ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

読んだ本・マンガ

● 実朝はゲイだった? 本:『歴史の中の多様な「性」』(三橋順子著)


2022年岩波書店

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 この本、面白かった。
 著者がいみじくも「あとがき」で書いているように、「文化人類学、民俗学、社会学、地理学などのごった煮」風なのであるが、それがかえって、特定の専門分野の研究書にありがちな硬直と無味乾燥から免れる結果を生み、幅広い読者の楽しめるものに仕上がっている。
 日本を含むアジアの歴史の中に多様な「性」が存在してきたことを、令和日本人に知ってもらうためには有益なことである。
 そもそも「性」というテーマを語るのに、上記のような専門分野はどれもあまりにも間口も奥行きも狭すぎる。

 欧米では「セクソロジー(性科学)」という学問分野が確立していて、セクソロジスト(性科学者)という専門研究者が大学などで、性医学、心理学、生物学、性教育などの研究や講義を実践している。
 日本の大学に「セクソロジー」を専門とする学部や専攻があるのかどうか、ソルティは聞いたことがない。(講義レベルではあると思うが)
 本書で著者が扱っているテーマは、どちらかと言えば理系的アプローチの「性科学」とは異なり、文系的アプローチによる「性文化現象学」とでも名付けたいような、まったく新しい領域である。
 文化人類学、民俗学、歴史学、地理学、社会学、文学、芸術、そして性科学などを横断しまた統合する「性文化現象学」――これこそ、「性」の多様性の長い歴史と伝統を誇る我が日本が、世界に先駆けて開拓・創造できる学問分野なのではなかろうか。
 
 著者の三橋順子は1955年埼玉県生まれの性社会文化史研究者(←という肩書をつくるほかなかったのだろう)
 自身トランスジェンダーすなわち「性別越境者」として生きてきた人である。
 最近よくマスコミに上るLGBTの「T」である。
 
 「トランスジェンダー」には二つの定義がある。まず、現象・行為としては、社会によって規定されたジェンダー、とりわけ性別表現を越境することである。その場合、越境が男女の間を行ったり来たりする時限的なものか、男性から女性へ、あるいは女性から男性へ行ったきりの永続的なものかは問わない。
 また、人物として定義する場合は、誕生時に指定された性別とは違う性別で生活している人となる。この場合も、その理由は問わない。

トランスジェンダー
オードリー・タン
世界で最も有名なトランスジェンダーの一人


 本書では、『日本とアジア 変幻するセクシュアリティ』という副題通り、実にさまざまな時代、さまざまな地域の「通常(多数)とは違った」ジェンダーやセクシュアリティをもつ人びとの様相が語られている。
 例を挙げると、
  • 平安時代の上流貴族で、自ら耽る同性間セックスの模様を日記(『台記』)に細かく記した藤原頼長(1120-56)
  • 薩摩藩(鹿児島県)の青少年組織「兵児二才(へこにせ)」組において、江戸時代から明治初期まで伝わってきた男色の習俗
  • 江戸時代の最強力士であった谷風梶之助(1750-95)が実は女性であった、という伝承が残る九州の里
  • インドのサード・ジェンダー(第三の性)で現代も存在する「ヒジュラ」の実態
  • 清朝時代の中国に存在し「芸能・接待・売春」を専らとした女装の美少年「相公(しゃんこん)」
  • 朝鮮半島における移動芸能集団「男寺党(ナムサダン)」における男色文化
 江戸時代の陰間とよく似た、芸能と売春を兼ねた女装の少年たちが、インドや中国や朝鮮やタイ(「カトゥーイ」と呼ばれる)にも存在した(している)のである。
 日本の場合、陰間以外にも、年長の男が少年を愛でる男色は、中世の僧侶や武士たちの間で広く習慣化していたことは良く知られる。
 トランスジェンダーについても、古くは『古事記』に登場するヤマトタケルの女装譚に始まり、各地の祭りにおける女装の伝統、歌舞伎の女形、宝塚の男役、美輪明宏、カルーセル麻紀、はるな愛、マツコ・デラックスに至るまで、日本は性別越境者に「やさしい」文化であり続けた。
 著者によると、「夜の街を安全に歩ける」「レストランに入っても追い出されない」「仲間が集まれるお店がある」日本は、韓国や欧米から来た女装者にとって「パラダイス」なのだという。
 もちろん、その背景には古来神道や仏教が、同性愛や性別越境を禁じたり否定したりする教えをもたなかったことにある。
 
 欧米のキリスト教圏のトランスジェンダーたちは、アジア地域(日本を含む)のように伝統的・土着的なサード・ジェンダー文化の基盤を受け継ぐことができず、異性装や同性間性愛を禁じるキリスト教の宗教規範と命がけで闘いながら、社会の中で一から自らのポジションを作っていかざるを得なかった。 

 日本という国の素晴らしさの一つ、日本人のユニークネス、そして欧米文化をはるかに凌駕する“先進性”は、性の多様性に対する受容精神にこそあるのではなかろうか。
 俗に言う、大らかな性である。

 そう思うと、いったい我々日本人にとっての「保守」とは一体なんなのか、ということに思い及ばざるを得ない。
 現在の保守右翼たちが掲げる「美しい国、日本」の偶像は、文明開化から戦前までの日本の姿にある。すなわち、大日本帝国だ。
 その「儒教的かつキリスト教(西欧)的」倫理にもとづく性観念・性道徳・家族像が彼らの守りたい価値なのである。(まさにそこが統一教会の教義と合致するところだった!)
 だが、それは長い日本の歴史の中のたった80年足らずの期間(1867~1945)のことに過ぎない。
 保守右翼が忌み嫌い押し潰そうとする、多様なセクシュアリティやジェンダーのあり方を認めようとする多くの民の声こそ、古来日本の伝統や日本人本来の感性につながる、本当の「保守」なのである。


P.S. 現在放映中のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、三代将軍源実朝(柿澤勇人)は、どうやらゲイという設定で、彼の思い人はいとこで三代執権となった北条泰時(坂口健太郎)らしい。
 三橋も書いているように、この時代「男色」という行為はあっても、「男色者あるいは同性愛者(ゲイ)」というセクシュアル・アイデンティティは存在しなかった。
 おそらくは、LGBTやBLファンの視聴者をあてこんだ脚本家・三谷幸喜のサービスであろうが、大河ドラマの主要人物に悩めるゲイキャラが当てられるのはじめてではなかろうか。
 今後の展開が期待される。(と言っても悲劇的結末が決まっているのだが・・・)

源実朝
右大臣源実朝
松岡 映丘(1881-1938)作



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損






● 本:『漂流 日本左翼史 理想なき左派の混迷』(池上彰、佐藤優共著)


2022年講談社現代新書

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 池上、佐藤両氏による戦後『日本左翼史』シリーズの三巻目にして完結編。
 敗戦から新左翼の誕生まで(1945-1960)の『真説編』、日米安保闘争から連合赤軍あさま山荘事件まで(1960-1972)の『激動編』に次いで、本編では、新左翼の失墜、労働運動の高まりと衰退、大量消費社会の到来、そしてソ連の崩壊と冷戦終結がもたらした左派陣営への打撃と現在まで続くその余波、が語られている。

 ソルティが小学校高学年くらいからの話なので、まさにリアルタイムで見て生きてきた日本なのだが、やはり知らないことが多かった。
 子供の頃、ストライキという言葉が頻繁に飛びかって、それになると会社員だった父親がなぜか仕事を休んで家にいたので、「ストライキっていいなあ」と単純に思ったものだ。
 国鉄のストライキ(順法闘争)――当時公務員であった国鉄職員はストライキ権を持っていなかったので、法に違反しない形での労働停滞闘争をした――が原因で起こった1973年の上尾駅事件、首都圏国鉄暴動など今回はじめて知った。

 赤羽駅ホームにいた約1500人の乗客が勤労の順法闘争により下り列車に乗車できなくなったことに激怒し、電車停止中に運転士を引き摺り下ろして電車を破壊し始め、赤羽駅での列車運行がすべて停止してしまったのです。その影響が山手線など他の路線にも及んだことで、上野、新宿、渋谷、秋葉原、有楽町など合わせて38駅でも同時多発的に暴動が起きてしまいました。
 上野駅ではいつまで経っても電車が発車しないことに怒った乗客が列車に投石して運転士を引き摺り下ろし、改札事務室や切符売り場を破壊。危険を感じた職員たちが逃げ出し無人状態となった駅で放火騒ぎが起きました。(池上による「首都圏国鉄暴動」の解説)

 日本人、熱かったなあ~。
 というより、今ならそこまでして会社に行こうとは思わないだろう。
 国鉄のストライキがある前の晩には多くのサラリーマンが会社に泊まり込んだため、都内の貸し布団屋が大繁盛したとか、まるで「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいな笑い話である。
 エコノミック・アニマルと言われ、愛社精神の強い当時の日本人ならでは、である。
 
 それで思い出したのだが、90年代初めにイタリア一周旅行したとき、南イタリアの小さな駅で列車が止まったまま、なかなか出発しない。
 発車時刻を1時間以上過ぎて、やっと車内放送があった。
 何を言っているかわからなかったので、同じコンパートメントの学生風のイタリア青年に片言の英語で尋ねてみたら、「ショーペロだ」と言う。
 ショーペロ?
 イタリア語でストライキのことであった。
 予告もなく急にストライキが始まって、そのまま乗客は立ち往生。
 でも、誰一人騒いだり、怒ったり、駅員に詰め寄ったりすることはなく、困っているふうにも見えない。「やれやれ」と言った風情で、オレンジなど食べている。
 なんて暢気な国民性だ!と感心した。
 結局、3時間待っても列車は動きださず、その街に泊まるはめになった。
 アンコーナという街だった。
 ドーモ(教会)のある丘から見た夕焼けは、生涯見た最も美しい景色の一つであった。

イタリアの夕焼け


 副題にある通り、現在の左翼は「理想なき混迷」にある。
 マルクス主義に則った「プロレタリア革命による共産主義社会の設立」という夢の残滓に漂っている。
 池上はこう述べる。
 
現在の左翼の元気のなさというか影響力の弱さは、もはや彼らが「大きな物語」を語り得なくなってきていることにあるかもしれませんね。「いずれ共産主義の理想社会が到来する」という、かつて語られていた「大きな物語」を語り続けるのが難しくなっている。

 その通りであろう。
 実際、今の共産党員の中に、それが武力だろうが無血だろうが選挙によるものだろうが、「革命による共産主義社会の設立」を本気で目指している人が、いったいどれくらいいるのだろう? 
 一度党員アンケートを取って公表してほしいところである。
 とは言え、本来の「物語」の代わりに、「平和=憲法9条護持」や「暮らしの安定」を党是として掲げて、冷戦終結後の逆境を乗り越えてきたその戦略性と組織力の高さはたいしたものだと思う。
 社民党(旧・社会党)が青息吐息の状態であることを思えば、自民党を筆頭とする保守勢力に対抗できる最後の砦としての日本共産党の意義は決して小さくはない。
 それだけに、社会主義・共産主義なんていう世迷言から一日でも早く脱却してほしい、とソルティは願っている。

共産主義者
よろしく!


 ときに、本書の発行は2022年7月。
 佐藤優による「あとがき」に付された日付も2022年7月であるが、そこでは安倍元首相の銃殺事件について触れられていない。おそらく、7月8日以前に書かれたのであろう。
 もし、池上と佐藤の対談が7月8日以降に行われたのなら、本書の内容はずいぶん違ったものになったのではないか、少なくとも最終章はまったく異なった展開となり、まったく異なった終わり方をしたであろう。
 この一日を境に、日本の政治状況はどんでん返しと言ってもいいほど変わってしまった。
 特に、日本の右翼(保守勢力)の内実がよくわからない不気味なものに転じてしまった。
 「愛国、天皇主義」を御旗に掲げてきたはずの自民党右派とくに安倍派が、「反日、反天皇主義」のカルト教団と深く結びついてきたことがあからさまになって、世の中がひっくり返ってしまった。

 目的を失って漂流しているのは左翼だけではない。
 右翼もまた漂流、いや転覆してしまった
 三島由紀夫がこの様を見たら、どんなに激怒することか!

 おそらく、しばらく前から「右翼、左翼」といった対立概念で説明できるような時代はとうに過ぎていたのだろう。
 一部の篤い宗教信者はのぞいて、右も左も誰もみな本気で「大きな物語」など信じていなかったのだ。
 「右翼と左翼」という物語の終焉――それが安倍元首相銃殺事件が白日のもとに晒した、令和日本の現実なのではなかろうか。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損








● マザームーンの嫁 本:『わが父 文鮮明の正体』(洪蘭淑著)

1998年文藝春秋
林四郎訳

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 原題は In the Shadow of the Moons――My Life in the Reverend Sun Myung Moon’s Family 「月の影――文鮮明一家における私の半生」 
 
 洪蘭淑(ホン・ナンスク)は1966年韓国生まれの女性。
 もっとも初期からの文鮮明の弟子であった両親の間に生まれ、15歳で文鮮明の長男・文孝進(ムン・ヒョウジン)と娶わせられる。もちろん、本人たちの意志や好みは関係なく。
 その後、アメリカの豪邸で文鮮明一家の傍らで姑の韓鶴子(ハン・ハクチャ)、いわゆるマザームーンに侍女のように仕えながら、10代で4人の子供を産む。
 統一教会後継者候補の妻という、世界中の信者が羨むような輝かしい地位と贅沢極まりない生活を手にしながら、彼女は不幸だった。
 その一番の原因は、夫・孝進のアルコールとドラッグ漬け、派手な女性関係、そしてDV(家庭内暴力)。
 1985年8月のある朝、ついに彼女は4人の子供を連れて屋敷を抜け出し、文一家とも統一教会とも袂を分かつ。

 これはフィクションではない。
 なので、こう言ってしまうと語弊があるが、「とんでもなく面白かった!」
 読んでいる間、「事実は小説より奇なり」という言葉が何度も浮かんだ。
 むろん、いま最もタイムリーでビビッド(鮮明)な話題であるからだが、それを抜きにしても、周囲の望むとおりに流されるまま生きてきた一人の従順な女性が、間違いに気づき、自らの頭で考え行動することを覚え、やがて自立するまでの半生を綴った成長ドラマとして読む価値が高い。
 カルト宗教や家庭問題やDVなどさまざまなテーマを含む内容の濃さ。
 教会および夫からの脱出劇というクライマックスに向けてページをめくる手が止まらない。
 文藝春秋は今こそ本書を文庫化して再発売してはどうだろうか。

壺1


 著者自身は文鮮明の長男の妻であり、著者の兄は文鮮明の長女の夫である、ということから明らかなように、長年、洪一家と文一家は密接な関係にあった。
 著者の父親・洪成杓(ホン・ソンピョ)は、統一教会を支える巨大ビジネス帝国の最初の敷石となった一和(イルファ)製薬の社長だった。
 著者はまた、文鮮明夫婦やその10人を超える子息子女たちと、14年間生活を共にしてきた。
 つまり、もっともよく文一家の実像を知る外部から来た人間というわけで、それだけにこの内幕暴露は信憑性が高い。
 教会の核である文一家の非常識きわまる実態や、中心に近づけば近づくほどに歪みと狂気が増す教会の出鱈目ぶりや怖ろしさが暴き出されている。

 今焦眉の「2世問題」もある。
 著者はまさに生まれついての信者であり、長じてから誰かから信仰を強制されたのでも、拉致監禁されて洗脳されたのでもない。
 統一教会の教義が当たり前である環境に生まれ育ち、文鮮明がメシアであることを小さい頃から疑うことなく受け入れてきた。

 私が経験したのは条件反射だった。人は画一的な精神をもつ人びとのあいだに隔離させられ、批判的思考よりも従順を高く評価するメッセージを雨あられと浴びせられると、信仰体系は常に強められる。教会に長く関係していればいるほど、これらの信心に身を捧げるようになる。十年後、二十年後、自分の信念が砂の上に立てられていたことを、たとえ自分自身に対してであっても、だれが認めたがるだろうか?
 確かに私は認めたくなかった。私は内部の人間だった。私は文師の甚だしい過失――息子の行動を許容していること、子供たちを殴ること、私に対する言葉による虐待――を許すほど充分に、文師から親切にされた。彼を許さないことは、私の全人生に疑問を抱くことだった。

 うがった見方をすれば、夫・孝進の目にあまる不品行やDVが彼女の“生まれついての洗脳状態”を解くのに役立ったわけで、それがなければ彼女はいまも教会にとどまって「マザームーン2世」になっていた可能性も否めない。
 
 ドメスティック・バイオレンスの典型的な事例としても読む価値が高い。
  • DVがどんなふうに始まり、激化していくか。
  • 被害者である妻が、加害者である夫を「私の力で救ってあげる」と勘違いする心理の綾。
  • なぜ被害者はそこから逃げようとしないのか、あるいは逃げられなくなるのか。
  • 被害者がようやく事態を客観的に見られるようになり、逃げだす決心をするまでの過程。
  • 被害者に周囲のサポートや法的・経済的支援が必要な理由
 本書を読むと、こういったことが手に取るように分かる。
 孝進は単に男尊女卑、亭主関白の風潮が強い韓国の夫というだけではなかった。
 著者が信仰する宗教組織の絶対君主のような教祖の息子で、次期リーダー候補でもあった。
 そこには結婚の当初から圧倒的な上下関係があったのである。

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 家族というテーマもある。
 いまや誰もが知るように、統一教会の教義の中心は「家庭至上主義」である。
 一対の純潔な男と女が、メシア文鮮明によって主宰される合同結婚により結ばれて、妻は夫に尽くし、夫は妻を守り、互いに相手を裏切らず、信者となるべき沢山の子供をつくり、愛情のうちに育てる。いわく、「家族とは、愛を育て、幸福と平和を学ぶ場所」。
 日本の戦前を思わせる男女観、結婚観、夫婦観、家族観がそこに見られる。
 当然、婚前交渉や浮気や不倫はもちろんのこと、夫婦別姓や同性婚はとんでもない悪魔的所業となる。

 ここでこの思想についての是非を論じることはしない。
 言及したいのは、こうした思想を説きまわった文鮮明が、まったく自らの教えと離反する行為ばかりしていたことである。
 本書によれば、文鮮明とマザームーンは13人の子供をもったが、いずれも生まれるそばから側近に預け、自らの手で育てることをしなかった。
 子供たちはあり余るお金で贅沢し放題、文夫妻の愛顧を得ようとする周囲の信者たちにかしずかれ、悪いことをしても叱られることも責任を取らされることもなく、つまるところ暴君のように育つ。
 また文鮮明は浮気を繰り返し、婚外子をもうけている。

 その息子孝進は十代の頃から見境なく女遊びをし、結婚してもまったく治まることがなかった。生まれてきた子供の誕生日も学年も知らない。
 孝進はアルコールとドラッグ漬けになり健康状態が悪化、著者との離婚が成立した後、40代で亡くなった。
 DV加害者として許されない人間であると思う一方、可哀想なところもある。
 両親から必要な愛情やしつけを受けることなく甘やかされて育ち、次代のメシアとして周囲から過重な期待が寄せられて、その孤独とプレッシャーは半端なかったであろう。
 ここにあるのは、虐待の連鎖であると同時に、典型的な「機能不全家庭」の姿である。
 これが教会の言う「愛を育て、幸福と平和を学ぶ場所」の最高モデルだった。
 著者が、この環境にいながら自らの4人の子供を愛情をもって育て上げ、文家の家風に感化させなかったことを誉めたたえたい。

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 もう一点、我々日本人にとって看過できないテーマがある。
 日本が教会に対して果たし続けてきた役割である。

 日本は帝国的カルト発祥の地と言ってよい。19世紀、日本の天皇は神聖を宣言され、日本の民衆は古代の神々の子孫であると宣言された。第二次世界大戦後の1945年、連合国により廃止された国家神道は、日本人にその指導者たちを崇拝することを要求した。権威に対する従順と自己犠牲は、最高の美徳と考えられた。
 したがって、文鮮明のようなメシア的指導者にとって、日本が肥沃な資金調達地であることになんの不思議もない。年配の人びとには、自分たちの愛する者たちが霊界で平安な休息に達することを切実に望む気持ちがあるが、熱心な統一教会員たちはそれに目をつけた。彼らは何千人もの人びとに、これを買えば亡き家族は必ず天国に入れますよと言って、宗教的な壺や数珠、絵画を売りつけ、何百万ドルも巻き上げた。

 文師は日本との重要な金銭関係を神学用語で説明した。韓国は「アダム国」、日本は「エバ国」である。妻として、母として、日本は「お父様」の国である文鮮明の韓国を支えなければならない。この見方にはちょっとした復讐以上のものがある。文鮮明や統一教会におけるその信者も含めて、日本の35年間にわたる過酷な植民地統治を許している韓国人はほとんどいない。

 文鮮明および統一教会の基本ポリシーは「反日」「反共」。
 これは文鮮明自身が、子供時代に植民地政府である大日本帝国から様々な迫害や抑圧を受けたこと(たとえば朝鮮の全家庭には家に神棚と御真影を祀るよう命じられた)、青年時代に平壌で宣教を始めたときに共産党当局から睨まれて拷問を受け強制収容所送りとなったこと、が大きな要因となっているようだ。
 つまるところ、戦前・戦中に日本が朝鮮人に対して行った様々な所業が、回り回って、後年、日本の信者たちが韓国人である文鮮明に対して多大な賠償を払い続けなければならない結果となったわけで、その巡りあわせに因果応報という言葉すら浮かんだ。

 とは言え、安倍元首相を殺害した山上容疑者の場合をあげるまでもなく、家庭を崩壊させるほどのあこぎな集金活動や、人格を崩壊し親兄弟を分裂させる洗脳システムは、基本的人権尊重を掲げる法治国家としてとうてい見逃すことのできるものではない。
 本書で明らかにされた文一家の実態くらい、「宗教」や「平和」や「家族愛」という言葉からかけ離れたものはない。
 純潔と清貧と自己犠牲の心でもって教会に奉仕し、文一家を「神の家庭」と仰ぎ見ている末端の真面目な信者たちがあまりに哀れである。
 洪蘭淑はこう指弾する。

 統一教会の中心にある悪は、文一家の偽善とペテンである。一家は、その信じられないほどのレベルに達した機能障害のなかで、あまりにも人間的である。教会に引き込まれた理想主義的な若者たちよりも、文一家が霊的に優れているという神話を広め続けることは、恥ずべき欺瞞である。

 文鮮明は2012年に亡くなった。
 その息子たちが相次いで亡くなったり会と対立して離反したりで、現在80歳近いマザームーンが頼朝亡き後の北条政子の如く、君臨している。
 その後継者はいまだ決まっていない。

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おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● ブーメランのごとく 本:『永遠の0』(百田尚樹著)

2006年太田出版
2009年講談社文庫

 ある人物がどういった人かを知るには、その愛読書を知るに如くはない。
 もっともその人が活字を読む人間であることが前提であるが。

 本書は、安部元首相の愛読書だったという。
 会う人ごとに薦めていたとも聞かれる。
 そういうわけで、安倍晋三がどういう人物であったか推測しようと思い、そうでもなければまず手に取ることはなかったであろう百田尚樹の本を読んでみた。
 ソルティの中での百田のイメージは、「頑迷で自己顕示欲の強い保守親爺」「安倍晋三びいきの歴史修正主義者」というものである。

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 ベストセラーとなり岡田准一主演で映画にもなった本書は、第二次世界大戦時の日本軍による特別攻撃隊、いわゆる零戦によるカミカゼ特攻をテーマとしている。
 終戦間際にカミカゼ特攻で亡くなった祖父・宮部久蔵の真の姿を探るため、孫である姉弟が生前の祖父を知る元兵士たちを訪問して話を聞くというプロットである。
 「臆病者だった」「熟練のパイロットだった」「あくまで命を大切にする男だった」「卑怯な奴だった」「家族思いの人間だった」・・・・複数の証言者によって語られる祖父の様々な姿。それとともにあぶり出される太平洋戦争の推移と英雄とも言えるパイロットたちの活躍、そして戦略なき日本軍の醜態につぐ醜態。

 一人の人間の真実を複数の他者の口を借りて描き出すというミステリー仕立ての構成は、有吉佐和子の『悪女について』を思わせ、読み手の好奇心を煽る。
 真珠湾から始まる怒濤の進撃で一気に波に乗るも、ミッドウェー、ガダルカナル、ラバウル、サイパン、レイテ、沖縄、原爆投下と敗退していく太平洋戦争の推移も、敗因の推測とともに非常にわかりやすく描き出されていて、下手な歴史書を読むよりずっと理解に役立つ。
 当然のことながら、軍艦や戦闘機などの機能の説明や米軍とのスリル満点のリアルな戦闘シーンなどミリタリーオタクが喜びそうな描写もたくさんある。が、ソルティのようなミリタリーに興味のない読者にとっても、わかりやすく端的に説明されている。
 姉弟が日本の各地で出会うかつての祖父の同僚たちも、リアリティ豊かにキャラ分けされ、出会いの一つ一つがドラマを生み、それによって内面の変化を遂げていく姉弟それぞれの心理描写もうまい。
 そして、最後にやって来る大どんでん返しと、人が人を思いやる気持ちが生み出す熱い感動は、ミステリーと人間ドラマの見事な融合となって読む者の心を打つ。
 小説としての出来は素晴らしい。
 これが百田のデビュー作というのだから文才はたいしたものである。

零戦

 ソルティはネットなどで見る百田の言説から推測して、本作を「国や天皇のために喜んで身を捧げた男たちへの讃美」すなわち国粋主義的英雄観がテーマかと思っていた。
 しかし、そうではなかった。
 これは「国のためでも天皇のためでも、ましてや軍のためでもなく、愛する者のために生き延びようとし、愛する者のために死を覚悟した男への讃歌」だったのである。
 ナショナリズム掲揚、天皇陛下万歳といった話ではない。
 戦略らしい戦略もなしに無謀でやけっぱちな戦闘をくり返す国家や軍への批判、配下の命など微塵も顧みず保身と出世に汲々とするエリート仕官たちへの憤り、そして米軍によってバカボン(baka bomb馬鹿爆弾)と揶揄されたカミカゼ特攻という悪魔的な愚行に対する否定を、百田はしっかりと書いている。ここでは作者は庶民の側にいる。
 百田とは政治的・思想的にまったく反対の立場にいるソルティにも、十分受け入れられる内容であった。

 それだけに、なぜ百田が安倍元首相の信者となったのか、なぜ安倍晋三が本書を愛読したのか、不思議な気がする。
 想像するに、安倍晋三は「愛する者を守るために、不当な批判や攻撃も恐れず、強い意志でもって自らを貫き通し、一身を捧げる」主人公・宮部久蔵の姿に、憲法改正に命を懸ける自身を重ねたのだろう。
 しかるに、宮部久蔵と安倍晋三とでは立場が違う。
 安倍晋三は断じて庶民ではなかった。
 生まれついてのエリートであり、国民の上に立つ為政者となるべく育てられ、国政や自衛隊を操ることのできる最高権力者であった。たとえ日本が戦争に巻き込まれても、戦場に赴くことなど決してない上級国民である。
 まさに彼こそはカミカゼ特攻のような愚かな作戦を生み出し行使できる立場にいた中心人物だったのであり、それはアベノマスクという baka bomb が証明しているではないか!
 その上に、反日教義に彩られた悪名高きカルト教団の広告塔に自ら進んでなり、天皇を象徴として戴く国体を脅かそうとした男である。
 これを愛国者という名で呼びうるだろうか?
 
  本作中で百田は朝日新聞記者を思わせる男を登場させ、戦後経済界の大物になった武田という名の元兵士の口を借りて、徹底的に左翼ジャーナリズム批判を繰り広げている。
 いわく、戦前は世論を煽って軍部に力を与え、戦時中は忠心愛国を訴え戦意高揚の徒となり、戦争に負けるや手の平を返すように正義者面して反戦と自虐史観を説く。
 確かに当たっているところもある。 
 今回の旧統一協会に関する報道においても、ジャーナリズム(とくにNHKと朝日)の姿勢には首を捻らざるを得ないところが多い。
 社会の木鐸としての使命感と、正々堂々と自己批判できる自浄能力を失っているのではないかと心配になる。
 武田の口を借りて、百田は左を撃つ。
「今日、この国ほど、自らの国を軽蔑し、近隣諸国におもねる売国奴的な政治家や文化人を生み出した国はない」
  
 まったくその通りだ。
 いまやブーメランは零戦のように空中旋回し、右に突き刺さっている。




おすすめ度 :★★★

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 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『ケストナーの終戦日記』(エーリッヒ・ケストナー著)

1961年原著刊行
1985年駸々堂出版(高橋健二訳)

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 エーリッヒ・ケストナー(1899-1974)はドイツの詩人・小説家。
 『エミールと探偵たち』、『飛ぶ教室』、『二人のロッテ』など児童文学作家としても名高い。
 劇団四季によってミュージカル化された『ふたりのロッテ』のポスターを、駅構内や列車内で見かけたことのある人は多いだろう。

ふたりのロッテ
劇団四季『ふたりのロッテ』ポスター

 本作はその名の通り、1945年2月から8月にかけて、すなわちベルリン陥落前から広島・長崎原爆投下にかけてのケストナーの日記である。
 年譜によれば、次のようになる。
  • 2月 ヤルタ会談・・・・ルーズベルト(米)・チャーチル(英)・スターリン(ソ)によるドイツの戦後処理についての協定。
  • 4月7日 ソ連軍がウィーン占領
  • 4月20日 ソ連軍がベルリン包囲
  • 4月27日 オーストリア臨時政府、独立宣言
  • 4月30日 ヒトラー自殺、アメリカ軍がミュンヘン占領
  • 5月8日 ドイツ無条件降伏
  • 7月17日 ポツダム宣言・・・・日本の戦後処理についての宣言
  • 8月6日 広島に原爆投下
  • 8月9日 長崎に原爆投下
  • 8月15日 日本無条件降伏
 ケストナーはこの期間、パートナーのロッテと共に、ベルリン(のちの東独)~マイヤーホーフェン(オーストリアの山岳地帯)~バイエルン(のちの西独)~シュリーア湖(西独)と、食と安全を求めて転々とした。
 というのも、連合国軍の攻撃を受けドイツ敗北がすでに決定的となっていたにもかかわらず、ドイツおよび占領されたオーストリア国内では依然としてナチス・ドイツによる支配が続いており、党員や軍人による市民に対する目にあまる横暴があったからである。
 ケストナーはファシズムを非難したため当局から目をつけられ、秘密警察に二度逮捕され、執筆を禁じられ、目の前で著書を焼かれるなど、いつ捕らえられて処刑されてもおかしくない立場にあった。
 ドイツ降伏後は逮捕される心配こそなくなったが、あいかわらず窮乏生活が続き、友人・知人を頼るほかなかった。

 そのような忍耐と不安と空腹の強いられる中で、速記文字でこっそりとつけられたのがこの日記である。
 戦時下の庶民の日常がどんなものであったか、終戦間際のナチス・ドイツの混乱がいかなるものであったか、戦争が終結した喜びがどれほど大きかったか、そしてモラルの崩壊した非日常的空間において人間がいかに奇矯な振る舞いをなし得るか、具体的なエピソードでもって語られている。
 ソルティはケストナーを読むのはこれが初めてであるが、皮肉というかブラックユーモアに長けた人である。
 もっとも周囲の状況を考えれば、どんなユーモアもブッラクにならざるを得ないだろう。
 本来なら明るいユーモアを得意とする作家なのだろう。でなければ世界中で愛される児童文学など書けるものではない。

auschwitz
アウシュビッツ収容所 

 読んでいると、日本の敗戦間際の状況と酷似するところが多い。
 敗戦時にはいずれの国でも同じような現象が起こるのか、あるいは日本人とドイツ人に共通したメンタリティによるものなのか。
  • もはや敗北が明らかなのに戦闘にこだわり続け、多くの国民を無駄死にさせた点。
  • マスメディアを操作し、負けているのに勝っていると国民を最後までだましつづけた点。
  • 下っ端の若い兵士に爆弾を身につけさせ敵の戦車に体当たりさせる、まるで「神風特攻隊」のようなグロテスク。
  • ラジオでは降伏について語っているというのに、子供たちに軍服を着せて武装させ、第一線に送り続ける玉砕作戦! 
 ケストナーは、ファシズムを可能にし、結果としてこういった理不尽な行動につながる背景となったドイツ的性格の欠点について、次のように述べている。

 「すべての人、上にある権威に従うべし!」という聖書の一句をわたしたちは他の諸民族よりも言葉どおりに受けとる。わたしたちの反抗をさまたげるものは、鎖だけではない。わたしたちを無力にするものは、あらわな恐怖だけではない。わたしたちは数十万人たばになって死ぬ用意がある。いつでも上からの命令があれば、悪事のためにでも死ぬ用意がある。わたしたちは集団で、号令のままに自己を犠牲にする。わたしたちは暗殺者ではない。もっとも崇高な目的のためであっても、いや、そのためにこそ、暗殺者にはならない。わたしたちの暗殺は失敗する。それは性格に結びついている。わたしたちは政治的に従属的人間なのだ。わたしたちは国家に虐待されて喜ぶマゾヒストだ。

 なんだか日本人のことを言われているような気がした。

 いま、日本の民主主義は危機的状況にあると思う。
 選挙権を手にしてから一度も自民党に入れたことのないソルティにとって何よりやるかたないのは、こうした状況を招いたのが、戦前の軍部の独走や戦後のGHQによる支配、あるいはメディアによる言論統制といった他律的な要因によるものではなく、選挙という民主的な手段、すなわち民意によって“自発的に”このようになってしまった――という点である。

 あきらめずに声を上げるしかない。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 日本の黒い霧ふたたび2 本:『赤報隊の秘密』(鈴木邦男著)

1990年エスエル出版会
1999年復刻版

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 副題は「朝日新聞連続襲撃事件の真相」
 朝日新聞記者であった樋田毅が被害者の身内の立場から赤報隊の正体を探ったのに対し、本書のポイントは、加害者と目された右翼の立場から、しかも当初警察によって作られた“最も怪しい容疑者9人リスト”にその名が上がっていた鈴木邦男が、真相を求めて推理を展開している点である。

 むろん、鈴木邦男は真犯人ではない。
 本書を読むと、「鈴木にはできないよなあ~」と思わざるを得ない。
 連続テロを仕掛けて正体がバレない、捕まらないでいるには、相当の緻密さと慎重さと専門的訓練、そして感情を制御できるサイコパス性が必要と思われる。
 本書の中に見る鈴木の文章や対談の語り口調からは、そういったものがまったく感じとれないのである。
 なにより自分がやったことを黙っていられる人ではない。
 9人リストから最初に落ちたのではなかろうか。

 被害者である朝日新聞社もそう思っていたようで、本書には朝日新聞編集委員で右翼に詳しい伊波新之助との対談が掲載されている。
 ここでも理路整然と冷徹に論を進める伊波に対して、鈴木の語りは全般情緒的にして文学的、伊波に突っ込まれると言葉に窮してしまう場面もみられる。
 胆力は別として、どっちが連続テロをできる資質を備えているかと言えば、まず伊波に軍配(?)が上がろう。
 
 思うに、右翼というのは任侠の世界と部分的に重なるところからも推察されるように、純粋で単細胞、理屈より行動、常識より義理人情、保身より捨て身、「自らを犠牲にして敵を討ちとって功を成す」こそ誉れであり、正体を隠しての連続テロのような知的犯罪には向かないのではなかろうか。
 本書で鈴木が繰り返し語っているのもまさにそこで、「赤報隊事件は右翼が起こしたものとは思えない」という点に尽きる。

 右翼の中では今回の事件は右翼と関係ないと思っている人が圧倒的ですよ。右翼の装いをして私憤をはらそうとしているヤクザなり暴力団なりの仕業ではないかと。

 右翼の行動にはいつも、なんらかの「臭い」とか「情緒」とか「精神」を感じさせるものがある。ところが今回はそれが全くなくて、「完全犯罪」というか、プロのやり方という感じ。
 
 新右翼でもなければ右翼でもない。また左翼的なものでもない。思想を訴えるためのものではありません。
 
 右翼の歴史というのは、みんな涙のあるテロリズムなんですね。無差別テロはやらないし、あくまでもトップを狙う。また、自分が犯行を犯したならば、それと同じような犠牲を自分も負う。血盟団でも、5・15事件でも、みんなそうでしょう。浅沼事件の山口二矢(おとや)しかり。みんな自決するか逮捕されて、出獄してきたら、殺した人の墓参りに行く。みんな情緒的で乾いていない。・・・・・・末端の記者を、それも無差別に近いかたちでやって、それで自分は逃げて、顔も現わさない。卑劣きわまるやり方だ。右翼はあんな卑劣なことはしませんよ。
 
 こうした感覚は、ひとり右翼関係者のみならず、被害者である朝日新聞社の取材陣の中にも、さらには捜査を担当した警察の内部でも共有されていたらしい。
 NHKが2018年1月28日に放映したNHKスぺシャル「未解決事件File.06 赤報隊事件」を観ると、事件を担当した元兵庫県警の捜査員が、極道方面から情報を得て、朝日新聞社に反感を持つ「ある宗教団体」の捜査に取りかかったところ、「上からストップがかかった」と語るシーンがある。(現在、NHKオンデマンドからはなぜかこの放送回がはずされている)

 事件の解決を阻んでいる勢力の存在を感じざるを得ない。





おすすめ度 :★★★

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● 日本の黒い霧ふたたび 本:『記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実』(樋田毅著)

2018年岩波新書

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 先ごろ大宅壮一ノンフィクション賞をとった『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋)の著者による、「人生のテーマ」となったと言うもう一つの事件を描いた渾身のノンフィクション。

 早大キャンパスに自由と平和を取り戻すべく、仲間と連帯し、徒手空拳で革マル派とたたかった樋田は、卒業後朝日新聞に入社した。
 新聞記者として経験を積み、人脈を広げ、実力を身に着けてきた9年目、兵庫県西宮市にある阪神支局で一大事件が勃発する。

 1987年5月3日の夜8時過ぎ、目出し帽で正体を隠した男が阪神支局のビルに侵入し、雑談していた記者らを散弾銃で撃った。
 当時29歳の小尻友博記者が射殺され、42歳の犬飼兵衛記者は重傷を負った。
 犯人は赤報隊を名乗る右翼らしき一味で、凶行後にマスコミ宛に犯行声明を送った。
 「この日本を否定するものを許さない」「すべての朝日社員に死刑を言いわたす」云々。
 当時樋田は大阪社会部に所属していたが、3年前まで阪神支局にいた。
 事件後に担当デスクより特命を帯び、選ばれた仲間と共に事件を取材し、犯人探しに奔走する。

 私と仲間たちが、この30年間にしてきたのは、一般的な取材ではなく、犯人を追い求める取材だった。(犯罪に使用された)ワープロや銃など物証に関わる情報収集も重要な仕事だったが、より究極な任務は、犯人かもしれないと考えた人物に会うこと、犯人について何か手がかりを得られそうな人物に会い続けることだった。取材者の多くは、右翼活動家たちで、暴力団関係者もいた。(カッコ内ソルティ補足)

 実際の死傷者を出した上記の事件のほかに、赤報隊は複数のテロ事件を起こし、そのたびに同じワープロによる犯行声明を出していた。

1987年(昭和62年)
  • 1月24日 朝日新聞東京本社に発砲。怪我人なし。
  • 5月3日  朝日新聞阪神支局を襲撃。1名殺傷、1名重傷。
  • 9月24日  朝日新聞名古屋本社社員寮を襲撃。記者不在だったため寮内で発砲し逃走。
1988年(昭和63年)
  • 3月11日 朝日新聞静岡支局に時限爆弾を設置。装置に不備があり爆発ならず。
  • 3月11日 中曽根康弘・竹下登両元首相に脅迫状を送る。
  • 8月10日 江副浩正リクルート元会長宅を襲撃、発砲。怪我人なし。
1990年(平成2年)
  • 5月17日 愛知韓国人会館に放火。怪我人なし。

 警察および朝日新聞社による懸命な捜査も空しく、事件は2003年に時効を迎え、お蔵入りとなった。
 本書は、2017年に朝日新聞を退社した樋田が、これまでの膨大な取材資料をもとに執筆したものである。

赤報隊事件記事 (3)
毎日新聞1987年5月4日付朝刊より

 1987年と言えばバブル絶頂の頃合い。
 ソルティは都内に住み、都内の会社に勤務していた。
 が、この事件の記憶がほとんどない。
 当時は超タカ派の中曽根康弘が政権を握り、戦前回帰を思わす国粋主義的な政策が次々と打ち出されていた。国家秘密法案(現「特定秘密保護法」)上程、靖国神社公式参拝、復古調の教科書の検定通過 ・・・・・e.t.c.
 それに対して全社を挙げて中曽根政権を批判していたのが朝日新聞社だった。
 右翼の赤報隊が朝日新聞社を目の敵にするのは自然である。
 一方、中曽根や竹下に脅迫状を送ったのは、アジア諸国からの強い非難を浴びた両者が後退姿勢を見せたことによる苛立ちが原因と推測された。

 当時ソルティは右でも左でもなかった。
 産経新聞を取っていたが、その理由は読売や朝日より購読料が安かったからで、それがもっとも右寄りの新聞であることも知らなかった。
 ありていに言えば、政治に無関心だったのである。
 「バカな右翼が何かやってるなあ。朝日新聞も受難だなあ。さて今日は何の映画を観に行こうか」といったノンポリ気まま役立たず新人類だった。
 つくづく、感情や関心によってタグづけされなければ記憶は残らないのである。

 本書を手にしたのは、ここ最近の旧統一協会騒動をめぐるネット情報の中にこの事件の名前を見かけたからである。
 赤報隊事件は右翼の仕業だろう? なんで統一協会が?
 そう言えば、『彼は早稲田で死んだ』を書いた樋田毅が、赤報隊事件についても本を出していたっけ・・・・。
 ということで図書館で借りて読んでみたら、びっくらこいた。
 この事件の捜査線上には右翼と並んで統一協会も上げられており、当時から警察も樋田たちも協会の周辺、とくに協会肝いりの政治団体である国際勝共連合を探っていたのである。
 反共産主義を掲げている右寄りの統一協会および勝共連合にとって、朝日新聞は封じ込めたい敵(サタン)の筆頭であるが、そればかりでなく、当時朝日は統一協会のいわゆる“霊感商法”を批判する糾弾キャンペーンをおこなっていた。
 両者は強い緊張関係にあったのである。

 ソルティはこちらのほうなら覚えている。
 80年代後半から統一協会の強引な資金調達活動(信者からの集金)や教団への勧誘やマインドコントロールの実態などが、脱会した元信者の証言や被害者を支援する弁護士の解説とともに、マスコミに取り上げられるようになった。
 その頂点は92年に韓国ソウルのオリンピック・スタジアムで行われた合同結婚式。
 桜田淳子、山崎浩子、徳田敦子ら有名人が参加したこともあって、報道は熾烈を極めた。
 その後、95年にオウム真理教事件が勃発したこともあって、統一教会の動向は世間からよく見えないものになった。

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 本書第1部では赤報隊事件の概要が物語風にわかりやすく説明され、第2部では犯行声明の内容からして最も濃厚な被疑者と思われる右翼に対する樋田らの捜査経過が記されている。
 
 一言で右翼と言っても、様々な思想・政治的背景、行動形態、活動分野があることが分かった。そして、私たちが追いかけている「赤報隊」は、右翼世界のどのあたりに位置しているのか。日本の右翼の世界を図式化することで、「赤報隊」に迫る道筋を探ることができるのではないかと考えてきた。

 読者の理解を助けるべく本書に掲載されている右翼世界の分類図が非常にわかりやすい。
 今後の右翼に関するニュース報道や資料を読み解く際に役だつと思うので、ここに上げさせていただく。
 
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本書より転載(樋田毅作・日本の右翼の構図)

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本書より転載(樋田毅作・日本の右翼の6つのグループ) 

 樋田および朝日新聞特命班は、警察がマークした9人の容疑者――新右翼団体「一水会」の鈴木邦男含む――をはじめ、全国約300人の右翼思想家・右翼活動家に取材して調査を進めてきた。
 暴力を肯定する猛々しい敵の中に乗り込んでいく樋田の度胸や執念、プロ根性は見上げたものである。
 同僚の死に対する「弔い合戦」的な思いは当然あったであろう。
 その奥には学生時代に挫折した革マル派との攻防の記憶、キャンパスで殺された川口大三郎君の「カタキを取る」という思いもあったのではなかろうか。
 右であれ左であれ、暴力は絶対に許さないという樋田の信念が全編にあふれている。
 だが、残念ながら樋田ら特命班は、右翼の中に犯人を特定することはできなかった。 

 第3部では、統一協会(本書ではα協会と記載)および勝共連合(同様にα連合)に対する捜査過程が記されている。
 ここでは、勝共連合内部で朝日新聞に対する憎悪が半端なく高まっていたこと、全国に20を超える射撃場付きの銃砲店を持っていること、軍事訓練を受けた秘密部隊があった(ある?)らしいこと、裏工作を専門とする機関があったこと、内輪もめから協会を追放されその後協会を告発する記事を発表した元広報局長が何者かによって瀕死の重傷を負わされたこと、などが取材によって明らかにされる。
 元信者の証言や潜入取材などから浮かび上がる統一協会の実態が(そのまま事実であるならば)実に恐ろしい。
 松本清張が『日本の黒い霧』の中で取り上げたGHQのキャノン機関の謀略の数々を連想させる。
 しかし結局、赤報隊事件とのつながりを示す明らかな証拠はここでも見つからなかった。

 犯人側はなぜ、阪神支局を襲撃したのか。なぜ、小尻記者を射殺したのか。なぜ、赤報隊と名乗ったのか。なぜ、朝日新聞の関連施設を攻撃対象に選び続けたのか。そもそもの犯行目的は何だったのか。30年間にも及ぶ取材にもかかわらず、事件をめぐる謎は何一つ解明できていない。時間の経過とともに、取材対象は広がったが、事件をめぐる闇は深まるばかりである。

 黒い霧はいまも日本を覆っている。
 この霧の背後になにが隠されているのだろうか?
 真夏の怪談にも増して怖い。
 怖いけれど、もはやノンポリではいられない。
 事態は切迫している。




おすすめ度 :★★★★

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● 大人は判ってくれない 本:『連合赤軍少年A』(加藤倫教著)

2003年新潮社

 1972年2月に起きた連合赤軍事件の当事者による手記。
 加藤倫教(のりみち)は兄弟3人で連合赤軍に加わり、兄を山岳アジトにおける集団リンチで失う。
 その後、警察に追われて山中を逃げ回ったあげく、弟を含む他の4人と共にあさま山荘に人質を取って立て籠もった。
 
連合赤軍事件
 大学闘争の後、武装した左翼グループが栃木県真岡市で猟銃を強奪。72年2月、山岳アジトを移動して長野県の「あさま山荘」に立てこもり、警察と銃撃戦を繰り広げた。「総括」と称して群馬県内で仲間12人をリンチ殺人、遺体を山中に埋めた。
 (出典 朝日新聞掲載「キーワード」)

 9日間の攻防ののち、機動隊突入によって山荘は破壊され、全員逮捕。
 当時19歳の加藤は懲役13年の刑を受けて服役、1987年1月に仮釈放された。
 16歳の弟は少年院に送られ、2年間の収容生活を送った。
 本書は事件発生30年後に書かれたものである。

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 この事件の概要を知るには、若松孝二監督『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2007)が最適であろう。
 左翼運動隆盛の世相、連合赤軍が誕生するまでの経緯、榛名山の山岳ベース(手作りの小屋)における異様な合宿生活、「総括」という名の集団リンチ殺人、遺体遺棄、山中逃亡からあさま山荘立て籠もり、機動隊との数日におよぶ攻防、そして逮捕に至るまで、一連の流れを警察や機動隊やマスコミや世間一般の視点ではなく、連合赤軍内部の視点で描いている。
 山岳ベースでのリンチの模様などは背筋が凍るほど怖い。

 先に映画の方を観ていたこともあって、本書の衝撃はそれほど強くなかった。
 何が起きたかは先刻承知であり、特異な思想に侵された閉鎖集団で起こる異常な人間関係やそこに醸し出される異様な空気もまた、若松によって見事に映像化されている。
 ビジュアルと活字のインパクトの差も大きい。
 活字がビジュアルに勝つには、冷静な人間観察をもとにした緻密な心理描写や人間関係の洞察、起きたことへの筆者なりの解釈が必要と思う。
 残念ながら、その部分が本書は弱いのである。
 全般、物足りない感じがする。
 これはおそらく、加藤が当時まだ十代で社会経験に乏しかったこと、組織の中では一番下にいて主要な決定の場には列していなかったこと、事実のみの記述に気を配り他人の思考や心理については憶測で書かないように注意しているらしいこと、それに「思想云々より行動」を尊ぶ加藤自身の資質などが関係しているんじゃないかと推測する。

 私や多くの仲間が武装闘争に参加しようと思ったのは、アメリカのベトナム侵略に日本が荷担することによってベトナム戦争が中国にまで拡大し、アジア全体を巻き込んで、ひいては世界大戦になりかねないという流れを何が何でも食い止めねばならない、と思ったからだった。
 幼稚な言い方になるが、私は「正義の味方」になりたかった。
 もちろん、その頃ヒーローに憧れた少年すべてが革命を夢見たわけではない。連合赤軍に入ってきた人間に共通していたのは、「思い込んだら、どこまでも突っ走るタイプ」ということだった。 
 あの時代、学生運動に参加する若者は大勢いた。だが、そのほとんどは「ファッション」として活動していたと思う。みな周囲の人間に歩調を合わせて活動に加わり、やがて自然に離れて社会に溶け込んでいった。
 しかし、私たちはそんな形で「妥協」することが許せなかった。一旦やり始めた以上、中途半端なところで終わらせたくない。革命のためなら、自分が捨て石になっても構わない。そんな気質の持ち主が集まって生まれたのが、「過激派」と呼ばれるグループだった。

 そういう自己犠牲精神をもった面々の集まりにおいて、
  • なぜ暴力による「総括」が発生したのか
  • なぜ誰もそれを「おかしい」と思わなかったのか
  • なぜそれを止められなかったのか
  • なぜ抵抗も逃走もできなかったのか(逃走した仲間をどう思ったのか)
  • どのように自らの中でリンチを正当化していったのか
  • 首謀者の永田洋子や森恒夫や坂口弘はどんな人間だったのか
  • 彼らの(特に永田の)振り回すおかしな理屈をなぜ鵜呑みにしたのか
  • 組織の中の相関図(派閥、対立、嫉妬、服従e.t.c.)はどのようなものだったのか
 内部を知る人間であれば、そういったあたり、すなわちグループダイナミックスの様相をもっと突っ込んで書いてほしかった。
 もっとも、事件は30年前のことで、加藤自身が「異常な意識状態」におかれていたであろうから、はっきりと覚えていないのが当然かもしれない。
 それを考慮すると、本書における加藤の記憶の細やかさは大変なものである。
 ソルティは30年前にあったことで、自分にとって大きなイベントを詳細に書けと言われても、日記でもつけていない限り、ここまで細かくは書けない。

 グループダイナミックス云々はともかく、加藤は自分自身が関わった動機についてはその後もずっと問い続けてきた。
 結局、自分たち三兄弟が求めていたものは何だったのか。

父の生き方に対する反発、それにオーバーラップする物質的な経済の発展と欲望充足に奔走する戦後日本社会への反発、そしてベトナム戦争に反対する気持ち――それは三人が共通して抱いていた思いだった。
 絶対的な価値観をもって目の前に存在した父の対極にあると感じられたのが、共産主義という価値観だった。共産主義者になるということで、私たちは自らの「居場所」を得ようとしていたのだと思う。
 しかし、何かを絶対視して信じることは、楽で気持ちのよいものであるが、必ず自らの思考の放棄を伴ってしまう。しかもあの時あの山の中で、最も決定的な局面において、自らの頭で考えるのではなく、絶対的なものと見えるものの方に擦り寄っていってしまった。その悔いは一生、私の心から離れることはないだろう。

 自身全共闘世代であった作家の橋本治は、全共闘の本質を「大人は判ってくれない」と喝破していた。
 片や、戦前教育を丸々受けたほとんど最後の世代(昭和ヒトケタ)。
 片や、改定された教科書で一から戦後教育を受けた世代(昭和20年以降の生まれ) 
 全共闘世代の根底にあって彼らを突き動かしていたのは、親と子の世代間ギャップだったのだろうか。
  
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おすすめ度 :★★★

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● もっともだあ! 本:『天皇陛下の味方です 国体としての天皇リベラリズム』(鈴木邦男著)

2017年(株)バジリコ

 『右翼は言論の敵か』を読んで鈴木邦男という男に興味をもった。
 現在出ているもっとも新しい著書を読んでみた。

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 本書は鈴木邦男の天皇論であり、明治から大正、昭和、平成に至る近代天皇たちのスケッチであり、天皇への熱烈なるラブレターである。
 と同時に、「愛国」「尊皇」を掲げながら現実の天皇陛下の思いや志しを無下にする言動を繰り返す反天皇主義者たちへの告発、いやいや怒りの鉄拳である。
 読みやすく、日中戦争や太平洋戦争を含む日本近代史の復習にもなり、共感・共鳴できるところが多かった。
 というより、書かれていることの9割がたは「そうだ、そうだ、もっともだあ!」と叫びたくなるものばかりで、「ソルティよ、お前はいつの間に右翼になったのか?」と思ったほどだった。
 
 鈴木の天皇論の核にあるのは次のような思いである。

 天皇とは、古来の日本人の価値観と信仰、すなわち神々への畏敬と祖霊崇拝を体現された存在です。その意味でこそ、天皇は日本の象徴なのです。いうまでもなく、日本の神とは欧米やアラブの神とは異なります。日本人にとって神とは自然そのものであり、神々(自然)によって生かされているという生活感覚が畏敬に繋がっているのです。また、祖霊信仰とは祖先があってその延長線上に現在の自分が生きている、というシンプルな原理に対する感謝の念だということができます。そして、そうした古来の価値観を祈りという行為によって表象しているのが天皇なのだ、そのように私は考えています。

 鈴木は、
  1. 象徴天皇制(立憲君主制)の維持
  2. 女性天皇および女系天皇の容認
  3. 退位や皇位継承における天皇の裁量権
を唱えている。
 これまた「もっともだあ!」と思う。
 現実問題として、天皇制をこれからも維持したいのならば、上の2.と3.は避けられないであろう。
 加えてソルティは、一般国民とまったく同程度ではないにせよ、皇室の人々にも人権を保障すべきと思っている。
 今の状態は籠の中の鳥か、国軍に幽閉されたアウンサンスーチーみたいなもので、とても幸福なものとは言えない。
 人身御供のような制度は改めるべきだ。
 
 とはいえ、ソルティは鈴木とは違って、天皇制自体は「いつか自然消滅したらそれも仕方ない」と思っている。
 それがなければ生きていけない、日本を愛せない、とは思っていない。
 1400年以上の歴史がある法隆寺が消失したら「寂しいなあ、もったいないなあ、残念だなあ」と思うのと同じように、天皇制が無くなったら「寂しいなあ、もったいないなあ、残念だなあ」ときっと思うだろうけれど、天皇制がなくとも日本は日本でいられると思うし、自分のアイデンティティを天皇制に仮託してはいない。
 もちろん、積極的に天皇制反対を唱える気はない。
 「天皇制」という物語を必要としている人がいるのは理解している。
 他人が大切とする物語を壊す気などみじんもない。(その物語がソルティの基本的人権を侵さない限りにおいて)
 いずれにせよ、ソルティが生きている間は天皇制は存在するだろうから、遠い未来の世代が決めることである。

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法隆寺
nsmaibunによるPixabayからの画像


 以下、「もっともだあ!」と共感至極なところを引用する。

 歴史から学ぶことができるとすれば個々の現象からではなく、何ひとつ変わることのない人間の本性を知るということです。その上で、現在を考えればいい。
   もっともだあ

 国際貢献をいうなら、他国に出向いて戦争をやるより難民を大量に受け入れた方がよほど世界から尊敬されるはずです。
   もっともだあ

 自民党(憲法)案第24条では、新たに家族の基本原則を定めています。家族を社会の基本単位として尊重し、かつ家族は助け合わなければならない、と規定されています。
 一言で申せば、大きなお世話です。そんなことまで国から教えを受け、強制されたくはありません。世の中の家族は人間存在の複雑さに見合って多様であり、憲法で決められるようなことではないでしょう。(カッコ内ソルティ補足)
   もっともだあ

 現在、共産党を含めて自衛隊の存在を本当に否定する国民はいないはずです。だとすれば、自衛隊を憲法の中できちんと位置付けなければまずいでしょう。堂々と自衛隊が存在する意義を宣言すればいい。その上で、徴兵はしない、海外派兵はしない、核武装はしない、という歯止め条項を明記すればいいのです。
   もっともだあ

 真の民族主義者は他国や他地域の民族主義を尊重するということです。にも関わらず、日本が一番エライ、他国は劣っているとか言いたがるエセ民族主義者がいっぱいいるんですね、今の日本には。でも、そんなのは民族主義でもなんでもない。ただの排外主義です。
   もっともだあ

 「自虐」と「内省」はまったく異なります。事実を事実として認識するということは、自虐でも何でもありません。私たちがこれからの日本のかたちを構想する時、避けて通れない内的作業であり、通過儀礼です。自国が犯した過ちについて知らないふりをしたり、忘れたふりをしちゃだめです。
   もっともだあ

 共産主義は全然ダメなシステム論だと考えているのも変わりません。どうしてそう考えるかというと、共産主義は生身の人間の在り方を想定していないからです。現実に生きる人間が有する様々な自由(欲望)への希求は無視され、机上の理論に合わないものはすべて排除される。その結果、必然的に言論は統制され、官僚によって管理された全体主義国家とならざるを得ないのです。それは、現実の社会主義国家が証明しています。
   もっともだあ

 特定秘密保護法案、安保関連法案、マイナンバー制導入、共謀罪法案の成立は、すべて線として繋がったものであり、安倍政権の感性が色濃く出ています。マスコミへの恫喝、沖縄への対応も安倍政権独自のものです。また、この政権の閣僚は問題発言を連発し、あまつさえ平気で嘘を吐き、嘘がバレても開き直ります。「森友学園」や「加計学園」の問題は実につまらない問題ではありますが、それに対する安倍政権の対応は信じられないような強弁と開き直りでした。・・・・本当に無茶苦茶な政権であり、これまで見たことがない戦後最悪の政権だといえるでしょう。その無茶苦茶さに、国民が慣れつつあることを私は危惧していました。 
   もっともだあ
 

 正直、こんなに自分の言いたいことを代弁してくれている本との出会いは珍しい。
 いつのまに自分は「一水会」信者になったのか?
 いやいや、そうではない。
 鈴木邦男が変わったのだ。
 転向について、こう述べている。 

 自分が信じ行動していたことを自ら否定するという内的作業は、思いのほか辛いものではありました。右翼の仲間は離れていくし、批判もされる。しかし、その一方で左右を問わず様々な人々と出会い、触発され視野が広がったことは楽しいことでもありました。凝り固まっていた思念が氷解し、自由に活動できるようになった解放感は格別です。その結果、過激派右翼だった頃を思うと、私はずいぶん遠くへやってきたように思います。何より、自分と考えが異なるだけで、しかも丸腰の相手を脅したり殺傷したりするという行為は本当に卑怯な行為だと思うようになりました。そんな当たり前のことが、若い頃の愚かな私にはわかっていませんでした。また、言論の自由は何にもまして重要であると確信するようにもなりました。

 なんと、潔い真摯な男だろう!
 惚れるね。

 現在、79歳の鈴木邦男は病気療養中であるらしく、活動を休止している。
 自民党(安倍政権)と旧統一協会の長年の癒着が表沙汰になった今こそ、関連のあった議員らが追究からコソコソと逃げ回ろうとする今こそ、彼の鍛えられた思想と鋭い言説がほしい。
 早く元気になっていただけたらと祈るばかり。
 

 
おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損







● 本:『墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便』(飯塚訓著)

1998年講談社
2001年文庫化
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 単独の航空機によるものとして史上最多の犠牲者を出したJAL(日本航空)123便の墜落事故が起こったのは、今から37年前、1985年8月12日の19時頃だった。
 ソルティの場合、実家で20時から日本テレビ『ザ・トップテン』を観ている最中に臨時ニュースが入り、同局アナウンサー小林完吾によって123便の所在不明を知った。
 墜落現場が群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(標高1,565メートル、通称御巣鷹の尾根)と判明したのは翌朝のこと。
 その時から連日のように凄まじい報道合戦が繰り広げられた。

 おそらく多くの日本人もそうだったのではないかと思うが、ソルティの記憶に鮮明に残っているのは、当時中学生だった川上慶子さんがヘリコプターから降ろしたロープに括られて、自衛隊員にうしろから抱きかかえられながら上空に吊り上げられる映像である。
 彼女は乗客乗員524人のうち、生き残った4名に入った。
 焼け焦げた山肌に散らばる機体の残骸の中から、緑濃き尾根尾根を背景に澄みきった夏の青空へと吸い込まれていく少女の姿に「奇跡」という言葉が浮かんだ人は少なくなかったと思う。

毎日新聞123便事故記事
毎日新聞(1985年8月13日付朝刊)

 著者の飯塚訓(さとし)は、1937年生まれの元群馬県警察官。
 墜落事故後、遺体の身元確認責任者に任命され、遺体が収容された群馬県藤岡市民体育館に通いつめ、127日間に及ぶ検屍および身元確認作業に従事した。
 定年退職後の60歳になって、当時の記憶や様々な資料、関係者の証言などをもとに書き上げたのが本書である。

 検屍場はたちまちにして、凄惨な場と化した。二階観覧席の左右に配置した12基の照明灯が22ヵ所の検屍場を煌々と照らす中で、200人近くの警察官と150名を越す医師、歯科医師、看護婦たちがあわただしく動きまわる。
 検屍開始にあたって測定した外気温は35度を超えていた。
  • 関係者以外の立ち入りを防ぐため閉め切った体育館(もちろんクーラーはない)
  • マスコミの無断撮影を防ぐため黒いカーテンで覆いつくされた窓
  • マスクにゴム長スタイルの数百人の作業員
  • もうもうと立ち込める線香の煙
  • 次々と運ばれてくる蛆のたかった腐乱死体
  • 腐臭に引かれてやって来るハエや野良犬
  • 洗浄・検屍の済んだ遺体が納められた棺がびっしりと並んだフロア
  • 身元確認に訪れた被害者遺族の叫び、号泣、嗚咽、怒り
  • 殺到するマスコミ
 まさに地獄絵図である。
 520人の死者に対して行われた検屍は2065体。
 この意味を説明するまでもないだろう。
 墜落事故の衝撃の甚大さと被害の凄絶ぶりを物語っている。

 ドッジボールのように丸く固まった肉塊の中から耳介(外耳の一部)が発見された。さらに時間をかけてていねいに解凍をつづけながら肉片をはがしていくと、後頭部の頭皮、右側の耳介、腰部に至るまでの背皮が繋がって現れた。

 身元確認作業は、520人分の人体図を用意しておいて、血液型や歯の治療記録や指紋や肉体的特徴、あるいは所持品や衣服や家族の面接などによって当人と確定された部位を塗りつぶしていく――という方法が採られた。
 つまり、山中の墜落現場で発見され体育館に持ち込まれた肉体の破片が、520人のうちの誰のものかをできる限り特定し、より完全体に近い形で家族に返そうとしたのである。
 作業にあたった警察官、検視官、医師、歯科医師、看護婦のプロ意識と精神力の高さには頭が下がる。
 もちろん、墜落現場で遺体の回収にあたっていた自衛隊員や医療関係者にも。

 一方で、こうしたプロ意識の欠如こそが事故の原因となった点も指摘しなければなるまい。
 123便はこの7年前(1975年)に機体尾部を破損する尻もち事故を起こしていたが、その際の修理に不備があったのである。
 123便墜落事故をモデルにした山崎豊子の小説『沈まぬ太陽』では、当時の日本航空の腐敗体質と企業倫理の欠如が事故の遠因になったことが暴き出されている。 

夕日


 亡くなった520人の中には、アメリカ人、イギリス人、韓国人など22名の外国人がいた。 
 彼らの遺族にも当然、訃報や遺体の詳細は告げられたが、日本人の遺族とはまったく異なる反応を示したという。
 日本人の遺族は、亡くなった当人の欠けた部位(たとえば右腕、左足)が「見つかるまで探してほしい」というのが多かったのに対し、外国人の遺族の場合、「死んだことは分かったから、遺体はそちらで始末してください」というのがほとんどだった。

 「死んでいるということは精神が宿っていないのだから物体と同じではないか。だから、すべてをまとめて火葬にすればいいだけである」という。

 日本人は来世を信じ、そこでも生きると考える。いや、そうありたいと欲するのかもしれない。したがって、死んだ後も完全な死体が必要になり、死体を生きた人間と同じように扱うことにもなる。

 死に対する彼我の宗教観の違いが浮き彫りにされたのである。
 事故から37年経った現在はどうだろう?
 日本人は当時より一層、西洋風にドライな考え方をするようになっていると思うが、2011年の東日本大震災時の津波被害後の遺族たちの様子から察するに、本質的には変わっていない気がする。

 検屍場に使われた藤岡市民体育館はその後取り壊され、藤岡市民ホールに生まれ変わった。
 そのお隣の藤岡公民館の敷地内に「日航機墜落事故遭難者遺体安置の場所」の碑が建っている。

123便記念碑




おすすめ度 :★★★★

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もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● ジェンダーギャップ・コメディ 本:『よりぬきウッドハウス1』(P・G・ウッドハウス著)


初出1900~30年代
2013年国書刊行会(森村たまき訳)

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 天才執事ジーブズシリーズで日本でも人気沸騰のP・G・ウッドハウス(1881-1975)の初期から中期の短編集。
 18の短編の中には、ウッドハウスが生まれてはじめて原稿料をもらった『ゲームキャプテンであることの諸問題』ほか、ジーブズのご主人であるちょっと間抜けなバーティー・ウースターの原型となった男「レジー・ペッパー」シリーズ、映画脚本家としてMGMで仕事していた時の体験から生まれた「マリナー氏のハリウッド」シリーズなどが収録されている。ジーブズ物はない。
 
 気分を明るくしてくれるユーモアとアイロニーたっぷりの作品揃いで、寝る前に読むのにおあつらえ向き。
 ソルティがもっとも楽しく読んだのは、冒頭に置かれた『ハニーサックル・コテージ』、初期作品の一つである『レジナルドの秘密の愉しみ』、ハリウッドが舞台の『モンキー・ビジネス』。
 とくに『ハニーサックル・コテージ』(スイカズラ荘の意)は、マッチョの世界を好んで描く独身主義のハードボイルド作家が、ひょんなことから少女漫画風のポエムな世界に引きずり込まれ、あやうく少女にプロポーズしそうになるところを愛犬に救われるという抱腹絶倒の筋書きで、ウッドハウスを含む(当時の?)英国男子の女性観・結婚観の一端をかいま見させる。

 ウッドハウス作品の典型的プロットは、中世の騎士道精神の守り手であることを自負している現代の英国紳士たちが、何かと言えば気絶するような中世の姫君たちより何倍も強く逞しくなった現代女性たちを相手に、騎士の仮面がもろくも剥がれ落ちて、一転あたふたするというものである。
 男たちのマチョイズムが、女たちのパワーの前に空回りするところに滑稽が生まれるのだ。
 ジェンダーギャップ・コメディとでも言えようか。



おすすめ度 :★★★

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● 本:『無自己の体験』(バーナデット・ロバーツ著)

1982年原著刊行
1993年増補版刊行
2021年ナチュラルスピリット社(訳者:立花あゆみ)

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 本書の第1部「旅」は、1989年に『自己喪失の体験』というタイトルで紀伊国屋書店から刊行された。(訳者:雨宮一郎、志賀ミチ)
 ソルティはスピリチュアル・ショッピングをしていた30代の頃にそれを読んだ。
 元修道女だったキリスト教徒の普通の主婦におきた不思議な体験をつづったもので、読んだ印象としては、当時めるくまーる社より刊行されていた『クリシュナムルティの神秘体験』(中田周作訳)に似ていると思った。
 どちらも、自己感覚を喪うとともに訪れた強烈な“経験”を、言葉で表現できるぎりぎりのところで書き記そうとしたもので、文中にしばしば登場する「他在」とか「それ」とか「彼のもの」といった表現が、スピリチュアルなだけなくオカルト的な興味のツボを刺激した。
 要は、覚者(悟った人)の身に何が起こるのか、覚者は何を見ているのか、悟りとは何なのか――といったテーマ。
 その後、ロバーツは体験談を読んだ周囲の人からのさまざまな問いに答え、自らの体験についてより深い見地から考察を加え、続編となる第2部「さらなる観察」を書いた。
 このたびの新訳は、第1部「旅」と第2部「さらなる観察」の合本である。
 
 バーナデット・ロバーツは1931年生まれのアメリカ人。
 キリスト教の信仰深い家庭に育ち10代の頃より自然の中で神秘的な体験を重ねる。カルメル会修道女として10年間生活したのちに還俗して結婚、4人の子供の母となる。
 その後、40代になって本書で記されている体験に遭遇した。
 
 彼女の体験(=自己喪失の体験)は、2段階に分かれていた。
 
 第1段階は、自己と神との合一です。これは精神的な統合プロセスと並行しており、自己が、自らの静寂点かつ存在の源である神との永続的な合一を達成する過程で起こる、内なる試練や「暗夜」に焦点をあてます。このプロセスで私たちは、自己が失われないことを認識します。そればかりか、最も深奥の新しい自己が姿を現すのです。
 
 私たちが、自己も、最も密な神との結びつきも超えてさらに先へと進む準備ができたとき、「自己なき生」とも言うべき新しい生に突入します。第2段階の始まりであることのほかに自己の喪失と、喪失後に残る「それ」に遭遇することによって特徴づけられます。
 
 最初の旅(ソルティ注:第1段階)では、自分の本性と神の恩寵のあいだに激しい葛藤がありますが、最終的に「全体性」の中に吸収されるというパワフルな感覚に包まれます。自己エネルギーはもはや、神の永遠の活動とともに働くので、すべては外に向けて表現しなければなりません。同様にして、第二の旅(同:第2段階)でも最後に「合一」を体験しますが、それは最初の合一とは完全に異なるものです。つまりそれは、自己も神も合一さえも越えた「それ」自身の合一なのです。ここでは外に向けて表現するためのいかなるエネルギーも得られず、「すること」という行為の衝動のみが残されています。 

 簡潔に言うと、第1段階では自己と神とが合一し、第2段階では自己も神も喪失する「無=それ」に突入する。
 これを東洋的な悟りの概念に置き換えると、第1段階は「梵我一如」(昨今流行りの「非二元」)に、第2段階は「解脱」に相当するように思われる。
 キリスト教徒であるロバーツは、第1段階の「神との合一」までは過去の聖者の書き残した物などを読んで知っていたので驚かなかった。が、第2段階についてはキリスト教の教えや過去の聖典などには類似の現象が含まれず、わずかにキリスト教神秘主義者のマイスター・エックハルトの著作の中に暗示的に見られるだけで、非常に戸惑ったことが記述よりうかがわれる。
 
 仏教でも大乗仏教の修行のゴールは、「極楽浄土に行くこと」「良い転生を得ること」「菩薩や仏と一体化すること」が一般で、禅のみが曖昧ながらも第2段階を目指していると言えよう。
 初期仏教(小乗仏教)の流れを汲むテーラワーダ仏教では、4段階の悟りの階梯を説いている。曰く、預流果、一来果、不還果、阿羅漢果。
 ただし、サマタ瞑想(集中瞑想)で得られる「梵我一如」のような神秘体験はとりたてて重視されず、ヴィッパサナー瞑想(観察瞑想)によって「無常と無我と苦」の真理をとことん知って自己の幻想性を悟り、最終的には“自己のまったく無い”阿羅漢となって解脱することが勧められる。
 いわば、最初から第2段階を目指す旅だ。
 ここには、「究極の悟りとはなにか」「修行のゴールはどこにあるか」「悟るための方法はあるのか」という古来からの修行者の悩ましい問いかけ(妄想)が絡んでいる。
 
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 キリスト教の環境で生まれ育ったロバーツは骨の髄までクリスチャンなので、本書で使われる用語や概念は必然、キリスト教的なものが多い。神にせよ、キリストにせよ、三位一体にせよ、恩寵や復活や十字架上の試練にせよ・・・・。
 その点で、キリスト教に馴染みのないソルティのような読者にしてみれば、単純にして深甚なる悟りの中味は措いといても、よく理解できない部分や共感できない解釈が多い。
 せっかく第2段階に至って「自己」や「神」という幻想から脱することができたのに――すなはち初期仏教でいう「阿羅漢」になったのに――なぜまた、神やキリストや聖書の文言を持ち出して、そこに新たな自己流の解釈を吹き込もうとするんだろう?――と不可解に思ったりする。
 
 その点をのぞけば、本書は「自己の正体」について関心をもつ者にとって、非常に示唆するところの多い、幾度でも読み返す価値のある良書である。
 
 ともかく自己がある限り、感情の構造は人生という土壌に根を張った頑強な木に成長し、大人たちの拠り所になります。そしてこの木の難点は、良い実も悪い実も結ぶことであり、実を生みだす力がある限りいずれかの実がなるということです。つまり、科学や文化の功績を生み出す知識が支払う対価には、多大な恩恵を与えてくれるものもありますが、リスクもあるわけで、しかもこの木に実を結ぶもので永遠なるものなどひとつもないのです。要するに自己は、人間が存在するうえでの一時的な側面であって、人は最終的に自己なしで生きることを学ばなければならず、それが今でないにしても、いずれその時がやってくるのです。

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おすすめ度 :★★★★

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● 人の世に熱あれ、人間に光あれ 本:『西光万吉』(師岡佑行著)


1992年清水書院

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 現在、島崎藤村『破戒』の3度目の映画化作品が公開されているが、今年2022年は部落解放同盟の母体である全国水平社創立100周年なのである。
 水平社設立の発起人の一人であり、日本初の人権宣言とも言われる『水平社創立宣言』の起草者が、西光万吉である。
 本書は、西光万吉(1895-1970)の生涯と思想をたどった評伝。
 著者の師岡(1928-2006)は神戸生まれの日本史学者で、部落問題に関する著書が多い。

 西光万吉(本名:清原一隆)は、奈良県南葛城郡の被差別部落内の浄土真宗本願寺派西光寺の長男として生まれた。
 若い頃から周囲の差別に非常に苦しみ、画家を目指して上京するも心を病んで帰郷、一時は自殺を考えるほど追い込まれた。
 それが日本共産党初代委員長の佐野学の『特殊部落民解放論』に衝撃を受けて、一躍覚醒し、親友の阪本清一郎、南梅吉らと共に水平社を立ち上げる(1922年3月3日)。
 1927年日本共産党に入党するも、翌年、治安維持法違反により逮捕される。
 奈良刑務所での5年間の服役中に転向を表明し、離党。
 出所後、天皇中心の「高天原(タカマノハラ)思想」を説き、国家社会主義運動に参加。
 戦時中は、侵略戦争を肯定し、帝国主義・軍国主義の旗振り役を担った。
 敗戦後、自らの戦争協力を強く反省し、日本国憲法堅持を唱え、世界平和と共栄のための和栄政策を訴え続けた。

 人物評価が難しいのは、「被差別部落解放を目指して水平社を立ち上げた」「生涯を通じて貧しい農民の味方であった」という点では、左翼の英雄に祭り上げられても全然おかしくないのであるが、一方、天皇崇拝とか軍国主義の推進という点ではまぎれもない右翼であり、獄中の転向によって「初心を忘れた」「堕落した」「体制側に寝返った」と見られても仕方ないと思えるからである。
 そういう人物が、戦後一転して「世界平和と共栄」を唱えても、「なんだかなあ~」と周囲が遠巻きに見てしまうのは無理ないところであろう。
 日和見主義者の烙印さえ押されかねない。
 そしてまた、帝国主義や軍国主義とはきっぱり決別したもの、「タカマノハラ思想」だけは死ぬまで持ち続けた。
 タカマノハラとはもちろん、『古事記』に出てくる神々の住む世界であり、天照大神(アマテラスオオミカミ)を中心とした理想郷のことである。

 西光は「タカマノハラ」に理想の社会をみた。それは「資本主義経済組織の世の中と云って、金持や地主が土地や資本を一個人でイクラでも所有して、それによって土地や資本をもたぬ多くの同胞を勝手気ままに働かせて、自分等だけが楽な生活をするために都合よく組み立てた世の中」、つまり目の前の社会とは全くちがった「神の国」であって、「天照大神を中心に、皆がみんな赤ん坊として真実に同胞として楽しく生活していたような国」なのである。

 資本主義社会において個人が土地や資本を所有して、権勢をふるうのとはちがって、「タカマノハラ」では生産が「マツリゴト」によってなされたからこそ「古代人はすべての生産物は神の物と信じていた」とみる。

 言葉を変えていえば、ソ連や中国のような“神のいない”共産主義とはちがって、天皇(という神)の赤子である国民すべてが、平等に勤労奉仕し財を分け合う共産社会――といったところであろう。
 戦前の水平社宣言なにものかは、戦後の天皇の人間宣言なにものかは、西光万吉が最初から最後まで決して捨てることなく貫き通したのは、天皇中心の国体だったのである。

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 西光万吉をモデルとした人物が登場する住井すゑの『橋のない川』を読むと、部落解放運動の推進と天皇制の否定は両輪であることが察しられる。
 解放運動家の巨星・松本治一郎(1887-1966)の「貴あれば賤あり」という言葉にみるように、天皇を頂点とする身分制あるゆえに被差別民が生みだされるという理屈である。
 また、階級社会の打倒と貧困の廃絶を唱えた共産主義の大波が、1917年ロシア革命実現のニュースに伴って日本にも押し寄せ、部落解放運動に身を投じる人々の思想的基盤とも力の源泉ともなったことが察しられる。
 部落解放運動=天皇制否定=共産主義、は切っても切れない3つの輪のように思える。(少なくとも戦前は)
 
 しかしながら、本書によれば、上記の「松本の言葉の原型があらわれるのは1930年代であって、水平社が発足した頃には西光をふくめて幹部たちは天皇に親近感を抱いていた」という。
 
 西光の場合、天皇への崇敬は、なによりも部落を部落として刻印した穢多という身分を設けた徳川封建体制を明治維新によって打ちくだき、改革をすすめ、近代国家をつくりあげ、解放令を発布し、法のうえ、制度として賤民をなくした大事業のシンボルとしての明治天皇に対する敬愛からきている。これは南や阪本もかわらなかった。 

 また、共産主義についても、「西光はマルクス主義に大きな影響を受けているが、マルクス主義を絶対化せず、相対的にとらえていた」。
 天皇崇敬が根本にあるのであってみれば、天皇制廃止を掲げる共産主義とはいずれどこかで袂を分かつのも当然であって、獄中における転向も、筋金入りの共産党員が精神的・肉体的拷問に堪えかねて離党を口にするのとはわけが違う。
 ましてや入党して1年も経っていなかった。
 西光にとって転向はそれほど大きな決断でも敗北でも屈辱でもなかったのだろう。

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 本書を読むと、ひとりの人間の複雑さというか、一個の人格を形作っているアイデンティティの多層性というものを考えざるを得ない。
 西光万吉は非常に有能で多才な人間であった。
 宗教家(僧侶)であると同時に、画家であり、作家であり、思想家であった。
 被差別部落出身の解放運動の闘士であり、慈悲深い農民運動家であり、熱心な平和活動家でもあった。
 一時は左翼の共産党員であり、戦時は右翼の国粋主義者とみなされ、「左からはファッショ、右からはアカ」と呼ばれていた。
 戦後も右翼的な思想を説きながら日本国憲法を強く支持し、おのれの行動の原理とした。
 周囲からは矛盾の塊のように思われたのではなかろうか。
 だが、こういった様々なアイデンティティの根底に変わらずあったのは、天皇への崇敬であり「国民は天皇の赤子」という信念だったのである。
 
 ひとりの人間の中にはいくつものアイデンティティが存在し、それは年齢によって、状況によって、他者との出会いによって、遭遇した経験によって、学習や信仰によって、成長によって、体力や気力の衰えによって、主役を交替して然るべきものなのではなかろうか。
 ひとつのアイデンティティなり思想なりを身に着け、それを生涯貫く人も立派であるとは思うが、「人は変わる」という可能性を信じるからこそ、我々は文を書いたり演説したりツイッターしたりデモしたり討論したり政治活動したりソーシャルワークしたりしているのであろう。
 それが自律的・主体的なものであるかぎりにおいて、転向は悪いことでも恥ずかしいことでもないし、周りが非難すべきことでもないと思う。
 ある意味、人生は、自分にとってなにが最も重要なアイデンティティかを探る旅をしているようなものかもしれない。 
 人ぞれぞれの道があり、人それぞれの時宜がある。

 真に恐れるべき、阻止すべきは、転向でなくて洗脳である。 





おすすめ度 :★★★

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● 安藤サクラ、巨大化す 映画:『愛と誠』(三池崇史監督)

2012年日本
134分

 「原作者の梶原一騎が生きていたら、この映画を許さないだろうなあ~」と思いながら観ていた。
 なんとミュージカルコメディ仕立て『愛と誠』である。
 太賀誠が、早乙女愛が、石清水弘が、蔵王権太が、歌って踊ってボケをかます。
 それも『激しい恋』(西城秀樹)、『酒と泪と男と女』(河島英五)、『あの素晴らしい愛をもう一度』(加藤和彦と北山修)、『夢は夜ひらく』(藤圭子)、『また逢う日まで』(尾崎紀世彦)といった歌謡曲全盛の70年代ヒットナンバーである。
 花園学園の不良番長・座王権太(伊原剛志)が『狼少年ケン』の主題歌(これは60年代だが)を歌いながら、宿敵・太賀誠に迫るシーンなど抱腹絶倒の面白さであった。

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『狼少年ケン』を歌う蔵王権太(伊原剛志)
みな高校生という設定である

 梶原一騎が『週刊少年マガジン』(講談社)に連載していたのは1973~76年。
 それから40年経った2012年時点で、あの「純愛+熱血+暴力」学園ドラマを原作のテイストそのままに映画化するのは、いろいろな意味で難しいだろう。
 演者が真面目にやればやるほど、お笑いになってしまいかねない。
 それならば、最初からパロディ風の味付けをして「70年代風俗をみんなで楽しもう」というノリは正解と言える。
 一方、『愛と誠』の中心テーマである「命を賭した純愛」はしっかり描き込まれており、観る者の涙腺を刺激するあたりも抜かりない。
 ソルティはバイオレンス映画を好まないので、三池崇史監督の作品をほとんど観ていないが、これ一作とっても監督の才能の凄さが分かる。
 
 出演者で何と言っても素晴らしいのは、スケ番ガム子を演じる安藤サクラである。
 この人は本当にどんな役でもやれるのだ。
 美人女優という枷を最初からを逃れていることが、この人の場合、いい方向に作用した。
 枠を設けない役選びとチャレンジ精神に感服する。 
 実際にはそれほど背の高くない女優だが、本作ではまるで和田アキ子の大阪スケ番時代とでもいったような風格を見せる。デカく見えるのだ。
 カメラや演出の工夫もあるとはいえ、身長の印象さえも変えてしまう演技力には脱帽する。
 この安藤サクラを見るだけでも、この映画を観る価値はある。

 早乙女愛役の武井咲、岩清水弘役の斎藤工も熱演である。
 個人的にひとつ残念だったのは、影の大番長・高原由紀がいつも持ち歩いている本のタイトルをちゃんと示さなかったこと。
 ツルゲーネフ『初恋』である。

本とナイフ

 
 
 
おすすめ度 :★★★

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● 本:『オッサンの壁』(佐藤千矢子著)

2022年講談社現代新書

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 ソルティは自他ともに認めるオジサンであるが、4割くらいオバサンも入っていると思う。
 でありながら、周囲のオジサン、オバサンの非常識でハタ迷惑な言動を見聞きするにつけ、「これだからオジサンは・・・」「まったくオバサンだな・・・」と心の中でつぶやくことが多い。
 そんなとき、自分をオジサン、オバサンの枠外に置いてしまっている。
 どうも意識的には「自他ともに認めて」いても、無意識では自身を30代後半くらいに設定しているような気がしないでもない。
 あるいは、自分より10歳以上離れた上の世代を「オジサン、オバサン」と設定し続けているのかもしれない。
 列車やお店の中で、あるいはATMやレジの行列において、苛立つ若い世代から「これだからオジサンは・・・」と思われていることを自覚せねばなるまい。
 一方、自分の「オッサン」度はどんなものだろう?

 タイトルにある「オッサン」について、著者はこう定義している。

 私が思うに「オッサン」とは、男性優位に設計された社会で、その居心地の良さに安住し、その陰で、生きづらさや不自由や矛盾や悔しさを感じている少数派の人たちの気持ちや環境に思いが至らない人たちのことだ。いや、わかっていて、あえて気づかないふり、見て見ぬふりをしているのかもしれない。男性が下駄をはかせてもらえる今の社会を変えたくない、既得権を手放したくないからではないだろうか。
 男性優位がデフォルト(あらかじめ設定された標準の状態)の社会で、そうした社会に対する現状維持を意識的にも無意識のうちにも望むあまりに、想像力欠乏症に陥っている。そんな状態の人たちを私は「オッサン」と呼びたい。

 モーリアックの『テレーズ・デスケルウ』を想起させる一文である。

 佐藤千矢子は1965年生まれ。
 毎日新聞社の社会部や政治部の記者として、米国同時多発テロ後のアフガニスタン戦争、イラク戦争、米大統領選挙などを取材し、2017年に全国紙初の女性政治部長に就任。現在は論説委員を務めている。
 まさに、男社会の牙城とも言えるマスメディアの世界で、男社会の天守閣とも言える政界を相手に仕事してきて、女性登用の道を切り開いてきた有能なキャリアウーマンである。
 そうした経歴を持つ著者が現場で見てきた「オッサン」像が本書では暴き出されている。

 というと、男性読者の中には戦々恐々とする人や怒り心頭に発する人もいるかもしれないが、ソルティが読んだ限りでは、それほど辛辣でもなければ、容赦ない追及のオンパレードというわけでもなかった。
 某フェミニストの社会学者に比べれば、オブラートに包んだような柔らかさ。
 これは、著者がまだ現役の企業幹部であって、立場上、あまり明けすけなことや棘のあることを書けなかったせいかもしれない。
 あるいは、オッサン社会で曲がりなりにも出世してきた彼女が、身を守るために自然身に着けてしまったある種の鈍感さのためかもしれない。
 ここに書かれている以上のもっと凄まじいオッサンエピソードがきっとあるはずだ。(とくにセクハラに関して)

 昭和時代、男社会で女が成功するには、①「女」を捨てて「男」となって男以上に働くか、②「女」を利用して力ある男の庇護を得てのし上がるか、という二つの道しかなかった。
 男女雇用機会均等法(1986年制定)施行後の第一世代であった著者は、そう簡単には変わらない現実に戸惑い苛立ちながら、第三の道を模索してきたのだろう。

 以下、引用。

 「ガラスの崖」は、危機的な状況にある組織ほど女性が要職に就きやすい傾向をいう。リスクが高い役割を女性登用の名のもとに担わせ、成功すればもうけものだし、失敗すれば「やっぱり女性はダメだ」といって崖から突き落として使い捨てにする、という発想のことだ。

 安倍政権というのは、一部メディアを優遇し、気に入らないメディアを排除する傾向のある政権だった。政治家や官僚との懇談の場は、全く面白くなくなった。政治家も官僚も記者も、官邸に「チクられる」ことを警戒するからだ。

 男性ならばちょっとした失敗でも「気にするな」とすぐ周囲が慰め、問題になりにくい。男性同士の結束は固く、互いに不満に思っていても、周囲に広げることは少ない。
 女性の場合、それが面白おかしく何倍にもなって広められる。被害妄想と思われるかもしれないが、失敗するのを待っているのかと思う時があるぐらいだ。

 「多様性を尊重する」「女性の活躍を推進する」というが、日本社会とりわけ政治分野の遅れは、そんな生やさしい状況ではない。男女半々という人口構成を反映せず、いびつな構造のまま、それが当たり前のようにやってきた政界は、すっかり社会の問題点を吸収する力を失っている。公正な民主主義とは言えない。それが世界に後れを取る政策の要因にもなっている。オッサンはそれに気づいていないのか、気づいていても自分の時代は逃げ切れるだろうと、タカをくくっているのか、どちらかだろう。

 ソルティの「オッサン」化をいささかでも阻んでくれるものがあるとすれば、それは自分がマイノリティ(LGBT)の一人であるということに尽きる。
 男社会の居心地の悪さを子供の頃からずっと感じ続けてきたおかげである。
 そうして半世紀以上生きてきて実感するのは、本当はほかならぬ男たちの多くも男社会を生きづらいものと感じている――という現実である。
 いま、中年期を過ぎた男たちの孤立・孤独が社会問題化してきているが、その背景には「一人ぼっちは淋しいけれど、マウンティングし合う男同士の付き合いには疲れた・・・」という本音が隠されているのではなかろうか。
 オッサンの壁は当人にとっても不幸なものである。

壁と男



おすすめ度 :★★★

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★★    いい退屈しのぎになった
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● 一回100万円ほどになります 本:『日本の呪術』(繁田信一著)


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2021年MdN新書

 MdNとは(株)エムディエヌコーポレーションのこと。
 1992年に設立した出版社で、「雑誌・書籍・ムック・インターネット・イベントを通して、グラフィックデザインやWebデザインのノウハウと可能性を伝える」(MdN公式ホームページより抜粋)
 『大人の塗り絵』シリーズやデザイン関係の書籍を多数刊行している。

 本書は、同じ著者による『呪いの都 平安京 呪詛・呪術・陰陽師』(吉川弘文館)同様、王朝時代を中心とした本邦の呪術に関する研究書&解説書である。
 繁田は他にも『平安貴族と陰陽師』『安倍晴明』など同じテーマの本をいくつか出している。
 このテーマがよほど好きなのだろう。

 例によって、『今昔物語』『小右記』『御堂関白記』『大鏡』『紫式部日記』『枕草子』といった幅広い歴史書、古典文学の精読をもとに、平安時代の陰陽師や密教僧による呪術の様子が浮き彫りにされていく。
 そもそもがマニア受けするオカルティックな話題で面白いエピソード豊富な上に、古文は適切に現代語訳され、各章末に「家庭の呪術」を紹介するコラムがついているなど、気軽に読めるものに仕上がっている。(時折、著者の癖なのか、回りくどい文章が気になる。「二度言うな」って突っ込みたくなる)

 一回の呪術に対して術者に支払われた報酬を現代の物価に換算するなど、生活に根差した具体的な記述が興味深かった。
 それによると、貴族の依頼に応じて民間の陰陽師(法師陰陽師)が呪術を行なう場合、一回100万円ほどの報酬が見込まれたというから、実にいい商売である。
 すでに僧侶として修業中の自分の息子を改めて陰陽師に転職させるかどうかで迷う貴族の父親の話が出てくるが、なんとも生臭くて人間的!(笑)
 相談された見識ある僧侶は、当然、これに反対する。

僧侶が仏法を離れて外法に携わるというのは、末永く仏の教えを捨てることなのです。
・・・・陰陽師になるというのは、地獄に堕ちる契機なのです。 

 安倍晴明のような選ばれた数少ない官人陰陽師は別として、民間の法師陰陽師はいかがわしく罪深い存在とみなされていたらしい。(この回答を聞いた父親がどう判断したかは残念ながら書かれていない)
 
晴明と道満
官人陰陽師の代表・安倍晴明(左)と
民間陰陽師の代表・蘆屋道満(右)

 最終章において著者は、現代日本人の呪術への憧れについて、“人を呪い殺したくなったことがある”自分自身を顧みながら分析し、その本質を「自分だけのズルへの憧れ」と述べている。

 少なくとも、著者の場合は、この現代日本において、自分だけが呪術を使える身になりたいのであって、現代の日本が、突如として、誰もが当たり前のように呪術を使える世界に変わってしまうことなど、これっぽっちも望んでいないし、また、誰もが当たり前のように呪術を使える異世界へと、著者自身が赴くことなども、少しも望んでいない。そんな世界は、むしろ、願い下げである。

 自分にとって邪魔な人間、憎い相手を呪い殺しても、今の法律では罰せられることはない。
 狙った獲物を相手にそれと気づかせることなしに思い通りにできる。
 手に縄が掛けられるおそれなく野望が果たせる。  
 「透明人間になれたら・・・」というエッチな下心を含む願いと同じようなものだろう。
 
 ソルティは実在する霊能者・寺尾玲子の活躍を描いた『ほん怖コミック』(朝日新聞出版発行)をたまに読むのだが、実によく呪術の話が出てくる。
 誰かの仕掛けた呪術によって日夜苦しめられている読者からの霊障相談を、寺尾玲子が驚異的な霊能力を用いて術者と術式を見抜き、様々な方法を用いて解決するという筋書きである。
 これがノンフィクションであってみれば、科学万能の現代日本でもかなり頻繁に呪術が行われているんだなあと変に感心する。 
 王朝時代も江戸時代も現代も、「ズルしたい」という人間の本質は基本変わっていないので、あって当然というべきなのだろうが。

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 考えてみれば、テーラワーダ仏教に伝わる「慈悲の瞑想」の効用をそれなりに信じて実践しているソルティもまた、呪術というかまじないを信じているのである。
 違いは、相手の不幸を願う代わりに幸福を願うところ。
 自分を害するような憎い相手、嫌いな相手の幸福を願うのは難しいところであるが、これにはそれなりの理屈がある。
 一つには、昔からよく言うように「人を呪わば穴二つ」、つまり呪術は必ず仕掛ける人間自身に何らかの形で戻って来て害をなすからである。
 人を呪うというその気持ち自体がすでに術者の中にマイナスエネルギーを生みだし、溜め込んでいく。
 それは術者の心身に悪い影響を及ぼすだけでなく、「類は友を呼ぶ」という言葉通り周囲の同じような悪いエネルギーと共鳴し合い、引き寄せてしまう。
 単純に言っても、顔つきが悪くなる。
 自分を呪う相手を呪い返すことは、自分もまたマイナスエネルギーの世界に足を踏み入れてしまうことになる。
 相手の思うつぼである。
 
 いま一つは、人が呪術に頼るほど誰かを恨んだり憎んだりしているとき、その人間は不幸のどん底にいるわけである。
 なので、自らに仕掛けられた呪術を解くには、仕掛けた相手に幸福になってもらうのが一番の得策であって、それには慈悲のエネルギーを相手に送るのが良い。
 柔よく剛を制す。
 
 ――というようなことをどこかで信じているのだから、ソルティも王朝時代の人々とたいして変わりなく、迷信深く、非科学的で、お目出たいのだろう。
 もちろん令和の現代では、ままならない周囲の状況を変えるには「ズルをする」という手だけでなく、ネットで問題提起するなり、味方を集めて運動や裁判を起こすなり、メディアを利用して世論を形成するなり、合理的で合法的な手段がある。
 それこそ、選挙権は日本のすべての成人に平等に与えられている呪符といったところ。
 無駄にしてはいけない。(おあとがよろしいようで)




おすすめ度 :★★

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● 漫画:『古事記』1~7巻(久松文雄・画)

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2009年~2019年青林堂

 久松文雄は1943年名古屋生まれの漫画家。
 『スーパージェッター』『冒険ガボテン島』が代表作らしいが、ソルティは読んだことがない。
 癖のない見やすい揺るぎないデッサンとシンプルなコマ割りは、こうした歴史物の漫画化にはもってこいである。
 最終巻に収録されているインタビューにおいて「できるだけ原本に忠実に漫画化」したと言っているように、いたずらに脚色したり誇張したりしていないので、『古事記』のあらすじは知りたいけれど原典を読むのはちょっと億劫、という人にはおススメである。
 ソルティは通りがかりの古本屋で見つけて全巻1400円で購入した。(amazonでは1冊1,026円で販売されている)

古事記
現存する日本最古の歴史書。712年成立。3巻。
天武天皇の命により稗田阿礼 (ひえだのあれ) が暗誦。これを元明天皇の詔により太安万侶 (おおのやすまろ) が撰録したもの。
『帝紀』『旧辞』を検討し、その正説を定めるという編集の根本方針により、神代から推古天皇までを内容とし、天皇の支配による国家の建設という意図により構成されている。
(旺文社『日本史事典』三訂版より)

 書かれていることのどこまでがフィクションでどこからが史実か――という詮索は措いといて、ソルティがもっとも好きな話はヤマトタケル(日本武尊)伝説である。
 父王(景行天皇)に忠儀を尽くすもそのあまりの武勇によりかえって遠ざけられ、父の命令に従って西に東に平定のため駆け回り、いつの日か故郷に戻って父に誉められることを願いながら若くして客死し、白鳥になった英雄。
 ちょうど、『鎌倉殿の13人』の源頼朝(大泉洋)と弟の義経(菅田将暉)の関係を思わせる。
 悲劇の英雄こそ日本人の心の琴線をかき鳴らす。
 東宝映画『日本誕生』では、かの三船敏郎がヤマトタケルに扮し、強さのうちにも賢さと優しさを秘めた真っ直ぐな日本男児像をつくりあげている。まさにはまり役。

ヤマトタケル
三峰神社にあるヤマトタケル像(埼玉県秩父市)

 『古事記』はつまるところ、古代天皇家の系図と事績を記したものである。
 その意味で考えさせられるのは、第25代武烈天皇と第26代継体天皇の間の隔絶である。
 系図によるとこの二人――天皇は神の子孫なので「二柱」と呼ぶのが適切らしい――は、なんと十親等も離れているのである。
 今の皇室に置き換えるならば、令和天皇のあとを明治天皇の弟の孫の孫が継いだ見当になる。(実際に明治天皇の兄弟は早世しているので、その系統は存在しない。ちなみに評論家の竹田恒泰は明治天皇の娘のひ孫、すなわち女系の子孫である)
 これは第25代武烈天皇の周辺に男系資格者がいなかったからということらしいが、「そんな遠いところからわざわざ持ってきたのか!」とビックリする。
 いったい、自分の十親等にあたる親戚をたどれる人がいるだろうか?
 まさに国続させるために選ばれし帝だったのだ!

 ソルティが本コミックを購入した一番の理由は、旅行や山登りに行ってその土地の神社を詣でたときに「祀られている神様のことを知りたい」、すなわち「土地の古くからの信仰を知りたい」と思ったからである。





おすすめ度 :★★★

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● 眠れぬ夜のしもべ 本:『ジーヴズの事件簿 才智縦横の巻』(P・G・ウッドハウス著)

原著発表1916~1922年
2011年文春文庫(岩永正勝・小山太一邦訳)

 最近、よく眠れなくなった(気がする)。
 寝つきが悪くなり、眠りも浅い。
 若い頃のような「ぐっすり寝た」感覚が得られにくくなった。
 パターンとして、夕食1時間後に急な睡魔に襲われ、2時間ほど仮眠して、10時くらいに目が覚める。
 そのあとは明け方近くまで眠れないでいることが多い。

 といって、目がらんらんと冴えている、すっきりした頭で勉強するのに向いている、というような覚め具合ではなく、若干の不安と焦燥感を伴った(明日仕事がある夜はとくに)ぼーっとした意識状態にある。
 そんなときは漫画やミステリーなど肩の凝らない読み物の出番となる。
 英国の生んだ国民的ユーモア作家ウッドハウスの作品こそは、眠れぬ夜の最高の友人である。
 とりわけ、気は優しいがいささかオツムの弱い青年貴族バーティと、才気煥発なる執事ジーヴズのコンビが放つ上流階級ドタバタコメディは、眠れない不安と焦燥感を忘れさせてくれる面白さ。

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 本作は、森ヒカリの表紙デザインが素敵な文春文庫のウッドハウス・シリーズの一冊。
 ジーヴズものは他に「大胆不敵の巻」がある。

 収録されているのは、バーティとジーヴズの出会いを描いた『ジーヴズの春』、痛快などんでん返しミステリーの快作『ロヴィルの怪事件』、バーティの親友ビンゴがこともあろうに階級制度に反対する社会主義者の娘に恋してしまう『同志ビンゴ』、いつものバーティの一人称語りではなしにジーヴズが語り手となる『バーティ君の変心』など全7編、どれも抜群に面白かった。
 最初の一編くらいでやめておくつもりが、結局、全編(解説まで)読破してしまい、気づいたら朝刊を届けるバイクの音が窓の外に響いた。
 しまったー‼ 明日は仕事なのに完全寝不足だ~! 
 が、なんだか気分は良くなって、そのあとストンと眠りに落ちた。

 そういえば、コロナ世になってから寄席に行っていない。
 笑いが足りていなかったのかもしれん。

 ご主人とは馬のようなものであって、調教が肝心なのです。紳士に仕える紳士のうちにも、調教のこつを心得ているものもおれば、いないものもおります。幸いなことに私は、この点でなんら不足するものはありません。(by ジーヴズ、『バーティ君の変心』より)

 
おすすめ度 :★★★★★

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● 一俵の価値 本:『カムイ伝講義』(田中優子著)

2008年小学館

 田中優子は刊行当時、法政大学社会学部教授だった。
 江戸時代をテーマとする授業において白土三平『カムイ伝』を使用するという画期的な試みをした。
 その過程で生まれたのが本書である。

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 『カムイ伝』には江戸時代の庶民(百姓、穢多、非人、山の民、海の民、下級武士、商人など)が登場し、それぞれの生活の場がくわしく描かれる。
 稲作、麦作、綿花栽培、養蚕、マタギ、漁師、鉱山、林業、皮革産業、刑吏、肥料の商い・・・・・。
 それらは、庶民が日々生きるための仕事、食うための仕事であって、多くは厳しい自然との闘いが必須である。いわゆる第一次産業。
 白土の綿密な取材と、それぞれの仕事現場の風景や生産過程を読者にわかりやすく臨場感もって伝える画力の高さには脱帽するほかない。
 まさに、江戸時代の庶民を研究するに恰好の素材である。
 そこに目を付けた著者の慧眼は素晴らしい。
 
 本書は江戸時代の庶民の研究書であると同時に、江戸時代の庶民の暮らしを通じて現代の日本人を振り返る一種の社会評論であり、かつ、もっとも優れた『カムイ伝』の解説書と言える。

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 本書を読んで特に気づいたことの一つは、白土の『カムイ伝』(とくに第一部)が江戸時代の特定の時期の特定の場所(藩)をモデルとしているわけではなく、時間的にも空間的にも江戸時代全般にわたっているという点である。
 たとえば、第一部の主要舞台となる日置藩は、一応、江戸時代初期の地方藩という設定になってはいるが、そこで描かれる事件や文化や風習は江戸時代のいろいろな時期、いろいろな地方の出来事が混じり合って凝縮されていたのである。
 時代考証で言えば、「ザ・江戸時代」なのだ。
 
 いま一つは、この時代の武士の存在意義について。
 戦国時代が終わり曲がりなりにも天下泰平の世になって、多くの武士が存在意義を失った。
 厳しい身分制度や武家としての誇りのため、簡単に他の職業たとえば百姓や商人に鞍替えすることはできない。
 結果として、「約80%の農民が、5%の武士を養っていた」。
 それでも高給取りの上級武士たちはまだいい。扶持の少ない下級武士たちは家族を養うために様々な内職――寺子屋の講師、傘張り、行灯の絵付け、小鳥の飼育、金魚や鈴虫の繁殖など――をせざるをえなかった。
 文字通り「地に足を付け」大自然と闘い生産過程そのものを生き、不満が募れば一揆を立ち上げる百姓(農民、山の民、海の民など)の逞しさにくらべると、生産過程から離れたところで儒教精神に縛られた窮屈な生活を送り、上に反抗すれば「お家取潰し」の武士たちは、まさに生殺し状態。
 
 食べ物がどこから来るのか知らない、考えようともしない――これは何かに似ていないだろうか? そう、現代の日本人である。昼に食べた納豆の原料が、アメリカや中国から来るのを知らない。ペットの食べ物を誰がどこで作っているのか知らない。毛皮やダイヤモンドの背後に、どのような搾取構造が潜んでいるか知らない。現代の日本人はまるで、江戸時代の武士の人口がふくれあがったものであるかのように見える。

 穢多の仕事についてもそうだったが、江戸時代の人々の生き方と仕組みを見ていると、互いに必要不可欠な仕事をすることで社会が成り立っている。いなくていいのはむしろ武士だったかもしれない。一揆について考えるにはその視点が欠かせない。一揆は、搾取されているかわいそうな人々が貧しさに押し潰されて仕方なく起こしたのではなく、必要不可欠である自分たちの存在をもって、生活の有利を獲得するための方法であった。しかもその場合の生活とは個人生活である前に、生産共同体としての集落の生活だった。 

 第一次産業従事者が圧倒的に減った現代の「武士」である我々だが、少なくとも「一揆=デモ」を起こすことはできる。
 選挙で世の仕組みを変えることができる。
 一票は米一俵ほどの価値がある。

米俵

おすすめ度 :★★★

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● 本:『右翼は言論の敵か』(鈴木邦男著)  

2009年ちくま新書

 最寄り駅に街宣車がやって来た。
 一時間近く、大音量で檄を飛ばし、「9条廃止」「赤旗せん滅」と繰り返し唱和し、軍歌を流していた。
 現行憲法で保障されている言論・表現の自由があるので、どういった思想であれ、公共の場で喧伝する権利を認めるにやぶさかでないが、鼓膜を破るほどの大音量は騒音公害以外の何物でもない。
 演説場所から300mほど離れている我が家に居て、窓をぴったり閉めてさえ、うるさくて読書に集中できないほどだった。
 すぐそばの家や店の住人たちはたまらなかったろう。
 市民から「嫌われよう、憎まれよう」としているとしか思えない。
 ひょっとしたら、右翼の仮面をかぶった反保守・反自民組織による、逆効果を狙った戦略だったのかもしれない。
 ならば、とても成功したと思う。
 ソルティはその一時間でかなり左傾化した(笑)
 
騒音公害

 池上彰、佐藤優共著『真説 日本左翼史』(講談社現代新書)を皮切りにこのところ左翼に関する本を読み続けてきたが、やはり一方だけ学ぶのは片手落ちであろう。
 右翼についても少し齧ってみようと思った。
 とは言え、ここ数十年の右翼の思想家兼活動家としてソルティが名前を挙げられるのは、「在日特権を許さない市民の会」初代会長の桜井誠と、「一水会」現顧問の鈴木邦男くらいである。前者は到底許容できる範囲にはいない。
 鈴木邦男と一水会の名は『朝まで生テレビ』で右翼特集が組まれた90年代初頭から知っており、「これまでの右翼とはちょっと違う人」という印象は持っていた。
 何がどう違うかはよく分からなかったけれど、凝り固まった思想を持つ問答無用タイプの右翼とは違い、まともに議論できる理知の人というイメージをもった。
 本書の目次をざっと見たところ、戦前・戦後の代表的な右翼の大物についても紹介して、その生き様や言説を記している。
 右翼デビュー本としては手頃なのではないかと思った。
 
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 街宣車、軍歌、特攻服、旭日旗、ヤクザ(暴力団)、威嚇、改憲推進、天皇制護持、靖国賛美、北方領土問題、反共、三島由紀夫と楯の会、児玉誉士夫、笹川良一、日本会議、在特会、ヘイトスピーチ、権力(自民党、資本家)の番犬、ネトウヨ・・・・・。

 現在、大方の人が持つ右翼イメージはこんなところだろう。
 が、これらの多くは戦後の右翼に特徴的なものであって、戦前の右翼と共通するのは、天皇制護持と反共くらいのようだ。
 街宣車を発明したのは大日本愛国党の赤尾敏(1899-1990)で、昭和30年から平成2年まで続けていた銀座・数寄屋橋での街宣に端を発するらしい。
 社会人になったばかりのソルティは銀座で飲んだり映画を観に行ったりするたびに目の端にとらえていた。あのお爺ちゃんは銀座の日常風景と化していた。
 また、ヤクザと右翼が結託するようになったのは、戦後政財界の黒幕であった児玉誉士夫が、表と裏の世界をつなぐフィクサーとして君臨したことによると言う。

 右翼としての児玉がその実力をいかんなく発揮したのが岸政権下の60年安保のときだった。左翼運動の高揚に「左翼による革命前夜」と危機感を強めた右翼陣営は、政財界だけでなく裏社会にも顔の利く児玉を頼った。そこで児玉は、全国の親分衆に、「(任侠社会での)抗争を廃してお国旗のもとへ結集せよ」と呼びかけた。

 アイゼンハワー米大統領訪日反対運動の高まりに対抗して、警察力の不足を補うために、ヤクザやテキヤの大量動員が計画された。このとき、自民党幹部からの要請で、全国のヤクザに顔が利く大物親分を動かしたのが、児玉だった。

 いわば、ヤクザと右翼が一体化して時の政権に奉公するという動きがこのときから始まったのだ。それも体制側のお墨付きによってだ。

 なるほどそうだったのか・・・と納得がいったが、国家や巨大資本家といった体制側が組合や民衆運動をつぶすためにヤクザを利用すること自体は戦前にもあった。
 夏目雅子主演の映画『鬼龍院花子の生涯』や住井すゑ著『橋のない川』にも、そうした場面が描かれている。白土三平の『カムイ伝』に如実に描かれているように、社会から疎外されている者・忌み嫌われている者を手なずけて自らの番犬として使役することは、昔から権力がよく用いる手なのである。
 児玉はそれを組織的・全国的・徹底的に行ったのであろう。
 かくして、右翼=ヤクザ=自民党・資本家の犬、というイメージが刻印されてしまった。

 戦前の右翼思想家はみな資本主義体制に批判的だった。右翼は決して「資本家の犬」でないと、痛烈に資本家を批判する。そこが戦後の右翼との大きな違いだ。

 右翼は「反共」だというイメージがある。それは間違いないが、正確にいうと、マルクス・レーニン主義、ソ連・中国型の共産主義(体制)に対する「反共」であり「反社会主義」であって、広い意味でとらえると、すべての右翼が経済制度としての社会主義に反対していたわけではない。とくに戦前の右翼はそうだった。

 戦前の右翼運動は「国家革新運動」といわれたように、世直しの思想を持っていた。国家社会主義や農本主義の潮流が右翼のなかに存在した。

 戦前と戦後で右翼はずいぶん変貌したようだ。
 鈴木邦男と一水会が「新右翼」として話題をさらったのは、まさに児玉誉士夫や笹川良一に代表されるような戦後の堕落した右翼に檄を入れようと、右翼の右翼たる原点に回帰しようとしたからであろう。
 ようやっと、一水会の位置づけが分かった。

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 さて、鈴木はこう書いている。

 もともと右翼は左翼との論争を嫌う。左翼は論理で迫るが、右翼は、天皇論、日本文化論などは日本人として当然の考え、常識と思っているし、それ以上に信仰的な確信をもっている。だから、左翼とははじめから相容れない。論争など無用と思っている。「言挙げ」を嫌うのだ。憂いや憤怒は和歌をつくって表現すればよい。(ゴチックはソルティ付す)


 右翼というものが上記の通りの存在であるなら、なにも左翼だけでなく誰であろうと、右翼と対話することは不可能である。言葉が通じない。
 キリスト教原理主義者やイスラム教原理主義者の例を見るまでもなく、自らの思想を絶対視して決して枉げない相手とは議論するだけ徒労である。
 自分が正しいと思い込んでいるのだから。

 ところが、右翼であるはずの鈴木邦男は議論上手で、左右問わず、どんな相手とも対談してきた。
 テロを無くすには言論の場を確保すればいい、とさえ主張している。
 言葉の力を、対話の価値を信じているのだ。
 つまりそれは「人が変わる」可能性を信じているってことである。

 最近の鈴木邦男についてネットで調べて驚いた。
 憲法改正に「待った!」をかけている。
 死刑廃止に賛同している。
 外国人参政権を支持している。
 反韓デモを批判している。
 立憲民主党の応援演説に立っている。
 もはや左の人と言ってもいいくらいではないか!
 なんていう面白い人だ!(新書のプロフィールに自らの住所と電話番号を載せているのも含めて)
 
 右翼は言論の敵か?
 鈴木の“転向?”ぶりから察するに、言論こそが右翼の敵なのだ。
 街宣車のあの切れ間のない大音量の主張攻勢は、他者との対話を阻もうとする必死の抵抗なのだろう。


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