ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●性にまつわるあれやこれ

● 本:『人類学者が教える性の授業』(奥野克巳著)

2025年ハヤカワ新書

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 早川書房が新書参入したのを本書ではじめて知った。
 2023年6月に創刊し、すでに60冊以上出ているようだ。
 著者の奥野については、『人類学者K ロスト・イン・ザ・フォレスト』(亜紀書房)でそのユニークな存在を知った。
 本書は、2019年に立教大学で開講した「セックスの人類学」の授業を基にしたもので、まえがきで次のように記している。
 
 性を人類学的に考えるとは、私たちの「当たり前」を括弧に入れ、異なる文化や他の生き物たちの行動と照らし合わせながら、人間の性を見つめ直す試みです。本書では、さまざまな生き物の行動や文化習慣を通じて、性にまつわる工夫と実践を紹介します。そこからまずは、私たちが抱えがちな性愛の問題や生きづらさをほぐし、新しい風を吹き込むことができればと思います。

 さまざまな時代、さまざまな地域の文化や風習をフィールドワークする人類学者は、当然、多様な性文化を見聞する機会が多い。
 だが、それを調査研究して発表するのは、なかなか勇気のいることだろう。
 ソルティは90年代に、性人類学者のキム・ミョンガンが『週刊ビッグコミックスピリッツ』に連載していたエッセイを面白く読んでいた。
 動物界と人間界の多様な性行動を紹介する文章は、何をもって正常と言い、何をもって異常と言うのか、ソルティの固定観念を揺さぶった。
 フェミニズムブームの影響もあってか、当時はそういった記事をよく目にしたものである。
 2000年代に入って、統一教会勢力(むろん自民党議員を尖峰とする)による“行き過ぎた”性教育バッシングが起こり、「性を自由に語ること」に対するバックラッシュが社会全般を見舞った。
 その余波はいまも続いている。
 なので、本書の登場は、どこか懐かしいような、記憶の底に埋もれた金鉱を探り当てるようなこそばゆい感じがあった。

 90年代半ば仙台にいた頃、ゲイやレズビアンの仲間と一緒に、多様な性の存在を訴える広報誌を発行したことがあって、そのときにつけた会報の名前が『ぼのぼ』であった。
 本書でも取り上げられているように、ゴリラやチンパンジーと同じ類人猿ショウジョウ科に属するボノボは、群れのコミュニケーションを円滑にするために、オス同士、メス同士でも普通にセックスする習性をもつ。

 ボノボは性に余念がなく、ありとあらゆる性交渉を行いますが、印象深いのは、2頭の若いオス同士でディープキスをすることがあります。こうした熱烈なキスが、いつの間にか、ケンカの真似事になったり、追いかけっこの遊びに変わったりするのです。ドゥ・ヴァール(ソルティ注:オランダの動物行動学者)によれば、ボノボにとって、ディープキスのようなエロティックな接触は、それ以外の行動と切れ目なくつながっています。それが、ボノボの日常なのです。
 私たち人間は日常的な行為と、性的な行為を分けています。多くの場合、セックスは非日常的な特別な行為である場合が多いでしょう。しかし、ボノボはそうではありません。彼らにとって、社会生活とセックスは、完全に結びついていると言えます。

 逆に、一頭のおとなのオスだけが群れのすべてのメスを支配し交尾する、いわばハーレム集団をつくるオナガザル科のハヌマンラングールの例がある。
 オス同士は群れのボスになる権利を巡って激しい闘争を行う。
 前のボスを倒して新たにハーレムの主となったオスは、前のボスが作った群れの中の子どもたちを次々と殺していく。
 結果的に、自らの子ども(遺伝子)だけが残る。

猿の一夫多妻

 同じ霊長類であるボノボとハヌマンラングールでもこれだけ性行動には違いがある。
 地球上で有性生殖が始まってから、つまりオスとメスという性が生まれてから、いかに多様な性行動が生まれては消えていったことか。
 人類もまた自然が生んだ生命のひとつであり、進化の法則のもとに生息しているのだから、人類の性を考えるには、まず、「生物(自然)としての性」、すなわち、「人類史を動物との連続性から見て、過去から未来へと貫く生物進化的視点」から捉えることが必要だ、と奥野は述べる。
 これが縦軸である。

 一方、横軸は「文化としての性」、すなわち、「さまざまな地域で実践される多様な性文化を比較する比較文化的視点」である。
 たとえば、高地ニューギニアのサンビア社会では、少年の通過儀礼として儀礼的同性愛が行われる。
 7~10歳前後の少年たちは、年上の若者たち(おおむね15歳以上)にフェラチオし精液を飲む。
 15歳になると、今度は精液を与える側に回る。
 精液の授受を通して、生まれたままでは不完全な男子が、生殖能力や戦闘能力を備えた一人前の男になると信じられているのである。
 男子は結婚するまでは女性と交わらない。
 近代西欧的概念で言うならば、サンビア社会の男たちは、結婚するまでは同性愛(ゲイ)、結婚すると両性愛(バイセクシュアル)、子供ができると異性愛(ヘテロセクシュアル)と、時期によってセクシュアリティを変えていく。

 あるいは、南米ベネズエラのバリ社会の例。
 バリの女性は結婚後、妊娠が発覚すると、複数の愛人と関係を持つようになるという。
 子どもが生まれると、生物学的な父親とは別に、愛人たちは「第二の父親」となり、生まれた子どもに対する食料の分配の義務を負う。共同親権みたいな感じか。
 これは、食料の調達手段が男性だけに許されているにもかかわらず、男性の人口比率が少ないため、女子供が餓死しないように生み出された生存戦略とされている。

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 このような文化や風習を聞くと奇っ怪に感じるかもしれない。
 が、日本人もまた、令和の感覚からすれば奇っ怪な性愛文化を有していたことは、歴史が証明している。
 平安時代の貴族の男たちは、女の顔も姿も声も知らずに恋文を送り、結婚した。その結婚も、女のもとに三夜通い続けなければ成立しなかった。
 だから女たちは、男の誠意や人柄を確かめるべく、つれない返事を歌で送って男をじらし、男を燃え立たせたのである。 

 あるいは、布教のため来日した伴天連たちを仰天させた日本古来の男色文化
 僧院で、戦場で、お茶屋で、男たちは愛を語り肛門性交し、稚児や念弟をめぐって喧嘩し、あるいは死によって結ばれることを願って心中さえした。
 ジャニーズ騒動以降、未成年を対象とする同性愛は(異性愛も)許されないものとなったが、ちょっと前までは『少年愛の美学』なる本がふつうに書店で並んでいたのである。

 セックスの人類学を考える上では、縦軸としての生物進化的視点(生物としての性)と、横軸としての比較文化的視点(文化としての性)、両方のアプローチで捉えることが大切、と奥野は力説する。
 それぞれのアプローチにおいて奥野が紹介する興味深い事例に驚いたり感心したり、飲み会で披露する恰好のネタを仕入れるようなつもりで楽しく読み進めていった最後の最後に、その深い意図に気づかされる。
 取り上げられるのは、いまもアフリカ大陸各地で見られる女子割礼/女性器切除(FGM)である。

 女性や女児の健康被害や命の危機という視点から、そして男性による女性の「性の支配」というフェミニズム的視点から、年端の行かない少女が自己決定しないままに強制的に行われる女子割礼/女性器切除は重大な人権問題とされ、西洋社会から強い非難を浴びてきた。
 しかし、当の風習をもつアフリカなどいわゆる発展途上国、第三世界の女性たちから、「あなたたちに私たちの文化を批判されたくない」と反発された。
 西洋的価値観の押付けとみなされたのだ。 

 ここで問われるのは、「健康」「安全」「人権」を至上とする近代西洋社会の価値体系によって、それとは別の伝統的価値体系によって生き残ってきた社会を、一方的に批判・審判・裁断することの正当性である。
 そしてそれは、19世紀の人類学の学問的態度、すなわち、「西洋こそが最も進んだ社会であり、未開と呼ばれる社会もいずれ西洋社会に近づいていく」という自文化中心主義的発想と、その傲慢を反省したところから生まれた20世紀以降の人類学、すなわち、「未開と呼ばれた文化・社会にも固有の体系的・理性的かつ深遠な思考があり、それぞれ固有の価値を有する」という文化相対主義との対立である。

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 日本は明治維新このかた、とくにアジア・太平洋戦争で敗北を喫して以降、アメリカをはじめとする近代西洋社会の価値体系を受け入れて、まがりなりにも先進国の末席に連なってきた。
 一夫多妾の招婿婚も、男色文化も、昔話の語り草となった。
 だから、多くの日本人は、女子割礼/女性器切除に対しても西洋的価値観に則って、これを「人権侵害」「性暴力」と判断する傾向にある。
 もちろん、ソルティもそのひとりである。
 でもその日本人だって、一夫多妾や男色文化に対する西洋諸国からの批判に対しては、「お恥ずかしい」「廃止します」と素直に受け入れられても、「天皇制は人権侵害だから即刻廃止すべき」という批難に対しては、冷静には耳を貸さないだろう。
 内政干渉と大いに反発するであろう。
 どこの国だって、どこの民族だって、自らが祖先から受け継いで大切に守ってきた伝統文化について、よその国からとやかく言われたくないのである。
 いくら普遍的・人道的な理由が持ち出されようとも、介入された側からすれば、それは理不尽な暴力ととらえられかねないのである。

 では、どうしたらいいのか?
 女子割礼/女性器切除の問題は、よその国の固有の文化・風習だからほうっておくべきなのか?

 あらゆる文化の優劣をつけずに、相手の文化の価値観を尊重するという考えが、文化相対主義の理念です。それは時に相手の価値を尊重するあまり、「私は私」」「あなたはあなた」という過度の相対主義に陥ってしまい、相手の文化やその価値を手付かずの状態で突き放してしまうことで、無理解なままに放置してしまうことになるのです。しばしばこれを「文化的アパルトヘイト」とも呼びます。人類学者・浜本満の整理によれば、本来、文化相対主義は人類学における他者=異文化理解のための「理解と対話の出発点」として試みられたにもかかわらず、逆に「理解の停止と対話の断念」を正当化するレトリックとしても使われてきたのです。
 また、・・・(略)・・・他者の文化や社会を昔から今、未来に至るまで固定的で変わらないものと見なしてしまう可能性もまた、文化相対主義的思考の落とし穴として指摘できます。文化・社会を固定的なものと見なし、人間の行為の意味を当該地域の文化によってあらかじめ決めつけて語る文化決定論に陥ってしまう危険性もありうるのです。

 横軸の比較文化的な視点では、それぞれの固有文化のセックスのあり方がただ示されるだけで、私たちはそれを自分たちとは異なる文化として突き放して理解することに終始してしまう恐れがあります。結局、どんなにめずらしいセックスの習慣を見聞きしたとしても、私たちのセックスに対する価値基準はそのままで、単に保存されてしまうだけなのです。
 しかし、ここに縦軸としての生物進化的視点と合わせて考察をしていくならば、人間自体を問うことになります。人間のことを考えるためには、人間を超えたレベルで比較し分析する必要があるのです。だからこそ、本書では15億年前を出発点とし、生物進化という悠久の時のなかで、セックスがどのように今日の人類に見られるようなかたちに生成変化してきたのかを見てきました。そのとき、生物としての人間にとって、何が自然で何が不自然なのかが改めて問われることになります。・・・・(略)・・・・多文化でなく、多自然的な視点に立つことで、文化相対主義が取りこぼしてしまった問題を問うことができるのです。(ゴチックはソルティ付す)

 90年代にソルティが読んだ性人類学の記事では、ここまでの深掘りはなかった。
 人類学も進化しているんだなあ。
 
ぼのぼ
ボノボ





おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 


● 本:『三島由紀夫という存在』(野坂昭如&石原慎太郎著)

2025年中央公論新社

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 三島由紀夫生誕100周年を記念して出版された一冊。
 三島と親交のあった2人の後輩作家によるエッセイ6編と、2つの対談が収録されている。
 いま、それぞれの文章の発表された時期とその時の2人の年齢を時系列で並べると、次のようになる。
  • 1970年12月 石原(38)
  • 1971年1月 野坂(40)
  • 1971年2月 野坂(40)
  • 1972年12月 野坂(42)&石原(40)対談
  • 1995年12月 野坂(65)&石原(63)対談
  • 2000年6月 石原(68)
  • 2000年11月 石原(69)
  • 2001年8月 野坂(71)
 三島由紀夫が自決した1970年11月25日直後のそれぞれの追悼文から始まって、2年後(三回忌)の対談、25年後の対談、30年後のそれぞれの回想文が掲載されている。
 事件から時間が経過するにつれての、また野坂と石原の加齢につれての、語り口の変化がなかなか興趣深い。
 おおむね直後の追悼文は、事件に対する驚きと戸惑いの向きが強い。無理もない。
 事件後2年経過し、三島由紀夫という人物および自らと三島との関係を語る視座を得た1972年12月の対談は、両者ともに思うところを率直に述べている。
 事件後四半世紀が経ち、両人が三島の享年はおろか還暦も越えた1995年の対談以降は、舌鋒が柔らかくなり、過ぎ去った時代や在りし日の三島の姿を偲ぶ懐旧のニュアンスが現れている。
 野坂は2015年に85歳で、石原は2022年に90歳で亡くなった。

 三島由紀夫の死後、数多くの三島論が出版され、それは現在も続いている。(ソルティがよく利用する都心の図書館の棚を見たら、ざっと30冊の三島論が並んでいた)
 また、文学者らによる対談も多い。
 ソルティが読んだのはほんの一部に過ぎないが、総じて言えるのは、一つは男性論者によるものが圧倒的に多いことであり、一つは、数ある三島語りの中でこの石原慎太郎と野坂昭如によるものが最も故人に対して辛辣だということである。
 2人が作家デビューするにあたって、他のどの先輩作家からよりも三島由紀夫から目をかけられ引き立てられたことを重ね合わせると、「恩知らず」と思えるほどである。
 同じ時代に文壇で活躍し三島と親交のあった安部公房と大江健三郎による三島語りにくらべると、その差は歴然としている。
 その差がどこから出てくるのかは新旧の文壇事情に詳しくないソルティには分からない。が、一通りでなく世話になった先輩作家に対する恩を仇で返すような野坂と石原の物言いの裏には、心理学で言うところの防衛機制、いわゆる「否認」に近いものを感じる。

 いったい何を否認しているのか?
 『三回忌に思う』と題された1972年12月の対談より引用する。

野坂 さまざまな虚構を張りめぐらしながらも、彼自身としてはとにかく一生懸命やったわけですよね、ひたむきに、矮小な体にムチ打って。しかし彼のボディビルと同じように、まとった衣装はぜんぜん自分に合っていなかった。ある時期は、その合っていないということをエネルギーにしていたんだろうけれども、そのエネルギーが絶えちゃったとき、今度は自分がまとった衣装の重さに押しひしがれて、最後は悲鳴をあげていたような感じだな。

石原 ほんとにあの人は、自分がかかえる、アンビバレンツなものはアンビバレンツなものとしてかかえてるっていうことに耐えられなかったんでしょうね。

石原 あの人の精神のメカニズムを象徴するものは、結局、肉体にたいするコンプレックスでしょうね。それを是正するために人工的につくった機能性のない肉体というものが、結局、あの人を亡ぼしたんだ。

野坂 あれだけはじめに虚構を描いていたけれども、やがて虚構を生きざるをえなかった。自分自身の生き方、自分の肉体そのものが虚構だったことに気づいたときの三島さんの気持を考えると、物書きのはしくれとしては、ほんとに涙なくしてはいられない気がする。

 三島と同じ流行作家であり、三島と同じようにマスコミに持て囃されたタレントであった2人の分析は、ほぼ同じである。
 すなわち、「肉体上のコンプレックスからボディビルを始めたことに象徴されるように、ある種の欠落を糊塗するために仮面をかぶり、虚構の自分を意識的に演じ続けた。その無理が限界に達して、ああいう悲惨な最期に至った。」
 欠落とはなにか?
 次の野坂の言葉がそれを示唆している。

野坂 ぼくは小学校のときに、虚弱児童だったんです。相撲だけは強かったけど、ものすごく気が弱くて、喧嘩はぜんぜんできなかった。そして、なにぶん戦争中だし、このままじゃ男として世の中に生きていけないと思って、ある時期、喧嘩ばかりしてました。気を強く見せようと・・・・。ぼくはつまり昔に、無理していた覚えがあるから、石原さんより、三島さんの持っていたものについて同情があるというか、それをからかいの対象とするよりも、「いやあ、あなたも大変ですね」って感じでね。(ゴシックはソルティ付す)

 つまり、男としてのコンプレックス。
 男らしさ(マチョイズム)の欠落である。

 昭和時代のマチョイズム、とくに戦前戦中のマチョイズムは、令和の現在とは比べものにならないほど確たる規範として日本社会を覆っていた。
 昭和元年に生まれ、天皇を神と仰ぐ軍国主義教育を受け、国のために死ぬことをなによりヒロイックな雄々しい行為として教えられてきた三島由紀夫すなわち平岡公威少年が、長じて、自らの類まれなる文才とは裏腹に、貧相で脆弱な肉体と運動能力の欠如、そして異性に対する性的能力の空転を知った時、相当な自己否定に襲われたことは想像に難くない。
 20才のときの徴兵検査の(意図的な?)不合格は、深い恥の感覚を植え付けただろう。

 だが、三島の強い自意識とプライド、それに戦後マスコミによって作り上げられ世間に流布された時代のヒーローとしてのイメージは、自らの中の「女性性=弱さ」を受け入れ肯定することを許さなかった。(そもそも、「女性性=弱さ」とみなすところがマチョイズムの誤謬である)
 豪快な高笑い、ボクシング、ボディビル、筋肉誇示、剣道、居合い、自衛隊体験、葉隠れ、軍服をまとってのパレード・・・・e.t.c.
 さまざまな鳥の羽を自らの体にあしらって孔雀ばりに装ったイソップのカラスの物語のように、三島由紀夫は「男らしさ」という羽で、持って生まれた資質を覆い隠した。
 その羽が借りものだとバレる前に、あの行為に及んだのである。

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1tamara2によるPixabayからの画像

 しかし、ここでソルティが指摘しようとしているのは、野坂と石原が容赦なくあぶり出したような“虚構に生き虚構に死んだ”三島由紀夫の欺瞞や悲哀ではない。
 三島由紀夫を侮辱するつもりは毛頭ない。 
 そうではなくて、マチョイズムそのものの虚構性を言いたいのである。

 時代や地域や文化の違いにより、「男らしさ」の定義や内実は異なる。
 たとえば、昭和時代には男の化粧品CMなんてあり得なかった。
 国民的人気と輝かしい実績を誇る大谷翔平のような野球選手が、スキンケア商品のCMに出てお肌ペタペタなんて図は考えられなかった。
 そんなことをした日には、次の打席では球場中の客から笑い者にされ、「おかま」と囃し立てられたであろう。

 多かれ少なかれ、意識的であれ無意識的であれ、世の男達はマチョイズムに支配された社会の中で、周囲から馬鹿にされ見下されないよう「男らしさ」を身につけていく。
 「男」という虚構を演じている。

 野坂昭如や石原慎太郎が、なぜこれほど三島由紀夫という人物について、また最終的に自決につながった政治的行動の意味について一致した見解を示せるのかと言うと、野坂も石原も世のマチョイズムに支配されて生きてきたし、その虚構性にある程度自覚的だったからではなかろうか。
 身近にいて一時は敬愛の対象であった三島由紀夫が、あまりに大っぴらに、あまりに分かりやすく、あまりに身も蓋もないかたちで、「男」の虚構性を暴露してしまったがゆえに、そこと距離を置くために、必要以上にバッシングしたのではなかろうか。
 あたかも、観客に手品の種明かしをするマジシャンに対して、同業者が抱く思いにも似て・・・・。

 三島論を書く人間に男が多いというのも、そこと関係しているような気がする。
 つまり、三島由紀夫は「マチョイズム」という荒野の逆説的なランドマーク、「男らしさ」という天盤の道を誤らせる北極星のようなもので、三島を評する男たちは、自然、おのれと三島との距離を測ってしまうのではないかと思うのである。
 さらに付け加えれば、それはまた、(極右と極左からの)政治的距離でもあるし、文学的才能における距離でもあるし、自らの信念を遂行した行為者としての距離でもあるし、米国追従の戦後民主主義社会からの距離でもあるし、天皇制からの距離でもある。
 三島由紀夫は、戦後の日本社会に生きる者に、自らの立ち位置を顧みさせるさまざまな座標軸を提供した。
 それが「三島由紀夫という存在」の意味であり、三島が読まれ、語り続けられる大きな理由なのではないかと思うのである。

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おすすめ度 :★★★★

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● きれいはきたない、きたないはきれい 映画:『サブスタンス』(コラリー・ファルジャ監督)

2024年フランス、アメリカ、イギリス制作
142分

サブスタンス

 凄まじくもおぞましい映画である。
 生理的な衝撃はちょっとたとえようがない。
 観終わってからウィキで調べ、女性監督の手によるものと知って、納得がいった。
 昨今、ジェンダーの違いをもって何かを語るのはリスキーだとは知っているが、やっぱり、女性でないと本作は撮れないよなあと思わざるを得ない。

 強いてジャンル分けするなら、SFホラーサスペンスにくくられると思うが、何より顕著なのはエログロである。
 大方のヘテロ男性視聴者を喜ばすであろうエロティシズム(たとえば、レオタードを身に着けた若い美女のピチピチした肢体)がふんだんにあり、男たちの身体の一部を変貌させるものと思われる。(ソルティはゲイかつシニアなのでそよとも動かなかった) 
 ルッキズムやエイジハラスメントに対する批判のかまびすしい昨今、これほど女性の“若さと美貌の特権”を前面に押し出した映画も珍しい。
 女性監督だからこそ批判を恐れずにできたのではないか、と思うのである。
 ファルジャ監督の声が聞こえるようだ。
 「わかってるわよ。あんたら男は、こういうのが好きなんでしょ?」

女性ヌード
こういうの

 また、グロテスクについて言えば、デミ・ムーア扮する往年の美人女優がどんどん醜くなっていく過程が描かれるのだが、そのグロテスク化の度合いが限界突破している。
 これもまた、ヘテロの男性監督だったら、ここまで女性を貶められないのではないか、ここまで生理的嫌悪を極められないのではないかと思われる。
 思い出したのが、吉田秋生の漫画『吉祥天女』である。
 美貌の女子高生ヒロイン叶小夜子が人の来ない化学実験室で不良男子生徒たちに襲われそうになる場面で、小夜子は手にしたナイフで一人の男子生徒の片耳をざっくりと切り落とす。
 床にぽたりと落ちた耳と血にまみれたナイフを見てひるむ不良達を見て、小夜子は言い放つ。
 「・・・血がこわいの? 女はね、血なんかこわくないのよ・・・。だって毎月血を流すんですもの」
 つまり、生理的なグロに対する耐性において、男性は女性に敵わないと思うのだ。

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吉田秋生『吉祥天女』(小学館)

 80年代初頭、『エレファント・マン』という、英国に実在した畸形の男の生涯を描いた映画があった。
 「人間は内面の美しさこそ大切」というヒューマニズムのオブラートに包まれていたが、映画が大ヒットした一番の理由は、珍しい見世物に人が集まるように、好奇心から多くの人が映画館に足を運んだからであった。
 次第に醜く人間離れしていくデミ・ムーアの最終形態は、エレファント・マンを軽く凌駕するグロテスクさと阿鼻叫喚の断末魔で、「ここまでやるかあ?」と息をのんだ。
 老いと美貌の衰えに苦しむ往年の美人女優という、まさに自身と重ね合わせられてしまうリスクをあえて引き受けて、見事に演じきったデミ・ムーアの役者根性にたまげた。
 吉永小百合には絶対にできない役である。

 エログロてんこもりな一方で、美術や映像はスタイリッシュで、演出も小気味いい。
 再生医療で若く美しく蘇ったデミ・ムーアの“分身体”を演じるマーガレット・クアリーが、ほんとに美しくてエロい。
 野心家で調子のいいTVプロディーサーを演じるデニス・クエイドも、竹中直人的怪演が光っている。
 
 エロくてグロくて、美しくて醜い。
 「きれいはきたない、きたないはきれい」
 シェークスピア『マクベス』に出てくる魔女たちのセリフのような作品。
 元ネタは、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』あたりか? 





おすすめ度 :★★★★

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● 映画:『白昼の通り魔』(大島渚監督)

1966年松竹
99分、白黒

 原作は『ひかりごけ』の武田泰淳。
 昭和32年に関西で実際に起こった婦女連続暴行殺人事件をモデルとしている。
 いわゆるシリアルキラーである。

 この殺人犯の異常性は、死んだ女や意識を失った女を犯すことに欲情を催すところ。
 つまり、ネクロフィリア(屍姦症)。
 サディズム(加虐性愛)の一種とみなされるが、その奥底には、対象相手の生体が発する意志と正面から向き合うことができない人間のコンプレックスが潜んでいる。
 このテーマを扱った有名な小説に川端康成の『眠れる美女』がある。
 阿部定を描いた『愛のコリーダ』しかり、BLを描いた『戦場のメリークリスマス』や『御法度』しかり、チンパンジーとの獣愛を描いた『マックス・モン・アムール』しかり、大島監督は人間の異常心理に強い関心があった。

 シリアルキラーを演じる佐藤慶が素晴らしい。
 くっきりした硬い顎のラインと陰鬱な眼光が、獣性と鬱屈との混合を表出している。
 この人はテレビドラマの悪役でならしたが、武智鉄二監督『白日夢』で愛染恭子とホンバンを行うなど、役者根性が据わっている。

 この作品が映画デビューとなった川口小枝(さえだ)が鮮烈な印象を刻んでいる。
 情熱的で生命力の強い田舎娘にピタリとはまっている。
 大島は『太陽の墓場』(1960)でも新人の炎加世子をどこからか見つけ出してきて、作品に強い生命力を吹き込むのに成功した。
 『戦メリ』のビートたけしや坂本龍一の起用を上げるまでもなく、キャスティングの才が凄い。
 川口小枝は、上記の武智鉄二の娘である。
 本作のあと、父親の作品はじめ何作か映画出演し、その後、母親・川口秀子が創流した日本舞踊川口流の家元を継いだ。
 2016年に68歳で亡くなっている。

 1966年なら当然カラー撮影可能だったはずである。
 1960年に大島が撮った『青春残酷物語』も『太陽の墓場』もカラーだった。
 つまり、意図的に白黒にしたのである。 
 それが見事に効いて、ニュース映像的なドキュメンタリータッチを作品に与えるとともに、カットの速さとあいまって、日常生活のリアリティを再現するよりはむしろ、登場人物の心象風景に焦点を当てるものとなっている。
 ところどころ差し挟まれる目のアップなど、まさに登場人物の内面に鑑賞者を引き込む効果を生んでいる。
 大島監督の才気に唸らされる。

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小山明子と佐藤慶

 篠田監督の『夜叉ヶ池』を観たばかりだったので、どうしても両監督を比較せずにはいられなかった。
 大島渚、篠田正浩、吉田喜重の3人は、その新進気鋭の姿勢から1960年代に「松竹ヌーベルバーグ」と並び称された。
 美人女優を妻にもったことでも共通項がある。
 ソルティは、どうもこの3人を同列に論じるのは間違いではないかという気がしてならない。

 大島渚と吉田喜重は、確かに「ヌーベルバーグ」と言うにふさわしい。
 既存の価値観や方法論を打ち破る独自の映画スタイルと作家性を持っている。
 が、篠田正浩はつまるところ大衆好みの娯楽作家と思うのだ。
 もちろん、大衆好みの娯楽作品を撮るのが悪いわけでは全然ない。
 大ヒットして映画賞を総なめにした『瀬戸内少年野球団』(1984)も『少年時代』(1990)も、日本映画史に残る作品である。
 が、「ヌーベルバーグ」を冠せるほどの作家性はそこにはない。
 篠田が60年代に撮った石原慎太郎原作の『乾いた花』(1964)はなかなか良かったが、大手映画会社から脱して自己プロダクションとATG製作で撮った『心中天網島』(1969)は、スタイルこそ目新しかった(前衛的)ものの、テーマ的には凡庸――というより近松門左衛門の原作をなぞったものでしかなかった。

 篠田監督は見るからに温厚で“いい人”っぽく、美しい妻を得て、大衆に愛されて、円満な人生を送られた。
 大島や吉田のような強い反体制思想は持っていなかったんじゃなかろうか?
   




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● 映画:『クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん』(髙橋渉監督)

2014年日本
97分、アニメ
原作 臼井儀人
脚本 中島かずき

クレしん・ロボとーちゃん

 原恵一が監督した『嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』(2001)と『嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』(2002)は、クレヨンしんちゃん映画シリーズの2大傑作としてつとに知られている。
 その後の作品を作るスタッフにとって、「超えられない壁」となって立ちはだかっている。
 本作は、両作を凌ぐほどではないにせよ、それに次ぐ感動作として上げられることが多い。

 タイトルどおり、しんちゃんの父親・野原ひろしが悪組織の手でロボットにされてしまうことで起こる大騒動が基本プロット。(実は、ひろしの記憶がロボットの脳というかAI?にコピーされただけで、本物のひろしは悪組織の実験室で意識不明のまま捉えられている)
 「ウチの父ちゃんが、何でもできるロボットだったらいいなあ~」という子供たちの願いをテーマに設定したのである。
 ロボとーちゃんの八面六臂の活躍や、しんちゃん・ひろし・ロボとーちゃんがタッグを組んでの悪組織との対決シーン、そしてロボとーちゃんとの別れなど、子供が喜び感動するストーリーテリングはさすがである。
 しんちゃんならではのお下品や下ネタは、『週刊漫画アクション』連載時代からのお約束なので、目くじらを立てるのはお門違い。
 『クレしん』に子供を連れて行く親たちは、そこを当然と理解した上で鑑賞しているはずである。
 それが受け入れられない親には、『ドラえもん』シリーズがある。

 一方、そうしたお下品や下ネタがあるからという理由とはまったく別に、『クレしん』は“大人でも楽しめる”作品と言われることが多い。
 その称号を得るのに寄与した代表的作品が、まさに『オトナ帝国の逆襲』と『戦国大合戦』なのである。
 本作もまた、“父権の失墜”という、戦後日本に顕著にみられるようになった社会的現象が、主要モチーフとして取り上げられている。
 妻の尻に敷かれ、子供には煙たがられ、濡れ落ち葉となって休日の公園に屯する父親たち。
 父親の権威も威厳もありゃしない。
 「地震、かみなり、火事、親父」はいつ時代のことやら?
 子供の隣で本作を観る父親たちの共感と哀感を呼ぶことは十分予期される。
 つまり、「父親とは何か?」が隠れテーマとなっているのである。

 ソルティは父親でないので、残念ながらそれほど感動しなかった。
 父親である鑑賞者は、本作を観て、感じ考えるところ大かもしれない。
 ただ、「愛する家族を守るために戦うのが父親(あるいは男)」という、本作が観た者にインプットするであろう概念は、国家に利用されるとそのまま戦争を肯定する言説につながるようで、ソルティは昔からあまり好きでない。

国と父権



おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損








 

● 映画:『アメリ』(ジャン=ピエール・ジュネ監督)

2001年フランス
122分

アメリ

 子供時代の育ちのせいで人とのコミュニケーションが苦手になってしまったフランス人女性アメリ。
 もちろん、恋愛もうまくいかず、性体験はあれど本当の恋は知らない。
 そんな昨今どこにでもいるような不器用な女性が、平凡な日々の中で楽しみを発見し、恋を知り、自らの殻を打ち破って本当の恋をつかむまでの物語。
 制作国フランスでも日本でも予想外の大ヒットとなって、主人公アメリのおかっぱ頭や部屋のインテリアなどを真似する“アメリ現象”が流行ったという。
 ソルティはどうも、同じ頃(2000年)に公開されたジュリエット・ビノシュ主演『ショコラ』と入り混じってしまい、お菓子作りの話かと思っていた。

 この映画が日仏問わず若い女性たちの間で人気を得たのは、やはり、鑑賞者が自身をアメリに投影し共感できたからであろう。
 人間関係に苦手意識や不器用さを持つ人の存在は、万国共通ってことだ。
 一方で、素敵な恋を望むのも万国共通の女性のならいで、とりわけ恋愛が宗教の位置にまで高められているフランスの場合、一種の強迫観念になっているんじゃないかと思う。
 不器用なアメリが、勇を鼓して、目の前の恋に飛び込んでいく結末に希望を感じ、力づけられた女性観客は少なくなかったろう。

 『エイリアン4』で示されていたジャン=ピエール・ジュネ監督の美術センスあふれる映像も、都会のオシャレな女性たちのツボにはまったものと思われる。
 オドレイ・トトゥが魅力的なアメリを演じているほか、『ミッション・クレオパトラ』でその存在を知った片腕俳優ジャメル・ドゥブーズが、ここでも個性的な八百屋の青年に扮している。子犬のようなウルウルした黒い瞳が、庇護欲を搔き立てる。(いまはすっかりオッサンになった)

 ところで、映画館というのは、ある意味、人間関係が苦手な人たちの格好の逃避所すなわちオアシスになっているわけで、一人で映画を観に行くことが若い頃から日常化しているソルティもその例に漏れない。
 飲み会に行くよりも、一人で映画館に行くほうが、ずっと楽しいし、くつろげる。
 40年以上映画館に通ってきて思うのは、一人で映画を観に行く男は普通に多いが、一人で映画を観に行く女は少ない。
 やっぱり痴漢の危険があるからかなあって思っていた。
 これは厚生労働省が5年以上前に実施した調査結果なので信頼度は???だけれど、「誰と映画を観に行くことが多いか?」という問いに対して、
  • 男性・・・・ひとり(35%)、家族(35%)、友人(23%)
  • 女性・・・・家族(41%)、ひとり(27%)、友人(18%)
 意外に女性でも「ひとり」が多い。
 ソルティが観に行くようなたぐいの映画を女性は好まない、だから映画館で女性と会わない、ってのが答えだったようだ。(たしかに、『アメリ』も『ショコラ』も映画館に足を運ばなかった) 

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seok shinによるPixabayからの画像


おすすめ度 :
★★★

★★★★★ 
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● Maiden をめぐる考察、あるいはメラニーの覚醒 本:『静寂の叫び』(ジェフリー・ディーヴァー著)

1995年原著刊行
1997年邦訳刊行
2000年ハヤカワミステリー文庫(飛田野裕子・訳)
原題:A Maiden’s Grave

静寂の叫び

 現代アメリカの代表的なミステリー作家ジェフリー・ディーヴァー。
 もっとも有名な作品は、デンゼル・ワシントン、アンジェリーナ・ジョリー共演で映画化された『ボーンコレクター』(1999)であろう。(ソルティ未見)
 作家デビュー7年目に発表した本作は、ディーヴァーの最高傑作の呼び声高い。 
 期待大でディーヴァーデビューした。

 原題 A Maiden’s Grave は「乙女の墓場」という意。主要登場人物の一人で聴覚障害をもつ女性が、有名な讃美歌 Amazing Grace(偉大なる恩寵)を A Maiden’s Grave と聞き違えたというエピソードから取られている。
 また、それは本作のプロットを含意している。
 3人の凶悪な脱獄犯によって拉致され、廃屋となった食肉加工場に監禁され、人質にとられた聴覚障害をもつ Maiden(乙女)たちの境遇をたとえているのである。

 本作の読みどころは、人質を救い出し犯人を投降させるべく派遣されたFBIのネゴシエーター(交渉人)アーサー・ポターと、立てこもりを続ける脱獄犯の首謀者ルー・ハンディとの息詰まる心理的攻防の模様。そして、人質にとられた聾学校の女教師2名と女子生徒8名が、耳が聞こえない・口が利けないというハンディを乗り越えて、いかに危機を脱していくかという点にある。
 人質奪還の交渉術についても、聴覚障害者の日常についても、非常によく取材調査していることを伺わせる、リアリティと説得力ある筆致である。
 さらに、敵は身内にあり、すなわち、主導権と功績をFBIから奪いたい州警察の暗躍や妨害、特ダネを取りたいマスメディアによる情報漏洩など、いかにも“全米的”な欲得入り乱れの副筋も面白い。
 二転三転する先の読めない展開の果てのどんでん返しというミステリーらしさも十分備えている。
 文庫で上下2巻の長編であるが、いったんハマったら、最後まで徹夜必至のスリルとサスペンスに溺れることだろう。

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 残念ながら、ソルティはそれほどハマらなかった。
 上巻がなかなか読み進まず、挫折してしまうんじゃないかと一瞬思った。
 1週間以上かかった。
 下巻に入ってからは、さすがにページをめくるスピードが上がって、3日で読み終えた。
 それなりに面白かったけれど、これがディーヴァーの“最高傑作”ならば、他の作品を読むのに躊躇する。

 その理由を考えるに、少女たちが拉致監禁されるという設定を、読者を惹きつける“キャッチー(仕掛け)”に使っているという点に、どうもすっきりしないものを感じる。
 3人の脱獄犯のうち1人は、女性をレイプすることしか頭にない野獣のような男で、図体のデカさや腕力の強さや凶暴性から、小説内では“熊”というニックネームを奉られている。
 人質事件の始まりも、脱獄した犯人たちによる路上での強姦殺人の現場を、学校のバスで通りかかった教師や生徒たちが目撃することがきっかけである。
 ストーリーの根幹に性暴力が深く絡んでいる。 
 して、原題にある Maiden は俗にいう「処女」の意である。
 つまり、聴覚障害を持つ教師や美しい少女たちの“純潔”が暴力的に奪われる危機を、エロチックなくすぐりを背後に匂わせつつ、サスペンスを盛り上げる仕掛けとして使っているのである。
 ソルティは女性が性暴力を受けるたぐいの話が昔から苦手というか好きでないので、この仕掛けには乗れなかった。
 おそらく、多くの女性読者やフェミニストも同じであろう。
 また、中年太りのオッサンやもめであるポターが、若く美しく賢い乙女(Maiden)に一方的に愛されるという展開も、世の男性読者の願望を見事に撃ち抜いている。
 本作の愛読者は女性より男性が多いのではないか?

 ディーヴァーの名誉(?)のために言っておくと、結果的に人質たちの Maiden(処女)は守られた。
 危機一髪のハラハラ場面はあったが、レイプされ“凌辱”された Maiden は一人も出なかった。(1名射殺されてしまったが)
 ただ一人、生徒たちの目の前で“熊”に暴行されたのは女教師であり、彼女は夫も子供もいるミセスであった。
 そこのところもまた、「なんだかなあ~」という気がした。
 まるで、「彼女は処女でないから、いいだろう?」とでもディーヴァーが言っているような気がしてしまった。
 こんなふうに読むソルティの心が歪んでいるのか?
 性的な妄想で病んでいるのか?
 でも、わざわざ Maiden をタイトルに持ってくるのは、そこに何らかの作者の下心があると思うのだよなあ・・・・。

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tayphuong388によるPixabayからの画像

 プロットにおいては、以下の2点で不自然を感じた。
 (ここからネタバレ)

 まず、FBIの交渉人ポターを中心とする交渉人チームが、女刑事に成りすましたハンディの恋人を偽者と見抜けなかった点。
 普通、会ったこともない人間を人命のかかった重要なチームに迎え入れる前に、徹底的にその相手について調べ上げるだろう。当然、顔写真入りの履歴を取り寄せるだろう。
 警察官と犯罪者の区別もつけられない交渉人って頼りになるの?

 次に、自ら法の執行者でありながら、ポターたちを裏切って、ハンディら脱獄犯の逃亡に手を貸していたある人物の行動の謎。
 その人物は、ハンディらが無事に食肉加工場から脱出して逃げ延びられるよう、陰でいろいろ手はずを整える。
 というのも、その人物は自らが理事をしている銀行の不正に絡んでいて、その証拠を消すためにハンディの力を借りたという過去があったのである。
 この場合、ソルティがその人物の立場なら、ハンディらを助けるより、人質奪還のどさくさに紛れてハンディらの口封じを行うことを考える。
 一生、ハンディに弱みを握られたままでいる桎梏から逃れる、願ってもないチャンスではないか。 
 助けてどうする!?
 よくわからない御仁である。

 最後にひとつ。
 人質にとられた10人の女性から最強ヒロインが立ち現れる。
 彼女の名はメラニー。
 最初のうちは大人しくて泣き虫で自らの意志を持たない人形のような軟弱な女性として描かれる。
 が、仲間たちの犠牲を前に俄然覚醒し、エイリアンと闘うシガニー・ウィーバーさながらのスーパーウーマンへと変貌する。
 自らの内に隠れていた強さに気づいたのである。
 ラストシーンでの復讐の女神ぶりは、清々しいほどのカタルシスをもたらす。

 ソルティ思うに、このメラニーという名前とパーソナリティは、『風と共に去りぬ』のメラニーから思いついたのではないか?
 スカーレット・オハラの初恋相手であるアシュレ・ウィルクスの妻として、良妻賢母、いつも穏やかで思いやりに満ち溢れ、表立って目立つような言動はつつしみ、周囲の人々から慕われるメラニー。利己的で世の批判を一身に浴びるスカーレットをいつもかばってくれるただ一人の親友。
 そのメラニーが、実は登場人物中、一番強い心の持ち主であることが、マーガレット・ミッチェルの書いた大河小説の最後に明らかになる。

 メラニーという女性名を、『風と共に去りぬ』のメラニー像と切り離して考えることは、おそらく米国人には難しいのではないか。
 メラニーは、一見たおやかなれど実は芯の強い女性の代名詞なのである。

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『風と共に去りぬ』でメラニーを演じたオリヴィア・デ・ハヴィラント



おすすめ度 :★★

★★★★★ 
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● 北風と太陽 映画:『教皇選挙 Conclave』(エドワード・ベルガー監督)

2024年アメリカ、イギリス
120分

教皇選挙

 野心まみれのカトリック狸オヤジたちのドロドロした権力争いが、コンクラーヴェという古臭いしきたりのうちに描かれているのだろう――という先入観からスルーしていた。
 ずいぶん評判が高いのでレンタルしたところ、予想を超える出来栄えで、びっくり仰天。
 たしかに野心深い狸オヤジの権力争いが主要プロットに組まれているのだが、むしろ、現在の世界情勢とリンクする部分が多く、我々が日々SNS上で見るような身近な現象と重ねられるため、ぐんぐん話に引き込まれていく。
 途中涙する場面も。
 ラストには予想を超えたどんでん返しがあり、並みのサスペンス映画以上の衝撃があった。
 脚本が天才的。
 『国宝』と並ぶ本年度1位である。(いまのところ)

 原題の Conclave コンクラーヴェとはラテン語で「鍵のかかった」の意。
 カトリック教会の最高指導者たるローマ教皇を、世界各国からバチカンに集められた枢機卿たちが、投票で選出する制度のことである。
 新しい教皇が決定するまで、枢機卿たちはシスティーナ礼拝堂内に閉じ込められ一歩も外に出られなかったところから、この名称が生まれた。(現在は、選挙期間中は外部と一切連絡しない規定のもと、バチカン内の決められた区域を移動することができる)
 本作の最初のシーンは教皇の死。
 ラストシーンは新しい教皇の誕生。
 主人公はコンクラーヴェを取り仕切るローマ教皇庁首席枢機卿。
 まさに、コンクラーヴェの一部始終を内側から描いた宗教ドラマかつ政治ドラマなのである。
 
 “現在の世界情勢とリンク”というのは、世界各国で起こっている政治思想の二極化――右v.s.左、保守v.s.リベラル(革新)の対立が描かれているからである。
 排外主義のナショナリズムで、多様性や人権に後ろ向きで、武力重視の保守派。
 個人の自由や平等に重きを置き、マイノリティの権利を尊重し、お花畑に住むリベラル。
 資本主義or共産主義、民主主義or独裁体制という政治体制の違いを越えて、現在、世界を分割しているのはこの保守v.s.リベラルの思想対立であろう。
 たとえば、日本と中国という国家間の違いよりも、日本&中国の保守派と、日本&中国のリベラル派との、国籍を超えた「保守v.s.リベラル」の思想間の違いのほうが大きいのではないかと思う。
 いま、日本と中国の関係はここ数年でもっとも悪化しているが、ソルティは高市早苗と習近平(ついでにドナルド・トランプ)はよく似ていると思う。
 人間を10個の類型で分けたときに、この3人は同じグループに入るであろう。
 保守v.s.リベラルとは、単純にいえば、童話の『北風と太陽』である。

北風と太陽

 この傾向は、バチカンに集められたカトリック枢機卿においても同様で、カトリック教会の今後の行く末を決める教皇選挙に際して、保守派の枢機卿とリベラル派の枢機卿との対立が鮮明化する。
 考えてみれば、同じカトリック枢機卿であっても、人種も国籍も言語も政治思想も人生経験もいろいろである。
 同じなのは、神やキリストに対する信仰と“性別”のみ。
 世界各地から来た100人を超える一団は、まさに世界の縮図たりうるのである。
 本作の肝は、教皇選挙を通して描かれる現代世界の様相である。

 何度目かの投票中にイスラム過激派によるテロがローマや他の都市で起こる。
 システィーナ礼拝堂も被害を受ける。
 多数の死傷者が出たことが枢機卿たちに伝えられる。
 次期教皇の有力候補である保守派の枢機卿は、ほかのメンバーの前で憤懣を爆発させる。

これが相対主義の教義がもたらした結果だ。
リベラルな諸兄が愛する相対主義は、すべての信仰と気まぐれな発想を同等に重んじる。
 
祖国にイスラム教を入れても、向うは我々を締め出す。
我々は祖国で彼らを養い、絶滅させられる。

いつまでこの弱さに甘んじる?
彼らはその壁まで来ている。

今求められる指導者は、宗教戦争が目前だと分かっている者だ。
我々が求めるのは、あのケダモノと戦う者だ!

 いくつかの固有名詞を入れ替えたら、現在、日本のテレビや週刊誌やネットであふれている保守派の言説そのままではないか!
 隣人愛や寛容を説くべきキリスト教会の最高指導者候補が、上記のようなセリフを大っぴらに口にする。
 ここバチカンで起きていることは、世界で起きていること、日本で起きていることである。
 (念のため、本作はロバート・ハリス原作のフィクションです。現実のバチカンや枢機卿たちがこの映画の通りだとは限りません)

 上記の保守派枢機卿の発言に対して、人々を納得させる反論のできる者がいるのか?
 他民族、他宗教による祖国への侵犯や文化破壊、強大な武器を持った独裁国家の脅威、テロリズムによる無差別殺戮・・・・こうした危険から身を守るのに、多様性理解や人権がいったいなんの役に立つ?
 そもそも多様性も人権も分からない相手に、どう対応しろと言うのか?
 甘い顔を見せれば蹂躙されるがオチ。
 文化や伝統や社会を守るためには戦わなければならない。
 “太陽作戦”など、文字通り、お伽噺の世界に過ぎない。

 では、信仰との齟齬はどうする?

 答えが簡単には見つからない世界で、どの道を選ぶのがキリスト者としてふさわしいのか。
 枢機卿たちが最後にどういう選択をし、どの候補を教皇に選出したのか、今の世界情勢を憂うすべての人に目撃してほしい。
 驚くべきラストについては、秘しておこう。

 教皇選挙を取り仕切る首席枢機卿を演じるレイフ・ファインズが素晴らしい。『ハリー・ポッター』シリーズのヴォルデモート役で有名だが、本作も十分彼の代表作たりうる。
 『ブルーベルベット』(1986)でデビューしたイザベラ・ロッセリーニが、修道女役で出ているのも見どころ。出番は多くないのにその貫禄たるや! 日本で言えば、山田五十鈴のごとき。
 映像も凝っていて、あらゆるショットがルネッサンス絵画のように美しい。
 実際のバチカン内で撮影したのではないと思うが、教会建築や聖具の美しさ、枢機卿たちの衣装のゴージャスにも目を奪われる。
 システィーナ礼拝堂の天井を飾るのは、もちろんミケランジェロのフレスコ画「創世記」である。

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おすすめ度 :★★★★★

★★★★★ 
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● 映画:『ベイビー・ガール』(ハリナ・ライン監督)

2024年アメリカ
114分

ベイビーガール

 1967年生まれのニコール・キッドマンは御年58。
 それでこのトンでもない役を引き受けて、完璧にこなしちゃうんだから!

 日本でこの役をやれる女優がはたしているだろうか?
 ニコールと同世代の女優達――沢口靖子、高島礼子、山口智子、薬師丸ひろ子、柏原芳恵、米倉涼子、石田ゆり子、天海祐希、内田有紀、松嶋菜々子、鈴木京香e.t.c.――をあれこれ思い浮かべたものの、これはという人が見当たらない。
 最後に、「あっこの人がいた!」と思いついたのは杉本彩。
 団鬼六原作のSM映画『花と蛇』のヒロインを文字通りの体当たりで演じきった彩姐さんなら、日本版ベイビー・ガールになりきれるかもしれない。
 つまり、本作はほとんどポルノ映画なのである。

 と言っても、ニコールの裸が出てくるのはほんの少しだけで、それも本人なのか吹替え女優なのか分からない。
 男優とのセックスシーンやニコールのオナニーシーン、床にうつぶせに押し付けられ男の手によって“イかされる”シーンなど、衝撃的なシーンは次々出てくるけれど、そこで写されるのはニコールの顔のアップであって、身体の動きや局部付近が写されることはない。
 演技とはいえ、欲情と絶頂と恍惚のあられもない表情をさらけ出すニコールの女優魂には驚嘆する。
 アカデミー賞常連の名女優で、もはや注目を集めるためにスキャンダラスな役を引き受ける必要なんてまったくないはずなのに、こんな冒険に挑戦するとは!

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Uki EiriによるPixabayからの画像

 裸とセックスシーンばかりのポルノ映画は、実は猥褻でも害毒でもない。
 それは勝敗のつかないスポーツみたいなもので、最初は「おおっ!」と興奮するが、同じことの繰り返しに観る者はやがて飽きてしまう。
 大島渚の『愛のコリーダ』がそのいい例である。
 観る者にいかがわしさや猥褻を感じさせるのは、裸そのものでもセックスという行為自体でもない。
 抑圧され秘められたセクシャルファンタジー(性的妄想)こそ、いかがわしさの肝である。
 他人のセクシャルファンタジーがさらけ出されるのを垣間見たとき、観る者は「見てはいけないものを見てしまった」ような決まりの悪さや猥褻を感じる。
 なぜなら、往々にして、個人のセクシャルファンタジーのうちにその人の魂の秘密が隠されているからである。
 それを目撃する者は、全裸を見るよりずっと、その人の恥部に接近する。

 本作の場合、CEOという地位も金も家族も美貌も手に入れた成功者であるヒロイン(ニコール・キッドマン)のセクシャルファンタジー(=魂の秘密)は、“屈辱されながらのセックス”というものであった。
 長年連れ添った優しく物わかりよい夫(アントニオ・バンデラス)は、頻繁に彼女の体を求めて愛の言葉をささやいてくれる。
 けれど、彼女がしんに求めている“それ”だけは与えてくれなかった。彼女からも求めることができなかった。
 それゆえ、彼女は欲求不満に陥っていた。
 ある日、若いインターン(ハリス・ディキンソン)が彼女の会社に現われ、彼女の心の奥の秘密を見抜いてしまう。
 社の誰もが敬い怖れる彼女を、インターンはぞんざいに扱う。
 2人は、鍵と鍵穴がはまるように、性の深淵へと突き動かされていく。
 彼女は、母という立場も、妻という立場も、CEOという立場も忘れて、淫欲の罠にみずから嵌っていく。
 人生で手に入れたすべてを失ってしまう危険にさらされても、彼女はその快楽を捨てることができない。
 単に肉体的なエクスタシーを得たいとか、真実の愛をつかみたいというのとは違う衝動がそこにはある。
 この映画は、人間の性の不可解を描いた作品と言えよう。

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アイズワイドシャット(1999年)

 最後まで観て、なぜニコールがこの作品に出ようと思ったのか、ハリナ・ラインという女性監督と組もうと思ったのか、腑に落ちるところがあった。
 本作は、ニコールが当時の夫であったトム・クルーズと共演して話題になった、スタンリー・キューブリック監督の遺作『アイズワイドシャット』(1999年)へのオマージュであると同時に、女性側からの答えなのだ。
 『アイズワイドシャット』では、夫(トム)の妄想と性的冒険が、男性目線で描かれていた。妻(ニコール)はそこから追いやられていた。男の性の物語であった。
 本作は逆に、妻(ニコール)の妄想と性的冒険が、女性目線で描かれている。夫(バンデラス)はそこから追いやられている。徹底的に女性が主役、女の性の物語なのである。
 しかも、『アイズワイドシャット』の夫は、最終的には一線を踏み越えなかった。妻を裏切ることはなかった。
 が、本作の妻は夫を裏切って、若い男との性の快楽に身をゆだねてしまう。

 1999年から2024年の四半世紀におけるフェミニズムの浸透を実感するとともに、ニコール・キッドマンがもはやトム・クルーズが到底かなわないほど、表現者として高みにたどりついたことを、本作は実証する。





おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
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● パブロフ効果 映画:『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』

2020年日本
140分、カラーアニメ
原作 暁佳奈
監督 石立太一
音楽 Evan Call
制作 京都アニメーション

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 なぜだか、このタイトルを口にしようとすると、『エンジェリック・カンバセーション』と言い間違えてしまう。
 まったくタイプの違う作品なのに。
 語呂が似ているせいか。

 TVアニメ版の続編である。
 主人公ヴァイオレットが、戦場で死別したと思われていたギルベルト少佐と再会するまでを描く感動巨編。

 年を取ると、尿道とともに涙腺がゆるむのが人の常。
 ソルティもまた、前立腺肥大による尿漏れとともに、両眼からの失禁がはなはだしい。
 ベタで単純で、制作サイドのあざとさが目立つドラマでも、悲しい調べのBGMがかぶさると、途端にウルウルしてくるのだから、自分が“パブロフの犬”並みに馬鹿になったんじゃないかと思う。
 『砂の器』なんか、映画の最初のタイトルバックに、あの菅野光亮作曲の『宿命』が流れてくるだけで、まつげが熱くなってくる始末。
 還暦まで生きてきて、いろんな人間ドラマを知って共感の幅が広がった、感受性が豊かになった、と言えば聞こえはいいが、そんな高尚なものとは違う。
 コインを入れてボタンを押せば缶飲料が出てくる自動販売機のように、この感情スイッチを押せば「はい、涙」と、回路が単純化しているようにすら思える。

 この劇場版の後半も、泣きっぱなしであった。
 制作サイドの魂胆と手口が分かっているのに、引っかかってしまう。
 鑑賞後に冷静になって振り返れば、ご都合主義の展開や、リアリティの欠如や、キャラクター心理の不可解があると気づくのだが、観ている間は、感動の波に持って行かれて批評精神が埋没してしまう。
 ヒトラーは賢かった。芸術の持つファシズム宣揚効果を甘く見てはいけない。
 本作の場合、美しい映像と手紙の朗読という二つの要素が、とりわけ大きな効果を放っていると思う。
 京都アニメーションの技術の高さは、実写映画を超える域に達している。

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 ここ半月の間に、『ゴールデン・カムイ』と『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という平成令和の人気アニメを続けて鑑賞し、手塚治虫を神様とする日本の漫画&アニメ芸術の偉大さ・美しさ・面白さを実感した。
 と同時に、少年マンガと少女マンガの違いというものも、つくづく感じさせられた。
 男女の性差を強調する言説は昨今あまり歓迎されないけれど、こうやってそれぞれの性別の原作者によって創造され、それぞれの性の鑑賞者によって多大な人気を得ている作品をくらべると、「男女の違いってのはあるよな~」と思わざるを得ない。
 遺伝子から来る脳の機能の違いは否定できない。
 『ゴールデン・カムイ』を「キモイ」、「幼稚」という女子層と、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を「くだらない」、「絵空事」という男子層は、容易には理解し合えないだろう。

 それに関して思うに、現在、日本の移民政策についての議論が盛んだが、そこでは他文化を理解し共生することの難しさが説かれることが多い。
 日本文化とイスラム文化、アフリカ文化の違い、同じアジア圏であっても、タイや中国やベトナムの文化との違いが問題にされる。
 しかし、人類を集団に分けるあらゆる文化仕分けのうち、もっとも異なる二つは、男性文化と女性文化ではなかろうか? 
 その断絶具合に比べたら、日本文化とイスラム文化のギャップなど、フォッサマグナに対する養老渓谷みたいなもんである。
 間違いなく、日本人の男が日本人の女を理解するのは、日本人の男がクルド人の男を理解するより、100倍は難しい。同様に、日本人の女が日本人の男を理解するのは、日本人の女がクルド人の女を理解するより、10倍は難しい。
 世界中のどの国だって、男v.s.女の異文化共生をすでに経験しているのだから、長い長い衝突と忍耐と受容の積み重ねを持っているのだから、いまさら他文化共生に戸惑わなくてもいいはずなのになあ~。
 ――と、『ゴールデン・カムイ』も『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』も同じように面白く鑑賞し、同じように感動したソルティは思うのである。

P.S. どうしても言いたいひとこと。ホッジンズ社長の用いる「ヴァイオレットちゃん」が最後まで馴染めなかった。




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