ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●ライブ(音楽・芝居・落語など)

● それは鉄道讃歌から始まった : ボヘミアン・フィルハーモニック 第9回定期演奏会

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日時: 2024年3月16日(土)14:00~
会場: 神奈川県立音楽堂
曲目:
  • ドヴォルザーク: 交響曲第1番「ズロニツェの鐘」
  • ドヴォルザーク: 交響曲第9番「新世界より」
  • アンコール ドヴォルザーク:プラハ・ワルツ B99
指揮: 山上紘生

 神奈川県立音楽堂は桜木町駅から徒歩10分。
 自宅から1時間半以上かかるのだが、山上紘生の振る『新世界』を聴かないでいらりょうか。
 ボヘミアン・フィルハーモニックは、「ドヴォルザークやスメタナなどのボヘミアの作曲家の楽曲を中心に演奏活動するアマチュアオーケストラ」で、今回の2曲でドヴォルザーク交響曲の全曲演奏達成とのこと。おめでとう!
 交響曲第1番など、なかなか聴く機会にお目にかかれない。
 5月初旬のぽかぽか陽気、遠出も苦にならなかった。

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JR桜木町駅

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紅葉坂
女性アイドルグループのような美しい名前だが、結構傾斜がきつい

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県立音楽堂
満席(約1000席)に近かった

 今回つくづく感じたのは、アントニン・ドヴォルザークという作曲家の進化のほどである。
 1865年24歳の時に作曲された交響曲第1番と、1893年52歳の時に初演された第9番を、続けて聴くことで、一人の芸術家の、あるいは一人の人間の成熟をまざまざと感じた。
 第1番も決して悪い出来ではない。
 ベートーヴェンとブラームスの影響を受けているのは無理もないところであるが、それでも、そこかしこにドヴォルザークの才能の片鱗とブルックナーにも似たオタク的個性を感じさせる。
 が、第1楽章から第4楽章まで、すべての楽章が同じように聴こえる。
 一定のリズムに乗って、力まかせに進行する。
 あたかも蒸気機関車のように。
 それゆえ、全体に単調に聴こえるのだ。
 ドヴォルザークは鉄道オタクで有名だったが、彼の音楽の原点にあるのは、幼少のみぎり夢中になって聞いた列車の響きなんじゃないか、としばしば思う。
 名うてのメロディーメイカーなのに、第1番ではそれが十分発揮されていないのがもったいない。 
 さらには、有名なチェロ協奏曲や第9番第2楽章に見られるような、祈りにも似た静謐な悲哀と深い宗教性――それこそがドヴォルザークの人生上の経験と成熟がもたらしたエッセンスなのではあるまいか――が、まだここには見られない。
 つまり、若書きなのである。
 24歳の作品だから若書きは当然であるが、マーラー28歳やショスタコーヴィチ19歳の第1番と比べると、かなり未熟な印象を受ける。
 アントニンは大器晩成型の作曲家だったのだろう。
 ソルティが第1番に副題をつけるなら、『鉄道讃歌』あるいは『ヒョウタンツギの冒険』ってところか。

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Erich WestendarpによるPixabayからの画像

 第9番は無駄な音符がひとつもないと思うような完璧な傑作。
 楽章ごとに異なる曲調と色合いで、変化に富んでいて飽きない。
 リズムとメロディの見事な融合が果たされている。
 第2楽章中間部の深い悲哀と宗教性は、全曲の肝である。
 この魂の泉の深みと静けさあるゆえに、第1楽章におけるグランドキャニオンのごとき荘厳と第4楽章における最後の審判のごとき大迫力が生きるのだ。
 鉄道讃歌が『銀河鉄道の夜』に飛躍するのである。 

 オケは緊張か、はたまた若さゆえか、ところどころ糸のほつれが見られはしたが、全般、弾力と光沢ある織物に仕上がっていた。
 織り手の筆頭である山上は、いろんなところで成功を重ねているせいか、風格が増した。
 『エースをねらえ!』のお蝶夫人を思わせる優美な指揮姿は変わらず。
 思わず見とれてしまう指揮姿は、この人の最大の武器であろう。
 女性ファンも増える一方と思われる。
 さらには、今回明らかにされたドヴォルザークとの親和性の高さ。
 これまでに聴いたショスタコーヴィチシベリウスもとても良かったが、どちらの場合も、「大曲に頑張って向き合っています」という気負った印象があった。
 ドヴォルザークではまったくそんな感じがなく、肩の力を抜いて自在に振っているように思えた。
 ひょっとして、山上も・・・・・・鉄ちゃん?
 次は、マーラーかベートーヴェンを聴いてみたいものだ。

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これほど質の高い演奏を無料で聴けた豊かさに感謝

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終演後、近くの野毛山不動尊に詣でた

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本殿
丘の上にあり、エレベータで上がることができる

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本殿前から横浜港方面を望む
横浜ランドマークタワーがひときわ高い

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不動明王

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弁天様もいらっしゃる

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野毛坂にある中華料理店がソルティのグルメレーダーに反応

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芸能人もやって来る店だった

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タンメンとグレープフルーツハイを注文
麺が太目でシコシコしていた
スープがほどよい塩加減でうまかった






● 雨後の筍 : ニューシティオーケストラ 第82回定期演奏会

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日時: 2024年3月3日(日)
会場: なかのZERO 大ホール
曲目:
  • ラヴェル: 古風なメヌエット
  • コダーイ: ガランタ舞曲
  • ラフマニノフ: 交響曲第2番
指揮: 清水宏之

 前回、中野駅に降りたのは 2023年7月のオーケストラ・ルゼル演奏会であった。
 今回、南口を出て、目の前に聳え立つピカピカの超高層ビルにびっくりした。
 雨後の筍のごと、いきなり出現したかのような唐突感。
 わずか半年で積み上がってしまう現代の高層ビル建築技術に恐れ入った。
 聞くところによると、現在中野駅周辺では100年に一度の再開発プロジェクトが進行中なのだとか。
 う~ん、お金はあるところにはあるのね。

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住友不動産ビル(地上20階、地下2階)

 ニューシティオーケストラは、はじめて聴く。
 1976年発足というから、アマオケとしては古株のほうではなかろうか。
 幅広い年齢のメンバー構成と見受けられた。

 1曲目のラヴェルは手慣らしといったところか。
 金管のテンポが微妙で、ちょっと不安に襲われた。

 2曲目の『ガランタ舞曲』で調子に乗った。
 作曲者コダーイ・ゾルターン(1882-1967)の出身地ハンガリーのロマ(旧称:ジプシー)の音楽を基調とした楽しい舞曲で、次々と入れ替わる曲調や表情が飽きさせない。
 ヴェルディ然り、ビゼー然り、ブラームス然り、ドヴォルザーク然り、マーラー然り、西洋音楽におけるロマ音楽の影響の大きさをつくづく感じさせられた。

 休憩後のラフマニノフ交響曲2番こそ、このオケの伝統と底力、および指揮者清水宏之の感性の豊かさを感じさせるものであった。
 ラフマニノフの音楽の美しさと哀切を骨の髄まで感得させてくれる名演で、第2楽章の途中から目頭が熱くなり、第3楽章から体の周囲にオーラの焔が湧き立った。
 音楽と一体化した徴である。
 川の流れのような弦楽器の流麗な調べに、金管、木管、打楽器が、非常にバランスよく乗っていた。
 ブラボー!

 共産主義革命とスターリン独裁を経ようが、東西冷戦の末のソ連崩壊を経ようが、プーチン強権下のウクライナ侵攻で世界中から非難を浴びようが、ロシア人の魂の奥底にはラフマニノフの音楽が息づいているはずだ。
 熱い魂と深い人情が、深い雪の下の流水のように滾っているはずだ。
 そのことを忘れてはいけないと思った。


  
 

● シンフォニア・ズブロッカ 第16回演奏会


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日時: 2024年2月24日(土)
会場: すみだトリフォニーホール 大ホール
曲目:
  • リヒャルト・シュトラウス: 交響詩「ドン・ファン」
  • ショスタコーヴィチ: 交響曲第7番「レニングラード」
指揮: 金井 俊文

 このオケを聴くのは2度目。
 1度目は2016年7月パルテノン多摩。
 指揮は金山隆夫であった。

 今回7年半ぶりに聴いて、非常に上手くなっていることにビックリした。
 ソロもトゥッティも危うげなかった。 
 団員が増えたせいもあろうかと思うが、音に厚みがあり、かつ一体感があった。
 ハンガリーで活躍している金井俊文の指導も与って力あったのだろう。
 良い演奏会であった。

 『レニングラード』を聴くのはこれで3回目だが、やはり「恐ろしい曲」という印象が深まるばかり。
 第1楽章で「侵攻の主題」が繰り返されるごとに狂気の色を帯びていく様も恐ろしいが、第4楽章の最後の「暗から明へ」の転調が背筋が凍るほど恐ろしい。
 悪魔の哄笑を聞く思いがする。
 この恐怖を和らげてくれる唯一のものは、「侵攻の主題」を使用したバブルの頃のシュワちゃん出演のアリナミンVのCMだけである。 

 チ~チン、プイプイ!

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● オペラライブDVD: グルベローヴァの『椿姫』

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ジュゼッペ・ヴェルディ作曲『ラ・トラヴィアータ』

収録日 1992年12月
場所  フェニーチェ劇場(ヴェネツィア)
キャスト
  • ヴィオレッタ・ヴァレリー: エディタ・グルベローヴァ(ソプラノ)
  • アルフレード・ジェルモン: ニール・シコフ(テノール)
  • ジョルジョ・ジェルモン: ジョルジョ・ザンカナーロ(バリトン)
指揮:カルロ・リッツィ
演出:ピエル・ルイジ・ピッツィ
オケ&合唱:フェニーチェ座管弦楽団&合唱団

 グルベローヴァ46歳のみぎりのライブである。
 あえて年齢を書いたのは、ほかでもない。
 最盛期の声が記録されていることを言いたいがためである。
 この2年前にソルティは渋谷オーチャードホールで開かれた彼女のリサイタルに行った。
 人間のものとは思えない銀色の玉のような声と、ITコントロールされているかのような超絶技巧、それでいて人情味あふれる温かくふくよかなタッチは、本作でも十分発揮されている。
 そのうえ、長年の経験で身につけた“声の”演技の見事さ。
 どのフレーズも完璧にドラマ的に、つまり多彩な感情表現で、色付けされている。
 そのため、有名なアリアや重唱だけでなく、レチタティーヴォ(セリフにあたる部分)も聴きどころたっぷりで、最初から最後まで耳を休めるヒマがない。
 もとがコロラトゥーラソプラノという鈴が転がるような声質のため、軽やかなパッセージが要求される第一幕の類いない完成度に比べれば、重くドラマチックな表現が要求される第二幕が「いささか弱いかな」という向きはあるが、ないものねだりというものだろう。
 スポーツカーの敏捷性とダンプカーの重量性を兼ね備えたマリア・カラスの声と比べるのは酷である。(サナダ虫ダイエットしたと噂されたマリア・カラスのモデル体型とも)

 アルフレード役のニール・シコフは、眼鏡をかけ、苦学生のような雰囲気を醸している。
 尻上がりの熱演。
 
 聞き惚れるのは、アルフレードの父親役のジョルジョ・ザンカナーロ(本名と役名が同じ!)
 歌唱も舞台姿も、スタイリッシュで品格あって、カッコいい。

 オペラを聞き始めた若い頃は、どうしたってソプラノ歌手やテノール歌手に注意が向いてしまうものだ。
 ソルティも多分にもれず、グルベローヴァやマリア・カラスはじめ、ジューン・サザランド、モンセラ・カバリエ、キャスリーン・バトル、ナタリー・デッセイなど、ソプラノ歌手を味わうのが一番の目的だった。
 ものの本には、「バリトン歌手を味わえるようになったら、一人前のオペラ鑑賞家」とあったが、その兆候はなかなか見られなかった。
 が、40歳を過ぎた頃からだろうか、バリトンの魅力を知るようになった。
 レナード・ウォレン、エットーレ・バスティアニーニ、ティト・ゴッビあたりが好みである。(しかし、古い世代ばかり)

 考えてみれば、映画やTVドラマにしても、いまは主役よりも脇役に目が行く。
 脇役の中にうまい役者を発見するのが楽しみになった。
 小津安二郎の映画は、セリフも動きも間合いもあらかじめ決められていて、「型にはまった芝居」と悪口を言われることが多いが、脇役の面白さや味わいの深さは比類がない。
 杉村春子、高橋とよ、中村伸郎、加藤大介、高橋貞二、高堂國典、島津雅彦・・・・ 
 「型にはめる」からこそ滲み出てくる個性というものがあるのだろう。

 演出・美術はオーソドックスで、奇を衒ったところがない。
 『椿姫』はやはり、タキシードとドレスで飾られたパリの社交界(文字通り「パリピ」)が舞台でないと映えないよな。

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 naobimによるPixabayからの画像





● 自虐派の男たち : 新交響楽団第264回演奏会


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日時 2024年1月8日(月・祝)14:00~
会場 東京芸術劇場コンサートホール(豊島区)
曲目
  • フランツ・シュレーカー: 『あるドラマへの前奏曲』
  • グスタフ・マーラー: 交響曲第10番(クック版)全曲
指揮: 寺岡 清高

 新春一発目のコンサートは、モーツァルトかドヴォルザークあたりの比較的軽めの景気のいい曲を選びたい、と思うのはごく当然の人情だろう。
 とくに今年は年明けから大事件続きで、気分が滅入りがちなのだから。
 予定では、1月7日の和田一樹指揮による豊島区管弦楽団ニューイヤーコンサートに行くつもりだった。
 J.シュトラウスのウィンナーワルツ、『ハリーポッターと賢者の石』組曲、ドヴォルザーク交響曲第8番というラインナップは、まさに新しい年を華やかに希望をもってスタートするにふさわしい。
 だが、7日午前中の高尾山初詣のあとに寄った麓の温泉で、湯上りについ生ビールを頼んだのがいけなかった。
 最近はほんの少しのアルコールでも眠くなってしまうソルティ。
 もはや、午後からのコンサートに行く気力は残ってなかった。

 かくして、事前にチケット予約していた本コンサートをもって、すなわちマーラーの10番という、あらゆる交響曲の中でも屈指の悲嘆さと落ち込み誘発力をもつ曲をもって、2024年を始めることになってしまった。

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東京芸術劇場

 案の定、寺岡清高の指揮棒が下りた全曲終了後、広い会場を揺るがす喝采をよそに、ソルティは座席に深く沈んだまま、固まった。
 前回、齊藤栄一指揮×オーケストラ・イストリアの演奏で10番を聴いたときは、終演後約3分間拍手に加われなかった。
 今回はまるまる5分間、体が動かなかった。
 曲の表現する“世界”に捕まってしまい、そこから抜けられなかった。
 暗、鬱、狂気、破壊、悲哀、郷愁、死の受容、諦念・・・・といった“世界”に。

 この10番には、マーラーの1番から9番までの交響曲と『大地の歌』をはじめとする歌曲のすべてが、断片的に織り込まれているような気がする。
 あっ、ここは1番の第2楽章、ここは4番の第2楽章、ここは5番のアダージョ、ここは『大地の歌』の一節・・・・といったふうに、マーラーの作ったすべての動機が、マーラーの様々な表情が、つまりはマーラーという芸術家を構成する要素が、ゲームセンターのモグラたたきのように、入れ替わり立ち替わり、顔を出しているように思う。
 ユダヤ的郷愁に包まれた幼年時代、恋も仕事もイケイケの青春時代、アルマとの甘美な性愛、自然の癒し、向かうところ敵なしの成功街道、子供の死、精神の危機、神への懐疑・・・・いろんな場景の描かれたスケッチ帳をめくるが如く。
 その意味で、9番同様、「ザ・マーラー総集編」といった趣きなのであるが、10番において重要なのは、次々と繰り出されるどの要素も、みな当初の形から“変異”しているという点である。
 どの要素も、どのスケッチも、黒く縁取りされて、死の影がまとい、悪魔の哄笑が響き、破壊の槌音に苛まれている。
 それはあたかも、自ら構築した世界をメタ化しているかのよう。
 自らの人生をカッコに括って、外から見て、嘲笑し慨嘆し破砕しているかのよう。
 マーラーよ、そこまで自虐的にならなくても・・・・。

 ひょっとしたら、この10番を作っている最中に、マーラーが精神分析の創始者であるフロイトと知り合って、精神分析という方法を知ったことが、曲づくりに影響を及ぼしたのではなかろうか?
 表面に現れている現象の奥に、当人が自覚できない無意識の流れがあるという精神分析の基本コンセプトが、マーラーをして自らの人生ドラマを「メタ化」せしめたのではないか。
 そんな妄想を起こさせるような、容赦ない自己分析、自己嗜虐である。
 あるいは、この全曲版が(第1楽章をのぞけば)マーラー自身の手によってではなく、音楽学者クックという他人の手によって編まれたことが、そのような印象を与えるのかもしれない。
 マーラーが最終的に想定していた形とは、異なった仕上がりになっている可能性もあるかも。
 いずれにせよ、聴く者の精神状態が安定している時でないと、聴くのはきつい曲である。

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HeungSoonによるPixabayからの画像

 フランツ・シュレーカー(1878‐1934)は、20世紀初頭にウィーンやベルリンで活躍したオペラ作曲家である。
 入口で配布されたプログラムによると、今回演奏された『あるドラマへの前奏曲』という曲も、自作台本のオペラ『烙印を押された者たち』の前奏曲として準備されたらしい。
 ワーグナー、マーラー、シェーンベルクの影響を思わせる官能的でキメの細かい見事なオーケストレーションと、オペラ作曲家としての手腕を感じさせるメロディアスな部分が光っている。
 こんな才能ある作曲家が埋もれたのは、なにゆえ?
 それはシュレーカーがユダヤ人だったから。
 すなわち、ナチスによって「退廃音楽」とレッテルを貼られ、否定され、戦後の復権を待たずに世を去ってしまったから。
 運に恵まれない音楽家だったのだ。
(いや、ヒトラーが政権を握る前に亡くなったのは恵まれていたのか)

 1918年に初演されたオペラ『烙印を押された者たち』は、ストーリーのあらましだけ読むと、かなりエロくてエグイ。
 江戸川乱歩の『パノラマ島奇談』とアンドルー・ロイド・ウェバー作曲の『オペラ座の怪人』をミックスしたような感じ。
 つまり、孤独で醜い男の恋と破滅の物語である。
 そもそも、シュレーカーに「醜い男の悲劇」を書いてほしいと依頼したのは、同じ作曲家仲間のツェムリンスキーだった。
 ツェムリンスキーはその不細工ゆえに、付きあっていた女性に振られてしまったが、それが相当のトラウマになったことは、彼の手になる交響詩『人魚姫』からも推測される。
 その女性こそ、マーラーの妻となったアルマ・シントラーであった。
 ツェムリンスキーもまた、マーラーに負けず劣らず自虐の人だ。
 
 いや、マーラー10番から一年を始めたソルティも、十分自虐派の一人だ。  

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喝采を浴びる新交響楽団と寺岡清高








 


 

● オペラライブDVD:ロッシーニ作曲『チェネレントラ』


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収録日時 2008年1月
会場 リセウ大劇場(バルセロナ)
キャスト
  • アンジェリーナ: ジョイス・ディドナード(メゾソプラノ)
  • ドン・ラミーロ: ファン・ディエゴ・フローレス(テノール)
  • ダンディーニ: デイヴィッド・メナンデス(バリトン)
  • ドン・マニーフィコ: ブルーノ・デ・シモーネ(バス)
指揮 パトリック・サマーズ
オケ リセウ大劇場交響楽団
合唱 リセウ大劇場合唱団
演出 ジョアン・フォント

 「チェネレントラ」とイタリア語で言うと、なんのことやら見当つかないと思うが、なんのことはない、「シンデレラ」である。
 17世紀フランスの詩人シャルル・ペロー版の童話が知られているが、むしろいまや、ディズニー作と思っている人が多いのではなかろうか。
 ソルティが子供の頃読んだ童話集の中では「灰かぶり姫」と題されていたと記憶する。

 ロッシーニの作曲した39のオペラの中でも、『セヴィリアの理髪師』と並んで人気が高く、上演回数の多い作品である。
 誰もが知っている楽しくわかりやすいストーリーに、ロッシーニならではの諧謔とスピード感に満ちた聴く者を興奮させる音楽が満載なので、オペラ初心者が観るには向いていると言えよう。
 ただ、166分という上演時間をやや冗長に思うかもしれない。(もう少し切り込んで140分くらいに収めれば、もっとテンポが良くなるのになあ)

 『チェネレントラ』のライヴ映像記録の定番にして最高峰は、なんと言っても、チェチリア・バルトリが主役をつとめた1995年11月のヒューストン・グランドオペラである。
 驚異的なテクニックで今に続くロッシーニ・ルネッサンスの立役者の一人となったチェチリアの最盛期の声と、シンデレラの継父ドン・マニーフィコ役のバス歌手エンツォ・ダーラの滑稽にして存在感ある演技――往年のTBS人気ドラマ『寺内貫太郎一家』の小林亜星を思わせる――は、何回見ても引き込まれる。
 頭の上に植物の鉢を乗せた意地悪な姉妹(クロリンダとティスベ)の対照的な体型の取り合わせも愉快だった。
 これを凌ぐ『チェンレントラ』の舞台は現れないだろうと思っていたのだが、うれしい誤算、どんな分野にも前人を凌駕する新しい才能は生まれてくるものである。

 ただ、本作の凄さの一番の要因は、タイトルロール(主役)ではない。
 ジョイス・ディドナードはもちろん難のつけようない見事な歌唱で、その美貌と美声と優雅なたたずまいはシンデレラそのものである。コロラトゥーラの切れ味はチェチリアのほうが上回っているかもしれない。
 ほかの主要な歌手たちもヒューストン版の同役の歌手たちと互角に渡り合っている。ドン・マニーフィコはエンツォ・ダーラの方がマンガチックな滑稽味あって面白いと思うが、これは好みの問題だろう。
 本ライブの芸術的価値および記録的価値を高めているのは、王子ドン・ラミーロ役のファン・ディエゴ・フローレスに尽きる。

 このときフローレスは35歳。まさにオペラ歌手として最盛期。
 張りのある美声、磨き上げたベルカントのテクニック、貴公子そのものの凛々しい立ち居振る舞い、甘いマスク、周囲に漂う大谷翔平ばりのフェロモン・・・これほど御伽噺の王子様にピッタリの歌手はそうそういまい。
 とりわけフローレスの十八番たる超絶高音の力強さと輝きたるや、「キング・オブ・ハイC」パヴァロッティも衝撃と嫉妬で痩せるんじゃないかと思うほど。
 シンデレラの意地悪な姉妹たちは、女性の本音を探るために従者のフリをした王子ドン・ラミーロをけんもほろろに鼻であしらい、王子のフリをした従者ダンディーニに色目を使い積極的にモーションをかける――というのが本来の筋書きであるが、このフローレスを前にしたら、たいていの女性は、王妃の地位よりもイケメン従者の妻を選ぶんじゃなかろうか。(おっとセクハラチックな昭和発言)
 フローレスに与えられた「現代最高のテノール」という称号の偽りでないことを知るには、本作を観るに(聴くに)如くはない。
 
 本作はまた、演出が面白い。
 明るく人工的な原色を多用したカラフルでポップな衣装や小道具、トランプの騎士のような家臣たちの制服とたたずまい、舞台狭しと走り回るネズミたち(男性役者が扮している)、鏡や影絵の使用。
 「不思議の国のアリス」の世界を思わせるファンタスティックな舞台となっている。
 シンデレラの住む古い屋敷はともかく、王子様の住む宮殿内をネズミがちょこまか走り回るのは不自然だし、ちょっとうるさい気がするのだが、最後まで見ると、「なるほど、そういうことか」と腑に落ちる。
 御伽噺はあくまで御伽噺なのであった。
 
 ウィキ「シンデレラ」によると、1900年(明治34年)に坪内逍遥が高等小学校の教科書掲載用に翻訳した際、題名は「おしん物語」だったとな。
 
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2018年11月香川県観音寺にて撮影




● AC/秋の一日: 中央フィルハーモニア管弦楽団 第86回定期演奏会


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日時: 2023年10月29日(日)14:00~
会場: 杉並公会堂 大ホール
曲目:  
  • チャイコフスキー: 歌劇「エフゲニー・オネーギン」作品24よりポロネーズ
  • チャイコフスキー: ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品35
  • シベリウス: 交響曲第2番ニ長調作品43
ヴァイオリン: 岸本 萌乃加
指揮: 米田 覚士

 ほんの数日前まで猛暑日&真夏日が続いて辟易していたのに、ここ数日、ビルの谷間には雪をかぶった富士山が冴え冴えと、雲の陰からは澄みきった月の光が煌々と、居座り続けた夏の背後で秋は静かに熟していたようである。
 10月最後の日曜日、午前中はめずらしく部屋の片づけなどして、それから電車に乗って都内の図書館に。
 ミステリーや瞑想の本など5冊借りた。
 別に買った本と合わせて計7冊が待機となる。
 返却期限付きの本が机辺に積まれているのは結構なプレッシャーなのだが、活字依存のソルティ、次に読む本が用意されてないと、毛布を奪われたライナスのように禁断症状を起こす。

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 デイバッグを書籍で満たしたところで、お次は腹の番。
 我を招くは地味な外観の街角のラーメン店。
 豚骨ラーメンを注文する。
 当たり! 
 あとを引かない程よいコッテリ感が、還暦近い胃袋にやさしかった。

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 中央線で荻窪駅へ。
 杉並公会堂大ホールは6~7割の入り。
 本日のメインは、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲とシベリウス交響曲第2番という贅沢この上ないカップリング。
 とろけるように美しく、泣きたくなるほどロマンティックなチャイコ節。
 ソリスト岸本萌乃加(ほのか)の卓抜なテクニックに、「ブラボー」がかかった。
 シベリウス2番は、噛めば噛むほど旨味が増してくるスルメのような名曲。
 聞くほどに「好き!」が増してくる。
 思わず、帰り道のブックオフで、カラヤン指揮の中古CDを買ってしまった(500円)。

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1980年ベルリンフィル管弦楽団演奏
 
 駅近くの喫茶店に入って、ケーキセットで一服。
 濃厚カボチャのケーキはまさにハロウィーンの風物詩。
 お菓子でありながら野菜であることも罪悪感的にポイント高い。
 さっそく借りたばかりの本をめくる。 

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 切りのいいところまで読み進めて、店を出たらすでに真っ暗。
 早く家に帰って『どうする家康』を観なくちゃ。
 もうすぐ天下分け目の合戦だ。
 
 アフター・コロナ。
 こんな平凡な秋の一日が戻ってきたことに感謝。





 
 
 
 
  

● ショスタコ祭り: 新交響楽団 第263回演奏会

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日時: 2023年10月9日(月)14:00~
会場: 東京芸術劇場コンサートホール
曲目: 
  • ショスタコーヴィチ: バレエ組曲「黄金時代」
  • ショスタコーヴィチ: 交響曲第9番
  • ショスタコーヴィチ: 交響曲第12番
指揮: 坂入健司郎

 ショスタコーヴィチ(1906-1975)の初期、中期、後期の作品から1曲ずつ選んだオール・ショスタコ・プログラム。
 「わ~い、ショスタコ祭りだ!」と喜び勇んで。 
 いずれもはじめて聴くものばかり。
 社会主義国の国民的作曲家であったショスタコーヴィチの作品は、いつ何年に作られたものなのか知ることが結構重要。
 そのときのソ連の政治状況や社会情勢が作品に強く反映しているからだ。

① バレエ音楽『黄金時代』(1930年)
 ソ連のサッカーチームが資本主義国の博覧会「黄金時代」に招待され、地元の人々と交流する筋立て。
 1930年と言えば、ソ連が誕生して7年。
 建国の英雄レーニンは亡くなったが、まだ人々が夢と希望に満ち溢れていた時代と言える。
 明るく狂騒的なタッチの曲で、20代のショスタコーヴィチの若々しい活力と無限の可能性が感じられる。

② 交響曲第9番(1945年)
 1934年よりスターリンの大粛清が始まった。独裁体制下、芸術には「社会主義的リアリズム」が求められ、いっさいの自由な表現が許されなくなった。

社会主義的リアリズム
社会主義を称賛し、革命国家が勝利に向かって進んでいる現状を平易に描き、人民を思想的に固め革命意識を持たせるべく教育する目的を持った芸術。
(ウィキペディア『社会主義的リアリズム』より抜粋)

 この方針に従わない芸術家は、党による厳しい処分を受けた。
 その様子はソロモン・ヴォルコフ編『ショスタコーヴィチの証言』に詳しい。
 ショスタコーヴィチの場合、交響曲第4番あたりから当局の監視や干渉に悩まされたようである。
 党(=スターリン)に気に入られ大成功に終わった第5番からあとの作品は、党の意を汲んだ「社会主義的リアリズム」の形態に準じて一見ソビエト政府を持ちあげながら、密かに独裁者の横暴や全体主義管理社会の狂気をたくし込んで批判している――というのがソルティの見解である。
 つまり、表現の両義性、ダブル・ミーニングが、芸術家ショスタコーヴィチの常套手段になった。
 第5番第7番「レニングラード」はそれがもっともうまくいった例ではないかと思う。
 この9番は、どちらかと言えばうまくいかなかった例で、当局から批判されることになった。
 
 個人的に、この9番は『山岳遭難交響曲』といったイメージが湧いた。
 第1楽章は、山登りする一行の喜びや活気が見える。かぐわしい森の空気、清冽な小川の流れ、小鳥や小動物との楽しい出会い、おしゃべりしながら浮かれ歩く一行。おやおや、歩きながら酒を飲んでいる者もいる。
 第2楽章は「遭難」。標識ひとつ見落として、一行は道に迷う。はじめのうちは楽観的でいたものが、歩けど歩けど本道には戻れず、そのうち怪我する者も出てきた。あたりは突如として暗くなり、落雷から豪雨に。もはや完全に遭難してしまった。日が暮れると雨は雪に変わった。雪にまみれ凍えるばかりの一行。
 第3楽章は「捜索」。家族から知らせを受けた警察が捜索隊の出動を要請する。大勢のレンジャーたちが山に入り、雪をかき分け、岩場を覗き込み、遭難した者の名を呼びながら、必死の捜索を続ける。空にはヘリコプターが旋回する。
 だが、捜索の甲斐むなしく・・・
 捜索隊が森の奥に発見したのは、凍え死んだ一行の姿。第4楽章のテーマは「葬送」。亡くなった者の死を悼み、冥福を祈る。山登りを侮ってはならない。決して。
 が、のど元過ぎればなんとやら。
 第5楽章で曲調は始まりに戻る。またもや、山登りに浮かれ騒ぐ一行の出現。人間はなかなか学ばない。

③ 交響曲第12番「1917年」(1961年)
 1953年にスターリンが死んだ。「雪解け」が始まった。
 とはいえ、体制批判は許されない。 
 表題の「1917年」とはもちろんレーニンによる10月革命のこと。
 1960年に共産党に入党したショスタコーヴィチは、党の委嘱を受け、共産党大会で発表するためにこれを作曲した。
 ショスタコーヴィチが、スターリンを憎んでいたのはまず間違いないと思うが、建国の英雄レーニンについてはどう思っていたのか不明である。
 レーニンを否定するということは共産主義を否定するようなもので、体制批判にならざるをない。
 ショスタコーヴィチはソ連という国を、自分も党員の一人となった共産主義をどう思っていたのだろう?
 本作は一応、「暗」から「明」という形をとり、苦闘を乗り超えて勝ち取った栄光をたたえるような、輝かしい終わり方をしている。
 レーニン万歳! 共産党万歳!
 そこがこの作品が西側音楽界で長いこと、「体制に迎合して書かれた作品」として低く評価されてきた理由であろう。

 しかしながら、ソルティの耳には、やはりダブル・ミーニングが聞こえる。
 第4楽章では、ベートーヴェン第9の「歓喜の歌」を思わせる主題が幾度も現れて、レーニン讃歌、共産党讃歌を歌っているように見えながら、その歓喜にはどこか恐怖の影がつきまとっている。
 強いられた歓喜と言うか、偽りの歓喜と言うか、ベートーヴェンの達した境地とはまったく異なる、ひどく地上的な、威圧的な歓喜。
 これは独裁者の歓喜、支配者の凱歌ではなかろうか?

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nathnlmbによるPixabayからの画像

 交響曲第9番というのは、作曲家にとっても、音楽ファンにとっても、特別なものである。
 人類の至宝と言えるベートーヴェンの「第9」が聳え立ち、そこにあたかも逆ベクトルで肉薄したかのようなマーラーの9番という未曽有の悲劇がある。
 ソ連政府も国民も、ショスタコーヴィチの9番に期待するところ大だったという。
 「ベートーヴェンもマーラーも超える偉大な第9を、輝かしきソビエト共産党のために作ってくれ」という期待から来るプレッシャーはあったに違いない。
 ところが、出来上がったものは全楽章合わせて30分足らずの小曲で、「山岳遭難」をイメージされてしまうくらいの痩せたテーマ性。(山岳遭難が重大なテーマであるのは、山登りを趣味とするソルティ、重々承知している)

 つまるところ、ショスタコ―ヴィチはこう言いたかったのであるまいか。
 
 この国で「歓喜の唄」なんて歌えるか!
 
 「ショスタコ祭り」と無邪気に喜べるのは、部外者なればこそ。
 日本が今のところ民主主義国家であればこそ。
 
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新交響楽団、今回も素晴らしい演奏でした!







 

● 蒲田で昭和と出会う :オーケストラ・ラルゴ第1回定期演奏会

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蒲田駅東口

日時: 2023年10月7日(土)13:30~
会場: 大田区民ホール・アプリコ 大ホール
曲目: 
  • C.ニールセン: 序曲「ヘリオス」 Op.17
  • J.シベリウス: 交響曲第7番 ハ長調 Op.105
  • J.シベリウス: 交響曲第2番 ニ長調 Op.43
指揮: 山上 紘生

 Orchestra Largo(オーケストラ・ラルゴ)は、2022年に設立されたアマチュアオーケストラ。
 Largoとは音楽用語で「幅広く、ゆったりと」という意である。
 栄えある旗揚げ公演に参加させてもらったのは、シベリウス交響曲2連打の魅力とともに、山上紘生の真価を確かめたかったからである。
 この人の指揮を体験するのは3回目。
 前2回、ショスタコーヴィチの1番7番を聴いて、その音楽性というかスピリチュアルな力に驚嘆した。
 ほかの作曲家ではどうなのだろう? 

 ソルティはクラシック音楽を聴くと、チャクラが刺激され、体内の“気”が体を突き抜けたり、ふわっと底から湧きあがったり、体が熱くなったり、脳天が明るくなったりする、一種の特異体質になって久しい。
 集中が増すほどに、感動が深まるほどに、チャクラの活動は盛んになる。
 山上の指揮者としての腕前が、プロの音楽家や評論家の耳でどう判断されるのかは、素人の自分の知るところではない。
 が、音波によるチャクラ刺激力と体内浸透力、“気”の活性化力、そして聴いたあとの身心調整力に関して言えば、山上は凄いのである。
 丸一日瞑想するのと同じくらいの効果がある。
 知る限りで同じレベルの指揮者を上げるなら、和田一樹金山隆夫であろうか。
 この3人が振るコンサートには、なるべく出かけて、“ととのい”体験したいと思う。
 
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大田区民ホール・アプリコ

 配布プログラムによれば、一曲目の『ヘリオス』はギリシア神話の太陽神ヘリオスの一日を描写した曲とのこと。 
 つまり、日の出から日の入りまでの太陽の軌跡であり、大気の変化であり、地上の生命の応答である。
 曲のテーマからして、神々しくパワフル、生命力を礼讃するもので、新しく誕生したオケのデビューにうってつけの曲。
 良い曲を選んだものよ。

 二曲目はシベリウス交響曲第7番。
 演奏時間20分強の短い曲である。
 ここで、ソルティは一種のアルタードステイツ(変性意識状態)に入った。
 はっきりと覚醒しているのでもない、眠っているのでもない、おぼろな状態。
 子供の頃、プールで思いっきり泳いだ帰り、父の運転する車の後部座席で、灼けた肌に残るかすかな塩素の匂いを感じながら、無言で車の揺れに身をまかせていた時の感覚。(←わかりにくい比喩だ)
 シベリウスの曲には、聴く者を意識の内奥に向かわせるようなところがある。

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ホール内側から見た景色
ちょっと牢屋の中にいるよう?

 休憩後、メインのシベリウス交響曲第2番。
 ここからチャクラがしきりと動き出した。
 舞台から放たれる音波と、体内の“気”の応答は、自らの意志とはまったく関係ないところで起きている。“気”の変化によって生じる気分の高揚も意識的なものではない。
 人間の心というのは、周囲の環境によって知らず影響されるものなのだ。
 たとえば気温や気圧のちょっとした変化で気分が変わり、その日の 行動が変わるように、周囲の“気”の影響を知らずに受けて、選択し決定し行動してしまう。それを自分の意志と勘違いする。
 悪名高き日本人の同調圧力も、周囲の“気”に簡単に流されてしまうところに原因がありそうだ。
 自らの“気”の状態を知り、上手にコントロールするスキルを身につけることは大切だとつくづく思う。
 
 どの楽章も素晴らしかったが、やはり第4楽章が圧巻であった。
 第1楽章から第3楽章まで刺激されるがまま勝手に動いていたチャクラと突発的に起こっていた“気”の流れが、一つの大きな熱い光の玉となって体を包みこむような感覚があった。
 感動は最高潮に達した。
 旗揚げ公演に山上紘生を選んだオケの慧眼に拍手。

 感動冷めやらず、蒲田駅周辺を歩いてみた。

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蒲田駅西口
東口と表情が異なり、昔ながらのアーケード商店街が伸びる下町

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今なお健在で賑わっているのに感動
ザ・昭和な店が並んでいてタイムスリップした気分になる

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階段を這い上がってくる昭和の匂いに思わず足が止まった
インベーダーゲームのある喫茶店の匂いだ

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昭和世代にとって蒲田は居心地よい街なのでは?
(ただし、ワンルーム7万円以上はする)

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東急多摩川線高架下の一杯飲み屋街
酔っぱらった若者たちで賑わっていた

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ちょうど上野のJR高架下あたりの感じ
安くて旨そうな料理店が軒を並べている

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東急多摩川線
これまたクラシカルな車両がクール














 
 
 

● 映画:ヴェルディ作曲『イル・トロヴァトーレ』(英国ロイヤル・オペラ・ハウス)

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トロヴァトーレとは「吟遊詩人」のことである
OpenClipart-VectorsによるPixabayからの画像


上演日 2023年6月23日
劇 場 英国ロイヤル・オペラ・ハウス
【指揮】 アントニオ・パッパーノ
【演出】 アデル・トーマス
【合唱】 ロイヤル・オペラ合唱団
【オケ】 ロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団
【キャスト】
  • レオノーラ: レイチェル・ウィリス=ソレンセン(ソプラノ)
  • マンリーコ: リッカルド・マッシ(テノール)
  • ルーナ伯爵: リュドヴィク・テジエ(バリトン)
  • アズチェーナ: ジェイミー・バートン(メゾソプラノ)
  • フェルランド: ロベルト・タリアヴィーニ(バス)
【上映時間】3時間13分
【配給】東宝東和

 東宝でこういったプロジェクトをやっていたとは知らなかった。
 2018年頃からスタートしたらしい。
 ライバル松竹の向こうを張って、あちらがニューヨーク・メトロポリタン・オペラ(MET)のライブ映像なら、こちらは英国ロイヤル・オペラ・ハウスと来た。
 伝統も格式も作品のクオリティもMETに遜色ない。
 おかげで、日本のオペラファンは、そのシーズンにかかった米英両国のフレッシュな舞台と現代最高の歌手たちの見事な歌唱を、日本にいながらにして楽しむことができる。
 なんていい時代だ!
 
 調布駅そばのイオンシネマ・シアタス調布まで出かけた。
 家から電車を乗り継いで1時間半近くかかるが、『トロヴァトーレ』のためならお安い御用。
 やっぱりソルティは数あるオペラの中でこの作品が一番好き。
 とにかく歌が素晴らしい。
 アリア(独唱)も重唱も合唱も魅力的なピースばかりで、聴きどころ満載なのだ。
 中世ヨーロッパが舞台の「復讐」をテーマとする暗く陰惨な物語ではあるが、歌の美しさは途方もない。
 いや、背景が暗いからこそ登場人物の愛や情熱や怒りの炎が一際明るく輝きわたって、日常を超えたドラマチックな世界へと聴く者を導いてくれる。
 複雑で難解で荒唐無稽なプロットと揶揄されることも多い作品であるが、荒唐無稽はともかく、別に複雑でも難解でもないと思う。
 この程度のプロットが理解できないで、アクロバティックな仕掛けに満ちた現代のミステリーサスペンス映画が観られるものか。
 だいたい、リブレット(台本)を読めば一発で理解できるではないか。
 いい加減、『トロヴァトーレ』を「複雑、難解」というのは止したらどうか。

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調布駅

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イオンシネマ・シアタス調布

 本作の、というか本演出の最大のポイントは、バスのフェルランドの扱いである。
 フェルランドはルーナ伯爵の家臣であり、伯爵家の兵士たちの頼りがいある隊長。
 一番の見せ場は、第一幕第一場すなわち幕開きのアリアである。
 ここでフェルランドは、夜番をする部下たち相手に、ルーナ家にまつわる過去の陰惨な事件を大層ドラマチックに物語る。
 観客に物語の背景を説明するとともに、地獄の底から轟くようなバスの低音によって、オカルティックな雰囲気を高める役を果たす。
 この導入部は非常に重要で、ここでフェルランドが観客の心と耳をガッチリ掴むことで、観客は現代から中世ヨーロッパへとタイムスリップすることができる。
 ここさえ無難に歌い演じ終えたら、ほっと一息。あとは脇に回って、主君であるルーナ伯爵の出番の際に一緒に登場し、合いの手を入れたり命令に従ったりしながら、合唱においては低音部分を支える。
 重要な役ではあるが、4人の花形(マンリーコ、レオノーラ、ルーナ伯爵、アズチェーナ)にくらべれば目立つものではなく、脇役のトップといった位置づけである。
 
 ところが、本演出におけるフェルランドは、最初から最後までほぼ舞台に出ずっぱりなのだ。
 自身の歌(セリフ)のない場面でも、ルーナ伯爵や家来に伴われていない場面でも、登場する。奇怪な恰好をした3匹の獣を引き連れて。
 それは、フェルランドを狂言回しとして設定しているからである。
 ルーナ伯爵の家臣であると同時に、物語の狂言回しとして、この暗く不吉なドラマを地獄の悲劇へと突き進めていく船頭のような役目を果たす。
 いいや、はっきり言おう。
 このフェルランドは悪魔であり死神なのである。
 だから、血と裏切りと嫉妬が渦巻く場面でひとり快楽の笑みを浮かべ、レオノーラのもつ十字架を恐れ、ラストでは斬首されたマンリーコの首を高々と掲げて凱歌の雄叫びを上げる。
 演出を担当したアデル・トーマスはこの物語を、悪魔の手のうちで狂った運命の糸に操られ破滅する人間たちの悲劇と解釈したのである。
 こういうやり方があったのか!
 ユニークかつ斬新な演出に感心した。

 なるほど、舞台は中世ヨーロッパ。
 日が落ちれば漆黒の闇が地を覆い、城郭の周囲には黒々した森や岩山が浮かび上がる。
 魔女や魔物や幽霊が跳梁跋扈し、善良な人々をたぶらかし、その魂を奪おうと手ぐすね引いている。
 迷信がはびこり、占いを本気で信じ、遍歴芸人やジプシーに対する差別が蔓延していた時代。
 悪魔が出現してもおかしくはない。
 その点で、極めて原作の精神に近い、というか現代人が科学と理性の光によって封じ込めた(つもりになっている)数百年前の人間の姿を思い出すにふさわしい舞台であった。
 フェルランド役のロベルト・タリアヴィーニは、演出の意図をよく理解し、歌唱はもちろん、表情や仕草もデイモスな雰囲気を漂わせていた。
 とりわけ、舞台に黒く浮かぶ不気味な鋭角的なシルエットが印象的で、この役をロベルトが得たのは背格好がイメージに合ったからではないかと思うほどである。

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AlessandroによるPixabayからの画像
 

 歌唱で一番はルーナ伯爵を演じたリュドヴィク・テジエ
 張りのある、抑制のきいた堂々とした歌声が、舞台の風格をいやがおうにも高めた。
 貫禄抜群の舞台姿のうちにも、家柄と伝統と名誉と習慣に縛られた名家の長男の“形骸”のような人生を表情に漂わせ、レオノーラへの愛だけが彼自身の真の欲望であるがゆえに強くこれに執着するのだ、と観客に知らしめる。

 レオノーラ役のレイチェル・ウィリス=ソレンセンは、本番直前に代役が回ってきたという。
 急ごしらえとは思えない立派な歌唱と演技とほかの出演者との連携ぶりである。
 歌声はドラマチックな強さを備え、ヒロインらしいオーラもある。
 個人的にはもう少しアジリタ(コロラトゥーラ)が効くといいのだが、もともとレオノーラはソプラノ・ドラマティコ・タジリタという滅多にない種類の声を要求される難役なので、無いものねだりかもしれない。

 マンリーコ役のリッカルド・マッシは、第3幕見せ場のナチュラル「ド」を見事に決めて満場の喝采をさらっていた。
 気品ある穏やかなルックスが、恋する吟遊詩人にぴったり。
 何の加減か(長髪のためか)イエス・キリストのように見える瞬間もあり、それがまた、悪魔フェルランドに狙われて最後は斬首される運命の悲劇的効果を倍増する。
 
 見た目いちばんの驚きはアズチェーナである。
 これほど醜いアズチェーナははじめて見た。
 頭髪は半分抜け落ちて前頭部が露わ、残ったざんばら髪も真っ白、なにより顔面片側を覆う生々しい火傷の痕。
 ほとんどお岩さんである。
 服装もつぎはぎだらけの襤褸で、裂け目から不吉なシンボルを象った入れ墨が覗いている。
 いや~、ジェイミー・バートンはよくこの役を引き受けたものだ。
 たしかにアズチェーナの境遇やこれまで彼女が受けてきた傷の深さを思えば、これくらいの老化や劣化はおかしくないと思うが、反ルッキズム風潮かまびすしい現在、舞台上とはいえ、ここまでグロテスクな風貌を女性に与える大胆さに驚嘆した。
 むろん、驚きは最初のうちだけで、舞台が進んでくるにつれ、観客はアズチェーナの境遇に哀れみを感じ、その母性愛にしてやられ、しまいにはアズチェーナを愛らしく思うに至る。
 母性愛は醜さを超える。

 舞台左右いっぱいに階段だけという、あまりにもシンプルかつ大胆な装置。
 ルーナ家の兵士たちやジプシーの集団にみる、ゴシック風衣装の奇抜さ。
 登場人物のすべての動きを音とシンクロさせる、あたかもバレエかフィギアスケートのような一体感。
 歌も芝居も演出も美術も音楽も見事に揃った名舞台は、METの『トロヴァトーレ』に劣らない。
 ライブで観たらどれだけ感動したことか。
 英国ロイヤル・オペラ・ハウスの力量をまざまざと知った。

 内容とは別に、一つだけ難を言えば、上映開始時刻に席に着いてから実際のライブ映像が始まるまで、30分以上かかった。
 映画の予告編が延々と続き、やっと終わったかと思ったら、今度はロイヤル・オペラ・ハウスの宣伝と出演者インタビュー。
 いい加減待ちくたびれた。
 次からは20分くらい遅れて行こう。

古城









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