今回もスクーリングに合わせて、奈良と京都の寺社&仏像めぐりをした。
奈良・・・・新薬師寺、春日大社
京都・・・・醍醐寺、一言寺

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新薬師寺前にある南都鏡神社
祭神は天照皇大神、藤原広嗣公、地主神
神仏習合時代は新薬師寺の鎮守であった
反乱の汚名を被って処刑された藤原広嗣の霊を鎮めるために建てられたという

新薬師寺本堂(国宝)
平重衡の南都焼討ち(1180)はじめ、度重なる災禍をくぐり抜けた奈良時代の遺構。天平19年(747)に聖武天皇の病気平癒を祈願して、お后の光明皇后によって建てられた。堂内に入ると、1300歳の木の霊力をびんびん感じる。

受付でもらったパンフレット
御本尊の薬師如来坐像(木造)の特徴は、なんと言っても、どんぐり眼。
聖武天皇の病気とは、藤原広嗣の祟りによって起こった眼病だったという説もあるが、この像がつくられたのは平安初期(聖武没後)なので時代的に合わない。量感豊かな像の様式を見ても、創建時の本尊ではないと思われる。

新薬師寺パンフレットより
本尊をぐるりと取り巻く十二神将が頼もしい。こちらは奈良時代作。
ひとりひとりが見事にキャラ立ちしていて、見ていて飽きない。
平安時代以降は十二支信仰と結びつき、頭上に十二支の動物を乗っけるようになった(例:神護寺の十二神将)が、本像にはない。
それにつけても、東大寺戒壇堂の四天王像といい、興福寺国宝館の八部衆像といい、天平の彫刻ってほんと素晴らしい!

手元にある『サライ』(2023年秋号)の表紙を飾る伐折羅(ばざら)大将

ポストカードを購入。
もとの色彩をCGを使って復元するプロジェクトがなされた。
造像当時の伐折羅大将はこんなにカラフルで華やかだった。
金色に輝く薬師如来をこれらの像が取り巻く空間を想像してほしい。
So gorgeous !

新薬師寺には白鳳時代の最高傑作と言われる薬師如来立像(通称:香薬師)があった。昭和18年(1943)に盗まれ、今なお行方不明である。その際に残された右手のみ、時々公開される。堂内にはレプリカが置いてある。

春日大社
神護景雲2年(768)称徳天皇の勅命により創建
御祭神は、タケミカヅチノミコト、フツヌシノミコト、アメノコヤネノミコト、ヒメガミの四神。藤原氏の氏神であり、神仏習合時代は興福寺と一体であった。

背後に御蓋山(みかさやま)、境内に62社を擁する約30万坪の広大な社地を誇る。日本人より外国人観光客と鹿のほうが多かった。ここの鹿たちは、神の使いとしての自覚を持っているかのようだ。奈良公園の鹿よりプライドが高く、人に媚びない。

社頭の大杉
関西に行くと、不思議と花粉症が治まる。

中門・御廊 (ちゅうもん・おろう)
奥に本殿がある。春日大社の建物は、伊勢神宮同様、20年に一度の建替えや修復を行う。

春日神社と言えば灯籠
境内には、約2000基の石灯籠、約1000基の釣灯籠がある。

毎年2月の節分と8月のお盆の時期に、すべての灯籠に火を灯し、人々の諸願成就を祈る。その美しさを体験できる小屋があった。


京都に移動
四条大橋から鴨川を望む

夕食は京都発祥の衣笠丼(きぬがさどん)
油揚げと九条ネギをダシで煮て卵で閉じたもの
安価でヘルシーで美味しい庶民の定番メニュー

翌朝、醍醐駅からバスに乗って醍醐寺へ

貞観16年(874)理源大師が創建
醍醐・朱雀・村上天皇、白河上皇、足利尊氏、足利義満、豊臣秀吉・秀頼などの帰依を受け、69,420点の国宝、6,521点の重要文化財をもつ。
ソルティ、実は初めての参詣(と思う)

総門を入ってすぐの三宝院
通常は非公開のエリアが特別公開されていた

表書院
あでやかな襖絵に目を奪われる
長谷川等伯(1539‐1610)作


石田幽汀(1721-1786)作

豊臣秀吉自ら設計した庭園
日本中から石を集めたという

京都の飛雲閣同様、舟で池を渡って橋の下や建物の下をくぐり、奥にある茶室に直接上がれるようになっている。秀吉が好きな趣向だったのだろう。紅葉時の絢爛が目に浮かぶ。

藤戸石
「天下を治める者が所有する石」として室町時代から歴代の権力者の手を渡ってきたもの。庭園の中心に据えられている。

三宝院本堂の快慶作の弥勒菩薩坐像
通常は非公開(醍醐寺ポスターより転載)
「安阿弥様」と呼ばれる、美しく整った絵画的な写実を特徴とする快慶の作風が見られる。同門の運慶の作風とはずいぶん異なる。

唐門
慶長4年(1599)建立
菊の御紋は皇室、桐の御紋は皇室および秀吉を表わす
朝廷からの使者を迎える時だけ開いた

仁王門
慶長10年(1605)、豊臣秀頼による再建

五重塔(国宝)
醍醐天皇の冥福を祈るために、朱雀天皇が承平6年(936)に着工、村上天皇の天暦5年(951)に完成した。高さ約38メートル。てっぺんの相輪は塔の3分の1を占める。京都府下で最も古い木造建築物である。国内の五重塔としては、法隆寺、室生寺の次に古い。(薬師寺は三重塔)
美しいけど、五重塔とはストゥーパ、すなわちお墓なんだよね。

金堂(国宝)
創建時の建物は応仁の乱で焼失。現在の建物は、豊臣秀吉が紀州に攻め入った時、当地の満願寺の本堂(12世紀後半建立)を移築したもの。シンメトリカルで晴れ晴れしい。中に安置されている薬師如来座像が醍醐寺の本尊。

観音堂
西国三十三巡礼の第十一番札所になっている。
貴族的な醍醐寺のたたずまいの中で、ここだけは庶民風だった。

弁天堂
紅葉時はどんなにか・・・・。
ここでデジャヴュー体験。やっぱり、来たことあるのか?

池之端にあるお休み処で湯葉うどん定食を注文
やさしいお味

国宝の薬師三尊像(平安時代)はじめ、約10万点以上に及ぶ寺宝を収蔵している霊宝館は修繕のため休館だった。また来よう。
空いた時間をどうしてくれようかと、醍醐駅で手に入れた町の散策MAPを広げてびっくり!
南都焼討ちの大悪人、日本仏教界&仏像マニア界隈の怨嗟の的、平重衡の墓があるではないか!
この町に葬られていたとは知らなかった。
行くっきゃない!

一言寺
醍醐寺の塔頭寺院

石段を登った先にある門からは、醍醐の街を一望できる。

「ただたのめ 佛にうそは なきものぞ 二言といわぬ 一言寺かな」
武士ならぬ、仏に二言なし。御本尊の千手観音に一心に祈れば、あやまたず願いを叶えてくれるという。

醍醐寺より徒歩30分
団地の中に大正時代に建てられた石碑が唐突に出現
「従三位平重衡御墓」と読める
ここで横道に入る

あれかな?

平重衡(1157‐1185)
平清盛の五男として源平合戦を戦い抜いた。
一ノ谷の合戦で捕らえられ、鎌倉の源頼朝のもとに送られるも、焼討ちの怒りおさまらぬ南都宗徒らに引き渡され、木津川畔にて斬首された。享年29。

火葬後、この地に埋葬されたとある。
最期はどんな思いを抱いていたのか?
やはり、地獄行きを覚悟していたのか?
奇遇にも、墓所の近くには「善人なおもて往生を遂ぐ いわんや悪人をや」の親鸞聖人の生誕地がある。

帰りの新幹線
富士山を過ぎる頃にやっと、過去から現在へ帰還した。