2024年佼成出版社
曹洞宗祖師の道元禅師が著した『正法眼蔵』の冒頭に置かれている「現成公案」を、テーラワーダ仏教の僧侶であるスマナサーラ長老が解説している。
と言っても、75の文章からなる「現成公案」の全文ではない。
「仏道をならふといふは、自己をならふなり」、「たき木、灰となる」、「風性常住、無処不周なり」、「同事といふは、不違なり」など、いくつかの有名なパラグラフ(節)が選ばれているほか、同じ『正法眼蔵』の中の「山水経」と「菩提薩埵四摂法」、および道元禅師の語録である『永平広録』からも一部採られている。
現成公案(げんじょうこうあん)とは、「禅宗で自然のままに完成されている公案。常に一切の上に仏法が現れていること。」(小学館『大辞泉』)の意。
スマナサーラ長老は次のように定義している。
「現成公案」とは、「わたしたちの目の前に現れているものは、そのまま真理を表している」ということを言っているのです。
数ある大乗仏教の経典や思想書の中でも最も難解とされ、その解釈において仏教研究者や禅僧の間でも議論百出たる『正法眼蔵』を、かつて小乗仏教と揶揄されたテーラワーダ仏教の僧侶が読み解いている。そのことがまず驚きである。
同じ仏教とはいえ他宗派の僧侶が、曹洞宗の“聖典”である『正法眼蔵』を解説するなど、日本仏教界あるいは日本仏教学会の常識ではなかなかできることではあるまい。
本家本元にとってみれば、「縄張りを荒らされた」みたいな感を抱くのではないかと、悪名高き日本の縦割り社会の一員であるソルティは思ってしまうのである。
が、スマナサーラ長老には『般若心経は間違い?』(2007年宝島社刊行)という極めて過激で挑発的な本を出した前歴があり、日本的な忖度とはいっさい無縁なのである。
それはおそらく、スリランカ出身であるということに加え、「テーラワーダ仏教こそが約2500年前から受け継がれてきたブッダの真の教えである」という確信と自負によるのだろう。
その盤石な視点から日本の大乗仏教各派の教えを調べ、本来の仏教との同異を指摘することができるわけで、挑戦を受けた大乗仏教各派にとってみれば戦々恐々、容易には論駁しがたいものと想像される。
とは言え、本書でスマナサーラ長老は『正法眼蔵』もとい道元禅師を批判したり、間違いを指摘したりしているわけではない。
そこは『般若心経』に対する場合とは異なっている。
次のように言っている。
道元禅師は真理を知りたいだけの人でした。だから、日本の歴史で唯一のお坊さんといえると思います。道を求め続けたほんとうに真面目なお坊さんであったと思います。テーラワーダ仏教の僧侶として道元禅師を見ると、仏道をしっかり歩んでいるえらい先輩のお坊さんとして見えるんですね。禅師には新しい宗派仏教をつくろうという意図はまったくなく、ただひたすらブッダの正法を伝えていきたい、といった思いだけがあったことでしょう。
高評価である。
そもそも日本に初来日された折、スマナサーラ長老は駒澤大学で道元禅師を研究したと、どこかで読んだことがある。
たくさんの“日本仏教”の祖師の中から、空海でも最澄でも栄西でも親鸞でも一遍でも日蓮でもなく、道元を選んだのにはそれなりの理由があったからに違いない。
一方、道元禅師の限界にも言及している。
たとえば、「自己をならふといふは、自己を忘るるなり」という『現成公案』の一節に関して、「自己を忘るるとは解脱の境地を語ったもの」と説明したあとで、
自己がなくなる。物や人が突然姿を消す、消える、存在しなくなるんです。同時に、森羅万象も消えてしまいますよ。見事な順番で道元禅師は語ったんですよ。しかし残念なことに、それをどう実践するかというところまで道元禅師は教えていないんです。
つまり、悟りとはどういうものかを道元禅師は知っていたけれど、そのための方法論を持っていなかったということである。
これは、スマナサーラ長老と曹洞宗の僧侶である南直哉氏が対談した『出家の覚悟』(サンガ、現在絶版)という本の中でも指摘されていた。
道諦(悟りへの道)の教えが伝わらなかったこと。それが大乗仏教の祖師たちを苦しめた最大の障壁であった。
本書を曹洞宗の僧侶や研究者、なにより草葉の陰(あるいは天界)の道元禅師が読んだらどう思うのか気になるところである。
すべてをパーリ経典(阿含経典)に説かれたブッダの言葉によって読み解いていくスマナサーラ長老。本日も通常運転である。
以下、引用。
本来のブッダの教えは、「信仰」ではありません。信心あるいは信仰を求めるものではありません。要するに、「自分とは何なのか、生きるとは何なのか」、それを自分自身で発見することです。自分の心を観察するためには思考はいらないんです。心を観察するためには、できるだけ思考を停止したほうがいいんですね。たいせつなのは自分の心の動きを観察することです。それが「自己をならう」ということになります。一人ひとりの人生が禅なんです。そこに自分はいない。他人もいない。ただ単に現象が、そのままあらわれているだけ。だから人生が全部、禅そのもの。
サードゥ、サードゥ、サードゥ。
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