ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

ライブ(音楽・芝居・落語など)

● カラスと親シラズ DVD:『アート・オブ・シンギング 偉大なる名歌手たち』

1996年ワーナーミュージック制作
116分、白黒&カラー

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 右下の親知らずを抜いた。
 最後に残っていた一本であった。
 歯茎にしっかり潜り込んでいて向きもいびつなので、いつも行くクリニックでは抜くことができない、歯茎を切除する外科手術になるという。
 列車で20分離れたところにある、同じ系列の本社にあたるようなクリニックを案内してもらった。
 そこのベテラン歯科医を予約してもらった。
 午後3時から抜歯、念のため翌日は有休をとった。
 
 子供の頃の記憶があるため、歯医者はやはり苦手である。
 現存している歯の治療はもちろん、抜歯もまた昔のようには痛くないと分かっているのに、憂鬱な気分に襲われる(ペンチで引っこ抜くイメージがいまだにある)。
 直前に知人から半月後のコンサートの誘いを受けたのだが、「そういう気分になれなくて」断ってしまった。タイミングが悪いこと。

 当日、昼まで仕事をして帰宅、軽く昼食をとった。
 この世で最期のごはんになるかもしれない。
 良く味わっておこう、このかきあげ。

 クリニックの待合室はコロナ仕様で座席が間引かれていたが、それでも混んでいた。
 いまの感染の谷間のうちに急を要する箇所は治してしまおうという人が多いのだろうか。
 考えてみれば、歯医者は最も感染リスクが高い場所の一つである。
 ソルティだって、2回目のワクチンを打つまでは近所の歯医者に行くのをストップしていた。
 全国の歯医者は経営的に相当の打撃を被った(被っている)ことだろう。

抜歯

 
 ベテラン先生による治療はさすがに手早く安心感があり、20分くらいで治療を終えた。
 途中メリメリっという音がしたときが、歯茎から親知らずが抜けた瞬間か?
 そのあと、針と糸を使って切除した歯茎を縫合しているのが分かった。 
 「はい、終わり。これが抜いた歯です。削って分解して抜きました」
 見ると、ガーゼに包まれたポップコーンのかけらのような白い塊がいくつかある。
 「記念にこれください」
 ――とはさすがに言わなかった。(足の骨折のときは記念に抜釘後の釘をもらった)
 昔は歯が抜けたら、「上の歯は縁の下に、下の歯は屋根の上に」と言ったものだが、今の親たちは知ってるかしらん?
 結局、一番痛かったのは施術前の数本の麻酔注射だった。
 いまの疼痛コントロールの技術はほんとうに凄い!
 華岡青洲に感謝。
 
 しかし、本当の地獄はこのあと。
 施療後4時間は麻酔が効いて、右頬全体に痺れるような感覚はあるものの痛みはなかった。
 夕食前に麻酔が切れた。
 矢吹ジョーにパンチを食らったかのような重い痛みが、右顎から右耳にかけて襲ってきた。
 おそるおそる手で触れてみると、かつてのAKB前田敦子のようにエラが張って、熱を帯びている。
 鏡を見たら、顔が変形していた。 
 口を開くことができないので、喋ることができない。
 もちろん物を噛むことなど考えられない。
 夕食はポタージュスープをスプーンで流し込んで、食後の化膿止めと痛み止めを飲んだ。

 自室に下がって安静にしていたが、痛み止めがなかなか効いてこない。
 ネットする気にも、読書や試験勉強する気にも、テレビを観る気にもなれない。
 痛みから気を反らしてくれるものがほしい。
「ああ、こんなことならGEOでサスペンスかホラー映画を借りておけばよかった」

 書棚に並んでいる手持ちのDVDの中に、痛みを忘れさせてくれる類いがあるかしら?
 小津安二郎(『東京物語』、『晩春』、「麦秋」ほか)?――無理。
 溝口健二(『西鶴一代女』、『山椒大夫』、「雨月物語」ほか)――無理無理。
 ヴィスコンティ(『ベニスに死す』、『家族の肖像』、『イノセント』ほか)――無理無理無理。
 ああ、どうしてもっと俗っぽい、心浮き立つものやスリル満点のもの、すなわち無我夢中になれるものを自分は持っていないのだろう?
 せめて黒澤明(『七人の侍』、『天国と地獄』、『姿三四郎』ほか)か、スピルバーグ(『E.T.』、『ジョーズ』、『未知との遭遇』ほか)でもあったならなあ~。

 仕方なく選びとったのが、15年以上前に買った『アート・オブ・シンギング 偉大なる歌手たち』のDVDであった。
 20世紀前半から中頃(60年代)にかけて、世界中で活躍した有名なオペラ歌手30人の舞台や映画における歌唱姿と歌声とが収められている記録である。
 久しぶりに観た(聴いた)。

 テノール: エンリコ・カルーソー、ベニアミノ・ジーリ、ラウリッツ・メルヒオール、ユッシ・ビョルリンク、ジュゼッペ・ディ・ステーファノほか
 ソプラノ: ローザ・ポンセル、キルステン・フラグスタート、ジョーン・サザーランド、レナータ・テバルティ、レオンタイン・プライスほか
 バリトン: ジュゼッペ・ディ・ルーカ、ローレンス・ティベットほか。
 メゾソプラノ: リーゼ・スティーブンスほか
 バスフョードル・シャリアピン、エツィオ・ピンツァほか
 
 ミラノスカラ座、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場、ウィーン国立歌劇場はじめ世界の檜舞台で聴衆を熱狂させた往年の名歌手の歌声を、ヘッドホン越しに浴び続けていたら、いつしか痛みを忘れていた。
 時代を遡るほどに録音状態が良くないのでどうしても声が平板に聞こえがちで、声の威力や歌い回しの巧みさこそ分かるものの、声の微妙な表情やその歌手独特の響きが伝わらないきらいはある。これを聴く限りでは、カルーソーやポンセルがなぜあんなに騒がれたのか、いま一つピンとこない。
 それに劇場でじかに聴くのと、家でレコードやCDで聴くのとでは雲泥の差があるのも間違いなかろう。フラグスタートやテバルティの大きなよく通る声は、劇場で聴いてこそ真価を発揮したのではないかと思う。
 一方、演技の巧拙に関して言えば、映像でもはっきりと知られる。
 総じて、昔の歌手ほど演技が下手である。大根である。
 オペラ歌手に演技力は(ルックスも)要求されなかったのである。 
 
 そんなわけでやっぱり、本DVDの白眉は最後に収録されているアリア・カラス主演『トスカ』の舞台映像(1964年ロンドン)になる。
 歌唱と演技と(ルックスと)の最高レベルでの結合、そのリアリティの強度には息をのまずにいられない(共演のティト・ゴッビも然り)。
 カラスの舞台姿をその声と共に記録したものは少ない。
 かろうじて残された貴重な映像である。 

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ティト・ゴッビとマリア・カラス in 『トスカ』

 音楽にはリラックス効果だけでなく、疼痛効果があると言う。
 今回治療を受けたクリニックでも、オルゴールの音色によるポップス(浜あゆやサザンのヒット曲)が流れていた。
 なるほど、昔から「オペラは麻薬」って言うもんな。




 
 
 


● This is America !  OCT第2回定期演奏会

日時 2021年11月23日(火、祝)13時~
会場 武蔵野市民文化会館大ホール
曲目
  • ガーシュウィン : パリのアメリカ人
  • コープランド : バレエ音楽『アパラチアの春』組曲
  • ドヴォルザーク : 交響曲第9番ホ短調『新世界より』
指揮 岡本隆

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 武蔵野文化会館は中央線三鷹駅北口から歩いて15分くらい。
 祝日の列車内も駅も街路も、通りがけに覗いた道沿いのカフェの店内も、ほとんどコロナ前と変わらない賑やかさ。
 だれもみな、心なしか表情にゆとりと明るさが見られる。
 このままZEROコロナ達成するといいのだが・・・。

 OCTはOrchestra Canvas Tokyo(オーケストラ・キャンバス・東京)の頭文字。
 2020年8月に発足したという。
 コロナ禍でもオケ好きの情熱は抑えられないのだ。
 見たところ、平均年齢はかなり若い(30~40代が多そう)。
 配布プログラムの団員リストをみると、女性団員のうち「〇〇子」率は17%だった。
 演奏そのものも、音楽への衒いのない真っ直ぐな姿勢と持ち前のパワーを感じさせるものだった。

 さらに驚いたことに、指揮を務めた岡村陸(りく)は1998年生まれの23歳。
 東京音大を今年の春に出たばかりという。
 若いOCTのメンバーたちよりさらに若い。(おそらくステージで一番年下だったろう)
 物腰低く、外見もジャニーズ風のスリムなイケメン。
 並みいるお兄さん、お姉さん、おじさん、おばさん奏者たちを指揮棒ひとつで見事にまとめていく手腕と人ったらしの才に感服した。
 プロフィールによると、あの佐渡裕の愛弟子らしい。なるほど!

 しかも、オケをまとめてただ楽譜通りに行儀よく演奏するのではなく、たとえばドヴォルザークの『新世界より』では、主要な小節でつねに半拍ほど早めにして全体的に前傾姿勢のスリリングな演奏を基本としながら、ヤングらしい焦りで走ってしまうことなく、メロディアスな第二主題を「おっ!」と思うほどのゆっくりテンポで演歌風にこぶしを効かせて、全体にメリハリをつけて曲に表情をつけていくあたり、心憎いほどの余裕を感じた。
 和田一樹に似た才を感じた。
 ただ、今回の選曲ではよくわからなかったが、エロティックな艶やかさやロココ的な華やかさを表現できる人なのかどうか。
 マーラーやチャイコフスキーを聴いてみたい気がする。

 今回のプログラムのテーマはずばりアメリカ。
 そのせいもあって、ドヴォルザークの『新世界より』がもろアメリカの風景を浮かび上がらせた。
 グランドキャニオンのような壮麗な渓谷風景の広がる第一楽章、無名戦士や黒人奴隷の眠る十字架が地平線まで立ち並ぶ第二楽章、『シェーン』が登場するゴールドラッシュの西部開拓地のざわめきが聞こえてくる第三楽章、そして『ジョーズ』が登場する出だしからいきなり最後の審判ラッパが鳴り響く第四楽章。
 こうして聴くと、大自然の迫力と民衆の活力と宗教性――This is America ! という気がする。

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武蔵野市民文化会館





● そは彼の人か 本:『オペラ歌手はなぜモテるのか?』(石戸谷結子著)

1996年文藝春秋

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 最近、細木数子、瀬戸内寂聴、長谷川和夫(認知症研究の第一人者。認知症の診断に用いられる長谷川式スケールの開発者)など大物の訃報が続いているが、ソルティが一番びっくりし畏敬の念にかられたのは、チェコスロヴァキア出身のソプラノ歌手エディタ・グルベローヴァの死を知った時であった。
 亡くなったのは10月18日だが、ほんの数日前、他人の音楽ブログを読んで初めて知った。

 「えっ、まだ若いのに・・・」と一瞬絶句したが、1946年生まれの彼女は74歳。
 歌手としての盛りはとうに過ぎているし、恋も名声もお金も伝説も手に入れた輝かしい人生であったろうから、「早すぎる」ということはない。
 彼女は日本の80年代アイドルのような童顔で、いつも若々しい雰囲気をまき散らしていたし、節制した生活で声を維持し果敢に新しいレパートリーに挑戦する人であったから、「まだまだ若い。そのうちまた来日してリサイタル開いてくれるんじゃないか」なんて、どこかで思っていたのである。
 
 ありがたいことに、ソルティは全盛期のグルベローヴァの奇跡の声をじかに聴いた一人であるが、あの声を聴くと、ストラディヴァリであろうがベヒシュタインだろうが源博雅の奏でた琵琶の玄象だろうが、いかなる楽器も最高度に鍛え上げられた人間の美声には敵わないと確信する。
 あらゆる楽器演奏家を絶望させるに十分な美声とテクニックの極地、それがグルベローヴァその人であった。

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「もののけ姫」の米良美一とコンサートで共演している
 
 80~90年代に世界を舞台に活躍した一流オペラ歌手や指揮者の素顔にせまった、肩の凝らない楽しいエッセイである本書によると、グルベローヴァは親日家で桜が大好きだったという。
 忙しい公演スケジュールの合間を縫って、京都の平安神宮のしだれ桜を見に行って子供のようにはしゃいだエピソードが書かれている。
 つつしんで冥福を祈る――というより、世界中の音楽ファンに愉悦と感動をもたらした彼女が天に召されないはずがない。
 神の合唱団に無試験で迎えられて、カールソーやカラスやテバルティやフラグスタートなんか往年の伝説的歌手に混じって讃美歌を歌っているにちがいない。
 
 久し振りにオペラに行きたくなった。
 
 

おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


● キャスリーン・バトル賛歌 本:『史上最強のオペラ』(ジョセフ・ヴォルピー著)

2006年原著刊行
2006年ぴあ株式会社より邦訳刊行

史上最強のオペラ


 ニューヨークにあるメトロポリタン歌劇場(通称メット)は、ミラノスカラ座、ウィーン国立歌劇場と並ぶ世界三大歌劇場と言われている。世界中の才能あるオペラ歌手が生涯一度でもいいから舞台を踏みたいと夢見る、高校野球の甲子園、高校ラグビーの花園、演歌歌手の新宿コマみたいな存在である。

 メットは世界で最も大きなパフォーミングアートの機関である。毎年30以上の演目と240もの公演を上演する。どの公演にも国際的に有名な歌手が出演し、複雑な舞台セットが組み立てられる。それには年間に2000人以上の人材と、2億2000万ドル以上の運営費用がかかる。このようなメットを維持するためには、大工、裏方、画家、デザイナー、電気技師、助手たちの仕事の把握はもちろん、演奏家、歌手、歌の先生、ダンサー、振付師、舞台監督、指揮者、美術監督、営業、広報チームの仕事を理解してまとめ上げる能力が必要である。運営費用はチケットの収益だけではまかないきれない。寄付金によって補うのだが、これを集めてくる理事会の努力も必要だ。

 本書は、1990年から2006年までメットの総支配人であった男によるサクセスストーリーとしての自叙伝、かつメトロポリタンの舞台裏をさまざまな視点から描いたドキュメンタリーといったところ。オペラに興味ある人なら必ずや楽しめる本である。
 やはり、オペラファンの一人として面白いのは、文字通りその“名声”を知るスター歌手はじめ、世界的な指揮者や演出家たちの素顔が知られるエピソードの数々である。

 神経質で機嫌が悪くなると楽屋に引っ込んでしまうハリウッド級二枚目歌手フランコ・コレッリ、90年代に世界三大テノールとして名を馳せたルチアーノ・パヴァロッティとプラシド・ドミンゴの対照的な性格や仕事ぶり、名演出家フランコ・ゼッフィレリの豪華絢爛たる舞台(例『トゥーランドット』)を支えた気前のいいテキサス女性、メットのオーケストラの質を国際レベルまで引き上げた指揮者ジェームズ・レヴァインの人となり(後年になってホモセクハラで訴えられメットを解雇された)、リハーサルを平気ですっぽかし演出家の指示を無視する椿姫アンジェラ・ゲオルギュー。舞台では気品あふれる伯爵夫人を得意としたキリテ・カナワが、セントラルパークで著者の目の前をローラーブレードで滑っていくシーンなんて想像もつかない。

 しかしながら、暴露ネタの筆頭は、86年ニッカウヰスキーCM出演がきっかけで日本で爆発的人気を博した美貌の黒人ソプラノ、キャスリーン・バトル解雇事件の顛末である。実はソルティ、それが読みたくて本書を借りた。
 ヴォルピ―は「バトル賛歌」として丸々一章をそれに当てている。人気絶頂のドル箱の世界的スターを劇場が解雇するなんて、それも原因は歌手の我儘だなんて、前代未聞の大事件だったのである。
 実際、人格破綻しているんじゃないかと思うようなバトルの異常な振る舞いの数々が描かれ、彼女と共演した陽気で磊落なイタリア男である大パヴァロッティでさえ、「彼女の人生には何かが欠けているに違いない」と漏らすほどだったという。
 1993-94年シーズン、ヴォルピーが数か月後に本番を控えた『連隊の娘』のリハーサル中にバトルの降板を決定したことを発表したとき、劇場は歓呼と喝采が鳴り響いたという。 
 みんな我慢に我慢を重ねていたのである。

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 いまもこの記事を書きながら、キャスリーン・バトルのモーツァルト・アリア集を聴いている。
 ソルティは、過去に2回、来日した彼女のリサイタルを聴きに行った。
 なめらかな漆黒の肌に美しいドレスをまとった彼女が舞台に登場するや、優雅な仕草と愛くるしく親しみやすい笑顔にもっとも気難しいクラシックファンでさえ武装解除してしまい、一声唄い出すと、もう完全にその魅力に篭絡されてしまう。日本ファンのために披露してくれた『この道』なんか絶品だった。
 このように美しく魅惑的で大衆を惹きつけるカリスマ性を備えたソプラノが、今後そうそう登場するとは思えない。 
 86年のバトルのCMが日本のクラシック業界、とくにオペラ人気に火をつけた功績ははかりしれない。
 ジョセフ・ヴォルピーの名は、「バトルを首にした男」として残り続けるのは間違いあるまい。


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Predrag KezicによるPixabayからの画像




● 銀杏散るなり光の丘に :L.v.B.室内管弦楽団 第48回演奏会

日時 2021年11月7日(日)14:00~
会場 光が丘 IMAホール(東京都練馬区)
曲目
  • モーツァルト   : 歌劇『ドン・ジョヴァンニ』K.527より序曲
  • ドヴォルザーク : チェコ組曲 作品39
  • ベートーヴェン : 交響曲第5番 ハ短調《運命》作品67
指揮 苫米地 英一

 都立光が丘公園は20代の頃よく利用した。
 都内に就職したのをきっかけに、埼玉の実家を出て、この近くのアパートで一人暮らしを始めたのだ。
 当時、IMAホールはオープンしたばかりだった。地下鉄大江戸線は開通しておらず、むろん光が丘駅もなかった。光が丘のマンモス団地は、陸の孤島のような場所だった。
 そのうち、会社を辞めて、失業保険を受けながら昼夜逆転して小説を書く生活になった。
 明け方、緊張した頭をほぐすために光が丘公園を散歩した。春は桜、秋は銀杏がきれいだった。
 自分の将来はどうなるんだろう?――不安をおぼえながら、ピンクや黄色の鮮やかなじゅうたんを踏みしめた。

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光が丘公園

 L.v.B.はもちろん、ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンの頭文字。
 この管弦楽団はベートーヴェン専科なのである。
 苫米地英一はオペラ指揮者としての活躍が目立つ。最近では、『ベルサイユのばら』の作者池田理代子台本によるオペラ『かぐや姫と帝の物語』を作曲・世界初演し、成功を収めたという。認知科学者でたくさんの著書を持つ苫米地英人との関係は不明である。
 定員約500名のホールは半分ほど埋まった。

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IMAホール

 まず、プログラム構成の妙に感心した。
 苫米地の得意とするオペラから、それもメリハリがあって軽快なる『ドン・ジョヴァンニ』序曲で聴衆の気分を盛り上げ、多彩な曲想を重ねつつ民族情緒豊かなチェコ組曲で聴衆の耳と気持ちをほぐし敏感にさせ、満を持しての『ダ・ダ・ダ・ダーン!』。
 しかも、3曲続けて聴くと、前プロの2曲がメインディッシュの第5番『運命』と近しい関係を持っている、似たような曲調を有していることが分かる。
 経時的に言えば、ベートーヴェンは、モーツァルトとドヴォルザークの間に入る。
 第5番『運命』は、傲岸不遜な主人公が地獄に落ちる物語『ドン・ジョヴァンニ』の強い影響を受けて作られ、第5番『運命』の深い影響を受けてドヴォルザークは激動の歴史に翻弄された祖国を謳ったのであろう。
 
 コロナ禍によるブランクで閉じてしまったソルティのチャクラ。
 前回の東京都交響楽団コンサートで半分くらい開き、覚醒のきざしあった。
 その後、静岡のルルドの泉・サウナしきじデビューで、“気”はかなり活性化された。
 なので、本日は聞く前から予感があった。
 最終的に扉を解放するのはきっと今日のL.v.B.であろう、第5番『運命』だろうと。
 
 まさしくその通り。
 第3楽章から第4楽章に移り変わるところ、いわゆる「暗」から「明」への転換が起こるところで、胸をグッと掴まれるような圧を感じ、声の出ない嗚咽のように胸がヒクヒク上下し始めた。
 中に閉じ込められているものが必死に外に出ようともがいているかのよう。
 あるいは、手押しポンプを幾度も押しながら、井戸水の出るのを待っているかのよう。
 第4楽章の繰り返し打ち寄せる歓喜の波に、心の壁はもろくも砕けて、両の目から湧き水のようにあふれるものがあった。
 気は脳天に達して周囲に放たれ、会場の気と一体化した。

 整ったァ~!
 
 時代を超えて人類に共感をもたらすベートーヴェンの魂、彼の曲を演奏することを無上の喜びとする指揮者およびL.v.Bオケメンバーたちの熟練、そして地元ホールで久しぶりに生オケを耳にした聴衆の感激とが混じり合って場内は熱い光芒に満たされ、さしものドン・ジョヴァンニも地獄の釜から引き上げられて、昇天していったようだ。

 コロナ自粛なければ、『ブラーヴォ』を三回、投げたかった。
 一回目は指揮の苫米地に。
 二回目はオケのメンバーたち、とくに感性柔軟なる木管メンバーたちに。
 最後は楽聖ベートーヴェンに。

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● 六本木発「銀河鉄道2021」 : 東京都交響楽団コンサート

日時 2021年10月30日(土)14:00~
会場 サントリーホール
曲目
  • ドヴォルザーク : チェロ協奏曲 ロ短調
  • ドヴォルザーク : 交響曲第8番 ト長調
指揮 小泉和裕
チェロソリスト 佐藤晴真

 久しぶりの山手線内、久しぶりのサントリーホール。
 最寄りで見る六本木スカイスクラッパーもなんだか懐かしい。

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 クラシック業界も元の賑わいを取り戻しつつあるようで、今回も入場時にどっさりとコンサート案内チラシをもらった。
 ただ、客席の入りは4~5割程度か。まだまだ外出自主規制がかかっているようだ。

 東京都交響楽団は前回の『第九』に続き、2回目になる。
 ソロ(独奏)もトュッティ(全員)もとても巧い。
 音に丸みがあるのはやはりこのオケの特徴らしい。破擦音や破裂音の少ない、飛沫があまり外に飛ばない言語といった感じ。都会らしく洗練されている。

 佐藤晴真のチェロについては残念ながら真価が良くわからなかった。
 というのも、今回はステージ背後のブロックのほぼ中央、指揮者と相対する位置で鑑賞したからだ。弾いている後ろ姿しか見えないし、音響も十全ではない。
 ピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲ならともかく、チェロ協奏曲はやはりステージ前方の席を取らなければいけなかった。一つ学んだ。

 が、この席のメリットは、オケを真上から見下ろすことができること。
 オケの人たちの表情や動きがよく見えて、気持ちがびんびん伝わってくる。管楽器奏者がソロパートを無事終えた後のホッとした肩の線など、ステージ前方の席からはなかなか見えない。自然とオケを応援したくなる席なのである。
 むろん、指揮者の豊かな表情の変化や細やかなタクトさばきをガン見できるのも大きなメリットである。(ソルティは曲の最初と最後以外はほぼ目を瞑っているのだが)

 アントニン・ドヴォルザークを聴くといつも汽車の旅を連想する。
 アントニン自身が大の鉄道好きで、ソルティもまたノリ鉄だということもあるが、一曲聞いている間、蒸気機関車で旅をしている気分になる。
 朝まだきの駅のホームで機関士や整備士たちが出発の準備をするシーンから始まって、昇る朝日が鉄の車体をきらめかせ、荷物を手にした乗客たちがお喋りしながら次々と車両に乗り込み、出発の汽笛を合図に重い響きを轟かせ、列車が動き出す。
 軽快な鉄輪の響きと煙突から吹き出す蒸気と黒煙をお供に、いくつもの街を通過し、線路わきで手を振る子供たちや赤ん坊を抱いた母親を見送り、休憩する労働者たちの視線を浴び、麦畑や綿花畑をかき分け、野を越え、山を越え、渓谷を渡り、白波の立つ海辺を走る。
 やがて鎮魂色をした黄昏が下りてきて、長旅に疲れた汽車と乗客たちを優しく包む。
 汽車はそのままゆっくりと地上を離れ、見えない滑走路をつたって、星の散りばめる天上へと旅立つ。はるかなる至高の光を目指して。
 そんな郷愁と信心をあおるような美しく荘厳な旅である。


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DavidMcConnellによるPixabayからの画像

 
 小泉和裕と東京都交響楽団の演奏は、極上の旅を提供してくれた。
 コロナ禍になって初のコンサートではなかなか動かなかったチャクラが、今回は反応した。音の波動が体内の気とぶつかり合い、不随意運動が数回起こった。隣席の人はびっくりしたかも。
 扉は半分開いた。





● 100枚のチラシ:読売日本交響楽団コンサート

日時 2021年10月10日(日)14時~
会場 東京芸術劇場コンサートホール(豊島区池袋)
演目
  • シベリウス:交響詩〈フィンランディア〉
  • ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番
  • シベリウス:交響曲第2番
指揮:沖澤のどか
オケ:読売日本交響楽団
ピアノ:ペーター・レーゼル

 実に1年9ヶ月ぶりのクラシックコンサート。
 昨年1月20日に同じ東京芸術劇場で聴いたチャイコフスキー第6番『悲愴』を最後に、すっかり生オケ離れしていた。
 一昨年12月に踵の骨を折って松葉杖生活が続いていたせいもあるが、メインの理由はもちろんコロナである。
 昨年3月頃よりエンタメ業界はまさに「悲愴」に突入した。
 なんと長い冬であったろう!

 久しぶりに生オケを聴きたいなあと思って、クラシック専門情報サイトをググったら、間近で見つけたのが本公演であった。
 ベートーヴェンにシベリウス。
 冬からの復活を祝うには最適なプログラムではないか。
 早速予約を入れようとしたら、結構席が埋まっていた。
 みんな待ち望んでいたよね~。

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東京芸術劇場


 コンサートホールに入るときは、入口でスタッフにチケットの半券をもぎってもらい、本日のプログラムと一緒に他のコンサートの案内チラシを大量にもらうのがお決まりである。
 今回は、スタッフにチケットを見せたら自ら半券を切って、置いてある箱に入れる。その先のテーブルに積み重ねてあるプログラムと案内チラシの束を自分で取る。
 セルフサービスだ。
 いつもならほとんどがゴミ箱行きになるのでもらうのを迷うチラシの束であるが、今日はなんだか嬉しくて、いそいそと手に取った。
 これまで見たことないほど大量のチラシも、クラシック業界に生きる人々の復活の喜びと今後への意気込みと思えば、家に持って帰って一枚一枚有り難く拝見する気になる。

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なんと100枚あった


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 席は客席中央の一番後ろ。
 舞台と全体を見渡すにはベストな位置である。
 8割がた埋まっているようであった。

 ソルティは、クラシックコンサートで良い演奏に出会うとチャクラがうごめく
 音波があちこちのチャクラを刺激し、その部位の気の流れを良くする。
 すると、会場のルクスが上がったかのように、周囲に光を感じる。
 体も心も生まれ変わったようにリフレッシュする。
 良い演奏は針治療や整体に匹敵する効果があるのだ。
 1年9ヶ月ぶりの生オケで体はどんな反応を示すだろうか。
 期待大であった。

 しかるに、今日はなぜかチャクラが大人しかった。
 ペーター・レーゼルによる木漏れ日をそのまま音符に変換したかのような至芸のピアノ演奏も、2019年プザンソン国際コンクール覇者の期待の新人・沖澤のどか&ベテランぞろいの読響によるシベリウスの豊穣世界も、「素晴らしい、さすがだ」とは思いはしたけれども、音波は胸のチャクラを突きはするものの、それ以上入り込む力がなくて、感動には至らなかった。(拍手喝采は凄かった)

 たぶん、演奏の質の問題ではなくて、一年9ヶ月のブランクでソルティのチャクラが固く閉じてしまったのだろう。
 どこにいるか分からないコロナウイルスに対する恐怖、自分が感染する・他人に感染させるんじゃないかという不安や緊張、医療先進国にあって入院できずに自宅で病死した人のニュースを耳にしたときの怒りと絶望、自粛生活に慣れてしまったがゆえの心身の柔軟性の低下・・・・こういったものが知らず知らず心身に影響を与え、頑なにしてしまったのではなかろうか。
 来場者全員マスクして発話は禁じられているものの、間隔を開けずに隣の人と接している状態に、どこか落ち着かないものを感じながら聴いていたのだから。
 細胞が、神経が、心の琴線が、音楽をやわらかく受け止める用意が整っていないような気がした。

 もとのようにチャクラが活性化するまで、もうちょっと時間がかかりそうだ。


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帰宅する人々
シベリウス好きはおしゃべりしないように思う








● バトルの悪魔的魅力 オペラDVD:モーツァルトの『魔笛』

指揮:ジェイムズ・レヴァイン
演出:グース・モスタート(オリジナル演出:ジョン・コックス)
ステージデザイン:デイヴィッド・ホックニー
キャスト
 パミーナ : キャスリーン・バトル
 夜の女王 : ルチアーナ・セッラ
 タミーノ : フランシスコ・アライサ
 パパゲーノ : マンフレート・ヘム
 ザラストロ : クルト・モル
1991年2月メトロポリタン歌劇場におけるライブ収録
180分

 モーツァルトのオペラは劇場で聴くならともかく、家でDVDやCDで鑑賞していると退屈してしまうことが多い。
 とくに『魔笛』は、彼の作品中もっとも有名なものの一つで夜の女王のアリアやパミーナとパパゲーノによる「男と女の愛の二重唱」など、聴きごたえのある素晴らしい歌もあるのだけれど、積極的に視聴したい気分にはなれない作品である。
 作られた時代的に仕方ないと分かってはいるものの、男尊女卑、人種差別な内容には毎度辟易させられるし、フリーメイソンを賛美していると言われる筋書きも上から目線の教条的な感じで、面白みに欠ける。
 ドラマツルギーにおいても、近現代の起伏に富みスピーディな、視聴者を飽きさせないドラマにくらべると、のったりと緩慢でまどろこしく、「ここはカットしてよ!」と思わず言いたくなる場面が多い。 
 と言うと、「オペラは演劇ではない、音楽だ!」という声が聞こえてきそうだが・・・。

 このDVDを借りようと思ったのは、キャスリーン・バトルがパミーナを歌っているからである。
 性格に難があり毀誉褒貶さまざまなプリマドンナなれど、やっぱりソルティはバトルの歌声には魅かれる。
 そもそもソルティのオペラ開眼、クラシック道参入の端緒となったのは、86年にバトルが出演したニッカ・ウヰスキーのテレビCMであった。下世話に言えば、「筆おろしの相手」みたいなもんである。
 あれから35年、いろいろな歌手を知り、多くのオペラやリサイタルを聴き、CDやDVDを集めてきたけれど、今でも普段もっとも頻繁に棚から取り出してプレイヤーにかけるのはバトルのCDである。
 ヘンデルアリア集、モーツァルトアリア集、同じソプラノ歌手ジェシー・ノーマンとの共演ライブ、この『魔笛』でも共演している指揮者ジェイムズ・レヴァインのピアノ伴奏によるザルツブルグ・リサイタルなど、どれもすこぶる魅力的である。

 よく聴く理由の一つは、バトルの歌が「~ながら作業」に向いているというところにある。パソコンに向かって事務作業やブログ記事作成、部屋の片づけをする、寝転んで本や漫画を読む、そんなときのBGMにちょうどいいのである。その意味ではエンヤといい勝負。
 これがマリア・カラスでは絶対ダメである。カラスの歌声ほど「~ながら」に向かないものはあるまい。どうしても肝心の作業の手を止めてカラスの作るドラマチックな世界に入り込んでしまう、あるいは、作業に集中しようとすれば決して美しくはないその歌声が邪魔になる。
 バトルの歌声は作業の邪魔にならない。作業効率を高める。
 むろん、単なるBGM以上でもある。
 なんといっても耳に心地いいのだ。
 白大理石のようにつややかで、千歳飴のように甘く、森の中の小川のように清冽で、野辺の花のようにやさしく儚げで、小鳥のように軽やかで愛らしい。
 この『魔笛』ライブの3年後にバトルはあまりに度を越した我儘ゆえメトロポリタンを首になった。
 歌い手の歌声と性格のギャップをこの人ほどあからさまに見せてくれる人はおるまい。

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ソルティが所有するバトルのCD


 期待通り、素晴らしいパミーナである。
 パパゲーノとの重唱や第2幕の悲嘆のアリアはまさに絶品で、天上的でたおやかな歌声には陶然とさせられる。
 歌声ばかりでなく、容姿もスタイルも表情も立ち居振る舞いもすこぶる魅力的で、裏事情を知らなければ“まるで女神のような女性”と勘違いしてしまうこと請け合い。天使に扮する3人の少年たちとの共演シーンなど、「私は子供好きで子供にも愛される優しいお姉さんなのよ」的なオーラを醸し出している。
 しかし、裏事情を知っている者からすると、共演者がどれだけバトルに気を遣っているか、その激しい気性にビクビクしているか、勝手な振る舞いや要求にうんざりしているか、重唱ではバトルの小さな声をかき消さないように自らの声を仕方なくセーブしているか、といったあたりを見つけ出そうとしてしまう。それもまた一興である。

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子供の表情がこわばっているように見えるのは気のせいか?
 
 バトルのみならず、超絶技巧を見せる夜の女王のルチアーナ・セッラ、ライオン・キングの如き貫禄たっぷりのザラストロのクルト・モル、剽軽で単純なパパゲーノを演じるマンフレート・ヘムも素晴らしい歌を披露している。
 ステージデザインをアメリカ在住の有名なアーティストであるデイヴィッド・ホックニーが手掛けている。ポップでメルヘンチックで美しい舞台美術も見物。
 
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夜の女王に扮するルチアーナ・セッラ
『銀河鉄道999』のプロメシューム(メーテルのお母さん)のよう


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ザラストロ役のクルト・モル
体のでかい人は黙っていても存在感があって得だな
しかし手がデカい


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デイヴィッド・ホックニーによるデザイン



おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● シャリアピン、素敵 映画:『ドン・キホーテ』(ゲオルク・ヴィルヘルム・パプスト監督)

1933年フランス・イギリス
80分
フランス語
原作 ミゲル・デ・セルバンテス
音楽 ジャック・イベール

 主演のフョードル・シャリアピン(1873-1938)は、ロシア出身の伝説的名バス歌手。
 「歌う俳優」と呼ばれたほど、演技達者であったという。
 その名声を確かめるべく、レンタルした。

シャリアピン
シャリアピン


 なるほど、確かに凄い演技力である。
 まさに、イメージ通りのドン・キホーテがそこにいる。
 高潔で、突飛で、一途で、頭のねじの緩んだ老騎士になりきっている。
 表情から、姿恰好から、物腰から、口調から、仕草動作から、一度見たら忘れられない強烈なインパクトを残す。
 むろん、その歌唱は絶品。

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ドゥルシネア姫への愛と忠誠を歌うドン・キホーテ


 そのうえにラストでは、騎士道物語の読み過ぎで頭のおかしくなった呆け老人という以上の、人間としての尊厳をも表現するに至っている。
 すなわち、ドン・キホーテという人物は、世俗を器用に生きようとする周囲の人間たちが失った“純粋さや情熱”の象徴だということを教えてくれる。
 だから、彼の死に際して、それまで彼を馬鹿にしていた周囲の人間たちは一様に頭を垂れ、涙するのである。

 シャリアピンの真価を示すこの記録が残されていることに感謝するほかない。


追記:晩年、来日して帝国ホテルに泊まった際、歯の悪かったシャリアピンのためにシェフが噛みやすいステーキを特別調理した。それがシャリアピン・ステーキとして今も愛されている。


おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


  


 
  



●  本 :『かもめ』(チェーホフ作)

1896年初演
2010年岩波文庫(訳:浦雅春)

かもめ


 「演劇史に燦然と輝く名作」と称されるチェーホフ『かもめ』をはじめて読んだ。
 むろん、舞台も見たことない。

 読んでみて、正直、「なんでこれが名作なの?」という思いが湧いてくる。
 登場人物こそ多くて、恋愛模様こそ賑やかであるが、舞台上では事件らしい事件も起こらず、単調で退屈な筋立てである。
 「結局、何が言いたいの!?」と思わず呟きたくなる。
 実際の舞台を見れば、また印象が違うのだろうか?

 ――と思って、はたと気づいた。

 まさにこうやって、非日常的なドラマチックな事件を求める心の習性が、日常を蝕んでいく様を描いているのが、この戯曲なのだ。
 登場人物のだれもが、「今ではないいつか」、「ここではないどこか」、「この自分ではない理想の自分」を求めて葛藤し、現在を否定し、欲求不満に陥っている。
 子どものように「いまここ」に安らいで幸福を味わうことのできる感性をとうの昔に喪失し、不毛な人間関係と中身のないセリフのやり取りだけが舞台上に繰り広げられる。
 つまり、現代人の多くが陥っている状況が描き出されている。

 今回のコロナ禍のポジティヴな面をしいてあげるとすれば、平凡な日常の営みの価値を気づかせてくれたことだろうか。




おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






 
 

● チャイ子追悼 : 新交響楽団第248回演奏会


日時 2020年1月19日(日)14時~
会場 東京芸術劇場コンサートホール
指揮 飯守泰次郎
曲目
  • モーツァルト/歌劇『魔笛』序曲
  • ハイドン/交響曲第104番『ロンドン』
  • チャイコフスキー/交響曲第6番『悲愴』

 余裕を見て開演45分前に会場入りし、指定席で充実のプログラムを読んでいたら、気づくと会場はほぼ満席になっていた。新響と本日の曲目の人気を感じた。ハイドンの『ロンドン』はともかく、『魔笛』と『悲愴』はテッパンだ。

新交響248回


 1940年生まれの飯守泰次郎は今年傘寿を迎える。ソルティの親と同世代だ。そう考えると、ステージで2時間立ちっぱなしで棒を振り続けるスタミナと精神力に感服する。
 その長い音楽人生が極めたのは、「作曲家の、そして曲自体の、根本的美点を追求し引き出す演奏」と感じた。すなわち、流麗で洒脱な『魔笛』、美しさと才知あふれる軽妙な『ロンドン』、哀切極まりない『悲愴』が堪能できた。

 中でも、ハイドン(1732-1809)が面白かった。
 ハイドンの交響曲を聴くのはこれが初めてであった。が、「ああ、この作曲家は自分好みだ」と直観した。明るく、諧謔と巧緻にあふれ、美しく、しかも素朴。この『ロンドン』一曲からだけでも、ハイドンがモーツァルトとベートーヴェンという出来の良すぎる息子を持つ「交響曲の父」であることが納得できる。
 山口百恵の『プレイバック PART2』のように、曲の途中で音楽を一時停止しメリハリを生む技巧が実に楽しく、ハイドンという人の「遊び心」を感じた。
 機会あれば、これからどんどん聴いていきたい。

 チャイコの『悲愴』を、彼のホモセクシュアル人生および曲完成2か月後に訪れた謎の死を思いやることなしに聴くことは、ソルティには難しい。毎回聴くたび、思いはそこに到る。
 死因はコレラであるとか、毒殺であるとか、自殺であるとか、真相ははっきり分かっていないのだけれど、チャイコが死を覚悟していたんじゃないかと思ってしまう最大の要因は、まさに白鳥の歌となった『悲愴』の曲調にある。
 こんなに、苦悩と哀切と自己憐憫と希求と陶酔と狂気と諦念とに満ちた交響曲がほかにあるか?
 ソルティの知る限りでは、唯一匹敵するのはマーラーの交響曲9番および10番くらいではなかろうか。(ただしマーラーはゲイではなかった)

チャイコ
チャイコフスキー


 ゲイの自殺率がそうでない人に比べて高いことはよく知られている。同じセクシュアリティの友人知人を持つゲイの人で、自殺した仲間が一人もいないという人を探すのは難しいのではないかとすら思う。ソルティもまた、過去数十年のうちにゲイの友人知人の自死の報に何度か合っている。この年明け早々にも、地方在住の年下の知人の悲しい知らせがあり、「ああ、また一人・・・」と暗澹たる思いがした。彼とはここ20年以上交流はなかったが、若く元気な頃の姿――チャイコ好きのネエさんだった――しか記憶に残っていないだけに、唐突な思いにかられた。
 
 現在、国際的に同性婚合法化の流れがあるが、同性婚を認めている国でのLGBTの自殺率が減少したという調査結果が報告されている。
 たとえば、デンマークとスウェーデンの共同調査によると、「同性愛者の自殺率が46%と大幅に減少。ストレートの自殺率も28%低下」したそうである。因果関係ははっきりと分からないが、アメリカの同種の研究では、「2015年の同性婚合法化以降、10代の自殺率が14%減少」したという。(国内最大のゲイ向けWEBマガジン「ジェンクシー」記事参照)
 これは結局、その社会の寛容度を示している。「(同性と)結婚したいか否か」「現今の結婚制度を認めるか否か」という個人個人の希望や意見や選択は別として、結婚制度が社会的に(法的に)認められているという事実そのものが、LGBT一人一人にとって、あるいは何らかの意味でのマイノリティ(権力弱者)に属する一人一人にとって、決して小さい指標ではないことが察しられる。

 『悲愴』という名曲を残してくれたチャイコフスキーには大大感謝であるけれど、彼が生きた19世紀ロシア社会の寛容性の欠如あってこの曲が生まれたことを思うと、微妙な気持ちに包まれる。

 チャイコの、そして亡くなったゲイの友人知人たちの冥福を祈りつつ、会場を後にした。











 



 

● Into the Unknown 「新世界へ」 : 読響ニューイヤーコンサート

日時 2020年1月5日(日)14:00~
会場 ウェスタ川越大ホール(埼玉県)
出演
 指揮:原田慶太楼
 ヴァイオリン:前橋汀子
 管弦楽:読売日本交響楽団
プログラム
 J.シュトラウスⅡ:喜歌劇「こうもり」序曲
 メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲
 J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ3番(アンコール)
 ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界から」

 池袋から東武東上線に乗って約30分で川越駅に着く。
 ここは蔵造りの街並みの残る城下町として有名、小江戸という別称を持つ。

 2015年3月に開館したウェスタ川越は、駅から歩いて5分だが、松葉枝のためタクシーを奮発した。
 およそ1700席のうち9割ほど埋まっていた。
 さすが、読響と “ヴァイオリン界のレジェンド” 前橋汀子である。

時の鐘
川越の観光名所の一つ「時の鐘」

 
 指揮の原田慶太楼は1985年東京生まれの若手。すらりとした長身と長い手足がカッコいい。プロフィールによると海外での活躍が目立つ。
 「オペラ指揮者としても実績が多い」という紹介文どおり、非常にメリハリあるドラマチックな音楽づくりが特徴と思った。ヴェルディの後期オペラ(『運命の力』とか『オテロ』とか)を聴いてみたい。
 
 読響の上手さは言うまでもない。「こうもり」序曲では、水の泡がはじけるようなクリアな輝きにスプライトを思った。
 前橋汀子の参入で、一気に高貴な香りとコクが加わり、高級シャンペンに格上げされた。
 ヴァイオリン協奏曲が進むにつれて、心地よい酔いが体中に染みわたり、ついにはネクターとなった。もちろん、不二家のピーチ味ではなく、原義の意味でのネクタル、すなわち「神の酒」である。
 演奏活動55周年の熟成は、さつまいもで有名な埼玉県の一地方都市のホールを、目をつぶれば、ウィーンのフォルクスオーパーに変容させてしまった!
 今日のメインはこの人だった。
 
 むろん、『新世界』はどう転んでも名曲。
 アンコールでは第二楽章(遠き山に日は落ちて)を繰り返してくれた。

 年末に『第九』を聴き、新年最初に『新世界』を聴くというのも、なかなか良いルーティンかもしれない。
 今年は、どんな新しい世界が待っているだろうか。
 『アナと雪の女王2』ではないが、In to the Unknown(未知の旅へ)踏み出そう!
 と掛け声はいいが、松葉杖じゃないか、われ・・・。

※この映画の英語主題歌のサビを最初に聞いたとき、「レズビアン・ラ~ブ♪」と聴こえたのはソルティだけではあるまい。前作のフェミニズムがさらに進化して、ついに「レズビアン讃歌か」とビックリした。











 
 
 
 

● 音痴トラウマ 本:『オーケストラの世界』(近藤憲一著)

2010年ヤマハミュージックメディアより『ようこそ! すばらしきオーケストラの世界へ』のタイトルで刊行
2019年改題し文庫化

 同じ著者による『指揮者の世界』の姉妹編。
 専門的になりすぎず、主観的になりすぎず、一般クラシックファンの目線からオーケストラの魅力を伝えてくれる好著である。

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 さて、ソルティは今でこそ、オーケストラの演奏会やオペラに行ったり、家でクラシックCDを聴いたり、たまに「第九」の合唱に参加したりと、音楽好きを自認しているわけであるが、もともと音楽アレルギーがあった。
 というより、歌アレルギーがあった。
 人前で歌を唄うのが苦手だった。
 理由は単純で、小さい頃から家族に、「お前は音痴だ」「調子っぱずれだ」と言われ続けたからである。
 あまりに言われたものだから、すっかり洗脳されて、「自分は音痴なんだ」と成人するまで思い込んでいた。
 音楽の時間に、学校の先生やクラスメートからたまに褒められることがあったが、それはおそらく声を褒めたのであって、音程の良さでは断じてないと思った。
 友人や職場の同僚とカラオケに行くのも嫌だった。
 なので、他の人が歌うのを聴いても、音程が正確なのかどうか、歌が上手いのかどうか、判定する資格は自分にはないと思っていた。
 基準となる音感が狂っているゆえに。

 さらに、家族がらみの記憶を言えば、小学生の頃、自分は天地真理のファンだった。
 70年代に一世を風靡した国民的アイドル歌手である。
 自分の小遣いで最初に買ったレコードは、彼女のヒット曲『ちいさな恋』、『ひとりじゃないの』、『虹をわたって』と、やはり当時人気のあったチェリッシュの持ち歌をカバーした『ひまわりの小径』の計4曲が入ったアルバム(33回転)だった。
 家族と一緒にお茶の間で歌番組を観ていて、天地真理が出てくると夢中になって応援したものだが、そのとき家族が必ず言うのは、「この人、歌ヘタクソだねえ」という一言だった。
 自分がけなされたような気持になった。

 ソルティ自身は、「天地真理が、歌が下手」とは全然思わなかった。
 たしかに、彼女の発声の仕方は独特で、他の歌手とくに演歌歌手なんかとは全然違っていた――透明感ある美しいソプラノだった――けれど、音程もリズムも別段おかしいとは思わなかったし、とにかく聴いていて気持ちよかった。
 しかるに、なにせ自分自身が音痴である。
 反論できずに、くやしい思いをした。
 
 あれから40年以上たった。
 たま~に、ネットで昔の歌謡番組の動画を見ることがある。
 歌謡曲全盛で、歌番組がいくつもあって、芸能界が輝いていた頃のアイドル歌手やスター歌手の歌唱姿に、懐かしさを覚える。
 当然、「白雪姫」と呼ばれた当時のうら若き天地真理の動画も見る。
 そして、驚くのだ。
 「歌、うまいじゃん!」

 持ち歌も良いが、『あの素晴らしい愛をもう一度』とか『この広い野原いっぱい』とか『虹と雪のバラード』などフォークソングが、情感豊かで心洗われる。
 そうなのだ。
 天地真理は子供の時からピアノを習い、国立音楽大学附属中学校および付属高校に進み、ピアノ科と声楽科に在籍した。
 音楽は素人レベルではないはず。
 あの独特の歌唱法には、クラシック要素が入っていたためだろう。
(ただ、いったん引退して復活してからの歌はひどかったが・・・)


天地真理

 
 すでにお分かりかと思うが、ソルティはきっと音痴ではなかった。
 ソルティ以外の家族が音痴だったのだ。
 
 音痴トラウマがなかったなら、もっと早くクラシックに馴染んでいたかもしれない、オケをやっていたかもしれない。
 コンサートで素晴らしい演奏に出会うと、ときどき口惜しい思いがするのはそのためだ。
 
 
評価:★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● 歓喜のイタメシ : 都響スペシャル「第九」

日時  2019年12月23日19時~
会場  東京芸術劇場コンサートホール(池袋)
出演
 指揮:レオシュ・スワロフスキー
 合唱:二期会合唱団
 ソプラノ:安井陽子
 メゾソプラノ:富岡明子
 テノール:福井敬
 バリトン:甲斐栄次郎

 退院後、松葉杖での初の外出は「第九」であった。
 いや、むしろこの「第九」を聴かんがために、リハビリを頑張り、退院したのであった。

 数日前からコンサートホールのある池袋駅の構内図とにらめっこし、どうやったら駅からホールまで階段やエスカレーターを使わずに到達できるか、検討した。松葉杖でエスカレーターに乗るのは、一見楽そうに見えて、実はとても危険なのである。エレベーターに限る。
 また、開演と終演の時刻、池袋は帰宅ラッシュのピークにあたる。駅構内も列車も混んでいる。乗り降りもたいへんだ。慣れない松葉杖では心もとない。
 当日は劇場近くのホテルに泊まることにした。それなら、早めにチェックインしてホテルで休み、余裕をもって会場入りし、翌日の空いている昼の時間帯に帰宅列車に乗ることができる。ちなみに、自宅の最寄り駅(ここのホームの階段で転落して骨折した)はエレベーターがあるので問題ない。
 ちょっとしたアドベンチャー。
 
 今回初めて知ったのであるが、池袋駅構内から地下道を通って、西口にある東京芸術劇場まで直接行けるルートがある。雨風を避けて劇場入りできるのだ。劇場に入ってしまえば、エレベータを2回乗り換えて、最上階のコンサートホールまでスムーズに行くことができる。
 ただ残念ながら、地下道から劇場に入る箇所(2b出口)に20段ほどの階段があった。その脇に車椅子用のリフトが設置されているが、それを動かすためにはわざわざ警備員を呼ばなければならない。ここだけは頑張ってリハビリで習得した階段昇降テクを披露した(誰に?)。
 
 一か月前に予約した席は、3階席の一番前の通路脇。まるで、ギプスと松葉杖を使うハメになることを予見していたかのような特等席だった。
 普通に歩いて5分もかからない距離にあるホテルから、30分かけて無事客席についた段階で、すでに頭の中に「歓喜の歌」は鳴り響いていた。

池袋駅構内図
複雑さではピカイチの池袋駅構内
 

 今回の指揮者はチェコ出身のスワロフスキー。オケは東京都交響楽団。どちらもはじめて聴く。
 なので、指揮者によるものなのか、それともオケの特徴なのか判別できないのだが、音に丸味があった。
 一つ一つの音が、透明の丸い泡に包まれて空間に放たれる。あたかも、子供の息によって一斉に吹き出される無数のシャボン玉のように。そして、そのシャボン玉には光線の加減で色彩が踊っている。
 前プロも中プロもなしに、いきなり「第九」第一楽章が始まってまず感じたのは、都響の文句つけようのない巧さとともに、鋭角のない温かみある音によって紡ぎだされた、激しくないまろやかなる「第九」であった。
 これはちょっと意外。

 丸い色彩の粒のような音が次々と空間に散りばめられていく様子から連想されたのは、なんと、子供の頃に観たテレビドラマ『気になる嫁さん』であった。愛くるしさいっぱいの榊原るみと、もじゃもじゃ頭の石立鉄男と、「リキ坊ちゃま~」の浦辺粂子が共演した、1970年代初頭の人気ファミリードラマである。
 毎回、オープニングでは爽やかなテーマ曲(大野雄二作曲)をバックに、スタッフや出演者の名前が定石どおりクレジットされる。
 このときの背景映像が点描だった。
 何もない無地の画面に最初の一点が打たれ、そこから次々とさまざまな色合いの点が矢継ぎ早に(早送りで)重ねられていく。最初はなんの絵か分からずに観ていると、テーマ曲が進むにつれて、形を成していき、しまいには花瓶に生けた色とりどりの花であることが判明するのだ。
 子供の頃、このオープニングが面白くてたまらなかった。点描というものがあるのを知ったのも、このドラマのおかげである。
 そう、都響&スワロフスキー&二期会合唱団による「第九」は、第一楽章の出だしの一音から始まって第四楽章のラストの一音で完成する、点描による絵画の創造のように思えたのである。
 では、ソルティの頭の中の画布では、いったいどんな絵が仕上がったのだろうか。


点描


 第一楽章は波打ち際の風景である。どこまでも広がる砂浜、押し寄せては曳いていく波、白く崩れる波頭、遠浅の海の透き通った海底、揺らぐ海草と遊ぶ魚たち、はじける泡、差しいる光。

 第二楽章では潜水艦のように海中に潜り、深海へと分け入っていく。さまざまな海の表情が描かれる。凪の海、時化の海、嵐の海、昼の海、夜の海、無数の生き物を育む母たる海。

 第三楽章の冒頭で、海に沈む夕日が鮮やかに描き出され、視点は海から空へと向かっていく。夕焼けが海水で鎮火されると、空には星々が煌めきはじめる。北極星、天の川、星雲、銀河、ブラックホール、そして広大な宇宙。

 ああ、この先には天があるのだな、この世を離れ、神(Vater)へと向かうのだな、天国への道が描かれるのだな。それでこそ「歓喜の歌」だ。

 と思いきや、第四楽章で4人のソリストと二期会合唱団の圧倒的な歌声で描き出されたのは・・・・
 あの世ではなく、この世であった!
 天界でなく、大地であった! 山であった! 森であった! 畑であった!
 神(Vater)ではなくて、人間(Menschen)であった! 兄弟(Bruder)であった!
 
 もちろんそうだ。
 それでこそ、この絵は完成するのだ。
 海と空と大地が描かれて、地球は完成する。
 人間や生き物が描かれて、世界は完成する。

 歓びはそこにある。
 彼岸ではなく此岸に。
 あの世ではなくこの世に。
 
 歓喜はどこか遠い別の場所、星空の彼方にあるのではない。
 それは「いまここに」あって、あなた自身がそれなのだよ。
 
 完成された絵は、そう伝えているように思われた。

 
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ホテル近くのイタメシ店で退院後初の外食








 

● ほすぴたる記 14 ポケットわいふぁい

 入院2週間経過。

 スマホのあまりの使えなさに業を煮やして、ネットでポケットWi-Fi(ルーター)契約をした。

 UQのWiMAX2+というサービスだ。
 月額約3000円(安心サポート込)で月間7GIGAまで利用できる。端末は、Speed Wi-Fi NEXT W06という機器で、端末代無料である。

 申し込んだ翌日には、手元に届いた。速っ!

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 さっそく設定してみた。
 と言っても、端末に付属のICカードを取り付けて電源を入れたら、スマホの方で自動的に読み込んでくれた。
 なんて簡単! 

 調べてみたら、ポケットWi-Fiの利用できる距離は、アンテナのタイプや障害物の有無にもよるが、だいたい50~100メートルだそう。
 庶民レベルの一軒家なら、どこでも使える。スマホはむろん、自宅のすべてのパソコンは電波範囲内だ。

 性能はいかに❓
 試しにスマホで動画を読み込んでみたら、動く、動く! 

 ベッド横の車椅子特別シートにて、クシシュトフ・エッシェンバッハ指揮、パリ管弦楽団の『マーラー交響曲第3番』第6楽章のライブ演奏(動画)を聴いて、音楽が天から降りて来た喜びを味わった。

 むろん、ブログを書くのも投稿するのも、これでストレスフリー。

 入院の思わぬ副作用、もとい副産物である。




 



 

● ほすぴたる記 11 のだめとカラヤン

 入院生活11日目。

 しきりに音楽が恋しい。
 事前にチケットを買ってとても楽しみにしていた演奏会(12/13東京芸術劇場でのマーラー『復活』)をキャンセルせざるを得なかった無念さもあって、余計に欠乏感が募っている。

 残念ながら、ソルティは軽量ノートパソコンとポケットWi-Fiを持っていないので、ここでは動画も映画も見られない。動画さえ見られれば、クラシック音楽はほぼ聴き放題なのに・・・。

 はい? スマホ?
 昨年の四国遍路のために購入した格安スマホの容量は4G、動画は見られない。どころか、病院の中というせいもあるのか、ネットにつながる時間さえ限られている有様。このブログを書くのにも苦労している。(投稿時刻を見よ!)

 原則「携帯電話や電気機器使用禁止」の院内には、Wi-Fiはない。
 この時代、入院しているからといってスマホやパソコンが使えないのはナンセンスであろう。ここの病院の入院患者は圧倒的に高齢者が多いから、今のところさほどクレームも出ていないようだが、ネット世代が増えるのも時間の問題だ。これからはネット環境で病院や入所施設が選ばれる時代が来よう。
 せめて、ネットが自由に使えるWi-Fiスペースが院内にあるといいのだが・・・。

 そういうわけで、音楽欠乏症にかかっている。
 今日は見舞いに来た八十過ぎの父親をパシリにして、近くの図書館まで、二ノ宮知子の『のだめカンタービレ』を借りに行かせた。
 なんつう息子だ! 8050問題か!

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 クラシック音楽ギャグ漫画といったところか。主人公のだめのキャラの魅力で引っ張る、引っ張る。評判通りの面白さに夢中で読みふけった。
 が、ナマ音が聴きたい思いをますます募らせてしまった。

「そうだ、今日は日曜じゃないか!! もしかして・・・」

 テレビ欄を調べたら、じゃーん! NHK教育テレビで夜9時からクラシック演奏会の放送がある。モーツァルトの交響曲40番とレクイエムだ。オケはもちろんN響、指揮はトン・コープマン。今年10月10日のライブ収録である。
 あって良かったNHK。

 夕食後、タイマーを21時にセットして仮眠。消灯ラッパの鳴り響く中(比喩ね)、おもむろにヘッドホンつけて本番に臨んだ。

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 N響のレベルの高い演奏には十分満足した。レクイエムの歌唱も良かった。
 しかるに、ソルティをまったく驚かせ、ここ数日の音楽欠乏症を完全に払拭したのは、コープマン&N響のモーツァルトではなかった。
 番組の残りの時間で放送された、在りし日のカラヤン&ベルリンフィルのベートーヴェン『運命』であった!
 流されたのは1957年にカラヤンがベルリンフィルを率いて2度目に来日した際の記録映像である。

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 度肝を抜かれた。

 映像はフィルムの劣化激しく見にくい。音声も現代の技術からすれば数段落ちる。その上、放送されたのは、全曲でなく抜粋である。
 しかるに、半世紀の時をタイムボカンのごとく超えて、テレビのモニターを貞子のごとく超えて、伝わってくる、このとてつもない熱量はなんとしたことか! 臨場感のハンパなさはどうだろう!

 音楽が生きている!!

 申し訳ないが、番組前半が吹っ飛んでしまった。

 やっぱり、カラヤンってタダもんじゃなかとね~。(by のだめ)





 





 

● その時、その場で 本:『指揮者の世界』(近藤憲一著)

2006年ヤマハミュージックメディアより発行(タイトル『知ってるようで知らない 指揮者おもしろ雑学事典』)
2015年現タイトルで文庫化

 著者は音楽之友社で働いていたこともあるフリーランスの音楽記者。

 指揮に関する基礎知識から始まって、ベテラン指揮者の井上道義や若手(当時、いまや中堅か)の下野竜也および都響コンサートマスタ-らへのインタビュー、世界的巨匠との共演豊富な在郷ベテランオケ楽員らによる覆面トーク、世界の名指揮者のエピソード、世界のオザワに対する著者の熱愛吐露など、盛り沢山な内容。
 読んで楽しく、指揮者やオケの本音や苦労を知り、クラシック音楽をより深くより愛情持って聴くことを可能ならしめる一冊である。

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 ときに、いろんな芸術家のいる中で、音楽演奏者ってのはもっとも“一発勝負性”が強いと思う。聴き手のいる「その時、その場」で良い演奏ができなければ、良い評価が得られなければ、成功して世に出ることも、演奏し続けることも難しい。

 これがたとえば画家であれば、生前まったく評価されず絵もまったく売れなかったのに、死後高い評価を得て一枚の絵に何億円という値段がつけられることがある。ゴッホがいい例だ。
 あるいは小説家。マルキ・ド・サドの作品は長いこと変態エロ小説としか思われていなかった(そもそも19世紀は禁書扱いだった)。それが今や、人間性の暗黒面を描いた傑作として古典入りしている。
 映画の分野でも、たとえば小津安二郎監督は生前にあっても国内でそれなりに評価は得ていたけれど、これほど世界的な名声をものするようになったのは没後数十年してである。
 同じ音楽家に目をやれば、作曲家は時代を超越している。マーラーは、いずれ私の時代が来る!」という自らの予言どおり、同時代よりも現代こそ、最高度の評価と関心のもと、世界中で作品が演奏され録音されている。あるいは、生前はまったく無名で貧苦のうちに35歳の若さで亡くなったヴァシリー・カリンニコフの2つの交響曲は、書いた当人は演奏会で自作を聴くことすらできなかったというのに、現在オーケストラのメインプログラムによく取り上げられるナンバーとなっている。

 言うまでもなく、こういった時間差の評価UPが起こるのは、作品が形として残るからである。画家なら絵として、小説家なら原稿や本として、映画監督ならフィルムとして、作曲家なら楽譜として。
 それにくらべると、演奏家は生きている間に評価されなければほとんど意味がない。演奏をCDやDVDに残すということはできるけれど、才能が如何され評価が定まるのはやはり生演奏(ライヴ)の場であって、その成功あってのレコーディングなり映像化なり記録化であろう。その意味でフジコ・ヘミングウェイはよくぞ間に合った。
 昨今では、ジャスティン・ビーバーや米津玄師のようにネット動画から人気を得てデビューする歌手も当たり前になってきているから、クラシック分野の歌手や演奏家でも同様のケースが続出するかもしれない。
 ただ、クラシックの場合は、いくらネットで人気を得て数十万回視聴されようが、実際の生演奏で目の前の聴衆なり評論家なりをうならせることができなければ、やはり駄目であろう。
 クラシック音楽の命はライブにある。「その時、その場」での感動体験こそが重要なのだ。いや、むしろ逆に、「その時、その場」を味わいつくすために音楽芸術というものは生まれ育ったのかもしれない。

オケ


 音楽演奏家のなかで、もっともシビアに“一発勝負”が求められるのが指揮者である。
 指揮者は、自らの評判と成功をまさに生きているうちに勝ち取らなければならない。指揮者自身は音を出さないので、You Tubeを利用して世に出ようと企むこともできない。没後に才能が発見されて、評価UPなんてことも起こりえない。そもそも指揮者は、たとえばピアニストやヴァイオリニストと違って、単独では演奏できない。俳優のように一人芝居できない。オケがいなければ話にならない。その肝心のオケを振るチャンスをつくるのがまずもって大変である。指揮者が自らの芸術を表現する機会は非常に限られているのである。
 だから、やり直しのきかない一回一回のライブに彼らは全存在を賭ける。
 カッコいいのも道理である。

音楽の演奏は、オーケストラの技量が問題なのではなく、指揮者と一体になった“魂の燃焼”があってこそ、人々に深い感動を与え、聴衆も演奏家さえも理解不能な“演奏の秘蹟”を生むものである・・・・(標題書より引用)




評価:★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損










● 水星交響楽団第60回定期演奏会 : マーラー第8番「千人の交響曲」

日時 2019年11月4日(月)14時~
会場 すみだトリフォニーホール
指揮 齋藤栄一

錦糸町のすみだトリフォニーホールに行くたびに気になっていたことがある。
国技館がある総武線両国駅から錦糸町駅に向かう高架の線路沿い、進行方向左手に、一瞬、窓ガラスを色とりどりのカーテンで飾った建物が見えるのだ。
アート系の学校か事務所だろうか?
あっという間に通り過ぎてしまうので、確かめようもない。


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面白いのは、高架を走っている総武線の列車の窓からのみ、この色彩美が楽しめることだ。
当のビルの中にいる人たちにしてみれば、各部屋ごとにカーテンの色が違うというだけの話であって、自分たちが見て楽しむことはできないはずである。
あたかも、列車通勤するストレスフルなお父さんたちへの贈り物のよう。
今回は両国駅出発時からスマホを準備し、カメラに収めることができた。


マーラー交響曲第8番の実演に接するのははじめて。
1910年の初演では出演者1030名を数え、「千人の交響曲」の異名をとった曲である。
今回、(物好きにも)プログラムに載っている出演者を数えたところ、

水星交響楽団     135名
合唱(成人)     297名
合唱(児童)       73名
ソリスト        8名
指揮者         1名
計          514名 

千人には遠く及ばないが、ステージを埋め尽くす黒と白のコスチュームは壮観であった。
むろん、トュッティ(全員演奏、全員合唱)でフォルテの迫力は大ホールを揺るがせんばかり。
終演時の盛大な拍手も当然至極であった。

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この曲の成功は、第二部のゲーテ『ファウスト』の使用にあるとつくづく感じる。
あの人類の至宝たる大傑作の最も感動的な場面すなわちファウスト救済シーンを、文学史上もっとも格調高く美しく深遠な詩文をそのままに、音楽で表現しきった点が、成功の大部を担っていよう。
むろん、大傑作にひるまず挑戦したマーラーの勇気と自信、そして奇跡の詩文に相応の響きを添わせることができたマーラーの天才的音楽性あってのことである。
ドイツが生んだ二人の大天才の協同作業なのだ。

それに比べると、第一部(神への讃歌)は確かに壮麗で荘厳で構成も見事で圧巻の出来栄えではあるけれど、魂の込め具合は第二部に敵わない。
マーラーの神(=父)への讃歌には、なんとなく無理なものを、どことなくぎこちなさを感じてしまう。
それは、近代的知性の抱く神に対する疑念、父権に対する揺らぎと相応しているのかもしれない。

一方、第二部を聴いていると、マーラーあるいは近代的知性が陥った苦しみが、

自然によって慰められ
子供によって贖われ
女性によって救われる

という構図が見えてくる。
近代的知性の苦しみとは、つまるところ、父権社会=男性原理の限界の露呈なのである。

「ファウスト」最後の一節、90分に及ぶ長い交響曲のクライマックスを飾るかの有名な「神秘の合唱」には、あたかも観音信仰のごとき、あるいはフロイトに対するユングの反発のごとき、女性原理への崇敬が顕されている。

すべて移ろい行くものは
永遠なるものの比喩にすぎず
かつて満たされざりしもの
今ここに満たさる
名状すべからざるもの
ここに遂げられたり
永遠にして女性的なるもの
われらを牽きて昇らしむ
(新潮文庫、高橋義孝訳)


マーラーの交響曲の中でも7番と並んで演奏回数の少ない8番を、舞台に乗せてくれただけでも、水星交響楽団には感謝である。


さて、感動も醒めやらぬまま両国駅まで歩くことにした。
くだんの建物の正体をいざ確かめん!

総武線の高架沿いに墨田区を横断していく。
途中で三ツ目通りの中央分離帯の柵に阻まれながらも、なおも進んでいくと、
到着しました!

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やはり、水平の視線を保てるある程度の高さから見ないと、美しさが十全に味わえない。
高架の反対側からはどうか?
回ってみると、マンションが建っていた。
マンションの5階以上の住人ならば、ベランダから、スカイツリーを背景としたカラフルなレイアウトを楽しむことができよう。
しかし、その場合、総武線の架線や電柱が邪魔になる。
やはり、列車の窓からが一番のビューポイントのようだ。

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さて、この建物の正体はなにか?
知ってびっくり。
保育園であった。


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● 香醇なるバタフライ、八千草薫を偲ぶ オペラ映画:『蝶々夫人』(カルミネ・ガッローネ監督)

1955年日本・イタリア合同制作。

音楽 ジャコモ・プッチーニ
指揮 オリヴェエロ・デ・ファブリーティス
演奏 ローマ・オペラ座管弦楽団
脚本 カルミネ・ガッローネ、森岩雄
撮影 クロード・ルノワール
美術 三林亮太郎、マーリオ・ガルブリア
協力 宝塚歌劇団
配役
  • 蝶々さん : 八千草薫(歌:オリエッタ・モスクッチ)
  • ピンカートン : ニコラ・フィラクリーデ(歌:ジュゼッペ・カンポラ)
  • スズキ : 田中路子(歌:アンナ・マリア・カナーリ)
  • シャープレス : フェルナンド・リドンニ(歌:フェルナンド・リドンニ)
  • ヤマドリ : 中村哲
  • ゴロー : 高木清
  • ボンゾ : 小杉義男
  • ケイト : ジョセフィーネ・コリー
  • 芸者 : 淀かほる、寿美花代、鳳八千代ほか
 

 八千草薫の蝶々夫人は、まさにオペラファンが理想に描く蝶々夫人そのものである。
 撮影当時23歳。清純で楚々とした雰囲気は十代の舞妓として十分通用する。立ち居振る舞いは優美で初々しく、表情には初めての恋に身を捧げる武家の娘らしい一途さ、毅然さが宿る。でありながら、これ以上ないほど可愛らしい。ピンカートンやヤマドリでなくとも、たいていの男は彼女を前にしてメロメロになってしまうだろう。

 歌は当然ながらクチパクで、本職のソプラノ歌手であるオリエッタ・モスクッチが歌っている。残念ながら出来はあまり良くない。まあ、歌が良すぎるとそっちに気をとられて映像を見るのが疎かになるから、バランス的にこれくらいがいいのかもしれない。

 外国人の手による『蝶々夫人』の演出は、日本人から見るとゲンナリしてしまうことが多い。中国と日本のごった煮になっていたり、着物の着方や立ち振る舞いが下品であったり、武士と坊主と歌舞伎役者の違いが分かっていなかったり・・・・。必ずしも写実主義がリアリティをもたらすとは限らないものの、あまりに考証が無茶苦茶だと、「この演出家は日本人を馬鹿にしているんじゃないか」と自然思ってしまうのだ。(ジャン・ピエール・ポネル演出の白塗りのミレッラ・フレーニが最たるもの。これを許したカラヤンを憎らしく思うほど)
 日本の伝統的事物や文化を自家薬籠中のものとなるほど消化吸収し、意図的に使うことで新たな効果を生み出すアンソニー・ミンゲラ演出まで行けば文句の言いようもないのだが、そこまでのものはなかなかお目にかかれない。きっと、『アイーダ』を観るエジプト人や『トゥーランドット』を観る中国人も、同じことを思うのだろう。

 この映画の美術・セット・演出は、まったく違和感なく明治時代の日本(長崎)である。日伊合同制作でスタッフに日本人が大勢加わっているのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。
 まぎれもない日本風景の中の、まぎれもない大和撫子の純情可憐な蝶々さん。
 それを表現したところにこの映画の一番の価値はある。

 往年の宝塚トップスターである淀かほる、寿美花代、鳳八千代が芸者役として出演しているのが思わぬボーナスであるが、八千草薫の初々しさばかりに目が行き、どこに出ているか分からなかった。


 ※香醇・・・・・中国語で、さわやかで混じりけがないの意。







● アケのオケ 慶応ワグネル・ソサエティー・オーケストラ 第228回定期演奏会

日時 2019年10月6日(日) 14時~
会場 すみだトリフォニーホール
指揮 太田弦
曲目:
  • プロコフィエフ/バレエ音楽『ロメオとジュリエット』
  • R.シュトラウス/楽劇『ばらの騎士』
  • シベリウス/交響曲第1番

 久しぶりの慶応ワグネル。
 前回は藤岡幸夫の情熱的な指揮のもと、素晴らしい音楽を紡ぎだし、夢見心地にさせてくれた。
 指揮の太田弦は2回目。
 前回は年齢層の高い手練れたOBオケとの共演で、タンホイザー序曲とマーラー5番という、いとも艶美なプログラムを均整の取れた精密なスタイルに彫琢していた。
 今回は、若い指揮者(94年生まれ)と若いオケのコラボ。
 どんな若さが飛び出すだろうか。

 太田弦は本年4月に大阪交響楽団正指揮者に就任したとか。
 15年間常任指揮者を務め、同オケのレベル&評価アップに貢献した寺岡清高の後任である。
 やはり才能が高く買われているのだ。

 ・・・と期待大で客席に着いたのだけれど、この日のソルティはアケ(夜勤明け)であった。
 仕事を終えた後、サウナに行って汗を流し2時間ほど仮眠をとっただけで、体調は万全とは言えなかった。
 なので、音楽にじゅうぶん対峙できたと確言できない。
 聴き手側に問題があったのかもしれないことを前もって記しておく。

 太田弦の指揮はなんとなく「疲れている、迷っている」かのように思えた。
 視覚的には颯爽とカッコよく指揮台の上で棒を振っているのだが、目を閉じると音楽に“気”が足りていない。
 前回のOBオケとの共演では、舞台から発しられた音波がこちらのチャクラを刺激し、公演中全身の“気”がうごめいた。
 蹂躙され、充填された。
 今回、発しられた音波はチャクラをノックしてはいるが、侵入する強さを持たなかった。

チャクラと冥想


 一つには、選曲によるのかもしれない。
 今回のプログラムの特徴を一言で言えば、「物語性」ということになろう。
 1曲目はヴェローナ(伊)を舞台に展開するシェイクスピアの有名な悲劇であり、2曲目は18世紀ウィーンの貴族社会を舞台とするラブコメである。
 どちらも男女の機微を描いている。
 3曲目のシベリウス交響曲第1番は標題を持たない器楽曲であるが、まぎれもないロマン派で、ひたすら美しく、ひたすら描写し、ひたすら歌う。
 
 1曲目こそ、伝統のワグネルの上手さとそれを操る太田の棒が冴え、迫力あった。
 何たって『ロミオとジュリエット』は十代の恋の物語である。
 彼らの知っている世界だ。
 
 が、2曲目は難物である。
 「若いツバメの幸福な将来のために身を引く、気品ある中年奥方の葛藤と諦念(小柳ルミ子とはベクトルが逆←若い人は知らんよな)」なんてものを、20代のインテリオケ×20代の男性指揮者がよく表現しうるだろうか?
 しかも、18世紀ウィーンのロココな香り――すなわちエロスとコケットリーを帯びた優雅さ、貴族社会の華やぎと気品、タイトル通りに薔薇の花の馥郁たる香り――のうちに大人の恋愛模様が表現されなければ、シュトラウス足りえない。
 ちょっと負担重しの感あった。
 
 3曲目のシベリウス1番は今回はじめて聴いたが、とんでもなく美しく、たいへんドラマチックな曲である。
 ラフマニノフ2番やカリンニコフ1番を思わせる。
 その美しさを十全に引き出し、大映ドラマのごとく劇的になり得る肝心なツボを、どうも取り逃がしているように感じた。
 「ああ、もったいない」と何度もつぶやいた。
 
 「物語性」を主要テーマに据えるには、若い指揮者×若いオケでは「十年早い」という気がしたのである。
 
 もっとも、和田一樹のように若くとも(若いうちから)「物語性」を得意とする指揮者もいる。
 「和田や藤岡が今回のプログラムを振ったら、若いワグネルからでもどれだけの感動を引き出せるだろう?」と思うことたびたびであった。
(和田は過去にリベラル・アンサンブル・オーケストラ共演で「ばらの騎士」を振っている。名演であった)

 「物語」を演奏するには、ある程度の人生経験か、あるいは生まれもっての感性(映画監督ならさしずめ木下惠介のような)が必要ではないかと思われる。
 太田弦の天性の才は、「物語性」に対する感性とは別口なのではあるまいか。
 タンホイザーとマーラー5番という「えらくエロく」語るプログラムを扱った上記のOBオケとの共演では、人生経験豊富なオケが持っている「物語性(世故にたける、とも言う)」が、太田の精密で繊細な指揮とうまい具合に相まって、抑制のきいた美を表出しえたのであろう。
 
 若い指揮者×若いオケで今回のようなプログラムに挑戦するのなら、むしろ難しいことはすべて投げうって、持ち前のパワーと情熱とにまかせてガンガン行くほうが聴衆を圧倒し、感服させるのではないかと思う。
 
 以上、辛口のようだが、ソルティはワグネルも太田も一度聞いて、その真価は確かめている。
 次回に期待。
 (次回はアケに当たりませんように・・・)

薔薇と蝶



評価:★★

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