会場: 所沢市民文化センター・ミューズ アークホール
曲目:
- ベートーヴェン : 交響曲第5番 ハ短調『運命』作品67
- ブルックナー : 交響曲第5番 変ロ長調 WAB.105
指揮: 和田 一樹
風薫るさわやかな午後、西武新宿線・航空公園駅から所沢ミューズに向かう足取りは、つのる期待で自然と速まった。
なんと言っても、和田一樹&豊島オケのベートーヴェン『運命』である。
期待するなと言うほうが無理だろう。
ブルックナーについてはソルティはまだ開眼していないし、第5番を聴くのも初めてであるが、ひょっとしたら和田一樹&豊島オケなら、ソルティの耳糞のつまった鈍い耳を開いてくれるかもしれない。
ブルックナーについてはソルティはまだ開眼していないし、第5番を聴くのも初めてであるが、ひょっとしたら和田一樹&豊島オケなら、ソルティの耳糞のつまった鈍い耳を開いてくれるかもしれない。
約2000席のアークホールは6~7割ほど埋まった。
心なしか妙齢のオバ様たちが多かった。
所沢市民文化センター・ミューズ
圧巻の『運命』!
和田&豊島オケがこれまでに何回『運命』を演奏しているのか知らないが、もはや自家薬籠中といった感じの完成度。
今年の初めにすみだトリフォニーホールで豊島オケを聴いた時に、「音のクオリティが上がった?」という印象を持ったが、今回聴いて、それは間違いなかったと実感した。
ウィークデイに仕事を持ちながら余暇にオケしている人の集まりとはとても思えない。
オケがまるで一個の生き物のように息づき、動いていた。
第1楽章は速いテンポのうちに、刻みと粘りのメリハリ鮮やか。
第2楽章こそ、ケン玉使い和田の真骨頂。
緩急、強弱、明暗、硬軟、自在に玉を――じゃなくて音をあやつり、壮麗にして豊饒な世界をホログラムのごとくミューズの空間に立ち上げた。
ホールの音響効果を十分利用した残響による余韻の興趣は心にくいばかり。
緩急、強弱、明暗、硬軟、自在に玉を――じゃなくて音をあやつり、壮麗にして豊饒な世界をホログラムのごとくミューズの空間に立ち上げた。
ホールの音響効果を十分利用した残響による余韻の興趣は心にくいばかり。
雌伏の第3楽章を経て、第4楽章で爆発する歓喜。
ソルティはこの曲を、モーツァルト最後の交響曲『ジュピター』に対する、ベートーヴェンなりの挑戦あるいはオマージュじゃないかと思うのである。
それが明らかになるのが第4楽章で、向かい風の中を決然と立つ獅子のような英雄的な動機と、ピッコロの天上的響きが共通している。
ここのピッコロは、音色の質や多少の音の狂いなどは構わずに、とにかく自在に、思い切りよく、楽天的に、「はしゃげ!」――が正解。
ちょうど、小さな子供が元気にはしゃぎ回る声が、たとえ音楽的でなくとも、天上的に響くのにも似て。
ブルックナー第5番の感想はこれしかない。
「う~ん、ブルックナーだ(笑)」
小津安二郎の映画がまごうかたない小津印――ローポジション撮影、固定カメラ、単調なセリフの繰り返し、童謡の使用など――を身に着けていて、他の監督の作品と間違えっこないのと同様に、ブルックナーの音楽もまた他の誰の音楽とも似ていない。
ブルックナー印がそこかしこに刻まれている。
それを心地よく(美しく)感じられるかどうかに、ブルオタになれるかどうかの踏み絵ならぬ登竜門があるのだと思う。
残念ながらソルティはまだそこには達していない。
というより、いつか達する日が来るのかどうか・・・。
ブルックナーを好きになる人は、もともと脳内のブルックナー・ニューロンが人より発達しているんじゃなかろうか。
そして、その発達は女性より男性のほうに多く見られ、同じ男性でも鉄っちゃん・ニューロンを有している人と相関が高いのではないか。
――なんてことを思う。
今日も、終演後に、「やっと終わった」というオバ様たちの安堵の表情をよそに、「ブラボー!」が多く飛び交っていたが、それはすべて男性の野太い声であった。
ブルックナーがメインの演奏会では男子トイレに列ができる、「ブルックナー行列」という言葉さえある。
ブルックナーの音楽はクリスチャンであった作曲家自身の信仰の表現とか言われるが、必ずしもブルオタ=クリスチャンではないと思うし、生粋のクリスチャンが、たとえばバッハの音楽を愛するようにブルックナーの音楽を愛することができるのかどうか、ソルティははなはだ疑問に思う。
ブルックナーの音楽を難解とは思わない。
ただ、マーラーやショスタコーヴィチの音楽以上に、聴く人を選ぶのではないか。
和田一樹&豊島オケでも、ブルックナーの壁は越え難かった。