ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

スピリチュアル

● 18切符で巡る、2023みちのくの夏(谷地温泉編)

 谷地温泉は日本三大秘湯の一つと言われている。
 あとの二つは、徳島県の祖谷温泉(祖谷のかずら橋で有名)、北海道のニセコ薬師温泉。
 誰がいつ決めたのか知らないが、知る人ぞ知るだからこそ「秘湯」と呼ばれるに値するのだから、「三大」という煽り文句とはそもそもコンセプト的に矛盾する。
 アクセスが困難な僻地という点だけなら、那須の三斗小屋温泉とか日光の八丁の湯とか、もっと秘湯らしいところはある。
 いったいなぜここが選ばれたのだろう?
 確かめるべく、『日本秘湯を守る会』に挙げられている近隣の酸ヶ湯温泉をあえてはずして、宿泊先に選んだ。

〒034-0303青森県十和田市法量谷地1
電話: 0176-74-1181

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谷地温泉バス停から徒歩10分
山小屋風の造りが心和ませる
秘湯っぽい

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入口にかけられたかんじきが雪の深さを物語る

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部屋には冷房がなかったが、朝晩は必要なかった

谷地温泉下の湯
温泉は撮影禁止
宿のホームページから転載させていただきました。
下の湯と呼ばれる38度の無色透明の源泉と、上の湯と呼ばれる42度の白濁した硫黄泉に交互に浸かる。
それとは別に、浴場内の石の階段を降りたひときわ暗い洞窟ようなところに源泉が噴き出しており、このスペースが秘湯っぽい土俗性に満ちている。(混浴あたりまえの昔は、おそらく“いろんな”使われ方をされたのでは?)
温泉は飲むこともでき、肝臓に効くと評判が高い。
下の湯に30分ほど浸かったら、体のすべての凝りや詰まりがほぐれるようであった。

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湯上りに見る夕空
最近空をゆっくり見てなかったと気づく

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お待ちかねの夕食
いわなの塩焼き、いわなのお造り、いわなの天ぷらははずせない

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柔らかな牛肉も美味

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食堂に飾られたテンの写真
雪の季節の夜に遊びに来るのだという
見事にカメラ目線なのがかわゆい
秘湯のアイドル

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静寂な山間の夜にぎしぎしと鳴る廊下はウグイス張りのよう
人の気配や木のぬくもりが感じられる昭和っぽさが心をつくろがせる
数年ぶりにぐっすり寝た

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さわやかな朝の散歩

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八甲田の大岳が頭をのぞかせる。
ここから約2時間30分で山頂に立てるという
いつか登りたいな

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なんとこの温泉に入らないと、行くことができない神社と池があった
旅館の中にあるドアから、裏手の森に出る

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旅館の裏手の沢を渡る

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天然のイワナが泳ぐ薬師池
そばに谷地神社がある
 
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お待ちかねの朝食
白いおまんまが美味しい

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帰りは青森駅まで車で送っていただいた
約1時間、思ったよりずいぶん速い
ご主人はじめスタッフみな親切でした
また泊まりたいな

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青森駅で駅弁を購入
JR大館駅発のヒット商品、花善の鶏めし弁当(税込み950円)

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青い森鉄道にはじめて乗る
ここからはひたすら列車で南下
持ってきた書籍の出番である

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一ノ関駅ホームの表示板
英語、中国語、韓国語併記はもう当たり前
30年前の旅との一番大きな違いはやっぱりここにある
仙台牛タン店、盛岡冷麺店、五能線、奥入瀬渓流、谷地温泉、どこに行っても外国人と会わずには済まなかった。
ネット時代の人の動きって凄いな。

ガラ携と紙の時刻表をもって旅するソルティはシーラカンスみたいだ。





















● ブルックナー蛙 :EMQ Ensemble MUSIKQUELLCHEN 第28回演奏会

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日時: 2023年8月13日(日)
会場: 杉並公会堂 大ホール
曲目:
  • シューマン: マンフレッド序曲
  • ブルックナー: 交響曲第6番 指揮者によるプレトーク付き
指揮: 征矢健之介

 MUSIKQUELLCHEN(発音がわからん)とは「音楽の小さい泉」という意味だそう。
 指揮者の登場にちょっと驚いた。
 折り曲げた動かない左腕を脇腹につけながら、えっちらおっちら、オケの間をゆっくりすり抜けて来た征矢健之介(そやけんのすけ)。
 プロフィールによれば、もともとヴァイオリン奏者だったというからには、元来の障害ではあるまい。
 高齢者介護施設で8年間働いた人間の見立てとして、脳梗塞による半身麻痺の回復途上にあるのではなかろうか。
 指揮台には、腰かけて振れるよう、ピアノ椅子が用意されてあった。
 こういった状態で指揮する人を見るのははじめて。
 なんだか初っ端から掴まれてしまった。
 
 さらには、開始早々、ホールにびんびん共鳴するオケのクリアな響き、高らかに鳴る弦。
 「巧いじゃん!」と感心しきり。
 プログラムで確かめたら、このオケは早稲田大学フィルハーモニー管弦楽団(早稲フィル)のOB、OG中心に結成されたという。
 征矢は早稲フィルのトレーナー兼相談役を務めているようだから、学生時代から築かれた信頼関係が安定した音を生み出しているのかもしれない。

林檎の花

 一曲目の「マンフレッド序曲」は初めて聴く。
 印象としては、モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』終幕を思わせる。
 プログラムによると、バイロン原作の劇詩『マンフレッド』上演ために書き下ろされた曲とのことで、「道ならぬ恋」で恋人を永遠に失った青年マンフレッドの苦悩を描いた物語とか。
 奔放なる性愛の果てに地獄へ落ちたドン・ジョヴァンニと似ているのも無理からぬ。
 シューマンって情熱家なのね・・・・。

 このあと珍しく、指揮者によるプレトークがあった。
 後半のブルックナー交響曲第6番の各楽章の聴きどころを、実際にオケに音を出させながら解説してくれた。
 やっぱり、ブルックナーって補助線を引かないとなかなか理解の難しい作曲家なのかしらん?
 が、障害を負った征矢が、不器用な仕草と口調とで、不器用なブルックナーを語るところに、なんとも云えない深く心地良い味わいがあった。
 そのせいだろうか、ブルックナーライブ4回目にしてソルティは半眼開いた。

 まず、ブルックナーは映画監督で言えば、小津安二郎に似ている。
 性格とか扱うテーマとかの問題ではなくて、「決まりきったスタイルで、同じ狭いテーマを繰り返し語り、深みに達しようとする」芸術スタイルが似ていると思った。
 で、小津の映画を繰り返し観ていると、その常に変わらぬ特有のリズムやトーンがいつの間にか心地よく感じられてきて“癖になる”。
 それと同様、ブルックナーの音楽も“癖になる”性質を持っているように感じた。
 つまり、「ブルックナーリズム、ブルックナー休止、ブルックナー開始(トレモロ)、ブルックナーゼグエンツ等々」の決まりきった形式は、あたかも小津の「ローポジション、固定カメラ、切り返し対話、空ショット、童謡使用」といったものと同じ“お約束”の感があり、それにさえ慣れ親しんで身を任せてしまえるなら、オリジナルな小宇宙が開け、快感を手に入れられる。
 ソルティもどうやら、“癖になりそ”な予感がしている。
 
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小津の代名詞、ローポジション撮影

 小津安二郎が決まりきったスタイルで描き出そうとしたテーマは、家族であり、無常であった。
 その意味で、現在観ることができる小津の作品は、『おはよう』のような子供を主役とする喜劇をのぞけば、どことなく暗くて、さびしい。
 一方、プレトークで征矢が指摘していたように、敬虔なカトリック信者で教会のオルガニストだったブルックナーの場合、やはり神への信仰が主要なテーマとなる。
 なので、基本的に暗くはない。
 深刻さや悲壮感、神を失った人間が抱く絶望や虚無感は見られない。
 悲しみと苦しみの谷間にいる人間が、はるか高みにいる偉大なる神に憧れて、神に少しでも近づこうと、何度も何度もジャンプする。
 そのトライアル&エラーこそが、ブルックナーにとっての喜びであり、音楽スタイルだったのではあるまいか。
 到達することもなく、叶えられることもない、簡単に手に入らない対象だからこそ、愛し、讃美し、信じるに値する。
 それを希求する振る舞いこそが、日々の生きがいとも喜びともなる。
 基本、幸せな男なのだ。

 ブルックナーは十代の少女が好きで、晩年に至るまで何十回と少女たちにプロポーズしては撃沈するを繰り返した。
 性懲りもなく・・・。
 それはまさに、ブルックナーの神に対する上記のような関係性とも、彼の音楽スタイルともよく似ているように思われる。
 つまるところ、人のセクシュアリティは、その人のスピリチュアリティと通底している。
 ブルックナーの音楽を聴いていると、小野道風の見守る中、柳に飛びつこうと頑張る無邪気な蛙を思い起こす。
 憎めない・・・・。

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それ、がんばれ!




● ダーウィンが叱られる! 本:『生命の劇場』(ヤーコプ・フォン・ユクスキュル著)

1950年原著刊行
1995年博品社
2011講談社学術文庫

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 ヤーコプ・フォン・ユクスキュル(1864-1944)は環世界という概念を提唱した生物学者である。
 環世界とはなにか。

 自分の諸器官を用いて、どの動物も、周囲の自然から自分の環世界を切り取ります。この環世界とは、その動物にとって何らかの意味をもつ事物、つまり、その動物の意味の担い手だけによって満たされているような世界です。同じく、どの植物も、その環境から、その特有の居住世界を切り取るのです。
 私たち人間はいかなる幻想にも身を委ねてはなりません。私たちもまた生きた自然に直接に向かい合っているのではなく、個人的な環世界の中に生きているのです。

 たとえば、朝顔には朝顔の、ダニにはダニの、イワシにはイワシの、蝙蝠には蝙蝠の、犬には犬の環世界がある。
 それは、それぞれの生物が、おのおのお認識システムを用いて“外界”を切り取っていることで成立している、その生物固有の“世界”である。
 ちょっと考えれば当たり前のことだ。
 ダニの生きる“世界”と、蝙蝠の生きる“世界”は、まったく異なる。
 それぞれの生物が持ったり持たなかったりする「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚」は、全然違うのだから、“外界”の受け取り方が違ってくるのは当然で、生物(種)の数だけ“世界”は存在する。
 重要なのは、我々人間もまた同じことで、固有の環世界を持ち、そこに生きている。
 人間が認識している世界が“客観的に正しくてスタンダード”であり、人間以外の生物はそれを正しく認識できていないのだ――ということではない。
 人間もまた人間固有の認識システム(五感+脳)を用いて“外界=生きた自然”を切り取って、その“世界”に生きている。
 我々は、ありのままの世界を認識しているのではなく、認識することによって“世界”を、瞬間瞬間、生み出しているのである。
 認識=存在なのだ。

 いずれの主体も主観的現実だけが存在する世界に生きており、環世界自体が主観的現実にほかならない。(ヤーコプ・フォン・ユクスキュル著『生物から見た世界』より抜粋)


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Jean-Louis SERVAISによるPixabayからの画像

 環世界についての基本理解は、『生物から見た世界』(岩波文庫)がおすすめである。
 ダニやモンシロチョウやヤドカリや蠅やゾウリムシなど、いろいろな生物の環世界の様相が描かれていて、とても面白い。
 本書は、それをさらに一歩も二歩も進めて、異なった生物同士の環世界の相互関係に焦点を当て、その奇跡のような“対位法的結合”を描き出し、この世に無数ある環世界がオーケストラのように有機的に共鳴し合っているさまを説く。
 本書刊行時に東京大学教授の西垣通が書評に紹介した文章が的確である。

 本書では、生物機械論者を含む数名の討論という形をとりつつ、『それぞれの生物の環世界の上位に、全体をまとめあげる高次元の統一秩序がある』という著者の信念が姿をあらわす。それはいわば壮大な交響曲の総譜のようなものであり、個々の生物は対位法的に一定の役割を演じつつ、宇宙の巨大なドラマに参加しているというわけである。
(読売新聞1995年12月10日付)

 討論に参加しているのは、大学理事、宗教哲学者、画家、動物学者、生物学者の5人。
 生物学者がユクスキュルの分身であり、生物機械論者とは動物学者のことである。
 動物学者が自説の基盤とするのは、人間を「万物の霊長」とするダーウィンの進化論であり、「すべての生命現象は、物理学、生化学、脳科学、進化論で説明しうる」という機械論的自然観である。
 当然、「全体をまとめあげる高次元の統一秩序」といった神の存在を匂わせる概念は、彼には受け入れられない。
 生物学者と動物学者は、何かといえば対立することになる。

 面白いのは、他の3人(大学理事、宗教哲学者、画家)もはじめから生物学者の味方として設定されているところ。4対1なのである。
 動物学者袋叩きみたいなニュアンスがあり、「ダーウィン、ピンチ!」。
 動物学者が、国際連盟総会で席を蹴った松岡洋右みたいに、怒って場を辞さないのが不思議なほどである。
 ユクスキュルの「環世界」概念は、「科学的でない」として当時の学界とくに動物学には受け入れられず、学者としては不遇な生涯であったらしい。
 おそらく、そのリベンジがここでなされているのだろう。
 ユクスキュルという御仁もなかなか執念深い(笑)。

わら人形と男

 ソルティの進化論理解は乏しくて、せいぜい、「多様性の中での生存競争と適者生存によって自然淘汰が起こり、生物は進化してきた」といったくらいである。
 70年代に受けた教育がアップデイトされないまま、今に至っている。
 しかるに、たまにテレビなどで動植物の生態や共生関係をとらえたドキュメンタリーを見ると、疑問に思うことがある。
 過酷な環境を生きる動物たちの、あまりにうまくできている形態や機能や生態にはいつも驚かされるし、イソギンチャクとクマノミに例示される異なった動物同士の共生関係の見事さには――人間のように“考えて”それをやっているのではないだけに――畏敬の念に打たれる。
 そして、こう思うのだ。
 「こんなことが進化論だけで説明しうるのだろうか?」
 「こういった精密な共生関係を生み出すまでに、どのくらいの時間を要したのだろう?」
 「はたして、試行錯誤の自然淘汰説だけで、いまある自然界の多様性と生き物同士の精緻極まる関係性を説明しうるのだろうか?」
 「やっぱり、何かしらの高次元の意図(=プログラマーの存在)を想定しないことには、説明しきれないのではないか?」
 そう思わせる一番手の番組がNHKの『ダーウィンが来た!』なのだから皮肉である。

 それと同時に、子供の頃の教育によって身につけてしまったダーウィニズムで、自然界だけでなく、人間世界を見ている危険性を思うのである。
 つまり、「生存競争と適者生存は世のならい」といった観念。
 ダーウィニズムが、産業革命当時のイギリスの経済学に影響を与え、社会的な貧富の差を「優勝劣敗」という単純な図式に還元し、「持てる者」が現状肯定するのに役立ったことは、よく指摘される。
 それは21世紀の資本主義社会を生きる我々の意識の中に、今でも刷り込まれているように思う。
 格差社会を「仕方ないもの」と肯定し、人や組織を「勝ち組」「負け組」に分けたがり、福祉の必要性に疑問を投げかけ、劣性遺伝の淘汰を唱える、疑似ダーウィニズム的言説があとを絶たない。

 ユクスキュルの環世界論は、そういった、まかり間違えばナチスのような非人道的価値観の解毒剤になり得るものだ。
 神を信じるかどうかは別として、自然の驚異に対して畏敬の念を抱くことは大切なことと思う。

 天文学者が唱えるように、混沌がかつて支配していて、その後に天体の秩序が生まれてきたということはけっしてない。そうではなく、まずはじめに秩序があった、秩序は生命のうちにあり、生命がまさに秩序であった。こうした秩序を通じて、私たちの前にある広大無辺の全自然がその永遠の秩序において成立したのだ。


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Stefan KellerによるPixabayからの画像 



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 映画:『イニシェリン島の精霊』(マーティン・マクドナー監督)

2022年アイルランド・イギリス・アメリカ合衆国

 のっけから、どこかで聴いたようなBGM。
 スピリチュアルで透明で、波のごとく折り重なって繰り返される心地良い響き。
 ああ、エンヤだ!
 そうか、ここはアイルランドだ!

 アイルランドの孤島の風景がスクリーンに広がる。
 海と絶壁、丘と草原、羊や馬、白漆喰の壁にわらぶき屋根の家々、パブと教会・・・。
 平和で美しい光景を打ち破るのは、海の向こうから轟く大砲の音。
 ダブリンでは内戦が繰り広げられている。
 100年前の話である。

 主役は2人の男。
 「島で2番目のうすのろ」と言われる中年のパードリック(コリン・ファレル)と、ヴァイオリンが得意な老年のコルム(ブレンダン・グリーソン)。
 パードリックは読書好きでしっかり者の妹と暮らし、コルムは一人暮らしで犬を飼っている。
 長年の親友である2人は、仕事を終えた午後はいつも連れ立って馴染みのパブに出かけていた。
 ある日突然、パードリックはコルムから言い渡される。
 「もうお前とは付き合わない。今後いっさい俺に話しかけないでくれ」
 わけが分からず戸惑い、落ち込み、関係回復につとめるパードリック。
 しかし、コルムの決意は固かった。
 「お前が話しかけるたび、おれは自分の指を切断してお前に送る」
 事態は悲惨なものになっていく。

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 この映画、若い人にはなかなか理解し難いものだろう。
 特に、パードリックを忌避するコルムの行動の深意がつかめないと思う。
 コルムには昔から音楽の才があり、本当はモーツァルトのような作曲家になりたかった。
 が、どういう経緯か分からないが、老い先短くなった今、孤島に一人くすぶって酒で気を紛らわせる日々を送っている。
 「俺の人生はこのまま終わってしまうのか?」
 焦燥感が募る。
 一念発起し、残りの生涯を音楽に捧げることにした。
 「もう無駄な時間を過ごさない」
 そのときに一番障害となったのが、パードリックとの付き合いだったのである。

 おそらく、パードリックが普通の男であれば問題なかった。
 自分の心のうちを説明し、理解してもらい、適当な距離を置いて付き合い続けることができるだろう。
 が、いかんせん、パードリックは若いうえに頭がとろかった。
 「生きる目的」のような難しいことを考える人間ではなく、コルムの心のうちを理解する能力をもっていない。
 よしんば理解したところで、翌日には忘れてしまう。
 パードリックは平凡で退屈な島の生活に――家畜を追い、牛乳を搾り、気の置けない仲間とビールで騒ぐ日々に――満足していた。
 島の誰よりも素朴な心を持ち、純粋無垢で、神に愛されていた。
 ある意味、パードリックにとっての「生きる目的」は、生きることそのものにある。
 そのような「あるがまま」の人生を受容できるパードリックの存在自体が、それができないコルムの苛立ちとも足枷ともなる。
 関係を切らないと、流されてしまう。
 自分は何事もなさないまま、何物をも生み出さないまま、人生を終えてしまう・・・。
 (パードリックとの関係を断つ前に酒浸りの生活をやめるほうが先ではないか、と一瞬ソルティは思ったが、ギネスに代表される黒ビールをあきらめるなんて、アイリッシュには到底考えられない話なのだろう)

黒ビール


 コリン・ファレルが無垢で素朴な男パードリックを好演している。
 『フォーンブース』で美形アイドル的な人気を誇った頃とくらべると、役者としての成長が著しい。
 コルム役のブレンダン・グリーソンも上手い。長年の親友をけんもほろろに突き放す冷酷な男と、(村人からも、映画を観る者からも)憎まれて仕方ない役どころなのに、心の奥底に優しさと哀しみを宿した哲学者風キャラを造りあげており、憎み切れないものがある。

 この2人の男はともに独身である。
 30~40代のパードリックは妹と同じ部屋で寝起きしている。女性関係を匂わせるシーンもなく、いったいどうやって性処理しているのだろうと不思議に思う。たまにダブリンに行って、街の女を買っていたのだろうか?
 60代くらいのコルムは、これまでに結婚したことがあるのか、子供がいるのか、いっさい描かれない。同性愛者でもないようだ。
 2人の性愛生活の描写の排除が気になってしまうのは、現代日本に暮らすソルティの頭が性的なことに侵されているからであって、カトリック信仰が強かった100年前のアイルランドでは、結婚していない男女においてはストイックな思考と生活が当たり前だったのだろうか?(一方で、自分の息子を性処理の道具に使う警官が登場する)

教会


 人生100年と言われる時代だけれど、やはり50を過ぎると残りの人生を考えてしまうのは、気力と体力が急激に衰えるからであろう。
 これまでに自分がやったこと、やらなかったこと、やれなかったことを数え上げ、残されている時間で何ができるのか、何を優先すべきか、思い惑う。
 「四十にして惑わず」どころではない。
 コルムのように一念発起して、やりたかったことに挑戦するのが、悔いのない最期を迎えるには大切とは思う。
 が、コルムの払った犠牲の大きさには唖然とする。
 いろんなことを考えさせる映画である。



  
おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 漫画:『100日後に死ぬワニ』(きくちゆうき作画)

2020年小学館

 すこし前に話題になったコミック。
 青春ワニ君を主人公とするオールカラー四コマ漫画である。
 最大のポイントは、タイトルにある通り、主人公が100日後に死ぬことが決まっていて、巻頭見開きの0日目(死ぬまであと100日)から始まって、一日ずつカウントダウンされていく構成である。
 読者がページをめくるたび、ワニ君の寿命は減っていき、最後の日が近づく。
 もちろん、主人公のワニ君はじめ、登場人物の誰もそんな運命を知らない。

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 読者だけが知っているそんな残酷な設定の中、のんびりした気のいい性格のワニ君は、現代日本の多くの若者と変わりない日常を送っている。
 バイクで事故った友達へのお見舞い、バイトの先輩への恋と失恋、アパートの自室でコンピュータゲームに熱中、田舎の母親とメールのやり取り、初詣のおみくじに一喜一憂、コタツに入ってレンタルビデオ鑑賞、友達とのラーメン店通い・・・・。
 とくにやりたいこともなく、将来の夢もなく、とりあえず、平和で気ままなモラトリアムな日々。
 あえて四コマ漫画にして読者に提供するほどの滑稽さもオチもユニークさもない平凡なエピソードの羅列である。
 99日目までは。

 100日目が来た時に、読者はめくるめくような反転に遭遇する。
 平凡きわまりない日常が、かけがえのない宝物であったことに気づかされる。
 と同時に、このマンガがオールカラーでなければならなかった意義を知るだろう。

 サン・テグ・ジュペリの『星の王子様』や佐野洋子の『100万回生きたねこ』同様、大切な人にプレゼントするのに最適な本である。
 



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


● 映画:『ヘレディタリー/継承』(アリ・アスター監督)

2018年アメリカ

 『ミッドサマー』がなかなか面白かったので、同じ監督の前作を借りてみた。
 「21世紀最高のホラー映画」という評価もあるようだが、怖くはなかった。
 というか、この歳になると一番怖いのは人間であって、それが悪魔であれ悪霊であれ、霊的なものは怖くない。
 昔、お祖母ちゃんが言ってたとおりだ。
 その意味で、『ディスコード』や『DAU. ナターシャ』や『アンテベラム』や『ニューオーダー』のほうがよっぽど怖い。
 右であれ左であれ、いかなる宗教であれ、自らを「善、正義、まっとう」と信じて他を断罪し排斥しようとする狂信的な人間が一番怖い。
 とりわけ、それが政治と結びついて集団化したときほど恐ろしいものはない。

 なので本作も、一家に“継承”される精神的な病がどのように再発あるいは発現して、幸せな家族が崩壊していくのかが焦点と思えた前半は、じわじわした怖さと緊張感をもって観ていたのだが、降霊会とか黒魔術とか超常現象とかが出てきたあたりで緊張の糸が切れてしまった。
 地獄の王・悪魔ペイモンとか言われてもなあ・・・・。
 我々日本人にとって、地獄の王は閻魔様だし・・・・。
 個人的には、『ミッドサマー』のほうが怖かった。

 母親役をつとめたトニ・コレットの演技は凄まじいものがある。
 親譲りの精神不安の気質、芸術家としての自負、夫への愛、子供たちへの愛情と苛立ち、そして悪霊に憑依された世にもグロテスクな姿。 
 よくもここまで、と女優魂に感嘆した。

ペイモンの紋章
悪魔ペイモンの紋章
切り取ってワッペンを作ろう!



おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 映画:『塩狩峠』(中村登監督)

1973年松竹、ワールドワイドピクチャーズ
104分

 明治時代に北海道塩狩峠で実際に起きた列車事故を題材としたヒューマンドラマ。
 原作は『氷点』で一躍有名になったクリスチャン作家三浦綾子の同名小説。
 ワールドワイドピクチャーズは、アメリカの最も有名なキリスト教布教組織「ビリー・グラハム伝道協会」が設立した映画制作会社である。
 つまり、キリストの教えの素晴らしさと信仰の価値を伝えるために作られたスピリチュアル小説、スピリチュアル映画である。

明治42年2月28日夜、塩狩峠において、最後尾の客車、突如連結が分離、逆降暴走す。
乗客全員、転覆を恐れ、色を失い騒然となる。時に乗客の一人、鉄道旭川運輸事務所庶務主任・長野政雄氏、乗客を救わんとして、車輪の下に犠牲の死を遂げ、全員の命を救う。
その懐中より、クリスチャンたる氏の常持せし遺書発見せらる。
「苦楽生死ひとしく感謝。余は感謝してすべてを神に捧ぐ」
右はその一節なり 三十才なりき
(塩狩駅近くにある長野政雄顕彰碑の銘文、一部読みやすく改変した)

 塩狩峠は旅の途中で通ったことがある。こんな事件があったとは知らなんだ。
 
長野政雄の碑
長野政雄氏顕彰碑
 
 三浦綾子は、長野政雄氏をモデルに永野信夫という人物を創造し、その魂の遍歴とキリスト教との出会い、愛と信仰に彩られた後半生と壮絶な最期を描いた。
 永野信夫は、幼馴染で親友でもある吉川修の妹ふじ子と愛し合っていた。
 片足が不自由で結核持ちであったふじ子の闘病を支え、励まし、周囲の反対を押し切って婚約の誓いを交わし、ついにふじ子が回復しめでたく結納を上げる当日に、事故は起きた。
 どこまでが実際の話か分からないが、『氷点』同様のドラマチックな展開で、感動は約束されている。
 『古都』、『紀ノ川』の名匠中村登監督の堅実で品格ある演出は、どちらかと言えば無名の俳優陣の素朴さや新鮮さ(ソルティが知っている出演者は佐藤オリエと野村昭子くらい)と相俟って、宗教的敬虔さを物語に与えるのに成功している。

塩狩峠DVD

 DVDパッケージには「文化庁優秀映画奨励賞受賞」「文部省選定」「全国PTA協議会推薦」といった仰々しい文句が並ぶ。
 えてして、こうした作品は「教条主義で道徳的で面白くない」と相場が決まっているので、ソルティは昔から敬遠しがちである。
 しかも、トランプ政権を支えるキリスト教保守派の伝道映画とくれば、肌に合わないのは先刻承知。
 ビリー・グラハム(1918-2018)は、同性愛を「文明の衰退に寄与する『性的倒錯の罪深い形態』」と言い、「エイズは神の裁き」と述べたという。
 この映画でも、性的な事柄に対する「キリスト教原理主義的≒明治民法的≒旧統一教会的≒自民党元安倍派的」な価値観による描写がふんだんにあって、ちょっとあっけにとられるくらい旧弊である。
 実を言えばそこが、「愛のための自己犠牲」という本来のテーマとはまた別のところで、いろいろ考えさせられて面白かったのである。
 つまり、この映画の舞台となった明治末期の日本人の価値観、この映画が制作上映された1973年当時の日本人の価値観、制作に携わったアメリカのキリスト教福音派の価値観、そして2023年現在の日本人の価値観――これらを並行しながら本作を観て、日本人の性意識の変遷や観る者(ソルティ)の価値観との距離を検証していく作業がなかなかに興趣深い。
 作り手が受け手に感じ考えて心に刻んでほしいと思うものは、受け手が感じ考えて心に刻むものとは必ずしも一致しない。
 そこが芸術鑑賞の面白さである。

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主人公は国鉄職員なので、昔の汽車や駅が出てくる
鉄オタにとってはたまらないコンテンツだろう

 一例として、婚前交渉というテーマがある。
 主人公である信夫とふじ子は婚約した間柄であるが、婚前交渉はない。
 病弱なふじ子にどだい性交渉は無理であるが、それを抜きにしても、明治末期なら「婚前交渉NGは当たり前」で、女性は結婚するまで純潔を守り処女でなければならなかった。
 一方、男のほうは必ずしも童貞でいることが奨励されたわけではなく、遊郭で筆おろしする学生なども多かった。
 映画でも、信夫が悪友から吉原やススキノに誘われて断るシーンがある。
 信夫は子供の頃から正義感の強い潔癖な人間であったが、後年キリスト者となってからは、ますますその傾向が強まった。
 親友・修との銭湯での会話で、互いに童貞を告白するシーンがある。 
 ワールドワイドの立場としては、当然、結婚するまで男女とも純潔でいるべきである。

 73年の日本はどうだったろう?
 この年、上村一夫の漫画『同棲時代』を原作とした由美かおる主演『同棲時代―今日子と次郎―』が封切られ、大ヒットした。
 大信田礼子が歌った主題歌『同棲時代』(都倉俊一作曲)も大ヒットし、「同棲」という言葉は社会現象となった。
 当然、同棲するカップル(婚前交渉する男女)は増えた。
 しかし、同棲は社会から後ろ指をさされる現象には変わりなかったし、NHKが73年に実施した『日本人の意識調査』においても、「婚前交渉はNG」とする人が6割近くいた。(「婚約してなければNG」を含めると7割を超える)
 戦後、太陽族やヒッピー文化の影響を受けた若者たちの性行動の奔放化はあったし、それに憧れる層もいたには違いないが、大方において日本人は保守的であった。
 だいたい、男社会における性の自由は、男にとっては歓迎でも、女にとっては損に働く。
 誰とでも寝る尻の軽い女は、男たちから「公衆便所」とか「サセ子」とか陰口をたたかれていた。 
 
 大きな変容を見たのは、やはり80年代に日本を席巻したバブルとフェミニズムの洗礼であろう。
 80年代に東京で 学生生活を送ったソルティの周辺では、同棲はもう当たり前にあった。
 婚前交渉なんて言葉さえ、口の端に乗らなかった。
 愛し合っていればSEXして当然、愛が消えたら別れて当然。
 賢い女子なら、いろいろな人と付き合って、精神的にも肉体的にも経済的にも自分の好みにマッチする人を探すのが良ろしい。
 「処女をあげたんだから、責任を取って」なんて男に詰め寄る女は、鬱陶しがられるだけであった。
 男も女も、少しでも早く処女や童貞を捨てるほうが好ましいという風潮があった。
 上記のNHKの調査では、88年に「婚前交渉NG」は4割を切り、98年には25%まで減っている。
 その後、若者の「草食化」が言われ、2000年代に入ってからは旧統一教会の息のかかった勢力による「行き過ぎた性教育」バッシングもあり、2023年現在は保守への揺り戻しが起こっている感がある。
 それでも、「結婚するまで処女、童貞を守るのが当然」というのは、なんらかの宗教的信念を持っている人にほぼ限られるだろう。
 2018年の調査では16.6%が「婚前交渉NG」である。

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 また、夜中に目を覚ました信夫が、下半身からせり上がってくる性欲にもだえ苦しむという、なんとも“漫画チックな”シーンがある(上記画像)。
 「オナ禁」を自分に課しているらしいのだ。
 信夫は布団から飛び出して、庭の井戸のところに走り、ふんどし一丁となって冷たい水を頭からかぶる。
 なんつう、ベタにして、なつかしい演出だろう! 
 『白蛇抄』で滝に打たれる小柳ルミ子を思い出した。

 自瀆(オナニー)はやはり70年代くらいまでは、あまり褒められたものではなかった。
 「頭が悪くなる」とか「貧血になる」とか「背が伸びなくなる」とか言われていたし、十代のソルティがよく読んでいた芸能雑誌『明星』、『平凡』の相談コーナーでも、オナニーで罪悪感を持った本人からの相談や、息子のオナニーを心配する母親からの相談がよく載っていた。 
 大方の回答は、「スポーツをして性欲を発散させよ」であった(笑)
 現在は、オナニーして虚脱感に襲われることがあっても、罪悪感に囚われる人は多くないと思う。
 むしろ、性的欲求の制御装置として、あるいはストレス解消や手頃な睡眠療法として、あるいは男であれば夜間に下着を汚さないために、賢く活用するのが大人の知恵――というのが一般的ではなかろうか。
 キリスト教(聖書)がオナニーを禁止しているという話は有名だが、キリスト者たち、とりわけ福音派の若い信徒がどのように欲求と闘っているのか・・・・あまり知りたいとは思わない。(昔の修道院では、若い修道僧たちは、寝る時は必ず布団から手を出して寝るという決まりがあったと聞く)

 なにはともあれ、ほかの乗客の命を救うために列車に飛び込んだ永野信夫(長野政雄)の行為はまさに英雄的で、メル・ギブスン監督『ハクソー・リッジ』しかり、普段の生活で培われた純粋で真剣な信仰の力以外に、このような行為がなし得るとは思えない。
 

 
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損








● 嵐のあとの喜ばしい家路: L.v.B.室内管弦楽団 第51回演奏会

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日時: 2023年4月16日(日)
会場: 光が丘IMAホール(練馬区)
曲目: 
  • L.v.ベートーヴェン: 交響曲第6番 ヘ長調 作品68『田園』
  • A.ドヴォルザーク: チェロ協奏曲 ロ短調 作品104 (B.191) 
チェロ: 印田 陽介
指揮 : 苫米地 英一

 今日は、中野ZEROで同じ時間帯に催される中野区民交響楽団定期演奏会と、どちらに行くかで直前まで迷った。
 そちらも、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番&交響曲第6番『悲愴』(指揮:高橋勇太)という鉄板の人気プログラム。
 チェロかピアノか、ベートーヴェンかチャイコか、練馬か中野か。
 結局、ドヴォコンことドヴォルザークのチェロコンチェルトの美しくも妖しい魔力に抗いがたく、光が丘に足を運んだ。
 新緑鮮やかな光が丘公園は、日曜の午後を楽しむたくさんの人であふれ、すっかりコロナ前の日常に戻っていた。
 思えば、どっちの演奏会に行くか迷うという贅沢も、数年ぶりである。
 i-amabileの演奏会リストによれば、4月のアマオケ演奏会登録件数は114件。
 これはコロナ前(2019年)同月の95件をしのぐ過去最高件数である。
 めでたい、めでたい。

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光が丘IMAホール
到着した時は青空が広がっていたが・・・

 ときに、ベートーヴェン『田園』を聞くと、昔働ていた自然食品店のことを思い出す。
 店内にはいつもクラシック音楽が流れていた。
 業務用BGMを配信する会社と契約していたのである。
 お買い物のBGMであるから、暗い曲や重たい曲や小難しい曲はなくて、軽やかで明るい癒し系の曲が何曲かプログラミングされ、それが一日中リピートする。
 とくによく流れていたのが、『田園』第1楽章だった。
 タイトル通り、牧歌的で明るく心浮き立つ曲なので、お買い物する人にとっては耳に心地よく、(たぶん)購買欲をそそるものなのだが、店内にいて一日中リピートを聴く者にとっては事は別。
 そもそもが、渦巻きのように旋回するメロディが幾度となく繰り返される曲である。
 それを何度もリピートされると、うざったくて仕方ない。
 無限回廊にはまったような気分になる。
 たいてい、そのうち店員の誰かが「もう、やめて~!」と悲鳴を上げて、電源を切るのであった。
 あれから20年以上経つけれど、トラウマなのか、今でも第1楽章にはウザったさを感じる。
 他の人はどうなんだろう? 
 けれど、このウザったさあればこそ、第2楽章の清冽が癒しとなるのは確かである。

 ドヴォコンは、オケもチェロ独奏の印田陽介も素晴らしかった。
 印田のほぼ真正面、前から4列目にいたので、手の動きがよく見えた。
 鮮やかなテクニック、メリハリの効いた力強い演奏に感服した。
 オケもよく頑張ったと思う。
 個人的に、この曲の第1楽章は、すべてのクラシック音楽の中で、マーラーの交響曲第9番第1楽章と並ぶ傑作だと思う。
 とくに、ソナタ形式の提示部(ABAB)が終わって、展開部に入ってチェロが静かに語り出す低音の調べが、「明」でもない「暗」でもない、この世の秘密に触れている気がして、いつもここで背筋が寒くなる。
 こんなことを努力もなくできてしまうドヴォルザークの天才にはたまげる。
 ブラームスが羨ましがったというのもよく分かる。
 ドヴォルザークくらい天上に近いところに最初からいた作曲家は、モーツァルトのほかあるまい。(ベートーヴェンは苦労してそこに辿りついたという気がする)

 演奏会が終わって会場を出たら、よもやの雷鳴と土砂降り。
 急激に天気が変わっていた。
 しまった! 傘がない!
 が、10分ほど雨宿りしたら、陽が射して青空が戻ってきた。
 東の空に、うっすらと虹がかかった。
 まるで、『田園』第4楽章「雷雨、嵐」から第5楽章「嵐のあとの喜ばしい感謝の気持ち」をなぞるような光景。
 雨に洗われた光が丘公園の緑を縫って、家路に着いた。
  

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● 奥むさし、春の花浴 : 釜伏峠(550m)

 晴れの休日。
 桜を見るチャンスである。
 関東平野は終わりかけているので、近場の山に出かけてみた。
 このコースは、埼玉県寄居町が発行しているハイキングガイドで知った。
 20kmの歩きは、2019年12月の足のかかと骨折以来の最長距離。
 これを克服できれば、秩父の両神山(1723m、歩行時間約6時間半)制覇も見えてこよう。
 奥武蔵の里山に、色とりどりの春の花を愛でながら、マイペース・ウォーキング。

● 歩行日 2023年3月29日(水)  
● 天気  晴れのち曇り
● 行程
10:10 秩父鉄道・波久礼駅
    歩行開始
10:30 「風のみち」入口、夫婦滝
11:15 姥宮神社、胎内くぐり
    休憩(10分)
11:40 無人駄菓子屋
12:15 日本水(やまとみず)水汲み場
    休憩(10分)
13:00 釜伏峠、釜伏神社(550m)
    昼食(30分) 
14:30 中間平緑地公園
    休憩(20分)
16:10 県道坂本寄居線・食品店のベンチ
    休憩(10分)
16:40 鉢形城跡
17:20 東武東上線鉄橋
    休憩(10分)
17:40 東武東上線・玉淀駅
    歩行終了
● 最大標高  550m
● 所要時間  7時間30分(歩行6時間+休憩1時間30分)
● 歩行距離   約20km

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秩父鉄道・波久礼駅
無人である
公衆電話ボックスがいまや懐かしく感じる

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寄居橋を渡る

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下を流れるは荒川
玉淀ダムで堰き止められて湖となっている
紅葉きれいだろうなあ

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満開に間に合った!
やはり青空とのコントラストは美しい(ポストも然り)

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荒川の支流である風布川に沿って遊歩道が続く

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夫婦滝
落差約3mのかわいい滝
奥が夫、手前が妻

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この里山風景に浸りたかった!

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山道に入ると、檜の香りに身も心も浄化される
檜風呂の10倍は効果ある
体内の澱んだ電磁波が抜けていく(気がする)

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風布川のせせらぎも癒し効果高い

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飛び石を伝って何度も渡りかえす

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オオアラセイトウ(別名:紫花菜)
この時期もっともよく見かける野辺の花である

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姥宮神社(とめみやじんじゃ)で休憩
祭神は石凝姥神(いしこりどめのみこと)
三種の神器の一つである八咫鏡(やたかがみ)を造った神と言われる

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なんと、狛犬ならぬ狛ガエル!

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夫婦ガエルらしく、一方の背には子ガエルが乗っていた

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神殿の裏山にある胎内くぐり(入口)
この岩穴をくぐると、天然痘やはしかに罹らないと書かれていた
蛙のイボからの連想で「出来物に効く」ということか

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胎内くぐり(出口)
這いつくばって潜りました
メタボ診断に使える微妙な狭さ

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えっ、ミズバショウ!?
ちょっと早くないか?

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ただの観光案内所&休憩所と思ったら・・・

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なに? 無人駄菓子屋?
どーゆーこと?

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中には昔懐かし駄菓子の数々が並んで、感動もの!
ガラスケースの蓋を開けて好きな菓子を取り、お代は左奥の賽銭箱に
ハイカーやキャンパーの良心にたよる経営スタイルはえらい

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もちろんソルティも買いました
これで200円ちょうど

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木蓮は紫のドレスを着たアルト合唱団

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ドライブウェイを包む桜の雲

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穴場である

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日本水(やまとみず)の水汲み場
全国名水百選に選ばれている
古来より枯れることのない「子授け・不老長寿の霊水」
ポリタンクを車に積んで、水汲みに来る人で絶えない
お爺ちゃんと一緒に水汲みしていた男児にチョコパイをあげました

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釜を伏せたような形状から釜伏山と名付けられた
ゆるやかな登りが続く

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釜伏峠(550m)に到着!
寄居地方と秩父盆地を結ぶ峠として、鎌倉時代から往来があったという
看板裏の東屋でおにぎりを頬張る

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釜山神社
この参道、すこぶる気持ちいい

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この世の五大要素である“木火土金水”の霊神が祀られているとの由
「神威輝四海」とは、“神の御力は四海に及ぶ”の意か

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ここの狛犬は秩父地方同様、オオカミだった

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下山途中にある中間平緑地公園
展望デッキからの景色が素晴らしい

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展望デッキから
西に秩父の山々が連なる

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東は眼下に寄居町
春霞で遠景がぼけているが、筑波山やスカイツリーが見えるとか
夜景がまた素晴らしいとか

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南は東秩父村
山との対話ですっかり心静まった

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下ったところで見事な桜が我を招いた
お堂とのコラボが絶妙

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東国三葉躑躅(トウゴクミツバツツジ)

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路傍の庚申塔や月待塔に古くからの民間信仰を見る
この庚申塔は2mくらいの高さがあった

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馬頭尊は道中を守る仏さま
水仙と鈴蘭に囲まれてうれしそう

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県道脇の食品店のベンチで休憩
地元の人にとってみれば、なんてことない風景なのだろう

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鉢形城跡
小田原北条氏が北関東進出の拠点として築城
当時の建物は残っていない

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正喜橋
荒川に戻ってきました

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渡っていると、5時の「夕焼け小焼け」が鳴った
平和だなあ~

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なごり椿も散る時を知り

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鉄橋を渡る東武東上線

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東武東上線・玉淀駅
頑張った足に感謝

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年々幸福を感じる沸点が低くなっていくソルティ
野の花を見るだけで幸せって、チッチか、あるいは裸の大将か・・・










● 輪廻転生ミステリー 本:『我々は、みな孤独である』(貴志祐介著)

2020年角川春樹事務所
2022年文庫化

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装画:日田慶治 装幀:鈴木久美

 貴志祐介の本はこれで6冊目(検索カテゴリーを立てた)。
 やっぱり面白い。
 奇抜なプロット、緻密なリアリティ、抜群のストーリーテリング。
 いったん読み始めたら、またたく間に作品世界に入り込んでしまい、寝不足必死になる。
 本書も22時半に、布団の中で寝落ちを目論んでページを開いたが最後、気がつけば深夜1時を回っていた。
 このまま読み続けたい。
 でも、明日の仕事が・・・。
 人と会う約束が・・・。
 生皮をはがすような決心で、しおりを挟んで、文庫本を遠くに放り投げた。 

 本小説をジャンル分けするなら、「スピリチュアル・バイオレンス・ミステリー・サスペンス」といったところ。
 スピリチュアル(精神世界)とバイオレンス(暴力)という、両立しそうもない分野が共存しているところに、貴志祐介らしさがある。
 しかも、貴志の描くバイオレンスは、ありきたりの暴力ではない。
 サディスティックで悪趣味な、読みながら身体の末端に痛みを感じるような暴力である。
 ソルティは、あまりに過激な暴力描写は好まないので、正直、途中でげんなりした。
 自らの性器を咥えたメキシコ人の活け造りとか、貴志祐介のファンの一角をなすであろうサイコパスマニアへの読者サービスとしても、下劣で趣味が悪い。
 もう一つのスピリチュアルという要素がなかったなら、その時点でソルティは離脱していただろう。
 
 そう、本書の一番の魅力は、前世すなわち輪廻転生をテーマにしているところ。
 場末のしがない探偵事務所所長である茶畑は、有名企業の正木会長から依頼を受ける。
 「私は前世で切り殺された。その犯人を突き止めてほしい」
 茶畑は内心それを、怪しげな占い師に洗脳された正木の与太話としか受け取らない。
 が、多額の報酬に釣られて仕事を引き受ける。
 正木をそれなりに納得させるエセ物語をつくるため、彼が語る前世について過去の資料を調べていくと、まさに正木が語った通りの出来事が史実として残っていた。
 これは偶然なのか?
 それとも、占い師が正木を操っているのか?
 だとしたら、いったい何の目的で・・・。
 
 そのうちに、茶畑も自分の前世としか思えない夢を見るようになる。
 すべてを見通すかのような瞳を持つ不思議な女性霊能者との出会いと謎の言葉、行く先々で起こるシンクロニシティ、目の前に次々と示されていく輪廻転生のしるし。
 一方、事務所スタッフの失踪事件に絡んで、幼馴染の暴力団員や日本でのコカイン販促を狙うメキシカン・マフィアなどが茶畑に接近し、周囲は暴力的な色合いを濃くしていく。
 身に迫る命の危険を知りながらも、茶畑は最早、輪廻転生の謎を突き止めずにはいられない。
 
 最後は、正木からの依頼も、メキシカン・マフィアと日本の暴力団との抗争も、探偵事務所の経営も、スタッフ女性とのお安くない関係も、すべての伏線が回収されぬまま打っちゃられて、輪廻転生の謎に飲み込まれてしまう。
 壮大なる宇宙意識の前には、人間の命や日々の営為や人類の歴史など、大海の一滴にも値しない。
 そのあたりの強引さというか、読者置いてきぼりのパラダイム変換は、諸星大二郎の『暗黒神話』を思わせる。
 一種の「夢オチ」とも言える漫画チックな結末は、小説としては、貴志の他の作品にくらべると不出来という声もあろう。
 だが、輪廻転生や唯識や非二元といったスピリチュアルテーマに関心あるソルティは、最後まで興味深く読んだ。
 本作で明かされる輪廻転生の仕組みに則れば、弥勒菩薩はすでに現世に生まれ変わっているのかもしれない。


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