ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

ライブ(音楽・芝居・落語など)

● ゴールドフィンガー :オーケストラ・ルゼル 第28回演奏会


ルゼルオケ

日時: 2023年7月9日(日)13:30~
会場: なかのZERO 大ホール
曲目:
  • ワーグナー: 歌劇『タンホイザー』序曲
  • R.シュトラウス: オーボエ協奏曲 ニ長調 
  • チャイコフスキー: 交響曲第4番 へ短調
  • アンコール ワーグナー: 歌劇『ローエングリン』より エルザの大聖堂への行進
オーボエ: 最上 峰行
指揮: 和田 一樹

 「タンホイザー」序曲くらいカッコよくて血沸き肉躍る曲はそうそうないと思う。
 それを「つかみはバッチリ」の我らが和田一樹が一曲目に持ってくるのだから、会場が沸騰しないわけがない。
 一曲目にして「ブラボー」が放たれた。
 たしかに、メインプロ前の食欲増進を企図したアペリチフという位置づけに納まらない出来栄えだった。
 この序曲の中に、「タンホイザー」という聖と性をテーマとするオペラのドラマが凝縮されているわけだが、和田の指揮はそのドラマ性を十分に開示し、表現していたと思う。
 そろそろオペラに挑戦してもよいのでは?
 ぜひとも、『トロヴァトーレ』を振ってほしいなあ。
 
 オーボエ協奏曲ははじめて聴いた。
 モーツァルトを思わせるロココ風の典雅な曲で、華やいだ気分になった。
 ソルティは舞台向かって右側の前から4列目にいたので、指揮台の横に立つオーボエ奏者の姿がよく見えた。
 とにかく指の動きが凄かった。
 よく吊らないものだ。
 楽章に分かれていないので休みもなく、装飾符だらけの難しい曲を、いとも軽やかに鮮やかに奏しきった最上峰行の技術とスタミナに感嘆した。
 そして、ソリストを引き立てながらも、オケとの活気ある対話を作りあげて、シュトラウスの世界を作りあげていく和田の手腕に唸った。
 とくに、オーボエと他の木管との掛け合いが、森の中の鳥同士の会話のようで非常に愉しかった。
 コンチェルトとはこうでなければいけないと思うような名演。
 ときに、オーボエの響きには脳細胞を鍵盤で叩くような頭蓋骨浸透性がある。
 頭が疲れたときはオーボエを聴くといいんだなあと発見した。

オーボエと脳波
 
 今回、コンサートマスター(第1ヴァイオリンのトップ)をつとめる男性の演奏中の動きが激しくて、1曲目では気になって仕方なかった。(目をつむっていればいい話なんだけどね)
 このままだと、2曲目で主役のソリストより目立ってしまうんじゃないか、悪くするとソリストの集中を妨げやしないか、と他人事ながら心配になった。
 ところがどっこい、オーボエ奏者の動きもこれに負けず劣らずダイナミックで、相並んで揺れ動く中年男子2人の周囲には、あたかもボリウッド映画『RRR』の主役男優二人によるナトゥーダンスのような熱く濃い磁場が生じていた。
 さしもの和田一樹も薄く見えるほどで、大層面白かった。
 
 チャイコフスキーの4番は、迫力が凄かった。
 それはしかし、生きる力に満ちた意気軒高たるパワーではないように思った。
 絶望の底をついた人間が見せる、狂気すれすれ自棄っぱちの捨て身パワーである。
 「こんな曲を作る人は自殺しかねないなあ」と、つい思ってしまうような作曲者の不安定な精神状態を垣間見させる。
 実際、この曲はチャイコフスキーが結婚に失敗してモスクワ川で自殺をはかった直後に書かれたものだという。
 作曲という代償行為を通じて精神の危機を脱したのかもしれない。

 シュトラウスで舞い上がった気分が一気に突き落とされて、このまま終わるのはつらいなあと思っていたら、アンコール曲で見事に引き上げて癒してくれた。
 こういうサービス精神&バランス感覚もこの指揮者の才能の一つである。

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なかのZEROホール






 


 
 
 

● ストラディヴァリ! :Orchestra Canvas Tokyo 第8回定期演奏会


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日時: 2023年7月2日(日) 14時~
会場: 東京芸術劇場 コンサートホール
曲目:
  • ファリャ: バレエ音楽《三角帽子》第2組曲
  • シベリウス: ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 作品47
  • チャイコフスキー: 交響曲第5番 ホ短調 作品64
指揮: 田代 俊文
ヴァイオリン: 中野りな

 今回のハイライトは、2曲目のヴァイオリン協奏曲だった。
 なにより特筆すべきは、音色の素晴らしさ!
 張りと艶とコクのある美しい響きが、巨大なホールの空気を一瞬にして変えた。
 「あのヴァイオリン、生きているんじゃないか」と思うほどの人間的ぬくもりと表情の豊かさがあった。

 中野りなが使用しているのは1716年製のストラディバリウス。
 やっぱり、最低でも億はくだらぬという世界的名器は音が違うなあと思ったが、実はソルティ、開演前に中野のプロフィールを読んで、そのことを知っていた。
 一般財団法人ITOHより貸与されているのだという。 
 先入観が耳に魔法をかけたのかもしれない。

 一般財団法人ITOHは、将来有望な日本の若手音楽家に対し銘器の弦楽器、弓等を無償貸与する事を通じ、その人達の育成に間接的に役立て、もって日本の芸術文化の振興に寄与することを目的として2013年9月9日に設立されました。(一般財団法人ITOHの公式ホームページより抜粋)

 ITOHとはなにかの英語の略語かと思ったが、どうやらそのまま「いとう」と読むらしい。
 この団体の設立者にして代表理事が伊東さんという紳士なのだ。
 素晴らしい活動である。

 ともあれ、響きの美しさに陶然となり、演奏中は肝心の曲の主題や曲調やオーケストレイション(管弦楽法)やオーケストラとのコンビネーションにほとんど意識が向かわず、シベリウスであることも忘れ、ただただヴァイオリンの響きに包まれていた。
 むろん、楽器からこの音色を引き出せる中野のテクニックあってのことである。
 2004年生まれというから現在21歳。
 若いのに驚嘆すべき技巧の持ち主。
 最終楽章では圧巻のパフォーマンスが会場を圧倒した。
 
 チャイコの5番は無難にまとめた感じ。
 個人的には、こちらはもうちょっと冒険してほしかったな。
 
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池袋西口公園の噴水で水遊びに興じる子供たち
 




● よ~く洗いなよォ : ル スコアール管弦楽団 第53回演奏会

日時: 2023年6月25日(日)13:30~
会場: すみだトリフォニーホール大ホール
曲目: 
  • マルティヌー: リディツェ追悼
  • マーラー: 交響曲第9番
指揮: 冨平 恭平

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 リディツェとはチェコ共和国の中部やや西、中央ボヘミア州にある村です。第二次世界大戦の悲劇の舞台として知られています。
 1942年5月27日に発生したナチス・ドイツの高官ラインハルト・ハイドリヒの暗殺事件、その犯人をリディツェ村が匿っていたと判断したナチスは6月10日に村の成人男性を全員銃殺し、女性と子供は強制収容所に送りました。
(配布されたプログラムより抜粋)

 チェコの作曲家で、ナチスのブラックリストに載っていたためアメリカに亡命していたボフスラフ・マルティヌーは、この事件を知って衝撃を受け、1943年8月、数日間で約8分間の曲を作った。
 それが一曲目の『リディツェ追悼』。
 こんな事件があったとは、こんな曲があったとは、ついぞ知らなかった。
 ナチスの暴虐は測り知れない。
 破壊された村は今は記念施設となっており、その近くにリディツェ村は再建されているそうな。
 この曲が演奏されるたび、ドイツ国民は自らの罪を恥じ入ることになろう。

アウシュビッツの子供
 
 ル スコアールは1996年8月に発足したアマオケで、フランス語で「広場」を意味するという。
 過去53回の演奏会のプログラムで取り上げた作曲家で一番多いのはマーラー(13回)とのこと。
 演奏会の曲目は毎回団員の投票で選んでいるというから、マーラー好きの団員が多く、演奏にも自信があるということだ。
 期待が高まった。

 休憩をはさんで、90分の旅が始まった。
 いつもと違ったのは、オケの配置。
 第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが向かい合わせに配置され、ステージ向かって左側にコントラバスが並び、右側にハープ奏者。
 残念ながらソルティは、オケの配置の違いによる音響効果を聴き分けるところまで耳が達者でないので、その試みの成否については何とも言えない。
  
 楽章が進むにつれて、オケの集中力が高まり、尻上がりに調子を上げていく。
 哀切極まる第4楽章は、息の合った見事なアンサンブルのうちに、ソロ奏者のテクニックとナイーブな感性が冴え、目頭が熱くなった。
 指揮棒が下りたあともしばらく会場を静寂が占めたのは、聴衆の気持ちがすぐには拍手モードに切り変わらなかったためだろう。
 素晴らしい演奏であった証である。
 
 2階席正面にいたソルティのチャクラもずいぶん反応した。
 第1楽章では胸のチャクラがうずき、第2楽章では股間のチャクラが圧迫され、第3楽章では眉間のチャクラに“気”が集中し、第4楽章では前頭葉が明るく灯った。
 身体のあちこちの“気”の滞りが、音波によって刺激され、解きほぐされていくような感があった。
 音楽による全身マッサージ。
 梅雨時のうっとうしい空模様でくさくさしていた気持がすっきりした。
 
 ときに――。
 第3楽章の途中から入って来て、第4楽章で主役に躍り出て、全曲の終わりまで様々な楽器で何度も繰り返される音型「ミ・ファミレ♯ミ」が、頭の中でどうしても、「よ~く洗いなよォ」と変換されてしまう。
 1976年に日本でヒットした『チンチンポンポン』というコミックソングのメロディの一部にそっくりなのだ。
 もとはイタリアの童謡で、「チンチンポンポン( cin cin pon pon )」とは汽車ポッポのことを意味していたと思う。
 それが日本語に訳された時、いとけない兄と妹が一緒に風呂に入った時に交わした会話という設定になり、エッチな意味合いを帯びることになった。
 令和の今では、放送禁止レベルの内容である。
 
 第9交響曲はマーラーの白鳥の歌とも言える渾身の作で、甘美な思い出のうちに「死に絶えるように」消えゆく痛切な曲なのに、「ミ・ファミレ♯ミ」が出てくるたびに、「よ~く洗いなよォ」と変換され、泡だらけの可愛い男児と女児が脳裏に浮かぶ始末。
 ほんと困ったことだ。(ソルティはロリコンでもショタコンでもない、念のため)

チンチンポンポン
cincin ponpon

 

● 本:『不機嫌な姫とブルックナー団』(高原英理著)

2016年講談社

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装画:Minoru 装幀:高柳雅人


 最近聴き始めたブルックナー理解の一助になればと思って借りたのだが、これがまあ、滅茶面白かった。
 ブルックナー団を名乗る3人のブルオタと、彼らに「姫」と祭られる羽目に陥ったブルックナー好きの女性図書館員とのぎこちない交流を描いたブルコメ(ブルックナー・コメディ)である。
 ブルオタとは何か?

「ブルオタ」は「ブルックナーオタク」の意味で、クラシックファンの中でもとりわけオタク臭い、特有の行動を取る者らとして区別される。正式には「ブルヲタ」と書く・・・・・って、「正式」って何?

 ブルックナー行列という言葉があるように、ブルックナーは女性より男性に人気ある作曲家なのだが、どうも男性の中でもとくに “オタク度が高い” 男子たちのヒーローらしい。
 クラシック愛好家というだけで、ただでさえオタクっぽい印象を持たれがちなのに、あまつさえ、ベートーヴェンでもモーツァルトでもワーグナーでもなくアントン・ブルックナーを第一に選ぶのは、筋金入りのオタクの証なのだ。
 今さらではあるが、“オタク度が高い”とは、
  • 特定の事物に尋常でない興味と関心を持ち、その領域に関する驚異的な知識を持っている
  • 他人の心や場の空気が読めず、人間関係を築くのが苦手(いわゆるKY)
  • 異性にもてない
  • 流行やお洒落に興味がなく、見た目がダサい
 といったあたりが特徴として上げられる。
 誤解を恐れずに言えば、アスペルガー症候群と重なるところが多い。
 オタクの正体はアスペルガー症候群、あるいはそれに近いような脳の機能障害であって、本人自身にもどうしようもないのだと知れば、やさしい目で見ることができるのではないか。 
 ――って、ずいぶん上から目線だが、本ブログを見れば分かるように、ソルティは映画フリークで、クラシック音楽ファンで、書籍依存症で、仏教シンパで、そのうえ孤独癖がある。
 オタクと呼ばれるのはやぶさかでない。
 が、どれも生半可な知識と情熱しか持ち合わせていない不徹底なところが、オタクの称号に値しないと思っている。
 
 ともあれ。
 ブルックナー団の男子3人とひょんなことから知り合い、コンサート終了後のマックでの感想トークやメールでの情報交換をするようになった「姫」は、それまでブルックナーの音楽にしか興味なかったものが、作曲家自身についても関心を持つようになる。団員の一人が作家志望で、『ブルックナー伝』(未完)を綴っていたのである。
 本書は、市井の人々のほのぼのした(?)ブルオタ交流を描きながら、ブルックナーという愛すべき人物について読者に紹介する内容になっている。
 うまい構成だ。
 筆致もユーモアあり、ディケンズ風のキャラクター戯画化(アニメ化というべき?)が楽しい

 そうして描きだされたブルックナーという人物は、まさにオタク、いやアスペルガー症候群そのものではないか。
 音楽の異常な才という点を考慮するなら、サヴァン症候群かもしれない。
  1.  とにかく不器用で、自分に自信がなく、他人の言動に左右されやすい。(そのせいで、いったん完成した楽譜を人に指摘されるたび手直ししたので、同じ作品に版がいくつもある事態になった)
  2.  小心で、卑屈で、権威に弱い。(いじめられっ子タイプ)
  3.  空気が読めず、周囲をいらつかせたり、周囲から馬鹿にされたりする不可解な行動をとってしまう。
  4.  目に入った事物を数える癖がある。
  5.  10代の少女が好きで、生涯60人を超える少女に求婚し、すべて撃沈。
  6.  それをすべて記録(『我が秘宝なる嫁帖』)に残している。うげえッ!
 つまり、ブルオタの男たちは、自分と同類――生きるのに不器用なKYの非モテ+ロリ系――の先達にして偉人として、ブルックナーを崇拝しているのである。
 そりゃあ、入れ込むわけだ。
 むろん、そういった男のつくる音楽の独特な世界観に共鳴するところ大なのも道理である。
 「ブルックナー休止」「ブルックナー・リズム」「ブルックナー・ゼグエンツ(反復)」と言われる形式上の特徴も、なにか、自閉症の人たちが、キラキラ光る物に魅入られたり、鉄道が好きだったり、規則正しい繰り返しの配列に安心するのと同様の、脳の器質的な傾向とリンクしているのかもしれない。
 女性にはモテなかったけれど、弟子たちには非常に愛されたようだ。 

 本書を読んで、ブルックナーのイメージがずいぶん変わった。
 音楽史に名を残すセクハラ親爺というものから、不器用で気の弱いイタい人というものへ。
 同じく不器用で気の弱い人間の一人として、親近感が湧いた。 
 だいたい、コンサートのチラシなどに使われるブルックナーの写真が良くない。
 無愛想で陰気な面をしたハゲ親爺が、似合わない蝶ネクタイをしたり、胸に勲章つけて偉そうにしているものが出回っている。
 この写真じゃ、音楽を聴く前から誰だって敬遠したくなる。(特に女性は)
 若い頃のもう少し人当たりのいい肖像はないのだろうか?
 さすれば、もう少し人気が出て、聴く人も増えて、コンサートでの演奏回数も増えるのではなかろうか。
 無理か・・・・。
 
ブルックナー勲章


おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● ブルックナー行列 : フィルハーモニック・ソサィエティ・東京 第11回定期演奏会

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錦糸町からスカイツリーを望む

日時: 2023年6月4日(日)
会場: すみだトリフォニーホール 大ホール(錦糸町)
曲目:
 J.S.バッハ: 2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調
   ヴァイオリン: 長原幸太
   ヴァイオリン: 佐久間聡一
 アントン・ブルックナー: 交響曲第9番 ニ短調
指揮: 下野竜也

 交響曲第4番「ロマンティック」では真価の分からなかったブルックナーに再挑戦。
 今度はブルックナーの遺作であり最高傑作の一つとされている9番である。
 下野竜也の指揮ははじめて(かな?)

 前半のバッハの曲は、誰もが耳にすれば「ああ、知ってる」と言うような有名曲。
 名曲喫茶でよく流れている。
 2人のヴァイオリン名手による息の合った掛け合いが素晴らしかった。
 アンコールの『アヴェ・マリア』も優美そのもの。
 すっかり気分あがって、後半に備えた。

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名曲喫茶と言えば、国分寺の『でんえん』が有名
創業66年、昭和の遺跡である

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96歳になるという女性オーナーはいまも健在
素晴らしいことだ(令和5年5月末に来訪)

 開演前にトイレは済ませておいたので、20分間の休憩中はずっと座席にいた。
 あとから「休憩中にトイレに行くべきだった」と後悔した。
 後半途中で尿意を催したというのではない。
 クラシック演奏会の休憩時間は通常、混雑している女性トイレを横目に男たちはさっさと用を済ますのであるが、男性ファンが圧倒的に多いブルックナーの演奏会の場合、男性トイレの前に人が並び、女性トイレは空いているという、通常とは真逆の現象が見られる――ともっぱらの噂なのである。
 これを「ブルックナー行列」と名付けた人もいるくらい。
 数学用語みたいで面白い。
 ロビーに出て、真偽を確かめるべきだった。

ブルックナー行列

 さて、後半であるが・・・。
 やっぱり、真価が分からなかった。
 同じ音型の繰り返しで、どの楽章も他の楽章とたいした違いがなく、印象に残るようなメロディもない。
 さらに言えば、4番と9番の違いもよく分からない。
 偉大なるワンパターンといった感じ。

 ブルックナーはワーグナーを崇拝していたらしく、ワーグナー風の官能的タッチから曲が始まることが多い。期待が高まる。
 しかるに、『トリスタンとイゾルデ』のようなオルガズムに達することは決してなく、いつも寸止まりで終わってしまう。
 「ああ、もうちょっと踏み込めばイクのに・・・」というところで、さあっと波が引いてしまい、もとの欲求不満状態に戻る。
 その繰り返し、その繰り返し・・・。
 そこが一番、ソルティが「つまらない」と感じてしまうところである。

 ブルックナーは敬虔なカトリック信者だったらしいので、ストイックなところがあったのかもしれない。(とはいえ、生涯10代の少女に目がなく、求婚を繰り返したとか→すべてボツ)
 性愛方面では不器用で、敬愛するワーグナーの足元にも及ばなかった。
 それが作る曲に影響したのだろうか。
 信仰方面でオルガズム(=忘我や恍惚)に達することもありと思うのだが、そこまでの宗教体験は俗世間にいてはなかなか得られないものである。
 ブルックナーがすぐれたオルガニストだったことを思うと、皮肉である。

 ブルックナーは、ワーグナーはじめバッハやベートーヴェンやウェーバーから強い影響を受けた。
 作品の端々にそれは感じられる。
 が、思うに、官能と忘我の手前で身を翻してしまうという点において、スタイル的に一番近い作曲家はブラームスではなかろうか。(同時代に生きたブルックナーとブラームスは仲が良くなかったようだが、ひょっとして近親憎悪?)
 
 いやいや、もしかしたら、ソルティがまだブルックナー的快楽のツボを発見していないだけなのかもしれない。
 そのツボが見いだされ、然るべく開発されれば、驚くべき壮大で豊かで美しい世界が開けるのかも・・・。
 嬉々としてブルックナー行列に並ぶ男たちは、その秘密を知っているのだろう。
 再々チャレンジしよう。

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とりたてて男性客が多いとは感じなかったが・・・。
前半のヴァイオリン協奏曲のおかげかもしれない。






● 聖ペテルブルグ : 府中市民交響楽団 第87回定期演奏会


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日時: 2023年5月14日(日)
会場: 府中の森芸術劇場 どりーむホール
曲目: ショスタコーヴィチ: 交響曲第7番 ハ長調 作品60「レニングラード」
指揮: 大井剛史

 ちょっと前に漫画版『戦争は女の顔をしていない』を読み、今は同じスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ作の『セカンドハンドの時代』を読んでいる。
 前者は第2次世界大戦中の独ソ戦に関するソ連の女たちの証言集、後者は共産主義時代のソ連および1991年ソ連崩壊以降に起きたことに関する、かつてソ連邦に属した様々な人々による証言集である。
 重要なのはいずれも庶民の声であること。
 ソルティは近現代ロシア史を庶民の視線から学んでいる最中なのである。

 過去100年ソ連で起きたことを体験者の声を通して振り返ると、唖然とし、愕然とし、呆然とし、しまいには暗澹たる気持ちになる。
 日本だってこの100年、戦争や占領や暴動や災害やテロなどいろいろあったに違いないが、ソ連にくらべれば穏やかなものである。
 とくに戦後の日本は、もしかしたら、人類史上稀なる平和と繁栄と自由と平等とが実現された奇跡的空間だったと、のちの歴史学者は語るかもしれない。
 ロシアのウクライナ侵攻が国際的非難を浴びていて、ソルティも一刻も早いロシアの完全撤退とプーチン政権の終焉を望むものだけれど、しかし、近現代ロシア史を知らずにこの戦争を安易に語ることはできないのではないかと思う。
 なんといっても、ロシアとウクライナはもとは同じ一つの国であり、ロシア人とウクライナ人は同じソヴィエト国民だったのだ。

 同じように、近現代ロシア史を知らずに、ショスタコーヴィチを鑑賞することは難しいのではないかと思う。
 少なくとも、今はまだ・・・・。
 『セカンドハンドの時代』には、スターリン独裁体制下を生き延びた人々の証言が数多くおさめられている。
 徹底的な言論・思想統制、密告奨励、不当逮捕、強制収容、シベリア流刑、拷問、虐殺・・・・。
 恐怖と圧迫と洗脳と諦念と擬態と黙殺と。
 厄介なのは、スターリンは独ソ戦でナチスドイツに勝利した英雄でもあることだ。
 スターリンを讃美し、スターリン時代を懐かしがる老人が今もロシアに残っているのである。
 ソ連国民は、他国のヒトラーを退けるために、自国のヒトラーを受け入れざるを得なかった。 
 ショスタコーヴィチの音楽を、こうした酷すぎる歴史の現実から切り離して、純粋音楽として指揮したり、演奏したり、聴いたりすることは、あまりに脳天お花畑の仕草に思われる。
 スターリン体制下あるいはKGBによって拉致や拷問や処刑された命に対する軽侮のように思われる。
 当の作曲家だってそれを望んじゃいまい。

 そしてまた、聴く者が過去100年のソ連の歴史と庶民の生活について知れば知るほど、ショスタコーヴィチの音楽は深みを増す。
 作曲家が楽譜に描き込んだ、恐怖や苦痛や不安や苦悩や絶望や悲しみ、あるいは夢や懐旧の念や死者への祈りや平和への願いや愛、あるいは全体主義にたいする批判や嫌悪や抵抗――それらが聴く者の胸の奥に届き、倍音をもって(つまりは対ドイツのそれと対ソヴィエトのそれ)響くのである。

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府中の森芸術劇場
 
 今回ライブ2度目となる『レニングラード』
 それぞれの楽章について、次のような章題を思いついた。
  • 第1楽章 ファシズムは最初、軽快なマーチのリズムに乗って、親しみやすい正義の顔してやって来る。
  • 第2楽章 今さら嘆いても遅い。夢じゃない、これが我々の現実だ。
  • 第3楽章 死者だけが戦争を終わらせることができる。
  • 第4楽章 人間は学ばない。喉元過ぎれば熱さ忘れる。
 演奏は第1楽章が一番良かった。
 小太鼓の単調なリズムから始まる「侵攻の主題」において、単純なメロディが繰り返されるたびに加わる楽器が増えていき、次第に狂気の色を濃くしながら盛り上がっていく様は、各楽器のソロ奏者の安定した技術とオケ全体のバランスの良さに支えられ、背筋がゾッとなるほどの迫力とリアリティがあった。
 
 ちなみに、現在レニングラードという都市はない。
 ソ連崩壊と共に、レーニンは神棚から引きずり降ろされてしまった。
 革命前のロシア帝国時代の旧名「聖ペテルブルグ」に戻っている。

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府中の聖地、大国魂神社




● ブルックナー・デビュー: 荻窪祝祭管弦楽団 第14回定期演奏会

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日時: 2023年4月30日(日)13:30~
会場: 杉並公会堂 大ホール
曲目:  
  • W.A.モーツァルト: 歌劇「フィガロの結婚」K.492 序曲
  • J.ヨアヒム: ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 「ハンガリー風」 op.11 
  • A.ブルックナー: 交響曲第4番 変ホ長調「ロマンティック」
ヴァイオリン: 尾池亜美
指揮: 後藤悠仁

 GWの荻窪駅周辺は人がいっぱい。
 杉並公会堂大ホールも9割方埋まった。
 ヨアヒムなんて作曲家の名は聞いたことないし、ブルックナーも日本ではメジャーではない。( i-amabileの「演奏される機会の多い作曲家」ランキングの30位に入っていない)
 この人出はいったい・・・?
 いや、滅多に演奏されないからこそ、聴く価値が生じるのか。
 ヨアヒムのヴァイオリン協奏曲を演奏するソリストは杉並区出身というから、応援に駆けつけた区民も少なくなかったろう。

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 配布されたプログラムによれば、ヨセフ・ヨアヒムは1831年ハンガリーの小さな町に生まれた。
 5歳でヴァイオリンを弾き始め、才能にも家族の協力にも師にも恵まれ、メンデルスゾーンやリストらの指揮でソリストデビューを果たす。
 ブラームスのヴァイオリン協奏曲の世界初演を果たした名ヴァイオリニストである。
 作曲家としてもいくつかの作品を書いたのだが、現在ではほとんど演奏されない。
 ウィキの記述は容赦ない。
「優秀ではあるが、個性に欠ける」
 
 残念ながら、ソルティもまた、この評価は妥当かなと思った。
 第1楽章の途中から集中力が途切れ、睡魔に襲われ、音楽が心地よいBGMになって、ほぼ幽体離脱していた。
 最終楽章(全部で何楽章あったのかも定かでない)で、肉体に帰還した。
 そこからは、ソリスト尾池亜美の圧巻のパフォーマンスに引き込まれた。
 やはり、ヴァイオリンの名手が作ったヴァイオリン協奏曲だけあって、ヴァイオリンの技巧の極地が編みこまれていた。
 目にも見えない速さで激しく上下する弓の摩擦で、ヴァイオリンから火が噴き出すのではないかと思ったほど。
 全身全霊込めた演奏に、客席から惜しみない声援と拍手が送られた。

薔薇の門


 ブルックナーははじめて。
 この第4交響曲『ロマンティック』がどうやら一番人気で、上演回数が多い。
 デビューにはもってこいだ。
 印象としては、第1楽章はワーグナー風、第2楽章はベートーヴェン風、第3楽章はウェーバーかムソグルスキー風、第4楽章はバッハ風、そして全体としてブラームス風。
 ブルックナーの個性がいまひとつ見えてこなかった。
 いや、プログラムに書いてあったように、「ブルックナー開始」とか「ブルックナー休止」とか「ブルックナーリズム」とか、聴けばそれと分かる特徴はあるのだろうが、それらはすべて形式上の特徴であって、曲調や曲想といった内容すなわち作曲家の精神を示すものではない。
 内容的には、どの楽章も同じような展開で、同じような曲調の繰り返しで、馴染みやすいメロディもなく、面白みに欠ける気がした。
 深みと憂愁と耽美の感じられる曲が好きなソルティとしては、がっかり。

 まあ、一回で判断するのは拙速である。
 評価の高い5番、8番、9番を聴いてから、鑑賞レパートリーに入れるかどうか決めることにしよう。
 ちなみに、ブルックナーの交響曲は演奏時間の長さから敬遠される傾向にあるらしい。
 今回の『ロマンティック』も1時間は超えた。
 が、マーラー好きのソルティにとっては100分程度はどうってことない。

 ときに、ブルックナーはロリコンだったという噂。
 ブルックナーがメジャーになりきれないのは、そのあたりも関係しているのか・・・。

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● 嵐のあとの喜ばしい家路: L.v.B.室内管弦楽団 第51回演奏会

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日時: 2023年4月16日(日)
会場: 光が丘IMAホール(練馬区)
曲目: 
  • L.v.ベートーヴェン: 交響曲第6番 ヘ長調 作品68『田園』
  • A.ドヴォルザーク: チェロ協奏曲 ロ短調 作品104 (B.191) 
チェロ: 印田 陽介
指揮 : 苫米地 英一

 今日は、中野ZEROで同じ時間帯に催される中野区民交響楽団定期演奏会と、どちらに行くかで直前まで迷った。
 そちらも、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番&交響曲第6番『悲愴』(指揮:高橋勇太)という鉄板の人気プログラム。
 チェロかピアノか、ベートーヴェンかチャイコか、練馬か中野か。
 結局、ドヴォコンことドヴォルザークのチェロコンチェルトの美しくも妖しい魔力に抗いがたく、光が丘に足を運んだ。
 新緑鮮やかな光が丘公園は、日曜の午後を楽しむたくさんの人であふれ、すっかりコロナ前の日常に戻っていた。
 思えば、どっちの演奏会に行くか迷うという贅沢も、数年ぶりである。
 i-amabileの演奏会リストによれば、4月のアマオケ演奏会登録件数は114件。
 これはコロナ前(2019年)同月の95件をしのぐ過去最高件数である。
 めでたい、めでたい。

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光が丘IMAホール
到着した時は青空が広がっていたが・・・

 ときに、ベートーヴェン『田園』を聞くと、昔働ていた自然食品店のことを思い出す。
 店内にはいつもクラシック音楽が流れていた。
 業務用BGMを配信する会社と契約していたのである。
 お買い物のBGMであるから、暗い曲や重たい曲や小難しい曲はなくて、軽やかで明るい癒し系の曲が何曲かプログラミングされ、それが一日中リピートする。
 とくによく流れていたのが、『田園』第1楽章だった。
 タイトル通り、牧歌的で明るく心浮き立つ曲なので、お買い物する人にとっては耳に心地よく、(たぶん)購買欲をそそるものなのだが、店内にいて一日中リピートを聴く者にとっては事は別。
 そもそもが、渦巻きのように旋回するメロディが幾度となく繰り返される曲である。
 それを何度もリピートされると、うざったくて仕方ない。
 無限回廊にはまったような気分になる。
 たいてい、そのうち店員の誰かが「もう、やめて~!」と悲鳴を上げて、電源を切るのであった。
 あれから20年以上経つけれど、トラウマなのか、今でも第1楽章にはウザったさを感じる。
 他の人はどうなんだろう? 
 けれど、このウザったさあればこそ、第2楽章の清冽が癒しとなるのは確かである。

 ドヴォコンは、オケもチェロ独奏の印田陽介も素晴らしかった。
 印田のほぼ真正面、前から4列目にいたので、手の動きがよく見えた。
 鮮やかなテクニック、メリハリの効いた力強い演奏に感服した。
 オケもよく頑張ったと思う。
 個人的に、この曲の第1楽章は、すべてのクラシック音楽の中で、マーラーの交響曲第9番第1楽章と並ぶ傑作だと思う。
 とくに、ソナタ形式の提示部(ABAB)が終わって、展開部に入ってチェロが静かに語り出す低音の調べが、「明」でもない「暗」でもない、この世の秘密に触れている気がして、いつもここで背筋が寒くなる。
 こんなことを努力もなくできてしまうドヴォルザークの天才にはたまげる。
 ブラームスが羨ましがったというのもよく分かる。
 ドヴォルザークくらい天上に近いところに最初からいた作曲家は、モーツァルトのほかあるまい。(ベートーヴェンは苦労してそこに辿りついたという気がする)

 演奏会が終わって会場を出たら、よもやの雷鳴と土砂降り。
 急激に天気が変わっていた。
 しまった! 傘がない!
 が、10分ほど雨宿りしたら、陽が射して青空が戻ってきた。
 東の空に、うっすらと虹がかかった。
 まるで、『田園』第4楽章「雷雨、嵐」から第5楽章「嵐のあとの喜ばしい感謝の気持ち」をなぞるような光景。
 雨に洗われた光が丘公園の緑を縫って、家路に着いた。
  

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● 本:『作曲家◎人と作品シリーズ マーラー』(村井翔著)

2004年音楽之友社

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 ショスタコーヴィチ編に続き、マーラー編を手にとった。
 ユニークなのは、著者の村井は音楽学者や音楽評論家ではなく、フロイト、ラカン精神分析学と20世紀オーストリア文学を専門とする大学教授であるところ。
 神経症を患っていた晩年のマーラーがフロイトと会って、「精神分析的な会話」を持ったことはよく知られている。
 マーラーはその会話から、自分自身についての気づき(たとえば「母親への固着」)や、自らの音楽についての気づき(たとえば「崇高な悲劇性と軽薄な娯楽性の併置」)を得たという。
 本伝記の一番の特徴は、フロイト精神分析学的視点から、マーラーやその妻アルマの言動やマーラーの楽曲を読み解いているところだろう。
 「エディプス・コンプレックス」「無意識の願望」「隠蔽記憶」「否定」「反動形成」といった専門用語が出てくる。
 フロイトを知らない読者にとっては、ちょっと難しいかもしれない。
 ある程度、精神分析をかじったことのある人にとっては、とても興味深い内容である。

 読んでいて最も合点がいった箇所、「うんうん、そのとおり!」と思ったのは、マーラーとベートーヴェンの音楽を比較した次の文章であった。

 ベートーヴェンの音楽は目的地が明確で――ソナタ形式は再現部とコーダを目指して進む――展開が必然的であるがゆえに、聴き手は常に注意を集中して聴いていなければならず、自由な連想が入りこむことを許さない。・・・(中略)・・・つまり、そこではまだ作曲家が音楽作品の構造と時間を完全にコントロールしうると信じられていたのであり、聴衆にもそのような聴き方が要求されていたのだ。

 これに対し、硬直した作曲技法のアカデミックな規範や芸術音楽/通俗音楽という二分法に対する反逆という形でマーラーが試みたのは、閉塞した「現実のヴェール」を引き裂き、もはや不可能なユートピアとしての「自然の音」をかいま見させることであった。だから、もはやベートーヴェンのように聴き手の主体を縛る力を持たぬマーラーの音楽は、「突発」の瞬間さえ聴き逃さぬようにすれば、後は緊張を解いて無意識的な連想に身を委ね、ある程度リラックスした状態で聴き流すことができる。そうでなければ、演奏時間80分もの交響曲を聴き通すことはできまい。これが、多様な受容に対して「開かれた」マーラー音楽の特性を形作っているのだ。

 ベートーヴェンやブラームスなど古典派やロマン派の交響曲を聴きなれた人が、マーラーに「開眼する」とはまさに上記のことなのだと思う。
 作曲家によってコントロールされた「構造と時間」――それは現代人にとっても、偉大で、美しく、感動的なものには違いない――を十分に味わうためには、聴き手もまたその「構造と時間」を理解して、そこに入り込まなければならない。
 その聴き方に慣れてしまったクラシック愛好家がマーラーの音楽をはじめて聴いたとき、それはつかみどころがなく、構造も破綻していて、ただただ冗長に感じられる。
「なんだこれ? この精神分裂的な騒音モドキのどこがいいのか? もう眠るしかない」
と、「構造と時間」を理解するのを諦めて、客席に身を沈め、半ば無意識状態になって、次々と向きや強さや深さや透明度を変えていく流れにただ身をまかせたとき、マーラーの音楽の面白さが発見できる。
 あえて言えばそれは、「自我」の明け渡しみたいなものだ。
 「自我」を明け渡すことで、その一層下にある「無意識」と出会う感じ・・・。

 考えてみたら、マーラーの音楽は夢と似ている。
 よく知っている平凡なストーリーの中に、唐突に無関係な事物が入り込んで来て、まったく別の方向に持っていかれ、整合性も必然性もないトンチンカンな場面が連続し、しかし、それ(夢)を見ている当人は何の不思議も感じていない。
 だけど、感情的な部分ではつながりがあるので、目覚めたときには、たとえ夢の内容を覚えていなくとも、その感情の余韻だけは枕元に漂っている。

初夢

 本書後半には、マーラーの代表的な曲の解説が載っている。
 驚いたのは、少なくとも交響曲はすべて扱っているだろうと思ったら、第2番『復活』と第8番『千人の交響曲』が抜けている。
 著者はこの2曲をあまり評価していないらしい。
 第2番と第8番は、マーラーが生きている間に自らの指揮で初演し大成功を収めた決定的作品で、死後も傑作の名をほしいままにし、一般的人気も高い。
 第2番にとりつかれ、第2番を演奏するためだけに、中年になって実業家から指揮者に転身したギルバート・キャプランという男もいるくらいである。 
 個人の好みは自由であるし、紙幅の関係もあるのだろうが、本書が村井の独立した単著ではなく、「人と作品」シリーズの一巻であることを考慮すれば、ずいぶん思い切った“断捨離”である。

 最後に――。
 やはりアルマとの出会いがなければ、マーラーはマーラー足り得なかった、少なくとも、第5番からあとの交響曲は生まれていなかったか、まったくつまらないものになっていたんじゃないか――。
 本書を読んであらためてそう思った。
  
 

おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損







● キャッチ22 : みなとみらい21交響楽団 第24回定期演奏会


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日時: 2023年4月1日(土)14:00~
会場: ミューザ川崎シンフォニーホール
曲目: 
  • セルゲイ・プロコフィエフ: バレエ音楽『ロメオとジュリエット』第2組曲
  • ドミトリ・ショスタコーヴィチ: 交響曲第10番
  • 《アンコール》 アレクサンドル・モロソフ: 交響的エピソード「鉄工場」
指揮: 田部井 剛

 ロシアv.s.ウクライナ戦争が始まってから、ロシア(ソ連)出身の芸術家が矢面に立たされるような状況が続いているが、国内の演奏会でもまた、ロシア(ソ連)の作曲家が取り上げられる機会が減っているようだ。
 とりわけ、スターリン独裁時代のソ連で、体制賛美の国民的作曲家として“利用された”ショスタコーヴィチの凋落が激しい。
 i-Amabileの「演奏される機会の多い作曲家ランキング」を見ても、ここ40年間30位以内をキープしていたショスタコーヴィチが、2020年以降は圏外に落ちている。
 ショスタコーヴィチを演奏する=ソ連(ロシア)の味方、みたいなイメージがあるのだろうか。
 としたら、残念な話である。

 アメリカ作家ジョセフ・ヘラーが1961年に『キャッチ=22』(Catch-22)という小説を発表した。
 堂々巡りの戦争の狂気を描いた作品としてベストセラーとなり、1970年にはマイク・ニコルズ監督により映画化された。
 その後、「キャッチ22」という言葉は、「ジレンマ、板挟み(の状況)、不条理な規則に縛られて身動きが取れない状態、お手上げ」を意味するスラングとして定着した。
 I'm in a catch-22 situation. (どうにもならない状況です)のように使う。
 ショスタコーヴィチの伝記を読んでいて浮かんでくるのは、この「キャッチ22」という言葉である。

 「才能ある芸術家としての自由な表現=ショスタコーヴィチの個性や魂」が、「スターリン独裁体制=ファシズム共産主義」の圧迫によって窒息寸前にまで追い詰められ、文字通り生きのびるために体制に肯定される曲を作らなければならなかった。
 一方、魂を殺してしまっては元も子もない。
 まさに板挟み。 
 そこで苦肉の策として、ベートーヴェン由来の交響曲の伝統的な型であり、かつマルクス主義者の好きな「苦闘から勝利へ」というドラマになぞらえることのできる《暗から明へ》によって、表面的には体制順応的な姿勢を見せながら、実質は「殺される危機にある魂の叫び」を表現したのではないか。
 ――というのが、現時点のソルティのショスタコーヴィチ観である。
 周囲の社会が、政治的状況が、作曲家としてのスタイル(文体)を決定した典型的なケースのように見える。
 もっともそこには、作曲家廃業、あるいは体制への徹底的抵抗、あるいは他国への亡命、のいずれをも選ばなかったショスタコーヴィチ自身の性格や生き方が反映されているわけであるが・・・。
 
 結果的に見れば、「キャッチ22」状態において作られた数々の曲が、白黒はっきりつけられない、混沌として複雑極まる世界の中で生きる、現代人の閉塞した状況を見事に表現しているわけで、その意味ではやはり、時代に選ばれた作曲家なのだと思う。

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 交響曲第10番は、宿敵とも言えるスターリンの死(1953年3月)の直後から作曲され、同年12月に発表された。
 雪解けの気配は漂っているが、まだまだ先の見通しは立たない。(スターリンの衣鉢を継ぐ、スターリン以上の暴君が出現するかもしれない)
 しかし、ともあれ独裁者は死んで、希望の光が生まれた。
 ソビエト社会も国民も混乱していたことだろう。
 今回はじめて10番を聴いて頭に浮かんだ単語は、まさに「混乱」であった。
 構成の混乱、主題の混乱、曲想の混乱、曲調の混乱・・・ショスタコーヴィチの混乱した精神状態がそのまま楽譜に写し取られたような感じを受けた。
 
 この日の午前中、コロナワクチンの5回目接種をした。
 副反応のせいか、頭がポーっとなっていた。
 前半のプロコフィエフ『ロメオとジュリエット』は、半スリープの朦朧状態で聴いた。
 休憩後にやっと起動したけれど、いま一つ身が入らなかった。
 「混乱」という印象は、聴き手に要因があったのかもしれない。
 機会あれば、また聴いて確かめたい。
 
 アンコールは、昨年10月のクラースヌイ・フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会で聴いたA. モソロフ作曲の『交響的エピソード《鉄工場》』。
 指揮者の田部井は、工事現場用ヘルメットをかぶり、ハンマーを手に登場した。
 オケの数名も色とりどりのヘルメットをかぶった。
 以前、別のオケでアンコールに「スターウォーズのテーマ」をやった時は、ダースベーダーの恰好で指揮していた。
 こうした遊び心がこの指揮者の身上である。

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川崎駅







 
 

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