ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、寺社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●読んだ本・マンガ

● 赤門ミステリー 本:『その可能性はすでに考えた』(井上真偽著)

2015年講談社
2018年文庫化

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 推理小説の定石を覆す話題作。

 容疑者が仕掛けたトリックを探偵が推理によって暴き、犯人を特定するのが、推理小説の定石である。
 しかるに、本作の探偵上苙丞(うえおろじょう)は、容疑者が仕掛けたトリックを暴かんとする複数の挑戦者たちの仮説を推理によって逆に論破することで、「犯人がいない=殺人がなかった」ことを証明せんとする。
 誰がどう見たって他殺としか思えない現象が、実は殺人ではなくて「奇蹟」であったことを証明せんとする。
 奇蹟の証明――それが探偵の目的なのである。
 ある意味、山口雅也著『生ける屍の死』以来の変化球、いや魔球かもしれない。

 この上苙(しかし読めない名前だ!)の風変りすぎる目的には、もっともな動機がある。
 単なる『ムー』好きの超常現象オタクではない。
 そのへんのリアリティづくりが面白い。

 上苙に挑戦する面々がまた超個性的で危ない奴ばかり。
 鳥打帽にインバネスをまとった老師風の元検察官、巨大な売春組織を操る冷酷にして惚れっぽい中華美女、金田一少年のコピーのような小学生探偵、そして精神世界を牛耳するラスボス。
 趣向は、『少年ジャンプ』あるいはロール・プレイング・ゲーム。
 プロフィールに作者の生年が書かれていないので分からぬが、昭和生まれではない気がする。

 プロフィールと言えば、一番びっくりしたのが、著者の学歴。
 東京大学卒業とある。
 これまで東大卒のミステリー作家っていただろうか?
 早大卒(栗本薫)や慶大卒(夏樹静子)や京大卒(綾辻行人など多数)や名古屋大卒(森博嗣)はいるけれど、東大卒ってミステリー作家には聞いたことがない。
 と思ってググったら、昨今は東大卒あるいは在学中のミステリー作家があまた出現しているではないか!
 ソルティが最近の国内ミステリー事情に疎いだけだったのね。

 東大出身のミステリー作家――って言うとなんだか「宝の持ち腐れ」、「牛刀割鶏」って気がしてしまうのは、ミステリーに対する冒瀆、あるいは京大出身者に対する侮辱になるだろうか?
 なんか結びつかない。 
 でも、最近はクイズ番組に出るのが東大生の勲章みたいになってるからなあ。

 ともあれ、東大の頭脳で本気でミステリーを書かれたら、凄いのが生まれるのも道理。
 本作で駆使される中国文学と物理学の知識ときたら、作者が文系なのか理系なのか戸惑うレベル。
 といって、無用に衒学的にならず、エンターテインメント性も高い。
 ほんとうに頭の良い人は、知識をひけらかそうなんて思わないものなのだ。
 
 まだまだミステリーの可能性は尽きない。


赤門



 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 本:『日航123便墜落 疑惑のはじまり 天空の星たちへ』(青山透子著)

2010年マガジンランド刊行
2018年河出書房新社
2021年文庫化

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 森永卓郎著『書いてはいけない』で薦められていた本。
 著者の青山は1985年8月12日夜の123便墜落事故時、日本航空(JAL)のスチュワーデスだった。
 後に転職し、企業・官公庁・大学等の人材育成プログラムの開発及び講師として働き、現在は「日航123便墜落の真相を明らかにする会」の事務局を務めている。
 スチュワーデスという呼称は現在は使われていない。客室乗務員あるいはフライトアテンダントと言う。
 堀ちえみ主演『スチュワーデス物語』は遠い昔だ。

 青山は今やJAL123便事故に関する真相究明派の旗頭的存在となっていて、本書を含み7冊の関連本を出している。
 本書は「疑惑のはじまり」というタイトル通り、その出発点となった第一作であり、ノンフィクション作家青山透子の誕生を告げた記念すべき書である。
 ちなみに青山透子はペンネームである。

 本書は3部構成である。

 第1部は、青山が一人前のスチュワーデスになるまでの若き日々を振りかえった回想録。
 厳しい訓練や失敗の数々、仲間や先輩との友情や助け合い、次第にプロ意識を身につけていく様子など、まさに『スチュワーデス物語』そのものの面白さ。
 もっとも、風間杜夫のようなイケメン教官との色恋や片平なぎさのような珍キャラは出てこないが。
 航空業界の専門用語や慣習についての要領のよい説明や、初フライト時の感動的な逸話など、文才が感じられる。
 JAL社員としての誇りと喜び、乗客の命を預かるプロとしての使命感をもって、青山が充実感のうちに働いていたことが伝わってくる。
 それだけに、1985年8月12日の出来事はたいへんな衝撃だった。

 第2部は、あの日のこと。 
 会社の女子寮でスチュワーデス仲間とともにニュースを耳にしたときの様子が、情景が浮かぶような臨場感をもって描かれている。
 我々外部の人間は、墜落事故の被害の凄まじさ、愛する者を突然失った遺族の姿、修理ミスという人為的原因などに感情を動かされ、加害者としてJALを非難し怒りをぶつけたものだけれど、辛く悲しいのはJALの社員も同じだったのである。
 苦楽を分かち合った同僚を失い、世間から後ろ指を指され、JALの社会的信用とプロフェッショナルとしての矜持を叩きつぶされ、それでも休まず飛行機を飛ばし続けなければならない。
 事故で亡くなったスチュワーデスやパイロットの遺族たちは、被害者でありながら、一方で加害者としてもみなされ、悲しみをあらわにすることすらままならなかった。
 遺族の世話を担当した社員の中には、その後自殺した者や過労で亡くなった者もいたという。

 いま思うに、JALの幹部が現場に足を運び遺族に謝罪するのは当然だが、遺族の世話は一般社員にさせるべきではなかった。
 一般社員は墜落原因とは何の関係もなかったのだし、心のケアは専門職に任せるほうが適切だ。
 過失致死を犯した人間の家族に、被害者遺族の世話をさせるようなものなのだから。
 一般社員に必要以上の罪悪感を抱かせ、遺族の怒りをぶつけるサンドバッグにし、過酷な肉体的労働や心労を与え、新たな犠牲者を生み出した。
 会社のために尽くす“会社人間”が称賛される昭和時代の大きなあやまちであった。
 もっとも、懸命に世話にあたったJAL社員と遺族の間に生まれた、事故後も長く続く交流を否定するものではない。 

 死亡者名簿の中に新人のとき世話になった先輩スチュワーデス数名の名前を見つけた青山は、衝撃を受け、悲しみに暮れた。 
 後日、深い追悼の思いと共に、事故について新聞記事を調べていくうち、様々な疑問が湧き上がる。
 それはスチュワーデスとして専門教育を受け、空の上の現場で何百時間も働いてきた者だからこそ抱き得る当然の疑問であった。

がくあじさい

 第3部は日航退職後、2000年代に入ってからの話である。
 教育の仕事に転じた青山は、航空会社への就職を希望する学生たち相手に講義する機会を持った。
 ある時、1985年当時はまだ物心つくかつかない年齢だった生徒たちに、JAL123便墜落事故について調べてクラスの前で発表するという課題を与えた。
 生徒たちははじめて知る事故の詳細に衝撃を受けるとともに、当事者の一人であった青山の影響を受けることなしに、新鮮な第三者の目で事故に関する記事を読み、知り合いの年配者にインタビューし、レポートにまとめた。
 彼らの発表はまさに疑問のオンパレードだった。
 そこには青山も気づかなかったような、思いつかなかったような事柄もあった。
 たとえば、事故当時の中曽根康弘首相の動向など、ソルティもまた本書を読んではじめて知った。
 事故のあった8月12日は夏休み中で軽井沢滞在。翌13日上京し、池袋サンシャイン開催の輸入品バザールに足を運び、15日は戦後初の靖国神社公式参拝を終えたあと二泊三日の人間ドック入り。17日軽井沢に戻って家族と過ごし、知人の別荘のプールで水泳に散歩。
 事故現場はおろか、遺族が参集していた軽井沢からほど近い群馬県藤岡の検視会場にも足を運んでいない。
 令和の今ならネットが爆発するようなふざけたものである。
 当時の日航は民間会社ではなかった。政府主導の半官半民の組織で、皇室や国会議員御用達のいわゆるナショナル・フラッグ・キャリアだった。

 事故直後に抱いた青山の数々の疑問は、次第に疑惑となって固まっていく。
 偶然が重なって、映画『沈まぬ太陽』にエキストラとして参加することになった2009年、ついに事故現場である御巣鷹の尾根をはじめて訪れることになる。
 現地では、当時群馬県警高崎署の刑事官で遺体の身元確認班の責任者だった飯塚訓氏(『墜落遺体』の著者)、上野村の村長だった黒澤丈夫氏に話を聞き、さらには飯塚氏とともに検視に携わった歯科医師の大國勉氏、地元消防団員で生存者を発見した黒澤武士氏から、現場を案内してもらう機会を得た。
 黒澤武士氏は言う。

「最初はねえ、生存者はいないだろうってことで来たからね、今思えば、担架を持ってきて、ヘリで空から落としたってよかったのにねえ、そういうことが全然出来ていなかった。だから吉崎さんの奥さんも、けっこう周りにいた人たちと話をしたって言ってたもんね。もっと救助が早ければ・・・・今24年経ってみて、落ち度があったっていえばそういう点が欠けていたよね」

 吉崎さんの奥さんとは、4人の生存者の一人で当時35歳だった吉崎博子氏のことである。
 青山は事故現場に立ち並ぶ犠牲者の名前の書かれた墓標をひとつひとつ拝み、そこにスチュワーデス時代にお世話になった先輩たちの名前を見つける。
 初フライトの時に助けてくれた前山先輩の墓標と出会うシーンには思わず背筋がぞわっとした。

 確かに言えることが二つある。

 一つは、青山透子はまったく陰謀論者などではない。
 公になっている記事や証言を粘り強く調べ、論理的科学的な思考によって物事の道理が判断できる、頭のいい人である。
 亡くなった同僚や乗客に対する深い哀悼の気持ち、当時のJAL経営陣や一部政治家に対する不信の念や怒りは当然あろうが、決して感情に引きずられて妄想をふくらませることをしていない。
 本物のジャーナリストがここにいる。

 いま一つは、やはりJAL123便墜落事故には不可解なことが多すぎる。
 機体が墜落してから墜落現場が特定されるまで9時間以上かかったこと。
 舵を失った飛行機が横田基地に緊急着陸せず、わざわざ長野県方面に方向転換したこと。
 遺族の要求に応じず、いまだにボイスレコーダーとフライトレコーダーの開示を拒んでいること。
 隠したい何かがあると疑わざるを得ない。

悪魔と議事堂





おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 鶴は忘れない 映画:『沈まぬ太陽』(若松節朗監督)

2009年角川
202分

沈まぬ太陽

 原作は山崎豊子の同名小説
 1985年8月12日に起きた日本航空(JAL)123便墜落事故をモデルとしている。
 
 いろいろな意味で映画化困難と思われたものを、よく実現させ、このレベルまで仕上げたなあというのが率直な感想。
 角川映画と若松監督の執念を感じる。 
 未曽有の飛行機事故の悲劇、会社組織に振り回される一サラリーマンの悲哀と矜持、欲と利権まみれの腐敗した経営陣や官僚や政治家。
 山崎が文庫5冊分かけて描き切った幅広いテーマを、いずれも大きく損なうことなく、バランスよくまとめあげた脚本(西岡琢也)も見事である。
 原作とは違って、冒頭に123便の墜落シーンを持ってきている。
 そこでぐっと映画に没入した。
 最後の瞬間に乗客らが機上で書いた家族へのメッセージは、涙なしで聴けない。
 制作にあたって若松監督は、日本航空側の弁護団から二度ほど、「名誉棄損の恐れや遺族の感情を無視した商業主義的行為」として警告を受けたという。
 「どの口が言う」という慣用句の使用例として、これ以上ピッタリなものはなかろう。

  一番の見どころはやはり役者の演技。
 まず、主役・恩地元を演じる渡辺謙が素晴らしい。
 200分超える長尺を最後まで支えきれる堂々たる風格と重厚な演技。
 共演者と息を合わせるのも上手い。
 国際級のスターであるのも頷ける。
 
 渡辺と対立するライバル社員・行天四郎役の三浦友和。
 立身出世しか頭にない非人情な憎まれ役を、繊細なタッチで演じている。
 三浦の場合、ルックスの良さでかえって損している気がする。
 悪役をやってもなんだかカッコイイのである。
 この行天という男は、さしずめ『白い巨塔』の財前五郎に相当すると思うが、このような冷徹な人間になった背景が描かれていない。(原作ではどうだったか覚えていない)
 そこが少し匂わされると、人物像に深みが出るのだが・・・。

 心の底では恩地を敬愛しながらも、行天の悪巧みに協力していく八木を演じる香川昭之も上手い。
 組合の若き闘士から卑小な裏切り者に転じるこの役、おそらくもっとも演じるに難しい。
 そこにリアリティを与える香川の実力は、やっぱり血筋を思わせるに十分だ。
 
 墜落事故で娘夫婦と孫を亡くした遺族に扮するは宇津井健。
 都会のインテリ的なイメージが強いので、大阪弁を話す好々爺の姿は最初のうち違和感があった。
 が、やはりベテラン役者。
 老いたる自身をありのままに曝け出して、愛する家族を失い絶望しやつれ果てた遺族の悲哀を滲ませている。
 作品に品格をもたらす役者である。

 品格と言えば、石坂浩二。
 墜落事故後、世間から非難の矢を浴び経営的にも行き詰った国民航空を立て直すため、総理じきじきの指名を受けて会長を引き受けた敏腕経営者・国見正之に扮する。
 つくづく、石坂は役に恵まれた人と思う。
 金田一耕助、大河ドラマの上杉謙信・柳沢吉保・源頼朝、『細雪』の貞之介、水戸黄門・・・・。
 いい役ばかり回されるのは、持って生まれた何かがあるのだろう。
 汚れ役や悪役に挑戦できないのは、役者としては忸怩たるものがあるのかもしれないが。

 ほか、総理大臣役の加藤剛の“老いてなお”の二枚目ぶり、恩地の妻役の鈴木京香の上品な色気、国航商事会長役の西村雅彦の絵にかいたような業突く張りが印象に残った。

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Rudy and Peter SkitteriansによるPixabayからの画像

 本作では山崎豊子の原作どおり、国民航空の墜落原因を修理ミスによる機体後部の圧力隔壁の損壊としている。
 それはそのまま、モデルとなった日本航空(JAL)123便の墜落原因として公式発表されたものであった。
 山崎の小説は、組織の上層部の腐敗と組織内の風通しの悪さが、このような現場のミスを引き起こす要因になったことを示唆していた。
 しかるに、森永卓郎著『書いてはいけない』によれば、JAL123便の墜落原因は機体の不備によるものではなく、まったくの外的要因の可能性が高いと示唆されている。
 すなわち、外部から発射された何かが、123便の尾翼を直撃し破壊したというシナリオである。
 もし、それが真実であれば、123便墜落事故のすべてが引っくり返り、JALの責任は圧倒的に軽くなる。
 いや、JALもまた被害者ということになる。

 山崎豊子の原作はフィクションと謳われており、登場する人物や団体は架空の物とされているので、たとえJAL123便の墜落原因が現在我々が公式見解として受け止めているものと違ったところで、作品としての価値はいささかも失われるものではない。
 この映画の価値も同様に。

 39年前の御巣鷹山の墜落現場の火はいまだに燻っている。
 520名の犠牲者がいまだ成仏できていないとしたら、あまりにむごい。

花札の鶴




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 大瀬慕情 本:『万延元年のフットボール』(大江健三郎著)

1967年講談社
1988年講談社文芸文庫

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 大江健三郎の代表作である本作を読んでなかった。
 大学生の頃この作家にかぶれ、芥川賞を受賞した『飼育』はじめ『死者の奢り』、『芽むしろ仔撃ち』、『われらの時代』、『性的人間』、『個人的な体験』と初期作品をほぼ発表された順に読んできて、「次は『万延元年のフットボール』だ」と思っていたところ、なぜか『洪水はわが魂に及び』を先に読んでしまい、そこで打ち止めとなった。(小説以外では『沖縄ノート』を一昨年読んでいる)

 『洪水は~』がつまらなかったわけではない。
 脳に障害を持って生まれた息子と父親との言葉を超えた交感、および二人を包む不器用な若者集団の「連合赤軍あさま山荘」的破滅を描いた『洪水は~』は、寓意性や物語性に富んで、とても面白く感動的だった。
 タイトルが聖書の一節からとられていることからわかるように、スピリチュアルな色合いも濃かった。これを読んだ80年代初頭、“スピリチュアル”という概念はまだ日本になかったが・・・。
 面白かった一方、これまで読んできた大江作品とはカラーが違っていた。
 初期作品はどれも青年期の鬱屈が感じられた。
 性的抑圧と連動するようなカタチで、周囲の世界に対する苛立ちや畏れが基調を成していた。
 大江自身、初期作品群は「監禁」が主要テーマだったと後に述懐しているし、そこにGHQ支配下におかれた敗戦国日本の屈辱を見る論者もいる。
 20代のソルティは、戦後の政治状況や日本人の屈辱というテーマにはぴんと来なかったが、青年期の鬱屈は自分ごととしてビンビン共感できた。
 そこに大江作品にかぶれた理由があった。
 根暗な青年、今で言うなら「陰キャ」だったのである。

 『洪水は~』を読んだとき(正確にはその前に読んだ『個人的な体験』あたりから)、大江が内に抱いて作品として結実させるテーマが、自分の関心とはかけ離れたものになっていることを察し、「もう大江は十分だ」と思ったのであった。
 当然のことながら、若くデビューした作家も成長する。疾風怒濤の青春期を後にし、社会化する。齟齬や摩擦のあった周囲の世界と、とりあえずの和解をもつ。
 そのうえ大江の場合、脳に障害ある息子(作曲家・大江光)の父親になる――父親になることを引き受ける――という大きな転機があった。
 言ってみれば、アフリカの原住民部族のバンジージャンプのような通過儀礼である。
 つまるところソルティは、“大人になった”大江健三郎に置いてけぼりにされたような気がしたのであった。
 これは初期作品から順に読んできたからこそ、つまり小説家の成長過程を追ってきたからこそ起こり得た現象だろう。はじめの一冊に『洪水は~』以降の作品を手にとっていたら、逆に初期作品を読むことはなかったかもしれない。

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 およそ35年ぶりに大江の作品を手にとったのは、かつての“推し”にして我が国で川端康成に継ぐノーベル賞作家の代表作を読んでいないという長年の気がかりを解消したかったのと、2018年の秋に四国遍路をした折、大江健三郎の生まれ故郷であり、本作の舞台である大窪村のモデルとなった愛媛県喜多郡内子町大瀬を訪れたからである。
 小説を通じて、もう一度大瀬に会いたかった。

内子駅で下車して東方に道をたどると、駅前の集落はたちまち尽きてしまい、そこから渓谷を蛇行している小田川に沿って昔ながらの街道が山間部にずっと延びている。その狭隘な街道を約5キロほども遡行すると、やっと小さな村落にたどりつく。そこが大瀬の集落である。村落の北東方面に目をやると遠く近く石鎚山脈の巨大な峰々が起立していて、いかにもここで行き止まりといった印象を受ける。(本書巻末「作家案内」より抜粋)

 むろん、本作で描き出される大窪村(大瀬)は、ソルティが訪れるより半世紀以上も前の1960年代初頭の姿であり、交通事情やら家並みやら人口構成やら村人のたつきやら、まったく現在とは違っている。
 また、あくまでもフィクションの中に設定された集落であり村人であり、大窪村=大瀬と単純に受け取るのは早合点が過ぎる。
 が、大江健三郎の出身地という以外に特別な観光名所もない、遍路道沿いにあるとは言え巡礼札所からは離れている――67キロ離れた43番と44番の間にある――ので歩き遍路でなければ立ち寄ることもない、アクセスの悪い山間の僻地ゆえ、半世紀前と変わっていないところも多かろう。
 地形であるとか、左右に広がる深い森と谷間を流れる小田川の透き通った水の色であるとか、空気感であるとか、土地柄であるとか、古くから住みついている人々の“村民性”であるとか、60年代当時から残っている建物であるとか、リンを鳴らし通り過ぎる遍路の姿であるとか・・・・。
 2018年に訪れた際の大瀬の光景を脳裏に浮かび上がらせながら本書を読むという、まことに贅沢な、臨場感ある読書体験をした。

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江戸や明治の町屋や蔵屋敷が並ぶレトロな内子町

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大正14年から昭和40年まで営業していた映画館(旭館)
少年時代の大江健三郎も通ったことだろう

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内子から大瀬に向かう遍路道

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大瀬

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小田川

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小田川を渡ったところにある遍路休憩所

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大瀬の目抜き通り

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大江健三郎の実家

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大江の母校の大瀬小学校
シンメトリカルで瀟洒な造りに驚いた

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大瀬の館(大瀬自治センター)
元村役場だった

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見学や休憩ができる
掲示されていた昔の村地図に「朝鮮部落」とあった
『万延元年』に朝鮮人が登場するのは故あることだった

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宿泊することもできる

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大江健三郎の写真が飾られていた

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もちろん書籍も

 翻訳の仕事をしている蜜三郎と妻の菜採子は、はじめての子供が脳に障害を持って生まれ自分たちの手では育てられそうもないことにショックを受けた。蜜三郎はまた親友の奇矯な自殺を目撃し、引きこもり状態になっている。
 そこへ60年安保の闘士であり、挫折を胸にアメリカ放浪してきた蜜三郎の弟鷹四が帰ってくる。鷹四は兄夫婦に、「新しい人生を始めるために、一緒に生まれ故郷の大窪村に行こう」と誘いかける。
 鷹四を信奉するヒッピー風の若い男女一組も引き連れ、一行は四国の谷間を目指して出発する。
 だが、実は鷹四には兄には告げていない過去の秘密と、闘士としての密かな目論見を持っていた。
 やがて、万延元年に大窪村で起きた一揆をなぞるように、静かな山間に鬨の声がとどろく。

 ――という物語が、大江の特徴である翻訳調のごつごつした文章で綴られていく。
 難解で固い文章には違いないのに不思議と土俗性を醸し出していく才は、この作家ならでは。
 食べるのを止められない病いにかかった大女のジンや、かつて徴兵逃れのため森に入って戦後もそのまま森に棲み続ける隠者ギーなど、印象に残るキャラクターづくりもさすが。
 思った以上に面白かった。
 文庫の裏表紙の短い解説文では、物語の簡潔なあらすじと共にこう紹介されている。

 幕末から現代につなぐ民衆の心をみごとに形象化し、戦後世代の切実な体験と希求を結実させた画期的長編。谷崎賞受賞。

 おそらく、一般的にはこの通りの解釈で間違いないのだろう。
 けれど、「戦後世代の切実な体験と希求」を共有していない、60年安保も70年安保も知らない、一揆はもちろんゲバ棒にヘルメットのような暴力をともなう政治運動を経験したことがない、“戦後”という言葉すら時代遅れとなった昭和元禄&バブル世代に育ったソルティは、この兄弟をめぐる物語を、上記解説のように読むのは難しかった。
 まったく別の読み方、違った解釈で読むことになった。
 ソルティは本作を、鷹四という主人公の一種のトラウマドラマとして、すなわち鷹四という人物の一連の行動を精神分析的に解釈する誘惑にかられながら読まずにはいられなかった。

 鷹四には兄の蜜三郎に隠していた、家族の誰にも話すことのできずにいた少年時代のあやまちがあった。
 そのあやまちは残酷な結末を迎え鷹四は致命的な傷を負うのだが、誰にも話せないことであるがゆえに、そのトラウマは鷹四をその後ずっと束縛し、苦しめ続けることになる。
 鷹四が安保闘争に飛び込んで恐れ知らずの闘士として同志から英雄視されるようになるのも、アメリカ旅行中に単身スラムに入って無防備な探索をするのも、自らを罰したいという破滅願望ゆえなのである。
 そしてその破滅願望は、生まれ故郷の大窪村で、村人たちを扇動し“伝説の一揆”を起こすという無鉄砲をもって表出される。ほかならぬたった一人の肉親である兄の目の前で、自らのトラウマをさらなる暴力によって昇華させ、良くも悪くもケリをつけたいという、やむにやまれぬ衝動のあらわれとして――。
 鷹四は、兄蜜三郎にすべてを目撃してもらい、すべてを知ってもらい、過去のあやまちを償う自らの“証人”になってもらいたかったのだ。

 そのように解釈してみると、鷹四というキャラクターは初期作品に共通して見られた「鬱屈」の形象化であり、一方、鷹四の暴発と悲劇的最期を傍らで目撃しつつ、その根源にあるものをつきとめ、荒ぶる魂を鎮静し、日常生活に復帰していく蜜三郎は「社会化」の比喩である。
 本作は初期作品から後期作品への「乗越え点」と、「あとがき」で大江健三郎自身が述べている。
 まさに“通過儀礼”的な作品なのである。

 一つだけ釈然としない点をあげる。
 ラストで鷹四の子供を妊娠した菜採子が蜜三郎のもとに戻ってくるが、これは夫である男性の視点からはともかく、妻である女性の心情からして不自然な気がする。
 ここまで決定的なことがあって、夫婦関係をこれまでどおり継続できるものだろうか?
 離婚するかどうかは別として、少なくとも、二人には冷却期間が必要だろう。
 妻の菜採子の実家は裕福らしいので、いったん里に帰らせるというやり方もできたはず。 
 「なんかとってつけたような、無理くり大団円にしたラストだなあ」という感がした。
 女性読者の多くはどう思うのだろう? 

 それにつけても、やっぱり、大江健三郎は凄い。
 またいつの日か大瀬の里に行きたいな。

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おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




● 英国の紫式部 本:『ベンバリー館 続・高慢と偏見』(エマ・テナント著)

1993年原著刊行
1996年筑摩書房(訳・小野寺健)

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 財産があってすでに結婚している男なら、跡継ぎの息子を欲しがっているはずだというのは、ひろく世間に認められている真理である。

 ――というさわりを読んだら引き込まれ、そのまま半分以上読んでしまった。
 気がつけば午前2時を回っている。
 明日は仕事なのに!
 ジェイン・オースティン『高慢と偏見』のファンなら、「それも仕方ない」と分かっていただけるだろう。
 面白過ぎる。

 ヒロインのエリザベスを取り巻く一癖も二癖もある登場人物たち。
 由緒ある家柄ゆえ高慢なところのあるイケメン夫ダーシー。
 やさしい姉のジェインと気のいいチャールズの暢気なおしどり夫婦。
 頭が空っぽで騒がしいだけの母親ミセス・ベネット。
 その母親そっくりでミーハー根性丸出しの妹リディアと性根の腐ったその夫ウィッカム。
 偏屈で本の虫の妹メアリ。
 底意地の悪いビングリー姉妹。
 傲慢を絵に描いたようなダーシーの叔母レディ・キャサリン・ドバーグ。
 計算高い割にはとんちんかんなコリンズ氏としっかり者の妻シャーロット。

 ときはクリスマス。
 舞台はダーシー夫妻が暮らす豪壮きわまるベンバリー館。
 これだけ癖のある人間が一堂に会すれば、ひと波乱起こらないのが奇跡というもの。
 一行はあたかもトラブルに引き寄せられるように、ベンバリー館にやって来る。

 そのうえに、新たに創作されたキャラとして、ダーシーとエリザベスのあいだに男子が生まれなければベンバリーを相続することになっているオタク気質のローパー氏やら、夫を亡くしたミセス・ベネットに結婚を申し込む義足のキッチナー大佐やら、ダーシーが結婚前にフランス女に生ませた隠し子らしきが登場し、館の女主人であるエリザベスは心労の種が尽きない。
 オースティンが創造した元キャラたちと新たに創造したキャラたち、どちらをも巧みに描き分け、オリジナル作にせまるユーモアセンスを発揮するエマ・テナントの手腕は称讃に値する。

林檎の花

 ジェインの男児出産とエリザベスの妊娠発覚でハッピーエンドとなるプロット自体はたいしたものではない。
 面白さの9割以上は、ジェイン・オースティンによって創造されたキャラクターたちのぶつかり合いにこそある。
 これだけ多くの読者の脳裏に刻まれる複数の個性的キャラを生み出し得たのは、同じ英国の作家ならチャールズ・ディケンズとコナン・ドイル、本邦の作家で言えば『源氏物語』の紫式部くらいではなかろうか。
 このようなパスティーシュが作られるのは、まさにそれゆえなのだ。
 『高慢と偏見』の場合、コリン・ファース人気に火をつけたBBC制作のTV版や数度の映画化は当然のこととして、なんとまあ、『高慢と偏見とゾンビ』(セス・グレアム・スミス著)というホラーコメディのパスティーシュまで作られている。これが実によく出来ていて面白い!(映画化もされた)

 ジェイン・オースティンの天才を再認識するばかり。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





 

● 本:『ハタチになったら死のうと思ってた AV女優19人の告白』(中村淳彦著)

2018年ミリオン出版

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 毀れている。
 ――というのが本書を読んでの何よりの感想だ。

 若い女性たちが毀れている。
 家族が毀れている。
 AV業界が毀れている。
 社会が毀れている。

 本書は、『職業としてのAV女優』を書いた中村淳彦による現役AV女優19人へのインタビュー集である。
 「あとがき」によれば、これまで数多くのAV女優インタビューを行ってきた中村は、「なにが正しくてなにが間違っているのか」わからなくなり、「グチャグチャに」なった。
 苦渋ののち辿りついた結論が、「情報を掴むために必要な最低限の質問以外、ほとんど自分からは喋らない。ただただ聞くだけ」に徹するということだそうで、それが本書を貫く基本スタイルとなっている。
 なので読者は、中村自身の価値観によって評価・判断されることを免れた、19人のAV女優たちのナマの声に出会うことができる。

 AV女優をやっている若い女性たちが毀れている。
 ただし、自らの性を売っているから“毀れている”というのではない。
 それなら、かつて女郎部屋に身売りされた貧農の娘や、家族を養うため或いは男に貢ぐため性風俗で働く女性は昔からいた。
 女が「金のため」「家族や男のため」に性を売る(性を売ることを強要される)というのは、よくある話だ。
 一方、本書に登場する女性たちの多くがAV女優となった理由として上げるのは、「他人から承認されたい」である。
 承認欲求――。
 それは、人間の行動を引き起こす3つの動機の1つ――あとの2つは欲望と理性――とフランシス・フクヤマが書いていた。その通りなのかもしれない。
 他人から承認されるためなら、裏社会とつながる性風俗業界にあえて飛び込み、自らの“痴態”がネットで世界中に発信されデジタルタトゥとして半永久的に残ることにも怖じない。
 自らを危険にさらしてまでも他人から承認されたい。
 この闇雲な承認欲求のあり方が、“毀れている”と感じさせるのである。
 それは、本書に登場するAV女優のみならず、現代日本の若い世代の女性に共通した心的傾向なのではないかとも思われる。
(一方、承認欲求のために戦争をする男たちが、“毀れている”のは言うまでもない)

 若い女性たちが毀れているのは、なにより家庭が毀れているからである。
 あえて選んだわけでもあるまいに、本書に登場するAV女優たちの生育環境の悲惨なこと! いびつなこと!
 実の母親が実の息子(語り手の弟)と近親相姦していたり、小学校の先生に毎日のように“悪戯”されるのを親には黙っていたり、失踪した母親が愛人の家で自殺したり、統合失調症の兄が家庭内暴力を起こしたり、子供の時にAVマニアの父親のオナニーを目撃したり・・・・。
 機能不全家庭のオンパレードである。
 そもそも親たちが他者からの承認に飢えているので、とうてい子供(語り手)をしかるべく承認することができない。
 そうした家庭内の負の連鎖をここから読み取るのは難しくない。

 表社会に馴染むことができずグレーゾーンで生きている男たちがつくるAV業界が毀れているのは、いまさら言うまでもない。
 著者はそれを“異界”と呼んでいる。

 そこは、まさに異界である。その空間の異常さを一般社会側から糾弾しているのが強要問題(ソルティ注:暴力や脅しによってAV出演を女性に強要すること)で、自分たちの社会が生んだ異界という理解がないまま、一方的に責め立てるのでさらなる分断に陥っている。本文でも書いている通り、異界に一般的なルールを求めて「非を認めて」「足並みを揃えて」「改善」させるのは困難であり、無理難題だ。みんな一般社会から弾かれて漂流しているので、居心地のいい異界しか知らない。自浄能力はない。

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 個人や家庭が毀れているのは、社会が毀れているからである。
 これまでの日本社会の通念や常識というものが、いたるところで通用しなくなっていることは、昭和育ちの人間なら日々感じているところだろう。
 仏教や儒教や神道で養われた日本人の宗教観や倫理観、稲作や漁業で培われた共同体のルールや人間関係のあり方、そして欧米仕込みの戦後民主主義の価値観。
 これらの共同幻想の微妙なバランスの上に成り立ってきたのが、戦後の日本社会、日本文化だった。
 それがここに来てドラスティックに変容している。
 その主因は、インターネットを嚆矢とするIT時代の到来と、個々人の欲望の達成を第一原理とする新自由主義の浸透ではないかと思う。
 力を持たない個人を守ってきた共同幻想という砦が崩壊してしまい、個々人は各々のアカウントのみを持った孤独な戦士として、弱肉強食の戦場におっぽり出されてしまった。
 社会が毀れたとは、つまり共同幻想が毀れたということである。

 もちろん、共同幻想が毀れたことで救われたこと、良くなったこともたくさんある。
 たとえば、男尊女卑の文化など、その最たるものであろう。
 昭和時代には誰もなんとも思わず楽しんでいた芸人のジョークや流行歌の歌詞などが、令和のいまでは「とんでもない!」とうつるのは、もう日常茶飯のことになっている。(例として、さだまさしの『関白宣言』やおニャン子クラブの『セーラー服を脱がさないで』)
 セクハラ(セクシュアル・ハラスメント)という言葉が「新語・流行語大賞」に選ばれたのは1989年(平成元年)であった。
 まさに、昭和から平成になってパラダイムが変わったのであり、それに合わせてバージョンアップできない昭和育ちの男たちがいまだに墓穴を掘り続けているのは、日々のニュースに見るとおりである。

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 そう。もっとも変わった共同幻想の一つは、性に関する意識である。
 男尊女卑的な性文化が糾弾され、人権的見地から改善されていく一方で、性そのものの敷居が低くなった。
 いわゆる、性がオープンになった。
 隠すべきこと、うしろ暗いこと、猥らなこと、恥ずかしいこと、悪いこと、大っぴらに語ってはいけないこと――つまりはタブーであった性が、誰の目にも見える陽の当たるところに出てきて、ある程度自由に語れるようになった。
 それは、ヒッピー文化であったり、エイズの出現であったり、フェミニズムであったり、ゲイリブであったり、昭和バブルの高揚感・軽佻浮薄であったり、アニメ文化の興隆であったり、性教育を推進する人たちの運動であったり、インターネットが登場したり・・・・いろいろな要因が積み重なっての“いま”であろう。
 元ジャニーズ事務所のジャニー喜多川がタレントの卵である少年たちに性虐待を行っていたことがやっと表沙汰になったが、マスメディアによる長年の犯罪放置の底にあるのは、売れっ子タレントを抱える巨大芸能事務所への忖度という以上に、同性愛を大っぴらに語ること、それも成人男性と未成年男子のセックスについて語ることが、日本社会の(というより男社会の)タブー中のタブーだったことが大きいと思う。
 昭和育ちの多くの人間たちが性に関して抱えている鬱屈というものを、平成育ちの若い世代が理解するのは難しかろう。
 本書に登場するAV女優(インタヴュー時23歳)はこう語る。

 昭和って性に対して悪いような感覚がありますよね。はしたないみたいな。ファッションもそうだし、感覚もそう。古き良き時代に過ごしてきた人たちと、私たちは全然感覚が違いますよね。だから親はもちろん知らないけど、バレても理解してもらおうとか、思ってないです。

 彼女にとってAVの仕事は、「お金になるし、なにより面白い。人と違った経験ができて牛丼店より割がいい、いい仕事」であり、「将来的にAV女優の経験が人生の足を引っ張る」とも思っていない。
 これが、いまどきの若い子なのだ。

 性がオープンになったことは、性風俗の仕事に対する世間の価値観が変わり、敷居が低くなることにつながった。
 うしろ暗いこと、隠すべきこと、恥ずべきこと、食いつめた女性の最後の手段、表社会からの転落・・・・といったイメージが希薄となり、数ある職業のひとつ――とまではいかなくとも、率のいいアルバイトという感覚はすでに若い女性たちの間で一般化している。(ハローワークに登録されるのも時間の問題?)
 性のカジュアル化がすすみ、玄人と素人の境が無くなった。
 人権意識はダブルバインドで、性風俗で働く女性に対する暴力や搾取をきびしく咎める一方、個々人の自己決定と職業選択の自由を侵すことができない。
 大のオトナが自分の意志で性を売ることについて、AV女優はじめ性風俗の仕事を自分の意志で選ぶことについて、反対する理屈を持たない。
 下手に咎めたら、「おまえは職業差別するのか!」、「私の人生は私が決める!」、「それとも、あんたが私の生活を保障してくれるのか!」、「私とつきあって、私を承認してくれるのか!」、「偏見に凝り固まった昭和オヤジは引っ込んでいなさい!」と言い返されるがオチである。
 すると、結局、あたら不幸になることが目に見えているのに、そうした仕事を率先して選ぶ――昭和オヤジから見ると“転落していく"――若い女性たちを、ただ傍観するしかすべはなくなる。

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 性というタブーが無くなり、性をオープンに語れるようになること。
 それはソルティも若い頃から望んでいたことであった。
 であればこそ、80年代半ばに日本に入ってきたエイズという病に惹きつけられ、ボランティアをするようになったのである。
 エイズという病が、「死」と「性」という人間の二大タブーに打ち込まれた楔のように思われたのだ。
 そこには、タブーを嫌い打破したがる若者の特有の血気もあったし、社会が性を語れるようになることが、ゲイというセクシャルマイノリティである自分が「自由になる」ための前提であると思ったからである。
 いまのLGBTをめぐる状況に見るように、それはかなりの程度、当事者にとって明るい方向に進んだ。
 タブーであった「性」が、日常的な話題の一つになるまでカジュアル化した。
 しかるに、本書に見るようなカタチでの「性のカジュアル化」を自分が望んでいたかと言えば、首をひねらざるを得ない。
 中村が「グチャグチャに」なったと言うのも頷ける。





おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● デブ専作家? 本:カー短編全集3『パリから来た紳士』(ディクスン・カー著)

2008年創元推理文庫(宇野利泰訳)

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収録作品(初出年)
  1. パリから来た紳士(1950)
  2.  見えぬ手の殺人(1958)
  3.  ことわざ殺人事件(1943)
  4.  とりちがえた問題(1945)
  5.  外交官的な、あまりに外交官的な(1946)
  6.  ウィリアム・ウィルソンの職業(1944)
  7.  空部屋(1945)
  8.  黒いキャビネット(?) 
  9. 奇蹟を解く男(1956) 
 短編全集2に収録されていた『妖魔の森の家』と並んで、カーの数ある短編作品の最高傑作と評判が高いのが、本刊のタイトルになっている『パリから来た紳士』。
 『妖魔』以上の驚くべきトリックや意外な結末が仕組まれているかと期待して読んだら、なんとまあ、思いがけずラストで泣いてしまった

 19世紀半ばのニューヨークの風情、密室で紛失した遺書のありかを探すというプロット、癖のあるアメリカ人たちを描き分ける巧みさ、そして「パリから来た紳士」によるあざやかな推理。
 これだけでも十分良作の名にあたいすると思うが、なんと言っても、「意外過ぎる結末!」にしてやられた。
 本格推理小説の愛好者で、この結末にシビれない者、感動しない者がいるだろうか?

 他も読みがいのある面白い作品ばかり。
 個人的に良かったのは、『外交官的な、あまりに外交官的な』と『ウィリアム・ウィルソンの職業』。
 トリックの発想力に関して言うなら、カーと並び賞されうるはコナン・ドイルとG.K.チェスタトンだけで、クリスティやクイーンや江戸川乱歩は後れを取る。
 ただ、ヘンリー・メルヴィル卿(100kg)にしろ、フェル博士(125kg)にしろ、マーチ大佐(107kg)にしろ、カーの創造した探偵はいま一つ華がない。
 だいたい、なんでみんな太っているのだろう?
 カーはデブ専だったのか?

肥満猫



おすすめ度 :★★★★

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● マスコミ3大タブー 本:『書いてはいけない 日本経済墜落の真相』(森永卓郎著)

2024年三五館シンシャ発行、フォレスト出版発売

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 ベストセラーとなった『ザイム真理教』に続く、膵臓がん末期にある著者渾身の告発第2弾。
 店頭で目次を見て、今回は財務省関連のことだけでなく、旧ジャニーズ事務所の未成年男子に対する性加害事件や1985年に起きた日本航空(JAL)123便墜落事故のことも書いてあると知り、気になって買ってしまった。
 財務省と芸能スキャンダルと航空機事故。
 なぜこの3つなのかというと、著者森永のメディア業界での長いキャリアにおいて、「けっして触れてはいけないタブー」がこの3つだったからという。

 この3つに関しては、関係者の多くが知っているにもかかわらず、本当のことを言ったら、瞬時にメディアに出られなくなるというオキテが存在する。それだけでなく、世間から非難の猛攻撃を受ける。下手をすると、逮捕され、裁判でも負ける。

 情けなくも外国メディア(BBC)の力を借りてその一角が崩れたことは、世間が知る通りである。
 財務省の“カルト的財政緊縮主義”については、森永自身がついに告発し、世論に一石を投じた。(10万部を超えたという。が、大手メディアは無視を続けている)
 残りの一つ、JAL123便墜落事故がいまだタブーのままと言える。

 ソルティは、この未曽有の被害をもたらした航空機墜落事故の原因をめぐって、政府によって公式に発表されたもの――機体後部の圧力隔壁の損壊――とは違った説が巷で唱えられていることは知っていた。
 例えば、まことしやかに聞かされたものの一つが、在日米軍による実戦訓練中のミサイル誤射だ。
 だが、松本清張『日本の黒い霧』に描かれていたGHQ占領下の1940年代、あるいはその余韻を引く1950年代ならともかく、いみじくも Japan as No 1 と言われた80年代で、米国主導によるそんな大がかりな隠蔽工作が可能だろうか?
 一種の陰謀論の域を出ないものと認識していた。

 しかるに、本書で推測されている墜落の原因は、よりショッキングなものだった。
 これがもし事実であることが証明され大っぴらになったら、事故から40年近く経った令和の今でも、岸田自公政権は一夜にして吹き飛ぶだろう。
 阪神淡路大震災や東日本大震災はじめ、ここ数十年天災あるたび懸命な救助に当たり、国民の間に評価と信頼を培ってきたJ隊の好感度も、それこそ失墜するだろう。
 個人的には陰謀論であってほしいと思うけれど・・・・まさか、ね。

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 看過できないのは、著者が約40年前のJAL123便墜落事故の真相解明を、今も強く訴える理由である。

 この30年間、日本経済は転落の一途をたどった。かつて世界シェアの2割を占めていた日本のGDPは今、4.2%にまで転落している。
 なぜ、こんなことが起こったのか。私は原因は2つだと考えている。
 1つは財務省が進めてきた必要以上の財政緊縮政策。財政をどんどん切り詰め、国民生活を破壊する。これに関しては前著『ザイム真理教』に詳しく書いた。
 そして、もう1つが本作で述べた日本航空123便の墜落事故に起因する形で日本が主権をどんどん失っていったという事実だ。国の経済政策をすべてアメリカにまかせてしまえば、経済がまともに動くはずがない。

 JAL123便の事故原因の隠蔽――そこにこそ過去30年間の日本経済低迷の最たる理由があると言うのである。
 これは、ソルティの耳には新説であった。
 珍説であることを祈るばかりだ。

 旧ジャニーズ事務所の“醜聞”――という生ぬるい表現ではもはや済ませられない時代である――については、J氏と同じセクシュアルマイノリティの一人として同時代を生きてきた人間として、いろいろと思うところはあるのだが、それはまたそのうち書きたい。
 とりあえずは、前著と本書による森永氏の告発の行方を注視したい。

 それにしても三五館シンシャさん、やりましたな!




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 実資、焦る  本:『かぐや姫の結婚』(繁田信一著)

2008年PHP研究所

 NHK大河ドラマ『光る君へ』で藤原実資(さねすけ)を演じているロバート秋山こと秋山竜次が話題になっている。
 なるほど平安貴族っぽいふっくらした顔立ち、金満家らしいでっぷりと貫禄ある体型、そして大まかに見えて実は几帳面なキャラは、藤原道長・頼通全盛期にあってなお、右大臣にまで登りつめた実資にふさわしい。
 とは思うものの、それでも、「あのガングロ(顔黒)はないだろ!」と観るたびに呟くのである。

 賢人右府と呼ばれ、宮廷儀式や政務に詳しく、道長や頼通でさえ一目も二目も置かざるを得なかったこの大人物はまた、ドラマの中で家人に揶揄されている通り、記録魔であった。
 実資が60年以上書き綴った日記『小右記』あればこそ、歴史学者や古典文学研究者は平安時代の貴族の暮らしぶりや宮中や洛中の出来事を知ることができるのであり、ソルティのような平安王朝ファンは失われたセレブの日常に思いを馳せることが叶うのである。

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 本書は副題そのままに、『日記が語る平安姫君の縁談事情』を描いたものである。
 ここで「日記」というのがほかならぬ藤原実資の『小右記』であり、「平安姫君」というのが実資55歳のときに授かった女子、藤原千古(ちふる)である。
 年をとってからできた娘だからというだけでなく、それ以前に二人の娘を幼くして亡くしていた実資にとって、千古はそれこそ掌中の珠、鼻の穴に入れても痛くない宝物であった。
 清少納言が『枕草子』の中で褒めたたえた小野宮第という洛中随一の豪邸で、千古はなに不自由なく、実資を筆頭とする家人すべてに甘やかされて育った。
 世間が彼女を「かぐや姫」と呼んだことからも、それは察しられよう。

 本書は、繁田信一のほかの著書同様、平安王朝時代に材をとった歴史書・研究書ではあるけれど、同時に藤原千古という上流貴族のお姫様の生涯を辿った伝記でもあり、娘を愛する父親のいつの世も変わらぬ涙ぐましい親馬鹿ぶりを描いた家族愛の物語でもある。
 だから、とっても感情を揺さぶられる。
 これまでに読んだ繁田の本の中では一番面白かったし、心なしか繁田の筆も乗っているようである。

黄色いアイリス

 「かぐや姫」というニックネームがまさに言いえて妙なのは、千古は――というより実資は、娘の結婚相手を選ぶのにとても悩み苦労したからである。
 莫大な富をもつ上流貴族の娘の嫁ぎ先としてもっとも望ましいのは、言うまでもなく、皇室入りして妃となることである。
 右大臣の娘ともなれば、天皇や皇太子に入内し、世継ぎを産み、将来の国母となるのも夢ではない。
 実資ほどの財と地位と信頼があれば、それは万人が納得する選択であった。

 しかし、ときは道長の絶頂期、「この世をば」の頃である。
 道長の娘以外が皇室入りすることは事実上あり得なかった。
 たとえ、強引に入内させたとしても、後宮で道長側の嫌がらせを受けるのは目に見えている。
 それは、道長の兄・藤原道隆の娘で一条天皇の后となった定子(演・高畑充希)が、父親亡き後たどった悲劇を見れば、この時代のだれもが暗黙のうち了解していた。
 老い先短い実資にしてみれば、自らが亡くなったあとのことを考えれば、可愛い娘を下手に皇室に入れて針の筵に置くよりも、将来が約束されている公達にめあわせたい――そう考えるのが道理である。

 となると、選択肢は狭まる。
 最高権力者である道長の息子、あるいは次の権力者であることが約束されている頼通の息子で、いまだ正妻を持っていない貴公子から選ぶに如くはない。
 また、道長側にとっても、「目の上のたんこぶ」のような実資と縁談という手段で手を組むのは悪い話でなかった。
 なんといっても、千古には実資から相続した莫大な財産がついている。

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(本書17ページより転載)

 そんなわけで、「かぐや姫」の最初の縁談は、藤原頼通の息子(といっても養子である)の源師房(もろふさ)との間に持ち上がった。
 師房は、頼通の正妻の弟で16歳だった。
 だが、これがどういう事情からかはっきり判明しないのだが(実資日記には書かれていない)うまくいかなかった。(繁田は千古と幼馴染の男との恋が原因と推測している)
 師房は結局、千古を振って、道長と第二夫人源明子の間に生まれた隆子と結婚してしまう。
 このとき千古はまだ13歳。
 焦ることもなかった。

 次の縁談が持ちあがったのは2年後、千古15歳のとき。
 お相手は道長の実の息子長家(明子腹)である。
 将来有望な21歳で、年齢的にもちょうど良い。
 この縁談には、道長も実資も最初から大乗り気であった。
 何ら障害となるものは無かったのに、2年待たされた挙句、結局この話も流れてしまう。
 実は、長家は初婚ではなく、すでに二人の正妻を見送っていた寡夫であった。
 二人目の妻を亡くしたショックから立ち直れない長家は、父である道長や母である明子に催促されながらも、千古との結婚に踏み切れなかったのである。
 2年間、蛇の生殺し状態におかれ、実資も「これは縁が無かった」と諦めることになる。
 (なんとなく、あくまでも千古の入内を阻むための道長と正妻倫子の策略のような気がするのはソルティだけか)

 そうこうするうちに19歳になってしまった千古。
 当時ならそろそろ“婚期を逸する”年齢である。
 実資もようやく焦り始めた。
 3番目の縁談相手は、道長の孫にあたる兼頼で、千古より3つ年下の16歳であった。
 道長と明子の長男頼宗の息子である。
 妾妻とはいえ、政略に役立つ息子や娘をたくさん産み育てた明子は、それだけでも道長にとって実にいい細君だったのである。

 年貢の納め時というわけでもあるまいが、ついにこのあたりで実資も手を打たなければならなかった。
 頼通の息子である師房、道長の息子である長家にくらべれば、道長の妾腹の孫に過ぎない頼宗は将来の展望という点では劣るけれど、これを逃したら千古はほんとうに行き遅れてしまう。
 実資が死んだら、娘を後見して財産を守り、生涯の安寧を保障してくれる男がいなくなる。
 長元2年(1029)11月26日、千古と頼宗は結婚した。
 実資は70歳を過ぎていた。
 
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 千古が“お年頃”になってから無事結婚するまでの実資の心情を思うと、とりわけロバート秋山を実資に見立てて右往左往する様を想像すると、なんとも滑稽にして憐れなばかりである。
 だが、娘が結婚できず売れ残りになってしまうことは、つい最近まで(昭和バブルくらいまでか?)体裁の悪いことだった。
 オールドミスとかクリスマスケーキ(25までしか売れない)なんて、ひどいセクハラチックな言葉も日常的に飛び交っていた。
 女性が就職するのは婿探しのため、結婚したら仕事を辞めて家庭に入るのが当たり前という時代、つまり女性の職業的自立が難しかった時代、一家の父親は愛する娘をそれなりに安定した収入ある堅実な男にもらってほしかった。
 女が一人で生きていくことは、令和の今では考えられないほど大変だったのである。

 これが王朝時代の貴族階級ともなると、現実はもっと過酷である。
 後見してくれる力と財のある夫や親兄弟を亡くした女性は、そのときから浮舟のように世間の荒波に押し流されるほかなかった。
 本書では、道長・頼通全盛時代に後ろ楯となる父親や夫を失った貴族の姫君が落ちぶれていく様子が描かれている。

 たとえば、『光る君へ』に登場する藤原伊周(これちか)は叔父である道長との政争に破れ、一気に転落していくのだが、伊周亡くなったあと残された娘の一人は、なんと道長の娘で一条帝の中宮となった彰子の女房として仕えさせられたのである。
 つまり、紫式部や和泉式部と一緒に後宮で働かされたということだ。
 叔母である定子皇后を貶め、父親である伊周を蹴落とした憎き道長。その娘に奉公しなければならなくなった彼女の心情はいかばかりであったろうか。
 しかも、大宰府に流され大宰権帥(だざいのごんのそち)となった伊周の官名をもじって「帥殿(そちどの)の御方」と呼称されたというから残酷である。

 また、道長の実兄で急逝したため「七日関白」と言われた藤原道兼(演・玉置玲央)の娘もまた、道長と倫子の娘で後一条天皇の后となった威子(たけこ)のもとに出仕させられている。
 「二条殿の御方」と呼ばれ自らに仕える十人の女房とともに出仕した道兼の娘は、まだ伊周の娘と比べれば待遇的にはマシだったのかもしれない。
 それでも、押しも押されもせぬ上流階級の姫君で、将来は皇室入りを前提に、いわゆる「后がね」として大切に育てられたはずの女性が、血のつながった親戚の女子(いとこである!)のもとに奉公しなければならない屈辱は相当なものだったはず。
 これだけ見ても、藤原道長や道長の姉である詮子(演・吉田羊)がいかに横暴であったかが分かろうものである。(あるいは、寄る辺を失ったかつての仇敵の娘の暮らしを保障する温情だったのか?)
 ほかにも、藤原兼家(演・段田安則)の謀略にかかって出家を余儀なくされた花山法皇の実の娘、つまり正真正銘の皇女が、やはり彰子の女房になったエピソードも語られている。

 いやはや、後ろ楯のない貴族の女性にはほんとうに生き難い時代だったのだ。
 さればこそ、そうした周囲の女性たちの不運や不如意を見続けた紫式部は、『源氏物語』を書こうと思ったのだろう。
 男という寄る辺を失った浮舟は、それ以上墜ちないためには出家するほかなかったのである。
 
紫式部
紫式部



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『ネットカルマ』(佐々木閑著)

2018年角川新書

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 こうやってブログを書いていて言うのもなんだが、時々、スマホやパソコンや WINDOWS のない世界、すなわちインターネットのない世界に行きたいと切に思う。
 生れてから30代初めまではそういう世界に生きてきて、とくに不自由を感じていなかった。
 人との連絡は電話やFAX、手紙や伝言で十分間に合ったし、買い物は店に足を運んで実物を確認しての現金払いで安心も一緒に買えた。
 調べ物をするときは、家の百科事典で不足なら、図書館で本を探した。
 JR時刻表を手に旅行し、その日泊まる宿は現地の電話帳で調べたり、町の旅館組合を訪ねて安宿を紹介してもらった。
 すれ違う誰も自分の素性を知らない、家族や友人の誰も自分の居場所を知らない、その土地にいたことすらあとに残らない、見知らぬ土地をひとり旅することの解放感が心地良かった。
 いまや誰もが、文字通り世界中に張り巡らされた World Wide Web にかかった蜘蛛の餌食のような存在になってしまった。
 わずか30年で、インターネットと無縁で暮らすのが困難なほど、我々の生活スタイルは変わってしまった。
 たとえば、今日一日だけで、ソルティの姿は何台の街のカメラに撮られたのだろう?

 逃れられない罠にかかってしまったような閉塞感は別にしても、ソルティはネットの暴力というものに慣れることができない。
 匿名性を悪用したSNSにおけるデマゴギーや中傷や罵倒、プライヴァシーを侵害した画像や動画の拡散、特定の個人に対する見境ないバッシング、何度もほじくり返される過去のあやまち、未成年を対象とする性犯罪・・・・e.t.c.
 昔なら大目に見られたろう“若気の至り”で将来を破壊された若者、デマで評判を落とされた飲食店やホテル、過去の恋人にモザイク処理なしのヌード画像をあげられた女性、忘れたい(忘れてほしい)過去やつぐなった罪を幾度もネットに上げられそのたび叩かれ貶められる著名人。
 なにより怖いのは、自分がいつ標的にされるかわからないということだろう。
 街を歩いていて、あるいは列車の中で、自分がたまたま何かの事件に巻き込まれたとき、周囲(外野)が一斉にスマホをかまえることを覚悟しなければならないとは、なんていう嫌な時代だろう!

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Tomasz MikołajczykによるPixabayからの画像
 
 本書の副題は「邪悪なバーチャル世界からの脱出」。
 カルマとは仏教用語の業(ごう)、我々のすべての行いを記録するシステムのことである。

 業は私たちがおこなう善いこと、悪いことをすべて記録し、それに応じて様々な結果をもたらします。その業のシステムに縛られながら暮らすことは、私たちに耐えがたい苦しみをもたらすと考えてブッダは仏教を生み出しました。つまり仏教という宗教は、業のパワーから逃れることを第一の目的とする宗教なのです。 

 因果応報、悪因悪果、自業自得、生前の業に応じて六道(天界、人間界、阿修羅道、餓鬼道、畜生道、地獄)のいずれかに生まれ変わる輪廻転生システム・・・・。
 古代インドの人々がその存在を信じ怖れたカルマ(業)の働きは、現代科学の目から見れば迷信に過ぎない。
 ――だったはずだが、すべてをデーターとして記録し消すことが困難なインターネットの登場で、21世紀版「カルマ(業)」が誕生した。
 佐々木はそれをネットカルマと名づけたのである。
 
 佐々木は仏教の業の特性は、以下の3つと指摘する。
  • 第一原則 人がおこなった善悪の行為は、すべてが洩れなく記録されていく。
  • 第二原則 記録された善悪の行為は、業という潜在的エネルギーとなって保存され、いつか必ず、なんらかのかたちで、当の本人にその果をもたらす。
  • 第三原則 業のエネルギーがその果をもたらす場合、それがどのようなかたちでもたらされるかは予測不可能であり、原因となる善悪の行為から、その結果を推測することはできない。
 佐々木は、ネットカルマがいかに上記の仏教の業と似た作用を持っているか、また今後の IT や電子機器の一層の進歩によってますます近づいていくかを、一つ一つ検証していく。
 さらには、ネットカルマのほうが仏教の業よりも非情で残酷になりうることを示す。
 たとえば、仏教の業は個人の範囲でしか働かない。
 個人の犯した悪行の報いをいつの日か受けるのは、当人だけである。
 しかるに、ネットカルマは悪行を犯した当人だけでなく、その家族や下手すると子孫にまで累を及ぼす。
 ある犯罪者の顔と名前がネットにばら撒かれたが最後、その家族や子孫も特定されて、有形無形の被害を受けてしまう可能性がある。

 我々は、もはやまわりをデジタルな記憶媒体で埋め尽くされ、自分の姿を曖昧な忘却によって美化していくということさえも許されなくなってきます。こういう状況の表現としては「つらい暮らし」としか言いようがありません。いつも心の底に、澱のような不幸感を抱きながら、だからと言ってどこかに問題解決の明快な出口が見いだされるあてもなく、鬱々と生きていく。まさにブッダが感じた「生きることの苦しみ」が、ネットカルマによって一層強まっていくことになるのです。 

 もちろん、佐々木は問題を言いっ放しにして済ますことはない。
 ネットカルマの特性が仏教の業とよく似ているのなら、それがもたらす苦しみから抜け出す手立てもまた、ブッダの教えから得ることができる。
 ここからはまさに仏教学者である佐々木の独壇場。
 本書後半では、ネットと適切に付き合いながら、ネットカルマの苦しみをなるべく受けない方法、ネットカルマの被害を克服していく方法を説いている。
  
 ブッダはむろん、いまのインターネット社会のありさまを想像すらしなかったろう。
 が、人間の苦しみに対する特効薬として、ブッダの教えは時代を超えて普遍的な価値を持つ。
 
 サードゥ、サードゥ、サードゥ。
 
 
 
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