ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

映画

● 映画:『ジュリアン』(グザヴィエ・ルグラン監督)

2018年フランス
93分

 フランス発のDV(ドメスチック・バイオレンス)サスペンス。
 ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞、セザール作品賞を獲得している。

 暴力的で嫉妬深い夫アントワーヌと別れ、18歳の娘と11歳の息子ジュリアンと新居での再出発を始めたミリアム。
 しかし調停により、ジュリアンは隔週末ごとに父親アントワーヌのもとで過ごさなければならない。
 ジュリアンを介してミリアムとよりを戻そうとするアントワーヌは、思い通りにいかぬ苛立ちから次第に偏執的になり、ある晩ついに母子の住むアパートメントに押し掛ける。
 手に猟銃をもって・・・。

 衝撃のラストに向かって、始めのうちはジワリジワリ、途中からゾワゾワ、しまいにはハラハラドキドキと、加速度を上げて高まっていく緊張感がたまらない。
 ストーリーは単純だが、観る者は11歳の少年の目を通して、大の男(=父親)の暴力と愛する母や姉、そして自身に襲い来る恐怖とを味わうことになるので、臨場感もはんぱない。

 DVを受けている被害者が、なぜ声を上げて訴え出ないのか、なぜ相手から逃げないのか、なぜ逃げ切れないのか、この作品を観ると非常によく理解できる。
 たとえ実際に身体的な暴行を受けるのでなくとも、始終追い回されて暴力の予兆が十分にあるというだけでも、つまり暴力の気配だけでも、人は竦んでしまい力を削がれてしまうものなのだ。

 原題 jusqu'à la garde は「完全に、徹底的に」という意味の慣用句だが、直訳すると「当直まで」「警備員まで」といった意味になる。
 一種の掛け詞になっていることが最後まで観ると分かる。
 加害者である父親役、被害者である母親役、息子ジュリアン、3俳優の演技が素晴らしい。

暴力的会話



おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● 難しい判断、やさしい判断 映画:『アイたちの学校』(高賛侑監督)

2018年日本
99分

 日本にある朝鮮学校の歴史と現状を描いたドキュメンタリー。
 アイとは朝鮮語で「子ども」のことである。
 監督の高賛侑(コウ・チャニュウ)は1947年生まれのジャーナリスト、ノンフィクション作家。自身、朝鮮大学を卒業している。

 2010年に施行された高校無償化制度から朝鮮学校は除外された。
 それを受けて、地方自治体でも朝鮮学校への補助金の打ち切りが続いた。
 これに象徴されるように、朝鮮学校の歴史とは在日朝鮮人に対する差別の歴史の典型であり、また、当事者及び彼らを支援する市民有志らによって繰り広げられた差別との闘いの歴史である。
 本作は知られざる歴史的資料や当事者の証言をもとに、100年余におよぶ差別との闘いを浮き彫りにしている。

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 ソルティはかつて朝鮮学校の近くに住んでいたことがあり、散歩や買い物の途中、校庭の金網越しに飾り気のない白いコンクリートの校舎を眺め、下校途中の生徒たちの会話を耳にすることがよくあった。
 朝鮮語の中にたまに日本語の単語が混じる彼らの会話はなんだか面白かった。
 学校のたたずまいからも、常にグループで行動する生徒たちからも、外部を拒否するような空気が感じられたものだが、これはソルティの偏見も入っているかもしれない。
 心なしか男子はイケメンが多かった気もするが、これもやっぱりソルティの希望的観測かもしれない。

 学校の脇を通りながら、思ったものである。

「いったいこの校門の向こうで、高い塀の中で、何が教えられているのだろう?」
「授業は何語で教えられるのだろう? 生徒たちは、日本語と朝鮮語とどっちが得意なのだろう?」
「生徒たちは日本という国をどう思っているのだろう? 韓国や朝鮮についてどう思っているのだろう?」
「自らが選ぶことなく置かれている在日朝鮮人という立場をどう思っているのだろう?」
「将来の展望はどんなものだろう? 

 いろいろと疑問は浮かび、勝手な想像はしたけれど、それ以上追及することはなかった。
 無責任な想像のうちで、紋切り型にして最も悪いイメージは次のようなものであった。

 教壇の上の、日本人の学校であれば「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」といったクラス目標が掲げられるあたりに、額縁に入った金主席の写真が飾られている。
 朝と帰りの学活の際には、クラス一同、直立して金主席に最敬礼を行ない、朝鮮語で「偉大なる父・金主席の指導に従い、祖国の発展のために精励します」といったような文言を唱和する。
 朝鮮の歴史や文化を学ぶ授業では、朝鮮中央テレビに出てくるチマ・チョゴリを着た女性アナウンサーのような抑揚と迫力とをもって、教師たちがひたすら祖国や金主席の偉大さを讃え、儒教道徳に基づく生活指導を行い、反日教育をほどこしている。

 つまり、日本の戦前・戦中の学校教育のコピーである。
 在日三世、四世の時代となり、意識も嗜好もすっかり日本人化してしまった生徒たちを、あらたに朝鮮人として「洗脳する」場所、それが朝鮮学校――というイメージがあった。

 本作では主として、大阪にある朝鮮学校(小学校、中学校、高校)の様子が紹介されている。
 戦後の日本人のだれもが通った日本の学校とほとんど変わりない、平凡な学校の日常風景がそこにある。
 生徒たちは時間割に沿って数学や音楽や体育を学び、サッカー、ラグビー、演劇、吹奏楽などのクラブ活動に仲間と打ち込み、運動会やバザーでは親御さんも一緒に活躍し、卒業式では神妙な顔で卒業証書をもらい、学校との別れに涙する。
 異なるのは、国語の授業が朝鮮語で、日本語は英語と並んで外国語として学ぶところ。そして、学校内では朝鮮語で話すことが決まりとなっているところ。
 朝鮮学校に通っている生徒たちやOBたちの証言から、朝鮮学校が「日本社会での孤立を防ぎ、自らのアイデンティティを確認し、自己肯定する」のに大いに役立っていることが理解される。
 それゆえ、日本国家のたび重なる朝鮮学校に対する迫害は、少数民族への人権侵害であり、子供たちから教育を受ける権利を奪うものであり、110年以上前の日韓併合によって「在日朝鮮人」という存在を生み出した加害責任の放棄と映る。
 ソルティも基本、朝鮮学校に対する“不当な”差別には反対である。

 ただ、本作では肝心の朝鮮学校の教育内容が語られていない。
 朝鮮文化や歴史を学ぶ授業があることは触れられているが、現在のかの国の体制(=金主席による軍事独裁政権)を踏まえての具体的な政治教育の中味が語られていない。
 つまり、金主席を自由に批判できるような民主主義教育がなされているのか?
 そこのところが伏せられている。
 そのために、かつてソルティが抱いた“悪いイメージ”ほどではないにしても、やっぱり学校関係者は今の金政権や全体主義国家体制を批判できていないのではないかという疑問が残る。
 たとえば高監督は、生徒たちや教師や親御さんに直接マイクを向け、「いまの北朝鮮の体制をどう思っていますか?」といった質問さえ投げかけていない。
 そこを省いて(隠蔽して)、「子どもが教育を受ける権利」とか「少数民族の伝統や文化を守る権利」を主張されても、今一つ腑に落ちないものがあるのが正直なところ。

 (実際の朝鮮学校がどうなのかは知るところでないが)今の北朝鮮の体制を賛美肯定するような教育を行っている学校を、民主主義を標榜する日本国家がどこまで認めて公金で支えるか、そこは難しい判断であろう。

 一方、作中に登場する某右翼団体のような、当事者(しかも子どもたち!)に対するヘイトスピーチや威嚇行為は理由がなんであろうと決して許されるものではないし、それを取り締まらない行政のありようは差別を助長する人権侵害であるのは明らかである。
 その判断は難しくないはずだ。

 
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おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 
 

● モダニズム建築小津風 映画:『コロンバス』(コゴナダ監督)

2017年アメリカ
103分

 コロンバスはアメリカのオハイオ州にある小都市。
 モダニズム建築の街として知られている。

モダニズム建築または近代建築は、機能的、合理的な造形理念に基づく建築である。産業革命以降の工業化社会を背景として19世紀末から新しい建築を求めるさまざまな試行錯誤が各国で行われ、1920年代に機能主義、合理主義の建築として成立した。19世紀以前の様式建築(歴史的な意匠)を否定し、工業生産による材料(鉄・コンクリート、ガラス)を用いて、それらの材料に特有の構造、表現をもつ。(ウィキペディア「モダニズム建築」より抜粋) 

 有名なところでは、アール・デコ、フランク・ロイド・ライト、シドニーのオペラハウス、国立代々木競技場なんかが入るらしい。

シドニーオペラハウス
シドニーのオペラハウス

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コロンバスのモダニズム建築


 この映画の主役はまさにモダニズム建築である。
 観光ビデオさながらに、コロンバスにある有名な建築物が次から次へと映し出される。
 よって、映像の美しさの半分は被写体の美しさに拠っているわけだが、ズームも引きも移動もほぼない固定ショット限定というスタイルが、残りの半分の因を占めている。
 このスタイルこそ、本作が小津安二郎に対するオマージュと言われるゆえんであろう。
 確かに人がメインのシーンでも、『東京物語』や『晩春』を想起させるショットがいくつかあった。

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主人公の少女が母親との別れに泣く場面

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『東京物語』で義母との別れに泣く紀子(原節子) 
 
 本作がコゴナダ監督の長編デビューとのこと。
 素晴らしい映画的感性の持主であることはこれで証明された。
 これからどんなオリジナルなテーマを打ち出していくのか、自作を待ちたい。
 

おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
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● デヴィッド・ボウイのテスラ 映画:『プレステージ』(クリストファー・ノーラン監督)

2006年アメリカ、イギリス
128分

 19世紀末のロンドン。
 マジックショーに人生をかけた二人の男(ヒュー・ジャックマンとクリスチャン・ベール演ず)の熾烈な闘いを描くミステリードラマ。

 二人が奇術のネタを求めてはるばるアメリカまで渡って出会う人物が、何を隠そう、天才科学者ニコラ・テスラ
 当時、電気を使った派手な公開実験で衆目を集めていたのである。
 このテスラをなんと往年の美形ロックミュージシャン&俳優たるデヴィッド・ボウイが演じている。
 『戦場のメリークリスマス』で世の婦女子を虜にした黄金の美貌こそ、さすがに過去のものではあるが、カリスマ性あるたたずまいは浮世離れした異端の天才科学者にふさわしい。


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テスラに扮するデヴィッド・ボウイ


 ここでのテスラは失意のマッド・サイエンティストとして描かれている。
 奇術師の依頼によりテスラが作成した電磁波を使った装置によって、文字通り一世一代の“人間瞬間移動”マジックが実現したという設定である。
 むろんフィクションであり、テスラはそんな装置を手がけることはなかった。
 アメリカの都市伝説の一つで、テスラが当初関わったと言われるフィラデルフィア計画がこのエピソードのもとになっているのだろう。

  


おすすめ度 :★★

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● ブッキーの無駄遣い 映画:『黒衣の刺客』(ホウ・シャオシェン監督)

2015年中国、台湾、香港
106分
中国語

 『童年往事』(1985)、『悲情城市』(1989)のホウ・シャオシェン(侯孝賢)はソルティの最も好きな映画監督の一人であるが、ここ30年とんと追っていなかった。個人的には『悲情城市』で頂点を極めたという印象がある。
 撮影本数も2000年に入ってからグッと減って、この『黒衣の刺客』は8年ぶりの新作という。(その後は今のところない)
 
 映画史に残る名監督の8年ぶりの新作で、カンフー系のアクション時代劇という触れ込みで、第68回カンヌ国際映画祭の監督賞を獲り、日本からはブッキーこと妻夫木聡が出演しているというのに、話題になったという記憶がない。
 なんでだろう??と思いながら観たのだが、答えは簡単。
「つまらなかった」

 8世紀の群雄割拠の中国が舞台というだけでも歴史をよく知らない者には背景がわかりにくいのに、登場人物の関係性がややこしく、同じような民族衣装をまとった役者の顔も見分けがつかず、筋書きもつかみづらく、登場人物が何を考えどう感じているのか捉えにくい。脚本(監督自身による)が不親切なのだ。
 そこにホウ監督ならではの緩慢で濃密な時の流れを映したカットが続くので、何度か寝落ちするところであった。

 最後まで見続けられたのは、やはり映像の素晴らしさに尽きる。
 中国王宮ドラマの色彩の美しさはもとより、風、火、水、木、煙、光といった自然の揺らぎを敏感に捉えて映し出す手腕は、監督デビューの頃から変わらずに健在であった。
 映画を観る至福が一方にあり、ドラマに入り込めない苛立ちが一方にある。

 独自のスタイルを持つ監督が自他ともに認める巨匠となり、周囲の人間が誰も忠言できなくなる、監督も周囲の助言に耳を傾けなくなると、えてしてこういった独りよがりに陥りがちである。
 このつまらなさは世のカンフー系アクション映画に対する冒瀆であろう。
 芸術映画というならまだ許せる気もするが・・・。


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どういう役柄かいっこうにわからない中国人?の妻夫木聡
(とりえず大監督の作品に出演できて良かったね)



おすすめ度 :

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● 蒲田調 映画:『隣の八重ちゃん』(島津保次郎監督)

1934年松竹
77分

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 俗に蒲田調と言われる小市民の日常を切り取ったドラマ。
 島津保次郎(1897-1945)作品を観るのはこれがはじめて。
 二十歳の原節子主演で『嫁ぐ日まで』を撮っている。
 フィルムが残っているならぜひ観たいものだ。
 本作のクレジットでは助監督として豊田四郎と吉村公三郎、撮影の一員として木下惠介の名が上がっている。後進を育てる名人だったのだろう。
 
 出てくる俳優で見知っていたのは、『一人息子』など小津安二郎作品の常連であった飯田蝶子くらい。
 八重役の逢初夢子、岡田嘉子、高杉早苗も名前だけは聞いたことのある伝説の女優といったイメージ。とくに岡田は共演男優との駆け落ちや妻のいる共産主義者とのソ連逃避行など、スキャンダルで名を売った。
 八重の幼馴染で思われ人の恵太郎を演じる大日向伝(おおひなたでん)は、阿部寛のような正統派美男子。のちにブラジルに渡って牧場経営し巨万の富を築いたというから面白い。
 当時の役者の奔放さ。 
 
 昭和初期の東京近郊の住宅地の風景がなんともゆかしい。
 午後から銀座に映画を見に行ったり、近くに大きな土手があるところからして、隅田川か荒川近辺なのではないかと思うのだが・・・。

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 大学をさぼって早帰りした恵太郎が自宅の鍵が閉まっているのを見て、隣の八重の家に勝手知ったる我が家のごとく上がり込み、昼食をよばれるシーンがある。
 父親の仕事の関係で大陸行きが決まった八重の家の引っ越しを、恵太郎一家が総出で手伝い、みんなで見送るシーンがある。 
 昭和40年代くらいまでの日本は、東京近郊でもこんなふうだったなあ。


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おすすめ度 :★★★

★★★★★
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● 50年前の四国遍路 映画:『旅の重さ』(斎藤耕一監督)

1972年松竹
90分

 少女が四国遍路する話というので借りてみた。
 懐かしい景色が観られるかな~と思って・・・。
 
 が、残念ながら少女の歩いている場所が四国のどこなのかほとんど見当がつかず、画面に映し出される美しい自然風景や家並みにも見覚えがなかった。
 主人公の少女が歩いた70年代初めの四国と、ソルティが歩いた2018年の四国とでは、あまりに変貌著しく、わずかに高知の海岸沿いの岩塊そそり立つ光景だけが、「こんな感じのところを通ったな」と思い返すのみであった。
 南国ならではの明るい光だけは、半世紀近く隔てても変わりなかった。


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今ではこのように舗装されていない道自体が少ない


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愛媛の段々畑(少女は逆打ちしている)


叶崎光景
2018年の遍路で歩いた高知の海岸(足摺岬の西側)

 家庭環境に悩んだ16歳の少女が、自宅のある愛媛の新居浜を出発し、一人巡礼の旅に出る。
 途中、白装束のお遍路と出会い、道々お接待を受け、ふらりと入った街(松山あたりか?)の映画館では痴漢に遭い、ドサ回りの役者連中と数日過ごす間に一座の男に襲われ、女にレズビアニズムを仕込まれる(若い女性の遍路行はかくもスリリングである)。
 高知の海辺の町で栄養失調に倒れた少女は、魚の行商をしている中年の男(=高橋悦史)に助けられ、介抱を受けるうちにいつしか男女の仲になっていく。

 主役の高橋洋子はこれがデビュー作。
 応募者2000人近いオーデションで秋吉久美子と競って勝ち取ったという。
 撮影当時18歳。
 素朴で健康的で瑞々しい。
 砂浜での全裸シーンやレズビアンシーンにも果敢にチャレンジしている。
 この2年後に熊井哲監督『サンダカン八番娼館 望郷』に抜擢され、女衒にだまされてボルネオの娼館に売られる「からゆきさん」を、やはり体当たりで演じている。
 女優としてたいへん恵まれたスタートを切ったのである。


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主役を競った秋吉久美子と高橋洋子
秋吉にとってもこれがデビュー作となった

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高知の容赦ない陽射しと青い海は遍路を解放的にする
(ソルティも実は全裸で泳ぎました


 旅芝居一座の座長を三國連太郎が演じている。
 上手さは言うまでもないが、息子の佐藤浩一との相似にびっくりした。

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三國連太郎(当時39歳)


 よしだたくろうの『今日までそして明日から』をBGMに、野宿もいとわず自然の中を歩き、いろいろな人との出会いを重ねて自分探しをする少女の姿は、まさに60~70年代のヒッピー文化を彷彿とする。
 70年代初頭の日本の地方の風景が切ないほど美しい。
 こんな豊かな旅はもうできない。
 日本列島改造計画やバブルを通過して国土はすっかり変わってしまったし、日本中どこにいてもインターネットから逃れられない。
 たとえば、見知らぬ美しい少女が砂浜で全裸になっているところを見かけたら、スマホを取り出して隠れて撮影する不届きな輩がいることだろう。
 そして、それをSNSに投稿するだろう。
 またたく間に少女のヌードは世界中に配信されて拡散し、多数の「イイね!」を獲得し、その砂浜はどこで、どこの海か、映っている少女はどこの誰なのか、特定する者が現れることだろう。
 翌日には、少女を一目見るために(あわよくば性的欲望を満たすために)、全国から暇な男たちが四国遍路に押しかけるやもしれない。
 少女は旅を続けることができなくなるであろう。
 
 今や、“旅行”はできても“旅”は難しくなった。
 
 
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
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● コロナではない、それは・・・  映画:『ステイ・ホーム』(ロベルト・デ・フェオ監督)

2019年イタリア
108分

 幼い頃に自動車事故で父親を失い、自らは車椅子生活となった少年サミュエル。
 使用人に囲まれながら、広大な森の中の屋敷に母親と二人で暮らす。
 「外は危険、家の中が一番」と聞かされ続け、生まれてから一度も敷地の外に出たことはない。
 ある日、外の世界から一人の少女デニーズがやって来て、使用人の一人となる。
 快活で美しいデニーズに心を奪われたサミュエル。
 デニーズを虐げる母親に憤りを覚え、ある夜、デニーズと共に屋敷をあとにする。

 一見、支配的で精神異常の気のある母親の束縛から、恋に目覚めた思春期の息子が自立する物語と読める。
 それは間違いないのだが、ラストで話がひっくり返る。
 原題 Il nido は「巣」の意だが、それは母鳥が必死で雛を守る巣であると同時に・・・・。


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 母親役のフランチェスカ・カヴァリンという女優が素晴らしい。
 凛とした美しさのうちに、狂気に近い母の愛、怖れと哀しみを表現している。
 イタリアのニコール・キッドマン(@『アザーズ』)といったふう。
 
 色彩感覚と画面の照りはまさにイタリア映画である。
 
 
おすすめ度 :★★

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● リアル若者たち 映画:『日本春歌考』(大島渚監督)

1967年松竹
103分

 上京し大学受験を終えたばかりの高校生たちの数日間を描く青春ドラマ。
 と言っても時代は学園紛争直前、ベトナム戦争や日米安保反対の声がかまびすしい政治の季節。
 そして、監督は『青春残酷物語』の大島渚である。
 元千葉県知事・森田健作主演の明るく爽やかな青春ドラマのようにはどうしたってなりようがない。
 実際、本作中にはベトナム戦争反対を訴える男女の学生たちが、キャンプファイヤーを囲んでギターを鳴らしながら森田健作もカヴァーしたザ・ブロードサイド・フォーの『若者たち』を合唱するシーンが出てくるが、主人公の少年たちはこの輪の中に入ることはなく、性に飢えた目つきと妄想でいっぱいの脳みそを抱えながら「ひとつ出たホイの良さホイのホイ」と春歌を口ずさみつつ街をうろついている。
 その意味では、左翼思想にかぶれ平和や友情や未来を語る当時の楽天的な青年群像に、日本古来の猥雑な文化(春歌)を対置させた大島流の風刺映画と言えるかもしれない。
 性の飢餓の前には政治がなんだ!というリアル・・・・。

 大島監督は空間の扱いが滅法うまい。
 奥行き表現や空間の中の人や物の配置の妙が日本人離れしている。立体的なのだ。
 また、『太陽の墓場』でも示したように、いかに残酷な話であろうと、いかにどぎついアブノーマルな場面であろうと、品格を失うことはない。洗練されている。
 後年、国際的な評価(とくにフランスで!)を得るようになったのは、この空間性と洗練によるところが大きかったのではなかろうか。

 主演の高校生を演じるのは荒木一郎
 撮影当時23歳、高校生にはまったく見えない(笑)
 1966年『空に星があるように』でレコード大賞新人賞をとった歌手でもある。
 とりたててハンサムというのではないが、印象に残るふてぶてしい面構えである。

 大島の妻である小山明子の若い頃ははじめて観た。
 非常にムードのある女優。

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 ほかに、伊丹一三(のち十三と改名)、串田和美、宮本信子、吉田日出子が出演している。伊丹と宮本はこの映画がきっかけで付き合いはじめ結婚に至ったという。

 こんな小難しく政治的な装いの映画が、制作を許され、全国上映され、それなりに評判を呼んだ時代があったというのが不思議な気がする。



おすすめ度 :★★★

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● 映画:『ナンシー』(クリスティーナ・チョー監督)

2020年アメリカ
86分

 ヤフーの映画レビューを見ると、「だまされた!」的な苛立ちや失望を表明するコメントが多い。
 それは、巧みなプロットに「だまされた!」ではなくて、サイコサスペンスと思って借りたのに普通のヒューマンドラマだったという肩透かしだ。
 確かに、レンタルショップのサスペンスコーナーに置いてあるし、「いかにも」サイコっぽいDVDジャケットだし、「ナンシー」というタイトルもまた『エルム街の悪夢』のヒロインかナンシー関を連想させるし(早見優『夏色のナンシー』というのもあるが)、なんたってサンダンス映画祭出品である。
 ソルティも、てっきりサイコサスペンスだと思ってレンタルした。
 もっとも、作品の出来そのものは悪くなかったので、苛立ちや失望は感じなかったが。
 先日観た『ナイチンゲール』でも同じ錯覚というかトリックに引っかかった。
 たぶん、普通のドラマとして出すよりサスペンスとして売ったほうが買い手の反応がいいことからの販売戦略なのだろう。


ナンシー (2)

 ビッチで病弱な母親と二人きりで暮らす30代のさえない娘ナンシー。
 四六時中スマホやパソコンにかまけ、SNS上で架空の人物になって見知らぬ相手とのフェイクな関係を楽しむのが趣味。
 ある日、母親を失ったばかりのナンシーは、30年前に行方不明になった幼い娘を探しているリンチ夫妻のTVニュースを観る。CGで予想された娘の30年後の顔立ちが自分と瓜二つだった。
 ナンシーは夫妻に連絡を取り、「自分があなた方の娘なのではないか?」と告げる。

 話のメインは、夫妻の家に愛猫とともにやって来たナンシーが、DNA鑑定の結果が出るまで彼らと一緒に暮らす間の三者三様の気持ちの揺れ動きである。
 ナンシーを実の娘と信じたくて、かいがいしく世話する妻エレン。
 信じたいけど疑いがぬぐいきれない夫レオ。
 一方、ナンシーの過去は観る者にはっきりと示されないので、ナンシーの話のどこまでが本当でどこからが作り話なのかが分からない。
 ナンシーは嘘と知りつつ(DNA鑑定でばれることを知りつつ)夫婦をだましたのか?
 それとも、自分でも「もしかしたら?」という一抹の希望のもとに、夫婦のもとにやって来たのか?
 あるいは、ナンシーもまた悲惨な過去や受け入れがたい現在から逃れるために、自分で自分をだましているのか?
 そのあたりは観る者の解釈にゆだねられている。

 孤独なナンシーを演じるアンドレア・ライズボロー、ビッチな母親役のアン・ダウド、娘を失った父親役のスティーヴ・ブシェミ、同母親役のJ・スミス・キャメロン。
 この4人の演技が甲乙つけがたく素晴らしい。
 脚本、映像もレベルが高く、カットの処理も巧みである。
 良い意味で「だまされた!」という印象を持った。
 
 
おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損

 

● LGBTとスパイ 映画:『裏切りのサーカス』(トーマス・アルフレッドソン監督)

2011年イギリス、フランス、イタリア
128分

 GEO(ゲオ)のサスペンスコーナーに置いてあったスパイ物なので、サーカスを隠れ蓑にした国際的な犯罪組織をめぐる捕物帳かと思った。江戸川乱歩まがいの・・・・。
 そのうちに大テントが出てきて象やピエロや空中ブランコの美女が客席を賑わすなか、追う者と追われる者の手に汗握るアクションシーンが始まると思っていたら、どこまで行ってもオフィス街から離れることはなく、スーツ姿の地味なオヤジたちのやりとりが続く。


サーカスのテント


 裏切られた(笑)
 サーカスとは、かつての英国秘密情報部 M I 6の通称だったのである。
 原作はスパイ小説で有名なジョン・ル・カレの『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』。
 ソルティはジョン・ル・カレは読んでいない。

 全般に丁寧なつくりで映像センスも良く、英国らしい落ち着いた品がある。
 役者の重厚感も素晴らしい。
 しかし、難解である。
 前もって原作を読んでいる人ならともかく、一度見るだけでストーリーを理解できる人は多くないだろう。
 007やジェイソン・ボーンのような分かりやすいスパイアクションを期待して観始めると、途中で脱落しかねない。
 
 東西の冷戦構造を背景にしたイギリスとソ連のスパイ合戦というあたりはすぐに理解できるが、スパイ物はその性質上、隠された人間関係や秘められた過去のエピソード、正体不明な人物、複雑な政治情勢などが錯綜するので、よほど整理して手際よく語っていかないと、観る者は混乱するばかりである。
 なのに、この映画は説明が不親切なのだ。
 誰と誰がどういう関係なのか、誰が誰の指令で動いているのか、よく分からない。
 時間軸もあちこち飛ぶので、物語の流れが把握しにくい。
 場面も次々変わる。
 説明ゼリフがほとんどないのはリアリティ重視の観点から悪くないとは思うが、ナレーションもなければ、シーンの時や場所を教えてくれるキャプションもつかないので、物語を頭の中で組み立てるのに困難が生じる。
 たとえば、これを主人公の諜報員スマイリー(=ゲイリー・オールドマン)の回想譚という設定にすれば、スマイリー自身に適宜ナレーションを入れさせ、状況や人物について解説や注釈を入れることができる。
 そうすれば、観る者にとって分かりやすいものになったはず。
 ハリウッドだったらそうしたかもしれない。
 そういう手段を取らず、あくまでリアルタイムの話に徹したところが、ヨーロッパ映画らしいと言えなくもない。
 すなわち、観る者の読解力に挑む作品である。


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ゲイリー・オールドマン


 その最たるものが、この作品に含まれるLGBT色だろう。
 時代が時代(1960~70年代)なのでそこははっきりと明示されていないが、この映画にはゲイやバイやレズビアンが登場する。
 多くの鑑賞者はそこに気づかないのではなかろうか?
 ほんの数カット、ほんの数行のセリフで、それは暗示されているので、勘のいい人でないと見過ごしてしまうであろう。
 たとえば、スマイリーの腹心の部下ピーター・ギラム――演じているのは『SHERLOCK(シャーロック)』で有名になったベネディクト・カンバーバッチ――はゲイである。スマイリーに「身辺の整理をしろ」と言われて、教員をしている男性の恋人に別れを告げるシーンがある。
 それこそほんの数カットとセリフ2つ、3つである。
 それでもこれはまだ分かりやすいほうで、M I を首になった元ソ連分析官コニー・サックスはレズビアンであろうし、ハンガリーで狙撃されて障害者になった M I 工作員ジム・プリドーはゲイであり、M I 幹部の一人ビル・ヘイドンとかつて恋仲にあったことが匂わされる。
 そのビル・ヘイドンは男も女もOKのバイであろう。
 この映画自体が、隠されたLGBT映画と言えるかもしれない。
 クローゼットという点で、スパイとLGBTは近親性があるのだ。

 役者の顔触れも壮観。
 主役のゲイリー・オールドマンの渋さ、ビル・ヘイドン役のコリン・ファースの艶やかなオーラと演技の巧さ、『オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分』で実力のほどを世界に知らしめたトム・ハーディはここでは金髪の美青年である。M I のリーダーを演じるジョン・ハートの前身はあの懐かしき『エレファント・マン』だ。身長163cmのトビー・ジョーンズは特異な容貌で印象に残る。


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男も女も魅了するコリン・ファースの笑顔
 

 トム・ハーディ演じる M I 工作員とロシアの女スパイのエロティックシーンはあるけれど、二人が結ばれることはなく、全般に男ばかりの味気ない世界である。
 それがなぜか米国のようにマッチョな感じにならないのが英国の不思議なところ。
 米国の男は社会で幅を利かせるために金と力を必要とするが、階級社会の英国では男のステイタスは生まれたときにある程度決まってしまうからだろうか。
  
 


おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 大映三大女優・美の饗演 映画:『女経』

1960年大映
100分、カラー

 3話から成るオムニバス映画。
 タイトルの「女経」とはどういう意味かと思ったら、なんと!

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第一話 「耳を噛みたがる女」 (監督:増村保造 撮影:村井博)
 トップバッターは若尾文子。
 だるま船に暮らす色っぽくしたたかなホステス紀美を演じている。
 「おんな」を使って男を振り回す、まさに若尾らしい役どころ。
 だるま(達磨)船とは幅が広い木造の和船で、昭和初期頃に貨物の運送に使用されていたが、のちに港湾労働者を中心にその中で水上生活する者が増えていった。
 小栗康平監督の映画『泥の河』(1981)は、大阪の安治川で水上生活する昭和30年代の家族の話を扱っているが、東京でも隅田川で見られたらしい。
 80年代にはなくなったという。
 紀美が最初の婚約者に捨てられたのは、水上生活者であったことによる。
 リアリティを追求する増村演出がここでも光っている。

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若尾文子(公開当時27歳)


第二話「物を高く売りつける女」 (監督:市川崑 撮影:小林節雄)
 掛け値なし「日本一」の美女と謳われた山本富士子が、不動産業界を舞台にやはり「おんな」を武器に詐欺を働く。
 これほどの美女に引っかからない男がいようか。
 カモにされる相手は船越英二、2時間ドラマの帝王・船越英一郎の父親である。
 着物姿の山本の艶やかなこと!
 市川崑の演出は、金田一耕助シリーズを彷彿とする。

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山本富士子(当時29歳)


第三話「恋を忘れていた女」 (監督:吉村公三郎 撮影:宮川一夫)
 ラストを飾るはグランプリ女優の京マチ子
 京都で修学旅行生相手の旅館やバーを営む商売一筋のやり手の女将。
 それが昔の恋人と再会することによって「おんな」を取り戻し変わっていく。
 『羅生門』、『雨月物語』、『破戒』の宮川一夫のカメラとともに、『安城家の舞踏会』でも見せた吉村演出が素晴らしい!
 京マチ子もただ美しいだけでなく、ラストの橋の場面など非常に「おんな」っぽく撮れている。
 3話のうち、これがベスト。

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京マチ子(当時36歳)


 3人の女に共通するのは、美しい外見の裏にある“したたかさとがめつさ”であろう。
 「きれいなバラには棘があるから気をつけよ、ご同輩」というのが男性観客に説く女経の骨子に見える。
 だが、彼女たちの“したたかさとがめつさ”の背景には、男社会で学のない女が一人、身を持ち崩さずに凛として生きていくことの難しさがある。
 枕営業が横行した昭和時代なら特に。
 
 1960年の観客と2021年の視聴者とでは、観るべきものが異なって当たり前。
 またそれを可能にするのが名作と言われるゆえんであろう。



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 二大名女優が法廷で火花を散らす TVドラマ:『ビッグ・リトル・ライズ』

2017年第1シーズン(全7話)
2019年第2シーズン(全7話)
アメリカ

 リアーン・モリアーティのミステリー小説『ささやかで大きな嘘』のTVドラマ化。
 風光明媚な海辺の街を舞台に、同じ幼稚園に通う子供を持つ母親5人の波乱含みな私生活、互いの対立や友情が描かれる。
 原作に基づいているのはミステリー仕立ての第1シーズンまでで、第2シーズンは原作の設定をそのまま借りたTV版オリジナルのストーリーとなっている。
 
 見どころは、中心となる5人の母親を演じる女優たちの演技合戦。
 アカデミー主演女優賞に輝くリース・ウィザースプーン(『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』2005)、ニコール・キッドマン(『めぐりあう時間たち』2002)を中心に、シャイリーン・ウッドリー、ローラ・ダーン、ゾーイ・クラヴィッツらが、それぞれ異なった育ちや背景を抱える女性たちを個性豊かに演じている。
 とくに、絵にかいたような勝ち組の戦闘的女性を演じるローラ・ダーンの第2シーズンにおける切れまくった演技は痛快である。

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左からローラ・ダーン、 メリル・ストリープ、 リース・ウィザースプーン、
ニコール・キッドマン、 ゾーイ・クラヴィッツ、 シャイリーン・ウッドリー

 
 最高の贈り物は、第2シーズンから参戦のメリル・ストリープ。
 すでに映画史にその名をゴシックで刻んだ大女優が、なんとニコール・キッドマンの姑役!で出演している。
 彼女の役は、第1シーズンで階段から突き落されて亡くなったペリー・ライト(=アレクサンダー・スカルスガルド)の母親メアリー・ルイーズ。
 ニコール演じる嫁のセレステ含む主要5人の女優陣とは役の上で対立する一筋縄ではいかない難敵であり、第2シーズン全体を引っぱる重要な狂言回しである。よほどの貫禄と演技力がなければ務まらない。
 むろん、メリルはいつものごとく完璧に演じて、5人の後輩女優が束になっても打ち倒せない分厚い壁となって最後まで立ちはだかり、強烈な印象を残す。

 父親ペリーを失った可愛い双子の男の子(メアリー・ルイーズから見れば孫)の監護権をめぐって、嫁であり子供たちの母親であるセレステと法廷で争う場面では、姑と嫁との骨肉の争い以上に、メリル・ストリープとニコール・キッドマンというハリウッド最高の現役名女優の火花散るスリリングな演技対決に注意は絞られる。
 傍聴席にセレステの味方として座っている他の共演者たち同様、視聴者もまた固唾をのんでこの滅多見られぬクライマックスシーンを見守るほかない。
 いいもん見た~。

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姑役のメリルと嫁役のニコールのほのぼの共演シーン



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
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● 本:『歩いて行く二人』(岸惠子、吉永小百合対談集)

2014年世界文化社

 上質の紙に板のようにがっちりしたハードカバー、パリを背景にしたエレガントな二大美人女優のカラー写真も豊富なゴージャスなつくり。
 痩せても枯れても世界文化社だ。
 まあ、昭和の銀幕を彩った押しも押されもせぬスターの対談とあらば、これくらいの贅沢こそふさわしかろう。

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 横浜での最初の対談(2009年10月)、パリでの2回目の対談(2013年6月)、横浜での3回目の対談(2013年10月)が掲載されている。
 この間にあった未曽有の事件と言えば、東日本大震災と福島原発事故である。
 二人の会話は、女優同士の対談にありがちな芸能や恋バナ、結婚や家庭の話、それぞれの人生観披露などにとどまらず、原発や戦争、ボランティア、外交問題や異文化共生の話などにまで及び、二大女優の社会的視野の広さと問題意識の高さと行動力を知らしめる。
 二人とも美しいだけでなく、賢くて、おのれをしっかり持っている。

 岸惠子は1932年生まれ。吉永小百合は1945年生まれ。
 13歳違いである。
 対談当時、岸は80歳を超えていたわけだが、まったくそうは見えない。
 いいとこ60代である。
 ファッショナブルでスタイルも良く、パリの街に溶け込んでいる。
 否、パリの街をより優雅に見せる点景と化している。
 が、会話ではむしろ江戸っ子のようにさばさばした思い切りのいい性格がうかがえる。
 
 吉永小百合は60代半ば。
 これまた若く美しい。
 洋装ではさすがに本場仕込みの大先輩にかなわないと思ったのか、着物で通している。
 これは正解。
 日本的な美がパリの街に輝いているのを見るのは誇らしい。
 
 紙面から反原発や憲法9条護持の活動をしている吉永の思いが生半可なものじゃないことが伝わってくる。一途な理想家。
 一方、「ペシミストじゃないけどリアリスト」という岸は、自らがジャーナリストとして世界各地をめぐり見聞した経験をもとに、吉永の認識の甘さを指摘する。

吉永 21世紀になって、いろいろな紛争がありますが、みんなが「地球は一つの国」という意識を持つようになることが必要ですよね。
 ならないわよ、小百合ちゃん。無理。人間もいろいろだもの。・・・・(中略)・・・・残念ながら、私は紛争はなくならないと思うの。本当の意味での世界平和なんてあるのかしら?と私は疑ってるの。人間は学ばないんだもの。歴史から。忘れるんですもの。忘れて、繰り返す。

 この認識の違いが、まさに二人の女優の芸質の差を表しているようで興味深い。
 『おとうと』(1960)のげん(岸惠子)と『キューポラのある街』のじゅんの差だ。
 あるいはまた、二人の唯一の共演作『細雪』(1988)の長女鶴子と三女雪子の差だ。



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
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● 史上最も呪われた映画 :『アントラム 』(マイケル・ライシーニ/デビッド・アミト監督)

2018年カナダ
94分

 「観たら死ぬ」、「入場料はあなたの命」、「何が起きても自己責任で」といった大げさなコピーで煽る煽る!
 「なら観てやろうじゃないか!」と逆にソルティのような物好きが、誘蛾灯に誘われる蛾のように捕まってしまうのである。
 はい、一匹確保(笑)

 アントラムとはラテン語で「門」の意。
 すなわち、地獄の門。
 亡くなった飼い犬の魂を救うため、自殺の名所たる不吉な森の中に入っていく美しい姉と弟。
 地獄の門をひらくべく、スコップを手に大地を掘っていく。
 すると、次から次へと禍々しい事件が勃発し・・・・・。

 ――といった内容の映画が1979年にアメリカで撮影された。
 ハンガリーでの公開初日に映画館が火事になり、観客56人が死亡。
 その後も、上映のたびに関係者の不審死や暴動が続き、フィルムは封印され、いつのまにか行方不明になった。
 マイケル・ライシーニとデビッド・アミトは、撮影から40年を経てフィルムを発見、これまでの経緯の説明を添えて幻の映画『アントラム』の公開に踏み切った。

 ――という映画である。
 一本の映画の中に別の映画が仕込まれている、いわゆるメタフィクション。
 1979年制作の映画というのが実際に撮られたものなのかどうか、上映のたびに各地で起きた怪奇事件というのが本当なのかどうか、そこは観る者の判断に任されている。

 ソルティの興味は別のところにある。
 この映画の怖さの中核をなすものは西洋文化の共同幻想の最たるもの、すなわちキリスト教の地獄や悪魔のイメージに拠っている。
 西洋文化圏に生まれ育った人ならば、地獄や悪魔あるいはそれらを表すシンボル(たとえば逆五芒星やヤギなど)に対し、潜在的か顕在的かを問わず、恐怖や忌避感を持っていることだろう。
 一方、我々日本人の多くはクリスチャンでないので、それらに対して“現実感”を持っていない。どこか他人事、絵空事である。
 たとえば、「羊にくらべてヤギが怖い」という日本人はそうそういないと思う。(ハイジに出てくる「ユキちゃん」のイメージが結構ある)


ユキちゃん


 ソルティはこの映画を観て、『13日の金曜日』のようなサスペンス映画のショッキングシーンで受ける生理的恐怖以上のものは感じなかったけれど、西洋人とりわけクリスチャンは宗教意識にもとづいた根源的恐怖を感じるのだろうか?


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バルタン星人とメフィラス聖人を足して2で割ったような印象の悪魔




おすすめ度 :

★★★★★
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★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 映画:『狂った果実』(中平康監督)

1956年日活
87分、モノクロ
原作・脚本 石原慎太郎

 のちに夫婦となった石原裕次郎と北原三枝の初共演作。
 北原三枝は品あって美しい。
 津川雅彦が主役の青年をつとめ、新人とは思えぬ演技を披露している。
 やっぱ、血筋だな。

 単純に言うと、遊び人の兄が、うぶで真面目な弟のはじめて好きになった女を横取りし、怒り狂った弟が兄と女に復讐するという話。
 遊び人の兄を裕次郎、清楚なお嬢様に見えて実は中年の外人に養われている女を北原三枝、うぶな弟を津川が演じている。
 舞台は、石原慎太郎十八番の逗子の海。
 不良のボンボンたちが親の別荘に屯ろってバカ騒ぎし、派手なアロハを着てボートや外車を乗り回す。

 フランソワ・トリュフォーが高い評価を与えたと聞いていたので期待して観たのだが、津川の演技以外は興味が引かれず、退屈した。
 ソルティは、どうも太陽族ってやつが好かん。
 上級国民の子弟のワガママとしか見えん。
 働けや。 


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友情出演の桑田佳祐と石原慎太郎
・・・じゃなかった、長門裕之


おすすめ度 :★★

★★★★★
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● 映画:『ナイチンゲール』(ジェニファー・ケント監督)

2020年オーストラリア
133分

 レンタルショップのサスペンスコーナーに置いてあり、猟銃を手にした若い女性が森を駆けるパッケージデザインから、サイコパス看護師による大量殺人スプラッタホラーを予想していた。
 ところが、蓋を開けてみたらまったく違って、正統なる歴史物にして社会派ドラマであった。
 ナイチンゲールという題名は白衣の天使とは関係なく、美しい声を持ち、唄うのが上手な主人公クレアにつけられた渾名から来ている。
 ジェニファー・ケントはオ-ストラリア生まれの女性白人監督。

鶯
ナイチンゲールとはウグイスのこと


 舞台は19世紀オーストラリアのタスマニア島。
 英国による植民地支配の下、原住民アボリジニは残虐な仕打ちを受けていた。
 盗みの罪で当地に流刑されたアイルランド人のクレアは、英国軍将校ホーキンスとその手下にレイプされ、目の前で夫と赤ん坊を殺される。
 武装したクレアは原住民の男ビリーを雇い、駐屯地を離れ街に向かったホーキンスら一行を追う。
 復讐の旅が始まる。
 
 この映画には二つのマイノリティ問題が絡んでいる。
 一つは、英国人によるアボリジニ支配に象徴される近代文明社会による先住民迫害であるが、映画の中では詳しい時代背景は語られない(いつの時代の、どこの国の話か観る者には明らかにされない)ので、抽象化されて「白人による黒人差別」という面があぶり出される。黒人の代表がビリーである。
 今一つは、男性による女性支配である。とりわけ、すさまじい性暴力が描かれる。女性の代表がクレアである。
 黒人差別の被害者ビリーと女性差別の被害者クレア、マイノリティの二人が、支配者にして加害者たる白人男性への怒りを胸にタッグを組んで復讐の旅をする、というのが主筋なのである。

 
アボリジニ
アボリジニの男
 

 むろん、白人であるクレアもまた黒人に対する差別意識や偏見は持っており、ビリーから見れば支配者の一員に過ぎない。同時に、クレアから見れば男であるビリーは、決して気の許せない潜在的レイプ加害者である。
 二人の旅は、こうした二つの差別構造のバランスのもと、非常に緊張感みなぎるところから始まる。
 白人で女性のクレア、黒人で男性のビリー、属性や立場の異なる両者が厳しいジャングルの旅を続ける中で、次第に互いを理解するようになり、レッテルを越えたところで友情が結ばれていく。
 その点で、この作品は他者との邂逅の物語でもある。
 
 この映画は第75回ヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞を受賛しており、高い評価が与えられている一方、賛否両論激しく、拒絶反応を示す観客も多かったという。
 むろん、目をそむけたくなるような暴力シーンやレイプシーンはある。
 しかし、拒絶反応の正体は、観る者のうちに生じる“疚しさ”にあるのではないかと思う。
 つまり、観る者が白人である場合、あるいは男性である場合、加害者である白人一味のあるいは男性一味の一員である自分が一方的に責められているような気分になって、上映中席を立ちたくなるような拒絶反応が生じるのではないかと思う。
 白人でもなくヘテロの男でもないソルティはまったく拒絶反応は生じず、むしろ、クレアとビリーの味方となって二人の復讐の成就に留飲を下げることができた。
 白人ヘテロ男性にあっては、これを冷静に観ることのできる者はむしろ少ないかもしれない。
 
 『マンディンゴ』と同じく歴史上の黒人差別、女性差別の実態を暴き出し、人間性の残酷面を赤裸々に見せる超ド級の非ヒューマンドラマであるが、マイノリティ同士の連帯と勝利を描いている点で、少なくとも『ナイチンゲール』には希望と愛とがある。
 
 

おすすめ度 :★★★★

★★★★★
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● 映画:『スピリッツ・オブ・ジ・エアー』(アレックス・プロヤス監督)

1988年オーストラリア
99分

 『ダークシティ』(1998)、『アイ、ロボット』(2004)、『キング・オブ・エジプト』(2016)などで世界的に知られるエジプト出身のアレックス・プロヤスのデビュー作。
 長いこと陽の目を見ず、幻の傑作と言われていた。

 舞台は地平線と水平線の重なる広大な赤土の砂漠(オーストラリアロケらしい)。
 登場人物はたった3人。
 空を飛ぶことを夢見るマッドサイエンティスト風の車いすの男フェリックス。
 その妹で、見た目は可愛いが狂信的でてんかん持ちのベティ。
 兄妹が暮らす“ポツンと一軒家”に、不意にやってきた正体不明の男スミス。
 何者かに追われているらしいスミスは、砂漠の北に崖のごとく聳え立つ山を越えたいと言う。
 スミスの願いを知ったフェリックスは、念願の飛行機作りに着手する。
 
 冒頭から始まる見事な映像美(色彩と構図)、十字架やら廃墟めいた建築やらガーゴイル(怪物の彫刻)やらの続く象徴的なカット、登場人物のエキセントリックな衣装や言動、謎めいたストーリー。
 70~80年代に渋谷や銀座の単館上映で評判をよんだデレク・ジャーマンを思い出した。
 シュールで芸術性は高いかもしれないけど、観ていると眠くなるジャンルである。
 本作も途中でまぶたが重くなって、一時停止してコーヒーブレイクを入れた。

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 先を急いでいるはずのスミスが、フェリックスに引き留められて蟻地獄に落ちたように一日一日と滞在を伸ばしていく様に、「これはもしかしたら安倍公房『砂の女』の翻案なのでは?」と思った。
 妹のベティがしきりにスミスに対し、「ここいると兄に殺されるから早く出ていけ!」と脅しめいた警告を与えるところなど、いかにも『砂の女』めいた不気味さを感じさせる。
 残酷で狂気めいた結末が待っているのか? 

 しかるに、この予想も裏切られ、飛行機は何度かの失敗ののちに完成し、スミスは一人で空に旅立ち、兄と妹は砂漠に残される。
 スミスを追ってきたらしい正体不明の3人の男の影が地平線に現われ、一方、スミスの操縦する飛行機の翼の破片らしきものが家の前で休んでいるフェリックスの背後に落ちてくるところで、ジ・エンド。
 
 なんとも不可解なストーリーである。
 ソルティは聖書的な寓意を感じた。
 つまり、
  スミス=イエス・キリスト
  発明家フェリックス=大工のヨハネ
  てんかん持ちのベティ=聖母マリア
  3人の追っ手=東方からの3人の賢者
 しかし、文脈的には聖書のどのエピソードにも符合するものはなさそうだ。
 
 70~80年代にはこの種の思わせぶりなアート映画が流行った。



おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● コリン・ファースのフェロモン TVドラマ:『高慢と偏見』(サイモン・ラングストン監督)

1995年イギリスBBC制作
330分(55分×6話)

 ジェイン・オースティン原作『高慢と偏見』は、セス・グレアム=スミスによる『高慢と偏見とゾンビ』(2009年発表、2016年映画化)というトンデモない爆笑ホラーパロディを生んでしまうほどの大メジャー。
 イギリス人なら、否、英国文学を愛する者なら誰でも知っている傑作恋愛小説である。

 ローレンス・オリヴィエ&グリア・ガースン主演の映画(1940)、マシュー・マクファディン&キーラ・ナイトレイ主演の映画(2005)、どちらも19世紀初頭の英国カントリーハウスにおける有閑階級の優雅で格式高い日常と、個性的で魅力的なキャラクターたちと、英国人らしいユーモアたっぷりで、オースティンの原作をほぼ忠実に再現した素晴らしい出来である。
 英国で95年に放映され、40%という高い視聴率を誇り、社会現象にまでなったテレビドラマ版をやっと観ることができた。

 本作もまた、BBCドラマらしい時代考証ばっちりの丁寧で品格ある作りで、原作者への深い敬愛が感じられる。
 ロケも撮影も良し、脚本も演出も良し、役者陣も素晴らしく、上記の映画版と並び『高慢と偏見』映像化の決定版と言って過言ではない。
 実に見応えがあり、観ている間、令和日本の6畳間から19世紀英国の緑なすカントリー(田舎)へとタイムスリップしてしまった。
 見終わった後に立ち返った現実の侘しさよ(笑)!


カントリーハウス
カントリーハウス


和室


 同じBBC制作『ダウントン・アビー』に描かれる世界と同じなのだが、二度の対戦があり貴族階級の凋落が目立つ20世紀初頭を舞台とする『ダウントン』にくらべると、『高慢と偏見』はずっと牧歌的平和に満ちて、時の流れもゆったりで、人と人との交流が細やかである。(本作中の一番の事件は、主人公一家のバカな末娘の駆け落ちである) 
 何と言っても、移動するのに徒歩以外は馬か馬車しかなかった時代、日の光以外は蠟燭やランプの明かりしかなかった時代である。
 ジェントリィと呼ばれる有閑階級は、有り余る時間を遊びや恋愛や噂話にかまけることができた。

 本作でダーシー役をつとめた当時35歳のコリン・ファースは、この一作でスターダムにのし上がった。
 ソルティは『シングルマン』(2009)、『英国王のスピーチ』(2010)、『リピーテッド』(2014)などでようやくこの男優を意識するようになったのだが、すでに中年のコリンであった。
 若い頃のコリンは、たしかに相当の美男でセクシーですらある。
 原作から浮かぶダーシー像とはかなり異なるのだが、観始めたらそんなことは一切気にならなくなるほどの魅力を放っている。
 高慢で無愛想で特権意識丸出しの男をこれほど魅力的に見せることのできるコリンの演技力は、やはり本物なのだ。
 むろん上記の欠点など、ダーシーほどの美形と莫大な資産があれば、たいていの女子はつゆほど気にならないだろう。
 ダーシーの所有するカントリーハウス(ペンバリー)の壮麗さときたら!
 意地悪く見れば、エリザベス(=ジェニファー・イーリー)がそれまで嫌悪していたダーシーに対する気持ちを大きく変えたのは、ペンバリーを訪れてからなのである。


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コリン・ファースとジェニファー・イーリー


 何度映像化されても観たくなる、観て登場人物それぞれがどのように演じられているかを確かめたくなる、それ以前に発表された映像化作品と比較したくなる、そして英国がもっとも裕福で輝いていた時代と空間を追慕したくなる。
 『高慢と偏見』は、日本で言えば『源氏物語』にあたるような永遠の古典である。



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損

 


 

● 平岡家のマナー 映画:『三島由紀夫vs東大全共闘50年目の真実』(豊島圭介監督)

2020年
108分

 今から半世紀以上前の1969年(昭和44年)5月13日に東京大学駒場キャンパス900番教室(現・講堂)で行われた、三島由紀夫と東大全共闘の討論会のドキュメンタリー。
 TBSが録画保存していたフィルムをもとに、スタッフによる注釈や三島をよく知る作家や学者などによる解説、そして実際に討論会に参加していた元学生(今や70代の爺サマ)によるコメントを加えて編集したものである。
 ナレーターを東出昌大がつとめている。

 この討論に先立つ4ヶ月前、学生らによって占拠された東大安田講堂は機動隊の突入によって陥落した。東大闘争は収束したが、1972年の連合赤軍事件にはまだ間があり、共産主義革命を夢見る学生たちの機運は高まる一方であった。
 一方、この討論の約1年後、三島由紀夫は自決した。私設の防衛組織である楯の会を前年10月に結成し、自衛隊体験入隊で鍛え、憲法改正のための自衛隊クーデーターをすでに目論んでいた頃と思われる。
 反体制・反権力を掲げる血気盛んな1000人の左翼の若者が待ち構える中に、天皇崇拝を大っぴらに口にする右翼作家が単身乗り込んでいき、言葉による対決を行なったのである。


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壇上の三島と学生たち(しかし男ばかり・・・)


 たいへん面白かった。
 108分、半ば興奮しながら夢中になって視聴した。 
 そのことがまず意外であった。
 というのも、この映画(DVD)の存在をしばらく前から知ってはいたものの、観るのにためらいを感じていたからである。
 ソルティは、石原慎太郎の三島評を俟つまでもなく、マッチョになってからの、あるいは政治的発言を盛んに口にするようになってからの三島由紀夫の言動になんとなく嘘くさいものを感じていて、天皇の復権を目指し国軍創設を呼びかけるナショナリスティックな物言いには反感というより茶番に近い滑稽さを見ていた。軍服を着て日本刀を振り回し、自分ではない何者かになろうとする三島の姿に痛々しさしか感じられなかった。
 『仮面の告白』、『金閣寺』、『サド侯爵夫人』など国際級の作品をいくつも発表した人が、何者かに憑りつかれたように訳のわからないことを口にし、自ら進んで道化を演じ、これまで築き上げた業績と栄光を反故にするかのように破滅へ向かって突き進んでいく。
 三島の古くからの親しい友人であり霊能者でもある美輪明宏は、晩年の三島を霊視して、「2・2・6事件の将校が憑いている」と言ったそうだが、そうしたオカルティックな理由を持ち出すのがもっとも納得いくような三島の狂気的行動と凄惨な死に様に、近寄りがたいものを感じていたのはソルティだけではあるまい。(むろん、三島自決事件のときソルティはまだ小学生だったので、後年、三島文学に触れるようになってからの印象である)


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市ヶ谷自衛隊駐屯地での三島

 
 今回、怖いもの見たさでDVDを借りて、自決一年前の三島の姿を直視したら、ずいぶん印象が変わった。
 討論の最初のうちこそ、何者かに憑りつかれたような不自然な表情の硬さと、どこを見ているのか分からない虚ろな眼光がちょっと不気味であった。
 が、討論が進むにつれ、どうやらそれは緊張であったらしいことが分かってくる。
 そりゃあ、単身敵地に乗り込むのだから、緊張して当り前だ。

 頭のいい学生(なんたって東大生!)との討論の内容や、どっちが優勢か、あるいはどっちが正しいか、最終的にどっちが勝ったか、なんてことはソルティにはさほど興味がない。(あまりに話が観念的過ぎて付いていけない部分もあった)
 また、三島がしばしば口にする「殺し合う」とか、自らの将来を予告するような「自決する」とか、あるいは非合法の暴力の肯定といった過激な言辞にもさほど惹かれなかった。
 ソルティにとってこの討論会の一番の魅力、この記録映像の最大の価値は、三島由紀夫という男の対人姿勢を垣間見たところにある。
 別の言葉で言えばマナーである。
 主義でも思想でもルックスでも論客ぶりでも断じてなかった。

 三島は講堂をぎっしり埋めている、あるいは三島と共に壇上にいる学生たちに対して、終始、真摯に向き合い、敬意を持って遇し、相手の話に耳を傾け、対話において誠実で率直であろうと務め、ユーモアにあふれている。
 まず、この三島のユーモアというのが意外であった。
 ユーモアがあるというのは精神が硬直化していない一つの証拠であるから、三島が「何者かに憑りつかれて」我を無くしているというのは、少なくともこの段階ではどうやら当たっていない。
 『仮面の告白』による華々しい文壇登場の時からまったく変わらず、自らを相対化できる視点を携えているのである。

 また、三島の言葉は決して頭でっかちではない。己の実感から離れた思想や主義を振りかざしているのではない。
 実社会経験に乏しい学生たちはどうしても頭でっかちになりがち、つまり、行動が思想や主義によって牽引される傾向にある。(その最悪の結果が連合赤軍事件であろう)
 その思想や主義もまた、生活者の実感が伴わない借り物めいた感じが漂う。そもそもどのような条件付けのもとに自らがそういった思想や主義を抱くようになったかという点ついて自覚に乏しい。歴史的存在としての自分についておおむね鈍感である。(だからこそ、若者は今までにない新しいものが生み出せるのだが)
 たとえば、被差別部落に生まれ貧困と不平等に苦しんできた大正時代の若者がロシア革命を知って共産主義に希望を抱くような具合には、戦後生まれのインテリで資本主義社会において「勝ち組」を約束された東大生には、共産主義革命に対する切なる願望も内からの止むにやまれぬ慫慂もありはしないだろう。現実的な飢えや痛みから生み出され選ばれた思想ではない。

 一方、三島の皇国思想の背景には、まず日本文化や歴史についての深い造詣と理解があり、国や天皇のために戦い散っていった同朋を見送りながら戦前戦中を生き抜いてしまった事実があり、戦後民主主義の建設過程で神から人間になってしまった天皇や鬼畜米英から親米へと豹変した日本人を複雑な思いで見ながらも、その後に訪れた豊かさを「時代の寵児」として誰よりも享受してきた自分に対するアンビバレントな思いがあり、加えて三島独特の大儀の死と美とが結合したエロチシズムへの希求があった。
 三島の内的洞察力はこうした自らの条件付けと思想や欲望の成り立ちを当然自覚していたはずである。その自覚があればこそ、「自分は日本人として生まれ、日本人として死ぬことに満足している」というセリフが出てくる。
 天皇制や資本主義はもとより、日本人という国籍からの離脱さえ夢見る学生たちには、到底理解できる相手ではないだろう。
 ここには三島由紀夫=平岡公威という一人の男が背負ってきた重み(業)がある。そして、「歴史的存在としての人間を無視できるのか」という学生たちへの、戦後日本人への問いかけがある。

 三島がそうした条件付けからの解放を望まないのは、おそらく本映画の中でフランス文学者の内田樹が解説している通り、「国家の運命と個人の運命とがシンクロしていた時代に存在したある種の陶酔」を求めているからであろうし、作家の平野啓一郎が指摘している通り、「生き残った者の疚しさと苦悩」ゆえであろう。
 遺作となった『豊饒の海』で三島は仏教の世界に足を踏み入れている。
 あるいは三島には、すべての条件付けから解放されるべく、瀬戸内寂聴(やはり本作に登場している)のように出家して、悟りに向けて修行するという選択肢だってあったのかもしれない。であったなら、自殺することはなかった。
 が、それを決して許さないもの――自分一人だけが国家や文化や制度から解放されて生きのびることを良しとしないもの、あるいはダンディズム?――が彼の中には厳然とあったのだろう。


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Pete 😀によるPixabayからの画像


 さて、マナーの話に戻る。
 三島がマナーを持って学生たちと向き合っているのは、彼らを「他者」として認めているからにほかならない。
 この他者をめぐる問題が、この討論会の、あるいはこの映画の、あるいは三島由紀夫自身の最大にして究極のテーマであったのだと思う。
 最初の10分間スピーチの中で、三島は次のようなことを述べている。

・私は安心している人間が嫌いだ。
・私は当面の秩序を守るために妥協するという姿勢が嫌いだ。
・私は知性(知識・思想)でもって人の上に君臨するのが嫌いだ。

 これは、「自己充足して他者と向き合おうとしない人間が嫌いだ」ということを言外に匂わせている。
 そのあと、司会を務める制服姿の学生(木村修)は三島への最初の質問として、奇しくも「自己と他者」の問題を投げかける。正直、彼の質問自体は要領を得ない稚拙なものであるが、他者という言葉を“いの一番”にぶつけたセンスは素晴らしい。(たぶん、横で構えていた三島もビックリしたのではないか)

 三島はおおむねこんなことを答える。

 エロチシズムにおいて、他者とは「どうにでも変形されうるようなオブジェ」であるべきで、意志を持った主体ではない。
 一方、(真の)他者とは、自分の思うようにはならない意志を持った主体であり、それとの関係は対立・決闘あるのみで、全然エロチックなものではない。
 自分はこれまで、エロチシズムにおける他者を作品のテーマとして描いてきたけれど、もうそれには飽きた。
 私は(真の)他者がほしくなった。
 だから、君たちが標榜する共産主義を敵(=他者)と決めた。

 この告解は衝撃的である。
 三島文学の大きな特徴は「他者との関係の不可能性」にあった。
 関係が不可能なところにエロチシズムが存在したのである。
 それは、川端文学や谷崎文学にも、いや三島以前のほぼすべての男性作家について言えるところであろう。
 基本、男のエロスは自己充足的=オナニズムだからである。
 三島はそれとは決別して、他者を探す旅に出たのだ。
 エロスでも暴力でもなく、言葉によって他者と出会う可能性を探ったのだ。
 共産主義を志向する若者たちを、自らの意志を持つ「他者」と認めればこそ、対等の立場で敬意を持って対話しようとしたのである。
 それが三島のマナーの持つ意味の一つである。


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壇上の三島と進行役の木村青年


 英国の推理作家G.K.チェスタトンのブラウン神父シリーズの中に『共産主義者の犯罪』という一編がある。
 共産主義による社会転覆と神の抹殺を標榜する名門大学の教授が、大学関係者が集う夕食会の席で、伝統破壊者らしい言辞を披露して同僚の不興を買いながらも、その一方、大学特製の葡萄酒を煙草を吸いながら口にすることはついにできなかった、という話である。
 思想や主義はいくらでも標榜できるし転向もできるけれど、生まれ育ちの中で身に着けたマナーは容易には変えられないという逆説。
 本映画で確認できる三島の品格あるマナーこそ、まさに後年筋肉と共に身に着けた思想や主義以前に、人気作家になるはるか以前に、三島由紀夫ならぬ平岡公威が平岡家の伝統の中で身につけた文化であると同時に、ほとんど無意識と言っていいくらい深いところで三島を規定している気質、すなわち人柄というものである。
 「主義主張が異なる相手に対しても、対話する際には敬意と忍耐をもって遇せよ」という三島の中の定言命令である。
 その品格は1000人の学生の目にはたしてどのように映ったのか。

 上記の木村修が発言の途中で三島のことを思わず、「三島センセイ」と言ってしまい、すぐに自らの権威盲従的失言に気づき、苦し紛れの弁明をする場面がある。
 木村の生真面目な愛されキャラのおかげで会場も三島も爆笑、一気に会場の雰囲気は和らぐ。
 おそらく、木村は思想や主義を超えたところにある三島由紀夫の人柄を敏感に察し、それに感化されたのだろう。 
 いまや70代になった木村がインタビューで当時を振り返るシーンがある。
 それによると、討論会が終わって木村が三島にお礼の電話を入れたところ、その場で楯の会に誘われたという。敵からの勧誘である。
 非常に面白い、かつ意味深なエピソードである。
 三島が実は、個人の思想や主義なんてさほど重要とは思っていない、人と人とが「肝胆相照らす」には思想や主義なんかより大切なことがある、とでも言っているかのようだ。

 尚武を気取る三島は口にしなかったけれど、他者との関係には対立・決闘だけでなく、互いを理解しようとする意志すなわち愛だってある。
 900番教室の学生に対する三島のマナーの根底にあるのは愛なのだと思う。
 この映画が感動的なのはそれゆえだ。

 それにしても、半世紀前には絵空事でナンセンスとしか思えなかった三島の言辞――天皇制をめぐる問題と憲法改正――が、今日焦眉の政治的テーマとなっているのは驚くばかりである。
 そして、900番教室を埋め尽くし口角泡飛ばして政治や社会を語った東大生が、いまやテレビのクイズ番組でアイドルのように扱われているのを見るにつけ、ソルティもそこに生きてきた日本の50年という歳月を奇妙なものに思う。


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現在の東京大学駒場の900番教室



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