、シーンのほうが芸名だった。
 マーティン・シーンの本名は、ラモン・ジェラルド・アントニオ・エステベス。
 チャーリー・シーンの本名は、カルロス・アーウィン・エステベス。
 スペイン系である。

 本作で示される脚本家・監督としてのエミリオの技量は、なかなかのものである。
 構成やセリフもこなれているし、演出もカット割りもそつがない。
 ホームレスの人権や人種差別や格差社会という重く暗くなりがちな社会的テーマを扱いながらも、笑ってホロリとして感動できる、家族で楽しめる娯楽作品に仕上がっている。
 その絶妙なバランス感覚は天性のものだろう。
 他の監督作も見たくなった。

 本作の舞台は The Pubic すなわち公立図書館。
 市の図書館にたむろするホームレスたちが主人公である。
 ホームレスたちにとって、図書館はオアシスであるとともに、ライフライン(命綱)である。
 警察に追い回されたり、一部住民の襲撃に怯えたりすることなく、柔らかい椅子で体を休めることができる。
 洗面所で顔を洗い、髭を剃ることができる。
 猛暑の夏や極寒の冬は恰好の避難所となる。
 いろいろな情報を無料で手に入れることもできる。
 公立であるがゆえ、原則、施設側はホームレス利用者を拒否することはできない。
 正当な理由なく拒否すれば人権侵害となり、訴訟問題へと発展しかねない。

 エミリオ・エステベス演じる図書館員スチュアートは、ほかの利用者からの苦情を受けて、悪臭を放つホームレスを図書館から追い出した。
 そのことで、図書館すなわち市は、くだんのホームレスから訴えられ、巨額の和解金を支払う羽目になる。
 スチュアートは解雇を告げられる。
 そんな折、大寒波が街を襲った。
 凍死におびえるホームレスたちは、閉館時間が過ぎても図書館から外に出ようとせず、一夜の滞在をスチュアートに乞う。
 スチュアートは上司に許可を求めるが、むろん却下される。
 100人のホームレスたちの命を守るため、そして体面と規則だけで事を運ぶ行政に対する抵抗のため、スチュアートは彼らと共に図書館に立て籠もる決意をする。

図書館

 本DVDは、常日頃利用する地域の図書館で借りた。
 退職した男性高齢者の姿は多いが、ホームレスらしき人をそこで見たことはない。
 やはり、大きな街の図書館に集まるのだろう。
 どこの街だったか忘れたが旅先のこと、現代建築の粋を集めたようなスタイリッシュでカッコいい、市長が自慢するであろう立派な図書館に立ち寄ったところ、全面ガラス張りの壁面の向こうにホームレスが多数寝ているのが、人通りの多い街路から丸見えであった。
 建築設計者の浅はかさに失笑を禁じえなかった。
 いや、行政の低所得者対策の無策ぶりを市民や観光客に見せつけるには、最高のショールームだったのか?

 本作を観た図書館員の感想を聴きたいものだ。
 フォレスト出版の日記シリーズで「図書館司書編」って出ないものかな?
 

 

おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 柄本佑の鼻の色 本:『孫の孫が語る藤原道長』(繁田信一著)

2023年吉川弘文館

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 2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ』の主人公は紫式部(吉高由里子)で、「望月」の権力者・藤原道長(柄本佑)との関係がドラマの主軸となるようである。
 式部の主人であった中宮彰子、ライバル関係にあった清少納言や皇后定子、当代最強の陰陽師安倍晴明、のちに名君と仰がれた一条天皇なども登場するのだろう。
 王朝ファンの一人として楽しみである。
 王朝時代研究家で多数の本を書いている繁田信一の周囲が賑々しくなるであろうことは、まず間違いあるまい。
 繁田信一カテを立てた。

 藤原道長(966-1028)の孫の孫とは、藤原忠実(ただざね)である。
 生没年は(1079-1162)だから、道長とは約100年の隔たりがある。
 藤原北家の嫡流として摂政・関白・太政大臣をつとめ栄華を極めたものの、保元の乱(1156)では実の息子忠通と対立し崇徳上皇方についたため敗北・失脚し、晩年は平安京北郊の知足院に幽閉され、そこで最期を迎えた。
 時代は武士の世に変わりつつあった。
 幽閉の身にあった忠実は、折に触れ、家司である側近2人に昔話――代々伝わってきた偉大な先祖、道長・頼通をめぐる逸話――を披露した。
 それらは、道長・頼通の身内だからこそ知り得る、また彼らと同じ身分だからこそ話せるプライベートな、忖度のないものであった。 
 それが中原師元著『中外抄』、高階伸行著『富家語』として今日まで伝わっている。
 本書(副題「百年後から見た王朝時代」)は、この2つの作品に残された忠実の言葉を通して、華やかなりし王朝時代最盛期を、これまでとはちょっと違った角度から描いてみようという試みである。

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御所のあった南に位置する神泉苑
度々ここで雨乞い儀式が行われた

 「プライべートで、忖度のない」という評が一番現れているのは、藤原道長の容貌に関する話であろう。
 道長はどうやらハンサムとは程遠く、鼻の先や頬骨などが紅をつけたように赤かったらしい。
 公式の記録やほかの貴族が残した日記などでは書かれなかった真実である。
 王朝時代の人物で「鼻先が赤い」と言えばすぐに思いつくのが、それこそ紫式部『源氏物語』の登場人物、末摘花であろう。
 何度か床を共にしたあと初めて彼女の顔を見た光源氏は、その容姿を「みっともない」と心のうちで嘆じた。
 ここからだけでも、『末摘花』の巻が、少なくとも紫式部が道長の娘彰子に仕える前に書かれたことが明らかである。
 みずからの主人の父親で、時の最高権力者の容貌を愚弄するような物語など書けるわけがない。
 それとも、それを笑い飛ばすくらいに道長は大らかだったのか?
 あるいは、道長と紫式部は遠慮ない間柄だったのか?

 ほかにも、道長が常に北を向いて手を洗っていたとか、穢れや凶日の慣習をたいして気にしていなかったとか、老いたる者の「色」である白の衣装を好んで着ていたとか・・・。
 あるいは、息子の頼通が異常なほど寒がりであったとか、客人の牛車を勝手に乗り回していたとか、癇癪持ちでささいなことで食膳を引っくり返したとか・・・。
 あるいは、当時の貴族たちは天皇の本当の名前を知らないのが普通だったとか。(しかし現代でも、たとえば令和天皇の本当の名前がすぐに出てくる人は少ないかもしれない――徳仁なるひとである)
 トリビアで面白いエピソードがふんだんにある。

 さすがに、本書を読んで、NHKが道長=柄本佑の鼻を赤く塗ることはないと思う。
 頼通は男色で有名だったはずだが、そこはLGBTムーブメントの盛んな折り、とり入れるかもしれない。
 本書中、道長が「謎の童随身(わらわずいしん)」を侍らせていたエピソードがある。
 ソルティ思うに、これは衆道相手ではないかしらん?
 道長がゲイあるいはバイだったというのではなく、当時男色はありがちだったろう。 
 繁田信一にはいつか、『王朝時代のBL事情』を書いてもらいたいものだ。
 ヘテロ男子には難しいかな?




おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損







● 映画:『モスクワは涙を信じない』(ウラジーミル・メニショフ監督)

1979年ソ連
142分、カラー
ロシア語

 この映画、80年代に都内のあちこちの映画館でリバイバル上映されていた。
 米国アカデミー賞の外国語映画賞ほか、数々の国際的な賞をとっている評価の高い映画なのだが、ソルティはついぞ観なかった。
 3人の女性を主人公とするソ連映画で、タイトルからしてメロドラマチックな印象だったので、ちょっと小馬鹿にして敬遠したんじゃないかと思う。
 同じソ連映画なら、アンドレイ・タルコフスキーとかニキータ・ミハルコフといった重厚で哲学的な作品に惹かれがちだった。
 高尚ぶった映画青年だったのである。

 タイトルの『モスクワは涙を信じない』とは、「泣いても現実を変えることはできない」という意味のロシアの格言。
 逆境にめげず希望を持って生きていく3人のモスクワ女性の友情と恋愛と苦悩の20年を、重すぎず軽すぎず、愛情ある眼差しをもって描いている。
 登場人物ひとりひとりのキャラが個性的で、話の展開も軽快で小気味よく、二つの時代――50年代末と70年代末――のソ連の風俗も窺えて、面白かった。
 特に第1部は、『セックス・イン・ザ・シティ』50年代モスクワ版といったところで、理想の結婚相手を探す女性たちの奮闘ぶりが、ユーモラスで楽しい。
 セルゲイ・ニキーチンによる主題歌『アレクサンドラ』をはじめとする音楽も良かった。

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モスクワ
Evgeny GoTown.ruによるPixabayからの画像

 公開当時、この映画が世界的評判になったのは、映画自体の出来の良さももちろんあろうが、これまで「鉄のカーテン」の向こうに隠れていたソ連の庶民生活が、ようやく世界に明かされたところにあったのではなかろうか。
 第1部の舞台は1958年のモスクワ。
 独裁者スターリンが亡くなって5年後、フルシチョフの「スターリン批判」から2年後である。
 街は、自由を謳歌し豊かな暮らしを求める市民たちや、地方からモスクワにやって来て、「一旗揚げよう」「いい結婚相手を見つけよう」とする野心的な若者たちの活気であふれている。
 第2部はそれから20年後、映画公開当時のモスクワ。
 外見上は、欧米や日本とそれほど変わりない市民生活の様子が垣間見られる。
 スターリンの圧政が終わり、雪解けして、重い鉄のカーテンを開いてみたら、そこには自分たちとまったく変わりない、夢や希望や孤独や野心や悲しみや優しさを抱き、暴力を嫌い、友や家族を愛するソ連の庶民の姿があった。(男尊女卑の風潮も同じ)
 世界はそこに感動したんじゃなかったろうか?
 
 アメリカのロナルド・レーガン大統領は、1985年にソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領と初対談するに際して、一般のロシア人の心を理解するために、この映画を繰り返し観たという。

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主人公の女性が執務室でTVインタビューを受けるシーン
壁に掲げられている写真は、スターリンでなく、レーニンである






おすすめ度 :★★★

★★★★★
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 
 

● 映画:『テスラ エジソンが恐れた天才』(マイケル・アルメレイダ監督)


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2020年アメリカ
103分

 イーロン・マスクがCEOを務めているテスラ(Tesla)の社名の由来となった、天才発明家ニコラ・テスラ(1856-1943)の伝記(電気?)映画である。
 
 テスラと言えば、直流V.S.交流の文字通り“火花散る”電流戦争はじめ、元雇用主であったトーマス・エジソンとの確執がよく語られる。
 発明の才や後世への貢献度においては両者は互角と言ってもさしつかえないと思う。
 が、現実社会を生きる巧みさやバイタリティにおいては、圧倒的にエジソンが上であった。

 テスラは今で言うならアスペルガー障害か自閉症、かつ強迫性障害であろう。
 対人関係に難があり、極度の潔癖症であり、些末なことにこだわりがあった。
 自分の好きな研究をしたいというのが一番の希望で、金銭や名誉や権威、そして恋愛や家庭にはあまり興味なかったようだ。生涯独身で最後は無一文に近かった。
 自らいくつもの会社を立ち上げ、何百人という従業員を雇い、訴訟王と呼ばれたほど争い好きで、生涯2度の結婚をして6人の子持ちであった大富豪エジソンとは、まったく馬が合うまい。
 2人のライバル関係も、強い敵愾心を抱いていたのはエジソンのほうで、テスラはエジソンの横やりをただ疎ましく思っていたのではないかという気がする。

 本作でも、イーサン・ホーク演じる寡黙で控えめで世間知らずのテスラに対し、カイル・マクラクラン演じるエジソンは、傲岸不遜で押し出しが強く、抜け目ない。
 聖と俗の対比みたいに見えるところも、両者を比較する面白さなのだろう。

 映画自体は、主人公が生きた時代を忠実に再現して描く通常の伝記物とは違い、かなり融通無碍な作り方をしている。
 明らかにCGと分かる安っぽい背景を使ったり、語り手であるテスラの恋人アン・モルガンにインターネット検索させたり、テスラにティアーズ・フォー・フィアーズの「ルール・ザ・ワールド(Everybody Wants To Rule The World )」を歌わせたり・・・。
 教科書的な伝記から離れた斬新な発想という感想と、低予算まるわかりの苦肉の策という感想が、五分五分である。
 個性的魅力と孤独を表現するイーサン・ホークの演技は素晴らしい。

 世界最初の国際的スター女優と言われるフランスのサラ・ベルナール(演:レベッカ・デイアン)をめぐるエピソードも興味深い。
 エジソンが発明した蓄音機に、サラがラシーヌの戯曲の一節を吹き込んでいるシーンが出てくる。(これは史実)
 映画がもう少し早く生まれていたら、サラ・ベルナールの『サロメ』や『椿姫』をスクリーンで見ることができたのになあ・・・・。



おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
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● 映画:『クライ・マッチョ』(クリント・イーストウッド監督)

2021年アメリカ
104分

 「クライ・マッチョ(マッチョよ、泣き喚け!)」というタイトルが示すように、本作はマチズモ(男らしさ、男性優位主義)に対する認識の再検討を、観る者(とくに男たち)に迫る映画である。
 それを先導するのが、フェミニズム系の女性監督やゲイ監督ではなく、長年アメリカン・マッチョのシンボルと目されてきたクリント・イーストウッドであるところが、一番のポイント。

 イーストウッドが演じるのはテキサスの往年のロデオ界のスター、マイク・マイロ。
 カウボーイハットをかぶり暴れ馬を乗りこなす、少年たちの憧れの的たるマッチョ・ヒーローである。
 しかし今やすっかり老いぼれて、家族も失い、酒浸りの落ちぶれた日々を送っていた。
 マイクは恩ある友人に頼まれて、メキシコにいる友人の息子ラフォを迎えに行く仕事を引き受ける。
 ラフォの母親はアルコール依存症で、ラフォを虐待しているというのだ。
 マイクは闘鶏場にラフォを見つけるが、反抗的な不良少年に育っていた。
 カウボーイに憧れマッチョな男であることに拘るラフォは、マイクの誘いに応じ、テキサスで牧場を営む父親のもとへ向かう。
 元マッチョのロデオスターとアイデンティティの定まらない思春期の少年、祖父と孫ほど年の離れた2人の男のロードムーヴィー。
 これは、同じイーストウッド作品である『パーフェクト・ワールド』(1993)を彷彿とする。
 思えば、『パーフェクト・ワールド』あたりから、イーストウッドはその監督作品において、「男らしさとは何か」「ジェンダーとは何か」を追求してきたのであった。

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DJDStuttgartによるPixabayからの画像

 道中いろいろな危険やハプニングを経験し、それを力を合わせて乗り越えるごとに、最初はぎこちなかった2人の間に信頼関係が芽生える。
 無事国境を越えてアメリカに到着し別れる間際、マイクはラフォにこう諭す。
「マッチョであることには何の意味もない。そのことに気づいたときにはもう遅すぎる」

 これがこの作品の最大のテーマであり、齢90歳を超えたイーストウッドが、マイクという自らの分身を通して言いたかったことなのではないかと思う。
 
 N・リチャード・ナッシュによる同名の原作小説は、1975年に出版されたそうだ。
 ナッシュは何度も映画化しようとは企画を持ち込んだが、却下され続けた。
 ロバート・ミッチャムやアーノルド・シュワルツェネッガーやバート・ランカスターを主役に迎えての映画化の話もあったが、時宜を得ず、流れてしまった。
 実に、映画化実現まで45年かかったわけである。
 ジェンダー平等賑々しい昨今はともかく、70年代からこのテーマを唱え続けてきたリチャード・ナッシュは先見の明がある、というか真実を見抜く英知と勇気があった。
 
 映画的に言えば、さすがにイーストウッドは老いが隠せない。
 声はしゃがれ、滑舌は悪く、動きはよろよろしている。
 原作を読んでいないので分からないが、マイクの設定年齢はせいぜい60代だろう。
 友人の息子が15歳なのだから。
 イーストウッドはどう見ても60代や70代には見えない。
 若作りも無益なほど、90代の肉体がそこに曝け出されている。
 ラフォとの関係も祖父と孫どころか、曾祖父と孫である。
 旅の途中で出会う妙齢(50代くらい?)の女性との恋物語もちょっと苦しい。
 「恋愛」という以上に「介護」という言葉が浮かんでしまうのだ。
 あと、10年早くこの映画を撮っておけば良かったのになあと思わざるを得ない。
 
 一方、本作は元マッチョ・スターであるイーストウッドが主役を演じるからこそ、テーマが効果的に打ち出せる。
 世界中の誰もが認めるマッチョ・スターが自ら演じ語ってこそ、「マッチョの真実」は観る者の心に“告白のごとく”響くのである。
 その意味では、シュワルツェネッガーやスティーヴン・セガールがやるならまだしも、『家族の肖像』のバート・ランカスターや『狩人の夜』のロバート・ミッチャムではままならなかったであろう。
 
 イーストウッドはかつては熱烈な共和党支持者であったが、現在はリバタリアニズム(自由主義)を標榜し、より中庸の立場を取っている。
 人工妊娠中絶を禁止する法律に反対し、同性婚を支持している。





おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● つよぽんの一本 映画:『ミッドナイトスワン』(内田英治監督)

2020年
124分

 フォーリーブス、郷ひろみの頃から、「ブラウン管を通して」ジャニーズ事務所の歴史に立ち会ってきたソルティにとって意外だったのは、アイドル男性歌手の巣であるジャニーズ事務所から息長く活躍するすぐれた役者が次々と輩出されたことと、SMAPの中でもっとも演技において秀でていたのが草彅剛だったことである。
 前者では、草彅、岡田准一、二宮和也がジャニーズ出身三大演技派であろう。
 岡田准一は、現在放映中のNHK大河ドラマ『どうする家康』の織田信長役で圧倒的な存在感を放っていて、同じ年齢時の渡辺謙の風格を思い起こす。
 二宮和也はイーストウッド監督『硫黄島からの手紙』で主役に抜擢されて以来、豊かな感性とキャラクターへの自然な同化で、名優ぶりを証明し続けている。
 草彅については、TVドラマはいざ知らず、映画ではいま一つ代表作に欠けるように思っていた。
 『黄泉がえり』も『山のあなた 徳市の恋』も決して悪くはなかったけれど、草彅自身が本来持っている資質を十分には発揮できていないという感を受けた。
 つまり、まだ「生涯の一本と出会っていない」という感じ。
 
 草彅が次回作でトランスジェンダー女性を演じるというニュースを聞いたとき、「ああ、もしかしてついに・・・」と期待まじりの予感を抱いた。
 そう、ソルティはデビューの頃から草彅に“オネエ的資質”を見ていたのであった。(本人が実際にそうであるかどうかは別として)
 結婚して「一人前の男」のステータスを得て、ついに解禁か・・・・と意地悪く思ったり。

 予感は的中で、本作における草彅の演技は実に素晴らしい。
 素晴らしいを超えて、凄まじい。
 これまでの草彅の演技が「心の演技」だとしたら、本作のそれは「魂の演技」である。
 草彅剛という人間の全存在が、役に吸収され役を生きているかのような、仮面と素面が一つに溶け合ったかのような、主客合一に達している。
 おそらくその本質は「深い哀しみと透き通るような優しさ」。
 実際に新宿界隈で働くトランスジェンダーの日常のリアリティをどこまで写し取っているかはわからないが、少なくとも、一つのキャラとして画面の中で自然に息をして肉体を持って生きている。
 草彅以外にこの役をこれ以上見事にやれる男優が思い浮かばない。
 役者として、こういう役に巡り合えたのは最大の幸福であろう。
 
 トランスジェンダーの主人公が面倒を見ることになる親戚の少女を、新人の服部樹咲が演じている。
 “演じている”と言えるほどの演技ではない(ほとんどセリフがない)のだけれど、幼い頃からやっているバレエで身につけた表情と所作は魅力的で、実際のバレエシーンとなると目が離せないくらいの優雅さ。
 顔立ちは、デビューの頃の宮崎あおいに似ている。
 とにかく、草彅と釣り合うほどの存在感はあっぱれ。
 将来が楽しみな女優である。

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草彅剛と服部樹咲
 
 内田英治監督の絵づくりはセンスを感じさせるし、渋谷慶一郎の音楽もいい。
 他の役者たち、とくにバレエ教室の先生役の真飛聖と、少女の母親役の水川あさみの「こんな人、近所にいそうだな」という自然な演技は、作品にリアリティをもたらしている。
 総合的には満足できる作品なのだが、「当事者が観たらどうかな?」という点は気になった。
 特に後半において。 

 結末があまりに悲惨、あまりに希望がない。
 本作がトランスジェンダーとその抱える問題を顕在化したというメリットは評価に値すると思う。
 が、観た人に「やっぱりトランスジェンダーに生まれたら不幸」と思わせてしまうような結末はいただけない。
 草彅=トランス女性というだけで話題性としては十分なので、「悲惨転じてそこそこハッピーエンド」にしたって同じくらいの興行的成功と映画賞的評価は得られたと思うのだが、なぜ主役をああいう極端なかたちで殺したのか?
 エクトール・バベンコ監督『蜘蛛女のキス』は85年の映画だ。
 あれから40年近く経っている。
 同じことを今さらやらなくても・・・。
 


 

おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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