ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

ライブ(音楽・芝居・落語など)

● 生まれたところに還る旅 : フライハイト交響楽団 第50回記念演奏会

日時: 2023年1月22日(日)13時30分~
会場: すみだトリフォニーホール 大ホール
曲目: 
  • バッハ(シェーンベルク編曲): 前奏曲とフーガ
  • マーラー: 交響曲第9番
指揮: 森口真司

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錦糸町駅北口(墨田区)

 フライハイト(Freiheit)とはドイツ語で「自由」の意。
 1996年創設時の第1回演奏会の曲目も、このマーラー交響曲第9番だったという。
 団員にとっては深い思い入れのある曲であろう。

 旗揚げ公演にこの曲を選ぶってのもユニークである。
 マーラーが完成させた最後の交響曲となった9番は、やり切れないほど切なく哀しい曲調で、作曲者の指示により「死に絶えるように」終わる。
 そのため、死や別れのイメージで語られることが多い。
 旗揚げにマーラーを選ぶなら、景気よく終わって人気も高い1番や5番あたりが無難であろう。
 そういった固定観念に縛られない姿勢こそが、オケ名の由来かもしれない。

 最初のバッハは、手ならしといったところか。
 独奏も合奏も安定して、よくまとまったオケの力が伺い知れた。
 多彩な色調のシェーンベルク編曲のバッハからマーラーへ、というプログラム構成もうまい。
 たしかに、9番を聴くにはそれなりの心の準備が要る。
 いきなり突き落とされてはかなわない。 

 9番をライブで聴くのは実はこれが初めて。
 やっぱり、家でディスクで聴くのとは違って、一つ一つの音が立ち上がって、ホログラムのごとく客席上の空間に像を結ぶ。
 家で聴くと陰々滅滅とした印象ばかりが先立ち、イメージがなかなか広がらなかった。
 空間もまた、オーケストラの重要な楽器の一つなのだ。

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すみだトリフォニーホール

 今回受けた印象を一言で言えば・・・・母胎回帰。
 第一楽章の初っ端、マーラーにしては素朴で単調にして優しいメロディが歌われる。
 甘美にしてどこか懐かしい。
 それはまるで子守歌のよう。
 遠い記憶の底、揺りかごの中で聞いた母の声。

 疾風怒濤の彼の人生を表すような第2楽章・第3楽章を経て、第4楽章はまた、泣く子をあやす声がけのような単調な「ミ・ファミレ♯ミ」の繰り返し。
 その途中、第一楽章冒頭の子守歌が顔を出す。
 子守歌で始まり、子守歌で終わる。
 その円環が、母胎回帰という印象につながったのである。
 
 この第9番は第1番『巨人』の焼き直し、というかバージョンアップ決定版という感じがする。
 幼少⇒青春⇒「明」と「暗」の綱引き・・・・と展開するマーラーの個人史だ。
 若かりし第1番ではまだ未来が見えなかったがゆえに、無理なこじつけ感のある「明」で仕上げた第4楽章であったが、今ははっきりした正体を現しているがゆえに、自然な流れで第1~第3楽章から引き取られている。
 それはやはり「明」ではなかった。
 と言って「暗」でもない。
 すべてを受け入れる優しい「哀」である。
 つまり、第1番でマーラー自身が提出した問いの答えが、第9番だったのではないか。

 放っておくと“陰キャ”に陥りがちなマーラーを、“陽キャ”に引き上げてくれるエレメントは、自然(3番、4番)、エロス(5番、6番)、神(2番、8番)の3つであった。
 うち、エロスの源の最たるものが最愛の妻アルマであったのは言うまでもない。
 しかるに、この9番にはもはや、自然も、エロスも、神も、見当たらない。
 9番を完成させたあとに降りかかったアルマの不倫事件を持ち出すまでもなく、いずれのエレメントもマーラーには効かなくなってしまったようである。

 空漠とした心を抱えたマーラーが行きついた先は、母の胸だったのではないか。
 (その解釈から言えば、第8番のラストの『ファウスト』の有名な一節、「永遠にして女性的なるもの、われらを牽きて昇らしむ」は、まさに母性原理以外のなにものでもない)
 
 母胎とは生と死の境である。
 第9番は、「生まれたところに還る旅」なのではあるまいか。
 
 その意味で、まさにフライハイト50回記念にふさわしい選曲。
 長々と続いた拍手も納得至極の好演であった。

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● 豊島区管弦楽団ニューイヤーコンサート2023


日時: 2023年1月8日(日)
会場: 豊島区立芸術文化劇場(東京建物ブリリアホール)
曲目:
  • ベートーヴェン: 交響曲第7番
  • 武満徹: 系図 -若い人たちのための音楽詩-
  • ストラヴィンスキー: バレエ組曲「火の鳥」(1919年版)
指揮: 和田 一樹
アコーディオン: 大田智美
語り: 都立千早高等学校演劇部員

 昨年は和田一樹の素晴らしいマーラー1番で幕を閉じたが、年明けも和田一樹となった。
 2019年11月開館のブリリアホール(豊島区立芸術文化劇場)に行くのは初めて。
 池袋駅東口(西武があるほうが東口である)から徒歩5分、お隣が豊島区役所。
 この辺を訪れるのは10年ぶり。 
 かつてホームレスや終電逃した酔っ払いのたまり場であった中池袋公園が、明るくモダンな都市空間に変貌しているのにビックリした。
 ソルティも20代の会社員時代、ここのベンチで朝焼けとカラスに蹂躙されたこと度々。

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池袋駅東口

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ブリリアホール

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ホール前の中池袋公園

 TVドラマ『のだめカンタービレ』で一躍人気ナンバーとなったベートーヴェン交響曲第7番、通称ベト7は、年明けを飾るにふさわしい華やかで躍動的な曲。
 10年近く常任指揮者をつとめているだけあって豊島管弦楽団と和田の呼吸はぴったり。
 危うげなところが微塵もない。
 上記ドラマにおいて指揮指導をした和田にとって、ベト7は自家薬籠中といった余裕すら感じる。
 各演奏者のレベルも相当なもの。
 海外ツアーしてもいいんじゃなかろうか。

 珍しいのが2曲目の武満徹『系図』。
 配布プログラムによると、

武満晩年にあたる1992年に作曲された。40年来の親友である詩人、谷川俊太郎の詩集『はだか』から、“自分と家族”に関わる詩を選び、一連のストーリーとなるよう並べ、音楽で彩った。語り手は12歳から15歳の少女が望ましい、と武満は言っていたそうで、若手女優を起用する例が多い。 

 今回語り手の少女は、豊島区にある都立高校の演劇部の女子学生6人がつとめた。
 自らの祖父母、両親のことを順に語り、最後は自分の将来を夢見るという構成。
 しかし、描き出されるのは『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』風の幸福な家族ではなく、むしろ心がバラバラの現代的な一家の姿。
 認知症っぽい祖父、寝たきりの祖母、燃え尽き症候群の父、キッチンドリンカーの母。 
 そこに、映画BGMでも発揮される武満の奇っ怪な音楽が、アコーディオンの庶民的な響きと共にかぶさる。
 正直、どうとらえていいか分からない作品である。
 これで「系図」と言われてもなあ・・・・。
 (よもや虐待の系図ではないよね?)

 女子高生たちの好演には拍手を惜しまないが、本作も含め、今回の曲目選定には疑問が残った。
 普通ならベト7をラストに持って来て、明るく盛り上がって終わりだろう。
 新春でもあり、豊島区90周年のお祝いも兼ねている催しなのだから。
 しかしそうすると、『火の鳥』か『系図』を一番に持って来なければならない。
 それはあまりに無謀だろう。
 ってわけで、ベト7からスタートしたんじゃないかと推測する。

 『火の鳥』をプログラムに入れたのは、もちろん手塚治虫『火の鳥』とのからみである。
 豊島区には手塚治虫、赤塚不二夫、藤子不二雄、石ノ森章太郎らが青春時代を過ごしたトキワ荘があって「マンガの聖地」になっているのだ。
 今春3月には世界最大規模のアニメショップ「アニメイト池袋本店」が、それこそブリリアホールとは豊島区役所をはさんだ反対隣りにオープンする。
 今回の曲目を誰が選んだか知らないが(区長?)、ここぞとばかり「豊島区=アニメ」を強調したかったのだろう。

 ともあれ、一曲一曲の出来は良かったのだけれど、感動が相殺し合うようなバランスの悪いプログラムで、すっきりしない終演。
 こういうこともあるんだなあ~と一つ学んだ。
 5月5日には、和田一樹&豊島区管弦楽団で R.シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」とマーラー交響曲第9番に挑戦するらしい。
 これぞ実力見せどころの名プログラム。
 掛け値なしの必聴コンサートである。




● 躁うつ病交響曲、あるいはA線上の人生: 明治大学交響楽団 第99回定期演奏会


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日時: 2022年12月28日(水)
会場: すみだトリフォニーホール 大ホール
曲目:
  • スッペ: 喜歌劇『軽騎兵』序曲
  • ボロディン: 歌劇『イーゴリ公』より「韃靼人の踊り」
  • マーラー: 交響曲第1番
指揮: 和田一樹

 年末最後はいつもベートーヴェン「第九」で〆るのだが、昨年は聴きそこなった。
 コロナ陽性になって自宅隔離を余儀なくされ、予約していた「第九」に行けなかった。
 隔離明けて、何か一年を〆るのにふさわしいものはないかと i-Amabile をチェックしたら、本ライブがあった。  

 マーラーの全交響曲中、2番「復活」、自然を謳った3番8番「千人の交響曲」あたりは、「第九」の代わりとして年末を〆くくるのにふさわしい。
 6番、7番、9番、10番を聴いた日には、とても目出度く新年を迎えるわけには行くまい。(まあ、あえて取り上げるオケもなかろうが)
 1番、4番、5番は一応「明るく」終わるので、無難なところである。
 和田のマーラーは5番7番を聴いたことがあり、どちらもとても良かった。

 明治大学交響楽団を聴くのは初めてであったが、とにかく大所帯で一番端のヴァイオリン奏者など舞台からこぼれ落ちそうであった。
 音の厚みと力強さは保証されたようなもの。
 それを「つかみはバッチリ」の和田が最初からガンガン鳴らしまくる。
 この指揮者の凄いところは、“生きた音”を作り出す力である。
 演奏が始まってすぐに「おおっ!」と客席から身を乗り出さざるを得なくなるのだ。
 おそらく、オケメンバーとのコミュニケーション力が飛び抜けているのだろう。
 「音」を「楽しむ」という根本をつねに忘れない、忘れさせない男なのだ。
 スッペの『軽騎兵』序曲からすでに会場は熱くなっていた。

 ボロディン「韃靼人の踊り」については、あるエピソードが頭について離れない。
 本で読んだのか誰かに聞いたのか忘れたが・・・・・
 ある人が事故で危篤状態になって医師も周囲もあきらめた。実はその時その人は臨死体験中で、幽体離脱して病室の天井から自分の体を見下ろし、暗いトンネルに引っ張り込まれ、そこを抜けたら光の洪水があった。それから慈愛あふれる宇宙空間のような場所をしばらく幸福感に満たされながら漂っていた。ある音楽が鳴り響いていた。その時はそれと分からなかったが無事回復したあとで偶然曲を聴いて「これだ!」と判明した。それが「韃靼人の踊り」だった・・・・いうスピ話。
 これは「宇宙人の正体は実は韃靼人」と言いたいわけではなく、「韃靼人の踊り」という曲が、深い瞑想状態に入っている人の脳に見られるシーター波、あるいはさらに無意識に近い熟睡状態の時(危篤状態も含む)に見られるデルタ波を、曲を聴く人の脳に生み出しやすいということなのではないか、と一介の似非スピリチュアリストたるソルティは睨んでいる。
 今回も案の定、曲の途中で意識が飛んだ瞬間があった。

宇宙の少女
AmiによるPixabayからの画像

 最後のマーラー1番。
 これがもう寒気がするほど良かった。
 何度も聴いている曲なのに、「自分、はじめて1番を聴いたかも」と思ったほど、斬新で美しく、驚きに溢れていた。
 和田一樹が、あたかも人体のあらゆるツボと経絡を熟知した中国二千年の気功師が奇跡的な施術で患者の生命力を回復させるのと同じように、自ら指揮する曲のツボと経絡を理解し、緩急・強弱・間合い・テンポの微妙なズレなどのテクニックを自在に駆使して、マンネリ化しがちな有名曲に新たな生命力を吹き込むことができるのは知っていた。
 その技術が一段と磨かれたようであった。
 それも耳の肥えた聴衆を驚かすテクニックのためのテクニックという(あざとい)レベルを超えて、もとから曲に内包されていたが未だ知られざりしテーマがテクニックと有機的に結びつくことで露わになるという感覚、言い換えれば「楽譜通りに曲を振っている」というより「曲をその場で彫琢し作っている」という印象を受けた。
 プロフィールによると、和田は作曲も手掛けているらしいから、そのあたりが影響しているのかもしれない。

 そうやって露わにされたマーラー1番であるが、ソルティは今回この曲に「躁うつ病交響曲」というタイトルをつけてもいいのではと思った。
 躁うつ病(現在では双極性障害と呼ばれている)こそが、マーラーの人生にとって愛妻アルマ以上のパートナーだったのではなかろうか。
 躁状態(明)と鬱状態(暗)がしきりに交互する彼の曲の秘密はそこにあるのではなかろうか。

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 マーラーを「暗」から救い上げてくれるのは、信仰をテーマにした2番や8番の成功あるにも関わらず、結局のところ、啓示がやって来るのをただ待つしかない「神」ではなく、より確実な効果が期待できる「エロスと自然」だった。
 だが、それすらも彼の生まれつきの(あるいは幼少期の環境で身についた)鬱気質を払拭することはできなかった。
 最後(9番や10番)は、ベートーヴェンのように「暗」から「明」へ到達することは叶わずに、狂気すれすれの「暗」で終わっている。
 「暗」によって常に圧迫されやがては引きずり落とされる「生」という宿命を背負っていて、その不安と恐怖と癒しようのない悲しみが、マーラーの人生をひいてはその音楽を縁取っているような気がする。
 
 第1楽章の出だしは延々と続く「ラ(A)」で始まるが、この音こそが記憶の底から続いている宿命の響きであり、マーラーのトレードマークであり、「暗」の極みたる狂気に落ちないよう慎重に保持し続けなければなければならない命綱の象徴だったのではなかろうか。
 A線上の綱渡り人生。 
 第4楽章のフィナーレは一応華々しく景気よいものだが、ソルティはいつもここに無理を感じる。
 第1楽章から第3楽章までの流れからして、そして第4楽章の相当に破壊的な出だしからして、とてもとても「明」に到達できるとは思えないのである。
 だが、この華々しさや景気よさが「至福」や「喜び」から来るものではなく、「躁」状態から来るものだと思えば、至極納得がいく。
 本当の「明」ではない。(オケは本当の「明」学だが)

 多くの作家はその処女作において今後展開すべき自身のテーマの種子をまき、その後の作品と人生をそれとなく予告する。
 第1番において、マーラーはまさに名刺代わりに自らのテーマを開陳し、自分が何者かを示している。
 聴く者をして、こんな勝手な想像(創造)をさせて大昔の作曲家と引き合わせてくれるところが、和田一樹が凄いと思うゆえんである。
 指揮棒が下りたとたん、場内にひと際大きな「ブラボー」が響き渡った。
 コロナ禍の「ブラボー」は禁止されていることは当然本人も知っていようが、これはどうしたって一声発せざるを得ないよなと、理解できた。
 
 アンコールはいつものヨハン・シュトラウス1世作曲『ラデツキー行進曲』。
 聴衆とオケが一緒になって曲を作り上げ、音楽を楽しむ場を創出し、一年をhappyな気分で〆る。
 こういったところも和田一樹の愛されるゆえんであろう。
 コロナ陽性も「転じて福」と思える素晴らしいコンサートだった。

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● 時代の壁 オペラライブDVD:ヴェルディ作曲『リゴレット』

収録日時 2001年7月21日
開催場所 アレーナ・ディ・ヴェローナ(イタリア)
キャスト
  • リゴレット: レオ・ヌッチ(バリトン)
  • ジルダ: インヴァ・ムーラ(ソプラノ)
  • マントーヴァ公爵: アキレス・マチャード(テノール)
指揮: マルチェッロ・ヴィオッティ
演出: シャルル・ルボー
アレーナ・ディ・ヴェローナ管弦楽団・合唱団・バレエ団

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 タイトルロール(表題役)をつとめたレオ・ヌッチは、他に『トスカ』『ナブッコ』『仮面舞踏会』をDVDで観ている。
 こわもての風格ある舞台姿と性格俳優のような渋い演技力、朗々とした正統的な歌いっぷりが特徴的な名バリトン。
 ここでも古代の野外劇場を埋め尽くす満場の聴衆相手に、非の打ちどころない歌と演技を披露し、スターの存在感を見せつけている。

 インヴァ・ムーラーを聴くのははじめてだが、美しい人である。
 このときすでに40歳近いと思われるが、10代の乙女であるジルダになりきっている。
 観客にそう錯覚させるに十分な清らかさと愛らしさを、計算された歌唱と演技と表情とで作り上げるのに成功している。
 元来リリック・ソプラノなので、たとえばエディタ・グルベローヴァのジルダのような超絶高音と超絶コロラトューラは持っていないのがいささか物足りない向きもあるけれど、「リゴレットが命に代えてでも守りたい宝」という設定を観客に納得させてあまりない。
 この人の椿姫を観てみたい。

 マントーヴァ公爵役のアキレス・マチャードは可もなく不可もなし。
 演奏も演出も手堅く、映像記録として商品化するレベルは十分クリアしている。
 有名なアリアや重唱のアンコールがあるのも、お祭り気分の会場の様子が伝ってきて楽しい。

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アレーナ・ディ・ヴェローナ
《etiennepezzuto92によるPixabayからの画像》

 舞台の出来栄えは文句ない。
 が、やはりソルティはこの演目がどうにも受け入れ難い。
 時代が時代だから仕方ないと重々分かっているものの、あまりにアホらしいプロットにげんなりして入り込めない。
 というのも、この物語の根本動因をなすのは“処女信仰”だからだ。

 手あたり次第に気に入った処女を食い散らかす主君マントーヴァ公爵の魔の手から、最愛の娘ジルダの処女を守り抜きたいリゴレット。
 ところが、ジルダは貧困学生に変装したマントーヴァに恋してしまい、公爵の手下の者どもに拉致されたあげく、いともたやすく処女を奪われてしまう。
 大切な娘が汚された!!
 怒りと嘆きの極みに達したリゴレットは復讐を誓い、殺し屋を雇う。
 が、マントーヴァを助けたい一身のジルダが先回りし、自ら犠牲になって殺し屋の刃を受ける。
 死に逝く娘を前に、なすすべもなく運命を呪うリゴレット。

 書いていても、あまりの世界観のギャップに辟易する。
 娘の処女を守るため教会以外はいっさい外出を許さない父親ってのもナンセンスだし、ジルダの犠牲的精神もまったく意味不明で、これで「涙を流せ」ってのは無理な話。
 が、このプロットに人々が共感し感動できた時代があったのである。
(いや、今でも感動できる人はいるのだろうが)

 評論家諸氏は、同時期のヴェルディの傑作『イル・トロヴァトーレ』をして、「プロットが複雑でリアリティに欠ける」と言うのだが、ソルティにしてみれば、『リゴレット』のほうがよっぽど理解しがたく、不愉快である。
 すばらしいアリアや重唱やオーケストレイションがあふれているので、この作品はヴェルディ前期の傑作の一つとしていまだに上演され続けているのだけれど、今となっては音楽のクオリティをもってしてもカバーできないくらいのポリコレ抵触、いや女性蔑視物件であろう。
 それにくらべれば、リゴレットの背中の瘤なんか目に入らないほどだ。

 何世紀も前の時代劇の設定に、現代の感覚から物申すのはルール違反と分かっているのだが、壁を乗り越えるのにもほどがあるってことを教えてくれる作品である。(少なくともこれが喜劇ならまだ受け入れやすかったかもしれないな)

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Christine EngelhardtによるPixabayからの画像画像




おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 喜ばしき降伏:フィルハーモニック・ソサエティ・東京 第10回定期演奏会


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日時 2022年11月6日(日)14:00~
会場 ミューザ川崎 シンフォニーホール
曲目 マーラー:交響曲第3番 ニ短調
指揮 寺岡 清高
メゾソプラノ 中島 郁子
合唱 東京アカデミッシェカペレ
児童合唱 すみだ少年少女合唱団

 前の晩は12時前に床に就いて、たっぷり8時間は寝た。
 9時に朝ごはんを食べて、昼飯は抜いた。
 開演2時間前に最後の水分を取って、開演30分前にトイレを済ませた。
 指定予約した席は1階席の一番前列だった。
 周囲1.5mは空席。
 考えられる限り最高のマーラー第3番を聴く用意が整った。
 これから100分間、待ったなしの一本勝負が始まる。

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ミューザ川崎

 第1楽章が一番の難関。
 長いうえに構成がつかみにくい。
 荒れ狂った波に、右に左に、上に下に、ゆるく激しく、引きずり回される。
 終わったと思ったらまだ続く。
 船酔い寸前!
 最もマーラーらしい、意地悪な楽章と言えなくもない。
 この楽章の狙いは聴衆のぬるま湯的日常を揺さぶり、実存不安に突き落とすことにあるような気さえする。
 寺岡のタクトはきびきびと容赦なく突き進む。

 打って変わって第2楽章は甘ったるさ全開。
 優しいフレグランス満ちるお花畑でしばし夢心地。
 これはもしやケシの花か・・・。

 清新な気が吹き込まれる第3楽章。
 動物たちの躍動と自然讃歌はまるで「ダーウィンが来た!」
 世界は人間なしで完成していた。
 自然も大地も、なんの過不足なく調和していた。
 そこに、唐突に現れるポストホルンの響き。
 人類の登場――。
 生物界にどよめきが走る。

 人間界は深い悲しみと憂いに閉ざされている。
 世界は痛みに覆われている。
 果てしない戦争と自然破壊によって滅ぼされた大地と生き物たち。
 人々の孤独と叶えられなかった祈りが、虚空に残響のようにこだまする。
 第4楽章のメゾソプラノの荘厳な歌唱はあたかも被災地に響く鐘の音のよう。

 天使たちが歌っている。
 天使たちがはしゃいでいる。
 苦しみ多い地上から解き放たれた魂は、永遠を目指して、天使に伴われて飛翔する。
 軽やかに、明るく、屈託なく。
 ちょうど、メフィストフェレスの魔の手から逃れたファウストのように。

 そして・・・第6楽章。
 長い長い歳月を経て、大地は再びよみがえる。
 焦土に降り注ぐ最初の雨。
 廃墟を優しく照らす落日の光。
 大地にあまねく満ちる大宇宙の慈悲が、ふたたび生命の誕生を予感している。
 
地球


 第3番をライブで聴くのはこれが2回目なのだが、ソルティはこの曲の肝をつかんだような気がする。
 第3楽章のポストホルンこそ、全曲の転回点であり、前半と後半をつなぐ要である。
 すなわち、自然界への人類の登場。
 なので、このポストホルンはとっても重要。
 個人的には、傲岸なほどの自信をもってしっかりと吹き鳴らしてほしい。
 (マーラーがどういう指示を出しているかは知らないが・・・)
 何か決定的なことが世界に起きたのだ、もう後戻りはできないのだ、と聴衆に知らしめてほしい。
 その衝撃で、ここまででかなり疲れている聴衆の耳を覚醒させ、集中力を今一度呼び戻し、ドラマチックな後半部に備えさせてほしい。
 声楽が入る第4楽章からは一気呵成に進んでほしい。
 
 第6楽章は、これまで頑張って聴き続けてきたことへのご褒美みたいな感すらある。
 長い紆余曲折があったからこその歓び。
 心も身体もすべて音楽に預けて、喜ばしき降伏の中で感涙に咽ぶのだ。

金山出石寺夕焼け


 マーラー交響曲第3番を、音響のすぐれた立派なホールで、それなりのレベルのオケの生演奏で、庶民価格(1500円)で聴けるという歓びは、なにものにも代えがたい。
 平和と安全と文化的豊かさとが揃わなければ実現しない奇跡である。
 いまの日本に生まれて良かったとつくづく感じる。
 そして、この贅沢な日常ができる限り続くことを祈らざるを得ないし、クラシックを愛する者なら、やはり平和のために何かしなければならないと思うのである。

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終演後、川崎駅前の家系ラーメンでお腹も満たされた
平和ってやっぱり美味しい











 
  
 

● 粛清された官能 クラースヌイ・フィルハーモニー管弦楽団 第4回定期演奏会


 クラースヌイとはロシア語で「赤」あるいは「美しい」「情熱」を意味する言葉だという。
 2018年に発足した20~30代中心のアマオケで、ロシア音楽を中心に演奏している。
  
 発足時にはよもや今のような状況になるとは思わなかっただろう。
 ロシアのウクライナ侵攻が始まって、ロシアの国際評価は急降下。
 海外で活躍するロシア出身の音楽家たちも肩身の狭い思いをしている。
 配布プログラムによれば、当オケの団長さんも、「このままロシア音楽中心のオケでいいものだろうか」と逡巡したそうだ。
 
 しかし、音楽自体に罪はないこと、そして、特定の国家の文化をすべて拒絶してしまうことは、その国家への差別や偏見を生み、果ては惨事を生み出す基となると考え、音楽活動を継続することを決意しました。(第4回定期演奏会プログラムより抜粋)
 
 そのとお~り!
 音楽にお国柄はあっても国境はない。
 むしろこういう時期だからこそ、人間らしさ・庶民らしさてんこ盛りのロシア音楽の神髄を市民に送り届けて、ロシア国民もまた日本人を含む全世界の人々同様、赤い血潮に満ち、愛する人のために熱い涙をこぼす人間であることを訴えてほしい。

クラースヌイ演奏会


日時 2022年10月29日(土)18:00~
会場 和光市民文化センター・サンアゼリア大ホール
指揮 山上 紘生
曲目
  • 伊福部 昭: SF交響ファンタジー 第1番
  • G. スヴィリードフ: 組曲《時よ、前進!》
  • A. モソロフ: 交響的エピソード《鉄工場》
  • D. ショスタコーヴィチ: 交響曲第1番 ヘ短調
サンアゼリア
和光市民文化センター・サンアゼリア

 まずもって選曲のユニークさに惹かれた。
 《SF交響ファンタジー第1番》は、伊福部昭が音楽を担当した東宝の『ゴジラ』『キングコング対ゴジラ』『宇宙大戦争』『フランケンシュタイン対地底怪獣』『三大怪獣 地球最大の決戦』『怪獣総進撃』の6本の特撮映画の楽曲から構成されている。
 幼い頃からスクリーンやTVモニターを通して聴いたことある曲ばかりだが、生演奏で聴くと迫力が違う!
 金色に輝くチューバの巨大な朝顔部分を、キングギドラの首と錯覚した。

 映画音楽作家としての伊福部昭の才能はいまさら言うまでもないところだが、ソルティが特に感心したのは、東宝の『日本誕生』である。
 古代が舞台の物語において、ヤマト(和風)、熊襲(中国・朝鮮風)、蝦夷(アイヌ風)と場面ごと民族ごとにふさわしい調子で書き分ける器用さには舌を巻いた。
 昨今、『砂の器』などシネマコンサートが流行りであるが、デジタルリマスタ―した『日本誕生』も上演候補リストに入れてもよいのではなかろうか。
 アマテラスを演じる原節子の類なき美貌や、ヤマトタケルを演じる三船敏郎の名演とともに、伊福部の天才を若い人々に伝導する機会となること間違いなし。

 G. スヴィリードフとA. モソロフは初めて耳にする名前。
 むろん曲を聴くのも初めて。
 組曲《時よ、前進!》は、1965年にソ連で上映された同名のドラマ映画のために作られた。1930年代の製鉄所を舞台とする話だとか。
 一方、交響的エピソード《鉄工場》は、1926年に作曲された短い(たった4分)管弦楽曲。タイトル通り、人類初の社会主義国家として誕生したばかりのソ連の製鉄所の風景が描かれている、いわゆる叙景音楽。
 製鉄という共通項がある。

 ソ連の国旗を見ると分かるが、鎌と槌こそは農民と労働者階級との団結を示し、共産主義の最終的勝利を象徴するシンボルだった。
 リズミカルに力強く響きわたる鉄打つ槌の音に、指導者も人民も、古い世界を打ち壊して新しい世界を創造する「希望と力と連帯」とを感じ取ったのだろう。
 いまや100年も昔の話である。
 《鉄工場》の最後のほうに、舞台上で実際に鉄板を木槌で打ち鳴らす箇所がある。
 プログラムには、理想の鉄板を求めて徳島の鉄工所まで旅する団員達のエピソードが載っていた。
 苦労の甲斐あって、本番では「希望と力と連帯」を感じさせるイイ音を発していた。
 鉄板奏者に限らず、全体的に金管楽器奏者の奮闘が目立った。 

ソ連国旗

 最後のショスタコーヴィチ。
 衝撃的であった!
 ソルティは今年1月に、東京大学音楽部管弦楽団の定期演奏会でショスタコーヴィチを初めて聴いた。
 交響曲第5番《革命》、指揮は三石精一であった。
 そのときに、スターリン独裁の地獄と化してしまった全体主義国家における、一人の芸術家の苦悩と鬱屈、抑圧され歪んでしまった才能を感じ取った。 
 滅多にない素晴らしい才能であるのは間違いないけれど、ショスタコーヴィチの本来の感性や生まれもっての個性が不当に歪められ押し潰されている。
 そんな印象を受けた。

 今回衝撃だったのは、第1番を聴いて、ショスタコーヴィチの本来の感性や個性がいかなるものであるか知らされた気がしたからである。
 そう、第1番作曲は1925年。誕生して間もないソ連では革命の英雄レーニンが亡くなり、スターリンが最高指導者に就いたばかり。ショスタコーヴィッチはまだ19歳の学生だった。
 スターリンによる大粛清が始まったのは30年代に入ってからなので、この頃はまだ自由に好きな曲が作れたわけである。
 1937年に作られた第5番との曲想の違いがとてつもない。
 同じ作曲家の手によるものとは思えないほどだ。
 
 なにより驚いたのが、全曲に染み渡っている〈美と官能〉。
 まるでワーグナーとシェーンベルクの間に生まれた子供のようではないか。
 とりわけ、第3楽章、第4楽章のエロスの波状攻撃ときたら、客席で聴いているこちらのクンダリーニを刺激しまくり、鎖を解かれた気の塊が脊髄を通って脳天に達し、前頭葉からホールの高い天井に向けて白熱する光が放射されている、かのようであった。
 こんなエロチックで情熱的な作曲家だったなんて!
 まさに、モーツァルト、マーラー、ワーグナー、サン・サーンス、シェーンベルク、モーリス・ラヴェル、R.シュトラウスら“官能派”の正統なる後継ではないか。(スクリャービンは聴いたことがありません、あしからず)
 
 クラシック作曲家の才能とは結局、音を使って「美」を表現する天賦の才のことだと思うが、その意味ではショスタコーヴィチの天賦の才は、ひょっとしてワーグナーやマーラーを超えるものがあったのではなかろうか。
 というのも、19歳でこのレベルなのだから。
 交響曲第1番は、これから作曲家として世に出ようとする将来有望な若者が、美の女神に捧げる贈り物であると同時に、人生を音楽にかける決意といった感じ。
 この才能が、体制によって歪められたり矯正されたり忖度を強いられたりすることなく、そのまま素直に伸びていったら、どんなに凄い(エロい?)作曲家になっていたことだろう。
 いや、いまだって十分に凄いわけであるが、進取の気と創造力と愛欲みなぎる人生の数十年間を、無駄に費やしてしまったのではないか?と思うのである。
 
 この美と官能の世界に見事にジャンプインして、巧みに表現した山上紘生には恐れ入った。
 初めて接する指揮者であるが、貴公子然とした清潔感あふれる穏やかな風貌の下には、おそらくエロスと情念の渦がうごめいているのだろう。
 若いオケとの相性もばっちり。

 次回(2023年3月11日)は、ショスタコーヴィチ第7番《レニングラード》をクラースヌイ&目白フィル合同で振るという。
 これは聴きに行って事の真偽を確かめなければ。
 
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 ホール内にあったハロウィン飾り
 




● かんとだき: 新交響楽団 第259回演奏会


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日時 2022年10月23日(日)14:00~
会場 東京芸術劇場コンサートホール(池袋)
指揮 寺岡 清高
曲目
  • ヨハン・シュトラウス2世:喜歌劇『ジプシー男爵』序曲
  • フランツ・シューベルト:交響曲第3番 ニ長調
  • フランツ・シュミット:交響曲第1番 ホ長調

 久しぶりの新交響楽団。
 前回はコロナ日本上陸前の2020年1月19日。
 松葉杖をついての鑑賞だった。
 自宅と会場との往復がたいへんだったはずだが、なんだか記憶にない。
 コロナ前、ロシア×ウクライナ戦争前、安倍元首相暗殺前の世界との隔絶感がなんだかすごい!

 やっぱり巧い。
 アマオケのトップレベルにいるのは間違いない。
 ソロ(独奏)もトゥッテ(合奏)も申し分なく音がきれいで、ツヤと響きがある。
 それをスター性ある寺岡が振るのだから、華やぎが広がる。
 芸劇コンサートホールは国内でもっとも巨大で立派で格式高いホールの一つだと思うが、アマオケでホール負けしないのはさすが。

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東京芸術劇場

 1曲目は日曜日の聴衆の心をつかむのにピッタリの楽しい曲。
 軽快で優美で華やか。
 池袋がウィーンに早変わり。

 2曲目はみずみずしくも典雅。
 シューベルト御年18歳の作品だとか。
 31歳という短い生涯で、青春の喜びと哀しみと葛藤とを気品高く歌い上げたところは、現在放映中のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に出てくる源実朝を思わせる。
 実朝もまた『金槐和歌集』という青春の記念碑を残し、27歳で世を去った。
 コンサート前に天ぷらそばを食べたのが効いて、夢見心地になった。
  
 3曲目が本日のメイン・ディッシュ。
 フランツ・シュミット(1874-1939)の曲を聴くのはおそらく初めて。
 受付でもらったプログラムには「晦渋作曲家」とあったので、「最後までついていけるかなあ?」といささか不安だった。
 なんとまあ、面白い!!
 マーラー、ワーグナー、ベートーベン、ブラームス等々、どこかで聴いたことがあるタッチが代わる代わる現れる。
 いろいろな作曲家のスタイルのごった煮といった感じなのだが、具の一つ一つが主張しすぎず、バランスよくまとまって、味付けもまろやかで、からしがピリリと効いている。
 ――って、おでんか。しかも関西風の。
 打楽器をはじめとするオーケストレイションも楽しい。
 これはもう一度聴きたいと思った。
 ただ、良い指揮者とオケでないと、このおでんは煮込みが足りないか、あるいは煮込みすぎて、失敗する可能性大なのではあるまいか。
 寺岡の調理はまったく見事であった。

 
P.S. 本日の作曲家はみな「シュ」で始まる。それが選曲のポイント? 次点はシューマン?
 
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● 浦和にゃ8つの駅がある :目白フィルハーモニー管弦楽団 第4回定期演奏会

  
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日時 2022年10月16日(日)13:30~
会場 埼玉会館大ホール(さいたま市)
指揮 小林雄太
曲目
  • ジョン・ウィリアムズ:『ジュラシック・パークからメインテーマ』
  • 芥川也寸志:交響管弦楽のための音楽
  • セルゲイ・ラフマニノフ:交響曲第2番

 90年代に『ボキャブラ天国』(フジテレビ系列)というバラエティ番組があった。
 ソルティが観ていたのは、司会がタモリ、サブがヒロミで、小島奈津子アナがアシスタントをつとめた最初の頃だけだった。
 視聴者投稿のダジャレ作品(格言・物や人の名前・歌詞などのダジャレや替え歌)を番組スタッフがタレントなどを使ってVTR化したものを、スタジオ出演者らが品評して賞を与えるスタイルであった。
 今思えばほんとに下手なダジャレばかりで、「いったいどこが面白かったんだろう?」と不思議な気がする。時代のムードってやつだろう。
 が、その中でソルティがいまだに忘れられない傑作がある。
 山本リンダのヒット曲『狙い撃ち』を替え歌にしたもので、だいたい次のような歌詞だった。

 ひがしうらわ にしうらわ みなみうらわ きたうらわ
 むさしうらわ なかうらわ
 うらわにゃ7つの駅がある。

 リンダ(本人だったか確かでない)の歌うアップテンポな調べに乗って、次々と実際の駅名表示が画面に現れる。
 埼玉県民であるソルティ、これには爆笑した。

 今回、数十年ぶりにJR浦和駅で降りたところ、構内にこんなオブジェを見かけた。

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 「うらわ」駅は8つに増えていた!
 浦和美園駅は埼玉高速鉄道の終点で、埼玉県さいたま市緑区美園にある。
 2001年に開業したそうだが、ソルティはまったく知らなかった。
 別名「埼玉スタジアム線」というように、浦和美園から徒歩15分のところにあるサッカー競技場が沿線一番の呼び水。
 サッカーに興味ない人間の脳内鉄道路線図には載っていなかった。
 確かに、浦和と言えば浦和レッズ。
 サッカーの街なのであった。

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浦和駅構内にあるサッカーストリート

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浦和レッズのお店

 埼玉会館は浦和駅西口から徒歩5分。
 思ったよりゴージャスなホールであった。
 約1300名収容の大ホールに500名ほどの来場は立派。
 入場無料に加え、バラエティ富んだ曲目も良かったのだろう。

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JR浦和駅西口

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埼玉会館

 目白フィルハーモニー管弦楽団は2018年3月結成の若いアマオケ。
 見たところ20~30代が多い。
 自然、オケの音も迫力と鮮度あふれるエネルギーに満ちたものであった。
 恐竜映画のサントラはもってこいだ。
 『ジュラシック・パーク』を再度観たくなった。
 
 2曲目の芥川也寸志(龍之介の三男)の管弦楽曲ははじめて聴いた。
 どことなくアラビアンナイト風。
 リズミカルで、神秘的で、媚態風なところもあり、情熱的なところもあり、ラストに向かってどんどん高まっていく興奮刺激性もある。
 この曲、オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』の「七つのヴェールの踊り」の伴奏にピッタリではないか。
 一枚一枚薄いヴェールを脱ぎながら、鳩のような白い足で踊るサロメ王女を想像した。
 指揮者の小林雄太は表情のつけ方が上手い。

 ラフマニノフを聴いていると、「やはりロシアは偉大だ」「やはりロシア人は熱い」と思わざるを得ない。
 プーチンのせいで世界の敵みたいに思われているロシアであるが、トルストイやドストエフスキー、チャイコフスキーやショスタコーヴィチ、エイゼンシュテインやタルコフスキーといった偉大な芸術家を生んだロシアはやっぱり偉大な国である。
 これらの作品によって浮かび上がるロシアの民は、一見、取っつきにくそうに見える態度のうちに熱いハートを持ち、人の世の苦しみや悲しみをよく知る哲学者。
 決して悪い人たちではない。 
 独裁を許してしまったのが間違いなのだ。
  
 若いオケならではのパワーと若干の稚拙さを、あふれる情熱と未完の夢というテーマに変貌させた指揮者の手腕が光った。
 第3楽章、第4楽章では泣かされた。
 拍手喝采。






● 永遠の小美人 ザ・ピーナッツ2



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 キング・レコード発売『ザ・ピーナッツ~恋のフーガ』

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 『ザ・ピーナッツ~恋のバカンス』に続く2枚目。
 今回も『恋のフーガ』『銀色の道』『ウナ・セラ・ディ東京』『スター・ダスト』など有名な曲が収録され、聴きどころたっぷり。
 60~70年代和製ポップスならではの単純でリズミカルな曲の構成は作業BGMにも適している。

 今さらながら気づいたことがある。
 ソルティはこれまで、女性2人のデュオということで、ピンクレディーがザ・ピーナッツの後継と思っていた。
 ザ・ピーナッツの引退は1975年、ピンクレディーのデビューは76年。
 まさに芸能界にポッカリ空いた大きな穴を埋めるような形で、交替劇は起きている。
 ピンクレディーの国民的人気の理由の一つは、ミーとケイの二人に、ザ・ピーナッツのユミとエミの影を重ねた人が一定層いたことにあるのでは、と思っていた。

 だが、ザ・ピーナッツの歌を何曲も続けて聴いているうちに気づいた。
 音楽的には、ザ・ピーナッツの後継は明らかにキャンディーズである。
 
 所属が同じナベプロ(渡辺プロダクション)ということもあるが、楽曲がよく似ている。
 共通している作詞家が山上路夫、なかにし礼、安井かずみ、作曲家がすぎやまこういち、編曲が馬飼野康二ら。
 普段着の恋愛ポップスでハーモニー重視というところも同じである。
 
 またこれは楽曲とは関係ないが、ザ・ピーナッツは『シャボン玉ホリデー』でコントをやっていた。
 とくに、病いに臥せっている父親に扮したハナ肇を相手にした、「いつも済まないねえ」「おとっつぁん、それは言わない約束でしょ」というかけあいは、コントの定番となった。
 このノリもまた、TBS『8時だョ!全員集合』やテレ朝『みごろ!たべごろ!笑いごろ!!』などのバラエティ番組でコントを得意としたキャンディーズと重なる。(ピンクレディーはコントが下手だった)

 ウィキによると、キャンディーズは事務所の先輩であるザ・ピーナッツから、着用した舞台衣装をプレゼントされたことがあり、その際、同じデザインのものをもう1着作成し、3人分揃えてくれたという。

 思春期にリアルタイムで聴いていたキャンディーズの歌がどことなく懐かしかったのは、幼少期に聴いたザ・ピーナッツの響きが蘇っていたからなのかもしれない。 

 まあ、自民党と旧・統一協会の癒着とか、コロナ第7波とか、サル痘拡大とかのニュースにくらべれば、まことにどうでもいい話である。




 




● 英雄と死の舞踏 :西東京フィルハーモニーオーケストラ 第32回定期演奏会


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日時: 2022年7月10日(日)
会場: 保谷こもれびホール(東京都保谷市)
曲目:
  • サン=サーンス: 死の舞踏
  • グラズノフ: 組曲「中世より」
  • シューマン: 交響曲第2番
  • (アンコール)エルガー: エニグマ変奏曲より第9変奏「ニムロッド」
指揮: 和田一樹

 久しぶりの和田一樹。
 コロナ渦のフェルマータ(一時休止)にあって、もっとも再会を待ち望んでいた指揮者であった。

 ソルティが普段、休日に行くクラシック演奏会を選択するのに利用しているのは、i-amabile(アマービレ)というサイトである。
 それによれば和田一樹は、9日(土)にも北区王子の北とぴあで Ensemble Musica Sincera 第1回演奏会の指揮台に立ち、ベートーヴェン揃いのプログラムを振ることになっていた。
 和田のベートーヴェン、非常に聴きたかった。
 が、メインプログラムが交響曲3番「英雄」とあるのを見て、冷めるものがあった。
 というのも、最近非業の死を遂げた元首相が、あたかも「英雄」のように祭り上げられている現状にやり切れないものを感じるからである。
 北とぴあで第3番「英雄」を耳にする聴衆が、ナポレオンをモチーフにしたというこの曲に、亡くなった政治家の姿を重ねる可能性の低くはないことが想像され、その場に身を置くことは避けたかった。

 当然ソルティも故人の冥福を祈るし、暴力には反対である。
 死者を冒瀆する気はない。
 が、あまりに行き過ぎた美化はいただけない。
 安倍さんが「民主主義の護り手だった」とでも言うかのような言説には、正直驚きあきれるほかない。

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保谷こもれびホール

 というわけで、Ensemble Musica Sincera の旗揚げに後ろ髪ひかれつつ、10日の演奏会を選択した。
 会場は西武池袋線の保谷駅よりバスで10分の保谷こもれびホール、西東京フィルは2回目となる。

 配布されたプログラムによれば、グラズノフの組曲『中世より』は「めったに演奏されません」とあり、シューマン交響曲第2番はシューマンの4つの交響曲の中で「もっとも演奏回数が少ない」とある。レアなプログラムなのだ。
 ソルティもはじめて聴く。

 サン=サーンスの『死の舞踏』は、浅田真央のライバルと言われた韓国のフィギュアクイーンことキム・ヨナが、2008-9年のシーズンのショートプログラムに選んだ曲として記憶に残っている。
 キム・ヨナの滑ったプログラムの中で一番完成度が高く芸術性も高かったのは、『死の舞踏』だったと自分は思う。
 サン=サーンスの作った不気味で奇抜で、それでいてどことなく滑稽で躍動感に満ちた音楽を、キム・ヨナは見事な滑りと振り付けと表情とで表現し切っていた。
 
 和田の『死の舞踏』もまたキム・ヨナに劣らず、精彩を放っていた。
 タイトルとは裏腹に、音楽に「生」の力が漲って、瞬く間に聴衆を引き込む。
 「つかみはバッチリ」というこの指揮者の特性を再確認した。
 オケのメンバーひとりひとりに生き生きと演奏させて、ひとつひとつの音符に生命を吹き込み、生きた音楽を紡ぎ出すのはこの人の天性だろう。
 プロオケの正確無比な死んだ音楽より、アマオケの雑音混じりの生きた音楽のほうが、10倍いい!

 二曲目の『中世より』の途中から気持ちの良い忘我に引きずり込まれてしまった。
 最近は、「ちゃんと耳で聴いていなくても、体は音(の波動)を感じているのだから、音楽の効果は得られる。眠っても良し」という催眠療法まがいの身勝手な理屈を採用している。

 三曲目のシューマンはどうも曲自体が、地中で方向性を見失ったモグラのような、優柔不断というか暗中模索というか堂々巡りというか、方向性ある精神の軌跡を感じることができず、聴いていてすっきりしなかった。
 シューマンは自分には合わないようだ・・・・。

 やっぱり昨日のベートーヴェンを選ぶべきだったかな?――と帰り道で一瞬思った。
 が、その夜の選挙速報で、死の上で舞踏するかのような自民党の圧倒的勝利を見て、「やっぱり英雄視は行き過ぎだろう!」と独りごちた。

 2019年にアフガニスタンでペシャワール会の中村哲医師が銃弾に斃れたときと、かくもマスコミや世間の扱いが違うのには、不審を通り越して憤りを感じざるを得ない。
 中村医師こそは平和と民主主義の護り手であり、真の英雄であった!
 
 安倍晋三氏の冥福を祈る。


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● アプリーレ・ミッロの時代2 オペラライヴDVD:ヴェルディ作曲『アイーダ』


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収録年 1989年10月
場所  メトロポリタン歌劇場(ニューヨーク)
指揮  ジェイムズ・レヴァイン
映像監督 ブライアン・ラージ
演奏  メトロポリタン歌劇団管弦楽団
合唱  同合唱団
キャスト
 アイーダ : アプリーレ・ミッロ(ソプラノ)
 ラダメス : プラシド・ドミンゴ(テノール)
 アムネリス: ドローラ・ザジック(メゾソプラノ)
 アモナズロ: シェリル・ミルンズ(バリトン)
 ランフィス: パータ・ブルチェラーゼ(バス)
 エジプト王: ディミトリ・カヴラコス(バス)
演奏時間 156分

 過去に発売された数多くの『アイーダ』ライヴ映像の中で、トップクラスの質の高さと言っていいだろう。
 歌良し、芝居良し、指揮良し、オケ良し、演出良し、映像良し、すべてが及第点に達している。
 80~90年代のMETのパワーを感じさせる傑作である。

 特に素晴らしいのは歌手。
 アイーダ役のアプリーレ・ミッロはやはり大物であった。
 戦と恋に翻弄されるエチオピア王女の劇的人生を歌いきるのに過不足ない力強い声と豊かな表現力、そして堂々たる風格を兼ね備えている。
 当時のMETでは、レオンタイン・プライス――ヴェルディ歌いとして世界中で称賛を浴びた黒人歌手。1985年引退――を継ぐ「本命アイーダ登場!」と思われたのではなかろうか?
 第3幕冒頭のアリア『おお、わが故郷』などドラマチックにしてリリカル。絶品である。
 もう少し長く歌い続けて、『ノルマ』に挑戦してほしかった。

 ミッロに一歩も引かず健闘しているのはアムネリスのドローラ・ザジック。
 こちらは歌手生命長く、つい最近まで舞台に立っていた(2020年引退)。
 立派な声の持ち主であるのみならず、第一級の歌手であり名女優である。
 尊大でわがままなエジプト王女アムネリスが生涯はじめての一途な恋をした。だが、思い人のラダメスの心はアイーダにある。嫉妬が憤りに変わり、ついに愛する人を自ら死に追いやってしまう。
 アイーダの敵役として、相思相愛の二人の恋の邪魔者として、聴衆から憎まれても仕方ないこの役を、ドローラ・ザジックは恋に苦しむ一人の純情な娘として彫琢し、いま一人の悲劇の主人公として聴衆に同情させるのに成功している。
 終幕で聴衆は、絶望の淵に沈むアムネリスの姿に、自らの失恋体験を重ねて涙さえするだろう。
 実際、主役がどっちかわからなくなるほどの熱演・絶唱である。

 ザジックは『トロヴァトーレ』のアズチェーナでも他のメゾの追随を許さなかった。
 ソルティが観たのはパヴァロッティ共演の88年METライヴ映像と、アンナ・ネトレプコ共演の2015年METライヴビューイングであるが、どちらも千両役者と言うにふさわしい名演である。
 アムネリス&アズチェーナ歌いとしては、エベ・ステニャーニ⇒ジュリエッタ・シミオナート⇒フィオレンツァ・コソット⇒ドローラ・ザジック、という系譜をたどることができよう。
 
 ラダメス役のプラシド・ドミンゴ、アモナズロ役のシェリル・ミルンズは、ベテラン大スターとして舞台の格をいやがおうにも高めている。安定した実力。
 もう一人のベテラン、祭司ランフィス役のバータ・ブルチュラーゼの地の底から響くような深いバスは、残酷な運命の導き手のような印象を醸し出して、物語を悲劇に色づけるモチーフ(動機)のような役目を果たしている。

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左から、カヴラコス、ブルチュラーゼ、ザジック、ドミンゴ、ミッロ、ミルンズ
 
 第2幕第1場で、アイーダとアムネリスはタイマンを張る。
 英雄ラダメスを巡る、女と女の、女王と女王の意地とプライドをかけた闘いのゴングが鳴る。
 このシーンで、びっくりの演出がある。
 「あっ、やった!」
 美内すずえ『ガラスの仮面』の北島マヤと姫川亜弓の舞台上の対決、あるいは野村芳太郎監督『疑惑』の岩下志麻と桃井かおりの対決を思い出した。


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 アイーダとアムネリス
この直後にアムネリスは思わず手を上げて・・・




 
 
 
 
 
 

● 晴海のチャイコ : オーケストラ・モデルネ・東京 第3回演奏会


オーケストラ・モデルネ

日時: 2022年6月26日(日)
会場: 第一生命ホール(晴海トリトンスクエア)
曲目:
  ヒンデミット:交響曲「画家マティス」
  チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」ロ短調 作品74
指揮:篠﨑靖男

 第一生命ホールに行くのは初めて。
 地下鉄・都営大江戸線の勝どき駅から歩いて7分のところにあるのだが、列車を下りて地上に上がった大きな交差点で、どっちに行ったらいいものやら皆目見当つかなかった。
 碁盤の目のように走る幅の広い道路と天をつく高層ビル群。
 縦横に流れる運河といくつもの橋。
 月島、晴海、豊洲、有明、天王洲、お台場、新木場・・・・いわゆるウォーターフロント。
 東京湾の埋立地に造成された21世紀の臨海都市が、ソルティには磁気を狂わせる樹海のように思える。
 スマホがなければ開演に遅れるところだった。
 
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第一生命ホールのあるトリトンスクエア
 
 パウル・ヒンデミット(1895-1963)はドイツの作曲家、ヴィオラ奏者。
 生涯で600曲以上作った多作家である。ソルティは初めて聴いた。
 画家マティスとは、16世紀ドイツの画家マティアス・グリューネヴァルトのこと。
 マティスの代表作に、イーゼンハイムにある聖アントニウス会修道院付属の施療院のために描いた『イーゼンハイム祭壇画』という絵がある。
 『交響曲マティス』は、この絵に感銘を受けたヒンデミットがナチス政権下の1933年に作曲したもので、3つの楽章にはそれぞれ祭壇の絵のタイトル――〈天使の奏楽〉〈聖アントニウスの誘惑〉〈埋葬〉――が冠されている。
 と言っても、ヒンデミット自身が「標題音楽ではない」と言っているとおり、この曲から天使や誘惑される聖人や埋められるイエス・キリストを連想するのは難しい。
 ナチスによって「無調の騒音」と批判された楽曲は、キリスト教っぽくすら、いや宗教音楽っぽくすらない。
 正直、ソルティの耳には、SFパニックサスペンスのBGMのようにしか聞こえなかった。
 むしろ、ナチス独裁時代のドイツを描いたと言われれば「なるほど」と頷ける。
 (ヒンデミットの霊感のもととなった実際の絵を見たら、印象は変わるかもしれない)

 チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」は、やはり第3楽章が鍵だと思う。
 他の3つの楽章は明らかに「悲哀、陰鬱、憂愁、絶望、苦悩、葛藤、動揺」などのネガティヴな言葉が浮かんでくるような〈陰〉の曲調なのだが、第3楽章だけは思いっきり勇ましく、一見ポジティヴな〈陽〉の曲調なのだ。
 第3楽章で終われば、ベートーヴェン第九のような「苦悩から喜びへ、暗から明への転換」と言ってしまえるくらいで、はじめてこの交響曲を聞いたときは「第3楽章で終わりにすればいいのに・・・」と思ったものだ。
 華々しく終了した第3楽章の後に、谷底に突き落とされそのまま息絶えるような第4楽章が来る。
 まったくの〈陰〉。
 第3楽章の〈陽〉がぬか喜びに過ぎなかったことを告げるかのよう。
 苦悩から喜びに至ったのに、より深い苦悩に――。

 ソルティには、第3楽章は「喜び」や「勇気」や「希望」や「成功」といったポジティヴな表現ではなくて、ある種の狂気の表現のように思われる。
 双極性障害(躁うつ病)の人の躁状態のようなもので、その明るいイケイケ感は鬱の反転として起こっているだけで、決して安定した性質ではない。神経が一時的に興奮状態にあるのだ。
 周囲の人間をいささか不安にさせる躁状態――とでも言おうか。
 実際、チャイコフスキーは躁うつ病だったという説もある。
 一見ポジティヴで勇猛果敢なイメージのある第3楽章も、それを聴いたことでベートーヴェン〈第九〉を聴いたあとのように「元気が出るか、喜びや愛に満たされるか、明るい落ち着いた気分になるか」と言えば、答えはNOであろう。

 いま日本でもLGBTを取り巻く社会環境が大きく変わり、同性婚の是非が話題になっている。
 民主主義国家における国際的なSDGSの常識化をみても、同性婚が日本で認められるのは時間の問題であろう。
 同性愛者であったチャイコがこの状況を見たら、名曲『悲愴』は生まれなかったろうなあ~。
 そう思うと、複雑な気持ちになる。
 いや、今のロシアに生まれていたら、やっぱり『悲愴』は生まれるか・・・・。

 オーケストラ・モデルネ・東京の演奏は、安定感があると同時に、若々しい活力を感じた。

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月島と晴海を結ぶ朝潮大橋からの風景(対岸は豊洲)

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佃水門よりスカイツリーを望む






● 永遠の小美人 ザ・ピーナッツ

 ここ最近、やけにザ・ピーナッツが聴きたくてCDを探していたら、近くのホームセンターのレジ横のワゴンで見つけた。
 キング・レコード発売の『ザ・ピーナッツ~恋のバカンス』1500円。 

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 ザ・ピーナッツはソルティの最も初期の記憶に刻まれている歌手の一人(二人)である。
 日本テレビ系の人気歌謡番組『シャボン玉ホリデー』の司会を1961年6月4日から1972年10月1日まで務めていたので、ぎりぎり小学校低学年に間に合った。
 同番組に出ていた歌手で他に覚えているのは、「森とんかつ、泉にんにく、かーこんにゃく、まれてんぷら」の替え歌で覚えた『ブルー・シャトウ』のブルーコメッツくらい。
 子供心に、姿かたちも声も仕草もそっくりの美人(一卵性双生児だもの)が、大人っぽいエレガントな衣装を身にまとい、抜群のハーモニーで歌って踊っていたのが印象的であった。
 むろん、東宝映画『モスラ』(1961年)、『モスラ対ゴジラ』(1964年)、『三大怪獣 地球最大の決戦』(1964年)などのテレビ放映を夢中で観ていたので、二人の存在は知っていたのだが、インファント島の妖精のごとく可愛らしくはかなげな小美人と、『シャボン玉ホリデー』のムーディーで色気ふりまく二人が、幼きソルティの中ではなかなか結びつかなかった。

ザ・ピーナッツ
映画『モスラ』シリーズの小美人
モスラーヤッ モスラ―

 一番の魅力は何と言ってもハーモニー。
 女性のデュオで、ここまで美しく、音程も確かで、リズム感抜群な歌手は、世界中探してもそうそう見当たらないのではないかと思う。
 名曲『白い色は恋人の色』のベッツィ& クリスも、同じ一卵性双生児であったザ・リリーズも、国民的モンスターとなったピンクレディーも、あみんも、Winkも、パフィーも、Kiroro.も、阿佐ヶ谷姉妹も、歌手としての実力では到底ザ・ピーナッツの域にまでは達しなかった。
 唯一肩を並べられるのは、安田祥子&由紀さおり姉妹とスウェーデンの生んだ世界的歌手ABBAくらいではなかろうか。(こまどり姉妹については残念ながらコメントできる立場にない。また、デビュー間もない松田聖子と河合奈保子が、NHKの歌番組でザ・ピーナッツの歌曲『可愛い花』『ふりむかないで』をデュエットしている動画がある。これはこれでなかなか見事で魅力的なコンビである)

 昔の歌は良かったなあ。
 ――と言うようになったら、ジジイの仲間入りか。
 が、ザ・ピーナッツの歌声には時代を超えた魅力がある。










 

 

 



● オペラライブ : ビゼー作曲『カルメン』

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日時 2022年6月5日(日)15:00~17:00
会場 ルネこだいら大ホール(東京都小平市)
指揮 佐々木 克仁
演出 山田 大輔
合唱 オペラアーツ合唱団
エレクトーン 西岡 奈津子、小倉 里恵
打楽器 大野 美音、金丸 寛
キャスト
 カルメン: 善田 美紀(メゾソプラノ)
 ドン・ホセ: 片寄 純也(テノール)
 エスカミーリョ: 中西 勝之(バリトン)
 ミカエラ: 山下 尚子(ソプラノ)

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西武新宿線・小平駅

 別のオケを聴くつもりで西武新宿線・小平駅に降りたのだが、なんと日にちを間違えていた。
 ルネこだいらの前には『カルメン』のポスター。
 1時間待ちで『カルメン』が始まる。
 せっかくだから、これを観ていこう!

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ルネこだいらと日本一大きな郵便ポスト

 主催のオペラアーツ振興財団は、「オペラの裾野を全国に広めるため、特に青少年の情操を育むため」に30年前から活動を続けている団体。
 その主旨に則って、オペラ初心者が興味を持って気楽に鑑賞できるよう、また学校の体育館のような場所でも無理なく上演できるよう、いくつかの工夫を凝らしている。
  • 有名なアリアや合唱を中心に、筋をシンプルにし、全体を2時間程度に収める
  • フルオーケストラでなく、エレクトーン2名と打楽器2名の演奏
  • 原語でなく日本語上演
 なにより、題材として『カルメン』を選んでいるのが一番のポイントであろう。
 小中学生でもわかりやすい筋書きで、恋愛トラブルの果ての殺人という三面記事に載るようなスキャンダラスな話である。
 音楽的にも、前奏や闘牛士の歌など誰でも一度は聴いたことがあるような曲がつまっているので、入りやすい。
 高校生以下100名を招待しているとのこと。
 素晴らしい試みだ。

 客席を見渡すと、確かに小中学生や高校生らしき姿がチラホラ見える。
 が、大半はおばちゃんたち。
 原語上演のオペラに行くと見受けられる、ソルティのごとき“おひとりさま男子”はほとんどいなかった。


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オーケストラピット

 エレクトーンと打楽器だけのオペラ演奏は初めてだったが、これがびっくり。
 ちゃんとオケ演奏として成り立っている。
 エレクトーンの作りだす音色の多彩さと弾き手の技術の高さに感心した。
 2時間ぶっ続けで弾くのは大変な気力と体力の要ることだろう。
 一人でいくつもの打楽器を担当するパーカッションも大健闘であった。

 歌手ではドン・ホセを演じた片寄純也が声量たっぷりで滑舌よろしく、精彩を放っていた。
 ミカエラの山下尚子の楚々とした雰囲気と美しいソプラノにも癒された。
 合唱隊も切れ味鋭くて良かった。

 演出はオーソドックスだが、わかりやすさに焦点を置くならこれが正解。
 本来はかなりエロティックなこのオペラ(バルツァ×カレーラスの『カルメン』を見よ!)から、エロがずいぶん抜けていたが、小中学生もいるから仕方ないところである。
 そのあたりの案配が難しかったろうなあ。 

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 気になったのは、やはり日本語上演の良し悪し。
 『カルメン』の台本はフランス語。
 同じラテン語から派生したイタリア語、スペイン語、あるいはフランス語に近い英語あたりなら、訳語上演してもそれほど奇異な感じは受けないと思う(聴いたことないが)。
 日本語はフランス語とは発音体系も抑揚も文法も異なるので、フランス語に合わせて作られた音楽に日本語を当てはめるのは至難の業。
 畢竟、日本語の抑揚や間を無視したセリフや節回しになりがちで、不自然に聞こえてしまうし、歌詞が聞き取りづらくなってしまうのだ。
 オペラの魅力の大きな部分は「言葉と音楽の幸福な結婚」にあると思うので、そこを犠牲にしてしまうのは個人的には残念。(これは歌舞伎や能をフランス語や英語で上演する場合をイメージすると頷けるであろう) 
 ただ、ソルティは原語で聴くのに慣れているゆえに、あるいは洋画で字幕を読むのに慣れているゆえにそう感じるのであって、入り口としては日本語上演も当然ありだろう。

 幕間休憩で「意味、全然わかんない」とぼやいていた近くの席の中学生たちは、ホセがカルメンを刺すラストシーンでは息をつめて食い入るように舞台を観ていた。
 彼らが、「人を好きになるって恐いんだな~」と怖気づきませんように。
 いつの日かオペラの魅力にはまってくれますように。

 出演者、スタッフ、関係者の骨折りにブラーヴォ! 

 



  

● 映画:『私は、マリア・カラス』(トム・ヴォルフ監督)

2018年フランス
113分
原題:Maria by Callas

私はマリアカラス

 20世紀最高の歌姫マリア・カラスの人生を、映像と朗読と彼女自身の歌声でつづったドキュメンタリー。
 カラスが書き残した未完の自叙伝(そんなものがあったのか!)や友人に宛てた手紙を、自身映画『永遠のマリア・カラス』(2002)でカラスを演じたことのあるファニー・アルダンが朗読している。
 
 これはもうファン垂涎の一品である。
 本邦というか世界初公開のカラスの舞台および舞台裏映像、インタビュー風景、プライベート映像が盛りだくさん。
 よくこれだけ集めたなあと感心する。
 とくに、モノクロフィルムに当時の写真をもとに着色した映像が新鮮。
 これまでに何度も目にしていた骨董品的映像が、色を付けられることで臨場感と華やぎが増し、撮影されたその場・その時代の空気を感じ、マリア・カラスが血の気の通った存在として蘇るような気がした。あたかも彫像が動き出したような。
 彼女が最も得意とした『ノルマ』の舞台映像やルキノ・ヴィスコンティの演出風景、カラス唯一の映画主演作『メディア』(パゾリーニ監督)の撮影風景など、レアな映像の数々に目が釘づけ、もちろんその奇跡の歌声に耳が釘付けとなった。
 映画のロケハンで、くもった眼鏡(カラスはド近眼だった)を磨くのにレンズに自分の唾を垂らすカラスの姿からは、エレガンスの粋を極めた彼女の本質が庶民にほかならないことを、あますことなく伝えている。

 登場する50~60年代の世界のセレブたちの顔触れも凄い!
 最初の夫バティスタ・メネギーニ(実業家)、最愛の男アリストテレス・オナシス(海運王)、最後の恋人と言われたジュゼッペ・ディ・ステーファノ(テノール歌手)はじめ、エルビラ・デ・イダルゴ(ソプラノ歌手・恩師)、ジャクリーン・ケネディ(元米国大統領夫人)、ヴィットリオ・デ・シーカ(俳優・映画監督)、オマー・シャリフ(俳優)、ブリジット・バルドー(女優)、カトリーヌ・ドヌーヴ(女優)、グレース・ケリー(女優・モナコ公妃)、エリザベス・テーラー(女優)、ウィンストン・チャーチル(元英国首相)、エリザベス女王、フランコ・ゼフィレッリ(映画監督・オペラ演出家)、ルドルフ・ビング(メトロポリタン歌劇場支配人)・・・・等々。
 どこに行っても膨大なファンとマスコミに取り囲まれ、容赦ないフラッシュと意地悪な質問を浴びせられる。その光景のすさまじさに比べられ得るのは、故ダイアナ妃のそれくらいであろうか。
 よっぽどタフでないとつとまるまい。

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 個人的には、やはり映画の中で流されるカラスの歌声に圧倒された。
 若い時分から最盛期そして晩年近くまで、録音された歌を通して聴いていると、声質や声域の変化や劣化、表現力の深化などはあるものの、生涯にわたって共通しているもの――なによりもカラスの声を特徴づけていたもの――は、“悲哀さ”だったのだと分かる。
 声自体の美しさでは他のソプラノ歌手の後塵を拝すとしても、悲哀さにおいては追随するものがいなかった、いや今に至るまでいない。
 その悲哀さゆえに聴衆は呪縛され、胸を鷲づかみにされ、涙腺を破壊されてしまったのだ。
 エドガー・アラン・ポーがどこかで「美の本質は悲哀さにある」と書いていたのを思い出す。

 皮肉なのは、その悲哀さがカラスの――マリアの人生にも浸透してしまったことである。
 あるいは、カラスが演じたヒロインたちの悲劇が、マリアに乗り移ったのだろうか。 
 あれほどの成功、あれほどの栄誉、あれほどの人気を獲得しながらも、一人の女性としてのマリアの人生を鑑みるときに「幸福」という言葉は出てこない。
 もちろん「不幸」ではない。世の女性が、いや世の人間が、滅多に手に入れられない歴史に残る名声を得たのは間違いないのだから。
 芸術の神にかくも愛されたのだから。

 幸福とは平凡な人間にのみ許される特権なのだろうか。
 その生、その死――悲哀に満ちた美しさがある。

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おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● ウィーンの音楽を楽しむ会 63回(ギュンターフィルハーモニー管弦楽団)

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日時 2022年5月14日(土)18:00~
会場 小金井宮地楽器大ホール(東京都小金井市)
指揮 重原孝臣
曲目
  • モーツァルト:交響曲35番 ニ長調 K.385「ハフナー」
  • ベートーヴェン:交響曲8番 ヘ長調 op.93

 コンサート前に国分寺駅南口にある殿ヶ谷庭園(随宜園)に寄った。
 三菱の岩崎彦彌太の別邸だったのを1974年に都が買い取ったものである。 
 藤が終わってサツキにちょっと早い今の時期、花は多くないがそのぶん緑が目立ち、草いきれが強かった。

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入園料150円はお得

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かつてはここでゴルフやパーティーをしたとか

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竹林が美しい

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ハケ(崖線)が敷地内にあり湧き水が池を作っている

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紫ランとカルミア


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 小金井宮地楽器ホールはJR中央線・武蔵小金井駅南口のロータリーに面している。
 しばらくぶりに訪れたが、ショッピングモールや高層マンションが周囲に立ち並び、ちょっとしたセレブ空間になっていてビックリ。
 570名余入る大ホールに5割くらいの入り。ソーシャルディスタンス的にはちょうど良かった。

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小金井・宮地楽器ホール

 このオケを聴くのは2回目。前回は2016年12月であった。
  コロナ禍で2019年10月以来のコンサートという。見たところ、演奏者のみならず聴衆もまた高齢者率の高い会なので、スタッフはかなり神経を使ったのではなかろうか。
 再開を慶びたい。

 前回も感じたが、上手で安定感がある。
 長い年月(結成1980年)で育まれた技術とチームワークの賜物であろう。
 そこに待ちに待った舞台ゆえの喜びと緊張感が加わって、フレッシュな響きがあふれた。
 気圧の変化に弱い“気象病”のソルティは、ここ最近の天候不順のせいで軽い眩暈と耳鳴りに悩まされていたのだが、一曲目の「ハフナー」を聴いているうちに体が楽になった。
 そうか! 気象病にはモーツァルトが効くのか!

 ベートーヴェン第8番を聴くのは初めて。
 5番や7番や第9のような渾身にして畢生の大作といった感じではなく、無駄なことを考えず楽しみながら作った良品といった趣き。これを作った時のベートーヴェンの精神状態は良好だったに違いない。
 ロッシーニ風の軽さと諧謔味あるつくりに「遊び心あるなあ~」と心の内で呟いたが、時間的に言うとロッシーニ(1792年生)がベートーヴェン(1770年生)に学んだのだろう。
 3番『英雄』や6番『田園』のような主題を表すタイトルが冠されておらず、また第9のようなドラマ性(文学性)が打ち出されているわけでもない。
 その意味で純粋なる器楽曲と言っていい。
 ソルティがこの曲からイメージした絵は次のようなものである。

 子どもの頃、毎年ひな祭りになると実家では雛人形を飾った。妹がいたからである。
 雛人形の白く神妙なよそよそしい顔つきは、美しさや気品と同時に、どこか不気味さを感じさせるものであった。
「雛人形は人間が寝静まった夜になると勝手に動き出して、五人囃子の笛や太鼓に合わせて、呑んだり歌ったり踊ったりする」といった話を誰からともなく聞いた。あるいは、『おもちゃのマーチ』からの連想だったのだろうか?
 朝起きると、雛飾りを調べて夜中の宴会の証拠が残っていないか調べたものである。

 8番を聴いていたら、あたかも人間が寝静まった真夜中に、楽器店に置かれた楽器たちが、指揮者も演奏者も聴き手もいないのに、勝手に動き出して合奏を始める――みたいなイメージが湧いた。
 それぞれの楽器が得意の節を披露して自己主張しながらも、互いの主張を受け入れ、一つの楽器が作りだしたメロディーやリズムを真似したりアレンジを加えたりしながら次から次へとバトンし、次第に大きな流れを作り上げていく。そこには作曲家であるベートーヴェンの姿すらない。
 「楽器たちの、楽器たちによる、楽器たちのための祭り」である。

 あるいはそれは、宮地楽器ホールという会場ゆえに起きた錯覚であろうか?

楽器や



 
  

● ライブDVD:マリア・カラス in ハンブルク・コンサート


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収録日 1959年5月18日、1962年3月16日
会場  ハンブルク・ミュージックホール(ドイツ)
指揮  ニコラ・レッシーニョ(1959年)、ジョルジョ・プレートル(1962年)
演奏  北ドイツ放送交響楽団

 マリア・カラス(1923-1977)の舞台映像で昔から日本のファンの間で良く知られていて公式に発売されているのは、次の4つである。
  1.  1958年12月19日パリ・オペラ座ガラ・コンサート『トスカ』第2幕ほか(カラス36歳)
  2.  1959年5月18日ハンブルク・コンサート(36歳)・・・当DVD収録
  3.  1962年3月16日ハンブルク・コンサート(38歳)・・・当DVD収録
  4.  1964年2月9日(ロンドン)コヴェント・ガーデン王立歌劇場『トスカ』第2幕(40歳)
 他に、1974年10月19日にNHKホールで収録されたテノール歌手ディ・ステーファノ共演の東京公演の映像(51歳)もあるが、不世出のオペラ歌手としての名声偽りないことを証明し歴史的価値を有しているのは、上記4つの記録であると言って間違いなかろう。
 とりわけ、1と4のライブ映像ではカラスが最も得意とした演目のひとつであるプッチーニ作曲『トスカ』の第2幕が、最高のスカルピア役者であったバリトンのティト・ゴッビの名唱・名演と共に収録されており、息の合った2人の火花を散らす歌の応酬と「トスカの接吻(刺殺)」に至るまでのスリリングな一挙手一投足は固唾をのんで見守るほかない。
 58年と64年の二つのトスカの違い――カラスの声や容姿以上に変貌著しいのは役に対する解釈の違いである――も興味深いところである。

 ソルティは20代の時にマリア・カラスに夢中になって、彼女が出演しているオペラやコンサートのライブやスタジオ録音のCDを買い集め、彼女について書かれている本をずいぶん読み漁ってきた。
 が、このハンブルク・コンサートの映像は未見であった。
 当時この映像はレーザーディスクで観るほかなくて、ソフトも機器本体も高すぎて、おいそれとは手が出せなかった。二つのトスカ映像のほうはVHSで観ることができた。
 30代に入って急速にクラシック熱が冷めてしまい、未見のままになった。
 今やネットで『ハンブルク・コンサート』の中古DVDが数百円で手に入るし、一部の映像はYouTubeで無料で観ることもできる。このDVDも近所のゲオでなんと150円で手に入れた。
 こんなにオペラが身近になるとは・・・・!

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ソルティ所有のカラスCDコレクションの一部

 カラス=女神と思っていた20代の頃とは違う冷静な目で、いまこのライブ映像を視聴して思うのは、まずカラスはそれほど飛びぬけた美人ではないし、人並み以上に美しい声の持ち主でもなかった、ということ。
 ソプラノ歌手と言えば横幅たっぷりの「だいじょ~ぶ」がお決まりだった当時はともかく、映像時代の現在ではカラスより容姿の点で優れる歌手はごまんといる。モデル並みのスタイルの歌手も少なくない。
 また、カラスがそのスタイルをまねたオードリー・ヘップバーンはじめカトリーヌ・ドヌーブやエリザベス・テーラーなど、銀幕を飾る当時のスター女優たちにくらべればどうしたって容姿では敵わない。
 むしろ、アップで観ると鼻や口など個々のパーツが大きく、顔つきに険があり、美女というより烈女という感が強い。
 もっとも、『ガラスの仮面』の北島マヤのように舞台上で美しく化ける能力というものがある。カラスはまさにそれで、観客は舞台上のカラスが演じる椿姫やトスカやルチアに絶世の美女を見ていたのである。
 優雅な仕草を含め舞台映えする容姿であるのは間違いない。

 次に声であるが、これは当時から決して美しさゆえに注目を浴び絶賛された声ではなかった。
 ライバルと言われたテバルティの「天使の声」はもちろんのこと、モンセラ・カバリエ、ジューン・サザーランド、ミレッラ・フレーニ、エディタ・グルベローヴァキャスリーン・バトル、ナタリー・デッセイ等々、カラス以降に一世を風靡したどの世界的プリマ・ドンナと比べても、声自体の美しさでは後塵を拝している。
 とくに衰えが目立つようになった60年代は、全体に声が太く低くなり、高音部は金属的な響きが増して、ときに耳障りなほどである。ハンブルク・コンサートでも、59年と62年では明らかに声が違っている。(そのため62年のコンサートではメゾソプラノの楽曲がほとんどである)
 カラスの歌がカフェやデパートやプールサイドで流すような環境音楽あるいは作業用BGMに向かないのは、それが癒しや快適さや作業効率を高める類いの声ではないからである。 
 しかしこれもまた不思議なもので、その声はスタジオ録音で聴くよりオペラライブで聴く方が断然美しい。劇場空間において、美しく響く声だったのだろう。

 その声は真に個性的なものだった。
 俗に「七色の声」と言うが、ソルティの知るかぎり「七色の声」という形容にほんとうにふさわしい歌手は、マリア・カラスと美空ひばりだけなんじゃないかと思う。
 カラスは、重く強靭な本来のドラマチックな響きと、努力によって獲得した軽く滑らかに歌う技巧とを併せ持ったソプラノ・ドラマティコ・タジリタという奇跡の声の持ち主であった。フレーズごとに声を使いわけ多彩な感情を表現できる、つまり歌で芝居できるところが、まさに美空ひばりと好一対と言えよう。
 
 舞台映えする容姿、独特な声、卓抜なる技巧にもまして、カラスをカラスたらしめたのは、言うまでもなく、役に没入する力であろう。
 多くの評者によって言いつくされていることではあるが、このハンブルク・コンサートでは、これから歌うアリアの前奏を指揮者の横で目をつぶって聴いている間に、それぞれのオペラの役に次第に没入していき、いざ歌い出す瞬間には表情や姿勢や雰囲気が歌い出す前とは別人格になっている、あたかも多重人格者の人格変容の現場をとらえたかのようなカラスの姿を見ることができる。
 観客はそこに舞台上のカラスにかぶさるように、カルメンやマクベス夫人やシンデレラやロジーナや王妃エリザベッタなどオペラの諸役を見る。逆に言えば、それらの悲喜劇を生きた女性たちに憑依されたカラスを見る。
 この高い技巧に裏打ちされた役への没入ぶりは、英国の誇る国民的女優マギー・スミスに通じるものを見る。

 オペラ業界のみならず社交界や世間を騒がせた数々のスキャンダラスな振る舞いに示されたような、あれほど強烈な個性を持ちながらも、いざ舞台に立って歌うとなると「何を演ってもカラス」には決してならなかったところが凄い。
 その秘密はおそらく、カラスの中には巨大な空虚があったからではなかろうか。
 その空虚あればこそ、古代から現代までの様々な国や地域で劇的な境遇に置かれたヒロインたちが下りてきて、カラスの身体と声帯を自在に使いこなすことができたのだ。
 マリア・カラスは巫女(よりまし)のようなもの。
 あるいは、マリア・カラスというスターですら、時代によって演出され、ギリシャ系移民の子としてアメリカに生まれたマリア・アンナ・ソフィア・セシリア・カロゲロプーロス(カラスの本名)によって演じられた一個のキャラクターであったのかもしれない。

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マクベス夫人が憑依中
(1959年コンサートより)

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カルメンが憑依中
(1962年コンサートより)

 今回、はじめてハンブルク・コンサートを見て新鮮に感じたことがある。
 それは、59年のコンサートと62年のコンサートでは、カラスの表情や雰囲気や身のこなしが全然違うのだ。
 明らかに62年のカラスは幸福に輝いている。
 表情に自然な笑みがあり、雰囲気は優しく柔らかで、身のこなしはより女性的で艶っぽい。
 すなわち幸せオーラーに包まれている。
 歌唱自体は上に書いたように、59年のほうがおそらく声が保たれていて完成度が高い。役への没入も59年のほうが集中力があって深い。59年のカラスはまさに「孤高の芸術家」といった感じで、近寄りがたいものがある。
 62年のカラスは、観客にも舞台上の演奏家たちにも極めてフレンドリーで、「雌豹」というあだ名を奉られた剣呑なイメージとは程遠い。
 3年ぶりにディーバに接したオケのメンバーたちは、その変化に驚いたのではなかったろうか。
 こんな幸福なカラスがいたなんて・・・・!

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59年のカーテンコール中のカラス
優雅だが硬いところのある笑顔

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62年カーテンコールのカラス
生の輝きと希望に満ちた笑顔

 この4年間のカラスの変化の背景にあるのは、おそらく、デビュー以来のマネージャ兼夫だったメネギーニと別れて、ギリシャの海運王アリストテレス・ソクラテス・オナシス(しかし凄い名前だ)との恋に走ったことであろう。
 62年のカラスは、“女としてのよろこび”を謳歌していた真っ最中だったのである。
 
 しかるに、カラスの幸福は長続きしなかった。
 有名女性をコレクションすることに多大なる関心を抱いていたオナシスは、手に入れたカラスに飽きて、女遊び(男遊びもあったらしい)を繰り返したあげく、今度はケネディ未亡人ジャクリーンにちょっかいを出すようになる。
 カラスに冷たい仕打ちを重ねるオナシスと、もしかしたら最後になるかもしれない恋と家庭生活への希望をあきらめきれないカラス。
 その葛藤と苦しみの中で生まれたのが64年の壮絶な『トスカ』第2幕であった。
  
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64年コヴェントガーデンでトスカを演じるカラス
 
 わずか5年の間に撮られた4つのライブ映像を、カラスの恋愛事情や生活上の変化を踏まえながら視聴していくと、非常に興味深い。
 そして、生活上の幸不幸のすべてが、結局は芸術の深化に寄与せざるを得ない“選ばれし”天才のさがに思い至り、黙然とする。
 
 


● バルトリ22歳 オペラライブDVD :ロッシーニ作曲『セビリャの理髪師』


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収録年 1988年
場所  ロココ劇場(シュヴェツィンゲン、ドイツ)
指揮  ガブリエル・フェルロ
演出  ミヒャエル・ハンペ
演奏  シュトゥットガルト放送交響楽団
合唱  ケルン歌劇合唱団
キャスト
  • アルマヴィーヴァ伯爵: デイヴィッド・キュープラー(テノール)
  • バルトロ: カルロス・フェラー(バス)
  • ロジーナ: チェチーリア・バルトリ(メゾソプラノ)
  • フィガロ: ジノ・キリコ(バリトン)
  • バジーリオ: ロバート・ロイド(バス)
  • ベルタ: エディト・ケルテス・ゲブリー(ソプラノ)
演奏時間 158分

 オペラ名歌手列伝にすでに殿堂入りしている世紀の名歌手チェチーリア・バルトリ(1966- )の22歳時のライブ。
 いまだスカラ座にもメトロポリタン歌劇場にもデビューしていない駆け出しの頃の記録という点で、貴重である。
 観客もどちらかと言えば、フィガロを歌ったジノ・キリコにより多くの拍手を送っている感じがする。後年、これほどの大歌手になるとはさすがに想像できなかったろう。

 とは言え、一回りも二回りも年上の先輩歌手たちをしのいで圧倒的な技巧とベルカントぶりを発揮しているのは、明らかにバルトリである。
 コロラトゥーラに荒削りなところもあり後年の流れるような滑らかさは欠けるけれど、「20代初めでここまで完成していたのか!」と驚かざるを得ない。
 声は美しいし演技も適確、なにより観客に対するアピール力と視線を集めてしまうオーラーは、すでに十分なプリマドンナの貫禄。
 この舞台の成功はひとえにバルトリの歌唱に拠っている。
 栴檀は双葉より芳し。

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ロジーナの有名なアリア『今の歌声は』を歌うバルトリ

 『セビリャの理髪師』の映像は、ジョイス・ディドナートがロジーナを歌った2002年パリ・オペラ座ライブもある。
 こちらはロジーナはじめフィガロ、アルマヴィーヴァ伯爵、バルトロの主要キャラ4人の歌手が高レベルで拮抗して、聴きどころ満載だった。
 ベルタ役のジャネット・フィッシャーの元気溌剌な演技も良かった。
 パトリス・シェローの演出も楽しかった。
 総合的なレベルではパリ・オペラ座版に軍配を上げたい気がする。

 いずれにせよ、ロッシーニの音楽には人を中毒にさせる魔力がある。
 遊園地で一番人気のアトラクションの秘密は、「スピード・回転・浮遊感」の3つを備えていることにあると言われるが、ロッシーニの音楽はまさにそれなのだ。
 観客は劇場に居ながらにして、ジェットコースターに乗っている感覚を味わうことになる。





● 310円、310円・・・ オペラDVD:ビゼー作曲『カルメン』


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収録年 1987年2月
会場  メトロポリタン歌劇場(ニューヨーク)
管弦楽&合唱 同劇場管弦楽団&合唱団
指揮  ジェイムズ・レヴァイン
演出  ポール・ミルズ
キャスト
 カルメン: アグネス・バルツァ(メゾソプラノ)
 ドン・ホセ: ホセ・カレーラス(テノール)
 エスカミーリョ: サミュエル・レイミー(バリトン)
 ミカエラ: レオーナ・ミッチェル(ソプラノ)

 80年代後半に一世を風靡したバルツァ&カレーラスの黄金コンビによる『カルメン』。
 1986年にKDD(現:KDDI)のCMで俳優の斎藤晴彦(2014年没)が「310円、310円・・・」といった宣伝文句を早口で歌ったのを覚えている人も少なくないと思う。あの替え歌の原曲が『カルメン』序曲であった。
 あのCMで斎藤晴彦は大ブレイクを果たしたが、背景にはバブル到来を象徴するようなオペラブーム、そして『カルメン』ブームがあった。
 ソルティは「バブル」と言うと、この狂騒的でありながら破滅の予感を孕んでいるカルメン序曲が浮かんでくる。

 このコンビの成功は、バルツァとカレーラスがこれ以上にないハマリ役だったことが大きい。
 ギリシア生まれのバルツァの激しそうな性格(ほんとはどうか知らないが)と人目を引く個性的な顔立ちと鋭角的な声の表現、スペイン生まれのカレーラスの純朴で生真面目なイケメンぶりと熱情たっぷりの歌声。
 魔性の女カルメンと彼女に玩ばれる元兵士ドン・ホセにそれぞれぴったりであった。(カレーラスときたら名前まで役と同じである)
 もちろん、2人の歌唱と演技もすばらしく、ふられた男がふった女を激情に駆られて刺し殺すという三面記事にありがちな陳腐な色恋沙汰を、ギリシア悲劇かシェークスピア劇のような深みある運命劇にまで押し上げている。
 2人の相性の良さも抜群である。

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アグネス・バルツァとホセ・カレーラス

 ドン・ホセ役は、カレーラスの親友でありライバルでもあったプラシド・ドミンゴも得意としていた。
 1978年ウィーン国立歌劇場のカルロス・クライバー指揮『カルメン』のライブDVDで、ドミンゴはエレーナ・オブラスツォワ相手にドン・ホセを歌っていて、これが相当に凄い。
 ドミンゴはホセになりきっていて、舞台上のカルメンであるオブラスツォワが本気でドミンゴを恐がっているかのように見える。
 ドミンゴは1984年公開の映画『カルメン』(フランチェスコ・ロージ監督)でも、ジュリオ・ミゲネス・ジョンソン相手にドン・ホセを演じているが、これもまたカッコよく素晴らしかった。
 個人的には、都会的な洗練と母性本能をくすぐる甘さを持つカレーラスのドン・ホセより、真面目と執着が表裏一体のストーカー気質を匂わすドミンゴのドン・ホセのほうが、リアリティにおいて勝っているのではないかという気がする。
 ただ、ドミンゴとバルツァが組んで成功するかと言えば、たぶん難しかっただろう。
 2人の個性が強すぎて、互いに食い合ってしまい、芝居そっちのけで主役の奪い合いに転じそうだ。
 最後はほんとうに舞台上でドミンゴがバルツァを刺しかねない。
 あるいは逆か(笑)

 エスカミーリョ役のサミュエル・レイミー、ミカエラ役のレオーナ・ミッチェルも、堂々たる歌いっぷりで、総客席4000というメトロポリタン歌劇場の大向こうをうならせるに十分な美声と声量である。
 エスカミーリョは、色男で闘牛士で子供たちのヒーローで女にモテモテの上に、『闘牛士の歌』という世にも名高いアリアを与えられている。
 すべてのオペラのバリトン役の中で最も得な役回りと言える。
 篠沢紀信か葉加瀬太郎のようなヘアスタイルのジェイムズ・レヴァインも若々しく、力が漲っていて、迫力あるしかしきめ細かい演奏を紡ぎ出している。
 
 『カルメン』ライブ記録の決定版という位置づけを今も失っていない名盤である。

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左から、カレーラス、レヴァイン、バルツァ、レイミー






● アプリーレ・ミッロの時代 オペラDVD:ヴェルディ作曲『仮面舞踏会』


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収録年 1991年1月
会場  メトロポリタン歌劇場(ニューヨーク)
管弦楽&合唱 同劇場管弦楽団&合唱団
指揮  ジェイムズ・レヴァイン
演出  ピエロ・ファッジョーニ
キャスト
 グスタフ3世 :ルチアーノ・パヴァロッティ(テノール)
 レナート :レオ・ヌッチ(バリトン)
 アメリア :アプリーレ・ミッロ(ソプラノ)
 ウルリカ :フローレンス・クイヴァー(メゾソプラノ)
 オスカル :ハロライン・ブラックウェル(ソプラノ)

 ヴェルディ中期の傑作。
 スウェーデンの啓蒙絶対君主であったグスタフ3世(1746-1792)の暗殺という史実に材を取っている。

 国力増強に努めるとともに社会福祉に力を入れ国民の人気を集めたグスタフ3世は、一部貴族から反感を持たれていた。ある晩ストックホルムのオペラ座で開催された仮面舞踏会の最中、背後から拳銃で撃たれ、それがもとで命を落とした。犯人として捕まったのは、ヤコブ・ヨハン・アンカーストレム伯爵であった。

 本作は、この史実をもとにしながら、グスタフ3世と忠実な部下であり親友でもあるレナート(アンカーストレム伯爵がモデル)、そしてレナートの妻アメリアの三角関係を創作し、暗殺の動機を政治的なものから痴情的なものに転換している。
 すなわち、グスタフとアメリアの関係を誤解したレナートが、華やかなる仮面舞踏会の会場でグスタフを刺し殺すという恋愛悲劇である。
 レナートは、妻として自分を裏切ったアメリアより、友として自分を裏切ったグスタフのほうが許せなかったのだ。
 その直前にグスタフは身分を隠して女占い師ウルリカのところに行き、将来を占ってもらう。
 ウルリカは言う。「おまえは身近な人間の手で殺される」
 この予言が実現してしまったわけで、いかにも大時代的なベタな設定だなと思うが、なんとこれもまた史実で、ウルリカは実在の占い師で暗殺予言も実話らしい。

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 全体にヴェルディらしいドラマチックで重厚な曲調で、アリアや重唱や合唱の出来も良い。
 中だるみのない緊密な音楽構成は、中期の傑作として上げられるのももっとも。

 運命のいたずらで、レナートはグスタフとアメリアが深夜二人きりで会っている現場を目撃してしまう。二人の間に肉体関係はなかったのだが(身も蓋もない言い方でスミマセン)、レナートはてっきり自分がコキュされたと思い込む。
 しかもバツの悪いことに、現場にはグスタフの命を狙う貴族たち一味も潜んでいて、一部始終を見られてしまう。
 この衝撃のシーンにおいて、ヴェルディは、貴族たちの「ハハハ」というレナートへの嘲り笑いを歌にした軽妙な音楽を入れる。 
 もっとも悲劇的なシーンに、もっとも喜劇的な音楽をぶつけて、ドラマをさらに盛り立てるヴェルディの天才性には唸らされるばかり。

 世界のメトである。
 オケや合唱はむろん、出演歌手たちも当時の最高峰を集めて、間然するところがない。
 パヴァロッティは声の素晴らしさは言うまでもないが、王様の衣装が実に良く似合って、あの髭面がイケメンに見える。
 レオ・ヌッチの形式感ある立派な歌唱、抑えた演技は好ましい。
 オスカル役のハロライン・ブラックウェルの明るいコロラトゥーラソプラノと軽快な動きは、暗く陰惨な作品の雰囲気を緩和してくれる。
 そして、アメリア役のアプリーレ・ミッロであるが・・・・

 ソルティが人生ではじめて観たオペラのライブは、1988年メト来日公演の『イル・トロヴァトーレ』(NHKホール)であった。
 このときの指揮者はジュリアス・ルデール。
 予定されていたキャストは以下のとおりだった。
  • レオノーラ:アプリーレ・ミッロ
  • ルーナ伯爵:シェリル・ミルンズ
  • マンリーコ:フランコ・ボニゾッリ
  • アズチェーナ:フィオレンツァ・コソット
 オペラ好きならもうお分かりだろうが、オペラ史に残る名演フィオレンツァ・コソットのアズチェーナが聴きたかった・観たかったのである。
 しかし、理由は忘れたが、直前にコソットが来られなくなって、急遽代役が立てられた。
 ソ連(!)から駆けつけた名歌手エレナ・オブラスツォワがアズチェーナを歌った。
 安くないチケットを買い、字幕を見ないで済むようリブレット(台本)を読みこなし、CDで聴きどころを繰り返し聴き、準備万端整えていたのに、一番の目的が果たされずがっかり・・・・ではあったが、さすが世界のメト、やっぱり素晴らしい舞台だった。
 コソットの不在という大きな穴を埋めてくれた一番の功労者は、しかし、エレナ・オブラスツォワではなかった。
 メトの有望新人ソプラノとして赤丸急上昇のアプリーレ・ミッロだった。
 当時まだ20代だったのではなかろうか。
 よく通る豊麗な声と深い響きが合わさった、まさにヴェルディのヒロインにぴったりの声だった。
 とりわけ第4幕第1場のレオノーラのアリア『恋は薔薇色の翼に乗りて』は絶品で、彼女の歌声によって、昭和バブル期のNHKホールから、月の輝く中世ヨーロッパの古城にタイムスリップしたかのような感覚を抱かされた。
 あの世の主役はミッロだったと思う。

 ソルティの素人判断はともかくとして、ミッロは非常に期待されたソプラノだった。
 もちろんすでにメトのプリマには到達していたのだが、それ以上の存在になる、オペラ黄金時代(1950年代)のテバルティやカラスの域まで行くのではないか、とさえ言われていた。
 本ライブでも、大先輩であるパヴァロッティやレオ・ヌッチにまったく引けを取らない堂々たる歌唱で、ヴェルディの音楽に内包するドラマ性と抒情性を見事に表現しきっている。
 声のコントロールも巧みである。
 これで20代とは!
 たしかに末恐ろしい。

 その後、ソルティがミッロの歌声を生で聴く機会を持ったのは、1992年1月ローマ・オペラ座だった。
 イタリア旅行中のローマでミッロのリサイタルがあると知り、当日券を買った。
 久しぶりに聴くミッロは調子悪そうで、声がよく出ていなかった。
 ライブの途中で、彼女自身が客席に向かって、「今日は風邪をひいて声の調子が良くありません」と弁明しなければならないほどだった。
 その後、ミッロの名前を聴く機会は急速に減った。
 どうも80~90年代初頭がピークだったようだ。
 喉を壊したのだろうか?
 それとも、キャスリーン・バトルに虐められた?

ローマオペラ座
ローマ・オペラ座
 
 本DVDは、デアゴスティーニ発売「DVDオペラコレクション」(2009年創刊)の一枚で、ブックオフで500円で購入した。
 世界的歌手が出演する伝説のオペラライブを収録したLD(レーザーディスク)が1万円以上して、それを観るためのLDプレイヤーが10万円以上した時代を知る者にとって、こうしてワンコインで画質も音響も良い映像ソフトを手に入れられて、自宅の低価格DVDプレイヤーで気軽に視聴できるのは奇跡のようである。







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