ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

性にまつわるあれやこれ

● 晴海のチャイコ : オーケストラ・モデルネ・東京 第3回演奏会


オーケストラ・モデルネ

日時: 2022年6月26日(日)
会場: 第一生命ホール(晴海トリトンスクエア)
曲目:
  ヒンデミット:交響曲「画家マティス」
  チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」ロ短調 作品74
指揮:篠﨑靖男

 第一生命ホールに行くのは初めて。
 地下鉄・都営大江戸線の勝どき駅から歩いて7分のところにあるのだが、列車を下りて地上に上がった大きな交差点で、どっちに行ったらいいものやら皆目見当つかなかった。
 碁盤の目のように走る幅の広い道路と天をつく高層ビル群。
 縦横に流れる運河といくつもの橋。
 月島、晴海、豊洲、有明、天王洲、お台場、新木場・・・・いわゆるウォーターフロント。
 東京湾の埋立地に造成された21世紀の臨海都市が、ソルティには磁気を狂わせる樹海のように思える。
 スマホがなければ開演に遅れるところだった。
 
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第一生命ホールのあるトリトンスクエア
 
 パウル・ヒンデミット(1895-1963)はドイツの作曲家、ヴィオラ奏者。
 生涯で600曲以上作った多作家である。ソルティは初めて聴いた。
 画家マティスとは、16世紀ドイツの画家マティアス・グリューネヴァルトのこと。
 マティスの代表作に、イーゼンハイムにある聖アントニウス会修道院付属の施療院のために描いた『イーゼンハイム祭壇画』という絵がある。
 『交響曲マティス』は、この絵に感銘を受けたヒンデミットがナチス政権下の1933年に作曲したもので、3つの楽章にはそれぞれ祭壇の絵のタイトル――〈天使の奏楽〉〈聖アントニウスの誘惑〉〈埋葬〉――が冠されている。
 と言っても、ヒンデミット自身が「標題音楽ではない」と言っているとおり、この曲から天使や誘惑される聖人や埋められるイエス・キリストを連想するのは難しい。
 ナチスによって「無調の騒音」と批判された楽曲は、キリスト教っぽくすら、いや宗教音楽っぽくすらない。
 正直、ソルティの耳には、SFパニックサスペンスのBGMのようにしか聞こえなかった。
 むしろ、ナチス独裁時代のドイツを描いたと言われれば「なるほど」と頷ける。
 (ヒンデミットの霊感のもととなった実際の絵を見たら、印象は変わるかもしれない)

 チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」は、やはり第3楽章が鍵だと思う。
 他の3つの楽章は明らかに「悲哀、陰鬱、憂愁、絶望、苦悩、葛藤、動揺」などのネガティヴな言葉が浮かんでくるような〈陰〉の曲調なのだが、第3楽章だけは思いっきり勇ましく、一見ポジティヴな〈陽〉の曲調なのだ。
 第3楽章で終われば、ベートーヴェン第九のような「苦悩から喜びへ、暗から明への転換」と言ってしまえるくらいで、はじめてこの交響曲を聞いたときは「第3楽章で終わりにすればいいのに・・・」と思ったものだ。
 華々しく終了した第3楽章の後に、谷底に突き落とされそのまま息絶えるような第4楽章が来る。
 まったくの〈陰〉。
 第3楽章の〈陽〉がぬか喜びに過ぎなかったことを告げるかのよう。
 苦悩から喜びに至ったのに、より深い苦悩に――。

 ソルティには、第3楽章は「喜び」や「勇気」や「希望」や「成功」といったポジティヴな表現ではなくて、ある種の狂気の表現のように思われる。
 双極性障害(躁うつ病)の人の躁状態のようなもので、その明るいイケイケ感は鬱の反転として起こっているだけで、決して安定した性質ではない。神経が一時的に興奮状態にあるのだ。
 周囲の人間をいささか不安にさせる躁状態――とでも言おうか。
 実際、チャイコフスキーは躁うつ病だったという説もある。
 一見ポジティヴで勇猛果敢なイメージのある第3楽章も、それを聴いたことでベートーヴェン〈第九〉を聴いたあとのように「元気が出るか、喜びや愛に満たされるか、明るい落ち着いた気分になるか」と言えば、答えはNOであろう。

 いま日本でもLGBTを取り巻く社会環境が大きく変わり、同性婚の是非が話題になっている。
 民主主義国家における国際的なSDGSの常識化をみても、同性婚が日本で認められるのは時間の問題であろう。
 同性愛者であったチャイコがこの状況を見たら、名曲『悲愴』は生まれなかったろうなあ~。
 そう思うと、複雑な気持ちになる。
 いや、今のロシアに生まれていたら、やっぱり『悲愴』は生まれるか・・・・。

 オーケストラ・モデルネ・東京の演奏は、安定感があると同時に、若々しい活力を感じた。

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月島と晴海を結ぶ朝潮大橋からの風景(対岸は豊洲)

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佃水門よりスカイツリーを望む






● 映画:『愛のお荷物』(川島雄三監督)

1955年日活
110分、モノクロ

 「愛のお荷物」とは赤ちゃんのことであった。
 戦後ベビーブーマー時代を背景に、ある大臣一家に起こる恋と受胎の騒動を軽妙なタッチで描くコメディ。
 人口過剰問題の対策を先頭に立ってはかるべき新木厚生大臣の家庭において、本人夫婦はじめご子息・ご令嬢3人に同時に子供が授かってしまう・・・・。
 人口減少、少子高齢化が問題となっている現在から見れば、なんとうらやましい(お盛んな)時代であったことか。

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 新木大臣を演じる山村聡はじめ、轟夕起子、三橋達也、北原三枝(石原裕次郎夫人)、山田五十鈴、東野英治郎、フランキー堺、菅井きんなど、役者の顔触れが多彩で楽しい。
 三橋達也はこれまで注目したことがなかったが、喜劇がうまい。身のこなしもスマートで色気がある。
 山田五十鈴は押しも押されもせぬ名女優だが、喜劇だけは向かないと思う。存在が重すぎるのだ。
 同じベテラン名優でも東野英治郎あるいは杉村春子が喜劇もこなせるのとは対照的。
 導入部のナレーションをしている加藤武もうまい。

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三橋達也と北原三枝
ロケ地は上野の不忍池らしい

 個人的には脚本がもう少し遊んでも(はちゃめちゃしても)いいのではと思ったが、肩の凝らないセンスの良いコメディには違いない。



おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● みちのく・仏めぐり その1

 連休前半に宮城・山形・福島をまわる旅をした。

 主たる目的は、2年前から行方知れずになっている仙台の旧友・X君の捜索、および一昨年の正月に亡くなった山形の旧友・K君の墓参りである。
 一人旅の多いソルティであるが、今回はX君・K君とは共通の友人であり、現在は東京に暮らしていてたまに会って食事する間柄のP君と部分的に同行した。
 X君、K君、P君、そしてソルティの4人は、世代こそ異なれ、ソルティが仙台にいた頃(90年代)に参加していたセクシャル・マイノリティのサークルEのメンバーであった。

 せっかくの、そして久しぶりの仙台行なので、東日本大震災による被災と運行休止を経て2020年3月14日についに全線復旧を果たした常磐線を使い、被災11年後の沿線風景をこの目で確かめることにした。
 あとは足の向くまま気の向くまま、ゴールデンウィークの人混みもおよそ関係ない、普通列車4日間の“乗りテツ”を楽しんだ。

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東京都区内~仙台~山形~福島~大宮~川越のJR乗車券
常磐線→仙山線→奥羽本線→東北本線→宇都宮線→川越線を乗り継ぐ
(上野・山形往復より1000円以上安くなる!むろん途中下車可)


4月28日(木)晴れ 上野~仙台(常磐線)
 
 津波による被害が甚大だったのは、海岸線に近い久ノ浜駅(福島県)~亘理駅(宮城県)間であった。
 このうち最後まで不通になっていた富岡~浪江間(20.8キロ)は、津波の被害はもとより、福島第一原発事故の放射線汚染による避難区域となり、復旧が遅れた。この区域の沿線は、いまだに更地や整備中の土地が多く見られ、津波の被害を受けていない内陸側の沿線でも、人が住んでいる(戻って来ている)のかどうかは定かではないが、荒れ果てた物寂しい光景が目に付いた。

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JR東日本ホームページ掲載の路線図より

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JR常磐線・富岡駅

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 東日本大震災のことをまったく知らない人(たとえば外国人観光客)がいま常磐線に乗って沿線風景を目にしたら、おそらく、ここが地震と津波に襲われて壊滅的被害を受けたとはとても信じられないだろう。
 それほどまでに復興している。
 ただ、観察力のある人がこう思うだけだ。
 「なんだか沿線の住宅も駅もみんな新しいな。やけに墓地が多いな」

 福島県の最北にある新地駅で途中下車した。
 この駅はもとは海岸から200m弱のところにあり、ホームの一部と跨線橋以外すべてが押し流された。
 停車中の列車に乗り合わせていた乗客40名は、警察官の誘導で高台に避難し、全員が無事だったという。

新地駅(旧駅舎)
被災前の新地駅

新地駅・常磐線
被災直後の新地駅周辺

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現在の新地駅
海岸から500m弱の位置に移設された

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新地駅・海岸側

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新地駅・内陸側

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かつての田園風景は失われてしまった

 列車を乗り継ぐこと数回、上野から延々10時間かけて20時に仙台駅着。
 ソルティが仙台にいた頃、仙台駅2階コンコースのステンドグラス前に伊達政宗騎馬像があった。
 県外から列車で来た人にとっては「ああ、仙台に来た!」という感慨に浸れる場所であり、渋谷におけるハチ公のような恰好の待ち合わせの場所でもあった。
 実際、インターネットも携帯電話もない当時、サークルEの月に一度の集合場所は騎馬像前であった。(それを告知するのはゲイ専門の月刊誌であった)
 現在、新しい騎馬像が駅3階に設置されているが、やっぱりステンドグラス前にないのは淋しい限り。
 駅近くのカプセルホテル「とぽす」に泊まる(4800円)

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仙台駅

 
4月29日(金)曇りのち雨、一時みぞれ 仙台 

 午前中は定禅寺通りにある仙台市立図書館(仙台メディアテーク内)に行く。
 昔住んでいたアパート(家賃35,000円だった)のあった界隈なので無性に懐かしい。
 思えば、震災のあった年に被災した友人・知人を訪れて以来だから10年ぶりの来仙である。
 が、街を歩いていて思い出すのは、10年前のことでなく、30年前のあれやこれやである。自分が年をとったせいなのか、あるいは思い出にふけられるほど震災ショックが和らいだせいなのか・・・。
 定禅寺通り突き当りの市民会館前には中国人一家が経営していた美味しいラーメン屋があった。今やフォルクスワーゲンのショールームが入っているビルに代わっている。もうあの味は消えたのか?
 
 図書館に来たのは地方紙のデータベース検索が目的。
 行方不明のX君は2年前にある事件に巻き込まれて、地方紙に名前が載った。
 その後いっさい連絡がつかなくなった。フェイスブックも更新ストップしたままである。
 その後の彼の動向を教えてくれるような記事が同じ地方紙に載っていないか、確認しに来たのである。
 残念ながら――ホッとしたことにと言うべきか――検索には引っかからなかった。

 その後、仙台でHIV関連の市民活動を共にやっていた仲間の一人(♀)と会って、カフェで2時間ばかり談笑した。
 互いに“アラ還(60前後)”と言える年齢になって、出てくる話の一等は親の介護。
 親を見送るのはつらいし悲しい。けれど、長生きしてもらって病気や老衰で治療や介護が必要になった時、先立つのはお金とケアしてくれる人の手。嫌でも向き合わなければならないのは、それまでに築いてきた(築きそこなった)親との関係。
 そして、互いの親の話をしながらも、二人ともに「次は自分たちの番なのだ」と暗に思っている。
 順繰りにやって来るだけの話なのだが、若い時分には身に迫らなかった。

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ケヤキ並木の鮮烈なる定禅寺通り

 東京から到着したばかりのP君と在仙のS氏と勾当台公園で待ち合わせて、S氏の出してくれた車でX君探しの開始。
 S氏もまたX君の古い友人である。X君と連絡が取れないのを不審に思い、住んでいた仙台のアパートを訪れたところ、すでに退去していた。その後、くだんの地方紙にX君の名前あるのを見つけて、P君に連絡くれたのがS氏である。
 ソルティはS氏と会うのははじめてであった。
 
 探す手段として、県北にいるはずのX君の母親(再婚して別の家庭をもっている)のもとを訪ねて、じかに居場所を尋ねてみるのがいいだろう――ということになった。
 とは言え、母親の連絡先も住所も再婚後の姓も知らない。数年前にX君と一緒に列車で訪ねたことがあるというP君のおぼろげな記憶を頼りに、最寄り駅までドライブし、そこから歩いて母親の家を探す。
 なんだか雲をつかむようなとりとめのない話。家の場所も確かでなく、今もそこに母親が住んでいるのか定かでなく、連休の祝日に家にいるかもわからない。たとえ、運よく会えたとして、快く話をしてくれるかもわからない。 
 「たぶんこの家だろう」と半信半疑で玄関のチャイムを推すP君。
 しばらく間があって、出てきたのはまさにX君の御母堂その人だった!
 
 ここまではラッキーだったが、探索はそこでストップ。
 御母堂もまたご子息の行方も連絡先も知らず、数年前から訪問はおろか、一本の電話もメールももらっていないという。
 「亡くなった夫と数年前に大喧嘩して、それからこちらには一度も顔を出していない」
 よくある話であるが、X君は母親の再婚相手すなわち義理の父親とは昔から仲が良くなかった。義理の父親は一年前に亡くなっていた。
 それなら実の父親と連絡取り合っていないかと思い、その所在について伺うと、「前の夫もすでに亡くなったと人づてに聞きました」・・・・

 母親という、何かあればもっとも連絡してきそうな人に連絡して来ないのであるから、これ以上の探索はいまのところ難しいであろう。
 帰りの車で、「本人から何か言って来るまで待つしかないね」ととりあえずの結論に達した。
 その後、P君の発案で、やはりサークルEのメンバーであったオネエのS様のお墓参りをした。
 仙台市内の高台にある緑美しい墓地で拝んでいると、急に雨足が強くなった。
 「あんたたち、来るのが遅すぎるわよ!」とS様になじられている気がした。


続く



● 陰毛に関する不毛な争い 本:『エロスと「わいせつ」のあいだ』(園田寿、臺宏士著)


2016年朝日新書

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 まえがきによると本書は、

 最近、社会的に話題になったいくつかの出来事を素材にして、文化としての「エロス」と刑罰の対象となる「猥褻」との差異を考察するものである。また、性表現と規制の攻防をめぐる戦後の歴史をたどり、明治から続く刑法175条の存在意義を問い直そうとするものである。

 最近話題になった出来事としては、
  1. 春画を掲載した週刊誌を警視庁が指導したケース(2015年)
  2. 自らの女性器をかたどった石膏にデコレーションを施した「デコまん」を発表した漫画家・ろくでなし子が逮捕され裁判となったケース(2014年)
  3. 写真家の鷹野隆大が全裸の男女を写真撮影した作品を愛知県美術館に展示したところ、愛知県警から撤去を求められた「平成の腰巻事件」(2014年)
  4. モザイク処理が不十分としてアダルトビデオの規制団体「日本ビデオ倫理協会」の審査部長らが逮捕され裁判となったケース(2008年)
  5. 松文館発行の単行本コミック『蜜室』が猥褻物だとして作者ビューティ・ヘアと出版元2人が逮捕され裁判となったケース(2002年)
 などが挙げられている。
 戦後の歴史としては、文学作品の猥褻性が問われた『チャタレイ夫人の恋人』、『悪徳の栄え』、『四畳半襖の下張り』の各裁判の経緯がたどられている。

 ソルティは、上の1~5の最近の出来事についてほとんど知らなかったので、「司直はいまだにこういうことをやっているのか・・・」とあきれかえるばかりであった。
 「いまだに」と言うのはもちろん、インターネット全盛でクリック一つでいくらでも“猥褻”文書や画像や動画に触れることができるこの時代に、という意味である。
 成人しか入店が許されないアダルトショップに飾られたオブジェのごとき「デコまん」が槍玉にあげられる一方で、未成年が自分のスマホでそのものずばりの男性器も女性器も、リアルな性行為の動画も自由自在に観ることができる現状にあって、いったい刑法175条にどんな存在意義があるのか、猥褻物摘発や裁判のために使われる警察や法務関係の費用や労力は税金の無駄使いでないのか――誰だって疑問に思うところであろう。

 むろんソルティも、未成年を含む誰の目にも触れるような公の場所や状況において、それが実物だろうと画像や映像や音声だろうと、乳房や性器が素のままでさらされたり、他人の性行為のさまを見せつけられたり、猥談が耳に入ったりするのはよろしくないと思う。
 そこは何らかの規制や刑罰や倫理が必要だろう。
 だが、成人が自ら好んでプライベートに鑑賞する場合、他人に迷惑をかけないのであれば、あえて社会が規制する必要はないと思っている。
 そこは著者と同意見だ。

 そのようなもの(ソルティ注:露骨で直接的な性表現)を直接見たくない、直接聞きたくないという人の感情を刑罰によって保護することは、社会秩序を守るうえで必要不可欠なことだと思うのである。逆に言えば、露骨で直接的な性表現であっても、見たい人だけに提供するならば、それは刑法で規制するような行為ではなく、個人の自由な判断に任せるべきではないかと思うのである。

 「①見たい人だけが見られる、②見たくない人は見なくて済む、③未成年には見せない」
 単純にこの3条項が満たされれば、誰にとっても害はないのでOKではないかと思うのだが、そうは問屋が卸さない。
 
 裁判所は、およそ日本のこの社会において、性器や性行為の露骨で直接的な表現、あるいはそのような表現物が流通しているということ自体を問題としているのである。つまり、自らは直接接することがなくとも、そのようなものが〈この社会に存在していること〉について、不快感や嫌悪感をもつ人びとの仮想的な感情が問題になっているのである。

 すなわち、裁判所は「そのようなものが〈この社会に存在していること〉について、不快感や嫌悪感をもつ人びと」に対して忖度しているわけである。

 これは同性愛をめぐる議論の中でもよく聞かれるところである。
 自分とは赤の他人である男性同士(あるいは女性同士)がよそで恋愛しようがセックスしようが一緒に暮らそうが、自分や家族にはなんの物理的被害も経済的被害も受けないであろうに、同性愛が〈社会に存在すること〉が許せないという人たちが一定層いる。
 自らの持っている倫理や価値観から外れた人々の権利を認めないというのは、ある意味、宗教的信念に近い。あるいはプーチンか。
 実際、キリスト教原理主義やイスラム教、そしてプーチンは同性愛に不寛容である。

 残念なことに、往々にしてそうした信念を抱く層が社会において強い影響力を持っている(つまり保守層と重なる)ことが多いので、警察や裁判所も忖度せざるを得ないのだろう。
 他人の宗教的信念や価値観を変えるのは相当の困難を伴うので、猥褻裁判もまた最初から負けが決まっているような不毛な闘い(ありていに言えば「茶番」)になることが多い。
 本書では、戦後から平成に至る猥褻裁判のさまざまな茶番のさまが描かれている。
 チャタレイ裁判の起訴状の抜粋が引用されているが、その文面たるや、原作(邦訳)をはるかに上回るねちっこさと下劣さといやらしさ。
 声に出して読んでほしい。

 完全なる男女の結婚愛を享楽し得ざる境遇の下に人妻コニイはマイクリスとの私通によってこれを満たさんと企てたが、本能的な衝動による動物的な性行為によっても自己の欲情を満たす享楽を恣(ほしいまま)にすることが出来ず、反って性欲遂行中の男性に愉悦の一方的利己的残忍性すらあるを窃(ひそ)かに疑い失望に瀕したとき、自分の家庭で使用する森の番人で教養の度に優れず社会人としても洗練されて居ない寧ろ野生的でそほんな羞恥心をわきまえざる有婦の夫メラーズを発見するや、不用意な遭遇を機会に相互の人格的理解とか人間牲の尊崇に関し些(いささか)の反省批判の暇なく、全く動物的な欲情の衝動に駆られて直に又これと盲目的に野合しその不倫を重ねる中・・・・・・(続く)。

茶番垂れ幕

 そうこうしているうちに、状況はドラスティックに変わってしまった。
 いまや、「①見たい人だけが見られる、②見たくない人は見なくて済む、③未成年には見せない」の3条項さえ守ることは難しくなった。
 つまり、未成年がスマホやパソコンを用いて猥褻情報に接するのを防ぐ役割が、国家や自治体の手を離れ、各家庭の保護者に託されてしまった。
 子どもがどのような性的価値観、倫理観を身につけるかについて、各家庭が責任を負わなければならないのである。 
 この流れを押しとどめることは、日本が中国やロシアのような管理主義的独裁国家にならない限り不可能であろう。

 結局のところ必要なのは、メディアリテラシーと性教育。
 結論は何十年も前から出ているのだが・・・・・。




おすすめ度 :★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● トンネルを抜けるとBLがあった 本:『少年』(川端康成著)

1948~49年初出
2022年新潮文庫

 宇能鴻一郎の『姫君を喰う話』に続く新潮文庫のスマッシュヒット。
 編集部に世相に敏感で勘のはたらく人間がいるに違いない。

 日本の誇るノーベル文学賞作家の自伝的BL小説という意外性と大正浪漫の香り。
 旧制中学の寄宿舎という“お約束”も魅力の一つである。
 ソルティはこの小説あるのを知っていたが、川端康成全集に収録されて図書館の倉庫に眠っていたので、あえて借りて読もうという気も起らなかった。
 濃紺の背表紙をもつ新潮文庫・川端康成シリーズの一冊に入って書店に並ぶということは、やはり格段に手に取りやすく、読みやすくなる。
 帯のアオリも明らかにBLファンを狙った確信犯。

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 川端青年が愛したのは、同じ寄宿舎の3年後輩である清野という少年であった。
 大正5年(1916年)から一年間、同室となった清野と肌を触れ合って眠るほど親しくなり、卒業後も手紙のやりとりを交わしていたが、清野が大本教の熱心な信者として信仰の道に入るようになった大正9年を最後に会わなくなった。
 川端が18歳から22歳の出来事である。(当時は数え年だったから、今で言えば17歳から21歳のみぎり)
 出世作となった『伊豆の踊子』との恋が芽生えた天城越えの旅は19歳の秋のことであるから、川端は生まれついての同性愛者(少年愛者)あるいは両性愛者というわけではなく、女性との恋愛に乗り出す前に、美しく(女性的な)同性との模擬的恋愛を体験した――といったところかもしれない。
 もっとも当時(明治・大正期)男子学生の間で男色は珍しいものではなかった。

 おそらく、これを読んだBLファンはちょっと落胆するのではないか。
 読む限りにおいて、川端と清野の間には互いの肌の接触や接吻以上の関係はなく、恋愛物語に欠かせないトキメキや戸惑いや恍惚や落ち込みや疑心暗鬼や嫉妬やその他もろもろの感情が細やかに描き出されているわけでもない。
 肝心の清野の美しさについても、のちに『雪国』で示されたような詩才を駆使して表現されることもない。
 つまり、“キュンキュン”度は低い。
 愛情の濃さというかマニアック性についても、稲垣足穂の少年愛にくらべれば、おままごとのようなものである。(ただ、BLファンの審美眼はフンドシ親父の稲垣足穂はとうてい受け入れがたいだろう) 

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稲垣足穂
(かなりボカしています)

 ソルティはBL的な面白さより、青春期の川端康成の内面を示すモノローグに興味が湧いた。
 当時の日記がそのまま引用されている部分に、ほとばしる若さが見られるのだ。

 今日も朝から学校に出て何を得て来たのかと思うと、ほんとうに悲しくなる。学校の教えに異教徒のような日を送りながらも、ずるずると五年間もひきずられ、卒業間近まで来てしまった。・・・・・・・
 尚この上続く学生生活が同じような幻滅に終りはしまいかと不安にとらわれてならぬ。
 ああ、私にゆるされた生命のすべてを燃焼しつくしてみたい。

 私はもっともっと愛に燃えた少年たちとルウムをつくりたい。

 肉体の美、肉体の美、容貌の美、容貌の美、私はどれほど美にあこがれていることだろう。私のからだはやはり青白く力がない。私の顔は少しの若さも宿さず、黄色く曇った目が鋭く血走ると言ってもいいくらいに光る。

 図画の時間S君にも話したように、私は高等学校を経て帝国大学に進むのなら、いっそ文学の学者になってしまおうかと思っている。創作の天分の疑いがだんだん増してくるにつれ、最近私の心はそんな方へ傾きかかっていることも事実である。


 劣等感、将来への不安、自己不信、欲求不満、情熱的な生への憧れ・・・・。
 後年、文章家として芸を極め枯淡の境地に達しているかのような、あるいは虚無と諦念のうちに「美」を除いた世俗を放擲したかのようなイメージある文豪にも、こんなナイーブで情熱いっぱいの時代があったのか・・・・・と新鮮な感を持った。



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 映画:『四畳半襖の裏張り』(神代辰巳監督)

1973年日活
69分

 ソルティが性に目覚め、巷の性情報に対し興味津々たるティーンエイジャーの時分、「猥褻」と言ったら、D.H.ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』と永井荷風の『四畳半襖の下張り』であった。
 どちらの小説も「猥褻か否か」が法廷で争われた結果、猥褻図書とみなされ、完全な形での公開を阻まれていた。

 当時(昭和40~50年代初頭)、どこの本屋にもエロ本が並び、父親の買ってきたスポーツ新聞や週刊誌を開けば巻頭ヌードグラビアや風俗情報が紙面を埋め、宇能鴻一郎センセイや川上宗薫センセイの過激なポルノ小説がイラスト入りで掲載され、繁華街を歩けば裸の女性が大写しになったポルノ映画館の看板が普通に目に入った。
 令和の今から思えばそんなエロ天国のような昭和末期にあって、なおも「猥褻」と言われ発行を阻まれている小説があることが驚きであった。
 どれだけ凄い内容なのだろうと好奇心を募らせたことを覚えている。(問題個所が削除された形で出版された『チャタレイ夫人の恋人』は大ベストセラーになっていた)

 その後、時代の風潮を受けて、どちらの作品も完全な形で読めるようになった。
 もちろんソルティはさっそく読んだけれど、ご想像通り、「なんでこれが発禁処分?」と苛立ちを覚えるほどに、どうってことない内容であった。
 チャタレイ夫人の情事は、かまきり夫人やエマニュエル夫人のアヴァンチュールにくらべれば、修道女のオナラのようなものであった。 

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 本作は『四畳半襖の下張り』の映画化で、『赫い髪の女』と並ぶ神代辰巳監督および女優・宮下順子の代表作であり、1971年から17年間続いた日活ロマンポルノの頂点をなす傑作と言われている。
 先ごろ、田中登監督『(秘)色情めす市場』(1974)が第78回ベネチア国際映画祭のクラシック部門に選出されたというニュースがあったが、日活ロマンポルノには実際、名作・傑作がたくさんある。
 神代辰巳や田中登のほかにも、曾根中生・小沼勝・石井隆・崔洋一・周防正行・相米慎二・滝田洋二郎・村川透・森田芳光など、その後日本映画界の第一線で活躍した(している)監督たちを産みだした、また育てた功績も大きい。

 まぎれもなく性は人間の主要な一部であり、それなくして人は生まれず、それなくして人は生めず、それなくして人の世は成り立たないのだから、ありのままの人間を表現することを志す芸術家にとって性を描くことが一つの使命となるのは当然である。
 それは猥褻とか女性蔑視という観点からだけでは捉えきれない、捉えてはならない人間の営為である。

 話が大きくなった。
 本作、なにより映像の美しさが際立っている。
 大正時代の遊郭が、写実的ではなく幻想的に、幻燈のようなおぼつかなさで描かれている。
 登場する男女のこまごました性遊戯や苦界を生きる遊女たちの日常は、一応リアリスティックに描かれているものの、それが生々しい現実や社会問題として観る者に迫ることはなく、ある種の滑稽と虚無のうちに淡々と語られてゆく。
 一方、遊郭の外では、米騒動が起き、打ちこわしが起き、世界大戦が起きている。
 この世の動きとはまったく関係ないところで行われる男女の「性」の追究のさまが、そのうち観る者のうちに逆転現象を起こし、外で起きている事件こそが幻想であるような錯覚をもたらすに至る。

 性にはたしかに、そのような究極の個人性の発露とでも言うべき面がある。
 社会が性を管理したがるのは、おそらくそれゆえなのだろう。

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主演の江角英明と宮下順子



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




● 清張センセイの女性観? 映画:『わるいやつら』(野村芳太郎監督)

1980年松竹
129分
原作:松本清張
脚本:井手雅人
音楽:芥川也寸志、山室紘一
撮影:川又昴

 何度かテレビドラマ化されている犯罪サスペンス。
 たしかに、ベッドシーン含め男女のドロドロを執拗に描くインドア的“火サス”プロットは、映画よりテレビドラマのほうがふさわしい。
 いくら当時一番人気の清張だからと言って、なんでもかんでも映画化すればいいってもんじゃなかろうに・・・と正直思う。
 スクリーンにふさわしくない題材まで映像化してしまったことが、清張映画の質のアンバランスを生んだ一つの原因であろう。
 『砂の器』コンビである芥川也寸志の音楽、川又昴の撮影、佐分利信・緒形拳・梶芽衣子をはじめとする錚々たる名優陣をもってしても、本作を凡作から救うには至らなかったようだ。

 見どころを上げれば、5人の旬の女優たち――松坂慶子、梶芽衣子、神崎愛、藤真利子、宮下順子――の美女競演というところだろうか?
 愛の水中花・松坂の最盛期の美貌、女囚サソリにして修羅雪姫・梶の画面から滲み出る風格、日活ポルノでならした宮下の凄みある艶技、それぞれ印象に残る。
 だが、これらの女性たちと愛し憎み合い、犯罪がらみのドロドロを演じることになる当の相手が片岡孝夫であることに、いまいち納得がゆかない。
 片岡孝夫も当時人気沸騰だったけれど、なぜあんなに騒がれたのか、この映画からは見当つかない。
 刑事役で出ている緒形拳のほうが、よっぽど母性本能くすぐりでジゴロめいている。
 まあ、個人的好みの問題か。

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左より、梶芽衣子、神崎愛、松坂慶子、藤真利子、宮下順子

 この作品に限らず、松本清張にはどうも女性のみにくい面をあげつらったストーリーが多い気がする。
 欲深く、エゴイストで、見栄っ張り、したたかで、男性をすぐ支配したがり、“おんな”を使うことに長けていて、感情的で、しつこくて、美しい仮面の下に魔性を秘めている。
 清張には女性不信なところがあったのか?
 



おすすめ度 :★★

★★★★★ 
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 



  

● 漫画:『グリムのような物語 トゥルーデおばさん』(諸星大二郎・作画)

初出2002~2005年『ネムキ』
2006年朝日ソノラマ
収録作品
『Gの日記』
『トゥルーデおばさん』
『夏の庭と冬の庭』
『赤ずきん』
『鉄のハインリッヒ または蛙の王様』
『いばら姫』
『ブレーメンの楽隊』
『ラプンツェル』

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 『ネムキ』というのは『眠れぬ夜の奇妙な話』の略で、2012年12月廃刊となったコミック誌である。
 「オモシロ不思議いっぱいの少女コミック誌」というキャッチフレーズが表すように、読者は圧倒的に若い女性が多い。

 『少年ジャンプ』を中心に少年誌や青年誌で数々の傑作を発表し、多くの男性読者を獲得してきた諸星大二郎が、女性向けコミック誌にも作品を描いていること、しかもその内容がまさに「オモシロ不思議いっぱい」でありながらも現代を生きる若い女性たちの琴線に触れるであろうものであることに、びっくりした。
 発表する雑誌のカラーや読者層を意識して描くのがプロの漫画家の使命であり実力の見せ所であるとはいえ、諸星がこれほどまでに柔軟で幅広いテーマを自在に描ける書き手であるとは思わなかった。
 
 グリム童話を下敷きにした、いわゆる質の高いパロディの創作というだけではない。
 読者の共感を得られるべく、女性を主人公としているというだけではない。
 なんと、これらの作品群の核となるのがフェミニズムだからである。
 諸星がフェミニズムを描ける男性漫画家である――しかも1949年生まれの団塊の世代のヘテロ男子である!――ことに驚かされた。
  
 ただその予感はあった。
 初期の作品である『赤い唇』(1974年)では、魔物の力を借りてペルソナ(仮面)の下の真の自分をさらけ出すことに“成功”した女子中学生・月島令子が、男性教師や男子生徒たちを女王様の如く圧倒する様が描かれていたし、奇妙なSF短編『男たちの風景』(1977年)では、女たちが若く美しい男たちを追い回し、男たちが出産し“父性愛”に目覚めるという、地球とは逆転した文化をもつ不思議な惑星マクベシアが舞台となっていた。
 主要発表媒体であった少年コミック誌における描写の限界や、青年コミック誌の読者層への忖度(つまり受けを狙ったテーマの選定)によって気づかれにくい面があったのかもしれないが、諸星大二郎には性やジェンダーの常識を問うような作品が散見される。
 意識的か無意識的かは知らないが、通常のマッチョイズムや男尊女卑的な性役割に対する違和感を持っている人なのではなかろうか。
 でなければ、本作に収録されているようなフェミ色の強い作品群を、「出版社の依頼を受けたから」「読者層に合わせて」というだけで即座に描けるものではないと思う。

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 収録作品はどれも、主人公の女性たちの意志の強さ、自立心の高さ、「自分の欲しいものは周囲に頼らず自分で手に入れる」タフネスなしたたかさが目立つ。
 読者は、本のタイトルになった『トゥルーデおばさん』のヒロインに、自らの才能と適性を知った少女が家族や世間の縛りを断ち切って、思い定めた職(生き方)にかける覚悟と勇気を見るだろう。
 『鉄のハインリヒ あるいは蛙の王様』のヒロインに、自らの野望の実現のために、頭を使い、自分の命令を何でも聞いてくれる強靭な味方を手に入れ凱旋するシングルマザーの姿を見るだろう。 
 髪長姫『ラプンツェル』では、支配的な母親(いわゆる毒親)から解放される若い女性の心の彷徨をともに経験するであろう。
 いずれも実に現代的な女性を巡るテーマと言える。
 
 絵そのものが発揮する衝撃力こそ初期の作品に及ばないが、人間年をとるとどうしても毒気が抜けるので、これは仕方ないところである。(かつての諸星なら、たとえば泉に囚われた蛙の王様などは、もっとおぞましく不気味に描けたであろう)
 いっときグリム童話の残酷性を目玉にしたエッセイやホラー風漫画が流行ったが、それらとは次元の異なるグリムパロディであり、諸星の天才をまたひとつ証明するものであるのは間違いない。
 
 
 
おすすめ度 :★★★

★★★★★
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● 茉莉子の美貌よ、永遠に! 映画:『樹氷のよろめき』(吉田喜重監督)

1968年現代映画社制作
98分、モノクロ

 岡田茉莉子35歳の主演作。
 谷崎潤一郎も讃嘆した比類なき美しさの絶頂期、そのほとんど最後の記録ではなかろうか。
 散り際の染井吉野を思わせる、一種の危機を孕んだ美貌が存分に味わえる。
 この映画のメインテーマの一つが、日本映画界の至宝としての岡田の美を焼き付けることにあるのは間違いなかろう。
 その義務を背負った吉田監督は、実生活上の岡田のパートナーであるから、まさに適任であった。

 遠くから近くから、正面から真横から、俯角から仰角から、逆光からまたは鏡像として、闇をバックにあるいは反射する雪に取り巻かれて、あらゆる手段と技術を用いて映し出される岡田の隙のない美しさには、驚嘆するほかない。(あえて隙を指摘するなら、西洋風な顔立ちとはアンバランスな純日本的な体型であろうか)
 この美貌の主が、本作ではいわゆる“魔性の女”を演じるのだから、のめり込み、翻弄され、血迷い、人生を棒に振る男がわんさか出てくるのも無理ないところである。
 翻弄される二人の男を、木村功と蜷川幸雄が演じている。

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岡田茉莉子と木村功のラブシーン
 
 物語的には男女の三角関係をネタにした陰鬱でドロドロしたメロドラマである。
 ソルティは昔からこういった話は見ても聞いてもうんざりするばかりで、そのうちイライラして来るので、「勝手にやってろ」という感想しかない。途中から退屈した。

 ドロドロした愛憎の醜さや重さを救っているのは、二つ。
 一つは舞台となる北海道の雪原風景。
 白い大地のまばゆいまでの輝きと開放感と冷たさは、人間的感情を超越している。
 今一つは池野成による音楽。
 『サザエさん』の劇中音楽を短調にしたような、どことなく滑稽感あるBGMが、死者の出現をもって終わるドラマの悲壮感を緩和している。
 それをチグハグと感じる向きもいるかもしれない。
 
 吉田監督の絵作りの手腕は言わんかたない。
 どのショットも見事な構図と光線具合で、「さすが松竹ヌーヴェルヴァーグ」と唸らせられた。


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おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
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● 映画:『風花』(木下惠介監督)

1959年松竹
78分、カラー

 同じタイトルで相米慎二監督が2001年に発表した映画がある。
 30歳超えてアイドル臭がいまだ抜けないキョンキョンこと小泉今日子が、幼い娘を持つ風俗嬢を見事に演じ、完全にアイドル脱皮を果たした記念碑的作品。
 舞い散る風花の中で優雅に踊るキョンキョンの姿が印象的であった。
 
 こちらの『風花』はその40年以上前のクラシック。
 昭和30年代の地方の農村を舞台とする家族ドラマである。
 場所は信濃川の流れる長野盆地(善光寺平)。北信五岳(斑尾山、妙高山、黒姫山、飯縄山、戸隠山)を望む胸のすくような美しい光景が広がる。
 が、そこは哀しい田舎の性。
 身分違いの恋や年上女房を許さない男尊女卑の家制度が強く根づいていた。
 
 大地主の名倉家に嫁いできた祖母(東山千栄子)は夫より8つ年上のため後ろ指をさされ続けた。その次男英雄は小作人の娘・春子(岸恵子)と身分違いの恋をして心中を図る。英雄は死に、生き残った春子はお腹の子供と共に名倉家に使用人として引き取られる。捨雄と名付けられた子供(川津祐介)は成長して、いままた、同じ屋根の下で育った従妹・さくら(久我美子)への叶わぬ恋に苦しんでいた。
 
 東山千栄子さすがの名演。剣呑で頑固な姑ぶりは観ていて憎らしくなるほど。が、嫁いできた頃に周囲から受けた冷たい仕打ちが、彼女を頑なにしたのであった。
 岸恵子も存在感たっぷり。この女優はどんな作品にどんなチョイ役で出演しても存在感だけは一等である。一人息子を愛する着物姿のたおやかな母親ぶりに、後年の市川崑監督『悪魔の手毬唄』の犯人が重なる。
 木下監督の秘蔵っ子たる川津祐介。ここでは『惜春鳥』の不良青年、さらには『青春残酷物語』のニヒルな犯罪青年とはまったく違う、憂愁に沈む真面目な青年役を与えられている。監督の意のままにどんな役柄にも染まる川津のカメレオン性は特筆すべき。
 小津映画以上に木下映画の常連である笠智衆が、名倉家の使用人役で登場する。やはり、演技者としては決して巧みとは言えない。この人は役を演じるということが基本的にできないのだと思う。人間としての地の良さが、役柄に何とも言えない風情と好ましさを与えるのだ。むろんソルティは大好きだ。
 
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川津祐介と岸恵子

 木下監督の作品には、こういった日本の田舎の因循姑息たる閉鎖性を批判する系列が存在する。
 北海道の開拓地を描いた『死闘の伝説』が最たるものだが、『永遠の人』『楢山節考』『遠い雲』『野菊の如き君なりき』、それに一般に明るい牧歌風コメディとされている『カルメン故郷に帰る』などはその系列に入るだろう。未見だが、『破戒』『生きてゐる孫六』もおそらくは・・・。
 ソルティはそこに、おそらくはゲイであった木下惠介監督のマイノリティとしての抵抗と自由への希求を読むのである。
 
 今から60年以上前の作品で、さすがに令和の日本の田舎はここまで旧弊じゃないよな、と思いたいのだが、今回のコロナ禍で地方ではかなり酷い感染者差別が起こっていると聞く。村八分文化がいまだ残存している現実がある。
 ソルティはたまに「晩年は田舎暮らししようかな~」とか思うのであるが、都会の孤独と無関心の方がやっぱり性に合っているかもしれない。
 

 
おすすめ度 :★★★

★★★★★
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● 上書きされた街 映画:『ゼロの焦点』(野村芳太郎監督)

1961年松竹
95分、白黒
原作 松本清張
脚本 橋本忍・山田洋次
音楽 芥川也寸志

 松本清張の原作を読んだのは中学1年になって間もない頃だった。
 シャーロック・ホームズや江戸川乱歩の推理小説が好きだったソルティに、担任の社会科の先生がすすめてくれた。
 ホームズや乱歩は偕成社やポプラ社などの子供向けに書かれたものを読んでいたが、さすがに清張に子供向けはない。
 はじめて新潮文庫を買った。
 つまり、ソルティが初めて読んだ大人の本は松本清張だった。
 ちなみに外国文学については、やはり中1の秋に読んだマーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』(新潮社刊・大久保康雄訳)がデビューだった。

 担任が勧めてくれたのは、時刻表を使ったトリックで有名な『点と線』と『ゼロの焦点』だった。
 『点と線』は非常に面白かった。
 これが現代日本の大人のミステリーか・・・・!
 新しい世界の扉が開き、ワクワクした。
 と、続いて手にした『ゼロの焦点』で、いきなり大人社会の闇に遭遇したのであった。

 そう、世に「売春」という職業があるのを知ったのは、『ゼロの焦点』によってである。
 セックスそのものについては小学生の頃からティーンの芸能雑誌である『明星』『平凡』を愛読していたので知識としてはもっていた。
 が、性を商品のように売り買いするオソロシイ世界があるとは知らなかった。
 「不潔ッ!」と思ったのかどうか覚えていないが、なにか退廃的で忌まわしい感がした。
 (『風と共に去りぬ』にもレッド・バトラーの愛人であるベル・ワトリングという娼婦が登場する。中学生のソルティはこの女が嫌いだった)
 しかも、『ゼロの焦点』で描かれているのはただの売春ではなかった。
 戦後間もない頃にGHQの米兵相手に売春していた女、いわゆる「パンパン」が殺人事件のカギを握っていたのである。

 戦後の混乱期、生活のために東京でパンパンをしていた女が、今では遠い北陸の地で名士の奥方として何不自由なく暮らしている。
 だが、ある日、彼女の過去を知る男が現れ、今の優雅な生活や名声がおびやかされる。
 「この男さえ消えてくれれば・・・・」
 日本海を見下ろす崖の上で、女は男の背中を一突きする。

 こんなに重くて哀しい殺人動機は乱歩にもホームズにもなかった。
 これが大人の小説か・・・・。
 暗澹たる思いと共に、一挙にポプラ社と偕成社を卒業した。
 (あとから知るのだが乱歩にも『妖虫』や『孤島の鬼』のような重くて哀しい殺人はあった。子供向けはオブラートに包まれていたのである)

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ラストシーンの舞台となった能登半島のヤセの崖

 
 最初の映画化である本作は、久我美子、高千穂ひづる、有馬稲子という当時の人気女優が妍を競っている。60年代初頭の北陸の海岸沿いや金沢の町の風景が、白黒フィルムのため、より寒々と寂しい風情をみせている。
 共演の南原宏治、西村晃、加藤嘉、高橋とよは、さすがの存在感。
 のちに2時間ドラマの定番となった崖上の対決は、この映画のラストシーンが端緒を開いたと言われる。
 広末涼子、中谷美紀、木村多江共演による2009年公開の二度めの映画化は観ていない。
 
 61年の時点で、この小説および映画は十分な説得力があった。
 つまり、「犯人が相手を殺す理由も分からないではないな」と観客は納得し共感できた。
 “パンパンをしていた過去の暴露”は、それだけ犯人にとって致命的であること、社会的な死にも等しいことを、観客もまた理解していた。
 ソルティがはじめて原作を読んだ70年代もまだそれが通じた。
 たとえば、女性タレントが過去の売れない時代に「アダルトビデオ――この言葉はなかった。ブルーフィルムと言った――に出ていた」「風俗で働いていた」といった噂が立てられるのは致命的スキャンダルだった。
 夜の世界で働いている女(玄人)と、そうでない女(素人)の間には、明確な境界線があった。
 前者には強いスティグマ(烙印)が付与された。
 であればこそ、森村誠一の『人間の証明』が共感を呼び、大ヒットしたのである。
 その後、80年代バブルを通過し、性風俗のカジュアル化はどんどん進んでいった。
 手っ取り早くお金を稼ぐ手段として、女子大生が性風俗に流れた。 
 玄人と素人の境が薄れていった。
 2009年の観客たち、とくに平成生まれの若者にとって、“パンパンをしていた過去”はどのくらいの重みと衝撃をもって受け止められるのだろうか?
 今でも人を殺す動機として成り立つのだろうか?

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 ところで、40数年ぶりに『ゼロの焦点』に触れて、「あっ、そうだったのか・・・」とハタと膝を打ったことがある。
 犯人が若い時にパンパンをしていた土地は、東京の立川だったのだ!
 もちろん、立川には米軍基地があった。(現在は昭和記念公園になっている)
 立川駅周辺には米兵相手の歓楽街があった。
 当然、赤線と呼ばれた合法の性風俗業も、青線と呼ばれた非合法のそれもあった。
 夜の街には原色のドレスを身にまとった日本の女たちが立ち並び、客を引いた。
 
 ソルティは数年前までJR中央線沿いの高齢者介護施設で働いていた。
 立川駅に近く、利用者には昔からの地域の住民が多かった。
 戦後のことをよく覚えていて話してくれる高齢者がたくさんいた。
 ある90歳の女性は当時立川駅の近くの薬局で働いていたという。
 「しょっちゅう、パンパンがアメ公と一緒に薬を買いに来た。ときどき警察の手入れがあると、彼女たちがウチのお店に逃げてくるから、店の奥にかくまってあげたのよ」
 ある80代の男は米軍の軍属(使い走りのようなものか?)をしていたという。
 「日本人がみな物がなくて苦しんでいた時代に、自分は米軍から粉や砂糖やタバコなんかをもらうことができて運が良かった。よくアメ公にパンパンを世話してやったよ」
 立川でずっと一人暮らしをしていた80代の女性は、重い認知症で、もはや自分の名前くらいしか言えなかった。会話が成り立たなかった。
 ときどき彼女は、菊池章子の『星の流れに』のメロディを口ずさんでいた。
 こんな女に誰がした、という歌詞でしめくくられる哀しい歌。 
 ひょっとすると彼女は・・・・・?
 
 現在のJR立川駅周辺はすっかり開発されて、道は広々と美しく、コンクリートとガラスの高層ビルが立ち並び、その間をモノレールが音もなく往来し、まるで未来都市のようである。
 昭和記念公園は、都内有数の桜の名所になっている。
 『ゼロの焦点』の本当の舞台はここだったのだ。

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立川駅周辺


おすすめ度 :★★★

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● 男たち、美しく 映画:『戦場のメリークリスマス』(大島渚監督)

1983年日本、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド
123分、日本語&英語

 本作は、リアルタイムで劇場で観た初めての大島渚作品だった。
 というより、初めて観た大島渚であった。

 当時人気絶頂のビートたけしと坂本龍一、演技素人の二人が主役級で出演。
 ロック界の大物スター、デヴィッド・ボウイと坂本との東西を代表する美形対決。
 坂本の作曲した印象に残るテーマ音楽が繰り返しCMで流された。
 話題に事欠かず、前評判から高かった。

 蓋を開けたら予想をはるかに上回る大ヒット。
 映画館には若者、とくに戦争映画には珍しく若い女性たちの列ができた。
 ある意味、1981年公開の深作欣二監督『魔界転生』と並んで、日本における“腐女子熱狂BL映画”の幕開けを宣言した記念碑的作品と言えよう。
 キャッチコピーの「男たち、美しく」は、まさに時代の需要を敏感に汲み取ったものである。

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左から坂本龍一、デヴィッド・ボウイ、ビートたけし、トム・コンティ

 ソルティもそのあたり期するものあって鑑賞したと思うのだが、一言で言えば「よくわからない」映画であった。
 腐女子的楽しみという点をのぞけば、なぜこの映画がそれほど高い評価を受け、世界的な人気を博しているのか、理解できなかった。
 最初から最後まで残酷な暴力シーンに満ちているし、それらは太平洋戦争時の日本軍の外国人捕虜に対する行為なので同じ日本人として罪悪感や恥ずかしさを持たざるを得なかったし、それを全世界に向けて何の言い訳もせずに手加減なく晒してしまう大島監督に対する怒りとは言えないまでも不愉快な思いがあった。
「なんで日本人の監督が、わざわざ日本人の恥部を今さら世界中に見せるんだ!」
 同じように太平洋戦争時の東南アジアにおける日本軍の日常を描いた、市川崑監督『ビルマの竪琴』と比べると、その差は歴然としている。

 さらに、テーマがわかりにくかった。
 日本軍の旧悪を暴き日本人という民族の奇態さを描きたいのか、戦争の狂気や愚かさを訴えたいのか、日本軍に代表される東洋と連合軍に代表される西洋との文化的・思想的・倫理的違いを浮き彫りにしたいのか、それとも敵同士の間にさえ生まれる男同士の友情に焦点を当てたいのか、ホモフォビア社会の中でいびつになった同性愛者を描きたいのか・・・・。
 いろいろな要素がごっちゃ混ぜになっている感を受けた。
 本作は、実際にインドネシアのジャワ島で日本軍の捕虜になった南アフリカの作家・ローレンス・ヴァン・デル・ポストの体験記を原作としているので、ある一つのテーマに基づいて作られた作品というより、現実のいろいろな見聞を盛り込んだ「ザ・捕虜生活」としてあるがままに受け取るのが適当なのかもしれない。
 実際、海外では『Furyo』(俘虜)というタイトルで上映された国も少なくない。

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 そういうわけで、公開時は「よくわからない」映画だったのであるが、約40年ぶりに見直してみたら、それもその間に、『青春残酷物語』『太陽の墓場』『日本の夜と霧』『日本春歌考』『マックス、モン・アムール』『御法度』といった大島渚監督の他の作品を何本か観た目で見直してみたら、新たに気づくところが多かった。

 まず、顕著なのが、坂本龍一演じるヨノイ大尉であるが、これは明らかに三島由紀夫、あるいは三島由紀夫に対する大島ならではのオマージュである。
 ヨノイ大尉は、2・26事件に参与できなかった悔恨を抱える国粋主義者で、剣道と文学をたしなむクローゼット(隠れホモ)という設定。原軍曹(ビートたけし)を典型とする野蛮で暴力的な日本兵の中で、ストイックなまでの神道精神を貫いている。晩年の三島を彷彿とさせる。
 そういう男があまつさえ敵方の外国男を好きになってしまうという矛盾と葛藤が面白い。

 次に、大島の遺作である松田龍平主演『御法度』(1999)において極められた「マチョイズム(ホモソーシャル社会)の中に投げ込まれた同性愛(ホモセクシュアル)」というテーマの先鞭をつけた映画である。
 生き死にがかかっている闘いの場においては、規律ある上下関係と集団の大望成就のために自己を放棄するマチョイズムこそ、重要であり役に立つ。
 上下関係を曖昧にし集団より自己の欲望や特定の仲間との関係を重視する同性愛は、集団の規律やモラルを乱しかねない。
 だから、デヴィッド・ボウイ扮するセリアズ少佐に惚れてしまったヨノイ大尉は、軍のリーダーとして役に立たなくなってしまった(更迭させられた)のであり、美貌の剣士である加納惣三郎(松田龍平)は、新選組を内側から崩壊させる危険因子として、最後には沖田総司(武田真治)に斬られてしまうのである。
 敵と戦い打ち倒すためには、「男(マッチョ)」でありつづけなければならない。 

 次に言及すべきは、ビートたけしの存在感。
 演技力がどうのこうのといったレベルを超えたところで、強く印象に刻まれる。
 当時お笑い一筋でテレビ芸人としてのイメージの強かったたけしを、この役に抜擢した大島の慧眼には驚くばかり。
 有名なラストシーンでの艶やかな顔色と澄み切った笑顔は、たけしが映画作りの面白さに目覚めた証のように思える。
 
 本作では原軍曹とロレンス中佐(トム・コンティ)の間で、何度か「恥」をめぐる会話が交わされる。
 敵の捕虜になること自体を「恥」と考える日本人と、捕虜になることは「恥」でも何でもなく、捕虜生活をできるだけ快適に楽しく過ごそうとする西洋人。
 捕虜になって辱めを受けるくらいなら切腹を選ぶ日本人と、それを野蛮な風習としか思わず、何があっても生き抜くことこそ重要とする西洋人。
 戦地における傷病者や捕虜に対する待遇を定めたジュネーブ条約(1864年締結、日本は1886年加入)の意味を理解できない日本人と、一定のルールの下に戦争することに慣れている西洋人。
 東洋と西洋、いや日本人と欧米人とのこうした違いは、『菊と刀』や『海と毒薬』はじめ、いろいろなところで語られてきた。
 映画公開後に「毎日新聞」(1983年6月1日夕刊)に掲載された大島渚自身による自作解題によると、外国のマスコミから受けた本作に対する様々な質問の中に、次のようなものがあったそうだ。

 オーシマは、この映画で日本の非合理主義が敗れ、ヨーロッパの合理主義が生き残ったとしている。後者が前者よりすぐれていると思っているのか。

 それに対して大島はこう答えたそうな。

 ニッポンは戦争で示した非合理主義を戦後の経済や生産の中に持ちこんで、それを飛躍的に発展させたかもしれない。しかしそのエネルギーは負けたことから来たのだ。そしてそれを支えた我々はもう疲れた。次の世代は合理主義を身につけて世界の中で生きるだろう。

 40年経って、日本人はどれくらい合理主義を身に着けたのだろう?



P.S. 驚いた! 記事投稿後に知ったが、今日1月15日は大島渚監督の9回目の命日だった。あの世の監督に「書かされた」?

 



おすすめ度 :★★★

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● 新年一本目 映画:『惜春鳥』(木下惠介監督)

1959年松竹
102分、カラー

 白虎隊で有名な会津若松を舞台に、5人の青年の友情と裏切りと成長を描く青春ドラマである。

 まず何と言っても、昭和30年代の会津若松の自然や町の美しさに目を奪われる。
 木造建築の温泉旅館やアールデコ調のカフェなど、木下監督の美意識がそこここで光る。
 
 5人の青年にはそれぞれ屈託がある。
 牧田康正(津川雅彦)は妾の子であり、母親が経営するカフェでバーテンをしている。
 峰村卓也(小坂一也)は温泉旅館の跡取りであり、父親は浮気相手の寝床で急死した。
 手代木浩三(石濱朗)は貧乏士族の家柄で、組合活動に専心する薄給サラリーマン。
 馬杉彰(山本豊三)は漆塗りの職人の息子で、片方の足を引きずっている。
 岩垣直治(川津祐介)は愛のない家庭に育ち、東京でアルバイトしながら大学生活を送っている。

 それぞれが何かしらの傷を抱えているところで5人の友情は育まれた。

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左から小坂一也、川津祐介、山本豊三、津川雅彦、石濱朗

 自刃した白虎隊の志士への敬愛を胸に固い友情で結ばれていたかに見えた5人だが、成長して就職し、それぞれが世間の波にもまれるようになるにつれ、関係が微妙に変わっていく。
 中でも、東京に行った岩垣はいつの間にか大学をやめて詐欺や泥棒を働くようになっていた。
 そうとは知らず、帰郷した岩垣を温かく迎え、岩垣に頼まれるがまま金を工面してやる4人。とくに仲の良かった馬杉は久しぶりの邂逅を喜び、5人揃ったことで共に剣舞に励んだ昔日に戻ったような気分の高揚を感じていた。

 5人それぞれのキャラクターがしっかりと書き分けられ、かつ演技力ある若い役者らによって演じられているので、見ごたえがある。
 デビュー間もない津川雅彦の華と色気、歌手でもあった小坂一也の感性と見事な歌声、演技派・石濱朗の安定感、山本豊三の愛すべき庶民性、そして顔立ちの可愛らしさと相反する川津祐介の計算された大人の演技。
 それぞれの魅力を引き出す木下演出の肝は、ジャニー喜多川と比すべき炸裂するイケメン愛である。
  
 本作は日本初のゲイ映画とも一部で言われていて、確かに足の悪い馬杉の岩垣に対する思いや態度は、友情を越えた恋情のレベルにある。馬杉がゲイである可能性は高い。
 しかるに、本作のゲイっぽさは話の内容そのものというより、木下の演出にあると見るべきだろう。
 冒頭の川津と小坂の入浴シーン、後半の津川と小坂の入浴シーンなどの演出は、温泉宿で旧交をあたため打ち割った話をするのに共に風呂に入るシーンがあるのは自然な流れとは言え、その自然が自然に収まらず、不自然に達するほどの耽美な雰囲気――ヴィスコンティかデレク・ジャーマンを想起するレベル――を醸し出している。
 つまり確信犯だ。

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津川雅彦と小坂一也の入浴シーン
 
 本作ほど木下惠介が、自分の撮りたいテーマをお気に入りの役者を集めて撮りたいように撮った映画はないんじゃなかろうか。
 5人の役者から見れば大先輩たる佐田啓二と有馬稲子が昔ながらの“心中する男女(芸者と肺病持ち)”を演じてさすがの貫禄を見せてはいるが、物語的には狂言回しに過ぎない。

 令和の現在、5人の個性的な若い男優を集めて、よりBL色鮮明にして再ドラマ化したら受けるんじゃなかろうか?



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 六福神がやって来る! 漫画:『妖怪ハンター 水の巻』(諸星大二郎作画)

1991~1995年初出
2005年集英社文庫

 令和3年の大いなる収穫の一つは、諸星大二郎と出会ったことだ。
 「今まで縁がなかったけれど、試しに一冊読んでみるか」と手に取った『暗黒神話』でカミナリに打たれたような衝撃を食らい、その後、『自選短編集 彼方より』でギャグや怪談やSFや中国文学ありのテーマの幅広さと作画タッチの多彩ぶりに目を瞠り、安部公房風のシュールな『壁男』ですっかりファンの一人になってしまい、三鷹で開かれたデビュー50周年記念の個展にいそいそと足を運び、ついに満を持して、諸星の代表作&ライフワークたる『妖怪ハンター』に踏み込んだ。
 こうしてみると、ソルティもなかなかの凝り性。 

 古くからの諸星ファンにしてみれば、あまりに遅いデビューは「あんた、目がついている?」と小馬鹿にされそうであるが、これからまだまだ沢山の傑作・怪作・奇作・珍作との出会いが待っている宝の山が目の前にあることを思うと、「手をつけずに残しておいて良かった」と喜びもひとしおである。
 読書に漫画に音楽に映画に山歩き・・・・この5つの趣味があれば、それなりに楽しい老後を生きていけそうな気がする。(それにしても、みんな独りでできるものばかり)


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 『妖怪ハンター』第3弾は、「水の巻」という副題通り、海や淵を舞台とする怪談揃い。
 海と言えば、すべての生き物の母であり、すべてを包み込む(飲み込む)女の比喩である。
 おのずと、「女」が事件の鍵となるような母性的・官能的なストーリーが集まっている。
 女性ヌードやセックスシーンも多い。 
 発表媒体が少年誌でなく青年誌(『ウルトラジャンプ』他)であることが、そのような挑戦を可能にしたのであろう。

 諸星の描く「女」は、実に生々しく、毒々しく、美しい。
 寡聞にしてよく知らぬが、この世代(諸星は1949年生まれの団塊の世代)の男で、ここまで「女」を生々しく描く漫画家がいるだろうか?
 いや、他の世代を見渡しても、すぐには思い浮かばない。
 ジョージ秋山や小島功や上村一夫の描く色っぽい「おんな」や酸いも甘いも知った「おとな」の女性とは違う。
 もっと根源的な生理的なところで生々しく毒々しい。
 なんとなく、諸星大二郎は女性恐怖のところがある(あった)のではないか。

 収録作では、文字通り怪物的な母性愛がほとばしる『産女の来る夜』と、あまりにも不気味で罰当たりな『六福神』が面白かった。
 さすがに、この六福神には初夢に出てきてほしくない。

 良いお年を!

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令和3年の厄を連れていってください!


 


● 消えかけた初恋 映画:『マティアス&マキシム』(グザヴィエ・ドラン監督)

2019年カナダ
120分、フランス語

 『Mommy/マミー』のグザヴィエ・ドラン脚本・監督・主演によるLGBT映画。
 仲の良い幼馴染のマティアスとマキシム。二人が、知り合いの制作する映画に出演するはめになって芝居でキスを交わしたことから互いを意識するようになり、困惑・葛藤・苦悩する様子を描く。

 マキシムを演じるドラン監督の芝居の上手さに驚いた。
 それもそのはず、ドランの父親も俳優で、ドラン自身子役として活動してきたという。
 『Mommy/マミー』でADHDの息子を持つ母親を演じたアンヌ・ドルヴァルが、今度はマキシムの母親で後見人を必要とする生活破綻者に扮している。
 これも見事な演技で恐れ入った。
 
 昨今、BL(ボーイズラブ)系の映画やTVドラマは日本でも珍しくなくなった(現在テレビ朝日で放映中の『消えた初恋』ではなんとジャニーズアイドル2人がカップリングしている)。
 観ていていささか鼻白むのは、主役の男たちが揃いも揃ってイケメンであるってことだ。
 それは男女の恋愛ドラマでも同じで、昔から主役は「愛されて当然」と思えるような美男美女と相場が決まっている。
 視聴者(主に女性)に夢を与えるフィクションの世界だから仕方ないと分かっているのだが、男の視点からすると「少女マンガじゃあるまいし・・・」と思ってしまうのもまた仕方ないところであろう。(『消えた初恋』はもろ少女マンガが原作らしい)

 一般に、ノンケ(ヘテロセクシュアル)の男たちはLGBTドラマはもちろん恋愛ドラマに関心を持たないから、そこは“女子の道楽”ってことで放っておけるのだろうが、恋愛体質の強いゲイの当事者からしてみれば、「自分たちが主役であるべきBLドラマが腐女子に乗っ取られている」みたいな疎外感に近い感覚を持たされがちである。(ソルティだけか?)
 腐女子を熱狂させるBLドラマと当事者が作るLGBTドラマは似て非なるもの、と考えるべきだろう。
 
 その意味で、本作はまさに当事者(ドラン監督はゲイ)の作るLGBTドラマであり、主役の二人は決して美男ではない。
 その象徴がマキシムの顔の痣である。
 普通なら、その痣は恋愛ドラマの主役たりえない瑕疵となるであろう。
 が、話が進むにつれて、「あばたもエクボ」で魅力的に見えてくる。
 それは観る者が、些細なきっかけからマキシムを恋するようになってしまったマティアスに感情移入し、マティアスの視点や気持ちからマキシムを見るようになるからである。
 
 人は、相手が「美しいから、カッコイイから」恋するのではない。
 恋した相手だから「美しいし、カッコイイ」。
 そんな原点をキュンキュン思い出させてくれた一本であった。
 
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おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 崖の上の志麻サマ 映画:『内海の輪』(斎藤耕一監督)

1971年松竹
103分

 四国遍路を舞台とする『旅の重さ』(1972)でも示されたが、斎藤監督は野外ロケが上手い。
 本作でも、松山、尾道、鞆の浦(仙酔島)、倉敷、蓬莱峡(兵庫)、水上温泉(群馬)と、各地の美しい観光名所を背景に、美しい女と若い男との愛の不倫道中が描かれる。
 映像の艶やかさは旅情と懐旧の情を掻き立てるに十分。
 70年代初頭の日本はかくも美しかった。
 
 松本清張原作であり崖から落とされた女性の遺体発見シーンから始まるので、一応ミステリーだとは思うが、原作はともかく(ソルティ未読)映画に限って言えば、推理小説的な楽しみはほぼない。
 裕福な妻を持ちエリート街道まっしぐらの男(中尾彬)と、資産ある年上の不能の男(三國連太郎)を夫に持つ女(岩下志麻)との数年にわたる“愛欲からの愛憎”物語である。
 中尾と岩下の、あるいは三國と岩下の濃厚なラブシーンが随所に差し込まれ、そのたび感度抜群のあえぎ声を上げる志麻サマの役者魂に感心する。
 ウィキによれば、三國は芝居の勢いにまかせて志麻サマの秘所に2回触れたとか。
 あの男ならやりかねん(笑)
 
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志麻サマと中尾彬
志麻サマは着物も洋装も美しい!

「男と女、加害者と被害者が、絶崖の上で組んずほぐれつ」という2時間ドラマ定番シーンの末に、志麻サマ演じる 女は自ら足を滑らせた。つまり、殺人事件ではなく事故死だったという真相。
 そう、志麻サマは人を殺す役は似合っても、殺される役は似合わない。

 不倫は高くつくというお話。



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● 前衛という陳腐 映画:『鉄輪(かなわ)』(新藤兼人監督)

1972年近代映画協会制作
91分

 平安時代を舞台とする能の『鉄輪』を現代劇に翻案したもの。
 いつの世も変わらぬ男の浮気心と女の嫉妬の凄まじさを描く。

 鉄輪とは、丸い輪っかに三本の長い足の付いた昔の鉄製の調理器具(五徳とも言う)で、上に鍋ややかんや焼き網などを置いて火にかける。
 これを逆さにして、そそり立つ三本の角ごとに蝋燭を刺して火を灯し、ティアラのように頭にかぶる。
 その格好で毎晩、貴船神社(京都)に丑の刻参りをすれば女は鬼となり、憎い夫と若い愛人を呪い殺すことができる。
 
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鉄輪をかぶって鬼となった女(能『鉄輪』の一シーン)


 夫(観世栄夫)に捨てられた中年の妻を演じる乙羽信子が不気味で恐い。
 監督の新藤が乙羽の実際の亭主であることを思うと、「よく自分の妻にこんな役をやらせて平気だなあ、怖くないのかなあ」と感心する。
 おのれの品行方正に自信があるゆえだろうか。
 それとも、ほかの女に目がゆかないほど乙羽を愛していたからであろうか。
 ――と思って調べたら、なんと新藤と乙羽は不倫の恋をしていたのであった。

 二人が出会って恋仲になったとき、すでに新藤には妻子がいた。
 つまり、新藤は自分の身に起こった実体験を描いたのであって、映画の中の観世栄夫が新藤自身、乙羽信子が前妻、夫を魅了する若い愛人(フラワー・メグ)が若き日の乙羽ということになる。
 それを知ってから作品を見直すと、妻の影におびえる観世の演技がよりリアリティをもって感じられる。

 日本の伝統芸能である能が原案であり、映画の中でもストーリーと重ね合わさるように能『鉄輪』の上演シーンが挟まれる。
 それゆえ、一見、文芸調とか芸術調の映画と思われるかもしれないが、なんのことはない、はっきり言ってポルノである。
 かつての日活ポルノ映画のどれよりもセックスシーンが多く、フラワーメグと来た日には最初から最後までほぼ全裸で、スタイル抜群の美しき姿態を観客に見せつける。
 丑の刻参りで乙羽(前妻)が藁人形の股間に五寸釘を打ち込むと、メグ(愛人)もまた股間を抑えてのたうち回るのだが、その姿はどう見ても「ただいまオナニー中」としか見えない。
 この映画を鑑賞する多くの男性は、股間にもう一本角を立てることであろう。

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鬼となった乙羽信子にいたぶられる観世栄夫とフラワー・メグ


 『鉄輪』を翻案するというアイデアも、平安と昭和の二つの時代をダブらせるという仕掛けも、実際の能舞台を取り入れるという趣向も悪くはないのだが、いま一つ工夫がほしかった。
 同じシーン(たとえば闇の中をひたすら走る乙羽信子、前妻からのいたずら電話に怯える不倫カップル)が何度も繰り返されるので、しまいには退屈してしまうのだ。
 「繰り返される電話のベルがいやならば、受話器を外しておけばいいじゃん」とか、観ていてイラついてしまう。 
 リアルであるべき現代シーンに、顔を白塗りしたホテル従業員を登場させる前衛的な演出も成功しているとは言い難い。(当時、前衛と言えば「白塗り」って相場が決まっていたのだろうか?)
 時がたつと前衛が陳腐になるのは、アダルトビデオに飽きるのと同じく、避けられない運命なのか?
 91分という上映時間が長く感じられた。



おすすめ度 :

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● フェミニズム以前のヒロイン 映画:『居酒屋』(ルネ・クレマン監督)

1956年フランス映画
112分、白黒

 ルネ・クレマン監督は『禁じられた遊び』、『太陽がいっぱい』の世界的巨匠。
 原作はフランスの自然主義文学の大家エミール・ゾラの同名小説(L'assommoir)。
 19世紀後半パリの下層社会に生きる庶民のありのままの姿を描いている。

 原作は未読なのでどうか知らないが、少なくとも映画で物語の主要な舞台となるのは「居酒屋」ではない。主人公ジェルヴェーズが経営する「洗濯屋」である。
 「居酒屋」というタイトルから想像されるストーリー、たとえば木の実ナナ&五木ひろしのデュエット「居酒屋」(1997年発売)、高倉健主演『居酒屋兆治』(1983年)、あるいは昭和の歌姫ちあきなおみの新宿西口『紅とんぼ』(1988年)のような、渋い大人の恋愛模様や庶民の哀歓を期待していると肩透かしを食らうかもしれない。
 本作は、一人の可愛い女の波乱含みの半生と哀れな顛末を描いた悲劇である。
 岩下志麻主演で邦画化されたモーパッサン原作『女の一生』や木下惠介監督『永遠の人』に近い。
 すっかり身を持ち崩して安酒場で一人うらびれているラストなどは、ヴィヴィアン・リー主演『美女ありき』(1941年)を想起した。
 つまり、男に振り回されて一生を棒に振った可哀想な女の物語である。

 その意味で、本作をフェミニズム的視点から読むことはたやすい。
 DVDパッケージの作品紹介で映画評論家の山田宏一が書いているように、「貧困にあえぎ、卑怯で狡猾で自堕落な男たちに苦しめられ、転落の運命をたどる薄幸の女の一生」という解説はまったくその通りで、公開当初からそのような見方をされて評価されてきたのは間違いなかろう。

 若く美しいジェルヴェーズは、ハンサムな遊び人ランティエにかどわかされ、結婚しないままに二人の子を生むが、ランティエは他の女と浮気し駆け落ちしてしまう。
 貧困のうちに洗濯女をしながら子育てするジェルヴェーズに、屋根職人のクーポーが求婚する。二人は結ばれ、やっと幸福が訪れたかと思いきや、クーポーは屋根から落ちて大怪我してしまう。仕事ができなくなったクーポーはアルコールに溺れ、すさんでいく。
 ジェルヴェーズを優しく見守り、洗濯屋を始める資金を貸してくれたのが、鍛冶屋のグジェ。ジェルヴェーズの息子の一人を徒弟として面倒見てくれてもいる。
 洗濯屋が軌道に乗り、やっと安定した生活が送れるかと思った矢先、女と別れたランティエが街に戻ってくる。クーポーはこともあろうに、住まいを探すランティエに自宅の一室を提供する。
 かくしてジェルヴェーズは元の恋人と今の亭主との奇妙な同居生活を送ることになる。

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左からランティエ役のアルマン・メストラル、クーポー役のフランソワ・ペリエ、
ジェルベーズ役のマリア・シェル

 自分を裏切った元の恋人ランティエ、怪我がきっかけで自堕落になった今の亭主クーポー、そしてプラトニックな関係ながら相思相愛の第三の男グジェ。三角関係ならぬ四角関係に翻弄される女主人公。
 たしかに、「卑怯で狡猾で自堕落な」ランティエとクーポーが、ジェルヴェーズの幸福をことごとく潰す。誠実で優しいグジェは街を去り、ジェルヴェーズは破滅に追いやられる。
 「悪い男の犠牲となった弱い女」というよくあるパターン。

 しかしながら、ソルティは健気で可愛いジェルヴェーズの姿に、どうしても大竹しのぶをダブらせてしまったのである。
 大竹しのぶは若い頃、まさに“健気で可愛い”感じで売っていた。その一方、TBSディレクターや明石家さんまとの結婚をはじめ、演出家の野田秀樹や若手俳優など、いったん狙った男を逃さない握力の強さで「男日照り」と無縁な生涯を送ってきた(ように見える)。
 しかも、つき合った男たちをことごとく芸の肥やしにし、いまや泣く子も黙る天下の名女優。あのさんまでさえ、彼女の前では脇役になってしまう。
 一見、“健気で可愛い”ブリっ子、実はしたたかで確たる自己愛の持ち主。
 同じことは松田聖子にも言えるかもしれない。
 
 思うに、女というものは本質的にそのようなものではなかろうか。
 長い男社会の歴史の中で、そのような戦略をとることこそ有利な条件下で生き残れるがゆえに、身についてしまった体質というべきか。
 あるいはまた、少しでも良い遺伝子(=精子)を受け取るために、選択肢(=候補となる男)は多くしておこうという、利己的遺伝子の生物学的戦略か。
 
 つまりソルティは、元の恋人と今の亭主と本命の男の3人に囲まれて苦悩するジェルヴェーズの姿に、竹内まりや『けんかをやめて』的な女の自己陶酔の匂いを感じたのである。どこかでジェルヴェーズはそういった状況を楽しんでいるんじゃないかな・・・と。
 でなければ、元の恋人ランティエを同じ屋根の下に住まわせるという非常識で世間体の悪いことを、いくら今の亭主が強く言ったって、そのまま許してよいはずがない。亭主に押し切られたような形をとって、自ら許しているのである。
 男と女の間のことで「どっちか一方だけが悪い」というのは基本ないだろう。
 ジェルヴェーズは本来、「喧嘩上等」の気の強さとたくましい生活力をもつ、しっかり者なんである。一方的に男たちの犠牲になった弱い女という見方は、一面的に過ぎる気がする。

 “健気で可愛い”大竹しのぶや松田聖子が、男を手玉に取って成功街道を突き進んでいったのに比して、“健気で可愛い”ジェルヴェーズは、男に翻弄されるのを(自ら許して)転落への道をたどっていった。
 その差にフェミニズムの意義が存在するのだろう。  


 
おすすめ度 :★★★★

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● 映画:『SNS―少女たちの10日間』(監督:バルボラ・ハルポヴァー、ヴィート・クルサーク)

2020年チェコ
104分

 12歳の少女に扮装した3人の女優にSNS上で友人募集させ、彼女たちにコンタクトしてきた男たちとのやりとりを映したドキュメンタリーである。
 10日間で2500人を超える男からのアクセスがあったというから驚く。

 撮影されているのを知らない男たち(画像処理されて個人が特定できないようにされている)は、相手が“12歳の少女”と知りながら、卑猥な問いを投げかけ、服を脱いで胸を見せろと要求し、変態画像を勝手に送り付け、ズボンを下ろし勃起したペニスを見せ、その場でシコってみせる。少女が男の要求に応じて裸の写真(偽造したもの)を送ると、それをネットに流すと脅かし、さらなる要求を仕掛けてくる。
 アクセスしてきた男の中には撮影クルーが個人的に知っている人物もいて、その男の職業は子供たちのキャンプの世話人だという。
 ぞっとする話である。


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 インターネットはある意味、人間の心の暗部の投影だと思うが、SNSはとくに怒りや欲望を焚きつけ、とめどなく膨らましていく作用がある。
 年端の行かない少年少女が、好奇心や退屈や淋しさからSNSを始めて、飢えを高じている捕食者の手につかまって、取り返しのつかない事態に追い込まれていく。
 自分がいま、12歳の子供を持つ親だったら、「絶対子供にSNSはさせない」と思うけれど、親自体がすでにSNS世代でそれを当たり前として生きていたら、子供に禁止するのはなかなか難しいことだろう。
 子どもを持つ若い親たちに観ておいてほしい映画である。 

 それにしても、迂闊なのは危険を知らない子供たちばかりではない。
 少女たちにアクセスしてくる男たちも、録音録画される可能性だって十分あると予測がつきながら、PCモニターに平気で顔をさらし、声をさらし、ペニスをさらし、恥をさらし、自らの罪の確たる証拠を残していくわけである。
 いったんバレれば、職を失い、家族を失い、収入を失い、社会的な地位を失い、身の破滅になり得る可能性大なのに・・・。
 性欲ってのは、ほんとに人の脳みそを破壊してしまう。
 



おすすめ度 :★★★

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● ウミウシもの2 映画:『バクラウ 地図から消された村』(クレベール・メンドンサ・フィリオ、ジュリアーノ・ドルネレス監督)

2019年ブラジル、フランス
131分、ポルトガル語、英語

 『ボーダー 二つの世界』(2018)に奉った「ウミウシもの」という新ジャンル枠を、本作にも捧げたい。
「いったいこれはなんの映画なの?」という、戸惑いと驚きと奇天烈感に満たされる作品である。
 宗教(カルト)コミュニティ映画のように始まり、LGBTQ映画のような多様性のニュアンスが立ち込め、それが不意に犯罪・スプラッタ映画の残虐シーンに突入し、サイコパスホラーの色を帯び、ガンマンが跋扈する西部劇のような展開を経て、村人総出の百姓一揆のごとき戦闘バトルでクライマックスを迎える。
 悪徳政治家の卑劣な企みから「おらが村」を守りぬいた住民たちの勇気と団結の物語と言えば聞こえはいいが、村人の中には世間で「殺しのプロ」と恐れられる凶悪犯はじめ前科者、娼婦や娼夫、オカマやヌーディストもあたりまえに(なんら差別を受けずに)暮らしていて、勧善懲悪とも言いかねる。
 なんとも不思議な味わいの映画。
 
 80年代LGBT映画の傑作『蜘蛛女のキス』で世界デビューした往年の美女ソニア・ブラガが、無頼なレズビアンの医師役で出演。圧倒的存在感をみせている。
 
 
蜘蛛女のキス
『蜘蛛女のキス』におけるソニア・ブラガ



おすすめ度 :★★★

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