ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●ライブ(音楽・芝居・落語など)

● ハイリゲンシュタット・フィルハーモニー管弦楽団 第7回演奏会

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日時: 2024年9月23日(月)14:00~
会場: IMAホール(東京都練馬区)
曲目: 
  • シューベルト: 交響曲第7番 ロ短調 D759「未完成」
  • シューベルト: 交響曲第8番 ハ長調 D944「ザ・グレイト」
指揮: カール・ヤイトラー

 IMAホールは光ヶ丘公園の近くにある。
 長らく待ち望んだ秋風が吹き抜ける休日午後の公園には、家族連れやカップル、ジョッガーや楽器練習する人たちが、憩いでいた。
 イチョウ並木が黄色く染まるのも遠くない。
 (しかし、一年が立つのが速すぎないか!?)
  
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 このオケは、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の音を愛するアマチュア奏者たちが、2019年に旗揚げした。ホルン、オーボエ、クラリネット、ティンパニーには、ウィーン・フィルと同様のウィーン・スタイルの楽器が使用されているという。
 しかも、今回指揮を務めたカール・ヤイトラーはウィーン・フィルのトロンボーン奏者だった人なので、まさにウィーンの音楽が、秋風に乗って光ヶ丘の森に響き渡った。
 曲の選定も秋らしい。

 残念ながらソルティの耳には、ウィーンの音とベルリンの音の違いが、どころかドイツの音とフランスの音の違いも聴き分けられないのであるが、あえて言うならば、「おっ?」と思うほどゆっくりしたテンポの中に、現代的な一糸乱れぬ白糸の滝のような流麗さとは違った、人間らしい温みと彩りに満ちた懐かしい響きを感じとった。
 CDプレイヤーでなく蓄音機といった感じ。
 新幹線でなく鈍行列車といった感じ。
 シューベルトの物哀しくも美しい音楽が、酷暑の疲れを癒してくれた。

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IMAホール











● 悲しきワルツ : オーケストラ・ディマンシュ 第57回演奏会

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日時: 2024年9月1日(日)14:00~
会場: 北とぴあ さくらホール(東京都北区)
曲目: 
  • チャイコフスキー: 交響曲第1番 ト短調作品13《冬の日の幻想》
  • シベリウス: 交響曲第1番 ホ短調作品39
  • アンコール シベリウス: 『悲しきワルツ』
指揮: 金山隆夫

 北とぴあは東京都北区にある17階建ての複合文化施設で、平成2年 (1990年) 9月17日にオープンした。
 JR王子駅北口から徒歩3分という便利な立地にあり、8つのホールと16の会議・研修室、3つの音楽スタジオを有する北区の誇る「産業と文化の拠点」である。
 ここ数年、日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老の講演会や会員有志が主宰する瞑想会がこの施設でよく開かれるため、ソルティは何度か足を運んでいる。

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JR王子駅

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北とぴあ

 行くたびに思うのだが、なんとなく暗くて落ち着けない。
 瞑想していてもなぜか集中できないことが多く、半日たっぷり瞑想するつもりで勇んで来たものが、だらしないことに、2~3時間で切り上げることがしばしば。
 特に地下のホールがどうも居心地悪い。
 もちろんこれは、純粋に個人的印象である。
 おそらく、怠け心を場所のせいにしているだけなのだろう。
 弘法筆を選ばず、瞑想場所を選ばず、でなくてはいけない。

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Ginger GuillotによるPixabayからの画像


 本日(8/31)は首都圏で魅力的なアマオケコンサートが複数開催されている中から、指揮・金山隆夫の名に惹かれ、本コンサートを選んだ。
 過去にカラーフィルハーモニックとの共演によるマーラー交響曲の第2番『復活』第5番の素晴らしい演奏を聴かせてもらい、その名がしっかり銘記されたからだ。
 どんな美しいシベリウスを聴かせてくれるのか期待大で臨んだ。
 北とぴあ2階のさくらホールは1300名定員、きれいで立派なホールであった。

 一曲目のチャイコフスキーから眠くて仕方ない。
 コロナ感染時のブレインフォグみたいに頭の中がぼうっとする。
 なんだろう?
 寝不足のはずはないし、満腹でもないし、疲れがたまっているわけでもない。
 台風通過による気圧の変化のせいだろうか?
 オケの音が妙に遠くに聞こえる。
 座った席が悪かった?(1階席の最後尾でそこだけ天井が低かった)

 後半のシベリウスは繊細さと迫力とを兼ね備えた上々の演奏だったのだが、やっぱり音楽に入り込めなかった。
 チャクラがまったく動かなかった。 
 指揮棒が下りた後の周囲の聴衆たちの惜しみない喝采と「ブラボー」とアンコール懇望からするに、感動的な演奏だったに違いない。
 ソルティの体調がおかしかったのだろう。
 それとも、やっぱり北とぴあとは相性が悪いのか?

 帰宅後にウィキを見ていたら、2001年(平成13年)12月21日、さくらホールの定期点検中に事故が起こり、メンテナンスに入っていたスタッフ3人が死亡、2人が重傷を負ったという。
 まさかね・・・・・・。

秩父巡礼4~5日 051















● 蒲田で味わう : Orchestre de SAVEUR 第3回演奏会

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日時: 2024年8月24日(土)
会場: 大田区民ホール アプリコ大ホール
曲目:
  • シューマン: 交響曲第3番「ライン」
  • ベートーヴェン: 交響曲第3番「英雄」
指揮: 山上紘生

 Orchestre de SAVEUR は、2022年結成のアマオケ。
 SAVEUR とはフランス語で「味わい」を意味するそうだ。
 練習を「サボ~る」と掛けているのかなと思ったが、発音は「サブール」らしい。
 旗揚げ時から山上が指揮をしている。
 山上の音楽哲学が良く表現され、味わえるオケと言っていいだろう。
 山上はほかに、ボヘミアン・フィルハーモニッククラースヌイ・フィルハーモニー、オーケストラ・ノット、Orchestra Largoの常任指揮者的立場にあるようだ。
 アマオケ業界事情はよく知らないが、売れっ子と言っていいのではないか。
 指揮者としての才能はもとより、見るからに穏やかで優しそうな人柄が、人気の理由ではなかろうか。
 パワハラNGの昨今の風潮は当然音楽業界にも及んでいるだろう。

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 演奏レベルはかなりのものだった。
 息の合ったトゥッティ(総奏)の輝かしく張りのある音と切れ味、ソロ(独奏)における技巧の高さと安定性。
 山上のコミュニケーション力が優れているのか、秘められたカリスマ性ゆえなのか、あるいは砂に水が沁み込むようなオケメンバーの飲み込みの良さのためなのか、指揮者とオケとが一体となって最初から最後まで統一されたフォームを維持していた。
 3回目にしてこの完成度はすごい。

 1曲目は『ライン』(SNSではなくて、ライン川のことだ)。
 実はシューマンはどこがいいのかよく分からない作曲家だった。
 オーケストレーションではベートーヴェンの二番煎じみたいな印象があり、ブラームスやドヴォルザークやチャイコフスキーのようなメロディメイカーでもなく、個性がよくわからなかった。
 が、今回はじめて「おっ、いいじゃん!」と思った。
 第3楽章、第4楽章の深い陰影ある宗教性は、シューマンの個性というか人生観を匂わせているように思った。
 山上の指揮が、これまで関心なかった作曲家の良さに気づかせてくれたのは、ショスタコーヴィチについで二人目である。

 2曲目の『英雄』。
 曲自体があまりに素晴らしいので、アマオケ平均レベルの演奏で十分感動する。
 山上&サブールは平均以上だったので、感動は大きかった。
 なにより、聴いているこちらのチャクラを刺激する音波の威力がはんぱない。
 舞台から放たれた音波が、丹田のチャクラ、胸のチャクラ、喉のチャクラ、額のチャクラを直撃し、ビリビリと震わせ、固い扉をこじ開け、体内に侵入する。
 それによって、体内に詰まっていた“気”の塊が解きほぐされ、活性化し、さまざまな感情の澱みを解放しながら、周囲に揺らめく透明の煙となって湧き上がり、消えていく。
 脳内ルクスが上がり、心身が浄化される。
 丸1日間部屋にこもって瞑想したのと同じ効果が、ほんの1時間足らずで達成され、鍼治療受けた後のように心身が整った。
 ソルティが山上の指揮するコンサートに足を運んでしまうのは、このチャクラ・マッサージによる“整い”効果ゆえである。

 同じ効力は和田一樹の指揮でも実感される。
 本日は、18時から県立神奈川音楽堂で和田一樹指揮によるベートーヴェン交響曲第2番(オケはEnsemble Musica Sincera ←横文字の使用はそんなにカッコいいか?)があった。
 JR蒲田から桜木町へ、京浜東北線によるベートーヴェン行脚を予定していたのだが、『ライン』と『英雄』を十分“味わい”、満腹になったので行くのは止めた。
 雷雨の予感もあった。

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午後4時のJR蒲田駅


● 荒川区民オペラ第22回公演:ヴェルディ作曲『ナブッコ』

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撮影するソルティが映り込んで面白い絵柄となった

日時: 2024年8月12日(月)14時~
会場: サンパール荒川(大ホール)
指揮: 小﨑雅弘
演出: 澤田康子
キャスト
 ナブッコ  : 野村 光洋(バリトン)
 アビガイッレ: 柳澤 利佳(ソプラノ)
 ザッカーリア: 鹿野 由之(バス)
 イズマエーレ: 秋谷 直之(テノール)
 フェネーナ : 河野 めぐみ(ソプラノ)
 アンナ   : 東 幸慧
 アブダッロ : 黒田 大介
 ベルの司祭長: 上野 裕之
荒川オペラ合唱団
荒川区民交響楽団

 『ナブッコ』は、好きなオペラの一つである。
 初めて舞台で聴いたのは、1988年9月のミラノスカラ座来日公演。会場はNHKホールだった。
 当時、スカラ座の音楽監督になって間もないリッカルド・ムーティの『ナブッコ』が評判をとっていた。
 とくに、第3幕の奴隷たちの合唱『行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って』がことのほか素晴らしく、気難しい観客の多いスカラ座で大喝采を博しアンコールされたとメディアを通じて伝わって来た。(ネットのない時代である)
 そのムーティが日本でも『ナブッコ』を振るという。
 頑張ってチケットを獲った。

 そのときのタイトルロール(ナブッコ役)はバリトンのレナート・ブルソン、準主役ともいうべきアビガイッレはリンダ・ローク・ストランマーというソプラノ歌手だった。
 王座を追われたナブッコが哀れな囚人に転落してからのブルゾンの歌と演技が圧倒的な印象を刻み、ほかの歌手については覚えていない。
 ただ、スカラ座合唱団の合唱は、噂以上、想像以上に素晴らしかった。
 低音から高音まで、ピアニシモからフォルティシモまで、どのレンジにおいても一糸の乱れなく、天女がまとう羽衣のように柔らかく艶々しかった。
 『行け、わが想いよ』では最後のバスの重低音がNHKホールの空間に飲み込まれるように消えた後、延々と拍手が続いた。アンコールしてくれるんじゃないかと期待したほどだった。

 イタリアの第二国歌と言われるこの名曲以外にも聴きどころはたくさんある。
 ソルティは、第2幕冒頭のアビガイッレのレチタティーヴォ『運命の書よ』からアリア『かつては私も幸せだった』を経てカバレッタ『黄金の王冠を戴いて』のダイナミックな流れが好きで、マリア・カラス録音のものをたまに聴く。出だしのメロディーが、『庭の畑でポチが鳴く』を連想させるアリアの美しさと哀切さにはいつも心かきむしられる。
 第2幕のクライマックスで、ナブッコから開始され、アビガイッレ、ザッカーリア、フェニーナと順に加わり、四重唱から大合唱に展開していく『避けられぬ怒りの時が』も興奮させられる。ドニゼッティ作曲『ルチア』の有名な六重唱と並ぶ名シーン、名アンサンブルだと思う。

 そんなこんなで今年の荒川区民オペラが『ナブッコ』と知って楽しみにしていた。
 JR山手線大塚駅で都電荒川線に乗り換えて延々40分、庚申塚や飛鳥山公園や荒川遊園地や町屋を通って荒川区役所前駅で下車。
 やっぱりチンチン電車はいいなあ~。
 これで168円はお得である。

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都電荒川線・荒川区役所前

 会場(975席)は6~7割くらいの入りだった。
 ソルティは2階右ブロックの最後列に近い席を取ったが、ネット予約したときは埋まっていた目の前のブロックがごっそり空いていた。
 まとめてチケットを購入したグループが事情で来られなかったのだろうか?
 コロナがまた流行っているからなあ。
 こういう場合に、当日でも座席変更できるといいのに・・・。

 勇ましい序曲に続いて幕が上がり、ナブッコ王に虐げられる人々の合唱が始まった瞬間、あることに気づいた。
 「そうだ、これはバビロン捕囚の物語だった!」
 つまり、紀元前6世紀にナブッコ(ネブカドネザル2世)が統治する新バビロニア王国に攻め込まれ、神殿を破壊され、捕虜として連行され、バビロニアへの移住を強制されたユダヤ民族の受難の物語だった。
 イスラエルのガザ地区侵攻と民間人虐殺が世界中から非難されている折も折、なんとまあ皮肉なことか!
 アブラハムの放浪、出エジプト、バビロン捕囚、アウシュビッツ・・・かつての被害者がいま加害者としか言えなくなっている現状にあって、それが大昔の物語とはいえ、ユダヤ民族の受難に心を寄せるのはなかなか難しい。
 いったいなぜ、わざわざこのオペラを選んだのだろう?

 ――と不思議に思ったが、今回イスラエルのガザ地区侵攻が始まったのは2023年10月7日。国際世論がイスラエル批難に傾いたのは年末にかけて。
 オペラ公演には長い準備期間が必要だ。
 今年の演目はそのときにはすでに決まっていたのかもしれない。
 まあ、こんなことが気になるのはソルティくらいかもしれないが・・・。

 ときに、『ナブッコ』が日本でなかなか上演されないのは、それが硬派の歴史ドラマであること以上に、準主役であるアビガイッレを歌えるソプラノが少ないからであろう。
 本来、鋼のように重く強靭な響きと、蝶々が舞うように柔らかで軽やかな響き、この両方を兼ね備えたソプラノ・ドラマティコ・タジリタのために作られた役なのである。
 が、この声の持ち主(マリア・カラスがその一人だった)が滅多に出現しない。
 そこで、たいていの場合、後者の声質が犠牲となって、鋼のように重く強靭な響きをもつドラマティック・ソプラノによって歌われることになる。
 体格のせいか肺活量のせいか声帯のせいか知らん、日本人の声はやっぱり小さくて線が細く、昔からドラマティック・ソプラノ自体が少ない。
 役柄的に多少声がか弱くても許容できる『蝶々夫人』や『椿姫』はなんとか歌えても、猛女烈女が主役で激しい感情表現が必要とされる『マクベス(夫人)』、『トゥーランドット』、そしてアビガイッレは歌える人が限られてしまう。
 その意味では、今回アビガイッレを歌った柳澤利佳は頑張ったと思う。
 声の足りない部分を、女王らしい毅然たるたたずまいと鋭角的表現で補っていた。

 声量の点でいえば、イズマエーレを演じたテノールの秋谷直之が圧巻であった。
 ホールの最後列までびんびんと届くヴォリュームと力強さは、欧米の歌手にひけをとらない。恵まれた声の持ち主である。

 ザッカリーアを歌った鹿野由之も、朗々としたよく通る声と貫禄ある立ち姿で、舞台を引き締めていた。
 抑制の効いた丁寧な歌い回しにベテランの味を感じた。

 今回一番の敢闘賞はナブッコ役の野村光洋。
 風邪か流行り病か、体調の悪さ、喉の不調は歴然としていた。
 本番で、ここまで苦しそうな歌唱を聴いたことがない。
 代役(11日にナブッコを歌ったバリトン)を立てられない訳があったのだろうか。
 だが、最初のうちこそ失望感に襲われたものの、「声が裏返らないか、かすれないか、音程をはずさないか」、とハラハラしつつ聴いているうちに、次第に心の中で応援している自分に気づいた。
 歌い手のもがき苦しむ姿が、ちょうど神の逆鱗にふれて雷に打たれ、正気を失い、アビガイッレによって王位を奪われ監禁されてしまうナブッコの、哀れな老人の苦しみとオーバーラップしていた。
 最後までよく頑張った。

 荒川区民オペラのなによりの美点は、庶民ならではの親しみやすさ。
 手作り感たっぷりの舞台衣装、眼鏡をかけた古代の男たち、赤ん坊を抱えて座席案内するスタッフの姿、カーテンコールでの達成感に満ちた合唱団の誇りかな表情、いずれもが「人が協力して物を作る喜び」という創作の原点を思い起こさせてくれる。
 その感動が、来年もまた来ようという気にさせるのだ。

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サンパール荒川
どうもサンポールと言い間違えてしまう







● 伏線復活 : フィルハーモニア・ブルレスケ 第20回記念定期演奏会

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日時: 2024年7月14日(日)18:30~
会場: サントリーホール
曲目: 
  • ヴェルディ: 歌劇「運命の力」序曲
  • マーラー: 交響曲第2番「復活」
    ソプラノ: 安藤るり
    アルト: 熊田アルベルト彩乃
指揮: 東 貴樹
合唱: 混声合唱団コール・ミレニアム

 今年3回目の『復活』。
 ブルレスケを聴くのも、2016年のシューマン交響曲第1番、2017年のチャイコ交響曲第5番に続いて3回目である。
 指揮はいずれも東直樹であった。
 過去の自分の記事を読み返すと、かなり好印象をもったオケであることが分かる。
 今回もまた好印象、どころか率直に言って、たいへん感動した。
 今年聞いた『復活』の中では、今のところ一番である。

 前プロのヴェルディ作曲『運命の力』序曲から、オケの上手さと東直樹の賢さ、そしてなによりサントリーホールの音響の素晴らしさが感じられた。
 ソルティが取ったのは2階席の一番前列、中央やや左寄りの席。
 パートごとの楽器の音色がしっかりと独立して、玄妙な響きを持って、耳に届いた。
 これは期待がもてる。

 トイレをしっかり済ませたあとの後半。
 第1楽章では、なにより音の粘着性に感嘆した。
 この粘り気は、納豆ともトロロとも違う、接着剤やヤマトのりとも違う、スライムとも違う、鳥もちとも違う、松ヤニとも違う、「ねるねるねるね」とも違う。
 道路舗装に使うアスファルト?
 近くなってきた。
 ああ、コールタールだ。
 コールタールのような、熱と粘度をもった油状の液体である。
 そして、それはとてもユダヤっぽいテイストに満ちていた。
 つまり、長い宗教的・民族的受難の歴史だ。

 第2楽章は地中海の香り。
 ゆったりしたテンポのせいもあって、ここで前プロの『運命の力』序曲との類似を感じた。
 メロディアスで、ドラマチックで、華やか。
 そう、イタリアオペラの世界。
 ロマン派のヴェルディから、ベッリーニやドニゼッティのベルカントに遡り、しまいにはロココのモーツァルトまで聴こえてきた。

 続く第3楽章で、心はイングランドに飛んだ。
 道化師が観客を挑発するかのような、滑稽ながらどこか意地の悪い主要旋律(ブラックジョーク)のあとから、パグパイプが草原の風に乗り、王室行事のファンファーレが豪華に鳴り響き、ヘンデルが顔を覗かせる。
 
 打って変わって、アジアンテイストの第4楽章。
 と言っても、実際のアジア音楽というよりは、『大地の歌』で描かれたアジアである。
 なんだか世界旅行しているような気分になった。

 もうすぐパリ五輪。
 世界各国からさまざまな人種や民族や国民が、エッフェル塔の下に集まる。
 第5楽章はまさにオール・オ-バー・ザ・ワールドの人間讃歌、人生肯定。
 いつものごとく、合唱が入ってからは滂沱の涙と鼻水であった。

 国際色豊かな『復活』。
 それはもちろん、作曲家マーラーの無国籍性、ジャンルを越境する柔軟性、過去の偉大な作曲家たちの影響と彼らへのオマージュのためであろうけれど、同時に、青年時代にフランスで勉強した東直樹という指揮者の国際感覚ゆえではなかろうか。
 楽章が変わるたびにカラーを変化させる、まるでカメレオンみたいな器用さは、日本人指揮者には珍しい才と思った。

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サントリーホール

 ときに、マーラーの2番と3番の最終楽章の感動の秘密は、よくできた推理小説と同じで、「忘れた頃にやって来る伏線の回収」ってところにあると思う。
 心に染み入る印象的な動機(フレーズ)を最初の方で小出しに示しておく。
 そのあと、崩壊したソナタ形式ならではの予測を裏切り続ける混沌とした展開、荒々しいモチーフの衝突と混合、終点のなかなか見えない長距離トラックの爆走で、聴く者を引きずり回し、途方に暮れさせ、迷宮に追い込む。(大江健三郎の『万延元年のフットボール』を想起する)
 いい加減へとへとになってギブアップしそうな瞬間、不意に懐かしの動機がやって来て、迷宮から一気に引き上げ、愛する者たちが待つ光あふれる天上へと導いてくれる。文字通り、“復活”する。
 人間の心理機構を見事に利用した構成の妙(=伏線復活)は、映画で言えば、『ニュー・シネマ・パラダイス』(たくさんのキスシーンの連続)か、『マイ・フレンド・フォーエバー』(棺の中のシューズ)である。  
 これが泣かないわけがない。

 ブルレスケさん、20周年おめでとう!
 これからもいい音楽を聴かせてください。


 

● 夏越の祓 : オーケストラ・モデルネ・東京 第5回演奏会


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日時: 2024年6月30日(日)14:00~
会場: 埼玉会館 大ホール
曲目:
  • モーツァルト: 歌劇『魔笛』序曲
  • マーラー: 交響曲第9番 ニ長調
指揮: 篠﨑 靖男

 開演1時間前にJR浦和駅に到着。
 時間つぶしになりそうな場所はないかと google map を見たら、駅西口から徒歩10分のところに調神社という名のちょっと大きめな神社がある。
 あっ、そう言えば、今日は水無月晦日(6月30日)。
 日本古来の半年に一度の神事、夏越の祓(なごしのはらえ)ではないか。
 半年間で積もり積もった罪や穢れを祓い落とすチャンスである。
 行くべし。

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JR浦和駅西口

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調神社(771年創建)
「つきじんじゃ」と読む
かつて、調(律令時代の税)を納める倉があったことに由来する
鳥居がないのは、調運搬の邪魔になるため作らなかったからとか

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狛犬のかわりに狛ウサギ
調(つき)=月の連想から月待信仰と結びつき、ウサギを神の使いとするようになった

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手水舎にもウサちゃんがいた

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拝殿
ご祭神は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、豊宇気姫命(とようけびめのみこと)、
素盞嗚尊(すさのおのみこと)
参道に置かれた茅の輪(ちのわ)を8の字を描くように潜ることで穢れを祓う

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スサノオノミコト像
子どもの作った粘土の人形さながら

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神楽殿
干支の龍が描かれたビッグ絵馬

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木々に囲まれた池の静けさが夏の暑さを和らげる

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ここにも白ウサギ

 心も体も(?)清らかになったところで、埼玉会館に向かう。

 オーケストラ・モデルネを聴くのははじめて――と思ったら、2022年6月晴海で聴いていた。
 ソルティの週末アマオケ道楽も8年を数え、聴いたオケ数は軽く70は超える。
 2度目3度目があっても、それを初回と勘違いしていても、不思議ではない。
 だいたいが、大学オケはともかく、社会人オケはみんな同じようなカタカナ名をつけるから、差別化がはかりにくい。 

 モーツァルトの『魔笛』序曲が約7分、マーラーの交響曲第9番が約90分、休憩なしで合わせて約100分。
 途中で腰が痛くなるか、痔が痛くなるか、尿意を我慢できなくなるか、前に後ろに舟を漕いでしまうか、イビキで周囲から白い眼で見られるか・・・・と危惧した。
 もう、還暦だもん。仕方ないよね。
 よっぽど目覚ましい気の入った演奏でないと、昨今のコンサートホールの椅子の心地良い柔らかさと程よい照明のほの暗さには勝てないのだ。
 時節柄、暑かったり肌寒かったり、気圧が乱高下したり、老いの体にかかる負荷もなまなかではない。
 だいたい昼ご飯を食べた後の14時頃が疲労回復モードすなわち眠気のピークに当たるわけで、周りを見たらご高齢の観客の皆様の多くは頭をかしいでいた。
 ソルティは眠ったつもりはないのだけれど、なんか「あっ」という間に終わっていた。
 半覚半睡?
 アルタード・ステイツ(変性意識状態)?
 よくわからない。

 ただ、9番はいつもなら、悲痛・悲哀・悲愴・悲嘆・悲観といったネガティヴなイメージに胸を締めつけられ、甘美なる鬱に漂いながら終焉するのだけれど、今回の9番とくに第4楽章は、ネガティヴな感情を掻き立てることはなく、むしろ、静かさと安らぎのモードが勝っていた。
 諦念の先にある微細な優しさと言おうか。
 浄化された魂の昇天と言おうか。

 そんな印象を受けたのも、コンサート前の大祓いのせいなのかもしれない。
 というのも、いつもは70年代ヒット曲イタリア童謡『チンチンポンポン』の残像のせいで、「よぉーく洗いなよ」と聞こえてしまう第4楽章の回音音型(ミーファミレ#ミソ)が、今日は「よぉーく祓いなよ」と鳴り続けていたのだから。

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埼玉会館





● イチヤ再会 寄席:柳亭小燕枝独演会

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日時 6月20日(木)19:00~
会場 成城学園前 アトリエ第Q藝術
演目
柳亭すわ郎(前座): 『たらちね』
柳亭小燕枝: 『親子酒』、『宿屋の仇討』

 寄席に行くのは6年ぶり。
 コロナ前、四国遍路に行く前の2018年9月のすがも巣ごもり寄席が最後であった。
 あの頃は二枚目もとい二ツ目であった柳亭市弥が目当てで寄席に行くようになり、おかげで落語の面白さに目覚めたのであった。
 
 久しぶりに寄席に行ってみようかと思い、ネットで調べてみると、市弥はすでに存在せず。
 といって廃業したのではない。
 2022年8月に真打昇進して、八代目柳亭小燕枝(りゅうてい こえんし)になっていた。
 遅ればせながら、おめでとう!

 真打市弥(自分の中ではまだイチヤ君だ)の実力のほどをこの目で確認しようと思い、新宿から小田急線に飛び乗った。

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小田急線・成城学園前駅

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アトリエ第Q芸術

 前座の柳亭すわ郎(swallow 燕のもじりか)は30代後半と見受ける。
 市弥の弟子になって半年たらずとのこと。
 『たらちね』は覚えたばかりのようであった。
 夫が当人の名前と勘違いした、「寿限無寿限無」ばりに長い新妻の口上、

自らことの姓名は、父はもと京都の産にして姓は安藤、名は慶三あざなを五光。母は千代女と申せしが、わが母三十三歳の折、ある夜丹頂の鶴の夢を見てはらめるが故に、たらちねの胎内を出でしときは鶴女と申せしがそれは幼名、成長の後これを改め清女と申しはべるなりい~

を、よどみなく節回しよく言いのけたのは立派。
 二ツ目を目指して頑張ってほしい。

 6年ぶりに見る市弥は、あたりまえだが老けていた。
 世田谷区出身でミッション系の玉川大学卒という経歴と、色白で清潔感ある柔和なイケメンぶりから、“いいとこのお坊ちゃん”イメージが強かった市弥であったが、40歳という年齢に達した為のみならず、この6年間「いろいろあった」のだろうと思わせる変容であった。
 外部から見える事実だけとっても、結婚して父親になっているし、コロナ禍の「寄席が出来ない」試練があった。
 いろいろと苦労もあったことだろう。
 そう思わせるに十分な意義ある老けぶりであった。
 それがもろ高座に反映されるところが、舞台商売の面白いところである。

 オッサン化した容姿はともかく、芸の上ではまず声や口調に変化を感じた。
 声が太く低くなり、時にだみ声混じりになった。
 人を面罵する場面での迫力が増した。
 年齢による声帯の変化や酒の影響もあろうが、実生活において父親となり守るべきものを持ったことによる意識の変化が、声や口調に表れているように感じた。
 もはや“お坊ちゃん”とはいえない風格。

 それに伴い演技力が増した。
 もともと与太郎のような天然ボケキャラや、ちょっと蓮っ葉で色っぽい長屋のおかみのようなキャラを演じるのが上手い人ではあった。
 そこに加えて、年輩の頑固親父キャラがリアリティ持って演じられるようになっていた。
 『親子酒』の酒飲み親父であるとか、『宿屋の仇討』の隣室の侍であるとか、一つの生きたキャラとして成立している。
 それが成立しているがゆえに、噺全体がまるで一人芝居のような見世物になっている。
 とくに『宿屋の仇討』は、落語というより、一人の役者が数役を演じ分けるアングラ演劇を見ているようであった。
 そして、少なくとも5人(宿の主人、侍、3人の若い衆)が登場し、各々のセリフが飛びかい入り混じるせわしない噺にあって、だれのセリフか分からない瞬間が一度もなかった。
 顔の表情もまたバリエーションが増えた。
 子供をあやすうちに身につけたものだろうか?
 顔の筋肉と目の表情を巧みに操って、登場人物の刻々移り変わる感情を、生き生きと滑稽な風味をもって、客席に伝えるのに成功していた。
 たしかに腕を上げた。

 一方で、6年前と変わらないものがあった。
 噺が佳境に入って、演者が役に没入する時、あるいは役が演者に降りてくる時、演者から立ちのぼり周囲に放射されるオーラである。
 市弥の高座をはじめて観た時、ソルティがなにより心を奪われたのはこのオーラであった。
 決してイケメンだからではない(←嘘)
 その後しばらく市弥の高座を追ったが、このオーラは出る時と出ない時があった。
 人間だから、体調が悪い時もあれば、精神的に不安定な時もある。
 あるいは、気力体力ともに充実し、心が純粋な若いうちだけの特権かもしれなかった。
 「40歳の今、どうかな?」と思って臨んだ今回、やはりオーラは健在であった。

 柳亭小燕枝、また追ってみようかな~。

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● 怒りのショスタコ :横浜国立大学管弦楽団 第122回定期演奏会

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日時: 2024年5月25日(土)
会場: 大田区民ホール・アプリコ 大ホール(蒲田)
曲目:
  • A.ボロディン: 交響詩「中央アジアの草原にて」
  • A.ボロディン: 歌劇「イーゴリ公」よりダッタン人の踊り
  • D.ショスタコーヴィチ: 交響曲第5番「革命」
  • (アンコール) エルガー: エニグマ第9変奏 「ニムロッド」
指揮: 和田 一樹

 和田一樹のショスタコーヴィッチははじめて聴く。
 これまであまり振っていないのではないか?
 どう見ても“陽キャ”の和田と、“陰キャ”の極みとしか思えないショスタコーヴィチは相性が良くないように思われるが、どうなのだろう?
 そんな好奇心を胸に蒲田に馳せ参じた。

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太田区民ホール・アプリコ

 ボロディン『ダッタン人の踊り』については前に書いたことがあるが、やはり、アルタードステイツすなわち意識の変容を引き起こすスピリチュアルな音楽と思う。
 一曲目の『中央アジアの草原にて』も同様で、知らないうちに瞑想状態、いや催眠状態に引き込まれた。
 ボロディンについてはほとんど知らないが、ソロモン・ヴォルコフ編『ショスタコーヴィッチの証言』(1979)によれば、博愛主義者でフェミニストだったという。
 そのあたりのスピリチュアル性が音楽に反映されているのかもしれない。

 ボロディンはまた優れた化学者でもあり(むしろ作曲は副業)、ボロディン反応(別名ハンスディーカー反応)という化学用語を残している。
 意識の変容を起こすこの特徴も「ボロディン反応」と名付けたいところだ。

ボロディン反応
ボロディン反応

 ショスタコーヴィチの第5番『革命』をライブで聴くのは2回目、前回は東京大学音楽部管弦楽団(三石精一指揮)によるものだった。
 その時感じたのは、『革命』という標題はまったく合ってないなあということと、最終楽章で表現される「暗から明へ」の転換はどうにも嘘くさいなあということであった。
 むしろ、第1楽章から第3楽章で表現される「不安・緊張・恐怖・悲愴・慟哭」が限界に達し精神が崩壊したために生じた“狂気”――という印象を持った。
 その後、ショスタコーヴィチの伝記を読んだり、他の交響曲を聴いたり、彼が生きた時代とくにスターリン独裁時代のソ連の内実などを知って、自らが受けた印象があながち間違っていなかったと思った。
 最終楽章は、体裁上は「暗から明」の流れをとって「ソビエト共産党の最終的勝利」、「スターリンの偉大さ」を讃えているように見える。
 が、それは二重言語であり、裏に巧妙に隠されたメッセージは、「ファシズムの狂気」、「独裁者の凱歌」、「強制された歓喜」なのである。
 マーラーに匹敵する天才と官能性を兼ね備えていたショスタコーヴィチが、自らのもって生まれた個性を自由自在に表現することを禁じられた、その“抑圧の証言”こそが、彼の音楽の個性とも特徴ともなってしまったのは、悲劇である。
 が、一方それはまた、「巨大権力による抑圧と迫害」という、ロシアやガザ地区やミャンマーをはじめ現在も世界各地で起こっていて、インターネットで世界中の人々に配信・共有されている“悪夢の現実”を、内側(被害者の視点)から表現しているわけである。
 もしかしたら、しばらく前から音楽的な時代の主役は、「マーラーからショスタコーヴィチに」移っているのかもしれない。


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ガザ地区
 hosny salahによるPixabayからの画像

 和田一樹の第5番を聴いて“革命”的と思ったのは、最終楽章である。
 大太鼓の皮が破れるのではないかと思うほどの爆音の連打にソルティは、「狂気」でもなく、「悪の凱歌」でもなく、「強制された歓喜」でもなく、ショスタコーヴィチの「怒り」を聴きとった。
 それは指揮者の怒りと共鳴しているのやもしれない。
 そうなのだ。
 人民は抑圧する権力者に対して、いろいろな態度を取りうる。
 諦めたり、悲しんだり、絶望したり、流されるままになったり、従順になったり、抑圧に手を貸す側に回ったり、内に引きこもったり、他国に逃避したり・・・・。
 ショスタコーヴィチが置かれた境遇のように、たとえ表立って抗議するのが困難な場合でも、少なくとも怒りは持ち続けることができる。
 怒りは忘れてはならない。
 怒りこそ「革命」の源なのだから。

 横浜国立大学の学生たちの若いエネルギーを怒りのパワーに転換させたのが、今回の第5番だったように思った。
 





● ゾンビ・イヤー? : プロースト交響楽団 第39回定期演奏会

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日時: 2024年5月19日(日)13:30~
会場: ミューザ川崎シンフォニーホール音楽ホール
曲目:
 ● 山田耕筰: 交響詩「曼荼羅の華」
 ● グスタフ・マーラー: 交響曲第2番ハ短調「復活」
   ソプラノ: 盛田 麻央
   メゾソプラノ: 加納 悦子
指揮: 大井 剛史
合唱: 日本フィルハーモニー協会合唱団

 今年はなんだか『復活』の年みたいで、ソルティが調べた限りでも、
  • 3月10日 サントリーホール/フィルハーモニックアンサンブル管弦楽団(小林研一郎指揮)
  • 4月7日 東京芸術劇場コンサートホール/オーケストラハモン(冨平恭平指揮)
  • 5月19日 本公演
  • 7月14日 サントリーホール/フィルハーモニア・ブルレスケ(東貴樹指揮)
  • 8月2日 大阪フェスティバルホール/大阪フィルハーモニー交響楽団(尾高忠明指揮)
  • 8月6日 広島文化学園HBGホール/広島交響楽団(クリスティアン・アルミンク指揮)
  • 9月16日 サントリーホール/デア・フリューゲル・コーア(角田鋼亮指揮)
 とプロアマ入り乱れての『復活』ラッシュ。
 このマーラー第2番交響曲は、ソプラノとメゾソプラノの独唱者と混成合唱団を必要とするので、そうそう簡単には舞台にかけられない。
 それを思うと、すごいブームである。
 おそらく10月以降も年末まで増えていくだろう。
 いったい、なぜ『復活』?
 演奏会のプログラムが一年以上は前に決まるであろうことを考えると、やっぱり、「コロナからの復活」という思いが、クラシック業界に満ちているためなのではないか?

 首都圏でマーラーの第2番と第3番がかかるなら、可能なかぎり聴きに行きたいと思っているソルティ。
 今年は少なくとも5回は“復活”できそうな気がする。

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ミューザ川崎

 2回目の“復活”となる本公演、実に素晴らしかった。
 公演あるのを知ったのは一週間前。
 ネットではすでにA,B,C席すべて売り切れていた。
 2日前に再度確認したところ、一番安いC席に空きが出た。
 ミューザ川崎はサントリーホールや杉並公会堂同様、舞台を囲むように客席が配置されている(アリーナ型)。
 空きのあったのは、舞台の左右斜め後ろのブロックである。
 オケのほぼ背後から、指揮者を正面45度の角度で見下ろすことのできる席である。
 すぐさまチケット購入した。

 おそらく、もともとこの左右両ブロックは販売予定になかったのだろう。
 というのも、舞台の後ろ側すなわちオケの背後のブロックは合唱団が入るからである。
 合唱団のため余裕をもって空けておいた席を、チケット売り切れになった後も問い合わせが殺到したため、新たに客席として開放したんじゃないかと推測される。
 ソルティが取った席は、オケの最後列をなす打楽器チームをちょうど真横(舞台向かって右袖)から見下ろせる位置で、右側に3つほど空席をはさんだところには合唱団の女性が座った。
 つまり、合唱団に最も近い席だったのである。

 とても面白い席であった。
 指揮者はもちろん、オケ全体の動きがよく見えて――ただし、真下にいるコントラバスとハープ奏者だけは見えなかった――オケメンバーの奮闘ぶりが実感できた。
 オケにも合唱団にも近いので、音や声の迫力が凄かった。
 オケや合唱団や客席のさらに上、ホールの高みにひとり位置して、曲の最後の最後に登場するパイプオルガン奏者の手の動きもよく見えた。
 オケのメンバーの中には、譜面台に紙の楽譜でなくタブレットを置いている人がいた。
 楽譜をパソコンに読み込んで、タッチパネルでページをめくっていた。
 たぶん、エクセルで文書にコメントをつけるように、指揮者からの指示など必要な書き込みなんかも画面上で入力できるのだろう。
 こういうデジタルなやり方が今後広まっていくのかもしれない。

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右隅に合唱団の女性の姿が見える

 山田耕筰の交響詩『曼荼羅の華』を聴くのははじめて。
 とても美しく、儚げな曲であった。
 考えてみると、ソルティは歌曲『この道』、『からたちの花』や童謡『赤とんぼ』、『ペチカ』や映画音楽(原節子主演『新しき土』)の山田耕筰しか知らない。
 日本人のこころに染み入る歌の作り手というイメージが強い。
 が、本曲はマーラーの影響をかなり感じた。
 山田は1910年から3年間ドイツに留学している。
 1911年5月に亡くなったマーラーの葬儀に立ち会ったかもしれない。
 当然、浴びるようにマーラーの曲を聴いたことだろう。
 山田のほかの交響曲を聴いてみたい。

 大井剛史の指揮は2度目。
 前回は府中市民交響楽団共演のショスタコーヴィッチ『レニングラード』だった。
 基本、楽譜に忠実な、これ見よがしな演出をしない正統派指揮者だなあと思ったが、今回の『復活』でその印象は強まった。
 全体に落ち着いたテンポで丁寧に音符をさらっていた。
 そしてそれは、この大曲がもっとも生きる、すなわち、作曲者自身の思いを汲んで内在する美と崇高さをもっとも明瞭にあらしめる行き方と思った。
 第2楽章の揺蕩う美しさ、第3楽章の皮肉めいた諧謔性が、くっきりと浮き彫りにされていた。
 マーラーの交響曲と言うと金管のイメージが強いのだけれど、今回は非常に木管が冴えていた。
 木管が主役と思ったくらい、よく鳴っていた。
 金管は咆哮し、木管は語る。
 マーラーのナイーブな内面が吐露されているのは実は木管なのだな、と思った。
 ヴォリュームを微妙に引き絞って最後まで持っていき、第5楽章のクライマックスでここぞとばかりホールを震わせる fff を放つ。その効果は赫奕たるものがあった。

 合唱の素晴らしさを言い置いてはいけない。
 一糸乱れぬハーモニーの見事さ。
 透明度が高すぎるためその深さに気づかぬ湖のように、清澄な美しい響きのうちに深い慈愛が感じられた。
 さすが半世紀以上の歴史をもつ合唱団である。
 長々とインスツルメント(器楽)を聴いてきたあとで、この合唱が入って来ると、ソルティはいつも感動してしまう。
 それは人の声が持つ“ぬくもり”を再発見するからだ。
 キリスト教徒でない自分が『復活』に感動する最大の理由は、この曲の宗教的価値に共鳴するからではない。
 器楽に対する声楽の勝利を、人工に対する天然の優越を、鮮やかに知らしめてくれるからなのだ。
 と、今回気がついた。

 今年中にあと3回、『復活』するぞ!

ゾンビ男





● It rains cats & dogs : 豊島区管弦楽団 第九演奏会

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日時 2024年4月29日(月)14時~
会場 東京芸術劇場 コンサートホール
曲目:
  • ブラームス: 大学祝典序曲
  • ワーグナー: 歌劇『トリスタンとイゾルデ』より『前奏曲と愛の死』
  • ベートーヴェン: 交響曲第9番 イ短調 作品125『合唱付き』
   ソプラノ: 和田美菜子
   アルト : 成田伊美
   テノール: 渡辺正親
   バリトン: 小林大祐
指揮: 和田 一樹

 和田一樹&豊島区管弦楽団が第9をやると聞けば、万難を排して、いや万障繰り合わせて参加したい。
 知ったのは一週間前。慌ててネット予約したら、すでに3階席しか残っていなかった。
 芸劇の3階席にはいささか不信感があるのだが、同じ3階席でも前のほうの席でなく、壁際ならいいかもしれない。
 3階席の舞台向かって右手の壁際を選んだ。
 結果的には、音の反響よろしく、舞台も良く見える上席だった。
 指揮者が舞台袖から出て、オケの間をすり抜けて指揮台に達する、いわば“指揮の花道”が丸々望める位置だったので、音合わせが終わっておもむろに登場する和田一樹の表情や足取りをはじめて見ることができた。
 これが面白かった。
 華々しく軽快なブラームスの祝典序曲、ドラマチックで官能的なワーグナーのオペラ曲、そしてメインの第9。
 これから演奏する曲に応じて、和田の表情や足取りや醸し出すオーラが異なっていた。

 あたりまえと言えばあたりまえの話。
 能役者が鏡の間でこれから演じる役に没入するように、指揮者も舞台袖でこれから立ち向かう曲あるいは作曲家に波動を合わせる、いわばチューニングするのだろう。
 本番で指揮者がまとい発散するオーラに感化されて、オケのメンバーたちもまた、楽曲ごとに異なる世界へ旅立つのが容易になるというものだ。
 指揮者とはあの世の作曲家の言葉を伝える審神者(シャーマン)みたいなものかもしれない。

 毎度のことながら、和田の指揮には驚かされる。
 なんといっても、音楽に生命力を漲らせる力が抜群だ。
 曲の経路を知り尽くし、どのツボを押せばどのような効果が生まれるか心得ている中国3千年の鍼灸師のようなテクニックに加え、やっぱり、本人のキャラクターが物を言っているように思う。
 人生は楽しむものであり、音楽は楽しむもの。
 歓喜の人生観の持ち主なのだと思う。 
 陽キャは強い。

 豊島区管弦楽団のうまさも相変わらず。
 玄人はだしの安定したテクニックはアマオケ界のレジェンドと言いたい。
 洗練の極みのプロオケのコンサートで、「CDを聴いているようでつまらない」と感じることがままあるけれど、豊島区管弦楽団は巧くなっても活力を失っていない。
 だから面白い。 
 ソロパートでは、それぞれの楽器が個性豊かに響き、「クラシック=古い、お上品」というイメージを打ち破っていた。

 どの曲も、どの楽章も良かったけれど、今回はとりわけ第9の第2楽章が衝撃的だった。
 テレビゲームのBGMを思わせるような軽快でリズミカルなこの楽章を、客席でリズムを取りながら気持ちよく聞き流していることが多いソルティ。
 今回の第2楽章ときたら、リズムをとるような余裕を与えてくれなかった。
 とにかく激しかった。
 それはまるで夏の嵐。
 一陣の突風が吹いたかと思ったら、空一面がかき曇り、稲妻ひらめき、夕立が大地を容赦なく打つ。
 次々と天から放たれ、中空を引き裂く銀の矢。
 数十キロ四方にとどろき渡る雷鳴。

 It rains cats and dogs. 

 あたかも風神と雷神が睨み合って腕比べしているかのような迫力であった。
(パーカッション、素晴らしかった)

 夏の第九もなかなか面白い。


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東京芸術劇場アトリウム





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