ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●読んだ本・マンガ

● クイーン的問題? 本:『ダブル・ダブル』(エラリー・クイーン著)

1950年原著刊行
2022年ハヤカワ・ミステリー文庫(訳・越前敏弥)

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 クイーン後期のライツヴィル物。
 童謡『マザーグース』の次の歌詞になぞらえて人が死んでいく、いわゆる見立て殺人物である。

Richman, poor man,
金持ち、貧乏、
Beggarman, thief,
乞食、泥棒、
Doctor, lawyer,
医者、弁護士、
Merchant, chief.
商人、首長。

 趣向は面白い。
 が、犯人がそもそも見立て殺人を行った動機があまりにナンセンス。
 歌詞の途中に出てくるある職業の男を怖がらせて遺言書を書かせるためというのだから。
 しかも、蓋を開けてみれば、殺された男が残した遺言書には犯人の名が挙げられていなかったのだから、とんだ無駄骨。
 というか、こんな不確実な動機で世話になった恩人を殺す犯人像のリアリティの欠如が受け入れ難い。
 結末の意外性もなく、奇抜なトリックや殺人方法があるわけでもなく、探偵(エラリー)の推理が目覚ましいこともない。
 エラリー・クイーン作でなければ生き残ることのない駄作である。

 せめてもの美点は、ヒロインであるリーマおよびレコード新聞社の女社長マルヴィナ・プレンティスの人物造型。
 狼少女のごと現代社会から隔絶した環境で育てられたリーマの無垢と野生的魅力が、奇抜なファッションに身を包み蓮舫か田中真紀子のごとく傲岸に振る舞うマルヴィナの強烈な個性と競い合って、作品の魅力をなしている。

 それにしても、なぜ独身のエラリーはリーマに魅かれているのに口説かないのだろう?
 親子ほどの年齢の差があるとはいえ、リーマは成人しているのだから問題あるまいに。
 やっぱり、エラリーはクイーン(米俗語で「同性愛者」)だったのかな?




 
おすすめ度 :

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 本:『唐牛伝 敗者の戦後漂流』(佐野眞一著)

2016年小学館より刊行
2018年文庫化

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 唐牛とは中国産の闘牛のことである。
 愛媛宇和島名物の闘牛大会では、世界中からやって来る並みいる猛牛どもを一突きのもとに打ち倒し、最多優勝回数を誇っている。
 ――というのは冗談で、60年安保闘争の立役者として名を広めた唐牛健太郎(かろうじけんたろう)のことである。
 
 恥ずかしながら、ソルティはこの男を知らなかった。
 安保闘争と聞いて名前の上がる学生闘士と言えば、60年安保ならデモ中に亡くなった樺美智子、70年安保なら全共闘議長でその後予備校の講師となった山本義隆がせいぜい。
 とくに、東大安田講堂陥落や連合赤軍あさま山荘事件といった、メディアにたびたび取り上げられヴィジュアル的に映える大事件を有する70年安保に比べれば、60年安保は地味な印象があった。

 60年安保の主役が唐牛であり、ブント全学連だったのに対し、70年安保の主役は北小路であり、中核派や革マル派に指導された全共闘だった。こうした変化に伴い、理論的支柱も変わった。
 60年安保のオピニオンリーダーは清水幾太郎であり、丸山眞男だった。これに対して70年安保の理論的支柱は、俗受けする『都市の論理』などのベストセラー本を書いた羽仁五郎に変わった。

 去る6月3日に放映されたNHKドキュメンタリー『映像の世紀 バタフライエフェクト』で60年安保闘争が取り上げられているのを見て、はじめて唐牛健太郎という人物を知った。
 唐牛は当時北海道大学の学生で、安保反対に立ち上がった全国の学生を束ねる全学連(全日本学生自治会総連合)の委員長だった。
 石原裕次郎ばりの長身のイケメンで、国会前のデモでは警察の装甲車に飛び乗って演説をぶちかまし、その後警官隊にダイブするなど行動力抜群の頼れるリーダーであった。
 たしかにカッコいい。
 がしかし、ソルティがこの男に興味を抱いたのは、安保闘争当時の唐牛の勇姿を映した白黒のニュース映像を見たからではなく、その10年後にNHKが北海道紋別のトド撃ち名人のドキュメンタリーを制作したときに、たまたま乗組員の一人として登場することになった漁師姿の30代の唐牛のカラー映像を見たからである。

 20代で革命の闘士として全国的に名を馳せた英雄が、闘争に敗れて漂流し、30代には最果ての北の海でトドやアザラシを撃っている。
 しかも、唐牛は一番下っ端の乗組員で、漁師たちの食事の賄いや甲板の掃除など雑用を引き受けている。
 と書くと、都落ちしたかつてのヒーローの零落とか失意の人生とか想像してしまうところだが、船上でインタビューされている唐牛は、姿かたちこそすっかり中年オヤジと化しているが――70年代の30歳は令和現在の50歳くらいの見当だろうか――その表情はあくまで人懐っこく純粋で、自己卑下したところも、世を恨んで拗ねたようなところも、見栄を張って強がっているところも、連合赤軍の残党のように一発逆転を狙って虎視眈々と闘志を燃やしているようなところも、おそらく久しぶりのマスコミの取材に緊張しているところもなく、およそ自然体で、笑顔が可愛い。
 「なんか面白いオヤジだなあ~」と思って、この男のことが知りたくなった。
 図書館で蔵書検索してみたら、この本がヒットした。

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60年安保当時の唐牛健太郎

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1971年紋別で漁師をやっている唐牛健太郎

 佐野眞一の本は、ソフトバンク創業者の孫正義の半生記『あんぽん』を読んだことがある。
 毀誉褒貶ある作家で、外連味(けれんみ)たっぷりの文章を書く。
 たとえば、妙に偶然や符牒を強調したり、あえてドラマチックな見方をしてみたり。
 「一昔前の(昭和時代の)立志伝だなあ~」と、いささか辟易するところもある。
 が、自在なフットワークと徹底した取材は大いに称讃すべきで、対象とする人物に対する愛情と尽きせぬ興味が、紙面から伝わってくる。
 『あんぽん』同様、面白く読んだ。(しかし、「あんぽん」の次は「あんぽ」って、偶然にしては面白い)

 それにしても、唐牛健太郎(1937‐1984)の47年の人生は波乱万丈、そのキャラはあまりにも濃くてユニーク、活力と人たらしの才能は無尽蔵、人脈の広さには端倪すべからざるものがあり、成るべくして全学連のリーダーに成ったのだなあと、納得至極であった。
 安保闘争に加わらなかったら、別の分野で大成していたであろうことは間違いない。
 運動から身を引いたあとの人生は、まさに「無頼」という言葉がぴったり。

 名利は求めず、あるときは居酒屋の親父、あるときは長靴姿の漁師、あるときは背広とネクタイに身を固めたコンピュータのセールスマン、そしてあるときは徳田虎雄の選挙参謀となって買収作戦を指揮・・・・

 北はオホーツク海、南は九州、与論島と流れのままに各地に移り住み、親友から奪った2番目の妻とともに四国遍路を巡り、どこに行っても自然と周りに人が集まり酒宴が始まる。
 その人脈は一般によく知られる名を上げるだけでも、評論家の吉本隆明、鶴見俊輔、西部邁、経済学者の青木昌彦、大物右翼の黒田清玄、山口組三代目組長の田岡一雄、日本人で初めてヨットでの太平洋横断に成功した堀江謙一、作家の長部日出雄、桐島洋子、ジャーナリストの岩見隆夫、歌手の加藤登紀子、そして医療法人徳州会を立ち上げた徳田虎雄・・・・・錚々たる異色の顔触れである。
 安保闘争の敗者という事実を、あるいは富や栄誉や名声や成果という尺度でみた人生の“勝ち負け”を超越したところで、とても面白い人生を、たくさんの友人や素晴らしい伴侶に恵まれて目一杯生き抜いた男であったのは間違いない。
 それに比べたら、国家の命令に唯々諾々と従って、唐牛の行く先々に現れて監視を続けていた公安職員の人生の、なんとみじめなことか!
 同時代の仲間たちは、挫折して孤独のうちに漂流する唐牛の姿に、映画の中の高倉健を重ねていたらしいが、ソルティはむしろ、寅さんこと渥美清演じる車寅次郎に近い印象を受けた。
 そこには、市井の庶民に対する、ブルーカーラーに対する強い共感や誇りがあり、自らは決して“上級国民”やホワイトカラーにはなるまいという強い自負と覚悟を感じた。

 「まえがき」ほかで佐野はこう記している。

 本書の目的は、60年安保時代に生きた日本人といまの時代に生きる日本人の「落差」を書くことにあったと言っても過言ではない。

 60年代の日本及び日本人と現在の日本及び日本人では時代を超えて明らかに世界観のスケールが、つまり人間の器の大きさが全く違ってしまった。

 左右のイデオロギーは問わない。60年安保の当時煮えたぎっていた日本民族のエネルギーはどこに消えてしまったのだろう。

 上記の「60年安保」を「70年安保」と変えてもよいと思うが、本書を読んで、あるいは前述のNHKドキュメンタリーを観てソルティが思ったのは、まさにこれにほかならない。
 日本人のエネルギー、特に若者ならではの既成権力に対する反抗心はどこに行ってしまったのか?

 ソルティはいわば「幻の80年安保」世代と言っていい生まれなのであるが、たしかに、権力と闘うという発想や気運は世代的に希薄であった。
 社会を見渡しても、社会党や共産党などの野党や新左翼の残党たちの、すでにマンネリ化し日常風景の一つとなった“反体制”仕草が視野の片隅に入るだけで、それはどちらかと言えば、時代遅れでダサいものと映った。
 89年のベルリンの壁崩壊や中国天安門事件、その後のソ連消滅につづく世界的な共産主義の衰退は、左翼運動の時代遅れ感を浮き彫りにした。
 すなわち、歴史の終わりが宣言された。
 
 70年安保以降の日本及び日本人の政治的傾向には、こうした全世界的な左翼思想の失墜、連合赤軍事件に終わった革命運動に対する反省や嫌悪、巨大な権力機構を打ち倒すことの困難なることを骨の髄まで悟ったこと、日本人のエネルギーが政治運動から経済による世界制覇に向けられたこと、そして、高度経済成長からバブルに至る「豊かさ」の中で一億総中流となった国民が、生活に満足し戦意を喪失したことが、影響しているのではないかと思う。
 戦争のない平和な社会で、衣食住足りて、面白い娯楽がたくさんあるのに、なぜ闘う必要がある?
 何十万というデモ隊が国会を取り囲んだ60年安保、70年安保でも、体制を引っくり返せなかったというのに・・・!

デモする人々

 ソルティが不思議に思うのは、全学連や全共闘の若者たちが将来を棒に振る危険を冒してまでどれほど必死に闘おうが、左翼陣営が連帯を組んで大衆に「反戦・反米・反安保」をどれほど声高く呼びかけようが、結局、日本国民は戦後約65年間、自民党を支持し続けたってことである。
 自民党が戦後はじめて野に下ったのは、安保の「あ」の字ももはや人々の口に登らなくなった2009年のことである。
 いかなるデモやテロリズムも、選挙による政権交代ほどの威力はない。
 60年安保も70年安保も、大多数の国民の意識を変えられなかった、自民党以外の政党に票を投じようという気持ちを抱かせられなかった、そこに一番大きな敗因があると思うのだが、違うのだろうか?

 と言って、ソルティは60年安保や70年安保が「壮大なゼロ」、すなわち無駄だったとは全然思わない。
 60年安保はA級戦犯上がりの岸信介首相(安倍元首相の祖父である)を退陣させ、それ以上のバックラッシュ(保守反動)を防いだし、70年安保は政治運動のあり方について国民に考えさせるきっかけを作った。
 抵抗勢力がなければ、権力は思うがまま振舞うことができる。
 大衆が何もしないでお上に任せていたら、中国やロシアや北朝鮮、ひいてはナチスドイツや大日本帝国のような管理主義ファシズム国家になってしまいかねない。
 勝算があろうなかろうが、体制批判の声を上げることは大切である。

 唐牛は面倒見のよさと人を思いやる人情味の篤さではピカ一だった。これは生前の唐牛を知る関係者が口を揃えて言う言葉である。

 唐牛はなぜこれほど多くの人間から慕われたのか。
 私が推察するところ、それは唐牛に嫉妬心というものがほとんどなかったからではないかと思っている。男の嫉妬心は女の嫉妬心より粘着質で厄介なものだが、唐牛には時に戦争を起こす男の嫉妬心とは無縁だった。
 とりわけ学生運動という男の集団では、嫉妬心が権力闘争の導火線となる、その嫉妬心がゼロに近く希薄だったことが、唐牛が周囲に爽やかな印象を刻む最大の要因ではなかったか。

 NHK『映像の世紀 バタフライエフェクト』で目撃した30代の唐牛健太郎の漁師姿になぜ自分が惹かれたのか。
 その答えはここらにあるようだ。




おすすめ度 :★★★★

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● 本:『タブーの正体!』(川端幹人著)

2012年ちくま新書

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副題:マスコミが「あのこと」に触れない理由

 ここ数十年のマスメディアにおける三大タブーを暴いた森永卓郎著『書いてはいけない』が、2024年上半期ベストセラーの17位にランクインした。
 ビジネス本の中では第3位という快挙である。
 ――のわりには、TVや新聞など大手メディアが、この本を紹介したり、書評に取り上げたり、著者の森永を取材したりしていない様相が、まさに森永の指摘が正鵠を射ていることを証明しているようで興味深い。
 森永はテレビ出演多数の著名人であり、末期ガンと闘う男というニュースバリューもあり、暴いたテーマの一つが最近タブーが解けてマスメディアの猛省が求められたジャニーズ事件というホットな話題であるにも関わらず・・・。
 残り二つのタブーは、財務省の財政均衡主義による増税礼讃(ザイム真理教)と1985年8月12日に起きた日航123便墜落事故である。

 マスメディアが敢えて取り上げたがらないテーマは他にもたくさんある。
 すぐに思いつくだけでも、天皇制、被差別部落、創価学会、原発、自衛隊、憲法9条、靖国参拝、在日米軍基地。ちょっと前までは、安部晋三元首相批判や旧統一教会もそうであった。
 昭和の頃はそれでも、田原総一朗司会『朝まで生テレビ』(テレビ朝日系列)あるいは『噂の真相』のような、タブーとされるテーマを果敢に取り上げる番組や雑誌があって、多くの国民は「そこにタブーがあること」を知り、「それがタブーとなっている理由」について納得しないながらも了解することができた。
 それが昨今は事情が違ってきた、と川端は語る。

 以前であれば、自主規制や圧力によって報道が封殺されると、メディアの内部でなぜ報道できないのかという経緯、つまりタブーの理由が問題となり、それが外部にも漏れ伝わってきた。ところが、数年前から、「タブーだから」「その話はヤバイから」という一言だけで簡単に報道がストップされるようになり、理由について説明したり、議論したりということがほとんどなくなってしまったのである。
 最近では、ある事実の報道を「タブーにふれるから」と封じ込めた当事者が、なぜそれがタブーになっているのかを知らないという事態まで起きている。(表題書より引用、以下同)

 あたかも、神の祟りを恐れて禁足地に足を踏み入れない古代人か未開人のようで、文化人類学や宗教学における本来の「タブー」に近いものとなっているというのだ。
 つまり、思考停止である。

 報道できない領域があったとしても、それが何によって引き起こされたのか、理由が明らかになっていれば、将来、その意図を除去して状況を変えることができるかもしれない。あるいは、状況を変えるのは無理でも、どの部分にどういうリスクがあるかが認識できれば、そこを避けながら限界ギリギリの表現まで踏み込むことは可能だ。だが、タブーを生み出した理由が隠されてしまうと、そういった条件闘争や駆け引きすらできなくなり、タブーをそのままオートマティックに受け入れざるをえなくなる。そして、「タブー」という言葉が、目の前で起きている事態と闘わないことのエクスキューズとして、これまで以上に頻繁に使われるようになる。

 思考や議論を許さないタブーは、そのまま権力にも暴力装置にもなり得る。
 ジャニーズ事件を見れば、そのカラクリは明らかであろう。

現在のメディアはタブーを克服するという以前に、その実態をまったく見ないまま「タブー」という言葉で一くくりにして、恐怖心だけを募らせている。だとしたら、まず、その恐怖の被膜を取り除いて、タブーの実態、つまりそれを生み出した要因や理由を正面から見つめなおすしかないのではないか。

 本書は、タブーに覆われつつある現在のメディア状況を憂えた著者が、「タブーの可視化」をはかったものと言うことができる。
 川端幹人は1959年生まれ。1982年から2004年までの約20年間、“タブーなき反権力ジャーナリズム”を標榜する『噂の真相』の編集部に在籍し、取材・執筆に当たってきた。2001年には、雅子皇后(当時は東宮妃)の記事を掲載するにあたって、敬称をつけず「雅子」と記したことで右翼団体の不興を買い、襲撃を受け負傷している。
 同誌休刊後はフリーのジャーナリスト兼編集者として活動している。

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 本書では、メディアにおけるタブーを、要因別に「暴力」「権力」「経済」の3類型に分けて、その生成過程を分析している。
 取り上げられているのは、次のようなテーマである。

1.「暴力」が怖いからタブーとなっている
 皇室(右翼)
 宗教組織(創価学会、旧統一教会、イスラム教、オウム真理教など)
 同和問題(解放同盟による糾弾、エセ同和団体による恐喝)

2.「権力」が怖いからタブーとなっている
 政治権力(小泉純一郎)・・・本書は第2次安倍晋三内閣前の刊行である
 検察や警察
 財務省(税務署)・・・まさにザイム真理教のことだ

3.「経済」的損失が怖いからタブーとなっている
 ジャニーズやバーニングなどの大手芸能プロダクション
 ユダヤ(イスラエル問題)・・・いまのアメリカの状況に顕著
 原発(大手電力企業)
 電通 

 詳細は本書を読んでもらいたいところであるが、ソルティは読んでいてずっしりと気持ちが落ち込んだ。
 タブーの壁があまりに高くて分厚くて、それをこれでもかとばかり突きつけられて、自分のような無力な小市民が束になったところで、到底太刀打ちできないことを痛感させられるからである。
 とりわけ、同調圧力が強く、事を荒立てない(陰で処理する)のが美徳とされる日本においては、表立って権力と闘う者は否が応でも孤立させられてしまう。
 本来なら社会の木鐸たるべきメディアからして、簡単に権力に屈してしまう現状がある。

 日本のメディアは孤立を異常に恐れる一方で、連帯して権力に対峙することをしない。欧米では、報道の自由を侵害されるような問題が起きると、メディアは立場のちがいを超え、連帯して抗議の声を上げ、徹底的に戦うが、日本のメディアはそれができない。むしろ、権力側から切り崩しにあうと、必ず黄犬契約を結ぶメディアが出てくる。

 黄犬契約( yellow-dog contract )とは、労働組合不加入または脱退を条件として雇用契約を結ぶことを言うが、ここでは権力に阿って仲間を裏切る行為を指す。
 ソルティは以前冗談で、2009年に自民党から民主党への政権交代が起きていなかったら、2011年3月の東日本大震災の際に起きた福島第一原発メルトダウン事故は“原子力村”の圧力によって隠蔽されていただろう――と書いたことがあるけれど、日本のマスメディアのていたらくを思えば、これは冗談でなかったかもしれない。
 正義は一体どこにある?

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 読後しばらく暗澹たる思いに沈んだ。
 が、冷静に考えてみると突破口がまったくないわけでもなかった。
 というのも、本書が刊行されたのは2012年であって、当時と2024年現在ではずいぶん状況が変わっていることに気づいたからである。
 すなわち、
  1. 無敵と思われたジャニーズタブーが破れた。他の大手芸能プロダクションも最早無茶はできないだろう。
  2. 無敵と思われた安倍派が崩れた。同時に旧統一教会タブーの呪縛が解けた。
  3. 森永卓郎や青山透子のようにタブーと闘い続ける個人がいて、それを支援する出版人がいる。
  4. ネットとくにSNSの威力が増大して、既存の権力機構でさえ、もはや無視できない存在になっている。匿名による内部告発が(良くも悪くも)増えている。
  5. 戦後長らく議論することさえ許されなかった憲法9条が、今では改憲手前まで来ている。つまり、櫻井よしこのような保守陣営の絶えまぬ努力が功を成している現実がある。(ソルティは個人的には「改憲、ちょっと待った!」の立場であるが、9条タブーを破り世論を変えていった保守陣営の戦略と熱意と粘りは認めざるを得ない。)
  6. 政権交代による刷新(選挙)、違法企業に対する不買運動など、市民にできることもある。
  7. 国際的にSDGsが常識となってきているので、日本だけがその潮流を無視することはできない。(ジャニーズ問題が外圧で敗れたことに象徴される)

 とにかくギリギリまでタブーに近づくこと、そしてタブーの正体を常にあらわにし続けること。最後にもう一度いうが、タブーの肥大化・増殖を食い止めるためには、まず、そこから始めるしかないのである。

 その意味では、巷にあふれる“陰謀論”も、「根も葉もない与太話」と切り捨てる前に、「そこに幾分かの真実が混じっているのかもしれない」と立ち止まって考えることが必要なのかもしれない。
 たとえば、2020年の段階で、「旧統一教会が与党自民党内に根を広げて政策に影響を与えている」と言ったら、「なにを陰謀論めいたことを!」と誰も相手にしてくれなかったろう。
 実際には、2022年7月の安倍元首相暗殺後に明らかになった通りであり、自民党の憲法改正案の中には、旧統一教会の教義が反映されているとしか思えない箇所すら指摘できる。

 思考停止ほど危険なものはない。





おすすめ度 :★★★★

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● 野口五郎の謎 本:『日下を、なぜクサカと読むのか 地名と古代語』(筒井功著)

2024年河出書房新社

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 長野県と富山県の境をなす飛騨山脈の中に野口五郎岳(2924m)という山がある。
 はじめてこの名を地図上で見つけた時は冗談かと思った。
 野口五郎も偉くなったもんだなあと思った。

 いまの若い人は知らないだろうが、野口五郎は70~80年代のスーパーアイドル歌手だった。
 西城秀樹、郷ひろみとともに「新御三家」の一人として、世の多くの女性たちの人気を集めた。
 『私鉄沿線』、『甘い生活』、『針葉樹』、『季節風』、『コーラスライン』など名曲も少なくない。
 ひょっとしたら、野口五郎の出身地にある山だから、記念にその名を冠したのかなあと思った。

 が、これは逆であった。
 ちびっ子のど自慢大会の常連だった佐藤靖少年は、歌手デビューするにあたって、「雄々しく逞しい歌手になるように」という願いを込めて、この山から芸名をもらったのである。
 やはり同じ飛騨山脈中にある黒部五郎(2840m)とどっちにするか迷ったというから、芸名を考えた人はかなりの登山マニアだったのだろう。
 ちなみに、野口五郎は岐阜県出身である。

 野口五郎岳の名の由来は、「野口」集落にある「ゴロ」。
 ゴロとは「大きな岩がゴロゴロしているところ」の意で、場所によっては「ゴウラ、ゴウロ、ゴラ」とも呼ばれる。
 箱根温泉の有名な強羅(ごうら)はまさにその一例である。

野口五郎岳
野口五郎岳
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=81900301による

 土地の名前の由来を知るのは面白い。
 由来を探るのはさらに面白い。
 とくに、大昔から継承されている地名は由来が文献に記されていないため、想像や推理で探るほかない。
 「野口」や「強羅」のように地形や土地の特徴から推測したり、名前の音(オン)から大和言葉以外の起源(たとえばアイヌ語や朝鮮語)を想定したり、その土地に伝わってきた古い風習や代表的な生産物に起源を求めたり、いろいろなアプローチがある。
 本書はまさに、文献には見つからない、日本の古い地名の由来を探っている。
 
 著者の筒井功は、民間の民俗研究家。
 机上の文献調査ももちろん怠りないが、自ら車を運転しての現地調査いわゆるフィールドワークに重点を置いているところが、この人の面目躍如である。
 まさに文字通り、“在野”の研究家。
 それゆえ、この著者の書く物は民俗研究レポートであると同時に、日本の辺境をめぐる旅行エッセイみたいなニュアンスを帯びる。
 出かけた先の役所や図書館などで地域資料を調べ、現地の古老をつかまえては古い記憶を引っ張り出す。
 そこからオリジナルな仮説を組み立てていく。
 「足で稼ぐ」探偵を主人公とする推理小説を読むような魅力がある。

 本書で取り上げられている地名、及びその由来についての著者の仮説を一部紹介する。
  • クサカ(日下)=クサ(日陰)+カ(処)→日の当たらないところ
  • ツルマキ(鶴巻、鶴牧、弦巻など)=弦巻(弓に弦を巻く円形の器具)→円形の土地
  • イチのつく地名(市、市場、一ノ瀬など)=イチ(巫女などの宗教者)が住んでいたところ (もちろん「市(マーケット)」や「一番」の意によるところも多い)
  • ツマのつく地名(川妻、上妻、下妻など)=「そば、へり」の意→川べりにある土地
  • アオイヤのつく地名(青山、青木、伊谷、弥谷など)=葬地だったところ
  • サイノカワラ(賽の河原)=サエ(境)+ノ+ゴウラ(石原)→石がゴロゴロしている境界の地
徳島県市場町

 2018年の秋に四国歩き遍路したとき、八十八ある札所の中で、「なんか不気味だなあ」、「ここは出そうだなあ」と思ったところ、参拝した後に“憑かれた”ような重さを感じたところがあった。
 香川県にある71番弥谷寺(いやだにでら)である。
 382mの山の中腹にあり、570段の急な石段を登りきったところにある本堂からは、素晴らしい眺望が得られた。
 弘法大師空海が子供の頃に勉強をした岩窟があることでも有名で、人気スポットになってもおかしくない場所であった。
 が、なんとも言いようのない空気の澱みを感じた。
 訪れたのは一日の巡礼の最後で足が棒のようになっていたので、境内で景色を見ながらゆっくり休憩するつもりだった。
 が、岩窟の中にある納経所で御朱印をもらったら、一刻も早く山を下りなくちゃという気になった。  
 霊感のないソルティには珍しいことであった。

 本書によれば、この山は地元では「死者の行く山と考えられており、葬送儀礼の一環として弥谷参りが行われた」そうである。

同地の例では、葬式の翌日か死後三日目または七日目に、血縁の濃いものが偶数でまずサンマイ(埋め墓)へ行き、「弥谷へ参るぞ」と声をかけて一人が死者を背負う格好をして、数キロから十数キロを歩いて弥谷寺へ参る。境内の水場で戒名を書いた経木に水をかけて供養し、遺髪と野位牌をお墓谷の洞穴へ、着物を寺に納めて、最後は山門下の茶店で会食してあとを振り向かずに帰る。(吉川弘文館『日本民俗大辞典』より抜粋、筆者は小嶋博巳)

 弥谷(イヤ+タニ)はまさに葬地だったのである。
 地名の由来を事前に知っていたら、怖くて写真を撮れなかったろう。

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遍路道から望む弥谷山

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山門

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金剛挙菩薩(約6m)

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「いやだに~」と毒づきながら登った石段


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本堂

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水場の洞窟

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大師堂
この中に岩窟がある

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岩窟への入口

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下山してほっとした



おすすめ度 :★★★

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● 人生の黄金期 本:『70歳から楽になる』(アルボムッレ・スマナサーラ著)

2023年角川新書

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 副題は「幸福と自由が実る老い方」
 
 1980年来日このかた、日本中にテーラワーダ仏教を広めてこられたスマナサーラ長老も、来年で80歳になられる。
 たまに講演会や瞑想会でお姿を見かけるが、相変わらずの説法の冴えに引きくらべ、体力の衰えは隠しようもなく、「しんどそうだなあ」と思うことも度々。
 強気な性格や眼力の鋭さ、しっかりした鷹揚な足取りに見過ごされがちだが、元来、体質的に頑健なほうではなかったのかもしれない。
 老いを実感されている様子が言葉のはしばしにのぼり、そのたびに、「誰にでも平等に老いと死はやってくる」というあたりまえの事実を思う。
 本書の良さは、長老が自らの老いの現実と向き合ったところから生まれた老年論であるところにある。
 執筆時62歳のキケロの老年論とは違う。

 雑踏の新宿駅で気を失って倒れたことや、歩くスピードが遅くなったこと、物忘れが増えたことなど、自らの老いを観察して、ありのままに受け入れている様子が、読み手に伝わってくる。
 同じ高齢の読者には、共感しやすい部分であろう。

 老年論と言えば、五木寛之のよく言っていた林住期が思い浮かぶ。
 もとは古代インドの思想で、人生を「学生期、家住期、林住期、遊行期」の4段階に分けた3番目。
 五木の言葉を借りれば、

世のしがらみや人生の些事に煩わされることなく、読書をしたり、いろいろものを考えたり、瞑想をしたり、自由闊達に生きがいを探すことが許される人生の黄金期。

 五木は50歳から75歳くらいまでを林住期と言っている。
 考えてみれば、必要最低限しか仕事を入れず、人との交遊も控えて、読書や映画・音楽鑑賞や仏道修行(瞑想)や旅行やブログ執筆に時間を割いている現在のソルティは、まさに「林住期的生き方」をしている。
 別に意図してこうなったわけではないが、そうか、いまが人生の黄金期だったのか!

 スマナサーラ長老は、人生を3つのステージに分けて語られている。
  1. いろいろなことを学び、大人になるまで(生まれてから30代半ばまで)
  2. 働き盛りの時期(30代半ばから65歳くらいまで)
  3. 退職し社会の鎖を解いて「人間」になる(65歳以降)
 人生3部作の第1部と第2部では、いろいろ「取る」ことをしてきました。
 勉強して学歴をつける、就職する、結婚する、子どもを持つ・・・・こうして、自分の周りに、たくさんのものを取ってきました。
 もちろん、その「取る作戦」には失敗もあったでしょう。
 進学や就職がうまくいかないこともあったろうし、離婚した人も、望んでいたけれど子どもができなかった人もいるでしょう。
 それはそれでいいのです。みんな、だいたい失敗のほうが多くて、失敗7割で成功3割ならいいほう。人生とはそういうものです。
 このように、たくさんの失敗を重ねながらも「取る」をやって来たあなたは、最後のステージである第3部ではなにをすべきなのでしょうか。
 一番大事なのは、これまでとは違う生き方をすること。すなわち、これまで取ってきたものから「離れる」ということです。

 本書では、どのようにして「取る」人生から「離れる」人生へと移行するか、「離れる」人生を幸福に生きるにはどういった観点や工夫が必要か、第3ステージにおいて我々が目指すべきものはなにかといったことが、平易な親しみやすい言葉で説かれている。
 当然、長老の立場としては仏教的生き方のすすめが要点なのであるが、本書はあまた刊行されている長老の他の本とくらべると、仏教の専門用語(たとえば諸行無常、諸法無我、ヴィパサーナ瞑想といった)がほとんどなく、話題もごく一般的かつ庶民的で、日本の高齢者の現状に即した、“仏教徒でなくても受け入れやすい”語りとなっている。
 仏教ならではと言えるのは、せいぜい慈悲のすすめくらいだろうか。
 そういう意味では、宗教に忌避感ある高齢者(たとえば80代後半のソルティの両親)にも自信をもってすすめられる本である。




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 本:『性のタブーのない日本』(橋本治著)

2015年集英社新書

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 2019年1月に亡くなった橋本治の全貌は、その作品群があまりに多彩かつユニーク過ぎて、まだ誰にも捕捉されていないようだが、少なくとも、日本の古典に詳しい、かつそのイメージを大きく覆した作家であったことは間違いない。
 1987年に『桃尻語訳 枕草子』が世に出たときの衝撃をソルティは覚えているが、難解で高踏的な日本の古典文学が一気に身近で親しみやすいものに感じられ、才知を鼻にかけた嫌味なインテリ女のイメージが強かった清少納言が、キャピキャピしたミーハー女子大生のように可愛らしく生き生きした存在へと変貌した。
 それは古典が、“姿勢を正して大昔のことを学ぶ”から“今も通じる変わらぬ日本人の姿に共感する”へと変わった瞬間であった。
 その後も、『窯変 源氏物語』や『双調 平家物語』などで、“昔を今につなげる”手腕は遺憾なく発揮された。

 橋本の古典文学の幅広い知識と深い人間理解をもとにした鋭く自在な解釈によって、日本人の性意識や性道徳を縦横無尽に綴ったのが本書である。
 イザナミ・イザナギの性交による国産みが描かれている『古事記』から始まって、『万葉集』、『枕草子』、『源氏物語』、『小柴垣草紙』、『台記』、『故事談』、『稚児草子』、『葉隠』、『仮名手本忠臣蔵』といった、時代時代の代表的な古典文学が俎上に乗せられ、日本人の性と愛をめぐる実態が暴かれていく。
 それは端的に言えば、タイトル通り、「性のタブーのない日本」である。

 明治時代になって、行政府が「風紀」というものを問題にして、性表現に規制をかけた。「猥褻」という概念を導入して取り締まったから、我々は「性的なもの≒猥褻」というような考え方を刷り込まれてしまった。だから、「明治以前の日本に性表現のタブーはなかった」と言われると、思う人は「え!?」と思ってしまう。
 明治時代以前の日本には性表現のタブーはなかったし、性にもほぼタブーはなかった。だから、そういうものを一々数え上げたわけでもありませんが、その昔の日本には「変態性欲」という概念がなかった。
 日本人には性的タブーがなくて、その代わりにモラルがあった。だから、夫のある女が他の男と肉体関係を持つと、女とその相手の男は「姦通」の罪に問われた。

 大塚ひかり著『本当はエロかった昔の日本』(新潮社)や三橋順子著『歴史の中の多様な「性」』(岩波書店)でも、同様の指摘がなされている。
 明治維新からの150年あまりで、少なくとも性意識や性道徳においては、原日本人が本来の姿を喪い、国策によってなかば人工的に作り変えられてしまったことは疑いえない。
 統一協会的・旧民法的な性道徳を振りかざし、「日本を取り戻そう!」と連呼する保守右翼が、いかに付け刃の伝統讃美者であることか。
 
 それにつけても、宇能鴻一郎著『姫君を喰う話』の原案となった後白河上皇作の絵巻『小柴垣草紙』をなんとしても見たいものだ。
 どこかで展示会やってくれないものかしらん。

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『小柴垣根草紙』部分




おすすめ度 :★★★

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● 本:『赤後家の殺人』(カーター・ディクスン著)

1935年原著刊行
2012年創元推理文庫

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 「赤後家」とは何のことかと思っていたら、「赤い(血塗られた)+後家(未亡人)」、英語ならred widow、フランス語なら la veuve rouge という隠語が示す、恐ろしき器具のことであった。
 ギロチンである。

 先祖代々、赤後家部屋すなわちギロチン部屋と呼びならわされている“開かずの間”において、客として呼ばれたヘンリ・メルヴェル卿はじめ屋敷の住人たちの目の前で起こる密室殺人。
 犯人はどこから部屋に入って、どうやって殺人を行い、どうやって立ち去ったのか?
 カーお得意の不可能犯罪である。

 その部屋がギロチン部屋と呼ばれるようになったのにはもっともな理由があって、過去に一人っきりでこの部屋にいた4人が謎の死を遂げているからであり、さらには、この屋敷に住む一族がフランスの有名な処刑人サンソン家の血を引いているからである。

 死刑執行人の家系であったサンソン家の存在はまぎれもない史実。 
 とくに4代目当主シャルル=アンリ・サンソン(1739-1806)は、フランス革命に際して、ルイ16世と王妃マリーアントワネットはじめ、ダントン、ロベスピエール、シャルロット・コルデーらの首を刎ねたことで知られる。
 残虐な男のイメージを持たれがちだが、アンリ・サンソン自身は死刑廃止論者、しかも王党派だったという。
 自分が嫌なことでも仕事ならやらねばならない。
 ドイツならシュミット家の例にも見るように、家業は継ぐものという時代だったのである。

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kalhhによるPixabayからの画像

 赤後家部屋の由来や血塗られた歴史が、登場人物の一人によって語られる部分が興趣深い。
 歴史オタク、怪奇オタクだったカーター・ディクスンの面目躍如。
 人を殺す部屋という発想や冒頭の謎の提示の仕方はさすが巨匠の腕前、ぐんぐん引き込まれた。
 が、そこをのぞけば、小説としての出来は良くない。

 登場人物の描き分けが中途半端なため誰が誰なのか曖昧になって、途中何度も扉裏の登場人物表に立ち戻ることになった。もっとも、ソルティの記憶力の低下のためかもしれないが。
 構成もずさんで、次から次へと話が展開するため、読むほどに混乱し、いらいらするばかり。
 メルヴェル卿の独善とわがままに振り回されるマスターズ警部同様、読者も鼻面をあちこち引き回されて、じっくり推理の筋道を見つける暇がない。
 明晰な語り口の欠如という、カーター・ディクスンのミステリーの欠点がここに集約されている。

 事件の時系列や各々のアリバイや証拠や証言といったその時点で分かっている事実をきちんと整理して読者の前に呈示し、解明すべき謎がどこにあるのかリスト化することによって、読者が事件全体を概観し、容疑者一人一人について犯行の動機と機会を検討し、真犯人やトリックを自ら論理によって推理する――本格推理小説ならではの楽しみを与えてくれないのである。
 だから、最後にメルヴェル卿によって差し出されるトリックの解明には、催眠術師による目くらましを喰らった気分にさせられる。
 見事に引っかけてくれたことの快感とはほど遠く、詐欺にあったようなすっきりしない気分で読み終わる。

 メルヴェル卿なりフェル博士なりに、ホームズにおけるワトスン、ポワロにおけるへイスティングズのような客観的な記録者を相棒として付ければ、この欠点は回避できたのにと思う。
 逆に言えば、明晰な語りをあえて取らないことで、読者を煙に巻いている。
 物語が面白ければ、その欠点はある程度まで許容の範囲と思うけれど、本作は読者の心理を無視し過ぎ。 

 これが名作と言われるのは腑に落ちない。



おすすめ度 :★★

★★★★★
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★     読み損、観て損、聴き損






● 本:『薔薇の女 〈アンドロギュヌス〉殺人事件』(笠井潔著)

1983年角川書店

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 求道者探偵・矢吹駆シリーズ『バイバイ、エンジェル』、『サマー・アポカリプス』に継ぐ3作目。
 これでやっと、第4作にしてシリーズ随一の傑作かつ難解作と言われる『哲学者の密室』を読むことができる。(殺人ウイルスを扱った第5作『オイディプス症候群』はコロナ騒ぎに触発されて先読みしてしまった)
 もっとも、このシリーズを完全に理解したいのなら、前作や笠井のほかの著作を読む前に、哲学や思想史の勉強をしたほうがよいのかもしれない。
 というのも、このシリーズは本格推理小説+哲学批評のようなスタイルをとっているからだ。
 『哲学者の密室』にはマルティン・ハイデッガー批判が出てくると聞くし、本作『薔薇の女』ではエロティシズム論で知られるジョルジュ・バタイユを彷彿とする人物が出てきて、矢吹駆と討論する場面がある。
 哲学の基本的な教養を欠いているソルティは、第一義としてフーダニット(Who done it ?)あるいはハウダニット(How done it ?)の本格推理小説として楽しんでいるのであるが、ちょっと賢くなったような気にさせてくれる難解な哲学的部分もまた、ワイダニット(Why done it ?)すなわち「人生とはなんぞや?」「社会とはなんぞや?」というなかなか解けないミステリーを毎回提示して刺激を与えてくれるので、読み甲斐がある。

 今回はまたアンドロギュヌス(両性具有者)という題材をモチーフにしている。
 遠い昔、「オカマ」「男女」と馬鹿にされたことのあるLGBTの一人として、興味深く読んだ。
 アンドロギュヌスは現在ならLGBTのT(トランスジェンダー)に含まれる。
 トランスジェンダーの多くを占める「心と体の“性別”が異なる人々」とは違って、外見上だけを問題とした場合の概念、つまり体において男性と女性の両方の特徴を示している人を言う。
 端的に言えば、胸に二つの乳房があり股間に陰茎(と睾丸)がある人だ。
 逆のパターン、つまり胸が男のように平らで股間に女性器がついている場合も論理的には該当するはずであるが、見た目のわかりやすさや衝撃のためか、アンドロギュヌスと言えば〈乳房+ペニス〉というのが古来からの通念である。

 本書刊行当時、まだLGBTの存在や人権問題が社会で顕在化していなかった。
 そのため、見た目でそれと知られてしまうトランスジェンダーとりわけ両性具有の人たちに対する差別や偏見には、今以上にきびしいものがあった。 
 両性具有者は「半陰陽」、「ふたなり」、「シーメール(shemale)」などと呼ばれ、文学や絵画など芸術において非日常的存在として神秘化され祀り上げられる一方で、日常生活ではキワモノ扱いされていたことは否定できない。(草彅剛がトランスジェンダーを演じた『ミッドナイト・スワン』では、服を破かれ乳房を晒された草彅が「化け物」とののしられるシーンがある)

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 ともあれ。
 本作におけるアンドロギュヌスのモチーフは、それほど深いものではない。
 両性具有者が登場するわけでもなければ、性別適合手術を望む男性なり女性なりが殺人事件にからむわけでもない。
 複数の死体(4人の女性と1人の男性の死体の一部づつ)を組み合わせて“アンドロギュヌス人形”を作らんとする異常な人間の犯行およびその解決を描いたものである。
 両性具有者が殺人の首謀者であったり、両性具有者を狙った連続殺人が描かれたりしているわけでないので、LGBT諸君は安堵されたし。

 考えてみたら、笠井潔作品は残虐な殺人シーンが多く出て来る割には、性的リビドーに彩られた陰惨なサイコミステリーとは一線を画している。
 ある意味、健全なのである。
 そんなところも、クリスティやカータ-・ディクスンやエラリー・クイーンなど本格推理小説の古典のスタイルを汲む、王道を行っていると思う。

 
 

 
おすすめ度 :★★★

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● 本:『日航123便 墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る』(青山透子著)

2017年河出書房新社刊行
2022年文庫化

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 『日航123便墜落 疑惑のはじまり 天空の星たちへ』(2010年刊行)に継ぐ、元JAL客室搭乗員によるノンフィクション第2弾。
 前作では、墜落事故に関して青山が抱いた様々な疑惑を洗い出し、読者に問いかけるところで終わっていた。
 その後、青山のもとには新たな証言や証拠が次々と集まった。
 そこには、伊豆上空での緊急事態発生の約5分後にジャンボジェット機とそれを追う2機のファントムを静岡県藤枝市上空で目撃したというOLの話や、墜落現場となった群馬県上野村の小中学生らが事故直後に書いた作文、あるいは『天空の星たちへ』を読んで青山に連絡してきた被害者遺族・吉備素子氏の体験談や、現場で収容された完全に炭化した遺体に関する専門家の見解などもあった。
 それらをもとに推理することで、一連の疑惑が解消され、すべてが整合性持って説明し得るような仮説を提示している。
 詳細は本書を読むに如くはないが、かなりの確実性をもって言えることは、
  1. 単なる事故ではなく、自衛隊や在日米軍が何らかの形で絡む事件である
  2. 公式発表された事故原因(圧力隔壁の修理ミス)は疑わしい
  3. 再調査による真相究明を阻む巨大な政治的圧力が働いている

 この32年間、墜落に関する新聞記事等の膨大な資料を、現在から墜落時まで時系列にさかのぼって読み込んでいくと、そこに見えてきたものは、これは未解決事件であるということだ。後から次々と重要なことが判明しても再調査はしない、無視する、という方針を持ち続ける運輸安全委員会の姿勢もさることながら、日本人の特質なのか、何かを隠し通すことが美徳であるという勘違いによって、嘘を突き通すことに慣れてしまっているずるさが関係者の中に蔓延しているのではないだろうか。

 まさに、森永卓郎が『書いてはいけない』で指摘したように、昭和の暗部=タブーなのである。

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 ときに、ソルティは『天空の星たちへ』について書いた記事の中で、被害者遺族の世話を日航の社員たちにやらせたのは間違いだったと記した。
 昭和時代ならではの“愛社精神”に付け込んで、多かれ少なかれ罪悪感を抱いているであろう末端の社員に遺族の世話を申しつけ、愛する家族を亡くした遺族の遣りようのない怒りと悲しみのサンドバッグにし、社員を長期にわたって多大なるストレスと激務にさらしたことは、それが世間のきびしい非難と悪評をこれ以上避けるために日航のとった謝罪の形式あるいは経営戦略であるとしても、適切な対応とは言えないと。
 が、考えが浅かった。
 遺族の一人である吉備素子氏は青山に次のように語っている。

 とにかく、おかしな話はたくさんあって。遺族もみんな連携しているわけではないのでね。日航の世話役の中でもOさんのように表向きはいい人なんやけど裏ではねえ、実際はあることないこと私らの悪口を言う人もいて・・・・。それぞれが陰で何を言われていたかわからない。遺族間で、相手と組まないように散々吹き込まれている。横のつながりがいまだに持てないんですよ

 遺族間の連携を阻むよう、世話役が会社から言いつけられていた?
 いや、それこそが会社が遺族ひとりひとりにわざわざ世話役をつけた理由だとすると、その奥にある動機は何なのか?
 賠償問題をうまくまとめるため?
 あるいは、事故原因に疑問を抱かせないため?

 2017年に刊行された本書も、今年発行された森永卓郎の『書いてはいけない』もベストセラーになっている。
 いま、JAL123便墜落事故の真実を知りたいという世間の声が非常に高まっている。
 来年はちょうど事故40周年。
 加えて戦後80周年である。
 昭和のタブーはいい加減、清算してもいいのではなかろうか。

 この事件で命を落とした人々への供養は、まだ生きている関係者が「真実を語ること」、それだけである。 


黄色いアイリス





おすすめ度 :★★★★

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● 本:『東京震災記』(田山花袋著)

1924年博文館
2011年河出文庫

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震災後の浅草の風景
日本一高いビルヂングだった凌雲閣(浅草十二階)

 1923年9月1日に起きた関東大震災の見聞録、今でいうルポルタージュである。
 田山花袋(1872-1930)は当時51歳、家族と共に渋谷区代々木に住んでいた。
 花袋の家は瓦が落ち、壁が一部毀れはしたが、崩壊は免れた。家族も無事だった。
 被害は下町、現在の地名で言う台東区、墨田区、江東区、荒川区、文京区、足立区、葛飾区、江戸川区あたりが顕著だったのである。
 花袋は近辺が落ち着いた数日後、歩いて被災状況を見に行った。
 ここに書かれているのは、その一月半後より書き始められ、翌年春に刊行された記録である。
 河出書房新社で文庫化された2011年8月は、もちろん、東日本大震災のあった5か月後である。

 ソルティは田山花袋を読んだことがなかった。
 本書中に、震災で失われた江戸の面影、とくに料理屋や芸者置屋が並ぶ隅田川沿いの情緒を懐かしむ記述があるので、耽美派の酔狂人であった永井荷風(1879-1959)と取り違えていた。
 田山花袋は、『蒲団』、『田舎教師』を代表作とする自然主義派の作家である。
 なので、本書の記述も写実的にして簡潔平明であり、読みやすい。
 それでいて、現代のルポルタージュ作家が書くような淡々と客観的な事実のみを綴る無味乾燥な記録とは一線を画し、文学者ならではの視点と描写が見られる。
 たとえば、廃墟の中でなおさら美しい自然――地平線を囲む秩父や丹沢の青々した連山、澄み切った秋空、不忍池の蓮など――の描写は、人間の営みとは無縁に存在する自然の泰然自若を浮き上がらせ、逆に人間の営みのはかなさや卑小さをかえりみさせる。

 あの緑葉は一層緑に、あの紅白は一層紅白に、人間にはそうした艱難が不意に、避くべからずに起ったとは夢にも知らないように、或るものは高く、或るものは低く、ある者は開き、あるものはつぼみつつ、一面にそこに見わたされていたではなかったか。それは仔細に見れば、その岸に近いところの葉は焦げ、花は焼けていたであろうけれども、またその大きな半燃えの板片なども、その池の中には沢山に沢山に落ちていたであろうけれども、しかもその咲き揃った花の美しさは、何とも言えない印象を私に与えるのに十分であった。それにその日は空が透徹るように青く晴れて、それがその緑葉の中の紅白と互いに相映発した。

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LunnyHによるPixabayからの画像


 本書を読んで、「なるほど、そうであったか」と思ったことをいくつか。

 まず、明治大正になっても東京に残っていた江戸時代の風景が、この震災によって完膚なきまで失われたこと。
 当時の人々にとって、江戸との断絶を意識したのは、明治維新の文明開化や大正モダニズムやたびたびの戦争より、むしろ関東大震災のほうが大きかったのではなかったか?
 日常親しんでいた風景が一変するということは、生活者の意識に少なからぬ影響を及ぼすはずだ。

 次に、いまの新宿や渋谷の隆盛のきっかけになったのが、まさにこの震災であったということ。
 大正時代までは東京の文化的中心、つまり日本の文化的中心は、浅草や上野や銀座であった。
 新宿や渋谷や池袋は、一部の住宅地をのぞけば牧草が広がる田園地帯であった。
 1912年発表の童謡『春の小川』の舞台が、作詞の高野辰之が住んでいた、まさに渋谷区代々木の風景であったという話はよく知られている。
 震災によって下町が灰燼に帰したため、沢山の人や店が山の手に流動し、後の発展の礎となったのである。
 震災あっての渋谷交差点なのだ。

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は~るの おがわは さらさらいくよ♪

 さらに、よく言われることであるが、死者・行方不明者10万5千人という未曽有の被害を生んだのは、地震そのものではなく、その後に起きた火事であったこと。
 実に9割近くが火事、つまり人災による被害で亡くなったのである。
 すこし前にNHK制作ドキュメンタリー『映像の世紀』で関東大震災をテーマにした回があった。
 震災直後の下町の場景をカメラマンが撮ったフィルムを最新技術で修復着色し、そこに鮮明に写し出された人々の様子を分析していた。
 多くの人々は離れた場所で起きている火災を高みの見物としゃれこんで、談笑し飲み食いしていた。
 自分のところまでは火の手は来るまいと思っていたのだ。
 だが、火災は一ヵ所だけで起きていたのではなかった。
 下町の何十か所で同時に起き、折からの強風に煽られて、見る間に燃え広がっていった。
 文字通り“対岸の火事”とのんきに構えていた人々は、気がついたら四方八方、火の壁に阻まれ、逃げ場を失っていたのである。
 とりわけ、3万5千人が焼け死んだとされる本所の被服廠跡地(現・都立横綱町公園)の惨状は言語を絶するもので、日露戦争に行って沢山の死体を見てきた花袋ですら、積み上げられた黒焦げの髑髏の山を「見るに忍びなかった」とそそくさと通り過ぎている。
 火事と津波は決して侮ってはいけない。

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 ここでもまた、朝鮮人虐殺に関する記載がたびたび出て来る。
 田山花袋も目撃していた。
 9月3日の夕のことだ。

 夕方に突然に私達の周囲で起こったことがわかった。それは、もう日がくれかけて、人の顔もはっきりとは見えない頃であったが、俄かに裏の方でけたたましい声がして、「××人? 叩き殺せ?」とか何とか言って、バラバラ大勢が追っかけて行くような気勢(けはい)を耳にした。慌てて私も出て行って見たが、丁度その時向こうの角でその××人を捉えたとかで、顔から頭から血のだらだら滴っている真っ蒼な顔をした若い一人の男を皆なして興奮してつれて行くのにぴったり出会した。私はいやな気がした。いずれあの若い男は殺されるのだろうと思った。気の毒だとも思った。

 現場にいて目撃した人間が「あった」と書き残していることを、その時生まれていなかった人間が「なかった」と強弁するおかしさ。
 虐殺否定論をまくし立てる者らが利用できる最大の武器が、関東大震災を経験した人間が現在ひとりも存在しないという点にあるのは明らかである。
 来年2025年は戦後80年にあたるが、歴史の生き証人がいなくなることは、事実をゆがめたい人間たちにとって、非常に都合の良いことなのである。

 一方、上のように記している花袋であるが、当時中央公論社の社員であった木佐木勝(きさき まさる)の証言によると、「花袋宅に原稿依頼に行った際、本人から、自宅の庭に逃げ込んできた朝鮮人を引きずり出して殴った話を聞いた」という。(出典:筑摩書房発行、西崎雅夫編『証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』)
 朝鮮人を殴った話が事実だとすると、花袋も本書を出版するにあたって、自分に都合の良い嘘を一つついたことになろう。

 関東大震災は明日にもやって来るやもしれない。
 100年前より、巨大化・機械化(IT化)・密集化・複雑化した大都市でいったい何が起こるか、どの程度の被害が生じるか、想像もつかない。
 ただ、現実問題として、それが起こる確率は、日本が戦争に巻き込まれる確率よりよっぽど高いのである。



 
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