ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

読んだ本・マンガ

● 本:『完璧な家』(B・A・ハリス著)

2016年原著刊行
2017年ハーパーコリンズ・ジャパン発行

 原題は Behind Closed Doors 
 イギリス生まれフランス在住の女性作家。
 デビュー作である本書は、英国で100万部を超えるベストセラーになったそうだ。


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 負け知らずの有能な弁護士でハリウッドスター並みのルックスを持ち、富と名声と知性と優雅さを兼ね備えた「完璧な」男、ジャック・エンジェル。
 彼に熱く口説かれ、求婚され、夢見た通りの豪邸に住むことになった主人公グレース。
 だれもが羨む幸せいっぱいの新婚生活が始まると思いきや、蓋を開けてみたら、夫の正体は血も凍るようなサイコパスであった。
 外面を「完璧に」取り繕うことができるジャックに骨の髄まで支配され、障害を持つ妹ミリーの安全という人質をとられたグレースは、ジャックの命じるとおりに幸せいっぱいの「完璧な」人妻を演じなければならない。
 地獄の日々はいつか終わるのか?
 
 過去と現在を交互に語る構成が効を奏して、読み始めたら止まらなくなる強烈なサスペンスが全編みなぎっている。
 女性作家ならではの日常生活の細やかな描写もリアリティを生んでいる。
 ジャック・エンジェルがドメスティック・バイオレンスを専門とする弁護士で、虐待された女性のヒーロー(文字通り「天使」)であるという皮肉な設定も、グレースの絶望を一層高める。

 自粛生活続きで退屈しきった人におすすめである。



おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 
 

● 行為は意志に先立つ? 本:『マインド・タイム 脳と意識の時間』(ベンジャミン・リベット著)

2004年原著刊行
2005年岩波書店より邦訳発行
2021年岩波現代文庫(訳・下條信輔、安納令奈)

 ベンジャミン・リベット(1916-2007)はアメリカの生理学者、医師。
 彼の主著である本書には、パラダイムを一新し、我々の世界観・人間観を根底から覆すような衝撃の科学的発見が記されている。
 邦訳発行からしばらくの間は、彼の名前やその発見内容がメディアに取り上げられ、かなり話題になったのを覚えているが、ここ最近はあまり見聞きしなくなった。
 といって、彼の発見が事実として世間に認められ、常識として定着したからではあるまい。
 いまだにリベットの名は科学や哲学に関心ある人の間ではともかく、世間的には知られていないと思うし、その発見の意味するところを他人に語れる人も多くないと思われる。

 察するに、リベットの発見した内容があまりに突飛すぎて、我々の実感とそぐわないものであることが一因としてあるのだろう。

「単なる仮説だろう?」
「トンデモ科学者の発言なんじゃないの?」
「実験そのものにおかしなところがあるに決まっている!」

 そしてまた、その発見内容が人類にとって好ましくないもの・聞きたくないもの(いわゆる「不都合な真実」)であり、まかり間違えば倫理を破壊しかねないものであるところも、話題に乗りにくい原因なのではあるまいか。
 実際、リベットが本書で記している発見とそれが引き出す究極の結論を鵜呑みにした人は「モラルに反する行動をとりやすい」――ということを示した実験結果もあるそうだ。

 究極の結論とは、我々の自由意志の全否定であり、運命決定論である。


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 この本でリベットは、大きく分けて三つの画期的なことを述べています。
 その第一は、感覚が脳で「知覚」されるのに時間がかかるということ、にもかかわらずその遅れを遡り、補うメカニズムを脳が備えているということです。
 第二は、自由で自発的な意志決定といえども、それに先立つ脳神経活動があるということ。このことは一見決定論に加担し人間の自由を奪うようにみえます。そこでリベットは、みずからの発見から自由意志を救い出すためにかなりの紙幅を割いています。
 そして最後が、脳神経活動の空間的な場(リベットがCMFと呼ぶもの)が意識を紡ぎ出しているという仮説でした。(「訳者あとがき」より引用)


 我々が何かに「気づく(アウェアネスがある)」とは、四六時中無意識に受けている膨大な情報の中から特定のものが意識に上がることを言うわけだが、意識に上がるためにはある条件があって、それは「脳内で一定の条件を満たした神経活動が約0.5秒間続かなければならない」――というのが第一の発見である。
 つまり、感覚で何らかの情報を受け取った時点からそれを自覚するまで、少なくとも0.5秒の遅延が生じる。

 自覚したものごとは、それに先立つおよそ0.5秒前にすでに起きたことなのです。私たち人間は、実際の今、この瞬間を意識していません。いつも、少しだけ遅れるのです。

 精神世界でよく「今、ここ」に意識を置いて生きることの大切さが唱えられるけれど、実を言えば、意識のある限り、我々は「今」に生きることができない、常に0.5秒後の世界を生きているのだ。

 でもまあ、これは今さら驚くほどのことではない。
 たとえば、「今」夜空に見えている星が地球から8億光年離れているとしたら、我々が実際に見ているのはその星が8億年前に発した光である。
 もしかしたら、その星は4億年前に消滅して、「今」はないのかもしれない。
 それと同じ類いの話である。


星の爆発

 
 重要なのは二つ目の発見である。
 S・M・コスリンによる「序文」から引用する。

 リベットは人々に、彼らが選んだ任意の時間に手首を動かすことを求めた。実験の参加者は、時間を動かす点をみて、手首を曲げようとした正確な瞬間(に点がどこにあったか)を心に留めておくように求められた。彼らは実際に運動を始める約200ミリ秒前に意図を持ったと報告した。リベットはまた、脳内の「準備電位」を計測している。これは(運動の制御にかかわる)補足運動野からの活動記録によって明らかにされた。この準備電位は実際の行為の開始におよそ550ミリ秒も先立って生じる。したがって、運動を生み出す脳内現象は、実験の参加者当人が決定を下したことに気づくよりも約330ミリ秒前には起こっているということになる。

 すなわち、ふつう我々は、「①まず意志決定があって、②それから行為につながる脳内の段取りがいろいろあって、③最後に脳からの指令によって行為が現れる」と何の疑いもなく思っているけれど、実験結果が示したのはそれとは違って、「①脳内の段取りがスタートし、②その次に意志決定し、③最後に行為が現れる」というものであったのだ。
 行為は意志に先立つ。
 別の言い方をすれば、我々は無意識が決定した行為を、「自分の意志で行った」と勘違いしながら生きている。

 本書には、実験の詳細な方法や過程、結果とそれについての評価、結果から引き出されるリベット自身の解釈、そしてリベットの発表に対して湧き起こった様々な反論についての反駁が記されている。(このあたりの記述は文系のソルティには正直理解が難しかった)
 リベットは言う。

 自発的に活動しようとする意図または願望に被験者自身が気づくよりもずっと前に、脳は自発的なプロセスを無意識に始動します。この結果は、自由意志の性質をどのように考えるかについてと、個人が追う責任と罪にまつわる問題に、まぎれもなく深い影響を与えます。

 すべての行為が無意識の決定によるというのなら、我々は事前にプラグラミングされた通りに動くロボットのようなものである。
 生まれたときから運命はすでに決まっている。
 であるのなら、この世で罪を犯すことも事前にプログラムに書かれているのだから、それについて責任を問われるのは理不尽ということになる。
 これが、この発見が倫理上の問題を引き起こしかねないという意味合いである。


ロボット



 リベットの発見は、運命決定論者や「心的現象はすべて脳神経の問題に還元できる」という決定論的唯物主義者にとって力強い論拠となり、その持論や研究を後押しする流れを作ったことが、訳者の下條信輔による解説で触れられている。(当ブログでも取り上げた前野隆司の受動意識仮説はその流れの一つであろう)
 世間的には一見忘れ去られているように見えても、脳科学や意識研究の先端においては今や本流となっている知見(作業仮設)なのであった。
 生物学、生物工学を専門とする下條自身もまた、こう言っている。

 私自身の立場は「自由意志は、真正のイリュージョン」というものだ。この「真正」にポイントがあり、「自由意志はリアルで実体がある。ただし、他の知覚・認知と同等の身分で」というのと、ほぼ同じ主張だ。


 ただし、本家本元たるリベット自身は最初の引用に見るように、「みずからの発見から自由意志を救い出す」方向性を選び取った。
 究極の運命決定論に与さなかったのである。

 意識を伴う自由意志は、人間の自由で自発的な行為を起動しません。ですが、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御できます。行為を(実行に至るまで)推し進めることもできるし、行為が起こらないよう拒否もできます。

 すなわち、「①脳内の段取りがスタートし(0.5秒前)、②その次に意志決定し(0.2秒前)、③最後に行為が現れる(0秒時点)」という流れにおいて、無意識の領分である①の段階には介入できないが、意識の領分である②の段階において「拒否権」を発動できる。
 無意識が決定したことにNOを言うのが、我々の自由意志の主たる役割という。
 究極の運命決定論との違いは、プログラムは事前に決定されてはいるものの、それに従わないことを選択できる0.5秒内の自由裁量が与えられているってことだろう。
 そこを逃したら、我々はロボットのように自動的に生きるほかない。

 ただし、リベットの“良心的な”救い出しの理論は、不整合が指摘されている。
 無意識が決定したことにNOを言う、すなわち「拒否する」という意志自体もまた、先行する無意識の決定に0.5秒遅れて発動されている可能性があるではないか?――というものだ。
 つまり、「拒否する」こと自体を0.7秒前に無意識が決めているのではないか?
 であれば、結局、決定論と変わりない。
 リベットは、「意識を伴う拒否には、先行する無意識プロセスは必要ないし、あるいはその直接的な結果でもない」と言っているが、それは実験による検証を経た事実ではなく、希望的観測に近いとみなされている。

脳みそ


 
 ソルティのなによりの関心は、リベットの発見と見解が原始仏教の言説と重なるところである。
 無意識による行為の決定と運命支配の様相は、あたかも業(カルマ)や因縁について語っているように思われる。
 つまり、原因と条件があって結果が生じる。私の意志もまた原因と条件があって勝手に生じている。すべては起こるべくして起こっている
 また、リベットがここで言う自由意志とは原始仏教の五蘊(色・受・想・行・識)の中の「行」(サンカーラ)に相当すると思うのだが、ブッダはまさに五蘊は無常であり無我であり、自由意志は幻想(イリュージョン)に過ぎないと説いたのであった。
 無明から始まる十二因縁がただ連続して生起消滅し、果てしない過去から果てしない未来へと苦の連鎖すなわち輪廻転生が続いているのが我々の生(と死)であって、その流れのどこにも「私」と言えるものは実体として存在しない。
 そこに気づかないから輪廻転生は終わらない、欲望と衝動に突き動かされてありのままの真実を見ないから無明から抜けられない、そう説いたのである。
 そして、輪廻の苦しみから抜け出る唯一の方法は、「気づき(念)」すなわちアウェアネスを育てて輪廻の輪に楔を打ち込むことであり、それがヴィパッサナ瞑想である。
 気づきによって無意識の罠(=プログラミングされた生)から抜けること、それが解脱であろう。


知恵の輪


 最終章でリベットは、ルネ・デカルトとの架空対談を設定している。
 デカルトは言うまでもなく、「心と体は別物」という二元論説の生みの親にして、「我思う、ゆえに我あり」の近代的自我の発見者と目されている。
 この対談によって、リベットの発見や見解が近代哲学においてどう位置づけられるかが措定されるとともに、「自己や魂や自由意志のいかなる感情もイリュージョンである」とする決定論的唯物主義者とは微妙に距離を置くリベット自身の世界観(あるいは宗教観)も明らかにされる。
 面白い趣向である。

 だが、リベットはここでブッダとこそ対談すべきであった。
 おそらくリベットは原始仏教を知らなかったのだろう。知っていたらデカルトでなくブッダを対談相手に選んだはずである。
 さすれば、おのれが発見し辿りついた見解が、2000年以上も前にすでにブッダによって明らかにされ理路整然と説かれていることに驚愕し、即座に三宝帰依したに違いない。

 現代の脳科学者や意識研究者たる者、原始仏教の経典を紐解かずに研究し発言することは、恥をかきたくないのならば、控えたいところである。


サードゥ、サードゥ、サードゥ


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おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 本:『シャーロック・ホームズのドキュメント』(ジューン・トムスン著)

1997年原著刊行
2000年創元推理文庫(押田由起・訳)

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 ジューン・トムスン(1930- )は、イギリスの推理作家。
 ジャック・フィンチ主席警部シリーズが代表作だが、邦訳されているのはいまのところ2作品だけ。
 むしろ、筋金入りのシャーロキアンを証明してあまりあるシャーロック・ホームズの贋作(パスティーシュ)短編シリーズが有名である。
 邦訳は1991年に出版された『シャーロック・ホームズの秘密ファイル』を皮切りに、『シャーロック・ホームズのクロニクル』、『シャーロック・ホームズのジャーナル』と続き、本作が4作目である。
 いまや、贋作ホームズものの第一人者と言ってもいいのではなかろうか。

 ソルティは本作がはじめてであるが、実は読了後に解説を読むまで、男性作家とばかり思っていた。
 言われてみればジューンはたしかに女性名なのだけれど、名字のトムスンが男性っぽい響きなので、男だと勘違いしていたのである。
 それに、本シリーズのような、コナン・ドイルの“聖典”を彷彿とさせる正統な形式――時代設定は原作そのまんまで助手のワトスン博士の語りによる一人称体――の短編集は、どちらかと言えば男性作家のほうが得意なのではないかと思っていた。語り手は男で、主として男同士(ホームズ&ワトスン)の日常が描かれるからだ。
 ジューン・ワトスンが女性作家と知って意外でもあったし、読んでいる間は女性の手によるものとは感じさせない自然さがあったので、筆力に感心した。

 “聖典”と比べるのは酷というものだが、むろん、犯罪トリックの奇抜さやホームズの推理の鋭さは到底かなわない。
 が、時代考証がしっかりしていて19世紀英国の雰囲気が味わえるし、ジューンの緻密で熱心な研究により“聖典”との整合性も見事にとれている。
 ストーリーもなかなか面白い。とくに、女性が犯人である作品群に、“聖典”とは違った微妙なニュアンス(たとえば同性ならではの容赦なさ)がたくし込まれている。
 前言と矛盾するようだが、そこはやはり女性作家ならではの視点を感じる。

 しばらく楽しめそう。



● 50歳以上お気の毒さま 本:『白い病』(カール・チャペック著)

1937年原著刊行
1992年邦訳初出
2020年岩波文庫(阿部賢一訳)

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 3幕の戯曲。
 カール・チャペック(1890-1938)は、今は無きチェコスロバキア共和国のジャーナリスト&作家。
 チェコスロバキアは1918年オーストリア=ハンガリー帝国から独立して建国、1960年以降は共産党独裁による社会主義国家となりソ連の支配下にあった。1992年のビロード革命で共産党政権が崩壊、チェコ共和国とスロバキア共和国に分離して今に至っている。

 白い病とはチャペックが創造した伝染病である。50歳以上の人間だけが罹患、皮膚に白い斑点が現れたのち身体内部で腐敗が進行し、数週間後に死亡する。感染力は非常に強く、握手でもうつる。中国が発生源という噂がある。
 新型コロナウイルスとの類似を思うところだが、本書はまさに2020年4月~5月の緊急事態宣言中に訳し出されてウェブ公開されたのが文庫化のきっかけとなった。
 カミュの『ペスト』、デフォーの『ペスト』同様、タイムリーな企画出版というわけだ。

 白い病はコロナ同様、世代間の分離と対立を引き起こす。
 作中に登場するある家族の会話。

父 ばかげてる! 今日の学問や文明はいったいどうなってるんだ、ありえん話だ――伝染病がこんなに流行しているってことは、今は中世だとでも言うのか? しかもどうして五十歳なんだ。職場でも一人が病気になったが、ちょうど四十五だった。五十前後の人間だけが病気になるのはどう考えても公平じゃない。いったいどうして、なぜなんだ――
 なぜって? 父さん、若い世代に場所を譲るためでしょ。そうならなければ、行き場がないんだから。

娘 今の若者にはチャンスがないの、この世の中に十分な場所がないの。だから、私たち若者がどうにか暮らして、家族をもてるようになるには、何かが起きないとだめなの!


 世界じゅうに広がり打つ手がないように思われた白い病の特効薬を、ある町医者が開発した。ガーレン医師だ。
 お国の大学病院を借りておこなった臨床試験でも抜群の成績を上げた。
 大学病院の責任者はじめ財界や政界のお偉方は、ガーレン医師に治療法の公開を求める。
 それに対してガーレンが要求した引換え条件は、あまりにまっとう過ぎるがゆえに、かえって実現困難なものであった。

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 本作のテーマは、平和を求める者と戦争・権力・富を求める者との対峙を描くところにある。それはまた「持たざる者」と「持つ者」との闘いであり、一人の平和主義者が国家主義者に挑んだ一種のテロリズムである。武器は白い病の治療法だ。

 発表当時はもちろん、ヨーロッパで勢力を拡大しつつあったナチスドイツ、つまり国家主義&全体主義に対する風刺であり、プロテストだったのだろう。登場人物の一人、国軍の最高指導者たる元帥は、ヒトラーを連想させる。
 本作がタイムリーなのは白い病がコロナウイルスと似ているからだけではない。
 平和をひたすら求め貧しい患者を助けるガーレンと、「国のため」と言いつつ栄誉や威信や私利私欲に執着する権力者との対比に、香港や台湾の市民 v.s. 中国共産党を、あるいは民主化を求めるミャンマーの大衆 v.s. 国軍を、重ね合わせてしまうからである。
 時代を超越するところが名作たるゆえん、岩波文庫にふさわしい。

 最後には元帥自身も白い病に感染してしまう。
 さて、どんな結末が用意されているか・・・・。

 140ページの薄さなので、小一時間あれば読める。
 

 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 8

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 今日では多くの人々が、とくに西洋では、あなたが忙しくしていないと、何か問題があるんじゃないかと言ってきます。
 彼らの考えるところでは、
「なんと、君は何もしていないのか? 週末には何をしてるんだい?」
「いやいや! 何もしていないよ。ただ家にいるだけさ」
「ええ! 何もしなかっただって? ただ家にいた? 何か問題があったんだね」
 何の問題もありません。
 彼らはただ狂ったようにあちらこちらへと走り回っていて、あなたはそうでないというだけです。
 あなたは正気で、彼らが狂っているのですが、彼らはあなたが狂っていると思うのです。


 ご多分に漏れず、コロナ禍になってから “おうち”時間が増えたソルティであるが、じゃあ“おうち”で一体何をしているのか?――と言えば、ほぼ読書と映画鑑賞とブログ執筆とプールと散歩と瞑想である。
 コロナ前より減ったのは、クラシックコンサートや落語や美術館に行くこと、山登り、ボランティア、友人との会食あたりだろうか。ボランティアは人と関わるものなので、感染予防の観点からNGである。
 こうやって対外的活動が縮小され一年以上たって思うのは、「行かなきゃ行かないで別にどうってことない」ってことだ。失った娯楽や活動に対して欲求不満が高じるなんてことはなかった。

 若い頃は休日に家にいるなんて我慢ならなかった。晴れた日はとくに。用を作っては、あるいは用がなくても、街に出かけたものだ。
 五十を超えた今では、街に行くのが億劫に感じる。コロナ感染のリスクがなくても、人混みや喧騒には足を踏み入れたくない。体力や精力の減退が一つの因であるのは間違いなかろう。ちなみにソルティにとっての「街」とは、都内のことである。
 月2回は行っていた山登りもまた、今やそれほどの熱を身内に感じない。一昨年に四国歩き遍路を結願してから、憑き物が落ちたようにアウトドア志向あるいは徘徊癖が希薄になった。もっとも、足の骨折の影響も大きいが・・・。
 
 仕事以外の多くの娯楽や活動は、つまるところ、「やりたくてやっている」、「やらずにはいられない」というよりは、「時間をつぶすため」あるいは「気晴らしのため」にやっているのだ。
 自分にとって、それがないと本当に参ってしまうのは、おそらく、読書と瞑想と何らかの運動だけであろう。(ソルティは“塀の中”を快適に過ごせるかもしれない。独房に限るが・・・)

 若い頃は外の世界に「何か」を求めていて、そしてその「何か」が手に入らなくて焦燥に駆られていたものだが、だんだんと外の世界には本当に“自分”が満足できるものはないんだと思うようになった。
 というより、“自分”というものは決して満足しないシステムなんだと知るようになった。

 歳を取ること、そして今回のコロナ禍、いずれも真に必要なものを明らかにしてくれるチャンスである。


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S. Hermann & F. RichterによるPixabayからの画像




● ソ連消滅30周年 本:『ソヴィエト旅行記』(アンドレ・ジッド著)

1936、1937年原著刊行
1937年邦訳初出
2019年光文社古典新訳文庫

 ソヴィエト、ソ連という国が地上から消えてすでに30年経つ。
 あんなに大きな、あれだけ威勢を誇った、あれほどアメリカはじめ西側諸国を脅威に陥れた国が一夜にして無くなるとは、まさに晴天の霹靂であった。
 猛き者もついには滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ・・・・
 当時(1991年)、第一報に接したとき思わず朗誦したくなったのを覚えている。


赤の広場
モスクワ:赤の広場


 住井すゑ著『橋のない川』を読むと、1917年にロシア革命が起こって史上初の社会主義国家であるソヴィエトが誕生したことが、日本全国の被差別部落の住人や貧苦にあえぐ農民や労働者らにとって大いなる希望と勇気をもたらしたことがありありと知られる。1922年に早くも日本共産党が生まれている。
 世界でもそれは同じで、1921年に中国共産党が誕生しているし、ヨーロッパでも芸術家や知識人をはじめ共産主義に共鳴し新生ロシアに期待する人は多かった。皇帝専制政治を廃し、人民(プロレタリア)主体の自由と平等と平和を掲げた国の出現は、人類が永年夢見たユートピアの到来を思わせたのである。
 フランスのノーベル文学賞作家であるアンドレ・ジッド(1869-1951)もまたその一人であった。

 ソ連が私たちにとって何であったか、誰か言える者があるだろうか。望んで選んだ第二の祖国というだけでは足りない。一つの規範、一つの指針だったのだ。私たちが夢見ていたもの、高望みと知りつつも、それでも私たちの意志が全力を挙げてそこへ向かおうとしていたもの、それがかの地では実現されていたのだ。ユートピアがまさに現実のものになろうとしていた土地、それがかの国だったのだ。

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 本書は、ジッドが1936年の6月から8月にかけてソヴィエトを旅行した際の見聞録『ソヴィエト旅行記』と、それが故国で発表されるやいなや巻き起こった左派からの激しい非難や罵倒に対して反論した『ソヴィエト旅行記修正』の2編から成っている。 
 つまり、共産シンパであった一人の作家が、革命20年後のロシアを訪れ、その最も良い部分を経費あちら持ちの大名旅行で見物し、にもかかわらず、ロシアの惨憺たる現実と革命の失敗に気づき、帰国後共産主義ときっぱり決別することになった、いわゆる「転向」の一幕が描き出されている。
 スターリン独裁下のロシアの、まるでジョージ・オーウェル『1984』そのままの全体主義的管理社会の風貌を伺うのも興味深いが、やはり一番の魅力は、多大な影響力をもつ西側の共産シンパの著名人をだますために体よくお膳立てされた見学ツアーにあって、虚飾の下の真実を見抜くジッドの観察力と洞察力、そしてしばしば「転向者」に向けられる罵倒や蔑みをものともせずに、率直に自らの誤りを認め、事実をありのままに伝えんとするジッドの芸術家としての誠実さと使命感である。

 今、為政者たちが人々に求めているのは、おとなしく受け入れることであり、順応主義である。彼らが望み、要求しているのは、ソ連で起きていることのすべてを称賛することである。彼らが獲得しようとしているのは、この称賛が嫌々ながらではなく、心からの、いやもっと言えば熱狂的なものであることである。そして最も驚くべきは、それが見事に達成されているということなのだ。しかしその一方で、どんな小さな抗議、どんな小さな批判も重い処罰を受けるかもしれず、それに、たちまち封じ込められてしまう。今日、他のどんな国でも――ヒトラーのドイツでさえ――このソ連以上に精神が自由でなく、ねじ曲げられ、恐怖に怯え、隷属させられている国はないのではないかと私は思う。

 私にとって何よりも優先されるべき党など存在しない。どんな党であれ、私は党そのものよりも真実の方を好む。少しでも嘘が入り込んでくると、私は居心地が悪くなる。私の役目はその嘘を告発することだ。私はいつも真実の側につく。もし党が真実から離れるのなら、私もまた党から離れる。

 國分俊宏による新訳は非常に読みやすく、注も解説も充実している。
 とくに、日本共産党の委員長だった宮本顕治の妻でプロレタリア作家の宮本百合子が、本書が最初に邦訳された(1937年)ときに発表した書評についての記述が非常に面白い。
 当然、宮本はジッドと本書をクソミソにこき下ろした。曰く、ブルジョア育ちの芸術家で世間知らずのジッドは、大局的な現実を、歴史の本質を見ていない云々・・・。
 國分はこう書いている。

 いずれにせよ、歴史を見ればすでに決着はついている。宮本の文章は、常に絶対にイデオロギーに忠実であろうとして党派性にのみ固執すれば、どんな歪んだ理屈で人を批判するかという民族誌的標本として貴重な例を提供していると言うべきだろう。

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 ソ連はなくなったが、取って代わるように同じ共産主義国家である中国が世界を席巻している。北朝鮮は鉄のカーテンどころか「タングステンのシャッター」の向こうにあり、中で何が起こっているのか計り知れない。中国やロシアとの関係を深める軍事政権下のミャンマーの今後も気がかりである。
 社会主義や共産主義が危険なのは、それが好んで標榜する「自由・平等・民主・人権・進歩」といった概念そのものが過ちであるからではなく、抑圧され苦しんでいる大衆を惹きつけて莫大なパワーを結集させるこの“魔法の言葉”が、権力への飽くなき野望をもつレーニンやスターリンや毛沢東のような狂人たちにとって、野望実現のための恰好な隠れ蓑になるからではなかろうか。
 右にも左にも関係なく権力と支配が大好きな輩はどこにでもいて、イデオロギーさえ彼らのいいように利用されるってことだ。

 
ジッド
ジッドと年下の愛人マルク・アルグレ

 

おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● ズームイン仏教 本:『脳と瞑想』(プラユキ・ナラテボー&篠浦伸禎著)

2014年(株)サンガ
2016年サンガ新書

 副題が長い。
 「最先端脳外科医とタイの瞑想指導者が解き明かす苦しみをなくす脳と心の科学」

 脳外科医とあるのが1958年生まれで都立駒込病院脳神経外科部長をつとめる篠浦伸禎で、一方、瞑想指導者とあるのが1962年生まれで88年タイで出家したテーラワーダ僧侶のプラユキ・ナラテボー師である。

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 第一部では、プラユキ師によるタイで実践されている代表的な三つの瞑想法の伝授と、篠浦が現場で実践している脳の覚醒下手術の説明とそこから判明した脳の部位による働きの違いに関する知見が記されている。
 第二部は二人の対談である。

 最先端脳科学と仏教あるいは瞑想との関係を説いた本はいまなおブームであり、当ブログでもいくつか取り上げてきた。
 中でも、『瞑想脳を拓く』(井上ウィマラ、有田秀穂共著)、『なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』(ロバート・ライト著)、『科学するブッダ 犀の角たち』(佐々木閑著、角川文庫)、『奇跡の脳』(ジル・ボルト・テイラー著、新潮社)などはお勧めである。
 また一冊、脳の覚醒下手術による知見という新たなアプローチがここに加わったわけである。

 脳の腫瘍摘出などで開頭手術を行う場合、これまでは全身麻酔が普通であった。
 が、近年、これに変わって実施されるようになり治療効果の高さや副作用の少なさから注目を浴びているのが、覚醒下手術である。
 篠浦によると、

 全身麻酔の手術では、患者さんののどに管を入れて、麻酔薬で患者さんを完全に眠らせ、最後まで意識のない状態で手術を行います。一方、覚醒下手術は、基本的には、局所麻酔と静脈からの麻酔薬で痛みを取り、腫瘍を摘出するところでは完全に麻酔薬を切って行います。つまり、手術中に患者さんに起きていただき、症状が悪化しないかチェックしながら手術ができるため、全身麻酔の手術に比べて極めて安全な手術になります。

 一瞬びっくりするような話であるが、こういったことが可能なのは、脳自体にはもともと痛みを感じる神経がないことと、局所麻酔による痛み止めの技術が近年格段に進歩したゆえである。(ソルティも足の骨折手術時にお世話になった)
 覚醒下手術だと、脳の術部周辺に電極を当て刺激を与えつつ、手術台の上の患者さんの意識や認知機能の変化を本人に直接確認することで、安全に手術続行できるかどうかチェックできるわけである。これが全身麻酔だと、摘出手術が終わり患者さんが覚醒したときに言語障害や麻痺や認知機能の損壊といった思わぬ副作用が見つかったとしても、もはや取り返しがつかない。
 医学の進歩はすごいもんだ。

 覚醒下手術はまた副次効果が興味深い。
 てんかん患者を対象にした覚醒下手術&実験をもとに作られたペンフィールドのホムンクルス(下図)は、脳の運動野と感覚野が体のどの部位と対応しているかをマッピングしたものとして有名だが、患者が自らの意識経験をリアルタイムで証言できる覚醒下手術だと、脳のどの部位が、特定の意識や認知といった知的・精神機能と関与しているかが見えてくる。
 たとえば、ある部位に刺激を与えたら他人の恐怖の表情が読めなくなったとか、ある部位の腫瘍を摘出したら急に難しい数字の逆唱ができるようになったとか、人の脳の機能の解明と言う点で極めて意義深く、新たな地平を開くものがある。
 いずれ、認知症の原因解明と治療などに役立つ日が来るやもしれない。 
ホムンクルス

 
 第一部の最後には、篠浦がこれまで何百回と行った覚醒下手術から得た脳の働きに関する知見をもとに作った「脳のタイプチェック」が紹介されている。
 大まかに、4タイプに分かれている。
 脳優位スタイル検査というサイトでチェックテストをすれば、自分がどのタイプにもっとも当てはまるか知ることができる。
 本書のカバー裏には脳テストを受けるために必要な個別の ID とパスワードが貼ってあり、本書を購入した者はこの脳テストに参加し、自身のタイプを知り、アドバイスを受けられる仕組みになっている。
 面白い試みである。(ソルティは本書をブックオフで購入したので、IDとパスワードはすでに使用済みだった・・・・残念)
 
脳

 
 メインとなる第二部の対談では、やはり現役のテーラワーダ僧侶であり、日本での講演や瞑想指導でも人気を博しているプラユキ師の言葉が奥深い。
 ソルティはこれまで彼の法話に接したことがなく、本を読むのも初めてであるが、智慧と慈悲、仏法理解と実践とのバランスの取れた、柔和な性格の人という印象を受けた。

 以下、本書よりプラユキ師の言葉を紹介。

 瞑想の目的は智慧を得て、苦しみから自由になっていくことと、一切衆生への深い慈悲を育てていくことです。瞬間瞬間に気づいていくことはその手段です。もちろん瞑想によって心の安らぎや落ち着きが生じたり、あるいは歓喜の体験や三昧体験などさまざまな変容意識体験も生じてきますが、そういった境地を得ることが瞑想の最終目的ではありません。・・・・・智慧を得ていくためには、特定の心の境地へのとらわれからも自由になって、心をコントロールすることをやめ、あるがままの洞察に進んでいくことが大事です。

 まず、自分の意見や気持ちを相手に押しつけようとするのが自我的。それに対して、相手の意見も自分の意見も平等に尊重した視点から発言できるのが瞑想的
 それから、相手の表面に現れる言葉にすぐに反応しちゃうのが自我的。それに対して、相手の言葉をいったん受けとめて、その言葉の奥にある相手の思いや願いにまで思いを馳せられるのが瞑想的
 そして、問題が生じてきたとき、すぐに白黒をつけようとするのが自我的。それに対して、その問題を通していろいろ学んだりしながら、相手との関係をより良くしていこう、より良い解決法を見つけていこうと前向きに取り組むのが瞑想的な対応法です。

 悩み苦しみとは、よるべを失い、恣(ほしいまま)にさまよう心の作りだす空想物語の数々です。こうした理解を経て、思考やイメージの主になりえたとき、今度は逆に、今、目の前の困難な状態にある相手にまみえても、自由にイマジネーションの翼を広げて、その人の来し方、行く末のより良く変容した姿も思い描け、いたずらに相手の今の姿に落胆や狼狽することがなくなります。そして、思いやりと希望を持って、相手の良き縁とならせてもらうために、今ここで自分が何をさせてもらったらいいかなど、冷静に対応を吟味できるようになるのです。

 コロナが落ち着いたら、法話を聞きに・・・・いや、師のツイッターによれば、ZOOMで今も瞑想指導や個人面談をやっているらしい。
 時代はZOOMか・・・・。 



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損



● 漫画:『てるてる坊主食堂 末期すい臓がんからの復活』(のりぽきーと・作画)

2019年風濤社

 若くして夫を亡くした女将と、パリで国際結婚のち離婚した娘(のりぽきーと)。
 母娘二人で切り回す地域密着の美味しい「てるてる坊主食堂」(埼玉県が舞台らしい)。
 地元民に愛され、儲かりはしなくとも楽しく充実した日々を送っていた母娘に、悲劇は突然訪れた。
 胃の不調で検査を受けた女将が受けた診断結果、それは「すい臓がんで余命2ヶ月」だった。
 本作は、四コマ漫画とエッセイで綴られた母と娘の闘病記である。

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 まず、立派な体裁に感心する。
 全頁オールカラーなのだ。漫画の一コマ一コマはもちろん、あとがきに載っている母娘や料理の写真も。
 紙質も厚くて、白けざやかで上等。
 ふと、昔サンリオが出していたオールカラーの月刊誌『リリカ』を思い出した。
 手塚治虫(『ユニコ』)、水野英子、山岸凉子、ちばてつや、石ノ森章太郎、樹村みのり、竹宮恵子、萩尾望都、永島慎二など、豪華絢爛たる顔触れの執筆陣だった。

 出版不況のいま、なぜこのような贅沢が可能なの?・・・と思ったら、奥付ページに答えがあった。
 ネットのクラウドファンディングCAMPFIREを通じて出版資金を募ったのだ。
 もともとは、のりぽきーとさん主宰の四コマ漫画ブログだったらしい。
 
 女将は、すい臓摘出の大手術とその後の抗がん剤による副作用を乗り越えて、毎日インスリン投与しつつ、無事お店に復帰する。
 そこに至るまでの母と娘の悲喜こもごもが、二人を支える様々な人々――中学生のハーフの孫娘、常連客、女将の仕事仲間や友人、ブログを通じて知り合ったがんの闘病者、娘がパリで作った異国人脈、病院のイケメン担当医など――との触れ合いとともに描かれる。
 女将を復帰させ、2か月と言われた余命を5年近く延ばしたのは、これら周囲の人々の支えと、料理屋の女将という仕事に対する熱い思いであったことが伝わってくる。
 むろん、しっかり者の娘の愛情と――。
 
 美味しい卵焼きが食べたくなった。

卵料理



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 大川小学校の悲劇 本:『津波の霊たち 3.11死と生の物語』(リチャード・ロイド・パリー著)

2017年原著 Ghosts of the Tsunami 刊行
2018年早川書房
2021年ハヤカワ・ノンフィクション文庫

 著者は1969年生まれの英国人ジャーナリスト。
 『ザ・タイムズ』東京支局長として1995年より日本に住む。
 2000年に神奈川県逗子で起きた英国女性ルーシ・ブラックマンさん殺害事件の真相に迫ったノンフィクション『黒い迷宮』(早川書房)を著している。(この事件は映画化されるらしい)
 2011年3月11日の東日本大震災直後より被災地を回って取材に当たった。本書はそこから生まれたものである。

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 この震災で起きた数多の出来事はきわめて複層的で、その影響や意味が及ぶ範囲ははかり知れないものだった。そのため、私は物語の本質を確実にとらえたと感じたことは一度もなかった。それはまるで、角や取っ手のない不自然な形の巨大な荷物だった。どんな方法を試してみても、荷物を地面から持ち上げることはできなかった。震災から数週のあいだ、哀れみ、戸惑い、悲しみに私は苛まれていた。しかし、それ以外のほとんどのあいだに感じたのは、無感覚な冷静さだった。そして、焦点を見失っているというやっかいな感覚だった。(本書プロローグより)

 このように“厄介な”状態にいた著者リチャードは、震災から数ヵ月たった夏、宮城県石巻市の小さな集落で起きたある事件を知るところとなる。
 その地・釜谷に何度も足を運び、被災した人や家族を失った人に話を聞き、取材を続けているうちに、「やがて私は想像することができるようになった」、すなわち正常な感覚がよみがえり、焦点を取り戻したのである。
 その事件こそ、裁判となって日本中知られるところとなった大川小学校事件である。

 本書では、タイトルが示す通り、震災後にあちこちで生じた霊的現象とその意味に関する考察が語られる。別記事で取り上げた『震災後の不思議な話 三陸の〈怪談〉』同様、オカルチックな要素がふんだんにある。
 また、千年に一度という大津波の凄まじい破壊力と地獄の様相、その中で亡くなった人と生き延びた人の様子もリアリティもって描かれる。まさに九死に一生を得た石巻市職員の体験談などは、エドガ・アラン・ポーの小説『メールシュトロームに呑まれて (A Descent into the Maelstrom)』さながらで、津波の恐ろしさ、および生と死とが紙一重であることをまざまざと教えてくれる。
 被災地をめぐって死者の霊を慰め、生き残った人々に寄り添い、場合によっては除霊もする宮城県栗原市通大寺の住職・金田諦慶に関する記述は、読む者に畏敬の念を抱かせる。金田住職の例が示すように、宗教や信仰の価値、出家者の存在意義が改めて問われたのも震災の一つの側面であった。外国人リチャードの目を通して、深いところで息づいている日本人の神仏や祖先に対する信仰が描き出されているのもまた、読みどころである。

 しかしながら、本書のメインはあくまで大川小学校で起きたことだ。

東日本大震災に伴う津波が、本震発生後およそ50分経った15時36分頃、三陸海岸・追波湾の湾奥にある新北上川(追波川)を遡上してきた。この結果、河口から約5kmの距離にある学校を襲い、校庭にいた児童78名中74名と、教職員13名中、校内にいた11名のうち10名が死亡した。その他、学校に避難してきた地域住民や保護者、ほかスクールバスの運転手も死亡している。

2014年(平成26年)3月10日、犠牲となった児童23人の遺族が宮城県と石巻市に対し、総額23億円の損害賠償を求める民事訴訟を仙台地方裁判所に起こした。
(ウィキペディア「石巻市立大川小学校」より抜粋)

大川小学校
震災前の大川小学校全景


 一番の問題は、本震発生後に児童を校庭に集合させてから津波が到達するまで50分もの猶予があったのに、なぜ教師は学校のすぐ裏手にある里山に児童を避難させなかったのか、あるいはなぜスクールバスに分乗させピストン輸送で高台に運ばなかったのか――という点である。それさえできていれば、当時校庭にいた児童や教員、地域住民の命は助かっていた。同じような条件下で、同じ石巻市内にある門脇小学校では在校児童全員をすぐ高台に避難させ、一人の死者も出さなかった。

 この運命の50分間にいったい何があったのか?
 責任者たる校長は、教頭は、そのとき何をしていたのか?
 「津波が来るぞ~!逃げろ!」という他の町民や市の広報車の警告があったのに、なぜそれが無視され続けたのか?

 リチャードは子供を失った親たち、高台に逃げて無事助かった地域の住民、学校からいち早く車で子供を連れ出して津波をからくも避けることができた親たちを取材しながら、事件の真相に迫っていく。
 さらに、子供を失った親たちの一部が、家や仕事や家族や友人を失い悲しみのどん底にいる他の町民の心をさらに惑わせ、平和だった町を分断するリスクがあると知りながら、あえて石巻市と宮城県を相手に訴え出なければならなかった背景を探り出していく。

 そこにリチャードが見たのは、「古き良き日本」――礼儀正しく“和”を尊ぶ忍耐強い人々がつくる固い絆と習わしとで結ばれた共同体――のもう一つの姿、すなわち、事に当たってだれも責任を取りたがらず、その場しのぎの泥縄式の対応を繰り返し、“世間の目”により個人が自律的に行動することを妨げ、真実や良心より組織を守ることに汲々とし、お上に対して楯突いたり逆らったりすることを恥と感じ、大乗仏教仕込みの“無常”観で闘う前にすべてをあきらめ受け入れてしまう、日本人の姿であった。
 日本人の宿痾、笠井潔言うところのニッポン・イデオロギーに直面したのである。
 リチャードは吠える。
 
 私としては、日本人の受容の精神にはもううんざりだった。過剰なまでの我慢にも飽き飽きしていた。おそらく人間の域を超越したあるレベルでは、大川小学校の児童の死は、宇宙の本質に新たな洞察をもたらすものなのだろう。ところが、そのレベルよりもずっと前の地点――生物が呼吸し、生活する世界では――児童たちの死はほかの何かを象徴するものでもあった。人間や組織の失敗、臆病な心、油断、優柔不断を表すものだった。宇宙についての真理を認識し、そのなかに人間のための小さな場所を見いだすのは重要なことにちがいない。しかし問題は、この国を長いあいだ抑圧してきた“静寂主義の崇拝”に屈することなく、それをどう成し遂げるかということだった。

 ここに至って、リチャードが追究し問い糺しているのが、我々日本人のアイデンティティであり、日本と言う国のありようであることが明らかになる。
 本書は外国人ジャーナリストによる日本論、日本人論でもあるのだ。

銭壷山合宿 030

 地震は天災であり、防げない。
 津波も天災であり、防げない。
 地震の被害も津波の被害も、あるレベルを超えると人の力の及ばぬ域にあり、そこは粛然と受け入れるほかない。想像を絶する破壊と被害に対し、それを不承不承ながら自然の掟と受け入れ、天に向かって泣き喚き地を叩いて怒りながら、復興や治療や追悼や支え合いしながら前に進んでいくよりない。「仕方ない」と呟きながら・・・・。
 古来災害の多い風土に住む日本人ほど、天災に対する免疫と耐性を有し、逆境を乗り越える力と技と団結力を持っている国民は世界にいないかもしれない。

 しかし、大川小学校事件は人災であった。
 福島原発事故も人災であった。
 人災を、あたかも天災のようにみなして、「仕方ない」と許し受け入れ、責任の所在をはっきりさせないのは過ちである。
 なぜなら、問題が問題と指摘され、原因が科学的に究明され改善策がとられない限り、再びみたび、同じ過ちが繰り返されることになりかねないからだ。
 本事件に関してソルティが何より「むごい」と思ったのは、校庭に避難した児童たちの中に、「ここにいては危ないから裏山に逃げよう!」と訴え出て率先して走り出した子らがいたのに、それを教員が叱りつけ押しとどめ、大人たちが善後策を口論している待機の列に連れ戻したという一件である。
 こういうときは、世間に汚されていない子供の動物のような直観のほうが、えてして正しい。
 教員がいなければ、大人がいなければ、子らが助かっていた可能性は高い。

 リチャードが悲惨極まりない津波被害の取材を通してはからずも身に着けてしまった“無感覚な冷静さ”を脱し、「想像することができるようになった」のは、天災と人災とを分かつこの地点であり、それは十数年来日本に住み日本と日本人を取材してきた一外国人ジャーナリストが、まさに書くべき論点を発見した瞬間だったのである。

 大川小学校事件の裁判は、2019年10月10日付で最高裁が被告側の上告を棄却し、原告側(親たち)の勝利が確定した。
 震災10周年にあたり、亡くなられた方々の冥福を祈ります。


23番への道(南海地震の碑)
1946年発生南海地震の津浪記念塔
(徳島県美波町由岐港)


おすすめ度 :★★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 汝、だまされるなかれ 本:『十日間の不思議』(エラリー・クイーン著)

1948年刊行
2021年早川書房(越前敏弥・訳)

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 新訳である。
 高校時代に旧訳版を読んだはずなのだが、どんな話で、どんなトリックで、誰が犯人か、すっかり忘れていた。
 途中、エラリーが、恐喝された友人を助けるために泥棒の片棒をかつぐという愚かしい真似をして、どんどん言い逃れできない苦境に自ら陥っていく。
「エラリーったら、なんて愚かなんだ!」
と心の中で叫んだ瞬間、同じ叫びを以前にも発したことを思い出した。 

 前回読んだ時も、国名シリーズで示されたように頭が良くてクールなエラリーの“らしくない”行動に、不自然さと苛立ちを感じたのだった。
 が、それもまた全体のトリックに欠かせない重要な要素であることに、前回同様、気がつかなかった。
 ゆえに、最後にはかなりの衝撃が待っていた。
 が、トリックそのものの衝撃でも、意外な真犯人の衝撃でもない。
 一連の主人公エラリーの探偵としてのアイデンティティを揺るがす真相ゆえの衝撃である。
 アガサ・クリスティの『カーテン』やバロネス・オルツィの『隅の老人』に匹敵するような探偵小説究極のどんでん返し。
「えっ、こんな結末だったっけ!?」
 『カーテン』や『隅の老人』の結末は覚えているのに、なぜこの『十日間の不思議』をすっかり忘れていられたのやら?

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 思うに、トリックそのものがかなり実現性の乏しい不自然なものという気がする。
 ネタばらしすれば、真犯人が複数の人(その中にエラリーも含まれる)の心理を巧みに操り、各人に狙いとする行動をとらせ、泥棒や殺人を生じせしめ、狙いとする推理をエラリーをして語らせしめ、最終的に復讐を成就するというもの。
 同じことを京極夏彦が『絡新婦の理』でチャレンジしているが、着想としては面白いが、偶然に任せる要素が多くて合理性に欠く。
 上記のエラリーの“らしくない”行動はまさにその一つで、トリックの実現のために登場人物の本来のキャラクターを変えるという、不自然な操作をしているのだ。
 ここがおそらく、最初読んだ時に「なんだかなあ~」と不満に思い、失望したところだろう。
 結果、記憶に残らなかったのだ。

 とはいえ、一度読み始めたら止められないストリーテリングの巧みさは、やっぱり本格ミステリー黄金期の巨頭の一人である。
 創元推理文庫に収録された初期の国名シリーズや『X・Y・Zの悲劇』も面白いが、後期のライツヴィルものをはじめとする早川書房の青い背表紙シリーズは人間ドラマの要素が多分にあり、大人の鑑賞に耐える。
 思春期のソルティは、1970年発表の『最後の女』に衝撃を受けた。(邦訳は76年)
 思えば、同性愛を扱った小説を読んだのはあれが初めてであった。(漫画はその限りにあらず) 
 同性愛=ホモ=おかま(女装)と思われていた時代の話である。
 こちらは忘れることはない。 




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『正統の哲学 異端の思想 「人権」「平等」「民主」の禍毒』(中川八洋著)

1996年徳間書店

 ネットのツイッターやコメントなんかを読んでいると、「人権」「平等」「民主主義」といった言葉が大嫌いな人たちが結構いることに気づく。大概がネトウヨと呼ばれる保守的・愛国的な思想の持ち主のよう。
 人権も平等も民主主義も、ソルティもその一人である、権力とは無縁な庶民を守るものという思いがあるので、「一体彼らはなぜそれらを目の敵にするのだろう? 人権も平等も民主主義もない国に住みたいのだろうか?」という不思議があった。
 彼らの思想のバックボーンはどのへんにあるのか調べてみよう、と図書館の蔵書検索してみたら、出てきたのがこの本であった。
 
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 著者の中川八洋(なかがわやつひろ)は1945年福岡県生まれの政治学者。国際政治学、英米系政治哲学および憲法思想、“皇位継承学”などを専門とし、筑波大学名誉教授の職にあるらしい。(ウィキペディア「中川八洋」参照)
 日本最大の保守主義ナショナリスト団体と言われ、安倍政権を陰で支えていた(あるいは牛耳っていた)日本会議にも過去に関わっていたようである。
 日本の保守陣営の代表的論客の一人と言ってもあながち間違いなかろう。
 必ずしも中川の思想や主張が、ネトウヨをはじめとする他の保守派の人々の思想や主張を代表するものでも、代弁するものでも、合致するものでもないとは思うが、最も強靭な保守思想の論陣を張るものとして参考にしても良かろう。
 
 まず、タイトルの意味。
 中川が言う「正統の哲学」とはずばり、真正自由主義(conservation)である。

 (真正)自由主義は、英国の政治史において明らかなように封建体制が漸進して発展したものであり、国家という歴史的な生成物を大切に保守するが、同時に国家の権力を制限することによる個人の自由を最尊重しこの自由を価値とする。つまり、自由を抑圧する全体主義を断固として排除する思想(主義)である。

 中川はその代表例として、英国の保守党(とくにサッチャー政権)、米国の共和党(とくにレーガン政権)を上げている。日本の自民党は中曽根政権を例外として、この枠組みには入らないそうだ。
 一方、「異端の思想」とはずばり、社会主義と共産主義である。この異端思想の持主(社会主義者、共産主義者)が標榜するキーワードが、「人権、平等、民主、進歩、変革」であって、これらの“危険な”概念の普及と妄信こそが国家を共産主義の最終的ゴールである全体主義(ファシズム)に導き、個人の自由は悉く剥奪される。

 全体主義体制とは、民衆(人民)が、支配する独裁者(党)を「教祖」と崇拝し、それが放つ誇大妄想の巨大な嘘を「共有して」信仰する「信徒」となる国家体制である。そして、教祖(独裁者)を崇拝しない、その嘘を「共有」しない、その誇大妄想を狂信しない、すなわち「信徒」になることを拒否する国民については、テロルにより殺戮か強制重労働の刑罰の対象とする。このような宗教団体の修道院的な国家体制、それが全体主義の体制である。

 中川は代表例として、フランス革命後のロベスピエールらによる恐怖政治、ロシア革命後のレーニン、スターリンによる共産ロシア、金日成以後の北朝鮮、ポル・ポト政権下のカンボジア、毛沢東以後の中国を上げている。
 社会主義と共産主義、そこから移行する全体主義こそ、自由社会が闘うべき最大の敵であり、どうあっても叩き潰さなければならない悪であることが、縷々として説かれているのが本書なのである。


ロシアのポスター
旧ソ連のポスター


 サッチャーやレーガンや中曽根を「正統」とみなすかどうかはともかく、ソルティも社会主義や共産主義は好まない。ジョージ・オーウエルの小説『1984』やテリー・ギリアムの映画『未来世紀ブラジル』に端的に描かれているように、全体主義は地獄の別名にほかならないと思う。
 が、正直、中川の論には驚いた。
 戦後の日本人が学校時代に歴史や倫理社会などで習い、一般常識として流布している知識やイメージを引っくり返すような内容なのである。
 
 近代は人類の文明的発展を育んだ温室でもあったが、“野蛮の母胎”でもあった。なぜなら、近代はこの地上に地獄を創造する奇形の哲学をも出産した「母」でもあったからだ。

 上記の地獄とは社会主義・共産主義・全体主義のことであり、奇形の哲学とはロックやルソーやモンテスキューやカントに代表される近代啓蒙思想のことである。中川は、全体主義に不可避的につながる社会主義や共産主義を生むのは、理性を重視する近代啓蒙思想であるとし、それを真っ向から否定する。そればかりか、理性主義の始祖ともいえる「われ思う、ゆえにわれあり」のデカルトさえも「無益にして有害」と弾劾する。
 いわば、近代の否定である。

 デカルトを称賛したり肯定的に捉えるのはその思想に不健全性と狂気の芽が潜んでいることであり、逆にこれを否定するものは思想の健康と人格の健全性が保たれていることを示す。

 ルソーは全体主義者であって自分が専制者・独裁者になりたいのである。そのために、そして一般通念上の(あるいは18世紀フランスの)法や美徳を根こそぎ破壊し消し去りたいのである。ルソーはそのような本心をひた隠して、この本心の最終目標に至る中間目標としての君主政体打倒のために、「嘘、嘘、嘘、・・・・・」を羅列して君主政体に悪罵をあらん限り投げつける。

 中川が近代啓蒙思想のキーワードである「人権、平等、民主、進歩、変革」を毛嫌いするのも当然であろう。
 日本や欧米をはじめ現代の先進諸国のほとんどは、こうした近代啓蒙思想を基盤として国家づくりをしており、国民も多かれ少なかれ、これらの概念なり思想なりを正当なものと思い、それに則って生活を送っている。
 なので、近代を憎む中川は同時に現代をも憎んでいるわけである。デカルト登場以降の世界史にNOを突き付け、丸々3世紀を茶番とみなしているようなもので、筋金入りの反動には慄きすら覚える。

 中川はなぜ理性主義を厭うのか。

 文明社会とは、「人知(人間の理性)を超えたもの」に大きく依存しつつ発展しているものである。人間の知力(理性)の部分は、無(ゼロ)ではないがささやかであり限定されたものである。むしろ、人間とは、その本質において、高度に合理的であろうはずもなく、さほど賢明でもなく、むしろ極めて非合理的で誤りに陥りやすいものである。よって、文明の人間社会とは“斬新的な発展(改良、進化)”が期待されるのであって、「革命的な進歩」は万が一にもありえない。

 国家の歴史と伝統と慣習とが大切に共有され、これに発する権威が敬されているとき、政治社会は全体主義に堕するのを防がれるが故に、伝統や慣習こそは自由を育み国民の自由を守る砦なのである。過去の祖先が築きあげた伝統と慣習とを相続し守成し、「平等」と「変革」のデモクラシーに抗するその叡智における「保守する精神」が、美と崇高な倫理に裏付けられた自由の原理の淵源である。

 ここに中川の保守思想の根本がある。
 過去の歴史と伝統と慣習とを一挙に破壊する行為であるフランス革命やロシア革命の意義を全否定する中川が「良し」とするのが、前近代の君主政体であり、封建制であり、貴族や宗教家が幅を利かせる階級社会、もしくはその遺風を残した現代英国のような階級社会に基づく立憲君主制となるのも当然の帰結である。

 自由は、みずからの精神の高貴性を価値とする倫理でもある。“良心の自由”と言うのはその俗的な表現の一つである。だから、真正の自由あるいは徳ある自由は、“開かれた不平等”の封建体制もしくはその遺制が育まれているところのみに存在できる。

 そもそも身分秩序という階級制度を、平等が「進歩」だとするドグマは、否定し排斥するが、伝統と権威が自由の砦であると再認識するならば、自由を価値とする思想においてこの伝統と権威が最も尊重されてそれらが活性的に機能する身分秩序のある政治体制も再評価されるべきであろう。

 中川がその実現を願う正統なる政治体制とは、つまり、歴史と伝統に支えられた権威ある君主(国王、天皇)を頂点に戴き、世襲財産に裏付けられた伝統的な家系を持つ一部のエリート(貴族)らによって低劣愚昧なる大衆が訓導される、「民主・人権・平等・進歩・改革」を排する階級社会なのである。
 そして、「民主・人権・平等・進歩・改革」といった概念が否定されなくてはならないのは、それが愚昧なる大衆に非現実的なユートピア幻想を抱かせ、“正統なる”国家の伝統や慣習を破壊させ、家族や自治組織や宗教団体や企業といったいわゆる中間組織を消失させ、個人をアトム(原子)化し、結果として国家権力を増大させ、全体主義に堕するから――となる。


君主



 中川の文章は明晰かつ修辞が巧みで、読み手を非常に惹きつける。論旨も一応通っていて、説得力がある。有名な哲学者や思想家の著作からの引用が多く、持論をアカデミックに理論づける手腕も見事。しかも、学術論文には珍しい主観的・情熱的な筆致で、読む者を扇動する力が備わっている。
 大学時代に中川の授業を取っていたら、ソルティも強く影響され、「自分はこれまで間違った歴史認識を押し付けられていた!」と覚醒し、学校教育に憤りを感じ、右翼に走っていたかもしれない。
 実際、本書には中川オリジナルの思想ではないとしても、「なるほどなあ」と思うような穿った言葉も数々あった。

 人間も社会も、過去をひきずり過去を背負って存在しうる。また、いずれも根源的には過去の産物であり過去から生成されたものであるから、それらを過去と切断し分離することは決してできない。歴史において生成されたものは、歴史なしにはその生命を息づくことはできない。

 科学技術あるいは物質的な文明と異なって、そもそも人間に「進化」などありえない。・・・・(中略)・・・・。況んや、個人であるときの人間より知能も思考も大幅低下する「群衆」が「進化」することなどありえるはずがない。ダーウィン主義の思想的弊害は大きい。
(※ソルティ注:中川はダーウィンの進化論も「思想(ドグマ)であって、まだ科学とはなってない」とする)

 ユートピアは、その文学を見ても哲学から生じた共産体制の現実を見ても、人間の人格を破棄(破壊)することによって生じる未来社会であり、そこでは人間のもつべき温かい血は人間から抜きとられている。人間の倫理が消えて道徳のない未来であり、人間自身が物になってしまう未来である。そもそも未来を夢想して現在を最善に生きようとしない人間など倫理喪失の無頼の徒であって、かくも即物的な人生しかできないものが建設する未来社会が即物的以外でありえるはずがない。

 「社会」で処理されるべきものまですべて国家の強制でその解決や要求の充足を求めようとすることは、いやが応でも国家権力の拡張と肥大化をもたらし、かくして国家は両刃の剣となって国民を襲うものとなる。

 最後の引用などは、介護の現場で働くソルティも日々、懸念するところである。
 介護保険の導入は増加する一方の要介護高齢者を支えるために必須なものであったのは指摘するまでもないことだが、それはまた、家族や自治組織や宗教団体や企業といったいわゆる中間組織の衰退を促進するリスク、すなわち地域で高齢者を支える力を弱めてしまうリスクと裏腹にあることは否めない。
 要介護高齢者は介護保険によって国家に直に管理されることになり、国の政策ひとつによって受けられる介護や生活の質が決まってくる、すなわち国に命綱が握られて個人の自由が制限されてしまう。国が描く「理想的な要介護高齢者像=一所懸命リハビリし社会参加し自立した生活を送る」を目指して頑張らないと、税金泥棒と目されてしまう。(もちろん、介護保険を使わないという選択肢はある。が、金持ちにしかできない選択だろう)


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 閑話休題。
 ソルティは歴史にも哲学にも政治学にも詳しくなく、本書で中川が引用している思想家の著書もほとんど読んでいないので、中川がその思想家の主張を正しく解釈し適切に引用しているのかどうかがわからない。中川の解釈や引用が適切であるとしても、思想家の主張自体が正しいかどうかの判断がつかない。なので、中川の主張の是非なり正否なりを判定することはできかねる。
 できるのは、中川八洋という人物の思想の核(アイデンティティ)をなしているものの推察くらいである。
 次の四点を読み取ることができる。
  1.  社会主義、共産主義、全体主義、そして民主主義への憎悪
  2.  大衆への侮蔑と嫌悪、あるいはエリート主義(=部分除外的性悪説)
  3.  変化への嫌悪
  4.  今の日本への嫌悪、あるいは日本国憲法への嫌悪
 とりわけ目立つのは、2番の大衆への侮蔑と嫌悪である。

 「大衆」は政治に関する真偽を識別する能力をもっていない。みずから熟考することもないし推論や批判の精神ももっていない。真理や真実への関心がなく、嘘でも幻想でも「誤謬でも魅力があるのならば、神のように崇めようとする」。

 実際に、いかなる国家であれ、その国民は、①(法秩序と道徳に従いうる)文明的人間、②(それが未熟な)反文明的人間、③(それがまったく欠けている)野蛮的(野獣的)人間、そして④(野獣以下の)犯罪者など、の四階級で構成されている。

 むろん、このように大衆を侮蔑・愚弄する中川自身は、①の文明的人間であり、生まれついてのエリートであり、いわゆる“上級国民”なのであろう。少なくとも、そう自覚しているに違いない。
 なんとなく、かつてクラスで集団いじめを受けていた優等生のトラウマ&報復のような匂いがしないでもない・・・・。
 
 中川の主張に反論こそできないが、「じゃあ、これはどうなの?」と不審に思った点を三つほど挙げる。
 まず、社会主義や共産主義が全体主義(ファシズム)に結びつく可能性が高いことは理論的にも納得するし、現実世界においても北朝鮮や中国のケ-スで証明されている。
 だが、「逆もまた真なり」と言えるだろうか?
 全体主義を招くのは社会主義や共産主義だけであろうか?
 ファシズムの代名詞と言っても良い戦前のナチスドイツ、そして軍国主義の大日本帝国。どちらも共産主義とは関係ない。むしろ、共産主義者を徹底的に弾圧したのではなかったか。
 ソルティは全体主義とは特定の主義ではなく形態のことだと思う。一人のカリスマ性ある独裁者と、一見輝かしく見えるが実現性に欠ける高邁なる目標と、それに洗脳されて(あるいは恐怖から)盲従する大衆と、暴力的な排除と選別による統制と、共通の外敵と・・・。それらが揃ったところに全体主義は誕生する。つまり、右も左も関係ない。
 中川もこの矛盾をどこかで感じていたらしい。こんな理屈をこねている。
 
 S・ノイマンの指摘どおり、大正時代の「大衆デモクラシー」が、1929年のウォール街の株の暴落に始まる大恐慌以来大きく流入し始めた社会主義・共産主義思想と合体したとき、それは1940年の「新体制」という名の日本型全体主義へとヒドラのごとく成長していったのである。 

 これはもう牽強付会というよりはトンデモ領域であろう。
 中川はほかの著書(PHP研究所発行『近衛文麿の戦争責任』2010年)で、もっとはっきりと、「近衛文麿がコミュニストだった」とか「ソ連のスパイに、日本の中枢がハイジャックされてた」とか「陸軍の中枢は共産主義者が大半を占めていた」とか述べているらしい。
 どうあっても、共産主義=全体主義を貫きたいのである。
 
 二つ目に、中川が近代啓蒙思想の誤謬と害毒を縷々として説き、それに煽られて勃発したフランス革命やロシア革命をこきおろすとき、その根拠にあるのはデカルト以来の理性主義、すなわちノーベル経済学賞をとったフリードリッヒ・ハイオク(1899-1992)言うところの「設計主義的合理主義」に対する批判である。
 
 ハイエクの言う「設計主義的合理主義」とは、たとえれば、荒野にまったく新しい巨大都市を設計し建設するように、政治社会や経済社会をある人間の「理性」(知力)によって合目的的につくっていけばこれらの社会はより確実に「進歩」し、より「完全」なものになるとする思想(主義、教義)のことである。この「理性主義」の信奉者が権力を掌握するや、その結果は「進歩」でもなく「完全」でもなく、フランス革命やロシア革命が証明(実験)したように、ただ野蛮で暗黒の社会に反転する。 

 単純化すると、これまでの成り行きを尊重して流れのままに社会を漸次的に改良するのが正しいのであって、これまでの流れを断ち切って一から設計図を引くような急激な改革はもってのほか、ということである。
 しかしながら、ここでソルティは引っかかるのである。
 近代啓蒙主義は突如としてこの世に現れたのだろうか?
 旧約聖書のモーゼが天から十戒を授けられたように、デカルトやロックやルソーはどっかから啓示を受けて、何もないところから各々の思想を造り上げたのだろうか?
 そして、近代啓蒙思想がフランス革命やロシア革命を引き起こす重要な因となったのは事実であるとしても、その思想の力だけであたかもマッチで油紙に火をつけるように人為的に民衆を焚き付け、王政打倒に向けて動かすなど果たして可能だったであろうか?
 つまり、歴史は人為か、必然か?


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 ソルティは、歴史は小さいところでは人為も働くであろうが、全般に必然だと思うのである。近代啓蒙思想が起こったのも、ルイ王朝の王侯貴族や宗教者の腐敗と凄絶なる貧困に堪えかねた民衆が暴動を起こしたのも、それが革命に結び付いたのも、必然と思うのである。絶対王政と封建制度のもとで虐げられてきた民衆の怒りが革命のエネルギーになったのであって、それなくしては、いくらブルジョアジーの指導者が口を酸っぱくして啓蒙思想を説いたところで、クーデターは成功すまい。そして、王権神授説により神聖化されてきた国王に歯向かうという、“神をも恐れぬ大それた行為”をなさんとするときに民衆が必要とした護符(言い訳)、それが近代啓蒙思想だったのではなかろうか。
 仏教の因縁や縁起を持ち出すまでもなく、原因と理由と条件があるから結果が生じる。なにもないところから現象が生じることはない。
 歴史もまた然り。
 進化論における突然変異よろしく、これまでの漸次的流れを断ち切ってまったく新しい思想が突如として出現しそれに無知な民衆が乗せられた――なんていうのは、映画『2001年宇宙の旅』でモノリスに触れた猿が一気にヒトに進化したというのと同じくらい、荒唐無稽な寓話としか思えない。
 中川自身がいみじくも述べている通り、「人間も社会も根源的には過去の産物であり過去から生成されたもの」なのであるから、ロックやルソーやカントやマルクスの思想さえ、それが如何に目新しく過激に見えようとも、過去の歴史の中からそれなりの必然性をもって生まれたものである。
 すべては起こるべくして起こる。
 
 三つ目に、中川が封建体制や身分秩序ある階級社会を是とすることができるのは、先に書いたように、自身がエリート階級に属すると信じて疑わないからであろう。
 たとえば中川が、女性であったり、被差別部落に生まれたり、ゲイであったり、障害者であったり、貧困家庭に生まれ育ったり、黒人奴隷であったり、在日朝鮮人であったり、アイヌであったり、すなわちマイノリティであっても、同じことが言えるのだろうか?
 自らの既得権に立脚してエリート意識を振りかざすのは一種の「選民思想」であって、まさにそれこそはナチスやオウム真理教の例を見るまでもなく、ファシズムの胚芽なのではあるまいか。 

 
P.S. 中川八洋氏の最近の発言および動向は、「中川八洋ゼミ講義」というサイトで確認することができます。
 


 
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損







● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 7

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 たいていの人はさみしさを感じていますが、独りで生きているわけではありません。
 彼らはただすごくさみしく感じているだけで、独りで生きているわけではないのです。
 独りで生きていてもさみしくならないということが、あなたにはできる。
 これこそ瞑想者の学ぶべきことであり、またそれができるように学ぶことは、たいへん有益なことでもあります。
 「独りでいても、さみしくないこと」
(標題書 P.505より抜粋)


 18歳の秋に人生初めての一人旅をした。
 行先は京都であった。

 当時、東京駅23:30発の大垣行き普通夜行列車というのがあった。
 大垣駅に朝の7時頃に到着、乗り換えて京都には9時くらいに着いただろうか(朝の京都タワーがまぶしかった)。
 まだ青春18切符も、JR東海「そうだ京都、行こう。」キャンペーンもない時代で、紅葉時期にも関わらず京都は空いていたし、夜行列車も空いていた。
 青い布張りの向かい合わせのボックスシートを一人占めにし、缶コーヒー片手に東京駅のホームが後方に去っていくのを眺めた。
 初めての一人旅にワクワク、というより心細かった。
 さびしかった。

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大垣行き夜行列車
静岡駅で長い停車があり、駅弁や網入りミカンを買うことができた


 実家暮らしだったので、一人でいることに慣れていなかった。
 どこかに遊びに行くときは家族や友人と一緒だったので、一人で行動することにも慣れていなかった。
 京都の観光名所を巡っている時も、一人ぼっちの自分を意識してしまって、妙に落ち着かなかった。
 一人で食堂に入った時も、周囲の目が気になり、ゆっくり過ごすことができなかった。
 ふと見ると、隣のテーブルで中年の会社員らしき男がワイシャツの袖をまくり、煙草をくゆらしながら、新聞を読んでいた。 
 その泰然自若たる落ち着きぶりに憧れた。
 「自分もあんなふうに“一人でいても間が持てる男”になりたい」と思った。
 カッコよく言えば、孤独が似合う男になりたかった。
 いや、一人でいても孤独を感じない男になりたかった。
 英語で言うなら、Lonely でなく Alone だ。 

孤独な男


 あれから幾星霜。
 すっかり一人が板についたソルティ。
 一人旅を重ねること数十回、山登りの単独行数百回、一人映画、一人コンサート、一人落語、一人呑み、そして一人暮らし数十年(いまは実家住まい)。
 今もっともくつろぐ瞬間は、一人でお気に入りのレストランやカフェで本を読んでいるとき、そして瞑想中である。
 さびしいとか侘しいとか心細いといった思いはみじんもなく、周囲の目もまったく気にならない。
 おおむね安穏としている。 
 完璧に Lonely から Alone になった。
 18歳の秋に憧れていた男になった。

 しかるにまずったことに、逆に今は「誰かと一緒にいること」が不得手になってしまったようなのである。
 その誰かが、レストランの隣席にいるようなまったくの他人だったら問題はないのだが、ちょっとでも言葉を交わし見知っている人となると、どうにも 相手に気を遣ってしまって、自分の世界に閉じこもれなくなり、くつろげなくなる。
 一人上手を極めた結果なのかとも思うが、考えてみると一人でいる(=自分と過ごす)方が、誰かといる(=他人と過ごす)よりも気楽なのはあたりまえなのだ。
 ソルティはたぶん、ずっと前から、最近はやりのHSP(繊細さん)だったのであろう。

 人と会うことも、人と話すことも、人と遊ぶことも、決して嫌いではないのだが――であればこそ接客や対人支援の仕事ばかり就いてきたわけだ――それでもなお、一人でいることの魅力には及ばない。
 

キヨブタ











  



 

● 映画:『千年の愉楽』(若松孝二監督)

2013年
118分

 原作は中上健次の同名小説。
 中上言うところの“路地”、すなわち海辺の被差別部落を舞台とする、不吉な伝承に囚われたある一族の美しき男たちの生き様、死に様が描かれる。

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 夭折した芥川賞作家・中上健次と『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2007年)の若松孝二に対する敬意から見続けはしたが、かなり退屈した。
 途中で止めなかったのは、主演のオリウを演じる寺島しのぶの演技ゆえである。
 同じ役名である“お竜”を演じた母親(富司純子)の映画はずいぶん観たけれど、娘の出演作は水野晴朗の撮った『シベリア超特急2』しか観ておらず、しかも出演シーンをまったく覚えていない。
 今回初めてしっかりと観た。
 美貌の点では母親にはかなわないが、演技力では上かもしれない。
 これからほかの出演作を当たっていきたい。

 若松の演出は、室内シーンはまだ良いが、室外が良くない。
 まるでテレビのような安易な演出、カメラ回しでげんなりした。
 『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』では室内シーンが多かったので、この欠点に気づかなかったのだろう。
 低予算のせいもあるかと思うが、肝心の路地という場所の空気が醸されていない。
 主要人物以外の住人の姿もなく、路地で遊ぶ子供の声すら聞こえない。
 男たちが山中で木を伐採するシーンでも、山の気というものがまるで映し撮られていない。
 中上健次が観たら、どう思っただろう?

 中本家の男たちはたんなる美形ではなく、女が放っておかないフェロモンの持ち主という設定だが、演じている役者たち(高良健吾、高岡蒼佑、染谷将太)はなるほど美形かもしれないが、性的魅力が今一つである。
 ただこれは、若松監督が男を色っぽく撮れないからなのかもしれない。
 迫力では高岡蒼佑が群を抜いている。

 ソルティは中上健次はほとんど読んでいないので、その世界観や思想を知らず、批評できる立場にはない。
 なので、この映画だけからの印象である。
 路地で生まれ育った男たちの暴力や犯罪癖、セックスや薬への依存、つまり狂った性格や破滅的な生涯を「身内に流れる高貴で忌まわしい血のせい」としてしまうのは、前近代的な言説であると同時に、一種の自己陶酔であろう。
 いわゆる貴種流離譚である。
 ソルティはむしろ、こんなに海の近くに生まれ育ちながら漁の仲間に入れないという差別的な境遇こそが、男たちを絶望させ自己破壊的な生に向かわせているように思う。
 その事実から目を背けるための救いとしての装置が「高貴な血の呪い」伝承であるならば、それはある意味、現実逃避にほかならない。
 高貴な血の呪い伝承とは、反転した天皇神話なのではあるまいか。

 ラストクレジットのBGMでは、明治維新で四民平等になったはずなのに“一般民”に嬲り殺された部落民のさまを描いた小唄が流される。
 少なくとも、若松監督にはその視点があった。 



おすすめ度 :★★

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● 漫画化希望! 本:『橋のない川 第七部』(住井すゑ著)

1992年新潮社

 住井すゑが30年以上にわたり書き続けてきた大作を、一ヶ月半にわたって読んできて、ようやく完読した。
 住井は第七部を出したばかりの90歳時の講演で、「第八部を書きたい」と言っていたが、ままならず、95歳の生涯を終えた。

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 とは言え、本作は未完というわけでもない。
 部落差別やそれと闘う人々の姿を書き続けるなら、それこそ2021年の今日まで物語は続けることが可能であろうし、希望を描くということなら、水平社創立と解放運動の全国的な広がりを描いたあたりまでで、その目的は達している。
 個人的には、第五部ですんなり終わらせてもよかったのでは?という気がする。
 第六部からはかなり理念的・思想的・政治的に、つまり理屈っぽさを増して、小説としての味わいが若干薄れているように感じるからである。
 今井正監督の映画(1969年)のように、主人公の畑中孝二とその思い人である杉村まちえを再会させて、それぞれの心になんらかの決着をつけさせて「了」としてもよかったかもしれない。
 といっても、第六部も第七部も面白く読んだが。

 全巻をふりかえっての感想を四つばかり。

 第一に、これは部落差別の物語であるだけでなく、戦前の貧しい農家の暮らしを丹念に写し取った農民文学である。
 稲作や裏作の農業の大変さ、季節ごとの自然風景や畑の景観、昔の農機具、天候とのたたかい、土に生きる人々の喜びや苦しみや忍耐や祈り、貧しい中での衣食住、冠婚葬祭、近所づきあい・・・・。
 とくに畑中家の祖母ぬいと嫁ふでが用意する日々の食事の描写(主食は粥である)には、ソルティ自身の贅沢な食生活と腹回りの脂肪を恥じ入らせるに十分なものがあった。
 住井の生家は裕福だったらしいので、おそらく、農家の長男で農民文学者であった夫の犬田卯(しげる)から学ぶところ多かったのではないか。
 全編、稲作とともにある暮らしの尊さを描いてあまりあるけれど、一方、この稲作讃歌こそが日本文化を、ひいては天皇制を、ひいては部落差別を、根底から支えるものであったという事実も見逃すわけにはいくまい。
 その構造的矛盾にまでは住井は迫っていない。
 住井が網野史学を知ったら、どう思っただろう?
 
 第二に、水平社宣言について、日本人はちゃんと習うべきである。
 それも同和教育の一環としてではなく、日本の人権史上のもっとも重要な、もっとも画期的な、フランスやアメリカのそれらと並ぶ、我が国初の人権宣言として。
 いやその前に、学校教育の中に性教育(ジェンダー教育含む)や IT 教育とならんで、人権教育というコマが必要であろう。
 真の国際化を望むならば。

 第三に、本作でたびたび言及されている天皇制の問題
 戦後も GHQ の恩恵(思惑?)により生き延びたわけだが、どうなのだろう?
 今一番天皇制で苦しんでいるのがほかならぬ皇室の人々であることは、火を見るより明らかではなかろうか?
 好きなところに住めず、外出もままならず、職業選択の自由もなく、稼ぐこともできず、好きな人と結婚することもかなわず、四六時中居場所がつきとめられ動向が探られ、思ったことを発言することもかなわず、メディアやツイッターでやり返すすべさえないのに一方的に叩かれる。
 まるで国民の奴隷のようではないか。
 ソルティは、「日本人はそろそろ天皇制から卒業すべき」、「皇室の人々を茨のしとねから解放してあげるべき」と、数十年前から思っているのだが・・・・・。

 第四に、畑中家の重鎮である祖母ぬい。
 どうしても今井正版の北林谷栄しか思い浮かばない。
 ぬいの登場シーンでは、行間をモンペ姿の北林が揺曳し、セリフの響きは北林のそれである。
 ぬいは巻数が進むほどに存在感を増し、小森部落内で若者たちの尊敬を集めるようになり、ある意味“神格化”されていく。
 もしかしたら、最初の映画化(1969年)以降、住井の筆のほうが北林谷栄のぬいを追ってしまったのではなかろうか。知らずコロッケの真似をしてしまう美川憲一のように・・・・。
 一俳優が原作小説の登場人物のイメージをこれほどまでに確定してしまったケースは、ほかに『風と共に去りぬ』のヴィヴィアン・リー、金田一耕助シリーズの石坂浩二、『砂の女』の岸田今日子、『黒蜥蜴』の美輪明宏・・・・・それほど多くはないと思う。

 この小説の漫画化を希望する。


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畑中ぬい役の北林谷栄



おすすめ度 :★★★★★

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● 瞑想なる映画 本:『見るレッスン 映画史特別講義』(蓮實重彦著)

2020年
光文社新書

 映画を見る際に重要なのは、自分が異質なものにさらされたと感じることです。自分の想像力や理解を超えたものに出会った時に、何だろうという居心地の悪さや葛藤を覚える。そういう瞬間が必ず映画にはあるのです。今までの自分の価値観とは相容れないものに向かい合わざるをえない体験。それは残酷な体験でもあり得るのです。

 本書の「はじめに」で書かれているこの文章。
 まさにこれこそがソルティが映画を見続けている大きな理由である。
 そのような一本の映画に出会うために、何十本という凡作や駄作や娯楽作を観ている。
 最近では、『ボーダー 二つの世界』がその一本であった。


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 著者の蓮實重彦は東京大学の総長まで務めたフランス文学者であるが、世間的には映画評論家として名が知られていよう。
 いまの小津安二郎人気のかなりの部分は、70~80年代のこの人の“小津推し”によるところが大きい。
 ソルティもかなり影響を受けた。
 というより白状すれば、ソルティの映画開眼は20代前半に蓮實の映画批評や映画評論集を読んだのがきっかけであった。
 ひところは蓮實が編集長をつとめていた季刊誌『リュミエール』を購読し、彼の最新の映画評や淀川長治、山田宏一らとの対談が載っていた中央公論社の『マリ・クレール』を毎月のように買っていた。
 人生に映画鑑賞という歓びをもたらしてくれた恩人として、ひそかに感謝している。

 この人の文章は、一つのセンテンスが長く、回りくどく、加えて翻訳調なので、一見とっつきにくいのである。
 が、慣れてしまうと、お経のようなリズムに乗って、どこに連れていかれるかわからないスリリングな旅をしているかのような心地がして、そのうち快感となってくる。
 たとえば、こんなふうだ。
 
 あれはいったいどういうおまじないなのかしらと、あまりに仕掛けが単純なのでかえってどこにどんなタネが隠されているのかわからなくなってしまう手品を前にしたときのように、なかば途方に暮れ、なかばだまされることの快感に浸りながら妻が怪訝な面持ちで首をかしげたのは、彼女が外人教師として出講しているある国立の女子大学が、翌週から夏休みに入るという最後の授業があった日の夕食後のことだ。
(ちくま文庫、『反=日本語論』より抜粋)

 しかるに本書は、蓮實自身の執筆というより、編集者による複数回のインタビューをまとめたものらしく、センテンスは短く、文意は明確で、非常に読みやすいものとなっている。
 映画を愛する一人でも多くの読者の目に供され、この世に映画開眼者を増やすという点で、この試みは賞賛すべきである。
 内容も、日本と海外の最新の見るべき映画作家の列挙から始まって、映画の誕生、ドキュメンタリー論、ヌーベル・バーグ論、キャメラや美術監督など裏方の仕事など、幅広い話題が取り上げられている。
 蓮實自身が出会った有名・無名の監督やキャメラマンとのエピソードや、あいかわらず歯に衣着せない一刀両断の映画&監督批評が面白い。

 当ブログでも明白なように、ソルティは昔の映画をよく観ている。
 が、これは決して懐古趣味ではない。
 昔の映画を観ることを通して実際に起こっているのは、「過去」との出会いではなく、「現在」との出会いなのである。

 繰り返しますが、「昔の映画」がよかったということではなくて、それはまさに映画の「現在」として素晴らしいのです。カラーではないから現代的ではない、画面が小さくてモノクロームだから現代的ではない、などということではなく、映画において重要なのは、いまその作品が見られている「現在」という瞬間なのです。映画監督たちは、その題材をどの程度自分のものにして、画面を現在の体験へと引き継いでいるかということが重要であるような気がします。

 映画開眼したばかりの20代の頃は思い及びもしなかったが、今になって思うに、つまるところ映画を観る体験とは、こちらの目や耳がフィルムと戯れている「いま、ここ」の瞬間へと存在を立ち帰らせる一種の魔術であり、物語と非・物語の狭間に生じる圧倒的な美の衝撃によって、この世に氾濫し人を洗脳せんとする物語の支配から、自らを解放する実践なのである。
 見るレッスン、それはマインドフルネス瞑想に近い。




おすすめ度 :★★★★

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● 母性的小説? 本:『橋のない川 第六部』(住井すゑ著)

1973年新潮社

 第六部前半は、1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災後の混乱、とくに流言に踊らされた自警団による朝鮮人虐殺の模様が描かれる。
 この頃、著者の住井すゑは東京で暮らし、結婚&作家生活をスタートしていたので、実際にその身で震災を体験し、あちこちの暴動の様を見聞きしていたのだろう。
 また、混乱に乗じた社会主義者や無政府主義者の殺害もあり、本書ではのちに満州国警察庁長官となる甘粕正彦が、大杉栄と妻子を惨殺した事件が語られている。
 甘粕正彦はベルトルッチの映画『ラスト・エンペラー』(1987)で、坂本龍一が演じた軍人である。

 後半は、年頃となった畑中孝二のいとこたちの恋愛や結婚の模様が描かれる。
 部落外の女性と恋仲になった和一、部落外の男性から求婚された七重、そして小学校の同級生だった孝二と杉本まちえ、いずれも叶わぬ恋とあきらめて、あるは独身を貫き、あるは部落者同士の結婚を選び取る。
 100年後の今でさえ残る結婚差別
 当時、部落と“一般”との通婚など、まさに橋のない激流を泳いで渡らんとする如きであったろう。
 その背景に、大正13年1月26日の皇太子裕仁(昭和天皇)と良子(香淳皇后)の結婚と奈良にある畝傍御陵参りが重ねられ、この慶事への妨害を懸念した当局によって当地の水平社の青年たちが拘束されるという不条理が起こる。
 やはり、天皇制と部落差別は切っても切れない関係にあるのだ。


皇居の桜

 
 小説を読んでいると、どうしても今井正監督の映画『橋のない川』と比べてしまう。
 リアリティにおいては映画のほうが上かなあと思うのは、小森部落の人々を美化していない点である。
 たとえば映画では、伊藤雄之助演じる荷車引きの永井藤作は、息子を虐待し娘を遊郭に売るような飲んだくれの乱暴者で、良くも悪くも八面六臂の活躍ぶりであったが、小説ではほとんど目立たない。
 映画では、若くして後家となった畑中ふで(=長山藍子)に懸想しちょっかいを出す“一般”の男が登場するが、小説ではそのようなシーンはない。
 小説では、草鞋づくりする部落の男たちの作業風景がしばしば描かれるが、そこでなされる会話は総じて上品である。セクハラ・パワハラ糾弾かまびすしい平成令和ならいざ知らず、大正時代の若い男衆ばかりの集りで“夜這い自慢”の一つもないってのはまず考えられまい。
 著者の住井が女性ってこともあろうが、「差別の理不尽を訴える」という目的のために部落の人々を美化して描いている――というより、弱者に対する母親的な愛を持って全体を包みこんでいる、という印象を受ける。

 と言ったら、ジェンダー差別になるだろうか?





● 本:『結婚差別の社会学』(齋藤直子著)

2017年勁草書房

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 著者は1973年生まれの部落問題、家族社会学を専門とする研究者。
 ここで言う「結婚差別」とは部落差別の一つで、部落出身者と部落外出身者とが結婚を望んだときに主として部落外出身者の親が反対することである。

 本書の目的は、結婚差別問題が生じたときに、カップルと反対する親との間で、どのような対立や交渉や和解、あるいは決裂が生じるのかを描くことである。とくに、恋人たちがいかにしてその問題を解決していくのか、そのプロセスを丹念に記述することが本書の中心的な課題である。

 水平社設立から一世紀近く、同和対策事業特別措置法の施行から半世紀以上(2002年終了)、部落差別は明らかに減った。
 同和地区指定を受けた部落の居住環境や教育水準は向上し、『部落地名総鑑』や興信所を利用した就職差別も表立って聞くことは少なくなった。
 部落出身者と部落外出身者との恋愛や結婚も増えている。
 差別落書きやインターネットにおける誹謗中傷など、劣等感の塊のような一部の人間が行う卑劣な行為は見られるものの、一般市民の差別意識が薄らいだのは間違いなかろう。
 そんななかで「最後の越えがたい壁」と言われているのが、結婚差別なのである。

 就職に関しては、企業や行政の取り組みや学校現場の同和教育を通じて、状況は大きく変化したが、結婚差別問題は、私的な領域の問題であり、直接的にアプローチすることが難しいこともあって、いまだ残された課題となっている。

 本書には、実際に結婚差別を受けた経験のある人々や、結婚差別を受けたカップルをサポートした人々に対しておこなった聞き取り調査の分析結果が述べられている。
 著者の齋藤が関西の人間であることもあって、取り上げられている多くが大阪の事例である。
 こうした系統だった研究は珍しいのだそうだ。

 読みながら、「いまだにこんな理不尽なことがあるのか!」という驚きが先立つ。
 分析のもとになっている調査はいずれも2000年以降のものであり、聞き取り調査の対象となっているのは20~30代の人が多い。
 つまり、平成時代に実際にあった結婚差別の事例が多く取り上げられている。
 結婚に反対した彼らの親たちはまず間違いなく戦後生まれである。
 なんつー、アタマの古さ・・・・。

 当事者が語る滑稽なまでに理不尽な体験談に驚きあきれかえるばかり。
 が、一方、ソルティはこの問題に関して何ごとかを言うべき資格を持たないように感じるのである。

 一つには、ソルティは関東生まれ関東育ちで、親戚づき合いのほとんどないサラリーマン家庭の一員で、周囲もほぼ同様であった。
 高校時代に一コマだけの同和教育でビデオを見た記憶はあるが、部落差別は遠い過去の話、遠い土地の話という認識しかなく、具体的な差別エピソードなり差別的言辞を身の回りで聞いたことがなかった。
 社会人になってから、どうやら部落は西のほうに多いらしいと知るのだが、出張や旅行以外で西に行くことはほとんどなく、住んだこともない。
 西の友人も少ないので、そういった話を聞く機会もなかった。
 西の人とくに関西圏の人たちが、どのような“部落観”を持っているのか、日常生活の中で部落差別とどのように出会い、どのように感じ、どのように配慮し、普段どのような問題意識や口に出せない思い(本音)を持って暮らしているのか、よくわからないのである。
 もちろん、関東にも部落は存在した(する)し、部落差別もあった(ある)のだが、ソルティの住んでいるあたりは人の出入りが激しく、街の区画も風景も年々様変わりしていくので、「家系・住所・職業」のいわゆる“三位一体”によって部落民を特定するなんてのは、まったくのナンセンスである。
 そういったわけで、部落差別のある風土を肌身で感じた経験がないため、あたかも“別世界の出来事”のような感じがするのである。
 
 今一つ、ゲイである自分にとって、結婚というのがやはり“別世界の出来事”である。
 結婚という人生の選択肢を自分に適用したことがないので、結婚をめぐる事象に関心もなければ詳しくもない。
 時代風潮として、この先日本でも同性婚がありうるかもしれないが、そうなってみると、果たしてそもそも自分が結婚したいのかどうか疑問である。
 つまり、自分は「ゲイだから結婚しない」のではなく、「ゲイでなくとも結婚しない」タイプの人間ではなかろうかと思うのである。
 結婚したい人の気持ち、結婚しなければと焦る人の気持ち、子供に結婚を望む親の気持ち、どれもよく分かるとは言い難い。
 
 本書で語られているような結婚差別がどうして起こるのかと言うと、部落外出身者の親が娘や息子が部落出身者と結婚することを反対し、それに対して娘や息子がなんとか親に許してもらおうと説得を試みるから、そこに対立が生まれ、問題となるのである。
 ソルティは、その過程を読んでいて歯がゆく思うのだ。
 「成人同士の結婚に親の許可なんか要らないじゃん。さっさと入籍するなり同居するなり子供を作るなりして、既成事実を作ってしまえばいいのに・・・・」と。
 しかるにそれでは納得できない当事者は多いらしく、どうしても親の理解と祝福がほしいようなのである。
 著者はそれを「育ててくれた親に対する愛情と恩ゆえ」のように書いているけれど、裏を返せばそれは、自分が“親不孝者、薄情な子供”となってしまうこと、そう周囲に思われてしまうことに対する抵抗感からくるのではないか。
 つまり、結婚差別問題の背景にあるのは、部落差別だけでなく、親子関係の有り様なのである。
 このあたりの親子間の心の機微というのが、どちらかと言えば感情的に淡白な家庭に育ったソルティにはまた伺い知れないところである。(偏見かもしれないが、東より西のほうが浪花節的人間関係が濃い気がする)
 
 親と関係悪化することで生じる具体的な損失――たとえば、遺産相続とか育児サポートとかまさかのときの避難所とかの喪失――について残念に思うのは当然であり、これは十分理解できる。
 しかし、好きな人との仲を引き裂かれて、その後ずっと親を怨み続けるくらいなら、多少の不便は覚悟のうえで親との関係を一時的に絶って、好きな人の胸に飛び込んだほうが後悔はないだろう。
 この長寿社会、ほうっておいても老いてくれば親のほうから折れてくる可能性は高い。
 そう思ってしまうソルティは、やはり打算的で身勝手で単純な個人主義者なのだろう。

 
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 ときに、ちょっと前ネットで、高視聴率のドラマをたくさん生み出してきた有名プロデューサーのインタビュー記事を読んでたら、「最近では枷がないから恋愛ドラマが成り立たない」と言っていた。
 恋愛ドラマというものは、恋する二人の間に乗り越えがたい障壁があってこそ面白くなるし、視聴者も食いつくということだ。『ロミオとジュリエット』や岸恵子主演『君の名は』や『おっさんずラブ』を例に出すまでもない。
 「そのとおりだな。もう視聴者の心を湧き立たせるような恋愛ドラマをつくるのは難しいだろうな」と思ったが、本書を読んで考えが変わった。

 「ここに恋愛ドラマの宝庫があるじゃん!」

 部落差別という“立派な”枷があり、愛しあう若い二人がいて、無理解な親や世間がいて、あたたかい支援者がいて、二人がめでたく結ばれるまでの或いは悲劇に終わるまでの紆余曲折があって、愛あり、悩みあり、告白あり、怒りあり、混乱あり、葛藤あり、逆境あり、諦めあり、闘いあり、慟哭あり、絶望あり、希望あり、それでも切れることない親子の絆あり、新しい命の誕生あり、成長あり・・・・。
 この一冊から、どれだけ豊かな、熱い人間ドラマが生み出されることか。

 最後に事例を一つ紹介する。
 大阪の部落出身の30代女性Uさんの体験である。
 
 Uさんは、短大時代にアルバイト先で、のちに夫となる人に出会った。彼は、八年にわたる交際期間のなかで、Uさんが部落出身であることに気づいていたようだが、お互いにそのことについて触れることはなかった。(中略)
 結婚式は、Uさんたちの住む大阪で行われた。夫の側からの親族の出席は、ほとんどなかった。夫の親戚には高齢者が多く、郷里から出てくるのは大変だからという理由であった。Uさんは、親戚が参列しないことを、特に不審に思わなかった。
 ところが、結婚後まもなく、夫の郷里の親戚に挨拶にいったとき、Uさんを驚かせる出来事が起こった。郷里の親戚が一同に料亭に待機しており、その場でいきなり披露宴が始まったのである。つまり、Uさんには何の相談もなく、夫の親族だけを集めた二度目の結婚式が準備されていたのである。

 さらに驚いたことには、その後Uさんの義妹(夫の妹)が大阪で結婚式を挙げることになったとき、夫の親戚はバスを借り切って田舎から大挙してやってきたという。「高齢で郷里から出てくるのが大変」というのは嘘だったのである。Uさんが問い詰めると、夫は最初の結婚式の時に自分の親戚に招待状を出さなかったことを白状した。

 酷い話である。
 これから一生を共にする相手に、よくもこんな非情な仕打ちができるものだ。
 こんな夫と離婚しないでいるUさんの度量というか忍耐力には驚かされる。
 ソルティがUさんの立場だったら、途端に愛が冷めて、縁を切る。
 やっぱり、結婚には向かないタチなのだろう。
 

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naobimによるPixabayからの画像



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● いい箱つくろう! 本:『日本の歴史をよみなおす』(網野善彦著)

1991、1996年筑摩書房
2005年ちくま学芸文庫

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 帯の文句が大袈裟?

 ――と思うが、一読、多くの人が持っている日本の歴史観を大きく揺さぶる一冊である。
 この学者の名前はずっと気になっていたが、なぜか読む機会がなかった。
 
 日本の中世史、海民史の専門家である網野善彦(1928-2004)は、最近になって発見された非・官整の資料を研究するうちに、学会で長らく常識とされ、我々が教科書や歴史小説や映画やテレビドラマを通して学んできた日本の歴史観に大きな間違いがあったのに気づく。
 それは簡単に言えば、「百姓」という言葉は「農民」だけを指すのではなく、海や川や山などで働く非農業民をも含むものであること。日本は元来、稲作中心の農本主義国家ではなく、海民や山民、廻船人や商人の活躍してきた流通盛んなネットワーク型の非農業国家でもあることを、明らかにしたのである。
 
 確かに、教科書では「国民の大半(75%以上)は百姓(=農民)」と表記されてあったし、子供のころに観ていたNHK『明るい農村』、漫画『サスケ』や時代劇に出てくる年貢に苦しむ貧しい農民のイメージ、そして天皇による毎年恒例のお稲刈りや新嘗祭の報道によって、「日本は稲作の国、農民中心の社会(だった)」と刷り込まれていた。
 とくにソルティは、関東平野のまんなかに生まれ育ったので、海や山で働く人を身近に見ることはなく、生家の周囲は畑や空き地ばかりだった。(それがどんどん宅地に変わっていった)
 自然、自分の前世は「江戸時代の水呑み百姓」などと思っていた。
 が、本書によると、百姓=農民ではなく、水呑む百姓=貧民でもなかったそうである。

 考えてみれば、日本は周囲を海に囲まれた島国で、河川も多く、国土の多くが森林だったのである。
 気候さえ違えど、ノルウェー・デンマーク・スウェーデンなどのスカンジナビア半島によく似ている。(大きさも同じくらい)
 これらの国家でバイキングが隆盛をふるったように、日本でも海の民が海岸線や河川に沿って縦横無尽に商いしていたとしてもおかしくはない。
 農業的見地では辺鄙で農地も少なく貧しいはずと思われる北陸の海辺の村が、中世を通じて実は運輸と貿易で栄える豊かな都市であったなんて、思いも及ばなかった。

 子供の頃に学校で習ったことや受験勉強で必死に覚えたことがどんどん変わってしまい、時代遅れな知識や認識を持っていることに気づかされる昨今である。
 歴史を勉強し直す必要を感じる。

 鎌倉幕府の成立は1185年って知ってましたか?

いい箱つくろう
吾輩は頼朝じゃ



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






 

● 水平社100周年 本:『橋のない川 第五部』(住井すゑ著)


1970年新潮社

 第五部は水平社が設立された直後の小森部落の様子や世間の反応が描かれる。
 歓喜の声を上げ闘志と希望に満ち溢れる部落と、世の秩序を転覆するものとして水平社を恐れ快く思わない世間と。
 その対立の中で、地域の小学校での差別事件に対する糾弾を行なった畑中孝二をはじめとする小森の青年ら7人は、それを騒擾罪とみなした当局に逮捕され、五条監獄に70日間収監されてしまう。
 しかし、それは小森のみならず全国の部落民の団結と闘志をいよいよ強める焚き付けとなり、各地に水平社の支部が作られ、機関紙『水平』が発行され、全国少年・少女水平社や全国婦人水平社も誕生していく。
 そんな折、関東大震災が起こる。

 長い間虐げられてきた部落の人々が声を上げて立ち上がっていく本巻は、読んでいて胸が熱くなるシーンが多い。
 とりわけ、普段は大人しくて優しい孝二が、騒動の調停役を買って出た国粋会の今川忠吉――地域の顔役で土建の親方、すなわち権力側の番犬である――に面と向かってこう告げるシーンは、胸がすく思いがした。

 これから二十年、或いは三十年先になるかもしれませんが、教育勅語は必ず消えて失うなる日がくるのです。けれども水平社宣言は、絶対に消えて失うなる日はありません。それは人の世を支配する権力は必ず滅ぶが、働く人間に滅びがないのが歴史の教訓で、水平社宣言はこの働く人間の血と涙の叫びだからです。

 関東大震災の記述にハッとしたが、水平社設立は震災の前年の大正11年3月3日、すなわち西暦2022年である。
 来年は、水平社創立100周年にあたるのだ。
 コロナが落ち着いたら、この物語のモデルとなった舞台を歩いてみたい。
 リニューアルオープンされる水平社博物館にも行ってみたい。


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● 漫画:『外天楼』(石黒正数・作画)

2011年講談社KCDXから発行
2015年講談社文庫

 散歩の途中に寄った、漫画とエロDVD専門の古本屋にて100円で購入。
 作者の名前も作風も知らず、江口寿史風のすっきりした絵に惹かれて買ったのだが、これがびっくりの傑作であった!

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 中学生男子の涙ぐましいエロ本購入作戦という、いまや古臭すぎるベタなネタから始まって、コミカルで捻りのきいたミステリー短編が並ぶ。
 一話一話は読みきりだが、舞台や登場人物が微妙に重なっているので、連作物と分かってくる。

 最初のうちは、星新一風の肩の凝らないSF&ミステリーショート漫画という感覚で楽しく読んでいたら、最後の最後に不意打ちを喰らわされた。
 そして、一話ごとにその都度、設定とストーリーが生み出されネームが練られているかと思っていた各編が、実は最初から、数十年にわたる大きな人間ドラマの一コマとして描かれていて、あちこちに用意周到に伏線が張られて、最後の“非”人間ドラマのカタストロフィーにつながっていたことが判明する。
 見事な構成力と画力は、大友克洋の傑作『童夢』を思わせる。

 こんな漫画家がいたんだ!



おすすめ度 : ★★★★

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 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損

 

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