ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

性にまつわるあれやこれ

● トランス波、襲来!? 『装いの力 異性装の日本史』展(松濤美術館)


IMG_20220916_183154

 コロナ世になってはじめての渋谷。
 ミキ・デザキのドキュメンタリー映画『主戦場』を見に行って以来だから、3年ぶりか。
 あれから日本の政治状況はずいぶん変わったが、渋谷駅周辺の変わりようにもぶったまげる。
 来るたびに新しい高層ビルが増えていく。
 渋谷交差点の四方八方から押し寄せる人波と、波をかき分けて進む船の舳先のような109ビルのたたずまいは、相変わらずであった。

DSCN5321
渋谷駅ハチ公口

DSCN5319
渋谷交差点と109ビル

 109の右側の坂を上がって東急デパートの左手の道を10分ほど歩けば、渋谷区立松濤(しょうとう)美術館に着く。
 今日は、9/3から開催されている上記の展示が目的。
 ちょうど三橋順子『歴史の中の多様な「性」』を読んだばかりで、グッドタイミングであった。
 今回の展示は「多様な性」の中でも、とくにトランスジェンダーに焦点を当てたものと言うことができる。
 新しい奇抜なモードの発祥地であり、LGBTパレードが毎年開かれる渋谷という街に、まさにピッタリの催し。
 土日は予約が必要なほど混みあうらしいが、ソルティが行ったのは平日の昼間だったので、存分に見学することができた。
 が、それでも館内の人の列は途絶えることなかった。
 トランス波、来てる~!


 闘いにあたって女装したヤマトタケルや武装した神功皇后の逸話がある神代の昔から始まって、王朝時代の男女入替え譚である『とりかえばや物語』やお寺の稚児さん、木曽義仲の愛妾にして女武士・巴御前、江戸時代の若衆(陰間)や歌舞伎の女形、村の祭礼における男装女装の習俗、そして文明開化から現代までのトランスジェンダーの歴史が、絵巻物のように紐解かれる。
 絵画あり、古文書あり、写真あり、武具や衣装あり、マンガや動画あり、オブジェありのバラエティ豊かな展示であった。

DSCN5325
2階フロアのオブジェ
現代のトランスジェンダーたち

DSCN5329


 マンガの例としては、手塚治虫『リボンの騎士』のサファイア、池田理代子『ベルサイユのばら』のオスカル、江口寿史『ストップ‼ ひばりくん ! 』が挙げられていた。
 どれもTVアニメ化されるほどの人気を得た。
 自分が幼い頃から異性装アニメを普通に観て育ってきたことに、今さらながら気づかされる。(付け加えるなら『マジンガーZ』のアシュラ男爵・・・)
 それはなるほど我が国の庶民レベルでのトランスジェンダー“表現”に対する寛容度を示すものに違いない。
 が同時に、日常空間におけるジェンダー規定の厳格さをも意味しているのだと思う。
 つまり、男と女の差がきっぱりと分かれている社会だからこそ、そこを越境する主人公の非日常的振る舞いが視聴者を惹きつけるドラマになり、感動を呼び得るのである。

 非日常を許容する日常、あるいは非日常(ハレ)によって刷新される日常(ケ)――みたいなものが日本文化の伝統として、また社会維持の仕掛けとして、存在したんじゃないか。トランスジェンダー的なものはその触媒として働いたんじゃないか、と思う。
 
DSCN5330




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 
 

● 王家の紋章 映画:『冬のライオン』(アンソニー・ハーヴェイ監督)

1968年イギリス、アメリカ
137分

 原作はジェームズ・ゴールドマンの戯曲。
 12世紀のイングランド国王ヘンリー2世(1154-89)を主役とする歴史劇。

 権謀術数と暗殺と戦闘シーン満載の派手な歴史大作かと思ったら、なんのことはない、ヘンリー2世一家の家族ドラマだった。
 ヘンリー2世と妃エレノアの間に生まれた3人の息子リチャード、ジェフリー、ジョンに、フランス国王フィリップ2世やヘンリーの愛人アレースが絡んで、愛と不信と欲とプライドが錯綜するハタ迷惑な家族バトルが勃発する。
 まあ、もともとブロードウェイの舞台にかかっていたのだから、このくらいのサイズが順当であった。

 とは言え、夫婦喧嘩や兄弟喧嘩が『渡る世間は鬼ばかり』のような単なる内輪もめで終わらないところが、支配者の支配者たるゆえん、王家の王家たる宿命である。
 たとえば、兄弟のうち誰が一番親に愛されるかは、庶民の家庭ならせいぜい遺産相続のトラブルで済む話だが、これが王家だと誰が次の国王(=支配者)に指名されるかという、国家の未来と国民の運命を左右する大問題となる。
 同様に、夫が糟糠の妻を捨てて若く美しい愛人に走るのは、庶民レベルなら家庭裁判所での愁嘆場(または修羅場)くらいの話で済むが、これが国王夫妻ともなると、ローマ法王の許可が必須な宗教問題へと発展する。
 広大な領地と巨額な財産と圧倒的な権力は得られても、あたりまえの普通の家庭の幸福は絶望的に得られない一家の悲喜劇が描かれている。
 
 まあ、とにかく出演者の面々が豪華極まる!
 ヘンリー2世には『アラビアのロレンス』、『ラストエンペラー』のピーター・オトゥール、王妃エレノアには米国アカデミー主演女優賞を4回も獲得しているキャサリーン・ヘップバーン、リチャード王子には『羊たちの沈黙』、『日の名残り』のアンソニー・ホプキンス、フランス国王フィリップには第4代ジェームズ・ボンドとなったティモシー・ダルトン。
 アンソニー・ホプキンスは本作が映画デビューで、当時31歳。なんと同性愛者の王子という設定である(実際のリチャード1世がゲイであったかどうかは不明)。
 つまるところ、本作の見どころのすべては名優たちの演技合戦に集約される。
 とりわけ、ピーター・オトゥールとキャサリーン・ヘップバーンの共演シーンでの斬るか斬られるか丁丁発止の応酬は、スリリングかつユニークであると同時に、西洋演劇における高度の演技術の模範とも言えよう。
 
IMG_20220916_092333
キャサリーン・ヘップバーンとピーター・オトゥール

IMG_20220916_092253
アンソニー・ホプキンスとティモシー・ダルトン
2人はかつて男色関係にあったという設定である


 ところで、『冬のライオン』とは晩年のヘンリー2世という意味で、彼がイングランド王室紋章にライオンのデザインを採用したことによる。
 これが現代の英国国王の紋章にも受け継がれている。
 
イングランド国王紋章(ヘンリー1世)
ヘンリー1世時代の紋章

palace-5632955_1920
現在の紋章
エリザベス2世の冥福を祈る



おすすめ度 :★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損









● 実朝はゲイだった? 本:『歴史の中の多様な「性」』(三橋順子著)


2022年岩波書店

IMG_20220913_213918

 この本、面白かった。
 著者がいみじくも「あとがき」で書いているように、「文化人類学、民俗学、社会学、地理学などのごった煮」風なのであるが、それがかえって、特定の専門分野の研究書にありがちな硬直と無味乾燥から免れる結果を生み、幅広い読者の楽しめるものに仕上がっている。
 日本を含むアジアの歴史の中に多様な「性」が存在してきたことを、令和日本人に知ってもらうためには有益なことである。
 そもそも「性」というテーマを語るのに、上記のような専門分野はどれもあまりにも間口も奥行きも狭すぎる。

 欧米では「セクソロジー(性科学)」という学問分野が確立していて、セクソロジスト(性科学者)という専門研究者が大学などで、性医学、心理学、生物学、性教育などの研究や講義を実践している。
 日本の大学に「セクソロジー」を専門とする学部や専攻があるのかどうか、ソルティは聞いたことがない。(講義レベルではあると思うが)
 本書で著者が扱っているテーマは、どちらかと言えば理系的アプローチの「性科学」とは異なり、文系的アプローチによる「性文化現象学」とでも名付けたいような、まったく新しい領域である。
 文化人類学、民俗学、歴史学、地理学、社会学、文学、芸術、そして性科学などを横断しまた統合する「性文化現象学」――これこそ、「性」の多様性の長い歴史と伝統を誇る我が日本が、世界に先駆けて開拓・創造できる学問分野なのではなかろうか。
 
 著者の三橋順子は1955年埼玉県生まれの性社会文化史研究者(←という肩書をつくるほかなかったのだろう)
 自身トランスジェンダーすなわち「性別越境者」として生きてきた人である。
 最近よくマスコミに上るLGBTの「T」である。
 
 「トランスジェンダー」には二つの定義がある。まず、現象・行為としては、社会によって規定されたジェンダー、とりわけ性別表現を越境することである。その場合、越境が男女の間を行ったり来たりする時限的なものか、男性から女性へ、あるいは女性から男性へ行ったきりの永続的なものかは問わない。
 また、人物として定義する場合は、誕生時に指定された性別とは違う性別で生活している人となる。この場合も、その理由は問わない。

トランスジェンダー
オードリー・タン
世界で最も有名なトランスジェンダーの一人


 本書では、『日本とアジア 変幻するセクシュアリティ』という副題通り、実にさまざまな時代、さまざまな地域の「通常(多数)とは違った」ジェンダーやセクシュアリティをもつ人びとの様相が語られている。
 例を挙げると、
  • 平安時代の上流貴族で、自ら耽る同性間セックスの模様を日記(『台記』)に細かく記した藤原頼長(1120-56)
  • 薩摩藩(鹿児島県)の青少年組織「兵児二才(へこにせ)」組において、江戸時代から明治初期まで伝わってきた男色の習俗
  • 江戸時代の最強力士であった谷風梶之助(1750-95)が実は女性であった、という伝承が残る九州の里
  • インドのサード・ジェンダー(第三の性)で現代も存在する「ヒジュラ」の実態
  • 清朝時代の中国に存在し「芸能・接待・売春」を専らとした女装の美少年「相公(しゃんこん)」
  • 朝鮮半島における移動芸能集団「男寺党(ナムサダン)」における男色文化
 江戸時代の陰間とよく似た、芸能と売春を兼ねた女装の少年たちが、インドや中国や朝鮮やタイ(「カトゥーイ」と呼ばれる)にも存在した(している)のである。
 日本の場合、陰間以外にも、年長の男が少年を愛でる男色は、中世の僧侶や武士たちの間で広く習慣化していたことは良く知られる。
 トランスジェンダーについても、古くは『古事記』に登場するヤマトタケルの女装譚に始まり、各地の祭りにおける女装の伝統、歌舞伎の女形、宝塚の男役、美輪明宏、カルーセル麻紀、はるな愛、マツコ・デラックスに至るまで、日本は性別越境者に「やさしい」文化であり続けた。
 著者によると、「夜の街を安全に歩ける」「レストランに入っても追い出されない」「仲間が集まれるお店がある」日本は、韓国や欧米から来た女装者にとって「パラダイス」なのだという。
 もちろん、その背景には古来神道や仏教が、同性愛や性別越境を禁じたり否定したりする教えをもたなかったことにある。
 
 欧米のキリスト教圏のトランスジェンダーたちは、アジア地域(日本を含む)のように伝統的・土着的なサード・ジェンダー文化の基盤を受け継ぐことができず、異性装や同性間性愛を禁じるキリスト教の宗教規範と命がけで闘いながら、社会の中で一から自らのポジションを作っていかざるを得なかった。 

 日本という国の素晴らしさの一つ、日本人のユニークネス、そして欧米文化をはるかに凌駕する“先進性”は、性の多様性に対する受容精神にこそあるのではなかろうか。
 俗に言う、大らかな性である。

 そう思うと、いったい我々日本人にとっての「保守」とは一体なんなのか、ということに思い及ばざるを得ない。
 現在の保守右翼たちが掲げる「美しい国、日本」の偶像は、文明開化から戦前までの日本の姿にある。すなわち、大日本帝国だ。
 その「儒教的かつキリスト教(西欧)的」倫理にもとづく性観念・性道徳・家族像が彼らの守りたい価値なのである。(まさにそこが統一教会の教義と合致するところだった!)
 だが、それは長い日本の歴史の中のたった80年足らずの期間(1867~1945)のことに過ぎない。
 保守右翼が忌み嫌い押し潰そうとする、多様なセクシュアリティやジェンダーのあり方を認めようとする多くの民の声こそ、古来日本の伝統や日本人本来の感性につながる、本当の「保守」なのである。


P.S. 現在放映中のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、三代将軍源実朝(柿澤勇人)は、どうやらゲイという設定で、彼の思い人はいとこで三代執権となった北条泰時(坂口健太郎)らしい。
 三橋も書いているように、この時代「男色」という行為はあっても、「男色者あるいは同性愛者(ゲイ)」というセクシュアル・アイデンティティは存在しなかった。
 おそらくは、LGBTやBLファンの視聴者をあてこんだ脚本家・三谷幸喜のサービスであろうが、大河ドラマの主要人物に悩めるゲイキャラが当てられるのはじめてではなかろうか。
 今後の展開が期待される。(と言っても悲劇的結末が決まっているのだが・・・)

源実朝
右大臣源実朝
松岡 映丘(1881-1938)作



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損






● おやじ、涅槃で待つ TVドラマ:『悪魔が来りて笛を吹く』

1977年TBS系列
約45分×全5回
脚本:石森史郎
演出:鈴木英夫

IMG_20220910_104501


 『犬神家の一族』で華々しいスタートを切った古谷一行=金田一耕助の『横溝正史シリーズ』中の一作。
 1979年東映制作の映画版では、西田敏行が金田一耕助を演じ、物語のキーパーソンとなる元華族の椿秌子(あきこ)を演じた鰐淵晴子の妖艶な美しさが圧巻であった。
 本作では44歳の草笛光子が秌子を演じている。
 艶めかしさ、妖しさは鰐淵に適わないものの、乳母日傘のお嬢様育ちの鷹揚さに加え、繰り返される血族結婚がもたらす遺伝的脆弱からくる精神不安を見事に演じきっていて、さすがの貫禄。
 草笛のベッドシーンは非常に珍しいと思うが、堂に入ったものである。

 数十年ぶりに見ての嬉しい驚きは、モロボシダンこと森次晃嗣が刑事役で出演していて、古谷=金田一とのツーショット連発なこと。
 刑事役、実にお似合いでカッコいい。
 一緒に須磨や淡路島に行き調査するシーンは、二人のヒーローの顔合わせの妙が、郷愁をそそるばかりの野外ロケと相俟って、陰惨この上ない物語の数少ない息抜きとなっている。

IMG_20220910_104726
古谷一行と森次晃嗣

 椿家の令嬢・美禰子を演じる檀ふみも、清楚な品あって好感持てる。
 演技の上手さにも目を瞠らせるものがある。
 ほかに、原泉、観世栄夫、長門裕之、加藤嘉、江原真二郎、三崎千恵子、野村昭子、長門勇など錚々たるベテランたちが脇を固めており、昭和時代のドラマの質の高さは何よりも役者によって担保されたのだと実感する。

 特記すべきは、犯人役の沖雅也。
 ソルティの中ではやはり、『太陽にほえろ』のスコッチ刑事のクールなイメージが強いが、どこか影のある美青年であった。
 1983年に31歳の若さで飛び降り自殺し世間に衝撃を与え、そのとき残された遺書の文句、「おやじ、涅槃で待つ」は話題になった。
 「おやじ」とは沖の所属した芸能プロダクション社長で、養子縁組により沖の「父」となった日景忠男のことである。
 沖の死後に日景が著書でカミングアウトしたことで知れ渡ったのだが、日景と沖は恋愛関係にあった。
 それは当時、好奇心と嘲りと嫌悪をもって語られるスキャンダル以外のなにものでもなかった。
 もちろん、本作放映時(1977年)、世間はそんなことはつゆ知らなかった。
 沖雅也は女性人気抜群の若手実力派だったのである。

 こうしていろいろな事情が判明したあとで本作を観直したとき、沖雅也という俳優の悲しく途絶した人生と本作の真犯人・三島東太郎のあまりに不遇な人生とが重なり合って、言いようのない悲劇的味わいがそこに醸し出されている。
 とくに、ラストシーンで三島が自らの正体を満座のもとに告白するくだりでは、沖の芝居は演技を超えたリアリティを放ち、あたかも沖自身の肉声、魂の叫びのようにすら聞こえてくる。
 見続けるのがつらいほどだ。
 日景忠男は2015年に亡くなった。
 二人が涅槃で再会できたことを願うばかりである。

IMG_20220910_104853
脱衣し背中の「悪魔の紋章」を見せる三島東太郎(沖雅也)

 ところで、本作の導入部では、戦後まもなく発生し日本中を震撼とさせた帝銀事件をモデルにした天銀堂事件なるものが語られる。 
 つまり、本作の時代設定は1947年(昭和22年)である(横溝の原作は1954年刊行)。
 本作の放映、すなわち中学生のソルティがリアルタイムで茶の間で観たのは1977年のこと。
 ちょうど30年前の日本を舞台とするドラマを観ていたことになる。
 それで改めて驚くのは、1947年の日本人の生活様式と1977年のそれとは、ほとんど断絶がないという点である。
 当時観ていて理解できなかった風習やシステム、違和感を感じるような登場人物のセリフや振る舞いは、ほとんどなかった。
 1977年の時点でも、遠い場所にいる人との連絡手段は電話や手紙であり、警察への犯罪の告発は匿名の投書であり、家で音楽を聴きたいのならレコードプレイヤーであり、ニュースは主に新聞から取り入れ、淡路島に行くなら列車と船であった。
 翻って、2022年の中学生がこのドラマを観たとき、そこにどれだけの連続性を感じるだろうか?
 電話機やレコードプレイヤーを見たことも触ったこともない、ニュースはインターネットから、音楽を聴くならスマホで、という日本人にとって、このドラマが時代劇のごとくアナクロに映ることは間違いあるまい。

 ことは、文明の利器だけの話ではない。
 現在、本作を原作通りにTVドラマ化することは難しいと思われる。
 というのも、ここで真犯人の主要動機を担っているのが、兄と妹の近親姦だからである。
 近親姦は「神をも畏れぬ忌まわしき行為」「犬畜生に劣る行為」であり、近親姦で生まれた子供は「生まれてはならない化け物」「畜生以下」「悪魔」である、という昭和時代のスティグマがこのドラマの根幹を成しており、近親姦によって生まれた子供が、自分をこの世にもたらした父と母に復讐する――という物語なのである。

 実際のところ、近親姦は世間で思われているよりずっと頻繁に起こっており、若い頃に近親の男から被害を受けた実の娘や姉妹や孫娘や姪の数は、声を上げられないだけで、少なくないだろう。
 中には、中絶することができないまま、出産に至るケースもあろう。
 そうした女性被害者や生まれてきた子供たちの存在を思えば、近親姦のスティグマをいたずらに強化する本作は、今となっては時代遅れというだけでなく人権侵害の色が濃い。

KIMG0057 (2)


 思うに、人の持つ基本的な世界観、価値観の核は、およそ20代までに形成されてしまうのではないか。
 ソルティも昭和時代の価値観をかなり内面化している。
 そのことは昭和時代に作られたドラマを楽しんだり読み解いたりするには役立つのだけれど、令和の今を生きるにはそれなりの自己覚知が必要だ。
 かつては30歳の年の差でも、同じ日本人なら同じ文化に属しているがゆえ、ある程度以心伝心が通じた。
 いまは10歳の年の差だって以心伝心は通じないと心得るべきだろう。


 古谷一行さんの冥福をお祈りします。




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損








● 映画:『セールスマン』(アスガル・ファルハーディー監督)

2016年イラン、フランス
125分

 第89回アカデミー賞外国語映画賞はじめ数々の国際級映画賞を獲得しているミステリーサスペンス。
 監督はイラン出身なので、舞台はおそらくテヘランだろう。
 2018年に公開されたババク・アンバリ監督によるホラー映画『アンダー・ザ・シャドウ』同様、すっかりアメリカナイズされた現在のイランの都市生活が描かれている。
 
 タイトルの由来になっているように、劇団に所属する主人公夫婦が現在演じている芝居がアメリカ作家アーサー・ミラーの『セールスマンの死』であるあたりからして、いまのイランが急激な西洋化によって遭遇している社会問題が、まんまアメリカ的であることが象徴的に示されている。
 観終わってから気づいたが、本作には登場人物が「アッラー」を称えるセリフやイスラム教徒ならではの祈りのシーンがなかった。

テヘラン
欧米化著しいテヘランの街

 教師エマッドと妻ラナは小さな劇団に所属している仲の良い夫婦。
 引っ越したアパートメントで新しい生活が始まった矢先、侵入してきた何者かにラナは暴行され、大ケガを負ってしまう。
 ラナは警察に届けることを拒否する。
 怒りのぶつけどころないまま犯人探しをするエマッドは、犯人が部屋に置き忘れた車のキーを手がかりに、ついに容疑者をつきとめる。
 それは思いもかけぬ相手であった。

 ストーリー自体は取り立てて奇抜なところはない。
 大都会ではよくある事件の一つであろう。
 犯人の意外性も驚くほどのものではない。
 単純にミステリーサスペンスとして評価した場合、凡庸な出来と言える。
 本作の評価の高さは、登場人物たちの心理描写がこまやかで、一つ一つのセリフや行動にリアリティがあり、全般丁寧に撮られている点であろう。
 他の男に暴行された妻と、それを知った教養ある夫。
 両者の揺れ動く心理と関係性の変化を見事に演じきった役者も素晴らしい。
 深みある人間ドラマとなっている。

 おそらく、西洋化する前のかつてのイランの男ならば、他の男に“汚された”妻を許さないだろう。「お前が油断しているから、こんなことが起こる」と責め立てるであろう。
 暴行した男を見つけたら、それこそただでは済まさないであろう。
 目には目を、歯には歯を、である。
 社会も男の復讐劇を称賛こそすれ、非難することはないだろう。
 アッラーには復讐の神の名もある。

 高校教師であり『セールスマンの男』を演じられるほどに現代西洋的教養や価値観を身につけたイスラム男のアイデンティティは、もはやかつての伝統文化の枠内にはおさまりきれない。
 ラストシーンで妻を襲った真犯人と対峙し、本来なら正当であるはずの復讐を果たすことに惑うエマッドの逡巡には、伝統的価値観と新しい西洋的価値観に引き裂かれるイランの知識人の現在が見事に活写されている。
 


おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● けったいな水産ホラー 映画:『ブルー・マインド』(リーザ・ブリュールマン監督)

2018年スイス
101分

 女性監督による作品。
 ジェーン・カンピオン監督『ピアノ・レッスン』とウィノナ・ライダー主演『17歳のカルテ』を思わせる女子映画で、そこに往年の高部知子主演のTVドラマ『積木くずし』(最高視聴率45.3%!)とそこはかとないレズビアニズムの香り、さらにはカフカ『変身』とアンデルセンの某童話を合体させた感じ。
 つまり、まったく既存の物語におさまりきらない奇妙な映画である。
 レンタルショップのホラーコーナーに置いてあったのだが、これは『ボーダー 二つの世界』や『バクラウ 地図から消された村』とともに、ソルティが作った「ウミウシもの」という新ジャンルに放り込みたい。

ウミウシ


 主役の少女が金魚を食べるシーンで、大女優・小川眞由美を思い出した。
 岩下志麻との対談で語られていたことだが、何かの映画の撮影中、生きた金魚を口に入れて噛み切った小川の芝居を見て、共演していた志麻サマは「卒倒しそうになった」という。
 小川が、「金魚って意外と骨があるのね」と笑いながら返していたのがさすが!
 小川眞由美という女優の役者魂を示すエピソードである。 
 そうそう、『積木くずし』で不良少女を演じた高部知子の母親役が小川であった。
 高部知子はニャンニャン事件と呼ばれたスキャンダルを起こして芸能界失脚、その後、精神保健福祉士の資格を取って、現在は依存症患者のカウンセラーとして活躍している。
 不良少女と呼ばれた過去を乗り越え、見事に新しい人生を切り開いた。

 映画とまったく関係ないことを書いているが、つまり、なんとも評価しようのない、ネタバレなしには説明しようのない、けったいなホラーなのである。
 ジェンダー差別するわけではないが、思春期の女性の生理や感性を通してのみ理解し得る作品なのではなかろうか。
 男の鑑賞者にはたぶん、金魚ほどにも咀嚼できない。






おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● 百恵芳紀15歳 映画:『伊豆の踊子』(西河克己監督)

1974年東宝、ホリプロ
94分

IMG_20220818_093215


 山口百恵の映画初主演作であり、のちに夫婦となった三浦友和との映画共演第一作。
 西河監督は吉永小百合主演ですでに『伊豆の踊子』を撮っており、脚本や基本的な演出は前回と“ほぼ”同じである。
 『ひと夏の経験』の大ヒットで超多忙となった百恵には、撮影のために当てられるスケジュールは一週間しかなかったという。
 すでに完成されている枠組みを再活用するのは苦肉の策であったのだろう。
 が、必ずしも二番煎じとは言えないし、アイドル映画と軽視することもできない。
 魅力あふれる作品となっている。
 
 魅力の一等は、薫(踊子)を演じる山口百恵と川島(旧制一高生)を演じる三浦友和との抜群の相性の良さである。
 理想の夫婦と言われる今の二人の姿からさかのぼって贔屓目に見てしまうところもあるのかもしれないが、ここでの二人の息の合い方や惚れた相手を見る際の自然な表情は、この純愛作品にほとばしるようなリアリティを与えている。
 フリでない本物の感情が二人の演技の質を高めたのである。
 二人の間に強い磁力が発生しているようで、このコンビネーションは54年松竹版の美空ひばりと石濱朗、あるいは63年日活版の吉永小百合と高橋英樹のそれをはるかに凌駕している。
 単純に演技力および歌唱力という点だけみれば、百恵も友和もそれぞれの前任者たちには及ばないにも関わらず・・・・。

IMG_20220818_041711
踊子に扮する山口百恵

 山口百恵は美人ではないけれど、表情が素晴らしい。
 とくに憂いを含んだ表情はこの人の最大の魅力である。
 これは吉永小百合には今日に至るまで望めないところで、生まれついての顔立ちや幼少期の育ちが影響していると思われる。
 この憂いこそが自然と悲劇の基調を形づくって、今作に続く『絶唱』や『春琴抄』などの文芸悲劇もの、または女性視聴者の紅涙を絞ったTVドラマ「赤いシリーズ」を成功させた要因ではなかろうか。
 そして、憂いある表情が一瞬にして笑顔となって弾ける時、笑顔を向けられた男たちは、そのコントラストの大きさを「俺だけに見せてくれた素顔」と勘違いし、百恵の虜になっていったのだと思う。(思春期のソルティもその一人であった)
 
 三浦友和がまたカッコいい。
 昭和の典型的美男子そのもの――往年のゲイ雑誌『薔薇族』の表紙に出てくるような――であるけれど、ソルティが幾度もだぶらせたのは令和の実力若手男優である仲野太賀であった。
 イケメン度では若かりし三浦の方が上であるが、人好きする顔立ちであるとか、おっとりした雰囲気であるとか、感受性ある表情であるとか、どことなく似通っている。
 仲野太賀は将来、アイドル歌手と結婚、三浦友和のような役者になるということか。
 
IMG_20220818_041803
三浦友和(右)と中山仁
なんだか木下惠介監督作品の一場面のようなBL感

 他の役者では、芸人一家の元締めを演じる一の宮あつ子、薫の兄・栄吉を演じる中山仁(往年の熱血スポ根ドラマ『サインはV』の鬼コーチ)、茶屋の婆さんを演じる浦辺粂子が印象に残る。
 ホリプロの百恵の後輩である石川さゆりが肺病で亡くなる遊女おきみ役で出ているのが、なんだか哀しい。(さゆりは「天城越え」できなかったのだ)
 落語家の三遊亭小圓遊が踊子(百恵)の処女を狙ってちょっかいを出すスケベな紙屋を演じている。これまた味がある憎まれ役ぶり。
 
 踊子と学生は波止場で派手なお別れをし、幕が下りる。
 「よく出来たリメイクだったなあ~」とリモコンに手を伸ばした瞬間、驚きが待っていた。
 「終」のクレジットと共に映し出された最後のカットは、アイドル映画としてはとうてい考えられない類いのものであった。
 この絵、65年バージョンにはなかった。
 場所はどこかの旅館のお座敷。
 酔っぱらって、もろ肌脱いで入れ墨を晒した男が、踊っている薫に無理やり抱きついている。
 薫は嫌そうに横を向いているが、そこは客商売、きっぱり拒むことはできない。
 
IMG_20220818_041610
 
 このカットの含むところは、有り得べき薫の今後の人生である。
 紙屋のおやじのように金に物を言わせる道楽者や見境ないヤクザ者になかば暴力的な形で凌辱され、旅芸人から芸者となり、芸者から遊女に身を落とし、最後はおきみのように体をボロボロにする。  
 そうした最悪のストーリーを暗示しているのである。
 そして実際、この原作が書かれた昭和初期、そういった転落のケースは珍しくなかった。
 なにより芸人は差別される対象だったのである。
 
 川端康成の原作や65年の「西河―小百合」版以上に本作で目立つ点を挙げるとするなら、旅芸人に対する差別というテーマであろう。
 学生と踊り子は伊豆で出会って、一緒に旅をして、淡い恋をして別れる。
 同じ一つの恋――しかし、それぞれにとっては同じ経験ではない。
 学生にとっては、ひと夏の美しい思い出であり、自らの孤児根性という劣等感を癒す通過儀礼であった。
 学生は東京に帰って勉学に励み、出世の道を歩むだろう。官僚になるかもしれない。学者になるかもしれない。売れっ子作家になってノーベル賞を獲るかもしれない。
 一方、踊子にとっては穢れなき少女時代の最後の楽しい思い出であり、この先二度とこのような牧歌的な瞬間は訪れないかもしれないのだ。
 男と女、将来を嘱望される学生と差別され社会の底辺を流れ続ける旅芸人、二つの人生行路は天城隧道のようには簡単につながらない。
 
 西河監督がこのような退廃的でショッキングな最後のカットをあえてアイドル映画に挿入した理由は、そこに思いを込めたかったからではなかろうか。
 「学生さんにとっては、小説の題材として“利用できる”ひと夏の美しい思い出だろうさ。だがな、旅芸人の娘にとっては、その思い出にすがることで残りの悲惨な生をなんとか切り抜けていけるお守りのようなものなのだ。川端さん、いい気なもんだね」――と。
 
 
 
 
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


● 映画:『チャイコフスキー』(イーゴリ・タランキン監督)

1970年ソ連
157分

 ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840-1893)の半生を描いた伝記映画。
 1970年制作ということはブレジネフ書記長時代のソ連。
 東西冷戦たけなわの頃である。
 ソ連が崩壊するなんて世界中の誰も思いもしなかった、まだまだ勢いある時代に、国家事業の一つとして作られた作品ということになる。
 一方、チャイコフスキーが生きたのは19世紀末期の帝国ロシア。
 皇帝がいて、貴族がいて、階級社会があって、文化サロン華やいで、街路を馬車が走っていた。
 この映画は、史上初の社会主義国家である今は無きソ連が、自ら倒した帝国ロシア時代を描いたものとして興味深い。
 なんたって、ロシアはめまぐるしい。

IMG_20220729_223207
チャイコフスキーを演じるインノケンティ・スモクトゥノフスキー
 
 チャイコフスキーの後半生が忠実に描かれているように思われるが、そこは1970年しかもソ連。
 同性愛の「ど」の字もおくびに出さない。
 女性との関係に失敗し続ける芸術一筋の不器用な男という設定である。

 チャイコの最初の恋人とされるオペラ歌手デジレ・アルトーがたいへん美しい。
 この女優はいったい誰?
 ――と思ったら、20世紀最高のバレリーナと言われるマイア・プリセツカヤその人であった。
 
IMG_20220730_083930
オペラ歌手に扮するマイア・プリセツカヤ

 生涯の親友でピアニストであった豪放磊落なニコライ・ルビンシテイン。
 チャイコの音楽の最大の理解者でパトロンとなったフォン・メック夫人。
 フォン・メック夫人とチャイコを引き合わせたものの、天才チャイコへの嫉妬から裏切り者に転じていくウラジスラフ・パフリスキー(まるでモーツァルトとサリエリの関係)。
 入水自殺を企てるほど、その関係に悩み苦しんだ唯一の結婚相手アントニーナ・ミリュコーワ(結局離婚した)。
 そして、最後までチャイコに忠実に仕えた召使のアリョーシャ・ソフロノフ。

 いろいろな人物との関りが丁寧に描かれ、ロシアの自然や貴族の豪邸など映像も美しい。
 もちろん、全編に使用されるチャイコの音楽こそが隠れた主役である。

IMG_20220729_223310
古き良き時代のロシア




おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● ジェンダーギャップ・コメディ 本:『よりぬきウッドハウス1』(P・G・ウッドハウス著)


初出1900~30年代
2013年国書刊行会(森村たまき訳)

IMG_20220726_124743

 天才執事ジーブズシリーズで日本でも人気沸騰のP・G・ウッドハウス(1881-1975)の初期から中期の短編集。
 18の短編の中には、ウッドハウスが生まれてはじめて原稿料をもらった『ゲームキャプテンであることの諸問題』ほか、ジーブズのご主人であるちょっと間抜けなバーティー・ウースターの原型となった男「レジー・ペッパー」シリーズ、映画脚本家としてMGMで仕事していた時の体験から生まれた「マリナー氏のハリウッド」シリーズなどが収録されている。ジーブズ物はない。
 
 気分を明るくしてくれるユーモアとアイロニーたっぷりの作品揃いで、寝る前に読むのにおあつらえ向き。
 ソルティがもっとも楽しく読んだのは、冒頭に置かれた『ハニーサックル・コテージ』、初期作品の一つである『レジナルドの秘密の愉しみ』、ハリウッドが舞台の『モンキー・ビジネス』。
 とくに『ハニーサックル・コテージ』(スイカズラ荘の意)は、マッチョの世界を好んで描く独身主義のハードボイルド作家が、ひょんなことから少女漫画風のポエムな世界に引きずり込まれ、あやうく少女にプロポーズしそうになるところを愛犬に救われるという抱腹絶倒の筋書きで、ウッドハウスを含む(当時の?)英国男子の女性観・結婚観の一端をかいま見させる。

 ウッドハウス作品の典型的プロットは、中世の騎士道精神の守り手であることを自負している現代の英国紳士たちが、何かと言えば気絶するような中世の姫君たちより何倍も強く逞しくなった現代女性たちを相手に、騎士の仮面がもろくも剥がれ落ちて、一転あたふたするというものである。
 男たちのマチョイズムが、女たちのパワーの前に空回りするところに滑稽が生まれるのだ。
 ジェンダーギャップ・コメディとでも言えようか。



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



   
   

● 本:『オッサンの壁』(佐藤千矢子著)

2022年講談社現代新書

IMG_20220712_113504

 ソルティは自他ともに認めるオジサンであるが、4割くらいオバサンも入っていると思う。
 でありながら、周囲のオジサン、オバサンの非常識でハタ迷惑な言動を見聞きするにつけ、「これだからオジサンは・・・」「まったくオバサンだな・・・」と心の中でつぶやくことが多い。
 そんなとき、自分をオジサン、オバサンの枠外に置いてしまっている。
 どうも意識的には「自他ともに認めて」いても、無意識では自身を30代後半くらいに設定しているような気がしないでもない。
 あるいは、自分より10歳以上離れた上の世代を「オジサン、オバサン」と設定し続けているのかもしれない。
 列車やお店の中で、あるいはATMやレジの行列において、苛立つ若い世代から「これだからオジサンは・・・」と思われていることを自覚せねばなるまい。
 一方、自分の「オッサン」度はどんなものだろう?

 タイトルにある「オッサン」について、著者はこう定義している。

 私が思うに「オッサン」とは、男性優位に設計された社会で、その居心地の良さに安住し、その陰で、生きづらさや不自由や矛盾や悔しさを感じている少数派の人たちの気持ちや環境に思いが至らない人たちのことだ。いや、わかっていて、あえて気づかないふり、見て見ぬふりをしているのかもしれない。男性が下駄をはかせてもらえる今の社会を変えたくない、既得権を手放したくないからではないだろうか。
 男性優位がデフォルト(あらかじめ設定された標準の状態)の社会で、そうした社会に対する現状維持を意識的にも無意識のうちにも望むあまりに、想像力欠乏症に陥っている。そんな状態の人たちを私は「オッサン」と呼びたい。

 モーリアックの『テレーズ・デスケルウ』を想起させる一文である。

 佐藤千矢子は1965年生まれ。
 毎日新聞社の社会部や政治部の記者として、米国同時多発テロ後のアフガニスタン戦争、イラク戦争、米大統領選挙などを取材し、2017年に全国紙初の女性政治部長に就任。現在は論説委員を務めている。
 まさに、男社会の牙城とも言えるマスメディアの世界で、男社会の天守閣とも言える政界を相手に仕事してきて、女性登用の道を切り開いてきた有能なキャリアウーマンである。
 そうした経歴を持つ著者が現場で見てきた「オッサン」像が本書では暴き出されている。

 というと、男性読者の中には戦々恐々とする人や怒り心頭に発する人もいるかもしれないが、ソルティが読んだ限りでは、それほど辛辣でもなければ、容赦ない追及のオンパレードというわけでもなかった。
 某フェミニストの社会学者に比べれば、オブラートに包んだような柔らかさ。
 これは、著者がまだ現役の企業幹部であって、立場上、あまり明けすけなことや棘のあることを書けなかったせいかもしれない。
 あるいは、オッサン社会で曲がりなりにも出世してきた彼女が、身を守るために自然身に着けてしまったある種の鈍感さのためかもしれない。
 ここに書かれている以上のもっと凄まじいオッサンエピソードがきっとあるはずだ。(とくにセクハラに関して)

 昭和時代、男社会で女が成功するには、①「女」を捨てて「男」となって男以上に働くか、②「女」を利用して力ある男の庇護を得てのし上がるか、という二つの道しかなかった。
 男女雇用機会均等法(1986年制定)施行後の第一世代であった著者は、そう簡単には変わらない現実に戸惑い苛立ちながら、第三の道を模索してきたのだろう。

 以下、引用。

 「ガラスの崖」は、危機的な状況にある組織ほど女性が要職に就きやすい傾向をいう。リスクが高い役割を女性登用の名のもとに担わせ、成功すればもうけものだし、失敗すれば「やっぱり女性はダメだ」といって崖から突き落として使い捨てにする、という発想のことだ。

 安倍政権というのは、一部メディアを優遇し、気に入らないメディアを排除する傾向のある政権だった。政治家や官僚との懇談の場は、全く面白くなくなった。政治家も官僚も記者も、官邸に「チクられる」ことを警戒するからだ。

 男性ならばちょっとした失敗でも「気にするな」とすぐ周囲が慰め、問題になりにくい。男性同士の結束は固く、互いに不満に思っていても、周囲に広げることは少ない。
 女性の場合、それが面白おかしく何倍にもなって広められる。被害妄想と思われるかもしれないが、失敗するのを待っているのかと思う時があるぐらいだ。

 「多様性を尊重する」「女性の活躍を推進する」というが、日本社会とりわけ政治分野の遅れは、そんな生やさしい状況ではない。男女半々という人口構成を反映せず、いびつな構造のまま、それが当たり前のようにやってきた政界は、すっかり社会の問題点を吸収する力を失っている。公正な民主主義とは言えない。それが世界に後れを取る政策の要因にもなっている。オッサンはそれに気づいていないのか、気づいていても自分の時代は逃げ切れるだろうと、タカをくくっているのか、どちらかだろう。

 ソルティの「オッサン」化をいささかでも阻んでくれるものがあるとすれば、それは自分がマイノリティ(LGBT)の一人であるということに尽きる。
 男社会の居心地の悪さを子供の頃からずっと感じ続けてきたおかげである。
 そうして半世紀以上生きてきて実感するのは、本当はほかならぬ男たちの多くも男社会を生きづらいものと感じている――という現実である。
 いま、中年期を過ぎた男たちの孤立・孤独が社会問題化してきているが、その背景には「一人ぼっちは淋しいけれど、マウンティングし合う男同士の付き合いには疲れた・・・」という本音が隠されているのではなかろうか。
 オッサンの壁は当人にとっても不幸なものである。

壁と男



おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





 

● 映画:『世界で一番美しい少年』(クリスティーナ・リンドストロム&クリスティアン・ペトリ監督)

2021年スウェーデン
98分

 「鏡よ鏡、この世で一番美しい少年はだーれ?」
 「それは1971年のビョルン・アンドレセンです」

タッジオ


 スウェーデン生まれの音楽好きのナイーブな少年が、たった一本の映画出演によって世界的アイドルになった。
 それは彼の演技力のためでなく、ただただ類い稀なる美貌ゆえであった。
 その美貌はとりわけ、我が日本において絶大なる憧憬と讃嘆を生みだし、来日の際には老若男女を熱狂の渦に巻き込み、取材が殺到するわ、バラエティ番組に出演するわ、明治チョコレートのCMに出演するわ、日本語の歌を録音しレコード発売するわ、追っかけファンに髪をハサミで切られそうになるわ、たいへんなものであった。
 ソルティは当時小学校低学年、この騒動についてまったく知らなかった。(チョコレートのCMくらい見ていたはずであるが、たぶん当時は美少年よりチョコレートのほうに注意が行ったのであろう)
 なんと、池田理代子の漫画『ベルサイユのばら』の金髪碧眼の美青年(実は女性)オスカルのモデルこそは、ビョルン・アンドレセンなのだという。

馬上のオスカル
オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ
マーガレットコミックス(集英社)より

 16歳のオードリー・ヘップバーンが『ローマの休日』で、同じく16歳のジュディ・ガーランドが『オズの魔法使い』で、10歳のマコーレ・カルキンが『ホーム・アローン』で、14歳の柳楽優弥が『誰も知らない』で、デビュー作で一躍世界的スターになって良くも悪くも運命を一変させてしまった彼らと同じように、15歳のビョルンの運命を劇的に変えたのは、イタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティとの出会いであり、トーマス・マン原作の映画『ベニスに死す』の主役タッジオへの抜擢であった。

 ソルティは大学生のときに高田馬場のACTミニシアターではじめて『ベニスに死す』を観て、それこそ魂に杭を打ち込まれるほどの感銘を受けた。 
 老いと若さ、美と醜、芸術と生活、愛と死、ホモセクシュアリティ(少年愛)といったテーマも衝撃的であったけれど、なにより魅了されたのはタッジオ役のビョルンの途轍もない美しさであった。
 天使の清らかさと無邪気さ、悪魔の冷たさと危うさ、が同居しているような印象。
 これなら、作家トーマス・マンが、音楽家アッシェンバッハが、ストーカーチックになって、運河めぐる幻想的なベニスの街で彼をひたすら追い回すのも無理ないと思った。
 マーラーの交響曲5番アダージェットのBGM使用も完璧にはまって、まるでこの映画のために作曲されたかのように思えた。
 それ以来、この映画はソルティにとって「生涯の一本」のような存在であり続けた。

 一方、肝心のビョルン・アンドレセンのその後と言えば、ほとんど情報は入って来なかった。引退したとばかり思っていた。 
 ある意味、それで良かった。
 というのも、『ベニスに死す』一作だけを残して表舞台から消え去るほうが、ファンの間に鮮烈なイメージを残し、伝説となっていくからである。
 映画出演を重ねるごとに翳っていく美貌、老いさらばえた姿など見たくない。
 永遠のタッジオでいてほしい・・・・みたいな。

ベニスに死す

 そこに来て登場したのが本ドキュメンタリーである。
 67歳になったビョルン・アンドレセンが、冒頭から痛ましい姿で画面に映し出される。
 ゴミ屋敷のようなアパートメントで一人暮らし、ぼさぼさに伸びた白い髪と髭、深いしわ、コンロの火をつけっぱなしにしたことで大家から退去を迫られ、年下の恋人から「勝手な人」とののしられ捨てられる。80代くらいに見える。
 カメラは現在の彼の生活や人間関係を映しながら、過去の履歴をさらっていく。
 奔放で芸術家肌の母親とヨーロッパ放浪した子供時代、顔も名前も知らない父親、突然の母親の自死、祖母との生活、そして『ベニスに死す』のオーディション。

 十代で一躍有名になったばかりに人生を誤ってしまうスターの例は数多いが、ビョルンもまたその例にもれなかった。
 肉親を含む大人たちにいいように利用され、玩ばれ、持ち上げられては使い捨てられ、大人社会の醜い面ばかり見せられ、誰も信用できなくなってしまう。
 愛情あるしっかりした家庭で育てられた子供でさえ道を誤りそうな尋常でない環境の激変だというのに、ビョルンは複雑な育ちをしている上に、周りに彼を支え良識をもって庇護してくれる存在をもたなかった。
 もとが純粋でシャイな性格なだけに、周囲の言いなりになって自分を失ってしまう。
 アルコールに溺れる自堕落な生活。 
 結婚して二人の子供に恵まれ、ようやく幸福が訪れたと思いきや、息子を幼児突然死症候群で失う。酔っぱらって寝ていた彼の隣で。
 妻や娘と別れ、鬱とアルコールのどん底の日々が続く。

IMG_20220706_223927

 あの世界一美しい前途洋々たる美少年が、こんな凄まじい半生を送ってきたのかと吃驚した。80代に見えるのも無理はない。
 過去のスクリーンの虚像(アイドル)と現在の実像との落差がここまで激しい例は、なかなかお目にかかれまい。
 と言って、ソルティは偶像が破壊されてがっかりしたとか、裏切られたとか、ましてや「どんな美少年も年取ればただの爺さん」と意地悪くほくそ笑んだりはしなかった。

 本作は、ヴィスコンティの冷酷さとか、監督周辺のゲイの大人たちによる性的搾取とか、スキャンダラスな話題ばかり宣伝されていたので、色物的な映画と思っていた。
 あるいは、生活苦に陥ったビョルン自身が、昨今流行りの“#me too”に乗じて偉大なる名監督のパワハラやセクハラを暴き、過去のトラウマを訴え、いくらかの金稼ぎをしようと企画に乗った(あるいは自分から企画を持ち込んだ)ものかと思っていた。
 しかし、本作は全然、これ見よがしの煽情的な作品ではなかった。

 一人の年老いた男の波乱万丈で苦しみ多き人生を丹念にたどり、それを冷静に振り返り他人に話せるようになるまでになった本人の(というか自然のもつ)回復力、時の癒しの力、周囲の人間のサポートの力を感じさせる、一種のリカバリーストーリーのような味わいがある。
 宣伝文に用いられている「栄光と破滅の軌跡」なんて表現はまったくお門違いもいいところで、それこそ一人の人間の生の尊厳を愚弄していると思う。
 誰も破滅なんかしていない。

 ビョルン・アンデルセンはベニスに死んで、ストックホルムに生き返った。
 いまも「世界で最も美しい老人」である。

IMG_20220706_223850




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損







● 晴海のチャイコ : オーケストラ・モデルネ・東京 第3回演奏会


オーケストラ・モデルネ

日時: 2022年6月26日(日)
会場: 第一生命ホール(晴海トリトンスクエア)
曲目:
  ヒンデミット:交響曲「画家マティス」
  チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」ロ短調 作品74
指揮:篠﨑靖男

 第一生命ホールに行くのは初めて。
 地下鉄・都営大江戸線の勝どき駅から歩いて7分のところにあるのだが、列車を下りて地上に上がった大きな交差点で、どっちに行ったらいいものやら皆目見当つかなかった。
 碁盤の目のように走る幅の広い道路と天をつく高層ビル群。
 縦横に流れる運河といくつもの橋。
 月島、晴海、豊洲、有明、天王洲、お台場、新木場・・・・いわゆるウォーターフロント。
 東京湾の埋立地に造成された21世紀の臨海都市が、ソルティには磁気を狂わせる樹海のように思える。
 スマホがなければ開演に遅れるところだった。
 
IMG_20220626_223955
第一生命ホールのあるトリトンスクエア
 
 パウル・ヒンデミット(1895-1963)はドイツの作曲家、ヴィオラ奏者。
 生涯で600曲以上作った多作家である。ソルティは初めて聴いた。
 画家マティスとは、16世紀ドイツの画家マティアス・グリューネヴァルトのこと。
 マティスの代表作に、イーゼンハイムにある聖アントニウス会修道院付属の施療院のために描いた『イーゼンハイム祭壇画』という絵がある。
 『交響曲マティス』は、この絵に感銘を受けたヒンデミットがナチス政権下の1933年に作曲したもので、3つの楽章にはそれぞれ祭壇の絵のタイトル――〈天使の奏楽〉〈聖アントニウスの誘惑〉〈埋葬〉――が冠されている。
 と言っても、ヒンデミット自身が「標題音楽ではない」と言っているとおり、この曲から天使や誘惑される聖人や埋められるイエス・キリストを連想するのは難しい。
 ナチスによって「無調の騒音」と批判された楽曲は、キリスト教っぽくすら、いや宗教音楽っぽくすらない。
 正直、ソルティの耳には、SFパニックサスペンスのBGMのようにしか聞こえなかった。
 むしろ、ナチス独裁時代のドイツを描いたと言われれば「なるほど」と頷ける。
 (ヒンデミットの霊感のもととなった実際の絵を見たら、印象は変わるかもしれない)

 チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」は、やはり第3楽章が鍵だと思う。
 他の3つの楽章は明らかに「悲哀、陰鬱、憂愁、絶望、苦悩、葛藤、動揺」などのネガティヴな言葉が浮かんでくるような〈陰〉の曲調なのだが、第3楽章だけは思いっきり勇ましく、一見ポジティヴな〈陽〉の曲調なのだ。
 第3楽章で終われば、ベートーヴェン第九のような「苦悩から喜びへ、暗から明への転換」と言ってしまえるくらいで、はじめてこの交響曲を聞いたときは「第3楽章で終わりにすればいいのに・・・」と思ったものだ。
 華々しく終了した第3楽章の後に、谷底に突き落とされそのまま息絶えるような第4楽章が来る。
 まったくの〈陰〉。
 第3楽章の〈陽〉がぬか喜びに過ぎなかったことを告げるかのよう。
 苦悩から喜びに至ったのに、より深い苦悩に――。

 ソルティには、第3楽章は「喜び」や「勇気」や「希望」や「成功」といったポジティヴな表現ではなくて、ある種の狂気の表現のように思われる。
 双極性障害(躁うつ病)の人の躁状態のようなもので、その明るいイケイケ感は鬱の反転として起こっているだけで、決して安定した性質ではない。神経が一時的に興奮状態にあるのだ。
 周囲の人間をいささか不安にさせる躁状態――とでも言おうか。
 実際、チャイコフスキーは躁うつ病だったという説もある。
 一見ポジティヴで勇猛果敢なイメージのある第3楽章も、それを聴いたことでベートーヴェン〈第九〉を聴いたあとのように「元気が出るか、喜びや愛に満たされるか、明るい落ち着いた気分になるか」と言えば、答えはNOであろう。

 いま日本でもLGBTを取り巻く社会環境が大きく変わり、同性婚の是非が話題になっている。
 民主主義国家における国際的なSDGSの常識化をみても、同性婚が日本で認められるのは時間の問題であろう。
 同性愛者であったチャイコがこの状況を見たら、名曲『悲愴』は生まれなかったろうなあ~。
 そう思うと、複雑な気持ちになる。
 いや、今のロシアに生まれていたら、やっぱり『悲愴』は生まれるか・・・・。

 オーケストラ・モデルネ・東京の演奏は、安定感があると同時に、若々しい活力を感じた。

IMG_20220626_223914
月島と晴海を結ぶ朝潮大橋からの風景(対岸は豊洲)

IMG_20220626_223813
佃水門よりスカイツリーを望む






● 映画:『愛のお荷物』(川島雄三監督)

1955年日活
110分、モノクロ

 「愛のお荷物」とは赤ちゃんのことであった。
 戦後ベビーブーマー時代を背景に、ある大臣一家に起こる恋と受胎の騒動を軽妙なタッチで描くコメディ。
 人口過剰問題の対策を先頭に立ってはかるべき新木厚生大臣の家庭において、本人夫婦はじめご子息・ご令嬢3人に同時に子供が授かってしまう・・・・。
 人口減少、少子高齢化が問題となっている現在から見れば、なんとうらやましい(お盛んな)時代であったことか。

IMG_20220514_113544

 新木大臣を演じる山村聡はじめ、轟夕起子、三橋達也、北原三枝(石原裕次郎夫人)、山田五十鈴、東野英治郎、フランキー堺、菅井きんなど、役者の顔触れが多彩で楽しい。
 三橋達也はこれまで注目したことがなかったが、喜劇がうまい。身のこなしもスマートで色気がある。
 山田五十鈴は押しも押されもせぬ名女優だが、喜劇だけは向かないと思う。存在が重すぎるのだ。
 同じベテラン名優でも東野英治郎あるいは杉村春子が喜劇もこなせるのとは対照的。
 導入部のナレーションをしている加藤武もうまい。

IMG_20220512_222109
三橋達也と北原三枝
ロケ地は上野の不忍池らしい

 個人的には脚本がもう少し遊んでも(はちゃめちゃしても)いいのではと思ったが、肩の凝らないセンスの良いコメディには違いない。



おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● みちのく・仏めぐり その1

 連休前半に宮城・山形・福島をまわる旅をした。

 主たる目的は、2年前から行方知れずになっている仙台の旧友・X君の捜索、および一昨年の正月に亡くなった山形の旧友・K君の墓参りである。
 一人旅の多いソルティであるが、今回はX君・K君とは共通の友人であり、現在は東京に暮らしていてたまに会って食事する間柄のP君と部分的に同行した。
 X君、K君、P君、そしてソルティの4人は、世代こそ異なれ、ソルティが仙台にいた頃(90年代)に参加していたセクシャル・マイノリティのサークルEのメンバーであった。

 せっかくの、そして久しぶりの仙台行なので、東日本大震災による被災と運行休止を経て2020年3月14日についに全線復旧を果たした常磐線を使い、被災11年後の沿線風景をこの目で確かめることにした。
 あとは足の向くまま気の向くまま、ゴールデンウィークの人混みもおよそ関係ない、普通列車4日間の“乗りテツ”を楽しんだ。

DSCN5002
東京都区内~仙台~山形~福島~大宮~川越のJR乗車券
常磐線→仙山線→奥羽本線→東北本線→宇都宮線→川越線を乗り継ぐ
(上野・山形往復より1000円以上安くなる!むろん途中下車可)


4月28日(木)晴れ 上野~仙台(常磐線)
 
 津波による被害が甚大だったのは、海岸線に近い久ノ浜駅(福島県)~亘理駅(宮城県)間であった。
 このうち最後まで不通になっていた富岡~浪江間(20.8キロ)は、津波の被害はもとより、福島第一原発事故の放射線汚染による避難区域となり、復旧が遅れた。この区域の沿線は、いまだに更地や整備中の土地が多く見られ、津波の被害を受けていない内陸側の沿線でも、人が住んでいる(戻って来ている)のかどうかは定かではないが、荒れ果てた物寂しい光景が目に付いた。

IMG_20220503_175203
JR東日本ホームページ掲載の路線図より

DSCN4939
JR常磐線・富岡駅

DSCN4940

 東日本大震災のことをまったく知らない人(たとえば外国人観光客)がいま常磐線に乗って沿線風景を目にしたら、おそらく、ここが地震と津波に襲われて壊滅的被害を受けたとはとても信じられないだろう。
 それほどまでに復興している。
 ただ、観察力のある人がこう思うだけだ。
 「なんだか沿線の住宅も駅もみんな新しいな。やけに墓地が多いな」

 福島県の最北にある新地駅で途中下車した。
 この駅はもとは海岸から200m弱のところにあり、ホームの一部と跨線橋以外すべてが押し流された。
 停車中の列車に乗り合わせていた乗客40名は、警察官の誘導で高台に避難し、全員が無事だったという。

新地駅(旧駅舎)
被災前の新地駅

新地駅・常磐線
被災直後の新地駅周辺

DSCN4947
現在の新地駅
海岸から500m弱の位置に移設された

DSCN4954
新地駅・海岸側

DSCN4946
新地駅・内陸側

DSCN4965
かつての田園風景は失われてしまった

 列車を乗り継ぐこと数回、上野から延々10時間かけて20時に仙台駅着。
 ソルティが仙台にいた頃、仙台駅2階コンコースのステンドグラス前に伊達政宗騎馬像があった。
 県外から列車で来た人にとっては「ああ、仙台に来た!」という感慨に浸れる場所であり、渋谷におけるハチ公のような恰好の待ち合わせの場所でもあった。
 実際、インターネットも携帯電話もない当時、サークルEの月に一度の集合場所は騎馬像前であった。(それを告知するのはゲイ専門の月刊誌であった)
 現在、新しい騎馬像が駅3階に設置されているが、やっぱりステンドグラス前にないのは淋しい限り。
 駅近くのカプセルホテル「とぽす」に泊まる(4800円)

DSCN4968
仙台駅

 
4月29日(金)曇りのち雨、一時みぞれ 仙台 

 午前中は定禅寺通りにある仙台市立図書館(仙台メディアテーク内)に行く。
 昔住んでいたアパート(家賃35,000円だった)のあった界隈なので無性に懐かしい。
 思えば、震災のあった年に被災した友人・知人を訪れて以来だから10年ぶりの来仙である。
 が、街を歩いていて思い出すのは、10年前のことでなく、30年前のあれやこれやである。自分が年をとったせいなのか、あるいは思い出にふけられるほど震災ショックが和らいだせいなのか・・・。
 定禅寺通り突き当りの市民会館前には中国人一家が経営していた美味しいラーメン屋があった。今やフォルクスワーゲンのショールームが入っているビルに代わっている。もうあの味は消えたのか?
 
 図書館に来たのは地方紙のデータベース検索が目的。
 行方不明のX君は2年前にある事件に巻き込まれて、地方紙に名前が載った。
 その後いっさい連絡がつかなくなった。フェイスブックも更新ストップしたままである。
 その後の彼の動向を教えてくれるような記事が同じ地方紙に載っていないか、確認しに来たのである。
 残念ながら――ホッとしたことにと言うべきか――検索には引っかからなかった。

 その後、仙台でHIV関連の市民活動を共にやっていた仲間の一人(♀)と会って、カフェで2時間ばかり談笑した。
 互いに“アラ還(60前後)”と言える年齢になって、出てくる話の一等は親の介護。
 親を見送るのはつらいし悲しい。けれど、長生きしてもらって病気や老衰で治療や介護が必要になった時、先立つのはお金とケアしてくれる人の手。嫌でも向き合わなければならないのは、それまでに築いてきた(築きそこなった)親との関係。
 そして、互いの親の話をしながらも、二人ともに「次は自分たちの番なのだ」と暗に思っている。
 順繰りにやって来るだけの話なのだが、若い時分には身に迫らなかった。

DSCN4967
ケヤキ並木の鮮烈なる定禅寺通り

 東京から到着したばかりのP君と在仙のS氏と勾当台公園で待ち合わせて、S氏の出してくれた車でX君探しの開始。
 S氏もまたX君の古い友人である。X君と連絡が取れないのを不審に思い、住んでいた仙台のアパートを訪れたところ、すでに退去していた。その後、くだんの地方紙にX君の名前あるのを見つけて、P君に連絡くれたのがS氏である。
 ソルティはS氏と会うのははじめてであった。
 
 探す手段として、県北にいるはずのX君の母親(再婚して別の家庭をもっている)のもとを訪ねて、じかに居場所を尋ねてみるのがいいだろう――ということになった。
 とは言え、母親の連絡先も住所も再婚後の姓も知らない。数年前にX君と一緒に列車で訪ねたことがあるというP君のおぼろげな記憶を頼りに、最寄り駅までドライブし、そこから歩いて母親の家を探す。
 なんだか雲をつかむようなとりとめのない話。家の場所も確かでなく、今もそこに母親が住んでいるのか定かでなく、連休の祝日に家にいるかもわからない。たとえ、運よく会えたとして、快く話をしてくれるかもわからない。 
 「たぶんこの家だろう」と半信半疑で玄関のチャイムを推すP君。
 しばらく間があって、出てきたのはまさにX君の御母堂その人だった!
 
 ここまではラッキーだったが、探索はそこでストップ。
 御母堂もまたご子息の行方も連絡先も知らず、数年前から訪問はおろか、一本の電話もメールももらっていないという。
 「亡くなった夫と数年前に大喧嘩して、それからこちらには一度も顔を出していない」
 よくある話であるが、X君は母親の再婚相手すなわち義理の父親とは昔から仲が良くなかった。義理の父親は一年前に亡くなっていた。
 それなら実の父親と連絡取り合っていないかと思い、その所在について伺うと、「前の夫もすでに亡くなったと人づてに聞きました」・・・・

 母親という、何かあればもっとも連絡してきそうな人に連絡して来ないのであるから、これ以上の探索はいまのところ難しいであろう。
 帰りの車で、「本人から何か言って来るまで待つしかないね」ととりあえずの結論に達した。
 その後、P君の発案で、やはりサークルEのメンバーであったオネエのS様のお墓参りをした。
 仙台市内の高台にある緑美しい墓地で拝んでいると、急に雨足が強くなった。
 「あんたたち、来るのが遅すぎるわよ!」とS様になじられている気がした。


続く



● 陰毛に関する不毛な争い 本:『エロスと「わいせつ」のあいだ』(園田寿、臺宏士著)


2016年朝日新書

IMG_20220423_135203

 まえがきによると本書は、

 最近、社会的に話題になったいくつかの出来事を素材にして、文化としての「エロス」と刑罰の対象となる「猥褻」との差異を考察するものである。また、性表現と規制の攻防をめぐる戦後の歴史をたどり、明治から続く刑法175条の存在意義を問い直そうとするものである。

 最近話題になった出来事としては、
  1. 春画を掲載した週刊誌を警視庁が指導したケース(2015年)
  2. 自らの女性器をかたどった石膏にデコレーションを施した「デコまん」を発表した漫画家・ろくでなし子が逮捕され裁判となったケース(2014年)
  3. 写真家の鷹野隆大が全裸の男女を写真撮影した作品を愛知県美術館に展示したところ、愛知県警から撤去を求められた「平成の腰巻事件」(2014年)
  4. モザイク処理が不十分としてアダルトビデオの規制団体「日本ビデオ倫理協会」の審査部長らが逮捕され裁判となったケース(2008年)
  5. 松文館発行の単行本コミック『蜜室』が猥褻物だとして作者ビューティ・ヘアと出版元2人が逮捕され裁判となったケース(2002年)
 などが挙げられている。
 戦後の歴史としては、文学作品の猥褻性が問われた『チャタレイ夫人の恋人』、『悪徳の栄え』、『四畳半襖の下張り』の各裁判の経緯がたどられている。

 ソルティは、上の1~5の最近の出来事についてほとんど知らなかったので、「司直はいまだにこういうことをやっているのか・・・」とあきれかえるばかりであった。
 「いまだに」と言うのはもちろん、インターネット全盛でクリック一つでいくらでも“猥褻”文書や画像や動画に触れることができるこの時代に、という意味である。
 成人しか入店が許されないアダルトショップに飾られたオブジェのごとき「デコまん」が槍玉にあげられる一方で、未成年が自分のスマホでそのものずばりの男性器も女性器も、リアルな性行為の動画も自由自在に観ることができる現状にあって、いったい刑法175条にどんな存在意義があるのか、猥褻物摘発や裁判のために使われる警察や法務関係の費用や労力は税金の無駄使いでないのか――誰だって疑問に思うところであろう。

 むろんソルティも、未成年を含む誰の目にも触れるような公の場所や状況において、それが実物だろうと画像や映像や音声だろうと、乳房や性器が素のままでさらされたり、他人の性行為のさまを見せつけられたり、猥談が耳に入ったりするのはよろしくないと思う。
 そこは何らかの規制や刑罰や倫理が必要だろう。
 だが、成人が自ら好んでプライベートに鑑賞する場合、他人に迷惑をかけないのであれば、あえて社会が規制する必要はないと思っている。
 そこは著者と同意見だ。

 そのようなもの(ソルティ注:露骨で直接的な性表現)を直接見たくない、直接聞きたくないという人の感情を刑罰によって保護することは、社会秩序を守るうえで必要不可欠なことだと思うのである。逆に言えば、露骨で直接的な性表現であっても、見たい人だけに提供するならば、それは刑法で規制するような行為ではなく、個人の自由な判断に任せるべきではないかと思うのである。

 「①見たい人だけが見られる、②見たくない人は見なくて済む、③未成年には見せない」
 単純にこの3条項が満たされれば、誰にとっても害はないのでOKではないかと思うのだが、そうは問屋が卸さない。
 
 裁判所は、およそ日本のこの社会において、性器や性行為の露骨で直接的な表現、あるいはそのような表現物が流通しているということ自体を問題としているのである。つまり、自らは直接接することがなくとも、そのようなものが〈この社会に存在していること〉について、不快感や嫌悪感をもつ人びとの仮想的な感情が問題になっているのである。

 すなわち、裁判所は「そのようなものが〈この社会に存在していること〉について、不快感や嫌悪感をもつ人びと」に対して忖度しているわけである。

 これは同性愛をめぐる議論の中でもよく聞かれるところである。
 自分とは赤の他人である男性同士(あるいは女性同士)がよそで恋愛しようがセックスしようが一緒に暮らそうが、自分や家族にはなんの物理的被害も経済的被害も受けないであろうに、同性愛が〈社会に存在すること〉が許せないという人たちが一定層いる。
 自らの持っている倫理や価値観から外れた人々の権利を認めないというのは、ある意味、宗教的信念に近い。あるいはプーチンか。
 実際、キリスト教原理主義やイスラム教、そしてプーチンは同性愛に不寛容である。

 残念なことに、往々にしてそうした信念を抱く層が社会において強い影響力を持っている(つまり保守層と重なる)ことが多いので、警察や裁判所も忖度せざるを得ないのだろう。
 他人の宗教的信念や価値観を変えるのは相当の困難を伴うので、猥褻裁判もまた最初から負けが決まっているような不毛な闘い(ありていに言えば「茶番」)になることが多い。
 本書では、戦後から平成に至る猥褻裁判のさまざまな茶番のさまが描かれている。
 チャタレイ裁判の起訴状の抜粋が引用されているが、その文面たるや、原作(邦訳)をはるかに上回るねちっこさと下劣さといやらしさ。
 声に出して読んでほしい。

 完全なる男女の結婚愛を享楽し得ざる境遇の下に人妻コニイはマイクリスとの私通によってこれを満たさんと企てたが、本能的な衝動による動物的な性行為によっても自己の欲情を満たす享楽を恣(ほしいまま)にすることが出来ず、反って性欲遂行中の男性に愉悦の一方的利己的残忍性すらあるを窃(ひそ)かに疑い失望に瀕したとき、自分の家庭で使用する森の番人で教養の度に優れず社会人としても洗練されて居ない寧ろ野生的でそほんな羞恥心をわきまえざる有婦の夫メラーズを発見するや、不用意な遭遇を機会に相互の人格的理解とか人間牲の尊崇に関し些(いささか)の反省批判の暇なく、全く動物的な欲情の衝動に駆られて直に又これと盲目的に野合しその不倫を重ねる中・・・・・・(続く)。

茶番垂れ幕

 そうこうしているうちに、状況はドラスティックに変わってしまった。
 いまや、「①見たい人だけが見られる、②見たくない人は見なくて済む、③未成年には見せない」の3条項さえ守ることは難しくなった。
 つまり、未成年がスマホやパソコンを用いて猥褻情報に接するのを防ぐ役割が、国家や自治体の手を離れ、各家庭の保護者に託されてしまった。
 子どもがどのような性的価値観、倫理観を身につけるかについて、各家庭が責任を負わなければならないのである。 
 この流れを押しとどめることは、日本が中国やロシアのような管理主義的独裁国家にならない限り不可能であろう。

 結局のところ必要なのは、メディアリテラシーと性教育。
 結論は何十年も前から出ているのだが・・・・・。




おすすめ度 :★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● トンネルを抜けるとBLがあった 本:『少年』(川端康成著)

1948~49年初出
2022年新潮文庫

 宇能鴻一郎の『姫君を喰う話』に続く新潮文庫のスマッシュヒット。
 編集部に世相に敏感で勘のはたらく人間がいるに違いない。

 日本の誇るノーベル文学賞作家の自伝的BL小説という意外性と大正浪漫の香り。
 旧制中学の寄宿舎という“お約束”も魅力の一つである。
 ソルティはこの小説あるのを知っていたが、川端康成全集に収録されて図書館の倉庫に眠っていたので、あえて借りて読もうという気も起らなかった。
 濃紺の背表紙をもつ新潮文庫・川端康成シリーズの一冊に入って書店に並ぶということは、やはり格段に手に取りやすく、読みやすくなる。
 帯のアオリも明らかにBLファンを狙った確信犯。

IMG_20220414_125446

 川端青年が愛したのは、同じ寄宿舎の3年後輩である清野という少年であった。
 大正5年(1916年)から一年間、同室となった清野と肌を触れ合って眠るほど親しくなり、卒業後も手紙のやりとりを交わしていたが、清野が大本教の熱心な信者として信仰の道に入るようになった大正9年を最後に会わなくなった。
 川端が18歳から22歳の出来事である。(当時は数え年だったから、今で言えば17歳から21歳のみぎり)
 出世作となった『伊豆の踊子』との恋が芽生えた天城越えの旅は19歳の秋のことであるから、川端は生まれついての同性愛者(少年愛者)あるいは両性愛者というわけではなく、女性との恋愛に乗り出す前に、美しく(女性的な)同性との模擬的恋愛を体験した――といったところかもしれない。
 もっとも当時(明治・大正期)男子学生の間で男色は珍しいものではなかった。

 おそらく、これを読んだBLファンはちょっと落胆するのではないか。
 読む限りにおいて、川端と清野の間には互いの肌の接触や接吻以上の関係はなく、恋愛物語に欠かせないトキメキや戸惑いや恍惚や落ち込みや疑心暗鬼や嫉妬やその他もろもろの感情が細やかに描き出されているわけでもない。
 肝心の清野の美しさについても、のちに『雪国』で示されたような詩才を駆使して表現されることもない。
 つまり、“キュンキュン”度は低い。
 愛情の濃さというかマニアック性についても、稲垣足穂の少年愛にくらべれば、おままごとのようなものである。(ただ、BLファンの審美眼はフンドシ親父の稲垣足穂はとうてい受け入れがたいだろう) 

稲垣足穂2
稲垣足穂
(かなりボカしています)

 ソルティはBL的な面白さより、青春期の川端康成の内面を示すモノローグに興味が湧いた。
 当時の日記がそのまま引用されている部分に、ほとばしる若さが見られるのだ。

 今日も朝から学校に出て何を得て来たのかと思うと、ほんとうに悲しくなる。学校の教えに異教徒のような日を送りながらも、ずるずると五年間もひきずられ、卒業間近まで来てしまった。・・・・・・・
 尚この上続く学生生活が同じような幻滅に終りはしまいかと不安にとらわれてならぬ。
 ああ、私にゆるされた生命のすべてを燃焼しつくしてみたい。

 私はもっともっと愛に燃えた少年たちとルウムをつくりたい。

 肉体の美、肉体の美、容貌の美、容貌の美、私はどれほど美にあこがれていることだろう。私のからだはやはり青白く力がない。私の顔は少しの若さも宿さず、黄色く曇った目が鋭く血走ると言ってもいいくらいに光る。

 図画の時間S君にも話したように、私は高等学校を経て帝国大学に進むのなら、いっそ文学の学者になってしまおうかと思っている。創作の天分の疑いがだんだん増してくるにつれ、最近私の心はそんな方へ傾きかかっていることも事実である。


 劣等感、将来への不安、自己不信、欲求不満、情熱的な生への憧れ・・・・。
 後年、文章家として芸を極め枯淡の境地に達しているかのような、あるいは虚無と諦念のうちに「美」を除いた世俗を放擲したかのようなイメージある文豪にも、こんなナイーブで情熱いっぱいの時代があったのか・・・・・と新鮮な感を持った。



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 映画:『四畳半襖の裏張り』(神代辰巳監督)

1973年日活
69分

 ソルティが性に目覚め、巷の性情報に対し興味津々たるティーンエイジャーの時分、「猥褻」と言ったら、D.H.ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』と永井荷風の『四畳半襖の下張り』であった。
 どちらの小説も「猥褻か否か」が法廷で争われた結果、猥褻図書とみなされ、完全な形での公開を阻まれていた。

 当時(昭和40~50年代初頭)、どこの本屋にもエロ本が並び、父親の買ってきたスポーツ新聞や週刊誌を開けば巻頭ヌードグラビアや風俗情報が紙面を埋め、宇能鴻一郎センセイや川上宗薫センセイの過激なポルノ小説がイラスト入りで掲載され、繁華街を歩けば裸の女性が大写しになったポルノ映画館の看板が普通に目に入った。
 令和の今から思えばそんなエロ天国のような昭和末期にあって、なおも「猥褻」と言われ発行を阻まれている小説があることが驚きであった。
 どれだけ凄い内容なのだろうと好奇心を募らせたことを覚えている。(問題個所が削除された形で出版された『チャタレイ夫人の恋人』は大ベストセラーになっていた)

 その後、時代の風潮を受けて、どちらの作品も完全な形で読めるようになった。
 もちろんソルティはさっそく読んだけれど、ご想像通り、「なんでこれが発禁処分?」と苛立ちを覚えるほどに、どうってことない内容であった。
 チャタレイ夫人の情事は、かまきり夫人やエマニュエル夫人のアヴァンチュールにくらべれば、修道女のオナラのようなものであった。 

rattan-1462860_1920

 
 本作は『四畳半襖の下張り』の映画化で、『赫い髪の女』と並ぶ神代辰巳監督および女優・宮下順子の代表作であり、1971年から17年間続いた日活ロマンポルノの頂点をなす傑作と言われている。
 先ごろ、田中登監督『(秘)色情めす市場』(1974)が第78回ベネチア国際映画祭のクラシック部門に選出されたというニュースがあったが、日活ロマンポルノには実際、名作・傑作がたくさんある。
 神代辰巳や田中登のほかにも、曾根中生・小沼勝・石井隆・崔洋一・周防正行・相米慎二・滝田洋二郎・村川透・森田芳光など、その後日本映画界の第一線で活躍した(している)監督たちを産みだした、また育てた功績も大きい。

 まぎれもなく性は人間の主要な一部であり、それなくして人は生まれず、それなくして人は生めず、それなくして人の世は成り立たないのだから、ありのままの人間を表現することを志す芸術家にとって性を描くことが一つの使命となるのは当然である。
 それは猥褻とか女性蔑視という観点からだけでは捉えきれない、捉えてはならない人間の営為である。

 話が大きくなった。
 本作、なにより映像の美しさが際立っている。
 大正時代の遊郭が、写実的ではなく幻想的に、幻燈のようなおぼつかなさで描かれている。
 登場する男女のこまごました性遊戯や苦界を生きる遊女たちの日常は、一応リアリスティックに描かれているものの、それが生々しい現実や社会問題として観る者に迫ることはなく、ある種の滑稽と虚無のうちに淡々と語られてゆく。
 一方、遊郭の外では、米騒動が起き、打ちこわしが起き、世界大戦が起きている。
 この世の動きとはまったく関係ないところで行われる男女の「性」の追究のさまが、そのうち観る者のうちに逆転現象を起こし、外で起きている事件こそが幻想であるような錯覚をもたらすに至る。

 性にはたしかに、そのような究極の個人性の発露とでも言うべき面がある。
 社会が性を管理したがるのは、おそらくそれゆえなのだろう。

IMG_20220411_231949
主演の江角英明と宮下順子



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




● 清張センセイの女性観? 映画:『わるいやつら』(野村芳太郎監督)

1980年松竹
129分
原作:松本清張
脚本:井手雅人
音楽:芥川也寸志、山室紘一
撮影:川又昴

 何度かテレビドラマ化されている犯罪サスペンス。
 たしかに、ベッドシーン含め男女のドロドロを執拗に描くインドア的“火サス”プロットは、映画よりテレビドラマのほうがふさわしい。
 いくら当時一番人気の清張だからと言って、なんでもかんでも映画化すればいいってもんじゃなかろうに・・・と正直思う。
 スクリーンにふさわしくない題材まで映像化してしまったことが、清張映画の質のアンバランスを生んだ一つの原因であろう。
 『砂の器』コンビである芥川也寸志の音楽、川又昴の撮影、佐分利信・緒形拳・梶芽衣子をはじめとする錚々たる名優陣をもってしても、本作を凡作から救うには至らなかったようだ。

 見どころを上げれば、5人の旬の女優たち――松坂慶子、梶芽衣子、神崎愛、藤真利子、宮下順子――の美女競演というところだろうか?
 愛の水中花・松坂の最盛期の美貌、女囚サソリにして修羅雪姫・梶の画面から滲み出る風格、日活ポルノでならした宮下の凄みある艶技、それぞれ印象に残る。
 だが、これらの女性たちと愛し憎み合い、犯罪がらみのドロドロを演じることになる当の相手が片岡孝夫であることに、いまいち納得がゆかない。
 片岡孝夫も当時人気沸騰だったけれど、なぜあんなに騒がれたのか、この映画からは見当つかない。
 刑事役で出ている緒形拳のほうが、よっぽど母性本能くすぐりでジゴロめいている。
 まあ、個人的好みの問題か。

IMG_20220327_144522
左より、梶芽衣子、神崎愛、松坂慶子、藤真利子、宮下順子

 この作品に限らず、松本清張にはどうも女性のみにくい面をあげつらったストーリーが多い気がする。
 欲深く、エゴイストで、見栄っ張り、したたかで、男性をすぐ支配したがり、“おんな”を使うことに長けていて、感情的で、しつこくて、美しい仮面の下に魔性を秘めている。
 清張には女性不信なところがあったのか?
 



おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 



  

● 漫画:『グリムのような物語 トゥルーデおばさん』(諸星大二郎・作画)

初出2002~2005年『ネムキ』
2006年朝日ソノラマ
収録作品
『Gの日記』
『トゥルーデおばさん』
『夏の庭と冬の庭』
『赤ずきん』
『鉄のハインリッヒ または蛙の王様』
『いばら姫』
『ブレーメンの楽隊』
『ラプンツェル』

IMG_20220324_015047

 『ネムキ』というのは『眠れぬ夜の奇妙な話』の略で、2012年12月廃刊となったコミック誌である。
 「オモシロ不思議いっぱいの少女コミック誌」というキャッチフレーズが表すように、読者は圧倒的に若い女性が多い。

 『少年ジャンプ』を中心に少年誌や青年誌で数々の傑作を発表し、多くの男性読者を獲得してきた諸星大二郎が、女性向けコミック誌にも作品を描いていること、しかもその内容がまさに「オモシロ不思議いっぱい」でありながらも現代を生きる若い女性たちの琴線に触れるであろうものであることに、びっくりした。
 発表する雑誌のカラーや読者層を意識して描くのがプロの漫画家の使命であり実力の見せ所であるとはいえ、諸星がこれほどまでに柔軟で幅広いテーマを自在に描ける書き手であるとは思わなかった。
 
 グリム童話を下敷きにした、いわゆる質の高いパロディの創作というだけではない。
 読者の共感を得られるべく、女性を主人公としているというだけではない。
 なんと、これらの作品群の核となるのがフェミニズムだからである。
 諸星がフェミニズムを描ける男性漫画家である――しかも1949年生まれの団塊の世代のヘテロ男子である!――ことに驚かされた。
  
 ただその予感はあった。
 初期の作品である『赤い唇』(1974年)では、魔物の力を借りてペルソナ(仮面)の下の真の自分をさらけ出すことに“成功”した女子中学生・月島令子が、男性教師や男子生徒たちを女王様の如く圧倒する様が描かれていたし、奇妙なSF短編『男たちの風景』(1977年)では、女たちが若く美しい男たちを追い回し、男たちが出産し“父性愛”に目覚めるという、地球とは逆転した文化をもつ不思議な惑星マクベシアが舞台となっていた。
 主要発表媒体であった少年コミック誌における描写の限界や、青年コミック誌の読者層への忖度(つまり受けを狙ったテーマの選定)によって気づかれにくい面があったのかもしれないが、諸星大二郎には性やジェンダーの常識を問うような作品が散見される。
 意識的か無意識的かは知らないが、通常のマッチョイズムや男尊女卑的な性役割に対する違和感を持っている人なのではなかろうか。
 でなければ、本作に収録されているようなフェミ色の強い作品群を、「出版社の依頼を受けたから」「読者層に合わせて」というだけで即座に描けるものではないと思う。

cartoon-5190837_1920
 
 収録作品はどれも、主人公の女性たちの意志の強さ、自立心の高さ、「自分の欲しいものは周囲に頼らず自分で手に入れる」タフネスなしたたかさが目立つ。
 読者は、本のタイトルになった『トゥルーデおばさん』のヒロインに、自らの才能と適性を知った少女が家族や世間の縛りを断ち切って、思い定めた職(生き方)にかける覚悟と勇気を見るだろう。
 『鉄のハインリヒ あるいは蛙の王様』のヒロインに、自らの野望の実現のために、頭を使い、自分の命令を何でも聞いてくれる強靭な味方を手に入れ凱旋するシングルマザーの姿を見るだろう。 
 髪長姫『ラプンツェル』では、支配的な母親(いわゆる毒親)から解放される若い女性の心の彷徨をともに経験するであろう。
 いずれも実に現代的な女性を巡るテーマと言える。
 
 絵そのものが発揮する衝撃力こそ初期の作品に及ばないが、人間年をとるとどうしても毒気が抜けるので、これは仕方ないところである。(かつての諸星なら、たとえば泉に囚われた蛙の王様などは、もっとおぞましく不気味に描けたであろう)
 いっときグリム童話の残酷性を目玉にしたエッセイやホラー風漫画が流行ったが、それらとは次元の異なるグリムパロディであり、諸星の天才をまたひとつ証明するものであるのは間違いない。
 
 
 
おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 茉莉子の美貌よ、永遠に! 映画:『樹氷のよろめき』(吉田喜重監督)

1968年現代映画社制作
98分、モノクロ

 岡田茉莉子35歳の主演作。
 谷崎潤一郎も讃嘆した比類なき美しさの絶頂期、そのほとんど最後の記録ではなかろうか。
 散り際の染井吉野を思わせる、一種の危機を孕んだ美貌が存分に味わえる。
 この映画のメインテーマの一つが、日本映画界の至宝としての岡田の美を焼き付けることにあるのは間違いなかろう。
 その義務を背負った吉田監督は、実生活上の岡田のパートナーであるから、まさに適任であった。

 遠くから近くから、正面から真横から、俯角から仰角から、逆光からまたは鏡像として、闇をバックにあるいは反射する雪に取り巻かれて、あらゆる手段と技術を用いて映し出される岡田の隙のない美しさには、驚嘆するほかない。(あえて隙を指摘するなら、西洋風な顔立ちとはアンバランスな純日本的な体型であろうか)
 この美貌の主が、本作ではいわゆる“魔性の女”を演じるのだから、のめり込み、翻弄され、血迷い、人生を棒に振る男がわんさか出てくるのも無理ないところである。
 翻弄される二人の男を、木村功と蜷川幸雄が演じている。

IMG_20220219_153614
岡田茉莉子と木村功のラブシーン
 
 物語的には男女の三角関係をネタにした陰鬱でドロドロしたメロドラマである。
 ソルティは昔からこういった話は見ても聞いてもうんざりするばかりで、そのうちイライラして来るので、「勝手にやってろ」という感想しかない。途中から退屈した。

 ドロドロした愛憎の醜さや重さを救っているのは、二つ。
 一つは舞台となる北海道の雪原風景。
 白い大地のまばゆいまでの輝きと開放感と冷たさは、人間的感情を超越している。
 今一つは池野成による音楽。
 『サザエさん』の劇中音楽を短調にしたような、どことなく滑稽感あるBGMが、死者の出現をもって終わるドラマの悲壮感を緩和している。
 それをチグハグと感じる向きもいるかもしれない。
 
 吉田監督の絵作りの手腕は言わんかたない。
 どのショットも見事な構図と光線具合で、「さすが松竹ヌーヴェルヴァーグ」と唸らせられた。


IMG_20220219_153522




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




記事検索
最新記事
月別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文