ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●ライブ(音楽・芝居・落語など)

● これぞプリマドンナオペラ ライブDVD : チェドリンスの『ノルマ』

IMG_20240415_085400


収録日時 2003年7月、8月
劇場   新国立劇場(東京)
キャスト
 ノルマ: フィオレンツァ・チェドリンス(ソプラノ)
 ポリオーネ: ヴィンチェンツォ・ラ・スコーラ(テノール)
 アダルジーザ: ニディア・パラシオス(メゾソプラノ)
 オロヴェーゾ: ジョルオ・スーリアン(バス)
指揮: ブルーノ・カンパネッラ
演奏: 東京フィルハーモニー交響楽団
合唱: 藤原歌劇団合唱部
演出: ウーゴ・デ・アナ
作曲: ヴィンチェンツォ・ベッリーニ

 エディタ・グルベローヴァの『ノルマ』を視聴して以来、ノルマにはまっている。
 youtube で過去・現在の偉大なソプラノたちの『ノルマ』の部分映像を視聴し、マリア・カラスの2つのスタジオ録音(1954年と1961年)とミラノ・スカラ座ライヴ(1955年)のCDを聴き返し、ブックオフで見つけたこのDVDを購入した。
 世界中の歌劇場を席巻したプリマドンナたちの歌や演技や風格の素晴らしさもさることながら、つくづく感じ入ったのは、作曲家ヴィンチェンツォ・ベッリーニ(1801-1835)の天才である。
 34歳で亡くなったこのイタリアのオペラ作曲家の生み出した数々のメロディの美しさ、劇的効果抜群の作曲技法、聴く者の心をつかんで離さないあまりに人間的な感情表現の深み。
 齢34歳にして、生きることのすべてを、人間の抱く感情のすべてを知ったかのよう。
 モーツァルトやシューベルトにも言えることだが、年齢を重ね経験と努力を積み上げることの虚しさを、凡人の胸に叩きつけてやまない。
 
 主役のフィオレンツァ・チェドリンスはイタリア生まれの世界的ソプラノ。
 1989年デビューというから、現在60歳近いはずだ。
 2003年東京で収録されたこのライブは、2004年イタリアのアレーナ・ディ・ヴェローナで収録されたゼッフィレッリ演出の『蝶々夫人』と並んで、彼女の最盛期の声の記録と言うことができる。
 実際、ノルマが舞台に登場して放つ第一声 “Sedizio voci(扇動する声)”から始まって、ソプラノアリア随一の名曲『カスタ・ディーヴァ(清き女神)』が終わるまでのシーン、劇場全体が金縛りにあったように息を詰めているのがモニターを通して伝わってくる。
 その声は、ノルマの女王然とした威厳と感情の激しさを表現するに十分な力強さに満ち、月の女神の宣託を受ける巫女の侵しがたい気品と神秘を表現するにふさわしい豊麗な響きを湛え、失った愛や嫉妬に揺れ動く女性の内面を表現するに効果的なアジリタ(コロラトゥーラ)の技法も兼ね備えている。
 値千金の声。
 そのうえに、主役をやる以外は考えられない華やかな美貌と、観客を圧倒する眼力、舞台映えする堂々とした体格。
 演技もまた申し分ない。
 最初から最後まで持続するパワーと集中力は、パスタと牛肉とワインの力であろうか。
 これほどノルマを歌う条件を兼ね備えた、ミューズ(芸術の女神)に愛された歌手も珍しい。

IMG_20240416_031806~2
フィオレンツァ・チェドリンス

 声の質とルックスと体力だけから言えば、ノルマを歌うのに適しているのは、グルベローヴァよりチェドリンスであるのは間違いない。
 グルベローヴァの凄さは、もともと自分に適した役ではないノルマに果敢にチャレンジし、余人の追随を許さない圧倒的な歌唱テクニックと、極めて知的な楽譜の読みと、人生経験を投入した深い滋味ある演技によって、唯一無二のノルマ像を創造したところにある。
 芸術性という観点で、ソルティはグルベローヴァを推す。

 チェドリンスのディクション(発音法)の見事さも言い落してはならない。
 母国語だから上手なのは当然と言えば当然なのだが、イタリアオペラがイタリア語で歌われることの重要性を実に鮮やかに教えてくれる。
 ひとつひとつの単語が明瞭に聴きとれるのはもちろん、巻き舌「r」や破裂音の強調、あるいは適切なトロンカメント(語尾の省略)を行うことによって、場面場面にふさわしい感情を巧みに表現し、ドラマを盛り立てていく。
 その効果には燦然たるものがある。
 こればかりは、イタリア語を母国語としない歌手ではどう頑張っても太刀打ちできまい。
 とりわけ、巻き舌「r」の震動が、喜怒哀楽、不安、恐れ、戸惑いなど様々な感情を表現するやり方には、驚くほかない。
 巻き舌「r」を持たない日本人は、西洋の声楽において最初から不利が生じていると、つくづく思った。
 
 とにかく、チェドリンスの圧倒的存在感と実力にひれ伏すライブである。
 ほかの歌手陣も指揮も、東京フィルハーモニー交響楽団の演奏も、藤原歌劇団の合唱も文句のつけようない出来栄えだが、すべてチェドリンスの陰に隠れてしまっている。
 まさに『ノルマ』がプリマドンナオペラの典型であることを証明してあまりない。
 日本でこれだけの舞台が実現したことを誇らしく思う。
 
 あえて難を言えば、ノルマやアダルジーザが属するガリア人(古代ケルト人)の兵士たちのいでたちがまるで中世ヨーロッパの騎士のようで、一瞬、ポリオーネが属するローマ人部隊なのかと思った。
 実際のガリア人がどんな格好をしていたのか知らないが、敵方のローマ人との差別化をはかったほうが良かった。 











● 芸劇の死角? : オーケストラハモン 第48回定期演奏会

IMG_20240408_074122~2

日時  2024年4月7日(日)14:00~
会場  東京芸術劇場 コンサートホール
曲目  G.マーラー: 交響曲第2番「復活」
指揮  冨平恭平
ソプラノ  中川郁文
メゾソプラノ  花房英里子
合唱  Chorus HA'MON

 このオケ、1997年発足ということだが、はじめて聴いた。
 これまでの48回の演奏会のうち12回はマーラーの交響曲を取り上げている。
 記念すべき第50回(2025年6月1日予定)では第8番『千人の交響曲』をやることが決まっており、それをもって、生前マーラーが完成させた1番から9番までの交響曲を制覇することになる。
 マーラーに思い入れのあるオケなのだ。

 冨平恭平の指揮は、昨年6月にル・スコアール管弦楽団共演によるマーラー第9番を聴いた。
 音の波動がこちらのチャクラを刺激し、陽炎のようにオーラが湧き上がり、脳内ルックス(lux)が上がった。
 感動の演奏だった証である。
 もっとも、第9番の感動は、チャイコの『悲愴』を聴いたあととドッコイドッコイの暗鬱をともなうので、帰り道にとんこつラーメンでも食べて口直ししなければ、庶民的日常に生還できない類いの感動なのであるが・・・・・。

 今回は、聴いたあとの歓喜が約束されている“テッパン”の第2番なので、休憩なしの90分という長丁場にもかかわらず、とくだん事前に構えることなく、帰りに寄るラーメン屋の目星をつける必要もなく、東京芸術劇場の巨大なホールに足を踏み入れた。
 席は3階席一番前列の、舞台向かって中央やや左寄り。
 舞台後方の高い位置に据えられたパイプオルガンと相対し、オケ全体がよく見える位置であった。
 客席の入りは6~7割くらいか。

IMG_20240407_155035
巨大なパイプオルガンがこのホールの目玉

 オケはとても上手で、息が合っており、創立27年の歴史と経験を感じさせた。 
 ル・スコアールの時と同様、オケの配置が通常と異なっていた。
 まるで鏡像みたいに左右入れ替わって、コントラバスとチューバが舞台向かって左に位置し、金管とハープが右に寄せられていた。
 冨平の好みというか、なんらかの考えによるものなのだろうか。
 
 音楽素人のソルティが言うのは口はばったいのだが、この配置は、音の一体感を高めるより、むしろそれぞれのパート(楽器)の特性を引き立たせる効果があるような気がする。
 音楽が一つの大きなうねりとなるのではなく、分散するように響くのだ。
 その結果、いつもなら聴き逃してしまうような、地味目な楽器のちょっとしたパッセージが目立つ。
 曲を聴きなれた耳ならそこに新鮮さを感じ、異なる色彩の音を微細にわたって変幻自在に編み込んで交響曲という一大織物を仕立て上げるマーラーの天才を再認識することだろう。
 ソルティも、「あっ、ここでこんな楽器がこんな介入の仕方をしていたんだ!」と、しばしば驚き、感嘆した。
 一方、音が分散して聴こえるというのは、統一体としての曲の生命が犠牲になるということである。
 あたかもドイツ製の美しいビスクドールの体内をのぞいて機械仕掛けのからくりを見たかのような感に襲われた。

 もっともこれは、オケの配置のためではなくて、ソルティが陣取った場所のせいなのかもしれない。
 芸劇の3階席はオケを聴くには遠すぎる。
 音の洪水に溺れて、音波に揉みほぐされたい人間には物足りない席であった。

 結局、曲に入り込むことができたのは、第4楽章の合唱から。
 「コーラスハモン」はこの演奏会のために結成されたそうだが、実によくまとまって、素晴らしいハーモニーだった。
 とくに男性陣の張りと奥行きのある声が、曲をまとめあげて、迫力と感動の大団円に導いた。
 第50回の『千人の合唱曲』にも参加することが決まっているらしい。
 今から楽しみだ。

P.S. 年間100回以上クラシック演奏会に行くという人のブログに、東京芸術劇場の「3階の前席はお薦めできない」とあった。
 やはり、そうだったのか・・・。
 次から気をつけよう。

IMG_20240407_165329
池袋駅東口の線路沿いの公園でひとやすみ

IMG_20240407_175423~2

 
 
 

 

● オペラライブDVD : グルベローヴァの『ノルマ』

IMG_20240320_171742

収録日時 2008年1月、2月
劇場   バイエルン国立歌劇場(ドイツ)
キャスト
  • ノルマ: エディタ・グルベローヴァ(ソプラノ)
  • ポリオーネ: ソラン・トドロヴィチ(テノール)
  • アダルジーザ: ソニア・ガナッシ(メゾソプラノ)
  • オロヴェーゾ: ロベルト・スカンディウィッツィ(バス)
指揮: フリードリヒ・ハイダー
演奏: バイエルン国立管弦楽団
合唱: バイエルン国立歌劇場合唱団

 2021年10月に亡くなったグルベローヴァの生涯最高作であり、これまでにさまざまなソプラノと指揮者によって映像化されてきた『ノルマ』の中でも指折りの傑作と言っていい。
 本作を超える『ノルマ』上演はなかなか現れまい。

 いったいに、この『ノルマ』というオペラは、ソプラノ歌手にとっての富士山かマッターホルンみたいな存在で、おいそれとは挑戦できない至難の、そして成功すれば輝かしい栄誉と達成感が待っている、特別な作品である。
 まず、誰にでも挑戦できるわけではない。
 ある程度のパワフルな声を持っていなければ、歌が瘦せてしまい、到底ドラマにならない。
 一方で、柔らかに朗々と、軽やかに煌々と、声を響かせるテクニックを持っていなければ、ベルリーニならではの世にも美しいメロディが生きてこない。
 恵まれた声と高度の技術を備えていなければならないのである。
 最初から最後まで、ほとんど舞台に出ずっぱりなので、体力と集中力は言わずもがな。

 そのうえに、複雑なキャラクターを説得力もって造形化するだけの演技力が要る。
  • 原始社会を生きる一族のカリスマ性ある巫女(卑弥呼のような)
  • 禁断の恋と嫉妬に身を灼く女(六条御息所のような)
  • 恋に苦しむ若い娘を優しく抱擁する姉
  • 愛する2人の子供をその手にかけようとする狂気の母
  • 威厳ある族長の娘
 いくつもの顔を持つ女性を演じ、歌い分けなければならないのである。
 到底、20代、30代の歌手ができるものではない。(マリア・カラスのような100年に1人の天才を除いて)
 歌だけが勝負のレコードやCDであれば、まだなんとかやりおおせるかもしれない。
 カラスの再来と言われたエレナ・スリオティスの1967年収録盤など、ソプラノ・ドラマティコ・タジリタの声質が精彩を放って、かなり聴きごたえある。 
 だが、容姿やスタイルや雰囲気や表情や動きが、すなわち役者としての真価が問われてしまう舞台(映像)ともなると、観客を十分満足させる『ノルマ』を生み出すのは至難の業なのである。

IMG_20240321_123731~2
カラスの『ノルマ』
(1954年5月収録、東芝EMI版)

 グルベローヴァは2006年のこのライブで、生涯はじめてノルマを舞台で演じた。
 それまで、ポリオーネ役やアダルジーザ役の他の歌手たちと共に演奏会形式で歌ってはきたが、満を持して舞台にかけたのは、なんと60歳のみぎりだった。
 これは二重の意味で驚きである。

 一つには、オペラ歌手は言うまでもなく声が命だが、人間の声の最盛期は40~50代くらいまでと言われているからである。
 高い声が出なくなるのはわかりやすいが、息も続かなくなってくるし、喉に痰がからみやすくなり、声も枯れてくる。(最近ソルティも咽やすい)
 60歳前に引退する歌手だって少なくない。
 なので、幸運にもノルマを歌う条件に恵まれているのであれば、40代くらいから歌い始めるのが常識的である。
 それが還暦になってやっと歌い始めるなんて!

 いま一つのさらなる驚きは、還暦にあってグルベローヴァの声がほとんど衰えていないことである。  
 高音も保たれているし、声も美しくのびやかである。
 若い頃から超絶技巧と評された驚異のテクニックはそのままに、一般に年を取るほど太くなっていく声帯の変化がドラマティックな響きの獲得に役立ち、ノルマを演じるのに十分な声の完成をみた。
 賢明なグルベローヴァは、喉を注意深く管理しながら、自らの声が熟するのを待っていたのである。

 さらには、このDVDの特典映像の中でグルベローヴァ自身が語っているように、「ノルマという役には人生経験が欠かせない」。
 禁断の恋のときめきと苦しみ、恍惚と罪悪感、嫉妬と怒り、未練とあきらめ、許しと超越、シスターフッド(姉妹愛)、母性愛、良心の呵責、父親へのつぐない、仲間たちへの責任・・・・いろんな感情を経験してこなければ、説得力ある役作りができない。
 グルベローヴァはその60年の人生で、ノルマを演じるのに必要な経験をあまさず蓄積してきたことが、このライブ映像で証明されている。
 逆に言えば、この『ノルマ』を演じるために彼女の60年はあったと言ってもいいほどの役との同化が達成されている。

 一つだけ例を上げる。
 第1幕の有名なノルマのアリア『カスタ・ディーヴァ』は、月の女神に感謝や祈りを捧げるとともに、支配者ローマへの敵意剥き出しになっているガリア人同胞たちの荒ぶる心を鎮めるために歌われる。
 2番の歌詞はこうである。

Tempra, o Diva,
Tempra tu de cori ardenti
Tempra ancora lo zelo audace,
Spargi in terra quella pace
Che regnar tu fai nel ciel

鎮めたまえ 月の女神よ
鎮めたまえ この湧き立つ心を
鎮めたまえ いまだ向こう見ずな情熱を
この地に平和を降りそそぎたまえ
天上に変わらぬ平和を
(ソルティ訳)


 今回グルベローヴァが歌っているのを見て、「あっ、そうか!」と今さらながら発見したのは、この2番は戦意に駆りたてられている男たちを諫めているのと同時に――あるいはそれ以上に、ポリオーネへの愛と疑いに揺れ動く自らの心に呼びかけているのであった。
 これまでカラスを含めいろいろなソプラノ歌手が『カスタ・ディーヴァ』を歌い演じているのを見聞きしていながら、そこに気づかなかった。
 そういった解釈を与えている舞台に出会わなかった。
 グルベローヴァは、明らかにそうした解釈を行い、観客にそれと分かるように演じている。
 それによって『カスタ・ディーヴァ』が、神を讃える美しい祈りの歌から、人間の心の葛藤を描く“演歌”へと様変わりするのである。
 指揮を務めているフリードリヒ・ハイダーは、公私ともにわたって長年、グルベローヴァのパートナーであったが、本公演の前年(2007年)に別れている。
 邪推すれば、ハイダーとの間にあったすったもんだすら、パフォーマンスに役立てているのかもしれない。
 この冒頭のアリアで衝撃を受け、あとはそのまま完全にグルベローヴァの手の内で転がされた。
 歌と芝居の見事な融合は、2時間半を超えるこのオペラを短く感じさせた。
 まったく驚くべき芸術家である。

IMG_20240321_124624
グルベローヴァ/オペラ・アリア集
(1989年、CBSソニー版)

 ポリオーネ役のソラン・トドロヴィチは、女にもてるローマ総督というキャラにあったハンサムな容姿と立派な体格の持ち主。歌声も堂々として、ラストでは繊細さを示す。
 ノルマの父親であり族長でもあるオロヴェーゾ役のロベルト・スカンディウィッツィ。威厳と貫禄で舞台を引き締める。
 アダルジーザ役のソニア・ガナッシが、グルベローヴァと互角に近いレベルで渡り合っているのは天晴れ。張りのある声が素晴らしく、声域も広い。ノルマとの二重唱はハーモニーの美しさに陶然とする。
 歌手の声やテクニックを十全に引き立てつつも、きびきびと進むハイダーの指揮も良い。
 オーソドックスながら、青を基調とした幻想的・象徴的な舞台演出が、歌と芝居の邪魔することなく、異教的な色合いを醸し出している。
 アルカイダを思わせる兵士たちの黒覆面と銃がちょっと奇妙であった。

 エディタ・グルベローヴァよ。
 この映像を遺してくれてありがとう。

利根運河の桜
親日家のグルベローヴァは桜を愛した




 

● それは鉄道讃歌から始まった : ボヘミアン・フィルハーモニック 第9回定期演奏会

IMG_20240316_162617

日時: 2024年3月16日(土)14:00~
会場: 神奈川県立音楽堂
曲目:
  • ドヴォルザーク: 交響曲第1番「ズロニツェの鐘」
  • ドヴォルザーク: 交響曲第9番「新世界より」
  • アンコール ドヴォルザーク:プラハ・ワルツ B99
指揮: 山上紘生

 神奈川県立音楽堂は桜木町駅から徒歩10分。
 自宅から1時間半以上かかるのだが、山上紘生の振る『新世界』を聴かないでいらりょうか。
 ボヘミアン・フィルハーモニックは、「ドヴォルザークやスメタナなどのボヘミアの作曲家の楽曲を中心に演奏活動するアマチュアオーケストラ」で、今回の2曲でドヴォルザーク交響曲の全曲演奏達成とのこと。おめでとう!
 交響曲第1番など、なかなか聴く機会にお目にかかれない。
 5月初旬のぽかぽか陽気、遠出も苦にならなかった。

IMG_20240316_133410
JR桜木町駅

IMG_20240316_133755
紅葉坂
女性アイドルグループのような美しい名前だが、結構傾斜がきつい

IMG_20240316_134309
県立音楽堂
満席(約1000席)に近かった

 今回つくづく感じたのは、アントニン・ドヴォルザークという作曲家の進化のほどである。
 1865年24歳の時に作曲された交響曲第1番と、1893年52歳の時に初演された第9番を、続けて聴くことで、一人の芸術家の、あるいは一人の人間の成熟をまざまざと感じた。
 第1番も決して悪い出来ではない。
 ベートーヴェンとブラームスの影響を受けているのは無理もないところであるが、それでも、そこかしこにドヴォルザークの才能の片鱗とブルックナーにも似たオタク的個性を感じさせる。
 が、第1楽章から第4楽章まで、すべての楽章が同じように聴こえる。
 一定のリズムに乗って、力まかせに進行する。
 あたかも蒸気機関車のように。
 それゆえ、全体に単調に聴こえるのだ。
 ドヴォルザークは鉄道オタクで有名だったが、彼の音楽の原点にあるのは、幼少のみぎり夢中になって聞いた列車の響きなんじゃないか、としばしば思う。
 名うてのメロディーメイカーなのに、第1番ではそれが十分発揮されていないのがもったいない。 
 さらには、有名なチェロ協奏曲や第9番第2楽章に見られるような、祈りにも似た静謐な悲哀と深い宗教性――それこそがドヴォルザークの人生上の経験と成熟がもたらしたエッセンスなのではあるまいか――が、まだここには見られない。
 つまり、若書きなのである。
 24歳の作品だから若書きは当然であるが、マーラー28歳やショスタコーヴィチ19歳の第1番と比べると、かなり未熟な印象を受ける。
 アントニンは大器晩成型の作曲家だったのだろう。
 ソルティが第1番に副題をつけるなら、『鉄道讃歌』あるいは『ヒョウタンツギの冒険』ってところか。

steam-train-furka-mountain-range-1395441_1280
Erich WestendarpによるPixabayからの画像

 第9番は無駄な音符がひとつもないと思うような完璧な傑作。
 楽章ごとに異なる曲調と色合いで、変化に富んでいて飽きない。
 リズムとメロディの見事な融合が果たされている。
 第2楽章中間部の深い悲哀と宗教性は、全曲の肝である。
 この魂の泉の深みと静けさあるゆえに、第1楽章におけるグランドキャニオンのごとき荘厳と第4楽章における最後の審判のごとき大迫力が生きるのだ。
 鉄道讃歌が『銀河鉄道の夜』に飛躍するのである。 

 オケは緊張か、はたまた若さゆえか、ところどころ糸のほつれが見られはしたが、全般、弾力と光沢ある織物に仕上がっていた。
 織り手の筆頭である山上は、いろんなところで成功を重ねているせいか、風格が増した。
 『エースをねらえ!』のお蝶夫人を思わせる優美な指揮姿は変わらず。
 思わず見とれてしまう指揮姿は、この人の最大の武器であろう。
 女性ファンも増える一方と思われる。
 さらには、今回明らかにされたドヴォルザークとの親和性の高さ。
 これまでに聴いたショスタコーヴィチシベリウスもとても良かったが、どちらの場合も、「大曲に頑張って向き合っています」という気負った印象があった。
 ドヴォルザークではまったくそんな感じがなく、肩の力を抜いて自在に振っているように思えた。
 ひょっとして、山上も・・・・・・鉄ちゃん?
 次は、マーラーかベートーヴェンを聴いてみたいものだ。

IMG_20240316_161428
これほど質の高い演奏を無料で聴けた豊かさに感謝

IMG_20240316_163537
終演後、近くの野毛山不動尊に詣でた

IMG_20240316_163850
本殿
丘の上にあり、エレベータで上がることができる

IMG_20240316_163823
本殿前から横浜港方面を望む
横浜ランドマークタワーがひときわ高い

IMG_20240316_164431
不動明王

IMG_20240316_164810
弁天様もいらっしゃる

IMG_20240316_174432
野毛坂にある中華料理店がソルティのグルメレーダーに反応

IMG_20240316_171109
芸能人もやって来る店だった

IMG_20240316_172502
タンメンとグレープフルーツハイを注文
麺が太目でシコシコしていた
スープがほどよい塩加減でうまかった






● 雨後の筍 : ニューシティオーケストラ 第82回定期演奏会

NCOちらし

日時: 2024年3月3日(日)
会場: なかのZERO 大ホール
曲目:
  • ラヴェル: 古風なメヌエット
  • コダーイ: ガランタ舞曲
  • ラフマニノフ: 交響曲第2番
指揮: 清水宏之

 前回、中野駅に降りたのは 2023年7月のオーケストラ・ルゼル演奏会であった。
 今回、南口を出て、目の前に聳え立つピカピカの超高層ビルにびっくりした。
 雨後の筍のごと、いきなり出現したかのような唐突感。
 わずか半年で積み上がってしまう現代の高層ビル建築技術に恐れ入った。
 聞くところによると、現在中野駅周辺では100年に一度の再開発プロジェクトが進行中なのだとか。
 う~ん、お金はあるところにはあるのね。

IMG_20240303_132438
住友不動産ビル(地上20階、地下2階)

 ニューシティオーケストラは、はじめて聴く。
 1976年発足というから、アマオケとしては古株のほうではなかろうか。
 幅広い年齢のメンバー構成と見受けられた。

 1曲目のラヴェルは手慣らしといったところか。
 金管のテンポが微妙で、ちょっと不安に襲われた。

 2曲目の『ガランタ舞曲』で調子に乗った。
 作曲者コダーイ・ゾルターン(1882-1967)の出身地ハンガリーのロマ(旧称:ジプシー)の音楽を基調とした楽しい舞曲で、次々と入れ替わる曲調や表情が飽きさせない。
 ヴェルディ然り、ビゼー然り、ブラームス然り、ドヴォルザーク然り、マーラー然り、西洋音楽におけるロマ音楽の影響の大きさをつくづく感じさせられた。

 休憩後のラフマニノフ交響曲2番こそ、このオケの伝統と底力、および指揮者清水宏之の感性の豊かさを感じさせるものであった。
 ラフマニノフの音楽の美しさと哀切を骨の髄まで感得させてくれる名演で、第2楽章の途中から目頭が熱くなり、第3楽章から体の周囲にオーラの焔が湧き立った。
 音楽と一体化した徴である。
 川の流れのような弦楽器の流麗な調べに、金管、木管、打楽器が、非常にバランスよく乗っていた。
 ブラボー!

 共産主義革命とスターリン独裁を経ようが、東西冷戦の末のソ連崩壊を経ようが、プーチン強権下のウクライナ侵攻で世界中から非難を浴びようが、ロシア人の魂の奥底にはラフマニノフの音楽が息づいているはずだ。
 熱い魂と深い人情が、深い雪の下の流水のように滾っているはずだ。
 そのことを忘れてはいけないと思った。


  
 

● シンフォニア・ズブロッカ 第16回演奏会


zubrowka16_2

日時: 2024年2月24日(土)
会場: すみだトリフォニーホール 大ホール
曲目:
  • リヒャルト・シュトラウス: 交響詩「ドン・ファン」
  • ショスタコーヴィチ: 交響曲第7番「レニングラード」
指揮: 金井 俊文

 このオケを聴くのは2度目。
 1度目は2016年7月パルテノン多摩。
 指揮は金山隆夫であった。

 今回7年半ぶりに聴いて、非常に上手くなっていることにビックリした。
 ソロもトゥッティも危うげなかった。 
 団員が増えたせいもあろうかと思うが、音に厚みがあり、かつ一体感があった。
 ハンガリーで活躍している金井俊文の指導も与って力あったのだろう。
 良い演奏会であった。

 『レニングラード』を聴くのはこれで3回目だが、やはり「恐ろしい曲」という印象が深まるばかり。
 第1楽章で「侵攻の主題」が繰り返されるごとに狂気の色を帯びていく様も恐ろしいが、第4楽章の最後の「暗から明へ」の転調が背筋が凍るほど恐ろしい。
 悪魔の哄笑を聞く思いがする。
 この恐怖を和らげてくれる唯一のものは、「侵攻の主題」を使用したバブルの頃のシュワちゃん出演のアリナミンVのCMだけである。 

 チ~チン、プイプイ!

IMG_20240224_201606








● オペラライブDVD: グルベローヴァの『椿姫』

IMG_20240212_134301
ジュゼッペ・ヴェルディ作曲『ラ・トラヴィアータ』

収録日 1992年12月
場所  フェニーチェ劇場(ヴェネツィア)
キャスト
  • ヴィオレッタ・ヴァレリー: エディタ・グルベローヴァ(ソプラノ)
  • アルフレード・ジェルモン: ニール・シコフ(テノール)
  • ジョルジョ・ジェルモン: ジョルジョ・ザンカナーロ(バリトン)
指揮:カルロ・リッツィ
演出:ピエル・ルイジ・ピッツィ
オケ&合唱:フェニーチェ座管弦楽団&合唱団

 グルベローヴァ46歳のみぎりのライブである。
 あえて年齢を書いたのは、ほかでもない。
 最盛期の声が記録されていることを言いたいがためである。
 この2年前にソルティは渋谷オーチャードホールで開かれた彼女のリサイタルに行った。
 人間のものとは思えない銀色の玉のような声と、ITコントロールされているかのような超絶技巧、それでいて人情味あふれる温かくふくよかなタッチは、本作でも十分発揮されている。
 そのうえ、長年の経験で身につけた“声の”演技の見事さ。
 どのフレーズも完璧にドラマ的に、つまり多彩な感情表現で、色付けされている。
 そのため、有名なアリアや重唱だけでなく、レチタティーヴォ(セリフにあたる部分)も聴きどころたっぷりで、最初から最後まで耳を休めるヒマがない。
 もとがコロラトゥーラソプラノという鈴が転がるような声質のため、軽やかなパッセージが要求される第一幕の類いない完成度に比べれば、重くドラマチックな表現が要求される第二幕が「いささか弱いかな」という向きはあるが、ないものねだりというものだろう。
 スポーツカーの敏捷性とダンプカーの重量性を兼ね備えたマリア・カラスの声と比べるのは酷である。(サナダ虫ダイエットしたと噂されたマリア・カラスのモデル体型とも)

 アルフレード役のニール・シコフは、眼鏡をかけ、苦学生のような雰囲気を醸している。
 尻上がりの熱演。
 
 聞き惚れるのは、アルフレードの父親役のジョルジョ・ザンカナーロ(本名と役名が同じ!)
 歌唱も舞台姿も、スタイリッシュで品格あって、カッコいい。

 オペラを聞き始めた若い頃は、どうしたってソプラノ歌手やテノール歌手に注意が向いてしまうものだ。
 ソルティも多分にもれず、グルベローヴァやマリア・カラスはじめ、ジューン・サザランド、モンセラ・カバリエ、キャスリーン・バトル、ナタリー・デッセイなど、ソプラノ歌手を味わうのが一番の目的だった。
 ものの本には、「バリトン歌手を味わえるようになったら、一人前のオペラ鑑賞家」とあったが、その兆候はなかなか見られなかった。
 が、40歳を過ぎた頃からだろうか、バリトンの魅力を知るようになった。
 レナード・ウォレン、エットーレ・バスティアニーニ、ティト・ゴッビあたりが好みである。(しかし、古い世代ばかり)

 考えてみれば、映画やTVドラマにしても、いまは主役よりも脇役に目が行く。
 脇役の中にうまい役者を発見するのが楽しみになった。
 小津安二郎の映画は、セリフも動きも間合いもあらかじめ決められていて、「型にはまった芝居」と悪口を言われることが多いが、脇役の面白さや味わいの深さは比類がない。
 杉村春子、高橋とよ、中村伸郎、加藤大介、高橋貞二、高堂國典、島津雅彦・・・・ 
 「型にはめる」からこそ滲み出てくる個性というものがあるのだろう。

 演出・美術はオーソドックスで、奇を衒ったところがない。
 『椿姫』はやはり、タキシードとドレスで飾られたパリの社交界(文字通り「パリピ」)が舞台でないと映えないよな。

camellia-1813113_1280
 naobimによるPixabayからの画像





● 自虐派の男たち : 新交響楽団第264回演奏会


IMG_20240108_135055

日時 2024年1月8日(月・祝)14:00~
会場 東京芸術劇場コンサートホール(豊島区)
曲目
  • フランツ・シュレーカー: 『あるドラマへの前奏曲』
  • グスタフ・マーラー: 交響曲第10番(クック版)全曲
指揮: 寺岡 清高

 新春一発目のコンサートは、モーツァルトかドヴォルザークあたりの比較的軽めの景気のいい曲を選びたい、と思うのはごく当然の人情だろう。
 とくに今年は年明けから大事件続きで、気分が滅入りがちなのだから。
 予定では、1月7日の和田一樹指揮による豊島区管弦楽団ニューイヤーコンサートに行くつもりだった。
 J.シュトラウスのウィンナーワルツ、『ハリーポッターと賢者の石』組曲、ドヴォルザーク交響曲第8番というラインナップは、まさに新しい年を華やかに希望をもってスタートするにふさわしい。
 だが、7日午前中の高尾山初詣のあとに寄った麓の温泉で、湯上りについ生ビールを頼んだのがいけなかった。
 最近はほんの少しのアルコールでも眠くなってしまうソルティ。
 もはや、午後からのコンサートに行く気力は残ってなかった。

 かくして、事前にチケット予約していた本コンサートをもって、すなわちマーラーの10番という、あらゆる交響曲の中でも屈指の悲嘆さと落ち込み誘発力をもつ曲をもって、2024年を始めることになってしまった。

IMG_20240108_162457
東京芸術劇場

 案の定、寺岡清高の指揮棒が下りた全曲終了後、広い会場を揺るがす喝采をよそに、ソルティは座席に深く沈んだまま、固まった。
 前回、齊藤栄一指揮×オーケストラ・イストリアの演奏で10番を聴いたときは、終演後約3分間拍手に加われなかった。
 今回はまるまる5分間、体が動かなかった。
 曲の表現する“世界”に捕まってしまい、そこから抜けられなかった。
 暗、鬱、狂気、破壊、悲哀、郷愁、死の受容、諦念・・・・といった“世界”に。

 この10番には、マーラーの1番から9番までの交響曲と『大地の歌』をはじめとする歌曲のすべてが、断片的に織り込まれているような気がする。
 あっ、ここは1番の第2楽章、ここは4番の第2楽章、ここは5番のアダージョ、ここは『大地の歌』の一節・・・・といったふうに、マーラーの作ったすべての動機が、マーラーの様々な表情が、つまりはマーラーという芸術家を構成する要素が、ゲームセンターのモグラたたきのように、入れ替わり立ち替わり、顔を出しているように思う。
 ユダヤ的郷愁に包まれた幼年時代、恋も仕事もイケイケの青春時代、アルマとの甘美な性愛、自然の癒し、向かうところ敵なしの成功街道、子供の死、精神の危機、神への懐疑・・・・いろんな場景の描かれたスケッチ帳をめくるが如く。
 その意味で、9番同様、「ザ・マーラー総集編」といった趣きなのであるが、10番において重要なのは、次々と繰り出されるどの要素も、みな当初の形から“変異”しているという点である。
 どの要素も、どのスケッチも、黒く縁取りされて、死の影がまとい、悪魔の哄笑が響き、破壊の槌音に苛まれている。
 それはあたかも、自ら構築した世界をメタ化しているかのよう。
 自らの人生をカッコに括って、外から見て、嘲笑し慨嘆し破砕しているかのよう。
 マーラーよ、そこまで自虐的にならなくても・・・・。

 ひょっとしたら、この10番を作っている最中に、マーラーが精神分析の創始者であるフロイトと知り合って、精神分析という方法を知ったことが、曲づくりに影響を及ぼしたのではなかろうか?
 表面に現れている現象の奥に、当人が自覚できない無意識の流れがあるという精神分析の基本コンセプトが、マーラーをして自らの人生ドラマを「メタ化」せしめたのではないか。
 そんな妄想を起こさせるような、容赦ない自己分析、自己嗜虐である。
 あるいは、この全曲版が(第1楽章をのぞけば)マーラー自身の手によってではなく、音楽学者クックという他人の手によって編まれたことが、そのような印象を与えるのかもしれない。
 マーラーが最終的に想定していた形とは、異なった仕上がりになっている可能性もあるかも。
 いずれにせよ、聴く者の精神状態が安定している時でないと、聴くのはきつい曲である。

sheet-music-4121936_1280
HeungSoonによるPixabayからの画像

 フランツ・シュレーカー(1878‐1934)は、20世紀初頭にウィーンやベルリンで活躍したオペラ作曲家である。
 入口で配布されたプログラムによると、今回演奏された『あるドラマへの前奏曲』という曲も、自作台本のオペラ『烙印を押された者たち』の前奏曲として準備されたらしい。
 ワーグナー、マーラー、シェーンベルクの影響を思わせる官能的でキメの細かい見事なオーケストレーションと、オペラ作曲家としての手腕を感じさせるメロディアスな部分が光っている。
 こんな才能ある作曲家が埋もれたのは、なにゆえ?
 それはシュレーカーがユダヤ人だったから。
 すなわち、ナチスによって「退廃音楽」とレッテルを貼られ、否定され、戦後の復権を待たずに世を去ってしまったから。
 運に恵まれない音楽家だったのだ。
(いや、ヒトラーが政権を握る前に亡くなったのは恵まれていたのか)

 1918年に初演されたオペラ『烙印を押された者たち』は、ストーリーのあらましだけ読むと、かなりエロくてエグイ。
 江戸川乱歩の『パノラマ島奇談』とアンドルー・ロイド・ウェバー作曲の『オペラ座の怪人』をミックスしたような感じ。
 つまり、孤独で醜い男の恋と破滅の物語である。
 そもそも、シュレーカーに「醜い男の悲劇」を書いてほしいと依頼したのは、同じ作曲家仲間のツェムリンスキーだった。
 ツェムリンスキーはその不細工ゆえに、付きあっていた女性に振られてしまったが、それが相当のトラウマになったことは、彼の手になる交響詩『人魚姫』からも推測される。
 その女性こそ、マーラーの妻となったアルマ・シントラーであった。
 ツェムリンスキーもまた、マーラーに負けず劣らず自虐の人だ。
 
 いや、マーラー10番から一年を始めたソルティも、十分自虐派の一人だ。  

IMG_20240108_161140
喝采を浴びる新交響楽団と寺岡清高








 


 

● オペラライブDVD:ロッシーニ作曲『チェネレントラ』


IMG_20231203_111036

収録日時 2008年1月
会場 リセウ大劇場(バルセロナ)
キャスト
  • アンジェリーナ: ジョイス・ディドナード(メゾソプラノ)
  • ドン・ラミーロ: ファン・ディエゴ・フローレス(テノール)
  • ダンディーニ: デイヴィッド・メナンデス(バリトン)
  • ドン・マニーフィコ: ブルーノ・デ・シモーネ(バス)
指揮 パトリック・サマーズ
オケ リセウ大劇場交響楽団
合唱 リセウ大劇場合唱団
演出 ジョアン・フォント

 「チェネレントラ」とイタリア語で言うと、なんのことやら見当つかないと思うが、なんのことはない、「シンデレラ」である。
 17世紀フランスの詩人シャルル・ペロー版の童話が知られているが、むしろいまや、ディズニー作と思っている人が多いのではなかろうか。
 ソルティが子供の頃読んだ童話集の中では「灰かぶり姫」と題されていたと記憶する。

 ロッシーニの作曲した39のオペラの中でも、『セヴィリアの理髪師』と並んで人気が高く、上演回数の多い作品である。
 誰もが知っている楽しくわかりやすいストーリーに、ロッシーニならではの諧謔とスピード感に満ちた聴く者を興奮させる音楽が満載なので、オペラ初心者が観るには向いていると言えよう。
 ただ、166分という上演時間をやや冗長に思うかもしれない。(もう少し切り込んで140分くらいに収めれば、もっとテンポが良くなるのになあ)

 『チェネレントラ』のライヴ映像記録の定番にして最高峰は、なんと言っても、チェチリア・バルトリが主役をつとめた1995年11月のヒューストン・グランドオペラである。
 驚異的なテクニックで今に続くロッシーニ・ルネッサンスの立役者の一人となったチェチリアの最盛期の声と、シンデレラの継父ドン・マニーフィコ役のバス歌手エンツォ・ダーラの滑稽にして存在感ある演技――往年のTBS人気ドラマ『寺内貫太郎一家』の小林亜星を思わせる――は、何回見ても引き込まれる。
 頭の上に植物の鉢を乗せた意地悪な姉妹(クロリンダとティスベ)の対照的な体型の取り合わせも愉快だった。
 これを凌ぐ『チェンレントラ』の舞台は現れないだろうと思っていたのだが、うれしい誤算、どんな分野にも前人を凌駕する新しい才能は生まれてくるものである。

 ただ、本作の凄さの一番の要因は、タイトルロール(主役)ではない。
 ジョイス・ディドナードはもちろん難のつけようない見事な歌唱で、その美貌と美声と優雅なたたずまいはシンデレラそのものである。コロラトゥーラの切れ味はチェチリアのほうが上回っているかもしれない。
 ほかの主要な歌手たちもヒューストン版の同役の歌手たちと互角に渡り合っている。ドン・マニーフィコはエンツォ・ダーラの方がマンガチックな滑稽味あって面白いと思うが、これは好みの問題だろう。
 本ライブの芸術的価値および記録的価値を高めているのは、王子ドン・ラミーロ役のファン・ディエゴ・フローレスに尽きる。

 このときフローレスは35歳。まさにオペラ歌手として最盛期。
 張りのある美声、磨き上げたベルカントのテクニック、貴公子そのものの凛々しい立ち居振る舞い、甘いマスク、周囲に漂う大谷翔平ばりのフェロモン・・・これほど御伽噺の王子様にピッタリの歌手はそうそういまい。
 とりわけフローレスの十八番たる超絶高音の力強さと輝きたるや、「キング・オブ・ハイC」パヴァロッティも衝撃と嫉妬で痩せるんじゃないかと思うほど。
 シンデレラの意地悪な姉妹たちは、女性の本音を探るために従者のフリをした王子ドン・ラミーロをけんもほろろに鼻であしらい、王子のフリをした従者ダンディーニに色目を使い積極的にモーションをかける――というのが本来の筋書きであるが、このフローレスを前にしたら、たいていの女性は、王妃の地位よりもイケメン従者の妻を選ぶんじゃなかろうか。(おっとセクハラチックな昭和発言)
 フローレスに与えられた「現代最高のテノール」という称号の偽りでないことを知るには、本作を観るに(聴くに)如くはない。
 
 本作はまた、演出が面白い。
 明るく人工的な原色を多用したカラフルでポップな衣装や小道具、トランプの騎士のような家臣たちの制服とたたずまい、舞台狭しと走り回るネズミたち(男性役者が扮している)、鏡や影絵の使用。
 「不思議の国のアリス」の世界を思わせるファンタスティックな舞台となっている。
 シンデレラの住む古い屋敷はともかく、王子様の住む宮殿内をネズミがちょこまか走り回るのは不自然だし、ちょっとうるさい気がするのだが、最後まで見ると、「なるほど、そういうことか」と腑に落ちる。
 御伽噺はあくまで御伽噺なのであった。
 
 ウィキ「シンデレラ」によると、1900年(明治34年)に坪内逍遥が高等小学校の教科書掲載用に翻訳した際、題名は「おしん物語」だったとな。
 
四国遍路1 2907
2018年11月香川県観音寺にて撮影




● AC/秋の一日: 中央フィルハーモニア管弦楽団 第86回定期演奏会


IMG_20231029_133449
 
日時: 2023年10月29日(日)14:00~
会場: 杉並公会堂 大ホール
曲目:  
  • チャイコフスキー: 歌劇「エフゲニー・オネーギン」作品24よりポロネーズ
  • チャイコフスキー: ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品35
  • シベリウス: 交響曲第2番ニ長調作品43
ヴァイオリン: 岸本 萌乃加
指揮: 米田 覚士

 ほんの数日前まで猛暑日&真夏日が続いて辟易していたのに、ここ数日、ビルの谷間には雪をかぶった富士山が冴え冴えと、雲の陰からは澄みきった月の光が煌々と、居座り続けた夏の背後で秋は静かに熟していたようである。
 10月最後の日曜日、午前中はめずらしく部屋の片づけなどして、それから電車に乗って都内の図書館に。
 ミステリーや瞑想の本など5冊借りた。
 別に買った本と合わせて計7冊が待機となる。
 返却期限付きの本が机辺に積まれているのは結構なプレッシャーなのだが、活字依存のソルティ、次に読む本が用意されてないと、毛布を奪われたライナスのように禁断症状を起こす。

IMG_20231029_184552

 デイバッグを書籍で満たしたところで、お次は腹の番。
 我を招くは地味な外観の街角のラーメン店。
 豚骨ラーメンを注文する。
 当たり! 
 あとを引かない程よいコッテリ感が、還暦近い胃袋にやさしかった。

IMG_20231022_151310

 中央線で荻窪駅へ。
 杉並公会堂大ホールは6~7割の入り。
 本日のメインは、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲とシベリウス交響曲第2番という贅沢この上ないカップリング。
 とろけるように美しく、泣きたくなるほどロマンティックなチャイコ節。
 ソリスト岸本萌乃加(ほのか)の卓抜なテクニックに、「ブラボー」がかかった。
 シベリウス2番は、噛めば噛むほど旨味が増してくるスルメのような名曲。
 聞くほどに「好き!」が増してくる。
 思わず、帰り道のブックオフで、カラヤン指揮の中古CDを買ってしまった(500円)。

IMG_20231030_203437
1980年ベルリンフィル管弦楽団演奏
 
 駅近くの喫茶店に入って、ケーキセットで一服。
 濃厚カボチャのケーキはまさにハロウィーンの風物詩。
 お菓子でありながら野菜であることも罪悪感的にポイント高い。
 さっそく借りたばかりの本をめくる。 

IMG_20231026_172906

 切りのいいところまで読み進めて、店を出たらすでに真っ暗。
 早く家に帰って『どうする家康』を観なくちゃ。
 もうすぐ天下分け目の合戦だ。
 
 アフター・コロナ。
 こんな平凡な秋の一日が戻ってきたことに感謝。





 
 
 
 
  

記事検索
最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文