ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●ライブ(音楽・芝居・落語など)

● ウクライナ国立歌劇場管弦楽団・合唱団『第九&運命』

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日時: 2025年12月29日(月)13:30~
会場: 東京オペラシティ コンサートホール
ソリスト:
 ソプラノ   テチアナ・ガニナ
 メゾソプラノ アンジェリーナ・シ ヴィチカ
 テノール   ドミトロ・クジミン
 バス     セルゲイ・マゲラ
指揮: ミコラ・ジャジューラ

 ベートーヴェンの「運命」と「第九」のカップリングという贅沢きわまりないプログラムで、今年の音楽シーンを締めくくった。
 しかも、1834年の誕生から2世紀近い歴史と伝統を誇るウクライナの名門オケ&合唱団で。
 チャイコフスキー、リムスキー=コルサコフ、ラフマニノフ、グラズノフ、ショスタコーヴィチなども、このオケを指揮したという。
 むろん、1922~91年までの約70年間は、ウクライナはソビエト連邦の一部であった。

 2022年2月のロシアのウクライナ侵攻によって始まった戦争もなかなか終結が見えないが、その間、たびたびこのオケは来日し、各地で演奏を重ねている。
 今回もウクライナ国立バレエ団の『ドン・キホーテ』『雪の女王』『ジゼル』を演奏したほか、1月にはオペラ『アイーダ』『トゥーランドット』上演を予定している。
 ソルティは初めて聴いた。

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 会場の東京オペラシティも初めてであった。
 ソルティはアマオケを中心にクラシックを聴いているのだが、アマオケは滅多にここを使わないからである。
 会場費が高いせい?
 たしかに立派で美しいフォルムである。 
 ただ、アクセス(新宿)やホールの音響効果はいいのかもしれないが、客席の設計はとても褒められたもんじゃない。
 ソルティは、ホール後ろ寄りの3階バルコニーの最前列に座ったが、ここからだと舞台が半分しか見えなかった。
 もっと舞台寄りの席だと、舞台の2/3は隠れてしまうんじゃないか?
 管弦楽はまだしも、オペラなどまったく楽しめたもんじゃない。
 高い料金に見合わない。

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 さらに酷いのは、座席と手すりとの間のスペースが狭い上に、手すりの高さが腰位置くらいなので、身を乗り出すと1階席に転落する危険がある。
 開演前に先に座っている人の前を通って自分の席に着こうとする人は、手すりから上半身を外に傾けるようにして移動しなければならず、子どもやお年寄りなどの場合、はたで観ていても非常に怖い。
 手にしているバッグやスマホを落として、1階席に座っている人の頭に当たったら、大ケガする危険がある。
 しかも、手すりの下部を成す木の台座が水平ではなく、外側(座席と反対側)に向って傾斜している。滑り台そのものである。
 スマホを落としたら、そのまま台座を滑って、1階席に落ちて行くのは間違いない。
 なんてアホな設計をしたのだろう!
 もし、子どもが3階席から転落したり、落としたスマホが1階席の人に当たって大ケガした場合、オペラシティは訴えられても文句言えないと思う。(アメリカなら相当な賠償金を課せられるだろう)
 山登りが趣味のソルティは、これまで数百の山に登って危険な崖道に数多く出会ってきたが、ここはそれらに匹敵する危険地帯である。
 観客のことを全然考えていない人が設計したとしか思えない。
 JR京都駅を思い出してしまった。

 ホールの管理者もそのことを悟ったらしく、台座に注意書きが貼ってあった。
 また、演奏の始まる前に複数の女性スタッフが客席を回って、手に持ったパネルを示しながら、「手すりから身を乗り出さないでください」と注意喚起していた。
 アホな設計のせいで無駄な仕事を増やしたのである。

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3階バルコニー席の最前列 
1階客席に向かって台座が傾斜している

 そんなこんなで、演奏が始まる前から苛立たしさを覚えたが、ひとたび演奏が始まるやいなや、苛立ちなど吹っ飛んでしまった。
 やっぱりプロは凄い。
 やっぱり本場の音は深い。
 技術が高いのは当然と言えば当然だが、なにより一つ一つの音がすっきりして美しい。
 指揮者の求める音色、自分の出したい音色を自在に出せるのは、楽器を完璧に操ることができればこそ。
 CDでも聴いているような完成度と安定性であるが、それでいて機械的でなく、人間的な情感に満ちている。

 んん~、プロだからというよりも、苦難と向き合う者だから出せる音なのかもしれない。
 日本のプロオケの優等生的で洗練された響きとは違う。
 たぶん、苦難を知る者だけがベートーヴェンと出会うことができるのだろう。
 優等生的で洗練されたベートーヴェンが平和の証拠なのであれば、それはそれで祝福すべきことなのかもしれない。

 『第九』第4楽章のソリストと合唱も、日本人の歌い手では聞けないたぐいだった。
 なんと言っても、声量。
 3階後方までしっかり届く各ソリストの朗々たる声と力強さ。
 それぞれのメロディラインがくっきりと際立って、ソプラノ・メゾソプラノ・テノール・バスの掛け合い漫才のような四重唱の面白さが、はじめて了解できた。

 合唱団は総勢で50名ほどか。
 ステージに登場し並んだときは、「こんな少なくて大丈夫?」と思ったのだが、まったく杞憂であった。
 日本人100名集めたくらいの迫力があった。
 オケに負けていない。
 男性陣は20名(テノール、バス各10名)ばかりであったが、女性陣にまったく負けず、しっかりと存在感を示した。
 いつもは四声が入り乱れてごった煮のように聞こえる第4楽章中間部の二重フーガの部分も、各パートのメロディが明瞭に聴こえたので、曲の構造が把握できて愉快であった。
 やっぱり、ガタイの違いは大きいなあ。

 途中からはもう、オケやソリストや合唱団や指揮者の凄さより、ベートーヴェンの偉大さに驚嘆し、楽聖への感謝しか頭にのぼらなかった。

 人間は、こんな奇跡のように美しい音楽が作れるほど進化しているのに、なぜ互いに戦うのだろう?

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P.S. 東京オペラシティの公式ホームページによると、2026年1月1日~6月30日まで、コンサートホール他は設備改修のため休館するとの由。改善されることを願う。







 

 

● キラキラネームとシベリウス : 東京学芸大学管弦楽団 第60回定期演奏会

学芸大60回演奏会

日時: 2025年12月20日(土)16時~
会場: さいたま市文化センター大ホール
曲目:
  • A. ドヴォルザーク: 序曲「謝肉祭」 作品92
  • P. チャイコフスキー: イタリア奇想曲 作品45
  • J. シベリウス: 交響曲第2番 ニ長調 作品43
  • アンコール シベリウス: 組曲『カレリア』より「行進曲風に」
指揮: 苫米地 英一

 埼玉会館と勘違いして浦和駅まで行ってしまった('A`|||)
 さいたま市文化センターは南浦和駅西口から徒歩8分のところにある。
 南浦和にこんな立派な施設があったとは!
 35年以上埼玉県民やっているのに知らなかった。

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さいたま市文化センター
市立南浦和図書館を併設している

 苫米地英一の指揮は、ベートーヴェンを専門とするL.v.B.室内管弦楽団との共演を過去に聴いている。
 熟練のオケによる安定度の高い素晴らしい演奏であった。
 学生オケとの共演はどうであろうか?

 前プロの2曲は、非日常的なお祭り(カーニヴァル)がテーマであったり、イタリア旅行に触発されたチャイコが作った異国情緒あふれるカプリッチョ(気まぐれ)であったり、いわゆる“ノリのいい”曲。
 若くエネルギッシュな学生たちに向いている。
 教員養成校として知られる学芸大学の生徒ゆえか、総じて真面目で教科書的な演奏であったが、そこに若いエネルギーとフレッシュネスが加わり、バランスよい音楽となった。
 休憩中にプログラムを開いて、唖然とした。
 オケのメンバーたちの名前のあまりのキラキラしさに。

愛萌、叶望、咲季、颯世、唯花、愛菜、咲綾香、美音、日、実都葉、
綺花、夕姫、陽日樹、海央、華衣、芽瑠萌、桃花、美空、彩愛、
心音、藍菜、麻飛、帆乃花、理桜、花音、貴城、柚穂・・・・。

 よ、読めない (; ̄Д ̄)
 なんか凄いことになっている。
 彼らの親御さんたちは、大体70~80年代生まれだろう。
 キラキラネームは90年代半ば頃から増えたと言われるが、まさに第1世代が社会人デビューを迎えているのだ。
 大切な子供に美しい名前をつけたいという親心は理解できるものの、学校の先生は苦労しているだろうなあ~。
 ――と思ったら、彼らこそが先生になる可能性大の人たちであった。

 ちょっと前に、ソルティは仕事で地域の小学校に認知症の話をしに行った。
 生徒たちの机の上には、各人の名前が書かれた三角ネームプレートが貼り付けてあった。
 漢字の上に(あるいは英語やタガログ語の上に)大きくふりがなが振ってあった。
 そういう時代なんだな。

世界の子供

 さて、後半のシベリウス第2番。
 やはり、実直な演奏で、大きな乱れはない。
 シベリウスの代表曲と言われるほどの名曲なので、あやまたず感動をくれる。
 最終楽章ではソルティの胸のチャクラに矢が突き刺さった。

 死の淵をさまようような重苦しい第2楽章から、苦しみと哀しみを避けられない運命の受容といったふうの第3楽章を経て、生々流転・自然法爾の第4楽章。
 ソルティはこの曲に東洋的・道教的なエッセンスを聴く。
 なので、この曲を指揮し演奏するには、やっぱり人生経験がものを言うと思うのである。

 キラキラネームを持つ若者たちが、いつかこの曲の真価を悟り、自らの人生や心と呼応させながら演奏できる日が来るのだろうか?
 苦しみや悲しみを知らないまま、いつまでも子供のように無邪気に罪なく美しく生きてほしいと親は願うものだが、それが子供にとって必ずしも幸福であるとは限らないのである。
 









● 本:『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』(トム・ストッパード著)

1966年初演(エジンバラ)
1969年日本初演
2017年ハヤカワ演劇文庫

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 イーサン・ホーク主演『ハムレット』を観たら、この戯曲が読みたくなった。
 作者自身の手で1990年に映画化されたものは、前に観ている。
 ローゼンクランツをゲイリー・オールドマンが、ギルデンスターンをティム・ロスが演じていた。

 この戯曲の成功はひとえにその独創的なアイデアにある。
 タイトルの『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』は、この2人が端役で登場するシェークスピア作『ハムレット』の最終場面のセリフそのまま。
 もともと端役であるローゼンクランツとギルデンスターンを主役に持ってきて、主要人物であるハムレットやオフィーリアやクローディアスが脇に回る。
 一方、ストーリーや設定や上記主要人物たちのセリフは原作と変わらないので、ローゼンクランツとギルデンスターンは『ハムレット』内で与えられている出番において決められたセリフを言うとき以外は、自分たちが何をしていいのか分からない。
 それどころか、自分たちがどこで生まれ、どういう過去を持ち、何の仕事をしているのか、何が目的で生きているのか、どこに住んでいるのか、も分からない。
 ただ、かつてハムレットの御学友であったことと、王の命令は絶対であることのみ、分かっている。
 作者シェークスピアから与えられている2人の情報はそれだけ。
 台本によってすべてが縛られているからである。 

 ある朝、2人は伝令によって叩き起こされ、クローディアス王の命令によりデンマークに呼び戻される。城に上がると、ハムレット王子が思い悩んでいる理由をそれとなく探るよう王に命じられる。
 その務めを果たさないうちに、ハムレットは「生きるべきか死ぬべきか」のご乱心。危機を感じたクローディアスは、暗殺を企図し、ハムレットをイングランドに送る。ローゼンクランツとギルデンスターンは王に命じられるまま、監視役としてハムレットに同行する。
 王の魂胆を見抜いたハムレットは、裏をかき、旅の途中でデンマークにとんぼ返り。残された2人はそのままイングランドに向かい、クローディアスからの親書をイングランド王に届け、ハムレットの代わりに暗殺されてしまう。

 要は、脇役という存在が、いかに作者に軽く扱われ、十分な人物背景が与えられず、都合の良い駒として動かされているかということを、「主・脇」を逆転することによって明らかにしているわけだ。
 それがあたかも、自らのアイデンティティを疑う不条理劇の主人公のように見えるのが面白い。
 なぜこの世に生まれてきたのか、ここで何をすればいいのか、自分は何がしたいのか、答えが出ないままに予告もなく世を去っていかなければならない我々(舞台の観客)の姿を振り返らせるのである。
 
 もっとも、この戯曲の成功によって、ローゼンクランツとギルデンスターンは、生みの親であるシェークスピアが到底予測もつかなかったくらい有名になってしまった。
 ハムレットやクローディアスのような英雄的な死が与えられず、虫けらのように意味なく殺される2人は、ある意味、カフカの小説の主人公のようで、現代の民主主義的感覚で見れば、ハムレット以上の悲劇存在である。
 しかも、その生を、何千回も、何万回も、繰り返さなければならない。
 世界のどこかで、『ハムレット』が上演される限り。 
 輪廻転生の比喩のようだ。

 今日もどこかで、ローゼンクランツとギルデンスターンは蘇っては死んでいる。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 復活の日 : オーケストラ・ラム・スール 第11回演奏会

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日時: 2025年11月3日(月)13:30~
会場: すみだトリフォニーホール大ホール
曲目: 
  • 平林遼: 神秘の存在証明 世界初演
  • マーラー: 交響曲第2番「復活」
  ソプラノ: 隠岐 彩夏
  メゾソプラノ: 藤田 彩歌
指揮: 平林 遼
合唱: コール・ラム・スール

 本年2度目の復活。
 平林遼という指揮者もラム・スールもはじめて。
 なかなか個性的かつ独創性ある指揮者のようで、気に入った。

 まず、舞台に登場してすぐ「オッ!」と注目を集めたのが、その衣装。
 タキシードではない!
 黒地に紫を基調としたカラフルな模様が編みこまれた、『銀河鉄道999』に出てくるプロメシューム(メーテルの母親)を思わせるような、お洒落なドレスシャツを着ている。
 そうよ、指揮者はタキシードを着るものと法律で決まっているわけではない。
 どんどん自分の好きなものを着て、気持ちをアゲアゲにして、いい音楽を作ってくれればそれに越したことはない。
 素晴らしい。

 次に、前プロに自ら作曲した世界初演のオリジナル曲(8分)を持ってきた。
 これが東洋風かつマーラーチック、しかも合唱付きで、場内の空気を一気に『復活』臨戦モードに変えていく。
 「ちょうど、いい曲を前プロに持ってきたもんだなあ」と感心したが、あとからプログラムを読んだら、なんとこの日のために即興的に書いたという。
 『復活』の前に置くのにふさわしい短めの曲がなかったから、という動機らしい。
 「大がかりな儀式のような『復活』を演奏するにあたり、場を浄化する露払い的な曲」と本人が記している。
 やるねえ~。
 しかも、前プロのあとに休憩は入れず、曲の切れ目がそれと分からないままに、『復活』第1楽章に突入。
 「前プロ、たしか8分のはずなのに妙に長いなあ~」と思って、途中でそれと気づき、トイレに行く機会を失った観客も少なくなかったと思う(笑)。
 いや、さすがに7度目の復活という最強ゾンビのソルティは、ちゃんとわかりましたとも。
 会場は7割くらいの入り。盛況であった。

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 率直に言って、これまで7回聴いた『復活』の中では、2019年に杉並公会堂で聴いた金山隆夫&カラー・フィルハーモニック・オーケストラと並ぶベストであった。
 全般に迫力と熱意があふれていた。
 第4楽章のオール・フォルティシモの爆風たるや、巨大なトリフォニーホールが木っ端みじんになるんじゃないかと思うほどだった。
 一つ一つの音が明確で、メリハリが効いていた。
 第1楽章がとくに緩急・強弱・硬軟自在で、扉が開けば別の世界、別の景色が目の前に広がる、遊園地のようなマーラーの音楽世界を見事に現出していた。
 合唱もあたたかみがあって良かった。
 人類は、他人からあたたかい声をかけられることで、ホモ・エレクトスからホモ・サピエンスに進化したのでは?――なんて妄想するほど、どんな腕の立つ演奏家がどんなに頑張っても、楽器では得られない人の声のもつ特質を思った。
 平林はこの曲について、マーラーが「魂の永遠の不滅性=輪廻転生」を表現したものと解釈したようだが(それゆえに東洋タッチで開始したのだろう)、そこのところはソルティはよく分からない。
 マーラーは、生まれ変わってこの世に戻りたかったのかな?
 また、最愛のアルマと出会いたかったのかな?

 素晴らしい演奏に出会った時にソルティに起こる現象として、例によって、身体中のチャクラがビクンと反応し、客席で何度もケイレンした。
 そのたびに“気”が湯気のように湧き上がった。
 しかるに――最近薄々感じていたのだが――これはソルティに憑依していた浮遊霊が浄化されている、すなわち音楽による除霊ってことなのかもしれない。
 鑑賞後に肩こりが楽になったのはそのためかも。
 

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終了後、錦糸町駅横の「てんや」で遅い昼食
いい音楽の後の飯は格別!




















 

 

● あの鐘を鳴らすのは誰? : クラースヌイ・フィルハーモニー管弦楽団 第7回定期演奏会

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日時: 2025年10月19日(日)14:00~
会場: 和光市民文化センターサンアゼリア 大ホール
曲目:
  • チャイコフスキー: 序曲『1812年』
  • ヤナーチェク: 『シンフォニエッタ』
  • ハチャトゥリアン: 交響曲第2番『鐘』
指揮: 山上 紘生

 家を出るのが遅れて、2曲目から会場入り。
 ヤナーチェク(1854-1928)ははじめて知った。
 ドヴォルザークと同じチェコの作曲家で、13歳年下である。
 曲の冒頭から、金管楽器と打楽器チームによる勇ましいファンファーレ。
 度肝を抜かれた。

 クラースヌイ・フィルは100名を超える大所帯。
 迫力がすごかった。
 思えば、ソルティがショスタコーヴィチの真価に目覚め、指揮者山上紘生の才能を知ったのは、クラースヌイとの出会いのお陰であった。 
 山上による指導はこれが最後だという。 
 感謝!

 ハチャトゥリアンについては、『剣の舞』と『仮面舞踏会』しか知らない。
 〈1903-1978〉というその人生は、同じソビエトの作曲家ショスタコーヴィチ〈1906-1975〉とほぼ重なる。
 であれば、独裁者スターリンの恐怖政治と粛清の嵐を経験しているはずである。
 ショスタコーヴィチが共産党からの批判を恐れて、自らの個性と才能を犠牲にして、党=スターリンの求める「社会主義リアリズム」の曲を作らざるをえなかったのと同様に、ハチャトゥリアンも葛藤に苦しんだのだろうか。
 そこが聴きどころである。

 交響曲第2番『鐘』がつくられたのは1943年。
 ソ連はナチスドイツとの戦い、いわゆる「大祖国戦争」の真っ只中で、1941年発表のショスタコーヴィチ交響曲第7番で知られる「レニングラード包囲戦」が続いていた。
 多くの芸術家は、好むと好まざると、戦意高揚に役立つ作品をつくることが求められた。敵の非道や残虐を訴え、国民の士気を高め、亡くなった者を追悼し、戦場の兵士を力づけ、最終的な勝利に寄与する作品である。
 それは、アジア・太平洋戦争中の日本も同じことで、木下惠介監督は『陸軍』を撮らされたし、火野葦平は『麦と兵隊』『土と兵隊』を書いた。
 国家総動員とはそのようなものである。
 ハチャトゥリアンもまた、前線の兵士を慰問し、ラジオ放送のための音楽や愛国的な行進曲を多く作曲したという。 
 この交響曲のテーマは、まさに戦争なのである。

宇宙人襲来

 第1楽章は、郷愁をそそる民族的なタッチのもの哀しい主旋律に、聴く者を落ち着かなくさせる不穏な動機がからむ。平和な街に軍靴の響きが近づいて来る。
 敵の攻撃をもって戦いの火ぶたが切られる。
 日常生活は断ち切られ、世界は一変する。

 第2楽章は、戦場そのもの。
 凄まじい爆撃と破壊、恐怖と混乱、大量の死と絶望。

 第3楽章は、レクイエム。
 葬送行進曲が流れ、死者を追悼する人々の嘆きは頂点に達す。
 敵への怒りと深い悲しみ、相反する感情に引裂かれた心は崩壊寸前。
 喪失感は尋常でない。

 第4楽章、人々は再び立ち上がる。
 いつまでも悲しみに浸ってはいられない。国を守るために、愛する家族を守るために、最後の闘いに挑まなければならない。
 やがて、黒雲に蔽われた空から光が差し込み、勝利の兆しが見えてくる。
 やはり、正義は勝つ。
 スターリンと共産党は常に正しい。
 鐘を打ち鳴らして、祖国の勝利を讃えよう!

 構成的には、ショスタコーヴィチの『レニングラード』とよく似ている。
 社会主義リアリズムの枠組みでは、そうならざるを得ないのだろう。
 ただ、ショスタコの第7番が、ナチスドイツの恐怖とそれとの戦いおよび最終的勝利を描いたのみならず、その裏に、スターリンと共産党への批判を隠し入れたと解されるようには、ハチャトゥリアンの『鐘』は政治的隠喩を含んでいないように思われる。
 警告的な響きを伴ったショスタコの第4楽章の凱歌にくらべると、勝利の喜びがストレートに打ち出されているように感じた。
 ハチャトゥリアンは、ショスタコより“体制より(保守的)”だったのかもしれない。

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和光市文化センター・サンアゼリア

 なんだか、時代はどんどんショスタコーヴィチ・モードになっている。
 世界的にナショナリズムが高揚し、欧米でも日本でも排外主義が激化し、保守の台頭が顕著である。
 自国ファーストの掛け声かまびすしい中、強大な権力を持つ独裁者の登場が待望され、歓迎されているように見える。
 人類が数万年の血みどろの試行錯誤の末にやっと手に入れた民主主義と人権が、いまや風前の灯。
 トランプもネタニヤフもルカシェンコも、習近平も金正恩もプーチンも、スターリンの子供たちって点で、右も左も関係なく共通している。
 実際、今のアメリカの状況には、目を覆うばかり。
 これが、自由と希望の国、アメリカなのか! 
 このままだと、自由の女神が倒壊し、砂の中に埋もれるのも時間の問題だ。
 日本も危ない。

猿の惑星







● ラテンの熱き血潮 オペラライブ:『カヴァレリア・ルスティカーナ』&『道化師』

道化師オペラ

日時 2025年9月28日(日)14:00~
会場 朝霞市民会館ゆめぱれす・大ホール(埼玉県)
主催 PASSION事務局
オケ 朝霞フィルハーモニックオーケストラ
合唱 コーラス・リリカ
演出 舘 亜里沙
指揮 高山 美佳

 朝霞市民会館に行くのははじめて。
 東武東上線・朝霞駅から歩いて15分のところにある。
 この駅で降りたのは数十年ぶりだが、駅前がずいぶんと垢抜けていた。

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東武東上線・朝霞駅 

 19世紀末にイタリアで生まれた『カヴァレリア・ルスティカーナ』と『道化師』は、いわゆるヴェリズモ・オペラの代表作として知られる。
 ヴェリズモ(verismo)とは「現実主義」の意で、それまでのロマンチックで華やかなオペラ、あるいは歴史上の人物や事件を描いた英雄的なオペラとは一線を画し、イタリア南部の貧しい庶民のややもすれば悲惨な日常生活をありのままに描くところに特徴がある。
 わかりやすく言えば、三面記事に扱われる類いの、痴情のもつれが起こした血なまぐさい悲劇である。
 どちらの作品も1時間強という短い上演時間なので、2つ合わせて舞台に乗せられることが多い。
 ソルティは、どちらもライブ鑑賞はこれが初であった。

 主催のPASSION事務局は、吉見佳晃(よしてる)というテノール歌手が2000年に立ち上げたクラシックのコンサート企画事務所。
 これまでに『椿姫』、『トスカ』、『魔笛』、『蝶々夫人』などの人気オペラや多数のコンサートを企画・開催している。
 「ゆめぱれす」が会場となる機会が多いのは、事務局が朝霞市にある関係からのようだ。

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朝霞市民会館ゆめぱれす
このデザイン、なんだろねえ

ピエトロ・マスカニーニ作曲『カヴァレリア・ルスティカーナ』

キャスト
  • サントゥッツァ: 松平 幸(メゾソプラノ)
  • トゥリッド: 堀越 俊成(テノール)
  • アルフィオ: 岡 昭宏(バリトン)
  • ローラ: 木田 悠子(メゾソプラノ)
  • ルチア: 筒井 絢子(アルト)
 南イタリアのシチリアが舞台。
 シチリアと言えばソルティは、30数年前にイタリア旅行したときにバスで通ったレモン畑を思い出す。
 旅の疲れがたまって座席でぐったり眠っていたところに、少し開いた窓からレモンの香りがふわっと入ってきて、驚いて目が覚めた。
 作品中最も有名な一曲で、しばしばコンサートで単独演奏される「間奏曲」を聞くと、あの一面のレモン畑の光景を思い出す。
 そうした爽やかな印象がある一方で、シチリアはマフィア誕生の地でもあり、情が強く名誉や血縁を大切にするラテンの人々による血なまぐさい事件が多い。
 本作も、夫に浮気された妻が、相手の女の亭主に告げ口したことがもとで起こる復讐劇。

 歌手がみな粒揃いで素晴らしかった。
 サントゥッツァ役の松平は、立派な声を最後まで維持し、堂々たる主役ぶり。  
 トゥリッド役の堀越も、よく通る朗々たる声で、いやがおうにもドラマを盛り立てる。
 アルフィオ役の岡は、顔もスタイルも良く、舞台姿に花がある。
 正直、岡がカッコよすぎるので、ローラがアルフィオを裏切ってトゥリッドと浮気するのが不自然に思えたほど。(人間、顔じゃないよ)
 色彩を抑えたシンプルな演出が、つれあいの裏切りと復讐という、世界中どこにでもあるドラマの普遍性を浮だたせた。
 完成度の高い舞台であった。

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RomyによるPixabayからの画像

ルッジェーロ・レオンカヴァッロ作曲『道化師』

キャスト
  • カニオ:吉見 佳晃(テノール)
  • ネッダ:東城 弥恵(ソプラノ)
  • トニオ:大貫 史朗(バリトン)
  • ペッペ:須藤 章太(テノール)
  • シルヴィオ:小川 陽久(バリトン)
 こちらも南イタリアが舞台。
 旅回り一座の花形、美しき女優ネッダをめぐる男たちの愛と復讐のドラマ。
 なんと言っても聴きどころは、主役の道化師カニオ演じるテノールのアリア『衣装をつけろ』である。
 フィギアスケートでもしょっちゅう男子選手が使用楽曲に選ぶ。が、表現がとても難しいので、「これぞ」という演技にはなかなかお目にかかれない。
 個人的には、高橋大輔が2012-13年シーズンのフリープログラムで滑ったのが印象に残っている。

 カニオ役の吉見は、さすが運営者だけあって、存在感ピカイチ。
 名唱名演だが、やはり長身のイケメンなので、妻に愛想つかされた男というリアリティは不足気味。もっと老けメイクで良かったかも。
 トニオ役の大貫は、喉の不調のためか、声が管弦楽に消されがち。そこを竹中直人ばりの演技力でカバーしていた。
 こちらの演出は、『カヴァレリア』とは真逆に、カラフルでポップ感覚あふれる仕上げ。
 それがドラマの陰惨さを際立たせるはたらきをした。

 指揮と演出がともに女性という舞台はなかなかお目にかかれない。
 どちらも、細かいところに目の届いた質の高い仕事であった。
 出演の子供たちが可愛かった。

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次の公演が楽しみ!










● 山上マーラー : フライハイト交響楽団 第55回定期演奏会

フライトハイト

日時: 2025年9月23日(火)13時30分~
会場: すみだトリフォニーホール大ホール
曲目:
  • ドビュッシー: 「海」 管弦楽のための3つの交響的描画
  • マーラー  : 交響曲第1番
  • アンコール マーラー:交響的楽章「花の章」
指揮: 山上 紘生

 ここ数日、急に涼しくなって快適至極。
 ――のはずなのだが、年のせいか、急激な気候の変化に体が追っつかず、なんだか疲れて仕方ない。
 いくら寝ても寝足りない気がする。
 今日も、錦糸町まで1時間半かけて行くか行かないか、家を出る直前まで迷っていた。
 10年前(50代前半)ならあり得なかった。
 それでもやっぱり、山上紘生の振るマーラーが気になって、列車に乗った。

 チケットを買ってなかったので、当日券で空いてる席(全指定席1000円)をとったら、2階席の前から5列目中央という、舞台を見るには最高の位置だった。
 もっともソルティ、コンサート中はほとんど目をつぶっているのだが。

 前プロはドビュッシーによる海のスケッチ。
 夜明けの海、昼間の海、波の戯れ、嵐の到来、荒れ狂う海原・・・。
 120年前の初演時に出版された総譜の表紙には、ドビュッシーが選んだ葛飾北斎の『神奈川沖浪裏』が使われたという(上記チラシ参照)。
 フランスに浮世絵ブームが湧いた頃だったのだ。
 それこそ波にもまれる小舟のごとく、全身の力を抜いて、音にまかせて浮遊して聴いていた。
 おかげで、エナジー回復した。

 マーラー第1番の第1楽章もまた、夜明けのスケッチから始まる。
 黎明の高原は、夜を通して空気を震わせていた「ラ音」の不安な響きに覆われている。
 その硬い空気がだんだんと和らいで、空に明るさが増してくる。
 カッコウが鳴いて日が昇る。
 さわやかな高原の朝。
 にぎやかな一日の始まり。
 ラジオ体操でもしようか。

 それはまた、人生の黎明期の比喩でもある。
 不分明な茫漠とした「ラ音」の世界から、この世にやってきたひとつの魂が、赤子として声を上げる。
 周囲はカッコウの声のごとく喜びをもって歓迎してくれる。
 無垢のうちに過ごす楽しい幼年期。
 希望とよろこびに満ちた人生が始まる予感。
 
 しかるに、現実はつねに期待を裏切る。
 苦悩と失望と危険に満ちた人生が口を開けて待っている。
 人生は陽だけではなく、陰もある。

 この第1楽章には、交響曲第1番全体のエッセンスが凝縮されているだけでなく、ここから交響曲第10番まで続くマーラーの音楽全体を包含するテーマが打ち出されている。
 つまり、陽と陰とのせめぎ合い、躁と鬱とのたたかい、生きることをポジティヴにとらえるかネガティヴにとらえるか、といった両極性である。
 自然の美しさや子供の無邪気な声や愛する人との触れ合いは、人生をポジティヴなものに見せてくれる。
 が、それらはすべて一時的で不安定なもので、早晩失われる運命にある。
 その不条理の理由を神に問うも、神は答えてくれない。

 山上の指揮は、この第1楽章において優れていた。
 とくに、陽から陰に移る刹那の微妙な間合い、陽の背後から陰がせり出すなんとも形容のし難い不吉なタッチに、ゾッとするものがあった。
 ソルティがひとりのウツ病経験者であるだけに。 
 
 第2、3楽章は、ひとつひとつの楽器の特色(音色)を生かしつつ手堅くまとめ、この曲の面白さを開示し伝えるのに成功していた。

 やはり、第4楽章は「手に余る」という感を持った。
 それはひとえに山上やフライハイトオケの技量不足ではなく、他の誰がこの曲を振っても第4楽章をまとめるのは難しいのではないかと思う。
 マーラーは、激しい陰と陽のせめぎ合いの果てに、収拾がつかなくなり、最後に“定石通り”陰から陽に転換して凱歌を上げるのだが、どうも無理くり感が強い。
 鬱病患者が投薬によって躁になりました、みたいな不自然さがある。
 マーラーの生きた時代はすでに、ベートーヴェン先輩のように、最後の助けとして神を持ってくることができなかったのである。

 終演後、「ブラボー」が飛び交っていた。
 山上を評価する人が増えているのだろう。
 これからの山上マーラーに期待したい。

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● ベルカントな「復活」 : 豊島区管弦楽団 創立50周年記念 第100回定期演奏会

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日時: 2025年9月20日(土)13:00~
会場: 東京芸術劇場 コンサートホール
曲目:
  • ワーグナー: 歌劇『ローエングリン』第1幕への前奏曲、第3幕への前奏曲
  • マーラー  : 交響曲第2番 ハ短調『復活』
      ソプラノ: 和田 美菜子
      アルト  : 野間 愛
指揮: 和田 一樹
合唱: オルフ祝祭合唱団

 池袋芸劇の大ホール(約2000席)を満席にする豊島オケ&和田一樹の人気は凄い。
 たしかに全席指定1000円という破格値は大きいが、マーラー第2番『復活』は1番や4番や5番にくらべると、そう簡単に「聴きに行こう!」と思えるものでないだけに。
 なんたって、85分の長丁場だもん。
 長丁場を少しも退屈に感じさせない和田の腕前に、多くの人が気づいてきたのだろう。
 どんなフレーズにもなにかしら新しい工夫があって、「オヨヨ?」と思わせ、最初から最後まで気を抜いている暇がないのが、和田の楽曲構成の特徴である。
 今回も、「なるほど、こう来たか!」と唸らせられる箇所が多々あった。

 前プロにワーグナーのオペラ曲をもってきたせいなのか、あるいはテンポが全体にゆったりだったせいなのか、今日の『復活』はよく歌っているなあと思った。
 メロディラインの美しさが強調されている感をもった。
 途中何度も「ベルカント(belcanto)」という言葉が脳裏をよぎった。
 ベルカントは一般に、17世紀から1840年頃までのイタリアの伝統的な声楽様式で、“色彩とニュアンスに富む滑らかな歌い方”(AIアシスタント『ベルカント』より)を指す。
 代表的な作曲家は、イタリアのロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティ、ヴェルディ、せいぜいプッチーニあたりまでだろう。
 なので、マーラーの音楽とベルカントを結びつけるのはお門違いという意見はあろう。
 だが、一見、重厚で複雑極まりなく、暗いイメージのあるマーラーの音楽には、時折、シンプルで美しい旋律が、岩の割れ目から湧き出づる泉のように、キラキラと輝いている。
 それは時に、クラシックというより、遍歴芸人が路上や広場で奏でる手風琴の音楽のような、誰にでもわかりやすい、誰の心にも染み入りやすい、ポピュラー音楽そのもの。
 現代に至るまで世界中で愛され上演され続けているイタリアオペラの人気作品――『セビリアの理髪師』や『ノルマ』や『ルチア』や『椿姫』や『蝶々夫人』など――にふんだんにあふれている美しい(bell)歌(canto)の世界が、ここにはある。

 あれ? 今のフレーズ、なんだかヴェルディの『リゴレット』っぽいなあ。
 あっ、ここプッチーニの『トスカ』に似ている。
 おっ、ここはワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』のようだ。

 そう、交響曲第2番『復活』という大作が、オペラを聴いているかのように感じられた。
 当然、その延長上に第4楽章、第5楽章の声楽パートが乗る。
 すなわち、全体が一つの歌のように感じられた。

沢登り

 正直申せば、クリスチャンでないソルティには、第8番『千人の交響曲』同様、第2番『復活』のテーマが理解できるとは言えない。
 『聖書』の復活エピソードがどれだけクリスチャンにとって重要なものか分からないし、第4楽章以降に導入される独唱や合唱のドイツ語歌詞の日本語訳を読んでも、ピンと来ない。
 マーラーは、この曲の内容に関して、手紙の中でこう述べている。
 
 (第一楽章は)次のような大きな問題を表している。すなわち、汝はいかなる目的のために生きてきたのか、ということである。この問いを聞いた者は解答せねばならず、私はこの解答を終楽章で与えている。 

 しかるに、ソルティには、マーラーが、人の「生きる意味」にどのような解答を与えたのか、終楽章を聞いても判然としない。
 ぶっちゃけ、そのような高尚な意味合いがこの曲に秘されているのか訝しくさえ思う。(それを言ったら、ベートーヴェン第9番第4楽章「歓喜の歌」だって同じなのだが)

 敬虔なクリスチャンの耳には、おそらく、ベートーヴェン第9やマーラーの第2番と第8番が、ソルティの耳に聴こえるのとはまったく違った風に響くのだろう。
 なにかしらスピリチュアルな感動や天啓を受けて、聴いた後は自らの信仰をより固くするのかもしれない。

 そのような聴き方ができないハンディは致し方ない。
 とりわけソルティはテーラワーダ仏教徒なので、絶対神の存在や永遠不滅の魂を信じていない、クリスチャンをはじめ多くの西洋人の共有する「物語」を共有していないのだから。
 ではなぜ、第2番『復活』やベートーヴェン第9に感動できるのか?
 そこが音楽という芸術の秘密であり、脳(=心)という現象の不思議なのだろう。
 ベルカントな『復活』は、その一つの答えである。

 豊島区管弦楽団さん、創立50周年記念おめでとう!
 これからも機会あれば、足を運びます。

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● 世界で一番聴かれているクラシック Orchestra Canvas Tokyo 第14回定期演奏会

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日時: 2025年7月12日(土)13:30~
会場: 練馬区立練馬文化センター 大ホール
曲目: 
  • メンデルスゾーン: 序曲『真夏の夜の夢』
  • メンデルスゾーン: 劇付随音楽『真夏の夜の夢』より スケルツォ、間奏曲、夜想曲、結婚行進曲
  • シューマン: 交響曲第2番 ハ長調 作品61
指揮: 山上 紘生

 世界で一番聞かれているクラシック曲は何か?
 ベートーヴェン「第9」?
 ショパンの「ノクターン」?
 パッヘルベルの「カノン」?
 バッハの「G線上のアリア」?
 ヴィヴァルディの「春」?
 モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」?
 
 答えは、聞けば誰もが納得するあの曲。
 世界中で毎日必ずどこかで流されて、聞く人を幸せにしている。
 メンデルスゾーン「結婚行進曲」である。
 ちなみに、「世界で一番歌われている歌」としてギネスブックに載っているのは、「Happy Birthday to You」であるが、これはクラシックとは言えまい。
 
 2週続けて「結婚行進曲」を聞くとは、ソルティもついに年貢の納め時か?
 同性婚か、友情婚か、介護婚か、終活婚か、それとも偽装婚か?
 いやいや、ありえない。
 たんに時節柄、メンデの『真夏の夜の夢』が多く演奏されるってだけだ。
 にしても、「年貢の納め時」って・・・・。
 
 その才能と将来に期待している山上紘生(28)が振ると知って、練馬に出かけた。ヤマガミコウキと読む。
 練馬文化センターは久しぶり。
 建物の周囲を取り巻くツツジ公園が、なんかフランスの迷路庭園みたいでファンシー。
 木陰のベンチに座ってティンカーベルの出現を待っていたら、蚊に喰われた。

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練馬文化センター

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ツツジ公園

 残念ながら今回は、コメントする資格なし。
 ずっと半醒半睡だった。
 『真夏の夜の夢』とシューマンの交響曲という、いかにも眠気を誘うカップリングのせいもあろうが、なにより、ここ数日の外気のクールダウンのせいである。
 7月に入ってから連日の真夏日で、昼は暑さで体力消耗、夜は暑さで睡眠不足。
 疲れがたまっていた。
 そこに奇跡のようにやってきた快適な涼しさに、頭も体も休養モード突入したのである。
 
 眠たいのに抵抗して、音楽を聴いても、ちっとも「楽」ではない。
 できれば、音楽に身を預けて座席で熟睡したいのだが、ソルティは50を過ぎてから鼾がひどいので、それもできない。
 鼾をかかない程度に意識をぼーっとさせるという、長年の列車通勤で培った高度なテクニックで乗り切った。

 ごめんよ、ヤマガミ君。












● TA-TA-TA-TAN ! オーケストラ・フォルチェ 第24回定期演奏会

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日時: 2025年6月29日(日)13:30~
会場: 文京シビックホール 大ホール
曲目: 
  • メンデルスゾーン: 劇音楽『真夏の夜の夢』より抜粋
  • マーラー: 交響曲第5番
指揮: 村本 寛太郎

 午前中には奈良大学通信教育学部の学科試験があった。
 試験から解放されたあとの自由な気分ほど、音楽鑑賞に向くものはない。
 たとえ、それがマーラーやショスタコーヴィチであっても。
 よしんばブルックナーでも!

 今回は徹頭徹尾、癒しのコンサートであった。
 『真夏の夜の夢』はシェークスピアのファンタジー劇の付随音楽(BGM)であり、ラストは誰もが知っている『結婚行進曲』で華やかにしめくくられる。
 マーラー5番は、夢見るように甘美なアダージェットで恍惚となったあと、浮かれモードの大団円が待っている。 
 指揮が下りたあとにシビックホールを満たした拍手喝采は、聴衆のボルテージの高まりと満足感の証左であろう。
 全体にパワフルかつメリハリの効いた演奏であった。

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文京シビックホール

 メンデルスゾーンとマーラーの共通点は、ドイツ・ロマン派の作曲家であり、ユダヤ人であること。
 そこが今回のカップリングの意味合いなのかと単純に思って聴いていたら、「なるほど、そうだったか!」とひとつ教えられた。
 『結婚行進曲』の出だしと、マーラー5番第1楽章の出だしは、そっくりではないか!
 『結婚』は「ド」の音、『マーラー5番』は「ド」の♯(シャープ)という違いはあるが、「タ・タ・タ・タン!」を2回繰り返して、そこから前者は明るく、後者は暗く発展していく。
 『マーラー5番』の出だしは、ベートーヴェンの『運命』(ジャ・ジャ・ジャ・ジャーン!)を意識しているという説はよく耳にするが、よもや『結婚行進曲』と似ているとは気づかなかった。
 いや、むしろ、『運命』より『結婚行進曲』のほうが、音型的に近い。
 で、『マーラー5番』の第1楽章は、マーラー自身によって「葬送行進曲」と名付けられている。
 ってことは・・・・マーラーにとって、結婚とは「人生の墓場」?

 いや、そんなことないでしょ。
 『第5番』を作曲した1902年と言えば、世にも稀なる美貌の才媛、19歳年下のアルマ・シンドラーと結婚した年ではないか。 
 もっとも愛にあふれ、結婚の喜びを心身ともに感じていたはず。
 よもや、数年後にやってくる、アルマと建築家グロピウスとの不倫を予期していたわけではあるまいに・・・。
 それとも、「結婚は人生の墓場(第1楽章)」と自分はこれまで思っていたけれど、そこに待っていたのは「甘美なるエロチシズム(第4楽章)」と「爆発する歓喜(第5楽章)」でした、という惚気混じりの告白ですかあ?
 勝手になさい!

アルマ・シンドラー
アルマ・シンドラー

 いま一つ気づいたのは、この曲は、楽章ごとに主役の楽器が変わっていくような面白さがある。
 第1楽章では打楽器とくに小太鼓の切れの良さが目立ち、第2楽章では木管が夜の森のフクロウやナイチンゲール(夜鳴鶯)のように呼びかけ合い、第3楽章では金管が威勢良く吠え立て、第4楽章は弦楽器の天下だ。そして、第5楽章ですべての楽器が互いを主張し合ううちに、一つの波に統合されていく。
 マーラーは、生前は作曲家としてより指揮者としての評価が高かったと言われる。
 やはり、それぞれの楽器の特性を知り、それぞれの楽器の響きが人間の脳や心に与える影響をよく知っていたからこそ、いろんな色彩や感触の音楽を織り上げることができたのだろう。  

 第5番は聴くたびに発見がある。
 








 
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