ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

ライブ(音楽・芝居・落語など)

● 精巧にして生硬 : 首都大学東京管弦楽団スプリングコンサート

 
多摩センター 005


日時 2017年5月27日(土)14:00~
会場 パルテノン多摩大ホール(東京都多摩市)
曲目
  • チャイコフスキー/歌劇『エフゲニー・オネーギン』よりポロネーズ
  • ライネッケ/フルート協奏曲 作品283 
  • ブラームス/交響曲第2番 ニ長調
指揮 増井 信貴
フルート独奏 吉岡アカリ

 立川駅から多摩都市モノレールに乗って多摩センター駅に向かう。

多摩センター 001
 

 首都大学東京管弦楽団は2回目となる。前回はピアノ協奏曲の独奏者・三輪郁の素晴らしい音色に、コンサート全体がもっていかれたような感があった。今回はフルート協奏曲である。どうなることやら。
 会場は8割がた埋まった。

多摩センター 002


 華があり活気もある一曲目は、コンサートの開始におあつらえ向きである。団員たちの若さゆえの華と活気がそのまま演奏に注ぎ込まれて上々の滑り出しであった。
 二曲目のカール・ライネッケは北ドイツの音楽家。作曲家であると同時に、ピアニスト、教育者としても活躍したそうだ。ロマン派の最盛期からその終焉までの時代を生きた彼の曲は、まさにロマン派の香りが馥郁と漂っている。徹頭徹尾、叙情的。
 フルート協奏曲というのを生で聴いたのははじめてであった。フルートは、人の声質で言ってみればコロラトゥーラ・ソプラノに近いものであろう。軽やかできらびやかで技巧的で美しい。吉岡アカリ(女性ではありません。♂です)のテクニックは実際見事なものであった。普段このオケの管トレーナーをつとめているためもあろう。オケとの相性も悪くない。
 漫画『美味しんぼ』(原作:雁屋哲、作画:花咲アキラ)で、寿司のネタとシャリのバランスについての話がある。高級のトロと中級の酢飯の組み合わせよりは、中級のトロと中級の酢飯の組み合わせのほうが結果的に美味しく感じるといった話である。それと同じで、協奏曲というのは独奏者とオケのバランスが大切なんだなあと知った次第である。

 最後のブラームスは熱演にして好演であった。「ブラボー」も出たし、拍手も大きかった。どうしてアンコールに応えなかったのか不思議である。
 
 それはさておき、これでブラームスの全交響曲(4つ)を生で耳にしたのであるが、「精巧にして生硬」という印象を持った。楽曲の構成や和声やオーケストレーションなど技巧面ではケチのつけようのない高みにいる。それは間違いなかろう。ベートーヴェンを見事に吸収している。この点では、噛めば噛むほど味わいが増してくるスルメのように、ブラームスの交響曲は聴く回数を増すほどに、新たな発見のあることだろう。通好みというのも分かる。
 一方で、生硬で面白みにかける。ブラームスはロマン派の代表選手のように言われるけれど、全然‘ロマンティック’ではない。チャイコフスキーやサン=サーンスやマーラーと比べると歴然である。
 その原因としてソルティが実感するのは、「ブラームスの交響曲には‘起承転結’の‘起’と‘承’だけがあって‘転結’がない」。
 楽章の中に用いられている主題を聴けば、それは明白であろう。メロディ展開として、‘起’と‘承’が提示されたあと‘転’に行くかと思ったら、行かずにまた‘起・承’に戻るのである。‘起・承’が何度も繰り返される。繰り返すごとに豊かに緻密になってゆくオーケストレーションは天才の名に恥じないものである。が、‘転’がないことが聴く者に視野の広がりをもたらさない。
 主題の場合と同様、楽曲全体にも‘転’がない。ところが、第4楽章に‘結’はある。たとえば、交響曲第1番と第2番の第4楽章は、ベートーヴェン第5番や第9番同様、「歓び」を歌っている。「苦悩」から「歓び」へ。‘結’らしい‘結’である。
 しかるに、‘転’がない‘結’は、聴く者からすればいかにも唐突であり、生硬であり、作曲者の内的必然性から生まれたのではなく、形式を整えただけというふうに聴こえる。つまり、最終的に「歓び」に至った心的履歴が了解されない。
 では、‘転’とは何だろう?
 ソルティが思うに、それは「忘我」であり「他者」ではないか。
 「自分」とは異なる「何者か」に圧倒的に惹きつけられ、支配され、打ち壊され、陵辱され、自己を明け渡す経験ではないか、と思うのである。営々と積み上げてきた「自己(=起・承)」が、他者の出現によって不意に崩壊し、大いなる愛のうちに溶解する。すべてが許される。
 その場合の「他者」は、神であったり異性であったり同性であったり子供であったり自然であったり神秘体験であったり・・・・いろいろであろう。
 「歓び」が生まれるとしたら、そのアダージョ的な溶解のたゆたいの縁から日常へと立ち戻り、古き自己(=起・承)を新たな目で見つめなおしたときの清新さから来るのではなかろうか。
 ブラームスの音楽には忘我が見当たらない。
 むろん聴く者にも忘我を許さない。 

 やっぱり、ストイックな男だったのか・・・。 


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● アジアン幻想 :豊島区管弦楽団第85回定期演奏会

豊島区オケ

日時 2017年5月6日(土)18:00~
会場 なかのZERO大ホール
曲目
  • マルコム・アーノルド/序曲『ピータールー』
  • ベンジャミン・ブリテン/青少年のための管弦楽入門
  • エリック・コーツ/組曲『ロンドン』
  • レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ/交響曲第2番『ロンドン交響曲』
アンコール
  • ジョージ・バターワース/『緑のしだれ柳の岸辺』
指揮:和田 一樹

 和田一樹は2014年より豊島区管弦楽団の常任指揮者をしている。ほかにもリバティベルオーケストラとアルテ合奏団というオケの常任指揮をしているが、一番長い伝統を持ち(1995年設立)・一番規模が大きく(団員約90名)・一番高い技量を誇るのは豊島区管弦楽団である。ここが和田の現時点のホームベース的オケと言っていいであろう。常任指揮というのがどういうものかよく知らないが、おそらく日常の練習にも付き合っているだろうし、プログラムの選定も和田の意向が強く反映されていることであろう。
 その意味で、今回の演奏は指揮者・和田一樹の本領を知るのにもってこいと思った。

 そのプログラムであるが、ソルティがはじめて聴くものばかり。というかブリテン以外の作曲家を知らなかった。なんともマイナーなラインナップであるが共通項がある。すべて20世紀に活躍したイギリスの作曲家なのだ。
 前世はイギリス人?と思うほどイギリス好きのソルティ。きっと楽しめるだろう。

 マルコム・アーノルド(1921-2006)は、ロンドン・フィルのトランペット奏者としても活躍したそうだ。なんと、映画『戦場にかける橋』で第30回アカデミー賞作曲賞を受賞している。あの「サル・ゴリラ・チンパンジー♪」の替え歌で知られるケネス・アルフォードの行進曲『ボギー大佐』を編曲して、『クワイ河マーチ』として世に広めたのがアーノルドなのだ。
 ピータールーとは、1819年マンチェスターで参政権を求める政治集会中の民衆に政府の騎兵隊が突入、死者15名・負傷者400~700名を出した歴史上の事件である。集会が開かれていたセント・ピーター広場の名をとって「ピータールーの虐殺」と呼ばれている。
 音楽は、事件の始まりから終わりまでを音によって写実的・叙景的に描き出している。騎兵隊の登場や暴動が頂点に達した瞬間などが、目に見えるように分かる。迫力満点で、ドラマチックで、(不謹慎だが)面白い。
 和田一樹、やっぱり‘出だしから調子いい’。
 豊島区管弦楽団の技量はかなりのもの。アマオケのトップレベルと言っていいんじゃなかろうか。 

 ブリテン(1913-1976)の『青少年のための管弦楽入門』は、タイトルどおり、管弦楽にはじめて接する人やソルティのように楽器の音の判別が容易につかない者にとって、とても有難い学習曲である。一つの主題を木管・金管・弦楽・打楽器の順で演奏し、次に各パート独奏で主題の変奏とフーガが提示される。オーケストラを構成する各楽器の音色や特徴や効果を楽しみながら学ぶことができる。
 聴く者も楽しいし、おそらくは演奏する者もそれぞれのパート毎に目立つ部分があるので、ふだんは全体の中に埋没してしまう各々の技量を聴衆――とくにパパやママの晴れ姿を見に来た息子や娘たち――に誇示することができる。やり甲斐あることだろう。(こういったプログラムを選ぶあたりに和田の器量があらわれているのかもしれない。)

 エリック・コーツ(1886-1957)は軽音楽の作曲家として成功をおさめた。
 組曲『ロンドン』もBBCラジオのプログラムのテーマ曲として使用されたことから分かるように、とても耳に馴染むムードあふれる曲。夕食後のひととき、バスローブ姿で窓の外の夜景を見下ろしながらブランデー片手に聴くのにあつらえ向きである――って岡田真澄か!
 第1楽章「コベントガーデン」(オペラ座がある)、第2楽章「ウエストミンスター」(皇室の結婚式や葬儀が行われる寺院がある)、第3楽章「ナイツブリッジ」(ハロッズなどの高級品店がある)と題され、ロンドンの名所が謳われている。ソルティも十数年前に訪ねたロンドンの風物や雑踏、多様性に富む市民たち(ロンドン中心部の7割の住民が移民系)を懐かしく思い出した。
 趣きの異なる3つの楽章を通じてこの曲の底に響いているのは、テムズ河の流れであろう。テムズこそロンドンの大動脈である。

 さて、本日のメインである『ロンドン交響曲』。
 いかにもロンドンらしい風光が上記コーツの曲以上に徹頭徹尾描かれているのかと思いきや、なんとまあこれがメッチャ日本的なのである。タイトルに偽りありだ。
 もっとも、ヴォーン・ウィリアムズ(1872-1958)はこの曲を絶対音楽として作曲したそうで、直接的にロンドンの風景を描いたものではないとのこと。ならば、このタイトルは損をしていると思う。少なくとも現在では。
 あえてタイトルを付けるのなら『アジアン幻想』とでもしたい。そのくらい東洋風、アジア的、和風なのである。おそらく日本人の7割はこの曲を聴けば「日本的」と感じるだろうし、「好き」と答えるだろう。
 第1・2楽章はそれでもまだ中国と日本との間をさまよっている。坂本龍一作曲『ラストエンペラー』のテーマや、プッチーニの『トゥーランドット』と『蝶々夫人』、ホウ・シャオ・シェン監督『非情城市』のテーマあたりが次から次へと想起されてくる。かと思えば、王朝の雅楽のごとき古風な調べが耳朶を震わせる。中国と日本との区別のつかない大方の西洋人の描く‘日本’といった感じである。
 それが進むにつれ徐々に純日本風に傾いてきて、第3楽章は遊郭のお堀の「柳」が目に浮かぶような美しく哀しいメロディー。どこか懐かしくもある。第4楽章はまんま「桜」。京の都の艶やかな桜、吉野の山のごうごうたる桜吹雪、千鳥ヶ淵の無常なる桜、せわしなく川面に散る隅田川の桜、上野の森の賑やかな桜・・・・。日本各地の桜名所と、桜に対する日本人の想念を描き出したよう。
 こんなに幻想的で美しい、日本人好みの交響曲があったとは!
 ウイリアムズの前世はきっと日本人であろう。  
 もっともっとこの曲が上演されていけば、間違いなく日本人の好きな交響曲の上位に入ってくることだろう。和田がそのあたりを意識して指揮したのかどうかわからないが、曲の魅力を十二分に引き出す名演だったのは間違いない。ぜひもう一度聴きたい。
 それにしても、はたしてイギリス人(ロンドンっ子)はこの曲を聴いて「ロンドン、ロンドン、ロンドン!」と思うのだろうか?(このギャクが分かる人はかなり×××)
 
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 アンコールの『緑のしだれ柳の岸辺』。
 最初主題が流れたとき、宝塚のテーマ曲『すみれの花咲く頃』(原曲はフランツ・デーレ作曲『再び白いライラックが咲いたら』)と思った。たぶん会場の9割はそう思ったに違いない。

 和田一樹&豊島区管弦楽団。
 クラシックファンなら是が非でも聴いておきたい、いま最もホットなアマオケである。




 

● Interesting ! : ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2017

 今年もまた苦手なGWの人混みに分け入って東京国際フォーラム(有楽町)まで出かけた。
 苦行者か・・・。
 案の定、どこもかしこも人だらけ。東京駅丸の内口では、駅舎をバックに写真を撮る外国人たちであふれていた。たしかに、辰野金吾設計の赤レンガ駅舎(1914年竣工)は見るたびに郷愁と風格を感じさせ、カッコいいと思う。外国人が持つであろうTOKYOイメージとのギャップも魅力のうちであろう。


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 今年のテーマはLA DANCE 「ダンス 舞曲の祭典」。 踊りに関連するクラシック曲が集められた。
 ソルティが参加したのは以下のプログラム。

日時 5月4日(木)
①13:00~13:30
  • チャイコフスキー/スラヴ行進曲
  • ボロディン/オペラ「イーゴリ公」から だったん人の踊り(合唱付)
指揮:曽我大介 
管弦楽:リベラル・アンサンブル・オーケストラ
合唱:一音入魂合唱団
 
②16:30~17:15
  • ベートーヴェン/ロマンス第1番ト長調 作品40
  • ベートーヴェン/交響曲第7番 イ長調 作品90
指揮:ドミトリー・リス
管弦楽:ウラル・フィルハーモニー管弦楽団
ヴァイオリン:ドミトリ・マフチン

① は昨年同様、期間中もっとも人が集まる地下2階ホールで上演された。
 昨年は開演15分前に着いたら、もう舞台周囲の数百の座席は埋まっており、座席周囲の三方は立ち聴き客の分厚い壁でふさがれていた。仕方なく舞台裏の地べたに座って聴いた。今回は40分前に到着し、舞台正面の見やすい席に着くことができた。どうせ演奏中は目を閉じていることが多いので、見やすさは関係ないのだが・・・v( ̄∇ ̄)v
 リベラル・アンサンブル・オーケストラ(LEO)はソルティがアマオケ巡りにはまるきっかけとなったオケなので愛着がある。団員の若さゆえのフレッシュな響きと柔軟性、楽器間のバランスの良さ、曽我大介や和田一樹らの薫陶により身につけた安定した技術が魅力の一端であるが、なによりも「また聴いてみたい」と思わせるのは、他のアマオケにはない個性的な響きである。それがなんなのかまだ言葉にできないけれど、なんとなく、今回のステージでも目を引いた‘束髪のコンサートマスター’的ななにかである(って余計わからないか・・・)。 
 『スラヴ行進曲』は素晴らしかった。曽我大介×行進曲って合っているのかも。それとも意外にも曽我大介×チャイコフスキーなのか。

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リベラル・アンサンブル・オーケストラ


②去年とても良かったドミトリー・リス×ウラル・フィル。今年も水も漏らさぬ完璧さで大会場を沸かせた。一流のプロゆえ当たり前のことだが、磨き抜かれた音の純粋さとタッチのナイーブさ、ハーモニーの見事さと品の良さは、このまま録音しても十分商品になると思わせるものであった。あまりに王侯貴族的に上品過ぎて、かえって髪を乱して鍵盤に向かう情熱家ベートーヴェンのイメージが遠のいたほどである。
 今回7番が取り上げられたのは、ワーグナーがこの曲を「舞踏の聖化」と評したことによるのだろう。たしかに、焼けたトタン屋根の猫のように、瞬時も足が地につかずに踊っているような曲である。あまりいい比喩ではない? 一つの花にじっと留まることなく舞っている蝶では?
 舞台の両サイドに大きなモニターが設置されて、そこに演奏中の指揮者や団員がいろいろな距離や角度からリアルタイムで映し出される。舞台の全景を見ながら、同時に生のテレビ映像を見ているような感じである。これが功を奏したのは、ドミトリー・リスの指揮姿が実に魅力的で面白いからである。
 指揮台の上で、飛び跳ね、両腕を大きく振り回し、瞬発的に体の向きや姿勢を変え、様々な表情をつくってオケをリードする姿こそ、まさに DANCE そのものであった。
 一回の指揮で何カロリー消費するのだろう?

 アマオケとプロオケの演奏を同日に聴いて思ったのだが、だれがどう聴いたって上手いのはプロに決まっている。だが、どっちが「面白いか?」と言ったらアマオケである。LEOでは冴えていた頭が、ウラルではぼんやりしてちょっと眠ってしまった。
 ソルティがクラシックのライブに求めているのは‘面白さ interesting ! ’なんだと実感した次第である。
 

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会場ホールから東京駅方向を見下ろす




● タージ・マハルな午後 梯剛之&オーケストラ・アンサンブル・バウム

月日 2017年5月3日(水)14:10~
会場 八王子市芸術文化会館いちょうホール
曲目
  • ベートーヴェン/劇音楽「エグモント」序曲 作品84
  • ベートーヴェン/交響曲第8番ヘ長調 作品93
  • ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第4番ト長調 作品58
アンコール
  • ショパン/ノクターン嬰ハ短調 
指揮 岡田 真
ピアノ独奏 梯剛之 

 アンサンブル・バウムは2度目。今回の目玉は八王子出身の世界的ピアニストである梯剛之(1977年生まれ)の出演である。テレビにもよく出ているから、名前は知らなくても盲目のピアニストと言えば「ああ」と分かる人は多いだろう。はじめて生で聴く。  
 30分前に会場に着いたら長蛇の列。さすが連休、さすが有名人である。客席は9割がた埋まった。車椅子の人や盲導犬を連れた人が多かった。盲導犬は演奏中まったく吼えずイビキもかかないのだから、幼児や親爺よりよっぽどマナーがいい。

 最初の2曲は睡魔に身を任せる始末になった。昨晩は良く寝たし今日の午前中は家でのんびりしていたので、よもや眠くなることはあるまいと思っていたのだが・・・。
 休憩を挟んでいよいよ梯の登場。
 背が高く、がっしりしている。180cm以上あるだろう。ピアニストなのだから大柄は不思議でもなんでもないが、テレビでも音楽関係の印刷物でも座っている梯の姿を見ることが多いから、あんなに大きいとは思わなかった。
 ピアノ協奏曲が始まり、オケが繰り返し奏でる主題に応答するように梯の指が鍵盤を自在に敲きはじめた途端、眠気が吹っ飛んだ。空気の質が変わった。あとは演奏が終わるまで、ピアノの音から一時も耳が離せなかった。やはりプロは凄い。
 その音色は、骨格がしっかりして十分力強いのにごつごつした粗野な感はまったくなく、重層にして彫が深いのに繊細さと軽みに欠けてはいない。そのうえ大理石のような輝きがある。20歳のときに見たインドのアグラにあるタージ・マハルが頭に浮かんだ。
 むろん、ソルティのチャクラは喉と胸と丹田において喜んでいるかのように疼き通しであった。


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● 演歌的 :くにたち市民オーケストラ第39回ファミリーコンサート

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日時 2017年4月23日(日)14:00~
会場 一橋大学・兼松講堂
曲目
  • ウェーバー/歌劇《魔弾の射手》序曲
  • チャイコフスキー/バレエ《白鳥の湖》組曲 作品20
  • ドヴォルザーク/交響曲第9番 ホ短調 作品95《新世界より》
  • アンコール1 モーツァルト/交響曲40番 ト単調 第一楽章
  • アンコール2 ヨハン・シュトラウス1世/ラデツキー行進曲
指揮 和田一樹

 開演1時間前に国立にある一橋大学に着くと、兼松講堂脇にすでに行列ができていた。
 並んで待つのは好きじゃないが、天気はすこぶる良いし、青葉きらめくキャンパスは気持ちいいし、集中できる本も手元にあったので、最後尾についた。
 開場時には、列は林の中でとぐろを巻く蛇のようにうねっていた。
 メジャー曲ばかり集めたこのラインナップで自由席無料とくれば行列もいたしかたないと思うけれど、実際には1000名の定員に届くことなく、早く来る必要も並ぶ必要もなかった。そんなもんだ。
 ファミリーコンサートと銘打ってあるせいか子供連れが多い。開演前から、客席のあちこちから赤子の泣く声や幼児のはしゃぐ声が上がっていた。「小さい時から良い音楽に触れさせるのは発達上よろしい」という俗信がはびこっているためか。外の芝の上で親子スキンシップしているほうがずっと子供の将来のためになると思うが・・・。
 案の定、登場した和田一樹が指揮台に登り客席に背を向け場内が静まった瞬間、あちこちから幼児の声が響いた。両腕を挙げたまま固まる指揮者。そそくさと客席から我が子を連れ去る親たち。面白い光景とは思ったが、やっぱり「小学生未満はご遠慮ください」の限定は必要なのではなかろうか。国立市から金銭的援助(税金)を受けているからそれができないとかあるのか?

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 今回はずばり和田一樹が目的であった。これだけ有名で耳慣れた曲が揃うと、かえって才能が分かりやすいのではないかと思ったのである。
 で、まさしくその通りであった。
 
 《魔弾の射手》序曲では躍動感が漲っていた。オペラ開幕前の観客の心を一気に鷲づかみにして‘日常’から‘物語世界’への移行をスムーズにする「序曲」の働きを見事に遂行していた。それはまた本日のプログラムにおいてこの曲を一発目にもってきた趣旨でもあろう。「出だしから調子がいい」というのが和田の特徴の一つかもしれない。‘つかみ’はバッチリだ!

 一番良かったのは《白鳥の湖》
 ベタなまでにドラマチックな仕立てで客席も盛り上がった。ソルティの隣に並んでいた小学生たち(特に女の子)もすっかり心を奪われているようであった。さすが名曲!
 思い起こせば、ソルティが人生最初に耳にしたのを記憶しているクラシック音楽こそ《白鳥の湖》である。幼稚園の年長の時だ。運動会のお遊戯で近所の女友達が踊っているのを「いいなあ~」と思いながら見ていた記憶がある(笑)。
 くにたち市民オーケストラの演奏は手堅く、綻びも少なく、大人っぽい。地域オーケストラにはやはり市民性が反映されるのだろうか。興味深いところである。

 《新世界より》を聴いて思ったのだが、和田一樹の音楽の特徴を一言で言うなら「演歌的!」ってことになる。
 演歌を演歌たらしめている要素やテクニックは次のように整理できよう。
  1.  人間模様のドラマ=浪花節的情緒世界
  2.  心象風景と自然風景のシンクロ
  3.  こぶし、ビブラート、しゃくり、フォール、ファルセットなどの歌唱テクニック
 たとえば、石川さゆりの名曲『天城越え』を例に取れば、①結ばれてはならない関係にある男女の愛憎や性愛を、②浄蓮の滝や天城隧道など伊豆の自然風景とシンクロさせながら、③石川さゆりの第一級の歌唱テクニックで歌い上げている。
 和田の曲解釈や音づくりに、どうもこれと似たようなアプローチを感じ取るのである。
 ①曲の中に潜んでいるベタな人間ドラマ(歌劇やバレエなどはもろ表面化している)を、②心象風景とも自然風景ともつかぬ、あるいはその双方が入り混じった絶妙なバランスの地点から、③曲の魅力をより効果的に引き出す様々なテクニック(トリックと言ってもいい)を用いて聴衆に提示する。
 他の指揮者だって多かれ少なかれ同じことをしているのだろうが、和田の場合、③のテクニック(あるいはトリック)に対する取り組み方がかなり意識的という気がする。テンポの緩急、音量の強弱、音の入りと切りの微妙なズレなどで全体にメリハリをつけ、いやがおうにもドラマチックに仕立て上げる。曲自体に仕組まれている経絡のツボを発見し利用するのが上手いということである。
 なので、それが上手くいったときは、ツボ押し効果で‘気’の流れが活性化し、曲自体が生きてくる。演奏に生命力がもたらされる。
 一方で、懸念するのは、あまりテクニックに偏りすぎてしまうと、張子の虎のようになってしまわないかという点である。聴衆はそれなりに興奮するし感動するだろうけれど、そこに深さはない。耳肥えた者は「あざとさ」を見るかもしれない。和田はテレビや映画の露出が多いようだが、マスメディアというものは若く才能ある人をそういった不毛な状況に容易に持っていくであろうと思うので、老心ながら気にかかる。
 和田自身が何を目指しているのか知らないので余計なお世話であるが、できたらこの指揮者の手による『アイーダ』や『復活』を聴いてみたいと思うので。
 
 曲間のMC(トーク)の面白さや人あたりの良さ、開放性、庶民性、オケや観客と一体感をつくる天性の資質。カリスマ的な魅力を発揮する指揮者であるのは間違いない。
 

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● 自然(じねん)交響曲 :国際基督教大学CMS管弦楽団 第93回春季定期演奏会

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日時 2017年4月22日(土)14時~
会場 府中の森芸術劇場どりーむホール
曲目
  • E.グリーグ/交響的舞曲 作品64
  • J.シベリウス/交響曲第2番ニ長調 作品43
  • アンコール J.シベリウス/交響詩「春の歌」
指揮 井崎正浩

 シベリウスは、交響曲第2番について「魂の告白である」と述べたそうだ。自らの娘も含め近親者を次々と失った作曲当時の彼の魂の遍歴――苦しみ、悲哀、絶望、祈り、救い、受容――が歌われているのであろう。
 とりわけ、それが色濃く表れているのが第2楽章である。「ドン・ファン」をモチーフとし「死」をイメージさせる第1主題と、「キリスト」をモチーフとし「祈り」と「救い」をイメージさせる第2主題が交互する。西洋的な、キリスト教文化圏のパラダイムである。それは、現世における「苦悩」を、最終的には神(Vater)の救済と癒しによって「喜び」に昇華させたベートーヴェン《第九》の世界に通ずるものである。
 
 しかし、この交響曲の真価は第3楽章以降、とくに第4楽章にあるように思う。
 
 シベリウスが母国フィンランドの自然を愛し、それを見事に描き出したのは知ってのとおりである。それも写実的であると同時に抽象的に。たとえば、今回のアンコールに取り上げられた『春の歌』にみるように、実際の春の訪れの風景を描写している一方で、長く寒く陰鬱な北欧の冬の終焉を迎えた人々の心の底から湧き出るようなしみじみした歓びが表現されている。自然描写がそのまま心理描写であるところにシベリウスの音楽の特徴があり、そこに和歌や『源氏物語』に原点をもつ日本文学との相似を見るのである。日本人のシベリウス好きの理由はそのへんにあるのではなかろうか。
 
 第4楽章は明らかに「自然」を描いている。
 草も木も花も虫も動物も、あらゆる生命が生まれては死に、死んでは循環し、新たに生まれくる自然。水も風も土も火も、あらゆる現象が生じては滅し、滅しては循環し、形を変えてまた現れる自然。そんなありのままの自然のなりゆきを映し出している。その意味では‘しぜん’というより‘じねん’である。
 シベリウスの苦悩を最終的に癒したのは、「キリスト=宗教」ではなくて自然だったのではないだろうか。自然のありのままの姿(=諸行無常)を知ることで、人間もまた自然の一部であり、生老病死は避けられないのだと、ただ謙虚に受け入れるしかないのだと悟ったのではないだろうか。それこそが彼の「告白」だったのではなかろうか。
 シベリウスは東洋的、それも老荘思想に近いように思うのである。

 国際基督教大学の学生たちの演奏は、正直言えば、決して安定しているとも巧みであるとも言えない。1曲目のグリーグは、ピンと張った弦のような若さゆえの力強さと張力は感じたものの、ハラハラするところもあった。井崎正浩の熟練の棒によって、なんとか瓦解せずにまとまっている印象。例えてみれば、寒い冬の朝に水たまりに張った氷の板を割らずに持ち上げようと懸命にこらえているといった感じを持った。
 しかし、学校名が奇跡を招いたのか。まさにシベリウスの第2楽章「基督(キリスト)」出現あたりから‘気’が充実してきて、後半は未熟さを超越する輝きに達していた。
 はじめて聴く者(ソルティ)が、この交響曲の真価を知るのに十分な演奏であった。

 



 






● ゲイチックな週末2 チャイコフスキー交響曲5番(戸田交響楽団第62回定期演奏会)

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日時 2017年4月16日(日)14:00~
会場 戸田市文化会館大ホール(埼玉県)
曲目
  • チャイコフスキー:バレエ音楽「眠れる森の美女」より抜粋(序奏とリラの精、パノラマ、薔薇のアダージョ)
  • ストラヴィンスキー: バレエ音楽「妖精の口づけ」―ディベルティメント
  • チャイコフスキー: 交響曲第5番
  • アンコール チャイコフスキー: 「眠れる森の美女」よりワルツ
指揮 笹崎榮一

 戸田交響楽団は2回目である。前回はコンマスをつとめたNHK交響楽団の降旗貴雄の『白鳥の湖』の素晴らしいヴァイオリン独奏に陶酔した。
 今回もまたチャイコフスキープログラム。
 
 日本のメディアにおけるオネエタレント人気を思うと、日本人のチャイ子好きも不思議でも何でもないのだけれど、ではなんで日本人はオネエタレントが好きなんだろうか?
 歌舞伎における女形の伝統?
 美輪明宏の長年の薫陶の賜物?
 言いたいことをズバリと言ってくれるご意見番としての価値?
 欧米マッチョ文化への反発?
 性別を超越した存在に対する呪術的期待?

 ともあれ。
 チャイコフスキーの典雅で感傷的なメロディとゴージャスかつ華麗なるオーケストレイションは、今回もまた見事ソルティのツボにはまった。あちこちのチャクラが活性化し、身体がまんまオーケストラのようだった。
 チャイコフスキーが交響曲5番を作ったのは48歳のとき。亡くなる5年前である。
 いまやソルティはその年齢を超えたわけであるが、5番を聴いていると40代の時の自分よりも10代20代の自分を思い出すのである。おのれのセクシュアリティに気づき悩んでいた青春の頃である。
 当時の自分が味わった様々な感情的要素――否認や恐れ、孤立や不安、怒りや反発、自己嫌悪や逆転した形の優越感(選ばれしことの恍惚)、悲観や絶望、虚無や満たされない欲求、祈りや諦め、性愛の悦びと苦しみe.t.c――が次々と体の奥から浮かび上がってきて、再現フィルムのように追体験した。
 だが、それは苦痛というよりも懐かしさを伴った哀感である。
 
 自分の30代(1990年代)は、ゲイリブや市民活動や精神世界(スピリチュアリズム)の季節であって、それらを通じて多様性の価値を認める素晴らしい人々と出会ったことが、今の自分を作る礎となった。自己受容と自己肯定が拓かれた。それが40代半ばで原始仏教と出会い、「物語」や「自己」そのものの欺瞞と弊害を見るようになった。言うならば、「近代」に対する懐疑を抱くようになった。

 チャイコフスキーの音楽、つまりチャイコが囚われている世界は、まさにソルティが10代20代で味わった近代的ゲイの喜びと苦悩そのものという気がする。それは彼の生きた時代と場所が必然的にもたらした限界であろう。ゲイリブを知らぬチャイコは近代的個人として「自己肯定」するのは困難であったろうし、かと言って、偉大な先輩たるベートーヴェンのように、苦しみを超越し喜びに至る道(=神への帰依)を辿ることもかなわなかった。キリスト教における同性愛の位置づけゆえに。
 チャイコフスキーの音楽、とくに交響曲を聴くと、《第九》のように「暗」から「明」へと突き抜けたいと頑張っているのに、なかなか辿り着けないでいる魂のもどかしさを感じ取るのである。
 もしや日本人はチャイ子のそこを、できの悪い子供を愛するように愛しているのだろうか。











 


 

● 忘れられし夢 : オーケストラ・マルシェ創立記念演奏会 

ポートレート

日時 2017年3月29日(水)18:00~
会場 杉並公会堂大ホール
曲目
  • デュカス: 交響詩「魔法使いの弟子」
  • ビゼー: 組曲「カルメン」第1・第2より抜粋
  • ラフマニノフ: 交響曲第2番ホ短調 作品27
  • アンコール ルロイ・アンダーソン: 「忘れられし夢」
  • アンコール チャイコフスキー: 「くるみ割り人形」よりロシア舞曲トレパーク
指揮 小森康弘

 
 開演前の会場ロビーでは花束や記帳を受け付けていたり、礼服に身を包んだ演奏者が緊張しつつも晴れがましい顔で家族や友人らと談笑していたり、おめでたい空気が流れていた。
 「マルシェ」とはフランス語で「市場」という意味だそうだ。
 「カレー市場」だったのか・・・。

オーケストラ・マルシェは、2013年に医療系大学に入学した同期を中心に結成された学年オーケストラです。「関東医科学生オーケストラフェスティバル」や「全日本医科学生オーケストラフェスティバル」など医療系学生から成るオーケストラ(通称「医オケ」)で出会ったメンバーを中心に、北は北海道から西は福岡まで様々な大学に所属する人で構成されています。(当日配布プログラムより抜粋)

 ステージ上に並び居るは、医師・歯科医師・薬剤師・看護師の卵ら総勢120名弱。なんとも有難い光景である。
 言われて見れば、みな頭が良さそうで、お坊ちゃま・お嬢様っぽい雰囲気。
 医療職オーラーに圧倒されるのは、ソルティが介護職だからか・・・・・・(苦笑)

 ディズニー映画『ファンタジア』(1940年)を観たことのある人なら、ミッキーマウスを思い浮かべずに「魔法使いの弟子」を聴くのはまず無理である。あれだけ良くできているアニメとクラシックの融合は他にあるまい。
 著作権が切れてパブリックドメインになっていることだし、この曲を演奏するならスクリーン上映つきにしてはどうだろうか。聴衆、とくに子供たちが喜ぶこと間違いなし。
 マルシェが技術的に優れたものがあり、音のバランスの良いことが、一曲目から分かった。 

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 ビゼー「カルメン」は実に魅力的なメロディー満載である。久しぶりに生オペラが観たくなった。
 作品のテーマは、ずばり恋の狂気である。真面目で純朴な男が、野生的で奔放な女性に誘惑され、一途にのめり込み、やがて裏切られ、愛が憎しみに転じて、相手の命を奪う。 
 西洋オペラには、というか西洋文学にはこの手の作品――恋(女)に翻弄される一途な男を描いたもの――が結構ある。すぐに思いつくものでも、『道化師』、『マノン・レスコー』、『椿姫』、『オテロ』、『若きウエルテルの悩み』、『ロリータ』、マレーネ・ディートリッヒの『嘆きの天使』・・・。そこには、西洋の男たちの‘ファム・ファタール(運命の女)’願望が潜んでいるように思う。
 翻って本邦を見るに、恋に狂うは女の役目といった感が強い。和泉式部、六条御息所、西鶴一代女、八百屋お七、岡本かの子、阿部定・・・。日本の男たちは妙に恋には冷静というか淡白というか、逃げ腰なのである。例外は谷崎潤一郎作品に出てくるM男くらいか。
 が、命を賭すほど恋に狂う日本男児の姿を描いた文芸作品の膨大な貯蔵庫も実はあるにはあって、それはなんと衆道もの――すなわち「男と男の恋」なのである。
 日本の男の特異性ここに極まれり。
 ・・・・ともあれ。
 マルシェの「カルメン」は技術的には十分客を呼べるレベルではあった。が、恋の狂気を表現するには及ばず。これは団員の恋愛偏差値(経験)云々のせいというよりも、おそらくは文学性に不足しているせい? 理系の集合だから仕方ないのかもしれない。こういう場合、メリメの『カルメン』を読む、あるいはプラシド・ドミンゴかホセ・カレーラス主演のDVDを観ることを必須として、本番に臨んではどうだろうか。
 
 ラフマニノフの交響曲第2番。
 一橋大学でのオーケストラ・イストリアの熱演を聴いたばかりなので、どうしても比較してしまう。イストリアの2番より1.5倍は長く感じた(特に第1楽章)。
 第3楽章のクラリネット独奏は情感あって良かった。涙腺を刺激された。大所帯による第4楽章も迫力あり、大詰めは興奮させられた。
 
 アンコールのルロイ・アンダーソン「忘れられし夢」。
 単調なれど、実にきれいで懐かしいメロディーをマリンバ――たぶん。座席が前過ぎて奏者が見えなかった――が切なげに奏で、会場全体を昔日の思い出に浸らせるかのようであった。どこかで聴いた曲と思ったが、帰宅してから思い出した。トビー・フーパー監督の『ポルターガイスト』(1982)のテーマ曲(ジェリー・ゴールドスミス作曲)に似ている。
 ソルティも、ステージ上の団員らと同じ年頃だった昔に一瞬かえって、こう思った。
「管弦楽やっていれば良かったなあ~」
 しかし、ソルティは当時、物書きになりたかったのである。
 忘れられし夢――。
 こうして不特定多数の読者相手にブログを書いているのだから、叶ったようなものなのか・・・・・。 

 クラシック音楽を愛し、全国に‘医と音’の友を持つ彼らが、患者にやさしい聡明な医療従事者になってくれるのは間違いあるまい。




● 彼岸に一番近い曲 マーラー5番:ユーゲント・フィルハーモニカー 第11回 定期演奏会

日時 2017年 3月25日 (土) 13:30~
会場 すみだトリフォニーホール 大ホール(墨田区錦糸町)
曲目
  • M.ラヴェル: バレエ音楽≪ダフニスとクロエ≫第2組曲
  • G.マーラー: 交響曲第5番 嬰ハ短調 
  • アンコール M.ラヴェル: 亡き王女のためのパヴァーヌ
指揮 三河 正典


ユーゲント・フィルハーモニカーは、財団法人「日本青年館」の音楽行事(オーケストラ・フェスタ、全国高等学校選抜オーケストラ・ヨーロッパ公演、日本ユンゲ・オーケストラ・ヨーロッパ公演)に参加したメンバーが中心となって2006年3月に創設されたオーケストラです。現在団員約70名を越えるオケにまで成長しました。3月の定期演奏会を中心に、福祉施設や普段生のオーケストラに触れる機会のない農村への訪問演奏、その他、行楽施設の各種イベントやテレビ番組での依頼演奏など幅広い活動を行っています。(ユーゲント・フィルハーモニカー公式ホームページより抜粋)

 
 すみだトリフォニーホールは、シックで広々として居心地よく、音響効果も優れている。1801席のうちの1142席が埋まったらしい。さすがクラシック指折りの大人気曲である。

 ラヴェル≪ダフニスとクロエ≫第2組曲は、もともとバレエ音楽なので、交響曲や協奏曲のような、曲自体で完結した構造的な美しさは期待できない。しかし、フレーズの美しさたるや絶品である。
 ラヴェルはオーケストレーションの魔術師と言われる。有名な『ボレロ』やムソルグスキーのピアノ曲を管弦楽用に編曲した『展覧会の絵』などは、まさにその称号の正当性を立証するものである。
 と同時に、ラヴェル音楽の特徴は「色彩の豊かさ」にあると思う。
 ラヴェルの音楽は、聴く者の閉じたマブタの裏に、様々な色彩の衣装を付けた踊り子たちを映し出していく。最初は一人の踊り子(単色)から始まり、微妙なグラデーションをつけながら一人また一人と増えていき、色を重ね、色と色とがあちこちで反射し、引き立て合い、異なった色の組み合わせがまったく別の色を生み出し、終いにはあふれんばかりの色彩の群舞の中にいる自分を、聴く者は発見する。
 その色彩は、アンリ・マティスやゴーギャンのようにベタで大胆なものではなく、シャガールのように幻想的なものでもなく、パウル・クレーの抽象絵画のような明るさとはかなさとに満ちている。
 あくまでもフラジャイル。
 本来、視覚とは関係ない音楽になぜこんなに「色」を感じるのだろう?
 世の中には共感覚を持つ人がいて、特定の音を聴くと特定の色が浮かぶという。ラヴェルはまさにその一人だったのではなかろうか。
 そして、ラヴェルの音楽は、それを聴く者の共感覚――つまり「音」と「色」それぞれを認識・管轄する脳細胞の両方――を同時に刺激する効果を持っているのではなかろうか。
 
共感覚(きょうかんかく、シナスタジア)は、ある刺激に対して通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚をも生じさせる一部の人にみられる特殊な知覚現象をいう。 例えば、共感覚を持つ人には文字に色を感じたり、音に色を感じたり、形に味を感じたりする。(ウイキペディア「共感覚」)


クレー
パウロ・クレー作「本通りと脇道」
(ミュンヘン・ヴァルナー・フォーヴィンケル美術館所蔵) 

 
 マーラーの5番ほどソルティがよく聴く交響曲はない。ただしCDで、という補足がつく。ライブではやっぱりベートーヴェン《第九》が群を抜いている。
 今回久しぶりにライブでマーラー5番を聴いて、この曲の圧倒的な名曲ぶりを再認識するとともに、CDで聴く音楽とライブで聴く音楽の違いをまざまざと感じた。 
 今更ソルティのような素人がやる意義はまったくないと承知のうえ、次のように比較できよう。

1.「平面的・同時的」V.S.「立体的・波状的」 
 部屋でCDを聴くとき、音波の旅する距離は圧倒的に短い(イヤホンの場合など、ほぼゼロである)。広い空間を持つホールでは、音波は空気を振動させながら、比較的長い距離を旅して聴く者の耳に到達する。
 そして、CDはすべての楽器の音が、同時に・同じ場所(スピーカーorイヤホン)から発される。ライブでは、それぞれの楽器の置かれている位置の違いによって、あるいはそれぞれの楽器の音色が持つ周波数の違いによって、それぞれの楽器の出す音が微妙な時間的・空間的差異を持って聴く者の耳に届く。これが、音が平面的・同時的に聴こえるか、立体的・波状的に聴こえるかの違いを生み出す。
 とくに違いが顕著に分かるのは、全楽器で出すフォルティシモ。CDでは本当にいっぺんに、あたかも一音のように「バンッ!」と鳴り響く。ライブだと、フォルティシモにも微妙な色合いが混じって、重層的に聴こえる。

2.「中心的」V.S「周縁的」
 弦楽器が情熱的なメロディ(主題)を奏でる後ろで、ピッコロが剽軽なツッコミを入れたり、トランペットが軽快に伴走したり、オーボエが冷静な抑止をしたり・・・という周縁の面白さを味わうのが、管弦楽を聴く楽しみなわけである。今回も、「ああ、ここにこんな美しいクラリネットのフレーズがあったのか」とか「こんなところにトライアングルが使われていたのか」・・・といろいろ発見があった。
 CDだと、どうしてもそのとき主要なメロディを奏でている楽器に気を取られてしまう。やはり、音の発生元が一つというところに主因はあるのだろう。スピーカーの数を増やしてサラウンドにすれば、ある程度はその弊害を改善することができるのかもしれないが、庶民の家では限界がある。

3.「聴覚的」V.S.「視覚・触覚的」 
 ライブが視覚的というのは説明するまでもない。舞台上にびっしり並んだ大編成オケの威圧感も、演奏者や指揮者の動きや表情を見る楽しみも、ステージ上にイケメンや美女を探す歓びも、ライブでなければ味わえない。
 一方の触覚的とは、指揮者や演奏者や客席の発する‘気’、楽器の発する生の音の波動をじかに体感できることに尽きる。特に音波は、当然、聴いている者の鼓膜だけでなく、身体全体に接触し、全細胞に浸透し、震わしている。いったんデジタル情報に変換され機械的に再合成された音楽信号と、生の音とでは、明らかに波動の質が異なる(と思う)。

4.「いつかどこかで」V.S.「いまここで」
 家でCDを聴くとは、いつかどこかで発された演者の‘気’の微かな残滓を、いまここで味わおうとする行為である。一方、ライブでは、いまここで演者の発した‘気’が、音波に乗って客席に運ばれ、いまここで聴く者の‘気’と遭遇し、何か新たなものが生まれる。言い換えれば、ライブとは‘いまここ’を演者と聴く者とが共有する体験である。
 あらゆる芸術の中で、音楽が一番官能的になり得るのは、音楽が一番セックスに近いのは、それゆえだろう。その意味では、
家でCD=アダルトサイトを見ながらのマスターベーション
ホールでライブ=生セックス
と言えるかもしれない。

 「この世でもっとも彼岸に近い曲」と言われる(byソルティ)第4楽章の甘美さは、極上のセックスに匹敵する悦びをもたらしてくれて、完璧にシートに溺れた。1141人に囲まれてそんな恥態をさらした自分が、ちょっと変態な気がしたほどである。
 今回はユーゲント・フィルと三河正典にオト(音)されました。


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● ロマネスクなラフマニノフ :オーケストラ イストリア第2回演奏会

日時 2017年3月5日(日)14:00~
会場 一橋大学兼松講堂(国立市)
指揮 田中一嘉
曲目 
  • ディーリアス:二枚の水彩画
  • ムソグルスキー(ラヴェル編):展覧会の絵
  • ラフマニノフ:交響曲第2番 
  • アンコール ラヴェル:マ・メール・ロア「妖精の園」

 一橋大学はJR中央線国立駅南口から歩いて10分のところにある。
 駅前広場から続く並木通りと中央線沿線にしては小洒落たお店の並びが、落ち着きと品の良さを醸し出している。国立にはたしか百恵さんが住んでいたはず。

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 大学正門を入ると、正面に時計塔のあるレンガ仕立ての建物が見える。いかにも伝統と学究の象徴といった風情だが、それもそのはず、図書館である。
 その右手前に国の登録有形文化財となっている兼松講堂がある。築地本願寺や平安神宮や東京大学正門を設計した建築家・伊東忠太によるもので、1927年創建、ロマネスク様式の鉄筋コンクリート2階建。均衡のとれた美しく優しく安定したフォルムは、イタリアの田舎町の教会のような庶民的な親しみやすさを抱かせる。つまり、キリスト教会という、大方の日本人にしてみれば非日常的空間でありながらも、取っつきにくい感じ、堅っ苦しい感じはしない。それがロマネスクだ。ゴチック建築とは違う。
 ここで演奏できる・ここでクラシックを聴けるというだけで、幸せな気分になろうというものだ。
 オーケストラ・イストリアは一橋大学管弦楽団の若手OB・OGを中心に2015年7月に結成されたそうで、それゆえのこの場所なのである。

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兼松講堂


 フレデリック・ディーリアス(1862-1934)という名前も、もちろんその曲も、はじめて耳にした。面白いのは、この人はイギリス商家に生まれ、オレンジのプランテーションを運営するためにアメリカのフロリダ州に送られ、24歳にして正式な音楽教育を受けるためにドイツに渡り、その後パリに移って亡くなるまで作曲家として活動した。同じ西洋圏であるとはいえ、ずいぶん足の軽い人だ。当然、彼の音楽にもこれらの国々の影響が見出されるのであろう。
 美しい曲だが、やや眠くなった。

 『展覧会の絵』は、「オーケストラの魔術師」と呼ばれるラヴェル編曲によって一躍有名になった。もともとはピアノ組曲だったのである。
 ソルティは原曲を聴いたことがないので、ラヴェルの魔術がいかほどのものか正味のところ分からないのだが、単純に耳を傾けるだけでも、このラヴェル版が管弦楽という形式の持つ可能性や魅力を存分に感じさせるものであるのは疑い得ない。「管弦楽とはどのようなものですか」という中学生の質問に、実物によって答えを示すとしたら、この曲に如くはなかろう。一つ一つの楽器の個性や、金管楽器・木管楽器・打楽器・弦楽器それぞれの特徴や効果や役割、それらの楽器が組み合わさり、追っかけあい、重なり合っていくことでもたらされる劇的効果の質というものを学ぶのに、この曲は恰好のテキストになろう。
 さらに、音楽のヴィジュアル性という点でも、ベルリオーズ『幻想交響曲』と双璧をなす。聴いているとどうしたっていろいろな情景が浮かんでくる。世はCG全盛である。ディズニーの『ファンタジア』のように、この曲の生演奏を聴きながら、クリエーターによってテーマごとに映像化されたスクリーン動画を観るという企画があったら面白いと思う。

 休憩中、キャンパス内を散策する。
 日曜日のキャンパスは閑散として、のどかである。近所に住んでいる人たちが、暇な午後の憩いの場所として利用しているらしい。広々と気持ちよい空間で、緑が多く、ベンチも多く、売店や自動販売機もあり、安全で、なにより静かである。池の周りのベンチで読書や瞑想したり、芝に座ってランチしたり、休日を静かに過ごしたい人には恰好のアジールだ。

 ラフマニノフ交響曲第2番。
 とにかく美しい曲だ。
 なので、大きな瑕疵なく、平均レベルに演奏してくれれば、それなりに感動できる。ここのところまでイストリアの演奏はまさにそうで、可もなく不可もなく、他のアマオケと較べてとりたてて秀でているでも、かといってレベルが低いわけでもなく、良くも悪くも期待を裏切らない出来であった。そのまま最後まで終了しても、(招待券で来ていることは置いといて)、別段クレームのつけようもない。
 が、若いオケというのは怖いものである。若者というのは、ちょっとしたきっかけで、持てる以上の力を発揮してしまうからあなどれない。
 楽章が進むにつれて、ぐんぐん集中力が増していき、ステージ上の気が高まっていった。あまりにも甘美な第3楽章のあたりからそれは始まって、一つに凝縮された‘気’は白熱しスパークした。第4楽章は完璧にミューズ(音楽の女神)の手の内にあった。
 おそらく、第4楽章を演奏している間、奏者の誰一人として――とくに管楽器パートのメンバーらは――「失敗する」「音をはずすかも」という恐れやリスクが頭に浮かばなかったに違いない。‘演奏している’自分を忘れ、音楽によって‘演奏させられている’自分を発見していたことであろう。それくらい、ステージ上には音楽しかなかった。
 音楽が息づき、流麗な生き物となって、ロマネスクな会場を逍遥した。
 ラフマニノフが開示された。

 いったいなぜそんなことが起きたのだろう?
 指揮の田中一嘉の実力?(たしかに熱演だった)
 オケメンバーの精神状態が良かった?
 観客のせい?
 それとも素晴らしい建築物の持つ影響力?

 分からないから、音楽は面白い。

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● 全米的! : OB交響楽団第192回定期演奏会

日時 2月12日(日)14:00~
会場 杉並公会堂大ホール(東京都)
曲目
  • シベリウス/交響詩「フィンランディア」
  • チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35
  • ドヴォルザーク/交響曲9番ホ短調 作品95「新世界より」
  • (アンコール)ドヴォルザーク/スラブ舞曲 第1集 第1番
ヴァイオリン独奏 大島茜(OB交響楽団コンサートマスター)
指揮 松岡 究

 30分前に会場に着いたら、すでに95%(1190席×0.95≒1130席)の充填率。あと10分遅かったらアウトだった。指揮者を正面から見下ろす、オケの後方上部にある席にかろうじて座れた。ここから見渡すと、びっしり埋まった客席が壮観である。
 長い伝統を誇るOB交響楽団の人気と大量の招待状投与。五大ヴァイオリン協奏曲の一つとクラシック随一の有名曲『新世界より』というゴージャス極まりない組み合わせ。満員御礼も無理ないと思うのだが、やっぱりここ最近のクラシック人気はただごとではない。定年退職した頃合いの男性一人客、あるいは高齢のカップルが多いように見受けられる。
 ソルティの隣に座った初老カップルは、妻のほうが亭主に本日のプログラムの内容についてあれこれ指南していた。
「チャイコフスキーって同性愛だったのよ。最後はそれがばれて毒を飲んで自殺したのよ」
「ドヴォルザークは50歳過ぎてからアメリカに招かれて『新世界』を作曲したんだけど、ホームシックになってチェコに戻ったのよ」
「松岡究(はかる)さんの愛称はキュウちゃんっていうのよ」
 
 シュワッ!
 

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杉並公会堂はウルトラマン誕生の地とされている


 今回は一曲目から躍動感ある選曲で、会場のボルテージが瞬く間に上がった。この雰囲気のまま2曲目のヴァイオリン独奏者にバトンタッチされていくのは賢いやり方と言える。
 チャイコのヴァイオリン協奏曲は、まことに甘美でロマンチィクで情熱的な名曲であるが、ヴァイオリニストには超絶技巧が要求される。チャイコフスキーから渡された楽譜を見た当時ロシア最高のヴァイオリニストであったレオポルト・アウアーが、「演奏不可能」と言って初演を拒絶した話は有名である。実際、初演は惨憺たるものであった。
 超絶技巧(=難解さ)はCDで聴くだけでも十分わかるのだが、今回たまたまステージの上というヴァイオリニストの左手の動きがよく見える位置に座したこともあって、本当に凄いテクニックが要求される曲であることが実感できた。唖然とする指捌きだ。
 連想したのは、フィギアスケートである。
 
 ここ数年、男子のフィギアスケートは四回転ジャンプの競い合いになっている。一つのプログラムに四回転を何回入れることができるか、何種類の四回転を跳ぶことができるか、四回転と三回転を組み合わせた連続ジャンプができるか・・・といったことが、勝敗を決めるポイントになっている。四回転を跳べない選手はもう国際大会で上位に入ることはできないだろう。
 だが、このような状況になったのはつい最近のことで、数年前まで四回転ジャンプができる男子選手はロシアのエフゲニー・プルシェンコやアレクセイ・ヤグディンなど数名に限られていた。四回転を決めたプルシェンコが、三回転しか跳ばなかったエヴァン・ライサチェクに金メダルを許したバンクーバ・オリンピック(2010)は記憶に新しい。高橋大輔は四回転ジャンプにこだわり特訓を続けていたが、本番ではなかなかきれいに決めることができなかった。(それだけに応援する側もハラハラし通しであった)
 それが今や「四回転できぬは人にあらず」の勢いで、次から次へと若い選手がポンポン決めている。
 世界で最初に四回転ジャンプに成功したのは、カナダのカート・ブラウニングで1988年のことである。それまでは、「三回転が人間の限界、四回転は夢のまた夢」みたいなものであったろう。
 人間の潜在能力&学習能力というのはすごいものである。どんな難題でも、だれか一人が「できる」ことを証明してしまうと、どんどんと後続が現れる。
 
 このチャイコのヴァイオリン協奏曲も、一流ヴァイオリニストによる「演奏不可能」の烙印を裏切って、今日では日本のアマチュアオーケストラのコンサートマスターが何の造作もなく(のように見える)完璧に弾ききってしまうのである。
 もちろん、テクニックは前提条件であり、そこから真の表現行為はスタートするのであるが・・・。
 この曲は映画『オーケストラ』で主役を演じている。聴いていると、どうも映画のシーンがあれこれ浮かんでくる。『ベニスに死す』とマーラー5番のように、映像とクラシック音楽との完璧なる結婚の一例であろう。

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 『新世界より』は徹頭徹尾‘気合い’のこもった迫力ある演奏であった。座席位置のせいかもしれないが、金管楽器の音がよく響いて、実にカッコよく勇壮で気分爽快。自信を持って吹いているところが、さすがベテラン揃いと感じた。「ブラボー」も盛大な喝采もアンコールも当然と言える好演。満席の圧力が指揮者とオケのメンバーを奮い立たせたのであろう。

 ソルティは『新世界より』を聴くといつも「全米的」と思うのだが、この曲は標題音楽ではないので、ドヴォルザークは別にアメリカを描写しようとしたわけではないと言う。
 いったいなんで「全米的」と感じるのだろう?
 今回その答えが分かった。
 ソルティが「全米的」と感じるのは、この曲からマールボロ風なもの、つまり西部劇的なものを聴き取るからである。とくに第一楽章にその傾向が強い。馬に乗ったカウボーイが夕陽に向かって走り去っていくイメージが連想されるのだ。

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 だがこれ、順番が逆なのだ。
 ソルティが幼いころから父親と一緒にテレビで見ていた西部劇(主として50~60年代に制作されたもの)に使われていた音楽こそが、『新世界より』をはじめとするドヴォルザーク作品の影響を色濃く受けていると考えるのが理にかなっている。
 たとえば、「マールボロCM」のテーマすなわち映画『荒野の七人』、『大脱走』、『十戒』、『ゴースト・バスターズ』のBGMを作曲したエルマー・バーンスタイン(1922-2004)は、もともとクラシック音楽を学んでいた。ドヴォルザークがアメリカに招かれたのも、アメリカの音楽に新たな風を吹き込まんためだったのである。

 アメリカのクラシック作曲家の多くは、19世紀後半まで完全にヨーロッパのモデルの中で作品を作ろうとしていた。高名なチェコの作曲家、アントニン・ドヴォルザークは、1892年から1895年にかけてアメリカを訪れた際に、アメリカのクラシック音楽は、ヨーロッパの作曲家の模倣に代わる新たな独自のモデルが必要だと繰り返し語り、その後の作曲家がアメリカ独自のクラシック音楽を作るきっかけとなった。(ウィキペディア「アメリカ合衆国の音楽」より抜粋)
 

 考えてみたら、アメリカに足を踏み入れたことのないソルティが、何を持って「全米」をイメージするかというと、これまでに読んだアメリカ小説や漫画(ピーナッツシリーズ等)、これまでに観たアメリカ映画やテレビドラマやミュージカル、これまでに聞いたアメリカの音楽(ポピュラーソング、黒人霊歌、ジャズ、カントリーソング、映画のサントラ)などの材料から作った「ごった煮」なのである。19世紀末のドヴォルザークの訪米は、この「ごった煮」の味付けに相当影響しているのではなかろうか?
 
 『新世界より』終了後、万雷の拍手の中で初老カップルの亭主が妻にささやいた。
「この曲途中で『遠き山に日は落ちて』が出てきろう? ドヴォルザークは日本に来たことあるのかな?」
 
 「全米」が『新世界より』を生んだのではなく、『新世界より』が「全米」を産み落としたのかもしれない。
 

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● ド・レ・ミ・ファ・ミ・レ・ド♪ :アリエッタ交響楽団第8回演奏会

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日時 2月5日(日)14:00~
会場 和光市民文化センター・サンアゼリア大ホール(埼玉県)
曲目
  • ディッタースドルフ/コントラバスとヴィオラのための協奏交響曲 ニ長調
  • ブラームス/ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 イ短調 作品102
  • (アンコール)モーツァルト/アイネ・クライネ・ナハトムジークK525より第3楽章メヌエット
  • (アンコール)L.M.Fアルベニス/タンゴ
  • ブラームス/交響曲第1番 ハ短調 作品68
独奏
  • 小杉由香子(コントラバス)
  • 小林弦太(ヴィオラ)
  • 神山里梨(ヴァイオリン)
  • 森義丸(チェロ)
指揮 大市泰範
入場 全席自由500円

 アリエッタは昨年に続き2度目。
 あれからもう一年が経つとは!

 自分はいったいこの一年間何をしていたのだろう?
 春はどこへ行った? 夏はどこへ消えた? 

 健忘症のような気持ちになる。
 老化により記憶力が減退するに連れて、時の経つのが早くなるのだろうか?
 

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 ・・・という感慨を抱えながら東武東上線の和光市駅に降り立った。
 やはり街を歩く人々は若者や子供連れが多い。若う市だ。
 開演1時間前にサンアゼリアに到着。
 しばらくすると雨がぱらついてきた。

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 今回の呼び物は、オケを彩る4つの弦楽器――ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス――の饗演である。しかも、普段は脇役に徹するコントラバスとヴィオラが主役カップルとなる協奏曲に興味津々。
 ディッタースドルフという作曲家ははじめてだが、同じ名前の競走馬がいる。いつも高いオッズがつけられているところからみると、あまり人気はないらしい。作曲家のディッタースドルフのほうも影が薄いのだが、これはひとえに同時代の同国に生きた、あまりにも有名、あまりにも天才な音楽家のせいであろう。ディッタースドルフ(1739-1799)はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの17年前にウィーンに生まれ、8年後に亡くなっている。
 当時はヴァイオリニストとしても名を馳せたようで、
ディッタスドルフ(第1ヴァイオリン)
ヨーゼウ・ハイドン(第2ヴァイオリン)
モーツァルト(ヴィオラ)
ヴァンハル(チェロ)
という奇跡の弦楽四重奏を組んだこともあったそうだ。ちなみに、ヨハン・バプティスト・ヴァンハルは、ディッタースドルフの弟子である。
 
 コントラバスとヴィオラのための協奏交響曲は、腹の底にずんっと響くようなコントラバスの低音の魅力が味わえて面白かった。便秘に効きそう(笑)。奏者は若い女性だった。体より大きな相棒を抱えて、拍手に応えて舞台に出たり袖に引っ込んだりする様子が大変そうであった。
 この曲の第一楽章には『カエルの歌』が出てくる。「ドレミファミレド ミファソラソファミ」ってやつ。『カエルの歌』はもともとドイツ民謡だったのだ。
 世界の民謡・童謡というサイトによれば、他にもスメタナ『わが故郷より』、チャイコフスキー交響曲第2番『小ロシア』、バッハ『シンフォニア 第13番』にも同じメロディーが使われているらしい。この中で一番古いのはバッハだ。
 バッハがカエルの生みの親?

バッハ

パッパ・・・
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 ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲ではチェロ特有の多重螺旋的な輝かしい音色が堪能できた。チェロってとても人間的。
 交響曲でも感じるのだが、ブラームスはいつも第3楽章が光っている。つまり、舞曲的なメロディーにおいて、水を得た魚のように、彼自身の個性や才能が発揮できているように思う。それにくらべれば、ベートーヴェンに倣ったと思われる他の楽章は、構造的に、あるいはオーケストレーションにおいてどれほど優れていようとも、「音楽のための音楽」「交響曲のための交響曲」という印象を拭いきれない。
 たとえば、モーツァルトやベートーヴェンやマーラーやチャイコフスキーの交響曲を聴くと、作曲家のひととなりが手に取るように窺える。好きか嫌いか、友人になれそうかなれそうにないかは別として、彼らの個性が曲の中にありのままに表現され、聴き手に否応なしに伝わってくる。彼らにとって、明らかに作曲は自己表現の手段なのだ。
 一方、ブラームスの交響曲あるいは協奏曲からは、「ブラームスがいったいどんな人間だったのか」がいまいち見えにくい。自己表現の要素が、ブラームスにあっては希薄な感じがするのである。
 まあ、上記の音楽史上ダントツ個性派の4人(ワーグナーを加えて五人組を形成)に較べれば、たいていの作曲家はそう見えてしまうかもしれない。今回もメインのディッタースドルフとブラームスを超えてソルティを感動に至らせたのは、弦楽独奏者4名+コンサートマスターによるアンコールのモーツァルトであった。
 やっぱり、桁違いの才能だ。前者二人が持って生まれた才能と刻苦勉励して身につけた技巧によってようやく達することができた地点から、モーツァルトは作曲を開始している。

 後半のブラームス1番は、よくまとまっている上に迫力があった。指揮の大市泰範はスマートな才能の持ち主で音楽的感性が高い。次回、大市&アリエッタは《第九》に挑戦するそうで、楽しみである。 
 
 才能といえば、今回ソリストをつとめた4人の若手演奏家のプロフィールを見ると、みな幼少(10歳以前)から楽器を始めている。やはり、そのくらいから始めないと身につかないんだなあ~。
 ソルティの子供の頃(40年以上前)、ヴァイオリンを習っている子供なんか周囲に一人もいなかった。山の手の両家の子女がやるもんだという認識だった。庶民の子供はよくてピアノ、たいていは算盤を鳴らしていた。(ソルティは6歳時分に1年ほどピアノ教室に通った)。
 平成の子供たちはピアノは愚か、ヴァイオリンもバレエも普通のお稽古事の一つなのだろう。うらやましいかぎりだ。
 でも、ちょっとだけとは言え幼少期にピアノを習ったことは、メリットをもたらした。職場の老人ホームで歌レクをやるときに、さすがに伴奏まではできなくても、童謡のメロディーくらいならオルガンで弾けるのである。メロディーを音階(ドレミ)にすることができるからだ。
 
 ド・レ・ミ・ファ・ミ・レ・ド
 


 
 

●  余計なお世話 リベラル・アンサンブル・オーケストラ第5回演奏会

日時 2017年1月28日18時~
会場 新宿文化センター・大ホール
指揮 和田一樹
曲目
  • R.シュトラウス/歌劇『ばらの騎士』組曲
  • マーラー/交響曲第1番ニ長調『巨人』  

 社会福祉士国家試験の前夜であるが、「もうこの期に及んでしゃかりき知識を詰め込んでも仕方あるまい。むしろ、心身ともにリラックスしてベストの力を出せる状態を作っておくほうが得策だ」と思い、新宿まで出向いた。
 JR新宿駅から花園神社脇のゴールデン街を通って会場に向かう。
 昔ここに『三日月』というべらぼうに美味いステーキを出す飲み屋があったが、今もあるのかな? おじさん(マスター)はよもや現役ってことないよな? 30年近く前の話だ。
 新宿文化センターも久しぶり。昔ここでモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』を観たなあ。二期会だったかな? エルヴィーラのアリアが良かった。すでに20年以上前の話だ。
 なんだかタイムスリップしたような感覚と共に会場入りした。
 
 リベラル・アンサンブル・オーケストラ(LEO)はこれで3回目。結構なファンである。
 前の2回は曽我大介の指揮で、なかなか良かった。
 このオケの顧問指揮者(ミュージックパートナーと言っているが)は曽我大介の弟子に当たる和田一樹である。和田一樹では聴いたことがなかった。
 和田の才能の片鱗は別のコンサートのリハーサルで垣間見る(垣間聴く)ことができた。2015年ブカレスト指揮者コンクールで準優勝するなど才能が国際的に認められている。テレビやCM等でもいろいろ露出して活躍しているらしいが、テレビを見ないソルティには関係ない。
 今回はじめて和田一樹&LEOのコンサートを聴く機会を得た。
 
 和田の才能が評判通りであることを知らしめたのが最初の『ばらの騎士』であった。
 実に素晴らしかった。
 最初から最後まで音が生きていた。賛辞のすべてはそこに尽きる。
 なかなかできることじゃない。
 上手く演奏するのはプロならもちろん、アマでもちゃんと練習しさえすればできる。
 しかし、生きた音を出すことはプロ・アマ問わず難しい。これは技術や練習だけではどうにもならない領分だからである。
 生きた音とはなにか?
 
ソルティ定義・・・・・指揮者の‘気’とオケの‘気’――両者の‘気’の絶妙なブレンドが音符にもたらす‘生命力’。むろん、あるレベルの安定した技術は前提である。

 これができるところが和田一樹のまぎれもない才能の証であり、持って生まれた資質のなせる技だろう。彼の(テレビ)タレント性もこれと関係しているのかもしれない。
 一方、その和田に見事に調教されたLEOの柔軟性も素晴らしい。フレッシュな響きはなによりの持ち味である。見事なタッグという印象を持った。
 
 このまま後半のマーラー『巨人』まで進めば凄いことになると思ったのだが、やはりそうは問屋がおろさない。
 和田もオケも持てる力を最初の『ばらの騎士』に傾注してしまったように感じた。
 おそらく、そのことは演奏している当人たちが一番よく分かっていたはずである。客席からの「ブラボー」が飛び交う中、アンコールがなかったのはそれゆえであろう。
 LEO、いいオケだと思うが、そろそろ練習回数を含めたマネジメントをしっかりする時期に来ているのではないかな?
 余計なお世話か。
 
 
 

● ブラームスの子守唄 東京セラフィックオーケストラ第12回定期演奏会

ブラームス 001


日時 1月21日(土)14:00~
会場 ルネこだいら大ホール(東京都小平市)
曲目
  1. ブラームス/大学祝典序曲 ハ短調作品80
  2. メンデルスゾーン/ヴァイオリン協奏曲 ホ短調作品64
  3. バッハ/ヴァイオリンソナタ第1番よりシチリアーノ(アンコール)
  4. ブラームス/交響曲第4番 ホ短調作品98
  5. シベリウス/アンダンテ・フェスティーヴォ(アンコール)
管弦楽 東京セラフィックオーケストラ
ヴァイオリン独奏 加藤えりな
指揮 横島勝人
入場 全席自由1000円

 新年アマオケ2発目はヨハネス・ブラームス。
 チャールズ・ダーウィンあるいはカール・マルクスと見まがうようなご立派な髭をたくわえた貫禄たっぷりのポートレート(上掲)が有名であるが、この頃(19世紀後半)の西欧のインテリはこぞって髭を生やしていたように思われる。誰が誰だか見分けがつかない。
 ブラームスの若い頃のポートレートを見ると、結構なイケメンである。もちろん、髭はない。

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 相当モテただろうと思うのだが、ブラームスは生涯独身であった。フリーメイソンの会員であったこととも関係しているのかもしれないが・・・・・ソルティの勘だが、ブラームスはゲイだったのではないかなあ。ウィキによれば、ある女性と婚約しながらも、「結婚には踏み切れない」と一方的に破談にしたこともあるとか。
 そしてまた、彼の作った曲に漲る憂愁の色が、なんとなくチャイコラヴェルや古賀政男のメロディに通じるものを感じるのである。晩年に作曲した『クラリネット五重奏曲』なんか特にその(どの?)気配濃厚だ。
 まあ、ブラームスも聞きはじめばかりなので、これからの研究(?)テーマとしよう。
 
 東京セラフィックオーケストラは、2004年9月に設立した楽団。
 セラフィック(Seraphic)とは、最も階級が高い天使(=熾天使、してんし)のことを言う。「誰の手も届かない程の高みを目指そう」という想いが込められているらしい。意気軒昂である。

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 さて、演奏は・・・・・・・

 実は、ソルティ眠くて仕方なかった。
 前夜はどういうわけか3時間しか眠れなかった。午前3時に目が覚めて、頭がスッキリ。「これ幸い」と社会福祉国家試験の勉強をした。明け方になって枕に頭をつけたものの、やはり目が冴えて眠れない。「これ幸い」と瞑想をして、朝を迎えた。午前中は用事があって出かけた。
 
 小平駅の近くで昼食を取ってホール入りし、「さあ、聴くぞ」と構えたとたん、寒気と共に眠気が襲ってきた。
 それでも、一曲目の『大学祝典序曲』は活気のある華やかな曲で、よく知っているラ講(=旺文社大学受験ラジオ講座の)メロディも出てくるので、起きていられた。
 二曲目のヴァイオリン協奏曲の流麗なソロの調べが流れると、半睡半覚状態に陥ってしまい、あとは「誰の手も届かない程の高み」をたゆたっていた。

 今回は文字通り「ブラームスの子守唄」になった。
 仕事と両立しながらの数ヶ月の受験勉強の疲れが出てきているのだろう。本番目前にちょうど良い癒しのときを持てた。
 ようやっと頭がすっきりしてきたアンコールの『アンダンテ・フェスティーヴォ』は、よく弦が鳴っていて見事であった。
 この曲は、ドヴォルザーク『新世界』第4楽章第1主題、あるいはベートーヴェン『喜びの歌』とよく似ている。早稲田大学応援歌の『紺碧の空』(古関裕而作曲)の冒頭にもちょっと似ている。ナンシー関流に相似マトリックスをつくると、こうなる。

上を向いて歩こうSUKIYAKI(中村八大)
ベートーヴェン『皇帝』第1楽章第1主題
ブラームス交響曲第1番第4楽章第1主題
 ↓ 
喜びの歌(ベートーヴェン)
アンダンテ・フェスティーヴォ(シベリウス)
ドボルザーク『新世界』第4楽章第1主題
紺碧の空(小関裕而)



 

● ベルカントなヴァイオリン :ベートーヴェン交響曲第7番&ヴァイオリン協奏曲(オーケストラ・アンサンブル・バウム)

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日時 1月8日(日)14:10~
会場 八王子市芸術文化会館いちょうホール
曲目
  • モーツァルト/歌劇「イドメネオ」序曲
  • ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲ニ長調op61
  • マスネ/タイスの瞑想曲(アンコール)
  • ベートーヴェン/交響曲第7番イ長調op92
管弦楽 オーケストラ・アンサンブル・バウム
ヴァイオリン独奏 松本克巳(日本フィルハーモニー交響楽団奏者)
指揮 岡田 真
入場 全席自由1000円

 新年最初のコンサートは‘ベト7’、すなわちベートーヴェン交響曲第7番と、日フィルのプロが奏でる「ヴァイオリン協奏曲」とのカップリングという贅沢極まりないプログラム。
 オーケストラ・アンサンブル・バウムは、多摩地域を中心に活動する自主運営アマチュア・オーケストラ。団員はそれほど多くない(50名程度)ようだが、今日のようにフル編成の交響曲にも挑んでいる。見たところ、30~40代が中心か。

 八王子に住んでいたことがあるので、八王子駅周辺はよく行ったのだが、いちょうホールに行くのははじめて。駅からちょっと離れていて、途中で方向を間違え、お寺・神社・葬儀社・仏具店が並ぶ抹香臭い一画に出てしまった。
「あれ? こんなところに銀閣寺?」

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 いやいや、龍華山大義寺という真言宗智山派の本堂であった。
 山門の下の可愛らしいお地蔵さんが、もこもこした暖かそうなマフラーを巻いていた。どこのどなたか存じぬが、奇特な心がけである。笠地蔵ならぬ襟巻地蔵だ。

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 いちょうホール(大ホール)は802席ある。9割がた埋まっていた。
 クラシック音楽人気、ベートーヴェン人気ってすごい。なんとなく、これまでクラシックに縁遠かった人たちが流入してきているような気がする。団塊オヤジたちとか…。

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 1曲目のモーツァルトは小手調べ、波長合わせ、ウォーミングアップといったところ。
 2曲目、ヴァイオリン協奏曲は松本克己の極上のパフォーマンスに恍惚となった。
 プロフィールによると、もともとは何と関西学院大学で遺伝子学を専攻し、卒業後は高校の理科教師をやっていた、という完全理系の人。27歳で転身し日フィルに入団している。
 理系と音楽(クラシック)というとお門違いというイメージがあるが、かのアインシュタインが大のクラシック音楽好きで自身ヴァイオリンを弾いていたことは有名である。また、オペラ『アイーダ』指揮中に心筋梗塞で倒れ54歳という若さで亡くなったイタリアの指揮者ジュゼッペ・シノーポリ(1946-2001)は、パドヴァ大学で心理学と脳外科を学んでいた。 
 そもそも人を文系、理系で2分割するのも芸がない。せめて、文系、理系、音楽系、宗教系、ガテン系、福祉系、アート系、タレント系くらいに分けるといいのでは…。
 というのも松本克己氏、草刈正雄を髣髴させる長身と甘いマスクのタレント系でもあった。指揮台に乗った指揮者より頭二つ高いところでヴァイオリンを構える姿はなんとも恰好いい。おそらく190センチ近いだろう。柔らかそうなシルバーグレーのおかっぱヘアと、往年の青春スター中村雅俊に似た純朴なまなざしは、おばさま連中を惹きつけること間違いなし。コンサート終了後には、地味な私服姿でロビーに出てきて来場者と30センチ‘上から目線’で(これは仕方ない)交流していた。フランクで飾り気無いところも好感度大である。 
 しかし何といっても賞賛すべきは、テクニックである。
 本当に凄いものを聴かせてもらった。カデンツァの箇所など、一台のヴァイオリンで演奏しているとは思われない重層的な響きを、強弱・緩急・厚薄・軽重・明暗・硬軟つけながら楽々と紡ぎ出していて、ブラックジャックの執刀する外科手術のような華麗さ、一部の狂いも見せない正確無比な手さばきであった。(やっぱ理系か)
 
カデンツァ(伊: cadenza, 独: Kadenz)とは、一般に、独奏協奏曲やオペラ等のアリアにあって、独奏楽器や独唱者がオーケストラの伴奏を伴わずに自由に即興的な演奏・歌唱をする部分のことである。(ウィキペディア『カデンツァ』より)
 
 その音色は基本、非常に線が細い。
 前回同じ曲で聴いた奥うららとは対照的であった。奥うららが「黄金のリボン」とすると、松本克己は「銀色のファイバースコープ」である。銀色のファイバースコープを伴った内視鏡が、聴く者の耳から(あるいはチャクラから)体内に入り込んで、体のあちらこちらを探索して、悪い細胞を超音波で打ち砕くようなイメージであった。
 おかげで、体の凝りがほぐれた。

 クライマックスに向かうにつれて、次第に多彩になっていく音色の響きを耳にして、自然と頭に浮かんだ言葉がある。
 
「ベルカント」

 そう。ロッシーニやドニゼッティやベッリーニなどの19世紀前半イタリアオペラにおいて、当代のスター歌手たちに求められた歌唱法。そして、20世紀半ばマリア・カラスにおいて復活し、今日まで続く上記3人の作曲家のオペラ(=ベルカント・オペラ)上演ブームを作った歌唱スタイル。その正確な定義は難しいが、ソルティ流に言うならば、「マリア・カラスによって可能性が発見された、多彩で高度なテクニックに裏打ちされた劇的歌唱法」である。
 つまり、松本の演奏を聴いていて、マリア・カラスの歌を(声を)思い出したのである。
 アンコール曲ではさらにベルカント度は増して、高音域のピアニシモなんかまるでエディタ・グルベローヴァであった。
 「最も人間の声に近い楽器はヴァイオリン」と言われるが、今日の演奏を聴くとうなづける。

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 ベートーヴェンの7番は実に面白い曲である。
 この曲を聴くたびにいつも思うのは、
「いったいこれを書いているとき、ベートーヴェンに何があったのだろう?」
――ということである。代表的な肖像画に見る苦虫をつぶしたような顔をしたベートーヴェンの生真面目で深刻なイメージからは想像できない軽さ、明るさ、華やかさ、滑稽さに満ちている。第2楽章をのぞくすべての楽章が「浮かれている」「歓喜雀躍している」「躍動している」「そわそわしている」「はじけている」・・・
 よほどの躁状態が続いていないと書けないと思うのだ。

ベートーヴェン

  大の男をここまで躁状態にし続けるものといったら、やはりくらいしかないのではないか。ベートーヴェンの伝記は読んだことないけれど、どうなんだろう?
 
 映画のBGMで使用されることの多い有名な第2楽章こそ、ソルティが「おそらくベートーヴェンの作った曲の中でもっとも長く残るのではないか」と思う傑作である。
 ソルティ的には、この楽章こそが『運命』というにふさわしい。第5番の「ジャ、ジャ、ジャ、ジャーン!」のような運命――雷に打たれたような衝撃で奈落に突き落とされ、環境が激変し、嵐にもまれる小舟のように錐揉みしながら浮き沈みを繰り返す波乱万丈の人生――というのは、一握りの選ばれた人(=英雄)のためのものではなかろうか。小市民の運命は、この第2楽章のように「重い荷物を背負いながら長い坂を、同じような境遇の人々と群れをなして行く。あてもないのに・・・」といったイメージではないだろうか。
 ん? 徳川家康? 若者たち?

 バウムの演奏は、ヴァイオリン協奏曲では独奏者を引き立てつつ無難に援護し、第7番では自由奔放で華やかで躍動感にあふれ、瑕疵の見当たらない良質の演奏であった。 

 新年しょっぱなから素晴らしいコンサートに当たって、大吉を引いた気分。
 今年も充実したクラシックイヤーになりますように。
 
 
オーケストラバウム 004
 

● カッコいい奴! マーラー:交響曲第2番「復活」(学習院輔仁会音楽部)

マーラー復活20161227


日時 2016年12月27日(火)18:30~
場所 東京芸術劇場コンサートホール(池袋)
指揮 山下一史 
演奏 学習院輔仁会音楽部
ソリスト 
髙橋絵理(ソプラノ)
中島郁子(メゾソプラノ) 
曲目  
  • J.ブラームス/「運命の歌」op.54 
  • G.マーラー/交響曲第2番ハ短調「復活」

 マーラー(1860‐1911)「復活」の自筆譜が11月29日、ロンドンのサザビーズのオークションにかけられ、楽譜としては史上最高値の455万ポンド(約6億3500万円)で落札されたというニュースが流れた。
 落札者の名前は公表されていないが、元の所有者はアメリカの実業家ギルバート・キャプランである。
 このキャプランの人生ほど「カッコいい!」ものはなかなかないと思う。
 
 キャプランは24歳のとき(1965年)、高名な指揮者レオポルド・ストコフスキーの「復活」リハーサルを見学して衝撃を受けた。その後、27歳で経済誌の創刊者として成功し財を築く。30歳過ぎてから大好きな「復活」を指揮するためにだけ、サー・ゲオルグ・ショルティについて一から指揮法を学び始める。むろん、それまでに音楽教育を受けたことはない。情熱と努力と現在ならオタクと言うにふさわしい‘復活’愛の甲斐あって、40代なかば、ついに指揮者としてデビューする。その後は世界中の著名なオーケストラと100回以上「復活」だけを演奏、録音も残している。
 
「復活」以外にはレパートリーも皆無であり、「復活」の指揮以外の音楽的キャリアもこれといって無い。しかし、「復活」に関しては世界的にも第一人者と目されている。中年以降に音楽以外の分野から転じて成功した指揮者、ただ一曲だけを振り続けた指揮者という、世界でもまず他に例のない珍しい特性を二つも兼ね備えた稀な存在である。1988年発売したロンドン交響楽団との演奏は、マーラー作品のCDとしては史上最高の売り上げを記録した。(ウィキペディア「ギルバート・キャプラン」より抜粋)

 ぬあんてカッコいい奴なんだ!
 まるで「復活」のために生まれてきたみたいな男だ。(キャプランは今年の元旦に亡くなっている)
 映画にしたら絶対に面白いと思う。(むろん、タイトルは「復活の人」、BGMは「復活」を中心とするマーラーメロディに決まっている)
 キャプランの創刊した経済誌はおそらく早晩消えゆくだろう。が、キャプランの録音した「復活」のレコード、および自費購入したマーラーの自筆譜をもとに自ら研究を重ねて校訂した、もっとも作曲家の意図に忠実な楽譜「キャプラン版」は、今後も世界のどこかで「復活」が上演される限り、残り続けるのは間違いない。
 
 さて、学習院輔仁会(ほじんかい)とはなんぞや?
 やんごとなき皇室の名前から拝借?

学生の間には運動関係団体のほか多くの小団体があった。そのため第4代三浦梧樓院長は学生全体を包括する組織の設立を勧め、その結果全学生の中心機関として学習院輔仁会が創設された。輔仁会の活動は明治22(1889)年より始まり、会全体の行事として輔仁会大会や陸上運動会があった。会の名は『論語』(顔淵篇)の「君子以文会友、以友輔仁」(君子は文をもって友を会し、友をもって仁をたすく)より選んだものである。(学習院ホームページより) 
 
 「君子は詩書礼楽の文をもって友達を集め、集めた友達によって仁の成長を助ける」
 
 学生による「復活」がどんなものか興味津々。
 というかソルティは‘ナマ復活’初めてであった。
 一曲目のブラームス「運命の歌」もはじめてだが、なによりも合唱の声の若さに感動した。
 世にこれより上手い合唱団はあまたあるだろうが、声の若さ・張り・純粋さという点で一頭地を抜いている。というのも、結局ドイツ語の、それもキリスト教がらみの歌詞なんて大多数の日本人は(ソルティ含む)深く理解できないのだから、表現力や発音の正確さよりも声の美しさやハーモニーのほうが大切なんである。(そもそもマーラーが歌曲集は別として、交響曲に付す歌詞にそれほど重点をおいていたようにはどうも思えないんだが・・・)
 
 休憩を挟んでいよいよ「復活」。
 まずは芸劇の広い舞台をびっしり埋め尽くすオケ&合唱団に圧倒される。
 オケだけで130人はいる。そこに100人は超える合唱隊が入る。舞台が抜けそうだ。
 こんな大編成を必要とする曲を作ったマーラーも凄いが、プロ指揮者やプロ歌手を含めて大編成をまかなってしまう輔仁会も凄い。さすが皇族御用達。
 そしてまた、ソプラノとメゾソプラノの声の美しいこと。とくに、メゾソプラノの中島郁子(二期会会員)の声と姿の存在感は半端ではない。舞台の中心にいて堂々たる歌唱をとどろかすさまは、五百羅漢の中心に千手観音がいるかのような神々しさであった。
 
 演奏は学生としては「ここまでできれば十分」といえるレベルで、立派であった。
 こんなに長くて(80分)、こんなに重くて、こんなに複雑で、こんなに壮大な曲をよくもまあここまで頑張ったと思う。それがなんとワンコイン(予約500円)なのだから、「ありがとう」と言うほかない。
 
 この「復活」、神(=偉大なる者)への讃歌しかも合唱付きという点で、ベートーヴェン「第九」の後釜として日本人の年末の恒例行事になり得るのではないか、といったことをどこかの音楽評論家だか指揮者だかが書いていた。各楽章のユニークな個性とか、最終楽章の感動的な盛り上がりとか、終演後に約束される絶対的幸福感とか、まさに「第九」に匹敵する祝典曲と言えよう。
 しかし、惜しむらくは長い。
 80分以上ある。
 特に、第1楽章(20分以上)と第5楽章(30分以上)が長すぎて、下手すると飽きてしまうか寝入ってしまいかねない。ここのところを各々10分ずつ削って、全体を60分以内に収めたら、十分「第九」に太刀打ちできると思うのだが・・・。いや、5分ずつでもいい。あるいは、1楽章と2楽章を削って、3楽章から演奏すれば60分以内で結構な満足が得られよう。(ああ、そうか。プログラムをこれ一曲にしぼって、2楽章と3楽章の間に20分の休憩を入れればいいのだ。後半が始まるときに合唱団が舞台に上がれるから丁度いい)
 今回、ソルティはこれを聴くために有給休暇を取った。仕事(介護)を終えたあとに参加することもできたのだが、たぶんそれだと肉体的・精神的に疲れきっているから、途中で寝てしまうのは確実と考えた。結果的に正解で、80分間、寝ることも飽きることもなく音楽に向き合えた。
 マーラーの交響曲を消化するにはそれなりの準備が要る。
 だが、準備さえできていれば、日常では味わえないような格別な感動と幸福が待っている。
 
 さて、今年は22個のアマオケコンサートに出かけ、たくさんの曲と出会った。
 クラシック音楽の広さと奥深さを垣間見て、これから先、カバーできないほどの名曲や名演奏との出会いが待っていると思うとワクワクする。
 年の終わりに、マーラーの人生、キャプランの人生に思いを馳せながら、最近できた年下の友人と「復活」を聴けたことは実に幸せであった。まさに「仁を輔く」だ。
 
 少なくともソルティは、「復活」を年末行事に組み込むことになりそうだ。



 
 
 
 

● チャイコにふられ亭、バンザイ :第106回中央大学落語会

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日時 2016年12月9日(金)18時~
場所 パルテノン多摩小ホール
主催 中央大学落語研究会
木戸銭 100円
演者と演目
  • 中央亭可恋/元犬        
  • あたり家駄B/松山鏡       
  • ふられ亭美鯛/茶の湯      
  • 籠り家性楽/火焔太鼓     
《仲入り》
  • 中央亭可愛/ろくろ首      
  • 三流亭半破/粗忽長屋     
  • ふられ亭ちく生/三枚起請    

 そもそもパルテノン多摩に行ったのは、大ホールで開催される「法政大学交響楽団第136回定期演奏会」を聴くつもりだったから。メインディッシュはチャイコフスキー交響曲第5番。チャイコの哀切かつ甘美なメロディ-との出会いを楽しみにしていた。
 が、仕事を終え、夕食をとる間もなく、会場に駆けつけると、
「当日券はなくなりました」
 チラシに「入場無料・全席自由」とあったので、当然座れると思っていた。
 満員御礼は主催者にとっては大満足だろうが、電車賃かけてはるばるやって来たこの‘期待感、のち落胆’をどうしてくれよう。愚痴のひとつも言いたいところだが、相手は学生。
 大人らしくあきらめるよりない。

多摩センター1

多摩センター2


 色とりどりのクリスマス・イルミネーションが輝き、家族連れや若者グループやカップルで賑わう多摩センター駅のペデストリアン・デッキを一人とぼとぼ歩きながら、「どっかで晩飯でも食おうか。それともまっすぐ帰ってシャフクの試験勉強しようか」と迷っていたら、つと目の前に差し出された質素なビラ。
「いまパルテノンでやっていますので、どうぞ笑いに来てください」
 「中大落語会」と書いてある。
 そういえば、最近落語行ってないなあ。
 大学のオチケンは聞いたことないけど、どうなんだろう?
 木戸銭100円だし、つまらなかったら途中で抜ければいいか。
 よし、暇つぶしに聞いてみよう。
 
 さきほど入場を断られた‘上品ぶった’(おいおい!)大ホール受付を尻目に、小ホール(304席)に入る。
 すでに始まっている。
 場内には100人くらい居た。
 意外に年齢層が高い。仲間内の学生連中が多いのかと思っていた。

 中央大学落語研究会は1957年創部。なんと60年の歴史と伝統がある。
 大学のオーケストラに早慶をトップとするランク付けが囁かれているように、オチケンにもランクがあるのだろうか。やはり、プロの落語家(真打)や漫才師をたくさん輩出しているオチケンがあるのだろうか。
 明治大学?
 
 中央大学がオチケン界でどのランクに位置するのか知らないが、ネットで調べると2014年に創部以来初の真打が誕生している。その名は桂やまと(かつら・やまと)。中大卒業後に桂才賀に入門。2003年二ツ目昇進。現在は、中大オチケンの指導役も務めている。
 してみると、中大オチケン、いま上り調子なのかもしれない。

中央大学落語発表会 003


 最初の二人は聞きそびれた。
 三人目ふられ亭美鯛は、うら若き(当たり前だ、学生だ)女性であった。声が聞き取りやすく、喋りもなめらか、おっとりした雰囲気、愛嬌ある顔立ちがなかなか良い。ところどころ笑かしてくれる。
(へえ~。なかなかやるじゃん。このレベルなら最後まで飽きずに聞けそうだ)
 四人目の籠り家性楽、六人目の三流亭半破――しかし、みな‘けったい’な芸名をつける。キラキラネームならぬギラギラネームか――は、学生らしい活きの良さと平成風イケメンぶりで目を細めさせる。三流亭半破は公務員試験に受かり、来年から役所づとめだそうだ。
 がんばれ!

 オチケンの実力をあなどっていたことをソルティに教えてくれたのは、五人目の中央亭可愛とトリをつとめたふられ亭ちく生の二人であった。
 
 「ろくろ首」は柳亭市弥で聞いたことがある。
 夜になるとニョロニョロと首が伸びる金持ちの美女のところに意を決して婿入りした松公。典型的な与太郎キャラ(現代風に言えば「ニートなダメ男」)である。お金と美女は喉から手が出るほど欲しいけれど、さすがにろくろ首は怖い。その葛藤をユーモラスに描く。
 中央亭可愛の「ろくろ首」は、二ツ目であるイチヤに引けをとらない上手さ、面白さであった。
 芸名どおり、バカリズムに似た顔の可愛さとパタリロに似た体つきの愛くるしさは、漫画チックで愛嬌がある。それでまずトクしている。与太郎キャラが作為なくはまる。一般に背が低いと声が高くなる傾向があるが、可愛の声はよく通るバリトン。出だし、その意外さで「およ?」と気を引いた。
 語りによどみなく、役の演じわけも及第点、所作や動きに無駄なく、話を完全に自分のものとしている。聞き手の注意をそらさない魅力がある。
 どうしてどうして、学生レベルではない。

 ふられ亭ちく生はどことなくオネエっぽい雰囲気。妙な色気がある。そのせいか、男を演じても女を演じても上手い。演技者としての魅力がたっぷりある。
 「三枚起請」はとても難しい演目である。
 なにより登場人物が多い。主要な人物だけでも四人――したたかな売れっ子花魁・喜瀬川と、結婚を約束する起請文を彼女からもらい、それをふところに年季明けを楽しみに待つ三人の貢ぐクン――が登場する。クライマックスでは、この四人がひと間で鉢合わせし、すったもんだの大騒ぎとなる。演者は四人をかわるがわる演じなければならない。相当な演技力が必要だ。
 ちく生はこの演じわけを見事にやってのけた。
 しかも、ただ聞く者が‘違いがわかる’というレベルではない。棟梁は棟梁らしく凛々しく、ちょっとヌケてる建具屋は表情までもトロく、したたかな花魁は商売女のアダっぽさの裏に潜むある種の虚無感を漂わせつつ、四者四様に個性的なキャラを創造していた。とりわけ、花魁の演技のリアリティは、オチケン界はもとより、二ツ目でもこれほど役に没入できる咄家はなかなかお目にかかれまい。やはり天性のものを感じる。
 話が進むうちに、聞く者は完全に演者の虜となり、演者が発するオーラーから目が離せなくなる。これもまた明らかに学生レベルを超えている。
 
 落語素人のソルティの勘だが、中央亭可愛とふられ亭ちく生の二人は卒業後、咄家の道を選ぶであろう。それだけのものを持っていると思うし、なによりこの二人は「人前で語り演じること」の快楽に完全に憑かれている。落語が彼らを放すまい。

 思いもかけぬ才能との出会い。
 今回はチャイコにふられて正解だった。


多摩センター3
 




● 黄金のリボン : ウィーンの音楽を楽しむ会(ギュンターフィルハーモニー管弦楽団56回演奏会)

日時 2016年12月3日(土)18:00~
会場 杉並公会堂大ホール
曲目
  • モーツァルト/交響曲第32番 ト長調 K..318
  • ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.61
  • ブラームス/交響曲第3番 ヘ長調 Op.90
  • アンコール バッハ/無伴奏ヴァイオリン パルティータ第3番 BWV1006 第3曲 ガヴォットとロンド
ヴァイオリン:奥うらら(ハノーファー州立歌劇場・コンサートマスター)
指揮:重原孝臣
入場無料

 ギュンターフィルハーモニー管弦楽団は、1980年ウィーン・フィルのホルン奏者ギュンター・ヘグナー氏との協演を機に結成されたオケで、ウィーンの音楽、ウィーンの響きをこよなく愛する人々の集まりとのこと。これまでの演奏会プログラムを見ても、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、シューベルトなど、ウィーンとゆかりの深い古典派の曲が圧倒的に多い。
 団員の平均年齢はOBオケと並ぶくらい高めである。
 が、音はぜんぜん違った。
 OBオケのほうは分厚くて粘りある「スライム風」であるが、こちらは精巧できらびやかなガラス細工のお城のような典雅で華奢な音である。これが「ウィーンの響き」というやつなのだろうか。
 OBオケ同様、演奏には安定感があり、大人っぽい落ち着きがある。
 演奏後の挨拶で、昨年89歳の団員が引退したとか言っていた。オケは長く楽しめる道楽なのだな。うらやましい。
 
 今回の協演者である奥うららは、5歳からヴァイオリンをはじめ、東京芸術大学音楽学部を卒業。ドイツのヒルデスハイム市立劇場およびハノーバー国立歌劇場のオーケストラ団員(コンサートマスター)として活躍してきた。アンコール前のご本人の弁によると、「音楽好きの母親あって今の自分がある」。五嶋みどりを思わせる。
 金色のラメのドレスを着ていたせいもあると思うのだが、その演奏はあたかも、ヴァイオリンから放たれた音が金色に輝くリボンとなり、波打ちながら空間を伸びてきて、蜂蜜のような甘い香りをしたたらせながら、聴く者の身体に柔らかく巻きつくかのようであった。特に、ヴァイオリニストとしての積年の思いと母親への感謝の込められたアンコール曲は、とても素晴らしく、至福の時間を過ごさせてもらった。

 ブラームスの交響曲3番は「聴くのははじめて」と思っていたのだが、第3楽章が始まって、「ああ、知ってる!」と心の中でうなづいた。
 
「これ、ブラームスだったのか」
 
 家に帰って調べてみると、このメロディーは、1961年の米仏合作映画『Goodbye Again(さよならをもう一度)』(1961)で使用されたほか、フランク・シナトラが『Take My Love』というタイトルでポップスとしてカバーしている。ソルティは映画のほうは観ていないから、おそらくシナトラの歌を幾度も耳にしていたのだろう。
 たしかに、時代を超える印象的なメロディー、せつなさと美しさに満ちた名曲である。
 ブラームスは、尊敬する大先輩ベートーヴェンを意識しすぎて交響曲第1番を完成させるのに20年以上費やしたと言われる。第1番が傑作なのは間違いないけれど、ブラームスの本領というか、オリジナルな個性が発揮されているのはきっとこっちなんだろうな。
 これからブラームスを追って、確かめてみよう。

 杉並公会堂の正面にはブルーのクリスマスツリーが夜空に輝いていた。

杉並公会堂Xmasツリー





● ソプラノ・ドラマティコ・タジリタ :オペラCD ベルリーニ作曲『ノルマ』(シルヴィオ・ヴァルヴィーゾ指揮)

キャスト
ノルマ:エレナ・スリオティス(ソプラノ)
ポリオーネ:マリオ・デル・モナコ(テノール)
アダルジーザ:フィオレンツァ・コッソット(メゾソプラノ)
オロヴェーゾ:カルロ・カーヴァ(バス)
ローマ聖チェチーリア国立音楽院管弦楽団&合唱団
シルヴィオ・ヴァルヴィーゾ(指揮)
収録:1967年8月、9月(ローマ)

 人間の声質はそれこそ百人百様であるが、歌唱においてはいくつかの類型に分けられる。
 分かりやすいのが声の高さ(声域)による分類で、男ならバス、バリトン、テノール、女ならアルト、メゾソプラノ、ソプラノである。
 それ以外にも、声の大きさや太さや重さによって細分する伝統がある。
 ソプラノ歌手を例にとると、その声質を軽いほうから重いほうへ、代表的な有名歌手と代表的なオペラの役柄と共に並べると、以下のようになる。
  • レッジェーロ(あるいはスーブレット) = キャスリーン・バトル in 『ドン・ジョヴァンニ』のツェルリーナ
  • コロラトゥーラ = エディタ・グルベローヴァ in 『魔笛』の夜の女王
  • リリコ = ミレッラ・フレーニ in 『ボエーム』のミミ
  • リリコ・スピント = レナータ・テバルティ in 『アイーダ』のタイトルロール(主役) 
  • ドラマティコ = ビルギッド・ニルソン in 『トリスタンとイゾルデ』のイゾルデ

 もちろん、声質は加齢と共に変わっていく。若い頃は軽い声質でコロラトゥーラの役を得意としていたソプラノが、年齢を重ねるとともに、次第に声質がその体重と共に重くなり、リリコやスピントの役までレパートリーを広げるということはよくある。世紀の名歌手グルベローヴァなんか、まさにその典型である。彼女の場合、喉を痛めないように生涯にわたって徹底的な自己管理をはかってきたのが効を奏したらしい。
 歌唱ドラマであるオペラでは、登場人物の性格や役回りと、その役を演じる歌手の声質とは、一定の傾向性を持ってリンクしている。アイーダのように、エチオピアの女王でありながら敵国エジプトの奴隷にされ、同じ武将ラダメスをめぐってエジプトの王女と熾烈な争いをし、最後は地下牢でラダメスと愛し合いながら死んでいく――という滅多やたらない劇的な生涯を歩んでいるヒロインを演じるのに、キャスリーン・バトルの鈴が転がるごとき軽やかで明るい声で歌われては到底ドラマにならない。逆に、ツェルリーナのような愛らしく素朴で男にだまされやすい村娘を演じるのに、ビルギッド・ニルソンの空気を震わす大砲のごとき強靭な声は(ロシアの女兵士のような外見は別としても)リアリティに欠ける。
 当然、作曲家もオペラを作っているときから、それぞれの役の声質をあらかじめ定めて、その声質や声域に合うよう、その声質が十分な演劇的かつ音楽的効果を発揮できるよう曲(歌)を書いている。それこそ、特定の才能あふれる一人の歌手のために、その歌手の声質や声域を念頭において曲を書く(役をつくる)ということすら、かつてはよくあったのである。
 ベルリーニの『ノルマ』がまさにそれで、当代きっての人気ソプラノであったジュディッタ・パスタを念頭において、ノルマは造型された。
 ジュディッタ・パスタ(1797-1865)の声質は、ソプラノ・ドラマティコ・タジリタ。上記の分類には入っていない。この声質の歌い手は極めて稀(100年に一人の逸材とも)なのである。それこそ、『ノルマ』が人気がある作品であるにもかかわらず簡単には上演されない理由のひとつであり、また、最高の「ノルマ歌い」がなかなか世に現れない最大の理由でもある。
 
 いったいどんな声質か。
 ソルティが所有している、あるソプラノ歌手の「ヴェルディ・アリア集」のCD(東芝EMIより1988年発売)の解説書の中で、高名な音楽評論家の高崎保男がとてもうまいこと表現している。
 
 通常、ソプラノ・ドラマティコ・タジリタとよばれるこれらのソプラノの声には、18世紀ナポリ派オペラの伝統をひく華麗で軽快な装飾歌唱を可能にする軽やかな運動性(18世紀にはカストラート歌手が、19世紀初めの時期にはコロラトゥーラ・ソプラノがそれを担当した)と同時に、19世紀後半以後のイタリア・オペラでその音楽のよりドラマティックな表現力を担うことになる、もっと力強く分厚い響きをもったソプラノ・ドラマティコ、ないしはリリコ・スピントの特性とが同居していて、いいかえればこれらのオペラのプリマ・ドンナはスポーツカーの敏捷さとダンプカーの重量とを兼備することが要求されるのである。(ゴチックはソルティ付す)
 
 スポーツカー(=コロラトゥーラ)とダンプカー(=ドラマティコ)。
 まったく相反した2つの声質を兼ね備えた奇跡の声がソプラノ・ドラマティコ・タジリタなのである。
 驚いたか!
 何を隠そう、上記の解説が付された「あるソプラノ歌手」こそ、至高のプリマ・ドンナにして究極の芸術家たるマリア・カラスである。カラスは絶滅危惧種であったソプラノ・ドラマティコ・タジリタで、それがカラスをあれほどまでに偉大にし、またカラスの『ノルマ』がいまだに――彼女の後を追う人気実力兼ね備えた幾多のプリマ・ドンナがキャリアの頂点に満を持して挑戦してはいるものの――他の追随を許さない高みに一人輝いている理由なのである。
 カラスの類い稀な才能には、もちろん舞台姿の美しさや神がかった演技力、音楽に対する感性の鋭さ、完全主義の努力家といったこともあるには違いない。が、ドラマに起伏をもたらし、登場人物に強烈なリアリティをもたらし、観客の心を鷲づかみにし、劇場を興奮の坩堝と化すことができた最大の勝因は、感情表現の驚くべき豊かさ、深みを可能ならしめた、あの奇跡の声にあるのは疑い得ない。
 
 カラス以降に出現した歌手でソプラノ・ドラマティコ・タジリタと言い得るのは、ハンガリー出身の美貌のシルヴィア・シャシ(1951- )と、カラスと同じギリシャ出身のこのエレナ・スリオティス(1943- )であろう。二人とも「カラスの再来」と騒がれた。
 この奇跡の声は、本来物理的(肉体的)に不可能な条件(=声帯の使い方)に拠っているためか、喉を容易に痛めることにつながり、歌手としての全盛期は残念ながら短い。カラスの全盛期はせいぜい10年あまりだったし、シャシュやスリオティスは名が売れて世界の桧舞台に立ち、やっと来日公演という段になった時には喉に不調の兆しが見えていた。全盛期はせいぜい5、6年といったところではないか。
 スリオティスの紹介文にはいまも「彗星のごとく現れた」と書かれていることが多いが、同時に「彗星のごとく消えていった」のである。
 
 1967年に出ているこのCDは、スリオティス全盛期(24歳)の記録である。
 彼女の歌声を聴くと、作曲家が想定した本来の声(=ソプラノ・ドラマティコ・タジリタ)で歌われるノルマが、いかに迫力あり、いかに陰影に富み、いかに劇的迫真性を音楽にもたらすことかを、そして、聖なる巫女・嫉妬に狂う女・母親・友誼厚き姉・族長の娘といった多様なキャラクターそれぞれの心理をいかに深く彫り出しながら、いかに一人の人間として見事に統合されるかを、実感する。人間が持つ聖と俗、強さと弱さ、愛と嫉妬、怒りと許し、迷いと決断、信頼と疑い、羞恥と誇り・・・。一見矛盾するかのような、しかし誰もが持っている二面性は、まさに矛盾する二つの声の魔術的結合によって浮き彫りにされるのだ。
 オペラとは、歌の芸術であるとともに、声の芸術なのである。
 
 第一声から、聴く者はスリオティスの声のみならず歌い方もまたマリア・カラスに酷似していることにびっくりする。むろん、表現力ではカラスに到底及ばないけれど、声の美しさ(特に高音の)ではカラスより上である。同じことは、ずいぶん前にシャシュのアリア集を聴いたときにも感じた。
 スリオティスやシャシュがどこに行っても「カラスの再来」と騒がれ、本人たちもそれを意識しすぎたために、歌い方までもが物まねっぽくなってしまったのだろうか。
 おそらくそうではなかろう。
 往年の名歌手ローザ・ポンセル(1897-1981)の歌う「カスタ・ディーバ」(『ノルマ』のもっとも有名なアリア)をはじめてCDで聴いたときに、カラスの歌との相似に驚いた記憶がある。
「カラスのノルマは彼女のオリジナルじゃなくて、ポンセルを(おそらくは二人の共通の師である指揮者セラフィンを介して)まねたのか」と思った。
 ポンセルは、修行中の若いカラスが尊敬し憧れていたアメリカのソプラノで、カラス以前最高の「ノルマ歌い」であった。残っている録音やレパートリーから想像するに、やはりソプラノ・ドラマティコ・タジリタと言えるのではないかと思う。
 誰が誰のまねをしたと言うのではなく、ソプラノ・ドラマティコ・タジリタが『ノルマ』を歌うと、自然と同じような歌い方・歌い回しになるのではないだろうか。それくらい、作曲者ベルリーニは初演のジュディッタ・パスタの声質を理解していたということではなかろうか。
 
 このCDは、全盛期のスリオティスによるソプラノ・ドラマティコ・タジリタのノルマが良質の録音状態で聴けると共に、昭和天皇もファンだったという歴史的名歌手マリオ・デル・モナコのポリオーネ、若く瑞々しく張りのある声のフィオレンツァ・コソットのアダルジーザも揃って聴けるという、まぎれもない名盤である。

p.s. マリア・カラス以降のソプラノ・ドラマティコ・タジリタの最大成功者は、現役のディミトラ・テオドッシュウらしい。(ソルティはまだ彼女のノルマを聴いていない) カラスやスリオティスと同じギリシャ出身というのが面白い。 
 
 

● すばらしき新世界! :ISP第2回定期演奏会

ispオケ

日時 2016年11月19日(土)19:00~
会場 杉並公会堂大ホール
曲目
  • ドヴォルザーク/《謝肉祭》序曲 作品92
  • ツェムリンスキー/交響詩《人魚姫》
  • ドヴォルザーク/交響曲第9番ホ短調 作品95「新世界より」
指揮 田中 健
入場無料


 「新世界」と言えば通天閣。
 通天閣と言えば串かつである。
 
通天閣


 もとい、「新世界」と言えば「家路」。
 「家路」と言えばキャンプファイヤーである。
 ソルティも子供の頃、仲間と火を囲んで歌った記憶がある。

遠き山に 日は落ちて
星は空を ちりばめぬ
きょうのわざを なし終えて
心軽く 安らえば
風は涼し この夕べ
いざや 楽しき まどいせん
まどいせん 
(作詞:堀内敬三)

 最後の「まどいせん」の意味がわからなくて、何か‘水道栓’に似た‘まどい栓’というものがあるのだろうと思っていた。一日の終わりに、点灯夫が街灯を消していくように、職人が一個一個‘まどい栓’を締めていくのを見るのが「楽しき」なのだろうと漠然と想像していた。
 もう少し大きくなってからは、「惑いせん」と解釈した。「さあ、惑いましょう」という意に。「楽しき」と「惑い」は矛盾する語彙であるが、おそらくこの「惑い」は「あれこれ考える」という意味なのであろう。忙しかった一日の終わりに、今日あったことをあれこれと思い出してはホッとくつろぐといった感じだ。
 「窓居せん」という正解に気づいたのはいつだったろう?
 謎はすっきり解けたのだが、「なんだつまらない」という落胆のほうが大きかった。
 この歌に限らず、子供の頃は歌詞の意味も知らずに(知ろうとせずに)歌っていることが多いものだ。「仰げば尊し」とか「蛍の光」なんかもそう。「君が代」もしかり。言葉の意味や歌詞ではなく、メロディと語感のマッチングの妙を味わう楽しさがあったのだ。

 「家路」にはもう一つ野上彰による作詞もある。

響きわたる 鐘の音に
小屋に帰る 羊たち
夕日落ちた ふるさとの
道に立てば なつかしく
ひとつひとつ 思い出の
草よ 花よ 過ぎし日よ
過ぎし日よ

 どっちがいいか、歌うまでもなかろう。
 最後のフレーズは「まーどいーせん」以上にしっくりくる言葉は考えられない。

 さて、ISP (Innovation in Sounds Philharmonic)は、2015年11月に旗揚げ(っていうのかオケの場合も?)した新生オケで、『音楽を通して新しい「価値視点」を実験する』という、野心的かつ創造的なミッションを掲げている。
 その言や良し。
 どうやら、指揮者の田中健(1977年生まれ)が中心となって立ち上げたらしい。

 旗揚げ公演は、気になりつつも残念ながら行けなかった。
 2回目となる今回、杉並公会堂大ホールの1階は8割ほど埋まった。ざっと600人くらいか。2回目の公演でこれだけ集められるのは、(入場無料であるにしても)すごいことだ。
 会場は老若男女のバランスが良い。世代を超えて愛される一番の音楽はやはりクラシックなんだろうなあ。
 舞台向かって右側、前から10列目あたりに腰を据えた。

 《謝肉祭》は、躍動感あふれる曲で、コンサートの最初に持ってくるのにぴったり。うまくいけば、観客を一瞬にして演奏に引き込むことができる。
 ここで、ISPオケの思い切りの良さ、熱のこもった演奏を実感した。いや、体感した。「失敗を恐れずに全身全霊で」というのが信条なのかもしれない。気合いのこもった音は気持ちいいものである。

 《人魚姫》は、だれもが知ってるアンデルセン童話である。
 
陸の上の王子様に恋した人魚姫は、声と引き換えに魔法によって人間に変身し、お城に住み込む。しかし、憧れの王子様は別の女性と結婚することになり、人魚姫の命は風前の灯し火。助かるためには愛する王子を魔法の剣で殺さなければならない。人魚姫は迷った挙句、自らの命を犠牲にし、海の泡と消えゆくのであった。
 
人魚姫

 
 悲しい話である。
 ヴェルディの『椿姫』同様、失恋と自己犠牲という二大催涙ポイントを抑えているところが、この童話の永遠の人気の秘密であろう。
 ツェムリンスキーの音楽ははじめて聴くが、名前だけはどこかで見た覚えがあった。
 配布されたプログラムを読んで合点がいった。
 
ツェムリンスキーの弟子には、ヴァイグルやコルンゴルドらがいたが、注目すべきはアルマ・シントラーとの関係である。二人は一時期恋仲であったが、最終的に彼女はグスタフ・マーラーを選ぶ。結婚式は1902年3月9日に行われたが、ツェムリンスキーが《人魚姫》のスケッチを開始したのはちょうどその数週間前のことだった。彼の失恋がこの作品と結びつけて論じられるのはこうした理由からである。
 
 そうか。マーラーの伝記を読んでいて出会った名前だ。
 社交界一の美女アルマに一目惚れしたマーラーは、音楽業界では下位のツェムリンスキーからアルマを奪った。アルマもそれを良しとし、ツェムリンスキーを捨てたのである。
 恋する王子様を他の女に奪われ絶望したものの、苦悩の末に自己犠牲を選んだ人魚姫と、恋するアルマを師匠とも仰ぐマーラーに奪われ絶望したものの、二人を許して身を引いたツェムリンスキーとは、まさに同じ境遇の悲劇の主人公だったのである。
 その意味では、この曲には作曲家自身の体験や感情の裏打ちがある。
 
 そうと知って聴いたからかもしれないが、名曲である。
 美しく、切なく、悲しく、ヴィジュアルを喚起する。全編、海の風景が浮かんでくる。バレエにしても面白いのではないだろうか?
 全楽章通じて繰り返し登場する美しくも艶かしい「人魚姫のモチーフ」こそは、マーラーの「アルマのテーマ」と酷似している。つまり、ツェムリンスキーが人魚姫の音楽的モデルとして想定したのは、自分を捨てた(だが今も愛している)アルマだったのではないかと思う。
 なんともいじらしい(いじましい?)男心よ。女性にはわからんだろう。
 
 ISPの演奏は、波のようにダイナミックで、北欧の海の暗さと冷たさと神秘性とが宿っていて、見事な描写であった。

 面白いのは、この曲の楽譜はツェムリンスキーの没後(1942年)行方不明になってしまい、1980年になってウィーン(第1楽章)とアメリカ(第2、第3楽章)で発見されたとのこと。蘇演は1984年。
 実に40年以上経って人魚姫は蘇ったのである。もちろん、今度は自分がコキュ(cocu)にされたマーラーも、マーラー亡きあと多くの男達と浮名を流したアルマも、とうに昇天している。
 人生は短し、芸術は長し、女は強し。
 
 ラストの《新世界》
 ここ最近ソルティが聴いたアマオケの曲の中ではトップクラスの名演であった。
 曲そのものの偉大さをくっきりと浮き立たせるスケールの大きい演奏で、新鮮さ、驚き、迫力、郷愁、甘美、哀愁、素朴な信仰、勇ましさ、雄大な自然、活気ある庶民・・・といった「新世界(=全米)」的要素が見事に描出されていた。「家路」(第2楽章)の美しさは目頭を熱くした。
 指揮者の曲に対する愛情と理解の深さのほどを察しられる熱演。
 また、コンサートマスター鈴木悠太のヴァイオリンの艶ある音色とリーダーシップ、コントラバス奏者の音楽と一体になったかのような白熱ぶり――あれほど激しく揺れ動くコントラバスは見たことがない――も印象に残った。
 次回も聴きたいオケの一つとなった。 
 
 クラシック音楽は‘気’を活性化すると前に書いたが、今回のコンサートでは二曲目の《人魚姫》でいきなり胸のアナハータチャクラに強いうずきが生じた。(過去の失恋経験の蘇りか) それが曲の最後までずっと続き、クライマックスで海の泡となった人魚姫が空気の精となって天に昇っていく場面で、まさに胸の‘気’が喉を通過して額の中心(アージュニャーチャクラ)に昇った。ピコピコ点滅する光は曲の終了とともに頭頂に移動し、頭のてっぺん(サハスラーラチャクラ)が温かく明るい雲に覆われたかのようにボワッとなった。
 そのまま休憩入りして、《新世界》では頭頂に憩うていた‘気’の塊が「家路」で最高潮の輝きを放ち、第3楽章の民族音楽風スケルツォで背中をスッと下りて、第4楽章のホルンとトランペットによる勇壮な第1主題で「ありのとわたり(陰部と肛門の間、ムーラダーラチャクラ)」をパコパコと圧迫した。なんともこそばゆい、気持ちいい感覚。
 その後、生殖器(スワディシュターナチャクラ)にしばらく留まった‘気’は、全曲の終了とともにへその下の丹田(マニプーラチャクラ)に終着した。
 つまり、体の前面から始まって、上昇し、頭頂を通って、背面を下降し、股下を通って前面に戻る。上半身を後ろ周りに一周したのである。
 これは気功でいうところの「小周天」というやつらしい。
 
 気の流れが良くなったせいか、会場を出たソルティの目に、夜の杉並の街は輝いて見えた。
 あたかも「新世界」のように。


 
 

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