ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

ライブ(音楽・芝居・落語など)

● 本:『ショスタコーヴィッチの証言』(ソロモン・ヴォルコフ編)

1979年原著刊行
1980年中央公論新社より邦訳刊行(水野忠夫訳)
1988年文庫化

ショスタコの証言

 ソ連出身の音楽研究家ソロモン・ヴォルコフ(1944- )が、晩年のショスタコーヴィチにインタビューした内容をまとめたもの。
 ヴォルコフは、ショスタコーヴィチが亡くなった後、アメリカに亡命してこれを発表した。
 ショスタコーヴィチの回想録ではあるが、自身について語っている部分はそれほど多くなく、その人生において出会ってきた同じソ連の作曲家や演奏者や演出家や文学者についてのエピソードや評価、スターリン独裁下に生きた芸術家の苦悩や悲劇などが、多くを占めている。

 スターリンやソ連の社会体制に対する批判が書かれている以上、出版後、ソ連当局から「偽書」と断定されたのは仕方あるまい。
 たとえば、

 当然、ファシズムはわたしに嫌悪を催させるが、ドイツ・ファシズムのみならず、いかなる形態のファシズムも不愉快である。今日、人々は戦前の時期をのどかな時代として思い出すのを好み、ヒトラーがわが国に攻めてくるまでは、すべてがよかったと語っている。ヒトラーが犯罪者であることははっきりしているが、しかし、スターリンだって犯罪者なのだ。

 スターリンにはいかなる思想も、いかなる信念も、いかなる理念も、いかなる原則もなかった。そのときそのときに、スターリンは人々を苦しめ、監禁し、服従させるのにより好都合な見解を支持していたにすぎない。「指導者にして教師」は、今日は、こう言い、明日は、まったく別なことを言う。彼にしてみれば、何を言おうが、どちらでもよいことで、ただ権力を維持できればよかったのである。 

 一方、アメリカの音楽学者からも「偽書」疑惑を投げかけられ、議論を招いた。
 ヴォルコフがショスタコーヴィチに数回インタビューしたことは事実であるが、書かれている内容の多くは、ショスタコーヴィッチ自身の口から出たものではなく、ヴォルコフ自身がソ連にいた時に見聞きしたことを材にとった創作――必ずしも捏造ではない――なのではないか、という疑惑である。
 長年の研究の結果、現時点では「偽書」の可能性が高いようだ。
 ヴォルコフ自身が今に至るまでなんら反論していないというのが、確かにおかしい。

 ただ一方、偽書であるか否かは別として、すなわち、どこまでがショスタコーヴィチの“証言”で、どこからヴォルコフの“証言”なのかは不明であるものの、大変興味深く面白い書であるのは間違いない。
 登場する有名音楽家――ショスタコーヴィチの師であったグラズノフ、同窓生であったピアニストのマリヤ・ユージナ、ベルク、リムスキイ=コルサコフ、ムソグルスキイ、ストラヴィンスキー、ハチャトゥリアン、ボロディン、プロコフィエフ、トスカニーニ、ムラヴィンスキーなど――にまつわる豊富で突飛なエピソードの数々には興味がそそられる。
 とりわけ、グラズノフの天才的な記憶力や、ボロディンの博愛主義者&フェミニストぶり、スターリンに意見するを恐れないユージナの強心臓には驚いた。
 また、ショスタコーヴィチの崇拝者であった指揮者トスカニーニや、彼の曲の初演の多くを手がけた指揮者ムラヴィンスキーに対する辛辣な評価も意外であった。(ヴォルコフ評なのかもしれないが)

 あるとき、わたしの音楽の最大の解釈者を自負していたムラヴィンスキーがわたしの音楽をまるで理解していないのを知って愕然とした。交響曲第5番と第7番でわたしが歓喜の終楽章を書きたいと望んでいたなどと、およそわたしの思ってみなかったことを言っているのだ。この男には、わたしが歓喜の終楽章など夢にも考えたことがないのもわからないのだ。いったいあそこにどんな歓喜があるというのか。

 ソルティは、第5番第7番を最初に聞いたとき、終楽章が歓喜の表現とはとても思えなかった。
 ナチズムやスターリニズムのような独裁ファシズム国家における狂気や衆愚の表現と受け取った。
 「なんだ。ソルティのほうがムラヴィンスキーより、よく分かっているではないか」
 と一瞬鼻高々になりそうだったが、真相は別だろう。
 ムラヴィンスキーがどこかで本当に上記のようなセリフを吐いたことがあったとしても、それはおそらく、ショスタコ―ヴィチのためを思ってのことであろう。
 自らの発言が公になってスターリンの耳に入る可能性を思えば、友人を危険にさらすようなことは言えるはずがない。
 それがわからないショスタコーヴィチではないはずなのだが・・・。

 ともあれ、本書で何より読み取るべきは、ソ連社会とくにスターリン体制下において、芸術家たちが、いかに圧迫され、監視され、服従を求められ、自由な表現を禁止され、体制賛美の作品の創作を強制されていたか、それに抗うことがいかに危険であったか、という点である。
 スターリンの機嫌を損ねたら、その指ひとつで、地位も名誉も財産も奪われ、シベリヤに抑留され、処刑され、あまつさえ家族や親類縁者にも害が及びかねなかった。
 こんなエピソードが載っている。

 スターリンはたまたまラジオで聞いたモーツァルトのピアノ協奏曲を大層気に入って、そのレコードを部下に要望した。
 だが、そのレコードはなかった。それは生演奏だったのだ。
 機嫌を損ねることを恐れた周囲の者は、その夜のうちに再度オーケストラとピアニスト(ショスタコーヴィチの親友ユージナ)と指揮者をスタジオに集めて録音作業し、たった一枚のレコードを制作し、翌朝スターリンのもとに届けたという。

 ユージナがあとでわたしに語ってくれたことだが、指揮者は恐怖のあまり思考が麻痺してしまい、自宅に送り返さなければならなかった。別の指揮者が呼ばれたが、これもわなわな震え、間違えてばかりいて、オーケストラを混乱させるばかりだった。三人目の指揮者がどうにか最後まで録音できる状態にあったそうである。
 
 ショスタコーヴィチの友人、知人らも多く、あるは収容所送りとなり、あるは処刑され、あるは亡命を余儀なくされた。
 ショスタコーヴィチ自身も、幾度となく抹殺される瀬戸際にあったたらしい。
 その危機一髪のところを、軍の有力者に助けられたり、自らの作品の成功によって乗り超えたり、西側に知れ渡った名声によって救われたりしたようである。
 「自分の音楽で権力者のご機嫌をとろうとしたことは一度もなかった」と本書には勇ましくも書かれているが、実際には体制迎合的な作品も数多く残している。
 運よく地獄を生き残った者には、命を奪われた仲間たちの手前、自己弁護しなければいられないくらい、忸怩たるものがあったと想像される。

 生き残ったのは愚者ばかりだ、とわたしも本当は信じているわけではない。たぶん、最小限の誠意だけでも失わないようにしながら生き延びる戦術として仮面をかぶっていたにちがいない。
 
 それについて語るのはつらく、不愉快ではあるが、真実を語りたいと望んでいるからには、やはり語っておかなければならない。その真実とは、戦争(ソルティ注:独ソ戦)によって救われたということだ。戦争は大きな悲しみをもたらし、生活もたいそう困難なものになった。数知れぬ悲しみ、数知れぬ涙。しかしながら、戦争の始まる前はもっと困難だったともいえ、そのわけは、誰もがひとりきりで自分の悲しみに耐えていたからである。
 戦前でも、父や兄弟、あるいは親戚でなければ親しい友人といった誰かを失わなかった家族は、レニングラードにはほとんどなかった。誰もが、いなくなった人のことで大声で泣き喚きたいと思っていたのだが、誰もがほかの誰かを恐れ、悲しみに打ちひしがれ、息もつまりそうになっていたのである。
 
 わたしの人生は不幸にみちあふれているので、それよりももっと不幸な人間を見つけるのは容易ではないだろうと予想していた。しかし、わたしの知人や友人たちのたどった人生の道をつぎからつぎと思い出していくうちに、恐ろしくなった。彼らのうち誰ひとりとして、気楽で、幸福な人生を送った者などいなかった。ある者は悲惨な最期を遂げ、ある者は恐ろしい苦しみのうちに死に、多くの者の人生も、わたしのよりもっと不幸なものであったと言うことができる。 

 偽書であるかどうかは措いといて、一つの国の一つの時代の証言として、そしてまた現在のロシアの芸術家の受難を想像するよすがとして、読むべき価値のある書だと思う。
 
 
 
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● ブルックナー蛙 :EMQ Ensemble MUSIKQUELLCHEN 第28回演奏会

musikquellchen28

日時: 2023年8月13日(日)
会場: 杉並公会堂 大ホール
曲目:
  • シューマン: マンフレッド序曲
  • ブルックナー: 交響曲第6番 指揮者によるプレトーク付き
指揮: 征矢健之介

 MUSIKQUELLCHEN(発音がわからん)とは「音楽の小さい泉」という意味だそう。
 指揮者の登場にちょっと驚いた。
 折り曲げた動かない左腕を脇腹につけながら、えっちらおっちら、オケの間をゆっくりすり抜けて来た征矢健之介(そやけんのすけ)。
 プロフィールによれば、もともとヴァイオリン奏者だったというからには、元来の障害ではあるまい。
 高齢者介護施設で8年間働いた人間の見立てとして、脳梗塞による半身麻痺の回復途上にあるのではなかろうか。
 指揮台には、腰かけて振れるよう、ピアノ椅子が用意されてあった。
 こういった状態で指揮する人を見るのははじめて。
 なんだか初っ端から掴まれてしまった。
 
 さらには、開始早々、ホールにびんびん共鳴するオケのクリアな響き、高らかに鳴る弦。
 「巧いじゃん!」と感心しきり。
 プログラムで確かめたら、このオケは早稲田大学フィルハーモニー管弦楽団(早稲フィル)のOB、OG中心に結成されたという。
 征矢は早稲フィルのトレーナー兼相談役を務めているようだから、学生時代から築かれた信頼関係が安定した音を生み出しているのかもしれない。

林檎の花

 一曲目の「マンフレッド序曲」は初めて聴く。
 印象としては、モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』終幕を思わせる。
 プログラムによると、バイロン原作の劇詩『マンフレッド』上演ために書き下ろされた曲とのことで、「道ならぬ恋」で恋人を永遠に失った青年マンフレッドの苦悩を描いた物語とか。
 奔放なる性愛の果てに地獄へ落ちたドン・ジョヴァンニと似ているのも無理からぬ。
 シューマンって情熱家なのね・・・・。

 このあと珍しく、指揮者によるプレトークがあった。
 後半のブルックナー交響曲第6番の各楽章の聴きどころを、実際にオケに音を出させながら解説してくれた。
 やっぱり、ブルックナーって補助線を引かないとなかなか理解の難しい作曲家なのかしらん?
 が、障害を負った征矢が、不器用な仕草と口調とで、不器用なブルックナーを語るところに、なんとも云えない深く心地良い味わいがあった。
 そのせいだろうか、ブルックナーライブ4回目にしてソルティは半眼開いた。

 まず、ブルックナーは映画監督で言えば、小津安二郎に似ている。
 性格とか扱うテーマとかの問題ではなくて、「決まりきったスタイルで、同じ狭いテーマを繰り返し語り、深みに達しようとする」芸術スタイルが似ていると思った。
 で、小津の映画を繰り返し観ていると、その常に変わらぬ特有のリズムやトーンがいつの間にか心地よく感じられてきて“癖になる”。
 それと同様、ブルックナーの音楽も“癖になる”性質を持っているように感じた。
 つまり、「ブルックナーリズム、ブルックナー休止、ブルックナー開始(トレモロ)、ブルックナーゼグエンツ等々」の決まりきった形式は、あたかも小津の「ローポジション、固定カメラ、切り返し対話、空ショット、童謡使用」といったものと同じ“お約束”の感があり、それにさえ慣れ親しんで身を任せてしまえるなら、オリジナルな小宇宙が開け、快感を手に入れられる。
 ソルティもどうやら、“癖になりそ”な予感がしている。
 
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小津の代名詞、ローポジション撮影

 小津安二郎が決まりきったスタイルで描き出そうとしたテーマは、家族であり、無常であった。
 その意味で、現在観ることができる小津の作品は、『おはよう』のような子供を主役とする喜劇をのぞけば、どことなく暗くて、さびしい。
 一方、プレトークで征矢が指摘していたように、敬虔なカトリック信者で教会のオルガニストだったブルックナーの場合、やはり神への信仰が主要なテーマとなる。
 なので、基本的に暗くはない。
 深刻さや悲壮感、神を失った人間が抱く絶望や虚無感は見られない。
 悲しみと苦しみの谷間にいる人間が、はるか高みにいる偉大なる神に憧れて、神に少しでも近づこうと、何度も何度もジャンプする。
 そのトライアル&エラーこそが、ブルックナーにとっての喜びであり、音楽スタイルだったのではあるまいか。
 到達することもなく、叶えられることもない、簡単に手に入らない対象だからこそ、愛し、讃美し、信じるに値する。
 それを希求する振る舞いこそが、日々の生きがいとも喜びともなる。
 基本、幸せな男なのだ。

 ブルックナーは十代の少女が好きで、晩年に至るまで何十回と少女たちにプロポーズしては撃沈するを繰り返した。
 性懲りもなく・・・。
 それはまさに、ブルックナーの神に対する上記のような関係性とも、彼の音楽スタイルともよく似ているように思われる。
 つまるところ、人のセクシュアリティは、その人のスピリチュアリティと通底している。
 ブルックナーの音楽を聴いていると、小野道風の見守る中、柳に飛びつこうと頑張る無邪気な蛙を思い起こす。
 憎めない・・・・。

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それ、がんばれ!




● 蘇ったベルカント 荒川区民オペラ第21回公演:ドニゼッティ作曲『愛の妙薬』


愛の妙薬

日時  2023年8月12日(土)16:00~
会場  サンパール荒川・大ホール
指揮  小崎 雅弘
演出  澤田 康子
合唱  荒川オペラ合唱団
バレエ 荒川オペラバレエ
管弦楽 荒川区民交響楽団
キャスト
 アディーナ(ソプラノ):前川 依子
 ネモリーノ(テノール):新堂 由暁
 ベルコーレ(バリトン):秋本 健
 ドゥルカマーラ(バス):鹿野 由之
 ジャンネッタ:(ソプラノ):田谷野 望
原語上演・全2幕

 荒川の夏の風物詩・荒川区民オペラ、4年ぶりに復活。
 この『愛の妙薬』は、2020年夏に上演される予定だった。
 まずもって再開(再会)を祝したい。

 ソルティは2017年『蝶々夫人』、2018年『イル・トロヴァトーレ』を観ている。
 指揮者と主要キャスト以外はアマチュアで占められているが、なかなかどうして、質の高い楽しい催しである。
 アマならではの情熱と歓びと庶民性が舞台せましとほとばしって、現代では高尚で高価な娯楽というイメージを持たれ、いささか敷居の高くなったオペラを、大衆芸能というオペラ全盛期(19世紀)にそうであった位置に戻してくれる。 
 とくに今回の『愛の妙薬』は、筋立てがわかりやすく、管弦楽も複雑でなく、美しく親しみやすいメロディーがふんだんにあるので、普段オペラに接する習慣のあまりなさそうな客席の反応も良かったように思う。
 何といっても、主要キャストの死で終わることが多い、つまりは悲劇の多いオペラ演目にあって、本作は肩の凝らないコメディであり、最後は恋人同士が結ばれる大団円。
 コロナ明けを祝すにはぴったりの作品である。

 ソルティは、2012年10月にメトロポリタン歌劇場でかかったアンナ・ネトレプコ&マシュー・ポレンザーニ出演の『愛の妙薬』を、松竹東劇のMETライブビューイングで鑑賞した。
 生の舞台を観るのはこれがはじめて。
 なにより思ったのは、「このオペラ、まさにベルカントなんだな~」ということ。
 ベルカント(Bel Canto)すなわち「美しい歌」を響かせることに最大の目的を置いたリブレット(台本)であり、作詞・作曲技法であり、歌唱法であり、管弦楽である。
 歌い手の美しい声と華麗な歌唱技術が十二分に発揮されるよう、観客がそれを十二分に楽しめるよう作られているのだ。

 アディーナ役の前川依子の清冽な小川のように澄み切ったソプラノと軽やかなコロラトゥーラ、ネモリーノ役の新堂由暁の雲ひとつない秋空のような朗々たるテノールの輝き、ドゥルカマーラ役の鹿野由之のイタリア語の語感を見事に生かしながら諧謔を生み出すベテランの味。
 それぞれが素晴らしいアリアを披露し、また重唱で絡み、次々とやってくる快楽の波。
 あまりの気持ちよさに、夏バテで疲れていた心身は文字通りの夢見心地になった。

 そう、ドニゼッティやベッリーニらのベルカントオペラの困った点は、音楽があまりに耳に心地よいのと、物語の筋があまりに荒唐無稽なので、途中で気が遠のいてしまうところ。
 しかるに、作曲者の生きた当時の客は、上演中も客席で物を食ったりお喋りしたりして、アリアなどの聴きどころが来ると舞台に耳を傾けたという話もある。(何で読んだか忘れたが、アリアの前奏部分が歌い出しのメロディーとまったく同じであるのは、観客に「さあ、アリアが始まるぞ」と告知して舞台に集中させるためだったとか←確証なし)
 現代では、上演中に客席で物を食ったりお喋りしたりはさすがに許されないので、イビキを立てずに仮眠するくらいは大目に見られたし。
 思うに、夏バテだけでなく、今になってコロナ疲れが、3年余り続いた緊張からの弛緩という形で、浮上してきているのかもしれない。
 その点でも、まことに癒される公演であった。

 ちなみに、愛の妙薬とはボルドーワインのことである。

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サンパール荒川

 

 

● サーカスの夜 :カラー・フィルハーモニック・オーケストラ第21回演奏会


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日時 2023年7月17日(月・祝)19:40~
会場 杉並公会堂大ホール
曲目 マーラー:交響曲第5番
指揮 金山 隆夫

 土日の演奏会はふつう14時開演が多い。
 が、今の時期、昼日中の外出&移動はなるべく避けたい。
 なんたって最高気温38度、都会は天然サウナである。
 この遅い開演時間、非常に助かった。
 
 金山隆夫&カラーフィルは、2019年3月にたいへん感動的なマーラー『復活』を聴いて以来。
 今回も同じマーラー、しかも最も好きな第5番なので期待大であった。
 客席は半分くらいの入り。
 入場無料!なので、もっと埋まるかと思った。

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JR荻窪駅

 ソルティがクラシック演奏会に足繁く通うようになって20年くらいになるが、素晴らしい演奏と出会ったときの証を上げるなら、
  1.  演奏時間を短く感じる
  2.  知っている曲が、まるで初めて聴いた曲のように新鮮に感じられる
  3.  作曲家と出会ったような気分になる
  4.  体中のチャクラがうずき、気の流れが活性化する 
 4つすべてが揃う演奏会にはごくたまにしか巡り合えない。
 運よく当たった時はミューズ(音楽の神)に感謝のほかない。
 本日はまさにミューズさまさまであった。

 約70分の演奏時間が体感的には30分くらいに思えた。
 ヴィスコンティの映画『ベニスに死す』でお馴染みの甘美なヴァイオリンの調べが流れたとき、「えっ、もう第4楽章!?」と驚いたのなんの。
 いつも、第1楽章から第3楽章までの約40分強の長丁場を、クライマックスたる第4楽章を最大の喜びをもって迎えるための試練のように思いながら聴いていることが多い。
 忍耐と言うほどではないが、より高く飛ぶための雌伏期間といった感じで。
 が、今回はあっという間だった。
 テンポそのものは1楽章と2楽章は通常よりゆっくりめだったのだから、不思議なことよ。
 雌伏期間どころか、それぞれの楽章が主役と言っていいくらい聞きどころ満載だった。

 これまでおそらく30回以上は聴いていて耳がマンネリ化している第5番が、初めて聴いた曲のように感じられた。
 すべての楽章が新鮮、というか斬新だった。
 といって、金山の指揮には聴衆を驚かすような奇を衒ったところもなければ、21世紀を生きる音楽家ならではの新解釈なんてものもない。
 非常に丁寧に、楽譜に忠実に、振っただけのように思えた。
 だのにこの新しさ。
 いままで聴いていた5番とは別の曲のような気さえした。
 もしかして別バージョンの楽譜が新たに見つかった?・・・・なんて思うほど。

 いつもは座席の背に体を預けて目を閉じて聴いているソルティだが、今回は途中から身を乗り出して舞台を注視しながら聴いていた。
 自然と集中力が高まった。
 体のあちこちのチャクラがうずき、滞っていた気のかたまりがほぐれて体内を駆け上がるごとに、感電したかのように身体が痙攣した。
 左右が空席で良かった(笑)

チャクラと仏
 
 以前、この第5番を自分なりに解析して、「男の性」を表現していると書いたことがある。
 音楽を無理やり物語に変換することで、曲を理解した気になっていた。
 まあ、そういった聴き方もまた、クラシック音楽を聴く楽しみ方の一つとして「あり」と思う。
 が、今回の演奏ときた日には、まったく物語化を許さなかった。
 ただ音楽のみ!

 思うに、“物語化を許す”とは音楽が物語に負けているのである。
 音楽の力が、表現の力が弱いから、退屈した脳は、「この曲のテーマはなんだろう?」などと勝手に考察し始めるのだ。
 今回は、音楽の力が圧倒的で、物語をつくる脳の部位が封殺されていたのである。
 退屈している暇がなかった。

 そうやって余計な物語を介在させずに音楽と向き合えた結果、作曲家マーラーと直接出会えた気がした。
 「マーラーよ。お前は“こんな”作曲家だったのか!」
 “こんな”とは“どんな?”。
 それは、「パッチワークの楽しさ」といったようなもの。
 いろいろな国や民族の音楽ありーの、クラシック古典調ありーの、童謡風ありーの、教会音楽ありーの、メロドラマ調ありーの、ヨーロッパ宮廷舞踏風ありーの、軍隊調ありーの、チンドン屋風ありーの、ジプシー風ありーの、なんでもござれの世界である。
 ただそれを最近はやりの“多様性”と言うにはちょっとハイブロウすぎる。
 むしろ、“ごった煮”とでも言いたい庶民臭さ、アクの強さ。
 目まぐるしく表情や言語を変えてゆく音楽は、一見統合失調症的で支離滅裂に思えるが、前後の脈絡を“物語的に”追わずにその場その場の流れに身を浸して、「去る者は追わず来る者は拒まず」で楽しんでしまえば、目くるめく体験が待っている。
 そこではたとえば、ホルンのちょっとした音はずしやテンポの乱れさえ、“ごった煮”の一部に包含され、世界をいっそう豊かに、面白くするのに役に立つ。

 この“なんでもござれ”のパッチワーク的楽しさ、サーカスを思わせた。
 スリル満点の綱渡り、離れ業炸裂の空中ブランコ、滑稽だがどこか哀しい道化師のパントマイム、小人たちのコミカルな軽業、調教された虎の火の輪くぐり、玉乗りする熊、胴体を切断される美女、景気づけの花火、アコーディオンや笛太鼓・・・・。
 そう。サーカステントの中で、目の前で次々と展開されるショーをあっけにとられて見ている小さな子供のような気分であった。
 他の作曲家とは一線を画すマーラーの音楽の特質がまざまざと知られた。

 金山団長に拍手!
 お代は見てのお帰りに。(出口で募金箱に投入しました)

猛獣使い



 

● ゴールドフィンガー :オーケストラ・ルゼル 第28回演奏会


ルゼルオケ

日時: 2023年7月9日(日)13:30~
会場: なかのZERO 大ホール
曲目:
  • ワーグナー: 歌劇『タンホイザー』序曲
  • R.シュトラウス: オーボエ協奏曲 ニ長調 
  • チャイコフスキー: 交響曲第4番 へ短調
  • アンコール ワーグナー: 歌劇『ローエングリン』より エルザの大聖堂への行進
オーボエ: 最上 峰行
指揮: 和田 一樹

 「タンホイザー」序曲くらいカッコよくて血沸き肉躍る曲はそうそうないと思う。
 それを「つかみはバッチリ」の我らが和田一樹が一曲目に持ってくるのだから、会場が沸騰しないわけがない。
 一曲目にして「ブラボー」が放たれた。
 たしかに、メインプロ前の食欲増進を企図したアペリチフという位置づけに納まらない出来栄えだった。
 この序曲の中に、「タンホイザー」という聖と性をテーマとするオペラのドラマが凝縮されているわけだが、和田の指揮はそのドラマ性を十分に開示し、表現していたと思う。
 そろそろオペラに挑戦してもよいのでは?
 ぜひとも、『トロヴァトーレ』を振ってほしいなあ。
 
 オーボエ協奏曲ははじめて聴いた。
 モーツァルトを思わせるロココ風の典雅な曲で、華やいだ気分になった。
 ソルティは舞台向かって右側の前から4列目にいたので、指揮台の横に立つオーボエ奏者の姿がよく見えた。
 とにかく指の動きが凄かった。
 よく吊らないものだ。
 楽章に分かれていないので休みもなく、装飾符だらけの難しい曲を、いとも軽やかに鮮やかに奏しきった最上峰行の技術とスタミナに感嘆した。
 そして、ソリストを引き立てながらも、オケとの活気ある対話を作りあげて、シュトラウスの世界を作りあげていく和田の手腕に唸った。
 とくに、オーボエと他の木管との掛け合いが、森の中の鳥同士の会話のようで非常に愉しかった。
 コンチェルトとはこうでなければいけないと思うような名演。
 ときに、オーボエの響きには脳細胞を鍵盤で叩くような頭蓋骨浸透性がある。
 頭が疲れたときはオーボエを聴くといいんだなあと発見した。

オーボエと脳波
 
 今回、コンサートマスター(第1ヴァイオリンのトップ)をつとめる男性の演奏中の動きが激しくて、1曲目では気になって仕方なかった。(目をつむっていればいい話なんだけどね)
 このままだと、2曲目で主役のソリストより目立ってしまうんじゃないか、悪くするとソリストの集中を妨げやしないか、と他人事ながら心配になった。
 ところがどっこい、オーボエ奏者の動きもこれに負けず劣らずダイナミックで、相並んで揺れ動く中年男子2人の周囲には、あたかもボリウッド映画『RRR』の主役男優二人によるナトゥーダンスのような熱く濃い磁場が生じていた。
 さしもの和田一樹も薄く見えるほどで、大層面白かった。
 
 チャイコフスキーの4番は、迫力が凄かった。
 それはしかし、生きる力に満ちた意気軒高たるパワーではないように思った。
 絶望の底をついた人間が見せる、狂気すれすれ自棄っぱちの捨て身パワーである。
 「こんな曲を作る人は自殺しかねないなあ」と、つい思ってしまうような作曲者の不安定な精神状態を垣間見させる。
 実際、この曲はチャイコフスキーが結婚に失敗してモスクワ川で自殺をはかった直後に書かれたものだという。
 作曲という代償行為を通じて精神の危機を脱したのかもしれない。

 シュトラウスで舞い上がった気分が一気に突き落とされて、このまま終わるのはつらいなあと思っていたら、アンコール曲で見事に引き上げて癒してくれた。
 こういうサービス精神&バランス感覚もこの指揮者の才能の一つである。

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なかのZEROホール






 


 
 
 

● ストラディヴァリ! :Orchestra Canvas Tokyo 第8回定期演奏会


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日時: 2023年7月2日(日) 14時~
会場: 東京芸術劇場 コンサートホール
曲目:
  • ファリャ: バレエ音楽《三角帽子》第2組曲
  • シベリウス: ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 作品47
  • チャイコフスキー: 交響曲第5番 ホ短調 作品64
指揮: 田代 俊文
ヴァイオリン: 中野りな

 今回のハイライトは、2曲目のヴァイオリン協奏曲だった。
 なにより特筆すべきは、音色の素晴らしさ!
 張りと艶とコクのある美しい響きが、巨大なホールの空気を一瞬にして変えた。
 「あのヴァイオリン、生きているんじゃないか」と思うほどの人間的ぬくもりと表情の豊かさがあった。

 中野りなが使用しているのは1716年製のストラディバリウス。
 やっぱり、最低でも億はくだらぬという世界的名器は音が違うなあと思ったが、実はソルティ、開演前に中野のプロフィールを読んで、そのことを知っていた。
 一般財団法人ITOHより貸与されているのだという。 
 先入観が耳に魔法をかけたのかもしれない。

 一般財団法人ITOHは、将来有望な日本の若手音楽家に対し銘器の弦楽器、弓等を無償貸与する事を通じ、その人達の育成に間接的に役立て、もって日本の芸術文化の振興に寄与することを目的として2013年9月9日に設立されました。(一般財団法人ITOHの公式ホームページより抜粋)

 ITOHとはなにかの英語の略語かと思ったが、どうやらそのまま「いとう」と読むらしい。
 この団体の設立者にして代表理事が伊東さんという紳士なのだ。
 素晴らしい活動である。

 ともあれ、響きの美しさに陶然となり、演奏中は肝心の曲の主題や曲調やオーケストレイション(管弦楽法)やオーケストラとのコンビネーションにほとんど意識が向かわず、シベリウスであることも忘れ、ただただヴァイオリンの響きに包まれていた。
 むろん、楽器からこの音色を引き出せる中野のテクニックあってのことである。
 2004年生まれというから現在21歳。
 若いのに驚嘆すべき技巧の持ち主。
 最終楽章では圧巻のパフォーマンスが会場を圧倒した。
 
 チャイコの5番は無難にまとめた感じ。
 個人的には、こちらはもうちょっと冒険してほしかったな。
 
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池袋西口公園の噴水で水遊びに興じる子供たち
 




● よ~く洗いなよォ : ル スコアール管弦楽団 第53回演奏会

日時: 2023年6月25日(日)13:30~
会場: すみだトリフォニーホール大ホール
曲目: 
  • マルティヌー: リディツェ追悼
  • マーラー: 交響曲第9番
指揮: 冨平 恭平

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 リディツェとはチェコ共和国の中部やや西、中央ボヘミア州にある村です。第二次世界大戦の悲劇の舞台として知られています。
 1942年5月27日に発生したナチス・ドイツの高官ラインハルト・ハイドリヒの暗殺事件、その犯人をリディツェ村が匿っていたと判断したナチスは6月10日に村の成人男性を全員銃殺し、女性と子供は強制収容所に送りました。
(配布されたプログラムより抜粋)

 チェコの作曲家で、ナチスのブラックリストに載っていたためアメリカに亡命していたボフスラフ・マルティヌーは、この事件を知って衝撃を受け、1943年8月、数日間で約8分間の曲を作った。
 それが一曲目の『リディツェ追悼』。
 こんな事件があったとは、こんな曲があったとは、ついぞ知らなかった。
 ナチスの暴虐は測り知れない。
 破壊された村は今は記念施設となっており、その近くにリディツェ村は再建されているそうな。
 この曲が演奏されるたび、ドイツ国民は自らの罪を恥じ入ることになろう。

アウシュビッツの子供
 
 ル スコアールは1996年8月に発足したアマオケで、フランス語で「広場」を意味するという。
 過去53回の演奏会のプログラムで取り上げた作曲家で一番多いのはマーラー(13回)とのこと。
 演奏会の曲目は毎回団員の投票で選んでいるというから、マーラー好きの団員が多く、演奏にも自信があるということだ。
 期待が高まった。

 休憩をはさんで、90分の旅が始まった。
 いつもと違ったのは、オケの配置。
 第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが向かい合わせに配置され、ステージ向かって左側にコントラバスが並び、右側にハープ奏者。
 残念ながらソルティは、オケの配置の違いによる音響効果を聴き分けるところまで耳が達者でないので、その試みの成否については何とも言えない。
  
 楽章が進むにつれて、オケの集中力が高まり、尻上がりに調子を上げていく。
 哀切極まる第4楽章は、息の合った見事なアンサンブルのうちに、ソロ奏者のテクニックとナイーブな感性が冴え、目頭が熱くなった。
 指揮棒が下りたあともしばらく会場を静寂が占めたのは、聴衆の気持ちがすぐには拍手モードに切り変わらなかったためだろう。
 素晴らしい演奏であった証である。
 
 2階席正面にいたソルティのチャクラもずいぶん反応した。
 第1楽章では胸のチャクラがうずき、第2楽章では股間のチャクラが圧迫され、第3楽章では眉間のチャクラに“気”が集中し、第4楽章では前頭葉が明るく灯った。
 身体のあちこちの“気”の滞りが、音波によって刺激され、解きほぐされていくような感があった。
 音楽による全身マッサージ。
 梅雨時のうっとうしい空模様でくさくさしていた気持がすっきりした。
 
 ときに――。
 第3楽章の途中から入って来て、第4楽章で主役に躍り出て、全曲の終わりまで様々な楽器で何度も繰り返される音型「ミ・ファミレ♯ミ」が、頭の中でどうしても、「よ~く洗いなよォ」と変換されてしまう。
 1976年に日本でヒットした『チンチンポンポン』というコミックソングのメロディの一部にそっくりなのだ。
 もとはイタリアの童謡で、「チンチンポンポン( cin cin pon pon )」とは汽車ポッポのことを意味していたと思う。
 それが日本語に訳された時、いとけない兄と妹が一緒に風呂に入った時に交わした会話という設定になり、エッチな意味合いを帯びることになった。
 令和の今では、放送禁止レベルの内容である。
 
 第9交響曲はマーラーの白鳥の歌とも言える渾身の作で、甘美な思い出のうちに「死に絶えるように」消えゆく痛切な曲なのに、「ミ・ファミレ♯ミ」が出てくるたびに、「よ~く洗いなよォ」と変換され、泡だらけの可愛い男児と女児が脳裏に浮かぶ始末。
 ほんと困ったことだ。(ソルティはロリコンでもショタコンでもない、念のため)

チンチンポンポン
cincin ponpon

 

● 本:『不機嫌な姫とブルックナー団』(高原英理著)

2016年講談社

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装画:Minoru 装幀:高柳雅人


 最近聴き始めたブルックナー理解の一助になればと思って借りたのだが、これがまあ、滅茶面白かった。
 ブルックナー団を名乗る3人のブルオタと、彼らに「姫」と祭られる羽目に陥ったブルックナー好きの女性図書館員とのぎこちない交流を描いたブルコメ(ブルックナー・コメディ)である。
 ブルオタとは何か?

「ブルオタ」は「ブルックナーオタク」の意味で、クラシックファンの中でもとりわけオタク臭い、特有の行動を取る者らとして区別される。正式には「ブルヲタ」と書く・・・・・って、「正式」って何?

 ブルックナー行列という言葉があるように、ブルックナーは女性より男性に人気ある作曲家なのだが、どうも男性の中でもとくに “オタク度が高い” 男子たちのヒーローらしい。
 クラシック愛好家というだけで、ただでさえオタクっぽい印象を持たれがちなのに、あまつさえ、ベートーヴェンでもモーツァルトでもワーグナーでもなくアントン・ブルックナーを第一に選ぶのは、筋金入りのオタクの証なのだ。
 今さらではあるが、“オタク度が高い”とは、
  • 特定の事物に尋常でない興味と関心を持ち、その領域に関する驚異的な知識を持っている
  • 他人の心や場の空気が読めず、人間関係を築くのが苦手(いわゆるKY)
  • 異性にもてない
  • 流行やお洒落に興味がなく、見た目がダサい
 といったあたりが特徴として上げられる。
 誤解を恐れずに言えば、アスペルガー症候群と重なるところが多い。
 オタクの正体はアスペルガー症候群、あるいはそれに近いような脳の機能障害であって、本人自身にもどうしようもないのだと知れば、やさしい目で見ることができるのではないか。 
 ――って、ずいぶん上から目線だが、本ブログを見れば分かるように、ソルティは映画フリークで、クラシック音楽ファンで、書籍依存症で、仏教シンパで、そのうえ孤独癖がある。
 オタクと呼ばれるのはやぶさかでない。
 が、どれも生半可な知識と情熱しか持ち合わせていない不徹底なところが、オタクの称号に値しないと思っている。
 
 ともあれ。
 ブルックナー団の男子3人とひょんなことから知り合い、コンサート終了後のマックでの感想トークやメールでの情報交換をするようになった「姫」は、それまでブルックナーの音楽にしか興味なかったものが、作曲家自身についても関心を持つようになる。団員の一人が作家志望で、『ブルックナー伝』(未完)を綴っていたのである。
 本書は、市井の人々のほのぼのした(?)ブルオタ交流を描きながら、ブルックナーという愛すべき人物について読者に紹介する内容になっている。
 うまい構成だ。
 筆致もユーモアあり、ディケンズ風のキャラクター戯画化(アニメ化というべき?)が楽しい

 そうして描きだされたブルックナーという人物は、まさにオタク、いやアスペルガー症候群そのものではないか。
 音楽の異常な才という点を考慮するなら、サヴァン症候群かもしれない。
  1.  とにかく不器用で、自分に自信がなく、他人の言動に左右されやすい。(そのせいで、いったん完成した楽譜を人に指摘されるたび手直ししたので、同じ作品に版がいくつもある事態になった)
  2.  小心で、卑屈で、権威に弱い。(いじめられっ子タイプ)
  3.  空気が読めず、周囲をいらつかせたり、周囲から馬鹿にされたりする不可解な行動をとってしまう。
  4.  目に入った事物を数える癖がある。
  5.  10代の少女が好きで、生涯60人を超える少女に求婚し、すべて撃沈。
  6.  それをすべて記録(『我が秘宝なる嫁帖』)に残している。うげえッ!
 つまり、ブルオタの男たちは、自分と同類――生きるのに不器用なKYの非モテ+ロリ系――の先達にして偉人として、ブルックナーを崇拝しているのである。
 そりゃあ、入れ込むわけだ。
 むろん、そういった男のつくる音楽の独特な世界観に共鳴するところ大なのも道理である。
 「ブルックナー休止」「ブルックナー・リズム」「ブルックナー・ゼグエンツ(反復)」と言われる形式上の特徴も、なにか、自閉症の人たちが、キラキラ光る物に魅入られたり、鉄道が好きだったり、規則正しい繰り返しの配列に安心するのと同様の、脳の器質的な傾向とリンクしているのかもしれない。
 女性にはモテなかったけれど、弟子たちには非常に愛されたようだ。 

 本書を読んで、ブルックナーのイメージがずいぶん変わった。
 音楽史に名を残すセクハラ親爺というものから、不器用で気の弱いイタい人というものへ。
 同じく不器用で気の弱い人間の一人として、親近感が湧いた。 
 だいたい、コンサートのチラシなどに使われるブルックナーの写真が良くない。
 無愛想で陰気な面をしたハゲ親爺が、似合わない蝶ネクタイをしたり、胸に勲章つけて偉そうにしているものが出回っている。
 この写真じゃ、音楽を聴く前から誰だって敬遠したくなる。(特に女性は)
 若い頃のもう少し人当たりのいい肖像はないのだろうか?
 さすれば、もう少し人気が出て、聴く人も増えて、コンサートでの演奏回数も増えるのではなかろうか。
 無理か・・・・。
 
ブルックナー勲章


おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● ブルックナー行列 : フィルハーモニック・ソサィエティ・東京 第11回定期演奏会

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錦糸町からスカイツリーを望む

日時: 2023年6月4日(日)
会場: すみだトリフォニーホール 大ホール(錦糸町)
曲目:
 J.S.バッハ: 2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調
   ヴァイオリン: 長原幸太
   ヴァイオリン: 佐久間聡一
 アントン・ブルックナー: 交響曲第9番 ニ短調
指揮: 下野竜也

 交響曲第4番「ロマンティック」では真価の分からなかったブルックナーに再挑戦。
 今度はブルックナーの遺作であり最高傑作の一つとされている9番である。
 下野竜也の指揮ははじめて(かな?)

 前半のバッハの曲は、誰もが耳にすれば「ああ、知ってる」と言うような有名曲。
 名曲喫茶でよく流れている。
 2人のヴァイオリン名手による息の合った掛け合いが素晴らしかった。
 アンコールの『アヴェ・マリア』も優美そのもの。
 すっかり気分あがって、後半に備えた。

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名曲喫茶と言えば、国分寺の『でんえん』が有名
創業66年、昭和の遺跡である

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96歳になるという女性オーナーはいまも健在
素晴らしいことだ(令和5年5月末に来訪)

 開演前にトイレは済ませておいたので、20分間の休憩中はずっと座席にいた。
 あとから「休憩中にトイレに行くべきだった」と後悔した。
 後半途中で尿意を催したというのではない。
 クラシック演奏会の休憩時間は通常、混雑している女性トイレを横目に男たちはさっさと用を済ますのであるが、男性ファンが圧倒的に多いブルックナーの演奏会の場合、男性トイレの前に人が並び、女性トイレは空いているという、通常とは真逆の現象が見られる――ともっぱらの噂なのである。
 これを「ブルックナー行列」と名付けた人もいるくらい。
 数学用語みたいで面白い。
 ロビーに出て、真偽を確かめるべきだった。

ブルックナー行列

 さて、後半であるが・・・。
 やっぱり、真価が分からなかった。
 同じ音型の繰り返しで、どの楽章も他の楽章とたいした違いがなく、印象に残るようなメロディもない。
 さらに言えば、4番と9番の違いもよく分からない。
 偉大なるワンパターンといった感じ。

 ブルックナーはワーグナーを崇拝していたらしく、ワーグナー風の官能的タッチから曲が始まることが多い。期待が高まる。
 しかるに、『トリスタンとイゾルデ』のようなオルガズムに達することは決してなく、いつも寸止まりで終わってしまう。
 「ああ、もうちょっと踏み込めばイクのに・・・」というところで、さあっと波が引いてしまい、もとの欲求不満状態に戻る。
 その繰り返し、その繰り返し・・・。
 そこが一番、ソルティが「つまらない」と感じてしまうところである。

 ブルックナーは敬虔なカトリック信者だったらしいので、ストイックなところがあったのかもしれない。(とはいえ、生涯10代の少女に目がなく、求婚を繰り返したとか→すべてボツ)
 性愛方面では不器用で、敬愛するワーグナーの足元にも及ばなかった。
 それが作る曲に影響したのだろうか。
 信仰方面でオルガズム(=忘我や恍惚)に達することもありと思うのだが、そこまでの宗教体験は俗世間にいてはなかなか得られないものである。
 ブルックナーがすぐれたオルガニストだったことを思うと、皮肉である。

 ブルックナーは、ワーグナーはじめバッハやベートーヴェンやウェーバーから強い影響を受けた。
 作品の端々にそれは感じられる。
 が、思うに、官能と忘我の手前で身を翻してしまうという点において、スタイル的に一番近い作曲家はブラームスではなかろうか。(同時代に生きたブルックナーとブラームスは仲が良くなかったようだが、ひょっとして近親憎悪?)
 
 いやいや、もしかしたら、ソルティがまだブルックナー的快楽のツボを発見していないだけなのかもしれない。
 そのツボが見いだされ、然るべく開発されれば、驚くべき壮大で豊かで美しい世界が開けるのかも・・・。
 嬉々としてブルックナー行列に並ぶ男たちは、その秘密を知っているのだろう。
 再々チャレンジしよう。

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とりたてて男性客が多いとは感じなかったが・・・。
前半のヴァイオリン協奏曲のおかげかもしれない。






● 聖ペテルブルグ : 府中市民交響楽団 第87回定期演奏会


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日時: 2023年5月14日(日)
会場: 府中の森芸術劇場 どりーむホール
曲目: ショスタコーヴィチ: 交響曲第7番 ハ長調 作品60「レニングラード」
指揮: 大井剛史

 ちょっと前に漫画版『戦争は女の顔をしていない』を読み、今は同じスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ作の『セカンドハンドの時代』を読んでいる。
 前者は第2次世界大戦中の独ソ戦に関するソ連の女たちの証言集、後者は共産主義時代のソ連および1991年ソ連崩壊以降に起きたことに関する、かつてソ連邦に属した様々な人々による証言集である。
 重要なのはいずれも庶民の声であること。
 ソルティは近現代ロシア史を庶民の視線から学んでいる最中なのである。

 過去100年ソ連で起きたことを体験者の声を通して振り返ると、唖然とし、愕然とし、呆然とし、しまいには暗澹たる気持ちになる。
 日本だってこの100年、戦争や占領や暴動や災害やテロなどいろいろあったに違いないが、ソ連にくらべれば穏やかなものである。
 とくに戦後の日本は、もしかしたら、人類史上稀なる平和と繁栄と自由と平等とが実現された奇跡的空間だったと、のちの歴史学者は語るかもしれない。
 ロシアのウクライナ侵攻が国際的非難を浴びていて、ソルティも一刻も早いロシアの完全撤退とプーチン政権の終焉を望むものだけれど、しかし、近現代ロシア史を知らずにこの戦争を安易に語ることはできないのではないかと思う。
 なんといっても、ロシアとウクライナはもとは同じ一つの国であり、ロシア人とウクライナ人は同じソヴィエト国民だったのだ。

 同じように、近現代ロシア史を知らずに、ショスタコーヴィチを鑑賞することは難しいのではないかと思う。
 少なくとも、今はまだ・・・・。
 『セカンドハンドの時代』には、スターリン独裁体制下を生き延びた人々の証言が数多くおさめられている。
 徹底的な言論・思想統制、密告奨励、不当逮捕、強制収容、シベリア流刑、拷問、虐殺・・・・。
 恐怖と圧迫と洗脳と諦念と擬態と黙殺と。
 厄介なのは、スターリンは独ソ戦でナチスドイツに勝利した英雄でもあることだ。
 スターリンを讃美し、スターリン時代を懐かしがる老人が今もロシアに残っているのである。
 ソ連国民は、他国のヒトラーを退けるために、自国のヒトラーを受け入れざるを得なかった。 
 ショスタコーヴィチの音楽を、こうした酷すぎる歴史の現実から切り離して、純粋音楽として指揮したり、演奏したり、聴いたりすることは、あまりに脳天お花畑の仕草に思われる。
 スターリン体制下あるいはKGBによって拉致や拷問や処刑された命に対する軽侮のように思われる。
 当の作曲家だってそれを望んじゃいまい。

 そしてまた、聴く者が過去100年のソ連の歴史と庶民の生活について知れば知るほど、ショスタコーヴィチの音楽は深みを増す。
 作曲家が楽譜に描き込んだ、恐怖や苦痛や不安や苦悩や絶望や悲しみ、あるいは夢や懐旧の念や死者への祈りや平和への願いや愛、あるいは全体主義にたいする批判や嫌悪や抵抗――それらが聴く者の胸の奥に届き、倍音をもって(つまりは対ドイツのそれと対ソヴィエトのそれ)響くのである。

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府中の森芸術劇場
 
 今回ライブ2度目となる『レニングラード』
 それぞれの楽章について、次のような章題を思いついた。
  • 第1楽章 ファシズムは最初、軽快なマーチのリズムに乗って、親しみやすい正義の顔してやって来る。
  • 第2楽章 今さら嘆いても遅い。夢じゃない、これが我々の現実だ。
  • 第3楽章 死者だけが戦争を終わらせることができる。
  • 第4楽章 人間は学ばない。喉元過ぎれば熱さ忘れる。
 演奏は第1楽章が一番良かった。
 小太鼓の単調なリズムから始まる「侵攻の主題」において、単純なメロディが繰り返されるたびに加わる楽器が増えていき、次第に狂気の色を濃くしながら盛り上がっていく様は、各楽器のソロ奏者の安定した技術とオケ全体のバランスの良さに支えられ、背筋がゾッとなるほどの迫力とリアリティがあった。
 
 ちなみに、現在レニングラードという都市はない。
 ソ連崩壊と共に、レーニンは神棚から引きずり降ろされてしまった。
 革命前のロシア帝国時代の旧名「聖ペテルブルグ」に戻っている。

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府中の聖地、大国魂神社




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