ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

ライブ(音楽・芝居・落語など)

● That’s Verdi !! 真夏のレクイエムこうとう2019

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日時  2019年8月18日(日)15:00~
会場  ティアラこうとう大ホール(東京都江東区)
主催  公益財団法人 江東区文化コミュニティ財団 ティアラこうとう

曲目  ヴェルディ:『レクイエム』
指揮  飯守泰次郎
管弦楽 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
合唱  ティアラこうとう真夏のレクエム合唱団
独唱  
    ソプラノ:横山恵子
    メゾ・ソプラノ:金子美香
    テノール:望月哲也
    バリトン:大沼徹


 ヴェルディの『レクイエム』ははじめて聴く。もっとも、その一部分――有名な「ディーエス・イレ(怒りの日)」の冒頭――は、映画やテレビなどで頻繁に耳にしていたが。
 むろん、ヴェルディのオペラ以外の曲を聴くのもはじめてである。 

 レクイエム(鎮魂歌)はミサ曲、つまりキリスト教の典礼音楽なので、クリスチャンでないソルティは積極的に聴こうという意欲をこれまで持たなかった。
 今回、たまたま知人からチケットをもらったので、「これも縁」と出かけることになった。そう、3日前に長崎の原爆被害を描いた『この子を残して』を記事に上げたばかりであった。 


フルトヴェングラー 001
ティアラこうとう


 月並みな感想であるが、「やっぱりヴェルディはオペラ作家だなあ~」と思った。
 彼が作ったオペラの名曲の数々——『椿姫』、『イル・トロヴァトーレ』、『アイーダ』、『オテロ』、『仮面舞踏会』ほか——に比べて見劣り、ならぬ聞き劣りすると言いたいわけではない。この『レクイエム』もまた、「しっかりオペラだ!」と言いたいのである。

 つまり、典礼音楽にしてはあまりにドラマティックで、華麗で、面白かった。タイトルを聴かずに耳にしたら、「ノアの箱舟」や「トロイ戦争」あたりを題材にした叙事詩オペラと言われても違和感ない。これがもしラテン語でなくイタリア語で歌われたら、もうイタオペそのものだろう。
 聴く前に持っていた「途中で眠ってしまうかもしれない」という懸念は、まったくの杞憂であった。それくらい迫力満点の、ジェットコースターに乗っているかのようなめくるめく体験であった。

 オケも合唱も言うことない出来栄えであったが、とくに独唱バリトンの大沼徹の声が素晴らしく、聞き惚れた。長身で若々しく清潔感あるルックスも良かった。次は生のオペラで聴いてみたい、見てみたい人である。『トロヴァトーレ』のルーナ伯爵あたりとか。
 
 「死者の安息を願う」というレクイエム本来の役割からすれば、この曲はちと逆ベクトルな感がある。
 現世的で、血の気が多くて、感情に満ち溢れ、気分を昂揚させる。

 That’s Verdi !!

 傑作には間違いない。



評価:★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 


 
 
  

● 映画:『ボヘミアン・ラプソディ』(ブライアン・シンガー監督)

2018年イギリス、アメリカ
134分

 クイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーの伝記映画。日本でも大ヒットとなったのは記憶に新しい。

 見どころ(聴きどころ)は、主演ラミ・マレックのフレディ本人が取り憑いたかのようなソックリさん演技、そして何といってもクイーンの音楽であろう。こうしてあらためて聴いてみると、ほんとうにオリジナリティあふれる名曲揃いである。ロックに興味ないソルティでも知っている曲ばかりなのだから・・・。
 
 フレディの人生を語るに避けて通れないのは、ゲイというセクシュアリティと、死因となったエイズであろう。90年代初頭、フレディは俳優のロックハドソン、画家のキース・へリング、写真家のロバート・メイプルソープらと並ぶ「エイズ=同性愛=死」のイコン(ICON)であった。映画では、フレディが自らのセクシュアリティを認め受け入れるのに葛藤する姿や、HIV感染の事実をバンド仲間らに伝えるシーンが出てくる。(どちらもあまり深刻には描かれていないが)

 また、映画のクライマックスとして、名だたるスター歌手たちと共演した1985年のライヴエイド(アフリカ難民救済チャリティーコンサート)のシーンが登場する。We are the World の曲と共に、当時の先進国のアフリカ支援をめぐる狂騒が懐かしくもよみがえってくるが、結局あれは何だったのだろう? アフリカのために役立ったのだろうか? 
 
 ともあれ、70~90年代の時代の息吹というものを感じさせる映画である。
 つまりそれは、天才アーティストというものは常に、時代と共に、時代を象徴して、生きる存在だということなのである。


評価:★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




 



● 本:『 ドナルド・キーンのオペラへようこそ!』

2019年文藝春秋

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 ドナルド・キーンは今年の2月24日に亡くなった。享年96歳。まさに昭和と平成をまるまる生きた。
 18歳の時に読んだ『源氏物語』(アーサー・ウェイリー訳)に感動して日本文学・日本研究を志し、毎年のように来日。一年の半分をニューヨーク、残りを日本で過ごした。川端康成、谷崎潤一郎、三島由紀夫、安部公房ら名だたる文豪と交流を結び、古典現代を問わず日本文学を海外に翻訳・紹介した。サイデン・ステッカー(1921- 2007)とともに日本文学にとって恩人と言っていい存在である。能や文楽や歌舞伎など古典芸能にも詳しかった。ソルティは大学1年のとき、キーンの半生記である『The Blue-Eyed Tarokaja (青い目の太郎冠者)』を英語のテキストとして読んだ記憶がある。

 キーンはまた大変なオペラゴアー(goer)でもあった。
 おそらく、同時代の日本のどんな音楽評論家も、どんな指揮者や演奏家も、どんなクラシックマニアも敵わないくらい本場の生オペラを観ている。本書の巻末には 1961年から2018年までのキーンのオペラ鑑賞記録が掲載されているが、350本近くある。一シーズン6本くらい観ていることになる!
 しかも、同時代の日本人がどう頑張っても敵わないのは、海外への渡航が難しかった時代に、世界のあちこちの劇場で伝説的名歌手による伝説的名演に接している点である。
 たとえば、キルステン・フラグスタートとラウリッツ・メルヒオールによる『トリスタンとイゾルデ』とか、マリア・カラスの『ノルマ』、『トスカ』、『椿姫』、『ランメルモールのルチア』とか、エツィオ・ピンツィアの『ドン・ジョヴァンニ』とか、エリーザベト・シュヴァルツコップフの『ばらの騎士』(元帥夫人)とか・・・。戦後黄金時代のオペラを肌で知っているのだ。
 本書には、キーン少年とオペラとの出会いから始まって、豊富なオペラ体験にまつわる愉快なエピソードや有名オペラの作品論、好きな歌手たちへのオマージュ、とくにアリア・カラスの思い出などが綴られている。

 キーンは、2011年に日本国籍を取得し、日本永住を表明。その後、浄瑠璃三味線の奏者である上原誠己を養子にとって一緒に暮らしていた。本書「あとがきに代えて」では、キーン誠己が父キーンから受けたオペラ教育の模様が描かれている。 

父の教え方の基本は、日本文学を教えるときと同様、知識を詰め込むのではなく、作品のもつ面白さ、楽しさ、美しさを自分自身が作品の中にはいり込んで伝える、ということだと思う。それはまさに「情熱」という一語に置き換えられる。


 オペラ好きなら読まないという選択肢はない。



評価:★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損








● 半世紀の品格 :上智大学管弦楽団 第108回定期演奏会

日時 2019年6月15日(土)19:00~
会場 江戸川区総合文化センター 大ホール
曲目
  • ベートーヴェン:序曲「コリオラン」 
  • シューベルト:交響曲第7番「未完成」 
  • ドヴォルザーク:交響曲第8番
指揮:汐澤安彦

 江戸川区総合文化センターは、総武線新小岩駅から歩いて15分の住宅街にある。新小岩の二駅先が市川、千葉県である。埼玉にあるソルティの家から2時間以上かかる。
 篠つく雨の中をこんな遠いところまで足を運んだのは、汐澤安彦の音楽を聴かんがためであった。
 評判は耳にしていたものの、これまで聴く機会がなかった。

 下町イメージの強い江戸川区に、広尾か青山の高級住宅街のような流水と緑に囲まれた閑静でハイソな一角があり、そのど真ん中に真新しく立派な文化センターはあった。
 15年以上前になるが、この裏手にある江戸川保健所までエイズ検査を受けに来たことがある。結果の待ち時間に周辺を散策したが、ずいぶん辺鄙な、潤いに欠けた土地だなあと思った。
 変われば変わるものである。


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 汐澤を聴くのがはじめてなら、上智大学管弦楽団を聴くのもこれがはじめて。
 汐澤はなんと1965年から同楽団の常任指揮者を務めている。すでに半世紀以上。子飼い、いや孫飼いのオケと言っていいだろう。
 その上手さは、一曲目の「コリオラン」で瞬く間に了解された。
 現在、音大系をのぞいて、大学オケでこれほど上手いところはなかなかあるまい。早稲オケ慶応ワグネルも上手いと思ったが、上智オケは大人度が高い。学生の出す音とは思えない。大学オケのみならず、数あるアマオケの中でも五指に入る、少なくとも十指に入るのではなかろうか。
 しかも、全体的に上手いだけでなく、ソロパートも優れていた。汐澤はじめトレーナーによる鍛え上げの成果であろう。

 二曲目の「未完成」こそ、今宵一番の衝撃であった。
 ソルティの中でシューベルト(1797-1828)は、モーツァルト(1756-1791)とベートーヴェン(1770-1827)の間に位置する存在であった。生まれ年では、ベートーヴェンより30年近く遅いのだが、なにせ早死に(31歳!)だったので、その生涯はベートーヴェンの後半生にほぼ重なってしまう。
 なので、ロマン派音楽の幕開けを華々しく飾った感のある後期ベートーヴェン(たとえば『第九』)に比べると、どちらかというと古典派であるモーツァルトに近いような印象があった。歌曲や室内楽のような(宮廷やサロンで演奏される)小品に傑作が多いことも影響しているかもしれない。
 最も有名な『未完成』もまた、流麗でわかりやすく美しいメロディのため、モーツァルトの交響曲40番の系列、つまり “BGMになり得る” 心地よい音楽として聴いていた。
 しかるに、このイメージが打ち破られたのである!

 この曲がこれほど堂々たる交響曲であるとは思わなかった。
 なんとまあ多彩で、深みがあり、風格あることか!
 それぞれの楽器が細やかに歌っていることか!
 汐澤の指揮は、この曲に深さと厚みと品格を与え、ベートーヴェンの交響曲と比してまったく遜色ない、まぎれもないロマン派の傑作であることを教えてくれた。
 とりわけ、唸らされたのは品格である。
 深さと厚みはある程度テクニックで引き出すことができようが、品格は気質である。小手先でどうこうできるものではない。
 これこそは、汐澤と上智オケとの長年の交流が醸造させたエッセンスなのであろう。
 どんなエログロ、どんな暴力的な題材を取り上げようとも下品には決してならない大島渚監督の作品群を想起した。
 
 三曲目のドヴォルザークはもはや言わずもがな。
 牧歌的で心浮き立つ汽車の旅をしているうちに、つい微睡んでしまい、目覚めたらいつのまにか天上へと続く光の軌道を走っていた、といったイメージが浮かぶ第8番。
 品格の輝きは、この曲に神々しさをもたらした。一瞬、ゲーテ『ファウスト』の最終シーンを垣間見たほど。
 汐澤と上智オケによるマーラー『復活』や8番を聴いてみたいものである。

 遠路はるばる来た甲斐あった。



評価:★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損







● オペラDVD:ヴェルディ作曲『アイーダ』(リッカルド・シャイー指揮)

2006年12月ミラノスカラ座ライブ(DECCA制作)

指揮:リッカルド・シャイー
演出:フランコ・ゼッフィレッリ
ミラノスカラ座管弦楽団・合唱団・バレエ団
キャスト
 アイーダ : ヴィオレッタ・ウルマーナ
 ラダメス : ロベルト・アラーニャ
 アムネリス : イルディコ・コムロージ
 国王 : マルコ・スポッティ
 ランフィス : ジョルジョ・ジュゼッピーニ

 オペラの殿堂ミラノスカラ座の2006年シーズン幕開けに、なんと20年ぶりの新演出で組まれた『アイーダ』である。
 戦後のオペラ界に帝王のごと(女帝のごと?)君臨し続けた名演出家ゼッフィレッリを持ってくるあたりに、スカラ座の威信と誇りをかけた取り組みが感じられる。たしかに昨今はニューヨークのメトロポリタン歌劇場に押され気味だし・・・。
 
 この上演は、超一流の指揮者とオケと歌手とダンサーを揃え、ゼッフィレッリお得意の豪華絢爛にしてオーソドックスな大衆受けする演出のもと、スカラ座の名に恥じない大舞台に仕上がっている。
 が、何かが足りない。
 観ていて退屈を感じてしまう。
 すべてが高レベルで揃っているのは間違いないが、それが裏目に出て、なんら特色ない最初から及第点を狙っただけの舞台になっているように感じられた。
 終幕後の長々と続くスタンディング・オベイションには納得いかないものがある。
 
 歌手もアムネリスのイルディコ・コムロージの熱演をのぞけば、情熱の感じられない紳士淑女的な歌唱と演技に終わっている。
 アイーダ役のヴィオレッタ・ウルマーナは美声だが、声に芯がなく心に響いてこない。演技も重々しいばかりで、人質となったヒロインの苦悩は感じられるが、ラダメスへの愛は感じられず。そのせいか華やぎがない。
 ラダメス役のロベルト・アラーニャは、さすがにベテランの歌い回しで、聴かせどころを押さえている。が、声に張りがない。(二日目の舞台で客席からブーイングを受け、途中降板したとのこと)
 
 このプロジェクトが行われた2006年と言えば、当時スカラ座の総支配人であったカルロ・フォンタナと音楽監督リッカルド・ムーティの対立に端を発したお家騒動がやっと終息し、新体制で船出したばかりだった。思い切った冒険をするよりも、安全牌を揃えて成功の裡にいいスタートを切りたかったのかもしれない。
 過分に思える客席の拍手喝采も、お家騒動の終息を喜び、新体制を応援していこうという根強いスカラ座サポーターたちの心意気の表れなのであろう。


スカラ座
ミラノ・スカラ座


評価:★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損










 
 

● オーケストラ・マトリョーシカ第11回定期演奏会

とき  2019年3月21日(木・祝)14時~
ところ ルネ小平 大ホール(東京都小平市)
曲目
  • ラヴェル : 道化師の朝の歌
  • ラヴェル : ラ・ヴァルス
  • チャイコフスキー : 交響曲第5番 ホ短調 作品64
  • アンコール チャイコフスキー : 『くるみ割り人形』より「花のワルツ」
指揮  森川 慶

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小平市は昔ながらの赤いポストがご自慢


 ポカポカ陽気で風が強い。花粉症には最悪の天気である。
 しばらく前から、目はショボショボ、頭はボーっとしている。
 「毎日が日曜日」の身には取り立ててそれで困ることもないのだが。

 マトリョーシカの演奏会は2回目である。
 前回は、ヴェルディ『運命の力』序曲とベートーヴェン交響曲第5番『運命』であり、今回はこれまた「運命のモチーフ」を奏でるチャイコの5番である。運命好きのオケなのか、ソルティが運命に呼ばれているのか。
  
 祝日かつ入場無料ということもあって、1229名収容の大ホールは7割がた埋まっていた。
 どういうわけか、独り者のおじさんは前の方にかたまる。ソルティも前半は前から5列目あたりに座っていたが、後半は舞台がよく見えて音が全体として聴こえる2階席に移動した。

 ラヴェルの「ラ・ヴァルス」は素晴らしい曲。
 混沌とした渦の中からラヴェルらしい美しいヴァルス(ワルツ)の調べが立ち上がって、泥中の蓮のごと凛と輝き、馥郁たる香りを放ち、やがてまた混沌に還っていく。一瞬のホログラムのような、幻のような、はかない印象が、かえって美しさを引き立てる。あたかも、夭折した美しき女優のよう(たとえば夏目雅子)。

白い蓮



 チャイコフスキー5番を聴きながら、運命について思索でもしようかと思ったのだが、やはり花粉症の影響か、曲にも思索にも入り込めなかった。残念。

 それにしても、それなりのレベルのクラシック演奏を立派なホールで無料で聴くことができる今の日本の文化環境って、ほんとうに有難い。
 チャイコが知ったら、己の呪わしき運命をきっと肯定する。



評価: ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 100年に1人の名歌手 オペラ: ドニゼッティ作曲 『シャモニーのリンダ』

1996年9月チューリッヒ歌劇場におけるライヴ収録(DVD)
イタリア語

指揮:アダム・フィッシャー
演出:ダニエル・シュミット
チューリッヒ歌劇場管弦楽団&合唱団
キャスト
 リンダ : エディタ・グルベローヴァ
 カルロ : デオン・フォン・デル・ワールト

 『シャモニーのリンダ』は、有名なオペラとは言えないし、ドニゼッティの作品の中でもとくに優れているとは言い難い。主役を歌うのが人気実力兼ね備えたよほどの名歌手でなければ、わざわざ上演するほどの演目ではない。集客も期待できまい。
 この舞台が成った一番の理由、このライヴが収録されDVDとして発売されるに至った一番の理由は、主役リンダをつとめた稀代の名ソプラノ歌手エディタ・グルベローヴァの歌唱にあるのは、誰もが認めるところであろう。
 スイス出身の往年の名監督ダニエル・シュミットの名が演出に上がっていることも、確かに興味を引く一因ではあるが、幕が上がってしまえば、観客のすべての集中は、舞台セットや美術や歌手たちの動きではなく、グルベローヴァの声に絞られる。

 1946年生まれというから、この時ちょうど50歳。
 若々しい容姿にも驚かされるが、衰えを感じさせない声の美しさと威力とテクニックは、「いったい、この人は何を食べているんだろう?」と思わずにはいられない。クレオパトラは美貌を保つために真珠を溶かした酢を飲んでいたと言われるが、グルベローヴァは毎朝赤マムシドリンクかウグイスの糞でも飲んでいるのでは?
 ウンカの如く出現しては消えていった歴代ソプラノの中で、彼女の声だけは絶対に他の歌手のそれとは聞き違えられることはあり得ない。本当に独特の声である。玲瓏な玉のような滑らかさと、清代の陶磁器のような艶を持ち、自在に音階を滑り降りするさまは炎の舞いのよう。それも冷たい青い炎だ。幕切れの変ホ音(2オクターヴ上のミのフラット)も見事に決めている。使い馴れた楽器のように自らの声を完璧にコントロールしているその知性は言わずもがな。


青い炎


 若く才能あるソプラノ歌手が登場するたびに、「100年に1人の逸材」といった文句で持て囃されるのは今も昔も変わりない。が、本当に「100年に1人」なのかどうかは、時の判定を待たなければならない。運よく世界の檜舞台に立てても、その実力と名声を持続し続けるのは難しい。
 グルベローヴァは1970年代に頭角を現し、「コロラトゥーラの女王」として世界の一流劇場で歌い続け、その後は声の変化と共にレパートリーを次第に広げ、いつのまにか「ベルカントの女王」として君臨し、2000年代に入ってついにソプラノ歌手の頂点たるベッリーニの『ノルマ』を歌い成功させた。昨年10月に日本最後のリサイタルをしたらしい(72歳!)。

 もはや、「100年に1人の名歌手」と断言しても間違うことはあるまい。



評価: ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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● 生きられなかった苦しみ : マーラー交響曲第10番(オーケストラ・イストリア第3回演奏会)

日時: 2019年3月9日(土)14:00 開演
会場: 武蔵野市民文化会館 大ホール
指揮: 齊藤 栄一
曲目: グスタフ・マーラー 交響曲第10番 (クック版最終稿)


 今回も最初から最後までチャクラが疼きっぱなしであった。胸、みぞおち、股間、眉間、頭頂・・・・楽章が移るごとに、主題が転じるごとに、主要となる楽器が入れ代わるごとに、刺激される部位も目まぐるしく変化し、閉じた瞼の裏側で光が躍った。演奏会が終わって家に帰っても1時間以上、額に温シップしているかのような前頭葉の火照りとマイルドな疼きは続いた。


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 これが起こるのはその日の演奏が良かったことの証明みたいなもので、事実、齊藤栄一率いるオーケストラ・イストリアの演奏は優れていた。
 が、単純に「良かった」とは言えない。なぜなら、演奏が良ければ良いほど、曲のテーマが優れて表現されればされるほど、「つらい」「きつい」と感じざるを得ないのが、このマーラーの遺作たる第10番だからである。つまり、「良かったけれど、つらかった」という矛盾するような感慨で曲を聴き終わった。
 指揮棒が下りても少なくとも3分間、ソルティは椅子に深く沈み込んだまま、拍手に加われなかった。マーラーによって、斎藤とイストリアによって、連れていかれた煉獄巡りからなかなか帰還できなかったのである。よくまあ、他の聴衆はすぐさま気持ちを切り替えて拍手喝采できるなあと思った。中には、指揮棒が下りないうちから拍手を始める手合いもいて、あれはさすがに、マーラーの何たるかも、音楽の何たるかも、人生の何たるかも分かっていないお猿さんなのであろう。
 一橋大学管弦楽団では「マーラー交響曲9番を毎年演奏する」という伝統があったそうで、そのOB・OGを中心に2015年結成されたイストリアがマーラーとの親和性が高いのも頷ける。


兼松講堂
一橋大学国立キャンパスの兼松講堂


 第10番を全曲聴いたのははじめてであった。
 ソルティの持っているバーンスタイン指揮による「マーラー交響曲全集(ソニークラシカル)」は、第10番は第1楽章しか収録されていない。マーラーがまがりなりにもオーケストレーションまで完成させたのは第1楽章だけで、あとは未完のまま、51歳の生涯を終えたからである。
 その後、音楽学者のデリック・クックが、遺された楽譜や関連資料をもとに補筆し、最後まで演奏できる形に仕立て上げた。これがいわゆるクック版である。
 なので、今回聴くにあたって、好奇心逸る一方で、第1楽章とそれ以降の楽章とではギャップがあるのではないか、楽章が進むほどに見劣り(聞き劣り?)するのではないかという懸念があった。
 が、それは杞憂であった。ソルティレベルの耳では、未完成という事実を知らないで聴いたとしたら、そのことに気づかなかったであろう。

 第1楽章の悲痛と愁嘆の色合いは凄まじい。作曲中に最愛の妻アルマの不倫を知ったことによるショックが反映しているのか。
 第2楽章はリズムの刻み方がとてもユニークで面白い。最後の最後まで新しさを追求し工夫する天才マーラーの面目躍如である。
 第3楽章の短さは意外や意外。
 あえて言えば、第4楽章がラフ(粗雑)な印象を受けた。が、最後に入る大太鼓には吃驚させられた。交響曲第6番のハンマー音を凌駕する運命からの容赦ない崩壊の宣告。
 これが最終楽章まで続き、これまでに獲得され積み上げられてきた生の戦利品すべてが、破壊され、奪われ、なし崩しにされてゆく。残るは死を前にした敗残者がすがりつき慰めとする美しき愛の思い出のみ。なんとも痛切な終焉である。
 第10番は未完で良かったのかもしれない。これが完成され演奏されたあかつきには、聴いた後で自殺する人が出ていたのではなかろうか。

 マーラーは自らの人生の喜びと苦悩の両方を音楽として表現し尽くすことで、近代人の喜びと苦悩の極限を描いたのだと思う。それこそ、あと一歩超えたら天界で遊ぶことができるほどの喜び、あと一歩超えたら引き戻せなくなる狂気すれすれの苦悩である。
 第10番には、ふと交響曲第1番『巨人』を思わせるフレーズが散見される。あの青年らしい希望と野心と不安とに満ちた(「選ばれし者の恍惚と不安、二つ我にあり」byヴェルレーヌ)第1番から幾星霜、かつてあった喜びは次第に影を潜め、潜在下に抑えられていた苦悩が頭をもたげ存在を主張し、「おお、マーラーよ、あなたはこんなところまで己れを追い込んでしまったのか!」と慄然とせざるをえない。
 誰よりも高みを目指し、誰よりも美しいものに憧れ、誰よりも多くを求めたがゆえの、すなわち誰よりも強い自意識を持していたゆえの、マーラーの近代人としての典型性がここに成ったのだと思う。

 一方で、マーラーの思い及ばなかったことがある。
 あの大太鼓の不吉な連打に、ソルティは、ユダヤ人マーラー亡き後のヨーロッパを覆いつくした本物の地獄と狂気を連想せざるを得なかった。ナチスドイツとアウシュビッツである。そこでは人生を始める前に摘み取られていく若い命があまりにもたくさんあった。

 生きることの苦しみは、生きられなかった苦しみに比べれば、そう悲惨でも残酷でもないように思われる。少なくともマーラーは、表現する自由と喜びを最後まで保ちえたのであるし、その人生は決して未完ではなかった。



評価: ★★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● マーラー『復活』 : カラー・フィルハーモニック・オーケストラ第12回演奏会

復活の光



日時 : 2019年3月3日(日)19:30開演
会場 : 杉並公会堂・大ホール
曲目 : マーラー/交響曲第2番「復活」
指揮 : 金山 隆夫
独唱 : ソプラノ  浪川 佳代 、 アルト はやかわ 紀子
合唱 : 合唱団ACE

 日曜の午後7時半という開演時刻にも関わらず、場内は8割がた埋まっていた。
 さすがマーラー、さすが「復活」。

 カラー・フィルハーモニック・オーケストラは、2014年8月より活動スタートしたアマオケで、後期ロマン派の楽曲を中心に演奏している。初めて聴いたが、息がピッタリ合っていて、安定度が非常に高い。
 「こんなにうまいアマオケがいたのか!」と驚いた。
 金山隆夫の指揮は2度目だが、別オケで聴いた前回は残念ながら真価がわからなかった。今回は、文句なしの名演で、カーテンコールに何度も呼び戻された。
 調べてみたら、第1回演奏会からこのオケの指揮を担当している常任指揮者のような存在らしい。客演の時とまったくレベルが異なったのも道理であった。オケの面々が、金山の思うところをしっかり把握し、表現しているがゆえの完成度なのであった。

 とは言え、指揮者の個性が光る演奏と言うのとはまた違う。奇を衒った仕掛けも、ユニークな解釈も、挑戦的な表現もない。楽譜に忠実に、伝統に逆らわず、丁寧に音をさらった演奏という印象を持った。
 だが、ことこの「復活」に関しては、それが最適だと十分に教えてくれる演奏であった。
 つまり、指揮者の余計な解釈やイメージや下心が入っていないおかげで、作曲者マーラーの意図が素直に伝わってくるように感じられたのである。金山隆夫は、エゴをうまくコントロールできる人なのかもしれない。

 どの楽章も甲乙つけがたく素晴らしい出来で、徹頭徹尾、こちらのチャクラは揉まれっぱなしだった。最終楽章のコーラス入りからは荘厳かつ神秘的な世界を現出し、胸のチャクラが何かを叫んでいるようで、無性に泣けてしようがなかった。
 合唱団ACEは2018年秋に結成された合唱団とのことだが、この質の高さはなんだろう?
 たおやかな澄み切った歌声は教会の聖歌隊もかくやと思うほどであった。

 こんな素晴らしい演奏を無料で聴ける一夜が与えられたことに対して Something Great に感謝した。




評価: ★★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● 整いました!  OB交響楽団 第198回定期演奏会

日時 2019年2月11日(月)14:00~
会場 杉並公会堂大ホール(杉並区)
演目
  • ベートーヴェン  :  レオノーレ序曲 第3番 作品72b
  • チャイコフスキー : バレエ音楽『眠れる森の美女』組曲 作品66a
  • ラフマニノフ : 交響曲第2番 ホ短調 作品27 
  • 〈アンコール〉 チャイコフスキー : 管弦楽組曲第4番「モーツァルティアーナ」より第3楽章
指揮:喜古 恵里香(きこえりか)

 久しぶりのOBオケは、若い女性指揮者のチャイコにラフマニノフと来た。期待せずにはいられない。
 いざ、荻窪へ!
 OBオケにしては珍しく入りはぼちぼち。5割がた空きがあった。三連休の最終日で、寒さも影響したか。

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 プログラムの前半と後半とでこれだけ質の異なる演奏会も珍しかった。
 OBオケの特徴である統一感とスライムのような粘り気と光沢が、前半2曲ではまったく感じられなかった。音がささくれ立っていたし、全体に粗かった。華やかさと優雅さとロマンチックが求められるチャイコフスキーでは、まったくそのエッセンスを取り逃して、どちらかと言えばハチャトリアンの『仮面舞踏会』みたいであった。(そっちをやったほうが良かったのでは?)
 リハ不足?
 選曲ミス?
 指揮者との相性が良くない?
 寒さで手がかじかんでいる?
 核となるオケメンバーが抜けた?
 それとも、ソルティの体調のせい?

 ところがどっこい、後半のラフマニノフは「さすがOBオケ」といった見事な出来栄え。統一感とスライム感は健在であることを証明した。要はこの一曲に力を注いでしまったのだろう。
 とりわけ、第3楽章の出だしのクラリネットソロが哀感たっぷりの音色と表情で、こちらのハートチャクラを直撃した。実に上手い。それに釣られるように他の楽器も柔らかな音色とラフマ的悲哀を歌いだした。
 開いたハートチャクラから入り込んだ音波は、全身へと伝達され、心身が「整い」、知らぬ間に瞑想状態に入っていた。これぞ生の音楽の威力。
 
 指揮の喜古恵里香は、NHK交響楽団首席指揮者のパーヴォ・ヤルヴィのアシスタントをしているとのこと。将来楽しみな女性指揮者である。



評価: ★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 



● ラスベート交響楽団 第37回定期演奏会

日時: 2019年1月20日(日)
会場: タワーホール船堀 大ホール(東京都江戸川区)
曲目: 
  • ボロディン/グラズノフ :歌劇「イーゴリ公」序曲
  • リムキー=コルサコフ: 交響組曲「シェエラザード」 Op.35 
  • カリンニコフ:交響曲第1番 ト短調
指揮:小久保大輔

 久しぶりのクラシックコンサート。

 ラスベート交響楽団は1999年に結成されたアマオケ。ラスベートとはロシア語で「夜明け」の意。グラズノフはじめロシアの作曲家の作品を中心に演奏活動している。

 はじめて訪れたタワーホール船堀は、その名の通り、船の形をした立派なビルディングだった。ホールもまた立派で、750の座席は7割程度埋まっていた。

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 1曲目の「イーゴリ公」序曲ははじめて聴く。
 作品が未完成のまま、ボロディンは亡くなった。その後、ボロディンが一度だけピアノで弾くのを傍らで聴いていたグラズノフが、記憶をたよりに復元させたという。なので、作曲者に二人の名前が併記されている。
 いわれはともかく、色彩豊かな見事なオーケストレーイションで、音の波動がビンビンこちらの眉間のチャクラを刺激する。この感覚も久しぶり。
 やっぱり、ライブに限る。

 2曲目の「シェエラザード」は、フィギアスケートでよく聴く曲である。たしか村主章枝や浅田真央が使用していたと思う。テーマは「千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)」である。酷寒のロシアの凍土に暮らす人々にとって、陽炎立つ灼熱のアラブの大地は憧れなのだろうか。そんなことを思わせるロマンティックで幻想的な曲である。

 3曲目のカリンニコフが今日のメイン。
 配布されたプログラムによると、ラスベートは2004年からこの曲を演奏しているという。
 確かにどのパートも迷いのない自信に満ちた響きで、自家薬籠中のものとしている感があった。
 やはり、ドラマチックなメロディラインの光る第1楽章がどうしても耳に残る。

 全体に良い演奏であった。
 次は十八番のグラズノフを聴いてみたい。


評価: ★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




 はじめて訪れた町なので、そのまま電車に乗って帰るのはもったいない。
 一駅歩くことにした。
 都営新宿線・船堀駅(江戸川区)とお隣の東大島駅(江東区)の境に、中川と荒川が流れている。二つの川は橋の4キロほど下流で合流し、東京湾に注ぐ。
 二つの川にかかっている船堀橋を渡る。


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東京スカイツリーが正面に見える


 このあたりの風景は広々として、胸がせいせいする。
 四万十を思い出した。
 ビルの上に、白い満月がかかっていた。


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荒 川

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中 川
 

 都会のこんな風景も悪くない。





● 寿? 第193回すがも巣ごもり寄席

日時 2018年9月19日(水)13:00~
会場 スタジオフォー(豊島区巣鴨)
演者&演目
① 柳亭市弥  :『初天神』
② 古今亭志ん松:『笠碁』
③ 柳家小んぶ :『持参金』
④ 三遊亭美るく:『千葉棒鱈』


半年以上ぶりの落語。
一年以上ぶりのイチヤ
入りは30名弱。
あいかわらず高齢者が多い。

① 柳亭市弥:『初天神』
見るたびに大人びて落ち着きを増している。
34才なら当然か。
じょじょに「イケメン」では勝負できなくなりつつある難しい年頃である。
だが、芸そのものはしっかりしている。
マクラを長めに振りながら、会場の客の気を一つにまとめていく手腕も見事。

イチヤの最大の武器は、話が佳境に入った時に身体から発するオーラ―にある。
それが出ると、もう客たちは演者から目が離せなくなる。
ある意味、上手いかどうか、面白いかどうかは、関係ない領域に入る。
今日は、その域に達して、「来た、来た、来たァ~!」と思ったが、長続きしなかった。
なんとなく疲れているような印象を受けた。
どういった心身の状態であっても高座に上がって笑いを取らなければならない落語家ってのも、因果な商売である。
 

② 古今亭志ん松:『笠碁』
こちらもイケメンと言ってよいだろう。
元シブがき隊のモッ君こと本木雅弘の若い頃を思わせる。
芸は正統的、正攻法のスタイルで、地味だが旨味は感じさせる。
話にタメをつくり客を惹きつける技術を持っている。
が、今回はタメが多すぎて、途中で眠くなってしまった。


③ 柳家小んぶ:『持参金』
身長187㎝、体重105キロの巨体がなによりのチャームポイント。(チャームか?)
これで強面(コワモテ)だと客がビビッてしまうところだが、お地蔵さんのような柔和な印象である。

この演目は、女性の容姿についての具体的な悪口で笑いを取ろうとするので、現代では扱いが難しい。
下手やると、客席が引いてしまうだろう。(とくに女性客)
そこを持ち前の柔和な雰囲気で、綱渡り師さながらの微妙なバランス感覚でクリアしていったセンスはたいしたものである。


④ 三遊亭美るく:『千葉棒鱈』
今回は彼女が一番面白かった。
なにより元気がある。
今風‘与太郎’ギャルと、鉄火肌先輩女子との演じ分けも楽しく、柳原可奈子のようなテレビ向けの才を感じた。
若い客席だったら大ウケだったろう。

27才のときに有名IT企業のOLを辞めて、落語の世界に飛び込んだとか。(現在38歳)
その思いっきりの良さが、芸にも表れているようだ。


ときに、ソルティの聞き違いでなければ、三遊亭美るくがマクラの中で、「市弥君の奥さんも(私と同じ)千葉出身・・・」とか言っていた。
イチヤは結婚したのか?

あの落ち着きはそのせいか?
あのやつれ感はソノせいか?


スタジオフォーラム
寄席のあと、客と交流する噺家たち






● ハイC 効果 荒川区民オペラ第19回公演:『イル・トロヴァトーレ』

トロヴァトーレ荒川ポスター


演目 ジュゼッペ・ヴェルディ作曲『イル・トロヴァトーレ』
日時 8月12日(日)14:00~
会場 サンパール荒川(大ホール)(東京都荒川区)
指揮 小崎 雅弘 
演出 澤田 康子 
出演 
 レオノーラ:森 美津子(ソプラノ) 
 マンリーコ:小笠原 一規(テノール) 
 ルーナ伯爵:佐野 正一(バリトン) 
 アズチェーナ:河野 めぐみ(メゾソプラノ)
 フェランド:比嘉 誉(バス)
合唱  荒川オペラ合唱団
管弦楽 荒川区民交響楽団

 昨年の『蝶々夫人』は素晴らしかった。荒川区民オペラの実力を知った。
 今年はソルティの大好きな『トロヴァトーレ』。このオペラのためなら30度越えの外出もなんのその。

 公演は土日の二日間で主要な役はダブルキャストであった。11日は昨年見事な蝶々夫人を歌いかつ演じ、客席の紅涙白涙絞り尽くした西本真子がレオノーラを歌う。食指が動いた。が、主にイタリア中心に海外での活躍目立つ森美津子のレオノーラ(12日)も気にかかる。新進気鋭のテノール小笠原一規のマンリーコも聴いてみたい。なんといってもこのドラマチックなオペラの随一のクライマックスは、3幕2場で母親を敵方に捕らえられ猛り狂ったマンリーコの放つ、決めのハイC(高いド)ロングトーンなのだ。若い声帯がモノをいうのは間違いない。
 そんなわけで、今回は12日(日)を選んだ。ケチケチしないで両日行けばいいんだが、それやってしまうと、ダブルキャスト公演はすべからく両方とも見たくなってしまう。

 指揮は昨年同様、小崎雅弘。
 まず、のっけからオケが鳴らしてくれる。メリハリが効いて、思いっきりが良い。そう、多少の失敗など恐れず果敢に打ち鳴らしてこそ、このドラマに必須の情熱と興奮、そして臨場感をもたらす。時は中世、場所はスペイン、背景は王位継承をめぐる熾烈な戦い。鳴らさんでどうする!
 昨年に続き、小崎はオペラ指揮者としての類まれな力量を見せつけてくれた。

 出だしの男たちの合唱&フェランドの歌唱も素晴しい。比嘉誉は朗々と良く響く低音で、陰惨で薄気味悪い物語へと観客を誘い込むのに成功した。
 ここまでは文句ないスタート。

 が、どうしたことか。
 そこから勢いが失速していく。
 レオノーラ役の森美津子登場。調子が今一つで声が響かない。アリア「穏やかな夜」を無難に歌い終えたが、感動には至らず。もっとも、イタリア語の発音の見事さとドレスを美しく見せる洗練された身のこなしは本場で鍛えられた賜物であろう。優雅そのもの。
 続いてルーナ伯爵の佐野正一。最高音は半音下がり目だったものの、最初から最後まで声と演技を見事にコントロールして、役柄を保ち続けたのは立派。
 舞台外から聞こえてくるテノールの美声は小笠原一規。ソルティの持っている『トロヴァトーレ』CDの比較で言えば、パヴァロッティやディ・ステファノのようなイタリアの突き抜ける青空のごときあっけらかんとした(悪く言えば脳みそがちょっと軽い感じの)テノールではなくて、やや暗めの湿り気のあるテノールである。ユッシ・ビョルリンクのような。『リゴレット』のマントヴァ公爵なら前者だろうが、流浪の民の哀しみと暗さを抱える中世の吟遊詩人(トロヴァトーレ)には小笠原の声はふさわしい。
 1幕終場、一人の女をめぐる二人の男(本人達は知らないが実の兄弟である)の文字通りの鞘当て。三重唱の恋愛バトルが繰り広げられる。
 歌い手の声量の問題か、オケの音が大きすぎるのか、会場の音響効果のせいか、原因は分からないが歌手の声がオケに消されがち。これでは歌を楽しめない。ドラマにも入り込めない。
 歌とオケのバランスが良くない。 

 2場はジプシーのねぐら。槌音まじえた活気ある合唱で始まる。
 アズチェーナ役の河野めぐみは、細い身体で頑張っていたと思う。おそらく数あるオペラの役の中で間違いなく難役トップテンに入るであろうアズチェーナに、体当たりで臨んでいた。この役をリアリティもって歌いかつ演じられるメゾソプラノは世にそういないと思われる。とくに感情を抑えがちで淡泊な日本人には難しい。その意味で敢闘賞ものだった。
 ただ、衣装が良くない。河野の細くて美しい両足を見せてしまう丈の短いスカートをどうして履かせたのか。あのモデルのようにスレンダーな若々しい足が見えては、マンリーコ(小笠原)の母親にも、ジプシーの老婆にもまず見えない。スカートの丈なんかどうにでもできるはずなのに、なぜ隠さなかったのか。
 まさか客席の殿方へのサービス?←セクハラ発言でした。容赦🙇🙇🙇

 演出も昨年同様、澤田康子。
 奇を衒わないオーソドックスな演出だった。合唱の多いこのオペラでは、いきおい集団シーンが多い。合唱団のメンバーは有志の荒川区民だろうから、プロに対するような難しい注文はつけられまい。そこを考慮すれば、妥当な演出だったと言えよう。3幕1場の兵士たちの合唱「兵士のラッパは高鳴り」で合唱隊が足踏み行進しながら横一列に並ぶシーンは、客席にいるであろう出演者の親類縁者へのサービスという意味も含めて、愉快であった。区民オペラならではの味である。

 客席の反応は昨年の『蝶々夫人』に較べると硬かった。『トロヴァトーレ』を観るのははじめてという人が多かったのかもしれない。『蝶々夫人』や『カルメン』に比べれば知名度は低いし、筋も複雑で、あらすじを一回読んだだけでは理解し難い。幕間でも、戸惑いがちな表情や言葉が周囲に見られた。
 こういう場合、開演に先立ち、物語の時代背景やあらすじに関するレクチャーがあっても良いのではないか。舞台衣装を着けた歌手たちを登壇させて、たとえば演出家が登場人物の人間関係や置かれている立場を講談のように面白おかしく説明する。そうすれば、観客は物語に入りやすくなるし、客席と舞台との距離も縮まる。のっけからいい雰囲気が生まれよう。区民オペラなればこそ、そういった庶民的な試みが期待されても良いのではなかろうか。

トロヴァトーレ荒川


 「このまま終わったら、ちょっと残念だなあ」というソルティの思いを見事に吹き飛ばしたのは、やっぱり3幕2場のマンリーコのカバレッタ「見よ、恐ろしい炎を」であった。

 小笠原一規のハイCは満場を圧倒した。

 しかも2度も!
 しかも2度目のアンコールのほうが、カバレッタは自由なエネルギーに満ちて流麗だったし、決めのハイCも力強く長かった。
 一度目は何事が起ったのかよく理解していなかったような客席も、二度目は完全に圧倒され、万雷の拍手と「ブラボー」の叫びでもって小笠原を讃えた。
 客席が湧きたち、場内のボルテージが上がった。

 オペラは面白いものである。
 このハイCが他の歌手を焚きつけたようであった。
 舞台が俄然、熱気を帯び始めた。

 4幕1場のレオノーラの美しいアリア「恋はバラ色の風に乗りて」は絶品だった。今度は声も良く出ていて、テクニックは完璧、悲痛なれどあくまでも叙情豊か。これが国際レベルの歌手の本領と納得の出来栄え。続くミゼレーレの苦悩と怖れの表現も彫りが深く、舞台は悲哀の色で塗りこめられた。嬉しいことに、ソルティの好きなカバレッタ「私より強く愛する者が」も歌ってくれた。
 悲痛から、苦悩と怖れを経て、強い意志と自己犠牲の覚悟に至るこのレオノーラの「娘から母への」変身場面を、森はほとんど声だけで表現しきった。
 つまり、目に見えて大仰な動きや演技は一切なしに、感情の変化を伝えてしまう。むろん、でくの坊のように突っ立ているわけではない。むしろ高度な演技力というべきだ。抜きんでた声と歌の表現技巧あれば、抑えられた動きのほうがかえって豊かに感情を表現し得る、聴き手に伝え得る、という格好の見本。能の演技に通じるような感さえ持った。

 続く、ルーナ伯爵とレオノーラの緊張感走る二重唱も、牢屋内でのマンリーコとアズチェーナのもの悲しくも美しい二重唱も、文句つけようのない出来。ここでようやく、途中まで先走っているかに思えたオケの才気が、歌唱と絡み合った。オケの音量が気にならなくなった。両者は混然と溶け合って、ヴェルディが降臨した。

 主役4人がやっと舞台に出揃ったかと思うと、痛切極まりないレオノーラの死、マンリーコの処刑と続く。
 あとは、固唾をのみ、身を乗り出して、復讐の幕が落とされるのを目撃するのみ。
 終幕後は、「ブラボー」と喝采の嵐。

 今年も荒川区民オペラはやってくれました。
 歯車がかみ合うまで時間がかかったのはどうして?
 いささか気にはなるけれど、まあ、終わりよければすべて良しということで。

 今回は小笠原のハイCに乾杯(完敗)!


















 
   
 


● ポストモダンなマーラー : 西東京フィルハーモニーオーケストラ第25回定期演奏会(指揮:和田一樹)

西東京フィル


日時 2018年7月22日(日)14:00開演
会場 西東京市保谷こもれびホール
演目

  • チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35
  • マーラー/交響曲 第5番 嬰ハ短調
指揮  和田 一樹
ヴァイオリン独奏:﨑谷 直人(神奈川フィルハーモニー管弦楽団・ソロコンサートマスター)


 猛暑の中、外出する気力を呼び起こす演奏会などそうそうあるものじゃない。たとえ、それがチャイコのヴァイオリン協奏曲とマーラー5番という大好きなカップリングであるとしても・・・。
 指揮者和田一樹にはその気力を呼び起こすだけの引力がある。


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西武池袋線・保谷(ほうや)駅


 保谷駅にははじめて降りた。急行の停まらないマイナーな私鉄沿線駅らしい庶民的雰囲気である。会場のこもれびホールまで徒歩15分。もちろん歩いて行くなど話にならない。保谷庁舎行きのバスに乗った。
 662席のメインホールはほぼ満席だった。


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こもれびホール

西東京フィルハーモニーオーケストラは、管弦楽合奏を通じて音楽に親しむこと、そして、地域の音楽文化に貢献することを目的として1998年6月に生まれました。発足当時は保谷フィルハーモニーオーケストラという名称でしたが、2001年の田無市と保谷市の合併により市の名前が西東京市になったことで、現在の名称に改称しました。(西東京フィルハーモニーオーケストラのホームページより抜粋)


 チャイコのヴァイオリン協奏曲は、独奏の崎谷直人の圧倒的技巧に引き込まれた。背もスラっと高くてカッコいい。あれを目の前でやられて落ちない女性がいるだろうか。
 男っぽい厚みのある音色で、一本造(いちぼくづくり)の彫刻家のように、全体をザクッザクッと大胆に直感的冴えをもってノミで削り、細かいところを繊細な気配りをもって小刀で削るといった印象であった。
 和田は協奏曲もうまい。第1、第2楽章でソリストを引き立てて思う存分遊ばせながら、第3楽章で見事にオケとの対話を演出、最終的に和田一樹ならではのチャイコに仕立てていくあたり、やはり並みの才能ではない。

 和田のマーラーは2度目である。前回の演奏はやや不発で、和田の狙っているところがうまく表現できなかったような中途半端な印象をもった。
 今回は西東京フィルの安定した力強い演奏とソロパートの上手さを伴侶に得て、どうやら「和田のマーラー」の何たるかが見えてきた。
 
 これまでにソルティが数多く聴いてきた5番と「どこか違う」という印象は、第1楽章からずっと感じていた。だが、いったいそれが何なのか言葉にできなかった。分析できない、言葉にできない音楽素人のもどかしさよ。
 ただ、《葬列のように》という指示がついている第1楽章は全然《葬式》を連想させず、《嵐のように激しい》はずの第2楽章は意外に「あっさり」していて、ソロパートの多い第3楽章では「遊び心」をふんだんに感じ、『ベニスに死す』のラストシーンを想起せずに聴くことはもはや困難な第4楽章では指揮者の目線は「彼岸」より「此岸」を向いているように感じた。そして、完全に自己肯定的で喜悦にあふれた第5楽章の祝典ノリ。 
「これはマーラーか?」
「これは5番か?」
と思わず胸の中で呟いた。

 マーラーと言うと「近代的自己の申し子」みたいなイメージがある。
 神が死んだ世界に独りぼっちで投げ出され、孤独と憂愁と自己否定と、それでもなお絶えて止まぬ独立心と自己拡張と自由への希求と、その狭間で生じる他者との関係性という煉獄、永遠に先送りされる愛の成就。マーラーの音楽は、こういった近代的テーマに換言されよう。むろん、本邦の夏目漱石や三島由紀夫同様、時代精神を背負う(あるいは先取る)からこその天才なのである。
 多くの指揮者は、こうした近代的テーマの顕現をいかに深くマーラーの楽譜の中に読み取るか、同じ近代に生きる人間としていかに切迫に自分事としてそれを理解し、いかに巧みに音として再現・表現していくか、に身を砕く。聴衆もまた、己の中に知らず持たされている近代的テーマを、マーラーの音楽を聴くことを通して浮上させ、発見し、確認し、共感するのである。
 ここでは、「創るマーラー✕表現する演奏家✕受け取る聴衆」の近代的テーマをめぐる三位一体は完璧であった。ソルティもその枠組みの中でマーラーを聴いてきた。何と言っても、ソルティもまた近代的価値観の中で生まれ育ち、それをずっと内面化し続けてきた人間だからである。マーラーの5番に「物語」を読みたくなってしまうのはそのせいである。

 だが、日本社会はすでにポストモダン(脱近代)に入っているのやもしれない。上にあげたような近代的テーマを愚直に内面化することから免れた若い世代が、日本社会に続々登場しているのかもしれない。

ポストモダンとは・・・

 現代という時代を、近代が終わった「後」の時代として特徴づけようとする言葉。各人がそれぞれの趣味を生き、人々に共通する大きな価値観が消失してしまった現代的状況を指す。現代フランスの哲学者リオタールが著書のなかで用いて、広く知られるようになった。リオタールによれば、近代においては「人間性と社会とは、理性と学問によって、真理と正義へ向かって進歩していく」「自由がますます広がり、人々は解放されていく」といった「歴史の大きな物語」が信じられていたが、情報が世界規模で流通し人々の価値観も多様化した現在、そのような一方向への歴史の進歩を信ずる者はいなくなった、とされる(『ポスト・モダンの条件』1979年)。
出典:朝日新聞出版発行「知恵蔵」


 和田のマーラー5番を聴いて、「どこかこれまでのマーラーと違う」と感じたのは、この脱近代性ゆえである。その演奏は、「苦悩する近代人マーラー」という物語を次々と裏切っていくのである。痛快なまでに!
 和田の年齢は知らないが、おそらくポストモダンなキャラの主なのではあるまいか。

 ポストモダンなマーラー。
 それすなわち「脱マーラー」でもあるのだけれど、マーラーだっていつまでも「苦悩するボヘミアン」の役柄ばかり押し付けられたくないにちがいない。
 「近代的」解釈を払拭されてもなお、マーラーの音楽は素晴らしい。
 和田一樹はそこを教えてくれたのである。

 すっかり気力充填して、帰りは駅まで歩いた。やっぱ暑かった
 途中でかりんとうの美味しそうな店があったので、つい寄った。
 (究極のポストモダン――それは大阪のおばちゃんノリである)


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かりんとう
いろいろな味が楽しめる小袋
なんと土日セールで100円ぽっきり!





● まったり やっとかめ室内管弦楽団 第5回演奏会

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日時 2018年6月9日(土)14:00~
会場 小金井宮地楽器ホール(東京都小金井市)
曲目
  •  ウェーバー/歌劇『魔弾の射手』序曲
  •  ドヴォルザーク/チェロ協奏曲 ロ短調 作品104
  •  ドヴォルザーク/交響曲第6番 ニ短調 作品60
  •  アンコール 未確認
指揮:沖澤のどか
チェロ独奏:山本裕康

 「やっとかめ」とは名古屋弁で「久しぶり」という意味だそうである。今度名古屋の友人に会ったら使ってみよう。
 学生時代に名古屋でオーケストラ活動を行い、現在首都圏に住む仲間を中心に2012年に結成されたオケ。チラシのイラストはしゃちほこであったか! 納得。
 名古屋らしい音が聴けるのだろうか?

 宮地楽器ホールははじめて行く。JR中央線武蔵小金井駅の真ん前にある立派な建物。578席ある大ホールはシンメトリー良く清潔である。
 沖澤のどかは青森出身の女性指揮者。スレンダーな体を黒のタキシードで包み、颯爽と指揮台に上る姿はリボンの騎士のよう。昨今、女性指揮者の活躍が目立つ。


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武蔵小金井駅

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宮地楽器ホール

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 今日の目的はやはり通称ドヴォコン、すなわちアントニン・ドヴォルザークのチェロ・コンチェルト(協奏曲)。近場で演奏あればまず足を運びたいソルティお気に入りの一曲。
 この曲は噛めば噛むほど味が深まり広がっていく。初恋の女性の死を悼み冥福を祈る思いが曲作りの動機となったらしいが、確かに地上と天上をつなぐ山間の小道、あるいは列車オタクのアントニンに事寄せれば「天国につながる銀河鉄道の軌道」といったイメージが浮かぶ。
 たぶん、アントニンは松本零士の『999』を観たら狂喜乱舞するだろう。アントニンが初恋の人に寄せる思いは、鉄郎がメーテルに抱く思いに重なるんじゃないかと思う。


銀河鉄道


 交響曲6番ははじめて耳にした。幾たびも微妙に趣向を変えて繰り返される音型、飛び跳ねるような軽みと華やぎ。ベートヴェン交響曲7番の影響を感じた。

 知り合いの名古屋人の言動から抽出される名古屋人のイメージは「まったり」というものである。これが名古屋人の特徴として普遍化できるとは言い切れないけれど、今日の演奏会の感想を一言で言えば、やっぱり「まったり」であった。



● 笑い納めはトゲ抜きで :第159回すがも巣ごもり寄席

日時 2017年12月27日(水)13:00~
会場 スタジオフォー(庚申塚そば)
演者&演目

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 笑い納めは愛すべき‘鉄チャン’落語家・古今亭駒次にしよう!と北風冷たいなか巣鴨まで出かけた。
 開演前には席がほとんど埋まった(約40名)
 年配者が多い。

①  古今亭駒次 : 旅姿宇喜世駅弁(新作落語)
 「水戸黄門」仕立ての駅弁利権争奪ストーリーといった話で、パロディともパスティーシュとも言い難いユニークさは、やはり鉄チャンならではの至高の鉄道愛にある。助さん格さんらと共に全国行脚したご老公は、18切符の代わりに葵の御紋の印籠を持ち歩いていたと思えば、鉄道ネタには最強のラスボス的キャラクターであろう。もっとも、実際の水戸光圀は『大日本史』の編纂で忙しくてほとんど旅などしなかったというが・・・。
 ストーリーやギャグは面白いのだが、ウケはいま一つだった。駒次にいつもの“オタクならではの至福感”が感じられなかった。年末の度重なる高座で疲れていたのか。あるいは青年から脱しつつある駒次に‛大人の落ち着き’が備わってきたためかもしれない。芸風というか語りのタッチを軌道修正すべき頃合いなのかも・・・。それと、時々セリフの主がだれなのか分からなくなる時がある。人物の演じ分けに雑な部分がある。これは噺家としては看過できない欠点だろう。
 鉄チャン仲間として応援しているので精進してほしい。
 
②  入舟亭辰之助 : 弥次郎
 二つ目となって半年あまりとか。これから経験を積んで腕を磨いていくだろう。頑張れ!

③  春風亭昇也 : お見立て 琴柑編
 この人は2度目である。前回も客を即座に引き込む闊達な話しぶりに感心したが、やはり上手い。マクラで実家が魚屋とか言っていたが、威勢の良さ・客あしらいの上手さは血筋なのかもしれない。前回同様、マクラも面白かった。
 今回は芸人としての才能を感じさせた。
 『お見立て』は3人の人物が登場する古典落語である。吉原の人気花魁・喜瀬川、吉原の男性店員たる妓夫(ぎゆう)の喜助、そして喜瀬川に惚れている客の杢兵衛(もくべえ)である。話は、鈍臭くてしつこい杢兵衛にいい加減嫌気がさしている喜瀬川が、喜助を仲介にし、仮病を使って杢兵衛に会うのを断るところから始まる。
 昇也は、この高嶺の花たる美女・喜瀬川を楽屋で次の出番を待つ宝井琴柑に変え、喜瀬川に疎まれ馬鹿にされ、客から笑われる道化役の杢兵衛をなんと同じ二つ目の桂宮治に変えたのである。
 桂宮治は5月の巣ごもり寄席で聞いて、その破壊的なパフォーマンスとあき竹城並みのズーズー弁とに強いインパクトを受けた。確かに物真似するには恰好の対象である。昇也が見事に宮治を演じたので、花魁に疎まれる杢兵衛の鈍臭さとしつこさが宮治の色物キャラおよび鬼瓦のような風采と重なって道化効果が倍増した。実物の宮治を知らない人でもそれなりに楽しめたと思うが、宮治を知る人にしてみたら面白さ2倍である。こんな器用なパフォーマンスができるのは相当の才だろう。(ただし、出演料の1/3は宮治に渡すべきではないか)

④  宝井琴柑 : あんぱんを食べた次郎長(講談)
 「たからいきんかん」と読む。横浜生まれ、山形大学人文学部卒、OLを経て2006年宝井琴星門下へ、と公式HPにある。 
 なにより美人である。桜色の着物がよく似合っている。これで10pointトクしている。客席のオジサンたちを一笑みで味方につけることができよう。
 噺は「あんぱん」の考案者で木村屋創業者・木村安兵衛と、街道一の大親分・清水次郎長との係わりを講談にしたもの。
 何でも、あんぱんが静岡に広まるきっかけを作ったのが清水次郎長だったとか。木村安兵衛が、次郎長と仲の良い山岡鉄舟の名を持ち出して、次郎長に静岡であんぱんを売るための協力を願い出たという。どこまで史実でどこから虚構かわからないが、次郎長が木村屋のあんぱんのファンだったのは本当らしい。「イーチラシドットコム 儲けを生み出すビジネス・コラム」というサイトに、このあたりの事情が掲載されている。興味ある方はご一読を。
 それにしても清水次郎長が英語塾を開いていたというのは初耳であった。頭の堅い国粋主義者ではなかったのだなあ~。

 寄席の後は、とげぬき地蔵通りの定食屋「ときわ食堂」でランチ。ホカホカの銀シャリ、熱々のみそ汁、自家製の漬物が、冷えた体を芯から温めてくれる。ホンマモノのご馳走である。


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ミックスフライ(エビとあじと串カツ)定食。ご飯のお代わりは一杯まで無料

 
 地蔵通りをぶらぶら歩いていると、この町のまったりした空気と飾らない野暮ったさが妙に体に馴染み、安らぎすら覚えるようになっている自分に気づいた。仕事で日々高齢者と関わっているせいもあるのだろうが、自分自身もそういう領域に近づいてるんだな。

 とげぬき地蔵通りよ。間違ってもオシャレな店など増やしてくれるなよ。
 フジテレビの二の舞を踏むぞ。

 ——って結構トゲあるじゃん。





● アンダンテ・モリオカーノ 都民交響楽団 2017年特別演奏会 :『ベートーヴェン《第九》』

日時 2017年12月24日(日)13:30~
会場 東京文化会館大ホール(東京都台東区)
曲目
 ワーグナー/歌劇『タンホイザー』序曲
 ベートーヴェン/交響曲第9番 ニ短調 「合唱付き」 作品125
独唱
 ソプラノ:文屋 小百合
 アルト :管有 実子
 テノール:渡邊 公威
 バリトン:大山 大輔
合唱 ソニー・フィルハーモニック合唱団
指揮 末廣 誠

 今年最後の演奏会はお決まりの《第九》である。
 クリスマスイヴの日曜日。パンダでにぎわう上野公園。人波は覚悟していたが、曇りがちで寒かったためか、思ったほどの混雑でなかった。


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東京文化会館


 会場はほぼ満席だった。前から4列目の席だったので、最初から最後まで全身で音を浴びているようであった。
 都民交響楽団の実力は折り紙付き。安心して聴いていられる。あまりに安心しすぎたのか、『タンホイザー』も『第九』も途中で意識が遠のいた。めずらしいことである。一年の疲れが出たのかしらん?
 合唱のソニー・フィルは、ソニーグループの社員およびOB・OG、家族らにより構成される合唱団で20年以上の歴史がある。これが圧巻の上手さだった。世界のSONYとしてのプライドと愛社精神を基盤とした団結力、週一回行っているという練習の賜物であろう。これほど四声(テノール、バリトン、ソプラノ、メゾソプラノ)のバランスが拮抗&均衡して、合唱の面白さを引き出している《第九》を聴くのははじめてかもしれない。とりわけ、テノールパートはたいていの場合、人数が少ないのと高音がつらいのとで客席まで声が届くのはまれなのであるが、今回は非常によく響いていた。

 今回の《第九》のポイントは、何と言っても第3楽章であった。
 「アダージョ・モルト・エ・カンタービレ」(歌うように、非常にゆっくりと)
 「アンダンテ・モデラート」(ふつうに歩く速さで)

という指示を与えられている第3楽章は、全曲中もっともテンポが緩やかで、まったりしている。ここは癒しと安らぎの章である。現世的なストレスと気ぜわしさに満ちた第1、第2楽章から曲調は一転し、心はしばし天上にたゆたう。第4楽章の歓喜の爆発を前に「嵐の前の静けさ」とも言える平和と安息を十分味わい、怒涛のクライマックスに備える。たとえベートーヴェンの指示がなくとも、どの指揮者も第3楽章をゆっくりと演奏することだろう。
 今回の末廣の挑戦は、これまでソルティが聴いた《第九》の中でも、もっともテンポの遅い第3楽章であった。あの譬えようもなく美しいメロディラインが間延びして崩壊するのではないかと思うギリギリの線だった。つまり、ある歌をあまりにゆっくり歌い過ぎると、なんの歌かわからなくなるという現象と同じである。危険な挑戦だが、これが可能なのは《第九》があまりにも有名で、あまりにも耳馴染んでおり、第3楽章の甘美そのもののメロディをほとんどの聴衆がこれまでに何度も聴いて、すっかり諳んじているからだろう。速度を落としてもメロディラインは把握できるのである。(今回はじめて《第九》を耳にした人がどう感じたかは微妙である)

 このアンダンテ(歩く速さ)で思い出したのは、盛岡人のことである。
 20代を東京で過ごしたソルティは30歳を前に仙台に移住したが、その際驚きをもって発見したのは「仙台人の歩く速さは東京人の歩く速さの半分。つまり2倍遅い!」ということであった。
 だいたい宮城県民は休日になると家族や友人らと仙台の街中に出てきて、アーケード商店街をぶらぶら歩くのが一番の娯楽なのである。基本歩行者天国なので、横に広がって連れとワイワイおしゃべりしながら、気になった店をのぞき込み、途中のベンチで休憩し、何にせかされることなく暇つぶしするのである。ソルティも半年くらいでその速度に馴染んで、仙台の街を楽しむようになった。たまに用事で東京に出ると、東京人の歩く速さに逆に吃驚する、というか恐怖を感じるまでになった。池袋や新宿の雑踏で他人とぶつからないで歩く能力を喪失してしまったのである。

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仙台市街


 数年経って、すっかり仙台人化したソルティは用事があって盛岡に行った。そして、盛岡随一の商店街を歩いて、また驚いたのである。
「盛岡人の歩く速さは、仙台人の半分。つまり2倍遅い!」
 つまり、盛岡人は東京人の4倍、歩くのが遅い。
 これは県民性・地域性の違いもあるのだろうが、単純に、盛岡随一の商店街(目抜き通り)は仙台人の速さで歩くと「あれれ?」という間に終わってしまう、東京人の速さで歩いたら瞬時に終わってしまうというところに主たる原因はあろう。(今は盛岡の街も随分発展していると聞いた)

 何の話をしていたんだっけ?
 ああ、《第九》の第1楽章や第2楽章が「東京人の歩く速さ」だとしたら、第3楽章は「仙台人の速さ」、そして本日の末廣の第3楽章は「盛岡人の速さ、というか遅さ」と感じたのである。
 そのスロウなペースがどういう効果をもたらしたか。
 タメをつくってメロディラインの美しさを強調し聴衆を陶酔させるためでないのは、上に書いたとおりである。それなら、メロディ崩壊のリスクを生むまで遅くする必要はない。
 ソルティがなにより感嘆したのは、このゆっくりした盛岡テンポによって明瞭に開示された、第3楽章の構成の巧みさ、それぞれの楽器の特色を最大限生かしたオーケストレーションの繊細さと諧謔味とウィット(才知)、つまるところベートーヴェンの天才であった!
 美しいメロディラインという長所は、そこにのみ聴き手の関心を引き付けてしまい、かえって上記のような細やかでユニークな工夫を見逃してしまうという短所にもなりうる。新幹線の車窓から見る富士山がいかに美しかろうが、鈍行列車の車窓から見る富士山のほうが味わい深いのと同様である。速度を落としたところではじめて見えてくるものがある。
 そういった意味で、今回の末廣の第3楽章は数年前に聴いたロジャー・ノリントンのピリオド奏法の《第九》を想起させるものであった。
 考えてみれば、ベートーヴェン時代のドイツ人の「歩く速さ」は現代人より相当遅いだろう。アンダンテ・モリオカーノが正解なのかも・・・。(ただ、逆に今回の第4楽章のラストは東京人を軽く追い越す加速度付きハイスピードで、会場の撤収時間が迫っているのかと思うほどだった
 
 のんびりと街を歩く盛岡人の眼に映る風景が、目的地に向かって一心不乱に歩く東京人の眼に映る風景より、豊穣で味わい深いのは間違いあるまい。


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盛岡夜景



 
 

● 仮面舞踏会 東京薬科大学ハルモニア管弦楽団 第42回定期演奏会

日時 2017年11月19日(日)17:30~
会場 オリンパスホール八王子
指揮 田部井 剛
曲目
  • ドヴォルザーク: 序曲「謝肉祭」
  • ハチャトリアン: 組曲「仮面舞踏会」
  • カリンニコフ: 交響曲第1番 ト短調
  • アンコール チャイコフスキー: 「眠れる森の美女」第1幕ワルツ


 入場時にもらったプログラムを見ると、広告ページには薬局の名前がずらり。さすが薬科大学である。
 田部井の指揮は「マーラー第6番」に次いで2回目。やはり、迫力があって音にツヤがある。アンコールでは舞台上の女性演奏者らが花嫁のベールや花輪を頭につけたところに、王子様の格好をして袖から登場した。眠れる美女達を愛のKissで目覚めさせる色男か。あいかわらずのサービス&エンターテインメント精神である。
 ハルモニアの演奏はよくまとまっていて上手であった。学生オケのレベルの高さには今さらながら感心する。

 ところで、2曲目の「仮面舞踏会」と言えば引退した浅田真央(+振付タラソワ)であるが、実をいうとソルティはこの曲を聴くとある映画を想起するのである。
 杉本彩主演、石井隆監督、団鬼六原作の『花と蛇』(2004年東映ビデオより公開)である。
 成人指定のSM映画で、当時花盛りの美貌と姿態を誇り「エロスの伝道師」と言われた杉本彩が文字通り‛体当たり’の演技をさらしている。石井隆の名前に惹かれて観たのであったが、スクリーンで繰り広げられるなんとも猥雑で忌まわしい世界に毒気を当てられた。
 この映画でBGMとして使われていたのがハチャトリアン「仮面舞踏会」のワルツだったのである。

 成人映画とクラシック音楽のマッチングということでは、ちょっと他に例を見ないほどの相乗効果を生んでいた。縄で天井から吊るされた杉本彩が男たちに延々といたぶられるシーンに、「永遠に続く煉獄の旋回舞踏」とでも形容すべきこの暗く不吉なロシアンワルツが恐いほどはまっていた。
 それ以来「仮面舞踏会」のワルツを聴くと、どうしても青い照明の下で苦痛と(快楽?)に歪んだ杉本彩の白い顔が浮かんでくるのである。
 真央ちゃんの登場でこの淫靡な連想は一時払拭されたものの、彼女が引退した今、また彩ねえさんが復活したようである。
 困ったもんだ。


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● ムラムラ君 : OB交響楽団第194回定期演奏会

日時 2017年10月28日(土)14:00~
会場 ティアラこうとう大ホール(東京都江東区)
曲目
 ワーグナー/楽劇『トリスタンとイゾルデ』より「前奏曲と愛の死」
 マーラー/交響曲第5番 嬰ハ短調
指揮 太田 弦

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 音楽好きなら誰でも「人生最大のレコード体験」というのを持っていると思う。生演奏によるライブ体験とは別に、自宅でレコードやCDを聴いて人生観や音楽観が変わるほどの衝撃を受け、以降音楽に(そのジャンルに、その演奏家に、その歌手に)のめり込むようになった体験のことである。
 ソルティの場合、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』がまさにそれだった。
 CDプレイヤーが世に出回るようになってまだそれほど経っていない、20代半ば頃である。ヴェルディ『トロヴァトーレ』との出会いからオペラを聴くようになり、しばらくはヴェルディやプッチーニやベッリーニやドニゼッティなどのイタリアオペラを追っていた。ドイツオペラはモーツァルトくらいだった。なによりマリア・カラスに夢中だった。
 それがようやく落ち着いて、「そろそろワーグナーにチャレンジしようか」と思い、手はじめに秋葉原の石丸電気レコードセンター(今はもう無い)で購入したのが、東芝EMI発売1952年ロンドン録音のフルトヴェングラーの『トリスタンとイゾルデ』全曲であった。共演はフィルハーモニア管弦楽団、コヴェント・ガーデン王立歌劇場合唱団である。


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 購入したその夜、おもむろに聴きはじめた瞬間から全曲終了までの約4時間、ソルティは当時住んでいた板橋の1Kの安アパートから、どこか上のほうにある別の場所に運び去られていた。次から次へと潮のように押し寄せる半音階的和声の攻撃と、うねるように昇り詰めていく螺旋状のメロディに、上等の白ワインを飲んだかのごとく酩酊した。音楽というものが、あるいはオペラというものが、「麻薬であり、媚薬であり、劇薬である」ととことん知った。男でもこれほど長時間のオルガズムを経験できるのだ、とはじめて知った記念日(?)でもある。
 歌手がまた凄かった。
 イゾルデは20世紀最大のワーグナーソプラノであるキルステン・フラグスタート。同CD付属の解説書によると、

 1935年メトロポリタン歌劇場で『ワルキューレ』の練習に際して、彼女が歌いはじめたその瞬間、その歌唱のあまりのすばらしさに指揮者は驚嘆のあまりバトンを落としてしまい、ジークムント役の歌手は茫然として自分の出を忘れてしまった程であった。

 これはまったく誇張でも粉飾でもない。ヴォリューム(声量)といい、輝きといい、鋼のごとき力強さといい、人間が持ち得る最も偉大な声であるのは間違いない。20世紀どころか今のところ人類史上ではなかろうか。
 トリスタンはルートヴィッヒ・ズートハウス。これもフラグスタートの相手役として遜色ない素晴らしい歌唱である。
 フルトヴェングラーはベルリン・フィル共演のベートーヴェン交響曲3番『英雄』、5番『運命』、9番『合唱付』など伝説的名演を数多く残しているが、それらの多くは1940年代のライブ録音ゆえ、音質の悪さも否定できない。名歌手を揃えたスタジオ録音のこのレコードこそが、後代のクラシックファンが聴けるフルトヴェングラー生涯最高の名演奏と言えるのではなかろうか。
 実をいうと、ソルティはこのCDを上記の一回しか聴いていない。その体験があまりに衝撃的で素晴らしかったので、もう一度聞いてそれ以下の感動だったらと思うと、怖くて聴けないのである。CDはケースに入ったまま今もレコード棚の奥のほうに並んでいる。こんなお蔵入りもある。

 さて、OB交響楽団の今回のテーマは、ずばり「愛」である。
 人類最高の恋愛物語の一つである『トリスタンとイゾルデ』は言うまでもないが、マーラーの5番も「アルマ交響曲」と名付けてもいいくらい、結婚したばかりの美しき妻の影響下に作曲されている。別記事でソルティは「男の性」がテーマと解釈した。
 まあ、なんと淫猥にして危険なラインナップであろうか。本来ならこういう演奏会こそ猥褻規定に引っかかるものなのだろう・・・(笑)
 指揮の太田弦(おおたげん)は1994年生まれの20代。舞台に登場した姿はまだあどけなさの残るのび太似のお坊ちゃん。オケの大半のメンバーの孫世代ではなかろうか。すでに日フィルや読響を指揮しているというから、才能の高さはその道のプロに認められているということか。OB交響楽団のようなベテラン&壮年オケがこういう勢いある若手と組むことを大いに評価したい。新しいものとの出会いこそが音楽を活性化する。
 
 出だしからOBのうまさが光る。独奏も合奏も安定している。よく練れている。太田の指揮は、繊細さと精密さが身上と思われる。ゴブラン織りのタペストリーのような、あるいは工学的技術の粋を集めた精密機械を連想した。

タペストリー


 と、分析できたのも最初のうち。1曲目『トリスタンとイゾルデ』の後半の「愛の死」から、舞台から放たれた音の矢がソルティの胸を直撃し、アナーハタチャクラが疼きだした。自分では曲を聴きながら、過去のいかなる甘いor苦い恋愛体験も感情的ドラマも思い出しても連想しても反芻してもいなかったので、まったく不意を突かれた。純粋に音の波動が、聴診器のようにこちらの体をスキャンして、必要なポイントを探り当てて掘削開始したように思われた。
「あらら?こりゃ不思議」と思っているうちに休憩時間。 

 2曲目マーラー5番。OBとマーラーの相性の良さを再認識。若いオケではここまでスラブ的粘っこさをうまく表現できないだろう。独奏もみな上手い。
 第2楽章の終結から今度は股間のムーラダーラチャクラがうごめきだした。くすぐったいような、気持ちいいような変な感触である。第3楽章に入ると、それが背筋を伝って這い上がり、首の後ろをちょっとした痛みを伴って通過して、頭頂に達した。ぼわんとあたたかな光を感じる。ホール内のルックス(照明)が上がった気がした。耽美的な第4楽章に入ると、光は眉間のアージュニャーチャクラ、いわゆる第三の目にしばらく点滅しつつ憩っていたが、最終楽章でスッと体の前面を下に降りた。華やかなクライマックスではオールチャクラ全開となった。
 体中の凝りがほぐれ、気の通りが良くなって、活気がよみがえった。
 終演後、最寄り駅に向かっていたら、ひさかた忘れていた“ムラムラ君”に襲われた。どうにもこうにも落ち着かないので途中の公園で瞑想すること40分。ムラムラ君は何かに変容したようである。
 やっぱり、音楽は麻薬だ。

ムラムラ君

ムラムラ君




 

● 音楽療法 : YAO管弦楽団 第12回定期演奏会

日時 2017年10月1日(日) 14:00~ 
会場 パルテノン多摩・大ホール(東京都多摩市)
指揮 鈴木 衛
曲目
 ウェーバー/ 歌劇「オベロン」序曲
 ブラームス/ ハイドンの主題による変奏曲
 ベートーヴェン/ 交響曲第6番「田園」ヘ長調
 アンコール ブラームス/スラブ舞曲第4番

 無量光寺を訪ねたあとJR相模線で橋本駅に戻り、京王線に乗り換えて多摩センター駅に行った。午後からの無料コンサートが目的である。
 ケアマネ試験まで一週間だというのにずいぶん余裕をかましているようだが、このところちょっと息切れ気味なのでレスパイト(小休止)の必要を感じたのである。一遍上人ゆかりのお寺とベートーヴェン『田園』。心を整えるのにはぴったりの組み合わせであろう。

 開演前に、パルテノン多摩の裏手に広がる多摩中央公園で、途中のスーパーで買った弁当を食べる。「野菜が主役の弁当」という名だけあって季節の野菜が盛りだくさん。野菜大好きソルティには理想的なご飯とおかずのバランスである。


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たしか398円だった


 YAO(ヤオ)管弦楽団は、2008年12月に横浜市青葉区周辺に住む同好の士が集まって立ち上げたアマチュアオーケストラ。YAO(ヤオ)はYokohama Aoba Orchestra(横浜青葉オーケストラ)の頭文字とのこと。(YAO管弦楽団ホームページ参照)
 舞台上の面々を見ると、40~60代の壮年が中心のようであった。それだけに演奏は手堅く、技術的にも安定したものがあった。
 指揮の鈴木衛(まもる)はYAOで振るのははじめて。2012年東京音楽大学指揮科卒業というから、まだ20代後半か。オケのメンバーよりずっと若い。音楽経験も浅いはずである。こういうのって、やりにくいのか、気持ちいいのか・・・。
 だが一曲目の『オベロン』から、指揮台の鈴木のダイナミックかつ饒舌なパフォーマンスに惹きつけられた。体全身で自分のやりたい音楽を表現し、オケにわかりやすく情熱をもって伝えようとしている。気持ちのいい指揮ぶりである。
 
 2曲目はオーケストレーションの職人たるブラームスの手腕が光る。
 一つの単純な主題を次々と変奏し(第1~第8変奏+終曲)、豊かな色合いと表情を醸し出していく。聴いていて楽しいし、変奏ごとに会場の気が変わり、聴く者の気分もまた変わる。ソルティに関して言えば、変奏ごとに刺激されるチャクラが変わった。
 
 ベートーヴェン『田園』は牧歌的な風景が心を和ませる一方、同じメロディ(主題)や同じ音型(動機)の繰り返しが延々と続き、聴く側のシチュエーションによっては‘イライラする’ことがある。‘ながら勉強’とか‘ながら仕事’、つまり作業BGMには向かない曲なんじゃないかと思う。
 が、今日は目を閉じ、音楽に身をまかせて、空想の田園を逍遥した。
 すると、主題や動機の繰り返しが、マッサージチェアの往復するローラーのように、ソルティの脳内のコリをほぐしてくれた。
 
 アマオケ巡りを始めて2年。知らぬ間に音楽療法を身に着けている。


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多摩中央公園


 
 
 
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