ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

スピリチュアル

● 生まれたところに還る旅 : フライハイト交響楽団 第50回記念演奏会

日時: 2023年1月22日(日)13時30分~
会場: すみだトリフォニーホール 大ホール
曲目: 
  • バッハ(シェーンベルク編曲): 前奏曲とフーガ
  • マーラー: 交響曲第9番
指揮: 森口真司

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錦糸町駅北口(墨田区)

 フライハイト(Freiheit)とはドイツ語で「自由」の意。
 1996年創設時の第1回演奏会の曲目も、このマーラー交響曲第9番だったという。
 団員にとっては深い思い入れのある曲であろう。

 旗揚げ公演にこの曲を選ぶってのもユニークである。
 マーラーが完成させた最後の交響曲となった9番は、やり切れないほど切なく哀しい曲調で、作曲者の指示により「死に絶えるように」終わる。
 そのため、死や別れのイメージで語られることが多い。
 旗揚げにマーラーを選ぶなら、景気よく終わって人気も高い1番や5番あたりが無難であろう。
 そういった固定観念に縛られない姿勢こそが、オケ名の由来かもしれない。

 最初のバッハは、手ならしといったところか。
 独奏も合奏も安定して、よくまとまったオケの力が伺い知れた。
 多彩な色調のシェーンベルク編曲のバッハからマーラーへ、というプログラム構成もうまい。
 たしかに、9番を聴くにはそれなりの心の準備が要る。
 いきなり突き落とされてはかなわない。 

 9番をライブで聴くのは実はこれが初めて。
 やっぱり、家でディスクで聴くのとは違って、一つ一つの音が立ち上がって、ホログラムのごとく客席上の空間に像を結ぶ。
 家で聴くと陰々滅滅とした印象ばかりが先立ち、イメージがなかなか広がらなかった。
 空間もまた、オーケストラの重要な楽器の一つなのだ。

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すみだトリフォニーホール

 今回受けた印象を一言で言えば・・・・母胎回帰。
 第一楽章の初っ端、マーラーにしては素朴で単調にして優しいメロディが歌われる。
 甘美にしてどこか懐かしい。
 それはまるで子守歌のよう。
 遠い記憶の底、揺りかごの中で聞いた母の声。

 疾風怒濤の彼の人生を表すような第2楽章・第3楽章を経て、第4楽章はまた、泣く子をあやす声がけのような単調な「ミ・ファミレ♯ミ」の繰り返し。
 その途中、第一楽章冒頭の子守歌が顔を出す。
 子守歌で始まり、子守歌で終わる。
 その円環が、母胎回帰という印象につながったのである。
 
 この第9番は第1番『巨人』の焼き直し、というかバージョンアップ決定版という感じがする。
 幼少⇒青春⇒「明」と「暗」の綱引き・・・・と展開するマーラーの個人史だ。
 若かりし第1番ではまだ未来が見えなかったがゆえに、無理なこじつけ感のある「明」で仕上げた第4楽章であったが、今ははっきりした正体を現しているがゆえに、自然な流れで第1~第3楽章から引き取られている。
 それはやはり「明」ではなかった。
 と言って「暗」でもない。
 すべてを受け入れる優しい「哀」である。
 つまり、第1番でマーラー自身が提出した問いの答えが、第9番だったのではないか。

 放っておくと“陰キャ”に陥りがちなマーラーを、“陽キャ”に引き上げてくれるエレメントは、自然(3番、4番)、エロス(5番、6番)、神(2番、8番)の3つであった。
 うち、エロスの源の最たるものが最愛の妻アルマであったのは言うまでもない。
 しかるに、この9番にはもはや、自然も、エロスも、神も、見当たらない。
 9番を完成させたあとに降りかかったアルマの不倫事件を持ち出すまでもなく、いずれのエレメントもマーラーには効かなくなってしまったようである。

 空漠とした心を抱えたマーラーが行きついた先は、母の胸だったのではないか。
 (その解釈から言えば、第8番のラストの『ファウスト』の有名な一節、「永遠にして女性的なるもの、われらを牽きて昇らしむ」は、まさに母性原理以外のなにものでもない)
 
 母胎とは生と死の境である。
 第9番は、「生まれたところに還る旅」なのではあるまいか。
 
 その意味で、まさにフライハイト50回記念にふさわしい選曲。
 長々と続いた拍手も納得至極の好演であった。

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● 躁うつ病交響曲、あるいはA線上の人生: 明治大学交響楽団 第99回定期演奏会


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日時: 2022年12月28日(水)
会場: すみだトリフォニーホール 大ホール
曲目:
  • スッペ: 喜歌劇『軽騎兵』序曲
  • ボロディン: 歌劇『イーゴリ公』より「韃靼人の踊り」
  • マーラー: 交響曲第1番
指揮: 和田一樹

 年末最後はいつもベートーヴェン「第九」で〆るのだが、昨年は聴きそこなった。
 コロナ陽性になって自宅隔離を余儀なくされ、予約していた「第九」に行けなかった。
 隔離明けて、何か一年を〆るのにふさわしいものはないかと i-Amabile をチェックしたら、本ライブがあった。  

 マーラーの全交響曲中、2番「復活」、自然を謳った3番8番「千人の交響曲」あたりは、「第九」の代わりとして年末を〆くくるのにふさわしい。
 6番、7番、9番、10番を聴いた日には、とても目出度く新年を迎えるわけには行くまい。(まあ、あえて取り上げるオケもなかろうが)
 1番、4番、5番は一応「明るく」終わるので、無難なところである。
 和田のマーラーは5番7番を聴いたことがあり、どちらもとても良かった。

 明治大学交響楽団を聴くのは初めてであったが、とにかく大所帯で一番端のヴァイオリン奏者など舞台からこぼれ落ちそうであった。
 音の厚みと力強さは保証されたようなもの。
 それを「つかみはバッチリ」の和田が最初からガンガン鳴らしまくる。
 この指揮者の凄いところは、“生きた音”を作り出す力である。
 演奏が始まってすぐに「おおっ!」と客席から身を乗り出さざるを得なくなるのだ。
 おそらく、オケメンバーとのコミュニケーション力が飛び抜けているのだろう。
 「音」を「楽しむ」という根本をつねに忘れない、忘れさせない男なのだ。
 スッペの『軽騎兵』序曲からすでに会場は熱くなっていた。

 ボロディン「韃靼人の踊り」については、あるエピソードが頭について離れない。
 本で読んだのか誰かに聞いたのか忘れたが・・・・・
 ある人が事故で危篤状態になって医師も周囲もあきらめた。実はその時その人は臨死体験中で、幽体離脱して病室の天井から自分の体を見下ろし、暗いトンネルに引っ張り込まれ、そこを抜けたら光の洪水があった。それから慈愛あふれる宇宙空間のような場所をしばらく幸福感に満たされながら漂っていた。ある音楽が鳴り響いていた。その時はそれと分からなかったが無事回復したあとで偶然曲を聴いて「これだ!」と判明した。それが「韃靼人の踊り」だった・・・・いうスピ話。
 これは「宇宙人の正体は実は韃靼人」と言いたいわけではなく、「韃靼人の踊り」という曲が、深い瞑想状態に入っている人の脳に見られるシーター波、あるいはさらに無意識に近い熟睡状態の時(危篤状態も含む)に見られるデルタ波を、曲を聴く人の脳に生み出しやすいということなのではないか、と一介の似非スピリチュアリストたるソルティは睨んでいる。
 今回も案の定、曲の途中で意識が飛んだ瞬間があった。

宇宙の少女
AmiによるPixabayからの画像

 最後のマーラー1番。
 これがもう寒気がするほど良かった。
 何度も聴いている曲なのに、「自分、はじめて1番を聴いたかも」と思ったほど、斬新で美しく、驚きに溢れていた。
 和田一樹が、あたかも人体のあらゆるツボと経絡を熟知した中国二千年の気功師が奇跡的な施術で患者の生命力を回復させるのと同じように、自ら指揮する曲のツボと経絡を理解し、緩急・強弱・間合い・テンポの微妙なズレなどのテクニックを自在に駆使して、マンネリ化しがちな有名曲に新たな生命力を吹き込むことができるのは知っていた。
 その技術が一段と磨かれたようであった。
 それも耳の肥えた聴衆を驚かすテクニックのためのテクニックという(あざとい)レベルを超えて、もとから曲に内包されていたが未だ知られざりしテーマがテクニックと有機的に結びつくことで露わになるという感覚、言い換えれば「楽譜通りに曲を振っている」というより「曲をその場で彫琢し作っている」という印象を受けた。
 プロフィールによると、和田は作曲も手掛けているらしいから、そのあたりが影響しているのかもしれない。

 そうやって露わにされたマーラー1番であるが、ソルティは今回この曲に「躁うつ病交響曲」というタイトルをつけてもいいのではと思った。
 躁うつ病(現在では双極性障害と呼ばれている)こそが、マーラーの人生にとって愛妻アルマ以上のパートナーだったのではなかろうか。
 躁状態(明)と鬱状態(暗)がしきりに交互する彼の曲の秘密はそこにあるのではなかろうか。

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 マーラーを「暗」から救い上げてくれるのは、信仰をテーマにした2番や8番の成功あるにも関わらず、結局のところ、啓示がやって来るのをただ待つしかない「神」ではなく、より確実な効果が期待できる「エロスと自然」だった。
 だが、それすらも彼の生まれつきの(あるいは幼少期の環境で身についた)鬱気質を払拭することはできなかった。
 最後(9番や10番)は、ベートーヴェンのように「暗」から「明」へ到達することは叶わずに、狂気すれすれの「暗」で終わっている。
 「暗」によって常に圧迫されやがては引きずり落とされる「生」という宿命を背負っていて、その不安と恐怖と癒しようのない悲しみが、マーラーの人生をひいてはその音楽を縁取っているような気がする。
 
 第1楽章の出だしは延々と続く「ラ(A)」で始まるが、この音こそが記憶の底から続いている宿命の響きであり、マーラーのトレードマークであり、「暗」の極みたる狂気に落ちないよう慎重に保持し続けなければなければならない命綱の象徴だったのではなかろうか。
 A線上の綱渡り人生。 
 第4楽章のフィナーレは一応華々しく景気よいものだが、ソルティはいつもここに無理を感じる。
 第1楽章から第3楽章までの流れからして、そして第4楽章の相当に破壊的な出だしからして、とてもとても「明」に到達できるとは思えないのである。
 だが、この華々しさや景気よさが「至福」や「喜び」から来るものではなく、「躁」状態から来るものだと思えば、至極納得がいく。
 本当の「明」ではない。(オケは本当の「明」学だが)

 多くの作家はその処女作において今後展開すべき自身のテーマの種子をまき、その後の作品と人生をそれとなく予告する。
 第1番において、マーラーはまさに名刺代わりに自らのテーマを開陳し、自分が何者かを示している。
 聴く者をして、こんな勝手な想像(創造)をさせて大昔の作曲家と引き合わせてくれるところが、和田一樹が凄いと思うゆえんである。
 指揮棒が下りたとたん、場内にひと際大きな「ブラボー」が響き渡った。
 コロナ禍の「ブラボー」は禁止されていることは当然本人も知っていようが、これはどうしたって一声発せざるを得ないよなと、理解できた。
 
 アンコールはいつものヨハン・シュトラウス1世作曲『ラデツキー行進曲』。
 聴衆とオケが一緒になって曲を作り上げ、音楽を楽しむ場を創出し、一年をhappyな気分で〆る。
 こういったところも和田一樹の愛されるゆえんであろう。
 コロナ陽性も「転じて福」と思える素晴らしいコンサートだった。

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● 秩父神社でカウントダウン

 年越し3日間は秩父で過ごした。
 スマホもテレビもOFFにして、午前中は瞑想、午後は散歩、夜は読書と瞑想にふけった。
 基本、人とは喋らない。

 たまにこういう生活をすると、テレビはともかくとして、自分がいかにスマホ依存しているかに気づかされる。
 LINEやゲームやツイートをしていないので、他の人にくらべればスマホをいじっている時間は少ないと思っていたのだが、暇な瞬間あれば、ついスマホに手が伸びてしまう自分がいる。
 スマホをいじる時の手の形や人差し指の動きが癖になってしまって、それがないと手のひらや指が淋しがっている気がするほど。
 5年前まではスマホのない生活を送っていたのに・・・・。
 休肝日ならぬ休スマ日をつくるかなあ。 

 瞑想はこのところスランプというか集中力が途切れがち。
 年末にコロナ陽性になってから、いまひとつ身が入らない。
 ウイルスで脳の一部が変容してしまったんじゃないか・・・と恐れている。
 某国が極秘開発した“人間を馬鹿にするウイルス”がその正体だったのか?
 まあ、修行には波がある。
 いまはそういう時期なのだろう。

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冬の秩父の稜線は美しい
 
 午後はずいぶん歩いた。
 天気が良かったので、連日12キロ以上は歩き回って、おろしたてのシューズがすっかり足に馴染んだ。
 秩父は朝方こそ寒いものの、日中は風がなく、遮るもののない陽射しが降りそそぎ、都心よりむしろ暖かいくらい。
 1時間も歩けば上着が邪魔になり、ズボン下のスパッツが汗ばんでくる。

 市内はずいぶん歩き尽くしたので、もう目を惹くような新奇なものは残っていまいと思っていたが、いやいや、まだまだ奥が深かった。
 秩父は関東大震災も戦災も被らなかったので、レトロな建物が残っていることで知られている。
 実際、江戸、明治、大正、昭和(戦前・戦後)、平成、令和といくつもの時代の建物が町中に併存して、ソルティのような建築物好き素人にはたまらない面白さ。
 今回は中でも、味のあるハイオク=廃屋=あばら家に惹かれてしまった。

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結構広いウチだが、さすがに住人はいない

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玄関前にバイク。住んでいるのか?

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売り家のようだが、果たして買い手はつくか?

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ここでカフェをやっていたらしい
古民家を部分的に修繕し、小ぎれいに住みなしている家も少なくない

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家の造りから、養蚕をやっていたのではないか?

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この壁に何があったのか?

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これは民家ではなくて病院
冬でも枯れ落ちないのは品種のせい?

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クラブ湯
秩父の街中にある創業85年の銭湯

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外側は改装しているが、中は昭和レトロそのもの
更衣室にロッカーはなく、脱いだ服は竹籠に入れる
富士山を眺めながら43度を超える熱い湯に
桶はもちろんケロヨン

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昭和11年創業のたから湯と並び、秩父名所の一つと言ってもいいだろう

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秩父鉄道の開運列車
これを見た人には幸運が訪れるとか


 大みそかの夜は、23時半に宿を出て、除夜の鐘を聴きながら秩父神社に向かった。
 境内には一年間世話になったお札や破魔弓やダルマなどを燃やす浄めの火が焚かれ、その周囲で暖をとる人の輪が幾重にも広がっていた。
 やはり若い人が多い。

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秩父神社参道にあるレトロな煙草屋
夜見るとまた雰囲気がある

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秩父神社の境内で年の変わるのを待つ人々

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お好み焼きや甘酒などの屋台も出ていた

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4本の竹としめ縄で囲った結界の中で火が焚かれる

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瞳の入っていないダルマが燃やされていた
願い叶わず・・・か

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新年を迎えるとともに拝殿に行列する人々
日本人が無宗教ってのは何かの間違いだろう

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賽銭箱の中味もコロナ前に戻っただろうか?
おみくじは「大吉」でした

 初詣のあとは、冷えた体を温めるべく神社近くの居酒屋の暖簾をくぐり、武甲正宗を燗で。
 すっかりお屠蘇気分の帰り道、空を見上げると、北斗七星、北極星、オリオン、カシオペア、白鳥座・・・・久しぶりに見る満点の星に平和な一年を願った。

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荒川(巴橋から)


 元日には、市街地の広がる秩父盆地から荒川に架かる秩父公園橋を渡り、長尾根丘陵の展望台に登って武甲山参拝し、秩父ミューズパークの広がる尾根を越えて、小鹿野町まで歩いた。
 昨年の夏に歩いた札所32番法性寺から33番菊水寺への巡礼路に合流し、ようばけを右手に見送りながら、星音の湯でゴール。
 明治17年(1884年)に秩父事件の義士たちが取ったのと逆コースである。
 足の痛みも出現せず、これで今年、両神山に挑戦する自信がついた。


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長尾根丘陵の展望台からの風景

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小鹿野町にて両神山を望む

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星音の湯
16時半に入ったが、結構混んでいた

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湯上りに、秩父名物・豚肉の味噌漬け定食を堪能する


 この一年、生きとし生けるものが幸せでありますように!




 
 

● 今年一番の衝撃作 映画:『アンテベラム』(ジェラルド・ブッシュ&クリストファー・レンツ監督)

2021年アメリカ
106分

アンテベラム


 2022年もあと半月で終わろうとしているが、今年観た中で一番衝撃的な映画、それは間違いなく本作である。
 残り半月で、これを超えるものに出会えるとは思えない。

 どれくらい衝撃的かと言うと、ソルティは本作を2晩続けて観た。
 観終わったら、もういっぺん最初から観直さずにはいられないくらい、奸智に長けたトリッキーな作品なのだ。
 なんという脚本の隙の無さ! 
 なんという象徴性!
 一方、観終わってすぐに、早送りで観直すことはできなかった。
 内容が衝撃的すぎて、重すぎて、あっと驚くどんでん返しが仕組まれた他のよく出来たパズラーやサスペンスのようには、簡単に再生ボタンを押せなかったのである。

 この衝撃と重さに近い作品を上げるとするなら、テリー・ギリアム『未来世紀ブラジル』(1985)、ラース・フォン・トリアー監督『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000)、ジェニファー・ケント監督『ナイチンゲール』(2020)あたりだろうか。
 本作はジャンル的にはホラーサスペンスに分類されている。
 それは間違ってはいないけれど、むしろ社会派ドラマと言ってもいいくらい底の深い、現代的な内容である。
 たいして期待せず、暇つぶしの軽い気持ちで観始めたソルティは、途中で度肝を抜かし、居住まいを正し、胸を鷲づかみにされ、ラストは完全に持っていかれた。
 超弩級の問題作であるのは間違いない。

プランテーション

 アンテベラム(Antebellum)とは、ラテン語で「戦前」の意。
 アメリカでは特に「南北戦争前」の時代のことを指して言う。
 そのタイトル通り、本作は南北戦争時代のアメリカ南部の典型的な風景からスタートする。
 陽光降りそそぐプランテーション、緑鮮やかなる芝、影濃き木立、白亜のお屋敷、ドレスに日傘をまとった優雅な貴婦人、一面の綿花畑、風にはためくアメリカ連合国(南軍)の旗、軍服を着て銃を担ぎ行進する兵隊、そして庭や畑で働く黒人たち・・・・。
 かの名作『風と共に去りぬ』の幕開けシーンそのもの。

「ああ、これはコスチュームプレイ(時代劇)だったのか・・・」
 と、セットや美術の素晴らしさや照明・カメラワークの見事さに感心しながら観ている間もなく、惨たらしいシーンが続く。
 白人領主らによる黒人奴隷への虐待である。
 殴る、蹴る、銃殺する、レイプする、首に縄をかけて馬で引きずり回す、鞭で打つ、焼き鏝を背中に当てる、奴隷としての名前をつける・・・・e.t.c.
 目を覆うばかりの非道さ。

「ああ、これは『アンクル・トムの小屋』や『マンディンゴ』や『それでも夜は明ける』のような人種差別をテーマにした真面目な話なのか・・・」
 と、予想していたB級ホラーサスペンスとは異なる展開に、半ば残念な気持ちを抱きながらも“この時代の”黒人差別の酷さに怒りを覚えながら見続けていると、不意に場面は転じて、現代アメリカの高学歴高所得のインテリ黒人女性の日常へと話は飛ぶ。
 かつての黒人奴隷もいまや、人種差別・性差別撤廃のフェミニズムの闘士である。

「なにこれ? 二つの別の時代を交互に描いていく手法? あるいは、もしかしたら、輪廻転生がテーマ?」
 なるほど、DVDパッケージのデザインには輪廻転生の象徴である蝶があしらってある。
 また、映画の最初のクレジットには、アメリカの最も偉大な作家ウィリアム・フォークナーの言葉の引用があった。曰く、
「過去は決して死なない。過ぎ去ることさえしない」
 スピリチュアルホラーなのか・・・?

アメリカ連合国国旗
アメリカ連合国(南軍)の国旗
一般に、奴隷制や人種差別のシンボルとして忌避されている

 ここから先は書かない。
 蝶とフォークナーで暗示をかけられたソルティが真相を悟ったのは、物語もかなり進んでからであった。
 2度目の鑑賞により、真相を知る手がかりはあちこちに散りばめてあったことに気づいた。
 バイアスというのはままならない。

 真相を知った時、この身が震えるほどの衝撃が走った。
 それは見事にだまされていたことの衝撃だけではない。
 それ以上のものだ。
 暴かれた真相のあまりの狂気、あまりの非人間性、あまりの怖さ、そしてあまりの現代性に震えた。

 制作国であるアメリカでは本作の評価はかなり低かったらしい。
 そのことの意味を考えると、この映画が持っているホラーネス(怖さ)はいや増してくる。
 ただの陰謀論?
 いやいや、我々は、「カルト宗教団体が与党を支配している」という話を「陰謀論」と笑い飛ばせない現実を知っているではないか。

 はたして、松明を片手に高く掲げるヒロインの照らし出すものはなんなのか?
 軍服をはおり剣を空に突き立てジャンヌ・ダルクのごと馬駆けるヒロインが、帰る先はどこなのか?





おすすめ度 :★★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




 
 
 

● 宇宙も夢を見るのかしら? 本:『死は存在しない』(田坂広志著)

2022年光文社新書

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 副題は「最先端量子科学が示す新たな仮説」

 本書を読みながら、仙台に住んでいた30代の頃に出会ったディープエコロジーや精神世界関連のさまざまな本や人や言説のことを思い出した。90年代のことである。
 仙台の街中に、自然食品店&出版社『ぐりん・ぴいす&カタツムリ社』という店があった。
 経営者の加藤哲夫氏は、反原発運動やディープエコロジーの日本への紹介やHIV感染者の支援活動など、平和・環境・人権・食・市民活動・精神世界など幅広いヴィヴィッドなテーマを追究し、現場主義で実践行動していた人で、後年日本におけるNPO普及の立役者となった。
 自然、『ぐりん・ぴいす』は精神世界や市民活動(当時は「ボランティア活動」という呼称が一般だった)の情報の集積地&発信地となり、さまざまな分野の面白い人々が出入りする広場となった。
 ここにソルティも出入りするようになって、加藤哲夫氏の薫陶を受けながらいつのまにか市民活動にのめり込むようになったが、それと同時に、バブル真っ盛りの東京の20代会社員生活では触れたことのない新しい概念や思想と出会って、世界の見方が一変した。
 それが、ディープエコロジーであり精神世界であった。
 当時、周辺に飛びかっていた固有名詞やフレーズを思いつくままに上げると、

上田紀行『覚醒のネットワーク』、映画『ガイア・シンフォニー』、レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』、自然農、自然療法、マインドフルネス、個人と世界は繋がっている、心と体は繋がっている、思いは現実化する、百匹目の猿、ボディーワーク、聖なる予言、山川紘矢&亜希子、金子みすず、トランスパーソナル心理学、P・ドラッカー、ワークショップ、マヤの預言、アクエリアス革命、バシャール、NPO、ティク・ナット・ハン・・・e.t.c.
 
 三十過ぎのフリーターで、こういったものに進んで染まっていった自分を、ずいぶんと“怪しい”人間になってしまったと思った。
 「堅気=スーツを着たビジネスマン」という固定観念がまだまだ世間的にも個人的にも強かったし、ほとんどのビジネスマンは精神世界にも市民活動にも見向きもしなかった。(例外は経営コンサルタントでオカルティストであった船井幸雄の周辺くらい)
 
 田坂広志は1951年生まれ。東京大学工学部卒業、原子力工学博士。
 立派な肩書が並ぶプロフィールからは具体的にどういう仕事をしてきたのか良く分からないが、本人曰く、「科学者と研究者の道を歩んできた」理系の人。
 「21世紀の変革リーダー」を育成する田坂塾を経営しているというから、船井総合研究所を主宰していた船井幸雄と近いものを感じる。
 巻末には他の著作を紹介するページがあって、その膨大な量と広いテーマに驚かされる。
 PHP研究所はもちろん、東洋経済社、ダイヤモンド社、日本実業出版など、ビジネス書出版の王道を総なめしている。
 
 本書は、科学者である著者が、上に挙げたような90年代流行ったディープエコロジー&精神世界言説に、量子論や宇宙物理学といった最先端の科学による根拠を与えて、スピリチュアルを「非科学的」「いかがわしくて危ない」と言って敬遠する層(たとえば堅気のビジネスマン)にも受け入れやすくしたもの、という印象を受けた。
 それが著者が目指すところの「宗教と科学の架け橋」の意なのだろう。
  
 筆者は、あくまでも、「科学的・合理的な思考」によって、
  • なぜ、我々の人生において、「不思議な出来事」が起こるのか
  • なぜ、世の中には、「死後の世界」を想起させる現象が存在するのか
  • もし、「死後の世界」というものがあるならば、それは、どのようなものか
を解き明かしたいと考えた。そして、永遠の探究と思索の結果、たどりついたのが、最先端量子科学が提示する、この「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」である。

 「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」とは、この宇宙に普遍的に存在する「量子真空」の中に「ゼロ・ポイント・フィールド」と呼ばれる場があり、この場に、この宇宙のすべての出来事のすべての情報が、「波動情報」として「ホログラム原理」で「記録」されているという仮説なのである。 

 このゼロ・ポイント・フィールドには時間が存在しないので、我々の世界における「過去・現在・未来」のすべての情報が存在し、それは永遠に消滅しないという。
 祈りや瞑想によって心の技法を高めることによって、あるいは突発的な精神的な危機にあって、人は自我に覆われた通常意識を脱し、高次の意識の段階を通過し、ゼロ・ポイント・フィールドにある情報に触れることができる。
 予知や予感や占いやデ・ジャヴューやシンクロニシティや輪廻転生などの不思議な現象は、これで説明することができる。
 また、ゼロ・ポイント・フィールドは、善悪・真偽・美醜・愛憎・好悪・幸不幸・・・といった二項対立を超えた「すべては一つ」という超自我意識すなわち「愛」しか存在しない領域なのだという。
 つまり、それが宇宙意識であり、古来より人々が「神」や「仏」や「天」と呼びならわしてきたものの正体なのだという。

 我々の意識は、「現実世界」の「現実自己」が死を迎えた後、このゼロ・ポイント・フィールド内の「深層自己」に中心を移すのである。そして、フィールド内にすでに存在する様々な情報、フィールドに新たに記録される様々な情報と相互作用を続け、変化を続けていくのである。
 すなわち、死は存在しない。

光の波動
 
 新書なれど活字が大きくて改行も多い。
 科学素人にもわかりやすい砕いた説明をしていいるので、3~4時間あれば読み終えることができる。
 滅多に新刊本を買わないソルティが、駅の本屋で本書を見たとたん、「これは読まなきゃ!」と思って購入した。
 ゼロ・ポイント・フィールドはいったい何を企んでいるのだろう?
 
P.S. 別記事で書いたばかりのアーサー・C・クラークの有名なSF『幼年期の終わり』が、最後に登場したのにシンクロを感じた。




おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 晩秋の赤城山(黒檜山1828m、駒ケ岳1685m)

 JR高崎線、八高線の窓から見える赤城山は、黒々と大きな一匹のイグアナのように地平線に蟠っている。
 しかし、赤城山という名の峰は存在しない。
 赤城山は一つの火山体の総称であり、カルデラ湖である大沼と小沼を取り巻くように配列されている複数の山――黒檜山(くろびさん1828m)・駒ヶ岳(1685m)・地蔵岳(1674m)・長七郎山(1579m)・小地蔵岳(1574m)・鍋割山(1332m)・荒山(1572m)・鈴ヶ岳(1565 m)など――の集合である。

 なので、少なくとも上の8つの山を制覇しなければ、「赤城山を登った」とは言えないような気もするが、今回は最高峰である黒檜山と2番目に高い駒ケ岳を縦走し、大沼と小沼を愛でたので、「6割がた制覇」といったところか。

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JR八高線・児玉駅あたりから見た赤城山


● 歩行日 2022年10月26日(水)  
● 天気 晴れ
● 行程
07:32 JR前橋駅より関越交通バス乗車(赤城山線)
08:55 赤城山大洞(だいとう)下車
    歩行開始
09:20 大沼、赤城神社
09:35 黒檜山登山口
10:55 黒檜山頂上(1828m)
11:00 絶景ポイント
    昼食休憩
11:50 出発
13:00 駒ケ岳頂上(1685m)
13:20 出発
14:00 駒ケ岳登山口
14:05 覚満淵周遊
14:45 赤城公園ビジターセンター
    歩行終了
15:15 関越交通バス乗車
16:00 富士見温泉下車
● 最大標高 1828m
● 最大標高差 483m  
● 所要時間  5時間50分(歩行4時間20分+休憩1時間30分)

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前橋駅前からのバスは、群馬大付属小学校に通う
賢そうな児童たちでいっぱいだった。(今日は平日)

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赤城山大洞で下車
平日始発バスでの赤城入りは 7~8名だった

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大沼
火山活動によってできたカルデラ湖である
湖中に突き出た半島にパワースポットとしても有名な赤城神社がある

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赤城神社参道より啄木鳥橋を臨む
(修理中で渡れなかった)
標高約1340m、紅葉は湖畔にまばらに残るのみ

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赤城神社
創建不詳
ご神体はむろん赤城山
評判に違わず気持ちのいい空間だった

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賽銭箱には皇室ゆかりの菊および桐のご紋と並んで葵の紋も。
徳川家康も祀られているのだ

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黒檜山登山口
ここからいきなりの急登岩登りが続く
10分で息が切れた

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振り返れば絶景
対岸の見晴らし山と地蔵岳が大きい
きつい登りが報われる瞬間

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これが登山道だもん・・・

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やっと尾根に到達
クマザサの道が気持ちよい

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黒檜山頂上
絶景ポイントはこの先にある

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絶景ポイント
270度のパノラマビューに圧倒される!
ここで、おにぎり2個・ゆで卵・おしんこの昼食
日陰はさすがに肌寒かった

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鈴ヶ岳、榛名山の彼方、雪をうっすら纏った浅間山(西方面)

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子持山との間に広がる沼田市(西方面)

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中央に突き出て見えるのは尾瀬燧ケ岳と会津駒ケ岳か(北方面)

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名のよく知らぬ日光の山々(東方面)

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おぼろに霞む前橋・高崎(南方面)

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山頂にあった祠に手を合わせ、駒ケ岳に向かう

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尾根道にある御黒檜大神
ここも恰好のランチポイント

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駒ケ岳に向かう途中に小沼が見える

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天空にあって神秘的な輝きを放つ

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黒檜山と駒ケ岳の鞍部(大ダルミ)
70代くらいの地元の男性と雑談しながら歩く。
けもの道やイノシシの泥浴び場を教えてくれた。

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彼によると、昨今赤城山の木枯れが甚だしいとのこと
原因はカビ
たしかに白い斑点に覆われている木が多い
早めに処置しないと・・・

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こんなふうに木全体が腐ってしまう

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駒ケ岳頂上
ここで地元の方と別れる
道連れありがとうございました

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駒ケ岳山頂より大沼を望む
静謐なる20分の休憩

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赤城神社

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下山開始
黒檜山と駒ケ岳が見送ってくれた

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高度を下げると紅葉の絨毯が現れる

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下りは木や鉄の階段が多い
膝サポーターをつけて慎重に一歩一歩

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駒ケ岳登山口

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覚満淵
湧水と雨水によってできた湿原
木道を歩いて30~40分で一周できる
奥まったあたりは尾瀬の風景そのもの

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赤城公園ビジターセンターに到着
ケガも道迷いもなく無事下山できたことに感謝
帰りのバスを待ちながら足をマッサージ

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富士見温泉見晴らしの湯で途中下車
露天風呂から沈みゆく夕陽が見える素晴らしいロケーション
塩分の強いお湯が体を芯から温めてくれる
大人一日520円は大特価!


 富士見温泉から前橋駅に向かうバスで、50~60代の韓国人男性と知り合った。
 コロナ解禁で3年ぶりに日本に来れたと大喜び。
 聞けば、2日前に日本に着いて水上温泉泊、翌日谷川岳に登って前橋泊、今日赤城山に登り上野泊、明日成田から韓国に帰るそうな。
 なんつう強行軍。
 日本百名山を5年間ですべて制覇、赤城山は2度目とのこと。
 キリマンジャロ、マッターホルン、チベットの山々にも足を運んだ猛者。
 その気力と体力と財力は日本の中高年が失ったものか?
 恐るべし、韓国パワー。
 ちなみに日本の山では映画にもなった劔岳(つるぎだけ2999m)が一番きつかったと言っていた。
 (日本語を覚えるために木村大作監督『剣岳 点の記』を3回も観たそうだ)
 話好きで陽気な男だった。

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前橋市より望む赤城山
峰の重なりがよくわかる

「今宵限り」と言わず、新緑の頃にまた来たい











● 神保町でタロットカードを買う

 美智子上皇妃が皇后でおられた時、「今一番何がしたいですか?」と記者に問われ、「神保町に行って、ゆっくり古本探しをしたい」といったようなことを口にされた。
 「ああ、そんな簡単なこともできないんだなあ」と、庶民であることの幸福を感じたものである。
 これが同じ有名人でも芸能人ならば、ちょっと変装して(あるいは化粧を落として)一人で出歩くこともできよう。都会なら目立つこともないし、今はマスク姿が主流である。
 皇室の人が外出する時は必ずお車と警備がつくので、人目や時間や警備の労を気にせず、独りを楽しむことができない。
 居場所が分からなくなったら、それこそ『ローマの休日』のごと、宮内庁は上を下への大騒ぎであろう。
 
 誰にも行先を告げずに一人旅や山登りをする醍醐味の一つは、「今この時、家族や友人も含めて世界中の誰も自分の居場所を知らない」という脱俗気分を味わえることである。(携帯電話をOFFにする必要があるが)
 常に周囲に保護=監視されている生活は、いくら衣食住と安全が保障されようが、ソルティには耐え難い。
 
雲辺寺付近の峰峰
四国遍路第66番札所・雲辺寺近く
 
 美智子上皇妃が神田古書店街に行かれたのは、おそらく聖心女子大学に通っておられた独身時代の1950年代だろう。
 その頃の神保町はどんなふうだったのだろう?
 ソルティがはじめて足を踏み入れたのはやはり大学生だった80年代。
 新刊書店と古書店が、表通りや裏通りや仲通りに隙間なくならぶ光景に圧倒された。
 中古レコード店やビデオショップ、古風な喫茶店やエロ本屋などもあって、散策は楽しかった。
 爾来、時たま訪れて、銀ブラならぬ神(じん)ブラをして暇つぶしするようになったが、2000年代に入ってからは出版不況のあおりか、地価代高騰のためか、はたまた後継者の不在のためか、書店数が減っている印象があった。
 本屋だったところがたいがい飲食店になって、訪れるたびに街並みが変貌していた。
 「時代の流れには逆らえないよな」といささか残念に思っていたが、ネットで調べてみたら、地区の書店の店舗数は150~200くらいで昔と大きく変わってはいないらしい。
 減ったのは主に新刊書店で、古書店は50年以上の歴史を持つ老舗に加え、ブックカフェ形式のお洒落な古本屋が増えている。
 新陳代謝しているようだ。

 久しぶりに神ブラに出かけ、またしても街並みの変貌を目にした。
 大きいところでは、神保町交差点にあった“意識高いマダム系”映画館・岩波ホールが無くなった。
 三省堂書店の本社ビルは建替えのため、仮店舗で営業中。
 たしかにブックカフェがあちこちにあって、中を覗いてみると、荒俣宏のようなむさ苦しい本の虫といった親爺連中ではなくて、知的でお洒落な今風の若者たちがコーヒーカップを手に読書を楽しんでいた。

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建替え中の三省堂書店(靖国通り)

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 精神世界の本が充実していることで知られる書泉グランデに行った。
 4階フロアの一番目立つところにあるのは、なんとタロットカードコーナー。
 いま若い女性を中心にカード占いの大ブームなのであった。
 ソルティは浅草橋にできたタロットカード美術館に行きながらも、そのことを知らなかった。

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書泉グランデ4階のタロットカード売り場

 ただ、昨今のカード占いのメインは、伝統的なタロットカードよりも広く多様な領域をカーバーするオラクルカード。

「オラクル(oracle)=神託、大きな存在の言葉」を受け取るためのカード。占術としては、偶然性からメッセージをうけとる「卜術(ぼくじゅつ)」のひとつに位置づけられる。通常、40~50枚のカードとガイドブックで構成され、日本では2000年くらいから広く出版されるようになった。現在では、日本には数百種類のカードが出版されているといわれている。そのルーツは、聖書を使って占う書物占い(ビブリオマンシー)を現代風にしたものともいわれている。

占いカードを代表するタロットカードは、通常、大アルカナ(Major Arcana)22枚と小アルカナ(Minor Arcana)56枚で構成され、それぞれのカードとして描かれるモチーフも決まりがある。一方、オラクルカードには枚数や描かれるモチーフの決まりがなく、それぞれのカードの著者の世界観によるところが大きい。ここが、オラクルカードの大きな特徴ともいえる。
(ウィキペディア『オラクルカード』より抜粋)

 要は、カードの著者が「あたかも神託を受けたように」自分で絵柄を決めて、「あたかも神託を受けたように」一枚一枚のカードの意味なりメッセージなりを決めて、占いグッズとして売り出しているわけだ。
 数世紀の歴史を持つ伝統的なタロットカード派にしてみれば、スピリチュアル&ファンタジー志向を持つ若い女性をターゲットにした“イカ×マ”商売に見えるかもしれない。
 が、鏡リュウジ先生の著書『タロットの秘密』によれば、タロットカードもまた、もともと14世紀頃のイタリア貴族たちのカードゲームに過ぎなかったものが、印刷術の登場で庶民にも広がり、18世紀後半になってオカルトブームの興隆とともに秘教色を伴った占いグッズに変貌したという。
 つまり、どっちもどっち、トランプ占いと変わらない。

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 そうとは知っていても、タロットカードの絵柄は魅力的である。
 とくに、もっとも世界中で使われているウェイト=スミス版は、英国の秘教研究家アーサー・エドワード・ウェイトの指示のもと、1909年に画家のパメラ・コールドマン・スミスが描いたもので、神秘的かつ寓意的かつ芸術的なその絵柄は、深く人の心をとらえる暗示力を持っている。
 パメラ・スミスは画家としてもっと高い評価――少なくともオーブリー・ビアズリーや天野喜孝レベルの――を得てもいいと思うし、他にどんな作品を描いていたか知りたい。

 ちなみに、ソルティにとってタロットカードと言えば、少年時代に読んだ古賀新一の漫画『エコエコアザラク』の黒井ミサに極まる。
 怖かったなあ~。
 面白かったなあ~。

 というわけで、書泉グランデでウェイト=スミス版を1デッキ(セットではなくデッキと言うのが英語的に正しいそうだ)購入してしまった。

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大アルカナ22枚
小アルカナ56枚と合わせて78枚揃っている
アルミケースに入って1500円だった


 これからアヤシイ占い師を目指して、霊感を鍛えスピリチュアルトークの修行をして、老後の副収入にしようかな。
 年金はあてにならないし、そもそも額が少ないし。
 神保町にアヤシイ店を開くのも面白いかもしれない。




 

● マザームーンの嫁 本:『わが父 文鮮明の正体』(洪蘭淑著)

1998年文藝春秋
林四郎訳

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 原題は In the Shadow of the Moons――My Life in the Reverend Sun Myung Moon’s Family 「月の影――文鮮明一家における私の半生」 
 
 洪蘭淑(ホン・ナンスク)は1966年韓国生まれの女性。
 もっとも初期からの文鮮明の弟子であった両親の間に生まれ、15歳で文鮮明の長男・文孝進(ムン・ヒョウジン)と娶わせられる。もちろん、本人たちの意志や好みは関係なく。
 その後、アメリカの豪邸で文鮮明一家の傍らで姑の韓鶴子(ハン・ハクチャ)、いわゆるマザームーンに侍女のように仕えながら、10代で4人の子供を産む。
 統一教会後継者候補の妻という、世界中の信者が羨むような輝かしい地位と贅沢極まりない生活を手にしながら、彼女は不幸だった。
 その一番の原因は、夫・孝進のアルコールとドラッグ漬け、派手な女性関係、そしてDV(家庭内暴力)。
 1985年8月のある朝、ついに彼女は4人の子供を連れて屋敷を抜け出し、文一家とも統一教会とも袂を分かつ。

 これはフィクションではない。
 なので、こう言ってしまうと語弊があるが、「とんでもなく面白かった!」
 読んでいる間、「事実は小説より奇なり」という言葉が何度も浮かんだ。
 むろん、いま最もタイムリーでビビッド(鮮明)な話題であるからだが、それを抜きにしても、周囲の望むとおりに流されるまま生きてきた一人の従順な女性が、間違いに気づき、自らの頭で考え行動することを覚え、やがて自立するまでの半生を綴った成長ドラマとして読む価値が高い。
 カルト宗教や家庭問題やDVなどさまざまなテーマを含む内容の濃さ。
 教会および夫からの脱出劇というクライマックスに向けてページをめくる手が止まらない。
 文藝春秋は今こそ本書を文庫化して再発売してはどうだろうか。

壺1


 著者自身は文鮮明の長男の妻であり、著者の兄は文鮮明の長女の夫である、ということから明らかなように、長年、洪一家と文一家は密接な関係にあった。
 著者の父親・洪成杓(ホン・ソンピョ)は、統一教会を支える巨大ビジネス帝国の最初の敷石となった一和(イルファ)製薬の社長だった。
 著者はまた、文鮮明夫婦やその10人を超える子息子女たちと、14年間生活を共にしてきた。
 つまり、もっともよく文一家の実像を知る外部から来た人間というわけで、それだけにこの内幕暴露は信憑性が高い。
 教会の核である文一家の非常識きわまる実態や、中心に近づけば近づくほどに歪みと狂気が増す教会の出鱈目ぶりや怖ろしさが暴き出されている。

 今焦眉の「2世問題」もある。
 著者はまさに生まれついての信者であり、長じてから誰かから信仰を強制されたのでも、拉致監禁されて洗脳されたのでもない。
 統一教会の教義が当たり前である環境に生まれ育ち、文鮮明がメシアであることを小さい頃から疑うことなく受け入れてきた。

 私が経験したのは条件反射だった。人は画一的な精神をもつ人びとのあいだに隔離させられ、批判的思考よりも従順を高く評価するメッセージを雨あられと浴びせられると、信仰体系は常に強められる。教会に長く関係していればいるほど、これらの信心に身を捧げるようになる。十年後、二十年後、自分の信念が砂の上に立てられていたことを、たとえ自分自身に対してであっても、だれが認めたがるだろうか?
 確かに私は認めたくなかった。私は内部の人間だった。私は文師の甚だしい過失――息子の行動を許容していること、子供たちを殴ること、私に対する言葉による虐待――を許すほど充分に、文師から親切にされた。彼を許さないことは、私の全人生に疑問を抱くことだった。

 うがった見方をすれば、夫・孝進の目にあまる不品行やDVが彼女の“生まれついての洗脳状態”を解くのに役立ったわけで、それがなければ彼女はいまも教会にとどまって「マザームーン2世」になっていた可能性も否めない。
 
 ドメスティック・バイオレンスの典型的な事例としても読む価値が高い。
  • DVがどんなふうに始まり、激化していくか。
  • 被害者である妻が、加害者である夫を「私の力で救ってあげる」と勘違いする心理の綾。
  • なぜ被害者はそこから逃げようとしないのか、あるいは逃げられなくなるのか。
  • 被害者がようやく事態を客観的に見られるようになり、逃げだす決心をするまでの過程。
  • 被害者に周囲のサポートや法的・経済的支援が必要な理由
 本書を読むと、こういったことが手に取るように分かる。
 孝進は単に男尊女卑、亭主関白の風潮が強い韓国の夫というだけではなかった。
 著者が信仰する宗教組織の絶対君主のような教祖の息子で、次期リーダー候補でもあった。
 そこには結婚の当初から圧倒的な上下関係があったのである。

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 家族というテーマもある。
 いまや誰もが知るように、統一教会の教義の中心は「家庭至上主義」である。
 一対の純潔な男と女が、メシア文鮮明によって主宰される合同結婚により結ばれて、妻は夫に尽くし、夫は妻を守り、互いに相手を裏切らず、信者となるべき沢山の子供をつくり、愛情のうちに育てる。いわく、「家族とは、愛を育て、幸福と平和を学ぶ場所」。
 日本の戦前を思わせる男女観、結婚観、夫婦観、家族観がそこに見られる。
 当然、婚前交渉や浮気や不倫はもちろんのこと、夫婦別姓や同性婚はとんでもない悪魔的所業となる。

 ここでこの思想についての是非を論じることはしない。
 言及したいのは、こうした思想を説きまわった文鮮明が、まったく自らの教えと離反する行為ばかりしていたことである。
 本書によれば、文鮮明とマザームーンは13人の子供をもったが、いずれも生まれるそばから側近に預け、自らの手で育てることをしなかった。
 子供たちはあり余るお金で贅沢し放題、文夫妻の愛顧を得ようとする周囲の信者たちにかしずかれ、悪いことをしても叱られることも責任を取らされることもなく、つまるところ暴君のように育つ。
 また文鮮明は浮気を繰り返し、婚外子をもうけている。

 その息子孝進は十代の頃から見境なく女遊びをし、結婚してもまったく治まることがなかった。生まれてきた子供の誕生日も学年も知らない。
 孝進はアルコールとドラッグ漬けになり健康状態が悪化、著者との離婚が成立した後、40代で亡くなった。
 DV加害者として許されない人間であると思う一方、可哀想なところもある。
 両親から必要な愛情やしつけを受けることなく甘やかされて育ち、次代のメシアとして周囲から過重な期待が寄せられて、その孤独とプレッシャーは半端なかったであろう。
 ここにあるのは、虐待の連鎖であると同時に、典型的な「機能不全家庭」の姿である。
 これが教会の言う「愛を育て、幸福と平和を学ぶ場所」の最高モデルだった。
 著者が、この環境にいながら自らの4人の子供を愛情をもって育て上げ、文家の家風に感化させなかったことを誉めたたえたい。

壺2

 もう一点、我々日本人にとって看過できないテーマがある。
 日本が教会に対して果たし続けてきた役割である。

 日本は帝国的カルト発祥の地と言ってよい。19世紀、日本の天皇は神聖を宣言され、日本の民衆は古代の神々の子孫であると宣言された。第二次世界大戦後の1945年、連合国により廃止された国家神道は、日本人にその指導者たちを崇拝することを要求した。権威に対する従順と自己犠牲は、最高の美徳と考えられた。
 したがって、文鮮明のようなメシア的指導者にとって、日本が肥沃な資金調達地であることになんの不思議もない。年配の人びとには、自分たちの愛する者たちが霊界で平安な休息に達することを切実に望む気持ちがあるが、熱心な統一教会員たちはそれに目をつけた。彼らは何千人もの人びとに、これを買えば亡き家族は必ず天国に入れますよと言って、宗教的な壺や数珠、絵画を売りつけ、何百万ドルも巻き上げた。

 文師は日本との重要な金銭関係を神学用語で説明した。韓国は「アダム国」、日本は「エバ国」である。妻として、母として、日本は「お父様」の国である文鮮明の韓国を支えなければならない。この見方にはちょっとした復讐以上のものがある。文鮮明や統一教会におけるその信者も含めて、日本の35年間にわたる過酷な植民地統治を許している韓国人はほとんどいない。

 文鮮明および統一教会の基本ポリシーは「反日」「反共」。
 これは文鮮明自身が、子供時代に植民地政府である大日本帝国から様々な迫害や抑圧を受けたこと(たとえば朝鮮の全家庭には家に神棚と御真影を祀るよう命じられた)、青年時代に平壌で宣教を始めたときに共産党当局から睨まれて拷問を受け強制収容所送りとなったこと、が大きな要因となっているようだ。
 つまるところ、戦前・戦中に日本が朝鮮人に対して行った様々な所業が、回り回って、後年、日本の信者たちが韓国人である文鮮明に対して多大な賠償を払い続けなければならない結果となったわけで、その巡りあわせに因果応報という言葉すら浮かんだ。

 とは言え、安倍元首相を殺害した山上容疑者の場合をあげるまでもなく、家庭を崩壊させるほどのあこぎな集金活動や、人格を崩壊し親兄弟を分裂させる洗脳システムは、基本的人権尊重を掲げる法治国家としてとうてい見逃すことのできるものではない。
 本書で明らかにされた文一家の実態くらい、「宗教」や「平和」や「家族愛」という言葉からかけ離れたものはない。
 純潔と清貧と自己犠牲の心でもって教会に奉仕し、文一家を「神の家庭」と仰ぎ見ている末端の真面目な信者たちがあまりに哀れである。
 洪蘭淑はこう指弾する。

 統一教会の中心にある悪は、文一家の偽善とペテンである。一家は、その信じられないほどのレベルに達した機能障害のなかで、あまりにも人間的である。教会に引き込まれた理想主義的な若者たちよりも、文一家が霊的に優れているという神話を広め続けることは、恥ずべき欺瞞である。

 文鮮明は2012年に亡くなった。
 その息子たちが相次いで亡くなったり会と対立して離反したりで、現在80歳近いマザームーンが頼朝亡き後の北条政子の如く、君臨している。
 その後継者はいまだ決まっていない。

壺4




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損










● 東京タロット美術館に行く 

 昨年11月に浅草橋にオープンしたタロット美術館なるものに行ってみた。
 別にタロット占いに興味があったわけではない。
 約500種類のタロットカードが展示されているというので、図柄の美術性をこの目で見たくなった。
 運営は「ニチユ―」という名のタロットカード輸入販売会社。もともとは戦後に玩具販売会社として創業されたとのこと。

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JR総武線・浅草橋駅界隈

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「人形の久月」で有名

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駅から徒歩3分のビルの6階にある

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入口

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靴をスリッパに履き替えて受付に
(予約制、800円)

 受付でちょっとした趣向があった。
 置いてある籠の中からカードを一枚選ぶ。
 裏返すと、タロットカードの核となる22枚のカード(大アルカナと言う)のいずれかが現れる。
 大アルカナにはそれぞれ「愚者」「魔術師」「皇帝」「恋人」「運命の輪」「死神」「悪魔」「星」「太陽」「世界」などの表題がつけられ、それを表す図柄が描かれている。
 占う際にはカードの「正位置」と「逆位置(リバース)」に与えられている意味を読んでいくのが基本になる。が、重要なのはそのカードから得られた直観であるという。
 来場者は受付で引いたカードから得た直観をテーマに、館内で過ごしてほしいとのこと。
 ソルティが引いたのはこのカードであった。

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THE HERMIT
灯りを持つフクロウの図柄から「知恵」かなあと直感。

 館内には、実に多様なデザインのタロットカードが展示されているほか、企画展示コーナーやタロットカード入門書はじめ関連本を集めたライブラリー、ブローチなどオリジナルグッズ販売コーナー、サンプルカードを使って占いもできるフリースペース、それにワークショップや講演会を随時開催する小部屋などがあった。
 予約制のため静かなゆったりした雰囲気の中でじっくりと見学することができ、お茶のサービスもあった。

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撮影スポットから館内を撮る

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22枚の大アルカナ

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THE DEVIL『悪魔』
伝統的なデザイン

 やっぱり、圧倒されたのはタロットカードの種類の多さと図柄の芸術性。
 大昔(タロットカードの起源は15世紀西欧と言われている)からの伝統的な図柄はもちろん、ルネサンスの巨匠ボッティチェリやダ・ヴィンチ、アールヌーボのミュッシャやクリムトら有名画家の作品をアレンジしたもの、色彩・形象ユニークな現代美術風、キリストの生涯をテーマにしたもの、日本神話や北欧神話に材をとったもの、手塚治虫アニメのキャラクターたち(アトムやピノコなど)が描かれたもの、クマのプーさん、星の王子様、『パタリロ』や『翔んで埼玉』で知られる漫画家の魔夜峰夫デザイン、猫ちゃんデザイン、ゲイをテーマにしたもの・・・・e.t.c.

 まさに美術館というのにふさわしい一大コレクションで、時のたつのも忘れる面白さ。
 展示されているもの以外にも在庫は豊富にあり、カタログで図柄を確認することもできる。
 多くのカードはその場で購入できるようだ。
 ソルティは、ダ・ヴィンチカードとクリムトカードに強く惹かれるものがあったが、とりあえず概要を知りたいと思い――「知恵」が大切=直観!――鏡リュウジ先生の本を買った。 

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 この本によると、ソルティが引いた THE HERMIT のカードの意味は『隠者』。
 「時」「老人」「円熟」を象徴する。
 ひとりで過ごす静かな時間が魂を磨く、とあった。
 まさに今の自分にぴったりのカードではないか!




● 本:『無自己の体験』(バーナデット・ロバーツ著)

1982年原著刊行
1993年増補版刊行
2021年ナチュラルスピリット社(訳者:立花あゆみ)

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 本書の第1部「旅」は、1989年に『自己喪失の体験』というタイトルで紀伊国屋書店から刊行された。(訳者:雨宮一郎、志賀ミチ)
 ソルティはスピリチュアル・ショッピングをしていた30代の頃にそれを読んだ。
 元修道女だったキリスト教徒の普通の主婦におきた不思議な体験をつづったもので、読んだ印象としては、当時めるくまーる社より刊行されていた『クリシュナムルティの神秘体験』(中田周作訳)に似ていると思った。
 どちらも、自己感覚を喪うとともに訪れた強烈な“経験”を、言葉で表現できるぎりぎりのところで書き記そうとしたもので、文中にしばしば登場する「他在」とか「それ」とか「彼のもの」といった表現が、スピリチュアルなだけなくオカルト的な興味のツボを刺激した。
 要は、覚者(悟った人)の身に何が起こるのか、覚者は何を見ているのか、悟りとは何なのか――といったテーマ。
 その後、ロバーツは体験談を読んだ周囲の人からのさまざまな問いに答え、自らの体験についてより深い見地から考察を加え、続編となる第2部「さらなる観察」を書いた。
 このたびの新訳は、第1部「旅」と第2部「さらなる観察」の合本である。
 
 バーナデット・ロバーツは1931年生まれのアメリカ人。
 キリスト教の信仰深い家庭に育ち10代の頃より自然の中で神秘的な体験を重ねる。カルメル会修道女として10年間生活したのちに還俗して結婚、4人の子供の母となる。
 その後、40代になって本書で記されている体験に遭遇した。
 
 彼女の体験(=自己喪失の体験)は、2段階に分かれていた。
 
 第1段階は、自己と神との合一です。これは精神的な統合プロセスと並行しており、自己が、自らの静寂点かつ存在の源である神との永続的な合一を達成する過程で起こる、内なる試練や「暗夜」に焦点をあてます。このプロセスで私たちは、自己が失われないことを認識します。そればかりか、最も深奥の新しい自己が姿を現すのです。
 
 私たちが、自己も、最も密な神との結びつきも超えてさらに先へと進む準備ができたとき、「自己なき生」とも言うべき新しい生に突入します。第2段階の始まりであることのほかに自己の喪失と、喪失後に残る「それ」に遭遇することによって特徴づけられます。
 
 最初の旅(ソルティ注:第1段階)では、自分の本性と神の恩寵のあいだに激しい葛藤がありますが、最終的に「全体性」の中に吸収されるというパワフルな感覚に包まれます。自己エネルギーはもはや、神の永遠の活動とともに働くので、すべては外に向けて表現しなければなりません。同様にして、第二の旅(同:第2段階)でも最後に「合一」を体験しますが、それは最初の合一とは完全に異なるものです。つまりそれは、自己も神も合一さえも越えた「それ」自身の合一なのです。ここでは外に向けて表現するためのいかなるエネルギーも得られず、「すること」という行為の衝動のみが残されています。 

 簡潔に言うと、第1段階では自己と神とが合一し、第2段階では自己も神も喪失する「無=それ」に突入する。
 これを東洋的な悟りの概念に置き換えると、第1段階は「梵我一如」(昨今流行りの「非二元」)に、第2段階は「解脱」に相当するように思われる。
 キリスト教徒であるロバーツは、第1段階の「神との合一」までは過去の聖者の書き残した物などを読んで知っていたので驚かなかった。が、第2段階についてはキリスト教の教えや過去の聖典などには類似の現象が含まれず、わずかにキリスト教神秘主義者のマイスター・エックハルトの著作の中に暗示的に見られるだけで、非常に戸惑ったことが記述よりうかがわれる。
 
 仏教でも大乗仏教の修行のゴールは、「極楽浄土に行くこと」「良い転生を得ること」「菩薩や仏と一体化すること」が一般で、禅のみが曖昧ながらも第2段階を目指していると言えよう。
 初期仏教(小乗仏教)の流れを汲むテーラワーダ仏教では、4段階の悟りの階梯を説いている。曰く、預流果、一来果、不還果、阿羅漢果。
 ただし、サマタ瞑想(集中瞑想)で得られる「梵我一如」のような神秘体験はとりたてて重視されず、ヴィッパサナー瞑想(観察瞑想)によって「無常と無我と苦」の真理をとことん知って自己の幻想性を悟り、最終的には“自己のまったく無い”阿羅漢となって解脱することが勧められる。
 いわば、最初から第2段階を目指す旅だ。
 ここには、「究極の悟りとはなにか」「修行のゴールはどこにあるか」「悟るための方法はあるのか」という古来からの修行者の悩ましい問いかけ(妄想)が絡んでいる。
 
三人の尼
 
 キリスト教の環境で生まれ育ったロバーツは骨の髄までクリスチャンなので、本書で使われる用語や概念は必然、キリスト教的なものが多い。神にせよ、キリストにせよ、三位一体にせよ、恩寵や復活や十字架上の試練にせよ・・・・。
 その点で、キリスト教に馴染みのないソルティのような読者にしてみれば、単純にして深甚なる悟りの中味は措いといても、よく理解できない部分や共感できない解釈が多い。
 せっかく第2段階に至って「自己」や「神」という幻想から脱することができたのに――すなはち初期仏教でいう「阿羅漢」になったのに――なぜまた、神やキリストや聖書の文言を持ち出して、そこに新たな自己流の解釈を吹き込もうとするんだろう?――と不可解に思ったりする。
 
 その点をのぞけば、本書は「自己の正体」について関心をもつ者にとって、非常に示唆するところの多い、幾度でも読み返す価値のある良書である。
 
 ともかく自己がある限り、感情の構造は人生という土壌に根を張った頑強な木に成長し、大人たちの拠り所になります。そしてこの木の難点は、良い実も悪い実も結ぶことであり、実を生みだす力がある限りいずれかの実がなるということです。つまり、科学や文化の功績を生み出す知識が支払う対価には、多大な恩恵を与えてくれるものもありますが、リスクもあるわけで、しかもこの木に実を結ぶもので永遠なるものなどひとつもないのです。要するに自己は、人間が存在するうえでの一時的な側面であって、人は最終的に自己なしで生きることを学ばなければならず、それが今でないにしても、いずれその時がやってくるのです。

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おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 一回100万円ほどになります 本:『日本の呪術』(繁田信一著)


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2021年MdN新書

 MdNとは(株)エムディエヌコーポレーションのこと。
 1992年に設立した出版社で、「雑誌・書籍・ムック・インターネット・イベントを通して、グラフィックデザインやWebデザインのノウハウと可能性を伝える」(MdN公式ホームページより抜粋)
 『大人の塗り絵』シリーズやデザイン関係の書籍を多数刊行している。

 本書は、同じ著者による『呪いの都 平安京 呪詛・呪術・陰陽師』(吉川弘文館)同様、王朝時代を中心とした本邦の呪術に関する研究書&解説書である。
 繁田は他にも『平安貴族と陰陽師』『安倍晴明』など同じテーマの本をいくつか出している。
 このテーマがよほど好きなのだろう。

 例によって、『今昔物語』『小右記』『御堂関白記』『大鏡』『紫式部日記』『枕草子』といった幅広い歴史書、古典文学の精読をもとに、平安時代の陰陽師や密教僧による呪術の様子が浮き彫りにされていく。
 そもそもがマニア受けするオカルティックな話題で面白いエピソード豊富な上に、古文は適切に現代語訳され、各章末に「家庭の呪術」を紹介するコラムがついているなど、気軽に読めるものに仕上がっている。(時折、著者の癖なのか、回りくどい文章が気になる。「二度言うな」って突っ込みたくなる)

 一回の呪術に対して術者に支払われた報酬を現代の物価に換算するなど、生活に根差した具体的な記述が興味深かった。
 それによると、貴族の依頼に応じて民間の陰陽師(法師陰陽師)が呪術を行なう場合、一回100万円ほどの報酬が見込まれたというから、実にいい商売である。
 すでに僧侶として修業中の自分の息子を改めて陰陽師に転職させるかどうかで迷う貴族の父親の話が出てくるが、なんとも生臭くて人間的!(笑)
 相談された見識ある僧侶は、当然、これに反対する。

僧侶が仏法を離れて外法に携わるというのは、末永く仏の教えを捨てることなのです。
・・・・陰陽師になるというのは、地獄に堕ちる契機なのです。 

 安倍晴明のような選ばれた数少ない官人陰陽師は別として、民間の法師陰陽師はいかがわしく罪深い存在とみなされていたらしい。(この回答を聞いた父親がどう判断したかは残念ながら書かれていない)
 
晴明と道満
官人陰陽師の代表・安倍晴明(左)と
民間陰陽師の代表・蘆屋道満(右)

 最終章において著者は、現代日本人の呪術への憧れについて、“人を呪い殺したくなったことがある”自分自身を顧みながら分析し、その本質を「自分だけのズルへの憧れ」と述べている。

 少なくとも、著者の場合は、この現代日本において、自分だけが呪術を使える身になりたいのであって、現代の日本が、突如として、誰もが当たり前のように呪術を使える世界に変わってしまうことなど、これっぽっちも望んでいないし、また、誰もが当たり前のように呪術を使える異世界へと、著者自身が赴くことなども、少しも望んでいない。そんな世界は、むしろ、願い下げである。

 自分にとって邪魔な人間、憎い相手を呪い殺しても、今の法律では罰せられることはない。
 狙った獲物を相手にそれと気づかせることなしに思い通りにできる。
 手に縄が掛けられるおそれなく野望が果たせる。  
 「透明人間になれたら・・・」というエッチな下心を含む願いと同じようなものだろう。
 
 ソルティは実在する霊能者・寺尾玲子の活躍を描いた『ほん怖コミック』(朝日新聞出版発行)をたまに読むのだが、実によく呪術の話が出てくる。
 誰かの仕掛けた呪術によって日夜苦しめられている読者からの霊障相談を、寺尾玲子が驚異的な霊能力を用いて術者と術式を見抜き、様々な方法を用いて解決するという筋書きである。
 これがノンフィクションであってみれば、科学万能の現代日本でもかなり頻繁に呪術が行われているんだなあと変に感心する。 
 王朝時代も江戸時代も現代も、「ズルしたい」という人間の本質は基本変わっていないので、あって当然というべきなのだろうが。

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 考えてみれば、テーラワーダ仏教に伝わる「慈悲の瞑想」の効用をそれなりに信じて実践しているソルティもまた、呪術というかまじないを信じているのである。
 違いは、相手の不幸を願う代わりに幸福を願うところ。
 自分を害するような憎い相手、嫌いな相手の幸福を願うのは難しいところであるが、これにはそれなりの理屈がある。
 一つには、昔からよく言うように「人を呪わば穴二つ」、つまり呪術は必ず仕掛ける人間自身に何らかの形で戻って来て害をなすからである。
 人を呪うというその気持ち自体がすでに術者の中にマイナスエネルギーを生みだし、溜め込んでいく。
 それは術者の心身に悪い影響を及ぼすだけでなく、「類は友を呼ぶ」という言葉通り周囲の同じような悪いエネルギーと共鳴し合い、引き寄せてしまう。
 単純に言っても、顔つきが悪くなる。
 自分を呪う相手を呪い返すことは、自分もまたマイナスエネルギーの世界に足を踏み入れてしまうことになる。
 相手の思うつぼである。
 
 いま一つは、人が呪術に頼るほど誰かを恨んだり憎んだりしているとき、その人間は不幸のどん底にいるわけである。
 なので、自らに仕掛けられた呪術を解くには、仕掛けた相手に幸福になってもらうのが一番の得策であって、それには慈悲のエネルギーを相手に送るのが良い。
 柔よく剛を制す。
 
 ――というようなことをどこかで信じているのだから、ソルティも王朝時代の人々とたいして変わりなく、迷信深く、非科学的で、お目出たいのだろう。
 もちろん令和の現代では、ままならない周囲の状況を変えるには「ズルをする」という手だけでなく、ネットで問題提起するなり、味方を集めて運動や裁判を起こすなり、メディアを利用して世論を形成するなり、合理的で合法的な手段がある。
 それこそ、選挙権は日本のすべての成人に平等に与えられている呪符といったところ。
 無駄にしてはいけない。(おあとがよろしいようで)




おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 尾瀬まるごとデトックス(第2日)

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尾瀬の朝
湿原に立ち込めた霧は朝日が射すと舞い上がる
(燧小屋の窓から)

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燧小屋の1階廊下

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朝食
最近では珍しく、ご飯をお代わりした
高級ホテルの豪華で盛沢山の食事より、こういったメニューが好き

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さあ、出発!
至仏山(2,228m)を目指して尾瀬ヶ原に踏み入る


● 歩行日 2022年7月2日(土)  
● 天気 晴れ
● 行程
07:30 燧小屋出発(1,400m)
    歩行開始
08:00 竜宮十字路
09:00 牛首分岐
09:50 山ノ鼻、植物研究見本園
10:40 アイス休憩(20分)
12:30 鳩待峠(1,591m)
    歩行終了
12:40 連絡バス乗車
13:15 尾瀬戸倉着(1,420m)
    昼食
    温泉、ネイチャーセンター(尾瀬ぶらり館)
15:30 高速バス乗車(川越観光)
18:30 川越駅西口着
● 最大標高  1,591m
● 歩き標高差 191m
● 所要時間  5時間(歩行3時間30分+休憩1時間30分) 


7月初旬の尾瀬の花シリーズ2

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ワタスゲ(綿菅)

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拡大画像
カヤツリグサ科
花言葉「揺れる思い」

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ニッコウキスゲ(日光黄菅)
鹿の大好物のため数が減少している
蕾は中華料理にも使われるとか
尾瀬ではこれからが見頃

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カキツバタ(杜若)

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拡大画像
らごろも(唐衣)
つつなれにし(着つつ慣れにし)
ましあれば(妻しあれば)
るばるきぬる(はるばる来ぬる)
びをしぞおもふ(旅をしぞ思ふ)
――と平安の色男・在原業平が『伊勢物語』に詠んだ

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オゼヌマタイゲキ(尾瀬沼大戟)

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拡大画像(四季の山野草より)
名前とは裏腹に尾瀬沼にはほとんど見られず、
尾瀬ヶ原に咲いている


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牛首分岐

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池塘(ちとう)
湿原の泥炭層にできる水たまりのことを言う
尾瀬ヶ原には1800個以上の池塘がある

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池塘を覗いてみると

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イモリ(井守)や

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ルリイトトンボ(瑠璃糸蜻蛉)や

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燧ヶ岳の姿も!

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木立のない木道は直射日光をまともに受け、肌が灼かれる
が、いったん風が吹くと天にも昇る心地

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山ノ鼻にある尾瀬ロッジで一休み

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至仏山のふもとにある植物研究見本園を散策

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山ノ鼻からは森の中を200mほど登る

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木立が作る日陰がうれしい
前方から来るたくさんの尾瀬入りハイカーとすれ違う
週末はやっぱり混んでいる
梅雨明けと同時にコロナ明けの気配
マスクしている人も少なかった

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鳩待峠(1,591m)に到達し歩行終了
ここから連絡バスで尾瀬戸倉まで下りる(1000円)

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尾瀬戸倉にある「尾瀬ぶらり館」(東京電力の施設)
かすかな硫黄臭がする日帰り温泉(600円)に浸かり、
併設の尾瀬ネイチャーセンターで尾瀬の自然を学ぶ(無料)

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駐車場近くに弘法大師神社を発見!
お大師様を祭神とする神社をはじめて見た

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お堂内にはたしかにお大師様が安置されている
由緒書きがなかったが、いわれが気になる
よもや尾瀬に来てまでお大師様に会うとは!

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帰りは川越観光バス
昨日三平峠で会ったご婦人2人は姿を見せず
やはり間に合わなかったか・・・
帰りはシートを倒してほぼ熟睡

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次は燧ケ岳登山にチャレンジするかな?
尾瀬ほどリピーター率の高い観光地は他にないのでは?












● 尾瀬まるごとデトックス(第1日)

 猛暑続きの首都圏から一時的に逃がれ、鋭気を養うべく、4年ぶり2度目の尾瀬に行った。

 前回は、浅草から東武特急リバティに乗って会津高原駅下車。
 バスに乗り換え、奥会津の秘境・檜枝岐村を通過して沼山峠に。
 そこから尾瀬沼、見晴(みはらし)、尾瀬ヶ原、三条の滝、御池とめぐり、再び会津高原駅から帰途に着いた。
 つまり、インもアウトも福島県。

 今回は、群馬県から尾瀬入りして、群馬県から出るルートを選んだ。
 アクセスは首都圏と尾瀬戸倉(群馬県利根郡片品村)を結ぶ高速バスを往復利用(8000円)。
 宿は前回同様、見晴の燧(ひうち)小屋を取った。

 尾瀬は福島と群馬と新潟の県境にある。

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三平峠に設置されたマップ

● 歩行日 2022年7月1日(金)  
● 天気 晴れ
● 行程
07:30 川越駅西口より高速バス「尾瀬号」乗車(関越交通)
10:30 大清水着(1,190m)
11:00 低公害車両(小型バン)乗車
11:15 一ノ瀬着(1,420m)
    歩行開始
12:25 三平峠(1,762m)
    昼食休憩(30分)
13:10 尾瀬沼(三平下)
14:15 沼尻
16:35 見晴(1,400m)
    歩行終了
● 最大標高  1,762m
● 歩き標高差 362m
● 所要時間  5時間20分(歩行4時間+休憩1時間20分) 

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大清水(標高1,190m)
平日のため高速バスは非常に空いていた
尾瀬の入口、大清水もご覧の通り

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低公害車両(700円、30分ごとに出発)
木々の間の舗装路をゆっくり登っていく
地元の高齢者が運転している

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一ノ瀬(1,420m)
ここから歩行開始
もはや携帯のアンテナは立たず

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よく整備された木陰の道続きなので助かる

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いきなりバンビとの出会い
来た甲斐あった~

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尾瀬は清水の宝庫
ところどころにちょうど良く水場がある
もちろん味は格別!
  
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三平峠頂上(1,762m)
家から持ってきたパンを食べる
高齢女性の二人組と会話したが、予定を伺うとかなり厳しいプラン
明日の帰りは同じバスのようだが、大丈夫だろうか?

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尾瀬沼に到着
日本百名山・燧ケ岳(2,356m)を臨む
ここから沼の南岸を歩く
アップダウンの続く結構タフな道だった


7月初旬の尾瀬の花シリーズ1

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ミズバショウ(水芭蕉)に間に合った
成長しすぎて葉っぱは棕櫚かバナナのよう
便所タワシのような花は、可憐というよりグロテスク?

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タテヤマリンドウ(立山竜胆)
花言葉は「物思い」

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コバイケイソウ(小梅蕙草)
有毒なので花言葉どおり「遠くから見守る」べし

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レンゲツツジ(蓮華躑躅)
これも有毒で花言葉は「情熱」
カルメンのような花だ

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ハナニガナ(花苦菜)
その名の通り、齧ると苦いとか・・・


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沼尻
ここまででTシャツは汗でぐっちょり
上半身裸になって甲羅干しできるのも人が少ないゆえ

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沼尻からみる尾瀬沼
ここからまた山道に入る

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待ちに待った水場
天然のミネラルたっぷり

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電磁波が体から抜け、清新な“気”が満ちる
「ああ、体がデトックスを欲していたのか」と気づく

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やったー! 見晴(みはらし)だ!
至仏山を望む

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キャンプ場には色とりどりのテントが開く
これも夏の尾瀬の花

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燧(ひうち)小屋
見晴のちょっと奥まったところにあるので静かで落ち着く
檜風呂もじんわり気持ちいい

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夕食
地元の食材を使った素朴な味がうれしい
量もちょうどいい

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夕食後は夕焼け見物

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見とれていたら、脛を虫に刺されて痒いのなんの
尾瀬では短パンはNGと知る

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シャクナゲ(石楠花)色に染まった雲
明日も晴れるぞ!



第2日に続く
















● 漫画:『古事記』1~7巻(久松文雄・画)

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2009年~2019年青林堂

 久松文雄は1943年名古屋生まれの漫画家。
 『スーパージェッター』『冒険ガボテン島』が代表作らしいが、ソルティは読んだことがない。
 癖のない見やすい揺るぎないデッサンとシンプルなコマ割りは、こうした歴史物の漫画化にはもってこいである。
 最終巻に収録されているインタビューにおいて「できるだけ原本に忠実に漫画化」したと言っているように、いたずらに脚色したり誇張したりしていないので、『古事記』のあらすじは知りたいけれど原典を読むのはちょっと億劫、という人にはおススメである。
 ソルティは通りがかりの古本屋で見つけて全巻1400円で購入した。(amazonでは1冊1,026円で販売されている)

古事記
現存する日本最古の歴史書。712年成立。3巻。
天武天皇の命により稗田阿礼 (ひえだのあれ) が暗誦。これを元明天皇の詔により太安万侶 (おおのやすまろ) が撰録したもの。
『帝紀』『旧辞』を検討し、その正説を定めるという編集の根本方針により、神代から推古天皇までを内容とし、天皇の支配による国家の建設という意図により構成されている。
(旺文社『日本史事典』三訂版より)

 書かれていることのどこまでがフィクションでどこからが史実か――という詮索は措いといて、ソルティがもっとも好きな話はヤマトタケル(日本武尊)伝説である。
 父王(景行天皇)に忠儀を尽くすもそのあまりの武勇によりかえって遠ざけられ、父の命令に従って西に東に平定のため駆け回り、いつの日か故郷に戻って父に誉められることを願いながら若くして客死し、白鳥になった英雄。
 ちょうど、『鎌倉殿の13人』の源頼朝(大泉洋)と弟の義経(菅田将暉)の関係を思わせる。
 悲劇の英雄こそ日本人の心の琴線をかき鳴らす。
 東宝映画『日本誕生』では、かの三船敏郎がヤマトタケルに扮し、強さのうちにも賢さと優しさを秘めた真っ直ぐな日本男児像をつくりあげている。まさにはまり役。

ヤマトタケル
三峰神社にあるヤマトタケル像(埼玉県秩父市)

 『古事記』はつまるところ、古代天皇家の系図と事績を記したものである。
 その意味で考えさせられるのは、第25代武烈天皇と第26代継体天皇の間の隔絶である。
 系図によるとこの二人――天皇は神の子孫なので「二柱」と呼ぶのが適切らしい――は、なんと十親等も離れているのである。
 今の皇室に置き換えるならば、令和天皇のあとを明治天皇の弟の孫の孫が継いだ見当になる。(実際に明治天皇の兄弟は早世しているので、その系統は存在しない。ちなみに評論家の竹田恒泰は明治天皇の娘のひ孫、すなわち女系の子孫である)
 これは第25代武烈天皇の周辺に男系資格者がいなかったからということらしいが、「そんな遠いところからわざわざ持ってきたのか!」とビックリする。
 いったい、自分の十親等にあたる親戚をたどれる人がいるだろうか?
 まさに国続させるために選ばれし帝だったのだ!

 ソルティが本コミックを購入した一番の理由は、旅行や山登りに行ってその土地の神社を詣でたときに「祀られている神様のことを知りたい」、すなわち「土地の古くからの信仰を知りたい」と思ったからである。





おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● マルタン・デュ・ガール著『チボー家の人々』を読む 7

第1~13巻(1922~1940年発表)
1952年白水社より邦訳刊行
1984年白水Uブックス

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 前回6で『チボー家』の記事は終わりにするつもりだったが、全巻読み終わって(ブログを書き終わって)しばらくしてから、何か言い足りないことがあるような気がした。
 それは、「『チボー家』にはチボー(希望)がない」と言い切ってしまったことで、この作品が読むに値するものではないと思わせてしまうのではないか、という懸念と関連している。
 それはソルティの本意ではない。

 『チボー家の人々』はストーリー性豊かで面白いし、キャラクターがよく描けているので登場人物たちに愛着もてるし、青春について、恋愛について、家族について、戦争について、国家について、死について、生きる意味について、深く考えさせてくれる堂々の大河ドラマ、オールマイティ小説である。
 青春や恋愛や家族関係が主題となる前半に比べ、社会主義思想や第一次世界大戦がテーマとなる後半は内容的にも用語的にも難しく、とくに死を前にしたアントワーヌの内面を描く最終巻は思弁的・哲学的になる。
 言ってみれば、第1~7巻は中学~大学生レベル、第8~11巻は社会人レベル、第12~13巻は脱世間レベルといった趣き。
 読み手のレベルによっては、途中挫折もやむを得ないかもしれない。
 だんだんと深みを増していく小説なのである。 

 つまりそれは、主役であるアントワーヌの成長過程に即しているからである。
 アントワーヌの精神的成長に応じて内容も深化していく、あるいは世界情勢と身の上の深刻度に応じてアントワーヌの精神的成長が深まっていく。
 この物語の大きなテーマの一つは、アントワーヌという一人の男の精神的成長を描くことを通じて、「人間の成熟とはなにか?」を問うているところにあると思う。

 医師としての世間的成功と栄達だけを目的とし信仰心を持たない俗物的人間であったアントワーヌは、ラシェルとの恋愛によって世間に対する目がひらかれていく。
 医師として実力と自信を身に着け、父親の遺産で思い通りの生活を送れるようになったアントワーヌは、自分でも気づかぬうちに、伝統と慣習に固まった父親そっくりの保守主義者になる。人妻との浮気もお手のもの。
 が、第一次大戦が勃発し兵に取られ、戦場の悲惨を身をもって知ることで、人生観が一変する。
 自ら瀕死の患者となったことで、戦争の愚かさや国家の詐欺、ナショナリズムの馬鹿らしさを痛感する。
 個人的成功と栄誉のために生きてきた半生を後悔し、ようやく弟ジャックの生き方を理解し始める。
 だが、それももう遅い。
 医師である彼には自らの寿命の長くないことがわかる。 
 残り少ない時間のなか、アントワーヌは生きる意味について考える。
 
 《人生の意味いかん?》こうした無益な質問を、全面的に払いのけることはとうていできるものではない。このおれ自身にしても、わが身の過去を反芻しながら、いくたびとなく、こうわれとわが胸にたずねているのに気がつく。《それは何を意味しているのだろう?》と。
 ところで、それは、何を意味してもいないのだ。何一つ意味してなんぞいないのだ。こうした事実をみとめること、それははじめちょっとむずかしい。それというのも、骨の髄までしみこんだ、十八世紀間にわたるキリスト教というやつがあるからなのだ。だが、考えれば考えるだけ、そして、身のまわり、心の中をはっきりみつめればみつめるだけ、《それが何も意味していない》ことの明白な事実に直面せずにはいられない。何百万何千万という人間がこの地殻の上に生みだされ、それがほんの一瞬蠢動したと見るまに、やがて解体し、姿を消し、ほかの何百万何千万に取ってかわられる。しかも、そうやって取ってかわったものも、あすになれば解体する。そうしたつかの間の出現、それにはなんの《意味》もないのだ。人生には意味がない。そして、そうした仮の世にはかなく生きているあいだ、せめては不幸を少なくしようとつとめる以外、そこにはなんの意味もないのだ・・・・ 

 人間の《成熟した精神》がこのような結論に至るのは一種の不条理であろう。
 つまるところ、そこに信仰が、宗教が、介入する隙が生まれる。
 アントワーヌとジャックの父であるチボー氏は、神や天国を信じていたがゆえに、その死に際してすがるものを持ち得た。
 一方、神と決別したジャックもアントワーヌも、不条理のうちに死んでいくほかなかった。
 
 20世紀初頭にデュ・ガールが到達し小説の形で見事に描ききったこの「哲学的命題」は、答えのないままに21世紀に持ち越されている。
 だから、本小説は読み継がれる価値をいささかも失っていないのである。
 
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● 映画評論家の意義 映画:『岸辺の旅』(黒沢清監督)

2015年
128分

 オカルトファンタジーとでもいった作品。
 生者と死者との不思議な交流というテーマから、ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』やガス・ヴァン・サントの『追憶の森』を想起した。
 原作は湯本香樹実の同名小説。

 薮内瑞希(深津絵里)のもとにある日、3年前に行方不明となって死んだはずの夫・優介(浅野忠信)が戻ってきた。「ぼくは死んでるよ」と言う優介の言葉を瑞希はそのまま受け入れる。二人は優介のゆかりの場所を訪ねる旅に出る。さまざまな生者と死者の再会と別れの場に立ち会いながら、瑞希は優介の知られざる一面に気づく。

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浅野忠信と深津絵里

 第68回カンヌ国際映画祭「ある視点部門・監督賞」を獲っていることが示すように、ヨーロッパ受けしそうな大人の作品である。
 「日本人もやっとこういった映画を撮れるようになったのだなあ」としみじみ思ったが、なに、溝口健二、小津安二郎、木下恵介・・・・本邦こそ大人の鑑賞に値し世界に通じる映画をあまた輩出してきたのである。
 50~60年代の黄金期から70~90年代の停滞期を経て、いままた日本映画は興行的な部分は別として充実期に入っているのかもしれない。
 1955年生まれの黒沢清は、1956年生まれの周防正行、1962年生まれの是枝裕和と並んで、まさにその牽引者の一人と言っていいのだろう。(青山真治監督が今年3月に亡くなったのは残念なことであった。冥福を祈る)

 主演の浅野忠信が良い。
 ホントいい役者になった。イケメンというのではないが、顔がいい。
 生者と死者の中間的存在という、リアリティがあり過ぎても無さ過ぎてもストーリーが破綻してしまう難しい役柄を、人好きする顔とオレンジ色のコートにより絶妙に演じている。
 (ああ、このオレンジのコートゆえに『ベルリン・天使の詩』を、つまりピーター・フォークを思い出したのだ) 
 出番こそ少ないが蒼井優、小松政夫も良い。

 ヨーロッパ風の一因は、マーラーっぽいBGMのせいもある。
 いささか大仰な感もするのだが、国際賞狙いならこれもありか・・・・。  
 音楽は大友良英、江藤直子。
 
 黒沢清、周防正行、青山真治、『偶像と想像』や『ドライブ・マイ・カー』で世界の名だたる映画賞を総ナメし快進撃を続けている濱口竜介・・・・彼らに共通するのはフランス文学者で映画評論家の蓮實重彦の教え子であること。
 映画における評論家の意義というのを感じさせる。



 
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● I'll be back ! 映画:『ダニエル』(アダム・エジプト・モーティマー監督)

2019年アメリカ
100分

 統合失調症の青年を主人公とするサイコ・サスペンス。
 ティム・ロビンス&スーザン・サランドンの息子マイルズ・ロビンスと、アーノルド・シュワルツネッガーの息子パトリック・シュワルツネッガー、大スターの2世共演が見どころ。
 2人とも美形で、演技も悪くない。 
 
 精神障害を抱える母親に育てられたルーク(=マイケル・ロビンズ)は、孤独な幼少の時分に空想上の友達ダニエルを作って遊んでいた。が、ダニエルの本性に危険を感じた母親は、ルークに命じ、ダニエルをドールハウスに閉じ込めさせた。
 大学生になったルークは精神不安に陥り、自らの手でダニエル(=パトリック・シュワルツネッガー)を呼び戻してしまう。
 ダニエルの協力で自信と安定を得たルークは生気を取り戻し、しばらくは若者らしい日々をエンジョイする。
 しかしダニエルは次第に本性を現し始め、ルークの行動は破壊的なものになっていく。 

 「幼い時の空想上の友達」というネタは、『クワイエット・フレンド』など欧米の映画に昔からよく使われる。
 日本を含むアジア圏ではあまり馴染みないように思う。
 個人主義やプライベート空間が重視される西洋文化ならではの現象ではなかろうか。
 あるいはキリスト教文化と関係あるのか?

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 本作では、想像上の友達ダニエルはルーク少年の隠された裏の人格であり、いったん意識下に閉じ込められたものの、大人になったときにきっかけを得てふたたび顕在化した――という解釈で進行する。
 ルークのカウンセラーをはじめ他者から見た時それは統合失調症という病気と映るが、ルークの主観においては人格を乗っ取ろうとする悪魔とのリアルな闘いになる。
 もっとも、当初はルークの目にしか見えなかったダニエルは、クライマックスではカウンセラーやルークの恋人の前にも実体としてその姿を現し、直接的な暴力を振るう。
 すなわち、サイコサスペンスとして始まったものがオカルトホラーになる。
 ルークは、二重人格や統合失調症ではなく、悪魔憑きだったのである。
 この脚本はちょっと安易でシラけてしまった。
 (それとも、科学的な精神医療に対する宗教界からの反駁か?)
 
 映像的にときどき素晴らしいショットも見られるのだが、全般に画面が暗すぎる。
 観ていて疲れる。



おすすめ度 :

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● K 本:『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』(國分功一郎著)

 木島泰三著『自由意志の向こう側』を読んでスピノザに関心を持った。
 スピノザは無神論者であり、自由意志の存在を否定したという。
 原典を読むのは大変なので、スピノザの思想を簡潔に解説している本はないものかと探したところ、本書にあたった。
 著者の國分功一郎は、1974年千葉県生まれの学者。専門は哲学・現代思想。
 プロフィールに見る鋭角的な顔立ちが、いかにも頭脳明晰といった印象。

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スピノザ[1632-1677]
オランダの哲学者。初めユダヤ教を学んだがやがて批判的見解を抱き、教団から破門されて学問研究に専念。唯一の実体である神はすなわち自然であるとする汎神論を主張し、精神界と物質界の事象はすべて神の2属性の様態であると説いた。また、事物を神との必然的関係において直観することに伴う自足感を道徳の最高の理想とした。主著「エチカ」「知性改善論」など。(出典:『小学館デジタル大辞泉』) 

 上記の説明を読むと、スピノザが無神論者というのは正確でなく、汎神論者ということらしい。
 神即自然(この世界すべてがそのまま神のあらわれである)という考えが、世界を創造した超越的な唯一絶対神を信仰するユダヤ教やキリスト教の教えと反するがゆえ、無神論者と非難されたのである。
 自らがそこで生まれ育った揺籃たるユダヤ教を否定し、教会のみならず親族やコミュニティからの八分さえ恐れることなく、名利も追わず、一途に真実を求める男。
 なんてかっこいいヤツ!

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そう?

 國分はスピノザの思想の歴史的位置づけと現代的意義について、次のように書いている。

 やや象徴的に、スピノザの哲学は「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」を示す哲学である、と言うことができます。
 そのようにとらえる時、スピノザを読むことは、いま私たちが当たり前だと思っている物事や考え方が、決して当たり前ではないこと、別のあり方や考え方も十分にありうることを知る大きなきっかけになるはずです。(本書より。以下注記ないものは同じ)

 こんなふうに紹介してくれると、スピノザ理解の助けになる。
 スピノザの難しさは、言葉や言い回しや理論の難しさというより、我々の頭の中のOS(オペレーションシステム)を取り換えなければ何を言っているか分からないといった類いの難しさなのだ。
 そしてそれはスピノザの面白さでもある。
 木島泰三も書いていたが、スピノザを読むことで、自らに「認識のコペルニクス的転換」が生じる可能性がある!
 本書は、平易な言葉により、身近な「たとえ」を適宜用いながら、ポイントを絞って、スピノザの思想を紹介している。
 書名に偽りはない。スピノザ入門書としておススメである。

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 やはりソルティが一番気になるのは、スピノザの自由意志に関する見解である。
 没後に刊行された主著『エチカ』の中で、スピノザは次のように述べている。

 例えば人間が自らを自由であると思っているのは、すなわち彼らが自分は自由意志をもってあることをなしあるいはなさざることができると思っているのは、誤っている。そしてそうした誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識するが彼らをそれへ決定する諸原因はこれを知らないということにのみ存するのである。だから彼らの自由の観念なるものは彼らが自らの行動の原因を知らないということにあるのである。(第2部定理35備考)

 言い換えれば、「我々の行動は無意識によって決定されているにもかかわらず、我々はそれを自らの自由意志によって決定したと勘違いしている」ってことになろう。

 また、次のようにも述べている。

 精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他の原因によって決定され、このようにして無限に進む。(第2部定理48)

 これは仏教の因縁の教えそのものであり、自由意志論争における立場の一つである「因果的決定論」そのものであり、ユヴァル・ノア・ハラリの言うアルゴリズムそのものである。
 スピノザは明らかに自由意志の存在を否定するハード決定論者である。

 では、我々には自由がないのか、いや、そもそも何をもって自由と言うのか?
 スピノザはこの問いについても答えを用意している。

 自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。(第1部定義7)

 スピノザ(と國分)は、自由を「自らが原因となって何かをなすこと」すなわち「能動であること」と定義し、能動について話を進めていくのであるが、ここから先は本書にゆずるとして、ソルティが上記の文章でハッと思い当たったのは、20世紀が生んだ最高の賢者と言われる人の言葉であった。
 クリシュナムルティ(1895-1986)である。

 自分の思考が記憶の反応であり、記憶が機械的であるということを極めて明確に理解しなくてはなりません。知識はいつまでたっても不完全なままであり、知識から生じた思考はいかなるものであれ、限られています。そのような思考は部分的であり、決して自由ではありません。ですから、思考の自由というものは全く存在しないのです。しかしながら、思考プロセスではない自由を発掘し始めることは可能です。そしてその自由の中では、精神はそれ自体が受けているあらゆる条件づけ、それ自体に作用するあらゆる影響に単に気づいているだけなのです。
(クリシュナムルティ著『四季の瞑想』、コスモス・ライブラリー発行)

 クリシュナムルティは、人間は歴史や社会や風土や文化や宗教や教育やしつけやその他もろもろのものによって「条件づけられて」いるのであって、その条件づけからなされた一切の行為に真の自由はない、と説いた。
 人が自由を得るのは、あるいは自由な行為が可能となるのは、もろもろの条件付けに気づいた洞察がもたらす解放によってのみであり、そこには意志や欲望はもちろん思考や感情の出番はない。
 クリシュナムルティは、そうした解放の後にも「個人の独自性(individual uniqueness)」は残るとも言っている。
 それは「エゴ」ではなくて、「普遍的な生に固有の区別であり、個人性からすべてのエゴイズムが一掃された時に残る、個人性の純粋に抽象的なフォルム(型)」なのだという。(1928年のクリシュナムルティとE.A.ウッドハウスの対話より)
 スピノザの言う「自己の本然の必然性」という言葉と共鳴するものを感じる。

 さらに、クリシュナムルティはスピノザ同様、既存の神や宗教を徹底的に批判した無神論者であった。
 が、「あるがままのものが聖である」という言葉に見られるように、スピリチュアルなものを否定はしなかった。彼の自然に対する愛はつとに有名である。
 ある意味、汎神論に近いのではないかと思う。

 クリシュナムルティをとっかかりとして、スピノザの思想に近づけるのではなかろうか?
 ――という感触を持った。


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Gerd AltmannによるPixabayからの画像



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 2022秩父・春のお彼岸リトリート(前編)

 彼岸の3連休を利用して秩父入り。
 瞑想と読書と散策の日々を過ごした。

 今回は木島泰三著『自由意志の向こう側』という哲学本を持って行ったのだが、これがソルティには難しくて、なかなか消化できず、苦労した。
 実のところ、長時間瞑想すると、頭はスッキリするよりもむしろボーっとする。
 論理を追うのが下手になる。 
 リトリート瞑想中に読書するなら、学術書はあきらめて、易しい仏典かミステリーくらいにしておくべきかもしれない。(その代わり、瞑想から帰った後に頭が活性化する感はある)

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 総じて曇りがちで肌寒かったので、これ幸い、宿に閉じこもっていようと思っていたら、結局、秩父の魅力と春の花々に惹かれて散策三昧、結構な距離を歩いた。

 秩父盆地は大昔に荒川の流れが作った河岸段丘が有名で、荒川に架かる巨大な秩父公園橋から市街地方面を見やると、面白いように地形が段々になっているのが分かる。
 武甲山から続く山々の稜線を最高位とし、羊山公園・聖地公園のある丘陵が中段、西武秩父駅や秩父神社がある現在の市街地が低段、そこからまた一段下がってバーベキュー族が集まる今の荒川岸となる。
 こういう段丘を見ると、どうしても実際に足で登ったり下ったりしたくなるのがソルティの昔からの癖で、今回も市街地と聖地公園を分かつ、最も目立つ段丘の下まで足を運んでしまった。

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聖地公園の河岸段丘(標高差約140m)


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 登るか?
 登ろう!
 九十九折の坂道をちょっとゼイゼイしながら登りきると、ナチュラルファームシティ農園ホテルの裏に出る。
 展望台があった。

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正面:眼下に秩父第一小学校

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両神山がデカい

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左手(南側)

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右手(北側)

 また下りるのも癪なので、そのまま丘の上の住宅地を進んでいったら、「札所11番→」の道標があった。
 野道に踏み入る。
 しばらく畦道や林の中の小道が続く。
 それが鬱蒼とした山道になった。
 おそらく地元の人でも知らないような静かでステキな道である。
 途中にあった道標からして、どうやら横瀬町の札所と秩父市の札所とをつなぐ、かつての遍路道らしい。
 いい散歩道を発見した、ルン
 途中、武甲山とセメント工場の煙突に抱かれた横瀬町が望めた。

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武甲山

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横瀬町

 と、急激な便意を催した。
 マ、マズイ!
 こんなところにトイレなんかない。
 「の・ぐ・そ」の3文字が浮かぶ。
 誰も来そうもないし、このへんで・・・・。
 が、なんとティシュペーパーを持ってなかった。
 ヤ、ヤバイ!!
 漏れないようにこらえながら脚を速めたら、向こうからリュックを背負ったうら若き女性が現れた。
 や、やばかった~。
 札所11番の脇から国道に降りて、近くのコンビニにダッシュ!
 間に合った~
 
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 秩父鉄道の踏切を渡ると、秩父神社の前に出た。
 参詣す。
 ここの拝殿の周囲の壁は、いろいろな伝説や教訓をモチーフにしたカラフルな彫刻に覆われている。
 しばらく前から修復中だった西面の「お元気猿」が色彩鮮やかに披露されていた。


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秩父神社

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鳳凰

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「よく見て、よく聞いて、よく話す」(日光の三猿とは逆)


 ロシアとウクライナの人々が幸せでありますように!
 生きとし生けるものが幸せでありますように!



● 鬼との共生 狂言『清水』&蝋燭能『土蜘蛛』を観る


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日時 2022年2月26日(土)13:00~
会場 ウェスタ川越 大ホール
プログラム&主演者
① 仕舞 殺生石(せっしょうせき) 小島英明
② 仕舞 鵺(ぬえ) 奥川恒治
③ 狂言 清水(しみず) 野村萬斎
④ 能  土蜘蛛(つちくも) 小島英明

 知人からチケットを譲り受け、久しぶりに能楽に行った。
 野外での薪能(たきぎのう)は何度か見に行ったことがあるが、蝋燭能(ろうそくのう)は初めて。
 いったいどんなものなのか?

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ウェスタ川越

 約1700席あるホールは7~8割埋まった。
 人々がコロナと共生し始めているのを感じる。
 こうやって催し物が開催できるようになったのは観客にとっての朗報であるのはもちろん、出演者にとっても吉報である。
 開演前に「見どころ解説」をつとめた小島英明によると、コロナ禍で収入ゼロという月が何度もあったとか。
 また、演者にとっては、人に見られて喜ばれてこその芸であろう。

 本日のテーマは「能楽百鬼夜行」 
 妖怪や鬼が登場する狂言と能を集めたプログラムである。
 水木しげる的というか、京極夏彦的というか。
 わかりやすくストーリー性の高い、能楽初心者でも楽しめる工夫が感じられた。

① 仕舞:殺生石(せっしょうせき)
 これは那須野にある殺生石の謂れとなった金毛九尾の狐の物語。
 荒ぶる妖狐の霊を鎮める玄翁(げんのう)和尚の名は、大工仕事に使われる鉄製の槌、“ゲンノウ”の語源である。

② 仕舞:鵺(ぬえ)
 ソルティはすぐ岩下志麻の怪演が見どころの映画『悪霊島』(1981)のコピー、「鵺のなく夜はおそろしい」を思い起こす。この鵺はトラツグミという鳥の古称である。
 一方、こちらの鵺は、頭が猿、胴体がタヌキ、手足が虎、尾っぽが蛇というキメラ型怪物。
 鵺を退治したのは、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で以仁王(もちひとおう)と組んで平清盛討伐に乗り出したが、あえなく失敗した源頼政である。

鵺
恐ろしい?

③ 狂言:清水(しみず)
 野中の清水に出没し人を驚かす鬼の話であるが、これは本物の鬼ではなく、主人にギャフンと言わせようと企んだ使用人・太郎冠者の変装であった、という滑稽譚。
 太郎冠者を演じる野村萬斎はさすがの腕前。
 間の取り方、声の使い方、抑揚などに現代的な笑いの感覚を取り入れて客席を湧かす。
 伝統芸能という古い革袋に新しい酒を入れて成功させる力量は、狂言の世界だけでなく、テレビや映画や現代劇などいろいろな経験を積んでいればこそだろう。

④ 蝋燭能:土蜘蛛(つちぐも)
 蝋燭能は薪能と並んで古くからあったのかと思ったら、平成生まれとのこと。
 薪能の難点は開催が天候に左右されることである。
 ならば、室内でも可能な蝋燭能で幽玄な雰囲気だけでも味わおう、ということらしい。
 舞台の周囲に数十本の蝋燭が立てられたが、これは本物の火ではなく発光ダイオード。
 炎の揺らぎすら演出できるとか・・・。
 結局、上演中は客席は暗くとも舞台は照明でじゅうぶん明るいので、蝋燭の意味合いを感じとることはできなかった。

 それはともかく。
 シテで土蜘蛛を演じる小島英明の声の素晴らしさ。
 深みと力強さのあるバリトンが西洋音楽的な、つまりはオペラ的な色合いを舞台に醸す。
 そう、能とはつまるところ日本のオペラ(歌芝居)なのだ。

 土蜘蛛はもともと大和朝廷によって成敗された土着の豪族のこと。
 それがいつの間にか、人民を驚かし朝廷をおびやかす妖怪へと変化していった。
 土蜘蛛にしてみれば、大和朝廷こそ、住み慣れた先祖元来の土地から自分たちを追い出し、武力によって命を奪う恐ろしい妖怪と思ったはず。
 舞台上の土蜘蛛は、源頼光の命を受けて成敗に来た武者たちに向かって、白い糸(和紙で作られている)を吐き出す。
 ここがこの番組の見せ場であり、手元より縦横無尽に放射される滝のごとき蜘蛛の糸に、子供のころテレビで見た松旭斎天勝――もちろん三島由紀夫が子供の頃憧れた1代目でなく彼女の姪にあたる2代目天勝である――の水芸を思い出した。
 あれはきっと故郷を追われた土蜘蛛の涙なのだ。

 能楽は江戸時代まで猿楽と言った。
 能を大成した観阿弥や世阿弥などの猿楽師は、天皇を頂点とする身分社会において賤民、つまり被差別の民であった。
 それが天皇制を賛美し強化するような曲を書いて、自ら舞い踊る。
 その心は、妖怪を成敗する朝廷の側にあったのか、成敗される妖怪側にあったのか。 
 読経や武力によっては鎮めることのできない妖怪たちの積年の恨みは幾度もよみがえって、この世に舞い戻る。
 だから、能舞台には魂が宿り続けるのだろう。
 それは百鬼と化した怨霊を閉じ込め飼いならす装置であると同時に、虐げられし者の声を社会に受け入れられるかたちで伝え続ける装置なのだ。

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