ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

ライブ(音楽・芝居・落語など)

● アンダンテ・モリオカーノ 都民交響楽団 2017年特別演奏会 :『ベートーヴェン《第九》』

日時 2017年12月24日(日)13:30~
会場 東京文化会館大ホール(東京都台東区)
曲目
 ワーグナー/歌劇『タンホイザー』序曲
 ベートーヴェン/交響曲第9番 ニ短調 「合唱付き」 作品125
独唱
 ソプラノ:文屋 小百合
 アルト :管有 実子
 テノール:渡邊 公威
 バリトン:大山 大輔
合唱 ソニー・フィルハーモニック合唱団
指揮 末廣 誠

 今年最後の演奏会はお決まりの《第九》である。
 クリスマスイヴの日曜日。パンダでにぎわう上野公園。人波は覚悟していたが、曇りがちで寒かったためか、思ったほどの混雑でなかった。


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東京文化会館


 会場はほぼ満席だった。前から4列目の席だったので、最初から最後まで全身で音を浴びているようであった。
 都民交響楽団の実力は折り紙付き。安心して聴いていられる。あまりに安心しすぎたのか、『タンホイザー』も『第九』も途中で意識が遠のいた。めずらしいことである。一年の疲れが出たのかしらん?
 合唱のソニー・フィルは、ソニーグループの社員およびOB・OG、家族らにより構成される合唱団で20年以上の歴史がある。これが圧巻の上手さだった。世界のSONYとしてのプライドと愛社精神を基盤とした団結力、週一回行っているという練習の賜物であろう。これほど四声(テノール、バリトン、ソプラノ、メゾソプラノ)のバランスが拮抗&均衡して、合唱の面白さを引き出している《第九》を聴くのははじめてかもしれない。とりわけ、テノールパートはたいていの場合、人数が少ないのと高音がつらいのとで客席まで声が届くのはまれなのであるが、今回は非常によく響いていた。

 今回の《第九》のポイントは、何と言っても第3楽章であった。
 「アダージョ・モルト・エ・カンタービレ」(歌うように、非常にゆっくりと)
 「アンダンテ・モデラート」(ふつうに歩く速さで)

という指示を与えられている第3楽章は、全曲中もっともテンポが緩やかで、まったりしている。ここは癒しと安らぎの章である。現世的なストレスと気ぜわしさに満ちた第1、第2楽章から曲調は一転し、心はしばし天上にたゆたう。第4楽章の歓喜の爆発を前に「嵐の前の静けさ」とも言える平和と安息を十分味わい、怒涛のクライマックスに備える。たとえベートーヴェンの指示がなくとも、どの指揮者も第3楽章をゆっくりと演奏することだろう。
 今回の末廣の挑戦は、これまでソルティが聴いた《第九》の中でも、もっともテンポの遅い第3楽章であった。あの譬えようもなく美しいメロディラインが間延びして崩壊するのではないかと思うギリギリの線だった。つまり、ある歌をあまりにゆっくり歌い過ぎると、なんの歌かわからなくなるという現象と同じである。危険な挑戦だが、これが可能なのは《第九》があまりにも有名で、あまりにも耳馴染んでおり、第3楽章の甘美そのもののメロディをほとんどの聴衆がこれまでに何度も聴いて、すっかり諳んじているからだろう。速度を落としてもメロディラインは把握できるのである。(今回はじめて《第九》を耳にした人がどう感じたかは微妙である)

 このアンダンテ(歩く速さ)で思い出したのは、盛岡人のことである。
 20代を東京で過ごしたソルティは30歳を前に仙台に移住したが、その際驚きをもって発見したのは「仙台人の歩く速さは東京人の歩く速さの半分。つまり2倍遅い!」ということであった。
 だいたい宮城県民は休日になると家族や友人らと仙台の街中に出てきて、アーケード商店街をぶらぶら歩くのが一番の娯楽なのである。基本歩行者天国なので、横に広がって連れとワイワイおしゃべりしながら、気になった店をのぞき込み、途中のベンチで休憩し、何にせかされることなく暇つぶしするのである。ソルティも半年くらいでその速度に馴染んで、仙台の街を楽しむようになった。たまに用事で東京に出ると、東京人の歩く速さに逆に吃驚する、というか恐怖を感じるまでになった。池袋や新宿の雑踏で他人とぶつからないで歩く能力を喪失してしまったのである。

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仙台市街


 数年経って、すっかり仙台人化したソルティは用事があって盛岡に行った。そして、盛岡随一の商店街を歩いて、また驚いたのである。
「盛岡人の歩く速さは、仙台人の半分。つまり2倍遅い!」
 つまり、盛岡人は東京人の4倍、歩くのが遅い。
 これは県民性・地域性の違いもあるのだろうが、単純に、盛岡随一の商店街(目抜き通り)は仙台人の速さで歩くと「あれれ?」という間に終わってしまう、東京人の速さで歩いたら瞬時に終わってしまうというところに主たる原因はあろう。(今は盛岡の街も随分発展していると聞いた)

 何の話をしていたんだっけ?
 ああ、《第九》の第1楽章や第2楽章が「東京人の歩く速さ」だとしたら、第3楽章は「仙台人の速さ」、そして本日の末廣の第3楽章は「盛岡人の速さ、というか遅さ」と感じたのである。
 そのスロウなペースがどういう効果をもたらしたか。
 タメをつくってメロディラインの美しさを強調し聴衆を陶酔させるためでないのは、上に書いたとおりである。それなら、メロディ崩壊のリスクを生むまで遅くする必要はない。
 ソルティがなにより感嘆したのは、このゆっくりした盛岡テンポによって明瞭に開示された、第3楽章の構成の巧みさ、それぞれの楽器の特色を最大限生かしたオーケストレーションの繊細さと諧謔味とウィット(才知)、つまるところベートーヴェンの天才であった!
 美しいメロディラインという長所は、そこにのみ聴き手の関心を引き付けてしまい、かえって上記のような細やかでユニークな工夫を見逃してしまうという短所にもなりうる。新幹線の車窓から見る富士山がいかに美しかろうが、鈍行列車の車窓から見る富士山のほうが味わい深いのと同様である。速度を落としたところではじめて見えてくるものがある。
 そういった意味で、今回の末廣の第3楽章は数年前に聴いたロジャー・ノリントンのピリオド奏法の《第九》を想起させるものであった。
 考えてみれば、ベートーヴェン時代のドイツ人の「歩く速さ」は現代人より相当遅いだろう。アンダンテ・モリオカーノが正解なのかも・・・。(ただ、逆に今回の第4楽章のラストは東京人を軽く追い越す加速度付きハイスピードで、会場の撤収時間が迫っているのかと思うほどだった
 
 のんびりと街を歩く盛岡人の眼に映る風景が、目的地に向かって一心不乱に歩く東京人の眼に映る風景より、豊穣で味わい深いのは間違いあるまい。


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盛岡夜景



 
 

● 仮面舞踏会 東京薬科大学ハルモニア管弦楽団 第42回定期演奏会

日時 2017年11月19日(日)17:30~
会場 オリンパスホール八王子
指揮 田部井 剛
曲目
  • ドヴォルザーク: 序曲「謝肉祭」
  • ハチャトリアン: 組曲「仮面舞踏会」
  • カリンニコフ: 交響曲第1番 ト短調
  • アンコール チャイコフスキー: 「眠れる森の美女」第1幕ワルツ


 入場時にもらったプログラムを見ると、広告ページには薬局の名前がずらり。さすが薬科大学である。
 田部井の指揮は「マーラー第6番」に次いで2回目。やはり、迫力があって音にツヤがある。アンコールでは舞台上の女性演奏者らが花嫁のベールや花輪を頭につけたところに、王子様の格好をして袖から登場した。眠れる美女達を愛のKissで目覚めさせる色男か。あいかわらずのサービス&エンターテインメント精神である。
 ハルモニアの演奏はよくまとまっていて上手であった。学生オケのレベルの高さには今さらながら感心する。

 ところで、2曲目の「仮面舞踏会」と言えば引退した浅田真央(+振付タラソワ)であるが、実をいうとソルティはこの曲を聴くとある映画を想起するのである。
 杉本彩主演、石井隆監督、団鬼六原作の『花と蛇』(2004年東映ビデオより公開)である。
 成人指定のSM映画で、当時花盛りの美貌と姿態を誇り「エロスの伝道師」と言われた杉本彩が文字通り‛体当たり’の演技をさらしている。石井隆の名前に惹かれて観たのであったが、スクリーンで繰り広げられるなんとも猥雑で忌まわしい世界に毒気を当てられた。
 この映画でBGMとして使われていたのがハチャトリアン「仮面舞踏会」のワルツだったのである。

 成人映画とクラシック音楽のマッチングということでは、ちょっと他に例を見ないほどの相乗効果を生んでいた。縄で天井から吊るされた杉本彩が男たちに延々といたぶられるシーンに、「永遠に続く煉獄の旋回舞踏」とでも形容すべきこの暗く不吉なロシアンワルツが恐いほどはまっていた。
 それ以来「仮面舞踏会」のワルツを聴くと、どうしても青い照明の下で苦痛と(快楽?)に歪んだ杉本彩の白い顔が浮かんでくるのである。
 真央ちゃんの登場でこの淫靡な連想は一時払拭されたものの、彼女が引退した今、また彩ねえさんが復活したようである。
 困ったもんだ。


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● ムラムラ君 : OB交響楽団第194回定期演奏会

日時 2017年10月28日(土)14:00~
会場 ティアラこうとう大ホール(東京都江東区)
曲目
 ワーグナー/楽劇『トリスタンとイゾルデ』より「前奏曲と愛の死」
 マーラー/交響曲第5番 嬰ハ短調
指揮 太田 弦

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 音楽好きなら誰でも「人生最大のレコード体験」というのを持っていると思う。生演奏によるライブ体験とは別に、自宅でレコードやCDを聴いて人生観や音楽観が変わるほどの衝撃を受け、以降音楽に(そのジャンルに、その演奏家に、その歌手に)のめり込むようになった体験のことである。
 ソルティの場合、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』がまさにそれだった。
 CDプレイヤーが世に出回るようになってまだそれほど経っていない、20代半ば頃である。ヴェルディ『トロヴァトーレ』との出会いからオペラを聴くようになり、しばらくはヴェルディやプッチーニやベッリーニやドニゼッティなどのイタリアオペラを追っていた。ドイツオペラはモーツァルトくらいだった。なによりマリア・カラスに夢中だった。
 それがようやく落ち着いて、「そろそろワーグナーにチャレンジしようか」と思い、手はじめに秋葉原の石丸電気レコードセンター(今はもう無い)で購入したのが、東芝EMI発売1952年ロンドン録音のフルトヴェングラーの『トリスタンとイゾルデ』全曲であった。共演はフィルハーモニア管弦楽団、コヴェント・ガーデン王立歌劇場合唱団である。


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 購入したその夜、おもむろに聴きはじめた瞬間から全曲終了までの約4時間、ソルティは当時住んでいた板橋の1Kの安アパートから、どこか上のほうにある別の場所に運び去られていた。次から次へと潮のように押し寄せる半音階的和声の攻撃と、うねるように昇り詰めていく螺旋状のメロディに、上等の白ワインを飲んだかのごとく酩酊した。音楽というものが、あるいはオペラというものが、「麻薬であり、媚薬であり、劇薬である」ととことん知った。男でもこれほど長時間のオルガズムを経験できるのだ、とはじめて知った記念日(?)でもある。
 歌手がまた凄かった。
 イゾルデは20世紀最大のワーグナーソプラノであるキルステン・フラグスタート。同CD付属の解説書によると、

 1935年メトロポリタン歌劇場で『ワルキューレ』の練習に際して、彼女が歌いはじめたその瞬間、その歌唱のあまりのすばらしさに指揮者は驚嘆のあまりバトンを落としてしまい、ジークムント役の歌手は茫然として自分の出を忘れてしまった程であった。

 これはまったく誇張でも粉飾でもない。ヴォリューム(声量)といい、輝きといい、鋼のごとき力強さといい、人間が持ち得る最も偉大な声であるのは間違いない。20世紀どころか今のところ人類史上ではなかろうか。
 トリスタンはルートヴィッヒ・ズートハウス。これもフラグスタートの相手役として遜色ない素晴らしい歌唱である。
 フルトヴェングラーはベルリン・フィル共演のベートーヴェン交響曲3番『英雄』、5番『運命』、9番『合唱付』など伝説的名演を数多く残しているが、それらの多くは1940年代のライブ録音ゆえ、音質の悪さも否定できない。名歌手を揃えたスタジオ録音のこのレコードこそが、後代のクラシックファンが聴けるフルトヴェングラー生涯最高の名演奏と言えるのではなかろうか。
 実をいうと、ソルティはこのCDを上記の一回しか聴いていない。その体験があまりに衝撃的で素晴らしかったので、もう一度聞いてそれ以下の感動だったらと思うと、怖くて聴けないのである。CDはケースに入ったまま今もレコード棚の奥のほうに並んでいる。こんなお蔵入りもある。

 さて、OB交響楽団の今回のテーマは、ずばり「愛」である。
 人類最高の恋愛物語の一つである『トリスタンとイゾルデ』は言うまでもないが、マーラーの5番も「アルマ交響曲」と名付けてもいいくらい、結婚したばかりの美しき妻の影響下に作曲されている。別記事でソルティは「男の性」がテーマと解釈した。
 まあ、なんと淫猥にして危険なラインナップであろうか。本来ならこういう演奏会こそ猥褻規定に引っかかるものなのだろう・・・(笑)
 指揮の太田弦(おおたげん)は1994年生まれの20代。舞台に登場した姿はまだあどけなさの残るのび太似のお坊ちゃん。オケの大半のメンバーの孫世代ではなかろうか。すでに日フィルや読響を指揮しているというから、才能の高さはその道のプロに認められているということか。OB交響楽団のようなベテラン&壮年オケがこういう勢いある若手と組むことを大いに評価したい。新しいものとの出会いこそが音楽を活性化する。
 
 出だしからOBのうまさが光る。独奏も合奏も安定している。よく練れている。太田の指揮は、繊細さと精密さが身上と思われる。ゴブラン織りのタペストリーのような、あるいは工学的技術の粋を集めた精密機械を連想した。

タペストリー


 と、分析できたのも最初のうち。1曲目『トリスタンとイゾルデ』の後半の「愛の死」から、舞台から放たれた音の矢がソルティの胸を直撃し、アナーハタチャクラが疼きだした。自分では曲を聴きながら、過去のいかなる甘いor苦い恋愛体験も感情的ドラマも思い出しても連想しても反芻してもいなかったので、まったく不意を突かれた。純粋に音の波動が、聴診器のようにこちらの体をスキャンして、必要なポイントを探り当てて掘削開始したように思われた。
「あらら?こりゃ不思議」と思っているうちに休憩時間。 

 2曲目マーラー5番。OBとマーラーの相性の良さを再認識。若いオケではここまでスラブ的粘っこさをうまく表現できないだろう。独奏もみな上手い。
 第2楽章の終結から今度は股間のムーラダーラチャクラがうごめきだした。くすぐったいような、気持ちいいような変な感触である。第3楽章に入ると、それが背筋を伝って這い上がり、首の後ろをちょっとした痛みを伴って通過して、頭頂に達した。ぼわんとあたたかな光を感じる。ホール内のルックス(照明)が上がった気がした。耽美的な第4楽章に入ると、光は眉間のアージュニャーチャクラ、いわゆる第三の目にしばらく点滅しつつ憩っていたが、最終楽章でスッと体の前面を下に降りた。華やかなクライマックスではオールチャクラ全開となった。
 体中の凝りがほぐれ、気の通りが良くなって、活気がよみがえった。
 終演後、最寄り駅に向かっていたら、ひさかた忘れていた“ムラムラ君”に襲われた。どうにもこうにも落ち着かないので途中の公園で瞑想すること40分。ムラムラ君は何かに変容したようである。
 やっぱり、音楽は麻薬だ。

ムラムラ君

ムラムラ君




 

● 音楽療法 : YAO管弦楽団 第12回定期演奏会

日時 2017年10月1日(日) 14:00~ 
会場 パルテノン多摩・大ホール(東京都多摩市)
指揮 鈴木 衛
曲目
 ウェーバー/ 歌劇「オベロン」序曲
 ブラームス/ ハイドンの主題による変奏曲
 ベートーヴェン/ 交響曲第6番「田園」ヘ長調
 アンコール ブラームス/スラブ舞曲第4番

 無量光寺を訪ねたあとJR相模線で橋本駅に戻り、京王線に乗り換えて多摩センター駅に行った。午後からの無料コンサートが目的である。
 ケアマネ試験まで一週間だというのにずいぶん余裕をかましているようだが、このところちょっと息切れ気味なのでレスパイト(小休止)の必要を感じたのである。一遍上人ゆかりのお寺とベートーヴェン『田園』。心を整えるのにはぴったりの組み合わせであろう。

 開演前に、パルテノン多摩の裏手に広がる多摩中央公園で、途中のスーパーで買った弁当を食べる。「野菜が主役の弁当」という名だけあって季節の野菜が盛りだくさん。野菜大好きソルティには理想的なご飯とおかずのバランスである。


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たしか398円だった


 YAO(ヤオ)管弦楽団は、2008年12月に横浜市青葉区周辺に住む同好の士が集まって立ち上げたアマチュアオーケストラ。YAO(ヤオ)はYokohama Aoba Orchestra(横浜青葉オーケストラ)の頭文字とのこと。(YAO管弦楽団ホームページ参照)
 舞台上の面々を見ると、40~60代の壮年が中心のようであった。それだけに演奏は手堅く、技術的にも安定したものがあった。
 指揮の鈴木衛(まもる)はYAOで振るのははじめて。2012年東京音楽大学指揮科卒業というから、まだ20代後半か。オケのメンバーよりずっと若い。音楽経験も浅いはずである。こういうのって、やりにくいのか、気持ちいいのか・・・。
 だが一曲目の『オベロン』から、指揮台の鈴木のダイナミックかつ饒舌なパフォーマンスに惹きつけられた。体全身で自分のやりたい音楽を表現し、オケにわかりやすく情熱をもって伝えようとしている。気持ちのいい指揮ぶりである。
 
 2曲目はオーケストレーションの職人たるブラームスの手腕が光る。
 一つの単純な主題を次々と変奏し(第1~第8変奏+終曲)、豊かな色合いと表情を醸し出していく。聴いていて楽しいし、変奏ごとに会場の気が変わり、聴く者の気分もまた変わる。ソルティに関して言えば、変奏ごとに刺激されるチャクラが変わった。
 
 ベートーヴェン『田園』は牧歌的な風景が心を和ませる一方、同じメロディ(主題)や同じ音型(動機)の繰り返しが延々と続き、聴く側のシチュエーションによっては‘イライラする’ことがある。‘ながら勉強’とか‘ながら仕事’、つまり作業BGMには向かない曲なんじゃないかと思う。
 が、今日は目を閉じ、音楽に身をまかせて、空想の田園を逍遥した。
 すると、主題や動機の繰り返しが、マッサージチェアの往復するローラーのように、ソルティの脳内のコリをほぐしてくれた。
 
 アマオケ巡りを始めて2年。知らぬ間に音楽療法を身に着けている。


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多摩中央公園


 
 
 

● 失恋フーガ、あるいは少子化問題処方箋 :オーケストラ・エレティール第56回定期演奏会

日時 2017年9月16日(土)18:00~
会場 武蔵野市民文化会館大ホール
曲目
 J.S.バッハ(シェ-ンベルク編曲)/前奏曲とフーガ 変ホ長調 BWV552「聖アン」
 マーラー/交響曲第5番 嬰ハ短調
指揮 長田 雅人

 エレティールを聴くのは2回目。今回は大編成を要する2曲である。

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 1曲目はバッハ(=見事な対位法)とシェーンベルク(=見事なオーケストレイション)のイイトコ取り。とくに後半のフーガ部分が、連発花火のように多彩で華やかで自由自在で素晴らしかった。バッハの曲はゴチック教会の荘厳さと陰鬱さを思わせるけれど、シェーンベルクの魔術的なアレンジメントによって「極彩色のステンドガラスを通して聖堂に煌びやかな陽光が差し込んできた」といった印象。 
 傑作である。

花火



 配布されたプログラムを読んで知ったのだが、シェーンベルクは26歳(1901年) のとき先輩作曲家であるチェムリンスキーの妹と結婚している。が、8年後に妻は画家と駆け落ちする。つまりコキュにされたのである。妻は戻ってきたが画家は自殺したそうな。
 別記事で書いたが、シェーンベルクが1899年に作曲した『浄夜』はまさに愛する女の不貞を描いた作品である。別の男の子供を宿してしまった女を寛大にも許し受け入れる男の話。なんとシェーンベルクは予言者よろしく、自ら作曲した物語をそのまま生きる羽目になったのである。
 そのうえ、このエピソードには対位法のような第二旋律がある。シェーンベルクの義兄となったチェムリンスキーは社交界随一の美女を愛したが、尊敬する先輩音楽家であるマーラーに分捕られてしまう。アルマ・シントラーのことだ。
 人の心に錠はかけられない、恋愛は自由とは言うものの、芸術家の人生はかくも物狂おしく忙しい。
 

アルマ
魔性の女 アルマ・シントラー

 2曲目は大好きなマーラー5番。
 クラシックの名曲中の名曲であり、星の数ほどある交響曲のうちトップ10に入る人気曲であるのは間違いないけれど、ソルティはこの曲をはじめて聴いてから数十年来、微妙な違和感というか‘引っかかり’を持っていた。「名曲なのは確かだけれど、聴くたびに感動するのも間違いないけれど、一体この曲のテーマは何なのだろう?」という思いである。
 むろん、音楽に(交響曲に)テーマを求めるのは文学かぶれ&精神分析かぶれした現代人の悪い癖なのかもしれない。交響曲に優れた小説や戯曲に見るような構成やストーリー展開の妙を読み取ろうとするのは、推理小説やハリウッド映画を愛するソルティの生理的嗜好に過ぎないのかもしれない。純粋音楽という言葉があるように、音楽はテーマや物語性とはまったく別の領野で、音楽それ自体の輝きによって人を感動させ得るものである。マーラー5番もその証左であって、各楽章の個性やメロディの美しさ、楽器の音色やオーケストレーションの豊かさ、曲調や演奏から受け取る‘気’を味わえば十分であって、そこに何も解釈すべき物語をわざわざ想定しなくてもよいのかもしれない。
「テーマなんて関係ない。そのままで十分に美しい!」

 しかしたとえば、ベートーヴェン《第九》に較べると、あるいは同じマーラーの1番《巨人》や2番《復活》や3番に較べると、5番は統一感がないというかアンバランスな印象を受けるのである。《第九》には「暗から明へ」という流れがあった。第1楽章から第3楽章までの様々な地上的な心境を経験した魂が、最終楽章においてついに「ユリイカ! それは父(神)に帰依する喜びだ!」と高らかに宣言するという劇的ストーリーが読み取れる。マーラー1番は別記事で書いたように「愛と青春の旅立ち」とでも言いたいようなテーマ性を発見(発明)できる。2番はまんま「復活」、3番は「自然」がテーマである。どちらかと言えばマーラーは文学性が濃い作曲家だと思うのである。してみると、5番にも何らかのテーマが托されているのではないか。そう勘ぐってしまうのも無理からぬ話ではないか。
 しかるに、この5番と来たら、楽章ごとにあまりに雰囲気(曲想)が異なっていて、楽章間の有機的つながりがいっこうに見えてこないのである。(音的なつながりは見出せる。有名な第4楽章のメロディが他の楽章中でバリエーションを奏でている)

 第1楽章の‘運命的’はじまりと葬送曲は、マーラーの十八番たる「暗・鬱・孤独・不安・宿命」であろう。
 第2楽章の落ち着きのなさと幾度も繰り返される絶頂と虚脱の意味するものは?
 第3楽章こそ謎である。「暗→明」「鬱→躁」「孤独→愛」「不安→安心」「宿命→恩寵」への転換が聴き取れるのだが、そのきっかけとなるものは何なのか? そして、散漫・冗長と思えるほど長大で独りよがりな構成の意味するものは?
 唐突に彼岸に運ばれる第4楽章。圧倒的に甘美だが、他の楽章から浮きすぎている気がしないでもない。油絵の中に一つだけ水彩画が飾られているような印象だ。
 そして、もっとも謎に包まれた第5楽章。軽快で躁的な曲調はどうやら「暗」から「明」に達したということらしいけれど、あまりに無邪気すぎる。やんちゃすぎる。これをベートーヴェン《第九》最終楽章同様の「喜び」と解してもいいものだろうか? マーラーは「答え」を見つけたと言ってもいいのだろうか? なんだか浅すぎる。(ベートーヴェンが深すぎるだけか)
 
 いま一つの謎は、曲全体に漂う官能性、エロティシズムである。
 第4楽章はまぎれもなく人間の作ったあらゆる音楽の中で、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』と並び最も官能的なものの一つであろう。「タナトス(死)に向かうエロティシズム」といったバタイユ的匂いがある。だからこそ、ヴィスコンティは『ベニスに死す』でこの曲をBGMに選んだのだろうし、モーリス・ベジャールはバレエに仕立てたのであろう。
 この第4楽章の印象があまりに強いので他の楽章にもエロティシズムを付与して聴いているきらいがあるのかもしれない。が、ソルティは5番を聴いているといつも、とくに第3楽章あたりから‘音楽とSEXしているような気分’になるのである。結果、客席で恍惚感に身をゆだねている。


マンジュシャゲ


 今回の長田雅人&エレティールの5番は、ソルティがこれまで(CD含め)聴いた中でもっともテンポがゆったりしていた。最初から最後まで非常に抑制を効かせていた。長田がそのように振った理由は分からないけれど、それによって楽章ごとのキャラクターが明確になり、ソルティが感じる‘引っかかり’と恍惚感を客観的に分析し意味づけするだけの余裕があった。
 結果、ついにこの曲の自分的に納得いく解釈を見出したのである!
 やってみよう。

 第1楽章は、愛を知らない孤独な男の魂である。自我と性欲の重みにつぶされんばかりになっている。あるいは、マスターベーションにおける妄想のSEXである。
 第2楽章の落ち着きなさは、ハンティングに乗り出した男の渇望と高揚と挫折を描いている。いろいろな女と出会い、恋のゲームを楽しみ、口説きに成功してSEXに至る。が、性欲は満足しても心の満足は得られない。頂点に達した後に襲ってくる虚しさと孤独。偽りの愛。
 この曲は最初に第3楽章が作られたそうだが、この楽章こそクライマックスであり、全曲の主要テーマの開陳である。本当の愛との出会い、つまりマーラーにとって運命の相手であるアルマとの出会い、そしてより具体的にはアルマとの‘愛の一夜’があますところなく描かれているのがこの楽章である。(言い切った!)
 これまで並べた黒い碁石がすべて白にひっくり返る。暗から明へ、鬱から躁へ、孤独から愛へ、不安から安心へ、宿命から恩寵へ、陰から陽へ、剛から柔へ、男から女へ。あるいは、それら対極同士が交合し、スパークしながら溶け合って、アンドロギュノス的な一体の魂となる。愛の成就。それが恋人同士の愛の一夜であるならば、冗長だろうが散漫だろうが、他人にはまったく関係ない。
 第4楽章が彼岸的であるのはもはや当然である。熱く激しく愛し合ったあとに訪れる深く天上的な眠り。この世ならぬ美の世界。タントラよろしく、性愛によって人が到達しうる最高の境地を、夢か現か分からぬままに揺曳する。
 ここまで来てやっと、第5楽章の始まりが朝の風景の描写であることに納得がいく。後朝(きぬぎぬ)の章である。大気が目覚め、鳥がそこかしこで鳴き、木や草が露を光らせ、爽やかな風が湖面を吹き渡り、朝日が万物に降り注ぐ。恍惚たる愛の一夜のあとに訪れる‘生’の爆発的喜びと感謝。自然への讃歌と一体感。今や目に映るすべてが輝いて見える!

 結論を言えば、この曲は性愛がテーマ、それも「男の性」を表現している。

 マーラーにとって、アルマという存在が人生において、また表現者としてのアイデンティティにおいて、すこぶる重要な要素であったのは間違いなかろう。5番の第4楽章はまさにアルマに捧げられたものであるし、6番第1楽章第2主題はアルマを表現したものであったし、8番に至っては作品そのものがアルマに献呈されている。アルマと出会った年に作られた5番以降、アルマこそが作曲家マーラーの中心的モチベーションだったのではなかろうか。そして5番は、二人の関係がもっとも密で、もっとも安定し、もっとも幸福だった時の記念碑的作品と言えるのではないだろうか。


花の章


 5番で「究極の愛を得た」と凱歌を上げたマーラーは、その「喜び」を維持できたのか?
 そうは問屋がおろさない、ってことは恋愛経験ある誰もが知っている。
 続く6番において振り下ろされるハンマーの破壊的響きの正体は、男の恋愛幻想の破綻、女性幻想の崩壊を意味していると解釈するのはどうだろう? つまり――たぶんこれまで誰も書いたことがないと思うが――マーラーは、結婚してさほど日が経っていない時期に、妻アルマの不貞の事実を知ってしまったのではなかろうか。
 アルマがマーラーを裏切って建築家ヴァルター・グロピウスに走ったエピソードは良く知られている。それは第8交響曲を初演した1910年のことで、苦痛の極みにいたであろうマーラーはそれでもアルマを許し、グロビウスか自分かを選ぶ自由を彼女に与えた。理由は知るところでないがアルマは結局マーラーのもとを去らなかった。
 マーラーと出会う前のアルマの恋愛事情、マーラーが亡くなったあとのアルマの恋愛遍歴を鑑みるに、アルマという女性は生来ニンフォマニアなところがあったのではないかと思うのである。大変な美女で会話も巧みで、ほっといても男は寄ってくる。彼女もちやほやされることは嫌いではなかった(大好きだった)。こういう女性がたとえ結婚して間もないからといって、子どもを生んだばかりだからといって、夫一人で満足できるとは思えないのである。マーラーは天才で成功者で押しが強くて魅力的な男だったのは間違いなかろうが、肉体的魅力という点では決して他の男より抜きん出てはいなかった。指揮者としての仕事、作曲家としての仕事で多忙を極めていたから、アルマがほうっておかれた可能性は高い。(二人の年齢差は19歳)
 アルマの不貞を知りそれでも突き放せないほどアルマを愛していた(必要としていた)マーラーにとって、以降、アルマの存在は単なる‘生活上のパートナー’‘肉体を持った一人の女’を越えた神話的存在に昇華していったのではないか。それが交響曲第8番第2部『ファウスト』の最終シーンの名ゼリフ「永遠にして女性的なるもの、我らを引きて昇らしむ」につながる。

 こんな不埒で意地悪な想像をするソルティを女性不信と思うかもしれない。が、ソルティは女性のそういった面をも含めて「天晴れ!」と思うほうである。少子化問題の最良の処方箋は、女性がもっと自由に恋愛して、自由にSEXして、父親不明の子どもをバンバン生んで、なおかつ周囲や福祉の助けを得ながら母親一人でも育てられるような社会を作ることだと、なかば本気で思っている。(このさき日本人の既婚率は下がることはあっても上がることはないと思う)

ひよこ
 

 話がそれた。
 シェーンベルク、チェムリンスキー、マーラー。
 大作曲家だろうと、凡人だろうと、男というものは不甲斐なくもつまらない。
 ほんとはそれが言いたかったのである。







● 夏バテ、あるいはヴィーナスベルクの欠乏 リベラル・アンサンブル・オーケストラ第6回演奏会

日時 2017年8月27日(日)14:00~
会場 ティアラこうとう大ホール
曲目
 R. ワーグナー/歌劇『タンホイザー』序曲
 J. ブラームス/ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 イ短調
 A. ドヴォルザーク/交響曲第8番 ト長調
指揮 和田 一樹
ヴァイオリン独奏 崎谷 直人
チェロ独奏 門脇 大樹


 常連となりつつあるLiberal Ensemble Orchestra(LEO)の演奏会。今回は和田一樹の『タンホイザー』序曲が一等の楽しみだった。聖と性、信仰(巡礼)と快楽(ヴィーナスの丘)の狭間を彷徨う男の心象風景をどうメリハリつけて見せてくれるか、クライマックスのひたひた押し寄せる感動のうねりをどう焦らしながら盛り上げてくれるか。
 若い人はピンと来ないだろうが、この曲を聴くとジャンボジェットの離陸風景が思い浮かぶのである。逆に、羽田や成田に行って離陸滑走する飛行機を見ると、いまだに『タンホイザー』序曲が頭の中で鳴り出す。あの映像はインパクトあった。90年代の佐川急便のCMだったか。

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 残念なことに、夏バテで家を出るのが遅れ、開演時刻に間に合わなかった。聴けたのは2曲目から。


 ブラームスとドヴォルザークを続けて聴くと、ほぼ同じ時期に活躍した両作曲家の違いが明瞭となって面白い。
 二人は親交があり、8歳年上のブラームスが後輩のドヴォルザークを可愛がり、なにくれとなく支援したと言う。お互いに良きライバルとしても刺激し合い、ブラームスがハンガリー舞曲を書き、ドヴォルザークはスラブ舞曲を書いた。ドヴォルザークのチェロ協奏曲を聴いたブラームスは、「こんなに凄い曲が書けるのか。自分も書けばよかったが、もう遅い」と言ったそうな。(旬報社『小林研一郎とオーケストラへ行こう』参照)
 ブラームスは、管弦楽の様々な手法を駆使した複雑で緻密な曲の構成や完成度の高さでロマン派の中でも群を抜いていよう。玄人好みと言われるゆえんだ。が、ことメロディー作りに関しては苦労したようだ。一方、ドヴォルザークはチャイコフスキーに次ぐと言っていいくらいの才能あふれるメロディーメイカー。その上に管弦楽手法も見事。スラブ的というためでもあろうが、「こじらせていないマーラー」という印象がある。
 どっちが良いかは好みの問題なのだろう。ブラームスは楷書的、ドヴォルザークは草書的。あるいはブラームスは‘森鴎外風’、ドヴォルザークは‘夏目漱石風’という感じがする。(文体的にという意味で。人柄では逆かもしれない。なんとなく鴎外はドヴォルザーク同様‘鉄っちゃん’のような気がする)
 
 和田一樹&LEOの演奏は、上手くてよくまとまっていた。もはや安定感のある上手さ。
 二人の独奏者は実に息が合っていて、目をつぶって聴いていると、ヴァイオリンとチェロの音色の違いさえなければ、一人の独奏者による演奏と勘違いしかねないほどの一体感があった。
 
 夏バテしてなければ、もっと乗れたのに。
 ヴィーナスベルクが足りてないせい?



 
 

● 金八もびっくり! :荒川区民オペラ『蝶々夫人』(ジャコモ・プッチーニ作曲)

蝶々夫人


日時 2017年8月13日(日)15:00~
会場 サンパール荒川(大ホール)・東京都荒川区
指揮 小崎 雅弘
演出 澤田 康子 
キャスト
  • 蝶々夫人…………西本真子
  • ピンカートン……田代誠
  • スズキ……………杣友恵子
  • シャープレス……福山出
  • ゴロー……………横山慎吾
  • ボンゾ……………志村文彦
  • ヤマドリ…………星田裕治
  • ケート……………杉山由紀
  • 神官………………笹倉直也
管弦楽 荒川区民交響楽団
合唱 荒川オペラ合唱団

 区民オペラというものがはたして荒川区以外のところでもやっているのかどうかよく知らないのだが、第18回を迎える荒川区民オペラこそ、区民オペラあるいは市民オペラの代表格の一つと言っていいのだろう。いまや荒川区の夏の風物詩といったイメージすらある。
 しかし、ソルティは今回初めての鑑賞であった。
 やっていたことは数年前から知っていたのだが、市民オペラに対する軽侮というか一抹の不安というのを持っていたのである。
 オペラという総合芸術はとっても繊細なもので、歌手かつ演者、合唱、指揮&演奏、演出、美術、舞台装置、裏方、字幕(日本語訳)、そして観客――のどれか一つが足を引っ張ると、すべてが台無しになってしまう可能性をはらんでいる。トランプカードでつくる城のようなものだ。これらの要素がある一定以上の水準を揃ってキープしてこそ、オペラならではの輝きは放たれる。素人混じりのスタッフにそこまで望めるだろうかという不安があった。
 そしてまた、荒川区民には失礼な話だが「荒川区?」というイメージもあった。
 なんてったって荒川区と言えば『3年B組金八先生』の舞台(ロケ地)である。武田鉄也である。三又又三である。東京最後のチンチン電車が走る庶民の町である。オペラとはなかなか結びつかないのも無理ないではないか。(本当はオペラってそんな高尚なものでも難解なものでもないのだが・・・)
 

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 結果から言えば、まったく杞憂であった。
 それどころか、率直に言って、二期会や藤原歌劇団のようなプロのオペラ団体の公演や、あるいは海外の名のあるオペラ劇場の来日公演と比してもそれほど遜色ない、素晴らしい、感動的な『蝶々夫人』であったことを明言する。このオペラをライブ及びVHSやDVDも含め数十回観ているソルティにして、「これまで観た中でもかなり上位」と思わせる、期待を大きく上回る出来であった。
 これでA席3500円はお得である。
 市民オペラを侮ってはいけない。

 成功の最大要因は、間違いなくタイトルロール(主役)をつとめた西本真子に帰せられよう。ソルティの理想的な‘蝶々夫人’に近かった。
 なによりも声の魅力。楽々と高音が抜ける。第1幕の夢のように美しい登場シーンを締める最後の3点変ニ音(女性音域の高い‘レ’のオクターブ上の‘レ’のフラット)が無理なく、かなりの長さを保って、美しく伸びやかに出る。これでまずぶったまげた。
 レナータ・テバルティや林康子など、この音を回避する名ソプラノだって少なくないのだ。フィオレンツァ・チェドリンスはアレーナ・ディ・ヴェローナの『蝶々夫人』ライブでこの音を見事に決めているが、途中で途切れないか、声が引っくり返らないか、ちょっとハラハラする感覚を伴ったチャレンジである。
 西本真子は若さも手伝ってと思うが、喉に力みのないスムーズな発声をもって会場全体に美しく響かせた。その声は、水琴窟のような透明感あるヴァイブレーションを伴った響きである。第2幕第2場の子守唄「可愛い坊や、お前は神様と一緒、私は悲しみと一緒。お前には金のお星様をあげましょう」では、歌いながら舞台から姿を消した後の最高音も実に確実に、実に感動的に決めていた。曲中随一の名アリア『ある晴れた日』の素晴らしさは言わずもがな。この二つの最高音と『ある晴れた日』だけでも、ソルティ的には満足といって良いものであった。
 しかも、声のみならず演技も巧みであった。体格や顔立ちが十代の蝶々夫人に扮するにあつらえ向きだということもあるが、着物を着た際の所作や、少女(生娘)らしい或いは母親らしい身のこなし、音楽に合わせた無駄のない動きも優美であった。なによりもこの人は天性の舞台感覚を持っていると思う。つまり、自分が舞台のどこにどのように位置していて客席からどのように見えるかを、計算でもなく、演出家の指示にただ機械的に従っているのでもなく、肉体感覚として把握しているように感じられた。だから、観客は自然この人を目で追ってしまうことになる。主役たるべく生れてきた人かも。
 一つだけ難を言えば、高音域はよく響くが、低・中音域はやや弱い。サンパール荒川くらいの広さなら問題ないが、もっと広い劇場だと声が通らない可能性がある。と言って、声楽的に(あるいは体型的に)どう改良すればいいのか、ソルティには分からないが・・・。
 ともあれ、この人のバタフライなら、機会あればまた聞きたい。

 歌手では他にシャープレスを歌ったバリトンの福山出(いずる)とスズキ役のメゾ・ソプラノ杣友(そまとも)恵子が良かった。福山は掲載写真を見るとまだ若いようだが、人生を知り尽くしたシャープレスの思慮深さと、悲劇に終わることを予測しながら若いピンカートンの情熱と無謀を止められないでいる老年者の羨望と苦さとを滲ませていた。また、第2幕のスズキと蝶々夫人の「花の二重唱」は、二人の呼吸も音量もピッタリ合って、全幕一番の聴きどころと思えるほど強い磁力を放射していた。

 演出は普通で可もなく不可もなく。大人数のエキストラが登場するところでの人の捌き方にもう一つ工夫というか配慮がほしい。舞台上を‘移動するためだけに移動している’といったような心理的裏づけのない動きが目に付いた。
 一方、「やはり蝶々夫人は日本人の演出家が一番」と思わされたシーンがあった。それは、スズキが沓脱石(くつぬぎいし)の草履の向きをかがんで整えるシーンである。これこそ日本人らしさの粋である。(昨今の若者はこの礼儀作法を知っているだろうか?) この細やかなリアリティあって、「夫に一生を捧げる日本女性に見舞った悲劇」という全体のドラマが生きてくるのである。

 荒川区民交響楽団の演奏は、もちろん技巧的にはプロには到底及ばないけれど、ドラマ性は十分醸し出していた。指揮の小崎雅弘もドラマツルギーに関する感性の豊かさを示した。とくに、第2幕以降のサスペンスの盛り上げが上手く、後半グイグイと引き込まれた。

 カーテンコールでは盛大の拍手と「ブラボー」の嵐。
 これだけ高水準のオペラが区民の手で成し遂げられるとは!
 最近アマオケ巡りをするようになって感じていることだが、クラシック音楽に対する日本人の理解度や演奏技術や表現力って、国際的に見て相当ハイレベルなのではないか。バブル時代の贅沢きわまるクラシックブームは「‘にわか成金族’の見栄がもたらした付け焼刃に過ぎない」とずっと思っていたのだが、あれはあれで市民の目や耳を肥ゆらせるのに役立ったのかもしれない。

 荒川区民オペラの来年の演目は、ヴェルディ『イル・トロヴァトーレ』だそうである。
 きっと行くことになるだろうなあ・・・。
 もっと早く行っとけば良かった。
 この、バカチンがぁ!

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追伸 : 『金八先生』の舞台は荒川区ではなく足立区だという指摘をいただいた。調べたらその通りである。リアルタイムで観ていた十代の昔から「荒川区」という思い込みがあった。しょっちゅう荒川土手シーンが出てくるからという単純な理由からであろう。まあ、下町という点では変わりはない。






  



 




● 作曲家の霊格 :ガリマティアス・ムジクム第38回定期演奏会


ムジクム


日時 2017年7月30日(日)14:00~
会場 武蔵野市民会館大ホール
曲目
  • ロッシーニ : 歌劇『セビリアの理髪師』序曲
  • シベリウス : ヴァイオリン協奏曲 ニ短調
  • ドヴォルザーク : 交響曲第8番 ト長調
アンコール
  • J.S.バッハ : 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番よりルール
  • ドヴォルザーク : スラブ舞曲第1集より 第8番
指揮 広井 隆
ヴァイオリン独奏 印田 千裕

 武蔵野市民文化会館は、JR中央線三鷹駅北口から文化会館通り(通称「かたらいの道」)を歩いて15分ほどのところにある。ホールの前に大きなヒマラヤ杉が威風堂々たる姿をさらしていて、その前を五日市街道が走っている。五日市街道と文化会館通りの交差する一角に、庚申塚が丁寧に祀られている。


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武蔵野市民文化会館

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ヒマラヤ杉

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庚申塚


 ガリマティアス・ムジクムという楽団名は、モーツァルトの作品『音楽のおしゃべり』(K.32 Galimathias Musicum)から取ったとのこと。東京学芸大学出身者を中心に1980年設立され、現在のメンバーは見たところ50~60代中心だろうか。出演者紹介を見ると、女性39人中、「○○子」のつく名前が17名である――ってどういう統計よ(灸)。
 第1回から指揮している広井隆はオケの常任指揮者的存在であろう。

 客席の最後尾である2階席後方に座ったが、演奏始まってすぐ気づいたのは「響きがいい!」。ヒマラヤ杉のせいとは思えぬが、良いホールである。客席も傾斜があり、舞台がよく見える。

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 『セビリアの理髪師』はとても楽しい心はやる曲。コンサートの最初に持ってくるのにぴったりである。
  
 シベリウスのヴァイオリン協奏曲。美しく柔和で滋味深い。やはり、シベリウスは日本人の感性に合う作曲家だと思う。派手でなく、お仕着せがましいところもなく、父性的(=キリスト教的)でない。自然描写にすぐれた人ではあるが、この協奏曲では「北欧のラフマニノフ」とでも言いたいような、優美かつメランコリックな調べが人間的である。

 ドヴォルザーク交響曲8番もまた、テレビ朝日の長寿名番組『世界の車窓から』を思い出させるとっつきやすい曲である。それもそのはず、ドヴォルザークは鉄っちゃんだったらしい。「機関車が手に入るなら、私のすべての曲を捨ててもかまわない」と言ったとか。
 もう親近感100%
 アントニン・ドヴォルザークの伝記を読んだことはないのだが、曲だけの印象から「とても純粋で誠実で廉潔な人」というイメージが湧く。ブラームスやチャイコフスキーやマーラーの「のたうつような苦渋」と較べると、なんとも明るく牧歌的。といって「浅い」のかと言えば、そんなことはない。『遠き山に日は落ちて』で知られる交響曲第9番『新世界より』第2楽章なんか、よく聴くと非常に深くて荘厳である。もっとも大衆的な人気曲『ユーモレスク』も、明るく軽やかな曲想の中に諦念に近い哀感が滲んでいる。
 この交響曲8番も、どこまでも広がる平和な田園風景やダイナミックな峡谷風景の中に、天上的な導きを感じとる。
 霊格の高い人だったのだろうか。

ドヴォルザーク
アントン
 
 帰りは、三鷹駅前の喫茶店で一服する。
 三鷹駅は昔から、南口(三鷹市側)は発展しているが、北口(武蔵野市側)は野暮ったくて開発から取り残されたイメージがあった。
 久しぶりに歩いてみたら、立場が逆転したかと思うほどの刷新ぶり。おしゃれな大人の文化都市といった装いにびっくりした。
 国立を目指しているのか?


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夕なずむ 三鷹駅北口
 


 




● 開花直前‘ひまわり’娘 :オペラ映画 『アイーダ』

1953年イタリア、アメリカ制作

監督 クレメンテ・フラカッシ
撮影 ピエロ・ポルタルピ
美術 フラヴィオ・モゲリーニ
衣装 マリア・デ・マテイス
出演
  • アイーダ    : ソフィア・ローレン (歌:レナータ・テバルティ)
  • アムネリス : ロイス・マクスウェル (歌:エベ・スティニャーニ)
  • ラダメス     : ルチアーノ・デッラ・マッラ (歌:ジュゼッペ・カンポラ)
  • アモナスロ : アフロ・ポーリ (歌:ジーノ・ベーキ)
  • ランフィス   : アントニオ・カッシネッリ (歌:ジューリオ・ネーリ)
上映時間 92分

 世界文化社の『DVD決定盤オペラ名作鑑賞』シリーズ第1巻として、ルチアーノ・パヴァロッティ、マリア・キアーラ、ゲーナ・ディミトローヴァ出演1985年ミラノ・スカラ座における『アイーダ』ライブ映像と一緒にカップリングされている。いわゆる、オペラ映画である。

 最大の見所は、戦後イタリアの生んだ世界的大女優であるソフィア・ローレンがそのなまめかしいオリーブ肌を黒く塗ってエチオピア王女アイーダを演じているところにある。
 芳紀18歳。個々のパーツのくっきりした派手な顔立ちがもたらすエキゾチズムと、すでに成熟したダイナマイトボディが放つエロチシズムとが一体になった芳醇な魅力に加えて、そののち『ひまわり』(1970)のごとく開花したダイナミックで感情表現豊かな演技の萌芽も見受けられる。このアイーダなら、ラダメスが祖国エジプトを裏切るのも無理はない。橋が落ちるのも無理はない(by『カサンドラ・クロス』)。
 ほかの主要役者陣も容姿といい雰囲気といい演技といい、それぞれの役柄にぴったり。映画ならではのリアルで豪華絢爛な古代エジプト王宮セットや、馬を走らせた砂漠での戦闘シーン(野外ロケ)など、充実した画面の連続で、まさに理想的な『アイーダ』の世界が現出している。
 とりわけ、随所に盛り込まれた王宮広間での集団舞踏シーンは、イタリア人ならではの明るくメリハリの利いた色彩感覚とキレキレのテンポ感と独創的演出とで、眼福といって良いレベルに達している。こういうのを見ると、イタリア人はやっぱり‘ルネサンス人’の末裔だなと感じてしまう。ただし、踊り手が見事に黒人ばかりなのが‘ちびくろサンボ’的人種差別感を映し出し、現代ならこうは撮らない(撮れない)だろうと思われる。

 舞台なら2時間半はかかる上演時間を92分に圧縮するのだから、当然音楽が犠牲になる。悪く言えば、ぶつ切りである。たとえば、舞台なら最大のクライマックスになる第2幕の幕切れの大合唱が見事に断捨離されている。アイーダの歌う屈指の名アリア『わが故郷』も1番で終わっている。音楽よりも筋のわかりやすさやテンポの良さを優先する方針は、いっそ気持ちがいいほど。「映画はクラシック音楽とは違う。あくまで大衆娯楽なのだ」と言わんばかりのイタリア映画人のプライドを感じさせる。

 とはいうものの、音楽の魅力もしっかり味わえる。
 歌が圧倒的に素晴らしいのである。
 アイーダを歌うレナータ・テバルティの完璧な声と歌唱はソフィア・ローレンをよりいっそう美しく見せる。恋のライバルにして尊大なエジプト王女アムネリスを歌うは、往年の名メゾ・ソプラノたるエベ・ステニャーニ。アムネリスを構成する四大感情――嫉妬・怒り・勝ち誇り・苦悩――を肌理細やかに表現し、アムネリスを単なる悪役キャラ、憎まれ役に終わらせない。苦悩を通しての人間的成長まで感じさせる名唱である。他の歌い手も及第点を楽々突破。50年代のイタリアオペラ界がいかに凄かったかをまざまざと示している。

 これまでに作られたオペラ映画の中で最高の部類に入れても間違いあるまい。



評価:B+


A+ ・・・・めったにない傑作。映画好きで良かった。 
「東京物語」「2001年宇宙の旅」「馬鹿宣言」「近松物語」

A- ・・・・傑作。できれば劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」「ギャラクシークエスト」「白いカラス」「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・純粋に楽しめる。悪くは無い。
「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」

C+ ・・・・退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・見たのは一生の不覚。金返せ~!!



 




 



● 3つのトスカ、あるいは失われた声

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 世界文化社から出ている『DVD決定盤 オペラ名作鑑賞』シリーズ第10巻は、プッチーニの名作『トスカ』である。

 「トスカと言えばカラス、カラスと言えばトスカ」と言うくらい、マリア・カラスのトスカが頭に耳に目に胸にこびついているソルティ。多くのオペラファンも同様であろう。
 ヴィクトール・デ・サバータ指揮、ジュゼッペ・ディ・ステーファノ、ティト・ゴッビ共演の1954年録音のレコードにおけるトスカ、最盛期のカラスの舞台姿を唯一観ることができる1958年パリ・オペラ座における第2幕のみのトスカ(指揮はジョルジュ・セバスティアン)、そして、声と容姿の衰えが顕わになってはいるものの実人生の苦悩が反映された入神の演技で観る者を圧倒する1964年ゼッフィレリ演出のトスカ(指揮はジョルジュ・プレートル)。この3作によってカラスのトスカは永遠となった。
 なので、どんなトスカを観てもカラスと比較してしまう。多くのオペラファン同様に。
 カラスが生涯最も多く歌い、最も華々しい成功を納め、オペラ史的価値も高く、彼女自身最も歌うのを好みかつ得意としていたのがベッリーニの『ノルマ』であるのは間違いないだろう。が、カラス自身の性格や生涯を思うとき、「歌に生き、恋に生き」た情熱の女トスカこそカラスの分身という気がする。とりわけ、1954年のレコード(CD)はオペラ芸術のみならず、クラシック音楽史上のみならず、ミケランジェロの『ピエタ』やダ・ヴィンチの『最後の晩餐』に並ぶ、人類の芸術史における最高傑作の一つであると思う。トスカ(カラス)が登場する第一声「マーリオ」の声に背筋がゾクッとしない者、第2幕のカラスとゴッビの緊迫感たっぷりの応酬に息をつめない者がいるとは思われない。

 そんな『トスカ』であるが、ソルティはあまりこのオペラが好きではない。
 陰惨でSMチックで後味が悪い。
 何と言っても、主要人物3人がみな酷い死に方をするのである。スカルピアはトスカに刺殺され、マリオは死刑囚として銃殺され、トスカは塔からひらりと身を投げる。とても大団円とは言えない。音楽もところどころ甘く美しいメロディがあるものの、全体的にはスカルピアのモティーフに代表されるように、暗く不吉で聴く者を不安と緊張で締め上げるものである。
 出血の拷問シーンあり、SEXを目的とした恐喝シーンあり、殺人シーンあり、死刑シーンあり、身投げシーンあり・・・・。背景がナポレオン時代のローマゆえ、これくらい当然といえば当然なのだが、これほどサディスティックなオペラもあるまい。『蝶々夫人』と言い、『トゥーランドット』と言い、プッチーニはその趣味の持ち主だったのではあるまいか。
 ソルティは別に潔癖でも上品ぶっているわけでもないが、日常から逃避せんがために観る(聴く)オペラに‘残虐’など欲しくないので、あえて観よう(聴こう)とは思わない。
 が、このシリーズの『トスカ』だけはとても見逃せない内容なのである。 

 3つの『トスカ』の陣容は以下の如し。
 
① 2006年アレーナ・ディ・ヴェローナ上演(ライブ)
  • トスカ : フィオレンツァ・チェドリンス
  • カヴァラドッシ : マルセロ・アルバレス
  • スカルピア : ルッジェーロ・ライモンディ
  • 指揮 : ダニエル・オーレン
② 1961年シュットゥットガルト国立歌劇場上演(ライブ)
  • トスカ : レナータ・テバルティ
  • カヴァラドッシ : ユージン・トービン
  • スカルピア : ジョージ・ロンドン
  • 指揮 : フランコ・パタネ
③ 1939~40年製作 映画『トスカ』
  • トスカ : インペーリオ・アルヘンティーナ(歌:マファルダ・ファーヴェロ)
  • カヴァラドッシ : ロッサーノ・ブラッツィ(歌:フェルッチョ・タリアヴィーニ)
  • スカルピア : ミッシェル・シモン
  • 指揮 : フェルナンド・マンチーニ
  • 監督 : カレウロ・コッホ
  • 助監督 : ルッキーノ・ヴィスコンティ、ロッテ・ライニガー   

 戦前、戦後イタリアオペラ黄金期、2000年代に作られた3つの『トスカ』を、映画と室内劇場と野外劇場の3つの異なった形態で、それぞれに最高の布陣を擁した傑作を、家に居ながらにして見聞きできる幸運に感謝するほかない。
 世界文化社、監修の永竹由幸、「いい仕事したなあ~」

 ①の見どころ・聴きどころは、何と言ってもタイトルロール(主役)のフィオレンツァ・チェドリンスである。同じアレーナ・ディ・ヴェローナの『蝶々夫人』ではその喨喨たる美しき声と的確な演技にシャッポを脱いだが、ここでも見事な歌と芝居の融合が見られる。野生的な美しさに溢れ、情が濃くて気性が激しい。トスカというよりもカルメンに近い感じがするが、とても魅力的である。西洋女性はやはり着物よりドレスである。スカルピア役のルッジェーロ・ライモンディも難癖のつけようない見事な歌唱と堂々たる演技。マルセロ・アルバレスは色男を演じるには太り過ぎだが、声はイケメン。野外の広大なスペースを生かしたセットや演出も見物である。

 ②は、マリア・カラスと並び称された往年の名花レナータ・テバルティの非の打ちどころない立派な歌唱が聴きもの。すべての音域においてむらのない良く通る豊麗な響きは、さすが巨匠トスカニーニをして「天使の声」と言わしめただけのことはある。これだけの声はそうそうにない。歌い手の容姿を重んじる映像時代にあって失われたものは、まさに「声」なのだとあらためて感じる。チェドリンスもメトの女王アンナ・ネトレプコも、少なくとも声の威力においてはテバルティの比ではない。
 ソルティは、テバルティの舞台姿を今回始めて観たのだが、演技も上手くて驚いた。と言っても、昨今はやりのリアルを追求したアカデミー賞的演技ではない。あくまで音楽に合わせた、無駄のない抑制された動きである。しかも、品がある。陰惨極まりないストーリーを彼女の存在が高貴なものにしている。登場人物にリアリティを与え生命を吹き込んだカラスとはいささかアプローチは異なるものの、これはこれで歴史に残る名唱、名演であろう。
 敵役のジョージ・ロンドンも、下手すると下品なSMオヤジに墜してしまうスカルピアを、ロココ風の気品を保ちながらスタイリッシュに歌い演じている。
 総じて、節度のある舞台である。

 ③の映画『トスカ』こそ、この巻のみならず、シリーズ全体における最大のボーナストラックと言っていいだろう。   
 あの偉大なる映画監督にして舞台演出家ルッキーノ・ヴィスコンティの『トスカ』である。むろん、彼は助監督としてクレジットされているに過ぎないが、映像を見れば、まぎれもなくこれがヴィスコンティの映画であることが判る。つまり、‘本物の’香りがする。その「本物性」は、若きヴィスコンティがかぶれた当時のイタリア映画界を席巻したネオリアリズム(たとえば、『自転車泥棒』や『戦火の彼方』)に由来するのではなく、何代も続くミラノの名門貴族の家柄ゆえの「本物性」である。結局、ヴィスコンティは若気の至りで社会主義者を気取ったりしたこともあったけれど、生涯出自からは逃げられなかったのである。
 オペラ『トスカ』の映画化は、二つの点で興味深い。
 一つは、舞台(オペラ)だと説明不足になってしまうがゆえに荒唐無稽に思える設定が、背景が丹念に描きこまれることでそれなりの必然性と理由を与えられ、リアリティを確保できる。たとえば、なぜスカルピアは画家のカヴァラドッシが脱獄者アンジェロッティを匿っていると目星をつけたのか、なぜトスカは恋人カヴァラドッシの処刑に立ち会うことが出来たのか、オペラを観るだけではよく分からない。それこそ、物語を効率的に進めるためのご都合主義に思えてしまう。
 それが映画だと、社会背景や裏事情や事件の推移や物語の舞台となる建物の構造も含めて描かれるので、それぞれのエピソードに‘もっともらしさ(整合性)’が付与される。カヴァラドッシが処刑されるローマの聖アンジェロ城の構造が飲み込めてはじめて、トスカが処刑現場に立ち会い物陰から様子を伺うことができた事情が飲み込める。
 もう一つは、ローマの風景描写である。室内のみのオペラの舞台からカメラが街に出ることによって、物語の背景となったナポレオン時代のローマの空気が伝わってくる。石畳を駆ける馬の蹄の音、ローマ郊外の田舎家(トスカとカヴァラドッシの愛の巣)、貧しい群衆、傲岸な宮廷の人々、電燈のない薄暗い街並み・・・。「なるほど、こういう時代の話であったか」と今更のごとく了解する。
 ここではスカルピアの描き方が興味深い。権力を笠に着て倒錯した欲望を満たすサディストという典型的悪役イメージとは違って、権力機構の中で自らのやるべきことを冷酷と知りながら遂行せざるをえない官僚の無力さを漂わせている。スカルピアを単なる「悪」として描くのはヴィスコンティの意図ではなかったのかもしれない。

 トスカは恋人マリオを助ける代償としてスカルピアに体を提供することをいったんは承諾するものの、やはりどうしてもそれはできず、操を守るためにスカルピアを殺害する。そのクライマックスで名曲中の名曲『歌に生き、恋に生き』を歌う。ミもフタもない言い方をすれば、「体を売るか売らないか」で悩む女心の歌である。
 どう考えたって、品ないでしょう?
 ②のテバルティの舞台のように、ある程度の格式を保ってバランスを取るのが、このオペラ上演の正解ではないかと思う。




 






● 「運命」の対義語 : フィルハーモニア・ブルレスケ第14回定期演奏会

日時 2017年7月15日(土)19:00~
会場 杉並公会堂大ホール
曲目
  • マーラー:交響曲第10番より「アダージョ」
  • チャイコフスキー:交響曲第5番
指揮 東 貴樹

 入場時にもらったプログラムや他の催し物の案内チラシを客席で読みながら開演を待つひとときは、クラシックコンサートに限らず、ライブにおける至福の瞬間と言っていいだろう。
 最寄りの喫茶店で軽く腹ごしらえをすませ、開演20分前に会場入りし、すいている1階席前方に陣取り、おもむろに本日のプログラムを開いて、思わず唸った。
 チャイコフスキー5番の曲目解説の冒頭文に、である。

 先日、高校生から突飛な質問を受けた。いわく、「『運命』の対義語ってなんですか」。この世の全てが既に決定されている必然だったのならば・・・私たちは運命に抗えず、運命の対義語は生まれ得ないのではないか、と言うのである。

 ブルレスケのトロンボーン奏者である木戸啓隆という人がしたためたこの一文にソルティが唸ったのは、上記の文章がまさに先日書いたばかりの記事『1/fの希望」に重なるからである。
 これはシンクロニシティなのか。運命の必然なのか。あるいはソルティの無意識の策略なのか。
 なんだか‘何者か’によって操作されているような気分になったことは確かである。
 それにしても、なんとも凄い高校生がいたものだ。
 太宰治予備軍か?

ブルレスケ


 木戸がそのように文章をはじめたのは、チャイコフスキー交響曲第5番が、ベートーヴェン交響曲第5番同様に、まさに「運命」をテーマにしているからである。人間が不条理なる運命にどう翻弄され、傷つき、苦悩するか。どう希望を持ち、抗い、連帯し、克服しようと努めるか。どう挫折し、落胆し、絶望し、すべてを「無」に帰す死へと押し流されていくか。そこに救いはないのか。これがテーマなのである。
 であるから、5番を聴くとチャイコフスキーの運命観がどのようなものかを垣間見ることができる。理不尽で残酷な運命とどう向き合おうとしたか、5番を作曲した時点でどんなふうに受けとめていたか、を伺うことができる。聴く者はチャイコフスキーの苦悩多き人生に思いを馳せる。何と言っても、26歳から52歳までの26年間に12回の鬱病期を経験し、53歳でスキャンダルにまみれた不慮の死を遂げた人である。

 少し長くなるが、木戸の文章を引用させてもらおう。

 最終楽章については思うところがある。「運命のテーマ」が輝かしい長調となって鳴り響く冒頭。そのテーマは終盤で凱歌として復活する。私たちは、運命に対する人間の勝利をそこに聴く。しかし、響きこそ長調になってはいても、その姿は不条理を示す「運命のテーマ」なのだ。さらに、作品は3連音が叩きつけられて終わる。(作曲者が死を歌った交響曲6番の3楽章でも、同じ終結が用いられている)。またチャイコフスキーが遺したスケッチには、「運命の前での完全な服従」、「いや、希望はない」といった言葉が並んでいる。これはいったいどういうことなのか。勝利を歌うフィナーレにて、私たちがおぼえる確かな高揚は、もしやミスリードなのだろうか?そもそも冒頭の質問通り、人間が運命に打ち克つことなど可能なのか?

 5番に続けて作られた6番『悲愴』とその数日後に訪れた死を思うとき、ソルティはチャイコフスキーが「運命に打ち克った、苦悩から脱する道を発見した」とはとても思えないのである。もちろん、死の直前に彼がどういう心境にあったかは知るところではないが。

 本日のもう一つの曲目である『マーラー交響曲10番』もまた、えらくネガティブなテーマを持っている。
 マーラーの死により第1楽章のみで未完に終わってしまったこの交響曲の構想は、ダンテ『神曲』ばりの「地獄」なのである。第3楽章「煉獄」の五線紙には「慈悲を!おお、主よ!何ゆえにわれを見捨てたまいしか?」と、第4楽章には「悪魔はわたしと一緒に踊る・・・狂気がわたしを捕らえ、呪った・・・わたしであることを忘れさせるように、わたしを破滅させる」と作曲者自身の手によって書き込まれている。
 数々の傑作を生み出し、成功と栄誉と財産と世にも稀なる美女アルマを手に入れたマーラーでさえ、晩年には『第九』のような喜びの調べを奏でることができなかったのである。(本日のプログラムはその意味で強烈に‘後ろ向き’というか重苦しいライナップである。そこにソルティは惹きつけられたのか?)

 古典派のベートーヴェンと、ロマン派のチャイコフスキーやマーラーを分け隔てるものは何か。それぞれの作曲家の個性をとりあえず脇に置けば、「神への信仰」ってことになるのではなかろうか。
 次の年表を見てほしい。
 1824年 ベートーヴェン交響曲第9番初演
 1859年 ダーウィン『種の起源』発表(進化論)
 1885年 ニーチェ『ツァラトゥストラ、かく語りき』発表(神は死んだ)
 1888年 チャイコフスキー交響曲第5番初演
 1889年 マーラー交響曲第1番初演
 19世紀後半はヨーロッパが「神」の存在に疑義を呈し、キリスト教信仰が揺らぎ、神の支配から脱し「自己」の確立へと向かい始めた時代だったのである。同性愛者であったチャイコフスキーなぞは、そうでなくとも「神」を信じることが難しかったであろう。
 「不条理な運命」も神意や天命と取れば人はどうにか受け入れ生きていけよう。だが、そこに神がいないのならば単なる「苦しみ」である。もはや神への‘明け渡し’は叶わずに、苦しむ「自己」ばかりが肥大する。近代人の苦悩である。
 
 さて、木戸はこう続ける。
 
 最初の話に戻らせてもらおう。私は「運命」の対義語は、「意思」だと考えている。確かに不条理な世界の中で、私たちは時に絶望する。しかし人間が内に秘めた「運命を乗り越えようとする意思」だけは、運命そのものに支配されないはずだ。
 
 確かに、ベートーヴェンもチャイコフスキーもマーラーも不条理なる運命を乗り越えようとする大いなる意思のもとに、後世に残る素晴らしい芸術作品を創造し得たのであろう。いや、人間のあらゆる営為は、さらに言えば人類の歴史そのものが、運命に対する抵抗の記録なのかもしれない。
 だが、くだんの高校生がもし前野隆司の「受動意識仮説」を知っていたら、こう言い返すかもしれない。
 
「意思もまた運命の一部ではないでしょうか?」
  
 前野説にしたがえば、意思は実体のない幻覚であり、無意識という名の‘運命’に組み込まれた、気晴らしのごときオプションに過ぎない。「自己=私」は幻覚である。
 
 ソルティなら高校生にこう答えるだろう。

「運命の対義語、それは‘悟り’じゃないかな」

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 ブルレスケの演奏は、気迫と情熱のこもった若さ漲るものであった。特にチャイコの5番はその真摯なまでのひたむきさに胸が熱くなった。テクニックは抜きん出ているわけではないが、奏者の思いが伝わる演奏で好感が持てる。
 
 チャイコフスキーは‘個人的には’自分は運命に屈したという思いを抱いていたかもしれない。でも、こうやって死後100年以上過ぎても作った曲が世界中で愛され、演奏され、人びとにパワーと感動を与え続けている。それを思うとき、‘人類史的には’「不幸な人生」とはほど遠いところにいるではないか、運命は彼を偉大な人間に仕立て上げたではないか、と思うのである。

 もしかしたら、運命の同義語も‘悟り’なのかもしれない。












 




 

● 炎天下の悲愴 : 所沢フィルハーモニー管弦楽団 第38回定期演奏会

日時 2017年7月9日(日)15:00~
会場 所沢市民文化センター「ミューズ」アークホール
曲目
  • メンデルスゾーン: ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 Op.64
  • チャイコフスキー: 交響曲6番ロ短調「悲愴」 Op.74
アンコール
  • マスネ: タイスの瞑想曲
  • チャイコフスキー: 「眠れる森の美女」よりワルツ
指揮 山上 純司
ヴァイオリン独奏 三浦 章宏


 晴天の夏日とチャイコの『悲愴』ほど似合わないものはないけれど、炎天下に『悲愴』を聴くのは怪談を聞くのと同じ効果が期待できるかもしれない。これが、体の芯まで凍えるような曇天の冬日としたら、演奏後は心まで凍りついて陰鬱になりそうである。翌朝起きたとき仕事に行こうという気も湧いてこないかもしれない。どんなに素晴らしい演奏で、どんなに深く落ち込んでも、ホールから一歩外に出れば灼熱たる陽光が降り注ぎ、緑が燃えている。このバランスがちょうどいいのだろう。
 ・・・・・なんてことを考えながら、西武新宿線・航空公園駅からの並木通りをミューズに向かう。
 アークホールはほぼ満席。
 所沢フィル、しっかり地元に根付いているではないか。
 

ミューズ 001


 まずは、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(愛称メンコン)。
 ここ最近立て続けにヴァイオリン協奏曲を聴いているが、それぞれのヴァイオリン奏者の個性が較べられて面白い。むろん、素人のソルティにはテクニックの差はわからない。みな圧倒的に凄いと言うほかない。個性は音色というか音の造型に窺うことができる。
 今回の三浦章宏はNHK交響楽団や東京フィルハーモニー交響楽団などに所属し、都下のあちこちの有名ホールでリサイタルを開いているプロ中のプロ。第一音から観客の耳目を惹きつけてしまうパフォーマンスはベテランの名に恥じない。
 その音楽は・・・・・古い樫の巨木を思わせた。
 どっしりと太い幹をもち、大地にしっかり根を張り、梢は天を突く。古老のような賢さと重々しさと慈愛を備え、一人悠然と立っている。風を孕んでは逃がし、光を受けとめては撒き散らし、雨に洗われては葉を緑あざやかに幹をいっそう黒々と塗り替える。軽やかな葉っぱのさざめきや美しい小鳥のさえずりが聞こえるかと思えば、リスがするすると木を登る音やどんぐりがパラパラと地面を打つ音がする。幹のどこかに深く暗い洞もあって底知れぬ内部に通じている。


樫

 
 所沢フィルの伴奏は第1,2楽章においては控えめなものであった。まさしく主役たるマラソン選手の後ろを邪魔にならないように追いながら見守る伴走者のよう。あるいは、亭主の三歩後ろを歩くことが美徳とされた戦前の妻のよう。
 が、第3楽章の途中から、金管メンバーを中心に覚醒し、俄然レースに参加してきたかのような気迫が見られた。
 いまや樫の巨木は一人ぼっちで大地に立っているのではなかった。樫の周囲に次々と樹木が伸び上がり、木立となり、林となり、しまいにはさまざまな生命が育まれる森となった。ヴァイオリン協奏曲が森林交響曲に変貌した。
 これぞ協奏曲の醍醐味。
 盛大なる拍手と湧き起こる「ブラボー」は当然の結果と思えた。
 

 後半の『悲愴』は、「これぞ所沢の悲愴だ」と言いたいものであった。
 馬鹿にしているのではない。がっかりしているのでもない。
 
 所沢と言えば、おそらく埼玉県で一番知名度の高い町である。西武ライオンズと所ジョージのおかげである。他に県外の人が知っていそうなのは、朝のテレビ小説『つばさ』の舞台となった川越と、『クレしん』の舞台である春日部と、「関東のカルカッタ」熊谷くらいではないか。別枠で秩父があるが、秩父に山はあっても町はない(ウソ)。所沢こそ埼玉の顔にして象徴である。
 で、埼玉のイメージたるや、もはや言うまでもなかろう。魔夜峰央のディスる漫画『翔んで埼玉』を挙げるまでもなく、東京に隣接する巨大ベッドタウンであるにも関わらず、永遠に垢抜けないトッちゃんボウヤ的扱われようである。たぶん、‘東京の隣であるにも関わらず’ってところが笑いの根源なのだろう。でなければ、まったくの田舎である秋田県や岐阜県や山口県に較べれば断然都会であるはずなのに、こうまで馬鹿にされる理由が見当たらない。東京にコンプレックスを持っているが東京を馬鹿にできない地方出身の人々が、意趣返しに東京の腰巾着である埼玉や千葉を馬鹿にしているのでは?――というのがソルティの推察である。

 そんな‘だサイタマ’であるが、ソルティの心の拠り所なのである。むろん、生まれ故郷ということもある。
 埼玉の‘だサイタマ’性は、別の見方をすれば、‘癒し系、ゆる系、まったり系’ではないか。喰うか喰われるかの厳しい生存競争と虚飾と見栄の張り合いである‘幻想の東京’――まことの東京=下町はそんな高尚なものではない――で終始緊張を強いられ、心身疲れた人々が、鎧兜を脱いでほっと一息つくところが埼玉である。緊張や体裁とは無縁の‘のほほん’としたマイペースこそが埼玉の真骨頂。所ジョージやクレヨンしんちゃんはまさにその代表であろう。なんと言っても、ベートーヴェン第九のコンサート会場で地場産のさといもを来場者全員に配布する町がそうそうあるとは思えない。

 そんな埼玉の地域オケたる所沢フィルに、哀切極まりない『悲愴』を完璧にやられた日にはソルティの心の拠り所が粉砕されてしまうではないか。逃げ場がなくなるではないか。この先、どうやってこの世知辛い世のなかを渡っていけようか。

 所沢らしい『悲愴』。
 これで良いのである。
 これからも地域に愛されるオケであってほしい。


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航空記念公園に展示されている天馬(C-46A輸送機)






● 乙女戦争 : 東京ムジーク・フロー第54回演奏会

日時 2017年7月2日(日)14:00~
会場 杉並公会堂大ホール
曲目
スメタナ: 連作交響詩『わが祖国』全曲
 第1曲 ヴィシェフラト(高い城)
 第2曲 ヴァルダヴァ(モルダウ)
 第3曲 シャールカ
 第4曲 ボヘミアの森と草原
 第5曲 ターボル
 第6曲 ブラニーク
指揮 菊地 俊一

 チェコの国民的楽曲とでも言うべきスメタナの『わが祖国』。日本ならさしずめ童謡『ふるさと』か『ふじの山』か。『川の流れのように』ってことはないだろう。
 2曲目の「モルダウ」(チェコ語だとヴァルダヴァ)がつとに有名で、誰もが一度は耳にしたことがあるはず。コンサートでもよくプログラム前半の前菜的位置づけで取り上げられる。
 全曲演奏はそうそう聴く機会がないと思って荻窪まで出かけた。
 
 東京ムジーク・フローは1967年7月創立のアマオケ。創立50周年である。団名の由来は「音楽のよろこび」。ステージに上がった団員たちを見ると、この道数十年といったベテラン風情が多い。創立時からのメンバーもいることだろう。
 まずもって指揮者の菊地俊一がそうである。会津若松生まれのウン十歳。見るからに好々爺といった感じ。プロフィールに生年は書かれていないが、前期高齢者(65~75)はとうに超えていよう。これまでソルティが実演を聴いた指揮者の最高齢かもしれない。が、その指揮姿はカクシャクという言葉も失礼と感じるほど若々しい。本邦初のガンバ奏者でもある。

 スメタナの「我が祖国」とはチェコである。
 チェコの歴史についてはくわしく知らない。最近ではナチスドイツに占領されたことや「プラハの春(民主化)」がソビエトにつぶされたこと、90年代にチェコとスロヴァキアに分裂したことくらい。が、これはスメタナが亡くなったあとの話である。
 スメタナが生きていた頃、チェコはオーストリア(ハプスブルグ家)の支配下にあった。圧制に苦しみ、自由と平等を切に願う人々の思いを胸に、スメタナは病魔に苦しめられながらこの畢生の大曲を書いたのである。
 6つの曲はボヘミアの神話や伝説や歴史的事件(ヤン・フスの宗教改革)、そして森や草原やヴルダヴァの滔々たる流れを描き、まさに祖国をスケッチしたものである。
 これを聴いた国民が自らの郷土を誇りに思い、郷土愛に目覚め、己の信じる真実のために勇ましく戦った先祖たちに敬意と共感を抱き、自由と独立のために立ち上がらんことを、スメタナは願ったのである。その意味で、きわめて戦意高揚的でナショナリスティックな曲である。

 「甘ちゃん」「世間知らず」と言われようが、ソルティはナショナリズムが好きでないので、こういう楽曲に心底感動することはない。取り上げられる伝説や史実も血なまぐさいものばかりで、美しさとは無縁である。やっぱり西欧人は肉食なんだなあと思う。『ふるさと』や『ふじの山』が国民的ソングである日本のなんと平和なことよ!

 これまで単独で聴くことが多かった第2曲のヴルタヴァ(モルダウ)も、こうして全曲の中で聴いてみると、美しいばかりでなく、幾世紀も戦いに明け暮れる人間達の無明の流れを哀しく映し出しているように聴こえてくる。

モルダウ


 ところで、第3曲の『シャールカ』はチェコの古い伝説である「乙女戦争」を題材にしている。女と男の血みどろの戦い――という世にも珍しい物語である。他のどこの国でこんな神話があり得るだろう?
 チェコの女達はアマゾネスの末裔か?




● マクラ受け : 第131回すがも巣ごもり寄席

すごもり寄席131回

日時 2017年6月28日(水)13:00~
会場 スタジオフォー(庚申塚そば)
出演&演目
  • 三遊亭粋歌  : 『わんわ~ん』(新作落語)
  • 古今亭駒次  : 『十時打ち』(新作落語)
  • 春風亭昇也  : 『牛ほめ』
  • 神田真紅   : 『名月若松城』(講談)

 今回は愛すべき‘鉄チャン’落語家・古今亭駒次が目当てである。
 ‘乗り鉄’ソルティではあるが、残念ながら‘鉄チャン’を自負できるほどのものでは全然ない。今回のネタに出てきた「寝台特急に乗って寝るなんてもったいない!!」というセリフに「そうだそうだ」と共感できるのが真の‘乗り鉄’であろう。
 しかし、駒次の鉄道ネタは好きである。その語りは軽快でオタク的な多幸感にあふれ、そのうえ情景が目に見えるようなメリハリある芝居をするので、文句なしに楽しい。言い間違いの2つや3つどうってことない。
 これは自作と思うが、ネタを作る才能もたいしたものである。
 
「鹿児島発⇒稚内行き特別寝台急行」プレミアムチケットの予約を賭けた‘十時打ち’をめぐって、JR東京駅職員とJR上野駅職員の因縁の闘いの火蓋がいま切って落とされた。
東京駅「みどりの窓口」カリスマ‘十時打ち’職員が誘拐され、上野駅駅長室に閉じ込められる。
「上野駅のために働け!」
断固として拒絶するカリスマ職員に対し、上野駅は極悪非道の恐喝を行う。
「お前の娘みどりも捕らえてある。お前がウンと言わぬなら、東武鉄道に売り渡すぞ!」

 ホント卑劣だ。(東武鉄道に縁の深いソルティです。念のため)
 
 東京駅の絶体絶命のピンチを救いに来たのはいったい誰か?
 
 それは聞いてのお楽しみ(ホウホケキョ)。
 まったく最初から最後まで腹を抱えて笑わせてもらった。(‘十時打ち’とは何か。説明するのも野暮であろう)
 鉄道を好きな人もそうでない人も、新作落語で笑いたいなら駒次ならハズレはない。

東上線
なつかしの我が東武東上線


 いま落語ブームなのだそうだ。こうして実力ある二つ目がゴロゴロいるのを見ると、確かに層の厚さを感じざるをえない。将棋界同様、若手がしのぎを削り合い戦国時代のごと活気づいているのだろう。
 今回はじめて聞いた春風亭昇也(1982年千葉県生、師匠は春風亭昇太)もまた、芸とキャラと華が揃った有望株であった。何よりも地金の明るさが客を惹きつける。
 長い長~いマクラで、特別支援学校によばれて障害児たちの前で落語(「牛ほめ」他)をやった体験を話してくれた。
 これが本編より面白かったのである。
 演目に何を選ぶかから始まって、実演に至るまでのいろいろな裏話が興味深かった。
 たとえば、「牛ほめ」には与太郎が出てくる。与太郎はある意味、江戸時代の知的障害者or発達障害者ととらえることもできるわけである。その与太郎を笑い者にするネタを、障害児らと保護者と教師たちがいる前で披露していいものかどうか。微妙なところである。そもそも、当人たちはどの程度、言葉や筋や笑いのツボを理解できるのか。
 ソルティもNGOの仕事で特別支援学校に講演に行ったことがある。また、社会福祉士養成講座の実習で障害者施設に行ったので、このジレンマというか難しさがよく分かる。身体障害者や軽度の知的障害者なら、『牛ほめ』のように筋が単純で言葉遊びの面白さを狙った演目で十分楽しませることができよう。あるいは動物ネタか(昇也が困ったのは動物ネタを持っていないからなのである)。
 だが、重度の知的障害者や発達障害者を楽しませる(笑わせる)ことのできる演目がはたしてあるだろうか? 落語よりもむしろ手品や音楽や踊りやパントマイムのほうが容易であろう・・・。(自閉症の男児なら駒次の鉄道ネタに食いつくかもしれない)
 落語という芸は、演者の表情や仕草や間合いなどのテクニック面の重要性は欠かせないものの、根幹はやはり言葉を武器に笑いを取りに行くものである。言葉の理解、筋の理解、登場人物の気持ちの理解ができてはじめて、おかしさが分かる。
 言葉を封じられて、どう客を楽しませるか。(むしろ、『寿限無』のように純粋に語感の楽しさを強調した演目が良いのかもしれない)
 そんなことをあらためて感じたマクラであった。

 それにしても、重度の知的障害児に落語を聞かせようという企画サイドの意図はどのへんにあるのだろう? 保護者や教師たちのためのストレス緩和なのか。
 いささか気になった。
 
 今回は男2人V.S.女2人の出演であったが、圧倒的な白組の勝利であった。
 

スタジオフォー








● 艶と毒 : OB交響楽団第193回定期演奏会

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日時 2017年6月17日(土)14:00~
会場 杉並公会堂大ホール
曲目
  • ワーグナー : 「タンホイザー」序曲
  • R.シュトラウス : 交響詩「ドン・ファン」作品20
  • ベートーヴェン : 交響曲第3番 変ホ長調 作品55「英雄」
  • アンコール ワーグナー:「ローエングリン」より エルザの大聖堂への行列
指揮 田久保裕一

 今回のプログラムは3人の‘英雄的’な男が主人公である。性愛と聖愛の間を揺れ動いたタンホイザー、稀代の猟色家ドン・ファン(ドン・ジョヴァンニ)、皇帝ナポレオン。奇しくもドイツ人、スペイン人、フランス人と国籍も分かれている。
 ナポレオンは間違いなく英雄の名にふさわしいけれど、前の二人はエッチ方面で活躍した伝説上の人物である。「千人切り」の男を称え上げる男根主義における「英雄」なんである。「英雄⇒色を好む」が倒置して、「色を好む⇒英雄」になったわけだ。

 田久保裕一&OB交響楽団を聴くのは2回目。
 前回のマーラー1番は非常に良かった。田久保がOBオケの長所を巧みに引き出しているなあと思った。今回聴いてその印象を強めた。とてもいいコンビである。OBオケは松岡究ともよく組んでいるが、個人的には田久保との共演のほうが精彩を放っていると感じる。響きがフレッシュで構造が繊細である。ミニチュアの精密模型のドイツのお城のような印象を受けた。
 
 3曲とも素晴らしかったが、あえて欲を言うなら、1曲目と2曲目にもそっと‘艶と毒’がほしい。どちらも性愛がテーマなので、人を惹きつけすべてを忘れさせる性の圧倒的な魔力と、人を狂わせ破滅させる性の恐ろしい毒と、つまり‘官能’がにじみ出ていると良かった。(‘官能’と言えば、ヴィスコンティの『夏の嵐』に尽きる)
 もしかしたら、オケのメンバーがそういう方面は‘卒業’している人が多いから、そのぶん淡白になったのか?
 いやいや、そんなはずはあるまい。 

 次回演奏会(10/28)のプログラムは、「トリスタンとイゾルデ」とマーラー5番。今回以上に‘艶と毒’が要求されるラインナップである。指揮の太田弦とOBオケのコンビがどうアプローチするか楽しみである。




 



 

● 三鷹の夜は更けゆく :チェンバー・フィルハーモニック東京 第21回演奏会

日時 2017年6月11日(日)19:30~
会場 三鷹市芸術文化センター風のホール
曲目
  1. モーツァルト : セレナード12番 ハ短調 K.388 《ナハトムジーク》
  2. ブラームス : セレナード第2番 イ短調 op.16
  3. シェーンベルク : 浄夜 op.4(1943年改訂版)
指揮 木村 康人

 アマオケの演奏会は土日の午後2時開演が普通なので、日曜の午後7時半開演(終演9時20分)という設定はいかにも唐突である。
 しかしプログラムを見れば納得がいく。「夜」をコンセプトにした曲を揃えたのである。
 セレナードとは「小夜曲」のことで恋人や女性を称えるために演奏される曲を言う。ナハトムジークはドイツ語でまんま「夜の音楽」である。(モーツァルトは「アイネ・クライネ・ナハトムジーク  ト長調K.525」のほうが断然有名である)

 にしてもプログラミングが粋である。
 曲順に「古典派」⇒「ロマン派」⇒「後期ロマン派(現代音楽さきがけ)」と音楽史的配列になっているとともに、曲調も同じ夜であっても「宵の口」⇒「夜更け」⇒「深夜から黎明」といった時間推移を感じさせる。演奏を聴きながら、非常に中味の濃い一夜を過ごした気分になった。
 編成も面白い。
 一曲目が管楽器(オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴット)のみの八重奏、二曲目がヴァイオリンなし(!)約30名、三曲目は弦楽器のみ約30名。つまり、オケの主役とも言えるヴァイオリンが登場するのは休憩後の最後の一曲だけ。この編成の違いから生み出される音色の彩こそが、まさに夜の推移を描写する。それすなわち、恋人たちの愛の推移である。

 チェンバー・フィルハーモニック東京は、2006年創立の音楽愛好家と音楽大学出身者の若手主体による室内オーケストラ。ニューヨーク・スタイルというのがモットーだそうだ。
 同行したアマオケに所属している友人の説明によると、ニューヨーク・スタイル(NYスタイル)とは「開演時刻前からすでに演奏者がステージ上に待機している形」を言うのだそうだ。分かりやすく言えば、‘演奏者が登場するのを客が待つ’のではなく、‘客が揃うのを演奏者が待つ’ということか。休憩後の三曲目がまさにNYスタイルであった。時間の節約になるのは確かである。
 演奏レベルはとても高い。音大出身者が集まっているだけある。小編成でも音に深みと陰影があり、ソロパートは危なげのない自在なものであった。プロとアマの中間といった印象を持った。

 一曲目はモーツァルト印の小品。憧れの人への切ない思いやときめき、夕暮れの庭での心躍る語らい、恋の成就、誤解から来るちょっとした諍い、仲直り・・・・・といった‘青い’恋人たちの恋愛風景が、どちらかと言えば無邪気な(前近代的な)ノリで描かれている。

 二曲目はブラームス印の名品。はじめて聴いたが、とても良く出来ていて美しい。4つの交響曲よりも良いかもしれない。ブラームス印とは、「鬱々とした哀愁から唐突な歓喜へ」という流れを指す。ブラームスはロマン派の人であると同時に典型的近代人なのだと思う。孤独と憂愁を抱える近代的自我が、出口を探して逡巡している様が思い浮かぶのだ。
 その意味で、夏目漱石に近い気がする。漱石は最終的に「則天去私」という出口に到達したらしいが、ブラームスはどうだったのか。
 第4楽章ではピッコロの愛らしくも華やかな響きを加えて、まぎれもなく歓喜の境地が歌われている。
 しかし、美しいけれどそこにやはり陶酔はない。忘我はない。
 
 シェーンベルクの「浄夜」は、ソルティの好きな曲の一つ。この曲の存在を知ったのは、はるか昔に地方のゲイバーで隣り合った男が在郷楽団のメンバーで、クラシック音楽の話をしている際に「この曲は素晴らしいよ」と教えてくれたのである。その夜が‘浄められた’かどうか覚えていないが(笑)、翌日CDを買って聴いた音楽は確かに素晴らしかった。
 この曲はドイツの詩人リヒャルト・デーメル(1863-1920)の同タイトルの詩に感動したシェーンベルクが、詩の内容を音楽で表現したものである。
 その内容が凄い!
 
 二人の人間が、寒々しい木立を歩む。
 月が共に進み、二人は月に見入る。
 月は高い樫の木の上に掛かり、
 遮ぎる雲一つない天の空に
 黒い梢が達している。
 女の声が語る。
  
 子どもができたの。でも、あなたの子じゃない。
 
 (当夜配布のプログラムより引用。訳は指揮者の木村康人による)

 ガビーン!
 
 男の心の声が聞こえるようだ。

 女の告白は続く。

 知らない男に抱かれた。
 それで私は良かった。
 でも今こうして人生の報いを受け。
 あなたに、ああ、あなたに出会ってしまった。

 しばしの動揺と沈黙の後、男は答える。
 「君と僕との間を流れる愛は、すべてを浄化する。だから、その子を産んでおくれ。僕の子として育てよう」

 男は彼女の身重な腰に手を回した。
 彼らの吐息が風の中で抱擁を交わす。
 
 どうだろう?
 「過ちを告白する妊婦」と「女を許し父となるのを引き受ける男」。すべてを超えて結ばれる二人。愛の前に不可能はない。
 昼メロのような、80年代大映ドラマのような、レディースコミックのようなエグさと下世話さである。事前にプリントアウトした詞を同行した友人♂に見せたら絶句していた。
 この詩によってデーメルは何を訴えたかったのだろう? シェーンベルクはどこに感動したのだろう?
 すべてを恋人に告白する女のいじらしさか。
 過ちを犯した女を許す男の度量の広さか。
 罪を引き受けることで贖われる男の闇の暗さか。
 罪を浄めるほどの高みに達しうる愛の力か。
 
 わからない。
 しかし、ソルティは欧米人の作ったこの詩にあまりにも有名な二人の姿をダブらせる。
 言うまでもない。大工のヨハネとその妻マリアである。
 処女懐胎というナンセンスを退ければ、ヨハネとマリアに起ったことは上記の詩の男と女の間に起ったことと同じである。夫以外の男の子供(ローマ兵?)を孕んでしまったマリアは、お人よしで忍耐強い夫ヨセフに告白する。
 「子どもができたの。でもあなたの子じゃない」
 驚きと混乱と苦悩。しばしの沈思黙考のあと、ヨセフは答える。
 「いいよ。生んでおくれ。神の子として育てよう」
 かくしてキリストの誕生である。
  
 敬虔なクリスチャンから総攻撃受けそうな解釈である。が、ブッダと義母の不倫を受け入れた仏教徒ソルティに怖いものはない(笑)。
 実際にデーメルやシェーンベルクがこの詩に聖書をかぶらせたのかどうかは分からないが、次の一節を読むと、明らかに《救い》がテーマになっているのを見て取れる。
 
 君は僕に光をくれた。
 僕自身をまさに子供のようにしてくれたんだ。
 
 過ちを犯した女を許すことで罪障ある自分も救われる。単純に‘度量の広い男像’に自己陶酔しているわけではないのである。(デーメルとシェーンベルクの下半身事情が推察される。)
 
 ついでに、ソルティの中のリアリスト(皮肉屋)は、この詩の女にかしこさを読む。
 女は絶好のタイミングを見計らって告白したのだと思う。
  満月の夜。(男の排卵日)
  月明かりの下。(白い肌の輝き)
  露出の高い衣装。(おそらく胸の谷間くらいは見せている)
  誰もいない森。
  ・・・・・あとは言わない、二人は若い。
 
 ひとたび音楽が始まると、こういった解釈や妄想はどうでもよくなり、弦楽器の織り成す甘美な調べに心は持っていかれる。まさに忘我の極地。

 シェーンベルク「浄夜」は、‘物語’から生まれ‘物語’に依るけれど、出来上がった音楽は‘物語’を超えて‘音楽’という快楽官界に聴く者を連れていく。そここそは、すべての時代のすべての「~派」の違いを超えて存在する、音楽愛好家の聖地である。

 終演後、会場を出たら日曜のきよらかな夜が広がっていた。


 



 

● 落語は楽語だ :第127回すがも巣ごもり寄席

すがも寄席


日時 2017年5月31日(水)13:00~
会場 スタジオフォー(庚申塚そば)
出演&演目
  • 柳亭市弥   : 「かぼちゃ屋」
  • 入船亭小辰  : 「団子坂奇談」
  • 桂宮治    : 「権助芝居」
  • 春風亭正太郎 : 「三枚起請」

 開演45分前に会場に着いたら、座席は7割方埋まっていた。スタジオフォーのホームページに「入れないかもしれないので、できるだけご予約を」と書いてあったので予約はしておいた。いったい誰の人気ゆえなのか?
 技の小辰?
 残り二人は初めて聴く。
 
 その後も入場者は増え続け、演者が出入りするための通路の部分を削って椅子を追加し、最終的には85名の大入り満員となった。巣ごもり寄席には過去数回来ているが、いつも20~30名くらい。こんなに入ったのを見るのは初めてである。この狭いスペースにこんなに入るとは思わなんだ。
 みなさん、誰がお目当て?(自分はもちろん市弥である。)

 トップバッターはその市弥(34)。
 久しぶりに見たが、なんか男っぽくなった。妻夫木聡みたいな万年モラトリアム青年っぽさが抜けて、風格が増した。寿も近いのか・・・。(寿とはどっちでしょう? 真打ち昇進? or ご成婚?)
 話の途中から立ち昇るオーラは相変わらず。これが出ると目が離せなくなる。他の芸達者な演者が望んでもなかなか得られない市弥の秘密兵器である。
 しかし、高座そのものはやや集中力を欠いた感があった。会場にいる女性ファンを意識しすぎたか。それとも満席の圧力で緊張したのか。
 いまが飛躍の正念場だと思う。精進してほしい。(いま気づいたが「正念」も「精進」も仏教用語だ)

 2番手の小辰(34)。
 若いのに本当に達者である。
 研究熱心で努力家なのだろう。玄人受けするタイプである。
 行きのチンチン電車(都電荒川線)で見かけたが、素顔は本当に地味目な普通の青年である。
 そのギャップが面白い。 

 中入り後の桂宮治(40)。
 公式ホームページによると、平成20年に桂伸治門下となったとあるから、33歳で落語家転進したことになる。思い切ったな。
 平成24年に二ツ目昇進。その後、NHK新人演芸大賞 落語部門 大賞はじめ、数多くの賞をもらっている有望株。芸風は、本人が「色物担当」と自らを茶化していたが、パワフルで表情も体の動きも派手で、諧謔味あふれている。ギャグ漫画的。子供から大人まで楽しめる。
 本日の演目に登場する権助の東北弁があまりに上手いので岩手出身かと思ったが、プロフによると東京都出身とある。だとすれば、相当の努力家の証拠だろう。
 本日一番受けていた。

 トリは春風亭正太郎(36)
 カピバラというあだ名を奉られているらしい。なるほど顔が小動物風で愛嬌がある。が、立ち居振る舞いには落ち着きがあり、羽織り姿もさまになっている。
 「三枚起請」を聴くのは2回目。面白いけれど難しい演目。花魁と彼女にだまされた三人の男、しめて四人の演じ分けがポイントとなるので演技力を問われる。本職の役者だとて一朝一夕には行くまい。前回ソルティが聴いたのは中央大学の落研(オチケン)のふられ亭ちく生であった。これが上手くて感心した。
 正太郎はさすがにトリをつとめるだけあって、話の運びよどみなく、演じ分けも見事。技巧を感じさせない自然な風味が、「巧さ」を感じさせてしまう小辰より、一段上手かもしれない。
 が、一つだけふられ亭ちく生のほうが優れている点があった。
 それは花魁・喜瀬川の役である。
 正太郎の花魁はどうにも中途半端である。女らしくもないし、遊女らしくもない。色気がない。これで三人の男を手玉に取れるとは思われない。
 男が女を演じるのはもって生まれた資質がものを言うところであろうが(市弥なんか上手いもんだ)、もっと色気の研究が必要だろう。


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カピバラ (げっ歯目テンジクネズミ科カピバラ属)


 本日の大入り満席は、出演者4名の顔触れが高レベルで揃っていたことによるのであった。
 久しぶりの寄席だったが、やっぱり落語は楽しい。
 落語は楽語だ。
 


● 精巧にして生硬 : 首都大学東京管弦楽団スプリングコンサート

 
多摩センター 005


日時 2017年5月27日(土)14:00~
会場 パルテノン多摩大ホール(東京都多摩市)
曲目
  • チャイコフスキー/歌劇『エフゲニー・オネーギン』よりポロネーズ
  • ライネッケ/フルート協奏曲 作品283 
  • ブラームス/交響曲第2番 ニ長調
指揮 増井 信貴
フルート独奏 吉岡アカリ

 立川駅から多摩都市モノレールに乗って多摩センター駅に向かう。

多摩センター 001
 

 首都大学東京管弦楽団は2回目となる。前回はピアノ協奏曲の独奏者・三輪郁の素晴らしい音色に、コンサート全体がもっていかれたような感があった。今回はフルート協奏曲である。どうなることやら。
 会場は8割がた埋まった。

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 華があり活気もある一曲目は、コンサートの開始におあつらえ向きである。団員たちの若さゆえの華と活気がそのまま演奏に注ぎ込まれて上々の滑り出しであった。
 二曲目のカール・ライネッケは北ドイツの音楽家。作曲家であると同時に、ピアニスト、教育者としても活躍したそうだ。ロマン派の最盛期からその終焉までの時代を生きた彼の曲は、まさにロマン派の香りが馥郁と漂っている。徹頭徹尾、叙情的。
 フルート協奏曲というのを生で聴いたのははじめてであった。フルートは、人の声質で言ってみればコロラトゥーラ・ソプラノに近いものであろう。軽やかできらびやかで技巧的で美しい。吉岡アカリ(女性ではありません。♂です)のテクニックは実際見事なものであった。普段このオケの管トレーナーをつとめているためもあろう。オケとの相性も悪くない。
 漫画『美味しんぼ』(原作:雁屋哲、作画:花咲アキラ)で、寿司のネタとシャリのバランスについての話がある。高級のトロと中級の酢飯の組み合わせよりは、中級のトロと中級の酢飯の組み合わせのほうが結果的に美味しく感じるといった話である。それと同じで、協奏曲というのは独奏者とオケのバランスが大切なんだなあと知った次第である。

 最後のブラームスは熱演にして好演であった。「ブラボー」も出たし、拍手も大きかった。どうしてアンコールに応えなかったのか不思議である。
 
 それはさておき、これでブラームスの全交響曲(4つ)を生で耳にしたのであるが、「精巧にして生硬」という印象を持った。楽曲の構成や和声やオーケストレーションなど技巧面ではケチのつけようのない高みにいる。それは間違いなかろう。ベートーヴェンを見事に吸収している。この点では、噛めば噛むほど味わいが増してくるスルメのように、ブラームスの交響曲は聴く回数を増すほどに、新たな発見のあることだろう。通好みというのも分かる。
 一方で、生硬で面白みにかける。ブラームスはロマン派の代表選手のように言われるけれど、全然‘ロマンティック’ではない。チャイコフスキーやサン=サーンスやマーラーと比べると歴然である。
 その原因としてソルティが実感するのは、「ブラームスの交響曲には‘起承転結’の‘起’と‘承’だけがあって‘転結’がない」。
 楽章の中に用いられている主題を聴けば、それは明白であろう。メロディ展開として、‘起’と‘承’が提示されたあと‘転’に行くかと思ったら、行かずにまた‘起・承’に戻るのである。‘起・承’が何度も繰り返される。繰り返すごとに豊かに緻密になってゆくオーケストレーションは天才の名に恥じないものである。が、‘転’がないことが聴く者に視野の広がりをもたらさない。
 主題の場合と同様、楽曲全体にも‘転’がない。ところが、第4楽章に‘結’はある。たとえば、交響曲第1番と第2番の第4楽章は、ベートーヴェン第5番や第9番同様、「歓び」を歌っている。「苦悩」から「歓び」へ。‘結’らしい‘結’である。
 しかるに、‘転’がない‘結’は、聴く者からすればいかにも唐突であり、生硬であり、作曲者の内的必然性から生まれたのではなく、形式を整えただけというふうに聴こえる。つまり、最終的に「歓び」に至った心的履歴が了解されない。
 では、‘転’とは何だろう?
 ソルティが思うに、それは「忘我」であり「他者」ではないか。
 「自分」とは異なる「何者か」に圧倒的に惹きつけられ、支配され、打ち壊され、陵辱され、自己を明け渡す経験ではないか、と思うのである。営々と積み上げてきた「自己(=起・承)」が、他者の出現によって不意に崩壊し、大いなる愛のうちに溶解する。すべてが許される。
 その場合の「他者」は、神であったり異性であったり同性であったり子供であったり自然であったり神秘体験であったり・・・・いろいろであろう。
 「歓び」が生まれるとしたら、そのアダージョ的な溶解のたゆたいの縁から日常へと立ち戻り、古き自己(=起・承)を新たな目で見つめなおしたときの清新さから来るのではなかろうか。
 ブラームスの音楽には忘我が見当たらない。
 むろん聴く者にも忘我を許さない。 

 やっぱり、ストイックな男だったのか・・・。 


多摩センター 003




● アジアン幻想 :豊島区管弦楽団第85回定期演奏会

豊島区オケ

日時 2017年5月6日(土)18:00~
会場 なかのZERO大ホール
曲目
  • マルコム・アーノルド/序曲『ピータールー』
  • ベンジャミン・ブリテン/青少年のための管弦楽入門
  • エリック・コーツ/組曲『ロンドン』
  • レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ/交響曲第2番『ロンドン交響曲』
アンコール
  • ジョージ・バターワース/『緑のしだれ柳の岸辺』
指揮:和田 一樹

 和田一樹は2014年より豊島区管弦楽団の常任指揮者をしている。ほかにもリバティベルオーケストラとアルテ合奏団というオケの常任指揮をしているが、一番長い伝統を持ち(1995年設立)・一番規模が大きく(団員約90名)・一番高い技量を誇るのは豊島区管弦楽団である。ここが和田の現時点のホームベース的オケと言っていいであろう。常任指揮というのがどういうものかよく知らないが、おそらく日常の練習にも付き合っているだろうし、プログラムの選定も和田の意向が強く反映されていることであろう。
 その意味で、今回の演奏は指揮者・和田一樹の本領を知るのにもってこいと思った。

 そのプログラムであるが、ソルティがはじめて聴くものばかり。というかブリテン以外の作曲家を知らなかった。なんともマイナーなラインナップであるが共通項がある。すべて20世紀に活躍したイギリスの作曲家なのだ。
 前世はイギリス人?と思うほどイギリス好きのソルティ。きっと楽しめるだろう。

 マルコム・アーノルド(1921-2006)は、ロンドン・フィルのトランペット奏者としても活躍したそうだ。なんと、映画『戦場にかける橋』で第30回アカデミー賞作曲賞を受賞している。あの「サル・ゴリラ・チンパンジー♪」の替え歌で知られるケネス・アルフォードの行進曲『ボギー大佐』を編曲して、『クワイ河マーチ』として世に広めたのがアーノルドなのだ。
 ピータールーとは、1819年マンチェスターで参政権を求める政治集会中の民衆に政府の騎兵隊が突入、死者15名・負傷者400~700名を出した歴史上の事件である。集会が開かれていたセント・ピーター広場の名をとって「ピータールーの虐殺」と呼ばれている。
 音楽は、事件の始まりから終わりまでを音によって写実的・叙景的に描き出している。騎兵隊の登場や暴動が頂点に達した瞬間などが、目に見えるように分かる。迫力満点で、ドラマチックで、(不謹慎だが)面白い。
 和田一樹、やっぱり‘出だしから調子いい’。
 豊島区管弦楽団の技量はかなりのもの。アマオケのトップレベルと言っていいんじゃなかろうか。 

 ブリテン(1913-1976)の『青少年のための管弦楽入門』は、タイトルどおり、管弦楽にはじめて接する人やソルティのように楽器の音の判別が容易につかない者にとって、とても有難い学習曲である。一つの主題を木管・金管・弦楽・打楽器の順で演奏し、次に各パート独奏で主題の変奏とフーガが提示される。オーケストラを構成する各楽器の音色や特徴や効果を楽しみながら学ぶことができる。
 聴く者も楽しいし、おそらくは演奏する者もそれぞれのパート毎に目立つ部分があるので、ふだんは全体の中に埋没してしまう各々の技量を聴衆――とくにパパやママの晴れ姿を見に来た息子や娘たち――に誇示することができる。やり甲斐あることだろう。(こういったプログラムを選ぶあたりに和田の器量があらわれているのかもしれない。)

 エリック・コーツ(1886-1957)は軽音楽の作曲家として成功をおさめた。
 組曲『ロンドン』もBBCラジオのプログラムのテーマ曲として使用されたことから分かるように、とても耳に馴染むムードあふれる曲。夕食後のひととき、バスローブ姿で窓の外の夜景を見下ろしながらブランデー片手に聴くのにあつらえ向きである――って岡田真澄か!
 第1楽章「コベントガーデン」(オペラ座がある)、第2楽章「ウエストミンスター」(皇室の結婚式や葬儀が行われる寺院がある)、第3楽章「ナイツブリッジ」(ハロッズなどの高級品店がある)と題され、ロンドンの名所が謳われている。ソルティも十数年前に訪ねたロンドンの風物や雑踏、多様性に富む市民たち(ロンドン中心部の7割の住民が移民系)を懐かしく思い出した。
 趣きの異なる3つの楽章を通じてこの曲の底に響いているのは、テムズ河の流れであろう。テムズこそロンドンの大動脈である。

 さて、本日のメインである『ロンドン交響曲』。
 いかにもロンドンらしい風光が上記コーツの曲以上に徹頭徹尾描かれているのかと思いきや、なんとまあこれがメッチャ日本的なのである。タイトルに偽りありだ。
 もっとも、ヴォーン・ウィリアムズ(1872-1958)はこの曲を絶対音楽として作曲したそうで、直接的にロンドンの風景を描いたものではないとのこと。ならば、このタイトルは損をしていると思う。少なくとも現在では。
 あえてタイトルを付けるのなら『アジアン幻想』とでもしたい。そのくらい東洋風、アジア的、和風なのである。おそらく日本人の7割はこの曲を聴けば「日本的」と感じるだろうし、「好き」と答えるだろう。
 第1・2楽章はそれでもまだ中国と日本との間をさまよっている。坂本龍一作曲『ラストエンペラー』のテーマや、プッチーニの『トゥーランドット』と『蝶々夫人』、ホウ・シャオ・シェン監督『非情城市』のテーマあたりが次から次へと想起されてくる。かと思えば、王朝の雅楽のごとき古風な調べが耳朶を震わせる。中国と日本との区別のつかない大方の西洋人の描く‘日本’といった感じである。
 それが進むにつれ徐々に純日本風に傾いてきて、第3楽章は遊郭のお堀の「柳」が目に浮かぶような美しく哀しいメロディー。どこか懐かしくもある。第4楽章はまんま「桜」。京の都の艶やかな桜、吉野の山のごうごうたる桜吹雪、千鳥ヶ淵の無常なる桜、せわしなく川面に散る隅田川の桜、上野の森の賑やかな桜・・・・。日本各地の桜名所と、桜に対する日本人の想念を描き出したよう。
 こんなに幻想的で美しい、日本人好みの交響曲があったとは!
 ウイリアムズの前世はきっと日本人であろう。  
 もっともっとこの曲が上演されていけば、間違いなく日本人の好きな交響曲の上位に入ってくることだろう。和田がそのあたりを意識して指揮したのかどうかわからないが、曲の魅力を十二分に引き出す名演だったのは間違いない。ぜひもう一度聴きたい。
 それにしても、はたしてイギリス人(ロンドンっ子)はこの曲を聴いて「ロンドン、ロンドン、ロンドン!」と思うのだろうか?(このギャクが分かる人はかなり×××)
 
和田一樹&豊島001

 アンコールの『緑のしだれ柳の岸辺』。
 最初主題が流れたとき、宝塚のテーマ曲『すみれの花咲く頃』(原曲はフランツ・デーレ作曲『再び白いライラックが咲いたら』)と思った。たぶん会場の9割はそう思ったに違いない。

 和田一樹&豊島区管弦楽団。
 クラシックファンなら是が非でも聴いておきたい、いま最もホットなアマオケである。




 

● Interesting ! : ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2017

 今年もまた苦手なGWの人混みに分け入って東京国際フォーラム(有楽町)まで出かけた。
 苦行者か・・・。
 案の定、どこもかしこも人だらけ。東京駅丸の内口では、駅舎をバックに写真を撮る外国人たちであふれていた。たしかに、辰野金吾設計の赤レンガ駅舎(1914年竣工)は見るたびに郷愁と風格を感じさせ、カッコいいと思う。外国人が持つであろうTOKYOイメージとのギャップも魅力のうちであろう。


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 今年のテーマはLA DANCE 「ダンス 舞曲の祭典」。 踊りに関連するクラシック曲が集められた。
 ソルティが参加したのは以下のプログラム。

日時 5月4日(木)
①13:00~13:30
  • チャイコフスキー/スラヴ行進曲
  • ボロディン/オペラ「イーゴリ公」から だったん人の踊り(合唱付)
指揮:曽我大介 
管弦楽:リベラル・アンサンブル・オーケストラ
合唱:一音入魂合唱団
 
②16:30~17:15
  • ベートーヴェン/ロマンス第1番ト長調 作品40
  • ベートーヴェン/交響曲第7番 イ長調 作品90
指揮:ドミトリー・リス
管弦楽:ウラル・フィルハーモニー管弦楽団
ヴァイオリン:ドミトリ・マフチン

① は昨年同様、期間中もっとも人が集まる地下2階ホールで上演された。
 昨年は開演15分前に着いたら、もう舞台周囲の数百の座席は埋まっており、座席周囲の三方は立ち聴き客の分厚い壁でふさがれていた。仕方なく舞台裏の地べたに座って聴いた。今回は40分前に到着し、舞台正面の見やすい席に着くことができた。どうせ演奏中は目を閉じていることが多いので、見やすさは関係ないのだが・・・v( ̄∇ ̄)v
 リベラル・アンサンブル・オーケストラ(LEO)はソルティがアマオケ巡りにはまるきっかけとなったオケなので愛着がある。団員の若さゆえのフレッシュな響きと柔軟性、楽器間のバランスの良さ、曽我大介や和田一樹らの薫陶により身につけた安定した技術が魅力の一端であるが、なによりも「また聴いてみたい」と思わせるのは、他のアマオケにはない個性的な響きである。それがなんなのかまだ言葉にできないけれど、なんとなく、今回のステージでも目を引いた‘束髪のコンサートマスター’的ななにかである(って余計わからないか・・・)。 
 『スラヴ行進曲』は素晴らしかった。曽我大介×行進曲って合っているのかも。それとも意外にも曽我大介×チャイコフスキーなのか。

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リベラル・アンサンブル・オーケストラ


②去年とても良かったドミトリー・リス×ウラル・フィル。今年も水も漏らさぬ完璧さで大会場を沸かせた。一流のプロゆえ当たり前のことだが、磨き抜かれた音の純粋さとタッチのナイーブさ、ハーモニーの見事さと品の良さは、このまま録音しても十分商品になると思わせるものであった。あまりに王侯貴族的に上品過ぎて、かえって髪を乱して鍵盤に向かう情熱家ベートーヴェンのイメージが遠のいたほどである。
 今回7番が取り上げられたのは、ワーグナーがこの曲を「舞踏の聖化」と評したことによるのだろう。たしかに、焼けたトタン屋根の猫のように、瞬時も足が地につかずに踊っているような曲である。あまりいい比喩ではない? 一つの花にじっと留まることなく舞っている蝶では?
 舞台の両サイドに大きなモニターが設置されて、そこに演奏中の指揮者や団員がいろいろな距離や角度からリアルタイムで映し出される。舞台の全景を見ながら、同時に生のテレビ映像を見ているような感じである。これが功を奏したのは、ドミトリー・リスの指揮姿が実に魅力的で面白いからである。
 指揮台の上で、飛び跳ね、両腕を大きく振り回し、瞬発的に体の向きや姿勢を変え、様々な表情をつくってオケをリードする姿こそ、まさに DANCE そのものであった。
 一回の指揮で何カロリー消費するのだろう?

 アマオケとプロオケの演奏を同日に聴いて思ったのだが、だれがどう聴いたって上手いのはプロに決まっている。だが、どっちが「面白いか?」と言ったらアマオケである。LEOでは冴えていた頭が、ウラルではぼんやりしてちょっと眠ってしまった。
 ソルティがクラシックのライブに求めているのは‘面白さ interesting ! ’なんだと実感した次第である。
 

ラ・フォル・ジュルネ2017 001
会場ホールから東京駅方向を見下ろす




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