ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

スピリチュアル

● 映画:『アンチグラビティ』(ニキータ・アルグノフ監督)

2019年ロシア
111分

 ロシア発のSFアクション映画。
 アンチグラビティは「反重力」の意だが、原題 Koma はロシア語で「昏睡」の意。
 事故や病気や投薬によって昏睡状態になった人が赴く、各自の記憶の断片をもとに合成・創造された奇妙な世界が舞台となる。
 つまり、『エルム街の悪夢』、『マトリックス』、レオ様主演の『インセプション』と同型の、意識下のヴァーチャル世界をリアルに生きる者たちの話である。

 Koma(昏睡)世界の住人には「リーパー」と呼ばれる共通の敵がいて、その恐ろしき怪物との闘いが主筋の一つをなしている。
 この怪物の正体が、脳死患者の記憶が創造したイメージであるというのが、なんとも微妙である。
 脳死患者は本作を観て「差別的だ!」と抗議できないだけに・・・。
 
 今一つのテーマは、「現実世界と Koma 世界、どっちに生きるのが幸福か?」という問いかけである。
 Koma 世界の住人たちは、現実世界でそれなりの理由があって昏睡状態に陥る羽目になったわけで、昏睡から“幸運にも”目覚めたときに待っている現実は、決してなまやさしいものではない。
 たとえば、交通事故が原因で頭を打ち昏睡に至った者なら、目が覚めたときに、一生不自由になった身体や変わり果てた容貌や様々な人間関係・現実社会のしがらみに直面しつつ、その後の人生を生きていかなければならない。
 であるならば、五体満足で思い通りの自分になれる Koma 世界に生きるほうが幸福ではないか?
 
 本作はCGを駆使した高いビジュアル効果が売りのアクション映画――たしかに見事な驚異的な映像の連続である――なので、そこらへんはあまり深く追及されていない。
 が、真剣な考察に値する問いと言えよう。
 その点で、同じロシア――というよりかつてはソ連だった――の名監督アンドレイ・タルコフスキーの『惑星ソラリス』(原作はポーランド作家スタニスワフ・レムの小説『ソラリス』)を思い出した。


夢と現実



おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 思わず解析したくなる 映画:『クワイエット・フレンド 見えない、ともだち』

2019年カナダ
84分

 8歳のジョシュは、優しい両親と何不自由なく暮らす感受性の強い男の子。
 学校で孤立し、いつの間にか空想上の友達と遊ぶようになる。
 それがZである。(本作の原題は『Z』)
 最初は気にしなかった母親エリザベスであったが、ジョシュの問題行動があらわになり、周囲に不可解な現象が続くようになって、恐怖と不安に襲われる。
 もしかしたら、Zは実在するんじゃなかろうか?
 旧知の精神科医に助けを求めたエリザベスは、驚愕の事実を伝えられる。
 Zはもともとエリザベスが子供の頃に作りだして一緒に遊んでいた友達であり、エリザベスはくだんの精神科医の治療を受けていたのだった。
 彼女はなぜかその記憶を失っていた。 
 そう、Zの真の標的はジョシュではなくて、エリザベスだった。 

 一見、超常現象オカルトサスペンスである。
 Zを孤独な少年少女に憑りつく悪霊と取れば、リンダ・ブレア主演『エクソシスト』に通じる。
 エリザベスやジョシュに救いの手を伸べるのが修練を積んだエクソシスト(悪霊払い)ではなく、精神科医であるところが、現代的と言える。
 結局、精神科医の手には負えず、エリザベスは自殺未遂したあげく精神崩壊、Zはジョシュの“見えない友達”として存在し続けることを暗示する、すっきりしない陰鬱なラストが待っている。
 エリザベスの夫はZに殺されてしまうし、家は火事になるし、何も解決していない。
 ハッピーエンドと程遠いのはともかく、謎が解明されないまま終わってしまう。
 Zとは何だったのか?
 一つのホラー作品として観た場合、観る者にまったく理解もカタルシスももたらされないので、失敗作と評価されてもおかしくはない。

燃える骸骨

 
 しかるに、心理サスペンス&家族ドラマとして観た場合、非常に解析欲をそそる題材となっている。
 ソルティは、通常モードで1回、2倍速で2回観て、手がかりを探してしまった。
 そう、普通のオカルトドラマなら必要ないような細部のエピソード、とくにエリザベスの生まれ育った家庭にまつわる描写が多く、どうも普通のオカルト映画以上のなにかがあるように思えてしまうのである。
 ソルティが気になったいくつかのポイントを上げる。(ここからネタバレになります)
  1. エリザベスには腹違いの妹ジェナがいる。ジェナは母親との間に確執があるらしく、母親の最期を看取ることができない。今は独り身でアルコールに溺れる荒れた生活をしている。
  2. 死の床にあるジェナの母親は、見舞いに来たエリザベスの示す好意を拒絶する。むろん、血のつながっていない義理の娘ではあるが、なにかそれ以上の理由が隠されているように見える。
  3. エリザベスとジェナの父親は、二人が子供の頃に家の中で首つり自殺をしている。エリザベスはそれを発見したらしい。(彼女の記憶喪失はこの時のショックからかもしれない)
  4. 母親(義母)が亡くなったあとの実家で、壁に飾られた父親の写真を見たときから、エリザベスとZとの再会が始まる。
  5. エリザベスの実家に連れていかれたジョシュは、祖父の自殺現場に引き寄せられてしまう。(自殺の事実をおそらくは知らないのに)
  6. Zは破壊的で独占欲が強い。
  7. 精神科医は子供の頃のエリザベスの臨床風景を録画していた。そのビデオの中でエリザベスは、「お父さんが好きでない。Zと結婚する」と発言している。
  8. Zの嫉妬からジョシュの身を守るために、エリザベスはジョシュを妹に預け、Zと二人きりの生活を始める。途端に彼女は幼児化し、あたかも子供の頃の自分に戻ってしまったかのよう。
  9. 義母の残したウエディングドレスを着てZとの結婚式をあげるエリザベス。テレビ画面に映る古いビデオ映像を憎々し気に見つめる。そこには義母と父親との結婚式の模様が流されている。
  10. 精神科医は言う。「子どもが空想上の友達を作る原因の一つは、現実との間に壁を作る必要があるから」
  11. Zは最初は妖怪のような恐ろしい姿をして現れるが、最後には首に何かを巻いた裸の男の姿になって出現する。
  12. エリザベスはZとベッドを共にしている。
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上記4 自殺した父親の写真を目にするエリザベス


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上記5 祖父の自殺現場を凝視するジョシュ


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上記11 精神科医の背後にZの姿を見るエリザベス


 さて、以上からソルティが作りだした解釈は次のようになる。

 実の母親を失ったエリザベスは、独占欲の強い父親から夜毎に性虐待を受けていた。
 その現実を認めたくないため、エリザベスは空想上の友達をつくり、それをZと名付けた。
 実の父を拒絶し、Zを理想の父(恋人)とした。
 父親は再婚し、ジェナが生まれた。ジェナの母親は、夫とエリザベスの関係に薄々気づいていた。(ゆえにエリザベスを受け入れることができない)
 その後、父親は自害する。その光景を見たエリザベスはショックから幼児期の記憶を失う。義母の目を盗んで父親と関係を持ったことが自殺の原因と思い、無意識下に強い罪悪感を抱えこむ。
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 大人になったエリザベスは結婚し、ジョシュが生まれる。
 義母の病と死をきっかけに、抑え込んできた幼児期の記憶が浮上する。(あるいは抑えつけられていたZの霊が解放される)
 相手が実の父であったことを受け入れられないエリザベスは、それをZの仕業ととらえる。
 エリザベスは、Zを相手に幼児期の父親との関係を反復し始める。

 つまり、Z=エリザベスの父親、というのがソルティの解釈である。
 そう考えると、幼児化したエリザベスが、部屋にやって来るZとベッドを共にするシーンが、何とも言いようのない痛々しさで迫ってくる。

 勝手に深読みして、勝手に不快な思いを抱いているのだから世話ないが。



おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 昔はジュリー、今なら・・・? 漫画:『魔界転生』(原作:山田風太郎、作画:石川賢)

1998年
講談社漫画文庫

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 『魔界転生』と言えば、先ごろ新型コロナウイルスに感染し亡くなった千葉真一(合掌)が柳生十兵衛に扮した、1981年の角川映画版にとどめを刺す。
 エリマキトカゲのような衣装を身に着けたジュリーこと沢田研二は、その美しく妖しいカリスマ性が異教のメシアたる天草四郎時貞にピッタリだった。
 劇中ジュリーが忍者役のうら若き真田宏之に口づけするシーンは、JUNE系(その後のヤオイ系→BL系)女子たちの間に熱狂を巻き起こした。
 ジュリー(四郎)の瞳が黄金色にらんらんと光り、胴体を離れた首が飛び回るラストシーンなど、撮影技術に驚いたものである。
 佳那晃子の細川ガラシャ夫人もおどろおどろしくて良かった。

 2003年には天草四郎=窪塚洋介、柳生十兵衛=佐藤浩市で東映で再映画化されている。
 こちらは未見である。
 佐藤浩一の十兵衛はともかく、窪塚の天草四郎にはどうも食指が動かない。

 何度か舞台化もされている。
 ソルティが観たのは、2018年の日本テレビ開局65周年記念公演で、天草四郎=溝端淳平、柳生十兵衛=上川隆也であった。
 最先端CGを駆使したスペクタルな舞台は驚異的であったが、芝居としては妙に集中力を欠いた残念感があった。
 役者の実力不足を舞台効果に頼っているように見えた。
 
 ともあれ、最初の映画化の大成功以来、非常に人気の高い作品なのだ。
 ソルティは原作を読んだことがないので、あくまでヴィジュアルイメージ観点からなのだが、令和の現在、天草四郎役にピッタリなのは誰か?
 ずばり、フィギュアスケートの羽生結弦ではなかろうか。
 美しさ、妖しさ、カリスマ性、強靭な精神、高貴な雰囲気、どれを取っても不足はない。

十字架と光と羽生


 さて、本コミックを図書館で見つけたとき、てっきり永井豪による漫画化と思った。
 表紙にちゃんと「石川賢」と書いてあるのに、絵柄からすっかり永井豪と思い込んで、読んでいる最中も永井豪作品と思って、それほど違和感なく読んでいた。
 確かに『デビルマン』や『凄ノ王』にくらべると、描線の繊細さや化け物のグロテスクさ加減は偏執的なほど微に入り細に入って、明らかに永井豪のそれとは違うのだが、女性キャラの風貌はじめ全般的なタッチがよく似ているのである。
 『あとがき』を読んではじめて、「あ、永井豪じゃなかったんだ」と気づき、表紙の著者名を確かめた次第である。
 先入観ってのは厄介だ。
 
 弁解するならば、石川賢は永井豪のアシスタントとして出発した人で、永井豪が設立したダイナミックプロダクションでずっと永井豪の手足とも共作者ともなって仕事してきた人。
 『ゲッターロボ』は二人の共作である。 
 似ていて当然なのであった。
 エログロ度の高い、壮大なスケールの『魔界転生』であるが、難を言えば、最初から最後まで絵のテンションが同じような高さで続くので、読んでいて疲れてしまうのが玉にキズ。
 こういったストーリーには手を抜いた(ように見える)部分も必要なのだ。 
  
 石川賢は2006年に58歳という若さで亡くなっている。
 怪奇時代小説の傑作として名高い国枝史郎の『神州纐纈城』を漫画化しているらしい。
 読んでみたい。
 
 
おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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     読み損、観て損、聴き損

 

● ヴィーガン映画? :『心と体と』(イルディコー・エニェディ監督)

2017年ハンガリー
116分

 雪におおわれた森の中、見事な角をもつ雄鹿と淋しげな目をした雌鹿とが静かに戯れている。

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 連夜のように同じ“鹿の夢”を見ている食肉工場で働く男と女。
 エンドレ(=ゲーザ・モルチャーニ)は妻と別れてから人を愛することをやめた中年男性、左腕が不自由である。
 マーリア(=アレクサンドラ・ボルベーイ)は発達障害気味の風変りな若い女性、異常なまでの記憶力をもち人と触れ合うのが苦手。
 ひょんなことから、夢を共有していることを知った二人は互いを意識し合う。 

 不器用な男女のスピリチュアル風恋愛ドラマなのであるが、この内気さと生真面目さは日本人には共感しやすいと思う。
 ハンガリーは自殺大国の汚名を得ていて、本作でもエンドレとの関係に絶望したマーリアが簡単に自殺を決行するシーンがある。
 どちらかと言えば悲観的に物事をとらえるところも、日本人と似ているのかもしれない。
 
 二人の恋の行方も気になるが、本作でより気になったのは二人の職場である食肉工場における牛の解体シーンである。
 むろん映しだされるのは、かつての日本の被差別部落であったと聞くような、丸ごと一頭の牛を下帯一つだけの男が熟練したナイフさばきで血だらけになって解体する、といった生々しく骨の折れる命との格闘風景ではない。
 製薬工場や製パン工場と変わりのない、完全にオートメーションされ分業化された、無機質と思えるほどの流れ作業である。
 牛たちは名前も個別性も持たず、AランクとかBランクとか肉質のみで識別される。

 工場の採用面接にやって来た若い男に、エンドレは尋ねる。
 「殺される牛を哀れだと思うか?」
 若い男は答える。
 「なんとも思いませんよ。血も平気です」
 エンドレは言う。
 「哀れむ気持ちがなければ勤まらない。神経をやられる」

闘牛

 現在、欧米を中心にヴィーガニズムが非常な勢いを見せている。
 ヴィーガニズムとは

衣食他全ての目的において――実践不可能ではない限り――いかなる方法による動物からの搾取、及び動物への残酷な行為の排斥に努める哲学と生き方を表す。
(ウィキペディア『ヴィーガニズム』より抜粋)

 卵や乳製品も口にしない、毛皮や革の使用にも反対する、ベジタリアンよりもっと徹底した脱搾取主義である。
 その是非をここで論じるつもりはないが、そうした風潮の中でわざわざ食肉工場を舞台に選び、牛が瞬殺され解体される一連の流れを描いた映画が制作され、それが国際的な評価(第67回ベルリン国際映画祭金熊賞、第90回アカデミー賞外国語映画賞候補)を得たという事実は、何を意味するのだろう?
 これは恋愛ドラマを隠れ蓑にしたヴィーガニズム推奨映画なのだろうか?
 
 よくわからないが、仮に二人が見た夢の主役が鹿ではなく牛だったら、ものすごいブラックジョークになっていたのは確かである。
 
 
おすすめ度 :★★

★★★★★ 
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● 羊と亀 本:『オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ』(森達也著)

2012年角川書店

 スプーン曲げの清田くん、恐山のイタコ、オカルト・ハンター、スーパー霊能者の秋山眞人、人気オカルト番組の元プロデューサー、オーラー鑑定士、毎日同じ時間に扉がひとりでに開閉する寿司屋、永田町の陰陽師、UFO観測会、ダウジング、超心理学の権威、臨死体験者、メンタリストのDaiGo・・・・。
 様々な分野のオカルト現象に関するレポートである。
 著者の森達也は、元オウム真理教の信者の日常を描いた『A』シリーズ、『放送禁止歌』、『職業欄はエスパー』などのドキュメンタリー作品で知られる。

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 オカルト現象に共通する特徴として、いざ厳密な科学的調査によって証明しようとすると何故かうまくいかないというのが知られている。
 ホラー映画『リング』の元ネタとなった明治時代の福来友吉博士による千里眼実験(の失敗)などが有名である。
 こういったオカルト特有の振る舞いを「羊・山羊効果」と言うのだそうだ。

 オカルトは人目を避ける。でも同時に媚びる。その差異には選別があるとの仮説もある。ニューヨーク市立大学で心理学を教えていたガートルード・シュマイドラー教授は、ESPカードによる透視実験を行った際に、超能力を肯定する被験者グループによる正解率が存在を否定する被験者グループの正解率を少しだけ上回ることを発見し、これを「羊・山羊効果(sheep-goat effect)」と命名した。
 この場合における「羊」は超能力肯定派を、そして「山羊」は否定派を示している。つまり超能力を信じる者たち(羊)が被験者となる実験では、超能力の存在が肯定されたかのような結果が出るのに対し、超能力に否定や懐疑の眼差しを向ける者たち(山羊)が被験者となる実験では、超能力を否定するかのような結果が出る現象が「羊・山羊効果」だ。

 観測者の態度いかんによって現象のありかたが変わるというのは、まるで量子力学の不確定性原理みたいで興味深い。
 信じる者は救われるってことか。
 子供の頃からオカルト番組やつのだじろうの怖い漫画が好きで、長じてはスピリチュアルにはまったソルティは「信じる者(羊)」の一人であるが、自ら不思議な現象を体験したことがあるかと言えば、さっぱり縁がない。
 UFOを見たこともなければ、霊的現象に遭遇したこともない。
 むろん、スプーンを曲げることも馬券を当てることもできない。
 せいぜいが晴れ男である――外出が決まっている日は晴れることが多いなあ~と思う――のが関の山であるが、これはむしろ逆に、山登りで培った長年の勘から、あらかじめ晴れそうな日をねらって外出予定を組んでいるせいかもしれない。

 とはいえ、自分ではそれと気がつかないところで奇跡は生じている可能性はある。
 たとえば、一昨年の12月に最寄り駅の階段から落ちて左足を骨折し、結果として介護現場から離脱せざるを得なくなった。
 高齢者を安全に介護できる自信と保証が持てなくなったからだ。
 その後しばらくして、辞めた介護施設を新型コロナが襲った。
 数名の職員と利用者が感染し、濃厚接触者となった職員は2週間の自宅待機を余儀なくされた。
 幸いなことにコロナで亡くなった人は一人も出なかったけれど、少ないスタッフでシフトを回さなければならず、施設はてんてこまいだったらしい。
 もしソルティがあのまま働き続けていたら感染していたかもしれない。
 同居の両親にうつしていたかもしれない。
 50代の自分はなんとか復活できたとしても、80代の親はどうなっていたか分からない。
 日本でも世界でも、介護や医療の現場で働いてコロナに感染し、そうと知らずに家に持ち帰って家族にうつしてしまい死なせてしまった、という人もいることだろう。(自分を責めないでほしいものだ)
 両親の2回のワクチン接種が完了した今、「なんとかこのたびは乗り切ったな」という安堵感はやはり大きい。
 転落事故は不幸、不運というより一種の天恵だったのではないかとすら思うのである。
 まあ、こういう都合のいい“こじつけ方”のできるところが「羊」たるゆえんなのだろう。 

羊


 天恵と言えば、歴史を学んだり昨今の世界情勢を学んだりすると、2021年の日本に暮らしていることがいかに幸運なのかをつくづく感じる。

 もし太平洋戦争時に二十歳の若者だったら。
 もし日本でなく北朝鮮やミャンマーやジンバブエに生まれていたら。
 もしイスラム教圏に生まれ育ったゲイであったら(国によっては死刑になる)。
 もしインドのスラムの底辺カーストの家に女性として生まれていたら。
 もし・・・・・・・
 
 幸運と幸福は似て非なるものなので、上記のような厳しい条件下に生まれても「幸福である」ことは可能かもしれないし、逆に現代の日本で何不自由なく生活していても「不幸である」ことはあり得よう。
 でも、衣食住と安全、信仰や表現の自由が保障されている国に生まれ暮らしているのは、それだけでかなりの強運の持ち主であり、幸福へのパスポートを手にしていると言っていいのだ。
 ついつい忘れてしまいがちだけれど・・・。

亀


 「盲亀の浮木」というお釈迦様の教えがある。
 いま海底に盲の亀が棲んでいる。
 その亀は百年に一度だけ海面に上がって顔を出す。
 広い海原を小さな穴の開いた浮き木が、波の間に間に漂っている。
 亀が海面に顔を出したちょうどその瞬間、流れてきた浮き木の穴に亀の首がすっぽり入る。 

 その稀なる確率でしか、生命は(仏道修行ができる=悟りの可能な)人間として生まれてはこられないという教えである。
 すなわち、人身受け難し。
 その上に2021年の戦火のない日本に生きている。
 本来なら、それ以上のオカルト(=奇跡)を求める必要はないのだろう。



おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● SFスピリチュアル小説 本:「消滅の光輪」(眉村卓著)

1979年早川書房
2008年創元SF文庫

 眉村卓と言えば、たびたび映像化されている『なぞの転校生』、『ねらわれた学園』が有名であるが、映像作品はともかく小説は読んだことがなかった。
 生粋の文系ゆえ、あまり良いSF小説の読者でないソルティは、昔から書店や図書館に行ってもSFよりもミステリーにばかり目が行ってしまう。
 科学オンチということもあるが、SF小説はその性質上、最初の数十~数百ページは物語の舞台となる異世界(未来や地球以外の惑星など)の独特の気候風土や社会システムやルールについての説明に費やされてしまうことが多いので、ある程度の忍耐力が要求される。 
 よほど巧みな書き手でないと退屈してしまうのである。
 そこが、派手な殺人場面と謎の提示によって冒頭から読者を惹きつけるミステリーに、SF小説が敵わないところである。

 なので、上下巻970ページを超えるブ厚い本書を借りたのは、“なんとなく”気になったからである。
 手に取って、眉村卓というビッグネームと上巻の裏表紙の紹介文(下記)に惹かれ、「たまにはSFでも読んでみるか」と思った。

植民星ラクザーンでは、人類と瓜二つの温和な先住民と地球人入植者とが平和裡に共存していた。だがその太陽が遠からず新星化する。惑星のすべての住民を、別の星に待避させよ――。空前ともいえるこの任務に、新任司政官マセ・PPKA4・ユキオは、ロボット官僚を率いてとりかかるが・・・・。《司政官》シリーズの最高作にして眉村本格SFの最高峰。泉鏡花文学賞、星雲賞受賞作。

 もちろん、司政官シリーズなんてのがあるとは知らなかった。
 眉村卓が2019年11月に85歳で亡くなっていたのも知らなかった。
 ましてや、この小説の内容や評判も聞いたことがなかった。

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カバーイラストは加藤直之による


 マセに与えられた期限は惑星の公転周期で5レーン(地球時間の約8年)。
 その間にラクザーンのすべての住民の戸籍を作り、空港の拡張工事を行い、宇宙船搭乗の順番を決め、空港までの移送手段を整え、移住に必要な経費を捻出しなければならない。
 住民は家や仕事や財産を捨ててほぼ身一つで行くことになるのだから、新惑星に移住してからの当面の生活資金を政府で用意してやらなければならない。
 そのためにはどうしても税の徴収によって国庫を潤しておく必要がある。
 
 上位の連邦経営機構により緊急指揮権を付与されたマセは、絶大な権力を用いて、自らの立てた待避計画をロボット官僚群を駆使して遂行しようと決意する。
 しかし、そうは問屋が卸さない。
 移住を希望しない者、司政官の独裁を快く思わず反逆する者、逆に司政官の味方につき権力のおこぼれに預かろうとする者、税の徴収に反対し暴動を起こす者、機会に乗じて金儲けを企む者・・・・。
 危機に際してさまざまな人間模様が浮かび上がるのは、このたびのコロナ禍同様である。

 タイムリミットが設けられている点では本書はサスペンスである。
 マセが、既得権益を有する有力団体や住民の中の抵抗勢力を抑えるために、あるいは移住のため少しでも多くの資金を得るために、知略を尽くし、さまざまな策を弄し駆け引きを行なう様は、政治小説のような面白さ。
 暴動を起こした民衆を配下のロボットを使って制圧しようと苦心惨憺する場面は、戦闘パニックさながら。
 移住を希望しない先住民の謎を探っていくくだりは一種のスピリチュアルミステリーの趣き。
 もちろん、マセの頭脳や手足となるロボットの活躍ぶりこそはSF小説の独壇場である。
 いろいろなジャンルの小説の要素がバランスよく盛り込まれた一級のエンターテインメントである。
 40年以上前に書かれたSFなのに、科学性においてもIT的にもまったく古臭い感がなく、令和の今でも十分鑑賞に耐えるし、読み応えがある。
 眉村卓の小説家としての力量に感嘆した。

壊れる惑星


 最初のうち抵抗や不満を露わにしていた地球からの入植組が最終的には宇宙船に分乗し、新しい惑星に飛び立っていくのを傍目に、先住民は誰一人移住を希望しなかった。
 新星化した太陽が焦土を焼き、灼熱地獄と化し、しまいに惑星自体が消失する事実を知ったうえで、ラクザーンに残り続けることを選択したのである。
 先住民も助けたい、あるいは先住民の自殺行為に見える選択を理解できないマセは、説得を試みるが、彼らの意志は固い。
 先住民は、いったい何を考えているのか?
 なぜ自らの命を粗末にするのか?
 温厚で礼儀正しく、あとからやってきた地球人とも共存できる“いい人”ばかりの彼らの本心はどこにあるのか?
 この謎の解明が、本作の最大の鉤(フック)となって読者を引っ張っていく。
 
 読み進めていくうちに次第にゾクゾクしたものを背筋に感じてくるのは、ほかでもない、この先住民がどうにもこうにも仏教徒のあるべき姿――それも大乗ではなく小乗の――を思わせるからである。
 穏やかで感情的にならず、人と争わず、余計なお喋りもせず、「チュン」という敬称を持つ一握りの意識の高い者たちの指導のもと、今あるものに満足して昔ながらの暮らしを静かに送っている。
 チュンの存在はまるで在家信者に対する出家者、あるいは悟りを開いた覚者のようである。
 チュンはまた予知能力を持っていることが明らかにされる。
 つまり先住民は、地球人が入植してラクザーンの支配者となることも、太陽が新星化してラクザーンが消滅することも、大昔から知っていたのである。
 破滅を知りながら従容としてそれを受け入れる姿は運命論者のように見えるが、実は彼らにははるか昔から伝わる伝承があり、それこそがラクザーンからの待避を拒む一番の理由だったのである。(伝承の内容は詳らかにしないでおく)
 
 ラクザーンから人類がどんどん去っていくのに呼応するように、というよりも太陽の新星化が進行するにつれ、先住民は意識の進化を速め、次々と悟りを開き、チュンになってゆく。
 チュンになったのち、肉体から抜け出て、別の生命体となって宇宙意識と合一する。
 このあたりもまた「悟りから解脱へ」の道を説く仏教的である。と同時に「梵我一如」を説くバラモン教的でもある。
 実に先住民とは「精神的・瞑想的な存在として、思惟の世界を持つ者」であり、諦念に達しているがゆえに現世に拘泥することのない種族なのであった。

 むろん、この逆座標に来るのがマセを始めとする人類であるのは言うまでもない。
 人類は「物質的・科学的な力を駆使して空間的に勢力を広げる者」であり、自らの手で運命を変えることができると信じ、現世において夢や野望や欲望を追い求める種族である。
 本作の一番の肝は、人類と先住民との対比を描いたところにある。
 それはちょうど、未曽有の科学力とIT技術を使いこなす神のごとき未来の人類像――ユヴァル・ノア・ハラリ言うところのホモ・デウス――と、自己および自由意志の幻想性を悟り俗世間に見切りをつけた今一つの人類像――ソルティ名付けるところのホモ・ブッダ――との対比のようである。

宇宙空間のブッダ

 
 司政官マセはロボット官僚を自らの手足のごとく自在に動かし、一時は独裁者として君臨する。
 が、最後には、マセ自身もまた連邦経営機構という巨大な官僚組織の交換のきく歯車の一つに過ぎず、経営機構が事前に練り上げた「惑星移住計画」のシナリオ通りに動かされていた操り人形であったことに気づく。
 令和時代の主人公なら、真実を知ってショックを受け、憤りや虚しさに襲われ、己れのこれまでの生き方や価値観を点検し直すところであろう。
 が、何と言っても40年前の作品である。
 日本は未だバブル知らずの昭和元禄真っただ中。
 作者の眉村卓も昭和ヒトケタ生まれの男である。 
 マセは、会社に命を預けた昭和時代のモーレツ社員さながら、ふたたび組織に戻って司政官の職を続けてゆく決意をする。
 この結末だけが時代遅れを、いや40年の時の流れを感じさせた。

 それにしても、娯楽を求めて“なんとなく”手に取った本が、結局仏教へとつながっていく不思議
 なんだろな、これは?

 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 天才ニコラ・テスラの秘密

 『ヨーロッパの都市伝説』(片野優、須貝典子著)に出てきた天才科学者ニコラ・テスラが気になって、彼に関する本を2冊読んだ。
 日本では90年代にちょっとしたテスラ・ブームがあったらしく、その後もテレビのドキュメンタリーや科学番組などでたびたび取り上げられたらしいが、ついぞ知らなかった。

①  ニコラ・テスラ著『ニコラ・テスラ 秘密の告白』(成甲書房、宮本寿代訳、2013年)
②  新戸雅章著『知られざる天才ニコラ・テスラ』(平凡社新書、2015年)

 ①  はテスラ自身の残した二つの手記――1919年刊行『私の発明:ニコラ・テスラの自叙伝』と題する自伝、および1900年刊行『人類エネルギーを増加させるには』と題する論文――の合本である。もちろん、『秘密の告白』という怪しげなタイトルはテスラ自身がつけたものではない。
 成甲書房という出版社は陰謀論、超常現象などのジャンルを得意とするらしく、他にも天童竺丸著『シオンの議定書』、副島隆彦著『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』、羽仁礼著『永久保存版 超常現象大事典』、後藤よしのり著『間違いだらけのオンナ選び』なんていう、“いかにも”な本を出している。
 表紙のニコラ・テスラの謎めいた眼差しといい、この科学者の日本での受け入られ方を象徴するような一冊である。
 ただ、中味はトンデモなところはなく、テスラの生涯や発明の裏話と共に、その人となりや思想や科学的ヴィジョンの一端が伺える真面目な内容である。


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 ②  は日本におけるニコラ・テスラ研究の第一人者と言える新戸雅章(しんどまさあき)による評伝である。
 こちらは、生まれ故郷のクロアチア(当時はオーストリア=ハンガリー帝国)や終焉の地アメリカはもちろんのこと、今やヨーロッパでも発明王トーマス・エジソンと並び称される高い評価と人気を得ているにもかかわらず、日本ではまだまだ知名度が低いテスラについて、「より広く深く知ってもらおう」という著者の思いがビンビン伝わってくる力作である。
 これ一冊読めば、ニコラ・テスラについて一通りのことが分かるし、他人にも自信を持って“ニコラ語り”することができよう。
 新戸は1948年神奈川県生まれ。テスラ研究所所長をつとめる。


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 ニコラ・テスラとは何者か?
 ① よりプロフィールを引用すると、

1856年7月9日~1943年1月7日。発明家。磁束密度の単位「テスラ」にその名を残す。交流電流、ラジオやラジコン(無線トランスミッター)、蛍光灯、空中放電実験で有名なテスラコイルなどの多数の発明、無線送電システム(世界システム)を提唱した。また、地球全体の磁場を利用し電気振動と共鳴させることで空間からエネルギーを無限に得られる仕組み(フリーエネルギー)を構想していた。8ヵ国語に堪能で、詩作、音楽、哲学にも精通、生涯独身を貫いた。

 我々が現在使っている電気は、エジソンが発明した直流システムではなく、テスラが発明した交流システムである。つまり、電気を主要インフラとする現代文明はまさにテスラの築いた土台の上に成り立っている。
 テスラさまさまなのだ。
 ②の新戸によると他にも、

 蛍光灯や水銀灯、ネオンサインなどの放射照明、無線電信、電子レンジ、ラジオ、テレビのリモコン、車の電子キー、航空機やロボットの無線操縦、ワイヤレス給電システムなどは、いずれもテスラが発明したか、原理を提供したものである。
 まことに我々は、テスラのアイデアの中に日々の生活を送っているのだ。

 これほどの恩人がなぜ正当に評価されて来なかったのか?
 新戸の本から察するに、ナイアガラの滝の水力を利用した壮大なる実験で交流システムを成功させ、かつての師エジソンをうち破って国際的な名声と評判を得たのであるが、その後(人生後半になって)、上記の「世界システム」とやらに固執したあたりから現実離れの様相を呈し、逆にテスラの特許を利用した後輩科学者が次々と実用的な発明を世に送り賞賛を浴びるようになり、次第に「過去の人」となっていったようだ。
 石炭や石油はもちろん、水力・風力・原子力にも頼らないフリーエネルギーを空間から取り出し、そのエネルギーを無線で世界中に瞬時に送るという「世界システム」は、当時も(今も?)あまりにも突飛すぎているし、既存のエネルギー業界にしてみれば何としてもその実現を阻みたいアイデアに違いあるまい。逆風必至。
 そのうえ、観客の度肝を抜く派手な放電ショーを各地で繰り返して魔術師のようにみなされ、殺人光線や人工地震発生装置開発の噂も独り歩きし、山師かいわゆる「マッド・サイエンティスト」の如くみなされていったようだ。日本で長らくオカルト文脈で語られることが多かったのはそのためであろう。
 また、同時代の発明家であるエジソンやマルコーニのように商魂たくましくなかったところも、世間から忘れられやすい一因だったのかもしれない。(最後は困窮のうちにホテルの一室で亡くなった)


ナイアガラ
 

 さて、天才と言えば奇癖や奇行がお約束である。
 テスラもまた歴史上の天才たちに負けず劣らず、たいそうクセが凄かった
  • 人の髪には触れられない。
  • 女性のイヤリングが嫌い。
  • 歩くときには歩数を数える。
  • 食べる前にスープ皿、コーヒーカップ、食べ物の体積を測らないと、美味しく食べられない。
  • 同じ行動を繰り返す。そのとき必ず3の倍数回しないと気が済まない。
  • 設計図を書かずに頭の中で装置を完璧に組み立てて、一気にアウトプットできる。
  • 極度の潔癖症。
  • 幼い頃から、たびたび幻視、幻覚、幻聴に襲われた。
 一種の強迫性障害あるいは自閉症のようにも思われる。
 生涯独身であったのは、こういった事情もあったのかもしれないと新戸は推測している。(ゲイ説もあり)
 
 今回、ニコラ・テスラについて調べてソルティが最も興味深く思ったのは、実は彼の発明に関するエピソードでも、華やかな交友関係でも、奇癖や奇行でも、毀誉褒貶さまざまな生涯でもなかった。
 上記の通り、テスラは幼い頃より幻覚に悩まされていたのだが、現れる心象(イメージ)はいつも現実との区別がつかないほどのリアリティを持っていた。
 自分の見ているものが現実のものなのか幻覚なのか分からないことが、彼を不快にも不安にもした。
 そこで、彼は何らかの心象が目の前に現れたとき、それがどうやって出現したのかを観察する習慣を“第二の天性”のごとく身に着けた。
 その結果、あることに気づく。

 実は、あるものの心象が目の前に現れるとき、事前にそれを思い出させるようなものを見ていたのだ。初めのうちは、ただの偶然だと思ったが、まもなくそうではないと確信するようになった。心象が目に見える前に、意識的に見るのであろうと無意識のうちに見るのであろうと必ず、何かの光景が思い浮かんでいたのだ。

 次に私が気づいたのは、実際に前もって何かを見た結果として何かの心象が浮かぶのだが、それと同じような方法で考えも浮かんでくるということだ。そこでまた私は、その考えを抱くきっかけを突き止めたいと思うようになった。

 これだけではない。自分の動きはどれも同じように突き動かされているせいなのだとまもなく気づいた。これまで私が一つひとつ考え、行動を起こすことで歳月を重ねながら行ってきた継続的な探究も観察も実証もすべて、私が動力を与えられた自動機械(オ-トマシン)だから、外部から感覚器官への刺激にただ反応し、それに従って考え、行動し、運動しているゆえであることを示していたのだし、今でも日々示している。そのことに私は十分納得した。自分の動き、考え、あるいは夢がもともと何の影響を受けたせいなのかが突き止められなかったのは、人生のなかで一度か二度しかなかった。

 私たちは自動機械(オートマシン)であって、私たちを取り巻くものの力で完全に制御されている。コルクのように水面に放り投げられているのに、外部からの刺激を受けた結果を自由意志だと誤認するのだ。運動やほかの行動は常に生命維持のためのもので、見かけ上は互いに無関係であるようだが、見えない絆で結びついている。

 なんと、ここでニコラ・テスラは、「人間は無意識によって動かされている自動機械に過ぎない。自由意志は錯覚だ」と言っているのだ。
 ベンジャミン・リベットが『マインド・タイム 脳と意識の時間』で示唆したこと、トニ・パーソンズや阿部敏郎などのノン・デュアリティ(非二元)の覚者らが述べていること、ブッダが因縁や諸法無我という言葉で説いたことと同じ、すなわち「自我の否定」である。
 これこそまさに「秘密の告白」の名に値する ‼

 上記の哲学を持つがゆえに、ニコラ・テスラは人間とまったく同じ機能を持つ自動機械、いわゆる A I ロボットの制作が可能と考えたのである。
 つまり、ソルティという一人の人間の“様々な刺激に対する外的内的な反応パターン”を徹底的に調べ上げて精密なプログラムをつくり、それを優れた工学性を備える A I ロボットにダウンロードすれば、ソルティそっくりの反応パターンを示すソルティ2が生まれる。
 次に、ロボットを動かすエネルギーの問題であるが、ここで空間から無限に取り出せるフリーエネルギーを利用すれば電力は必要ない。ロボットが壊れない限り、動作し続ける。フリーエネルギーは人間で言うところの「命」に相当しよう。
 最後に、ソルティ2に一つの指令(自己参照回路)を組み込む。
 
 COGITO ERGO SUM (我思う、ゆえに我あり)
 
 ソルティという人間とソルティ2というロボットの違いはどこにあるだろうか?
 
 ニコラ・テスラは人間を創造しようと考えていたのだ。
 おそるべし、二コラ。
 
 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● 本:『宗教の現在地 資本主義、暴力、生命、国家』(池上彰、佐藤優対談)

2020年角川新書

 「外務省のラスプーチン」と言われた佐藤優と、「難しいことを分かりやすく伝える才人」池上彰との対談。
 ラスプーチンネタが続いたのは偶然?必然?

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 佐藤優については、その昔鈴木宗男絡みで逮捕、有罪判決を受けたこと以外は、敬虔なカトリック信者であること、漫画家・西原理恵子とのタッグで週刊新潮でコラム連載していたことくらいしか知らなかった。
 著書を読むのは初めてである。
 大変な博学、引き出しの多さ、記憶力の主であるのは間違いない。
 情報番組では“物知りの大家”みたいな池上彰をほとんど圧倒する勢いで喋りまくっている。
 専門分野である宗教や外交問題を切り口にして、AIのシンギュラリティ問題やヨーロッパで勢いを増しているヴィーガニズム(完全採食主義者)、ナショナリズムや民族主義、ISやオウム真理教などのテロリズム等々、池上がテーブルに乗せる素材を次から次へと分析し、掘り下げ、独自の世界観の中に織り込んで呈示していく。
 対談というより、10歳年上の池上がインタビュアのようにすら見える。
 
 佐藤と池上の知識の差、教養の差、宗教性の差、世相の読み具合の差と、読む者はつい勘違いしてしまいそうだが、これはそうではないだろう。
 聴き手としての池上がすぐれているがゆえに、佐藤は思う存分自説を繰り広げることができたのだ。
 佐藤の話しぶりはほうっておくと受け手の理解度を意識しない独り語りのようになるところがあり、池上が舵を取らなければおそらくテーマは拡散し、受け手は混乱し、まとまりがつかないことだろう。
 つまり、ここでの池上は迂遠にして専門的な佐藤の言葉を、わかりやすく嚙み砕いて読者に伝える編集者のような役割を果たしている。
 
 以下、佐藤の発言より引用。

 実は仏教でもイスラム教でも神道でも、エキュメニカルな思考・行動をする人と、ファンダメンタルな人と、両方がいます。そのファンダメンタルな人のごく一部に、暴力を使って他者に自分たちの思考を強要する、あるいは暴力によって他者を排除しても構わないと考える人たちがいるのです。ところが、その人たちの思考には、きわめて共通した面白さ――敢えて「面白さ」と言います――があります。それはまず、自分たちの宗教のために自分の命を捨てる覚悟ができていること、そして命を捨てる覚悟があると、途端に他者の命を奪うことに対するハードルが低くなることです。

 日本人は自分を無宗教だと思っている人が多いのですが、それはいわば「無宗教という思想」なのです。無宗教という白いキャンバスのような場所は、簡単に色に染まる傾向があります。思想を作る人間が、もし説得力のある論理を語り始めたら、白いキャンバスはたちまちその思想で染まってしまうわけです。

 静かに進む神道国教化の動きに抗せるのは、無神論的な自由主義者ではなく、プロテスタントのキリスト教徒や創価学会会員など、自らの価値観の基礎に信仰を置く人々だと思う。

 公明党が政権与党に加わっている意義をはじめて感じた。



おすすめ度 :★★

★★★★★ 
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損

 
 

● ラスプーチンの長さ 本:『ヨーロッパの都市伝説』(片野優、須貝典子著)

2021年祥伝社新書

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 副題「歴史と伝承が息づく13話」
 約30年間ヨーロッパに住み続けてきた著者二人が、多くの国や地域を訪れるなかで触れてきた地域特有の風習や有名な伝説、怪奇事件を取り上げている。
 各話につけられたタイトルを羅列すると、
  1. 自殺を誘発する曲『暗い日曜日』
  2. 火事を招く絵『泣く少年』
  3. 実在した「呪いの人形アナベル」
  4. 最強の心霊現象・エンフィールド事件
  5. バチカンが正式に認めたファティマの奇跡
  6. ドッペルゲンガーを目撃した有名人
  7. 650人の処女を生贄にした伯爵夫人
  8. 21世紀に暴かれた、切り裂きジャック
  9. ルートヴィッヒ2世の幽霊
  10. 怪僧ラスプーチン暗殺の謎
  11. 天才科学者ニコラ・テスラの未開発技術
  12. 現代によみがえった吸血鬼
  13. ユダヤ教の人造人間ゴーレム

 映画や小説や漫画の題材にもなった有名な話ばかりである。
 ソルティがよく知らなかったのは、2の「泣く少年」の逸話(ネットで検索したら問題の絵はどこかで観た覚えがあった)、11の天才科学者ニコラ・テスラの業績、それにラスプーチンのペ×スの長さについてくらいだろうか。

 交流電流、電動機、蛍光灯、無線装置などを発明し世界的にはエジソンを凌ぐ天才とみなされているニコラ・テスラの名が、日本ではほとんど聞かないのが不思議である。
 彼が考案した、エネルギーが無料になる「世界システム」や、軍艦を敵のレーダー上から消すことができる「レインボー・プロジェクト」などは、莫大な利権や武器開発に関わる畏れるべき発明であり、国家や大企業の絡む巨大な陰謀が見え隠れする。
 まるでオカルト映画かSF映画のような不思議きわまる「フィラデルフィア実験」についてはそのうち調べてみたい。

軍艦


 バチカンの歴代法王を震え上がらせ40年以上封印されてきたファティマ第3の予言は、2000年に時の法王ヨハネ・パウロ2世の決定により正式発表された。
 ソルティが子供の頃は、世界の怪奇事件を扱った子供向けの本や漫画、オカルト系番組には必ずと言っていいほど取り上げられ、見聞きするたびに不安と好奇心とが入り混じった気分にさせられたものである。
 なのに、正式発表された頃(30歳を超えていた)にはまったく興味を失っていて、内容も確かめなかった。
 その前年(1999年)に「ノストラダムスの大予言」が外れたことで、一気にオカルト熱が冷めたのだったか?
 よく覚えていない。

 本書を読むと、「ファティマの奇跡」は1973年にほかならぬ日本の秋田の修道院のシスターの身の上にも起っていたそうだ。
 ある日、笹川シスターの前に聖母が出現しメッセージを伝えたのだが、その内容がファティマ第3の予言と同じだったという。
 そう言えば、秋田にはイエス・キリストの墓があるという伝承があった。
 いや、青森だったか?
 ラスプーチンのそれの長さと同じくらい、どうでもいい話だ。


 
おすすめ度 :★★

★★★★★ 
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● 史上最も呪われた映画 :『アントラム 』(マイケル・ライシーニ/デビッド・アミト監督)

2018年カナダ
94分

 「観たら死ぬ」、「入場料はあなたの命」、「何が起きても自己責任で」といった大げさなコピーで煽る煽る!
 「なら観てやろうじゃないか!」と逆にソルティのような物好きが、誘蛾灯に誘われる蛾のように捕まってしまうのである。
 はい、一匹確保(笑)

 アントラムとはラテン語で「門」の意。
 すなわち、地獄の門。
 亡くなった飼い犬の魂を救うため、自殺の名所たる不吉な森の中に入っていく美しい姉と弟。
 地獄の門をひらくべく、スコップを手に大地を掘っていく。
 すると、次から次へと禍々しい事件が勃発し・・・・・。

 ――といった内容の映画が1979年にアメリカで撮影された。
 ハンガリーでの公開初日に映画館が火事になり、観客56人が死亡。
 その後も、上映のたびに関係者の不審死や暴動が続き、フィルムは封印され、いつのまにか行方不明になった。
 マイケル・ライシーニとデビッド・アミトは、撮影から40年を経てフィルムを発見、これまでの経緯の説明を添えて幻の映画『アントラム』の公開に踏み切った。

 ――という映画である。
 一本の映画の中に別の映画が仕込まれている、いわゆるメタフィクション。
 1979年制作の映画というのが実際に撮られたものなのかどうか、上映のたびに各地で起きた怪奇事件というのが本当なのかどうか、そこは観る者の判断に任されている。

 ソルティの興味は別のところにある。
 この映画の怖さの中核をなすものは西洋文化の共同幻想の最たるもの、すなわちキリスト教の地獄や悪魔のイメージに拠っている。
 西洋文化圏に生まれ育った人ならば、地獄や悪魔あるいはそれらを表すシンボル(たとえば逆五芒星やヤギなど)に対し、潜在的か顕在的かを問わず、恐怖や忌避感を持っていることだろう。
 一方、我々日本人の多くはクリスチャンでないので、それらに対して“現実感”を持っていない。どこか他人事、絵空事である。
 たとえば、「羊にくらべてヤギが怖い」という日本人はそうそういないと思う。(ハイジに出てくる「ユキちゃん」のイメージが結構ある)


ユキちゃん


 ソルティはこの映画を観て、『13日の金曜日』のようなサスペンス映画のショッキングシーンで受ける生理的恐怖以上のものは感じなかったけれど、西洋人とりわけクリスチャンは宗教意識にもとづいた根源的恐怖を感じるのだろうか?


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バルタン星人とメフィラス聖人を足して2で割ったような印象の悪魔




おすすめ度 :

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』(ユヴァル・ノア・ハラリ著)

2011年原著刊行
2016年河出書房新社(訳:柴田裕之)

 数ヶ月前に図書館予約しておいたのだが、ちょうど連休直前に順番が回ってきたのはラッキーと言うほかない。
 外出自粛中のたっぷりの時間を、難しそうで分厚い(上下巻で500ページ強)本書に当てることができた。

サピエンス全史下


 読み始めてみたら、そんなに難しくなかった。
 むしろ、わかりやすく、面白く、タメになる。
 学術書、研究書、哲学書、歴史書には違いないのだが、同時に教養娯楽本の趣きも強い。
 難しい事柄(たとえば資本主義経済における“信頼”の仕組み)は、比喩や事例を使って素人にもわかりやすく説明してくれるし、訳もまた良い。

 歴史上の知られざるエピソードの宝庫でもある。 
 人類が記した最初の記録文書は税の支払いや負債に関するものだったとか、コロンブスがアメリカに上陸するまで当地に馬はいなかったとか(インディアンはそれまで馬に乗ったことがなかったのだ!)、アステカ族は侵入してきたスペイン人の体臭を耐えがたく思って傍にいるときお香を焚いていた(笑)とか、鉄道が始まった頃のイギリスでは街ごとに時刻が違っていた(グリニッジ標準時の始まり)とか、「へえ~」と思うような意外な話てんこもりで、著者の該博な知識とブラックジョークに近いユーモラスな語り口にページが進んだ。

 タメになるというのは、人類の歴史を著者と一緒に振りかえることで見取り図が持てて、自分が現在、生物史上・人類史上・歴史上のどんな地点にいて、今世界ではどんなことが進行していて、これからどんな世界が待ち受けているかを概観することができるからである。
 そして、王侯でも資本家でもない庶民の一人が、こうやって堂々と休暇をとって、心地の良い我が家でブラジル産コーヒーを飲みながら、明日の食事の心配もせず電灯のもと本を読んでいられるという状況が、いかに人類史的に驚くべき達成であるかを、まざまざと知ることができるからである。


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Sofia IivarinenによるPixabayからの画像


 通常、人類の歴史を語るには、人類の誕生→火や道具の使用→言語の使用→農業革命(狩猟採集から定住へ)→工業革命(産業革命)→情報革命、といった概念と流れで語られることが多い。
 本書の画期的なところは、ここに認知革命という概念を導入した点であろう。
 認知革命は「7万年前から3万年前にかけて見られた、新しい思考と意志疎通の方法の登場のこと」だと言う。

 その原因は何だったのか? それは定かではない。もっとも広く信じられている説によれば、たまたま遺伝子の突然変異が起こり、サピエンスの脳内の配線が変わり、それまでにない形で考えたり、まったく新しい種類の言語を使って意思疎通をしたりすることが可能になったのだという。その変異のことを「知恵の木の突然変異」と呼んでもいいかもしれない。

 この認知革命の結果、サピエンスは「まったく存在しないものについての情報を伝達する能力」を得た。
 
 見たことも、触れたことも、匂いを嗅いだこともない、ありとあらゆる種類の存在について話す能力があるのは、私たちの知るかぎりではサピエンスだけだ。

 つまり、実体のない抽象概念を作りだして、それが“さも実在するかのように”扱えるようになったということである。たとえば、

神、家族、先祖、子孫、村、国家、国民、金、法律、正義、人権、資本主義、共産主義、平和、戦争、国連、会社、貿易、歴史、文明、文化、恋愛、進歩、幸福・・・・・。

 著者はそれを“共同主観的な想像上の秩序”と呼んでいるが、この指摘自体は目新しいものではない。われらが吉本隆明が60年代に「共同幻想」と名付けたものと重なる。
 重要なのは、共同幻想を持てるようになったことが、人類にとって決定的なターニングポイントになったという点である。

 まさにその通りであろう。
 その後に続く農業革命も産業革命も科学革命も情報革命も、認知革命のもたらした変化と影響の大きさにはまったく及ばない。共同幻想の最たるものである家族や国家や宗教という概念なしでは、人類はいまだ家を持たない狩猟採集民のままであったろう。
 
 国民は、想像上の産物であるという自らの特徴をできるかぎり隠そうとする。ほとんどの国民が、国民とは自然で永遠の存在であり、原初の時代に母国の土地とそこに暮らしていた人々の血を混ぜ合わせて生み出されたといったことを主張する、だが、このような主張はたいてい誇張にすぎない。国民ははるか昔に存在していたが、その重要性は現在よりもずっと小さかった。というのも、国家の重要性がずっと小さかったからだ。

 「共同幻想」のまたの名を「物語(ファンタジー)」という。
 神の失墜やジェンダー神話(男らしさ・女らしさ)の崩壊をあげるまでもなく、現代はこれまで人類にとって有効であった「物語」が馬脚を現し、幻想であったことが次々とバレていく途上にある。
 そうした伝統的な従来の「物語」に従えば幸福が手に入るという時代ではなくなってきている。
 つまり、認知革命の有効期限が終わりに近づいているのだ。
 そうしたときに、「いったい幸福とは何なのか?」が問われているわけだが、著者は最終章に近い丸々一章を「文明は人間を幸福にしたのか」と題して、幸福について様々な観点から考察している。(仏教的見地も登場する!)
 この一章だけでも本書を読む価値は十分にある。

 私たちが真剣に受け止めなければいけないのは、歴史の次の段階には、テクノロジーや組織の変化だけではなく、人間の意識とアイデンティティの根本的な変化も含まれるという考えだ。そして、それらの変化は本当に根源的なものとなりうるので、「人類」という言葉そのものが「妥当性」を問われる。 

 サピエンス、全死?



おすすめ度 :★★★★

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● 映画:『ゼロの未来』(テリー・ギリアム監督)

2013年イギリス、ルーマニア
106分

 ディストピアSFの金字塔『未来世紀ブラジル』(1985)のテリー・ギリアムによる、やはり未来の管理社会を舞台としたSF&哲学ドラマ。

 哲学ドラマと言うのは、テーマが“生きる意味、存在の意味”といった壮大なところにあり、タイトルにある“ゼロ(0)”とは、宇宙のブラックホールであり、ビッグクランチ(=ビッグバンの逆)であり、仏教的な“空”や“無”を意味しているかのように見えるからだ。

 己れの存在する意味、生きる理由について懐疑にとらわれた主人公コーエン(=クリストフ・ヴァルツ)が、世界を管理支配するコンピュータを相手に孤軍奮闘するさまを、ギリアムならではのポップでサイケデリックな映像、コミカルかつ難解なプロットで描いている。

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 映像はさすがに凄い。
 『不思議な国のアリス』のような独特な世界が構築され、一見の価値がある。
 一方、テーマそのものは宙に浮いてしまって、存在を肯定しているのか否定しているのか、よくわからないままに終わっている。
 まあ、答えの出ない問題ではあるが・・・。
 「存在の意味を問うなど無意味。答えは愛」と安易に落とし込めないあたりが、ギリアム監督のプライドなのだろう。
 (ソルティ思うに、「答えは愛」が正解なのだろう。まあ、「愛」というより「生殖」だが・・・。すべての生命の使命がとりあえずそこにあるのは間違いあるまい)

 観ている間は全然気がつかなかったが、『サスペリア』や『少年は残酷な弓を射る』のティルダ・スウィントン、『クラウド・アトラス』や『英国スキャンダル~セックスと陰謀のソープ事件』のベン・ウィショー、それにマット・デイモンが出演していたらしい。
 これら主役級スターをチョイ役で使えてしまうあたり、さすが大監督である。



おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
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● 高尾スピリチュアルDay

 毎年恒例の高尾山初詣。
 昨年は足のケガで行けなかった。
 今年もコロナで無理かなあ~と思っていたところ、高尾に住むある女性から展示会のお誘いをいただいた。ブログを通じて知り合ったツクシさんである。
 高尾山のふもとにある喫茶店「ふじだな」で、1月中「つくし作品展」を開催しているという。
 
 前回(2017年1月)の展示会ではお目にかかれなかった。
 今回はお会いしたいと思い、往復の交通機関の“密”を避けるべく日程調整し、平日の午前中に行くことにした。
 そのあと、喫茶店近くの蛇滝口から高尾山に登り、薬王院に参詣し、下山後に高尾極楽湯に浸かる。
 ラッシュ前には余裕で帰宅できよう。
 
 ソルティの職場は高齢者や病人と関わることが多いので、定期的に職員全員へのコロナ抗原検査を実施している。
 PCR同様、鼻に綿棒を突っ込む検査で、ほぼその時点でのステイタス(感染の有無)を知ることができる。
 ちょうど前々日に検査を受けて陰性をもらったばかりであった。
 愛する高尾にウイルスを持ち込む心配はないし、他人にうつすこともない。
 自分がどこかで貰わないようにだけ注意すればよい。
 
 JR中央線高尾駅北口から小仏行きのバスに乗る。
 リュックを背負ったハイカーがちらほらいて、席はすっかり埋まった。
 風は冷たいが、空は澄み渡り、陽射しには春のやわらぎが感じられる。
 裸の木々の間から冬の山々のすっきりした稜線が楽しめる、絶好のハイキング日和である。
 蛇滝口を過ぎ、裏高尾バス停で下車。
 「ふじだな」は目と鼻の先にある。

 壁に飾られた自作に囲まれて、ツクシさんはすでに店内で待っておられた。


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喫茶店ふじだな
八王子の水を使ったコーヒーが美味しい

 
 ブログで知り合ってかれこれ4年以上になるのに、お会いするのはこれが初めて。
 が、なんだか初めて会ったとは思えないのが不思議であった。
 4年の間にお互いのブログを訪問し、それぞれの近況や関心の所在はなんとなく知っていたし、たまにコメントのやりとりもあったけれど、齢五十過ぎていまだ人見知りのソルティ、初対面の人と話すのが得意ではない。
 しかも、ツクシさんは“全米”で活躍されたプロのイラストレーター。
 ホームページに掲載されている作品の数々を見れば、その豊かで個性的な才能と旺盛な創作力は歴然としている。
 会う前は、なんだか採用面接に向かう新卒学生のようにドキドキしていた。
 ところが、出会った瞬間、まったく壁を感じなかった。
 (各テーブルに設置された透明な壁は仕方あるまい)

 次から次へと話題は転換し、話は弾んだ。
 やっぱり一番熱いテーマはスピリチュアリティ。
 スピリチュアルな話題というのは、それに関心のない人にとっては、「あやしい」「いかがわしい」「ちょっとイっちゃってる?」「あぶない」「現実離れ」と思われがちなので、なかなか日常会話に乗らないものである。
 ネット上はともかく、オフの場で話せる相手を見つけるのはなかなかに難しい。
 ましてや、会ったばかりの人にそうしたテーマを投げかけるのはキヨブタ(清水の舞台)の勇気を必要とする(笑)
 それだけに、「この人、スピリチュアルOK」と分かったときは、俄然、熱く語り合ってしまうのである。
 なぜなら、スピリチュアリティこそは、その人のアイデンティティや価値観や世界観の核をなしているからである。
 というわけで、ツクシさんはすでに2巡目に入っているという「奇跡のコース」について、ソルティは仏教やヴィパッサナ瞑想(=マインドフルネス瞑想)について、共通したところや異なるところの確認やら、それらが各自の物の見方や生活にどういう影響を及ぼしたかなど、自在に語り合った。
 この、いきなりお互いの存在の深いクレパスに切り込んでいくスリリングな感覚は、三年前に四国遍路したとき宿で出会ったお坊さんとの会話以来であった。


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ツクシさんの作品(案内状より)
高知産の楮(こうぞ)和紙をちぎって描いた高尾の自然
素朴であたたかな味わい

 時節柄、長居は控えるつもりであったが、気がつけばお昼を回っていた。
 一緒に喫茶店を出て、平和な裏高尾の道をゆく。ツクシさんの家は近くにあるらしい。
 別れた後でふと気づけば、蛇滝登山口をはるかに過ぎていた。
 話に気を取られていた。というより、久しぶりのスピリチュアルトークに興奮し気もそぞろだったようだ。(こんなときのマインドフルネスなのに・・・・)
 

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チョロチョロの蛇滝(左上あたり)
いまの時期は水が少ない

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 山登りをあとに持ってきたのは正解であった。
 人気のない蛇滝の道場のお堂に腰掛けて、しばらく瞑想していたら、すっかり心が落ち着いた。
 むろん、体もデトックス効果ですっきり。
 高尾山の裏梯子とも言うべき急な九十九折りの道を登って、一気に薬王院参道に出る。
 足の調子もいい。

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薬王院
おみくじは吉であった!

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山頂付近の日陰は雪が残っていた

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山頂ひろばより富士山を望む
案の定、空いていた

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裏高尾方面の山なみ

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リフトで下山

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極楽湯の食事処にて


 今年もスピリチュアルな一年になりそうだ。


 

● リトリート in 秩父 

 昨年末、3日間ほど秩父でリトリートした。
 日常圏を離れた自然の中で、ひとり静かに過ごす時間を持ちたかった。
 実家暮らしではなかなかできない食事コントロールや瞑想三昧をし、働いているとなかなか避けられないテレビや新聞やスマホによる情報の奔流から逃れたかった。
 足のケガのリハビリを兼ねた長距離ウォーキングもしたかった。
 なにより、コロナで騒がしい世間からいったん距離を置きたかった。

 一日のスケジュールは以下の通り。
05:00  起床
    読経と瞑想
07:00 散歩(秩父神社に参詣)
    朝食
09:00 瞑想
12:00 ストレッチヨガ
    昼食
13:00 散歩
16:00 入浴、休息
18:00 瞑想
22:00 就寝

 一日に4時間のウォーキングと最低9時間の瞑想。
 夕食は抜く。
 禁酒、禁欲、禁ネット、原則無言行(買い物時はのぞく)。
 もちろん、テレビ・ラジオ・電話・メール・読書は OFF。
 コロナが来る前までは、もっと長期間の、もっとタイトなスケジュールの瞑想会に年1回は参加していた。
 このくらいは序の口である。
 
 秩父を選んだのは、
  • 県内移動で済む
  • 広々として気持ちよく、山々に囲まれ自然豊かである
  • 神社仏閣がたくさんあってスピリチュアルな気に満ちている
  • この時期は観光客が少ない
  • 秩父34ヵ所札所巡礼で勝手知ったる町である
  • 温泉がある
 秩父鉄道・秩父駅の近くに宿をとった。
 秩父神社にも荒川にもほど近く、買い物にも便利で、静かで、ロケーションは抜群である。

 3日間ともよく晴れて、日中は風もなく暖かかった。
 午後の散歩では汗ばみ、上着を脱いだくらい。
 大方、巡礼路となっている荒川沿いの山辺の道を歩いた。
 マスクを外して歩くだけでストレス解消となった。

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秩父では“巴川”の異名を持つ荒川


 散歩途中に出会った秩父の風景をご紹介。

● 武甲山ポートレート
 秩父の町のどこからでも見えるのが武甲山。
 削られた山肌はなんとも痛々しく哀しいけれど、土地と人々の暮らしを見守る雄々しさは太古の昔から変わらない。

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23番音楽寺のある丘から

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巴橋に重ねて

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25番久昌寺への道中

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秩父公園橋に重ねて


● スピリチュアル秩父
 秩父神社のほか、34札所のうち13番~25番のお寺を巡った。
 参拝するほどに、この土地との縁が強くなっていくのを感じる。
 いっそ移住しようかな・・・・。
 いや、寒さに弱いソルティだった。


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秩父神社

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本殿の東側に左甚五郎作の“つなぎの龍”がある

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先ごろ修復されたばかりで非常に色鮮やか
鎖につながれて、悪戯できないことからこう呼ばれる

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25番久昌寺の池
山蔭になった部分は終日凍結している

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19番龍石寺
水成岩の上に立ち、四国札所14番常楽寺を思い出させる

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14番今宮坊近くの今宮神社
前回来たときは本殿がなかった

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樹齢1000年の大ケヤキ


● 街角小景
 秩父は地盤が固く地震が少ない。
 大震災の被害を受けず、戦災にも遭わなかった。
 昭和レトロな街並み、家並みが今も残っており、懐かしい。

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銭湯・たから湯
昭和11年創業、現在も営業している

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カフェ・パリー
昭和2年建築の店舗兼用住宅
登録有形文化財に指定されている


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地域の病院の入口に置かれた鉄製オブジェ
中世代レトロ

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トリケラトプス

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ブラキオサウルスか?

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巡礼路で見かけた直売所

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スーパーの商品に比べると、見た目は悪いがパワー抜群!


● 蕎麦どころ
 秩父は四方を山々に囲まれた盆地で、土地が痩せているため、稲作には向かなかった
 そこで、古くから養蚕と共に、蕎麦の栽培が盛んであった。
 昼夜の寒暖差が大きいこと、荒川上流のきれいな水に恵まれていることも、蕎麦づくりに適しているのだ。

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1,2を争う人気店「わへいそば」
いつ前を通っても駐車場はいっぱい、店の外に人が並んでいた

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秩父橋のそばにある「ささいち」
一昨年巡礼したときから気になっていた店

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期待通り旨かった!
麺はつるつるして、歯ごたえも喉ごしもGOOD
天ぷらは外はカラッとサクサク、中はジューシーでホクホク


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窓から見た景色も素晴らしい
知る人ぞ知る名店だ


 3日間のリトリートを終え、心身とも大分すっきりした。
 骨折以来、座禅を組むのが難しくなっていたが、1時間までならなんとか組めるようになった。
 とくだん瞑想に進歩があったというわけではないが、心を過去や未来にさまよわせずに「いま、ここ」に落ち着かせていると、コロナ禍のいまでも感謝できることはたくさんあると気づいた。
  • ごはんがあること、自力で食べられること
  • 歩けること
  • まずまず健康なこと
  • リトリートできる時間と金銭的余裕があること
  • 家族が健康でいること
  • 仕事があること
  • ひとりでいられること
  • 自然を楽しめること
  • 仏教と巡り合ったこと
  • 日本が平和なこと
 どれか一つでも欠けていたら、このような時間は持てなかった。
 コロナ禍と心の幸福度はまったく関係ないのだ。

 最終日に宿をチェックアウトしたあと、西武秩父駅にある「祭りの湯」でくつろいだ。

 ビバ、秩父!
 

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● 妖怪大協定 本&絵:『水木しげるのラバウル戦記』

1994年筑摩書房
1997年ちくま文庫
 
 敗戦後ラバウルから帰還した水木しげるが、主として昭和24~26年頃に記憶を頼りに描いた絵に、文章を添えた従軍記である。


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 なによりもまず、水木しげるの映像記憶の凄さに感心する。
 まるで、目の前の光景をその場で素描しているかのような生々しさ、臨場感がある。
 頭のなかにシャッターがついているかのよう。
 やっぱり天性の絵描きなんだなあ~。
 
 次に思うのは、軍隊のキチガイぶりである。
 ビンタをはじめとする上官の日常的暴力、無意味な労働、無駄な行軍
 水木がラバウルに派遣された昭和18年末はすでに日本の敗色濃厚だったので、戦地には自暴自棄の空気が漂っていたとは思う。
 が、それにしても頭の悪い・・・・。

 ソルティの高校時代の部活動(軟式テニス部だった)を振り返ってもそうだが、つい最近まで、日本のスポーツ界というのは疑似軍隊であった。
 先輩・OBの命令は絶対で、意味のないシゴキが付き物で、どんな炎天下であろうが運動中に休憩をとらせず、水も飲ませない。
 そうやって精神を鍛えることが選手の身心を強くし勝利を導く、とマジで考えられていたのである。
 科学的かつ合理的精神にもとづき、エビデンスを元に効率的に選手を育成するという視点に欠けていた。
 「神風特攻精神」に象徴される頭の悪さが、日本の敗戦の主因であろう。

 が、頭の悪いのは日本に限ったことではない。
 日米は、ラバウルほか太平洋の島々で熾烈な殺戮合戦を繰り返すが、はた迷惑なのは現地の住民たちである。
 家や畑を焼かれ、食べ物を盗まれ、強制徴用され、銃撃や空爆の脅威にさらされ・・・・・。
 文明国を気取っている日本やアメリカが、文明は持たなくとも素朴に平和に暮らしている人々(水木しげるは敬愛の意を込めて彼らを“土人”と呼んでいる)を虐げる。

 彼らは、文明人と違って時間をたくさん持っている。時間を持っているというのは、その頃の彼らの生活は、二、三時間畑にゆくだけで、そのほかはいつも話をしたり踊りをしたりしていたからだ。月夜になぞ何をしているのかと行ってみたことがあったが、月を眺めながら話をしていた。
 まァ優雅な生活というやつだろうが、自然のままの生活というのだろうか。

 土人は“満足をする”ということを知っている、めずらしい人間だと思って、今でも敬意を払っている。

 我々文明国の人間は、金や土地や資源や栄誉や安全など欲しいものを手に入れ満足するために戦争するわけだが、文明国でない人々は最初から満足を手に入れている
 文明とはいったいなんだろう?

 もう一つ思ったのは、水木しげるのタフさ、大らかさ、運の良さである。
 若かった(当時23、4歳)こともあろうが、上官からの度重なるビンタをものともせず、初めて足を踏み入れた南の島の自然や動植物や昆虫や食べ物に多大なる好奇心を持ち、楽しんでいる。
 兵営近くの部落の土人たちとすぐ仲良くなって、終戦時には「畑をやるからこのまま島に残ってほしい」と彼らに哀願されるほどの関係を築いている。
 一体に先入観を持たない大らかさがある。

 水木が夜の見張りのために小屋を離れた時に、攻撃を受けた部隊は全滅する。
 その後も、一人ジャングルの中を命からがら逃走し、最後は爆撃によって左腕を失う不運に遭ったものの、九死に一生を得る。
 いや、左腕を無くし野戦病院に送られたがゆえに、命ばかりは助かったのだ。
 そのまま最前線に残っていたら、生きて日本に帰れなかった可能性が高い。

 水木しげるがラバウルで死んでたら、鬼太郎や河童の三平は生まれなかった。
 目玉おやじもねずみ男も猫娘も生まれなかった。
 きっと、荒俣宏も京極夏彦も『妖怪ウォッチ』も生まれなかった。

 水木しげるは、日本とラバウルの妖怪たちの協定により守られたに違いない。

ダイダラボッチ


おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 

● 本:『ウォールデン 森の生活』(ヘンリー・デイヴィッド・ソロー著)

1854年刊行
1998年宝島社文庫(真崎義博訳)

 Bライフ修験道に関する本を読むなど、最近、“森(山)の生活”への憧れが募っているソルティである。 
 と来れば、むろん、この古典を手にするのも時間の問題であった。

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 ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(1817-1862)は、1845年に故郷マサチューセッツ州コンコードにあるウォールデン湖畔の森に丸太小屋を建て、自給自足の生活を2年2か月送った。その回想録が『ウォールデン 森の生活』である。 
 本書は、自然の中での自給自足のBライフを夢みる人々の、持続可能性ある社会を唱えロハスを実践する人々の、そして騒々しい都会やせわしない日常やメンドクサイ人間関係から離脱したい人々の、バイブルである。
 ただし、ソロー自身は、人生や生活から逃避するつもりで森へ入ったのではなかった。
 こう言っている。

ぼくが森へ行ったのは思慮深く生活して人生の本質的な事実とだけ面と向かい合いたかったし、人生の教えることを学べないものかどうか確かめたかったし、死ぬときになって自分は生きていなかったなどと思いたくなかったからだ。生活といえない人生など生きたくなかった。


 なるべく人工的なものを排した根源的な生活、文字通り“地に足の着いた”生活を送りたかったのである。
 当然、電気はない。水道もない。暖房は薪ストーブ。森の動物を狩り、湖の魚を獲り、小さな畑で豆やトウモロコシやジャガイモをつくり、村人に売って最低限必要な日常品を購入する。
 静寂と孤独とありあまる時間の中に身をおいて、いろいろなことを思索し、文を書く。
 そんな生活を2年以上送ったのである。

ソローの小屋の絵
妹ソフィアが描いたソローの小屋


 森の生活の中から生まれたソローの思想が書き留められている前半が面白い。
 後半は、森の生活の情景描写(自然や動物の観察など)が中心で、読み物としてはやや退屈である。

 心を打ったソローの言葉をいくつか引用する。

 世間の評判というものは、ぼくら自身の個人的な意見にくらべたら、ひ弱な暴君だ。人の運命を決めるもの、いやむしろそれを示すもの、それは自分が自分をどう思っているかということだ。

 自分の生活に敬意を払い、変化の可能性を拒否して生きてゆくことを、ぼくらは徹底的に心の底から強要されているのだ。これが唯一のやり方さ、とぼくらは言う。けれど、じっさいは、ひとつの円の中心から無数の半径がとれるように、無数のやり方があるのだ。あらゆる変化は見る目には奇蹟だけれど、それは刻一刻と起きている奇蹟なのだ。

 ぼくらは、いったい何にいちばん近く住みたいと思っているのだろう? 食料品店とか、ビーコン・ヒルとか、いちばん人が集まるファイヴ・ポインツなどではなく、生命の永遠の源の近くだろう。そこは、ちょうど水のそばにあるヤナギの木がその方向に根をのばすのと同じように、ぼくらの経験から、生命がそこから流れ出すということを知った場所なのだ。

 自分の生活を簡素にするにつれ、宇宙の法則から複雑さが消えてゆき、孤独が孤独でなく、貧しさが貧しさでなく、弱さが弱さでなくなるだろう。

 なぜぼくらはそれほど成功を急ぎ、それほど必死に企てをしなければならないのだろう? 人が自分の仲間と歩調を合わせていないとすれば、それは、たぶん仲間とは別のドラマーのリズムを聞いているからだ。どんなリズムのものであれ、どんな遠くから聞こえてくるものであっても、自分に聞こえる音楽に合わせて歩けばいいのだ。
 

 2年2か月の森の生活を経て、ソローは社会に帰還する。
 こう言っている。

 ぼくは、森へ入ったのと同じように、それなりの理由があって森をあとにした。たぶん、ぼくには生きるべき人生がもっとあって、それ以上の時間を森で費やすことができなかったからだと思う。

 
 その後は特に定職に就くこともなく、様々な賃仕事をしながら、執筆や講演や奴隷解放運動に携わった。
 ソローは、世捨て人でも、隠者でも、ひきこもりでもなかった。
 その点は誤解してはなるまい。


森の中の池
注:ウォールデン湖ではありません


おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 檀家山 本:『修験道という生き方』(宮城泰年、田中利典、内山節共著)

2019年新潮社

 自分の前世の一つは修験者(山伏)であったと思う。
 山歩きが好きで、仏教が好きで、秩父を巡礼し、四国を遍路し、孤独が苦にならない。
 一方で、修験道と言えば、比叡山の千日回峰行に代表される苦行の世界であるが、ソルティは苦行が好きでない。ナンセンスとさえ思っている。
 四国を歩き通したと言うと、「苦行好き」のイメージで見られることもあるが、現代の四国遍路は、フィールドアスレチック+オリエンテーリング+生身の自分が主人公となるロールプレイングゲーム+観光旅行のようなものである。そこに宗教的要素が加わりはするが、苦行とはまったく思わなかった。(苦行にならないレベルで歩いた、というべきか)
 おそらく、前世は軟弱で中途半端な修験者だったのだろう。

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 本書は、修験界を代表する二人の高僧(宮城泰年、田中利典)と、西洋哲学を専門とする内山節による鼎談をメインとしている。序章として、内山が修験道の概要を歴史に沿って解説している。
 仏教用語など専門的な部分もあるが、概して庶民の日常生活に接続する具体的なレベルの話題が多く、本書で修験の世界にはじめて触れる者にとっても、読みやすくわかりやすいものとなっている。
 というより、「庶民の日常生活に接続する具体性」こそが、修験道の肝であることが明らかにされている。

 山伏に象徴される修験者は、現代人の目から見れば、日常から遠く離れた特殊の世界の人というイメージであるが、明治初期に「神仏分離令」に次いで「修験道廃止令」が出されるまでは、すなわち江戸時代までは、修験者は里にあって様々な役割を担いながら庶民の日常生活に溶け込んでいる点景の一つだったのである。(蘆屋道満などの陰陽師もまたその仲間であろう)
 修験道廃止令で失職した修験者は17万人もいたという。(当時の日本の人口は約3千万人台)

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 修験道とはなにか?

 修験道は古来の自然信仰を受け継ぎ、それが道教の「無為自然」(おのずからのままに=自然のままに生きる)思想とも融合しながら、大乗仏教の思想をも取り込んでいくかたちで成立した。

 その開祖は役小角(634~ )というのが通例である。
 が、役小角は書き物を残していないし、親鸞における唯円『歎異抄』のように、師の言葉を書き留めた弟子もいなかったので、役小角の思想なり修験道の理念なりというのは実はよくわからない。あってないようなものである。

 修験道は山での修業がすべてであり、知の領域で学ぶ信仰ではない。今日的な表現をすれば、「徹底的に身体性に依拠した信仰」である。知で生きる人間から身体で生きる人間へと自己を変えながら、身体と自然の一体化を得て自然的人間として生まれ変わることをめざした信仰だといってもよい。

 おそらくははるか昔から存在した自然信仰や人々の願いを集約し、仏教を取り込みながらひとつの型を創りだしたのが役小角だったのだろう。あるいはすでに各地で活動していた山岳信仰の行者たちに、ひとつの方向性を示したのが役小角だったと考えたほうがよいのかもしれない。
 
 自然信仰(アニミズム)が基盤となっているという点で、修験道はもっとも古い日本人の宗教と言える。太古から今日まで日本人の心の深層に脈々と流れ、いきづいているエッセンスである。(神道との関係について、本書ではなぜか触れられていない)
 それは、哲学とか思想とかというものではなく、日本という風土に生き、自然とともに暮らす人々の血の中を流れる“性分”のようなものだろう。がゆえの「身体性」である。
 また一方、仏教=大乗仏教を取り込みながら発展したというところにも特徴がある。
 仏教伝来以降、役小角、行基、景戒、空也をはじめとする、いわゆる「聖(ひじり)」と呼ばれ諸国を流浪する行者たちによって、官の仏教とは別のカタチで仏教が庶民に広まっていったわけであるが、それは各地でもとからあった民間信仰と融合していく。
 修験道は、主として山岳信仰と融合した民衆仏教の一形態なのである。
 風土仏教とでも言うべきか。

 『オオカミの護符』で書かれていた武蔵御嶽山や秩父三峰山への信仰(講)はまさにその表れであり、つい最近まで修験道が庶民に根付いていたことを知らしめるものである。
 ある意味、これこそが日本人の多く(=庶民)が古来なじんできた宗教――宗教とは意識しないほどに血肉化した――なのかもしれない。
 昨今、パワースポットブームも手伝ってか、修験道に関心を寄せる人が増えているそうである。

 日本列島に暮らした人たちが、もしかすると縄文時代以来、気の遠くなるような長い歴史の中で帰属してきたのは何かというとそれは風土という言葉に集約されると思うのです。自然とともに人々が、自然との独特な関係をつくりながら、社会システムや文化をつくりだしていった。そうやってできあがっていった風土に人々は長いあいだ帰属してきたのですが、それが明治からのわずか百五十年、あるいは戦後の七十数年のあいだに壊れていった。
 ところが帰属するもの、結ばれたものがなくなってみると、生きる意味とか生の充実感、自分の役割などがわからなくなってきた。そこから、自分たちは何を忘れてしまったのだろうという空洞感のようなものが広がってきた。ですので、自分は何に帰属して生きていったらよいのかをみつけ直そうという思いが、今日では広がりはじめていると思うのです。企業のような皮相的で幻想でしかない帰属先ではなく、本質的な帰属先です。そういった思いを抱きはじめたとき、自然がつくり出した風土とか、その風土と寄り添っていた人々の側の信仰が視野に入ってきたのではないでしょうか。
 
 確かに、自分が山登りを好むのは、山に包まれて、そこに自分が帰属しているという安心感が得られるからかもしれない。
 檀家寺を持つより、檀家山を持つほうが、自分の性に合っている。
 高尾山こそ、ソルティの檀家山なのかも・・・・。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 大口真神の正体 本:『オオカミの護符』(小倉三惠子著)

2011年新潮社

 神社の鳥居の左右には狛犬がいる。
 正確には、神殿に向かって右側に坐し「阿形」に口を開けたのが獅子、左側に坐し「吽形」に口を閉ざし頭に角を生やしたのが狛犬である。
 どちらも、龍や麒麟と同じく想像上の生き物である。


狛犬
阿形の狛犬(獅子)


 地方によって、神社によって、いろいろなタイプの狛犬がいるのは言うまでもない。
 たとえば、沖縄の神社の狛犬はシーサーであるのはよく知られている。
 他にもキツネやイノシシや牛や鹿や亀なんてところもある。 (下記HP参照)

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 ソルティは関東近辺の山によく登り、麓や山頂にある神社をお詣りすることが多いのだが、いつぞや秩父の蓑山に登った時、山頂近くにあった蓑山神社の狛犬をみてビックリした。
 どう見ても、餓死寸前の犬としか思えなかった。
 その後、関東有数のパワースポットとして名高い三峰神社宝登山神社に行った時も、鳥居の傍らに控えているのは犬のようであった。
 秩父の神社の狛犬は犬が多いという印象を持った。


蓑山神社狛犬
蓑山神社


三峰神社狛犬
三峰神社


宝登山奥宮狛犬
宝登山神社


 が、どうやらこれらは犬ではなくオオカミ、それも約100年前に絶滅したニホンオオカミらしいと、本書を読んで判明した。

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 著者は1963年神奈川県川崎市生まれ。
 生まれ育った土橋の家の土蔵に昔から貼ってあった「大口真神」と書かれた護符に関心を抱き、近所の長老たちに取材し、土地の風習や信仰についていろいろ調べているうちに、武蔵御嶽神社や三峰神社にいざなわれ、大口真神に対する耕作者たちの古くからの信仰を知るようになる。

 大口真神こそはニホンオオカミのことなのである。
 農作物を食い荒らすイノシシや鹿などを捕食してくれるニホンオオカミは、農民たちにとって神にも等しき存在だったのだ。(現在、鹿の繁殖による作物被害に苦しんでいる農家が多いのは、オオカミの絶滅も一因なのだろう)

 しいて分類すれば民俗学の範疇に入る本である。
 が、一枚の護符と向き合うことから、埋もれていた郷土の歴史や風俗に目を開かれ、糸を手繰るように次から次へと普段なら会えないような人と出会い、興味深い話を聞き、村の伝統行事や神社に代々伝わる秘儀に参列し、厳しい自然の中で生きてきた日本人の信仰の根源に触れる。
 そうこうしているうちに、定職を辞め、自らプロダクションを立ち上げ、映画を撮り、本を書くようになる。
 不思議な縁に導かれた自分探しの旅のようなスピリチュアルミステリーの感もある。
 
 本書を読むと、日本人の信仰の根源には、生きることに欠かせない食べものを育んでくれる自然(=和魂)と、それを無残にも奪い去ってしまう自然(=荒魂)――そうした自然に対するアンビバレントな畏敬の念がある、ということを改めて思う。
 キリスト教や原始仏教のもつような「生計と切り離された観念性」は、日本人には馴染まなかったのだ。
 


おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● 科白が入っていない!    


 舞台の本番を数日後に控えているのに、自分の役の科白を全然覚えていない。
 これからどう頑張っても覚えきれない。
 いったい自分は何をボケっとしていたのだろう?
 
 ―――という夢をたまに見る。
 悪夢というほどではない。
 にっちもさっちもいかない困った状態のまま目が覚めて、「ああ、夢でよかった」とホッと一安心する、というほどのこともない。
 ちょっと、心がざわついて、しばらくすると夢を見たことも忘れてしまう。
 
 似たような夢で、試験が近い夢や試験を受けている夢を見るという人がいる。
 学生時代の延長のようなストレスフルな夢だ。
 ソルティはこちらは見たことがない。
 どういうわけか決まって舞台がかかわっている。
 
 実際、ほんの少しの間だが芝居をやっていたことも過去にあり、そのせいかとも思うのだが、やっていた時は科白を覚えきれないとか、科白を忘れたという経験はなかった。
 トラウマになるほどの悲惨な失敗もしなかった。
 ステージフライト(舞台恐怖)に苦しんだこともなかった。
 
 いつからこの夢を見始めたのか覚えていないのだが、最初のうちは幕が開くのは2~3日後という設定だった。
 がむしゃらに覚えようとすれば間に合わないこともない気がする。
 もっとも、どんな内容の芝居なのか、どんな役を振り当てられているのか、どのくらいの量の科白があるのかまでは、はっきりした設定ができていないのだが。
 ただ夢の中では、「いまから覚えるのは到底無理」と半ば諦めている。
 
 そのうち、だんだんと幕開きまでの期間が短縮されてきて、「明日が本番」という設定がしばらく続いた。
 それがさらに短縮されて、「数時間後に本番」となった。
 だんだん追い詰められていく。
 ついには、「本番直前の楽屋」で扮装も化粧も済んで、幕開きを他の役者たちと待っているところになった。
 ソルティが全然科白を覚えていないことを他の役者たちは知りもせず、それぞれ自分の科白や動きを確認している。
 自分の中では「困ったことになった」と思っているのに、「いまのうち、みんなに告白しておかなければ・・・」とは考えていないあたりが不誠実きわまりない(笑)。
 
 先日、夢の中で気づいたら、ついに舞台上にいた。
 本番最中である。
 数名の役者と一緒に舞台にいて、観客の視線を浴びている。
 戸外のシーンのようで、草や木の大道具に囲まれている。
 周りの役者たちが流れるようなよどみなさで、代わる代わる科白を口にする。
 何を言っているのかはわからないものの、ソルティは「なかなか、上手いものだ」と感心している。
 なんとなくシェークスピアを思わせる科白回しだ。
 と、科白が切れた。
 舞台上を沈黙が支配する。

 ・・・・・

 それは芝居の「間」ではなく、明らかに「途切れ」と分かる不自然な沈黙。
 誰かが科白を忘れているらしい。
 役者間に緊張が走る。

 ・・・・・・・・

 瞬間、「あっ、ここは自分の科白なんだ」と理解する。
 が、むろん何をしゃべっていいのか見当もつかない。
 筋が分からないのでアドリブすらきかない。
 沈黙が続く。

 ・・・・・・・・・・
 
 しばらくすると、舞台袖に控えていた他の役者がその沈黙の理由に気づいたらしく、出番ではないのに舞台に登場して、適当な科白をその場ででっちあげて、事態をうまく回収してくれた。
 そこで夢は終わった。

 これでこの夢は終わるのか、この先があるのか。

 
黒子
 黒子がいれば問題ないのでは?
 

P.S. そうそう、肝心なことを書くのを忘れていた。この芝居の台本を書いたのはソルティ自身なのであった。自分の書いたものを忘れているのだ。






● 本:『転生者オンム・セティと古代エジプトの謎』(著者:ハニー・エルゼイニ&キャサリン・ディーズ)

2007年原著
2008年学習研究社より邦訳発行(田中真知訳)

 「転生者」で「オンム・セティ」で「古代エジプト」!
 これでもかというくらいにオカルティックなワード炸裂で怪しさフンプン。
 表紙もまた来てる。
 ピラミッドに、オベリスクに、古代ファラオ(アクエンアテン)の像に、ジプシーっぽい風貌の老婆の写真。
 スピリチュアル好きのソルティもさすがに手を出しかねるベタさ。
 図書館のスピリチュアル本コーナーで見かけていたのだが、これまで敬遠していた。


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 先日、酷暑で朦朧としていたためか、あるいはなにかのお告げか、手に取ってよくよく見ると、副題にこうあった。
 「3000年前の記憶をもった考古学者がいた!」
 ただのスピリチュアル本ではなくて、実在したプロのエジプト学者の伝記だったのである!
 彼女の名前がオンム・セティ(1904-1981)
 知らなかった。

 なぜ考古学者の伝記がスピリチュアル本コーナーにあるかと言えば、実際に彼女が3000年前の古代エジプトの記憶をもつ転生者だったからである。
 少なくとも本人はそれを確信していたし、彼女のもっとも親しい友人であり生前の彼女から日記を託されていた著者のハニー・エル・ゼイニも、それを前提に本書を書いている。

 オンム・セティとは誰か?

 おもての顔は、英国に生まれ育ったイギリス人女性であり、しっかりと訓練され知識と技術を身につけた一流の考古学者であり、観光客にすぐれて人気あるエジプト遺跡の案内者であり、エジプト人と結婚し一児の母となるも離婚し、その後は亡くなるまで独身を通した一女性である。
 奇抜で型破りなところはあるものの、生まれついての意志の強さと率直さ、強い正義感と行動力、考古学者に必須な飽くなき好奇心と想像力と熱意とを兼ね備えた類まれなる人物である。

 うらの顔――生前の彼女が著者以外の人間に秘して語らず、この書が出るまで世間に隠されていたもう一つの顔が、古代エジプトの神殿に仕えた巫女の生まれ変わりであり、時のファラオ(王)セティ一世の愛人。しかも、夜ごとに、3000年前からよみがえったセティ一世の霊(?)の訪問を受けていた神秘体験の持ち主だったのである。
 なんと面白い!

 本書の読みどころは三つある。

 一つは、オンム・セティ(本名ドロシー・ルイーズ・イーディー)の波乱に満ちた不思議な生涯、破天荒で純粋で情熱たっぷりな人柄に触れること。
 世間体や常識にとらわれず、自らの信じるところ、感じるところにあくまでも忠実に生きるその姿は、読む者に勇気を与えてくれよう。

 一つは、スピリチュアル的興味。
 ドロシーが自らが古代エジプトの巫女の生まれ変わりと知ることになったいきさつや、彼女の身の回りに起こる神秘体験の数々、夜ごとのセティ一世との官能的な交流の様子、動物(コブラやサソリさえも!)と意志疎通したり、古代エジプトの魔術を用いて病人を癒す異能ぶりなどにワクワクする。

 最後の一つは、オンム・セティの専門領域である古代エジプト文明に関わる様々な謎、とくに彼女の魂の故郷であるセティ一世神殿をめぐる謎に迫ること。
 それも、現代考古学の科学的な手段によるだけでなく、彼女の前世の記憶やセティ一世の霊を通して伝えられた情報という、学会がまともに取り上げるをよしとしないリソースをもとに迫る。
(オンム・セティが生前その存在を予言していた遺跡が、彼女の亡くなった後に発見され、存在が確かめられている)

 あるいはいま一つ、「3000年の時を超えて結ばれた真実の愛」といったハーレクインロマンス的な(『王家の紋章』的な?)読み方もありかもしれない。 
 
 いずれにせよ、この物語は映画になったら絶対に面白かろう。
 古代エジプトと、20世紀の英国とエジプトとの、二つの時代をヒロインがいったり来たりする。
 彼女はもう一人のドロシーなのだ。

エメラルド宮殿
エメラルド宮殿@「オズの魔法使い」



おすすめ度 : ★★★

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もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






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