ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

スピリチュアル

● I'll be back ! 映画:『ダニエル』(アダム・エジプト・モーティマー監督)

2019年アメリカ
100分

 統合失調症の青年を主人公とするサイコ・サスペンス。
 ティム・ロビンス&スーザン・サランドンの息子マイルズ・ロビンスと、アーノルド・シュワルツネッガーの息子パトリック・シュワルツネッガー、大スターの2世共演が見どころ。
 2人とも美形で、演技も悪くない。 
 
 精神障害を抱える母親に育てられたルーク(=マイケル・ロビンズ)は、孤独な幼少の時分に空想上の友達ダニエルを作って遊んでいた。が、ダニエルの本性に危険を感じた母親は、ルークに命じ、ダニエルをドールハウスに閉じ込めさせた。
 大学生になったルークは精神不安に陥り、自らの手でダニエル(=パトリック・シュワルツネッガー)を呼び戻してしまう。
 ダニエルの協力で自信と安定を得たルークは生気を取り戻し、しばらくは若者らしい日々をエンジョイする。
 しかしダニエルは次第に本性を現し始め、ルークの行動は破壊的なものになっていく。 

 「幼い時の空想上の友達」というネタは、『クワイエット・フレンド』など欧米の映画に昔からよく使われる。
 日本を含むアジア圏ではあまり馴染みないように思う。
 個人主義やプライベート空間が重視される西洋文化ならではの現象ではなかろうか。
 あるいはキリスト教文化と関係あるのか?

face-2670533_1920

 本作では、想像上の友達ダニエルはルーク少年の隠された裏の人格であり、いったん意識下に閉じ込められたものの、大人になったときにきっかけを得てふたたび顕在化した――という解釈で進行する。
 ルークのカウンセラーをはじめ他者から見た時それは統合失調症という病気と映るが、ルークの主観においては人格を乗っ取ろうとする悪魔とのリアルな闘いになる。
 もっとも、当初はルークの目にしか見えなかったダニエルは、クライマックスではカウンセラーやルークの恋人の前にも実体としてその姿を現し、直接的な暴力を振るう。
 すなわち、サイコサスペンスとして始まったものがオカルトホラーになる。
 ルークは、二重人格や統合失調症ではなく、悪魔憑きだったのである。
 この脚本はちょっと安易でシラけてしまった。
 (それとも、科学的な精神医療に対する宗教界からの反駁か?)
 
 映像的にときどき素晴らしいショットも見られるのだが、全般に画面が暗すぎる。
 観ていて疲れる。



おすすめ度 :

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● K 本:『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』(國分功一郎著)

 木島泰三著『自由意志の向こう側』を読んでスピノザに関心を持った。
 スピノザは無神論者であり、自由意志の存在を否定したという。
 原典を読むのは大変なので、スピノザの思想を簡潔に解説している本はないものかと探したところ、本書にあたった。
 著者の國分功一郎は、1974年千葉県生まれの学者。専門は哲学・現代思想。
 プロフィールに見る鋭角的な顔立ちが、いかにも頭脳明晰といった印象。

-IMG_20220407_113019

スピノザ[1632-1677]
オランダの哲学者。初めユダヤ教を学んだがやがて批判的見解を抱き、教団から破門されて学問研究に専念。唯一の実体である神はすなわち自然であるとする汎神論を主張し、精神界と物質界の事象はすべて神の2属性の様態であると説いた。また、事物を神との必然的関係において直観することに伴う自足感を道徳の最高の理想とした。主著「エチカ」「知性改善論」など。(出典:『小学館デジタル大辞泉』) 

 上記の説明を読むと、スピノザが無神論者というのは正確でなく、汎神論者ということらしい。
 神即自然(この世界すべてがそのまま神のあらわれである)という考えが、世界を創造した超越的な唯一絶対神を信仰するユダヤ教やキリスト教の教えと反するがゆえ、無神論者と非難されたのである。
 自らがそこで生まれ育った揺籃たるユダヤ教を否定し、教会のみならず親族やコミュニティからの八分さえ恐れることなく、名利も追わず、一途に真実を求める男。
 なんてかっこいいヤツ!

baruch-spinoza-5689119_1280
そう?

 國分はスピノザの思想の歴史的位置づけと現代的意義について、次のように書いている。

 やや象徴的に、スピノザの哲学は「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」を示す哲学である、と言うことができます。
 そのようにとらえる時、スピノザを読むことは、いま私たちが当たり前だと思っている物事や考え方が、決して当たり前ではないこと、別のあり方や考え方も十分にありうることを知る大きなきっかけになるはずです。(本書より。以下注記ないものは同じ)

 こんなふうに紹介してくれると、スピノザ理解の助けになる。
 スピノザの難しさは、言葉や言い回しや理論の難しさというより、我々の頭の中のOS(オペレーションシステム)を取り換えなければ何を言っているか分からないといった類いの難しさなのだ。
 そしてそれはスピノザの面白さでもある。
 木島泰三も書いていたが、スピノザを読むことで、自らに「認識のコペルニクス的転換」が生じる可能性がある!
 本書は、平易な言葉により、身近な「たとえ」を適宜用いながら、ポイントを絞って、スピノザの思想を紹介している。
 書名に偽りはない。スピノザ入門書としておススメである。

IMG_20220407_113054


 やはりソルティが一番気になるのは、スピノザの自由意志に関する見解である。
 没後に刊行された主著『エチカ』の中で、スピノザは次のように述べている。

 例えば人間が自らを自由であると思っているのは、すなわち彼らが自分は自由意志をもってあることをなしあるいはなさざることができると思っているのは、誤っている。そしてそうした誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識するが彼らをそれへ決定する諸原因はこれを知らないということにのみ存するのである。だから彼らの自由の観念なるものは彼らが自らの行動の原因を知らないということにあるのである。(第2部定理35備考)

 言い換えれば、「我々の行動は無意識によって決定されているにもかかわらず、我々はそれを自らの自由意志によって決定したと勘違いしている」ってことになろう。

 また、次のようにも述べている。

 精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他の原因によって決定され、このようにして無限に進む。(第2部定理48)

 これは仏教の因縁の教えそのものであり、自由意志論争における立場の一つである「因果的決定論」そのものであり、ユヴァル・ノア・ハラリの言うアルゴリズムそのものである。
 スピノザは明らかに自由意志の存在を否定するハード決定論者である。

 では、我々には自由がないのか、いや、そもそも何をもって自由と言うのか?
 スピノザはこの問いについても答えを用意している。

 自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。(第1部定義7)

 スピノザ(と國分)は、自由を「自らが原因となって何かをなすこと」すなわち「能動であること」と定義し、能動について話を進めていくのであるが、ここから先は本書にゆずるとして、ソルティが上記の文章でハッと思い当たったのは、20世紀が生んだ最高の賢者と言われる人の言葉であった。
 クリシュナムルティ(1895-1986)である。

 自分の思考が記憶の反応であり、記憶が機械的であるということを極めて明確に理解しなくてはなりません。知識はいつまでたっても不完全なままであり、知識から生じた思考はいかなるものであれ、限られています。そのような思考は部分的であり、決して自由ではありません。ですから、思考の自由というものは全く存在しないのです。しかしながら、思考プロセスではない自由を発掘し始めることは可能です。そしてその自由の中では、精神はそれ自体が受けているあらゆる条件づけ、それ自体に作用するあらゆる影響に単に気づいているだけなのです。
(クリシュナムルティ著『四季の瞑想』、コスモス・ライブラリー発行)

 クリシュナムルティは、人間は歴史や社会や風土や文化や宗教や教育やしつけやその他もろもろのものによって「条件づけられて」いるのであって、その条件づけからなされた一切の行為に真の自由はない、と説いた。
 人が自由を得るのは、あるいは自由な行為が可能となるのは、もろもろの条件付けに気づいた洞察がもたらす解放によってのみであり、そこには意志や欲望はもちろん思考や感情の出番はない。
 クリシュナムルティは、そうした解放の後にも「個人の独自性(individual uniqueness)」は残るとも言っている。
 それは「エゴ」ではなくて、「普遍的な生に固有の区別であり、個人性からすべてのエゴイズムが一掃された時に残る、個人性の純粋に抽象的なフォルム(型)」なのだという。(1928年のクリシュナムルティとE.A.ウッドハウスの対話より)
 スピノザの言う「自己の本然の必然性」という言葉と共鳴するものを感じる。

 さらに、クリシュナムルティはスピノザ同様、既存の神や宗教を徹底的に批判した無神論者であった。
 が、「あるがままのものが聖である」という言葉に見られるように、スピリチュアルなものを否定はしなかった。彼の自然に対する愛はつとに有名である。
 ある意味、汎神論に近いのではないかと思う。

 クリシュナムルティをとっかかりとして、スピノザの思想に近づけるのではなかろうか?
 ――という感触を持った。


galaxy-3696058_1920
Gerd AltmannによるPixabayからの画像



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 2022秩父・春のお彼岸リトリート(前編)

 彼岸の3連休を利用して秩父入り。
 瞑想と読書と散策の日々を過ごした。

 今回は木島泰三著『自由意志の向こう側』という哲学本を持って行ったのだが、これがソルティには難しくて、なかなか消化できず、苦労した。
 実のところ、長時間瞑想すると、頭はスッキリするよりもむしろボーっとする。
 論理を追うのが下手になる。 
 リトリート瞑想中に読書するなら、学術書はあきらめて、易しい仏典かミステリーくらいにしておくべきかもしれない。(その代わり、瞑想から帰った後に頭が活性化する感はある)

DSCN4617


 総じて曇りがちで肌寒かったので、これ幸い、宿に閉じこもっていようと思っていたら、結局、秩父の魅力と春の花々に惹かれて散策三昧、結構な距離を歩いた。

 秩父盆地は大昔に荒川の流れが作った河岸段丘が有名で、荒川に架かる巨大な秩父公園橋から市街地方面を見やると、面白いように地形が段々になっているのが分かる。
 武甲山から続く山々の稜線を最高位とし、羊山公園・聖地公園のある丘陵が中段、西武秩父駅や秩父神社がある現在の市街地が低段、そこからまた一段下がってバーベキュー族が集まる今の荒川岸となる。
 こういう段丘を見ると、どうしても実際に足で登ったり下ったりしたくなるのがソルティの昔からの癖で、今回も市街地と聖地公園を分かつ、最も目立つ段丘の下まで足を運んでしまった。

DSCN4422
 

DSCN4626
聖地公園の河岸段丘(標高差約140m)


DSCN4627

 登るか?
 登ろう!
 九十九折の坂道をちょっとゼイゼイしながら登りきると、ナチュラルファームシティ農園ホテルの裏に出る。
 展望台があった。

DSCN4628
正面:眼下に秩父第一小学校

DSCN4629
両神山がデカい

DSCN4630
左手(南側)

DSCN4631
右手(北側)

 また下りるのも癪なので、そのまま丘の上の住宅地を進んでいったら、「札所11番→」の道標があった。
 野道に踏み入る。
 しばらく畦道や林の中の小道が続く。
 それが鬱蒼とした山道になった。
 おそらく地元の人でも知らないような静かでステキな道である。
 途中にあった道標からして、どうやら横瀬町の札所と秩父市の札所とをつなぐ、かつての遍路道らしい。
 いい散歩道を発見した、ルン
 途中、武甲山とセメント工場の煙突に抱かれた横瀬町が望めた。

DSCN4633
武甲山

DSCN4634
横瀬町

 と、急激な便意を催した。
 マ、マズイ!
 こんなところにトイレなんかない。
 「の・ぐ・そ」の3文字が浮かぶ。
 誰も来そうもないし、このへんで・・・・。
 が、なんとティシュペーパーを持ってなかった。
 ヤ、ヤバイ!!
 漏れないようにこらえながら脚を速めたら、向こうからリュックを背負ったうら若き女性が現れた。
 や、やばかった~。
 札所11番の脇から国道に降りて、近くのコンビニにダッシュ!
 間に合った~
 
DSCN4632


 秩父鉄道の踏切を渡ると、秩父神社の前に出た。
 参詣す。
 ここの拝殿の周囲の壁は、いろいろな伝説や教訓をモチーフにしたカラフルな彫刻に覆われている。
 しばらく前から修復中だった西面の「お元気猿」が色彩鮮やかに披露されていた。


DSCN0027
秩父神社

DSCN4637
鳳凰

DSCN4638
「よく見て、よく聞いて、よく話す」(日光の三猿とは逆)


 ロシアとウクライナの人々が幸せでありますように!
 生きとし生けるものが幸せでありますように!



● 鬼との共生 狂言『清水』&蝋燭能『土蜘蛛』を観る


IMG_20220227_115034

日時 2022年2月26日(土)13:00~
会場 ウェスタ川越 大ホール
プログラム&主演者
① 仕舞 殺生石(せっしょうせき) 小島英明
② 仕舞 鵺(ぬえ) 奥川恒治
③ 狂言 清水(しみず) 野村萬斎
④ 能  土蜘蛛(つちくも) 小島英明

 知人からチケットを譲り受け、久しぶりに能楽に行った。
 野外での薪能(たきぎのう)は何度か見に行ったことがあるが、蝋燭能(ろうそくのう)は初めて。
 いったいどんなものなのか?

IMG_20220226_231654
ウェスタ川越

 約1700席あるホールは7~8割埋まった。
 人々がコロナと共生し始めているのを感じる。
 こうやって催し物が開催できるようになったのは観客にとっての朗報であるのはもちろん、出演者にとっても吉報である。
 開演前に「見どころ解説」をつとめた小島英明によると、コロナ禍で収入ゼロという月が何度もあったとか。
 また、演者にとっては、人に見られて喜ばれてこその芸であろう。

 本日のテーマは「能楽百鬼夜行」 
 妖怪や鬼が登場する狂言と能を集めたプログラムである。
 水木しげる的というか、京極夏彦的というか。
 わかりやすくストーリー性の高い、能楽初心者でも楽しめる工夫が感じられた。

① 仕舞:殺生石(せっしょうせき)
 これは那須野にある殺生石の謂れとなった金毛九尾の狐の物語。
 荒ぶる妖狐の霊を鎮める玄翁(げんのう)和尚の名は、大工仕事に使われる鉄製の槌、“ゲンノウ”の語源である。

② 仕舞:鵺(ぬえ)
 ソルティはすぐ岩下志麻の怪演が見どころの映画『悪霊島』(1981)のコピー、「鵺のなく夜はおそろしい」を思い起こす。この鵺はトラツグミという鳥の古称である。
 一方、こちらの鵺は、頭が猿、胴体がタヌキ、手足が虎、尾っぽが蛇というキメラ型怪物。
 鵺を退治したのは、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で以仁王(もちひとおう)と組んで平清盛討伐に乗り出したが、あえなく失敗した源頼政である。

鵺
恐ろしい?

③ 狂言:清水(しみず)
 野中の清水に出没し人を驚かす鬼の話であるが、これは本物の鬼ではなく、主人にギャフンと言わせようと企んだ使用人・太郎冠者の変装であった、という滑稽譚。
 太郎冠者を演じる野村萬斎はさすがの腕前。
 間の取り方、声の使い方、抑揚などに現代的な笑いの感覚を取り入れて客席を湧かす。
 伝統芸能という古い革袋に新しい酒を入れて成功させる力量は、狂言の世界だけでなく、テレビや映画や現代劇などいろいろな経験を積んでいればこそだろう。

④ 蝋燭能:土蜘蛛(つちぐも)
 蝋燭能は薪能と並んで古くからあったのかと思ったら、平成生まれとのこと。
 薪能の難点は開催が天候に左右されることである。
 ならば、室内でも可能な蝋燭能で幽玄な雰囲気だけでも味わおう、ということらしい。
 舞台の周囲に数十本の蝋燭が立てられたが、これは本物の火ではなく発光ダイオード。
 炎の揺らぎすら演出できるとか・・・。
 結局、上演中は客席は暗くとも舞台は照明でじゅうぶん明るいので、蝋燭の意味合いを感じとることはできなかった。

 それはともかく。
 シテで土蜘蛛を演じる小島英明の声の素晴らしさ。
 深みと力強さのあるバリトンが西洋音楽的な、つまりはオペラ的な色合いを舞台に醸す。
 そう、能とはつまるところ日本のオペラ(歌芝居)なのだ。

 土蜘蛛はもともと大和朝廷によって成敗された土着の豪族のこと。
 それがいつの間にか、人民を驚かし朝廷をおびやかす妖怪へと変化していった。
 土蜘蛛にしてみれば、大和朝廷こそ、住み慣れた先祖元来の土地から自分たちを追い出し、武力によって命を奪う恐ろしい妖怪と思ったはず。
 舞台上の土蜘蛛は、源頼光の命を受けて成敗に来た武者たちに向かって、白い糸(和紙で作られている)を吐き出す。
 ここがこの番組の見せ場であり、手元より縦横無尽に放射される滝のごとき蜘蛛の糸に、子供のころテレビで見た松旭斎天勝――もちろん三島由紀夫が子供の頃憧れた1代目でなく彼女の姪にあたる2代目天勝である――の水芸を思い出した。
 あれはきっと故郷を追われた土蜘蛛の涙なのだ。

 能楽は江戸時代まで猿楽と言った。
 能を大成した観阿弥や世阿弥などの猿楽師は、天皇を頂点とする身分社会において賤民、つまり被差別の民であった。
 それが天皇制を賛美し強化するような曲を書いて、自ら舞い踊る。
 その心は、妖怪を成敗する朝廷の側にあったのか、成敗される妖怪側にあったのか。 
 読経や武力によっては鎮めることのできない妖怪たちの積年の恨みは幾度もよみがえって、この世に舞い戻る。
 だから、能舞台には魂が宿り続けるのだろう。
 それは百鬼と化した怨霊を閉じ込め飼いならす装置であると同時に、虐げられし者の声を社会に受け入れられるかたちで伝え続ける装置なのだ。

IMG_20220226_231921






● 自分壊しの旅へようこそ 本:『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』(デイヴィッド・イーグルマン著)

2011年原著刊行
2012年早川書房より邦訳(大田直子 訳)
2016年文庫化

 「自由意志はあるか?」という命題は、ここ数年ソルティが追っているテーマの一つであり、このブログでもたびたび関連本を取り上げ、考察してきた。
 「自由意志は存在しない。あるとしても、とても主役と言えるような代物ではない」というのが、どうやら現代科学の最先端の回答のようである。

 これを別の切り口から捉えなおすと、クリシュナムルティなら「私たちは完全に条件づけられているのです」となり、ベンジャミン・リベットなら「我々が意志するより先に脳は勝手に動き出している」となり、ユヴァル・ノア・ハラリなら「生命はアルゴリズムに過ぎない」となり、ニコラ・テスラなら「私たちは自動機械(オートマシーン)である」となり、本邦の前野隆司においては「受動意識仮説」となり、山口修源においては「如何ともし難い因果の関係性」となり、非二元(ノン・デュアリティ)にあっては「すべては起こるべくして起こっている」と言い表され、初期仏教では「諸行無常、諸法無我」と教える。
 「自由意志は存在しない」はすなはち、「自己は幻想である」の謂いでもある。

IMG_20220223_175406

 本作は、あたかも自由意志の命題に決着をつけるかのような総覧的内容となっている。
 人間の五感というものが、錯覚をはじめとする認知バイアスに見るように極めて当てにならないものであることの証明から始まって、意識に比したときの無意識の測り知れない大きさと役割の重さを指摘し、その意識の中味である思考や信念や意志ですら「自らがアクセスできない」無意識領域に支配されている数々の証拠を並べる。
 我々の言動が、脳内の微量のホルモンや神経伝達物質の影響下にあり、“適者生存”という法則のもと何万年もの歳月を経て最適化された脳、ひいては遺伝子によって統制されていることを明らかにする。
 そう。邦題にある通り、意識は主役ではなく脇役、無意識の演じる芝居の傍観者に過ぎないのだ。 
 脳の一部が病気や事故で損傷した人に起こった言動や性格の変化など、論拠として挙げられる様々なエピソードが実に興味深い。

 私たちには自分の行動、動機、さらには信念を、選択したり説明したりする能力はほとんどなく、舵を取っているのは、無数の世代にわたる進化的淘汰と生涯の経験によってつくり上げられた無意識の脳である・・・・。
 
 自由意思があるという私たちの希望や直感に反して、その存在を納得のいくように確定する論拠は今のところない。

 本書は「自分探しの旅」ならぬ「自分壊しの旅」である。
 著者の幅広く容赦ない証明によって次々と「自分」が壊されていくことに快感を感じるソルティは、一種のマゾであろうか。

 一方、「自由意志はない。自己は幻想である」という結論は、難しい問題を招来する。
 つまり、すべてが自身がコントロールできないところで決まっているのなら、犯罪者を裁くことができないではないか?

 生まれか育ちかのことをいえば、重要なのは、私たちはどちらも選んでいないという点だ。私たちはそれぞれ遺伝子の青写真からつくられ、ある環境の世界に生まれてくるが、いちばん成長する年齢には環境を選択できない。遺伝子と環境が複雑に相互作用するということは、この社会に属する市民がもつ視点は多種多様で、性格は異なり、意思決定能力もさまざまであるということだ。これらは市民にとって自由意思の選択ではない。配られた持ち札なのだ。 

 最近よく聞く「親ガチャ」という言葉を想起する。
 自分の意志で選べなかった「生まれと育ち」の結果、犯罪を起こしやすい性質が備わるならば、その当人を責めたり罰を下したりするのは理不尽じゃないか――という見解。
 これについて著者のデイヴィッドは、犯罪を起こした者に必要なのは「処罰でなく更生」と訴え、神経科学の新たな発見を法律、刑罰、更生にどう活かせるかを研究するプロジェクトを主宰している。
 研究室にこもって真実の究明や個人的栄誉のために研究しているだけでなく、研究成果を社会に還元し、人道的な益に結びつけようと具体的に行動を起こすところがクールである。
 逆に言えば、そういう社会的行動を起こすほどに、「自由意志はない」という結論がデイヴィッドにとって揺るぎないものであるってことだ。
 
gachagacha

 「自由意志はない、自己は幻想である」という命題は、「すべては脳(遺伝子)の仕業である」というような唯物論的還元主義に結びつきやすい。
 「あらかじめすべてが決まっているのだから、何をやっても無駄だ」というネガティヴな宿命論に、あるいは心(精神)の存在や価値を懐疑させ、ともすれば危険な人間機械論に陥りやすい。
 デイヴィッドは、しかし、これに与さない。

 微小な世界へと向かう一方通行の道をたどるのは、還元主義者が犯すまちがいであり、私たちはそのわなを避けなくてはならない。「あなたはあなたの脳である」というような短絡的な表現を見て、神経科学は脳を単なる原子の巨大な集まりかニューロンの広大なジャングルとして理解するという意味だと考えてはいけない。むしろ、精神に対する理解の前途は、ウエットウェアのうえで続く活動パターンを解読することにある。そのパターンは内部の駆け引きだけでなく周囲の世界との相互作用にも左右される。
(ソルティ注:「ウエットウェア」とは「脳、あるいは人間」の意だろう。ここは注釈入れないと「水着」か「雨具」のようにとられかねない) 

 この著者は、自由意志や自我を否定するくらいには還元主義者だけれど、宿命論や人間機械論を拒否するくらいにはポジティブでスピリチュアルなヒューマニストなのである。
 


おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 絹一反=米何合? 本:『呪いの都 平安京 呪詛・呪術・陰陽師』(繁田信一著)

2006年吉川弘文館
2022年再版

IMG_20220217_104122

 もう愛読者の一人と言っていいだろう。
 王朝時代をネタにこれまでほとんど研究されてこなかったテーマ、それもユニークで斬新で極めて人間臭いテーマを、当時の文献をもとに紹介してくれる。
 それがことごとくソルティの壺にはまる。
 今回も、平安京を跋扈した陰陽師たちの呪詛・呪術について様々な視点から解き明かして、興味は尽きない。

呪詛――王朝時代の権力の亡者たちは、しばしば政敵を追い落とす手段として呪詛を選んだ。貴人の流血を忌避する平安貴族たちは、呪詛という陰湿な方法をもって競争相手を葬り去ろうとしたのである。呪詛、それは静かで邪悪な実力行使であった。
 そして、平安時代中期の貴族層たちの陰謀に荷担して呪詛を実行したのは、多くの場合、陰陽師であった。(本書より引用、以下同)

 陰陽師と言えば羽生結弦、もとい安倍清明である。
 天皇や藤原道長など時の権力者の信任篤く、自らも上級貴族の一員であった安倍清明が、得意の呪術を用いて妖魔退治や宿敵・蘆屋道満と呪力合戦するというイメージが強いが、これはフィクションの世界のことであって、史実上の清明が呪詛を行なったり式神を操ったりした記録は残っていないという。
 清明は官人すなわち国家公務員であって、官人は呪詛することが禁じられていたからである。
 官人陰陽師の基本的な仕事は、卜占、暦の作成、天文学、時刻の計測などであった。
 呪詛を行なったのは、自ら頭を剃り勝手に法師を名乗る民間の僧侶(私度僧)であり、これを法師陰陽師という。
 道満もまたそうした一人であったと目される。

 平安京には呪詛を請け負う法師陰陽師がたくさんいたらしい。
 殺生を忌む仏教の影響が強く、刃傷沙汰のような実力行使を起こしにくかったこともあろうが、まず陰湿な世界である。
 この時代もっとも呪詛の標的にされた人物が、ほかならぬ道長であった理由を説明する必要はないだろう。
 呪詛はたいてい下位の身分の力の弱い者が、上位の身分の力の強い者に対し、密かに行うのである。

 本書では法師陰陽師たちがどのような方法で呪詛を行なったかが、具体的に記されていて面白い。
 一般的に、陰陽師が作成した呪物(文字が書かれた器、頭髪、呪符など)を狙った相手の住居の敷地に埋めるか、井戸に投げ込むという方法がとられたらしい。
 呪物が見つかって、呪詛の依頼者や引き受けた陰陽師が特定されると、彼らは処罰された。
 いったんかけられた呪詛はそのままにしておくわけにはいかないので、呪詛返しあるいは呪詛の効力を無くすための禊払いが行われる。
 この禊払いは清明のような官人陰陽師もやっていたようだ。

seimei

 本書の冒頭で、『僧円能等を勘問せる日記』という当時の文書が紹介されている。
 寛弘6年(1009年)2月、一条天皇の御代に内裏で呪物が見つかり、上を下への大騒ぎとなった。
 呪詛をしかけた陰陽師がまもなく捕まった。それが円能である。
 上記の文書は、検非違使によって取り調べを受けた円能の供述調書なのである。
 
 それによると、円能が呪詛をかけた相手は、一条天皇の中宮・彰子、第二皇子の敦広親王、左大臣藤原道長の3人だった。
 望月の如き“欠けたるもの無き”権力者・道長とその実の娘と孫、親子三代に対して呪詛がかけられたのである。
 この恐れ知らずの所行を企んだ張本人として円能がその名を白状したのは、道長の亡兄・藤原道隆の息子、つまり道長の甥にあたる藤原伊周(これちか)の取り巻き4名であった。
 取り調べの結果、円能は禁錮刑に処せられ、伊周は4ヶ月の参内停止、伊周の母方の叔母・高階光子と伊周の妻の兄弟である源方理は官位を奪われた。光子は行方をくらました。
 伊周はこの呪詛事件により完膚なきまでに力を削がれたのであった。

 藤原道隆亡き後の道長と伊周の執権・関白の座をめぐる争いは有名で、その激しい抗争の中で、伊周の妹であり一条天皇の愛姫であった皇后・定子が悲惨な境遇に追いやられていったさまは、定子に仕えた清少納言の『枕草子』を読むと感得できる。
 道長は勝つためなら手段を選ばない強引にして抜け目ない策略家であった。
 本書の記述からでは推測の域を出ないが、ソルティはなんとなくこの事件は陰謀めいた感じがする。
 つまり、呪術による政権奪取を目指した伊周一派によるなんとも頼りない陰謀と言うのではなくて、目障り至極な伊周一派を徹底的に排除するために道長自身が仕掛けた陰謀という意味である。

 この事件のキーパーソンであり自白をした陰陽師・円能が、本来なら絞首刑になるところを免れて禁固刑で済んだこと、しかもわずか1年10ヶ月で釈放されたことなど、なんとなく裏があるような気がしてならない。(禁固と言ったところでどんなものか不明。庶民の囚人と同様の処遇を受けたとは限らない)
 ソルティの道長仕掛け人説の一番の根拠とするのは、藤原道長という人はそもそも呪術を本気で信じて恐がるような人だったろうか?――という点にある。
 出典は覚えていないが(『大鏡』だったか?)、この人は若い頃に内裏で肝試しがあったとき、兄の道隆・道兼は恐がって途中で引き返してきたのに、平気で化け物の出るという大極殿まで一人で歩いて行って証拠の品を持ち帰ったという武勇伝がある。
 呪術なんかに怯えるタマだろうか?

藁人形


 本書の魅力は他にもある。
 一つは、「王朝物価一覧」というのが掲載されていること。
 貨幣が一般に流通していなかった当時、物々交換とくに米や塩や布を貨幣の代わりにすることが多かった。
 『源氏物語』や『枕草子』を読んでいると、なにか覚えのめでたいことをした者に対し、上位の者が衣装や絹を賜わる場面がよく出てくる。
 その際、「これはどのくらいの価値があるんだろう?」、「もらってどれほど嬉しいものなのだろう?」という疑問をいつも抱いていた。
 この王朝物価一覧によると、絹1疋(=2反=着物2人分)は1000~2000文にあたり、1石(=10斗=100升=1000合)の米に相当する。一日5合食べる家族の場合、200日分である。
 結構な褒美じゃないか!
 また、絹一疋で馬2~3頭と交換できる。

 こういったことを知ると、王朝時代の文学作品などを読むとき、ずっと理解が深まる。
 たとえば、『今昔物語』に有名な『わらしべ長者』は、1本のわらしべが、ミカン→絹1反→弱った馬1頭→長者の屋敷、と変わっていく。
 ミカンから絹への変化で有頂天になった主人公が、次の弱った馬1頭でガックリくる理由が、この物価一覧で理解できよう。

IMG_20220217_104206
王朝物価一覧

 本書のもう一つの魅力は、あとがきの後に置かれた『補論 呪禁師のいない平安時代』という一文。
 おそらく、初版にはなく今回の再版のために書き下ろしたものと思われるが、呪禁師(じゅごんし)という存在が律令制度の中に位置づけられていたのをはじめて知った。
 日本の律令制度は奈良時代に唐のそれをまねて作られたので、もともとの唐の律令制度の中にこの役職があったのだという。
 陰陽師が実際には呪術とは無関係な官職であったのにくらべ、呪禁師はまさに呪術を職掌としていた。
 それが、平安時代にはほぼ形骸化して名前ばかりの役職になっていた。
 日本ではなぜ呪禁師が機能しなかったのか。
 その理由の検討が興味深い。
 このあたり、そのうち稿を新たに追究してほしいところである。

わらしべ長者



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 映画:『ブータン 山の教室』(パオ・チョニン・ドルジ監督)

2019年ブータン
109分、ゾンカ語

 ブータン映画初体験。
 しかも、ブータンの人々でさえなかなか行くことのできない標高4800メートルの秘境の村が舞台とあって、興味津々。
 「日本沈没の際に移住するならここ」とソルティが筆頭候補に考えている、“世界で一番幸福な国”の真実を垣間見られたらと思い、レンタルした。

 映画の冒頭で、主人公ウゲンが暮らすブータンの首都ティンプーが映し出される。
 高層住宅が立ち並び、大通りを車が行き交い、宅地開発が進み、夜はネオン瞬く。
 都市化・西洋化していく街の様子に、「ブータンよ、お前もか」といった感慨が募る。

bhutan-valley-1522247_1920
ブータン

 ティンプーで祖母と生活するウゲンは、音楽とスマホが欠かせない現代青年。
 歌手になるためオーストラリアに行くことを夢見ている。
 いま目の前にいる相手よりスマホの中の情報が大事、春を告げる鳥の声よりヘッドホンの中の音楽が大事。
 ブータンの若者も先進諸国の若者と変わらない。
 「世界一幸福な国」に住みながら、幸福を求めて海外に旅立つという逆説。
 若者というのは、いつの時代もそうしたものなのだろう。
 「今ここ」よりも「いつかどこか」を夢見るものなのだ。 

 ウゲンは数ヶ月の期限で、ルナナという山奥の村に教師として派遣されることになる。
 その務めが終われば、晴れてオーストラリアに旅立てる。
 ティンプーから8日間かけて苦労の末たどりついたルナナは、電気も通ってなければ、ガスも上下水道もない。
 紙は貴重品なので、トイレの始末は葉っぱを使い、焚き付けには渇いたヤクの糞を使う。
 村長に案内された教室には黒板も満足な教材もなく、10名ほどの子供たちは車を見たこともない。
 村人たちは美しくも厳しい自然に囲まれて、ヤクを大切に飼い、代々伝わる民謡を歌いながら、昔ながらの貧しい、しかし謙虚な生活を送っている。
 
yak-6907781_1920
ルナナの宝、ヤク
 
 物語的には予想通りの展開。
 はじめは一刻も早くティンプーに戻りたがったウゲンが、村人の素朴であたたかい心に触れ、子供たちの純真なまなざしと向学心に打たれ、数ヶ月の滞在を受け入れることになる。
 可愛い子供たちと若き教師との交流シーンは、木下惠介『二十四の瞳』やチェン・カイコー『子供たちの王様』を彷彿させる。
 可愛くて利発的な級長をつとめる少女ペム・ザムは、実際にルナナに住む少女(本名同じ)で生まれてから一度も村を出たことがないという。
 スマホもヘッドホンも役に立たない僻地で、ウゲンは何を見つけるのか? 

 ブータンと言えば仏教国として有名だが、ここではむしろ日本古来の神道に似たアニミズムの精神が息づいているのを伺うことができる。
 出てくるブータン人の顔立ちも、日本人にかなり近い。
 日本人とブータン人にはどこか共通するものがあるような気がする。
 ブータンの美しい山岳風景と山の民の伝統的な生活風景が味わえる良作である。




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● ツいている男 漫画:『東京怪奇酒』(清野とおる 作画)

2020年(株)KADOKAWA

IMG_20220129_100625


 作者によると、怪奇酒とは「この世のモノではない異形のモノが出没する可能性のある非日常的空間で、感情を揺さぶらせながら飲酒する行為」を言う。
 もちろん作者の造語である。

 霊能力皆無の清野が、友人知人から直接聞いた怪談の現場に足を運び、恐がりながら酒を飲むという一話完結エッセイ漫画。
 取り上げられる7つの怪談、7つの現場は場所が特定されないよう「東京都M区A町」といったふうに匿名化されているけれど、「近くに米軍基地がある」とか「都内有数の霊園がある」とか「昔罪人を八つ裂きにした刑場があった」といった周辺情報から、「おそらくここだな」と推測できる場所もある。

 初めて訪れた町の深夜の公園で大仏を目撃した話(実際には大仏は存在しない)とか、お笑い芸人チャンス大城が住んでいた霊穴(あの世とこの世をつなぐ穴)のあるアパートの話とか、巨大霊園そばの寂しい路地に男の生首を見て失禁した話とか、焼身自殺のあった部屋に住む夫婦の話(事故物件情報サイト「大島てる」ってのをはじめて知った。実を言えばこのサイトが一番怖かった)とか、いずれも面白かった。
 メリハリある線とベタ使い、読みやすいコマ割り、圧を感じさせるほどの臨場感、ギャクのタッチなど、清野の作風はかつての小林よしのりを思わせる。
 1980年生まれ。2008年に『ウヒョッ! 東京都北区赤羽』でブレイクした人らしいが、読むのははじめて。他の作品も読んでみたくなった。

 ウィキで知ったが、2019年に壇蜜と結婚した人だった。
 霊能はないと言うが、「ツいている男」にはちがいない。




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 秩父年越しリトリート(後段)

 秩父市内散策の面白さは、やはりレトロ探訪にある。
 江戸時代から続く商家、明治時代のハイカラ建築、大正・昭和初期のアールデコ調店舗、戦前の妓楼や料亭、昭和レトロなアパートや民家などが、混然と立ち並んでいる。
 地盤が固いため関東大震災の被害を受けず、戦災も免れたことが、このような多彩でノスタルジックな街並みを可能にした。

DSCN4331
秩父名物・豚肉味噌漬けの老舗

DSCN4606
煙草屋

DSCN4597
PUB

DSCN4332
工務店

DSCN4390
旧病院

DSCN4607
レストラン

DSCN4612
焼き鳥屋

DSCN4584

DSCN4599


 大みそかの午後は西武秩父駅前の祭の湯で禊をし、鍋焼きうどんを食べた。
 宿に帰って瞑想しながら年越し。
 秩父のカウントダウンは、若者の雄叫びも爆竹音もバイクの唸りも、除夜の鐘さえ聞こえない、静かなものであった。 (泊まっていた宿の防音効果によるかもしれない)  
 元日は朝5時に起きて、暗い中を秩父神社へ。
 久しぶりにたくさんの星を見た。
 境内は人少なく、ゆっくりと参拝できた。
 おみくじは「小吉」。
 これは中吉と吉の間(上から3番目)なので、ちょうどいい塩梅かな。 

DSCN4574
秩父神社
酒樽(お神酒)が並ぶ

DSCN4601
秩父神社
特設賽銭箱が置かれている


 そうそう。秩父散策の醍醐味は街角の神仏との出会いもある。
 お寺の境内や路傍に立てられた神仏の像たちの由緒を確かめるのも面白い。

DSCN4608
秩父ガメラ?
妙見様(北斗七星の神格化)のお乗りになる亀の子石である
江戸末期まで秩父神社は妙見様を祀っていたという

DSCN4598
六地蔵
季節ごとに衣替えしている

DSCN4604
う、麗しい!

DSCN4605
七福神(秩父市東町の惣円寺)
昨年末に禍々しい六福神を掲載したら、
この方々に呼ばれ、「訂正せよ!」と言われました・・・


生きとし生けるものが幸せでありますように!















● 秩父年越しリトリート(前段)

 「初詣は秩父神社だ」と思い、年末から元日まで4泊5日の秩父リトリートを行った。
 中3日はいつものように外界との接触をできるだけ断って、瞑想&ウォーキング&読書をしてストイックに過ごした。

 寒さは覚悟していた。
 が、秩父は盆地のため朝夕は確かに冷え込むけれど、風は強くなく、日中は陽が射すと意外と暖かい。
 2時間もウォーキングすると、厚い上着を脱ぎたくなるくらいだった。

 今回は、秩父市街の盆地を形成する二つの丘――西側の長尾根丘陵と東側の羊山丘陵――に登った。

IMG_20220101_214054
秩父市いいかげんマップ

 長尾根丘陵は秩父中心街から荒川を渡って急斜面を登る(標高300~450m)。
 尾根沿いに、秩父巡礼23番札所・音楽寺や市民憩いの秩父ミューズパークがある。
 2021年春のリトリート時にソルティがはじめて足を運んだ船をイメージした展望塔からは、武甲山に見守られた秩父盆地の素晴らしい光景を眺めることができる。
 この丘陵のふもとを流れる荒川に沿うようにして、秩父札所20番岩之上堂・21番観音寺・22番童子堂・24番法泉寺が並んでいて、秩父巡礼路の中でも最も眺めがよく、歩きやすく(車道である)、気持ちのいいルートとなっている。(23番音楽寺への登りはなかなかコタえるが)
 2018年にソルティが初の秩父巡礼した時もこの道を辿ったし、その後の秩父リトリートの際も恰好の散歩コースとして利用してきた。

 今回思わぬ発見をした。
 札所21番から22番に向かう車道の途中、右手に「江戸巡礼古道」という標識と矢印があり、住宅地に入っていく細い道がある。
 興味を惹かれてこの道を進んでいったら、道は宅地の奥で行き止まり・・・・と思ったら、雑草生い茂る道ならぬ道があって、「こちらでいいのかな?」という不安を抱きつつ進んだら、すっぽり山の中に入ってしまった。
 あとは踏み跡もさだかでないような竹林や雑木林のもの寂しい登りが続く。
 「蛇が出る季節だったら絶対に進めないな」

DSCN4577

 ところどころ木に結わえ付けられた「巡礼道」と書かれた札だけが頼り。
 傾斜はどんどん険しくなってゆく。
 長尾根丘陵に登るルートであるのは間違いない。
 ようやく平地らしきところに飛び出たら、古い看板があった。

DSCN4578

 なんと、22番・童子堂はもともとここに、長尾根丘陵の山腹にあったのだ。
 かつて、21番を打ち終わった巡礼者は、さきほど標識のあったところから右に進路を取って山道に入り、薄暗い森の中の急斜面を登り、息を整えながら22番を拝んで、さらに山道を登って尾根に達し、尾根沿いに23番・音楽寺に向かったのである。 
 その後(明治末期)、童子堂が今あるところ(丘のふもと)に移ったので、21番から平坦な道をずっと苦労なく行けるようになった。
 もちろん今でも22番を打ち終わったら、23番・音楽堂への登りを避けることはできないけれど、ここは尾根までの車道や舗道がしっかりついているので、山登りという感じはない。
 巡礼は段違いに楽になったのである。

 長尾根丘陵の尾根からは、秩父市街とは丘陵をはさんだ反対側にある小鹿野町や旧吉田村(現・秩父市)、その背後に聳える両神山を見ることができた。
 考えてみると、秩父事件の主役たちは旧吉田村の椋神社にて決起集会を行い、そこから長尾根丘陵を登って尾根上にある音楽寺で鐘を打ち鳴らし、鬨の声を上げ、一気に山を駆け下りて荒川を渡り、秩父神社周辺にあった役所を襲ったわけである。
 その計り知れない脚力と体力と胆力に感嘆する。
 若いって・・・・・。 

DSCN4581


DSCN4579
尾根道

DSCN4582
長尾根から望む両神山(1723m)

DSCN4583
23番・音楽寺観音堂と武甲山

長尾根から見た秩父盆地
長尾根丘陵から見た秩父盆地


 今一つの羊山丘陵は、武甲山の山麓を成している高台(標高250~300m)で、西武秩父駅を降りたらすぐ目の前に見える。
 尾根上には芝桜で有名な羊山公園がある。
 丘陵の向こう側は、アニメ映画『心が叫びたがってるんだ。』の舞台として有名になった横瀬町があり、ここもまた秩父札所5番から10番が点在している。
 羊山丘陵からは、秩父市街地の全景とともに、向かいの長尾根丘陵および頭一つ抜けた両神山のノコギリ状の特異な山型を見ることができる。
 他の山と見間違いっこない独特の存在感である。

DSCN4587
羊山公園から武甲山(1304m)を望む

DSCN4589
羊山公園から見た秩父市街(北方面)
DSCN4590
羊山公園から見た秩父市街(南方面)

DSCN4593
長尾根丘陵の上に顔出す両神山

DSCN4594

 両神山は、盆地の底にある秩父市街地からは到底望めないものと思っていたのだが、丘陵を下りながら確認していったら、なんと西武秩父駅の駅前広場からもその山頂を拝むことができた。
 つまり西武秩父駅からは、秩父の両雄たる武甲山と両神山の二つを見てとることができるのだ!
 これは思わぬ発見であった。

DSCN4595
西武秩父駅の左手にほんのちょっと両神山が覗いている


 今年の目標の一つは、武甲山と両神山、この二つの山に登ること。
 「呼ばれている」という実感があった。



● ぱらいそさ いくだ! 漫画:『妖怪ハンター 地の巻』(諸星大二郎作画)

初出1974~1993年
2005年集英社文庫

IMG_20211211_125846

 超ド級の傑作ぞろい。
 「プロローグ」をのぞいて9編が収録されているが、いずれも作者の創造した独特の世界に引きずり込まれ、読後もなかなか日常への生還が難しい。
 しばらくはその世界への旅を反芻することになる。
 一日一篇か二篇読むのが限度。
 というか、あまりに凄いので、サーっと読むのがもったいない。
 
 その世界を構築しているのは、諸星の該博なる考古学的・民俗学的知識と奇想天外なる発想、そして画力である。
 この三つの連合が、諸星を他の追随を許さない唯一無二の漫画家たらしめている。

 とりわけ、漫画家という観点から言えば、画力がはんぱない。
 絵が巧いとか下手とかいうレベルを飛び越えたところにある魅力。
 諸星よりデッサン力がある者、写実の巧みな者、遠近法など絵画技法に長けた者、構図の秀でた者、ペンの使い方の達者な者、余白の使い方の上手い者は、ほかにたくさんいることだろう。
 彼の絵の凄さは、クライマックスをつくるここ一点のコマの圧倒的迫力と日常破壊力にあると思う。

 本シリーズの主人公でありながら金田一耕助のような「事件の傍観者」に過ぎない考古学者・稗田礼二郎が、日常の中でたんたんと探り続けてきた奇妙な謎が、解明に向かって次第に緊張を高めていき、クライマックスの一点において、ついに謎が暴かれると同時に日常から非日常へと飛躍する。
 そのポイントとなる一コマ(数コマ)の持つ衝撃が、読者である我々を完全にノックアウトし、我々もまた非日常空間へと連れ去られるのである。
 
 たとえば本コミックで言えば、『生命の木』ではあちこちで引用されるほど有名になった「おらといっしょにぱらいそさいくだ!!」からの数コマ、『海竜祭の夜』では平家伝説のある孤島に伝わる奇妙な祭の謎が暴かれる海竜登場の見開きページ、『闇の客人(まろうど)』では鬼面をかぶった踊り手に曳かれて大鳥居を抜けて“あの世”に去っていく禍つ神の後ろ姿(『帰ってきたウルトラマン』の津波怪獣シーゴラスを思い出した)。

IMG_20211211_131343


 これらのコマの持つ破壊力の秘密は、悪夢のような超現実的感覚を読者に与えるところにある。
 つまり、日常生活で隠蔽されている読者の無意識に訴えるのだ。
 その意味で、シュールリアリズム系の画家であるジョルジョ・デ・キリコやサルバトーレ・ダリに近いものがある。
 諸星の作品を読んで、「怖いけれどなんだか懐かしい」という奇妙な感じに襲われるのは、考古学や民俗学が下敷きになっているからばかりではなく、ユング的な深層心理への接触があるからではなかろうか。
 それを視覚的に表現できる才能こそ、唯一無二なのである。
 
 

おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● アメリカ撤退の真相? 映画:『コンタクト ー消滅領域ー』(クレマン・コジトア監督)

2015年フランス、ベルギー
104分

 同じタイトル(邦題)でジョディ・フォスター主演の名作SFがあるが、こちらの『コンタクト』はSFというより戦場オカルトサスペンスといった色合い。
 ただし、形而上学的テーマといい、本格的な野外ロケやリアルな戦場の演出といい、シリアスで落ち着いた映像といい、凡百のオカルトサスペンスとは一線を画す。
 ある意味、スピリチュアル(宗教)映画と言えないこともない。
 原題の Ni le ciel ni la terre は「天でもなく地でもなく」の意。

 舞台は2014年のアフガニスタン。
 大尉のアンタレスと部下たちは、パキスタンとの国境にある人里離れた谷での監視を任される。
 谷を挟んだ向こう側にはタリバン兵たちが武器を手に潜んでおり、谷の途中には古くからの村があって信仰深い人々が昔ながらの生活を送っている。
 アンタレスたちは谷のてっぺんに小屋を造り順番で監視を始めるが、ある夜、監視に当たっていた兵士が姿を消してしまう。徹底的な捜索も空しく、なんの手掛かりも見つからないうちに、また一人監視員が蒸発する。
 敵方のタリバンにも同様のことが起きていることが判明し、事態は紛糾する。
 ついにアンタレスは現地の村の少年より、谷にまつわる不思議な言い伝えを聞かされる。

タジキスタン
 
 まさに、日本の神隠し譚である。
 この場合の神は、もちろん、イスラム教の唯一神アッラー。 
 アッラーの領する聖地を侵した者がいづくへかに連れ去られたのである。
 
 深甚にして解答のないテーマはともかくとして、この映画は非常に男臭い。
 戦争映画だからそれが当たり前と言えば当たり前なのだが、女性の姿はヒジャブをまとった現地の村人(それもおばさん)ばかりで、女性のセリフはアンタレスと国際電話で話す部下の妻のそれだけである。
 女臭さを徹底的に排除した作品で、なんだか谷間の兵士たちが修道僧に見えてくる。
 もっともイスラム的にはジ・ハード(聖戦)するのはまぎれもなく「神の兵士」なのだから、それ以外の何ものでもないわけだが・・・。


 
おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損

 

● スピリチュアルの箱 本:『逝く人を支える』(玉置妙憂著)

2020年中央法規

IMG_20211123_171055


 副題は「ケアの専門家として、人生の最終章に寄り添う」

 著者は東京生まれの60代。真言宗僧侶にして現役の看護師・看護教員・ケアマネジャーである。
 ガンになった夫を自宅で看取った経験がきっかけとなって出家したという。
 思い切りのいい人である。

 タイトルまんま本書のテーマはいわゆる“ターミナルケア”であるが、延命処置の是非を含む医療の問題や終末期における看護・介護のあり方のみならず、死にゆく人やその家族の心のケアに焦点を当ている。
 その意味で、医療的ニュアンスの強いターミナルケアという用語ではなく、“スピリチュアルケア”という言葉が使われている。

 著者はスピリチュアルケアが重要になってきた背景を次のように述べている。

 命の選択を迫られる時、適切な判断をくだすには、科学と心という両輪が必要です。私たちは、科学という車輪の材料はたくさん持っています。たとえば、医師に「気管切開したらどうなりますか」「胃ろうをしたらどれくらい持ちますか」などの情報をたくさんもらうからです。
 ところが人間の心、スピリチュアルの部分については、材料をほぼ持っていません。これがどういう状況か、イメージしてみてください。片方の車輪しかないと、車は同じ場所をグルグルと回って進みません。科学の材料だけで人の命を決定しようと思っても、迷いが強くなり選べないものなのです。

 では、スピリチュアルの部分について材料となるものはなにか。
 「死生観」である。
 末期患者の家族や、患者の診療や看護や介護にかかわる者は、患者本人がどのような「死生観」を持っているのか理解しておくことが大事である。
 本人の「死生観」に沿った、あるいは最大限それを尊重した医療や看護や介護がなされることが、本人の納得のゆく「死」を実現するからである。
 著者の夫の最期は、まさに「最期まで自分らしく生きたい」という本人の望みを尊重したものであり、現代医学による無理な延命処置をいっさいとらなかった。
 
 食べられなくなったら食べないし、飲めなくなったら飲みませんでした。最期の点滴もしませんでした。
 すると、乾くのです。夫の遺体はほどよくドライで、文字通り「枯れるように」亡くなりました。

 その潔さ、美しさ、生物が本来持っている自然の摂理の見事さ――それを間近に目撃したことが、著者を出家させるほどの機縁となったのである。

 言うまでもなく、そのためには死を目前としている本人自身が「死生観」を持っていなければならない。
 ここのところが現代日本の超高齢化社会における最大の弱点と言えるかもしれない。
 「死」から目を背けて何十年と生きてきた結果、いざ自分が「死」を前にすると一種のパニックを起こしてしまう人が多いのである。覚悟が定まらないのである。
 「死」について家族と話し合う機会も持って来なかったから、いざ本人が意識を失ったときに延命処置するかしないか医師に問われても、家族もまたどうしていいかわからずパニックに陥ってしまう。
 考えてみると、「すべての人に100%必ず起こること」に対して、社会的にも個人的にも何の準備も対策もしていないというのは、狂気の沙汰である。

 著者はまた、死に逝く人のケアにかかわる看護職や介護職も「死生観」を持つ必要があると言う。
 というのは、ケア職の人は「スピリチュアルの箱」がすでに開いている人が多く、関わっている利用者の訴えるスピリチュアルな叫び(スピリチュアルペイン)――たとえば、「どうして私だけがこんな目にあうの?」「人は死んだらどうなるの?」「早く死んでしまいたい」「生きている意味がない」e.t.c.といった答えのない問い――を聞いて共鳴しやすく、つらくなってしまうからである。
 そんなときバーンアウトせずに適切に患者や家族とかかわりながら仕事を続けていくために、自分の中にしっかりした軸を持っておく必要がある。
 それが「死生観」である。

 むろん、ソルティもスピリチュアルの箱が開いている。
 おそらく十代の頃から開きっぱなしである。(でなければ学生時代の初めての海外旅行先にインドなんか選ばない)
 スピリチュアルな問いを無用の長物として退ける実社会で生き難かった理由の一つは、そこにある。
 著者同様、仏教と出会うまでは、ヴィパッサナ瞑想をやるようになるまでは、自分の軸が定まらなかった。

スピリチュアルの箱

 
 本書は、看取りに関わるすべての人にお勧めしたい良書である。
 現在、著者は「訪問スピリチュアルケア」の専門職の養成に力を注いでいるという。

 医療的な知識は勉強すれば身に付きますし、身体的なケアは技術を磨けば身に付きます。しかし看取りの際に必要な心理的なケアのための技術を磨くとなると、武器はケア職自身の「人間力」しかないのです。

 結局、そこかあ・・・・。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 銀杏散るなり光の丘に :L.v.B.室内管弦楽団 第48回演奏会

日時 2021年11月7日(日)14:00~
会場 光が丘 IMAホール(東京都練馬区)
曲目
  • モーツァルト   : 歌劇『ドン・ジョヴァンニ』K.527より序曲
  • ドヴォルザーク : チェコ組曲 作品39
  • ベートーヴェン : 交響曲第5番 ハ短調《運命》作品67
指揮 苫米地 英一

 都立光が丘公園は20代の頃よく利用した。
 都内に就職したのをきっかけに、埼玉の実家を出て、この近くのアパートで一人暮らしを始めたのだ。
 当時、IMAホールはオープンしたばかりだった。地下鉄大江戸線は開通しておらず、むろん光が丘駅もなかった。光が丘のマンモス団地は、陸の孤島のような場所だった。
 そのうち、会社を辞めて、失業保険を受けながら昼夜逆転して小説を書く生活になった。
 明け方、緊張した頭をほぐすために光が丘公園を散歩した。春は桜、秋は銀杏がきれいだった。
 自分の将来はどうなるんだろう?――不安をおぼえながら、ピンクや黄色の鮮やかなじゅうたんを踏みしめた。

IMG_20211107_232115


IMG_20211107_232214
光が丘公園

 L.v.B.はもちろん、ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンの頭文字。
 この管弦楽団はベートーヴェン専科なのである。
 苫米地英一はオペラ指揮者としての活躍が目立つ。最近では、『ベルサイユのばら』の作者池田理代子台本によるオペラ『かぐや姫と帝の物語』を作曲・世界初演し、成功を収めたという。認知科学者でたくさんの著書を持つ苫米地英人との関係は不明である。
 定員約500名のホールは半分ほど埋まった。

IMG_20211107_232239
IMAホール

 まず、プログラム構成の妙に感心した。
 苫米地の得意とするオペラから、それもメリハリがあって軽快なる『ドン・ジョヴァンニ』序曲で聴衆の気分を盛り上げ、多彩な曲想を重ねつつ民族情緒豊かなチェコ組曲で聴衆の耳と気持ちをほぐし敏感にさせ、満を持しての『ダ・ダ・ダ・ダーン!』。
 しかも、3曲続けて聴くと、前プロの2曲がメインディッシュの第5番『運命』と近しい関係を持っている、似たような曲調を有していることが分かる。
 経時的に言えば、ベートーヴェンは、モーツァルトとドヴォルザークの間に入る。
 第5番『運命』は、傲岸不遜な主人公が地獄に落ちる物語『ドン・ジョヴァンニ』の強い影響を受けて作られ、第5番『運命』の深い影響を受けてドヴォルザークは激動の歴史に翻弄された祖国を謳ったのであろう。
 
 コロナ禍によるブランクで閉じてしまったソルティのチャクラ。
 前回の東京都交響楽団コンサートで半分くらい開き、覚醒のきざしあった。
 その後、静岡のルルドの泉・サウナしきじデビューで、“気”はかなり活性化された。
 なので、本日は聞く前から予感があった。
 最終的に扉を解放するのはきっと今日のL.v.B.であろう、第5番『運命』だろうと。
 
 まさしくその通り。
 第3楽章から第4楽章に移り変わるところ、いわゆる「暗」から「明」への転換が起こるところで、胸をグッと掴まれるような圧を感じ、声の出ない嗚咽のように胸がヒクヒク上下し始めた。
 中に閉じ込められているものが必死に外に出ようともがいているかのよう。
 あるいは、手押しポンプを幾度も押しながら、井戸水の出るのを待っているかのよう。
 第4楽章の繰り返し打ち寄せる歓喜の波に、心の壁はもろくも砕けて、両の目から湧き水のようにあふれるものがあった。
 気は脳天に達して周囲に放たれ、会場の気と一体化した。

 整ったァ~!
 
 時代を超えて人類に共感をもたらすベートーヴェンの魂、彼の曲を演奏することを無上の喜びとする指揮者およびL.v.Bオケメンバーたちの熟練、そして地元ホールで久しぶりに生オケを耳にした聴衆の感激とが混じり合って場内は熱い光芒に満たされ、さしものドン・ジョヴァンニも地獄の釜から引き上げられて、昇天していったようだ。

 コロナ自粛なければ、『ブラーヴォ』を三回、投げたかった。
 一回目は指揮の苫米地に。
 二回目はオケのメンバーたち、とくに感性柔軟なる木管メンバーたちに。
 最後は楽聖ベートーヴェンに。

IMG_20211107_232331



 

● 六本木発「銀河鉄道2021」 : 東京都交響楽団コンサート

日時 2021年10月30日(土)14:00~
会場 サントリーホール
曲目
  • ドヴォルザーク : チェロ協奏曲 ロ短調
  • ドヴォルザーク : 交響曲第8番 ト長調
指揮 小泉和裕
チェロソリスト 佐藤晴真

 久しぶりの山手線内、久しぶりのサントリーホール。
 最寄りで見る六本木スカイスクラッパーもなんだか懐かしい。

IMG_20211030_145654~2


 クラシック業界も元の賑わいを取り戻しつつあるようで、今回も入場時にどっさりとコンサート案内チラシをもらった。
 ただ、客席の入りは4~5割程度か。まだまだ外出自主規制がかかっているようだ。

 東京都交響楽団は前回の『第九』に続き、2回目になる。
 ソロ(独奏)もトュッティ(全員)もとても巧い。
 音に丸みがあるのはやはりこのオケの特徴らしい。破擦音や破裂音の少ない、飛沫があまり外に飛ばない言語といった感じ。都会らしく洗練されている。

 佐藤晴真のチェロについては残念ながら真価が良くわからなかった。
 というのも、今回はステージ背後のブロックのほぼ中央、指揮者と相対する位置で鑑賞したからだ。弾いている後ろ姿しか見えないし、音響も十全ではない。
 ピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲ならともかく、チェロ協奏曲はやはりステージ前方の席を取らなければいけなかった。一つ学んだ。

 が、この席のメリットは、オケを真上から見下ろすことができること。
 オケの人たちの表情や動きがよく見えて、気持ちがびんびん伝わってくる。管楽器奏者がソロパートを無事終えた後のホッとした肩の線など、ステージ前方の席からはなかなか見えない。自然とオケを応援したくなる席なのである。
 むろん、指揮者の豊かな表情の変化や細やかなタクトさばきをガン見できるのも大きなメリットである。(ソルティは曲の最初と最後以外はほぼ目を瞑っているのだが)

 アントニン・ドヴォルザークを聴くといつも汽車の旅を連想する。
 アントニン自身が大の鉄道好きで、ソルティもまたノリ鉄だということもあるが、一曲聞いている間、蒸気機関車で旅をしている気分になる。
 朝まだきの駅のホームで機関士や整備士たちが出発の準備をするシーンから始まって、昇る朝日が鉄の車体をきらめかせ、荷物を手にした乗客たちがお喋りしながら次々と車両に乗り込み、出発の汽笛を合図に重い響きを轟かせ、列車が動き出す。
 軽快な鉄輪の響きと煙突から吹き出す蒸気と黒煙をお供に、いくつもの街を通過し、線路わきで手を振る子供たちや赤ん坊を抱いた母親を見送り、休憩する労働者たちの視線を浴び、麦畑や綿花畑をかき分け、野を越え、山を越え、渓谷を渡り、白波の立つ海辺を走る。
 やがて鎮魂色をした黄昏が下りてきて、長旅に疲れた汽車と乗客たちを優しく包む。
 汽車はそのままゆっくりと地上を離れ、見えない滑走路をつたって、星の散りばめる天上へと旅立つ。はるかなる至高の光を目指して。
 そんな郷愁と信心をあおるような美しく荘厳な旅である。


train-418957_1920
DavidMcConnellによるPixabayからの画像

 
 小泉和裕と東京都交響楽団の演奏は、極上の旅を提供してくれた。
 コロナ禍になって初のコンサートではなかなか動かなかったチャクラが、今回は反応した。音の波動が体内の気とぶつかり合い、不随意運動が数回起こった。隣席の人はびっくりしたかも。
 扉は半分開いた。





● 秋の秩父リトリート&くるみ蕎麦

 連休と有休を利用して、4泊5日の秩父リトリートを決行した。
 コロナ禍になって3回目となる。
 もう、暇があれば秩父に足が向いている。
 秩父34札所巡りを結願してから、秩父と縁ができてしまったようだ。

 今回も、NO テレビ、NO スマホ、NO アルコール、NO 会話、NO エッチ、NO 過食の環境設定で、瞑想&読書&散歩の孤独でストイックな日々を過ごした。(本は仏教書持参)
 大概の人にとってはおそらく苦痛でしかないであろうこの環境を、むしろ快と感じるこの頃なのだから、ソルティも半聖半俗というか、修行マニアというか、隠居寸前というか・・・・変わり者なのだろう。
 自分にとってはもはや苦行ではなくて、楽行なのだ。
 コロナやワクチンや政権争いや皇室スキャンダルでかまびすしい世間から、いっとき身を離すのが嬉しい。
 一日中、マスクをしないで過ごせるディスタンス度が心地良い。 

 今回は散策中に秋の花々を愛でることができ、喜びもひとしおであった。
 年をとるにつれ、花が好きになる。
 それも、誰に待たれることなく今年も咲いてくれる、道端の小さな花が愛おしい。


DSCN4433


DSCN4434
曼殊沙華が満開であった(札所16番前)

DSCN4435
秋桜もいまが盛り

DSCN4436


DSCN4437
朝顔はいまや秋の花

DSCN4438
桔梗は秋の七草の一つだが、実際には初夏から咲いている

DSCN4443


DSCN4463


 秩父は戦災を受けなかったので、古くからの建物があちこちに残っている。
 それらを見つけるのも楽しい。
 やはり年をとるにつれ、伝統的な日本建築の美しさに惹かれていく。


DSCN4427


DSCN4448
大林宣彦監督の映画に出てきさうな・・・

DSCN4449


DSCN4451
散歩途中よく猫と出会う 

DSCN4453


DSCN4456
荒川河川敷に降りてみた
いまはBBQ禁止になっている

DSCN4457


DSCN4461
左奥に武甲山を望む

DSCN4455
秩父公園橋を見上げる


 毎朝、宿から秩父神社まで歩いて参拝するのが日課。
 これが実に気分いい。
 早朝の秩父盆地に憩うさわやかな大気、悠然と町を見守る武甲山の雄姿、柞の杜(ハハソのもり)に囲まれた秩父神社の神聖にして清冽なる気。
 参拝後に境内のベンチで小一時間も瞑想すると心身はこの上なく、清らかに鎮まる。
 この清らかさ、なにものにも代え難い。
 それは、欲望が満たされた時に感じるような「天にも昇る」幸福感ではないけれど、それよりずっと安定していて、自ら作りだすことができるので依存性もなく、失うことの不安や恐れもない。
 決して特別なものではなく、心が妄想に(過去や未来に)かまけてさえいなければ「今ここ」で実現しうる穏やかな静謐。
 足すことでなく引くことで、求めることでなく捨て去ることで見出せる、遠慮がちな至福である。 

 自分がずっと求め続けていたのはこれだったんじゃないか!

 ハハソの森のどこかで、コノハズクが「ブッポウソウ、仏法僧」と鳴いていた。


秩父神社
秩父神社本殿



 最終日、秩父鉄道皆野駅から出ている無料シャトルバスに乗って、秩父市下吉田にある星音の湯(せいねのゆ)に足を延ばした。
 山と畑に囲まれた隠れ家的温泉。
 バスを降りたらどうもデジャヴュがある。
 地図を見て気づいた。
 秩父札所33番から34番への道筋にある。
 巡礼したとき、この横を通っていたはずなのだ。


IMG_20210921_162109
広々と解放感あるロケーション

DSCN4471


DSCN4472


 平日の午前中で、露天風呂独り占めできた。
 肌がつるつる(ヌルヌル?)してくる泉質もすばらしいが、檜づくりの日本家屋に囲まれた水音ゆかしい中庭が風流であった。
 おりしも十五夜、ススキやお団子が供えられていた。


IMG_20210921_162336


DSCN4475


DSCN4474
擂ったクルミ入りのつゆにつけて蕎麦を食べるのが秩父風
もちろん、わらじカツは定番






● 映画:『アンチグラビティ』(ニキータ・アルグノフ監督)

2019年ロシア
111分

 ロシア発のSFアクション映画。
 アンチグラビティは「反重力」の意だが、原題 Koma はロシア語で「昏睡」の意。
 事故や病気や投薬によって昏睡状態になった人が赴く、各自の記憶の断片をもとに合成・創造された奇妙な世界が舞台となる。
 つまり、『エルム街の悪夢』、『マトリックス』、レオ様主演の『インセプション』と同型の、意識下のヴァーチャル世界をリアルに生きる者たちの話である。

 Koma(昏睡)世界の住人には「リーパー」と呼ばれる共通の敵がいて、その恐ろしき怪物との闘いが主筋の一つをなしている。
 この怪物の正体が、脳死患者の記憶が創造したイメージであるというのが、なんとも微妙である。
 脳死患者は本作を観て「差別的だ!」と抗議できないだけに・・・。
 
 今一つのテーマは、「現実世界と Koma 世界、どっちに生きるのが幸福か?」という問いかけである。
 Koma 世界の住人たちは、現実世界でそれなりの理由があって昏睡状態に陥る羽目になったわけで、昏睡から“幸運にも”目覚めたときに待っている現実は、決してなまやさしいものではない。
 たとえば、交通事故が原因で頭を打ち昏睡に至った者なら、目が覚めたときに、一生不自由になった身体や変わり果てた容貌や様々な人間関係・現実社会のしがらみに直面しつつ、その後の人生を生きていかなければならない。
 であるならば、五体満足で思い通りの自分になれる Koma 世界に生きるほうが幸福ではないか?
 
 本作はCGを駆使した高いビジュアル効果が売りのアクション映画――たしかに見事な驚異的な映像の連続である――なので、そこらへんはあまり深く追及されていない。
 が、真剣な考察に値する問いと言えよう。
 その点で、同じロシア――というよりかつてはソ連だった――の名監督アンドレイ・タルコフスキーの『惑星ソラリス』(原作はポーランド作家スタニスワフ・レムの小説『ソラリス』)を思い出した。


夢と現実



おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 思わず解析したくなる 映画:『クワイエット・フレンド 見えない、ともだち』

2019年カナダ
84分

 8歳のジョシュは、優しい両親と何不自由なく暮らす感受性の強い男の子。
 学校で孤立し、いつの間にか空想上の友達と遊ぶようになる。
 それがZである。(本作の原題は『Z』)
 最初は気にしなかった母親エリザベスであったが、ジョシュの問題行動があらわになり、周囲に不可解な現象が続くようになって、恐怖と不安に襲われる。
 もしかしたら、Zは実在するんじゃなかろうか?
 旧知の精神科医に助けを求めたエリザベスは、驚愕の事実を伝えられる。
 Zはもともとエリザベスが子供の頃に作りだして一緒に遊んでいた友達であり、エリザベスはくだんの精神科医の治療を受けていたのだった。
 彼女はなぜかその記憶を失っていた。 
 そう、Zの真の標的はジョシュではなくて、エリザベスだった。 

 一見、超常現象オカルトサスペンスである。
 Zを孤独な少年少女に憑りつく悪霊と取れば、リンダ・ブレア主演『エクソシスト』に通じる。
 エリザベスやジョシュに救いの手を伸べるのが修練を積んだエクソシスト(悪霊払い)ではなく、精神科医であるところが、現代的と言える。
 結局、精神科医の手には負えず、エリザベスは自殺未遂したあげく精神崩壊、Zはジョシュの“見えない友達”として存在し続けることを暗示する、すっきりしない陰鬱なラストが待っている。
 エリザベスの夫はZに殺されてしまうし、家は火事になるし、何も解決していない。
 ハッピーエンドと程遠いのはともかく、謎が解明されないまま終わってしまう。
 Zとは何だったのか?
 一つのホラー作品として観た場合、観る者にまったく理解もカタルシスももたらされないので、失敗作と評価されてもおかしくはない。

燃える骸骨

 
 しかるに、心理サスペンス&家族ドラマとして観た場合、非常に解析欲をそそる題材となっている。
 ソルティは、通常モードで1回、2倍速で2回観て、手がかりを探してしまった。
 そう、普通のオカルトドラマなら必要ないような細部のエピソード、とくにエリザベスの生まれ育った家庭にまつわる描写が多く、どうも普通のオカルト映画以上のなにかがあるように思えてしまうのである。
 ソルティが気になったいくつかのポイントを上げる。(ここからネタバレになります)
  1. エリザベスには腹違いの妹ジェナがいる。ジェナは母親との間に確執があるらしく、母親の最期を看取ることができない。今は独り身でアルコールに溺れる荒れた生活をしている。
  2. 死の床にあるジェナの母親は、見舞いに来たエリザベスの示す好意を拒絶する。むろん、血のつながっていない義理の娘ではあるが、なにかそれ以上の理由が隠されているように見える。
  3. エリザベスとジェナの父親は、二人が子供の頃に家の中で首つり自殺をしている。エリザベスはそれを発見したらしい。(彼女の記憶喪失はこの時のショックからかもしれない)
  4. 母親(義母)が亡くなったあとの実家で、壁に飾られた父親の写真を見たときから、エリザベスとZとの再会が始まる。
  5. エリザベスの実家に連れていかれたジョシュは、祖父の自殺現場に引き寄せられてしまう。(自殺の事実をおそらくは知らないのに)
  6. Zは破壊的で独占欲が強い。
  7. 精神科医は子供の頃のエリザベスの臨床風景を録画していた。そのビデオの中でエリザベスは、「お父さんが好きでない。Zと結婚する」と発言している。
  8. Zの嫉妬からジョシュの身を守るために、エリザベスはジョシュを妹に預け、Zと二人きりの生活を始める。途端に彼女は幼児化し、あたかも子供の頃の自分に戻ってしまったかのよう。
  9. 義母の残したウエディングドレスを着てZとの結婚式をあげるエリザベス。テレビ画面に映る古いビデオ映像を憎々し気に見つめる。そこには義母と父親との結婚式の模様が流されている。
  10. 精神科医は言う。「子どもが空想上の友達を作る原因の一つは、現実との間に壁を作る必要があるから」
  11. Zは最初は妖怪のような恐ろしい姿をして現れるが、最後には首に何かを巻いた裸の男の姿になって出現する。
  12. エリザベスはZとベッドを共にしている。
IMG_20210905_164555
上記4 自殺した父親の写真を目にするエリザベス


IMG_20210905_164452
上記5 祖父の自殺現場を凝視するジョシュ


IMG_20210905_164349
上記11 精神科医の背後にZの姿を見るエリザベス


 さて、以上からソルティが作りだした解釈は次のようになる。

 実の母親を失ったエリザベスは、独占欲の強い父親から夜毎に性虐待を受けていた。
 その現実を認めたくないため、エリザベスは空想上の友達をつくり、それをZと名付けた。
 実の父を拒絶し、Zを理想の父(恋人)とした。
 父親は再婚し、ジェナが生まれた。ジェナの母親は、夫とエリザベスの関係に薄々気づいていた。(ゆえにエリザベスを受け入れることができない)
 その後、父親は自害する。その光景を見たエリザベスはショックから幼児期の記憶を失う。義母の目を盗んで父親と関係を持ったことが自殺の原因と思い、無意識下に強い罪悪感を抱えこむ。
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 大人になったエリザベスは結婚し、ジョシュが生まれる。
 義母の病と死をきっかけに、抑え込んできた幼児期の記憶が浮上する。(あるいは抑えつけられていたZの霊が解放される)
 相手が実の父であったことを受け入れられないエリザベスは、それをZの仕業ととらえる。
 エリザベスは、Zを相手に幼児期の父親との関係を反復し始める。

 つまり、Z=エリザベスの父親、というのがソルティの解釈である。
 そう考えると、幼児化したエリザベスが、部屋にやって来るZとベッドを共にするシーンが、何とも言いようのない痛々しさで迫ってくる。

 勝手に深読みして、勝手に不快な思いを抱いているのだから世話ないが。



おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 昔はジュリー、今なら・・・? 漫画:『魔界転生』(原作:山田風太郎、作画:石川賢)

1998年
講談社漫画文庫

IMG_20210829_163427


 『魔界転生』と言えば、先ごろ新型コロナウイルスに感染し亡くなった千葉真一(合掌)が柳生十兵衛に扮した、1981年の角川映画版にとどめを刺す。
 エリマキトカゲのような衣装を身に着けたジュリーこと沢田研二は、その美しく妖しいカリスマ性が異教のメシアたる天草四郎時貞にピッタリだった。
 劇中ジュリーが忍者役のうら若き真田宏之に口づけするシーンは、JUNE系(その後のヤオイ系→BL系)女子たちの間に熱狂を巻き起こした。
 ジュリー(四郎)の瞳が黄金色にらんらんと光り、胴体を離れた首が飛び回るラストシーンなど、撮影技術に驚いたものである。
 佳那晃子の細川ガラシャ夫人もおどろおどろしくて良かった。

 2003年には天草四郎=窪塚洋介、柳生十兵衛=佐藤浩市で東映で再映画化されている。
 こちらは未見である。
 佐藤浩一の十兵衛はともかく、窪塚の天草四郎にはどうも食指が動かない。

 何度か舞台化もされている。
 ソルティが観たのは、2018年の日本テレビ開局65周年記念公演で、天草四郎=溝端淳平、柳生十兵衛=上川隆也であった。
 最先端CGを駆使したスペクタルな舞台は驚異的であったが、芝居としては妙に集中力を欠いた残念感があった。
 役者の実力不足を舞台効果に頼っているように見えた。
 
 ともあれ、最初の映画化の大成功以来、非常に人気の高い作品なのだ。
 ソルティは原作を読んだことがないので、あくまでヴィジュアルイメージ観点からなのだが、令和の現在、天草四郎役にピッタリなのは誰か?
 ずばり、フィギュアスケートの羽生結弦ではなかろうか。
 美しさ、妖しさ、カリスマ性、強靭な精神、高貴な雰囲気、どれを取っても不足はない。

十字架と光と羽生


 さて、本コミックを図書館で見つけたとき、てっきり永井豪による漫画化と思った。
 表紙にちゃんと「石川賢」と書いてあるのに、絵柄からすっかり永井豪と思い込んで、読んでいる最中も永井豪作品と思って、それほど違和感なく読んでいた。
 確かに『デビルマン』や『凄ノ王』にくらべると、描線の繊細さや化け物のグロテスクさ加減は偏執的なほど微に入り細に入って、明らかに永井豪のそれとは違うのだが、女性キャラの風貌はじめ全般的なタッチがよく似ているのである。
 『あとがき』を読んではじめて、「あ、永井豪じゃなかったんだ」と気づき、表紙の著者名を確かめた次第である。
 先入観ってのは厄介だ。
 
 弁解するならば、石川賢は永井豪のアシスタントとして出発した人で、永井豪が設立したダイナミックプロダクションでずっと永井豪の手足とも共作者ともなって仕事してきた人。
 『ゲッターロボ』は二人の共作である。 
 似ていて当然なのであった。
 エログロ度の高い、壮大なスケールの『魔界転生』であるが、難を言えば、最初から最後まで絵のテンションが同じような高さで続くので、読んでいて疲れてしまうのが玉にキズ。
 こういったストーリーには手を抜いた(ように見える)部分も必要なのだ。 
  
 石川賢は2006年に58歳という若さで亡くなっている。
 怪奇時代小説の傑作として名高い国枝史郎の『神州纐纈城』を漫画化しているらしい。
 読んでみたい。
 
 
おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● ヴィーガン映画? :『心と体と』(イルディコー・エニェディ監督)

2017年ハンガリー
116分

 雪におおわれた森の中、見事な角をもつ雄鹿と淋しげな目をした雌鹿とが静かに戯れている。

IMG_20210729_125710

 
 連夜のように同じ“鹿の夢”を見ている食肉工場で働く男と女。
 エンドレ(=ゲーザ・モルチャーニ)は妻と別れてから人を愛することをやめた中年男性、左腕が不自由である。
 マーリア(=アレクサンドラ・ボルベーイ)は発達障害気味の風変りな若い女性、異常なまでの記憶力をもち人と触れ合うのが苦手。
 ひょんなことから、夢を共有していることを知った二人は互いを意識し合う。 

 不器用な男女のスピリチュアル風恋愛ドラマなのであるが、この内気さと生真面目さは日本人には共感しやすいと思う。
 ハンガリーは自殺大国の汚名を得ていて、本作でもエンドレとの関係に絶望したマーリアが簡単に自殺を決行するシーンがある。
 どちらかと言えば悲観的に物事をとらえるところも、日本人と似ているのかもしれない。
 
 二人の恋の行方も気になるが、本作でより気になったのは二人の職場である食肉工場における牛の解体シーンである。
 むろん映しだされるのは、かつての日本の被差別部落であったと聞くような、丸ごと一頭の牛を下帯一つだけの男が熟練したナイフさばきで血だらけになって解体する、といった生々しく骨の折れる命との格闘風景ではない。
 製薬工場や製パン工場と変わりのない、完全にオートメーションされ分業化された、無機質と思えるほどの流れ作業である。
 牛たちは名前も個別性も持たず、AランクとかBランクとか肉質のみで識別される。

 工場の採用面接にやって来た若い男に、エンドレは尋ねる。
 「殺される牛を哀れだと思うか?」
 若い男は答える。
 「なんとも思いませんよ。血も平気です」
 エンドレは言う。
 「哀れむ気持ちがなければ勤まらない。神経をやられる」

闘牛

 現在、欧米を中心にヴィーガニズムが非常な勢いを見せている。
 ヴィーガニズムとは

衣食他全ての目的において――実践不可能ではない限り――いかなる方法による動物からの搾取、及び動物への残酷な行為の排斥に努める哲学と生き方を表す。
(ウィキペディア『ヴィーガニズム』より抜粋)

 卵や乳製品も口にしない、毛皮や革の使用にも反対する、ベジタリアンよりもっと徹底した脱搾取主義である。
 その是非をここで論じるつもりはないが、そうした風潮の中でわざわざ食肉工場を舞台に選び、牛が瞬殺され解体される一連の流れを描いた映画が制作され、それが国際的な評価(第67回ベルリン国際映画祭金熊賞、第90回アカデミー賞外国語映画賞候補)を得たという事実は、何を意味するのだろう?
 これは恋愛ドラマを隠れ蓑にしたヴィーガニズム推奨映画なのだろうか?
 
 よくわからないが、仮に二人が見た夢の主役が鹿ではなく牛だったら、ものすごいブラックジョークになっていたのは確かである。
 
 
おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

記事検索
最新記事
月別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文