ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●ライブ(音楽・芝居・落語など)

● イスラエルではワーグナーが聴けない 本:『世界史で深まるクラシックの名曲』(内藤博文著)

2022年青春出版社

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 クラシック音楽と言うと、「上品ぶったスノッブの人間が信奉する退屈で古めかしい音楽」というイメージがまとわりついている。
 「好きな音楽は?」と人に聞かれて、ユーミンとかサザンとかK-POPとかラップとかレゲエとかミュージカルと答えるのは、たとえ相手がその音楽を好きでないとしても、答えとしては「セーフ」であるが、クラシックあるいはオペラと返すのは「アウト」という感がある。
 その答えを告げた瞬間、相手が同じ趣味を持っていない限り、距離を置かれてしまうような気がしてしまうのだ。 
 で、ジャズという答えは微妙な位置にある。
 被害妄想?
 錯覚?

 そんなふうに思ってしまうのは、おそらく、義務教育の音楽の授業でクラシックを「お勉強」として習ってしまったせいじゃないかと思うし、音楽室の壁にずらりと並んだ楽聖たちの厳めしい肖像画が、校長室の壁に掲げられた歴代の学校長の顔写真の列を思わせたからではないかと思う。(両者のヘアスタイルはほぼ正反対であるが)
 昭和時代の恋愛映画や少女漫画によくあるシーンで、お見合いの席で仲人に趣味を問われた男性側が、「僕はクラシック音楽を少々」などと答えた日には、「上流を鼻にかける野暮で堅苦しい優等生」と相場が決まっていて、無理やりお見合いの席に駆り出された主人公である若き女性から鬱陶しがられるのがオチであった。(そのあと若き女性は偶然ロック好きのイケメンと出会う)
 あるいは、『ドラえもん』に出てくる骨川家のリビングのイメージが強かったからかもしれない。

 かくいうソルティも20代初めまでは、クラシックについて、あまりいいイメージを持っていなかった。
 突破口となったのは、洋画であった。
 感動した洋画のBGMにクラシックが効果的に使われていて、「誰のなんという曲だろう?」という興味からレコードやカセットテープを探し、次第にクラシックに親しみを覚えるようになった。
 キューブリック監督『2001年宇宙の旅』の「ツァラトゥストラはかく語りき」や「美しく青きドナウ」、ヴィスコンティ監督『ベニスに死す』の「マーラー交響曲第5番アダージョ」、フェリーニ監督『そして船は行く』の「運命の力」序曲、コッポラ監督『地獄の黙示録』の「ヴァルキューレの騎行」、ジョン・ブアマン監督『未来惑星ザルドス』の「ベートーヴェン交響曲第7番第2楽章」、オーソン・ウェルズ監督『審判』の「アルビノーニのアダージョ」、ジェイムズ・アイボリー監督『眺めのいい部屋』の「ジャンニ・スキッキ」・・・e.t.c.
 とりわけ、20代のソルティがもっとも好んだヴィスコンティ作品には、クラシック音楽、中でもワーグナーやヴェルディのオペラがよく使われていて、豊穣なるクラシック世界への扉を開いてくれた。

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筋金入りのワグネリアンだったルードヴィッヒ2世が築いた
ノイシュヴァンシュタイン城

 現代では、静かなリビングでアフタヌーンティーでも飲みながら、あるいは×万ドルの夜景を見下ろすホテルのラウンジでワイングラスを傾けながら、あるいは立派なコンサートホールの柔らかいシートにちょっと着飾った身を埋めながら、上品で贅沢な娯楽の一つとして愉しめるクラシックであるが、本来、クラシックほど過激な音楽はなかった。
 その過激さたるや、ロックやラップやヒップホップの比ではない。
 革命の導火線に火をつけ、民衆を街頭デモへと駆り出し、独立を欲する被占領民の気概を奮い立たせ、国王が某音楽家に傾注したため一国を財政破綻に招き、某音楽家に感化された独裁者が地上から一つの人種を滅ぼそうと画策し・・・・。
 世界史の要所要所において、決して無視できない駆動装置なり起爆剤なり動機づけとなったのが、クラシックだったのである。

 本書は、クラシック音楽が勃興する17世紀から現代に至るまでの、時代時代の有名音楽家と世界史との関連が語られている。
 取り上げられる音楽家は、バッハ、ヘンデル、モーツァルト、ハイドン、ベートーヴェン、ロッシーニ、ウェーバー、ショパン、メンデルスゾーン、ヨハン・シュトラウス父子、ヴェルディ、オッフェンバック、ワーグナー、ブラームス、チャイコフスキー、ドヴォルザーク、スメタナ、プッチーニ、ストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチ、カラヤンなど。
 こういったリアルで残酷でドラマチックな世界史のレクチャーと共に作曲家の半生なり楽曲なりが取り上げられたら、音楽の授業ももっと面白いものになるのになあ・・・。

 音楽家の生きた時代や世相、曲の生まれた背景を知ることは、必ずしもその曲を鑑賞するのに必須ではない。
 いい音楽は時代をも地域をも超越する。
 けれど、曲を作った音楽家の肉声を聞きとりたい、表現したいと願う人にとっては、世界史を知ることは欠かせないであろう。






おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● ホルン奏者の二の腕 : アリエッタ交響楽団 第16回演奏会

日時: 2023年2月12日(日)14時~   
会場: 和光市民文化センター サンアゼリア大ホール
曲目:
  • メンデルスゾーン: 演奏会序曲『夏の夜の夢』 作品21
  • リヒャルト・シュトラウス: ホルン協奏曲第1番変ホ長調 作品11
  • アントニン・ドヴォルザーク: 交響曲第7番ニ短調 作品70
ホルン: 北山順子
指揮: 大市 泰範

 コロナ後遺症なのか、早くも花粉症なのか、軽度認知症なのか、判断のつきかねる脳の朦朧(もうろう)加減。
 ぐっすり眠った感がここ久しくない。
 こういう状態のとき、たぶん人は容易に洗脳されちゃうんだろうなあ。

 アントニン療法を求めて、埼玉県のへりにある和光市に出かけた。
 サンアゼリアホールは東武東上線の和光市駅南口から歩いて15分。
 お隣の成増駅は、東京都板橋区である。

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和光市市民文化センター サンアゼリア

 今回このコンサートを選んだのは、アントニン=ドヴォルザークはもとより、ホルン協奏曲というのを聴いてみたかったからである。
 ヴァイオリンやチェロやピアノとオケの協奏はよくあるけれど、ホルンは珍しい。

 まず意外だったことに、てっきり椅子に座っての演奏かと思ったら、立って演奏した。
 楽器に詳しくないので、今回の奏者の使用していたホルンの種類は分からなかったが、一番軽いホルンでも2.0kgはするという。
 それを抱えながら20分近く立ちっぱなしで演奏する(しかも女性が)のは並大抵のことではなかろう。
 ソルティは舞台向かって左側の席にいたのだが、指揮台の横に立つ奏者のドレスの肩口から伸びた、ミケランジェロの彫像のように立派でたくましい右腕ばかりに気を取られた。
 やはり、あれくらいでないと、ホルンは吹きこなせないのだろう。
 腕力とスタミナに感心しきり。

 いつもは弦楽器や木管楽器の後ろに隠れていて客席からは見えないホルンの奏法も面白かった。
 右手をベル(朝顔部分)の中に突っ込んでいる姿が、金色のマフの中に手を入れている貴婦人のようで、いったいあの中でどんな手の動きがなされているのだろう?――と興味津々。
 ときおり、客席に背を向けて、お辞儀をするような格好で、なにか操作している仕草も謎だった。
 あれは何をしているのだろう?
 溜まった唾液を抜いている?(まさかね)

 それにしても、ホルンは最も難しい楽器と言われていて、音を外しやすいことで知られているけれど、長い演奏中、音が外れることがなかった。
 やっぱり、プロは凄い。
 ベルカントさながらの美しい音色と技巧を堪能した。

ホルン

 ドヴォルザークの7番もはじめて聴いた。
 不穏な入り方で、「このドヴォはちょっと暗いぞ」とかまえていたが、出口は明るくなごやかだった。
 第1楽章の途中から、瞑想モードに入り込んだ。
 “気”のかたまりが下半身から這い上がって、眉間に固定する。
 眉間の前方空間に窓が開く感じ。
 この状態になると、頭も体もととのう。
 音楽は、耳で聴いているというより、体全身で音波を感じているふうになる。
 そのまま最終楽章まで運ばれた。

 治療終了。
 治療費(=入場料)はなんと500円。
 アマオケシーンもようやくコロナ前の水準に戻ってきたようで、喜ばしいかぎり。

 帰り道にあった中華料理店でチャーハンと餃子を食べた。
 スタミナつけなきゃ!

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● アントニン療法 : Blue-Tコンチェルト管弦楽団 第6回定期演奏会


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日時: 2023年1月29日(日)13:30~
会場: 渋谷区文化総合センター大和田 さくらホール
曲目:
  • ドヴォルザーク: チェロ協奏曲ロ短調 作品104
  • ドヴォルザーク: 交響曲8番ト長調 作品
チェロ: 河野 明敏
指揮: 原田 博之

 コロナ後遺症のブレインフォグによるものなのか、頭がぼんやりして集中力を欠く最近のソルティ。
 この日も朝から倦怠感とともに、時差ボケにでもなったかのような心身の違和感があった。
 「ととのって」ない感じ・・・。
 日曜の渋谷の人混みを思うと出かけるのは気が進まなかった。
 が、ほかならぬドヴォコン、ことドヴォルザークのチェロコンチェルト(協奏曲)。
 自分が最も好きなクラシックの名曲である。
 頑張って行くことにした。

 渋谷駅周辺の変わりようは凄まじい。
 都営地下鉄の渋谷駅で降りたはいいが、自分が一体どこにいるのか、どっちに行けばいいのか、よくわからない。
 とりあえず、表示に従ってJR渋谷駅の西口を目指したが、西口もまたえらい変わりよう。
 長年目印としてきたビルディングや公衆便所が見当たらず、別の街に来てしまったかのよう。
 駅ビルに沿った右手奥の一角に、寂しく立っているモヤイ像を目にし、やっと位置関係が把握できた。
 渋谷区文化総合センター大和田は、西口から徒歩5分。

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渋谷駅西口

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渋谷区文化総合センター大和田
プラネタリウムがある

 Blue-Tコンチェルト管弦楽団の名ははじめて聞く。
 なんでも元々は、渋谷区笹塚にあったクラシック専門のライブハウス「笹塚Blue-T」所属のオーケストラとか。
 小編成(50名弱)なのはそのためか。
 腕前は素晴らしく、少人数を感じさせない迫力と安定感とチームワークの良さ。
 ライブハウス当時からのファンがついているのだろうか。客層が通常のクラシックコンサートとは微妙に違っていた。
 中年の男連中、それも仲間連れで来ているのが目立った。
 心なしかゲイ率が高いように思えた。
 気のせい?

 チェロ奏者の河野明敏は、1994年生まれというから、まだ20代である。
 繊細な感性の持ち主で、曲想の理解に優れ、テクニックも鮮やか。
 ドヴォルザークの一見優美でロマンチックなメロディラインに潜む、祈りにも似た深い悲哀と、天上的とさえ言える荘厳なる畏敬の念を、的確にとらえ表現していた。
 テクニックの凄さは、チェロという楽器のあらゆる可能性を誇示するかのようなアンコール曲、マーク・サマー「Julie-O」で遺憾なく発揮された。
 今後の活躍が楽しみな青年。
 
 交響曲8番では、第1楽章始まってすぐ意識が遠のいた。
 気がついた時には第3楽章の終わりだった。
 2楽章、まるまるワープ! 
 と言って、眠ったようにも思えない。
 音符の渦に取り巻かれて、いっさい抵抗することなく浮遊していた。
 音楽を耳で聴くというより、体全体で感じていたようだ。
 その証拠に、演奏が終わったあとは、頭も体もすっきりしていた。

 ととのった!
 
 アントニン・T・ドヴォルザークだからこそ為しうる芸当。
 人はこれをアントニン療法と呼ぶ。
 
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ドヴォルザーク、でなくてモヤイです









 
 

● 生まれたところに還る旅 : フライハイト交響楽団 第50回記念演奏会

日時: 2023年1月22日(日)13時30分~
会場: すみだトリフォニーホール 大ホール
曲目: 
  • バッハ(シェーンベルク編曲): 前奏曲とフーガ
  • マーラー: 交響曲第9番
指揮: 森口真司

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錦糸町駅北口(墨田区)

 フライハイト(Freiheit)とはドイツ語で「自由」の意。
 1996年創設時の第1回演奏会の曲目も、このマーラー交響曲第9番だったという。
 団員にとっては深い思い入れのある曲であろう。

 旗揚げ公演にこの曲を選ぶってのもユニークである。
 マーラーが完成させた最後の交響曲となった9番は、やり切れないほど切なく哀しい曲調で、作曲者の指示により「死に絶えるように」終わる。
 そのため、死や別れのイメージで語られることが多い。
 旗揚げにマーラーを選ぶなら、景気よく終わって人気も高い1番や5番あたりが無難であろう。
 そういった固定観念に縛られない姿勢こそが、オケ名の由来かもしれない。

 最初のバッハは、手ならしといったところか。
 独奏も合奏も安定して、よくまとまったオケの力が伺い知れた。
 多彩な色調のシェーンベルク編曲のバッハからマーラーへ、というプログラム構成もうまい。
 たしかに、9番を聴くにはそれなりの心の準備が要る。
 いきなり突き落とされてはかなわない。 

 9番をライブで聴くのは実はこれが初めて。
 やっぱり、家でディスクで聴くのとは違って、一つ一つの音が立ち上がって、ホログラムのごとく客席上の空間に像を結ぶ。
 家で聴くと陰々滅滅とした印象ばかりが先立ち、イメージがなかなか広がらなかった。
 空間もまた、オーケストラの重要な楽器の一つなのだ。

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すみだトリフォニーホール

 今回受けた印象を一言で言えば・・・・母胎回帰。
 第一楽章の初っ端、マーラーにしては素朴で単調にして優しいメロディが歌われる。
 甘美にしてどこか懐かしい。
 それはまるで子守歌のよう。
 遠い記憶の底、揺りかごの中で聞いた母の声。

 疾風怒濤の彼の人生を表すような第2楽章・第3楽章を経て、第4楽章はまた、泣く子をあやす声がけのような単調な「ミ・ファミレ♯ミ」の繰り返し。
 その途中、第一楽章冒頭の子守歌が顔を出す。
 子守歌で始まり、子守歌で終わる。
 その円環が、母胎回帰という印象につながったのである。
 
 この第9番は第1番『巨人』の焼き直し、というかバージョンアップ決定版という感じがする。
 幼少⇒青春⇒「明」と「暗」の綱引き・・・・と展開するマーラーの個人史だ。
 若かりし第1番ではまだ未来が見えなかったがゆえに、無理なこじつけ感のある「明」で仕上げた第4楽章であったが、今ははっきりした正体を現しているがゆえに、自然な流れで第1~第3楽章から引き取られている。
 それはやはり「明」ではなかった。
 と言って「暗」でもない。
 すべてを受け入れる優しい「哀」である。
 つまり、第1番でマーラー自身が提出した問いの答えが、第9番だったのではないか。

 放っておくと“陰キャ”に陥りがちなマーラーを、“陽キャ”に引き上げてくれるエレメントは、自然(3番、4番)、エロス(5番、6番)、神(2番、8番)の3つであった。
 うち、エロスの源の最たるものが最愛の妻アルマであったのは言うまでもない。
 しかるに、この9番にはもはや、自然も、エロスも、神も、見当たらない。
 9番を完成させたあとに降りかかったアルマの不倫事件を持ち出すまでもなく、いずれのエレメントもマーラーには効かなくなってしまったようである。

 空漠とした心を抱えたマーラーが行きついた先は、母の胸だったのではないか。
 (その解釈から言えば、第8番のラストの『ファウスト』の有名な一節、「永遠にして女性的なるもの、われらを牽きて昇らしむ」は、まさに母性原理以外のなにものでもない)
 
 母胎とは生と死の境である。
 第9番は、「生まれたところに還る旅」なのではあるまいか。
 
 その意味で、まさにフライハイト50回記念にふさわしい選曲。
 長々と続いた拍手も納得至極の好演であった。

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● 豊島区管弦楽団ニューイヤーコンサート2023


日時: 2023年1月8日(日)
会場: 豊島区立芸術文化劇場(東京建物ブリリアホール)
曲目:
  • ベートーヴェン: 交響曲第7番
  • 武満徹: 系図 -若い人たちのための音楽詩-
  • ストラヴィンスキー: バレエ組曲「火の鳥」(1919年版)
指揮: 和田 一樹
アコーディオン: 大田智美
語り: 都立千早高等学校演劇部員

 昨年は和田一樹の素晴らしいマーラー1番で幕を閉じたが、年明けも和田一樹となった。
 2019年11月開館のブリリアホール(豊島区立芸術文化劇場)に行くのは初めて。
 池袋駅東口(西武があるほうが東口である)から徒歩5分、お隣が豊島区役所。
 この辺を訪れるのは10年ぶり。 
 かつてホームレスや終電逃した酔っ払いのたまり場であった中池袋公園が、明るくモダンな都市空間に変貌しているのにビックリした。
 ソルティも20代の会社員時代、ここのベンチで朝焼けとカラスに蹂躙されたこと度々。

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池袋駅東口

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ブリリアホール

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ホール前の中池袋公園

 TVドラマ『のだめカンタービレ』で一躍人気ナンバーとなったベートーヴェン交響曲第7番、通称ベト7は、年明けを飾るにふさわしい華やかで躍動的な曲。
 10年近く常任指揮者をつとめているだけあって豊島管弦楽団と和田の呼吸はぴったり。
 危うげなところが微塵もない。
 上記ドラマにおいて指揮指導をした和田にとって、ベト7は自家薬籠中といった余裕すら感じる。
 各演奏者のレベルも相当なもの。
 海外ツアーしてもいいんじゃなかろうか。

 珍しいのが2曲目の武満徹『系図』。
 配布プログラムによると、

武満晩年にあたる1992年に作曲された。40年来の親友である詩人、谷川俊太郎の詩集『はだか』から、“自分と家族”に関わる詩を選び、一連のストーリーとなるよう並べ、音楽で彩った。語り手は12歳から15歳の少女が望ましい、と武満は言っていたそうで、若手女優を起用する例が多い。 

 今回語り手の少女は、豊島区にある都立高校の演劇部の女子学生6人がつとめた。
 自らの祖父母、両親のことを順に語り、最後は自分の将来を夢見るという構成。
 しかし、描き出されるのは『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』風の幸福な家族ではなく、むしろ心がバラバラの現代的な一家の姿。
 認知症っぽい祖父、寝たきりの祖母、燃え尽き症候群の父、キッチンドリンカーの母。 
 そこに、映画BGMでも発揮される武満の奇っ怪な音楽が、アコーディオンの庶民的な響きと共にかぶさる。
 正直、どうとらえていいか分からない作品である。
 これで「系図」と言われてもなあ・・・・。
 (よもや虐待の系図ではないよね?)

 女子高生たちの好演には拍手を惜しまないが、本作も含め、今回の曲目選定には疑問が残った。
 普通ならベト7をラストに持って来て、明るく盛り上がって終わりだろう。
 新春でもあり、豊島区90周年のお祝いも兼ねている催しなのだから。
 しかしそうすると、『火の鳥』か『系図』を一番に持って来なければならない。
 それはあまりに無謀だろう。
 ってわけで、ベト7からスタートしたんじゃないかと推測する。

 『火の鳥』をプログラムに入れたのは、もちろん手塚治虫『火の鳥』とのからみである。
 豊島区には手塚治虫、赤塚不二夫、藤子不二雄、石ノ森章太郎らが青春時代を過ごしたトキワ荘があって「マンガの聖地」になっているのだ。
 今春3月には世界最大規模のアニメショップ「アニメイト池袋本店」が、それこそブリリアホールとは豊島区役所をはさんだ反対隣りにオープンする。
 今回の曲目を誰が選んだか知らないが(区長?)、ここぞとばかり「豊島区=アニメ」を強調したかったのだろう。

 ともあれ、一曲一曲の出来は良かったのだけれど、感動が相殺し合うようなバランスの悪いプログラムで、すっきりしない終演。
 こういうこともあるんだなあ~と一つ学んだ。
 5月5日には、和田一樹&豊島区管弦楽団で R.シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」とマーラー交響曲第9番に挑戦するらしい。
 これぞ実力見せどころの名プログラム。
 掛け値なしの必聴コンサートである。




● 躁うつ病交響曲、あるいはA線上の人生: 明治大学交響楽団 第99回定期演奏会


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日時: 2022年12月28日(水)
会場: すみだトリフォニーホール 大ホール
曲目:
  • スッペ: 喜歌劇『軽騎兵』序曲
  • ボロディン: 歌劇『イーゴリ公』より「韃靼人の踊り」
  • マーラー: 交響曲第1番
指揮: 和田一樹

 年末最後はいつもベートーヴェン「第九」で〆るのだが、昨年は聴きそこなった。
 コロナ陽性になって自宅隔離を余儀なくされ、予約していた「第九」に行けなかった。
 隔離明けて、何か一年を〆るのにふさわしいものはないかと i-Amabile をチェックしたら、本ライブがあった。  

 マーラーの全交響曲中、2番「復活」、自然を謳った3番8番「千人の交響曲」あたりは、「第九」の代わりとして年末を〆くくるのにふさわしい。
 6番、7番、9番、10番を聴いた日には、とても目出度く新年を迎えるわけには行くまい。(まあ、あえて取り上げるオケもなかろうが)
 1番、4番、5番は一応「明るく」終わるので、無難なところである。
 和田のマーラーは5番7番を聴いたことがあり、どちらもとても良かった。

 明治大学交響楽団を聴くのは初めてであったが、とにかく大所帯で一番端のヴァイオリン奏者など舞台からこぼれ落ちそうであった。
 音の厚みと力強さは保証されたようなもの。
 それを「つかみはバッチリ」の和田が最初からガンガン鳴らしまくる。
 この指揮者の凄いところは、“生きた音”を作り出す力である。
 演奏が始まってすぐに「おおっ!」と客席から身を乗り出さざるを得なくなるのだ。
 おそらく、オケメンバーとのコミュニケーション力が飛び抜けているのだろう。
 「音」を「楽しむ」という根本をつねに忘れない、忘れさせない男なのだ。
 スッペの『軽騎兵』序曲からすでに会場は熱くなっていた。

 ボロディン「韃靼人の踊り」については、あるエピソードが頭について離れない。
 本で読んだのか誰かに聞いたのか忘れたが・・・・・
 ある人が事故で危篤状態になって医師も周囲もあきらめた。実はその時その人は臨死体験中で、幽体離脱して病室の天井から自分の体を見下ろし、暗いトンネルに引っ張り込まれ、そこを抜けたら光の洪水があった。それから慈愛あふれる宇宙空間のような場所をしばらく幸福感に満たされながら漂っていた。ある音楽が鳴り響いていた。その時はそれと分からなかったが無事回復したあとで偶然曲を聴いて「これだ!」と判明した。それが「韃靼人の踊り」だった・・・・いうスピ話。
 これは「宇宙人の正体は実は韃靼人」と言いたいわけではなく、「韃靼人の踊り」という曲が、深い瞑想状態に入っている人の脳に見られるシーター波、あるいはさらに無意識に近い熟睡状態の時(危篤状態も含む)に見られるデルタ波を、曲を聴く人の脳に生み出しやすいということなのではないか、と一介の似非スピリチュアリストたるソルティは睨んでいる。
 今回も案の定、曲の途中で意識が飛んだ瞬間があった。

宇宙の少女
AmiによるPixabayからの画像

 最後のマーラー1番。
 これがもう寒気がするほど良かった。
 何度も聴いている曲なのに、「自分、はじめて1番を聴いたかも」と思ったほど、斬新で美しく、驚きに溢れていた。
 和田一樹が、あたかも人体のあらゆるツボと経絡を熟知した中国二千年の気功師が奇跡的な施術で患者の生命力を回復させるのと同じように、自ら指揮する曲のツボと経絡を理解し、緩急・強弱・間合い・テンポの微妙なズレなどのテクニックを自在に駆使して、マンネリ化しがちな有名曲に新たな生命力を吹き込むことができるのは知っていた。
 その技術が一段と磨かれたようであった。
 それも耳の肥えた聴衆を驚かすテクニックのためのテクニックという(あざとい)レベルを超えて、もとから曲に内包されていたが未だ知られざりしテーマがテクニックと有機的に結びつくことで露わになるという感覚、言い換えれば「楽譜通りに曲を振っている」というより「曲をその場で彫琢し作っている」という印象を受けた。
 プロフィールによると、和田は作曲も手掛けているらしいから、そのあたりが影響しているのかもしれない。

 そうやって露わにされたマーラー1番であるが、ソルティは今回この曲に「躁うつ病交響曲」というタイトルをつけてもいいのではと思った。
 躁うつ病(現在では双極性障害と呼ばれている)こそが、マーラーの人生にとって愛妻アルマ以上のパートナーだったのではなかろうか。
 躁状態(明)と鬱状態(暗)がしきりに交互する彼の曲の秘密はそこにあるのではなかろうか。

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 マーラーを「暗」から救い上げてくれるのは、信仰をテーマにした2番や8番の成功あるにも関わらず、結局のところ、啓示がやって来るのをただ待つしかない「神」ではなく、より確実な効果が期待できる「エロスと自然」だった。
 だが、それすらも彼の生まれつきの(あるいは幼少期の環境で身についた)鬱気質を払拭することはできなかった。
 最後(9番や10番)は、ベートーヴェンのように「暗」から「明」へ到達することは叶わずに、狂気すれすれの「暗」で終わっている。
 「暗」によって常に圧迫されやがては引きずり落とされる「生」という宿命を背負っていて、その不安と恐怖と癒しようのない悲しみが、マーラーの人生をひいてはその音楽を縁取っているような気がする。
 
 第1楽章の出だしは延々と続く「ラ(A)」で始まるが、この音こそが記憶の底から続いている宿命の響きであり、マーラーのトレードマークであり、「暗」の極みたる狂気に落ちないよう慎重に保持し続けなければなければならない命綱の象徴だったのではなかろうか。
 A線上の綱渡り人生。 
 第4楽章のフィナーレは一応華々しく景気よいものだが、ソルティはいつもここに無理を感じる。
 第1楽章から第3楽章までの流れからして、そして第4楽章の相当に破壊的な出だしからして、とてもとても「明」に到達できるとは思えないのである。
 だが、この華々しさや景気よさが「至福」や「喜び」から来るものではなく、「躁」状態から来るものだと思えば、至極納得がいく。
 本当の「明」ではない。(オケは本当の「明」学だが)

 多くの作家はその処女作において今後展開すべき自身のテーマの種子をまき、その後の作品と人生をそれとなく予告する。
 第1番において、マーラーはまさに名刺代わりに自らのテーマを開陳し、自分が何者かを示している。
 聴く者をして、こんな勝手な想像(創造)をさせて大昔の作曲家と引き合わせてくれるところが、和田一樹が凄いと思うゆえんである。
 指揮棒が下りたとたん、場内にひと際大きな「ブラボー」が響き渡った。
 コロナ禍の「ブラボー」は禁止されていることは当然本人も知っていようが、これはどうしたって一声発せざるを得ないよなと、理解できた。
 
 アンコールはいつものヨハン・シュトラウス1世作曲『ラデツキー行進曲』。
 聴衆とオケが一緒になって曲を作り上げ、音楽を楽しむ場を創出し、一年をhappyな気分で〆る。
 こういったところも和田一樹の愛されるゆえんであろう。
 コロナ陽性も「転じて福」と思える素晴らしいコンサートだった。

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● 時代の壁 オペラライブDVD:ヴェルディ作曲『リゴレット』

収録日時 2001年7月21日
開催場所 アレーナ・ディ・ヴェローナ(イタリア)
キャスト
  • リゴレット: レオ・ヌッチ(バリトン)
  • ジルダ: インヴァ・ムーラ(ソプラノ)
  • マントーヴァ公爵: アキレス・マチャード(テノール)
指揮: マルチェッロ・ヴィオッティ
演出: シャルル・ルボー
アレーナ・ディ・ヴェローナ管弦楽団・合唱団・バレエ団

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 タイトルロール(表題役)をつとめたレオ・ヌッチは、他に『トスカ』『ナブッコ』『仮面舞踏会』をDVDで観ている。
 こわもての風格ある舞台姿と性格俳優のような渋い演技力、朗々とした正統的な歌いっぷりが特徴的な名バリトン。
 ここでも古代の野外劇場を埋め尽くす満場の聴衆相手に、非の打ちどころない歌と演技を披露し、スターの存在感を見せつけている。

 インヴァ・ムーラーを聴くのははじめてだが、美しい人である。
 このときすでに40歳近いと思われるが、10代の乙女であるジルダになりきっている。
 観客にそう錯覚させるに十分な清らかさと愛らしさを、計算された歌唱と演技と表情とで作り上げるのに成功している。
 元来リリック・ソプラノなので、たとえばエディタ・グルベローヴァのジルダのような超絶高音と超絶コロラトューラは持っていないのがいささか物足りない向きもあるけれど、「リゴレットが命に代えてでも守りたい宝」という設定を観客に納得させてあまりない。
 この人の椿姫を観てみたい。

 マントーヴァ公爵役のアキレス・マチャードは可もなく不可もなし。
 演奏も演出も手堅く、映像記録として商品化するレベルは十分クリアしている。
 有名なアリアや重唱のアンコールがあるのも、お祭り気分の会場の様子が伝ってきて楽しい。

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アレーナ・ディ・ヴェローナ
《etiennepezzuto92によるPixabayからの画像》

 舞台の出来栄えは文句ない。
 が、やはりソルティはこの演目がどうにも受け入れ難い。
 時代が時代だから仕方ないと重々分かっているものの、あまりにアホらしいプロットにげんなりして入り込めない。
 というのも、この物語の根本動因をなすのは“処女信仰”だからだ。

 手あたり次第に気に入った処女を食い散らかす主君マントーヴァ公爵の魔の手から、最愛の娘ジルダの処女を守り抜きたいリゴレット。
 ところが、ジルダは貧困学生に変装したマントーヴァに恋してしまい、公爵の手下の者どもに拉致されたあげく、いともたやすく処女を奪われてしまう。
 大切な娘が汚された!!
 怒りと嘆きの極みに達したリゴレットは復讐を誓い、殺し屋を雇う。
 が、マントーヴァを助けたい一身のジルダが先回りし、自ら犠牲になって殺し屋の刃を受ける。
 死に逝く娘を前に、なすすべもなく運命を呪うリゴレット。

 書いていても、あまりの世界観のギャップに辟易する。
 娘の処女を守るため教会以外はいっさい外出を許さない父親ってのもナンセンスだし、ジルダの犠牲的精神もまったく意味不明で、これで「涙を流せ」ってのは無理な話。
 が、このプロットに人々が共感し感動できた時代があったのである。
(いや、今でも感動できる人はいるのだろうが)

 評論家諸氏は、同時期のヴェルディの傑作『イル・トロヴァトーレ』をして、「プロットが複雑でリアリティに欠ける」と言うのだが、ソルティにしてみれば、『リゴレット』のほうがよっぽど理解しがたく、不愉快である。
 すばらしいアリアや重唱やオーケストレイションがあふれているので、この作品はヴェルディ前期の傑作の一つとしていまだに上演され続けているのだけれど、今となっては音楽のクオリティをもってしてもカバーできないくらいのポリコレ抵触、いや女性蔑視物件であろう。
 それにくらべれば、リゴレットの背中の瘤なんか目に入らないほどだ。

 何世紀も前の時代劇の設定に、現代の感覚から物申すのはルール違反と分かっているのだが、壁を乗り越えるのにもほどがあるってことを教えてくれる作品である。(少なくともこれが喜劇ならまだ受け入れやすかったかもしれないな)

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Christine EngelhardtによるPixabayからの画像画像




おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 喜ばしき降伏:フィルハーモニック・ソサエティ・東京 第10回定期演奏会


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日時 2022年11月6日(日)14:00~
会場 ミューザ川崎 シンフォニーホール
曲目 マーラー:交響曲第3番 ニ短調
指揮 寺岡 清高
メゾソプラノ 中島 郁子
合唱 東京アカデミッシェカペレ
児童合唱 すみだ少年少女合唱団

 前の晩は12時前に床に就いて、たっぷり8時間は寝た。
 9時に朝ごはんを食べて、昼飯は抜いた。
 開演2時間前に最後の水分を取って、開演30分前にトイレを済ませた。
 指定予約した席は1階席の一番前列だった。
 周囲1.5mは空席。
 考えられる限り最高のマーラー第3番を聴く用意が整った。
 これから100分間、待ったなしの一本勝負が始まる。

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ミューザ川崎

 第1楽章が一番の難関。
 長いうえに構成がつかみにくい。
 荒れ狂った波に、右に左に、上に下に、ゆるく激しく、引きずり回される。
 終わったと思ったらまだ続く。
 船酔い寸前!
 最もマーラーらしい、意地悪な楽章と言えなくもない。
 この楽章の狙いは聴衆のぬるま湯的日常を揺さぶり、実存不安に突き落とすことにあるような気さえする。
 寺岡のタクトはきびきびと容赦なく突き進む。

 打って変わって第2楽章は甘ったるさ全開。
 優しいフレグランス満ちるお花畑でしばし夢心地。
 これはもしやケシの花か・・・。

 清新な気が吹き込まれる第3楽章。
 動物たちの躍動と自然讃歌はまるで「ダーウィンが来た!」
 世界は人間なしで完成していた。
 自然も大地も、なんの過不足なく調和していた。
 そこに、唐突に現れるポストホルンの響き。
 人類の登場――。
 生物界にどよめきが走る。

 人間界は深い悲しみと憂いに閉ざされている。
 世界は痛みに覆われている。
 果てしない戦争と自然破壊によって滅ぼされた大地と生き物たち。
 人々の孤独と叶えられなかった祈りが、虚空に残響のようにこだまする。
 第4楽章のメゾソプラノの荘厳な歌唱はあたかも被災地に響く鐘の音のよう。

 天使たちが歌っている。
 天使たちがはしゃいでいる。
 苦しみ多い地上から解き放たれた魂は、永遠を目指して、天使に伴われて飛翔する。
 軽やかに、明るく、屈託なく。
 ちょうど、メフィストフェレスの魔の手から逃れたファウストのように。

 そして・・・第6楽章。
 長い長い歳月を経て、大地は再びよみがえる。
 焦土に降り注ぐ最初の雨。
 廃墟を優しく照らす落日の光。
 大地にあまねく満ちる大宇宙の慈悲が、ふたたび生命の誕生を予感している。
 
地球


 第3番をライブで聴くのはこれが2回目なのだが、ソルティはこの曲の肝をつかんだような気がする。
 第3楽章のポストホルンこそ、全曲の転回点であり、前半と後半をつなぐ要である。
 すなわち、自然界への人類の登場。
 なので、このポストホルンはとっても重要。
 個人的には、傲岸なほどの自信をもってしっかりと吹き鳴らしてほしい。
 (マーラーがどういう指示を出しているかは知らないが・・・)
 何か決定的なことが世界に起きたのだ、もう後戻りはできないのだ、と聴衆に知らしめてほしい。
 その衝撃で、ここまででかなり疲れている聴衆の耳を覚醒させ、集中力を今一度呼び戻し、ドラマチックな後半部に備えさせてほしい。
 声楽が入る第4楽章からは一気呵成に進んでほしい。
 
 第6楽章は、これまで頑張って聴き続けてきたことへのご褒美みたいな感すらある。
 長い紆余曲折があったからこその歓び。
 心も身体もすべて音楽に預けて、喜ばしき降伏の中で感涙に咽ぶのだ。

金山出石寺夕焼け


 マーラー交響曲第3番を、音響のすぐれた立派なホールで、それなりのレベルのオケの生演奏で、庶民価格(1500円)で聴けるという歓びは、なにものにも代えがたい。
 平和と安全と文化的豊かさとが揃わなければ実現しない奇跡である。
 いまの日本に生まれて良かったとつくづく感じる。
 そして、この贅沢な日常ができる限り続くことを祈らざるを得ないし、クラシックを愛する者なら、やはり平和のために何かしなければならないと思うのである。

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終演後、川崎駅前の家系ラーメンでお腹も満たされた
平和ってやっぱり美味しい











 
  
 

● 粛清された官能 クラースヌイ・フィルハーモニー管弦楽団 第4回定期演奏会


 クラースヌイとはロシア語で「赤」あるいは「美しい」「情熱」を意味する言葉だという。
 2018年に発足した20~30代中心のアマオケで、ロシア音楽を中心に演奏している。
  
 発足時にはよもや今のような状況になるとは思わなかっただろう。
 ロシアのウクライナ侵攻が始まって、ロシアの国際評価は急降下。
 海外で活躍するロシア出身の音楽家たちも肩身の狭い思いをしている。
 配布プログラムによれば、当オケの団長さんも、「このままロシア音楽中心のオケでいいものだろうか」と逡巡したそうだ。
 
 しかし、音楽自体に罪はないこと、そして、特定の国家の文化をすべて拒絶してしまうことは、その国家への差別や偏見を生み、果ては惨事を生み出す基となると考え、音楽活動を継続することを決意しました。(第4回定期演奏会プログラムより抜粋)
 
 そのとお~り!
 音楽にお国柄はあっても国境はない。
 むしろこういう時期だからこそ、人間らしさ・庶民らしさてんこ盛りのロシア音楽の神髄を市民に送り届けて、ロシア国民もまた日本人を含む全世界の人々同様、赤い血潮に満ち、愛する人のために熱い涙をこぼす人間であることを訴えてほしい。

クラースヌイ演奏会


日時 2022年10月29日(土)18:00~
会場 和光市民文化センター・サンアゼリア大ホール
指揮 山上 紘生
曲目
  • 伊福部 昭: SF交響ファンタジー 第1番
  • G. スヴィリードフ: 組曲《時よ、前進!》
  • A. モソロフ: 交響的エピソード《鉄工場》
  • D. ショスタコーヴィチ: 交響曲第1番 ヘ短調
サンアゼリア
和光市民文化センター・サンアゼリア

 まずもって選曲のユニークさに惹かれた。
 《SF交響ファンタジー第1番》は、伊福部昭が音楽を担当した東宝の『ゴジラ』『キングコング対ゴジラ』『宇宙大戦争』『フランケンシュタイン対地底怪獣』『三大怪獣 地球最大の決戦』『怪獣総進撃』の6本の特撮映画の楽曲から構成されている。
 幼い頃からスクリーンやTVモニターを通して聴いたことある曲ばかりだが、生演奏で聴くと迫力が違う!
 金色に輝くチューバの巨大な朝顔部分を、キングギドラの首と錯覚した。

 映画音楽作家としての伊福部昭の才能はいまさら言うまでもないところだが、ソルティが特に感心したのは、東宝の『日本誕生』である。
 古代が舞台の物語において、ヤマト(和風)、熊襲(中国・朝鮮風)、蝦夷(アイヌ風)と場面ごと民族ごとにふさわしい調子で書き分ける器用さには舌を巻いた。
 昨今、『砂の器』などシネマコンサートが流行りであるが、デジタルリマスタ―した『日本誕生』も上演候補リストに入れてもよいのではなかろうか。
 アマテラスを演じる原節子の類なき美貌や、ヤマトタケルを演じる三船敏郎の名演とともに、伊福部の天才を若い人々に伝導する機会となること間違いなし。

 G. スヴィリードフとA. モソロフは初めて耳にする名前。
 むろん曲を聴くのも初めて。
 組曲《時よ、前進!》は、1965年にソ連で上映された同名のドラマ映画のために作られた。1930年代の製鉄所を舞台とする話だとか。
 一方、交響的エピソード《鉄工場》は、1926年に作曲された短い(たった4分)管弦楽曲。タイトル通り、人類初の社会主義国家として誕生したばかりのソ連の製鉄所の風景が描かれている、いわゆる叙景音楽。
 製鉄という共通項がある。

 ソ連の国旗を見ると分かるが、鎌と槌こそは農民と労働者階級との団結を示し、共産主義の最終的勝利を象徴するシンボルだった。
 リズミカルに力強く響きわたる鉄打つ槌の音に、指導者も人民も、古い世界を打ち壊して新しい世界を創造する「希望と力と連帯」とを感じ取ったのだろう。
 いまや100年も昔の話である。
 《鉄工場》の最後のほうに、舞台上で実際に鉄板を木槌で打ち鳴らす箇所がある。
 プログラムには、理想の鉄板を求めて徳島の鉄工所まで旅する団員達のエピソードが載っていた。
 苦労の甲斐あって、本番では「希望と力と連帯」を感じさせるイイ音を発していた。
 鉄板奏者に限らず、全体的に金管楽器奏者の奮闘が目立った。 

ソ連国旗

 最後のショスタコーヴィチ。
 衝撃的であった!
 ソルティは今年1月に、東京大学音楽部管弦楽団の定期演奏会でショスタコーヴィチを初めて聴いた。
 交響曲第5番《革命》、指揮は三石精一であった。
 そのときに、スターリン独裁の地獄と化してしまった全体主義国家における、一人の芸術家の苦悩と鬱屈、抑圧され歪んでしまった才能を感じ取った。 
 滅多にない素晴らしい才能であるのは間違いないけれど、ショスタコーヴィチの本来の感性や生まれもっての個性が不当に歪められ押し潰されている。
 そんな印象を受けた。

 今回衝撃だったのは、第1番を聴いて、ショスタコーヴィチの本来の感性や個性がいかなるものであるか知らされた気がしたからである。
 そう、第1番作曲は1925年。誕生して間もないソ連では革命の英雄レーニンが亡くなり、スターリンが最高指導者に就いたばかり。ショスタコーヴィッチはまだ19歳の学生だった。
 スターリンによる大粛清が始まったのは30年代に入ってからなので、この頃はまだ自由に好きな曲が作れたわけである。
 1937年に作られた第5番との曲想の違いがとてつもない。
 同じ作曲家の手によるものとは思えないほどだ。
 
 なにより驚いたのが、全曲に染み渡っている〈美と官能〉。
 まるでワーグナーとシェーンベルクの間に生まれた子供のようではないか。
 とりわけ、第3楽章、第4楽章のエロスの波状攻撃ときたら、客席で聴いているこちらのクンダリーニを刺激しまくり、鎖を解かれた気の塊が脊髄を通って脳天に達し、前頭葉からホールの高い天井に向けて白熱する光が放射されている、かのようであった。
 こんなエロチックで情熱的な作曲家だったなんて!
 まさに、モーツァルト、マーラー、ワーグナー、サン・サーンス、シェーンベルク、モーリス・ラヴェル、R.シュトラウスら“官能派”の正統なる後継ではないか。(スクリャービンは聴いたことがありません、あしからず)
 
 クラシック作曲家の才能とは結局、音を使って「美」を表現する天賦の才のことだと思うが、その意味ではショスタコーヴィチの天賦の才は、ひょっとしてワーグナーやマーラーを超えるものがあったのではなかろうか。
 というのも、19歳でこのレベルなのだから。
 交響曲第1番は、これから作曲家として世に出ようとする将来有望な若者が、美の女神に捧げる贈り物であると同時に、人生を音楽にかける決意といった感じ。
 この才能が、体制によって歪められたり矯正されたり忖度を強いられたりすることなく、そのまま素直に伸びていったら、どんなに凄い(エロい?)作曲家になっていたことだろう。
 いや、いまだって十分に凄いわけであるが、進取の気と創造力と愛欲みなぎる人生の数十年間を、無駄に費やしてしまったのではないか?と思うのである。
 
 この美と官能の世界に見事にジャンプインして、巧みに表現した山上紘生には恐れ入った。
 初めて接する指揮者であるが、貴公子然とした清潔感あふれる穏やかな風貌の下には、おそらくエロスと情念の渦がうごめいているのだろう。
 若いオケとの相性もばっちり。

 次回(2023年3月11日)は、ショスタコーヴィチ第7番《レニングラード》をクラースヌイ&目白フィル合同で振るという。
 これは聴きに行って事の真偽を確かめなければ。
 
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 ホール内にあったハロウィン飾り
 




● かんとだき: 新交響楽団 第259回演奏会


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日時 2022年10月23日(日)14:00~
会場 東京芸術劇場コンサートホール(池袋)
指揮 寺岡 清高
曲目
  • ヨハン・シュトラウス2世:喜歌劇『ジプシー男爵』序曲
  • フランツ・シューベルト:交響曲第3番 ニ長調
  • フランツ・シュミット:交響曲第1番 ホ長調

 久しぶりの新交響楽団。
 前回はコロナ日本上陸前の2020年1月19日。
 松葉杖をついての鑑賞だった。
 自宅と会場との往復がたいへんだったはずだが、なんだか記憶にない。
 コロナ前、ロシア×ウクライナ戦争前、安倍元首相暗殺前の世界との隔絶感がなんだかすごい!

 やっぱり巧い。
 アマオケのトップレベルにいるのは間違いない。
 ソロ(独奏)もトゥッテ(合奏)も申し分なく音がきれいで、ツヤと響きがある。
 それをスター性ある寺岡が振るのだから、華やぎが広がる。
 芸劇コンサートホールは国内でもっとも巨大で立派で格式高いホールの一つだと思うが、アマオケでホール負けしないのはさすが。

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東京芸術劇場

 1曲目は日曜日の聴衆の心をつかむのにピッタリの楽しい曲。
 軽快で優美で華やか。
 池袋がウィーンに早変わり。

 2曲目はみずみずしくも典雅。
 シューベルト御年18歳の作品だとか。
 31歳という短い生涯で、青春の喜びと哀しみと葛藤とを気品高く歌い上げたところは、現在放映中のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に出てくる源実朝を思わせる。
 実朝もまた『金槐和歌集』という青春の記念碑を残し、27歳で世を去った。
 コンサート前に天ぷらそばを食べたのが効いて、夢見心地になった。
  
 3曲目が本日のメイン・ディッシュ。
 フランツ・シュミット(1874-1939)の曲を聴くのはおそらく初めて。
 受付でもらったプログラムには「晦渋作曲家」とあったので、「最後までついていけるかなあ?」といささか不安だった。
 なんとまあ、面白い!!
 マーラー、ワーグナー、ベートーベン、ブラームス等々、どこかで聴いたことがあるタッチが代わる代わる現れる。
 いろいろな作曲家のスタイルのごった煮といった感じなのだが、具の一つ一つが主張しすぎず、バランスよくまとまって、味付けもまろやかで、からしがピリリと効いている。
 ――って、おでんか。しかも関西風の。
 打楽器をはじめとするオーケストレイションも楽しい。
 これはもう一度聴きたいと思った。
 ただ、良い指揮者とオケでないと、このおでんは煮込みが足りないか、あるいは煮込みすぎて、失敗する可能性大なのではあるまいか。
 寺岡の調理はまったく見事であった。

 
P.S. 本日の作曲家はみな「シュ」で始まる。それが選曲のポイント? 次点はシューマン?
 
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