ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●スピリチュアル

● ろくでもない、すばらしき 映画:『背徳の罠 死者のメッセージ』(ジャド・テイラー監督)

1987年アメリカ
95分

背徳の罠

 トミー・リー・ジョーンズと言っても、ピンとこない人は多いと思う。
 BOSSコーヒーのCMに出てくる宇宙人ジョーンズである。
 彼が39歳のときの作品である。
 
 トミーの役はカトリックの神父ジョセフ。
 治安のあまり良くない下町の教会に配属されて12年、その誠実さと奉仕の精神(とルックスの良さ)とで町民から信頼され慕われている。
 もちろん、独身である。
 そのジョセフに「死者のメッセージ」が寄せられ、「背徳の罠」が迫るというのだから、期待せずにはいられない。

 「メッセージ」とは何か?
 地獄に落ちた信徒からのHELPか?
 亡くなった師匠からの警告か?
 あるいは、悪魔に憑りつかれた少女からの脅しか?

 「背徳の罠」とは何か?
 敵対する組織が仕組んだセクシー美女たちの酒池肉林か?
 新月の夜に行われる魔女たちのサバトか?
 それとも、美少年の誘惑から始まる男色ワールドへの誘いか?

 オカルトとエロスがほどよくミックスされたドミニク・モル監督の『マンク~破戒僧』(2011)のようなものを想像していたのだが、1987年のハリウッドではそこまで冒涜的なものは作れなかった。
 題名倒れ、というか、思わせぶりなタイトルにつられ視聴するソルティのような助平を当て込んだ、誇大広告的邦題なのだった。
 原題は、BROKEN BOWS 「折れた弓」である。
 同じ類いに、クリント・イーストウッド主演の『白い肌の異常な夜』がある。原題は  The Beguiled  「だまされし者」。

 ふたを開ければ、オカルトもエロスもまったく関係ない真面目な映画で、一人の神父の信仰の危機を描いた作品であった。
 教区内で起きた画家殺人事件の謎を追うジョセフ神父が、被害者と付きあっていた美女と知り合い、ふつうに恋に陥り、自らの信仰に疑問を覚え、還俗するという話。
 これを「背徳」とは大げさ過ぎる。
 ポール・シュレイダー監督の『魂のゆくえ』(2017)のトラー牧師の懊悩と比べると、単純で、哲学性・社会性も浅い。
 況んや、2024年公開の『教皇選挙 Conclave』(エドワード・ベルガー監督)においてをや。
 宗教に対する西洋人の意識や態度もここ数十年で大きく変わった。

 とりわけ時代を感じさせたのは、カトリック教会と同性愛との距離感である。
 殺人事件の容疑者は、妻帯しているクローゼットのゲイの男なのだが、彼が少年の頃から抱えてきたセクシュアリティの悩みを、ジョセフ神父すなわちカトリック教会が受け止めることができなかったことが、事件の遠因となった。
 カトリックの教義を内面化し、自らを「邪悪」と決めつけ、「神から見放された」と思い込み、極刑を望む同性愛者の存在は、87年のアメリカでは珍しくなかったであろう。
 よもや、カトリック内部でこれほど神父による少年たちへの性的虐待がはびこっているとは、当時、知られていなかった。

 若きトミー・リー・ジョーンズは、セクシーで暗い眼差しが魅力的。
 還俗後の日本で、これほど長く宇宙人を演じることになるとは思いもよらなかったであろう。

缶コーヒー


 
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
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● 本:『カクレキリシタンの実像 日本人のキリスト教理解と受容』(宮崎賢太郎著)

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2014年吉川弘文館

 隠れキリシタンと聞いてソルティの脳裏に思い浮かぶイメージは、次の2つである。

 まず、遠藤周作著『沈黙』とマーティン・スコセッシ監督によるその映画化
 すなわち、徳川幕府の禁教政策下における迫害・殉教・潜伏のシリアスなイメージ。
 外国からの宣教師がいなくなったあとも、密かに暗がりに集まって十字架やマリア観音を拝みながら、キリストの教えと信仰を守り、子孫に伝え続ける敬虔な村人たちの姿。

 いま一つは、諸星大二郎のコミック『妖怪ハンター・生命の木』で描かれた、東北の山中の「かくれキリシタン」の末裔が暮らす部落の物語。
 こちらは、聖ジョン(ヨハネ)を「さんじゅわん(3人のじゅわん)」と解したり、ジーザス(イエス)を「善ず」となまったり、300年以上の潜伏で変容しきったキリスト教の奇怪な姿が描き出され、しまいには「おらといっしょに、ぱらいそさ、いくだ‼」の衝撃展開。
 コミカルなまでの邪教色と怪奇色。
 諸星の非凡な創造力に感嘆した。

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 本書を読む前に、いくつかの疑問があった。
  1.  なぜ戦国・江戸時代にこれほど多くの民がキリスト教に改宗したのか?(江戸初期において総人口の約3%=約30万人)
  2.  彼らはどこまでキリスト教を理解していたのか?
  3.  なぜ秀吉や家康はキリスト教を禁止したのか?
  4.  なぜ多くのキリシタンは迫害にかかわらず棄教しなかったのか?
  5.  隠れキリシタンはいつまで存在したのか?
 著者の宮崎賢太郎は、1950年長崎生まれ。
 学生時代に地元長崎の生月島のカクレキリシタンのフィールドワークを行ったことをきっかけに、30年以上にわたり長崎県下のカクレキリシタンの調査研究を行ってきた。
 本書には、長年の研究から見えたカクレキリシタンの実像が報告されている。
 それは冒頭に書いたソルティの2つの「隠れキリシタン」イメージとは相当に異なるものであった。

 ここで宮崎が「カクレキリシタン」というカタカナ表記を用いたのには理由がある。
 徳川幕府がキリスト教を禁止し外国人宣教師を追放・抹殺してから、キリシタンは地下に潜らなければならなくなった。実際に“隠れ”る必要があった。
 が、明治に入って1973年に禁教令が撤廃されたあと、江戸時代から先祖代々のキリシタン信仰を守り続けてきた人々は、キリシタンであることを秘して“隠れ”る必要はなくなった。
 この両者を同じ「隠れキリシタン」という言葉で表現するのは適当でないからである。
 そこで宮崎は、キリシタン禁教令が出されていた江戸時代の信徒を「潜伏キリシタン」、禁教令が撤廃された後も潜伏時代の信仰形態を続けている人々を「カクレキリシタン」と区別しているのである。

 なので本書は、主として、明治~昭和・平成までのカクレキリシタンの実態について書かれているわけであるが、かと言って、潜伏キリシタンとカクレキリシタンの信仰形態に大きな違いがあるわけではない。
 重要なのは、宣教師がいなくなって日本人キリシタンだけになってから、もともとのキリスト教の教義が失われ、儀礼の方法も自己流になっていき、代が変わるにつれ変容の度合いを深め、表面上はキリスト教っぽい形態を残しながらも中身はまったく異なるものに様変わりしたという点である。

 本書は、1549年にフランシスコ・ザビエルによってキリスト教が日本にもたらされた経緯からはじまって、キリシタンが爆発的に増えた理由や日本人の理解レベル、秀吉や家康が禁教令を出した理由、転ばずに殉教を選んだ者の心理、潜伏時代のキリシタンの状況、そして明治以降のカクレキリシタンの信仰に関する実態――組織形態、信仰対象、祈り、行事、洗礼・葬送儀礼、本書執筆時における現状など――が、読みやすくまとめられている。
 小説や漫画やマスメディアを通して得られる紋切り型のイメージではなく、地道で粘り強い長年のフィールドワークを通して得られた研究結果であるだけに信頼が置けるし、そうした実証的な報告によらずにイメージだけで何かを判断することの軽率さとリスクを思わされた。

ザビエル銅像
鹿児島市内にあるフランシスコ・ザビエルの肖像
教科書の肖像画とまったく似てない
 
 宮崎は、江戸時代の潜伏キリシタン、および明治以降のカクレキリシタンの実像について、以下のように述べている。

 唯一絶対なる神の存在を説くキリスト教に改宗することは、仏壇や位牌も焼き捨て、その他あらゆる日本の諸神仏は偽りの神として否定するということにほかなりません。
 ご先祖様をこれほど大切にする日本人が、そんなに簡単に仏壇や位牌を焼き捨てることができたはずがありません。筆者は高山右近のような一部の例外的な人物を除けば、日本人の中で本当の(一神教としての)キリスト教信仰を理解し、実践することができた人はほとんどいなかったのではなかろうかと考えています。

 キリシタンは南蛮渡来の新たな仏教の一派として、在来の神仏よりも一層願いを叶えてくれる力ある神として仲間に加えられたのです。・・・・神も仏も、キリストもマリアも、彼らの願いを等しく叶えてくれるありがたい存在であり、在来の多神教的神仏信仰の上にさらにキリシタンという新たな神を一つ重ねたにすぎませんでした。

 カクレキリシタンは隠れているのでもなければ、キリスト教徒でもなく、キリスト教的雰囲気を醸し出す衣をまとった典型的な日本の民俗宗教の一つといっていいでしょう。

 カクレキリシタン信仰の本質を一言で言い表すとすれば「フェティシズム的タタリ信仰」といえるのではないでしょうか。

 潜伏時代より明治以降現代に至るまで、日本におけるキリシタン信仰の本質はキリスト教と見なすことができるようなものではなく、日本の民衆社会における呪術的信仰に根ざしたものであるということができるでしょう。

 まったくのところ、日本における仏教受容の様相と変わるところがない。
 末木文美士著『日本仏教史』の記述を思い出した。

 こうした仏教の受容の仕方は、単にその時点だけの問題だけでなく、日本仏教全体の問題として後まで尾を引くことになる。すなわち、法(教理・思想)や僧(教団)よりも仏の崇拝が中心であること、難しい理論ではなく現世利益が重んじられること(のちにはこれに死者供養が加わる)、古来の神の崇拝と一体化することなど・・・

 つまるところ、日本の民衆がキリスト教を理解することはなく、日本にキリスト教が根付くことはなかったのである。

 本書により、冒頭の5つの疑問に対する答えが得られた。

1 なぜ戦国・江戸時代にこれほど多くの民がキリスト教に改宗したのか?
 イエズス会は上層から下層への改宗を企んだ。
 つまり、日本の厳しい身分制度を利用して、トップ(大名)をまず改宗させ、下の者がそれに倣うよう仕向けた。また、できるだけ早く信徒を増やすため、とりあえず洗礼を授けることを優先した。
 トップの者が改宗した一番の理由は、南蛮貿易の利得のためであった。

2 彼らはどこまでキリスト教を理解していたのか?
 上記引用どおり。
 カクレキリシタンに伝わる祈り(オラショという)では、キリスト教における重要な用語にいろいろな漢字が当てられた。たとえば、
   デウス(Deus=神)⇒出臼
   ヒィリョウ(Fillio=キリスト)⇒肥料
   サンタマリア(Sancta Maris=聖母マリア) ⇒三太丸屋
   クロス(Cruz=十字架) ⇒黒須
 こうした例を見ても、原義をほとんど理解しておらず、音(オン)だけを呪文のように大切に唱えていたことが知られる。(考えてみれば、お経の場合も同じではないか)
 諸星大二郎の『生命の木』の話もまったく奇想天外というわけではなく、実際にサン・ジョン(聖ヨハネ)を「三じわん様」と誤って理解していた例もあった。  

3 なぜ秀吉や家康はキリスト教を禁止したのか?
 かつて高校時代の日本史の授業で、「キリスト教の“神の前ではみな平等”という思想が、江戸時代の身分制度を崩壊させる危険があったため」というもっともらしい説明を聞き、そのまま覚えこんだものだが、考えてみるとこの理由はおかしい。
 ヨーロッパ封建時代にキリスト教が全盛を極めた事実と矛盾するからだ。
 現今の日本史教科書(山川出版)には次のように書かれている。

 家康に禁教を決意させたのは、あらたに来日したオランダ人やイギリス人が、スペインやポルトガルの植民地政策の危険を説いたからでもあった。

 一般にキリシタン一揆と言われる島原・天草の乱も、厳しい禁教政策と過酷な年貢の取り立ての結果として起こったのであって、そこに何か体制転覆的な(民権運動的な)性格を見るのは筋違いであろう。
 そういえば、ソルティの高校時代の日本史の先生は全共闘世代だった。

4 なぜ多くのキリシタンは迫害にかかわらず棄教しなかったのか?
 宮崎は次のように推測している。
 まず、大名や武士の場合。

 キリシタンを捨てなければ殺されるからといって、死を恐れて神を捨ててしまう行為は、武士にあるまじき卑怯な振る舞いであり、命より大切な武士としての名誉を失い、恥辱を受けることになってしまうからです。キリストのためではなく武士としての己の名誉を守るための道を選んだのです。

 農民や漁師など民衆の場合。

 日本人は目新しいキリシタン風の衣をまといはしましたが、その下にある現世利益を求める呪術信仰という性格にはほとんど変化はなかったといってよいでしょう。キリシタンに改宗した民衆も、このようなありがたいキリシタンの神をいただいたわけですから、それを捨てろと言われても簡単には捨てられなくなったわけです。

 ちょっと、この理由づけは説得力に欠く気がする。武士の場合の「名誉」のように、命に代えてでも守りたかった、あるいは失いたくなかった何かがあったと思うのだが・・・。
 むしろ、幕末に起きた浦上教徒殉教事件に関して、中村博武(プール学院大学短期大学部)が著書『宣教と変容 明治期キリスト教の基礎的研究』(思文閣)の中で述べている次の説のほうが納得いく。

 浦上の信徒が棄教しなかった外的要因は、村全体で隠し続けてきた共同体の強い精神的絆が断絶しないようにするためであり、内的要因としては、もし棄教すれば、先祖代々隠れて守り伝えてきた祖先や家族との信仰の結びつきが断ち切られることになり、信仰共同体から仲間外れにされることへの恐れであった。

 仲間外れにされることの恐れ・・・・。
 つまり、日本人お得意の「同調圧力」が作用したという見解である。

5 隠れキリシタンはいつまで存在したのか?
 潜伏キリシタンが存在したのは、禁教令が解かれる1873年までである。
 カクレキリシタンは、昭和20年代には九州地方を中心に3万人弱いたらしいが、高齢化と人口減などのため組織の解散が加速し、現在、数えられるくらいしかいない。

マリア観音
秩父美術館のマリア観音

 宮崎は、日本の民衆の間に根付いている諸宗教の特徴として、4点を挙げている。
  1.  重層信仰・・・・・神道、仏教、儒教、修験道、民間信仰などのごった煮
  2.  祖先崇拝・・・・・「家」制度を根底に持つ先祖供養
  3.  現世利益志向・・・商売繁盛、無病息災、五穀豊穣、大漁満足、良縁祈願、厄除開運
  4.  儀礼主義・・・・・教義(ナカミ)の理解よりも儀礼(カタチ)の継続が大切 
 まったくその通りだと思う。
 唯一絶対神を崇拝し、来世志向で教義(教典)重視のキリスト教やイスラム教とはまったく異なる。
 布教や信教の自由が保障されている現在の日本でも、キリスト教の布教はうまくいっていない。
 お隣韓国では人口の30%がクリスチャンだというのに、日本ではカトリックとプロテスタント合わせても1%に満たない。
 いや、キリスト教だけではない。
 仏教もまた、本来の釈迦仏教(原始仏教)は長いこと日本に広まることはなく、上記4つの特徴を兼ね備えた大乗仏教がもてはやされてきた。
 ソルティは原始仏教に近いと言われるテーラワーダ仏教を学んでいるけれど、それが変容を遂げることなしに多くの日本人に取り込まれることはまずないだろう。
 遠藤周作はこのような日本人の根底にある宗教風土を「沼」と表現した。
 カクレキリシタンの実像は、まさに日本人の「沼」的宗教観の典型を示すものなのである。




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● 映画:『サッパルー!街を騒がす幽霊が元カノだった件』(ティティ・シーヌアン監督)

2023年タイ
125分

サッパルー

 サッパルー(สปั เหร่อ)とはタイ語で「葬儀屋」の意。
 貞子系ホラー+ゆるコメディ+VFX恋愛スピリチュアル+『おくりびと』系人生ドラマ=ウミウシ映画といった感じ。
 タイでは2023年の興行収入ランキング1位、日本円で30億円越えの大ヒットを記録し、数々の賞を受賞している。

 期待してレンタルしたのだが、ちょっと拍子抜け。
 つまらなくはないし、凡庸でもないし、演出や映像も悪くないし、役者も個性的で楽しい。
 が、ホラーとしては怖くないし、コメディとしては爆笑するようなところもないし、恋愛映画としては状況が説明不足だし、人生ドラマとしてはまさに『おくりびと』の二番煎じで目新しくはない。
 日本人からしてみれば、なにがそんなにタイ人にウケたのだろう?――と不思議に思うのだが、おそらく本作の地方色――東北方言が強いため標準タイ語の字幕がつけられたという――が、日本に置き換えて言えば、全編山形弁の秘境風土映画みたいな新奇さを与えたのではないかと推測する。

 ストーリーは、妊娠中の女性バイカーオが首つり自殺するというショッキングな映像から始まる。
 恨みをかかえ成仏できずにいるバイカーオの霊があちこち出没し、村中大パニックになる。
 ここまでは順当に正統派ゴーストホラーなのだが、そのあと、彼女の元カレのシアンが出てきて、「今でもバイカーオが好きだ。幽体離脱して再会したい」と言い出し、その秘訣を知る村でただ一人のサッパルー(葬儀屋)に弟子入りし教えを乞う。流れはコメディ&恋愛スピリチュアル路線に転じる。
 シアンは幽体離脱に成功し、幽現界(?)でバイカーオに再会し、思いを伝えることができた。
 なんだかよくわからない。

 バイカーオが成仏できない理由は、普通に考えれば、元カレのシアンではなく、彼女を妊娠させ自殺するまでに追い込んだ今カレとの関係が原因であろう。
 バイカーオが恨みを果たすべき相手は、今カレであるべきだ。
 が、なぜか本作には今カレは姿を現さず、バイカーオが自殺するに至った経緯も描かれない。
 バイカーオの霊が最終的に成仏できたのかどうかも判然としない。
 シアンの自己満足が描かれるだけ。
 なんという中途半端。
 
 一方、村でただ一人の葬儀屋ザックは病魔に侵されている。
 誰かに仕事を継いでほしいが、都会の弁護士を目指すインテリの息子ジャックをはじめ、成り手がいない。
 そのうちザックの病状が悪化し、ジャックとシアンは仕方なく代理で葬儀を執り行うことになる。
 数々の現場を回るうちに、ジャックはサッパルーの仕事の大切さを知るようになる。
 ここはまさに『おくりびと』的ドラマである。
 この部分では、タイの地方の風変わりな葬送儀礼が描かれていて興味深い。(どこまで事実なのかわからないが)

 葬送儀礼ってのは、その土地に住む人間の、あるいは特定の宗教を信仰する人間の死生観、来世観が象徴的に示されている。時代によっても違う。
 ちょっと調べてみると面白いかも。


 
 
おすすめ度 :★★

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● 衝撃の70秒 映画:『黒の牛』(蔦哲一朗監督)

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2024年日本、台湾、アメリカ
114分、白黒&カラー

 禅の十牛図がモチーフになっている。

十牛図(じゅうぎゅうず)は、悟りにいたる10の段階を10枚の図と詩で表したもの。「真の自己」が牛の姿で表されているため十牛図といい、真の自己を求める自己は牧人(牧者)の姿で表されている。十牛禅図や牧牛図ともいう。作者は、中国北宋時代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵。
(ウィキペディア『十牛図』より抜粋)

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尋牛(牛を探す)
 
 ソルティが十牛図を初めて知ったのは、今から30年前の30代前半。
 バグワン・シュリ・ラジニーシ(osho)の講話録『究極の旅』という本によってであった。
 当時、ずいぶんラジニーシにはまった。
 数冊立て続けに読んだ。
 今なら、ラジニーシがいかにいかがわしく危険な男であるかをネットで知ることができるけれど、当時ネットなどなかった。
 生と死の神秘を授けてくれるインドの覚者、といったイメージを抱いた。
 内容は忘れてしまったけれど、ラジニーシの解き明かす十牛図は魅力的だった。
 その後、ラジニーシを糾弾する元信者の本『堕ちた神(グル)』(第三書館)を読んだこともあって、ソルティの関心はクリシュナムルティに移っていった。
 精神世界の旅人が通る道である。

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見跡(牛の足跡を見つける)

 いまひとつ。
 十牛図と言えば、京極夏彦の『鉄鼠の檻』である。
 悟りを求める修行僧たちが起居する禅寺で起こる殺人事件の解明をめぐって、探偵役の中禅寺秋彦が十牛図に触れる箇所があった。
 このとき、十牛図はもともと八牛図であって、最後の二図はのちに廓庵が付け加えたという説があるのを知った。

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見牛(牛を見つける)

 十牛図をどう解釈するか、牛を何の比喩ととらえるかは、いろいろな説がある。
 牛=「真の自己」「悟り」「仏性」「心」「真理」「私(自我)」・・・など、解釈はさまざま。
 その曖昧さと多義性こそが、かえって十牛図を謎に満ちた、奥深いものに思わせ、今日まで重んじられてきたのだろう。
 
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得牛(牛をつかまえる)

 監督の蔦鉄一朗の名ははじめて聞いた。
 1984年徳島県生まれ(満42歳)。
 80年代に甲子園優勝を何度も果たして一躍有名になった徳島県池田高校野球部の蔦文也監督(1923-2001)の孫とのこと。
 蔦文也の足跡をたどる記録映画も撮っているらしい。
 2018年秋にソルティが四国遍路で池田町を歩いたとき、地元の人が、「このへんで有名なのは蔦文也監督と祖谷(いや)のかずら橋」と言っていたのを思い出す。
 亡くなった後も町民に慕われているのを感じた。

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牧牛(牛をなだめる)

 蔦が十牛図をどのようにアレンジして用いているのだろうと思ったら、ほぼまんま十牛図をなぞっていた。
 全編を10章(正確には9章)に分けて、それぞれの章の冒頭に各図のタイトルを提示する。
 山奥に棲み、家も財産も家族も持たない知恵遅れのような青年が、老婆に拾われ、一緒に暮らし、田んぼの仕事を教わる。
 老婆の世話をし、やがて老婆を見送り、ひとりになる。
 牛を見つけ、牛を捕まえ、牛を家に連れて帰る。
 通りがかりの禅僧と出会い、牛の使い方を教わる。
 牛を飼いならし、耕作し、牛と生活する。
 やがて牛を失い、またひとりになる。
 最後は家を出ていく。
 十牛図の映像化と言ってもいいくらい、まんま十牛図であった。

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騎牛帰家(牛に乗って家に帰る)

 映像ならではの良さとしては、全編フィルム撮影による生々しい手触りによって、大自然が焼き付けられているところ。
 CG全盛のいまどき、これほど実直な全編ロケ作品が撮れたとは奇跡のよう。
 黒々とテカる牛が発散する生命力、画面を真白にするほどの大雨、素足で走るのが痛いようなごつごつした岩肌、牛が鋤引きする水田の泥の重さ。
 五感を刺激する映像体験がここにある。 
 白黒画面が観る者にもたらすリアルな触感と映像美は、黒澤明や溝口健二を思い起こさせる。

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忘牛在人(牛を忘れ人が在る)

 一方、ゆったりとした時の流れを延々と映し出すカット、およびセリフの少なさがもたらす非ドラマ性は、タルコフスキーやカール・T・ドライヤーのよう。
 観る者に忍耐を強いる。
 ソルティも眠気とたたかった。
 牛とは「眠気」のことなのか?(笑)

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人牛俱忘(人も牛も忘れる)

 ひとりの男の(魂の)遍歴が描かれること、白黒作品であり光と影のコントラスト表現が秀逸であること、木や川や大地や草や空など自然のありさまが映し取られていること、そういった点からヴァーツラフ・マルホウル監督の『異端の鳥』(2019)を連想したのだが、テーマの違いは措いといて、より「映画的」なのは『異端の鳥』のほうである。
 『黒の牛』の眠気の原因は、ドラマにも映画にも十分成り切れていないってところにあるように思う。
 最後の爆発(原爆?)ショットやラストクレジット終了後に示される第10図タイトル提示の意図を含め、監督がいったい何を言いたいのか分からないし、映像美はふんだんにあるものの、観る者を驚かし眠気を吹っ飛ばしてくれるような才知あるショットは少なかった。

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返本環源(すべては源に還る)

 ひとつだけ、衝撃的なショットがあった。
 それは第7図から第8図に移る際にスクリーンを蔽う約70秒間のショット。
 こういったショットを見た記憶は、ソルティの長い映画マニア人生にもなかった。
 これはテレビではちょっとできないだろう。
 ユニークで勇気ある試み。
 このショットにおいて覚醒した。

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入鄽垂手(店に入って手を垂れる)

 主演のリー・カンションの無垢なる表情とたたずまいは素晴らしい。
 演技で無垢を演じるくらい難しいものはないだろう。
 「うまく演じよう」という動機そのものが、無垢から人を遠ざけるからだ。
 禅僧役の田中泯を見ると、それがよくわかる。
 田中泯の役者として自己(エゴ)の強さは、人間国宝の女形(@『国宝』)には向いていても、悟った禅僧には向いていない。(『鉄鼠の檻』に出てくるような悟りに憑りつかれた禅僧には向いている) 

 思うに蔦の描きたかったのは、大自然の中に無心に生きる人間の美しさなのかもしれない。

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祖谷のかずら橋

 

おすすめ度 :★★★★

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● 映画:『けものがいる』(ベルトラン・ボネロ監督)

2025年フランス・カナダ
146分

けものがいる

 原題は La bete
 フランス語で「獣」の意。
 ヘンリー・ジェイムズの『密林の獣(The Beast In The Jungle)』という小説が元ネタだというが、原作とはまったく別物と考えていいだろう。

 本作はいろいろな映画を思い起こさせる。
 一番近いのはウォシャウスキー姉妹(もと兄弟)の撮った『クラウドアトラス』ではないかと思う。
 つまり、輪廻転生をテーマにした人間ドラマなのである。

 3つの時代が行き来され、ガブリエルという名の女性と、ルイという名の男性の、互いに強く惹かれ合いながら結ばれることのない関係が描き出される。

 まず、20世紀初頭のパリの上流社会。
 人形制作会社の社長夫人でピアニストのガブリエルと独身貴族のルイは、パーティでの再会をきっかけに何度も逢瀬を重ね、関係を深めていく。
 しかし、ガブリエルの抱える精神的問題――自分も世界もやがて破滅するという予感――や人妻という立場がネックとなって、2人は結ばれることのないまま、人形工場の火災に巻き込まれて死んでしまう。

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SecouraによるPixabayからの画像

 次は、2014年のロサンゼルス。
 売れないモデルのガブリエルは、30歳にして童貞のルイにストーカーされる。
 ガブリエルはルイを受け入れようとするが、自らの人生や社会を呪うルイの心をほぐすことはできず、仮住まいの豪邸のプールでルイに射殺されてしまう。

 2025年、なにか破滅的なことが人類に起こった。(これはくわしく語られない)
 その結果、人間社会はAI管理社会に移行し、人類の多くはAIに仕事を奪われる。
 感情を制御することのできる人間だけが高等な仕事を与えられ、それができない人間は単純労働しか与えられない。
 感情を制御するためには、DNAを浄化することによって前世から持ちこしたトラウマを取り除く作業が必要で、それには専用の装置に入って、自らの前世を追体験しなければならない。

 2044年、単調な仕事に飽き飽きしたガブリエルは、やりがいある仕事を得るためにDNA浄化を考える。
 が、自らの感情を失ってしまうことに大きな不安を覚える。(感情を失えばもちろん恋もできなくなる)
 そんなとき、自分と同じく職探しをしているルイと出会う。
 DNA浄化を決断したガブリエルは、装置の中で自らの前世をたどり、繰り返されるルイとの関係を記憶によみがえらせる。
 20世紀初頭のパリで、2014年のロスで、前世で幾たびも出会い、互いに惹かれ合い、結ばれる直前まで行きながら、それぞれの不安や自信の欠如や恐れから成就することのなかった恋の相手だったことを知る。
 それを知ったいま、何百年の時を超えてついにルイと結ばれる時が来たと喜びにときめくガブリエルだったが・・・・・。

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Hello Cdd20によるPixabayからの画像

 20世紀初頭のシーンは、上流社会の贅沢な生活ぶりとそこで交わされるウィットに富む会話のさまが、ヴィスコンティの『イノセント』やアラン・レネの『去年マリエンバードで』を想起させる。
 オペラ『蝶々夫人』やシェーンベルクの音楽などが言及されるなど、全体に文芸調である。この部分はヘンリー・ジェイムズの小説世界にもっとも近い。
 1910年1月に起きたセーヌ川氾濫によるパリ水没など、実際の事件を取り入れてリアリティを高めている。

パリの洪水

 2014年のシーンは、ストーカーにつけ狙われる若く美しい女性というプロットのため、『サイコ』を筆頭とするサイコサスペンス映画の様相をみせる。
 ここでも、2014年8月に起きたマグニチュード6のロサンゼルス地震をサスペンスを高めるのに利用している。

 2044年のシーンは、近未来という点でSF仕立てである。
 科学(AI)が人類を支配する社会、人類の感情が平板化しロボット化する社会という点で、『マトリックス』や『ガダカ』あたりを連想する。
 DNAに書き込まれた前世のトラウマを取り除き、感情に振り回されない人間になることが求められるという設定が、あたかも、瞑想修行によって悟りをひらき「欲(貪)」と「怒り(瞋)」と「無知(痴)」によって駆動する輪廻転生からの解脱を目指す仏教の言説をなぞっているようで、面白かった。
 たしかに、仏道を徹底するところに恋愛は成立しない。 
 人間的感情を捨象したところに仏教の悟りはあるからだ。
 その意味では、ジブリの『かぐや姫の物語』とも符合する。

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 コスチュームプレイとサスペンスとSF、そして恋愛とスピリチュアル。
 1つの作品で5つの映画を観たようなオトク感がある。
 写実に富みながらもスタイリッシュな映像も見ごたえ十分。
 同一のセリフやシチュエイションを3つの時代で共起させ、輪廻転生の不可思議を感じさせる脚本もよくできている。
 おそらく、一度観ただけでは設定や構成がわかりにくく、無駄に長いと感じる人も多いかと思う。
 が、観るたびに作り手が仕組んだ仕掛けを発見するパズルのような映画と思う。
 ソルティは気づかなかったが、主役の2人(ガブリエルとルイ)以外にも、3つの時代に共通して登場する転生者、すなわち同じ役者がいるのではないかと思う。 
 そもそも、「けもの」とはいったい何なのだろう?




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


● DA・I・KI・CHI ! 高尾山薬王院初詣

 恒例の高尾山薬王院初詣。
 今年は世間一般が仕事始めとなる5日(月)に出かけた。
 ソルティは基本テーラワーダ仏教徒なので、日本の大乗仏教しかも密教である 真言宗は関係ないのだが、年の初めに高尾山の清新な空気に触れて、生きとし生けるものの幸福を、多くの参拝者と一緒に願うのは悪くない。
 家で飲食にふけりながらゴロゴロとテレビを観ているよりは、健康にも良い。
 朝8時に京王高尾山口駅で友人と待ち合わせ。
 ケーブルカーで山頂駅に登り、9時からの護摩法要に参列した。

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今年は午(うま)歳。どうも「牛」と読んでしまう

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東京スカイツリーと相模湾を望見

高尾山薬王院
薬王院本堂
平日の9時台は空いていた
外国人を一人も見かけなかった

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開山は行基菩薩(天平16年=744年)
東大寺大仏造立のための勧進に尽くした僧である
奈良では空海より行基が尊い

行基
近鉄奈良駅前の行基菩薩像

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天狗は本尊・飯綱大権現さまの眷属

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山頂から見た富士山
尊い!
近隣の部活高校生がたくさんいた

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知る人ぞ知る福徳弁財天
薬王院の裏手の洞窟におわします

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昭和天皇即位の年に築かれたという
岩に穿たれた防空壕のような5mほどの洞穴である

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一番奥におわします
弁財天は七福神のひとりで、音楽・福徳・学芸の神様
今年も奈良大学通信教育の勉強がはかどりますよ~に!

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帰りはリフトで下山
気持ちいい~

極楽湯
ふもとの極楽湯で温泉はじめ

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DA・I・KI・CHI !









 

● 復活の日 : オーケストラ・ラム・スール 第11回演奏会

復活ラムスール

日時: 2025年11月3日(月)13:30~
会場: すみだトリフォニーホール大ホール
曲目: 
  • 平林遼: 神秘の存在証明 世界初演
  • マーラー: 交響曲第2番「復活」
  ソプラノ: 隠岐 彩夏
  メゾソプラノ: 藤田 彩歌
指揮: 平林 遼
合唱: コール・ラム・スール

 本年2度目の復活。
 平林遼という指揮者もラム・スールもはじめて。
 なかなか個性的かつ独創性ある指揮者のようで、気に入った。

 まず、舞台に登場してすぐ「オッ!」と注目を集めたのが、その衣装。
 タキシードではない!
 黒地に紫を基調としたカラフルな模様が編みこまれた、『銀河鉄道999』に出てくるプロメシューム(メーテルの母親)を思わせるような、お洒落なドレスシャツを着ている。
 そうよ、指揮者はタキシードを着るものと法律で決まっているわけではない。
 どんどん自分の好きなものを着て、気持ちをアゲアゲにして、いい音楽を作ってくれればそれに越したことはない。
 素晴らしい。

 次に、前プロに自ら作曲した世界初演のオリジナル曲(8分)を持ってきた。
 これが東洋風かつマーラーチック、しかも合唱付きで、場内の空気を一気に『復活』臨戦モードに変えていく。
 「ちょうど、いい曲を前プロに持ってきたもんだなあ」と感心したが、あとからプログラムを読んだら、なんとこの日のために即興的に書いたという。
 『復活』の前に置くのにふさわしい短めの曲がなかったから、という動機らしい。
 「大がかりな儀式のような『復活』を演奏するにあたり、場を浄化する露払い的な曲」と本人が記している。
 やるねえ~。
 しかも、前プロのあとに休憩は入れず、曲の切れ目がそれと分からないままに、『復活』第1楽章に突入。
 「前プロ、たしか8分のはずなのに妙に長いなあ~」と思って、途中でそれと気づき、トイレに行く機会を失った観客も少なくなかったと思う(笑)。
 いや、さすがに7度目の復活という最強ゾンビのソルティは、ちゃんとわかりましたとも。
 会場は7割くらいの入り。盛況であった。

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 率直に言って、これまで7回聴いた『復活』の中では、2019年に杉並公会堂で聴いた金山隆夫&カラー・フィルハーモニック・オーケストラと並ぶベストであった。
 全般に迫力と熱意があふれていた。
 第4楽章のオール・フォルティシモの爆風たるや、巨大なトリフォニーホールが木っ端みじんになるんじゃないかと思うほどだった。
 一つ一つの音が明確で、メリハリが効いていた。
 第1楽章がとくに緩急・強弱・硬軟自在で、扉が開けば別の世界、別の景色が目の前に広がる、遊園地のようなマーラーの音楽世界を見事に現出していた。
 合唱もあたたかみがあって良かった。
 人類は、他人からあたたかい声をかけられることで、ホモ・エレクトスからホモ・サピエンスに進化したのでは?――なんて妄想するほど、どんな腕の立つ演奏家がどんなに頑張っても、楽器では得られない人の声のもつ特質を思った。
 平林はこの曲について、マーラーが「魂の永遠の不滅性=輪廻転生」を表現したものと解釈したようだが(それゆえに東洋タッチで開始したのだろう)、そこのところはソルティはよく分からない。
 マーラーは、生まれ変わってこの世に戻りたかったのかな?
 また、最愛のアルマと出会いたかったのかな?

 素晴らしい演奏に出会った時にソルティに起こる現象として、例によって、身体中のチャクラがビクンと反応し、客席で何度もケイレンした。
 そのたびに“気”が湯気のように湧き上がった。
 しかるに――最近薄々感じていたのだが――これはソルティに憑依していた浮遊霊が浄化されている、すなわち音楽による除霊ってことなのかもしれない。
 鑑賞後に肩こりが楽になったのはそのためかも。
 

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終了後、錦糸町駅横の「てんや」で遅い昼食
いい音楽の後の飯は格別!




















 

 

● 傾聴の効用

 午後のコンサートが終わった後、某駅前のファミレスに寄った。
 日曜だったので混んでいたが、店の一角に電源コンセント付おひとりさま専用席があり、一番端っこが空いていた。
 店の一番奥にあたる隣りのテーブル席には、妙齢のオバサマ4人が、罪のない無責任なおしゃべりを楽しんでいた。家に帰ったら、夕餉の支度が待っているのだろう。
 ドリンクバーを注文し、図書館で借りた考古学の本にしばらく集中した。
 奈良大学通信教育のレポート作成のためである。

 章の終わりでドリンクバーに立ったときに気がついた。
 いつの間にか、隣りにいたオバサマ連中は帰ってしまって、3人の男と入れ替わっていた。
 普段着の70代くらいのインテリ風の白髪の男と、30~40代のスーツ姿の男2人であった。
 これはどういった関係のトリオなのか?
 なんとはなしに会話に耳を傾けた。

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 3人はクラシック音楽の話をしていた。
 さては、さっきのコンサートに行ったお仲間か? テーブル席が空くのをいままで入口で待っていたのかな?
 親しみと好奇心が湧き、本の文字を追いながらも、テーブル席側の片耳はダンボ状態になった。
 コンサートの感想披瀝はすでに終わったらしく、いまは年長の白髪の男の独壇場であった。
 どうやら彼は芸大出身らしく、若い頃は音楽家を志していたようで、クラシック音楽にも業界事情にも詳しかった。
 プロの道には進まなかったが、ピアノの腕前は相当なもののようで、近々に地元のカフェを借り切って独演会を開くという。良かったら君らも聴きに来ないか?
 若い2人は二つ返事で了承し、白髪の男から連絡先を受け取った。年長の男の博識や人脈の広さに感嘆の声を上げ、抜群のタイミングで相槌を打ち、さらなる蘊蓄を引き出す。
 師匠と弟子?
 先輩と後輩?
 かつての上司と部下?
 編集者と執筆者?
 3人の関係が読めなくてもどかしい気もしたが、それよりむしろ、若い2人の傾聴能力の高さに感心した。
 いまどきこれだけ人の話をさえぎらずに聴ける男も珍しい。
 相槌、オウム返し、共感のことば、パラフレーズの使用、適宜な沈黙・・・・傾聴のテクニックが身についている。
 ひょっとして、ソルティと同じ相談関連のひと?
 2人の男はトイレやドリンクバーなどで席を離れるときも代わる代わる行き、残った一人が聞き役を引き取り、会話の流れを途絶えさせない。
 白髪の男の口はますます滑らかになり、話の内容もどんどんプライベートなものになっていく。
 海外にいる息子家族の話、学生運動していた頃の話、持病の話、亡くなった友人や妻の話・・・・。
 「もうこの先そんなに長くないから、あとはこうやって好きなことをして過ごしたい」
 「コロナの時みたいに、いつ何があるかわからないからな」
 「生きていれば、こういう楽しい出会いもあるしな」

 と、ここでこれまでひたすら聞き役に徹していた2人のうちの1人が、おもむろに切り出した。
 「やっぱり、だれだって最後は心細くなったり、不安になったりしますよね。そんなときに、心の支えになるものがあるのとないのとでは大違いです。ぼくたちがお手伝いできると思うんです」
 すかさず、もう1人の男が手元のカバンからパンフレットようなものを取り出すのが見えた。
 あっ、保険の勧誘か!
 顧客候補と営業マンか。
 自分の鈍感さにあきれた。
 
 差し出されたパンフレットを見て、白髪の男ははじめて我に返ったごとく押し黙った。
 いままでと違うトーンが声に現われた。
 「いや、自分は・・・・。自分も、今までいろんなところに行って、いろんな人の話を聞いているから。もうそういうの必要ないんだな」
 若い1人が切り返す。
 「どういったところに行かれたんですか?」
 「それはもういろいろ。仏教系もあるし、キリスト教系もあるし、スピリチュアル系もあるし、自分なりに西洋哲学や東洋思想を勉強したし・・・・。」
 「それでなにか結論が出ましたか?」
 「・・・・・」
 保険の勧誘ではなく、某新興宗教団体のリクルートだった。

 そこからは攻守変わって、スーツの2人が白髪の男を説得するモードに転じた。
 白髪の男が持ち出した意見(=勧誘を断るための言い訳)をひとつひとつ理屈と能弁をもって棄却し、矛盾があれば追及し、それまでに聞き出していた白髪の男の苦労話を持ち出してそれに役立ちそうな会の教えを諄々と説き、入信したことで運が向上した第三者の具体的な事例を滔々と語り、白髪の男のためにドリンクバーから飲み物を取ってきて・・・・。
 はじめのうちは勢いよく「自分には必要ない」と主張していた白髪の男も、若者2人の攻勢に押され、だんだんと声に力がなくなり、さっきまで自信に満ちていた表情はかげりを帯びてきた。
 これまでずっと話を真剣に聞いてもらっていた手前か、白髪の男も無下な態度で席を立つこともできないようであった。
 そもそも、最初からテーブルの壁際のほうに白髪の男が一人で座り、通路側に2人の若い男が陣取ったので、押し込められているような形勢ができあがっていた。

 まだまだ3人の会話は続きそうな気配。
 窓の外はすっかり暗くなった。 
 家で夕食が待っているソルティは、本をリュックに押し込み、席を立った。
 最後に振り返ってみたとき、白髪の男は心なしか涙目になっていた。

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● 信仰の証明 映画: 『奇跡』(カール・テオドア・ドライヤー監督)

1955年デンマーク
126分、白黒

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『奇跡』のポスター」

 カール・テオドア・ドライヤー(1889-1968)はデンマーク出身の映画監督で、知る人ぞ知る名匠。
 日本で知られている作品は、『裁かるるジャンヌ』(1928)、『吸血鬼』(1932)、『奇跡』の3本くらいと思うが、内容が難しいためか、名画座でも上映される機会が少ない。
 ソルティが過去に観ているとしたら、20代の高田馬場ACTシアターあたりと思うが、記憶にない。(当時は観た映画を逐一手帳にメモしていたのだが、その手帳数冊を破棄してしまった)
 同じ高田馬場の早稲田松竹で、ドライヤーの『奇跡』が、ロベルト・ロッセリーニ監督『神の道化師 フランチェスコ』と2本立てで掛かっているのを知って、観に行った。

 若い頃は2本立て・3三本立ての映画(料金は1本分)は大歓迎だったのだが、還暦を超えた今、映画を続けて観るのが結構つらい。
 座席に縛りつけられてスクリーンを観続けていると、目が疲れる、腰が痛くなる、頭がボーッとなって眠くなる。
 とくに、字幕を読まなければならない洋画や、内容が重たくて120分を超えるものは、1本が限度である。
 こんな日が来るとは思わなかった。
 『神の道化師』は12年前にDVD鑑賞しているので、今回は『奇跡』だけ観ればいいやと思ったのだが、『神の道化師』がデジタル・リマスター版と知って、つい欲を出して『神の道化師』の回から入場してしまった。
 たしかに、ソルティが昔観たDVD版よりはるかに映像がきれいで、格段見やすかった。

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『神の道化師、フランチェスコ』のポスター

 『奇跡』(原題 Ordet は「御言葉」の意)は、タイトルから想像がつく通り、宗教的な映画である。
 ある裕福な農業一家に訪れた悲劇と奇跡を描いた物語。
 「神への信仰と不信」という重苦しいテーマ、遅々として進まないストーリー、固定カメラを多用したスタイリッシュな映像が、イングマル・ベルイマン作品とよく似ている。
 『冬の光』、『第七の封印』と重なった。
 同じ北欧映画という点ももちろん大きい。 

 案の定、上映開始後15分あたりから眠気が生じた。
 セリフがなかなか頭に入って来ない。
 というか、目を開けているのがしんどくて、字幕を読むことができない。
 『神の道化師』は、フランチェスコはじめ修道僧たちのユーモラスなエピソード満載なうえに、スクリーンいっぱいに、僧衣姿の彼らが小鳥のようにばたばた動き回るアクション的面白さも手伝って、退屈しなかった。
 『奇跡』は、内容は重いし、登場人物の動きも少ないし、そもそも仏教徒のソルティにしてみれば「神への信仰」というテーマそのものが関心の低いものなので、集中力を保つのが難しい。
 しかも、映画の途中から、主人公一家の居間の柱時計の響き「チクタク、チクタク」が基底音として継続するので、それが催眠的効果を倍増する。
 眠気と闘うべきか、あきらめて心地よい惰眠を貪るべきか、ちょっとした葛藤におそわれた。
 若い頃は、自分が映画を見ている周辺の席でイビキをかいて寝ている中高年を見ると、後ろから座席を思いきり蹴ってやろうかと怒りにかられたものだが、因果はめぐる還暦にして・・・。

居眠りする男

 寝落ち一歩手前で、事件が起きた。
 一家の長男の嫁インガが、難産のため命の危機に陥ったのである。
 ここから事態は急転し、物語は緊迫する。
 さっと眠気が吹っ飛び、あとは完全に映画と一体化した。

 家長のモルテン、長男ミケル、三男アーナスは、インガの無事と出産の成功を祈る。
 神学の勉強のし過ぎで頭がおかしくなったと周囲に憐れまれている次男ヨハネスは、「神を信じれば奇跡は起こる」と家族に一心に祈ることをすすめる。
 が、だれも相手にしない。
 様子を見にやってきた町の新任の牧師は、ヨハネスの存在をはじめて知り、家族に向かって、「なぜ施設に入れないのか?」とさえ聞く。
 懸命な医師や看護師の手当てもむなしく、子供は死産し、インガは息を引き取る。
 悲しみに暮れる一家。
 夫ミケルは、柱時計の振り子を止める。
 「神を信じ祈れば、インガは蘇る」とヨハネスはなおも言うが、その言葉はついにモルテンの怒りを買う。
 その夜、ヨハネスは姿を消す。

 葬儀の日。
 インガを見送るため、喪服を着た多くの村人が集まっている。
 美しく装えられたインガが納棺される寸前、ヨハネスが帰って来た。
 インガの傍らに立ったヨハネスは、家族らを見回して、こう告げる。
 「この中にほんとうに信じる者が一人でもいれば、インガは生き返る」
 ムッとして立ち上がろうとする牧師を医師が押しとどめる。
 そこへ、インガとミケルの小さな娘がやってきて、ヨハネスに言う。
 「おじちゃん、お母さんを生き返らせて」
 「おじちゃんにできると思うかい?」
 「うん」
 「じゃあ、一緒に祈ろう」
 二人は手をつないで、祈り始める。
 ヨハネスの“御言葉”に奇跡が起きる。

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Gordon JohnsonによるPixabayからの画像

 テーマはたしかに重いが、理解は難しくない。
 日夜十字架を前に祈り聖書を読み日曜日には教会に行く一見敬虔な人々も、人々に説教するのが上手な神父や牧師も、真の意味での信仰は持っていない。
 子供のような無垢な心を失くし、聖書に書かれている「奇跡」を信じていない、すなわち神の偉大な力を信じていないからだ。
 手を伸ばせば届くところに、神の御言葉を説く預言者(ヨハネス)が到来しているのに、彼を狂人と思い、邪険に扱い、その言葉を無視している。
 幼い娘だけが御言葉をそのまま信じていたのである。
 
イエスは言われた。
「心を入れ替えて子供のようにならなければ、神の国に入ることはできない。自分を低くして、子供のようになる人が天国で一番偉いのである」
(「マタイによる福音書」18より)

 ヨハネスが姿を消すあたりからの映像が非常に美しく、写実を超える力で観る者に迫ってくる。
 それまではどちらかと言えば、映画というより演劇的なタッチが濃厚だった――原作はデンマークの国民的劇作家カイ・ムンクの戯曲『御言葉(オルデット)』――ものが、ここに来てまごうかたない「映画」に変貌する。
 構図や陰影やカットつなぎやキャメラの移動などによって生み出される映像そのものの力が、物語を凌駕し、なにかとんでもないことが “今ここ(高田馬場の早稲田松竹)” で起こっているような感覚を生じさせる。
 それが映画という芸術における美との邂逅の瞬間であり、いわば映画の「奇跡」である。
 映画を信じる者だけにそれは顕現する。
 
 既存の“物語”に囚われて、「今ここ」にある単純な真実を見逃す。
 この映画のテーマそのものが、映画という芸術の置かれ続けている受難的状況の比喩のように思われた。

早稲田松竹



おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 千人の交響曲 :オーケストラ・ハモン 第50回記念演奏会

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日時: 2025年6月1日(日)15時~
会場: すみだトリフォニーホール 大ホール(錦糸町)
曲目: G.マーラー: 交響曲第8番「千人の交響曲」
     ソプラノ: 中川郁文
     ソプラノ: 冨平安希子
     ソプラノ: 三宅理恵
     アルト : 花房英里子
     アルト : 山下裕賀
     テノール: 糸賀修平
     バリトン: 小林啓倫
     バス  : 加藤宏隆
指揮: 冨平恭平
合唱: Chorus HA'MON、ジュニア合唱団・Uni

 奈良大学通信教育の試験を終えた自分へのご褒美として、この贅沢なコンサートのチケットを用意しておいた。
 重荷が取り払われ、軽くなった心と頭で、ファウストと一緒にいざ天上に赴かん!

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すみだトリフォニーホール

 冨平恭平&オーケストラ・ハモンは、昨年4月に同じマーラーの交響曲第2番『復活』を聴いている。
 2年続けて、大ホールを借りての独・合唱付き大曲に挑むチャレンジ精神と体力が素晴らしい。
 1階席の1/3(1/2か?)ほどを占める大舞台に、大編成のオケと、総勢200人を超える合唱隊と、8人のソリストが立ち並ぶさまは、圧巻であった。
 ソルティは、3階の最後尾に陣取った。

 演奏は輝かしく、オケも歌も言うことなかった。
 とくに、テノールの糸賀修平が良かった。
 高音域がやたら多く、宗教的な熱っぽさと敬虔さが求められる難しいパートを、張りのある美声で歌い切った。
 その声はホールの後ろの壁までしっかり届いた。

 この曲をライブで聴くのは2回目。
 前回は、齋藤栄一指揮&水星交響楽団で、場所は同じすみだトリフォニーホールであった。
 正直言うと、ソルティはまだこの曲の真価に目覚めていない。
 どうもツボにはまらないのだ。
 他のマーラーの交響曲にくらべると、薄っぺらい気がして仕方ない。
 オケと合唱の規模のデカさや使われる楽器の多彩さ、それにゲーテ『ファウスト』のクライマックスを材としたドラマ性は、それだけで聴衆を惹きつけるスペクタクルに満ちている。
 が、それがかえって、「俗受け狙い」「虚仮おどし」という印象をも与えずにはいない。
 とくに、ソルティは、第1部の讃美歌が「讃歌のための讃歌」といったベタっぽさ、「仏つくって魂入れず」的な上っ面感を聴きとってしまう。
 単に自分がクリスチャンではないからだろうか。

 第2部の『ファウスト』はソルティの“青春の一冊”なので、感動しないわけないのだが、残念ながらドイツ語が分からない。
 ベートーヴェン『第9』や、マーラーなら第2番『復活』あるいは第3番であるならば、合唱部分のドイツ語が分からないことは、曲を観賞する上で特段ネックにならない。オケと歌唱が融合して、歌声もまた楽器の一つのように聴けるからだ。歌詞が理解できないことは鑑賞上のマイナスにならない。
 しかるに、『千人の交響曲』の第2部は歌こそが主役であって、『聖書』や『ファウスト』はもちろん、ドイツ語の微妙なニュアンスも含めて歌詞が分からないことには、容易には入り込めない世界を作っているように思われる。
 つまり、この曲の真価を知るためには、ドラマの理解が前提として必要なのではないかと思うのだ。 
 そのため、紗のカーテンを通して曲を聴いているかのような感がどうにも拭いえないのである。

 キリスト教世界観を理解することなしに、『聖書』も『ファウスト』も読んだことなしに、この曲に感動できる人は幸いである。

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