ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

スピリチュアル

● 天才ニコラ・テスラの秘密

 『ヨーロッパの都市伝説』(片野優、須貝典子著)に出てきた天才科学者ニコラ・テスラが気になって、彼に関する本を2冊読んだ。
 日本では90年代にちょっとしたテスラ・ブームがあったらしく、その後もテレビのドキュメンタリーや科学番組などでたびたび取り上げられたらしいが、ついぞ知らなかった。

①  ニコラ・テスラ著『ニコラ・テスラ 秘密の告白』(成甲書房、宮本寿代訳、2013年)
②  新戸雅章著『知られざる天才ニコラ・テスラ』(平凡社新書、2015年)

 ①  はテスラ自身の残した二つの手記――1919年刊行『私の発明:ニコラ・テスラの自叙伝』と題する自伝、および1900年刊行『人類エネルギーを増加させるには』と題する論文――の合本である。もちろん、『秘密の告白』という怪しげなタイトルはテスラ自身がつけたものではない。
 成甲書房という出版社は陰謀論、超常現象などのジャンルを得意とするらしく、他にも天童竺丸著『シオンの議定書』、副島隆彦著『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』、羽仁礼著『永久保存版 超常現象大事典』、後藤よしのり著『間違いだらけのオンナ選び』なんていう、“いかにも”な本を出している。
 表紙のニコラ・テスラの謎めいた眼差しといい、この科学者の日本での受け入られ方を象徴するような一冊である。
 ただ、中味はトンデモなところはなく、テスラの生涯や発明の裏話と共に、その人となりや思想や科学的ヴィジョンの一端が伺える真面目な内容である。


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 ②  は日本におけるニコラ・テスラ研究の第一人者と言える新戸雅章(しんどまさあき)による評伝である。
 こちらは、生まれ故郷のクロアチア(当時はオーストリア=ハンガリー帝国)や終焉の地アメリカはもちろんのこと、今やヨーロッパでも発明王トーマス・エジソンと並び称される高い評価と人気を得ているにもかかわらず、日本ではまだまだ知名度が低いテスラについて、「より広く深く知ってもらおう」という著者の思いがビンビン伝わってくる力作である。
 これ一冊読めば、ニコラ・テスラについて一通りのことが分かるし、他人にも自信を持って“ニコラ語り”することができよう。
 新戸は1948年神奈川県生まれ。テスラ研究所所長をつとめる。


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 ニコラ・テスラとは何者か?
 ① よりプロフィールを引用すると、

1856年7月9日~1943年1月7日。発明家。磁束密度の単位「テスラ」にその名を残す。交流電流、ラジオやラジコン(無線トランスミッター)、蛍光灯、空中放電実験で有名なテスラコイルなどの多数の発明、無線送電システム(世界システム)を提唱した。また、地球全体の磁場を利用し電気振動と共鳴させることで空間からエネルギーを無限に得られる仕組み(フリーエネルギー)を構想していた。8ヵ国語に堪能で、詩作、音楽、哲学にも精通、生涯独身を貫いた。

 我々が現在使っている電気は、エジソンが発明した直流システムではなく、テスラが発明した交流システムである。つまり、電気を主要インフラとする現代文明はまさにテスラの築いた土台の上に成り立っている。
 テスラさまさまなのだ。
 ②の新戸によると他にも、

 蛍光灯や水銀灯、ネオンサインなどの放射照明、無線電信、電子レンジ、ラジオ、テレビのリモコン、車の電子キー、航空機やロボットの無線操縦、ワイヤレス給電システムなどは、いずれもテスラが発明したか、原理を提供したものである。
 まことに我々は、テスラのアイデアの中に日々の生活を送っているのだ。

 これほどの恩人がなぜ正当に評価されて来なかったのか?
 新戸の本から察するに、ナイアガラの滝の水力を利用した壮大なる実験で交流システムを成功させ、かつての師エジソンをうち破って国際的な名声と評判を得たのであるが、その後(人生後半になって)、上記の「世界システム」とやらに固執したあたりから現実離れの様相を呈し、逆にテスラの特許を利用した後輩科学者が次々と実用的な発明を世に送り賞賛を浴びるようになり、次第に「過去の人」となっていったようだ。
 石炭や石油はもちろん、水力・風力・原子力にも頼らないフリーエネルギーを空間から取り出し、そのエネルギーを無線で世界中に瞬時に送るという「世界システム」は、当時も(今も?)あまりにも突飛すぎているし、既存のエネルギー業界にしてみれば何としてもその実現を阻みたいアイデアに違いあるまい。逆風必至。
 そのうえ、観客の度肝を抜く派手な放電ショーを各地で繰り返して魔術師のようにみなされ、殺人光線や人工地震発生装置開発の噂も独り歩きし、山師かいわゆる「マッド・サイエンティスト」の如くみなされていったようだ。日本で長らくオカルト文脈で語られることが多かったのはそのためであろう。
 また、同時代の発明家であるエジソンやマルコーニのように商魂たくましくなかったところも、世間から忘れられやすい一因だったのかもしれない。(最後は困窮のうちにホテルの一室で亡くなった)


ナイアガラ
 

 さて、天才と言えば奇癖や奇行がお約束である。
 テスラもまた歴史上の天才たちに負けず劣らず、たいそうクセが凄かった
  • 人の髪には触れられない。
  • 女性のイヤリングが嫌い。
  • 歩くときには歩数を数える。
  • 食べる前にスープ皿、コーヒーカップ、食べ物の体積を測らないと、美味しく食べられない。
  • 同じ行動を繰り返す。そのとき必ず3の倍数回しないと気が済まない。
  • 設計図を書かずに頭の中で装置を完璧に組み立てて、一気にアウトプットできる。
  • 極度の潔癖症。
  • 幼い頃から、たびたび幻視、幻覚、幻聴に襲われた。
 一種の強迫性障害あるいは自閉症のようにも思われる。
 生涯独身であったのは、こういった事情もあったのかもしれないと新戸は推測している。(ゲイ説もあり)
 
 今回、ニコラ・テスラについて調べてソルティが最も興味深く思ったのは、実は彼の発明に関するエピソードでも、華やかな交友関係でも、奇癖や奇行でも、毀誉褒貶さまざまな生涯でもなかった。
 上記の通り、テスラは幼い頃より幻覚に悩まされていたのだが、現れる心象(イメージ)はいつも現実との区別がつかないほどのリアリティを持っていた。
 自分の見ているものが現実のものなのか幻覚なのか分からないことが、彼を不快にも不安にもした。
 そこで、彼は何らかの心象が目の前に現れたとき、それがどうやって出現したのかを観察する習慣を“第二の天性”のごとく身に着けた。
 その結果、あることに気づく。

 実は、あるものの心象が目の前に現れるとき、事前にそれを思い出させるようなものを見ていたのだ。初めのうちは、ただの偶然だと思ったが、まもなくそうではないと確信するようになった。心象が目に見える前に、意識的に見るのであろうと無意識のうちに見るのであろうと必ず、何かの光景が思い浮かんでいたのだ。

 次に私が気づいたのは、実際に前もって何かを見た結果として何かの心象が浮かぶのだが、それと同じような方法で考えも浮かんでくるということだ。そこでまた私は、その考えを抱くきっかけを突き止めたいと思うようになった。

 これだけではない。自分の動きはどれも同じように突き動かされているせいなのだとまもなく気づいた。これまで私が一つひとつ考え、行動を起こすことで歳月を重ねながら行ってきた継続的な探究も観察も実証もすべて、私が動力を与えられた自動機械(オ-トマシン)だから、外部から感覚器官への刺激にただ反応し、それに従って考え、行動し、運動しているゆえであることを示していたのだし、今でも日々示している。そのことに私は十分納得した。自分の動き、考え、あるいは夢がもともと何の影響を受けたせいなのかが突き止められなかったのは、人生のなかで一度か二度しかなかった。

 私たちは自動機械(オートマシン)であって、私たちを取り巻くものの力で完全に制御されている。コルクのように水面に放り投げられているのに、外部からの刺激を受けた結果を自由意志だと誤認するのだ。運動やほかの行動は常に生命維持のためのもので、見かけ上は互いに無関係であるようだが、見えない絆で結びついている。

 なんと、ここでニコラ・テスラは、「人間は無意識によって動かされている自動機械に過ぎない。自由意志は錯覚だ」と言っているのだ。
 ベンジャミン・リベットが『マインド・タイム 脳と意識の時間』で示唆したこと、トニ・パーソンズや阿部敏郎などのノン・デュアリティ(非二元)の覚者らが述べていること、ブッダが因縁や諸法無我という言葉で説いたことと同じ、すなわち「自我の否定」である。
 これこそまさに「秘密の告白」の名に値する ‼

 上記の哲学を持つがゆえに、ニコラ・テスラは人間とまったく同じ機能を持つ自動機械、いわゆる A I ロボットの制作が可能と考えたのである。
 つまり、ソルティという一人の人間の“様々な刺激に対する外的内的な反応パターン”を徹底的に調べ上げて精密なプログラムをつくり、それを優れた工学性を備える A I ロボットにダウンロードすれば、ソルティそっくりの反応パターンを示すソルティ2が生まれる。
 次に、ロボットを動かすエネルギーの問題であるが、ここで空間から無限に取り出せるフリーエネルギーを利用すれば電力は必要ない。ロボットが壊れない限り、動作し続ける。フリーエネルギーは人間で言うところの「命」に相当しよう。
 最後に、ソルティ2に一つの指令(自己参照回路)を組み込む。
 
 COGITO ERGO SUM (我思う、ゆえに我あり)
 
 ソルティという人間とソルティ2というロボットの違いはどこにあるだろうか?
 
 ニコラ・テスラは人間を創造しようと考えていたのだ。
 おそるべし、二コラ。
 
 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● 本:『宗教の現在地 資本主義、暴力、生命、国家』(池上彰、佐藤優対談)

2020年角川新書

 「外務省のラスプーチン」と言われた佐藤優と、「難しいことを分かりやすく伝える才人」池上彰との対談。
 ラスプーチンネタが続いたのは偶然?必然?

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 佐藤優については、その昔鈴木宗男絡みで逮捕、有罪判決を受けたこと以外は、敬虔なカトリック信者であること、漫画家・西原理恵子とのタッグで週刊新潮でコラム連載していたことくらいしか知らなかった。
 著書を読むのは初めてである。
 大変な博学、引き出しの多さ、記憶力の主であるのは間違いない。
 情報番組では“物知りの大家”みたいな池上彰をほとんど圧倒する勢いで喋りまくっている。
 専門分野である宗教や外交問題を切り口にして、AIのシンギュラリティ問題やヨーロッパで勢いを増しているヴィーガニズム(完全採食主義者)、ナショナリズムや民族主義、ISやオウム真理教などのテロリズム等々、池上がテーブルに乗せる素材を次から次へと分析し、掘り下げ、独自の世界観の中に織り込んで呈示していく。
 対談というより、10歳年上の池上がインタビュアのようにすら見える。
 
 佐藤と池上の知識の差、教養の差、宗教性の差、世相の読み具合の差と、読む者はつい勘違いしてしまいそうだが、これはそうではないだろう。
 聴き手としての池上がすぐれているがゆえに、佐藤は思う存分自説を繰り広げることができたのだ。
 佐藤の話しぶりはほうっておくと受け手の理解度を意識しない独り語りのようになるところがあり、池上が舵を取らなければおそらくテーマは拡散し、受け手は混乱し、まとまりがつかないことだろう。
 つまり、ここでの池上は迂遠にして専門的な佐藤の言葉を、わかりやすく嚙み砕いて読者に伝える編集者のような役割を果たしている。
 
 以下、佐藤の発言より引用。

 実は仏教でもイスラム教でも神道でも、エキュメニカルな思考・行動をする人と、ファンダメンタルな人と、両方がいます。そのファンダメンタルな人のごく一部に、暴力を使って他者に自分たちの思考を強要する、あるいは暴力によって他者を排除しても構わないと考える人たちがいるのです。ところが、その人たちの思考には、きわめて共通した面白さ――敢えて「面白さ」と言います――があります。それはまず、自分たちの宗教のために自分の命を捨てる覚悟ができていること、そして命を捨てる覚悟があると、途端に他者の命を奪うことに対するハードルが低くなることです。

 日本人は自分を無宗教だと思っている人が多いのですが、それはいわば「無宗教という思想」なのです。無宗教という白いキャンバスのような場所は、簡単に色に染まる傾向があります。思想を作る人間が、もし説得力のある論理を語り始めたら、白いキャンバスはたちまちその思想で染まってしまうわけです。

 静かに進む神道国教化の動きに抗せるのは、無神論的な自由主義者ではなく、プロテスタントのキリスト教徒や創価学会会員など、自らの価値観の基礎に信仰を置く人々だと思う。

 公明党が政権与党に加わっている意義をはじめて感じた。



おすすめ度 :★★

★★★★★ 
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損

 
 

● ラスプーチンの長さ 本:『ヨーロッパの都市伝説』(片野優、須貝典子著)

2021年祥伝社新書

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 副題「歴史と伝承が息づく13話」
 約30年間ヨーロッパに住み続けてきた著者二人が、多くの国や地域を訪れるなかで触れてきた地域特有の風習や有名な伝説、怪奇事件を取り上げている。
 各話につけられたタイトルを羅列すると、
  1. 自殺を誘発する曲『暗い日曜日』
  2. 火事を招く絵『泣く少年』
  3. 実在した「呪いの人形アナベル」
  4. 最強の心霊現象・エンフィールド事件
  5. バチカンが正式に認めたファティマの奇跡
  6. ドッペルゲンガーを目撃した有名人
  7. 650人の処女を生贄にした伯爵夫人
  8. 21世紀に暴かれた、切り裂きジャック
  9. ルートヴィッヒ2世の幽霊
  10. 怪僧ラスプーチン暗殺の謎
  11. 天才科学者ニコラ・テスラの未開発技術
  12. 現代によみがえった吸血鬼
  13. ユダヤ教の人造人間ゴーレム

 映画や小説や漫画の題材にもなった有名な話ばかりである。
 ソルティがよく知らなかったのは、2の「泣く少年」の逸話(ネットで検索したら問題の絵はどこかで観た覚えがあった)、11の天才科学者ニコラ・テスラの業績、それにラスプーチンのペ×スの長さについてくらいだろうか。

 交流電流、電動機、蛍光灯、無線装置などを発明し世界的にはエジソンを凌ぐ天才とみなされているニコラ・テスラの名が、日本ではほとんど聞かないのが不思議である。
 彼が考案した、エネルギーが無料になる「世界システム」や、軍艦を敵のレーダー上から消すことができる「レインボー・プロジェクト」などは、莫大な利権や武器開発に関わる畏れるべき発明であり、国家や大企業の絡む巨大な陰謀が見え隠れする。
 まるでオカルト映画かSF映画のような不思議きわまる「フィラデルフィア実験」についてはそのうち調べてみたい。

軍艦


 バチカンの歴代法王を震え上がらせ40年以上封印されてきたファティマ第3の予言は、2000年に時の法王ヨハネ・パウロ2世の決定により正式発表された。
 ソルティが子供の頃は、世界の怪奇事件を扱った子供向けの本や漫画、オカルト系番組には必ずと言っていいほど取り上げられ、見聞きするたびに不安と好奇心とが入り混じった気分にさせられたものである。
 なのに、正式発表された頃(30歳を超えていた)にはまったく興味を失っていて、内容も確かめなかった。
 その前年(1999年)に「ノストラダムスの大予言」が外れたことで、一気にオカルト熱が冷めたのだったか?
 よく覚えていない。

 本書を読むと、「ファティマの奇跡」は1973年にほかならぬ日本の秋田の修道院のシスターの身の上にも起っていたそうだ。
 ある日、笹川シスターの前に聖母が出現しメッセージを伝えたのだが、その内容がファティマ第3の予言と同じだったという。
 そう言えば、秋田にはイエス・キリストの墓があるという伝承があった。
 いや、青森だったか?
 ラスプーチンのそれの長さと同じくらい、どうでもいい話だ。


 
おすすめ度 :★★

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● 史上最も呪われた映画 :『アントラム 』(マイケル・ライシーニ/デビッド・アミト監督)

2018年カナダ
94分

 「観たら死ぬ」、「入場料はあなたの命」、「何が起きても自己責任で」といった大げさなコピーで煽る煽る!
 「なら観てやろうじゃないか!」と逆にソルティのような物好きが、誘蛾灯に誘われる蛾のように捕まってしまうのである。
 はい、一匹確保(笑)

 アントラムとはラテン語で「門」の意。
 すなわち、地獄の門。
 亡くなった飼い犬の魂を救うため、自殺の名所たる不吉な森の中に入っていく美しい姉と弟。
 地獄の門をひらくべく、スコップを手に大地を掘っていく。
 すると、次から次へと禍々しい事件が勃発し・・・・・。

 ――といった内容の映画が1979年にアメリカで撮影された。
 ハンガリーでの公開初日に映画館が火事になり、観客56人が死亡。
 その後も、上映のたびに関係者の不審死や暴動が続き、フィルムは封印され、いつのまにか行方不明になった。
 マイケル・ライシーニとデビッド・アミトは、撮影から40年を経てフィルムを発見、これまでの経緯の説明を添えて幻の映画『アントラム』の公開に踏み切った。

 ――という映画である。
 一本の映画の中に別の映画が仕込まれている、いわゆるメタフィクション。
 1979年制作の映画というのが実際に撮られたものなのかどうか、上映のたびに各地で起きた怪奇事件というのが本当なのかどうか、そこは観る者の判断に任されている。

 ソルティの興味は別のところにある。
 この映画の怖さの中核をなすものは西洋文化の共同幻想の最たるもの、すなわちキリスト教の地獄や悪魔のイメージに拠っている。
 西洋文化圏に生まれ育った人ならば、地獄や悪魔あるいはそれらを表すシンボル(たとえば逆五芒星やヤギなど)に対し、潜在的か顕在的かを問わず、恐怖や忌避感を持っていることだろう。
 一方、我々日本人の多くはクリスチャンでないので、それらに対して“現実感”を持っていない。どこか他人事、絵空事である。
 たとえば、「羊にくらべてヤギが怖い」という日本人はそうそういないと思う。(ハイジに出てくる「ユキちゃん」のイメージが結構ある)


ユキちゃん


 ソルティはこの映画を観て、『13日の金曜日』のようなサスペンス映画のショッキングシーンで受ける生理的恐怖以上のものは感じなかったけれど、西洋人とりわけクリスチャンは宗教意識にもとづいた根源的恐怖を感じるのだろうか?


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バルタン星人とメフィラス聖人を足して2で割ったような印象の悪魔




おすすめ度 :

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』(ユヴァル・ノア・ハラリ著)

2011年原著刊行
2016年河出書房新社(訳:柴田裕之)

 数ヶ月前に図書館予約しておいたのだが、ちょうど連休直前に順番が回ってきたのはラッキーと言うほかない。
 外出自粛中のたっぷりの時間を、難しそうで分厚い(上下巻で500ページ強)本書に当てることができた。

サピエンス全史下


 読み始めてみたら、そんなに難しくなかった。
 むしろ、わかりやすく、面白く、タメになる。
 学術書、研究書、哲学書、歴史書には違いないのだが、同時に教養娯楽本の趣きも強い。
 難しい事柄(たとえば資本主義経済における“信頼”の仕組み)は、比喩や事例を使って素人にもわかりやすく説明してくれるし、訳もまた良い。

 歴史上の知られざるエピソードの宝庫でもある。 
 人類が記した最初の記録文書は税の支払いや負債に関するものだったとか、コロンブスがアメリカに上陸するまで当地に馬はいなかったとか(インディアンはそれまで馬に乗ったことがなかったのだ!)、アステカ族は侵入してきたスペイン人の体臭を耐えがたく思って傍にいるときお香を焚いていた(笑)とか、鉄道が始まった頃のイギリスでは街ごとに時刻が違っていた(グリニッジ標準時の始まり)とか、「へえ~」と思うような意外な話てんこもりで、著者の該博な知識とブラックジョークに近いユーモラスな語り口にページが進んだ。

 タメになるというのは、人類の歴史を著者と一緒に振りかえることで見取り図が持てて、自分が現在、生物史上・人類史上・歴史上のどんな地点にいて、今世界ではどんなことが進行していて、これからどんな世界が待ち受けているかを概観することができるからである。
 そして、王侯でも資本家でもない庶民の一人が、こうやって堂々と休暇をとって、心地の良い我が家でブラジル産コーヒーを飲みながら、明日の食事の心配もせず電灯のもと本を読んでいられるという状況が、いかに人類史的に驚くべき達成であるかを、まざまざと知ることができるからである。


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Sofia IivarinenによるPixabayからの画像


 通常、人類の歴史を語るには、人類の誕生→火や道具の使用→言語の使用→農業革命(狩猟採集から定住へ)→工業革命(産業革命)→情報革命、といった概念と流れで語られることが多い。
 本書の画期的なところは、ここに認知革命という概念を導入した点であろう。
 認知革命は「7万年前から3万年前にかけて見られた、新しい思考と意志疎通の方法の登場のこと」だと言う。

 その原因は何だったのか? それは定かではない。もっとも広く信じられている説によれば、たまたま遺伝子の突然変異が起こり、サピエンスの脳内の配線が変わり、それまでにない形で考えたり、まったく新しい種類の言語を使って意思疎通をしたりすることが可能になったのだという。その変異のことを「知恵の木の突然変異」と呼んでもいいかもしれない。

 この認知革命の結果、サピエンスは「まったく存在しないものについての情報を伝達する能力」を得た。
 
 見たことも、触れたことも、匂いを嗅いだこともない、ありとあらゆる種類の存在について話す能力があるのは、私たちの知るかぎりではサピエンスだけだ。

 つまり、実体のない抽象概念を作りだして、それが“さも実在するかのように”扱えるようになったということである。たとえば、

神、家族、先祖、子孫、村、国家、国民、金、法律、正義、人権、資本主義、共産主義、平和、戦争、国連、会社、貿易、歴史、文明、文化、恋愛、進歩、幸福・・・・・。

 著者はそれを“共同主観的な想像上の秩序”と呼んでいるが、この指摘自体は目新しいものではない。われらが吉本隆明が60年代に「共同幻想」と名付けたものと重なる。
 重要なのは、共同幻想を持てるようになったことが、人類にとって決定的なターニングポイントになったという点である。

 まさにその通りであろう。
 その後に続く農業革命も産業革命も科学革命も情報革命も、認知革命のもたらした変化と影響の大きさにはまったく及ばない。共同幻想の最たるものである家族や国家や宗教という概念なしでは、人類はいまだ家を持たない狩猟採集民のままであったろう。
 
 国民は、想像上の産物であるという自らの特徴をできるかぎり隠そうとする。ほとんどの国民が、国民とは自然で永遠の存在であり、原初の時代に母国の土地とそこに暮らしていた人々の血を混ぜ合わせて生み出されたといったことを主張する、だが、このような主張はたいてい誇張にすぎない。国民ははるか昔に存在していたが、その重要性は現在よりもずっと小さかった。というのも、国家の重要性がずっと小さかったからだ。

 「共同幻想」のまたの名を「物語(ファンタジー)」という。
 神の失墜やジェンダー神話(男らしさ・女らしさ)の崩壊をあげるまでもなく、現代はこれまで人類にとって有効であった「物語」が馬脚を現し、幻想であったことが次々とバレていく途上にある。
 そうした伝統的な従来の「物語」に従えば幸福が手に入るという時代ではなくなってきている。
 つまり、認知革命の有効期限が終わりに近づいているのだ。
 そうしたときに、「いったい幸福とは何なのか?」が問われているわけだが、著者は最終章に近い丸々一章を「文明は人間を幸福にしたのか」と題して、幸福について様々な観点から考察している。(仏教的見地も登場する!)
 この一章だけでも本書を読む価値は十分にある。

 私たちが真剣に受け止めなければいけないのは、歴史の次の段階には、テクノロジーや組織の変化だけではなく、人間の意識とアイデンティティの根本的な変化も含まれるという考えだ。そして、それらの変化は本当に根源的なものとなりうるので、「人類」という言葉そのものが「妥当性」を問われる。 

 サピエンス、全死?



おすすめ度 :★★★★

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● 映画:『ゼロの未来』(テリー・ギリアム監督)

2013年イギリス、ルーマニア
106分

 ディストピアSFの金字塔『未来世紀ブラジル』(1985)のテリー・ギリアムによる、やはり未来の管理社会を舞台としたSF&哲学ドラマ。

 哲学ドラマと言うのは、テーマが“生きる意味、存在の意味”といった壮大なところにあり、タイトルにある“ゼロ(0)”とは、宇宙のブラックホールであり、ビッグクランチ(=ビッグバンの逆)であり、仏教的な“空”や“無”を意味しているかのように見えるからだ。

 己れの存在する意味、生きる理由について懐疑にとらわれた主人公コーエン(=クリストフ・ヴァルツ)が、世界を管理支配するコンピュータを相手に孤軍奮闘するさまを、ギリアムならではのポップでサイケデリックな映像、コミカルかつ難解なプロットで描いている。

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 映像はさすがに凄い。
 『不思議な国のアリス』のような独特な世界が構築され、一見の価値がある。
 一方、テーマそのものは宙に浮いてしまって、存在を肯定しているのか否定しているのか、よくわからないままに終わっている。
 まあ、答えの出ない問題ではあるが・・・。
 「存在の意味を問うなど無意味。答えは愛」と安易に落とし込めないあたりが、ギリアム監督のプライドなのだろう。
 (ソルティ思うに、「答えは愛」が正解なのだろう。まあ、「愛」というより「生殖」だが・・・。すべての生命の使命がとりあえずそこにあるのは間違いあるまい)

 観ている間は全然気がつかなかったが、『サスペリア』や『少年は残酷な弓を射る』のティルダ・スウィントン、『クラウド・アトラス』や『英国スキャンダル~セックスと陰謀のソープ事件』のベン・ウィショー、それにマット・デイモンが出演していたらしい。
 これら主役級スターをチョイ役で使えてしまうあたり、さすが大監督である。



おすすめ度 : ★★

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● 高尾スピリチュアルDay

 毎年恒例の高尾山初詣。
 昨年は足のケガで行けなかった。
 今年もコロナで無理かなあ~と思っていたところ、高尾に住むある女性から展示会のお誘いをいただいた。ブログを通じて知り合ったツクシさんである。
 高尾山のふもとにある喫茶店「ふじだな」で、1月中「つくし作品展」を開催しているという。
 
 前回(2017年1月)の展示会ではお目にかかれなかった。
 今回はお会いしたいと思い、往復の交通機関の“密”を避けるべく日程調整し、平日の午前中に行くことにした。
 そのあと、喫茶店近くの蛇滝口から高尾山に登り、薬王院に参詣し、下山後に高尾極楽湯に浸かる。
 ラッシュ前には余裕で帰宅できよう。
 
 ソルティの職場は高齢者や病人と関わることが多いので、定期的に職員全員へのコロナ抗原検査を実施している。
 PCR同様、鼻に綿棒を突っ込む検査で、ほぼその時点でのステイタス(感染の有無)を知ることができる。
 ちょうど前々日に検査を受けて陰性をもらったばかりであった。
 愛する高尾にウイルスを持ち込む心配はないし、他人にうつすこともない。
 自分がどこかで貰わないようにだけ注意すればよい。
 
 JR中央線高尾駅北口から小仏行きのバスに乗る。
 リュックを背負ったハイカーがちらほらいて、席はすっかり埋まった。
 風は冷たいが、空は澄み渡り、陽射しには春のやわらぎが感じられる。
 裸の木々の間から冬の山々のすっきりした稜線が楽しめる、絶好のハイキング日和である。
 蛇滝口を過ぎ、裏高尾バス停で下車。
 「ふじだな」は目と鼻の先にある。

 壁に飾られた自作に囲まれて、ツクシさんはすでに店内で待っておられた。


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喫茶店ふじだな
八王子の水を使ったコーヒーが美味しい

 
 ブログで知り合ってかれこれ4年以上になるのに、お会いするのはこれが初めて。
 が、なんだか初めて会ったとは思えないのが不思議であった。
 4年の間にお互いのブログを訪問し、それぞれの近況や関心の所在はなんとなく知っていたし、たまにコメントのやりとりもあったけれど、齢五十過ぎていまだ人見知りのソルティ、初対面の人と話すのが得意ではない。
 しかも、ツクシさんは“全米”で活躍されたプロのイラストレーター。
 ホームページに掲載されている作品の数々を見れば、その豊かで個性的な才能と旺盛な創作力は歴然としている。
 会う前は、なんだか採用面接に向かう新卒学生のようにドキドキしていた。
 ところが、出会った瞬間、まったく壁を感じなかった。
 (各テーブルに設置された透明な壁は仕方あるまい)

 次から次へと話題は転換し、話は弾んだ。
 やっぱり一番熱いテーマはスピリチュアリティ。
 スピリチュアルな話題というのは、それに関心のない人にとっては、「あやしい」「いかがわしい」「ちょっとイっちゃってる?」「あぶない」「現実離れ」と思われがちなので、なかなか日常会話に乗らないものである。
 ネット上はともかく、オフの場で話せる相手を見つけるのはなかなかに難しい。
 ましてや、会ったばかりの人にそうしたテーマを投げかけるのはキヨブタ(清水の舞台)の勇気を必要とする(笑)
 それだけに、「この人、スピリチュアルOK」と分かったときは、俄然、熱く語り合ってしまうのである。
 なぜなら、スピリチュアリティこそは、その人のアイデンティティや価値観や世界観の核をなしているからである。
 というわけで、ツクシさんはすでに2巡目に入っているという「奇跡のコース」について、ソルティは仏教やヴィパッサナ瞑想(=マインドフルネス瞑想)について、共通したところや異なるところの確認やら、それらが各自の物の見方や生活にどういう影響を及ぼしたかなど、自在に語り合った。
 この、いきなりお互いの存在の深いクレパスに切り込んでいくスリリングな感覚は、三年前に四国遍路したとき宿で出会ったお坊さんとの会話以来であった。


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ツクシさんの作品(案内状より)
高知産の楮(こうぞ)和紙をちぎって描いた高尾の自然
素朴であたたかな味わい

 時節柄、長居は控えるつもりであったが、気がつけばお昼を回っていた。
 一緒に喫茶店を出て、平和な裏高尾の道をゆく。ツクシさんの家は近くにあるらしい。
 別れた後でふと気づけば、蛇滝登山口をはるかに過ぎていた。
 話に気を取られていた。というより、久しぶりのスピリチュアルトークに興奮し気もそぞろだったようだ。(こんなときのマインドフルネスなのに・・・・)
 

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チョロチョロの蛇滝(左上あたり)
いまの時期は水が少ない

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 山登りをあとに持ってきたのは正解であった。
 人気のない蛇滝の道場のお堂に腰掛けて、しばらく瞑想していたら、すっかり心が落ち着いた。
 むろん、体もデトックス効果ですっきり。
 高尾山の裏梯子とも言うべき急な九十九折りの道を登って、一気に薬王院参道に出る。
 足の調子もいい。

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薬王院
おみくじは吉であった!

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山頂付近の日陰は雪が残っていた

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山頂ひろばより富士山を望む
案の定、空いていた

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裏高尾方面の山なみ

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リフトで下山

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極楽湯の食事処にて


 今年もスピリチュアルな一年になりそうだ。


 

● リトリート in 秩父 

 昨年末、3日間ほど秩父でリトリートした。
 日常圏を離れた自然の中で、ひとり静かに過ごす時間を持ちたかった。
 実家暮らしではなかなかできない食事コントロールや瞑想三昧をし、働いているとなかなか避けられないテレビや新聞やスマホによる情報の奔流から逃れたかった。
 足のケガのリハビリを兼ねた長距離ウォーキングもしたかった。
 なにより、コロナで騒がしい世間からいったん距離を置きたかった。

 一日のスケジュールは以下の通り。
05:00  起床
    読経と瞑想
07:00 散歩(秩父神社に参詣)
    朝食
09:00 瞑想
12:00 ストレッチヨガ
    昼食
13:00 散歩
16:00 入浴、休息
18:00 瞑想
22:00 就寝

 一日に4時間のウォーキングと最低9時間の瞑想。
 夕食は抜く。
 禁酒、禁欲、禁ネット、原則無言行(買い物時はのぞく)。
 もちろん、テレビ・ラジオ・電話・メール・読書は OFF。
 コロナが来る前までは、もっと長期間の、もっとタイトなスケジュールの瞑想会に年1回は参加していた。
 このくらいは序の口である。
 
 秩父を選んだのは、
  • 県内移動で済む
  • 広々として気持ちよく、山々に囲まれ自然豊かである
  • 神社仏閣がたくさんあってスピリチュアルな気に満ちている
  • この時期は観光客が少ない
  • 秩父34ヵ所札所巡礼で勝手知ったる町である
  • 温泉がある
 秩父鉄道・秩父駅の近くに宿をとった。
 秩父神社にも荒川にもほど近く、買い物にも便利で、静かで、ロケーションは抜群である。

 3日間ともよく晴れて、日中は風もなく暖かかった。
 午後の散歩では汗ばみ、上着を脱いだくらい。
 大方、巡礼路となっている荒川沿いの山辺の道を歩いた。
 マスクを外して歩くだけでストレス解消となった。

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秩父では“巴川”の異名を持つ荒川


 散歩途中に出会った秩父の風景をご紹介。

● 武甲山ポートレート
 秩父の町のどこからでも見えるのが武甲山。
 削られた山肌はなんとも痛々しく哀しいけれど、土地と人々の暮らしを見守る雄々しさは太古の昔から変わらない。

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23番音楽寺のある丘から

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巴橋に重ねて

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25番久昌寺への道中

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秩父公園橋に重ねて


● スピリチュアル秩父
 秩父神社のほか、34札所のうち13番~25番のお寺を巡った。
 参拝するほどに、この土地との縁が強くなっていくのを感じる。
 いっそ移住しようかな・・・・。
 いや、寒さに弱いソルティだった。


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秩父神社

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本殿の東側に左甚五郎作の“つなぎの龍”がある

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先ごろ修復されたばかりで非常に色鮮やか
鎖につながれて、悪戯できないことからこう呼ばれる

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25番久昌寺の池
山蔭になった部分は終日凍結している

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19番龍石寺
水成岩の上に立ち、四国札所14番常楽寺を思い出させる

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14番今宮坊近くの今宮神社
前回来たときは本殿がなかった

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樹齢1000年の大ケヤキ


● 街角小景
 秩父は地盤が固く地震が少ない。
 大震災の被害を受けず、戦災にも遭わなかった。
 昭和レトロな街並み、家並みが今も残っており、懐かしい。

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銭湯・たから湯
昭和11年創業、現在も営業している

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カフェ・パリー
昭和2年建築の店舗兼用住宅
登録有形文化財に指定されている


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地域の病院の入口に置かれた鉄製オブジェ
中世代レトロ

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トリケラトプス

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ブラキオサウルスか?

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巡礼路で見かけた直売所

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スーパーの商品に比べると、見た目は悪いがパワー抜群!


● 蕎麦どころ
 秩父は四方を山々に囲まれた盆地で、土地が痩せているため、稲作には向かなかった
 そこで、古くから養蚕と共に、蕎麦の栽培が盛んであった。
 昼夜の寒暖差が大きいこと、荒川上流のきれいな水に恵まれていることも、蕎麦づくりに適しているのだ。

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1,2を争う人気店「わへいそば」
いつ前を通っても駐車場はいっぱい、店の外に人が並んでいた

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秩父橋のそばにある「ささいち」
一昨年巡礼したときから気になっていた店

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期待通り旨かった!
麺はつるつるして、歯ごたえも喉ごしもGOOD
天ぷらは外はカラッとサクサク、中はジューシーでホクホク


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窓から見た景色も素晴らしい
知る人ぞ知る名店だ


 3日間のリトリートを終え、心身とも大分すっきりした。
 骨折以来、座禅を組むのが難しくなっていたが、1時間までならなんとか組めるようになった。
 とくだん瞑想に進歩があったというわけではないが、心を過去や未来にさまよわせずに「いま、ここ」に落ち着かせていると、コロナ禍のいまでも感謝できることはたくさんあると気づいた。
  • ごはんがあること、自力で食べられること
  • 歩けること
  • まずまず健康なこと
  • リトリートできる時間と金銭的余裕があること
  • 家族が健康でいること
  • 仕事があること
  • ひとりでいられること
  • 自然を楽しめること
  • 仏教と巡り合ったこと
  • 日本が平和なこと
 どれか一つでも欠けていたら、このような時間は持てなかった。
 コロナ禍と心の幸福度はまったく関係ないのだ。

 最終日に宿をチェックアウトしたあと、西武秩父駅にある「祭りの湯」でくつろいだ。

 ビバ、秩父!
 

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● 妖怪大協定 本&絵:『水木しげるのラバウル戦記』

1994年筑摩書房
1997年ちくま文庫
 
 敗戦後ラバウルから帰還した水木しげるが、主として昭和24~26年頃に記憶を頼りに描いた絵に、文章を添えた従軍記である。


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 なによりもまず、水木しげるの映像記憶の凄さに感心する。
 まるで、目の前の光景をその場で素描しているかのような生々しさ、臨場感がある。
 頭のなかにシャッターがついているかのよう。
 やっぱり天性の絵描きなんだなあ~。
 
 次に思うのは、軍隊のキチガイぶりである。
 ビンタをはじめとする上官の日常的暴力、無意味な労働、無駄な行軍
 水木がラバウルに派遣された昭和18年末はすでに日本の敗色濃厚だったので、戦地には自暴自棄の空気が漂っていたとは思う。
 が、それにしても頭の悪い・・・・。

 ソルティの高校時代の部活動(軟式テニス部だった)を振り返ってもそうだが、つい最近まで、日本のスポーツ界というのは疑似軍隊であった。
 先輩・OBの命令は絶対で、意味のないシゴキが付き物で、どんな炎天下であろうが運動中に休憩をとらせず、水も飲ませない。
 そうやって精神を鍛えることが選手の身心を強くし勝利を導く、とマジで考えられていたのである。
 科学的かつ合理的精神にもとづき、エビデンスを元に効率的に選手を育成するという視点に欠けていた。
 「神風特攻精神」に象徴される頭の悪さが、日本の敗戦の主因であろう。

 が、頭の悪いのは日本に限ったことではない。
 日米は、ラバウルほか太平洋の島々で熾烈な殺戮合戦を繰り返すが、はた迷惑なのは現地の住民たちである。
 家や畑を焼かれ、食べ物を盗まれ、強制徴用され、銃撃や空爆の脅威にさらされ・・・・・。
 文明国を気取っている日本やアメリカが、文明は持たなくとも素朴に平和に暮らしている人々(水木しげるは敬愛の意を込めて彼らを“土人”と呼んでいる)を虐げる。

 彼らは、文明人と違って時間をたくさん持っている。時間を持っているというのは、その頃の彼らの生活は、二、三時間畑にゆくだけで、そのほかはいつも話をしたり踊りをしたりしていたからだ。月夜になぞ何をしているのかと行ってみたことがあったが、月を眺めながら話をしていた。
 まァ優雅な生活というやつだろうが、自然のままの生活というのだろうか。

 土人は“満足をする”ということを知っている、めずらしい人間だと思って、今でも敬意を払っている。

 我々文明国の人間は、金や土地や資源や栄誉や安全など欲しいものを手に入れ満足するために戦争するわけだが、文明国でない人々は最初から満足を手に入れている
 文明とはいったいなんだろう?

 もう一つ思ったのは、水木しげるのタフさ、大らかさ、運の良さである。
 若かった(当時23、4歳)こともあろうが、上官からの度重なるビンタをものともせず、初めて足を踏み入れた南の島の自然や動植物や昆虫や食べ物に多大なる好奇心を持ち、楽しんでいる。
 兵営近くの部落の土人たちとすぐ仲良くなって、終戦時には「畑をやるからこのまま島に残ってほしい」と彼らに哀願されるほどの関係を築いている。
 一体に先入観を持たない大らかさがある。

 水木が夜の見張りのために小屋を離れた時に、攻撃を受けた部隊は全滅する。
 その後も、一人ジャングルの中を命からがら逃走し、最後は爆撃によって左腕を失う不運に遭ったものの、九死に一生を得る。
 いや、左腕を無くし野戦病院に送られたがゆえに、命ばかりは助かったのだ。
 そのまま最前線に残っていたら、生きて日本に帰れなかった可能性が高い。

 水木しげるがラバウルで死んでたら、鬼太郎や河童の三平は生まれなかった。
 目玉おやじもねずみ男も猫娘も生まれなかった。
 きっと、荒俣宏も京極夏彦も『妖怪ウォッチ』も生まれなかった。

 水木しげるは、日本とラバウルの妖怪たちの協定により守られたに違いない。

ダイダラボッチ


おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 

● 本:『ウォールデン 森の生活』(ヘンリー・デイヴィッド・ソロー著)

1854年刊行
1998年宝島社文庫(真崎義博訳)

 Bライフ修験道に関する本を読むなど、最近、“森(山)の生活”への憧れが募っているソルティである。 
 と来れば、むろん、この古典を手にするのも時間の問題であった。

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 ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(1817-1862)は、1845年に故郷マサチューセッツ州コンコードにあるウォールデン湖畔の森に丸太小屋を建て、自給自足の生活を2年2か月送った。その回想録が『ウォールデン 森の生活』である。 
 本書は、自然の中での自給自足のBライフを夢みる人々の、持続可能性ある社会を唱えロハスを実践する人々の、そして騒々しい都会やせわしない日常やメンドクサイ人間関係から離脱したい人々の、バイブルである。
 ただし、ソロー自身は、人生や生活から逃避するつもりで森へ入ったのではなかった。
 こう言っている。

ぼくが森へ行ったのは思慮深く生活して人生の本質的な事実とだけ面と向かい合いたかったし、人生の教えることを学べないものかどうか確かめたかったし、死ぬときになって自分は生きていなかったなどと思いたくなかったからだ。生活といえない人生など生きたくなかった。


 なるべく人工的なものを排した根源的な生活、文字通り“地に足の着いた”生活を送りたかったのである。
 当然、電気はない。水道もない。暖房は薪ストーブ。森の動物を狩り、湖の魚を獲り、小さな畑で豆やトウモロコシやジャガイモをつくり、村人に売って最低限必要な日常品を購入する。
 静寂と孤独とありあまる時間の中に身をおいて、いろいろなことを思索し、文を書く。
 そんな生活を2年以上送ったのである。

ソローの小屋の絵
妹ソフィアが描いたソローの小屋


 森の生活の中から生まれたソローの思想が書き留められている前半が面白い。
 後半は、森の生活の情景描写(自然や動物の観察など)が中心で、読み物としてはやや退屈である。

 心を打ったソローの言葉をいくつか引用する。

 世間の評判というものは、ぼくら自身の個人的な意見にくらべたら、ひ弱な暴君だ。人の運命を決めるもの、いやむしろそれを示すもの、それは自分が自分をどう思っているかということだ。

 自分の生活に敬意を払い、変化の可能性を拒否して生きてゆくことを、ぼくらは徹底的に心の底から強要されているのだ。これが唯一のやり方さ、とぼくらは言う。けれど、じっさいは、ひとつの円の中心から無数の半径がとれるように、無数のやり方があるのだ。あらゆる変化は見る目には奇蹟だけれど、それは刻一刻と起きている奇蹟なのだ。

 ぼくらは、いったい何にいちばん近く住みたいと思っているのだろう? 食料品店とか、ビーコン・ヒルとか、いちばん人が集まるファイヴ・ポインツなどではなく、生命の永遠の源の近くだろう。そこは、ちょうど水のそばにあるヤナギの木がその方向に根をのばすのと同じように、ぼくらの経験から、生命がそこから流れ出すということを知った場所なのだ。

 自分の生活を簡素にするにつれ、宇宙の法則から複雑さが消えてゆき、孤独が孤独でなく、貧しさが貧しさでなく、弱さが弱さでなくなるだろう。

 なぜぼくらはそれほど成功を急ぎ、それほど必死に企てをしなければならないのだろう? 人が自分の仲間と歩調を合わせていないとすれば、それは、たぶん仲間とは別のドラマーのリズムを聞いているからだ。どんなリズムのものであれ、どんな遠くから聞こえてくるものであっても、自分に聞こえる音楽に合わせて歩けばいいのだ。
 

 2年2か月の森の生活を経て、ソローは社会に帰還する。
 こう言っている。

 ぼくは、森へ入ったのと同じように、それなりの理由があって森をあとにした。たぶん、ぼくには生きるべき人生がもっとあって、それ以上の時間を森で費やすことができなかったからだと思う。

 
 その後は特に定職に就くこともなく、様々な賃仕事をしながら、執筆や講演や奴隷解放運動に携わった。
 ソローは、世捨て人でも、隠者でも、ひきこもりでもなかった。
 その点は誤解してはなるまい。


森の中の池
注:ウォールデン湖ではありません


おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 檀家山 本:『修験道という生き方』(宮城泰年、田中利典、内山節共著)

2019年新潮社

 自分の前世の一つは修験者(山伏)であったと思う。
 山歩きが好きで、仏教が好きで、秩父を巡礼し、四国を遍路し、孤独が苦にならない。
 一方で、修験道と言えば、比叡山の千日回峰行に代表される苦行の世界であるが、ソルティは苦行が好きでない。ナンセンスとさえ思っている。
 四国を歩き通したと言うと、「苦行好き」のイメージで見られることもあるが、現代の四国遍路は、フィールドアスレチック+オリエンテーリング+生身の自分が主人公となるロールプレイングゲーム+観光旅行のようなものである。そこに宗教的要素が加わりはするが、苦行とはまったく思わなかった。(苦行にならないレベルで歩いた、というべきか)
 おそらく、前世は軟弱で中途半端な修験者だったのだろう。

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 本書は、修験界を代表する二人の高僧(宮城泰年、田中利典)と、西洋哲学を専門とする内山節による鼎談をメインとしている。序章として、内山が修験道の概要を歴史に沿って解説している。
 仏教用語など専門的な部分もあるが、概して庶民の日常生活に接続する具体的なレベルの話題が多く、本書で修験の世界にはじめて触れる者にとっても、読みやすくわかりやすいものとなっている。
 というより、「庶民の日常生活に接続する具体性」こそが、修験道の肝であることが明らかにされている。

 山伏に象徴される修験者は、現代人の目から見れば、日常から遠く離れた特殊の世界の人というイメージであるが、明治初期に「神仏分離令」に次いで「修験道廃止令」が出されるまでは、すなわち江戸時代までは、修験者は里にあって様々な役割を担いながら庶民の日常生活に溶け込んでいる点景の一つだったのである。(蘆屋道満などの陰陽師もまたその仲間であろう)
 修験道廃止令で失職した修験者は17万人もいたという。(当時の日本の人口は約3千万人台)

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 修験道とはなにか?

 修験道は古来の自然信仰を受け継ぎ、それが道教の「無為自然」(おのずからのままに=自然のままに生きる)思想とも融合しながら、大乗仏教の思想をも取り込んでいくかたちで成立した。

 その開祖は役小角(634~ )というのが通例である。
 が、役小角は書き物を残していないし、親鸞における唯円『歎異抄』のように、師の言葉を書き留めた弟子もいなかったので、役小角の思想なり修験道の理念なりというのは実はよくわからない。あってないようなものである。

 修験道は山での修業がすべてであり、知の領域で学ぶ信仰ではない。今日的な表現をすれば、「徹底的に身体性に依拠した信仰」である。知で生きる人間から身体で生きる人間へと自己を変えながら、身体と自然の一体化を得て自然的人間として生まれ変わることをめざした信仰だといってもよい。

 おそらくははるか昔から存在した自然信仰や人々の願いを集約し、仏教を取り込みながらひとつの型を創りだしたのが役小角だったのだろう。あるいはすでに各地で活動していた山岳信仰の行者たちに、ひとつの方向性を示したのが役小角だったと考えたほうがよいのかもしれない。
 
 自然信仰(アニミズム)が基盤となっているという点で、修験道はもっとも古い日本人の宗教と言える。太古から今日まで日本人の心の深層に脈々と流れ、いきづいているエッセンスである。(神道との関係について、本書ではなぜか触れられていない)
 それは、哲学とか思想とかというものではなく、日本という風土に生き、自然とともに暮らす人々の血の中を流れる“性分”のようなものだろう。がゆえの「身体性」である。
 また一方、仏教=大乗仏教を取り込みながら発展したというところにも特徴がある。
 仏教伝来以降、役小角、行基、景戒、空也をはじめとする、いわゆる「聖(ひじり)」と呼ばれ諸国を流浪する行者たちによって、官の仏教とは別のカタチで仏教が庶民に広まっていったわけであるが、それは各地でもとからあった民間信仰と融合していく。
 修験道は、主として山岳信仰と融合した民衆仏教の一形態なのである。
 風土仏教とでも言うべきか。

 『オオカミの護符』で書かれていた武蔵御嶽山や秩父三峰山への信仰(講)はまさにその表れであり、つい最近まで修験道が庶民に根付いていたことを知らしめるものである。
 ある意味、これこそが日本人の多く(=庶民)が古来なじんできた宗教――宗教とは意識しないほどに血肉化した――なのかもしれない。
 昨今、パワースポットブームも手伝ってか、修験道に関心を寄せる人が増えているそうである。

 日本列島に暮らした人たちが、もしかすると縄文時代以来、気の遠くなるような長い歴史の中で帰属してきたのは何かというとそれは風土という言葉に集約されると思うのです。自然とともに人々が、自然との独特な関係をつくりながら、社会システムや文化をつくりだしていった。そうやってできあがっていった風土に人々は長いあいだ帰属してきたのですが、それが明治からのわずか百五十年、あるいは戦後の七十数年のあいだに壊れていった。
 ところが帰属するもの、結ばれたものがなくなってみると、生きる意味とか生の充実感、自分の役割などがわからなくなってきた。そこから、自分たちは何を忘れてしまったのだろうという空洞感のようなものが広がってきた。ですので、自分は何に帰属して生きていったらよいのかをみつけ直そうという思いが、今日では広がりはじめていると思うのです。企業のような皮相的で幻想でしかない帰属先ではなく、本質的な帰属先です。そういった思いを抱きはじめたとき、自然がつくり出した風土とか、その風土と寄り添っていた人々の側の信仰が視野に入ってきたのではないでしょうか。
 
 確かに、自分が山登りを好むのは、山に包まれて、そこに自分が帰属しているという安心感が得られるからかもしれない。
 檀家寺を持つより、檀家山を持つほうが、自分の性に合っている。
 高尾山こそ、ソルティの檀家山なのかも・・・・。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 大口真神の正体 本:『オオカミの護符』(小倉三惠子著)

2011年新潮社

 神社の鳥居の左右には狛犬がいる。
 正確には、神殿に向かって右側に坐し「阿形」に口を開けたのが獅子、左側に坐し「吽形」に口を閉ざし頭に角を生やしたのが狛犬である。
 どちらも、龍や麒麟と同じく想像上の生き物である。


狛犬
阿形の狛犬(獅子)


 地方によって、神社によって、いろいろなタイプの狛犬がいるのは言うまでもない。
 たとえば、沖縄の神社の狛犬はシーサーであるのはよく知られている。
 他にもキツネやイノシシや牛や鹿や亀なんてところもある。 (下記HP参照)

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 ソルティは関東近辺の山によく登り、麓や山頂にある神社をお詣りすることが多いのだが、いつぞや秩父の蓑山に登った時、山頂近くにあった蓑山神社の狛犬をみてビックリした。
 どう見ても、餓死寸前の犬としか思えなかった。
 その後、関東有数のパワースポットとして名高い三峰神社宝登山神社に行った時も、鳥居の傍らに控えているのは犬のようであった。
 秩父の神社の狛犬は犬が多いという印象を持った。


蓑山神社狛犬
蓑山神社


三峰神社狛犬
三峰神社


宝登山奥宮狛犬
宝登山神社


 が、どうやらこれらは犬ではなくオオカミ、それも約100年前に絶滅したニホンオオカミらしいと、本書を読んで判明した。

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 著者は1963年神奈川県川崎市生まれ。
 生まれ育った土橋の家の土蔵に昔から貼ってあった「大口真神」と書かれた護符に関心を抱き、近所の長老たちに取材し、土地の風習や信仰についていろいろ調べているうちに、武蔵御嶽神社や三峰神社にいざなわれ、大口真神に対する耕作者たちの古くからの信仰を知るようになる。

 大口真神こそはニホンオオカミのことなのである。
 農作物を食い荒らすイノシシや鹿などを捕食してくれるニホンオオカミは、農民たちにとって神にも等しき存在だったのだ。(現在、鹿の繁殖による作物被害に苦しんでいる農家が多いのは、オオカミの絶滅も一因なのだろう)

 しいて分類すれば民俗学の範疇に入る本である。
 が、一枚の護符と向き合うことから、埋もれていた郷土の歴史や風俗に目を開かれ、糸を手繰るように次から次へと普段なら会えないような人と出会い、興味深い話を聞き、村の伝統行事や神社に代々伝わる秘儀に参列し、厳しい自然の中で生きてきた日本人の信仰の根源に触れる。
 そうこうしているうちに、定職を辞め、自らプロダクションを立ち上げ、映画を撮り、本を書くようになる。
 不思議な縁に導かれた自分探しの旅のようなスピリチュアルミステリーの感もある。
 
 本書を読むと、日本人の信仰の根源には、生きることに欠かせない食べものを育んでくれる自然(=和魂)と、それを無残にも奪い去ってしまう自然(=荒魂)――そうした自然に対するアンビバレントな畏敬の念がある、ということを改めて思う。
 キリスト教や原始仏教のもつような「生計と切り離された観念性」は、日本人には馴染まなかったのだ。
 


おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● 科白が入っていない!    


 舞台の本番を数日後に控えているのに、自分の役の科白を全然覚えていない。
 これからどう頑張っても覚えきれない。
 いったい自分は何をボケっとしていたのだろう?
 
 ―――という夢をたまに見る。
 悪夢というほどではない。
 にっちもさっちもいかない困った状態のまま目が覚めて、「ああ、夢でよかった」とホッと一安心する、というほどのこともない。
 ちょっと、心がざわついて、しばらくすると夢を見たことも忘れてしまう。
 
 似たような夢で、試験が近い夢や試験を受けている夢を見るという人がいる。
 学生時代の延長のようなストレスフルな夢だ。
 ソルティはこちらは見たことがない。
 どういうわけか決まって舞台がかかわっている。
 
 実際、ほんの少しの間だが芝居をやっていたことも過去にあり、そのせいかとも思うのだが、やっていた時は科白を覚えきれないとか、科白を忘れたという経験はなかった。
 トラウマになるほどの悲惨な失敗もしなかった。
 ステージフライト(舞台恐怖)に苦しんだこともなかった。
 
 いつからこの夢を見始めたのか覚えていないのだが、最初のうちは幕が開くのは2~3日後という設定だった。
 がむしゃらに覚えようとすれば間に合わないこともない気がする。
 もっとも、どんな内容の芝居なのか、どんな役を振り当てられているのか、どのくらいの量の科白があるのかまでは、はっきりした設定ができていないのだが。
 ただ夢の中では、「いまから覚えるのは到底無理」と半ば諦めている。
 
 そのうち、だんだんと幕開きまでの期間が短縮されてきて、「明日が本番」という設定がしばらく続いた。
 それがさらに短縮されて、「数時間後に本番」となった。
 だんだん追い詰められていく。
 ついには、「本番直前の楽屋」で扮装も化粧も済んで、幕開きを他の役者たちと待っているところになった。
 ソルティが全然科白を覚えていないことを他の役者たちは知りもせず、それぞれ自分の科白や動きを確認している。
 自分の中では「困ったことになった」と思っているのに、「いまのうち、みんなに告白しておかなければ・・・」とは考えていないあたりが不誠実きわまりない(笑)。
 
 先日、夢の中で気づいたら、ついに舞台上にいた。
 本番最中である。
 数名の役者と一緒に舞台にいて、観客の視線を浴びている。
 戸外のシーンのようで、草や木の大道具に囲まれている。
 周りの役者たちが流れるようなよどみなさで、代わる代わる科白を口にする。
 何を言っているのかはわからないものの、ソルティは「なかなか、上手いものだ」と感心している。
 なんとなくシェークスピアを思わせる科白回しだ。
 と、科白が切れた。
 舞台上を沈黙が支配する。

 ・・・・・

 それは芝居の「間」ではなく、明らかに「途切れ」と分かる不自然な沈黙。
 誰かが科白を忘れているらしい。
 役者間に緊張が走る。

 ・・・・・・・・

 瞬間、「あっ、ここは自分の科白なんだ」と理解する。
 が、むろん何をしゃべっていいのか見当もつかない。
 筋が分からないのでアドリブすらきかない。
 沈黙が続く。

 ・・・・・・・・・・
 
 しばらくすると、舞台袖に控えていた他の役者がその沈黙の理由に気づいたらしく、出番ではないのに舞台に登場して、適当な科白をその場ででっちあげて、事態をうまく回収してくれた。
 そこで夢は終わった。

 これでこの夢は終わるのか、この先があるのか。

 
黒子
 黒子がいれば問題ないのでは?
 

P.S. そうそう、肝心なことを書くのを忘れていた。この芝居の台本を書いたのはソルティ自身なのであった。自分の書いたものを忘れているのだ。






● 本:『転生者オンム・セティと古代エジプトの謎』(著者:ハニー・エルゼイニ&キャサリン・ディーズ)

2007年原著
2008年学習研究社より邦訳発行(田中真知訳)

 「転生者」で「オンム・セティ」で「古代エジプト」!
 これでもかというくらいにオカルティックなワード炸裂で怪しさフンプン。
 表紙もまた来てる。
 ピラミッドに、オベリスクに、古代ファラオ(アクエンアテン)の像に、ジプシーっぽい風貌の老婆の写真。
 スピリチュアル好きのソルティもさすがに手を出しかねるベタさ。
 図書館のスピリチュアル本コーナーで見かけていたのだが、これまで敬遠していた。


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 先日、酷暑で朦朧としていたためか、あるいはなにかのお告げか、手に取ってよくよく見ると、副題にこうあった。
 「3000年前の記憶をもった考古学者がいた!」
 ただのスピリチュアル本ではなくて、実在したプロのエジプト学者の伝記だったのである!
 彼女の名前がオンム・セティ(1904-1981)
 知らなかった。

 なぜ考古学者の伝記がスピリチュアル本コーナーにあるかと言えば、実際に彼女が3000年前の古代エジプトの記憶をもつ転生者だったからである。
 少なくとも本人はそれを確信していたし、彼女のもっとも親しい友人であり生前の彼女から日記を託されていた著者のハニー・エル・ゼイニも、それを前提に本書を書いている。

 オンム・セティとは誰か?

 おもての顔は、英国に生まれ育ったイギリス人女性であり、しっかりと訓練され知識と技術を身につけた一流の考古学者であり、観光客にすぐれて人気あるエジプト遺跡の案内者であり、エジプト人と結婚し一児の母となるも離婚し、その後は亡くなるまで独身を通した一女性である。
 奇抜で型破りなところはあるものの、生まれついての意志の強さと率直さ、強い正義感と行動力、考古学者に必須な飽くなき好奇心と想像力と熱意とを兼ね備えた類まれなる人物である。

 うらの顔――生前の彼女が著者以外の人間に秘して語らず、この書が出るまで世間に隠されていたもう一つの顔が、古代エジプトの神殿に仕えた巫女の生まれ変わりであり、時のファラオ(王)セティ一世の愛人。しかも、夜ごとに、3000年前からよみがえったセティ一世の霊(?)の訪問を受けていた神秘体験の持ち主だったのである。
 なんと面白い!

 本書の読みどころは三つある。

 一つは、オンム・セティ(本名ドロシー・ルイーズ・イーディー)の波乱に満ちた不思議な生涯、破天荒で純粋で情熱たっぷりな人柄に触れること。
 世間体や常識にとらわれず、自らの信じるところ、感じるところにあくまでも忠実に生きるその姿は、読む者に勇気を与えてくれよう。

 一つは、スピリチュアル的興味。
 ドロシーが自らが古代エジプトの巫女の生まれ変わりと知ることになったいきさつや、彼女の身の回りに起こる神秘体験の数々、夜ごとのセティ一世との官能的な交流の様子、動物(コブラやサソリさえも!)と意志疎通したり、古代エジプトの魔術を用いて病人を癒す異能ぶりなどにワクワクする。

 最後の一つは、オンム・セティの専門領域である古代エジプト文明に関わる様々な謎、とくに彼女の魂の故郷であるセティ一世神殿をめぐる謎に迫ること。
 それも、現代考古学の科学的な手段によるだけでなく、彼女の前世の記憶やセティ一世の霊を通して伝えられた情報という、学会がまともに取り上げるをよしとしないリソースをもとに迫る。
(オンム・セティが生前その存在を予言していた遺跡が、彼女の亡くなった後に発見され、存在が確かめられている)

 あるいはいま一つ、「3000年の時を超えて結ばれた真実の愛」といったハーレクインロマンス的な(『王家の紋章』的な?)読み方もありかもしれない。 
 
 いずれにせよ、この物語は映画になったら絶対に面白かろう。
 古代エジプトと、20世紀の英国とエジプトとの、二つの時代をヒロインがいったり来たりする。
 彼女はもう一人のドロシーなのだ。

エメラルド宮殿
エメラルド宮殿@「オズの魔法使い」



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● ハレルヤ! 本:『大聖堂』(ケン・フォレット著)

1989年原著
1991年新潮社より邦訳発行
2005年ソフトバンク文庫

 分厚い文庫3冊の長編。
 借りたはいいが、なかなか読み始める決心がつかなかった。
 読み始めても物語世界に入り込むまで、時間がかかった。
 2巻目に入ってからは、ぐんぐん進んだ。
 若い頃はすぐに入り込めたのになあ~。

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 邦題どおり12世紀イングランドを舞台にした大聖堂建築をめぐる人間ドラマである。
 原題 The Pillars of the Earth 「地の柱」も大聖堂の意であろう。
 だが、話のスケールは大聖堂周辺にとどまらず、中世イングランドの一時期を描いた滔々たる大河ドラマ、群像ドラマといった趣きがある。
 2010年にリドリー・スコット総指揮により全8話のテレビドラマとして制作され、日本でも『ダークエイジ・ロマン 大聖堂』のタイトルで2011年に放映された。DVD化されているようだ。

 ストリーテリングの巧みさ、善人か悪人かはっきりした魅力あるキャラクターたち、喜怒哀楽たっぷりの人間ドラマ、勧善懲悪の結末といったあたりが、お国の文豪チャールズ・ディッケンズを彷彿とさせる。
 フォレットはデビュー作『針の眼』以来、ベストセラーを連発しているらしいので、すでにディッケンズ同様の国民的作家と言ってよいのかもしれない。
 ソルティはこれが初フォレットであり、本作だけで判断するのは早計かもしれないが、ディッケンズにあってフォレットにないものは、ユーモアであろう。
 ユーモアがあれば、もっとスムーズに入り込めたと思う。
 逆に、フォレットにあってディッケンズにないものは、エロ描写である。これは時代的制約で仕方ないところであるが。

 著者あとがきによれば、フォレットはこれを書くにあたり、相当入念な勉強と取材をしたらしい。
 その甲斐あって、中世イングランドの様子が、実に生々しく、リアリティ豊かに描き出されている。
 話の核となる大聖堂建築の詳細はむろんのこと、修道院の日常、庶民の生活や労働のありさま、市(いち)を中心とする経済、王位をめぐる混沌とした争い、火器のない時代の戦の模様、教会政治の権謀術数・・・・。
 聖堂の構造について説明されても、残念ながら日本人で建築シロートのソルティにはほとんど理解できないが――聖堂の構造を各部の名称とともに記した図面を載せてくれたらいいのに!――それ以外については興味を持って読むことができた。


大聖堂


 思うに、中世ヨーロッパ社会の顕著な特徴を2語でまとめるなら、「暴力と信仰」ということになるのではなかろうか。
 これは、「俗と聖」、あるいは「政治と宗教」、あるいは「城壁と聖堂」、あるいは「地上と天上」、あるいは「現実と理想」と言い換えてもいい。
 この小説では、前項のダークサイドを代表するキャラとして、代々の国王や野心家のウォールラン司教や悪徳貴族ウィリアムなどが配され、後者の光の勢力を代表するキャラとして、フィリップ修道院長をはじめとする修道士たちが配される。
 敬虔で意志強固で慈悲深く不屈の精神を持つフィリップは、世俗の暴力に幾たびも襲われる。修道院の領する町を焼かれ、町民を虐殺され、市をつぶされ、石材や職人を不当に奪われ、そのたび聖堂建立のピンチにさらされて、いったんは絶望の淵に追いやられる。
 が、信仰と忍耐と粘り強さ、それに持って生まれた知恵によって不死鳥のごとく蘇る。
 このヘラクレスのような、一休さんのような、難題解決エピソードが、この物語の一つの面白さとなっているのは間違いない。読み手は、フィリップが頓智を駆使して難題を解決し、窮地を脱出するたびに、心の中で喝采を送ることになる。
 
 ラストは勧善懲悪で、フィリップは最後にして最大の逆境を、文字通り奇跡のごとく乗り超えて、世俗勢力を圧倒する。
 なんと、フィリップがイングランド国王を鞭打つシーンで終わるのだ!
 信仰の暴力に対する、宗教の政治に対する、理想の現実に対する、聖の俗に対する勝利を表している。
 ハレルヤ!

復活の光
 
 
 しかるに、十字軍のイスラム侵攻や異端カタリ派虐殺の例を挙げるまでもなく、実際のところ、宗教こそは、教会勢力こそは、巨大なる暴力装置だった。政治と宗教は、「俗 v.s. 聖」の形で対立していたのではなく、俗世間の覇権をめぐって対立していたのが実情である。
 フィリップの敵は教会外部にだけでなく、教会内部にこそいた。ウォールラン司教や副修道院長リミジアスが恰好の例である。
 この世では、ダークサイドの力が圧倒的に強く、フィリップの求める正義や慈悲や理想は負け続ける。
 フィリップの闘いは実に孤独なものだったのである。
 
 これはぜひともDVDを観たい。



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損









● 晴明と道満 本 : 『陰陽師の原像 民衆文化の辺界を歩く』(沖浦和光著)

 2004年岩波書店

 コミック『陰陽師』のあまりに現実離れした展開にシラけた反動からか、陰陽師の実像について調べたくなった。
 恰好の本があった。

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 沖浦和光は大阪生まれの研究者で、比較文化論や社会思想史を専門としている。
 三國連太郎との対談本『「芸能と差別」の深層』(ちくま文庫)や、当ブログでも紹介した『辺界の輝き 日本文化の深層をゆく』(こちらは五木寛之との対談、ちくま文庫)など、日本文化の周縁あるいは底辺に生き、様々な差別を受けてきた賤民について、長年調査研究し深い造詣を有している人である。
 そう、陰陽師もまた賤民の類いであった。

 いや、安倍晴明は朝廷から正四位下をもらっている貴族ではないか。宮中に出入りし帝への拝謁も許されていた官人ではないか。と反論が起こるのも当然。
 陰陽師には、晴明やその師の賀茂忠行・保憲父子のように律令体制下で国に仕え、中国由来の陰陽五行説を基盤とする占いや天文観測を行う官人陰陽師と、おそらくは渡来人を祖とし播磨地方を中心に起こり、次第に各地に広がっていった民間陰陽師と、二系統あるらしい。
 賤民として差別されてきたのは後者の陰陽師であり、晴明の最大のライバルとして知られる蘆屋道満はその代表格なのである。

 近世の民間陰陽師は、家内安全・五穀豊穣・商売繁盛の祈願、災いを除去する加持祈禱、日時や方位についての占い、竈祓(かまどばらい)や地鎮祭などの儀礼、さらには万歳などハレの日の祝福芸で生活していた。簡便な民間暦の製作販売もやっていた。近世も元禄期の頃から、ドサ回りの人形浄瑠璃や歌舞伎へ進出していった陰陽師集落もあった。その集団が近世末には「役者村」と呼ばれるようになった。
 陰陽師や山伏の仲間には、民間に伝わった伝統的治療法によって、貧しい人たちの病気治療に従事する者も少なくなかった。祈禱だけでは治らないことはよく承知していたので、本草学の知識による漢方治療や鍼灸術なども併用した。彼らが「巫術」をもって病を治す在野の医者、すなわち「野巫(やぶ)医者」と呼ばれていたのである。

 ちょっとした雑学であるが、「やぶ医者」の語源は藪医者ではなくて野巫医者、すなわち「在野で巫術(=シャーマニズム)を行う医者」だそうである。
 なんか蘆屋道満のほうが好感持てる。

晴明と道満
晴明と道満(『北斎漫画』より)


 歴史上人物としての安倍晴明は、現在小説やコミックや映画などで描かれる呪術を駆使するスター超能力者とは違っていたらしい。
 
 史料を調べてみると、安倍晴明が式神を使ったり呪詛を行った事実は出てこない。晴明を含めて平安中期の官人陰陽師が、式神を操ったり、呪詛を行ったという史料は見当たらない。そもそも律令の「賊盗律」では、呪詛そのものが禁じられていたのである。

 晴明の確かな事跡が史料に出てくるのは、当時の朝廷貴族の日誌・記録である。『今昔物語』や『宇治拾遺物語』などで語られる安倍晴明像は、すべてその死後に語り紡がれた説話であって、実際にあった史実ではない。

 巷間に流布されているスーパースター伝説が語られるようになったのは、室町時代初期に晴明自筆(むろんウソ)と言われる『簠簋(ほき)内伝』という書が現れてからという。

 耳目を惹きつける奇想天外な伝説を喜んで受け入れ、聞き、物語ったのは、むろん第一に庶民であったろう。
 が、もともとの道満系の民間陰陽師たちもまた、自らのステイタスを高めるために、商売繁盛のために、「われこそは晴明の末裔なり」といった流儀でスーパースター伝説を利用したようだ。

 ジブリの映画『かぐや姫の物語』や永久保貴一の漫画『カルラ舞う』に登場する木地師の人たち――彼らもまた被差別の民であった――が、「自分たちは惟喬親王の家来、太政大臣小椋秀実の子孫」と称し、山中を移住し暮らしていたのは知られるところである。
 身分社会において差別されてきた人々が、自らのルーツをかえって身分社会の高いところに求めようとするのは、なんとも切ないことである。



おすすめ度 :★★★ 

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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● 映画 : 『カスパー・ハウザーの謎』(ヴェルナー・ヘルツォーク監督)

 1974年ドイツ
 109分

 原題は Jeder für sich und Gott gegen alle
 訳すのが難しい。
 直訳すると、「自身のためのそれぞれと、すべての人のための神」
 映画の内容から意訳するなら、「万人のための神は、個人個人を救わない」か。

 舞台は19世紀前半のドイツ。
 といっても、1871年に一つの国として統一される以前の、35の君主国と4つ自由都市からなる「ドイツ連邦」の時代である。
 その中の一つバイエルン王国(あのヴィスコンティの映画で有名な狂王ルードヴィッヒ2世の国)で、実際に起きた出来事を描いたものである。
 
 1828年5月26日、バイエルン王国ニュルンベルクのウンシュリット広場で、16歳ほどの少年が発見される。身元などいくつか質問をされてもまともに答えられなかったため、少年は衛兵の詰所に連れていかれた。衛兵たちから筆談はどうかと紙と鉛筆を渡された少年は「カスパー・ハウザー」という名前を書いた。
(ウィキペディア「カスパー・ハウザー」より抜粋)


 映画は、長いこと地下牢に監禁されていたカスパーが、何者かによって外に連れ出されるシーンから始まる。
 どうやら、物心つく前からそこにひとり閉じ込められていたらしく、言葉も知らず、人間や動物の姿も外の風景も見たことがなく、鏡をみたこともない。いわば、中身は赤ん坊そのままで、身体だけ大人になったよう。
 文明社会に引っ張り出されたカスパーは、周囲の助けを借りて、遅ればせながら言葉を覚え、礼儀作法を身につけ、読み書きやピアノを弾くこともできるようになり、“人間らしく”なっていく。
 しかるに、どうしても世間に馴染むことができず、混乱は募るばかり。
 ある日、何者かの手によって、カスパーは刺し殺されてしまう。

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カスパー・ハウザーの肖像

 不思議な話である。
 カスパーの正体は、さる高貴な領主一家の捨て子ではないかとか、ナポレオンの隠し子ではないかとか、いろいろな説があるらしく、いまだに真相はわかっていない。なにやら陰謀めいたものが背景にあるらしい。
 ともあれ、映画のテーマは彼の出生の謎を追うことにはなく、赤ん坊のごとき無垢の人間が文明社会と出会ったとき、いったい何が起こるかを描くことにある。
 その意味で、観ていて連想するのは、涙なしには読めないダニエル・キースの傑作『アルジャーノンに花束を』(早川書房発行)である。
 
 監督のヴェルナー・ヘルツォークは、ヴィム・ヴェンダースやファスビンダーらとともに1970年代に世界映画界を席巻したドイツの巨匠で、芸術性とスケールの大きさが特徴であった。
 クラウス・キンスキーを主演にした『アギーレ/神の怒り』(1972)、『ノスフェラトゥ』(1979)、『フィツカラルド』(1982)など、芸術系の旧作映画を専門に上映する単館、いわゆる「名画座」によくかかっていたのを思い出す。
 BGMとしてクラシック音楽を使うのもお決まりで、本作でもモーツァルト『魔笛』のアリアや『アルビノーニのアダージョ』がここぞとばかり流される。今聞くとスノビズムな感が強い(笑)。

 カスパーの文明化に関して興味深いのは、彼が最期まで神という概念をまったく理解できなかった点である。本作でも、教会のミサの最中に気分を悪くし、外に飛び出してしまうシーンが出てくる。
 この拒絶は、自分をこのような悲惨な目に遭わせた神を受け入れ難いというのとは違う。
 そもそも神という存在自体が理解できなかったのである。 
 まるで、人は無垢を失ってはじめて神が必要となる、とでも言っているかのようだ。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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     読み損、観て損、聴き損


 


● 漫画:『陰陽師1~13巻』(画:岡野玲子、原作:夢枕獏)

2005年白泉社より最終巻発行

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 平安時代に活躍した陰陽師・安倍晴明を主人公とする歴史オカルトファンタジー。
 幻想的で耽美な世界を構築する岡野の画力と、平安風俗や陰陽道に関する研究熱心さは、賞賛に値する。

 しかるに、これは夢枕獏の原作を読んでいる人が、「原作がどのように劇画化されているか」を楽しむ作品であろう。
 原作を読んでいないソルティのような者にとっては、清明によってしばしば繰り広げられる陰陽五行説の専門的な説明ははなはだ難しく、煩わしく、物語への興味をそがれる。
 巻が進むほどにそれが顕著になり、内容も理解できぬまま字面を追っていることになる。

 しかも後半、清明がどんどん神(あるいは魔?)がかってきて、実在した歴史上の人物らしさを失い、受難を負ったイエス・キリストみたいなカリスマ的存在になっていく。
 なんだかなあ~。
 怪異ミステリーとして純粋に物語的面白さを楽しめる前半が良い。

 実際の安倍晴明は、あの藤原道長の権力固めに協力したようで、本作の清明とも、羽生結弦の清廉高潔なイメージとも異なり、かなり老獪なる狸オヤジだったのではなかろうか。



おすすめ度 : ★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 都会でサバイバル 本:『ペスト』(ダニエル・デフォー著)

1722年原著刊行
1973年中央公論より邦訳発行(平井正穂訳)
2009年改版

 学生時代に途中挫折したカミュの『ペスト』を再読しようかと書店に行ったら、デフォーにも『ペスト』があるのを知った!(正確なタイトルは『ペスト年代記』)
 あの究極の無人島サバイバル男、『ロビンソン・クルーソー』の作者である。

 表紙カバーの説明によると、
1965年にロンドンを襲ったペストについて、体験者から状況を委細にわたって聞き、当時の『死亡週報』などをもとに入念に調べて、本書を書き上げた。

 デフォーは1960年ロンドン生まれなので当時5歳。
 身近に当時の状況を身をもって知る人がたくさんいた。つまり、実録に近い。
 哲学的なテーマを内包し、架空の物語であるカミュの『ペスト』よりも、読みやすくて面白そうであった。

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思った通り、いや想像をはるかに超えて、面白かった!!

 当時のロンドンの人口約45万人のうち、およそ6分の1にあたる約7万5千人が、たった1年余りで亡くなった未曽有の悲劇の記録を、「面白かった!」と言ってしまうのは語弊あるけれど、実になまなましくスリリング、壮絶にして凄惨、そんじょそこらのパニック映画など足元にも寄せ付けない臨場感と迫力に満ちている。
 疎開せずに疫渦の中心たるロンドンに残り、一部始終を目撃した体験者(デフォーの叔父がモデルと目される)の手記という体裁をとっているので、語り手の思ったことや感じたことがヴィヴィッドに読み手に伝わってくる。語り手の目や耳を借りて、阿鼻叫喚の地獄と化していくロンドンを体験する思いがする。
 さすが、ジャーナリスト出身の作家。

 平井正穂の訳は、非常にわかりやすく、漢字を結構ひらいてくれているため読みやすい。編集者が適当に章立てしてくれたら、もっと良かった。
 
 ペストは、ペスト菌の感染によって起きる感染症である。症状は、発熱、脱力感、頭痛などがある。症状は感染後1~7日後ほどで始まる。別名の黒死病は、感染者の皮膚が内出血によって紫黒色になることに由来する。
 感染ルートや臨床像によって腺ペスト、肺ペスト、敗血症型ペストに分けられる。人獣共通感染症・動物由来感染症である。ネズミなどげっ歯類を宿主とし、主にノミによって伝播されるほか、野生動物やペットからの直接感染や、ヒト―ヒト間での飛沫感染の場合もある。
 感染した場合、治療は抗生物質と支持療法による。致命率は非常に高く、治療した場合の死亡率は約10%だが、治療が行われなかった場合には60%から90%に達する。
(ウィキペディア『ペスト』より抜粋)

 このノンフィクション小説が書かれた時代にはペストの原因は分かっておらず、有効な治療法も発見されていなかった。(ペスト菌の発見は1894年北里柴三郎らによる)
 ひとたび感染したら、死を覚悟するほかなかったのである。
 
 新型コロナウイルスとの共通点ということで言えば、
  1.  接触感染、飛沫感染、媒介物感染する。
  2.  感染力が強い。
  3.  症状に多様性が見られる。
  4.  潜伏期間中にそれと知らず、他人にうつしてしまうことがある。
  5.  いまのところ有効なワクチンがない。
 とくに4番目の特徴が厄介なのは言うまでもない。
  
つまり、感染は知らず知らずのあいだに、それも、見たところ病気にかかっている気配もない人たちを通じて蔓延していったということである。しかも、その人たちは、自分がだれから病気をうつされ、まただれにうつしたかもまったく知らないのであった。

 
 語り手は、ロンドン西部に第1号らしき患者が発生し死亡した時点から語り始め、それが次第に死者数を増しながらロンドン東部に漸進していく様子を、具体的な地区名と日付と数字をもって記していく。きわめてリアル。
 市民の間にパニックが広がり、様々な事態が起こっていく。
  • 一族郎党を引き連れ、われ先に郊外へと疎開する金持ち連中
  • 人影が消えて、がらんどうになった通りや施設や店舗
  • 予言者、占い師、怪しげな薬売り、いかさま医師、自称魔術師、魔除け(アマビエのような?)売りの出現
  • デマや流言、根拠の不確かな情報の拡散
  • 食料を買いだめして家に閉じこもる人々
  • 一人でも患者を出した家を家族・使用人ごと閉じ込めてしまい、市民に24時間監視させる「家屋閉鎖」という行政戦略
  • あちこちの家から夜ごと担ぎ出され、墓場へと運搬され、深い穴に投げ込まれる死体
  • 突然死したまま道ばたに転がる無残な死体と、それを遠巻きに避けて通る人々
  • いわゆる“火事場泥棒”の出没
  • ロンドンに取り残された貧しい人々や病人に寄せられた莫大な義援金
  • 感染の不安や恐怖、家族や友人を失ったショックと悲しみから、あるいは自暴自棄になり、あるいは気がふれ、あるいは自害する人々

 毎日毎日どんな恐るべき事態が各家庭で起こっていたか、ほとんど想像することもできないことだった。病苦にさいなまれ、腫脹の耐え難い痛みにもだえぬいたあげく、われを忘れて荒れ狂う人もあれば、窓から身を投じたり、拳銃で自分を撃ったりして、われとわが身を滅ぼしてゆく人もあった。精神錯乱のあまり自分の愛児を殺す母親があるかと思うと、べつに病気にかかってもいないくせに、いかに悲痛なものとはいえ、単なる悲しみのあまり死んでゆく者もあり、驚愕のあまり死んでゆく者もあった。
 いや、そればかりではない。仰天したために痴呆症を呈するにいたる者もあれば、くよくよして精神に異常を呈するものもあり、憂鬱症になる者もあった。
 
 実に凄まじい、この世の終わりのごとき景観が、語り手の前に広がっていたのである。

 
地獄絵図蛇47番八坂寺
 
 
 新型コロナウイルスという、目に見えない敵の恐ろしさを知悉している現在の我々は、これら異常きわまる記述を読んで、「絵空事、作り話」とは思わないだろう。身の回りで起こったこと、現に起こっていることとの類似を思い、今後運が悪ければ、あるいは対策がまずければ起こり得る最悪の事態をここに予見することができる。
 まさに他人事でなく自分事。パニック時における人間の様相が、時代や地域や文化を超えて共通するものであることを痛感する。
 むろん、それは決して人間の醜い面や愚かな面だけを意味するのではなく、人と人とが助け合うような良い面も、さらにはこのたびの医療従事者の闘いぶりに見るような崇高な面をもいうのである。
 読者の前に次々と展開されるシーンは、必ずしも悲劇的なものばかりでなく、喜劇的なもの、さらには神秘劇と言っていいようなものもある。
 
 いまのように科学が発達しておらず迷信がはびこっていた時代はまた、神や信仰が生きていた時代でもある。
 17世紀のロンドン市民と21世紀の日本人のもっとも異なる点を上げるならば、人々の宗教性の有無、すなわち信仰の深さと言えるかもしれない。
 彼の地はもちろんキリスト教である。
 
 市民が悲しみのどん底におちいって生きる望みを失い、自暴自棄になったことは前にもいった。すると、最悪の三、四週間を通じ、意外な現象が生じた。つまり、市民はやたらに勇敢になったのである。もうお互いに逃げ隠れしようともしなくなったし、家の中にひっそり閉じこもることもやめてしまった。それどころが、どこだろうがここだろうがかまわずに出歩くようになった。
 
 彼らがこうやって平気で公衆のなかに交じるようになるにつれて、教会にも群れをなしておしかけるようになった。自分がどんな人間のそばに坐っているか、その遠近などはもはや問題ではなかった。どんな悪臭を放つ人間といっしょになろうが、相手の人間がどんなようすの者だろうがかまうことはなかった。お互いにそこに累々たる死体があるだけだと思っているのか、まったく平然として教会に集まってきた。教会に来る目的である聖なる務めに比べるならば、生命はまったく価値をもたないとでも考えているようであった。・・・・・おそらく、礼拝に出るたびごとに、これが最後の礼拝だと思っていたにちがいなかった。
 
 当時のイギリスは、カトリックと袂を分かった英国国教会と、ピューリタン(清教徒)に代表される非国教会とが勢力を競い合い、人々はそれぞれの牧師がいるそれぞれの教会に通い、牧師同士・信者同士が反目し合っていた。
 それがここに来て、人々は説教壇にどちらの牧師が立とうが問題にしなくなった。牧師もまた、乞われれば敵方の教会に出向いて平気で説教したという。
 
 こういったことから次のようなことがいえそうである。また、それをいうこともあながち見当違いではなかろうと思う。
 それは、死を目前にひかえた場合、立派だがそれぞれ違った立場をもっている人も互いに融和しあう可能性があるということである。
 現在のように、われわれのあいだに分裂が醸成され、敵意が解消せず、偏見が行われ、同胞愛にひびがはいり、キリスト教の合同が行われず、依然として分裂したままになっている、というのは、われわれの生活が安易に流れ、事態を敬遠してそれと本気で取り組もうとしないことが、そのおもな原因であろう。もう一度ペストに襲われるならば、こういった不和はすべて一掃されよう。死そのものと対決すれば、あるいは死をもたらす病気と対決すれば、われわれの癇癪の虫も、いっぺんに消えてなくなり、われわれのあいだから悪意なぞもなくなってしまうだろう。
 そして、前とは全然異なった眼をもって事物の姿を見るようになろう。
 
 この一節が本書の白眉である。
 この一節あらばこそ、本書は単なる実録や年代記を超えて、“文学”たり得ている。
 デフォーのまがうことなき作家性を感じる。
 
 クリスチャンでない日本人も、あるいはなんらかの宗教に属していない日本人も、このたびの新型コロナ騒ぎにおいて、自らの命の常でないことを知り、これまでの自身の生き方を顧みた人、自分にとっての優先順位を再考した人は決して少なくないであろう。
 死を目前にしたときにこれまでの価値観が変わる。
 真の宗教性とはそのようなことを言うのだろう。
 
しかし、病気の恐怖が減じるとともに、このような現象も、以前のあまりかんばしからぬ状態にかえっていった。旧態依然たる姿に戻ったのである。
 
 これまた人間らしい・・・・。


五輪
 



おすすめ度:★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 牧師の息子 映画 : 『冬の光』(イングマール・ベルイマン監督)

1963 年スウェーデン
82 分、白黒

 『第七の封印』同様、神の沈黙をテーマとする作品。
 ただ、「沈黙がテーマ」と言うと、「神はなぜ黙っているのか?」の追究になる。
 つまり、神の存在を前提としている。
 「天にあって、この世のすべての悲惨を見ているのに、なぜ黙っているのか!?」
 これだと、遠藤周作のテーマと重なる。

 ベルイマンの問いをより正確に表すなら、神の不在がテーマと言うべきだろう。

 神はいるのかいないのか?
 いないのならば、我々の生には何の意味があるのか?
 ただ生まれて、他の生命を食べて、まぐわって子供をつくって、老いて死ぬだけなのか?
 祈ることは無駄な行為なのか?
 
 牧師を主人公とする本作では、信者が集まらずにさびれた教会の様子、信仰を失い懊悩する牧師の姿が、実にリアリティもって細やかに描き出されている。
 牧師の家庭に生まれ育ったベルイマンならではである。
 憶測に過ぎないが、父親との関係がこうした問いかけを生涯発し続ける因となったのかもしれない。

 神なんて、いてもいなくても関係ない。
 生きる意味なんてメンドクサイこと考えないで、欲望に忠実に楽しめばいいじゃん。
 ――と、割り切ってエピキュリアンに生きられないところに、ベルイマンや遠藤周作のジレンマの種(=創作の種)はあるのだろう。

 
パーティー

 
 ストーリーは、ポール・シュナイダー監督の『魂のゆくえ』と酷似している。
 同じ原作をもとにしているか、あるいはシュナイダーが『冬の光』を現代風にリメイクしたのかと思ったのだが、どうも違うらしい。
 結末こそ異なってはいるが、この似方は偶然にしてはちょっと・・・???
 
 神(創造主)などいない。
 我々の生は、そこから脱出するためのジャンピングボード以上の意味はない。
 ――と言い切ってしまう(原始)仏教の、なんと潔く、自立していることか!
 ベルイマンは仏教に出会っていただろうか?
 あるいは、奇跡のコースに。

 ただ、その立場をとった時、もはや芸術創造などできないだろう。
 それはそれで別のジレンマになるやもしれない。



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