ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、寺社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●ライブ(音楽・芝居・落語など)

● 自虐派の男たち : 新交響楽団第264回演奏会


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日時 2024年1月8日(月・祝)14:00~
会場 東京芸術劇場コンサートホール(豊島区)
曲目
  • フランツ・シュレーカー: 『あるドラマへの前奏曲』
  • グスタフ・マーラー: 交響曲第10番(クック版)全曲
指揮: 寺岡 清高

 新春一発目のコンサートは、モーツァルトかドヴォルザークあたりの比較的軽めの景気のいい曲を選びたい、と思うのはごく当然の人情だろう。
 とくに今年は年明けから大事件続きで、気分が滅入りがちなのだから。
 予定では、1月7日の和田一樹指揮による豊島区管弦楽団ニューイヤーコンサートに行くつもりだった。
 J.シュトラウスのウィンナーワルツ、『ハリーポッターと賢者の石』組曲、ドヴォルザーク交響曲第8番というラインナップは、まさに新しい年を華やかに希望をもってスタートするにふさわしい。
 だが、7日午前中の高尾山初詣のあとに寄った麓の温泉で、湯上りについ生ビールを頼んだのがいけなかった。
 最近はほんの少しのアルコールでも眠くなってしまうソルティ。
 もはや、午後からのコンサートに行く気力は残ってなかった。

 かくして、事前にチケット予約していた本コンサートをもって、すなわちマーラーの10番という、あらゆる交響曲の中でも屈指の悲嘆さと落ち込み誘発力をもつ曲をもって、2024年を始めることになってしまった。

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東京芸術劇場

 案の定、寺岡清高の指揮棒が下りた全曲終了後、広い会場を揺るがす喝采をよそに、ソルティは座席に深く沈んだまま、固まった。
 前回、齊藤栄一指揮×オーケストラ・イストリアの演奏で10番を聴いたときは、終演後約3分間拍手に加われなかった。
 今回はまるまる5分間、体が動かなかった。
 曲の表現する“世界”に捕まってしまい、そこから抜けられなかった。
 暗、鬱、狂気、破壊、悲哀、郷愁、死の受容、諦念・・・・といった“世界”に。

 この10番には、マーラーの1番から9番までの交響曲と『大地の歌』をはじめとする歌曲のすべてが、断片的に織り込まれているような気がする。
 あっ、ここは1番の第2楽章、ここは4番の第2楽章、ここは5番のアダージョ、ここは『大地の歌』の一節・・・・といったふうに、マーラーの作ったすべての動機が、マーラーの様々な表情が、つまりはマーラーという芸術家を構成する要素が、ゲームセンターのモグラたたきのように、入れ替わり立ち替わり、顔を出しているように思う。
 ユダヤ的郷愁に包まれた幼年時代、恋も仕事もイケイケの青春時代、アルマとの甘美な性愛、自然の癒し、向かうところ敵なしの成功街道、子供の死、精神の危機、神への懐疑・・・・いろんな場景の描かれたスケッチ帳をめくるが如く。
 その意味で、9番同様、「ザ・マーラー総集編」といった趣きなのであるが、10番において重要なのは、次々と繰り出されるどの要素も、みな当初の形から“変異”しているという点である。
 どの要素も、どのスケッチも、黒く縁取りされて、死の影がまとい、悪魔の哄笑が響き、破壊の槌音に苛まれている。
 それはあたかも、自ら構築した世界をメタ化しているかのよう。
 自らの人生をカッコに括って、外から見て、嘲笑し慨嘆し破砕しているかのよう。
 マーラーよ、そこまで自虐的にならなくても・・・・。

 ひょっとしたら、この10番を作っている最中に、マーラーが精神分析の創始者であるフロイトと知り合って、精神分析という方法を知ったことが、曲づくりに影響を及ぼしたのではなかろうか?
 表面に現れている現象の奥に、当人が自覚できない無意識の流れがあるという精神分析の基本コンセプトが、マーラーをして自らの人生ドラマを「メタ化」せしめたのではないか。
 そんな妄想を起こさせるような、容赦ない自己分析、自己嗜虐である。
 あるいは、この全曲版が(第1楽章をのぞけば)マーラー自身の手によってではなく、音楽学者クックという他人の手によって編まれたことが、そのような印象を与えるのかもしれない。
 マーラーが最終的に想定していた形とは、異なった仕上がりになっている可能性もあるかも。
 いずれにせよ、聴く者の精神状態が安定している時でないと、聴くのはきつい曲である。

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HeungSoonによるPixabayからの画像

 フランツ・シュレーカー(1878‐1934)は、20世紀初頭にウィーンやベルリンで活躍したオペラ作曲家である。
 入口で配布されたプログラムによると、今回演奏された『あるドラマへの前奏曲』という曲も、自作台本のオペラ『烙印を押された者たち』の前奏曲として準備されたらしい。
 ワーグナー、マーラー、シェーンベルクの影響を思わせる官能的でキメの細かい見事なオーケストレーションと、オペラ作曲家としての手腕を感じさせるメロディアスな部分が光っている。
 こんな才能ある作曲家が埋もれたのは、なにゆえ?
 それはシュレーカーがユダヤ人だったから。
 すなわち、ナチスによって「退廃音楽」とレッテルを貼られ、否定され、戦後の復権を待たずに世を去ってしまったから。
 運に恵まれない音楽家だったのだ。
(いや、ヒトラーが政権を握る前に亡くなったのは恵まれていたのか)

 1918年に初演されたオペラ『烙印を押された者たち』は、ストーリーのあらましだけ読むと、かなりエロくてエグイ。
 江戸川乱歩の『パノラマ島奇談』とアンドルー・ロイド・ウェバー作曲の『オペラ座の怪人』をミックスしたような感じ。
 つまり、孤独で醜い男の恋と破滅の物語である。
 そもそも、シュレーカーに「醜い男の悲劇」を書いてほしいと依頼したのは、同じ作曲家仲間のツェムリンスキーだった。
 ツェムリンスキーはその不細工ゆえに、付きあっていた女性に振られてしまったが、それが相当のトラウマになったことは、彼の手になる交響詩『人魚姫』からも推測される。
 その女性こそ、マーラーの妻となったアルマ・シントラーであった。
 ツェムリンスキーもまた、マーラーに負けず劣らず自虐の人だ。
 
 いや、マーラー10番から一年を始めたソルティも、十分自虐派の一人だ。  

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喝采を浴びる新交響楽団と寺岡清高








 


 

● オペラライブDVD:ロッシーニ作曲『チェネレントラ』


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収録日時 2008年1月
会場 リセウ大劇場(バルセロナ)
キャスト
  • アンジェリーナ: ジョイス・ディドナード(メゾソプラノ)
  • ドン・ラミーロ: ファン・ディエゴ・フローレス(テノール)
  • ダンディーニ: デイヴィッド・メナンデス(バリトン)
  • ドン・マニーフィコ: ブルーノ・デ・シモーネ(バス)
指揮 パトリック・サマーズ
オケ リセウ大劇場交響楽団
合唱 リセウ大劇場合唱団
演出 ジョアン・フォント

 「チェネレントラ」とイタリア語で言うと、なんのことやら見当つかないと思うが、なんのことはない、「シンデレラ」である。
 17世紀フランスの詩人シャルル・ペロー版の童話が知られているが、むしろいまや、ディズニー作と思っている人が多いのではなかろうか。
 ソルティが子供の頃読んだ童話集の中では「灰かぶり姫」と題されていたと記憶する。

 ロッシーニの作曲した39のオペラの中でも、『セヴィリアの理髪師』と並んで人気が高く、上演回数の多い作品である。
 誰もが知っている楽しくわかりやすいストーリーに、ロッシーニならではの諧謔とスピード感に満ちた聴く者を興奮させる音楽が満載なので、オペラ初心者が観るには向いていると言えよう。
 ただ、166分という上演時間をやや冗長に思うかもしれない。(もう少し切り込んで140分くらいに収めれば、もっとテンポが良くなるのになあ)

 『チェネレントラ』のライヴ映像記録の定番にして最高峰は、なんと言っても、チェチリア・バルトリが主役をつとめた1995年11月のヒューストン・グランドオペラである。
 驚異的なテクニックで今に続くロッシーニ・ルネッサンスの立役者の一人となったチェチリアの最盛期の声と、シンデレラの継父ドン・マニーフィコ役のバス歌手エンツォ・ダーラの滑稽にして存在感ある演技――往年のTBS人気ドラマ『寺内貫太郎一家』の小林亜星を思わせる――は、何回見ても引き込まれる。
 頭の上に植物の鉢を乗せた意地悪な姉妹(クロリンダとティスベ)の対照的な体型の取り合わせも愉快だった。
 これを凌ぐ『チェンレントラ』の舞台は現れないだろうと思っていたのだが、うれしい誤算、どんな分野にも前人を凌駕する新しい才能は生まれてくるものである。

 ただ、本作の凄さの一番の要因は、タイトルロール(主役)ではない。
 ジョイス・ディドナードはもちろん難のつけようない見事な歌唱で、その美貌と美声と優雅なたたずまいはシンデレラそのものである。コロラトゥーラの切れ味はチェチリアのほうが上回っているかもしれない。
 ほかの主要な歌手たちもヒューストン版の同役の歌手たちと互角に渡り合っている。ドン・マニーフィコはエンツォ・ダーラの方がマンガチックな滑稽味あって面白いと思うが、これは好みの問題だろう。
 本ライブの芸術的価値および記録的価値を高めているのは、王子ドン・ラミーロ役のファン・ディエゴ・フローレスに尽きる。

 このときフローレスは35歳。まさにオペラ歌手として最盛期。
 張りのある美声、磨き上げたベルカントのテクニック、貴公子そのものの凛々しい立ち居振る舞い、甘いマスク、周囲に漂う大谷翔平ばりのフェロモン・・・これほど御伽噺の王子様にピッタリの歌手はそうそういまい。
 とりわけフローレスの十八番たる超絶高音の力強さと輝きたるや、「キング・オブ・ハイC」パヴァロッティも衝撃と嫉妬で痩せるんじゃないかと思うほど。
 シンデレラの意地悪な姉妹たちは、女性の本音を探るために従者のフリをした王子ドン・ラミーロをけんもほろろに鼻であしらい、王子のフリをした従者ダンディーニに色目を使い積極的にモーションをかける――というのが本来の筋書きであるが、このフローレスを前にしたら、たいていの女性は、王妃の地位よりもイケメン従者の妻を選ぶんじゃなかろうか。(おっとセクハラチックな昭和発言)
 フローレスに与えられた「現代最高のテノール」という称号の偽りでないことを知るには、本作を観るに(聴くに)如くはない。
 
 本作はまた、演出が面白い。
 明るく人工的な原色を多用したカラフルでポップな衣装や小道具、トランプの騎士のような家臣たちの制服とたたずまい、舞台狭しと走り回るネズミたち(男性役者が扮している)、鏡や影絵の使用。
 「不思議の国のアリス」の世界を思わせるファンタスティックな舞台となっている。
 シンデレラの住む古い屋敷はともかく、王子様の住む宮殿内をネズミがちょこまか走り回るのは不自然だし、ちょっとうるさい気がするのだが、最後まで見ると、「なるほど、そういうことか」と腑に落ちる。
 御伽噺はあくまで御伽噺なのであった。
 
 ウィキ「シンデレラ」によると、1900年(明治34年)に坪内逍遥が高等小学校の教科書掲載用に翻訳した際、題名は「おしん物語」だったとな。
 
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2018年11月香川県観音寺にて撮影




● AC/秋の一日: 中央フィルハーモニア管弦楽団 第86回定期演奏会


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日時: 2023年10月29日(日)14:00~
会場: 杉並公会堂 大ホール
曲目:  
  • チャイコフスキー: 歌劇「エフゲニー・オネーギン」作品24よりポロネーズ
  • チャイコフスキー: ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品35
  • シベリウス: 交響曲第2番ニ長調作品43
ヴァイオリン: 岸本 萌乃加
指揮: 米田 覚士

 ほんの数日前まで猛暑日&真夏日が続いて辟易していたのに、ここ数日、ビルの谷間には雪をかぶった富士山が冴え冴えと、雲の陰からは澄みきった月の光が煌々と、居座り続けた夏の背後で秋は静かに熟していたようである。
 10月最後の日曜日、午前中はめずらしく部屋の片づけなどして、それから電車に乗って都内の図書館に。
 ミステリーや瞑想の本など5冊借りた。
 別に買った本と合わせて計7冊が待機となる。
 返却期限付きの本が机辺に積まれているのは結構なプレッシャーなのだが、活字依存のソルティ、次に読む本が用意されてないと、毛布を奪われたライナスのように禁断症状を起こす。

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 デイバッグを書籍で満たしたところで、お次は腹の番。
 我を招くは地味な外観の街角のラーメン店。
 豚骨ラーメンを注文する。
 当たり! 
 あとを引かない程よいコッテリ感が、還暦近い胃袋にやさしかった。

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 中央線で荻窪駅へ。
 杉並公会堂大ホールは6~7割の入り。
 本日のメインは、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲とシベリウス交響曲第2番という贅沢この上ないカップリング。
 とろけるように美しく、泣きたくなるほどロマンティックなチャイコ節。
 ソリスト岸本萌乃加(ほのか)の卓抜なテクニックに、「ブラボー」がかかった。
 シベリウス2番は、噛めば噛むほど旨味が増してくるスルメのような名曲。
 聞くほどに「好き!」が増してくる。
 思わず、帰り道のブックオフで、カラヤン指揮の中古CDを買ってしまった(500円)。

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1980年ベルリンフィル管弦楽団演奏
 
 駅近くの喫茶店に入って、ケーキセットで一服。
 濃厚カボチャのケーキはまさにハロウィーンの風物詩。
 お菓子でありながら野菜であることも罪悪感的にポイント高い。
 さっそく借りたばかりの本をめくる。 

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 切りのいいところまで読み進めて、店を出たらすでに真っ暗。
 早く家に帰って『どうする家康』を観なくちゃ。
 もうすぐ天下分け目の合戦だ。
 
 アフター・コロナ。
 こんな平凡な秋の一日が戻ってきたことに感謝。





 
 
 
 
  

● ショスタコ祭り: 新交響楽団 第263回演奏会

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日時: 2023年10月9日(月)14:00~
会場: 東京芸術劇場コンサートホール
曲目: 
  • ショスタコーヴィチ: バレエ組曲「黄金時代」
  • ショスタコーヴィチ: 交響曲第9番
  • ショスタコーヴィチ: 交響曲第12番
指揮: 坂入健司郎

 ショスタコーヴィチ(1906-1975)の初期、中期、後期の作品から1曲ずつ選んだオール・ショスタコ・プログラム。
 「わ~い、ショスタコ祭りだ!」と喜び勇んで。 
 いずれもはじめて聴くものばかり。
 社会主義国の国民的作曲家であったショスタコーヴィチの作品は、いつ何年に作られたものなのか知ることが結構重要。
 そのときのソ連の政治状況や社会情勢が作品に強く反映しているからだ。

① バレエ音楽『黄金時代』(1930年)
 ソ連のサッカーチームが資本主義国の博覧会「黄金時代」に招待され、地元の人々と交流する筋立て。
 1930年と言えば、ソ連が誕生して7年。
 建国の英雄レーニンは亡くなったが、まだ人々が夢と希望に満ち溢れていた時代と言える。
 明るく狂騒的なタッチの曲で、20代のショスタコーヴィチの若々しい活力と無限の可能性が感じられる。

② 交響曲第9番(1945年)
 1934年よりスターリンの大粛清が始まった。独裁体制下、芸術には「社会主義的リアリズム」が求められ、いっさいの自由な表現が許されなくなった。

社会主義的リアリズム
社会主義を称賛し、革命国家が勝利に向かって進んでいる現状を平易に描き、人民を思想的に固め革命意識を持たせるべく教育する目的を持った芸術。
(ウィキペディア『社会主義的リアリズム』より抜粋)

 この方針に従わない芸術家は、党による厳しい処分を受けた。
 その様子はソロモン・ヴォルコフ編『ショスタコーヴィチの証言』に詳しい。
 ショスタコーヴィチの場合、交響曲第4番あたりから当局の監視や干渉に悩まされたようである。
 党(=スターリン)に気に入られ大成功に終わった第5番からあとの作品は、党の意を汲んだ「社会主義的リアリズム」の形態に準じて一見ソビエト政府を持ちあげながら、密かに独裁者の横暴や全体主義管理社会の狂気をたくし込んで批判している――というのがソルティの見解である。
 つまり、表現の両義性、ダブル・ミーニングが、芸術家ショスタコーヴィチの常套手段になった。
 第5番第7番「レニングラード」はそれがもっともうまくいった例ではないかと思う。
 この9番は、どちらかと言えばうまくいかなかった例で、当局から批判されることになった。
 
 個人的に、この9番は『山岳遭難交響曲』といったイメージが湧いた。
 第1楽章は、山登りする一行の喜びや活気が見える。かぐわしい森の空気、清冽な小川の流れ、小鳥や小動物との楽しい出会い、おしゃべりしながら浮かれ歩く一行。おやおや、歩きながら酒を飲んでいる者もいる。
 第2楽章は「遭難」。標識ひとつ見落として、一行は道に迷う。はじめのうちは楽観的でいたものが、歩けど歩けど本道には戻れず、そのうち怪我する者も出てきた。あたりは突如として暗くなり、落雷から豪雨に。もはや完全に遭難してしまった。日が暮れると雨は雪に変わった。雪にまみれ凍えるばかりの一行。
 第3楽章は「捜索」。家族から知らせを受けた警察が捜索隊の出動を要請する。大勢のレンジャーたちが山に入り、雪をかき分け、岩場を覗き込み、遭難した者の名を呼びながら、必死の捜索を続ける。空にはヘリコプターが旋回する。
 だが、捜索の甲斐むなしく・・・
 捜索隊が森の奥に発見したのは、凍え死んだ一行の姿。第4楽章のテーマは「葬送」。亡くなった者の死を悼み、冥福を祈る。山登りを侮ってはならない。決して。
 が、のど元過ぎればなんとやら。
 第5楽章で曲調は始まりに戻る。またもや、山登りに浮かれ騒ぐ一行の出現。人間はなかなか学ばない。

③ 交響曲第12番「1917年」(1961年)
 1953年にスターリンが死んだ。「雪解け」が始まった。
 とはいえ、体制批判は許されない。 
 表題の「1917年」とはもちろんレーニンによる10月革命のこと。
 1960年に共産党に入党したショスタコーヴィチは、党の委嘱を受け、共産党大会で発表するためにこれを作曲した。
 ショスタコーヴィチが、スターリンを憎んでいたのはまず間違いないと思うが、建国の英雄レーニンについてはどう思っていたのか不明である。
 レーニンを否定するということは共産主義を否定するようなもので、体制批判にならざるをない。
 ショスタコーヴィチはソ連という国を、自分も党員の一人となった共産主義をどう思っていたのだろう?
 本作は一応、「暗」から「明」という形をとり、苦闘を乗り超えて勝ち取った栄光をたたえるような、輝かしい終わり方をしている。
 レーニン万歳! 共産党万歳!
 そこがこの作品が西側音楽界で長いこと、「体制に迎合して書かれた作品」として低く評価されてきた理由であろう。

 しかしながら、ソルティの耳には、やはりダブル・ミーニングが聞こえる。
 第4楽章では、ベートーヴェン第9の「歓喜の歌」を思わせる主題が幾度も現れて、レーニン讃歌、共産党讃歌を歌っているように見えながら、その歓喜にはどこか恐怖の影がつきまとっている。
 強いられた歓喜と言うか、偽りの歓喜と言うか、ベートーヴェンの達した境地とはまったく異なる、ひどく地上的な、威圧的な歓喜。
 これは独裁者の歓喜、支配者の凱歌ではなかろうか?

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nathnlmbによるPixabayからの画像

 交響曲第9番というのは、作曲家にとっても、音楽ファンにとっても、特別なものである。
 人類の至宝と言えるベートーヴェンの「第9」が聳え立ち、そこにあたかも逆ベクトルで肉薄したかのようなマーラーの9番という未曽有の悲劇がある。
 ソ連政府も国民も、ショスタコーヴィチの9番に期待するところ大だったという。
 「ベートーヴェンもマーラーも超える偉大な第9を、輝かしきソビエト共産党のために作ってくれ」という期待から来るプレッシャーはあったに違いない。
 ところが、出来上がったものは全楽章合わせて30分足らずの小曲で、「山岳遭難」をイメージされてしまうくらいの痩せたテーマ性。(山岳遭難が重大なテーマであるのは、山登りを趣味とするソルティ、重々承知している)

 つまるところ、ショスタコ―ヴィチはこう言いたかったのであるまいか。
 
 この国で「歓喜の唄」なんて歌えるか!
 
 「ショスタコ祭り」と無邪気に喜べるのは、部外者なればこそ。
 日本が今のところ民主主義国家であればこそ。
 
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新交響楽団、今回も素晴らしい演奏でした!







 

● 蒲田で昭和と出会う :オーケストラ・ラルゴ第1回定期演奏会

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蒲田駅東口

日時: 2023年10月7日(土)13:30~
会場: 大田区民ホール・アプリコ 大ホール
曲目: 
  • C.ニールセン: 序曲「ヘリオス」 Op.17
  • J.シベリウス: 交響曲第7番 ハ長調 Op.105
  • J.シベリウス: 交響曲第2番 ニ長調 Op.43
指揮: 山上 紘生

 Orchestra Largo(オーケストラ・ラルゴ)は、2022年に設立されたアマチュアオーケストラ。
 Largoとは音楽用語で「幅広く、ゆったりと」という意である。
 栄えある旗揚げ公演に参加させてもらったのは、シベリウス交響曲2連打の魅力とともに、山上紘生の真価を確かめたかったからである。
 この人の指揮を体験するのは3回目。
 前2回、ショスタコーヴィチの1番7番を聴いて、その音楽性というかスピリチュアルな力に驚嘆した。
 ほかの作曲家ではどうなのだろう? 

 ソルティはクラシック音楽を聴くと、チャクラが刺激され、体内の“気”が体を突き抜けたり、ふわっと底から湧きあがったり、体が熱くなったり、脳天が明るくなったりする、一種の特異体質になって久しい。
 集中が増すほどに、感動が深まるほどに、チャクラの活動は盛んになる。
 山上の指揮者としての腕前が、プロの音楽家や評論家の耳でどう判断されるのかは、素人の自分の知るところではない。
 が、音波によるチャクラ刺激力と体内浸透力、“気”の活性化力、そして聴いたあとの身心調整力に関して言えば、山上は凄いのである。
 丸一日瞑想するのと同じくらいの効果がある。
 知る限りで同じレベルの指揮者を上げるなら、和田一樹金山隆夫であろうか。
 この3人が振るコンサートには、なるべく出かけて、“ととのい”体験したいと思う。
 
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大田区民ホール・アプリコ

 配布プログラムによれば、一曲目の『ヘリオス』はギリシア神話の太陽神ヘリオスの一日を描写した曲とのこと。 
 つまり、日の出から日の入りまでの太陽の軌跡であり、大気の変化であり、地上の生命の応答である。
 曲のテーマからして、神々しくパワフル、生命力を礼讃するもので、新しく誕生したオケのデビューにうってつけの曲。
 良い曲を選んだものよ。

 二曲目はシベリウス交響曲第7番。
 演奏時間20分強の短い曲である。
 ここで、ソルティは一種のアルタードステイツ(変性意識状態)に入った。
 はっきりと覚醒しているのでもない、眠っているのでもない、おぼろな状態。
 子供の頃、プールで思いっきり泳いだ帰り、父の運転する車の後部座席で、灼けた肌に残るかすかな塩素の匂いを感じながら、無言で車の揺れに身をまかせていた時の感覚。(←わかりにくい比喩だ)
 シベリウスの曲には、聴く者を意識の内奥に向かわせるようなところがある。

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ホール内側から見た景色
ちょっと牢屋の中にいるよう?

 休憩後、メインのシベリウス交響曲第2番。
 ここからチャクラがしきりと動き出した。
 舞台から放たれる音波と、体内の“気”の応答は、自らの意志とはまったく関係ないところで起きている。“気”の変化によって生じる気分の高揚も意識的なものではない。
 人間の心というのは、周囲の環境によって知らず影響されるものなのだ。
 たとえば気温や気圧のちょっとした変化で気分が変わり、その日の 行動が変わるように、周囲の“気”の影響を知らずに受けて、選択し決定し行動してしまう。それを自分の意志と勘違いする。
 悪名高き日本人の同調圧力も、周囲の“気”に簡単に流されてしまうところに原因がありそうだ。
 自らの“気”の状態を知り、上手にコントロールするスキルを身につけることは大切だとつくづく思う。
 
 どの楽章も素晴らしかったが、やはり第4楽章が圧巻であった。
 第1楽章から第3楽章まで刺激されるがまま勝手に動いていたチャクラと突発的に起こっていた“気”の流れが、一つの大きな熱い光の玉となって体を包みこむような感覚があった。
 感動は最高潮に達した。
 旗揚げ公演に山上紘生を選んだオケの慧眼に拍手。

 感動冷めやらず、蒲田駅周辺を歩いてみた。

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蒲田駅西口
東口と表情が異なり、昔ながらのアーケード商店街が伸びる下町

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今なお健在で賑わっているのに感動
ザ・昭和な店が並んでいてタイムスリップした気分になる

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階段を這い上がってくる昭和の匂いに思わず足が止まった
インベーダーゲームのある喫茶店の匂いだ

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昭和世代にとって蒲田は居心地よい街なのでは?
(ただし、ワンルーム7万円以上はする)

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東急多摩川線高架下の一杯飲み屋街
酔っぱらった若者たちで賑わっていた

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ちょうど上野のJR高架下あたりの感じ
安くて旨そうな料理店が軒を並べている

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東急多摩川線
これまたクラシカルな車両がクール














 
 
 

● 映画:ヴェルディ作曲『イル・トロヴァトーレ』(英国ロイヤル・オペラ・ハウス)

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トロヴァトーレとは「吟遊詩人」のことである
OpenClipart-VectorsによるPixabayからの画像


上演日 2023年6月23日
劇 場 英国ロイヤル・オペラ・ハウス
【指揮】 アントニオ・パッパーノ
【演出】 アデル・トーマス
【合唱】 ロイヤル・オペラ合唱団
【オケ】 ロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団
【キャスト】
  • レオノーラ: レイチェル・ウィリス=ソレンセン(ソプラノ)
  • マンリーコ: リッカルド・マッシ(テノール)
  • ルーナ伯爵: リュドヴィク・テジエ(バリトン)
  • アズチェーナ: ジェイミー・バートン(メゾソプラノ)
  • フェルランド: ロベルト・タリアヴィーニ(バス)
【上映時間】3時間13分
【配給】東宝東和

 東宝でこういったプロジェクトをやっていたとは知らなかった。
 2018年頃からスタートしたらしい。
 ライバル松竹の向こうを張って、あちらがニューヨーク・メトロポリタン・オペラ(MET)のライブ映像なら、こちらは英国ロイヤル・オペラ・ハウスと来た。
 伝統も格式も作品のクオリティもMETに遜色ない。
 おかげで、日本のオペラファンは、そのシーズンにかかった米英両国のフレッシュな舞台と現代最高の歌手たちの見事な歌唱を、日本にいながらにして楽しむことができる。
 なんていい時代だ!
 
 調布駅そばのイオンシネマ・シアタス調布まで出かけた。
 家から電車を乗り継いで1時間半近くかかるが、『トロヴァトーレ』のためならお安い御用。
 やっぱりソルティは数あるオペラの中でこの作品が一番好き。
 とにかく歌が素晴らしい。
 アリア(独唱)も重唱も合唱も魅力的なピースばかりで、聴きどころ満載なのだ。
 中世ヨーロッパが舞台の「復讐」をテーマとする暗く陰惨な物語ではあるが、歌の美しさは途方もない。
 いや、背景が暗いからこそ登場人物の愛や情熱や怒りの炎が一際明るく輝きわたって、日常を超えたドラマチックな世界へと聴く者を導いてくれる。
 複雑で難解で荒唐無稽なプロットと揶揄されることも多い作品であるが、荒唐無稽はともかく、別に複雑でも難解でもないと思う。
 この程度のプロットが理解できないで、アクロバティックな仕掛けに満ちた現代のミステリーサスペンス映画が観られるものか。
 だいたい、リブレット(台本)を読めば一発で理解できるではないか。
 いい加減、『トロヴァトーレ』を「複雑、難解」というのは止したらどうか。

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調布駅

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イオンシネマ・シアタス調布

 本作の、というか本演出の最大のポイントは、バスのフェルランドの扱いである。
 フェルランドはルーナ伯爵の家臣であり、伯爵家の兵士たちの頼りがいある隊長。
 一番の見せ場は、第一幕第一場すなわち幕開きのアリアである。
 ここでフェルランドは、夜番をする部下たち相手に、ルーナ家にまつわる過去の陰惨な事件を大層ドラマチックに物語る。
 観客に物語の背景を説明するとともに、地獄の底から轟くようなバスの低音によって、オカルティックな雰囲気を高める役を果たす。
 この導入部は非常に重要で、ここでフェルランドが観客の心と耳をガッチリ掴むことで、観客は現代から中世ヨーロッパへとタイムスリップすることができる。
 ここさえ無難に歌い演じ終えたら、ほっと一息。あとは脇に回って、主君であるルーナ伯爵の出番の際に一緒に登場し、合いの手を入れたり命令に従ったりしながら、合唱においては低音部分を支える。
 重要な役ではあるが、4人の花形(マンリーコ、レオノーラ、ルーナ伯爵、アズチェーナ)にくらべれば目立つものではなく、脇役のトップといった位置づけである。
 
 ところが、本演出におけるフェルランドは、最初から最後までほぼ舞台に出ずっぱりなのだ。
 自身の歌(セリフ)のない場面でも、ルーナ伯爵や家来に伴われていない場面でも、登場する。奇怪な恰好をした3匹の獣を引き連れて。
 それは、フェルランドを狂言回しとして設定しているからである。
 ルーナ伯爵の家臣であると同時に、物語の狂言回しとして、この暗く不吉なドラマを地獄の悲劇へと突き進めていく船頭のような役目を果たす。
 いいや、はっきり言おう。
 このフェルランドは悪魔であり死神なのである。
 だから、血と裏切りと嫉妬が渦巻く場面でひとり快楽の笑みを浮かべ、レオノーラのもつ十字架を恐れ、ラストでは斬首されたマンリーコの首を高々と掲げて凱歌の雄叫びを上げる。
 演出を担当したアデル・トーマスはこの物語を、悪魔の手のうちで狂った運命の糸に操られ破滅する人間たちの悲劇と解釈したのである。
 こういうやり方があったのか!
 ユニークかつ斬新な演出に感心した。

 なるほど、舞台は中世ヨーロッパ。
 日が落ちれば漆黒の闇が地を覆い、城郭の周囲には黒々した森や岩山が浮かび上がる。
 魔女や魔物や幽霊が跳梁跋扈し、善良な人々をたぶらかし、その魂を奪おうと手ぐすね引いている。
 迷信がはびこり、占いを本気で信じ、遍歴芸人やジプシーに対する差別が蔓延していた時代。
 悪魔が出現してもおかしくはない。
 その点で、極めて原作の精神に近い、というか現代人が科学と理性の光によって封じ込めた(つもりになっている)数百年前の人間の姿を思い出すにふさわしい舞台であった。
 フェルランド役のロベルト・タリアヴィーニは、演出の意図をよく理解し、歌唱はもちろん、表情や仕草もデイモスな雰囲気を漂わせていた。
 とりわけ、舞台に黒く浮かぶ不気味な鋭角的なシルエットが印象的で、この役をロベルトが得たのは背格好がイメージに合ったからではないかと思うほどである。

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AlessandroによるPixabayからの画像
 

 歌唱で一番はルーナ伯爵を演じたリュドヴィク・テジエ
 張りのある、抑制のきいた堂々とした歌声が、舞台の風格をいやがおうにも高めた。
 貫禄抜群の舞台姿のうちにも、家柄と伝統と名誉と習慣に縛られた名家の長男の“形骸”のような人生を表情に漂わせ、レオノーラへの愛だけが彼自身の真の欲望であるがゆえに強くこれに執着するのだ、と観客に知らしめる。

 レオノーラ役のレイチェル・ウィリス=ソレンセンは、本番直前に代役が回ってきたという。
 急ごしらえとは思えない立派な歌唱と演技とほかの出演者との連携ぶりである。
 歌声はドラマチックな強さを備え、ヒロインらしいオーラもある。
 個人的にはもう少しアジリタ(コロラトゥーラ)が効くといいのだが、もともとレオノーラはソプラノ・ドラマティコ・タジリタという滅多にない種類の声を要求される難役なので、無いものねだりかもしれない。

 マンリーコ役のリッカルド・マッシは、第3幕見せ場のナチュラル「ド」を見事に決めて満場の喝采をさらっていた。
 気品ある穏やかなルックスが、恋する吟遊詩人にぴったり。
 何の加減か(長髪のためか)イエス・キリストのように見える瞬間もあり、それがまた、悪魔フェルランドに狙われて最後は斬首される運命の悲劇的効果を倍増する。
 
 見た目いちばんの驚きはアズチェーナである。
 これほど醜いアズチェーナははじめて見た。
 頭髪は半分抜け落ちて前頭部が露わ、残ったざんばら髪も真っ白、なにより顔面片側を覆う生々しい火傷の痕。
 ほとんどお岩さんである。
 服装もつぎはぎだらけの襤褸で、裂け目から不吉なシンボルを象った入れ墨が覗いている。
 いや~、ジェイミー・バートンはよくこの役を引き受けたものだ。
 たしかにアズチェーナの境遇やこれまで彼女が受けてきた傷の深さを思えば、これくらいの老化や劣化はおかしくないと思うが、反ルッキズム風潮かまびすしい現在、舞台上とはいえ、ここまでグロテスクな風貌を女性に与える大胆さに驚嘆した。
 むろん、驚きは最初のうちだけで、舞台が進んでくるにつれ、観客はアズチェーナの境遇に哀れみを感じ、その母性愛にしてやられ、しまいにはアズチェーナを愛らしく思うに至る。
 母性愛は醜さを超える。

 舞台左右いっぱいに階段だけという、あまりにもシンプルかつ大胆な装置。
 ルーナ家の兵士たちやジプシーの集団にみる、ゴシック風衣装の奇抜さ。
 登場人物のすべての動きを音とシンクロさせる、あたかもバレエかフィギアスケートのような一体感。
 歌も芝居も演出も美術も音楽も見事に揃った名舞台は、METの『トロヴァトーレ』に劣らない。
 ライブで観たらどれだけ感動したことか。
 英国ロイヤル・オペラ・ハウスの力量をまざまざと知った。

 内容とは別に、一つだけ難を言えば、上映開始時刻に席に着いてから実際のライブ映像が始まるまで、30分以上かかった。
 映画の予告編が延々と続き、やっと終わったかと思ったら、今度はロイヤル・オペラ・ハウスの宣伝と出演者インタビュー。
 いい加減待ちくたびれた。
 次からは20分くらい遅れて行こう。

古城









● セレンディピティ・ウインドオーケストラ第5回演奏会

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日時: 2023年9月24日(日)14:00~
会場: J:COMホール八王子
曲目: 
  • 真島俊夫: コーラル・ブルー 沖縄民謡「谷茶前」の主題による交響的印象
  • 真島俊夫: 波の見える風景(改訂新版)
  • 真島俊夫: ニライカナイの海から
  • ロバート・W・スミス: 海の男達の歌
  • 清水大輔: シー・オブ・ウィズダム~知恵を持つ海
  • フランコ・チェザリーニ: 3つの交響的素描「青い水平線」
  • (アンコール)上岡洋一: マーチ「潮煙」
指揮: 山田雅彦

 セレンディピティ・ウインドオーケストラは奇数回公演でクラシック曲を、偶数回公演でゲーム音楽などを取り上げる楽団。
 Serendipity とは「すてきな偶然」の意。
 Wind Orchestra とは「管楽器主体のオケ」のことを言う。
 実際、舞台上に弦楽器はコントラバスくらいしか見当たらなかった。
 普段なら第一ヴァイオリンのいるところにクラリネットが並んでいた。

 このオケを聴こうと八王子くんだりまでやって来たのは、今回のコンサートの標題「青の情景」が示すように、「海」をテーマにした楽曲ばかり集めたものであったから。
 9月とは言えまだ暑いので、涼を求めたい気分があった。
 とりわけ、プログラムの中に沖縄をテーマにした曲があるのを見て、惹かれるものがあった。
 
 登場した女性演奏者たちがみな「海」を想わせる青や水色やシルバーといった寒色系のドレスをまとっているのに、「洒落た演出!このためにレンタルしたのかな?」と感心したが、そもそもこのオケのテーマカラーが「青」なのであった。
 ソルティはいまのところゲーム音楽には興味ないが、過去のプログラムを見ると、書下ろし曲を含め普段なかなか聞かれないような珍しい曲が並んでいる。
 今後も注視していきたいユニークなオケだと思う。

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JR八王子駅南口

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J:COMホール
コロナ前に来た時はオリンパスホールという名だった
栄枯盛衰
 
 第1部は真島俊夫(1949-2016)による3作品。
 3曲目の「ニライカナイの海から」は沖縄民謡をクラシック調にアレンジした感じで、沖縄の伝統楽器(サンバ、パーランク、四つ竹、エイサー太鼓)も使用される。
 概して、祝祭的なノリあふれる、明るくめでたい曲。
 沖縄の人はお祭りが好きで、酒を飲んで歌って踊るのが好きで、そのまま野天に寝るのが好きで・・・・なんて聞いたことがあるが、まさにそのイメージ。
 ただ、ソルティは今や沖縄戦の悲劇なしに沖縄を考えることができない。
 ここにあるのは、沖縄戦を知らない頃の沖縄本来の姿なのだろう。
 
 第2部は様々な作曲家による3作品。
 船乗りの海、高速帆船の疾走する海、和歌山白浜海岸の海、発光生物の棲む深海、巨大海獣が闘う北欧の海、シロナガスクジラが悠々と泳ぐ南の海・・・・さまざまな海の情景が描き出され、イメージを喚起され、非常に面白かった。
 「海」と一口に言っても、場所により、季節により、時間により、天候により、人と海との関係性により、さまざまな表情の違いがあって当然。
 「青」というカラーにも、ペイルブルーや藍色やターコイズや紺や群青や山口百恵の「蒼い時」など、いろんな「青」があるのと同様だ。
 
 演奏された計6曲の中で一番良かったのは、5曲目の「シー・オブ・ウィズダム~知恵を持つ海」だった。
 和歌山の白浜海岸と三段壁をイメージした曲とのことだが、非常に美しく表情豊か、壮大かつ繊細で、癒されるものがあった。
 カモメの鳴き声を楽器(ピッコロか?)で表現したのも見事はまっていた。
 作曲は清水大輔という現役作曲家で、なんと今回のコンサートの進行役をつとめていた。
 ユーモアある語り口で、それこそ紀州和歌山というより琉球モードの印象。

 コンサートが終わって外に出ると、気温はまだ30度ながら、秋風が八王子駅構内を通り抜けて、すがすがしいものがあった。
 心なしか潮の匂いが含まれているような気がした。

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高知県足摺岬から見た海





● 本:『ショスタコーヴィッチの証言』(ソロモン・ヴォルコフ編)

1979年原著刊行
1980年中央公論新社より邦訳刊行(水野忠夫訳)
1988年文庫化

ショスタコの証言

 ソ連出身の音楽研究家ソロモン・ヴォルコフ(1944- )が、晩年のショスタコーヴィチにインタビューした内容をまとめたもの。
 ヴォルコフは、ショスタコーヴィチが亡くなった後、アメリカに亡命してこれを発表した。
 ショスタコーヴィチの回想録ではあるが、自身について語っている部分はそれほど多くなく、その人生において出会ってきた同じソ連の作曲家や演奏者や演出家や文学者についてのエピソードや評価、スターリン独裁下に生きた芸術家の苦悩や悲劇などが、多くを占めている。

 スターリンやソ連の社会体制に対する批判が書かれている以上、出版後、ソ連当局から「偽書」と断定されたのは仕方あるまい。
 たとえば、

 当然、ファシズムはわたしに嫌悪を催させるが、ドイツ・ファシズムのみならず、いかなる形態のファシズムも不愉快である。今日、人々は戦前の時期をのどかな時代として思い出すのを好み、ヒトラーがわが国に攻めてくるまでは、すべてがよかったと語っている。ヒトラーが犯罪者であることははっきりしているが、しかし、スターリンだって犯罪者なのだ。

 スターリンにはいかなる思想も、いかなる信念も、いかなる理念も、いかなる原則もなかった。そのときそのときに、スターリンは人々を苦しめ、監禁し、服従させるのにより好都合な見解を支持していたにすぎない。「指導者にして教師」は、今日は、こう言い、明日は、まったく別なことを言う。彼にしてみれば、何を言おうが、どちらでもよいことで、ただ権力を維持できればよかったのである。 

 一方、アメリカの音楽学者からも「偽書」疑惑を投げかけられ、議論を招いた。
 ヴォルコフがショスタコーヴィチに数回インタビューしたことは事実であるが、書かれている内容の多くは、ショスタコーヴィッチ自身の口から出たものではなく、ヴォルコフ自身がソ連にいた時に見聞きしたことを材にとった創作――必ずしも捏造ではない――なのではないか、という疑惑である。
 長年の研究の結果、現時点では「偽書」の可能性が高いようだ。
 ヴォルコフ自身が今に至るまでなんら反論していないというのが、確かにおかしい。

 ただ一方、偽書であるか否かは別として、すなわち、どこまでがショスタコーヴィチの“証言”で、どこからヴォルコフの“証言”なのかは不明であるものの、大変興味深く面白い書であるのは間違いない。
 登場する有名音楽家――ショスタコーヴィチの師であったグラズノフ、同窓生であったピアニストのマリヤ・ユージナ、ベルク、リムスキイ=コルサコフ、ムソグルスキイ、ストラヴィンスキー、ハチャトゥリアン、ボロディン、プロコフィエフ、トスカニーニ、ムラヴィンスキーなど――にまつわる豊富で突飛なエピソードの数々には興味がそそられる。
 とりわけ、グラズノフの天才的な記憶力や、ボロディンの博愛主義者&フェミニストぶり、スターリンに意見するを恐れないユージナの強心臓には驚いた。
 また、ショスタコーヴィチの崇拝者であった指揮者トスカニーニや、彼の曲の初演の多くを手がけた指揮者ムラヴィンスキーに対する辛辣な評価も意外であった。(ヴォルコフ評なのかもしれないが)

 あるとき、わたしの音楽の最大の解釈者を自負していたムラヴィンスキーがわたしの音楽をまるで理解していないのを知って愕然とした。交響曲第5番と第7番でわたしが歓喜の終楽章を書きたいと望んでいたなどと、およそわたしの思ってみなかったことを言っているのだ。この男には、わたしが歓喜の終楽章など夢にも考えたことがないのもわからないのだ。いったいあそこにどんな歓喜があるというのか。

 ソルティは、第5番第7番を最初に聞いたとき、終楽章が歓喜の表現とはとても思えなかった。
 ナチズムやスターリニズムのような独裁ファシズム国家における狂気や衆愚の表現と受け取った。
 「なんだ。ソルティのほうがムラヴィンスキーより、よく分かっているではないか」
 と一瞬鼻高々になりそうだったが、真相は別だろう。
 ムラヴィンスキーがどこかで本当に上記のようなセリフを吐いたことがあったとしても、それはおそらく、ショスタコ―ヴィチのためを思ってのことであろう。
 自らの発言が公になってスターリンの耳に入る可能性を思えば、友人を危険にさらすようなことは言えるはずがない。
 それがわからないショスタコーヴィチではないはずなのだが・・・。

 ともあれ、本書で何より読み取るべきは、ソ連社会とくにスターリン体制下において、芸術家たちが、いかに圧迫され、監視され、服従を求められ、自由な表現を禁止され、体制賛美の作品の創作を強制されていたか、それに抗うことがいかに危険であったか、という点である。
 スターリンの機嫌を損ねたら、その指ひとつで、地位も名誉も財産も奪われ、シベリヤに抑留され、処刑され、あまつさえ家族や親類縁者にも害が及びかねなかった。
 こんなエピソードが載っている。

 スターリンはたまたまラジオで聞いたモーツァルトのピアノ協奏曲を大層気に入って、そのレコードを部下に要望した。
 だが、そのレコードはなかった。それは生演奏だったのだ。
 機嫌を損ねることを恐れた周囲の者は、その夜のうちに再度オーケストラとピアニスト(ショスタコーヴィチの親友ユージナ)と指揮者をスタジオに集めて録音作業し、たった一枚のレコードを制作し、翌朝スターリンのもとに届けたという。

 ユージナがあとでわたしに語ってくれたことだが、指揮者は恐怖のあまり思考が麻痺してしまい、自宅に送り返さなければならなかった。別の指揮者が呼ばれたが、これもわなわな震え、間違えてばかりいて、オーケストラを混乱させるばかりだった。三人目の指揮者がどうにか最後まで録音できる状態にあったそうである。
 
 ショスタコーヴィチの友人、知人らも多く、あるは収容所送りとなり、あるは処刑され、あるは亡命を余儀なくされた。
 ショスタコーヴィチ自身も、幾度となく抹殺される瀬戸際にあったたらしい。
 その危機一髪のところを、軍の有力者に助けられたり、自らの作品の成功によって乗り超えたり、西側に知れ渡った名声によって救われたりしたようである。
 「自分の音楽で権力者のご機嫌をとろうとしたことは一度もなかった」と本書には勇ましくも書かれているが、実際には体制迎合的な作品も数多く残している。
 運よく地獄を生き残った者には、命を奪われた仲間たちの手前、自己弁護しなければいられないくらい、忸怩たるものがあったと想像される。

 生き残ったのは愚者ばかりだ、とわたしも本当は信じているわけではない。たぶん、最小限の誠意だけでも失わないようにしながら生き延びる戦術として仮面をかぶっていたにちがいない。
 
 それについて語るのはつらく、不愉快ではあるが、真実を語りたいと望んでいるからには、やはり語っておかなければならない。その真実とは、戦争(ソルティ注:独ソ戦)によって救われたということだ。戦争は大きな悲しみをもたらし、生活もたいそう困難なものになった。数知れぬ悲しみ、数知れぬ涙。しかしながら、戦争の始まる前はもっと困難だったともいえ、そのわけは、誰もがひとりきりで自分の悲しみに耐えていたからである。
 戦前でも、父や兄弟、あるいは親戚でなければ親しい友人といった誰かを失わなかった家族は、レニングラードにはほとんどなかった。誰もが、いなくなった人のことで大声で泣き喚きたいと思っていたのだが、誰もがほかの誰かを恐れ、悲しみに打ちひしがれ、息もつまりそうになっていたのである。
 
 わたしの人生は不幸にみちあふれているので、それよりももっと不幸な人間を見つけるのは容易ではないだろうと予想していた。しかし、わたしの知人や友人たちのたどった人生の道をつぎからつぎと思い出していくうちに、恐ろしくなった。彼らのうち誰ひとりとして、気楽で、幸福な人生を送った者などいなかった。ある者は悲惨な最期を遂げ、ある者は恐ろしい苦しみのうちに死に、多くの者の人生も、わたしのよりもっと不幸なものであったと言うことができる。 

 偽書であるかどうかは措いといて、一つの国の一つの時代の証言として、そしてまた現在のロシアの芸術家の受難を想像するよすがとして、読むべき価値のある書だと思う。
 
 
 
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● ブルックナー蛙 :EMQ Ensemble MUSIKQUELLCHEN 第28回演奏会

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日時: 2023年8月13日(日)
会場: 杉並公会堂 大ホール
曲目:
  • シューマン: マンフレッド序曲
  • ブルックナー: 交響曲第6番 指揮者によるプレトーク付き
指揮: 征矢健之介

 MUSIKQUELLCHEN(発音がわからん)とは「音楽の小さい泉」という意味だそう。
 指揮者の登場にちょっと驚いた。
 折り曲げた動かない左腕を脇腹につけながら、えっちらおっちら、オケの間をゆっくりすり抜けて来た征矢健之介(そやけんのすけ)。
 プロフィールによれば、もともとヴァイオリン奏者だったというからには、元来の障害ではあるまい。
 高齢者介護施設で8年間働いた人間の見立てとして、脳梗塞による半身麻痺の回復途上にあるのではなかろうか。
 指揮台には、腰かけて振れるよう、ピアノ椅子が用意されてあった。
 こういった状態で指揮する人を見るのははじめて。
 なんだか初っ端から掴まれてしまった。
 
 さらには、開始早々、ホールにびんびん共鳴するオケのクリアな響き、高らかに鳴る弦。
 「巧いじゃん!」と感心しきり。
 プログラムで確かめたら、このオケは早稲田大学フィルハーモニー管弦楽団(早稲フィル)のOB、OG中心に結成されたという。
 征矢は早稲フィルのトレーナー兼相談役を務めているようだから、学生時代から築かれた信頼関係が安定した音を生み出しているのかもしれない。

林檎の花

 一曲目の「マンフレッド序曲」は初めて聴く。
 印象としては、モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』終幕を思わせる。
 プログラムによると、バイロン原作の劇詩『マンフレッド』上演ために書き下ろされた曲とのことで、「道ならぬ恋」で恋人を永遠に失った青年マンフレッドの苦悩を描いた物語とか。
 奔放なる性愛の果てに地獄へ落ちたドン・ジョヴァンニと似ているのも無理からぬ。
 シューマンって情熱家なのね・・・・。

 このあと珍しく、指揮者によるプレトークがあった。
 後半のブルックナー交響曲第6番の各楽章の聴きどころを、実際にオケに音を出させながら解説してくれた。
 やっぱり、ブルックナーって補助線を引かないとなかなか理解の難しい作曲家なのかしらん?
 が、障害を負った征矢が、不器用な仕草と口調とで、不器用なブルックナーを語るところに、なんとも云えない深く心地良い味わいがあった。
 そのせいだろうか、ブルックナーライブ4回目にしてソルティは半眼開いた。

 まず、ブルックナーは映画監督で言えば、小津安二郎に似ている。
 性格とか扱うテーマとかの問題ではなくて、「決まりきったスタイルで、同じ狭いテーマを繰り返し語り、深みに達しようとする」芸術スタイルが似ていると思った。
 で、小津の映画を繰り返し観ていると、その常に変わらぬ特有のリズムやトーンがいつの間にか心地よく感じられてきて“癖になる”。
 それと同様、ブルックナーの音楽も“癖になる”性質を持っているように感じた。
 つまり、「ブルックナーリズム、ブルックナー休止、ブルックナー開始(トレモロ)、ブルックナーゼグエンツ等々」の決まりきった形式は、あたかも小津の「ローポジション、固定カメラ、切り返し対話、空ショット、童謡使用」といったものと同じ“お約束”の感があり、それにさえ慣れ親しんで身を任せてしまえるなら、オリジナルな小宇宙が開け、快感を手に入れられる。
 ソルティもどうやら、“癖になりそ”な予感がしている。
 
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小津の代名詞、ローポジション撮影

 小津安二郎が決まりきったスタイルで描き出そうとしたテーマは、家族であり、無常であった。
 その意味で、現在観ることができる小津の作品は、『おはよう』のような子供を主役とする喜劇をのぞけば、どことなく暗くて、さびしい。
 一方、プレトークで征矢が指摘していたように、敬虔なカトリック信者で教会のオルガニストだったブルックナーの場合、やはり神への信仰が主要なテーマとなる。
 なので、基本的に暗くはない。
 深刻さや悲壮感、神を失った人間が抱く絶望や虚無感は見られない。
 悲しみと苦しみの谷間にいる人間が、はるか高みにいる偉大なる神に憧れて、神に少しでも近づこうと、何度も何度もジャンプする。
 そのトライアル&エラーこそが、ブルックナーにとっての喜びであり、音楽スタイルだったのではあるまいか。
 到達することもなく、叶えられることもない、簡単に手に入らない対象だからこそ、愛し、讃美し、信じるに値する。
 それを希求する振る舞いこそが、日々の生きがいとも喜びともなる。
 基本、幸せな男なのだ。

 ブルックナーは十代の少女が好きで、晩年に至るまで何十回と少女たちにプロポーズしては撃沈するを繰り返した。
 性懲りもなく・・・。
 それはまさに、ブルックナーの神に対する上記のような関係性とも、彼の音楽スタイルともよく似ているように思われる。
 つまるところ、人のセクシュアリティは、その人のスピリチュアリティと通底している。
 ブルックナーの音楽を聴いていると、小野道風の見守る中、柳に飛びつこうと頑張る無邪気な蛙を思い起こす。
 憎めない・・・・。

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それ、がんばれ!




● 蘇ったベルカント 荒川区民オペラ第21回公演:ドニゼッティ作曲『愛の妙薬』


愛の妙薬

日時  2023年8月12日(土)16:00~
会場  サンパール荒川・大ホール
指揮  小崎 雅弘
演出  澤田 康子
合唱  荒川オペラ合唱団
バレエ 荒川オペラバレエ
管弦楽 荒川区民交響楽団
キャスト
 アディーナ(ソプラノ):前川 依子
 ネモリーノ(テノール):新堂 由暁
 ベルコーレ(バリトン):秋本 健
 ドゥルカマーラ(バス):鹿野 由之
 ジャンネッタ:(ソプラノ):田谷野 望
原語上演・全2幕

 荒川の夏の風物詩・荒川区民オペラ、4年ぶりに復活。
 この『愛の妙薬』は、2020年夏に上演される予定だった。
 まずもって再開(再会)を祝したい。

 ソルティは2017年『蝶々夫人』、2018年『イル・トロヴァトーレ』を観ている。
 指揮者と主要キャスト以外はアマチュアで占められているが、なかなかどうして、質の高い楽しい催しである。
 アマならではの情熱と歓びと庶民性が舞台せましとほとばしって、現代では高尚で高価な娯楽というイメージを持たれ、いささか敷居の高くなったオペラを、大衆芸能というオペラ全盛期(19世紀)にそうであった位置に戻してくれる。 
 とくに今回の『愛の妙薬』は、筋立てがわかりやすく、管弦楽も複雑でなく、美しく親しみやすいメロディーがふんだんにあるので、普段オペラに接する習慣のあまりなさそうな客席の反応も良かったように思う。
 何といっても、主要キャストの死で終わることが多い、つまりは悲劇の多いオペラ演目にあって、本作は肩の凝らないコメディであり、最後は恋人同士が結ばれる大団円。
 コロナ明けを祝すにはぴったりの作品である。

 ソルティは、2012年10月にメトロポリタン歌劇場でかかったアンナ・ネトレプコ&マシュー・ポレンザーニ出演の『愛の妙薬』を、松竹東劇のMETライブビューイングで鑑賞した。
 生の舞台を観るのはこれがはじめて。
 なにより思ったのは、「このオペラ、まさにベルカントなんだな~」ということ。
 ベルカント(Bel Canto)すなわち「美しい歌」を響かせることに最大の目的を置いたリブレット(台本)であり、作詞・作曲技法であり、歌唱法であり、管弦楽である。
 歌い手の美しい声と華麗な歌唱技術が十二分に発揮されるよう、観客がそれを十二分に楽しめるよう作られているのだ。

 アディーナ役の前川依子の清冽な小川のように澄み切ったソプラノと軽やかなコロラトゥーラ、ネモリーノ役の新堂由暁の雲ひとつない秋空のような朗々たるテノールの輝き、ドゥルカマーラ役の鹿野由之のイタリア語の語感を見事に生かしながら諧謔を生み出すベテランの味。
 それぞれが素晴らしいアリアを披露し、また重唱で絡み、次々とやってくる快楽の波。
 あまりの気持ちよさに、夏バテで疲れていた心身は文字通りの夢見心地になった。

 そう、ドニゼッティやベッリーニらのベルカントオペラの困った点は、音楽があまりに耳に心地よいのと、物語の筋があまりに荒唐無稽なので、途中で気が遠のいてしまうところ。
 しかるに、作曲者の生きた当時の客は、上演中も客席で物を食ったりお喋りしたりして、アリアなどの聴きどころが来ると舞台に耳を傾けたという話もある。(何で読んだか忘れたが、アリアの前奏部分が歌い出しのメロディーとまったく同じであるのは、観客に「さあ、アリアが始まるぞ」と告知して舞台に集中させるためだったとか←確証なし)
 現代では、上演中に客席で物を食ったりお喋りしたりはさすがに許されないので、イビキを立てずに仮眠するくらいは大目に見られたし。
 思うに、夏バテだけでなく、今になってコロナ疲れが、3年余り続いた緊張からの弛緩という形で、浮上してきているのかもしれない。
 その点でも、まことに癒される公演であった。

 ちなみに、愛の妙薬とはボルドーワインのことである。

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サンパール荒川

 

 

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