ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●ライブ(音楽・芝居・落語など)

● ブルックナー・ニューロン 豊島区管弦楽団 第99回定期演奏会

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日時: 2025年4月29日(火) 13時30分~
会場: 所沢市民文化センター・ミューズ アークホール
曲目:
  • ベートーヴェン : 交響曲第5番 ハ短調『運命』作品67
  • ブルックナー  : 交響曲第5番 変ロ長調 WAB.105
指揮: 和田 一樹

 風薫るさわやかな午後、西武新宿線・航空公園駅から所沢ミューズに向かう足取りは、つのる期待で自然と速まった。
 なんと言っても、和田一樹&豊島オケのベートーヴェン『運命』である。
 期待するなと言うほうが無理だろう。
 ブルックナーについてはソルティはまだ開眼していないし、第5番を聴くのも初めてであるが、ひょっとしたら和田一樹&豊島オケなら、ソルティの耳糞のつまった鈍い耳を開いてくれるかもしれない。
 晴れて、ブルオタの仲間入りできるかもしれない。

 約2000席のアークホールは6~7割ほど埋まった。
 心なしか妙齢のオバ様たちが多かった。

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西武新宿線・航空公園駅

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所沢市民文化センター・ミューズ

 圧巻の『運命』!
 和田&豊島オケがこれまでに何回『運命』を演奏しているのか知らないが、もはや自家薬籠中といった感じの完成度。
 今年の初めにすみだトリフォニーホールで豊島オケを聴いた時に、「音のクオリティが上がった?」という印象を持ったが、今回聴いて、それは間違いなかったと実感した。
 ウィークデイに仕事を持ちながら余暇にオケしている人の集まりとはとても思えない。
 オケがまるで一個の生き物のように息づき、動いていた。

 第1楽章は速いテンポのうちに、刻みと粘りのメリハリ鮮やか。
 第2楽章こそ、ケン玉使い和田の真骨頂。
 緩急、強弱、明暗、硬軟、自在に玉を――じゃなくて音をあやつり、壮麗にして豊饒な世界をホログラムのごとくミューズの空間に立ち上げた。
 ホールの音響効果を十分利用した残響による余韻の興趣は心にくいばかり。
 雌伏の第3楽章を経て、第4楽章で爆発する歓喜。

 ソルティはこの曲を、モーツァルト最後の交響曲『ジュピター』に対する、ベートーヴェンなりの挑戦あるいはオマージュじゃないかと思うのである。
 それが明らかになるのが第4楽章で、向かい風の中を決然と立つ獅子のような英雄的な動機と、ピッコロの天上的響きが共通している。
 ここのピッコロは、音色の質や多少の音の狂いなどは構わずに、とにかく自在に、思い切りよく、楽天的に、「はしゃげ!」――が正解。
 ちょうど、小さな子供が元気にはしゃぎ回る声が、たとえ音楽的でなくとも、天上的に響くのにも似て。

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 ブルックナー第5番の感想はこれしかない。
 「う~ん、ブルックナーだ(笑)」
 小津安二郎の映画がまごうかたない小津印――ローポジション撮影、固定カメラ、単調なセリフの繰り返し、童謡の使用など――を身に着けていて、他の監督の作品と間違えっこないのと同様に、ブルックナーの音楽もまた他の誰の音楽とも似ていない。
 ブルックナー印がそこかしこに刻まれている。
 それを心地よく(美しく)感じられるかどうかに、ブルオタになれるかどうかの踏み絵ならぬ登竜門があるのだと思う。
 残念ながらソルティはまだそこには達していない。
 というより、いつか達する日が来るのかどうか・・・。

 ブルックナーを好きになる人は、もともと脳内のブルックナー・ニューロンが人より発達しているんじゃなかろうか。
 そして、その発達は女性より男性のほうに多く見られ、同じ男性でも鉄っちゃん・ニューロンを有している人と相関が高いのではないか。
 ――なんてことを思う。
 今日も、終演後に、「やっと終わった」というオバ様たちの安堵の表情をよそに、「ブラボー!」が多く飛び交っていたが、それはすべて男性の野太い声であった。
 ブルックナーがメインの演奏会では男子トイレに列ができる、「ブルックナー行列」という言葉さえある。

 ブルックナーの音楽はクリスチャンであった作曲家自身の信仰の表現とか言われるが、必ずしもブルオタ=クリスチャンではないと思うし、生粋のクリスチャンが、たとえばバッハの音楽を愛するようにブルックナーの音楽を愛することができるのかどうか、ソルティははなはだ疑問に思う。
 ブルックナーの音楽を難解とは思わない。
 ただ、マーラーやショスタコーヴィチの音楽以上に、聴く人を選ぶのではないか。

 和田一樹&豊島オケでも、ブルックナーの壁は越え難かった。




● “現代音楽”としてのショスタコーヴィチ :新交響楽団 第269回演奏会

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日時: 2025年4月19日(土)18時~
会場: サントリーホール 大ホール
曲目:
  • 芥川 也寸志: オルガンとオーケストラのための「響」
     オルガン: 石丸 由佳
  • シチェドリン: ピアノ協奏曲第2番
     ピアノ: 松田 華音
  • 〈アンコール〉シチェドリン:バッソ・オスティナート(『2つのポリフォニックな小品』より)
  • ショスタコーヴィチ: 交響曲第4番
指揮: 坂入 健司郎

 今年は芥川也寸志生誕100年だという。
 ということは、三島由紀夫と同年生まれだ。
 父親の芥川龍之介は也寸志が生まれた2年後に自害しているから、龍之介と三島は面識がなかったのである。
 芥川也寸志の音楽を自分はほとんど知らないと思っていたのだが、実は映画音楽を結構つくっている。
 『地獄門』(1953年)、『戦艦大和』(1953年)、『猫と庄造と二人のをんな』(1956年)、『拝啓天皇陛下様』(1963年)、『八甲田山』(1977年)、『八つ墓村』(1977年)、『鬼畜』(1978年)。
 観たことあるものばかり。
 『砂の器』では音楽監督をつとめているが、あの印象的な主題曲をつくったのは、弟子の菅野光亮である。

 芥川也寸志は1954年にソ連に密入国し、半年間滞在した。
 その際に、ショスタコーヴィチに会って自作を見てもらっている。
 その縁もあって、1986年にショスタコーヴィチ交響曲第4番の日本初演を指揮した。
 そのときのオケが新交響楽団だったので、タコ4はこの楽団にとって名誉あるプログラムなのである。

 ロディオン・シチェドリン(1932-)はソ連生まれの現存する作曲家で、日本にも何度か来ている。
 入口でもらったプログラムによると、1988年にホリプロ(!)からの依頼で青山劇場のミュージカル『12月のニーナ 森は生きている』の作曲をするために、2ケ月間、真夏の伊豆の旅館に滞在したという。
 きっと浴衣うちわで曲作りに励んだのだろう。 
 奥さんは世界的に有名なバレリーナであるマイヤ・プリセツカヤである。
 当然、母国の大先輩であるショスタコーヴィチとは深いかかわりがあり、音楽的な影響も受けている。
 今回の曲目選定は、ショスタコつながりというわけだ。

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サントリーホール

 この渋くて難解なラインアップにもかかわらず、サントリーホール(約2000席)を9割がた埋める新交響楽団の人気はすごい。
 創立70周年近い歴史により積み重ねられた安定した実力と知名度、固定ファンの多さによるのだろう。
 これといった瑕疵も見当たらず、安心して聴いていられる。
 ホールの音響効果とあいまった迫力ある重厚な響き、空間を切り裂くような鋭い打楽器、共演のパイプオルガン(石丸由佳)とピアノ(松田華音)も見事なテクニックを披露し、日本アマオケ界のレベルの高さをつくづく感じた。

 しかし、残念なことに、前半は眠くて仕方なかった。
 実を言えば、半分寝てしまった。
 これは主として聴く側(ソルティ)に原因がある。
 まず、「メロディ・リズム・ハーモニー」が疎外された現代音楽が苦手である。
 美しさを感じることができず、心は宙にさまよう。
 次に、週末のアマオケ演奏会は午後2時開演が多いが、今回は午後6時開演だった。
 日中、都内の図書館で奈良大学のレポート提出のため、5時間ぶっ続けで勉強して、頭が疲れていた。
 さらに、桜が散った頃からヒノキ花粉症の兆候が現れた。
 ここ数日、のどの違和感と鼻づまり、倦怠感が続いている。
 音楽を聴くには、良い状態とは到底言えなかったのである。
 (3曲中せめて1曲は馴染みやすい曲を入れてほしかった)

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JoggieによるPixabayからの画像

 ショスタコーヴィチは活動年代的には現代音楽の人なのだが、作った曲はマーラーなど後期ロマン派の香りが強い。
 これは、スターリニズムによる芸術家への抑圧――社会主義リアリズムの勝利を表現する内容と形式の強要――ゆえに強いられた、反動的創作姿勢の結果なのかもしれない。
 そのおかげでショスタコーヴィチの作品が、現在も、ベートーヴェンやブラームスやマーラーと並んで演奏・録音される機会が多いのだとしたら、皮肉と言うほかない。
 もし、全体主義独裁国家で作曲するという抑圧が無かったら、ショスタコもまた、大衆にしてみれば「よくわからない、つまらない」現代音楽を量産していたのかもしれない。
 案の定、コンサート後半は覚醒した。
 
 第4番を聴くのははじめて。
 第3楽章までしかないのは未完成のためなのかと思ったが、全曲60分もあり、最後はチェレスタのもの悲しい響きで余韻を残しながら終わるので、これが完成形なのだろう。
 全体に面白い曲である。
 マーラーへのオマージュといった感じ。
 第2楽章は、マーラー交響曲第4番第2楽章の諧謔的な皮相「死神は演奏する」のパロディのように思われたし、第3楽章は、ビゼーの『カルメン』序曲っぽいフレーズも飛び出すものの、全般、さまざまな音楽の“ごった煮”のようなマーラーの絢爛たる世界を忠実になぞっているように感じられた。
 『マーラー交響曲』と名付けてもいい。

 ただ、マーラーの音楽が、どちらかと言えば、作曲家個人の精神遍歴の表現、つまり近代的自我の苦悩と喜びの表出とすれば、ショスタコの音楽は、自身が生きている環境の狂気と不条理の表現に聴こえる。
 20世紀初頭にマーラーが個人的に体験した“狂気と崩壊”が、「わたしの時代が来る」の予言通りに、ショスタコの生きたソ連において国家的に現実化してしまった――そんな因縁を想像させる。
 一方、スターリンの亡くなったあと(1953年)から作曲家としての活動を開始したシチェドリンの音楽からは、体制による抑圧や矯正の匂いが感じられない。
 “普通に”現代音楽である。
 比較的自由な時代の芸術家なのだ。

 いまのロシアはどうだろう?
 ウクライナ侵攻に反対した芸術家に禁固7年の実刑が下ったというニュースを見たが、スターリン時代に舞い戻ってしまったのではなかろうか。
 ロシアだけでなく、ミャンマーでも、イスラエルでも、中国でも、アメリカでも、全体主義の恐怖が募っている。
 ショスタコーヴィチこそが「現代音楽」だと思うゆえんである。

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● METライブビューイング@東劇 :ヴェルディ作曲『アイーダ』

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上演日 2025年1月25日
劇 場 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場
指 揮 ヤニック・ネゼ=セガン
演 出 マイケル・メイヤー
キャスト
  • アイーダ: エンジェル・ブルー(ソプラノ)
  • ラダメス: ピョートル・ベチャワ(テノール)
  • アムネリス: ユディット・クタージ(メゾソプラノ)
  • アモナズロ: クイン・ケルシー(バリトン)
  • ラムフィス: モリス・ロビンソン(バス)
  • エジプト王: ハロルド・ウィルソン(バス)
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 今年1月にニューヨークのメトロポリタン歌劇場で上演したばかりの新演出『アイーダ』の評判がSNSで流れてくるのを見て、居ても立ってもいられず、銀座東劇まで足を運んだ。
 ライブビューイングは、ライブ録画したものを日本に居ながらにして大スクリーンで体感できる。
 嬉しいことに、一般3700円のところ、学生料金2500円。
 入口でスタッフに不審な顔されたら、「やいやい、この学生証が目に入らぬか~」と、顔写真入りの奈良大の学生証を見せつけるべくポケットに忍ばせておいたが、とくに確認されることなく入れてしまった。
 ひょっとして学生に見える?(笑)

 今回は36年ぶりの新演出。
 上演機会の多い人気オペラなのに、意外と刷新されないものなんだなあ~。
 36年前と言えば1989年。つまり、ソルティがDVDを持っているジェイムズ・レヴァイン指揮の『アイーダ』(演出はソーニャ・フリーゼル)以来ということになる。

 今回の演出の一番の特徴は、幕開きからいきなり開示される。
 前奏曲が流れる間、舞台上方から垂れたロープを伝って、一人の男が舞台に降り立つ。
 それは、エジプトの古代遺跡を調査研究している考古学者。
 新たに発見された地下遺跡を調べるため、数千年間、前人未踏の地に入り込んだのである。
 彼は足元に短剣を見つける。宝石で象嵌された高価な剣。
 周囲の石壁に懐中電灯の光を向けると、古代エジプトの様々な神像や動物や文様が浮かび上がる。
 壁龕のひとつには剣を下げた英雄らしい男性像がある。
 すると、時は現在から過去へとうつり、石の回廊の奥から古代エジプト王国の勇者ラダメスが登場し、物語が始まる。

 この考古学的導入、2014年秋に来日したスロヴェニアのマリボール国立歌劇場の『アイーダ』の演出と同じである。
 ただ、マリボールの場合は、冒頭で考古学者が発見するのは抱き合った骸骨のカップル――地下牢で死んだラダメスとアイーダ――であった。オカルト的えぐみがあった(笑)
 METの場合、冒頭だけでなく、幕間や場面が変わる随所で考古学者らを含む発掘調査隊が登場し、現代と古代がシンクロする。
 たとえば、第2幕の冒頭では、遺跡に腰かけた女性隊員がおもむろに目の前の何かをスケッチし始める。
 そのデッサン過程が舞台上の大きなスクリーンにプロジェクション・マッピングによって映し出される。
 次第に形を成していく線描は、クレオパトラさながらの古代エジプトの高貴な女性の姿である。
 それが音楽の始まりとともに、面となって鮮やかな色彩を帯び、侍女に囲まれた王女アムネリスの居室の壁画となる。
 考古学は過去を立ち上がらせる。

 なんだか、先日受けたばかりの奈良大学スクーリング「文化財学講読」の続きのようだった。
 発掘されたさまざまな遺物について、それが作られた時代や材質や用途を科学的手法を用いて調査し、その遺物が使われた過去の時代の人々の暮らしや宗教や死生観を推測する。
 単に過去の事実を突き止めることで終わってはいけない。
 その時代を生きた人々の息づかいに耳を済ませ、肌のぬくもりを感じ、願いや恐れや喜怒哀楽に思い馳せ、かれらの“物語”を知ることが大切なのだ。
 過去の人々の“物語”を読み取ってこそ、考古学は生きた学問になる。
 それが欠けたら、ただの科学に過ぎない。
 過去を懸命に生きた人々の“物語”と、現代を生きる我々の“物語”とが通じ合った瞬間、強国エジプトと小国エチオピアの熾烈な戦いがロシアとウクライナの戦争に重なり、ラダメス×アムネリス×アイーダの三角関係が同じような恋の喜びや苦しみを味わっている現代人の心と響き合うのである。
 実際、『アイーダ』の原案を書いたのは、エジプト考古学者オギュスト・マリエット(1821-1881)であった。
 オギュストは、作曲者ヴェルディに考古学上のアドバイスを与え、初演の舞台装置、衣装製作を担当した。
 考古学と“物語”を結びつける今回の演出は、まさに『アイーダ』の原点回帰だったのである。

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Nadine DoerléによるPixabayからの画像

 いまひとつの驚きは、ラストシーン。
 なんとアムネリスが自害してしまう!
 蝶々夫人さながらに。
 ソルティもこれまでずいぶん、生の舞台やレーザーディスクやDVDで『アイーダ』を観てきたが、アムネリスの自害で終わる演出に触れたのは初めて。
 もちろん元々のリブレット(脚本)にはない、新解釈である。
 嫉妬に狂ったあまり、恋する男をみずから処刑台に追いやってしまったアムネリス。
 恋も希望もプライドも輝かしい将来も打ち砕かれ、自暴自棄になっての衝動的行為ということだろう。
 ここで、冒頭に出てきた短剣の意味が浮上する。
 考古学者が最初に見つけたのは、若さも美貌も地位も財産もなにもかも持っている王女が、たった一つの恋の破滅ゆえに自らを殺めた凶器だったのである。

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BruceによるPixabayからの画像

 歌手はさすがMET、文句のつけようがない。
 主要キャストみな素晴らしいが、とくに感心したのは、アムネリス役のユディット・クタージとアモナズロ役のクイン・ケルシーのエチオピア父娘のコンビ。リアリティ凄まじく、役者としての存在感が際立っていた。
 ラダメス役のピョートル・ベチャワは英雄らしい見栄えの良さ。第一幕冒頭の有名なアリア「清きアイーダ」の最後の高音Bフラットを、通常のテノールのようにフォルテで歌い上げず、ファルセットのピアニッシモで終えたのにはびっくり。
 だが、ヴェルディの書いた楽譜では、ピアニッシモ (pp) かつmorendo (遅くしながら消えいるように) と指示されているらしいので、これが本来のイメージに近いのだろう。この終わり方でこそ、勇者の力強さよりも、恋する者の哀切が伝わってくる。
 アイーダ役のエンジェル・ブルーは、はち切れんばかりの若さと可愛らしい目鼻立ちが魅力。これからが楽しみな期待のソプラノである。

 ソプラノと言えば、やっぱり、METの女王であったアンナ・ネトレプコの現在が気になる。
 ロシア出身のネトレプコは、ロシアのウクライナ侵攻に際して反ロシア・反プーチンの姿勢をはっきりと表明しなかったために、METを追い出されて、西欧の劇場では歌う場を失ってしまった。
 彼女の親族がプーチン政権下のロシアで暮らしていることを思えば、彼女が反ロシア・反プーチンの言説を表明することがそう簡単でないことは想像がつきそうなものである。
 芸術に政治を持ち込むことの是非は別にしても、思いやりに欠けた拙速な処置だったと思う。
 いまのトランプ=アメリカのプーチン寄りの振る舞いを見るにつけ、政治の馬鹿らしさがわかるではないか。
 METは毅然として、芸術への政治の介入を許さずに、ネトレプコほかロシアの音楽家を守るべきであった。
 でなければ、国同士の戦いに巻き込まれて愛も命も失った若者たちの悲劇を描く『アイーダ』を上演する資格など、METにはなかろう。

P.S. 第2幕のエジプト軍凱旋シーン。屈強な男性ダンサーズが肉体美を見せつけながら踊りまくる。小柳ルミ子がどこからか登場するのかと思ったあなたは、間違いなく昭和育ち。


● 世界初演「ミ・ファ・ミ・ラ・レ♪」 ザッツ管弦楽団 第22回定期演奏会

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日時: 2025年2月11日(火)13:30~
会場: すみだトリフォニーホール
曲目:
  • ラフマニノフ: ピアノ協奏曲第3番  
     ピアノ: 槙 和馬
  • (アンコール)即興演奏:「ミ・ファ・ミ・ラ・レ」
  • ショスタコーヴィチ: 交響曲第5番「革命」
  • (アンコール)ショスタコーヴィチ: 組曲『モスクワ・チェリュームシキ』より第1曲「モスクワ疾走」
指揮: 田部井 剛

 若目の大所帯ならではの迫力ある演奏と、観客を楽しませる心意気、それがザッツ管弦楽団の持ち味である。
 今回も、パワフルかつアメイジングなコンサートで、満腹になった。
 約1800席のすみだトリフォニーをほぼ満席にできる集客力は、アマオケ随一かもしれない。

 ラフマニノフのピアノ協奏曲なら、やはり浅田真央が日本中を感動の渦に巻き込んだ、2014年ソチオリンピックのフリープログラムに使用された第2番に尽きる。
 今でも、鮮やかなブルーの衣装をまとった真央ちゃんが、トリプルアクセルを含むすべてのジャンプを成功させ、全身全霊のステップから流れるような軌道を描いて圧巻のフィニッシュ!の映像を想起することなしに、第2番第1楽章を聴くことは困難である。
 ショートプログラムでの致命的失敗でメダルを逃したことがもはや決定的となった絶望のどん底から、不死鳥のごとく蘇り、あの完璧な演技が生み出されたとき、その悲哀と不屈の精神と自己超越の三重唱は、まさにラフマニノフの音楽をあますところなく表現していた。
 浅田真央は、演技でラフマニノフを表現したのでなく、生き方で表現したのだ。
 こんな芸当ができるスケーターは、なかなかいない。
 ピアノ協奏曲第2番第1楽章は、日本のフィギアスケート界における永久欠番といったところだろう。

 ピアノ協奏曲第3番は、2番にくらべるとつまらない。
 ソルティがあまり聴き込んでいないというだけで、クラシック通はむしろ3番を好むのかもしれない。
 ピアニストにとってたいへんな難曲であろうことは、3階席から槙和馬の手元をオペラグラスで観ていて、ありありと知られた。
 実に高度な技術と並々ならぬ集中力と甚大なパワーが要求される曲である。
 童顔でソフトな雰囲気の槙のどこにこんな馬力があるのか。
 天賦の才ってのはあるなあ、と思った。
 とくにアンコールでは、客席2人、オケメンバー2人、そして指揮の田部井の5人から、5つの音をアトランダムに選んでもらって、選ばれた「ミ・ファ・ミ・ラ・レ」を使って即興曲をつくった。魔術師のようなその才には舌を巻いた。
 リアルタイムで槙の手から生み出されホールに放たれていく曲は、そのままテレビドラマ『家族のメモワール(仮題)』のBGMとして使用しても、まったく遜色ない完成度であった。
 御年27歳。
 この人は、いつの日かNHK大河ドラマのテーマ曲を書くのでは?

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 ショスタコの5番を生で聴くのは3回目。
 聴けば聴くほど、この曲のテーマは、『プロレタリア革命の成功』でもなく、『苦難のち勝利』でもなく、ましてや『共産主義の栄光』でもなく、『独裁者の横暴と虐げられる庶民の悲劇』としか聴こえない。
 全曲通して安らげる瞬間は第3楽章の一部のみであるが、そこはおそらく、独裁者の暴虐の犠牲となった人々への鎮魂がうたわれている部分なので、結局、死者だけが安らぎを知ることができる。 
 残りのすべての部分は強い不安と緊張が持続している。
 それこそは独裁政権下の社会の空気そのものであろう。
 いまのロシアや北朝鮮や中国に嗅げるような。

 とりわけ、最終楽章で冒頭から最後まで鳴り続けるトロンボーンとトランペットの耳を聾するばかりの絶叫は、緊急避難警報としか聞こえない。
 この楽章のどこに「心からの歓喜」が見いだされよう?
 ソルティは、しかし、心をパニックに陥れるような警告の響きに、髭を生やしたスターリンや禿頭のプーチンやふてぶてしい面差しの習近平を思い起こすことはなかった。
 先ごろ米国第47代大統領に就任したドナルド・トランプの顔ばかりが浮かんだ。

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JR錦糸町駅北口 


 
   

● BRAVISSIMO! 豊島区管弦楽団 第98回定期演奏会

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日時: 2025年1月11日(土)18:00~
会場: すみだトリフォニーホール 大ホール
曲目:
  • ベルリオーズ: 序曲『海賊』Op.21
  • ドビュッシー: 『海』~管弦楽のための3つの素描
  • リムスキー=コルサコフ: 交響組曲『シェヘラザード』
  • (アンコール) グリエール: バレエ音楽『赤いけしの花』より「ロシア水兵の踊り」
指揮: 和田 一樹

 2025年最初のコンサートは大当たりであった。
 やはり、和田一樹&豊島区管弦楽団はやってくれる。
 1時間半かけて錦糸町の会場まで足を運んだ甲斐があった。

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すみだトリフォニーホール

 和田のコンサートではいつものことだが、1曲目からすでにギアがトップに入っている。
 出だしから「おおっ!」と驚き、居ずまいを正し、舞台に集中し、音楽に入り込む。
 この「つかみはバッチリ!」こそが、他の指揮者を秀抜する和田の音楽の特徴である。
 1曲目から「ブラボー!」が飛んだ。 

 ホールの音響の良さのためもあろうが、豊島区管弦楽団の音のクオリティが以前より1ランクか2ランク上がったような気がした。
 まるで、団員がこの年明けに際して、自分の楽器をより高価なものに一斉に買い替えたかのように思われた。
 ソロ(独奏)もトュッテ(全奏)も危なげなく、柔軟性もあり、見事に尽きる。
 日本のアマオケのレベルを引き上げている筆頭は間違いなくこのオケである。
 和田はいろいろなオケで振っているけれど、やっぱり本領を発揮するのはこのオケである。
 指揮者と団員との信頼関係と理解の深さが音に表れている。
 指揮台の和田の動きも、少年漫画の主人公のように軽やかにして自在。
 団員に愛されていることがよく分かる。 

 2曲目は中休みといった態。
 なんとなくの印象だが、和田と印象派音楽のドビュッシーは合わない感じがする。
 和田の“陽キャラ”資質が向いているのは人間的感情に満ちたドラマチックな音楽であって、海や月光といった自然風景を描写する音楽ではどこか物足りない感がある。
 もちろん十分に素晴らしい演奏なのだが、1曲目と3曲目の寒気がするほど素晴らしい音楽の中では凡庸に響いた。

 3曲目の『シェヘラザード』はフィギユアスケートのプログラム使用曲として用いられることが多い。
 2011-12年のシーズンでは、当時国民的アイドルであった浅田真央がこの曲を使って滑っていた。
 ただ個人的には、この曲を聴くと安藤美姫(2006-07シーズン)の演技を思い出す。
 この曲のエキゾチックで耽美的な雰囲気が似合うのは、浅田真央でなく安藤美姫であった。
 その耽美さを引き出したのは、コンサートマスター花井計のヴァイオリンソロ。
 十全なテクニックで、美しく官能的な響きと繊細さを表現し切った。
 和田の楽譜の読みと構成力の卓抜さは、なんというか、指揮者というよりプロデューサーか映画監督のようで、「この曲はこんな名曲だったのか!?」と驚嘆させられた。
 作曲家としての活動が、曲の再構築を可能にしているのかもしれない。
 コーダ(終結部)の壮麗さときたら、ヴァーグナーの歌劇を思い起させるレベルで、思わず椅子から身を乗り出した。

 ソルティは2階席の中央あたりに座っていて、舞台からの距離はおそらく30mくらいだった。
 しかし、3曲目では楽章が進むにつれ、その距離が縮まっていった。
 20m、15m、10m・・・・。
 最終楽章では、指揮台の上で舞う和田とオケの姿が5mくらい先にあった。
 音楽への没入が高まるにつれ、小柄な和田が大きく見えた。
 こんな体験は、10年以上前に所沢で佐渡裕の『第九』を聴いた時以来。
 広いホールをただ音楽のみが支配していた。

 BRAVISSIMO!

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P.S. 今年度の和田&豊島オケは、4/29にブルックナーの第5番を、9/20の創立50周年記念演奏会ではなんとマーラーの『復活』をやるという! スケジュールを開けておかなくっちゃ!


 



● 還暦のドミンゴ オペラDVD: ヴェルディ作曲『オテロ』

ドミンゴのオテロ

収録年 2001年12月
劇場  ミラノ・スカラ座
キャスト
  •  オテロ: プラシド・ドミンゴ(テノール)
  •  イアーゴ: レオ・ヌッチ(バリトン)
  •  デズデーモナ: バルバラ・フリットリ(ソプラノ)
  •  カッシオ: チェーザレ・カターニ(テノール)
  •  ロデリーゴ: アントネッロ・チェロン(テノール)
オケ&合唱: ミラノ・スカラ座管弦楽団&合唱団
指揮: リッカルド・ムーティ
演出: グレアム・ヴィック

 ドミンゴの「オテロ」と言ったら、80年代のクラシック業界最大の話題のひとつだった。
 日本で歌ったのは、カルロス・クライバー指揮、1981年ミラノ・スカラ座来日公演の一回きりだったようだが、そのときの歌唱がよほど強烈だったのだろう。
 それ以後、巷ではドミンゴと言えば「オテロ」、「オテロ」と言えばドミンゴで、86年にオペラ演出家として名高いフランコ・ゼフィレッリがドミンゴ主演で『オテロ』を映画化したときには、ドミンゴ目当てに多くの女性たちが映画館に駆けつけたものである。
 そう、ドミンゴはハリウッドスター張りの男らしいルックスでも人気高かった。
 オペラを聴き始めたばかりのソルティも、原作がシェークスピアの『オセロ』である馴染みやすさも手伝って、劇場に足を運んだ。
 が、途中でちょっと居眠りしてしまった。

 『オテロ』はヴェルディの後期作品に属し、管弦楽も歌唱も複雑である。
美しくて口ずみやすいメロディがふんだんに出てくる中期の『椿姫』や『イル・トロヴァトーレ』とは違っていたので、オペラ初心者にはちょっと敷居が高かったのである。
 それでも、恰幅の良い男盛りのドミンゴの放つ歌声の力強さと抗しがたい色気、それに、デズデーモナ役のカティア・リッチャレッリの輝くばかりの美貌には酔わされた。

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40代のドミンゴ

 本作は2001年ミラノ・スカラ座のライブ収録。
 このときドミンゴ60歳、還暦である。
 声を保っているのには感心のほかない。
 すでに20年前に高い完成度に達していた歌唱のすばらしさは言うまでもないが、長年世界のひのき舞台に立ち続けたスター歌手の存在感と、磨き抜かれ熟成しきった演技のクオリティが尋常でない。
 戦い疲れ老いの領域に踏み込みつつある英雄が、若く美しい妻の貞節を疑い、嫉妬にかられ、妄執にとらわれていく過程が、リアリティもって演じられている。
 40代の男盛りとは違う、60代の男だからこそ抱きうる焦りや不安や苦痛が繊細に表現され、80年代のオセロ像とはまた一味違ったキャラクターを作り上げることに成功している。

 ヴェルディは最初この作品のタイトルを『イアーゴ』と考えていたらしい。
 実際、イアーゴは一癖も二癖もある悪人キャラで、実力ある役者ならだれでも、オセロよりイアーゴを演じることにやりがいを見出すだろう。
 ヴェルディはイアーゴに実に魅力的な音楽と歌を与えている。
 オテロ役のテノールがよほどの実力者でないと、イアーゴ役のバリトンに簡単に食われてしまうだろう。
 ちょうど、プッチーニの『トスカ』における恋人役カヴァラドッシ(テノール)と悪役スカルピア(バリトン)の関係のように。
 本公演でイアーゴを歌っているレオ・ヌッチは、歌も芝居も実に見事で、悪のために悪をなすサイコパスのような男を、役が乗り移ったかのような迫真性をもって演じている。
 そんじょそこらのテノール歌手だったら、完全に食われて、カーテンコールの喝采はレオ・ヌッチに奪われてしまうだろう。
 だが、ドミンゴは主役を奪われる隙をまったく見せない。
 世界三大テノールの名は伊達じゃないことを証明している。

 デズデーモナ役のバルバラ・フリットリは、容姿も声もこの上なく美しい。
 この女性に裏切られたら、たしかに男は衝撃を受け逆上するだろうと思わせるに十分な聖女ぶり。
 『柳の歌』の哀切さは心に沁みる。
 
 ムーティの指揮もグレアム・ヴィッグの演出も間然とするところがない。
 最高の『オテロ』公演記録の一つであることは間違いない。

 

● ベートーヴェン第九〜柳澤寿男 外務大臣表彰受賞記念コンサート


第九コンサート柳澤寿男

日 時: 2024年12月25日(水)19:30~
会 場: 板橋区立文化会館大ホール
曲 目: ベートーヴェン: 交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱付き」
      ソプラノ: 天羽 明惠
      メゾソプラノ: 鳥木 弥生
      テノール: 村上 敏明
      バリトン: 近藤 圭
指 揮: 柳澤 寿男
管弦楽: World Peace Concert Orchestra
合 唱: World Peace Concert Choir

 柳澤寿男について、恥ずかしながら何も知らなかった。
 1971年長野県生まれ。
 指揮を佐渡裕、大野和士氏らに学ぶ。
 2007年、コソボフィル首席指揮者に就任。同年、旧ユーゴスラヴィアの民族共栄を願ってバルカン室内管弦楽団を設立。
 2015年より、国・民族・宗教を超えた隣人との共存共栄をメッセージとする World Peace Concert を世界各地で開催。趣旨に賛同する音楽家らが、その都度、参集している。
 2024年、日本とコソボとの相互理解促進の活動が評価され、「日本国外務大臣表彰」を受賞。
 現在も、旧ユーゴスラヴィアを中心に活動している。
 「ニューズウィーク日本版・世界が尊敬する日本人100」に選出されたこともあり、メディア出演も多数である。

 正直言うと、今回の World Peace Concert Orchestra、そのまま訳せば「世界平和コンサート管弦楽団」の名を見て、若干の不審さを感じていた。
 むろん、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)との関連の可能性を思ったからである。
 だが、もし関連あらば、さすがに2024年のいまは、外務大臣表彰はあり得ないだろう。(安倍晋三政権時であればともかく)
 
ユーゴスラビア

 一般に日本人は、バルカン半島の歴史や情勢に疎いと思われる。
 第一次世界大戦の火種になったサラエボ事件――セルビア人ナショナリストが、ボスニアのサラエボでオーストリアの皇太子夫妻を暗殺――は歴史の授業で学ぶので知っている人は多いだろうが、戦後成立したユーゴスラビア王国、からのユーゴスラビア連邦人民共和国、からのユーゴスラビア社会主義連邦共和国、における周辺諸国入り乱れての内戦やナチス支配、ソ連崩壊を受けて6つの国家に分裂してからの激しい紛争については対岸の火事、どころか岸さえも確認できない遠い世界の話であろう。
 ソルティもその一人。
 わずかに、エミール・クストリッツァ監督『アンダーグラウンド』(1995)、プレドラグ・リチナ監督『ゾンビボーダーランド めざせ!アンデッドのいない国境地帯へ』(2019)などの映画を観ることによって、こんがらがった糸のごとき状況の複雑さと解きほぐし難さを知るのみであった。

 柳澤寿男がどのような経緯で旧ユーゴスラビアに関わるようになったのか、音楽を通しての民族共栄の道を志すようになったのか、気になるところである。
 2019年にアフガニスタンで狙撃されて亡くなった中村哲医師がまさにその一人であったが、世界のあちこちで現地の人々の平和と幸福のために地道な活動を続けている日本人がいる。
 今回、その功績が評価され表彰されたことは、まことに喜ばしい。

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東武東上線大山駅下車

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板橋区立文化会館

 仕事の後の夜のコンサートは避けるという不文律を破って、開演直前に会場入りしたら、1263人収容の大ホールはほぼ満席。
 一番前の列しか空いてなかった。
 さすが第九、さすがクリスマス、さすが庶民価格(入場料1500円)である。
 おかげで、迫力あるインスツルメントと合唱の波動をたっぷり浴びることができ、眠気も吹き飛んだ。

 柳澤の指揮は非常に丁寧で、それぞれの楽章や楽節の構成の面白さや、楽器や声楽の効果的な用い方が、くっきりと浮き出すよう組み立てられていた。
 すなわち、ベートーヴェンの天才にまたもやひれ伏す結果となった。
 コーダ(終結部)のスピードは、ここ数年聴いた第九の中で最も速かった。
 さすがに、フルトヴェングラー指揮による伝説の1951年バイロイト音楽祭のライブにはかなわないものの、あたかも、掃除機のコードがボタン一つでしゅるしゅると胴体に収納されるがごときであった。

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フルトヴェングラー伝説の『第九』
1951年バイロイト音楽祭にて収録
最後の一音に向かって加速していく様はほとんど漫画チック

 独唱者はテノールの村上敏明が良かった。
 どこかで聞いた名前だなと思ったら、2011年に『リゴレット』のハイライト上演でマントヴァ公爵を歌っているのを聴いていた。
 艶のある朗々とした声は健在であった。

 サプライズは、『きよしこの夜』のアンコール。
 美しい重唱と清らかにして華やかなオーケストレイションは、今宵最高のプレゼント。
 ここ数日、首の凝りがひどくて難儀していたのだが、『きよしこの夜』を口ずさむながらの帰り道、気づいたら凝りがほぐれていた。
 音楽のパワー、第九のチャクラ活性効果をあらためて実感。
 背中に停滞していた“気”がすっと通って、頭が軽くなり、年の終わりを迎えるにふさわしい明るい気持ちが宿った。

クリスマスツリー
Xマスケーキを食べて「きよしこの夜」を歌い、
除夜の鐘を聴き、初詣に行く
日本人ってほんと宗教的には節操がないよな







● 文学座ライブDVD : 杉村春子の『女の一生』

文学座女の一生

1961年1月第一生命ホール(日比谷)にて収録
1961年3月NHK放送
2005年製作
白黒、179分

作:森本薫
演出:久保田万太郎、戌井市郎

 行きつけの図書館で見つけた。
 こういった貴重な記録が残っていることに感激した。
 日本演劇史のビッグネームである杉村春子の演技は、映画では小津安二郎監督『晩春』、『東京物語』、『麦秋』の紀子3部作始め、様々な名監督の作品中に数多く残されている。
 ソルティが特に印象に残っている役は、上記3部作以外では、稲垣浩『手をつなぐ子ら』の精神障害児の母親、成瀬巳喜男『流れる』のおちゃっぴい芸者、黒澤明『わが青春に悔なし』の泥にまみれた百姓の妻、新藤兼人『午後の遺言状』の華やかなる老女優である。出番は少ないが、溝口健二『楊貴妃』の女官役もインパクトあった。
 テレビドラマにも多々出演していて、ビデオやDVD、あるいはNHKアーカイブなどで見ることができる。
 しかるに、杉村春子の本領である舞台の記録、それも実に生涯で945回も演じた代表作『女の一生』のそれがあるとは思わなかった。

 残念ながらソルティは、商業演劇にほとんど興味なくて、杉村春子の舞台を見ることはなかったので、今こうやって全盛期の彼女の芸を確かめることができるのは幸運としか言いようがない。
 と書くと、「いや、杉村春子の芸は死ぬまで高められたから、全盛期は晩年だ」という声もあろう。
 それも一理あるが、能や歌舞伎など“型”を演じるのを基本とする古典芸能とは違って、商業演劇のようなお芝居は肉体が勝負なので、脂の乗り切った時期というものがある。
 本公演は、杉村春子55歳の折りのもの。
 まさに心技体が最高度に充実した円熟の境地にあって、しかも、布引けいという一人の女性の16歳から56歳までを演じるに過不足ない社会経験も身体能力も備わっている。
 カラーでなく白黒映像であるとか、画像が粗いとか、まったく関係ない。
 第一級の文化遺産として後世に残すべき至高の芸がここにある。

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「誰が選んでくれたのでもない、自分で選んで歩き出した道ですもの」
有名なセリフのシーン

 文学座の共演陣も達者で、感服しきり。
 けいの姑役の賀原夏子の温か味ある貫禄ぶり、夫役の宮口清二の見事な引きの演技、義姉役の南美江のコミカルな味、けいの義理の叔父で狂言回し的存在の三津井健のセリフ回しの見事さ。
 長らく演じてきたゆえに演者たちの呼吸もピッタリで、観客の気を少しも逸らさない。
 市川崑監督・金田一耕助シリーズの警部役でお馴染みの加藤武(当時32歳)が、いなせな職人役で出演しているのも、本DVDの魅力である。

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「よーし、分かった!」

 しばらく前より、大竹しのぶが『女の一生』をレパートリーに入れてきた。
 今度こそ、ナマ舞台をこの目で見たいものである。




おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 光が丘管弦楽団 第58回定期演奏会

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日時: 2024年11月17日(日)14:00~
会場: 光が丘IMAホール
曲目:
  • シューベルト: イタリア風序曲第1番
  • ハイドン: 交響曲第101番「時計」
  • モーツァルト: 交響曲第41番「ジュピター」
指揮: 小野 富士

 会場に向かうバスの中、アナウンスが言った。
 「次は、光ヶ丘いま、光ヶ丘いま、お降りの方はブザーでお知らせください」

 光ヶ丘IMAを知ってから数十年、今日はじめて「いま」と読むのだと知った。
 ちょっとした衝撃。
 たしかに、そのままローマ字読みすれば「いま」なのだが、「アイエムエー」と英語読みしていた。
 IBMを「アイビーエム」と読むのに釣られていたのかもしれない。

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光ヶ丘IMA

 本日はオール古典派プログラム。
 秋らしくて良き。

 シューベルトの『イタリア風序曲』、はじめて聴いた。
 20歳のときの作品である。
 当時ウィーンではロッシーニ・ブームが起きていて、それに触発されて作曲したという。
 たしかに、作曲者の名前を知らされずに耳にしたら、「ロッシーニかな?」と思うような、バーゲンセール風狂騒感がある。
 当時シューベルトは窮乏に苦しんでいたから、大金持ちのロッシーニに「あやかりたい」という思いがあったのかもしれない。

 ハイドン『時計』は親しみやすい曲。
 とくに時を刻む振り子のリズムさながらの第2楽章はCMに使用されることが多い。
 ソルティは、やはり、旺文社系列の(財)日本英語教育協会が制作し、1958~1992年まで文化放送で流されたラジオ番組『百万人の英語』のテーマ曲の印象が強い。
 この曲と、やはり旺文社『大学受験講座』のテーマ曲になったブラームス『大学祝典序曲』が蛍雪時代の音楽的記憶である。
 J・B・ハリス先生には直接お会いして、著書『ぼくは日本兵だった』にサインをいただいたこともあった。

 モーツァルトやベ―トーヴェンを押さえて「交響曲の父」と冠せられるだけあって、ハイドンのオーケストレイションの技と完成度は素晴らしい。 
 『時計』や『驚愕』やドイツ国歌になった『神よ、皇帝フランツを守り給え』など、メロディメイカーとしての才能にもきらきらしいものがある。
 もっとハイドンを攻めていきたい。

ぼくは日本兵だった
旺文社刊行

 生の『ジュピター』は久しぶり。
 名曲なのに、なぜか演奏される機会が少ない。
 i-amabile の「演奏される機会の多い曲」ランキングでも30位に入っていない。
 なんでだろう?

 『ジュピター』と言えば平原綾香、と言う人は多いと思うが、あの曲の原曲はイギリスの作曲家ホルストの管弦楽組曲『惑星』の第4楽章「木星」である。
 ソルティは『ジュピター』と言えば、かわぐちかいじのコミック『沈黙の艦隊』を思い出す。
 20代の会社員時代にずいぶんはまった。
 実を言えば、モーツァルトの交響曲41番『ジュピター』あるのを知ったのが『沈黙の艦隊』によってであり、BGMにしながら『沈黙の艦隊』を読もうとレコード店に足を運び、人生で初めて手にした交響曲CDこそ『ジュピター』であった。
 『ジュピター』と『沈黙の艦隊』こそは、ソルティのクラシック街道の日本橋(=出発点)であった。(声楽についてはキャスリーン・バトルである) 
 購入したのは、レナード・バーンスタイン指揮×ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の1984年1月のライヴ・レコーディングである。

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交響曲40番と41番のカップリングだった

 そういういきさつがあるので、20~30代の頃は『ジュピター』を聴くとどうも戦闘的気分になりがちだった。
 還暦を迎えた今は、「天界からのお迎え」の響きのように聞こえる。
 第4楽章なんか、天使たちの吹きならすラッパと笛の調べに乗って、このままホールの座席で昇天してしまいそうな、「まっ、それも悪くないな」と思うほどの美と愉悦と神々しさに包まれる。
 ちょうど、高畑勲監督のアニメ映画『かぐや姫の物語』で、彩雲に乗ったブッダや天女たちに伴われて地上を去っていくかぐや姫のように。

かぐや姫の昇天

 数日前にベートーヴェンの第5番『運命』を「人類史上最高の名曲」と書いたばかりであるが、モーツァルトの第41番『ジュピター』もそれに匹敵する奇跡である。
 ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト。
 この4人はベートーヴェンを介して、つながっている。
 つくづく凄い時代だ。

 光が丘管弦楽団による演奏は素晴らしく、光ヶ丘“いま”を体感した。









● 「運命」とフィンクの危機理論 : 第25回EGK演奏会

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日時: 2024年11月10日(日)14:00~
会場: 北とぴあ さくらホール
曲目:
  • ブラームス: 弦楽六重奏曲第2番 ト長調 作品36
  • コントラバス・アンサンブル「コンバース」: 爆風スランプ『Runner』、井上陽水『少年時代』、YOASOBI『舞台に立って』、ベートーヴェン『運命~ボサノバ風』
  • ベートーヴェン: 交響曲第5番 ハ短調 作品67「運命」
指揮: 平尾 純

 このオケを聴くのははじめて。
 EGK(Ensemble Grosen Kunstlers)とは、「偉大な芸術家たちのアンサンブル(合奏会)」といった意。
 過去の演奏会の記録を見ても、このオケの演奏会のプログラム構成は、
  1. 古典派~ロマン派の弦楽重奏曲(室内楽)
  2. 4名のコントラバス奏者による現代ポピュラーソング数曲
  3. 古典派~ロマン派の交響曲
 となっている。
 一回のコンサートで軽重、硬軟、明暗、新旧取り合わせた、さまざまな響き、さまざまな味わいが楽しめるのは、オトク感がある。
 よく知られているポピュラーソング――クラシック調にアレンジされている――を間にはさむことで、ふだんクラシックに縁遠い層の関心を引きつけ、会場に足を運ばせ、クラシックの魅力に目覚めさせ、クラシックファンを増やすことも期待できる。
 とてもよい試みだと思う。
 しかも入場無料!
 会場には、家族連れや子供連れの姿が多く見られ、固定ファンがついていることが察しられた。
 指揮者にしてコントラバス奏者の平尾純は、ふだんはサラリーマンをしているとか・・・。
 コンバースのリーダーでもあり編曲もこなしているようだ。
 うらやましくも素晴らしい才能。
 それにしても、コントラバス奏者って個性的な人が多くない?

コントラバスを引く狸

 ブラームスもコンバースも良かったけれど、やっぱり圧巻はべートーヴェン『運命』。
 この曲が人類史上最高の名曲であることを、それも、何度聴いても感動せざるをえない奇跡のような曲であることを、実感させてくれる演奏であった。
 完全無欠とはこの曲のためにあるような言葉だ。
 第1楽章から第4楽章まで、それぞれが違った色合いを持ちながらも、全体でひとつの流れとして感じられる統一感――形式的というより気分的統一感――が飛び抜けている。
 いつもはマーラーの散文性に惹かれがちなソルティであるが、ベートーヴェンあってのマーラー、古典派あってのロマン派、形式あっての自由、ということをつくづく思った。

 ときに、看護理論においてフィンクの危機モデルというのがある。
 たとえば、交通事故に遭って体に一生残る障害が生じた、というようなショッキングな出来事があったとき、患者がいかにそれを受容し適応していくか、ということをモデル化したものだ。(詳しいことは知らないが、エリザベス・キューブラ=ロスの説いた「死の受容」のプロセスを下敷きにしているのではないかと思われる)
    1. 衝撃の段階 
      迫ってくる危険や脅威を察知し、自己保存への脅威を感じる段階。現実には対処できないほど急激で、結果的に生じる強烈なパニックや無力状態を示し、思考が混乱して判断や理解ができなくなる。
    2. 防御的退行の段階
      危機の意味するものに伴って自らを守る時期。危険や脅威を感じる状況に、現実に直面するには圧倒的な状況のために、無関心や非現実的な多幸症を抱く。これは、変化に対しての抵抗であり、現実を逃避し、否認し、希望的思いのような防御機制をつかって自己の存在を維持しようとする。そうすることで、不安は軽減し、急性身体症状も回復する。
    3. 承認の段階
      承認の段階は、危機の現実に直面する時期。現実に直面して省察することで、もはや変化に抵抗できないことを知り、自己イメージの喪失を理解する。あらためて、深い悲しみや苦しみ、強度の不安を示し、再び混乱を体験する。しかし、徐々に新しい現実を判断し、自己を再認識していく。
    4. 適応の段階
      期待できる方法で積極的に状況に対処する時期。適応は、危機の望ましい結果であり、新しい自己イメージや価値観を築いていく段階である。現在の自分の能力や資源で満足をする経験が増えて、しだいに不安が軽減する。
(城ヶ端初子著『新訂版 実践に生かす看護理論19 第2版』サイオ出版より抜粋)

 見事に、第5番『運命』の第1楽章から第4楽章までの流れに添っている。
 第1楽章の「ジャジャジャ、ジャーン!」の衝撃、第2楽章の平和な子供時代に逃避するような現実否認、第3楽章の現実回帰と混乱と諦念、そして第4楽章の受容。
 しかも、ベ-トーヴェンは単なる「受容」にとどまらず、その先にある「神=運命」への讃歌と自己投棄すら表現している!

 もちろんベートーヴェンは、フィンクやキューブラ=ロスはもとより、フロイトやユングといった名だたる精神分析家が登場するはるか以前に生きた人で、心理学や精神分析の概念すら持ちえなかった。
 直感で真理に到達し、万言を費やすことなく、音楽で表現してしまう。
 天才たるゆえんである。

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王子駅と北とぴあ

  
  

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