ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●読んだ本・マンガ

● 本:『仏教は科学なのか 私が仏教徒ではない理由』(エヴァン・トンプソン著)

2020年原著刊行
2024年Evolving(藤田一照+下西風澄・監訳、護山真也・訳)

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 本書は、欧米の仏教シーンで主流となっている仏教モダニズムに対する批判書である。
 仏教モダニズムとはなにか?

仏教モダニズムは特に西洋において支配的な仏教の流れで、伝統的なアジア仏教の形而上学的・儀式的要素を軽視する代わりに、個人的な瞑想体験を強調し、仏教がキリスト教、イスラーム、ヒンドゥー教など他の有神論的な宗教とは違って合理的で経験的なものだという考え方を喧伝しています。
 
 そのよくある指標として、たとえば、次のような特徴が上げられる。
  • 「仏教は科学と親和性が高い」、「仏教は心の科学」、「仏教は宗教というより哲学」といった仏教の“宗教性”を否定する言説。
  • 座禅やマインドフルネス瞑想の重視――これらが脳の働きを変えることは科学的に裏付けられており、その実践により、ストレスの軽減や集中力の向上をはじめとする様々な有益な効果が期待できる。
  • 仏教例外主義――仏教はほかの諸宗教より優れている。
 要は、前近代までの伝統的仏教から神秘的要素をできるだけ抜き去り、近現代の価値観に合致する形に変えて、多くの人に受け入れやすいものにした仏教ということである。
 なので、ここで批判されているのは伝統的仏教ではない。

 著者のエヴァン・トンプソンは1962年アメリカ生まれの哲学者で、認知科学、心の哲学、現象学、異文化哲学などを専門としている。
 本書には、著者が自らの生い立ちを語っている部分がある。
 エヴァンの父親ウィリアム・トンプソンは、一種の宗教的コミューンであるリンディスファーン協会の創設者であった。

リンディスファーン協会(1972–2012)は、文化史家ウィリアム・アーウィン・トンプソンによって組織された非営利財団であり、多様な知識人のグループで、「新しい惑星文化の研究と実現」を目的としていました。

リンディスファーン教義は創始者ウィリアム・トンプソンの教義と密接に関連しています。リンディスファーン思想の一部として言及されているのは、ヨガ、チベット仏教、中国伝統医学、ヘルメティシズム、ケルトアニミズム、グノーシス主義、カバラ、地相術、レイライン、ピタゴラス派、古代神秘宗教など、多くの精神的・秘教的伝統です。
(ウィキペディア「リンディスファーン協会」より抜粋)

 エヴァンがどのような環境の下で生育したか、想像する手がかりになろう。
 教育は自宅で受けていたため、同年齢の子供と付き合う機会は限られていたようだ。
 当時、協会では禅仏教や瞑想が流行っていた。
 エヴァンも自然と仏教に親しみを覚えるようになり、ナーガルジュナ(龍樹)ヴァスバンド(世親)、ダルマキールティ(法称)、ツォンガパなどの仏教哲学を学ぶようになり、大学の卒業論文には日本の哲学者・西谷啓治をテーマに選ぶ。 
 その後、認知科学者との出会いから、1991年に『身体化された心――仏教思想からのエナクティヴ・アプローチ』(工作舎)という本を共著で出版した。これは、仏教哲学や瞑想が、認知科学と関連することを明らかにした最初の学術書だそうである。
 2001年には「心と生命研究所」の仕事に携わり、ダライ・ラマと科学者・哲学者らとの対話の場を設けるなどしている。
 また、机上の学問だけでは飽き足らず、何年間も瞑想実践を積んだことが記されている。

 経歴から分かるのは、エヴァンが非常に仏教に詳しい人間であり、瞑想の実践者でもあること。そして、彼こそが欧米における仏教モダニズムの旗手の一人であったという事実である。
 つまり、本書はエヴァンによる自己批判の書であるとも解される。
 原題の Why I Am Not Buddhist 「なぜ私は仏教徒でないのか」には、そのようなニュアンスが含まれているのである。
「仏教徒あるいは仏教僧になっても全然おかしくないような道を自分はずっと歩んできた。でも、自分は最終的に仏教徒にはならなかった。その理由をここで告白するよ。」

琴弾八幡宮の黒猫

 本書で展開される仏教モダニズム批判の中味を完全に理解するのは、難しい。
 ソルティは2回読んだが、理解できたのは8割くらいで、残り2割はチンプンカンプンだった。
 というのも、ここでエヴァンが批判のツールとして用いている認知科学、現象学、伝統的な仏教哲学について、ソルティはあまりに疎いからである。
 エヴァンは、仏教モダニズムを象徴する典型的な本として、進化心理学の見地から仏教の正しさを説いたロバート・ライトの『なぜ今、仏教なのか』(原題:WHY BUDDISM IS TRUE)を取り上げて、容赦なく叩いている。
 その手さばきは快刀乱麻の如しなのだが、科学ジャーナリストのライトが書いた進化心理学の説明は理解するのにさほど苦労は要しないのに、哲学者であるエヴァンの書いた批判は難解で理解するのが難しい。

 それは単純に、ソルティの哲学・科学・仏教哲学に関する素養が欠けているためである。
 俗に「読書百遍、意おのずから通ず」と言うけれど、文中で用いられている言葉や概念に関する基本的知識がなければ、何度読み返そうが、あるレベル以上の理解は無理である。
 と言って、本書の内容を完全に理解するために、たとえば今から現象学について勉強するのも億劫なので、8割の理解で良しとするほかない。
 その8割の理解でエヴァンの言わんとしていることをソルティ流にまとめるならば、次のようになる。
  • 仏教モダニズムは科学とは言えない。それは、宗教と科学に関する誤解から成り立っている。
  • 人間の行動のすべてを脳の働きによって説明するのは間違いである。また、坐禅や瞑想が脳に作用し脳を変容させるという科学的根拠は疑わしい。
  • 仏教は涅槃や悟りに対する信仰であり、「超越的なものに対する感覚を育み、日常的経験を超えたものへの感性を醸成する」という点で宗教にほかならない。キリスト教やイスラム教など他の宗教にくらべて、例外的に優れているわけではない。
  • コスモポリタニズム(あらゆる人間が宗教や民族にかかわらず単一の共同体に属しているという思想)に貢献するために、仏教例外主義は排されなければならない。
 エヴァンはこう語る。

なぜ私は仏教徒になれなかったのか。これまで何年にもわたる自分自身の経験をより大きな歴史的な視点からふりかえってみて、ようやく私はその理由にたどりついた。私はもとから伝統的なテーラワーダ仏教や禅仏教、チベット仏教の僧院に入る気持ちを持ち合わせていなかったため、自分が仏教徒になれるとすれば、仏教モダニストになる道しかなかった。だが、ふたを開けてみれば、仏教モダニズムには哲学的な問題が山積していたのである。

琴弾八幡宮の白猫

 本書は、Why I Am Not a Buddhist 「なぜ私は仏教徒にでないのか」という問いに対するエヴァンの個人的理由の提示であると書いた。
 それは自動的に、次のような問いをソルティに突きつけることになった。
 Why I Am a Buddhist 「なぜ私は仏教徒なのか」
 ソルティは、もう20年近くテーラワーダ仏教を学び、ヴィッパサナ瞑想を続けている。
 いったい、それはなぜなのか?

 実は、恥ずかしながら本書で初めて知ったのだが、仏教モダニズムの起源は、欧米ではなくアジアにあった。それも、ミャンマーやスリランカなどのテーラワーダ仏教国に端を発しているとされている。

仏教モダニズムは、19世紀、20世紀のアジアで、当時隆盛していた仏教の改革運動と、西洋伝来の宗教や科学、および政治的・軍事的な支配が遭遇するなかで誕生した。特にビルマ(ミャンマー)とセイロン(スリランカ)の仏教改革運動の担い手たちは、イギリスの植民地主義と宣教師たちが伝えるキリスト教に対抗すべく、国家宗教としての仏教を再度主張することを試みた。彼らの主要な戦略のひとつは、仏教を近代世界に適した唯一の科学的な宗教として提示することだった。仏教モダニズムは、自分たちの考えが仏教にもとからあった本質的なものだと示しているが、そのような形態の仏教を強力に形づくったのは、プロテスタントの価値観であり、ヨーロッパの啓蒙主義の価値観だったのである。

 ソルティは、主として日本テーラワーダ仏教協会のアルボムッレ・スマナサーラ長老から仏教を学び、ヴィッパサナ瞑想の指導を受けた。
 テーラワーダ仏教を奉じる他のお坊様の本(たとえばタイ出身のポー・オー・パユットの『仏法 テーラワーダ仏教の叡智』や、ミャンマー出身のウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』など)を読んだこともあれば、講話や瞑想指導に参加したこともある。
 が、根幹をなしているのは、スマナサーラ長老を通訳とするお釈迦様の教えである。
 スマナサーラ長老はスリランカ出身の僧侶である。
 ということは、仏教モダニズムの流れを汲んでいる可能性があるだろう。
 たしかに、ソルティが初めて読んで感銘を受け、渋谷区幡ヶ谷にあるゴーターミー精舎を訪れるきっかけをつくったスマナサーラ長老の本のタイトルは、ずばり、『仏教は心の科学』(宝島社)であった。
 ソルティもまた、仏教モダニズムに冒されているのだろうか?

 然り。その傾向は多分にある。
 当ブログの仏教タグに収録されている過去記事を見れば、それは明らかである。
 テーラワーダ仏教の科学性を称えたり、ヴィッパサナ瞑想が脳に及ぼす効果を喧伝したり、唯一神や魂の存在を説かない仏教の脱“迷信”性をもって他の宗教より優れていると匂わせたりしている。
 エヴァンから見たら、ソルティは“立派な”仏教モダニストであろう。
 ただ、誤解のないように言えば、これはスマナサーラ長老の教えの影響というより、テーラワーダ仏教と出会ったことで得られた喜びがあまりに大きかったので、「ひいきの引き倒し」のような現象が生じてしまったせいである。
 本来なら、テーラワーダ仏教を持ち上げるために、科学を持ち出す必要もなければ、他の宗教を貶める必要もない。 
 とりわけ、他の宗教を信仰する人とのコミュニケーションを阻害する「仏教例外主義」的言動は慎まなければならない。

 一方、これだけは言える。
 ソルティは仏教モダニズムにかぶれてテーラワーダ仏教を信仰しているわけでもなければ、ヴィッパサナ瞑想を実践し続けているわけでもない。
 Why I Am a Buddhist 「なぜ私は仏教徒なのか」
 それは、テーラワーダ仏教が、現世において、智慧を開発し、心の苦しみを失くすことに役立っているからである。
 それは自分の中で体験的に実証されているから、否定しようがない。

 瞑想を始めた頃は、「悟りたい」「特別な自分になりたい」という動機こそあったけれど、20年近く経った今では、「智慧を得ること。それによって日常生活で生じる苦しみを減らすこと」が一番の修行理由となっている。
 「悟りたい=悟れない」という苛立ちからようやく解放され、日々たんたんと瞑想を実践している。

 これから老いが進むにつれ、若い時にはわからなかった様々な苦しみの種が待ち受けているであろう。
 ブッダの教えとヴィッパサナ瞑想は、それと立ち向かう際の護符のようなものだと思っている。
 なので、現在自分が学んでいる仏教が「仏教モダニズム」なのかどうかは、どうだっていい。
 生きていく上で役に立つか、立たないかが、重要なのである。
 ただし、苦しみを失くすのに役立つ最強の武器が、神でもキリストでも阿弥陀信仰でも祈りでも聖書でも真言でも呪術でも滝行でもなくて、自らの瞑想修行によって獲得した智慧であるという点において、仏教もといテーラワーダ仏教は他の宗教とは一線を画しているとは思う。

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 さあ、これで再度、エヴァンに問いを投げ返すことができる。
 Why I Am Not a Buddhist 「なぜ私は仏教徒でないのか」
 エヴァンの問いは、つまるところ、「仏教がエヴァンにとって益するものがなかった」ということを裏書きしている。
 カリスマ的な父親のつくった宗教的コミューンにおける禅仏教との出会いも、大学での仏教哲学の学びも、ダライ・ラマとの対話も、何年間にもわたる瞑想実践も、エヴァンの役に立たなかった。少なくとも、人生を生きていく上での護符や杖とするほどの価値をそこに見い出すことはできなかった。
 そういうことだろう。
 エヴァンはそれを仏教モダニズムのせいにしているけれど、はたしてそれだけが理由なのだろうか?




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 本:『「あの戦争」は何だったのか』(辻田真佐憲著)

2025年講談社現代新書

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 著者は1984年生まれの評論家・近現代史研究家。
 今年42歳だ。

 自分より年下の人間が、ITや競馬について語っていたり、ファッションや映画について蘊蓄を垂れていたり、古代史や仏教史について本を書いていたとしても、別に何とも思わないのに、昭和史とくに“あの戦争”について語っていると、「お前に何が分かる?」というエラソーな気持ちになってしまうのは不思議なものである。
 ソルティだって、十分、“戦争を知らない子供たち”の一人であるのに。
 それこそ著者は、「戦争を知らない子供たち」ですら知らない子供たちである。

 おそらく、「実際に昭和を生きてきた」、「“あの戦争”を戦った人々のナマの声をずっと聞かされていた」、「昭和天皇を知っていた」という年の功(功なのか?)による身体記憶が、そういう上から目線を形づくるのであろう。
 ソルティの祖父世代(大正生まれ)は従軍経験者、父母世代は疎開体験者であり、折に触れ、戦時中の話を聞かされた。
 昭和時代には“あの戦争”に関連したドラマやドキュメンタリーが数多く作られた。
 街に出ると、傷痍軍人もとい戦傷病者の姿をたまに見かけたものである。

 84年(昭和59年)生まれだと、親世代は完全に戦後生まれ、祖父母世代は幼児記憶として戦争を知っているあたりであろう。
 昭和天皇崩御時はまだ4歳。
 戦争のようなheavyな話題が思いっきり避けられたバブル期に生を受けた世代で、選挙権をもつ頃(2004年)の首相は小泉純一郎、もっとも長く知っている首相は安倍晋三である。

 言いたいのは、“あの戦争”との距離感がソルティ以上の世代とはかなり違うということである。

 それは年の経過という当たり前の現象であって、平成生まれだろうがミレニアム世代だろうが、だれであれ、“あの戦争”を自由に語る権利がある。
 ソルティもたびたび当ブログ内で“あの戦争”について取り上げているが、ひょっとしたら、それを目にした年長者がネットの向こうで、「お前に何が分かる?」とつぶやいているかもしれない。
 “あの戦争”と日本人との距離は、どんどん遠ざかっていく一方なのである。

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沖縄本島南部のギーザパンダ(慶座集落の崖)
米軍からスーサイドクリフ(自殺の崖)と呼ばれた

 そのことは、現内閣周辺に見られる好戦的気運の高まりという危険な兆候をもたらす一因となっているのは間違いない。
 「日本は核を持つべき」などという、昭和時代だったらその一言で公職辞職に追い込まれるような発言を、官邸幹部高官がオフレコとはいえ平気でするようになったのも、台湾有事などという世界情勢の変化以上に、“あの戦争”との距離感の広がりがもたらしたものである。
 米ソの対立が激しかった“冷たい戦争”の頃だって、有事は常にあったのだから。
 
 一方、“あの戦争”を史実や史料をもとに、より客観的・国際的・長期的な視点から分析し語ることのできるスタンスが得られるようになったのも、距離感の広がりゆえであろう。
 距離感の近い人は、どうしても個人的記憶というバイアスに影響されてしまうので、主観的・狭量的・短期的な物語を形成しやすいからである。

 1984年生まれの著者が書いた本書の意義は、その点に集約されよう。
 つまり、戦後左翼の好むGHQ(戦勝国)視点の物語(右翼言うところの“自虐史観”)でもなく、戦後右翼の好む大東亜共栄圏という物語(左翼言うところの歴史修正主義あるいはオヤジ慰撫史観)でもない、脱“昭和”世代の近現代史すなわち「われわれの物語」を提出しているのである。
 左右の不毛な対立にいい加減うんざりした若い世代が、まったく新しい「物語」を自分たちの未来のために作り出そうとする試みは、推奨して然るべきと思う。

 米国をはじめとする他国の歴史展示――ソルティ注:著者は海外の歴史博物館などを取材し一章を当てて紹介している――を手がかりにするならば、われわれが日本の歴史を語る際にも、「100点か0点か」といった極端な発想にとらわれる必要はない、という視点が重要になる。
 日本では、右派と左派がしばしばそうした二項対立に陥ることで、歴史論争が硬直し、建設的な対話が困難になってきた、しかし、近代日本の歩みを、欧米列強に抗った正義の歴史として全面的に肯定する必要もなければ、逆にアジアを侵略した暗黒の歴史として一方的に断罪する必要もない。・・・・中略・・・・

・・・いま求められるのは、あの戦争を孤立したできごととして語るのではなく、幕末・明治維新以来の近代史全体のなかに位置づけ直すことだろう。
それは、日本の過ちばかりを糾弾することでも、日本の過去を無条件に称賛することでもない。過ちを率直に認めながら、そこに潜んでいた“正しさの可能性”を掘り起こして現在につなげる、言い換えれば「小さく否定し、大きく肯定する」語りを試みることである。それこそが、われわれの未来につながる歴史叙述ではないだろうか。

 この著者の試みが上手くいっているかどうかは、読者それぞれが読んで確認してほしいところである。
 ソルティ自身は、日本の近代史の「どの部分をどう否定し、どこをどう肯定するか」についての記述が具体性に欠けていると思ったけれど、それは本書が試論あるいは提言という性格のものであるため、あるいは紙幅の都合によるのかもしれない。
 今後、著者や後続の史家の中でさらに研究され、議論され、具体化され、熟していき、「われわれ(脱昭和世代)の物語」として形成されていくのだろう。
 平和の意志、反戦思想だけは強く持して、それをやっていただけたらと願っている。

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平和祈念公園にある平和の灯

 ときに、歴史叙述とはまた別のところで、ソルティが“あの戦争”から学ぶ大きなものがある。
 日本人の国民性である。
 戦争という非常事態、命にかかわる緊急事態だからこそ、国民性の根幹が露わになる。
 平和な時には曖昧にぼやかされている、あるいは美点として指摘されるような、“集団としての日本人の特質”が、先鋭化されて発現する。
 それは日本だけでなく、他の国でも同様である。
 ドイツ人の国民性はナチスドイツ時代において最も露わにされたし、アメリカ人の国民性は9・11直後において最も端的に世界に伝わった。

 そうした観点から“あの戦争”を振り返った時、日本人の国民性としてしばしば指摘されるのが、著者も本書で言及している「司令塔の不在」すなわち「リーダー欠如の無責任体質」であり、もっとも重要なことを「空気で決める」非合理性であり、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」「寄らば大樹の陰」の同調圧力に弱い集団主義である。
 ミステリー作家としても有名な笠井潔は、それを厳しく批判し、ニッポン・イデオロギーと名づけた。
 
 残念ながら――というか致し方ないことではあるが、この体質=国民性は“あの戦争”の時も、あれから80年経った今も、少しも変わっていないと思う。
 むしろ、昨今の排外主義の高揚や多様性に対する無理解の言説をみるに、あるいはLINEやSNSなどスマホ依存にはまった若い世代をみるに、令和の日本人のほうがニッポン・イデオロギー度が高まっているんじゃないかとソルティは危惧している。
 つまり、戦争になったら、日本人はまた同じことを繰り返すだろうと――。

 “あの戦争”を肌身で知っていた昭和の先輩たちは、そのことをよくわかっていた。
 だからこそ、たとえ“自虐史観”と揶揄されようが、声を大にして、非戦・護憲を訴えていたのだと思う。
 “あの戦争”の物語を新たにつくっていく脱昭和世代の心に留めておいてほしいのは、そのことである。
 

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おすすめ度 :★★★

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● 本年も仏像三昧 本:『ミズノ先生の仏像のみかた』(水野敬三郎著)

2019年講談社

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 先日、半蔵門ミュージアムに行ったときに購入した本。
 水野敬三郎(1932- )は、美術史学者にして日本の仏像研究の第一人者。半蔵門ミュージアム館長を2019年3月まで務めていた。(現在、名誉館長)
 ソルティが目下学んでいる奈良大学通信教育の美術史概論のテキストも、水野敬三郎監修『日本仏像史』(美術出版社)である。
 業績と言い、後進への多大なる影響と言い、日本の仏像研究界の大長老と言ってもいいんじゃなかろうか。
 ソルティは他に、水野が1985年に出した『奈良・京都の古寺めぐり 仏像の見かた』(岩波ジュニア新書)を読んでいる。
 いずれの本も、仏像の歴史や一つ一つの仏像のつくられた背景、造仏の技術面など、水野の該博にして深い知識は今さら言うまでもないことだが、ソルティがもっとも唸らせられるのは、仏像の像容を解説する際の水野の表現力の巧みさである。  
 豊富な語彙、適確な言葉の選び方、目の付けどころの鋭さ、仏像が観る者に与える印象をわかりやすく品格もって言語化する文学センス。
 どうやってこのような表現力を身に着けたんだろう?
 表現したいことをなかなかうまく言語化できないもどかしさにいつも苛立つソルティは、我が言語脳の未熟な配線を思い知らされるのである。(同じ思いはナンシー関のエッセイを読むときにも起こる)

 それはさておき、この本、面白かった。
 ソルティは仏像鑑賞のためのガイドブックのたぐいを数冊持っている。
 大概、まずはじめに仏像のつくられた歴史や日本に入ってきた経緯が簡単に記される。
 次に、仏像を見分けるのに役立つ基礎知識(衣装、髪型、表情、手のかたち、持物、姿勢、光背、台座などの種別)が解説される。 
 そして、各論的に仏像の種類ごと(如来・菩薩・明王・天部など)に章を分けて、ひとつひとつの仏像の特徴が紹介される。如来なら、釈迦如来・阿弥陀如来・大日如来・薬師如来・昆廬舎那如・・・といったふうに。
 これはこれで勉強になるし、鑑賞の役に立つし、人に蘊蓄を垂れる際の虎の巻となるのだが、肝心の仏像の見方という点では、表面的過ぎるきらいがある。
 目の前の仏像の名前を知り、造られた年代や素材を知り、衣装や髪形や手のかたちや持物や姿勢などをガイドブックを参考に確認し、「ハイ、終わりました」となってしまう可能性がある。
 それだけではもったいない。
  • だれが、いつ、どういった理由から、仏像を造った(造らせた)のか?
  • その種類の仏像を選んだ理由は何か?(たとえば、薬師如来なら病気平癒の為)
  • その素材を用いた理由は何か?(たとえば、運慶は北円堂の弥勒仏を造るのに、当時一般的に用いられていたヒノキでなくカツラを使った)
  • その時代の仏教信仰はいかなるものか?
  • その時代の美意識はいかなるものか?
  • 中国や朝鮮半島の影響をどの程度受けているか?
  • 仏師の新たな工夫はどこに見られるか?
  • 時代によって、どのような変化(様式)が見られるか、またその背景には何があるか?
  ・・・・等々

 こういったところまで想像の翼を広げてこそ、仏像鑑賞の面白味や醍醐味はあろう。
 シャーロック・ホームズが目の前に置かれた一通の手紙から、会ったことのない差出人のことを推理して、詳しくその素性を語ることができるように、仏像研究者は仏像を手掛かりにいろいろなことを推察する。
 仏像がつくられた時代の社会風潮や文化や政治や国際関係、人々の信仰や苦しみや願い、とくに仏教に対するスタンス、施主(注文主)と仏師(作り手)の関係、造仏技術の進歩・・・e.t.c.
 本書はまさにそのような“一歩進んだ仏像のみかた“のノウハウを伝えてくれる。
 仏像ビギナーの聞き手がミズノ先生に問いかけるQ&A形式なので、読みやすく、わかりやすい。
 各時代の有名な仏像を掲載したカラー口絵はじめ、ミズノ先生の説明の理解を助けるイラストもふんだんにある。
 ソルティがこれまでに観てきた仏像が多く紹介されているが、読後、もう一度実物を“ミズノ目線”で見直したいという思いに駆られた。

 以下、ソルティが「へえ~、そうだったのか」と感嘆の声を上げた知見を紹介。

ミズノ:じつは、日本の仏像は、コーカソイドとモンゴロイドがごちゃまぜになった顔なのです。そのごちゃまぜになった顔が基本になって、そこからいろいろな顔立ちが表現されています。

 コーカソイドは白色人種・ヨーロッパ人種、モンゴロイドは黄色人種・モンゴル人種である。言うまでもなく、中国人・朝鮮人・日本人は後者である。 
 仏像が最初にガンダーラでつくられたとき、ギリシア・ローマ文化の影響を受けて、顔立ちはコーカソイドであった。鼻根が高く、鼻筋が通っている、ルシウス(=阿部寛)系である。
 大乗仏教とともに仏像が中国に伝わると、仏像の顔はモンゴロイド系いわゆる「平たい顔族」に変貌した。
 が、興味深いことに、如来や菩薩の鼻だけはコーカソイドのままだった。
 6世紀に日本に仏教が到来し、日本でも仏像がつくられ始める。
 やっぱり、日本でも完全モンゴロイド化せずに、鼻だけは高さを保った。
 一方、如来や菩薩以外の仏像(明王や天部など)の鼻は普通にモンゴロイド化した。
 ミズノ先生は「当時の人々がコーカソイドの鼻のかたちになにか聖なるものを感じていたのではないか」と推測している。
 今でも、日本人が整形したいパーツの第1位は「鼻」のコーカソイド化だもんね。

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コーカソイドの仏像

ミズノ:日本では平安時代後期に寄木造り、内刳りが流行しました。つまり像の中は空洞です。そこで目を刳りぬいて内刳りの中から水晶のレンズをあてる玉眼という技法が誕生したというわけです。
 
 玉眼で最も有名なのは、興福寺北円堂の無着・世親像であろう。
 2つの像がまるで生きているように見えるのは、まさに表情をたたえたあの瞳の輝きのためである。
 玉眼は中国にはなく、日本で発明されたのだという。
 仁平元年(1151)奈良・長岳寺の阿弥陀像がもっとも古い使用例で、像の作者は運慶の父・康慶ではないかという研究者もいる。

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奈良国立博物館・仏像館の展示

ミズノ:人間には、男女を問わず実の体型と虚の体型がある。実の体型というのは、胸が厚くて前に張り出して、お腹のほうがひっこんでいる。虚の体型は逆に胸が薄くて後ろに引けて、お腹のほうが前に出てくる。

 実の体型の人は朝に強い「朝型」、虚の体型の人は夜になると元気が出てくる「夜型」なのだそうだ。
 漢方で言う「陽」の体質と「陰」の体質に相応するように思われる。
 平たく言えば、「ガッシリ系」と「なよなよ系」みたいな感じか。
 仏像にも虚の体型と実の体型があって、初期のガンダーラの仏像はみな実の体型だった。ガッシリしている。
 中国にも実の体型のまま伝わってきたが、6世紀北魏時代に虚の体型に変わったという。
 日本に入ってきた仏像は北魏の仏像がもとになっているので、虚の体型から始まった。
 法隆寺の百済観音はまさに虚の体型の典型。(たしかになよやか)
 これが7世紀後半くらいから初唐の影響を受けて、だんだん実の体型に変わっていく。
 平安初期の神護寺の薬師如来像、新薬師寺の薬師如来像などは完全に実の体型。
 平安後期になると、定朝が出てきて「仏の本様」は虚の体型になる。
 これは浄土信仰の流行と関連し、浄土にやさしく迎えいれてくれる阿弥陀如来には虚の体型こそふさわしかったからではないかとミズノ先生は言う。
 鎌倉時代になると、やはり強さを求める武士の影響からか、実の体型が好まれるようになる。

神護寺薬師如来
神護寺薬師如来

ミズノ:もともと建築用材であったヒノキを使って、しかも製材した角材を像の中心で左右から合わせて仏像をつくってしまうというのは、非常に大きな意識の変化だと思います。一木造における、仏像の中枢部に対する畏敬の念とか、木そのものに霊性が宿るという観念、あとは奈良時代以来の檀像の意識とかが、次第に薄れてきた結果といえるかもしれません。

 「大理石の塊の中にすでに像が内包されている。私の仕事はそれを取り出すことだけだ」と、かのミケランジェロが言ったとか言わなかったとか・・・・。
 要は、西洋の彫刻は大理石の大きな塊を外側からノミで削っていき、形を整えていく。
 木造彫刻の場合も、一本の太い丸太を削って、像を整形していくイメージがある。
 そこで、ミケランジェロに比すべき芸術家である運慶が、一本の丸太の前に無念無想で座し、木の中にいる大日如来を感得している絵が思い浮かぶ。
 しかし、これは見当違いの想像であった。
 確かに平安時代中期までの木造の仏像は、頭部と胴体部を同じ一本の木から彫り出す、いわゆる一木造であった。
 が、藤原時代に定朝が出現してから後は、頭と胴体部を複数の材木を寄せてつくり、さらに像内を深く内刳りする寄木造が主となったのである。
 運慶や快慶をはじめとする鎌倉仏師たちは、寄木造の手法を用いて仏像をつくった。
 寄木造の利点として上げられるのは以下の通り。(勉強の成果
  1. 内刳りがしやすい(像が軽くなる、内部に物が入れられる)
  2. 分業により作業の効率化が図れる(いわゆるプレハブ工法)
  3. 大きな像の制作が可能(木の大きさに限定されない)
  4. 輸送にも便利(分解して運べる)
 たった2か月余りで完成した東大寺南大門の仁王像のように、大規模な仏像の制作を短期間で行うことが可能になったのは、寄木造が発明されたればこそである。
 一木造から寄木造へ。
 この変化を単に、機能性や利便性や作業効率の点からばかり考えてはいけないよ、とミズノ先生は言っている。
 寄木造は、仏像の頭と胴体をいくつかに分割して作る。
 仏の頭や顔を割る。
 たしかに、それは大きな意識の変化がなければ簡単にはできないことである。
 家をつくるのとはわけが違う。
 古来あった仏像や神木に対する畏敬の念が、消失とは言わないまでも、合理性の前に薄まったのである。
 ひょっとしたら、一木造に最後までこだわっていたために時代の波に乗れず、消え去っていった仏師もいたやもしれない。

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康成作、金峯山寺仁王門・金剛力士立像(南北朝時代)
像高約5mの像を吉野山から奈良国立博物館まで運び入れることができるのも寄木造りなればこそ

 知れば知るほど、仏像鑑賞の奥の深さに感じ入る。
 今年もいろいろな仏像との出会いが待っている。
 “敬派”のはしくれとして鑑賞眼を磨いていきたい。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● Maiden をめぐる考察、あるいはメラニーの覚醒 本:『静寂の叫び』(ジェフリー・ディーヴァー著)

1995年原著刊行
1997年邦訳刊行
2000年ハヤカワミステリー文庫(飛田野裕子・訳)
原題:A Maiden’s Grave

静寂の叫び

 現代アメリカの代表的なミステリー作家ジェフリー・ディーヴァー。
 もっとも有名な作品は、デンゼル・ワシントン、アンジェリーナ・ジョリー共演で映画化された『ボーンコレクター』(1999)であろう。(ソルティ未見)
 作家デビュー7年目に発表した本作は、ディーヴァーの最高傑作の呼び声高い。 
 期待大でディーヴァーデビューした。

 原題 A Maiden’s Grave は「乙女の墓場」という意。主要登場人物の一人で聴覚障害をもつ女性が、有名な讃美歌 Amazing Grace(偉大なる恩寵)を A Maiden’s Grave と聞き違えたというエピソードから取られている。
 また、それは本作のプロットを含意している。
 3人の凶悪な脱獄犯によって拉致され、廃屋となった食肉加工場に監禁され、人質にとられた聴覚障害をもつ Maiden(乙女)たちの境遇をたとえているのである。

 本作の読みどころは、人質を救い出し犯人を投降させるべく派遣されたFBIのネゴシエーター(交渉人)アーサー・ポターと、立てこもりを続ける脱獄犯の首謀者ルー・ハンディとの息詰まる心理的攻防の模様。そして、人質にとられた聾学校の女教師2名と女子生徒8名が、耳が聞こえない・口が利けないというハンディを乗り越えて、いかに危機を脱していくかという点にある。
 人質奪還の交渉術についても、聴覚障害者の日常についても、非常によく取材調査していることを伺わせる、リアリティと説得力ある筆致である。
 さらに、敵は身内にあり、すなわち、主導権と功績をFBIから奪いたい州警察の暗躍や妨害、特ダネを取りたいマスメディアによる情報漏洩など、いかにも“全米的”な欲得入り乱れの副筋も面白い。
 二転三転する先の読めない展開の果てのどんでん返しというミステリーらしさも十分備えている。
 文庫で上下2巻の長編であるが、いったんハマったら、最後まで徹夜必至のスリルとサスペンスに溺れることだろう。

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 残念ながら、ソルティはそれほどハマらなかった。
 上巻がなかなか読み進まず、挫折してしまうんじゃないかと一瞬思った。
 1週間以上かかった。
 下巻に入ってからは、さすがにページをめくるスピードが上がって、3日で読み終えた。
 それなりに面白かったけれど、これがディーヴァーの“最高傑作”ならば、他の作品を読むのに躊躇する。

 その理由を考えるに、少女たちが拉致監禁されるという設定を、読者を惹きつける“キャッチー(仕掛け)”に使っているという点に、どうもすっきりしないものを感じる。
 3人の脱獄犯のうち1人は、女性をレイプすることしか頭にない野獣のような男で、図体のデカさや腕力の強さや凶暴性から、小説内では“熊”というニックネームを奉られている。
 人質事件の始まりも、脱獄した犯人たちによる路上での強姦殺人の現場を、学校のバスで通りかかった教師や生徒たちが目撃することがきっかけである。
 ストーリーの根幹に性暴力が深く絡んでいる。 
 して、原題にある Maiden は俗にいう「処女」の意である。
 つまり、聴覚障害を持つ教師や美しい少女たちの“純潔”が暴力的に奪われる危機を、エロチックなくすぐりを背後に匂わせつつ、サスペンスを盛り上げる仕掛けとして使っているのである。
 ソルティは女性が性暴力を受けるたぐいの話が昔から苦手というか好きでないので、この仕掛けには乗れなかった。
 おそらく、多くの女性読者やフェミニストも同じであろう。
 また、中年太りのオッサンやもめであるポターが、若く美しく賢い乙女(Maiden)に一方的に愛されるという展開も、世の男性読者の願望を見事に撃ち抜いている。
 本作の愛読者は女性より男性が多いのではないか?

 ディーヴァーの名誉(?)のために言っておくと、結果的に人質たちの Maiden(処女)は守られた。
 危機一髪のハラハラ場面はあったが、レイプされ“凌辱”された Maiden は一人も出なかった。(1名射殺されてしまったが)
 ただ一人、生徒たちの目の前で“熊”に暴行されたのは女教師であり、彼女は夫も子供もいるミセスであった。
 そこのところもまた、「なんだかなあ~」という気がした。
 まるで、「彼女は処女でないから、いいだろう?」とでもディーヴァーが言っているような気がしてしまった。
 こんなふうに読むソルティの心が歪んでいるのか?
 性的な妄想で病んでいるのか?
 でも、わざわざ Maiden をタイトルに持ってくるのは、そこに何らかの作者の下心があると思うのだよなあ・・・・。

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tayphuong388によるPixabayからの画像

 プロットにおいては、以下の2点で不自然を感じた。
 (ここからネタバレ)

 まず、FBIの交渉人ポターを中心とする交渉人チームが、女刑事に成りすましたハンディの恋人を偽者と見抜けなかった点。
 普通、会ったこともない人間を人命のかかった重要なチームに迎え入れる前に、徹底的にその相手について調べ上げるだろう。当然、顔写真入りの履歴を取り寄せるだろう。
 警察官と犯罪者の区別もつけられない交渉人って頼りになるの?

 次に、自ら法の執行者でありながら、ポターたちを裏切って、ハンディら脱獄犯の逃亡に手を貸していたある人物の行動の謎。
 その人物は、ハンディらが無事に食肉加工場から脱出して逃げ延びられるよう、陰でいろいろ手はずを整える。
 というのも、その人物は自らが理事をしている銀行の不正に絡んでいて、その証拠を消すためにハンディの力を借りたという過去があったのである。
 この場合、ソルティがその人物の立場なら、ハンディらを助けるより、人質奪還のどさくさに紛れてハンディらの口封じを行うことを考える。
 一生、ハンディに弱みを握られたままでいる桎梏から逃れる、願ってもないチャンスではないか。 
 助けてどうする!?
 よくわからない御仁である。

 最後にひとつ。
 人質にとられた10人の女性から最強ヒロインが立ち現れる。
 彼女の名はメラニー。
 最初のうちは大人しくて泣き虫で自らの意志を持たない人形のような軟弱な女性として描かれる。
 が、仲間たちの犠牲を前に俄然覚醒し、エイリアンと闘うシガニー・ウィーバーさながらのスーパーウーマンへと変貌する。
 自らの内に隠れていた強さに気づいたのである。
 ラストシーンでの復讐の女神ぶりは、清々しいほどのカタルシスをもたらす。

 ソルティ思うに、このメラニーという名前とパーソナリティは、『風と共に去りぬ』のメラニーから思いついたのではないか?
 スカーレット・オハラの初恋相手であるアシュレ・ウィルクスの妻として、良妻賢母、いつも穏やかで思いやりに満ち溢れ、表立って目立つような言動はつつしみ、周囲の人々から慕われるメラニー。利己的で世の批判を一身に浴びるスカーレットをいつもかばってくれるただ一人の親友。
 そのメラニーが、実は登場人物中、一番強い心の持ち主であることが、マーガレット・ミッチェルの書いた大河小説の最後に明らかになる。

 メラニーという女性名を、『風と共に去りぬ』のメラニー像と切り離して考えることは、おそらく米国人には難しいのではないか。
 メラニーは、一見たおやかなれど実は芯の強い女性の代名詞なのである。

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『風と共に去りぬ』でメラニーを演じたオリヴィア・デ・ハヴィラント



おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損









● 1984を回避するために 本:『デジタル・デモクラシー』(内田聖子著)

2024年地平社

 こうしてブログを綴ってはいるものの、ITには疎いソルティ。
 ツイッターもとい「X」はやっているが、ほぼブログへの呼び込みになっている。
 LINE、フェイスブック、インスタグラム、ユーチューブには興味ない。
 昨今、パソコンやスマホからでないと、コンサートのチケットも新幹線の切符も宿の予約もとれないので、仕方なくネットを利用しているが、クレジット購入というものに今ひとつ信用が置けない。
 商品を購入する際、住所や電話番号やクレジットカードのセキュリティコードなどの個人情報をPC画面に入力するとき、一抹の不安を覚えざるを得ない。

 そんな昭和オヤジ丸出しの状況でありながら、現在のITをめぐる世界的動向、とくに巨大IT企業がどれだけ世界を支配しているか、ITがどれだけ市民の生活に入り込み個々人を監視しているかという点について、これまた疎いままであった。

 本書は、巨大IT企業(ビッグ・テック)による最新技術を用いた監視と搾取のシステムについて国際的視野から現状を伝え、民主主義と人権を守るためにビッグ・テックと闘う各国の人々の姿を描いたノンフィクションである。
 著者の内田聖子は、NPO法人アジア太平洋資料センター(PARC)の共同代表をつとめ、自由貿易協定やデジタル政策のウォッチ、政府や国際機関への提言活動を行っている。
 副題は「ビッグ・テックを包囲するグローバル市民社会」

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 恥ずかしながら、はじめて聞いた(知った)言葉が多かった。
 ビッグ・マックならぬビッグ・テック(Big Tech)=巨大IT企業もその一つだが、以下も今回はじめて意味を知った。
  • GAFAM
    Google(Alphabet)、Apple、Meta(旧Facebook)、Amazon.com、Microsoftの5社

  • 監視資本主義(surveillance capitalism)
    企業による広範な個人データの収集・分析を指す政治経済学の用語。分析結果に基づいて、個人仕様に選ばれた広告が表示されたり、特定の商品やサービスが推奨されたりする。目的はもちろん、企業がより多くの利益を得ることにある。

  • データブローカー
    個人の情報を収集、整理し、第三者に販売する企業や組織のこと。日本で言う「名簿屋」がこれに当たる。

  • スマートシティ
    IT・デジタル技術の活用により、都市の機能やサービスを効率化・高度化し、課題解決とともに快適性や利便性を高める都市開発のあり方。たとえば自動運転やドローンを用いた自動配達、カメラやセンサーによる騒音や人流の把握、医療や教育の遠隔化、行政サービスのIT化など、実装される技術は多岐に渡る。(本書より引用)

  • プラットフォーム労働
    アプリなどのデジタルプラッ トフォームの仲介により、個人や組織間で労務を提供する形態の労働。よく知られるものに、Uber Eatsクラウドワークスなどがある。

  • コンテンツ・モデレーター
    インターネット上のコンテンツが安全で適切に保たれるように監視する職業。
 インターネット上のプラットフォームやアプリは、基本的にユーザーが暴力やポルノ、差別シーンを目にしないように設計されている。ユーチューブにもXにもフェイスブックにも倫理基準があり、「問題あるコンテンツは削除」されることになっている。実際、これら企業はソフトウェアを使い、問題コンテンツを自動的に削除するようにしていて、AIの導入によってこの作業は飛躍的に効率化された。
 しかし、AIのフィルタリング・システムは完璧ではない。「親指の写真と男性器の写真をAIはうまく区別できない」という有名な例がそれを象徴している。現時点ではAIだけにネット空間の「適正化」を任せることは無理であるため、各プラットフォーム企業はAIでは対応できない「判断」をする「人」を必要としているのだ。
 私たちが当たり前のように享受しているインターネット世界の倫理性を最終的に支えているのが、・・・略・・・コンテンツ・モデレーターの手作業だ。

 コンテンツ・モデレーターたちは、毎日毎時間、世界中からネットにアップされるリアルな残酷映像やエログロ映像や小児虐待映像などを見続けているわけで、これが心の健康にとって良くないのは言うまでもない。
 ゾンビ映画を観てキャーキャー言ってるのとは、まったく違うレベルである。

混乱する男

 本書は、GAFAMを筆頭とするビッグ・テックが牽引するデジタル経済モデルにおいてすでに起きている、国家権力による監視や管理、プライバシーなどの人権侵害、偽情報やフェイクニュースの蔓延、差別や貧困の再生産などの様相を、さまざまな事例を出して示している。
 また、ビッグ・テックが、情報インフラの独占や莫大な資金を投入しての政治家へのロビー活動によって、市場や政治をいかに支配しているかが語られる。

 日本ではまだITの利便性のみが謳われ、人々は無料のアプリのダウンロードと引き換えに個人情報を進んでIT企業に渡しているし、街のあちこちに設置されている顔認識カメラによって自らの姿が知らないうちに記録され解析されることについても反対の声が聞こえてこない。治安維持の為なら仕方ないと思っているのかもしれない。
 だが、こうした位置情報を含む個人情報が権力の手によって悪用されると、実に怖ろしい監視社会に成り変わるのは、中国の例を見れば明らかである。
 ビッグ・テックが国家権力と結びついた“生き地獄”を描いたのが、ジョージ・オーウェル著『1984』であり、テリー・ギリアム監督『未来世紀ブラジル』であった。
 『1984』や『未来世紀ブラジル』の世界を現実化してしまったのが、今の中国であろう。(昨今、中国人の悪口ばかりやたら聞こえてくるが、ソルティは中国人は可哀想としか思えない)
 日本も気を付けないと、同じような道を歩みかねない。
 ナショナリズムの行き過ぎは国家権力の増大につながり、民主主義の危機を招くからである。

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MollyroseleeによるPixabayからの画像

 「やっぱり、欧米は違うな~」と思ったのが、こうしたビッグ・テックの横暴に対して抗議の声を上げて立ち上がり連帯する市民の存在である。
 本書には、国家による監視への抵抗、ビッグ・テックの監視広告への反対、消費者(とくに子供や若者)がオンライン・ゲームやSNSによって精神的ダメージを受けないよう規制を求める運動、プラットフォーム労働者らによる組合結成運動など、市民社会が中心となった抗議活動の様子が描かれている。
 不当解雇を訴えてたった一人でAmazonに立ち向かった、元倉庫労働者のクリス・スモールズの話など、そのうち映画にでもなりそうな勇敢物語である。
 欧米の人々に根付いている人権意識と民主主義に対する信念は筋金入りだ。
 やはり、市民革命を経験しているからであろうか?
 あるいは、一神教をバックボーンに持つ個人主義のせいであろうか?

 ソルティが、現在高市政権のもと進行しているナショナリズムを危惧するのは、日本人には元来、人権意識と民主主義への信念が不足している、と思うからである。
 おそらく、その二つのものが敗戦によってGHQ=アメリカから与えられたもので、自ら勝ち取ったものでないというところに、因があるのではないかと思う。
 街頭でデモをする人々を“特殊な人、めんどくさい人”と遠目に見たり、「就職の妨げになるから政治活動には関わらない」という若者の声を聞いたりすると、いったい日本国憲法下の戦後80年間の教育ってなんだったんだろう?・・・・と思ったりする。

 ひょっとしたら、先進国では、日本人くらいビッグ・テックにとって“いい”お客さん=餌食はないんじゃなかろうか?
 中国に侵略される脅威をしきりに訴えているうちに、GAFAMに骨の髄まで支配される日常に馴らされてしまうんじゃないか?
 
 少なくともソルティは、今後しばらくはAmazonでの買い物を控えることにする。
 



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● CWA賞の信頼度 本:『天使の鬱屈』(アンドリュー・テイラー著)

2000年原著刊行
2006年講談社(訳・越前敏弥)

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 ソルティが次に読む海外ミステリーを選ぶ基準の一つは、CWA賞受賞である。
 これはイギリスの推理作家協会(The Crime Writers' Association)によって、その年にイギリスで出版された推理小説の中から選ばれる。
 過去には、ルース・レンデル、P.D.ジェイムズ、ロス・マクドナルド、ジョン・ル・カレ、ライオネル・デヴィッドスン、コリン・デクスター、パトリシア・コーンウェル、ピーター・ラヴゼイ、ミネット・ウォルターズ、サラ・パレツキーなど、錚々たるメンバーが受賞している。(日本で人気のあるアンソニー・ホロヴィッツが受賞していないのは不思議)
 同じ英語圏の栄誉ある賞では、アメリカ探偵作家クラブ(Mystery Writers of America)が創設しているMWA賞がある。
 ソルティはどちらかと言えば、イギリスを舞台にしたミステリーが好きなので、CWA賞受賞作のほうに惹かれてしまう。
 ちなみに、個人的にあまり当てにならない指標と思うのは「このミス1位」である。何回か裏切られた経験がある。
 CWA賞受賞作は、いつも読後それなりの満足感を与えてくれるので、信頼していた。
 が、2000年CWA最優秀歴史ミステリー賞に輝いた本作は、その信頼を揺らがせるものであった。

 歴史ミステリーの傑作と言えば、ジョセフィン・テイ『時の娘』、ダン・ブラウン『天使と悪魔』、ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』、ディクスン・カー『ビロードの悪魔』、短編ではあるがG.K.チェスタトン『折れた剣』などが思い浮かぶ。
 梅原猛の『隠された十字架』も歴史ミステリーとして一級の娯楽作と言える。(本人は真面目な歴史書のつもりで書いたと思うが)
 これらほどの傑作でなくとも、かりにもCWA歴史ミステリー賞を受賞しているのならば、一介の歴史オタクを唸らせるレベルの史料分析や推理が見られるものと期待してもあながち間違ってはいまい。
 実在する歴史上の人物や書物や団体や事件などをめぐる謎を、のちの世の人間(たいていは学者や研究者でない素人)が自分なりの方法で調べていく。その最中に起こる脅迫や殺人事件。
 過去と現在がクロスオーバーするところに歴史ミステリーの面白さはある。

 本作も一応はその基本に則っている。
 半世紀前に亡くなった聖職者にして詩人フランシス・ユールグリーヴに興味を持った語り手(ウェンディ)が、彼について調べ始めた時から、彼女の周囲で不可解な事柄が発生する。
 調査に向かう行く先々でウェンディの先回りをしてフランシスを調べる謎の人物の存在。ウェンディの周囲にばら撒かれる虐待された動物の死体。半世紀前にも同じようなことがあったという。
 興味をそそる謎は散りばめられているのだが、物語は遅々として進まず、「いったい、いつになったら殺人事件が起こるのだろう?」と、残りのページ数を数えてしまう。
 フランシスに関する調査も片手間の感じで、むしろ話のメインはウェンディが寄宿する親友ジャネット一家の様子を描くところにあるようだ。
 美しく真面目なジャネット、美男子で進学校副校長の夫デイヴィッド、天使のごとき2人の娘ロージー、そしてジャネットの認知症の父親ジョン。
 この特に変わったところもない聖職者一家の日常風景がくわしく描写される。
 著者テイラーの筆力が冴えているので、ついつい読み進めてしまうのだが、いったい自分は何を読まされているのだろうか、という思いを抱かざるを得ない。
 殺人事件が起きるのはページ数にして全体の7割過ぎてからである。
 肝心のフランシスをめぐる謎の解明についても中途半端な感じは否めず、ウェンディが最終的に到達した推理は、根拠を欠き、説得力に欠ける。
 これでCWA賞受賞とはいったい・・・・・?

 この謎の解明は難しくない。
 実は、本作はアンドリュー・テイラーによる「天使シリーズ」3部作の一部であり、『天使の遊戯』、『天使の背徳』に続く最終巻だったのである。
 時間的には、1990年代のロンドンを舞台とする『天使の遊戯』や、1970年代のロンドン郊外の町を舞台とする『天使の背徳』より前の1950年代のこと、つまり物語の時系列では一番最初に来るのだが、書かれた順番・出版された順番は本作がラスト。
 ソルティは本作を図書館で借りるときにそのことを知っていた。
 でも、文庫本の冒頭に「どの作品もそれぞれ完結した物語」「どういう順序で読んでもかまわない」と(原著者 or 訳者の)コメントとしてあったので、3部作であることを気にかけずに借りたのだった。
 しかるに、やっぱりこれは書かれた順に読むべきであった。
 『天使の鬱屈』に登場するある人物が、ほかの2作品に重要なキャラクター=サイコパス殺人者となって登場する。本作は、その前哨戦であり、そのキャラ誕生の背景を描いた作品だったのである。
 先に2作品を読んだ読者なら、たとえば『羊たちの沈黙』のレクター博士の過去を描いた『ハンニバル・ライジング』を読むように、多大なる関心と高揚をもって本作を読むことができよう。
 3部作全体の出来をもって、CWA賞受賞にも納得することができるのかもしれない。
 本作一作の単体評価でそれにふさわしいとは思えない。

 そういうわけで、肩透かしを喰らった。
 もちろん、これから刊行された順番とは逆に読んでいく、つまり時系列に沿って物語を追うことはできる。
 天使を追うべきや否や。
 どうしようかな?

天使と悪魔



おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
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● 異界からの帰還 絵本:『龍潭譚』(作・泉鏡花、絵・中川学)

2011年私家版発行
2023年国書刊行会

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 京都三条河原にある古刹瑞泉寺の住職にしてイラストレーター、中川学の絵本デビュー作。
 これに続いて、やはり泉鏡花原作の『化鳥』、『朱日記』、『榲桲(まるめろ)に目鼻のつく話』を絵本化している。
 切り絵のように美しく、影絵のように幻惑的、アニメのようにポップな中川のイラストレーションで、現代人には取っ付きにくい泉鏡花の作品が一気に親しみやすいものとなった。
 しかも、近代日本作家の中でひときわ異彩を放つ鏡花の美と幽玄と妖しの世界を、少しも損なうことなくヴィジュアル化している。
 素晴らしい才能だ。

 中川学のイラストがすごいと思うのは、戦後の国語教育を受けた現代人にはいささか難しい鏡花の文章を難なく読ませてしまうところである。
 もちろん、現代かなづかいに改めたり、ルビを振ったり、ポイントを大きくしたりと適宜編集上の配慮はしているが、そればかりではない。
 中川のイラストは、物語の理解を助け、あざやかなイメージを立ち上げ、行間に潜んでいる含意まで引き出し、鏡花ワールドの魅力を堪能させてくれる。
 その結果、鏡花ワールドはたしかにこの文体でなければならないのだという確信に導き、泉鏡花という作家の比類なさを知らしめる。
 つまり、イラストによって文章が輝くという芸当が生じている。
 オーブリー・ビアズリーのイラストによって、オスカーワイルドの戯曲『サロメ』が一段と輝くのに似ているかもしれない。

サロメ
ビアズリーの「サロメ」

 なぜこうした芸当ができるのか不思議だったのだが、昨春京都に行ったとき、たまたま三条河原にある瑞泉寺に足を踏み入れて、そこが中川学のお寺だと知った時に、腑に落ちるものがあった。
 瑞泉寺は豊臣秀吉の甥で、謀反の疑いで秀吉に切腹を命じられた豊臣秀次一族の菩提を弔う寺なのである。
 境内には、秀次はじめ息子・娘・34人の側室などの墓があり、一族および家臣たちをかたどった49体の京人形が地蔵堂に祀られていた。
 一族は鴨川の河川敷で惨殺されたという。
 秀次がほんとうに謀反を企てたかどうかは明らかでなく、無辜の罪の可能性も高い。 
 この因縁を知ったときに、そして瑞泉寺の裏手の三条大橋から夕暮れの鴨川を眺めたときに、中川学の描くイラストがなぜ鏡花ワールドと響き合うのか、その秘密の一端を知ったように思った。

瑞泉寺地蔵堂
瑞泉寺地蔵堂

鴨川
鴨川
四条大橋から五条大橋を望む

 『化鳥』は、橋のたもとに住む貧しい虐げられた母と子供、そして川向うに暮らす被差別の民たちの物語。
 『朱日記』は、山から下りてきた薄幸の美女と、怒りに狂って城下町を焼き尽くす魔坊主の物語。
 『榲桲に目鼻のつく話』は、男たちに買われる可憐なる少女の物語。
 そしてこの『龍潭譚』は、異界に入り込んで魔に憑かれてしまう少年の物語。
 少年が異界に入り込む境界で出会うのは、日頃少年が父母や祖父母から「一緒に遊ぶな」とかたく戒められている「かたい(乞食)」の子供たちである。

 もっとも有名な作品『高野聖』がまさにそうであるように、泉鏡花は常界と異界のはざまを描くのに巧みであった。
 常界に生きる主人公が、なにかのきっかけで異界に住む者と出会い、その妖しい魅力に惹きつけられて異界に入り込んでしまい、しばしの幻想的経験を経たあとに、常界に帰還する。
 いわば、浦島太郎潭である。 
 鏡花ワールドの特徴の一つは、この異界を、「差別され疎まれる民、虐げられる女子供」のいる世界に設定している点にあるのではないかと思う。

 泉鏡花は、金沢で幼少期を過ごした。
 父親は彫金職人で、生家は市の中心を流れる浅野川のほとりにあった。
 川向うには、芸妓や娼妓が働く茶屋、いわゆる女が買われる遊廓があった。
 城下町には被差別部落があるのがふつうだった。
 鏡花は、このような異界に対する畏怖と憧憬、親しみと哀れみとが入り混じった幼少年時代を過ごしたのではなかったろうか。

 龍潭(龍の棲む淵)の彼方にある九ツ谺(ここのツこだま)という“異界”から無事帰還した少年が、常界に住む者たちから、「神隠しにあった者」と化け物あつかいされ疎まれるストーリーに、日本の歴史に潜む哀しくも愚かな“物語”に思いはめぐる。

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おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 仁王像とポアロの共通点 本:『ガンダーラ美術にみる ブッダの生涯』(栗田功著)

2006年二玄社

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 昭和歌謡で育った人間にしてみれば、ガンダーラと言えば堺正章主演『西遊記』であり、ゴダイゴが歌った主題歌である。
 They say it was in India.(それはインドにあると言う)
という歌詞(山上路夫、奈良橋陽子作詞)の一部から、ずっとインドのどこかを指す地名と思っていたが、実際には現在のパキスタン北東部、インドとアフガニスタンの間あたりにあった古代王国である。
 Wikiによれば、「ガンダーラ王国は紀元前6世紀から11世紀に存続し、1世紀から5世紀には仏教を信奉したクシャーナ朝のもとで最盛期を迎えた」とある。
 このガンダーラを中心に、紀元前後から5世紀頃まで栄えた仏教美術をガンダーラ美術と呼ぶ。

 ガンダーラ美術の特徴は、東と西をつなぐ交通の要所という地理的特性そのままに、インド、ヘレニズム(ギリシア・ローマ)、シリア、ペルシャなど多様な文化が融合した独自のスタイルにある。
 紀元1世紀頃にこの地で仏像が誕生したとされるのも、アレクサンドロス大王(紀元前356-323)の東方遠征によってヘレニズム文化が当地に伝わり、ギリシア彫刻の素晴らしさが知れわたったからという。
 実際、ガンダーラの仏教彫刻は、ギリシア・ローマ彫刻と見まがうものが少なくない。
 西洋人っぽい彫の深い顔立ち、ヒラヒラしたドレープ付の薄手の衣装、肉体美の肯定、写実的な感情表現などである。
 場所がどこだったかは忘れたが――東京国立博物館だったか?――はじめて初期の仏像というものを見たとき、あまりに風貌がアジア人離れしている(鼻筋通り過ぎ!)ので驚いた記憶がある。
 ちなみに、仏像誕生の候補地はガンダーラ以外にもう一カ所、北インドのマトゥラーも上げられている。こちらの仏像は土着的要素が強く、インド人っぽい。
 元祖をめぐっての攻防はいまも続いている。

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東京国立博物館にあるガンダーラ・ブッダ

 仏像がつくられるようになると、ブッダの生涯を描いた浮彫り、いわゆる仏伝図もたくさんつくられるようになった。
 ありがたいことに石造であるため、かなりの数の作品が今に伝えられている。
 本書は、世界各地の美術館や個人が所蔵しているガンダーラ彫刻の仏伝図から代表的なものを選んで写真掲載しつつ、ブッダの生涯を辿ったものである。

 著者の栗田功は、1941年生まれの古美術愛好家。
 フランス電子機器メーカー東京支社に勤務していたとき、フランス出張帰りにパキスタンに寄り、ガンダーラ美術と出会ったことがきっかけで、この道にはまったらしい。
 もともと、美術評論家でも仏教学者でも仏像研究者でもない。
 それが趣味が高じて、全2巻セット50000円のガンダーラ美術の豪華本を出版し、ガンダーラ仏教美術と中国古美術の専門店「欧亜美術」を都内に開くまでに至ったというのだから、人生なにがあるか分からない。(店舗は現在は閉めたらしい)
 マーラー交響曲第2番『復活』に憑りつかれて、それを指揮するためにのみ30才過ぎてから指揮法を一から勉強し、40代でついにコンサートデビューし、レコードまで出してしまった実業家のギルバート・キャプランを思い出した。  
 こういう生き方はカッコいい。

 栗田がガンダーラ彫刻のどこにそれほど惹かれたのかは分からないが、掲載されている石造の群像彫刻(レリーフ)の写真を見ていると、登場人物の会話が聞こえてくるような錯覚にとらわれる。
 マンガのように、人物の横に吹き出しを書いてセリフを入れたい気がする。
 2次元(平面)と3次元(立体)のあわいにあることが、かえって、物質に生命力の吹きこまれる刹那を目撃しているような印象をもたらすのかもしれない。
 ちょうど、諸星大二郎のコミック『壁男』のように。

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四天王捧鉢(東京国立博物館)
悟ったばかりのブッダに食事を提供するため
四天王それぞれが鉢を差し出すの図

 それにしても面白いのは、ガンダーラを通過点かつ中継点として、ギリシア彫刻の影響が日本の仏像彫刻にも及んでいるという点である。
 奈良・中宮寺や京都・広隆寺の飛鳥時代の菩薩半跏像に見られるアルカイック・スマイルは有名だが、次のような「ギリシア⇒ガンダーラ⇒中国・日本」の神の変化(あるいは神の特徴の相続)を指摘する説もある。
  • ヘルメス ⇒ ファッロー神 ⇒ 多聞天(毘沙門天) 
  • ヘラクレス ⇒ バジラバーニ ⇒ 執金剛神(仁王様)
 東大寺南大門の仁王像の起源が、ギリシア神話の英雄ヘラクレスというのは実に面白い。(ヘラクレスは実は名探偵エルキュール・ポアロ〈Hercule Poirot〉の語源でもある)
 そうとは知らずに仁王像を見て、「ニッポン、凄い! 運慶、グレイト!」と目を丸くしているギリシア人観光客のなんと多いことか!

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東大寺南大門仁王像



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● なんなら、奈良22(奈良大学通信教育日乗) 大学生のためのレポート・論文術

 考古学概論のレポートを提出しホッとしているところ。
 何を書いたらいいのか分からなかった白紙状態から、テーマを見つけて、構成を考えて、材料を探し、資料を読み込んで、なんとか文章に仕立て、間違いがないか何度も読み返し・・・・。
 奈良大学通信教育部行きメールの送信ボタンをクリックしたときは、我が子をサバイバルキャンプに送り出す母親のような気分だった。

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Sasin TipchaiによるPixabayからの画像

 レポート作成にあたって、本文に苦労するのは毎度のことであるが、意外に頭を悩ませるのは引用の仕方である。
 既刊の図書や新聞記事からの、あるいは先行論文からの引用は、ちゃんと引用元を表示しないといけない。
 それをしないと、剽窃や盗用になってしまう。
 著作権侵害になってしまう。
 なので、レポートの最後に引用文献や参考文献を列挙するのであるが、その表記の仕方がいまいちよくわからない。

 考えてみたら、学術レポートを書くのは実に40年ぶり。
 すっかり書き方を忘れているのも無理ない。
 しかも、ソルティは英文科の学生だったので、卒論は英文提出だったのである。(いま思うとなんと無謀な!)
 10年ほど前に社会福祉士の資格を取るために通信教育を受けたときも、レポートはどっさり(1年半で33本!)書いたが、テキストを要約すればいいレベルだったので、他の文献からの引用は必要なかった。
 日本語のレポートや論文の場合、どうやって引用表記すればいいのか?

 いや、そんなに悩むことないっしょ?
 【筆者の名前、本のタイトル、出版社、刊行年、引用ページ】
 でいいでしょうに――と思うところだが、40年前と格段に状況が変わった。
 インターネットの登場である。
 いまや、ネット上の記事というか資料からの引用・参照が当たり前の時代である。
 たとえば、今回の考古学概論レポートの場合、6つのサイトの記事を参照した。
 国立大学が2カ所、大手新聞社が1カ所、有名民間企業の外郭団体が1カ所、国立研究法人が1カ所である。
 一応、“怪しくない”=信頼性が高いと思われるサイトを選んだけれど、どうなんだろう?
 選ぶ基準が難しい。
  • ネット上の記事ならどれでも引用していいのか? たとえば、Wikipediaや他者ブログはどうなのか?
  • 著作者(たとえばブログ主)の許可を取る必要はあるのか?
  • 図表や画像も引用(コピペ)していいのか?
  • 末尾の引用(参照)文献一覧にどうやって表記するのか?
  • 論文などが pdf. でそのまま掲載されている場合、「ネットで読んだ」ことを示すべきなのか?
  • 論文を作成した後に、引用した記事が削除されてしまったらどうするのか?
 等々、よくわからないことが多い。
 〈論文 引用方法〉とネットで検索すると、大学関係はじめいろいろな記事が上がってきて丁寧に引用方法を教えてくるが、サイトによって言ってることが違うので、ますます混乱してしまう。
 そんなわけで、やっぱり昭和世代。最後は本に頼りたい。
 小笠原喜康著・近藤たかし作画『マンガでわかる 大学生のためのレポート・論文術』という本を見つけた。
 2002年に刊行されてから累計で50万部のロングセラーになっているそうだ。

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2020年講談社発行版

 たしかに、とても読みやすい。
 知りたいポイントがわかりやすくまとまっている。
 論文の書式やレイアウトや段落のつけ方といった基礎の基礎から、文献・資料の集め方、引用・参照のルール、わかりやすい文章をつくるコツ、論文の基本的な組み立て方など、初心者には大助かりの、痒いところに手が届く内容である。
 とりわけ、ネットを使った先行論文の検索方法や関連図書の探し方、ネット資料の表記の仕方が書かれているのが嬉しい。
 それによると、ネットからの引用の記載の基本は、以下の通り。
  1. 資料のある場所のURLを記載。
  2. 記事に日付がある場合にはそれを記載。
  3. 記事の取得日(アクセスした日)を必ず記載。
  4. 可能な限り、サイトの管理者・情報提供者を記載。
例.
 “なんなら、奈良20(奈良大学通信教育日乗)入学まる1年”(2025-09-   
   27掲載),『ソルティはかた、かく語りき』,  
   https://saltyhakata.livedoor.blog/archives/10437061.html
   (2025-11-15取得)

 検索した記事の中には、「サイトの最新更新日を記載すること」と書かれているものもあったが、本書ではそこまで求めていない。
 最新更新日って最近のサイトではほとんど記載されていないし、調べるのは結構手間がかかるみたいだし、日付がたくさんあっても混乱するだけなので、今回の提出レポートには付さなかった。
 なにせ、ネットからの資料の入手は新しい事態なので、上記以外はっきりしたルールが決まってはいないようだ。
 つまるところ、レポートや論文を読んでくれる先生の意向に合わせるのがベストなのだろう。

奈良大学旧校舎破風「學」
奈良薬師寺内にある南都正強中学旧校舎(奈良大学の前身)








● 本:『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』(トム・ストッパード著)

1966年初演(エジンバラ)
1969年日本初演
2017年ハヤカワ演劇文庫

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 イーサン・ホーク主演『ハムレット』を観たら、この戯曲が読みたくなった。
 作者自身の手で1990年に映画化されたものは、前に観ている。
 ローゼンクランツをゲイリー・オールドマンが、ギルデンスターンをティム・ロスが演じていた。

 この戯曲の成功はひとえにその独創的なアイデアにある。
 タイトルの『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』は、この2人が端役で登場するシェークスピア作『ハムレット』の最終場面のセリフそのまま。
 もともと端役であるローゼンクランツとギルデンスターンを主役に持ってきて、主要人物であるハムレットやオフィーリアやクローディアスが脇に回る。
 一方、ストーリーや設定や上記主要人物たちのセリフは原作と変わらないので、ローゼンクランツとギルデンスターンは『ハムレット』内で与えられている出番において決められたセリフを言うとき以外は、自分たちが何をしていいのか分からない。
 それどころか、自分たちがどこで生まれ、どういう過去を持ち、何の仕事をしているのか、何が目的で生きているのか、どこに住んでいるのか、も分からない。
 ただ、かつてハムレットの御学友であったことと、王の命令は絶対であることのみ、分かっている。
 作者シェークスピアから与えられている2人の情報はそれだけ。
 台本によってすべてが縛られているからである。 

 ある朝、2人は伝令によって叩き起こされ、クローディアス王の命令によりデンマークに呼び戻される。城に上がると、ハムレット王子が思い悩んでいる理由をそれとなく探るよう王に命じられる。
 その務めを果たさないうちに、ハムレットは「生きるべきか死ぬべきか」のご乱心。危機を感じたクローディアスは、暗殺を企図し、ハムレットをイングランドに送る。ローゼンクランツとギルデンスターンは王に命じられるまま、監視役としてハムレットに同行する。
 王の魂胆を見抜いたハムレットは、裏をかき、旅の途中でデンマークにとんぼ返り。残された2人はそのままイングランドに向かい、クローディアスからの親書をイングランド王に届け、ハムレットの代わりに暗殺されてしまう。

 要は、脇役という存在が、いかに作者に軽く扱われ、十分な人物背景が与えられず、都合の良い駒として動かされているかということを、「主・脇」を逆転することによって明らかにしているわけだ。
 それがあたかも、自らのアイデンティティを疑う不条理劇の主人公のように見えるのが面白い。
 なぜこの世に生まれてきたのか、ここで何をすればいいのか、自分は何がしたいのか、答えが出ないままに予告もなく世を去っていかなければならない我々(舞台の観客)の姿を振り返らせるのである。
 
 もっとも、この戯曲の成功によって、ローゼンクランツとギルデンスターンは、生みの親であるシェークスピアが到底予測もつかなかったくらい有名になってしまった。
 ハムレットやクローディアスのような英雄的な死が与えられず、虫けらのように意味なく殺される2人は、ある意味、カフカの小説の主人公のようで、現代の民主主義的感覚で見れば、ハムレット以上の悲劇存在である。
 しかも、その生を、何千回も、何万回も、繰り返さなければならない。
 世界のどこかで、『ハムレット』が上演される限り。 
 輪廻転生の比喩のようだ。

 今日もどこかで、ローゼンクランツとギルデンスターンは蘇っては死んでいる。




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