ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

読んだ本・マンガ

● 本:『介護ヘルパーは見た』(藤原るか著)

2012年幻冬舎新書

 市原悦子主演『家政婦は見た!』ばりの家庭内ドロドロミステリーではなく、実際の介護ヘルパーすなわち介護保険の訪問介護員によるリアルな体験記である。
 副題は「世にも奇妙な爆笑!老後の事例集」。

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 著者は東京の某訪問介護事業所に所属する、この道20年以上の現役ヘルパー。
 1000人を超える要介護高齢者と出会ってきた。
 在宅ヘルパーの労働条件の向上を目指し公の場で発言したり、掃除・洗濯・買い物などの生活援助を介護保険から外そうと目論む厚生労働省に抗議の足を運ぶなど、現場と政策を結びつける活動もしている。
 「るか」という名前は、イエス・キリストの生涯を記した『ルカによる福音書』から取られたそうで、著者自身クリスチャンである。
 本書ではそうした出自を匂わすようなスピリチュアルな話は控えられているが、著者の奉仕精神の源に宗教的なバックグラウンドがあるのは間違いなかろう。
 認知症高齢者など個性豊かな利用者とのエピソードが楽しい。
 
 本書が出版されたのは2012年。
 その時点で著者は、上記の“生活援助外し”や“訪問ヘルパーの滞在時間の短縮”などを企む国の方針に対し怒りの声を上げている。
 10年近くが経ったいま、介護保険制度の改正(改悪?)はさらに進み、生活援助こそ制度から外されてはいないものの、比較的介護度の低い要支援者の「訪問介護」と「通所介護」については、もはや国の管轄にはなく、区市町村で行う事業へと移行している(2015年~)。
 区市町村の限られた予算で実施しなければならないわけで、地域格差やサービスの質の低下が問題視されている。
 国はどうやら要介護者の「訪問介護」と「通所介護」についても同様の方針でいるらしい。
 つまり、ホームヘルプとデイサービスを介護保険から外してしまおう、という魂胆である。

 また、介護保険サービスを利用するためにはケアプランを作成する介護支援専門員(いわゆるケアマネ)のいる事業所とマネジメント契約をする必要があるが、現在自己負担なしで利用できるケアマネジメントが今後有料化する気配もある。
 明らかに介護保険の利用者を減らしたいのだ。

 むろんこれは、高齢化が進むにつれ膨らむ一方の介護給付費(令和2年度3兆 3,838 億円)を抑制したいという大義名分からなのではあるが、どうなんだろう?
 公的な介護保険サービスでまかなえないところが、たとえばNPOや企業など地域の民間サービスで同等の価格で代替できるのならよいが、そうでないと結局、要介護者の家族にしわ寄せがくる。(家族の世話を“しわ寄せ”と言ってはいけないが・・・)
 高齢者の一人世帯や核家族世帯が増えている日本では、親の介護のために離職せざるを得ない、いわゆる「介護離職」につながる。
 すでに家族の介護・看護が理由で離職する者は年間約10万人という。
 40~60代の働き盛りの人が社会の一線から退くことは、少なくない経済的損失を招き、日本経済の減速を招く。
 つまり、負のループ=悪循環にはまり込んでしまう。

 介護や医療のサービスは、もはや電気や水道やガスや道路と同様のインフラなんだと思う。
 命や健康や生活の質に直結する分野の予算を削るよりも、もっと先に削減してもいいところがたくさんあるはずだ。

車椅子とステレス機
安倍政権がアメリカから購入した最新鋭ステルス戦闘機・F35
1機116億円を147機(1兆7052億円)爆買い




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




● 本:『交通誘導員ヨレヨレ日記』(柏耕一著)

2019年三五館発行、フォレスト出版発売

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 工事現場に立つ交通誘導員こそ、軟弱なソルティには向かない仕事である。

 炎天下の夏も極寒の冬も、日差しや強風をさえぎるものない道の真ん中で、終日ひとつところに立っていなければならない。
 まず体力勝負である。

 交通量の多いところでは、自動車や自転車や歩行者の安全に気を配りながら、適切に誘導しなければならず、足止めや遠回りを指示されて苛立つ人々、工事の騒音や振動やほこりや異臭に眉を顰める近隣住民からのクレーム対応もしなければならない。
 気が疲れることこのうえない。

 逆に交通量の少ないところでは、手持ち無沙汰に苦しむ。
 持ち場を離れることもできず、いすに座ってスマホをいじることも、仲間の誘導員や工事現場の作業員とおしゃべりするわけにもいかない。
 呉服売り場のマネキンと化して、無為や眠気や退屈とたたかわなければならない。
 と言って、気を抜いてボーっとしていると事故の原因になりかねず、いったん事故を起こせばクビは必至である。

 そのうえに、工事現場で働く監督や作業員から仕事中の態度や誘導の上手下手を監視され、理不尽な命令を下され、時にはイジメまがいの悪態を衝かれる。 

 日給はそこそこ貰えるけれど、決して割の合う仕事とは言えまい。

 なのに、工事現場で見かける誘導員のなかには高齢者が多い。
 70歳以上が8割を占めている警備会社もあるという。
 老後資金の乏しい高齢男性がもっとも気軽に就ける仕事なのである。

 働けば日払いもあり家がなければ寮もある。嫌が応でも社会とのつながりもできる。とりあえず残業すれば最低限の社会生活が可能なのが警備員かもしれない。仕事として楽しい楽しくないは別として、決して悪い選択ではないのではないか。
 土壇場に追いつめられた人にとって交通誘導員の仕事は社会との最後の“蜘蛛の糸”かもしれない。

 著者は1946年生まれ。本書執筆時、73歳である。
 もともとの職業である出版関係の仕事をしながら、生活費を補填するため、いまも交通誘導員として現場に立っている。
 夜勤もすれば、日勤・夜勤・日勤の昼夜3連続勤務もこなすというから、相当な体力・気力の主には違いない。
 介護の仕事で夜勤1回したら、“明け”の日はもちろん、その翌日もグダーってなってしまうソルティには到底考えられない。
 そんな状態で交通量の多い現場に立ったら、どれだけ悲惨な事故を巻き起こすことか!


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Gerhard G.によるPixabayからの画像


 ソルティにはもっともできそうにない仕事と書いたが、逆にソルティがやっていた介護の仕事も、「自分には無理! 死んでもやりたくない」という人(とくに男性)は少なくないだろう。
 介護現場でおむつ交換や老人相手の幼稚なレクリエーションするくらいなら、工事現場の案山子のほうがマシという人もいるはずだ。
 つまるところ、まったく楽な仕事はないし、どんな仕事にも向き不向きがあるのだ。

 この「 3K仕事、内幕暴露日記シリーズ」(ソルティ命名)は、前から気になっていた。
 本書のほかにも、タクシー運転手編、出版翻訳家編、マンション管理人編、メーター点検員編、非正規介護職員編、ケアマネ編などが発刊されている。
 本書にしばしば出てくる「片交」、「立哨」、「トラバー」といった用語のように、どの業界にも身内だけに通じる用語やルールがある。
 そういったのを知るのも面白い。 
 しばらくこのシリーズを追っていきたい。

 今日は雨。誘導員さんも暇だろう。
 


おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 君の名前を教えて 本:『朝鮮大学校物語』(ヤン・ヨンヒ著) 

2018年(株)KADOKAWA

 朝鮮学校を舞台とするドキュメンタリー『アイたちの学校』を観ていて生じた疑問、

 朝鮮学校では金主席や北朝鮮という国の体制をどこまで批判できるのか?

 ――を確かめようと、検索していたら本書に当たった。
 著者は1964年大阪生まれの映画監督。在日コリアン2世である。

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 朝鮮大学校は東京都小平市にある。
 武蔵野美術大学(通称「ムサビ」)、創価学園(いわゆる「ガッカイ」)、白梅学園、津田塾大学、都立小平西高校などが集まる文教地区で、玉川上水の緑豊かな遊歩道が続く閑静な住宅地である。
 最寄りは西武国分寺線の鷹の台駅。毎朝、小学生から中・高・大学生まで多くの学生たちが改札を抜けて、それぞれの学校へと向かう。
 ただし、その中に朝鮮大学校の学生の姿はない。
 全寮制だからである。
 ここは民族教育の最高学府であり、全国の朝鮮高校からやって来た在日コリアンの若者たちが、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)を担う幹部となるべく、勉学や民族意識の確立に励んでいる。
 文部科学省から大学としての認可は受けておらず、法律上は各種学校である。

 本書は、80年代前半に大阪の朝鮮高校から朝鮮大学校へ入学した一人の女性、パク・ミヨンを主人公とした学園青春物語である。
 むろん、ミヨンのモデルは若かりし日の著者ヤン・ヨンヒ自身であり、三人称のフィクションという形を取ってはいるが、書かれていることのかなりの部分――朝鮮大学校での授業や寮生活の様子、卒業旅行で訪れた北朝鮮での見聞など――は、著者の体験に基づいた事実と思われる。

 ミヨンが朝鮮大学校に入学した一番の目的は、東京でたくさんの芝居や映画を観ること。将来は演劇の道に進むつもりなのである。
 本書に登場する映画のタイトルや劇場名、劇団名は、同じ80年代の東京で『ぴあ』を片手に青春を過ごしたソルティの耳に懐かしく響くものばかりであった。
 入学早々、六本木の俳優座に芝居を観に行って夜8時の門限破りをしてしまったミヨンは、生活指導員に呼び出され、厳しく注意される。

「ここは日本ではありません! 朝鮮大学校で生活している貴女は、共和国で、すなわち朝鮮民主主義人民共和国で生きているのだと自覚しなさい!」

 比較的自由が享受できた大阪の朝鮮高校とは違って、朝鮮大学校は規則づくめで管理のきびしい、まるで中世のカトリック修道院のような場所であった。
 修道院と違うのは、敬愛と信仰の対象となるのがイエス・キリストや聖母マリアではなくて、北朝鮮の最高指導者たる金日成(キム・イルスン)・金正日(キム・ジョンイル)親子であること。
 朝は、「放送事故のような音量で」流される革命的行進曲と合唱団が歌う戦闘曲で起こされ、毎夜の政治学習の時間には金親子の著作集を読まなければならない。
 そのあとに一日の自分の言動をルームメイトの前で振り返る“総括”が待っている
 抜き打ちの持ち物チェックでは、倭風(日本的)や洋風の物を持っていないか徹底的に調べ上げられ、ミヨンの持っていた外国音楽のカセットや映画雑誌、バタイユの『エロティシズム』などは没収されてしまう。
 外出できるのは週一回日曜日のみ。外出先と目的を書いた許可書を提出し、5人の管理者の印を受けなければならない。
 外部の日本人との交流は制限され、とくに日本人男子との交際などもってのほか。
 つまりは、まったくの洗脳教育機関である。

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 映画や演劇を愛するだけあって自由な感性の持ち主であるミヨンは、校風に馴染めず、事あるごとに反抗を重ね、お隣のムサビの男子学生との恋愛騒ぎを巻き起こし、問題児のレッテルを貼られてしまう。
 卒業旅行では、幼い頃に北朝鮮に“帰国した”実の姉との数年ぶりの再会を心待ちにするも、当局の不興を買った姉夫婦は首都ピョンヤンから僻地に追放されていた。
 持ち前の度胸と袖の下を使ってやっと姉のもとを訪れることができたミヨンは、その道中、貧しい祖国の悲惨な現実を知り、監視社会のもと自由が奪われた人々の絶望しきった暗い表情を見る。
 ひたすら姉のことを心配するミヨンに向かって、姉は言う。

「アンタは私の分身やから。私の分も幸せになってくれな困るの! 組織や家族のためとかアホなこと言うたら私が許さへん。後悔せんように。わかった? 朝鮮で生きるのもキツいけど、この国背負わされて日本で生きるのも大変やと思うわ」

 日本への帰国間近、ミヨンたち一行は思いがけずも金日成主席の姿を拝謁する機会を得る。
 アフリカのどこかの国の大統領を迎える金主席を讃えるサクラとなるため、空港に召集されたのである。
 「民族の太陽」のおでましに、号泣しながら「万歳!」を叫ぶ教員や同級生たちの間にあって、ミヨンはひとり冷めている。
 
「これが本物のキム・イルソン・・・・」
 伝説のカリスマを目撃しているという事実よりも、集団心理に感染しない自分を発見した実感の方がスリリングだ。
 この人はこの国をどう思っているのだろう? この国の実情を知っているのか。部下たちはちゃんと報告するのだろうか。この国の現状にどれほど満足しているのだろうか。

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Tomoyuki MizutaによるPixabayからの画像


 本書に描かれているのは、30年以上前の朝鮮大学校の実態であり、いまの金正恩(キム・ジョンウン)主席の祖父にあたる金日成時代の北朝鮮である。
 令和の現在、当時とはいろいろと違っていることだろう。
 まず間違いなく状況は悪化しているに違いない。
 本書の裏表紙に載っている朝鮮大学校の校舎の黒ずんだ外壁の写真を見れば、相当な経営難に陥っていることは推察できるし、入学する生徒も激減していると聞く。
 コロナ禍のいま、北朝鮮の内情に至っては想像するだに怖ろしい。

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 世界中の誰だって、自ら望むことなく前もって定められた条件下に生まれ落ち、歴史に翻弄されながら、各々が属する国や民族や宗教や文化や社会制度や伝統に絡めとられ、かつ、そこにアイデンティティを見出しながら生きている。
 日本人しかり、在日コリアンしかり、台湾人しかり・・・・。  
 アイデンティティとは“条件付け”にほかならない。
 同じ日本に生まれ、同じ空気を吸いながら、在日コリアンの人々と日本人とではいかにバックグラウンドが異なることか。
 見ている景色が違うことか。
 アイデンティティの中味が異なることか・・・・。

 仏教徒のソルティとしては、“条件付け”からの解放こそが最終的な自由への道と思ってはいるけれど、それは今現在自分や他人が大切にしているアイデンティティを軽視していいということには決してならない。
 それは互いに尊重すべき、でき得る限り理解に努めるべきものであろう。
 「自分たちは国籍なんて気にしないよ。君がナニジンだろうが関係ないよ」という、ムサビの恋人をはじめとする周囲の善意の日本人たちの言葉にミヨンが傷つくのは、それが(幸運にも)国籍を気にしなくてすむ立場にいる人間による“上から目線”のセリフだからだ。
 セクシャルマイノリティの一人であるソルティも、「わざわざカミングアウトしなくたって実生活上の問題がなければ別にいいじゃん」という“決して差別者ではない”ヘテロの同僚の発言に、「それはそうだけど・・・・」とふっ切れない思いとともに口をつぐんだことがある。
 その瞬間、自分(を含むセクシャルマイノリティ)という存在が「無きもの」とされたような気持ちがしたのである。
 「多様性を受け入れる」というのは、「君が何であっても関係ないよ。差別しないよ」という表面的なものではなくて、「君が何であるか教えてくれ。自分は黙って聴くから」ということなのだろう。

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 朝鮮大学校は、ソルティが想像していた通りの、あるいはそれ以上の不自由で窮屈な怖ろしい世界であった。
 しかるに、そこで学ぶ若者たちの皆が皆、洗脳されてしまうわけではないことが本書では証明されている。
 おそらく、完全に洗脳されて金主席を神と仰ぎ、北朝鮮を理想の国と信じ込むのは一握りの“優秀な”学生だけであって、ほとんどの学生は教員や朝鮮総聯に目を付けられないよう外面は従順なふりをしつつ、それなりに楽しみを見つけながら、自己表現の手段を探しながら、したたかに生きているのだろう。

 まあ、難しいことは抜きにしても、本書はとても面白い小説である。
 「一人でも多くの人に読んでほしい」という言い回しは、たいていの場合、評者の誇張か独り善がりに過ぎないので、あまり口にしたくない。
 が、本書に限っては「一人でも多くの日本人に読んでほしい」と素直に思った。
 


おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 羊と亀 本:『オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ』(森達也著)

2012年角川書店

 スプーン曲げの清田くん、恐山のイタコ、オカルト・ハンター、スーパー霊能者の秋山眞人、人気オカルト番組の元プロデューサー、オーラー鑑定士、毎日同じ時間に扉がひとりでに開閉する寿司屋、永田町の陰陽師、UFO観測会、ダウジング、超心理学の権威、臨死体験者、メンタリストのDaiGo・・・・。
 様々な分野のオカルト現象に関するレポートである。
 著者の森達也は、元オウム真理教の信者の日常を描いた『A』シリーズ、『放送禁止歌』、『職業欄はエスパー』などのドキュメンタリー作品で知られる。

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 オカルト現象に共通する特徴として、いざ厳密な科学的調査によって証明しようとすると何故かうまくいかないというのが知られている。
 ホラー映画『リング』の元ネタとなった明治時代の福来友吉博士による千里眼実験(の失敗)などが有名である。
 こういったオカルト特有の振る舞いを「羊・山羊効果」と言うのだそうだ。

 オカルトは人目を避ける。でも同時に媚びる。その差異には選別があるとの仮説もある。ニューヨーク市立大学で心理学を教えていたガートルード・シュマイドラー教授は、ESPカードによる透視実験を行った際に、超能力を肯定する被験者グループによる正解率が存在を否定する被験者グループの正解率を少しだけ上回ることを発見し、これを「羊・山羊効果(sheep-goat effect)」と命名した。
 この場合における「羊」は超能力肯定派を、そして「山羊」は否定派を示している。つまり超能力を信じる者たち(羊)が被験者となる実験では、超能力の存在が肯定されたかのような結果が出るのに対し、超能力に否定や懐疑の眼差しを向ける者たち(山羊)が被験者となる実験では、超能力を否定するかのような結果が出る現象が「羊・山羊効果」だ。

 観測者の態度いかんによって現象のありかたが変わるというのは、まるで量子力学の不確定性原理みたいで興味深い。
 信じる者は救われるってことか。
 子供の頃からオカルト番組やつのだじろうの怖い漫画が好きで、長じてはスピリチュアルにはまったソルティは「信じる者(羊)」の一人であるが、自ら不思議な現象を体験したことがあるかと言えば、さっぱり縁がない。
 UFOを見たこともなければ、霊的現象に遭遇したこともない。
 むろん、スプーンを曲げることも馬券を当てることもできない。
 せいぜいが晴れ男である――外出が決まっている日は晴れることが多いなあ~と思う――のが関の山であるが、これはむしろ逆に、山登りで培った長年の勘から、あらかじめ晴れそうな日をねらって外出予定を組んでいるせいかもしれない。

 とはいえ、自分ではそれと気がつかないところで奇跡は生じている可能性はある。
 たとえば、一昨年の12月に最寄り駅の階段から落ちて左足を骨折し、結果として介護現場から離脱せざるを得なくなった。
 高齢者を安全に介護できる自信と保証が持てなくなったからだ。
 その後しばらくして、辞めた介護施設を新型コロナが襲った。
 数名の職員と利用者が感染し、濃厚接触者となった職員は2週間の自宅待機を余儀なくされた。
 幸いなことにコロナで亡くなった人は一人も出なかったけれど、少ないスタッフでシフトを回さなければならず、施設はてんてこまいだったらしい。
 もしソルティがあのまま働き続けていたら感染していたかもしれない。
 同居の両親にうつしていたかもしれない。
 50代の自分はなんとか復活できたとしても、80代の親はどうなっていたか分からない。
 日本でも世界でも、介護や医療の現場で働いてコロナに感染し、そうと知らずに家に持ち帰って家族にうつしてしまい死なせてしまった、という人もいることだろう。(自分を責めないでほしいものだ)
 両親の2回のワクチン接種が完了した今、「なんとかこのたびは乗り切ったな」という安堵感はやはり大きい。
 転落事故は不幸、不運というより一種の天恵だったのではないかとすら思うのである。
 まあ、こういう都合のいい“こじつけ方”のできるところが「羊」たるゆえんなのだろう。 

羊


 天恵と言えば、歴史を学んだり昨今の世界情勢を学んだりすると、2021年の日本に暮らしていることがいかに幸運なのかをつくづく感じる。

 もし太平洋戦争時に二十歳の若者だったら。
 もし日本でなく北朝鮮やミャンマーやジンバブエに生まれていたら。
 もしイスラム教圏に生まれ育ったゲイであったら(国によっては死刑になる)。
 もしインドのスラムの底辺カーストの家に女性として生まれていたら。
 もし・・・・・・・
 
 幸運と幸福は似て非なるものなので、上記のような厳しい条件下に生まれても「幸福である」ことは可能かもしれないし、逆に現代の日本で何不自由なく生活していても「不幸である」ことはあり得よう。
 でも、衣食住と安全、信仰や表現の自由が保障されている国に生まれ暮らしているのは、それだけでかなりの強運の持ち主であり、幸福へのパスポートを手にしていると言っていいのだ。
 ついつい忘れてしまいがちだけれど・・・。

亀


 「盲亀の浮木」というお釈迦様の教えがある。
 いま海底に盲の亀が棲んでいる。
 その亀は百年に一度だけ海面に上がって顔を出す。
 広い海原を小さな穴の開いた浮き木が、波の間に間に漂っている。
 亀が海面に顔を出したちょうどその瞬間、流れてきた浮き木の穴に亀の首がすっぽり入る。 

 その稀なる確率でしか、生命は(仏道修行ができる=悟りの可能な)人間として生まれてはこられないという教えである。
 すなわち、人身受け難し。
 その上に2021年の戦火のない日本に生きている。
 本来なら、それ以上のオカルト(=奇跡)を求める必要はないのだろう。



おすすめ度 :★★

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もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『老いる意味 うつ、勇気、夢』(森村誠一著)

2021年中公新書ラクレ

 森村誠一と言えば、映画にもなった『人間の証明』や『野性の証明』、太平洋戦争時の731部隊の戦慄すべき人体実験の様を暴いたノンフィクション『悪魔の飽食』などのベストセラーで一世を風靡した作家である。
 ソルティも十代の頃、上記の映画を観て人並みに感動したし、大学生のときに『悪魔の飽食』を読んで衝撃を受けたものである。
 だが、作家としての森村誠一が好きかと言えば、残念ながら、肌に合わない作家の一人であった。
 いくつかの小説には手をつけてみたが、途中挫折した。
 
 一番の原因は、この作家、基本マッチョイズムなんである。
 高倉健の娘役でデビューした薬師丸ひろ子が一躍スター入りを果たした『野性の証明』なんか、主題歌からしてもろマッチョであった。
 男はだれもみな孤独な戦士――である。
 どうあがいてもマッチョになれない軟弱なソルティは、こういうドラマに接するとかつてはコンプレックスを抱きがちだった。
 登場する男たちの思考や言動をよく理解できなかったし(なんですぐ暴言を吐き暴力を振るうんだろう?)、主人公であるヒーローの生き方にも共感できなかった。
 ハードボイルドはソルティの鬼門であった。
 横溝正史や松本清張は読めても、森村誠一は読めなかった。

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 どうして本書を手に取ったかと言えば、80歳を過ぎた森村誠一が鬱病を発症し、それを告白しているという触れ込みを広告に見たからである。
 森村誠一と鬱病・・・。
 いや、マッチョだって鬱になる権利はある。
 しかし、鬱病になったことをカミングアウトするのは、マッチョにはなかなかできないところであろう。
 しかも、森村誠一は1933年(昭和8年)生まれ。
 石原慎太郎しかり、この世代の日本の男は他人に“弱さ”を見せることを極端に嫌う。
 実際、本書あとがきによると、「先生の作品には強いヒーローが登場しますが、病気もする、人生に苦悩する人間・森村誠一の老い方の本を作りませんか」という編集者の依頼に対し、森村は、

 読者に夢を与える作家は、弱い一面を見せてはいけない」と一度は断った。

――そうである。
 今の若い人にはなかなか理解できない思考回路であろう。
 世界トップランクのテニスプレイヤーである大坂なおみが最近鬱病を告白して話題になったけれど、それによって「夢が壊れた」、「大坂には失望した」なんて思うテニスファンがいるだろうか?
 むしろ、あんなに強いフィジカルとメンタルを持っているアスリートでさえ、名声もお金も恋人も手に入れたスーパースターでさえ鬱病になるんだと、一般庶民の多くはどこかホッとして、かえって大坂に共感を覚え、より応援していきたいと思ったのではなかろうか。(ソルティはそうである)
 「だって、彼女は女じゃないか!」だって?
 それこそマッチョイズム特有のジェンダーバイアスである。

 令和の現在、鬱病であることは恥でも敗北でもない。
 それを告白することは「弱さの証明」ではない。
 いや、弱くったって別にいいじゃないか!
 こんな複雑で目まぐるしく、人間関係ややこしく、大自然との絆も断たれ、自己肯定しづらい時代に、一生鬱病にならないでいられる人のほうが、むしろ珍しいのではないか?
 鈍感すぎるのではないか?
 鬱病こそ、「人間(らしさ)の証明」である。

 昭和時代、鬱病のスティグマは強かった。
 うかつに患者に近寄れば感染してしまう業病のように、鬱病は忌み嫌われた。
 苦悩の大きさの度合いで感受性と天才性を顕示できる芸術家は別として、大の男が鬱を告白することは社会的な死にも等しかった。
 男は黙って「〇大ハム」(ん? なんか違う?)
 昭和ヒトケタの森村にとって、この告白は、それこそ“清水の舞台から飛び降りる”思いだったはずである。
 マッチョからの転落。
 下手すると長年のファンを失望させ、逃げられてしまうかも・・・。
 それゆえ、鬱病になってそこから生還した森村がどう変化したのか、今回思い切ってカミングアウトしたことでなにか心境の変化はあったのか、そのあたりに興味を持ったのである。

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 その日の朝はいつもと違った。 
 今日も充実した時間を過ごせるだろうと思っていた早朝、いつものようにベランダに出て、爽やかな空気を吸いながら身体を動かそうとしたとき、違和感を覚えた。
 前日までとはまったく違ったように、朝がどんよりと濁っていたのである。

 最初のうちは気のせいだとも思った。
 しかし、仕事部屋で原稿用紙に向かったときに愕然とした。
 原稿を書き進めていこうとすると、これまで書いてきた文章とはまったく違う雑然とした文体になっていたのである。
 言葉が、文章が、汚れきっていたのである。

 病院に診断結果を聞きに行って、わかった。
 老人性うつ病という暗い暗いトンネルに入ってしまっていたのである。

 本書によれば、2015年から3年近く“暗いトンネル”の中にいたようである。
 ちなみに、「老人性うつ病」と言うのは正式な病名ではない。
 単に65歳以上の人がかかる鬱病を便宜的にそう呼ぶだけであって、症状や治療法に65歳未満の鬱病と大きな違いがあるわけではない。
 認知症と間違われやすい、不眠や食欲不振や疲労感など身体症状として表れやすいといったあたりが「老人性」の特徴と言われている。

 森村は、「極端な多忙による疲労によって、そうなった」と自己診断している。
 たしかに人気作家だけに執筆や講演に追われる日々を送っていたのだろう。
 が、鬱病の原因は「よくわからない」というのが今の医学の見解である。
 (ソルティが15年くらい前に鬱を患ったときも、「ある日突然、予兆もなく、自転車を漕ぐのがしんどくなった」という気づきから始まった)

 森村は、体力・気力・集中力の低下、物忘れがひどくなる、食欲不振と体重減少、興味・関心の薄れ、社会からの疎外感、喉の違和感、便秘・・・など、鬱病一般の症状に苦しめられたことを記している。
 とくに、「言葉が出てこない」ことに非常に焦りと恐怖を感じたようで、手元にあった雑紙に頭に浮かび上がる単語をひたすら書きつけていったことが写真付きで語られている。
 言葉を武器とする小説家という職業ならではであろう。
 おそらく本書に書いてあるのはほんの触りで、もっとしんどい症状や簡単には口にできないエピソードがあったのではなかろうか?
 同じ高齢男性の鬱病と引きこもりからの生還を描いた『あなたを自殺させない 命の相談所「蜘蛛の糸」佐藤久男の闘い』(中村智志著、新潮社)に比べると、遠慮がちなものを感じる。
 
 3年たって無事、鬱病を“克服”した森村は、執筆生活に戻ることができた。
 その後はいっそう充実した老いを生きるべく、意気軒昂である。

 たとえ老いても、「人間枯れたらおしまいだ」という執念が必要になる。
 「自分は絶対枯れない」という意志を強固にして、そのための生き方を考える。
 人間は歳を重ねても、欲望を持ち続けていれば、艶がなくならない。
 生涯現役で生きていこうと考えるなら、欲望はビタミンと同じように絶対に必要なものになる。
 
 高齢化社会では、寂しさに耐える覚悟が求められ、自分の死に対しては責任を持たなければならない。それがなければ、無責任な孤立死につながっていく。
 
 仕事はやめても、臨戦態勢のままいることが大切になる。
 「生きていく緊張感」を失ってはいけないということだ。
 生きていく緊張感を失うというのは、人生を放棄したことを意味する。そうなってしまえば、老いるのが早くなる。

 あいかわらずのマッチョぶり。
 鬱を“克服”したことが、さらなる自信につながったかのようだ。(ソルティは、鬱は一度取りつかれたらトンネルを抜けることはあっても生涯付き合っていかざるを得ない背後霊のようなもので、“克服”され得ないと思っている)
 自身の小説に登場するヒーロー同様、死ぬまで戦士でいる心づもり満々。

 「三つ子の魂百まで」なので、そこは無理もないし、人の自由である。
 なによりもその堅忍不抜な精神によって作家として成功したのであるから、生き方を変える必要はさらさらない。
 これからも充実した執筆活動を続けていただきたいと思う。 
 ただ、鬱を患いそれを告白したことによって、もうちょっとマッチョイズムからの退却が見られるかと思ったのだが、その点は肩透かしだった。
 わずかに、あとがきで次のような文章があるのが目を惹いた。

 人間老いれば、病気もするし、悩み苦しむ。老いれば他人にも迷惑をかけることもある。他人に助けてもらわないといけないことだらけだ。それが老いというものなのである。 

作家バリバリ


 それにしても、森村誠一に限らず、五木寛之や上野千鶴子曽野綾子キケロ―など、いろいろな作家が老いについて指南しているのをこれまで読んできたが、正直どれも、非常に参考になったとは言い難い。
 なぜというからに、みんな社会的成功者ばかりで、金も人脈も発言力もある人たちだからである。
 ソルティ含む一介の庶民とは立場的にかけ離れたところにいる。
 とくに老後資金のある無しは大きい。
 貧乏で、無名で、交友関係もさして広くなく、平凡な人生を送ってきた人の中に、老いをありのままに受けとめて、穏やかに、力むことなく、自暴自棄になることもなく、日々を大切に生きている高齢者がいたら、その人の言葉こそ市井の読者の役に立つであろうに・・・・。
 そう思って、ハタと気づいた。

 ブッダの教えこそ、まさに無名の庶民に惜しみなく開かれた最高の老いの指南書じゃないか!

 たとえ巨額の財産があなたのものになっても、世界中の人があなたにひれ伏したとしても、心の平穏がなければ、幸福にはなれません。年をとりたくない、死にたくないと怯えながら生活するのは、とても不幸なことなのです。

 この世が、すべてが変化し続ける無常の世界だと気づけば、何に頼ることも、依存することも、執着することもできません。だって変わってしまうのですから、それに値しないのです。すると心は穏やかに安定して、怒りや憎しみもなくなっていきます。
(アルボムッレ・スマナサーラ著『老いと死について』、大和書房刊より)

 ついでに言えば、ヴィッパサナー瞑想(マインドフルネス瞑想)ほど鬱病に効く治療法はないとソルティは思う。
 
  




おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 令和のはじまりに 漫画:『昭和史 全8巻』(水木しげる作画)

1988~89年講談社より刊行
1994年文庫化

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 時代区分から言えば、昭和は明治・大正・平成・令和と一緒に「東京時代」という風に、後世の歴史家から括られるんだろうなあと思うが、「大化」から始まった元号の歴史において、64年は最も長い。
 2番目が45年の「明治」、3番目が35年の「応永」(南北朝時代)である。
 1979年に定められた元号法により「一世一元」となったので、おそらくこの先も昭和を超える長さの元号は現れないだろう。
 昭和は長かった。
 
 昭和天皇が亡くなる前後に日本中を覆った自粛モードは、今のコロナ禍以上のものがあった。
 テレビは連日連夜、昭和天皇の在りし日の姿を偲び、昭和時代を総括する番組を流し続けた。
 その際に、ある識者が指摘した言葉で腑に落ちたものがあった。

 「結局、昭和というのは、昭和20年(1945年)8月15日だ」

 戦後生まれで高度経済成長のさ中に育ったソルティでさえ腑に落ちたのだから、戦前・戦中生まれの人間ならまさしく「その通り」と実感したことだろう。
 昭和とは、何より戦争の時代、日本が敗けた時代だったのだ。
 戦後の40年は混乱と復興と成長と爛熟の時代であったけれども、そうした平和で豊かな日常の底には常に暗く重い「戦争」という言葉が響いていたように思う。

原爆ドーム


 水木しげるは大正11年(1922年)生まれで、平成27年(2015年)に亡くなった。
 昭和を丸々生きた人で、二十歳のときに徴兵され南方の激戦地に送られ、片腕を失いながらも奇跡的に生還した。
 戦後は餓死すれすれの極貧生活から出発し、漫画家としてブレイクし、妖怪ブームに乗ってマスコミの寵児となった。
 昭和を語る資格も経験も見識も十分に備えた人と言える。

 もちろん、語り手として、絵描きとしてのテクニックは言うまでもない。
 本作でも、歴史漫画として政治や社会や世相の変遷を正確を期しながら客観的に描くのと並行して、水木しげる自身の個人史として自身や家族や仕事など身の回りの変化をリアルかつ主観的に描いている。
 それが「社会v.s.個人」あるいは「権力v.s.庶民」の構造を浮かび上がらせ、「下から見た昭和史」とでも言うような、非常に読者の共感を呼ぶものになっている。
 昭和を彩る様々な事件の概要も、水木のオリジナル人気キャラであるねずみ男をナレーターとして登場させ顛末を語らせるなど、教科書のような説明調に陥らない工夫がなされている。
 全8巻をぶっ通しで読んで、昭和を旅した気分になった。

ビンテージラジオ


 「あとがき」で水木も述べているが、全8巻のうち6巻の半分くらいまでは戦争(日中戦争~太平洋戦争)一色に染められている。
 戦後の長さを思えば、配分としては不均衡である。
 だが、それだけ戦争は、社会(国)にとっても個人にとっても比重が大きいものなのだ。
 老人ホームで働いていた時、齢九十を超える高齢者がほかのどんなことより戦時中のことを細かく覚えていて生き生きと語るのに接し、「やはり、そういうものなのか・・・」と得心がいったものである。
 
 水木しげるの個人史として読むとき、やはり水木のユニークな個性と運の強さが印象的である。
 のんきでマイペースで楽天的で好奇心旺盛で、周囲に対する忖度というものをまったくしない。(そのため軍隊では上官にビンタされ放題)
 水木自身がある種の妖怪のようで、漫画のキャラとして立っている。
 戦後、売れっ子になっても戦時中に知り合ったラバウルの原住民との交流を続けていたことが表しているように、金や名声や人気に溺れることも奢れることもなく、幼い頃のオリジナルな感性を大切にした。
 オリジナルとはつまり、自然の中で他の生きもの(妖怪含む)と共に生きるヒトとしての当たり前の感性である。
 国や社会や世間というものは、本当にいい加減で無責任で当てにならない。
 それは今回のコロナ騒動や東京オリンピック騒動を見れば一目瞭然であろう。
 そんなものに忖度する必要は全然ないのだ。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
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● 本:『認知バイアス事典』(情報文化研究所著)

2021年フォレスト出版

認知バイアス事典

 一般にバイアス(bias)とは、織り目に対して斜めに切った布の切れ端のことで、そこから「かさ上げ・偏り・歪み」を指すようになった言葉である。
 よく耳にする「バイアスが掛かっている」という言い方は、「偏った見方をしている」ときに使う。
 「認知バイアス(cognitive bias)」とは、偏見や先入観、固執断定や歪んだデータ、一方的な思い込みや誤解などを幅広く指す言葉として使用されるようになったわけである。

 本書には、我々がはまりやすい認知バイアスが3分野に分けて各20個ずつ、計60個紹介されている。 
  1. 論理学系バイアス・・・早まった一般化、希望的観測、「お前だって」論法、信念の保守主義 e.t.c.
  2. 認知科学系バイアス・・・サブリミナル効果、吊り橋効果、デジャビュ、迷信行動 e.t.c.
  3. 社会心理学系バイアス・・・ステレオタイプ、チアリーダー効果、同調バイアス、バンドワゴン効果 e.t.c.
 いずれも、「ああ、言われてみれば確かにそういうことあるよな~」と自らや周囲に当てはまるものばかり。
 人間は良くも悪くも(ほぼ無意識に)自分をだまし、それによって他人をもだます生き物なんだとつくづく思う。

 必ずしもそれは悪いことばかりではなく、進化の過程で、あるいは仲間や社会をつくる(その中で生き残る)上での方便として、必要があったゆえに身についたものでもある。
 たとえば、昨今よく言われる日本人の“悪しき”同調圧力の強さは、集団作業や助け合いが欠かせない稲作文化の長い伝統と関係しているであろう。
 スポーツ選手のジンクスや受験生の合格祈願のお守りなどは、科学的な因果関係は立証できなくても、当人がそれによって精神的安定が図れて良い結果につながるのならば、「効果があった」と言って差し支えないだろう。いわゆるプラシーボ効果である。
 ロバート・ライトが、『なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』の中で述べているように、「脳はなにより、私たちに妄想を見せるように設計されている」のである。
 
 問題は、バイアスが他人に対する差別やいじめにつながる場合である。
 というより、ほとんどの差別やいじめはバイアスが原因で、あるいは自分がある特定のバイアスにはまっていることに気づかないがゆえに、起こっている。
 
 その人たちは、たくさんのバイアスがあることも、人が無意識にそれに陥ってしまうことも、どのようなメカニズムで発生するかも知らない。そして、自分の中に存在するそのような認知的歪みが、差別につながっていることにも気づいていないのである。
 この場合、自分が差別をする側であるか、される側であるかは関係ない。そもそも「差別」をしている、されているという意識がないことすら少なくないのである。

 偏った考え方をする知人を「嫌なやつだ」と一蹴するのではなく、バイアスに陥っていることに気づいていないかもしれないと考えることが、呪縛を打ち破る第一歩となる。

 誰もが知っているとおり、他人を変えるのは難しい。
 いや、他人を変えようと思うこと自体が不遜なのではないかとすら思う。
 それよりは、自分の中にあるバイアスに気づいて、自分を変えるほうがたやすかろうし、それによって自らが自由にもなり他人に寛容にもなれるのだから、結構なことである。
 ベストセラーとなった『ファクトフルネス』同様、一読に値する本である。

 最後に、わかりやすいバイアスの例。

読売新聞社が5~7日に実施した全国世論調査で、東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の橋本聖子会長が観客を入れた形での開催を目指す考えを示していることについて聞くと、「賛成」が45%、「反対」が48%と拮抗した。
調査によると、海外からのファンの受け入れに賛成している人はわずか18パーセントで、77パーセントが反対だった。
(読売新聞オンライン2021年3月7日記事より、ゴチックはソルティ付す)

 言うまでもなく、読売さんはこの時点で「開催ありき」だったわけである。 


 
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
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● SFスピリチュアル小説 本:「消滅の光輪」(眉村卓著)

1979年早川書房
2008年創元SF文庫

 眉村卓と言えば、たびたび映像化されている『なぞの転校生』、『ねらわれた学園』が有名であるが、映像作品はともかく小説は読んだことがなかった。
 生粋の文系ゆえ、あまり良いSF小説の読者でないソルティは、昔から書店や図書館に行ってもSFよりもミステリーにばかり目が行ってしまう。
 科学オンチということもあるが、SF小説はその性質上、最初の数十~数百ページは物語の舞台となる異世界(未来や地球以外の惑星など)の独特の気候風土や社会システムやルールについての説明に費やされてしまうことが多いので、ある程度の忍耐力が要求される。 
 よほど巧みな書き手でないと退屈してしまうのである。
 そこが、派手な殺人場面と謎の提示によって冒頭から読者を惹きつけるミステリーに、SF小説が敵わないところである。

 なので、上下巻970ページを超えるブ厚い本書を借りたのは、“なんとなく”気になったからである。
 手に取って、眉村卓というビッグネームと上巻の裏表紙の紹介文(下記)に惹かれ、「たまにはSFでも読んでみるか」と思った。

植民星ラクザーンでは、人類と瓜二つの温和な先住民と地球人入植者とが平和裡に共存していた。だがその太陽が遠からず新星化する。惑星のすべての住民を、別の星に待避させよ――。空前ともいえるこの任務に、新任司政官マセ・PPKA4・ユキオは、ロボット官僚を率いてとりかかるが・・・・。《司政官》シリーズの最高作にして眉村本格SFの最高峰。泉鏡花文学賞、星雲賞受賞作。

 もちろん、司政官シリーズなんてのがあるとは知らなかった。
 眉村卓が2019年11月に85歳で亡くなっていたのも知らなかった。
 ましてや、この小説の内容や評判も聞いたことがなかった。

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カバーイラストは加藤直之による


 マセに与えられた期限は惑星の公転周期で5レーン(地球時間の約8年)。
 その間にラクザーンのすべての住民の戸籍を作り、空港の拡張工事を行い、宇宙船搭乗の順番を決め、空港までの移送手段を整え、移住に必要な経費を捻出しなければならない。
 住民は家や仕事や財産を捨ててほぼ身一つで行くことになるのだから、新惑星に移住してからの当面の生活資金を政府で用意してやらなければならない。
 そのためにはどうしても税の徴収によって国庫を潤しておく必要がある。
 
 上位の連邦経営機構により緊急指揮権を付与されたマセは、絶大な権力を用いて、自らの立てた待避計画をロボット官僚群を駆使して遂行しようと決意する。
 しかし、そうは問屋が卸さない。
 移住を希望しない者、司政官の独裁を快く思わず反逆する者、逆に司政官の味方につき権力のおこぼれに預かろうとする者、税の徴収に反対し暴動を起こす者、機会に乗じて金儲けを企む者・・・・。
 危機に際してさまざまな人間模様が浮かび上がるのは、このたびのコロナ禍同様である。

 タイムリミットが設けられている点では本書はサスペンスである。
 マセが、既得権益を有する有力団体や住民の中の抵抗勢力を抑えるために、あるいは移住のため少しでも多くの資金を得るために、知略を尽くし、さまざまな策を弄し駆け引きを行なう様は、政治小説のような面白さ。
 暴動を起こした民衆を配下のロボットを使って制圧しようと苦心惨憺する場面は、戦闘パニックさながら。
 移住を希望しない先住民の謎を探っていくくだりは一種のスピリチュアルミステリーの趣き。
 もちろん、マセの頭脳や手足となるロボットの活躍ぶりこそはSF小説の独壇場である。
 いろいろなジャンルの小説の要素がバランスよく盛り込まれた一級のエンターテインメントである。
 40年以上前に書かれたSFなのに、科学性においてもIT的にもまったく古臭い感がなく、令和の今でも十分鑑賞に耐えるし、読み応えがある。
 眉村卓の小説家としての力量に感嘆した。

壊れる惑星


 最初のうち抵抗や不満を露わにしていた地球からの入植組が最終的には宇宙船に分乗し、新しい惑星に飛び立っていくのを傍目に、先住民は誰一人移住を希望しなかった。
 新星化した太陽が焦土を焼き、灼熱地獄と化し、しまいに惑星自体が消失する事実を知ったうえで、ラクザーンに残り続けることを選択したのである。
 先住民も助けたい、あるいは先住民の自殺行為に見える選択を理解できないマセは、説得を試みるが、彼らの意志は固い。
 先住民は、いったい何を考えているのか?
 なぜ自らの命を粗末にするのか?
 温厚で礼儀正しく、あとからやってきた地球人とも共存できる“いい人”ばかりの彼らの本心はどこにあるのか?
 この謎の解明が、本作の最大の鉤(フック)となって読者を引っ張っていく。
 
 読み進めていくうちに次第にゾクゾクしたものを背筋に感じてくるのは、ほかでもない、この先住民がどうにもこうにも仏教徒のあるべき姿――それも大乗ではなく小乗の――を思わせるからである。
 穏やかで感情的にならず、人と争わず、余計なお喋りもせず、「チュン」という敬称を持つ一握りの意識の高い者たちの指導のもと、今あるものに満足して昔ながらの暮らしを静かに送っている。
 チュンの存在はまるで在家信者に対する出家者、あるいは悟りを開いた覚者のようである。
 チュンはまた予知能力を持っていることが明らかにされる。
 つまり先住民は、地球人が入植してラクザーンの支配者となることも、太陽が新星化してラクザーンが消滅することも、大昔から知っていたのである。
 破滅を知りながら従容としてそれを受け入れる姿は運命論者のように見えるが、実は彼らにははるか昔から伝わる伝承があり、それこそがラクザーンからの待避を拒む一番の理由だったのである。(伝承の内容は詳らかにしないでおく)
 
 ラクザーンから人類がどんどん去っていくのに呼応するように、というよりも太陽の新星化が進行するにつれ、先住民は意識の進化を速め、次々と悟りを開き、チュンになってゆく。
 チュンになったのち、肉体から抜け出て、別の生命体となって宇宙意識と合一する。
 このあたりもまた「悟りから解脱へ」の道を説く仏教的である。と同時に「梵我一如」を説くバラモン教的でもある。
 実に先住民とは「精神的・瞑想的な存在として、思惟の世界を持つ者」であり、諦念に達しているがゆえに現世に拘泥することのない種族なのであった。

 むろん、この逆座標に来るのがマセを始めとする人類であるのは言うまでもない。
 人類は「物質的・科学的な力を駆使して空間的に勢力を広げる者」であり、自らの手で運命を変えることができると信じ、現世において夢や野望や欲望を追い求める種族である。
 本作の一番の肝は、人類と先住民との対比を描いたところにある。
 それはちょうど、未曽有の科学力とIT技術を使いこなす神のごとき未来の人類像――ユヴァル・ノア・ハラリ言うところのホモ・デウス――と、自己および自由意志の幻想性を悟り俗世間に見切りをつけた今一つの人類像――ソルティ名付けるところのホモ・ブッダ――との対比のようである。

宇宙空間のブッダ

 
 司政官マセはロボット官僚を自らの手足のごとく自在に動かし、一時は独裁者として君臨する。
 が、最後には、マセ自身もまた連邦経営機構という巨大な官僚組織の交換のきく歯車の一つに過ぎず、経営機構が事前に練り上げた「惑星移住計画」のシナリオ通りに動かされていた操り人形であったことに気づく。
 令和時代の主人公なら、真実を知ってショックを受け、憤りや虚しさに襲われ、己れのこれまでの生き方や価値観を点検し直すところであろう。
 が、何と言っても40年前の作品である。
 日本は未だバブル知らずの昭和元禄真っただ中。
 作者の眉村卓も昭和ヒトケタ生まれの男である。 
 マセは、会社に命を預けた昭和時代のモーレツ社員さながら、ふたたび組織に戻って司政官の職を続けてゆく決意をする。
 この結末だけが時代遅れを、いや40年の時の流れを感じさせた。

 それにしても、娯楽を求めて“なんとなく”手に取った本が、結局仏教へとつながっていく不思議
 なんだろな、これは?

 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 漫画:『諸星大二郎 自選短編集 彼方より』

初出1974~1994年
2001年集英社
2004年集英社文庫

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 諸星大二郎が25歳から45歳に描いた10の短編が収録されている。
 タイトル通り「彼方」という言葉によって統一されうるような異界物ばかりであるが、SFあり怪談ありギャクタッチありシュールあり古代中国あり人類初期のアフリカあり・・・とジャンルもテーマも幅広い。もちろん、それぞれの話に応じて絵のタッチもまったく異なる。
 読みながら、つげ義春と伊藤潤二と赤塚不二夫と永久保貴一を想起したけれど、諸星大二郎は諸星大二郎である。大変ユニークで傑出した才能に恵まれた人。
 
 自選だけのことはあって読みごたえのある傑作が並んでいる。
 いっぺんに読んでしまうのがもったいなくて、一日一編と決めてじっくり味わいながら読んだ。
 また、一つ一つが濃すぎて、続けて読めるものでもない。

 人間が自ら産んだ人工物と融合してしまう不条理世界『生物都市』、わらべ唄「通りゃんせ」に隠された恐るべき秘密『天神さま』、ダリのごとく奇抜で奔放な創造力が冴える『ど次元世界物語』、古代中国の詩人・陶淵明を主人公とするオカルトファンタジー『桃源記』、ジェンダーと性に切り込んだ意欲作『男たちの風景』、恐ろしさと不思議さと懐かしさとがないまぜになった奇妙な味わい『カオカオ様が通る』等々、ソルティの遅すぎる諸星デビューとなった『暗黒神話』同様、作者の天才と日本漫画界の豊穣を知らしめるに十分な一冊である。

 遅すぎはしない。
 諸星大二郎をこれから踏破する幸せが待っている!



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
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● 本:『男らしさの終焉』(グレイソン・ペリー著)

2016年原著刊行
2019年フィルムアート社

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 著者は1960年イギリス生まれのアーティスト。
 トランスヴェスタイト(異性装愛好者、※普通訳語として使われる「服装倒錯者」という言葉は好ましくない)である。日本で言えば、森村泰昌のような存在か。ゲイではない。
 幼少の頃から伝統的なマスキュリニティ(男性性、男らしさ)を押し付けられることに違和感を覚え苦闘していた彼による「脱・男らしさ」のすすめである。
 多くのゲイが社会に巣くうマッチョイズムによって抑圧され差別され自己否定に陥ってきた(いる)のは昨今知られてきたし、理解や支援も進んできたと思うが、実のところ、ヘテロの男自身もマッチョイズムによって苦しめられて馬鹿を見ている。
 そのことを縷々説いている本である。

 男性のことを、深みがなくて、短気で、柔軟性がなく、変化しない存在として片付けるのをやめよう。何しろ彼らは女性と同じ脳をもっているのだ。問題は、現在の男性の性役割に締め付けが強いことだと思う。男性は常に、無意識に監視してしまうのである。健全に変化を起こすには、差異を許容することが重要だ。男性は、他の男性に対しても自分に対しても、男らしさの基準に達していないという理由で責めるのをやめるべきだ。・・・(略)・・・新しい柔軟な男性は、新たなジェンダーの性役割に適応するだけでなく、さまざまな文化、階級、民族、宗教でも適応できなければならない。

プール


 ときに、ソルティは週3回ほど家の近くのスポーツクラブのプールに通っている。
 曜日と時間によっては、水中運動(アクアエクササイズ)のレッスンと重なることがあり、自分が水中ウォーキングしたり泳いだりしている隣のコースで、数十人の受講者がプールサイドに立つコーチの指導を受けながら、軽快な音楽に合わせて水しぶきを跳ね上げているのを見かける。
 場所柄、通勤帰りよりも地域の人が多いので、60代以上のおばさまで占められている。
 男は一割満たない。

 数ヶ月通っているうちに、数種類のエクササイズプログラムがあって、3人のコーチがいることがわかった。わかりやすくニックネームをつける。
 ① 静香ちゃん・・・20代後半とおぼしき美人で内気な感じの女性。
 ② 睦男くん ・・・30代くらいの無愛想で傲慢な感じのするマッチョな男性。
 ③ 陽子さん ・・・40~50代に見える溌剌としてスタイルのいい女性。

 一番人気は③の陽子さんで、彼女の元気な掛け声や躍動感ある動き、レッスン終了後の受講者とのコミュニケーションを見れば、人気の高さももっともと頷ける。受講者との年齢が近いことも大きいのかもしれない。
 次の人気は①の静香ちゃん。男性参加者の割合が一番高いのはわかりやすい。丁寧な指導でやさしい声掛けも魅力的だが、海千山千のおばさま受講者との会話がどうも苦手のようである。
 ②の睦男くんは「なぜこの人がコーチの仕事を?」と傍で見ていて思うほど、毎回面白くなさそうな表情で指導している。岡田准一ばりのイケメンで水泳で鍛えた均整の取れたガタイも見事、普通ならおばさま人気一番と思えそうなのに、水中にいる受講生のソーシャルディスタンス度は高い。つまり人気がない。男の受講者は皆無である。

 コーチ自身が楽しんでいるか、自らの仕事を愛しているかがポイントである。
 体を動かすこと、人に教えること、人と交流することを楽しんでいるコーチの放つオーラは、水中にいる受講者に容易に伝わり、受講者の表情や動きに素直に現れる。レッスン効果もきっと高いことだろう。
 
 数週間前、新たなコーチが加わった。
 「この人、初顔だな。誰か休んだコーチの代わりかな?」と思っていたが、どうやら臨時ではなく、理由は分からないが睦男くんが辞め、その“後釜”らしい。
 後釜氏は40代くらいのテディベア系の男で、ぷよぷよしたお腹まわりといい、後頭部の照りといい、まったくアスリートっぽくない。睦男くんとは正反対のタイプである。体の切れも動きもスポーツというより盆踊りのようなユルさ。
 しかし、後釜氏の人気はうなぎのぼりで、あっという間に静香ちゃんも陽子さんも抜いて、参加者多数の人気プログラムになってしまった。

 後釜氏は口が悪い。レッスンの合間に、悪口すれすれのジョークをお客様である受講者に投げかける。「はい、短い脚を精いっぱい伸ばして!」とか平気で言う。
 プールサイドに椅子を用意していて、自分が疲れてくると「ちょっと一休み」とか言って腰掛けて、そのまま口頭指導している。
 なのに、おばさまたちはジョークに笑い、コーチのいい加減な態度に怒ることなく、楽しそうに指導に従っている。マドンナやレディ・ガガといったノリのいいBGMに遅れることなく水中での激しい動きを次々とこなし、まるでシンクロナイズド・スイミングの選手たちのよう。60代超え(中には80代もいる)とはとうてい思えない。
 楽しんでいることが表情からも動きからも笑い声からも伝わってきて、彼女らが放つキラキラしたオーラはプールサイドを明るくする。
 
 この奇跡の秘密はなんのことはない。
 後釜氏、オネエなのである。
 
 おばさまたちのオネエ好き、中高年女性をやたら元気にさせてしまうオネエの威力には驚くばかりである。
 ソルティ思うに、おばさまたちは“彼”のうちに、「定年退職したものの趣味もなく家事もできず、他人とコミュニケーションとるのも苦手で、ただ家でゴロゴロしている亭主」とは違った男性像を見ているのではなかろうか? 
 最近では後釜氏のレッスンに参加する中高年男性も増え始めている。
 結局、Gay(陽気)であることがなによりの健康の素なんである。 

二つのジェンダー



おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 21世紀の仏教経典 本:『ホモ・デウス』(ユヴァル・ノア・ハラリ著)

2015年原著刊行
2018年河出書房新社より邦訳発行(柴田裕之訳)

 『サピエンス全史』は、人類の過去から現在までを俯瞰し、とりわけ3~7万年前に起きた認知革命によって人類が虚構(物語)を共有できるようになったことが、人と他の動物を分かつ決定的な進化(退化?)につながったことが説かれていた。
 続編となる本書では、人類の過去の歩みと傾向、および現在飛躍的な進歩を遂げている科学と IT 分野の現状を踏まえ、人類の行く末を予測している。
 前著同様、ユヴァルの博覧強記と具体的でわかりやすい事例を挙げて解説・論証する説得力、そしてブラックジョーク風ユーモア満載の語り口に圧倒される。


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 ホモ・デウス=ホモ(人間)+デウス(神)=神人――というのが、ホモ・サピエンス(賢い人間)たる我々が今後目標とするであろう存在のあり方だ、というのがユヴァルの予測である。
 人類は何万年以上もの間、「飢餓・疫病・戦争」の3つに苦しめられてきたが、21世紀を迎えてようやくそれらを克服できるようになった。(コロナワクチン開発の速さと高い効果を見よ!)
 次に人類が目指すべきは次の3つ――「不死・至福・神性」であり、それこそはまさに数千年の昔から神の属性と考えられてきたものである。
 これに到達するために最大限活かされるツールが、遺伝子工学や脳科学を中心とする生命工学(バイオテクノロジー)であり、膨大なデータを瞬時に解析・処理・記憶・応用できる I T(コンピュータ―テクノロジー)である。

 21世紀初頭の今、進歩の列車は再び駅を出ようとしている。そしてこれはおそらく、ホモ・サピエンスと呼ばれる駅を離れる最後の列車となるだろう。これに乗りそこねた人には、二度とチャンスは巡ってこない。この列車に席を確保するためには、21世紀のテクノロジー、それもとくにバイオテクノロジーとコンピューターアルゴリズムの力を理解する必要がある。これらの力は蒸気や電信の力とは比べ物にならないほど強大で、食糧や織物、武器の生産にだけ使われるわけではない。21世紀の主要な製品は、体と脳と心で、体と脳の設計の仕方を知っている人と知らない人との間の格差は、ディケンズのイギリスとマフディーのスーダンの間の隔たりよりも大幅に拡がる。それどころか、サピエンスとネアンデルタールの間の隔たりさえ凌ぐだろう。21世紀には、進歩の列車に乗る人は神のような創造と破壊の力を獲得する一方、後に取り残される人は絶滅の憂き目に遭いそうだ。

 ソルティは早々に絶滅しそうです(笑)
 ちなみに、アルゴリズムとは

計算や問題解決の手順のこと。定められた手続に従って計算していけばいつかは答えが得られ、それが正解であることが保証されている手続である。
(小学館『日本大百科全書 ニッポニカ』より抜粋)

 クローン人間の創造とかIDの付いたコンピュータチップを体内に埋め込むとかには眉を顰める自分であるけれど、たとえば、近眼と老眼に悩んでいる目、数十年付きあってきて今後確実に悪化の一途をたどるであろう腰痛、地肌が透けて見える頭髪の過疎化を、安価で完璧に治してくれる再生医療があったとしたら、あるいは、行きたいところにはどこでも安全に快適に最速で連れていってくれる自動運転車があったとしたら、やっぱりそれを利用したいではないか。
 人間の欲望と資本主義経済を基盤とする、ユヴァル言うところの“自由主義的人間至上主義”は、実現可能なことで利益を生むものならなんだって実現していく道を選ぶ。
 もちろん、そこには倫理という壁が立ちはだかるが、残念なことに神は数世紀前に死んでしまった。

 本書では、最先端の生命工学やコンピューターテクノロジーを活用したビジネス(主としてアメリカで起こっていること)の事例が紹介される。
 30年前ならSF小説かトンデモ科学の本の中にしかお目にかかれなかったような荒唐無稽・奇想天外なアイデアが、すでに実用化されつつあることに驚きと慄きを覚えざるを得ない。
 キアヌ・リーブス主演『マトリックス』は88年の映画だが、あそこで描かれていたヴァーチャル・リアリティの技術――脳を電極に繋がれた人間たちが透明ポッドの中で仮想世界を現実と思いながら生きる――は、もう手の届くところまで来ているのだ。

 映画では主人公ネオはその欺瞞に気づき、カプセルから脱出してコンピュータと闘う。
 その姿に鑑賞者は共感し応援するけれど、カプセルの中と外と、いったいどちらが幸せなのかは保証の限りではない。
 というのも、コンピュータは人間の感じる幸福感の正体をビッグデータを通じて解析し、それを生み出すような脳への電気刺激や薬物を適宜与えることができるからだ。
 ネオの奮闘によりカプセルから抜け出した群衆が、助けてくれたネオに集団で襲いかかり殺戮する可能性だってある。
「なんで、起こしたんだ!?」


バーチャルリアリティ


 ユヴァルは示唆する。
 生命工学と IT の進歩は人間を神のごとき万能な存在に近づけるかもしれない。
 が、一方、人間の存在価値を剥奪してしまうかもしれない。
 一つには、自由意志や自己の幻想性を徹底的に知らしめることで。
 一つには、コンピュータの能力が人間のそれをはるかに凌駕し、人間から仕事を奪うことで。
 と同時に、「私」以上に「私」のことをよく知っているコンピュータが、「私」に変わって常に最適な答えを提供してくれるようになるがゆえに。

 18世紀には、ホモ・サピエンスは謎めいたブラックボックスさながらで、内部の仕組みは人間の理解を超えていた。だから、ある人がなぜナイフを抜いて別の人を刺し殺したのかと学者が尋ねると、次のような答えが受け容れられた。「なぜなら、そうすることを選んだからだ。自分の自由意志を使って殺人を選んだ。したがって、その人は自分の犯罪の全責任を負っている」。ところが20世紀に科学者がサピエンスのブラックボックスを開けると、魂も自由意志も「自己」も見つからず、遺伝子とホルモンとニューロンがあるばかりで、それらはその他の現実の現象を支配するのと同じ物理と化学の法則に従っていた。

 生き物はアルゴリズムで、キリンもトマトも人間もたんに異なるデータ処理の方法にすぎないという考えに同意できない人もいるかもしれない。だが、これが現在の科学界の定説であり、それが私たちの世界を一変させつつあることは知っておくべきだ。

 昨今のニコラ・テスラ再評価の理由がこれで理解できよう。
 二コラは人間がアルゴリズムであることをいち早く見抜いていたのだ。
 (現在、イーサン・ホーク主演の伝記映画が公開中である!)
 
 ユヴァルは、神の死とともに始まった近現代の人間至上主義が、人間を含むすべての生物をデータというフラットなものに還元するデータ至上主義に変わっていく未来を予測している。

 データ至上主義は、人間の経験をデータのパターンと同等と見なすことによって、私たちの権威や意味の主要な源泉を切り崩し、18世紀以来見られなかったような、途方もない規模の宗教革命の到来を告げる。ロックやヒュームやヴォルテールの時代に、人間至上主義者は「神は人間の想像力の産物だ」と主張した。今度はデータ至上主義者が人間至上主義者に向かって同じようなことを言う。「そうです。神は人間の想像力の産物ですが、人間の想像力そのものは、生化学的なアルゴリズムの産物にすぎません。」 18世紀には、人間至上主義が世界観を神中心から人間中心に変えることで、神を主役から外した。21世紀には、データ至上主義者が世界観を人間中心からデータ中心に変えることで、人間を主役から外すかもしれない。

 これは、人類の過去と現在とを十分に研究・検討したうえでの未来予測である。
 ノストラダムスの大予言のような根拠のない言説とは違い、蓋然性の高い未来図と言えるだろう。
 むろん、まったく予期しない第三項が生じるかもしれない(たとえば世界同時多発発電所破壊テロとか)。あるいは、ユヴァルがこういった予測を立てて全世界に向けて発表したこと自体が予測を変貌させる結果につながるかもしれない。(観察すること自体が結果に影響を与える量子力学の観察者バイアスのように)
 コロナウイルスの発生同様、なにが起こるか分からないのがこの世の中だ。
 
バタフライ効果



 本書は内容自体が衝撃的と言っていいものであるが、実はソルティがなにより衝撃を食らったのは、上巻の扉を開いて目次のあとに来る献辞ページを見た瞬間であった。
 こう書かれていた。

 重要なことを愛情をもって教えてくれた恩師、S・N・ゴエンカ(1924~2013)に 

 ゴエンカってまさか、あのゴエンカ?
 下巻の巻末にある謝辞を見ると、こう書かれていた。

 ヴィッパサナー瞑想の技法を手ほどきしてくれた恩師サティア・ナラヤン・ゴエンカ。この技法はこれまでずっと、私があるがままに見て取り、心とこの世界を前よりよく知るのに役立ってきた。過去15年にわたってヴィッパサナー瞑想を実践することから得られた集中力と心の平穏と洞察力なしには、本書は書けなかっただろう。

 間違いない。
 瞑想業界で有名なあのゴエンカ師である。
 ユヴァルは、ヴィッパサナー瞑想(俗にマインドフル瞑想と呼ばれる)の実践者だったのである!
 それも15年以上もの!(ソルティより長い)
 つまり、仏教徒かどうかは知らないが、かなり深く仏教を学び理解しているのは間違いない。
 ブッダの重要な教えであるところの「諸行無常、諸法無我、一切皆苦、縁起、輪廻」を言葉の上の知識としてではなく、智慧として掴んでいる可能性が高い。上記の「ヴィッパサナー瞑想を実践することから得られた洞察力」とは、そういう意味に違いあるまい。
 だとしたら、自由意志や自己が幻想であることも、アルゴリズム(=「これあるゆえにそれがある。これなきゆえにそれがない」)とはすなわち「縁起」や「輪廻」の別称であることも、科学や IT の勉強を通してではなく坐禅によって悟っているのかもしれない。
 本書や『サピエンス全史』が、仏教の智慧を有するイスラエル在住のユダヤ人のゲイの学者によって書かれた意味は大きい。

以下、引用。

 歴史を学ぶ目的は、私たちを押さえつける過去の手から逃れることにある。歴史を学べば、私たちはあちらへ、こちらへと顔を向け、祖先には想像できなかった可能性や祖先が私たちに想像してほしくなかった可能性に気づき始める。私たちをここまで導いてきた偶然の出来事の連鎖を目にすれば、自分が抱いている考えや夢がどのように形を取ったかに気づき、違う考えや夢を抱けるようになる。歴史を学んでも、何を選ぶべきかはわからないだろうが、少なくとも、選択肢は増える。

 虚構は悪くない。不可欠だ。お金や国家や協力などについて、広く受け容れられている物語がなければ、複雑な人間社会は一つとして機能しえない。人が定めた同一のルールを誰もが信じていないかぎりサッカーはできないし、それと似通った想像上の物語なしでは市場や法廷の恩恵を受けることはできない。
 だが、物語は道具にすぎない。だから、物語を目標や基準にすべきではない。私たちは物語がただの虚構であることを忘れたら、現実を見失ってしまう。すると、「企業に莫大な収益をもたらすため」、あるいは「国益を守るため」に戦争を始めてしまう。

 国家や神や貨幣と同様、自己もまた想像上の物語であることが見て取れる。私たちのそれぞれが手の込んだシステムを持っており、自分の経験の大半を捨てて少数の選り抜きのサンプルだけ取っておき、自分の観た映画や、読んだ小説、耳にした演説、耽った白昼夢と混ぜ合わせ、その寄せ集めの中から、自分が何者で、どこから来て、どこへ行くのかにまつわる筋の通った物語を織り上げる。この物語が私に、何を好み、誰を憎み、自分をどうするかを命じる。私が自分の命を犠牲にすることを物語の筋が求めるなら、それさえこの物語は私にやらせる。私たちは誰もが自分のジャンルを持っている。悲劇を生きる人もいれば、果てしない宗教的ドラマの中で暮らす人もいるし、まるでアクション映画であるかのように人生に取り組む人もいれば、喜劇に出演しているかのように振舞う人も少なからずいる。だがけっきょく、それはすべてただの物語にすぎない。


 現代科学が我々に見せるありのままのこの世の風景は、きわめて仏教的である。
 本書では触れられていないけれど、人間至上主義の先に待っているのはデータ至上主義(この世のすべては現象の生起消滅に過ぎない)であると同時に、人類がホモ・デウスならぬホモ・ブッダとなる一縷の可能性なのかもしれない。




おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 本:『世界から戦争がなくならない本当の理由』(池上彰著)

2019年祥伝社

 本書では、第一次大戦以降に世界で起こった内戦・外戦について述べられている。
 むろん数え上げたらキリがないので、ほんの一部に過ぎないが。

1939~1945年 第二次世界大戦(アジア・太平洋戦争含む)
1945年~1949年 インドネシア独立戦争
1948年~1973年 中東戦争
1950年~ 朝鮮戦争
1960年~1975年 ベトナム戦争
1962年 キューバ危機
1968年 プラハの春(チェコ事件)
1969年~1998年 北アイルランド紛争
1971年~1992年 カンボジア内戦
1975年~2002年 アンゴラ内戦
1979年 中越(中国×ベトナム)戦争 
1979年~1989年 ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻
1983年 アメリカのグレナダ侵攻
1980年~1988年 イラン・イラク戦争
1989年~2001年 アフガニスタン内戦
1990年~1991年 湾岸戦争
1991年~ ソマリア内戦
1991年~2000年 ユーゴスラビア紛争
2001年~ アメリカのアフガニスタン侵攻(対テロ戦争)
2003年~2011年 イラク戦争

 これはもうほとんど趣味か依存症の領域だろう。
 人類はほんとうに戦うのが好きだ。

 本書のタイトルに対する池上の答えは、「人間は過去から(歴史から)学ばないから」というものである。
 ソルティならもっと直截に「人間はアホだから」と言う。

 おそらく人類が過去をどれほどしっかり学んでも、戦争はなくならないだろう。
 各民族・各国民・各信者は、自分たちが聞きたい過去しか耳に入らないし、欲する歴史しか学ぼうとしない。アイデンティティが絡んでいるのだから。
 過去をいろいろな角度から客観的に学び反省できる奇特な人でも、現在の怒りや欲望に打ち勝つのは難しい。
 戦争がなくならないのは、ずばり人間が「欲・怒り・無知」から逃れられないからである。

 世界的ベストセラーとなった『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』の中で著者のユヴァル・ノア・ハラリは、人間が他の動物とは異なる道を歩むことになった決定的なきっかけとして「認知革命」という概念を上げている。
 国家、宗教、民族、金、歴史、自我・・・・e.t.c. 現実にはないものを“さも実在するかのように”信じ込んで取り扱えるようになった「認知革命」こそが、人間が戦争をやめられなくなった最大の要因であろう。
 認知革命を遂げたことにより、人間は湧きおこった欲や怒りを動物のように一瞬にして完結するという芸当ができなくなった。
 自分をより大きな力強い(と思える)ものに仮託するクセがついた。
 集団で欲や怒りを引きずるようになってしまった。
 ホモ・サピエンスはそのように造られている。
 
 結論として、戦争を無くすためには人間が人間であることを止めなければならない。
 

宇宙人襲来
あるいは外圧か?


おすすめ度 :★★★

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● 本:『怒羅権と私 創設期メンバーの怒りと悲しみの半生』(ワンナン著)

2021年彩図社

 本書の表紙カバーにでかでかと載った著者の顔写真を見て、どう感じるだろう?
 中国人であることは分からないかもしれない。
 13年間ムショにいた男というのも分からないかもしれない。
 一見、人懐っこそうな顔立ち。
 賢そうな額。
 意志の強そうな顎の線。
 人生の辛酸が刻まれた深い皺。
 凄みのある風貌は、長く海風に吹かれた漁師か、数々の建築現場をかんな一つで渡り歩いてきた凄腕の大工のようにも見える。
 しかるに、カメラ(=読者)にひたと向けられた両の瞳をのぞき込むと、長年蓄えられた怒りと悲しみと絶望、簡単には人を信じない用心深さとある種の冷酷さ、瞬時に相手の正体を見抜く眼光の鋭さ、そしてどんな相手でも飄々と受け入れるであろう懐のふかさを読み取ることができよう。
 「修羅場をなんども潜り抜けてきた人だな」と直感する。

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 怒羅権(ドラゴン)は、東京都江戸川区葛西に暮らす中国残留孤児の2世や3世の少年たちが1980年代後半から徒党を組むようになり、88年に命名し誕生した。
 初期メンバーは12人、90年代前半の全盛期には府中や八王子にまで勢力が拡大し、800人の大所帯になったという。
 日本人の作る上下関係の厳しいピラミッド型の組織とは違い、上下関係の希薄な、ゆるやかなつながりのチームで、中国人らしい“今の瞬間の絆を大切にする精神”が息づいていたという。
 それが「反社」を取り締まる警察にしてみれば、親分やヘッドをあげれば組織が瓦解する既存の暴力団や暴走族とは異なる摘発の難しさにつながっていたのである。
 汪楠(ワンナン)は初期メンバーの一人であり、おそらく最も勇猛果敢で、最も知能が高く、最もよく稼いだ男である。
 
 1972年中国吉林省生まれ。
 日本好きな父親に強引に連れてこられ、14歳より日本に暮らすようになる。
 怒羅権と暴力団の両方に関わって悪事を働いていたが、28歳のときに逮捕され、岐阜のLB級刑務所に収監される。
 2014年出所後は犯罪の世界に戻らないことを決意し、全国の受刑者に本を差し入れる「ほんにかえるプロジェクト」に力を入れている。 

 ソルティは90年代を仙台で過ごした。
 怒羅権についてはよく知らなかった。
 怒羅権と名乗る在日中国人の若者たちが都心でひどく暴れ回っているというのは聞き知っていたが、「そんなこともあるだろう」くらいの感覚であった。
 よもや、ソルティの古くからの馴染みである池袋の文芸坐(現・新文芸坐)が組織拡大の拠点になっていたとは!
  
 本書を読んで、90年代の東京の荒れ具合というのを実感した。
 ソルティは80年代半ばから都内で一人暮らしをしていたが、91年に「東京はあまりに変だ。このまま東京にいたら自分がダメになる」と思って、仙台に越した。
 バブル絶頂期の東京があまりに異様なものに思えたのである。
 人々は「24時間闘えますか!」の覚醒剤常用者のような総躁状態、ゴールドラッシュ時の西部開拓者のような欲に目がくらんだ脱抑制状態にはまり込んで、人間としての(生物としての)あたりまえの感覚を失っていた。
 「明るさ・軽さ・浪費」がひたすら推奨・追求され、その反対の「暗さ・重さ・倹約」が軽蔑・忌避された。ネアカ、ネクラなんて言葉が流行った。
 ひとりの人間には陽の部分もあれば陰の部分もある。社会には陽の当たる層もあれば陰を背負わせられる層もある。
 ひたすら陽の面だけを追求していれば、いつかはきっと陰の面が浮上して、社会に対して復讐を開始するだろう。
 そんなことを思って、東京を離れた。 
 いや、自分の中の陰の部分が危険信号を出していたのかもしれない。
 オウム真理教の一連の事件や怒羅権の出現は、まさにバブル時代の日本人(とくに都会人)が抑圧してきた陰の部分の報復だったのだろう。
 
 90年代前半に怒羅権のニュースを聞いて「そんなこともあるだろう」と思ったのは、もちろん在日中国人(や在日朝鮮人)の境遇を知っていたからである。
 怒羅権はもともと、「日本社会で孤立していた中国残留孤児の子孫たちが生き残るため、自然発生的に生まれた助け合いのための集まり」だったという。
 同調圧力の強い日本社会でいじめや差別を受け、一袋500円の大量のパンの耳を仲間で分け合うような貧困(ときはバブルだ!)を舐め、教師をはじめ周囲の大人たちからの不等な扱いに苦しむ若者たちの鬱屈したエネルギーが、怒りとなって暴発するのは火を見るより明らかである。
 
 少なくとも私も仲間たちも、非行少年にはなりたくなかったし、ましてや刑務所に入るような人間になるとは、あの頃は思っていませんでした。
 私の犯した犯罪は私が自発的に実行したもので、これを時代のせいや環境のせいにすることは許されません。しかし、あまりにも多くの望まない現実が私たちに振りかかり、その現実に抗うためにもがいた結果として、いつしか暴力がアイデンティティとなり、犯罪を通じてしか他者とのつながりを持てなくなっていったのもまた事実なのです。
 そのようにして自分の歴史を振り返ってみると、私たちは負の存在で、負の遺産しか生み出せなかったのかもしれないと分かっていても、これまでの歩みを全否定できない自分がいます。それは自分が自己中心的な人間だからでしょうか。もしかすると、もう生きるためには肯定するしかないと思っているからなのでしょうか。 

 本書では、著者のおこなってきた数々の喧嘩の模様や犯罪の手口が結構詳しく書かれている。捕まった後に求められて披露した錠前破りの手口などは、その場の警察官や刑務所関係者を蒼ざめさせたという。
 また、内側から見た裏社会や刑務所の実情も描かれ、そこで一目置かれて人脈を広げていく著者の人心掌握術と器の大きさが伺える。
 これほど賢くて器用で肝っ玉が据わっていて、人を集め動かす力のある人物が、もし最初から日本社会に正当に受け入れられ真価を発揮していたら、どれだけ社会にとって益になることだろう!
 一部の人間を疎外することで一番損害を被るのは当の社会であることを、我々は知らなければならないだろう。
 
 
おすすめ度 :★★★★

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● 天才ニコラ・テスラの秘密

 『ヨーロッパの都市伝説』(片野優、須貝典子著)に出てきた天才科学者ニコラ・テスラが気になって、彼に関する本を2冊読んだ。
 日本では90年代にちょっとしたテスラ・ブームがあったらしく、その後もテレビのドキュメンタリーや科学番組などでたびたび取り上げられたらしいが、ついぞ知らなかった。

①  ニコラ・テスラ著『ニコラ・テスラ 秘密の告白』(成甲書房、宮本寿代訳、2013年)
②  新戸雅章著『知られざる天才ニコラ・テスラ』(平凡社新書、2015年)

 ①  はテスラ自身の残した二つの手記――1919年刊行『私の発明:ニコラ・テスラの自叙伝』と題する自伝、および1900年刊行『人類エネルギーを増加させるには』と題する論文――の合本である。もちろん、『秘密の告白』という怪しげなタイトルはテスラ自身がつけたものではない。
 成甲書房という出版社は陰謀論、超常現象などのジャンルを得意とするらしく、他にも天童竺丸著『シオンの議定書』、副島隆彦著『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』、羽仁礼著『永久保存版 超常現象大事典』、後藤よしのり著『間違いだらけのオンナ選び』なんていう、“いかにも”な本を出している。
 表紙のニコラ・テスラの謎めいた眼差しといい、この科学者の日本での受け入られ方を象徴するような一冊である。
 ただ、中味はトンデモなところはなく、テスラの生涯や発明の裏話と共に、その人となりや思想や科学的ヴィジョンの一端が伺える真面目な内容である。


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 ②  は日本におけるニコラ・テスラ研究の第一人者と言える新戸雅章(しんどまさあき)による評伝である。
 こちらは、生まれ故郷のクロアチア(当時はオーストリア=ハンガリー帝国)や終焉の地アメリカはもちろんのこと、今やヨーロッパでも発明王トーマス・エジソンと並び称される高い評価と人気を得ているにもかかわらず、日本ではまだまだ知名度が低いテスラについて、「より広く深く知ってもらおう」という著者の思いがビンビン伝わってくる力作である。
 これ一冊読めば、ニコラ・テスラについて一通りのことが分かるし、他人にも自信を持って“ニコラ語り”することができよう。
 新戸は1948年神奈川県生まれ。テスラ研究所所長をつとめる。


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 ニコラ・テスラとは何者か?
 ① よりプロフィールを引用すると、

1856年7月9日~1943年1月7日。発明家。磁束密度の単位「テスラ」にその名を残す。交流電流、ラジオやラジコン(無線トランスミッター)、蛍光灯、空中放電実験で有名なテスラコイルなどの多数の発明、無線送電システム(世界システム)を提唱した。また、地球全体の磁場を利用し電気振動と共鳴させることで空間からエネルギーを無限に得られる仕組み(フリーエネルギー)を構想していた。8ヵ国語に堪能で、詩作、音楽、哲学にも精通、生涯独身を貫いた。

 我々が現在使っている電気は、エジソンが発明した直流システムではなく、テスラが発明した交流システムである。つまり、電気を主要インフラとする現代文明はまさにテスラの築いた土台の上に成り立っている。
 テスラさまさまなのだ。
 ②の新戸によると他にも、

 蛍光灯や水銀灯、ネオンサインなどの放射照明、無線電信、電子レンジ、ラジオ、テレビのリモコン、車の電子キー、航空機やロボットの無線操縦、ワイヤレス給電システムなどは、いずれもテスラが発明したか、原理を提供したものである。
 まことに我々は、テスラのアイデアの中に日々の生活を送っているのだ。

 これほどの恩人がなぜ正当に評価されて来なかったのか?
 新戸の本から察するに、ナイアガラの滝の水力を利用した壮大なる実験で交流システムを成功させ、かつての師エジソンをうち破って国際的な名声と評判を得たのであるが、その後(人生後半になって)、上記の「世界システム」とやらに固執したあたりから現実離れの様相を呈し、逆にテスラの特許を利用した後輩科学者が次々と実用的な発明を世に送り賞賛を浴びるようになり、次第に「過去の人」となっていったようだ。
 石炭や石油はもちろん、水力・風力・原子力にも頼らないフリーエネルギーを空間から取り出し、そのエネルギーを無線で世界中に瞬時に送るという「世界システム」は、当時も(今も?)あまりにも突飛すぎているし、既存のエネルギー業界にしてみれば何としてもその実現を阻みたいアイデアに違いあるまい。逆風必至。
 そのうえ、観客の度肝を抜く派手な放電ショーを各地で繰り返して魔術師のようにみなされ、殺人光線や人工地震発生装置開発の噂も独り歩きし、山師かいわゆる「マッド・サイエンティスト」の如くみなされていったようだ。日本で長らくオカルト文脈で語られることが多かったのはそのためであろう。
 また、同時代の発明家であるエジソンやマルコーニのように商魂たくましくなかったところも、世間から忘れられやすい一因だったのかもしれない。(最後は困窮のうちにホテルの一室で亡くなった)


ナイアガラ
 

 さて、天才と言えば奇癖や奇行がお約束である。
 テスラもまた歴史上の天才たちに負けず劣らず、たいそうクセが凄かった
  • 人の髪には触れられない。
  • 女性のイヤリングが嫌い。
  • 歩くときには歩数を数える。
  • 食べる前にスープ皿、コーヒーカップ、食べ物の体積を測らないと、美味しく食べられない。
  • 同じ行動を繰り返す。そのとき必ず3の倍数回しないと気が済まない。
  • 設計図を書かずに頭の中で装置を完璧に組み立てて、一気にアウトプットできる。
  • 極度の潔癖症。
  • 幼い頃から、たびたび幻視、幻覚、幻聴に襲われた。
 一種の強迫性障害あるいは自閉症のようにも思われる。
 生涯独身であったのは、こういった事情もあったのかもしれないと新戸は推測している。(ゲイ説もあり)
 
 今回、ニコラ・テスラについて調べてソルティが最も興味深く思ったのは、実は彼の発明に関するエピソードでも、華やかな交友関係でも、奇癖や奇行でも、毀誉褒貶さまざまな生涯でもなかった。
 上記の通り、テスラは幼い頃より幻覚に悩まされていたのだが、現れる心象(イメージ)はいつも現実との区別がつかないほどのリアリティを持っていた。
 自分の見ているものが現実のものなのか幻覚なのか分からないことが、彼を不快にも不安にもした。
 そこで、彼は何らかの心象が目の前に現れたとき、それがどうやって出現したのかを観察する習慣を“第二の天性”のごとく身に着けた。
 その結果、あることに気づく。

 実は、あるものの心象が目の前に現れるとき、事前にそれを思い出させるようなものを見ていたのだ。初めのうちは、ただの偶然だと思ったが、まもなくそうではないと確信するようになった。心象が目に見える前に、意識的に見るのであろうと無意識のうちに見るのであろうと必ず、何かの光景が思い浮かんでいたのだ。

 次に私が気づいたのは、実際に前もって何かを見た結果として何かの心象が浮かぶのだが、それと同じような方法で考えも浮かんでくるということだ。そこでまた私は、その考えを抱くきっかけを突き止めたいと思うようになった。

 これだけではない。自分の動きはどれも同じように突き動かされているせいなのだとまもなく気づいた。これまで私が一つひとつ考え、行動を起こすことで歳月を重ねながら行ってきた継続的な探究も観察も実証もすべて、私が動力を与えられた自動機械(オ-トマシン)だから、外部から感覚器官への刺激にただ反応し、それに従って考え、行動し、運動しているゆえであることを示していたのだし、今でも日々示している。そのことに私は十分納得した。自分の動き、考え、あるいは夢がもともと何の影響を受けたせいなのかが突き止められなかったのは、人生のなかで一度か二度しかなかった。

 私たちは自動機械(オートマシン)であって、私たちを取り巻くものの力で完全に制御されている。コルクのように水面に放り投げられているのに、外部からの刺激を受けた結果を自由意志だと誤認するのだ。運動やほかの行動は常に生命維持のためのもので、見かけ上は互いに無関係であるようだが、見えない絆で結びついている。

 なんと、ここでニコラ・テスラは、「人間は無意識によって動かされている自動機械に過ぎない。自由意志は錯覚だ」と言っているのだ。
 ベンジャミン・リベットが『マインド・タイム 脳と意識の時間』で示唆したこと、トニ・パーソンズや阿部敏郎などのノン・デュアリティ(非二元)の覚者らが述べていること、ブッダが因縁や諸法無我という言葉で説いたことと同じ、すなわち「自我の否定」である。
 これこそまさに「秘密の告白」の名に値する ‼

 上記の哲学を持つがゆえに、ニコラ・テスラは人間とまったく同じ機能を持つ自動機械、いわゆる A I ロボットの制作が可能と考えたのである。
 つまり、ソルティという一人の人間の“様々な刺激に対する外的内的な反応パターン”を徹底的に調べ上げて精密なプログラムをつくり、それを優れた工学性を備える A I ロボットにダウンロードすれば、ソルティそっくりの反応パターンを示すソルティ2が生まれる。
 次に、ロボットを動かすエネルギーの問題であるが、ここで空間から無限に取り出せるフリーエネルギーを利用すれば電力は必要ない。ロボットが壊れない限り、動作し続ける。フリーエネルギーは人間で言うところの「命」に相当しよう。
 最後に、ソルティ2に一つの指令(自己参照回路)を組み込む。
 
 COGITO ERGO SUM (我思う、ゆえに我あり)
 
 ソルティという人間とソルティ2というロボットの違いはどこにあるだろうか?
 
 ニコラ・テスラは人間を創造しようと考えていたのだ。
 おそるべし、二コラ。
 
 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★
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● 本:『宗教の現在地 資本主義、暴力、生命、国家』(池上彰、佐藤優対談)

2020年角川新書

 「外務省のラスプーチン」と言われた佐藤優と、「難しいことを分かりやすく伝える才人」池上彰との対談。
 ラスプーチンネタが続いたのは偶然?必然?

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 佐藤優については、その昔鈴木宗男絡みで逮捕、有罪判決を受けたこと以外は、敬虔なカトリック信者であること、漫画家・西原理恵子とのタッグで週刊新潮でコラム連載していたことくらいしか知らなかった。
 著書を読むのは初めてである。
 大変な博学、引き出しの多さ、記憶力の主であるのは間違いない。
 情報番組では“物知りの大家”みたいな池上彰をほとんど圧倒する勢いで喋りまくっている。
 専門分野である宗教や外交問題を切り口にして、AIのシンギュラリティ問題やヨーロッパで勢いを増しているヴィーガニズム(完全採食主義者)、ナショナリズムや民族主義、ISやオウム真理教などのテロリズム等々、池上がテーブルに乗せる素材を次から次へと分析し、掘り下げ、独自の世界観の中に織り込んで呈示していく。
 対談というより、10歳年上の池上がインタビュアのようにすら見える。
 
 佐藤と池上の知識の差、教養の差、宗教性の差、世相の読み具合の差と、読む者はつい勘違いしてしまいそうだが、これはそうではないだろう。
 聴き手としての池上がすぐれているがゆえに、佐藤は思う存分自説を繰り広げることができたのだ。
 佐藤の話しぶりはほうっておくと受け手の理解度を意識しない独り語りのようになるところがあり、池上が舵を取らなければおそらくテーマは拡散し、受け手は混乱し、まとまりがつかないことだろう。
 つまり、ここでの池上は迂遠にして専門的な佐藤の言葉を、わかりやすく嚙み砕いて読者に伝える編集者のような役割を果たしている。
 
 以下、佐藤の発言より引用。

 実は仏教でもイスラム教でも神道でも、エキュメニカルな思考・行動をする人と、ファンダメンタルな人と、両方がいます。そのファンダメンタルな人のごく一部に、暴力を使って他者に自分たちの思考を強要する、あるいは暴力によって他者を排除しても構わないと考える人たちがいるのです。ところが、その人たちの思考には、きわめて共通した面白さ――敢えて「面白さ」と言います――があります。それはまず、自分たちの宗教のために自分の命を捨てる覚悟ができていること、そして命を捨てる覚悟があると、途端に他者の命を奪うことに対するハードルが低くなることです。

 日本人は自分を無宗教だと思っている人が多いのですが、それはいわば「無宗教という思想」なのです。無宗教という白いキャンバスのような場所は、簡単に色に染まる傾向があります。思想を作る人間が、もし説得力のある論理を語り始めたら、白いキャンバスはたちまちその思想で染まってしまうわけです。

 静かに進む神道国教化の動きに抗せるのは、無神論的な自由主義者ではなく、プロテスタントのキリスト教徒や創価学会会員など、自らの価値観の基礎に信仰を置く人々だと思う。

 公明党が政権与党に加わっている意義をはじめて感じた。



おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損

 
 

● 福沢かづという生き方 本:『宴のあと』(三島由紀夫著)

1960年新潮社より原著刊行
2020年新潮文庫新版

 1959年(昭和34年)におこなわれた都知事選出馬者(元外務大臣・有田八郎)をモデルにしたことで日本初のプライバシー裁判となった作品として有名だが、こういったセンセーショナルなアオリ文句は、もういい加減、解説からはともかく帯などの紹介文からは削られるべきだろう。
 60年以上も前の事件であるし、有田八郎と付き合いのあった現役政治家はもうこの世にいないのだし、もちろん三島由紀夫も。
 三面記事のようなアオリ文句が、この作品を三島が手すさびに書いた、男が主人公の政治(腐敗)小説のように読者に誤解させ、本来の価値を翳らせてしまいかねない。
 この作品が、海外でかえって高く評価されているのは、まさにそうした事情によるのではないか。

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 この小説の素晴らしさは、福沢かづというヒロインの魅力につきる。
 おそらく、三島の全作品中、『鹿鳴館』の朝子、『サド侯爵夫人』のサン・フォン伯爵夫人、『黒蜥蜴』の緑川夫人に並ぶ個性豊かな魅力キャラである。
 日本の小説を見渡しても、これだけ情熱的で行動力にあふれ、傍で見ていて面白くて愛らしいヒロインはそういないだろう。
 読み始めたら、小説のプロットとかテーマとか文学性なんかは二の次で、よく泣き、よく動き、よく働き、よく愛し、よく装う、天真爛漫なかづの魅力に惹かれてしまう。
 保守派の政治家や高級官僚の利用する一流料亭の女将としての華やかさと気風の良さ、革新派の夫・野口雄資のためドブ板選挙を厭わず精力的に手伝う行動力と人心掌握。
 映画化したらどの女優がこの役にふさわしいだろうか?とずっと考えながら読んでいた。

 ウィキによると、成瀬巳喜男のメガホン、山本富士子のかづ、森雅之の野口雄資という顔触れで企画があったらしいが、プライバシー裁判のせいで流れてしまったとの由。
 なんともったいない!
 なるほど着物の似合う美貌の山本富士子は一流料亭の女将として申し分なく、貫禄も十分だ。
 が、夫の選挙のために駆けずり回る行動力とパワー、買い物中の主婦の足を止めてマイクの前から離さない田中真紀子のような庶民に訴えるカリスマオーラーは、上品な山本では足りない気がする。
 いろいろな女優の顔を思い浮かべた結果、「この人なら」というのに当たった。

 岡田茉莉子である。
 美貌と情熱、行動力と気風の良さ、言うことなかろう。
 岡田茉莉子と仲代達矢のコンビだったらピッタリだったと思う。

岡田茉莉子
岡田茉莉子


 バロックのような華麗なる修辞と心理分析に長けているがゆえに、ややもすると人工的な印象がつきまとう三島作品の中にあって、本作は題材の性質上もあって過度な修辞も精密な心理分析も抑えられている。
 それがかえって作品全体に自然なタッチをもたらし、三島の修辞抜きの素の文章のうまさが引き立ち、余裕綽々たる洒脱な風情さえ漂っている。
 ときに差し込まれる比喩の見事さ。

夜になって冷たい風が募って、空にはあわただしい雲のゆききの奥に、壁に刺した画鋲のような月があった。

何か野口のベッドには、吹きさらしのプラットフォームのような感じがある。それでも彼は、かづよりも寝つきがいいのである。 

かづの心はありたけの嘘を考えていた。陽気な言いのがれは彼女の天分の一部で、どんな窮地に立っても、狭い軒下をくぐり抜けて飛ぶ燕のように、たちまち身をかわすことのできるかづなのに、この場合に限って何も言わないことこそ最良の言いのがれだろうと思われた。

・・・彼は今一刻も早く、残り少ない自分の人生を不動なものにしたくてうずうずしていた。もう修理や改築や、青写真の書き直しや、プランの練り直しはご御免であった。彼の心も肉体も、すでにあらゆる不確定に堪えなかった。フルーツ・ジェロのなかの果物の一片のように、身をおののかせながら、少しも早くゼラチンの固まってくれる時を待っていた。

 本作を『鹿鳴館』のように、男の論理と女の情念の擦れ違いの物語、男の理想と女の現実との相克を描いた一種の恋愛劇と読むことは可能であろう。
 『サド侯爵夫人』のように、男にひたすら尽くすことに情熱を傾けてきた女がふとしたはずみで男に愛想をつかして捨て去る話と読むこともできよう。
 あるいはまた、かづが「政治と情事は瓜二つ」と直感で見抜いたように、日本の政治の浪花節的な性質=非論理性に対する三島自身の風刺と読むことも可能であろう。
 しかしながら、読み終わって残るのは、福沢かづの愛すべき驕慢ぶりと“水盤にたっぷりと湛えられた乳のような”白い肌である。
  



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 本:『春にして君を離れ』(アガサ・クリスティ著)

1944年原著刊行
2004年早川書房

 ミステリーの女王クリスティのミステリー以外の小説の中で最も有名な一作。
 昔読んだのだが、すっかり内容を忘れていた。
 読み始めたら止まらない、かっぱえびせんのようなストーリーテリングはここでも健在。
 1時間強で読み上げてしまった。

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 誰からも羨まれる絵にかいたような理想の家庭、理想の妻、理想の母親、理想の人生を歩んできたつもりの主人公ジョーン・スカダモア。
 ある時、バグダッドからロンドンへの旅の途中で天候により足止めを食らい、なんにもない砂漠の真ん中で数日過ごす羽目に陥る。
 気を紛らわすものがない、話す相手もいないありあまった時間の中で、ジョーンは人生で初めて自分自身と向き合うことになり、それまで自分が見ようとしなかった残酷な真実に気づかされていく。

 解説を早川書房最大のヒットメーカーたる作家栗本薫(2009年没)が書いている。
 本書が栗本自身の生まれ育った家庭を想起させ、まったく他人ごとではないがゆえ、「哀しくて恐ろしい」印象を抱かされたと述べている。
 それが示唆するように、本書のテーマは時の経過によって古びることのない人間性の一面=自己欺瞞を扱っている。
 「あるべき」自分や他人をひたすら求める者が、「ありのまま」の自分や他人を受け入れることも愛することもできず、結果として体裁はいいが中味のない偽りの人生を送ってしまうのだが、それに自ら気づかないように振舞い続ける。
 昨今の中高年ひきこもり問題や押川剛が『「子供を殺してください」という親たち』などで提起した家庭内暴力家庭の根底にあるもの――通俗道徳信奉の弊害と通じている。

 『春にして君を離れ』はクリスティが長年あたため続けてきた素材で、書き上げるのに3日しか要さなかったという。
 ジョーンが残酷な真実にひたひたと近づいていくサスペンスと息詰まるような展開は、『そして誰もいなくなった』におさおさひけをとらない。

 クリスティは奇想天外なトリックで世間を仰天させた『アクロイド殺し』を出版した同じ年に、11日間の謎の失踪をしている(当時36歳)。
 最愛の母親の死、夫の愛人問題がきっかけではないかと言われている。
 ソルティは、この失踪の背景にはジョーン同様の(栗本薫同様の)、クリスティの自身への気づきがあったのではないかと推測している。(クリスティの母親は相当な教育ママだったらしい)



おすすめ度 :★★★★

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● ラスプーチンの長さ 本:『ヨーロッパの都市伝説』(片野優、須貝典子著)

2021年祥伝社新書

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 副題「歴史と伝承が息づく13話」
 約30年間ヨーロッパに住み続けてきた著者二人が、多くの国や地域を訪れるなかで触れてきた地域特有の風習や有名な伝説、怪奇事件を取り上げている。
 各話につけられたタイトルを羅列すると、
  1. 自殺を誘発する曲『暗い日曜日』
  2. 火事を招く絵『泣く少年』
  3. 実在した「呪いの人形アナベル」
  4. 最強の心霊現象・エンフィールド事件
  5. バチカンが正式に認めたファティマの奇跡
  6. ドッペルゲンガーを目撃した有名人
  7. 650人の処女を生贄にした伯爵夫人
  8. 21世紀に暴かれた、切り裂きジャック
  9. ルートヴィッヒ2世の幽霊
  10. 怪僧ラスプーチン暗殺の謎
  11. 天才科学者ニコラ・テスラの未開発技術
  12. 現代によみがえった吸血鬼
  13. ユダヤ教の人造人間ゴーレム

 映画や小説や漫画の題材にもなった有名な話ばかりである。
 ソルティがよく知らなかったのは、2の「泣く少年」の逸話(ネットで検索したら問題の絵はどこかで観た覚えがあった)、11の天才科学者ニコラ・テスラの業績、それにラスプーチンのペ×スの長さについてくらいだろうか。

 交流電流、電動機、蛍光灯、無線装置などを発明し世界的にはエジソンを凌ぐ天才とみなされているニコラ・テスラの名が、日本ではほとんど聞かないのが不思議である。
 彼が考案した、エネルギーが無料になる「世界システム」や、軍艦を敵のレーダー上から消すことができる「レインボー・プロジェクト」などは、莫大な利権や武器開発に関わる畏れるべき発明であり、国家や大企業の絡む巨大な陰謀が見え隠れする。
 まるでオカルト映画かSF映画のような不思議きわまる「フィラデルフィア実験」についてはそのうち調べてみたい。

軍艦


 バチカンの歴代法王を震え上がらせ40年以上封印されてきたファティマ第3の予言は、2000年に時の法王ヨハネ・パウロ2世の決定により正式発表された。
 ソルティが子供の頃は、世界の怪奇事件を扱った子供向けの本や漫画、オカルト系番組には必ずと言っていいほど取り上げられ、見聞きするたびに不安と好奇心とが入り混じった気分にさせられたものである。
 なのに、正式発表された頃(30歳を超えていた)にはまったく興味を失っていて、内容も確かめなかった。
 その前年(1999年)に「ノストラダムスの大予言」が外れたことで、一気にオカルト熱が冷めたのだったか?
 よく覚えていない。

 本書を読むと、「ファティマの奇跡」は1973年にほかならぬ日本の秋田の修道院のシスターの身の上にも起っていたそうだ。
 ある日、笹川シスターの前に聖母が出現しメッセージを伝えたのだが、その内容がファティマ第3の予言と同じだったという。
 そう言えば、秋田にはイエス・キリストの墓があるという伝承があった。
 いや、青森だったか?
 ラスプーチンのそれの長さと同じくらい、どうでもいい話だ。


 
おすすめ度 :★★

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● マチョイズムの旗手 本:『太陽の季節』(石原慎太郎著)

2002年幻冬舎
収録作品初出
『太陽の季節』1955年
『処刑の部屋』1956年
『完全な遊戯』1957年
『乾いた花』1958年
『ファンキー・ジャンプ』1959年

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 石原慎太郎が20代の時に書いた5編が収められている。
 自身「あとがき」で記しているとおり、石原個人の青春メモリアルであり、かつ戦後日本のある一時代(昭和30年代)の先鋭的な若者の風俗をとらえた小説、いわゆる青春風俗小説と言ってよかろう。
 その意味では、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』、三田誠広『ぼくって何?』、村上龍『限りなく透明に近いブルー』、田中康夫『なんとなくクリスタル』などと同列に論じることができる。
 ただし、青春小説と言ったときに多くの人が抱くようなイメージ――恋、友情、ライバル、挑戦、挫折、裏切り、喧嘩、孤独、絶望、見栄、反抗、葛藤、初体験、自己陶酔、成長e.t.c.――はここにはない。爽やかさとも甘酸っぱさともほろ苦さとも縁遠い。
 石原の描く青春は、「酒と女と喧嘩と退屈しのぎの愚行」で埋められた青年たちの自堕落な日々の記録であり、愛なきSEXと暴力と無法のはびこるダークで無軌道な世界である。
 それは後年の女子高生コンクリート詰め殺人事件(1989)の少年たちや、 90年代渋谷界隈を闊歩したチーマ、それに昨今話題の半グレあたりの手口や行動を先取っているかのようで、本書はあたかも戦後の青少年犯罪の見本市あるいは先触れのようである。
 当時、石原の小説が世間の注視と非難の的になったのも頷ける。
 サド侯爵ほどの確信犯、快楽犯ではないものの、反倫理・非ヒューマニズム・不健全に貫かれているのは確か。
 よくもまあ都民はこんなダークな小説を書く人間を都知事に選んだものよ(笑)!
 
 一方で、これらの作品に書かれていること=主人公の青年たちがやっていることは、作品発表のほんの十数年前まで日本軍が植民地や戦地でやっていたことと変わらない。一部の兵士たちは徒党を組んで「愛なきSEXと暴力と無法」に勤しんでいたのである。
 戦争が終わって新憲法が作られて日本がどうにか貧しさを脱し、まがりなりにも平和で文化的な国になったからこそ、ここに描かれる青年たちの蛮行が悪目立ちしたのである。
 なので、太平洋戦争時の戦地における父親たちの蛮行が、戦後の平和な日本社会においてリアルな戦場を知らない子供世代によって繰り返されただけ、と見ることも可能だ。
 その観点から読むと、青春小説という枠を超えて、「男」という性の持っている生物的かつ社会的欠陥、実存的悲劇に触れている作品群と言うこともできよう。
 障子に怒張したペニスを突き刺すことでしか己のアイデンティティを保てない種族の悲哀である。
 石原文学とは、明らかにマッチョイズムの世界である。
 
男根岩
 
 
 石原文学で描かれる「男」たちは、反倫理・反社会・反文化的な行為の中に己のアイデンティティを見出そうとする。
 それがあたかも既存の体制すなわち大人たちが作った社会や法や文化や様々な決まりごとからの解放を希求する自由の戦士のような印象を彼らに付与し、言葉や理屈よりも行動を尊ぶ非インテリ性とあいまって、若い読者たちに「カッコイイ」と思われたのではなかったろうか。
 若者というのはいつだって既存の文化や体制を嫌うものだから。
 行動に飢えているものだから。
 支配からの卒業を叫ぶものだから。

 人間が生きてるってのは考えることか動くことかどっちが先だ? 俺は思うんだがお前に一番欠けてるものは勇気だと思うな。もっと思いきって何かに徹底してみな、そうすりゃ顔色もも少しは良くなるぜ」(『処刑の部屋』主人公克己のセリフ)
 
 ただし、克己ら主人公たちが反倫理・反社会・反文化的な生き方をするのは、別段、権威に対するレジスタンス(抵抗)とか革新思想にかぶれてのことではない。そこは、石原の子供世代にあたる全共闘の青年たちとは微妙に異なる。
 克己らはただ「自分がやりたいことをやっている」だけだ。
 少なくとも自分ではそう思っている。
 
 抵抗だ、責任だ、モラルだと、他の奴等は勝手な御託を言うけれども、俺はそんなことは知っちゃいない。本当に自分のやりたいことをやるだけで精一杯だ。(『処刑の部屋』冒頭の詞書)
 
 「俺はな、手前がなぜそんなことをやるのか考えてみるなんざまっぴらだ。やりたいからやるんじゃねえか。それだけで沢山だ。妙な理屈で自分を誤魔化すのは下らないと思うな。自分のやったことがどんな意味があるかなんざ今止まって考えたって出て来るもんじゃないぜ、やれるだけやりたいことをしてみてその内にわかって来るんだ」(『処刑の部屋』克己のセリフ)
 
 反モラルを標榜するように見えて、実は克己らもまた自分なりのモラルを持っている。
 それが「やりたいことをやる」だ。

 やりたいことをやったその先に何があるのか、何が見えてくるのか、石原はこれらの作品において何も語っていない。
 が、三島由紀夫との対談における石原の言葉から察するに、それは「僕が本当に僕として生きていく自由」であろう。
 僕が本当に僕として生きていく自由は「やりたいことをやる」中にこそある、というわけだ。

私は久し振りに、三年前、あの男を刺した直後に感じた、満たされた放心を体の内に感じていた。それは何であれ自分の肉体に繋がった仕事をやり遂げた後のあの心持良さだった。 少なくともその時、私たちにとって世界は可能なものだった。私は、自分という奴を生きるに足りるものに感じることが出来ていた。(『乾いた花』主人公・村木のモノローグ)


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 法も制度も世間も顧みることなく「やりたいことをやる」を貫けば、人は社会からドロップアウトしてアウトローになる。
 だが、それで自由に近づいたかと言えば、おそらく否だろう。
 「やりたいことをやる」とは、結局、本能や遺伝的気質や育ちによって条件づけられた“自分”を生きることにほかならず、理性や文化や法や世間という安全弁を解いて、より深いところで因縁に支配されるのを自らに許しただけなのである。
 いわば幼児返りだ。
 そう、石原文学の「男」たちに共通するもの、そして戦後の青少年の犯罪に共通する特質は「幼稚性」だと思う。
 もはや明らかなことであるが、マチョイズムの特徴の一つは幼稚性にある。


 収録されている5編のうち、『太陽の季節』と『処刑の部屋』には感心した。
 表現に生硬さや紋切り型が見られる『太陽』よりも、『処刑』のほうが完成度は高いと思う。
 他の3編は、売れっ子作家&スターになった石原が時間に追われて書き殴ったといった印象で、台本でも読んでいるようなスカスカ感だった。
 『乾いた花』に関しては、舞台となる賭場独特のルールと雰囲気とが文章では表現しにくいことは別にしても、篠田正浩監督・加賀まりこ出演の映画のほうが数段すぐれている。
 映画の出来が原作を上回った典型例と言える。

 生物的・社会的失敗作としての「男」の存在のあり方を、自らを手がかりとしてもっと深く突きつめていたなら、石原慎太郎はきっと後世に残る文学者になったであろう。ちょうど映画界におけるクリント・イーストウッド監督のように。
 彼にその勇気がなかったことが残念である。



おすすめ度 :★★

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● 本:『歩いて行く二人』(岸惠子、吉永小百合対談集)

2014年世界文化社

 上質の紙に板のようにがっちりしたハードカバー、パリを背景にしたエレガントな二大美人女優のカラー写真も豊富なゴージャスなつくり。
 痩せても枯れても世界文化社だ。
 まあ、昭和の銀幕を彩った押しも押されもせぬスターの対談とあらば、これくらいの贅沢こそふさわしかろう。

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 横浜での最初の対談(2009年10月)、パリでの2回目の対談(2013年6月)、横浜での3回目の対談(2013年10月)が掲載されている。
 この間にあった未曽有の事件と言えば、東日本大震災と福島原発事故である。
 二人の会話は、女優同士の対談にありがちな芸能や恋バナ、結婚や家庭の話、それぞれの人生観披露などにとどまらず、原発や戦争、ボランティア、外交問題や異文化共生の話などにまで及び、二大女優の社会的視野の広さと問題意識の高さと行動力を知らしめる。
 二人とも美しいだけでなく、賢くて、おのれをしっかり持っている。

 岸惠子は1932年生まれ。吉永小百合は1945年生まれ。
 13歳違いである。
 対談当時、岸は80歳を超えていたわけだが、まったくそうは見えない。
 いいとこ60代である。
 ファッショナブルでスタイルも良く、パリの街に溶け込んでいる。
 否、パリの街をより優雅に見せる点景と化している。
 が、会話ではむしろ江戸っ子のようにさばさばした思い切りのいい性格がうかがえる。
 
 吉永小百合は60代半ば。
 これまた若く美しい。
 洋装ではさすがに本場仕込みの大先輩にかなわないと思ったのか、着物で通している。
 これは正解。
 日本的な美がパリの街に輝いているのを見るのは誇らしい。
 
 紙面から反原発や憲法9条護持の活動をしている吉永の思いが生半可なものじゃないことが伝わってくる。一途な理想家。
 一方、「ペシミストじゃないけどリアリスト」という岸は、自らがジャーナリストとして世界各地をめぐり見聞した経験をもとに、吉永の認識の甘さを指摘する。

吉永 21世紀になって、いろいろな紛争がありますが、みんなが「地球は一つの国」という意識を持つようになることが必要ですよね。
 ならないわよ、小百合ちゃん。無理。人間もいろいろだもの。・・・・(中略)・・・・残念ながら、私は紛争はなくならないと思うの。本当の意味での世界平和なんてあるのかしら?と私は疑ってるの。人間は学ばないんだもの。歴史から。忘れるんですもの。忘れて、繰り返す。

 この認識の違いが、まさに二人の女優の芸質の差を表しているようで興味深い。
 『おとうと』(1960)のげん(岸惠子)と『キューポラのある街』のじゅんの差だ。
 あるいはまた、二人の唯一の共演作『細雪』(1988)の長女鶴子と三女雪子の差だ。



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