ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

性にまつわるあれやこれ

● 砂上の楼閣 映画:『ドント・ウォーリー・ダーリン』(オリヴィア・ワイルド監督)

2022年アメリカ
122分

 サスペンスホラーSF。
 砂漠の中にあるヴィクトリーという街に、夫ジャックと暮らす専業主婦アリス。
 美しく立派な家、ハンサムで優しい夫、仲の良い女友達、パーティやお稽古事や買い物に追われ・・・・すべてが完璧で絵にかいたような幸福な日々。
 街の男たちは、毎朝高級車に乗って、砂漠の中にある会社に出かけていく。
 そこは社員以外の住民は立ち入り禁止であった。
 夫は、いったいなんの仕事をしているのだろう?
 ヴィクトリー計画とはなんのことか?
 「心配するな、ダーリン」
 ジャックは何も教えてくれない。

 センスのいいスタイリッシュな映像と隠された真相への興味で、最後まで飽きさせない。
 ネタばらしはしないでおくが、ある有名なSF映画のアイデアを彷彿とさせる。
 一見ユートピア、実はディストピアという、ジャ×ーズ帝国のような物語。

 「砂上の楼閣」という言葉は中国の故事から来ているものと思っていたが、そうではなく、聖書の「マタイによる福音書」の中のイエスの次の言葉が由来らしい。

 わたしの言葉を聞いて実践する者は、岩の上に家を建てた賢い男のようなものだ。
 雨が降り、川があふれ、風が吹きつけようとも、その家はびくともしなかった。
 岩の上に建てられたからだ。
 
 わたしの言葉を聞いて実践しない者は、砂の上に家を建てた愚かな男のようなものだ。
 雨が降り、川があふれ、風が吹きつけると、その家は倒れて崩壊した。 

 英語では a house built on sand となる。
 ヴィクトリーという街はまさに砂上の楼閣であった。

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Paul BrennanによるPixabayからの画像

 ここに描かれる幸福像は、夫が働き妻は家事と育児をするという(トランプ元大統領の熱狂的サポーターが求める)50年代アメリカの典型的理想の家庭である。
 その後ウーマンリブが来て、フェミニズムが来て、世の男女関係も夫婦関係も一変したけれど、結局男たちの夢は50年代の「古き良きアメリカ」「パパはなんでも知っている」にあるのだろうか。
 女性監督であるオリヴィア・ワイルドはそう揶揄っているようだ。
 
 
 
おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 本:『同志少女よ、敵を撃て』(逢坂冬馬著)

2021年早川書房

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 昨年11月に図書館予約したとき、53人待ちだった。
 一ヶ月に2名が借りるとして、2年以上はかかるかと思っていたら、半年で順番が巡ってきた。
 図書館が在庫数を増やしてくれたのである。
 それでも今もまだ、新たに借りようとしたら30人以上待ちになる。
 すごい人気である。
 第11回アガサ・クリスティ賞受賞。
 「あいさかとうま」は1985年生まれの男性である。

 第2次世界大戦の独ソ戦(1941-1945)、ソ連が舞台である。
 片やヒトラー率いる全体主義国家、片やスターリン率いる社会主義国家。
 独裁国家同士の闘い。
 平和な村に侵攻してきたドイツ兵に、母親や隣人を目の前で殺された16歳の少女セラフィマは、復讐を誓い、女性ばかりの狙撃兵訓練所に入る。
 女性教官長イリーナの厳しい指導のもと、必要な知識と技術とタフネスを身につけ、最終過程まで残った4人の仲間とともに狙撃兵となり、実戦に送られる。
 スターリングラードやケーニヒスベルグでの激しい戦闘で、仲間を失いながらも腕を磨き、数十名の敵を射殺し、いまや取材が来るほどの一人前の狙撃兵となったセラフィマ。
 ついに、母親の仇のドイツ兵とあいまみえる時がやって来た・・・・。

 本作の一番のポイントは、言うまでもなく、少女が主人公で、女性狙撃兵チームの戦いぶりが描かれている点である。
 それはノーベル文学賞受賞のスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチのノンフィクション『戦争は女の顔をしていない』にある通り、史実に則っている。
 ソ連では多くの女性たちが自ら志願し、戦地に赴き、兵士として男たちと肩を並べ闘った。
 いい悪いは別として、ジェンダー平等であった。

 本作の主人公が少年であり、男性狙撃兵チームの物語であったのなら、この作品はおそらく陽の目を見ることはなかったであろう。
 その類いの物語は、小説でもマンガでも映画でも、昔から掃いて捨てるほどある。
 可憐な少女が銃を持つというヴィジュアルに、多くの男の読者は、『セーラー服と機関銃』の薬師丸ひろ子や『エヴェンゲリオン』の綾波レイや惣流アスカのイメージを重ねて萌えるのだろう。(主人公セラフィマの容姿についてはとくに描写されていないが、まず読者は、表紙の美少女を想定して読むことだろう)
 一方、多くの女の読者は、軍隊という究極の男社会の中で、男どもに負けず、男どもを歯牙にもかけず、男どもを蹴散らして、男以上に活躍する彼女たちの姿を小気味よく感じるだろうし、女性ばかりのチームにおける友情や反目や恋愛というテーマに心躍らせると思う。(この作品、宝塚ミュージカル化したらヒット間違いなし)

 『戦争は女の顔をしていない』同様、武器をもって男並みに闘う女性、殺した敵の数を勲章とするような女性に対する周囲の目を描いているところも、読みどころである。
 敵を100人殺した男性兵士は、男の中の男であり、間違いなく国家の英雄として持て囃される。
 敵を100人殺した女性兵士は、英雄と祭り上げられはするが、誰も近寄ろうとしない。嫁に貰おうとしない。
 昨今のトランスジェンダーに対するバッシングに見るように、伝統的なジェンダーを逸脱する人間は、叩かれやすい。
 女狙撃兵たちの戦後は、ともすれば、戦中よりも生きづらい。

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Javier RodriguezによるPixabayからの画像
 
 一方、独ソ戦を舞台に少女スナイパーの苦難や活躍を描くだけでは、たとえ本作が狙撃や独ソ戦に関する綿密な調査を踏まえ、個性あるキャラクターたちや臨場感ある戦闘シーンを描き出すことに成功しているとしても、やはり、クリスティ賞受賞には至らなかったと思う。
 本作にはある種の「どんでん返し」が仕掛けられており、それこそが本作をして、単なる男女の「とりかえばや物語」に終わらせずに『ガリバー旅行記』のような風刺小説の域まで高らしめ、読む者に衝撃を与えて作者のたくらみの妙に感心せしめ、ミステリーの女王の名を冠した賞の栄誉にふさわしいと納得させるトリックである。
 ここまで“萌える少女戦記”として読んできた男たちの足元をすくう結末が待っている。
 そのとき、『同志少女よ、敵を撃て』というタイトルの意味に、読者の胸は射抜かれよう。
 正直、これを書いたのが女性ではなくて30代の男性であることに、ソルティは驚いた。
 それこそ、読者の読みを最初から誤らせる、本作品最大のトリックかもしれない。 
 
 本書を存分に楽しむためには、スターリン独裁下のソ連、ヒトラー独裁下のドイツ、そして独ソ戦の概要を、ネットでざっと調べてから読み始めるのがおススメである。 
 半年待った甲斐はあった。
 
 
 

おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 美輪明宏の恋人? 映画:『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』(野口博志監督)

1960年日活
86分

 トニーこと赤木圭一郎主演「拳銃無頼帖シリーズ」第1作。
 ついに“禁断”の赤木圭一郎に踏み入れてしまった (゚∀゚)アヒャヒャ
 なんで禁断なのか自分でもよく分からないが、たぶん、その昔耳にした「美輪明宏の恋人だった」とかという噂が妙な煙幕となって、彼を遠ざけていたようである。
 まあ、裕次郎や小林旭はじめ日活のアクション映画には興味なかったというのが一番の理由であるが。

 まだ一作目なので、赤木圭一郎の魅力がよく実感されなかった。
 感じとしては、時代劇映画とくに眠狂四郎シリーズにおける市川雷蔵のようなイメージだろうか?
 暗い過去や秘密を宿した母性本能をくすぐる無頼漢。
 演技も歌も上手くはない。
 ブルージーンズが似合うあたりが、裕次郎とも旭とも違ったアメリカンな色気を感じさせる。
 
 共演の浅丘ルリ子の美しさも特筆すべき。
 この人は演技力が優れているのに、日活アクションスターの恋人役として毎回つまらない役柄ばかりやらされて、つくづくもったいなかった。
 日活ジェンダリズムの被害者と言っていい。
 
 もう一人、特筆すべきは宍戸錠。
 ニヒルな笑いを振りまくダンディな殺し屋として異彩を放っている。
 こんな役作りができる達者な俳優だったとは!
 豊頬手術と『食いしん坊!万才』4代目レポーターのイメージしかなかった。

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赤木圭一郎と宍戸錠
 
 赤木圭一郎はゲイだったのかなあ~?
 21年という人生は、それを云々するにはあまりにも短い。



 
 
おすすめ度 :★★★

★★★★★
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● 映画:『私は告白する』(アルフレッド・ヒッチコック監督)

1953年アメリカ
95分

 殺人犯のぬれぎぬを着せられたローガン神父(=モンゴメリー・クリフト)は、本当の犯人を知っていた。
 だが、それを警察に伝えることは職務上できなかった。
 真犯人の告解を聴いていたからである・・・・・。

 主演のモンゴメリー・クリフトは正統派二枚目で、ゲイであったという。
 どこか影ある美貌の正体は、「告白できない」秘密を生涯抱え屈託していたためであろうか。
 そのパーソナリティが、ここでは、真実を知っているのに話すことができず懊悩する神父の姿にぴったり重なって、リアリティある深い演技となっている。
 クリフトは30歳頃からアルコールとドラッグに溺れるようになり、35歳のとき交通事故で顔面整形するほどの大ケガを負うなど、波乱が続いた。
 46歳で心臓発作で亡くなった。 

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モンゴメリー・クリフトとアン・バクスター

 ときに、日本人には馴染みの薄いキリスト教の告解という儀式は、他人に悩みを話すことで心の重荷を軽くするカウンセリング的役割を果たしてきたと思う。
 が一方、担当地区の住民たちの秘密を知った聖職者には決して小さくないパワーが付与される。
 大事な秘密を握られている住民にしてみれば、聖職者の言うことに逆らうことは――たとえ彼を信じていて秘密が洩らされる心配はないと分かっていたとしても――容易ではなくなる。
 これは思うに、住民の心を支配しコミュニティを掌握するためにキリスト教会の編み出した奇策という気がするのだが、どうなのだろう?
 結構長い間、電話や対面での相談の仕事をしてきた者の一人として、気になるところである。
 
 もっとも、相手がモンゴメリー・クリフトのような美形神父であったなら、おそらく多くの女たちは適当な罪をでっち上げ、念入りに化粧し着飾って、いそいそと告解に通うだろう。
 ゲイの神父には効果ないことも知らずに。
 (彼の心は聖歌隊の少年の一人にあったのであった。つづく・・・・)




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 映画:『ダウントン・アビー/新たなる時代へ』(サイモン・カーティス監督)

2022年イギリス、アメリカ
125分
脚本 ジュリアン・フェロウズ

 英国大ヒットTVドラマの映画版第2作。
 TVシリーズの放映開始は2010年、ほんとうに息の長い人気である。
 これだけ長くやっていると、出演者たちは本当のファミリーみたいになってくるだろうし、観る者からすれば遠い親戚みたいな感覚になってくる。
 懐かしの顔触れとの再会が楽しかった。

 今回もいろいろと事件は起こるのだが、最大のものは、ラストに用意されたヴァイオレット・クローリー〈先代グランサム伯爵夫人〉の逝去である。
 息子夫妻、娘、孫、親友らが見守る中、各人に言いたいことを言い放って、穏やかにして荘厳な最期を迎える。
 女優マギー・スミスの独壇場だ。
 それはまた、このシリーズからのマギーの卒業を意味するわけで、ヴァイオレットを看取る親族たちの眼差しは、偉大な女優マギーとの共演という光栄に浴し、撮影時の様々な思い出を反芻する後輩役者たちの感謝と愛情にあふれ、演技を超えた名シーンとなっている。
 ヴァイオレットことマギー・スミスの存在が、ドラマの中でも、実際の撮影現場においても、非常に大きなものであったことが知られる。
 芸の上で本邦で匹敵する女優を上げるなら、亡き杉村春子だろうか。

 本シリーズの見どころの一つは、ダウントン・アビーの使用人の一人で最後は執事になったトーマス・バロー(演:ロバート・ジェームズ=コリアー)を同性愛者に設定したことである。
 英国の現代ドラマでゲイが出てくるのはもはや珍しくもなんともないが、20世紀初頭を舞台とするドラマでゲイがレギュラーキャラとして登場し、宿命を背負った一人の人間として、その屈折や葛藤や悲しみや成長が描かれたのは画期的であった。
 むろん、LGBT視聴者を意識した制作側の目論見あってのことだろう。
 同性愛が違法とされた時代にトーマスの幸福を描くのはなかなか難しかったことと思うが、理解ある主人一家や同僚に恵まれ、本作の最後ではハリウッド男優との新天地アメリカでの生活という道が開かれた。
 「自分に正直に生きたい」というトーマスのセリフは、制作者のLGBT視聴者へのエールでもあろう。
 こういうドラマがヒットしないわけがない。

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出演者一同
左端がヴァイオレット・クローリー役のマギー・スミス



おすすめ度 :★★★

★★★★★
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● ブルックナー行列 : フィルハーモニック・ソサィエティ・東京 第11回定期演奏会

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錦糸町からスカイツリーを望む

日時: 2023年6月4日(日)
会場: すみだトリフォニーホール 大ホール(錦糸町)
曲目:
 J.S.バッハ: 2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調
   ヴァイオリン: 長原幸太
   ヴァイオリン: 佐久間聡一
 アントン・ブルックナー: 交響曲第9番 ニ短調
指揮: 下野竜也

 交響曲第4番「ロマンティック」では真価の分からなかったブルックナーに再挑戦。
 今度はブルックナーの遺作であり最高傑作の一つとされている9番である。
 下野竜也の指揮ははじめて(かな?)

 前半のバッハの曲は、誰もが耳にすれば「ああ、知ってる」と言うような有名曲。
 名曲喫茶でよく流れている。
 2人のヴァイオリン名手による息の合った掛け合いが素晴らしかった。
 アンコールの『アヴェ・マリア』も優美そのもの。
 すっかり気分あがって、後半に備えた。

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名曲喫茶と言えば、国分寺の『でんえん』が有名
創業66年、昭和の遺跡である

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96歳になるという女性オーナーはいまも健在
素晴らしいことだ(令和5年5月末に来訪)

 開演前にトイレは済ませておいたので、20分間の休憩中はずっと座席にいた。
 あとから「休憩中にトイレに行くべきだった」と後悔した。
 後半途中で尿意を催したというのではない。
 クラシック演奏会の休憩時間は通常、混雑している女性トイレを横目に男たちはさっさと用を済ますのであるが、男性ファンが圧倒的に多いブルックナーの演奏会の場合、男性トイレの前に人が並び、女性トイレは空いているという、通常とは真逆の現象が見られる――ともっぱらの噂なのである。
 これを「ブルックナー行列」と名付けた人もいるくらい。
 数学用語みたいで面白い。
 ロビーに出て、真偽を確かめるべきだった。

ブルックナー行列

 さて、後半であるが・・・。
 やっぱり、真価が分からなかった。
 同じ音型の繰り返しで、どの楽章も他の楽章とたいした違いがなく、印象に残るようなメロディもない。
 さらに言えば、4番と9番の違いもよく分からない。
 偉大なるワンパターンといった感じ。

 ブルックナーはワーグナーを崇拝していたらしく、ワーグナー風の官能的タッチから曲が始まることが多い。期待が高まる。
 しかるに、『トリスタンとイゾルデ』のようなオルガズムに達することは決してなく、いつも寸止まりで終わってしまう。
 「ああ、もうちょっと踏み込めばイクのに・・・」というところで、さあっと波が引いてしまい、もとの欲求不満状態に戻る。
 その繰り返し、その繰り返し・・・。
 そこが一番、ソルティが「つまらない」と感じてしまうところである。

 ブルックナーは敬虔なカトリック信者だったらしいので、ストイックなところがあったのかもしれない。(とはいえ、生涯10代の少女に目がなく、求婚を繰り返したとか→すべてボツ)
 性愛方面では不器用で、敬愛するワーグナーの足元にも及ばなかった。
 それが作る曲に影響したのだろうか。
 信仰方面でオルガズム(=忘我や恍惚)に達することもありと思うのだが、そこまでの宗教体験は俗世間にいてはなかなか得られないものである。
 ブルックナーがすぐれたオルガニストだったことを思うと、皮肉である。

 ブルックナーは、ワーグナーはじめバッハやベートーヴェンやウェーバーから強い影響を受けた。
 作品の端々にそれは感じられる。
 が、思うに、官能と忘我の手前で身を翻してしまうという点において、スタイル的に一番近い作曲家はブラームスではなかろうか。(同時代に生きたブルックナーとブラームスは仲が良くなかったようだが、ひょっとして近親憎悪?)
 
 いやいや、もしかしたら、ソルティがまだブルックナー的快楽のツボを発見していないだけなのかもしれない。
 そのツボが見いだされ、然るべく開発されれば、驚くべき壮大で豊かで美しい世界が開けるのかも・・・。
 嬉々としてブルックナー行列に並ぶ男たちは、その秘密を知っているのだろう。
 再々チャレンジしよう。

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とりたてて男性客が多いとは感じなかったが・・・。
前半のヴァイオリン協奏曲のおかげかもしれない。






● あえてゲイ殺しの汚名を着て 本:『ヨルガオ殺人事件』(アンソニー・ホロヴィッツ著)

2020年原著刊行
2021年創元推理文庫(山田蘭・訳)

 いまや世界の本格ミステリー界の大御所とも言えるホロヴィッツ。
 ひとつの小説の中に別の小説を丸ごと放り込む、というアクロバティックな入れ子構造が見事に功を成し、一読で二つの本格ミステリーが楽しめた傑作『カササギ殺人事件』の続編が本作である。

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 本作もまた、英国人編集者スーザン・ライランドが8年前にヨルガオホテルで起きた殺人事件の解明に取り組むというメインプロットの中に、名探偵アティカス・ピュントが活躍するアラン・コンウェイの3作目のミステリー『愚行の代償』が丸ごと投入されている。
 アラン・コンウェイは、スーザンがデビューの時から担当していた作家で、国際的ベストセラー作家となったものの、9作目発表後に急死した。
 読者は、入れ子構造の外箱と内箱をなす二つのミステリーにおいて、探偵役のスーザンやアティカス・ピュントとともに犯人探しを楽しむことができるわけだが、むろん、この凝った形式には必然的理由がある。
 外箱すなわち「スーザンやアラン・コンウェイの住む“現実世界”」で起きた殺人&行方不明事件を解明する鍵が、内箱のフィクション『愚行の代償』の中に隠されている。8年前の事件の真犯人を知る故アラン・コンウェイは、ある理由から、犯人を警察に告発する代わりに自作にヒントを散りばめたのであった。
 ホロヴィッツのパズラー魂と巧緻なプロットには毎回のことながら舌を巻く。
 しかも、外箱のミステリーも、内箱のミステリーも、揃って本格推理小説として、あるいはエンターテインメントとして、一定の水準に達していて面白い。
 クリスティやクロフツやチェスタトンなど、ミステリー黄金時代の作家たちに匹敵する驚くべき才能である。

 素人探偵ソルティによる犯人当ては、一勝一敗であった。
 内箱の『愚行の代償』の犯人は当てることができたが、外箱の“現実世界”の犯人は分からなかった。
 素晴らしい読書タイムを与えてもらえたので、文句をつけるほどのことではないが、若干、キャラ設定的に気になるところはあった。
 “現実世界”でスーザンが行方を捜しているセシリーは、星占いの好きな夢見がちの一途な女性という設定なのだが、そのキャラクターからはちょっとあり得そうもない行動をしている。
 星の導きで出会った運命の人との結婚式を数日後に控えたセシリーが、はたしてすでに一緒に暮らしている婚約者の目を盗んで、×××の中で×××と×××するか・・・?
 しかもその結果、×××までしてしまい、×××するか・・・?
 どうも納得いかない。

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Tú AnhによるPixabayからの画像画像
 
 ときに、ホロヴィッツの小説の特徴の一つとして言えるのは、ゲイの登場人物が多いという点である。
 これまでに読んだものの中では、シャーロック・ホームズ物のパスティーシュである『モリアーティ』をのぞくすべての作品で、ゲイが登場していた。
 なにより、アティカス・ピュントの生みの親である作家アラン・コンウェイもゲイ(という設定)であり、本作でスーザンが調べることになった8年前の殺人事件の被害者も、SM趣味ある遊び人のゲイである。
 このゲイ濃度の高さはなにゆえ?

 おそらく、長いことメディア業界で仕事してきたホロヴィッツの周囲にはカミングアウト済みのLGBTがあたりまえに多く存在していた(いる)こと、そして、ホロヴィッツがアライ(LGBTを支援する人)であることが大きいのだと推測する。
 あるいは、英国ではすでに、複数の人物が登場する現代小説やドラマを書いたら、そこにゲイやレズビアンが出てこないのは不自然――というほど、LGBTの存在が可視化されているのだろうか?
 むろん、黄金時代のミステリーにはLGBTの姿はない。
 (欧米ミステリーにはっきりした形でLGBTが登場するのは、1955年マーガレット・ミラー著『狙った獣』が嚆矢ではないか?)

 ソルティが英国を訪ねたのは、2000年。
 当時のLGBTをめぐる社会的状況は、日本のそれとさほど違いはなかったように思う。
 やはり、ここ20年の変化が大きかったのではないか?(英国では、2014年に同性婚が法制化されている)
 その間、日本では、旧統一協会の息のかかった保守系議員や学者らによる性教育バッシングが安倍政権のもと勢いを増し、我が国のセクシュアルライツ(性と生殖に関する権利)は後退し続けた。 
 ホロヴィッツの小説を読むたびに、“失われた20年”および彼我の国民性の違いを思う。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 定と吉蔵 映画:『愛のコリーダ』(大島渚監督)

1976年日本、フランス
104分

 国立映画アーカイブ開催中の大島渚特集にて鑑賞。
 『飼育』のときは空席があったが、今回はソールドアウト。
 さすがエロのちから。
 もっとも、この作品、『戦場のメリークリスマス』と並ぶ大島渚の最大の話題作にしてヒット作のわりには、なかなか上映されないということもある。
 貴重な鑑賞機会なのだ。
 かくいうソルティも今回が初であった。

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 1936年5月に東京で発生した阿部定事件を描いたものなので、スキャンダラスなのは先刻承知。
 何と言っても、愛する男を行為の最中に絞め殺して、切断した陰茎を肌身離さず持ち歩いた女の話である。
 性愛描写と猟奇性は避けることはできない。
 しかるに、本作の話題はもっぱら、主演の藤竜也、松田暎子が撮影において「本番」をしたこと、それが共同制作のフランス始めいくつかの海外諸国ではノーカット無修正で観ることができる、というところに集中していたように記憶する。少なくとも昭和時代は・・・。
 「芸術かポルノか?」という煽り文句が盛んに唱えられていたが、大方の観客(とくに男の)にとってはポルノ目的だったのが正味なところではなかろうか。
 ウィキの『愛のコリーダ』を見ると、そのあたりの事情がよくわかる念のこもった解説ぶりである(笑)
(そもそも、芸術とポルノは対立する概念か、ポルノであっても芸術たりうるのではないか云々・・・というメンドクサイ議論は止めておく)

 観始めて間もなく、「やっ、これはポルノじゃん」と心の中でつぶやいた。
 徹頭徹尾、阿部定(松田)と石田吉蔵(藤)のセックスシーン。
 たいした筋書きもドラマもなく、出会った2人がお互いの体に溺れ、昼も夜もところかまわず盛んにまぐわい続けるさまが、延々と描かれる。
 大方のピンク映画のほうが、まだドラマがあるし、セックスシーン自体も少ない。

 ある意味、これは「究極のポルノ映画」と言ってもいいのかもしれない。
 テーマは「人間の性」そのものであるし、死に接続する愛というバタイユ的究極に触れているし、前貼りをつけない本番という点で究極のリアル演出であり、なによりこれが史実をもとにしているという点で究極の現実でもある。 
 おそらく、性愛をテーマにして、これ以上の映画はつくれないだろう。
 これに比べれば、ベルトルッチの『ラスト・タンゴ・イン・パリ』がソフトポルノに思えるほど。
 
 途中で退屈したという点でも「ポルノだなあ」と思った。
 最初のうちこそ、藤竜也(35)と松田瑛子(24)の若々しい肉体と大胆なセックスシーンに驚かされ、興奮もあったが、ずっとそればかり見せ続けられていると、しまいにはウンザリしてくる。
 他人のセックスを見せ続けられるのは面白くない。
 どんな刺激的な映像であれ、ドラマがないと結局飽きるのだ。
 言ってみれば、勝ち負けのつかないスポーツ競技を見ているようなもの。 
 よもや大島の映画で欠伸をこらえなければならないとは思わなかった。
 もっとも、究極の性愛ってやつが、還暦間近のソルティにはもはや理解できない、理解したくもない、動物的徒労としか思えないのだが・・・・。

 映像そのものは大島の美意識が散りばめられて、見るべきものはある。
 料亭の座敷における2人の祝言のシーンなど、着物や和室のしつらいなど一見純日本的でありながら、ゴーギャン風の色彩があふれて、「大島はカラーも上手い」と再認識させられた。
 一方、男優にせよ女優にせよ、裸体を美しく撮ろうという狙いは最初からなかったようで、そこは変に芸術ぶっていなくて好感持てる。
 
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コリーダとはスペイン語で「闘牛」のこと
 
 2人の行為はエスカレートしていき、殴ったりつねったり刃物で脅かしたり、暴力的な味を添えることで、さらなる快楽を得ようとする。
 首絞めと陰茎切断のクライマックスまであと少し。
 「やっと、終わる」
 「それほどたいした映画じゃなかったなあ」
 ――と思っていたら、唐突に、これまでまったく出てこなかった外界が登場した。
 雪の降りしきる朝、たくさんの日の丸が振られる中を、軍服を着た若い男たちが行進する。
 出兵を見送るシーンである。
 その隊列とすれ違いながら、兵隊たちには目もくれず、逆方向へひとり歩いていく着物姿の石田吉蔵。
 これまでの定との愛欲場面ではいっさい見せなかった、いや映画が始まってから観る者がついぞ目にしなかった、真剣な、思いつめたような吉蔵の表情がアップされる。
 ほんの1分たらずのシーン。
 
 ここで観る者はハタと気づくのである。
 ああ、いまは日中戦争真っ只中だったのだ。
 1936年(昭和11年)とは2.26事件が勃発し、東京に戒厳令が敷かれた物騒な年だった。
 兵役法の下、20歳から40歳の男子は赤紙が来るのを待っていた。
 大日本帝国のため、天皇陛下のため、大和魂を示すために。
 
 吉蔵はなぜ遊んでいられる?
 命を懸けて大陸に向かう男子たちを尻目に、仕事も家もほっぽり出して、なぜ女とセックスにかまけていられる?
 ――当時42歳の吉蔵は兵役を免れていたのである。
 ここで、本作に別の視点が加わる。
 定という女の「狂気の愛」というテーマのほかに、吉蔵という男の語られざる屈辱が・・・・。
 
 一日に何度も女をイかすことができる鋼鉄のペニスを持つ自分を、社会は闘える男として認めてくれない。
 もう“終わってしまった”男と烙印を押されている。
 こんな屈辱的なことがあるか!
 
 この視点から見ると、吉蔵の尽きることを知らないコリーダ(闘牛)のような精力の誇示は、男たることの必死の証明のように映る。
「自分は終わってなどいない。まだまだ十分闘えるブル(雄牛)なんだ!」
 自ら了解し、定の好きにさせた結果としての絞死もまた、「大陸でなくとも、戦場でなくとも、男のままで逝くことはできるんだ」と嘯いているかのよう。
 吉蔵は“男として”死んでいく道を選んだのである。
 
 すると、定による陰茎切断はまったく違った意味合いを帯びて、観る者の前に立ち現れてくる。
 去勢すなわち、「男であること=マチョイズム」の否定。
 戦争する性、闘うことを好む性、イエを守る性、大きな理念のために自らを犠牲にすることを美学とする性、他者を排撃する性――それが男根によって象徴される男性性である。
 定は、自分では自覚することなく、男性中心社会に刃を翳したことになる。
 (そういえば、2人のセックスはいつも定が上の騎乗位である)
 
 ここまで読み込んでやっと、「ああ、これは大島渚の映画だ。阿部定事件に材を取った反マチョイズム、反ナショナリズムの映画でもあるのだ」と、ソルティは合点がいった。

 場内最後列には女性専用席が用意されていた。
 男対女は9対1くらいの割合だったろうか。
 面白く思ったのは、女性客が笑う場面で男性客はまったく笑っていなかったこと。
 逆に、最後の陰茎切断のシーンでは、男性客のみが一斉に息を詰めた。
 女性の感想を聞きたいものだ。

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国立アーカイブ4Fにある図書室
『キネ旬』バックナンバーなど映画関係の資料が揃っている




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




 



● TVドキュメンタリー:『宮沢賢治 銀河への旅 ~慟哭の愛と祈り~』

2019年2月NHK Eテレで放送
2021年DVD化

銀河への旅

 NHKで放送し、話題を呼んだ作品。
 内容はほぼ、菅原千恵子著『宮沢賢治の青春』で描かれているのと変わりない。
 ただ、菅原がはっきりとは明示しなかった宮沢賢治のセクシュアリティが、ここでは「同性愛」と断定されている。
 賢治が、同い年の学友であった保阪嘉内を、気の合った友人としてではなく、生涯ただ一人の恋人として慕い続けていたこと。賢治が自らを指して言った「修羅」とは、まさに、道ならぬ恋と性愛に苦しむ同性愛者としての苦しみを表現したものであること。そして、代表作『銀河鉄道の夜』の中に、賢治(=ジョバンニ)はあの世における嘉内(=カムパネルラ)との再会と結合への望みをそっと隠し入れたこと。
 それらが、銀河や岩手の四季折々の美しい光景や再現ドラマや詩の朗読によって、描きだされている。
 ディレクターの今野勉が2017年に発表した自著『宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人』(新潮社)がもとになっていることはエンドクレジットで示されているが、やはり、菅原の名前をまったく出さないのは、ちょっと不親切という気がした。
 
 一方、『銀河鉄道の夜』になんの説明もなしに出てくる「ケンタウル祭」の正体について謎を追究していくくだりは、本作(今野)独自のものであり、とても興味深くスリリング、かつ納得のゆくものであった。
 ケンタウル祭とは、ケンタウルス座と土星とが夜空で出会う稀なる夜のこと。
 つまり、賢治はギリシア神話に登場する半人半馬の醜い怪物ケンタウルスを自分に見立て、嘉内をサファイア色に光り輝く土星に見立てた。
 そして、ケンタウルスと土星が出会う冬の「七夕」の奇跡を、ケンタウル祭と設定したのであった。
 下半身が馬の怪物に自らをなぞらえるとは、賢治が獣性すなわち性欲に苦しめられたことを暗示していよう。
 「雨ニモ負ケズ」のストイックや「永訣の朝」の透き通るように美しい情念だけを見ていては、賢治の全体像はつかめないのである。
 宮沢賢治研究は、やはり、賢治のセクシュアリティや保阪嘉内との関係抜きには今後進めていかれないのではないかと思う。
 
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ケンタウルス
 
 それはさておき――。
 この作品を観て、一つ気づいたことがあった。
 賢治も嘉内も、若い頃から、世のため人のために自己犠牲する生き方に憧れていた。
 賢治は法華経を通して、嘉内はキリスト教を通して、同じその夢を見ていた。
 そこが、2人が出会ってすぐに肝胆相照らす間柄になった第一の理由であった。
 おそらくそれは、真摯な生き方を求めた多くの青年たちが同じようにかぶれた、時代の精神だったのだろう。
 明治29年生まれの2人は、感受性柔らかな13歳の時、ある事件を新聞で知ったはずだ。
 明治42年2月28日に起きた塩狩峠の列車事故である。
 乗客の命を救うために一身を犠牲にしたキリスト者にして国鉄職員、長野政雄。
 それはどれほどの衝撃と感動を2人の少年にもたらしたことだろう。
 どれだけ長野の生き方に憧れたことだろう。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったね、どこまでもどこまでもいっしょに行こう。僕はもう、あのさそりのようにほんとうにみんなの幸いのためならば僕のからだなんか、百ぺん灼いてもかまわない。」 

 ジョバンニとカムパネルラの乗った銀河鉄道の車掌が長野政雄であっても、驚かない。

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おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 25才の別れ 本:『宮沢賢治の青春』(菅原千恵子著)

1994年宝島社            
1997年角川文庫

 本書を読んでいる間、しきりに思い浮かんだのは、山岸涼子のコミック『日出処の天子』であり、特にそのクライマックス――主人公である厩戸王子とその思い人である蘇我毛人とが決定的に別れることになった池の辺の場面――であった。
 蘇我一門の援けを受けた厩戸王子が推古天皇の摂政となるまでを描いた同作は、古代史最大の偉人・聖徳太子の伝記という歴史書的側面は残しながらも、超能力を備えた美形の天才ヒーローの活躍を描くオカルト伝奇漫画の色合いも濃く、加えて、クローゼット(隠れゲイ)である太子とノンケ(異性愛者)である蘇我毛人とのすれ違う心模様に焦点を当てた恋愛ドラマである。
 BLコミックの草分けの一つと言っていいだろう。

 「二人で力を合わせてこの国を治めていこう」、「どうか私を一人にしないでくれ」と、もはやプライドをかなぐり捨てて恋愛感情をぶつけてくる厩戸王子の懇願に、布都姫(ふつひめ)との愛という別の道が見えている毛人は背を向けるほかない。
「我々は同じ魂が二つに分かれたソウルメイトなんだ。女なんて下等な生き物が入って来ない高みを一緒に目指そう」という王子の言葉に、毛人はこう答える。
「相手を自分と同じものにしようとする。それは本当の愛ではないのでは? 王子が愛しているのは私ではなく、ご自分自身なのではありませんか?」(このあたり記憶で書いているので不確か。ご容赦のほど)
 関係はすでに修復しがたく、王子と毛人は別々の道を歩むことになる。
 王子はだれひとり自分を理解してくれる者のいない孤独の道を、為政者として歩む。

日出処の天子
山岸涼子作画(白泉社)

 この厩戸王子と蘇我毛人との関係が、ちょうど本書における宮沢賢治と親友であった保阪嘉内の関係に符合するように思われたのである。
 池の辺の別れの場面が、25歳の賢治と一つ年下の嘉内が決定的に離別することになった、大正10年(1921)7月18日の上野図書館の場面と重なるように思えたのである。

 『“ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって』という副題がつけられた本書は、単刀直入に言うなら、以下の3つの説が挙げられている。
  1. 宮沢賢治は同性愛的傾向の持ち主であった、少なくとも、賢治の嘉内に対する思いは、男同士の友情の枠を超えた恋愛そのものであった。
  2. 宮沢賢治の37年の短い生涯において、嘉内との出会いと別れは非常に大きな事件であり、彼のいくつかの作品には嘉内との関係およびその破綻によって受けた傷が、色濃く反映されている。
  3. 代表作『銀河鉄道の夜』こそは、主人公の少年ジョヴァンニを自身に、カムパネルラを嘉内に見立てた2人の友情と別れの物語で、今なお忘れられぬ嘉内へのラブコールであった。

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左上が保阪嘉内、その隣が宮沢賢治

 賢治には生前多くの交友関係があり、花巻農学校の同僚や、羅須地人協会時代の音楽仲間、そして後に広がった文芸の仲間など、その数は多い。けれど、賢治にとっての友といえば、それは共に同じ道を歩くはずであり、恋人とも思われた保阪嘉内をおいて他にはなかった。賢治の心の中には終生、保阪嘉内の存在があって、絶えずその存在を意識し続けていた。

 著者の菅原が上記のような見解を抱くようになったきっかけは、嘉内の息子・保阪庸夫によって1968年(昭和43年)に発表された『宮沢賢治 友への手紙』を読んだことによる。
 賢治から嘉内への70通を超える手紙には、それまで知られていなかった賢治と嘉内の深い結びつきや、現状に悩み今後の生き方に迷う20代前半の賢治のさまざまな思いや葛藤、そして、「同じ法華経信者となって、世のため人のために一生を捧げよう」という嘉内への熱い呼びかけ(プロポーズ?)が書かれていた。
 これらの手紙を中心に、蜜月にあった学生時代の2人が文芸誌『アザリア』に投稿した短歌や、別れた後の賢治が発表のあてなく書いていた短歌や詩を読み解くことで、菅原は、宮沢賢治作品における保阪嘉内という存在の重要性を確信したのであった。
 テキスト研究の面白さを実感する「目からウロコ」の鮮やかな分析である。

 本書は1994年(平成6年)に発表された。
 「賢治→嘉内」恋愛説は、当時かなり衝撃的だったはずだが、ソルティは本書の発行に気づかなかった。当然世間の反応も覚えていない。
 大学時代を最後に宮沢賢治を読まなくなって、関心を失っていたのである。
 童話作家というイメージが強く、岩手を盛り上げる観光ファンタジーアイテムとして消費されているという感を持っていた。イーハトーブ定食とか・・・。
 もっとも、本書で菅原は、「賢治=ゲイ」と名指しているわけではない。
 そこは慎重を期して、賢治の嘉内への思いを「通俗的なホモセクシュアルと解されてしまうのは正しくない」としている。
 スキャンダラスな取り上げ方をされてしまうことを諫めている。
 また、90年代半ばの日本では、LGBTは表立って語られる話題でもなかった。
 それほど話題にならなかった、少なくとも従来の宮沢賢治像を大きく覆し、彼の作品の読みなおしを要求するほどの波は起こらなかったのではなかろうか。(違っていたらゴメンナサイ)

 現在、賢治=ゲイ説をネットでググると、かなりの件数がヒットする。
 どうやらこれは、演出家兼プロデューサーである今野勉が、2017年に『宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人』(新潮社)という本を発表したこと、そして、その本をもとにNHKが制作したドキュメンタリー『宮沢賢治 銀河への旅 慟哭の愛と祈り』がお茶の間放映されたことによるものらしい。
 ソルティ未見だが、賢治と嘉内の友情を超えた関係に切り込んでいるとか・・・。
 宮沢賢治が生涯独身であった(童貞であった?)というのは知っていたし、彼の書いた童話、たとえば『風の又三郎』や『銀河鉄道の夜』には「BLチックな味があるなあ」と前々から思っていたので、賢治=ゲイ説にはいまさら驚かない。
 が、イーハトーブ的には、すなわち観光アイテム的にはどうなんだろうかな~?
 いっそ、花巻や小岩井農場をLGBTの聖地にしては・・・・。

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岩手山

 まあ、菅野や今野の本は、あまたある宮沢賢治論の一つに過ぎず、一つの大胆な仮説に過ぎない。
 実際に床を共にした相手の証言によってゲイ説がほぼ認定されている三島由紀夫のケースとは違う。
 これから先も、賢治=ゲイを証明することは誰にもできまい。
 そこを踏まえて、あえて賢治=ゲイ説をとるならば、ソルティ思うに、25歳の賢治にとっての大きな痛手――その後の人生に長い影を落とし続けるほどの衝撃にして、その作品が今の高い国際的評価と人気を博するほどに磨き上げられることになった魂の試練――は、青春期ならでは全実存をかけた恋愛の破綻(大失恋)や、それに伴って発生した法華経信仰への懐疑、その後に続いた最愛の妹トシの死ばかりではなかったのではあるまいか?(まあ、これだけでも十分、回復するに困難な傷には違いないが・・・)
 自らを「ひとりの修羅」と語るほどの苦悩の正体とは、嘉内との別れによってはじめて気づいた恋愛感情、すなわち自らの性的指向の自覚だったのではなかろうか。
 「自分は男を愛する男だったのだ・・・」という気づきは、ネットもテレビもゲイ雑誌もなく、九州のような男色文化の名残もない、堅固な家制度に縛られた東北の農村にあっては、ブラックホールに突き落とされるような絶望と孤独とを、賢治にもたらしたのではなかったろうか。
 
 嘉内との別れのあとに書かれた詩集『冬のスケッチ』には次のような一節がある。

 ひたすらにおもいたむれど
 このこひしさをいかにせん
 あるべきことにあらざれば
 よるのみぞれを行きて泣く

 まるで、古賀政男の『影を慕いて』のような一節。
 古傷が痛んだよ。




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