ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

読んだ本・マンガ

● 本:『シャーロック・ホームズのジャーナル』(ジューン・トムスン著)

1993年原著刊行
1996年創元推理文庫(訳:押田由起)

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 英国の女性ミステリー作家ジューン・トムスンによる贋作ホームズシリーズ3作目。
 今のところ、伝記『ホームズとワトスン 友情の研究』をのぞけば、全7作のミステリー短編集が発表されているようで、うち邦訳が出ているのは4作である。
 ほぼ間違いなく、既刊しているものは全部読むことになるだろう。

 シャーロキアンを喜ばせ、まずまず満足させてくれるレベルの贋作であり、謎解きとしても一定の水準をキープしている。
 原作にくらべて全般に、ホームズの推理の冴えや勘が鈍いのと、助手であり親友であり事件の記録者であるワトスンが有能である印象は受ける。
 つまり、2人の差が縮まっている感がある。
 だが、個性的な天才ホームズと忠実で信頼の置けるワトスンの篤い友情は原作そのままで、2人のやりとりから、ベーガー街221Bの薄暗いが居心地の良い部屋が眼前に浮かんでくる。
 20年以上前にイギリスに行ったとき、もちろんソルティは、221Bに建てられたシャーロック・ホームズ博物館に足を運び、至福の時を過ごしたものである。

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Justin VogtによるPixabayからの画像画像

 本作には、7つの短編と付録『ふたり目のワトスン夫人の身元に関する仮説』が収録されている。
 もっとも興味深くかつ鮮やかな推理が展開されているのは、本編より付録であるのはご愛嬌。
 が、知られる限り2度の結婚歴のあるワトスン博士の、語られることなき2番目の奥さん――最初の奥さんメアリー・モーンスタンはいくつかの小説に登場する――に関する探索は、関心を持たざるを得ない。
 ワトスン博士、実はモテるのである。

 かく言うソルティも、若い頃はシャーロック・ホームズ“神推し”であったけれど、年をとるにつれてワトスン博士に惹かれるようになった。
 ワトスンという、地に足の着いた信頼すべきパートナーがそばにいるからこそ、奇態なところ多いホームズはまっとうな社会生活が送られたんじゃないかという気がする。
 恋人にするならシャーロック、結婚するならワトスン・・・・といったところか。





おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 田中角栄の遺言 本:『戦争の大問題 それでも戦争を選ぶのか。』(丹羽宇一郎著)

2017年東洋経済新報社

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 経営戦略とか組織マネジメントとかPDCAサイクルといった概念や言葉が、日本で広まり、官民問わず様々な分野で取り入れられるようになったのは、90年代に入ってからだったと思う。
 戦後ずっと日本の景気は右肩上がりで来て、80年代に空前のバブル景気を迎えたので、経営戦略とかリスクマネジメントとか特に難しいことを考えないでも、多くの企業はやって来られた。
 そこでは事実の客観的分析や的確な状況判断よりも、ワンマン社長の才覚一つとか、「みんなが心を一つにし、死ぬ気で頑張ればなんとかなる」という精神論が重きをなしていた。
 官もまた同じで、国の決めた泥縄式政策を各自治体は実施するのだが、その効果についてはなんら評価することなく、失敗しても誰も責任をとることがない。
 日本の各地に遺跡のように残る、使われていない高速道路や廃墟と化した公共施設を見れば、その証拠は十分であろう。
 こうした「日本式戦法」の最大にして最悪の失敗例が、太平洋戦争であったことは言うまでもない。
 猪瀬直樹の『昭和16年夏の敗戦』に見るように、大日本帝国は「負けると分かっていた」戦争にあえて飛び込んだ。
 そして、「負けたと分かって」からも戦争を続け、硫黄島の戦い沖縄戦カミカゼ特攻隊中国での行軍、そして広島・長崎原爆投下に代表されるような無駄死を積み上げた。
 それこそ「自虐死観」とでも言うべきものだ。
 
 そういう意味では、科学的な経営戦略や組織マネジメントが各分野で導入されるのは基本的に良いことだと思う。
 2000年に創設された介護保険制度など、まさにPDCAサイクルを利用したケアマネジメントが主軸である。
 グローバル化した世界の中で生き残るには、やはり、運まかせ・天まかせ・神風まかせではいけない。
 事実をもとにした冷徹な状況判断と情勢予測、巧みな戦略と戦術、成員の持てる力を十全に発揮させる組織マネジメントが必要であろう。 
 企業運営しかり、国家運営しかり。
 

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Gerd AltmannによるPixabayからの画像

 著者の丹羽宇一郎は、1939年愛知県生まれ。
 伊藤忠商事の社長として約4000億円の負債を処理したうえ、同社史上の最高益を記録。
 内閣府の委員や日本郵政取締役やWFP(国際食糧計画)会長を歴任したのち、2010年に民間出身では初の中国大使に就任。本著刊行時、公益社団法人「日中友好協会」の会長を務めている。
 つまり、卓越した企業家であり、政治・経済・外交・国際情勢にも明るく、組織運営に長けた人である。
 実社会を肌で知っている人であり、お坊ちゃま育ちの2世、3世議員や体制べったりの太鼓持ち学者のような、最初に結論ありきの机上の空論を振り回す人ではない。
 本書はこのような著者による戦争論、安全保障論、国防論ということができる。
 その言は、『新国防論』の伊勢崎賢治同様、信頼に値する。
 
 まさに、成功した企業家ならではの客観的にして合理的な論述が、非常にわかりやすく展開されている。すなわち、

① エビデンス(根拠となる事実)の収集
  • 過去の日米戦の推移
  • 戦争体験者から聞いた戦場の真実
  • 日本・アメリカ・中国・北朝鮮の軍事力や国力の評価
② 状況把握&情勢分析
  • 各国の思惑と関係性
  • 日米安保の信頼性(日本が中国と戦争になったら、アメリカは加勢してくれるのか?)
  • 国際情勢と国際社会のオピニオン潮流、日本に対する評価
  • 軍事力や核による抑止効果の査定
  • 戦争することによる利益と損失の分析
③ 方針決定
  • 日本は戦争はしてはならない、巻き込まれてはならない
  • 外交による安全保障政策こそ第一であり、軍事力増強は次善の策
④ 戦略&戦術策定
  • 各国との付き合い方
  • 国民への啓発はいかにあるべきか

 昭和14年生まれの著者は当然戦地には行っていないし、戦時中の日本をよく覚えていない。
 そこで、実際に戦地に派遣され戦争を体験してきた人たち(その数は少なくなっている)に取材し、思い出すのもつらい事実――被害だけでなく加害の!――を聞きとっている。
 本書の一番の美点は、戦争体験者の証言が核となっている点である。
 そう。戦争について何か言おうとするのなら、実際の戦場を知る人間の話に耳を傾けることから始めるのが当然である。
 中国や北朝鮮の脅威をしきりに煽り、憲法改正や軍備増強を訴える保守右翼の人たちや国会議員には、まず著者のこの姿勢をこそ学んでもらいたいものだ。
 戦場の真実というエビデンスをもとにしない方針や戦略など、ソルティは認めない。
 (ちなみに、少子化対策について考えるなら、まず子供を産む性である女性たちに意見を求めるのが常識だと思うのだが、なぜそれをしないのか? 女性たちが「産みたい」と思う対策を講じない限り、何をやっても無駄なのに・・・)

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沖縄南部海岸沿いにある魂魄(こんぱく)の塔
沖縄戦で亡くなった約35,000人の遺骨が納められている。

 以下、引用。
 量が多くなるが、本書にはそれだけ重要な文章が多い。
 しかもこれらは、ソルティの小さな頃(60~70年代)はあたりまえに日本のメディアを占めていた言葉ばかり。
 しばらくぶりに出会った「まっとうな」言葉の数々に、思いがけず落涙した。
 これが戦後昭和の大人の良心であった。 
 
 責任をとる覚悟のない人間は、企業であれ、国であれ、組織のトップをやるべきではない。
 優等生ばかりの集団は、自分の保身に頭を使うが、責任を取ることを躊躇する。戦前の日本政府でも、同じことがあったのだと思う。

 戦争は人を狂わせる。繰り返すが、日本国内にいたときは、ほとんどの兵士は善良な市民である。善良な市民も戦場では鬼畜・悪鬼の振る舞いができるのである。それが戦争なのだ。

 戦術の誤りは戦略で補うことができるが、戦略の誤りを戦術で補うことはできない。これは鉄則中の鉄則である。この鉄則に、企業も国家も変わりはない。ところが戦前の日本の指導者は、この鉄則さえ守ろうとしていない。戦略の誤りを兵士や国民の犠牲という戦術で補おうとしたのだ。戦前日本の精神主義は、その一例である。

 国力とは、その国の国民の質と量の掛け算である。土地は借りればよいし、資源は買ってくればよい。しかし、質の高い国民を買ってくることも、戦争で獲得することもできない。質の高い国民は、自国で育てるしかないのだ。
 その国民を戦争の犠牲にして、益のない領土を守ったり、無理に他国から資源を奪うことにどれだけ合理性があるだろうか。これもまた、本末転倒である。

 防衛力と安全保障は軍事と政治という明らかに違う世界である。これを混同した議論をしてはいけない。
 安全保障政策とは国際政治である。
 国際政治とは冷徹に国際関係上の利害を計算し、最も有利な選択をすることだ。そこに「共通の思想や価値観」などというイデオロギーの入り込むすき間はない。単に中国が嫌いという情緒論をベースにした議論も国際政治ではあり得ない。嫌いな相手とでも我が国に有利となれば友好関係を結ぶのが国際政治であり、安全保障政策である。

 防衛費を増やすことができるのは国内経済が拡大するからで、国内経済を犠牲にして防衛費だけを増やすことはできないのだ。したがって抑止力を無制限に拡大するという戦略は、成熟経済下の我が国では選択できない。

 日本の現代史は“敗者の物語”であるが、私も日本人はあえて敗者の歴史を、勇気を持って学ぶべきと思う。普通の国は“勝者の物語”を勉強するが、日本が目指すべきは敗者の歴史も真摯に検証していく特別な“歴史”の学び方である。・・・・・・・
 戦争は国民を犠牲にする。
 戦争で得する人はいない。
 結局みんなが損をする。
 特に弱い立場の人ほど犠牲になる。
 日本は二度と戦争をしてはいけない。
 これらは敗者の歴史からしか学べない重要なことだ。だから日本人は敗北の現代史を学ぶべきなのである。
 
 民意はときに過ちを犯すということが、民主主義の最大のウィークポイントだ。
 最大の過ちは戦争である。政治家の使命の第一は、国を戦争に導かないことだ。国益のために戦争も辞さずという声を聞くこともあるが、その国益とはいったい何なのか。国民を犠牲にして成り立つ国益などあろうはずがない。

 最後に、自民党総裁で内閣総理大臣だった田中角栄が、いつも新人議員に語っていたという言葉。

 戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。だが、戦争を知らない世代が政治の中枢となったときはとても危ない。 

Kakuei_Tanaka
毀誉褒貶ある人だった




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損






● 本:『飛ぶ教室』(エーリッヒ・ケストナー著)

1933年原著刊行
2003年講談社文庫

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 児童文学の傑作として名高いが、未読であった(おそらく)。
 タイトルからして、楳図かずお『漂流教室』のようなSF設定、あるいは主人公ドロシーが家ごと飛ばされる『オズの魔法使い』のようなファンタジーなのかと思っていた。
 が、蓋を開けたら違った。
 ドイツの寄宿学校を舞台とする普通(BL色なし)の少年小説である。
 個性的で腕白な5人の少年を主人公に、ケンカや友情や尊敬する教師との心温まるエピソードなどが描かれる。
 「飛ぶ教室」というのは、彼等がクリスマスの余興として体育館で上演する創作芝居のタイトルであった。
 
 評判通り、実に楽しく、面白く、感動的で、心が洗われる。
 友情、正義、勇気、誇り、思いやり、感謝、かしこさ、自由、寛容、誠実、親子の情愛といった古き良きドイツの価値――それはまた人類に普遍的な良き価値でもある――が、押しつけがましさのない、ユーモアたっぷりの語りのうちに謳われている。
 本作の刊行年を思うとき、これはある種の奇跡といった気がしてくる。

 というのも、1933年こそはナチス=ヒトラーが政権をとった年であり、ドイツという国がファシズムの狂気とジェノサイドへと突き進むスタートを切った年だからである。
 戦争末期のドイツ領の様子を描いた身辺雑記である『ケストナーの終戦日記』に見るように、自由主義・民主主義の立場を貫いたケストナーはナチスに目をつけられ、二度逮捕され、執筆を禁じられ、著書を焼かれた。
 本作のような小説はこれを最後に書くことができなくなったし、そもそも現実のドイツ自体が、ドイツの教育現場自体が、ここに書かれている自由と友愛と正義の空気をまったく失ってしまったのは言うまでもない。
 友が友を裏切り、子供が親を売り渡し、隣人同士が疑心暗鬼に陥った時代であった。
 そうした暗黒の夜に突入するぎりぎり直前に、最後の光線のごとく放たれたのが本作だったのである。
 本作にはかなり長めの「まえがき」がついている。
 その中でケストナーは次のように語っている。

 かしこさをともなわない勇気はらんぼうであり、勇気をともなわないかしこさなどはくそにもなりません! 世界の歴史には、おろかな連中が勇気をもち、かしこい人たちが臆病だったような時代がいくらもあります。これは、正しいことではありませんでした。勇気のある人たちがかしこく、かしこい人たちが勇気をもったときにはじめて――いままではしばしばまちがって考えられてきましたが――人類の進歩というものが認められるようになるでしょう。 

 ケストナーは相当の危機感を抱いていたのは間違いない。






おすすめ度 :★★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● この世は地獄じゃ 本:『時間』(堀田善衛著)

1955年新潮社より刊行
2015年岩波現代文庫

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 ニノ、こと二宮和也主演『硫黄島からの手紙』の記事において、敵国であった日本人の視点に立って過去の日米戦を描き出したクリント・イーストウッド監督の凄さについて讃え、それと同じことができる、つまり中国人の視点に立って日中戦を描ける日本の監督がはたしているか、と問うた。
 映画監督はいざ知らず、小説家はいたのである。
 堀田善衛がその人であった。
 この『時間』という小説は、一中国人の視点から、1937年12月13日に起きた南京虐殺の模様を描いた作品である。

 南京城は、城壁に囲まれた一つの熱風炉であって、そこでは人間の血も精液も、涙も汗も、要するに人間が外部に吐き出し得る一切のものがどろどろに熱せられ溶け混りあい漂い、その上に、怒りや嘆きや悲しみやの濃いガスがかかり、このどろどろは家をも人をも溺没させ、いまにも城壁を越して熔岩のように長江へと溢れ出てゆこうとする・・・・
 (本文より、以下同) 

 語り手は、陳英諦という名の南京に住む中国人。
 当時中国は、蒋介石をリーダーとする国民党と毛沢東をリーダーとする共産党とが覇権争いをしていたが、1937年の日中戦争勃発を機に国共合作し、抗日戦線を組んでいた。
 陳英諦は、国民党政府の首都である南京に、妊娠中の妻と幼い息子と暮らしていた。
 世間向けには海軍部につとめる役人であるが、本当の正体は政府の諜報員であった。
 各地で勝利を重ねながら南下してくる日本軍の猛攻を前に、国民党政府が漢口に一斉避難した後も、なお南京に残って、家の地下に隠された無電機を使って、南京の状況を党中央に伝える役目を負っていた。
 ゆえに、陳一家は南京から逃れられなかったのである。

 本作は陳の日記という体裁なので、とても読みやすく、かつリアルで臨場感がある。
 政府の重鎮の一人として漢口へと出航する兄を見送る1937年11月30日から始まり、日本軍の南京入城および虐殺事件、傀儡政権である中華民国維新政府の樹立をはさみ、日本が国際連盟と完全に袂を分かった1938年10月3日までが描かれる。
 その間に、陳一家は鬼子(くいず)こと日本軍に捕らわれ、他の住民と一緒に近所の小学校に集められ、虐殺の真っただ中に投げ込まれた。
 陳の妻・莫愁は胎児と共に殺され、浮浪児になった息子・英武は日本軍の番兵に斬り殺され、一家のもとに身を寄せていた若い従妹・楊は集団レイプされて妊娠堕胎を経たうえ、麻薬づけにされる。
 からくも生き延びた陳は、日本軍に収用された我が家に戻り、桐野大尉の従僕として仕えながら、深夜になるとこっそり地下室に潜って諜報の仕事を行う。
 
 12月13日の南京虐殺の模様は、半年たってからようやく日記に書かれる。
 つまり、1937年12月11日のあとは空白になって、次の日付は翌年5月10日になっている。 
 陳が環境的にも精神的にも日記を書ける程度の落ち着きを取り戻すまで半年の月日を必要としたという意味であるが、それゆえ、虐殺の生々しい描写であるとか陳自身の慟哭や悲しみや怒りといった激しい感情の吐露は抑えられている。
 またそれは、国際的にも高く評価された堀田の筆をもってしても、十分に描き切れるものではなかっただろう。


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現在の南京(lujunjunzhangによるPixabayからの画像)

 本書の主要なテーマを言うなら、戦争のむごさ、戦争という非日常的「時間」に見られる人間性といったあたりになろう。
 その点では、中世ヨーロッパの十字軍の異端カタリ派に対する暴虐を描いた、同じ著者の『路上の人』と共通する。
 傲慢不遜で差別的で不寛容な精神――『路上の人』では法王を頂点とする正統派カトリックのそれ、『時間』では天皇を頂点とする大日本帝国のそれ――が、神の名のもとに美辞麗句を掲げながら、いかに残酷非道なことをなし得るか、文明や法や恥や良心という縛りを解かれた人間がいかに野蛮になり得るか。
 人間性のもつ底知れない残虐性がむき出しにされている。
 ソルティが堀田善衛を読むのはこれが2冊目なので断言できないけれど、堀田善衛という作家の資質として、人間に対する不信や絶望、この世に対する悲観といった「ニヒリズム」に近いものがあったのではないか。
 ショーペンハウアやエミール・シオランやシモーヌ・ヴェイユ、そして最近よく話題となる反出生主義(「親ガチャ」もその変形だろう)に近い志向を感じる。
 あるいは、仏教か・・・。
 
 今一つのテーマは、被害者である一中国人を語り手に置くことで、外から見た日本という国家、日本人という国民を描き出そうという試みにある。
 これが可能だったのは、堀田自身が太平洋戦争中の1945年3月から戦後の1947年12月までの2年半以上を上海で過ごし、中国国民党宣伝部に徴用された経験をもつからである。
 中国文化や中国人をよく理解していたので、中国人を主人公にできたのである。
 とはいえ、陳英諦は堀田善衛の分身でもある。

 逃亡と暴発、これが南京暴行の潜在的理由ではないだろうか。いま中国にあって、彼(ソルティ注:陳を従僕として使っている桐野大尉)は自分が日本人であるという当然事にさえ苦しむ。中国侵略は、彼等にとっては、心理的には、こうした、一種の日本脱出の夢の実現だったのではないか。がしかし、どこにいようとも、日本人であることをやめることは、出来ない。
 彼等は国際連盟、つまりは国際社会からさえも脱退し逃亡しようと夢見る。孤独に堪えずして他国に押し込み、押し込むことによって孤立する。やがて全世界(彼ら自身の民衆も含めて)を征服しない限り、そして征服してもなお、破滅するだろう。全世界の征服と、全世界からの逃亡とは、彼等にとって同義語ではなかろうか。孤立、破滅、そこに一種の美観にも似たものがあるらしい。

 そうか!
 あの当時、日本という国自体が、全世界に対するテロリズムを行っていたのか。
 「自分が滅ぶか、世界が滅ぶか」という二者択一妄想に追い込まれていたのだ。
 上記の文章は、笠井潔が『8・15と3・15 戦後史の死角』の中で説いた日本人の心性(=ニッポン・イデオロギー)の分析と通じるものがある。

 生産経済が普及して以降の日本列島住民の心性は、不適切な自然環境で稲作を選好した事実を規定としている。過重で単調な反復作業に耐え(「頑張ればなんとかなる」)、しかも集団的な農作業(「みんなで一緒に」)のため共同体的な相互抑圧に耐えるという二点が、この国の住民の心性を根本的に規定してきた。
 この精神的抑圧が、ときとして「日本の特殊な現象としてのヤケ(自暴自棄)」という激情の嵐を生じさせる。しかも「忍従に含まれた反抗はしばしば台風的なる猛烈さをもって突発的に燃え上がるが、しかしこの感情の嵐のあとには突如として静寂なあきらめが現れる」。 
(笠井潔著『8・15と3・15 戦後史の死角』NHK出版より)

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May_hokkaidoによるPixabayからの画像画像:


 堀田善衛の資質としてニヒリズムへの志向ということを上げたけれど、それと同時に、ニヒリズムに傾斜することに対する抵抗も上げなければいけない。
 絶望や悲観主義に陥り、諦観や虚無に捕われ、意志的な行動を放棄することを、堀田は戒める。
 現世における闘いを捨て去り、来世や天上に望みをつなぐだけの生き方に、陳の口を借りて警醒する。

 戦争は、宿命論的な感情をもっとも深く満足させる。平和とは、戦争がないという消極的な事柄であるよりも、むしろ、奴隷的な宿命論や、破滅的な人生観に屈従せぬということなのだ。

 自分自身と闘うことのなかからしか、敵との闘いのきびしい必然性は、見出されえない。これが抵抗の原理原則だ。この原理原則にはずれた闘いは、すべて罪、罪悪である。莫愁を殺し、その腹のなかの子を殺し、英武を殺し、南京だけで数万の人間を凌辱した人間達は、彼等自身との闘いを、その意志を悉く放棄した人間達であった。

 ニヒリストとは、いつもいつも触発されてばかりいる人のことをいうのだ。

 人間認識と社会認識のあいだに、戴然たる裂け目がある。分裂しているのだ。前者は、何等かの信仰、神の方へと向おうとし、後者は組織の方へ向おうとする。それらの統一された、主体的な存在でありたいという渇望を別とすれば、こうした状況は、別に不思議なことでも嘆かわしいことでもない。普通のことなのだ、人間の条件なのだ。この両者を結ぶもの、あるいはこの両者を同時に生きているものがわれわれの身体なのだ。

 堀田善衛は、宮崎駿が最も尊敬する作家の一人だという。
 ゼロ戦設計者である堀越二郎の半生を描いた宮崎の『風立ちぬ』を観ると、その理由がわかるような気がする。
 虚無(ニヒリズム)へと人を誘いかねない人生の無意味さや残酷さ、人の命の儚さを前にして、それでも「生きよ」と宮崎監督は告げていた。

 本文庫は作家の辺見庸が解説を書いている。
 これ以上にふさわしい人選はないだろう。
 この小説の今読まれるべき意義を訴える素晴らしい解説である。
 
 

おすすめ度 :★★★★

★★★★★
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● 鎌倉殿の血統 本:『新・沖縄ノート 沖縄よ、甘えるな!』(惠隆之介著)

2015年WAC株式会社

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 大江健三郎の『沖縄ノート』を探している時に本書を知った。
 ソルティは著者の惠隆之介については何も知らなかったが、発行元のWACは『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(加藤康男著)の版元なので、読む前からバイアスがかかってしまうのは致し方あるまい。
 いわゆる安倍元首相シンパ、雑誌『Hanada』周辺にたむろするジャーナリストの一人である。

 本書の内容を簡単に言えば、

 中国の脅威が迫っている。
 このまま行けば、沖縄は中国に奪われる。
 沖縄にいる左翼グループもその手引きをしている。
 それをかろうじて守ってくれるのが米軍であり米軍基地なのに、沖縄県民はもとより日本人の多くがそこを理解していない。
 沖縄県民と来た日には、戦後沖縄の復興と民度向上に多大なる貢献をしてくれた米軍への感謝を忘れている。
 それどころか、米軍基地あることをネタに、政府から多額の補助金を引き出すことに汲々としている。
 普天間飛行場の辺野古への移設反対運動をするなど、もってのほかである。
 危険な左翼思想に侵された沖縄の教育界やメディアなどを、日本政府が強権をもって糺さなければ、とんでもないことになる。
 沖縄よ、甘えるな! 

 ――ということになろう。

 内容についてここでとやかく言うつもりはない。
 著者が昨今のアジア情勢に非常な危機感を抱き、早急な対策すなわち日本の軍事力強化と日米同盟の緊密化を求めていることは確かである。
 一つの視点としてそれは理解した。
 
 ソルティが一番気になったのは、恵隆之介が1954年コザ市(現沖縄市)生まれだという点である。
 いくつの時まで沖縄にいたのか知らないが、真藤順丈著『宝島』に描かれているような戦後沖縄を少年時代にリアルタイムで見てきたはずである。
 年長の肉親や親戚には沖縄戦で無惨な最期を遂げた者も少なくないだろう。
 同年代の知人の中には、米兵による性暴力の被害を受けた女子だっていることであろう。
 それがなぜ、海上自衛隊に入ることになったのか?
 そこをなぜたった4年で辞めて、琉球銀行に転職することになったのか?
 いつから親米家になったのか? 
 なぜジャ-ナリズムの世界に飛び込み、本書のような作品を書くことになったのか?
 どうして、生まれ故郷の沖縄の多くの人々の気持ちを逆撫でするような思想を持ち、沖縄県民を愚弄するような発言をするようになったのか?
 ソルティが知りたいと思うのは、惠隆之介当人の幼児体験であり、育ちであり、トラウマであり、思想形成であり、つまるところアイデンティティ形成である。

 沖縄県民の特性は、理念闘争に終始して物事の本質を見失う欠点がある。なにより、演繹的思考に乏しい。これは亜熱帯の気候に主因がある。(本書より) 
 
 ブーメラン?

 ある人間が右翼的になり、ある人間が左翼的になるのは、いったいどんな原因や背景によるものなのだろう?
 
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 本書を読んで、沖縄の歴史に興味を持った。
 初めて知ったのだが、琉球王国の開祖である舜天(しゅんてん1166-1237)は、沖縄に流れ着いた源為朝と土地の豪族の娘との間にできた子供だという。
 源為朝と言えば、鎌倉幕府を開いた源頼朝の叔父である。
 つまり、貴種流離譚であり、落ち武者伝説なのだ。
 おそらく伝説の域を出ない物語だとは思うが、沖縄の男の名前に「朝」がつくことが多いのはそのせいであったか、と合点がいった。
 鎌倉殿の血統が首里城の主だったと思うと、なんだか面白い。
 もしかすると、ソルティの沖縄戦跡めぐりは、源実朝の計らいだったのか・・・。
 
 世の中は つねにもがもな 渚こぐ
 海人の小舟の つなでかなしも

(波打ち際を綱に引かれながら漕いでいる小舟。なんとしみじみと平和な光景だろう。こんな世が続くといいのになあ~)


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四国遍路第38番札所・青龍寺付近の浜辺 

 

おすすめ度 :★★

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● アムロ世代 本:『宝島』(真藤順丈著)

2018年講談社

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 『宝島』と言えばスティーヴンソンの冒険小説であるが、本作もある意味、冒険小説と言えないこともない。
 悪漢を主人公としたピカレスクロマン(悪漢小説)の風味があるからだ。
 代表的なピカレスクロマンの主人公と言えば、アルセーヌ・ルパンや石川五右衛門や『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクター博士や『悪の教典』の蓮実聖司あたりだろう。
 映画では、『ジョーカー』やエミール・クストリッツァ監督『アンダーグラウンド』にとどめを刺す。
 本作の主人公らは、米軍基地からの窃盗行為を繰り返す「戦果アギヤー」と呼ばれる若者たち。
 
 ただ、本作がピカレスクロマンあるいはミステリーあるいは青春小説というジャンルにどうあっても収まらないのは、宝島とはすなわち沖縄のことであり、本作で語られるのは1952年から1972年の沖縄――サンフランシスコ平和条約締結から本土返還に至るまでの沖縄――が舞台となっているからである。
 GHQによる占領が終わり主権回復、経済白書が「もはや戦後ではない」と高らかに言い放った本土の平和と繁栄の陰で、いまだ米軍による占領が続いていた沖縄20年間の苦闘の歴史である。

 読み終わるまで知らなかったが、本作は2019年に直木賞を受賞している。
 当然評判になり、ベストセラーの一角を占め、多くの人――ヤマトンチュウ(本土出身者)もウチナンチュウ(沖縄出身者)も――が手に取ったことだろう。
 出身地により、世代により、政治信条により、それぞれどんな感想を持ったのだろうか。
 
 少なくとも一つ言えるのは、沖縄戦の実態とその後の米軍基地をめぐる問題についてある程度知っている読者と、本作で初めてそれに触れた読者とでは、まったく読みの深さが異なるだろうということである。
 本作には20年間に実際に沖縄であった事件――米兵による現地婦女子レイプ殺害事件、石川市(現うるま市)宮森小学校への米軍戦闘機墜落事故、地元ヤクザの那覇派とコザ派の対立、コザ暴動など――がたくさん出てくるし、実在の人物も実名のまま多く登場する。
 また、「特飲街、Aサイン、オフリミッツ」といった戦後沖縄の風俗シーンを彩った用語も詳しい説明なしに使用されるし、「ウタキ(御嶽)、ユタ、ニライカナイ」など古くからの琉球文化の重要な概念にも触れられる。

 読者が沖縄のことを知っていれば知っているだけ、本書の深みと魅力はいや増すに違いない。
 登場するウチナンチュウたちの心情にも一歩なりとも近寄ることができよう。
 ソルティはここ半年で、実際の戦跡めぐりも含め、ずいぶん沖縄戦や戦後の沖縄事情を学んできたこともあって(沖縄のスピリチュアル文化については永久保貴一の漫画で学んだ)、本書を読むに際してわからない用語や概念がほとんどなかった。
 戦後沖縄で実際にあったこと、あるいはあっても全然おかしくなかったことの記述なのか、それとも話を盛り上げるために作者が誇張して創作しているのか、と戸惑うこともなかった。
 主人公たちにも自然と共感できた。
 これがもし半年前に読んでいたら、幕の向こうから触れるみたいなもどかしさやリアリティへの疑問を感じたかもしれない。
 つくづく本との出会いにはタイミングが重要だと思う。

 もちろん、事前にこういった知識を持たぬ読者でも、理解できて楽しめるような物語性やキャラの魅力は有しているし、本書を読むことで若い読者が沖縄文化や沖縄問題に興味を持ち、調べ考えるきっかけになれば何よりであろう。

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 一番の驚きは、本書を書いたのが沖縄出身の作家、少なくとも沖縄在住経験の長い本土生まれの作家とばかり思っていたのだが、そうではなく、1977年東京生まれ東京育ちの男であるということ。
 沖縄返還後の生まれではないか!
 よくまあ、並み居るベテラン作家が怖気づくようなこの戦後最大級の重いテーマを取り上げて、よく取材し、よく小説化したなあと、その度胸と力量に感心した。
 逆に言えば、安室奈美恵と同年生まれの作家だからこそ、「沖縄問題」に対して無用な偏見やイメージや固定観念を持たず、想像力を縛られることなく、真正面から立ち向かえたのかもしれない。

 直木賞受賞の価値は十分ある。
 が、それ以上に本書の価値を高めるのは、『沖縄アンダーグラウンド』と一緒に受けた「沖縄書店大賞」の受賞であろう。
 ウチナンチュウの書店員らに選ばれたことは、真藤が沖縄の人々の思いをしっかりと受け止めて、表現し得た証拠であると思う。
 



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 漫画:『地獄星 レミナ』(伊藤潤二作画)

2005年小学館
併録『億万ぼっち』

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 伊藤潤二には一時ハマった。
 出世作『富江』はじめ短編集をずいぶん読み、江戸川乱歩に通じるような不気味で変態チックなアイデアと、草間彌生に通じるようなゲテモノ趣味で精密な画風に惹かれた。
 どんないかがわしい風体の人だろうと思っていたが、実物の写真を見ると普通の常識的なサラリーマンみたいな感じで拍子抜けした。(いや、昨今、普通の常識的なサラリーマンこそがよっぽど変態チックなのかもしれないが)

 日常生活に潜む恐怖を切り取ったアイデア勝負の短編が得意な人と思っていたので、本作のようなある程度の長さのストーリー仕立ての、しかもSF作品があるとは知らなかった。
 古本屋で見つけた。

 別宇宙からやって来た謎の新惑星レミナが地球に迫ってくる。
 冥王星が、海王星が、土星が、火星が、月が、カメレオンのような舌でペロリと飲み込まれていく。
 地球消滅寸前のパニックの中、狂気に落ちた群衆は、惑星と同じ名前を持つ美少女レミナを生贄にしようと狩りを始める。

 あいかわらず、不気味で変態チックでゲテモノ趣味で精密であった。
 惑星レミナの描写はまさに地獄そのもの。
 こういったものに惹かれる感性というのは、たとえば爪楊枝で歯カスをとるのに熱中したり、わざわざカサブタをはがして出血させたり、歩道の通気口の四角い穴に煙草の吸殻を押し込んだり、博物館のミイラに行列したりするのと通じるようなものを感じる。
 多くの子供がウンチが好きなように、人の原初的な部分に存在する志向なのかもしれない。
 でなければ、伊藤潤二の人気を説明できまい。

 読んでいて、子供の頃にテレビで観た『妖星ゴラス』(1962東宝)を思い出した。
 ゴラスと名付けられた天体が地球に衝突するのを回避するため、世界一丸となって人智を尽くし、地球の軌道を変えるという話であった。
 兄と一緒に、ドキドキしながら固唾をのんで観たのを覚えている。

 併録作『億万ぼっち』は、奇抜なアイデアで驚かす伊藤潤二ならではの奇編。




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 本:『ぼくには数字が風景に見える』(ダニエル・タメット著)

2006年原著発行
2007年講談社より邦訳刊行
2014年講談社文庫

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 ダスティン・ホフマンが『レインマン』で演じたレイモンド・バビットと同じサヴァン症候群の青年の自叙伝である。
 1979年ロンドン生まれのダニエルは、現在43歳。
 本書では生まれてから26歳までのことが書かれている。

 サヴァン症候群は「非凡な才能と脳の発達障害をあわせ持つ人々」のことを言い、記憶、計算、芸術などの領域において超人的な才能を発揮する。
 ダニエルは円周率2万桁以上を暗唱し、10カ国語を操り(アイスランド語を習得するのに一週間しかかからなかった)、難しい計算を秒速で回答し、×年×月×日が何曜日になるか即座に言い当てることができる。
 また、数字に色や感情、動きを感じる共感覚者でもある。
 紛れもない天才なのだが、一方、アスペルガー症候群という障害も抱えており、

    1.  人の心の動きや社会的な約束事がよくわからないため、他人とのコミュニケーションが難しく、集団において期待される適切な行動がとれない。
    2.  同一の事物にこだわりが強く、新しい事柄や環境をなかなか受け入れられない。

という特徴を持つ。

 本書には、周囲の人間とあまりに違うがゆえに、両親も本人も幼少時から非常に苦労してきたことがありのまま書かれている。
 とくに、ダニエルの両親の忍耐強さ、愛情深さ、度量の広さには感心するほかない。
 この両親がいたからこそ、ダニエルはいじけることも絶望することも閉じこもることもなく、自らを受け入れ、周囲に心を開き、友人や恋人を作り、海外での仕事やテレビ出演などさまざまな挑戦を自らに課し、社会参加できたのだろう。
 ある意味、この本の主役はダニエルではなくて、彼の両親という気がするほどだ。

 それを示す象徴的なエピソードの一つが、ダニエルが自分がゲイであることに気づき、両親にカミングアウトするシーンである。(ゲイというセクシュアリティと、サヴァン症候群あるいはアスペルガー症候群といった自閉症に、なんらかの相関があるかは不明)

 ふたりにきちんと話を聞いてもらいたくて、ぼくはテレビのところに行って電源を切った。父は不満そうに口を開きかけたが、母はぼくを見つめてぼくが話しだすのを待った。口を開くと自分の声――小さなしゃがれ声――が聞こえた。その声はぼくはゲイで、とても好きになった人と会うつもりでいる、と告げていた。両親はしばらく口をきかず、ぼくを見つめるばかりだった。ようやく母が、それはまったく問題ではないし、あなたに幸せになってほしいと思っている、と言った。父の反応も肯定的で、きみが愛し愛される相手と出会えることを願っている、と言った。

 障害があったりLGBTであったり、あるいは多くの人と違った特質を持っていたりすること自体は副次的な問題に過ぎず、大切なのはそうした違いを否定せずにありのままに受け入れ、見守り、本人のストレングス(強み、長所、特技)を引き出してくれる周囲のあり方なのだ、と本書は教えてくれる。
 そのようにしてダニエルのような天才が彼なりに健やかに育ち、ストレングスをもって社会貢献してくれるとしたら、それは人類社会にとって大きな利益にもなる。
 人と違っていることは、新しい何かを生み出せる潜在力を有しているってことなのだ。

 ソルティはサンドイッチマン&芦田愛菜司会のTV朝日『博士ちゃん』が好きでよく観るのだが、出演する博士ちゃん――大人顔負けのこだわりの趣味・特技をもつ、クラスでは浮きがちな小・中学生――を観ていると、「日本の未来も明るい」と思うのである。


博士ちゃん




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 野辺の花が私にささやきかけた 本:『沖縄ノート』(大江健三郎著)

1970年岩波新書

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 個人的に2022年一番良かったのは、沖縄戦跡めぐりをしたことだ。
 人生の中でもやって良かったことの上位に入る。
 なにがそんなに良かったのか説明するのは難しい。
 強いて言えば、行かなければならない場所に行き、見聞きしなければならないものを見聞きし、知らなければならないことを知り、祈るべき人たちのために祈ったという、かねてからの気がかりをようやく解決したという安堵感である。
 沖縄戦を知り、沖縄の戦跡とくに言語を絶する惨状を呈した南部の海岸を自分の足で歩いたことで、自分もやっと日本の歴史につながったという思いがした。

 しかるに、なぜにもっと早く訪れなかったのか。
 アラ還になるまで待たずとも、広島原爆ドームや長崎平和祈念公園を訪れた20~30代の暇あれば旅していた頃に、あるいは仕事で沖縄を訪れる機会のあった40代の頃に、沖縄戦跡も行けたじゃないか。
 ひめゆりの塔は1989年には開館していた。平和の礎(いしじ)の除幕式は1995年だった。
 行こうと思えばもっと早く行けたはずである。
 戦争を厭い平和を願う気持ちは人並みにずっとあったのだから・・・。 

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 沖縄戦跡に足が向かなかった理由、沖縄戦や沖縄問題に関心が行かなかった理由はいろいろあるのだが、大きいところではまず自分の問題で手一杯だったというのがある。
 「ゲイ」というセクシュアリティと向き合い、仲間と出会い、疎外感を払拭し、内面化されたホモフォビアに気づき、ありのままの自分を受け入れ自己肯定する――それだけで青春のあらかたを費やしたのである。
 ソルティは30代初めからHIV/AIDSに関する市民活動に関わってきたが、性や差別の問題と強く結びついて感染者の支援や予防啓発活動に関わることが自らの問題の解決にもつながるからこそ、この問題に携わってこられたのであり、それ以外の人様の困りごとや社会問題にまで関心を抱き何らかの行動をする余裕はなかった。
 自分が問題を抱えているのに他人の問題に首を突っ込むのは賢明ではあるまい。 

 いま一つの理由は、本土に生まれた日本人の一人として、沖縄問題に“うかつに”関わることにより「罪責感」に襲われそうな予感があった。
 バブル絶頂期に青春を過ごしたノンポリ新人類らしく、社会人になってもソルティは政治経済や国際問題や近代史にはまったくの門外漢であり続けた。
 けれど、さすがに沖縄の米軍基地にまつわる理不尽な事件の数々はニュースなどで耳にしていたし、本土との格差(本土による差別)は知っていた。
 日米安保のもと勝者アメリカから敗者日本に、防衛の名において押しつけられる負担の多くが沖縄に課せられていて、その犠牲の上に本土の人間があぐらをかいているという構図は認識していた。
 また、沖縄戦において、すでに背水の陣にあった大日本帝国司令部が、沖縄を本土決戦の時間稼ぎのための「捨て石」「防波堤」とした事実も、そのためにひめゆり学徒隊をはじめとする多くの一般住民が戦争に巻き込まれ、「鉄の暴風」と言われた激しい攻撃に身を晒し、あたら命を失ったことも聞きかじっていた。
 それゆえに、本土の人間である自分にとって罪責感なしに沖縄問題に関わること、自己嫌悪せず沖縄戦を学ぶことはあり得ないという予感があったのである。
 若い頃のソルティはくだんの事情で自己肯定感が低く、たやすく自己嫌悪や自己否定に陥りやすかったので、さらなる罪責感を上乗せすることで精神的安定を保てなくなる可能性大であった。
 そんなわけで、沖縄は実際の距離以上に遠くにあったのである。
 
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ひめゆりの塔

 本書はノーベル文学賞作家の大江健三郎が、沖縄返還を目前に控えた1969~70年に記したエッセイである。
 大江は当時35歳。代表作とされる『個人的な体験』や『万延元年のフットボール』を上梓し、海外作家との交流が増え、名実ともに日本を代表する若手作家の一人であった。
 60年日米安保においては石原慎太郎、浅利慶太らと共に反対の声を上げ、65年には『ヒロシマノート』を書き、反戦・反核・反天皇制の反体制の作家として気を吐いていた。
 当然本書も、反戦・反米・反基地・反自民の力強いメッセージがあふれていると思うところ。
 が、本書を覆いつくす一番のムードは、まさに本土の人・大江健三郎の罪責感であり、自己嫌悪・自己卑下なのである。

 僕はやがてこの、日本人らしく醜い、という言葉を、単なる容貌の範囲をはるかにこえて、認識してゆくことになった。そしてそれは沖縄こそが、僕をそのような認識にみちびいたのだと、そしてその認識が、より多くのことどもにかかわって僕を、日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないのか、という無力な嘆きのような、出口なしのつきあたりでの思考へと追いやっているのだと、あらためて僕のいま考える、そもそもの端緒であった。(ゴチはソルティ付す)

 この「日本人とはなにか、このような日本人でないところの日本人へと自分をかえることはできないのか」という問いは本書でたびたび繰り返される。
 『沖縄ノート』は、1972年の沖縄返還を前に、本土と沖縄とアメリカの三角関係にあって過去の因縁により生じている様々な問題を、本土出身の護憲派の作家が沖縄の人々の立場に身を置いて論じている一種の社会評論ではあるけれど、それ以上に、大江自身が「沖縄を核として、日本人としての自己検証をめざす」と言っているように、日本人論の向きが強い。
 それもかなりネガティブな日本人論である。

 日本人とはなにか、という問いかけにおいて僕がくりかえし検討したいと考えているところの指標のひとつに、それもおそらくは中心的なものとして、日本人とは、多様性を生きいきと維持する点において有能でない属性をそなえている国民なのではないか、という疑いがあることもまたいわねばならない。

 ・・・・沖縄についていくらか知識を確かにするにしたがって、ますます奥底の償いがたく遠ざかる恐ろしい深淵について思わないではいられなかった。その深淵がなぜ恐ろしいのかといえば、それは、日本人とはこのような人間なのだと、自分自身の疾患からふきあげてくる毒気をもろにかぶってしまうような具合に、眼のくらむ嫌悪感ともども認めざるをえない、凶まがしいものの実質を、内蔵しているところの深淵にほかならないからである。

 日本人のエゴイズム、鈍感さ、その場しのぎの展望の欠如、しかもそれらがすけてみえる仮面をつけてなんとか開きなおりうる、日本の「中華思想」的感覚・・・・・。

 この百年間において、沖縄の人間の事大主義が発揮される現場には、それこそ形影相伴うごとくに日本人がいた。日本人の政治家が、官僚が、商人が、学者がいた。それは沖縄の民衆の事大主義にちょうどみあうだけの、ほかならぬ事大主義的性向の日本人がそこにはいりこんでいたということである。事大主義は、沖縄の人間と日本人とのあいだに張りつめられたロープのごときものですらあったというべきであろう。・・・・・
 ただ、沖縄の人間が、その事大主義についてはしばしば自覚的であったのに対して、本土の日本人は、沖縄の人間の劣等感を踏み台にすることで、かれ自身の事大主義に頬かぶりする逃げ道をえたのである。

 どうだろう?
 日本嫌悪、日本人否定のオンパレードである。
 ちなみに、事大主義とは、「自分の信念をもたず、支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身を図ろうとする態度・考え方」(小学館『大辞泉』より)のことを言う。
 大江健三郎のパーソナリティという面はかなりあると思う。
 大江自身、自らの感じ方・考え方の底に、「ペシミスティックに、危機的な深い淵へおちこんでゆこうとする」傾向があることを認めているし、それこそが大江健三郎という文学者のデビュー当時からの特性ではあった。
 また、連載中の本エッセイを読んだ本土の友人たちから「被害妄想の徴候」があると指摘されたことも記している。
 それはまさに、令和の保守右翼の人たちが口を酸っぱくして批判する「祖国を愛し誇りを持つことできない自虐史観に侵された戦後日本人」の最右翼ならぬ最左翼であろう。

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平和の礎(いしじ)
 
 しかるに、本書が刊行された70年当時の日本では、大江のような意識の持ち方は今よりずっと一般的だったはずだ。
 それは保守右翼の言う「自虐史観教育」を受けた人が多かったからではなく、それとは逆の「忠心愛国教育」を子供の頃に受けて戦争を体験した人が多くいたからであって(1935年生まれの大江もその一人であろう)、その国家的洗脳こそが一億玉砕という過ちに日本を導いたことを痛みをもって記憶し反省していたからである。
 その事情は、戦争を知らない世代、すなわち「自虐史観教育」を受けた世代の比率が増すにしたがって、むしろ日本全体が右傾化しているのを見れば知られよう。
 大江健三郎と認識を同じくする日本人は、70年代には全共闘の若者たちを含め日本人の相当数を占めて主流に近いところにいたはずであるが、それが半世紀を経て、どんどん数が減って、どんどん“左”に追いやられていった。
 安部元首相の国葬反対デモに参加していたのが「かつての団塊世代の高齢者ばかり」などと揶揄され、あたかも“アカ”に扇動されたマイノリティの遠吠えのように喧伝される始末・・・。

 この『沖縄ノート』をソルティはかなり共感をもって読んだし、現在でも十分通用し読まれるべき内容――なぜなら沖縄問題は解決していないのだから――と思ったけれど、保守右翼は論外として、どうだろう、令和日本人(沖縄の若い世代も含めて)の中には、「半世紀も前の終わった話だろう?」あるいは「なんで本土の人間が罪責感を持たなければいけないの?」と、大江の回りくどく難解な文体ともども退ける者が多数いるのではなかろうか。
 大江健三郎と座標上の対極に位置する安倍元首相や日本会議の面々、雑誌『Hanada』に寄稿する論者のような「愛国者」たち、辺野古基地建設の反対運動する人々を高見から馬鹿にするひろゆきや高須某などの言動を見聞きするにつけ、そして彼らに誘発されたネトウヨのコメントを目にするにつけ、ここ半世紀の日本人の変容を思わずにはいられない。
 少なくとも、ソルティが日本人を誇りに思えない最たる原因は、歴史認識と弱者への想像力を欠いた上記の保守右翼の面々の陋劣な品性にある。
 
 この前の戦争中のいろいろな出来事や父親の行動と、まったくおなじことを、新世代の日本人が、真の罪責感はなしに、そのままくりかえしてしまいかねない様子に見える時、かれらからにせの罪責感を取除く手続きのみをおこない、逆にかれらの倫理的想像力における真の罪責感の種子の自生をうながす努力をしないこと、それは大規模な国家犯罪へとむかうあやまちの構造を、あらためてひとつずつ積みかさねていることではないのか。
 沖縄からの限りない異議申立ての声を押しつぶそうと、自分の耳に聞こえないふりをするのみか、それを聞きとりうる耳を育てようとしないこと、それはおなじ国家犯罪への新しい布石ではないのか。

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平和の火


 閑話休題。
 ソルティが今回沖縄戦跡めぐりをした直接的なきっかけは、ドキュメンタリー『沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』を観たことにある。
 で、『沖縄戦』を観るきっかけとなったのは、吉永小百合主演の『ひめゆりの塔』であり、『ひめゆりの塔』を観るきっかけとなったのは、同じ吉永小百合主演の『伊豆の踊子』であった。日活時代の小百合サマの可憐な魅力に参って作品を追っていたのだ。
 『伊豆の踊子』を観たいと思ったきっかけは何かと、記憶を過去のブログ記事に探っていったら・・・・これが驚き、夏の秩父の巡礼路で出会った道端の花だったのである。
 名も知らぬピンク色の可愛い花である。

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のちにサフランモドキという名を知った

 この花を見たときに吉永小百合を連想し、夏の秩父の巡礼路が伊豆の天城越えと重なった。
 その時には自分が今年中に沖縄戦跡めぐりをするなんて、まったく予想だにしていなかった。(今思えば、「ハイビスカスに似ているなあ」と思ったことも沖縄へつながっていたのかもしれない)
 なので、ある種の罪責感混じりの義務感にかられて「行きたい」と意志したわけではなく、こういった因縁によって自然と「行くことになった」のである。
 むろん、ロシアによるウクライナ侵攻や7月の参院選で自民党が圧勝したことが、日本の戦争傾斜への危機意識を高め、ソルティの背を押したのは間違いない。(「全国旅行支援」という国家の政策を利用して、沖縄戦跡に行ってやろうじゃないか!という魂胆もあった)
 現地ではいろんな物事が自然とうまく運んでいるような感覚があった。
 物事は起こる時には起こるべくして起こるものだなあ~と、スピリチュアルな感慨に打たれた一件である。
 
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 沖縄みやげの琉球グラス
これで古酒やワインを飲むと格別


  
おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 本:『看守の流儀』(城山真一著)

2022年宝島社文庫

 加賀刑務所を舞台とする連作ミステリー小説。
 キーパーソンとなる受刑者や刑務官を違える5つの話が、時系列で語られていく。
 犯罪と無縁の市井の人にはうかがい得ない刑務官の仕事や心情が興味をかき立てる上に、一つ一つの話がミステリーとしても人情ドラマとしてもよくできているので、読ませる。
 第四話『ガラ受け』など、涙なしで読めない。

 さらに、全体を通して一つのトリックが仕掛けられていて、最後の最後にあっと驚くどんでん返しと伏線回収が待っている。
 このトリックは映画にもなった他の和製ミステリーで履修済みだったソルティであるが、ある種のバイアスのせいで引っかかってしまった。
 TVドラマ化しても面白いと思うのだが、有能で謎多き切れ者である火石司刑務官役を誰がどう演じるかが難しいところだ。
 草彅剛あたり・・・・?

 本書を読むときに、ソルティはいつぞや新宿駅構内で買った、函館刑務所作製の布製ブックカバーを使用した。
 これほどふさわしい組み合わせはまたとなかろう。
 ブックカバーも本も喜んでいるような気がした。

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このブックカーバをかけて列車内で読書していると、隣の席が空く。




おすすめ度 :★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 本:『沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち』(藤井誠二著)

2018年講談社より刊行
2021年集英社文庫

 本書と出会ったのは、ほかならぬ沖縄の地。
 嘉数高台と佐喜眞美術館を訪れた日の午後、那覇の繁華街を足の向くまま気の向くままぶらついていた。
 国際通りから、土産物屋がずらりと並ぶ平和通りに入って、途中のドライフルーツ店で買ったココナッツジュースを飲みながら迷路のようなアーケード街を奥へ奥へと進んでいくと、いつのまにか、夕餉の食材を買う地元住民で賑わう昔ながらの商店街に出た。
 ふと見ると古本屋がある。
 どこの土地にいようが、本屋を見ると条件反射的に入ってしまうソルティ。
 特に買うつもりはなかったのだが、文庫棚から誘いかけてくる本書の圧に負けて、ほぼ半値で購入した。

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 ソルティは国内でも国外でも初めての街を訪れたとき、たいてい風俗街がどこにあるのか気になるほうだ。
 場所が分かると、とりあえず足を向けて様子を探る。
 むろん、ゲイの自分がノンケ男子専門の風俗店を利用することはハナからないのだが、そういう場所の存在を知ることでなんとなく街の裏の顔を見たような気になって、親近感が増す。
 観光名所だろうが文化都市だろうが芸術の都だろうが、人間の住むところ何処も同じだなと――。
(長いことNGOでエイズの相談を受けていたせいもある。性風俗情報を取り入れておく必要があった)

 国際通り周辺にはどうもそれらしき一角が見当たらないので、「さて、那覇の風俗街はどこにあるのだろう?」と思っていた。
 これだけの観光地で、しかも米軍基地がある。ないわけがない。
 戦跡を巡りながらもどこかでそんなことを考えていたので、つい本書のタイトルに惹かれたのであった。

 本書を開いたのは内地に帰って来てから。
 最初の数ページで、「なんだ、そうだったのかあ~」とつい声を上げた。
 というのも、本書でメインに取り上げられている売春街、著者が本書を書くきっかけを作った沖縄でもっとも有名な(悪名高い?)風俗街――それは普天間飛行場のすぐ近くにあった真栄原新町いわゆる「真栄原社交場」であり、嘉数高台のほぼ真下に位置しているからだ。
 ソルティはそれと知らず真栄原社交場を眼下に見ていたのであった。
 あの時ハクソー・リッジ(前田高地)や沖縄国際大学を教えてくれたジョガーマンも、さすがに真栄原社交場は教えてくれなかった。
 まあ、朝っぱらから初対面の人間にするような話題ではないか。

 90年代に真栄原社交場をはじめて知った時の模様を著者は次のように記している。

 県道34号の真栄原交差点から大謝名方面に向かう途中の角を左に折れ、街路灯や家々の玄関灯ぐらいしか明かりがないひっそりとした住宅地をタクシーで200~300メートル進むと、妖しい光を放つ空間が忽然とあらわれた。タクシーを降りた私は思わず息をのんだ。魔界の入り口に立ったような気がして、歩を止めて立ちつくす。夜10時をまわっていた。

 私が降ろされた場所は、「ちょんの間」と呼ばれる性風俗店が密集した街だった。タクシードライバーは「真栄原新町」という街の名前と、買春の料金と時間などについて説明をしてくれ、「ゆっくりしてくればいいさ」と言って笑った。女性たちが体を売る値段は15分で5000円。「本番行為」まで含んだ値段だという。夜だけでなく、ほぼ24時間営業の不夜城の街だと教えられた。私は魅入られたように一人で街の中を歩いた。

 この真栄原新町に加えて、ソルティがレンタル自転車で対馬丸記念館に向かうときに通り抜けた海岸沿いの「辻」という街も、琉球王国の時代から遊郭があったところで、戦後は米兵や観光客相手の売春街として栄えたという。
 事前に知っていたら探索したのに・・・・。
 もっとも、辻はいざ知らず、真栄原新町は今ではすっかり廃れてしまって、往時の面影はない。
 2010年前後から始まった警察・行政・住民一体の浄化運動で、店舗は撤退せざるをえなくなり、働いていた女性たちはどこかへ消えてしまったからだ。

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嘉数高台から普天間飛行場を臨む
この間にかつて「真栄原社交場」と呼ばれた売春街があった

 本書は、真栄原新町という一つの売春街が、どのように生まれ、どのように栄え、どのように消えていったか、そこで働いていたのはどういう人たちであったかを、関係者への丹念なインタビューをもとに描き出している。
 同時に、コザ(現・沖縄市)の八重島やセンター通りや照屋や吉原、那覇市の辻や小禄新町や栄町などかつて存在した他の売春街も取り上げ、広い視点から戦後沖縄の性風俗史、売買春事情を浮かび上がらせている。
 占領下の米兵による凄まじい性暴力の実態、各地に売春街が誕生するまでの経緯、米軍当局の政策に翻弄される売春街の様子、本島の人間による奄美大島出身者への差別、沖縄の売春街をレポートした作家・佐木隆三や沖山真知子へのインタビュー、沖縄ヤクザの暗躍と売春街で働く女性からの過酷な収奪システム、ついに始まった浄化運動の顛末など、実によく調べ、よく取材し、よくまとめてある。
 ネットに見るような、街のアンダーグラウンド的な場所を好奇心まじりに訪問し煽情的・暴露的に描いたレポートとは一線を画す力作である。
 学ぶところ大であった。
 とくに、コザの売春街で働く若い女性アケミを描いたドキュメンタリー『モトシンカカランヌー 沖縄エロス外伝』(1971年布川徹郎ほか)は機会あればぜひ観たいと思う。
 ちなみに、売春街のことを昔は「特飲街」(特殊飲食店街の略)と言ったそうだ。

 半世紀以上にわたって続いてきた、真栄原新町や吉原という沖縄の売春街が、2010年前後を境にゴーストタウンと化した。官民一体となった「浄化作戦」が成功したからだ。本書は、戦後長きにわたって続いてきたそれらの街の「近い過去」と「遠い過去」を記録したものだと言えるだろう。
「近い過去」は、この十数年のうちにこの街で働いてきた人々への取材を通して得ることができた、これまで外部に漏れ出ることのなかった街の内実とその変遷だ。そこには、「浄化作戦」を担って、街をゴーストタウンに追い込んだ側の人々の意見も含まれる。
「遠い過去」とは、1945年以降、戦後のアメリカ占領下でどのように売春街が形成されたかという「沖縄アンダーグラウンド」の戦後史だ。当事者の証言や新聞報道、アメリカ側の稀少資料などを織りまぜながら、国策的かつ人工的につくられた街の軌跡を辿った。

 本書の記述をもとに、沖縄の売春街の歴史を大まかにまとめてみる。
  • 1945年4月  米軍上陸により沖縄戦本格化
  • 1945年8月  日本降伏、沖縄はアメリカの領土となる。これ以降、米兵による沖縄女子への強姦事件、殺戮事件が多発。また、生活のため米兵相手に売春する女子ら増加
  • 1949年  コザの八重島に、町の治安および風紀を守り一般婦女子を守る「性の防波堤」として、米兵相手の売春街が誕生
  • 1950年  普天間に真栄原社交場誕生。以降、沖縄各地に米兵相手の売春街が誕生する  
  • 1950-53  朝鮮戦争。沖縄にたくさんの米兵が送り込まれ、売春街が繁盛する
  • 1961-1973  ベトナム戦争。同上
  • 1972年  沖縄返還。日本の領土となる。以降、売春街には日本人観光客が増え、米兵は減少していく
  • 1980年代  バブル期。内地からの買春ツアーで賑わう
  • 1995年  米兵による少女暴行事件で反基地世論高まる。普天間基地返還合意
  • 1990年代後半  インターネットで真栄原社交場が世界的に広まる
  • 2005年頃  市民の間で真栄原社交場を無くそうという声が高まる
  • 2010年  真栄原社交場消滅。ほかの売春街も衰退する

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 20代の著者は真栄原社交場を最初に知った時、「青い空と青い海」でも「反戦・平和」でもない、沖縄の別の顔に触れて興味を抱いたそうだ。
 明るい観光客向けでもない、反米左翼向けでもない、もう一つの顔。
 それがアンダーグラウンドの世界、すなわち売春街であった。
 しかるに、売春街というアンダーグラウンドは昔も今も世界中どこにでもある。
 また、パンパンやGIベイビーに象徴されるような、貧困女性の犠牲と米軍の落とす金によって成り立つ戦後日本の性風俗事情は、都下の立川や横浜の黄金町の例を上げるまでもなく、内地でも同じであった。
 沖縄の真栄原新町や吉原は、内地の立川や黄金町、あるいは大阪の飛田遊郭や浅草の吉原や滋賀の雄琴とどこがどう違ったか、その理由はなんなのか。
 そこに我々が知るべき沖縄アンダーグラウンドの最大の肝があるのだろう。
 あとがきで著者は次のように述べている。

 私が記録した沖縄は、「アンダーグラウンド」に視点を据えた、戦後史の一断面に過ぎない。だがその姿は、過酷な戦争体験の後、日本から切り離されてアメリカの占領下に置かれ、復帰後も今に至るまでヤマトの敷石にされ続けている沖縄のありようと歴史の底流でつながっている。

 最後になるが、著者の筆致からは真栄原社交場が浄化され消滅したことに一抹の寂しさを感じているような印象を受ける。
 しかし、ソルティは戦後の赤線そのものの売春街が2010年まで公然と存在し続けたところに、戦後の沖縄が置かれてきた内地との圧倒的な不均衡があるように思った。
 明らかに、街自体は無くなって良かった。
 が、街の記憶は風化させるべきではない。

 そこで、真栄原新町の跡地利用の提案を一つ。
 「沖縄アンダーグラウンド館」なるものを作って、本書で書かれているようなことをテーマに各種資料やありし日のお店の再現セット(マネキン人形含む)を展示し、関係者の証言を集め、フェミニズム視点も取り入れ、広く人々に「戦争の怖ろしさ、および人間(男)の性と暴力について考えてもらう機会を作る」ってのはいかがだろう?
 もちろん、街の下に広がる文字通りのアンダーグラウンド、すなわち鍾乳洞見学も含めて・・・。


鍾乳洞
Marliese ZeidlerによるPixabayからの画像





おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● オフィーリア最後の願い 本:『80歳の壁』(和田秀樹著)

2022年幻冬舎新書

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 今年一番のベストセラーである。
 ソルティも夏頃買い求めて、両親に渡した。
 内容も著者のこともよく知らず・・・。
 ただ、裏表紙の内容紹介に「(80歳を過ぎたら)嫌なことを我慢せず、好きなことだけすること」とあったので、悪い本ではなかろうと思った。
 両親が順に読み終えて(感想は聞いてない)、やっと自分の番が来た。

 著者の和田秀樹は、1960年大阪生まれの精神科医。
 高齢者専門の精神科医として30年以上の経験を持ち、著書も多い。
 テレビ出演などもこなしているようだ。
 関係ない話だが、この世代の「秀樹」は1949年にノーベル賞をとった物理学者・湯川秀樹から名前をもらっているのだろうか?
 1972年デビューの西城秀樹でないことは確かだ。

 和田は、東京世田谷の高齢者医療を専門とする浴風会病院に勤めていたことがあり、本書の内容も和田クリニック院長としての豊富な臨床経験だけでなく、浴風会病院で長年蓄積されてきた高齢医学のデータがもとになっている。(病院の設立は関東大震災がきっかけとのこと)
 つまり、科学的エビデンスに則っているということだ。
 たとえば、85歳以上の患者の遺体を解剖したら、ほとんどの人に(本人が知らなかった)ガンが見つかった、ほぼ全員の脳にアルツハイマー型認知症のような病変が見つかった、血管には多かれ少なかれ動脈硬化が確認できたとか、糖尿病そのものでなく糖尿病の治療(薬やインシュリン)が認知症を促進するとか、少し太っている人のほうが長生きするとか・・・・。
 一般に目指される「手術や薬で治す、患部を取る、数値を良くする」治療方法が、高齢者(和田は「幸齢者」という語を使っている)には必ずしも適切でないことが説かれている。
 
 私が80歳を迎えるような幸齢者にお勧めしたいのは、闘病ではなく「共病」という考え方です。病気と闘うのではなく、病気を受け入れ、共に生きることです。
 ガン化した細胞を薬で攻撃したり、手術で取り除いたりするのではなく、それを「手なずけながら生きていく」という選択です。

 80歳を過ぎた幸齢者は、老化に抗うのではなく、老いを受け入れて生きるほうが幸せではないか、と私は考えています。

 このようなポリシーにもとづき、本書では80歳を過ぎた人が残りの人生を自分らしく幸せに生きるためのヒントがたくさん盛り込まれている。
  • 食べたいものを食べよう
  • 我慢して薬を飲む必要はない
  • 血圧・血糖値は下げなくていい
  • 運転免許は返納しなくていい
  • 嫌な人とはつきあうな
  • 肉を食べよう
  • 眠れなかったら寝なくていい
  • 健康診断は受けなくていい
  • タバコ、お酒は止めなくていい
  • エロスを否定するな
 e.t.c.

 だいぶ前に、樹木希林がジョン・エヴァレット・ミレーの絵画『オフィーリア』に扮して川に流されながら、「最後くらい好きにさせてよ」と呟く広告があった。
 ソルティは通勤列車内でそれを見て「もっともだ」と頷く一方、医療保険および介護保険という国の制度を利用せざるをえない当事者にとって、あるいは、いろいろと複雑な思いを抱える家族をもつ当事者にとって、それ(=最後くらい好きにする)がどのくらい可能なのか、危ぶんだ。
 そして、当時高齢者介護施設で働いていた自身もまた、当事者本人の希望と、制度の縛りや家族の思いとの間で板挟み感を抱えていた。
 本書で書かれているようなことが、社会的・世間的に「あたりまえ」になれば、もっと医療・介護現場からギスギス感がなくなると思うし、当事者も大らかに残りの人生を楽しめると思う。

オフィーリア
J.E.ミレー作『オフィーリア』

 和田秀樹がどんな人か知らずに本書を購入したと書いた。
 最後に、人となりを示す一節を引用する。

 でも、過去のことを忘れて総合的な判断ができないのは、認知症の人だけではないでしょう。日本人はほぼ全員ができていない。なぜなら、政治家や役人が数々の悪事を働いても、簡単に忘れてしまうわけですから。
 コロナに関しても、自粛することのメリットとデメリットを考えずに素直に自粛要請に従ってしまう。さらには、30年景気が悪くて実質賃金も減っているのに、それでも自民党に票を入れ続ける。総合的な判断ができていないわけです。

 日本にはいま1000兆円の借金があり、福祉のせいで財政が厳しくなったなんて言われ方をしていることにも怒っていい。借金は高齢者が使ったからではありません。政治家が必要以上に地方の公共事業にばらまくからです。それをなんとなく、福祉という聞こえのいい言葉で高齢者の責任にすり替えている。
 介護保険もそうです。この制度ができて、毎月年金から介護保険料を引かれる代わりに、要介護状態になったら介護を受ける権利が与えられた。それなのに特別養護老人ホームの入所待ちが40万人もいるわけです。・・・・・・高齢者も本当は、「特養落ちた日本死ね」と大声を上げていいのだと思います。

 ソルティ、「推しの人」である。






おすすめ度 :★★★

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● 実朝供養

 先週日曜日(11/27)のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、源実朝(柿澤勇人)が鶴岡八幡宮の石段で公暁(寛一郎)に暗殺された。
 ネット上には実朝ロスの声が氾濫している。
 純粋で誠実すぎるゆえに周囲と齟齬をきたしてしまうナイーブな実朝を演じきった柿沢勇人は、確かに素晴らしかった。
 ゲイセクシュアリティを匂わす主人公に、ここまで世論が味方する時代になったのだな~、と時代の変化に感じ入った。

 ソルティはこの機会に源実朝の自選集『金槐和歌集』を読み、時代を超越した詩心に驚嘆した。
 ドラマの進展に合わせてツイッターに放った歌を、テーマごとにまとめて再掲載し、実朝供養としたい。

【孤独】
 実朝の孤独は、青春期にある若者なら誰でも感じるような淋しさであると同時に、生まれる時代と場所を間違えた天才ゆえの孤独である。
 王朝時代風の文学的な資質を持ちながら、武蔵という辺境の武家社会に生を享けた。
 古代から中世へと移り変わる時代に生きながら、内面的には近代的な青年そのものであった。
 実朝の孤独は、近代人の孤独――夏目漱石や正岡子規や島崎藤村や三島由紀夫や我々がもつ実存的孤独と、とっても近い。 
 それだけに、周囲に実朝の心を理解できる人間なぞ誰もいなかった。 
 
ながめつつ 思ふも悲し 帰る雁
行くらむ方の 夕暮の空
(ねぐら目指して帰る雁が夕暮れの空に吸い込まれていく。悲しくてやりきれない)

ひとり臥す 草の枕の 夜の露は
友なき鹿の 涙なりけり
(旅先で独り寝ている私の枕は露でしとどに濡れる。いいや、この露は友のいない鹿の涙なのだ)

苔の庵(いほ)に ひとりながめて 年も経ぬ
友なき山の 秋の夜の月
(心のうちを語らう友もないままに苔むすほど馴染んだ独り住まい。月の光だけが差し込んでいる秋の夜だよ)

秋風は やや肌寒く なりにけり
ひとりや寝なむ 長きこの夜を
(秋風が吹いて肌寒くなってきた。今夜も独りで長い夜を過ごさなければならないのか)

四国遍路1 2822



【恋】
 そんな実朝も恋をすれば普通の男。
 相手が同性なのか異性なのか、はたまた想像上のキャラなのかは知らないが、古今東西に通じる恋心を詠んでいる。
 ただ、「山に住む木こり」の心を想像するとか、「陸奥の金山の鉱夫」の境遇に思いを馳せるとか、平安&鎌倉時代の普通の男の感性ではない。
 自らとかけ離れた庶民、それも身分的には最底辺に置かれていたであろう山の民の内面に関心を示すあたりが、実朝の近代性を表している。
 つまり、「自分とは異なる存在=他者」を意識した人なのである。

天の原 風にうきたる 浮雲の
ゆくへ定めぬ 恋もするかな
(風に流される浮雲のように、私の恋もゆくえの見えないことだ)

君ならで 誰にか見せむ わが宿の
軒端ににほふ 梅の初花
(ただ君だけに見せたいんだ。こんなに見事に咲いた我が家の梅を)

あしびきの 山に住むてふ 山がつの
心も知らぬ 恋もするかな
(山に住んでいるという木こりの心のうちなど誰が知ろう? 私の恋する人の心のうちも知りようがない)

黄金掘る みちのく山に 立つ民の
いのちも知らぬ 恋もするかも
(みちのくの山で金を掘っている鉱夫のごとく、命がけの恋をしているこの私)

わが兄子(せこ)を 真土(まづち)の山の 葛かづら
たまさかにだに くるよしもがな
(愛しの君とたまにでもいいから会いたい。なんとか手繰り寄せる手段はないものかな)

夏深き 森の空蝉 おのれのみ
むなしき恋に 身をくだくらむ
(真夏の森の蝉の抜け殻のような空しい恋ばかりしている私。この身がばらばらに砕けそうだ)

さむしろに 独り空しく 年も経ぬ
夜の衣の 裾あはずして
(独りぼっちで寝るようになってずいぶんになる。着物の裾を合わすほどの人もいないままに)

四国遍路1 2907



【乱世】
 時は戦国。 
 源頼朝亡き後の鎌倉幕府の実権を誰が握るかで、陰謀や裏切りや謀殺や仲間割れが日常茶飯であった。
 3代将軍実朝は、北条義時をはじめとする周囲の御家人たちの陰謀術数や血で血を洗う争いに巻き込まれざるを得なかった。
 誠実で潔癖な人柄だけに、罪悪感や自責の念を背負うことになる。

宮柱 ふとしき立てて よろづ世に
いまぞ栄えむ 鎌倉の里
(社殿に立派な柱を立てて、万世も栄えあれ、わが鎌倉よ)

もののふの 矢並つくろふ 籠手のうへに
霰たばしる 那須の篠原
(那須の篠原では御家人たちが箙に差した矢の並び具合をたしかめている。その籠手の上に霰が勢いよく降りかかっている。狩りが始まる)

世の中は つねにもがもな 渚こぐ
海人の小舟の つなでかなしも
(波打ち際を綱に引かれながら漕いでいる小舟。なんとしみじみと平和な光景だろう。こんな世が続くといいのになあ~)

みよしのの 山に入りけむ 山人と
なりみてしがな 花に飽くやと
(ああ、鬱陶しい鎌倉を離れて、吉野の山奥に行きたいなあ。飽きるほど桜を見たいものだ)

身につもる 罪やいかなる つみならむ
今日降る雪と ともに消ななむ
(この身に積もった罪はいったいどれくらいの深さか。降ったばかりの今日の雪のように消えてくれたらどんなによいことか)

炎のみ 虚空に満てる 阿鼻地獄
ゆくへもなしと いふもはかなし
(今さら言ってもせんないことだが、この身は地獄の底に落ちて灼熱の炎で焼かれる宿めにあるのだ)

大海の 磯もとどろに 寄する波
割れて砕けて 裂けて散るかも
(とどろくばかりに押し寄せる磯の波のごとく、私の身も心も、割れて砕けて裂けて散るのだ)

四国遍路1 2811


【無常】
 心を寄せた御家人たちのあいつぐ死、親子兄弟間の醜い諍い。
 最終的には、この世の無常さや儚さ、人間の測り知れない煩悩と無明のさまを達観していただろう。
 自らの最期もある程度は受け入れていたと思われる。 
 なんと言っても、1052年から末法の世に入っていた。

月影も さやには見えず かきくらす
心の闇の 晴れしやらねば
(月の姿もはっきり見えない。悲しみにくれた心の闇が晴れないので)

うつせみの 世は夢なれや 桜花
咲きては散りぬ あはれいつまで
(この世は夢のようなもの。桜の花が咲いては散っていくように儚いものだ。この身もいつまであることか)

かくてのみ ありてはかなき 世の中を
憂しとやいはむ あはれとやいはむ
(かくも儚い世の中。つらいとか悲しいとか言うことすらむなしい)

世の中は 鏡に映る 影にあれや
あるにもあらず なきにもあらず
(世の中は鏡に映る影のようなもの。実在でもなく非在でもなく)

神といい 仏といふも 世の中の
人の心の ほかのものかは
(神とか仏とかいったところで、結局は人の心がつくったものでしかない)

四国遍路1 2745


【純真】
 源実朝がどんな人であったかは、『吾妻鏡』のような歴史書よりも、むしろ彼が詠んだ歌から想像するのが真実に近いと思う。
 次にあげる歌などは、実朝の純真さや、小林一茶に通じるような動物や子供など弱い者に対する慈しみの心を感じさせる。

ものいはぬ 四方の獣(けだもの) すらだにも
あはれなるかなや 親の子を思ふ
(言葉を知らない獣でさえ、親が子を思う気持ちを持っているではないか。親兄弟で争い合う人間たちの愚かしさよ)

時により 過ぐれば民の 嘆きなり
八大龍王 雨やめたまへ
(八大龍王よ。いくら天候を司る力がある次の歌からと言って、過ぎたるはなお及ばざるがごとし。もう雨を止めてくれ。民が泣いているのが見えぬのか)

旅を行きし あとの宿守 おのおのに
私あれや 今朝はいまだ来ぬ
(私が昨夜遅くに旅から帰ってきたことを知らないためか、今朝はまだ誰も出仕していない。それぞれに用事があるのだろう。閑散とした御所の静けさよ)

乳房吸う まだいとけなき 嬰児(みどりご)と
ともに泣きぬる 年の暮れかな
(生まれて間もない赤ん坊が母親の乳房を吸いながら泣いている。それを見ている私も知らず泣いてしまった。ああ、また一年が終わろうとしている)

谷深み 人しも行きて 告げなくに
鶯いかで 春を知るらむ
(鶯が鳴いている。谷が深いので誰も春の訪れを知らせに行くことができないはずだのに、どうやって春が来たのを知ったのだろう)

 
 以上28首。
 源実朝の享年と同じ数である。


四国遍路1 2813




● 忘れられぬ殺人 本:『バースへの帰還』(ピーター・ラヴセイ著)

1995年原著刊行
1996年早川書房より邦訳(山本やよい訳)
2000年文庫化

バースへの帰還


 ピーター・ラヴゼイ(1936- )は英国のミステリー作家。
 1982年発表の傑作『偽のデュー警部』で一躍、世界中のミステリーファンにその名を知らしめた。
 本作はラヴゼイが創造した名探偵ピーター・ダイヤモンドが活躍する、シリーズ3作目である。
 沖縄への旅のお供にせんと、ブックオフで購入した。
 昔読んだような気もするが、カバー裏のあらすじを読んでもピンと来ないし、読み始めてみても先の展開が見えない。
 読んだとしても、いい具合に忘れている。

 ITやら最先端の科学捜査法やらは出てこない牧歌的な時代(ウインドウズ95以前)で、コンピュータ音痴・科学音痴のソルティにしてみれば、気楽に読めるのが最大の長所。
 空港での待ち時間や狭苦しい機内、宿で寝入る前のひとときにちょうど良かった。
 
 終盤に来て、「あっ、これは読んだ」と真犯人の正体がその動機とともに記憶から浮かび上がった。
 その通りだった。 
 どうせなら完全に忘れてしまって、意外な犯人にビックリしたかった。
 まったく、いいところで思い出すんだから!
 記憶力だけはどうにも制御できない。
 
 気になったのは、内容よりむしろ解説。
 本邦のミステリー作家の二階堂黎人が、本作を「現代本格ミステリーの最高峰に位置する傑作」と評している。(帯にも書かれている)
 本作は駄作でも凡作でもないけれど、ちょっと持ち上げすぎ。
 あっと驚く奇想天外なトリックがあるわけでなし、名探偵の快刀乱麻の鋭い推理があるわけでもなし、サスペンスやホラーにとくだん秀でているわけでもない。
 ソルティが記憶していなかったのがなによりの証拠だ。
 二階堂氏、早川書房に忖度したのか?
 
 それを思うと、アガサ・クリスティのミステリーは、読後40年経つ今でも真犯人を記憶しているものが多い。
 『アクロイド殺し』『オリエント急行殺人事件』『そして誰もいなくなった』『予告殺人』『ABC殺人事件』『ナイルに死す』『ゼロ時間へ』『葬儀を終えて』『ねずみとり』『カーテン』などは、犯人やトリックや筋書きを忘れたくても決して忘れることができない。
 同じ高校時代にはまったエラリー・クイーンの国名シリーズなどは、筋書きも犯人もトリックもまったく覚えていないというのに・・・・。 
 クリスティの筆力の凄さをつくづく思う。





おすすめ度 :★★

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● 本:『運命の人』(山崎豊子著)

2009年文藝春秋
2011年文庫化
全4巻

 映画『ひめゆりの塔』、ドキュメンタリー『沖縄戦』と、このところ沖縄戦がマイブームになっている折、最寄りのブックオフに行ったら店頭ワゴンで一冊105円で売っていた。
 沖縄をテーマとした山崎豊子の最後の完成作である。

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 『暖簾』『ぼんち』『女系家族』『白い巨塔』『沈まぬ太陽』と山崎作品には原作や映画でずいぶん接してきたが、共通して言えることは、実に良く取材していること、骨太で構成がしっかりしていること、そして男を描くのが上手いこと。
 とくに、男を主人公とした『白い巨塔』『沈まぬ太陽』『運命の人』を読むと、よくもまあ女の身で、男の欲望や嫉妬やコンプレックスや孤独が分かるものだなあと感心する。
 男を描いてここまで成功した本邦の女性作家は、紫式部をのぞくと他に見当たらない。
 骨太の構成力という点も合わせて、著者自身かなり男性的な人だったのではなかろうか。

 本作は、1985年8月の日本航空123便墜落事故を描いた『沈まぬ太陽』と同様、「事実を取材し、小説的に構築したフィクション」である。
 1972年の沖縄返還をめぐる日米交渉の中で実際に起こった事件がもとになっている。
 俗に言う、沖縄密約暴露事件あるいは西山事件である。

 沖縄返還協定成立直後の1972年(昭和47)3月末から4月初めにかけて、衆議院予算委員会を舞台に、社会党の横路孝弘代議士ら野党議員が、外務省の極秘電報2通を材料に、沖縄返還交渉をめぐる日米間の密約問題を暴露し、佐藤内閣の責任を追及した。
 これをきっかけに、同年4月4日外務省は、同省の蓮見喜久子事務官が電報の内容を新聞記者に漏らしたという疑いで、同事務官を国家公務員法第100条(秘密を守る義務)違反容疑で告発した。警視庁は、蓮見事務官と、同事務官に秘密漏洩をそそのかした容疑(国家公務員法111条)で毎日新聞社政治部の西山太吉記者を逮捕、起訴した。
(『コトバンク 小学館日本大百科全書』より抜粋)

 当時ソルティは小学生だったので、この事件について知らなかった。
 長じてからも、沖縄密約と言うと在日米軍基地にある核の有無にかかわる問題という認識であった。
 が、当事件で問題となったのは核ではない。
 沖縄返還にあたって地権者に対する土地原状回復費400万ドルをアメリカ政府が支払うことになっていたが、実際には日本政府がその分を肩代わりして、形の上だけアメリカが支払ったように見せかける「密約」をしていたのである。
 毎日新聞記者だった西山太吉は、外務省事務官の蓮見喜久子に近づき男女関係を結んだうえで密約の証拠となる資料を手に入れ、政府の不正をすっぱ抜いた。
 佐藤栄作首相を頭にいだく政府は密約を全面否定し、西山と蓮見を国家機密漏洩のかどで裁判に訴えた。

 結果だけ言えば、西山と蓮見はともに有罪となり、職も家庭も社会的信用も失った。
 どちらも既婚者だったのでW不倫(当時この言葉はなかったが)であり、男女関係をもとに西山が蓮見を「そそのかし」罪を冒させたというストーリーが出来上がって、週刊誌を中心にマスコミを騒がす桃色スキャンダルとなり、二人(とくに西山)は世間の非難を浴びることになった。
 裁判では西山の取材方法が、法にてらして適切か否かが問われた。
 
 結果だけ言えば、密約はあった。
 後年になって、米国側の資料からそれは裏付けられた。
 つまり、密約による国民への背信行為および国民の「知る権利」という重要な問題が、大衆の喜ぶ桃色スキャンダルに覆い隠されていったのである。
 のちにノーベル平和賞をもらうことになる佐藤首相にとって、自らの花道を飾る沖縄返還に関してケチをつけられることは、絶対に許容できなかったのであろう。
 
 もちろん、「事実を小説的に構築して」いる本書に実名は出てこない。
 西山太吉は弓成亮太に、蓮見喜久子は三木昭子に、佐藤首相は佐橋首相に変えられている。
 ほかにも、ナベツネもとい渡邊恒雄、大平正芳、田中角栄、福田赳夫、横路孝弘、後藤田正晴ほか、それと分かる著名人が別名で登場する。
 フィクションとノンフィクションの合い間を狙った小説は、裁判になった三島由紀夫の『宴のあと』に見るように、プライバシー侵害や名誉棄損や営業妨害などの問題が生じやすいので、書くのは難しいと思うが、同じ手法を用いた『沈まぬ太陽』で成功をみている山崎にとって、お手の物だったのだろう。
 言うまでもなく読者にとっては、どこまでが事実でどこからが創作(想像)なのだろう?――という好奇心をくすぐって、面白いことこのうえない。
 地裁から高裁、そして最高裁へと続く“国家権力V.S.ジャーナリズム”の法廷闘争の描写も、被告原告双方をめぐる人間関係の模様とともに関心をそそられる。
 あとがきによると、すでに80歳を超えていた著者は病気をおして執筆していたらしい。
 前作の『沈まぬ太陽』にくらべれば筆力の低下は否めないものの、驚くべきパワーである。
 
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David MarkによるPixabayからの画像

 本書の主人公は弓成(西山)なので、事件は弓成の視点から描かれている。
 弓成は、有能でエネルギッシュで野心あふれる一記者として描かれる。
 政府の隠したがる機密を暴いて時の首相の逆鱗に触れたため、権力を敵に回すことになり、記者生命ばかりか家族をも失うことになった悲劇の人として描かれている。
 特ダネを手に入れるため男女関係を巧みに利用した卑劣な男としてではなく・・・。
 一方、某週刊誌がスクープした30代女性事務官の涙の告白――「私は弓成記者に酔った勢いで体を奪われ、一方的に利用されたあげく捨てられた」――は、現在なら鼻白むところであるが、70年代は十分通用した物語であった。
 男と女の間のことだけに、真相はどこらにあるのか、正直わからない。
 ただ、弓成(西山)が「取材源の秘匿」という記者の使命を守れなかったのは事実であり、一審判決のように秘密書類を持ち出した女性事務官だけが有罪となるのは、心情的に解せないところではある。
 
 社会的破滅に追いやられた弓成が、自死すら考えて沖縄へと渡る最終巻が、この物語の真骨頂であろう。
 弓成はそこで沖縄戦の真実に触れていくことになる。
 住民たちが集団自決した洞窟(読谷村のチビチリガマ)や、爆弾が雨あられと降り注いだ本島南部に足を運び、生き残った人から想像を絶する体験を聞く。
 米軍に集団レイプされた現地の女性から生まれ、父からも母からも捨てられた女性の苦しみに寄り添う。
 米軍統治下において先祖伝来の土地を収用された住民たちの怒りの声に耳を傾け、粘り強い奪還運動のさまを知る。
 また、1995年の3人の米兵による少女暴行事件と怒りの県民大集会、2004年の琉球大学キャンパスへの米軍大型ヘリ墜落事件を、リアルタイムで経験する。
 そこには、米軍そして日本政府から沖縄が被ってきた圧倒的な暴力と冷遇と無視の歴史がある。

 沖縄はつねに本土を守るための犠牲、人身御供になってきた。
 本土の大新聞社のエリート記者としてばりばりと特ダネをものにし、ある意味権力のお膝元で働いてきた弓成は、人生ではじめて挫折し、逃げるように沖縄にわたった。
 そこで現地の人々のあたたかさと美しい自然に触れて心の傷をいやし、沖縄の歴史と沖縄戦の真実を学び、人々の深い悲しみや怒りを知って、「語るべきこと」を見出し再生してゆく。
 これは一人の人間の成長の物語でもある。
 
 日本にある米軍基地の75%が集中している沖縄という島の現状と、そこで日々起きている様々な理不尽の因は、ひとえに戦後の日米間の不平等な関係にある。
 沖縄に犠牲を強いてきた政府もとい本土の人々の冷たさと無関心にある。
 戦後75年経つのに一向に改善できない、どころか緊張高まる東アジア情勢においてますます物騒な様相を呈している。
 沖縄戦で亡くなった20万を超える御魂も浮かばれまい。
 
さとうきび畑



おすすめ度 :★★★

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● 映画:『9人の翻訳家 囚われたベストセラー』(レジス・ロワンサル監督)

2020年フランス、ベルギー
105分、フランス語

 サスペンスミステリー。
 原題は Les traducteurs 「翻訳者たち」

 世界的大ヒットのミステリー『デダリュス』完結編を各国語に翻訳するために、出版元によって人里離れた豪邸の地下室に閉じ込められた9人の翻訳家。
 それは世界同時発売前の内容流出を未然に防ぐための措置であり、翻訳が完成するまでの2ヶ月間、各自の携帯電話など通信機器は取り上げられ、外部との連絡は一切できない。

 しかるに、出版元の計らいを嘲笑うかのように、ネットには原稿の一部が流出され、脅迫メールが出版エージェントのもとに届く。
「この先の流出を防ぎたいなら500万ユーロ払え」
 いったい、9人のうちの誰が、どんな手を使って、原稿を流しているのか?
 そして、その目的は何なのか?

著作権

 フォレスト出版の『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』(宮崎伸治著)を読むと、出版翻訳家という職業がいかに身分不安定で、出版社によっていいようにこき使われ、理不尽な目に合わせられるか、なまなましく迫ってくる。
 とくに未熟な契約社会である日本は、フリーランスで仕事をしている人たちの立場が非常に弱い。
 いっとき欧米ミステリーの翻訳家に憧れたこともあるソルティだが、昨今の出版不況というか出版オワコンに言及するまでもなく、結局のところ、翻訳では食っていけなかっただろう。
 慢性的に人材不足である介護業界に目を向けて良かった。 
 いや、そもそもそんな英語力ないか・・・・・。

 宮崎伸治のような痛い体験を持つ翻訳家ならば、非人道的な仕打ちを受ける9人の翻訳家に共感至極だろうし、傲岸不遜で金の亡者のような出版エージェントが報復される結末に、喝采の叫びを上げ留飲を下げるだろう。
 ミステリーとしては強引な展開が目立つ。

 本映画の設定は実際にあったことで、『ダ・ヴィンチ・コード』で世界的ベストセラー作家となったダン・ブラウンの第4作『インフェルノ』出版に際して、出版元がダン・ブラウンの同意のもと、各国の翻訳家を地下室に隔離して翻訳を行なわせたという。
 ダン・ブラウンのイメージ爆落ち。





おすすめ度 :★★

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● 宇宙も夢を見るのかしら? 本:『死は存在しない』(田坂広志著)

2022年光文社新書

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 副題は「最先端量子科学が示す新たな仮説」

 本書を読みながら、仙台に住んでいた30代の頃に出会ったディープエコロジーや精神世界関連のさまざまな本や人や言説のことを思い出した。90年代のことである。
 仙台の街中に、自然食品店&出版社『ぐりん・ぴいす&カタツムリ社』という店があった。
 経営者の加藤哲夫氏は、反原発運動やディープエコロジーの日本への紹介やHIV感染者の支援活動など、平和・環境・人権・食・市民活動・精神世界など幅広いヴィヴィッドなテーマを追究し、現場主義で実践行動していた人で、後年日本におけるNPO普及の立役者となった。
 自然、『ぐりん・ぴいす』は精神世界や市民活動(当時は「ボランティア活動」という呼称が一般だった)の情報の集積地&発信地となり、さまざまな分野の面白い人々が出入りする広場となった。
 ここにソルティも出入りするようになって、加藤哲夫氏の薫陶を受けながらいつのまにか市民活動にのめり込むようになったが、それと同時に、バブル真っ盛りの東京の20代会社員生活では触れたことのない新しい概念や思想と出会って、世界の見方が一変した。
 それが、ディープエコロジーであり精神世界であった。
 当時、周辺に飛びかっていた固有名詞やフレーズを思いつくままに上げると、

上田紀行『覚醒のネットワーク』、映画『ガイア・シンフォニー』、レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』、自然農、自然療法、マインドフルネス、個人と世界は繋がっている、心と体は繋がっている、思いは現実化する、百匹目の猿、ボディーワーク、聖なる予言、山川紘矢&亜希子、金子みすず、トランスパーソナル心理学、P・ドラッカー、ワークショップ、マヤの預言、アクエリアス革命、バシャール、NPO、ティク・ナット・ハン・・・e.t.c.
 
 三十過ぎのフリーターで、こういったものに進んで染まっていった自分を、ずいぶんと“怪しい”人間になってしまったと思った。
 「堅気=スーツを着たビジネスマン」という固定観念がまだまだ世間的にも個人的にも強かったし、ほとんどのビジネスマンは精神世界にも市民活動にも見向きもしなかった。(例外は経営コンサルタントでオカルティストであった船井幸雄の周辺くらい)
 
 田坂広志は1951年生まれ。東京大学工学部卒業、原子力工学博士。
 立派な肩書が並ぶプロフィールからは具体的にどういう仕事をしてきたのか良く分からないが、本人曰く、「科学者と研究者の道を歩んできた」理系の人。
 「21世紀の変革リーダー」を育成する田坂塾を経営しているというから、船井総合研究所を主宰していた船井幸雄と近いものを感じる。
 巻末には他の著作を紹介するページがあって、その膨大な量と広いテーマに驚かされる。
 PHP研究所はもちろん、東洋経済社、ダイヤモンド社、日本実業出版など、ビジネス書出版の王道を総なめしている。
 
 本書は、科学者である著者が、上に挙げたような90年代流行ったディープエコロジー&精神世界言説に、量子論や宇宙物理学といった最先端の科学による根拠を与えて、スピリチュアルを「非科学的」「いかがわしくて危ない」と言って敬遠する層(たとえば堅気のビジネスマン)にも受け入れやすくしたもの、という印象を受けた。
 それが著者が目指すところの「宗教と科学の架け橋」の意なのだろう。
  
 筆者は、あくまでも、「科学的・合理的な思考」によって、
  • なぜ、我々の人生において、「不思議な出来事」が起こるのか
  • なぜ、世の中には、「死後の世界」を想起させる現象が存在するのか
  • もし、「死後の世界」というものがあるならば、それは、どのようなものか
を解き明かしたいと考えた。そして、永遠の探究と思索の結果、たどりついたのが、最先端量子科学が提示する、この「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」である。

 「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」とは、この宇宙に普遍的に存在する「量子真空」の中に「ゼロ・ポイント・フィールド」と呼ばれる場があり、この場に、この宇宙のすべての出来事のすべての情報が、「波動情報」として「ホログラム原理」で「記録」されているという仮説なのである。 

 このゼロ・ポイント・フィールドには時間が存在しないので、我々の世界における「過去・現在・未来」のすべての情報が存在し、それは永遠に消滅しないという。
 祈りや瞑想によって心の技法を高めることによって、あるいは突発的な精神的な危機にあって、人は自我に覆われた通常意識を脱し、高次の意識の段階を通過し、ゼロ・ポイント・フィールドにある情報に触れることができる。
 予知や予感や占いやデ・ジャヴューやシンクロニシティや輪廻転生などの不思議な現象は、これで説明することができる。
 また、ゼロ・ポイント・フィールドは、善悪・真偽・美醜・愛憎・好悪・幸不幸・・・といった二項対立を超えた「すべては一つ」という超自我意識すなわち「愛」しか存在しない領域なのだという。
 つまり、それが宇宙意識であり、古来より人々が「神」や「仏」や「天」と呼びならわしてきたものの正体なのだという。

 我々の意識は、「現実世界」の「現実自己」が死を迎えた後、このゼロ・ポイント・フィールド内の「深層自己」に中心を移すのである。そして、フィールド内にすでに存在する様々な情報、フィールドに新たに記録される様々な情報と相互作用を続け、変化を続けていくのである。
 すなわち、死は存在しない。

光の波動
 
 新書なれど活字が大きくて改行も多い。
 科学素人にもわかりやすい砕いた説明をしていいるので、3~4時間あれば読み終えることができる。
 滅多に新刊本を買わないソルティが、駅の本屋で本書を見たとたん、「これは読まなきゃ!」と思って購入した。
 ゼロ・ポイント・フィールドはいったい何を企んでいるのだろう?
 
P.S. 別記事で書いたばかりのアーサー・C・クラークの有名なSF『幼年期の終わり』が、最後に登場したのにシンクロを感じた。




おすすめ度 :★★

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● 本:『美少年日本史』(須永朝彦著)

2002年国書刊行会

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 歌人にして作家の須永朝彦が、あまたの史書や古記録を紐解いて、日本史を彩る美少年たちを時代を追って紹介したもの。
 神代の昔から語り起こして、在原業平や世阿弥や森蘭丸といった有名どころから、はじめてその名を聞く稚児や喝食(かつじき)やお小姓や若衆、しまいは銀幕の美男スターやジャニーズ事務所のタレントに至るまで、何十人もの美少年が登場する。
 ちなみに、密教寺院にいた美少年を稚児、禅宗寺院にいた美少年を喝食と呼んだそうな。

 あとがきで著者が書いているように、

 かつての日本では、性愛の在り方が西洋などとは相当に異なり、男性の同性愛に対するタブーが殆ど無かったので、美少年の迹を追う事は、取りも直さず男色の歴史を辿るに等しく、必然的に本書も〈衆道史〉の色を帯びるものになった。

 まったくのところ、全編これ、日本男色史と言っていい。
 どこそこの偉い僧侶が稚児に執着したとか、どこそこのお武家様がお気に入りの小姓を取り立てたとか、どこそこの念者が嫉妬に駆られて若衆を斬り殺したとか、そんな話のオンパレード。
 しまいには飽きて、面白そうなところだけ拾い読みした。

 それにしても、男色は日本のお家芸とは知っていたが、こうまで広く深く浸透しているとは!
 世界史を見ても、ここまで大っぴらな男色の伝統を(近代まで)有しているのは、日本以外にはなかろう。
 日本って、日本の男って、ほんとフシギ。
 とりわけ、武家社会になってからの男色の横行には唖然とするものがある。
 戦国大名は、隣接するライバルと良好な関係を築くため、自らの娘はむろんのこと、最も美しい息子を贈り物として差し出した。
 足利義満、伊達政宗、武田信玄、織田信長、豊臣秀次、徳川家康、徳川家光、徳川綱吉・・・・。
 これら権力者は揃って美少年を好み、側近に引き立てた。
 つまり、男色文化が日本の政治に大きな影響を与えたということである。
 男色というテーマを抜きにして日本の歴史を考えることは、たいへんな片手落ちなのではあるまいか?

青い蓮

 さて、最後にソルティが選ぶ「日本美少年ベスト10」を発表したい。
 歴史に登場する順で。
  • ヤマトタケル・・・実在人物かは不明。熊襲征伐の際に女装して酒席に乗り込み、その美貌で敵をメロメロにして打ち取った英雄。
  • 厩戸皇子・・・山岸涼子の人気コミック『日出処の天子』の印象が強い。厩戸皇子は女嫌いのゲイで、ノンケの蘇我毛人に恋慕するという設定。
  • 在原業平・・・『伊勢物語』に出てくるプレイボーイ。かつて、美男子のことを「今業平」と言ったとか。
  • 平敦盛・・・平清盛の甥っ子。17歳の若さで討ち死にした。「一の谷のいくさ破れ 討たれし平家の 公達あわれ」で知られる唱歌『青葉の笛』は敦盛を歌ったものである。
  • 源義経・・・「京の五条の橋の上」で軽やかに宙を舞う牛若丸のイメージが強い。『鎌倉殿の13人』では令和の美青年・菅田将暉が演じていた。
  • 世阿弥・・・その美貌ゆえ足利義満にいたく寵愛された。能が世界に誇る伝統芸能となったのも世阿弥の美貌と義満の男色趣味あってのこと。
  • 森蘭丸・・・織田信長の秘蔵っ子。本能寺の変に際しては槍をとって防戦に当たり、最後は信長に殉じた。その死に様も誉れ高い。
  • 天草四郎時貞・・・島原の乱でクリスチャンらが担ぎ上げたカリスマリーダー。不思議な力を持っていたところもポイント高い。昭和の世に生まれ変わって美輪サマになった話は有名。
  • 長谷川一夫・・・銀幕一の美男スターと言えば、必ず名前が上がる。林長二郎という芸名だった昭和12年、暴漢に襲われて顔を傷つけられ、日本中を騒然とさせた。
  • 美輪明宏・・・「神武以来の美少年」と讃えられ、江戸川乱歩や三島由紀夫に可愛がられたのはもはや伝説。この人の素晴らしいのは外見のみならず、心や生き方も美しいところ。
 あなたが選ぶベストテンは如何に?

長谷川一夫
長谷川一夫



 
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● ホモ・ミリターレ 本:『新・戦争論 「世界内戦」の時代』(笠井潔著)

2022年言視舎

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 「考えたくないことは考えない、考えなくてもみんなで頑張ればなんとかなる」という、日本に固有の自己欺瞞的な精神構造を「ニッポン・イデオロギー」と定義し、それが日本社会における「空気」の支配と歴史意識の欠落をもたらしていることを検証した『8・15と3・15 戦後史の死角』(2012年NHK出版)を読んで、ソルティは笠井に大いに共鳴した。
 重要な問題ほど議論を後回しに、決定を先送りにし、いざとなるとその場の空気に引っ張られて成り行き決行するニッポン・イデオロギーは、太平洋戦争(8・15)や福島第一原発臨界事故(3・15)だけでなく、このたびの安倍元首相国葬においても遺憾なく発揮されていた。

 上記書で笠井は、このニッポン・イデオロギーを克服するための処方箋として、「原発拒否」と「親鸞」という2つのキーワードを上げていたが、いまひとつピンと来ないところがあった。
 笠井潔という、たいへんな博識で理論家で鋭い世界認識と深い洞察力をもつ人間が、いったい何を目指しているのか、笠井の政治的立ち位置がどこらにあるのか、よく分からなかった。
 若い頃に学生運動をやっていたことは確かだし、彼の手による『オイディプス症候群』などのミステリーを読めば、いまも左の人・反権力の人であるのは間違いないのだが・・・。

 本書を読んで、やっと笠井の目するところが見えてきた。
 ちょっと驚愕した。
 
 21世紀の今日、アメリカと中国で同時革命が勝利し、樹立された新政府が国際ルールを合意してしまえば、世界はそれに従わざるをえないことになる。ただし、その新権力は、なにもしません。なにもしないことに意味がある。大衆蜂起の自己組織化運動を肯定し、容認しているだけでいい。そして大小無数の自己権力体が下から積み上げられて国の規模まで成長し、あるいは国境を越えて横に連合していく過程で、静かに退場していくこと。なにもしないことを「する」、これが樹立された「革命」政権の仕事ならざる仕事です。

 わたしは全共闘時代にルカーチ主義のコミュニストでした。連合赤軍事件や『収容所群島』の体験からポリシェヴィズムは放棄し、マルクス主義批判に転じましたが、ラディカルであることをやめたつもりはありません。だからリベラリストとは立場が違います。リベラルというのは主権国家、主権権力は否定できないものとして前提にしたうえで、そこから自由の領域を少しずつ拡大していこうという立場です。・・・・・(略)
 ラディカリストが求めるのはリベラル、リバティとしての自由ではなくフリーダムです。日本語にしてしまうと同じ「自由」ですが、リバティとフリーダムの違いについてはハンナ・アレントが『革命論』で論じています。どう違うかというと、フリーダムは権力と関係がないのです。権力に関係した、権力からの相対的な自由ではなく、権力とは無関係である自由、いわば絶対的自由です。

 主権国家・主権権力を否定し絶対的自由の獲得を目指すというと、反国家主義・反近代主義の無政府主義者のように思えるが、このへんの正確な定義はソルティにはわからない。
 笠井が最終的に目しているのは「世界国家なき世界社会」というもので、それを実現する手段は、「自治・自律・自己権力を有する無数の集団を下から組織し、近代的な主権国家を解体していくこと」だという。
 う~ん。ソルティの貧困な想像力では今ひとつイメージが結ばれない。
 ともあれ、ここまでラディカルな人だとは思わなかった!
 もはや社会主義者・共産主義者という枠組みにすらはまらない。

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 本書は、『自閉症裁判』『ルポ 認知症ケア最前線』『評伝 島成郎』などの著作をもち、『飢餓陣営』という批評誌を発行している佐藤幹夫の問いかけに対して笠井が答えるという形式をとっている。
 語り言葉なので読みやすい。
 一番の特色は、「戦争論」と冠しているように、近代以降の戦争の特質の変容についての笠井の解釈が呈示されていることである。
 近代以降の戦争を、19世紀の国民戦争(植民地をめぐる列強同士の戦争)⇒20世紀の世界戦争(第1次、第2次世界大戦~冷戦)⇒21世紀の世界内戦(湾岸戦争~アメリカ同時多発テロ~現在)という3つの時代区分でとらえ、それぞれの特徴を世界情勢と絡めてわかりやすく説明している。
  • 国際法というルールの下で“紳士的”に行われた国民戦争は、日露戦争を最後に途絶えたこと。
  • 世界戦争とは、国家間の争いを終結してくれる強い力を持つ“メタ国家”を抽出するための、国家総動員体制による勝ち抜き戦であったこと。
  • その勝者となったアメリカの覇権と核の平和によって一時は「歴史の終わり」が宣言されたものの、2001年9月11日の同時多発テロを契機にアメリカもまた世界国家(世界警察)としての地位から転落したこと。
  • 世界はいまや複数の国家や武装ボランティア組織や民間軍事組織などが入り混じる、大義もルールもない修羅場と化し、いわば世界内戦の状態にあること。
  • また、近代的な福祉国家というものが、国家総動員を旨とする世界戦争の国内体制として必然的に生じたこと。
  • それが世界内戦時代への移行によって「自国ファースト」の新自由主義に取ってかわり、福祉政策の縮小や排外主義や格差社会をもたらしたこと。
  • 秋葉原事件の加藤智大、やまゆり園事件の植松聖など、いわゆる“中流”の没落によって疎外された者の暴力はこうした文脈でとらえることができること。
 まさに戦争こそが人間社会を駆動する力学であり、人間社会の質を定めていく主要モチーフであることがまざまざと解き明かされていく。
 人類はホモ・サピエンスならぬ、ホモ・ミリターレ(homo militare たたかうヒト)なのだ。

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剣の騎士

 次に、こういった世界情勢の変貌のもと、日本はどんな立場に置かれてきたかが概観される。
 鎖国で近代化の遅れた日本は、明治維新後、懸命に近代化をはかり、列強の仲間入りを果たそうとした。
 その成果が、不平等条約の改正と、国民戦争の形式で行われた最後の戦いである日露戦争の勝利であった。
 その後、世界戦争で敗北し、憲法9条と日米安保で縛られる“アメリカの犬”となった。
 アメリカの傘の下、奇跡的な復興を果たし、戦後70年以上続いた平和と経済的発展を謳歌した。
 その歴史上稀なるお花畑的安寧も、バブル崩壊と世界王者アメリカの権威失墜と世界内戦の始まりによって風前の灯火となっている。
 北朝鮮の挑発やロシアのウクライナ侵攻や中国の脅威を前に、天皇と日米安保と平和憲法と沖縄問題の四すくみで動きが取れなくなっている。
 その根本的な原因は、日本の「不徹底な敗戦」にある。必要なのは「本土決戦」のやり直しだ、というのが笠井の説である。

 日本の「68年」世代がドイツの同世代と違ったのは、親たちの思想的不徹底性と退廃がさらに痛切に感じられた点でした。なにしろ本土決戦さえやらないで、天皇を担いで一目散に逃げだしたわけだから。親たちの世代が自己保身から不徹底な「終戦」に逃げ込み、悪かったのは軍閥や戦争指導部で、自分たち一般国民は軍国主義と侵略戦争の被害者だと居直っている。その結果の平和で豊かな戦後民主主義社会には、その根本のところで倫理的な欠落や空白があって、そのため自分たちは生の不全感を抱え込んで苦しんでいる。この空虚感を埋めて本当に生きるためには、親世代が自己保身的に放棄した本土決戦を再開し、最後までやりぬくことだ・・・・・。

 ここまで率直に内面を開示してくれた全共闘世代の発言を見るのは初めてかもしれない。
 むろん、すべての全共闘世代の思いを代弁するものではなかろうが、彼らの親世代に対する不信感の根底にはこのような感情があったのかと、腑に落ちるものがあった。
 しかし、今の時代にやり直せる「本土決戦」とは何なのか。
 それに対する笠井の答えが面白い。
 「移民を無制限に受け入れること」である。

 そうなると市民社会のいたるところで、隣近所レヴェルでも言葉の通じない外国人と否応なく付き合わなければならなくなる。ごみの捨て方を教えるというレヴェルから始めて、さまざまなコミュニケーションの努力が求められることでしょう。・・・(略)・・・国家の統治形態でない本物の民主主義は、さまざまな国や地域から吹き寄せられてきた、難民のような人々が否応なく共同で生活する場所、先住民と移民とが雑居していたニューイングランドや、カリブ海の海賊共同体のような場所で生まれます。(ゴチはソルティ付す)

 つまるところ、笠井の言う「本土決戦」の先にある徹底的な敗戦とは、ニッポン・イデオロギーや天皇制のような“国体”を棄却して、他者との共生から生まれる新たな共同体、本物の民主主義を生み出すためのガラガラポンなのだろう。
 せっかくの無条件降伏によって日本は(ドイツのように)生まれ変わる機会を得たのに、GHQの戦略による中途半端な占領政策=敗戦処理によってその機を逸してしまった、ということだ。
 笠井のこの見解が的を射ているものなのかどうか、ソルティには判断できない。
 広島や長崎への原爆投下ほどの決定的な本土決戦=敗北があるのか、という異論も出てこよう。
 もし、1945年に皇統が絶たれ天皇制が廃止されていたら、何か大きな変容が日本人に訪れていただろうか?(安保闘争以上に、天皇制復活運動が盛り上がったのではあるまいか)

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教皇

 本書の発行は2022年9月30日だが、佐藤による笠井へのインタビューは2020年9月と2022年6月の2回に分かれている。
 ロシアによるウクライナ侵攻という異常事態の発生を機に、2回目のインタビューが持たれた。
 第3章では、世界内戦時代を背景とするロシア×ウクライナ戦争について論じられている。
 ここでも国民戦争⇒世界戦争⇒世界内戦の流れの中でロシア=ソ連がどのような立場にあったかが検証されるとともに、ロシアの核使用の現実性やメディア戦略を組み入れたハイブリッド戦争の様相が語られる。
 アメリカやNATO諸国が唱える「武力による現状変更は許さない」という一見“正義の味方”的言説が、実質的には既得権を持つ国家の権益維持であるがゆえ、既得権を持たぬ国々に対しては何ら説得力を持たず、戦争の抑止にはつながらないというのはもっともなところ。

 本書を手に取ったのは、国防について考えるための『蒙古襲来』『新・国防論』に続く教材第3弾としてであった。
 早くも第3弾において、ソルティは自らの限られた視野と思考の壁を思い知った。
 なぜなら、本書は戦争論は語っていても国防は語っていないからである。
 日本という主権国家をあくまでも守らなければならないというのが国防論であるなら、主権国家の否定すら射程に入れる本書は国防論ではない。
 そう、何のための国防なのかという視点がそもそもソルティには欠けていた。
 領土や国体やニッポン・イデオロギーを守るための防衛なのか。
 それとも市民――行政機構として国の下に置かれる「市」の民という意味ではなく、自己決定権を持った自立した自由な個人という意味での市民――を守るための防衛なのか。
 
 国家を守るための国防軍か、市民を守るための市民軍か。この選択を正面から提起しなければならない。市民軍の本格的な組織化に向けて構想を練る必要があります。個人や家族、自立的な民間組織を基礎的な戦闘単位として位置づけるとか、それを自治体ごとに集約するとか。絶対主義の常備軍以来の中央集権的な軍隊に対する、分散的に自由に運動する小規模な戦闘単位が、必要な場合は集結して戦えるような下からの組織。反復訓練によって、規範を内面化し身体化する規律訓練システムは、軍隊からはじまって監獄や病院から学校や工場にまで広まったわけですが、それとはまったく異なる分子的な戦闘主体を産出しなければならない。
 自衛隊の国軍化に9条平和主義を対置するのではなく、現代的な戦争機械として市民軍の組織化を対置すべきです。

 人民の権力は憲法という紙切れの中にあるのではない、議会という閉じられた特権的な場所にあるわけでもない。人民の権力は街頭から生じる。蜂起する大衆の意志こそが人民主権の実質をなしている。

 笠井潔は本気である。
 青雲の志をかくも失っていない男も珍しい。
 「凄いな」と思う一方、連合赤軍や革マル派の残党と同じく、見果てぬ夢を追い続けている少年革命家(ゆたぼん?)という印象を拭うこともできない。
 笠井の目する世界の実現を信じるには、ソルティはあまりに性善説からほど遠い。
 もっとも、ソルティがたまに夢想するアーサー・C・クラーク的世界平和プロセス――圧倒的な力を持つ宇宙人が飛来し、地上の独裁者や核を一瞬のうちに消滅させ、既存の国家機構や差別的な制度を取っ払って、地上に平和をもたらしてくれる――にくらべれば現実性があるけれど。

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愚者
 



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● 本:『コールセンターもしもし日記』(吉川徹著)

2022年三五館シンシャ発行、フォレスト出版発売

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 フォレスト出版の××日記シリーズを、ソルティは基本近所の図書館で借りているのだが、新刊は大人気でいつも順番待ちとなる。
 本書は予約してから3ヶ月以上待った。
 同じ日に予約した『住宅営業マンぺこぺこ日記』は現時点で5人待ち、『ディズニーキャストざわざわ日記』は8人待ちである。
 忘れた頃に通知がやって来る。

 最近は書店の平棚に並んでいる本シリーズを見ることもある。
 版元としては、10作を超える思いがけないヒットにびっくり&ホクホクだろうが、決め手はやはり中味。うまい書き手が揃っている。
 不安定な労働条件やきびしい労働環境に翻弄されながらも、決して捨て鉢になることなく家族や生活のために働き続け、若い頃夢見たのとは違ってしまった人生を粛然と受け入れようとする書き手たちの姿が共感を呼ぶ。 

 本作もコールセンターにおける仕事の実態が赤裸々に描かれて、興味深かった。
 クレーム電話の伏魔殿とも言えるコールセンターで、派遣社員として働いてきた著者(1967年新潟生まれ)の喜怒哀楽。
 食品店や相談業務や介護現場といった対人業務を渡り歩いてきたソルティ、身につまされた。
 客あるところクレームあり。
 人あるところ変人あり。
 モンスタークレーマーはどこにでもいるものだ。

モンスター
オレは悪くない!

 著者は今、コールセンターから足を洗って、障がい者の介護現場でイキイキと働いているらしい。
 介護現場もまたクレームはつきもの。
 でも、それ以上に感謝されること多く、人や社会の役に立っているという自負も得られる。
 電話とは違って、相手の笑顔も見られる。体温も感じられる。
 全身を使う仕事なので、肩や腰に気をつければ、健康にも良い。
 コールセンターの仕事で身に着けた忍耐力やコミュニケーション力が生かされているようでなによりだと思う。
 体に気をつけて頑張ってほしい。
 いや、介護現場に携わる同じ50代、互いに頑張りましょう。


 
 
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