ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●性にまつわるあれやこれ

● 真っ赤な法服 映画:『落下の解剖学』(ジュスティーヌ・トリエ監督)

2023年フランス
152分、仏語、英語、独語

落下の解剖学

 2023年カンヌ国際映画祭でパルム・ドールとパルム・ドッグ(!)賞を受賞したサスペンス&法廷ドラマ。
 パルム・ドッグ(PALM DOG)というのは冗談か余興かと思ったら、2001年から始まった本当に存在する賞だった。
 映画祭で上映された映画の中で優秀な演技を披露した1匹またはグループの犬(アニメーション含む)に与えられると言う。
 本作に登場する飼い犬メッシが、その卓抜なる演技によって同賞に輝いた。
 十分納得できる授与である。

 夫殺しの容疑を着せられる妻役のザンドラ・ヒュラーはどこかで見たことあるような気がしたが、ジョナサン・グレイザー監督『関心領域』に出てきたアウシュヴィッツ収容所所長ルドルフ・ヘスの妻ヘートヴィッヒであった。
 壁一つ隔てた強制収容所で起きていることにまったく無関心な、エゴイスティックで気の強い主婦を演じて強烈だった。
 同じ年に公開されたこの2つの役で、ザンドラ・ヒュラーは国際的な演技派女優としての確固たる地位を築いた。
 が、同時に、マクベス夫人並みの烈女イメージがついてしまったんじゃないかと思う。
 『パーフェクト・ケア』のロザムンド・パイクあるいは『極道の妻たち』の岩下志麻サマのような・・・。
 
 人里離れた雪の山荘で暮らす夫婦と一人息子と飼い犬メッシ。
 妻サンドラは小説家として成功し、夫サミュエルは教師をしながら自らもまた物書きを志していた。
 息子ダニエルは数年前に交通事故にあい、視覚障害を負っている。
 ある日、ダニエルがメッシを散歩に連れ出している間、サミュエルが家の階上から転落し、頭を打って即死した。
 警察は事故死か他殺と断定。
 現場の状況から、外部の人間の仕業とは思えない。
 事故当時、屋内で寝ていたと言うサンドラに殺人容疑がかけられ、裁判となる。

 驚くべき真相が最後に明かされるサスペンスミステリーなのかと思っていたら、そうではなかった。
 裁判の結果=事件のとりあえずの真相=物語の決着そのものには、観る者を仰天させるどんでん返しも大トリックも仕掛けられていない。
 しかし、非常にスリリングかつドラマチックで、152分という長尺を長く感じなかった。
 検事V.S.弁護士の火花散る論戦による刑事裁判ならではのスリルとサスペンス。
 それに加え、裁判の過程で次々と繰り出される新たな証拠によって次第に明らかになっていく、夫の秘密、妻の秘密、夫婦の複雑な関係、家族模様が、観る者を強烈に引きつける。

 どんな夫婦でも、長く連れ添い、子供でもできれば、いろいろな問題を抱え込む。
 感情的な行き違いや誤解や衝突、口にはしないだけに積み重なる心のしこり、性生活上の不満、子供への愛のための譲歩や忍耐、それぞれが抱える夢や希望や挫折や失望や怒りや不安。
 ふだんはそれらが表に出ないよう取り繕われる。
 世間的には、成功した人、理想の夫婦、幸福な家庭を演じ、そのようにみなされる。
 ところが、いったん裁判ともなると、容赦なくベールが引きはがされてしまう。
 法廷によって、マスコミによって、プライベートがすべて暴きだされ、世間の目にさらされ、噂され、憶測され、嘲笑され、批判され、断罪される。
 成功した有名な小説家の転落を、世間は好奇の目で見つめる。

 『落下の解剖学』(Anatomie d'une chute)というタイトルは、階上から落下(chute)した男の死因を探るという意味合いであるとともに、一人の有名な女性小説家が殺人容疑を着せられることで、どのように社会的に転落(chute)していくかの解剖もとい検証という意味なのではないかと思う。
 あるいはこれを「転倒(chute)の解剖学」と読むならば、男と女の立場が従来とは転倒した夫婦関係――妻が主、夫が従――の一つの失敗したサンプルと解することも可能かもしれない。

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AlexaによるPixabayからの画像

 トリエ監督(♀)の作品はこれが日本初公開。
 人間の複雑な心のさまを描くのが上手い。
 本作も、ある一つの家族の実情に深く切り込み、人間の多面性を描きだすために、法廷ドラマという形式をあえて利用したという見方もできる。
 刑事裁判ででもなければ、ここまで関係者のプライバシーに踏み込んだ介入すなわち表現は難しかろう。

 弁護士役スワン・アルローのエキゾチックな雰囲気は、ベルトルッチ監督『ラスト・エンペラー』のジョーン・ローン(懐かしい!)を彷彿とする。ヴァンパイヤー役が似合いそうな陰あるイケメン。
 検事役アントワーヌ・レナルツは、役柄上憎々しく見えるが、赤い法服姿がカッコいい。フランスの法廷では現在も法服を着用するという。
 息子ダニエル役のミロ・マシャド・グラネールの上手さは末恐ろしい。どんな役者になっていくことやら。

 妻のサンドラはバイセクシュアルという設定で、女性との不倫が法廷で取り上げられている。
 が、それが特別スキャンダラスでセンセーショナルな事実として扱われていないところに、この種の事柄に対する現代フランスの成熟が窺われる。
 今年1月9日~9月5日まで首相を務めたガブリエル・アタルは、ゲイを公言している。

ガブリエル・アタル
ガブリエル・アタル前首相
HUGUES DE BEAUCHESNE
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=145461020による




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 千年前の光 漫画:『あさきゆめみし』(紫式部原作、大和和紀作画)

1979~1993年講談社mimiおよびmimi Excellent連載
2001年講談社文庫

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 『源氏物語』54帖全編を、『はいからさんが通る』で知られる人気少女漫画家の大和和紀が漫画化したもの。

 『源氏』の漫画化、映画化、TVドラマ化作品はたくさんあるが、①原作にほぼ忠実に、②全編を、③しっかり時代考証しつつ、ヴィジュアル化したものとして、本コミックに勝るものはないと思われる。
 もっともソルティは、1959年よみうりテレビ制作(全61回)のドラマと、1965-66年毎日放送制作(全26回)のドラマは観ていないので、断言はできないのだが。
 フィルムが残っているのなら、観たいものだ。
 とくに毎日放送のものは、『雪之丞変化』、『細雪』、『犬神家の一族』の名匠市川崑が演出し、伊丹十三(光源氏)、小山明子(藤壺)、丘さとみ(葵の上)、富士真奈美(紫の上)、藤村志保(夕顔)、吉村実子(明石の方)、中村玉緒(空蝉)、岸田今日子(六条御息所)、加賀まりこ(女三宮)、山本学(頭中将)、河原崎長一郎(柏木)、田村正和(夕霧)ら錚々たるスター役者が出演、1966年度アメリカ・エミー賞を受賞している。
 DVD化してくれたら、ベストセラーになるだろうに。

 大河ドラマ『光る君へ』放映を機に、全7巻を図書館で借りてイッキ読みし、一日置いて、さらにもう一度イッキ読みという、最近では滅多にないハマり方をした。
 少女漫画で読む『源氏』がこんなに面白いとは!

 ソルティは与謝野晶子訳と谷崎潤一郎訳の『源氏』を読んで、ストーリーは頭に入っていた。
 本年刊行された倉田実著『源氏物語絵巻の世界』(花鳥社)を読んで、絵というヴィジュアル手段で読む『源氏』の奥深さや楽しさも知っていた。
 しかるに、少女漫画以上レディコミ未満の大和『源氏』は、予想を超えるドラマ性と美しさに満ちていた。

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京都・風俗博物館の『源氏物語』再現ジオラマ
紫の上と女房たち

 歴史家や風俗研究者でない一読者にしてみれば、平安時代の貴族たちの生活――建物、調度、衣装、食事、恋愛作法、成人式、結婚、葬儀、娯楽、移動手段等々――は、なかなか想像しがたい。とくに、当時はきびしい階級社会&ジェンダー固定社会であったが、そこを踏まえた人間関係の綾などは、活字だけではどうしても理解の届かないところがある。
 たとえば、それまで御簾や几帳で隔てられながら言葉や文を交わしていた男と女が、どうやって一線を越えて結ばれるかという肝心な場面が、紫式部の文章からは見えてこない。
 そこはやはり、セックスがテーマなので曖昧に婉曲的に扱われている。
 なんと言っても『源氏』は天皇や皇后の愛読する上流文化の粋であったし、紫式部と同時代に生きた読者であれば、あえて説明するまでもないことでもあった。
 『あさきゆめみし』では、光源氏や夕霧や柏木や匂宮や薫の君といった色男たちが、恋情(と性欲)を我慢できず、御簾や妻戸を越えて女人たちの衣や体に触れ、その手に抱き寄せる一連のアクションが、赤裸々に描かれる。
 なるほど、こんなふうであったのか・・・と納得至極であった。

 当時の貴族は一夫多妻が普通であったが、親同士が決めた正妻との結婚はともかくとして、それ以外のほとんどの恋愛のきっかけが、現代から見ればレイプであることには驚くほかない。
 光源氏も頭の中将も匂宮も、令和の通念からすれば「レイプ魔」である。
 中でも、幼女誘拐・淫行・レイプ・義母不倫・人妻略奪の光源氏の犯罪性は凄まじい。後年になって、妻となった女三宮が若僧の柏木に寝取られる羽目に陥るが、その程度じゃバチとは言えない。自業自得もいいところ。 
 恋愛小説の極北である『源氏物語』を、若い人は決して恋愛の教科書にしてはいけないという逆説・・・・(笑)

 また、アクション的には地味な『源氏』における三大スペクタクル――桐壺更衣への人糞攻撃、葵祭における場所取り争い、柏木による女三宮チラ見――が、見事にヴィジュアル化されており、自らの頭の中の想像図を補正することができた。
 活字だけでは理解しづらい事物や慣習や文化が、一発で分かる。ヴィジュアルで『源氏』を読めることの素晴らしさ、意義深さ、歴然たる効果を実感した。
 『ベルサイユのばら』を読んでフランス革命に興味を持ち歴史を学ぶ読者がいるように、『あさきゆめみし』を読んで平安文化や摂関政治に興味を持ち、小説『源氏物語』を手にする読者も少なくはないだろう。
 その意味でも、大和和紀の偉業は文化功労賞ものと思う。

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法会を見物する白衣姿の光源氏と夕霧(手前)

 たくさんの恋愛ドラマを描いてきた女性漫画家の手によることの意義も大きい。
 光源氏や匂宮や薫の君はじめ、好きになったものはなんであれ手に入れることに馴れ切った高貴で身勝手な男たち。
 かれらに目を付けられ、執拗に口説かれ、凌辱され、愛され、はたまた敬遠され、恐れられ、飽きられる女たちの心情が、とてもリアルにこまやかに表現されている。
 中でも最高の造型は、“物の怪姫”六条御息所であろう。
 出産の迫った源氏の正妻・葵の上を憑り殺す場面など、まことに鬼気迫るものがあり、日本の少女漫画家たちが積み上げてきた高い表現技術を証明してあまりない。
 末摘花の純粋さと不器用さも捨てがたい魅力を放っている。(このキャラ、『はいからさん』に出てきた牢名主のオサダを彷彿とさせる)

 すでに十分指摘されているだろうが、惜しむらくは、登場人物の見分けがつきにくい。
 とくに女人たちは、誰が誰だか分かりにくい。
 源氏に愛されたキャラで言えば、桐壺更衣、藤壺の宮、紫の上、葵の上、明石の上、夕顔、空蝉、玉鬘あたりは、ほとんど同じ顔に見える。
 少女漫画の美女の顔は作者によってほぼ規格化されていて、複数の美女が登場する場合の描き分けは髪型や服装スタイルで違いを作るのが常套手段である。  
 なので、髪型も衣装も同じ貴族女性の場合、ほとんど同一人物のようになってしまう。
 桐壺更衣、藤壺の宮、紫の上の三者は瓜二つ(三つ)という設定なので、互いに似ているのも仕方ないが、もうちょっと女性の“美しさ”のヴァリエーションが表現できていたら・・・・と思わざるを得なかった。
 一方、意地悪な弘徽殿の女御、ぽっちゃり系の花散里、普賢菩薩の乗り物(象)にたとえられた末摘花、脆弱な自我をもつガーリーな女三宮、それに好色な姥桜・源の内侍は、くっきりキャラ立ちし、他の女人たちと区別化されている。

 本作を読むと、『源氏物語』というのは、つまるところ、「女の幸せとはなにか?」を問い続けた作品だということがよく分かる。
 当時女にとって最高の幸福とされた天皇の后(藤壺の宮)を筆頭とし、天下の二枚目にして最高権力者たる光源氏の妻や愛人たち(紫の上、女三宮、明石の上、花散里、末摘花、朧月夜、六条御息所)、源氏のような理想の美男子ではないけれど武骨で誠実な髭黒大将に嫁いだ玉鬘、夕霧との間にたくさんの子を産み子育てに追われる雲井の雁、光源氏や薫からの求婚を拒み続けた朝顔の斎院や宇治の大君、二人の貴公子の間で引き裂かれ出家した浮舟・・・・。
 どんな高い地位にあろうとも、どんなに裕福であっても、はたからみてどんなに幸せそうに見えようが、庇護者(=男)の如何によって左右されるものである限り、女の人生は“夢の中の浮橋”のように頼りないものである。
 それは、まさに現在放映中の『光る君へ』でも繰り返し描き出されているモチーフである。
 いつぞやは、夫と子供を捨てて宮仕えでの自己実現を企図する清少納言のセリフが、国営放送で堂々と流れ、ネットには女性たちの賞賛と共感のコメントがあふれた。

 白馬に乗った王子様と結ばれること(=結婚)をハッピーエンドとする少女漫画や童話の時代を捨て去り、夫と子供のために尽くすのが女の意気地という昭和演歌の時代も足蹴にし、世のジェンダー規範もずいぶん変わって、日本の女性たちはようやっと、紫式部と視点を同じくしているのかもしれない。

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おすすめ度 :★★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 早稲田でコッテリ 映画:『美しき仕事』(クレール・ドゥニ監督)

1998年フランス
93分

美しき仕事

 フランスでの公開から26年を経た、本年5月に日本劇場初公開。
 原案がハーマン・メルヴィル作『ビリー・バッド』という世界的文学であるにもかかわらず、これほど待たされたのはそれなりの理由あってのことだろう、と気になっていた。

 公開が遅れた理由の一つは、一見、わけのわからない退屈な映画だからだろう。
 わかりやすいストーリーがなく、セリフも少なく、説明もない。
 ドラマチックとは真逆で、エンターテインメント性に欠いている。
 アフリカのどこかの海岸で訓練するフランス軍の小隊の日常が、最初から最後までたんたんと描かれるのみ。
 鍛えられた若い男たちの躍動する肉体、規律と命令にしたがう軍組織の簡潔さがひたすら強調される画面は、新兵をリクルートするために作成されたミリタリー広報ビデオ、あるいはゲイ向けのイメージビデオみたいな印象。
 『ビリー・バッド』は英国軍艦が舞台だったが、本作ではアフリカ蛮地に駐在するフランス外人部隊に置き換えられている。
 また、主要人物2人がたどる運命も変えられている。

 ソルティは事前に『ビリー・バッド』を読んで、そこに寄せられた研究者らの様々な解釈のなかに同性愛的解釈あるのを知っていたので、クレール・ドゥニが描こうとしたのもそこだろうと見当がついた。
 本作は、自然の中における男の肉体の美しさを掬い取ったブルース・ウェバー風フィルムであると同時に、軍隊というホモソーシャルな社会の中で極度に抑圧されたホモセクシャリティを描いた映画である。
 肯定できないがゆえに屈折した同性への愛が、嫉妬や憎しみに転じていくさまが痛々しいまでに描き出されている。

 BL当事者でもなくBL趣味もない鑑賞者(とくにヘテロ男子)にしてみれば、なにがなんだかわからないだろう。(ま、途中で居眠りすると思う)
 98年の日本では、これを理解し咀嚼できる観客も映画関係者も少なかったであろう。
 ようやく時代が作品に追いついたのである。   

 青い海と砂浜とホモセクシュアルの匂いのせいか、ソルティは『ベニスに死す』を想起した。美しい男を執拗に目で追う主人公のガルー(演:ドニ・ラバン)が、ダーク・ボガード演じるグスタフ・アッシェンバッハに重なった。
 また、軍組織におけるホモセクシャリティというテーマに、大島渚監督『戦場のメリークリスマス』を連想した。

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 本作は、洋画の名作を中心にリバイバル上映している早稲田松竹で鑑賞した。
 JR高田馬場駅から歩いて5分。
 この映画館に行ったのは実に30数年ぶり。
 昭和時代の映画館とくに名画座が次々と消えていく中で、都会のど真ん中にあって今も続いているのが奇跡のよう。
 シニア料金や学割が利用できるようになったソルティ、今後はちょこちょこ利用しようかな。

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鑑賞後は通りを挟んだ「末廣ラーメン本舗」へ

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こってり醬油スープ、とろけるチャーシュー、昔ながらの中太ストレート麺
薬味のネギは入れ放題。全体のバランスよく、美味かった(900円)



 
 
おすすめ度 :★★★

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● まっさかさーまに堕ちて 映画:『紙の月』(吉田大八監督)

2014年日本
126分

紙の月

 『桐島、部活やめるってよ』が良かったので、吉田監督の他の作品を借りてみた。
 角田光代による同名小説を原作とするサスペンス犯罪ドラマである。

 夫と二人暮らしの梅澤梨花(演:宮沢りえ)は、銀行の契約社員として顧客回りを担当していた。夫(演:田辺誠一)との関係に物足りなさを感じていた梨花は、ふとしたことから、年下の大学生光太(池松壮亮)との不倫にはまってしまう。ある日、光太が借金を抱えていることを知った梨花は、顧客の金に手をつけて、光太にそっくり渡してしまう。それをきっかけに梨花の欲望は堰を切ったようにあふれ、次から次へと横領を重ね、光太との贅沢な遊びにつぎ込むようになる。上司の隅より子(演:小林聡美)は梨花の行動に不審の目を光らせていた。

 会社や顧客の金を横領し惚れた相手に貢いでいたのが発覚して大騒ぎ――というバブルの頃によくあった事件をなぞっている。
 ソルティは恋愛がらみの横領事件と言うと、既婚男のために1億3千万円を1日で横領しその後マニラに逃れた三和銀行の伊藤M子事件(1981年)と、数年かけて14億円以上を横領しその大半をチリ人女性アニータに渡していた青森県住宅供給公社の千田Y司事件(2001年発覚)を想起する。
 今となっては景気の良かった日本を思うばかりである。
 本作の設定も、バブル破綻の影響がまだ現れていない1994年となっている。

 ソルティは原作を読んでいない。
 なので映画からだけの印象であるが、梨花が顧客の金を横領した動機について、「好きな男に貢ぐため」という三面記事が好みそうなベタなものとは、ちょっと違ったニュアンスで描かれているのを感じた。
 表面的に見れば、年下の光太の関心をつなぎとめるため、なりふり構わずやってしまったようにとれる。愛のために盲目になった愚かな女性というふうに。
 しかるに、ソルティがこの梨花という主人公を見てどうにも連想せざるを得なかったのは、やはりバブル崩壊直後に発生し世間を騒がせた東電OL殺人事件であった。

東電OL殺人事件とは、1997年(平成9年)3月9日未明に、東京電力の管理職であった女性が、東京都渋谷区円山町にあるアパートで殺害された未解決事件。被疑者としてネパール人の男性が犯人として逮捕・有罪判決を受け、横浜刑務所に収監されたものの、のちに冤罪と認定され無罪判決を得た。(ウィキペディア『東電OL殺人事件』より抜粋)

 この事件が世間を騒がせた一番の要因は、有名大学卒で一流企業で働いていたエリートOL(当時39歳)が、夜な夜な渋谷のラブホテル街に出没し、不特定の男相手に安い金額で売春していたという事実が発覚したからであった。
 昼間は大企業の社員、夜は娼婦という、「ヤヌスの鏡」のような二面性が衝撃的だったのである。
 彼女は、好きな男のためでもなく、生活のためでもなく、貯蓄を増やすためでもなく、だれかに恐喝されてでもなく、自らの意志で街頭に立っていた。
 マスコミは、真犯人探しよりはむしろ、彼女が売春していた動機をめぐって色めき立った。
 事件を題材とした書籍やドラマがたくさん作られたのは、これがある種の“時代の証言”すなわち、バブルという華やかな時代に空虚な心を抱えて生きた一つの女性像としてとらえられたからであろう。(中森明菜の『DESIRE』はそうした女性の心象を唄った当時のヒット曲である)
 ちなみに、動機をめぐって飛び交ったさまざまな説の中で、ソルティがもっとも納得いったのは「父の娘」説である。

渋谷

 本作の梨花の場合も、犯罪に手を染めることになった真の動機は、好きな男に貢ぐためでもなく、生活のためでもなく、だれかに唆されたからでもない。
 ラスト間際の、小林聡美演じる“お堅い”(おそらくはオールドミスの)上司との対話シーンで暗示されるように、梨花は、日本銀行券(紙幣)が実質ただの紙でしかないように、光太との恋愛も、バブリーで贅沢な生活も、「本物ではない」ことは分かっていた。分かっていたけれど、そうした“幻想”に飛び込むことで満たしたい(あるいは忘れたい)何かを抱えていたのである。

 その心の闇の背景を示唆すべく、キリスト教系の教育を受けた少女時代の梨花の体験が描かれる。海外の貧しい人たちを助ける募金活動に際し、父親の財布から盗み取ったお金を寄付する梨花の姿が。
 このエピソードが後年の「貧しい学生を助けるために他人の金を横領する」の伏線となっているわけだが、残念なことに、「少女時代に犯した過ちを大人になってから繰り返しました」というだけの重複に終わってしまい、梨花の心の闇の由来を暗示するものにはなっていない。
 ここはたとえば、少女時代の親との満たされない関係を描くなど、もうひと工夫ほしかった。(原作そのままなのかもしれないが)
 さすれば、作品に奥行きが生まれたであろう。

 梨花を演じる宮沢りえがその冴え冴えとした美貌もあって圧倒的存在感。難しい役どころを天才的勘でつかんでいる。
 劣らず素晴らしいのが、上司を演じる小林聡美。大林宜彦監督『転校生』や三谷幸喜脚本『やっぱり猫が好き』の頃から巧い役者と注目していたが、こういう複雑な内面を持った大人の女性を演じられる女優になったのだと感嘆した。
 梨花の年下の同僚で上司と不倫中の「いまどき」OL恵子を、元AKBの大島優子が演じている。自らはつゆとも知らず、梨花を悪の道に引き込む狂言回し的役柄である。見事なバランス感覚で画面におさまっている。
 ほかにも、恵子の不倫相手である近藤芳正、梨花の顧客を演じる石橋蓮司と中原ひとみ、梨花の年下の恋人に扮する池松壮亮など、いい役者が揃っており、見ごたえは十分。
 吉田監督は、大人の鑑賞に値する作品が撮れる人である。




おすすめ度 :★★★

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● 本:『アルマジロの手』(宇能鴻一郎著)

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初出1967~1984年
2024年新潮文庫
収録作品
 アルマジロの手
 心中狸
 月と鮟鱇男
 海亀祭の夜
 蓮根ボーイ
 鰻池のナルシス
 魔薬

 あたし、宇能センセイの短編集第2弾が発売されたのを知って、あそこがツンと尖っちゃったんです。
 第1弾『姫君を喰う話』の衝撃がよみがえって、体じゅうの血がたぎるような感じになって、家事が手につかなくなっちゃたんです。
 自分でも気がつかないまま財布を握りしめて、近所の本屋に飛び込んだら、店主のおじさんが舐め回すような目であたしを見るんです。万引きじゃないのに・・・。
 ふるえる手を押さえながら棚から文庫を取り出したら、九鬼匡規(まさちか)センセイの描いた太もも丸出しの吸血娘がうるんだ瞳であたしを睨むんです。
 もう、のどはカラカラに乾くわ、胸はバクバクするわ、足はブルブル震えるわ、しまいにはじっとりした液体がにじみ出て、下着をしとどに濡らしちゃったんです。
 わきの下から。

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 ――とまあ、本書を手にした感動をおおげさに記してみたが、実際、「やったね、新潮!」と声を上げて褒めたたえたい気分であった。
 どちらかと言えば「左」のソルティは新潮社が好きでないのだが。
 第1弾に勝るとも劣らない奇怪で面白い短編ばかり。
 宇能鴻一郎の強烈な個性と才能に酔うとともに、昭和文学の豊穣を再認識し、堪能した。

 『アルマジロの手』はメキシコが舞台の痴情怪談。当地での伝統的な男から女への求愛の風習が描かれているのが興味深い。中世西欧でお城の窓の下でリュートを爪弾きながら貴婦人への恋を唄ったトロヴァトーレ(吟遊詩人)を思わせる。さすがに現在は廃れていると思うが、どうなのだろう? 84年発表ゆえか、主人公の姿にバブル期のビジネスマンを思い出した。

 『心中狸』は淡路島が舞台のエロ妖怪談。弘法大師が狐を追っ払ったため、四国のお稲荷さんの眷属は狐ではなく狸だという話を思い出した。狸は腹の出た中年オヤジを思わせるためか、猥談のドジな主人公にぴったりだ。

 『月と鮟鱇男』はエロ犯罪譚。恐ろしいプロットの中に、食欲と性欲のつながりをコミカルに描き出す。主人公の男にマゾヒストで大の食通だった文豪谷崎潤一郎をダブらせてしまった。

 『海亀祭の夜』は香川の日和佐海岸が舞台。四国88札所の一つ22番薬王院があり、ソルティも2018年の歩き遍路の際に宿泊し、海岸を散策した。海亀ブームはすっかり去っていた。これもM的な男の物語。

 『蓮根ボーイ』、『鰻池のナルシス』、『魔薬』では女色に並んで男色が描かれている。
 人間の「性」という魔物の前では、対象が男だろうが女だろうが関係ないのだということを宇能鴻一郎はよく分かっていた。
 大江健三郎の『飼育』にも似た戦後GHQ占領下の空気が匂う『蓮根ボーイ』、もうちょっとでポルノ作家宇能鴻一郎誕生につながりそうな『鰻池のナルシス』、インドが舞台の男色版『痴人の愛』といった風情の『魔薬』、どれもすこぶる面白かった。

 これらの作品を前にしてつくづく思うのは、小説の面白さというのは――少なくともソルティにとっては――いびつで理不尽で残酷な社会や、いびつで愚かで欲深い人間の“畸形”をありのままに映し出すところにあるってことだ。
 "畸形”こそが面白さの要。 
 ここに収録されているいずれの作品も、令和の各種ハラスメント基準や求められる人権感覚やSDGs観点から見たら、たいへんな問題作(炎上作)ばかりである。
 たとえば、『アルマジロの手』は第三世界の女性に対する性的搾取と動物虐待、『海亀祭の夜』は女性の権利侵害と動物虐待、『魔薬』はジャニーズびっくりの少年誘拐と性虐待が題材となっている。
 平成生まれの作家にはなかなか書けないし、そもそも思いつかないテーマだろう。
 いや、同じ昭和であっても、戦後生まれの作家にも書けないかもしれない。
 平和・人権・民主主義の戦後社会からは、なかなか生まれてこないテーマであるし、出版社も様々な方面からの“糾弾”の可能性を考慮せざるを得ないし、そもそも読む人がそれほどいるとは思えない。
 ポリコレと自主規制が進んだ令和にあっては、“時代遅れの昭和の害悪の見本”と批判されるリスク大である。

 いまなぜ宇能鴻一郎の小説が人気を集めているのか。
 思うに、令和コンプライアンスの締め付けの中、言動に気を使い、息詰まる思いをしながらも、「人間てきれいごとばかりじゃないよな」と思っている昭和育ちが多いからではないだろうか。
 
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星野珈琲店でエロ読




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● クイーン的問題? 本:『ダブル・ダブル』(エラリー・クイーン著)

1950年原著刊行
2022年ハヤカワ・ミステリー文庫(訳・越前敏弥)

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 クイーン後期のライツヴィル物。
 童謡『マザーグース』の次の歌詞になぞらえて人が死んでいく、いわゆる見立て殺人物である。

Richman, poor man,
金持ち、貧乏、
Beggarman, thief,
乞食、泥棒、
Doctor, lawyer,
医者、弁護士、
Merchant, chief.
商人、首長。

 趣向は面白い。
 が、犯人がそもそも見立て殺人を行った動機があまりにナンセンス。
 歌詞の途中に出てくるある職業の男を怖がらせて遺言書を書かせるためというのだから。
 しかも、蓋を開けてみれば、殺された男が残した遺言書には犯人の名が挙げられていなかったのだから、とんだ無駄骨。
 というか、こんな不確実な動機で世話になった恩人を殺す犯人像のリアリティの欠如が受け入れ難い。
 結末の意外性もなく、奇抜なトリックや殺人方法があるわけでもなく、探偵(エラリー)の推理が目覚ましいこともない。
 エラリー・クイーン作でなければ生き残ることのない駄作である。

 せめてもの美点は、ヒロインであるリーマおよびレコード新聞社の女社長マルヴィナ・プレンティスの人物造型。
 狼少女のごと現代社会から隔絶した環境で育てられたリーマの無垢と野生的魅力が、奇抜なファッションに身を包み蓮舫か田中真紀子のごとく傲岸に振る舞うマルヴィナの強烈な個性と競い合って、作品の魅力をなしている。

 それにしても、なぜ独身のエラリーはリーマに魅かれているのに口説かないのだろう?
 親子ほどの年齢の差があるとはいえ、リーマは成人しているのだから問題あるまいに。
 やっぱり、エラリーはクイーン(米俗語で「同性愛者」)だったのかな?




 
おすすめ度 :

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● ロック・ハドソン、「男」を演ず 映画:『風と共に散る』(ダグラス・サーク監督)

1956年アメリカ
100分

風と共に散る

 原題は Written on the Wind  
 50年代ハリウッドの香り漂う、上質のメロドラマである。

 とにかく主役のロック・ハドソンとローレン・バコールの美男美女ぶりにため息が漏れる。
 なんと似合いのカップルか! 
 この二人が芝居の上だけでなく実生活でも付き合って、結婚して、子供を作ったら、どんなに美しいスターチャイルドが生まれたことかと思うが、人の世は皮肉かつ喜劇である。
 ロック・ハドソンは1985年にエイズを発症した際、ゲイであることをカミングアウトし、全米に衝撃を与えた。
 彼こそは、アメリカンマッチョ社会の理想的ダチ、理想的カレシ、理想的父親を演じ続け、実像もそのようなものと世間に思われていたからだ。
 邦画界に置き換えて言えば、高倉健や渡哲也が「ゲイでオネエだった」というような感じだろうか。

 本作でのローレン・バコールやドロシー・マローンを始め、エリザベス・テーラー、ドリス・デイ、ジーナ・ロブリジーダ、クラウディア・カルディナーレなど世界に名だたる美人女優たちと共演を重ね、ラブシーンを演じたが、本人はまったく“その気”にならず、恋愛に発展する可能性もなかったのだから、世の(ヘテロの)男たちにしてみれば「もったいない」ことこの上ないし、世の(ヘテロの)女性たちにしてみれば「なんとなく騙された」気にもなろう。
 共演女優にしてみれば、これ以上ない安心できるパートナーだったわけだが。 

 ある意味、ロック・ハドソンは二重に演じていたのである。
 つまり、スクリーンで男らしく格好いいいキャラクターを演じると同時に、ファンを含む対マスコミ的にはノンケ(ヘテロ)の男を演じていた。(ただ、役者仲間の間では彼の同性愛は公然の秘密だったという) 

 そうした事実が明らかになった現在、ロック・ハドソンの芝居を見ると、いろいろなことが思い浮かぶ。
 昨今では日本でも、『おっさんずラブ』の林遣都や『エゴイスト』の鈴木亮平のように、ノンケの男優がゲイの役を演じることは珍しくなくなった。
 が、リアリティもって演じるのはなかなか難しいようである。
 吉田修一原作、李相日監督の『怒り』(2016年)では、ゲイのカップルを演じた妻夫木聡と綾野剛が、役作りのために撮影期間を通じて同棲したというエピソードもあるほどだ。
 男が男を愛する――自らの感性では容易には理解しがたい感情だろうし、ヘテロ社会にゲイというマイノリティとして生きる気持ちも想像しがたいだろうし、典型的なゲイ像というものがないので、どう演じたらいいのか悩むと思う。(「ゲイ=女装姿のオネエ」という典型的イメージは過去のものになりつつある)

 翻ってみれば、ロック・ハドソンにしろ、モンゴメリー・クリフトにしろ、アレック・ギネスにしろ、ジャン・マレーにしろ、ダーク・ボガードにしろ、ゲイでありながらノンケの男の役を当たり前に演じ、その演技を絶賛されてきた。
 それは、幸か不幸か、少年時代に自らが周囲の男子と違うことに気づき、それがばれないよう、周囲の男を観察し、模倣し、対人場面で「男」を演じ続けてきたことの長年の努力と経験の賜物だったろう。
 ノンケの俳優がたまたまゲイの役を与えられて、「それでは2丁目にでも行って勉強してみるか」と役作りに励むような“付け焼刃”ではないのである。
 言ってみれば、演じることが第二の天性になっているわけで、昔からゲイの役者に名優が多いのも当然と思う。

 本作の冒頭、ロック・ハドソン演じるミッチが、ローレン・バコール演じるルーシーに、仕事現場ではじめて出会うシーンがある。
 ミッチがドアを開けて部屋にはいると、ポスターを貼った衝立が視界を遮るように並んでいて、ルーシーの姿はすぐには見えない。
 見えるのは衝立の下の空きスペースからのぞくルーシーの両足である。
 カメラはローレン・バコールの素晴らしく美しい足をここぞとばかり映し出す。
 演出の狙いは明らかで、ミッチがルーシーの足に強烈なセックスアピールを感じ、恋愛の始まりを予感するところにある。
 映画を観る者もまた、監督の狙いどおりに二人の恋愛の始まりを予感する。 
 しかるに、実際には、ゲイのロック・ハドソンはバコールの足を見てもなんら性欲をそそられることなく、普通に「足」としか思わなかったろう。せいぜいが、「素敵なハイヒールだなあ」くらいにしか思わなかったろう。
 もちろん、ロック・ハドソンは演出をちゃんと理解し、「おっ、なんていい足なんだ。そそられるぜ!」という表情をしてみせる。
 そうした演出と実際のギャップを思うと、興味深い。

 共演のロバート・スタックのコンプレックスに苛まれた若社長の演技、ドロシー・マローンの我がままで放埓な社長令嬢の演技も見物である。
 ダグラス・サークの演出は粋で、テンポがよく、小気味いい。




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損



● インティマシー・コーディネーターのいない7月 映画:赤い殺意(今村昌平監督)

1964年日活
150分、白黒

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 ガラス壁面に蔽われたビルディングの反射光ですら、焼けるように熱い午後の池袋。
 東池袋駅から歩いてたどりついた新文芸坐の適度な空調と柔らかいシートに包まれ、ほっと一息ついたが、「上映時間150分」という場内アナウンスを耳にして不安にかられた。
 120分でも長く感じる昨今のソルティ。
 最後まで起きていられるかしら?
 ボリウッド映画『RRR』(179分)や岡本喜八版『日本のいちばん長い日』(157分)のような全編みなぎる緊迫感と面白さがなければ、寝落ちのリスクは高い。
 適当なところで一時停止して休憩がとれる自宅での映画鑑賞に軍配が上がる理由の一つである。

 始まってすぐ、白黒画面の画質の荒さと暗さに不安は高じた。
 デジタルリマスターしてないのか。
 見づらい・・・・。
 北林谷栄扮するお婆ちゃんが登場して東北弁でもごもご喋る。
 セリフが分かりづらい・・・・。
 これは寝落ち確定だなと思いながら観ていると、『太陽にほえろ!』のヤマさんでお茶の間の人気者となった露口茂が登場した。
 わ、わかい。
 カッコいい。
 ヤマさん、こんなイケメンだったのか!
 こんなセクシーだったのか!

 鬱屈した表情をした32歳の露口茂が、東北の田舎の村に住む平凡な顔した小太りの女をつけ狙う。
 春川ますみである。
 ソルティの中では、『江戸を斬る』、『暴れん坊将軍』の長屋のカミさんイメージが圧倒的に強い脇役専門女優だ。
 と、刑事のヤマさんが長屋のカミさんを、露口茂が春川ますみを、強姦する。

 !!!

 一気に覚醒した。
 そこからは、画質の荒さもセリフの聞き取りづらさも超えて、ドラマに入り込んだ。

 露口が演じるのは、心臓病持ちの孤独な男、平岡。
 東京でパンパンをしていた母親を亡くし、いまは仙台のストリップ小屋でバックミュージックを演奏している。
 春川が演じるのは、宮城県北の東北本線沿線に暮らす主婦、貞子。
 ただし、主婦とは言っても正式に入籍されておらず、夫吏一(西村晃)との間にできた息子勝は、戸籍上は吏一の父親の子となっている。
 貞子の母は吏一の祖父の妾腹にできた子であった。
 母親亡きあと行く当てのなかった貞子は、吏一の実家で女中として働き、そこで吏一の子を身籠ったのである。
 吏一と貞子は、祖父を同じくする事実婚の夫婦ということになる。
 出自の賤しい貞子は、吏一の一族から下に見られ、ぞんざいに扱われている。
 そのうえ、吏一には貞子とできる前から付き合っている同じ職場の愛人義子(楠侑子)がいた。
 
 家父長制と男尊女卑と村社会。
 いかにも昭和の地方ならではの因循姑息たる風土。
 その中で二重三重に縛られた一人の鈍くさい女が、強姦をきっかけに強く、したたかになっていく過程が描き出される。
 と同時に、女の性を描こうとしているところに、60年代という制作時における本作の話題性はある。
 
 70年代日活ロマンポルノ以前に、女の性をテーマに可能なかぎりの写実表現に挑戦した今村の創作意欲は称賛に値する。
 乳首さらけ出しのオールヌードやそのものずばりの交接シーンこそない(たとえば、強姦シーンは轟音で通過する汽車の映像によって暗喩されている)ものの、性に興味を抱き、男に抱かれることの快楽に囚われていく女性の姿が、リアリティ豊かに描かれている。

 貞子を演じる春川ますみは一世一代の熱演で、これ一作で映画史にその名が刻まれよう。
 十人並みの器量で、愚鈍だが気のいい娘であるこの貞子という役は、若尾文子でもなく、高峰秀子でもなく、岡田茉莉子でもなく、大竹しのぶでもなく、田中裕子でもなく、やっぱり春川ますみだからこそハマる。
 1975年にTVドラマ化(ソルティ未見)で貞子を演じた市原悦子もなるほど適役とは思うけれど、エロの濃度では春川に及ばないだろう。
 春川ますみは、女優になる前、浅草ロック座や日劇ミュージックホールでダンサーとして活躍していたのである。

赤い殺意2
露口茂と春川ますみ

 80~90年代フェミニズムを通過した令和の現在、ここで描かれる「家」制度や男尊女卑が噴飯たるものである、ましてやいかなる形であれ相手の意志を無視したセックスが許されないのは言うまでもないが、60年代の日本の(とりわけ地方の村の)現実の描写としては、決して間違ったものではない。
 大島渚監督『儀式』にも見るように、このような日本があった。
 では、女の性の描き方についてはどうだろう?
 実はそこがソルティの引っかかったところである。

 平岡に強姦された貞子は、身を恥じて自殺を試みるが失敗する。
 一方、貞子を好きになってしまった平岡は、しつこく貞子に付きまとい、会ってくれなければ夫にばらすと脅し、ふたたび貞子を強姦する。
 貞子が身籠ると、それが自分の種と思い込んで、夫を捨てて一緒に東京で暮らそうと迫る。
 強姦魔で、悪質ストーカで、恐喝犯で、完全な自己中人間。
 しかるに、その平岡に抱かれるうちに貞子は“感じて”しまい、次第に平岡に惹かれるようになっていく。
 ここである。

 それが強姦であっても、やられているうちに女は“感じて”しまい、体を重ねるうちに男の匂いを忘れ難くなり、いつの間にか男を愛するようになる。
 この「嫌よ嫌よも好きのうち」、「今に好くなるよ」、「なんだかんだ言って濡れているじゃないか」ストーリーは、ほんとうに女の性の一部であろうか?
 ソルティは女性を強姦したことがないし、女性が強姦されている場面もTVドラマや映画などのフィクションでしか見たことないので断言できないのだが、やっぱりこれは「男にとって都合のいい妄想」であろう。
 たとえ、強姦された女性が強姦した男に従順になったとしても、それは快楽や憐みや愛からではなく、恐怖や絶望によって精神が麻痺したため、あるいは生き延びる方策のため、いわゆるストックホルム症候群である。

 こうした「雨降って地固まる、強姦転じて愛」のような勘違いはどうも男に共有されがちらしく、今村より前に巨匠黒澤明が『羅生門』において、野武士(三船敏郎)に強姦された貴族の妻(京マチ子)の表情の変化において、この種の妄想を表現している。(芥川龍之介の原作『藪の中』はどうだったか覚えていない)
 その後、日活ロマンポルノ(とくにSM作品)やアダルトビデオやアダルトコミックで、男の「強姦転じて愛」妄想は爆発的に映像化され漫画化され商品化され、スタンダードな女の性のあり方の一つとして、世の男たちの脳に刷り込まれてしまったようである。
 だが、それを女の性の“真実”とするのは間違っているし、スタンダードなアダルトビデオのジャンルとして一般化するのは適切ではあるまい。
 そのファンタジーを“真実”と信じた若い男たちが勘違いして、手が後ろに回るリスクも生む。生んでいる。(セックスの最後は顔射で終わるものと勘違いする若者がいるように)

 なぜ、男は「強姦愛」妄想を抱くのだろう? 好むのだろう?
 それを考察すると話が長くなるので、やめておく。
 観点を一つだけ上げるなら、男のセックスが征服欲(サディズム)と結びつきやすいところにある。
 相手を力で征服し、下に組み伏し、馴致させるところに勝利の快楽を覚える気質が、多かれ少なかれ、男という種には存する。
 いわゆるマッチョイズムだ。 

お姫様だっこ

 最近、インティマシー・コーディネーター( Intimacy Coordinator )という耳慣れない言葉をネットで見かける。

インティマシー・コーディネーターは、映画・テレビや舞台など視覚芸術の製作にかかわる職種のひとつ。一般に、俳優らの身体的接触やヌードなどを演出上必要とする際に、演出側と演者側の意向を調整して、演者の尊厳を守りつつ効果的な演出につなげる職種と理解されている。(ウィキペディア『インティマシー・コーディネーター』より抜粋) 

 ドラマ制作現場におけるセクハラやパワハラが欧米で大きな問題となった2017年頃に誕生した職種らしいが、今後日本のテレビや映画や舞台の現場でも欠かせないものとなっていくのは間違いあるまい。
 名匠・巨匠と言われる監督や舞台演出家でさえ、このルールの適用を免れることはできないだろう。

 セクハラやパワハラの概念がなく、一個人が社会に向かって内部告発し“# Mee too”によって味方が得られるSNSもなく、撮影現場における監督の力が絶大だった60年代、しかも役者使いの荒いことで知られる今村昌平監督のロケにあって、主演の春川ますみがどれだけのセクハラやパワハラを被ったことか。
 それを、「売れるためには仕方ない、いい作品を作るためには止むをえまい、この業界で生きていくことを選んだからには文句言うまい」と、自らに幾たび言い聞かせたことか。

 そんなことを想像しながら観ていたら、眠くなる間もなかった。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
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● 本:『性のタブーのない日本』(橋本治著)

2015年集英社新書

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 2019年1月に亡くなった橋本治の全貌は、その作品群があまりに多彩かつユニーク過ぎて、まだ誰にも捕捉されていないようだが、少なくとも、日本の古典に詳しい、かつそのイメージを大きく覆した作家であったことは間違いない。
 1987年に『桃尻語訳 枕草子』が世に出たときの衝撃をソルティは覚えているが、難解で高踏的な日本の古典文学が一気に身近で親しみやすいものに感じられ、才知を鼻にかけた嫌味なインテリ女のイメージが強かった清少納言が、キャピキャピしたミーハー女子大生のように可愛らしく生き生きした存在へと変貌した。
 それは古典が、“姿勢を正して大昔のことを学ぶ”から“今も通じる変わらぬ日本人の姿に共感する”へと変わった瞬間であった。
 その後も、『窯変 源氏物語』や『双調 平家物語』などで、“昔を今につなげる”手腕は遺憾なく発揮された。

 橋本の古典文学の幅広い知識と深い人間理解をもとにした鋭く自在な解釈によって、日本人の性意識や性道徳を縦横無尽に綴ったのが本書である。
 イザナミ・イザナギの性交による国産みが描かれている『古事記』から始まって、『万葉集』、『枕草子』、『源氏物語』、『小柴垣草紙』、『台記』、『故事談』、『稚児草子』、『葉隠』、『仮名手本忠臣蔵』といった、時代時代の代表的な古典文学が俎上に乗せられ、日本人の性と愛をめぐる実態が暴かれていく。
 それは端的に言えば、タイトル通り、「性のタブーのない日本」である。

 明治時代になって、行政府が「風紀」というものを問題にして、性表現に規制をかけた。「猥褻」という概念を導入して取り締まったから、我々は「性的なもの≒猥褻」というような考え方を刷り込まれてしまった。だから、「明治以前の日本に性表現のタブーはなかった」と言われると、思う人は「え!?」と思ってしまう。
 明治時代以前の日本には性表現のタブーはなかったし、性にもほぼタブーはなかった。だから、そういうものを一々数え上げたわけでもありませんが、その昔の日本には「変態性欲」という概念がなかった。
 日本人には性的タブーがなくて、その代わりにモラルがあった。だから、夫のある女が他の男と肉体関係を持つと、女とその相手の男は「姦通」の罪に問われた。

 大塚ひかり著『本当はエロかった昔の日本』(新潮社)や三橋順子著『歴史の中の多様な「性」』(岩波書店)でも、同様の指摘がなされている。
 明治維新からの150年あまりで、少なくとも性意識や性道徳においては、原日本人が本来の姿を喪い、国策によってなかば人工的に作り変えられてしまったことは疑いえない。
 統一協会的・旧民法的な性道徳を振りかざし、「日本を取り戻そう!」と連呼する保守右翼が、いかに付け刃の伝統讃美者であることか。
 
 それにつけても、宇能鴻一郎著『姫君を喰う話』の原案となった後白河上皇作の絵巻『小柴垣草紙』をなんとしても見たいものだ。
 どこかで展示会やってくれないものかしらん。

小柴垣根草紙
『小柴垣根草紙』部分




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
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● 映画:『神々の深き欲望』(今村昌平監督)

1968年日活
175分、カラー

 南海の孤島での一年間におよぶ過酷なロケに、大ベテラン嵐寛寿郎が脱走を試みた、三國連太郎は破傷風にかかって片足切断の危機に陥った、新人沖山秀子は今村監督に毎晩抱かれていた・・・・と、作品内容のみならず、「鬼の今村」の役者づかいの荒さにおいても、文字通り“神話的に”語られている作品である。
 とくに、足に鎖をつけられ、始終泥水の中で演技させられた三國連太郎の苦労は、並大抵ではなかったろう。
 この太根吉という役は、演技の鬼の三國がいたからこそ可能だったのだと思われる。
 息子の佐藤浩市もいい役者だが、この難儀な役がはたして演れるかどうか。

 もっとも、このように時間と経費と手間のかかる贅沢この上ない映画を現在ではとても制作できないし、今村のように日本的土俗を生々しく描ける作家はいなくなった。
 その意味で、民俗学者柳田国男の作品と同様、日本の下層階級における土着文化の共通イメージ的な記録として価値がある。
 この作品(68年発表)より前に生まれたソルティですら、これが令和日本と地続きとは到底思えないのだから、平成生まれの人間が見たら、まったくの絵空事、ファンタジーかSFの世界としか感じられまい。
 実際、上映終了後に文芸坐から池袋の街に出たときのタイムスリップ的ギャップが凄かった。(沖縄民謡転じて、「ビーック、ビックビック、ビックカメラ」)

Ikebukuro_Station_East
Dick Thomas Johnson, CC BY 2.0, via Wikimedia Commons

 ソルティは若い時分、こうした土臭い物語、因習の束縛のような話が好きでなかった。
 今村昌平を敬遠していた。
 昭和にはまだそうした前近代的因習の名残があって、自分自身がそういった束縛を受けていたからだ。
 楽しんで鑑賞できるようになったのは、自分も含めて日本人がまがりなりにもここ数十年で“近代化”し、本作に描かれた“物語”を、距離を置いて眺めることができるようになったからであろう。
 しかし、日本人の原点はここにあるし、清潔で合理的で礼儀正しい振る舞いを身につけた、つまり“民度”の上がった令和日本人の存在の深みには、やはりクラゲ島の民のような迷信深さや、性と暴力への止みがたき欲求が潜んでいるのは間違いなかろう。

 ときは終戦直後、場所は沖縄近辺の孤島。(日本領土とされているので、返還前の沖縄ではないと思われる)
 島民は、先祖代々の土俗信仰ときびしい掟のもと、漁をし、サトウキビを作って、細々と暮らしていた。
 代々神に仕える家柄である太(ふとり)家は不品行と不運が続き、村八分にされていた。
 家長である太山盛(嵐寛寿郎)は実の娘とまぐわって根吉(三國連太郎)を産ませ、根吉は実の妹ウマ(松井康子)と愛し合っている。
 根吉の息子である亀太郎(河原崎長一郎)は、島の古臭い因習から逃れるため東京に行きたいと思っている。
 そんななか、新たにサトウキビ工場を作るべく測量技師の刈谷(北村和夫)が東京からやって来る。
 刈谷は島の開発を押し進めようと孤軍奮闘するが、島の区長である竜元(加藤嘉)の裏表ある言動に翻弄されて、一向に進まない。
 そのうち、亀太郎の妹で知的障害のあるトリ子(沖山秀子)の熱意にほだされて、ねんごろになってしまう。

 鬼の今村によって、また熱帯の大自然によって、極限状況に置かれた役者たちの剥き出しの個性と生命力がスクリーンに焼き付けられている。
 嵐寛寿郎の傲岸、三國連太郎の執念、河原崎長一郎の朴訥、沖山秀子の狂気、北村和夫のインテリ性、加藤嘉ののらりくらり、浜村純の語り部性、松井康子の母性と娼婦性。
 どの役者も地なのか演技なのか見分けがつかないような域に達して、役を生きている。

 音楽は黛敏郎。
 一般には現代音楽の旗手とみなされる黛だが、不思議と、この土臭く猥雑な物語に馴染んでいる。

 ほぼ3時間の上映時間。
 気力体力あるときに鑑賞したい。

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おすすめ度 :★★★★

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