ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

読んだ本・マンガ

● 本:『非正規介護職員ヨボヨボ日記』(真山剛著)

2020年三五館シンシャ発行、フォレスト出版発売

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 この介護職員編こそは、ソルティが実態を良く知る、共感の高い一編である。
 ここに書かれていることのほとんどは、五十歳近くなってからヘルパー2級を取得し高齢者施設の介護職員となったソルティも、現場で体験し、感じ、戸惑い、考えたことであった。
 1960年生まれの著者の場合、56歳から介護の世界に足を踏み入れたというから、慣れるまでは心身共に、ソルティ以上にきつい日々であったことだろう。

 年下の同僚になめられ叱られ、職場のお局様のご機嫌を伺い、仕事がなかなか覚えられず何もできない自分に苛立ち、利用者からの罵倒や暴力に耐え、認知症患者の突拍子もない言動に振り回され、利用者家族の理不尽な要求に辟易し、利用者と会話する暇さえない寸刻みの業務に追われ、腰や肩の故障におびえ、夜勤で狂った体内時計に頭が朦朧とし、転倒事故や誤薬や物品破壊の始末書をため込み、安月給に甘んじ・・・・。
 こうやってエッセイを書けるまで余裕ができたことを祝福したい。

 ――と書くと、「いいことなんか一つもないじゃん」と思われそうだけど、それでも介護職を続けることができるのは、著者が「あとがき」でも書いているように、「人と関わること」の面白さなのだろう。
 それも、家族やパートナーのように“深く長く”関わるのではなく、施設という閉鎖空間で、利用者が死ぬまであるいは退所するまでの短期間だけ、“濃く短く”関わるところにポイントがある。
 通常の人間関係なら長いつきあいののちに初めて見せてくれるようなありのままの姿を、死期の近い老人たちは年若い介護職員たちにさらけ出してくれる。
 人間の良い面も醜い面もすべて――。
 それを役得と感じられるような人が、介護職を続けられるのだと思う。

 心身の故障で現場を退いてしまったソルティであるが、たまにあの修羅場のような、コールが鳴り響くフロアを懐かしく思うことがある。
 数秒で正確にオムツを当てる神業のようなテクニックが、今やすっかり錆びついているのを、もったいなく思う。
 認知症の人たちとの不思議なコミュニケーション空間を貴重なものに思う。 
 それにあの頃はいくら食べても太らなかった。
 


おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 鍋の水は熱くなっている 漫画:『この世界の片隅に』(作画:こうの史代)

初出:双葉社『漫画アクション』2007年12月号~2009年2月号
2011年コミックス発行

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 昭和9年(1934年)から昭和21年(1946年)に亘る、広島県の海沿いの街に暮らす一女性、浦野すずと家族をめぐる物語。
 原爆の投下された昭和20年8月6日に向かって、そしてポツダム宣言受諾の8月15日に向かって、物資の不足に苦しみ、空襲警報におびえ、愛する家族や友人を戦火に失い・・・と、傍目には(現代日本から見ると)地獄のようなしんどい日々でありながらも、明るくドジでのんびりした主人公を中心に平凡でささやかな日常を営む庶民の姿が描かれる。
 北川景子、松本穂香をすず役としてこれまで2度テレビドラマ化され、2016年にアニメーション映画として公開された。ソルティ未見である。

 作者のこうの史代は1968年生まれなので、すずは作者の祖母世代にあたる。
 よく昔のことを調べて絵に描いていると感心した。
 まるで、さくらももこと『ちびまる子ちゃん』の関係のように、作者の子供時代の記憶をもとに描いた作品のように思えるほど、生き生きした実感と豊かなリアリティがある。
 『YAWARA!』、『MONSTER』、『20世紀少年』の浦沢直樹を柔らかく幻想的にしたようなタッチの画風も、温かみがあり読みやすい。
 ちょっと抜けていて絵をかくのが得意な主人公すずは、作者の分身なのではなかろうか。

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 このたびのコロナ騒動でつくづく思ったことの一つは、突如として非日常的な出来事がやって来ても、人はこれまで通りの日常生活をたんたんと続けようとし、いつのまにやら非日常を日常に取り込んでしまうのだなあ~、ということである。
 最初のコロナショックに見舞われた時こそ、戒厳令のようなものものしい空気が満ちて、街路や飲食店や列車から人が消え、宇宙服のような完全防備の通行人も見かけたものだが、人々が徐々にコロナウイルスの正味のリスクと予防手段を学び、繰り返される報道に飽き飽きしてしまえば、長年続けて習慣になっている日常生活が取り戻されていく。
 三度三度飯を食って、クソして、眠って、働いて、遊んで、人と会話して飲んで、家事をして、恋をして、ふられて、結婚して、出産して、子育てして、喧嘩して、仲直りして・・・・という日常生活(ルーチン)は腰の強いものだなあと思う。
 しばらく前までは、毎夕報告される感染者数の増加に蒼ざめていたものだが、最近ではなんだか「我々は数値をコントロールできる」という妙な自信さえ、世間に漂っている感がする。
「第六波よ、来るなら来い!」みたいな・・・・。
 むろん、ワクチンのおかげが大きいが。

 茹でガエル理論というのがある。
 水を張った鍋に入れられたカエルは、鍋が火にかけられて水の温度が次第に上がっても、そのまま鍋の中に居続け、しまいには熱湯で焼け死んでしまう。
 急に熱湯に入れられたら驚いて飛び出すが、水からはじめて、ぬるま湯、熱湯と徐々に慣らされていくと、逃げる機会を逸してしまう。
 それと同じように、日常生活の中に非日常的な事柄が少しずつ紛れ込んでくると、一時は違和感を持ちはするものの、日常の持つ強さがそれを飲み込んでしまい、非日常だったものが日常になる。免疫ができる。
 次は、最初より強度の高い非日常がやって来る。免疫のできた日常は、今度はそれをも飲み込む。より免疫が強くなる。
 そうやって、昔ながらの日常生活を送っているつもりが、気づかぬうちに、最初の日常とはまったくかけ離れた非日常の日々を不思議とも何とも思わないで送っている。
 戦時下の生活とはそんなものだったのではないだろうか?
 原爆が落とされたときに、玉音放送を聞いたときに、人々ははじめて、自分たちがはじめにいたところからずいぶん遠くまで来てしまったことに、国にだまされて連れて来られたことに、気づいたのではなかったろうか?

茹でガエル
 
P.S. 茹でガエル理論は俗説であって、実際にはカエルは鍋から逃げるらしい。



おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★     読み損、観て損、聴き損

  

● Q.E.D. 本:『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(加藤康男著)

2014年ワック株式会社

 関東大震災における朝鮮人虐殺を否定する意見が、昨今ネットを中心にかまびすしいと言うが、どうやら否定論の最大論拠になっているのがこの著書であり、否定論者の急先鋒がこの著者、加藤康男とその妻・工藤美代子であるらしい。
 加藤康男は1941年東京生まれの編集者、ノンフィクション作家。
 出版元のワック(WAC)は、1996年に設立された出版・映像制作などをメインとする会社で、高市早苗、ケント・ギルバート、渡辺昇一、山口敬之などの本や、月刊誌『WiLL』を発行している。


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 ソルティは、『関東大震災「虐殺否定」の真相』(渡辺延志著)および『九月、東京の路上で』(加藤直樹著)という虐殺“認定”論者の本を続けて読んできた。(虐殺“肯定”論者と言うと別の意味に取られかねないので、虐殺認定論者=「虐殺はあった」と認める立場をとる者、と定義する)
 否定論者 V.S.認定論者。
 喧嘩両成敗ではないが、ここは公平に反対側の意見にも耳を傾けるべきだと思って本書を借りた。
 「虐殺はなかった」という主張が果たしてどのくらい正当性があるのか、説得力を持っているのか、できるだけ虚心坦懐に読んで検討してみるのも一興と思った。

 先だっての記事で、この問題の論点を次のように整理した。
 関東大震災の直後、
 ① 朝鮮人による犯罪(放火、暴行、殺人、井戸に毒投入など)はあった
 ② 朝鮮人による犯罪はなかった
 ③ 日本人による朝鮮人虐殺はあった
 ④ 日本人による朝鮮人虐殺はなかった 

 これまでの共通認識は、「②犯罪はなかった」→「③虐殺はあった」である。朝鮮人による犯罪というデマに踊らされパニックになった一部日本人が、罪のない朝鮮人を虐殺したというものである。
 本書で加藤康男が主張しているのは、「①犯罪はあった」→「④虐殺はなかった」である。朝鮮人による犯罪――とくに日本の社会主義者と結びついた抗日運動家によるテロリズム――が実際にあったのであり、地域の自警団をはじめとする勇敢な人々は、不逞な朝鮮人や危険な社会主義者から地域や国を守るために止む無く武器を手に立ち上がった。それは断じて虐殺ではない、というものである。
 
 いずれの方角から調査しても、関東大震災時に日本人が「朝鮮人虐殺」をしたという痕跡はないのである。
 あったのは、朝鮮人のテロ行為に対する自警団側の正当防衛による死者のみである。


井戸


 加藤康男の論理を検討してみよう。

 まず、「④虐殺はなかった」について。
 「虐殺はあった」という証言がたくさんあり、歴史の教科書にも史実として載っている以上、新たに「虐殺がなかった」という論を立てて証明するためには、すでに発表されている数多くの「虐殺があった」という具体的な証言を一つ一つ反証を挙げて否定していかなければならないはずである。「虐殺がなかった」という目撃証言など集めようがないのだから、「虐殺があった」を否定するほかない。
 そして、“虐殺”を否定するためには、日本人による朝鮮人殺しが純然たる正当防衛であったことを証明しなければならない。つまり、殺した相手が「朝鮮人かつ犯罪者(テロリスト含む)」であったことを証明しなければならない。
 しかるに、本書ではまったくこの作業が行われていない。たとえば、『九月、東京の路上で』で挙げられている、どの朝鮮人殺害事例についても子細に検証すべく俎上に載せられてはいない。
 この時点ですでに、「④虐殺はなかった」説は宙に浮いている。

 次に、「①テロリズムを含む朝鮮人の犯罪があった」ことを証明するためには、具体的な目撃証言が必要である。
 これは別に、特定の地域に住む数人の証言といった限定的なものであってもよいと思うが、実在する人物(実名)による直接証言が必要であろう。匿名者の発言を載せた新聞記事や伝聞では駄目である。犯罪を立証するのに、新聞記事や伝聞情報を証拠に上げる検察などいない。
 だが残念ながら、ここでも納得いく証明はなされていない。
 朝鮮人の犯罪として著者が挙げる事例は、新聞記事や伝聞情報ばかりで、実名と所属を出して「私は見た!」とはっきり語っているケースが見出せない。

 思うに、政府による戒厳令が敷かれた震災直後なら、あるいは治安維持法(1925年~)があった戦前・戦中までなら、顔と名前を出して目撃証言する者がいなかったことは理解できる。
 しかし、表現の自由が認められた戦後になっても、震災時における「朝鮮人の犯罪」の目撃証言が一つも出てこないのはおかしなことである。(逆に、「朝鮮人虐殺」の目撃証言は次々と出てきたのに・・・)
 とりわけ、著者が言うような「国家転覆(昭和天皇暗殺)を狙ったテロリズム」という大謀略があったのなら、なおさら証拠文書や証言記録が歴史研究者あたりから上がってきそうなものである。
 ここでもまた、「①朝鮮人の犯罪はあった」は証明しきれていない。

 念を入れて証明して然るべき2つのポイントをさらりとかわして、その代わりに著者が紙幅を費やしているのが、大正時代の朝鮮半島の情勢説明であり、社会主義者と結託して抗日運動する過激な朝鮮人テロリストたちの暗躍ぶりである。
 「日韓併合して天皇陛下の恩恵のもと朝鮮の近代化を推し進めてあげたのに、それに反発して独立を叫ぶ、ましてや抗日運動するなんてけしからん!」という著者の憤懣がみなぎっている。
 朝鮮人テロリストの無節操と恐怖を読者に伝えようという心積もりからの記述なのだろうが、ソルティは逆効果と思った。
 どこの国の民衆が、国体と自治権と伝統ある王朝を奪われて黙ったままでいられるだろうか?
 「朝鮮人の犯罪」に対して武器を持って闘うのが正当防衛ならば、日本人の「乗っ取り」に対して武器を持って闘うのも正当防衛と言えないだろうか?


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李氏朝鮮第4代国王世宗(セジョン)
Y.H LeeによるPixabayからの画像


 さらに、本書において著者が「朝鮮人虐殺はウソっぱち」とする決め手として自信満々打ち出しているのは、震災時の在日朝鮮人の人口に関する検証である。
 曰く、「虐殺認定論者は、虐殺された朝鮮人の数を、2607人とか6419人とか2万人以上とか言っているけれど、当時東京近辺にいた朝鮮人の数から推察してみれば、それが見当はずれな大風呂敷なのは明らかだ。だから虐殺認定論は成り立たない」というのである。
 この具体的な数字を上げての証明は、伝聞や新聞記事とは違って科学的で実証性が高い手段と思えるので、どんなものかちょっと紹介したい。

 まず、著者は震災当時、もっとも被害が大きかった東京や横浜にいた朝鮮人の数を9800人と推定する。この数値が正しいかどうかは正直わからない。もっと多かったという説もある。ただ、ここでは数字が問題ではなく、著者の論理の進め方が興味深いので、数値の正確さにはこだわらないことにする。
――A.9800

 次に、震災で亡くなった朝鮮人の数を1960人と推定している。これは、震災時の日本人の死亡率は15%だが、在日朝鮮人は一概に貧しくて、壊れやすく燃えやすい家に住んでいたであろうから、日本人より5%高く見積もって死亡率20%とし、総数の9800人に0.2を掛けた数値である。
――B.1960

 次に、暴徒化した日本人の見境ない攻撃から朝鮮人を保護するために、軍や警察は急遽、各地の収容所に朝鮮人を連行した。その数は6797人と分かっている。
――C.6797

 A-(B+C)=1043人

 すなわち、京浜地区において虐殺された(とされる)朝鮮人の数は、最大値を取ったって1000人がいいところで、虐殺認定論者の上げる数値には全然届かない。(著者は、この1000人のうち800人程度がテロリストだったと決めつけている)
 
 当時、在日した人口から、彼ら(ソルティ注:虐殺認定論者)の言う「虐殺」人数を引けば、震災による朝鮮人の死者はゼロになってしまう。その一点に誰も目を向けてこなかったのが、この九十年だった。


 金田一さん、見事な推理です!
 と拍手を送りたいところだが、この計算には奇妙な点がある。
 関東大震災の被害の90%を占めたのは、東京市(いまの東京23区)と横浜市であった。当時の両市の人口はあわせて262万人。うち死亡者(行方不明含む)は約9万5千人。死亡率は3.6%になる。
 これは著者の用いた日本人の死亡率15%には程遠い。
 15%という数字は一体どこから出てきたのだろう?

 答えは簡単。
 死亡率は地区によって大きな開きがあるのだ。同じ東京市でも、岩盤の硬い山の手と、海に近く人口密度の高い下町とではまったく被害の大きさが異なった。15%というのは、もっとも被害の大きかった本所区(現在の墨田区の南部)、深川区(現在の江東区の北西部)を合わせた数値なのである。
 著者が死亡率15%(さらに朝鮮人バイアス載せて20%)に設定したのは、この両区に朝鮮人が多く住んでいたからと言う。
 だが、9800人の朝鮮人の何%が両区に住んでいたのか、震災の起きた日中の就業時間帯に何人が本所と深川にいたのか、そこは検討されていない。
 朝鮮人9800人全員がゲトーのように両地区に起居し働いていたということが前提にならなければ、全数に0.2を掛けるのはナンセンスである。
 いや、ソルティも当時、朝鮮人がどこに住み、どこで働いていたかなんて知らない。
 ただ、震災当時、京浜地区のすべての在日朝鮮人が両区にいたなんてあり得ないだろう。B.1960はもっと少ない数値になるはずだ。

 そもそも、「朝鮮人が襲撃する」というニュースは9/1の震災当夜、横浜から始まったという。
 著者自身、横浜における目撃者の談話として、「不逞の鮮人約二千は腕を組んで市中を横行し、略奪をほしいままにするは元より、婦女子二、三十人宛を拉し来たり随所に強姦するが如き非人道の所行を白昼に行ふてゐる」と書かれた新聞記事(9月5日付、河北新報)を、朝鮮人テロの証拠の一つとして上げている。
 この2000人の朝鮮人は、いったいどこから湧き出したというのだろう? 
 阿鼻叫喚の本所と深川から、一瞬にして横浜にテレポーテーションしたのか?
 
 とてもとてもこの論理では、ミステリー読書歴40数年、読破数百冊のソルティは説得され得ない。

Q.E.D.(証明終わり)

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ウチのかみさんも納得しませんよ!
PrawnyによるPixabayからの画像画像
 


おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 本:『派遣添乗員ヘトヘト日記』(梅村達著)

2020年三五館シンシャ発行、フォレスト出版発売

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 このシリーズを手に取るのもこれで5冊目。
 ケアマネ翻訳家交通誘導員マンション管理員、いろいろな業界の内幕を楽しませてもらっている。(あとは介護職員、メーター点検員、タクシー運転手が残っている)

 書き手が20~30代の夢と野望あふれる若手ではなく、第一線で活躍するバリバリの40~50代でもなく、いくつかの業界で荒波をくぐって来て人生の酸いも甘いも知った60~70代の人間であることが、本シリーズのユーモアとペーソスまじりの渋い味わいを生んでいる。
 それぞれの現場で、取引先との関係に苦慮しながら、舞い込んでくるクレームに追われ頭を下げながら、低賃金や時間外就労などの劣悪労働条件をぼやきながら、一歩引いた大人の目でもって業界と人間と自分自身とを観察しているあたりが、やっぱり「亀の甲より年の功」という気がする。
 だから、それが3Kと呼ばれるような仕事であっても、派遣や非常勤であっても、悲壮な感じはしない。
 伊波二郎によるヘタウマ感あるイラストがまた、本シリーズ人気の理由であろう。
 ソルティは図書館で借りているが、どの本も予約待ちのことが多い。

 今回の書き手は、団体旅行の添乗員を15年以上やっている60代後半の男。
 映画制作、塾講師、フリーライターなどの世界を渡り歩いてきたという。
 国内旅行、国外旅行、修学旅行、社員旅行、日帰りツアー、関連イベント手伝い等々、いろいろな現場で著者が見聞きした愉快なエピソード、旅行先で起こった様々な珍事やヒヤヒヤや思いがけない感動、委託元である旅行会社との気を遣うやり取り、楽しく読ませてもらった。

トラベルトラブル


 ソルティも旅行好きなほうであるが、成人してからは団体旅行というものに参加したことがない。
 あらかじめスケジュールが決まって、時間と行く先が自由にならないというのが性に合わない。旅先では気分次第で動きたい。
 それに、団体旅行は人気の高いスポットをめぐることが多いので、どこ行っても混雑する。これがまたストレスである。
 国内国外問わず、圧倒的に閑散期をねらった一人旅が多かった。
 
 しかるに、年をとったらそう言ってもばかりいられないかもしれない。
 足腰が弱って、頭も働かなくなり、宿の予約や飛行機の手配など自分で段取り付けるのも億劫になり、加えて人恋しくなってくれば、団体旅行の便利さと賑やかさが好ましく思われてくるのかもしれない。
 これまで添乗員さんの世話になることはなかったけれど、今後はあるかもしれない。
 その時には旅の終わりに添乗員さんにあたたかいねぎらいの言葉の一つでもかけてあげよう。

 コロナ禍で一年半以上の旅行自粛が続く中、添乗員の仕事も閑古鳥だったろう。
 本作の印税が少しでも著者の生活の助けになっていればよいのだが。
 (――って図書館で借りたお前が言うな!)



おすすめ度 :★★★

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● 日本人だけじゃない? 本:『九月、東京の路上で』(加藤直樹著)

2014年、ころから発行

 「九月、東京の路上で」何があったか?
 日本人による朝鮮人・中国人のジェノサイド(大量虐殺)があった・・・・。
 約100年前(1923年)の話である。

 本書は、リアルタイムで現場を見た人々の証言に、周辺状況が把握できる解説を付け加えて、時系列に並べたものである。
 取り上げられている場所も、品川、四ツ木、神楽坂、上野公園、池袋、高円寺、熊谷、寄居、習志野など、東京・埼玉・千葉と多所に亘っている。
 表紙の絵は、関東大震災直後に小学4年生が描いたもので、一人の朝鮮人を武器を持った日本人が大勢で追跡しているところらしい。

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 本書を読んでいる間、ソルティの気持ちは深~く落ち込んだ。鬱がぶり返すのではないかと思ったほど。
 震災時の朝鮮人虐殺の話は、これまでもあちこちの本で読んでいた。が、単発だったので全体像は見えなかった。
 本書のようにまとまったものを読むのは初めてであった。
 結果、「ジェノサイド」という言葉が決して誇張ではない様相に、ショックを受けた。

 日本人ってなんだろう?
 なんという残虐な国民なのか?
 なんと附和雷同しやすいメンタルか?

 落ち込みの理由は自虐的気分におちいったからである。日本人というアイデンティティに誇りを感じられなくなりそうだったからである。

 いやいや、日本人だけではない。デビ夫人亡命後のインドネシア人だって、ポル・ポト政権下のカンボジア人だって、奴隷制時代のアメリカ人だって、ベトナム戦争時の韓国人だって、一介の庶民による庶民への虐殺行為はあったはず。特別なことじゃない。

 そう考えて気をとり直したけれど、それはまったく言い訳にも説明にもならないことは自明の理であった。
 
 夜は又朝鮮人のさはぎなので驚ろきました。私たちは三尺あまりの棒を持って其の先へくぎを付けて居ました。それから方方へ行って見ますと鮮人の頭だけがころがって居ました。わすれたがあのだいろくの原と云ふ所は二百人に死んでいたと云ふことであった。
(横浜市高等小学校1年【現在の中学1年】女児による作文)

 子供たちも含めリアルタイムを生きた人々の証言は、生々しいまでに率直で、映像喚起力があり、作為的なところがない。
 本書には、芥川龍之介や折口信夫や千田是也など著名人の証言も載せられている。
 これだけの証言を前に、「虐殺はなかった」と言うのは自己欺瞞としか言いようがない。
 罪に罪を重ねるような破廉恥は止してほしいものである。

 著者は、「虐殺はなぜ起こったか」という章を設けて、次のように考察している。

 突然の地震と火事ですべてを失った人々の驚き、恐怖、怒りをぶつける対象として、朝鮮人が選ばれたのだろうか。

 だがそうした感情をぶつける対象として朝鮮人が選ばれたのは、決してたまたまのことではない。
 その背景には、植民地支配に由来する朝鮮人蔑視があり、4年前の三一独立運動以降、日本人はいつか彼らに復讐されるのではないかという恐怖心や罪悪感があった。そうした感情が差別意識を作り出し、目の前の朝鮮人を「非人間」化してしまう。そして防衛意識に発した攻撃が「非人間」に対するサディスティックな暴力へと肥大化していったのだろう。

 しかし、庶民の差別意識だけでは、惨事はあそこまで拡大しなかった。事態を拡大させ、深刻化させたのは治安行政であり、軍である。

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1906年サンフランシスコ大地震(M7.9)の情景


 「まえがき」によると、本書が生まれたきっかけは、朝鮮人が多く暮らす新大久保(新宿区)に生まれ育った著者が、2012年から始まった在特会(在日特権を許さない市民の会)によるヘイトスピーチを目にし、怒りを感じ、抗議行動に参加したことにある。
 2000年代に入ってからの石原慎太郎都知事による「三国人」発言、在特会の活動、ネットにあふれる嫌韓コメント・・・・、関東大震災で朝鮮人ジェノサイドを引き起こした“空気”は今もこの国に漂っている。

 関東大震災は過去の話ではない。今に直結し、未来に続いている。 

 然り。
 ソルティも、今回のコロナ禍で各地で起こった感染者差別や風評被害、秋篠宮長女の結婚に対するバッシングの嵐を鑑みるに、「日本人は変わっていない、変わらない」とつくづく思う。
 一言で言えば、日本人の国民性のネガティヴな面の一つは、「匿名を隠れ蓑にしたいじめ体質」である。

 いや、日本人だけじゃない日本人だけじゃない日本人だけじゃない・・・・。
 虚しく繰り返す秋。


P.S. 関東大震災時に千葉県福田村で起こった香川の行商グループ虐殺事件を、森達也が映画化するという。震災100周年の2023年公開を予定している。
 


おすすめ度 :★★★

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 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● ノーベル漫画賞ってないのか : 『諸星大二郎展 異界への扉』

 最近すっかりファンになった諸星大二郎展が三鷹でやっているというので行ってみた。
 デビュー50周年記念だという。

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案内チラシ

 会場は中央線JR三鷹駅南口の目の前にあるCORALというビルの5階にある三鷹市美術ギャラリー。
 はじめて足を運ぶ。
 ネットで調べたら、密を防ぐためか予約制になっている。もっとも空いていそうな平日の開館直後(10時~10時半)の枠を選んだ。

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三鷹駅南口

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CORAL

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会場入口

 1970年のデビュー作『ジュン子・恐喝』から現在連載中の『西遊妖猿伝』まで、B4大の原画がカラーページも含めて約350点、迷路のように仕切られた展示室にずらりと並んで、圧巻であった。
 ソルティがここ最近読んで感銘を受けた文庫版の『暗黒神話』、『壁男』、『彼方より』に収録されていた傑作群のワンシーンも見つけることができ、縮小サイズで発行された印刷物と原画との違いが興味深かった。
 塗ったばかりのような黒々したベタ、緻密な描線、迫力ある効果線、一つ一つの吹き出しに手作業で貼った写植文字(セリフ)の凹凸、そして編集者が原稿に入れたさまざまな校正記号が一つの作品が出来上がるまでの苦労と情熱とを感じさせる。(実はソルティ、昭和時代に編集の仕事をしていました)
 
 やはり、原寸で見ると諸星の絵の上手さ、漫画家としての技術の高さに驚嘆する。
 正確なデッサン、丁寧な細部処理、ペンの使い分け、人や物体の造形力、構図、コマ割りなど、基本的なところがしっかりしている。
 その安定した基礎の上に、独創的にして大胆な発想と個性的なタッチと唯一無二の世界観が、豊富な知識(美術、歴史、民俗、生物、神話、哲学、宗教e.t.c.)と卓抜なるストリーテリングを伴って、作品として結実するのだから、しかも、残酷なまでに浮き沈みの激しい漫画界にあって半世紀ものあいだ質の高い作品を生み続け、新しいテーマや描法にも果敢にチャレンジし、幅広い世代の読者を楽しませ続けているのだから、これはもう国宝級、いや世界遺産、ノーベル漫画賞ものである。
 
 2時間じっくり堪能したあと、受付に戻ってムック『文藝別冊総特集 諸星大二郎』とカオカオ様キーホルダーを買った。

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 これから、『妖怪ハンター』や『マッドメン』や『諸怪志異』や『栞と紙魚子』などが自分を待っていると思うとワクワクする。
 展示は10/10まで。 

P.S. 展示の最後のほうにあったダ・ヴィンチばりの裸の美少年の絵にはたまげた。諸星センセイ、ついにBL漫画にチャレンジか!?
 


おすすめ度 :★★★★★

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 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 地獄のアルゴリズム 本:『虐殺器官』(伊藤計劃著)

2007年早川書房

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 近未来戦闘SF。

 世界各国の要人の暗殺を任務とする米国の青年シェパード大尉は、“虐殺の王”という異名を持つ同国人ジョン・ポールの捕獲指令を受ける。
 ジョン・ポールは元は国防総省で言語の研究をしていた人間であったが、サラエボで妻子を核爆弾で失ったのがきっかけで、以後、後進諸国の中枢に入って不穏な動きをするようになった。彼が行くところ、必ず政治は乱れ、内戦や民族虐殺が勃発する。
 戦闘員として育てられた少年少女をはじめとし、なんら躊躇いも感情もなしに敵を撃ち殺すことに長けたシェパード大尉は、自らの麻痺した良心をいぶかしみながら、ジョン・ポールの行方を追う。

 印象としては、フランシス・フォード・コッポラの『地獄の黙示録』(原作はジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』)へのオマージュといった感じ。
 シェパード大尉=ウィラード大尉(=マーティン・シーン)、ジョン・ポール=カーツ大佐(=マーロン・ブランド)である。
 違いとしては、『地獄の黙示録』の舞台は大国間(冷戦下の東西)の覇権争いを背景とするベトナム戦争で、戦車や銃や爆弾といった20世紀の武器が使用されていた。
 一方、『虐殺器官』においては先進大国間の争いはすでに終焉し、対テロの闘いが中心となっている。大国はいまや戦争を民間委託できる経済行為の一つのごと扱っていて、そこで使用される輸送機や装備や武器はIT技術や工学の進歩により、味方の安全性と敵に対する殺傷力のいずれもが最高度に発揮されるよう計算された効率の良いものになっている。
 つまり、一方には個人のプライバシーや自由と引き換えに得た高度のITセキュリティと物質的豊かさを享受するポストモダン的アルゴリズム社会があり、逆の一方には昔ながらの搾取と貧困と独裁と民族対立に苦しむ伝統的アナログ社会がある。前者は後者を搾取する。
 『ひとはなぜ戦争をするのか』の解説で養老孟司が「テロリズムの正体」として指摘していたのはまさにこれで、ポストモダン的アルゴリズム社会に対する伝統的アナログ社会の憤懣がテロとして立ち現れるというのである。まともに闘ったら敗けるのは明らかだから・・・。
 その点で、本作は近未来SFとは言いながら、もうほぼ現代世界そのもの。現代世界の誇張描写による戯画化といったほうがふさわしいかもしれない。

 そのような世界の中で、ジョン・ポールはなぜに後進諸国を渡り歩いて虐殺を準備するのか?
 どういった手段でもって人心を操り、虐殺への道をつけるのか?
 その動機とトリックがなかなか興味深い。
 
 著者の伊藤計劃は本作が作家デビュー。
 武器一般や脳科学や国際政治に関する専門知識が必要であろう本作を、たった10日で書き上げたというから凄い。
 ミリタリーオタクだったのかもしれない。
 「だった」と過去形にするのは、34歳でガンで亡くなっているからである。
 自らの命の限りを見続けていたことが、本作に見られるような哲学性を生んだのかもしれない。



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 本:『関東大震災「虐殺否定」の真相』(渡辺延志著)

2021年ちくま新書

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 およそ100年前の1923年9月1日に起きた関東大震災の直後、混乱に乗じた朝鮮人が暴動を起こし、「建物に放火した」、「井戸に毒を入れた」、「婦女を暴行した」、「各地でダイナマイトを手に破壊活動を企んでいる」といったデマ(流言)が飛びかった。デマを信じた一部の日本人らは徒党を組んで、朝鮮人を見かけるやこれを捕らえて虐殺した。

 ――というのが、これまで一般に言われてきたところである。
 ソルティも、いつからか、あるいはどういった媒体からかは覚えていないが、この言説に接し、「そんな酷いことがあったのか」と歴史的事実の一つとして神妙に受けとめてきた。
 住井すゑのベストセラー『橋のない川』にはそのあたりの記述が見られるし、筒井功の『差別と弾圧の事件史』にも香川の行商が朝鮮人と間違われて虐殺された福田村事件(千葉県)が取り上げられている。1997年阪神・淡路大震災のときも、2011年東日本大震災のときも、「決して繰り返してはならない」教訓として、この話題が再燃したのを覚えている。
 しかるに、近年、「朝鮮人のかかる犯罪はデマではなく実際にあった」、「日本人による朝鮮人虐殺の事実などなかった」という意見が出回っているそうである。特にインターネットで顕著らしい。
 ソルティはそういったサイトには立ち寄らないのでよく知らないが、「南京大虐殺はなかった」、「従軍慰安婦の強制連行はなかった」に続いて出てきた、国粋主義的な価値観を持つ人たちの「なかったことにしたい」シリーズの新しいトピックという印象をもった。
 次はきっと、「731部隊はなかった」あるいは「福島第一原発事故はなかった」あたりだろうか・・・・。
 いずれにせよ、「国際社会がまともに相手にするはずはない」と思っていたのだが、本書によると、米国ハーバード大学のマーク・ラムザイヤー教授が関東大震災を取り上げた論文を書き、それが英国ケンブリッジ大学出版局が刊行する本に掲載されることになった。その中でラムザイヤー教授は、「朝鮮人による犯罪はあった」、「日本人によって殺された朝鮮人の数は言われているほど多くなかった」と論じているという。
 発行のあかつきには、国際的権威に基づく意見として流布するのは想像に難くない。
 ちなみに、同教授は2018年安倍政権時代に旭日中綬章をもらっている。

ケンブリッジ大学
ケンブリッジ大学


 本書は、このラムザイヤー教授の論文に対する検証がきっかけとなって生まれたものである。
 著者の渡辺延志(のぶゆき)は元朝日新聞記者で、明治以来の日本と朝鮮半島の関わりを調査し、『歴史認識 日韓の溝』(ちくま新書)という本を書いている。
 渡辺は、ラムザイヤーの主張の論拠となっている関東大震災直後の各紙新聞記事を丹念に探し集め、震災取材経験を持つ同業者の目でそれを読み解き、当時の国際状況や国内事情も視野に入れ、「朝鮮人の犯行」に関する公式調査による報告書にも当たりながら、“実際に起こったであろうこと”を再構成している。
 マグニチュード7.9、死者・行方不明10万人以上、全壊家屋10万棟以上という未曽有の災害の凄まじさ、逃げ惑う人々の混乱とパニック、交通機関や電話など連絡手段が断たれた中での危険きわまりない困難な取材と他社より一刻も早い報道に命を懸ける記者たちの姿、そしてどこからともなく現れたデマとそれに踊らされ常軌を逸した行動に走る者たち・・・。
 パニック&ホラー映画を観ているようなサスペンスと衝撃に、海千山千の新聞記者ならではの鋭い洞察と解析が光る社会派ミステリーの味わいが重なる。
 ページをめくる手が止まらなかった。
 
 仙台駅における水も漏らさぬ警戒ぶりは物凄いほどで、列車の着するごとに鮮人は居らぬかと鳶口(とびぐち)、棍棒を持った自警団員がホームに殺到して目を光らし、少しでも怪しいと見ればこれを取り囲んで打倒せんとする有様で仙台駅頭は殺気漲っている。民衆の興奮はもっともながら、群集心理の附和雷同から無闇矢鱈に騒ぎ廻り、何等罪なき良民を傷つくるが如き行為は謹まねばならぬ。現に鮮人と思い誤られた立派な日本人が群衆の威嚇に極度に恐怖し逃走したとして、朝鮮人だ殺して了いと喊声(かんせい)を揚げて追いまくり、一名は警察官が身をもって保護し事なきを得たが、他の一名は何者かに鳶口を背部に打込まれ二ヶ所に重傷を負い、中央篤志会の手当を受けて仙台座に収容された。
(『河北新報』に掲載された9月5日前後の避難民の目撃談) 

鳶口
鳶口(とびぐち)

 
 著者は、ほかならぬ新聞報道が「朝鮮人の犯罪」というデマを積極的に広め、それを読んだ人々に事実と思わせてしまったことを検証する。
 いわゆるフェイクニュースだ。
 
 だが、新聞記者としてその場に自分がいたならと考えると、やはり同じような記事を書いただろうと思えてならない。聞いた話の内容が本当に事実なのかを確認する手段はない。だが、語っている人たちに嘘をつく理由が考えられない。数多くの人に話を聞けば聞くほど、内容は似通っている。全国どこの新聞であっても、一本でも多くの記事を載せたいという段階だった。
 
 一方、このフェイクニュースには2種類あり、震災直後の報道陣が事実を確認しないままにデマを信じて流した“早とちり”によるもの以外に、官から意図的に流されたものもあったことを突き止める。
 震災から少したって、朝鮮人虐殺のニュースが国際問題となりつつあるのを懸念した政府は、意図的に震災直後の朝鮮人の犯罪を捏造し、マスコミを通じて世にリークしたのである。
 それは、「日本人による朝鮮人虐殺は不可抗力あるいは正当防衛であった。なぜなら、朝鮮人が最初に不届きな事件をあちこちで起こしたから」という体面(言い訳)をつくるためであった。
 このあたりは今日まで続く権力による情報操作の闇を感じさせる。
 
 ともあれ、「朝鮮人の犯罪」というフェイクニュースは悲しいことに広まっていった。
 しかし、それがただちに「相手かまわぬ朝鮮人の殺戮」という非道につながったのには、なにかしらの理由が必要だろう。上の引用にみるように、武器を持たない単独の朝鮮人(と間違えられた日本人)でさえリンチの対象となったのだから。百歩譲って、朝鮮人に恐怖や怒りを覚えたとしても、ただ捕まえて縛っておくだけでは済まなかったのだから。
 なぜ、虐殺は起こったのか?
 中心となった自警団員とはどういう人たちだったのか?
 ここでは詳らかにしないが、渡辺の説にはソルティを震撼とさせるものがあった。

軍人墓地


 最後に、この問題の論点を単純化して整理する。
 関東大震災の直後、
  ① 朝鮮人による犯罪(放火、暴行、殺人、井戸に毒投入など)はあった
  ② 朝鮮人による犯罪はなかった
  ③ 日本人による朝鮮人虐殺はあった
  ④ 日本人による朝鮮人虐殺はなかった 

 震災直後に大方の人々が抱いたのは、①→③である。各新聞社が「無責任に」、政府が「意図的に」流した情報もこの道筋に拠るものであった。つまり、「③虐殺」は、「①犯罪」に対する正当防衛だという見方である。
 その後、①は公式に否定された。
 以降、ソルティはじめ大方の日本人が学んできた常識は、②→③である。つまり、「③虐殺」は、デマを信じ込んだ日本人の愚行であった。渡辺もまたこの前提に沿って本書を記している。
 ラムザイヤー教授が約一世紀後の今になって突如として言い出したのは、よもやの①→③への逆戻り。しかも、「③虐殺」を矮小化するニュアンスを打ち出している。
 そして、最後にネットを中心に近年見かけるようになったのが、①→④である。「なかった」ことが問題化し100年間語られてきたというアクロバティックな理屈。(ここまで来たら、②→④まであと一歩。頑張れ!)
 
 もっとも、ソルティも当時そこにいたわけではない。
 自分が②→③という図式を常識と思うようになったのは、活字やテレビや伝聞など他者によって作られた情報がもとで、自分の目や耳で確かめた事実ではない。
 多かれ少なかれバイアスがかかっている。
 本書もまた、著者の渡辺が“元朝日新聞記者”ということが一つのバイアスと取られる可能性大である。
 人は、自分の見たいものを見るし、信じたいものを信じる傾向がある。
 渡辺自身もまた、本書「おわりに」でこう記している。
 
 社会に力を持つフェイクニュースとは単なる嘘ではないことを思い知った。多くの人々が信じて疑わない嘘なのだ。社会や人々の中に、信じ込む背景が、待ち望む思いがある嘘だといえるのかもしれない。
 
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P.S. ラムザイヤー教授の論文だが、その後、ケンブリッジ大学出版当局から改訂の要求を受けて大幅に書き直したそうだ。関東大震災に関する部分はほとんど削除したらしい。なんだよ!




おすすめ度 :★★★★

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● 昭和のステゴザウルス 本:『ひとはなぜ戦争をするのか』(アインシュタイン&フロイト著)

1932年7~9月の往復書簡
2000年花風社刊行
2016年講談社文庫(浅見昇吾 訳)

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 20世紀を代表する物理学者と心理学者がこのような手紙をやりとりしていたとは、ついぞ知らなかった。
 訳者あとがきによれば、当時この往復書簡は刊行されはしたものの、翌年のナチズム政権誕生後の激動の中で埋もれてしまったらしい。
 アインシュタインもフロイトもユダヤ系であり、ナチスの魔の手から逃れるため、前者はドイツからアメリカへ、後者はオーストリアからイギリスへ亡命している。
 第二次世界大戦の渦中、影響力の大きい二大天才によるこのようなテーマの著作が陽の目を見るのが難しかったことは、想像に難くない。
 ドイツでもオーストリアでも、アメリカでもイギリスでも、むろん日本でも、戦争に異議を唱えてはいけない時代だったのである。
 本邦での出版は2000年が初めてとのこと。

 文通のきっかけは、国際連盟がアインシュタインに寄せた依頼。
 「誰でも好きな方を選び、いまの文明でもっとも大切と思える問いについて意見を交わしてください」
 この依頼に対してアインシュタインが選んだ相手が、23歳年上の精神医学の巨人ジークムント・フロイトであり、選んだテーマが、「人間を戦争というくびきから解き放つことができるのか?」というものだったのである。

 往復書簡には違いないが、両者のやりとりは一回こっきりで、難しい物理学用語も心理学用語も使われていない。
 戦争の原因を、国際政治的あるいは宗教・民族的あるいは地勢・資源的な観点から読み解いているわけでもない。
 3、40分もあればさっと読み終える、極めてわかりやすい内容である。 
 本文庫には、二人の手紙のやりとりに続いて、浅見昇吾による『訳者あとがき』、解剖学者で『バカの壁』で有名な養老孟司による解説『ヒトと戦争』、ひきこもりの研究で知られる精神科医の斎藤環による解説『私たちの文化が戦争を抑止する』の三本が収録されている。
 これら付録のほうが本文より分量が多く、テーマが複雑なくらいである(とくに養老による解説)。

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 手紙の内容を簡潔にまとめる。
 まず、アインシュタインもフロイトも「戦争が起こるのは、人の本能に破壊欲求があるから」という点で一致をみる。フロイトは、それは人間にある「死の欲動(タナトス)」が外の対象に対して向けられたものであると専門的説明をする。
 フロイトは続ける。
 人間の攻撃性を完全に取り除くことはできないので、戦争とは別のはけ口を見つけてやればよい。「死の欲動」の反対にある「生の欲動(エロス)」を呼び覚ませばよい。
 
 人と人との間の感情と心の絆を作り上げるものは、すべて戦争を阻むはずなのです。 

 単純に言えば、「死の欲動」とは憎しみ、「生の欲動」とは愛である。
 汝の敵を愛せよ――。
 しかし、物事はそんなに単純でないことはフロイト自身、分かっている。
 大衆の感情を掻き立て心の絆を作る行為そのものが、戦意高揚にもっとも効果あることは、ほかならぬナチスが立証している。
 タナトスはエロスを利用する。(逆に、エロスもまたタナトスを利用する。たとえば三島由紀夫)
 フロイトは別の戦争抑止策を提言して、書簡を終える。
 
 文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩みだすことができる!
 
 心理学的な側面から眺めてみた場合、文化が生み出すもっとも顕著な現象は二つです。一つは、知性を強めること。力が増した知性は欲動をコントロールしはじめます。二つ目は、攻撃本能を内に向けること。好都合な面も危険な面も含め、攻撃欲動が内に向かっていくのです。文化の発展が人間に押しつけたこうした心のあり方――これほど、戦争というものと対立するものはほかにありません。

 このフロイトの回答に対してアインシュタインがどう思ったのか、納得したのかしなかったのか、希望を得たのか失望したのか、そこが分からないのは残念至極である。
 ただ、第五福竜丸の被爆事件がきっかけとなって彼が死の直前に書き上げた『ラッセル・アインシュタイン宣言』(1955年)の最後で、こう記している。
 
 私たちの前には、もし私たちがそれを選ぶならば、幸福と知識の絶えまない進歩がある。私たちの争いを忘れることができぬからといって、そのかわりに、私たちは死を選ぶのであろうか?私たちは、人類として、人類に向かって訴える――あなたがたの人間性を心に止め、そしてその他のことを忘れよ、と。もしそれができるならば、道は新しい楽園へむかってひらけている。もしできないならば、あなたがたのまえには全面的な死の危険が横たわっている。

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 啓発的かつ面白いのは、養老孟司による解説である。
 養老は、二人の議論で扱われなかったこととして、次の三点を挙げる。
  1. 当時の政治情勢
  2. 人口問題と戦争との関係
  3. 情報あるいはITの技術が戦争にもたらす影響
 1と2はともかく、3はもちろん二人の議論に取り上げられるべくもない。
 二人もよもやここまでIT技術と武器開発が進み、たとえばドローンの遠隔操作によるポイント爆撃といったように戦争の形態が変わるとは想像していなかっただろう。
 今回の新型コロナウイルスがそうなのかどうかは知らないが、実戦よりも確実に楽々と大量の敵の命を奪って社会を崩壊させる生物兵器の恐ろしさには思い及ばなかったであろう。
 二人が手紙のやりとりした当時と現代とでは、社会は大きく変わってしまった。
 養老は述べる。

 パソコンとスマホに代表されるITは日常生活を変えた。そこでは新しい社会システムが創られた、あるいは創られつつある、といっていいだろう。現代のシステムはアルゴリズム、つまり計算や手続きと考えてもらえばいいが、それに従って成立する。それまでは社会システム、たとえば世間はいわば「ひとりでにできる」、あるいは「自然にできてしまった」という面が大きかった。でも現代ではそれは違う。「アルゴリズムに従って創られる」面が大きい。経済や流通、通信はそうなっている。それを合理的とか、効率がいいとか、グローバル化とか表現する。

 このあたりは、『ホモ・デウス』においてユヴァル・ノア・ハラリが詳述している通りで、神の死とともに始まった近現代の「人間至上主義」が、人間を含むすべての生物をデータというフラットなものに還元する「データ至上主義」に、変わりつつある。
 そういった人類史における大転換期にあって、戦争はいったいどうなっていくのか?
 テロリズムはどう解釈されうるのか?
 この観点から読み解いていく養老の洞察力が冴えて、一読に値する。

 ユヴァルはアルゴリズム的社会において、戦争は――少なくとも国家間の大きな戦争は、廃れていくと予言している。
 養老もまた、「ほとんどが局地戦」になるだろうと述べている。
 それが本当であるならば、ソルティも「IT音痴の旧世代」あるいは「昭和のステゴザウルス」として静かに世を去っていくのもやぶさかでないのだが・・・。

昭和のステゴザウルス



 最後に、二人の議論にも養老の指摘にもかからなかった今一つの論点を上げる。
 それはジェンダー視点である。
 「ひとはなぜ戦争をするのか」という問いそのものに、すでにバイアスがかかっている。
 なぜなら、この場合の「ひと」とは MAN すなはち「男」のことであろうから。
 戦争をするのは、戦争を好むのは、どう見たって「女」よりも「男」である。
 戦争の種は、ホモサピエンスの「男」の性質(マチョイズム)に埋め込まれている。
 アインシュタインもフロイトも養老孟司も、そこに思いが及ばない。
 「バカの壁」ならぬ「男の壁」がそこにある。

 

おすすめ度 :★★★★

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● いつか見た変な夢 漫画:『壁男』(諸星大二郎著)

2007年双葉社文庫名作シリーズ
初出
『壁男』1995~1996年
『ブラック・マジック・ウーマン』1979年
『鰯の埋葬』1991年
『会社の幽霊』1992~1993年
『夢の木の下で』1997年
『遠い国から』1978~1998年

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 『暗黒神話』、『自選短編集 彼方より』に次ぐ、3冊目の諸星ワールド参入。
 もうすっかりこの世界の虜となった。

 なんという奇抜な想像力!
 CGのなかった時代、まさに漫画でなければ表現できないモチーフであり発想である。
 その意味で、極めて「漫画的」な作家と言っていいのだろう。
 『彼方より』を読んで、つげ義春、伊藤潤二、赤塚不二夫、永久保貴一などを想起したと書いたけれど、今回は、安部公房(「壁男」の実存的意味)、古賀新一(「ブラック・マジック・ウーマン」のサバト風景)、レイ・ブラッドベリ―(「夢の木の下で」の幻想性)、星新一(「遠い国から」の怪奇と寓話性)などを連想した。
 つまり、読んでいるとなぜか「奇妙でおっかないけれど、どこか懐かしい」といった気分にさせられる。
 それは、悪夢というほどではないけれど、変てこりんな夢を見たときの目覚めの感覚に似ている。
 夢の中では、自分もたまに諸星大二郎になっている。

 CG全盛の現在、『壁男』や『夢の木の下で』あたりは映像化されても面白かろう。
 個人的には『遠い国から』に出てくる、驚くと団子虫のように地べたに丸まってしまう民族ピロン人に笑った。

ダンゴムシ



おすすめ度 :★★★★

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● この秋、テレビドラマ化! 本:『日本沈没』(小松左京著)

1973年光文社
2006年光文社文庫

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 上下巻合計400万部の大ベストセラーにして、日本SF界の金字塔である本作をついに読んだ。
 むろん、映画のほうは、森谷司郎監督、小林桂樹、丹波哲郎、いしだあゆみら出演の1973年版を観ているし、小林桂樹、村野武範、由美かおるらが出演した1974年のテレビドラマ版も観ている。
 なにせ小学生の頃で、火山が噴火し、地割れした日本列島が海に沈んでいく特撮シーンくらいしか記憶に残っていない。
 樋口真嗣監督、草彅剛、柴咲コウ共演の2006年版の映画は観ていないが、同じ年に封切られた『日本以外全部沈没』(樋口真嗣監督)は劇場まで見に行った。期待外れだった。
 この秋(10月10日より)TBS系列にて、小栗旬、松山ケンイチ、杏ら共演で再ドラマ化されるとか。
 小松左京リバイバルが起こっているのかもしれない。

 刊行から半世紀近く経って読んでみて、まったく古びた感がないのに驚く。
 それどころか、いよいよもって迫真性が高い。
 それもそのはず、1973年の日本人はいまだ、阪神・淡路大震災も、東日本大震災および福島第一原発事故も、今回のコロナ禍も経験していないからである。
 本作で小松が無尽の想像力を駆使して描き出している大地震や津波による都市の被害、災害下における日本人の振る舞い、緊急事態宣言下で起こるパニックや一部暴徒による利己的行動・・・。
 2021年の日本人はそれらを経験として知っている。
 自然災害によって生じる物理的被害のありようも、社会・経済的被害のありようも、「日本人」という民族的特質が絡んださまざまな心理的現象のありようも知っている。
 それが本書で、あたかも予言のように披瀝されているのを見る。

 子供の頃『日本沈没』を観たときは、“現実にはありえない”世紀末的スペクタクルとして作品を楽しむことができた。当時流行った『ノストラダムスの大予言』や『復活の日』も同じである。
 しかし、2021年の今、本作を読んでいるとデジャビュー(既視感)に襲われる。
 すでに起こったことの記録や検証のように思える。
 「今ここにある」危機を映しているように思える。
 なんたって、緊急事態宣言が形骸化する「今」なのだ!

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Sofia TerzoniによるPixabayからの画像


 知の巨人たる小松左京の博覧強記、徹底した取材・調査力、科学や工学に関する深い造詣、驚くべき斬新なアイデアとそれを科学的に裏付けることのできる理論構築力、そして専門家にしか理解できないような難解な事柄をきちんと盛り込みながらも読者をつかんで離さないストーリーテリングの巧みさ。
 天才とはこういう人のことを言うのだろう。

 今回、初めて知って驚いたのだが、小松左京は理系出身ではなかった。
 プロフィールに京都大学文学部イタリア文学専攻とある。
 イタリア文学専攻のSF作家だったとは!
 意外な気もしたが、読んでいるうちに「なるほど」と首肯できるところもあった。
 単なるカタストロフィ・パニック以上の文学性、哲学性が光っている。
 文章や描写もまた、非常に気高く美しい箇所が散見される。
 未曽有の悲劇において露呈される日本人の姿を描き出すことを通して、ある種の文明批評、日本人論にもなっている。
 そもそも、『日本沈没』も『復活の日』も一種の“地獄めぐり”であり、そこにイタリアの大作家ダンテの『神曲』が投影されている。
 煉獄の試練をへて“神的なもの”に至る――それが小松の終生のテーマだったのかもしれない。


 以下、引用。

 ――災厄は、何事につけても、新旧のラジカルな衝突をいやがる傾向にあるこの国にとって、むしろ人為的にでなく、古いどうしようもないものを地上から一掃する天の配剤として、うけとられてきたようなふしがある。
 この国の政治も、合理的で明晰で図式的な意志よりも、無意識的な皮膚感覚の鋭敏さに、より多くのものを負うてきた、この古くからの高密度な社会における政治においては、誰一人意識的にそうするわけではないにもかかわらず、結果的には、災厄を利用するという国民的な政治伝統がそなわっているみたいだった。(上巻154ページ)

 ――「大衆社会」というのは、全体的に「統制」をきらい、統制側も弱腰で「緊急事態」に対する心がまえのない、抑制のきかない社会だった。ふつうの時はいいが、いったん社会全体が危機におちいると、いたるところに、贅沢で、わがままで、傲慢になった人々によって、混乱と無秩序がひき起こされる。(上巻382ページ)

 長い鎖国――明治大正昭和も、一般民衆にとっては、一種の鎖国だった――を通じて培われた、抜きがたい「同朋意識」が・・・天皇の一声で戦争をやめ、戦後、政府、軍閥を口先では、はげしくののしりながら、十三名のA級戦犯刑の時、後ろめたさと内心の痛みを感じさせたような、「政府―指導者」との、郷党意識をはるかに越える一体感、「共同体感覚」――むしろ、子が親に、「最後は何とかしてくれる」と思い、そう思うことでつながりを保証するような「国に対する甘え」の感覚が、今もなお、大部分の民衆の心の底に根強く、わだかまっており、それが彼らに、「危機における従順と諦念」の基本的行動様式をとらせていた。(下巻219ページ)

 日本人は・・・ただこの島にどこかから移り住んだ、というだけではありません。あとからやって来たものも、やがて同じことになりますが・・・日本人は、人間だけが日本人というわけではありません。日本人というものは・・・この四つの島、この自然、この山や川、この森や草や生き物、町や村、先人の住み残した遺跡と一体なんです。日本人と富士山や、日本アルプスや、利根川や、足摺岬は、同じものなんです。このデリケートな自然が・・・島が・・・破壊され、消え失せてしまえば・・・もう、日本人というものはなくなるのです・・・・。(下巻373ページ)


 最後に――。
 本作で小松が(周到にも?)言及や解釈を避けた日本人のアイデンティティが一つある。
 天皇である。(作品の中では沈没前にスイスに移住)
 小松左京は天皇制をどう思っていたのだろう?

錦の御旗



おすすめ度 :★★★★★

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● 本:『ルビンの壺が割れた』(宿野かほる著)

2017年新潮社刊行
2020年新潮文庫

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 ほんの165ページ、2~3時間もあれば読み通せるミステリーで、書簡体つまり二人の人間の手紙のやり取りでストーリーが進むので、非常に読みやすい。
 ソルティは外出中に立ち寄ったカフェでランチしながら、おもむろにページを開き、流れに引きずり込まれ、コーヒーのお代わりをしつつ、全編を驚愕とともに読み終えるまで、そのままカフェに居座ってしまった。
 飲食店に長居は無用の昨今なのに・・・・

 ファイスブックを介した30年ぶりの男女の邂逅。
 二人はかつて恋人同士で、結婚を決めた仲。
 だが、結婚式当日に花嫁は会場に現れず、そのまま音信不通となった。
 いったい花嫁に何があったのか?
 失意の花婿のその後の人生はいかに?  
 お互いの人生を決定的に変えてしまった謎、そして今となっては解明されたところでせんかたない謎をめぐって、二人のなつかしくも忌まわしい思い出話が展開する。
 二人が出会ったのは大学時代。
 演劇部の先輩後輩の間柄にあった。 

 これ以上の中味については触れないのが礼儀というものだろう。
 つまらない出来の良くないミステリーならば、がんがんネタバレして欠点をあげつらいたくもなるが、本作は完成度が高く、スリリングで面白い。
 ラストが近づくにつれ、加速度をつけて変転していくストーリーと盛り上がっていくサスペンスは比類ない。
 そして、ついに明かされる花嫁失踪の真相。
 この衝撃、ぜひ味わってもらいたい。
 
 著者の宿野かほるは覆面作家で、プロフィールは非公表とのこと。
 デビュー作となった本作は、新潮社への原稿持ち込みによるらしい。
 詮索したところでなんの意味はないけれど、ソルティが推察するに、
  • おそらく現在40~50代の女性(昭和40年代生まれ)
  • 過去に演劇をやっていたことがある
  • 関東圏在住
  • 出身は静岡か?
  • フェミニスト

 最後のフェミニストってところが、本作の一つのポイントである。
 本作は、ある意味、男と女の性的な事柄に対する感じ方や、愛に対する意識、罪や噓に対する感覚の違いがあぶり出される小説である。
 なので、読み手が男であるか女であるかで、かなり異なった印象なり感想なりがもたれる可能性が高い。
 いや、「男か女か」と固定すること自体、ジェンダー差別かもしれない。
 フェミニストかそうでないかで読後感は相当違ってこよう。
 その点で、乾くるみの『イニシエイション・ラブ』と響き合うところがある。
 読者を唖然とさせるどんでん返しも然り。
 


おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 本:『マンション管理員オロオロ日記』(南野苑生著)

2020年三五館シンシャ発行、フォレスト出版発売

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 著者は、妻と共に住みこみでマンション管理員をしいる72歳の男。
 かつては広告代理店勤務で「空気を商売にしている」ようなバブリーな生活を送っていたが、思い切っての独立後、不況で経営に行き詰まる。
 ホームレス寸前までいった59歳の時、マンション管理員に転身する。
 これまでに関西地区の三つのマンションを渡り歩いてきた。
 
 ソルティはマンションに住んだことがないので、管理員の大変さを知らなかった。
 いや、住んでいる人でも知らない人は知らないであろう。
 共用スペースの切れた蛍光灯を取り換えたり、ゴミ収集所の管理をしたり、駐車場・駐輪場に目を光らせたり、建物周囲の植え込みに水をやったり、留守宅の宅急便を預かったり、定時巡回したり・・・・日々そんなことをしているんだろうなあというイメージがあった。
 どのマンションでも定年退職者らしき高齢者が従事しているのは見知っていたので、「それほど骨の折れる仕事ではあるまい」と思っていた。
 小中学校の用務員さんみたいなイメージだ。(と言って小中学校の用務員の実情をよく知らない。本シリーズで、『学校用務員グダグダ日記』を企画してはくれまいか)
 
 本書を読むと、日課となっている上のような基本業務――ただし宅急便の預かりはやってないようだ。マンション住人は私用を管理員に頼んではならないと決まっているのだ――はそれほど大変でもなさそうだ。
 なんと言っても、大変なのはクレーム対応。
 著者によれば、集合住宅の三大クレームは、①無断駐車、②ペット、③生活騒音、とのこと。
 ほかにも、器物損壊、上階からの水漏れ、悪臭、共用スペースの私物化、自殺志願者(自殺名所となっているマンションは多い)、認知症老人の世話、住民同士のいざこざ、敷地内の緑地にあるベンチで昼間からイチャイチャする高校生など、四方八方からさまざまな事件やクレームが飛び込んでくる。
 他の住民のためにもなる正当なクレームならまだしも、クレームのためのクレームすなわちモンスタークレーマーがいた日には、うんざりを通り越して疲弊するばかりである。
 通常の場合、管理員も他の勤め人同様に9時-5時で雇われているので、勤務が終われば仕事から解放される。
 が、著者夫婦のような住み込みの場合、ほとんど24時間対応に追われることになる。
 
 騒音問題の仲裁であったり、部屋で暴れる奥さんの緊急対応や立ちション目撃者からの通報などなど、日ごろのウップンの聞き役であったり、癪にさわることを注意してもらおうという人たちの受け皿、もしくは苦情承りと目されているのが、マンション管理員の実情なのである。

 
 マンション管理員を雇っているのは管理会社で、管理会社と契約しているのはマンションの理事会である。
 なので一般に管理員は、管理会社の当該物件担当者であるフロントマンに逆らえず、フロントマンは理事会とくに理事長には逆らえない。
 管理員は、フロントマンと理事長の顔色を見ながら仕事をしなければならない。
 これがまためんどくさい。 
 著者が二つ目に勤めた大阪のマンションでは、フロントマンと理事長が結託して住民から集めた管理組合費の私的流用をするわ、それを咎めた著者を煙たがって時間外労働を押し付けるわ、裁判も辞さない覚悟で法令遵守を訴えた著者にヤクザまがいの台詞で脅すわ、さんざんな目に遭ったようだ。
 むろん著者はそこを即刻辞めたのであるが、分譲マンションの住民は簡単には逃げられない。
 こんな腐っている理事会と管理会社をもつ住民こそ哀れである。

集合住宅

 
 著者は京都と大阪のマンション管理員を経験してきたようだが、「どこの地域にある、どの社会階層(収入・学歴・年代・国籍など)が住むマンションか」によって、管理員の大変さもずいぶん異なってくるだろう。
 管理員の大変さは、地域の治安レベルや居住者の“民度”に左右されるところが大きい。
 もっともそれは、たとえば警察(交番)、お役所、学校、介護施設など地域住民を相手とする他の仕事にも共通するところである。
 著者の紹介するエピソードには、自転車のサドル狙いの暴走族やら、その筋の男(暴力団員)やら、詐欺を稼業とする夜逃げ一家が登場する。
 なかなかの修羅場地域とお見受けした。
 
 ソルティはマンションにこそ住んだことはないものの、集合住宅(賃貸アパート)は何件か渡り歩いた。
 都合、25年くらいになろうか。
 本書を読みながら、これまで住んだアパートで体験したいろいろな被害が走馬灯のように浮かんできた。
 隣室の騒音(アノ時の声含む)、自転車盗難、上階からの水漏れ、ガス漏れ、ぼや騒ぎ、警報機の誤作動、水道管の凍結と破裂、自殺、救命救急、洗濯物盗難(なぜ三十路の男物を?と当時思った)、ストーカー大家による室内無断侵入、シロアリ、ペットに対する苦情(これは無断で猫を飼っていたソルティが悪い)・・・・・。

 ああ、なつかしい。
 


おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● 昔はジュリー、今なら・・・? 漫画:『魔界転生』(原作:山田風太郎、作画:石川賢)

1998年
講談社漫画文庫

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 『魔界転生』と言えば、先ごろ新型コロナウイルスに感染し亡くなった千葉真一(合掌)が柳生十兵衛に扮した、1981年の角川映画版にとどめを刺す。
 エリマキトカゲのような衣装を身に着けたジュリーこと沢田研二は、その美しく妖しいカリスマ性が異教のメシアたる天草四郎時貞にピッタリだった。
 劇中ジュリーが忍者役のうら若き真田宏之に口づけするシーンは、JUNE系(その後のヤオイ系→BL系)女子たちの間に熱狂を巻き起こした。
 ジュリー(四郎)の瞳が黄金色にらんらんと光り、胴体を離れた首が飛び回るラストシーンなど、撮影技術に驚いたものである。
 佳那晃子の細川ガラシャ夫人もおどろおどろしくて良かった。

 2003年には天草四郎=窪塚洋介、柳生十兵衛=佐藤浩市で東映で再映画化されている。
 こちらは未見である。
 佐藤浩一の十兵衛はともかく、窪塚の天草四郎にはどうも食指が動かない。

 何度か舞台化もされている。
 ソルティが観たのは、2018年の日本テレビ開局65周年記念公演で、天草四郎=溝端淳平、柳生十兵衛=上川隆也であった。
 最先端CGを駆使したスペクタルな舞台は驚異的であったが、芝居としては妙に集中力を欠いた残念感があった。
 役者の実力不足を舞台効果に頼っているように見えた。
 
 ともあれ、最初の映画化の大成功以来、非常に人気の高い作品なのだ。
 ソルティは原作を読んだことがないので、あくまでヴィジュアルイメージ観点からなのだが、令和の現在、天草四郎役にピッタリなのは誰か?
 ずばり、フィギュアスケートの羽生結弦ではなかろうか。
 美しさ、妖しさ、カリスマ性、強靭な精神、高貴な雰囲気、どれを取っても不足はない。

十字架と光と羽生


 さて、本コミックを図書館で見つけたとき、てっきり永井豪による漫画化と思った。
 表紙にちゃんと「石川賢」と書いてあるのに、絵柄からすっかり永井豪と思い込んで、読んでいる最中も永井豪作品と思って、それほど違和感なく読んでいた。
 確かに『デビルマン』や『凄ノ王』にくらべると、描線の繊細さや化け物のグロテスクさ加減は偏執的なほど微に入り細に入って、明らかに永井豪のそれとは違うのだが、女性キャラの風貌はじめ全般的なタッチがよく似ているのである。
 『あとがき』を読んではじめて、「あ、永井豪じゃなかったんだ」と気づき、表紙の著者名を確かめた次第である。
 先入観ってのは厄介だ。
 
 弁解するならば、石川賢は永井豪のアシスタントとして出発した人で、永井豪が設立したダイナミックプロダクションでずっと永井豪の手足とも共作者ともなって仕事してきた人。
 『ゲッターロボ』は二人の共作である。 
 似ていて当然なのであった。
 エログロ度の高い、壮大なスケールの『魔界転生』であるが、難を言えば、最初から最後まで絵のテンションが同じような高さで続くので、読んでいて疲れてしまうのが玉にキズ。
 こういったストーリーには手を抜いた(ように見える)部分も必要なのだ。 
  
 石川賢は2006年に58歳という若さで亡くなっている。
 怪奇時代小説の傑作として名高い国枝史郎の『神州纐纈城』を漫画化しているらしい。
 読んでみたい。
 
 
おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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     読み損、観て損、聴き損

 

● 新潮文庫の快挙! 本:『姫君を喰う話』(宇能鴻一郎著)

2021年新潮文庫
初出一覧
「姫君を喰う話」1970年
「鯨神」1961年
「花魁小桜の足」1969年
「西洋祈りの女」1962年
「ズロース挽歌」1969年
「リソペディオンの呪い」1970年

 あたし、宇能センセイの短編集が出てるって新聞広告で知って、アソコがジュンとしちゃったんです。
 それも、芥川賞にかがやいた幻の傑作『鯨神』や、伝説的なエッチ怪談『姫君を喰う話』がすっぽり入ってるって・・・。
 とても我慢できなくて、本屋に走っちゃったんです。
 平棚におかれている真新しい文庫本のカタい手ざわり。思わず、ほおずりしたくなっちゃった。
 表紙には、妖怪美人画で有名な九鬼匡規(くきまさちか)センセイの「清姫」の絵がつかわれていて、長い黒髪をたらした白い肌の王朝美人が、悩まし気な顔してあたしを睨むんです。
 もう胸がバクバクして、体の奥の方からうずくものがあって、潮がじゅるじゅるって、満ちてくる気配にその場にしゃがみ込んじゃった。


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 ――とまあ、大げさに感動を書いてみたが、この令和になって宇能鴻一郎作品が文庫で復刊されるとはよもや思わなかった。
 むろんソルティは、純文学時代の宇能鴻一郎を知らず、もっぱらスポーツ新聞やお父さん向け週刊誌に掲載されていた女性一人称文体によるポルノ小説の愛読者であった。
 普通、ヘテロの男性作家がポルノ小説を書くときは、書き手と同じ“性”の男を主人公とし、男の視線から女を描き、女体を描写し、女とのセックスを描いていくわけだが、コペルニクス的転回というか花びら回転というか、宇能センセイは自分が女になりきって女の目から見たセックスを描いたのであった。(自然と「センセイ」になってしまった)
 おそらくそれゆえに、宇能センセイのポルノ小説はお父さんのみならず、女性たちやソルティのようなゲイの男にも広く愛読されたのであろう。
 そこに描き出されたのは、男が被写体とされるポルノであった。 

 もっとも、エロ小説の主人公に女をもってきた男性作家は珍しくなく、有名どころでは『ジュスティーヌ 美徳の不幸』のサド侯爵がいる。
 サド侯爵は『ソドム百二十日』でそれこそソドミスト(男色)も描いているが、宇能センセイにも『公衆便所の聖者』という同性愛者を描いた傑作短編がある。
 サド侯爵と同じく宇能センセイもまた、「女好き、女体好き、女性を征服するのが好き」という凡百の男性ポルノ作家とは次元を異にする、「人間の性」そのものについての探究者だったのである。
 高い文章力と卓抜な構成力もさることながら、その哲学性ゆえに純文学の領域に揺蕩っておられたのだろう。
(失礼ながら過去形にしてしまったが、1934年生まれの宇能センセイは存命でいらっしゃる!)
 
 実際、ここに選ばれた6編いずれも、抜群の面白さと衝撃力にあふれている。
 人間存在の不可思議さ、不条理、性愛に憑かれた男と女の悲喜劇、極限において発動される人間の生命力、食べることとまぐわうことの根源的なつながり、男と女の根源的なちがい。
 やっぱり、痩せても枯れても芥川賞作家。
 痩せても枯れても新潮文庫。
 出版界本年一番の快挙である。

女性ヌード


 ――とまあ偉そうに書いてきたが、実はソルティ、宇能センセイのポルノ小説以外の作品は、件の『公衆便所の聖者』以外、読むのは初めてであった。
 本短編集を読んで、宇能鴻一郎の才能の豊かさ、昭和文学のレベルの高さをつくづく思い知った。

 6篇の中ではやはり『鯨神』が力強い。
 『白鯨』のメルヴィルを思わせる重量級の傑作である。
 次に、タイトルに冠された『姫君を喰う話』は、一生トラウマに刻まれるような凄まじくも美しい、泉鏡花や小泉八雲に通じる怪談。
 『西洋祈りの女』は、『飼育』『芽むしり仔撃ち』など初期の大江健三郎や『楢山節考』の深沢七郎を思わせる土俗的匂いが濃厚である。
 『ズロース挽歌』は、最近某所で起きた女性監禁事件を想起した。犯人は本作を読んでいたのではないか?
 『リソペディオンの呪い』は、鍾乳洞が重要な舞台となるため、横溝正史の『八つ墓村』を連想した。リソペディオンとは、子宮の中で石灰化した胎児のことである。
 『花魁小桜の足』は諧謔性に富む江戸時代の踏み絵奇譚であるが、『沈黙』の遠藤周作に対する揶揄のようにも読めた。

 6篇を読んで明らかなのは、宇能センセイの古典の教養および文壇の大先輩たちへの敬意とその影響である。
 泉鏡花、谷崎潤一郎、芥川龍之介、三島由紀夫、江戸川乱歩、このあたりは間違いない。
 解説を書いている作家の篠田節子は、宇能鴻一郎と三島由紀夫の関連について理解が及ばないらしいが、文体への影響は明らかであろう。
 『鯨神』の次の一節など、三島が書いたものと言っても通るくらいだ。

 白波をくだいておれのすすむところ、おれのまわりは、明け方は薔薇いろの褥となり、まひるには一めんにかがやく金ののべ板の大広間となり、夕暮れどきには蒼穹をおおって真紅の天蓋が垂れこめ、夜には、ながながと曳かれたおれの航跡はすべて、月の光をあびて蒼白とかがやく練り銀の波うつ裳裾とかわった。

 新潮社には、『公衆便所の聖者』『むちむちぷりん』を含む第2弾の発行を検討されたい。




おすすめ度 :★★★★

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● 漫画:『わたし中学生から統合失調症やってます。』(作画:ともよ)

2018年合同出版

 副題『水色ともちゃんのつれづれ日記』
 タイトル通り、ともちゃんは中学生の時から統合失調症を患い、根拠のない不安や強い自己否定からリストカットや不登校を繰り返し、15歳で精神科入院。
 退院後は精神科デイケアに通ったり、社会復帰(というより社会デビュー)を目指して就労支援を受けたり、興味をもったピアノを習い始めたり、こうして自らの経験を漫画に描きブログ投稿したり・・・。
 統合失調症とのつらく苦しい闘いと、本人がその状態を受け入れ、「この相棒と共生」するようになるまでの日々が、『オバケのQ太郎』に出てくるO次郎(「バケラッタ!」)みたいな可愛いキャラに託されて描かれる。
 1990年生まれとあるから現在21歳か。
 統合失調症患者が書いた闘病記は世界にも珍しく、例外的に『ボクには世界がこう見えていた』(小林和彦著)があるが、十代の当事者によるものはさらに珍しいのではないか。
 その意味で、貴重な症例記録と言えよう。

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 病気に関する解説を主治医の成重竜一郎氏(若宮病院児童精神科医長)が書いている。
 統合失調症について、また患者の内面世界について知り、病気への理解を深めるのに恰好の一冊である。
 
 人の脳は、日々膨大な量の知覚情報や思考の流れを処理しています。通常であればそれらのほとんどは意識されず、必要なものだけを意識に上げて処理するよう自動的に調整されています。視界には入っていても気づかないということが起きるのはそのためです。
 ところが、統合失調症にかかるとどういう理由かは不明ですが、このシステムの働きが悪くなり、普段であれば不要だとみなされ、意識に上らない知覚情報や思考の流れが、部分的に意識されるようになります。その際に、本来意識されないものが意識されてしまうことのつじつまを合わせようとして、脳が勝手な意識づけしてしまうのが“幻覚”であり、“妄想”です。
(成重竜一郎による解説より) 


おすすめ度 :★★★

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● 箱庭の中の仏教 本:『立松和平 仏教対談集』

2010年アーツアンドクラフツ

 立松和平を読むのははじめて。
 ソルティの中では、永島敏行が主演したATG制作映画『遠雷』(1981)の原作者であることと、久米宏司会のテレビ朝日『ニュースステーション』に時々出演し、朴訥な栃木訛りで世界各地の自然風景を紹介していた人というイメージがある。
 たくさんの著書があり文学賞なども獲っているのだが、行動派で活動分野が広かったので、小説家なのかジャーナリストなのか環境活動家なのか、よくわからなかった。
 ましてや仏教に造詣が深いとは・・・・。
 しかるに、立松は若い頃にインドを旅して仏跡を巡っているし、道元の伝記を書いてもいれば、道元を題材にした歌舞伎台本『道元の月』も物して高い評価を受けている。
 2010年に62歳で亡くなった時の絶筆は『良寛』だったという。

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 本書では11名の相手と仏教について語っている。
 玄侑宗久(作家、臨済宗僧侶)、山折哲雄(宗教学者)、大谷光真(浄土真宗僧侶)、板橋興宗(曹洞宗僧侶)、酒井雄哉(比叡山千日回峰行達成者)など生粋の仏教者もいれば、岩田慶治(文化人類学者)、坂東三津五郎(歌舞伎役者)、神津カンナ(エッセイスト)など分野の異なる相手もいる。
 様々な相手と自由無碍に語り、豊富な話題を繰り出す立松の博識と幅広い人生体験が際立っている。
 そのぶん、言葉のキャッチボールの面白さや対話による「他者」の発見の妙を味わえるのが一番の興趣であるはずのせっかくの対談という形式が、ところどころ立松の自分語りになってしまい、対話が深まらないまま終わってしまい、残念な感もある。(とりわけ仏教者との対話において顕著)
 たとえば、三島由紀夫と石原慎太郎による対談や、岸惠子と吉永小百合による対談、そして五木寛之と沖浦和光による対談などと比べれば、そのもったいなさは歯がゆいほど。
 対談というのは、簡単そうに見えて難しいものなのだ。

 それにしても、日本の著名な仏教者同士の対話を読んでいると、「話がまさに日本仏教の中にすっぽり収まる」ということに今さらながら感じ入る。
 すなわち、「日本的大乗仏教こそが仏教」という前提がまずあって、そのたしかに豊穣ではあるが日本人にしか分からない(暗黙の了解的)閉鎖性を持つ箱庭の中で、仏教がさまざまに語られる。
 その特徴は単純に言うと、アニミズム的、現世肯定的、即身成仏的ってことになろう。
 日本古来の神道と修験道、中国由来の仏教(禅や密教含む)と道教、そこにいつからか日本人の血の中を桜の花びらとともに流れるようになった「もののあはれ」的無常観――そういったもののミックスである。
 おなじみの言説としては、「一切衆生悉有仏性=生きとし生けるものはすべて生まれながら仏となりうる素質をもつ、あるいは仏である」、「仏教というは森羅万象なり」、「あるがままに生きる」、「修証一等」、「梵我一如」、「すべての衆は救われておるんじゃ~」・・・・e.t.c.

 末木文美士はその著『日本仏教史 思想史としてのアプローチ』の中で、「あるがままのこの具体的な現象世界をそのまま悟りの世界として肯定する思想」すなわち本覚思想が、「古代末期から中世へかけての日本の天台宗でおおいに発展し、天台宗のみならず仏教界全体、さらには文学・芸術にまで大きな影響をおよぼした」と論じている。
 箱庭とは本覚思想のことである。

箱庭


 かつて小乗仏教と貶められたテーラワーダ仏教は、歴史的にもっとも古い『阿含経典』を聖典とし、二千年以上、形を変えず伝えてきた。
 お釈迦様の教えに近いと言われるゆえんだ。
 ソルティは阿含経典のすべてを読んだわけではないが、主要なものの中に本覚思想は見当たらない。
 母の手で包み込まれるような優しい感のある日本的大乗仏教にくらべると、その冷徹なまでの論理性、容赦ない自力本願性、徹底した現世否定の姿勢は、同じ宗教とはとても思われないくらいの違いがある。
 別にテーラワーダ仏教を勧めるわけではないが、一度箱庭から出て、外から日本人の仏教を見つめ直すことは、自らを相対化する上で意義があるのではなかろうか。
 本書を読んで、そう思った。



おすすめ度 :★★

★★★★★
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● 一粒で二度おいしい 本:『ケアマネジャーはらはら日記』(岸山真理子著)

2021年フォレスト出版

 『交通誘導員ヨレヨレ日記』、『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』に続く「3K仕事、内幕暴露日記シリーズ」の3作目。
 今回の3Kは「きつい、気骨が折れる、空回り」か。

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 一読、非常に面白かった。
 むろん、ケアマネジャー(介護支援相談員)は介護畑で働くソルティにとって関係の深い職種だからではあるが、それを抜きにしても、読み始めたら止められないスリル満点の展開が待っていた。
 まさにタイトル通り“はらはら”した。
 著者の岸山はケアマネ歴20年のベテランとあるが、物書きとしての才もなかなかのものではなかろうか。

 ケアマネは介護保険のキーパーソンと言える存在である。
 介護保険サービスを使っている人のすべてに、必ず一人の担当ケアマネがついている。
 ケアマネは、利用者の心身の状態や生活環境、経済状態などを見て、介護の必要度を判断し、利用者や家族の希望をもとにケアプランを立てる。
 そのケアプランにしたがって、訪問ヘルパーやデイサービス、歩行器・車椅子などの福祉用具、介護施設の利用といったサービスが提供される。
 良いプランであれば、利用者の健康に資するものとなり、介護サービスを使いながらその人らしい自立した生活を送ることができる。
 悪いプランであれば、利用者の心身の状態は悪化し、ますます介護度が重くなって、死期を早めてしまいかねない。
 「老いと死の最前線」にいるケアマネは、利用者の命や健康の手綱を握っている。

 本書の前半では、岸山がケアマネになるまでの半生と、これまでに担当者として関わった高齢者たちのエピソードが語られる。
 20~30代は非正規の単純労働の職を転々としていて、40過ぎてから正規雇用の介護職に就き、47歳からケアマネとなった岸山のふらふら半生が面白い。(ソルティとよく似ていて共感大)
 ケアマネは彼女にとって天職だったのだろう。
 以後はケアマネ一筋で、たくさんの利用者と出会い、ひとりひとりの生活を支えてきた。
 68歳になる今も現役である。

 いっさいの介護サービスを拒む人、ケアマネにこれまでの人生で積りに積もった怒りをぶつける人、老々介護の危うさ、認知症の親に振り回され消耗する子供たち、ゴミ屋敷の住人、80代の親が認知症で50代の子供が精神障害の8050家族、介護給付費を抑えたい行政との不毛なやりとり、一人暮らしの親の介護に関わることを拒絶し「死ぬまでは一切連絡するな」という子供たち・・・・。
 いまの日本社会の縮図がここにある。
 超高齢化と少子化、家族の崩壊、地縁の消滅、個人主義、親世代から子世代・孫世代への貧困の連鎖、不安定な雇用、精神障害者の増加、定年後の生きがいの喪失・・・・。

 ケアマネは、利用者の墜落を恐れる。墜落しないようにあらゆる施策をとり、どこかに不時着させなければならない。
 しかし、墜落しないまでも、いつ墜落するかわからない低空飛行がどこまでもどこまでも続く場合が多い。ケアマネの迷いながら、戸惑いながらの日々も、利用者の飛行とともにどこまでも続いていく。

イカルスの失墜
マルク・シャガール「イカルスの失墜」


 岸山が出会った様々な利用者のエピソードはたしかに興味深く、考えさせられること多く、家族ドラマ・人間ドラマとしても、日本社会を映すドキュメントとしても、とても読み出がある。
 また、ひとりひとりの利用者に親身に寄り添い、彼らに代わって行政や大家と喧嘩し、休日返上で駆けずり回る岸山の熱心な仕事ぶりにも感心する。
 しかし、まあこれは想定内である。
 本書の何よりの面白さは、後半以降の岸山自身に起こった“すったもんだ”の一部始終にある。
 
 岸山は地域包括支援センターという、各地域にある高齢者の総合相談窓口の代表者として長年働いてきたが、定年になって延長希望叶わず、追い出されてしまう。
 その後、別の地域の同じ包括支援センターに採用されるも、職場内のコミュニケーションがうまく行かず、思うように経験や実力を発揮できず、つまらないミスを重ね、しまいには村八分のような目にあって辞職を余儀なくされる。
 本書前半における岸山のイメージ――利用者思いで、相談能力に長け、フットワーク軽く、さまざまな社会資源を熟知した海千山千のベテランケアマネ――が、ここに来てガタガタと崩れていく。
 この落差がすごいのだ。

 その秘密はおそらく、岸山が注意欠陥・多動症(ADHD)と軽度の学習障害を持っていることにあるらしい。(本人も自覚している)
 グザヴィエ・ドラン監督の映画『Mommy/マミー』(2014)はADHDの少年の話であるが、この障害は次のような症状が特徴と言われる。
  • 簡単に気をそらされる、細部をミスする、物事を忘れる
  • ひとつの作業に集中し続けるのが難しい
  • その作業が楽しくないと、数分後にはすぐに退屈になる
  • じっと座っていることができない
  • 絶え間なく喋り続ける
  • 黙ってじっとし続けられない
  • 結論なしに喋りつづける
  • 他の人を遮って喋る
  • 自分の話す順番を待つことが出来ない
 (以上、ウィキペディア『注意欠陥・多動性障害』より抜粋)
 
 思うに、おそらく岸山自身がまったく気がつかないところで、周囲の同僚たちや仕事関係者、もしかしたら利用者たちも、岸山の言動を奇異に感じたり、困惑したり、ストレスを感じたりということがあったのかもしれない。
 本書の記述だけ読むと、岸山が周囲の冷たい人間たちからいじめを受けた被害者のように見えるけれど、周囲にはそれなりの言い分があるのだろう。

 と言って、もちろん、ADHDの人はケアマネになるべきでない、管理職に就くべきではない、なんてことではまったくない。
 ADHDや学習障害はその人の個性であり、当人が困ってない限りは無理に治す必要もなく、病気に関する周囲の理解と寛容な心があれば、生き生きと仕事をすることは可能であろう。
 つまり、岸山の場合、どうもその環境に恵まれなかったのではないかと思うのだ。
 今働いている居宅介護事業所「雀」において、ようやく安住の地を見つけたらしいことが最後に語られている。(居宅介護事業所とはケアマネの巣である)

 10年間働いた地域包括支援センターで定年延長してもらえなかったのも、次に就職したセンターを追い出されたのも、私の弱点によりパフォーマンスが悪いせいだった。
 しかし、「雀」では同僚たちに導かれ、助けられながらも仕事は滞らず、なんとか回っている。
 あらためて注意欠陥・多動症への対策は環境が決め手であることを痛感した。
 「雀」では誰も私を責めない。叱らない。蔑まない。

 本書は、ケアマネジャーという3K仕事の内幕や我が国の介護現場の現実について読者に伝えてくれるとともに、ADHDという障害を抱えて生きる人の苦労やものの見方・感じ方を教えてくれる。
 一粒で二度おいしいような本である。


道頓堀



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『ヤクザの文化人類学 ウラから見た日本』(ヤコブ・ラズ著)

1996年岩波書店

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 ソルティの中のヤクザのイメージと言えば、まず60年代東映の任侠シリーズ。
 鶴田浩二、高倉健、菅原文太、藤純子といった錚々たるスターが銀幕に焼き付けた“義理と人情”の裏街道。
 着流し、入れ墨、日本刀、親分子分の盃、日本家屋、番傘、博打、啖呵、出入り、一宿一飯の恩、カタギには迷惑かけん・・・・・。
 あくまで忍耐強く、あくまでストイック。
 画面を彩る敗者の美学。 
 緋牡丹のお竜こと藤純子の花そのものの美しさといったら!

牡丹


 その後、東映は73年公開の『仁義なき戦い』(深作欣二監督)の大ヒットを皮切りに実録路線に変更していったが、ソルティはこちらには興味が湧かなかった。
 ダブルのスーツ、白いエナメルの先のとがった靴、外車、サングラス、角刈り、チャカ(拳銃)、シャブ(覚醒剤)、シマの取り合い、壮絶な銃撃戦、簀巻きにして大阪湾、イロ(女)を風俗で働かせてのヒモ生活・・・・。
 刑事ドラマや東映Vシネに描かれるようなその後のヤクザ像は、この実録路線の延長上にあるのだろう。
 それはもはや、任侠道とか敗者の美学というものとは程遠く、まさに暴力団とか“反社”という呼称こそふさわしい。(岩下志麻主演の『極妻』については未見なのでよくわからない)
 
 いずれにせよ、ソルティのヤクザイメージはマスメディアによって作られたもので、現実にヤクザの知り合いもいなければ、パチンコや賭け事もやらず、近所に組の事務所があるわけでもないので、まず彼らとは接点のない半生を送ってきた。
 たまに繁華街のサウナに行ったときに、それらしき入れ墨の主を見るくらいである。
 その点では、本書で著者が述べている通りである。
 
 一般社会にとって意味があるのは、ヤクザは犯罪者で暴力的で社会に寄生しているという事実だけである。それ以上の情報は必要としない。なるほどその情報は事実であるかもしれないが、そのような態度からは個人としてのヤクザを完全に非人間化するというプロセスしか生じない。 

 だから、東海テレビが制作したドキュメンタリー『ヤクザと憲法』(2015)は大変面白く、刺激的であった。
 カメラが大阪にある某ヤクザ事務所に入っていって、親分はじめ組員一人一人にインタビューして、その人柄や来歴を見せてくれたのである。
 そこに映し出されたヤクザの素顔は、おおむね不器用かつ直情径行で、世渡り上手とはおせじにも言えず、人間っぽさ濃厚であった。
 
 本書はそれに先立つこと20年前、1986年から1990年にヤクザの世界に単身乗り込んだ一研究者が、丹念なリサーチの結果をまとめあげた稀有なる記録である。
 それを実現したのが、本邦の研究者ではなく、イスラエルの文化人類学者であるところが衝撃的である。
 本書が発刊された時の反響を自分は覚えていないが、日本の文化人類学界や社会学界のみならず、マスコミ関係者や警察関係者においても、いや一般読者においても相当な衝撃をもって迎えられたのではなかろうか?
 日本人の研究者でもよくし得ないことが、イスラエル人にしてやられるとは・・・・!
 
 だが、もちろん外国人の研究者だからこそ、このような恐れ知らずの、偏見知らずの、しがらみ知らずのフィールドワークができたのは間違いあるまい。
 取材される相手(=ヤクザたち)も、表社会にいてヤクザを偏見の目で見ることに慣れたカタギの日本人ではなく、日本文化の外にいる外国人という部外者だからこそ、すんなりと受け入れ、胸襟を開き、本音を晒したのであろう。
 それは『さいごの色街 飛田』で飛田遊郭を取材した井上理津子に言えることと同じである。
 
 本書は、ヤクザという存在について、文化人類学、社会学、心理学、ジャーナリズムの扱いなど様々な視点からの洞察がなされ、興味深い。
 縁日には欠かせないテキヤの仕組みや日常の記述などは、著者も彼らと一緒に旅して露店で売り子もしたというだけあって、非常に具体的で面白い。 
 また数年に及ぶフィールドワークの結果として生じた著者とインフォーマント(情報提供者)たるヤクザたちとの友情や親睦の様子も描かれ、「ヤクザ」「外国人」「学者」といったレッテルをはがした人と人との真摯な関係の可能性について教えてくれる。

 一連の研究の果てに著者が実感したのは次のようなことであった。
 
 ヤクザは日本人の中心的自我の一つの変形であり、逆もまた真なりと言える。この主張に対してはたいていの日本人が異議を唱えるだろう。たいていの日本人はヤクザの中に自分自身を認めることなどできないだろうし、また認めようともしないであろう。しかし私の考えでは、ヤクザは伝統的社会からは排除され拒絶されてはいるが、多くの点で日本人の文化的な自己の一部であって、しかも周縁とは言い切れない一部である。二つの社会が似ているからこそ排除や拒絶が起こるのである。
 
 裏社会という言葉は言い得て妙で、表社会の正確な倒立像が裏社会たるヤクザの世界であろう。
 性風俗や賭博やドラッグなど、表社会の健全な人々がもつ後ろ暗い欲望を密かに叶えてくれるのが、裏社会の役割であった。
 ジギルとハイドの正体は、同じ一人の人間である。
 両者は分けられない。

 著者があとがきで記しているように、フィールドワークが行われたのは92年の暴力団対策法施行の以前であり、その後、日本社会(表社会)も裏社会も大きく変わってしまった。
 暴力団への締め付けが厳しくなり、組からの離脱者が増えている。
 既存の組織もまた存続の危機にあるが、それは「暴力団壊滅、バンザイ!」と市民社会が一概に喜んでばかりいられるものでなく、掟も縛りもない半グレや国際ギャングのようなアウトローの増加を生んでいる。
 著者が言うように、「昔風のヤクザは、もうこの世界の規範ではなく、骨董品めいたものになった」のである。

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 60年代の東映任侠映画に入れ込んでいた20代の頃、ソルティは「人はなぜヤクザの道を選ぶのか」、ほとんど考えることがなかった。
 ただ美しくスタイリッシュな映像と、カッコいい科白と、見事な太刀さばきに見とれているばかりであった。
 関西の人間なら暗黙の了解として知っているであろうことを、関東生まれで世間知らずの自分は知らなかった。
 無知っていうのは罪だなあと思う。
 と同時に、タブーを作って顕在化させないでいるのは、やはり日本人にとって教育上よろしくないと思う。
 被差別部落や在日朝鮮人などマイノリティの視点から、再度、東映ヤクザ映画を見直してみたい。
 
ヤクザ世界に庇護を求める者たちのもっとも根本的な動機は、通常社会に順応できないことにある。周縁的であるからこそヤクザは、自分がそこに所属し、そこで成功した気持ちがもてるのだ。反転世界での逆転した成功は、差別されうまく適応できなかった人々の周縁的なアウトローの世界にいるという思いに基づいている。



 
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損

 
  

● 本:『さよなら、シリアルキラー』(バリー・ライガー著)

2015年創元推理文庫

 アメリカ発ヤングアダルトミステリー。
 17歳のイケメン高校生ジャスパー・デント(ジャズ)が、親友で血友病患者のハウイーや黒人の恋人コニーに助けられながら、地元の街で起こった連続殺人事件の犯人を捜す。
 原題は I HUNT KILLERS「人殺しを捕まえる」
 邦題の由来こそ、この小説のミソである。

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 ジャスパー・デント少年は、124人を惨殺した稀代のシリアルキラーにしてソシオパスであるウィリアム・デント(ビリー) の実の息子であり、幼い頃から父親の手による英才教育(=洗脳)を受けた生粋の“シリアルキラー候補”なのである。
 ジャズは自らの呪われた血としつけが顕在するのと必死に闘いながら、かつ全米にあまねく知られた凶悪犯の息子という境遇と向き合いながら、かつ認知症を発症し奇矯な振る舞いが目につく祖母(ビリーを生み育てたモンスターマザーである)の面倒を一人で見ながら、シリアルキラーの心理を隅々まで知る利点を逆手にとって真犯人を追う。
 
 考えられる限り最悪の育ちと環境にある主人公。
 残酷な手段で若い女性を殺めていくシリアルキラーの出没。

 普通なら重苦しい話になりそうだが、そこはヤングアダルト小説。
 友情や恋愛をからませながらユーモアある筆致で主人公=ヒーローの苦悩と活躍を描いていく。
 捜査を指揮する保安官が十代のビリーに協力を依頼するとか、124人殺しの凶悪犯が死刑にならないでいるとか、しかも簡単に脱獄してしまう施設に収容されているとか、ご都合主義はそこかしこに目立つが、そこはヤングアダルト小説。
 目くじらを立てることもあるまい。
 
 肩の凝らない気楽なミステリーを読みたい向きにはおススメである。
 

 
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