ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

映画・テレビ

● 映画:『ザリガニの鳴くところ』(オリヴィア・ニューマン監督)

2022年アメリカ
126分

 フェミ色の濃いミステリードラマ。
 アメリカの女性作家ディーリア・オーウェンズの同名小説が原作。

 時は1969年。
 舞台はアメリカ東南部ノースカロライナ州の湿地。
 ある日、町の有力者の息子チェイスの死体が湿地の中で発見される。
 容疑者として捕まったのは、幼いころに一家離散してから湿地に一人で暮らしてきたキャサリン。町の住民からは“湿地の娘”と蔑まれ、学校にも通えず、村八分にされてきた。
 自然と孤独と本を友としてきたキャサリンは、内気だが美しく聡明な女性に育った。
 キャサリンに惹かれたチェイスは、彼女にしつこくつきまとい、関係を拒まれると逆上し、暴力を振るっていた。
 
 ノースカロライナの湿地の風景が美しい。
 アメリカにはこんなところもあるんだと、国土の広さと風土の多様性を再認識した。
 大自然の中で孤高に暮らし、人間よりも動植物を愛する主人公の姿に、チンパンジー研究で有名な動物行動学者のジェーン・グドールや、『沈黙の春』『センス・オブ・ワンダー』の著書で知られる生物学者レイチェル・カーソンを重ね合わせた。
 本作の第2の主人公は自然と言っていい。

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ノースカロライナ
Steven PaulsenによるPixabayからの画像

 検事と弁護士の激しい応酬によるキャサリンの裁判がスリリングに描かれる一方で、キャサリンの苦難の半生がたどられていく構成。
 すなわち、法廷ミステリーとしての興味と、一人の強い個性をもつ女性の風変わりな人生ドラマへの興味が並行する。
 フェミ色が濃いと言うのは、明らかに前者より後者のほうに重点が置かれているからである。
 ミステリーとしては、最後の意外(でない)結末も含めて凡庸と言っていい。
 同じように「法廷ミステリー+女性の生き方+大自然」の三要素をもつ工藤夕貴主演『ヒマラヤ杉に降る雪』(1999)を想起したが、やはりフェミ色の濃さは断然本作が勝っている。
 『ヒマラヤ杉』の原作を書いたのは男性作家であり、描かれているのは50年代、作品の発表は90年代。
 『ザリガニ』の原作は女性作家で、描かれているのは60年代、作品発表が2018年。
 こうした根本的な違いに加え、本作ではプロデューサーが女性(オスカー女優のリース・ウィザースプーン)、監督も女性、脚本も女性、撮影や美術も女性と、主要スタッフを女性で固めている。(音楽のマイケル・ダナは男性である)
 いわば、「女性の、女性による、女性のための女性解放ドラマ」といった趣きが強い。
 米国映画業界の女性の発言力がまざまざと知られる。 

 その意味で本作は、鑑賞者が“男性であるか女性であるか”、あるいは“昭和生まれか平成生まれか”、で相反する感想を抱くかもしれない。
 キャサリンの生き方、キャサリンの選択、キャサリンの決断、キャサリンの倫理・・・それを観る者がどう受け取るか。
 いや、性別やジェンダーや年齢で人を区別するのは、それこそ時代遅れなオヤジ言説か。
 ずばり、観る者のフェミニズム観が問われる作品である。
 
 キャサリンを演じているのは、デイジー・エドガー・ジョーンズという英国の女優。
 ナイーブな魂と意志の強さを備えた女性を好演している。


 
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 川口隊長の初探検 映画:『浮草』(小津安二郎監督)

1959年大映
119分

 本作は未見であった。
 これほどの傑作を観ていなかったとは不覚。
 小津作品の中ではあまり話題に上ることもないので、失敗作とは言わないまでも、凡作という位置づけなのかと思っていた。

 なにより小津作品としては異色ずくめ。
 制作はいつもの松竹ではなくて大映。
 撮影はいつもの厚田雄春でなくて宮川一夫。
 核となる女優陣も、当時大映所属の京マチ子、若尾文子。
 小津映画の常連である笠智衆、杉村春子、高橋とよらは出ているものの、芸達者で演技幅の広い後者二人はともかく、松竹ワールドに安住している笠智衆は、大映ワールドから完全に浮いている。
 そう、本作の異色性の最たる点は、小津の代表作と世界的に認められ笠智衆&原節子コンビが主役を張る『晩春』『東京物語』『麦秋』の紀子3部作で描かれる世界とは、まったくかけ離れた世界が題材となっているところにある。

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『東京物語』より熱海海岸シーン

 3部作は、家族の別れや死、世代交代のありさまを禅的なタッチで淡々と描いた、どちらかと言えばもの寂しいドラマで、モノクロ撮影が寂寥感をいや増していた。
 この無常観が小津の真骨頂であるのは万人が認めるところであろう。
 端的に言うなら、ベクトルが向かっているのは「死」である。

 一方、『浮草』で描かれるのは、タイトル通りの「浮草稼業」すなわち旅芸人一座をめぐるコテコテの人情ドラマであり、父と息子の浪花節そのものの切ない交流はあるわ、女の嫉妬が暴走して土砂降りの中の派手な痴話喧嘩はあるわ、純朴青年を誘惑する小悪魔はいるわ、下ネタが飛びかうわ、ねっとりしたキスシーンは頻出するわ、仲間の金品を盗んでとんずらする悪党はいるわ、禅的とはほど遠いドタバタ人間喜劇の様相をみせている。
 宮川一夫の美しい撮影は、小津の色彩センスをいやがおうにも知らしめ、あでやかな色調の氾濫が画面に生命力をもたらしている。
 くわえて、大映の大部屋役者たちが放つコッテリした庶民性は、小津作品には珍しい猥雑さと毒を醸し出す。松竹制作ではこの味は出せなかったろう。
 とりわけ大映の看板女優たる京と若尾の二人は、小津作品に不足していた馥郁とした性の香りをここぞと巻き散らして、画面に艶を与えている。
 ベクトルは「生」を向いている。

 この作品は、『東京物語』を小津監督の“極北”としたとき、“極南”に位置する傑作と言える。
 これは大映で撮って正解だった。
 のちに「大映ドラマ」と揶揄されることとなった、えぐ味あるリアリティと現世至上主義を信条とする大映であればこそ、これだけ生命力旺盛な傑作が撮れたのだと思う。

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舞台化粧する京マチ子(左)と若尾文子
色彩設計の見事さに着目!
 
 小津映画の俳優たちは、小津の思い描いたデッサン通りの、型にはまった芝居しかさせてもらえなかったと言われる。3部作を観ればその真なることが理解できる。よく言えば“能”的な芝居、悪く言うなら“書き割り”的でつまらない。
 が、本作を観ていると、どうもこれはその例外ではないかという気がしてくる。
 旅芸人の座長を演じる中村鴈治郎、その連れ合いの女芸人を演じる京マチ子、この2人が実にリアリティある熱い芝居をしている。
 土砂降りの中で痴話喧嘩するシーンなど大層な迫力で、アドリブでやっているのかと思うほどである。京マチ子の表情にはぞくっとする。
 ラストの停車場での和解シーンの息の合った芝居もたいへん自然であり、作為的な匂いを感じさせない。
 小津はいつも松竹でやっているように細かく演技をつけたのだろうが、二人の役者のはちきれんばかりの“生”のパワーは、小津の描いたデッサンにふくよかな肉付けを与えずにはいなかった。
 とりわけ、京マチ子はTVドラマ『犬神家の一族』における松子夫人と並ぶ、スクリーンにおける生涯の一本と言える好演。
 溝口健二や黒沢明のもとでしごかれ抜いた成果が、小津の作品で開花しているというのも面白い。
 
 若尾文子にかどわかされる純朴青年を川口浩が演じている。
 川口浩と言えば、シリーズ全43回に及ぶ人気を博した『水曜スペシャル 川口浩探検隊』(テレビ朝日系で1977年より)で隊長を務め、お茶の間の興奮と失笑をさらった昭和の人気スター。
 若き日の川口の清潔感あるイケメンぶりとチャーミングな笑顔にどきっとした。
 最初の探検相手は“バロックの秘境”若尾文子だったのか・・・。

 『お早う』(1959)で抜群の愛くるしさで大人役者を食った島津雅彦が、本作では役者一座のマスコット的存在として登場する。
 一座解散という悲しいシーンで驚くほどの名演をみせて、舌を巻いた。

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島津雅彦くん(撮影時6歳)



おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 

● 映画:『ケース39』(クリスチャン・アルバート監督)

2010年アメリカ、カナダ
109分

 ホラーと思って借りたら・・・・
 独身のソーシャルワーカーであるエミリーは、長年両親に虐待されてきた少女リリーを救い出し、自ら引き取って育てることを決意する。
 いたって真面目な社会派ドラマの装い。
 あれ? GEOスタッフが間違えて、ホラーコーナーに仕分けてしまったのか?
 鑑賞モードの変更を迫られ、いささか戸惑ったが、ショットがなかなか凝っていて、語り口もうまい。ソーシャルワーカー役のレネー・ゼルウィガーの演技も良く、黒髪の美少女リリー(ジョデル・フェルランド)がこれまた魅力的。
 そのまま引き込まれてしまった。
 リリーは、エミリーの愛と福祉の力で虐待トラウマを克服していくのだろうか?

 ――なんて思っていたら方向転換。
 エミリーの担当していた少年が、リリーと接触した後、寝ていた両親を惨殺するに及んで、物語はサイコサスペンスへと切り換わっていく。
 リリーにはどこかおかしなところがある。
 エミリーは気づくが、時すでに遅し。
 エミリーの恋人、エミリーの恩師・・・・次々と犠牲者が上げられていく。
 いったいリリーは何者?
 その正体は?
 ついに観る者は、オカルトホラーという仕分けが正しかったことを知る。

 善意から引き取った養女が実はとんだ曲者だった――というプロットは、あのおぞましくもスリリングなホラーサスペンスの傑作『エスター』を思わせる。
 『エスター』も本作と同じ2009年公開のアメリカ映画だった。
 本作が日本未公開だったのは、内容がダブっていたからか?
 ともあれ、こうした養子ホラーは、養子縁組大国のアメリカやカナダなればこそ、発想され、生み出されるものであるには違いない。
 その元祖は『オーメン』(1976)のダミアンじゃないかと思う。

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おすすめ度 :★★

★★★★★
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● 二本柳寛の墜落 映画:『拳銃無頼帖 不敵に笑う男』(野口博志監督)

1960年日活
84分

 赤木圭一郎主演の拳銃無頼帖シリーズ第3弾。
 舞台は金沢である。
 60年代の金沢の駅や街中の風景が興趣深い。
 
 ヒロイン役に笹森礼子を配し、宍戸錠、藤村有弘、二本柳寛などお馴染みのメンバーが出揃う中に、これが日活3作目となる吉永小百合が、いまだ「新人」のクレジットを頂いて出演している。
 当時15歳。少女から大人へ、美少女から美女へと向かって、一作ごとに開花していく姿が確認できるのが嬉しい。
 本作では、赤木演じる竜四郎の妹・則子役で、竜四郎の弟分である五郎の恋人という設定。
 金沢の下町のおんぼろアパートに五郎と同棲しているのだが、その清らなる風情はまったく所帯じみていない。
 それもそのはず。訪ねてきた兄・竜四郎に向かって則子は言う。
 「あら、にいさん、ここはまだ所帯なんかじゃないのよ。結婚するまではお互いに純潔でいましょうって約束しているの」
 あくまでもメルヘン。(男にとっては蛇の生殺し)
 まあ、役の上ではともかく、実年齢15歳だからな。

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赤木の妹役の吉永小百合

 メルヘンと言えば、二本柳寛。
 小津の『麦秋』では杉村春子の息子役で、妻に先立たれたやもめ男を演じている。
 通勤時に『チボー家の人々』なんか読んでいる文学青年くずれである。
 ラストには原節子と結ばれるという、棚からぼた餅どころか棚からダイヤモンドといった光栄な役回り。
 この世界的名作に「いいひと」役で出演している二本柳が、日活アクションシリーズではヤクザの組長のような悪役ばかり演じている。
 本作では竜四郎の兄貴分である組長に扮しているが、自分の女(南風夕子)の裏切りに腹を立て、ビンタするわ、突き飛ばすわ、靴底で顔を踏みにじるわ、そのあとにレイプするわ、ひどい女性虐待を見せる。
 『麦秋』の「いいひと」イメージ粉砕。
 あんまりな小津調メルヘン崩壊。
 杉村春子に叱られるぞ。

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組長対談をする二本柳寛と藤村有弘

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『麦秋』の杉村春子と二本柳寛

 ロケは金沢市内だけでなく、石川県のあちらこちらの名所が使われているようだ。
 色とりどりの幟で飾られた何艘もの船が、列をなして海へと繰り出していく風景が出てくる。
 これはたぶん能登町のとも旗祭りではないか?
 テレビのないこの時代、ロケにより地方色を伝えるというのも映画の大きな役割の一つだったのだろう。

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おすすめ度 :★★

★★★★★
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● ラミアの正体 映画:『スペル』(サム・ライミ監督)

2009年アメリカ
99分

 サム・ライミ監督と言えば、80年代に『死霊のはらわた』で大ブレイクしたことが思い出される。
 その後、作品を追っていなかったが、いまだ健在であった。
 オカルトホラーとスプラッタとグロの3拍子による相も変らぬ趣味の悪さは、本作でも遺憾なく発揮されている。
 それをレンタルしてしまう自分もまた同じ穴のムジナであるが。

 銀行の女子行員の対応に腹を立てた老婆が、その場で呪詛(スペル)を行い、それによって召喚された悪霊ラミアが、女子行員をさんざん脅かしたあげく最後には命を奪う、というストーリー。
 しかるに、女子行員の対応は、法に則った、また上司の指示に従った、止むを得ないものなので、老婆の怒りは逆恨みとしかいいようがない。
 「ぬあんて理不尽なんだ」と一瞬思ったが、考えてみると、女子行員が血も涙もない冷酷な人間だったら、老婆につきまとわれようが、ラミアに脅かされようが、観る者は「自業自得だ」と思うだけで、ハラハラドキドキはそこに生まれない。
 彼女が出世争いや恋人との将来に悩み、自らがなしたちょっとした不親切に良心の咎めを感じるような、(観る者の大多数と同じ)小市民である――加えてキュートな若い女性である――からこそ、彼女に襲いかかる恐怖や不幸に観る者もショックを覚え、彼女が最後には救われることを期待するのである。
 
 ときに、ラミアとは何者?

 ラミアーまたはラミアは、ギリシア神話に登場する古代リビュアの女性で、ゼウスと通じたためにヘーラーによって子供を失い、その苦悩のあまり他人の子を殺す女怪と化した。

「ラミア」は古くから子供が恐怖する名として、しつけの場で用いられた。‥‥中略‥‥ 後の時代には、青年を誘惑して性の虜にしたあとこれを喰らう悪霊エンプーサの代名詞のひとつに使われた。誘惑のラミアーは、若者を喰らうのでヴァンパイアと比喩される。
(ウィキペディア『ラミアー』より抜粋)

 ギリシア神話由来であったか。
 言われて見ると、女子行員に呪いをかける老女の顔立ちはギリシア系ぽかった。
 アメリカに住むギリシア系移民に代々伝わる秘術という設定なのかもしれない。

 東洋で言うなら、さしずめ鬼子母神+羅刹女か?
 ジャニー喜×川か? 
 呪詛をかける老婆は、三途の川にいる奪衣婆か?
 メリー喜×川か? 

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奪衣婆(埼玉県川口市西福寺)


おすすめ度 :★★

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● 映画:ヴェルディ作曲『イル・トロヴァトーレ』(英国ロイヤル・オペラ・ハウス)

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トロヴァトーレとは「吟遊詩人」のことである
OpenClipart-VectorsによるPixabayからの画像


上演日 2023年6月23日
劇 場 英国ロイヤル・オペラ・ハウス
【指揮】 アントニオ・パッパーノ
【演出】 アデル・トーマス
【合唱】 ロイヤル・オペラ合唱団
【オケ】 ロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団
【キャスト】
  • レオノーラ: レイチェル・ウィリス=ソレンセン(ソプラノ)
  • マンリーコ: リッカルド・マッシ(テノール)
  • ルーナ伯爵: リュドヴィク・テジエ(バリトン)
  • アズチェーナ: ジェイミー・バートン(メゾソプラノ)
  • フェルランド: ロベルト・タリアヴィーニ(バス)
【上映時間】3時間13分
【配給】東宝東和

 東宝でこういったプロジェクトをやっていたとは知らなかった。
 2018年頃からスタートしたらしい。
 ライバル松竹の向こうを張って、あちらがニューヨーク・メトロポリタン・オペラ(MET)のライブ映像なら、こちらは英国ロイヤル・オペラ・ハウスと来た。
 伝統も格式も作品のクオリティもMETに遜色ない。
 おかげで、日本のオペラファンは、そのシーズンにかかった米英両国のフレッシュな舞台と現代最高の歌手たちの見事な歌唱を、日本にいながらにして楽しむことができる。
 なんていい時代だ!
 
 調布駅そばのイオンシネマ・シアタス調布まで出かけた。
 家から電車を乗り継いで1時間半近くかかるが、『トロヴァトーレ』のためならお安い御用。
 やっぱりソルティは数あるオペラの中でこの作品が一番好き。
 とにかく歌が素晴らしい。
 アリア(独唱)も重唱も合唱も魅力的なピースばかりで、聴きどころ満載なのだ。
 中世ヨーロッパが舞台の「復讐」をテーマとする暗く陰惨な物語ではあるが、歌の美しさは途方もない。
 いや、背景が暗いからこそ登場人物の愛や情熱や怒りの炎が一際明るく輝きわたって、日常を超えたドラマチックな世界へと聴く者を導いてくれる。
 複雑で難解で荒唐無稽なプロットと揶揄されることも多い作品であるが、荒唐無稽はともかく、別に複雑でも難解でもないと思う。
 この程度のプロットが理解できないで、アクロバティックな仕掛けに満ちた現代のミステリーサスペンス映画が観られるものか。
 だいたい、リブレット(台本)を読めば一発で理解できるではないか。
 いい加減、『トロヴァトーレ』を「複雑、難解」というのは止したらどうか。

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調布駅

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イオンシネマ・シアタス調布

 本作の、というか本演出の最大のポイントは、バスのフェルランドの扱いである。
 フェルランドはルーナ伯爵の家臣であり、伯爵家の兵士たちの頼りがいある隊長。
 一番の見せ場は、第一幕第一場すなわち幕開きのアリアである。
 ここでフェルランドは、夜番をする部下たち相手に、ルーナ家にまつわる過去の陰惨な事件を大層ドラマチックに物語る。
 観客に物語の背景を説明するとともに、地獄の底から轟くようなバスの低音によって、オカルティックな雰囲気を高める役を果たす。
 この導入部は非常に重要で、ここでフェルランドが観客の心と耳をガッチリ掴むことで、観客は現代から中世ヨーロッパへとタイムスリップすることができる。
 ここさえ無難に歌い演じ終えたら、ほっと一息。あとは脇に回って、主君であるルーナ伯爵の出番の際に一緒に登場し、合いの手を入れたり命令に従ったりしながら、合唱においては低音部分を支える。
 重要な役ではあるが、4人の花形(マンリーコ、レオノーラ、ルーナ伯爵、アズチェーナ)にくらべれば目立つものではなく、脇役のトップといった位置づけである。
 
 ところが、本演出におけるフェルランドは、最初から最後までほぼ舞台に出ずっぱりなのだ。
 自身の歌(セリフ)のない場面でも、ルーナ伯爵や家来に伴われていない場面でも、登場する。奇怪な恰好をした3匹の獣を引き連れて。
 それは、フェルランドを狂言回しとして設定しているからである。
 ルーナ伯爵の家臣であると同時に、物語の狂言回しとして、この暗く不吉なドラマを地獄の悲劇へと突き進めていく船頭のような役目を果たす。
 いいや、はっきり言おう。
 このフェルランドは悪魔であり死神なのである。
 だから、血と裏切りと嫉妬が渦巻く場面でひとり快楽の笑みを浮かべ、レオノーラのもつ十字架を恐れ、ラストでは斬首されたマンリーコの首を高々と掲げて凱歌の雄叫びを上げる。
 演出を担当したアデル・トーマスはこの物語を、悪魔の手のうちで狂った運命の糸に操られ破滅する人間たちの悲劇と解釈したのである。
 こういうやり方があったのか!
 ユニークかつ斬新な演出に感心した。

 なるほど、舞台は中世ヨーロッパ。
 日が落ちれば漆黒の闇が地を覆い、城郭の周囲には黒々した森や岩山が浮かび上がる。
 魔女や魔物や幽霊が跳梁跋扈し、善良な人々をたぶらかし、その魂を奪おうと手ぐすね引いている。
 迷信がはびこり、占いを本気で信じ、遍歴芸人やジプシーに対する差別が蔓延していた時代。
 悪魔が出現してもおかしくはない。
 その点で、極めて原作の精神に近い、というか現代人が科学と理性の光によって封じ込めた(つもりになっている)数百年前の人間の姿を思い出すにふさわしい舞台であった。
 フェルランド役のロベルト・タリアヴィーニは、演出の意図をよく理解し、歌唱はもちろん、表情や仕草もデイモスな雰囲気を漂わせていた。
 とりわけ、舞台に黒く浮かぶ不気味な鋭角的なシルエットが印象的で、この役をロベルトが得たのは背格好がイメージに合ったからではないかと思うほどである。

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AlessandroによるPixabayからの画像
 

 歌唱で一番はルーナ伯爵を演じたリュドヴィク・テジエ
 張りのある、抑制のきいた堂々とした歌声が、舞台の風格をいやがおうにも高めた。
 貫禄抜群の舞台姿のうちにも、家柄と伝統と名誉と習慣に縛られた名家の長男の“形骸”のような人生を表情に漂わせ、レオノーラへの愛だけが彼自身の真の欲望であるがゆえに強くこれに執着するのだ、と観客に知らしめる。

 レオノーラ役のレイチェル・ウィリス=ソレンセンは、本番直前に代役が回ってきたという。
 急ごしらえとは思えない立派な歌唱と演技とほかの出演者との連携ぶりである。
 歌声はドラマチックな強さを備え、ヒロインらしいオーラもある。
 個人的にはもう少しアジリタ(コロラトゥーラ)が効くといいのだが、もともとレオノーラはソプラノ・ドラマティコ・タジリタという滅多にない種類の声を要求される難役なので、無いものねだりかもしれない。

 マンリーコ役のリッカルド・マッシは、第3幕見せ場のナチュラル「ド」を見事に決めて満場の喝采をさらっていた。
 気品ある穏やかなルックスが、恋する吟遊詩人にぴったり。
 何の加減か(長髪のためか)イエス・キリストのように見える瞬間もあり、それがまた、悪魔フェルランドに狙われて最後は斬首される運命の悲劇的効果を倍増する。
 
 見た目いちばんの驚きはアズチェーナである。
 これほど醜いアズチェーナははじめて見た。
 頭髪は半分抜け落ちて前頭部が露わ、残ったざんばら髪も真っ白、なにより顔面片側を覆う生々しい火傷の痕。
 ほとんどお岩さんである。
 服装もつぎはぎだらけの襤褸で、裂け目から不吉なシンボルを象った入れ墨が覗いている。
 いや~、ジェイミー・バートンはよくこの役を引き受けたものだ。
 たしかにアズチェーナの境遇やこれまで彼女が受けてきた傷の深さを思えば、これくらいの老化や劣化はおかしくないと思うが、反ルッキズム風潮かまびすしい現在、舞台上とはいえ、ここまでグロテスクな風貌を女性に与える大胆さに驚嘆した。
 むろん、驚きは最初のうちだけで、舞台が進んでくるにつれ、観客はアズチェーナの境遇に哀れみを感じ、その母性愛にしてやられ、しまいにはアズチェーナを愛らしく思うに至る。
 母性愛は醜さを超える。

 舞台左右いっぱいに階段だけという、あまりにもシンプルかつ大胆な装置。
 ルーナ家の兵士たちやジプシーの集団にみる、ゴシック風衣装の奇抜さ。
 登場人物のすべての動きを音とシンクロさせる、あたかもバレエかフィギアスケートのような一体感。
 歌も芝居も演出も美術も音楽も見事に揃った名舞台は、METの『トロヴァトーレ』に劣らない。
 ライブで観たらどれだけ感動したことか。
 英国ロイヤル・オペラ・ハウスの力量をまざまざと知った。

 内容とは別に、一つだけ難を言えば、上映開始時刻に席に着いてから実際のライブ映像が始まるまで、30分以上かかった。
 映画の予告編が延々と続き、やっと終わったかと思ったら、今度はロイヤル・オペラ・ハウスの宣伝と出演者インタビュー。
 いい加減待ちくたびれた。
 次からは20分くらい遅れて行こう。

古城









● 映画:『声もなく』(ホン・ウィジョン監督)

2020年韓国
99分

 卵売りのかたわら、死体処理など犯罪組織の雑用を請け負って暮らしているチャンボクとテイン。
 幼い頃両親と別れた10代のテインは、口を利くことができず、妹ムンジャとともにチャンボクの世話になっていた。
 ある日、誘拐された少女チョヒを身代金が支払われるまで預かる役を組織に言いつけられた二人。
 チャンボクに命じられ、テインは仕方なくチョヒを自分の小屋に連れていく。
 だが、チョヒの父親は身代金を支払おうとはしなかった。
 かくして、チョヒとテインとムンジャの疑似家族のような生活が始まる。

 まさに声も出ない傑作である。
 話の悲惨さ・エグさにもかかわらず、全編圧倒的な美しさに満ちている。
 これが長編映画デビューというホン・ウィジョン監督(1982年生まれの女性)の才能に感嘆した。
 韓国が舞台で、出演者は韓国人ばかりの生粋の韓国映画でありながら、アメリカ映画それもアメリカ西南部のロードムーヴィーのような印象を受ける。
 空間の広がり、明るく鮮やかな色彩、ボトルネックのギター。
 ヴィム・ヴェンダース監督の『パリ、テキサス』を想起させる。
 映画の美しさに撃たれるとき、人は国境も国籍も時代も超えることを証明してあまりない。

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世界映画史において最も美しいシーンの一つ
(さて、なんという映画でしょう?)
 
 口のきけないテインを演じるユ・アインの演技が素晴らしい。
 1986年生まれというから撮影当時すでに30歳を超えていたはずだが、福祉から見捨てられた無教養・無教育でぶっきらぼうの10代の青年になりきっている。
 セリフが与えられていないので、テインの気持ちや考えていることは、すべて表情や仕草で表現しなければならない。
 その難役をリアリティ豊かに演じ、観る者の共感を誘うことに成功している。
 どころか、セリフがないことが逆に、観る者がテインの内面に直接入り込み、テインと一つになることを可能にしているかのよう。
 韓国内に限らず、全世界の若い男優たちは、ユ・アインに嫉妬しなければいけない。

 これがいつの時代の話なのかわからないが、携帯電話が使われているからには少なくとも2000年以降だろう。
 韓国にはまだこんな地域、つまり一見美しく平和な田園風景が広がっているが、一皮むけば犯罪の温床で、棄民と反社会組織がタッグする無法地帯――が残っているのだろうか?
 日本にもかつてあったのは間違いないが、現代ではネットの中に移行したかのように見える。
 そこもまた声のない世界である。


 
おすすめ度 :★★★★

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● 時には将校のように 映画:『日本のいちばん長い日』(岡本喜八監督)

1967年東宝
157分、白黒
原作 大宅壮一編・半藤一利著『日本のいちばん長い日』
脚本 橋本忍

 ポツダム宣言受諾間際の大日本帝国首脳部のごたごたを描いた歴史ドラマ。
 とりわけ、終戦を受け入れられない陸軍青年将校たちが起こした8月14日深夜のクーデター未遂、いわゆる宮城事件がメインに描かれる。

 とにかく全編に漲る緊迫感が凄い!
 ドラマというよりドキュメンタリーのようなリアリティと臨場感に満ちていて、出だしから一気に引きずり込まれた。
 157分をまったく長いと感じなかった。
 政府や軍の様々な組織に属する多数の(実在した)人物が登場する錯綜した話を、見事に捌いた橋本忍の脚本。
 戦時下の空気を再現しつつサスペンスを持続させる岡本のダレのない演出。
 そして、東宝35周年記念作に、ここぞと集められた錚々たる役者陣の白熱した芝居。
 実に見ごたえあった。

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陸軍大臣(三船敏郎)と海軍大臣(山村聡)の火花散るやり取り
その奥に鈴木首相役の笠智衆がおっとり構えている
 
 昭和を代表する人気男優総出演とでも言いたいような顔触れに、斜陽化にあったとはいえ、名門東宝の底力を感じた。
 阿南惟幾(陸軍大臣)を演じる三船敏郎を筆頭に、鈴木貫太郎(内閣総理大臣)役の笠智衆、東郷茂徳(外務大臣)役の宮口精二、米内光政(海軍大臣)役の山村聡、昭和天皇役の八代目松本幸四郎、ほかに志村喬、加藤武、戸浦六宏、高橋悦史、黒沢年男、石山健二郎、藤田進、伊藤雄之助、天本英世、二本柳寛、中村伸郎、小林桂樹、児玉清、加東大介、加山雄三、ナレーターに仲代達矢。
 あたかも、黒澤映画と小津映画の男優陣合体のような贅沢さ。
 (一方、セリフのある女優は新珠三千代ただ一人)
 
 中でも、クーデターの首謀者となった畑中健二少佐を演じる黒沢年男の熱演に驚いた。
 ソルティの中で黒沢年男は、昭和45年(1978)に大ヒットした『時には娼婦のように』のふしだらな大人のイメージと、バラエティ番組の髭面にニッカ帽のボケキャライメージしかなく、役者としての実力を知らなかった。
 本作では、主役の三船敏郎を食うほどの鮮烈な印象を刻んでいる。

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上官(高橋悦史)に決起をうながす畑中(黒沢年男)
 
 また、予科練の少年達を扇動して鈴木首相暗殺を謀る狂気の軍人を天本英世が演じている。
 いつものことながら“面しろ怖すぎる”怪演。
 官邸と首相私邸の焼き討ち事件は実際にあったことで、首謀者の佐々木武雄は数年間潜伏して逃げ回ったのち、戦後は大山量士の名で世間に舞い戻り、「亜細亜友の会」を設立した。
 なんか無茶苦茶な人だ。

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佐々木武雄を演じる天本英世の禍々しさ

 ソルティは宮城事件も首相官邸焼き討ち事件もよくは知らなかったのだが、敗戦を受け入れるってのは実に大変なことだったのだ、とくに軍人にとっては身を切られるようなことだったのだ、と改めて思った。
 冷静な目で客観的に見れば、どうしたって本土決戦なんかできる余力はなく、ポツダム宣言を拒否して抵抗し続ければ、第2、第3の広島・長崎が誕生するのは明白だった。
 それこそ今度は皇居や大本営のある東京に落とされたかもしれなかった。
 そしたら国体護持どころの話ではない。
 思うに、暴走した軍人たちの胸のうちにあったのは、「敗北を認めるくらいなら、日本が滅んでもかまわない」だったのではなかろうか。
 ウクライナとロシアの例に見るまでもなく、戦争は始めるより終わらせるほうがずっと難しい。
 泥沼化は必至である。
 
 本作のクレジットでは原作大宅壮一となっているが、大宅はその名を貸しただけで、実際に執筆したのは当時『文藝春秋』編集者だった半藤一利だった。
 2015年に原田眞人監督の手により再映画化(松竹)されたバージョンでは、原作半藤一利と訂正されている。
 こちらも、役所広司、山崎努、本木雅弘、松坂桃李、松山ケンイチなど実力派豪華キャストを揃えている。
 見較べてみたい。



 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 砂上の楼閣 映画:『ドント・ウォーリー・ダーリン』(オリヴィア・ワイルド監督)

2022年アメリカ
122分

 サスペンスホラーSF。
 砂漠の中にあるヴィクトリーという街に、夫ジャックと暮らす専業主婦アリス。
 美しく立派な家、ハンサムで優しい夫、仲の良い女友達、パーティやお稽古事や買い物に追われ・・・・すべてが完璧で絵にかいたような幸福な日々。
 街の男たちは、毎朝高級車に乗って、砂漠の中にある会社に出かけていく。
 そこは社員以外の住民は立ち入り禁止であった。
 夫は、いったいなんの仕事をしているのだろう?
 ヴィクトリー計画とはなんのことか?
 「心配するな、ダーリン」
 ジャックは何も教えてくれない。

 センスのいいスタイリッシュな映像と隠された真相への興味で、最後まで飽きさせない。
 ネタばらしはしないでおくが、ある有名なSF映画のアイデアを彷彿とさせる。
 一見ユートピア、実はディストピアという、ジャ×ーズ帝国のような物語。

 「砂上の楼閣」という言葉は中国の故事から来ているものと思っていたが、そうではなく、聖書の「マタイによる福音書」の中のイエスの次の言葉が由来らしい。

 わたしの言葉を聞いて実践する者は、岩の上に家を建てた賢い男のようなものだ。
 雨が降り、川があふれ、風が吹きつけようとも、その家はびくともしなかった。
 岩の上に建てられたからだ。
 
 わたしの言葉を聞いて実践しない者は、砂の上に家を建てた愚かな男のようなものだ。
 雨が降り、川があふれ、風が吹きつけると、その家は倒れて崩壊した。 

 英語では a house built on sand となる。
 ヴィクトリーという街はまさに砂上の楼閣であった。

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Paul BrennanによるPixabayからの画像

 ここに描かれる幸福像は、夫が働き妻は家事と育児をするという(トランプ元大統領の熱狂的サポーターが求める)50年代アメリカの典型的理想の家庭である。
 その後ウーマンリブが来て、フェミニズムが来て、世の男女関係も夫婦関係も一変したけれど、結局男たちの夢は50年代の「古き良きアメリカ」「パパはなんでも知っている」にあるのだろうか。
 女性監督であるオリヴィア・ワイルドはそう揶揄っているようだ。
 
 
 
おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 映画:『眼の壁』(大庭秀雄監督)

1958年松竹
95分、白黒

 松本清張の社会派ミステリー。
 原作は読んでない。
 小泉孝太郎主演で昨年TVドラマ化されたらしいが、知らなかった。
 よもや、こういう“フカ~い”話とは思わなかった。

 敬愛していた上司が約束手形詐欺にあい、責任を感じて自害した。
 部下の萩崎(佐田啓二)は、新聞記者の友人(高野真二)の助けを借りて、詐欺グループについて調査を開始する。
 行く先々で現れる謎めいた美女・絵津子(鳳八千代)に翻弄される萩崎。
 次々と殺されていく関係者。
 すべての背景には、政治家や右翼のフィクサーが関わる大がかりな犯罪組織があった。

 上の内容だけなら、よくある裏社会絡みの犯罪ミステリー、いわゆるフィルム・ノワール日本版で済むのだが、本作の一番の押さえどころは、くだんの犯罪組織の出自をそれとなく匂わせている点にある。
 清張も大庭監督も作品中でそれとはっきり名指ししなかった(できなかった)ので、気づかない人は気づかないまま観終わってしまうだろうが、本作の底には被差別部落問題が横たわっている。

 萩崎が調査に訪れた信州の村で、硫酸で肉を溶かす工場が出てくる。
 それが本作に使われるトリックの一つで、犯人一味が死体を硫酸で溶かすことによってその白骨化を速め、死亡推定時刻を混乱させたことがあとで判明する。
 このトリックが当時の検屍レベルにおいて成り立ったかどうか知らない。(榊マリコのいる現在の科捜研ではまず無理だろう)
 が、ここで押さえるべきは、食用に適さない屑肉を様々な方法で溶かして油脂や肉骨粉にし、石鹸や家畜の飼料や肥料をつくる、いわゆるレンダリング(化整)の仕事は、長いこと部落産業の一つとされてきたという点である。
 その村こそ、犯罪組織のボスや絵津子が生まれ育った土地だった。

水平社博物館
水平社博物館(奈良県御所市柏原)
部落の歴史や仕事、解放運動の歴史について学ぶことができる

 周囲から厳しい差別を受け、貧しい暮らしを強いられた部落の青年が、正体を隠して(三国人=朝鮮人のフリをしている)都会に乗り込み、才覚をもって身を立て、表では政治家に影響力をもつ右翼のフィクサーとなり、裏では犯罪組織のボスとなる。
 彼の手下となって働く一団こそ、同じ部落出身の仲間たち。
 自分たちを差別する社会や世間に対する複雑な思いを共にする、強い絆で結ばれた同志である。
 
 ウィキ『眼の壁』には、当時清張の小説が部落解放同盟から「差別を助長する」と批判を受け、いろいろやり合った経緯が書かれている。
 原作についてはわからないが、少なくとも本映画については、「差別を助長する」ものとは思えなかった。
 といって、部落問題がそれと判らぬようにうまく隠してあるからではない。
 社会や世間から蔑視され不当な差別を受け疎外され続けてきた人々が、社会や世間に対して恨みを抱き、グレたり復讐の念をもったりするのは、ある意味、当たり前の話であって、それを否定するのはかえって不自然である。
 自身部落出身を公言している作家の角岡伸彦が『はじめての部落問題』(文藝春秋)に書いているように、『なんらかの背景や理由があるから、人はヤクザになるのであって、それを見ずして「差別反対、暴力はいけません」「部落はけっして怖くありません」などと言うのはきれいごとに過ぎない』。
 現実に「ある」ものを「ない」と糊塗することでは、問題はいつまでたっても解決しない。
 「ある」ものは「ある」と認め、原因を探り対策を講じていくことが肝要である。
 「眼の壁」とはずばりタブーのことだ。
 タブーをタブーのままにして見過ごすことが、どれだけ当事者を苦しめ、社会をいびつにするかは、いまのジャニーズ問題をみれば明らかであろう。

 本作は、ボスの壮絶死と犯罪組織の解体によって事件が解決し、萩崎と絵津子の恋の成就を暗示させるシーンで終わる。
 萩崎は当然、事件捜査の過程で絵津子の出自を知った。
 でもそれは恋の前には関係ない。
 このラストが暗い物語を救っている。
 
 佐田啓二、鳳八千代、新聞記者役の高野真二、部落の老人を演じる左卜全、いずれも好演である。
 
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佐田啓二と鳳八千代 



おすすめ度 :★★★

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 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
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