ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●性にまつわるあれやこれ

● 映画:『アメリ』(ジャン=ピエール・ジュネ監督)

2001年フランス
122分

アメリ

 子供時代の育ちのせいで人とのコミュニケーションが苦手になってしまったフランス人女性アメリ。
 もちろん、恋愛もうまくいかず、性体験はあれど本当の恋は知らない。
 そんな昨今どこにでもいるような不器用な女性が、平凡な日々の中で楽しみを発見し、恋を知り、自らの殻を打ち破って本当の恋をつかむまでの物語。
 制作国フランスでも日本でも予想外の大ヒットとなって、主人公アメリのおかっぱ頭や部屋のインテリアなどを真似する“アメリ現象”が流行ったという。
 ソルティはどうも、同じ頃(2000年)に公開されたジュリエット・ビノシュ主演『ショコラ』と入り混じってしまい、お菓子作りの話かと思っていた。

 この映画が日仏問わず若い女性たちの間で人気を得たのは、やはり、鑑賞者が自身をアメリに投影し共感できたからであろう。
 人間関係に苦手意識や不器用さを持つ人の存在は、万国共通ってことだ。
 一方で、素敵な恋を望むのも万国共通の女性のならいで、とりわけ恋愛が宗教の位置にまで高められているフランスの場合、一種の強迫観念になっているんじゃないかと思う。
 不器用なアメリが、勇を鼓して、目の前の恋に飛び込んでいく結末に希望を感じ、力づけられた女性観客は少なくなかったろう。

 『エイリアン4』で示されていたジャン=ピエール・ジュネ監督の美術センスあふれる映像も、都会のオシャレな女性たちのツボにはまったものと思われる。
 オドレイ・トトゥが魅力的なアメリを演じているほか、『ミッション・クレオパトラ』でその存在を知った片腕俳優ジャメル・ドゥブーズが、ここでも個性的な八百屋の青年に扮している。子犬のようなウルウルした黒い瞳が、庇護欲を搔き立てる。(いまはすっかりオッサンになった)

 ところで、映画館というのは、ある意味、人間関係が苦手な人たちの格好の逃避所すなわちオアシスになっているわけで、一人で映画を観に行くことが若い頃から日常化しているソルティもその例に漏れない。
 飲み会に行くよりも、一人で映画館に行くほうが、ずっと楽しいし、くつろげる。
 40年以上映画館に通ってきて思うのは、一人で映画を観に行く男は普通に多いが、一人で映画を観に行く女は少ない。
 やっぱり痴漢の危険があるからかなあって思っていた。
 これは厚生労働省が5年以上前に実施した調査結果なので信頼度は???だけれど、「誰と映画を観に行くことが多いか?」という問いに対して、
  • 男性・・・・ひとり(35%)、家族(35%)、友人(23%)
  • 女性・・・・家族(41%)、ひとり(27%)、友人(18%)
 意外に女性でも「ひとり」が多い。
 ソルティが観に行くようなたぐいの映画を女性は好まない、だから映画館で女性と会わない、ってのが答えだったようだ。(たしかに、『アメリ』も『ショコラ』も映画館に足を運ばなかった) 

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seok shinによるPixabayからの画像


おすすめ度 :
★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● Maiden をめぐる考察、あるいはメラニーの覚醒 本:『静寂の叫び』(ジェフリー・ディーヴァー著)

1995年原著刊行
1997年邦訳刊行
2000年ハヤカワミステリー文庫(飛田野裕子・訳)
原題:A Maiden’s Grave

静寂の叫び

 現代アメリカの代表的なミステリー作家ジェフリー・ディーヴァー。
 もっとも有名な作品は、デンゼル・ワシントン、アンジェリーナ・ジョリー共演で映画化された『ボーンコレクター』(1999)であろう。(ソルティ未見)
 作家デビュー7年目に発表した本作は、ディーヴァーの最高傑作の呼び声高い。 
 期待大でディーヴァーデビューした。

 原題 A Maiden’s Grave は「乙女の墓場」という意。主要登場人物の一人で聴覚障害をもつ女性が、有名な讃美歌 Amazing Grace(偉大なる恩寵)を A Maiden’s Grave と聞き違えたというエピソードから取られている。
 また、それは本作のプロットを含意している。
 3人の凶悪な脱獄犯によって拉致され、廃屋となった食肉加工場に監禁され、人質にとられた聴覚障害をもつ Maiden(乙女)たちの境遇をたとえているのである。

 本作の読みどころは、人質を救い出し犯人を投降させるべく派遣されたFBIのネゴシエーター(交渉人)アーサー・ポターと、立てこもりを続ける脱獄犯の首謀者ルー・ハンディとの息詰まる心理的攻防の模様。そして、人質にとられた聾学校の女教師2名と女子生徒8名が、耳が聞こえない・口が利けないというハンディを乗り越えて、いかに危機を脱していくかという点にある。
 人質奪還の交渉術についても、聴覚障害者の日常についても、非常によく取材調査していることを伺わせる、リアリティと説得力ある筆致である。
 さらに、敵は身内にあり、すなわち、主導権と功績をFBIから奪いたい州警察の暗躍や妨害、特ダネを取りたいマスメディアによる情報漏洩など、いかにも“全米的”な欲得入り乱れの副筋も面白い。
 二転三転する先の読めない展開の果てのどんでん返しというミステリーらしさも十分備えている。
 文庫で上下2巻の長編であるが、いったんハマったら、最後まで徹夜必至のスリルとサスペンスに溺れることだろう。

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 残念ながら、ソルティはそれほどハマらなかった。
 上巻がなかなか読み進まず、挫折してしまうんじゃないかと一瞬思った。
 1週間以上かかった。
 下巻に入ってからは、さすがにページをめくるスピードが上がって、3日で読み終えた。
 それなりに面白かったけれど、これがディーヴァーの“最高傑作”ならば、他の作品を読むのに躊躇する。

 その理由を考えるに、少女たちが拉致監禁されるという設定を、読者を惹きつける“キャッチー(仕掛け)”に使っているという点に、どうもすっきりしないものを感じる。
 3人の脱獄犯のうち1人は、女性をレイプすることしか頭にない野獣のような男で、図体のデカさや腕力の強さや凶暴性から、小説内では“熊”というニックネームを奉られている。
 人質事件の始まりも、脱獄した犯人たちによる路上での強姦殺人の現場を、学校のバスで通りかかった教師や生徒たちが目撃することがきっかけである。
 ストーリーの根幹に性暴力が深く絡んでいる。 
 して、原題にある Maiden は俗にいう「処女」の意である。
 つまり、聴覚障害を持つ教師や美しい少女たちの“純潔”が暴力的に奪われる危機を、エロチックなくすぐりを背後に匂わせつつ、サスペンスを盛り上げる仕掛けとして使っているのである。
 ソルティは女性が性暴力を受けるたぐいの話が昔から苦手というか好きでないので、この仕掛けには乗れなかった。
 おそらく、多くの女性読者やフェミニストも同じであろう。
 また、中年太りのオッサンやもめであるポターが、若く美しく賢い乙女(Maiden)に一方的に愛されるという展開も、世の男性読者の願望を見事に撃ち抜いている。
 本作の愛読者は女性より男性が多いのではないか?

 ディーヴァーの名誉(?)のために言っておくと、結果的に人質たちの Maiden(処女)は守られた。
 危機一髪のハラハラ場面はあったが、レイプされ“凌辱”された Maiden は一人も出なかった。(1名射殺されてしまったが)
 ただ一人、生徒たちの目の前で“熊”に暴行されたのは女教師であり、彼女は夫も子供もいるミセスであった。
 そこのところもまた、「なんだかなあ~」という気がした。
 まるで、「彼女は処女でないから、いいだろう?」とでもディーヴァーが言っているような気がしてしまった。
 こんなふうに読むソルティの心が歪んでいるのか?
 性的な妄想で病んでいるのか?
 でも、わざわざ Maiden をタイトルに持ってくるのは、そこに何らかの作者の下心があると思うのだよなあ・・・・。

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tayphuong388によるPixabayからの画像

 プロットにおいては、以下の2点で不自然を感じた。
 (ここからネタバレ)

 まず、FBIの交渉人ポターを中心とする交渉人チームが、女刑事に成りすましたハンディの恋人を偽者と見抜けなかった点。
 普通、会ったこともない人間を人命のかかった重要なチームに迎え入れる前に、徹底的にその相手について調べ上げるだろう。当然、顔写真入りの履歴を取り寄せるだろう。
 警察官と犯罪者の区別もつけられない交渉人って頼りになるの?

 次に、自ら法の執行者でありながら、ポターたちを裏切って、ハンディら脱獄犯の逃亡に手を貸していたある人物の行動の謎。
 その人物は、ハンディらが無事に食肉加工場から脱出して逃げ延びられるよう、陰でいろいろ手はずを整える。
 というのも、その人物は自らが理事をしている銀行の不正に絡んでいて、その証拠を消すためにハンディの力を借りたという過去があったのである。
 この場合、ソルティがその人物の立場なら、ハンディらを助けるより、人質奪還のどさくさに紛れてハンディらの口封じを行うことを考える。
 一生、ハンディに弱みを握られたままでいる桎梏から逃れる、願ってもないチャンスではないか。 
 助けてどうする!?
 よくわからない御仁である。

 最後にひとつ。
 人質にとられた10人の女性から最強ヒロインが立ち現れる。
 彼女の名はメラニー。
 最初のうちは大人しくて泣き虫で自らの意志を持たない人形のような軟弱な女性として描かれる。
 が、仲間たちの犠牲を前に俄然覚醒し、エイリアンと闘うシガニー・ウィーバーさながらのスーパーウーマンへと変貌する。
 自らの内に隠れていた強さに気づいたのである。
 ラストシーンでの復讐の女神ぶりは、清々しいほどのカタルシスをもたらす。

 ソルティ思うに、このメラニーという名前とパーソナリティは、『風と共に去りぬ』のメラニーから思いついたのではないか?
 スカーレット・オハラの初恋相手であるアシュレ・ウィルクスの妻として、良妻賢母、いつも穏やかで思いやりに満ち溢れ、表立って目立つような言動はつつしみ、周囲の人々から慕われるメラニー。利己的で世の批判を一身に浴びるスカーレットをいつもかばってくれるただ一人の親友。
 そのメラニーが、実は登場人物中、一番強い心の持ち主であることが、マーガレット・ミッチェルの書いた大河小説の最後に明らかになる。

 メラニーという女性名を、『風と共に去りぬ』のメラニー像と切り離して考えることは、おそらく米国人には難しいのではないか。
 メラニーは、一見たおやかなれど実は芯の強い女性の代名詞なのである。

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『風と共に去りぬ』でメラニーを演じたオリヴィア・デ・ハヴィラント



おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損









● 北風と太陽 映画:『教皇選挙 Conclave』(エドワード・ベルガー監督)

2024年アメリカ、イギリス
120分

教皇選挙

 野心まみれのカトリック狸オヤジたちのドロドロした権力争いが、コンクラーヴェという古臭いしきたりのうちに描かれているのだろう――という先入観からスルーしていた。
 ずいぶん評判が高いのでレンタルしたところ、予想を超える出来栄えで、びっくり仰天。
 たしかに野心深い狸オヤジの権力争いが主要プロットに組まれているのだが、むしろ、現在の世界情勢とリンクする部分が多く、我々が日々SNS上で見るような身近な現象と重ねられるため、ぐんぐん話に引き込まれていく。
 途中涙する場面も。
 ラストには予想を超えたどんでん返しがあり、並みのサスペンス映画以上の衝撃があった。
 脚本が天才的。
 『国宝』と並ぶ本年度1位である。(いまのところ)

 原題の Conclave コンクラーヴェとはラテン語で「鍵のかかった」の意。
 カトリック教会の最高指導者たるローマ教皇を、世界各国からバチカンに集められた枢機卿たちが、投票で選出する制度のことである。
 新しい教皇が決定するまで、枢機卿たちはシスティーナ礼拝堂内に閉じ込められ一歩も外に出られなかったところから、この名称が生まれた。(現在は、選挙期間中は外部と一切連絡しない規定のもと、バチカン内の決められた区域を移動することができる)
 本作の最初のシーンは教皇の死。
 ラストシーンは新しい教皇の誕生。
 主人公はコンクラーヴェを取り仕切るローマ教皇庁首席枢機卿。
 まさに、コンクラーヴェの一部始終を内側から描いた宗教ドラマかつ政治ドラマなのである。
 
 “現在の世界情勢とリンク”というのは、世界各国で起こっている政治思想の二極化――右v.s.左、保守v.s.リベラル(革新)の対立が描かれているからである。
 排外主義のナショナリズムで、多様性や人権に後ろ向きで、武力重視の保守派。
 個人の自由や平等に重きを置き、マイノリティの権利を尊重し、お花畑に住むリベラル。
 資本主義or共産主義、民主主義or独裁体制という政治体制の違いを越えて、現在、世界を分割しているのはこの保守v.s.リベラルの思想対立であろう。
 たとえば、日本と中国という国家間の違いよりも、日本&中国の保守派と、日本&中国のリベラル派との、国籍を超えた「保守v.s.リベラル」の思想間の違いのほうが大きいのではないかと思う。
 いま、日本と中国の関係はここ数年でもっとも悪化しているが、ソルティは高市早苗と習近平(ついでにドナルド・トランプ)はよく似ていると思う。
 人間を10個の類型で分けたときに、この3人は同じグループに入るであろう。
 保守v.s.リベラルとは、単純にいえば、童話の『北風と太陽』である。

北風と太陽

 この傾向は、バチカンに集められたカトリック枢機卿においても同様で、カトリック教会の今後の行く末を決める教皇選挙に際して、保守派の枢機卿とリベラル派の枢機卿との対立が鮮明化する。
 考えてみれば、同じカトリック枢機卿であっても、人種も国籍も言語も政治思想も人生経験もいろいろである。
 同じなのは、神やキリストに対する信仰と“性別”のみ。
 世界各地から来た100人を超える一団は、まさに世界の縮図たりうるのである。
 本作の肝は、教皇選挙を通して描かれる現代世界の様相である。

 何度目かの投票中にイスラム過激派によるテロがローマや他の都市で起こる。
 システィーナ礼拝堂も被害を受ける。
 多数の死傷者が出たことが枢機卿たちに伝えられる。
 次期教皇の有力候補である保守派の枢機卿は、ほかのメンバーの前で憤懣を爆発させる。

これが相対主義の教義がもたらした結果だ。
リベラルな諸兄が愛する相対主義は、すべての信仰と気まぐれな発想を同等に重んじる。
 
祖国にイスラム教を入れても、向うは我々を締め出す。
我々は祖国で彼らを養い、絶滅させられる。

いつまでこの弱さに甘んじる?
彼らはその壁まで来ている。

今求められる指導者は、宗教戦争が目前だと分かっている者だ。
我々が求めるのは、あのケダモノと戦う者だ!

 いくつかの固有名詞を入れ替えたら、現在、日本のテレビや週刊誌やネットであふれている保守派の言説そのままではないか!
 隣人愛や寛容を説くべきキリスト教会の最高指導者候補が、上記のようなセリフを大っぴらに口にする。
 ここバチカンで起きていることは、世界で起きていること、日本で起きていることである。
 (念のため、本作はロバート・ハリス原作のフィクションです。現実のバチカンや枢機卿たちがこの映画の通りだとは限りません)

 上記の保守派枢機卿の発言に対して、人々を納得させる反論のできる者がいるのか?
 他民族、他宗教による祖国への侵犯や文化破壊、強大な武器を持った独裁国家の脅威、テロリズムによる無差別殺戮・・・・こうした危険から身を守るのに、多様性理解や人権がいったいなんの役に立つ?
 そもそも多様性も人権も分からない相手に、どう対応しろと言うのか?
 甘い顔を見せれば蹂躙されるがオチ。
 文化や伝統や社会を守るためには戦わなければならない。
 “太陽作戦”など、文字通り、お伽噺の世界に過ぎない。

 では、信仰との齟齬はどうする?

 答えが簡単には見つからない世界で、どの道を選ぶのがキリスト者としてふさわしいのか。
 枢機卿たちが最後にどういう選択をし、どの候補を教皇に選出したのか、今の世界情勢を憂うすべての人に目撃してほしい。
 驚くべきラストについては、秘しておこう。

 教皇選挙を取り仕切る首席枢機卿を演じるレイフ・ファインズが素晴らしい。『ハリー・ポッター』シリーズのヴォルデモート役で有名だが、本作も十分彼の代表作たりうる。
 『ブルーベルベット』(1986)でデビューしたイザベラ・ロッセリーニが、修道女役で出ているのも見どころ。出番は多くないのにその貫禄たるや! 日本で言えば、山田五十鈴のごとき。
 映像も凝っていて、あらゆるショットがルネッサンス絵画のように美しい。
 実際のバチカン内で撮影したのではないと思うが、教会建築や聖具の美しさ、枢機卿たちの衣装のゴージャスにも目を奪われる。
 システィーナ礼拝堂の天井を飾るのは、もちろんミケランジェロのフレスコ画「創世記」である。

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おすすめ度 :★★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 映画:『ベイビー・ガール』(ハリナ・ライン監督)

2024年アメリカ
114分

ベイビーガール

 1967年生まれのニコール・キッドマンは御年58。
 それでこのトンでもない役を引き受けて、完璧にこなしちゃうんだから!

 日本でこの役をやれる女優がはたしているだろうか?
 ニコールと同世代の女優達――沢口靖子、高島礼子、山口智子、薬師丸ひろ子、柏原芳恵、米倉涼子、石田ゆり子、天海祐希、内田有紀、松嶋菜々子、鈴木京香e.t.c.――をあれこれ思い浮かべたものの、これはという人が見当たらない。
 最後に、「あっこの人がいた!」と思いついたのは杉本彩。
 団鬼六原作のSM映画『花と蛇』のヒロインを文字通りの体当たりで演じきった彩姐さんなら、日本版ベイビー・ガールになりきれるかもしれない。
 つまり、本作はほとんどポルノ映画なのである。

 と言っても、ニコールの裸が出てくるのはほんの少しだけで、それも本人なのか吹替え女優なのか分からない。
 男優とのセックスシーンやニコールのオナニーシーン、床にうつぶせに押し付けられ男の手によって“イかされる”シーンなど、衝撃的なシーンは次々出てくるけれど、そこで写されるのはニコールの顔のアップであって、身体の動きや局部付近が写されることはない。
 演技とはいえ、欲情と絶頂と恍惚のあられもない表情をさらけ出すニコールの女優魂には驚嘆する。
 アカデミー賞常連の名女優で、もはや注目を集めるためにスキャンダラスな役を引き受ける必要なんてまったくないはずなのに、こんな冒険に挑戦するとは!

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Uki EiriによるPixabayからの画像

 裸とセックスシーンばかりのポルノ映画は、実は猥褻でも害毒でもない。
 それは勝敗のつかないスポーツみたいなもので、最初は「おおっ!」と興奮するが、同じことの繰り返しに観る者はやがて飽きてしまう。
 大島渚の『愛のコリーダ』がそのいい例である。
 観る者にいかがわしさや猥褻を感じさせるのは、裸そのものでもセックスという行為自体でもない。
 抑圧され秘められたセクシャルファンタジー(性的妄想)こそ、いかがわしさの肝である。
 他人のセクシャルファンタジーがさらけ出されるのを垣間見たとき、観る者は「見てはいけないものを見てしまった」ような決まりの悪さや猥褻を感じる。
 なぜなら、往々にして、個人のセクシャルファンタジーのうちにその人の魂の秘密が隠されているからである。
 それを目撃する者は、全裸を見るよりずっと、その人の恥部に接近する。

 本作の場合、CEOという地位も金も家族も美貌も手に入れた成功者であるヒロイン(ニコール・キッドマン)のセクシャルファンタジー(=魂の秘密)は、“屈辱されながらのセックス”というものであった。
 長年連れ添った優しく物わかりよい夫(アントニオ・バンデラス)は、頻繁に彼女の体を求めて愛の言葉をささやいてくれる。
 けれど、彼女がしんに求めている“それ”だけは与えてくれなかった。彼女からも求めることができなかった。
 それゆえ、彼女は欲求不満に陥っていた。
 ある日、若いインターン(ハリス・ディキンソン)が彼女の会社に現われ、彼女の心の奥の秘密を見抜いてしまう。
 社の誰もが敬い怖れる彼女を、インターンはぞんざいに扱う。
 2人は、鍵と鍵穴がはまるように、性の深淵へと突き動かされていく。
 彼女は、母という立場も、妻という立場も、CEOという立場も忘れて、淫欲の罠にみずから嵌っていく。
 人生で手に入れたすべてを失ってしまう危険にさらされても、彼女はその快楽を捨てることができない。
 単に肉体的なエクスタシーを得たいとか、真実の愛をつかみたいというのとは違う衝動がそこにはある。
 この映画は、人間の性の不可解を描いた作品と言えよう。

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アイズワイドシャット(1999年)

 最後まで観て、なぜニコールがこの作品に出ようと思ったのか、ハリナ・ラインという女性監督と組もうと思ったのか、腑に落ちるところがあった。
 本作は、ニコールが当時の夫であったトム・クルーズと共演して話題になった、スタンリー・キューブリック監督の遺作『アイズワイドシャット』(1999年)へのオマージュであると同時に、女性側からの答えなのだ。
 『アイズワイドシャット』では、夫(トム)の妄想と性的冒険が、男性目線で描かれていた。妻(ニコール)はそこから追いやられていた。男の性の物語であった。
 本作は逆に、妻(ニコール)の妄想と性的冒険が、女性目線で描かれている。夫(バンデラス)はそこから追いやられている。徹底的に女性が主役、女の性の物語なのである。
 しかも、『アイズワイドシャット』の夫は、最終的には一線を踏み越えなかった。妻を裏切ることはなかった。
 が、本作の妻は夫を裏切って、若い男との性の快楽に身をゆだねてしまう。

 1999年から2024年の四半世紀におけるフェミニズムの浸透を実感するとともに、ニコール・キッドマンがもはやトム・クルーズが到底かなわないほど、表現者として高みにたどりついたことを、本作は実証する。





おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● パブロフ効果 映画:『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』

2020年日本
140分、カラーアニメ
原作 暁佳奈
監督 石立太一
音楽 Evan Call
制作 京都アニメーション

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 なぜだか、このタイトルを口にしようとすると、『エンジェリック・カンバセーション』と言い間違えてしまう。
 まったくタイプの違う作品なのに。
 語呂が似ているせいか。

 TVアニメ版の続編である。
 主人公ヴァイオレットが、戦場で死別したと思われていたギルベルト少佐と再会するまでを描く感動巨編。

 年を取ると、尿道とともに涙腺がゆるむのが人の常。
 ソルティもまた、前立腺肥大による尿漏れとともに、両眼からの失禁がはなはだしい。
 ベタで単純で、制作サイドのあざとさが目立つドラマでも、悲しい調べのBGMがかぶさると、途端にウルウルしてくるのだから、自分が“パブロフの犬”並みに馬鹿になったんじゃないかと思う。
 『砂の器』なんか、映画の最初のタイトルバックに、あの菅野光亮作曲の『宿命』が流れてくるだけで、まつげが熱くなってくる始末。
 還暦まで生きてきて、いろんな人間ドラマを知って共感の幅が広がった、感受性が豊かになった、と言えば聞こえはいいが、そんな高尚なものとは違う。
 コインを入れてボタンを押せば缶飲料が出てくる自動販売機のように、この感情スイッチを押せば「はい、涙」と、回路が単純化しているようにすら思える。

 この劇場版の後半も、泣きっぱなしであった。
 制作サイドの魂胆と手口が分かっているのに、引っかかってしまう。
 鑑賞後に冷静になって振り返れば、ご都合主義の展開や、リアリティの欠如や、キャラクター心理の不可解があると気づくのだが、観ている間は、感動の波に持って行かれて批評精神が埋没してしまう。
 ヒトラーは賢かった。芸術の持つファシズム宣揚効果を甘く見てはいけない。
 本作の場合、美しい映像と手紙の朗読という二つの要素が、とりわけ大きな効果を放っていると思う。
 京都アニメーションの技術の高さは、実写映画を超える域に達している。

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 ここ半月の間に、『ゴールデン・カムイ』と『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という平成令和の人気アニメを続けて鑑賞し、手塚治虫を神様とする日本の漫画&アニメ芸術の偉大さ・美しさ・面白さを実感した。
 と同時に、少年マンガと少女マンガの違いというものも、つくづく感じさせられた。
 男女の性差を強調する言説は昨今あまり歓迎されないけれど、こうやってそれぞれの性別の原作者によって創造され、それぞれの性の鑑賞者によって多大な人気を得ている作品をくらべると、「男女の違いってのはあるよな~」と思わざるを得ない。
 遺伝子から来る脳の機能の違いは否定できない。
 『ゴールデン・カムイ』を「キモイ」、「幼稚」という女子層と、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を「くだらない」、「絵空事」という男子層は、容易には理解し合えないだろう。

 それに関して思うに、現在、日本の移民政策についての議論が盛んだが、そこでは他文化を理解し共生することの難しさが説かれることが多い。
 日本文化とイスラム文化、アフリカ文化の違い、同じアジア圏であっても、タイや中国やベトナムの文化との違いが問題にされる。
 しかし、人類を集団に分けるあらゆる文化仕分けのうち、もっとも異なる二つは、男性文化と女性文化ではなかろうか? 
 その断絶具合に比べたら、日本文化とイスラム文化のギャップなど、フォッサマグナに対する養老渓谷みたいなもんである。
 間違いなく、日本人の男が日本人の女を理解するのは、日本人の男がクルド人の男を理解するより、100倍は難しい。同様に、日本人の女が日本人の男を理解するのは、日本人の女がクルド人の女を理解するより、10倍は難しい。
 世界中のどの国だって、男v.s.女の異文化共生をすでに経験しているのだから、長い長い衝突と忍耐と受容の積み重ねを持っているのだから、いまさら他文化共生に戸惑わなくてもいいはずなのになあ~。
 ――と、『ゴールデン・カムイ』も『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』も同じように面白く鑑賞し、同じように感動したソルティは思うのである。

P.S. どうしても言いたいひとこと。ホッジンズ社長の用いる「ヴァイオレットちゃん」が最後まで馴染めなかった。




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 落ち着け、白石 漫画:『ゴールデンカムイ』(野田サトル作画)

2022年集英社
2014年8月~2022年4月『週刊ヤングジャンプ』連載
全31巻

白石よしたけ
落ち着け、シライシ

 近所の図書館に全巻揃っているのは知っていたが、予約の順番待ちリストが長いので、落ち着くまで待っていた。
 連載終了3年経って、やっとスムーズに借りられた。

 思ったより”少年マンガ!”――だった。
 もうちょっと、大人向けの内容、大人向けの絵柄を想像していた。
 たぶん、タイトルの共通から、白土三平の『カムイ伝』を連想したからだろう。
 しかし、連載されていた雑誌は、『ガロ』でも『ビッグコミックオリジナル』でも『モーニング』でも『週刊スピリッツ』でもなく、『ヤングジャンプ』である。
 少年マンガで当然なのだ。
 『少年ジャンプ』の連載作品にくらべれば、より暴力的、よりエロチック、より蘊蓄多く、心理描写はより複雑ではあるが、基本、『リングにかけろ』や『キン肉マン』や『北斗の拳』爾来の敵味方入り乱れての男たちの肉弾戦、戦闘マンガには変わりない。
 『カムイ伝』に熱狂した60年代若者の大人だったこと!
 日本人はたしかに幼稚化した(ソルティ含めて)。

 もっとも、少年マンガだから減点というわけではなく、面白さは評判通りだった。
 多くの登場人物を擁しているにもかかわらず、ひとりひとりのキャラを立たせ、描き分けている。
 金塊探しとそれにまつわる戦闘という主筋にからめて、アイヌ文化、北海道の自然、明治史、ミステリー、サイコサスペンス、家族トラウマ、恋愛、変態性欲、コメディ、スプラッタ、マッドサイエンティスト、ロシア革命など、いろいろなジャンルの物語を包含し、読者を飽きさせないストリーテリングは見事。
 取材の労力は相当なものだったはず。
 画力も高い。

 ソルティがもっとも驚いたのは、BL色の濃さ!
 入浴シーンが多く、男たちはやたら逞しい裸体を晒す。
 その裸体がまた、熊系の男の絵を得意とするゲイの漫画家・田亀源五郎――NHKでドラマ化された『弟の夫』で一般にも知られるようになった――を連想させる筋肉リアリズムである。
 ノンケの男たちが、媚薬効果のあるラッコ鍋をそれと知らずに食べたばかりに、食後に入ったサウナの中で互いの肉体を強烈に意識し合う、まるでゲイサウナにおける視線の飛ばし合いのようなエピソードもあり、「きょう日の(ヘテロ向け)青少年誌はここまでやるのか!」と衝撃を受けた。
 さらには、美しくもカッコよくもない中年男カップルの命をかけた恋バナもある。
 昨今漫画で扱うにはなかなか難しい題材であるにもかかわらず、差別的なふうでもなく、嘲笑っているふうでもなく、絶妙なバランスで乗り切っている。
 編集サイドの賢さを感じる。
 本作を読んで、自らのゲイ性に目覚めてしまう読者もいるやもしれない。

 一番の魅力キャラは、やっぱり、愛され脱獄王・白石由竹。
 作中のコミックリリーフ的存在であるが、いつの間にやら、主役の2人・杉元佐一とアシリパを喰ってしまっている。
 連載が進むにつれ、読者人気が高まり、白石の存在感と出番が増していったのではないか?
 結果、ドジばかり踏んでいつも周囲を呆れさせるこの男が、ラストには美味しいところ総取りの成功者となる。
 インパクトつよキャラとして日本漫画史に残りそうなシライシヨシタケの創造こそ、野田サトル&『ゴールデンカムイ』最大の成果と言えるのではないか。
 次点で、熊の恐ろしさを普及したこと。





おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損









● 昭和BL枯れすすき 本:『男色』(水上勉著)

1969年中央公論社
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 水上勉が「こういう小説」を書いているとは知らなんだ。
 映画化されたものなら、『雁の寺』(1962)、『越前竹人形』(1963)、『飢餓海峡』(1965)、『はなれ瞽女おりん』(1977)、『白蛇抄』(1983)を観ている。が、小説は読んだことなかった。
 「こういう小説」というのは、自らの少年期の男色体験を赤裸々に明かしつつ、昭和40年代の地方のゲイの世界を舞台に、水上とゲイバーで働く美青年との交情を描いたBL小説という意味である。

 水上はゲイではなかったが、10歳の時に京都の禅寺に入れられ、先輩の修行僧に無理やり夜の相手をさせられた経験があった。
 それはつらい出来事であると同時に、親と離れて厳しい修行生活を送る子供の身にとっては、人肌に触れて寂しさを癒す稀少なひとときでもあった。
 また、乞食谷と呼ばれる辺鄙な土地の薪小屋に生まれ、貧しい子供時代を送り、作家として食えるようになるまで何十もの仕事を渡り歩いた苦労人の水上は、社会の底辺にいる者や差別されている者に対する共感があった。
 犯罪者や遊女や盲目の三味線弾きの哀しい人生を描いた上記の映画は、まさに水上文学のなんたるかを物語っている。
 それゆえ、水上はゲイの世界にも怯えることも抵抗することもなく、人気作家になってからも各地のゲイバーに頻繁に飲みに行っていた。
 本小説の主人公である雅美との出会いは、その中で起きた出来事なのである。

 書かれていることのどこまでが事実でどこからが創作なのか、虚実皮膜の面白さがある。
 たぶん、少年時代の寺での男色体験や、雅美のモデルとなった青年との出会い、そして水上勉の名を騙って各地でロマンス詐欺を働くゲイの男の逸話は、事実に基づいているのだろう。(ニセ水上勉事件はどこかで聞いたことがある)
 ゲイという存在に対する語り手(水上)が記す印象や感情も、率直な実感であろう。 
 ゲイの――というより今ならトランスジェンダーに該当するであろう――雅美との関係の詳細は、小説家の巧み(嘘)が混じっていると思われる。
 昭和40年代の地方のゲイ社会の様相も興味深い。 
 「やっぱり、上手いなあ。読ませるなあ」と感心した。

 単行本の装幀は栗津潔。
 洒落てはいるけれど、出版当時の「男色」に対する世間のイメージを彷彿とし、そのイメージをさらに固定化するようなたぐいの装幀である。
 つまり、暗さ、禁忌、罪、危険、おぞましさ、禍々しさ・・・。
 昭和時代のゲイは、重い十字架を背負った背徳者、日陰に生きる隠花植物、のような存在だった。
 この半世紀でLGBTを取り巻く状況がどれだけ変わったかを検証する、その基準点がここにある。

レインボーフラッグ

 一方、本書を読んで思ったのは、この小説の底に流れている「暗さ」や「哀しみ」や「つましさ」は、昭和のゲイの世界にのみ特有なものではなく、昭和という時代に蔓延し、社会全体を覆っていた空気ではなかったかということである。
 少なくとも、ソルティが身をもって知る昭和40~50年代に限ってもいい。

 その何よりのしるしは、演歌の流行と衰退である。
 「もはや戦後ではない」と言い、所得倍増で豊かになっていく明るさの裏で、日本人は演歌的世界を共有していた。
 子供がアニメソングやポップスを、若者がフォークソングやロックやニューミュージックを追いかける傍らで、昭和の大人たちは演歌を好んで聴いていた。
 若者もまた、中年の声を聞くようになると、演歌の魅力にはまっていった。
 そこには日本的情念と日本的叙景によって縁どられた昭和の大人社会の映し絵があった。(その最高傑作のひとつが石川さゆりの歌った『津軽海峡冬景色』である)
 演歌の女王と言われた美空ひばりの死が、昭和の終わり(1989年)と同時であったのは、実に象徴的なことであった。
 平成・令和と時代が進んで、日本的情念と日本的叙景は急速に失われていったからだ。
 そう。本書の主人公である雅美は、昭和演歌に出てくる薄幸の女そのものなのである。
 本書を読んで、ゲイという特殊性より、昭和という時代の特殊性のほうを思ってしまうのは、マイノリティだろうがマジョリティだろうが、個人の意識と社会の意識は切り離せないからであり、かつ、それらは変わりうるということの証である。

 雅美は最後に水上との連絡を絶ち、行方知れずになってしまう。
 北の海に向かったのだろうか。
 令和の今なら、一所懸命お金をためて、タイに行って性別適合手術を受けて凱旋、水上のコネを使って芸能界デビュー、という選択もありだろう。(カルーセル麻紀はそのトップランナーだった)

 

 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損







● 映画:『怪物』(是枝裕和監督)

2023年日本
126分

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 大ヒット上映中の『国宝』で主人公(吉沢亮)の子供時代を演じ、鮮烈なインパクトを残した黒川想矢のデビュー作である。
 脚本を坂元裕二、音楽を坂本龍一、撮影を近藤龍人が担当している。

 地方の小学校を舞台に、いじめや教師の暴力やモンスターペアレントや親の虐待、そしてセクシャルマイノリティの児童の存在など、非常に今日的なテーマが描かれている。
 トニー・ケイ監督『デタッチメント 優しい無関心』(2011)、ルーカス・ドン監督『クロース』(2022)との相似を思ったが、出来栄えでは残念ながらこの2作に劣る。
 
 マイナス点の一つ目は、後味の悪さ。
 セクシャルマイノリティである(らしい)2人の少年、麦野湊(演・黒川想矢)と星川依里(演・柊木陽太)の生き難さを物語の軸にしているのだが、最後に少年たちは嵐の夜に崖崩れにあって亡くなってしまう。
 ラストシーンでは、光あふれる美しい世界に生まれ変わった少年たちが、この世の束縛や偏見を脱して自由に草原を走り抜ける。近藤龍人の繊細で鮮やかなキャメラと坂本龍一のノスタルジックな音楽を背景に。
 それがあたかも、「セクシャルマイノリティはこの世では幸福に生きられない」というメッセージのように受け取れる。
 希望が感じられず、当事者の一人として気持ちが沈んだし、怒りも覚えた。
 ところが、ウィキ『怪物』によれば、是枝監督のつもりとしては2人は死んだのではなく、無事に生き延びたのだという。
 それなら、もっと誤解されないような描き方をすべきであった。
 2人が生き延びたのか亡くなったのか、この違いは本作の鑑賞後の印象を決定的に変えるものなので、そこが誤解されるような作りである点において、失敗と思う。

 二つ目のマイナス点は、構成にある。
 本作は3章仕立てになっている。
 第1章は、湊の母親・早織(演・安藤サクラ)の視点。
 早織は、湊の不可解な振る舞いに疑問を抱き、その原因が担任教師の保利(演・永山瑛太)から受けた理不尽な暴力にあると思い込む。学校や教員という“怪物”と闘う。
 第2章は、教師である保利の視点。
 新任の学校で張り切る保利は、子供たちの不可解な言動に振り回されているうちに、いつの間にか暴力教師の汚名を着せられ、解雇されてしまう。保利にとっては、子供たちが“怪物”として映る。
 第3章は、湊の視点。ここで、第1部と第2部で起こっていたことの真実が明らかにされる。湊はクラスのいじめられっ子である同性の依里を好きになったが、そのことを誰にも言えず、ひとり苦しんでいた。依里もまたセクシャルマイノリティで、父親から「おまえの脳は豚の脳だ」と日々虐待を受けていた。他の男子と違う自分たちを、湊と依里は“怪物”と思い、「生まれ変わって違う自分になりたい」と思っている。

 話がわかりづらいのは、3つの章が時間的に重なっているからである。
 つまり、どの章も、ビル火災のシーンからスタートし、音楽室で湊と校長先生(演・田中裕子)がラッパを吹き鳴らすシーンを経て、嵐の夜のシーンで終わる。
 章が変わるたび、時間が巻き戻される。
 だが、一度の鑑賞でこの複雑な構造に気づくのが難しいのである。
 おそらく是枝監督のつもりでは、ビルの火災という目立つシーンによって章の区切りを示す、つまり時間がそこで巻き戻ったことを観る者に伝えたつもりなのであろう。
 が、ソルティは第2章のはじまりのビル火災を、放火魔――どうやら犯人は依里らしいのだが――による第2の放火と勘違いし、しばらくは時間が巻き戻ったことに気づかなかった。
 ここは、たとえば、登場人物の会話を入れるなどして、同じシーンの再現であることを明確にしてほしかった。あるいは、日時のキャプションを入れれば一発で分かる。
 わかりにくい演出をすることが映画として高尚、と勘違いしているのではないか。

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StephaneによるPixabayからの画像

 異なる視点から同じ話を重複して描いていく趣向自体は面白いし、深みを増す。
 同じ物事でも視点が変われば異なった姿に映る、おのれの価値観や思考や感情に囚われている者の目には、ありのままの真実が見えない。
 その誤解と無理解と鈍感さの厚い壁に圧されて、弱い者の生きる力は損なわれていく。
 早織は「ふつうに」良い母親、保利は「ふつうに」良い先生で、一見なんの問題もない。
 だが、早織や保利をはじめとする世間一般が求める「ふつう」、「幸福な結婚」、「男らしさ」という言葉が、セクシャルマイノリティである湊や依里を苦しめる。
 人は自分でも気づかないうちに、誰かの「加害者」になっている。
 このテーマ自体は、是枝監督の深い世界認識を表していて、共感できる。

 だが、LGBTテーマが浮上するのは、ほぼラストに近い第3部の半分くらいである。
 ここでやっと、湊の抱えていた悩みや苦しみ、湊と依里の不可解な関係の秘密が判明する。
 観る者は、この時点に至ってはじめて、第1部と第2部において描かれた数々の謎、いわゆる伏線を、遡って読み解くことになる。
 ここがやはり失敗していると思う。

 本作は2回、3回と繰り返し注意深く観ることによって、張られている伏線を読み解き、湊や依里を始めとする登場人物の置かれている状況や気持ちを、より深く理解できるつくりになっている。
 だが、普通、映画を見る人は、2回は観ない。
 1回の鑑賞で理解できない映画は、「なんだかよくわからなかった」で終わる。
 なので、せっかく張った伏線が無駄になってしまう。
 ソルティの例で言えば、湊と依里がセクシャルマイノリティであると分かった上で臨んだ2度目の鑑賞によって、第1部と第2部にばらまかれている母親や教師のセリフ「ふつう」、「幸福な結婚」、「男らしく」が、湊や依里を傷つけていたのだと理解できた。
 なんの前提知識もない1回の鑑賞で、そこまで見抜くのは大方の鑑賞者にとっては至難のわざであろう。
 たとえば、物語の最初のほうで、湊と依里のセクシャリティと関係性を観る者にある程度悟らせてしまえば、より深い物語理解が可能になったと思う。
 3章仕立ての謎解きのような構成が、果たして必要だったのか。
 『クロース』の単純さに軍配が上がると思うゆえんである。

 昨今の是枝監督は、国際的知名度ゆえに“力み過ぎ”なように見受けられる。
 賞という名の“怪物”に押しつぶされないことを願う。

 役者では、黒川想矢と柊木陽太が素晴らしい。
 『誰も知らない』の柳楽優弥といい、『海街diary』の広瀬すずといい、磨けば光る原石を見つける是枝監督のリクルート能力は凄い。
 安藤サクラ、永山瑛太、田中裕子は、相変わらず卓抜な演技をみせている。    
 が、永山と田中の演じるキャラの性格設定が不自然で、役者が可哀想。
 




おすすめ度 :★★

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● イランお世話 映画:『聖地には蜘蛛が巣を張る』(アリ・アッバシ監督)

2022年デンマーク、ドイツ、スウェーデン、フランス
117分、ペルシア語
原題 “Holy Spider”

 10年に1本のウミウシ映画『ボーダー 二つの世界』(2018)の監督作品と知ってレンタルした。
 本作もきっとウミウシ的要素(ジャンルを特定できない、説明しようのない奇天烈さ)が濃厚にあるのだろうと期待したが、オーソドックスなサイコパス・スリラーであった。
 ただ、これを“オーソドックス”と言ってしまうこと自体が奇天烈かもしれない。
 というのも、本作は実際にあった事件をもとにしているからである。

2000~2001年、イランの地方都市マシュハドで、サイード・ハナイという男が、16人の娼婦を殺害した。
サイードは1962年生まれ。イラン・イラク戦争(1980-88)に従軍した経験を持つ。建築業で働き、3人の子持ちだった。
犯行は2000年8月から開始された。街で拾った娼婦をバイクに乗せて郊外に連れ出し、女たちが身に着けていたヒジャブで絞殺した。
マスコミは犯人を“spider killer(殺人蜘蛛)” と名付けた。
裁判でサイードは「神の承認のもと、町の浄化のために行った」と言い、一部の熱狂的な支援者を得たが、2002年8月に処刑された。

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M. H.によるPixabayからの画像

 娼婦やドラッグのはびこる不浄な社会に憤りを感じ、みずから浄化役を買って出るという“ハタ迷惑な”主人公の姿は、『タクシードライバー』のロバート・デ・ニーロを彷彿とさせる。両者が戦争を経験しているのも共通項である。
 Wikiによれば、サイードの場合、子供の頃に母親からの虐待を受けていたらしい。ヒッチコック監督『サイコ』の例に見るように、狂信的・支配的な母親が女性蔑視のシリアルキラーの息子を生み出す傾向があるようだ。
 むろん、その奥には、狂信的・支配的な母親を生み出してしまう何らかの社会構造の歪みがあるわけだが・・・。
 日本であまり類例がないのは、やはり、一神教という宗教的要因が絡んでいるのではないかと思う。
 
 本作はイランが舞台だが、撮影はヨルダンで行われた。
 イラン政府からの許可が下りなかったからだ。
 公開後もイラン政府から、「全世界何百万人ものイスラム教徒とシーア派の人々の信仰を侮辱した」と抗議されている。

 殺人犯の正体をつきとめようと骨折る女性記者を演じるザーラ・アミール・エブラヒミの、フェミ的な強い眼差しが印象的。
 第75回カンヌ映画祭で主演女優賞を獲得している。




おすすめ度 :★★★

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● 怪談より怖い⁉ 映画:『大奥絵巻』(山下耕作監督)

1968年東映
96分、カラー

 淡島千景、佐久間良子、大原麗子の世代の異なる三美人女優が、第11代将軍徳川家斉(田村高廣)の大奥につとめる三姉妹に扮した豪華時代劇。
 山下耕作監督は、三島由紀夫が激賞した『博奕打ち 総長賭博』(1968)、藤純子主演『緋牡丹博徒』(1968)や『日本女侠伝 侠客芸者』(1969)、高倉健主演『昭和残侠伝 人斬り唐獅子』(1969)、渡哲也主演『日本暴力列島 京阪神殺しの軍団』(1975)、岩下志麻主演『極道の妻たち 最後の戦い』(1990)など、任侠映画で知られた名匠。
 暴力に満ちた醜悪な裏社会の描写を敬遠する向きも多いと思うが、抒情性と映像美は折り紙付きで、まずハズレのない監督である。
 本作も、女人天下の大奥が舞台だけあって、スター女優たちの美しさとともに、着物や建物や調度の絢爛豪華さに目を奪われる。

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左より大原麗子、佐久間良子、淡島千景

 タイトルに「大奥」を冠した映像作品の最初は、1967年公開『大奥㊙物語』(中島貞夫監督、東映)と言われている。
 主演は本作と同じ佐久間良子で、㊙から想像される通り、エロチシズムたっぷりの時代劇だったらしい。(ソルティ未見)
 そのヒットにあやかり、翌年、エロ要素を除いた連続ドラマ『大奥』が関西テレビで放映され、高視聴率を取った。
 これによって、時代劇およびポルノ映画の一ジャンルとして「大奥物」が誕生したのである。
 ソルティの中では、岸田今日子ナレーションで一世を風靡した1983~84年フジテレビ系列の『大奥』が印象に強いが、物心ついた時から当たり前のように大奥物をテレビで目にしていたし、志村けんや由紀さおりによる大奥ギャグ(「そのほう、いくつになる?」→「十八にござります」→「怒!」)も自然に楽しんでいた。(令和の今は明らかなるエイジ・ハラスメント)
 いま、こうして数十年ぶりに大奥物を観た時、女ばかりの閉ざされた空間内の独特の文化や風習やきまり、すなわち“コード(code)”の奇天烈さに驚かされる。

 言葉遣いやふるまい、御年寄をトップとする大奥女中のヒエラルキー、将軍様の御寵愛を奪い合う御台所はじめ側室たちの争い、将軍様の目に留まった身分の低い女中(生娘)が夜伽に選ばれて支度する一連の手続き・・・・。
 まったく面白い。
 だいたい、大奥の目的は将軍様の男児すなわちお世継ぎをつくることにあるので、言ってみればそこは、“世継ぎ制作工房”。
 そこに集うあまたの女たちの使命は、将軍様のセックスをサポートすることにある。
 側室たちは将軍様の精子の奪い合いを行い、それぞれの局につとめる女中たちは、将軍様の精子をみずからの女主人の卵子に引き寄せるべく、手練手管を使い、陰謀をめぐらすのである。
 絢爛豪華な表向きと煩雑で格式ばったコードでカモフラージュしなければ、到底格好のつかない、身も蓋もないエグい世界なのだ。
 まあ、テレビや映画のフィクションで描かれている大奥が、実際にあったそれとまったく同じという保証はないが・・・。

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 淡島千景の貫禄と達者な演技、佐久間良子の品のある美貌と艶やかさ、22歳の大原麗子の初々しさ(演技は下手)は眼福ものである。
 大奥の文字通り“お局さま”を演じる三益愛子と木暮実千代の怖いほどの風格は、昨今の女優には望むべくもない。声の出し方からして違う。
 そう、大奥物の面白さは、様々な年代の新旧の女優たちが演技の妍を競うところにもある。奥女中(女優)たちの重圧の前には、将軍家斉(田村高廣)もタジタジ(笑)。
 
 クソ暑いこの時節を大奥物で乗り切るのもひとつの手かもしれない。
 女たちの戦いに肝の冷えること請け合い。
 怪談より怖いかも。
 




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