ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

ライブ(音楽・芝居・落語など)

● 映画:『私は、マリア・カラス』(トム・ヴォルフ監督)

2018年フランス
113分
原題:Maria by Callas

私はマリアカラス

 20世紀最高の歌姫マリア・カラスの人生を、映像と朗読と彼女自身の歌声でつづったドキュメンタリー。
 カラスが書き残した未完の自叙伝(そんなものがあったのか!)や友人に宛てた手紙を、自身映画『永遠のマリア・カラス』(2002)でカラスを演じたことのあるファニー・アルダンが朗読している。
 
 これはもうファン垂涎の一品である。
 本邦というか世界初公開のカラスの舞台および舞台裏映像、インタビュー風景、プライベート映像が盛りだくさん。
 よくこれだけ集めたなあと感心する。
 とくに、モノクロフィルムに当時の写真をもとに着色した映像が新鮮。
 これまでに何度も目にしていた骨董品的映像が、色を付けられることで臨場感と華やぎが増し、撮影されたその場・その時代の空気を感じ、マリア・カラスが血の気の通った存在として蘇るような気がした。あたかも彫像が動き出したような。
 彼女が最も得意とした『ノルマ』の舞台映像やルキノ・ヴィスコンティの演出風景、カラス唯一の映画主演作『メディア』(パゾリーニ監督)の撮影風景など、レアな映像の数々に目が釘づけ、もちろんその奇跡の歌声に耳が釘付けとなった。
 映画のロケハンで、くもった眼鏡(カラスはド近眼だった)を磨くのにレンズに自分の唾を垂らすカラスの姿からは、エレガンスの粋を極めた彼女の本質が庶民にほかならないことを、あますことなく伝えている。

 登場する50~60年代の世界のセレブたちの顔触れも凄い!
 最初の夫バティスタ・メネギーニ(実業家)、最愛の男アリストテレス・オナシス(海運王)、最後の恋人と言われたジュゼッペ・ディ・ステーファノ(テノール歌手)はじめ、エルビラ・デ・イダルゴ(ソプラノ歌手・恩師)、ジャクリーン・ケネディ(元米国大統領夫人)、ヴィットリオ・デ・シーカ(俳優・映画監督)、オマー・シャリフ(俳優)、ブリジット・バルドー(女優)、カトリーヌ・ドヌーヴ(女優)、グレース・ケリー(女優・モナコ公妃)、エリザベス・テーラー(女優)、ウィンストン・チャーチル(元英国首相)、エリザベス女王、フランコ・ゼフィレッリ(映画監督・オペラ演出家)、ルドルフ・ビング(メトロポリタン歌劇場支配人)・・・・等々。
 どこに行っても膨大なファンとマスコミに取り囲まれ、容赦ないフラッシュと意地悪な質問を浴びせられる。その光景のすさまじさに比べられ得るのは、故ダイアナ妃のそれくらいであろうか。
 よっぽどタフでないとつとまるまい。

paparacchi

 個人的には、やはり映画の中で流されるカラスの歌声に圧倒された。
 若い時分から最盛期そして晩年近くまで、録音された歌を通して聴いていると、声質や声域の変化や劣化、表現力の深化などはあるものの、生涯にわたって共通しているもの――なによりもカラスの声を特徴づけていたもの――は、“悲哀さ”だったのだと分かる。
 声自体の美しさでは他のソプラノ歌手の後塵を拝すとしても、悲哀さにおいては追随するものがいなかった、いや今に至るまでいない。
 その悲哀さゆえに聴衆は呪縛され、胸を鷲づかみにされ、涙腺を破壊されてしまったのだ。
 エドガー・アラン・ポーがどこかで「美の本質は悲哀さにある」と書いていたのを思い出す。

 皮肉なのは、その悲哀さがカラスの――マリアの人生にも浸透してしまったことである。
 あるいは、カラスが演じたヒロインたちの悲劇が、マリアに乗り移ったのだろうか。 
 あれほどの成功、あれほどの栄誉、あれほどの人気を獲得しながらも、一人の女性としてのマリアの人生を鑑みるときに「幸福」という言葉は出てこない。
 もちろん「不幸」ではない。世の女性が、いや世の人間が、滅多に手に入れられない歴史に残る名声を得たのは間違いないのだから。
 芸術の神にかくも愛されたのだから。

 幸福とは平凡な人間にのみ許される特権なのだろうか。
 その生、その死――悲哀に満ちた美しさがある。

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おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● ウィーンの音楽を楽しむ会 63回(ギュンターフィルハーモニー管弦楽団)

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日時 2022年5月14日(土)18:00~
会場 小金井宮地楽器大ホール(東京都小金井市)
指揮 重原孝臣
曲目
  • モーツァルト:交響曲35番 ニ長調 K.385「ハフナー」
  • ベートーヴェン:交響曲8番 ヘ長調 op.93

 コンサート前に国分寺駅南口にある殿ヶ谷庭園(随宜園)に寄った。
 三菱の岩崎彦彌太の別邸だったのを1974年に都が買い取ったものである。 
 藤が終わってサツキにちょっと早い今の時期、花は多くないがそのぶん緑が目立ち、草いきれが強かった。

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入園料150円はお得

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かつてはここでゴルフやパーティーをしたとか

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竹林が美しい

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ハケ(崖線)が敷地内にあり湧き水が池を作っている

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紫ランとカルミア


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 小金井宮地楽器ホールはJR中央線・武蔵小金井駅南口のロータリーに面している。
 しばらくぶりに訪れたが、ショッピングモールや高層マンションが周囲に立ち並び、ちょっとしたセレブ空間になっていてビックリ。
 570名余入る大ホールに5割くらいの入り。ソーシャルディスタンス的にはちょうど良かった。

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小金井・宮地楽器ホール

 このオケを聴くのは2回目。前回は2016年12月であった。
  コロナ禍で2019年10月以来のコンサートという。見たところ、演奏者のみならず聴衆もまた高齢者率の高い会なので、スタッフはかなり神経を使ったのではなかろうか。
 再開を慶びたい。

 前回も感じたが、上手で安定感がある。
 長い年月(結成1980年)で育まれた技術とチームワークの賜物であろう。
 そこに待ちに待った舞台ゆえの喜びと緊張感が加わって、フレッシュな響きがあふれた。
 気圧の変化に弱い“気象病”のソルティは、ここ最近の天候不順のせいで軽い眩暈と耳鳴りに悩まされていたのだが、一曲目の「ハフナー」を聴いているうちに体が楽になった。
 そうか! 気象病にはモーツァルトが効くのか!

 ベートーヴェン第8番を聴くのは初めて。
 5番や7番や第9のような渾身にして畢生の大作といった感じではなく、無駄なことを考えず楽しみながら作った良品といった趣き。これを作った時のベートーヴェンの精神状態は良好だったに違いない。
 ロッシーニ風の軽さと諧謔味あるつくりに「遊び心あるなあ~」と心の内で呟いたが、時間的に言うとロッシーニ(1792年生)がベートーヴェン(1770年生)に学んだのだろう。
 3番『英雄』や6番『田園』のような主題を表すタイトルが冠されておらず、また第9のようなドラマ性(文学性)が打ち出されているわけでもない。
 その意味で純粋なる器楽曲と言っていい。
 ソルティがこの曲からイメージした絵は次のようなものである。

 子どもの頃、毎年ひな祭りになると実家では雛人形を飾った。妹がいたからである。
 雛人形の白く神妙なよそよそしい顔つきは、美しさや気品と同時に、どこか不気味さを感じさせるものであった。
「雛人形は人間が寝静まった夜になると勝手に動き出して、五人囃子の笛や太鼓に合わせて、呑んだり歌ったり踊ったりする」といった話を誰からともなく聞いた。あるいは、『おもちゃのマーチ』からの連想だったのだろうか?
 朝起きると、雛飾りを調べて夜中の宴会の証拠が残っていないか調べたものである。

 8番を聴いていたら、あたかも人間が寝静まった真夜中に、楽器店に置かれた楽器たちが、指揮者も演奏者も聴き手もいないのに、勝手に動き出して合奏を始める――みたいなイメージが湧いた。
 それぞれの楽器が得意の節を披露して自己主張しながらも、互いの主張を受け入れ、一つの楽器が作りだしたメロディーやリズムを真似したりアレンジを加えたりしながら次から次へとバトンし、次第に大きな流れを作り上げていく。そこには作曲家であるベートーヴェンの姿すらない。
 「楽器たちの、楽器たちによる、楽器たちのための祭り」である。

 あるいはそれは、宮地楽器ホールという会場ゆえに起きた錯覚であろうか?

楽器や



 
  

● ライブDVD:マリア・カラス in ハンブルク・コンサート


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収録日 1959年5月18日、1962年3月16日
会場  ハンブルク・ミュージックホール(ドイツ)
指揮  ニコラ・レッシーニョ(1959年)、ジョルジョ・プレートル(1962年)
演奏  北ドイツ放送交響楽団

 マリア・カラス(1923-1977)の舞台映像で昔から日本のファンの間で良く知られていて公式に発売されているのは、次の4つである。
  1.  1958年12月19日パリ・オペラ座ガラ・コンサート『トスカ』第2幕ほか(カラス36歳)
  2.  1959年5月18日ハンブルク・コンサート(36歳)・・・当DVD収録
  3.  1962年3月16日ハンブルク・コンサート(38歳)・・・当DVD収録
  4.  1964年2月9日(ロンドン)コヴェント・ガーデン王立歌劇場『トスカ』第2幕(40歳)
 他に、1974年10月19日にNHKホールで収録されたテノール歌手ディ・ステーファノ共演の東京公演の映像(51歳)もあるが、不世出のオペラ歌手としての名声偽りないことを証明し歴史的価値を有しているのは、上記4つの記録であると言って間違いなかろう。
 とりわけ、1と4のライブ映像ではカラスが最も得意とした演目のひとつであるプッチーニ作曲『トスカ』の第2幕が、最高のスカルピア役者であったバリトンのティト・ゴッビの名唱・名演と共に収録されており、息の合った2人の火花を散らす歌の応酬と「トスカの接吻(刺殺)」に至るまでのスリリングな一挙手一投足は固唾をのんで見守るほかない。
 58年と64年の二つのトスカの違い――カラスの声や容姿以上に変貌著しいのは役に対する解釈の違いである――も興味深いところである。

 ソルティは20代の時にマリア・カラスに夢中になって、彼女が出演しているオペラやコンサートのライブやスタジオ録音のCDを買い集め、彼女について書かれている本をずいぶん読み漁ってきた。
 が、このハンブルク・コンサートの映像は未見であった。
 当時この映像はレーザーディスクで観るほかなくて、ソフトも機器本体も高すぎて、おいそれとは手が出せなかった。二つのトスカ映像のほうはVHSで観ることができた。
 30代に入って急速にクラシック熱が冷めてしまい、未見のままになった。
 今やネットで『ハンブルク・コンサート』の中古DVDが数百円で手に入るし、一部の映像はYouTubeで無料で観ることもできる。このDVDも近所のゲオでなんと150円で手に入れた。
 こんなにオペラが身近になるとは・・・・!

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ソルティ所有のカラスCDコレクションの一部

 カラス=女神と思っていた20代の頃とは違う冷静な目で、いまこのライブ映像を視聴して思うのは、まずカラスはそれほど飛びぬけた美人ではないし、人並み以上に美しい声の持ち主でもなかった、ということ。
 ソプラノ歌手と言えば横幅たっぷりの「だいじょ~ぶ」がお決まりだった当時はともかく、映像時代の現在ではカラスより容姿の点で優れる歌手はごまんといる。モデル並みのスタイルの歌手も少なくない。
 また、カラスがそのスタイルをまねたオードリー・ヘップバーンはじめカトリーヌ・ドヌーブやエリザベス・テーラーなど、銀幕を飾る当時のスター女優たちにくらべればどうしたって容姿では敵わない。
 むしろ、アップで観ると鼻や口など個々のパーツが大きく、顔つきに険があり、美女というより烈女という感が強い。
 もっとも、『ガラスの仮面』の北島マヤのように舞台上で美しく化ける能力というものがある。カラスはまさにそれで、観客は舞台上のカラスが演じる椿姫やトスカやルチアに絶世の美女を見ていたのである。
 優雅な仕草を含め舞台映えする容姿であるのは間違いない。

 次に声であるが、これは当時から決して美しさゆえに注目を浴び絶賛された声ではなかった。
 ライバルと言われたテバルティの「天使の声」はもちろんのこと、モンセラ・カバリエ、ジューン・サザーランド、ミレッラ・フレーニ、エディタ・グルベローヴァキャスリーン・バトル、ナタリー・デッセイ等々、カラス以降に一世を風靡したどの世界的プリマ・ドンナと比べても、声自体の美しさでは後塵を拝している。
 とくに衰えが目立つようになった60年代は、全体に声が太く低くなり、高音部は金属的な響きが増して、ときに耳障りなほどである。ハンブルク・コンサートでも、59年と62年では明らかに声が違っている。(そのため62年のコンサートではメゾソプラノの楽曲がほとんどである)
 カラスの歌がカフェやデパートやプールサイドで流すような環境音楽あるいは作業用BGMに向かないのは、それが癒しや快適さや作業効率を高める類いの声ではないからである。 
 しかしこれもまた不思議なもので、その声はスタジオ録音で聴くよりオペラライブで聴く方が断然美しい。劇場空間において、美しく響く声だったのだろう。

 その声は真に個性的なものだった。
 俗に「七色の声」と言うが、ソルティの知るかぎり「七色の声」という形容にほんとうにふさわしい歌手は、マリア・カラスと美空ひばりだけなんじゃないかと思う。
 カラスは、重く強靭な本来のドラマチックな響きと、努力によって獲得した軽く滑らかに歌う技巧とを併せ持ったソプラノ・ドラマティコ・タジリタという奇跡の声の持ち主であった。フレーズごとに声を使いわけ多彩な感情を表現できる、つまり歌で芝居できるところが、まさに美空ひばりと好一対と言えよう。
 
 舞台映えする容姿、独特な声、卓抜なる技巧にもまして、カラスをカラスたらしめたのは、言うまでもなく、役に没入する力であろう。
 多くの評者によって言いつくされていることではあるが、このハンブルク・コンサートでは、これから歌うアリアの前奏を指揮者の横で目をつぶって聴いている間に、それぞれのオペラの役に次第に没入していき、いざ歌い出す瞬間には表情や姿勢や雰囲気が歌い出す前とは別人格になっている、あたかも多重人格者の人格変容の現場をとらえたかのようなカラスの姿を見ることができる。
 観客はそこに舞台上のカラスにかぶさるように、カルメンやマクベス夫人やシンデレラやロジーナや王妃エリザベッタなどオペラの諸役を見る。逆に言えば、それらの悲喜劇を生きた女性たちに憑依されたカラスを見る。
 この高い技巧に裏打ちされた役への没入ぶりは、英国の誇る国民的女優マギー・スミスに通じるものを見る。

 オペラ業界のみならず社交界や世間を騒がせた数々のスキャンダラスな振る舞いに示されたような、あれほど強烈な個性を持ちながらも、いざ舞台に立って歌うとなると「何を演ってもカラス」には決してならなかったところが凄い。
 その秘密はおそらく、カラスの中には巨大な空虚があったからではなかろうか。
 その空虚あればこそ、古代から現代までの様々な国や地域で劇的な境遇に置かれたヒロインたちが下りてきて、カラスの身体と声帯を自在に使いこなすことができたのだ。
 マリア・カラスは巫女(よりまし)のようなもの。
 あるいは、マリア・カラスというスターですら、時代によって演出され、ギリシャ系移民の子としてアメリカに生まれたマリア・アンナ・ソフィア・セシリア・カロゲロプーロス(カラスの本名)によって演じられた一個のキャラクターであったのかもしれない。

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マクベス夫人が憑依中
(1959年コンサートより)

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カルメンが憑依中
(1962年コンサートより)

 今回、はじめてハンブルク・コンサートを見て新鮮に感じたことがある。
 それは、59年のコンサートと62年のコンサートでは、カラスの表情や雰囲気や身のこなしが全然違うのだ。
 明らかに62年のカラスは幸福に輝いている。
 表情に自然な笑みがあり、雰囲気は優しく柔らかで、身のこなしはより女性的で艶っぽい。
 すなわち幸せオーラーに包まれている。
 歌唱自体は上に書いたように、59年のほうがおそらく声が保たれていて完成度が高い。役への没入も59年のほうが集中力があって深い。59年のカラスはまさに「孤高の芸術家」といった感じで、近寄りがたいものがある。
 62年のカラスは、観客にも舞台上の演奏家たちにも極めてフレンドリーで、「雌豹」というあだ名を奉られた剣呑なイメージとは程遠い。
 3年ぶりにディーバに接したオケのメンバーたちは、その変化に驚いたのではなかったろうか。
 こんな幸福なカラスがいたなんて・・・・!

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59年のカーテンコール中のカラス
優雅だが硬いところのある笑顔

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62年カーテンコールのカラス
生の輝きと希望に満ちた笑顔

 この4年間のカラスの変化の背景にあるのは、おそらく、デビュー以来のマネージャ兼夫だったメネギーニと別れて、ギリシャの海運王アリストテレス・ソクラテス・オナシス(しかし凄い名前だ)との恋に走ったことであろう。
 62年のカラスは、“女としてのよろこび”を謳歌していた真っ最中だったのである。
 
 しかるに、カラスの幸福は長続きしなかった。
 有名女性をコレクションすることに多大なる関心を抱いていたオナシスは、手に入れたカラスに飽きて、女遊び(男遊びもあったらしい)を繰り返したあげく、今度はケネディ未亡人ジャクリーンにちょっかいを出すようになる。
 カラスに冷たい仕打ちを重ねるオナシスと、もしかしたら最後になるかもしれない恋と家庭生活への希望をあきらめきれないカラス。
 その葛藤と苦しみの中で生まれたのが64年の壮絶な『トスカ』第2幕であった。
  
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64年コヴェントガーデンでトスカを演じるカラス
 
 わずか5年の間に撮られた4つのライブ映像を、カラスの恋愛事情や生活上の変化を踏まえながら視聴していくと、非常に興味深い。
 そして、生活上の幸不幸のすべてが、結局は芸術の深化に寄与せざるを得ない“選ばれし”天才のさがに思い至り、黙然とする。
 
 


● バルトリ22歳 オペラライブDVD :ロッシーニ作曲『セビリャの理髪師』


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収録年 1988年
場所  ロココ劇場(シュヴェツィンゲン、ドイツ)
指揮  ガブリエル・フェルロ
演出  ミヒャエル・ハンペ
演奏  シュトゥットガルト放送交響楽団
合唱  ケルン歌劇合唱団
キャスト
  • アルマヴィーヴァ伯爵: デイヴィッド・キュープラー(テノール)
  • バルトロ: カルロス・フェラー(バス)
  • ロジーナ: チェチーリア・バルトリ(メゾソプラノ)
  • フィガロ: ジノ・キリコ(バリトン)
  • バジーリオ: ロバート・ロイド(バス)
  • ベルタ: エディト・ケルテス・ゲブリー(ソプラノ)
演奏時間 158分

 オペラ名歌手列伝にすでに殿堂入りしている世紀の名歌手チェチーリア・バルトリ(1966- )の22歳時のライブ。
 いまだスカラ座にもメトロポリタン歌劇場にもデビューしていない駆け出しの頃の記録という点で、貴重である。
 観客もどちらかと言えば、フィガロを歌ったジノ・キリコにより多くの拍手を送っている感じがする。後年、これほどの大歌手になるとはさすがに想像できなかったろう。

 とは言え、一回りも二回りも年上の先輩歌手たちをしのいで圧倒的な技巧とベルカントぶりを発揮しているのは、明らかにバルトリである。
 コロラトゥーラに荒削りなところもあり後年の流れるような滑らかさは欠けるけれど、「20代初めでここまで完成していたのか!」と驚かざるを得ない。
 声は美しいし演技も適確、なにより観客に対するアピール力と視線を集めてしまうオーラーは、すでに十分なプリマドンナの貫禄。
 この舞台の成功はひとえにバルトリの歌唱に拠っている。
 栴檀は双葉より芳し。

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ロジーナの有名なアリア『今の歌声は』を歌うバルトリ

 『セビリャの理髪師』の映像は、ジョイス・ディドナートがロジーナを歌った2002年パリ・オペラ座ライブもある。
 こちらはロジーナはじめフィガロ、アルマヴィーヴァ伯爵、バルトロの主要キャラ4人の歌手が高レベルで拮抗して、聴きどころ満載だった。
 ベルタ役のジャネット・フィッシャーの元気溌剌な演技も良かった。
 パトリス・シェローの演出も楽しかった。
 総合的なレベルではパリ・オペラ座版に軍配を上げたい気がする。

 いずれにせよ、ロッシーニの音楽には人を中毒にさせる魔力がある。
 遊園地で一番人気のアトラクションの秘密は、「スピード・回転・浮遊感」の3つを備えていることにあると言われるが、ロッシーニの音楽はまさにそれなのだ。
 観客は劇場に居ながらにして、ジェットコースターに乗っている感覚を味わうことになる。





● 310円、310円・・・ オペラDVD:ビゼー作曲『カルメン』


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収録年 1987年2月
会場  メトロポリタン歌劇場(ニューヨーク)
管弦楽&合唱 同劇場管弦楽団&合唱団
指揮  ジェイムズ・レヴァイン
演出  ポール・ミルズ
キャスト
 カルメン: アグネス・バルツァ(メゾソプラノ)
 ドン・ホセ: ホセ・カレーラス(テノール)
 エスカミーリョ: サミュエル・レイミー(バリトン)
 ミカエラ: レオーナ・ミッチェル(ソプラノ)

 80年代後半に一世を風靡したバルツァ&カレーラスの黄金コンビによる『カルメン』。
 1986年にKDD(現:KDDI)のCMで俳優の斎藤晴彦(2014年没)が「310円、310円・・・」といった宣伝文句を早口で歌ったのを覚えている人も少なくないと思う。あの替え歌の原曲が『カルメン』序曲であった。
 あのCMで斎藤晴彦は大ブレイクを果たしたが、背景にはバブル到来を象徴するようなオペラブーム、そして『カルメン』ブームがあった。
 ソルティは「バブル」と言うと、この狂騒的でありながら破滅の予感を孕んでいるカルメン序曲が浮かんでくる。

 このコンビの成功は、バルツァとカレーラスがこれ以上にないハマリ役だったことが大きい。
 ギリシア生まれのバルツァの激しそうな性格(ほんとはどうか知らないが)と人目を引く個性的な顔立ちと鋭角的な声の表現、スペイン生まれのカレーラスの純朴で生真面目なイケメンぶりと熱情たっぷりの歌声。
 魔性の女カルメンと彼女に玩ばれる元兵士ドン・ホセにそれぞれぴったりであった。(カレーラスときたら名前まで役と同じである)
 もちろん、2人の歌唱と演技もすばらしく、ふられた男がふった女を激情に駆られて刺し殺すという三面記事にありがちな陳腐な色恋沙汰を、ギリシア悲劇かシェークスピア劇のような深みある運命劇にまで押し上げている。
 2人の相性の良さも抜群である。

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アグネス・バルツァとホセ・カレーラス

 ドン・ホセ役は、カレーラスの親友でありライバルでもあったプラシド・ドミンゴも得意としていた。
 1978年ウィーン国立歌劇場のカルロス・クライバー指揮『カルメン』のライブDVDで、ドミンゴはエレーナ・オブラスツォワ相手にドン・ホセを歌っていて、これが相当に凄い。
 ドミンゴはホセになりきっていて、舞台上のカルメンであるオブラスツォワが本気でドミンゴを恐がっているかのように見える。
 ドミンゴは1984年公開の映画『カルメン』(フランチェスコ・ロージ監督)でも、ジュリオ・ミゲネス・ジョンソン相手にドン・ホセを演じているが、これもまたカッコよく素晴らしかった。
 個人的には、都会的な洗練と母性本能をくすぐる甘さを持つカレーラスのドン・ホセより、真面目と執着が表裏一体のストーカー気質を匂わすドミンゴのドン・ホセのほうが、リアリティにおいて勝っているのではないかという気がする。
 ただ、ドミンゴとバルツァが組んで成功するかと言えば、たぶん難しかっただろう。
 2人の個性が強すぎて、互いに食い合ってしまい、芝居そっちのけで主役の奪い合いに転じそうだ。
 最後はほんとうに舞台上でドミンゴがバルツァを刺しかねない。
 あるいは逆か(笑)

 エスカミーリョ役のサミュエル・レイミー、ミカエラ役のレオーナ・ミッチェルも、堂々たる歌いっぷりで、総客席4000というメトロポリタン歌劇場の大向こうをうならせるに十分な美声と声量である。
 エスカミーリョは、色男で闘牛士で子供たちのヒーローで女にモテモテの上に、『闘牛士の歌』という世にも名高いアリアを与えられている。
 すべてのオペラのバリトン役の中で最も得な役回りと言える。
 篠沢紀信か葉加瀬太郎のようなヘアスタイルのジェイムズ・レヴァインも若々しく、力が漲っていて、迫力あるしかしきめ細かい演奏を紡ぎ出している。
 
 『カルメン』ライブ記録の決定版という位置づけを今も失っていない名盤である。

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左から、カレーラス、レヴァイン、バルツァ、レイミー






● アプリーレ・ミッロの時代 オペラDVD:ヴェルディ作曲『仮面舞踏会』


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収録年 1991年1月
会場  メトロポリタン歌劇場(ニューヨーク)
管弦楽&合唱 同劇場管弦楽団&合唱団
指揮  ジェイムズ・レヴァイン
演出  ピエロ・ファッジョーニ
キャスト
 グスタフ3世 :ルチアーノ・パヴァロッティ(テノール)
 レナート :レオ・ヌッチ(バリトン)
 アメリア :アプリーレ・ミッロ(ソプラノ)
 ウルリカ :フローレンス・クイヴァー(メゾソプラノ)
 オスカル :ハロライン・ブラックウェル(ソプラノ)

 ヴェルディ中期の傑作。
 スウェーデンの啓蒙絶対君主であったグスタフ3世(1746-1792)の暗殺という史実に材を取っている。

 国力増強に努めるとともに社会福祉に力を入れ国民の人気を集めたグスタフ3世は、一部貴族から反感を持たれていた。ある晩ストックホルムのオペラ座で開催された仮面舞踏会の最中、背後から拳銃で撃たれ、それがもとで命を落とした。犯人として捕まったのは、ヤコブ・ヨハン・アンカーストレム伯爵であった。

 本作は、この史実をもとにしながら、グスタフ3世と忠実な部下であり親友でもあるレナート(アンカーストレム伯爵がモデル)、そしてレナートの妻アメリアの三角関係を創作し、暗殺の動機を政治的なものから痴情的なものに転換している。
 すなわち、グスタフとアメリアの関係を誤解したレナートが、華やかなる仮面舞踏会の会場でグスタフを刺し殺すという恋愛悲劇である。
 レナートは、妻として自分を裏切ったアメリアより、友として自分を裏切ったグスタフのほうが許せなかったのだ。
 その直前にグスタフは身分を隠して女占い師ウルリカのところに行き、将来を占ってもらう。
 ウルリカは言う。「おまえは身近な人間の手で殺される」
 この予言が実現してしまったわけで、いかにも大時代的なベタな設定だなと思うが、なんとこれもまた史実で、ウルリカは実在の占い師で暗殺予言も実話らしい。

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 全体にヴェルディらしいドラマチックで重厚な曲調で、アリアや重唱や合唱の出来も良い。
 中だるみのない緊密な音楽構成は、中期の傑作として上げられるのももっとも。

 運命のいたずらで、レナートはグスタフとアメリアが深夜二人きりで会っている現場を目撃してしまう。二人の間に肉体関係はなかったのだが(身も蓋もない言い方でスミマセン)、レナートはてっきり自分がコキュされたと思い込む。
 しかもバツの悪いことに、現場にはグスタフの命を狙う貴族たち一味も潜んでいて、一部始終を見られてしまう。
 この衝撃のシーンにおいて、ヴェルディは、貴族たちの「ハハハ」というレナートへの嘲り笑いを歌にした軽妙な音楽を入れる。 
 もっとも悲劇的なシーンに、もっとも喜劇的な音楽をぶつけて、ドラマをさらに盛り立てるヴェルディの天才性には唸らされるばかり。

 世界のメトである。
 オケや合唱はむろん、出演歌手たちも当時の最高峰を集めて、間然するところがない。
 パヴァロッティは声の素晴らしさは言うまでもないが、王様の衣装が実に良く似合って、あの髭面がイケメンに見える。
 レオ・ヌッチの形式感ある立派な歌唱、抑えた演技は好ましい。
 オスカル役のハロライン・ブラックウェルの明るいコロラトゥーラソプラノと軽快な動きは、暗く陰惨な作品の雰囲気を緩和してくれる。
 そして、アメリア役のアプリーレ・ミッロであるが・・・・

 ソルティが人生ではじめて観たオペラのライブは、1988年メト来日公演の『イル・トロヴァトーレ』(NHKホール)であった。
 このときの指揮者はジュリアス・ルデール。
 予定されていたキャストは以下のとおりだった。
  • レオノーラ:アプリーレ・ミッロ
  • ルーナ伯爵:シェリル・ミルンズ
  • マンリーコ:フランコ・ボニゾッリ
  • アズチェーナ:フィオレンツァ・コソット
 オペラ好きならもうお分かりだろうが、オペラ史に残る名演フィオレンツァ・コソットのアズチェーナが聴きたかった・観たかったのである。
 しかし、理由は忘れたが、直前にコソットが来られなくなって、急遽代役が立てられた。
 ソ連(!)から駆けつけた名歌手エレナ・オブラスツォワがアズチェーナを歌った。
 安くないチケットを買い、字幕を見ないで済むようリブレット(台本)を読みこなし、CDで聴きどころを繰り返し聴き、準備万端整えていたのに、一番の目的が果たされずがっかり・・・・ではあったが、さすが世界のメト、やっぱり素晴らしい舞台だった。
 コソットの不在という大きな穴を埋めてくれた一番の功労者は、しかし、エレナ・オブラスツォワではなかった。
 メトの有望新人ソプラノとして赤丸急上昇のアプリーレ・ミッロだった。
 当時まだ20代だったのではなかろうか。
 よく通る豊麗な声と深い響きが合わさった、まさにヴェルディのヒロインにぴったりの声だった。
 とりわけ第4幕第1場のレオノーラのアリア『恋は薔薇色の翼に乗りて』は絶品で、彼女の歌声によって、昭和バブル期のNHKホールから、月の輝く中世ヨーロッパの古城にタイムスリップしたかのような感覚を抱かされた。
 あの世の主役はミッロだったと思う。

 ソルティの素人判断はともかくとして、ミッロは非常に期待されたソプラノだった。
 もちろんすでにメトのプリマには到達していたのだが、それ以上の存在になる、オペラ黄金時代(1950年代)のテバルティやカラスの域まで行くのではないか、とさえ言われていた。
 本ライブでも、大先輩であるパヴァロッティやレオ・ヌッチにまったく引けを取らない堂々たる歌唱で、ヴェルディの音楽に内包するドラマ性と抒情性を見事に表現しきっている。
 声のコントロールも巧みである。
 これで20代とは!
 たしかに末恐ろしい。

 その後、ソルティがミッロの歌声を生で聴く機会を持ったのは、1992年1月ローマ・オペラ座だった。
 イタリア旅行中のローマでミッロのリサイタルがあると知り、当日券を買った。
 久しぶりに聴くミッロは調子悪そうで、声がよく出ていなかった。
 ライブの途中で、彼女自身が客席に向かって、「今日は風邪をひいて声の調子が良くありません」と弁明しなければならないほどだった。
 その後、ミッロの名前を聴く機会は急速に減った。
 どうも80~90年代初頭がピークだったようだ。
 喉を壊したのだろうか?
 それとも、キャスリーン・バトルに虐められた?

ローマオペラ座
ローマ・オペラ座
 
 本DVDは、デアゴスティーニ発売「DVDオペラコレクション」(2009年創刊)の一枚で、ブックオフで500円で購入した。
 世界的歌手が出演する伝説のオペラライブを収録したLD(レーザーディスク)が1万円以上して、それを観るためのLDプレイヤーが10万円以上した時代を知る者にとって、こうしてワンコインで画質も音響も良い映像ソフトを手に入れられて、自宅の低価格DVDプレイヤーで気軽に視聴できるのは奇跡のようである。







● 誰がカリンニコフを責められよう⁉ メトロポリタンオーケストラ・コンサート


日時: 2022年3月13日(日) 14時~
会場: 日野市民会館(ひの煉瓦ホール)
曲目:
  • J.シベリウス: 交響詩『フィンランディア』
  • V.カリンニコフ: 弦楽セレナーデ
  • A.ドヴォルザーク: 交響曲第6番
指揮: 竹内健人

煉瓦ホール
ひの煉瓦ホール

 東京都立大学管弦楽団の2021年度卒業生らによるコンサート。
 在学中コロナ禍で演奏機会が奪われたことから、このたび発足したという。
 積もる思いがあったことだろう。
 
 曲目はかなり前に決まっていたと思うが、なんだかあまりにタイムリーな選曲で、今日のこの事態を予期していたかのよう。
 ロシアやスウェーデンに長年支配され苦しめられてきたフィンランド出身のシベリウス。
 社会主義国としてソ連の強い監督下にあったものの1992年ビロード革命で共産党体制が崩壊、その後2つの国に分かれたチェコスロヴァキア出身のドヴォルザーク。
 そして渦中のロシア出身のカリンニコフ。
 民主化と民族自立を求めて立ち上がったフィンランドとチェコスロヴァキアが、巨大なロシアを間に挟むという、対プーチン的プログラムであった。
 もっとも、挟まれたカリンニコフは貧乏と病気に苦しんだ上に34歳と短命で、作曲家として不遇な人生だった。音楽家としての名声においては、シベリウスとドヴォルザークに到底かなわない。

 ひの煉瓦ホールは、JR中央線・日野駅から歩いて15分ほどの高台にある。
 駅からの道は結構な登りで、途中で上着を脱ぎ半袖シャツとなった。
 20度近いポカポカ陽気は外歩きを誘う。
 が、ソルティはこの時期、コロナでなくとも外出自粛の身であった。

花粉症

 結局、花粉症のため頭がボーっとして、客席で半分まどろんでいる始末。
 まあ、ナマの音の刺激は気持ちよかったから、これはこれで良いとしよう。
 
 イベント制限解除で、これからアマオケもどんどん復活するだろう。
 世界ではロシア出身の音楽家があちこちの劇場から排除されている現実がある。
 が、今回のコンサートのように、プログラムからだけはロシアを排除せず、カリンニコフもチャイコもショスタコーヴィッチもラフマニノフも、どんどんやってほしいものである。












● 老いらくの恋はよしなさい? オペラDVD :ドニゼッティ作曲『ドン・パスクワーレ』


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収録日 2002年2月13日
会場  カリアリ歌劇場(サルジニア島、イタリア)
管弦楽 同劇場管弦楽団
指揮  ジェラール・コルステン
演出  ステファノ・ヴィツィオーリ
キャスト
 ノリーナ :エヴァ・メイ(ソプラノ)
 ドン・パスクワーレ :アレッサンドロ・コルベッリ(バリトン)
 エルネスト :アントニーノ・シラグーザ(テノール)
 マラテスタ:ロベルト・デ・カンディア(バリトン)

 ガエタノ・ドニゼッティ(1797-1848)が作曲したオペラ・ブッファ(喜劇)の中で、『愛の妙薬』と並んでもっとも有名で音楽的評価の高い作品である。 
 が、『愛の妙薬』にくらべ上演される機会が少ない。
 その理由を推測するに、これが「高齢者虐待」の話だからではないかと思う。
 金持ちの老人ドン・パスクワーレを、甥っ子エルネストの婚約者ノリーナと、ノリーナの兄でパスクワーレの主治医であるマラテスタがつるんで罠にかけ、さんざんな目に合わせる話なのである。

 ノリーナときたら、パスクワーレと偽りの結婚をして彼の財産を浪費するわ(経済的虐待)、悪しざまにののしるわ(心理的虐待)、暴力を振るうわ(身体的虐待)とやりたい放題。
 劇の最後でノリーナによって高らかに歌われる“この話の教訓”は、「老いらくの恋はよしなさい。鐘を鳴らして退屈と苦悩を探しに行くようなもの。愚かなだけよ」というもの。
 主役であるにもかかわらず、パスクワーレは若者たちに「老いぼれ」と馬鹿にされ、右に左にいいように玩ばされ、なんとも哀れなのである。
 高齢世代の観客が多数を占める昨今の歌劇場で、到底あたたかく歓迎される作品ではない。
 しかも、パスクワーレ、まだ70歳に過ぎない。

 本作の初演は1843年。
 ヨーロッパの平均寿命は40歳くらいであった。
 その一番の理由は乳幼児の死亡率が高かったからであるが、戦前までの我が国同様、「人生50年」であった。
 当時70歳と言ったら文字通りの古稀(古来稀なる)、現代の感覚からすれば100歳越えと言った感じではなかろうか。
 そのお年寄りが何十歳も年下の花嫁をもらうことに決め、可愛がっていた甥エルネストを遺産相続から外して無一文で屋敷から追い出そうとしたのが、ことのきっかけであった。
 マラテスタとノリーナの兄妹は、エルネストを窮地から救い、ノリーナとの結婚を成就させるためにタッグを組んでパスクワーレを罠に嵌めたのである。

 当時の観客(当然40代以下がほとんどだったろう)からすれば、70歳の老いぼれが金に飽かして若く美しい嫁をもらおうとし、将来ある若者たちの恋路を邪魔するなんて、「厚顔無恥、失笑千万、言語道断」と思ったであろうし、兄妹の仕掛ける罠にはまってすっかり面目を失ったパスクワーレの惨めな姿に、「ほら見たことか」と快哉の叫びを上げもしただろう。

 時代は変わった。
 いまや70歳と言ったら青春真っただ中!――というのは言いすぎだけれど、競馬で言えば第3コーナーを回ったあたりではなかろうか。
 定年を迎え、待ちに待った年金生活に入り、これからが『人生の楽園』。
 実際、趣味に旅行にボランティアに野菜作りに蕎麦打ちに・・・・と自由な時間を気の合った仲間たちとエンジョイしている人は少なくない。
 人生何度目かの恋をして結婚する人だって珍しくなかろう。
 恋やエロこそ最高の若返りの秘薬、老いらくの恋の何が悪い!
 そう言えば、そんな元気なシルバーたちが登場し、あざやかな“どんでん返し”が話題を呼んだミステリーがあったっけ。

葉桜の季節に君を思う


 そういうわけで、このオペラは現代の風潮からも人権感覚からも高齢者のQOL(人生の質)という観点からも、観客の不興を買う恐れがあり、上演が忌避される傾向にあるのかもしれない。
 つまり、ポリコレ(Political Correctness)失格である。
 真偽のほどは分からぬが、そう考えるのでもなければ、これほど素晴らしい音楽が詰まっているオペラがなかなか上演されない理由が検討つかないのである。
 
 『愛の妙薬』に勝るとも劣らない、美しくロマンティックで親しみやすいアリアがソプラノにもテノールにも用意され、イタリア語の語感を存分に生かしたロッシーニ風のスピード感ある重唱や合唱も楽しく、聴きどころが多い。
 ドニゼッティには珍しく、すっきりとして無駄のない筋の運びは、オペラ初心者にも勧められること請け合い。
 なにより、滑稽や悲嘆や憐れみや優しさや優美やコケットリーなど、さまざまな感情や表情を色彩豊かに表現するオーケストレーションは、贅沢の極み。
 職人ドニゼッティが晩年に達した域の高さがうかがえる。
 (ただし、ストーリーの他愛無さとご都合主義はイタリン・ブッフォそのものである)
 
 出演者では、ノリーナ役のエヴァ・メイが素晴らしい。
 華やかで色っぽく意志の強そうなルックスは、ノリーナにぴったり。
 その声は美しく豊潤で伸びがあって、コロラトゥーラ技術も文句ない。
 タイトルロール(主役)のアレッサンドロ・コルベッリは、どこかで見た覚えがあると思ったら、チェチリア・バルトリの代表作『チェネンレトラ』のDVD(1996年DECCA)で従者ダンディーニを歌っていたバリトンであった。
 役者として決して華があるとは言えないけれど、歌唱技術は比類ない。弾丸のような早口言葉を見せてくれる。
 マラテスタ役のロベルト・デ・カンディアは喜劇センスに優れ、音楽に合った体の動きや表情が見ていて楽しい。
 エルネスト役のアントニーノ・シラグーザの輝かしく明るい伸びやかな声は、ディ・ステファノやパヴァロッティの衣鉢を継ぐ正統イタリアンテノール。第3幕のセレナータ『4月の風はなんて甘美なんだろう!』は、まさに甘美さにうっとりさせられる。
 このライブ公演は記録に残して大正解だった。 

 『ドン・パスクワーレ』を発表した時のドニゼッティは46歳、その4年後に亡くなった。
 梅毒が原因だったという。
 「老いらくの恋はよしなさい」は、後悔を込めた自戒だったのか・・・・。

ドニゼッティ
ドニゼッティ




● 鬼との共生 狂言『清水』&蝋燭能『土蜘蛛』を観る


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日時 2022年2月26日(土)13:00~
会場 ウェスタ川越 大ホール
プログラム&主演者
① 仕舞 殺生石(せっしょうせき) 小島英明
② 仕舞 鵺(ぬえ) 奥川恒治
③ 狂言 清水(しみず) 野村萬斎
④ 能  土蜘蛛(つちくも) 小島英明

 知人からチケットを譲り受け、久しぶりに能楽に行った。
 野外での薪能(たきぎのう)は何度か見に行ったことがあるが、蝋燭能(ろうそくのう)は初めて。
 いったいどんなものなのか?

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ウェスタ川越

 約1700席あるホールは7~8割埋まった。
 人々がコロナと共生し始めているのを感じる。
 こうやって催し物が開催できるようになったのは観客にとっての朗報であるのはもちろん、出演者にとっても吉報である。
 開演前に「見どころ解説」をつとめた小島英明によると、コロナ禍で収入ゼロという月が何度もあったとか。
 また、演者にとっては、人に見られて喜ばれてこその芸であろう。

 本日のテーマは「能楽百鬼夜行」 
 妖怪や鬼が登場する狂言と能を集めたプログラムである。
 水木しげる的というか、京極夏彦的というか。
 わかりやすくストーリー性の高い、能楽初心者でも楽しめる工夫が感じられた。

① 仕舞:殺生石(せっしょうせき)
 これは那須野にある殺生石の謂れとなった金毛九尾の狐の物語。
 荒ぶる妖狐の霊を鎮める玄翁(げんのう)和尚の名は、大工仕事に使われる鉄製の槌、“ゲンノウ”の語源である。

② 仕舞:鵺(ぬえ)
 ソルティはすぐ岩下志麻の怪演が見どころの映画『悪霊島』(1981)のコピー、「鵺のなく夜はおそろしい」を思い起こす。この鵺はトラツグミという鳥の古称である。
 一方、こちらの鵺は、頭が猿、胴体がタヌキ、手足が虎、尾っぽが蛇というキメラ型怪物。
 鵺を退治したのは、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で以仁王(もちひとおう)と組んで平清盛討伐に乗り出したが、あえなく失敗した源頼政である。

鵺
恐ろしい?

③ 狂言:清水(しみず)
 野中の清水に出没し人を驚かす鬼の話であるが、これは本物の鬼ではなく、主人にギャフンと言わせようと企んだ使用人・太郎冠者の変装であった、という滑稽譚。
 太郎冠者を演じる野村萬斎はさすがの腕前。
 間の取り方、声の使い方、抑揚などに現代的な笑いの感覚を取り入れて客席を湧かす。
 伝統芸能という古い革袋に新しい酒を入れて成功させる力量は、狂言の世界だけでなく、テレビや映画や現代劇などいろいろな経験を積んでいればこそだろう。

④ 蝋燭能:土蜘蛛(つちぐも)
 蝋燭能は薪能と並んで古くからあったのかと思ったら、平成生まれとのこと。
 薪能の難点は開催が天候に左右されることである。
 ならば、室内でも可能な蝋燭能で幽玄な雰囲気だけでも味わおう、ということらしい。
 舞台の周囲に数十本の蝋燭が立てられたが、これは本物の火ではなく発光ダイオード。
 炎の揺らぎすら演出できるとか・・・。
 結局、上演中は客席は暗くとも舞台は照明でじゅうぶん明るいので、蝋燭の意味合いを感じとることはできなかった。

 それはともかく。
 シテで土蜘蛛を演じる小島英明の声の素晴らしさ。
 深みと力強さのあるバリトンが西洋音楽的な、つまりはオペラ的な色合いを舞台に醸す。
 そう、能とはつまるところ日本のオペラ(歌芝居)なのだ。

 土蜘蛛はもともと大和朝廷によって成敗された土着の豪族のこと。
 それがいつの間にか、人民を驚かし朝廷をおびやかす妖怪へと変化していった。
 土蜘蛛にしてみれば、大和朝廷こそ、住み慣れた先祖元来の土地から自分たちを追い出し、武力によって命を奪う恐ろしい妖怪と思ったはず。
 舞台上の土蜘蛛は、源頼光の命を受けて成敗に来た武者たちに向かって、白い糸(和紙で作られている)を吐き出す。
 ここがこの番組の見せ場であり、手元より縦横無尽に放射される滝のごとき蜘蛛の糸に、子供のころテレビで見た松旭斎天勝――もちろん三島由紀夫が子供の頃憧れた1代目でなく彼女の姪にあたる2代目天勝である――の水芸を思い出した。
 あれはきっと故郷を追われた土蜘蛛の涙なのだ。

 能楽は江戸時代まで猿楽と言った。
 能を大成した観阿弥や世阿弥などの猿楽師は、天皇を頂点とする身分社会において賤民、つまり被差別の民であった。
 それが天皇制を賛美し強化するような曲を書いて、自ら舞い踊る。
 その心は、妖怪を成敗する朝廷の側にあったのか、成敗される妖怪側にあったのか。 
 読経や武力によっては鎮めることのできない妖怪たちの積年の恨みは幾度もよみがえって、この世に舞い戻る。
 だから、能舞台には魂が宿り続けるのだろう。
 それは百鬼と化した怨霊を閉じ込め飼いならす装置であると同時に、虐げられし者の声を社会に受け入れられるかたちで伝え続ける装置なのだ。

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● オペラライブDVD :リヒャルト・シュトラウス作『サロメ』

収録年 1997年
会場  コヴェントガーデン・ロイヤル・オペラ・ハウス(ロンドン)
管弦楽 同劇場管弦楽団
指揮  クリストフ・フォン・ドホナーニ
演出  リュック・ボンディ
キャスト
 サロメ :キャサリン・マルフィターノ
 ヨカナーン :ブリン・ターフェル
 ヘロデ :ケネス・リーゲル
 ヘロディアス :アニア・シリア

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 オスカー・ワイルド原作の同戯曲のオペラ化である。
 ストーリーも台詞もほぼ原作に添っているので、劇としての完成度の高さは折り紙付き。
 あとは音楽であるが・・・・・・

 ソルティは不協和音や無調(多調)をモットーとする現代音楽が苦手なので、正直、聴いていて苛立たしいばかり。
 歌唱も最初から最後までフォルテの連続でメリハリがないので、登場人物たちが大声で好き勝手なことをがなり立てる狂人の宴のようにさえ思える。
 「この素晴らしい戯曲が台無し・・・」という残念感を抱かざるを得ない。
 ヴェルディやプッチーニとは言わずとも、せめてワーグナーあたりがオペラ化していてくれたら良かったのに・・・・・と思ってしまうが、戯曲『サロメ』は1891年発表だからワーグナーの死後だったのだ。
 いや別に今からでもいいから、どなたかベルカント的手法あるいはロマン派的手法でオペラ化し直してもらえないものか。 
 サロメがヨカナーンの首を抱いて溢れる思いを語り続けるクライマックスなぞ、まさに『ルチア』や『清教徒』などのベルカントオペラにみる「狂乱の場」そのものではないか。

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ヨカナーンの首に接吻するサロメ(同ライブの一シーン)

 とは言うものの、シュトラウスの『サロメ』を否定するものではない。
 前半部分こそ「狂人の宴」的騒音にうんざりさせられるが、ヘロデ王がサロメに踊りを所望するあたりから面白くなってくる。
 現代音楽通にしてみれば、有名な「七つのヴェールの踊り」につけられた音楽は、古臭くて大衆迎合的で色物チックに聞こえるのかもしれないが、ソルティはやっとここでこの作品を好きになれた。
 このハリウッド映画チックな見せ場と音楽的弛緩があってこそ、そのあとに来るヨカナーン首切りと狂気のラブシーンとが引き立つ。
 緊張と緩和は作劇には欠かせない。
 人間の生理にも。 

 主演のキャサリン・マルフィターノが素晴らしい。
 歌唱も立派だが、演技が抜群。
 エロチックであることが必須とされる七つのヴェールの踊りを、プロダンサーの代役も立てずに自らこなしている。
 どれだけ訓練したことか。
 
 ヘロデ王役のケネス・リーゲルが素晴らしい。
 シェークスピア劇を思わせる彼の古典的演技のリアリティが、狂人のたわ言のようなこの前衛的音楽を、強烈な欲望や恐怖や怒りや怯えの間を揺れ動くヘロデ王の心理表現たらしめるのに、預かって力ある。
 逆説的なようだが、前衛音楽オペラの真価を生みだすのは古典的演劇の風格と確たる演技術なのだ。 
 このライブの成功を根本で支えているのは、ケネス・リーゲルだろう。
 
 現代音楽同様、現代的演出というのもソルティは好きでない。
 が、ここではさほど奇抜な演出がなされてはいない。(たとえば、舞台を現代に置き換えサロメを保守政党の領袖の娘、ヨカナーンを左翼活動家にするといったような・・・)
 全般に簡素で暗いトーンに統一された舞台で、原作のイメージを損なってはいない。
 
 オペラでない『サロメ』の舞台を一度観てみたいのだが、日本ではあまりかからない。
 ウィキによれば、過去には松井須磨子、岸田今日子、森秋子、多部未華子らがサロメを演じている。若き岸田は適役だったろう。
 その美貌といい、スタイルの良さといい、すぐれた演技力といい、官能性といい、スキャンダラスな匂いといい、内に秘めた純粋さといい、個人的には宮沢りえか沢尻エリカがハマると思うのだが、どちらも年齢的にもう遅いかな・・・・。
 

 
おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損





● 東京大学音楽部管弦楽団 第107回定期演奏会

日時 2022年1月30日(日)14時~
会場 東京芸術劇場コンサートホール(池袋)
曲目
  • チャイコフスキー: 幻想序曲『ロメオとジュリエット』
  • グラズノフ: バレエ音楽『四季』Op.67より「秋」
  • ショスタコーヴィッチ: 交響曲第5番
指揮 三石精一

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 東京大学管弦楽団は、数ある大学オケの中でもトップクラスの実力という評判。
 今年に入ってからオミクロン急増でなかなか思うように練習できなかったのではないかと思う。
 出だしこそ危なっかしいところもあった。
 が、尻上がりに調子を上げ、メインのショスタコーヴィッチは圧巻の迫力と抜群のチームプレイを見せてくれた。
 評判に違わない上手さ。
 拍手も大きかった。

 実はソルティ、ショスタコーヴィッチを聴くのはこれが初めて。
 20世紀のロシアの作曲家ということくらいしか知らなかった。
 無調や不協和音だらけの現代音楽なのだろうと勝手に思い込んで、敬遠しているところもあった。
 が、今回交響曲第5番を聴いたら、マーラーみたいなロマン派っぽい雰囲気濃厚で、曲の構成もそれほど複雑でなく、美しいメロディもあり、楽しんで聴けた。

 事前になんの下調べもせず、入口で配布されたプログラムも読まずに、なるべく先入観持たずに聴いた。
 浮かんでくるのは、「不穏、不安定、不信、不透明」というネガティヴな言葉ばかり。
 決して前向きでも明るくもない。
 第4楽章で、ベートーヴェン『第9』さながら「暗から明へ」の転換が見られるのは確かだが、これをそのまま“ネガからポジへ”の飛躍と受け取っていいものかどうか。  
 はなはだ疑問に思った。
 むしろ、絶え間ない苦悩と息苦しい抑圧の先に訪れた唯一の救いにして解放――それは「狂気の世界」であった、という不条理の極みのような物語を思った。
 ここには、ベートーヴェンが最終的に身をまかせた偉大なる父(=神)の手はないし、マーラーが逃避先として求めたエロスと自然の悦びもない。
 指揮者のバトンがおりた後も、しばらく拍手に加われなかった。

 帰りの列車でプログラムを読んだら、ショスタコーヴィッチはロシア革命後のソ連に生きて、全体主義管理社会に陥った社会主義国家の桎梏をもろ被ったようだ。
 スターリン独裁下では権力の意に沿ったプロパガンダ風作品しか発表できなかったという。
 芸術家として翼をもがれたようなものだったろう。
 共産主義には当然、神も仏もいない。
 エロスさえも管理される。
 マーラー以上に逃げ場がなかったのではあるまいか?

 そう考えると今回のプログラムの妙に唸らされる。
 帝政ロシア末期に生きたチャイコフスキー、ロシア革命(1917)前後の理想国家建設の気運を肌で味わったグラズノフ、そしてスターリン独裁と革命の失敗という現実に直面し暗黒の時代を生きたショスタコーヴィッチ――激動のロシア史そのままのラインナップなのであった。
 チャイコフスキーの音楽に感じとれる近代に生きる個人としての悲愴や苦しみが、民族愛と自由の息吹の感じられるグラズノフを経て、「不穏、不安定、不信、不透明」な抑圧的管理社会における表現者ショスタコーヴィッチにつながっていく。
 近代的自我の苦悩が味わえる社会ってまだ幸せなのかもしれない。 
 歴史と音楽史との切り離せない関係を思った。


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東京芸術劇場













● シネマ・コンサート:『砂の器』(野村芳太郎監督、東京フィルハーモニー交響楽団)

1974年松竹
143分
上映日 2022年1月9日(日)15時~
会場  東京国際フォーラム(有楽町)
指揮:和田薫
ピアノ:入江一雄

 しばらく前からシネマ・コンサートというイベントが話題になっている。
 人気の高い映画の再上映に際して、BGMの部分を観客の目の前で楽団が演奏するという形式である。
 『砂の器』を筆頭に、『雨に唄えば』『E.T.』『ジュラシック・パーク』『ニュー・シネマ・パラダイス』『鉄道員 ぽっぽや』『ルパン三世 カリオストロの城』などが演目に上がっている。

 もともと無声映画の時代には、観客が白黒画面を観ている傍らで弁士が解説やセリフを喋り、ヴァイオリンやピアノあるいはオーケストラがBGMを奏でるというのは普通にあったから、今に始まったことではない。
 が、トーキーになって音楽も録音・再生できるようになってから、わざわざ指揮者と生オケ呼んでライブでBGMつけるなんて贅沢の極みというほかない。
 本上映会のチケット代も、S席 9,800、A席 7,800 (税込)と破格であった。
 
 バブル華やかなりし頃、単発イベントとしてシネマ・コンサートが催されたことがあった。
 ソルティが観た(聴いた)ので記憶しているのは、映画の父と言われるD・W・グリフィスの『イントレランス』(1916年)と、上映時間6時間でラストシーンで画面が3倍広がる(シネラマになる)アベル・ガンツの『ナポレオン』(1927年)であった。
 物好きな年頃だった。

 映画のサウンドの質が向上した、つまり録音・再生技術が非常に優れている現在、わざわざ生オケ呼んでBGMをつけてもらう必要はないと思うので、高い金出してシネマ・コンサートに行く気は基本的にない。
 ただし例外がある。
 そのBGMがスクリーンなしで単独で聴いても優れた曲であり、また音楽自体が物語の主要なテーマになっているような場合、シネマ・コンサート形式は燦然たる効果を放つ。
 その例外が『砂の器』であることは言うを俟たない。

砂の器ポスター


 5000席を超える東京国際フォーラム・ホールAは満席に近かった。
 昨秋チケットを取ったときはコロナの谷間だったが、ご承知の通り、今年に入ってオミクロン急増。しかもデルタを凌ぐ感染力。
 不織布マスクでしっかり鼻まで覆った上に眼鏡タイプのフェイスシールドをつけて鑑賞した。
 予想はしていたが、観客は50~70代が大半だった。

 舞台上の大きなスクリーンの下にオーケストラ席がしつらえてある。
 楽団員がぞろぞろ入って来て、最後に指揮者とピアニストが登場。
 そう、本作のBGMは菅野光亮(1939-1983)作曲『ピアノと管弦楽のための組曲 宿命』で、それはまた本作の主人公である天才作曲家にしてピアニスト・和賀英良(加藤剛)が自らの宿命を綴った一世一代の名曲でもある。
 指揮棒が上がり、ゆっくりと主要動機(メインテーマ)が流れ、スクリーンにクレジットが映し出される。
 生演奏の臨場感、迫力、波動の力は半端なく、もうこの時点でウルっと来てしまった。
 やばい。この先大丈夫か?

 スクリーンの進行に音楽を合わせていくのは随分と難しいのではないか、とくにスクリーンに映し出される手の動きに合わせてピアノを弾いていくのは至難の業ではないか、と素人目には思うが、そこはやはりプロ。まったく不自然なく、途中からはほとんど生オケであることも忘れて映画に没頭していた。
 感動の源はもちろん、残酷な宿命を背負わされた父と子の不憫さと絆、誰にもわかりえない主人公の苦しみと孤独、それを察する刑事たちの心情、そして悲哀と慟哭の音楽にある。
 だが、人生4度目の鑑賞、それも初回から40年以上の月日が経っている現在、もういろいろなことが感動のポイントとなる。
 撮影時に残っていた日本の風土、海岸線や稲田や農村の美しさ、昭和の街の風景、人々の艶のあるひたむきな表情、クーラーのない夏の暑さ、国電の列車、車窓を流れる景色、そしてすでに鬼籍に入った役者たち――主役の加藤剛や丹波哲郎はもちろん、渥美清、笠智衆、佐分利信、緒形拳、加藤嘉、菅井きん、穂積隆信・・・・。
 主要登場人物で今も残っているのは、元千葉県知事の森田健作、島田陽子、山口果林、それに子供時代の和賀英良を演じた春田和秀(現在55歳)くらいではないか。
 最初に観たとき、出演者のうち自分より年下は春田和秀だけだったのに、いまや森田健作や加藤剛はもちろん、丹波哲郎も緒形拳も渥美清も超えてしまった。
 次に観る時はおそらく佐分利信も加藤嘉も超えていることだろう。
 そう、今となっては、この映画の隠されたテーマは「波にさらわれた砂の器のごとく、失われた昭和、失われた日本の風土、失われた人、失われた時」なのだ。
 だから、話の筋も結末も感動のポイントも熟知しているにも関わらず、見るたびに感涙にむせぶのである。

 一方、「失われた昭和や日本の風土」をただ懐かしんでいるばかりではない。
 この作品の核をなすハンセン病差別は前近代的な日本の風土の中にこそ根付いていた。
 あの美しい海岸線、桜並木、緑なす山々、きらめく河川、蝉しぐれ、素朴な民衆の中に、無知や偏見が組み紐のように織り込まれていた。その観点からスクリーンを目にするとき、日本の風土の美しさが深い哀しみの色を帯びてくる。 
 映画の最後の字幕にあるように、「現在ではハンセン病は治療できる病いで、本浦千代吉のような患者はいない」。
 患者を家族と離れ離れにし、施設収容する必要もない。 
 天下の悪法・らい予防法は1996年に廃止された。 
 平成・令和生まれで、半世紀近く前に作られたこの映画を、主人公・和賀英良の背負った十字架の重みを、予習なしに理解できる人はそういないかもしれない。
 それはやっぱりいいことだ。  
 失われてよいものもある。

 上映終了後は拍手の嵐。
 アンコールでメインテーマが奏でられた。(今も頭の中に鳴り続けている) 

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国際フォーラム内のトラ門松


おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● フェルマータ or 増えるまぁた? :ベートーヴェン第九演奏会(日本フィルハーモニー交響楽団)

日時 2021年12月22日(水)19時~
会場 東京芸術劇場(池袋)
曲目
  • J.S.バッハ : 甘き喜びのうちにBWV729
  • J.S.バッハ : カンタータ《神の時こそいと良き時》BWV106より第1曲「ソナティーナ」
  • J.S.バッハ : トッカータとフーガ ニ短調 BWV565
  • ベートーヴェン : 交響曲第9番《合唱》ニ短調
指揮 小林研一郎
合唱 東京音楽大学
ソリスト
 オルガン:石丸由佳
 ソプラノ:市原愛
 アルト:山下牧子
 テノール:錦織健
 バリトン:青戸知


 2年ぶりの《第九》。
 前回(2019年12月)はコロナの「コ」の字もなかった。
 骨折手術後の松葉杖姿で何とか会場まで辿りつけた「喜び」でいっぱいだった。

 今年はあちこちで《第九》演奏会が復活しているが、嵐の前の静けさならぬ、オミクロン爆発前のフェルマータ(休止)といった印象で、演奏する方も聴きに行く方もどこかおずおずと遠慮がちで、歳末の華やぎはまだまだ薄い。
 本日の合唱隊もみなマスクを着けたまま歌っていた。

フェルマータ【 fermata 】
〈休止〉〈停止〉を原義とする西洋音楽の用語。イタリア語では記号の形状からコロナcoronaともいう。大別して(1)正規の拍節が停止されて音符や休符が延長されること(延長記号)、(2)曲の区切りや終止、の二つの意味がある。(1)の意味では、音符や休符の上に置かれてその音価を任意に長くする。しかし、とくに長い休符に付される場合には、必ずしも延長を意味せず、適当な長さの休みを漠然と要求している。(平凡社『世界大百科事典 』第2版より抜粋)


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フェルマータまたはコロナマーク


 コバケンの《第九》と言えば「情熱」という形容詞が定番なのであるが、今回は第一楽章から予想に反していた。

 流麗で繊細で優しい!

 「こんな優しい第一楽章は聴いたことがない」と思っていたら、そのまま、第2楽章も第3楽章も、合唱付きの第4楽章も、流麗で繊細で優しい!
 情熱とか湧き上がる歓喜といった激しさは影をひそめ、ひたすら曲そのものが持つ美しさの展開に力点が置かれていたように感じた。

 コバケンから「情熱が消失した、手を抜いている」というのではない。
 これはむしろ枯淡の境地というやつではなかろうか。
 楽譜に対する圧倒的に繊細な読みはそのままに、夢見るようなメロディをその指の先から紡ぎ出していた。
 それはベタな言葉で言えば「癒し」。
 
 ここ最近の巷のニュース――東京の列車内で起きた傷害事件、大阪のクリニックの放火事件、神田沙也加の転落死、各地の地震や火山の噴火、もちろんオミクロン株の不気味な広がり――に触れて、なんだか不穏な気配を感じて気分が塞ぎがちになっているのは、ソルティだけではあるまい。
 自然の乱れに呼応するように、人心も乱れている。
 2年に亘ろうとする自粛とソーシャル・ディスタンスとマスク着用のおかげで、人と人との触れ合いが減って、町の風景からさりげない声がけやあたたかい笑顔が消えてしまった。
 そのことが、孤独や人間不信や絶望を深め、人々の生きる気力を萎えさせていく。

 たとえば、列車内や店内での見知らぬ人からの「ありがとう」とか「大丈夫ですか?」といったほんの一言、自分に向けられた店員や子供の笑顔、セクハラではないちょっとしたスキンシップ――そんなちょっとしたことが実はとても大事だったと気づかされたのが、このコロナ禍ではなかったろうか。
 ソルティも松葉杖を使っていたとき、そうした小さな心遣いにどれだけ助けられ、感謝したことか!
 
 いま社会に必要なのは「情熱」ではない。
 お互いへの小さな「優しさ」とそれを示す「勇気」だ。
 今回のコバケン×日フィルの《第九》はそんなことを伝えているように感じたし、客席もそのメッセージを十分受け取っていたように感じた。

 
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東京芸術劇場前のXmasイルミネーション








● カラスと親シラズ DVD:『アート・オブ・シンギング 偉大なる名歌手たち』

1996年ワーナーミュージック制作
116分、白黒&カラー

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 右下の親知らずを抜いた。
 最後に残っていた一本であった。
 歯茎にしっかり潜り込んでいて向きもいびつなので、いつも行くクリニックでは抜くことができない、歯茎を切除する外科手術になるという。
 列車で20分離れたところにある、同じ系列の本社にあたるようなクリニックを案内してもらった。
 そこのベテラン歯科医を予約してもらった。
 午後3時から抜歯、念のため翌日は有休をとった。
 
 子供の頃の記憶があるため、歯医者はやはり苦手である。
 現存している歯の治療はもちろん、抜歯もまた昔のようには痛くないと分かっているのに、憂鬱な気分に襲われる(ペンチで引っこ抜くイメージがいまだにある)。
 直前に知人から半月後のコンサートの誘いを受けたのだが、「そういう気分になれなくて」断ってしまった。タイミングが悪いこと。

 当日、昼まで仕事をして帰宅、軽く昼食をとった。
 この世で最期のごはんになるかもしれない。
 良く味わっておこう、このかきあげ。

 クリニックの待合室はコロナ仕様で座席が間引かれていたが、それでも混んでいた。
 いまの感染の谷間のうちに急を要する箇所は治してしまおうという人が多いのだろうか。
 考えてみれば、歯医者は最も感染リスクが高い場所の一つである。
 ソルティだって、2回目のワクチンを打つまでは近所の歯医者に行くのをストップしていた。
 全国の歯医者は経営的に相当の打撃を被った(被っている)ことだろう。

抜歯

 
 ベテラン先生による治療はさすがに手早く安心感があり、20分くらいで治療を終えた。
 途中メリメリっという音がしたときが、歯茎から親知らずが抜けた瞬間か?
 そのあと、針と糸を使って切除した歯茎を縫合しているのが分かった。 
 「はい、終わり。これが抜いた歯です。削って分解して抜きました」
 見ると、ガーゼに包まれたポップコーンのかけらのような白い塊がいくつかある。
 「記念にこれください」
 ――とはさすがに言わなかった。(足の骨折のときは記念に抜釘後の釘をもらった)
 昔は歯が抜けたら、「上の歯は縁の下に、下の歯は屋根の上に」と言ったものだが、今の親たちは知ってるかしらん?
 結局、一番痛かったのは施術前の数本の麻酔注射だった。
 いまの疼痛コントロールの技術はほんとうに凄い!
 華岡青洲に感謝。
 
 しかし、本当の地獄はこのあと。
 施療後4時間は麻酔が効いて、右頬全体に痺れるような感覚はあるものの痛みはなかった。
 夕食前に麻酔が切れた。
 矢吹ジョーにパンチを食らったかのような重い痛みが、右顎から右耳にかけて襲ってきた。
 おそるおそる手で触れてみると、かつてのAKB前田敦子のようにエラが張って、熱を帯びている。
 鏡を見たら、顔が変形していた。 
 口を開くことができないので、喋ることができない。
 もちろん物を噛むことなど考えられない。
 夕食はポタージュスープをスプーンで流し込んで、食後の化膿止めと痛み止めを飲んだ。

 自室に下がって安静にしていたが、痛み止めがなかなか効いてこない。
 ネットする気にも、読書や試験勉強する気にも、テレビを観る気にもなれない。
 痛みから気を反らしてくれるものがほしい。
「ああ、こんなことならGEOでサスペンスかホラー映画を借りておけばよかった」

 書棚に並んでいる手持ちのDVDの中に、痛みを忘れさせてくれる類いがあるかしら?
 小津安二郎(『東京物語』、『晩春』、「麦秋」ほか)?――無理。
 溝口健二(『西鶴一代女』、『山椒大夫』、「雨月物語」ほか)――無理無理。
 ヴィスコンティ(『ベニスに死す』、『家族の肖像』、『イノセント』ほか)――無理無理無理。
 ああ、どうしてもっと俗っぽい、心浮き立つものやスリル満点のもの、すなわち無我夢中になれるものを自分は持っていないのだろう?
 せめて黒澤明(『七人の侍』、『天国と地獄』、『姿三四郎』ほか)か、スピルバーグ(『E.T.』、『ジョーズ』、『未知との遭遇』ほか)でもあったならなあ~。

 仕方なく選びとったのが、15年以上前に買った『アート・オブ・シンギング 偉大なる歌手たち』のDVDであった。
 20世紀前半から中頃(60年代)にかけて、世界中で活躍した有名なオペラ歌手30人の舞台や映画における歌唱姿と歌声とが収められている記録である。
 久しぶりに観た(聴いた)。

 テノール: エンリコ・カルーソー、ベニアミノ・ジーリ、ラウリッツ・メルヒオール、ユッシ・ビョルリンク、ジュゼッペ・ディ・ステーファノほか
 ソプラノ: ローザ・ポンセル、キルステン・フラグスタート、ジョーン・サザーランド、レナータ・テバルティ、レオンタイン・プライスほか
 バリトン: ジュゼッペ・ディ・ルーカ、ローレンス・ティベットほか。
 メゾソプラノ: リーゼ・スティーブンスほか
 バスフョードル・シャリアピン、エツィオ・ピンツァほか
 
 ミラノスカラ座、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場、ウィーン国立歌劇場はじめ世界の檜舞台で聴衆を熱狂させた往年の名歌手の歌声を、ヘッドホン越しに浴び続けていたら、いつしか痛みを忘れていた。
 時代を遡るほどに録音状態が良くないのでどうしても声が平板に聞こえがちで、声の威力や歌い回しの巧みさこそ分かるものの、声の微妙な表情やその歌手独特の響きが伝わらないきらいはある。これを聴く限りでは、カルーソーやポンセルがなぜあんなに騒がれたのか、いま一つピンとこない。
 それに劇場でじかに聴くのと、家でレコードやCDで聴くのとでは雲泥の差があるのも間違いなかろう。フラグスタートやテバルティの大きなよく通る声は、劇場で聴いてこそ真価を発揮したのではないかと思う。
 一方、演技の巧拙に関して言えば、映像でもはっきりと知られる。
 総じて、昔の歌手ほど演技が下手である。大根である。
 オペラ歌手に演技力は(ルックスも)要求されなかったのである。 
 
 そんなわけでやっぱり、本DVDの白眉は最後に収録されているアリア・カラス主演『トスカ』の舞台映像(1964年ロンドン)になる。
 歌唱と演技と(ルックスと)の最高レベルでの結合、そのリアリティの強度には息をのまずにいられない(共演のティト・ゴッビも然り)。
 カラスの舞台姿をその声と共に記録したものは少ない。
 かろうじて残された貴重な映像である。 

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ティト・ゴッビとマリア・カラス in 『トスカ』

 音楽にはリラックス効果だけでなく、疼痛効果があると言う。
 今回治療を受けたクリニックでも、オルゴールの音色によるポップス(浜あゆやサザンのヒット曲)が流れていた。
 なるほど、昔から「オペラは麻薬」って言うもんな。




 
 
 


● This is America !  OCT第2回定期演奏会

日時 2021年11月23日(火、祝)13時~
会場 武蔵野市民文化会館大ホール
曲目
  • ガーシュウィン : パリのアメリカ人
  • コープランド : バレエ音楽『アパラチアの春』組曲
  • ドヴォルザーク : 交響曲第9番ホ短調『新世界より』
指揮 岡本隆

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 武蔵野文化会館は中央線三鷹駅北口から歩いて15分くらい。
 祝日の列車内も駅も街路も、通りがけに覗いた道沿いのカフェの店内も、ほとんどコロナ前と変わらない賑やかさ。
 だれもみな、心なしか表情にゆとりと明るさが見られる。
 このままZEROコロナ達成するといいのだが・・・。

 OCTはOrchestra Canvas Tokyo(オーケストラ・キャンバス・東京)の頭文字。
 2020年8月に発足したという。
 コロナ禍でもオケ好きの情熱は抑えられないのだ。
 見たところ、平均年齢はかなり若い(30~40代が多そう)。
 配布プログラムの団員リストをみると、女性団員のうち「〇〇子」率は17%だった。
 演奏そのものも、音楽への衒いのない真っ直ぐな姿勢と持ち前のパワーを感じさせるものだった。

 さらに驚いたことに、指揮を務めた岡村陸(りく)は1998年生まれの23歳。
 東京音大を今年の春に出たばかりという。
 若いOCTのメンバーたちよりさらに若い。(おそらくステージで一番年下だったろう)
 物腰低く、外見もジャニーズ風のスリムなイケメン。
 並みいるお兄さん、お姉さん、おじさん、おばさん奏者たちを指揮棒ひとつで見事にまとめていく手腕と人ったらしの才に感服した。
 プロフィールによると、あの佐渡裕の愛弟子らしい。なるほど!

 しかも、オケをまとめてただ楽譜通りに行儀よく演奏するのではなく、たとえばドヴォルザークの『新世界より』では、主要な小節でつねに半拍ほど早めにして全体的に前傾姿勢のスリリングな演奏を基本としながら、ヤングらしい焦りで走ってしまうことなく、メロディアスな第二主題を「おっ!」と思うほどのゆっくりテンポで演歌風にこぶしを効かせて、全体にメリハリをつけて曲に表情をつけていくあたり、心憎いほどの余裕を感じた。
 和田一樹に似た才を感じた。
 ただ、今回の選曲ではよくわからなかったが、エロティックな艶やかさやロココ的な華やかさを表現できる人なのかどうか。
 マーラーやチャイコフスキーを聴いてみたい気がする。

 今回のプログラムのテーマはずばりアメリカ。
 そのせいもあって、ドヴォルザークの『新世界より』がもろアメリカの風景を浮かび上がらせた。
 グランドキャニオンのような壮麗な渓谷風景の広がる第一楽章、無名戦士や黒人奴隷の眠る十字架が地平線まで立ち並ぶ第二楽章、『シェーン』が登場するゴールドラッシュの西部開拓地のざわめきが聞こえてくる第三楽章、そして『ジョーズ』が登場する出だしからいきなり最後の審判ラッパが鳴り響く第四楽章。
 こうして聴くと、大自然の迫力と民衆の活力と宗教性――This is America ! という気がする。

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武蔵野市民文化会館





● そは彼の人か 本:『オペラ歌手はなぜモテるのか?』(石戸谷結子著)

1996年文藝春秋

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 最近、細木数子、瀬戸内寂聴、長谷川和夫(認知症研究の第一人者。認知症の診断に用いられる長谷川式スケールの開発者)など大物の訃報が続いているが、ソルティが一番びっくりし畏敬の念にかられたのは、チェコスロヴァキア出身のソプラノ歌手エディタ・グルベローヴァの死を知った時であった。
 亡くなったのは10月18日だが、ほんの数日前、他人の音楽ブログを読んで初めて知った。

 「えっ、まだ若いのに・・・」と一瞬絶句したが、1946年生まれの彼女は74歳。
 歌手としての盛りはとうに過ぎているし、恋も名声もお金も伝説も手に入れた輝かしい人生であったろうから、「早すぎる」ということはない。
 彼女は日本の80年代アイドルのような童顔で、いつも若々しい雰囲気をまき散らしていたし、節制した生活で声を維持し果敢に新しいレパートリーに挑戦する人であったから、「まだまだ若い。そのうちまた来日してリサイタル開いてくれるんじゃないか」なんて、どこかで思っていたのである。
 
 ありがたいことに、ソルティは全盛期のグルベローヴァの奇跡の声をじかに聴いた一人であるが、あの声を聴くと、ストラディヴァリであろうがベヒシュタインだろうが源博雅の奏でた琵琶の玄象だろうが、いかなる楽器も最高度に鍛え上げられた人間の美声には敵わないと確信する。
 あらゆる楽器演奏家を絶望させるに十分な美声とテクニックの極地、それがグルベローヴァその人であった。

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「もののけ姫」の米良美一とコンサートで共演している
 
 80~90年代に世界を舞台に活躍した一流オペラ歌手や指揮者の素顔にせまった、肩の凝らない楽しいエッセイである本書によると、グルベローヴァは親日家で桜が大好きだったという。
 忙しい公演スケジュールの合間を縫って、京都の平安神宮のしだれ桜を見に行って子供のようにはしゃいだエピソードが書かれている。
 つつしんで冥福を祈る――というより、世界中の音楽ファンに愉悦と感動をもたらした彼女が天に召されないはずがない。
 神の合唱団に無試験で迎えられて、カールソーやカラスやテバルティやフラグスタートなんか往年の伝説的歌手に混じって讃美歌を歌っているにちがいない。
 
 久し振りにオペラに行きたくなった。
 
 

おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● キャスリーン・バトル賛歌 本:『史上最強のオペラ』(ジョセフ・ヴォルピー著)

2006年原著刊行
2006年ぴあ株式会社より邦訳刊行

史上最強のオペラ


 ニューヨークにあるメトロポリタン歌劇場(通称メット)は、ミラノスカラ座、ウィーン国立歌劇場と並ぶ世界三大歌劇場と言われている。世界中の才能あるオペラ歌手が生涯一度でもいいから舞台を踏みたいと夢見る、高校野球の甲子園、高校ラグビーの花園、演歌歌手の新宿コマみたいな存在である。

 メットは世界で最も大きなパフォーミングアートの機関である。毎年30以上の演目と240もの公演を上演する。どの公演にも国際的に有名な歌手が出演し、複雑な舞台セットが組み立てられる。それには年間に2000人以上の人材と、2億2000万ドル以上の運営費用がかかる。このようなメットを維持するためには、大工、裏方、画家、デザイナー、電気技師、助手たちの仕事の把握はもちろん、演奏家、歌手、歌の先生、ダンサー、振付師、舞台監督、指揮者、美術監督、営業、広報チームの仕事を理解してまとめ上げる能力が必要である。運営費用はチケットの収益だけではまかないきれない。寄付金によって補うのだが、これを集めてくる理事会の努力も必要だ。

 本書は、1990年から2006年までメットの総支配人であった男によるサクセスストーリーとしての自叙伝、かつメトロポリタンの舞台裏をさまざまな視点から描いたドキュメンタリーといったところ。オペラに興味ある人なら必ずや楽しめる本である。
 やはり、オペラファンの一人として面白いのは、文字通りその“名声”を知るスター歌手はじめ、世界的な指揮者や演出家たちの素顔が知られるエピソードの数々である。

 神経質で機嫌が悪くなると楽屋に引っ込んでしまうハリウッド級二枚目歌手フランコ・コレッリ、90年代に世界三大テノールとして名を馳せたルチアーノ・パヴァロッティとプラシド・ドミンゴの対照的な性格や仕事ぶり、名演出家フランコ・ゼッフィレリの豪華絢爛たる舞台(例『トゥーランドット』)を支えた気前のいいテキサス女性、メットのオーケストラの質を国際レベルまで引き上げた指揮者ジェームズ・レヴァインの人となり(後年になってホモセクハラで訴えられメットを解雇された)、リハーサルを平気ですっぽかし演出家の指示を無視する椿姫アンジェラ・ゲオルギュー。舞台では気品あふれる伯爵夫人を得意としたキリテ・カナワが、セントラルパークで著者の目の前をローラーブレードで滑っていくシーンなんて想像もつかない。

 しかしながら、暴露ネタの筆頭は、86年ニッカウヰスキーCM出演がきっかけで日本で爆発的人気を博した美貌の黒人ソプラノ、キャスリーン・バトル解雇事件の顛末である。実はソルティ、それが読みたくて本書を借りた。
 ヴォルピ―は「バトル賛歌」として丸々一章をそれに当てている。人気絶頂のドル箱の世界的スターを劇場が解雇するなんて、それも原因は歌手の我儘だなんて、前代未聞の大事件だったのである。
 実際、人格破綻しているんじゃないかと思うようなバトルの異常な振る舞いの数々が描かれ、彼女と共演した陽気で磊落なイタリア男である大パヴァロッティでさえ、「彼女の人生には何かが欠けているに違いない」と漏らすほどだったという。
 1993-94年シーズン、ヴォルピーが数か月後に本番を控えた『連隊の娘』のリハーサル中にバトルの降板を決定したことを発表したとき、劇場は歓呼と喝采が鳴り響いたという。 
 みんな我慢に我慢を重ねていたのである。

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 いまもこの記事を書きながら、キャスリーン・バトルのモーツァルト・アリア集を聴いている。
 ソルティは、過去に2回、来日した彼女のリサイタルを聴きに行った。
 なめらかな漆黒の肌に美しいドレスをまとった彼女が舞台に登場するや、優雅な仕草と愛くるしく親しみやすい笑顔にもっとも気難しいクラシックファンでさえ武装解除してしまい、一声唄い出すと、もう完全にその魅力に篭絡されてしまう。日本ファンのために披露してくれた『この道』なんか絶品だった。
 このように美しく魅惑的で大衆を惹きつけるカリスマ性を備えたソプラノが、今後そうそう登場するとは思えない。 
 86年のバトルのCMが日本のクラシック業界、とくにオペラ人気に火をつけた功績ははかりしれない。
 ジョセフ・ヴォルピーの名は、「バトルを首にした男」として残り続けるのは間違いあるまい。


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Predrag KezicによるPixabayからの画像




● 銀杏散るなり光の丘に :L.v.B.室内管弦楽団 第48回演奏会

日時 2021年11月7日(日)14:00~
会場 光が丘 IMAホール(東京都練馬区)
曲目
  • モーツァルト   : 歌劇『ドン・ジョヴァンニ』K.527より序曲
  • ドヴォルザーク : チェコ組曲 作品39
  • ベートーヴェン : 交響曲第5番 ハ短調《運命》作品67
指揮 苫米地 英一

 都立光が丘公園は20代の頃よく利用した。
 都内に就職したのをきっかけに、埼玉の実家を出て、この近くのアパートで一人暮らしを始めたのだ。
 当時、IMAホールはオープンしたばかりだった。地下鉄大江戸線は開通しておらず、むろん光が丘駅もなかった。光が丘のマンモス団地は、陸の孤島のような場所だった。
 そのうち、会社を辞めて、失業保険を受けながら昼夜逆転して小説を書く生活になった。
 明け方、緊張した頭をほぐすために光が丘公園を散歩した。春は桜、秋は銀杏がきれいだった。
 自分の将来はどうなるんだろう?――不安をおぼえながら、ピンクや黄色の鮮やかなじゅうたんを踏みしめた。

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光が丘公園

 L.v.B.はもちろん、ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンの頭文字。
 この管弦楽団はベートーヴェン専科なのである。
 苫米地英一はオペラ指揮者としての活躍が目立つ。最近では、『ベルサイユのばら』の作者池田理代子台本によるオペラ『かぐや姫と帝の物語』を作曲・世界初演し、成功を収めたという。認知科学者でたくさんの著書を持つ苫米地英人との関係は不明である。
 定員約500名のホールは半分ほど埋まった。

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IMAホール

 まず、プログラム構成の妙に感心した。
 苫米地の得意とするオペラから、それもメリハリがあって軽快なる『ドン・ジョヴァンニ』序曲で聴衆の気分を盛り上げ、多彩な曲想を重ねつつ民族情緒豊かなチェコ組曲で聴衆の耳と気持ちをほぐし敏感にさせ、満を持しての『ダ・ダ・ダ・ダーン!』。
 しかも、3曲続けて聴くと、前プロの2曲がメインディッシュの第5番『運命』と近しい関係を持っている、似たような曲調を有していることが分かる。
 経時的に言えば、ベートーヴェンは、モーツァルトとドヴォルザークの間に入る。
 第5番『運命』は、傲岸不遜な主人公が地獄に落ちる物語『ドン・ジョヴァンニ』の強い影響を受けて作られ、第5番『運命』の深い影響を受けてドヴォルザークは激動の歴史に翻弄された祖国を謳ったのであろう。
 
 コロナ禍によるブランクで閉じてしまったソルティのチャクラ。
 前回の東京都交響楽団コンサートで半分くらい開き、覚醒のきざしあった。
 その後、静岡のルルドの泉・サウナしきじデビューで、“気”はかなり活性化された。
 なので、本日は聞く前から予感があった。
 最終的に扉を解放するのはきっと今日のL.v.B.であろう、第5番『運命』だろうと。
 
 まさしくその通り。
 第3楽章から第4楽章に移り変わるところ、いわゆる「暗」から「明」への転換が起こるところで、胸をグッと掴まれるような圧を感じ、声の出ない嗚咽のように胸がヒクヒク上下し始めた。
 中に閉じ込められているものが必死に外に出ようともがいているかのよう。
 あるいは、手押しポンプを幾度も押しながら、井戸水の出るのを待っているかのよう。
 第4楽章の繰り返し打ち寄せる歓喜の波に、心の壁はもろくも砕けて、両の目から湧き水のようにあふれるものがあった。
 気は脳天に達して周囲に放たれ、会場の気と一体化した。

 整ったァ~!
 
 時代を超えて人類に共感をもたらすベートーヴェンの魂、彼の曲を演奏することを無上の喜びとする指揮者およびL.v.Bオケメンバーたちの熟練、そして地元ホールで久しぶりに生オケを耳にした聴衆の感激とが混じり合って場内は熱い光芒に満たされ、さしものドン・ジョヴァンニも地獄の釜から引き上げられて、昇天していったようだ。

 コロナ自粛なければ、『ブラーヴォ』を三回、投げたかった。
 一回目は指揮の苫米地に。
 二回目はオケのメンバーたち、とくに感性柔軟なる木管メンバーたちに。
 最後は楽聖ベートーヴェンに。

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● 六本木発「銀河鉄道2021」 : 東京都交響楽団コンサート

日時 2021年10月30日(土)14:00~
会場 サントリーホール
曲目
  • ドヴォルザーク : チェロ協奏曲 ロ短調
  • ドヴォルザーク : 交響曲第8番 ト長調
指揮 小泉和裕
チェロソリスト 佐藤晴真

 久しぶりの山手線内、久しぶりのサントリーホール。
 最寄りで見る六本木スカイスクラッパーもなんだか懐かしい。

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 クラシック業界も元の賑わいを取り戻しつつあるようで、今回も入場時にどっさりとコンサート案内チラシをもらった。
 ただ、客席の入りは4~5割程度か。まだまだ外出自主規制がかかっているようだ。

 東京都交響楽団は前回の『第九』に続き、2回目になる。
 ソロ(独奏)もトュッティ(全員)もとても巧い。
 音に丸みがあるのはやはりこのオケの特徴らしい。破擦音や破裂音の少ない、飛沫があまり外に飛ばない言語といった感じ。都会らしく洗練されている。

 佐藤晴真のチェロについては残念ながら真価が良くわからなかった。
 というのも、今回はステージ背後のブロックのほぼ中央、指揮者と相対する位置で鑑賞したからだ。弾いている後ろ姿しか見えないし、音響も十全ではない。
 ピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲ならともかく、チェロ協奏曲はやはりステージ前方の席を取らなければいけなかった。一つ学んだ。

 が、この席のメリットは、オケを真上から見下ろすことができること。
 オケの人たちの表情や動きがよく見えて、気持ちがびんびん伝わってくる。管楽器奏者がソロパートを無事終えた後のホッとした肩の線など、ステージ前方の席からはなかなか見えない。自然とオケを応援したくなる席なのである。
 むろん、指揮者の豊かな表情の変化や細やかなタクトさばきをガン見できるのも大きなメリットである。(ソルティは曲の最初と最後以外はほぼ目を瞑っているのだが)

 アントニン・ドヴォルザークを聴くといつも汽車の旅を連想する。
 アントニン自身が大の鉄道好きで、ソルティもまたノリ鉄だということもあるが、一曲聞いている間、蒸気機関車で旅をしている気分になる。
 朝まだきの駅のホームで機関士や整備士たちが出発の準備をするシーンから始まって、昇る朝日が鉄の車体をきらめかせ、荷物を手にした乗客たちがお喋りしながら次々と車両に乗り込み、出発の汽笛を合図に重い響きを轟かせ、列車が動き出す。
 軽快な鉄輪の響きと煙突から吹き出す蒸気と黒煙をお供に、いくつもの街を通過し、線路わきで手を振る子供たちや赤ん坊を抱いた母親を見送り、休憩する労働者たちの視線を浴び、麦畑や綿花畑をかき分け、野を越え、山を越え、渓谷を渡り、白波の立つ海辺を走る。
 やがて鎮魂色をした黄昏が下りてきて、長旅に疲れた汽車と乗客たちを優しく包む。
 汽車はそのままゆっくりと地上を離れ、見えない滑走路をつたって、星の散りばめる天上へと旅立つ。はるかなる至高の光を目指して。
 そんな郷愁と信心をあおるような美しく荘厳な旅である。


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DavidMcConnellによるPixabayからの画像

 
 小泉和裕と東京都交響楽団の演奏は、極上の旅を提供してくれた。
 コロナ禍になって初のコンサートではなかなか動かなかったチャクラが、今回は反応した。音の波動が体内の気とぶつかり合い、不随意運動が数回起こった。隣席の人はびっくりしたかも。
 扉は半分開いた。





● 100枚のチラシ:読売日本交響楽団コンサート

日時 2021年10月10日(日)14時~
会場 東京芸術劇場コンサートホール(豊島区池袋)
演目
  • シベリウス:交響詩〈フィンランディア〉
  • ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番
  • シベリウス:交響曲第2番
指揮:沖澤のどか
オケ:読売日本交響楽団
ピアノ:ペーター・レーゼル

 実に1年9ヶ月ぶりのクラシックコンサート。
 昨年1月20日に同じ東京芸術劇場で聴いたチャイコフスキー第6番『悲愴』を最後に、すっかり生オケ離れしていた。
 一昨年12月に踵の骨を折って松葉杖生活が続いていたせいもあるが、メインの理由はもちろんコロナである。
 昨年3月頃よりエンタメ業界はまさに「悲愴」に突入した。
 なんと長い冬であったろう!

 久しぶりに生オケを聴きたいなあと思って、クラシック専門情報サイトをググったら、間近で見つけたのが本公演であった。
 ベートーヴェンにシベリウス。
 冬からの復活を祝うには最適なプログラムではないか。
 早速予約を入れようとしたら、結構席が埋まっていた。
 みんな待ち望んでいたよね~。

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東京芸術劇場


 コンサートホールに入るときは、入口でスタッフにチケットの半券をもぎってもらい、本日のプログラムと一緒に他のコンサートの案内チラシを大量にもらうのがお決まりである。
 今回は、スタッフにチケットを見せたら自ら半券を切って、置いてある箱に入れる。その先のテーブルに積み重ねてあるプログラムと案内チラシの束を自分で取る。
 セルフサービスだ。
 いつもならほとんどがゴミ箱行きになるのでもらうのを迷うチラシの束であるが、今日はなんだか嬉しくて、いそいそと手に取った。
 これまで見たことないほど大量のチラシも、クラシック業界に生きる人々の復活の喜びと今後への意気込みと思えば、家に持って帰って一枚一枚有り難く拝見する気になる。

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なんと100枚あった


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 席は客席中央の一番後ろ。
 舞台と全体を見渡すにはベストな位置である。
 8割がた埋まっているようであった。

 ソルティは、クラシックコンサートで良い演奏に出会うとチャクラがうごめく
 音波があちこちのチャクラを刺激し、その部位の気の流れを良くする。
 すると、会場のルクスが上がったかのように、周囲に光を感じる。
 体も心も生まれ変わったようにリフレッシュする。
 良い演奏は針治療や整体に匹敵する効果があるのだ。
 1年9ヶ月ぶりの生オケで体はどんな反応を示すだろうか。
 期待大であった。

 しかるに、今日はなぜかチャクラが大人しかった。
 ペーター・レーゼルによる木漏れ日をそのまま音符に変換したかのような至芸のピアノ演奏も、2019年プザンソン国際コンクール覇者の期待の新人・沖澤のどか&ベテランぞろいの読響によるシベリウスの豊穣世界も、「素晴らしい、さすがだ」とは思いはしたけれども、音波は胸のチャクラを突きはするものの、それ以上入り込む力がなくて、感動には至らなかった。(拍手喝采は凄かった)

 たぶん、演奏の質の問題ではなくて、一年9ヶ月のブランクでソルティのチャクラが固く閉じてしまったのだろう。
 どこにいるか分からないコロナウイルスに対する恐怖、自分が感染する・他人に感染させるんじゃないかという不安や緊張、医療先進国にあって入院できずに自宅で病死した人のニュースを耳にしたときの怒りと絶望、自粛生活に慣れてしまったがゆえの心身の柔軟性の低下・・・・こういったものが知らず知らず心身に影響を与え、頑なにしてしまったのではなかろうか。
 来場者全員マスクして発話は禁じられているものの、間隔を開けずに隣の人と接している状態に、どこか落ち着かないものを感じながら聴いていたのだから。
 細胞が、神経が、心の琴線が、音楽をやわらかく受け止める用意が整っていないような気がした。

 もとのようにチャクラが活性化するまで、もうちょっと時間がかかりそうだ。


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帰宅する人々
シベリウス好きはおしゃべりしないように思う








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