ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●映画・テレビ

● ヘイト女子たちの祭典 映画:『ソフト/クワイエット』(ベス・デ・アラウージョ監督)

2023年アメリカ
92分

ソフト&クワイエット

 今年ここまでに観た映画の中で一番ショッキングな作品。
 二重の意味でショッキング。

 一つ目。本作はなんとワンカット撮影。
 すなわち、最初から最後まで、手持ちカメラ一つで、途中カットをまったく入れずに撮り続けている。
 92分の上映時間は、そのまま物語的時間であり、撮影にかかった時間である。
 そんなことが可能なのかと言えば、前例がある。
 スティーヴン・ナイト監督『オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分』(2013)は、ワンカット撮影の上に、一人芝居で、ほぼ全編ドライブ中という、とんでもない高難度の演出&演技、加えて好脚本でバツグン面白い、奇跡のような作品であった。
 
 うまくはまれば、生放送のごとき臨場感あふれる作品を生むことができるこの手法にチャレンジする監督も、昨今ちらほらいるようだ。
 本作は見事にはまった例である。
 いったい、どこまで最初につくりこんで、つまり、92分間の動きとセリフを役者たちにしっかり覚えてもらい、カメラ(撮影者)の位置と照明を設計して、「用意スタート!」を切ったのか。
 いったい、何回リハーサルをしたのか。
 何回、最初から撮り直しの目に遭ったのか。
 複数の登場人物が出演し、車での移動や水上ボートの撮影もあり、後半すさまじい暴力シーンが続くので、これをワンカットで撮ったことに衝撃を受ける。

 二つ目。なんと途中からワンカット撮影であることを忘れてしまう。
 それだけ内容がエグイ!
 恐ろしい‼
 人権や多様性という言葉に反感を抱く白人女性たちが教会でミーティングを持ち、積もりに積もった鬱憤をここぞとばかりぶちまける“ヘイト祭り”。
 酒に酔って気炎を上げ、たまたま店頭ですれ違った有色人種の女性二人に因縁をつけ、彼女たちの家まで押しかける“ヤンキー女子学生乗り”。
 留守宅に不法侵入しイタズラしようとしたところ、突然二人が帰宅してパニックに陥る“お馬鹿っぷり”。 
 二人に対する口止めのための恫喝が次第に凄惨な暴力に発展していくさまは、まさに“集団ヒステリー”、というか“魔女のサバト(饗宴)”。
 女性が同じ女性に対して、ここまで残酷な暴力をふるう映画を見たのは、はじめてかもしれない。(名前からして女性監督と思われる)
 途中から「ワンカット撮影がどうの」なんて技術的なことをすっかり忘れて、目の前で展開される暴力と狂気に言葉を失い、画面に没頭し、展開を後追いするばかりとなった。

 「男女同権、ジェンダー平等、多様性、ポリティカル・コレクトネス、アファーマティブ・アクション」といった言葉を心底憎み、昔ながらの良妻賢母こそ真のアメリカ人女性、と唱えるトランプ派の女性たち。
 その暴力性ばかりはしっかり男と同列である。
 
 現代アメリカのヘイト問題の根深さに慄然とさせられた。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● ハリウッド2大名優の最初で最後の共演 映画:『タクシードライバー』(マーティン・スコセッシ監督)

1976年アメリカ
114分

 大都会の孤独なタクシードライバーが次第に狂気に陥っていくさまを描いた物語。終盤の凄まじい殺戮シーンが公開当時話題になった。

 本作で、ロバート・デ・ニーロは世界的に名を知られるようになった。
 33歳のデ・ニーロは細面のイケメンで、何より驚くのは肌の白さである。
 こんな色白だったのか!
 『ゴッドファーザー』や『アンタッチャブル』などマフィアの役が強烈だったせいかイタリア系のイメージがあったが、彼は生粋のニューヨーク生まれで、両親は北欧系なのである。

 たしかに巧い。
 完全にひとりの人格を作り上げている。
 じょじょに狂気に陥っていくさまも、緻密な演技設計と鍛錬の成果を感じる。
 何によっても癒しようのない孤独と空虚にとらわれた青年像が見事に造形化されている。
 70年代ニューヨークの夜の街の雰囲気も興味深い。 

 本作の難点は、脚本だろう。
 タクシードライバーの青年がなぜこのような孤独と空虚にとらわれているのか、なぜそこから逃避する手段として、普通よくあるように、酒や麻薬や女にはまっていないのか、全然説明されないのである。
 深夜勤務を終えた後ひとりポルノ映画を観に行くかわりに、なぜ女と遊ばないのか、なぜ酒を飲んで気を紛らわせないのか、なぜ不眠症にかかっているのか、観る者はなにも理解できないままに、彼が狂気にはまっていく姿を追うことになるので、「???」となる。
 生まれた家が属していた禁欲を旨とする宗教的バックボーンのせいかと想像しながら観ていたが、それだとポルノ映画だけOKなのが説明できない。
 この青年の抱える闇の正体はなんだろう?
 単なるサイコパスなのか?

 ――と奇妙に思いながら観終わって、ネットでいくつかの映画評を読んで、「ああ、そうか」と腑に落ちた。
 これはベトナム戦争の後遺症に悩むアメリカと一帰還兵の姿を描いた映画と解せるのであった。

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Jens JungeによるPixabayからの画像

 1976年と言えば、まさにベトナム戦争直後。
 それまで世界の勝ち組であり続けたアメリカがはじめて戦争に敗退、失意と不況が全米に広がった。
 ベトナム帰還兵の精神障害が問題となり、PTSD(心的外傷後ストレス障害)という言葉が生まれた。
 デ・ニーロ演じるタクシードライバーがベトナム帰還兵であることは、映画冒頭の採用面接シーンで言及されていた。
 それを鍵に、物語を読み解いていくべきなのであった。
 であれば、彼が酒や麻薬に手を出さない理由も理解し得る。
 酒や麻薬で廃人となった戦友をたくさん見てきたのだろう。
 女性とのコミュニケーションの年齢に釣り合わないつたなさも、レイプされる対象としての女性しか現地で見てこなかったためかもしれない。
 そして、癒しようのない孤独と空虚の原因は、生死のかかった非日常をアドレナリン・フル状態で生き抜いた人間が、ゆるい日常に戻ったときに感じる虚脱感、周囲との隔絶感のためと思えば納得がいく。もちろん、不眠症の原因も。
 不浄な街に対する彼の怒りは、「こんなアメリカを守るために俺たちは命を投げ出したのか!」というやりきれなさが高じてのものだろう。

 本作をリアルタイムで、少なくともベトナム戦争映画が盛んにつくられていた80年代くらいまでに観ていれば、すぐにそこに思い当たったであろう。
 だが、公開から半世紀がたった2025年。
 なんら前提知識のない人間が本作を観て、この物語の背景にあるものを推察するのは困難である。
 ベトナム戦争を知らない人間にしてみれば、ある一人のタクシードライバーが女に振られて狂気に陥り、少女売春をゆるす不浄な街に怒りを感じ、ランボーのごとく武装して悪者を成敗した物語、つまり、一人の宗教的サイコパスの話としか受け取れない。
 逆に、デ・ニーロがメルリ・ストリープ、クリストファー・ウォーケンと共演したマイケル・チミノ監督『ディア・ハンター』(1978)は、ベトナム戦争の壮絶な現場が、戦前のアメリカの平和な日常風景と対比的に描かれており、前提知識のない人が観ても、人間を心身ともに破壊する戦争の恐ろしさが伝わるはずである。

 本作でデ・ニーロと並んで高い評価を得たのが、当時13歳のジョディ・フォスター。
 大変な美少女ぶりに驚かされるが、それ以上に驚異的なのは演技の上手さ。
 この年齢でこの演技!
 二人の名優が共演したのは、本作が最初で最後だったのではなかろうか?
 その点で、映画ファンにとっては見逃せない一本であるのは間違いない。





おすすめ度 :★★★

★★★★★
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 民俗学としての日活ロマンポルノ 映画:『赤線玉の井 ぬけられます』(神代辰巳監督)

1974年日活
78分

玉の井(たまのい)は、戦前から1958年(昭和33年)の売春防止法施行まで、旧東京市向島区寺島町(現在の東京都墨田区東向島五丁目、東向島六丁目、墨田三丁目)に存在した私娼街である。永井荷風の代表作『濹東綺譚』、漫画家・滝田ゆうの『寺島町奇譚』の舞台として知られる。
(ウィキペディア『玉の井』より)

 売春防止法の施行を目前にした昭和33年(1958)新春、玉の井の銘酒屋で働く女たちを描く。
 銘酒屋とは、飲み屋を装いながら私娼たちに売春させていた店である。
 女たちは店頭で客引きし、2階にある各自の部屋に上げて、しばしの快楽を男たちに提供した。  
 原作は清水一行『赤線物語』。
 タイトル画、風俗考証は玉の井生まれの滝田ゆうが担当している。
 場末感あふれる昭和の売春窟は、なんだか懐かしくなるほど人間臭い。
 ドブと煙草と酒の匂い、饐えた畳の匂い、男の汗と精液の匂い、女の汗と化粧の匂い、火鉢で餅を焼く匂い、それらが入り混じった昭和の風景は、いまやどこを探しても見つかるまい。
 むろんソルティは、赤線のあった時代を知らないし、玉の井のあった墨田区近辺には昭和の頃は足を踏み入れたことがなかった。
 上野や浅草で遊ぶことはあったが、すみだ川より向うは長らく未踏の地であった。
 懐かしさを感じるのは、SDGsやコンプライアンスやフェミニズムなんか「への河童」の、虚飾のはぎ取られた、貧しくも逞しい庶民の姿をここに見るからなのだろう。
 だからそれは、“失ってよかった懐かしさ”である。

 博打とシャブを打つのが日課の男、その男に殴られながらも必死に貢ぎ続ける女、毎日自殺未遂する女、一日27人の客を取るという店の最多記録に挑戦する女、一般の男と結婚し玉の井を抜けられたのに飽き足らず戻って来る女、娼婦たちを働かせつつも優しく見守る女将(彼女もまた若い頃は体を売っていたのだろう)、ぶらぶら遊んでいるその夫。
 令和の若者たちの目には、お伽噺のように遠い、ありえない世界と映るに違いない。

 それだけに思ったのは、昭和時代の映画とくに性愛をテーマとした日活ロマンポルノは、かつてあった日本の性風俗の記録として、民俗学的価値があるのではないかということである。
 一般に、ポルノ映画は男たちの願望や妄想を描くので、現実と離れた絵空事の世界であるのは間違いないけれど、本作を含む神代辰巳監督の『四畳半襖の裏張り』、『赫い髪の女』や、田中登監督の『㊙色情めす市場』などは、昭和時代のリアルな街の風景や人間模様を映し出している。
 女子供が観ることのない(=PTAが騒がない)ポルノ映画だからこそ、自由に描けた社会の暗部や性愛の現実がある。
 たんなる射精映画と捨て置くのは間違っている。

 宮下順子、丘奈保美、芹明香、蟹江敬三、殿山泰司など、役者たちも味がある。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 池上季実子はW浅野をKOするか? 映画:『陽暉楼』(五社英雄監督)

1983年東映
144分

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 昭和初期、土佐随一の料亭「陽暉楼」を舞台に、女衒の太田勝造(演・緒形拳)、その娘で芸者の桃若(演・池上季実子)、勝造の愛人で女郎となった珠子(演・浅野温子)を中心に、色と欲と暴力とプライドが入り混じる裏社会の人間模様を描く。
 原作は宮尾登美子の同名小説。

 この映画、昔観たような気がするのだけれど、もし観たのであれば、桃若こと池上季実子と珠子こと浅野温子が、15分間におよぶ取っ組み合いの大喧嘩をするシーンを覚えていないわけがない。
 同じ五社監督『吉原炎上』における仁支川峰子(当時は西川峰子)のタレント生命を賭けた壮絶な演技「ここ噛んで!」を、一度観た者が決して生涯忘れることができないように、池上と浅野の本気の大立ち回りも、映画の出来不出来や物語のあらすじとはまったく関係ない次元で、映画ファンの語り草になるに十分なド迫力の衝撃シーンである。
 ひょっとしたら、ソルティが観たのはテレビ放映版だったのかもしれない。
 であれば、コマーシャルからコマーシャルまでの15分間を女同士の取っ組み合いだけで埋めるのはいくらなんでも無理なので、短く編集されていた可能性がある。

 それにしても、五社監督は女同士の争いを描くのが好きだった。
 男たちの欲望の掃き溜めである料亭(その実態は芸者置屋)や遊廓で働く女たちが、序列や男客の奪い合いから互いに蹴落とし合う、言ってみれば、底辺にいて差別される者同士が強者の贔屓をもとめて争い合う。その姿を好んで描くとは、なんとも悪趣味なお人だなあという感を持つ。
 五社監督の作品からは、溝口健二の遊廓ものに見られたような、構造悪についての批判的眼差しを感じることができない。
 ヤクザをカッコいいと思う中学坊主と同じ単純な感覚で、女郎を美しいと思っていたのではなかろうか。(自身、全身に入墨をほどこしていたという)

 とはいえ、そのようなカタギから逸脱した世界で、自らの信念にしたがって懸命に誇り高く生きた人々を描いているのは確かで、裏社会の独特の「物語空間」を飲み込むことができれば、映画としては非常に面白い。
 芸者の世界だけに、着物や料亭のしつらいに見られる極彩色の映像は鑑賞し甲斐があり、着飾った女たちも美しい。

 女衒の勝造を演じる緒形拳の男らしさ、陽暉楼のやり手女将を演じる倍賞美津子の鉄面皮な貫禄、勝造の後妻で桃若の育ての親役の園佳也子の滑稽味、そしてここでも西川峰子のギャル風蓮っ葉さが印象に残る。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● べらぼうに残酷 映画:『噂の女』(溝口健二監督)

1954年大映
83分、白黒
脚本 成澤昌茂、依田義賢
音楽 黛敏郎
撮影 宮川一夫

 本年度のNHK大河ドラマ『べらぼう』は江戸時代の吉原が舞台となっている。
 吉原は幕府公認の遊郭で、最盛期には300軒近い女郎屋が立ち並び、数千人の女たちが性を売っていた。
 もっともドラマの主役は女郎ではなく、吉原で生まれ育ち、歌麿や写楽を世に送り出した江戸のメディア王ツタジューこと蔦屋重三郎(1750‐1797)である。
 ツタジューの生涯を描くには、どうしたって吉原を描かないわけにはいかないのである。


吉原遊郭

 性的な表現やジェンダー案件について厳しい目が向けられるご時世にあって、あえて吉原を舞台に選んだNHKの英断には正直驚いた。
 民放ですら迂闊に手を出せない題材を、天下のNHKが、しかも家族揃って茶の間で観ることの多い大河ドラマで扱うとは!
 「遊郭って何? 花魁って何?」と無邪気に訊ねる子供に、一緒にテレビの前にいる親御さんがどう答えるのか気になるところだけど、小中学生はともかく、今の高校の日本史の教科書には「江戸時代の遊女」を取り上げているものもあるという。
 吉原で亡くなった女たちを墓穴に投げ込むように始末したことから「投げ込み寺」の異名をとった浄閑寺のこと、死亡時の平均年齢が21歳であったこと、全国の宿場にも飯盛女と呼ばれた娼婦がいたこと、ほかにも非公認の女郎たちがいたことなどが書かれているそうな。

 貧しい女性たちが性を売らなければ生きていけない現代につながる社会の現実。  
 立場の弱い女性たちを搾取し、悲惨な境遇に追いやる男社会の構造。
 男たちの覇権争いと為政者の事績だけを学ぶこれまでの歴史の授業は、偏ったものであるのは間違いない。

 さらに、性とジェンダーと言えば、『べらぼう』にはエレキテルと土用の鰻で有名な平賀源内も登場する。
 源内は男色家であり、生涯妻帯しなかった。
 ドラマでは源内の男色指向もしっかり描かれている。
 歌舞伎役者の2代目瀬川菊之丞を愛したこととか、街行くイケメンにちょっかいを出すところとか、吉原より湯島を好むところとか。(湯島には男色専門の遊郭である陰間茶屋があった)
 江戸のレオナルド・ダ・ヴィンチとも称される讃岐生まれのこの天才を、「変態キャラ」で知られる安田顕が実に魅力的に演じている。
 そろそろ殺人事件を起こして牢屋に入れられる頃合いと思うが、どんな最期を見せてくれるか楽しみである。
 NHKの果敢なチャレンジを素直に称賛したい。
 民放よりよっぽど攻めている。

平賀源内
香川県志度町の生家に建つ平賀源内像

 『べらぼう』人気にあやかろうというのか、現在、神保町シアターでは『花街、色街、おんなの街』と題し、芸妓や遊女らをテーマにした映画を特集している。(5月2日まで)
 五社英雄監督の『陽暉楼』、『吉原炎上』、吉永小百合の『夢千代日記』、永井荷風原作『墨東綺譚』、加藤泰監督『骨までしゃぶる』、日活ロマンポルノから『赤線最後の日』、『四畳半襖の裏張り』、『赤線飛田遊廓』・・・など、総計16作のラインナップは、日本にかつてあった遊廓文化の深さや彩りの証言である。
 と同時に、華やかさと悲惨さ、エロスと暴力、まことと偽りとが小判の裏表をなす遊郭という舞台が、映画という表現形式にとても合っていたことを示してあまりない。そこで生まれる男と女の、あるいは女と女のドラマの濃さは言うに及ばず。

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 遊廓や赤線を好んでテーマにしたのが溝口健二監督である。
 『祇園の姉妹』、『夜の女たち』、『西鶴一代女』、『祇園囃子』、『赤線地帯』など、零落した女たちの生態を圧倒的リアリズムで描いている。
 『噂の女』は、京都・島原遊廓の老舗置屋が舞台である。
 女手一つで子供を育てたしっかり者の置屋の女将(演・田中絹代)と、失恋して東京から帰って来た娘(演・久我美子)。
 それぞれが抱える葛藤と、理解し合えない母と娘の関係が、花街に生きる女たちの悲哀を背景に描き出されている。
 本物志向の溝口が作り上げる遊廓の風景は、セットとは思えないリアルさ。
 水谷浩による美術、宮川一夫による撮影、溝口による演出、そして田中絹代をはじめとする役者陣の演技のクオリティの高さによって、虚構が本物に成り変わる。
 すぐにセットであることやCGであることが分かってしまう、昨今の映画やTVドラマの薄っぺらな映像は、単に金がかけられないためだけなのだろうか?
 デジタル上映で画面も美しい。

 一番の見どころは、田中絹代の演技である。
 遊廓のやり手女将としての貫禄や艶やかさを醸し出す一方、年下の医師(演・大谷友右衛門)との恋に揺れ動く女の弱さといじらしさを漂わせ、さらには同じ男を娘と取り合うことになるや、嫉妬と怒りと老いの羞恥を見事に表現する。
 この難しい役を実に自然に、品位を落とすことなく演じ切り、観る者を感情移入させる田中の芸の高さこそ稀有なものである。

 母(田中)と娘(久我)、そして母から娘に乗り換えようとする若い医師(大谷)の三人が、並んで狂言を見るシーンがある。
 演目は分からないが、老女の恋をテーマにした狂言で、舞台には老いらくの恋をあざけられる醜い老婆が登場する。
 それを若い二人の後ろで鑑賞する母。 
 溝口らしい残酷な(サディスティックな)演出には怖気をふるう。
 この残酷さゆえに、ソルティは溝口健二とルキノ・ヴィスコンティの相似を思うのである。

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おすすめ度 :★★★

★★★★★
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● 映画:『ザ・マジックアワー』(三谷幸喜脚本&監督)

2008年フジテレビ、東宝
136分

マジックアワー

 このたびのフジテレビの不祥事と運営危機で影響を被った関係者の一人が、三谷幸喜であるのは間違いなかろう。
 『やっぱり猫が好き』、『振り返れば奴がいる』、『古畑任三郎シリーズ』、『王様のレストラン』などTVドラマの三谷の代表作はフジテレビ系列で制作・放送されてきたし、映画に至っては処女作『ラジオの時間』をのぞくすべての作品がフジテレビ&東宝で制作されている。
 民放に関しては、フジテレビ専属の作家というイメージがある。
 三谷がどれだけフジテレビの内情や体質に詳しかったかは知るところでないし、本来、プロデューサの質と作品の質とは関係ないと思うのではあるが、ダーティーイメージがついてしまうのはいかんともし難い。
 この『ザ・マジックアワー』に高い評価を与えられないのも、ソルティがフジテレビ制作と知りつつ鑑賞したせいなのだろうか?
 どうにも判然としない居心地の悪さがある。

 三谷の今後については、すでにNHK大河ドラマを3本も書いている巨匠なのだから、なんの心配もなかろう。
 フジテレビ以外の民放局での活躍が見られるかもしれない。
 もっとも、三谷もまた昭和どっぷり世代なので、その笑いが平成育ちの若い視聴者にどこまで通用するかは別の問題ではあるが・・・。

 売れない役者村田大樹(演・佐藤浩市)のもとに、ある日、ギャング映画主演の話が舞い込んできた。それは正体不明の殺し屋「デラ富樫」の役であった。
 村田のマネージャーである長谷川(演・小日向文世)は、映画を撮るのはこれが初めてという備後登監督(演・妻夫木聡)の話を怪しみ、依頼を断ろうとする。
 が、あとのない村田は役者生命をこれに賭けようと決意し、備後の言うまま、ある港街にロケ入りする。
 実は、備後はその街を牛耳る天塩幸之助(演・西田敏行)の部下の一人でクラブの支配人に過ぎなかった。天塩の女に手を出したことがばれてしまい、命と引き換えに天塩から出された条件が、「5日以内に裏社会で名の知れた殺し屋であるデラ富樫を見つけて、事務所に連れてくること」だったのである。
 進退の窮まった備後は、デラ富樫の偽物をつくるという策に打って出た。 
 かくして、映画の撮影だと信じ込んでいる村田は、本物のヤクザの巣に乗り込み、ニセの「デラ富樫」を演じるのであった。
 
 アイデアは抜群に面白い。
 虚構の世界である映画が、現実と重なり合い、現実に影響を及ぼし、しまいには現実を変えてしまうという、映画フリークの三谷ならではの発想。
 本物の銃を小道具と信じ、ヤクザたちによる本物の銃撃戦を無名の役者たちによる火薬を使った芝居と思い込み、派手な立ち回りをする村田。
 その大胆不敵な行動を見て、村田を本物の「デラ富樫」と信じ込む天塩たち。
 笑える仕掛けがあちこちに用意され、「コメディの天才」の名に恥じない三谷ワールドが展開される。

 いつものように出演者もゴージャス。
 村田を演じる佐藤浩市はじめ、妻夫木聡、深津絵里、綾瀬はるか、西田敏行、小日向文世、寺島進、戸田恵子、伊吹吾郎、寺脇康文、谷原章介、中井貴一、鈴木京香、香川照之、天海祐希、唐沢寿明など、フジテレビの力と三谷の人脈を感じる。
 中でも、“殺し屋を演じる売れない役者”を演じる佐藤浩市は、コメディアンとしての才能を本作で開花させたが、それは父親の三國連太郎には望めなかった。――少なくとも同年齢において。(ソルティは『釣りバカ日誌』シリーズを観ていないので、晩年の三國のコメディ演技を知らない)
 何を演じても役なりの雰囲気を醸し出せる戸田恵子と西田敏行の柔軟性ある演技も見どころ。
 
 作品の評価が微妙なのは、村田の正体がばれたあたりから勢いが失速し、話がつまらなくなるからだ。
 これが映画ではない現実であり、虚構が虚構でなく、自分の演技がすべて無駄だったと知った村田は、落胆して街を去ろうとする。
 それを引き留めるきっかけとして、三谷は感動エピソードを持ってくる。
 一つは街の映画館でスクリーンいっぱいに映し出された村田の姿、もう一つは村田がずっと憧れてきた往年の名優との出会いである。
 これがもうベタというか陳腐であり、感動のための感動というお仕着せ感たっぷり、デジャヴュー感満載で、しらけてしまう。
 観客のレベルを中高生くらいに設定しているのではないかと邪推したくなる。

 “どこかで見たような安っぽい感動”というのが、三谷幸喜作品の特徴である。
 それが役者の演技や脚本や演出の巧み(とくにテンポの良さ)とあいまってバランス良く機能すれば傑作になるのだが、いったんバランスが崩れると、あざとさが目につき、ぐだぐだになる。
 本作はその意味で、アーティスト三谷幸喜の長所と短所がよくわかる作品と言える。



おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 映画:『ふんどし医者』(稲垣浩監督)

1960年東宝
115分、モノクロ

 神保町シアター開催中の『没後10年 原節子をめぐる16人の映画監督』にて学生料金1000円で鑑賞。
 森繁久彌が田舎の宿場町の心やさしき医者を演じる、いわゆる「赤ひげ」物。
 原作はユーモア小説家の中野実(1901-1973)。

 舞台は江戸時代末期の東海道嶋田宿。現在の静岡県島田市の大井川沿岸である。
 「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ 大井川」と詠われた東海道きっての難所。大雨で水かさが増せば、何日もこの地で足止めを喰らうのが旅の常だった。
 川岸にはふんどし一枚の川越人足たちが蝟集し、威勢のいい掛け声は松林の彼方にそびえる富士山にまで届くかのようである。

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歌川広重作「東海道五十三次・嶋田」

 ふんどし医者という異名は、森繁演じる小山慶斎がいつも身ぐるみ剝がされ、ふんどし一丁で賭場から帰って来るからである。
 と聞くと、博打好き酒びたり女房泣かせのやぶ医者というイメージを抱きかねないが、実は慶斎先生、長崎でシーボルトに医術を学んだ秀才で、本来なら江戸で将軍様の御殿医になれるほどの腕の持主。
 若い時分に、親友の池田明海とともに長崎で修業し、江戸に帰る道中、嶋田で足止めを喰らったのがきっかけで、貧しい庶民のために働くことを決意したのである。
 そのとき長崎から明海を追ってやって来たのが、原節子演じる小山いく。
 嶋田宿で庶民のために身を粉にして働く慶斎の姿を見た彼女は、心変わりし、慶斎の妻となった。
 彼女の唯一の趣味は博打。慶斎が身ぐるみはがされるのは、いくが負けてばかりだからなのである。
 慶斎は文句ひとつ言わず、博打に興じるいくを肴に、楽しそうに酒を飲む。

 仲のいい中年夫婦を中心に、やくざから足を洗って医師を志望する半五郎(夏木陽介)、彼を一心に慕うお咲(江利チエミ)、慶斎を江戸に呼び寄せたい明海(山村聰)らが加わって、ひと騒動持ち上がる。
 賭場の貸し元に志村僑、庶民の婆さんに菅井きんが顔を出し、華を添えている。
 笑いあり、涙ありの楽しい人情喜劇で、なによりロケが素晴らしい。
 いまやCGでしか再現できない、ひと昔前の貴重な日本の風土がある。

 喜劇役者としての森繁の良さが十分引き出されている。
 弟子にするはずだった半五郎は、長崎や上海で修業している間に最新の医術を身につけ、嶋田に戻った時には一人前の医師となっていた。江戸から求められるのは、もはや慶斎ではなくて半五郎だと知った時の慶斎の複雑な気持ちを、森繁は絶妙に演じる。
 やっぱり、名優だなあ~。

 夫を助けるために自らの貞操を賭けて勝負する原節子の真剣な眼差しにはぞくっとさせられる。
 原は洋風なイメージ強いが、山中貞雄監督『河内山宗俊』(1936)など、時代劇も結構似合ったのではないかと思う。
 山中が長生きしていれば、間違いなく原節子の別の一面が引き出されたであろうし、早すぎる引退も避けられていたかもしれない。
 どんな役をやっても原の品格だけは隠せないことが、ここでも証明されている。
 森繁とのコンビも意外にも合っている。 

 『山の音』に引き続き、山村聰が登場。
 どちらかと言えば地味な役者ではあったが、『東京物語』、『楊貴妃』、『人間の條件』、『瘋癲老人日記』、『日本のいちばん長い日』、『トラ・トラ・トラ!』など、幅広い役がこなせる真の名優であった。
 この人の特集を組んだら、その凄さは必ずや世人に伝わるだろう。

 個人的には、森繁久彌のふんどし姿よりも、川越人足のふんどし姿のほうがインパクト大であった。
 あれだけ沢山の男の裸のケツがスクリーンいっぱいに揺れ動くなど、いまや考えられない。(そう考えると、NHKの相撲中継って凄いな)
 令和天皇も学習院時代の水泳授業でふんどし体験しているはずである。
 三島由紀夫の最期もふんどし。
 武田久美子や宮沢りえのふんどしが社会現象になったこともあった。 
 日本のふんどし文化って奥深い。

 大阪万博を盛り上げるアイデアとして、日本の伝統文化をアピールするためにスタッフ全員ふんどし着用、来場者はふんどし神輿体験もできるという企画はいかがだろう? 

西大寺裸祭り
岡山西大寺の裸祭り
Mstyslav Chernov/Unframe/http://www.unframe.com/ - 投稿者自身による著作物,
CC 表示-継承 3.0, リンクによる画像




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損







● 映画:『山の音』(成瀬巳喜男監督)

1954年東宝
95分、モノクロ

 原作は川端康成。
 戦後日本文学の最高傑作の一つという謳い文句であるが、ソルティは読んでいない。
 お目当てはむろん、主演の原節子。
 神保町シアターにて4/4まで開催の『没後10年 原節子をめぐる16人の映画監督』のうちのプログラムである。

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 舞台が鎌倉で、主要キャストが原節子に上原謙(夫役)に山村聰(義父役)で、テーマが戦後家族の崩壊とくれば、どうしたって小津安二郎監督の『東京物語』、『麦秋』、『東京暮色』あたりの松竹作品を重ねてしまう。
 古い日本家屋の板張りの廊下を歩く原節子の後ろ姿を見れば、中折れ帽をかぶった会社帰りの笠智衆や、遠慮なく玄関から飛び込んでくる杉村春子や、あるいはプラレールに夢中のやんちゃ兄弟の登場を期待してしまう。
 しかし、キャメラの位置は固定することなく、畳のへりから見上げるような、いわゆるローポジションではなく、オウム返しが延々と続くようなセリフ回し(A「そうかね」→B「そんなもんですよ」→A「そんなもんかね」→B「そうですよ」)ではないので、小津映画のリズムとはたしかに違うことに気づく。

 原節子もどこか生々しく、“おんな”を捨象したところに築かれた小津映画の女性美とは異なる、あえて言えば“色気”が漂っている。原が演じる若妻・菊子はあまりに「こども」っぽくて、夫・修一を満たすことができない、だから修一は他に女をこさえている、という設定であるにもかかわらず。
 菊子のフェロモンが発動されるのは、夫・修一に対してではなく、義理の父・信吾に対してなのである。信吾もまた菊子の魅力にほだされる。
 さすがにそこは格調高き川端作品なので、年老いた義理の父と若い嫁が他の家族には内緒で関係をもつような不埒な展開はない。二人は互いに強く惹かれ合いながら、節度ある関係のまま別れを告げ、それぞれの道を行く。
 が、たとえば小津『東京物語』の義父(笠智衆)と嫁(原節子)の、よこしまな想像をまったく許さぬ清潔な関係を思うとき、本作には禁断すれすれのエロスの香が立ち込めている。
 小津と成瀬の大きな違いのひとつは、そこにあるのではないか?
 良くも悪くも、小津映画は清潔なのである。 

 これが『瘋癲老人日記』の谷崎潤一郎ともなれば、義父のあからさまな変態性欲は嫁にじらされることでさらに燃え上がり、暗黙の共犯関係の中でエロスはもはや、社会道徳や倫理や体裁をふみこえた奇態な花を咲かせる。
 そう言えば、木村恵吾監督による1962年『瘋癲老人日記』映画化において、若く美しい嫁を演じる若尾文子相手に、老いたマゾヒストの義父を熱演していたのも山村聰であった。
 両作品の山村聰の演技の違いを味わうのも一興である。

 場内はおおむね50代以上の、青春期を昭和で過ごした男女で占められていた。
 神保町シアターと同じ建物内によしもと漫才劇場があり、こちらは20~40代が多かった。
 1階のチケット売り場において、人波が年代によって見事に左右に別れていく光景は、モーゼの海割りのごとくであった。

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Karen .tによるPixabayからの画像

 われら中高年組は、おそらくよしもと劇場を見ても、そこそこ笑って楽しめると思うが、逆パターンは無理だろう。
 つまり、いまの20~40代が『山の音』を見たら、あまりに時代遅れのセリフや設定、その背後にある価値観――とくに男尊女卑や家族主義――に辟易するか、理解不能で退屈するか、絵空事のように感じて最後まで共感のツボを見出せないであろう。
 むしろ、『瘋癲老人日記』のように“変態”軸において一点突破してしまえば、よしもと漫才以上の笑いを引き出すかもしれない。
 ジェンダー領域の価値観にあっては、平安時代(『蜻蛉日記』や『源氏物語』)と昭和時代(『山の音』や『雪国』)のギャップより、あるいは太平洋戦争前と戦後のギャップより、昭和時代と平成令和時代のギャップのほうがよっぽど大きいってことが、徐々に明らかになりつつあるように思う昨今。
 一方、原節子の美貌は時代を超えて輝いている。




おすすめ度 :★★★

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もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 食事時鑑賞注意 映画:『逆転のトライアングル』(リューベン・オストルンド監督)

2022年スウェーデン、フランス、イギリス、ドイツ
147分

逆転のトライアングル

 『ザ・スクエア 思いやりの聖域』(2017)で、洗練と醜悪を融合させた独特なスタイルによる風刺コメディで、世界をあっと言わせたオストルンド監督。
 本作では、さらに手加減のない人間社会の醜悪が、コメディタッチで描き出される。

 前半は、裕福な観光客の乗り合わせる豪華客船。 
 わがままな白人の大金持ちと、彼らに笑顔で奉仕するスタッフたちと、船内の清掃やベッドメイキングを担当する有色人種の従業員。
 そこは、資本主義のつくりだした格差社会の縮図である。
 ある上流マダムは、乗務員すべてに自分の目の前で泳ぐことを命じる。働いてばかりで、「今を楽しむ」ことができない乗務員に生きる喜びを知ってもらうために!
 目をそむけたくなるほど醜悪な時化シーンを通過し、客船は海賊の襲撃を受けて、タイタニックさながら沈没する。

 後半は、どこかの浜辺に漂着して生き残った人々のサバイバル生活が描かれる。
 そこでは、火をおこし漁ができる自活能力にすぐれた者が集団のトップに立つ。
 金持ちたちは何ひとつできず、客船でトイレの清掃をしていた中国系のおばさんが、野性的サバイバル能力を発揮して、権力を握る。
 おばさんは、イケメンの白人青年に食べ物と引き換えに夜伽ぎを命じる。つまり、性の奉仕を。
 邦題の通り、逆転のトライアングル。(原題は Triangle of Sadness、悲しみのトライアングル=形成外科の業界用語で「眉間のしわ」のこと)

 前半の資本主義社会の格差の醜悪が、後半はいっさいの虚飾をはぎ取られた人間性の醜悪になりかわる。
 どちらに転んでも醜悪でしかない人間たちを揶揄するかのように、オストルンド監督は船酔いした登場人物たちに盛大なゲロを吐かせ、トイレの便器から汚水を逆流させる。
 食事しながらの鑑賞はお勧めできない。

 上映時間は長いが、誰にでも心当たりのある人間性の真実が描かれているので、飽きることなく観てしまう。
 深刻なタッチで描いたら、『タイタニック』+『蠅の王』あるいは『流されて』(1974)のごときになって相当しんどい内容を、突き放した視点で飄々としたタッチで描き出せるところが、この監督の才であろう。




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● 映画:『search/#サーチ2』(ウィル・メリック&ニック・ジョンソン監督)

2023年アメリカ
111分

 ITオンリー・スリラー映画『search/サーチ』の第2弾。
 前作同様、デジタル機器の画面上でストーリーのすべてが完結する。
 前作では行方不明になった娘を、IT音痴の父親が不器用にアプリを操作しながら必死に探す話だった。
 今回は逆に、ITマスターである十代の娘が、恋人との旅行中に行方不明になった母親を、パソコンを自在に駆使して探索する。
 原題はmissing

 二転三転するミステリーとしての面白さもさることながら、ITの凄まじい進歩に口をあんぐり。
 自分は旧世代の人間であると、つくづく感じた。
「パソコンやスマホでいったい何ができるの?」と問う人には、本作を見ることをお勧めしたい。
 自宅にいながらにして、こんなことも、あんなことも、そんなこともできる。
 本作の主人公であるジュン(演・ストーム・リード)は、家から一歩も出ることなしに、警察やFBI顔負けの捜索をITを駆使してやってのける。
 もっとも、これはあくまでフィクションであり、実際には存在しないアプリや素人が容易にはアクセスできないサイト(情報)もあるとは思うが・・・。
 恐るべし、Z世代。
 (しかし、この映画を見ると目が疲れる)
 
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Gerd AltmannによるPixabayからの画像

 ケアマネという仕事柄、よく高齢者(おおむね80歳以上)から、「スマホで何ができるの?」と質問を受けることがあり、答えに窮する。
 自分も全然使いこなせていないからってこともあるが、スマホやパソコンを持っているだけでは駄目で、アプリをダウンロードしないとなにも始まらない、ということを分かってもらうのが難しいのである。
 そしてまた、ソルティはどうもIT技術には信用が置けなくて、いろんなアプリをダウンロードすることに抵抗がある。
 プライヴァシーの漏洩やネット詐欺、SNSを使った犯罪など、落とし穴がほうぼう空いているイメージ。 
 下手に高齢者にアプリを紹介して、害を与えることになったらまずいと思ってしまうのである。
 ネットで新たな人間関係をつくることも高齢者はよくしないので、ガラ携レベルの機能があれば十分なんじゃないかと思うことが多い。
 が、一方、認知症の人が行方不明になった時、スマホを持ち歩いていれば、GPS機能を使って居所を突き止めることができる。
 そのために、子供世代が高齢の親にスマホを持たせるケースも増えている。
 2024年に実施されたある調査では、スマホを持っている人の割合は、60代で9割超、70代で8割超、80代前半で6割超であった。(モバイル社会研究所のホームページより)
 今の50代が高齢者になった暁には、ほぼ100%、スマホか、それに代わる何らかのモバイル通信端末を持ち歩いていることだろう。

 ソルティもじき高齢者(65歳以上)になる。
 本音を言えば、「スマホは卒業したい」のであるが、世の中の動向がどんどんそれを許さなくなっていく。(たとえば、キャッシュレスオンリーの店の増加や「JRみどりの窓口」の軒並み閉鎖など)
 ピーター・ウィアー監督、ハリソン・フォード主演の映画『刑事ジョン・ブック 目撃者』に登場するアーミッシュは、アメリカやカナダに住むドイツ系移民の宗教集団で、電気も自動車もテレビもない、移民当時の自給自足の生活を今も送っている。
 移動は馬車で、讃美歌以外の音楽は禁じられている。
 もちろん、スマホやパソコンなんて論外である。
 時々、アーミッシュに憧れるソルティなのだが、やっぱり無理だろうなあ。
 聖書以外の本が読めないのは耐えられん。

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