ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●旅・山登り

● 慶派をめぐる伊豆の旅(後編)

 朝5時に目が覚める。
 1時間瞑想。  
 露天風呂独り占め。
 宿の庭を散策。

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夜中に一雨あったらしい。
天気予報では午後からまた雨になるという。

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9時過ぎにチェックアウト。

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千歳橋から守山を望む。
あそこまで歩く。
晴れてなくて良かった

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途中にある眞珠院(曹洞宗)

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ここには源頼朝との恋に破れ、真珠ヶ淵に身を投じた伊東祐親の娘八重姫の供養塔がある。『鎌倉殿の13人』ではガッキーこと新垣結衣が演じていた。

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八重姫の木像

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守山に抱かれた願成就院

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文治5年(1189)北条時政が、頼朝の奥州征伐を祈願して建立したと伝えられる。
その後は北条氏の氏寺となった。

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真言宗のお寺である。
このお大師様、颯爽としている。

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北条時政(1138-1215)のお墓
『鎌倉殿』では坂東彌十郎が好演していたが、ソルティの中では『草燃える』の金田龍之介のイメージが強い。

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大御堂
外国人の男性が案内&解説してくれた。

 寺院建立にあたって、時政は30代の運慶に作仏を依頼した。
 運慶は、現在大御堂にある阿弥陀如来像、毘沙門天像、不動明王像、制吒迦童子(せいたかどうじ)像、矜羯羅童子(こんがらどうじ)像などを造立した。
 その力強く大胆な造形と人間味は、平安後期の仏像の模範であった定朝様(宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像が典型)とは一線を画すものであった。
 これによって、運慶を始めとする慶派は東国の武士たちに贔屓にされ、鎌倉時代に隆盛を極めることになる。
 5体いずれもはんぱないオーラを放つ存在感に満ちた傑作であるが、とくに毘沙門天像が優れていると思う。(5体とも2013年に国宝指定を受けた)

 大御堂の背後に宝物殿がある。
 北条時政の肖像彫刻、北条政子地蔵、両界曼荼羅、上記仏像の中に見つかった木札(そこに時政の発願により運慶が造ったことが記されていた)などが展示されている。

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本堂前の庭
予想を超える素晴らしい仏像との出会いに、すっかり満足した。
来た甲斐あったな。

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五百羅漢
地元の石工さんの指導・手伝いのもと、羅漢づくりに挑戦できる。
眼鏡をかけた羅漢やゴルフクラブを持った羅漢など、ユニークで面白い。

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これはむしろオーソドックス羅漢

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願成就院の隣にある守山八幡宮
治承4年(1180)、この地で頼朝は平家追討を祈願し挙兵。手始めに山木判官平兼隆を討った。

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やっぱり、本殿は山の上にあるのね。

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わざわざ登らなくても良かったのだが・・・。
まあ、足腰を鍛えるためとしよう。

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三島駅に戻って、駅前の寿司屋で刺身定食(1800円)を注文。
今回の旅の一番の御馳走。

 雨が降ったら、まっすぐ帰るつもりでいたが、どうやら持ちそう。
 せっかくなので、前々から気になっていた「かんなみ仏の里美術館」に行くことにした。

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JR函南駅
ここからタクシーで5分の山里にある。

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かんなみ仏の里美術館
2012年に開設された函南町立の美術館。
函南町桑原区で古くから大切に拝まれてきた仏像24体を保管・展示している。

 洞窟のように暗い展示室に入った瞬間、別次元に連れて行かれた。
 「まったく、こんな山里に、よくもまあ、こんな素晴らしい仏像たちが眠っていたものよ!」と、驚いたのなんの。
 もとい眠っていたわけではなく、里人たちに篤く信仰されていたのであるが・・・。

 慶派の仏師と言えば、慶派の祖である康慶(運慶の父)をのぞけば、運慶と快慶が2大巨頭。
 そのほかは、運慶の長男の湛慶(京都・三十三間堂の千手観音菩薩像)、3男の康弁(奈良・興福寺の龍燈鬼像)、4男の康勝(京都・六波羅蜜寺の空也上人像と東寺の弘法大師像)あたりの名が、その代表作とともに上げられることが多い。
 しかし、ここに実慶という仏師がいたのである!

 実慶は康慶の弟子で、運慶や快慶と同年代と推測されている。
 関東中心に活躍していたらしく、ほかに伊豆修禅寺の大日如来像(毎年11月に開帳される)を残している。 
 
 実慶作の阿弥陀如来像、勢至菩薩、観音菩薩の美しいことったら!
 前に立つや、思わず、「うつくし~!」と声に出てしまった。
 慶派ならではの力強い写実性と厳しい表情は備えながらも、奈良・薬師寺金堂の薬師如来三尊像のようなエレガンスをまとっている。
 両脇菩薩のなめらかな腕のラインなどは、奈良・中宮寺の菩薩半跏像のようである。
 明らかに、実慶は、治承4年(1180)に平重衡によって焼かれる前の東大寺や興福寺の天平彫刻たちを学んでいる。
 また、流れるような衣文(ドレープ)の絵画的な美しさや、如来が乗っている蓮華座の細やかな意匠などは、運慶よりむしろ、快慶(京都・醍醐寺三宝院の弥勒菩薩坐像)に通じるところがある。
 3者の上下関係はわからないが、実慶はちょうど運慶と快慶の交接点に位置しているかのように思われる。

 阿弥陀三尊の右側に居並ぶ十二神将も面白い。
 3体が平安時代、4体が鎌倉時代、5体が室町時代以降の作なので、時代ごと様式変化を探るのも一興。
 ソルティはもっとも人間っぽい顔をして動きの静かな因陀羅大将が気に入った。

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 実慶の阿弥陀三尊も十二神将も玉眼――目の部分をくりぬき、内側から水晶をはめ込む技法――がほどこされている。
 周囲が一様に明るかったり暗かったりする場所では目立たないのだが、ここの展示室のように暗い場所で、仏像の顔に懐中電灯を向けるや、玉眼が浮き上がり、鋭い光を放つ。
 数世紀の眠りからいま目覚めたかのように、表情が一変するのである!
 その効果はすさまじく、とりわけ阿弥陀如来像などは、悟りきった穏やかな慈顔と思ってそれまで観ていたものが、光を差し向けるや否や、像の前に立つ者におのれの罪業の深さを自覚させ反省させるかのような厳しさを示す。
 昼の光ではわからない。
 夜の闇でもわからない。
 蝋燭の光が揺らめく夜の堂内においてのみ、仏たちはその真の姿を、煩悩に苦しむ者たちの前に現したのではないかと想像する。 
 これはぜひ懐中電灯持参で拝観してほしい。(受付でも貸してくれる)

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受付でもらったパンフレット
左が実慶作の阿弥陀如来像、右が平安中期の薬師如来像

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この美術館は展示内容も展示の仕方も素晴らしく、スタッフの方々も親切で、(望むなら)懇切丁寧に解説してくれる。
仏像好きなら、至福の時間を過ごせること間違いなし。

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仏像を守って来られた桑原の人々に感謝。

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今回も気づきと驚きいっぱいの良か旅であった。
 


 
おわり








 

● 慶派をめぐる伊豆の旅(前編)

 全国に運慶の作ったとされる仏像は相当数ある。
 うち運慶作と確定しているもの、及び、かなり確実なものは、合わせて28体ほど。
 数えてみたら、ソルティはうち12体をこれまでに拝観していた。
 2017年に東京国立博物館で開催された「運慶展」に行っていれば、まとめて22体が観られたらしいのだが、その頃はまだ仏像マニアではなかった。
 これから機会を見つけて、運慶仏を(快慶仏も)めぐっていこうと思っている。
 旅の楽しみが増えたことひとつとっても、奈良大学に入学して良かった!

 まずは、静岡県伊豆長岡の願成就院。
 ここには、確定されている運慶仏が5体ある。
 伊豆の温泉にゆっくり浸かって、運慶をじっくり見る。
 それだけが目的の贅沢な一泊列車旅を企画した。

●1日目
 三嶋大社
 三島市立公園・楽寿園
●2日目
 願成就院
 かんなみ仏の里美術館

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JR三島駅
あいにく曇天で富士山は見えなかった。
が、晴れていたら真夏日(30度越え)確実、外歩きはきつかったろう。

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三嶋大社
ここは初めての参詣。
創建は不明だが、1300年以上の歴史をもつ。
祭神は、大山祇命(おおやまつみのみこと)、積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)。後者はいわゆる恵比須様である。

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神池と厳島神社
境内は広々と気持ちいい。

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舞殿と本殿
意外と参拝者が多くてびっくり。

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本殿正面の千鳥破風

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破風の下の彫刻
天岩戸神話か? 中央がアマテラス(天照大神)のように見える。

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境内にある神鹿園(しんろくえん)
大正時代に奈良の春日大社から「神様の使い」として譲り受けたという。

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バンビちゃんとおかあさん(おとうさんか?)

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三島は、富士山の伏流水がいたるところで湧き出る水の都。
清流の流れる街の抒情は、井上靖や太宰治ほか文豪たちの称賛のまとであった。
「三島」の地名の由来は「水澄み(みすみ)」ではなかろうか?――などと妄想する。

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三島市立公園・楽寿園
明治23年に小松宮彰仁親王の別邸としてつくられた。
昭和27年三島市の所有となった。
入園料大人300円だが、学生証提示で無料だった!

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小浜池
溶岩の間から出る湧き水の池だが、周囲の開発の影響で近年は渇水状態が続いている。野鳥の観察にはいいところである。

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約1万年前の富士山の噴火で流れ出した溶岩のあと

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伊豆箱根鉄道駿豆線に乗る

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伊豆長岡駅
駅前は閑散としている。

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千歳橋を渡る。

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狩野川(かのがわ)

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源頼朝も入ったという1300年の歴史を持つ温泉地。
そう、源氏&北条氏ゆかりの地なのである。

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源氏山(約150m)の周囲に温泉宿が立ち並んでいる。
まずは源氏山(約150m)に登る。

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展望広場に到着。

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右手に、伊豆長岡駅・千歳橋を見下ろす。

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左手に、明日行く予定の願成就院。
地図によると、あのこんもりした山(守山)の裏側にあるようだ。

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下山して、今夜の宿にチェックイン。

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やっぱり、弘法さまでしょ。

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きれいで落ち着いた雰囲気の館内。
階段に昇降用リフトが付いており、バリアフリー対策も十全。(職業柄、そういうところが目についてしまう)
ラドン温泉と岩盤浴で、しこたま汗をかいた。
休憩室の電動マッサージチェア(無料)で“無重力揉みほぐし”を体験。
おかげでぐっすり眠れた。

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後編につづく。





● 日本最大の坐禅肖像彫刻@深大寺

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 東京調布の深大寺と言えば、蕎麦と国宝の釈迦如来倚像で有名であるが、令和に入って今一つの名物が誕生した。
 日本最大の坐禅肖像彫刻、元三大師像である。

 もっとも、像が造られたのは鎌倉時代であり、蒙古襲来(元寇)との関係が推測されている。
 強大な法力を持ち「厄除け大師」として知られていた元三大師(912-985)の像を、外敵調伏の本尊として造立し、戦勝祈願したという謂れである。

 この像は長らく秘仏であり、50年に一度しか開帳されないので、存在が知られてなかった。
 最後の正式開帳は元三大師1000年忌にあたる昭和59(1984)年だったらしいのだが、世間はバブル突入で国民総浮かれモード。今あるような観仏ブームなど程遠かった。
 むろん、ソルティも覚えていない。

 本来なら次回開帳は2034年になるところだが、令和4~6年に奈良国立博物館の修理所にて像の本格修理を実施、その修理完了を記念して、この春、同博物館にて特別公開を行った。
 それが済んで深大寺にご帰還されたところで、この4月26日から6月2日まで、臨時の「元三大師大開帳」が行われているのである。

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深大寺は天平5年(733)開創の古刹
JR三鷹駅からバスで行った。
バスを降りた瞬間、蕎麦の香りに包まれる。

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本堂
本尊は中国風の宝冠をかぶった阿弥陀如来坐像

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元三大師堂
元三大師の正式の名は、慈恵大師良源(りょうげん)。
第18代天台座主で、比叡山延暦寺の中興の祖とされる。
命日が元月(1月)3日だったことから「元三大師」と称された。
弟子に『往生要集』を著した源信がいる。
拝観料1000円を払って堂内に。

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撮影は禁止。
薄暗い内陣の奥に、黒ずんだ巨大な僧形の元三大師がおられた。
表情険しく、金色に光る目がとても鋭い。
心にやましいところがある人は対峙できないだろう。
寄木造で、内部がくり抜かれている。
頭部は鎌倉彫刻に特徴的な写実の追求が見られるも、体部は全体的に簡素にまとめられており、衣のドレープの表現などは凡庸。
美術的には、唐招提寺の鑑真像六波羅蜜寺の空也上人像には及ばないが、観る者を圧倒する迫力はすごい。

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入堂時にもらったパンフレット
今回の修理の概要が、写真入りでわかりやすく書かれている。
解体したところ、像内にネズミが巣を作っていた(笑)
秘すればゴミ、である。

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像高195.1cm
坐像としては、おそらく日本最大の肖像彫刻だろう。
ちなみに、東京国立西洋美術館収蔵のロダン「考える人」は高さ186cmである。

考える人
負けた・・・・。

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境内に建つ角大師像(中央)
元三大師は、頭に2本の角を生やし、両目を見開き、あばら骨が浮き立つ異様な姿で描かれることもある。俗に角大師(つのだいし)と呼ばれる。
「角大師の護符」は厄除け効果があるとして、江戸時代には大量印刷され、お寺などで配られた。

角大師
子供の頃、ソルティの家の玄関にも貼ってあった。
コロナ禍のときにも、アマビエやスサノオノミコトと並んで活躍された。

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国宝の釈迦如来倚像は、現在奈良国立博物館の超・国宝展に出陣中である。

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蕎麦観音が呼んでいる。

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本堂裏手、神代植物園前にある玉乃屋。
このあたりは国分寺崖線の際にあり、湧き水の宝庫である。

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天ぷらそば(1800円)と深大寺ビール。
十割そばのコシと香り、天ぷらの味と触感を存分楽しむ。
もちろん、〆はそば湯で滋養をつける。

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薫風に吹かれ、緑を愛でながら、打ちたての蕎麦を食べる。
これを仏のご加護と言わずになんと言おう。

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おびんずる様にまたの参詣を約束し、武蔵野の森をあとにした。












● 本:『日本の地名 おもしろ探訪記』(今尾恵介著)

2013年ちくま文庫

地名探訪記

 子供の頃から地図を見るのが大好きだった著者が、風変わりな地名をもつ日本各地の土地を訪ね歩く。
 青森県の「不魚住・十三・馬鹿川」、秋田県の「心像(こころやり)、雪車町(そりまち)」、神奈川県の「〆引・伯母様」、長野県の「東京・日本記」、滋賀県の「雨降野・酢・相撲」、和歌山県の「八尺鏡野(やたがの)・防己(つづら)」、鳥取県の「耳・白兎(はくと)」、山口県の「セメント町・硫酸町」、愛媛県の「鼠鳴・猿鳴」など、21県72地名が取り上げられている。

 読んで面白いのは、地名の由来を探るだけでなく、著者がその土地に実際に足を運んで、山中や海浜や旧道を迷いながら歩いたり、ローカル線や田舎のバスに乗ったり、土地の人と会話して昔話を聞いたり、安価な土産物を買ったり、写真を撮ったり、庶民派旅行エッセイになっているところ。
 JTB発行の『旅』という雑誌に連載されていたそうなので、読者の旅心をそそるものとなるよう苦心したのであろう。
 たしかに、「股引の破れを繕いで」旅に出たくなった。

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 2018年の秋に四国歩き遍路をした時、やはり、偏路沿いの変わった地名に目を引かれた。
 電信柱や家の表札横の住所表示、駅名、バス停の名前、そしてスタートからゴールまで旅の友として持ち歩いたへんろみち保存協力会編『四国遍路ひとり歩き同行二人(地図編)』で見つけた字(あざ)名。
 名前の由来が気になったが、1400kmの遍路中はそれを写真に記録したり、街道の人に由来を聞くような余裕などとてもなかった。
 いい機会なので、思い返して、ここに上げておきたい。

  切幡吉友(きりはたよしとも)
  鬼籠野(おろの)
  馬喰草(まくそう)
  和食(わじき)
  御畳瀬(みませ)
  浮鞭(うきぶち)
  高瀬絶海(たかせたるみ)
  久百々(くもも)
  宗呂丙(そうろへい)
  小才角(こさいつの)
  大駄馬(おおだば)
  浮穴(うけな)
  常保免(じょうほうめん)
  八十場(やそば)
  鬼無(きなし)
  造田是弘(ぞうたこれひろ)
  犬墓(いぬはか)

 場所は記さなかったが、圧倒的に高知県に多かった。
 なんでだろう?
 最後の「犬墓」は、結願した88番大窪寺(香川県)から徳島県に戻る途中の風光明媚な山里である。
 弘法大師が行脚に連れていた愛犬の墓があるからという。

犬墓大師


犬墓大師2

 地名を楽しむ旅は、スローペースな歩きや自転車だからこそ可能なのである。
 車や列車だったら、住所表示を読む間もなく、あっと言う間に行き過ぎてしまって、気づくこともないだろう。
 そして、地名くらいその土地のゆかりを饒舌に語るものはない。
 次に四国遍路するときは、地名に注目しながら歩きたいものだ。(←行く気になっている⁉)

 


おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 2025春の奈良旅3 古代まつり

 前回飛鳥に来たのがいつだったか思い出せない。
 いや、藤原京を飛鳥に含むとすれば、3月の奈良大学通信教育スクーリングで訪れている。
 が、ソルティの中では、やはり、聖徳太子や推古天皇や蘇我氏が活躍した頃の政治・文化の中心地を飛鳥とみなしたいのである。
 つまり、山岸涼子作『日出処の天子』の舞台である。 (ただし、斑鳩宮はかなり離れている)

日出処の天子

3日目(4/27)晴れ
09:00 橿原神宮駅前
     自転車レンタル
09:20 明日香村
09:40 甘樫丘展望所
10:20 飛鳥寺(安居院)
10:50 飛鳥坐神社
11:00 酒船石
11:15 岡寺
12:00 石舞台古墳
     昼食
13:00 天武・持統天皇陵
13:20 近鉄橿原線・飛鳥駅
     自転車返却
13:30 飛鳥駅発
15:00 JR京都駅発

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近鉄橿原線・橿原神宮前駅
駅前のレンタサイクル店に開店と同時に行くも、電動アシスト付きは予約で押さえられていた。普通の自転車で Let's GO !

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住宅街が終わり、畑と空が広がる。
そこは明日香村。
時間の流れがゆるやかになった。

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まずは甘樫丘(148m)に登り、北側の大和三山にご挨拶。
三山を含む広い平野(ほぼ目に入る地域)が藤原京の跡地である。
デカさが実感される。

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香久山

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耳成山

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畝傍山

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南側に飛鳥京の跡地を望む

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畑仕事している男性に飛鳥寺への道をきいたら、とても親切に教えてくれた。観光客ずれしていないんだな。

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飛鳥寺
蘇我馬子の発願により推古天皇4年(596)に創建された日本最初の寺院。
安居院という名をもつ。

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本尊の飛鳥大仏(釈迦如来坐像)
609年、鞍作鳥(くらつくりのとり)によって造られた日本最古の仏像。
高さ3m、銅15トン、金30kgが用いられたというから、聖徳太子や蘇我氏の仏教受容の気合いのほどが偲ばれよう。
鎌倉時代の火災による破損のため、当初の部分が残っているのは顔面の上半分と右手指3本。そのせいか国宝には指定されておらず、撮影自由であった。

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アーモンド形の目はたしかに、アルカイックスマイルと並ぶ飛鳥仏の特徴である。

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飛鳥寺より甘樫丘を望む。
中心やや左下に見えるのは、蘇我入鹿の首塚。
うららかだ。

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飛鳥坐(あすかにいます)神社
創建不明の古社。
大国主神の御子である事代主神(ことしろぬしのかみ)を主祭神とする。
お多福と天狗が夫婦和合の「種つけ」をし、稲の豊穣・子宝を願う天下の奇祭「おんだ祭り」で有名。
現在の宮司は飛鳥家87代目当主である。

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酒船石
長さ約5.3m、最大幅約2.3m、高さ約1mの謎の花崗岩。
酒を醸造したという説からこの名で呼ばれているが、用途不明。

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卜占(水占い)に使われたという説もある。

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岡寺
663年、義淵僧正による創建と伝わる。
国宝の義淵僧正像(木心乾漆像)は超国宝展でお会いできた。

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本堂
日本最大(約4.6m)の塑像である如意輪観音さまがいらっしゃる。
右手は施無畏印、左手は与願印、足は結跏趺坐というオーソドックスな像容が意外。六臂(六本の手)をもち片膝を立てて思惟する通常の如意輪観音とはまったく異なる。奈良時代の作と伝わるが、あとから作り直された部分が多そう。子供の粘土細工のような稚拙さがかえって可愛い。

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三重塔
1986年に514年ぶりに再建された。

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岡寺より見下ろす飛鳥の里
ここまでの登りが人力自転車には最もきつかった。

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ふと空を見上げると龍が泳いでいた。
いいことありますように。

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石舞台古墳
今は石が露出しているが、もともとは土がかぶせてあり、一辺約50mの方墳をなしていた。
蘇我馬子の墓とされる。

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飛鳥のシンボルというにふさわしい存在感。
この角度からだと、馬子(『日出処の天子』に出てきた熊親爺)が横たわっているように見える。
中は空洞(石室)になっている。

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馬子の頭側から中に入れる。

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長さ約7.8m、幅約3.4m、高さ約4.8mの花崗岩の石室。
江戸間の6畳×2間くらいの広さ。
ここに馬子の遺体を入れた棺や副葬品が納められていたのだろう。

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玄室内より見た出入口
夏は涼しいかもしれない。

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石舞台古墳を見ながらおにぎりをほおばる。
芝生広場で家族連れが遊ぶ平和な光景。
奈良っぽい。

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飛鳥では外国人観光客をまったく見なかった。
この良さが知れ渡るのも時間の問題だろう。

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天武・持統天皇陵(野口王墓)
叔父と姪の夫婦である。

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現在の墳丘は東西5.8m、南北4.5m、高さ9mの円墳状だが、本来は八角形の五段築城で、周囲に石段をめぐらしてあった。
以下、ウィキペディア「野口王墓」より抜粋。

本古墳は1235年(文暦2年)に盗掘にあい、大部分の副葬品が奪われた。その際、天武天皇の棺まで暴かれ、遺体を引っ張り出したため、石室内には天皇の遺骨と白髪が散乱していたという。持統天皇の遺骨は火葬されたため銀の骨壺に収められていたが、骨壺も奪い去られ、無残な事に中の遺骨は近くに遺棄されたという。

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近鉄橿原線・飛鳥駅
ここで自転車を返却。いい運動になった。

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13:30飛鳥駅発で、京都発15時の新幹線にぎりぎり間に合った。
まだまだ飛鳥は見残しが多い。
飛鳥資料館、飛鳥宮跡、高松塚古墳にも行きたかった。
向後のお楽しみ。

仏教美術と自然と信仰と歴史、そして奈良の人々の穏やかさに浸った、楽しい3日間であった。


おわり












● 2025春の奈良旅2 花まつり

 地図で言えば、奈良の都の右下あたり。三重県に接している宇陀市。
 その大半は森林である。
 2日目は宇陀の古刹・室生寺と、同じ路線にある観音様で有名な長谷寺(桜井市)に足を延ばした。
 両寺とも、満開の花に迎えられた。

2日目(4/26)晴れ
09:45 近鉄大阪線・室生大野口駅
     自転車レンタル
10:30 室生寺(2時間15分stay)
13:00 龍穴神社
13:15 吉祥龍穴
13:45 昼食「室生路」
14:30 室生大野口駅
     自転車返却
15:00 長谷寺駅
15:20 長谷寺(90分stay)
17:15 長谷寺駅
18:00 近鉄橿原線・橿原神宮前駅
宿泊 橿原市内

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近鉄大阪線・室生口大野駅

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駅舎は高台にある。
駅前のレンタサイクル店で電動アシスト付自転車を借りる。
ここから素晴らしいサイクリングロードが始まる。

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宇陀川に沿って新緑の中を行く。

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渓谷美に立ち止まることたびたび。

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約30分で室生寺到着。

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太鼓橋から
参道には古風な旅館や食堂が並び、雰囲気バツグン。

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室生寺
680年、天武天皇の勅命で修験道の祖・役小角が創建したと伝わる。
空海ゆかりの真言宗寺院である。
かつて女人禁制だった高野山に対し、女性の参詣が許されていたことから「女人高野」と呼ばれた。

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仁王門

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石楠花(しゃくなげ)の見頃であった

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ツツジ科ツツジ目
あまりの美しさから修験者が錫杖(しゃくじょう)を投げて修行を忘れたことから錫投げ(シャクナゲ)と呼ばれるようになった――という謂れは今ソルティが作った出鱈目である。

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ここから奥の院まで心臓破りの石段が始まる。

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弥勒堂
鎌倉時代の杮葺きのお堂

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金堂
平安時代初期のお堂
拝観料を払って内陣を拝み、スマホ撮影することができた。

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国宝・釈迦如来像、薬師如来像(右)、文殊菩薩像(左)
平安時代初期のカヤ製の一木造

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十二神将より2体(鎌倉時代)
武器を持っていないので正体が分からず。

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本堂
室生寺本尊の如意輪観音菩薩像(平安時代)が安置されている。
カヤの風合いが残る素朴なタッチの像。

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五重塔
平安時代初期の建立。五重塔としては法隆寺の次に古い。
丹塗りの組物が緑に映えて美しい。

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奥の院まで、数百段の杉木立の石段が続く。
もう少し時期が遅ければ、汗だくになるところ。

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清水の舞台のような建物が見えれば終点

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内陣に黄金の位牌がずらりと並ぶ位牌堂であった

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奥の院には、ほかに大師堂、御朱印をもらえる社務所がある。
位牌堂の周囲の欄干に腰を下ろせる場所がある、
宇陀の風に吹かれて一服しつつ、高野に思いを飛ばすのもオツ。
「わが身をば 高野の山に とどむとも 心は室生に 有り明の月」(伝・空海詠)

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位牌堂に飾られている地獄絵

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下山して宝物殿へ。
ここには素晴らしい仏像がある。
美しい色彩と模様の光背をもつ女性的で優美な十一面観音菩薩(約196cm)、
ダイナミックな表情とポーズがハートを鷲掴みする十二神将、
国宝・釈迦如来坐像は奈良国立博物館「超国宝展」出稼ぎ出張中でパネル展示であった。

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本坊・慶雲殿

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街の喧騒を離れた自然のふところで、命の洗濯ができる素晴らしいお寺であった。

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自転車で龍穴神社へ10分。

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龍穴神社
水の神・高龗神(たかおかみのかみ)を祀る。
奈良時代から平安時代にかけて雨乞いの神事が営まれた。
パワースポットとして人気を集める。
そこからさらに山道を登ること15分。

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吉祥龍穴
ここが龍穴神社の奥の院、パワーの源である。
電動アシストでなければ厳しい登りであった。

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禁域の滝

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沢のほとりに建つ遥拝所。
なにやら熱心に祈願している先客がいた。

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竜神が棲むという龍穴。これがご神体。
このあたりの空気は清浄にして崇高なものがあった。

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里に下りて遅めの昼食
「室生路」さんはメニュー豊富。

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黒毛和牛たっぷりの肉うどんが旨かった。
コーヒーの無料サービスもあった。
御馳走様!

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近鉄大阪線・長谷寺駅へ。
地元民らしき男性に長谷寺へ行く近道を教わった。

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お店や旅館の並ぶ参道はつい寄り道、買い食いしたくなる。
・・・しました。

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昔ながらの旅館が並ぶ。
紫式部もこの参道に泊まったのだろう。

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長谷寺
727年、聖武天皇の勅願により十一面観音菩薩を祀ったのが長谷信仰のはじまりと言われる。
真言宗豊山派の総本山でもある。
(結局、本日は弘法大師参りってことか・・・)

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登廊(のぼりろう)
仁王門から本堂まで399段の屋根付き石段が続く。
室生寺は日本人参拝客のみだった。ここは外国人も多かった。

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牡丹の見頃であった。

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小倉百人一首を選んだ藤原定家と父・俊成の塚があった。
「来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ」(定家)  
(夕なぎの松帆の浜辺で、いくら待っても来ない人を待っている私は、浜で焼いている藻塩草のように身をこがしているのです)

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本堂
1650年、徳川家康により造営された。

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本堂から西に望む丹色の五重塔が、緑の中に美しい。
1954年建立。

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本尊・十一面観世音菩薩立像
10mを超す楠製の巨大像に圧倒された。
1538年、東大寺僧実清作と伝わる。(紫式部はこれを拝んでいない)
内陣に入って巨大な爪先に触れながら、下から見上げることができる。
ジャイアント観音と言うにふさわしい迫力。

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大手毬の群生
子手毬(コデマリ)の兄貴分かと思ったが、実は別系統。
コデマリはバラ科、オオデマリはスイカズラ科である。

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牡丹園の向こうに本殿を望む
日本的な美の粋。

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近鉄橿原線・樫原神宮前駅へ。

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駅から徒歩10分強の宿にチェックイン。
周囲に畑が広がり、畝傍山を東に望む里山ロケーション。

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ふつうのアパートの一室を宿として活用している。
家にいるような落ち着きと家財が揃った便利さ。
管理人さんの顔を見ることなくチェックイン・アウトした。
(訪ねて来られたが、ちょうど風呂上がりで出られなかった)

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風呂上がりに付近を散歩。
古代飛鳥の人々も同じ夕焼けを見たであろう。




つづく。






  

● 2025春の奈良旅1 国宝まつり

 鈴木亮平に誘われ、ゴールデンウィーク直前に3日間の奈良旅。
 奈良のイケメンならぬ、イケ仏たちに会うがため。

1日目 国宝まつり
 斑鳩の里(法隆寺~法起寺~法輪寺)
 奈良国立博物館・超国宝展
2日目 花まつり
 室生寺の石楠花
 長谷寺の牡丹
3日目 古代まつり
 飛鳥巡り(甘樫丘~飛鳥寺~岡寺~石舞台古墳~天武・持統天皇陵)
 
 3日間とも駅前で自転車をレンタルし、効率的かつ気分良く、名所・名跡を巡ることができた。
 暑くもなく、寒くもなく、うららかに良く晴れて、それほど混み合うこともなく、花も新緑も仏も里山もすこぶる美しく、素晴らしい時が持てた。

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鈴木亮平 in 石舞台古墳

1日目(4/25)晴れ
 前泊 京都市内
 08:30 JR法隆寺駅
     自転車レンタル
 08:45 法隆寺(2時間半stay)
 11:40 法輪寺(30分stay)
 12:30 法起寺(40分stay)
 13:30 JR法隆寺駅
     自転車返却
 14:00 JR奈良駅
     自転車レンタル
 14:20 奈良国立博物館・超国宝展(2時間半stay)
 17:10 近鉄奈良駅
 宿泊 天理市内

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JR法隆寺駅
駅前の喫茶店で自転車を借りる(一日600円)。
バス便が少ないので、斑鳩の里めぐりには自転車が非常に便利。
地図をもらい、道順や駐輪場所も教えてもらった。

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法隆寺
前回来たのは2年前の春。
今回どうしてもこの時期に来たかったのには訳がある。

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夢殿に直行。

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御開帳(4/11~5/18)の救世観音を見たかった。
楠製の一木造で金箔を押している。宝冠は金銅製。
7世紀前半の作で作者不明。
聖徳太子の等身大の像として有名だが、思いのほか小ぶりに感じた。
像高約180cmはソルティより20cm高いはずなのだが。
離れたところから金網越しに見たせいであろうか?
いまひとつ迫力(霊力)が感じられなかった。
修学旅行生到着前を狙ったので、ゆっくり拝むことができた。
(画像は法隆寺発行のパンフレットより)

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もちろん、お隣の中宮寺に寄り、弥勒菩薩の神秘的な微笑に癒された。

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西院伽藍
修学旅行生が続々やって来た。
小学生が一人一台タブレットPCを持って学習していたのには驚いた。

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境内には素晴らしい古木がある

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法隆寺の裏手にある天満池
このあたりは池が多い。
年間降水量が少なく、大きな川や湖もない大和平野の農民たちは、用水不足に悩まされてきた。つまり、人造池である。

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天満池から法隆寺を望む。

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池のほとりに立つ斑鳩神社
祭神は菅原道真公
それゆえ天満池と言うのだ。

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法輪寺
聖徳太子の御子の山背大兄王子(やましろおおえのおうじ)創建と伝わる。

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三重塔は昭和19年(1944)落雷で焼失。
昭和57年(1975)に再建された。

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講堂
飛鳥時代の薬師如来像、虚空蔵菩薩像、平安時代の十一面観音菩薩像、鎌倉時代の聖徳太子2歳像、室町時代の聖徳太子16歳像、江戸時代の妙見菩薩像など、バラエティに富む仏像たちがずらり。時代ごとの仏像の様式の違いを学ぶのに恰好の陳列。
中でも、邪鬼ならぬ米俵に乗った毘沙門天(平安時代)は珍しい。お寺の人の話によると、江戸時代に改造されたとか。豊作を願う当時の里人の生んだ変体仏であろう。

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のどかな畑中の道を薫風に吹かれて快適サイクリング

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法起寺
聖徳太子が法華経を講義した岡本宮を、のちに寺に改めたと伝えられる。
太子建立7ヵ寺の1つに数えられている。

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ご本尊・十一面観音菩薩立像
像高350cm  
10世紀後半頃の作と伝わる。

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講堂
元禄7年(1694)に再建したもの。
どことなく城郭風である。

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国宝の三重塔
慶運3年(706)建立と伝わる。
現存する日本最古の三重塔である。  
Simple is beautiful.

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三重塔の中を覗く。
いかにも初期の塔らしい簡素な構造。

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法輪寺や法起寺まで足を延ばす人は少ない。
それだけに、静かでゆったりした斑鳩の里の気を満喫できた。

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奈良国立博物館へ移動

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これが今回の旅の目玉の一つ。
約110件の国宝が一堂に集められた贅沢極まりない展覧会。
仏像好きにとっては万博どころでない空前絶後の仰天企画である。
ソルティは学生なので、観覧料一般2200円のところ学生1500円。
――と思ったら、奈良大学は博物館のメンバーシップ会員になっているので、学生証を見せればなんと400円で入れる! 
超オトク!

主役級の役者たちが共演する昭和時代の年末特番ドラマ(『忠臣蔵』とか)のような豪華さに、圧倒されっぱなしだった。

大物キャスト紹介(ほんの一部、おおむね時代順)
  • 百済観音(法隆寺)・・・法隆寺では模刻が留守番していた。
  • 四天王立像(法隆寺)・・・飛鳥時代の木像の傑作。文科系の広目天が渋い。
  • 天寿国繍帳(中宮寺)・・・聖徳太子妃の橘大郎女の発願にて、太子が往生した天寿国のありさまを描いたもの。現存する日本最古の刺繍。
  • 釈迦如来倚像(深大寺)・・・三鷹からいらしてたのね。
  • 維摩居士坐像(法華寺)・・・肖像彫刻の傑作。個性爆発のユイマ。
  • 義淵僧正坐像(岡寺)・・・奈良時代にこのリアリティ。義淵(643-728)は法相宗の僧侶。
  • 釈迦如来坐像(室生寺)・・・どっしりした安定感。下腹のたるみに親近感。
  • 菩薩半跏像(宝菩提院願徳寺)・・・どこから見ても隙のない完璧な美はグレタ・ガルボか原節子のよう!
  • 吉祥天像(薬師寺)・・・2次元から飛び出てきそうな高貴な天女絵。むかし教科書でお目にかかった。
  • 金地螺鈿細毛抜形太刀(春日大社)・・・鞘に刻まれた何匹もの大和猫のデザインがキュート
  • 大日如来坐像(円城寺)・・・若き運慶の出世作。天才の出現を告げてあまりない。
  • 病草子(京都国立博物館)・・・ふたなり(半陰陽)、痔瘻の男、口臭のきつい女など、病者をリアリスティックに描いた平安末期の珍絵巻。
  • 重源上人坐像(東大寺)・・・運慶作か? 皺のひとつまで、生きているかのようなリアリティ。重源上人は平重衡によって焼かれた南都の復興に尽くした人。
  • 天燈鬼・龍燈鬼立像(興福寺)・・・奈良大学通信教育学部パンフレットの表紙を飾る。運慶の息子・康弁の手による。
 2時間半、集中して見続けてフラフラになった。
 おそらく今日一日で見た国宝の数は、過去60年間分のそれを上回るであろうし、この先もこれほどたくさんの国宝を一度に見ることはまずあるまい。
 国宝バブリーな一日であった。

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疲れた頭と体を天理の温泉で休めた。


つづく。








● 二つの墓をもつ男

 2018年の秋に四国88札所歩き遍路をしたとき、ゴール間近い86番志度寺に隣接する自性院境内に、平賀源内の墓があった。
 香川県さぬき市志度は平賀源内の生まれ故郷なので、なにも驚くことはないのだが、それ以前にソルティは、東京都台東区橋場にある源内の墓をたずねていたので、「どっちが本当の墓なんだろう?」と思った。
 その場でスマホを取り出して調べたところ、遺体が葬られたのは橋場のほうで、志度にあるのは妹婿の平賀権太夫が建てた参り墓との由であった。どのサイトを見たかは覚えていない。
「そうだよなあ。江戸はあまりに遠すぎる。人を殺めた罪人とて、家族や親類縁者にとっては大切な血族。参拝できるお墓が地元にほしいよな」

 源内は安永8年(1779)11月、酒に酔った上でのいざこざから2人の男に斬りかかり、うち1人を死に至らしめた。すぐ江戸伝馬町の牢屋敷に入れられたが、判決が出ないまま、12月18日に病死した。享年51歳。
 当時橋場にあった曹洞宗総泉寺に源内の菩提を弔ったのは、親友の杉田玄白である。『解体新書』で有名な人だ。
 その後、総泉寺は1923年(大正12年)の関東大震災で罹災したため板橋に移転した。源内の墓はそのまま橋場に残された。
 
源内の参り墓
志度の自性院にある源内の墓

源内の埋め墓
台東区橋場にある源内の墓

 四国遍路を無事結願し東京に戻ってから、何かの折に、日本にはかつて両墓制があったのを知った。
 民俗学の父と言われる柳田国男が昭和の初め頃に学術誌で取り上げてから、その分野では広く知られ、研究・議論されるようになっていたのだ。

両墓制とは、遺体の埋葬地と墓参のための地を分ける日本の墓制習俗の一つである。遺体を埋葬する墓地と詣るための墓地を一つずつ作る葬制で、一故人に対し二つの墓を作ることから両墓制と呼ばれる。遺体の埋葬墓地のことを埋め墓(葬地)、墓参のための墓地を詣り墓(まいりはか、祭地)と言う。
基本的に一般民衆の墓を対象にし、その成立、展開は近世期以降である。両墓制は土葬を基本とし、遺体処理の方法がほとんど火葬に切り替わった現在では、すでに行われなくなった習俗と言ってよい。(ウィキペディア『両墓制』より抜粋)

 なぜこのような風習が起こったか、はっきりと分かっていない。
 死に対するケガレ意識が強かった時代、村の居住地から離れたところに遺体を埋めて、それとは別に、ふだんお参りしやすいところに供養のための墓を立てたという説が有力である。
 たしかに、土葬が普通だった時代、遺体を埋めた墓所から腐臭が漂ってきたり、野犬に掘りこされ食い散らかされたり、蛆虫や鳥から病原菌が人に広がったりする危険はあったろう。
 火葬が一般化するにつれて消えていったことは、まさに心理面でも衛生面でも死穢に対する忌避感が大きかったことを示しているのではないかと思う。

 平賀源内の場合ももしや両墓制?
 橋場にあるのが埋め墓で、志度にあるのが詣り墓?
 ――そう思って調べてみたところ、両墓制の風習があった地域は限られていて、近畿地方に圧倒的に多く、関東、中部、中国、四国にはピンポイントに存在した。
 香川県では、東側の瀬戸内海沿岸の村や島々に集中し、高松より西側には見られない。
 志度は西側の海辺に位置するので、両墓制はなかったと言っていいだろう。
 しかも、幕府が遺体の引き渡しを許さなかったので、志度にある墓にも、橋場にある墓にも、源内の遺骨は埋まっていないという説もある。
 両墓どころか、両空?
(源内を贔屓していた老中の田沼意次が、密かに牢から逃がし、地方にかくまったという説もある)

回向院
南千住回向院(えこういん)

 橋場の近くには、江戸時代の名だたる処刑場である小塚原刑場があった。
 江戸時代の初期の頃は、処刑された遺体はそのまま野ざらしにされ、夏になると臭気が充満し、野犬やイタチが食い散らかして地獄のような有様だったと言う。
 寛文7年(1667)に本所回向院の住職である弟誉義観(ていよぎかん)が、刑場の隣りに常行堂を建て、死者の埋葬と供養を行った。これが後の南千住回向院である。
 杉田玄白はここで死体の腑分け(解剖)を行い、オランダの医学書『ターヘル・アナトミア(解体新書)』の記述の正確性に驚いたのであった。
 順当に考えれば、平賀源内の遺骨は回向院に埋められた可能性が高いのではなかろうか?

 ともあれ、平賀源内が2つの墓をもつのは、生まれ故郷の志度でも、亡くなった江戸の地でも、多くの人から愛され、その死を惜しまれたからであるのは間違いない。

志度の海
源内の愛した志度の海



● 稀代のバチあたり

 今回もスクーリングに合わせて、奈良と京都の寺社&仏像めぐりをした。
 
 奈良・・・・新薬師寺、春日大社
 京都・・・・醍醐寺、一言寺

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JR奈良駅
駅前で電動アシスト付自転車をレンタル
4時間借りて1500円

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新薬師寺前にある南都鏡神社
祭神は天照皇大神、藤原広嗣公、地主神
神仏習合時代は新薬師寺の鎮守であった
反乱の汚名を被って処刑された藤原広嗣の霊を鎮めるために建てられたという

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新薬師寺本堂(国宝)
平重衡の南都焼討ち(1180)はじめ、度重なる災禍をくぐり抜けた奈良時代の遺構。天平19年(747)に聖武天皇の病気平癒を祈願して、お后の光明皇后によって建てられた。堂内に入ると、1300歳の木の霊力をびんびん感じる。

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受付でもらったパンフレット
御本尊の薬師如来坐像(木造)の特徴は、なんと言っても、どんぐり眼。
聖武天皇の病気とは、藤原広嗣の祟りによって起こった眼病だったという説もあるが、この像がつくられたのは平安初期(聖武没後)なので時代的に合わない。量感豊かな像の様式を見ても、創建時の本尊ではないと思われる。

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新薬師寺パンフレットより
本尊をぐるりと取り巻く十二神将が頼もしい。こちらは奈良時代作。
ひとりひとりが見事にキャラ立ちしていて、見ていて飽きない。
平安時代以降は十二支信仰と結びつき、頭上に十二支の動物を乗っけるようになった(例:神護寺の十二神将)が、本像にはない。
それにつけても、東大寺戒壇堂の四天王像といい、興福寺国宝館の八部衆像といい、天平の彫刻ってほんと素晴らしい!

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手元にある『サライ』(2023年秋号)の表紙を飾る伐折羅(ばざら)大将

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ポストカードを購入。
もとの色彩をCGを使って復元するプロジェクトがなされた。
造像当時の伐折羅大将はこんなにカラフルで華やかだった。
金色に輝く薬師如来をこれらの像が取り巻く空間を想像してほしい。
So gorgeous !

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新薬師寺には白鳳時代の最高傑作と言われる薬師如来立像(通称:香薬師)があった。昭和18年(1943)に盗まれ、今なお行方不明である。その際に残された右手のみ、時々公開される。堂内にはレプリカが置いてある。   

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春日大社
神護景雲2年(768)称徳天皇の勅命により創建
御祭神は、タケミカヅチノミコト、フツヌシノミコト、アメノコヤネノミコト、ヒメガミの四神。藤原氏の氏神であり、神仏習合時代は興福寺と一体であった。

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背後に御蓋山(みかさやま)、境内に62社を擁する約30万坪の広大な社地を誇る。日本人より外国人観光客と鹿のほうが多かった。ここの鹿たちは、神の使いとしての自覚を持っているかのようだ。奈良公園の鹿よりプライドが高く、人に媚びない。

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社頭の大杉
関西に行くと、不思議と花粉症が治まる。

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中門・御廊 (ちゅうもん・おろう)
奥に本殿がある。春日大社の建物は、伊勢神宮同様、20年に一度の建替えや修復を行う。

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春日神社と言えば灯籠
境内には、約2000基の石灯籠、約1000基の釣灯籠がある。

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毎年2月の節分と8月のお盆の時期に、すべての灯籠に火を灯し、人々の諸願成就を祈る。その美しさを体験できる小屋があった。

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京都に移動
四条大橋から鴨川を望む

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夕食は京都発祥の衣笠丼(きぬがさどん)
油揚げと九条ネギをダシで煮て卵で閉じたもの
安価でヘルシーで美味しい庶民の定番メニュー

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翌朝、醍醐駅からバスに乗って醍醐寺

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貞観16年(874)理源大師が創建
醍醐・朱雀・村上天皇、白河上皇、足利尊氏、足利義満、豊臣秀吉・秀頼などの帰依を受け、69,420点の国宝、6,521点の重要文化財をもつ。
ソルティ、実は初めての参詣(と思う)

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総門を入ってすぐの三宝院
通常は非公開のエリアが特別公開されていた

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表書院
あでやかな襖絵に目を奪われる
長谷川等伯(1539‐1610)作

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石田幽汀(1721-1786)作

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豊臣秀吉自ら設計した庭園
日本中から石を集めたという

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京都の飛雲閣同様、舟で池を渡って橋の下や建物の下をくぐり、奥にある茶室に直接上がれるようになっている。秀吉が好きな趣向だったのだろう。紅葉時の絢爛が目に浮かぶ。

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藤戸石
「天下を治める者が所有する石」として室町時代から歴代の権力者の手を渡ってきたもの。庭園の中心に据えられている。

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三宝院本堂の快慶作の弥勒菩薩坐像
通常は非公開(醍醐寺ポスターより転載)
「安阿弥様」と呼ばれる、美しく整った絵画的な写実を特徴とする快慶の作風が見られる。同門の運慶の作風とはずいぶん異なる。

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唐門
慶長4年(1599)建立
菊の御紋は皇室、桐の御紋は皇室および秀吉を表わす
朝廷からの使者を迎える時だけ開いた

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仁王門
慶長10年(1605)、豊臣秀頼による再建

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五重塔(国宝)
醍醐天皇の冥福を祈るために、朱雀天皇が承平6年(936)に着工、村上天皇の天暦5年(951)に完成した。高さ約38メートル。てっぺんの相輪は塔の3分の1を占める。京都府下で最も古い木造建築物である。国内の五重塔としては、法隆寺、室生寺の次に古い。(薬師寺は三重塔)
美しいけど、五重塔とはストゥーパ、すなわちお墓なんだよね。

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金堂(国宝)
創建時の建物は応仁の乱で焼失。現在の建物は、豊臣秀吉が紀州に攻め入った時、当地の満願寺の本堂(12世紀後半建立)を移築したもの。シンメトリカルで晴れ晴れしい。中に安置されている薬師如来座像が醍醐寺の本尊。

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観音堂
西国三十三巡礼の第十一番札所になっている。
貴族的な醍醐寺のたたずまいの中で、ここだけは庶民風だった。

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弁天堂
紅葉時はどんなにか・・・・。
ここでデジャヴュー体験。やっぱり、来たことあるのか?

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池之端にあるお休み処で湯葉うどん定食を注文
やさしいお味

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国宝の薬師三尊像(平安時代)はじめ、約10万点以上に及ぶ寺宝を収蔵している霊宝館は修繕のため休館だった。また来よう。
空いた時間をどうしてくれようかと、醍醐駅で手に入れた町の散策MAPを広げてびっくり!
南都焼討ちの大悪人、日本仏教界&仏像マニア界隈の怨嗟の的、平重衡の墓があるではないか!
この町に葬られていたとは知らなかった。
行くっきゃない!

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一言寺
醍醐寺の塔頭寺院

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石段を登った先にある門からは、醍醐の街を一望できる。

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「ただたのめ 佛にうそは なきものぞ 二言といわぬ 一言寺かな」
武士ならぬ、仏に二言なし。御本尊の千手観音に一心に祈れば、あやまたず願いを叶えてくれるという。

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醍醐寺より徒歩30分
団地の中に大正時代に建てられた石碑が唐突に出現
「従三位平重衡御墓」と読める
ここで横道に入る

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あれかな?

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平重衡(1157‐1185)
平清盛の五男として源平合戦を戦い抜いた。
一ノ谷の合戦で捕らえられ、鎌倉の源頼朝のもとに送られるも、焼討ちの怒りおさまらぬ南都宗徒らに引き渡され、木津川畔にて斬首された。享年29。

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火葬後、この地に埋葬されたとある。
最期はどんな思いを抱いていたのか?
やはり、地獄行きを覚悟していたのか?
奇遇にも、墓所の近くには「善人なおもて往生を遂ぐ いわんや悪人をや」の親鸞聖人の生誕地がある。

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帰りの新幹線
富士山を過ぎる頃にやっと、過去から現在へ帰還した。















● 日本で一番かわいい仏像

 奈良大学のスクーリングを終えた翌日、奈良と京都の仏像巡りをした。
 
奈良
 興福寺 国宝館・中金堂
 東大寺 戒壇堂・法華堂
京都
 六波羅蜜寺

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8時半、猿沢池より出発

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三重塔
興福寺最古の建物
興福寺と東大寺は、1180年(治承4)平重衡による南都焼き討ちで、主要な建築物と仏像のほとんどを焼失した。三重塔もそれ以後の再建である。

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国宝館
  • 白鳳時代の銅造仏頭と、鎌倉時代の木造仏頭(運慶作)の比較が楽しい。
  • 5mを超える千手観音菩薩立像と、80cm弱の天燈・龍燈鬼立像の迫力対決。
  • 何と言っても、天平時代の十大弟子像(現存は6体)と八部衆像が素晴らしい! 有名な阿修羅像もよいが、その隣の沙羯羅(さから)少年の可愛いこと! 小津監督『お早う』に出てきた島津雅彦君を想起した。

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興福寺中金堂
平成30年(2018)に創建当時の様式で復元された。
ここの四天王像は、もとは北円堂にあったという説がある。とすれば、運慶の4人の息子(湛慶・康運・康弁・康勝)の作となるが・・・。
ときに、最後に訪れた30年以上前(昭和時代)、興福寺は鬱蒼とした森の中にあった記憶がある。夜間は恋人たちのハッテン場で、それを目的としたデバ亀の出没区域だった。すっかりイメージ刷新していた。

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奈良公園の鹿
外国人観光客にはたまらない魅力らしい

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東大寺南大門
1203年(建仁3)に竣工した

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金剛力士・阿形像
像内の納入経奥書には、作者として運慶と快慶の名がある

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金剛力士・吽形像
定覚と湛慶の共作と伝わる
圧巻の風格である
平重衡の焼き討ちがなければ、この傑作は誕生しなかったと思うと、皮肉である。

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戒壇堂
東大寺に行って大仏殿に行かなくなれば、観仏マニアも中級である。
美術史的見地では、戒壇堂にある四天王立像こそ見逃せない。
天平彫刻の傑作。
頑固親父たちの貫禄あるたたずまいと険しい表情にしびれる。
とりわけ、広目天の不敵な面構えこそ、一国のリーダーにふさわしい。

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満開の桜、ではなくて雪の華

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法華堂(三月堂)
南都焼き討ちを逃れた数少ない創建時の建物
本尊・不空羂索観音菩薩像をはじめ、両脇の梵天・帝釈天像、周囲を取り囲む四天王像と金剛力士像は、いずれも奈良時代作の乾漆像で、3mを超える“進撃の巨人”。
座って鑑賞することができるので、オペラグラスを手にじっくり拝仏がおすすめ。

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二月堂
今年で1274回を数える修二会(しゅにえ)、いわゆる「お水取り」は、3月1日より2週間にわたって行われる。

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鏡池より大仏殿を望む   
外国人観光客の奈良行きの眼目は大仏様にあり、東大寺はインバウンド一人勝ちとのこと。京都や大阪に宿をとって、日帰りする人も多く、奈良はそれほど潤っていないらしい。いまこそ、ガイドブックに載っていない知られざる名所・名刹、知られざる寺宝を訪ねたいものだ。

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午後は京都に移動。
京都・五条橋より鴨川と比叡山を望む
奈良より温かい。

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六波羅蜜寺
  • 運慶の息子・康勝作の空也上人像が有名。昔見た時は、御老体のイメージをもったが、いま見るとせいぜい30代くらいのプロポーションのいい青年像である。若き時代の康勝が、青春の空也を彫ったのである。青年らしい廉潔さと一途さが全身からほとばしっている。
  • 運慶、湛慶の肖像彫刻・・・天才の名を欲しいままにした自由奔放な父親と、偉大な父を持ち工房の後継者として重責を背負った息子の人柄の違いが鮮やかに表現されている。長嶋茂雄・一茂親子を想起せざるを得なかった。
  • 定朝作と伝えられる地蔵菩薩立像も見逃せない。東京の根津美術館所蔵の地蔵菩薩像(快助作)とよく似た流麗な美しさ。快助についてはまったく知られていないが、定朝の孫世代の仏師で、名前からして定朝と快慶を結ぶ輪っかなのではないか?

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京都タワーに See You Again !
世界にすぐれた日本文化を実感した旅だった。










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