ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●スピリチュアル

● 信仰の証明 映画: 『奇跡』(カール・テオドア・ドライヤー監督)

1955年デンマーク
126分、白黒

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『奇跡』のポスター」

 カール・テオドア・ドライヤー(1889-1968)はデンマーク出身の映画監督で、知る人ぞ知る名匠。
 日本で知られている作品は、『裁かるるジャンヌ』(1928)、『吸血鬼』(1932)、『奇跡』の3本くらいと思うが、内容が難しいためか、名画座でも上映される機会が少ない。
 ソルティが過去に観ているとしたら、20代の高田馬場ACTシアターあたりと思うが、記憶にない。(当時は観た映画を逐一手帳にメモしていたのだが、その手帳数冊を破棄してしまった)
 同じ高田馬場の早稲田松竹で、ドライヤーの『奇跡』が、ロベルト・ロッセリーニ監督『神の道化師 フランチェスコ』と2本立てで掛かっているのを知って、観に行った。

 若い頃は2本立て・3三本立ての映画(料金は1本分)は大歓迎だったのだが、還暦を超えた今、映画を続けて観るのが結構つらい。
 座席に縛りつけられてスクリーンを観続けていると、目が疲れる、腰が痛くなる、頭がボーッとなって眠くなる。
 とくに、字幕を読まなければならない洋画や、内容が重たくて120分を超えるものは、1本が限度である。
 こんな日が来るとは思わなかった。
 『神の道化師』は12年前にDVD鑑賞しているので、今回は『奇跡』だけ観ればいいやと思ったのだが、『神の道化師』がデジタル・リマスター版と知って、つい欲を出して『神の道化師』の回から入場してしまった。
 たしかに、ソルティが昔観たDVD版よりはるかに映像がきれいで、格段見やすかった。

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『神の道化師、フランチェスコ』のポスター

 『奇跡』(原題 Ordet は「御言葉」の意)は、タイトルから想像がつく通り、宗教的な映画である。
 ある裕福な農業一家に訪れた悲劇と奇跡を描いた物語。
 「神への信仰と不信」という重苦しいテーマ、遅々として進まないストーリー、固定カメラを多用したスタイリッシュな映像が、イングマル・ベルイマン作品とよく似ている。
 『冬の光』、『第七の封印』と重なった。
 同じ北欧映画という点ももちろん大きい。 

 案の定、上映開始後15分あたりから眠気が生じた。
 セリフがなかなか頭に入って来ない。
 というか、目を開けているのがしんどくて、字幕を読むことができない。
 『神の道化師』は、フランチェスコはじめ修道僧たちのユーモラスなエピソード満載なうえに、スクリーンいっぱいに、僧衣姿の彼らが小鳥のようにばたばた動き回るアクション的面白さも手伝って、退屈しなかった。
 『奇跡』は、内容は重いし、登場人物の動きも少ないし、そもそも仏教徒のソルティにしてみれば「神への信仰」というテーマそのものが関心の低いものなので、集中力を保つのが難しい。
 しかも、映画の途中から、主人公一家の居間の柱時計の響き「チクタク、チクタク」が基底音として継続するので、それが催眠的効果を倍増する。
 眠気と闘うべきか、あきらめて心地よい惰眠を貪るべきか、ちょっとした葛藤におそわれた。
 若い頃は、自分が映画を見ている周辺の席でイビキをかいて寝ている中高年を見ると、後ろから座席を思いきり蹴ってやろうかと怒りにかられたものだが、因果はめぐる還暦にして・・・。

居眠りする男

 寝落ち一歩手前で、事件が起きた。
 一家の長男の嫁インガが、難産のため命の危機に陥ったのである。
 ここから事態は急転し、物語は緊迫する。
 さっと眠気が吹っ飛び、あとは完全に映画と一体化した。

 家長のモルテン、長男ミケル、三男アーナスは、インガの無事と出産の成功を祈る。
 神学の勉強のし過ぎで頭がおかしくなったと周囲に憐れまれている次男ヨハネスは、「神を信じれば奇跡は起こる」と家族に一心に祈ることをすすめる。
 が、だれも相手にしない。
 様子を見にやってきた町の新任の牧師は、ヨハネスの存在をはじめて知り、家族に向かって、「なぜ施設に入れないのか?」とさえ聞く。
 懸命な医師や看護師の手当てもむなしく、子供は死産し、インガは息を引き取る。
 悲しみに暮れる一家。
 夫ミケルは、柱時計の振り子を止める。
 「神を信じ祈れば、インガは蘇る」とヨハネスはなおも言うが、その言葉はついにモルテンの怒りを買う。
 その夜、ヨハネスは姿を消す。

 葬儀の日。
 インガを見送るため、喪服を着た多くの村人が集まっている。
 美しく装えられたインガが納棺される寸前、ヨハネスが帰って来た。
 インガの傍らに立ったヨハネスは、家族らを見回して、こう告げる。
 「この中にほんとうに信じる者が一人でもいれば、インガは生き返る」
 ムッとして立ち上がろうとする牧師を医師が押しとどめる。
 そこへ、インガとミケルの小さな娘がやってきて、ヨハネスに言う。
 「おじちゃん、お母さんを生き返らせて」
 「おじちゃんにできると思うかい?」
 「うん」
 「じゃあ、一緒に祈ろう」
 二人は手をつないで、祈り始める。
 ヨハネスの“御言葉”に奇跡が起きる。

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Gordon JohnsonによるPixabayからの画像

 テーマはたしかに重いが、理解は難しくない。
 日夜十字架を前に祈り聖書を読み日曜日には教会に行く一見敬虔な人々も、人々に説教するのが上手な神父や牧師も、真の意味での信仰は持っていない。
 子供のような無垢な心を失くし、聖書に書かれている「奇跡」を信じていない、すなわち神の偉大な力を信じていないからだ。
 手を伸ばせば届くところに、神の御言葉を説く預言者(ヨハネス)が到来しているのに、彼を狂人と思い、邪険に扱い、その言葉を無視している。
 幼い娘だけが御言葉をそのまま信じていたのである。
 
イエスは言われた。
「心を入れ替えて子供のようにならなければ、神の国に入ることはできない。自分を低くして、子供のようになる人が天国で一番偉いのである」
(「マタイによる福音書」18より)

 ヨハネスが姿を消すあたりからの映像が非常に美しく、写実を超える力で観る者に迫ってくる。
 それまではどちらかと言えば、映画というより演劇的なタッチが濃厚だった――原作はデンマークの国民的劇作家カイ・ムンクの戯曲『御言葉(オルデット)』――ものが、ここに来てまごうかたない「映画」に変貌する。
 構図や陰影やカットつなぎやキャメラの移動などによって生み出される映像そのものの力が、物語を凌駕し、なにかとんでもないことが “今ここ(高田馬場の早稲田松竹)” で起こっているような感覚を生じさせる。
 それが映画という芸術における美との邂逅の瞬間であり、いわば映画の「奇跡」である。
 映画を信じる者だけにそれは顕現する。
 
 既存の“物語”に囚われて、「今ここ」にある単純な真実を見逃す。
 この映画のテーマそのものが、映画という芸術の置かれ続けている受難的状況の比喩のように思われた。

早稲田松竹



おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 千人の交響曲 :オーケストラ・ハモン 第50回記念演奏会

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日時: 2025年6月1日(日)15時~
会場: すみだトリフォニーホール 大ホール(錦糸町)
曲目: G.マーラー: 交響曲第8番「千人の交響曲」
     ソプラノ: 中川郁文
     ソプラノ: 冨平安希子
     ソプラノ: 三宅理恵
     アルト : 花房英里子
     アルト : 山下裕賀
     テノール: 糸賀修平
     バリトン: 小林啓倫
     バス  : 加藤宏隆
指揮: 冨平恭平
合唱: Chorus HA'MON、ジュニア合唱団・Uni

 奈良大学通信教育の試験を終えた自分へのご褒美として、この贅沢なコンサートのチケットを用意しておいた。
 重荷が取り払われ、軽くなった心と頭で、ファウストと一緒にいざ天上に赴かん!

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すみだトリフォニーホール

 冨平恭平&オーケストラ・ハモンは、昨年4月に同じマーラーの交響曲第2番『復活』を聴いている。
 2年続けて、大ホールを借りての独・合唱付き大曲に挑むチャレンジ精神と体力が素晴らしい。
 1階席の1/3(1/2か?)ほどを占める大舞台に、大編成のオケと、総勢200人を超える合唱隊と、8人のソリストが立ち並ぶさまは、圧巻であった。
 ソルティは、3階の最後尾に陣取った。

 演奏は輝かしく、オケも歌も言うことなかった。
 とくに、テノールの糸賀修平が良かった。
 高音域がやたら多く、宗教的な熱っぽさと敬虔さが求められる難しいパートを、張りのある美声で歌い切った。
 その声はホールの後ろの壁までしっかり届いた。

 この曲をライブで聴くのは2回目。
 前回は、齋藤栄一指揮&水星交響楽団で、場所は同じすみだトリフォニーホールであった。
 正直言うと、ソルティはまだこの曲の真価に目覚めていない。
 どうもツボにはまらないのだ。
 他のマーラーの交響曲にくらべると、薄っぺらい気がして仕方ない。
 オケと合唱の規模のデカさや使われる楽器の多彩さ、それにゲーテ『ファウスト』のクライマックスを材としたドラマ性は、それだけで聴衆を惹きつけるスペクタクルに満ちている。
 が、それがかえって、「俗受け狙い」「虚仮おどし」という印象をも与えずにはいない。
 とくに、ソルティは、第1部の讃美歌が「讃歌のための讃歌」といったベタっぽさ、「仏つくって魂入れず」的な上っ面感を聴きとってしまう。
 単に自分がクリスチャンではないからだろうか。

 第2部の『ファウスト』はソルティの“青春の一冊”なので、感動しないわけないのだが、残念ながらドイツ語が分からない。
 ベートーヴェン『第9』や、マーラーなら第2番『復活』あるいは第3番であるならば、合唱部分のドイツ語が分からないことは、曲を観賞する上で特段ネックにならない。オケと歌唱が融合して、歌声もまた楽器の一つのように聴けるからだ。歌詞が理解できないことは鑑賞上のマイナスにならない。
 しかるに、『千人の交響曲』の第2部は歌こそが主役であって、『聖書』や『ファウスト』はもちろん、ドイツ語の微妙なニュアンスも含めて歌詞が分からないことには、容易には入り込めない世界を作っているように思われる。
 つまり、この曲の真価を知るためには、ドラマの理解が前提として必要なのではないかと思うのだ。 
 そのため、紗のカーテンを通して曲を聴いているかのような感がどうにも拭いえないのである。

 キリスト教世界観を理解することなしに、『聖書』も『ファウスト』も読んだことなしに、この曲に感動できる人は幸いである。

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● リアル除霊 ドキュメンタリー:『結界の寺』(企画・演出 平野貴之)

2025年日本
95分

結界の寺

 タイトルとドキュメンタリーという点にだけ惹かれて、池袋シネマ・ロサの先行上映に足を運んだ。
 どういう映画なのかまったく調べずに。
 俗人禁制の寺での修験者の厳しい修行の模様を描いたフィルムを、漠然と想像していたのだが、蓋を開けたら全然違った。
 よもや除霊がテーマとは!

 主人公は、兵庫県神戸市にある真言宗九龍山永楽寺の住職・河村照道氏。
 幼少の頃から霊感が強く、成人しても霊に苦しめられる。
 29歳の時に師僧に出会い、僧侶として人を助ける運命を告げられる。
 その後、厳しい修行を経て、霊能力を磨き、除霊の方法を身につける。
 これまでに5000人以上もの除霊を行ってきた。

 めんどくさい説明などない。
 最初から最後まで、河村によるリアル除霊シーンが続く。
 河村の噂を聞きつけ、最後の頼みの綱と思いやって来た者。人に勧められるまま半信半疑でやって来た者。河村に会うや否や激しく抵抗し罵倒する者。自らの霊能力を生かすため河村に弟子入りする者。老若男女いろいろな事情を背負った人が、カメラの前に次々と現れる。
 堕胎した水子の霊に憑りつかれている母親。自死した父親の怨念に憑りつかれている息子。長距離トラックの仕事先でいろいろな霊を拾ってきてしまう男。中には、全国ニュースになったほど有名な殺人事件の被害者遺族もいる。
 依頼者たちが皆、カメラの前に平気で素顔を晒し、プライベートなことを話し、除霊現場を撮られることを受け入れるのに驚く。
 河村への感謝と信頼のなせるわざなのだろう。

 集団でバイクを乗り回し、ヤクザと喧嘩し、キックボクシングや極真空手を好む“ヤンチャ”青年であったという、河村の前歴も面白い。
 坊さんになって人を助けるなんて、本人も周囲もまったく想像の埒外だったのである。
 人の運命はわからない。
(なるほど、フィルムの中の河村の顔は、俗世の塵に染まぬ修行一筋の清らかな僧侶というより、世の荒波にもまれたガソリンスタンドのおっちゃんのようである)

 ソルティもまた仏教徒のはしくれであり、オカルトは嫌いじゃないので、興味深く鑑賞した。
 IT革命が進み、遺伝子操作で新生命体の造れる科学万能の世にあっても、霊は消えない。
 人の感情の滞りあるところに、霊は姿を現すのだ。

 上映終了後、なんと僧衣姿の河村本人が登場した。
 河村と、全国の事故物件を紹介する有名サイトの管理人・大島てるの特別対談があった。
 そのあと、会場から希望者を募って、河村による除霊実演が行われた。
 ガラ空き(20名くらい)の会場のあちこちから、何本も手が上がったのには驚いた。
 が、これはヤラセでもサクラでもなんでもなく、本当に力ある霊能者に霊視・除霊してもらいたがっている人は決して少なくないのだろう。

 考えてみたらソルティは、日本の除霊にしろ、欧米のエクソシストにしろ、テレビや映画でたくさんの除霊シーンを見てきたが、目の前でリアル除霊を見るのははじめてであった。
 よくあるように、除霊されている人がわけの分からないことをわめき出すとか、苦しみもだえるとか、首を360度回転させるなんて展開はなかった。
 ほっとしたような、物足りないような・・・。

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上映後のロビーで河村師より護摩塩をいただいた。





おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 本:『熊楠と幽霊』(志村真幸著)

2021年インターナショナル新書

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 南方熊楠(クマグス)の名を最初に知ったのは、たしか男色がらみだったと思う。
 画家で男色研究家の岩田準一(1900-1945)と、男色をめぐる往復書簡をした人物というので興味を持った。
 調べて見ると、博物学・生物学の大家であり、とくに粘菌の研究では世界的権威という。
 昭和天皇にキャラメル箱に入れた粘菌標本を献呈した話もよく知られる。
 裸族のはしりでもあり、夏の間は真っ裸で過ごし、周囲から「てんぎゃん(天狗)」と呼ばれていた。
 平賀源内同様、奇行の多い天才であった。

 肖像写真を見ると、ギョロっとした眼のむさくるしい感じの親爺で、男色家っぽくない。(どういったのが“男色家っぽい”のか自分でもよくわからないが。ジャニーさん? 三島さん?)
 図書館で著書を探して手に取ったが、文章が難しいというか、とりとめがないというか、わけがわからなくて読むのをあきらめた。
 以来、疎遠となっていた。

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南方熊楠(1867ー1941)

 実はクマグスは民俗学者としても有名なのである。
 柳田国男を民俗学の「父」とすれば「母」はクマグスだとか、いや、「父」がクマグスで「母」が柳田だとか、ジェンダー観念にとらわれた意味不明な議論があるようだが、ともあれ、日本民俗学の誕生に多大な貢献をした人である。
 柳田とは生涯に一度きり、和歌山県田辺の自宅で会っている。
 二日酔いのクマグスは布団にくるまりながら柳田と話したそうで、実りある対談とはいかなかったようだ。
 二人はその後も頻繁に書簡のやりとりをしていたが、民俗学における「性」をめぐるテーマの扱いがきっかけで袂を分かってしまった。
 男色を始めとする日本人の性風俗について、すすんで学問として取り上げようとしたクマグスの姿勢を、柳田は受け入れられなかったようだ。
 それでも柳田は、クマグスが亡くなった際に「日本人の可能性の極限」と評した。

 本書は、クマグスの生涯や業績や思想について述べたものではない。
 『クマグスと幽霊』のタイトルが示す通り、スピリチュアルな視点から読むクマグス、あるいはクマグスにおけるスピリチュアリズム(心霊主義)の概説である。
 クマグスは、若い頃から不思議な体験を多くもった。
 熊野の山中で幽体離脱したり、夢の中に出てきた父親から新種のキノコの生息地を告げられたり、知人の死を予知したり・・・。
 自然、博物学や民俗学の研究に勤しむのと並行して、心霊研究にものめり込むようになる。
 世界各地の幽霊や妖怪に関する証言を集め、英国の著名な心霊研究家フレデリック・マイヤーズの書を熟読し、18歳から亡くなるまで明恵上人のごとく見た夢の記録を日記に書きとめた。
 ただ、さすがに科学者である。
 本書によれば、降霊術のようなオカルティズムには懐疑的で、予知や幽体離脱や輪廻転生などの不思議な現象に対して、なんらかの科学的な説明が可能なのではないかと思っていたようだ。

 著者の志村真幸は1977年生まれの比較文化史研究者。
 南方熊楠顕彰会の理事をしている。
 知の巨人クマグスの別の一面を知ることのできる一冊である。




おすすめ度 :★★

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● 古代史"トンデモ”ミステリー 本:『アマテラスの暗号』(伊勢谷武著)

2020年廣済堂出版

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 人気沸騰の古代史ミステリー。
 主人公は日本人の父とイタリア人の母を持つアメリカ人のケンシ(賢司)。
 最近までゴールドマンサックスで働いていた40代の男である。
 ある朝、ニューヨーク市警から一本の電話が入る。
 「あなたのお父さんが宿泊していたホテルで何者かに殺されました」
 子供の頃に別れたきり40年以上会っていない父親は、なにか大切なことをケンシに伝えるために、日本からやって来ていた。
 ケンシは父親の殺された理由を解明するため、元同僚3人とともに日本へ旅立つ。
 父親・海部直彦は、元伊勢と呼ばれる籠(この)神社の第82代宮司であった。

 伊勢神宮諏訪大社、出雲大社、籠神社、下鴨神社、大神神社・・・・・。
 日本各地の由緒ある神社を駆けめぐり、そこに仕込まれた父親からの暗号メッセージを順に読み解きながら、ケンシは日本書記にも古事記にも書かれていない日本誕生にまつわる秘密に近づいていく。
 だが、その秘密を先に手に入れるべく、暗躍する組織があった。
 殺し屋を使ってケンシの父親を手にかけた組織は、今度はケンシをつけ狙う。

伊勢神宮内宮
伊勢神宮・内宮
祭神はアマテラスオオミカ三

 2003年に刊行され世界的ベストセラーになって映画化されたダン・ブラウン著『ダ・ヴィンチ・コード』の日本版といった趣き。
 日本の古代史や神道や神社、トンデモ本に興味ある人は楽しめるのではないかと思う。
 ソルティは神社仏閣めぐりが趣味で、マンガ版『古事記』や映画『日本誕生』など古代史も好きなので、それなりに面白く読んだ。
 ただし、これが伊勢谷のデビュー作というだけあって、小説としての出来は芳しくない。
 構成にも章立てにも人物描写にも不手際が目立ち、リアリティに欠け、叙述は乱雑で、ご都合主義がはなはだしい。
 『ダ・ヴィンチ・コード』と比較するのは、ブラウンに失礼であろう。
 アイデアそのものは面白いのだから、もっと巧みな書き手によって読みたかった。あるいはマンガならちょうど良かったかもしれない。
 実のところ、読みながら連想したのは『ダ・ヴィンチ・コード』ではなく、諸星大二郎の『暗黒神話』だった。 
 古代遺跡をめぐる少年の探索が宇宙的&仏教的結末に逢着する驚天動地の傑作『暗黒神話』を思わせる着想の奇抜さと飛躍的展開は、トンデモと分かっていても心躍るものがある。

暗黒神話

 登場人物に語らせるセリフの端々から、伊勢谷が保守右翼の愛国者であることが伺われる。
 たとえば、下鴨神社の神職であった男・小橋のセリフ。

 宗村、いい加減気づけよ。合理が一体、なにをもたらしたっていうんだよ。おまえのような合理崇拝の先にあったのは、文化や価値や道徳を破壊し、自由の名のもとに自由を抑圧し、寛容の名の下に他の意見を封殺してきたリベラルと称する全体主義や宗教さえ否定した共産主義じゃないか。日本人の力を削ぐために昔は神社で行われていた地域のミーティングを、戦後神社から切り離して日本中に公民館を建てまくったのは、ソ連にシンパシーを感じていたアメリカのリベラルだってことをおまえも知っているだろ?・・・(中略)・・・
 なにも俺は不合理や反合理まで擁護するつもりなんて毛頭ない。でもいいか、非合理がおまえの好きな合理を守っているんだよ。伝統こそが自由や価値や道徳を守る最後の砦なんだよ。これこそがおまえがまだ気づいていない、気づこうともしない、あるがままの真実だ。

 まったく、保守右翼の良心たる中川八洋先生のお言葉そのもの。
 おそらく伊勢谷は、アメリカにあってはトランプ推しの共和党支持者、日本にあっては自民党右派で、同性婚にも選択的夫婦別姓にも女系天皇にも反対の立場と思われる。
 そこで面白いのは、この小説の根幹をなす謎=日本誕生の真相が、伝統重視の国粋主義者からしてみたら、それこそトンデモない設定だろうという点である。
 日本人が中国大陸からやってきた騎馬民族の後裔だとか、朝鮮からやって来た渡来人と原住のアイヌ民族とのハーフだとかいうならまだしも、シルクロードを渡ってやって来た〇〇〇人の血統を引いていて、日本の神様のおおもと=アマテラスの正体は〇〇〇だというのだから。
 やっぱり、伊勢谷はたんなる右翼じゃないのかも。

 ともあれ、本書を読んでいたら、神社めぐりがしたくなった。
 今年は数十年ぶりに出雲大社に行きたいな。

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出雲大社
マサコ アーントによるPixabayからの画像
  


おすすめ度 :★★

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● 光が丘管弦楽団 第58回定期演奏会

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日時: 2024年11月17日(日)14:00~
会場: 光が丘IMAホール
曲目:
  • シューベルト: イタリア風序曲第1番
  • ハイドン: 交響曲第101番「時計」
  • モーツァルト: 交響曲第41番「ジュピター」
指揮: 小野 富士

 会場に向かうバスの中、アナウンスが言った。
 「次は、光ヶ丘いま、光ヶ丘いま、お降りの方はブザーでお知らせください」

 光ヶ丘IMAを知ってから数十年、今日はじめて「いま」と読むのだと知った。
 ちょっとした衝撃。
 たしかに、そのままローマ字読みすれば「いま」なのだが、「アイエムエー」と英語読みしていた。
 IBMを「アイビーエム」と読むのに釣られていたのかもしれない。

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 本日はオール古典派プログラム。
 秋らしくて良き。

 シューベルトの『イタリア風序曲』、はじめて聴いた。
 20歳のときの作品である。
 当時ウィーンではロッシーニ・ブームが起きていて、それに触発されて作曲したという。
 たしかに、作曲者の名前を知らされずに耳にしたら、「ロッシーニかな?」と思うような、バーゲンセール風狂騒感がある。
 当時シューベルトは窮乏に苦しんでいたから、大金持ちのロッシーニに「あやかりたい」という思いがあったのかもしれない。

 ハイドン『時計』は親しみやすい曲。
 とくに時を刻む振り子のリズムさながらの第2楽章はCMに使用されることが多い。
 ソルティは、やはり、旺文社系列の(財)日本英語教育協会が制作し、1958~1992年まで文化放送で流されたラジオ番組『百万人の英語』のテーマ曲の印象が強い。
 この曲と、やはり旺文社『大学受験講座』のテーマ曲になったブラームス『大学祝典序曲』が蛍雪時代の音楽的記憶である。
 J・B・ハリス先生には直接お会いして、著書『ぼくは日本兵だった』にサインをいただいたこともあった。

 モーツァルトやベ―トーヴェンを押さえて「交響曲の父」と冠せられるだけあって、ハイドンのオーケストレイションの技と完成度は素晴らしい。 
 『時計』や『驚愕』やドイツ国歌になった『神よ、皇帝フランツを守り給え』など、メロディメイカーとしての才能にもきらきらしいものがある。
 もっとハイドンを攻めていきたい。

ぼくは日本兵だった
旺文社刊行

 生の『ジュピター』は久しぶり。
 名曲なのに、なぜか演奏される機会が少ない。
 i-amabile の「演奏される機会の多い曲」ランキングでも30位に入っていない。
 なんでだろう?

 『ジュピター』と言えば平原綾香、と言う人は多いと思うが、あの曲の原曲はイギリスの作曲家ホルストの管弦楽組曲『惑星』の第4楽章「木星」である。
 ソルティは『ジュピター』と言えば、かわぐちかいじのコミック『沈黙の艦隊』を思い出す。
 20代の会社員時代にずいぶんはまった。
 実を言えば、モーツァルトの交響曲41番『ジュピター』あるのを知ったのが『沈黙の艦隊』によってであり、BGMにしながら『沈黙の艦隊』を読もうとレコード店に足を運び、人生で初めて手にした交響曲CDこそ『ジュピター』であった。
 『ジュピター』と『沈黙の艦隊』こそは、ソルティのクラシック街道の日本橋(=出発点)であった。(声楽についてはキャスリーン・バトルである) 
 購入したのは、レナード・バーンスタイン指揮×ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の1984年1月のライヴ・レコーディングである。

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交響曲40番と41番のカップリングだった

 そういういきさつがあるので、20~30代の頃は『ジュピター』を聴くとどうも戦闘的気分になりがちだった。
 還暦を迎えた今は、「天界からのお迎え」の響きのように聞こえる。
 第4楽章なんか、天使たちの吹きならすラッパと笛の調べに乗って、このままホールの座席で昇天してしまいそうな、「まっ、それも悪くないな」と思うほどの美と愉悦と神々しさに包まれる。
 ちょうど、高畑勲監督のアニメ映画『かぐや姫の物語』で、彩雲に乗ったブッダや天女たちに伴われて地上を去っていくかぐや姫のように。

かぐや姫の昇天

 数日前にベートーヴェンの第5番『運命』を「人類史上最高の名曲」と書いたばかりであるが、モーツァルトの第41番『ジュピター』もそれに匹敵する奇跡である。
 ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト。
 この4人はベートーヴェンを介して、つながっている。
 つくづく凄い時代だ。

 光が丘管弦楽団による演奏は素晴らしく、光ヶ丘“いま”を体感した。









● 「運命」とフィンクの危機理論 : 第25回EGK演奏会

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日時: 2024年11月10日(日)14:00~
会場: 北とぴあ さくらホール
曲目:
  • ブラームス: 弦楽六重奏曲第2番 ト長調 作品36
  • コントラバス・アンサンブル「コンバース」: 爆風スランプ『Runner』、井上陽水『少年時代』、YOASOBI『舞台に立って』、ベートーヴェン『運命~ボサノバ風』
  • ベートーヴェン: 交響曲第5番 ハ短調 作品67「運命」
指揮: 平尾 純

 このオケを聴くのははじめて。
 EGK(Ensemble Grosen Kunstlers)とは、「偉大な芸術家たちのアンサンブル(合奏会)」といった意。
 過去の演奏会の記録を見ても、このオケの演奏会のプログラム構成は、
  1. 古典派~ロマン派の弦楽重奏曲(室内楽)
  2. 4名のコントラバス奏者による現代ポピュラーソング数曲
  3. 古典派~ロマン派の交響曲
 となっている。
 一回のコンサートで軽重、硬軟、明暗、新旧取り合わせた、さまざまな響き、さまざまな味わいが楽しめるのは、オトク感がある。
 よく知られているポピュラーソング――クラシック調にアレンジされている――を間にはさむことで、ふだんクラシックに縁遠い層の関心を引きつけ、会場に足を運ばせ、クラシックの魅力に目覚めさせ、クラシックファンを増やすことも期待できる。
 とてもよい試みだと思う。
 しかも入場無料!
 会場には、家族連れや子供連れの姿が多く見られ、固定ファンがついていることが察しられた。
 指揮者にしてコントラバス奏者の平尾純は、ふだんはサラリーマンをしているとか・・・。
 コンバースのリーダーでもあり編曲もこなしているようだ。
 うらやましくも素晴らしい才能。
 それにしても、コントラバス奏者って個性的な人が多くない?

コントラバスを引く狸

 ブラームスもコンバースも良かったけれど、やっぱり圧巻はべートーヴェン『運命』。
 この曲が人類史上最高の名曲であることを、それも、何度聴いても感動せざるをえない奇跡のような曲であることを、実感させてくれる演奏であった。
 完全無欠とはこの曲のためにあるような言葉だ。
 第1楽章から第4楽章まで、それぞれが違った色合いを持ちながらも、全体でひとつの流れとして感じられる統一感――形式的というより気分的統一感――が飛び抜けている。
 いつもはマーラーの散文性に惹かれがちなソルティであるが、ベートーヴェンあってのマーラー、古典派あってのロマン派、形式あっての自由、ということをつくづく思った。

 ときに、看護理論においてフィンクの危機モデルというのがある。
 たとえば、交通事故に遭って体に一生残る障害が生じた、というようなショッキングな出来事があったとき、患者がいかにそれを受容し適応していくか、ということをモデル化したものだ。(詳しいことは知らないが、エリザベス・キューブラ=ロスの説いた「死の受容」のプロセスを下敷きにしているのではないかと思われる)
    1. 衝撃の段階 
      迫ってくる危険や脅威を察知し、自己保存への脅威を感じる段階。現実には対処できないほど急激で、結果的に生じる強烈なパニックや無力状態を示し、思考が混乱して判断や理解ができなくなる。
    2. 防御的退行の段階
      危機の意味するものに伴って自らを守る時期。危険や脅威を感じる状況に、現実に直面するには圧倒的な状況のために、無関心や非現実的な多幸症を抱く。これは、変化に対しての抵抗であり、現実を逃避し、否認し、希望的思いのような防御機制をつかって自己の存在を維持しようとする。そうすることで、不安は軽減し、急性身体症状も回復する。
    3. 承認の段階
      承認の段階は、危機の現実に直面する時期。現実に直面して省察することで、もはや変化に抵抗できないことを知り、自己イメージの喪失を理解する。あらためて、深い悲しみや苦しみ、強度の不安を示し、再び混乱を体験する。しかし、徐々に新しい現実を判断し、自己を再認識していく。
    4. 適応の段階
      期待できる方法で積極的に状況に対処する時期。適応は、危機の望ましい結果であり、新しい自己イメージや価値観を築いていく段階である。現在の自分の能力や資源で満足をする経験が増えて、しだいに不安が軽減する。
(城ヶ端初子著『新訂版 実践に生かす看護理論19 第2版』サイオ出版より抜粋)

 見事に、第5番『運命』の第1楽章から第4楽章までの流れに添っている。
 第1楽章の「ジャジャジャ、ジャーン!」の衝撃、第2楽章の平和な子供時代に逃避するような現実否認、第3楽章の現実回帰と混乱と諦念、そして第4楽章の受容。
 しかも、ベ-トーヴェンは単なる「受容」にとどまらず、その先にある「神=運命」への讃歌と自己投棄すら表現している!

 もちろんベートーヴェンは、フィンクやキューブラ=ロスはもとより、フロイトやユングといった名だたる精神分析家が登場するはるか以前に生きた人で、心理学や精神分析の概念すら持ちえなかった。
 直感で真理に到達し、万言を費やすことなく、音楽で表現してしまう。
 天才たるゆえんである。

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王子駅と北とぴあ

  
  

● 映画:『最後の乗客』(堀江貴監督)

2023年日本
55分

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 えっ、ホリエモンが映画をつくった!?
 ――と一瞬びっくりしたが、堀江貴文ではなく貴だった。
 堀江貴は1971年仙台市生まれ。ニューヨーク在住の映像作家である。

 「世界の映画祭で評判、予想外の結末、上映時間55分」という3つのキーワードに惹かれて鑑賞した。
 とりわけ、上映時間55分というのは、昨今、長時間の館内上映に眠気や尿意や腰痛などの不安を抱えるソルティとしてはまことに有り難い。
 若い頃は2本立ては愚か、3本立て、4本立て、オールナイトの5本立てだって嬉々として観たものであるが、いまや2本立て興行の1本だけ見て退出、という贅沢も珍しくなくなった。
 とくに字幕を読まなければならない洋画がしんどい。
 せっかくのシニア料金適用なのに・・・・。

 閑話休題。
 宮城県のタクシー運転手の体験を描いたこの作品について、多くを語るのはかえって不親切であろう。
 筋書きや結末を知らずに、なるべく白紙に近い状態で鑑賞するのがおススメ。
 出てくるのは無名の役者ばかりで、必ずしも演技が上手いとは言えないし、セリフや演出にも若干のぎこちなさを感じる。
 しかし、それらを払拭してあまりない感動がある。
 日本人なら誰だって泣かずにはいられないと思ったが、世界の映画祭で評判というからには外国人にも十分通用する物語なのだろう。
 ひとつだけ種明かしする。
 最後の乗客とはその席に座った「あなた」である。

砂浜とタクシー

 池袋シネマロサにて鑑賞。
 出入口で堀江監督自身から挨拶をいただいた。
 撮影場所を聞けばよかったな。(元仙台人のソルティ)




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 蒲田で味わう : Orchestre de SAVEUR 第3回演奏会

saveur3

日時: 2024年8月24日(土)
会場: 大田区民ホール アプリコ大ホール
曲目:
  • シューマン: 交響曲第3番「ライン」
  • ベートーヴェン: 交響曲第3番「英雄」
指揮: 山上紘生

 Orchestre de SAVEUR は、2022年結成のアマオケ。
 SAVEUR とはフランス語で「味わい」を意味するそうだ。
 練習を「サボ~る」と掛けているのかなと思ったが、発音は「サブール」らしい。
 旗揚げ時から山上が指揮をしている。
 山上の音楽哲学が良く表現され、味わえるオケと言っていいだろう。
 山上はほかに、ボヘミアン・フィルハーモニッククラースヌイ・フィルハーモニー、オーケストラ・ノット、Orchestra Largoの常任指揮者的立場にあるようだ。
 アマオケ業界事情はよく知らないが、売れっ子と言っていいのではないか。
 指揮者としての才能はもとより、見るからに穏やかで優しそうな人柄が、人気の理由ではなかろうか。
 パワハラNGの昨今の風潮は当然音楽業界にも及んでいるだろう。

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 演奏レベルはかなりのものだった。
 息の合ったトゥッティ(総奏)の輝かしく張りのある音と切れ味、ソロ(独奏)における技巧の高さと安定性。
 山上のコミュニケーション力が優れているのか、秘められたカリスマ性ゆえなのか、あるいは砂に水が沁み込むようなオケメンバーの飲み込みの良さのためなのか、指揮者とオケとが一体となって最初から最後まで統一されたフォームを維持していた。
 3回目にしてこの完成度はすごい。

 1曲目は『ライン』(SNSではなくて、ライン川のことだ)。
 実はシューマンはどこがいいのかよく分からない作曲家だった。
 オーケストレーションではベートーヴェンの二番煎じみたいな印象があり、ブラームスやドヴォルザークやチャイコフスキーのようなメロディメイカーでもなく、個性がよくわからなかった。
 が、今回はじめて「おっ、いいじゃん!」と思った。
 第3楽章、第4楽章の深い陰影ある宗教性は、シューマンの個性というか人生観を匂わせているように思った。
 山上の指揮が、これまで関心なかった作曲家の良さに気づかせてくれたのは、ショスタコーヴィチについで二人目である。

 2曲目の『英雄』。
 曲自体があまりに素晴らしいので、アマオケ平均レベルの演奏で十分感動する。
 山上&サブールは平均以上だったので、感動は大きかった。
 なにより、聴いているこちらのチャクラを刺激する音波の威力がはんぱない。
 舞台から放たれた音波が、丹田のチャクラ、胸のチャクラ、喉のチャクラ、額のチャクラを直撃し、ビリビリと震わせ、固い扉をこじ開け、体内に侵入する。
 それによって、体内に詰まっていた“気”の塊が解きほぐされ、活性化し、さまざまな感情の澱みを解放しながら、周囲に揺らめく透明の煙となって湧き上がり、消えていく。
 脳内ルクスが上がり、心身が浄化される。
 丸1日間部屋にこもって瞑想したのと同じ効果が、ほんの1時間足らずで達成され、鍼治療受けた後のように心身が整った。
 ソルティが山上の指揮するコンサートに足を運んでしまうのは、このチャクラ・マッサージによる“整い”効果ゆえである。

 同じ効力は和田一樹の指揮でも実感される。
 本日は、18時から県立神奈川音楽堂で和田一樹指揮によるベートーヴェン交響曲第2番(オケはEnsemble Musica Sincera ←横文字の使用はそんなにカッコいいか?)があった。
 JR蒲田から桜木町へ、京浜東北線によるベートーヴェン行脚を予定していたのだが、『ライン』と『英雄』を十分“味わい”、満腹になったので行くのは止めた。
 雷雨の予感もあった。

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午後4時のJR蒲田駅


● 本:『聖なる女 斎宮・女神・中将姫』(田中貴子著)

1996年人文書院

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 著者の田中は1960年京都生まれの国文学者。
 中世の説話と女性の問題などを研究している。

 本書は一種の「聖女論」である。
 日本史や古典物語に登場する日本の聖女たち――中将姫、伊勢神宮の斎宮、京都賀茂神社の斎院、天皇の娘である内親王――の半生やその語られ方の変容を通して、日本における「聖女」の意味を問うたものである。
 田中はまた『〈悪女〉論』も書いているようだ。

 中将姫についてはよく知らん。
 ――と思っていたら、実は子供のころからよく見かけていた。
 バスクリンで有名な津村順天堂のロゴマークが中将姫だったのだ。

津村のロゴマーク

 明治26年(1893)、弱冠23歳の津村重舎は婦人薬「中将湯」の製造販売で、津村順天堂を創業しました。中将湯は、藤原豊成(藤原鎌足の孫)の子「中将姫」が、仏の道に仕えた奈良の当麻寺で学んだ薬草の知識を基に、庶民に施したことが由来とされ、創業当時から巻物を持つ「中将姫」が商標登録されています。大正時代後半からは、挿絵界を席巻した人気画家高畠華宵を中将湯の広告に起用しました。華宵の描いた「中将姫」は時代の移り変わりとともに姿を変えましたが、それぞれの時代の理想の美人像として長年にわたり親しまれてきました。昭和63年(1988)社名を株式会社ツムラに変更し、ロゴマークも変更しましたが、「中将姫」は今も中将湯のパッケージから人々の健康を見守っています。
(『日本家庭薬協会のホームページより』)

 歴史物語上の中将姫は、しかし、薬草学とは別の意味で有名だった。
 「継子いじめ」である。

 幼少より信心深かった中将姫は、父である藤原豊成が新たに迎えた北の方(継母)にいじめられ、山中に捨てられる。が、臣下に助けられて生き延びる。長じてその美しさが知れ渡り、后として入内するよう求められるも、信仰の心やみがたく、16歳にして奈良の當麻寺(たいまでら)にて出家する。

 昔から「継子いじめ」と言えば中将姫で、説話や歌舞伎にもなっているらしいが、ソルティはとんと知らなかった。
 ソルティにとって「継子いじめ」と言えば、シンデレラや白雪姫や『ヘンゼルとグレーテル』などの西洋童話である。
 日本なら、高校の古文で習った『落窪物語』と三浦綾子の『氷点』くらいであろうか。
 當麻寺には、中将姫が一夜で織ったという4メートル四方の曼荼羅がある。
 極楽浄土の教えが壮麗に描かれているという。(基本非公開)
 中将姫は、后の位を断り仏門に入ることで、“聖なる女”をまっとうしたのである。

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 伊勢の斎宮や賀茂の斎院は、代々、未婚の天皇の娘すなわち処女の内親王が選ばれることになっていた。
 斎宮の逸話で有名なのは、『源氏物語』の六条御息所の娘(のちの秋好中宮)、そして鎌倉時代初期に描かれた王朝ポルノ絵巻『小柴垣草紙』であろう。
 もっとも、前者は物語中の架空の斎宮であるし、後者は斎宮になる前に行う野々宮(京都嵯峨野)での潔斎中に、武士の平致光と密通してしまい任を解かれるので、伊勢には下らなかった。
 『小柴垣草紙』のヒロインは醍醐天皇の孫にあたる済子(なりこ)内親王であったと言われるが、ほかにも、伊勢の斎宮になったあとでも男との密通がばれて解任されるケースはあったらしい。
 聖なる女として人々から崇められた女性が、一転、男に穢され、性愛の淵を惑い、俗に転落したときの世間の好奇と非難の目はどれだけ厳しかったことか。(しかし、男とまぐわうこと=「穢れ」なら、男自体が「穢れのもと」ってことにならないか?)

伊勢神宮内宮
伊勢神宮内宮

 秋篠宮家の真子様の例を持ち出すまでもないが、昔から皇族の娘の身の振り方には難しいものがあった。
 身分の釣り合う男は同じ皇族しかいないのだから、適当な相手がいなければ、臣下に嫁ぐか、生涯未婚のままでいるほかなかった。
 斎宮や斎院として選ばれたところで、御代が変われば任は解かれる。
 “聖なる女”としての箔がついただけに、その後の身の振り方は難しいものとなる。
 本書には、平安末期から鎌倉時代に書かれた『鎌倉物語』に登場する内親王たちが、男女関係の中で翻弄される姿が紹介されている。
 「聖」をずっと保ち続けるには、中将姫のように出家するほかなかったのである。

 それにしても、洋の東西問わず、聖人にしても聖女にしても、異性との交わりのないことが求められる。
 「聖」の意味を探ることは、「性」の意味を探ることと等しいのだと思う。





おすすめ度 :★★★

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