ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

性にまつわるあれやこれ

● 本:『シャーロック・ホームズのジャーナル』(ジューン・トムスン著)

1993年原著刊行
1996年創元推理文庫(訳:押田由起)

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 英国の女性ミステリー作家ジューン・トムスンによる贋作ホームズシリーズ3作目。
 今のところ、伝記『ホームズとワトスン 友情の研究』をのぞけば、全7作のミステリー短編集が発表されているようで、うち邦訳が出ているのは4作である。
 ほぼ間違いなく、既刊しているものは全部読むことになるだろう。

 シャーロキアンを喜ばせ、まずまず満足させてくれるレベルの贋作であり、謎解きとしても一定の水準をキープしている。
 原作にくらべて全般に、ホームズの推理の冴えや勘が鈍いのと、助手であり親友であり事件の記録者であるワトスンが有能である印象は受ける。
 つまり、2人の差が縮まっている感がある。
 だが、個性的な天才ホームズと忠実で信頼の置けるワトスンの篤い友情は原作そのままで、2人のやりとりから、ベーガー街221Bの薄暗いが居心地の良い部屋が眼前に浮かんでくる。
 20年以上前にイギリスに行ったとき、もちろんソルティは、221Bに建てられたシャーロック・ホームズ博物館に足を運び、至福の時を過ごしたものである。

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Justin VogtによるPixabayからの画像画像

 本作には、7つの短編と付録『ふたり目のワトスン夫人の身元に関する仮説』が収録されている。
 もっとも興味深くかつ鮮やかな推理が展開されているのは、本編より付録であるのはご愛嬌。
 が、知られる限り2度の結婚歴のあるワトスン博士の、語られることなき2番目の奥さん――最初の奥さんメアリー・モーンスタンはいくつかの小説に登場する――に関する探索は、関心を持たざるを得ない。
 ワトスン博士、実はモテるのである。

 かく言うソルティも、若い頃はシャーロック・ホームズ“神推し”であったけれど、年をとるにつれてワトスン博士に惹かれるようになった。
 ワトスンという、地に足の着いた信頼すべきパートナーがそばにいるからこそ、奇態なところ多いホームズはまっとうな社会生活が送られたんじゃないかという気がする。
 恋人にするならシャーロック、結婚するならワトスン・・・・といったところか。





おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● その火を飛び越して来い 映画:『潮騒』(森永健次郎監督)

1964年日活
82分、カラー

 三島由紀夫原作のこの有名なロマンスはこれまでに5回映画化されている。
  • 1954年(昭和29年) 監督:谷口千吉 主演:青山京子&久保明
  • 1964年(昭和39年) 監督:森永健次郎 主演:吉永小百合&浜田光夫
  • 1971年(昭和46年) 監督:森谷司郎 主演:小野里みどり&朝比奈逸人
  • 1975年(昭和50年) 監督:西河克己 主演:山口百恵&三浦友和
  • 1985年(昭和60年) 監督:小谷承靖 主演:堀ちえみ&鶴見辰吾
 ソルティ世代(60年代前半生まれ)は、百友コンビの1975年版に思い入れが深い。
 団塊の世代なら、当然、小百合サマ主演の本作であろう。
 同時上映が、石原裕次郎&浅丘ルリ子の『夕陽の丘』(松尾昭典監督)だったというから、今思えば最高に贅沢なプログラムである。
 他にも、個性的な風貌とたしかな演技力で気を吐いた石山健二郎、清川虹子、高橋とよ等ベテランが脇を固めており、伊勢湾にある神島の美しい風景や中林淳誠による抒情的なギターBGMと相俟って、質の良い映画に仕上がっている。
 半世紀以上前の日本の小島の漁村文化の風景は、記録としても興味深い。
 (神島に行ってみたいな)

神島
ウィキペディア「神島」より

 原作者である三島は第1作の1954年版を気に入っていたらしいが、本作はどう評価したのだろうか?
 気になるところである。
 とりわけ、主役の漁師久保新治を演じた浜田光夫をどう思っただろう?
 ソルティの受けた感じでは、浜田は演技は悪くないが、都会的な匂いが多分にあり(潮の匂いというより地下鉄の匂い)、漁師としての肉体的逞しさにも欠けるように思う。
 ふんどしも似合わないだろう。(有名な「その火を飛び越して来い」のシーンではふんどし姿にならない)
 個人的には過去5作の新治役の中では鶴見辰吾が一番イメージ的にしっくりくるが、まあ全作観ていないので何とも言えない。

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有名な「火越え」シーン
原作の書かれた50年代には神島にジーンズは入ってなかったろう

 小百合サマはあいかわらず可愛らしく華がある。
 美少女には間違いないけれど、角度によっては意外と芋っぽく見える瞬間があり、島の長者の娘初江として、それほど場違いな感じはしない。
 なにより溌剌としたオーラーが若さを発散して惹きつける。
 
 島の海女たちのリーダーおはる(高橋とよ)が、初江(小百合)が生娘かどうか確かめるため、仕事を終えた仲間と語らう浜辺で、初江の乳房を観察するシーンがある。
 80年代までなら上映に際して別になんら問題の生じなかったシーンであるけれど、令和の現在はなんらかの脚色(=取り繕い)が必要になって来よう。
 この小説が、85年を最後に映画化されていないのは、そのあたりの事情もあるのかな?
 昭和文学ってのは、ジェンダー視点からはかなり悪者になってしまった。
 
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小百合の乳房を確認する高橋とよ
このあと「おらのは古漬けだ」というセリフが来る






おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 本:『ぼくには数字が風景に見える』(ダニエル・タメット著)

2006年原著発行
2007年講談社より邦訳刊行
2014年講談社文庫

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 ダスティン・ホフマンが『レインマン』で演じたレイモンド・バビットと同じサヴァン症候群の青年の自叙伝である。
 1979年ロンドン生まれのダニエルは、現在43歳。
 本書では生まれてから26歳までのことが書かれている。

 サヴァン症候群は「非凡な才能と脳の発達障害をあわせ持つ人々」のことを言い、記憶、計算、芸術などの領域において超人的な才能を発揮する。
 ダニエルは円周率2万桁以上を暗唱し、10カ国語を操り(アイスランド語を習得するのに一週間しかかからなかった)、難しい計算を秒速で回答し、×年×月×日が何曜日になるか即座に言い当てることができる。
 また、数字に色や感情、動きを感じる共感覚者でもある。
 紛れもない天才なのだが、一方、アスペルガー症候群という障害も抱えており、

    1.  人の心の動きや社会的な約束事がよくわからないため、他人とのコミュニケーションが難しく、集団において期待される適切な行動がとれない。
    2.  同一の事物にこだわりが強く、新しい事柄や環境をなかなか受け入れられない。

という特徴を持つ。

 本書には、周囲の人間とあまりに違うがゆえに、両親も本人も幼少時から非常に苦労してきたことがありのまま書かれている。
 とくに、ダニエルの両親の忍耐強さ、愛情深さ、度量の広さには感心するほかない。
 この両親がいたからこそ、ダニエルはいじけることも絶望することも閉じこもることもなく、自らを受け入れ、周囲に心を開き、友人や恋人を作り、海外での仕事やテレビ出演などさまざまな挑戦を自らに課し、社会参加できたのだろう。
 ある意味、この本の主役はダニエルではなくて、彼の両親という気がするほどだ。

 それを示す象徴的なエピソードの一つが、ダニエルが自分がゲイであることに気づき、両親にカミングアウトするシーンである。(ゲイというセクシュアリティと、サヴァン症候群あるいはアスペルガー症候群といった自閉症に、なんらかの相関があるかは不明)

 ふたりにきちんと話を聞いてもらいたくて、ぼくはテレビのところに行って電源を切った。父は不満そうに口を開きかけたが、母はぼくを見つめてぼくが話しだすのを待った。口を開くと自分の声――小さなしゃがれ声――が聞こえた。その声はぼくはゲイで、とても好きになった人と会うつもりでいる、と告げていた。両親はしばらく口をきかず、ぼくを見つめるばかりだった。ようやく母が、それはまったく問題ではないし、あなたに幸せになってほしいと思っている、と言った。父の反応も肯定的で、きみが愛し愛される相手と出会えることを願っている、と言った。

 障害があったりLGBTであったり、あるいは多くの人と違った特質を持っていたりすること自体は副次的な問題に過ぎず、大切なのはそうした違いを否定せずにありのままに受け入れ、見守り、本人のストレングス(強み、長所、特技)を引き出してくれる周囲のあり方なのだ、と本書は教えてくれる。
 そのようにしてダニエルのような天才が彼なりに健やかに育ち、ストレングスをもって社会貢献してくれるとしたら、それは人類社会にとって大きな利益にもなる。
 人と違っていることは、新しい何かを生み出せる潜在力を有しているってことなのだ。

 ソルティはサンドイッチマン&芦田愛菜司会のTV朝日『博士ちゃん』が好きでよく観るのだが、出演する博士ちゃん――大人顔負けのこだわりの趣味・特技をもつ、クラスでは浮きがちな小・中学生――を観ていると、「日本の未来も明るい」と思うのである。


博士ちゃん




おすすめ度 :★★★

★★★★★
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● 吉田監督、追悼 映画:『炎と女』(吉田喜重監督)

1967年松竹
101分

 人工授精をテーマとする夫婦の愛憎劇。
 主演はもちろん、吉田監督の生涯のパートナーである岡田茉莉子。

 人工授精は夫の精液を用いる「配偶者間人工授精(AIH)」 と第三者男性からの提供精液を用いる「非配偶者間人工授精(AID)」に分けられる。
 夫の精液を用いる場合(AIH)は、通常の性交による膣への精液注入を他の手段に置き換えただけの話なので、合意のある夫婦間にさしたる問題は生じなかろう。
 たとえば、妻がHIV感染している場合、コンドームを使わない通常の性交だと夫にHIVをうつしてしまう可能性がある。
 安全な方法での妊娠を望むなら、夫の精液をビーカーなどに取っておいてそれをシリンジを使って妻の膣に注ぐという手がある。
 感染している母親から胎児・乳児にHIVがうつる確率は、先進国ではほぼゼロに近づけることができるので、これなら母親がHIV感染者であっても子供を安全につくることができる。
(ちなみに、父親がHIV感染者である場合でも、精液の科学的処理と体外受精によって子供を安全につくることができる)

 夫婦間に、あるいはのちのち親子間に問題が生じやすいのは、夫が無精子症などのため第三者の精液を使用したAIDの場合であろう。
 性交による授精ではないにしても、妻は夫でない男の精液を体内に注入され、夫でない他の男を遺伝上の父親とする子供を産んで育てなければならない。
 夫は、自分でない男の精液が妻に注がれ、遺伝上の実子ではない子供をおのれの子として育てなければならない。
 生まれてきた子供は、いつの日か自らがAIDによってできたことを知るかもしれない。
 血液型では判定できなくとも、遺伝子検査をすれば簡単にわかる。
 子供はショックを受けるかもしれない。
 自分の実の父親が誰なのか知りたがるかもしれない。
 家族関係が微妙に変わるかもしれない。

 本作で描かれるのは、このAIDを行なった夫婦の姿である。

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Clker-Free-Vector-ImagesによるPixabayからの画像

 子供は欲しいがつくることができない夫・真五を木村功が演じ、夫との愛ある生活があれば別に子供はいらなかったのに人工授精を強いられて産むことになってしまった妻・立子を岡田茉莉子が演じている。
 AIDにより子供をつくったことによって、穏やかに暮らしていた夫婦に亀裂が生じ始める。
 真五は自分が本当の父親でないことに引け目を感じ、血のつながった立子と息子・鷹士の母子関係を前に、自分が疎外されているような感覚を抱く。
 立子がほかの男と浮気しているという妄想を抱く。
 一方の立子は、精子の提供者=鷹士の本当の父親が誰なのか気になってならない。
 十分納得した上でつくった子供ではないので、生んだ鷹士への愛情もどこかなげやりである。
 このような境遇に自分を追いやった真五に対する恨みが払拭されないままでいる。

 そんな微妙な二人の関係に、やはり複雑な関係にあるもう一組の夫婦が絡まる。
 真五の友人である坂口(日下武史)と妻のシナ(小川真由美)。
 二人は愛情のない打算的な結婚をし、見かけだけの夫婦生活を送っていた。
 坂口は立子に思いを寄せており、シナは2人の関係を疑っている。
 しかも厄介なことに、坂口こそが鷹士の真の父親=精子提供者であり、そのことを真五だけは知っていたのであった。

 なんつー、面倒な四角関係であろうか?
 わけても、精子提供者である坂口と交友関係を結び続け、あまつさえ何も知らない妻や息子(坂口の遺伝上の実子)と合わせ続ける真五の倒錯性がこわい。
 自らを傷めたいマゾヒストなのか?

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左から、岡田茉莉子、小川真由美、日下武史、木村功

 話が全般暗く、人工授精に対する観念も古臭く、吉田監督の好きな男女のドロドロがここでも執拗に描かれるので、ソルティは途中でうんざりしてしまった。
 アラン・レネ監督の『去年マリエンバードで』を思わせるスタイリッシュなショットの連鎖と洗練されたセリフは見事である。
 
 一番の見どころは、岡田茉莉子、小川真由美、木村功、日下武史という実力派4大スターの競演であろう。
 映画的演技の巧みな岡田茉莉子&木村功ペアに対し、いかにも演劇的演技の小川真由美(当時は文学座所属)&日下武史(劇団四季)ペアという対比も面白いし、茉莉子と真由美の気の強い美女対決も楽しい。(茉莉子のほうが6つ年上)
 後者について言えば、監督が夫であるため茉莉子の美貌がひたすらに強調されているのは、『樹氷のよろめき』『情念』『水で書かれた物語』同様。
 愛妻家だったのだなあ。

 吉田喜重監督は本年12月8日に亡くなられた。享年89歳。
 ご冥福をお祈りします。





おすすめ度 :★★

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● 時代の壁 オペラライブDVD:ヴェルディ作曲『リゴレット』

収録日時 2001年7月21日
開催場所 アレーナ・ディ・ヴェローナ(イタリア)
キャスト
  • リゴレット: レオ・ヌッチ(バリトン)
  • ジルダ: インヴァ・ムーラ(ソプラノ)
  • マントーヴァ公爵: アキレス・マチャード(テノール)
指揮: マルチェッロ・ヴィオッティ
演出: シャルル・ルボー
アレーナ・ディ・ヴェローナ管弦楽団・合唱団・バレエ団

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 タイトルロール(表題役)をつとめたレオ・ヌッチは、他に『トスカ』『ナブッコ』『仮面舞踏会』をDVDで観ている。
 こわもての風格ある舞台姿と性格俳優のような渋い演技力、朗々とした正統的な歌いっぷりが特徴的な名バリトン。
 ここでも古代の野外劇場を埋め尽くす満場の聴衆相手に、非の打ちどころない歌と演技を披露し、スターの存在感を見せつけている。

 インヴァ・ムーラーを聴くのははじめてだが、美しい人である。
 このときすでに40歳近いと思われるが、10代の乙女であるジルダになりきっている。
 観客にそう錯覚させるに十分な清らかさと愛らしさを、計算された歌唱と演技と表情とで作り上げるのに成功している。
 元来リリック・ソプラノなので、たとえばエディタ・グルベローヴァのジルダのような超絶高音と超絶コロラトューラは持っていないのがいささか物足りない向きもあるけれど、「リゴレットが命に代えてでも守りたい宝」という設定を観客に納得させてあまりない。
 この人の椿姫を観てみたい。

 マントーヴァ公爵役のアキレス・マチャードは可もなく不可もなし。
 演奏も演出も手堅く、映像記録として商品化するレベルは十分クリアしている。
 有名なアリアや重唱のアンコールがあるのも、お祭り気分の会場の様子が伝ってきて楽しい。

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アレーナ・ディ・ヴェローナ
《etiennepezzuto92によるPixabayからの画像》

 舞台の出来栄えは文句ない。
 が、やはりソルティはこの演目がどうにも受け入れ難い。
 時代が時代だから仕方ないと重々分かっているものの、あまりにアホらしいプロットにげんなりして入り込めない。
 というのも、この物語の根本動因をなすのは“処女信仰”だからだ。

 手あたり次第に気に入った処女を食い散らかす主君マントーヴァ公爵の魔の手から、最愛の娘ジルダの処女を守り抜きたいリゴレット。
 ところが、ジルダは貧困学生に変装したマントーヴァに恋してしまい、公爵の手下の者どもに拉致されたあげく、いともたやすく処女を奪われてしまう。
 大切な娘が汚された!!
 怒りと嘆きの極みに達したリゴレットは復讐を誓い、殺し屋を雇う。
 が、マントーヴァを助けたい一身のジルダが先回りし、自ら犠牲になって殺し屋の刃を受ける。
 死に逝く娘を前に、なすすべもなく運命を呪うリゴレット。

 書いていても、あまりの世界観のギャップに辟易する。
 娘の処女を守るため教会以外はいっさい外出を許さない父親ってのもナンセンスだし、ジルダの犠牲的精神もまったく意味不明で、これで「涙を流せ」ってのは無理な話。
 が、このプロットに人々が共感し感動できた時代があったのである。
(いや、今でも感動できる人はいるのだろうが)

 評論家諸氏は、同時期のヴェルディの傑作『イル・トロヴァトーレ』をして、「プロットが複雑でリアリティに欠ける」と言うのだが、ソルティにしてみれば、『リゴレット』のほうがよっぽど理解しがたく、不愉快である。
 すばらしいアリアや重唱やオーケストレイションがあふれているので、この作品はヴェルディ前期の傑作の一つとしていまだに上演され続けているのだけれど、今となっては音楽のクオリティをもってしてもカバーできないくらいのポリコレ抵触、いや女性蔑視物件であろう。
 それにくらべれば、リゴレットの背中の瘤なんか目に入らないほどだ。

 何世紀も前の時代劇の設定に、現代の感覚から物申すのはルール違反と分かっているのだが、壁を乗り越えるのにもほどがあるってことを教えてくれる作品である。(少なくともこれが喜劇ならまだ受け入れやすかったかもしれないな)

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Christine EngelhardtによるPixabayからの画像画像




おすすめ度 :★★

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● 本:『美少年日本史』(須永朝彦著)

2002年国書刊行会

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 歌人にして作家の須永朝彦が、あまたの史書や古記録を紐解いて、日本史を彩る美少年たちを時代を追って紹介したもの。
 神代の昔から語り起こして、在原業平や世阿弥や森蘭丸といった有名どころから、はじめてその名を聞く稚児や喝食(かつじき)やお小姓や若衆、しまいは銀幕の美男スターやジャニーズ事務所のタレントに至るまで、何十人もの美少年が登場する。
 ちなみに、密教寺院にいた美少年を稚児、禅宗寺院にいた美少年を喝食と呼んだそうな。

 あとがきで著者が書いているように、

 かつての日本では、性愛の在り方が西洋などとは相当に異なり、男性の同性愛に対するタブーが殆ど無かったので、美少年の迹を追う事は、取りも直さず男色の歴史を辿るに等しく、必然的に本書も〈衆道史〉の色を帯びるものになった。

 まったくのところ、全編これ、日本男色史と言っていい。
 どこそこの偉い僧侶が稚児に執着したとか、どこそこのお武家様がお気に入りの小姓を取り立てたとか、どこそこの念者が嫉妬に駆られて若衆を斬り殺したとか、そんな話のオンパレード。
 しまいには飽きて、面白そうなところだけ拾い読みした。

 それにしても、男色は日本のお家芸とは知っていたが、こうまで広く深く浸透しているとは!
 世界史を見ても、ここまで大っぴらな男色の伝統を(近代まで)有しているのは、日本以外にはなかろう。
 日本って、日本の男って、ほんとフシギ。
 とりわけ、武家社会になってからの男色の横行には唖然とするものがある。
 戦国大名は、隣接するライバルと良好な関係を築くため、自らの娘はむろんのこと、最も美しい息子を贈り物として差し出した。
 足利義満、伊達政宗、武田信玄、織田信長、豊臣秀次、徳川家康、徳川家光、徳川綱吉・・・・。
 これら権力者は揃って美少年を好み、側近に引き立てた。
 つまり、男色文化が日本の政治に大きな影響を与えたということである。
 男色というテーマを抜きにして日本の歴史を考えることは、たいへんな片手落ちなのではあるまいか?

青い蓮

 さて、最後にソルティが選ぶ「日本美少年ベスト10」を発表したい。
 歴史に登場する順で。
  • ヤマトタケル・・・実在人物かは不明。熊襲征伐の際に女装して酒席に乗り込み、その美貌で敵をメロメロにして打ち取った英雄。
  • 厩戸皇子・・・山岸涼子の人気コミック『日出処の天子』の印象が強い。厩戸皇子は女嫌いのゲイで、ノンケの蘇我毛人に恋慕するという設定。
  • 在原業平・・・『伊勢物語』に出てくるプレイボーイ。かつて、美男子のことを「今業平」と言ったとか。
  • 平敦盛・・・平清盛の甥っ子。17歳の若さで討ち死にした。「一の谷のいくさ破れ 討たれし平家の 公達あわれ」で知られる唱歌『青葉の笛』は敦盛を歌ったものである。
  • 源義経・・・「京の五条の橋の上」で軽やかに宙を舞う牛若丸のイメージが強い。『鎌倉殿の13人』では令和の美青年・菅田将暉が演じていた。
  • 世阿弥・・・その美貌ゆえ足利義満にいたく寵愛された。能が世界に誇る伝統芸能となったのも世阿弥の美貌と義満の男色趣味あってのこと。
  • 森蘭丸・・・織田信長の秘蔵っ子。本能寺の変に際しては槍をとって防戦に当たり、最後は信長に殉じた。その死に様も誉れ高い。
  • 天草四郎時貞・・・島原の乱でクリスチャンらが担ぎ上げたカリスマリーダー。不思議な力を持っていたところもポイント高い。昭和の世に生まれ変わって美輪サマになった話は有名。
  • 長谷川一夫・・・銀幕一の美男スターと言えば、必ず名前が上がる。林長二郎という芸名だった昭和12年、暴漢に襲われて顔を傷つけられ、日本中を騒然とさせた。
  • 美輪明宏・・・「神武以来の美少年」と讃えられ、江戸川乱歩や三島由紀夫に可愛がられたのはもはや伝説。この人の素晴らしいのは外見のみならず、心や生き方も美しいところ。
 あなたが選ぶベストテンは如何に?

長谷川一夫
長谷川一夫



 
おすすめ度 :★★

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● 粛清された官能 クラースヌイ・フィルハーモニー管弦楽団 第4回定期演奏会


 クラースヌイとはロシア語で「赤」あるいは「美しい」「情熱」を意味する言葉だという。
 2018年に発足した20~30代中心のアマオケで、ロシア音楽を中心に演奏している。
  
 発足時にはよもや今のような状況になるとは思わなかっただろう。
 ロシアのウクライナ侵攻が始まって、ロシアの国際評価は急降下。
 海外で活躍するロシア出身の音楽家たちも肩身の狭い思いをしている。
 配布プログラムによれば、当オケの団長さんも、「このままロシア音楽中心のオケでいいものだろうか」と逡巡したそうだ。
 
 しかし、音楽自体に罪はないこと、そして、特定の国家の文化をすべて拒絶してしまうことは、その国家への差別や偏見を生み、果ては惨事を生み出す基となると考え、音楽活動を継続することを決意しました。(第4回定期演奏会プログラムより抜粋)
 
 そのとお~り!
 音楽にお国柄はあっても国境はない。
 むしろこういう時期だからこそ、人間らしさ・庶民らしさてんこ盛りのロシア音楽の神髄を市民に送り届けて、ロシア国民もまた日本人を含む全世界の人々同様、赤い血潮に満ち、愛する人のために熱い涙をこぼす人間であることを訴えてほしい。

クラースヌイ演奏会


日時 2022年10月29日(土)18:00~
会場 和光市民文化センター・サンアゼリア大ホール
指揮 山上 紘生
曲目
  • 伊福部 昭: SF交響ファンタジー 第1番
  • G. スヴィリードフ: 組曲《時よ、前進!》
  • A. モソロフ: 交響的エピソード《鉄工場》
  • D. ショスタコーヴィチ: 交響曲第1番 ヘ短調
サンアゼリア
和光市民文化センター・サンアゼリア

 まずもって選曲のユニークさに惹かれた。
 《SF交響ファンタジー第1番》は、伊福部昭が音楽を担当した東宝の『ゴジラ』『キングコング対ゴジラ』『宇宙大戦争』『フランケンシュタイン対地底怪獣』『三大怪獣 地球最大の決戦』『怪獣総進撃』の6本の特撮映画の楽曲から構成されている。
 幼い頃からスクリーンやTVモニターを通して聴いたことある曲ばかりだが、生演奏で聴くと迫力が違う!
 金色に輝くチューバの巨大な朝顔部分を、キングギドラの首と錯覚した。

 映画音楽作家としての伊福部昭の才能はいまさら言うまでもないところだが、ソルティが特に感心したのは、東宝の『日本誕生』である。
 古代が舞台の物語において、ヤマト(和風)、熊襲(中国・朝鮮風)、蝦夷(アイヌ風)と場面ごと民族ごとにふさわしい調子で書き分ける器用さには舌を巻いた。
 昨今、『砂の器』などシネマコンサートが流行りであるが、デジタルリマスタ―した『日本誕生』も上演候補リストに入れてもよいのではなかろうか。
 アマテラスを演じる原節子の類なき美貌や、ヤマトタケルを演じる三船敏郎の名演とともに、伊福部の天才を若い人々に伝導する機会となること間違いなし。

 G. スヴィリードフとA. モソロフは初めて耳にする名前。
 むろん曲を聴くのも初めて。
 組曲《時よ、前進!》は、1965年にソ連で上映された同名のドラマ映画のために作られた。1930年代の製鉄所を舞台とする話だとか。
 一方、交響的エピソード《鉄工場》は、1926年に作曲された短い(たった4分)管弦楽曲。タイトル通り、人類初の社会主義国家として誕生したばかりのソ連の製鉄所の風景が描かれている、いわゆる叙景音楽。
 製鉄という共通項がある。

 ソ連の国旗を見ると分かるが、鎌と槌こそは農民と労働者階級との団結を示し、共産主義の最終的勝利を象徴するシンボルだった。
 リズミカルに力強く響きわたる鉄打つ槌の音に、指導者も人民も、古い世界を打ち壊して新しい世界を創造する「希望と力と連帯」とを感じ取ったのだろう。
 いまや100年も昔の話である。
 《鉄工場》の最後のほうに、舞台上で実際に鉄板を木槌で打ち鳴らす箇所がある。
 プログラムには、理想の鉄板を求めて徳島の鉄工所まで旅する団員達のエピソードが載っていた。
 苦労の甲斐あって、本番では「希望と力と連帯」を感じさせるイイ音を発していた。
 鉄板奏者に限らず、全体的に金管楽器奏者の奮闘が目立った。 

ソ連国旗

 最後のショスタコーヴィチ。
 衝撃的であった!
 ソルティは今年1月に、東京大学音楽部管弦楽団の定期演奏会でショスタコーヴィチを初めて聴いた。
 交響曲第5番《革命》、指揮は三石精一であった。
 そのときに、スターリン独裁の地獄と化してしまった全体主義国家における、一人の芸術家の苦悩と鬱屈、抑圧され歪んでしまった才能を感じ取った。 
 滅多にない素晴らしい才能であるのは間違いないけれど、ショスタコーヴィチの本来の感性や生まれもっての個性が不当に歪められ押し潰されている。
 そんな印象を受けた。

 今回衝撃だったのは、第1番を聴いて、ショスタコーヴィチの本来の感性や個性がいかなるものであるか知らされた気がしたからである。
 そう、第1番作曲は1925年。誕生して間もないソ連では革命の英雄レーニンが亡くなり、スターリンが最高指導者に就いたばかり。ショスタコーヴィッチはまだ19歳の学生だった。
 スターリンによる大粛清が始まったのは30年代に入ってからなので、この頃はまだ自由に好きな曲が作れたわけである。
 1937年に作られた第5番との曲想の違いがとてつもない。
 同じ作曲家の手によるものとは思えないほどだ。
 
 なにより驚いたのが、全曲に染み渡っている〈美と官能〉。
 まるでワーグナーとシェーンベルクの間に生まれた子供のようではないか。
 とりわけ、第3楽章、第4楽章のエロスの波状攻撃ときたら、客席で聴いているこちらのクンダリーニを刺激しまくり、鎖を解かれた気の塊が脊髄を通って脳天に達し、前頭葉からホールの高い天井に向けて白熱する光が放射されている、かのようであった。
 こんなエロチックで情熱的な作曲家だったなんて!
 まさに、モーツァルト、マーラー、ワーグナー、サン・サーンス、シェーンベルク、モーリス・ラヴェル、R.シュトラウスら“官能派”の正統なる後継ではないか。(スクリャービンは聴いたことがありません、あしからず)
 
 クラシック作曲家の才能とは結局、音を使って「美」を表現する天賦の才のことだと思うが、その意味ではショスタコーヴィチの天賦の才は、ひょっとしてワーグナーやマーラーを超えるものがあったのではなかろうか。
 というのも、19歳でこのレベルなのだから。
 交響曲第1番は、これから作曲家として世に出ようとする将来有望な若者が、美の女神に捧げる贈り物であると同時に、人生を音楽にかける決意といった感じ。
 この才能が、体制によって歪められたり矯正されたり忖度を強いられたりすることなく、そのまま素直に伸びていったら、どんなに凄い(エロい?)作曲家になっていたことだろう。
 いや、いまだって十分に凄いわけであるが、進取の気と創造力と愛欲みなぎる人生の数十年間を、無駄に費やしてしまったのではないか?と思うのである。
 
 この美と官能の世界に見事にジャンプインして、巧みに表現した山上紘生には恐れ入った。
 初めて接する指揮者であるが、貴公子然とした清潔感あふれる穏やかな風貌の下には、おそらくエロスと情念の渦がうごめいているのだろう。
 若いオケとの相性もばっちり。

 次回(2023年3月11日)は、ショスタコーヴィチ第7番《レニングラード》をクラースヌイ&目白フィル合同で振るという。
 これは聴きに行って事の真偽を確かめなければ。
 
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 ホール内にあったハロウィン飾り
 




● ピーター、芳紀17歳 映画:『薔薇の葬列』(松本俊夫監督)

1969年ATG配給
105分、白黒

 渋谷区立松濤美術館で10/30まで開催の『装いの力 異性装の日本史』展において、この映画が展示作品の一つとして紹介されていた。
 60年代後半の女装ゲイボーイを主人公とするLGBT映画である。
 監督の松本俊夫はアヴァンギャルド(前衛的)なドキュメンタリーを多く作ってきた人だが、本作以外の長編映画では、秋吉久美子の初主演作『十六歳の戦争』(1973年)や夢野久作原作の『ドグラ・マグラ(1988年)などを撮っている。

 アヴァンギャルドの代名詞とも言える「凝った映像、ショッキングなショット、分かりにくい筋書き、価値観の反転、時間と空間の飛躍、現実と虚構の曖昧化、反体制的な志向」が、ここでも見られる。
 もっとも、当時は世間常識を驚かしおびやかし反感を買ったであろう素材――女装するゲイボーイの生態、男同士のセックス、ドラッグにふける若者、路上の奇妙なパフォーマンス集団――は、今となってはなにも目新しいものはない。
 むしろ、ゲイや女装者に対する当時の社会の好奇な目線や、ゲイボーイとして働く当事者の屈折した心理や展望のない生き方があぶり出され、「こんな時代であったか・・・」と歴史を感じてしまった。
 
 映像表現そのものは、かなり凄い。
 松本がもともと美術畑の人間であったこともあり、構図の見事さ、白黒フィルムならではの陰影表現、洗練されたシュールリアリズム、滑稽化された様式美など、その才に圧倒される。
 海外でも上映され、ジャン・ジュネの映画(『愛の唄』か?)と並ぶほどの高い評価を得たというのも頷ける。
 当時17歳のピーター(池畑慎之介)衝撃のデビュー作というアオリ文句がなくとも、これ一作で松本の名は残るだろう。

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松本監督はピーターを六本木のゲイバーで発見したという
 
 本作の面白いところは、前衛映画でありながら古典的でもあるところ。
 最後まで観て驚いたのだが、なんと古代ギリシア演劇の傑作『オイディプス王』が下敷きになっていたのである。
 運命のいたずらから、自ら知らぬまま実の父親を殺し実の母親とまぐわった王子の話。
 これがどう脚色されるかは詳らかにしないが、前衛と思って観ていたものが「あれよあれよ」と古典に様変わりし、現代風俗ドラマが古今東西通ずる人間悲劇に転じる。
 その圧倒的力学が観る者を薙ぎ倒す。
 大昔のLGBTドラマと思っていたら、しっぺ返しを喰らう。

P.S. 淀川長治さん特別出演にはたまげた。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● トランス波、襲来!? 『装いの力 異性装の日本史』展(松濤美術館)


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 コロナ世になってはじめての渋谷。
 ミキ・デザキのドキュメンタリー映画『主戦場』を見に行って以来だから、3年ぶりか。
 あれから日本の政治状況はずいぶん変わったが、渋谷駅周辺の変わりようにもぶったまげる。
 来るたびに新しい高層ビルが増えていく。
 渋谷交差点の四方八方から押し寄せる人波と、波をかき分けて進む船の舳先のような109ビルのたたずまいは、相変わらずであった。

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渋谷駅ハチ公口

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渋谷交差点と109ビル

 109の右側の坂を上がって東急デパートの左手の道を10分ほど歩けば、渋谷区立松濤(しょうとう)美術館に着く。
 今日は、9/3から開催されている上記の展示が目的。
 ちょうど三橋順子『歴史の中の多様な「性」』を読んだばかりで、グッドタイミングであった。
 今回の展示は「多様な性」の中でも、とくにトランスジェンダーに焦点を当てたものと言うことができる。
 新しい奇抜なモードの発祥地であり、LGBTパレードが毎年開かれる渋谷という街に、まさにピッタリの催し。
 土日は予約が必要なほど混みあうらしいが、ソルティが行ったのは平日の昼間だったので、存分に見学することができた。
 が、それでも館内の人の列は途絶えることなかった。
 トランス波、来てる~!


 闘いにあたって女装したヤマトタケルや武装した神功皇后の逸話がある神代の昔から始まって、王朝時代の男女入替え譚である『とりかえばや物語』やお寺の稚児さん、木曽義仲の愛妾にして女武士・巴御前、江戸時代の若衆(陰間)や歌舞伎の女形、村の祭礼における男装女装の習俗、そして文明開化から現代までのトランスジェンダーの歴史が、絵巻物のように紐解かれる。
 絵画あり、古文書あり、写真あり、武具や衣装あり、マンガや動画あり、オブジェありのバラエティ豊かな展示であった。

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2階フロアのオブジェ
現代のトランスジェンダーたち

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 マンガの例としては、手塚治虫『リボンの騎士』のサファイア、池田理代子『ベルサイユのばら』のオスカル、江口寿史『ストップ‼ ひばりくん ! 』が挙げられていた。
 どれもTVアニメ化されるほどの人気を得た。
 自分が幼い頃から異性装アニメを普通に観て育ってきたことに、今さらながら気づかされる。(付け加えるなら『マジンガーZ』のアシュラ男爵・・・)
 それはなるほど我が国の庶民レベルでのトランスジェンダー“表現”に対する寛容度を示すものに違いない。
 が同時に、日常空間におけるジェンダー規定の厳格さをも意味しているのだと思う。
 つまり、男と女の差がきっぱりと分かれている社会だからこそ、そこを越境する主人公の非日常的振る舞いが視聴者を惹きつけるドラマになり、感動を呼び得るのである。

 非日常を許容する日常、あるいは非日常(ハレ)によって刷新される日常(ケ)――みたいなものが日本文化の伝統として、また社会維持の仕掛けとして、存在したんじゃないか。トランスジェンダー的なものはその触媒として働いたんじゃないか、と思う。
 
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おすすめ度 :★★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 
 

● 王家の紋章 映画:『冬のライオン』(アンソニー・ハーヴェイ監督)

1968年イギリス、アメリカ
137分

 原作はジェームズ・ゴールドマンの戯曲。
 12世紀のイングランド国王ヘンリー2世(1154-89)を主役とする歴史劇。

 権謀術数と暗殺と戦闘シーン満載の派手な歴史大作かと思ったら、なんのことはない、ヘンリー2世一家の家族ドラマだった。
 ヘンリー2世と妃エレノアの間に生まれた3人の息子リチャード、ジェフリー、ジョンに、フランス国王フィリップ2世やヘンリーの愛人アレースが絡んで、愛と不信と欲とプライドが錯綜するハタ迷惑な家族バトルが勃発する。
 まあ、もともとブロードウェイの舞台にかかっていたのだから、このくらいのサイズが順当であった。

 とは言え、夫婦喧嘩や兄弟喧嘩が『渡る世間は鬼ばかり』のような単なる内輪もめで終わらないところが、支配者の支配者たるゆえん、王家の王家たる宿命である。
 たとえば、兄弟のうち誰が一番親に愛されるかは、庶民の家庭ならせいぜい遺産相続のトラブルで済む話だが、これが王家だと誰が次の国王(=支配者)に指名されるかという、国家の未来と国民の運命を左右する大問題となる。
 同様に、夫が糟糠の妻を捨てて若く美しい愛人に走るのは、庶民レベルなら家庭裁判所での愁嘆場(または修羅場)くらいの話で済むが、これが国王夫妻ともなると、ローマ法王の許可が必須な宗教問題へと発展する。
 広大な領地と巨額な財産と圧倒的な権力は得られても、あたりまえの普通の家庭の幸福は絶望的に得られない一家の悲喜劇が描かれている。
 
 まあ、とにかく出演者の面々が豪華極まる!
 ヘンリー2世には『アラビアのロレンス』、『ラストエンペラー』のピーター・オトゥール、王妃エレノアには米国アカデミー主演女優賞を4回も獲得しているキャサリーン・ヘップバーン、リチャード王子には『羊たちの沈黙』、『日の名残り』のアンソニー・ホプキンス、フランス国王フィリップには第4代ジェームズ・ボンドとなったティモシー・ダルトン。
 アンソニー・ホプキンスは本作が映画デビューで、当時31歳。なんと同性愛者の王子という設定である(実際のリチャード1世がゲイであったかどうかは不明)。
 つまるところ、本作の見どころのすべては名優たちの演技合戦に集約される。
 とりわけ、ピーター・オトゥールとキャサリーン・ヘップバーンの共演シーンでの斬るか斬られるか丁丁発止の応酬は、スリリングかつユニークであると同時に、西洋演劇における高度の演技術の模範とも言えよう。
 
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キャサリーン・ヘップバーンとピーター・オトゥール

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アンソニー・ホプキンスとティモシー・ダルトン
2人はかつて男色関係にあったという設定である


 ところで、『冬のライオン』とは晩年のヘンリー2世という意味で、彼がイングランド王室紋章にライオンのデザインを採用したことによる。
 これが現代の英国国王の紋章にも受け継がれている。
 
イングランド国王紋章(ヘンリー1世)
ヘンリー1世時代の紋章

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現在の紋章
エリザベス2世の冥福を祈る



おすすめ度 :★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 実朝はゲイだった? 本:『歴史の中の多様な「性」』(三橋順子著)


2022年岩波書店

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 この本、面白かった。
 著者がいみじくも「あとがき」で書いているように、「文化人類学、民俗学、社会学、地理学などのごった煮」風なのであるが、それがかえって、特定の専門分野の研究書にありがちな硬直と無味乾燥から免れる結果を生み、幅広い読者の楽しめるものに仕上がっている。
 日本を含むアジアの歴史の中に多様な「性」が存在してきたことを、令和日本人に知ってもらうためには有益なことである。
 そもそも「性」というテーマを語るのに、上記のような専門分野はどれもあまりにも間口も奥行きも狭すぎる。

 欧米では「セクソロジー(性科学)」という学問分野が確立していて、セクソロジスト(性科学者)という専門研究者が大学などで、性医学、心理学、生物学、性教育などの研究や講義を実践している。
 日本の大学に「セクソロジー」を専門とする学部や専攻があるのかどうか、ソルティは聞いたことがない。(講義レベルではあると思うが)
 本書で著者が扱っているテーマは、どちらかと言えば理系的アプローチの「性科学」とは異なり、文系的アプローチによる「性文化現象学」とでも名付けたいような、まったく新しい領域である。
 文化人類学、民俗学、歴史学、地理学、社会学、文学、芸術、そして性科学などを横断しまた統合する「性文化現象学」――これこそ、「性」の多様性の長い歴史と伝統を誇る我が日本が、世界に先駆けて開拓・創造できる学問分野なのではなかろうか。
 
 著者の三橋順子は1955年埼玉県生まれの性社会文化史研究者(←という肩書をつくるほかなかったのだろう)
 自身トランスジェンダーすなわち「性別越境者」として生きてきた人である。
 最近よくマスコミに上るLGBTの「T」である。
 
 「トランスジェンダー」には二つの定義がある。まず、現象・行為としては、社会によって規定されたジェンダー、とりわけ性別表現を越境することである。その場合、越境が男女の間を行ったり来たりする時限的なものか、男性から女性へ、あるいは女性から男性へ行ったきりの永続的なものかは問わない。
 また、人物として定義する場合は、誕生時に指定された性別とは違う性別で生活している人となる。この場合も、その理由は問わない。

トランスジェンダー
オードリー・タン
世界で最も有名なトランスジェンダーの一人


 本書では、『日本とアジア 変幻するセクシュアリティ』という副題通り、実にさまざまな時代、さまざまな地域の「通常(多数)とは違った」ジェンダーやセクシュアリティをもつ人びとの様相が語られている。
 例を挙げると、
  • 平安時代の上流貴族で、自ら耽る同性間セックスの模様を日記(『台記』)に細かく記した藤原頼長(1120-56)
  • 薩摩藩(鹿児島県)の青少年組織「兵児二才(へこにせ)」組において、江戸時代から明治初期まで伝わってきた男色の習俗
  • 江戸時代の最強力士であった谷風梶之助(1750-95)が実は女性であった、という伝承が残る九州の里
  • インドのサード・ジェンダー(第三の性)で現代も存在する「ヒジュラ」の実態
  • 清朝時代の中国に存在し「芸能・接待・売春」を専らとした女装の美少年「相公(しゃんこん)」
  • 朝鮮半島における移動芸能集団「男寺党(ナムサダン)」における男色文化
 江戸時代の陰間とよく似た、芸能と売春を兼ねた女装の少年たちが、インドや中国や朝鮮やタイ(「カトゥーイ」と呼ばれる)にも存在した(している)のである。
 日本の場合、陰間以外にも、年長の男が少年を愛でる男色は、中世の僧侶や武士たちの間で広く習慣化していたことは良く知られる。
 トランスジェンダーについても、古くは『古事記』に登場するヤマトタケルの女装譚に始まり、各地の祭りにおける女装の伝統、歌舞伎の女形、宝塚の男役、美輪明宏、カルーセル麻紀、はるな愛、マツコ・デラックスに至るまで、日本は性別越境者に「やさしい」文化であり続けた。
 著者によると、「夜の街を安全に歩ける」「レストランに入っても追い出されない」「仲間が集まれるお店がある」日本は、韓国や欧米から来た女装者にとって「パラダイス」なのだという。
 もちろん、その背景には古来神道や仏教が、同性愛や性別越境を禁じたり否定したりする教えをもたなかったことにある。
 
 欧米のキリスト教圏のトランスジェンダーたちは、アジア地域(日本を含む)のように伝統的・土着的なサード・ジェンダー文化の基盤を受け継ぐことができず、異性装や同性間性愛を禁じるキリスト教の宗教規範と命がけで闘いながら、社会の中で一から自らのポジションを作っていかざるを得なかった。 

 日本という国の素晴らしさの一つ、日本人のユニークネス、そして欧米文化をはるかに凌駕する“先進性”は、性の多様性に対する受容精神にこそあるのではなかろうか。
 俗に言う、大らかな性である。

 そう思うと、いったい我々日本人にとっての「保守」とは一体なんなのか、ということに思い及ばざるを得ない。
 現在の保守右翼たちが掲げる「美しい国、日本」の偶像は、文明開化から戦前までの日本の姿にある。すなわち、大日本帝国だ。
 その「儒教的かつキリスト教(西欧)的」倫理にもとづく性観念・性道徳・家族像が彼らの守りたい価値なのである。(まさにそこが統一教会の教義と合致するところだった!)
 だが、それは長い日本の歴史の中のたった80年足らずの期間(1867~1945)のことに過ぎない。
 保守右翼が忌み嫌い押し潰そうとする、多様なセクシュアリティやジェンダーのあり方を認めようとする多くの民の声こそ、古来日本の伝統や日本人本来の感性につながる、本当の「保守」なのである。


P.S. 現在放映中のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、三代将軍源実朝(柿澤勇人)は、どうやらゲイという設定で、彼の思い人はいとこで三代執権となった北条泰時(坂口健太郎)らしい。
 三橋も書いているように、この時代「男色」という行為はあっても、「男色者あるいは同性愛者(ゲイ)」というセクシュアル・アイデンティティは存在しなかった。
 おそらくは、LGBTやBLファンの視聴者をあてこんだ脚本家・三谷幸喜のサービスであろうが、大河ドラマの主要人物に悩めるゲイキャラが当てられるのはじめてではなかろうか。
 今後の展開が期待される。(と言っても悲劇的結末が決まっているのだが・・・)

源実朝
右大臣源実朝
松岡 映丘(1881-1938)作



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● おやじ、涅槃で待つ TVドラマ:『悪魔が来りて笛を吹く』

1977年TBS系列
約45分×全5回
脚本:石森史郎
演出:鈴木英夫

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 『犬神家の一族』で華々しいスタートを切った古谷一行=金田一耕助の『横溝正史シリーズ』中の一作。
 1979年東映制作の映画版では、西田敏行が金田一耕助を演じ、物語のキーパーソンとなる元華族の椿秌子(あきこ)を演じた鰐淵晴子の妖艶な美しさが圧巻であった。
 本作では44歳の草笛光子が秌子を演じている。
 艶めかしさ、妖しさは鰐淵に適わないものの、乳母日傘のお嬢様育ちの鷹揚さに加え、繰り返される血族結婚がもたらす遺伝的脆弱からくる精神不安を見事に演じきっていて、さすがの貫禄。
 草笛のベッドシーンは非常に珍しいと思うが、堂に入ったものである。

 数十年ぶりに見ての嬉しい驚きは、モロボシダンこと森次晃嗣が刑事役で出演していて、古谷=金田一とのツーショット連発なこと。
 刑事役、実にお似合いでカッコいい。
 一緒に須磨や淡路島に行き調査するシーンは、二人のヒーローの顔合わせの妙が、郷愁をそそるばかりの野外ロケと相俟って、陰惨この上ない物語の数少ない息抜きとなっている。

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古谷一行と森次晃嗣

 椿家の令嬢・美禰子を演じる檀ふみも、清楚な品あって好感持てる。
 演技の上手さにも目を瞠らせるものがある。
 ほかに、原泉、観世栄夫、長門裕之、加藤嘉、江原真二郎、三崎千恵子、野村昭子、長門勇など錚々たるベテランたちが脇を固めており、昭和時代のドラマの質の高さは何よりも役者によって担保されたのだと実感する。

 特記すべきは、犯人役の沖雅也。
 ソルティの中ではやはり、『太陽にほえろ』のスコッチ刑事のクールなイメージが強いが、どこか影のある美青年であった。
 1983年に31歳の若さで飛び降り自殺し世間に衝撃を与え、そのとき残された遺書の文句、「おやじ、涅槃で待つ」は話題になった。
 「おやじ」とは沖の所属した芸能プロダクション社長で、養子縁組により沖の「父」となった日景忠男のことである。
 沖の死後に日景が著書でカミングアウトしたことで知れ渡ったのだが、日景と沖は恋愛関係にあった。
 それは当時、好奇心と嘲りと嫌悪をもって語られるスキャンダル以外のなにものでもなかった。
 もちろん、本作放映時(1977年)、世間はそんなことはつゆ知らなかった。
 沖雅也は女性人気抜群の若手実力派だったのである。

 こうしていろいろな事情が判明したあとで本作を観直したとき、沖雅也という俳優の悲しく途絶した人生と本作の真犯人・三島東太郎のあまりに不遇な人生とが重なり合って、言いようのない悲劇的味わいがそこに醸し出されている。
 とくに、ラストシーンで三島が自らの正体を満座のもとに告白するくだりでは、沖の芝居は演技を超えたリアリティを放ち、あたかも沖自身の肉声、魂の叫びのようにすら聞こえてくる。
 見続けるのがつらいほどだ。
 日景忠男は2015年に亡くなった。
 二人が涅槃で再会できたことを願うばかりである。

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脱衣し背中の「悪魔の紋章」を見せる三島東太郎(沖雅也)

 ところで、本作の導入部では、戦後まもなく発生し日本中を震撼とさせた帝銀事件をモデルにした天銀堂事件なるものが語られる。 
 つまり、本作の時代設定は1947年(昭和22年)である(横溝の原作は1954年刊行)。
 本作の放映、すなわち中学生のソルティがリアルタイムで茶の間で観たのは1977年のこと。
 ちょうど30年前の日本を舞台とするドラマを観ていたことになる。
 それで改めて驚くのは、1947年の日本人の生活様式と1977年のそれとは、ほとんど断絶がないという点である。
 当時観ていて理解できなかった風習やシステム、違和感を感じるような登場人物のセリフや振る舞いは、ほとんどなかった。
 1977年の時点でも、遠い場所にいる人との連絡手段は電話や手紙であり、警察への犯罪の告発は匿名の投書であり、家で音楽を聴きたいのならレコードプレイヤーであり、ニュースは主に新聞から取り入れ、淡路島に行くなら列車と船であった。
 翻って、2022年の中学生がこのドラマを観たとき、そこにどれだけの連続性を感じるだろうか?
 電話機やレコードプレイヤーを見たことも触ったこともない、ニュースはインターネットから、音楽を聴くならスマホで、という日本人にとって、このドラマが時代劇のごとくアナクロに映ることは間違いあるまい。

 ことは、文明の利器だけの話ではない。
 現在、本作を原作通りにTVドラマ化することは難しいと思われる。
 というのも、ここで真犯人の主要動機を担っているのが、兄と妹の近親姦だからである。
 近親姦は「神をも畏れぬ忌まわしき行為」「犬畜生に劣る行為」であり、近親姦で生まれた子供は「生まれてはならない化け物」「畜生以下」「悪魔」である、という昭和時代のスティグマがこのドラマの根幹を成しており、近親姦によって生まれた子供が、自分をこの世にもたらした父と母に復讐する――という物語なのである。

 実際のところ、近親姦は世間で思われているよりずっと頻繁に起こっており、若い頃に近親の男から被害を受けた実の娘や姉妹や孫娘や姪の数は、声を上げられないだけで、少なくないだろう。
 中には、中絶することができないまま、出産に至るケースもあろう。
 そうした女性被害者や生まれてきた子供たちの存在を思えば、近親姦のスティグマをいたずらに強化する本作は、今となっては時代遅れというだけでなく人権侵害の色が濃い。

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 思うに、人の持つ基本的な世界観、価値観の核は、およそ20代までに形成されてしまうのではないか。
 ソルティも昭和時代の価値観をかなり内面化している。
 そのことは昭和時代に作られたドラマを楽しんだり読み解いたりするには役立つのだけれど、令和の今を生きるにはそれなりの自己覚知が必要だ。
 かつては30歳の年の差でも、同じ日本人なら同じ文化に属しているがゆえ、ある程度以心伝心が通じた。
 いまは10歳の年の差だって以心伝心は通じないと心得るべきだろう。


 古谷一行さんの冥福をお祈りします。




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 映画:『セールスマン』(アスガル・ファルハーディー監督)

2016年イラン、フランス
125分

 第89回アカデミー賞外国語映画賞はじめ数々の国際級映画賞を獲得しているミステリーサスペンス。
 監督はイラン出身なので、舞台はおそらくテヘランだろう。
 2018年に公開されたババク・アンバリ監督によるホラー映画『アンダー・ザ・シャドウ』同様、すっかりアメリカナイズされた現在のイランの都市生活が描かれている。
 
 タイトルの由来になっているように、劇団に所属する主人公夫婦が現在演じている芝居がアメリカ作家アーサー・ミラーの『セールスマンの死』であるあたりからして、いまのイランが急激な西洋化によって遭遇している社会問題が、まんまアメリカ的であることが象徴的に示されている。
 観終わってから気づいたが、本作には登場人物が「アッラー」を称えるセリフやイスラム教徒ならではの祈りのシーンがなかった。

テヘラン
欧米化著しいテヘランの街

 教師エマッドと妻ラナは小さな劇団に所属している仲の良い夫婦。
 引っ越したアパートメントで新しい生活が始まった矢先、侵入してきた何者かにラナは暴行され、大ケガを負ってしまう。
 ラナは警察に届けることを拒否する。
 怒りのぶつけどころないまま犯人探しをするエマッドは、犯人が部屋に置き忘れた車のキーを手がかりに、ついに容疑者をつきとめる。
 それは思いもかけぬ相手であった。

 ストーリー自体は取り立てて奇抜なところはない。
 大都会ではよくある事件の一つであろう。
 犯人の意外性も驚くほどのものではない。
 単純にミステリーサスペンスとして評価した場合、凡庸な出来と言える。
 本作の評価の高さは、登場人物たちの心理描写がこまやかで、一つ一つのセリフや行動にリアリティがあり、全般丁寧に撮られている点であろう。
 他の男に暴行された妻と、それを知った教養ある夫。
 両者の揺れ動く心理と関係性の変化を見事に演じきった役者も素晴らしい。
 深みある人間ドラマとなっている。

 おそらく、西洋化する前のかつてのイランの男ならば、他の男に“汚された”妻を許さないだろう。「お前が油断しているから、こんなことが起こる」と責め立てるであろう。
 暴行した男を見つけたら、それこそただでは済まさないであろう。
 目には目を、歯には歯を、である。
 社会も男の復讐劇を称賛こそすれ、非難することはないだろう。
 アッラーには復讐の神の名もある。

 高校教師であり『セールスマンの男』を演じられるほどに現代西洋的教養や価値観を身につけたイスラム男のアイデンティティは、もはやかつての伝統文化の枠内にはおさまりきれない。
 ラストシーンで妻を襲った真犯人と対峙し、本来なら正当であるはずの復讐を果たすことに惑うエマッドの逡巡には、伝統的価値観と新しい西洋的価値観に引き裂かれるイランの知識人の現在が見事に活写されている。
 


おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● けったいな水産ホラー 映画:『ブルー・マインド』(リーザ・ブリュールマン監督)

2018年スイス
101分

 女性監督による作品。
 ジェーン・カンピオン監督『ピアノ・レッスン』とウィノナ・ライダー主演『17歳のカルテ』を思わせる女子映画で、そこに往年の高部知子主演のTVドラマ『積木くずし』(最高視聴率45.3%!)とそこはかとないレズビアニズムの香り、さらにはカフカ『変身』とアンデルセンの某童話を合体させた感じ。
 つまり、まったく既存の物語におさまりきらない奇妙な映画である。
 レンタルショップのホラーコーナーに置いてあったのだが、これは『ボーダー 二つの世界』や『バクラウ 地図から消された村』とともに、ソルティが作った「ウミウシもの」という新ジャンルに放り込みたい。

ウミウシ


 主役の少女が金魚を食べるシーンで、大女優・小川眞由美を思い出した。
 岩下志麻との対談で語られていたことだが、何かの映画の撮影中、生きた金魚を口に入れて噛み切った小川の芝居を見て、共演していた志麻サマは「卒倒しそうになった」という。
 小川が、「金魚って意外と骨があるのね」と笑いながら返していたのがさすが!
 小川眞由美という女優の役者魂を示すエピソードである。 
 そうそう、『積木くずし』で不良少女を演じた高部知子の母親役が小川であった。
 高部知子はニャンニャン事件と呼ばれたスキャンダルを起こして芸能界失脚、その後、精神保健福祉士の資格を取って、現在は依存症患者のカウンセラーとして活躍している。
 不良少女と呼ばれた過去を乗り越え、見事に新しい人生を切り開いた。

 映画とまったく関係ないことを書いているが、つまり、なんとも評価しようのない、ネタバレなしには説明しようのない、けったいなホラーなのである。
 ジェンダー差別するわけではないが、思春期の女性の生理や感性を通してのみ理解し得る作品なのではなかろうか。
 男の鑑賞者にはたぶん、金魚ほどにも咀嚼できない。






おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● 百恵芳紀15歳 映画:『伊豆の踊子』(西河克己監督)

1974年東宝、ホリプロ
94分

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 山口百恵の映画初主演作であり、のちに夫婦となった三浦友和との映画共演第一作。
 西河監督は吉永小百合主演ですでに『伊豆の踊子』を撮っており、脚本や基本的な演出は前回と“ほぼ”同じである。
 『ひと夏の経験』の大ヒットで超多忙となった百恵には、撮影のために当てられるスケジュールは一週間しかなかったという。
 すでに完成されている枠組みを再活用するのは苦肉の策であったのだろう。
 が、必ずしも二番煎じとは言えないし、アイドル映画と軽視することもできない。
 魅力あふれる作品となっている。
 
 魅力の一等は、薫(踊子)を演じる山口百恵と川島(旧制一高生)を演じる三浦友和との抜群の相性の良さである。
 理想の夫婦と言われる今の二人の姿からさかのぼって贔屓目に見てしまうところもあるのかもしれないが、ここでの二人の息の合い方や惚れた相手を見る際の自然な表情は、この純愛作品にほとばしるようなリアリティを与えている。
 フリでない本物の感情が二人の演技の質を高めたのである。
 二人の間に強い磁力が発生しているようで、このコンビネーションは54年松竹版の美空ひばりと石濱朗、あるいは63年日活版の吉永小百合と高橋英樹のそれをはるかに凌駕している。
 単純に演技力および歌唱力という点だけみれば、百恵も友和もそれぞれの前任者たちには及ばないにも関わらず・・・・。

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踊子に扮する山口百恵

 山口百恵は美人ではないけれど、表情が素晴らしい。
 とくに憂いを含んだ表情はこの人の最大の魅力である。
 これは吉永小百合には今日に至るまで望めないところで、生まれついての顔立ちや幼少期の育ちが影響していると思われる。
 この憂いこそが自然と悲劇の基調を形づくって、今作に続く『絶唱』や『春琴抄』などの文芸悲劇もの、または女性視聴者の紅涙を絞ったTVドラマ「赤いシリーズ」を成功させた要因ではなかろうか。
 そして、憂いある表情が一瞬にして笑顔となって弾ける時、笑顔を向けられた男たちは、そのコントラストの大きさを「俺だけに見せてくれた素顔」と勘違いし、百恵の虜になっていったのだと思う。(思春期のソルティもその一人であった)
 
 三浦友和がまたカッコいい。
 昭和の典型的美男子そのもの――往年のゲイ雑誌『薔薇族』の表紙に出てくるような――であるけれど、ソルティが幾度もだぶらせたのは令和の実力若手男優である仲野太賀であった。
 イケメン度では若かりし三浦の方が上であるが、人好きする顔立ちであるとか、おっとりした雰囲気であるとか、感受性ある表情であるとか、どことなく似通っている。
 仲野太賀は将来、アイドル歌手と結婚、三浦友和のような役者になるということか。
 
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三浦友和(右)と中山仁
なんだか木下惠介監督作品の一場面のようなBL感

 他の役者では、芸人一家の元締めを演じる一の宮あつ子、薫の兄・栄吉を演じる中山仁(往年の熱血スポ根ドラマ『サインはV』の鬼コーチ)、茶屋の婆さんを演じる浦辺粂子が印象に残る。
 ホリプロの百恵の後輩である石川さゆりが肺病で亡くなる遊女おきみ役で出ているのが、なんだか哀しい。(さゆりは「天城越え」できなかったのだ)
 落語家の三遊亭小圓遊が踊子(百恵)の処女を狙ってちょっかいを出すスケベな紙屋を演じている。これまた味がある憎まれ役ぶり。
 
 踊子と学生は波止場で派手なお別れをし、幕が下りる。
 「よく出来たリメイクだったなあ~」とリモコンに手を伸ばした瞬間、驚きが待っていた。
 「終」のクレジットと共に映し出された最後のカットは、アイドル映画としてはとうてい考えられない類いのものであった。
 この絵、65年バージョンにはなかった。
 場所はどこかの旅館のお座敷。
 酔っぱらって、もろ肌脱いで入れ墨を晒した男が、踊っている薫に無理やり抱きついている。
 薫は嫌そうに横を向いているが、そこは客商売、きっぱり拒むことはできない。
 
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 このカットの含むところは、有り得べき薫の今後の人生である。
 紙屋のおやじのように金に物を言わせる道楽者や見境ないヤクザ者になかば暴力的な形で凌辱され、旅芸人から芸者となり、芸者から遊女に身を落とし、最後はおきみのように体をボロボロにする。  
 そうした最悪のストーリーを暗示しているのである。
 そして実際、この原作が書かれた昭和初期、そういった転落のケースは珍しくなかった。
 なにより芸人は差別される対象だったのである。
 
 川端康成の原作や65年の「西河―小百合」版以上に本作で目立つ点を挙げるとするなら、旅芸人に対する差別というテーマであろう。
 学生と踊り子は伊豆で出会って、一緒に旅をして、淡い恋をして別れる。
 同じ一つの恋――しかし、それぞれにとっては同じ経験ではない。
 学生にとっては、ひと夏の美しい思い出であり、自らの孤児根性という劣等感を癒す通過儀礼であった。
 学生は東京に帰って勉学に励み、出世の道を歩むだろう。官僚になるかもしれない。学者になるかもしれない。売れっ子作家になってノーベル賞を獲るかもしれない。
 一方、踊子にとっては穢れなき少女時代の最後の楽しい思い出であり、この先二度とこのような牧歌的な瞬間は訪れないかもしれないのだ。
 男と女、将来を嘱望される学生と差別され社会の底辺を流れ続ける旅芸人、二つの人生行路は天城隧道のようには簡単につながらない。
 
 西河監督がこのような退廃的でショッキングな最後のカットをあえてアイドル映画に挿入した理由は、そこに思いを込めたかったからではなかろうか。
 「学生さんにとっては、小説の題材として“利用できる”ひと夏の美しい思い出だろうさ。だがな、旅芸人の娘にとっては、その思い出にすがることで残りの悲惨な生をなんとか切り抜けていけるお守りのようなものなのだ。川端さん、いい気なもんだね」――と。
 
 
 
 
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


● 映画:『チャイコフスキー』(イーゴリ・タランキン監督)

1970年ソ連
157分

 ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840-1893)の半生を描いた伝記映画。
 1970年制作ということはブレジネフ書記長時代のソ連。
 東西冷戦たけなわの頃である。
 ソ連が崩壊するなんて世界中の誰も思いもしなかった、まだまだ勢いある時代に、国家事業の一つとして作られた作品ということになる。
 一方、チャイコフスキーが生きたのは19世紀末期の帝国ロシア。
 皇帝がいて、貴族がいて、階級社会があって、文化サロン華やいで、街路を馬車が走っていた。
 この映画は、史上初の社会主義国家である今は無きソ連が、自ら倒した帝国ロシア時代を描いたものとして興味深い。
 なんたって、ロシアはめまぐるしい。

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チャイコフスキーを演じるインノケンティ・スモクトゥノフスキー
 
 チャイコフスキーの後半生が忠実に描かれているように思われるが、そこは1970年しかもソ連。
 同性愛の「ど」の字もおくびに出さない。
 女性との関係に失敗し続ける芸術一筋の不器用な男という設定である。

 チャイコの最初の恋人とされるオペラ歌手デジレ・アルトーがたいへん美しい。
 この女優はいったい誰?
 ――と思ったら、20世紀最高のバレリーナと言われるマイア・プリセツカヤその人であった。
 
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オペラ歌手に扮するマイア・プリセツカヤ

 生涯の親友でピアニストであった豪放磊落なニコライ・ルビンシテイン。
 チャイコの音楽の最大の理解者でパトロンとなったフォン・メック夫人。
 フォン・メック夫人とチャイコを引き合わせたものの、天才チャイコへの嫉妬から裏切り者に転じていくウラジスラフ・パフリスキー(まるでモーツァルトとサリエリの関係)。
 入水自殺を企てるほど、その関係に悩み苦しんだ唯一の結婚相手アントニーナ・ミリュコーワ(結局離婚した)。
 そして、最後までチャイコに忠実に仕えた召使のアリョーシャ・ソフロノフ。

 いろいろな人物との関りが丁寧に描かれ、ロシアの自然や貴族の豪邸など映像も美しい。
 もちろん、全編に使用されるチャイコの音楽こそが隠れた主役である。

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古き良き時代のロシア




おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● ジェンダーギャップ・コメディ 本:『よりぬきウッドハウス1』(P・G・ウッドハウス著)


初出1900~30年代
2013年国書刊行会(森村たまき訳)

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 天才執事ジーブズシリーズで日本でも人気沸騰のP・G・ウッドハウス(1881-1975)の初期から中期の短編集。
 18の短編の中には、ウッドハウスが生まれてはじめて原稿料をもらった『ゲームキャプテンであることの諸問題』ほか、ジーブズのご主人であるちょっと間抜けなバーティー・ウースターの原型となった男「レジー・ペッパー」シリーズ、映画脚本家としてMGMで仕事していた時の体験から生まれた「マリナー氏のハリウッド」シリーズなどが収録されている。ジーブズ物はない。
 
 気分を明るくしてくれるユーモアとアイロニーたっぷりの作品揃いで、寝る前に読むのにおあつらえ向き。
 ソルティがもっとも楽しく読んだのは、冒頭に置かれた『ハニーサックル・コテージ』、初期作品の一つである『レジナルドの秘密の愉しみ』、ハリウッドが舞台の『モンキー・ビジネス』。
 とくに『ハニーサックル・コテージ』(スイカズラ荘の意)は、マッチョの世界を好んで描く独身主義のハードボイルド作家が、ひょんなことから少女漫画風のポエムな世界に引きずり込まれ、あやうく少女にプロポーズしそうになるところを愛犬に救われるという抱腹絶倒の筋書きで、ウッドハウスを含む(当時の?)英国男子の女性観・結婚観の一端をかいま見させる。

 ウッドハウス作品の典型的プロットは、中世の騎士道精神の守り手であることを自負している現代の英国紳士たちが、何かと言えば気絶するような中世の姫君たちより何倍も強く逞しくなった現代女性たちを相手に、騎士の仮面がもろくも剥がれ落ちて、一転あたふたするというものである。
 男たちのマチョイズムが、女たちのパワーの前に空回りするところに滑稽が生まれるのだ。
 ジェンダーギャップ・コメディとでも言えようか。



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
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● 本:『オッサンの壁』(佐藤千矢子著)

2022年講談社現代新書

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 ソルティは自他ともに認めるオジサンであるが、4割くらいオバサンも入っていると思う。
 でありながら、周囲のオジサン、オバサンの非常識でハタ迷惑な言動を見聞きするにつけ、「これだからオジサンは・・・」「まったくオバサンだな・・・」と心の中でつぶやくことが多い。
 そんなとき、自分をオジサン、オバサンの枠外に置いてしまっている。
 どうも意識的には「自他ともに認めて」いても、無意識では自身を30代後半くらいに設定しているような気がしないでもない。
 あるいは、自分より10歳以上離れた上の世代を「オジサン、オバサン」と設定し続けているのかもしれない。
 列車やお店の中で、あるいはATMやレジの行列において、苛立つ若い世代から「これだからオジサンは・・・」と思われていることを自覚せねばなるまい。
 一方、自分の「オッサン」度はどんなものだろう?

 タイトルにある「オッサン」について、著者はこう定義している。

 私が思うに「オッサン」とは、男性優位に設計された社会で、その居心地の良さに安住し、その陰で、生きづらさや不自由や矛盾や悔しさを感じている少数派の人たちの気持ちや環境に思いが至らない人たちのことだ。いや、わかっていて、あえて気づかないふり、見て見ぬふりをしているのかもしれない。男性が下駄をはかせてもらえる今の社会を変えたくない、既得権を手放したくないからではないだろうか。
 男性優位がデフォルト(あらかじめ設定された標準の状態)の社会で、そうした社会に対する現状維持を意識的にも無意識のうちにも望むあまりに、想像力欠乏症に陥っている。そんな状態の人たちを私は「オッサン」と呼びたい。

 モーリアックの『テレーズ・デスケルウ』を想起させる一文である。

 佐藤千矢子は1965年生まれ。
 毎日新聞社の社会部や政治部の記者として、米国同時多発テロ後のアフガニスタン戦争、イラク戦争、米大統領選挙などを取材し、2017年に全国紙初の女性政治部長に就任。現在は論説委員を務めている。
 まさに、男社会の牙城とも言えるマスメディアの世界で、男社会の天守閣とも言える政界を相手に仕事してきて、女性登用の道を切り開いてきた有能なキャリアウーマンである。
 そうした経歴を持つ著者が現場で見てきた「オッサン」像が本書では暴き出されている。

 というと、男性読者の中には戦々恐々とする人や怒り心頭に発する人もいるかもしれないが、ソルティが読んだ限りでは、それほど辛辣でもなければ、容赦ない追及のオンパレードというわけでもなかった。
 某フェミニストの社会学者に比べれば、オブラートに包んだような柔らかさ。
 これは、著者がまだ現役の企業幹部であって、立場上、あまり明けすけなことや棘のあることを書けなかったせいかもしれない。
 あるいは、オッサン社会で曲がりなりにも出世してきた彼女が、身を守るために自然身に着けてしまったある種の鈍感さのためかもしれない。
 ここに書かれている以上のもっと凄まじいオッサンエピソードがきっとあるはずだ。(とくにセクハラに関して)

 昭和時代、男社会で女が成功するには、①「女」を捨てて「男」となって男以上に働くか、②「女」を利用して力ある男の庇護を得てのし上がるか、という二つの道しかなかった。
 男女雇用機会均等法(1986年制定)施行後の第一世代であった著者は、そう簡単には変わらない現実に戸惑い苛立ちながら、第三の道を模索してきたのだろう。

 以下、引用。

 「ガラスの崖」は、危機的な状況にある組織ほど女性が要職に就きやすい傾向をいう。リスクが高い役割を女性登用の名のもとに担わせ、成功すればもうけものだし、失敗すれば「やっぱり女性はダメだ」といって崖から突き落として使い捨てにする、という発想のことだ。

 安倍政権というのは、一部メディアを優遇し、気に入らないメディアを排除する傾向のある政権だった。政治家や官僚との懇談の場は、全く面白くなくなった。政治家も官僚も記者も、官邸に「チクられる」ことを警戒するからだ。

 男性ならばちょっとした失敗でも「気にするな」とすぐ周囲が慰め、問題になりにくい。男性同士の結束は固く、互いに不満に思っていても、周囲に広げることは少ない。
 女性の場合、それが面白おかしく何倍にもなって広められる。被害妄想と思われるかもしれないが、失敗するのを待っているのかと思う時があるぐらいだ。

 「多様性を尊重する」「女性の活躍を推進する」というが、日本社会とりわけ政治分野の遅れは、そんな生やさしい状況ではない。男女半々という人口構成を反映せず、いびつな構造のまま、それが当たり前のようにやってきた政界は、すっかり社会の問題点を吸収する力を失っている。公正な民主主義とは言えない。それが世界に後れを取る政策の要因にもなっている。オッサンはそれに気づいていないのか、気づいていても自分の時代は逃げ切れるだろうと、タカをくくっているのか、どちらかだろう。

 ソルティの「オッサン」化をいささかでも阻んでくれるものがあるとすれば、それは自分がマイノリティ(LGBT)の一人であるということに尽きる。
 男社会の居心地の悪さを子供の頃からずっと感じ続けてきたおかげである。
 そうして半世紀以上生きてきて実感するのは、本当はほかならぬ男たちの多くも男社会を生きづらいものと感じている――という現実である。
 いま、中年期を過ぎた男たちの孤立・孤独が社会問題化してきているが、その背景には「一人ぼっちは淋しいけれど、マウンティングし合う男同士の付き合いには疲れた・・・」という本音が隠されているのではなかろうか。
 オッサンの壁は当人にとっても不幸なものである。

壁と男



おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 映画:『世界で一番美しい少年』(クリスティーナ・リンドストロム&クリスティアン・ペトリ監督)

2021年スウェーデン
98分

 「鏡よ鏡、この世で一番美しい少年はだーれ?」
 「それは1971年のビョルン・アンドレセンです」

タッジオ


 スウェーデン生まれの音楽好きのナイーブな少年が、たった一本の映画出演によって世界的アイドルになった。
 それは彼の演技力のためでなく、ただただ類い稀なる美貌ゆえであった。
 その美貌はとりわけ、我が日本において絶大なる憧憬と讃嘆を生みだし、来日の際には老若男女を熱狂の渦に巻き込み、取材が殺到するわ、バラエティ番組に出演するわ、明治チョコレートのCMに出演するわ、日本語の歌を録音しレコード発売するわ、追っかけファンに髪をハサミで切られそうになるわ、たいへんなものであった。
 ソルティは当時小学校低学年、この騒動についてまったく知らなかった。(チョコレートのCMくらい見ていたはずであるが、たぶん当時は美少年よりチョコレートのほうに注意が行ったのであろう)
 なんと、池田理代子の漫画『ベルサイユのばら』の金髪碧眼の美青年(実は女性)オスカルのモデルこそは、ビョルン・アンドレセンなのだという。

馬上のオスカル
オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ
マーガレットコミックス(集英社)より

 16歳のオードリー・ヘップバーンが『ローマの休日』で、同じく16歳のジュディ・ガーランドが『オズの魔法使い』で、10歳のマコーレ・カルキンが『ホーム・アローン』で、14歳の柳楽優弥が『誰も知らない』で、デビュー作で一躍世界的スターになって良くも悪くも運命を一変させてしまった彼らと同じように、15歳のビョルンの運命を劇的に変えたのは、イタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティとの出会いであり、トーマス・マン原作の映画『ベニスに死す』の主役タッジオへの抜擢であった。

 ソルティは大学生のときに高田馬場のACTミニシアターではじめて『ベニスに死す』を観て、それこそ魂に杭を打ち込まれるほどの感銘を受けた。 
 老いと若さ、美と醜、芸術と生活、愛と死、ホモセクシュアリティ(少年愛)といったテーマも衝撃的であったけれど、なにより魅了されたのはタッジオ役のビョルンの途轍もない美しさであった。
 天使の清らかさと無邪気さ、悪魔の冷たさと危うさ、が同居しているような印象。
 これなら、作家トーマス・マンが、音楽家アッシェンバッハが、ストーカーチックになって、運河めぐる幻想的なベニスの街で彼をひたすら追い回すのも無理ないと思った。
 マーラーの交響曲5番アダージェットのBGM使用も完璧にはまって、まるでこの映画のために作曲されたかのように思えた。
 それ以来、この映画はソルティにとって「生涯の一本」のような存在であり続けた。

 一方、肝心のビョルン・アンドレセンのその後と言えば、ほとんど情報は入って来なかった。引退したとばかり思っていた。 
 ある意味、それで良かった。
 というのも、『ベニスに死す』一作だけを残して表舞台から消え去るほうが、ファンの間に鮮烈なイメージを残し、伝説となっていくからである。
 映画出演を重ねるごとに翳っていく美貌、老いさらばえた姿など見たくない。
 永遠のタッジオでいてほしい・・・・みたいな。

ベニスに死す

 そこに来て登場したのが本ドキュメンタリーである。
 67歳になったビョルン・アンドレセンが、冒頭から痛ましい姿で画面に映し出される。
 ゴミ屋敷のようなアパートメントで一人暮らし、ぼさぼさに伸びた白い髪と髭、深いしわ、コンロの火をつけっぱなしにしたことで大家から退去を迫られ、年下の恋人から「勝手な人」とののしられ捨てられる。80代くらいに見える。
 カメラは現在の彼の生活や人間関係を映しながら、過去の履歴をさらっていく。
 奔放で芸術家肌の母親とヨーロッパ放浪した子供時代、顔も名前も知らない父親、突然の母親の自死、祖母との生活、そして『ベニスに死す』のオーディション。

 十代で一躍有名になったばかりに人生を誤ってしまうスターの例は数多いが、ビョルンもまたその例にもれなかった。
 肉親を含む大人たちにいいように利用され、玩ばれ、持ち上げられては使い捨てられ、大人社会の醜い面ばかり見せられ、誰も信用できなくなってしまう。
 愛情あるしっかりした家庭で育てられた子供でさえ道を誤りそうな尋常でない環境の激変だというのに、ビョルンは複雑な育ちをしている上に、周りに彼を支え良識をもって庇護してくれる存在をもたなかった。
 もとが純粋でシャイな性格なだけに、周囲の言いなりになって自分を失ってしまう。
 アルコールに溺れる自堕落な生活。 
 結婚して二人の子供に恵まれ、ようやく幸福が訪れたと思いきや、息子を幼児突然死症候群で失う。酔っぱらって寝ていた彼の隣で。
 妻や娘と別れ、鬱とアルコールのどん底の日々が続く。

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 あの世界一美しい前途洋々たる美少年が、こんな凄まじい半生を送ってきたのかと吃驚した。80代に見えるのも無理はない。
 過去のスクリーンの虚像(アイドル)と現在の実像との落差がここまで激しい例は、なかなかお目にかかれまい。
 と言って、ソルティは偶像が破壊されてがっかりしたとか、裏切られたとか、ましてや「どんな美少年も年取ればただの爺さん」と意地悪くほくそ笑んだりはしなかった。

 本作は、ヴィスコンティの冷酷さとか、監督周辺のゲイの大人たちによる性的搾取とか、スキャンダラスな話題ばかり宣伝されていたので、色物的な映画と思っていた。
 あるいは、生活苦に陥ったビョルン自身が、昨今流行りの“#me too”に乗じて偉大なる名監督のパワハラやセクハラを暴き、過去のトラウマを訴え、いくらかの金稼ぎをしようと企画に乗った(あるいは自分から企画を持ち込んだ)ものかと思っていた。
 しかし、本作は全然、これ見よがしの煽情的な作品ではなかった。

 一人の年老いた男の波乱万丈で苦しみ多き人生を丹念にたどり、それを冷静に振り返り他人に話せるようになるまでになった本人の(というか自然のもつ)回復力、時の癒しの力、周囲の人間のサポートの力を感じさせる、一種のリカバリーストーリーのような味わいがある。
 宣伝文に用いられている「栄光と破滅の軌跡」なんて表現はまったくお門違いもいいところで、それこそ一人の人間の生の尊厳を愚弄していると思う。
 誰も破滅なんかしていない。

 ビョルン・アンデルセンはベニスに死んで、ストックホルムに生き返った。
 いまも「世界で最も美しい老人」である。

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おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 晴海のチャイコ : オーケストラ・モデルネ・東京 第3回演奏会


オーケストラ・モデルネ

日時: 2022年6月26日(日)
会場: 第一生命ホール(晴海トリトンスクエア)
曲目:
  ヒンデミット:交響曲「画家マティス」
  チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」ロ短調 作品74
指揮:篠﨑靖男

 第一生命ホールに行くのは初めて。
 地下鉄・都営大江戸線の勝どき駅から歩いて7分のところにあるのだが、列車を下りて地上に上がった大きな交差点で、どっちに行ったらいいものやら皆目見当つかなかった。
 碁盤の目のように走る幅の広い道路と天をつく高層ビル群。
 縦横に流れる運河といくつもの橋。
 月島、晴海、豊洲、有明、天王洲、お台場、新木場・・・・いわゆるウォーターフロント。
 東京湾の埋立地に造成された21世紀の臨海都市が、ソルティには磁気を狂わせる樹海のように思える。
 スマホがなければ開演に遅れるところだった。
 
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第一生命ホールのあるトリトンスクエア
 
 パウル・ヒンデミット(1895-1963)はドイツの作曲家、ヴィオラ奏者。
 生涯で600曲以上作った多作家である。ソルティは初めて聴いた。
 画家マティスとは、16世紀ドイツの画家マティアス・グリューネヴァルトのこと。
 マティスの代表作に、イーゼンハイムにある聖アントニウス会修道院付属の施療院のために描いた『イーゼンハイム祭壇画』という絵がある。
 『交響曲マティス』は、この絵に感銘を受けたヒンデミットがナチス政権下の1933年に作曲したもので、3つの楽章にはそれぞれ祭壇の絵のタイトル――〈天使の奏楽〉〈聖アントニウスの誘惑〉〈埋葬〉――が冠されている。
 と言っても、ヒンデミット自身が「標題音楽ではない」と言っているとおり、この曲から天使や誘惑される聖人や埋められるイエス・キリストを連想するのは難しい。
 ナチスによって「無調の騒音」と批判された楽曲は、キリスト教っぽくすら、いや宗教音楽っぽくすらない。
 正直、ソルティの耳には、SFパニックサスペンスのBGMのようにしか聞こえなかった。
 むしろ、ナチス独裁時代のドイツを描いたと言われれば「なるほど」と頷ける。
 (ヒンデミットの霊感のもととなった実際の絵を見たら、印象は変わるかもしれない)

 チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」は、やはり第3楽章が鍵だと思う。
 他の3つの楽章は明らかに「悲哀、陰鬱、憂愁、絶望、苦悩、葛藤、動揺」などのネガティヴな言葉が浮かんでくるような〈陰〉の曲調なのだが、第3楽章だけは思いっきり勇ましく、一見ポジティヴな〈陽〉の曲調なのだ。
 第3楽章で終われば、ベートーヴェン第九のような「苦悩から喜びへ、暗から明への転換」と言ってしまえるくらいで、はじめてこの交響曲を聞いたときは「第3楽章で終わりにすればいいのに・・・」と思ったものだ。
 華々しく終了した第3楽章の後に、谷底に突き落とされそのまま息絶えるような第4楽章が来る。
 まったくの〈陰〉。
 第3楽章の〈陽〉がぬか喜びに過ぎなかったことを告げるかのよう。
 苦悩から喜びに至ったのに、より深い苦悩に――。

 ソルティには、第3楽章は「喜び」や「勇気」や「希望」や「成功」といったポジティヴな表現ではなくて、ある種の狂気の表現のように思われる。
 双極性障害(躁うつ病)の人の躁状態のようなもので、その明るいイケイケ感は鬱の反転として起こっているだけで、決して安定した性質ではない。神経が一時的に興奮状態にあるのだ。
 周囲の人間をいささか不安にさせる躁状態――とでも言おうか。
 実際、チャイコフスキーは躁うつ病だったという説もある。
 一見ポジティヴで勇猛果敢なイメージのある第3楽章も、それを聴いたことでベートーヴェン〈第九〉を聴いたあとのように「元気が出るか、喜びや愛に満たされるか、明るい落ち着いた気分になるか」と言えば、答えはNOであろう。

 いま日本でもLGBTを取り巻く社会環境が大きく変わり、同性婚の是非が話題になっている。
 民主主義国家における国際的なSDGSの常識化をみても、同性婚が日本で認められるのは時間の問題であろう。
 同性愛者であったチャイコがこの状況を見たら、名曲『悲愴』は生まれなかったろうなあ~。
 そう思うと、複雑な気持ちになる。
 いや、今のロシアに生まれていたら、やっぱり『悲愴』は生まれるか・・・・。

 オーケストラ・モデルネ・東京の演奏は、安定感があると同時に、若々しい活力を感じた。

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月島と晴海を結ぶ朝潮大橋からの風景(対岸は豊洲)

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佃水門よりスカイツリーを望む






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ソルティはかたへのメッセージ

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