ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

スピリチュアル

● マザームーンの嫁 本:『わが父 文鮮明の正体』(洪蘭淑著)

1998年文藝春秋
林四郎訳

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 原題は In the Shadow of the Moons――My Life in the Reverend Sun Myung Moon’s Family 「月の影――文鮮明一家における私の半生」 
 
 洪蘭淑(ホン・ナンスク)は1966年韓国生まれの女性。
 もっとも初期からの文鮮明の弟子であった両親の間に生まれ、15歳で文鮮明の長男・文孝進(ムン・ヒョウジン)と娶わせられる。もちろん、本人たちの意志や好みは関係なく。
 その後、アメリカの豪邸で文鮮明一家の傍らで姑の韓鶴子(ハン・ハクチャ)、いわゆるマザームーンに侍女のように仕えながら、10代で4人の子供を産む。
 統一教会後継者候補の妻という、世界中の信者が羨むような輝かしい地位と贅沢極まりない生活を手にしながら、彼女は不幸だった。
 その一番の原因は、夫・孝進のアルコールとドラッグ漬け、派手な女性関係、そしてDV(家庭内暴力)。
 1985年8月のある朝、ついに彼女は4人の子供を連れて屋敷を抜け出し、文一家とも統一教会とも袂を分かつ。

 これはフィクションではない。
 なので、こう言ってしまうと語弊があるが、「とんでもなく面白かった!」
 読んでいる間、「事実は小説より奇なり」という言葉が何度も浮かんだ。
 むろん、いま最もタイムリーでビビッド(鮮明)な話題であるからだが、それを抜きにしても、周囲の望むとおりに流されるまま生きてきた一人の従順な女性が、間違いに気づき、自らの頭で考え行動することを覚え、やがて自立するまでの半生を綴った成長ドラマとして読む価値が高い。
 カルト宗教や家庭問題やDVなどさまざまなテーマを含む内容の濃さ。
 教会および夫からの脱出劇というクライマックスに向けてページをめくる手が止まらない。
 文藝春秋は今こそ本書を文庫化して再発売してはどうだろうか。

壺1


 著者自身は文鮮明の長男の妻であり、著者の兄は文鮮明の長女の夫である、ということから明らかなように、長年、洪一家と文一家は密接な関係にあった。
 著者の父親・洪成杓(ホン・ソンピョ)は、統一教会を支える巨大ビジネス帝国の最初の敷石となった一和(イルファ)製薬の社長だった。
 著者はまた、文鮮明夫婦やその10人を超える子息子女たちと、14年間生活を共にしてきた。
 つまり、もっともよく文一家の実像を知る外部から来た人間というわけで、それだけにこの内幕暴露は信憑性が高い。
 教会の核である文一家の非常識きわまる実態や、中心に近づけば近づくほどに歪みと狂気が増す教会の出鱈目ぶりや怖ろしさが暴き出されている。

 今焦眉の「2世問題」もある。
 著者はまさに生まれついての信者であり、長じてから誰かから信仰を強制されたのでも、拉致監禁されて洗脳されたのでもない。
 統一教会の教義が当たり前である環境に生まれ育ち、文鮮明がメシアであることを小さい頃から疑うことなく受け入れてきた。

 私が経験したのは条件反射だった。人は画一的な精神をもつ人びとのあいだに隔離させられ、批判的思考よりも従順を高く評価するメッセージを雨あられと浴びせられると、信仰体系は常に強められる。教会に長く関係していればいるほど、これらの信心に身を捧げるようになる。十年後、二十年後、自分の信念が砂の上に立てられていたことを、たとえ自分自身に対してであっても、だれが認めたがるだろうか?
 確かに私は認めたくなかった。私は内部の人間だった。私は文師の甚だしい過失――息子の行動を許容していること、子供たちを殴ること、私に対する言葉による虐待――を許すほど充分に、文師から親切にされた。彼を許さないことは、私の全人生に疑問を抱くことだった。

 うがった見方をすれば、夫・孝進の目にあまる不品行やDVが彼女の“生まれついての洗脳状態”を解くのに役立ったわけで、それがなければ彼女はいまも教会にとどまって「マザームーン2世」になっていた可能性も否めない。
 
 ドメスティック・バイオレンスの典型的な事例としても読む価値が高い。
  • DVがどんなふうに始まり、激化していくか。
  • 被害者である妻が、加害者である夫を「私の力で救ってあげる」と勘違いする心理の綾。
  • なぜ被害者はそこから逃げようとしないのか、あるいは逃げられなくなるのか。
  • 被害者がようやく事態を客観的に見られるようになり、逃げだす決心をするまでの過程。
  • 被害者に周囲のサポートや法的・経済的支援が必要な理由
 本書を読むと、こういったことが手に取るように分かる。
 孝進は単に男尊女卑、亭主関白の風潮が強い韓国の夫というだけではなかった。
 著者が信仰する宗教組織の絶対君主のような教祖の息子で、次期リーダー候補でもあった。
 そこには結婚の当初から圧倒的な上下関係があったのである。

壺3

 家族というテーマもある。
 いまや誰もが知るように、統一教会の教義の中心は「家庭至上主義」である。
 一対の純潔な男と女が、メシア文鮮明によって主宰される合同結婚により結ばれて、妻は夫に尽くし、夫は妻を守り、互いに相手を裏切らず、信者となるべき沢山の子供をつくり、愛情のうちに育てる。いわく、「家族とは、愛を育て、幸福と平和を学ぶ場所」。
 日本の戦前を思わせる男女観、結婚観、夫婦観、家族観がそこに見られる。
 当然、婚前交渉や浮気や不倫はもちろんのこと、夫婦別姓や同性婚はとんでもない悪魔的所業となる。

 ここでこの思想についての是非を論じることはしない。
 言及したいのは、こうした思想を説きまわった文鮮明が、まったく自らの教えと離反する行為ばかりしていたことである。
 本書によれば、文鮮明とマザームーンは13人の子供をもったが、いずれも生まれるそばから側近に預け、自らの手で育てることをしなかった。
 子供たちはあり余るお金で贅沢し放題、文夫妻の愛顧を得ようとする周囲の信者たちにかしずかれ、悪いことをしても叱られることも責任を取らされることもなく、つまるところ暴君のように育つ。
 また文鮮明は浮気を繰り返し、婚外子をもうけている。

 その息子孝進は十代の頃から見境なく女遊びをし、結婚してもまったく治まることがなかった。生まれてきた子供の誕生日も学年も知らない。
 孝進はアルコールとドラッグ漬けになり健康状態が悪化、著者との離婚が成立した後、40代で亡くなった。
 DV加害者として許されない人間であると思う一方、可哀想なところもある。
 両親から必要な愛情やしつけを受けることなく甘やかされて育ち、次代のメシアとして周囲から過重な期待が寄せられて、その孤独とプレッシャーは半端なかったであろう。
 ここにあるのは、虐待の連鎖であると同時に、典型的な「機能不全家庭」の姿である。
 これが教会の言う「愛を育て、幸福と平和を学ぶ場所」の最高モデルだった。
 著者が、この環境にいながら自らの4人の子供を愛情をもって育て上げ、文家の家風に感化させなかったことを誉めたたえたい。

壺2

 もう一点、我々日本人にとって看過できないテーマがある。
 日本が教会に対して果たし続けてきた役割である。

 日本は帝国的カルト発祥の地と言ってよい。19世紀、日本の天皇は神聖を宣言され、日本の民衆は古代の神々の子孫であると宣言された。第二次世界大戦後の1945年、連合国により廃止された国家神道は、日本人にその指導者たちを崇拝することを要求した。権威に対する従順と自己犠牲は、最高の美徳と考えられた。
 したがって、文鮮明のようなメシア的指導者にとって、日本が肥沃な資金調達地であることになんの不思議もない。年配の人びとには、自分たちの愛する者たちが霊界で平安な休息に達することを切実に望む気持ちがあるが、熱心な統一教会員たちはそれに目をつけた。彼らは何千人もの人びとに、これを買えば亡き家族は必ず天国に入れますよと言って、宗教的な壺や数珠、絵画を売りつけ、何百万ドルも巻き上げた。

 文師は日本との重要な金銭関係を神学用語で説明した。韓国は「アダム国」、日本は「エバ国」である。妻として、母として、日本は「お父様」の国である文鮮明の韓国を支えなければならない。この見方にはちょっとした復讐以上のものがある。文鮮明や統一教会におけるその信者も含めて、日本の35年間にわたる過酷な植民地統治を許している韓国人はほとんどいない。

 文鮮明および統一教会の基本ポリシーは「反日」「反共」。
 これは文鮮明自身が、子供時代に植民地政府である大日本帝国から様々な迫害や抑圧を受けたこと(たとえば朝鮮の全家庭には家に神棚と御真影を祀るよう命じられた)、青年時代に平壌で宣教を始めたときに共産党当局から睨まれて拷問を受け強制収容所送りとなったこと、が大きな要因となっているようだ。
 つまるところ、戦前・戦中に日本が朝鮮人に対して行った様々な所業が、回り回って、後年、日本の信者たちが韓国人である文鮮明に対して多大な賠償を払い続けなければならない結果となったわけで、その巡りあわせに因果応報という言葉すら浮かんだ。

 とは言え、安倍元首相を殺害した山上容疑者の場合をあげるまでもなく、家庭を崩壊させるほどのあこぎな集金活動や、人格を崩壊し親兄弟を分裂させる洗脳システムは、基本的人権尊重を掲げる法治国家としてとうてい見逃すことのできるものではない。
 本書で明らかにされた文一家の実態くらい、「宗教」や「平和」や「家族愛」という言葉からかけ離れたものはない。
 純潔と清貧と自己犠牲の心でもって教会に奉仕し、文一家を「神の家庭」と仰ぎ見ている末端の真面目な信者たちがあまりに哀れである。
 洪蘭淑はこう指弾する。

 統一教会の中心にある悪は、文一家の偽善とペテンである。一家は、その信じられないほどのレベルに達した機能障害のなかで、あまりにも人間的である。教会に引き込まれた理想主義的な若者たちよりも、文一家が霊的に優れているという神話を広め続けることは、恥ずべき欺瞞である。

 文鮮明は2012年に亡くなった。
 その息子たちが相次いで亡くなったり会と対立して離反したりで、現在80歳近いマザームーンが頼朝亡き後の北条政子の如く、君臨している。
 その後継者はいまだ決まっていない。

壺4




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損










● 東京タロット美術館に行く 

 昨年11月に浅草橋にオープンしたタロット美術館なるものに行ってみた。
 別にタロット占いに興味があったわけではない。
 約500種類のタロットカードが展示されているというので、図柄の美術性をこの目で見たくなった。
 運営は「ニチユ―」という名のタロットカード輸入販売会社。もともとは戦後に玩具販売会社として創業されたとのこと。

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JR総武線・浅草橋駅界隈

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「人形の久月」で有名

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駅から徒歩3分のビルの6階にある

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入口

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靴をスリッパに履き替えて受付に
(予約制、800円)

 受付でちょっとした趣向があった。
 置いてある籠の中からカードを一枚選ぶ。
 裏返すと、タロットカードの核となる22枚のカード(大アルカナと言う)のいずれかが現れる。
 大アルカナにはそれぞれ「愚者」「魔術師」「皇帝」「恋人」「運命の輪」「死神」「悪魔」「星」「太陽」「世界」などの表題がつけられ、それを表す図柄が描かれている。
 占う際にはカードの「正位置」と「逆位置(リバース)」に与えられている意味を読んでいくのが基本になる。が、重要なのはそのカードから得られた直観であるという。
 来場者は受付で引いたカードから得た直観をテーマに、館内で過ごしてほしいとのこと。
 ソルティが引いたのはこのカードであった。

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THE HERMIT
灯りを持つフクロウの図柄から「知恵」かなあと直感。

 館内には、実に多様なデザインのタロットカードが展示されているほか、企画展示コーナーやタロットカード入門書はじめ関連本を集めたライブラリー、ブローチなどオリジナルグッズ販売コーナー、サンプルカードを使って占いもできるフリースペース、それにワークショップや講演会を随時開催する小部屋などがあった。
 予約制のため静かなゆったりした雰囲気の中でじっくりと見学することができ、お茶のサービスもあった。

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撮影スポットから館内を撮る

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22枚の大アルカナ

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THE DEVIL『悪魔』
伝統的なデザイン

 やっぱり、圧倒されたのはタロットカードの種類の多さと図柄の芸術性。
 大昔(タロットカードの起源は15世紀西欧と言われている)からの伝統的な図柄はもちろん、ルネサンスの巨匠ボッティチェリやダ・ヴィンチ、アールヌーボのミュッシャやクリムトら有名画家の作品をアレンジしたもの、色彩・形象ユニークな現代美術風、キリストの生涯をテーマにしたもの、日本神話や北欧神話に材をとったもの、手塚治虫アニメのキャラクターたち(アトムやピノコなど)が描かれたもの、クマのプーさん、星の王子様、『パタリロ』や『翔んで埼玉』で知られる漫画家の魔夜峰夫デザイン、猫ちゃんデザイン、ゲイをテーマにしたもの・・・・e.t.c.

 まさに美術館というのにふさわしい一大コレクションで、時のたつのも忘れる面白さ。
 展示されているもの以外にも在庫は豊富にあり、カタログで図柄を確認することもできる。
 多くのカードはその場で購入できるようだ。
 ソルティは、ダ・ヴィンチカードとクリムトカードに強く惹かれるものがあったが、とりあえず概要を知りたいと思い――「知恵」が大切=直観!――鏡リュウジ先生の本を買った。 

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 この本によると、ソルティが引いた THE HERMIT のカードの意味は『隠者』。
 「時」「老人」「円熟」を象徴する。
 ひとりで過ごす静かな時間が魂を磨く、とあった。
 まさに今の自分にぴったりのカードではないか!




● 本:『無自己の体験』(バーナデット・ロバーツ著)

1982年原著刊行
1993年増補版刊行
2021年ナチュラルスピリット社(訳者:立花あゆみ)

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 本書の第1部「旅」は、1989年に『自己喪失の体験』というタイトルで紀伊国屋書店から刊行された。(訳者:雨宮一郎、志賀ミチ)
 ソルティはスピリチュアル・ショッピングをしていた30代の頃にそれを読んだ。
 元修道女だったキリスト教徒の普通の主婦におきた不思議な体験をつづったもので、読んだ印象としては、当時めるくまーる社より刊行されていた『クリシュナムルティの神秘体験』(中田周作訳)に似ていると思った。
 どちらも、自己感覚を喪うとともに訪れた強烈な“経験”を、言葉で表現できるぎりぎりのところで書き記そうとしたもので、文中にしばしば登場する「他在」とか「それ」とか「彼のもの」といった表現が、スピリチュアルなだけなくオカルト的な興味のツボを刺激した。
 要は、覚者(悟った人)の身に何が起こるのか、覚者は何を見ているのか、悟りとは何なのか――といったテーマ。
 その後、ロバーツは体験談を読んだ周囲の人からのさまざまな問いに答え、自らの体験についてより深い見地から考察を加え、続編となる第2部「さらなる観察」を書いた。
 このたびの新訳は、第1部「旅」と第2部「さらなる観察」の合本である。
 
 バーナデット・ロバーツは1931年生まれのアメリカ人。
 キリスト教の信仰深い家庭に育ち10代の頃より自然の中で神秘的な体験を重ねる。カルメル会修道女として10年間生活したのちに還俗して結婚、4人の子供の母となる。
 その後、40代になって本書で記されている体験に遭遇した。
 
 彼女の体験(=自己喪失の体験)は、2段階に分かれていた。
 
 第1段階は、自己と神との合一です。これは精神的な統合プロセスと並行しており、自己が、自らの静寂点かつ存在の源である神との永続的な合一を達成する過程で起こる、内なる試練や「暗夜」に焦点をあてます。このプロセスで私たちは、自己が失われないことを認識します。そればかりか、最も深奥の新しい自己が姿を現すのです。
 
 私たちが、自己も、最も密な神との結びつきも超えてさらに先へと進む準備ができたとき、「自己なき生」とも言うべき新しい生に突入します。第2段階の始まりであることのほかに自己の喪失と、喪失後に残る「それ」に遭遇することによって特徴づけられます。
 
 最初の旅(ソルティ注:第1段階)では、自分の本性と神の恩寵のあいだに激しい葛藤がありますが、最終的に「全体性」の中に吸収されるというパワフルな感覚に包まれます。自己エネルギーはもはや、神の永遠の活動とともに働くので、すべては外に向けて表現しなければなりません。同様にして、第二の旅(同:第2段階)でも最後に「合一」を体験しますが、それは最初の合一とは完全に異なるものです。つまりそれは、自己も神も合一さえも越えた「それ」自身の合一なのです。ここでは外に向けて表現するためのいかなるエネルギーも得られず、「すること」という行為の衝動のみが残されています。 

 簡潔に言うと、第1段階では自己と神とが合一し、第2段階では自己も神も喪失する「無=それ」に突入する。
 これを東洋的な悟りの概念に置き換えると、第1段階は「梵我一如」(昨今流行りの「非二元」)に、第2段階は「解脱」に相当するように思われる。
 キリスト教徒であるロバーツは、第1段階の「神との合一」までは過去の聖者の書き残した物などを読んで知っていたので驚かなかった。が、第2段階についてはキリスト教の教えや過去の聖典などには類似の現象が含まれず、わずかにキリスト教神秘主義者のマイスター・エックハルトの著作の中に暗示的に見られるだけで、非常に戸惑ったことが記述よりうかがわれる。
 
 仏教でも大乗仏教の修行のゴールは、「極楽浄土に行くこと」「良い転生を得ること」「菩薩や仏と一体化すること」が一般で、禅のみが曖昧ながらも第2段階を目指していると言えよう。
 初期仏教(小乗仏教)の流れを汲むテーラワーダ仏教では、4段階の悟りの階梯を説いている。曰く、預流果、一来果、不還果、阿羅漢果。
 ただし、サマタ瞑想(集中瞑想)で得られる「梵我一如」のような神秘体験はとりたてて重視されず、ヴィッパサナー瞑想(観察瞑想)によって「無常と無我と苦」の真理をとことん知って自己の幻想性を悟り、最終的には“自己のまったく無い”阿羅漢となって解脱することが勧められる。
 いわば、最初から第2段階を目指す旅だ。
 ここには、「究極の悟りとはなにか」「修行のゴールはどこにあるか」「悟るための方法はあるのか」という古来からの修行者の悩ましい問いかけ(妄想)が絡んでいる。
 
三人の尼
 
 キリスト教の環境で生まれ育ったロバーツは骨の髄までクリスチャンなので、本書で使われる用語や概念は必然、キリスト教的なものが多い。神にせよ、キリストにせよ、三位一体にせよ、恩寵や復活や十字架上の試練にせよ・・・・。
 その点で、キリスト教に馴染みのないソルティのような読者にしてみれば、単純にして深甚なる悟りの中味は措いといても、よく理解できない部分や共感できない解釈が多い。
 せっかく第2段階に至って「自己」や「神」という幻想から脱することができたのに――すなはち初期仏教でいう「阿羅漢」になったのに――なぜまた、神やキリストや聖書の文言を持ち出して、そこに新たな自己流の解釈を吹き込もうとするんだろう?――と不可解に思ったりする。
 
 その点をのぞけば、本書は「自己の正体」について関心をもつ者にとって、非常に示唆するところの多い、幾度でも読み返す価値のある良書である。
 
 ともかく自己がある限り、感情の構造は人生という土壌に根を張った頑強な木に成長し、大人たちの拠り所になります。そしてこの木の難点は、良い実も悪い実も結ぶことであり、実を生みだす力がある限りいずれかの実がなるということです。つまり、科学や文化の功績を生み出す知識が支払う対価には、多大な恩恵を与えてくれるものもありますが、リスクもあるわけで、しかもこの木に実を結ぶもので永遠なるものなどひとつもないのです。要するに自己は、人間が存在するうえでの一時的な側面であって、人は最終的に自己なしで生きることを学ばなければならず、それが今でないにしても、いずれその時がやってくるのです。

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おすすめ度 :★★★★

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● 一回100万円ほどになります 本:『日本の呪術』(繁田信一著)


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2021年MdN新書

 MdNとは(株)エムディエヌコーポレーションのこと。
 1992年に設立した出版社で、「雑誌・書籍・ムック・インターネット・イベントを通して、グラフィックデザインやWebデザインのノウハウと可能性を伝える」(MdN公式ホームページより抜粋)
 『大人の塗り絵』シリーズやデザイン関係の書籍を多数刊行している。

 本書は、同じ著者による『呪いの都 平安京 呪詛・呪術・陰陽師』(吉川弘文館)同様、王朝時代を中心とした本邦の呪術に関する研究書&解説書である。
 繁田は他にも『平安貴族と陰陽師』『安倍晴明』など同じテーマの本をいくつか出している。
 このテーマがよほど好きなのだろう。

 例によって、『今昔物語』『小右記』『御堂関白記』『大鏡』『紫式部日記』『枕草子』といった幅広い歴史書、古典文学の精読をもとに、平安時代の陰陽師や密教僧による呪術の様子が浮き彫りにされていく。
 そもそもがマニア受けするオカルティックな話題で面白いエピソード豊富な上に、古文は適切に現代語訳され、各章末に「家庭の呪術」を紹介するコラムがついているなど、気軽に読めるものに仕上がっている。(時折、著者の癖なのか、回りくどい文章が気になる。「二度言うな」って突っ込みたくなる)

 一回の呪術に対して術者に支払われた報酬を現代の物価に換算するなど、生活に根差した具体的な記述が興味深かった。
 それによると、貴族の依頼に応じて民間の陰陽師(法師陰陽師)が呪術を行なう場合、一回100万円ほどの報酬が見込まれたというから、実にいい商売である。
 すでに僧侶として修業中の自分の息子を改めて陰陽師に転職させるかどうかで迷う貴族の父親の話が出てくるが、なんとも生臭くて人間的!(笑)
 相談された見識ある僧侶は、当然、これに反対する。

僧侶が仏法を離れて外法に携わるというのは、末永く仏の教えを捨てることなのです。
・・・・陰陽師になるというのは、地獄に堕ちる契機なのです。 

 安倍晴明のような選ばれた数少ない官人陰陽師は別として、民間の法師陰陽師はいかがわしく罪深い存在とみなされていたらしい。(この回答を聞いた父親がどう判断したかは残念ながら書かれていない)
 
晴明と道満
官人陰陽師の代表・安倍晴明(左)と
民間陰陽師の代表・蘆屋道満(右)

 最終章において著者は、現代日本人の呪術への憧れについて、“人を呪い殺したくなったことがある”自分自身を顧みながら分析し、その本質を「自分だけのズルへの憧れ」と述べている。

 少なくとも、著者の場合は、この現代日本において、自分だけが呪術を使える身になりたいのであって、現代の日本が、突如として、誰もが当たり前のように呪術を使える世界に変わってしまうことなど、これっぽっちも望んでいないし、また、誰もが当たり前のように呪術を使える異世界へと、著者自身が赴くことなども、少しも望んでいない。そんな世界は、むしろ、願い下げである。

 自分にとって邪魔な人間、憎い相手を呪い殺しても、今の法律では罰せられることはない。
 狙った獲物を相手にそれと気づかせることなしに思い通りにできる。
 手に縄が掛けられるおそれなく野望が果たせる。  
 「透明人間になれたら・・・」というエッチな下心を含む願いと同じようなものだろう。
 
 ソルティは実在する霊能者・寺尾玲子の活躍を描いた『ほん怖コミック』(朝日新聞出版発行)をたまに読むのだが、実によく呪術の話が出てくる。
 誰かの仕掛けた呪術によって日夜苦しめられている読者からの霊障相談を、寺尾玲子が驚異的な霊能力を用いて術者と術式を見抜き、様々な方法を用いて解決するという筋書きである。
 これがノンフィクションであってみれば、科学万能の現代日本でもかなり頻繁に呪術が行われているんだなあと変に感心する。 
 王朝時代も江戸時代も現代も、「ズルしたい」という人間の本質は基本変わっていないので、あって当然というべきなのだろうが。

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 考えてみれば、テーラワーダ仏教に伝わる「慈悲の瞑想」の効用をそれなりに信じて実践しているソルティもまた、呪術というかまじないを信じているのである。
 違いは、相手の不幸を願う代わりに幸福を願うところ。
 自分を害するような憎い相手、嫌いな相手の幸福を願うのは難しいところであるが、これにはそれなりの理屈がある。
 一つには、昔からよく言うように「人を呪わば穴二つ」、つまり呪術は必ず仕掛ける人間自身に何らかの形で戻って来て害をなすからである。
 人を呪うというその気持ち自体がすでに術者の中にマイナスエネルギーを生みだし、溜め込んでいく。
 それは術者の心身に悪い影響を及ぼすだけでなく、「類は友を呼ぶ」という言葉通り周囲の同じような悪いエネルギーと共鳴し合い、引き寄せてしまう。
 単純に言っても、顔つきが悪くなる。
 自分を呪う相手を呪い返すことは、自分もまたマイナスエネルギーの世界に足を踏み入れてしまうことになる。
 相手の思うつぼである。
 
 いま一つは、人が呪術に頼るほど誰かを恨んだり憎んだりしているとき、その人間は不幸のどん底にいるわけである。
 なので、自らに仕掛けられた呪術を解くには、仕掛けた相手に幸福になってもらうのが一番の得策であって、それには慈悲のエネルギーを相手に送るのが良い。
 柔よく剛を制す。
 
 ――というようなことをどこかで信じているのだから、ソルティも王朝時代の人々とたいして変わりなく、迷信深く、非科学的で、お目出たいのだろう。
 もちろん令和の現代では、ままならない周囲の状況を変えるには「ズルをする」という手だけでなく、ネットで問題提起するなり、味方を集めて運動や裁判を起こすなり、メディアを利用して世論を形成するなり、合理的で合法的な手段がある。
 それこそ、選挙権は日本のすべての成人に平等に与えられている呪符といったところ。
 無駄にしてはいけない。(おあとがよろしいようで)




おすすめ度 :★★

★★★★★
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● 尾瀬まるごとデトックス(第2日)

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尾瀬の朝
湿原に立ち込めた霧は朝日が射すと舞い上がる
(燧小屋の窓から)

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燧小屋の1階廊下

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朝食
最近では珍しく、ご飯をお代わりした
高級ホテルの豪華で盛沢山の食事より、こういったメニューが好き

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さあ、出発!
至仏山(2,228m)を目指して尾瀬ヶ原に踏み入る


● 歩行日 2022年7月2日(土)  
● 天気 晴れ
● 行程
07:30 燧小屋出発(1,400m)
    歩行開始
08:00 竜宮十字路
09:00 牛首分岐
09:50 山ノ鼻、植物研究見本園
10:40 アイス休憩(20分)
12:30 鳩待峠(1,591m)
    歩行終了
12:40 連絡バス乗車
13:15 尾瀬戸倉着(1,420m)
    昼食
    温泉、ネイチャーセンター(尾瀬ぶらり館)
15:30 高速バス乗車(川越観光)
18:30 川越駅西口着
● 最大標高  1,591m
● 歩き標高差 191m
● 所要時間  5時間(歩行3時間30分+休憩1時間30分) 


7月初旬の尾瀬の花シリーズ2

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ワタスゲ(綿菅)

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拡大画像
カヤツリグサ科
花言葉「揺れる思い」

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ニッコウキスゲ(日光黄菅)
鹿の大好物のため数が減少している
蕾は中華料理にも使われるとか
尾瀬ではこれからが見頃

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カキツバタ(杜若)

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拡大画像
らごろも(唐衣)
つつなれにし(着つつ慣れにし)
ましあれば(妻しあれば)
るばるきぬる(はるばる来ぬる)
びをしぞおもふ(旅をしぞ思ふ)
――と平安の色男・在原業平が『伊勢物語』に詠んだ

DSCN5165 (2)
オゼヌマタイゲキ(尾瀬沼大戟)

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拡大画像(四季の山野草より)
名前とは裏腹に尾瀬沼にはほとんど見られず、
尾瀬ヶ原に咲いている


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牛首分岐

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池塘(ちとう)
湿原の泥炭層にできる水たまりのことを言う
尾瀬ヶ原には1800個以上の池塘がある

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池塘を覗いてみると

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イモリ(井守)や

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ルリイトトンボ(瑠璃糸蜻蛉)や

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燧ヶ岳の姿も!

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木立のない木道は直射日光をまともに受け、肌が灼かれる
が、いったん風が吹くと天にも昇る心地

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山ノ鼻にある尾瀬ロッジで一休み

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至仏山のふもとにある植物研究見本園を散策

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山ノ鼻からは森の中を200mほど登る

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木立が作る日陰がうれしい
前方から来るたくさんの尾瀬入りハイカーとすれ違う
週末はやっぱり混んでいる
梅雨明けと同時にコロナ明けの気配
マスクしている人も少なかった

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鳩待峠(1,591m)に到達し歩行終了
ここから連絡バスで尾瀬戸倉まで下りる(1000円)

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尾瀬戸倉にある「尾瀬ぶらり館」(東京電力の施設)
かすかな硫黄臭がする日帰り温泉(600円)に浸かり、
併設の尾瀬ネイチャーセンターで尾瀬の自然を学ぶ(無料)

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駐車場近くに弘法大師神社を発見!
お大師様を祭神とする神社をはじめて見た

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お堂内にはたしかにお大師様が安置されている
由緒書きがなかったが、いわれが気になる
よもや尾瀬に来てまでお大師様に会うとは!

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帰りは川越観光バス
昨日三平峠で会ったご婦人2人は姿を見せず
やはり間に合わなかったか・・・
帰りはシートを倒してほぼ熟睡

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次は燧ケ岳登山にチャレンジするかな?
尾瀬ほどリピーター率の高い観光地は他にないのでは?












● 尾瀬まるごとデトックス(第1日)

 猛暑続きの首都圏から一時的に逃がれ、鋭気を養うべく、4年ぶり2度目の尾瀬に行った。

 前回は、浅草から東武特急リバティに乗って会津高原駅下車。
 バスに乗り換え、奥会津の秘境・檜枝岐村を通過して沼山峠に。
 そこから尾瀬沼、見晴(みはらし)、尾瀬ヶ原、三条の滝、御池とめぐり、再び会津高原駅から帰途に着いた。
 つまり、インもアウトも福島県。

 今回は、群馬県から尾瀬入りして、群馬県から出るルートを選んだ。
 アクセスは首都圏と尾瀬戸倉(群馬県利根郡片品村)を結ぶ高速バスを往復利用(8000円)。
 宿は前回同様、見晴の燧(ひうち)小屋を取った。

 尾瀬は福島と群馬と新潟の県境にある。

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三平峠に設置されたマップ

● 歩行日 2022年7月1日(金)  
● 天気 晴れ
● 行程
07:30 川越駅西口より高速バス「尾瀬号」乗車(関越交通)
10:30 大清水着(1,190m)
11:00 低公害車両(小型バン)乗車
11:15 一ノ瀬着(1,420m)
    歩行開始
12:25 三平峠(1,762m)
    昼食休憩(30分)
13:10 尾瀬沼(三平下)
14:15 沼尻
16:35 見晴(1,400m)
    歩行終了
● 最大標高  1,762m
● 歩き標高差 362m
● 所要時間  5時間20分(歩行4時間+休憩1時間20分) 

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大清水(標高1,190m)
平日のため高速バスは非常に空いていた
尾瀬の入口、大清水もご覧の通り

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低公害車両(700円、30分ごとに出発)
木々の間の舗装路をゆっくり登っていく
地元の高齢者が運転している

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一ノ瀬(1,420m)
ここから歩行開始
もはや携帯のアンテナは立たず

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よく整備された木陰の道続きなので助かる

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いきなりバンビとの出会い
来た甲斐あった~

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尾瀬は清水の宝庫
ところどころにちょうど良く水場がある
もちろん味は格別!
  
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三平峠頂上(1,762m)
家から持ってきたパンを食べる
高齢女性の二人組と会話したが、予定を伺うとかなり厳しいプラン
明日の帰りは同じバスのようだが、大丈夫だろうか?

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尾瀬沼に到着
日本百名山・燧ケ岳(2,356m)を臨む
ここから沼の南岸を歩く
アップダウンの続く結構タフな道だった


7月初旬の尾瀬の花シリーズ1

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ミズバショウ(水芭蕉)に間に合った
成長しすぎて葉っぱは棕櫚かバナナのよう
便所タワシのような花は、可憐というよりグロテスク?

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タテヤマリンドウ(立山竜胆)
花言葉は「物思い」

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コバイケイソウ(小梅蕙草)
有毒なので花言葉どおり「遠くから見守る」べし

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レンゲツツジ(蓮華躑躅)
これも有毒で花言葉は「情熱」
カルメンのような花だ

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ハナニガナ(花苦菜)
その名の通り、齧ると苦いとか・・・


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沼尻
ここまででTシャツは汗でぐっちょり
上半身裸になって甲羅干しできるのも人が少ないゆえ

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沼尻からみる尾瀬沼
ここからまた山道に入る

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待ちに待った水場
天然のミネラルたっぷり

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電磁波が体から抜け、清新な“気”が満ちる
「ああ、体がデトックスを欲していたのか」と気づく

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やったー! 見晴(みはらし)だ!
至仏山を望む

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キャンプ場には色とりどりのテントが開く
これも夏の尾瀬の花

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燧(ひうち)小屋
見晴のちょっと奥まったところにあるので静かで落ち着く
檜風呂もじんわり気持ちいい

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夕食
地元の食材を使った素朴な味がうれしい
量もちょうどいい

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夕食後は夕焼け見物

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見とれていたら、脛を虫に刺されて痒いのなんの
尾瀬では短パンはNGと知る

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シャクナゲ(石楠花)色に染まった雲
明日も晴れるぞ!



第2日に続く
















● 漫画:『古事記』1~7巻(久松文雄・画)

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2009年~2019年青林堂

 久松文雄は1943年名古屋生まれの漫画家。
 『スーパージェッター』『冒険ガボテン島』が代表作らしいが、ソルティは読んだことがない。
 癖のない見やすい揺るぎないデッサンとシンプルなコマ割りは、こうした歴史物の漫画化にはもってこいである。
 最終巻に収録されているインタビューにおいて「できるだけ原本に忠実に漫画化」したと言っているように、いたずらに脚色したり誇張したりしていないので、『古事記』のあらすじは知りたいけれど原典を読むのはちょっと億劫、という人にはおススメである。
 ソルティは通りがかりの古本屋で見つけて全巻1400円で購入した。(amazonでは1冊1,026円で販売されている)

古事記
現存する日本最古の歴史書。712年成立。3巻。
天武天皇の命により稗田阿礼 (ひえだのあれ) が暗誦。これを元明天皇の詔により太安万侶 (おおのやすまろ) が撰録したもの。
『帝紀』『旧辞』を検討し、その正説を定めるという編集の根本方針により、神代から推古天皇までを内容とし、天皇の支配による国家の建設という意図により構成されている。
(旺文社『日本史事典』三訂版より)

 書かれていることのどこまでがフィクションでどこからが史実か――という詮索は措いといて、ソルティがもっとも好きな話はヤマトタケル(日本武尊)伝説である。
 父王(景行天皇)に忠儀を尽くすもそのあまりの武勇によりかえって遠ざけられ、父の命令に従って西に東に平定のため駆け回り、いつの日か故郷に戻って父に誉められることを願いながら若くして客死し、白鳥になった英雄。
 ちょうど、『鎌倉殿の13人』の源頼朝(大泉洋)と弟の義経(菅田将暉)の関係を思わせる。
 悲劇の英雄こそ日本人の心の琴線をかき鳴らす。
 東宝映画『日本誕生』では、かの三船敏郎がヤマトタケルに扮し、強さのうちにも賢さと優しさを秘めた真っ直ぐな日本男児像をつくりあげている。まさにはまり役。

ヤマトタケル
三峰神社にあるヤマトタケル像(埼玉県秩父市)

 『古事記』はつまるところ、古代天皇家の系図と事績を記したものである。
 その意味で考えさせられるのは、第25代武烈天皇と第26代継体天皇の間の隔絶である。
 系図によるとこの二人――天皇は神の子孫なので「二柱」と呼ぶのが適切らしい――は、なんと十親等も離れているのである。
 今の皇室に置き換えるならば、令和天皇のあとを明治天皇の弟の孫の孫が継いだ見当になる。(実際に明治天皇の兄弟は早世しているので、その系統は存在しない。ちなみに評論家の竹田恒泰は明治天皇の娘のひ孫、すなわち女系の子孫である)
 これは第25代武烈天皇の周辺に男系資格者がいなかったからということらしいが、「そんな遠いところからわざわざ持ってきたのか!」とビックリする。
 いったい、自分の十親等にあたる親戚をたどれる人がいるだろうか?
 まさに国続させるために選ばれし帝だったのだ!

 ソルティが本コミックを購入した一番の理由は、旅行や山登りに行ってその土地の神社を詣でたときに「祀られている神様のことを知りたい」、すなわち「土地の古くからの信仰を知りたい」と思ったからである。





おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損



● マルタン・デュ・ガール著『チボー家の人々』を読む 7

第1~13巻(1922~1940年発表)
1952年白水社より邦訳刊行
1984年白水Uブックス

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 前回6で『チボー家』の記事は終わりにするつもりだったが、全巻読み終わって(ブログを書き終わって)しばらくしてから、何か言い足りないことがあるような気がした。
 それは、「『チボー家』にはチボー(希望)がない」と言い切ってしまったことで、この作品が読むに値するものではないと思わせてしまうのではないか、という懸念と関連している。
 それはソルティの本意ではない。

 『チボー家の人々』はストーリー性豊かで面白いし、キャラクターがよく描けているので登場人物たちに愛着もてるし、青春について、恋愛について、家族について、戦争について、国家について、死について、生きる意味について、深く考えさせてくれる堂々の大河ドラマ、オールマイティ小説である。
 青春や恋愛や家族関係が主題となる前半に比べ、社会主義思想や第一次世界大戦がテーマとなる後半は内容的にも用語的にも難しく、とくに死を前にしたアントワーヌの内面を描く最終巻は思弁的・哲学的になる。
 言ってみれば、第1~7巻は中学~大学生レベル、第8~11巻は社会人レベル、第12~13巻は脱世間レベルといった趣き。
 読み手のレベルによっては、途中挫折もやむを得ないかもしれない。
 だんだんと深みを増していく小説なのである。 

 つまりそれは、主役であるアントワーヌの成長過程に即しているからである。
 アントワーヌの精神的成長に応じて内容も深化していく、あるいは世界情勢と身の上の深刻度に応じてアントワーヌの精神的成長が深まっていく。
 この物語の大きなテーマの一つは、アントワーヌという一人の男の精神的成長を描くことを通じて、「人間の成熟とはなにか?」を問うているところにあると思う。

 医師としての世間的成功と栄達だけを目的とし信仰心を持たない俗物的人間であったアントワーヌは、ラシェルとの恋愛によって世間に対する目がひらかれていく。
 医師として実力と自信を身に着け、父親の遺産で思い通りの生活を送れるようになったアントワーヌは、自分でも気づかぬうちに、伝統と慣習に固まった父親そっくりの保守主義者になる。人妻との浮気もお手のもの。
 が、第一次大戦が勃発し兵に取られ、戦場の悲惨を身をもって知ることで、人生観が一変する。
 自ら瀕死の患者となったことで、戦争の愚かさや国家の詐欺、ナショナリズムの馬鹿らしさを痛感する。
 個人的成功と栄誉のために生きてきた半生を後悔し、ようやく弟ジャックの生き方を理解し始める。
 だが、それももう遅い。
 医師である彼には自らの寿命の長くないことがわかる。 
 残り少ない時間のなか、アントワーヌは生きる意味について考える。
 
 《人生の意味いかん?》こうした無益な質問を、全面的に払いのけることはとうていできるものではない。このおれ自身にしても、わが身の過去を反芻しながら、いくたびとなく、こうわれとわが胸にたずねているのに気がつく。《それは何を意味しているのだろう?》と。
 ところで、それは、何を意味してもいないのだ。何一つ意味してなんぞいないのだ。こうした事実をみとめること、それははじめちょっとむずかしい。それというのも、骨の髄までしみこんだ、十八世紀間にわたるキリスト教というやつがあるからなのだ。だが、考えれば考えるだけ、そして、身のまわり、心の中をはっきりみつめればみつめるだけ、《それが何も意味していない》ことの明白な事実に直面せずにはいられない。何百万何千万という人間がこの地殻の上に生みだされ、それがほんの一瞬蠢動したと見るまに、やがて解体し、姿を消し、ほかの何百万何千万に取ってかわられる。しかも、そうやって取ってかわったものも、あすになれば解体する。そうしたつかの間の出現、それにはなんの《意味》もないのだ。人生には意味がない。そして、そうした仮の世にはかなく生きているあいだ、せめては不幸を少なくしようとつとめる以外、そこにはなんの意味もないのだ・・・・ 

 人間の《成熟した精神》がこのような結論に至るのは一種の不条理であろう。
 つまるところ、そこに信仰が、宗教が、介入する隙が生まれる。
 アントワーヌとジャックの父であるチボー氏は、神や天国を信じていたがゆえに、その死に際してすがるものを持ち得た。
 一方、神と決別したジャックもアントワーヌも、不条理のうちに死んでいくほかなかった。
 
 20世紀初頭にデュ・ガールが到達し小説の形で見事に描ききったこの「哲学的命題」は、答えのないままに21世紀に持ち越されている。
 だから、本小説は読み継がれる価値をいささかも失っていないのである。
 
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● 映画評論家の意義 映画:『岸辺の旅』(黒沢清監督)

2015年
128分

 オカルトファンタジーとでもいった作品。
 生者と死者との不思議な交流というテーマから、ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』やガス・ヴァン・サントの『追憶の森』を想起した。
 原作は湯本香樹実の同名小説。

 薮内瑞希(深津絵里)のもとにある日、3年前に行方不明となって死んだはずの夫・優介(浅野忠信)が戻ってきた。「ぼくは死んでるよ」と言う優介の言葉を瑞希はそのまま受け入れる。二人は優介のゆかりの場所を訪ねる旅に出る。さまざまな生者と死者の再会と別れの場に立ち会いながら、瑞希は優介の知られざる一面に気づく。

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浅野忠信と深津絵里

 第68回カンヌ国際映画祭「ある視点部門・監督賞」を獲っていることが示すように、ヨーロッパ受けしそうな大人の作品である。
 「日本人もやっとこういった映画を撮れるようになったのだなあ」としみじみ思ったが、なに、溝口健二、小津安二郎、木下恵介・・・・本邦こそ大人の鑑賞に値し世界に通じる映画をあまた輩出してきたのである。
 50~60年代の黄金期から70~90年代の停滞期を経て、いままた日本映画は興行的な部分は別として充実期に入っているのかもしれない。
 1955年生まれの黒沢清は、1956年生まれの周防正行、1962年生まれの是枝裕和と並んで、まさにその牽引者の一人と言っていいのだろう。(青山真治監督が今年3月に亡くなったのは残念なことであった。冥福を祈る)

 主演の浅野忠信が良い。
 ホントいい役者になった。イケメンというのではないが、顔がいい。
 生者と死者の中間的存在という、リアリティがあり過ぎても無さ過ぎてもストーリーが破綻してしまう難しい役柄を、人好きする顔とオレンジ色のコートにより絶妙に演じている。
 (ああ、このオレンジのコートゆえに『ベルリン・天使の詩』を、つまりピーター・フォークを思い出したのだ) 
 出番こそ少ないが蒼井優、小松政夫も良い。

 ヨーロッパ風の一因は、マーラーっぽいBGMのせいもある。
 いささか大仰な感もするのだが、国際賞狙いならこれもありか・・・・。  
 音楽は大友良英、江藤直子。
 
 黒沢清、周防正行、青山真治、『偶像と想像』や『ドライブ・マイ・カー』で世界の名だたる映画賞を総ナメし快進撃を続けている濱口竜介・・・・彼らに共通するのはフランス文学者で映画評論家の蓮實重彦の教え子であること。
 映画における評論家の意義というのを感じさせる。



 
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● I'll be back ! 映画:『ダニエル』(アダム・エジプト・モーティマー監督)

2019年アメリカ
100分

 統合失調症の青年を主人公とするサイコ・サスペンス。
 ティム・ロビンス&スーザン・サランドンの息子マイルズ・ロビンスと、アーノルド・シュワルツネッガーの息子パトリック・シュワルツネッガー、大スターの2世共演が見どころ。
 2人とも美形で、演技も悪くない。 
 
 精神障害を抱える母親に育てられたルーク(=マイケル・ロビンズ)は、孤独な幼少の時分に空想上の友達ダニエルを作って遊んでいた。が、ダニエルの本性に危険を感じた母親は、ルークに命じ、ダニエルをドールハウスに閉じ込めさせた。
 大学生になったルークは精神不安に陥り、自らの手でダニエル(=パトリック・シュワルツネッガー)を呼び戻してしまう。
 ダニエルの協力で自信と安定を得たルークは生気を取り戻し、しばらくは若者らしい日々をエンジョイする。
 しかしダニエルは次第に本性を現し始め、ルークの行動は破壊的なものになっていく。 

 「幼い時の空想上の友達」というネタは、『クワイエット・フレンド』など欧米の映画に昔からよく使われる。
 日本を含むアジア圏ではあまり馴染みないように思う。
 個人主義やプライベート空間が重視される西洋文化ならではの現象ではなかろうか。
 あるいはキリスト教文化と関係あるのか?

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 本作では、想像上の友達ダニエルはルーク少年の隠された裏の人格であり、いったん意識下に閉じ込められたものの、大人になったときにきっかけを得てふたたび顕在化した――という解釈で進行する。
 ルークのカウンセラーをはじめ他者から見た時それは統合失調症という病気と映るが、ルークの主観においては人格を乗っ取ろうとする悪魔とのリアルな闘いになる。
 もっとも、当初はルークの目にしか見えなかったダニエルは、クライマックスではカウンセラーやルークの恋人の前にも実体としてその姿を現し、直接的な暴力を振るう。
 すなわち、サイコサスペンスとして始まったものがオカルトホラーになる。
 ルークは、二重人格や統合失調症ではなく、悪魔憑きだったのである。
 この脚本はちょっと安易でシラけてしまった。
 (それとも、科学的な精神医療に対する宗教界からの反駁か?)
 
 映像的にときどき素晴らしいショットも見られるのだが、全般に画面が暗すぎる。
 観ていて疲れる。



おすすめ度 :

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● K 本:『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』(國分功一郎著)

 木島泰三著『自由意志の向こう側』を読んでスピノザに関心を持った。
 スピノザは無神論者であり、自由意志の存在を否定したという。
 原典を読むのは大変なので、スピノザの思想を簡潔に解説している本はないものかと探したところ、本書にあたった。
 著者の國分功一郎は、1974年千葉県生まれの学者。専門は哲学・現代思想。
 プロフィールに見る鋭角的な顔立ちが、いかにも頭脳明晰といった印象。

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スピノザ[1632-1677]
オランダの哲学者。初めユダヤ教を学んだがやがて批判的見解を抱き、教団から破門されて学問研究に専念。唯一の実体である神はすなわち自然であるとする汎神論を主張し、精神界と物質界の事象はすべて神の2属性の様態であると説いた。また、事物を神との必然的関係において直観することに伴う自足感を道徳の最高の理想とした。主著「エチカ」「知性改善論」など。(出典:『小学館デジタル大辞泉』) 

 上記の説明を読むと、スピノザが無神論者というのは正確でなく、汎神論者ということらしい。
 神即自然(この世界すべてがそのまま神のあらわれである)という考えが、世界を創造した超越的な唯一絶対神を信仰するユダヤ教やキリスト教の教えと反するがゆえ、無神論者と非難されたのである。
 自らがそこで生まれ育った揺籃たるユダヤ教を否定し、教会のみならず親族やコミュニティからの八分さえ恐れることなく、名利も追わず、一途に真実を求める男。
 なんてかっこいいヤツ!

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そう?

 國分はスピノザの思想の歴史的位置づけと現代的意義について、次のように書いている。

 やや象徴的に、スピノザの哲学は「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」を示す哲学である、と言うことができます。
 そのようにとらえる時、スピノザを読むことは、いま私たちが当たり前だと思っている物事や考え方が、決して当たり前ではないこと、別のあり方や考え方も十分にありうることを知る大きなきっかけになるはずです。(本書より。以下注記ないものは同じ)

 こんなふうに紹介してくれると、スピノザ理解の助けになる。
 スピノザの難しさは、言葉や言い回しや理論の難しさというより、我々の頭の中のOS(オペレーションシステム)を取り換えなければ何を言っているか分からないといった類いの難しさなのだ。
 そしてそれはスピノザの面白さでもある。
 木島泰三も書いていたが、スピノザを読むことで、自らに「認識のコペルニクス的転換」が生じる可能性がある!
 本書は、平易な言葉により、身近な「たとえ」を適宜用いながら、ポイントを絞って、スピノザの思想を紹介している。
 書名に偽りはない。スピノザ入門書としておススメである。

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 やはりソルティが一番気になるのは、スピノザの自由意志に関する見解である。
 没後に刊行された主著『エチカ』の中で、スピノザは次のように述べている。

 例えば人間が自らを自由であると思っているのは、すなわち彼らが自分は自由意志をもってあることをなしあるいはなさざることができると思っているのは、誤っている。そしてそうした誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識するが彼らをそれへ決定する諸原因はこれを知らないということにのみ存するのである。だから彼らの自由の観念なるものは彼らが自らの行動の原因を知らないということにあるのである。(第2部定理35備考)

 言い換えれば、「我々の行動は無意識によって決定されているにもかかわらず、我々はそれを自らの自由意志によって決定したと勘違いしている」ってことになろう。

 また、次のようにも述べている。

 精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他の原因によって決定され、このようにして無限に進む。(第2部定理48)

 これは仏教の因縁の教えそのものであり、自由意志論争における立場の一つである「因果的決定論」そのものであり、ユヴァル・ノア・ハラリの言うアルゴリズムそのものである。
 スピノザは明らかに自由意志の存在を否定するハード決定論者である。

 では、我々には自由がないのか、いや、そもそも何をもって自由と言うのか?
 スピノザはこの問いについても答えを用意している。

 自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。(第1部定義7)

 スピノザ(と國分)は、自由を「自らが原因となって何かをなすこと」すなわち「能動であること」と定義し、能動について話を進めていくのであるが、ここから先は本書にゆずるとして、ソルティが上記の文章でハッと思い当たったのは、20世紀が生んだ最高の賢者と言われる人の言葉であった。
 クリシュナムルティ(1895-1986)である。

 自分の思考が記憶の反応であり、記憶が機械的であるということを極めて明確に理解しなくてはなりません。知識はいつまでたっても不完全なままであり、知識から生じた思考はいかなるものであれ、限られています。そのような思考は部分的であり、決して自由ではありません。ですから、思考の自由というものは全く存在しないのです。しかしながら、思考プロセスではない自由を発掘し始めることは可能です。そしてその自由の中では、精神はそれ自体が受けているあらゆる条件づけ、それ自体に作用するあらゆる影響に単に気づいているだけなのです。
(クリシュナムルティ著『四季の瞑想』、コスモス・ライブラリー発行)

 クリシュナムルティは、人間は歴史や社会や風土や文化や宗教や教育やしつけやその他もろもろのものによって「条件づけられて」いるのであって、その条件づけからなされた一切の行為に真の自由はない、と説いた。
 人が自由を得るのは、あるいは自由な行為が可能となるのは、もろもろの条件付けに気づいた洞察がもたらす解放によってのみであり、そこには意志や欲望はもちろん思考や感情の出番はない。
 クリシュナムルティは、そうした解放の後にも「個人の独自性(individual uniqueness)」は残るとも言っている。
 それは「エゴ」ではなくて、「普遍的な生に固有の区別であり、個人性からすべてのエゴイズムが一掃された時に残る、個人性の純粋に抽象的なフォルム(型)」なのだという。(1928年のクリシュナムルティとE.A.ウッドハウスの対話より)
 スピノザの言う「自己の本然の必然性」という言葉と共鳴するものを感じる。

 さらに、クリシュナムルティはスピノザ同様、既存の神や宗教を徹底的に批判した無神論者であった。
 が、「あるがままのものが聖である」という言葉に見られるように、スピリチュアルなものを否定はしなかった。彼の自然に対する愛はつとに有名である。
 ある意味、汎神論に近いのではないかと思う。

 クリシュナムルティをとっかかりとして、スピノザの思想に近づけるのではなかろうか?
 ――という感触を持った。


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Gerd AltmannによるPixabayからの画像



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 2022秩父・春のお彼岸リトリート(前編)

 彼岸の3連休を利用して秩父入り。
 瞑想と読書と散策の日々を過ごした。

 今回は木島泰三著『自由意志の向こう側』という哲学本を持って行ったのだが、これがソルティには難しくて、なかなか消化できず、苦労した。
 実のところ、長時間瞑想すると、頭はスッキリするよりもむしろボーっとする。
 論理を追うのが下手になる。 
 リトリート瞑想中に読書するなら、学術書はあきらめて、易しい仏典かミステリーくらいにしておくべきかもしれない。(その代わり、瞑想から帰った後に頭が活性化する感はある)

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 総じて曇りがちで肌寒かったので、これ幸い、宿に閉じこもっていようと思っていたら、結局、秩父の魅力と春の花々に惹かれて散策三昧、結構な距離を歩いた。

 秩父盆地は大昔に荒川の流れが作った河岸段丘が有名で、荒川に架かる巨大な秩父公園橋から市街地方面を見やると、面白いように地形が段々になっているのが分かる。
 武甲山から続く山々の稜線を最高位とし、羊山公園・聖地公園のある丘陵が中段、西武秩父駅や秩父神社がある現在の市街地が低段、そこからまた一段下がってバーベキュー族が集まる今の荒川岸となる。
 こういう段丘を見ると、どうしても実際に足で登ったり下ったりしたくなるのがソルティの昔からの癖で、今回も市街地と聖地公園を分かつ、最も目立つ段丘の下まで足を運んでしまった。

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聖地公園の河岸段丘(標高差約140m)


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 登るか?
 登ろう!
 九十九折の坂道をちょっとゼイゼイしながら登りきると、ナチュラルファームシティ農園ホテルの裏に出る。
 展望台があった。

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正面:眼下に秩父第一小学校

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両神山がデカい

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左手(南側)

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右手(北側)

 また下りるのも癪なので、そのまま丘の上の住宅地を進んでいったら、「札所11番→」の道標があった。
 野道に踏み入る。
 しばらく畦道や林の中の小道が続く。
 それが鬱蒼とした山道になった。
 おそらく地元の人でも知らないような静かでステキな道である。
 途中にあった道標からして、どうやら横瀬町の札所と秩父市の札所とをつなぐ、かつての遍路道らしい。
 いい散歩道を発見した、ルン
 途中、武甲山とセメント工場の煙突に抱かれた横瀬町が望めた。

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武甲山

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横瀬町

 と、急激な便意を催した。
 マ、マズイ!
 こんなところにトイレなんかない。
 「の・ぐ・そ」の3文字が浮かぶ。
 誰も来そうもないし、このへんで・・・・。
 が、なんとティシュペーパーを持ってなかった。
 ヤ、ヤバイ!!
 漏れないようにこらえながら脚を速めたら、向こうからリュックを背負ったうら若き女性が現れた。
 や、やばかった~。
 札所11番の脇から国道に降りて、近くのコンビニにダッシュ!
 間に合った~
 
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 秩父鉄道の踏切を渡ると、秩父神社の前に出た。
 参詣す。
 ここの拝殿の周囲の壁は、いろいろな伝説や教訓をモチーフにしたカラフルな彫刻に覆われている。
 しばらく前から修復中だった西面の「お元気猿」が色彩鮮やかに披露されていた。


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秩父神社

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鳳凰

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「よく見て、よく聞いて、よく話す」(日光の三猿とは逆)


 ロシアとウクライナの人々が幸せでありますように!
 生きとし生けるものが幸せでありますように!



● 鬼との共生 狂言『清水』&蝋燭能『土蜘蛛』を観る


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日時 2022年2月26日(土)13:00~
会場 ウェスタ川越 大ホール
プログラム&主演者
① 仕舞 殺生石(せっしょうせき) 小島英明
② 仕舞 鵺(ぬえ) 奥川恒治
③ 狂言 清水(しみず) 野村萬斎
④ 能  土蜘蛛(つちくも) 小島英明

 知人からチケットを譲り受け、久しぶりに能楽に行った。
 野外での薪能(たきぎのう)は何度か見に行ったことがあるが、蝋燭能(ろうそくのう)は初めて。
 いったいどんなものなのか?

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ウェスタ川越

 約1700席あるホールは7~8割埋まった。
 人々がコロナと共生し始めているのを感じる。
 こうやって催し物が開催できるようになったのは観客にとっての朗報であるのはもちろん、出演者にとっても吉報である。
 開演前に「見どころ解説」をつとめた小島英明によると、コロナ禍で収入ゼロという月が何度もあったとか。
 また、演者にとっては、人に見られて喜ばれてこその芸であろう。

 本日のテーマは「能楽百鬼夜行」 
 妖怪や鬼が登場する狂言と能を集めたプログラムである。
 水木しげる的というか、京極夏彦的というか。
 わかりやすくストーリー性の高い、能楽初心者でも楽しめる工夫が感じられた。

① 仕舞:殺生石(せっしょうせき)
 これは那須野にある殺生石の謂れとなった金毛九尾の狐の物語。
 荒ぶる妖狐の霊を鎮める玄翁(げんのう)和尚の名は、大工仕事に使われる鉄製の槌、“ゲンノウ”の語源である。

② 仕舞:鵺(ぬえ)
 ソルティはすぐ岩下志麻の怪演が見どころの映画『悪霊島』(1981)のコピー、「鵺のなく夜はおそろしい」を思い起こす。この鵺はトラツグミという鳥の古称である。
 一方、こちらの鵺は、頭が猿、胴体がタヌキ、手足が虎、尾っぽが蛇というキメラ型怪物。
 鵺を退治したのは、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で以仁王(もちひとおう)と組んで平清盛討伐に乗り出したが、あえなく失敗した源頼政である。

鵺
恐ろしい?

③ 狂言:清水(しみず)
 野中の清水に出没し人を驚かす鬼の話であるが、これは本物の鬼ではなく、主人にギャフンと言わせようと企んだ使用人・太郎冠者の変装であった、という滑稽譚。
 太郎冠者を演じる野村萬斎はさすがの腕前。
 間の取り方、声の使い方、抑揚などに現代的な笑いの感覚を取り入れて客席を湧かす。
 伝統芸能という古い革袋に新しい酒を入れて成功させる力量は、狂言の世界だけでなく、テレビや映画や現代劇などいろいろな経験を積んでいればこそだろう。

④ 蝋燭能:土蜘蛛(つちぐも)
 蝋燭能は薪能と並んで古くからあったのかと思ったら、平成生まれとのこと。
 薪能の難点は開催が天候に左右されることである。
 ならば、室内でも可能な蝋燭能で幽玄な雰囲気だけでも味わおう、ということらしい。
 舞台の周囲に数十本の蝋燭が立てられたが、これは本物の火ではなく発光ダイオード。
 炎の揺らぎすら演出できるとか・・・。
 結局、上演中は客席は暗くとも舞台は照明でじゅうぶん明るいので、蝋燭の意味合いを感じとることはできなかった。

 それはともかく。
 シテで土蜘蛛を演じる小島英明の声の素晴らしさ。
 深みと力強さのあるバリトンが西洋音楽的な、つまりはオペラ的な色合いを舞台に醸す。
 そう、能とはつまるところ日本のオペラ(歌芝居)なのだ。

 土蜘蛛はもともと大和朝廷によって成敗された土着の豪族のこと。
 それがいつの間にか、人民を驚かし朝廷をおびやかす妖怪へと変化していった。
 土蜘蛛にしてみれば、大和朝廷こそ、住み慣れた先祖元来の土地から自分たちを追い出し、武力によって命を奪う恐ろしい妖怪と思ったはず。
 舞台上の土蜘蛛は、源頼光の命を受けて成敗に来た武者たちに向かって、白い糸(和紙で作られている)を吐き出す。
 ここがこの番組の見せ場であり、手元より縦横無尽に放射される滝のごとき蜘蛛の糸に、子供のころテレビで見た松旭斎天勝――もちろん三島由紀夫が子供の頃憧れた1代目でなく彼女の姪にあたる2代目天勝である――の水芸を思い出した。
 あれはきっと故郷を追われた土蜘蛛の涙なのだ。

 能楽は江戸時代まで猿楽と言った。
 能を大成した観阿弥や世阿弥などの猿楽師は、天皇を頂点とする身分社会において賤民、つまり被差別の民であった。
 それが天皇制を賛美し強化するような曲を書いて、自ら舞い踊る。
 その心は、妖怪を成敗する朝廷の側にあったのか、成敗される妖怪側にあったのか。 
 読経や武力によっては鎮めることのできない妖怪たちの積年の恨みは幾度もよみがえって、この世に舞い戻る。
 だから、能舞台には魂が宿り続けるのだろう。
 それは百鬼と化した怨霊を閉じ込め飼いならす装置であると同時に、虐げられし者の声を社会に受け入れられるかたちで伝え続ける装置なのだ。

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● 自分壊しの旅へようこそ 本:『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』(デイヴィッド・イーグルマン著)

2011年原著刊行
2012年早川書房より邦訳(大田直子 訳)
2016年文庫化

 「自由意志はあるか?」という命題は、ここ数年ソルティが追っているテーマの一つであり、このブログでもたびたび関連本を取り上げ、考察してきた。
 「自由意志は存在しない。あるとしても、とても主役と言えるような代物ではない」というのが、どうやら現代科学の最先端の回答のようである。

 これを別の切り口から捉えなおすと、クリシュナムルティなら「私たちは完全に条件づけられているのです」となり、ベンジャミン・リベットなら「我々が意志するより先に脳は勝手に動き出している」となり、ユヴァル・ノア・ハラリなら「生命はアルゴリズムに過ぎない」となり、ニコラ・テスラなら「私たちは自動機械(オートマシーン)である」となり、本邦の前野隆司においては「受動意識仮説」となり、山口修源においては「如何ともし難い因果の関係性」となり、非二元(ノン・デュアリティ)にあっては「すべては起こるべくして起こっている」と言い表され、初期仏教では「諸行無常、諸法無我」と教える。
 「自由意志は存在しない」はすなはち、「自己は幻想である」の謂いでもある。

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 本作は、あたかも自由意志の命題に決着をつけるかのような総覧的内容となっている。
 人間の五感というものが、錯覚をはじめとする認知バイアスに見るように極めて当てにならないものであることの証明から始まって、意識に比したときの無意識の測り知れない大きさと役割の重さを指摘し、その意識の中味である思考や信念や意志ですら「自らがアクセスできない」無意識領域に支配されている数々の証拠を並べる。
 我々の言動が、脳内の微量のホルモンや神経伝達物質の影響下にあり、“適者生存”という法則のもと何万年もの歳月を経て最適化された脳、ひいては遺伝子によって統制されていることを明らかにする。
 そう。邦題にある通り、意識は主役ではなく脇役、無意識の演じる芝居の傍観者に過ぎないのだ。 
 脳の一部が病気や事故で損傷した人に起こった言動や性格の変化など、論拠として挙げられる様々なエピソードが実に興味深い。

 私たちには自分の行動、動機、さらには信念を、選択したり説明したりする能力はほとんどなく、舵を取っているのは、無数の世代にわたる進化的淘汰と生涯の経験によってつくり上げられた無意識の脳である・・・・。
 
 自由意思があるという私たちの希望や直感に反して、その存在を納得のいくように確定する論拠は今のところない。

 本書は「自分探しの旅」ならぬ「自分壊しの旅」である。
 著者の幅広く容赦ない証明によって次々と「自分」が壊されていくことに快感を感じるソルティは、一種のマゾであろうか。

 一方、「自由意志はない。自己は幻想である」という結論は、難しい問題を招来する。
 つまり、すべてが自身がコントロールできないところで決まっているのなら、犯罪者を裁くことができないではないか?

 生まれか育ちかのことをいえば、重要なのは、私たちはどちらも選んでいないという点だ。私たちはそれぞれ遺伝子の青写真からつくられ、ある環境の世界に生まれてくるが、いちばん成長する年齢には環境を選択できない。遺伝子と環境が複雑に相互作用するということは、この社会に属する市民がもつ視点は多種多様で、性格は異なり、意思決定能力もさまざまであるということだ。これらは市民にとって自由意思の選択ではない。配られた持ち札なのだ。 

 最近よく聞く「親ガチャ」という言葉を想起する。
 自分の意志で選べなかった「生まれと育ち」の結果、犯罪を起こしやすい性質が備わるならば、その当人を責めたり罰を下したりするのは理不尽じゃないか――という見解。
 これについて著者のデイヴィッドは、犯罪を起こした者に必要なのは「処罰でなく更生」と訴え、神経科学の新たな発見を法律、刑罰、更生にどう活かせるかを研究するプロジェクトを主宰している。
 研究室にこもって真実の究明や個人的栄誉のために研究しているだけでなく、研究成果を社会に還元し、人道的な益に結びつけようと具体的に行動を起こすところがクールである。
 逆に言えば、そういう社会的行動を起こすほどに、「自由意志はない」という結論がデイヴィッドにとって揺るぎないものであるってことだ。
 
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 「自由意志はない、自己は幻想である」という命題は、「すべては脳(遺伝子)の仕業である」というような唯物論的還元主義に結びつきやすい。
 「あらかじめすべてが決まっているのだから、何をやっても無駄だ」というネガティヴな宿命論に、あるいは心(精神)の存在や価値を懐疑させ、ともすれば危険な人間機械論に陥りやすい。
 デイヴィッドは、しかし、これに与さない。

 微小な世界へと向かう一方通行の道をたどるのは、還元主義者が犯すまちがいであり、私たちはそのわなを避けなくてはならない。「あなたはあなたの脳である」というような短絡的な表現を見て、神経科学は脳を単なる原子の巨大な集まりかニューロンの広大なジャングルとして理解するという意味だと考えてはいけない。むしろ、精神に対する理解の前途は、ウエットウェアのうえで続く活動パターンを解読することにある。そのパターンは内部の駆け引きだけでなく周囲の世界との相互作用にも左右される。
(ソルティ注:「ウエットウェア」とは「脳、あるいは人間」の意だろう。ここは注釈入れないと「水着」か「雨具」のようにとられかねない) 

 この著者は、自由意志や自我を否定するくらいには還元主義者だけれど、宿命論や人間機械論を拒否するくらいにはポジティブでスピリチュアルなヒューマニストなのである。
 


おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 絹一反=米何合? 本:『呪いの都 平安京 呪詛・呪術・陰陽師』(繁田信一著)

2006年吉川弘文館
2022年再版

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 もう愛読者の一人と言っていいだろう。
 王朝時代をネタにこれまでほとんど研究されてこなかったテーマ、それもユニークで斬新で極めて人間臭いテーマを、当時の文献をもとに紹介してくれる。
 それがことごとくソルティの壺にはまる。
 今回も、平安京を跋扈した陰陽師たちの呪詛・呪術について様々な視点から解き明かして、興味は尽きない。

呪詛――王朝時代の権力の亡者たちは、しばしば政敵を追い落とす手段として呪詛を選んだ。貴人の流血を忌避する平安貴族たちは、呪詛という陰湿な方法をもって競争相手を葬り去ろうとしたのである。呪詛、それは静かで邪悪な実力行使であった。
 そして、平安時代中期の貴族層たちの陰謀に荷担して呪詛を実行したのは、多くの場合、陰陽師であった。(本書より引用、以下同)

 陰陽師と言えば羽生結弦、もとい安倍晴明である。
 天皇や藤原道長など時の権力者の信任篤く、自らも上級貴族の一員であった安倍晴明が、得意の呪術を用いて妖魔退治や宿敵・蘆屋道満と呪力合戦するというイメージが強いが、これはフィクションの世界のことであって、史実上の晴明が呪詛を行なったり式神を操ったりした記録は残っていないという。
 晴明は官人すなわち国家公務員であって、官人は呪詛することが禁じられていたからである。
 官人陰陽師の基本的な仕事は、卜占、暦の作成、天文学、時刻の計測などであった。
 呪詛を行なったのは、自ら頭を剃り勝手に法師を名乗る民間の僧侶(私度僧)であり、これを法師陰陽師という。
 道満もまたそうした一人であったと目される。

 平安京には呪詛を請け負う法師陰陽師がたくさんいたらしい。
 殺生を忌む仏教の影響が強く、刃傷沙汰のような実力行使を起こしにくかったこともあろうが、まず陰湿な世界である。
 この時代もっとも呪詛の標的にされた人物が、ほかならぬ道長であった理由を説明する必要はないだろう。
 呪詛はたいてい下位の身分の力の弱い者が、上位の身分の力の強い者に対し、密かに行うのである。

 本書では法師陰陽師たちがどのような方法で呪詛を行なったかが、具体的に記されていて面白い。
 一般的に、陰陽師が作成した呪物(文字が書かれた器、頭髪、呪符など)を狙った相手の住居の敷地に埋めるか、井戸に投げ込むという方法がとられたらしい。
 呪物が見つかって、呪詛の依頼者や引き受けた陰陽師が特定されると、彼らは処罰された。
 いったんかけられた呪詛はそのままにしておくわけにはいかないので、呪詛返しあるいは呪詛の効力を無くすための禊払いが行われる。
 この禊払いは晴明のような官人陰陽師もやっていたようだ。

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 本書の冒頭で、『僧円能等を勘問せる日記』という当時の文書が紹介されている。
 寛弘6年(1009年)2月、一条天皇の御代に内裏で呪物が見つかり、上を下への大騒ぎとなった。
 呪詛をしかけた陰陽師がまもなく捕まった。それが円能である。
 上記の文書は、検非違使によって取り調べを受けた円能の供述調書なのである。
 
 それによると、円能が呪詛をかけた相手は、一条天皇の中宮・彰子、第二皇子の敦広親王、左大臣藤原道長の3人だった。
 望月の如き“欠けたるもの無き”権力者・道長とその実の娘と孫、親子三代に対して呪詛がかけられたのである。
 この恐れ知らずの所行を企んだ張本人として円能がその名を白状したのは、道長の亡兄・藤原道隆の息子、つまり道長の甥にあたる藤原伊周(これちか)の取り巻き4名であった。
 取り調べの結果、円能は禁錮刑に処せられ、伊周は4ヶ月の参内停止、伊周の母方の叔母・高階光子と伊周の妻の兄弟である源方理は官位を奪われた。光子は行方をくらました。
 伊周はこの呪詛事件により完膚なきまでに力を削がれたのであった。

 藤原道隆亡き後の道長と伊周の執権・関白の座をめぐる争いは有名で、その激しい抗争の中で、伊周の妹であり一条天皇の愛姫であった皇后・定子が悲惨な境遇に追いやられていったさまは、定子に仕えた清少納言の『枕草子』を読むと感得できる。
 道長は勝つためなら手段を選ばない強引にして抜け目ない策略家であった。
 本書の記述からでは推測の域を出ないが、ソルティはなんとなくこの事件は陰謀めいた感じがする。
 つまり、呪術による政権奪取を目指した伊周一派によるなんとも頼りない陰謀と言うのではなくて、目障り至極な伊周一派を徹底的に排除するために道長自身が仕掛けた陰謀という意味である。

 この事件のキーパーソンであり自白をした陰陽師・円能が、本来なら絞首刑になるところを免れて禁固刑で済んだこと、しかもわずか1年10ヶ月で釈放されたことなど、なんとなく裏があるような気がしてならない。(禁固と言ったところでどんなものか不明。庶民の囚人と同様の処遇を受けたとは限らない)
 ソルティの道長仕掛け人説の一番の根拠とするのは、藤原道長という人はそもそも呪術を本気で信じて恐がるような人だったろうか?――という点にある。
 出典は覚えていないが(『大鏡』だったか?)、この人は若い頃に内裏で肝試しがあったとき、兄の道隆・道兼は恐がって途中で引き返してきたのに、平気で化け物の出るという大極殿まで一人で歩いて行って証拠の品を持ち帰ったという武勇伝がある。
 呪術なんかに怯えるタマだろうか?

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 本書の魅力は他にもある。
 一つは、「王朝物価一覧」というのが掲載されていること。
 貨幣が一般に流通していなかった当時、物々交換とくに米や塩や布を貨幣の代わりにすることが多かった。
 『源氏物語』や『枕草子』を読んでいると、なにか覚えのめでたいことをした者に対し、上位の者が衣装や絹を賜わる場面がよく出てくる。
 その際、「これはどのくらいの価値があるんだろう?」、「もらってどれほど嬉しいものなのだろう?」という疑問をいつも抱いていた。
 この王朝物価一覧によると、絹1疋(=2反=着物2人分)は1000~2000文にあたり、1石(=10斗=100升=1000合)の米に相当する。一日5合食べる家族の場合、200日分である。
 結構な褒美じゃないか!
 また、絹一疋で馬2~3頭と交換できる。

 こういったことを知ると、王朝時代の文学作品などを読むとき、ずっと理解が深まる。
 たとえば、『今昔物語』に有名な『わらしべ長者』は、1本のわらしべが、ミカン→絹1反→弱った馬1頭→長者の屋敷、と変わっていく。
 ミカンから絹への変化で有頂天になった主人公が、次の弱った馬1頭でガックリくる理由が、この物価一覧で理解できよう。

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王朝物価一覧

 本書のもう一つの魅力は、あとがきの後に置かれた『補論 呪禁師のいない平安時代』という一文。
 おそらく、初版にはなく今回の再版のために書き下ろしたものと思われるが、呪禁師(じゅごんし)という存在が律令制度の中に位置づけられていたのをはじめて知った。
 日本の律令制度は奈良時代に唐のそれをまねて作られたので、もともとの唐の律令制度の中にこの役職があったのだという。
 陰陽師が実際には呪術とは無関係な官職であったのにくらべ、呪禁師はまさに呪術を職掌としていた。
 それが、平安時代にはほぼ形骸化して名前ばかりの役職になっていた。
 日本ではなぜ呪禁師が機能しなかったのか。
 その理由の検討が興味深い。
 このあたり、そのうち稿を新たに追究してほしいところである。

わらしべ長者



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 映画:『ブータン 山の教室』(パオ・チョニン・ドルジ監督)

2019年ブータン
109分、ゾンカ語

 ブータン映画初体験。
 しかも、ブータンの人々でさえなかなか行くことのできない標高4800メートルの秘境の村が舞台とあって、興味津々。
 「日本沈没の際に移住するならここ」とソルティが筆頭候補に考えている、“世界で一番幸福な国”の真実を垣間見られたらと思い、レンタルした。

 映画の冒頭で、主人公ウゲンが暮らすブータンの首都ティンプーが映し出される。
 高層住宅が立ち並び、大通りを車が行き交い、宅地開発が進み、夜はネオン瞬く。
 都市化・西洋化していく街の様子に、「ブータンよ、お前もか」といった感慨が募る。

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ブータン

 ティンプーで祖母と生活するウゲンは、音楽とスマホが欠かせない現代青年。
 歌手になるためオーストラリアに行くことを夢見ている。
 いま目の前にいる相手よりスマホの中の情報が大事、春を告げる鳥の声よりヘッドホンの中の音楽が大事。
 ブータンの若者も先進諸国の若者と変わらない。
 「世界一幸福な国」に住みながら、幸福を求めて海外に旅立つという逆説。
 若者というのは、いつの時代もそうしたものなのだろう。
 「今ここ」よりも「いつかどこか」を夢見るものなのだ。 

 ウゲンは数ヶ月の期限で、ルナナという山奥の村に教師として派遣されることになる。
 その務めが終われば、晴れてオーストラリアに旅立てる。
 ティンプーから8日間かけて苦労の末たどりついたルナナは、電気も通ってなければ、ガスも上下水道もない。
 紙は貴重品なので、トイレの始末は葉っぱを使い、焚き付けには渇いたヤクの糞を使う。
 村長に案内された教室には黒板も満足な教材もなく、10名ほどの子供たちは車を見たこともない。
 村人たちは美しくも厳しい自然に囲まれて、ヤクを大切に飼い、代々伝わる民謡を歌いながら、昔ながらの貧しい、しかし謙虚な生活を送っている。
 
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ルナナの宝、ヤク
 
 物語的には予想通りの展開。
 はじめは一刻も早くティンプーに戻りたがったウゲンが、村人の素朴であたたかい心に触れ、子供たちの純真なまなざしと向学心に打たれ、数ヶ月の滞在を受け入れることになる。
 可愛い子供たちと若き教師との交流シーンは、木下惠介『二十四の瞳』やチェン・カイコー『子供たちの王様』を彷彿させる。
 可愛くて利発的な級長をつとめる少女ペム・ザムは、実際にルナナに住む少女(本名同じ)で生まれてから一度も村を出たことがないという。
 スマホもヘッドホンも役に立たない僻地で、ウゲンは何を見つけるのか? 

 ブータンと言えば仏教国として有名だが、ここではむしろ日本古来の神道に似たアニミズムの精神が息づいているのを伺うことができる。
 出てくるブータン人の顔立ちも、日本人にかなり近い。
 日本人とブータン人にはどこか共通するものがあるような気がする。
 ブータンの美しい山岳風景と山の民の伝統的な生活風景が味わえる良作である。




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● ツいている男 漫画:『東京怪奇酒』(清野とおる 作画)

2020年(株)KADOKAWA

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 作者によると、怪奇酒とは「この世のモノではない異形のモノが出没する可能性のある非日常的空間で、感情を揺さぶらせながら飲酒する行為」を言う。
 もちろん作者の造語である。

 霊能力皆無の清野が、友人知人から直接聞いた怪談の現場に足を運び、恐がりながら酒を飲むという一話完結エッセイ漫画。
 取り上げられる7つの怪談、7つの現場は場所が特定されないよう「東京都M区A町」といったふうに匿名化されているけれど、「近くに米軍基地がある」とか「都内有数の霊園がある」とか「昔罪人を八つ裂きにした刑場があった」といった周辺情報から、「おそらくここだな」と推測できる場所もある。

 初めて訪れた町の深夜の公園で大仏を目撃した話(実際には大仏は存在しない)とか、お笑い芸人チャンス大城が住んでいた霊穴(あの世とこの世をつなぐ穴)のあるアパートの話とか、巨大霊園そばの寂しい路地に男の生首を見て失禁した話とか、焼身自殺のあった部屋に住む夫婦の話(事故物件情報サイト「大島てる」ってのをはじめて知った。実を言えばこのサイトが一番怖かった)とか、いずれも面白かった。
 メリハリある線とベタ使い、読みやすいコマ割り、圧を感じさせるほどの臨場感、ギャクのタッチなど、清野の作風はかつての小林よしのりを思わせる。
 1980年生まれ。2008年に『ウヒョッ! 東京都北区赤羽』でブレイクした人らしいが、読むのははじめて。他の作品も読んでみたくなった。

 ウィキで知ったが、2019年に壇蜜と結婚した人だった。
 霊能はないと言うが、「ツいている男」にはちがいない。




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 秩父年越しリトリート(後段)

 秩父市内散策の面白さは、やはりレトロ探訪にある。
 江戸時代から続く商家、明治時代のハイカラ建築、大正・昭和初期のアールデコ調店舗、戦前の妓楼や料亭、昭和レトロなアパートや民家などが、混然と立ち並んでいる。
 地盤が固いため関東大震災の被害を受けず、戦災も免れたことが、このような多彩でノスタルジックな街並みを可能にした。

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秩父名物・豚肉味噌漬けの老舗

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煙草屋

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PUB

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工務店

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旧病院

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レストラン

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焼き鳥屋

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 大みそかの午後は西武秩父駅前の祭の湯で禊をし、鍋焼きうどんを食べた。
 宿に帰って瞑想しながら年越し。
 秩父のカウントダウンは、若者の雄叫びも爆竹音もバイクの唸りも、除夜の鐘さえ聞こえない、静かなものであった。 (泊まっていた宿の防音効果によるかもしれない)  
 元日は朝5時に起きて、暗い中を秩父神社へ。
 久しぶりにたくさんの星を見た。
 境内は人少なく、ゆっくりと参拝できた。
 おみくじは「小吉」。
 これは中吉と吉の間(上から3番目)なので、ちょうどいい塩梅かな。 

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秩父神社
酒樽(お神酒)が並ぶ

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秩父神社
特設賽銭箱が置かれている


 そうそう。秩父散策の醍醐味は街角の神仏との出会いもある。
 お寺の境内や路傍に立てられた神仏の像たちの由緒を確かめるのも面白い。

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秩父ガメラ?
妙見様(北斗七星の神格化)のお乗りになる亀の子石である
江戸末期まで秩父神社は妙見様を祀っていたという

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六地蔵
季節ごとに衣替えしている

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う、麗しい!

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七福神(秩父市東町の惣円寺)
昨年末に禍々しい六福神を掲載したら、
この方々に呼ばれ、「訂正せよ!」と言われました・・・


生きとし生けるものが幸せでありますように!















● 秩父年越しリトリート(前段)

 「初詣は秩父神社だ」と思い、年末から元日まで4泊5日の秩父リトリートを行った。
 中3日はいつものように外界との接触をできるだけ断って、瞑想&ウォーキング&読書をしてストイックに過ごした。

 寒さは覚悟していた。
 が、秩父は盆地のため朝夕は確かに冷え込むけれど、風は強くなく、日中は陽が射すと意外と暖かい。
 2時間もウォーキングすると、厚い上着を脱ぎたくなるくらいだった。

 今回は、秩父市街の盆地を形成する二つの丘――西側の長尾根丘陵と東側の羊山丘陵――に登った。

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秩父市いいかげんマップ

 長尾根丘陵は秩父中心街から荒川を渡って急斜面を登る(標高300~450m)。
 尾根沿いに、秩父巡礼23番札所・音楽寺や市民憩いの秩父ミューズパークがある。
 2021年春のリトリート時にソルティがはじめて足を運んだ船をイメージした展望塔からは、武甲山に見守られた秩父盆地の素晴らしい光景を眺めることができる。
 この丘陵のふもとを流れる荒川に沿うようにして、秩父札所20番岩之上堂・21番観音寺・22番童子堂・24番法泉寺が並んでいて、秩父巡礼路の中でも最も眺めがよく、歩きやすく(車道である)、気持ちのいいルートとなっている。(23番音楽寺への登りはなかなかコタえるが)
 2018年にソルティが初の秩父巡礼した時もこの道を辿ったし、その後の秩父リトリートの際も恰好の散歩コースとして利用してきた。

 今回思わぬ発見をした。
 札所21番から22番に向かう車道の途中、右手に「江戸巡礼古道」という標識と矢印があり、住宅地に入っていく細い道がある。
 興味を惹かれてこの道を進んでいったら、道は宅地の奥で行き止まり・・・・と思ったら、雑草生い茂る道ならぬ道があって、「こちらでいいのかな?」という不安を抱きつつ進んだら、すっぽり山の中に入ってしまった。
 あとは踏み跡もさだかでないような竹林や雑木林のもの寂しい登りが続く。
 「蛇が出る季節だったら絶対に進めないな」

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 ところどころ木に結わえ付けられた「巡礼道」と書かれた札だけが頼り。
 傾斜はどんどん険しくなってゆく。
 長尾根丘陵に登るルートであるのは間違いない。
 ようやく平地らしきところに飛び出たら、古い看板があった。

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 なんと、22番・童子堂はもともとここに、長尾根丘陵の山腹にあったのだ。
 かつて、21番を打ち終わった巡礼者は、さきほど標識のあったところから右に進路を取って山道に入り、薄暗い森の中の急斜面を登り、息を整えながら22番を拝んで、さらに山道を登って尾根に達し、尾根沿いに23番・音楽寺に向かったのである。 
 その後(明治末期)、童子堂が今あるところ(丘のふもと)に移ったので、21番から平坦な道をずっと苦労なく行けるようになった。
 もちろん今でも22番を打ち終わったら、23番・音楽堂への登りを避けることはできないけれど、ここは尾根までの車道や舗道がしっかりついているので、山登りという感じはない。
 巡礼は段違いに楽になったのである。

 長尾根丘陵の尾根からは、秩父市街とは丘陵をはさんだ反対側にある小鹿野町や旧吉田村(現・秩父市)、その背後に聳える両神山を見ることができた。
 考えてみると、秩父事件の主役たちは旧吉田村の椋神社にて決起集会を行い、そこから長尾根丘陵を登って尾根上にある音楽寺で鐘を打ち鳴らし、鬨の声を上げ、一気に山を駆け下りて荒川を渡り、秩父神社周辺にあった役所を襲ったわけである。
 その計り知れない脚力と体力と胆力に感嘆する。
 若いって・・・・・。 

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尾根道

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長尾根から望む両神山(1723m)

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23番・音楽寺観音堂と武甲山

長尾根から見た秩父盆地
長尾根丘陵から見た秩父盆地


 今一つの羊山丘陵は、武甲山の山麓を成している高台(標高250~300m)で、西武秩父駅を降りたらすぐ目の前に見える。
 尾根上には芝桜で有名な羊山公園がある。
 丘陵の向こう側は、アニメ映画『心が叫びたがってるんだ。』の舞台として有名になった横瀬町があり、ここもまた秩父札所5番から10番が点在している。
 羊山丘陵からは、秩父市街地の全景とともに、向かいの長尾根丘陵および頭一つ抜けた両神山のノコギリ状の特異な山型を見ることができる。
 他の山と見間違いっこない独特の存在感である。

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羊山公園から武甲山(1304m)を望む

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羊山公園から見た秩父市街(北方面)
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羊山公園から見た秩父市街(南方面)

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長尾根丘陵の上に顔出す両神山

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 両神山は、盆地の底にある秩父市街地からは到底望めないものと思っていたのだが、丘陵を下りながら確認していったら、なんと西武秩父駅の駅前広場からもその山頂を拝むことができた。
 つまり西武秩父駅からは、秩父の両雄たる武甲山と両神山の二つを見てとることができるのだ!
 これは思わぬ発見であった。

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西武秩父駅の左手にほんのちょっと両神山が覗いている


 今年の目標の一つは、武甲山と両神山、この二つの山に登ること。
 「呼ばれている」という実感があった。



● ぱらいそさ いくだ! 漫画:『妖怪ハンター 地の巻』(諸星大二郎作画)

初出1974~1993年
2005年集英社文庫

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 超ド級の傑作ぞろい。
 「プロローグ」をのぞいて9編が収録されているが、いずれも作者の創造した独特の世界に引きずり込まれ、読後もなかなか日常への生還が難しい。
 しばらくはその世界への旅を反芻することになる。
 一日一篇か二篇読むのが限度。
 というか、あまりに凄いので、サーっと読むのがもったいない。
 
 その世界を構築しているのは、諸星の該博なる考古学的・民俗学的知識と奇想天外なる発想、そして画力である。
 この三つの連合が、諸星を他の追随を許さない唯一無二の漫画家たらしめている。

 とりわけ、漫画家という観点から言えば、画力がはんぱない。
 絵が巧いとか下手とかいうレベルを飛び越えたところにある魅力。
 諸星よりデッサン力がある者、写実の巧みな者、遠近法など絵画技法に長けた者、構図の秀でた者、ペンの使い方の達者な者、余白の使い方の上手い者は、ほかにたくさんいることだろう。
 彼の絵の凄さは、クライマックスをつくるここ一点のコマの圧倒的迫力と日常破壊力にあると思う。

 本シリーズの主人公でありながら金田一耕助のような「事件の傍観者」に過ぎない考古学者・稗田礼二郎が、日常の中でたんたんと探り続けてきた奇妙な謎が、解明に向かって次第に緊張を高めていき、クライマックスの一点において、ついに謎が暴かれると同時に日常から非日常へと飛躍する。
 そのポイントとなる一コマ(数コマ)の持つ衝撃が、読者である我々を完全にノックアウトし、我々もまた非日常空間へと連れ去られるのである。
 
 たとえば本コミックで言えば、『生命の木』ではあちこちで引用されるほど有名になった「おらといっしょにぱらいそさいくだ!!」からの数コマ、『海竜祭の夜』では平家伝説のある孤島に伝わる奇妙な祭の謎が暴かれる海竜登場の見開きページ、『闇の客人(まろうど)』では鬼面をかぶった踊り手に曳かれて大鳥居を抜けて“あの世”に去っていく禍つ神の後ろ姿(『帰ってきたウルトラマン』の津波怪獣シーゴラスを思い出した)。

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 これらのコマの持つ破壊力の秘密は、悪夢のような超現実的感覚を読者に与えるところにある。
 つまり、日常生活で隠蔽されている読者の無意識に訴えるのだ。
 その意味で、シュールリアリズム系の画家であるジョルジョ・デ・キリコやサルバトーレ・ダリに近いものがある。
 諸星の作品を読んで、「怖いけれどなんだか懐かしい」という奇妙な感じに襲われるのは、考古学や民俗学が下敷きになっているからばかりではなく、ユング的な深層心理への接触があるからではなかろうか。
 それを視覚的に表現できる才能こそ、唯一無二なのである。
 
 

おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

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