ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●スピリチュアル

● 復活の日 : オーケストラ・ラム・スール 第11回演奏会

復活ラムスール

日時: 2025年11月3日(月)13:30~
会場: すみだトリフォニーホール大ホール
曲目: 
  • 平林遼: 神秘の存在証明 世界初演
  • マーラー: 交響曲第2番「復活」
  ソプラノ: 隠岐 彩夏
  メゾソプラノ: 藤田 彩歌
指揮: 平林 遼
合唱: コール・ラム・スール

 本年2度目の復活。
 平林遼という指揮者もラム・スールもはじめて。
 なかなか個性的かつ独創性ある指揮者のようで、気に入った。

 まず、舞台に登場してすぐ「オッ!」と注目を集めたのが、その衣装。
 タキシードではない!
 黒地に紫を基調としたカラフルな模様が編みこまれた、『銀河鉄道999』に出てくるプロメシューム(メーテルの母親)を思わせるような、お洒落なドレスシャツを着ている。
 そうよ、指揮者はタキシードを着るものと法律で決まっているわけではない。
 どんどん自分の好きなものを着て、気持ちをアゲアゲにして、いい音楽を作ってくれればそれに越したことはない。
 素晴らしい。

 次に、前プロに自ら作曲した世界初演のオリジナル曲(8分)を持ってきた。
 これが東洋風かつマーラーチック、しかも合唱付きで、場内の空気を一気に『復活』臨戦モードに変えていく。
 「ちょうど、いい曲を前プロに持ってきたもんだなあ」と感心したが、あとからプログラムを読んだら、なんとこの日のために即興的に書いたという。
 『復活』の前に置くのにふさわしい短めの曲がなかったから、という動機らしい。
 「大がかりな儀式のような『復活』を演奏するにあたり、場を浄化する露払い的な曲」と本人が記している。
 やるねえ~。
 しかも、前プロのあとに休憩は入れず、曲の切れ目がそれと分からないままに、『復活』第1楽章に突入。
 「前プロ、たしか8分のはずなのに妙に長いなあ~」と思って、途中でそれと気づき、トイレに行く機会を失った観客も少なくなかったと思う(笑)。
 いや、さすがに7度目の復活という最強ゾンビのソルティは、ちゃんとわかりましたとも。
 会場は7割くらいの入り。盛況であった。

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 率直に言って、これまで7回聴いた『復活』の中では、2019年に杉並公会堂で聴いた金山隆夫&カラー・フィルハーモニック・オーケストラと並ぶベストであった。
 全般に迫力と熱意があふれていた。
 第4楽章のオール・フォルティシモの爆風たるや、巨大なトリフォニーホールが木っ端みじんになるんじゃないかと思うほどだった。
 一つ一つの音が明確で、メリハリが効いていた。
 第1楽章がとくに緩急・強弱・硬軟自在で、扉が開けば別の世界、別の景色が目の前に広がる、遊園地のようなマーラーの音楽世界を見事に現出していた。
 合唱もあたたかみがあって良かった。
 人類は、他人からあたたかい声をかけられることで、ホモ・エレクトスからホモ・サピエンスに進化したのでは?――なんて妄想するほど、どんな腕の立つ演奏家がどんなに頑張っても、楽器では得られない人の声のもつ特質を思った。
 平林はこの曲について、マーラーが「魂の永遠の不滅性=輪廻転生」を表現したものと解釈したようだが(それゆえに東洋タッチで開始したのだろう)、そこのところはソルティはよく分からない。
 マーラーは、生まれ変わってこの世に戻りたかったのかな?
 また、最愛のアルマと出会いたかったのかな?

 素晴らしい演奏に出会った時にソルティに起こる現象として、例によって、身体中のチャクラがビクンと反応し、客席で何度もケイレンした。
 そのたびに“気”が湯気のように湧き上がった。
 しかるに――最近薄々感じていたのだが――これはソルティに憑依していた浮遊霊が浄化されている、すなわち音楽による除霊ってことなのかもしれない。
 鑑賞後に肩こりが楽になったのはそのためかも。
 

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終了後、錦糸町駅横の「てんや」で遅い昼食
いい音楽の後の飯は格別!




















 

 

● 傾聴の効用

 午後のコンサートが終わった後、某駅前のファミレスに寄った。
 日曜だったので混んでいたが、店の一角に電源コンセント付おひとりさま専用席があり、一番端っこが空いていた。
 店の一番奥にあたる隣りのテーブル席には、妙齢のオバサマ4人が、罪のない無責任なおしゃべりを楽しんでいた。家に帰ったら、夕餉の支度が待っているのだろう。
 ドリンクバーを注文し、図書館で借りた考古学の本にしばらく集中した。
 奈良大学通信教育のレポート作成のためである。

 章の終わりでドリンクバーに立ったときに気がついた。
 いつの間にか、隣りにいたオバサマ連中は帰ってしまって、3人の男と入れ替わっていた。
 普段着の70代くらいのインテリ風の白髪の男と、30~40代のスーツ姿の男2人であった。
 これはどういった関係のトリオなのか?
 なんとはなしに会話に耳を傾けた。

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 3人はクラシック音楽の話をしていた。
 さては、さっきのコンサートに行ったお仲間か? テーブル席が空くのをいままで入口で待っていたのかな?
 親しみと好奇心が湧き、本の文字を追いながらも、テーブル席側の片耳はダンボ状態になった。
 コンサートの感想披瀝はすでに終わったらしく、いまは年長の白髪の男の独壇場であった。
 どうやら彼は芸大出身らしく、若い頃は音楽家を志していたようで、クラシック音楽にも業界事情にも詳しかった。
 プロの道には進まなかったが、ピアノの腕前は相当なもののようで、近々に地元のカフェを借り切って独演会を開くという。良かったら君らも聴きに来ないか?
 若い2人は二つ返事で了承し、白髪の男から連絡先を受け取った。年長の男の博識や人脈の広さに感嘆の声を上げ、抜群のタイミングで相槌を打ち、さらなる蘊蓄を引き出す。
 師匠と弟子?
 先輩と後輩?
 かつての上司と部下?
 編集者と執筆者?
 3人の関係が読めなくてもどかしい気もしたが、それよりむしろ、若い2人の傾聴能力の高さに感心した。
 いまどきこれだけ人の話をさえぎらずに聴ける男も珍しい。
 相槌、オウム返し、共感のことば、パラフレーズの使用、適宜な沈黙・・・・傾聴のテクニックが身についている。
 ひょっとして、ソルティと同じ相談関連のひと?
 2人の男はトイレやドリンクバーなどで席を離れるときも代わる代わる行き、残った一人が聞き役を引き取り、会話の流れを途絶えさせない。
 白髪の男の口はますます滑らかになり、話の内容もどんどんプライベートなものになっていく。
 海外にいる息子家族の話、学生運動していた頃の話、持病の話、亡くなった友人や妻の話・・・・。
 「もうこの先そんなに長くないから、あとはこうやって好きなことをして過ごしたい」
 「コロナの時みたいに、いつ何があるかわからないからな」
 「生きていれば、こういう楽しい出会いもあるしな」

 と、ここでこれまでひたすら聞き役に徹していた2人のうちの1人が、おもむろに切り出した。
 「やっぱり、だれだって最後は心細くなったり、不安になったりしますよね。そんなときに、心の支えになるものがあるのとないのとでは大違いです。ぼくたちがお手伝いできると思うんです」
 すかさず、もう1人の男が手元のカバンからパンフレットようなものを取り出すのが見えた。
 あっ、保険の勧誘か!
 顧客候補と営業マンか。
 自分の鈍感さにあきれた。
 
 差し出されたパンフレットを見て、白髪の男ははじめて我に返ったごとく押し黙った。
 いままでと違うトーンが声に現われた。
 「いや、自分は・・・・。自分も、今までいろんなところに行って、いろんな人の話を聞いているから。もうそういうの必要ないんだな」
 若い1人が切り返す。
 「どういったところに行かれたんですか?」
 「それはもういろいろ。仏教系もあるし、キリスト教系もあるし、スピリチュアル系もあるし、自分なりに西洋哲学や東洋思想を勉強したし・・・・。」
 「それでなにか結論が出ましたか?」
 「・・・・・」
 保険の勧誘ではなく、某新興宗教団体のリクルートだった。

 そこからは攻守変わって、スーツの2人が白髪の男を説得するモードに転じた。
 白髪の男が持ち出した意見(=勧誘を断るための言い訳)をひとつひとつ理屈と能弁をもって棄却し、矛盾があれば追及し、それまでに聞き出していた白髪の男の苦労話を持ち出してそれに役立ちそうな会の教えを諄々と説き、入信したことで運が向上した第三者の具体的な事例を滔々と語り、白髪の男のためにドリンクバーから飲み物を取ってきて・・・・。
 はじめのうちは勢いよく「自分には必要ない」と主張していた白髪の男も、若者2人の攻勢に押され、だんだんと声に力がなくなり、さっきまで自信に満ちていた表情はかげりを帯びてきた。
 これまでずっと話を真剣に聞いてもらっていた手前か、白髪の男も無下な態度で席を立つこともできないようであった。
 そもそも、最初からテーブルの壁際のほうに白髪の男が一人で座り、通路側に2人の若い男が陣取ったので、押し込められているような形勢ができあがっていた。

 まだまだ3人の会話は続きそうな気配。
 窓の外はすっかり暗くなった。 
 家で夕食が待っているソルティは、本をリュックに押し込み、席を立った。
 最後に振り返ってみたとき、白髪の男は心なしか涙目になっていた。

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● 信仰の証明 映画: 『奇跡』(カール・テオドア・ドライヤー監督)

1955年デンマーク
126分、白黒

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『奇跡』のポスター」

 カール・テオドア・ドライヤー(1889-1968)はデンマーク出身の映画監督で、知る人ぞ知る名匠。
 日本で知られている作品は、『裁かるるジャンヌ』(1928)、『吸血鬼』(1932)、『奇跡』の3本くらいと思うが、内容が難しいためか、名画座でも上映される機会が少ない。
 ソルティが過去に観ているとしたら、20代の高田馬場ACTシアターあたりと思うが、記憶にない。(当時は観た映画を逐一手帳にメモしていたのだが、その手帳数冊を破棄してしまった)
 同じ高田馬場の早稲田松竹で、ドライヤーの『奇跡』が、ロベルト・ロッセリーニ監督『神の道化師 フランチェスコ』と2本立てで掛かっているのを知って、観に行った。

 若い頃は2本立て・3三本立ての映画(料金は1本分)は大歓迎だったのだが、還暦を超えた今、映画を続けて観るのが結構つらい。
 座席に縛りつけられてスクリーンを観続けていると、目が疲れる、腰が痛くなる、頭がボーッとなって眠くなる。
 とくに、字幕を読まなければならない洋画や、内容が重たくて120分を超えるものは、1本が限度である。
 こんな日が来るとは思わなかった。
 『神の道化師』は12年前にDVD鑑賞しているので、今回は『奇跡』だけ観ればいいやと思ったのだが、『神の道化師』がデジタル・リマスター版と知って、つい欲を出して『神の道化師』の回から入場してしまった。
 たしかに、ソルティが昔観たDVD版よりはるかに映像がきれいで、格段見やすかった。

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『神の道化師、フランチェスコ』のポスター

 『奇跡』(原題 Ordet は「御言葉」の意)は、タイトルから想像がつく通り、宗教的な映画である。
 ある裕福な農業一家に訪れた悲劇と奇跡を描いた物語。
 「神への信仰と不信」という重苦しいテーマ、遅々として進まないストーリー、固定カメラを多用したスタイリッシュな映像が、イングマル・ベルイマン作品とよく似ている。
 『冬の光』、『第七の封印』と重なった。
 同じ北欧映画という点ももちろん大きい。 

 案の定、上映開始後15分あたりから眠気が生じた。
 セリフがなかなか頭に入って来ない。
 というか、目を開けているのがしんどくて、字幕を読むことができない。
 『神の道化師』は、フランチェスコはじめ修道僧たちのユーモラスなエピソード満載なうえに、スクリーンいっぱいに、僧衣姿の彼らが小鳥のようにばたばた動き回るアクション的面白さも手伝って、退屈しなかった。
 『奇跡』は、内容は重いし、登場人物の動きも少ないし、そもそも仏教徒のソルティにしてみれば「神への信仰」というテーマそのものが関心の低いものなので、集中力を保つのが難しい。
 しかも、映画の途中から、主人公一家の居間の柱時計の響き「チクタク、チクタク」が基底音として継続するので、それが催眠的効果を倍増する。
 眠気と闘うべきか、あきらめて心地よい惰眠を貪るべきか、ちょっとした葛藤におそわれた。
 若い頃は、自分が映画を見ている周辺の席でイビキをかいて寝ている中高年を見ると、後ろから座席を思いきり蹴ってやろうかと怒りにかられたものだが、因果はめぐる還暦にして・・・。

居眠りする男

 寝落ち一歩手前で、事件が起きた。
 一家の長男の嫁インガが、難産のため命の危機に陥ったのである。
 ここから事態は急転し、物語は緊迫する。
 さっと眠気が吹っ飛び、あとは完全に映画と一体化した。

 家長のモルテン、長男ミケル、三男アーナスは、インガの無事と出産の成功を祈る。
 神学の勉強のし過ぎで頭がおかしくなったと周囲に憐れまれている次男ヨハネスは、「神を信じれば奇跡は起こる」と家族に一心に祈ることをすすめる。
 が、だれも相手にしない。
 様子を見にやってきた町の新任の牧師は、ヨハネスの存在をはじめて知り、家族に向かって、「なぜ施設に入れないのか?」とさえ聞く。
 懸命な医師や看護師の手当てもむなしく、子供は死産し、インガは息を引き取る。
 悲しみに暮れる一家。
 夫ミケルは、柱時計の振り子を止める。
 「神を信じ祈れば、インガは蘇る」とヨハネスはなおも言うが、その言葉はついにモルテンの怒りを買う。
 その夜、ヨハネスは姿を消す。

 葬儀の日。
 インガを見送るため、喪服を着た多くの村人が集まっている。
 美しく装えられたインガが納棺される寸前、ヨハネスが帰って来た。
 インガの傍らに立ったヨハネスは、家族らを見回して、こう告げる。
 「この中にほんとうに信じる者が一人でもいれば、インガは生き返る」
 ムッとして立ち上がろうとする牧師を医師が押しとどめる。
 そこへ、インガとミケルの小さな娘がやってきて、ヨハネスに言う。
 「おじちゃん、お母さんを生き返らせて」
 「おじちゃんにできると思うかい?」
 「うん」
 「じゃあ、一緒に祈ろう」
 二人は手をつないで、祈り始める。
 ヨハネスの“御言葉”に奇跡が起きる。

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Gordon JohnsonによるPixabayからの画像

 テーマはたしかに重いが、理解は難しくない。
 日夜十字架を前に祈り聖書を読み日曜日には教会に行く一見敬虔な人々も、人々に説教するのが上手な神父や牧師も、真の意味での信仰は持っていない。
 子供のような無垢な心を失くし、聖書に書かれている「奇跡」を信じていない、すなわち神の偉大な力を信じていないからだ。
 手を伸ばせば届くところに、神の御言葉を説く預言者(ヨハネス)が到来しているのに、彼を狂人と思い、邪険に扱い、その言葉を無視している。
 幼い娘だけが御言葉をそのまま信じていたのである。
 
イエスは言われた。
「心を入れ替えて子供のようにならなければ、神の国に入ることはできない。自分を低くして、子供のようになる人が天国で一番偉いのである」
(「マタイによる福音書」18より)

 ヨハネスが姿を消すあたりからの映像が非常に美しく、写実を超える力で観る者に迫ってくる。
 それまではどちらかと言えば、映画というより演劇的なタッチが濃厚だった――原作はデンマークの国民的劇作家カイ・ムンクの戯曲『御言葉(オルデット)』――ものが、ここに来てまごうかたない「映画」に変貌する。
 構図や陰影やカットつなぎやキャメラの移動などによって生み出される映像そのものの力が、物語を凌駕し、なにかとんでもないことが “今ここ(高田馬場の早稲田松竹)” で起こっているような感覚を生じさせる。
 それが映画という芸術における美との邂逅の瞬間であり、いわば映画の「奇跡」である。
 映画を信じる者だけにそれは顕現する。
 
 既存の“物語”に囚われて、「今ここ」にある単純な真実を見逃す。
 この映画のテーマそのものが、映画という芸術の置かれ続けている受難的状況の比喩のように思われた。

早稲田松竹



おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 千人の交響曲 :オーケストラ・ハモン 第50回記念演奏会

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日時: 2025年6月1日(日)15時~
会場: すみだトリフォニーホール 大ホール(錦糸町)
曲目: G.マーラー: 交響曲第8番「千人の交響曲」
     ソプラノ: 中川郁文
     ソプラノ: 冨平安希子
     ソプラノ: 三宅理恵
     アルト : 花房英里子
     アルト : 山下裕賀
     テノール: 糸賀修平
     バリトン: 小林啓倫
     バス  : 加藤宏隆
指揮: 冨平恭平
合唱: Chorus HA'MON、ジュニア合唱団・Uni

 奈良大学通信教育の試験を終えた自分へのご褒美として、この贅沢なコンサートのチケットを用意しておいた。
 重荷が取り払われ、軽くなった心と頭で、ファウストと一緒にいざ天上に赴かん!

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すみだトリフォニーホール

 冨平恭平&オーケストラ・ハモンは、昨年4月に同じマーラーの交響曲第2番『復活』を聴いている。
 2年続けて、大ホールを借りての独・合唱付き大曲に挑むチャレンジ精神と体力が素晴らしい。
 1階席の1/3(1/2か?)ほどを占める大舞台に、大編成のオケと、総勢200人を超える合唱隊と、8人のソリストが立ち並ぶさまは、圧巻であった。
 ソルティは、3階の最後尾に陣取った。

 演奏は輝かしく、オケも歌も言うことなかった。
 とくに、テノールの糸賀修平が良かった。
 高音域がやたら多く、宗教的な熱っぽさと敬虔さが求められる難しいパートを、張りのある美声で歌い切った。
 その声はホールの後ろの壁までしっかり届いた。

 この曲をライブで聴くのは2回目。
 前回は、齋藤栄一指揮&水星交響楽団で、場所は同じすみだトリフォニーホールであった。
 正直言うと、ソルティはまだこの曲の真価に目覚めていない。
 どうもツボにはまらないのだ。
 他のマーラーの交響曲にくらべると、薄っぺらい気がして仕方ない。
 オケと合唱の規模のデカさや使われる楽器の多彩さ、それにゲーテ『ファウスト』のクライマックスを材としたドラマ性は、それだけで聴衆を惹きつけるスペクタクルに満ちている。
 が、それがかえって、「俗受け狙い」「虚仮おどし」という印象をも与えずにはいない。
 とくに、ソルティは、第1部の讃美歌が「讃歌のための讃歌」といったベタっぽさ、「仏つくって魂入れず」的な上っ面感を聴きとってしまう。
 単に自分がクリスチャンではないからだろうか。

 第2部の『ファウスト』はソルティの“青春の一冊”なので、感動しないわけないのだが、残念ながらドイツ語が分からない。
 ベートーヴェン『第9』や、マーラーなら第2番『復活』あるいは第3番であるならば、合唱部分のドイツ語が分からないことは、曲を観賞する上で特段ネックにならない。オケと歌唱が融合して、歌声もまた楽器の一つのように聴けるからだ。歌詞が理解できないことは鑑賞上のマイナスにならない。
 しかるに、『千人の交響曲』の第2部は歌こそが主役であって、『聖書』や『ファウスト』はもちろん、ドイツ語の微妙なニュアンスも含めて歌詞が分からないことには、容易には入り込めない世界を作っているように思われる。
 つまり、この曲の真価を知るためには、ドラマの理解が前提として必要なのではないかと思うのだ。 
 そのため、紗のカーテンを通して曲を聴いているかのような感がどうにも拭いえないのである。

 キリスト教世界観を理解することなしに、『聖書』も『ファウスト』も読んだことなしに、この曲に感動できる人は幸いである。

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● リアル除霊 ドキュメンタリー:『結界の寺』(企画・演出 平野貴之)

2025年日本
95分

結界の寺

 タイトルとドキュメンタリーという点にだけ惹かれて、池袋シネマ・ロサの先行上映に足を運んだ。
 どういう映画なのかまったく調べずに。
 俗人禁制の寺での修験者の厳しい修行の模様を描いたフィルムを、漠然と想像していたのだが、蓋を開けたら全然違った。
 よもや除霊がテーマとは!

 主人公は、兵庫県神戸市にある真言宗九龍山永楽寺の住職・河村照道氏。
 幼少の頃から霊感が強く、成人しても霊に苦しめられる。
 29歳の時に師僧に出会い、僧侶として人を助ける運命を告げられる。
 その後、厳しい修行を経て、霊能力を磨き、除霊の方法を身につける。
 これまでに5000人以上もの除霊を行ってきた。

 めんどくさい説明などない。
 最初から最後まで、河村によるリアル除霊シーンが続く。
 河村の噂を聞きつけ、最後の頼みの綱と思いやって来た者。人に勧められるまま半信半疑でやって来た者。河村に会うや否や激しく抵抗し罵倒する者。自らの霊能力を生かすため河村に弟子入りする者。老若男女いろいろな事情を背負った人が、カメラの前に次々と現れる。
 堕胎した水子の霊に憑りつかれている母親。自死した父親の怨念に憑りつかれている息子。長距離トラックの仕事先でいろいろな霊を拾ってきてしまう男。中には、全国ニュースになったほど有名な殺人事件の被害者遺族もいる。
 依頼者たちが皆、カメラの前に平気で素顔を晒し、プライベートなことを話し、除霊現場を撮られることを受け入れるのに驚く。
 河村への感謝と信頼のなせるわざなのだろう。

 集団でバイクを乗り回し、ヤクザと喧嘩し、キックボクシングや極真空手を好む“ヤンチャ”青年であったという、河村の前歴も面白い。
 坊さんになって人を助けるなんて、本人も周囲もまったく想像の埒外だったのである。
 人の運命はわからない。
(なるほど、フィルムの中の河村の顔は、俗世の塵に染まぬ修行一筋の清らかな僧侶というより、世の荒波にもまれたガソリンスタンドのおっちゃんのようである)

 ソルティもまた仏教徒のはしくれであり、オカルトは嫌いじゃないので、興味深く鑑賞した。
 IT革命が進み、遺伝子操作で新生命体の造れる科学万能の世にあっても、霊は消えない。
 人の感情の滞りあるところに、霊は姿を現すのだ。

 上映終了後、なんと僧衣姿の河村本人が登場した。
 河村と、全国の事故物件を紹介する有名サイトの管理人・大島てるの特別対談があった。
 そのあと、会場から希望者を募って、河村による除霊実演が行われた。
 ガラ空き(20名くらい)の会場のあちこちから、何本も手が上がったのには驚いた。
 が、これはヤラセでもサクラでもなんでもなく、本当に力ある霊能者に霊視・除霊してもらいたがっている人は決して少なくないのだろう。

 考えてみたらソルティは、日本の除霊にしろ、欧米のエクソシストにしろ、テレビや映画でたくさんの除霊シーンを見てきたが、目の前でリアル除霊を見るのははじめてであった。
 よくあるように、除霊されている人がわけの分からないことをわめき出すとか、苦しみもだえるとか、首を360度回転させるなんて展開はなかった。
 ほっとしたような、物足りないような・・・。

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上映後のロビーで河村師より護摩塩をいただいた。





おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 本:『熊楠と幽霊』(志村真幸著)

2021年インターナショナル新書

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 南方熊楠(クマグス)の名を最初に知ったのは、たしか男色がらみだったと思う。
 画家で男色研究家の岩田準一(1900-1945)と、男色をめぐる往復書簡をした人物というので興味を持った。
 調べて見ると、博物学・生物学の大家であり、とくに粘菌の研究では世界的権威という。
 昭和天皇にキャラメル箱に入れた粘菌標本を献呈した話もよく知られる。
 裸族のはしりでもあり、夏の間は真っ裸で過ごし、周囲から「てんぎゃん(天狗)」と呼ばれていた。
 平賀源内同様、奇行の多い天才であった。

 肖像写真を見ると、ギョロっとした眼のむさくるしい感じの親爺で、男色家っぽくない。(どういったのが“男色家っぽい”のか自分でもよくわからないが。ジャニーさん? 三島さん?)
 図書館で著書を探して手に取ったが、文章が難しいというか、とりとめがないというか、わけがわからなくて読むのをあきらめた。
 以来、疎遠となっていた。

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南方熊楠(1867ー1941)

 実はクマグスは民俗学者としても有名なのである。
 柳田国男を民俗学の「父」とすれば「母」はクマグスだとか、いや、「父」がクマグスで「母」が柳田だとか、ジェンダー観念にとらわれた意味不明な議論があるようだが、ともあれ、日本民俗学の誕生に多大な貢献をした人である。
 柳田とは生涯に一度きり、和歌山県田辺の自宅で会っている。
 二日酔いのクマグスは布団にくるまりながら柳田と話したそうで、実りある対談とはいかなかったようだ。
 二人はその後も頻繁に書簡のやりとりをしていたが、民俗学における「性」をめぐるテーマの扱いがきっかけで袂を分かってしまった。
 男色を始めとする日本人の性風俗について、すすんで学問として取り上げようとしたクマグスの姿勢を、柳田は受け入れられなかったようだ。
 それでも柳田は、クマグスが亡くなった際に「日本人の可能性の極限」と評した。

 本書は、クマグスの生涯や業績や思想について述べたものではない。
 『クマグスと幽霊』のタイトルが示す通り、スピリチュアルな視点から読むクマグス、あるいはクマグスにおけるスピリチュアリズム(心霊主義)の概説である。
 クマグスは、若い頃から不思議な体験を多くもった。
 熊野の山中で幽体離脱したり、夢の中に出てきた父親から新種のキノコの生息地を告げられたり、知人の死を予知したり・・・。
 自然、博物学や民俗学の研究に勤しむのと並行して、心霊研究にものめり込むようになる。
 世界各地の幽霊や妖怪に関する証言を集め、英国の著名な心霊研究家フレデリック・マイヤーズの書を熟読し、18歳から亡くなるまで明恵上人のごとく見た夢の記録を日記に書きとめた。
 ただ、さすがに科学者である。
 本書によれば、降霊術のようなオカルティズムには懐疑的で、予知や幽体離脱や輪廻転生などの不思議な現象に対して、なんらかの科学的な説明が可能なのではないかと思っていたようだ。

 著者の志村真幸は1977年生まれの比較文化史研究者。
 南方熊楠顕彰会の理事をしている。
 知の巨人クマグスの別の一面を知ることのできる一冊である。




おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 古代史"トンデモ”ミステリー 本:『アマテラスの暗号』(伊勢谷武著)

2020年廣済堂出版

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 人気沸騰の古代史ミステリー。
 主人公は日本人の父とイタリア人の母を持つアメリカ人のケンシ(賢司)。
 最近までゴールドマンサックスで働いていた40代の男である。
 ある朝、ニューヨーク市警から一本の電話が入る。
 「あなたのお父さんが宿泊していたホテルで何者かに殺されました」
 子供の頃に別れたきり40年以上会っていない父親は、なにか大切なことをケンシに伝えるために、日本からやって来ていた。
 ケンシは父親の殺された理由を解明するため、元同僚3人とともに日本へ旅立つ。
 父親・海部直彦は、元伊勢と呼ばれる籠(この)神社の第82代宮司であった。

 伊勢神宮諏訪大社、出雲大社、籠神社、下鴨神社、大神神社・・・・・。
 日本各地の由緒ある神社を駆けめぐり、そこに仕込まれた父親からの暗号メッセージを順に読み解きながら、ケンシは日本書記にも古事記にも書かれていない日本誕生にまつわる秘密に近づいていく。
 だが、その秘密を先に手に入れるべく、暗躍する組織があった。
 殺し屋を使ってケンシの父親を手にかけた組織は、今度はケンシをつけ狙う。

伊勢神宮内宮
伊勢神宮・内宮
祭神はアマテラスオオミカ三

 2003年に刊行され世界的ベストセラーになって映画化されたダン・ブラウン著『ダ・ヴィンチ・コード』の日本版といった趣き。
 日本の古代史や神道や神社、トンデモ本に興味ある人は楽しめるのではないかと思う。
 ソルティは神社仏閣めぐりが趣味で、マンガ版『古事記』や映画『日本誕生』など古代史も好きなので、それなりに面白く読んだ。
 ただし、これが伊勢谷のデビュー作というだけあって、小説としての出来は芳しくない。
 構成にも章立てにも人物描写にも不手際が目立ち、リアリティに欠け、叙述は乱雑で、ご都合主義がはなはだしい。
 『ダ・ヴィンチ・コード』と比較するのは、ブラウンに失礼であろう。
 アイデアそのものは面白いのだから、もっと巧みな書き手によって読みたかった。あるいはマンガならちょうど良かったかもしれない。
 実のところ、読みながら連想したのは『ダ・ヴィンチ・コード』ではなく、諸星大二郎の『暗黒神話』だった。 
 古代遺跡をめぐる少年の探索が宇宙的&仏教的結末に逢着する驚天動地の傑作『暗黒神話』を思わせる着想の奇抜さと飛躍的展開は、トンデモと分かっていても心躍るものがある。

暗黒神話

 登場人物に語らせるセリフの端々から、伊勢谷が保守右翼の愛国者であることが伺われる。
 たとえば、下鴨神社の神職であった男・小橋のセリフ。

 宗村、いい加減気づけよ。合理が一体、なにをもたらしたっていうんだよ。おまえのような合理崇拝の先にあったのは、文化や価値や道徳を破壊し、自由の名のもとに自由を抑圧し、寛容の名の下に他の意見を封殺してきたリベラルと称する全体主義や宗教さえ否定した共産主義じゃないか。日本人の力を削ぐために昔は神社で行われていた地域のミーティングを、戦後神社から切り離して日本中に公民館を建てまくったのは、ソ連にシンパシーを感じていたアメリカのリベラルだってことをおまえも知っているだろ?・・・(中略)・・・
 なにも俺は不合理や反合理まで擁護するつもりなんて毛頭ない。でもいいか、非合理がおまえの好きな合理を守っているんだよ。伝統こそが自由や価値や道徳を守る最後の砦なんだよ。これこそがおまえがまだ気づいていない、気づこうともしない、あるがままの真実だ。

 まったく、保守右翼の良心たる中川八洋先生のお言葉そのもの。
 おそらく伊勢谷は、アメリカにあってはトランプ推しの共和党支持者、日本にあっては自民党右派で、同性婚にも選択的夫婦別姓にも女系天皇にも反対の立場と思われる。
 そこで面白いのは、この小説の根幹をなす謎=日本誕生の真相が、伝統重視の国粋主義者からしてみたら、それこそトンデモない設定だろうという点である。
 日本人が中国大陸からやってきた騎馬民族の後裔だとか、朝鮮からやって来た渡来人と原住のアイヌ民族とのハーフだとかいうならまだしも、シルクロードを渡ってやって来た〇〇〇人の血統を引いていて、日本の神様のおおもと=アマテラスの正体は〇〇〇だというのだから。
 やっぱり、伊勢谷はたんなる右翼じゃないのかも。

 ともあれ、本書を読んでいたら、神社めぐりがしたくなった。
 今年は数十年ぶりに出雲大社に行きたいな。

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出雲大社
マサコ アーントによるPixabayからの画像
  


おすすめ度 :★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




● 光が丘管弦楽団 第58回定期演奏会

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日時: 2024年11月17日(日)14:00~
会場: 光が丘IMAホール
曲目:
  • シューベルト: イタリア風序曲第1番
  • ハイドン: 交響曲第101番「時計」
  • モーツァルト: 交響曲第41番「ジュピター」
指揮: 小野 富士

 会場に向かうバスの中、アナウンスが言った。
 「次は、光ヶ丘いま、光ヶ丘いま、お降りの方はブザーでお知らせください」

 光ヶ丘IMAを知ってから数十年、今日はじめて「いま」と読むのだと知った。
 ちょっとした衝撃。
 たしかに、そのままローマ字読みすれば「いま」なのだが、「アイエムエー」と英語読みしていた。
 IBMを「アイビーエム」と読むのに釣られていたのかもしれない。

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光ヶ丘IMA

 本日はオール古典派プログラム。
 秋らしくて良き。

 シューベルトの『イタリア風序曲』、はじめて聴いた。
 20歳のときの作品である。
 当時ウィーンではロッシーニ・ブームが起きていて、それに触発されて作曲したという。
 たしかに、作曲者の名前を知らされずに耳にしたら、「ロッシーニかな?」と思うような、バーゲンセール風狂騒感がある。
 当時シューベルトは窮乏に苦しんでいたから、大金持ちのロッシーニに「あやかりたい」という思いがあったのかもしれない。

 ハイドン『時計』は親しみやすい曲。
 とくに時を刻む振り子のリズムさながらの第2楽章はCMに使用されることが多い。
 ソルティは、やはり、旺文社系列の(財)日本英語教育協会が制作し、1958~1992年まで文化放送で流されたラジオ番組『百万人の英語』のテーマ曲の印象が強い。
 この曲と、やはり旺文社『大学受験講座』のテーマ曲になったブラームス『大学祝典序曲』が蛍雪時代の音楽的記憶である。
 J・B・ハリス先生には直接お会いして、著書『ぼくは日本兵だった』にサインをいただいたこともあった。

 モーツァルトやベ―トーヴェンを押さえて「交響曲の父」と冠せられるだけあって、ハイドンのオーケストレイションの技と完成度は素晴らしい。 
 『時計』や『驚愕』やドイツ国歌になった『神よ、皇帝フランツを守り給え』など、メロディメイカーとしての才能にもきらきらしいものがある。
 もっとハイドンを攻めていきたい。

ぼくは日本兵だった
旺文社刊行

 生の『ジュピター』は久しぶり。
 名曲なのに、なぜか演奏される機会が少ない。
 i-amabile の「演奏される機会の多い曲」ランキングでも30位に入っていない。
 なんでだろう?

 『ジュピター』と言えば平原綾香、と言う人は多いと思うが、あの曲の原曲はイギリスの作曲家ホルストの管弦楽組曲『惑星』の第4楽章「木星」である。
 ソルティは『ジュピター』と言えば、かわぐちかいじのコミック『沈黙の艦隊』を思い出す。
 20代の会社員時代にずいぶんはまった。
 実を言えば、モーツァルトの交響曲41番『ジュピター』あるのを知ったのが『沈黙の艦隊』によってであり、BGMにしながら『沈黙の艦隊』を読もうとレコード店に足を運び、人生で初めて手にした交響曲CDこそ『ジュピター』であった。
 『ジュピター』と『沈黙の艦隊』こそは、ソルティのクラシック街道の日本橋(=出発点)であった。(声楽についてはキャスリーン・バトルである) 
 購入したのは、レナード・バーンスタイン指揮×ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の1984年1月のライヴ・レコーディングである。

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交響曲40番と41番のカップリングだった

 そういういきさつがあるので、20~30代の頃は『ジュピター』を聴くとどうも戦闘的気分になりがちだった。
 還暦を迎えた今は、「天界からのお迎え」の響きのように聞こえる。
 第4楽章なんか、天使たちの吹きならすラッパと笛の調べに乗って、このままホールの座席で昇天してしまいそうな、「まっ、それも悪くないな」と思うほどの美と愉悦と神々しさに包まれる。
 ちょうど、高畑勲監督のアニメ映画『かぐや姫の物語』で、彩雲に乗ったブッダや天女たちに伴われて地上を去っていくかぐや姫のように。

かぐや姫の昇天

 数日前にベートーヴェンの第5番『運命』を「人類史上最高の名曲」と書いたばかりであるが、モーツァルトの第41番『ジュピター』もそれに匹敵する奇跡である。
 ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト。
 この4人はベートーヴェンを介して、つながっている。
 つくづく凄い時代だ。

 光が丘管弦楽団による演奏は素晴らしく、光ヶ丘“いま”を体感した。









● 「運命」とフィンクの危機理論 : 第25回EGK演奏会

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日時: 2024年11月10日(日)14:00~
会場: 北とぴあ さくらホール
曲目:
  • ブラームス: 弦楽六重奏曲第2番 ト長調 作品36
  • コントラバス・アンサンブル「コンバース」: 爆風スランプ『Runner』、井上陽水『少年時代』、YOASOBI『舞台に立って』、ベートーヴェン『運命~ボサノバ風』
  • ベートーヴェン: 交響曲第5番 ハ短調 作品67「運命」
指揮: 平尾 純

 このオケを聴くのははじめて。
 EGK(Ensemble Grosen Kunstlers)とは、「偉大な芸術家たちのアンサンブル(合奏会)」といった意。
 過去の演奏会の記録を見ても、このオケの演奏会のプログラム構成は、
  1. 古典派~ロマン派の弦楽重奏曲(室内楽)
  2. 4名のコントラバス奏者による現代ポピュラーソング数曲
  3. 古典派~ロマン派の交響曲
 となっている。
 一回のコンサートで軽重、硬軟、明暗、新旧取り合わせた、さまざまな響き、さまざまな味わいが楽しめるのは、オトク感がある。
 よく知られているポピュラーソング――クラシック調にアレンジされている――を間にはさむことで、ふだんクラシックに縁遠い層の関心を引きつけ、会場に足を運ばせ、クラシックの魅力に目覚めさせ、クラシックファンを増やすことも期待できる。
 とてもよい試みだと思う。
 しかも入場無料!
 会場には、家族連れや子供連れの姿が多く見られ、固定ファンがついていることが察しられた。
 指揮者にしてコントラバス奏者の平尾純は、ふだんはサラリーマンをしているとか・・・。
 コンバースのリーダーでもあり編曲もこなしているようだ。
 うらやましくも素晴らしい才能。
 それにしても、コントラバス奏者って個性的な人が多くない?

コントラバスを引く狸

 ブラームスもコンバースも良かったけれど、やっぱり圧巻はべートーヴェン『運命』。
 この曲が人類史上最高の名曲であることを、それも、何度聴いても感動せざるをえない奇跡のような曲であることを、実感させてくれる演奏であった。
 完全無欠とはこの曲のためにあるような言葉だ。
 第1楽章から第4楽章まで、それぞれが違った色合いを持ちながらも、全体でひとつの流れとして感じられる統一感――形式的というより気分的統一感――が飛び抜けている。
 いつもはマーラーの散文性に惹かれがちなソルティであるが、ベートーヴェンあってのマーラー、古典派あってのロマン派、形式あっての自由、ということをつくづく思った。

 ときに、看護理論においてフィンクの危機モデルというのがある。
 たとえば、交通事故に遭って体に一生残る障害が生じた、というようなショッキングな出来事があったとき、患者がいかにそれを受容し適応していくか、ということをモデル化したものだ。(詳しいことは知らないが、エリザベス・キューブラ=ロスの説いた「死の受容」のプロセスを下敷きにしているのではないかと思われる)
    1. 衝撃の段階 
      迫ってくる危険や脅威を察知し、自己保存への脅威を感じる段階。現実には対処できないほど急激で、結果的に生じる強烈なパニックや無力状態を示し、思考が混乱して判断や理解ができなくなる。
    2. 防御的退行の段階
      危機の意味するものに伴って自らを守る時期。危険や脅威を感じる状況に、現実に直面するには圧倒的な状況のために、無関心や非現実的な多幸症を抱く。これは、変化に対しての抵抗であり、現実を逃避し、否認し、希望的思いのような防御機制をつかって自己の存在を維持しようとする。そうすることで、不安は軽減し、急性身体症状も回復する。
    3. 承認の段階
      承認の段階は、危機の現実に直面する時期。現実に直面して省察することで、もはや変化に抵抗できないことを知り、自己イメージの喪失を理解する。あらためて、深い悲しみや苦しみ、強度の不安を示し、再び混乱を体験する。しかし、徐々に新しい現実を判断し、自己を再認識していく。
    4. 適応の段階
      期待できる方法で積極的に状況に対処する時期。適応は、危機の望ましい結果であり、新しい自己イメージや価値観を築いていく段階である。現在の自分の能力や資源で満足をする経験が増えて、しだいに不安が軽減する。
(城ヶ端初子著『新訂版 実践に生かす看護理論19 第2版』サイオ出版より抜粋)

 見事に、第5番『運命』の第1楽章から第4楽章までの流れに添っている。
 第1楽章の「ジャジャジャ、ジャーン!」の衝撃、第2楽章の平和な子供時代に逃避するような現実否認、第3楽章の現実回帰と混乱と諦念、そして第4楽章の受容。
 しかも、ベ-トーヴェンは単なる「受容」にとどまらず、その先にある「神=運命」への讃歌と自己投棄すら表現している!

 もちろんベートーヴェンは、フィンクやキューブラ=ロスはもとより、フロイトやユングといった名だたる精神分析家が登場するはるか以前に生きた人で、心理学や精神分析の概念すら持ちえなかった。
 直感で真理に到達し、万言を費やすことなく、音楽で表現してしまう。
 天才たるゆえんである。

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王子駅と北とぴあ

  
  

● 映画:『最後の乗客』(堀江貴監督)

2023年日本
55分

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 えっ、ホリエモンが映画をつくった!?
 ――と一瞬びっくりしたが、堀江貴文ではなく貴だった。
 堀江貴は1971年仙台市生まれ。ニューヨーク在住の映像作家である。

 「世界の映画祭で評判、予想外の結末、上映時間55分」という3つのキーワードに惹かれて鑑賞した。
 とりわけ、上映時間55分というのは、昨今、長時間の館内上映に眠気や尿意や腰痛などの不安を抱えるソルティとしてはまことに有り難い。
 若い頃は2本立ては愚か、3本立て、4本立て、オールナイトの5本立てだって嬉々として観たものであるが、いまや2本立て興行の1本だけ見て退出、という贅沢も珍しくなくなった。
 とくに字幕を読まなければならない洋画がしんどい。
 せっかくのシニア料金適用なのに・・・・。

 閑話休題。
 宮城県のタクシー運転手の体験を描いたこの作品について、多くを語るのはかえって不親切であろう。
 筋書きや結末を知らずに、なるべく白紙に近い状態で鑑賞するのがおススメ。
 出てくるのは無名の役者ばかりで、必ずしも演技が上手いとは言えないし、セリフや演出にも若干のぎこちなさを感じる。
 しかし、それらを払拭してあまりない感動がある。
 日本人なら誰だって泣かずにはいられないと思ったが、世界の映画祭で評判というからには外国人にも十分通用する物語なのだろう。
 ひとつだけ種明かしする。
 最後の乗客とはその席に座った「あなた」である。

砂浜とタクシー

 池袋シネマロサにて鑑賞。
 出入口で堀江監督自身から挨拶をいただいた。
 撮影場所を聞けばよかったな。(元仙台人のソルティ)




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