ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●旅・山登り

● 稀代のバチあたり

 今回もスクーリングに合わせて、奈良と京都の寺社&仏像めぐりをした。
 
 奈良・・・・新薬師寺、春日大社
 京都・・・・醍醐寺、一言寺

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JR奈良駅
駅前で電動アシスト付自転車をレンタル
4時間借りて1500円

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新薬師寺前にある南都鏡神社
祭神は天照皇大神、藤原広嗣公、地主神
神仏習合時代は新薬師寺の鎮守であった
反乱の汚名を被って処刑された藤原広嗣の霊を鎮めるために建てられたという

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新薬師寺本堂(国宝)
平重衡の南都焼討ち(1180)はじめ、度重なる災禍をくぐり抜けた奈良時代の遺構。天平19年(747)に聖武天皇の病気平癒を祈願して、お后の光明皇后によって建てられた。堂内に入ると、1300歳の木の霊力をびんびん感じる。

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受付でもらったパンフレット
御本尊の薬師如来坐像(木造)の特徴は、なんと言っても、どんぐり眼。
聖武天皇の病気とは、藤原広嗣の祟りによって起こった眼病だったという説もあるが、この像がつくられたのは平安初期(聖武没後)なので時代的に合わない。量感豊かな像の様式を見ても、創建時の本尊ではないと思われる。

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新薬師寺パンフレットより
本尊をぐるりと取り巻く十二神将が頼もしい。こちらは奈良時代作。
ひとりひとりが見事にキャラ立ちしていて、見ていて飽きない。
平安時代以降は十二支信仰と結びつき、頭上に十二支の動物を乗っけるようになった(例:神護寺の十二神将)が、本像にはない。
それにつけても、東大寺戒壇堂の四天王像といい、興福寺国宝館の八部衆像といい、天平の彫刻ってほんと素晴らしい!

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手元にある『サライ』(2023年秋号)の表紙を飾る伐折羅(ばざら)大将

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ポストカードを購入。
もとの色彩をCGを使って復元するプロジェクトがなされた。
造像当時の伐折羅大将はこんなにカラフルで華やかだった。
金色に輝く薬師如来をこれらの像が取り巻く空間を想像してほしい。
So gorgeous !

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新薬師寺には白鳳時代の最高傑作と言われる薬師如来立像(通称:香薬師)があった。昭和18年(1943)に盗まれ、今なお行方不明である。その際に残された右手のみ、時々公開される。堂内にはレプリカが置いてある。   

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春日大社
神護景雲2年(768)称徳天皇の勅命により創建
御祭神は、タケミカヅチノミコト、フツヌシノミコト、アメノコヤネノミコト、ヒメガミの四神。藤原氏の氏神であり、神仏習合時代は興福寺と一体であった。

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背後に御蓋山(みかさやま)、境内に62社を擁する約30万坪の広大な社地を誇る。日本人より外国人観光客と鹿のほうが多かった。ここの鹿たちは、神の使いとしての自覚を持っているかのようだ。奈良公園の鹿よりプライドが高く、人に媚びない。

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社頭の大杉
関西に行くと、不思議と花粉症が治まる。

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中門・御廊 (ちゅうもん・おろう)
奥に本殿がある。春日大社の建物は、伊勢神宮同様、20年に一度の建替えや修復を行う。

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春日神社と言えば灯籠
境内には、約2000基の石灯籠、約1000基の釣灯籠がある。

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毎年2月の節分と8月のお盆の時期に、すべての灯籠に火を灯し、人々の諸願成就を祈る。その美しさを体験できる小屋があった。

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京都に移動
四条大橋から鴨川を望む

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夕食は京都発祥の衣笠丼(きぬがさどん)
油揚げと九条ネギをダシで煮て卵で閉じたもの
安価でヘルシーで美味しい庶民の定番メニュー

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翌朝、醍醐駅からバスに乗って醍醐寺

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貞観16年(874)理源大師が創建
醍醐・朱雀・村上天皇、白河上皇、足利尊氏、足利義満、豊臣秀吉・秀頼などの帰依を受け、69,420点の国宝、6,521点の重要文化財をもつ。
ソルティ、実は初めての参詣(と思う)

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総門を入ってすぐの三宝院
通常は非公開のエリアが特別公開されていた

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表書院
あでやかな襖絵に目を奪われる
長谷川等伯(1539‐1610)作

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石田幽汀(1721-1786)作

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豊臣秀吉自ら設計した庭園
日本中から石を集めたという

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京都の飛雲閣同様、舟で池を渡って橋の下や建物の下をくぐり、奥にある茶室に直接上がれるようになっている。秀吉が好きな趣向だったのだろう。紅葉時の絢爛が目に浮かぶ。

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藤戸石
「天下を治める者が所有する石」として室町時代から歴代の権力者の手を渡ってきたもの。庭園の中心に据えられている。

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三宝院本堂の快慶作の弥勒菩薩坐像
通常は非公開(醍醐寺ポスターより転載)
「安阿弥様」と呼ばれる、美しく整った絵画的な写実を特徴とする快慶の作風が見られる。同門の運慶の作風とはずいぶん異なる。

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唐門
慶長4年(1599)建立
菊の御紋は皇室、桐の御紋は皇室および秀吉を表わす
朝廷からの使者を迎える時だけ開いた

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仁王門
慶長10年(1605)、豊臣秀頼による再建

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五重塔(国宝)
醍醐天皇の冥福を祈るために、朱雀天皇が承平6年(936)に着工、村上天皇の天暦5年(951)に完成した。高さ約38メートル。てっぺんの相輪は塔の3分の1を占める。京都府下で最も古い木造建築物である。国内の五重塔としては、法隆寺、室生寺の次に古い。(薬師寺は三重塔)
美しいけど、五重塔とはストゥーパ、すなわちお墓なんだよね。

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金堂(国宝)
創建時の建物は応仁の乱で焼失。現在の建物は、豊臣秀吉が紀州に攻め入った時、当地の満願寺の本堂(12世紀後半建立)を移築したもの。シンメトリカルで晴れ晴れしい。中に安置されている薬師如来座像が醍醐寺の本尊。

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観音堂
西国三十三巡礼の第十一番札所になっている。
貴族的な醍醐寺のたたずまいの中で、ここだけは庶民風だった。

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弁天堂
紅葉時はどんなにか・・・・。
ここでデジャヴュー体験。やっぱり、来たことあるのか?

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池之端にあるお休み処で湯葉うどん定食を注文
やさしいお味

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国宝の薬師三尊像(平安時代)はじめ、約10万点以上に及ぶ寺宝を収蔵している霊宝館は修繕のため休館だった。また来よう。
空いた時間をどうしてくれようかと、醍醐駅で手に入れた町の散策MAPを広げてびっくり!
南都焼討ちの大悪人、日本仏教界&仏像マニア界隈の怨嗟の的、平重衡の墓があるではないか!
この町に葬られていたとは知らなかった。
行くっきゃない!

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一言寺
醍醐寺の塔頭寺院

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石段を登った先にある門からは、醍醐の街を一望できる。

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「ただたのめ 佛にうそは なきものぞ 二言といわぬ 一言寺かな」
武士ならぬ、仏に二言なし。御本尊の千手観音に一心に祈れば、あやまたず願いを叶えてくれるという。

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醍醐寺より徒歩30分
団地の中に大正時代に建てられた石碑が唐突に出現
「従三位平重衡御墓」と読める
ここで横道に入る

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あれかな?

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平重衡(1157‐1185)
平清盛の五男として源平合戦を戦い抜いた。
一ノ谷の合戦で捕らえられ、鎌倉の源頼朝のもとに送られるも、焼討ちの怒りおさまらぬ南都宗徒らに引き渡され、木津川畔にて斬首された。享年29。

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火葬後、この地に埋葬されたとある。
最期はどんな思いを抱いていたのか?
やはり、地獄行きを覚悟していたのか?
奇遇にも、墓所の近くには「善人なおもて往生を遂ぐ いわんや悪人をや」の親鸞聖人の生誕地がある。

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帰りの新幹線
富士山を過ぎる頃にやっと、過去から現在へ帰還した。















● 日本で一番かわいい仏像

 奈良大学のスクーリングを終えた翌日、奈良と京都の仏像巡りをした。
 
奈良
 興福寺 国宝館・中金堂
 東大寺 戒壇堂・法華堂
京都
 六波羅蜜寺

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8時半、猿沢池より出発

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三重塔
興福寺最古の建物
興福寺と東大寺は、1180年(治承4)平重衡による南都焼き討ちで、主要な建築物と仏像のほとんどを焼失した。三重塔もそれ以後の再建である。

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国宝館
  • 白鳳時代の銅造仏頭と、鎌倉時代の木造仏頭(運慶作)の比較が楽しい。
  • 5mを超える千手観音菩薩立像と、80cm弱の天燈・龍燈鬼立像の迫力対決。
  • 何と言っても、天平時代の十大弟子像(現存は6体)と八部衆像が素晴らしい! 有名な阿修羅像もよいが、その隣の沙羯羅(さから)少年の可愛いこと! 小津監督『お早う』に出てきた島津雅彦君を想起した。

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興福寺中金堂
平成30年(2018)に創建当時の様式で復元された。
ここの四天王像は、もとは北円堂にあったという説がある。とすれば、運慶の4人の息子(湛慶・康運・康弁・康勝)の作となるが・・・。
ときに、最後に訪れた30年以上前(昭和時代)、興福寺は鬱蒼とした森の中にあった記憶がある。夜間は恋人たちのハッテン場で、それを目的としたデバ亀の出没区域だった。すっかりイメージ刷新していた。

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奈良公園の鹿
外国人観光客にはたまらない魅力らしい

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東大寺南大門
1203年(建仁3)に竣工した

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金剛力士・阿形像
像内の納入経奥書には、作者として運慶と快慶の名がある

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金剛力士・吽形像
定覚と湛慶の共作と伝わる
圧巻の風格である
平重衡の焼き討ちがなければ、この傑作は誕生しなかったと思うと、皮肉である。

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戒壇堂
東大寺に行って大仏殿に行かなくなれば、観仏マニアも中級である。
美術史的見地では、戒壇堂にある四天王立像こそ見逃せない。
天平彫刻の傑作。
頑固親父たちの貫禄あるたたずまいと険しい表情にしびれる。
とりわけ、広目天の不敵な面構えこそ、一国のリーダーにふさわしい。

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満開の桜、ではなくて雪の華

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法華堂(三月堂)
南都焼き討ちを逃れた数少ない創建時の建物
本尊・不空羂索観音菩薩像をはじめ、両脇の梵天・帝釈天像、周囲を取り囲む四天王像と金剛力士像は、いずれも奈良時代作の乾漆像で、3mを超える“進撃の巨人”。
座って鑑賞することができるので、オペラグラスを手にじっくり拝仏がおすすめ。

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二月堂
今年で1274回を数える修二会(しゅにえ)、いわゆる「お水取り」は、3月1日より2週間にわたって行われる。

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鏡池より大仏殿を望む   
外国人観光客の奈良行きの眼目は大仏様にあり、東大寺はインバウンド一人勝ちとのこと。京都や大阪に宿をとって、日帰りする人も多く、奈良はそれほど潤っていないらしい。いまこそ、ガイドブックに載っていない知られざる名所・名刹、知られざる寺宝を訪ねたいものだ。

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午後は京都に移動。
京都・五条橋より鴨川と比叡山を望む
奈良より温かい。

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六波羅蜜寺
  • 運慶の息子・康勝作の空也上人像が有名。昔見た時は、御老体のイメージをもったが、いま見るとせいぜい30代くらいのプロポーションのいい青年像である。若き時代の康勝が、青春の空也を彫ったのである。青年らしい廉潔さと一途さが全身からほとばしっている。
  • 運慶、湛慶の肖像彫刻・・・天才の名を欲しいままにした自由奔放な父親と、偉大な父を持ち工房の後継者として重責を背負った息子の人柄の違いが鮮やかに表現されている。長嶋茂雄・一茂親子を想起せざるを得なかった。
  • 定朝作と伝えられる地蔵菩薩立像も見逃せない。東京の根津美術館所蔵の地蔵菩薩像(快助作)とよく似た流麗な美しさ。快助についてはまったく知られていないが、定朝の孫世代の仏師で、名前からして定朝と快慶を結ぶ輪っかなのではないか?

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京都タワーに See You Again !
世界にすぐれた日本文化を実感した旅だった。










● なんなら、奈良9(奈良大学通信教育日乗) 凍れる音楽、震えるスクーリング

 2月中旬、3日間のスクーリングに行ってきた。
 科目は「文化財学演習Ⅰ」。
 ソルティは前日夕方に京都入りし、四条河原町のカプセルホテル「ルーマプラザ」に泊まった。
 ここは屋上の露天風呂から京都市全景が見渡せて、とても気持ちがいい。
 翌朝は8時半に宿を出て、京阪電鉄と近鉄京都線を乗り継いで、9時半に奈良大学のある高の原駅に着いた。
 駅前ロータリーには大学構内に直行する臨時バスが待機していた。

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木津川市あたりの車窓風景
京都府内ではあるが、「奈良に来た~」という気分になった

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高の原駅
京都と奈良の境にある

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駅前は開発が進み、大型ショッピングモールもある

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奈良大学正門

 入学して早3ヶ月、はじめての登校である。
 バスから降り、スクーリング仲間の波に乗って迷路のような校内を進むと、キャンパスの全景が目の前に開けた。
 広々して、明るく、気持ちいい。
 すでに春休みに入っているためか、通学の若い学生らは見かけなかった。
 期待と緊張を胸に、指定された教室に入る。
 受講生は30名くらいだった。

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江戸時代の墓石であろうか
キャンパスの先住者?

 3日間のスクーリングの内容は次の通り。
  • 1日目 講義
    美術史における3つの方法論・・・様式論、図像学、図像解釈学
    卒業論文の形式および準備方法
    図書館見学
    自己紹介と各自の関心ある研究テーマ発表
  • 2日目 学外授業
    薬師寺見学
    唐招提寺見学
  • 3日目 演習(ポスター作成)
    各自の研究テーマに関するポスターを作成し、一人ずつ発表
 担当教師の関根俊一先生は、奈良国立博物館に勤め正倉院展を担当されるなどしたあと、大学に職を転じた。今は和歌山県立博物館の館長をされている仏教美術の専門家。
 いきおい1日目の講義と2日目の学外授業は、仏像に関する学習が中心を占めた。
 ソルティはちょうどテキストの『日本仏像史』を読み終えたばかり(レポートは未完)だったので、語られる内容がすんなり頭に入り、復習しつつ、大いなる関心を持って授業に臨むことができた。
 配布された資料もレポート作成に役立つ内容で、タイミングの良さに感嘆した。
 やはり仏のお導きだろうか。
 仏像に関する話のほかにも、年々ブルジョア化する博物館の実態やオーバーツーリズムの抱える問題、図書館の活用法、卒論のテーマを選ぶ際のポイントなど、とても充実した内容であった。
 同時期に、8つの科目のスクーリングがそれぞれの教室で開催されており、休憩時間の食堂やトイレは50~70代の中高年であふれた。

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図書館

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充実した蔵書
近ければ通えるのになあ~

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図書館エントランスに置かれた金剛力士像
杉材の一木造で、高さ約3m
平安時代後期の作と伝えられる

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食堂

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書店
歴史、考古学、文化財関係の本や雑誌が充実

 2日目の学外授業こそ、スクーリングの醍醐味である。
 屈指の名刹である薬師寺と唐招提寺を、博物館館長をつとめる仏教美術専門家に案内してもらい、見どころを懇切丁寧にレクチャーしてもらうなんて、そうそうあることではない。
 仏像についてはもちろんのこと、古代史、宗教史、寺史、民俗、建築、アジア史、文化財の保存方法、考古学など、分野を横断する幅広い知識と長年の研究から生まれた含蓄あるレクチャーは、一言も聞き漏らすまいと思わせる濃度であった。
 大学も今やサービス業とは言え、将来ある若者相手ではなく、先の見えている(苦笑)中高年相手に、ここまで熱心に丁寧に教えてくれるのかと感激した。

 薬師寺で驚かされたのは、我が奈良大学の起源は、1925年(大正14年)に薮内敬治郎が薬師寺境内に設立した南都正強中学であるという事実。
 なんとビックリ!
 先生が指し示す方向を見やると、今にも崩れそうな古風な白漆喰の木造建築があり、今にもずり落ちそうな瓦屋根の破風のてっぺんの鬼瓦に「學」という文字が刻んであった。
 100年前の校舎が今もある!
 100周年記念の年に入学したとはなんと目出度い。
 こんな由緒ある大学とは知らなんだ。

奈良大学昔の校舎
南都正強中学校舎
つっかい棒かい!

奈良大学旧校舎破風「學」

 薬師寺では、通常は見学できない僧房に入れていただき、平成21年からの大修理で役目を果たし終えた1300年前の東塔の水煙を、間近に見ることができた。
 水煙を含む全長10m、重さ10トンの銅製の相輪を、高さ約34mの東塔のてっぺんに上げて組み立てた古代の人々の建築技術、鋳造技術の高さには、まったく恐れ入る。

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薬師寺
約40年ぶりに訪れた

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金堂

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ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲
(佐々木信綱)

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東塔(三重塔)
創建当時から唯一残る建物
天辺の相輪のみ平成の大修理で造り替えられた

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西塔
享禄元年(1528)に焼失、昭和56年(1984)に再建
創建当時の東塔もこんな風な色彩だったのだろう

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創建時の東塔の水煙
もとは金メッキされていた
“凍れる音楽”に乗って舞う天女が造形されている

 薬師寺と言えば、名物和尚の高田好胤師(こういん、1924ー1998)を思い出す。
 ソルティも中学校の修学旅行の際に話を聴き、噂通りの「面白いお坊さん」と思った。
 その伝統を受け継いでいるのか、境内のまほろば会館での昼食休憩時に話をしてくれたお坊さま(大谷徹奘氏)も面白かった。
 この方は、東日本大震災の際に現地を歩き、被災者の心のケアに取り組んだ人である。
「国難がある時、金堂の薬師如来さまは汗をかかれる」という。

 その薬師如来坐像およびは両脇の日光・月光菩薩立像であるが、仏像史ではいまだに解決していない問題を提起している。
 像のつくられた時代が、藤原京に都のあった飛鳥時代なのか、平城京に遷都したあとの奈良時代(天平期)なのかという問題である。
 薬師寺も遷都に合わせて藤原京から平城京(現在地)に移設したので、そのときに本尊である薬師三尊像も移したと考えるのが自然なのであるが、この像の洗練された写実性や鋳造技術の高さが飛鳥様式より天平様式に近いと思われているためだ。
 あたかも九州説v.s.畿内説の邪馬台国論争のように、飛鳥v.s.天平論争が続いている。
 なるほど、おへそを丸出しに腰をひねった日光・月光菩薩像など、サリーをまとったインドの女神像のような、あるいはボリウッド映画で歌い踊る主演女優のような、はたまた『どうにもとまらない』の頃の山本リンダのような、エロティックな雰囲気があり、飛鳥時代の仏像の清新な端正さと一線を画しているように思われる。

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Renu DadlaniによるPixabayからの画像

 唐招提寺は鑑真和上の創建した寺として知られる。
 鑑真は754年に来日し、東大寺に戒壇を設けた。当時日本には正式な授戒の制度がなく、勝手に出家する私度僧が増え、社会の混乱を招いていたのである。
 鑑真は日本の造像技法にも大きな影響を与えた。
 これまで中心だった銅造や塑造(粘土)や乾漆造(麻+漆)に代わって、唐で流行っていた木造をもたらし、平安時代以降の木彫仏の全盛を導いたのである。
 その際、インドや唐では白檀が用いられたが、日本ではカヤやヒノキが代用された。
 この寺の金堂におられる仏像たち――廬舎那仏坐像(塑像)からの薬師如来立像と千手観音立像(木心乾漆像)からの梵天・帝釈天立像と四天王立像(木造)――は、まさに日本の木彫仏誕生の流れを表わしているのである。

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唐招提寺金堂

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講堂と礼堂

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鑑真和上像

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鑑真和上御廟

 この日は、気温ヒトケタで、広い境内を冷たい風が吹き抜け、時折雪が舞う、学外授業にはしんどい日であった。
 なににも増して役立ったのが、このスクーリングのため新たにWORKMANで購入した遠赤外線超厚手スパッツ。
 本当に素晴らしい機能で、丸一日、下半身の冷えを防いで、尿意の頻繁を抑えてくれた。
 通信教育のスクーリングは、大学が休みに入る冬場(2~3月)と夏場(8~9月)に行われる。
 さすがに、夏場の奈良盆地の学外授業は「灼熱地獄」と思うので、少なくとも学外授業のあるスクーリングは、しっかり防寒対策して冬場を選ぶのが、個人的には正解と思う。

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帰る途上の駅の構内で、かき揚げうどんを食べて温まった

 3日目は教室でポスター作成と発表。
 一人一枚ずつ模造紙が配布され、午前中は各自の関心ある研究テーマを自由に紙にまとめ、午後はそれぞれが発表した。
 一日目の自己紹介で、関東からの参加者の多さを知ったが、中には北海道や長野や山口など遠くからの人もいた。
 奈良好きが高じて、奈良にアパートを借りてしまったという人もいた。
 研究テーマが実にバラエティに富んでいることに、また、それぞれがポスター作成のためにしっかりと資料を用意していることに感心した。このあたりは社会人だなあ~(もっとも事前に通知されてはいたが)。
 胎内仏、日本庭園、英語辞書、仏像の台座、仏像に踏まれている邪鬼、根来焼、和太鼓、地域の遺跡、寺の建築様式、中山道の宿場、大和絵巻、世界の神話、飛鳥・奈良時代のガラス製品、秩父巡礼、漆文化、富士山の祭神、尺八の歴史、祟り、算額、玉川上水・・・・等々。
 同じ文化財学専攻でも、これだけ題材の幅が広く、各自の興味あるテーマが異なる。
 自分が知らない事物のこと、自分もまた以前から興味を持っていること、着眼点に感心したものなど、他の人の発表を聴くのは刺激的で、面白かった。

 順調にいけば、来年度は卒論を書かなければならない年(4年生)である。
 今年の10月までにはテーマを決めて計画書を提出しなければならないのだが、ソルティはまだ何をするか考えていない。
 昨年10月に入学したばかりで、まだ1単位もとれていないので、卒論どころではない気分。
 再来年度になるかなあ~。

 ほかの参加者と休憩中に話したのであるが、非常に中身の濃い、おトク感のあるスクーリングで、これなら年間約20万円の学費も惜しくはないと、意見の一致を見た。
 次回が楽しみだ。

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最終日に大和西大寺駅に寄った

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令和4年7月8日、安倍晋三元総理が射殺された駅前ロータリー

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花壇ができていた
いまなお、歴史は奈良で作られる?



 

● 花粉症三銃士

 2月6日、関東地方に吹き荒れた強風が、今年の花粉症の引き金となった。
 昨年はこの時期のスギ攻撃はなんなくやり過ごして、4月中頃からのヒノキ攻撃がひどかった。
 ゴールデンウイークが明けるまで、しんどい日が続いた。

 今年も桜の散る頃になったら気をつけようと思っていたら、いち早くスギに反応してしまった。
 のどの痛み、倦怠感、頭がボーっとするから始まって、悪寒、関節のこわばり、鼻の奥のむず痒さを追加し、「あれ?風邪かな?」と思って葛根湯を呑んだが改善する気配もなく、のど枯れ、くしゃみ、目がしょぼしょぼする、鼻水と続いて、「ああ、花粉症だ」と気づいた。熱はない。
 これから3ヶ月続く地獄のシーズンの幕開けは、まるで末法の世の到来のごとし。

 風の吹く天気のよい日は、不要不急の外出を控える。
 外出時はマスク着用。
 部屋に花粉を運び込まないよう、玄関先で衣服をはたく。
 コロナ禍の延長みたいな日々が続いている。
 なにより残念なのは、コロナ禍の時でさえ実行できた里山歩きができなくなったこと。
 日本の山は約半分が人工林で、人工林の7割はスギとヒノキ。
 ハイキングできるように整備された山は、ほとんど花粉症の爆心地である。
 そんなところに飛び込んでいったら、方向感覚を喪失して道迷いしかねない。
 馬の背をぼーっと歩いて落馬(転落)する危険もある。
 だいたいが、楽しくはない。

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KanenoriによるPixabayからの画像 

 アウトドアが駄目なら、せめてインドアで体を動かして、体力維持とストレス発散をはかろう。
 ジムに行ってプールで泳ごう! ついでに痩せよう!
 ――と気持ちを切り換えた。
 ところが、先日、何気なくスマホで花粉症を調べていたら、とんでもない記事を発見してしまった。

 ドイツの国立環境健康研究センターのKohlhammer氏らが、35歳から74歳の2606名の成人を対象に塩素プールの使用と花粉症発症の関連について調べた研究によると、学童期に水泳プールを毎年3~11回使用していた人は、使用していなかった人に比べて花粉症を発症する可能性が74%高かったといいます。また、過去12カ月間に水泳プールを毎週1回以上使用していた人は使用していない人に比べて花粉症を発症する可能性が32%高く、さらに生涯において水泳プールを使用した経験がある人は使用経験がない人に比べて花粉症を発症する可能性が65%高いこともわかりました。泳ぐ人の尿や汗、その他の有機物質が塩素処理された水と反応して放出される三塩化窒素が影響していると筆者らは考えています。(『医療ガバナンス学会ホームページvol.089 』2019年5月17日の記事より抜粋)

 ドイツの「国立環境研究センター」ってのがどんだけ権威ある研究施設なのか、その記事を紹介した日本の「医療ガバナンス学会」がどういう組織なのか、そもそもこの説を発表したKohlhammer氏がどんだけの研究者なのか、まったく分からないので、これをそのまま鵜呑みにするのもどうかとは思うが、医療ガバナンス学会の理事たちはちゃんとした資格を持った医師らしいので、記事掲載の影響は少なくないと思われる。
 この記事を世の人々が真に受けたら、ジムのプールに閑古鳥が鳴いてしまう、スイミングスクールがつぶれてしまう、学校の体育の授業から水泳が消えてしまう、人はみな金づちになってしまう・・・・なんてことが起こりかねない。オリンピックから水泳競技がなくなってしまうかもしれない。(最近、理由は違うがプールの授業を廃止する自治体が現れている)

 ソルティは、社会人になってからというもの、数ヶ月から数年のブランクは時折あるものの、だいたい週2回以上はプールに通ってきた。
 呼吸器官や肺を鍛え、気道の中を洗い流し、体の血行を良くする水泳は、花粉症に良いものと考えていた。
 それが逆効果だったのか!?
 今さらプールで泳ぐのを止めたところで花粉症予防にはもう遅いけれど、今後悪化させないために、プールはご法度にすべきなのだろうか?
 ちょっと考え込んでしまった。
 
 Kohlhammer氏の報告は2006年のもので、その後、それを否定する記事も肯定する記事も見つからなかった。
 日本の研究者で調べている人はいないのだろうか?
 だいたい、上記のドイツの研究は内容がアバウト過ぎて、いまひとつ信憑性に欠ける。
 ドイツのプールの消毒方法(たとえば塩素の濃度)が不明だし、「学童期に水泳プールを使用しなかった人」、「生涯において水泳プールを一度も使用したことがない人」ってのが、ちょっと想像つかない。(ドイツでも水泳の授業はある)
 「体育の授業はいつも見学でした」という体の弱い人なのか、それともプールの授業というものがなかった時代の生徒、つまり高齢者なのか。いずれにせよ、「プールで泳いだことがない人」の人数は2606名の内、ほんの一握りだろう。統計的に当てにならない母数なのではあるまいか?
 さらには、過去一年「プールで泳いだことがある人」は運動好きでアウトドア派、「泳いだことがない人」は運動嫌いでインドア派であることが想像される。花粉症の発症率との関係は、単に「よく外出するかしないか」の差ということも考えられるのでは?
 あるいは、「水着を着たことがあるかないか」の差かもしれない。

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PexelsによるPixabayからの画像

 そんなわけで、背景の不確かな研究結果を鵜呑みにするのは止めて、プールは続けることにした。
 なんたって、最高のストレス解消&安眠効果があるのだから。
 また、体質改善を目して、しばらく前からコーヒーやアルコールを控え、甜茶とドクダミ茶をブレンドしたものを500㏄ポットに入れて持ち歩いている。(甜茶だけだと甘すぎて飽きが来る)
 葛根湯は効かなかったが、小青竜湯を試したところ、ずいぶん楽になることに気づいた。抗ヒスタミン薬の含まれている市販の花粉症の薬とは違って、眠くなる成分が入っていないし、中国三千年の歴史が安全を証明している生薬のほうが、安心感がある。

 甜茶とドクダミ茶と小青竜湯。
 この三銃士で今年の花粉症シーズンを乗り切るダルタニヤン。

甜茶


ドクダミ茶


小青竜湯





 
 

● 牛歩の神たち

1月5日(日)晴れ
恒例の高尾山薬王院、初詣。
暗い中、5時過ぎに家を出る。
熟れた柿のような朝焼けが、中央線の後方の空を染める。
7時に京王高尾山口駅に到着。
友人と合流する。

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京王高尾山口駅
周辺がすっかり広くきれいになった

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ケーブルカー麓駅
行きはケーブル、帰りはリフトがおすすめ
いずれも大人片道450円

山頂駅に着くと、きりりとした早朝の空気に身が引き締まる。
さすがにまだ外国人観光客の姿はない。
薬王院へ向かう参道からは、黄金色にけぶる大都会が望めた。

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薬王院本堂
中に入って護摩法要を受ける。
コーチに率いられた地元の少年野球チームのユニフォームが目立っていた。
こんなふうにして、日本人は幼いころから、神仏に祈って験をかつぐことを学んでいくのだ。

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本尊は飯縄大権現(いづなだいごんげん)
不動明王の化身とされる

高尾お札
終了時に拝受した3000円の御護摩札
奉納金額によってサイズが変わる

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高尾山頂(600m)

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正月の富士山はひときわ神々しい

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新宿ビル街、横浜ランドマークタワー、相模湾、江の島が一望の下

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同じ標高のスカイツリーも地平線上におぼろに佇立
チマチマした人間界を天狗の高みから鳥瞰できる高尾初詣の良さ
明日からまたそこで働く

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おみくじは「吉」
七福神が牛に乗って来るという

七福神

今年も健康で安穏に暮らせますように
生きとし生けるものが幸福でありますように


















● 飯能の空、よたび :天覧山(195m)&多峰主山(271m)

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天覧山(手前)と多峰主山(奥)
飯能市立博物館前より

日時 2024年11月4日(月、祝)
天気 晴れ
行程
09:15 西武線飯能駅
     歩行開始
09:50 武陽山能仁寺
     庭園見学(50分)
10:55 天覧山頂上(195m)
     休憩(5分)
11:50 多峰主山頂上(271m)
     昼食休憩(60分)
13:10 下山(多峰主山登山口)
13:20 吾妻峡(入間川)
13:45 河原べり
     休憩(15分)
14:40 西武線飯能駅
     歩行終了
所要時間 5時間25分(歩行3時間15分+休憩2時間10分)
最大標高 271m
最大標高差 166m

 飯能駅から歩いて廻れる、低山+眺望+日本庭園+渓谷のバラエティに富んだ初心者ワクワクコース。
 前回訪ねたのは当ブログ開始前のことだから、12年以上も前になる。
 やっぱり記録をつけていないと、どんな道だったか、山頂からの眺めはどんなだったか、ほとんど思い出せない。
 別に思い出せなくとも困るものでもないが・・・・。

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西武線飯能駅  

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広小路交差点
飯能のまちには歴史的建造物が多く見られる
上は江戸中期から米穀商を営んできた新井家住宅

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吉田屋呉服店
明治7年に旅館として創業、その後呉服店に

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店蔵絹甚
明治37年(1905)に篠原甚蔵・長三父子によって建てられた。隣家への延焼を防ぐための防火壁(うだつ)が特徴。俗に「出世しないさま」を意味する「うだつが上がらない」は、うだつをつける財力がないところから来ている。

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武陽山能仁寺
室町中期に武将中山家勝、家範親子によって創建された曹洞宗の名刹

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本堂
毘盧遮那仏を祀っている。
曹洞宗のご本尊は釈迦如来では?――と思ったら、禅宗では宝冠をつけた釈迦を毘盧遮那と言うとか・・・。これは中国で禅と華厳教が思想融合する過程で、毘盧遮那仏と釈迦仏が同体視された結果と推測されている。

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本堂内部

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池泉鑑賞蓬莱庭園(桃山時代)
日本名園百選に選ばれている風雅な庭
天覧山の南斜面に築かれ、自然の木々を借景とする

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板張りの広縁に座して、流水の音、水面に反射して周囲の岩や木々に映る光の揺らぎ、鳥の声、蝶の舞いに包まれる。豊かな時が過ごせた。(拝観料300円)

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能仁寺から15分の登りで天覧山頂上に。
展望台に立てば、思いがけない圧巻な眺望が広がっている。愛宕山、羅漢山の名を経て、明治16年(1883)明治天皇の登頂を記念して天覧山と改称された。
この山こそ、三島由紀夫『美しい星』の冒頭に登場する聖地。UFOとの交信を目して大杉一家が真夜中に登った山である。

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山頂から東南方向を見る。
飯能市を挟むようにして地平線に崖線が連なっている。崖線の上が武蔵野台地である。

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拡大画像

武蔵野台地は、荒川・多摩川・京浜東北線・入間川に挟まれた面積700kmの台地である。その範囲は東京都区部(東部を除く)、多摩地区の大部分(南多摩を除く)、そして所沢市など埼玉県入間地域や志木市など新座地域を含み、川越市が武蔵野台地の北端に位置する。(ウィキペディア「武蔵野台地」より抜粋)



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いったん下って、マムシ注意の湿原を抜けて多峰主山へ

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見返り坂を登る
源義経の母・常盤御前があまりの風景の良さに幾度も振り返ったという急坂。現在は高い木々に囲まれ、振り返っても眺望は得られない。

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雨乞池
この池の水はかつて枯れたことがない。近郷の人たちは旱魃が続くと、ここに集まって雨乞祭りをしたという。

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多峰主山(たとうすやま)頂上

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東京方面

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拡大画像
武蔵野台地の上に新宿や池袋の摩天楼が蜃気楼のように立ち並ぶ。

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川崎方面
さきほど登った天覧山

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丹沢方面
富士山は見えなかった

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秩父・奥武蔵方面

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山頂は賑わっていた
空いたテーブルを見つけて、おにぎり2個、ブロッコリーサラダ、ゆで卵の昼食。11月とは思えない日射しと暖かさ。ランニングシャツの男もいた。

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下山中に通過した巨岩塊
てっぺんに御嶽八幡神社が鎮座す

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巨岩のふもとに建つ不動明王碑
こんがら童子(右)とせいたか童子(左)を具している

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このあたりはワサビ畑にしたいような湿地

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御嶽八幡神社の鳥居
ここが反対側からの登り口となる

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吾妻峡
秩父大持山に源を発する入間川は、名栗郷を通って飯能市街を洗い、入間市、狭山市を通って、川越で荒川に合流する。

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ドレミファ橋

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しっとりした秋の光景に心くつろぐ

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遊歩道とは名ばかり
結構きつい岩場の連続だった

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今年の紅葉の遅いこと!
平野では11月下旬が見頃だろうか
キャンパーもまばらだった

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池袋から小1時間
山と川と名刹に囲まれたのどかな町
飯能っていいところだ








● 飯能の空、みたび :棒ノ折山(969m)


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名栗湖畔から望む棒ノ折

日時 2024年10月14日(月、祝)
天気 晴れ
行程
09:00 西武線飯能駅・国際興業バス乗車
09:50 さわらびの湯バス停
     歩行開始
10:05 名栗湖、有間ダム
10:40 小滝(休憩5分)
11:20 東屋跡地(休憩10分)
12:00 権次入峠
12:10 山頂(昼食休憩60分)
13:40 岩茸石(休憩10分)
14:05 展望のよい所
14:35 杉木立のベンチ(休憩5分)
15:20 下山
15:30 さわらびの湯
     歩行終了
17:07 さわらびの湯バス停(国際興業バス)
17:50 西武線飯能駅
所要時間 5時間40分(歩行4時間10分+休憩1時間30分)
最大標高 969m
最大標高差 732m

 棒ノ折は三島由紀夫作『美しい星』の舞台となった飯能市にある。
 都心から電車とバスで2時間弱、沢登りと見事な眺望が楽しめ、家族連れで気軽に登れるこの山は、最近とみに人気が高い。
 休日ごとに500名を超えるハイカーが訪れるという。
 ソルティは3回目の挑戦となる。

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さわらびの湯バス停
飯能駅発のバスは満席だった。
圧倒的に中高年が多く、賑やかだった。
コロナはいつの話やら・・・?

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名栗湖
有間川を堰き止めてできたダム湖
天端(堤の上)には黒蟻の行列さながら
革ジャンのバイカーがずらり並んでいた

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有間ダム
1986年(昭和61年)に完成
初めて来た時、この周囲の車道に猿の家族を見た

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白谷沢コースを登る
みずみずしい木々が目にやさしい

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最初の休憩地点
このへんから沢登りが始まる
ワンちゃん連れのハイカーも結構多かった

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ゴルジュ(切り立った崖の間)を急流が走る
足許が滑りやすく、慎重さを要する

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苔むした岩の風情が『もののけ姫』の舞台となった
屋久島の森を思い出させる

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前後に人がいるのはやはり安心
昔は自然の中に一人っきりを好んだソルティだが
滑落や道迷いや熊との遭遇に怯えるようになった

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鎖り場を一気に登って沢登りを無事クリア

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天から降りてきたミルキーウェイのごと

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2回目の休憩地点
かつてここには東屋があった

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峠にそびえる岩茸石
ここからの登りがきつく、汗を絞られる

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到着~!
標高969m
東京都奥多摩町と埼玉県飯能市の境をなす

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頂上は広々として日当たりが良い
10月でも日向は暑かった
おにぎり2個、ゆで卵、キュウリの一本漬けの昼食

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残念なことに周囲の木々が繁りすぎて眺望は得られず

棒ノ折眺望
前回(2012年8月)撮影した画像

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眺望は眼下のみにあらず
飯能の青い空
三島がここをUFO出現の舞台にしたのも分かる気がする

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岩茸石のベンチで黙想
峠を吹き抜ける風に晩秋の気配を感じた
下山路は滝ノ平尾根をとる

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下山途中で下界が見える地点があった

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中央線と西武線の沿線を伝って、
池袋や新宿副都心、さらには東京湾が望めた

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午後の日射しが杉木立に縞目をつける

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木の根っこが競い合って地表を覆いつくす
歩きづらいことこの上なし
登りより下りがきついお年頃

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無事下山
秋桜(cosmos)がお出迎えしてくれた

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さわらびの湯(大人3時間800円)
UFOはここに着陸していたのか!
入間川のせせらぎを聴きながらの露天風呂はサイコー!!

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暮れなずむ名栗の里
十一夜の月が山の上におぼろに浮かぶ

 
秋来ぬと 目にはさやかに見えねども
風の音にぞ 驚かれぬる
(藤原敏行)







 

● 死ぬときに聴きたい音楽 : ISP第10回記念定期演奏会


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日時: 2024年10月12日(土)18:00~
会場: 横浜みなとみらいホール 大ホール
曲目:
● 外山雄三: 管弦楽のためのラプソディ
● G.マーラー: 交響曲第3番ニ短調
  メゾ・ソプラノ: 金子 美香
指揮: 海老原 光
女声合唱: 東京シティ・フィル・コーア
児童合唱: 江東少年少女合唱団

 みなとみらいホールは初めて。
 みなとみらい駅から構内通路が直結しているので、建物の外観はまったく分からなかった。が、中はたいへん立派だった。
 舞台の後ろにも座席があるアリーナ型で、池袋の東京芸術劇場と妍を競うような巨大パイプオルガンがある。
 加えて、音響の素晴らしいこと!
 音が立体的に響き、身体が音と相対しているというより、音の中に埋もれているような感覚があった。

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 海老原光の指揮は初めて聴いたが、一曲目から、ロマンスグレーのモテ系ルックスとダイナミックな指揮ぶりとで、オケを自在に操る技量の高さとカリスマ性はうかがえた。さすが光る君。

 昨年亡くなった外山雄三作曲による『管弦楽のためのラプソディ』は、日本人なら誰でも心浮き立つ楽しい曲。
 『あんたがた、どこさ』から始まって、『ソーラン節』、『炭坑節』、『串本節』、『信濃追分』、『八木節』と、なじみ深い日本各地の民謡が和洋折衷アレンジでリレーされる。
 使用される楽器も、鐘や拍子木や和太鼓やチャンチキなど日本人のDNAに感応するものが、西洋楽器に加わって異彩を放っている。
 客席の、そしてオケメンバーの緊張をほぐし、心を一つにし、会場を温め、盛り上げ、後半を期待させる。
 前プロとしてこれ以上にないベストチョイス。

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チャンチキ(摺鉦とも言う)
 https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2840890による画像

 マーラーの第3番をナマで聴くのは、3回目。
 回を重ねるごとに、その深い魅力に”耳“が開かれる。
 今回は第1楽章が圧巻であった。

 第1楽章は、6つある楽章の中で一番演奏時間が長く(30~40分)、構成が複雑で、転調が激しく、取っ付きにくい。
 他の楽章――美しいメロディが甘美な境地に誘う第2楽章、大自然の清新な息吹を運んでくる第3楽章、メゾ・ソプラノの清澄にして厳かな響きが耳朶を震わす第4楽章、天使たちの高らかな讃美歌が心地よい第5楽章、そして聴く者をして忘我の陶酔に浸らせる第6楽章――と比べると、第1楽章は実になじみ難い。
 破綻している精神の表現とすら思えるほどに。
 それが今回はとても面白く、豊かに、フレッシュに、感じられた。
 あたかも山歩きしているがごとく。
 
 ソルティのハイカー歴も20年以上になるが、若くて体力・脚力に自信があった40代の頃は、少しでも早く山頂に到達すること、一つでも多くのピーク(頂き)を制覇することが目的であった。
 それこそ、「ファイトォ、一発!」のノリだった。
 50歳を過ぎた頃からそれが変化し、周囲の風景や自然の音を味わいながら、無理せず、ゆっくり歩くことに比重が移った。
 目的は山頂でなく、山頂に至るプロセスそのものとなった。
 針葉樹の道、広葉樹の道、岩づたいのスリリングな鎖り場、清冽な沢登り、風わたる草原、お花畑、せせらぎ、マイナスイオンたっぷりの滝、のどの渇きを癒す湧き水、蚊柱、蜘蛛の巣、つきまとってくるアブ、目の前を横切る蛇や鹿、鶯やコジュケイや郭公の声、山頂からの絶景、名も知らぬ小さな花、不気味な風体のマムシ草、摩滅して正体の分からぬ石仏や碑文、朽ちかけた鳥居や道しるべ、すれ違うハイカーとの挨拶・・・・。
 いつのまにか、趣味は「山登り」でなく、「山歩き」になった。

 今回の第1楽章もまた、山歩きの楽しみを彷彿させるものだったのである。
 山道をひとつ曲がるたびに現れる風物との出会いと発見に心奪われるように、次から次へと現れる予想のつかない曲調の展開にワクワクした。
 前2回に聴いたときは気づかなかった発見がたくさんあった。
 海老原のゆっくりしたテンポがそれを扶けた。
 マーラーの音楽がそもそもそうした性質をもつ、つまり、「山登り愛好者」でなく「山歩き愛好者」向けの音楽なんだと思う。
 構成の完成度とかテーマの統一性とか小難しいことをあれこれ考えるのは止めて、目の前に次々差し出される音楽を、サーカスを見物している子供のように目を丸くして無心に楽しむのがよい。
 第3番の第1楽章は、中でもとりわけバラエティに富んだ、ソルティの愛する高尾山のごときなのである。

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高尾山の山頂広場

 個人的には、第1楽章の濃密度にくらべると、後半に行くほど味が薄くなるような感じを持った。
 トゥッティ(総奏)では気づかれないが、ソロ(独奏)になると、オケメンバーの技量差がどうしても露わになる。
 この曲は、ソロが流れの重要な転換点を請け負うポイントが多々あるので、ソロの重責が非常に大きい。
 そこはごまかしが効かないので、アマオケには試練な曲とあらためて思った。
 そのなかで、コンマス(鈴木悠大)のヴァイオリンは突き抜けて見事だった。

 全般に素晴らしい演奏で、ソルティのあちこちのチャクラは蠢いたり、ツッと射抜かれたり、光の雲に包まれたり、最初から最後まで忙しかった。
 第6楽章こそは、死ぬときに聴きたい音楽とあらためて思った。

 ブラーヴィ!!









● 野口五郎の謎 本:『日下を、なぜクサカと読むのか 地名と古代語』(筒井功著)

2024年河出書房新社

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 長野県と富山県の境をなす飛騨山脈の中に野口五郎岳(2924m)という山がある。
 はじめてこの名を地図上で見つけた時は冗談かと思った。
 野口五郎も偉くなったもんだなあと思った。

 いまの若い人は知らないだろうが、野口五郎は70~80年代のスーパーアイドル歌手だった。
 西城秀樹、郷ひろみとともに「新御三家」の一人として、世の多くの女性たちの人気を集めた。
 『私鉄沿線』、『甘い生活』、『針葉樹』、『季節風』、『コーラスライン』など名曲も少なくない。
 ひょっとしたら、野口五郎の出身地にある山だから、記念にその名を冠したのかなあと思った。

 が、これは逆であった。
 ちびっ子のど自慢大会の常連だった佐藤靖少年は、歌手デビューするにあたって、「雄々しく逞しい歌手になるように」という願いを込めて、この山から芸名をもらったのである。
 やはり同じ飛騨山脈中にある黒部五郎(2840m)とどっちにするか迷ったというから、芸名を考えた人はかなりの登山マニアだったのだろう。
 ちなみに、野口五郎は岐阜県出身である。

 野口五郎岳の名の由来は、「野口」集落にある「ゴロ」。
 ゴロとは「大きな岩がゴロゴロしているところ」の意で、場所によっては「ゴウラ、ゴウロ、ゴラ」とも呼ばれる。
 箱根温泉の有名な強羅(ごうら)はまさにその一例である。

野口五郎岳
野口五郎岳
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=81900301による

 土地の名前の由来を知るのは面白い。
 由来を探るのはさらに面白い。
 とくに、大昔から継承されている地名は由来が文献に記されていないため、想像や推理で探るほかない。
 「野口」や「強羅」のように地形や土地の特徴から推測したり、名前の音(オン)から大和言葉以外の起源(たとえばアイヌ語や朝鮮語)を想定したり、その土地に伝わってきた古い風習や代表的な生産物に起源を求めたり、いろいろなアプローチがある。
 本書はまさに、文献には見つからない、日本の古い地名の由来を探っている。
 
 著者の筒井功は、民間の民俗研究家。
 机上の文献調査ももちろん怠りないが、自ら車を運転しての現地調査いわゆるフィールドワークに重点を置いているところが、この人の面目躍如である。
 まさに文字通り、“在野”の研究家。
 それゆえ、この著者の書く物は民俗研究レポートであると同時に、日本の辺境をめぐる旅行エッセイみたいなニュアンスを帯びる。
 出かけた先の役所や図書館などで地域資料を調べ、現地の古老をつかまえては古い記憶を引っ張り出す。
 そこからオリジナルな仮説を組み立てていく。
 「足で稼ぐ」探偵を主人公とする推理小説を読むような魅力がある。

 本書で取り上げられている地名、及びその由来についての著者の仮説を一部紹介する。
  • クサカ(日下)=クサ(日陰)+カ(処)→日の当たらないところ
  • ツルマキ(鶴巻、鶴牧、弦巻など)=弦巻(弓に弦を巻く円形の器具)→円形の土地
  • イチのつく地名(市、市場、一ノ瀬など)=イチ(巫女などの宗教者)が住んでいたところ (もちろん「市(マーケット)」や「一番」の意によるところも多い)
  • ツマのつく地名(川妻、上妻、下妻など)=「そば、へり」の意→川べりにある土地
  • アオイヤのつく地名(青山、青木、伊谷、弥谷など)=葬地だったところ
  • サイノカワラ(賽の河原)=サエ(境)+ノ+ゴウラ(石原)→石がゴロゴロしている境界の地
徳島県市場町

 2018年の秋に四国歩き遍路したとき、八十八ある札所の中で、「なんか不気味だなあ」、「ここは出そうだなあ」と思ったところ、参拝した後に“憑かれた”ような重さを感じたところがあった。
 香川県にある71番弥谷寺(いやだにでら)である。
 382mの山の中腹にあり、570段の急な石段を登りきったところにある本堂からは、素晴らしい眺望が得られた。
 弘法大師空海が子供の頃に勉強をした岩窟があることでも有名で、人気スポットになってもおかしくない場所であった。
 が、なんとも言いようのない空気の澱みを感じた。
 訪れたのは一日の巡礼の最後で足が棒のようになっていたので、境内で景色を見ながらゆっくり休憩するつもりだった。
 が、岩窟の中にある納経所で御朱印をもらったら、一刻も早く山を下りなくちゃという気になった。  
 霊感のないソルティには珍しいことであった。

 本書によれば、この山は地元では「死者の行く山と考えられており、葬送儀礼の一環として弥谷参りが行われた」そうである。

同地の例では、葬式の翌日か死後三日目または七日目に、血縁の濃いものが偶数でまずサンマイ(埋め墓)へ行き、「弥谷へ参るぞ」と声をかけて一人が死者を背負う格好をして、数キロから十数キロを歩いて弥谷寺へ参る。境内の水場で戒名を書いた経木に水をかけて供養し、遺髪と野位牌をお墓谷の洞穴へ、着物を寺に納めて、最後は山門下の茶店で会食してあとを振り向かずに帰る。(吉川弘文館『日本民俗大辞典』より抜粋、筆者は小嶋博巳)

 弥谷(イヤ+タニ)はまさに葬地だったのである。
 地名の由来を事前に知っていたら、怖くて写真を撮れなかったろう。

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遍路道から望む弥谷山

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山門

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金剛挙菩薩(約6m)

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「いやだに~」と毒づきながら登った石段


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本堂

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水場の洞窟

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大師堂
この中に岩窟がある

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岩窟への入口

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下山してほっとした



おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● オオクボレンセキ? NHKドラマ:『クライマーズ・ハイ』

2005年NHK制作
150分
原作:横山秀夫
演出:清水一彦、井上剛

nhkクライマーズハイ

 JAL123便墜落事故20周年の節目に、原田眞人監督×堤真一主演の映画版に先駆けて、NHKが制作・放映したもの。
 来年で40周年と思うにつけ、月日の速さをつくづく感じる。
 と同時に、520人が亡くなった事故の衝撃の大きさと、いまだ治まることのない事故原因や事故後の対応をめぐる疑惑の噴出ぶりに、いっこうに鎮まらない心をもてあます。
 昭和・平成・令和と60年生きてきて、国内のいろんなニュースに接してきたが、こんな未消化で不快な思いを引き摺る事件はほかにない。
 府中3億円強奪事件(1968)やグリコ・森永毒入り菓子事件(1984)など犯人が捕まらないまま時効となった未解決事件、あるいはオウム真理教地下鉄サリン事件(1995)や薬害エイズ事件(1997年裁判和解)など多数の被害者を出した悲惨な事件はあったけれど、JAL123便墜落事件ほどの不気味さや後味の悪さはない。
 間違いなくそれは、森永卓郎が書いたように、この事件がいまも巨大な政治的圧力によってタブー視されていることと関係している。
 事件の詳細について知れば知るほど、そこに深い闇があるのを感得せざるをえないのだ。

 映画版にしろ、このTV版にしろ、本作の肝となるメッセージをしっかりと受け止めるためには、この闇に触れないわけにはいかない。
 なぜ、「日航全権デスク」を託された主人公悠木和雄は、部下を駆使して掴んだ「事故原因は圧力隔壁の損壊」というスクープの掲載を最後の最後に断念したのか。
 結果として、全国紙に出し抜かれる“ミス”を犯してしまったのか。
 悠木という男の性格、すなわち過度の慎重さ(あるいは優柔不断や臆病)に原因を帰するならば、この物語は単に、「ここ一番で勝負できず、周囲の期待を裏切った男」の失敗譚に終わってしまう。
 同僚にしてライバルの田沢が言うように、「いざとなると腰を引いてしまう悪い癖」がまたしても出たのだと。
 が、そうではない。
 「圧力隔壁の損壊」という事故原因は疑わしい=真相は別にあるということを、悠木という男の振る舞いを通して読者や視聴者に暗示したかった――というのが作り手の隠された意図であろう。
 であればこそ、TV版において、新聞をもらいに社を訪れた遺族母子が悠木に向けて放ったセリフ、「事故で亡くなった人の為にも真実を伝えて下さい」が生きてくる。
 映画版においてラストに映し出されるテロップ、「再調査を望む声は、いまだ止まない」が効いてくる。
 要は、「機体後部の圧力隔壁の損壊」という事故原因を安易に信用せず、寸でのところでスクープを思いとどまった悠木を、“クライマーズ・ハイ”という精神の興奮が引き起こす麻痺状態から「降りてきた」男として描いたのである。

 その意味で、原作者の横山秀夫はもとより、NHKドラマ制作班も原田眞人監督はじめ映画制作者も、「タブーに挑んだ」ということができる。
 とくに、国営放送であるNHKであってみれば、政府公式発表に疑問を抱く現場サイドがなし得るぎりぎりの抵抗が、本作の制作と放映だったのかもしれない。(今回の都知事選のNHK政見放送で、このタブーを堂々と破った泡沫候補がいたのには驚いた。)

宇宙人襲来

 このTV版、第43回ギャラクシー賞などいくつかの賞をもらい、評価が高い。
 実際、非常によく出来ている。
 映画版とほぼ同じ150分の尺で、映画版よりずっと話が整理されて分かりやすく、より濃いドラマが生み出されて、感動を呼ぶ。
 まず、脚本が上手い。
 映画版ではバランスを誤った3つのテーマ――墜落事故の様相、新聞社で働く男たちの群像、谷川岳登山をめぐってあぶり出される父子関係――が、適切な比重をもってバランス良く描き出されている。
 ナレーションや字幕の使用によって、視聴者が混乱しないような工夫もされている。
 映画版ではなんのことやら分からなかったベテラン記者たちの言葉「オオクボレンセキ」が、連続女性強姦殺人事件の犯人大久保清と、あさま山荘で有名な連合赤軍事件のことだと、TV版を観て知った。
 どちらも同じ1971年に群馬県で起きた事件だったのだ。

 北関東新聞社の社長と悠木の母親の浅からぬ関係、佐山とともに事故現場に足を運んだ神沢記者(映画では滝藤賢一、TVでは新井浩文演ず)の精神不安と自殺――両エピソードが省かれているのは、映画版との大きな違いであるが、話をシンプルにするためには、これは削って正解だった。
 このようなスケールの大きな話の場合、原作そのままを決められた尺(約150分)で映像化するのはどだい無理なのだから、どこかを思い切って削らなければならない。
 エピソードを詰め込み過ぎて映像作品としての質が落ちては、元も子もない。
 そこを理解してくれる原作者の存在は、映像化に際して非常に有難いところであろう。

 役者については、映画版に負けず劣らず、TV版も良かった。
 悠木役の堤真一と佐藤浩市のどちらがいいかは好みの問題だろう。
 暑苦しいほどの存在感はTV版の佐藤が一頭地抜いているが、男たちの群像劇として見れば、逆にそこがちょっと鼻につく。
 佐山役は、映画版の堺雅人のほうが若々しい切れがあって印象に残る。
 が、TV版の大森南朋のやさしい顔立ちは、生き馬の目を抜くマスコミ業界で「24時間戦う」昭和の男たちが互いに容赦なく罵り合う、観る者が思わず引いてしまう“喧嘩・パワハラ上等”場面にあって、貴重な癒し効果を生んでいる。
 社長役は、映画版の山崎努が個性際立つキャラを作って気を吐いていたが、出番の少なさを思えばTV版の杉浦直樹の威圧感ある眼差しもエグい。
 TV版の社員たち――岸部一徳、塩見三省、光石研、松重豊、岡本信人ら――は、それぞれが役者自身の個性や顔立ちとかぶるような役柄で、いい味を出している。
 悠木の妻役の美保純だけはちょっと××クソ。

 “ワースト・オブ・ワースト”の異名をとる谷川岳の衝立岩に登るスリリングなシーンは、巨大スクリーンを前提とした映画版こそバエるはずであるが、どういうわけかソルティは、TV版のほうが観ていてゾッとした。
 これはしかし、映画館のスクリーンのために撮られた映像をDVDでテレビモニターで観るよりも、あらかじめTV放映を念頭に置いて撮られた映像をテレビモニターで観るほうが、迫力があるってことなのかもしれない。
 映画とTVドラマでは、キャメラの使い方が違って当然である。 

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谷川岳
KanenoriによるPixabayからの画像


 
 
おすすめ度 :★★★★

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