ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、寺社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●スピリチュアル

● それは鉄道讃歌から始まった : ボヘミアン・フィルハーモニック 第9回定期演奏会

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日時: 2024年3月16日(土)14:00~
会場: 神奈川県立音楽堂
曲目:
  • ドヴォルザーク: 交響曲第1番「ズロニツェの鐘」
  • ドヴォルザーク: 交響曲第9番「新世界より」
  • アンコール ドヴォルザーク:プラハ・ワルツ B99
指揮: 山上紘生

 神奈川県立音楽堂は桜木町駅から徒歩10分。
 自宅から1時間半以上かかるのだが、山上紘生の振る『新世界』を聴かないでいらりょうか。
 ボヘミアン・フィルハーモニックは、「ドヴォルザークやスメタナなどのボヘミアの作曲家の楽曲を中心に演奏活動するアマチュアオーケストラ」で、今回の2曲でドヴォルザーク交響曲の全曲演奏達成とのこと。おめでとう!
 交響曲第1番など、なかなか聴く機会にお目にかかれない。
 5月初旬のぽかぽか陽気、遠出も苦にならなかった。

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JR桜木町駅

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紅葉坂
女性アイドルグループのような美しい名前だが、結構傾斜がきつい

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県立音楽堂
満席(約1000席)に近かった

 今回つくづく感じたのは、アントニン・ドヴォルザークという作曲家の進化のほどである。
 1865年24歳の時に作曲された交響曲第1番と、1893年52歳の時に初演された第9番を、続けて聴くことで、一人の芸術家の、あるいは一人の人間の成熟をまざまざと感じた。
 第1番も決して悪い出来ではない。
 ベートーヴェンとブラームスの影響を受けているのは無理もないところであるが、それでも、そこかしこにドヴォルザークの才能の片鱗とブルックナーにも似たオタク的個性を感じさせる。
 が、第1楽章から第4楽章まで、すべての楽章が同じように聴こえる。
 一定のリズムに乗って、力まかせに進行する。
 あたかも蒸気機関車のように。
 それゆえ、全体に単調に聴こえるのだ。
 ドヴォルザークは鉄道オタクで有名だったが、彼の音楽の原点にあるのは、幼少のみぎり夢中になって聞いた列車の響きなんじゃないか、としばしば思う。
 名うてのメロディーメイカーなのに、第1番ではそれが十分発揮されていないのがもったいない。 
 さらには、有名なチェロ協奏曲や第9番第2楽章に見られるような、祈りにも似た静謐な悲哀と深い宗教性――それこそがドヴォルザークの人生上の経験と成熟がもたらしたエッセンスなのではあるまいか――が、まだここには見られない。
 つまり、若書きなのである。
 24歳の作品だから若書きは当然であるが、マーラー28歳やショスタコーヴィチ19歳の第1番と比べると、かなり未熟な印象を受ける。
 アントニンは大器晩成型の作曲家だったのだろう。
 ソルティが第1番に副題をつけるなら、『鉄道讃歌』あるいは『ヒョウタンツギの冒険』ってところか。

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Erich WestendarpによるPixabayからの画像

 第9番は無駄な音符がひとつもないと思うような完璧な傑作。
 楽章ごとに異なる曲調と色合いで、変化に富んでいて飽きない。
 リズムとメロディの見事な融合が果たされている。
 第2楽章中間部の深い悲哀と宗教性は、全曲の肝である。
 この魂の泉の深みと静けさあるゆえに、第1楽章におけるグランドキャニオンのごとき荘厳と第4楽章における最後の審判のごとき大迫力が生きるのだ。
 鉄道讃歌が『銀河鉄道の夜』に飛躍するのである。 

 オケは緊張か、はたまた若さゆえか、ところどころ糸のほつれが見られはしたが、全般、弾力と光沢ある織物に仕上がっていた。
 織り手の筆頭である山上は、いろんなところで成功を重ねているせいか、風格が増した。
 『エースをねらえ!』のお蝶夫人を思わせる優美な指揮姿は変わらず。
 思わず見とれてしまう指揮姿は、この人の最大の武器であろう。
 さらには、今回明らかにされたドヴォルザークとの親和性の高さ。
 これまでに聴いたショスタコーヴィチシベリウスもとても良かったが、どちらの場合も、「大曲に頑張って向き合っています」という気負った印象があった。
 ドヴォルザークではまったくそんな感じがなく、肩の力を抜いて自在に振っているように思えた。
 ひょっとして、山上も・・・・・・鉄ちゃん?
 次は、マーラーかベートーヴェンを聴いてみたいものだ。

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これほど質の高い演奏を無料で聴けた豊かさに感謝

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終演後、近くの野毛山不動尊に詣でた

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本殿
丘の上にあり、エレベータで上がることができる

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本殿前から横浜港方面を望む
横浜ランドマークタワーがひときわ高い

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不動明王

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弁天様もいらっしゃる

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野毛坂にある中華料理店がソルティのグルメレーダーに反応

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芸能人もやって来る店だった

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タンメンとグレープフルーツハイを注文
麺が太目でシコシコしていた
スープがほどよい塩加減でうまかった






● 自転車で修学旅行 : 初春の京都・寺めぐり 2

 今回の旅の目的の一つを書き忘れていた。
 八坂神社である。

 2018年12月に最寄り駅の階段から転落して、左足かかとの骨を折って入院した。
 無事手術を終えて退院する明け方、京都か奈良のどこかの古い泉で湧水を飲む夢を見た。
 甘く美味しい水だった。
 今年になって、サンドウィッチマン出演の旅番組を観ていたら、
 「あっ、ここ夢で見た水飲み場だ!」
 それが八坂神社境内の御神水(ごじんずい)だったのである。

 もちろん、八坂神社には何十年も前に行ったことがあるので、記憶に残っていた映像が夢に現れたのであろう。そこに不思議はない。
 が、ここを訪ねて水を飲みなさい、といういずこからの声を聞いたように思った。
 こういったスピリチュアルな直観は大事にするソルティである。

 2日目は八坂神社以外、とくに予定を決めてなかった。
 嵐電に乗って広隆寺の弥勒菩薩に久しぶりに会いに行くことにした。
 昨年訪ねた中宮寺の弥勒菩薩と比較してみるのも一興。
 そこから自転車をレンタルして、龍安寺、金閣寺と、黄金の修学旅行コースを回ることにした。

3月8日(金)晴れ時々曇り、一時小雨
08:00 宿出発
08:10 八坂神社
      市バスと嵐電に乗って太秦広隆寺へ
09:30 広隆寺
10:40 東映映画村
12:30 昼食
      自転車レンタル 
13:30 龍安寺
14:40 金閣寺
16:15 六角堂
16:50 瑞泉寺
17:20 自転車返却後、河原町散策

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八坂神社
主祭神は素戔嗚尊(すさのをのみこと)
疫病退治の神として、コロナ禍で大活躍された

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本殿
この地下に青龍の棲む龍穴があるという

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御神水
夢見たとおりの甘く柔らかい水であった
ご利益がありますように

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嵐電で太秦広隆寺へ
実に40年ぶりの訪問

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上宮王院太子殿
1730年に再建された入母屋造のお堂
本尊は聖徳太子像
太子建立の寺と言われているが、実際は渡来系の秦河勝(はたのかわかつ)の可能性が高い

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弥勒菩薩半跏思惟像    
64年前、この像に魅せられてジュディ・オング京大生が思わず抱きついてしまい、
薬指を折ってしまったという伝説の仏像(そのせいか今も監視の目が厳しい)
個人的には奈良の中宮寺の像のほうが、高貴で慈悲深い感あって好き

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中宮寺の弥勒菩薩像

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東映太秦映画村
訪れたのは中学の修学旅行で『銭形平次』撮影中の大川橋蔵と香山美子を目撃して以来
ずいぶん様変わりしていて驚いた
いまや撮影所というより巨大テーマパーク(大人の入村料2400円)

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港町の風景
5分に1回、水中から怪獣が現れ、水しぶきを吐く
(東映なのでゴジラではない)

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オープンセット
江戸の街並み
はるか先に望むは方角的に嵐山だろうか

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銭形平次の住む長屋風景

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江戸吉原通り
子連れの親たちがここを子供にどう説明するか見物である

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一日数回、芝居小屋(中村座)で忍者ショーを実演している(見物無料)
さすがに迫力あるアクションシーン
遠足で来た園児たちが目を丸くしていたのが可愛かった

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映画文化館
ここが一番の目的
1階は美空ひばり展示館、2階は映画記念館

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日本映画の名作、名優、名監督、名スタッフらの仕事が紹介されている
映画好きにはたまらない空間

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マキノ雅弘監督『お艶殺し』(1951)のポスター
谷崎潤一郎原作、山田五十鈴・市川右太衛門共演
フィルム現存するなら観てみたい

昼食は村内のうどん屋で
京都名産九条ネギをふんだんに使った「九条ネギうどん」が爽やかな苦みで胃袋を熱くした
映画村近くの HELLO CYCLINGステーションで電動アシスト自転車を借りる
ここからサイクリング開始

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臨済宗龍安寺
1450年に細川勝元が創建した禅寺
京都人の言う“先の大戦”すなわち応仁の乱(1467-1477)で焼失したが、1499年に再建
有名な石庭はその際に造られたという

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庭園の梅の花が見事
外国人旅行客の撮影スポットと化していた

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外国人観光客はこれを見て、何を思うのであろうか
仏道修行15年のいまソルティ思うに、この庭のテーマは「色即是空、空即是色」なのでは?
岩が「色」を示し、地の白砂が「空」を表す
「空」から起こった心のさざなみが、澱みを生み、凝り固まって岩となる
すなわち「我」が誕生する

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漢字クイズのような銭形のつくばい
水戸黄門が寄進したという
4つの漢字が隠されています
わかるかな?

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石庭で有名な寺だが、鏡容池を囲む庭も風情があって良い

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きぬかけの道を気持ちよく走って金閣寺へ
外国人:日本人=7:3くらいの比率だった
3組の外国人の写真撮影に協力した

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ここで空がにわかにかき曇り雨が落ちてきた
慈悲の瞑想をすること10分、雲間より青空がのぞいた
陽が射すと射さないとでは、景色がまったく違う

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ここも一応、臨済宗の禅寺なのだが、そうは見えない
豪華絢爛ぶりは藤原氏の宇治平等院といい勝負と思う

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1950年、見習い僧による放火で全焼、その後再建された
外国人旅行客の中には、三島由紀夫の小説や市川崑の映画で興味を持った人も多かろう

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京の街中を下ル
路地を縦横無尽に走れるのが自転車の魅力

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昭和がたっぷり残っていて、嬉しくなる
一条千本通付近のアパート

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六角堂(天台宗紫雲山頂法寺)
三条烏丸通り、ちょうど京都観光マップの中心あたりに位置する
聖徳太子創建という伝承があるが、実際の創建は藤原時代(10世紀後半)と想定される
華道、池坊発祥の地としても知られる

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名前の由来は本堂が六角形をしているから

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隣のビルのエレベータから見下ろす

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そのまま三条通を東進したら、鴨川ほとりに気になる寺があった
浄土宗慈舟山瑞泉寺
門前に自転車を止めて参詣する

瑞泉寺由来
豊臣秀吉の甥っ子で養子となった秀次ゆかりの寺であった
秀次は関白の地位まで上るも、秀吉と淀君との間に秀頼が生まれたことにより、
一転、秀次は邪魔者となった
石田三成らの奸計で謀叛の罪をかぶせられ、自刃させられた(1595年)

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同時に、秀次の息子、娘、34人の側室は鴨川の河原で惨殺された
一族の菩提を弔うために、瑞泉寺は建てられたそうな(1611年)
境内には、秀次はじめ亡くなった一族の墓がある

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境内にある地蔵堂
亡くなった一族および家臣たちをかたどった49体の京人形が地蔵菩薩を囲んでいる
合掌

 宿に帰ってスマホで調べていたら、なんとびっくり!
 瑞泉寺の住職は、ソルティお気に入りのイラストレーター、中川学であった。
 僧侶であることは知っていたが、よもや京都のお坊さんとは思わなかった。
 それも非業の死を遂げた豊臣秀次一族ゆかりのお寺とは。

 泉鏡花原作の『化鳥』や『榲桲(まるめろ)に目鼻のつく話』や『朱日記』など、中川の描く世界は、虐げられる“おんな、こども”の苦しみと悲しみに満ちている。
 そのテーマ性の源にあるのは、ひょっとしたら、この地蔵堂なのでは?
 
天神橋
『化鳥』に出て来る金沢の浅野川と天神橋が、京都の鴨川と三条大橋に重なった

 還暦にして学ぶこと多し。
 まったくもって修学旅行の一日であった。 






  

● 本:『分断を乗り越えるためのイスラム入門』(内藤正典著)

2023年幻冬舎新書

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 イスラムと上手に付き合っていくための方法を説いた本。
 著者は1956年生まれの多文化共生論、現代イスラム地域研究を専門とする学者。

 結論は明白であって、イスラム教を信仰する人々(ムスリムという)の価値観や考え方を理解するというのが大前提。
 イスラム社会のパラダイムは、キリスト教を基盤とする西洋社会のそれとも、仏教や儒教を基盤とするアジア社会のそれとも異なるからである。
 そこを学び理解した上で、NGとなる言動を避けることが肝要である。

 ――と、言葉でいうのは簡単だが、実践は難しい。
 というのも、相手のことを理解するには、自分のことを理解することが必要だからである。
 自分のアイデンティティがどういったパラダイムのもとに形成されたかを自覚していないと、自分と異なった価値観や考え方の相手と接触したときに、機械的(反射的)に反応してしまい、衝突が避けられないからである。
 人は誰でも自らのアイデンティティを守りたいものだから。

 たとえば、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』の中でジョナサン・ハイトが述べているように、西洋のリベラルな民主主義の価値観は、WEIRDと呼ばれる「Western(欧米の)、Educated(啓蒙され)、Industrialized(産業化され)、Rich(裕福で)、Democratic(民主主義的な)」人々に特有のものであって、それを世界標準とするのは間違いであるし、ましてやそれが「唯一正しい」とか「人類のゴールだ」などと言うのは、フランシス・フクヤマがなんと言おうが、WEIRD以外の人々から見れば独善的思考には違いない。

 西欧にせよ、イスラムにせよ、文明というものは巨大な力を内包しています。規範性の力です。ただ、両者のあいだには、その力の表し方に決定的な違いがあります。西欧は、じぶんたちの規範が生み出してきた諸価値観は絶対的に優れているのだから、それに従うべきだと考えます。そして、その考えを態度に表します。
 イスラムも、自分たちの規範が至高のものであり、そこから導かれる諸価値観が優れていると信じていますが、異教徒がそれについてくるかこないかには関心がありません。
 
 この違いはおそらく、キリスト教のパラダイムの中に「福音伝道」の思想があるからではないだろうか。
 自ら獲得した優れた教えを、それをいまだ知らない無知で可哀想な人々に伝えなければ、という親切心(別名:おせっかい)である。
 日本の歴史を鑑みるに、遠い西洋からはフランシスコ・ザビエルはじめキリスト教の伝道師はたくさん来たのに、もっと近い中近東からイスラム教の伝道師が一人も来ていないというのは、そのあたりの事情をよく表している。
 「あなたがたの文化は野蛮で遅れているから、わたしたちが啓蒙してあげましょう」と言って近づいてくる人に、心からの感謝を抱くことはまずなかろう。

 一方、「西欧はもっとイスラムを理解しようと努めるべき」と著者が述べるのに異論はないが、では逆に、「イスラムは西欧を理解しようと努めているのか」が、はなはだ疑問である。
 たとえば、イスラム教徒の多い国で、『分断を乗り越えるためのWEIRD入門』とか『共生社会を築くための仏教入門』なんてタイトルの本が発行されているのだろうか?
 「ムスリムは西欧文明には関心がない」と著者は書いている。
 共生が可能となるためには、相互理解(あるいは理解しようという意志の表明)が必要なのであって、一方だけが理解を強いられるというのでは、両者の「棲み分け」はできても、共生は難しいだろう。(男と女の関係に似る)

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ムスリムのモスク(神殿)
ekremによるPixabayからの画像

 それにしても、世界人口の4人に1人はムスリムで、近いうちに3人に1人になるという。
 世界はイスラム化しているのである。
 個人主義の傾向が強く少子化が進んでいる西欧や日本に対し、家族を大切にし子どもをアッラーからの贈り物とするイスラム社会は、少子化の心配がない。
 「男女平等、個人主義」のリベラルな民主主義は、どうしたって少子化につながるのだ。
 すると、より多くの子孫を残す遺伝子戦略として、最終的な勝利はムスリムに輝くのではなかろうか?
 「歴史の終わり」は世界イスラム化という可能性も否定できない。

 以下引用。

 イスラムとは「アッラーに全面的に従うこと」を意味していますから、コーランに記されている命令を後の世の人間が変えることは不可能なのです。アッラーの言葉は、使徒ムハンマドを介して人類に伝えられたので、彼の言葉や行動も「無謬」です。したがって、これを後の世になって変更することはできません。

 食欲も、性欲も、金銭欲も、正しく行えば善い行いということになる。これがイスラムという宗教の人間観における一大特徴ではないかと思っています。キリスト教のように、禁欲を説きません。人間は、欲望に弱い存在だということを前提としているからこそ、欲望を満たしていい、ただし、ルールを守れと説くのです。

 イスラムという宗教の特徴として、日本人が知らないことの一つに、商業的性格があります。先にも述べましたが、商売はすべての経済活動の基本。公正な商売をすることはイスラム的道徳の基本です。お金を稼ぐことには何の問題もありません。儲けの一部を喜捨として差し出すことはムスリムの義務ですから、そのお金を稼ぐための商売は善行の基盤です。

 性の多様性について、欧米の、あるいは私たちの、ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)はムスリムには通じません。通じないものを、無理に通じるようにさせることもできません。彼らは「遅れている」から理解できないのではなく、「神の道に従っている」から理解しないのです。

 ここはイスラムを知るうえで大切な点ですが、イスラムには時代が後になるほど人間社会が進歩するという発想がありません。

 イスラムでは、この世界はいつか滅亡するという終末思想があります。そして、終末を迎えるとき、アッラーが死者を一人ずつ呼び出して、生前の善行と悪行を天秤にかけ、善行が重ければ楽園(天国)に行き、悪行が重ければ火獄(地獄)行きとなります。これが最後の審判です。

閻魔様
日本人だってつい最近まで同じような終末観を持っていた




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損









● 映画:『奇蹟の人 ホセ・アリゴー』(グスタボ・フェルナンデス監督)

2022年ブラジル
108分

 1955~1971年にかけて、200万人を無償で治療したブラジルの心霊手術師ホセ・アリゴーを描いたノンフィクションドラマ。
 原題は、Predestinado, Arigo e o Espirito do Dr. Fritz 「運命、アリゴーとフリッツ医師の霊」

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 この医師の奇跡については、子供の頃(70年代)にテレビの超能力特集番組でよく観たものである。
 つのだじろうの漫画『うしろの百太郎』にも紹介されていた記憶があるし、手塚治虫『ブラックジャック』でも名前こそ挙げられていないが、心霊手術を行う外国人とBJとの対決がテーマになっていた回があった。(令和の人権感覚からすると、「ちょっとどうかな?」と思われるBJのセリフがある)

 そんなわけで、懐古趣味とオカルト的興味からの軽い気持ちでレンタルしたのであったが、開けてビックリ、とてもいい映画であった。
 それこそ、扇情的なバラエティ番組風のもの、ブラジル制作らしいベタで騒々しいタッチを予期していた。
 しかるに、真正面から人間を描いた正統派ドラマで、役者たちの演技も、脚本も、映像も、演出も、質が高い。
 とくに、アリゴーを演じる男優と、その妻役の女優の演技が、ともに主演賞レベルで見ごたえある。
 誇張や粉飾をせず、事実に忠実で丁寧なつくりも好感持てる。
 オカルト次元を超えてスピリチュアルに達していた。
 久しぶりに映画を観て、泣いた。

十字架

 子供の頃は、アリゴーの起こした奇跡にばかり目が向き、最大の関心事はその真偽にあった。奇跡は本物なのか、それとも何らかのトリックがあるのかってところに・・・。
 いま大人の目で、それが起こった当時のブラジルの騒ぎやアリゴーの周囲の人間模様を見るにつけ、「大人社会の難しさを子供の頃はなにも分かっていなかったなあ」、とつくづく思う。
 アリゴーを敵視する地元のカトリック神父や正規の医師たちの苛立ちや恐れ。
 国中から患者が押し寄せるアリゴーの集客力に目をつけて、営業に訪れる製薬会社の思惑。
 村の平凡な雑貨店の親父からカリスマ心霊治療師に変わってしまったアリゴーに、振り回されると同時に放っておかれる妻や子供たちのストレスや寂しさ。
 裁判に訴えられたアリゴーを裁く判事や、有罪となったアリゴーを収監する刑務官の心の動揺。
 なにより――平凡な生活を望んでいたのに、ドイツ人の医師フリッツの霊に憑依されて心霊治療師として生きざるを得なかったアリゴーの苦悩と、運命の受容。
 一つの奇跡のうしろに、こんなにもドラマがあることに思い及ばなかった。
(それにつけても、ネット時代の現在だったら、それこそ世界中を引っくり返すような騒ぎになるだろう)
 
 アリゴーは自らの死を予言していて、そのとおりに亡くなった。
 53歳だった。

 心霊手術の不思議より、運命の不可思議を味わうべき映画である。

 
 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




 

● アルジェント風ホラー 映画:『ポスト・モーテム 遺体写真家トーマス』 (ベルゲンディ・ピーテル監督)

2021年ハンガリー
116分、ハンガリー語、ドイツ語

 ハンガリー産ホラーを観たのは初めてかもしれない。

 一般に、ホラー映画の質は、制作国の宗教や信仰と切り離せない関係にある。
 キリスト教圏なら悪魔が、イスラム教圏ならジン(精霊)が、ユダヤ教圏ならゴーレムが、そして仏教圏なら鬼や幽霊(物の怪)が、ラスボスとなって、物語の中の生者や、映画を鑑賞する者を畏怖させる。
 ハンガリーはキリスト教圏なので、アメリカやイギリスやイタリアのホラー映画と同じく、悪魔こそが準主役にして恐怖の源であり、悪魔との闘いにやぶれた主人公が地獄落ちするのが、考えられる最悪の結末である。
 本作でも、悪魔の使いらしき邪悪な黒い影がハンガリーの寒村を跳梁し、次第に激しさを増すポルターガイストが村人たちを怯えさせ、パニックに襲われた人々は教会に逃げ込み、クライマックスでは主人公があわや地獄落ちかというスリルが用意されている。
 系統としては、『エクソシスト』、『オーメン』、『サスペリア』、『ダーク・アンド・ウィケッド』などのキリスト教圏ホラーに連なる作品である。
 
 Post Mortem とは「死後」の意。

 主人公のトーマスはドイツ人。第一次大戦に従軍し、戦場で爆撃に会い、九死に一生を得た。
 その後、ハンガリーで遺体撮影(Post Mortem Photo)の仕事をしている。遺族から注文を受け、亡くなった人の遺体に死化粧を施し、記念撮影する。
 ある日、仕事場に現れた少女アナに誘われ、アナの住む村を訪れることになる。
 そこには、スペイン風邪などで亡くなった村人たちの死体が、地面が凍っているため土葬されないまま、納屋に保管されていた。
 トーマスは、遺族の依頼で遺体撮影を開始する。
 が、彼が村に来ることを決めたのは、仕事のためだけではなかった。
 戦場で仮死状態にあったトーマスの目の前に天使のごとく現れ、繰り返し彼の名を呼び、この世に戻してくれた少女。それこそがアナだったのである。

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 本作の奇妙な味わいを作っているのは、悪魔系ホラーという“王道”に重ね合わせて、遺体写真家という、なんとも悪趣味で罰当たりな職業を主人公にふっているからである。
 美しい写真を撮るため、遺体の関節を折り曲げてポーズをとらせるシーンはグロテスクそのもの。
 勝手に被写体にされた死者の霊が憤って、トーマスになんらかの復讐を企てても、仕方ないのではないかと思う。
 現代日本なら「死体損壊」になりかねないと思うところだが、遺族が望んでいる点を踏まえると、これを罰する法はないかもしれない。
 エンバーミングとかエンゼルケアってのもあるし・・・・。

 まもなくトーマスは、人間でない邪悪ななにものかが、村に憑りついていることを知る。
 仲良くなったアナとトーマスは、悪霊を退治するべく、ホームズ&ワトスンのごとくタッグを組んで村人に聞き込み調査を開始し、証拠写真や音声を記録しようとする。
 そうした二人の行動を嘲笑うかのように、身の毛のよだつ現象が頻繁に生じるようになり、やがて村中が大騒ぎとなる。
 悪霊どもを地獄に返す方法を思いついたトーマスは、いままさに死の淵にあるアナの叔母のもとに、村じゅうの死体を集めるよう、村人たちに指図する。

 説得力に欠けたご都合主義のストーリーで、結局、悪霊の目的が何だったのか、最後までわからぬままである。
 説明もなく、謎のまま放置されたエピソードも多々ある。
 たとえば、
  • アナは一体何者なのか? なぜ村人の一部はアナを恐れるのか? アナの持っている二体の人形にはどういった意味があるのか?
  • トーマスの体に戦場で受けた傷跡が残っていないのはなぜか?
  • 一部の村人が頭に袋をかぶっているのはなぜか?
  • クライマックスシーンで、家の外は火事なのに、家の中は水浸しって、どういうこと?
  • アナの叔母さんはなぜトーマスを憎む?
  • 村人たちがトーマスに従順なのはなぜ?
  • ラストシーンで、アナとトーマスは新しい村に行って何をするつもり?
 よくわからない、消化不良を起こす類いの映画なのである。
 こうした回収されない謎の多さは、表面上のストーリーの裏に何らかの意味が隠されていることを匂わせ、観る者をして自分なりの解釈を紡ぎたい誘惑を抱かせしめる。
 ひょっとしたら、この物語全体がハンガリーという国や歴史の寓意になっている?
 ひょっとしたら、トーマスは実際には戦場で死んでいて、ここはすでに「死後」の世界?

 ソルティのひとつの解釈として、トーマスは自らが戦場で死んだことを悟っていなくて、魂の運び役をつとめるアナは、それを気づかせようとしたのでは?――と思った。
 つまり、『シックスセンス』や『アザーズ』や『月下の恋』のパターンである。
  
 この解釈が妥当かどうか確かめるべく、早送りしつつ3度見直したが、無駄に終わった。
 たぶん、謎には最初から答えが用意されていない。
 この監督は、ストーリーの整合性などたいして気にすることなく、撮りたい絵を、撮りたいシーンを、撮りたいように撮っただけ――それが真相に近いと思う。
 たとえば、青年と美少女のタッグに匂うロリコン志向、髪をなびかせ浮遊する少女、袋をかぶった少年、車いすをカタカタ動かす老婆、大理石の屋敷に飾られた遺体、地盤沈下していく民家、遺体撮影という悪趣味・・・・e.t.c.
 つまり、この監督の作風にもっとも近いのは、イタリアB級ホラーの帝王ダリオ・アルジェントではないか。
 ゆめ考え過ぎるべからず。
 
 
  
おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 
 

● 日日是好日 映画:『パーフェクト・デイズ』(ヴィム・ヴェンダース監督)

2023年日本、ドイツ
124分

 1987年公開の『ベルリン・天使の詩』以来、実に37年ぶりにヴェンダース作品を観た。
 ハリー・ディーン・スタントンとナスターシャ・キンスキー共演で大ヒットした『パリ、テキサス』の砂漠の青空の印象が強いせいか、「ヴェンダース=青色系」というイメージがあるのだが、やはり本作も「青色系」であった。
 ただし、BLUEやINDIGOのような主張の強い「青・藍」ではなく、淡く曖昧な寒色系といった「あお」である。
 この色彩感覚が、ヴェンダース作品が日本人に好まれる理由のひとつではないかと思う。
 「あお」で描き出される東京、とりわけ下町が本作の舞台である。

 都内の公衆トイレの清掃員である平山(演・役所広司)の何気ない日常を切り取った、ただそれだけの映画。
 大きな事件も起こらず、濃い人間ドラマが展開することもなく、ことさら観る者の感情を煽るような仕掛けもない。
 波乱万丈のストーリー、起承転結あるプロットを期待する者は肩透かしを喰らうだろう。
 カメラは、ほぼ一週間、朝から晩まで平山に密着し、平凡な初老の男の日常を映す。
 つまらないと言えば、これほどつまらない話もあるまい。
 だれが60歳をとうに過ぎた独身男、それもトイレ清掃員の日常生活を追いたいと思う?
 
 そういう意味で、観る人によって評価が分かれる作品、観る者を選ぶ映画と言える。
 おおむね、将来ある若者や現役バリバリの中年世代より、一線をリタイアした高齢者のほうが共感しやすいと思うし、いわゆる「勝ち組」よりは「負け組」のほうが胸に迫るものがあると思うし、富や出世や成功など目標達成的な生き方を好む人より、日常の些細な事柄の中に喜びを見つけるのが得意な人のほうが、本作のテーマをより理解しやすいと思う。
 批評家の中条省平が本作をして、「日常生活そのものをロードムーヴィ化している」と評したそうだが、まさにそれに尽きる。
 ソルティ流に言うなら、こうだ。
 
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四国遍路・別格7番金山出石寺付近
 
 本作のミソは、主人公・平山の背景や過去が語られないところにある。

  年はいくつなのか?
  出身はどこなのか?
  どういう人生を歩んできたのか?
  もともと何の仕事をしていたのか?
  結婚したことがあるのか?
  子供はいるのか?
  なぜ、トイレ掃除の仕事をしているのか。
  なぜ、安アパートで一人暮らしなのか。
  なぜ、無口なのか。
  いつから、なぜ、こういう生き方をするようになったのか?
  ・・・・・等々
 
 観る者は、役所広司演じる平山の表情や振る舞いや趣味嗜好を通して、平山の背景や過去を想像、推理するほかない。
 たとえば、
  • 外見からは60代~70代(役所は68歳)だが、姪っ子(妹の娘)がハタチそこそこに見える。若く見つもって50代後半~60代前半? いや、しかし、聴いている音楽は70年代に流行った洋楽ばかりで、しかもカセットテープ世代である。愛用しているカメラもデジタルではなくフィルム式。となると、60代後半?
  • ノーベル文学賞作家のウィリアム・フォークナー、『流れる』『木』の幸田文、『太陽がいっぱい』『11の物語』のパトリシア・ハイスミスを愛読しているからには、かなりのインテリ。大卒の一流企業社員であったのかもしれない。あるいはカメラ関係の仕事か。
  • 疎遠になっている裕福そうな妹がいて、二人の父親は認知症で老人ホームに入っているらしい。平山は、この父親とかなり険悪な関係であったようで、今も会う気はない。子供の頃、虐待を受けていたのか?
  • 結婚して家庭をもったけれど、うまくいかず、離婚したのか。妻子に死なれたのか。あるいはゲイ?(それなら、父親との関係も説明がつく)
  • 整理整頓の習慣が身についているのは、ひょっとして、自衛隊にいた? あるいはムショ暮らしが長かったのか。(前科者ゆえ、出所後に就ける仕事が限られたのかもしれない)
  • 住んでいる地域は映像から見当がつく。スカイツリーの近くで、「電気湯」という名の銭湯や浅草駅や亀戸天神に自転車で通える範囲で、隅田川にも荒川にも出られる。となると、墨田区曳舟だろう。
  • ひとつ確かなことがある。平山は今も「昭和」に住んでいる。

駄菓子屋
 
 主人公の過去をあえて饒舌に語らないでいることは、観る者に想像の余地を与えて、その空白部分に観る者自身の過去を投影させる。(たとえば、上記でソルティが平山をゲイと仮定したように)
 観る者は、平山を通して自らの過去を点検する。と同時に、平山の「現在」と自らの「現在」を自然と比べてしまうことだろう。
 「ああ、自分はトイレ掃除で日銭を稼ぐような、落ちぶれた独り者にならなくて良かった」と思う人もいよう。
 「自分の境遇は平山よりずっと恵まれているのに、なぜ自分は平山のように安穏と生きられないのだろう? 熟睡できないのだろう? 女にモテないのだろう?」と思う人もいよう。
 要は、世間的には「負け組」のカテに放り込まれるであろう平山の「現在」を通して、幸福の意味の問い直しを促すところに、本作のテーマはある。
 
 どんな人も、人生のある瞬間に――たいていは老年になってから――自らの過去を振り返り、そこに後悔や未練や失敗や恥を見る。
 他人から見て、すべてを手に入れ成功した人生(パーフェクト・ライフ)を歩んできたように見えても、当人の中では、「こんなはずじゃなかった」と思っている場合も少なくない。
 そこで過去に囚われて、「あるべきはずだった人生」と「そうはならなかった人生」をくらべて落ち込み、残りの人生を鬱々と過ごす人も多い。
 そのとき、もはや繰り返される日常は、苦痛で退屈で疎ましいものでしかなくなる。
 過去の記憶が、現在の幸福を邪魔する。
 
 正確に覚えていないのだが、『パリ・テキサス』の中で、ハリー・スタントン演じる男は、こんなセリフを吐く。
 「二人にとっては、毎日のちょっとしたことがすべて冒険だった」
 そう、平山にとっても、毎日が冒険と発見の連続なのだ。
 毎朝出がけのBOSSの缶コーヒー、通勤途中のスカイツリーへの挨拶、トイレ掃除を通じて起こる些細な出来事、苗木との出会い、公園のホームレスとの無言の存在確認、見知らぬ誰かとの〇×ゲーム、仕事仲間の恋愛に巻き込まれること、古本屋の店主とのマニアックな会話、家出してきた姪っ子とのサイクリング、妹との再会、飲み屋のママの過去を知ってしまうこと、その元亭主のうちわ話を聞くこと、爽やかな早朝の大気、刻々と色彩を変える夕空、突然の土砂降り、木漏れ日のきらめき、荒川の水面に映るネオンサイン・・・・。
 同じことの繰り返しのように見える毎日毎日の暮らしの中に、さまざまな新しい出会いが生じ、その都度「生」は我々に応答をもとめている。日常の中に潜む美しさや深さは、常に発見されるのを待っている。(ドイツ人監督であるヴェンダースによって撮られたあおい TOKYO が、異国のように美しくエキゾチックに感じられるのは、まさにその一例だ。普段、自らの頭の中に拵えた“東京”に安住している我々は、その美しさに衝撃を受ける)
 
 生きている限り、毎日、いろんなことが起こっている。変化している。
 同じ一日、同じ一時間、同じ瞬間、同じ出会いはあり得ない。
 それこそ諸行無常。
 いいことも、悪いことも、一瞬ののちには去り行く。
 ならば、いっそ諸行無常を楽しんだほうが得であるのは間違いない。
 平山が見つけた幸福の極意は、おそらく、ここにある。
 
灌頂滝の虹
 
 映画のタイトルは、アメリカ出身のミュージシャンであるルイス・アレン・リードが1972年に発表した楽曲から採られている。映画の中でも、平山のお気に入りの一曲として、仕事場へ向かう車の中でカセットデッキで流される。
 ソルティは洋楽に詳しくないので、どういう歌なのか知らないのだが、本作において『パーフェクト・デイズ』が意味するところを、我々日本人がよく見聞きする言葉に置き換えるなら、これだろう。
 
 本作で役所広司は、日本人としては『誰も知らない』の柳楽優弥以来19年ぶりに、カンヌ国際映画祭男優賞を獲得した。
 それも十分納得の名演であるが、凄いところは、鑑賞直後よりも半日後、半日後よりも24時間後、24時間後よりも3日後・・・・というように、時がたつほどに映画の中の「役所=平山」の表情や仕草が眼前に鮮やかに浮かび上がってくるところである。
 それに合わせて、映画の感動もじわじわと心身に広がっていく。むろん、評価もまた。
 こういう、あとから効いてくる、中高年の筋肉痛のような作品は珍しい。

 ほかの出演者では、平山の仕事仲間でいまどきの若者を演じる柄本時生(柄本明の次男坊)、スナックのママ役の石川さゆり、その元亭主の三浦友和、公園のホームレス役の田中泯など、印象に残る演技である。
 平山の行きつけの写真店の主人を演じているのは、アメリカ文学者にしてポール・オ-スターの小説を翻訳している柴田元幸。
 なぜ、この人が???
 
 最後に――。
 平山と姪っ子が自転車で並んで走るシーンは、まず間違いなく、小津安二郎『晩春』へのオマージュだろう。
 ヴェンダースの小津愛が感じられて、うれしかった。
 
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 小津安二郎監督『晩春』の宇佐美淳と原節子
 
 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
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● はつもうで @TAKAO-SAN

 年末年始は秩父でリトリート。
 スマホもテレビも新聞もアルコールも人との会話も遠ざけて、瞑想と散歩と読書の4日間を送った。
 元日の早朝に秩父神社に参拝し、生きとし生けるものの幸福を祈った。

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秩父神社

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社殿の東側に刻まれた「つなぎの龍」
今年は君の出番だ!

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最近、境内の西側に三峰神社も合祀された

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祭神は、ヤマトタケル、イザナギ、イザナミである

 2日の午後に禁を解いて、近場の温泉施設に出かけた。
 最寄駅からの送迎バスは自分一人。
 正月休みというのに、不思議なほど館内は空いていた。
 ゆっくり温泉に浸かったあと、休憩室のテレビを見て、はじめて能登半島地震を知った。
 たしかに、元旦の夕方の瞑想中、揺れを感じた。
 が、秩父は地盤が硬いので、瞑想を止めてニュースを見るほどの地震とは思わなかった。
 おそらく温泉が空いていたのも、ニュース映像を見て、「こんなときに温泉なんかに出かけて楽しんでよいものだろうか」と思った人々が、予定をキャンセルしたためではないか。
 避難所で寒さに震えながら、いまだ消息のわからない家族や知人の安否を心配している人々の姿を目にしながら、のんびり温泉に浸かって、あたたかい休憩室でビールを飲んでいる。
 そんな自分をうしろめたく感じないでいられるほど、ソルティも冷血漢ではない。
 とはいえ、では、今まさに苦しんでいるガザ地区やウクライナやミャンマーの人々についてはどうなのかと問われると、感情移入のラインをどこで引いたものか難しいものである。

 ともあれ、いま自分にできるのは、寄付と状況を知ることと祈りだろう。

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元日の秩父市

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武甲山

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秩父札所16番・西光寺にある大日如来

 
 1月7日には高尾山に初詣でに行った。 
 年始めの薬王院参りは、JR中央線沿線に住み始めた2004年以来の毎年の恒例行事だったのだが、足の骨折とコロナ禍のため、2019年1月7日を最後にストップしていた。
 実に5年ぶり。
 
 朝5時半に自宅を出て、7時に京王線・高尾山口駅着。
 友人と合流し、ケーブルカーで8合目にある高尾山駅へ。
 朝日が関東平野を黄金色に染める。
 早朝の高尾はやはり気持ちがいい。
 杉並木を歩くと、身も心も浄化されていくような気がする。
 おはよう、天狗さん!

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ケーブルカー麓の清滝駅

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高尾天狗


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薬王院

 薬王院本堂で行われる8時からの御護摩祈祷に参列し、般若心経を読経し、本尊である飯縄大権現に発毛と開運を祈願した。(コロナ感染で頭髪が抜けた!)
 そのあと、山頂まで登った。

 冬はつとめて(早朝)。
 澄んだ空気と葉を落とした木々が、見事な展望を実現する。
 スカイツリー、都心の高層ビル群、光り輝く相模湾、江の島、大島、青々した武蔵や丹沢の山並み、南アルプスの白嶺、そして・・・・神々しいまでに美しい、雪をかぶった富士山。
 自然と手が合わさった。

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高尾山頂広場

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生きとし生けるものが幸福でありますように






 
 
 

 

 

● ガラ携の脱皮

 寝る前にアラームセットしようとガラ携を手にしたら、画面が真っ黒。
 「あれ? いつの間に電源切ったかな?」と思い、電源ボタンを押したが明るくならない。
 電池切れかと思い、充電して寝た。
 アラームはスマホを使った。(2台使いなのだ)

 朝、ガラ携を確認したらまだ真っ黒。
 電源ボタンを押してみても変化がない。
 あれ? どうしたんだろ?
 そのとき、誰かからのメールが着信する音がした。
 生きている!
 スマホからガラ携に電話をかけてみたら、呼び出し音が響いた。
 どうやら液晶画面の故障らしい。
 「そう言えば、昨晩、机の上に置いてあったガラ携を床に落としたっけ?」
 たいした高さからではなかったし(1mくらい)、厚手の絨毯の上に落ちたので、気に留めなかった。
 それまでも山登り時にズボンのポケットから地面に落とすようなことはたまにあったけれど、全然無事だったので、ガラ携の強度を過信していた。

 今さらであるが、画面が出てこないとなんの操作もできない。
 電話機能は使えるけれど、アドレス帳からかけたい相手の番号を検索できないし、メールも打てない、送れない。
 相手から送られてきたメールも、かかってきた電話も、どこの誰からか、わからない。
 むろん、アラーム機能も留守録も電卓も乗換検索もできない。
 携帯電話はまったくのところ画面に依存しているのだ。
 
 ネットで近隣のauショップを検索し、翌日の朝一番の予約を入れた。
 故障修理はまず無理だろうから、機器交換あるいは機種交換を想定した。
 保険に入っていたかどうかはっきり覚えていないので不安だったが、契約時の資料を探すのも面倒。
 自分の契約内容をauのホームページの会員ページから確認できるはずだが、そこに入るためには au ID とパスワードが必要。
 それが分からない。覚えていない。
 ほんとうにメンドクサイ時代だ。
 便利になったのか、不便になったのか・・・。
 ソルティは基本IT音痴なのだ。
 
IT音痴
 
 翌朝、職場に事情を話して出勤が遅れることを伝え、ショップに向かった。
 若い男のスタッフは、パソコン上でソルティの顧客情報を確認したあと、こちらの渡したガラ携をちょっと確認し、言った。
 「これはもう使えませんので交換が必要です。新しい機種に変えると数万円かかりますが、お客様は故障紛失サポートに入っておられますので、まったく同じ機種でよければ安く交換できますよ」
 良かったー!
 「それでお願いします」
 その後、KDDIの故障紛失サポート配送センターのスタッフと電話をつないでもらい、担当者から説明を受けた。
 「故障紛失サポートは年2回まで利用できます。今回が1回目となります。代金は税込みで2,750円になります。これまで使っていたものと同じ機種の新しい携帯電話とガイドブックを、本日中にクロネコヤマトでご自宅にお届けします。代金は来月の請求時に上乗せします」
 「はい、わかりました。よろしくお願いします」
 なんと、簡単なこと!
 しかも今日中に届けてくれるとは!
 ソルティは2日や3日や一週間くらい携帯がなくとも困るような生活はしていないが、「スマホ命!」の若者たちや日々仕事で携帯を駆使している人なら、一秒でも早い対応はありがたいことだろう。
 また、これまでと同じ機種というのにも安心した。
 せっかくいろいろな操作を覚え、手に馴染んだのに、別の機種だとまたイチから覚えなおさなければならない。
 昭和のオジサンはものぐさなのだ。
 そうそう、大切なことを聞くのを忘れた。
 「前の携帯のデータを新しい携帯に移せますか?」
 「それはご自身で前もってどこかに保存していなければできません」
 「・・・・・」
 
 IT音痴で昭和のオジサンでものぐさなソルティは、そんな器用な(メンドクサイ)ことはしていない。
 すなわち、前のガラ携に入っていたおよそ20年分のアドレス帳も画像もメール履歴も、ぜんぶパアになった。
 スマホのほうはネット検索やアプリ使用が主なので、アドレス帳の類いは使っていない。もちろん、紙媒体での記録もない。
 頭の中が真っ白・・・・
 
megane_wareru_man
 
 ――ということはなかった。
 むしろ、なんだか重荷が取れたようなスッキリ感があった。
 「なるほど、そういうことなんだな」という納得感があった。
 というのも、ガラ携の故障を知ったのが、自分の還暦の誕生日だったからである。
 「すべてをまっさらにして、ゼロからスタートしなさい」
 なにかの啓示のように思ったのである。
 
 たぶん、秋葉原あたりの店に行けば、なんらかの方法で壊れた携帯からデータを取り出して、新しい携帯に移転することができるのかもしれない。
 が、わざわざそこまでやるつもりもない。
 必要な人脈はほうっておいても再生するだろう。
 
 さきほど、古いガラ携からSIMカードを抜いて、届いたばかりの新しいガラ携に挿入し、初期設定を完了した。
 画面が復活した!
 やったー!
 おお、さっそく数日遅れのHappy birthday メールが着信した。
  B兄ィ、わたしを覚えていてくれたのネ。
 「忘れていいのよ♪」(by谷川新司&小川知子)とは申しません。

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エロイム・エッサイム 古き骸を捨て、蛇はここに蘇るべし
(深作欣二監督『魔界転生』より) 




● 沖縄のスピ現場 本:『野の医者は笑う』(東畑開人著) 

2015年誠信書房
2023年文春文庫

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 著者は、白金高輪という都内有数の高級住宅地(白金マダムという用語さえある)でカウンセリングルームを開設している1983年生まれの臨床心理士。
 大学院を卒業し晴れて臨床心理士資格を取ったあと、沖縄の精神科デイケアで4年間働いた。その間の体験を書いたのが、2019年刊行『居るのはつらいよ』(医学書院)である。
 東畑の「心のケア」に対する問題意識の高さ、フットワークの軽さ、諧謔精神を感じさせる好著であった。
 本書は、沖縄滞在の間に別におこなっていた興味深いフィールドワークについてのレポートである。

 デイケアの仕事をしながら、こんなこともしていたのか!
 ブラックな職場環境にめげてプータローに転落(?)しながら、こんな面白いことに足を突っ込んでいたのか!
 転んでもただは起きない東畑のスライムのような柔軟性に感心した。
 「こんなこと」とは、野の医者のフィールドワークであり、有態に言えば、沖縄の地に跳梁跋扈する有象無象の「怪しい」スピリチュアルカウンセラーたちの研究である。
 タロット占い、アロマセラピー、前世療法、オーラソマー、マインドブロックバスター、パワーストーン、マヤ暦、高酸素カプセル、デトックス、レイキ療法、クリスタルヒーリング、瀉血、バッチフラワーレメディ、チャクラ開放、自己流箱庭セラピー、自己流ゲシュタルトセラピー、守護天使とのチャネリング・・・・・e.t.c.

 私たちの日常は実は怪しい治療者に取り囲まれているのではないか。彼らを「野の医者」と呼んでみたらどうだろう。近代医学の外側で活動している治療者たちを「野の医者」と呼んで、彼らの謎の治療を見て回ったらどうだろう?

 思いついたが吉日。東畑はさっそく研究の企画書を書き上げて、トヨタ財団の研究助成プログラムに応募する。
 これが見事にパスしてしまうのだから、すでにミラクルは始まっている。
 というか、トヨタはふところが深い。
 もっとも、ただ怪しい治療を体験しまわってレポートするだけでは研究にならない。
 目的は「心の治療とは何か」を問うことにある。
 「野の医者たちを鏡にすることで、現代の医療や心理学を問い直してみる」、つまり、臨床心理学の相対化をはかる。
 
 たしかにこれは興味深い研究だ。
 最近は公認心理士という国家資格ができて、アカデミックな世界における正当性と正統性を獲得したかに見える臨床心理学。それが、実際はどういうものなのか、「野の医者」たちの治療にまさる効果をほんとうに生み出しているのか、プラセボ―(偽薬)効果やピグマリオン効果が高い点では江原某に代表されるスピリチュアルカウンセリングと変わりないのではないか、そもそも「心のケア」とは何なのか・・・・。
 臨床心理業界に身を置く東畑自身が、自らにそういった問いをぶつけるその姿勢が、まさにセルフモニタリング(自己理解)を重視する臨床心理学的である。
 一方、好奇心の赴くままに行動するフットワークの軽さ、ノリの良さ、どんなところにも「笑い」を見つけようとする落語的感性は、アカデミズムに染まりようのない著者の個性が爆発している。
 
 高邁なる研究目的あるいは研究結果はひとまず措いといて、本書の一等の面白さは、沖縄のスピリチュアル業界の現場ルポにある。
 もともと沖縄は、ニライカナイやシーサーなど本土と違った独自の信仰や神話をもち、島の各地に残る祭祀場である御嶽(ウタキ)や今も多数存在する霊媒師ユタなど、スピリチュアル性の濃い風土ではある。
 しかし本書によると、現在の沖縄スピリチュアルシーンを席巻しているのは、90年代半ばに始まった一連の精神世界系ムーブメントの流れだという。
 沖縄で最初のヒーリングショップ「アトリエかふう」ができたのは1996年。
 そのきっかけがなんと、シャーリー・マクレーン著『アウト・オン・ア・リム』に感動した二人の若い女性が、翻訳者である山川紘矢・亜希子夫妻を沖縄に招いて講演会を主催したことだという。
 思わず出てきた懐かしい名前に、歳月を30年近く巻き戻した。

シーサー
シーサー

 ソルティは当時仙台にいた。
 仙台でもまさに山川夫妻の人気爆発で、有志が招いて開催した講演会では当時仙台で一番広いホールが満席になった。もちろんソルティもその中にいた。
 ただ、夫妻の人気に火をつけたのは『アウト・オン・ア・リム』ではなくて、ジェームズ・レッドフィールド著『聖なる予言』の翻訳だった。
 日本において、いわゆる“スピリチュアル”が、雑誌『ムー』周辺に群がる一部のオタクたちから、若い女性を中心とする一般社会に広まるトリガーとなったのは、『聖なる予言』のヒットだったと思う。
 それ以降、95年のオウム真理教地下鉄サリン事件によって、“常識人が近寄ってはいけない危険なもの”とされてしまった宗教にかわって、日本人の霊性を良くも悪くも先導してきたのが“精神世界”というサブカルチャーであった。
 ソルティも仙台にいた90年代後半にはずいぶんいろいろな“精神世界”系イベントに参加したし、嬉々として関連グッズを購入した。アロマテラピーの資格をとったのもその頃である。
 なので、“精神世界”なり“スピリチュアル”なりに拒否感は全然ないのだが、どっぷり嵌まり込むことはなく、そのうち飽きて“卒業?”してしまった。
 ここ20年くらいのスピ業界の動向はまったく蚊帳の外だったので、本書に書かれているような“百花繚乱、玉石混交、奇々怪々、変態百出、換骨奪胎、抱腹絶倒”の沖縄スピリチュアルシーンの現状を知って、「こんなことになっていたのか!」と驚いた。
 同業者が一堂に会して治療ブースを並べる年に一度の大イベント、コミケならぬヒーパラ(=沖縄ヒーリングパラダイス)なるものがあったとは知らなかった。(2016年で終了したらしい)

 東畑は自身が実験台になって、さまざまな“怪しい”治療を受け、施術者へのインタビューを試みる。
 施術者の人となりや来歴、ヒーリングを始めた動機、ヒーリングの方法などを調査する。
 フィールドワークには違いないが、研究というよりギャグ漫画風体験エッセイのような趣きがあって楽しい。
 
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 肝心の「心の治療とは何か?」に関して、東畑は次のようにポイントを列記している。

 心の治療は時代の子である。・・・(中略)・・・心の治療は時代の生んだ病いに対処し、時代に合わせた癒やしを提供するものなのである。その時代その時代の価値観に合わせて姿を変えていかざるを得ない。
 だから、心の治療は時代を映す鏡でもある。

 治療とはある生き方のことなのだ。心の治療は生き方を与える。そしてその生き方はひとつではない。

 心の治療とは、クライエントをそれぞれの治療法の価値観へと巻き込んでいく営みである。

 臨床心理学と野の医者が呈示する生き方は違う。野の医者が思考によって現実が変わることを目指すのに対して、臨床心理学は現実を現実として受け止め、生きていくことを目指す。

 ここで仏教、もといテーラワーダ仏教における「心の治療とは何か?」、「そもそも心とは何か?」という観点を提出し、臨床心理学と比較しつつ論述展開できれば面白いのだけれど、荷が重すぎる――というより力不足。やめておく。
 ただ、仏教における心の治療方法だけは明確である。
 ヴィパッサナ瞑想による智慧の開発がそれである。

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 最後に本書を読んで気になった点を二つばかり。
 一つは、東畑がフィールドワークにより発見・確認したように、「心の病から癒された人がヒーラーになる(なりたがる)」という現象について。

 病者は治療者という生き方をすることで癒やしを得る。だけど、それで病者じゃなくなるわけではない。病者であるがゆえ人を癒やせるわけだし、人を癒やすことが自分を癒やすことなのだ。それは病むことと癒やすことが「生き方」になるということだ。

 これは野の医者に限らず、臨床心理士業界でも、さらに広くたとえば「いのちの電話」のような民間の心のケアに関わる相談業界でも同様だろう。
 いわゆる「ミイラがミイラ取りになる」。
 その現象自体は別に珍しくもないし、良くも悪くもない。
 それこそ同じ問題に直面し苦しんだ者同士が会って語り合うことで心の回復につながるピア(peer)カウンセリングの効果は良く知られている。
 気になったのは、東畑の場合はどうなのか?――という点である。
 東畑がそもそも臨床心理士になろうと思った動機は何だったのか?
 本書には書かれていないし、『居るのがつらいよ』にも書かれてなかったように思う。
 別に、志望動機を著書でカミングアウトする必要はないけれど、気にはなった。

 また、沖縄に野の医者が多い理由について東畑は次のように記している。

 それは沖縄シャーマニズムが自由な伝統をもっているからだ。沖縄の神様は自由自在のプリコラージュを許容する。堅苦しいことを言わない。だから、病んだ人は目の前の怪しい治療に飛びつき、治療者になっていくことができる。沖縄にはそういう文化がある。

 なぜ沖縄には野の医者が多いのか。それは沖縄が貧しいからではなかったか。 
 沖縄には産業が少なくて、多くの職が熟練を期待されない接客業だ。一握りの人しか、キャリアを築くことが難しく、時給も安い。・・・(中略)・・・お金を稼ぐことに追われ、そしていつお金が無くなるかわからない不安に付きまとわれ、近未来すらどうなっているかわからない不安定さの中では、人間関係はひどく壊れやすくなる。
 特に女性はそのようなリスクにさらされやすい。それもあって、野の医者には女性が多いのではないか

 伝統的な沖縄シャーマニズムの許容性および沖縄の貧困が、たくさんの野の医者を生み出し、現在の沖縄スピリチュアル業界の活況につながっているという。
 おそらく、その通りであろう。
 文化・民俗学的視点と、社会・経済学的視点とりわけジェンダー視点は欠かせない。
 と同時に、ソルティは思う。

 戦後、沖縄という土地が癒され浄化されるのに、十分な時間と社会的サポートが果たしてあっただろうか?
 
 太平洋戦争において唯一の本土決戦があった沖縄で、1972年まで米国の占領下にあった沖縄で、本土復帰しても米軍基地に悩まされ続けている沖縄で、いまも本土の人身御供にされている沖縄で、癒しはどこまで可能だったのだろう?
 ヒーパラに集う戦後生まれのヒーラーたちは、もちろん、自身が戦時中や戦後のきびしく悲惨な時代を身をもって知るわけではなかろうが、彼らの無意識に、あるいは、親世代・祖父母世代・曾祖父母世代の記憶やトラウマが世代間連鎖によって受け継がれ、簡単には解かれようのない因縁(=心のブロック)があるとしても、別に不思議ではないように思う。

 無意識とかトラウマとか世代間連鎖とか言っている時点で、自分もずいぶんフロイトやユングに毒されているなあ、しかし。

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那覇にある波上宮(なみのうえぐう)

 
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 蒲田で昭和と出会う :オーケストラ・ラルゴ第1回定期演奏会

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蒲田駅東口

日時: 2023年10月7日(土)13:30~
会場: 大田区民ホール・アプリコ 大ホール
曲目: 
  • C.ニールセン: 序曲「ヘリオス」 Op.17
  • J.シベリウス: 交響曲第7番 ハ長調 Op.105
  • J.シベリウス: 交響曲第2番 ニ長調 Op.43
指揮: 山上 紘生

 Orchestra Largo(オーケストラ・ラルゴ)は、2022年に設立されたアマチュアオーケストラ。
 Largoとは音楽用語で「幅広く、ゆったりと」という意である。
 栄えある旗揚げ公演に参加させてもらったのは、シベリウス交響曲2連打の魅力とともに、山上紘生の真価を確かめたかったからである。
 この人の指揮を体験するのは3回目。
 前2回、ショスタコーヴィチの1番7番を聴いて、その音楽性というかスピリチュアルな力に驚嘆した。
 ほかの作曲家ではどうなのだろう? 

 ソルティはクラシック音楽を聴くと、チャクラが刺激され、体内の“気”が体を突き抜けたり、ふわっと底から湧きあがったり、体が熱くなったり、脳天が明るくなったりする、一種の特異体質になって久しい。
 集中が増すほどに、感動が深まるほどに、チャクラの活動は盛んになる。
 山上の指揮者としての腕前が、プロの音楽家や評論家の耳でどう判断されるのかは、素人の自分の知るところではない。
 が、音波によるチャクラ刺激力と体内浸透力、“気”の活性化力、そして聴いたあとの身心調整力に関して言えば、山上は凄いのである。
 丸一日瞑想するのと同じくらいの効果がある。
 知る限りで同じレベルの指揮者を上げるなら、和田一樹金山隆夫であろうか。
 この3人が振るコンサートには、なるべく出かけて、“ととのい”体験したいと思う。
 
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大田区民ホール・アプリコ

 配布プログラムによれば、一曲目の『ヘリオス』はギリシア神話の太陽神ヘリオスの一日を描写した曲とのこと。 
 つまり、日の出から日の入りまでの太陽の軌跡であり、大気の変化であり、地上の生命の応答である。
 曲のテーマからして、神々しくパワフル、生命力を礼讃するもので、新しく誕生したオケのデビューにうってつけの曲。
 良い曲を選んだものよ。

 二曲目はシベリウス交響曲第7番。
 演奏時間20分強の短い曲である。
 ここで、ソルティは一種のアルタードステイツ(変性意識状態)に入った。
 はっきりと覚醒しているのでもない、眠っているのでもない、おぼろな状態。
 子供の頃、プールで思いっきり泳いだ帰り、父の運転する車の後部座席で、灼けた肌に残るかすかな塩素の匂いを感じながら、無言で車の揺れに身をまかせていた時の感覚。(←わかりにくい比喩だ)
 シベリウスの曲には、聴く者を意識の内奥に向かわせるようなところがある。

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ホール内側から見た景色
ちょっと牢屋の中にいるよう?

 休憩後、メインのシベリウス交響曲第2番。
 ここからチャクラがしきりと動き出した。
 舞台から放たれる音波と、体内の“気”の応答は、自らの意志とはまったく関係ないところで起きている。“気”の変化によって生じる気分の高揚も意識的なものではない。
 人間の心というのは、周囲の環境によって知らず影響されるものなのだ。
 たとえば気温や気圧のちょっとした変化で気分が変わり、その日の 行動が変わるように、周囲の“気”の影響を知らずに受けて、選択し決定し行動してしまう。それを自分の意志と勘違いする。
 悪名高き日本人の同調圧力も、周囲の“気”に簡単に流されてしまうところに原因がありそうだ。
 自らの“気”の状態を知り、上手にコントロールするスキルを身につけることは大切だとつくづく思う。
 
 どの楽章も素晴らしかったが、やはり第4楽章が圧巻であった。
 第1楽章から第3楽章まで刺激されるがまま勝手に動いていたチャクラと突発的に起こっていた“気”の流れが、一つの大きな熱い光の玉となって体を包みこむような感覚があった。
 感動は最高潮に達した。
 旗揚げ公演に山上紘生を選んだオケの慧眼に拍手。

 感動冷めやらず、蒲田駅周辺を歩いてみた。

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蒲田駅西口
東口と表情が異なり、昔ながらのアーケード商店街が伸びる下町

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今なお健在で賑わっているのに感動
ザ・昭和な店が並んでいてタイムスリップした気分になる

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階段を這い上がってくる昭和の匂いに思わず足が止まった
インベーダーゲームのある喫茶店の匂いだ

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昭和世代にとって蒲田は居心地よい街なのでは?
(ただし、ワンルーム7万円以上はする)

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東急多摩川線高架下の一杯飲み屋街
酔っぱらった若者たちで賑わっていた

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ちょうど上野のJR高架下あたりの感じ
安くて旨そうな料理店が軒を並べている

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東急多摩川線
これまたクラシカルな車両がクール














 
 
 

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