ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●読んだ本・マンガ

● 本:『アルマジロの手』(宇能鴻一郎著)

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初出1967~1984年
2024年新潮文庫
収録作品
 アルマジロの手
 心中狸
 月と鮟鱇男
 海亀祭の夜
 蓮根ボーイ
 鰻池のナルシス
 魔薬

 あたし、宇能センセイの短編集第2弾が発売されたのを知って、あそこがツンと尖っちゃったんです。
 第1弾『姫君を喰う話』の衝撃がよみがえって、体じゅうの血がたぎるような感じになって、家事が手につかなくなっちゃたんです。
 自分でも気がつかないまま財布を握りしめて、近所の本屋に飛び込んだら、店主のおじさんが舐め回すような目であたしを見るんです。万引きじゃないのに・・・。
 ふるえる手を押さえながら棚から文庫を取り出したら、九鬼匡規(まさちか)センセイの描いた太もも丸出しの吸血娘がうるんだ瞳であたしを睨むんです。
 もう、のどはカラカラに乾くわ、胸はバクバクするわ、足はブルブル震えるわ、しまいにはじっとりした液体がにじみ出て、下着をしとどに濡らしちゃったんです。
 わきの下から。

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 ――とまあ、本書を手にした感動をおおげさに記してみたが、実際、「やったね、新潮!」と声を上げて褒めたたえたい気分であった。
 どちらかと言えば「左」のソルティは新潮社が好きでないのだが。
 第1弾に勝るとも劣らない奇怪で面白い短編ばかり。
 宇能鴻一郎の強烈な個性と才能に酔うとともに、昭和文学の豊穣を再認識し、堪能した。

 『アルマジロの手』はメキシコが舞台の痴情怪談。当地での伝統的な男から女への求愛の風習が描かれているのが興味深い。中世西欧でお城の窓の下でリュートを爪弾きながら貴婦人への恋を唄ったトロヴァトーレ(吟遊詩人)を思わせる。さすがに現在は廃れていると思うが、どうなのだろう? 84年発表ゆえか、主人公の姿にバブル期のビジネスマンを思い出した。

 『心中狸』は淡路島が舞台のエロ妖怪談。弘法大師が狐を追っ払ったため、四国のお稲荷さんの眷属は狐ではなく狸だという話を思い出した。狸は腹の出た中年オヤジを思わせるためか、猥談のドジな主人公にぴったりだ。

 『月と鮟鱇男』はエロ犯罪譚。恐ろしいプロットの中に、食欲と性欲のつながりをコミカルに描き出す。主人公の男にマゾヒストで大の食通だった文豪谷崎潤一郎をダブらせてしまった。

 『海亀祭の夜』は香川の日和佐海岸が舞台。四国88札所の一つ22番薬王院があり、ソルティも2018年の歩き遍路の際に宿泊し、海岸を散策した。海亀ブームはすっかり去っていた。これもM的な男の物語。

 『蓮根ボーイ』、『鰻池のナルシス』、『魔薬』では女色に並んで男色が描かれている。
 人間の「性」という魔物の前では、対象が男だろうが女だろうが関係ないのだということを宇能鴻一郎はよく分かっていた。
 大江健三郎の『飼育』にも似た戦後GHQ占領下の空気が匂う『蓮根ボーイ』、もうちょっとでポルノ作家宇能鴻一郎誕生につながりそうな『鰻池のナルシス』、インドが舞台の男色版『痴人の愛』といった風情の『魔薬』、どれもすこぶる面白かった。

 これらの作品を前にしてつくづく思うのは、小説の面白さというのは――少なくともソルティにとっては――いびつで理不尽で残酷な社会や、いびつで愚かで欲深い人間の“畸形”をありのままに映し出すところにあるってことだ。
 "畸形”こそが面白さの要。 
 ここに収録されているいずれの作品も、令和の各種ハラスメント基準や求められる人権感覚やSDGs観点から見たら、たいへんな問題作(炎上作)ばかりである。
 たとえば、『アルマジロの手』は第三世界の女性に対する性的搾取と動物虐待、『海亀祭の夜』は女性の権利侵害と動物虐待、『魔薬』はジャニーズびっくりの少年誘拐と性虐待が題材となっている。
 平成生まれの作家にはなかなか書けないし、そもそも思いつかないテーマだろう。
 いや、同じ昭和であっても、戦後生まれの作家にも書けないかもしれない。
 平和・人権・民主主義の戦後社会からは、なかなか生まれてこないテーマであるし、出版社も様々な方面からの“糾弾”の可能性を考慮せざるを得ないし、そもそも読む人がそれほどいるとは思えない。
 ポリコレと自主規制が進んだ令和にあっては、“時代遅れの昭和の害悪の見本”と批判されるリスク大である。

 いまなぜ宇能鴻一郎の小説が人気を集めているのか。
 思うに、令和コンプライアンスの締め付けの中、言動に気を使い、息詰まる思いをしながらも、「人間てきれいごとばかりじゃないよな」と思っている昭和育ちが多いからではないだろうか。
 
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星野珈琲店でエロ読




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● ミステリーの原点 本:『ある行旅死亡人の物語』(武田惇志、伊藤亜衣共著)

2022年毎日新聞出版

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 昭和のミステリー小説やドラマには、自らの正体を隠すために死んだ人間に成りすます話がよくあった。松本清張の『砂の器』が代表格だ。
 あるいは、戸籍が失われたために出自が分からなくなり、それがのちになって悲劇を生む山口百恵主演『赤い運命』のような血縁ドラマも流行った。
 戦争や自然災害によって役所や登記所が破壊され、戸籍や住民票など本人を特定できる書類が紛失することがあったからだ。
 『砂の器』は米軍による大阪空襲、『赤い運命』は伊勢湾台風が原因だったと記憶する。
 複写機もなく、ワープロもパソコンもない、ましてやインターネットによるクラウド機能なんてものもない時代、いったん紙に書かれた書類が失われてしまえば、本人であることを証明できるのは、家族や知人など本人をよく知る周囲の人間たちの記憶しかなかった。
 もちろん、DNA鑑定など論外である。

 令和の現在、いくら高齢者の孤独死が多いからと言って、旅先や外出先でなく、長年住んだ自宅で亡くなった人間が、どこの誰だかわからない行旅死亡人として扱われるなんてことがあるとは、よもや思わなかった。
 本作は、40年間住みなれたアパートで突然死した独居の高齢女性の身元を、二人の新聞記者が割り出す物語、いや、ノンフィクションである。

行旅死亡人
病気や行き倒れ、自殺等で亡くなり、名前や住所など身元が判明せず、引き取り人不明の死者を表す法律用語。

 亡くなった田中千津子さんの身元が分からないのは、彼女が住民票をもっていなかったから。
 したがって、自動車免許もパスポートも各種保険証も作ることができず、国民年金も受け取れず、病気になっても医療保険を利用できず(全額負担となる)、介護が必要になっても介護保険が利用できない。
 長い間一人暮らしで、月に一度大家さんに家賃を払いに行く以外、他人との交流を避けていた。訪ねてくる者もなく、電話は引いていたものの、彼女から誰かに電話をかけた記録は残っていなかった。
 数十年前に一時働いていた近所の工場で、右手の指をすべて切断するという大事故にあっていながら、労災保険も申請していなかった。
 部屋には、たとえば手紙や住所録といった身元をたどる手掛かりになるようなものは一切なく、何十枚かの古い写真が残されていただけ。
 それは過去につきあっていたらしい男(田中竜次)との旅行写真、そして小さな男の子と女の子の写真であった。
 田中竜次がどこの誰であるかも、二人が結婚していたのかどうかもわからない。 
 つまり、田中千津子という名前が本名かどうかも不明なのである。
 なにより不思議なのは、自室の金庫から3000万円もの大金が見つかったことである。
 (あとから判明したことだが、彼女は10歳以上さばを読んでいた。が、これは女性ならば不思議ではあるまい。最近、24歳さばを読んでいた女性が捕まった事件があった)

 ミステリーファンにはたまらない謎が謎を呼ぶ設定。
 若く元気な共同通信社の記者ペア(武田&伊藤)が、列車と足を使って、わずかな手がかり(「沖宗」姓の印鑑)をもとに女性の正体を探っていく。
 それは、令和から平成を抜けて昭和を旅する不思議な感覚。
 まさに松本清張ミステリっぽい。
 しかも作り事(フィクション)ではないと来ている。

 駅ビルで本書を購入後、駅構内の喫茶店で冒頭数ページを読んだら、瞬く間に引きずり込まれ、帰りの列車内で読みふけり、家に帰って読みふけり、数時間で一気読みしてしまった。
 ここ最近読んだ本の中で一番スリリングかつ面白かった。

 武田&伊藤の根気ある調査によって田中千津子の身元は判明する。
 二人は広島の海辺の町で、女学生時代の彼女を知る人物と邂逅する。
 彼女を「千津ちゃん」と呼ぶ人がいた・・・。 
 そのあたりから物語はミステリーとは別次元に移行して、読む者はひとりの人間の人生や運命の不可思議に思いを馳せていくことになる。
 いや、そうじゃない。
 ミステリーというと、我々はどうしても奇抜なトリックとその解明に気が向いてしまいがちだけれど、一番のミステリーは人間なのである。
 読んだ後も、田中千津子さんのミステリーは読者の中でこだまして、止むことはない。 

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おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『対論 1968』(笠井潔、絓秀実共著)

2022年集英社新書

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 全共闘世代(1947~49年生まれ)である小説家の笠井潔と文芸評論家の絓秀実が、“1968年”をテーマに語り合った対談本。
 外山恒一(とやまこういち)という1970年生まれの政治活動家が聞き手をつとめている。
 この人については知らなかったが、なかなか過激な男のようだ。

 絓秀実をこれまで数十年間、「けい・ひでみ」と解してきた。
 「すが・ひでみ」である。
 絓という字は、音読みで「カイ」、訓読みで「しけ」。
 その意味は「繭の上皮。粗悪な絹糸・真綿の材料となる」(小学館『大辞泉』)。
 どこから「すが」が出てくるのか?
 Wordの漢字変換でも出てこない。

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LoggaWigglerによるPixabayからの画像

 全共闘世代にとって、1968年という年は特別なものであるらしい。
 そのことの意味がソルティにはよく分かっていなかった。 

 だいたいソルティが常々不思議に思っていたのは、1960年と1970年の二つの安保闘争がマスメディア等で語られる際に、60年安保の象徴というかハイライトがまさに1960年6月19日の日米安全保障条約承認の周辺、すなわち唐牛健太郎が活躍した6月10日の羽田空港のハガチー事件、あるいは樺美智子が圧死した6月15日の国会前デモに当てられるのに対し、70年安保のそれは1970年6月22日の安保条約自動延長決定の周辺ではなくて、1968年10月の新左翼による新宿騒擾事件であるとか、1969年1月の東大安田講堂事件であるとか、1972年2月の連合赤軍あさま山荘事件に当てられる点である。
 どれも安保とは直接関係ない。
 いずれも日本中を騒然とさせた大事件であったし、ビジュアル的なインパクトからマスメディアが繰り返し取り上げたがる理由も分からないでもない。
 が、それによって70年安保が、日本の平和と自立を求める市民運動というより、暴力的かつ反社会的かつ陰惨な結末で終焉した若者たちのあやまちといった偏ったイメージでしかとらえられなくなってしまった感は否めない。

 同じ安保闘争と言っても、60年安保と70年安保は質的にずいぶん異なるように思われる。
 60年安保が日米安全保障条約の撤廃や岸信介首相退陣を求めることに焦点が置かれた、わかりやすい社会運動であるのにくらべ、70年安保はそれ以外の付帯物があまりに多い。
 全共闘をリーダーとする学園紛争であるとか、ベトナム戦争反対運動であるとか、沖縄返還問題であるとか、三里塚闘争であるとか、セクト化した新左翼の内ゲバであるとか、三島由紀夫と全共闘の対決であるとか・・・。  
 焦点がどこにあるのかよくわからない。
 安保問題はむしろ後景に退いてしまったかのように思える。
 おそらく、その謎を解くのが“1968年”なのだろう。

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東大安田講堂

 青年活動家として当時を生きた笠井と絓の対論は、左翼用語はもちろんのこと、ソルティが聞いたことない事件や活動家や団体の名前が次から次へと飛び出し、内輪話的なものや小難しい思想談義もあり、外山や編集サイドの注釈をもってしてもすべてを理解するのは難しい。
 池上彰と佐藤優の『日本左翼史』シリーズを読んでいなかったら、まったくのチンプンカンプンだったろう。
 三人の発言からいくつか拾う。

笠井 日本に限らず“68年”の最も重要なポイントは“大衆蜂起”・・・・

笠井 戦後民主主義の国民運動だった60年安保を、学生や市民の群衆運動としての“68年”が乗り越えた・・・・

外山 “68年”の最重要のスローガンは“戦後民主主義批判”・・・・

 “68年”のメインのスローガンの一つだった“大学解体”が、全共闘学生たちの闘争とは無関係に、すでに実質的に始まっていたということでもあると思います。逆に、“60年”の学生たちは、“大学解体”なんて夢にも思わなかったでしょう。

笠井 “68年”が画期的だったのは、「失われた30年」の間に生まれ育った若者には想像もつかないだろうけれども、“豊かな社会”を拒否する叛乱だった・・・・

笠井 “68年”とは一体何だったのか、その後もずっと考え続けて、やがて閃いたのは、1848年の革命がそうであったのと同じような意味で、“68年”も“世界革命”だったということ・・・・

 強引にまとめると、1968年とは、「戦後民主主義を批判する大衆レベルの革命の機運が最高度に高まった年」ということになろう。
 その延長線上に70年安保を位置づけるならば、たしかに60年安保と70年安保の意味はまったく異なってくる。
 いや、“68年革命”を、60年にせよ70年にせよ安保闘争の枠組みに入れて論じること自体が誤っているのかもしれない。
 安保条約の撤廃を求めて声を上げデモに行った(全共闘世代以外の)国民の多くは、さすがに戦後民主主義を否定することまでは考えていなかったであろうから。(戦後ずっと自民党政権が続いていたことが示すように)

 いったい、なぜ全共闘あるいは新左翼の若者たちは戦後民主主義を批判し、革命を望んだのか?
 笠井はこう記す。

 今風に言えば“承認”をめぐる不全感や飢餓感が、日本の“68年”を駆動させていたことは確かですね。それが敗北していった果てに、政治性を一切脱色したアイデンティティ探究が青年たちの間に広がって、それが“自分探し”と呼ばれるようになる。つまり、“自分探し”自体が、“68年”の敗北の一形態なんだ・・・

 平和で繫栄する戦後社会の頽落に耐え難いものを感じ、黙示録的な破局と世界の一新を渇望していた青年たちが、その果てに「戦争とか火の海の世界が一瞬見えた気がした」、「戦争なんだ」と一瞬だけにしても信じた。その「妄想」の帰結を、連合赤軍の大量「総括」死として否応なく突きつけられたとき、足許が崩れ落ちていくような衝撃に見舞われ、暗澹たる精神状態に陥っていく。

 これはまさに笠井潔の『哲学者の密室』の主題そのものである。
 哲学者パルバッハ(ハイデガーがモデル)の説く「死の哲学」に魅せられた気概ある若者は、ヒトラーの説く理想国家「第三帝国」の建設に共鳴しナチスを支持するが、やがてホロコーストという大量「総括」死を否応なく突きつけられ、信仰とアイデンティティの瓦解をみる。
 であるのならば、“1968年”とは笠井にとって、「死の哲学」を信じ充実感をもって生きられた“至福の時間”だったということになるであろうし、同時に、決して繰り返してはいけない“魔の時”ということにもなるはず。
 そうしたアンヴィバレントな思いが笠井の発言からは感じとれる。
 一方、絓にとっての“1968年”はそこまでの実存的意味合いはなかったようで、同じ全共闘世代でも受け取り方はさまざまであることが察しられる。(当たり前の話だが)

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 革命を夢見る権利はだれにでもある。
 政治運動に身を捧ぐ自由もだれにでもある。
 さらには、理想に燃えていた青春時代を反芻するのも個人の勝手である。
 だが、自らの個人的な疎外感や空虚を埋めるために、「平和で繁栄する戦後民主主義社会」に満足してそれなりに幸福を感じて生きている大衆を下に見て、戦争や革命を志向するのはハタ迷惑な行為であろう。
 それこそ90年代にオウム真理教の幹部たちがやったことだ。
 「生」の強度がほしいのなら、ウクライナでもガザ地区でもアフガニスタンでもロッククライミングでも山口組でもSMクラブでもハプニングバーでも、受け入れ皿はいくらでもあろう。

 「1968年」論は、国内だけでなく世界の動向も含めて、いろいろな人が書いている。 
 遅ればせながら、少しずつ追っていこうかな。
 

 
おすすめ度 :★★★

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● やっぱり名作! 本:『皇帝のかぎ煙草入れ』(ディクスン・カー著)

1942年原著刊行
1961年創元推理文庫(井上一夫訳)

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 高校時代に読んだとき、かぎ煙草入れ(snuff box)というものがどういうものか分からなくて、いま一つぴんと来なかった。
 それを言えば、そもそも「かぎ煙草」というのも日本人には馴染みのうすい風習である。

 ウィキによれば、コロンブスの新大陸航海の際にフランシスコ会の修道士がカリブ諸島からスペインに持ち帰ったのが、ヨーロッパに煙草が広まる端緒だったそうだ。
 またたく間に庶民の間に広まった葉巻や紙巻き煙草やパイプ煙草に対し、上流階級で好まれたのが、細かく砕いた煙草の葉を直接鼻腔内に吸い込む「嗅ぎ煙草」。
 18世紀にはヨーロッパの王室や貴族をはじめ、ネルソン提督ウェリントン公爵、アレキサンダー・ポープ、サミュエル・ジョンソンなど、数多くの著名人に愛用されたという。
 もちろん、皇帝ナポレオンもその一人だった。

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WikimediaImagesによるPixabayからの画像

 砕いた煙草を中に詰めてポケットに入れて持ち運びできる密封性の高いケースが「かぎ煙草入れ」。
 ケースの表面に肖像や風景を描いたものや、金、銀、宝石をあしらったものなど、贅を凝らしたものが競って作られた。
 当然、ナポレオンの使っていたかぎ煙草入れともなると、骨董的価値は高い。

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すず製のかぎ煙草入れ
コンドームケースとしても使える(⌒-⌒)
M.
によるPixabayからの画像

 ストーリーもトリックも真犯人の正体もすっかり忘れていた。
 約45年ぶりに読んで、面白さにびっくり!
 かのアガサ・クリスティを脱帽せしめたというトリックや話の構成、「かぎ煙草入れ」を使った解決の糸口も見事ながら、ストーリーが奇抜で先の展開が読めず、ハラハラするような人間ドラマ(恋愛ドラマ、家族ドラマ)が凝縮されていて、単純に普通の小説として面白い。
 美しく魅力的な主人公イヴが、周囲の人間の悪意とあり得ない偶然の連続で殺人事件の容疑者に仕立てられていくサスペンスは、ページをめくるのがもどかしいほどの吸引力を放つ。
 イヴをめぐる男たちの欲望や嫉妬やプライドや小狡さがひとつひとつ暴かれていき、最後にはイヴが真実の愛にたどりつくプロットは、ちょっとしたハーレクインロマンス。
 恋愛小説の名手でもあったクリスティが本作を激賞したのは、本格推理小説としての出来栄えだけではなく、人間ドラマとしての巧みさのせいもあったに違いない。
 一見、純真な好青年そのものだが一皮めくれば・・・・イヴの婚約者トビイ・ロウズの人物造型など、令和日本の現代でも普通にいそうなリアリティ。 
 やはり、カーの長編小説の中では本作がトップ1、少なくともトップ5に入るのは間違いないと思う。

 トリックと真犯人については、3分の1ほど読んだところでソルティは直感した。
 高校時代のうぶなソルティなら騙されただろうが、古今東西ミステリー数百冊読破のいまは、作者の手の内を見抜くのにさしたる苦労はない。
 と言って、その先は読むまでもないという気にはさせないところが、カーの筆力の凄さ。
 筆力と言えば、本作にはクリスティのある名作を彷彿させる文章上の仕掛けがある。
 いったん読み終えて真犯人を知ってからもう一度読み返すと、カーの叙述の巧みさに痺れる。
 読者は、あるパラグラフと次のパラグラフの間に、ある文章と次の文章の間に、書かれていない重要な事柄があったことを、最初に読んだときはちっともそこに注意を払わず通過していたことを、知ることになろう。
 作者にしてみれば「してやったり」だ。

 本作の最大の欠点は、「かぎ煙草」ならぬ「鍵」の問題だろう。
 同じ鍵を、同じブロックに建てられた6つの家の玄関ドアで共有しているという設定は、いくらなんでも不自然すぎる。
 そんな家など買いたくないし、買ったとしてもすぐに鍵を取り換えるのが常識だろう。

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SchluesseldienstによるPixabayからの画像



おすすめ度 :★★★★★

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● 愚者の楽園 本:『哲学者の密室』(笠井潔著)

1992年光文社
2002年創元推理文庫

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 お盆休みは例によって4泊5日の秩父リトリートをした。
 今回携えていった本が、『スマナサーラ長老が道元禅師を読む』と本文庫であった。
 本書はとにかくブ厚い。
 小口45ミリ、1000ページを優に超える。
 普通の文庫ミステリーの3~4冊分はある。
 そして、かなり難解。
 日本のミステリー作家ではもっとも難解な笠井潔の作品の中でも、もっとも難解で重厚である。
 まとまった時間がある時に、腰を落ち着けて一気に読むのでなければ、なかなか読み通せないと思い、リトリートまで待っていた。
 宿の密室に一人こもって完読した。

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 途中まで読んで驚いた。
 なんとまあタイムリーでヴィヴィッドな小説であったことか!
 ソルティは本書の内容について、事前にほとんど知らなかった。
 『バイバイ、エンジェル』、『薔薇の女』、『サマー・アポカリプス』、『オイディプス症候群』など素人探偵矢吹駆シリーズのミステリーであること、マルティン・ハイデガーをモデルにした哲学者が出てくるらしいこと、密室殺人が扱われることの3点をのぞいては。
 読むにあたって、文庫の裏表紙や扉ページに書かれている内容紹介にも目を通さなかった。
 もちろん、ハイデガーを読んだこともなく、どんな哲学を提唱したのか、どんな経歴を持つ人物だったのか、まったく知らなかった。

 驚いたわけは、本書の殺人事件の背景をなすのがナチスのホロコースト、すなわち強制収容所におけるユダヤ人大虐殺だったからである。
 『ナブッコ』といい、『ソドムとゴモラ』といい、呼ばれたようにタイムリーでヴィヴィッドな作品に巡り合ってしまう。
 無意識のなせるわざか。
 むろんタイムリーでヴィヴィッドとは、イスラエルによるガザ地区侵攻と民間人虐殺を踏まえての謂いである。

 舞台は1970年代のパリ。
 成功した実業家フランソワ・ダッソーの屋敷で殺人事件が発生。
 被害者は数日前にパリに着いたばかりのボリビア人旅行者ルイス・ロンカル。
 後頭部を強打され、背中から心臓を鋭利な刃物で貫かれていた。
 しかるに部屋は完全な密室であり、凶器は見当たらなかった。
 捜査に関わることになった矢吹駆とナディア・モガールは、ロンカルの正体がナチスのコフカ強制収容所の元所長であること、事件当夜ダッソー家に招かれていた客たちがかつてコフカ収容所に収容されていたユダヤ人関係者であったことを知る。

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アウシュビッツ強制収容所
Dimitris Vetsikas
によるPixabayからの画像

 構成は3部に分かれている。
 第1部は1970年代初夏のパリ。ダッソー家での三重の密室殺人事件の謎が提出され、犯行動機に第2次世界大戦時のナチスのホロコーストが関係していることが匂わされる。
 第2部は1945年真冬の第三帝国ポーランド領にあるコフカ収容所。所長ロンカルの冷酷な管理の下、各地から連行された多くのユダヤ人が、あるはガス室に送り込まれ虐殺され、あるは強制労働に従事していた。ロンカルはユダヤ人女性ハンナを小屋に囲って性的奴隷にしていた。
 ソ連軍の侵攻を前に撤退が決まった収容所において突如勃発した爆破事件と囚人脱走。その最中に発生したハンナ射殺事件の謎が提出される。これもまた三重の密室であった。
 第3部はふたたびパリに戻る。ナディアと矢吹それぞれの推理が語られ、すべての謎が解明される。そこには20世紀最大の哲学者の秘密が隠されていた。

 四半世紀はなれた二つの時代に起きた三重の密室事件の謎を解き、それぞれのトリックと真犯人を暴くという点で、まぎれもなくゴージャスな本格推理小説である。
 不可能犯罪が提出される、事件現場の見取り図が掲示される、容疑者たちの事件前後の行動が時系列で整理される、プロの刑事や素人探偵らの推理合戦が白熱する、事件現場でトリックの実現性が検証される、名探偵の鮮やかな推理が事件を解決に導く・・・・。
 本格推理ファンのツボを押さえた笠井の小憎らしいほどのサービス精神に感激する。
 そう、これこそ本格推理の醍醐味。
 ページをめくる手が進む。
 
 と思いきや、打って変わって重厚なテーマが顔をのぞかせる。
 ナチスのホロコーストという人類史上未曾有の悲劇は、どうしたって重厚な語りにならざるをえない。読む者は重苦しい気持ちを抱かざるを得ない。
 強制収容所の地獄を生き延びたユダヤ人とその子供たち、収容所で働いていた元ナチス党員、同じユダヤ人でありながら仲間を監督する仕事をしていた囚人頭(カポ)、青年時代に対独レジスタンス活動に身を投じたフランス人、ナチスに加担していたドイツ人哲学者・・・。
 戦後数十年たっても決して拭い去ることのできない苦痛や怒りや恐れや悲しみや罪悪感や恥が、登場人物それぞれの心にわだかまっている。
 コフカ収容所でカポをしていたダッソーの父親は、脱走後に生き延びてフランスに帰国、戦後は実業家として成功した。晩年になって彼が自宅内につくったコフカ収容所のパノラマセットの描写には鬼気迫るものがある。
 
 ずしんと心が重くなるホロコーストの物語に輪をかけて、ページをめくる手を重くするのが時々出てくる哲学談義。
 20世紀哲学の雄マルティン・ハイデガーをモデルとしたマルティン・パルバッハ、同じくエマニュエル・レヴィナスをモデルとしたエマニュエル・ガドナスという人物が登場し、現象学的存在論やら死の哲学やら技術文明批判やら革命論やら、小難しい議論が繰り広げられる。
 推理小説と思想小説の融合。
 これぞまさに笠井ミステリーの真骨頂なのである。
 哲学の素養を欠き、ハイデガーもレヴィナスも読んでいないソルティには、高すぎるハードル、いやそれは3000m級の山登りに近い。
 リトリート中でなければ、途中挫折した可能性大であったろう。
 本格推理ファンでも、本書を読み通すことのできる者は限られるのではなかろうか。

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 推理小説としてみた場合、二つの密室殺人のうち、第1部(70年代ダッソー家)については見事で、ソルティはトリックを思いつかなかった。犯人も当てられなかった。
 ただ、屋敷の滞在客はみな共通の犯行動機を持った強い絆で結ばれた仲間なので、『オリエント急行殺人事件』のように“全員が犯人”という二番煎じの真相はないとしても、犯人をかばうための口裏合わせは当然想定していいだろう。
 それぞれの証言は最初から当てにならない。犯行前後の各人の行動は信用し難い。 
 どの証言も信用できないなら、分かっている確実な証拠から推理を組み立てるという作業が成り立たず、そこは推理小説としては弱い部分かなあと思った。

 第2部(1945年コフカ収容所)の密室事件については、設定自体に無理があり、ご都合主義な感が強いように思った。
 ユダヤ人が大量にガス室に送り込まれ、犬のように殺される現場にあって、ひとりのユダヤ人情婦ハンナの死の謎をめぐって大騒ぎすることのバランスの悪さはとりあえず置くとしても、密室の設定自体が不自然。
 真犯人が、ロンカルにハンナ殺しの罪を着せたいのならば、ハンナを密室に閉じ込めて自殺にみせかける意図が不明。他殺体とわかるようにさらして置くのが自然であろう。
 小屋にやってきてハンナの死を知ったロンカルもまた、小屋の外から鍵をかけられて(死体と一緒に)閉じ込められてしまう。
 ロンカルが中から小屋の鍵を開けられない以上、ハンナ(の死体)とロンカルが中にいることを知る第三者が外から鍵をかけたと推測するのが自然だろう。
 ハンナ殺しの真犯人はその第三者であって、ロンカルは罠にはめられたと考えるのが無理のない推定だろう。
 ナディアら探偵たちが本来推理すべきは、第三者が足跡を残さずに小屋から立ち去った方法であり、第三者が誰なのか、である。
 ところがなぜかナディアらは、ロンカルがわざわざトリックを使って中から小屋の鍵をかけて、自身をハンナの死体と一緒に密室に閉じ込めたと断定する。
 思考回路のおかしさにちょっとついていけない。
 また、真犯人はかつてハンナを愛した男だったわけだが、復讐相手であるロンカルをその場で射殺しなかった理由もよくわからない。
 収容所の爆破騒動と囚人脱走のどさくさに紛れてロンカルを射殺してもバレはしなかったろうに。(なんて言ったら、その後の物語が成立しないが・・・)
 いろいろな疑問は生じたものの、第2部についての犯人の推測は当たった。(ほとんどの読者は推測がつくと思うが) 

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 思想小説としては・・・・まあ満腹になった。
 パルバッハ(ハイデガー)哲学のいろいろなテーマが取り上げられていて、目も眩むような高踏的言説のオンパレードにくじけそうになったが、中心となっている命題はおおむね理解できた。
 「人間はいつか必ず死ぬ。その事実を直視し、自分の使命を見つけてそれに果敢に立ち向かえ。限られた「生」を尊厳を持って本来の自分を生きよ。目的もない生ぬるい日々を享楽にまみれて生きる豚になるな。英雄となれ。」
 というのがパルバッハの「死の哲学」の肝で、元ナチの真犯人も矢吹駆もパルバッハに深い影響を受け、そのように生きんとしてきた。
 ところが、ホロコーストという無名のユダヤ人の大量の死体を前にして、真犯人が抱いていた「死の哲学」は瓦解する。というのも、「二十世紀の世界を襲った底知れない凡庸の地獄を、戯画的なまでに典型化した場所が収容所」だったからだ。
 かつてマルクス主義革命に身を投じ挫折した体験を持つ(らしい)矢吹もまた、「死の哲学」の正当性に揺らぎを感じている。
 なんと言っても、パルバッハの哲学こそがドイツ国民の英雄志向を煽り、ヒトラーの登場を用意し、ナチスの蛮行を可能にしたからである。パルバッハ自身、ナチス党員であった。
 しかるに、戦後になってパルバッハは、「自分が支持していたのは初期の頃のナチスであって、長いナイフの夜(レーム事件)以降のヒトラー独裁となったナチスは認めていない。ホロコーストについて知ったのは戦後になってからだ」とうそぶき、自らの哲学の過ちを認めようとしなかった。
 その嘘が、コフカ収容所元所長ロンカルの所持していたある証拠によって暴かれ、パルバッハの欺瞞が徹底的にさらけ出される。
 つまるところ、「死の哲学」の断罪が思想小説としての本書の主題である。
 むしろ、笠井の書きたかったのはこちらであろう。
 笠井自身が、若い時に左翼運動に傾倒し、挫折し転向した経歴を持つからだ。(その苦い体験を“自己批判”的に描いたのが処女作『バイバイ、エンジェル』である)

 「死の哲学」の断罪という本書の主題に触れてソルティが自然と想起したのは、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』であった。(本書と同じ年に刊行されている!)
 フクヤマによると、人間を行動に駆り立てる気概(自尊心)は歴史を動かす大きな要因の一つであるが、民主主義と自由主義経済の登場によって「歴史の終わり」が宣言されたとき、気概はその発散場所を失った。
 あとに残るは、闘うべき大義を見つけられずに気概を失い、欲望を満たすことを日々の目的とする「最後の人間」である。 
 
 「最後の人間」の人生とはまさに西欧の政治家が有権者に好んで与える公約そのもの、つまり肉体的安全と物質的豊かさである。これがほんとうに過去数千年にわたる人類の物語の「一部始終」なのだろうか? もはや人間をやめ、ホモサピエンス属の動物となりはてた自分たちの状況に、幸福かつ満足を感じていることをわれわれは恐れるべきではないのか?(三笠書房刊『歴史の終わり』より抜粋) 

 パルバッハが唱えた「死の哲学」とは、まさに気概の賞揚、大義への自己犠牲、尊厳ある生と死のすすめである。その対極に来るのは、「数と公共性が最終的に勝利した愚者の楽園」の中で「最後の人間」として生きることである。 
 「歴史が終わった」平和な世の中で「終わりなき日常」に耐えられない者たちは、気概を発散できる場所を求めて革命運動やテロリズムや戦争を待望する。矢吹駆の宿敵であるニコライ・イリイチのような扇動者に洗脳されて、“誤った”大義に絡めとられていく。『バイバイ、エンジェル』のアントワーヌ青年のように。
 矢吹は語る。

どうしても世界に意味を感じられない、平和な時代に窒息しそうだ、本当の人生を見つけることができない。そうした解消されないニヒリズムは、抗いえない猛烈な力で、青年を必然的にテロリズムの方向に押しやる。

凡庸なものを嫌悪する青年が、魂の真実や生の輝きを渇望して、死の観念の蟻地獄に落ちてしまう。

 本書の真犯人もまた、「死の哲学」に殉じるかたちでその生を全うした。
 彼にはそう生きるよりほかに選択がなかった。
 一方、「死の哲学」をパルバッハともに断罪した矢吹駆は、はたしてこの先どう生きていくのだろうか?
 彼とっては凡庸で無意味でしかない「愚者の楽園」と、どうつきあっていくのだろうか?
 ナディアとの恋愛の可能性はあるのだろうか?
 この探究にこそ、本シリーズの意義が、すなわち笠井潔のライフワークがあるのだろう。

 今回のリトリートに、本書と道元の解説本を持っていったところに、不思議な符牒いや因縁を感じた。

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秩父武甲山


おすすめ度 :★★★★

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● 本:『スマナサーラ長老が道元禅師を読む』(アルボムッレ・スマナサーラ著)

2024年佼成出版社

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 曹洞宗祖師の道元禅師が著した『正法眼蔵』の冒頭に置かれている「現成公案」を、テーラワーダ仏教の僧侶であるスマナサーラ長老が解説している。
 と言っても、75の文章からなる「現成公案」の全文ではない。
 「仏道をならふといふは、自己をならふなり」、「たき木、灰となる」、「風性常住、無処不周なり」、「同事といふは、不違なり」など、いくつかの有名なパラグラフ(節)が選ばれているほか、同じ『正法眼蔵』の中の「山水経」と「菩提薩埵四摂法」、および道元禅師の語録である『永平広録』からも一部採られている。
 現成公案(げんじょうこうあん)とは、「禅宗で自然のままに完成されている公案。常に一切の上に仏法が現れていること。」(小学館『大辞泉』)の意。
 スマナサーラ長老は次のように定義している。

「現成公案」とは、「わたしたちの目の前に現れているものは、そのまま真理を表している」ということを言っているのです。

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 数ある大乗仏教の経典や思想書の中でも最も難解とされ、その解釈において仏教研究者や禅僧の間でも議論百出たる『正法眼蔵』を、かつて小乗仏教と揶揄されたテーラワーダ仏教の僧侶が読み解いている。そのことがまず驚きである。
 同じ仏教とはいえ他宗派の僧侶が、曹洞宗の“聖典”である『正法眼蔵』を解説するなど、日本仏教界あるいは日本仏教学会の常識ではなかなかできることではあるまい。
 本家本元にとってみれば、「縄張りを荒らされた」みたいな感を抱くのではないかと、悪名高き日本の縦割り社会の一員であるソルティは思ってしまうのである。
 が、スマナサーラ長老には『般若心経は間違い?』(2007年宝島社刊行)という極めて過激で挑発的な本を出した前歴があり、日本的な忖度とはいっさい無縁なのである。
 それはおそらく、スリランカ出身であるということに加え、「テーラワーダ仏教こそが約2500年前から受け継がれてきたブッダの真の教えである」という確信と自負によるのだろう。
 その盤石な視点から日本の大乗仏教各派の教えを調べ、本来の仏教との同異を指摘することができるわけで、挑戦を受けた大乗仏教各派にとってみれば戦々恐々、容易には論駁しがたいものと想像される。

 とは言え、本書でスマナサーラ長老は『正法眼蔵』もとい道元禅師を批判したり、間違いを指摘したりしているわけではない。
 そこは『般若心経』に対する場合とは異なっている。
 次のように言っている。

 道元禅師は真理を知りたいだけの人でした。だから、日本の歴史で唯一のお坊さんといえると思います。道を求め続けたほんとうに真面目なお坊さんであったと思います。

 テーラワーダ仏教の僧侶として道元禅師を見ると、仏道をしっかり歩んでいるえらい先輩のお坊さんとして見えるんですね。

 禅師には新しい宗派仏教をつくろうという意図はまったくなく、ただひたすらブッダの正法を伝えていきたい、といった思いだけがあったことでしょう。

 高評価である。
 そもそも日本に初来日された折、スマナサーラ長老は駒澤大学で道元禅師を研究したと、どこかで読んだことがある。
 たくさんの“日本仏教”の祖師の中から、空海でも最澄でも栄西でも親鸞でも一遍でも日蓮でもなく、道元を選んだのにはそれなりの理由があったからに違いない。

 一方、道元禅師の限界にも言及している。
 たとえば、「自己をならふといふは、自己を忘るるなり」という『現成公案』の一節に関して、「自己を忘るるとは解脱の境地を語ったもの」と説明したあとで、

 自己がなくなる。物や人が突然姿を消す、消える、存在しなくなるんです。
 同時に、森羅万象も消えてしまいますよ。
 見事な順番で道元禅師は語ったんですよ。
 しかし残念なことに、それをどう実践するかというところまで道元禅師は教えていないんです。
 
 つまり、悟りとはどういうものかを道元禅師は知っていたけれど、そのための方法論を持っていなかったということである。
 これは、スマナサーラ長老と曹洞宗の僧侶である南直哉氏が対談した『出家の覚悟』(サンガ、現在絶版)という本の中でも指摘されていた。
 道諦(悟りへの道)の教えが伝わらなかったこと。それが大乗仏教の祖師たちを苦しめた最大の障壁であった。

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 本書を曹洞宗の僧侶や研究者、なにより草葉の陰(あるいは天界)の道元禅師が読んだらどう思うのか気になるところである。
 すべてをパーリ経典(阿含経典)に説かれたブッダの言葉によって読み解いていくスマナサーラ長老。本日も通常運転である。

 以下、引用。

本来のブッダの教えは、「信仰」ではありません。信心あるいは信仰を求めるものではありません。要するに、「自分とは何なのか、生きるとは何なのか」、それを自分自身で発見することです。

自分の心を観察するためには思考はいらないんです。心を観察するためには、できるだけ思考を停止したほうがいいんですね。
たいせつなのは自分の心の動きを観察することです。それが「自己をならう」ということになります。

一人ひとりの人生が禅なんです。
そこに自分はいない。他人もいない。
ただ単に現象が、そのままあらわれているだけ。
だから人生が全部、禅そのもの。


  サードゥ、サードゥ、サードゥ。





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● 本:『世界はありのままに見ることができない』(ドナルド・ホフマン著)

2019年原著刊行
2020年青土社(訳・高橋洋)

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 非常にスリリング、かつ啓発的、かつ面白い、かつ難しい本であった。
 難しさの理由は二つ。

 一つは、本書が最先端の科学イシューを扱っているからで、進化生物学を基盤としつつ、神経科学、脳生理学、遺伝学、宇宙物理学、相対性理論、量子力学、色彩工学、情報理論など様々な科学分野を自在に横断し、いきおい科学用語や科学理論が科学者の名前とともに頻繁に出てくるからである。
 しかも、著者が自らの理論を説明するのにもっぱら利用するのが、インターフェースとかアイコンとかデスクトップとかファイルといったコンピュータ用語。
 科学オンチ、ITオンチの文系人間であるソルティには敷居が高い。
 
 今一つの理由――多くの読者にとってはこっちのほうが乗り越えがたい敷居かもしれない――は、本書で著者が主張しているテーマが、我々が普通に抱いている直観(世界把握)に反するからである。
 それはちょうど、天動説をあたりまえと思っている16~17世紀の人々が、「いや、動いているのは地球だ。地球は自転しながら公転している」という地動説を聞かされた時に感じたのと同様レベルの「バカらしさ、わけのわからなさ、受け入れ難さ」を読者にもたらす。
 つまり、本書は読者の認識に「コペルニクス的転換」を迫るのだ。

 本書を手に取って、「おや?」とすぐに気づくが、プロフィールが掲載されていない。
 著者ドナルド・ホフマンのプロフィールだけでなく、訳者の高橋洋のそれも載っていない。
 たいていの本のカバーや奥付には著者プロフがあり、とりわけ名の知れた学者先生の書いた本なら、錚々たる輝かしき履歴が、高い学識&教養をうかがわせる顔写真とともに掲載されるのが常である。
 日頃それに慣れている本好きにしてみれば、「どこかにあるはず」と本をひっくり返しプロフを探してしまうのも無理なかろう。(探してみた)

 訳者のプロフがないのは原著者のそれがないからに違いない。原著者がプロフを載せていないのに、訳者だけが載せるわけにはいくまい。
 おそらく、ドナルド・ホフマンは確信犯的にプロフを載せることを拒絶したのだろう。
 そこにまさに、「プロフィールを先に読むことによる先入観や固定観念を持って本書に臨んでほしくない」、「あらゆるバイアスから自由になって、書いてあることを虚心坦懐に精査してほしい」という著者(と出版社?)の思いを汲み取ったのだが、うがち過ぎ?

 本書でドナルドが読者に迫る「コペルニクス的転換」とは何か。
 それを上手く言い表しているのが、邦題『世界はありのままに見ることができない』である。
 原題のTHE CASE AGAINST REALITY は「対リアリティ裁判」といった意で、アメリカの科学者が一般大衆向けの本を書くときにやりたがる、ちょっと気の利いたジョークを狙ったネーミング――代表的な例がSelfish Gene「わがままジーン=利己的遺伝子」――だと思うが、これを上記のように邦訳したのはグッジョブ!

 あなたがスプーンを見ているあいだ、それは存在している。だが目を離すやいなや、スプーンは存在しなくなる。何かが存在し続けるのは確かだが、それはスプーンではないし、時間と空間の内部に存在するのでもない。スプーンとは、あなたがその何かとやり取りする際に構築するデータ構造、すなわち適応度利得と、その獲得方法をめぐってあなた自身が作り出した記述なのだ。
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qwer6695571によるPixabayからの画像

 いったい何を言っているのやら、首をひねる人も多いと思う。 
 これはソルティ流に解釈すると、認識と存在の関係を語っている。
 我々人類を含む地球上に存在する生命(種)は、各々に備わっている知覚(=認識システム)を通して外界を見ている。つまり、それぞれの生命が見ている(受け取っている)世界の姿は異なっている。
 いかなる生命(種)も、「ありのままの世界(存在)」を認識してはいない。

 なぜ、そういうことが起こるかと言えば、生命の至上目的は「生き残って子供をつくること」にあるからで、それぞれの生命は与えられた環境の中でその目的を果たすために“最適化”されている。生き残って子供をつくるために役立つ遺伝情報が、ほかのすべてに優先されて、子孫に受け継がれていく。
 当然、知覚(=認識システム)も然り。
 「ありのままの世界」(本書では「実在」と訳されている)を認識することは二の次、三の次であって、優先されるべきは、環境にうまく適応し自然淘汰(種としての絶滅)を免れるために役立つ知覚(=認識システム)を備えることである。
 同じ趣旨のことが、『なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』(ロバート・ライト著)に書かれている。

 ダーウィン由来の進化生物学から導き出されたこの理論を、著者はFBT(Fitness Beats Truth)定理と呼んでいる。

FBT定理:少なくとも(N-3)/(N-1)の確率で、適応度戦略は真実戦略を絶滅に追いやる。

 FBT定理は「空間、時間、形、色調、彩度、明るさ、肌理、味、音、におい、運動などの知覚の語彙は、実在をありのままに記述することができない」という結論を導く。

 それぞれの生命(種)がやっているのは、与えられた知覚(=認識システム)によって、ありのままの世界(実在)という素材から、種ごとの固有の“世界”を作り出すことである。
 ソルティ流にいえば、我々は存在しているものを認識しているのではなく、認識したものを存在させている。

 ここでの知覚の働きを、ドナルドはパソコンのデスクトップ画面のようなインターフェースにたとえ、知覚のインターフェース理論(ITP)と呼んでいる。

 インターフェースは自然選択によって形作られ、生物種ごとに、さらには同じ生物種でも個体ごとに異なりうる。

 ITPの主張によれば、進化は私たちの感覚を、人間の必要性に調整されたユーザーインターフェースになるよう形作ってきた。インターフェースは実在を隠し、私たちが生きる生態的地位のもとで適応的行動を導く。時空は私たちのデスクトップ画面であり、スプーンや星のような物体はホモ・サピエンスが持つインターフェースのアイコンなのである。空間、時間、物体に対する私たちの知覚は、真正たるべく、すなわち実在を開示したり再構築したりするために自然選択によって形作られたのではない。子供を生み育てるのに十分な期間生き残れるよう形作られてきたのだ。

 FBT理論によれば、人間の感覚が自然選択によって形作られたのなら、私たちは実在をありのままに見ていない。ITPによれば、私たちの知覚は人類固有のインターフェースをなす。また知覚は実在を隠し、子どもを生み育てることを支援する。時空はこのインターフェースのデスクトップ画面であり、物体はそのなかのアイコンである。
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DeactivatedによるPixabayからの画像

 驚くべきことに、我々が外界に見ている物体のみならず、時間や空間さえも!「実在=ありのままの世界」ではないと述べている。
 ここまで来ると最早、映画『マトリックス』に出てくる、ポッドの中で脳に電極をつながれ、コンピュータによって作られた仮想現実を“本物と信じて”生きている人々とさして変わりない。
 我々が体験している“世界”はバーチャルリアリティであり、夢とよく似た脳内現象だと言っているに等しい。

 「それはちょっと言い過ぎだろう」とさすがに思ったが、ドナルドは本気である。
 どころか、量子論やホログラフィック原理、あるいはホーキング博士のトップダウン宇宙論など最先端の理論物理学の成果によれば、「時空は存在しない」という命題は絵空事ではなくなりつつあるのだと言う。
 現代科学はそこまで来ていたのか!

 著者がFBT定理(適応>真実)の証拠の一つとして採用しているのが、錯覚である。
 何もないところに線を見たり図形を見たり色を見たり、一つの図形が見方によって向きを変えたり、同じ一つの色が周囲に置かれた色との関係によって異なった二つの色に見えたり、あるいは、同じ人物が履いている同じ型のジーンズが、尻ポケットのデザインや縫い目の曲線一つで一段とセクシーに見えたり・・・さまざまな錯覚の例が紹介されている。
 錯覚は、我々の知覚が“事実”をいかに歪めてしまうかを示す恰好の例なのである。
 カラーページもあって、この章はとても面白い。

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(本書中のカラーページより)

 人類を含む生命の形質や機能のすべてを、種の存続のための自然淘汰の結果とする、すなわち進化生物学に還元させるドナルドの言説には、ソルティはやや強引なものを感じる。
 子供をつくることだけが、人類の唯一の存在理由であり目的なのか!――という問いが反射的に浮かんでくるのは、ソルティがゲイで子供を持たないからだけではあるまい。
 「それを言っちゃあ、おしまいよ」という寅さんのセリフがどこからか聞こえてくる。
 つまり、それだけが目的なら、人類は動物となんら変わりなく、つまらない存在である。
 人類が作り上げてきた文化や文明に対する侮辱のようにすら感じられる。
 そもそも、「子供をつくるため」だけなら、人類にこれほどの知能は必要なかったろう。

 人類が、「生きるとはなんぞや?」といった哲学や本書のように“不都合な真実”を暴いてしまう科学を持つこと自体が、ドナルドの示す「生の目的」の反証のように思われる。
 というのも、難しいことを考えたり、生きる意味をあれこれ悩んだりしない人間のほうが、ばんばん子供を作るだろうから。(十代のヤンキーのように←偏見?)
 「なぜ?」という問いをもつ生命が作り出されたことは、人類の使命というか大自然の目的に単なる種の存続以上のものがあることを含意しているのではなかろうか。

 それとも、「なぜ?」という問いを持ったがゆえに、人類は地上の生物間の生存競争に敗れ絶滅する運命にあるのだろうか?(少なくとも、西洋近代哲学&科学にかぶれることなく、アッラーの命じるがままに子供をつくるムスリムのほうが、生き残る可能性が高いのは確かである)

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Muzammil Ibn MusthafaによるPixabayからの画像

 さて、最後に残された問題は、ずばり、「実在とはなにか?」である。
 知覚(=認識システム)を超えたところにある“何か”
 見ることも、聞くことも、嗅ぐことも、味わうことも、触れることも、心に描くことも、それについて考えることも、言葉にすることも、まったくできない“何か”
 “何か”とはなにか?
 ここに至って、話はスピリチュアリズムに、とりわけ仏教に近接する。 
 すなわち、
  •  諸行無常=世界は変化し続ける
  •  諸法無我=世界は実体を持たない
  •  因果法則=世界は因縁でできている(カルロ・ロヴェッリ著『世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論』を参照のこと)
  •  不立文字=悟りは文字や言葉で表せない
  •  解脱=輪廻転生(認識する生命体として生まれ変わること)から自由になる
  •  涅槃寂静=解脱したあとの境地
 思うに、仏教の悟りとは、正しい修行の果てに認識システムが一瞬壊れ、ひょいと「実在」を垣間見てしまうことなんじゃないかなあ。

 著者は、実在を説明するのに、コンシャスリアリズム(意識的実在主義)という用語を用いている。

 コンシャスリアリズムは、「時空や物体ではなく意識こそが根本的な実在であり、それは意識的主体のネットワークとして定義される」

 コンシャスリアリズムは、いかなる物体も意識を持たないと主張する。私が岩を見ると、岩は私の意識的経験の一部となる。しかし岩それ自体に意識はない。私が友人のクリスを見ると、私は自分が作り出したアイコンを見るが、アイコンそれ自体は意識を持たない。私が持つクリスのアイコンは、意識的主体の豊かな世界に臨む小さなポータルを開く。

 すべては意識であるというは、なんだか唯識論にとっても近い。
 というか唯識論そのもの?
 意識的主体=阿頼耶識? 
 仮に、この意識的主体を「神」と言ってしまえば、「神は万物の創造主」、「すべては神の御手のうちにあり」、「神は我々一人一人の中にあらします」、「神は一にして一切である」と表現することもできそうだ。
 最先端の科学ロケットの向かう先に、結局、人類は「神」を発見するのだろうか?
 それが「生の目的」ってことがありうるだろうか?




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● 本:『ブッダの瞑想修行』(石川勇一著)

2023年サンガ新社

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 「ミャンマーとタイでブッダ直系の出家修行をした心理学者の心の軌跡」という副題そのままの本である。
 あえて補足するなら、ミャンマーとタイは、中国を通じて日本に伝わった北伝仏教(いわゆる大乗仏教)ではなく、スリランカを通じて東南アジアに伝わった南伝仏教(かつて小乗仏教と卑称された)の国であり、そこでは約2500年前に説かれたブッダの教えが、サンガ――律(規則)を持った出家者の集団――というシステムによって現代まで脈々と伝えられてきた。
 「ブッダ直系の出家修行」とはそのサンガの一員になるということである。

 著者の石川勇一は1971年生まれ。
 修験道やアマゾンでのシャーマニズムの行者体験を持ち、臨床心理を実践するカウンセラーであり、心理学を教える大学教授であり、山中湖の近くに法喜楽堂という修行道場を主宰するスピリチュアルティーチャー(導師)である。
 肩書は賑やかなれど、石川にとって最も重要なアイデンティティを一言でくくれば、原始仏教徒ということになるだろう。
 本書は、原始仏教徒である在家の男が、テーラワーダ仏教の本場の国に渡航しておこなった短期間の出家体験を記したものである。
 2014年1~3月ミャンマーの「パオ森林僧院モービ支部シュエティッサ僧院」、および2020年1~3月タイの「プラプットバートタモ寺院」がその舞台である。

 昨今、日本でもテーラワーダ仏教を学ぶ人が増えているので、タイやミャンマーやスリランカといったテーラワーダ仏教国における日本人の出家体験記も珍しくなくなった。
 たとえば、ミャンマーで出家し17年間の比丘生活を送った西澤卓美(出家名ウ・コーサッラ)による『仏教先進国 ミャンマーのマインドフルネス』(2014年、サンガ)など、読みやすく面白かった。
 が、前世紀までこの手の本は稀少だった。
 もはや古典的地位を占めているものとして、人類学を学ぶ大学院生だった青木保が約6ヶ月の出家体験を綴った『タイの僧院にて』(1979年)がある。
 ソルティは、テーラワーダ仏教に出会う前の2000年頃にこれを読んだ。
 そこには、日本の仏教とも、お寺とも、坊さんとも全然違う、タイの仏教があり、寺院があり、出家者の姿があった。
 加えて、初詣かお葬式か法事の時しかお寺に行かず、普段はお坊さんと密なかかわりを持たなくなった多くの日本人とはまったく違う、タイの在家信者の姿があった。 
 同じ仏教国でも日本とタイではずいぶん違うんだなあと興味深く読んだ。

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読み直したい一冊

 一方、当時はオウム真理教地下鉄サリン事件(1995年)の影響甚大で、社会全般に宗教に対する忌避感がとても強かった。
 ソルティも、宗教とは「迷信深く、何かに依存しないと自らを保てない人の阿片」という、いささか“偏った”イメージを抱いていて、無神論者・無宗教者を軽い優越感をもって自認していた。
 なので、『タイの僧院にて』を読んでも、文化人類学的あるいは比較文化論的あるいは旅行ガイドブック的な興味以上のものは持てなかった。
 そもそも著者の青木もまた、「テーラワーダ仏教に感銘を受けそれを深く学ぶため」に、あるいは「瞑想修行して煩悩を減らすため」にタイ行きを決心したわけではなく、文化人類学者(の卵)としての異文化への興味、及び、モラトリアムにぐずっていた自身を「冒険によって再生」させることを期しての出家修行だったので、そこに仏教の真髄に触れるような記述は少なかったように記憶する。
 結果的には、タイでの出家修行は青木青年に通過儀礼とおぼしき深甚な変容をもたらすことになり、そこに読者は爽やかな感動を覚える。
 つまり、『タイの僧院にて』の面白さは、文化人類学レポート+ビルディングスロマン(教養青春小説)ってところにあった。(青木保氏がその後仏教徒になったかどうかは不明)

 それに対して、石川勇一の出家の目的はまさに、「仏教を深く学び瞑想修行によって煩悩を減らす」ことにあり、本書の記述内容はその一点に向かって絞られ、構成されている。
 石川自身のスピリチュアル修行遍歴、テーラワーダ仏教との出会い、ミャンマーやタイで出家修行しようと思った動機といったセルフヒストリーはもちろんのこと、渡航までの具体的な手続きや準備、各僧院での出家儀式やサンガの日常風景、修行仲間の僧たちの横顔、そして何より、各種の瞑想方法に関する知見や洞察、自身の修行の進展や成果が、非常に細やかにわかりやすく、「ブッダに握拳なし」の言葉通りに率直に書かれている。
 さらに、臨床心理学やトランスパーソナル心理学の専門家ならではの夢分析や自己分析も本書の魅力の一つとなっている。
 巻末に付けられている「ブッダの教えを理解するための基本用語解説」も、きわめて適確な内容で、読者が仏教をより深く理解するのに役立つとともに、瞑想修行で石川が確かめた智慧や至った境地がいかなるものであったかを反映するものとなっている。
 テーラワーダ国での出家を考えている読者にとっても、普段“ブッダの瞑想”を実践する者にとっても、恰好のガイダンスとなるのは間違いない。

 それにしても、『タイの僧院にて』は79年に出版された本だが、どうやら半世紀近く経っても、タイのお寺の様子、サンガの日常、出家者に対する在家者の敬愛の念はほとんど変わっていないようだ。
 この伝統の堅持ゆえに、約2500年前のダンマ(ブッダの教え)が継承されてきたのである。
 すべてが無常の世にあって、珍しく、かつ、貴いことである。

 以下、引用。

 修行者は、欲望を満たすことによる喜びとは異なる、欲望から自由になったことによる清らかな喜びを知るがゆえに、修行を続けることができるのです。ただ苦しいだけならば、ほとんどだれも修行を続けることはできないでしょう。修行には確かに忍耐は必要ですが、優れた清らかな喜びがあることを知れば、さらにやる気が出てくるものです。

 人間として体験できることの中で、出家修行は最上だろうと思います。それは解脱につながる出世間の正しい修行だからです。世間のいかなる体験も、出世間の体験には及びません。

 人生は無意味なことでとても忙しいので、修行をしない理由を見つけることは簡単です。しかし、言い訳ばかりをして生きるほど虚しいことはありません。本当に意味あることを見つけたら、あとはやろうと心に決断すれば、きっと機会は得られるでしょう。

 サードゥ、サードゥ、サードゥ。




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★★    いい退屈しのぎになった
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● 本:『聖なる女 斎宮・女神・中将姫』(田中貴子著)

1996年人文書院

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 著者の田中は1960年京都生まれの国文学者。
 中世の説話と女性の問題などを研究している。

 本書は一種の「聖女論」である。
 日本史や古典物語に登場する日本の聖女たち――中将姫、伊勢神宮の斎宮、京都賀茂神社の斎院、天皇の娘である内親王――の半生やその語られ方の変容を通して、日本における「聖女」の意味を問うたものである。
 田中はまた『〈悪女〉論』も書いているようだ。

 中将姫についてはよく知らん。
 ――と思っていたら、実は子供のころからよく見かけていた。
 バスクリンで有名な津村順天堂のロゴマークが中将姫だったのだ。

津村のロゴマーク

 明治26年(1893)、弱冠23歳の津村重舎は婦人薬「中将湯」の製造販売で、津村順天堂を創業しました。中将湯は、藤原豊成(藤原鎌足の孫)の子「中将姫」が、仏の道に仕えた奈良の当麻寺で学んだ薬草の知識を基に、庶民に施したことが由来とされ、創業当時から巻物を持つ「中将姫」が商標登録されています。大正時代後半からは、挿絵界を席巻した人気画家高畠華宵を中将湯の広告に起用しました。華宵の描いた「中将姫」は時代の移り変わりとともに姿を変えましたが、それぞれの時代の理想の美人像として長年にわたり親しまれてきました。昭和63年(1988)社名を株式会社ツムラに変更し、ロゴマークも変更しましたが、「中将姫」は今も中将湯のパッケージから人々の健康を見守っています。
(『日本家庭薬協会のホームページより』)

 歴史物語上の中将姫は、しかし、薬草学とは別の意味で有名だった。
 「継子いじめ」である。

 幼少より信心深かった中将姫は、父である藤原豊成が新たに迎えた北の方(継母)にいじめられ、山中に捨てられる。が、臣下に助けられて生き延びる。長じてその美しさが知れ渡り、后として入内するよう求められるも、信仰の心やみがたく、16歳にして奈良の當麻寺(たいまでら)にて出家する。

 昔から「継子いじめ」と言えば中将姫で、説話や歌舞伎にもなっているらしいが、ソルティはとんと知らなかった。
 ソルティにとって「継子いじめ」と言えば、シンデレラや白雪姫や『ヘンゼルとグレーテル』などの西洋童話である。
 日本なら、高校の古文で習った『落窪物語』と三浦綾子の『氷点』くらいであろうか。
 當麻寺には、中将姫が一夜で織ったという4メートル四方の曼荼羅がある。
 極楽浄土の教えが壮麗に描かれているという。(基本非公開)
 中将姫は、后の位を断り仏門に入ることで、“聖なる女”をまっとうしたのである。

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 伊勢の斎宮や賀茂の斎院は、代々、未婚の天皇の娘すなわち処女の内親王が選ばれることになっていた。
 斎宮の逸話で有名なのは、『源氏物語』の六条御息所の娘(のちの秋好中宮)、そして鎌倉時代初期に描かれた王朝ポルノ絵巻『小柴垣草紙』であろう。
 もっとも、前者は物語中の架空の斎宮であるし、後者は斎宮になる前に行う野々宮(京都嵯峨野)での潔斎中に、武士の平致光と密通してしまい任を解かれるので、伊勢には下らなかった。
 『小柴垣草紙』のヒロインは醍醐天皇の孫にあたる済子(なりこ)内親王であったと言われるが、ほかにも、伊勢の斎宮になったあとでも男との密通がばれて解任されるケースはあったらしい。
 聖なる女として人々から崇められた女性が、一転、男に穢され、性愛の淵を惑い、俗に転落したときの世間の好奇と非難の目はどれだけ厳しかったことか。(しかし、男とまぐわうこと=「穢れ」なら、男自体が「穢れのもと」ってことにならないか?)

伊勢神宮内宮
伊勢神宮内宮

 秋篠宮家の真子様の例を持ち出すまでもないが、昔から皇族の娘の身の振り方には難しいものがあった。
 身分の釣り合う男は同じ皇族しかいないのだから、適当な相手がいなければ、臣下に嫁ぐか、生涯未婚のままでいるほかなかった。
 斎宮や斎院として選ばれたところで、御代が変われば任は解かれる。
 “聖なる女”としての箔がついただけに、その後の身の振り方は難しいものとなる。
 本書には、平安末期から鎌倉時代に書かれた『鎌倉物語』に登場する内親王たちが、男女関係の中で翻弄される姿が紹介されている。
 「聖」をずっと保ち続けるには、中将姫のように出家するほかなかったのである。

 それにしても、洋の東西問わず、聖人にしても聖女にしても、異性との交わりのないことが求められる。
 「聖」の意味を探ることは、「性」の意味を探ることと等しいのだと思う。





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● クイーン的問題? 本:『ダブル・ダブル』(エラリー・クイーン著)

1950年原著刊行
2022年ハヤカワ・ミステリー文庫(訳・越前敏弥)

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 クイーン後期のライツヴィル物。
 童謡『マザーグース』の次の歌詞になぞらえて人が死んでいく、いわゆる見立て殺人物である。

Richman, poor man,
金持ち、貧乏、
Beggarman, thief,
乞食、泥棒、
Doctor, lawyer,
医者、弁護士、
Merchant, chief.
商人、首長。

 趣向は面白い。
 が、犯人がそもそも見立て殺人を行った動機があまりにナンセンス。
 歌詞の途中に出てくるある職業の男を怖がらせて遺言書を書かせるためというのだから。
 しかも、蓋を開けてみれば、殺された男が残した遺言書には犯人の名が挙げられていなかったのだから、とんだ無駄骨。
 というか、こんな不確実な動機で世話になった恩人を殺す犯人像のリアリティの欠如が受け入れ難い。
 結末の意外性もなく、奇抜なトリックや殺人方法があるわけでもなく、探偵(エラリー)の推理が目覚ましいこともない。
 エラリー・クイーン作でなければ生き残ることのない駄作である。

 せめてもの美点は、ヒロインであるリーマおよびレコード新聞社の女社長マルヴィナ・プレンティスの人物造型。
 狼少女のごと現代社会から隔絶した環境で育てられたリーマの無垢と野生的魅力が、奇抜なファッションに身を包み蓮舫か田中真紀子のごとく傲岸に振る舞うマルヴィナの強烈な個性と競い合って、作品の魅力をなしている。

 それにしても、なぜ独身のエラリーはリーマに魅かれているのに口説かないのだろう?
 親子ほどの年齢の差があるとはいえ、リーマは成人しているのだから問題あるまいに。
 やっぱり、エラリーはクイーン(米俗語で「同性愛者」)だったのかな?




 
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