ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●性にまつわるあれやこれ

● 民俗学としての日活ロマンポルノ 映画:『赤線玉の井 ぬけられます』(神代辰巳監督)

1974年日活
78分

玉の井(たまのい)は、戦前から1958年(昭和33年)の売春防止法施行まで、旧東京市向島区寺島町(現在の東京都墨田区東向島五丁目、東向島六丁目、墨田三丁目)に存在した私娼街である。永井荷風の代表作『濹東綺譚』、漫画家・滝田ゆうの『寺島町奇譚』の舞台として知られる。
(ウィキペディア『玉の井』より)

 売春防止法の施行を目前にした昭和33年(1958)新春、玉の井の銘酒屋で働く女たちを描く。
 銘酒屋とは、飲み屋を装いながら私娼たちに売春させていた店である。
 女たちは店頭で客引きし、2階にある各自の部屋に上げて、しばしの快楽を男たちに提供した。  
 原作は清水一行『赤線物語』。
 タイトル画、風俗考証は玉の井生まれの滝田ゆうが担当している。
 場末感あふれる昭和の売春窟は、なんだか懐かしくなるほど人間臭い。
 ドブと煙草と酒の匂い、饐えた畳の匂い、男の汗と精液の匂い、女の汗と化粧の匂い、火鉢で餅を焼く匂い、それらが入り混じった昭和の風景は、いまやどこを探しても見つかるまい。
 むろんソルティは、赤線のあった時代を知らないし、玉の井のあった墨田区近辺には昭和の頃は足を踏み入れたことがなかった。
 上野や浅草で遊ぶことはあったが、すみだ川より向うは長らく未踏の地であった。
 懐かしさを感じるのは、SDGsやコンプライアンスやフェミニズムなんか「への河童」の、虚飾のはぎ取られた、貧しくも逞しい庶民の姿をここに見るからなのだろう。
 だからそれは、“失ってよかった懐かしさ”である。

 博打とシャブを打つのが日課の男、その男に殴られながらも必死に貢ぎ続ける女、毎日自殺未遂する女、一日27人の客を取るという店の最多記録に挑戦する女、一般の男と結婚し玉の井を抜けられたのに飽き足らず戻って来る女、娼婦たちを働かせつつも優しく見守る女将(彼女もまた若い頃は体を売っていたのだろう)、ぶらぶら遊んでいるその夫。
 令和の若者たちの目には、お伽噺のように遠い、ありえない世界と映るに違いない。

 それだけに思ったのは、昭和時代の映画とくに性愛をテーマとした日活ロマンポルノは、かつてあった日本の性風俗の記録として、民俗学的価値があるのではないかということである。
 一般に、ポルノ映画は男たちの願望や妄想を描くので、現実と離れた絵空事の世界であるのは間違いないけれど、本作を含む神代辰巳監督の『四畳半襖の裏張り』、『赫い髪の女』や、田中登監督の『㊙色情めす市場』などは、昭和時代のリアルな街の風景や人間模様を映し出している。
 女子供が観ることのない(=PTAが騒がない)ポルノ映画だからこそ、自由に描けた社会の暗部や性愛の現実がある。
 たんなる射精映画と捨て置くのは間違っている。

 宮下順子、丘奈保美、芹明香、蟹江敬三、殿山泰司など、役者たちも味がある。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 池上季実子はW浅野をKOするか? 映画:『陽暉楼』(五社英雄監督)

1983年東映
144分

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 昭和初期、土佐随一の料亭「陽暉楼」を舞台に、女衒の太田勝造(演・緒形拳)、その娘で芸者の桃若(演・池上季実子)、勝造の愛人で女郎となった珠子(演・浅野温子)を中心に、色と欲と暴力とプライドが入り混じる裏社会の人間模様を描く。
 原作は宮尾登美子の同名小説。

 この映画、昔観たような気がするのだけれど、もし観たのであれば、桃若こと池上季実子と珠子こと浅野温子が、15分間におよぶ取っ組み合いの大喧嘩をするシーンを覚えていないわけがない。
 同じ五社監督『吉原炎上』における仁支川峰子(当時は西川峰子)のタレント生命を賭けた壮絶な演技「ここ噛んで!」を、一度観た者が決して生涯忘れることができないように、池上と浅野の本気の大立ち回りも、映画の出来不出来や物語のあらすじとはまったく関係ない次元で、映画ファンの語り草になるに十分なド迫力の衝撃シーンである。
 ひょっとしたら、ソルティが観たのはテレビ放映版だったのかもしれない。
 であれば、コマーシャルからコマーシャルまでの15分間を女同士の取っ組み合いだけで埋めるのはいくらなんでも無理なので、短く編集されていた可能性がある。

 それにしても、五社監督は女同士の争いを描くのが好きだった。
 男たちの欲望の掃き溜めである料亭(その実態は芸者置屋)や遊廓で働く女たちが、序列や男客の奪い合いから互いに蹴落とし合う、言ってみれば、底辺にいて差別される者同士が強者の贔屓をもとめて争い合う。その姿を好んで描くとは、なんとも悪趣味なお人だなあという感を持つ。
 五社監督の作品からは、溝口健二の遊廓ものに見られたような、構造悪についての批判的眼差しを感じることができない。
 ヤクザをカッコいいと思う中学坊主と同じ単純な感覚で、女郎を美しいと思っていたのではなかろうか。(自身、全身に入墨をほどこしていたという)

 とはいえ、そのようなカタギから逸脱した世界で、自らの信念にしたがって懸命に誇り高く生きた人々を描いているのは確かで、裏社会の独特の「物語空間」を飲み込むことができれば、映画としては非常に面白い。
 芸者の世界だけに、着物や料亭のしつらいに見られる極彩色の映像は鑑賞し甲斐があり、着飾った女たちも美しい。

 女衒の勝造を演じる緒形拳の男らしさ、陽暉楼のやり手女将を演じる倍賞美津子の鉄面皮な貫禄、勝造の後妻で桃若の育ての親役の園佳也子の滑稽味、そしてここでも西川峰子のギャル風蓮っ葉さが印象に残る。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● べらぼうに残酷 映画:『噂の女』(溝口健二監督)

1954年大映
83分、白黒
脚本 成澤昌茂、依田義賢
音楽 黛敏郎
撮影 宮川一夫

 本年度のNHK大河ドラマ『べらぼう』は江戸時代の吉原が舞台となっている。
 吉原は幕府公認の遊郭で、最盛期には300軒近い女郎屋が立ち並び、数千人の女たちが性を売っていた。
 もっともドラマの主役は女郎ではなく、吉原で生まれ育ち、歌麿や写楽を世に送り出した江戸のメディア王ツタジューこと蔦屋重三郎(1750‐1797)である。
 ツタジューの生涯を描くには、どうしたって吉原を描かないわけにはいかないのである。


吉原遊郭

 性的な表現やジェンダー案件について厳しい目が向けられるご時世にあって、あえて吉原を舞台に選んだNHKの英断には正直驚いた。
 民放ですら迂闊に手を出せない題材を、天下のNHKが、しかも家族揃って茶の間で観ることの多い大河ドラマで扱うとは!
 「遊郭って何? 花魁って何?」と無邪気に訊ねる子供に、一緒にテレビの前にいる親御さんがどう答えるのか気になるところだけど、小中学生はともかく、今の高校の日本史の教科書には「江戸時代の遊女」を取り上げているものもあるという。
 吉原で亡くなった女たちを墓穴に投げ込むように始末したことから「投げ込み寺」の異名をとった浄閑寺のこと、死亡時の平均年齢が21歳であったこと、全国の宿場にも飯盛女と呼ばれた娼婦がいたこと、ほかにも非公認の女郎たちがいたことなどが書かれているそうな。

 貧しい女性たちが性を売らなければ生きていけない現代につながる社会の現実。  
 立場の弱い女性たちを搾取し、悲惨な境遇に追いやる男社会の構造。
 男たちの覇権争いと為政者の事績だけを学ぶこれまでの歴史の授業は、偏ったものであるのは間違いない。

 さらに、性とジェンダーと言えば、『べらぼう』にはエレキテルと土用の鰻で有名な平賀源内も登場する。
 源内は男色家であり、生涯妻帯しなかった。
 ドラマでは源内の男色指向もしっかり描かれている。
 歌舞伎役者の2代目瀬川菊之丞を愛したこととか、街行くイケメンにちょっかいを出すところとか、吉原より湯島を好むところとか。(湯島には男色専門の遊郭である陰間茶屋があった)
 江戸のレオナルド・ダ・ヴィンチとも称される讃岐生まれのこの天才を、「変態キャラ」で知られる安田顕が実に魅力的に演じている。
 そろそろ殺人事件を起こして牢屋に入れられる頃合いと思うが、どんな最期を見せてくれるか楽しみである。
 NHKの果敢なチャレンジを素直に称賛したい。
 民放よりよっぽど攻めている。

平賀源内
香川県志度町の生家に建つ平賀源内像

 『べらぼう』人気にあやかろうというのか、現在、神保町シアターでは『花街、色街、おんなの街』と題し、芸妓や遊女らをテーマにした映画を特集している。(5月2日まで)
 五社英雄監督の『陽暉楼』、『吉原炎上』、吉永小百合の『夢千代日記』、永井荷風原作『墨東綺譚』、加藤泰監督『骨までしゃぶる』、日活ロマンポルノから『赤線最後の日』、『四畳半襖の裏張り』、『赤線飛田遊廓』・・・など、総計16作のラインナップは、日本にかつてあった遊廓文化の深さや彩りの証言である。
 と同時に、華やかさと悲惨さ、エロスと暴力、まことと偽りとが小判の裏表をなす遊郭という舞台が、映画という表現形式にとても合っていたことを示してあまりない。そこで生まれる男と女の、あるいは女と女のドラマの濃さは言うに及ばず。

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 遊廓や赤線を好んでテーマにしたのが溝口健二監督である。
 『祇園の姉妹』、『夜の女たち』、『西鶴一代女』、『祇園囃子』、『赤線地帯』など、零落した女たちの生態を圧倒的リアリズムで描いている。
 『噂の女』は、京都・島原遊廓の老舗置屋が舞台である。
 女手一つで子供を育てたしっかり者の置屋の女将(演・田中絹代)と、失恋して東京から帰って来た娘(演・久我美子)。
 それぞれが抱える葛藤と、理解し合えない母と娘の関係が、花街に生きる女たちの悲哀を背景に描き出されている。
 本物志向の溝口が作り上げる遊廓の風景は、セットとは思えないリアルさ。
 水谷浩による美術、宮川一夫による撮影、溝口による演出、そして田中絹代をはじめとする役者陣の演技のクオリティの高さによって、虚構が本物に成り変わる。
 すぐにセットであることやCGであることが分かってしまう、昨今の映画やTVドラマの薄っぺらな映像は、単に金がかけられないためだけなのだろうか?
 デジタル上映で画面も美しい。

 一番の見どころは、田中絹代の演技である。
 遊廓のやり手女将としての貫禄や艶やかさを醸し出す一方、年下の医師(演・大谷友右衛門)との恋に揺れ動く女の弱さといじらしさを漂わせ、さらには同じ男を娘と取り合うことになるや、嫉妬と怒りと老いの羞恥を見事に表現する。
 この難しい役を実に自然に、品位を落とすことなく演じ切り、観る者を感情移入させる田中の芸の高さこそ稀有なものである。

 母(田中)と娘(久我)、そして母から娘に乗り換えようとする若い医師(大谷)の三人が、並んで狂言を見るシーンがある。
 演目は分からないが、老女の恋をテーマにした狂言で、舞台には老いらくの恋をあざけられる醜い老婆が登場する。
 それを若い二人の後ろで鑑賞する母。 
 溝口らしい残酷な(サディスティックな)演出には怖気をふるう。
 この残酷さゆえに、ソルティは溝口健二とルキノ・ヴィスコンティの相似を思うのである。

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おすすめ度 :★★★

★★★★★
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● 映画:『山の音』(成瀬巳喜男監督)

1954年東宝
95分、モノクロ

 原作は川端康成。
 戦後日本文学の最高傑作の一つという謳い文句であるが、ソルティは読んでいない。
 お目当てはむろん、主演の原節子。
 神保町シアターにて4/4まで開催の『没後10年 原節子をめぐる16人の映画監督』のうちのプログラムである。

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 舞台が鎌倉で、主要キャストが原節子に上原謙(夫役)に山村聰(義父役)で、テーマが戦後家族の崩壊とくれば、どうしたって小津安二郎監督の『東京物語』、『麦秋』、『東京暮色』あたりの松竹作品を重ねてしまう。
 古い日本家屋の板張りの廊下を歩く原節子の後ろ姿を見れば、中折れ帽をかぶった会社帰りの笠智衆や、遠慮なく玄関から飛び込んでくる杉村春子や、あるいはプラレールに夢中のやんちゃ兄弟の登場を期待してしまう。
 しかし、キャメラの位置は固定することなく、畳のへりから見上げるような、いわゆるローポジションではなく、オウム返しが延々と続くようなセリフ回し(A「そうかね」→B「そんなもんですよ」→A「そんなもんかね」→B「そうですよ」)ではないので、小津映画のリズムとはたしかに違うことに気づく。

 原節子もどこか生々しく、“おんな”を捨象したところに築かれた小津映画の女性美とは異なる、あえて言えば“色気”が漂っている。原が演じる若妻・菊子はあまりに「こども」っぽくて、夫・修一を満たすことができない、だから修一は他に女をこさえている、という設定であるにもかかわらず。
 菊子のフェロモンが発動されるのは、夫・修一に対してではなく、義理の父・信吾に対してなのである。信吾もまた菊子の魅力にほだされる。
 さすがにそこは格調高き川端作品なので、年老いた義理の父と若い嫁が他の家族には内緒で関係をもつような不埒な展開はない。二人は互いに強く惹かれ合いながら、節度ある関係のまま別れを告げ、それぞれの道を行く。
 が、たとえば小津『東京物語』の義父(笠智衆)と嫁(原節子)の、よこしまな想像をまったく許さぬ清潔な関係を思うとき、本作には禁断すれすれのエロスの香が立ち込めている。
 小津と成瀬の大きな違いのひとつは、そこにあるのではないか?
 良くも悪くも、小津映画は清潔なのである。 

 これが『瘋癲老人日記』の谷崎潤一郎ともなれば、義父のあからさまな変態性欲は嫁にじらされることでさらに燃え上がり、暗黙の共犯関係の中でエロスはもはや、社会道徳や倫理や体裁をふみこえた奇態な花を咲かせる。
 そう言えば、木村恵吾監督による1962年『瘋癲老人日記』映画化において、若く美しい嫁を演じる若尾文子相手に、老いたマゾヒストの義父を熱演していたのも山村聰であった。
 両作品の山村聰の演技の違いを味わうのも一興である。

 場内はおおむね50代以上の、青春期を昭和で過ごした男女で占められていた。
 神保町シアターと同じ建物内によしもと漫才劇場があり、こちらは20~40代が多かった。
 1階のチケット売り場において、人波が年代によって見事に左右に別れていく光景は、モーゼの海割りのごとくであった。

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Karen .tによるPixabayからの画像

 われら中高年組は、おそらくよしもと劇場を見ても、そこそこ笑って楽しめると思うが、逆パターンは無理だろう。
 つまり、いまの20~40代が『山の音』を見たら、あまりに時代遅れのセリフや設定、その背後にある価値観――とくに男尊女卑や家族主義――に辟易するか、理解不能で退屈するか、絵空事のように感じて最後まで共感のツボを見出せないであろう。
 むしろ、『瘋癲老人日記』のように“変態”軸において一点突破してしまえば、よしもと漫才以上の笑いを引き出すかもしれない。
 ジェンダー領域の価値観にあっては、平安時代(『蜻蛉日記』や『源氏物語』)と昭和時代(『山の音』や『雪国』)のギャップより、あるいは太平洋戦争前と戦後のギャップより、昭和時代と平成令和時代のギャップのほうがよっぽど大きいってことが、徐々に明らかになりつつあるように思う昨今。
 一方、原節子の美貌は時代を超えて輝いている。




おすすめ度 :★★★

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● 本:『三島由紀夫を巡る旅』(徳岡孝夫&ドナルド・キーン著)

1981年中央公論社
2020年新潮文庫

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 日本文学研究者&海外への紹介者として、錚々たる昭和の大作家たちと親交のあったドナルド・キーンは、2019年に97歳で亡くなった。ニューヨーク生まれのアメリカ人だったが、東日本大震災を機に日本国籍を取得した。
 一方、毎日新聞記者だった徳岡孝夫は、1930年生まれなので現在満95歳である。
 両者の共通の友人にして本書の主役である三島由紀夫は享年45歳。
 両者は三島の2倍以上を生きたことになる。
 100年に届くほどの長い生涯において、両者ともにもっとも忘れ難い人物が三島由紀夫だったのである。
 実際、日本の近現代には、国語教科書の常連である夏目漱石や芥川龍之介や太宰治、ノーベル文学賞をとった川端康成や大江健三郎など、偉大な作家はたくさんいるけれど、死してなおこれだけ語られる作家は三島を措いていない。
 人々に忘れられることなく話題にされ続けることが三島の狙いであったとしたら、その目論見は見事に成功したと言うべきだろう。

 本書は、三島由紀夫自決から丸一年経った1971年11月に、ドナルド・キーンと徳岡孝夫がはじめて二人で旅行した記録をもとに、徳岡が綴った紀行エッセイである。
 二人は、三島の遺作『豊饒の海』のラストシーンの舞台となった奈良の円照寺(作品中では月修寺)を皮切りに、倉敷、松江、津和野、京都と気の向くままに移動しながら、いろいろなことを語り合った。
 話題の中心が、二人の共通の友であり一周忌を間近に控えていた三島のことになるのは、当然の成り行きである。
 8歳年下の徳岡が、三島と15年間にわたる付き合いのあったキーンに問いを投げかけ、キーンはさまざまな三島のエピソードを引き合いに出しながら答え、それを徳岡が道中の見聞を折り混ぜながら、13篇にまとめている。(初発は1972年1月から『サンデー毎日』に連載)

 文学はもとより、能や歌舞伎や文楽や新派など日本文化全般についてのキーンの造詣の深さは驚くべきものである。
 三島の代表作である『近代能楽集』、『宴のあと』、『サド侯爵夫人』を英訳し海外に紹介した立役者だけあって、キーンの三島文学に対する理解および三島由紀夫という人物に対する洞察は、非常に深く、その言葉には含蓄がある。
 キーンはおそらく三島同様、ゲイだったと思う。
 キーンの三島に対する理解の深さは、生来の文学的感性の豊かさにも増して、同じセクシュアル・マイノリティとして、同じ時代――クローゼット(隠れゲイ)であることを強いられた時代――を生きてきたゆえのものであろう。
 キーンが本書の中で幾度も、「三島さんともっと腹を割って話せばよかった」と言っている真意は、そこらあたりにあるのではないかと思う。
 お互いに、お互いがゲイだと察していながら、カミングアウトし合わなかったのだろう。
 それができていれば、豊かな芸術的感性をシェアできる三島とキーンは無二の親友になれたかもしれないし、ひょっとしたら三島の自決は防げたのかもしれない。
 歴史に「もし」はないけれど・・・・。

 親しかった、しかしよそゆきだった――という表現は、生前の三島と交遊のあった人ほとんどの述懐だといってもいい。十五年間も、しかも翻訳を通じ、また共通の趣味を通じて彼と非常に親しかったキーンさんでさえ、個人的なことについては語り合ったことがなかった。

 晩年の三島に気に入られ、1970年11月25日の事件当日、三島から手紙と檄を託されるほど信頼されていた徳岡もまた、キーンほどではないにしても、文芸通であり、教養豊かな男である。
 文面からは誠実でまっすぐな人柄が伝わってくる。
 三島やキーンのような極めて繊細な感性をもつ人間が、気を使わなくて済むような、気のいい話しやすい相手だったのだろう。
 ただ、次のような“老い”に対する偏見はいただけない。
 95歳の現在、過去に自分の書いた文章を見てどう思うだろう?

三流ホテルのロビーの日だまりに、日がな一日すわっている老人たちの群れを見てぞっとした経験は、欧米へ旅行したたいていの日本人が持っている。それは、まさに「生ける屍」以外のなにものでもない。医学の発達と福祉政策の普及が、もうすぐ日本にもそのような光景を創出するに違いないと、頭の中では知っていながらも、伝統的に散りぎわの美しさ、いさぎよさに無意識にもせよ共感をおぼえている日本人の心は、老醜に目をそむけさせずにはおかないのだ。
 
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DanielによるPixabayからの画像

 以下、キーンによる三島由紀夫評を引用する。
 ソルティが三島について思うところとほぼ同じである。

 矛盾のない人間は、つまらない人間じゃないでしょうか。矛盾が多ければ多いほど、その人物は面白いと言うことができます。三島さんは、まさにそうだったのです。

 とにかく、あの人は、すごく意志の強い人でした。強い意志の力を借りて、自分の夢を計画的に一つ一つ実現していったのです。人によって、場合によっては、ごく自然に、夢がつぎつぎに成就することもあります。しかし、三島さんの場合は、不自然なこともありました。三島さん自身としては不自然には感じなかったのでしょうけれど。
 まあ、あの人の夢の中で、なにか一つ現実にならなかったものがあったとすれば、それはノーベル賞だったといえます。

 仮面――たとえば太宰治も、いつも仮面をつけて、自分が道化のような役割を果たしているのだと思っていました。しかし、太宰の場合は、仮面の下にほんとうの自分の顔があったのです。もし、だれかが自分の素顔を見たら、どんなに驚くだろう、とね。だが、三島さんの場合は、仮面の意味がこれとはまったく違います。・・・・・・(中略)
 太宰には、仮面をつけることがどんなに苦しいかという気持ちがありました。しかし、三島さんは、異なった顔になるように自分を訓練したのです。仮面を自分のからだの一部にし、最後には、それが仮面なのか自分のほんとうの顔なのかわからなくなってしまったのだ、と、ぼくは思うんです。

 あの人の政治観には、いろいろな矛盾がありました。あの人自身も、とりたてて矛盾を解決、整理しようとはしませんでした。ただ、天皇という個人と天皇制という制度の矛盾については、非常に深刻に考えていたものと思われます。結局は、「天皇」は「日本」にほかならないという結論に達したようです。

 なぜ、三島さんは、あれほど鴎外にあこがれたのか。それは、おそらく、鴎外の世界が、自分のそれとはまったく違うものだったからでしょう。鴎外にも鴎外の感受性があったことはいうまでもないんですが、それは三島さんの感受性とはまるっきり異質のものだったです。
 だが、三島さんは、絶えず自分とは異質のものにひかれていました。あの人は、自分に似たものを、かえって嫌っていたんです。

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SecouraによるPixabayからの画像




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 宇多天皇の憂鬱 本:『平安時代の男の日記』(倉本一宏著)

2024年角川選書

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 倉本一宏は、NHK大河ドラマ『光る君へ』の「時代考証」としてクレジットされていた。
 平安時代の研究者として第一線にいるのだろう。 
 藤原道長『御堂関白記』、藤原実資『小右記』、藤原行成『権紀』の現代語訳を行っているほか、『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)、『敗者たちの平安王朝』(角川ソフィア文庫)など一般向けの著書も多い。
 これから、ちょこちょこ読んでいきたい。

 本書は、平安時代の天皇や上級貴族ら都合11人の日記を抜粋で紹介したもの。
 これまでになかったアプローチ――少なくともソルティは類書を知らない――なので、興味深く読んだ。
 取り上げられているのは以下の11人とその日記。
  宇多天皇『宇多天皇御記』
  醍醐天皇『醍醐天皇御記』
  村上天皇『村上天皇御記』
  藤原忠平『貞信公記』
  藤原実頼『清慎公記』
  藤原師輔『九暦』
  藤原行成『権記』
  藤原道長『御堂関白記』
  藤原実資『小右記』
  源経頼『左経記』
  藤原実資『春記』

 ジェンダーバランスを考えてか、あるいは読み物としての取っ付きやすさを配慮してか、前半には有名女性陣の日記も取り上げられている。
 すなわち、『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『枕草子』、『紫式部日記』、『更級日記』。
 これらは、正確な意味では日記ではない。
 つまり、「〇月〇日 かくかくしかじかのことがあった・・・」という形式をとっていない。 
 現代マスコミ風に言うならば、『蜻蛉日記』は大物政治家の愛人による暴露本、『和泉式部日記』は王子様との身分違いの恋物語、『枕草子』は「女房は見た!これが後宮生活の実態」、『紫式部日記』は気苦労多し宮仕え身辺雑記、『更級日記』は元夢見る乙女の回想録、といった感じ。
 これらの“日記”は、無味乾燥になりがちな通常の日記形式でないからこそ、面白いのである。

 女房によって仮名で記された「日記文学」に対し、男性貴族(皇族含む)によって和風の漢文(変体漢文という)で記録された日記を「古記録」というそうだ。
 古記録は、〇年〇月〇日の体裁をとっている日記らしい日記である。
 女たちの「日記」が表現することの喜びに満ち、率直で豊かな感情にあふれているのにくらべると、男性貴族たちの「古記録」は全般、不自由で堅苦しく感情が抑えられている。まさに無味乾燥。
 それは、仮名文字と漢文の違いという以上に、政治の中枢にいて出世競争しながら家を守らなければならない男たちと、そこから疎外された女たちの立場の違いによるものだろう。
 男性貴族が日記を書いた一番の理由は、子孫たちのために実務上の記録を残し、いわゆる有職故実を伝えるところにあったのである。
 この時代、何をやるにしても前例を調べ、それを踏襲することが重視された。
 完全なる官僚主義のありさまは、崩壊直前の貴族政権のマンネリズムをみる思いがする。

 そんな中で意外や意外、天皇たちの日記が面白かった。
 たとえば、時の関白藤原基経から、「代々の天皇は相撲を楽しむのに、聖主(宇多天皇)はなぜ相撲の会を開催しないのか?」と問われた宇多天皇による、寛平元年(889)8月10日の記述。

朕(宇多天皇)は、もとより筋力が微弱であって、相手をする者はいない。今、乱国の主として、毎日、愚慮を致さないことはない。万機を思う度に、寝膳が安らかではない。あれ以来、玉茎は発(おこ)らず、ただ老人のようである。精神の疲極によって、この事にあたらなければならないのである。

 「あれ以来」とは基経が宇多天皇を屈服させた「阿衡の紛議」以来という意味であろうと、倉本は推測している。

阿衡の紛議(あこうのふんぎ)
 平安前期におきた天皇と藤原氏の政治的抗争。887年(仁和3)11月に即位した宇多天皇は、太政大臣藤原基経(もとつね)を関白として先代の光孝天皇と同様に政務を一任しようとした。基経は当時の慣例に従い辞退したが、それに対して橘広相(ひろみ)が起草した勅書に「よろしく阿衡の任をもって卿(けい)の任となすべし」とあった。
 「阿衡」とは位のみで職掌がないとする藤原佐世(すけよ)の言に従い、基経は以後出仕するのをやめた。事件は政争となり、翌年6月、宇多天皇は左大臣源融(とおる)の助言で勅書を改訂して収拾しようとしたが、基経は天皇の信任の厚かった広相の断罪を図った。
 基経には関白としての政治的立場を確認するねらいがあったと推定され、10月、女の藤原温子(おんし)の入内により事件は落着した。
(出典/山川出版社『日本史小辞典 改訂新版』)

 基経のイチャモンに振り回される宇多天皇が憐れであるが、「玉茎が発(おこ)らない」という表現がなんとも面白い。
 天皇の「それ」だから、まさに「玉」茎である。
 宇多天皇がいかにストレスフルな日々を送っていたかが推察される。
 一方、ひょっとするとこれは、関白基経の娘・温子を妃に娶らざるを得なかった宇多天皇の精一杯の抵抗だったのかもしれない。
 つまり、「玉茎が起こらない」ゆえに、お前の娘は抱けない。ゆえに、お前に孫をつくってやることができない。ゆえに、お前は未来の天皇の外戚になることができない。(してやるものか!)

 左大臣源融(みなもとのとおる)の勧めた露蜂(ろほう)を服用することで、宇多天皇の玉茎は蘇ったらしいが、結局、宇多天皇と温子の間に皇子はできなかった。
 露蜂とは漢方で蜂の巣のこと。当今のプロポリスのことではなかろうか?

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PollyDotによるPixabayからの画像
 
 平安時代の男性貴族の日記と言えば、ソルティが一番読みたいのは、藤原頼長(1120ー1156)の『台記』である。
 苛烈で他人に厳しい性格ゆえ「悪左府」の異名をとった頼長が、稚児や舞人や家臣、武士や青年貴族たちとおこなった男色遊戯が赤裸々に書かれているという。
 本書に上げられている古記録とはずいぶん事情が異なる。
 王朝時代にあって、すごい変わった男だと思う。
 どなたか現代語訳してくれないものか。




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● ガラパゴス村 映画:『スキャンダル』(ジェイ・ローチ監督)

2020年アメリカ、カナダ
108分

 アメリカのニュース専門放送局FOXニュースの創立者にして元CEOのロジャー・エイルズは、長年にわたり、女性職員に対しセクシャル・ハラスメントをおこなっていた。
 2016年7月、解雇されたグレッチェル・カーソンが、エイルズを相手にセクハラ訴訟を起こした。
 それを発端に、FOXの花形司会者であるメーガン・ケリーを含む何十人もの女性がエイルズによるハラスメントを次々と告発し、SNSと全米を揺るがすスキャンダルとなった。
 エイルズは辞任し、FOX社は被害女性らに多額の賠償金を支払った。

 本作は、この事件の顛末を描いたドキュメンタリー風再現映画。
 シャーリーズ・セロンがメーガン・ケリーに、ニコール・キッドマンがグレッチェル・カーソンに、マーゴット・ロビーがメインキャスターの座を狙う貪欲な若手職員ケイラ・ホスピシルにそれぞれ扮している。
 3人とも見事な演技で、美しい。(女性の外見を「美しい」というのもそのうちセクハラになりそうだ)

 どうしたって、フジテレビと中居正広をめぐるスキャンダルに重ね合わさずにはいられない。
 アメリカで起きたことは数年のちに日本でも起こる、という習わしどおり。
 時差は約8年。
 日本の場合、発端をつくった被害女性が顔も名前も出していないし、裁判にも刑事事件にもなっていないので、かえって決着のつけ方が難しい。
 世間の関心、とりわけSNSの反応は熱しやすく冷めやすい、長続きしないのが常なので、これといったケジメのつかないうちにフジテレビのスポンサーCMは復帰し、世の関心は別の新たなスキャンダルに移っているのではないかと予測される。

 それにしても、80~90年代には間違いなく時代の先端を走って流行を作り出していたフジテレビが、令和の現在は、日本でもっとも意識改革の遅れた時代錯誤の住人の集まりになっていたという事実。
 お台場とはガラパゴス諸島だったのか。

お台場

 監督のジョン・ローチは、『オースティン・パワーズ』(1997)、『銀河ヒッチハイクガイド』(2005)、『奇人たちの晩餐会USA』(2010)などコメディ映画を得意とする。
 色彩センスに優れた映像は、本作でも存分に発揮されている。

P.S. ロジャー・エイルズは辞任の翌年に77歳で亡くなった。
 


おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● マッチョ+1 本:『深夜プラス1』(キャビン・ライアル著)

1965年原著刊行 
1976年早川書房(菊池 光・訳)

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 『週刊文春』が1985年に実施した東西ミステリーベスト100において、第6位に輝いている本作を、ソルティは読んでいなかった。
 第5位のジャック・ヒギンズ著『鷲は舞い降りた』も読んでいない。
 これではミステリーファンを名乗る資格がない?
 ちなみに、同企画は、日本の推理作家や推理小説の愛好者ら約500名にアンケートを実施し、各回答者にベスト10を選んでもらったものを集計した結果である。
 海外(西洋)ミステリーのベストテンは以下の通りだった。
  1. エラリー・クイーン 『Yの悲劇』
  2. ウィリアム・アイリッシュ 『幻の女』
  3. レイモンド・チャンドラー 『長いお別れ』
  4. アガサ・クリスティ 『そして誰もいなくなった』
  5. ジャック・ヒギンズ 『鷲は舞い降りた』
  6. ギャビン・ライアル 『深夜プラス1』
  7. F・W・クロフツ 『樽』
  8. アガサ・クリスティ 『アクロイド殺し』
  9. S・S・ヴァン=ダイン 『僧正殺人事件』
  10. アーサー・コナン・ドイル 『シャーロック・ホームズの冒険 (短編集)』
 5位と6位以外の作品は10~20代のうちに読んでいる。
 つまり、ソルティはハードボイルド(非情)が苦手だったのである。
 3位のチャンドラー『長いお別れ』もハードボイルドの古典として名高い作品ではあるが、大学でアメリカ文学を専攻していた関係上、さすがに読まないわけにはいかなかった。
 チャンドラーはアメリカ文学史においても重要な作家の一人とみなされているのだ。
 実際に読んでみたら、面白かったし、感動した。
 ハードボイルドには違いないが、感傷的でウェットな風があった。
 ウィリアム・アイリッシュの『幻の女』、トルーマン・カポーティの『冷血』に近い感じがした。

 なぜソルティがハードボイルドが苦手だったのかと言えば、やっぱりマチョイズム芬々たるからだし、ハードボイルド小説に欠かせない「車、銃、煙草、酒、暴力、ギャンブル、女」にあまり興味が持てなかったからだ。
 興味が持てない一方で、マッチョに(“男”らしく)なれない自分にかつてはコンプレックスを抱いていたので、ハードボイルド小説を読んで卑屈な気持ちにさせられるのが嫌だった。 
 「つまんない、くだらない、バカ男どもの小説」と一刀両断できればよかったのだが。

 ほんとに、今では考えられないくらい、昭和時代はマチョイズムがはびこっていた。
 ドラマもCMも小説も歌謡曲も、あるべき「男」の像をしきりに生産し続けた。

男には自分の世界がある、男はサムライ、男は度胸、男は涙を見せない、男の勲章、男なら一国一城、男の背中、男は40になったら自分の顔に責任を持て、男は無口な戦士、男の意気地、男は敷居を跨げば7人の敵がいる、男は台所に立つな、男の世界(マンダム)、男は黙って××ビール、嵐を呼ぶ男、俺は男だ!・・・・・

 そんなマチョイズムの奔流の中に物心つく頃から浸っていれば、内面化されたマチョイズムの物差しが、自分という「男」を自然と査定するのを避けるわけにはいかなくなる。
 自分は男として“落第”なのだろうか・・・・?
 自己否定は自信の欠如をまねくので、ますます“男らしさ”が失われる。
 うざったい時代だった。

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ThankYouFantasyPicturesによるPixabayからの画像

 ついに『深夜プラス1』を読んで、「ああ、そうか」と今さらながら思ったのは、ハードボイルドの誕生の背景には戦争の影があるってことだ。
 戦争の傷と言ってもいい。
 本作の主人公の英国人カントンは、第2次大戦中ドイツによるフランス占領時にレジスタンスに協力していた過去を持つ。
 今回フランスからリヒテンシュタインに行く富豪のボディガードとして雇われることになったのは、戦時のさまざまな体験や知恵が役立つと見込まれたからだ。
 車や銃の扱いに長け、いかなる時でも冷静沈着で、刻々変わりゆく事態に臨機応変に対応する能力を有し、敵の裏をかくことができ、身を守るために情け容赦なく敵を殺し、目的を果たすまであきらめない。
 カントンの才能や性質は、戦争によって鍛えられたところ大である。
 一方で、戦時中に親友を目の前で殺されたという心の傷も持つ。
 ハードボイルド小説の骨格を成す「暴力、非情、車と銃、謀略、ペシミズム、マチョイズム」はまさに戦争の延長線上にあるものなのである。

 戦争が終わって平和な世の中になり、戦争ドラマの代わりにハードボイルドが登場した。
 作者のギャビン・ライアルは1951年から2年間イギリス空軍にいた。実戦経験があるかどうかは知らないが、先輩の体験談をずいぶん耳にしたことだろう。
 考えてみれば、ハードボイルドの創始者と言えるアーネスト・ヘミングウェイもまた、第1次大戦時に瀕死の重傷を負い、1930年代のスペイン内戦の際には外国人義勇兵の一人として従軍している。そうした体験が、『武器よさらば』や『誰がために鐘は鳴る』などの作品に結実した。 
 ハードボイルドは、戦争が生んだ文学なのだ。
 それはまた、「戦争(闘い)をせざるを得ない、いびつな社会のいびつな男たちの物語」なのである。
 困ったことに、男という種族(の一部)は、そういった世界になぜか憧れて模倣したがる。
 本能だから仕方ない?
 世界から戦争が無くならない根本要因はそこにあると思う。

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Gordon JohnsonによるPixabayからの画像

  一方で、ハードボイルド=男の美学が、女性を男の暴力から守っていたという側面もあると思う。
 「女に暴力を振るう男は、男のくずだ」、「困っている女性を見たら助けろ」という哲学がそこには歴然とあったので、つき合っている男がハードボイルドを気取っているうちは、女も安心していられた。
 その美学が崩れた現在、女は自分の身を自分で守らなければならない。

 本作は、構成がしっかりしていて、叙述は簡潔にして正確無比。
 人物描写が巧みで、ウィットと深みのある洗練された会話は大人の味。
 スリルとサスペンスも十分。
 ただ、肝心のどんでん返しは、1965年の読者ならば腰を抜かしたことだろうが、60年後の現在、どんでん返しに慣れ過ぎてしまった読者は、途中で真相に気づいてしまうだろう。
 『週刊文春』東西ミステリーベスト100の2012年版において、『深夜プラス1』は25位に転落してしまっている。
 どんでん返しの賞味期限が切れたことが一因なのかもしれない。
 一方、『鷹は舞い降りた』も19位に落ちている。
 やはり昭和から平成になって、マッチョイズムが忌避されるようになったことが影響しているのではなかろうか。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 胸痛の傑作 映画:『クロース』(ルーカス・ドン監督)

2022年ベルギー、オランダ、フランス
102分

クロース

 2025年最初の衝撃は、1991年ベルギー生まれの若い監督によってもたらされた。
 思春期の少年の友情が崩壊するさまを淡々と描いた、どこにでもある小さな物語。
 ――なのであるが、涙腺を崩壊させる威力ときたら!
 思春期を経験したことがあり、少年少女時代の心情のいくばくかを覚えている人間ならば、本作を観て必ずや心が痛むだろう。
 痛まない人がたらお目にかかりたい、いやお目にかかりたくない。
 最近、前立腺肥大を知ったソルティ。
 ひょっとしたら心臓にも欠陥があるのでは?
 ――と思ったほど、胸がしくしく痛んだ。

 幼馴染のレオとレミは双子のように仲がいい。
 何をするのも二人一緒。夜は一つのベッドで身を寄せて寝る。
 しかるに、中学校に入ると、二人の仲を冷やかす連中が現れる。
 「二人はカップルなの?」、「付き合っているんでしょ?」
 レミはそういったあてこすりをまったく気に留めないが、「おかま」と陰口をたたかれたレオは周囲の目を気にしてしまう。
 レオは、レミから距離を置き、他の連中と付き合うようになる。
 アイスホッケーを始め、マッチョな振る舞いをするようになる。
 わけも分からず一方的に突き放されたレミは、レオを責め、殴り合いの喧嘩に発展する。
 ある日、課外学習に参加したレオは、レミの欠席を知る。

 レオ役のエデン・ダンブリンの演技が天才的。
 自らの内にあるものに怯える心、親友を失ったショックと悲しみ、募りゆく罪悪感と誰にも言えない苦しみ。
 ラストに向かって高まっていく緊張を見事に持続させ、演じ切っている。
 レミ役のグスタフ・ドゥ・ワエルも好演。ナイーブな少年像にリアリティを与えている。
 レミの母親ソフィ役のエミリー・ドゥケンヌが実にすばらしい。
 世の母親たちは彼女の演技に紅涙を絞られるだろう。

 登場人物たちの心の襞を丁寧にさらった繊細きわまる脚本と演出。
 悲しくなるほど美しい映像。
 少年映画の古典的傑作、フランソワ・トリュフォーの『大人は分かってくれない』を想起させる、長回しの平行移動撮影の多用、ラストにおける主人公と観客との対峙ショット。
 いずれもが、ルーカス・ドン監督の映画的感性の類のなさを証明している。 

 亡くなった親友の影を背負って、レオは生きていかなければならない。
 成長とは残酷なものだ。
 負けるな、レオ!




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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● 尿をめぐる男だけの話

 しばらく前から尿の匂いが気になっていた。
 小便の際に甘い匂いが立ち込める。
 「ひょっとして、糖尿病では?」
 このところ、食べ過ぎで体重が生涯MAXになっている。
 近所の泌尿器科に足を運んだ。

 待合室で問診票を書く。
 気になる症状の欄に「尿の匂いが甘い」と書き込み、ほかに「残尿感がある」、「頻尿である」のマスにチェックを入れた。
 トイレで採尿。
 名前を呼ばれ、診察室に入ると、30代くらいの若い男の医師だった。
 「尿に異常は見られません。匂いは気にする必要ありませんよ」と言う。
 なんとなく腑に落ちない気分でいると、
 「ああ、頻尿や残尿感がある? 前立腺肥大の可能性がありますね」
 机上のパソコンを操作して、泌尿器の図解を画面に映し出す。
 「男性は50歳を過ぎると、この前立腺が大きくなって尿道を圧迫するので、おしっこが近くなったり、最後まで出しきらなかったりします。ちょっと調べてみましょうか」
 言われたとおりベッドに横になると、下腹部になにか器具を当てられた。
 超音波検査だった。
 「ああ、やっぱり少し肥大が見られますね」

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『前立腺の病気』(日本新薬株式会社発行のパンフレット)より

 前立腺肥大!
 ふだんケアマネとして高齢者の健康相談を受けていて、多くの男性が前立腺肥大にかかっているのを見てきた。
 白内障や難聴や物忘れと同じく、加齢が原因で起こる老人病のひとつという認識であった。
 まさか自分がなるとは!・・・・と一瞬思ったが、自分も還暦越え、なっても全然おかしくなかった。
 実際、固有名詞が出てこないのは日常茶飯事だし、暗くなると視力が効かないし、わけなく咽ることが多くなった。
 「お薬を出しておきますから、毎日飲んでください。これで万事OKです」
 と医師は言い、意味ありげな笑みを浮かべた。

 薬局で薬を受け取り、家に戻った。
 ネットで前立腺肥大について調べる。
 前立腺の良性腫瘍で命にかかわることはないとある。(悪性の場合が前立腺がんである)
 が、放っておくと尿閉になって自分の力で排尿できなくなり、その場合は手術が必要になる。
 早めの治療が大切なのである。
 それにしても、医師が最後に見せた“意味ありげな笑み”とセリフが気になる。
 「これで万事OK」
 あれはいったいどういう意味だろう?
 薬袋から薬を取り出す。
 タダラフィルという名前の小さな白い錠剤。
 説明には「前立腺肥大を改善する」とある。
 ネットで検索する。

タダラフィル(Tadalafil)は、長時間型のホスホジエステラーゼ5阻害剤であり、日本での適応は、勃起不全 (ED) 、肺動脈性肺高血圧症、前立腺肥大の排尿障害である。

勃起不全の症状がある場合、ペニスが勃起し、性行為が正常に行える。性的刺激があったときのみ勃起が起こる、勃起機能改善効果であって、催淫剤ではないので性欲を亢進させる働きはない。
(ウィキペディア「タダラフィル」より抜粋)

 なんとバイアグラと並ぶ勃起不全(Erectile Dysfunction)の治療薬だった!
 機序としては、「血管を拡張させ、血流量が増える」、つまり海綿体に流れ込む血液が増えるのでカタくなる、ということらしい。
 前立腺肥大の治療においては、尿道を広げ排尿をスムーズにすることに加え、骨盤内の血流をよくすることで症状を改善する効果がある。
 男性医師の“意味ありげな笑み”の理由が分かった。
 いや、先生、ソルティは別にそこに悩んでいたわけではないんだが・・・・。

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 服薬を開始して1ヶ月。
 効果はてきめんで、1回に出る尿の量が増えて、トイレの回数が減った。
 夜間含め3時間に1回はトイレに行っていたものが、日中4時間に1回くらいになり、夜間は行かなくても大丈夫になった。
 これで長時間の映画やコンサートも安心して鑑賞することができる。
 残尿感もなくなり、しぼり残しの露で下着を濡らすことが無くなった。
 (そろそろ男性用パッドが必要なのではと、松岡修造のCMを見ながら考えていた)
 また、そもそもの受診の原因だった尿の甘い匂いが気にならなくなった。
 一回の尿量が増えたことで、尿が薄くなったためではないかと思う。

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 もう一つのほうの効果のほどは・・・・・。
 言わぬがホトケ、止めておこう。

テントを張る空海
四国88札所第21番太龍寺の舎心ヶ嶽に建つ弘法大師像




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