ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●読んだ本・マンガ

● 本:『熊楠と幽霊』(志村真幸著)

2021年インターナショナル新書

IMG_20250422_091148~2

 南方熊楠(クマグス)の名を最初に知ったのは、たしか男色がらみだったと思う。
 画家で男色研究家の岩田準一(1900-1945)と、男色をめぐる往復書簡をした人物というので興味を持った。
 調べて見ると、博物学・生物学の大家であり、とくに粘菌の研究では世界的権威という。
 昭和天皇にキャラメル箱に入れた粘菌標本を献呈した話もよく知られる。
 裸族のはしりでもあり、夏の間は真っ裸で過ごし、周囲から「てんぎゃん(天狗)」と呼ばれていた。
 平賀源内同様、奇行の多い天才であった。

 肖像写真を見ると、ギョロっとした眼のむさくるしい感じの親爺で、男色家っぽくない。(どういったのが“男色家っぽい”のか自分でもよくわからないが。ジャニーさん? 三島さん?)
 図書館で著書を探して手に取ったが、文章が難しいというか、とりとめがないというか、わけがわからなくて読むのをあきらめた。
 以来、疎遠となっていた。

kumagusu
南方熊楠(1867ー1941)

 実はクマグスは民俗学者としても有名なのである。
 柳田国男を民俗学の「父」とすれば「母」はクマグスだとか、いや、「父」がクマグスで「母」が柳田だとか、ジェンダー観念にとらわれた意味不明な議論があるようだが、ともあれ、日本民俗学の誕生に多大な貢献をした人である。
 柳田とは生涯に一度きり、和歌山県田辺の自宅で会っている。
 二日酔いのクマグスは布団にくるまりながら柳田と話したそうで、実りある対談とはいかなかったようだ。
 二人はその後も頻繁に書簡のやりとりをしていたが、民俗学における「性」をめぐるテーマの扱いがきっかけで袂を分かってしまった。
 男色を始めとする日本人の性風俗について、すすんで学問として取り上げようとしたクマグスの姿勢を、柳田は受け入れられなかったようだ。
 それでも柳田は、クマグスが亡くなった際に「日本人の可能性の極限」と評した。

 本書は、クマグスの生涯や業績や思想について述べたものではない。
 『クマグスと幽霊』のタイトルが示す通り、スピリチュアルな視点から読むクマグス、あるいはクマグスにおけるスピリチュアリズム(心霊主義)の概説である。
 クマグスは、若い頃から不思議な体験を多くもった。
 熊野の山中で幽体離脱したり、夢の中に出てきた父親から新種のキノコの生息地を告げられたり、知人の死を予知したり・・・。
 自然、博物学や民俗学の研究に勤しむのと並行して、心霊研究にものめり込むようになる。
 世界各地の幽霊や妖怪に関する証言を集め、英国の著名な心霊研究家フレデリック・マイヤーズの書を熟読し、18歳から亡くなるまで明恵上人のごとく見た夢の記録を日記に書きとめた。
 ただ、さすがに科学者である。
 本書によれば、降霊術のようなオカルティズムには懐疑的で、予知や幽体離脱や輪廻転生などの不思議な現象に対して、なんらかの科学的な説明が可能なのではないかと思っていたようだ。

 著者の志村真幸は1977年生まれの比較文化史研究者。
 南方熊楠顕彰会の理事をしている。
 知の巨人クマグスの別の一面を知ることのできる一冊である。




おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 中村春吉見参! 本:『幻綺行』(横田順彌著)

2020年竹書房
初出は1989~91年『SFアドベンチャー』(徳間書店)

 タイトルと本の装丁に惹かれて手に取った。
 小学生の頃に夢中になったポプラ社の「明智小五郎&少年探偵団シリーズ」を偲ばせる。
 横田順彌(1945~2019)を読むのははじめて。

IMG_20250413_094034
カバーイラスト:榊原一樹
カバーデザイン:坂野公一

 明治時代の冒険家・中村春吉を主人公とする連作短編である。
 自転車に乗って世界中を無銭旅行する中村、彼がスマトラの遊廓から救い出した雨宮志保、そこに一獲千金を夢見て宝探しをする石峰省吾が合流し、怖いもの知らずの3人がアジアからシルクロードをたどって中近東へ、ロシアに寄り道してヨーロッパ、船に乗ってケープタウンへと、痛快至極な旅をする。
 ボルネオの密林では奇怪な樹の化け物、チベットの僧院では半魚人、ペルシャの砂漠では大魔神、ロシアの寒都では吸血女、ポルトガルの火山島では異次元生命体、アフリカの古沼では巨大甲殻類と遭遇し、毎回命の危険にさらされるも、知恵と度胸とチームワークと持ち前の運の良さで乗り切っていく。
 アドベンチャーとホラーサスペンスとSFと幻想小説と怪物退治とユーモア小説がミックスした楽しい読み物である。
 巻末に収録された『SFアドベンチャー』掲載当時のバロン吉元のイラストが芸術的にグロテスク!

 中村春吉(1871-1945)は実在の人物で、自転車による世界一周無銭旅行をした明治期の傑物である。
 汽車賃・船賃・宿賃・家賃・地賃を克服して無銭旅行をしたことから、「五賃将軍」と呼ばれ、フランスの新聞では「東洋の猛獣」と称されたという。
 横田順彌はこの男に心酔するあまり、冒険小説の主人公に仕立てたのである。  日本人ではじめてチベット入国を果たした河口慧海といい、この時代の日本男児のバンカラ精神は見上げたものだ。 


中村春吉
中村春吉

 

おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 民俗学の父 本:『柳田国男入門』(鶴見太郎著)

2008年角川学芸出版

IMG_20250410_143110

 現在、奈良大学の通信教育で「民俗学」を勉強中。
 ソルティがこれまでに読んだ民俗学関連の本は、柳田国男『遠野物語』、宮本常一『忘れられた日本人』、小松和彦『悪霊論 異界からのメッセージ』他、赤松啓介と上野千鶴子の夜這いをめぐる対談、六車由美『驚きの介護民俗学』、在野の研究家の筒井功を数冊。
 三角寛のサンカ本も何冊か読んだが、あれは民俗学ではなくて娯楽小説の一種だろう。
 永久保貴一諸星大二郎のコミックも民俗学の範疇に入るかもしれない。 
 興味の向くままに読み散らかしただけで、民俗学を体系的に学んだことはない。
 ほぼイチから始めなければならない。

 まず必要なのは、「民俗学とは何か」を知ることである。
 民俗学と言えば、柳田国男である。
 柳田国男がどんな人物で、何を目指していたか、どんな研究を行ったかを知るのが先決と思い、「入門」を謳う本書を借りた。
 鶴見太郎は1965年生まれの歴史学者。名前から推察される通り、評論家&哲学者の鶴見俊輔(1922-2015)の息子である。

 図書館で借りた本なので文句をつけるのも大人気ないと思うが、「看板に偽りあり」であった。
 入門レベルの内容では全然なかった。
 むしろ、柳田国男や日本民俗学についてある程度の知識や見識を持っている中級者が、これまでに言及されていない新たな視点から、柳田国男を読み解くものになっているように感じた。
 内容をちゃんと確認しないで本を借りる癖がどうも治らない。

 とは言え、本書で取り上げられ分析されている柳田国男の一面、というより柳田を含む昭和時代の学者の言説を読み解く際の留意点は、知って得るところがあった。
 つまり、戦前や戦時下における言論・思想統制の問題である。

 柳田国男は「日本民俗学の父」という一般によく知られた顔をもつと同時に、東京帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)出身のインテリであり、農商務省(現在の経済産業省・農林水産省)に勤めたお役人であり、貴族院書記官長(現在の衆議院事務総長/参議院事務総長に相当)まで昇りつめた高級官僚であった。
 今の言葉で言えば、上級国民である。
 太平洋戦争の始まる前には退職しているものの、体制側・権力側の人間とみなされてもおかしくはなかった。
 当然、戦前・戦時下にあっては、大日本帝国の元高級官僚として、また、世間に名の知られた言論人として、戦意高揚に向けて国民を指導することが期待されたであろう。
 柳田が当時の国策や大東亜戦争について内心どう思っていたのかはよく知らないが、国や軍部の方針を表立って批判することはなかった。
 それをしたら、間違いなく、研究を続けられなくなったはずだ。
 本書によれば、自らの頭で調べ考え判断することなく、政府やマスコミの流す情報を信じ込み、焚き付けられ、自ら戦意高揚に巻き込まれていった日本国民の事大主義を憂えていたようである。  
 だが、柳田は、国を批判し逮捕され転向を迫られた社会主義者の友人・知人らと交流を続けながらも、自身は特高に睨まれることなく精力的に研究や執筆を続け、戦前・戦中を無難に生き抜き、戦後になっても火野葦平のように「戦犯」の汚名を着せられることなく、学者として一家を成した。
 この器用な生き方、状況判断に優れたバランス感覚こそ、柳田国男の特質の一つなのではないかと思った。

libra-2071314_1280
Peggy und Marco Lachmann-AnkeによるPixabayからの画像

 ひとり柳田国男に限らず、戦前・戦中の学者の言説は、言論・思想統制というバイアスを抜きにして、読み解くことはできない。
 戦後生まれで言論や表現の自由を当たり前に享受している我々は、つい忘れてしまいがちだけれど、権力や世間からの圧力が厳然とあった時代の人が残した言葉を読むとき、曖昧な言い回しや暗示的な表現の裏にある真意を汲み取らなければならないのである。
 時代や政治体制との関係を離れて、その時代に生きた個人の発した言葉を読むことはできない。
 そこにあらためて気づかせてくれた点で、本書を読んだ甲斐があった。

 敗戦の翌年(1946年)、柳田は次のような文章を綴っている。

 日本人の予言能力は既に試験せられ、全部が落第といふことにもう決定したのである。是からは蝸牛の匐ふほどな速力を以て、まづ予言力を育てゝ行かねばならぬのだが、私などはただ学問より以外には、人を賢くする途は無いと、思って居る。

 鶴見はこれを次のように読み解いている。

 少なくとも柳田にしてみれば、本来民俗学には単に現在の生活改善という域には止まらず、日常の営みの中から将来起こり得ることを推察するという隠れた重大な課題が含まれていた。具体的に言えば、それは自分たちがとる行動や態度によって、どのような影響が生まれるのか、その結果をあらかじめ想定できる力を養うことである。しかしアジア・太平洋戦争が生んだ惨禍という厳然たる事実を前にした時、明らかに日本人の「予言能力」はことごとく外れたものと受け止めざるを得ない。そしてそれは一部の指導者の責任にのみ帰せられるものではなく、広く日本人全体の懸念事項として考えて行かなくてはならない――柳田らしい暗示に富んだ言い回しだが、大略はその線にあるといってよい。

 暗示に富んだ言い回し。
 これが柳田国男の言説の特徴であるらしい。




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 本:「ここまで変わった日本史教科書」(高橋秀樹、三谷芳幸、村瀬信一著)

2016年吉川弘文館

IMG_20250409_214713~2

 10代のとき習った日本史の中味が、40年経過してずいぶん変わっているのを薄々察していながらも、なかなか更新する機会が持てなかった。
 奈良大学通信教育学部のスクーリングで、広大な藤原京の跡地に立った時、刷新の必要性を強く感じた。
 とり急ぎ、主要な変更点だけでも抑えるべく本書を手に取った。
 が、これもすでに10年近く前の刊行物である。
 そのうち、最新の日本史教科書に目を通したい。
 備忘のため、ソルティの脳内記憶と大きく変わった点を列挙する。

1. 年号の変化
  • 鎌倉幕府の成立 1192年→1185年
    源頼朝が征夷大将軍に任命された年(1192)から、全国に守護・地頭を置いた年(1185)に変化している。ただ、これも確定したものでない。つまるところ、「何をもって幕府の成立とするのか」で、学者間で意見が分かれている。
2. 名称の変化
  • 縄文式土器、弥生式土器→縄文土器、弥生土器
  • 大和朝廷(4世紀)→ヤマト政権
  • 任那(みまな)→加耶(かや)・・・任那日本府の実態が疑問視されている
  • 大化の改新(645)→乙巳(いつし)の変
  • 薬子の変(810)→平城上皇の変
  • 前九年の役、後三年の役、西南の役→前九年戦争、後三年戦争、西南戦争
  • 元寇→蒙古襲来
  • 応仁の乱→応仁・文明の乱
  • 島原の乱→島原・天草一揆
3. 消えた内容(用語)
  • 武家造・・・鎌倉時代の武士の屋敷を指したが、いまは「寝殿造」のバリエーションの一つとされ、廃語となった。
  • 御家人を前に縷々演説した北条政子の話は捏造(実際は御簾の中にいた)
  • 忠臣蔵を取り上げている教科書は、いまや全体の6%のみ
  • 江戸時代には「士農工商」という身分制度があった→「武士」と「百姓・町人」の二つに分けて説明。また、百姓=農民ではない
  • 慶安のお触書(1649)・・・現在では幕府の公布した法令ではないという学説が有力。
4. 増えた内容
  • 藤原京の成立(694)と規模の大きさ
  • 江戸時代の遊女など、各時代の女性像を扱う教科書もある
  • アイヌ史や北方史や琉球史
5. 解釈の変化
  • かつては、「縄文時代=縄文土器+狩猟採集」、「弥生時代=弥生土器+稲作」とされていたが、その後、縄文遺跡からの水田遺構の発見があい次ぎ、この図式が崩れた。時代区分を、土器の相違によって分けるか(BC3世紀頃)、稲作の開始によって分けるか(BC5世紀頃)で、弥生時代の始まりが変わってくる。議論がまとまっていない。
  • 聖徳太子(厩戸皇子)の格付け低下・・・冠位十二階、十七条憲法、遣隋使派遣など、これまで聖徳太子の事績とされてきたものが、推古政権全体の政治と位置づけられている。
  • 894年遣唐使の廃止によって国風文化が興った→遣唐使は838年を最後に実施されていなかった。中国文化の基盤の上に国風文化が生まれた。遣唐使の制度は「廃止」されたわけでなく、894年の回が「停止」になっただけ。
  • 神護寺にある源頼朝の肖像画のモデルは、足利直義の可能性が高い。(甲斐善光寺にある木像の頼朝こそ実際の姿に近い)
  • 関ヶ原の戦い(1600)の西軍大将は、石田三成でなく毛利輝元。
  • 「賄賂まみれの悪徳政治家」という田沼意次のイメージは払拭されて、経済振興をはかった人と評価されている。(NHK大河ドラマ『べらぼう』では渡辺謙が演じてイメージアップに貢献している)
  • 江戸時代は「鎖国」していたという概念が薄れ、「四つの口」を通して海外と交流していたとする解釈が増えている。

 歴史上の事件や事象を何と呼ぶか、そこには使い手やその時々の評価・歴史観、後世の価値観などが入り込みやすい。研究用語のみならず、史料に出てくる言葉であっても、その史料の書き手の見方が投影されている。また、その時代には意識されていなかったものの、後の時代になって、差別的であるとの理由などで忌避されていった用語もある。

 歴史は残された史料というレンズの破片を通して映し出された像であり、その像は必ずしも「真実」ではないこと、「正しい」歴史的評価など存在しないことに気づかせ、それを知ることこそが、「正しい」歴史学習の姿なのかもしれない。
 
 それにつけても、日本史だけでこれだけの変化がある。
 世界史と来た日には、どんだけ脳内記憶が古くなっていることやら!

world-67861_1280
Clker-Free-Vector-ImagesによるPixabayからの画像




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 牡丹のひとよ 本『平家慕情』(中津文彦著)

1999年実業之日本社

IMG_20250401_084909~2

 京都醍醐寺見学の折りに日野の平重衡の墓を参ったことから、本書につながった。
 平重衡の生涯を描いた歴史小説である。
 著者は1941年生まれで、『黄金流砂』で第28回江戸川乱歩賞をとっている。

 むろん、『平家物語』をベースとしており、東大寺の盧遮那大仏ふくむ南都焼討ち(1181年)という前代未聞の悪業を背負った悲劇的人物として、同情的まなざしで描かれている。
 三位の中将の位をもつ公家として品格教養あり、平清盛の血を引く平家の武将として勇猛果敢にして、敵方の源頼朝や義経にさえ一目置かれた潔さと思慮深さを備え、加えて、牡丹の花のごとき容色の持主で女性に優しい。
 光源氏のごとき、パーフェクトなキャラである。
 つまり、南都焼討ちというマイナスポイントがなければ、これ以上に近寄りがたい、理想的人物(凡夫からしたら嫌味な男)はいないわけである。
 一点の陰りをまとった人間のほうに魅力を感じるのは世の常なので、南都焼討ちこそが、平重衡を物語的に忘れ難いキャラに押し上げた要因とも言える。

 織田信長が比叡山延暦寺を焼討ちしたと聞いても、「あの神仏をも畏れぬ第六天魔王(サイコパス)ならやりかねん」とそこになんら驚きもなければ、実行者である信長に対して、心の葛藤や後悔や懺悔を期待するのは無駄と思うだけであるが、最期に法然上人に自ら受戒を請い願った重衡については、そこに罪悪感からくる様々な宗教的葛藤を想像できるぶん、仏教徒であるソルティとしては興味がひきつけられるのである。(――最近の考古学的考証では信長の比叡山焼討ちは相当誇張されているらしい)
 
平重衡
平重衡(安福寺所蔵)

 『平家物語』では、恨み骨粋に徹した南都衆徒の手に引き渡され処刑される直前、重衡は日野の地で妻の輔子と再会し、今生の別れをすることになっている。物語を聴く者、読む者の涙をそそる名場面である。
 本書では、輔子ではなく、重衡が源頼朝の捕虜下にあった鎌倉で出会った女人、千手の前との逢瀬に置き換えられている。
 『平家物語』にはいくつかのバージョンがあるというから、別バージョンからの採用なのだろうか?
 いずれにせよ、しっかりした構成と簡潔で抑制の効いた文章、タイトル通り、運つたなく散った者への慕情が横溢する歴史小説の佳品である。

IMG_20250310_130316



おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 沼 本:『激変! 日本古代史 卑弥呼から平城京まで』(足立倫行著)

2010年朝日新聞出版新書

IMG_20250328_052033

 著者は1948年鳥取生まれのノンフィクション作家。
 『北里大学病院24時 生命を支える人びと』、『アジア海道紀行』、『妖怪と歩く ドキュメント・水木しげる』など、さまざまなテーマを取材し、本を書いている。

 本書は、邪馬台国と卑弥呼、『日本書記』と古代天皇の信憑性、古代東国の中心地だった上毛野(群馬県)、聖徳太子虚構説、大化の改新の真相、伊勢神宮誕生の謎など、古代史で議論沸騰しているテーマについて、著者の興味が赴くまま現地取材を重ねながら、最新(と言っても2010年時点であるが)の動向をレポートしている。

 文献が少なくて考古学的情報に頼らざるを得ない古代史は、いろいろな説が立てやすいので、教科書に落とせる最大公約数的レベルから、突飛ではあるが容易に反論もしにくい“トンデモ”レベルまで、ほんとうに「沼」なのだなあと思った。
 その時代の権力者の意図が反映されている『魏志倭人伝(三国志)』や『日本書記』や『古事記』、神社やお寺の由緒を語る寺社所蔵の古文書や古記録などを、どこまで信用するかで、描き出される古代の姿はずいぶん異なってくる。
 1万円札の肖像として親しまれ日本人なら誰でもその存在と立派な事績の数々を疑わなかった聖徳太子が、後世(天武・持統・文武天皇の頃)につくられた虚構であるなんて、いまさら言われても・・・・。
 本書では(懸命にも)取り上げられていないが、日本人とユダヤ人の先祖は同じだとする「日ユ同祖論」を真面目に論じている学者先生もいるらしく、ひょっとしたら、伊勢谷武も『アマテラスの暗号』をフィクションとして書いたのではないのかもしれない。

キリストの墓
青森県三戸郡新郷村戸来にある伝キリストの墓

 ソルティが某出版社に入社したばかりの40年近く前の話。
 某大学教授がアポなしで編集部に現れて、手書きの原稿を持ち込んだことがあった。
 自分が発見した真実を発表したいので本にしてほしい、と言う。
 最初に受け付けたソルティは、先生を応接室に案内すると、先輩社員につないで対応をお願いし、そのまま同席して話を聞いた。
 先生が発見した真実とは、「日本語と英語はルーツが同じ」というものであった。
 日本語はウラル・アルタイ語族に属し、英語はインド・ヨーロッパ語族に属すと、大学の言語学の講義で習っていた――日本語の起源に関する現在主流の学説はこれと異なるようだ――から、ソルティはびっくりした。
 なかば興奮しながら滔々と語る先生は、日本語と英語のルーツが同じである「証拠」として、自ら作った一覧表を見せてくれた。
  •  英語:Name(ナメー)= 日本語:名前 
  •  英語:Hire(ハイヤー)= 日本語:はいや(車を止めるときの掛け声)
  •  英語:Don’t mind(ドント・マインド)=日本語:どんまい
  •  英語:Laugh(ラフ)=日本語:わらふ
  •  英語:Tower(タワー)=日本語:塔(たふ)
  •  英語:Typhoon(タイフーン)=日本語:台風(たいふう)
  •  英語:Kill(キル)=日本語:斬る
  •  英語:Road(ロード)=日本語:道路
  •  英語:cold(コールド)=日本語:凍る度、凍る土
 ・・・・・・e.t.c.
 
 ××大学××学部教授と書かれた名刺を見返すとともに、丁重に如才なく応対する先輩社員の姿に、「社会人とはこうしたものなのか」と感心したのであった。



おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 本:『香薬師像の右手 失われたみほとけの行方』(貴田正子著)

2016年講談社

IMG_20250325_034708~3

 奈良の新薬師寺の香薬師如来像は、昭和18年(1943)3月に盗まれて以来、82年間、行方不明になっている。
 きっと、この白鳳時代の傑作彫刻が発見された日には、日本美術界も日本仏教界も文化庁も仏像マニアも、上を下への大騒ぎとなることだろう。
 たとえば、青息吐息の関西万博にこの像一つ投下したら、一気に盛り上がり、ミャクミャクも吉村洋文府知事も“男を上げる”に違いない。(ミャクミャクの性別は知らないが)
 その愛らしく高貴な表情と、いまにも空中浮遊しそうな軽みを感じさせる佇まいは、古来多くの人を魅了し、信仰と憧憬の的であり続けた。

 著者の貴田正子は、元産経新聞の記者。白鳳仏“推し”が高じて、香薬師像の捜索をライフワークにしている人である。
 同じ白鳳仏である東京深大寺の釈迦如来椅像の来歴を調べた『深大寺の白鳳仏』(講談社)という本も出していて、ソルティは先にそちらを読んだ。
 よくできたミステリーさながらのスリルと謎解きの快感、それに対象が国宝の仏像だけにスピリチュアルな要素も加わって、エキサイティングな読書体験であった。

 本書もまた、香薬師像をめぐる数々の謎に迫っていて、仏像ファンとしては興味をそそられずにはいられない。
 香薬師像が新薬師寺に祀られるまでの来歴、歌人で書家で美術史家の会津八一や文芸春秋元社長の佐々木茂索など仏像に魅せられた人たちの感動的エピソード、仏像が盗まれた時のくわしい状況(明治以降3度盗まれて2度戻ってきている)、各地に数躯存在するレプリカのつくられた経緯など、一つの仏像をめぐってこれだけの人が動き、様々な物語を生んでいることに感心する。たとえば、亡くなった妻の面影を香薬師像にダブらせた佐々木茂索は、大枚はたいての壊れた像の修復およびレプリカ制作を申し出たそうな。

 しかも本書は、ミステリーとして、ひとつの輝かしい解決を見て、幕を閉じている。
 昭和18年(1943)の3度目の盗難の際、現場には切り離された右手が残っていたのであるが、それがいつのまにか行方知れずになっていた。(戦時中とはいえ、ちょっと杜撰。関係者はあまりのショックで呆然自失していたのか?)
 今回(2015年)、貴田が中心となって香薬師像の右手を探し出し、実に72年ぶりに新薬師寺に帰還させたのである!
 その経緯はこれまたスピリチュアルな彩りに満ちている。
 GOOD JOB !!

IMG_20250325_190812~2
本書扉ページより

 白鳳期(飛鳥時代後期)につくられた身の丈約73センチの香薬師像は、もともとは聖武天皇の后である光明皇后の念侍仏だったという。当時の主要な仏像の例にもれず、銅製で表面に金メッキが施してあった。
 光明皇后は、春日大社の神体山である春日山の山中に香山寺を造り、その本尊としてこれを祀った。香薬師の名はそこから来ている。
 その後、聖武天皇の病気平癒を祈願して、天平19年(747)新薬師寺を造立した ときに、本尊の胎内仏として新薬師寺に遷されたらしい。
 宝亀11年(780)新薬師寺は火災に見舞われ、本尊は焼失。からくも救出された香薬師像は、以後、寺宝として守られてきた。

 現在、新薬師寺には、佐々木のお陰で造られた香薬師像のレプリカが祀られており、それをたよりに、うしなわれたほとけの麗姿を心に思い描くことができる。
 貴田らが見つけた本物の右手は、安全のため「奈良国立博物館」に預けてあるという。
 右手が何を語るのか。
 機会あれば観に行きたいものである。

DSCN7085
新薬師寺本堂



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 不空羂索観音の手のひらの間 本:『東大寺のなりたち』(森本公誠著)

2018年岩波新書

IMG_20250322_155242

 著者は、2004年から2007年まで第218世東大寺別当・華厳宗管長を務めた東大寺長老である。イスラム学者としても著名で、イスラム関連の著書や訳書でも高い評価を得ている。イスラムに詳しい仏教者というユニークな存在である。

 本書は、タイトルそのままに奈良東大寺のなりたちを記したものである。
 東大寺誕生の経緯から語り起して、創建者である聖武天皇(701-756)の生涯や政治姿勢や篤い仏教信仰、奈良時代最大イベントである盧遮那大仏開眼(752年)の模様、聖武天皇没後に起きた藤原仲麻呂の乱(764)や宇佐八幡神託事件(769)や藤原種継暗殺事件(785)といった権力闘争劇、そして桓武天皇による平安京遷都までが、様々な文献資料を引きながら綴られ、そうした激しい歴史の流動を東大寺がどのように乗り切ったかが語られる。
 東大寺のなりたちを語るとは、聖武天皇の生涯を追うことであり、奈良時代の歴史をたどることであり、仏教国教化への道を俯瞰することであると実感した。

 さすがに学者だけあって、事実をもとに論拠を明確にしながら推論を重ねる記述には説得力がある。
 ただ、聖武天皇びいきになるのは、立場上、仕方ないのだろう。
 盧遮那大仏や各地の国分寺・国分尼寺の造営が、鎮護国家のみならず民の幸せを一心に願う聖武天皇の慈悲深い御心から発した事業であることに嘘偽りはないと思うが、そのために駆り出されて何十日何百日も酷使され、あるいは、なけなしの財を供出させられる民の苦しみや不満についてはまったく触れておらず、こうした度重なる公共事業が食いぶちのない民を救う福祉政策の一環だったと解釈するに終わっているのは、疑問を持たざるを得なかった。
 完成した大仏を、民は拝むことができなかったというではないか。

東大寺大仏

 東大寺が誕生するまでの経緯を追った部分は、非常に興味深かった。
 現在、創建当時の姿が残る唯一の仏堂は、大仏殿の東の丘にある法華堂(三月堂)であるが、どうやらこれはまた、東大寺で一番最初に建てられたお堂、すなわち東大寺の生まれるもとになったお堂らしいのだ。
 724年即位の4年後、聖武天皇と光明皇后の間に待ちに待った王子が生まれた。
 が、王子は一歳の誕生日を前に病死してしまう。
 深い悲しみのなか、王子の菩提を弔い冥福を祈るために建てられたのが、のちに法華堂と呼ばれることになる羂索院なのである。733年創建と伝わる。
 その名が示すように、いまの法華堂の本尊である不空羂索観音はそのときに造られた像なのである。
 その後、羂索院を含む金鍾寺(こんしゅじ)が、寺域を接する福寿寺と合併され、742年に大和国の国分寺と定められて金光明寺と名を変えた。さらに大仏鋳造の始まった頃(747年)から東大寺と呼ばれるようになった。
 いまある巨大な東大寺の発端は、幼い息子の死を悼み冥福を祈る父と母の思いだったのである。
 であるから、聖武天皇と光明皇后がふだん暮らし政務を執っている平城京の大極殿から東大寺が見えること(東大寺建立前は羂索院=法華堂が見えること)に大きな意味があったのであり、本尊・不空羂索観音の胸の前で合わせた両手のひらの間に水晶の珠が光っていることに、参拝する者は思いを馳せるべきなのである。

IMG_20250322_084813~2
掌中の珠

 現在法華堂にある10体の仏像のうち、創建時からの像は、本尊・不空羂索観音と毎年12月16日に公開される執金剛神の2体のみで、ほかの8体(梵天、帝釈天、四天王、金剛力士の阿形・吽形)はあとから入って来たものらしい。
 中央の本尊と、それを覆い隠すような周囲の3m大の進撃の巨人たちの不思議なバランスの秘密は、そこにあった。
 では、本尊と執金剛神と共にもともとあった像は何かと言えば、現在東大寺ミュージアムにある日光・月光菩薩、戒壇堂にある四天王の計6体だったようだ。それなら不空羂索観音とバランス的にちょうどいいサイズである。
 仏像は動くから面白い。

IMG_20250322_161920
現在の法華堂内陣の仏像配置
(法華堂の案内パンフレットより)

 カリスマ性のあった聖武天皇&光明皇后の亡き後、血で血を洗う政権争いが勃発する。
 これまで偉大な両親のもと乳母日傘でぼんやりしていた安部内親王=孝謙天皇が、稀代の怪僧たる道鏡というパートナーを得て俄然覚醒し、政敵である藤原仲麻呂や淳仁天皇を追いやって称徳天皇として重祚するくだりは、非常にドラマチックである。
 心なしか著者の筆も乗っているようで、次の個所など思わず吹き出してしまった。

 (称徳)天皇は継承の選択肢として、天の加護を受けた出家者もありうるのではないかとその可能性を模索した。つまり道鏡法王にさらなる権威付けとして、「天」からの認定を期待するようになっていったのである。
 どこから漏れたのか、称徳天皇の心中を推し量って鋭く反応したのは宇佐八幡神宮であった。(丸カッコ内ソルティ補足)

 いつの時代でも、いずこの国でも、権力に目がくらんだ連中のやることは似たり寄ったりだ。
 ここでちょっと不思議に思うのは、大事な神託を告げたのが、なぜ宇佐八幡であって伊勢神宮ではないのかという点である。
 お伊勢さんより八幡さんのほうが歴史が古い(=由緒がある)ということを、当時の人々が知っていたから?
 それとも、日本は大事なことは昔から USA に従うという慣例ゆえ?
 いずれにせよ、いまの宇佐八幡の宮司をめぐる騒動を読むと、とても国家的大事について神託を告げられる力があるとは思えない。

 本書の終わりは、855年5月の地震で東大寺大仏の頭が落下してしまった件である。
 開眼から100年も経てば、弱い部分から破損するのは仕方あるまい。
 時の天皇は文徳であった。

 新造するか修理するか、なかなか方針の定まらないところに、右京出身の忌部(斎部)文山なる者が提案した修理計画が採用された。それは轆轤の技術を駆使し、雲梯を巧みに組み合わせて落ちた仏頭を断頭に引き上げ、大仏の頸部に鎔鋳して、新造のようにするというものであった。

 修理事業の総監督を任されたのは、空海の十大弟子の一人、真如
 彼こそは、薬子の乱に失敗し出家を余儀なくされた平城天皇の第3皇子、高岳親王その人である。このとき皇太子であった親王も廃嫡の憂き目にあい、仏門に入ることになったのである。
 この大事業をつつがなく終えた後、真如は仏教の奥義を極めるため、インドへ向けて旅立った。
 が、途中シンガポールあたりで虎に襲われて亡くなったという言い伝えが残っている。
 一方、日本で初めてのクレーンを開発した忌部文山は、その功を認められ、従五位下すなわち貴族に列せられたそうである。


P.S. 本書は、奈良大学通信教育のスクーリングの際、担当教師が紹介してくれました。お礼申し上げます。

 


おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 本:『三島由紀夫を巡る旅』(徳岡孝夫&ドナルド・キーン著)

1981年中央公論社
2020年新潮文庫

IMG_20250311_223603~2

 日本文学研究者&海外への紹介者として、錚々たる昭和の大作家たちと親交のあったドナルド・キーンは、2019年に97歳で亡くなった。ニューヨーク生まれのアメリカ人だったが、東日本大震災を機に日本国籍を取得した。
 一方、毎日新聞記者だった徳岡孝夫は、1930年生まれなので現在満95歳である。
 両者の共通の友人にして本書の主役である三島由紀夫は享年45歳。
 両者は三島の2倍以上を生きたことになる。
 100年に届くほどの長い生涯において、両者ともにもっとも忘れ難い人物が三島由紀夫だったのである。
 実際、日本の近現代には、国語教科書の常連である夏目漱石や芥川龍之介や太宰治、ノーベル文学賞をとった川端康成や大江健三郎など、偉大な作家はたくさんいるけれど、死してなおこれだけ語られる作家は三島を措いていない。
 人々に忘れられることなく話題にされ続けることが三島の狙いであったとしたら、その目論見は見事に成功したと言うべきだろう。

 本書は、三島由紀夫自決から丸一年経った1971年11月に、ドナルド・キーンと徳岡孝夫がはじめて二人で旅行した記録をもとに、徳岡が綴った紀行エッセイである。
 二人は、三島の遺作『豊饒の海』のラストシーンの舞台となった奈良の円照寺(作品中では月修寺)を皮切りに、倉敷、松江、津和野、京都と気の向くままに移動しながら、いろいろなことを語り合った。
 話題の中心が、二人の共通の友であり一周忌を間近に控えていた三島のことになるのは、当然の成り行きである。
 8歳年下の徳岡が、三島と15年間にわたる付き合いのあったキーンに問いを投げかけ、キーンはさまざまな三島のエピソードを引き合いに出しながら答え、それを徳岡が道中の見聞を折り混ぜながら、13篇にまとめている。(初発は1972年1月から『サンデー毎日』に連載)

 文学はもとより、能や歌舞伎や文楽や新派など日本文化全般についてのキーンの造詣の深さは驚くべきものである。
 三島の代表作である『近代能楽集』、『宴のあと』、『サド侯爵夫人』を英訳し海外に紹介した立役者だけあって、キーンの三島文学に対する理解および三島由紀夫という人物に対する洞察は、非常に深く、その言葉には含蓄がある。
 キーンはおそらく三島同様、ゲイだったと思う。
 キーンの三島に対する理解の深さは、生来の文学的感性の豊かさにも増して、同じセクシュアル・マイノリティとして、同じ時代――クローゼット(隠れゲイ)であることを強いられた時代――を生きてきたゆえのものであろう。
 キーンが本書の中で幾度も、「三島さんともっと腹を割って話せばよかった」と言っている真意は、そこらあたりにあるのではないかと思う。
 お互いに、お互いがゲイだと察していながら、カミングアウトし合わなかったのだろう。
 それができていれば、豊かな芸術的感性をシェアできる三島とキーンは無二の親友になれたかもしれないし、ひょっとしたら三島の自決は防げたのかもしれない。
 歴史に「もし」はないけれど・・・・。

 親しかった、しかしよそゆきだった――という表現は、生前の三島と交遊のあった人ほとんどの述懐だといってもいい。十五年間も、しかも翻訳を通じ、また共通の趣味を通じて彼と非常に親しかったキーンさんでさえ、個人的なことについては語り合ったことがなかった。

 晩年の三島に気に入られ、1970年11月25日の事件当日、三島から手紙と檄を託されるほど信頼されていた徳岡もまた、キーンほどではないにしても、文芸通であり、教養豊かな男である。
 文面からは誠実でまっすぐな人柄が伝わってくる。
 三島やキーンのような極めて繊細な感性をもつ人間が、気を使わなくて済むような、気のいい話しやすい相手だったのだろう。
 ただ、次のような“老い”に対する偏見はいただけない。
 95歳の現在、過去に自分の書いた文章を見てどう思うだろう?

三流ホテルのロビーの日だまりに、日がな一日すわっている老人たちの群れを見てぞっとした経験は、欧米へ旅行したたいていの日本人が持っている。それは、まさに「生ける屍」以外のなにものでもない。医学の発達と福祉政策の普及が、もうすぐ日本にもそのような光景を創出するに違いないと、頭の中では知っていながらも、伝統的に散りぎわの美しさ、いさぎよさに無意識にもせよ共感をおぼえている日本人の心は、老醜に目をそむけさせずにはおかないのだ。
 
manhattan-5280895_1280
DanielによるPixabayからの画像

 以下、キーンによる三島由紀夫評を引用する。
 ソルティが三島について思うところとほぼ同じである。

 矛盾のない人間は、つまらない人間じゃないでしょうか。矛盾が多ければ多いほど、その人物は面白いと言うことができます。三島さんは、まさにそうだったのです。

 とにかく、あの人は、すごく意志の強い人でした。強い意志の力を借りて、自分の夢を計画的に一つ一つ実現していったのです。人によって、場合によっては、ごく自然に、夢がつぎつぎに成就することもあります。しかし、三島さんの場合は、不自然なこともありました。三島さん自身としては不自然には感じなかったのでしょうけれど。
 まあ、あの人の夢の中で、なにか一つ現実にならなかったものがあったとすれば、それはノーベル賞だったといえます。

 仮面――たとえば太宰治も、いつも仮面をつけて、自分が道化のような役割を果たしているのだと思っていました。しかし、太宰の場合は、仮面の下にほんとうの自分の顔があったのです。もし、だれかが自分の素顔を見たら、どんなに驚くだろう、とね。だが、三島さんの場合は、仮面の意味がこれとはまったく違います。・・・・・・(中略)
 太宰には、仮面をつけることがどんなに苦しいかという気持ちがありました。しかし、三島さんは、異なった顔になるように自分を訓練したのです。仮面を自分のからだの一部にし、最後には、それが仮面なのか自分のほんとうの顔なのかわからなくなってしまったのだ、と、ぼくは思うんです。

 あの人の政治観には、いろいろな矛盾がありました。あの人自身も、とりたてて矛盾を解決、整理しようとはしませんでした。ただ、天皇という個人と天皇制という制度の矛盾については、非常に深刻に考えていたものと思われます。結局は、「天皇」は「日本」にほかならないという結論に達したようです。

 なぜ、三島さんは、あれほど鴎外にあこがれたのか。それは、おそらく、鴎外の世界が、自分のそれとはまったく違うものだったからでしょう。鴎外にも鴎外の感受性があったことはいうまでもないんですが、それは三島さんの感受性とはまるっきり異質のものだったです。
 だが、三島さんは、絶えず自分とは異質のものにひかれていました。あの人は、自分に似たものを、かえって嫌っていたんです。

mardi-gras-7730289_1280
SecouraによるPixabayからの画像




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 本:『科学化する仏教』(碧海寿広著)

2020年角川選書

IMG_20250303_214235~2

 副題は「瞑想と心身の近現代」
 明治期に西洋から入って来た近代科学を、日本の仏教界がどのように咀嚼して活用したか、あるいは脅威を感じ距離を置いたか、とりわけ禅における修行の要である瞑想がどのように科学化され実用化されていったか、が検証される。
 著者は1981年生まれの宗教学者。「おうみとしひろ」と読む。

 仏教に限らず、宗教と科学は相性が良くない。
 旧約・新約聖書にせよ、仏典にせよ、コーランにせよ、近代科学の目からすればナンセンスな記述が少なくない。
 仏教では、念仏すれば極楽往生できるとか、加持祈祷すれば病気が治り怨霊退治できるとか、瞑想して悟りに達すれば輪廻転生から抜けられるとか、長く信じられてきたけれど、近代科学教育を受けた現代人からすれば、なんの証拠もない世迷言に過ぎない。
 仏教界にとっては、明治初めの神仏分離令を端とする廃仏毀釈の波もきびしかったが、大局的に見たら、近代科学の登場のほうが打撃であったろう。
 そんな中で生き残りをかけて、各仏教宗派は科学との折り合える道を探っていったわけである。

 西洋心理学の普及教育を通して、人々を一段と高い仏教の真理へと導くことができると信じた井上円了。
 催眠術中に起こる超常現象から仏典にある神通力を説明できるとし、念写実験をおこなった福来友吉。
 明治天皇の病を空海爾来の加持祈祷によって治すことができず、釈明に追われた真言密教宗派。
 坐禅する修行僧の脳にアルファ波が出ていることが判明したのを機に始まった、ビジネスや健康や能力開発など、瞑想の現世利益的活用の流行。
 心理学による宗教解釈に一定の理解を示しながらも、「悟り」は科学できないという見解を貫いた禅の大家鈴木大拙。
 東洋思想や神秘主義と、科学の融合が目指された70年代ニューサイエンスの活況が、95年のオウム真理教事件で命脈絶たれるまで。
 そして、現代世界中で流行っている初期仏教のヴィッパサナー瞑想をもとにしたマインドフルネスの展開。
 興味深いトピックが次から次へと取り上げられ、あっという間に読み終えてしまった。

buddha-6798082_1280
Pete LinforthによるPixabayからの画像

 人間の心や言動はまったく合理的ではないので、科学だけではとれえられない、解決できない部分は残る。
 たとえば、科学的に合成されたどんなに良く効く薬でも、薬単体で病気を治すことはできない。治すのは自然治癒力である。
 試験に合格するためには対策を立てて勉強するしかないと分かっていても、人は神社に足を運んで合格祈願してしまう。
 ソルティ自身、こんなことがあった。
 仕事帰りに最寄り駅構内のスーパーで買い物し、家に帰って、財布を落としたことに気づいた。
 現金はともかく、クレジットカード2枚、銀行のキャッシュカード2枚、健康保険証、運転免許証、奈良大学の学生証が痛かった。
 利用停止や再発行の手続きを考えるだけで、気が重くなった。
 自分が通った道を辿り返し、買い物した店に確認をとったが、なかった。
 諦めるしかないと思いつつ、駄目もとで駅の改札の窓口に尋ねた。
 「どんな財布ですか?」
 「黒革の小さな財布です」
 「これですか?」
 ・・・・あった。
 カード一式のみならず、お札も小銭もそのまま入っていた。
 神仏に感謝した。
 合理的に考えれば、拾って届けてくれた人(名前を残さなかった)が善人だったわけで、第一に感謝すべきはその人であることは分かっている。
 また、日本だからこそあり得る話である。
 だが、なぜか、先日巡った奈良や京都の仏像たちの姿が、目の前に浮かんできたのであった。

 合理ではどうにもおさまりつかない部分に、芸術や宗教は入り込んでくる。
 その部分の面積がだんだんと減少していったのが、人間の歴史なのだと思う。
 ただ、科学がどんなに進んでも、人間がどんなにデジタル化しても、その部分が無くなることはないのではないかと思う。
 人間の心や言動のすべてが合理で解明できるとき、おそらく人間は尊厳を失ってしまうからだ。 





おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


記事検索
最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文