ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

性にまつわるあれやこれ

● TVドキュメンタリー:『宮沢賢治 銀河への旅 ~慟哭の愛と祈り~』

2019年2月NHK Eテレで放送
2021年DVD化

銀河への旅

 NHKで放送し、話題を呼んだ作品。
 内容はほぼ、菅原千恵子著『宮沢賢治の青春』で描かれているのと変わりない。
 ただ、菅原がはっきりとは明示しなかった宮沢賢治のセクシュアリティが、ここでは「同性愛」と断定されている。
 賢治が、同い年の学友であった保阪嘉内を、気の合った友人としてではなく、生涯ただ一人の恋人として慕い続けていたこと。賢治が自らを指して言った「修羅」とは、まさに、道ならぬ恋と性愛に苦しむ同性愛者としての苦しみを表現したものであること。そして、代表作『銀河鉄道の夜』の中に、賢治(=ジョバンニ)はあの世における嘉内(=カムパネルラ)との再会と結合への望みをそっと隠し入れたこと。
 それらが、銀河や岩手の四季折々の美しい光景や再現ドラマや詩の朗読によって、描きだされている。
 ディレクターの今野勉が2017年に発表した自著『宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人』(新潮社)がもとになっていることはエンドクレジットで示されているが、やはり、菅原の名前をまったく出さないのは、ちょっと不親切という気がした。
 
 一方、『銀河鉄道の夜』になんの説明もなしに出てくる「ケンタウル祭」の正体について謎を追究していくくだりは、本作(今野)独自のものであり、とても興味深くスリリング、かつ納得のゆくものであった。
 ケンタウル祭とは、ケンタウルス座と土星とが夜空で出会う稀なる夜のこと。
 つまり、賢治はギリシア神話に登場する半人半馬の醜い怪物ケンタウルスを自分に見立て、嘉内をサファイア色に光り輝く土星に見立てた。
 そして、ケンタウルスと土星が出会う冬の「七夕」の奇跡を、ケンタウル祭と設定したのであった。
 下半身が馬の怪物に自らをなぞらえるとは、賢治が獣性すなわち性欲に苦しめられたことを暗示していよう。
 「雨ニモ負ケズ」のストイックや「永訣の朝」の透き通るように美しい情念だけを見ていては、賢治の全体像はつかめないのである。
 宮沢賢治研究は、やはり、賢治のセクシュアリティや保阪嘉内との関係抜きには今後進めていかれないのではないかと思う。
 
centaur-4700525_1920
ケンタウルス
 
 それはさておき――。
 この作品を観て、一つ気づいたことがあった。
 賢治も嘉内も、若い頃から、世のため人のために自己犠牲する生き方に憧れていた。
 賢治は法華経を通して、嘉内はキリスト教を通して、同じその夢を見ていた。
 そこが、2人が出会ってすぐに肝胆相照らす間柄になった第一の理由であった。
 おそらくそれは、真摯な生き方を求めた多くの青年たちが同じようにかぶれた、時代の精神だったのだろう。
 明治29年生まれの2人は、感受性柔らかな13歳の時、ある事件を新聞で知ったはずだ。
 明治42年2月28日に起きた塩狩峠の列車事故である。
 乗客の命を救うために一身を犠牲にしたキリスト者にして国鉄職員、長野政雄。
 それはどれほどの衝撃と感動を2人の少年にもたらしたことだろう。
 どれだけ長野の生き方に憧れたことだろう。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったね、どこまでもどこまでもいっしょに行こう。僕はもう、あのさそりのようにほんとうにみんなの幸いのためならば僕のからだなんか、百ぺん灼いてもかまわない。」 

 ジョバンニとカムパネルラの乗った銀河鉄道の車掌が長野政雄であっても、驚かない。

IMG_20230418_190512




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






  

● 25才の別れ 本:『宮沢賢治の青春』(菅原千恵子著)

1994年宝島社            
1997年角川文庫

 本書を読んでいる間、しきりに思い浮かんだのは、山岸涼子のコミック『日出処の天子』であり、特にそのクライマックス――主人公である厩戸王子とその思い人である蘇我毛人とが決定的に別れることになった池の辺の場面――であった。
 蘇我一門の援けを受けた厩戸王子が推古天皇の摂政となるまでを描いた同作は、古代史最大の偉人・聖徳太子の伝記という歴史書的側面は残しながらも、超能力を備えた美形の天才ヒーローの活躍を描くオカルト伝奇漫画の色合いも濃く、加えて、クローゼット(隠れゲイ)である太子とノンケ(異性愛者)である蘇我毛人とのすれ違う心模様に焦点を当てた恋愛ドラマである。
 BLコミックの草分けの一つと言っていいだろう。

 「二人で力を合わせてこの国を治めていこう」、「どうか私を一人にしないでくれ」と、もはやプライドをかなぐり捨てて恋愛感情をぶつけてくる厩戸王子の懇願に、布都姫(ふつひめ)との愛という別の道が見えている毛人は背を向けるほかない。
「我々は同じ魂が二つに分かれたソウルメイトなんだ。女なんて下等な生き物が入って来ない高みを一緒に目指そう」という王子の言葉に、毛人はこう答える。
「相手を自分と同じものにしようとする。それは本当の愛ではないのでは? 王子が愛しているのは私ではなく、ご自分自身なのではありませんか?」(このあたり記憶で書いているので不確か。ご容赦のほど)
 関係はすでに修復しがたく、王子と毛人は別々の道を歩むことになる。
 王子はだれひとり自分を理解してくれる者のいない孤独の道を、為政者として歩む。

日出処の天子
山岸涼子作画(白泉社)

 この厩戸王子と蘇我毛人との関係が、ちょうど本書における宮沢賢治と親友であった保阪嘉内の関係に符合するように思われたのである。
 池の辺の別れの場面が、25歳の賢治と一つ年下の嘉内が決定的に離別することになった、大正10年(1921)7月18日の上野図書館の場面と重なるように思えたのである。

 『“ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって』という副題がつけられた本書は、単刀直入に言うなら、以下の3つの説が挙げられている。
  1. 宮沢賢治は同性愛的傾向の持ち主であった、少なくとも、賢治の嘉内に対する思いは、男同士の友情の枠を超えた恋愛そのものであった。
  2. 宮沢賢治の37年の短い生涯において、嘉内との出会いと別れは非常に大きな事件であり、彼のいくつかの作品には嘉内との関係およびその破綻によって受けた傷が、色濃く反映されている。
  3. 代表作『銀河鉄道の夜』こそは、主人公の少年ジョヴァンニを自身に、カムパネルラを嘉内に見立てた2人の友情と別れの物語で、今なお忘れられぬ嘉内へのラブコールであった。

IMG_20230418_180430
左上が保阪嘉内、その隣が宮沢賢治

 賢治には生前多くの交友関係があり、花巻農学校の同僚や、羅須地人協会時代の音楽仲間、そして後に広がった文芸の仲間など、その数は多い。けれど、賢治にとっての友といえば、それは共に同じ道を歩くはずであり、恋人とも思われた保阪嘉内をおいて他にはなかった。賢治の心の中には終生、保阪嘉内の存在があって、絶えずその存在を意識し続けていた。

 著者の菅原が上記のような見解を抱くようになったきっかけは、嘉内の息子・保阪庸夫によって1968年(昭和43年)に発表された『宮沢賢治 友への手紙』を読んだことによる。
 賢治から嘉内への70通を超える手紙には、それまで知られていなかった賢治と嘉内の深い結びつきや、現状に悩み今後の生き方に迷う20代前半の賢治のさまざまな思いや葛藤、そして、「同じ法華経信者となって、世のため人のために一生を捧げよう」という嘉内への熱い呼びかけ(プロポーズ?)が書かれていた。
 これらの手紙を中心に、蜜月にあった学生時代の2人が文芸誌『アザリア』に投稿した短歌や、別れた後の賢治が発表のあてなく書いていた短歌や詩を読み解くことで、菅原は、宮沢賢治作品における保阪嘉内という存在の重要性を確信したのであった。
 テキスト研究の面白さを実感する「目からウロコ」の鮮やかな分析である。

 本書は1994年(平成6年)に発表された。
 「賢治→嘉内」恋愛説は、当時かなり衝撃的だったはずだが、ソルティは本書の発行に気づかなかった。当然世間の反応も覚えていない。
 大学時代を最後に宮沢賢治を読まなくなって、関心を失っていたのである。
 童話作家というイメージが強く、岩手を盛り上げる観光ファンタジーアイテムとして消費されているという感を持っていた。イーハトーブ定食とか・・・。
 もっとも、本書で菅原は、「賢治=ゲイ」と名指しているわけではない。
 そこは慎重を期して、賢治の嘉内への思いを「通俗的なホモセクシュアルと解されてしまうのは正しくない」としている。
 スキャンダラスな取り上げ方をされてしまうことを諫めている。
 また、90年代半ばの日本では、LGBTは表立って語られる話題でもなかった。
 それほど話題にならなかった、少なくとも従来の宮沢賢治像を大きく覆し、彼の作品の読みなおしを要求するほどの波は起こらなかったのではなかろうか。(違っていたらゴメンナサイ)

 現在、賢治=ゲイ説をネットでググると、かなりの件数がヒットする。
 どうやらこれは、演出家兼プロデューサーである今野勉が、2017年に『宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人』(新潮社)という本を発表したこと、そして、その本をもとにNHKが制作したドキュメンタリー『宮沢賢治 銀河への旅 慟哭の愛と祈り』がお茶の間放映されたことによるものらしい。
 ソルティ未見だが、賢治と嘉内の友情を超えた関係に切り込んでいるとか・・・。
 宮沢賢治が生涯独身であった(童貞であった?)というのは知っていたし、彼の書いた童話、たとえば『風の又三郎』や『銀河鉄道の夜』には「BLチックな味があるなあ」と前々から思っていたので、賢治=ゲイ説にはいまさら驚かない。
 が、イーハトーブ的には、すなわち観光アイテム的にはどうなんだろうかな~?
 いっそ、花巻や小岩井農場をLGBTの聖地にしては・・・・。

005AM18610B_TP_V
岩手山

 まあ、菅野や今野の本は、あまたある宮沢賢治論の一つに過ぎず、一つの大胆な仮説に過ぎない。
 実際に床を共にした相手の証言によってゲイ説がほぼ認定されている三島由紀夫のケースとは違う。
 これから先も、賢治=ゲイを証明することは誰にもできまい。
 そこを踏まえて、あえて賢治=ゲイ説をとるならば、ソルティ思うに、25歳の賢治にとっての大きな痛手――その後の人生に長い影を落とし続けるほどの衝撃にして、その作品が今の高い国際的評価と人気を博するほどに磨き上げられることになった魂の試練――は、青春期ならでは全実存をかけた恋愛の破綻(大失恋)や、それに伴って発生した法華経信仰への懐疑、その後に続いた最愛の妹トシの死ばかりではなかったのではあるまいか?(まあ、これだけでも十分、回復するに困難な傷には違いないが・・・)
 自らを「ひとりの修羅」と語るほどの苦悩の正体とは、嘉内との別れによってはじめて気づいた恋愛感情、すなわち自らの性的指向の自覚だったのではなかろうか。
 「自分は男を愛する男だったのだ・・・」という気づきは、ネットもテレビもゲイ雑誌もなく、九州のような男色文化の名残もない、堅固な家制度に縛られた東北の農村にあっては、ブラックホールに突き落とされるような絶望と孤独とを、賢治にもたらしたのではなかったろうか。
 
 嘉内との別れのあとに書かれた詩集『冬のスケッチ』には次のような一節がある。

 ひたすらにおもいたむれど
 このこひしさをいかにせん
 あるべきことにあらざれば
 よるのみぞれを行きて泣く

 まるで、古賀政男の『影を慕いて』のような一節。
 古傷が痛んだよ。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





 



● 本:『混沌の叫び1 心のナイフ』(パトリック・ネス著)

2008年原著刊行
2012年東京創元社(訳:金原瑞人、樋渡正人)

IMG_20230321_145206

 映画『カオス・ウォーキング』の原作で、3部作の第1部。
 原題の The Knife of Never Letting Go は、「ナイフを決して手放すな」といった意味合いだろう。
 故郷の村プレンティスタウンから逃亡した主人公の少年トッドが、肌身離さず持ち歩くナイフが、最後まで重要な役割を果たす。

 映画との大きな違いは、トッドの年齢設定。
 映画でトム・ホランドが演じたトッドは18~20歳くらいの青年だったが、原作では12歳の少年である。
 トッドが生まれてはじめて見た女性、一緒に逃げることになったヴァイオラも、映画ではトム・ホランドの初恋相手にふさわしく、同じ年頃の女性(演:デイジー・リドリー)であった。が、原作では「女の子」である。
 本作は、少年少女の冒険&成長物語なのである。

 英国発のYA(ヤングアダルト)小説ということで、読む前はちょっと軽んじていたのだが、これが大間違い。
 面白くて、謎めいていて、人間存在や社会や暴力や男女のジェンダーなどについて問いただし、皮肉るような哲学的・社会学的ところもあって、大人でも十分楽しめる。
 いや、大人こそ楽しめる。
 ジャンルは全然違うが、ミヒャエル・エンデの『モモ』みたいな感じ。
 一難去ってまた一難の、先の見えないスリリングな語り口は、スティーヴン・キングを思わせる。
 主人公がスーパースターでも強心臓でも賢くもないところが、かえって読者にイライラ感をもたらし、物語に捕まってしまう。
 第1部上下巻500ページをあっという間に読んでしまった。
 難しい言葉や表現の少ない、大きな活字の読みやすさは、さすがYA小説である。
 数々の国際的な賞をとっているのも納得した。 

 解説を書いている桜庭一樹は、ある場面で、思わず本を閉じて、気持ちが落ち着くまで1時間休んだという。
 きっと、あの場面だろう。
 自分もコーヒーブレイクした。

子犬
 


おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 映画:『クライ・マッチョ』(クリント・イーストウッド監督)

2021年アメリカ
104分

 「クライ・マッチョ(マッチョよ、泣き喚け!)」というタイトルが示すように、本作はマチズモ(男らしさ、男性優位主義)に対する認識の再検討を、観る者(とくに男たち)に迫る映画である。
 それを先導するのが、フェミニズム系の女性監督やゲイ監督ではなく、長年アメリカン・マッチョのシンボルと目されてきたクリント・イーストウッドであるところが、一番のポイント。

 イーストウッドが演じるのはテキサスの往年のロデオ界のスター、マイク・マイロ。
 カウボーイハットをかぶり暴れ馬を乗りこなす、少年たちの憧れの的たるマッチョ・ヒーローである。
 しかし今やすっかり老いぼれて、家族も失い、酒浸りの落ちぶれた日々を送っていた。
 マイクは恩ある友人に頼まれて、メキシコにいる友人の息子ラフォを迎えに行く仕事を引き受ける。
 ラフォの母親はアルコール依存症で、ラフォを虐待しているというのだ。
 マイクは闘鶏場にラフォを見つけるが、反抗的な不良少年に育っていた。
 カウボーイに憧れマッチョな男であることに拘るラフォは、マイクの誘いに応じ、テキサスで牧場を営む父親のもとへ向かう。
 元マッチョのロデオスターとアイデンティティの定まらない思春期の少年、祖父と孫ほど年の離れた2人の男のロードムーヴィー。
 これは、同じイーストウッド作品である『パーフェクト・ワールド』(1993)を彷彿とする。
 思えば、『パーフェクト・ワールド』あたりから、イーストウッドはその監督作品において、「男らしさとは何か」「ジェンダーとは何か」を追求してきたのであった。

rodeo-2685568_1920
DJDStuttgartによるPixabayからの画像

 道中いろいろな危険やハプニングを経験し、それを力を合わせて乗り越えるごとに、最初はぎこちなかった2人の間に信頼関係が芽生える。
 無事国境を越えてアメリカに到着し別れる間際、マイクはラフォにこう諭す。
「マッチョであることには何の意味もない。そのことに気づいたときにはもう遅すぎる」

 これがこの作品の最大のテーマであり、齢90歳を超えたイーストウッドが、マイクという自らの分身を通して言いたかったことなのではないかと思う。
 
 N・リチャード・ナッシュによる同名の原作小説は、1975年に出版されたそうだ。
 ナッシュは何度も映画化しようとは企画を持ち込んだが、却下され続けた。
 ロバート・ミッチャムやアーノルド・シュワルツェネッガーやバート・ランカスターを主役に迎えての映画化の話もあったが、時宜を得ず、流れてしまった。
 実に、映画化実現まで45年かかったわけである。
 ジェンダー平等賑々しい昨今はともかく、70年代からこのテーマを唱え続けてきたリチャード・ナッシュは先見の明がある、というか真実を見抜く英知と勇気があった。
 
 映画的に言えば、さすがにイーストウッドは老いが隠せない。
 声はしゃがれ、滑舌は悪く、動きはよろよろしている。
 原作を読んでいないので分からないが、マイクの設定年齢はせいぜい60代だろう。
 友人の息子が15歳なのだから。
 イーストウッドはどう見ても60代や70代には見えない。
 若作りも無益なほど、90代の肉体がそこに曝け出されている。
 ラフォとの関係も祖父と孫どころか、曾祖父と孫である。
 旅の途中で出会う妙齢(50代くらい?)の女性との恋物語もちょっと苦しい。
 「恋愛」という以上に「介護」という言葉が浮かんでしまうのだ。
 あと、10年早くこの映画を撮っておけば良かったのになあと思わざるを得ない。
 
 一方、本作は元マッチョ・スターであるイーストウッドが主役を演じるからこそ、テーマが効果的に打ち出せる。
 世界中の誰もが認めるマッチョ・スターが自ら演じ語ってこそ、「マッチョの真実」は観る者の心に“告白のごとく”響くのである。
 その意味では、シュワルツェネッガーやスティーヴン・セガールがやるならまだしも、『家族の肖像』のバート・ランカスターや『狩人の夜』のロバート・ミッチャムではままならなかったであろう。
 
 イーストウッドはかつては熱烈な共和党支持者であったが、現在はリバタリアニズム(自由主義)を標榜し、より中庸の立場を取っている。
 人工妊娠中絶を禁止する法律に反対し、同性婚を支持している。





おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● つよぽんの一本 映画:『ミッドナイトスワン』(内田英治監督)

2020年
124分

 フォーリーブス、郷ひろみの頃から、「ブラウン管を通して」ジャニーズ事務所の歴史に立ち会ってきたソルティにとって意外だったのは、アイドル男性歌手の巣であるジャニーズ事務所から息長く活躍するすぐれた役者が次々と輩出されたことと、SMAPの中でもっとも演技において秀でていたのが草彅剛だったことである。
 前者では、草彅、岡田准一、二宮和也がジャニーズ出身三大演技派であろう。
 岡田准一は、現在放映中のNHK大河ドラマ『どうする家康』の織田信長役で圧倒的な存在感を放っていて、同じ年齢時の渡辺謙の風格を思い起こす。
 二宮和也はイーストウッド監督『硫黄島からの手紙』で主役に抜擢されて以来、豊かな感性とキャラクターへの自然な同化で、名優ぶりを証明し続けている。
 草彅については、TVドラマはいざ知らず、映画ではいま一つ代表作に欠けるように思っていた。
 『黄泉がえり』も『山のあなた 徳市の恋』も決して悪くはなかったけれど、草彅自身が本来持っている資質を十分には発揮できていないという感を受けた。
 つまり、まだ「生涯の一本と出会っていない」という感じ。
 
 草彅が次回作でトランスジェンダー女性を演じるというニュースを聞いたとき、「ああ、もしかしてついに・・・」と期待まじりの予感を抱いた。
 そう、ソルティはデビューの頃から草彅に“オネエ的資質”を見ていたのであった。(本人が実際にそうであるかどうかは別として)
 結婚して「一人前の男」のステータスを得て、ついに解禁か・・・・と意地悪く思ったり。

 予感は的中で、本作における草彅の演技は実に素晴らしい。
 素晴らしいを超えて、凄まじい。
 これまでの草彅の演技が「心の演技」だとしたら、本作のそれは「魂の演技」である。
 草彅剛という人間の全存在が、役に吸収され役を生きているかのような、仮面と素面が一つに溶け合ったかのような、主客合一に達している。
 おそらくその本質は「深い哀しみと透き通るような優しさ」。
 実際に新宿界隈で働くトランスジェンダーの日常のリアリティをどこまで写し取っているかはわからないが、少なくとも、一つのキャラとして画面の中で自然に息をして肉体を持って生きている。
 草彅以外にこの役をこれ以上見事にやれる男優が思い浮かばない。
 役者として、こういう役に巡り合えたのは最大の幸福であろう。
 
 トランスジェンダーの主人公が面倒を見ることになる親戚の少女を、新人の服部樹咲が演じている。
 “演じている”と言えるほどの演技ではない(ほとんどセリフがない)のだけれど、幼い頃からやっているバレエで身につけた表情と所作は魅力的で、実際のバレエシーンとなると目が離せないくらいの優雅さ。
 顔立ちは、デビューの頃の宮崎あおいに似ている。
 とにかく、草彅と釣り合うほどの存在感はあっぱれ。
 将来が楽しみな女優である。

IMG_20230304_005736
草彅剛と服部樹咲
 
 内田英治監督の絵づくりはセンスを感じさせるし、渋谷慶一郎の音楽もいい。
 他の役者たち、とくにバレエ教室の先生役の真飛聖と、少女の母親役の水川あさみの「こんな人、近所にいそうだな」という自然な演技は、作品にリアリティをもたらしている。
 総合的には満足できる作品なのだが、「当事者が観たらどうかな?」という点は気になった。
 特に後半において。 

 結末があまりに悲惨、あまりに希望がない。
 本作がトランスジェンダーとその抱える問題を顕在化したというメリットは評価に値すると思う。
 が、観た人に「やっぱりトランスジェンダーに生まれたら不幸」と思わせてしまうような結末はいただけない。
 草彅=トランス女性というだけで話題性としては十分なので、「悲惨転じてそこそこハッピーエンド」にしたって同じくらいの興行的成功と映画賞的評価は得られたと思うのだが、なぜ主役をああいう極端なかたちで殺したのか?
 エクトール・バベンコ監督『蜘蛛女のキス』は85年の映画だ。
 あれから40年近く経っている。
 同じことを今さらやらなくても・・・。
 


 

おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● ウミウシ追加 映画:『カオス・ウォーキング』(ダグ・リーマン監督)

2021年アメリカ
109分

 西暦2257年の未知の惑星を舞台とするSF。
 原作はパトリック・ネスの同タイトルのシリーズ物のヤングアダルトSF小説で、東京創元社より『混沌(カオス)の叫び』の題名で刊行されている。

IMG_20230225_073309

 ネットを見ると、本作の評価はあまり芳しくない。
 たしかにツッコミどころ満載で、SFなのに基本的な状況(=世界観)の説明も手を抜いている、というかズボラな感が否めない。
 ストーリーも荒削りで強引なところがある。
 原作を読んでいないので分からないが、本来、長編シリーズとして創作されているものを、たった109分の映画に短縮してそれなりに結末をつけたところに、無理があったのではないかと思う。

 しかしながら、ソルティはかなり面白く鑑賞した。
 ★4つである。
 『ボーダー 二つの世界』、『バクラウ 地図から消された村』、『ブルー・マインド』と同様、ソルティが新たに作った「ウミウシもの」というジャンルに放り込みたい作品なのである。
 つまり、たしかにSF映画には違いないが、ただそれだけではすまない、「なんだか定義しづらい新しい風変りな要素」を匂わせるクセモノである。

 カオス・ウォーキング(Chaos Walking)の意味は、映画の冒頭にクレジットで説明される。

The noise is a MAN’S thoughts unfiltered
and without a filter a MAN is just a Chaos Walking.

 字幕ではこう訳している。

ノイズとは露わになった人間の思考である。
頭の中がむき出しの人間はただの混沌(カオス)だ。

 西暦2200年代、地球に似た惑星に入植した人類第一波は、原住民であるスパクルとの闘いを強いられた。
 が、それ以上に厄介だったのは、この惑星では人間の思考がそのまま露わにされてしまい、お互いの頭の中が分かってしまう点だった。
 結果的に、自らの思考を制御できる者がリーダーとなって、他の者の思考をコントロールできる力を得て、一つの共同体を作っていた。
 ただし、その共同体には女性が一人もいなかった。
 女性は、男性とは違って、惑星の影響を受けることなく、思考がダダ洩れになることはなかった。
 が、スパクルに虐殺されたのであった。
 主人公トッド・ヒューイット(トム・ホランド)は、人類とスパクルとの闘いのあとに生まれ、このようないきさつをまったく知らない。

思考の流れ

 面白かった点の一つは、この思考のダダ洩れと制御というアイデアである。
 2001年公開の映画『サトラレ』(監督:本広克行、出演:安藤政信)を観たことある人なら、思考のダダ洩れという現象の厄介さは分かるだろう。
 あの映画では主人公の青年の思考のみが周囲にダダ洩れし、本人はそのことを知らないという設定だった。
 本作は、共同体に住んでいるリーダー以外のすべての男の思考がダダ洩れなのである。
 うるさいったらない。
 近くにいる相手に自らの考えていることを「サトラレ」たくなければ、頑張って思考を制御しなければならない。
 まったく別のことを無理矢理考えるか、主人公トッドみたいに「僕の名前はトッド・ヒューイット」と頭の中で繰り返すか・・・。
 このシチュエイションが、ソルティがやっているヴィパッサナー瞑想(あるいはマインドフルネス瞑想)との類似を思わせたのである。

 ヴィパッサナー瞑想においては、妄想は退治しなければならない敵である。
 過去や未来にさまよってしまう意識を「いま、ここ」の現象に向ける。
 お腹の「ふくらみとちぢみ」といった体の感覚、耳介がとらえた外界の音、いま意識の底から湧き上がってきた思考や感情・・・こういったものを瞬間瞬間キャッチして、すべて捨て去る。
 まさにトッドがやっている思考の制御の訓練なのである。
 それができなければ、人は妄想にとらわれて、「歩く混沌(カオス・ウォーキング)」に堕してしまい、輪廻を繰り返す――というのがブッダの教えである。

瞑想カエル


 いま一つ面白かったのは、この思考のダダ洩れという現象が男にだけ起こったという設定である。
 一般に、「男の考えることはロクでもないことばかり」って言うのは、同じ男なら説明するまでもないし、男と付きあったことのあるたいていの女も知り尽くしていよう。
 とくに、エッチなことや暴力的なことを考える度合いにおいて、女と男では格段の違いがあろう。(ソルティは女になったことがないので確証はできません。が、歴史的に見て妥当な見解でしょう)
 種明かしすると、トッドの暮らす共同体に女性が一人もいないのは、スパクルのせいではなかった。
 女に思考がバレることに我慢ならなくなった男たちが、女を虐殺したのである。
 爾来、この共同体では、「男とは敵を殺すもの」と定義され、それが奨励されている。
 男たちは日々徒党を組んで狩りに精を出している。
 
 ある日、地球から第2波の入植組がやって来る。
 本船から偵察隊として送られてきたロケットは、大気圏外で炎上し、地上に墜落してしまう。
 生き残ったのは、ヴァイオラ(デイジー・リドリー)という名の若い女性一人。
 トッドは初めて見た女性に衝撃を受け、次第に惹かれていくが、その頭の中はヴァイオラに筒抜けである。(この不均衡な2人のやりとりはおかしい)
 共同体の長であるプレンティス(マッツ・ミケルセン)は、自らの権益を危うくしかねない第2波の入植を阻むために、偵察者ヴァイオラを暗殺せんとする。
 トッドはヴァイオラを助けるべく、共同体から一緒に逃げ出す。
 プレンティスは、他の男たちの思考をコントロールして自らに従わせ、2人のあとを追う。
 逃げる2人が駆け込んだのは、別の共同体。
 そこは、農耕や牧畜がおこなわれている平和な村で、なんと女性や子供も暮らしていた。
 共同体のリーダーは黒人女性ヒルディで、彼女の指導のもとで男たちも働いていた。
 
 プレンティスを長とする共同体とヒルディを長とする共同体の違いが、ちょうどマッチョイズムな軍隊組織とフェミニズムな市民社会の比喩のようで、面白い。
 本作は、原作者やダグ・リーマン監督の意図がどうであったかは知らないが、極めてジェンダーコンシャスな映画になっているのである。
 また、プレンティスの共同体で暮らすトッドを育てたのは、村から離れて暮らす男のカップルであり、彼らはプレンティスの思考制御を受けないという設定も意味深である。
 女性がいないのだから男同士がつるむのは仕方ないが、どう見てもこのカップルは夫婦のよう。
 トッドはゲイカップルに育てられた男の子なのだ。
 この点も、反マッチョ。

 このように解釈するならば、最初に言及した「カオス・ウォーキング」の定義もちょっと変わってくる。
 英文中のMANは、「人間」でなく「男」と解せる。
 すると、邦訳はこうなる。

 ノイズとはダダ洩れの男の思考である。思考を制御できない男は、単なる混沌(歩くカオス)にすぎない。
 
 ずいぶん痛烈じゃないか。
 実際は女の思考もそれなりにカオスだけど、男のそれほどには害はない・・・と思う。
 なんと言っても、戦争を起こすのは大概男たちであり、殺人事件の加害者の8割近くは男である。
 原作を読みたくなった。

war-2316981_1920
 Karin HenselerによるPixabayからの画像



おすすめ度 :★★★★


★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● わたしの中の丑松 映画:『破戒』(前田和男監督)

2022年東映
119分

IMG_20230221_060834
 
 全国水平社創立100周年記念として作られた。
 水平社(部落解放同盟の前身)は、1922年(大正11年)3月3日に京都で生まれた。
 島崎藤村『破戒』は、それに先立つこと18年前の1906年(明治39年)の発表である。
 「蓮華寺では下宿を兼ねた」という冒頭の一文は、川端康成『雪国』や夏目漱石『吾輩は猫である』と並び、もっとも有名な日本近代小説の書き出しであろう。
 のちに「丑松思想」と名付けられた結末は、当の解放同盟からも批判の矢を浴びたと記憶しているが、部落差別をテーマにした長編小説で本作と並び得るほど当事者の心情を描き出し、しかも大衆人気を獲得したものは、住井すゑ著『橋のない川』のみである。
 関係者が、原作の結末を大きく改変してまで、100周年記念に選ぶのも道理である。

 『破戒』は過去に2回(1948年木下恵介監督、1962年市川崑監督)映画化されている。
 実に60年ぶり。 
 昭和の名匠・巨匠を引き継いでの、部落をめぐる状況が1960年代とは大きく変貌した令和現在の再映画化に、期待と不安半々で鑑賞した。
 結果的には、実に素晴らしい作品に仕上がっていた。
 脚本、撮影、演出、演技、美術などいずれも質が高く、非常に丁寧につくられていて、見ごたえがあった。
 部落差別という、長いことメディアにあってタブー視され、扱いの難しくなってしまったテーマに真正面から向き合い、教条主義にも不自然なお涙頂戴にも堕することなく、抑制の効いた細やかな演出と自然風物を映した美しいカット割りのうちに、差別の酷さ及び部落民として生まれた一人の青年の苦悩と勇気と気高さと希望とが描かれている。
 主人公瀬川丑松(間宮祥太朗)と志保(石井杏奈)との「ロミオとジュリエット」ばりの恋愛ドラマの要素、親友であり同僚教師である土屋銀之助(矢本悠馬)との友情ドラマの要素、木下恵介監督『二十四の瞳』を想起させる教師と子供たちとの交流を描く教育ドラマの要素、そして日露戦争という背景に絡ませて唱えられる「令和のいまに繋がる」ナショナリズム批判と反戦・平和への思い・・・・。
 これらの要素がバランスよく配合され、娯楽映画としても、プロパガンダ映画としても、文芸映画としても、心に残る名品となっている。
 正直、涙なしで見られないシーンが多々あった。
 前田和男監督の名は初めて知ったが、器用な職人肌の人である。

 主役を演じる間宮祥太朗の美形ぶりは、木下惠介監督が重用した石濱朗を彷彿とさせる。
 石井杏奈の着物姿の凛とした佇まいも可憐で美しい。
 個人的には矢本悠馬にブルーリボン助演演技賞を与えたい。天性の役者である。
 蓮華寺の寺庭婦人役の小林綾子は、往年の大ヒットNHK朝ドラ『おしん』の少女役だった人。
 味のある上手い女優になっていた。
 住職役の竹中直人のキャラクターづくりは、もはや名人芸の域に達している。
 丑松の心酔する解放運動家・猪子蓮太郎(眞島秀和)のキャラには、水平社設立の発起人の一人であり『水平社創立宣言』の起草者である西光万吉が擬せられているように思った。 

白夜

 祥太朗が最初に出自をカミングアウトした相手は、親友の銀之助であった。
 驚愕の瞬間を経て、銀之助は事態をすんなり受け入れる。(ここは原作と異なる)
 校長にも話すつもりだという祥太朗の言葉を聞いて、友人の今後を心配してこう訴える。
 「もう隠したくないという君の気持ちは分かる。だがなにも自ら進んで打ち明けることはないさ。相手に聞かれたら、堂々と認めればいい。バカ正直に打ち明けることなんてないんだ」
 一瞬の沈黙。
 祥太朗は言葉を押し出す。
 「どうしてなんだろう? なぜ自分の故郷を語れない。なぜ好きな人に気持ちを伝えることができない。なぜ僕はこんなに苦しまなくちゃならないんだ」
 
 ソルティは高校一年の時に『破戒』を読んだ。
 当時はまだ自分がゲイであるという自覚がなかったので、本作がいかに自らと深いかかわりを持つ作品であるか、よく理解し得なかった。
 大学時代に再読したとき、主人公丑松の気持ちが痛いほど分かり、またそれを(おそらくは部落当事者ではないのに)描き出すことができた島崎藤村の作家としての凄さを実感した。
 誰にも言えない秘密を抱える苦しみ、なんてことない日常会話においても「バレないように」神経をとがらせなければならないストレス、飲み会やメディアの中で嫌悪やからかいをもって繰り出されるホモ差別の言動、(前向きな)仲間や大人モデルを見つけることの難しさ、好きになった同性に好きと言えない辛さ、友人と恋バナや猥談のできない鬱屈、嘘をつき続けることの罪悪感、何よりも自分自身を愛せないことの害・・・・e.t.c.
 丑松はもう一人の自分であったし、いまでも自分の中に住み続けている。

 本作は、部落差別をテーマとしながらも、ソルティのようなLGBTであるとか、在日コリアンであるとか、性犯罪被害者であるとか、HIV感染者であるとか、元受刑者であるとか、簡単に人には言えないような秘密を抱え、世間の差別や蔑視におびえ苦しむ人々の境遇や心情を描いた一種の社会派ドラマであり、マイノリティに勇気と希望を与える応援メッセージでもある。
 丑松の希望とプライドを感じさせる結末への改変に、原作者である藤村も、よもや文句は言わないだろう。

 本作は静かで熱い感動を呼び、全国に上映館が広がり、ロングランヒットとなった。
 謹んで水平社創立100周年を祝したい。

rainbow-2424647_1920
SharonによるPixabayからの画像



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 


● 長い長いトンネル NHKドラマ:『雪国』(川端康成原作)

2022年4月16日放映
2023年2月12日再放映
90分
●スタッフ&キャスト
島村 高橋一生
駒子 奈緒
葉子 森田望智
行男 高良健吾
師匠 由紀さおり
脚本 藤本有紀
演出 渡辺一貫

 最初の放映時は見逃した。
 先週日曜日(2/12午後)になんとなく気になって録画しておいたのをあとから観たら、これが大当たりであった。
 こういう野心的な作品を時たま放つから、なんだかんだ言って、NHKって馬鹿にならない。
 いまや民放では、残念ながら、この水準のドラマを作れなくなった。
 脚本、演出、美術、撮影、演技、さまざまな点で・・・。

 ノーベル文学賞受賞作となった『雪国』は、岸恵子岩下志麻、松坂慶子、古手川祐子など錚々たる美人女優たちが主人公の芸者・駒子を演じ、それぞれに鮮烈な印象を残している。
 親の遺産のおかげで無為徒食の暮らしができる島村が、旅先の雪国で出会った芸者・駒子とつかの間の情事にふける。
 虚無感にとらわれ情熱をとうに忘れた中年の男が、ひたむきに生きる若い駒子や葉子の火のように物狂おしい生に幻惑され、そこに一瞬の「美」を見る。
 まさに一篇の詩のような小説である。

 これまでにソルティが映画やテレビで観てきた『雪国』は、ほぼ原作どおりの筋書きをそのまま映像化していた。
 世界的文豪の名作をそう好き勝手にアレンジできまい。
 最後の映像化は、1989年の古手川祐子主演のテレビドラマであった。
 1989年とは、昭和の終わりであり、平成の始まりである。
 『雪国』も昭和と共に雪に埋もれたのである。

 それから33年、バブルがはじけ、平成が過ぎ去り、令和の世となって、かつてのような“雪国”らしい雪国は日本の国土から消えた。
 蒸気機関車が新幹線となり、国境の長いトンネルも一瞬で通過する。
 芸者が旦那に水揚げされて囲われる文化も衰退した。
 昭和は遠くなりにけりだ。
 いまさら『雪国』を掘り起こす意味はどこにあるのか?
 流行りの昭和懐古か?
 「男は男らしく、女は女らしく」あった時代を取り戻そうというNHK内保守派の策略か?

railroad-3943840_1920
cryptphilによるPixabayからの画像

 本作の前半は、89年までの『雪国』同様、原作どおりの展開である。
 とくに新奇なところもなく、島村と駒子が出会うシチュエイションも、2人の交わすセリフも、島村が駒子を語るモノローグも同じである。
 つまり、島村目線(川端目線と言ってもいいだろう)の物語が紡がれる。
 「恋愛も人生も徒労、すべては徒労」といいつつ、気の向くまま雪国を訪れては、己の欲望のままに駒子を抱く妻帯者・島村の目にとって、駒子や葉子の突飛な言動や2人の奇妙な関係は理解の外である。
 それは謎となって、島村を引き付ける。
 男には到底理解できない“おんな”の謎があるらしい。
 それは着物の帯を解くようには簡単には解けない。

 後半はその謎の種明かしである。
 島村は駒子が少女の頃からつけてきた日記を読んで、雪の下に隠されていた真相にはじめて触れる。
 島村目線の前半では視聴者にも解けなかった謎が、駒子目線の後半でついに明らかにされる。
 つまり、本作は一種のミステリーとして作られているのである。
 すべての謎が明かされたそのとき、おそらく視聴者(とくに男の)は、島村が受けたのと同様の衝撃と恥を知るだろう。
 『雪国』が令和の現在、制作されたことの意義を知るだろう。

flower-3346312_1920
Marianna OlefyrenkoによるPixabayからの画像

 着眼点と脚本が素晴らしい!
 脚本の藤本有紀(1967年生まれ)の名は初めて知ったが、NHK大河ドラマ『平清盛』や朝の連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』を手がけた人とのこと。
 近松門左衛門の生涯を描いたNHK木曜時代劇『ちかえもん』で向田邦子賞を受賞している。
 おそらくは、男女雇用機会均等法(1986年施行)以後に社会人となったものの、テレビ業界のぶ厚い「オッサンの壁」と闘ってきた人なのだろう。
 ついに、令和を生きる自立した女性ならではの視点で、昭和の名作に物申した。
 それができるくらいの実力を身に着けたのである。
 あっぱれ! 

 島村役の高橋一生は、前半、気障で自己中のとても嫌な感じのインテリ親爺に扮し、演出もまたその線で彼を捉えている。
 いくらなんでも、この島村は原作から離れているよなあ、カッコ悪いよなあと思っていたら、後半でそこが狙いだったと判明する。
 つまり、高橋はちゃんと藤本の脚本および作品の世界観を理解し、テーマが効果的に浮かび上がるよう演じていたのである。

 駒子役の奈緒は、蒼井優似の清潔感ある女優。
 強さと脆さをあわせ持った、哀しいまで健気な駒子を演じている。
 ウィキによると、尊敬する女優が田中裕子だという。
 なるほど、『天城越え』の田中裕子を想起させるシーンがあった。
 熱演である。

 葉子役の森田望智、どこから見つけてきたのか、はまり役である。
 この葉子という少女がいったいどういった存在であるのかが、本作における一つのポイントである。(原作ではなんだかよく分からないまま、駒子に「気ちがい」呼ばわりされ、火事で被災する)
 
 駒子の芸の師匠役として由紀さおりが出ているのも嬉しい。もちろん名演。
 雪に埋もれた村の美しさや、駅舎やお蚕部屋や旅館など古い田舎の建物のゆかしさを掬いとった演出と撮影も素晴らしい。
 
 同じ川端康成原作で山口百恵主演の『伊豆の踊子』のラストシーンでも匂わされていたが、男たちの夢見る美しい女人幻想の陰には、身分差別や職業差別や女性差別に押し潰された貧しい女たちの声なき悲鳴がある。
 それを温存させている社会構造こそが、長い長いトンネルである。



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




 

● 本:『シャーロック・ホームズのジャーナル』(ジューン・トムスン著)

1993年原著刊行
1996年創元推理文庫(訳:押田由起)

IMG_20230128_145344

 英国の女性ミステリー作家ジューン・トムスンによる贋作ホームズシリーズ3作目。
 今のところ、伝記『ホームズとワトスン 友情の研究』をのぞけば、全7作のミステリー短編集が発表されているようで、うち邦訳が出ているのは4作である。
 ほぼ間違いなく、既刊しているものは全部読むことになるだろう。

 シャーロキアンを喜ばせ、まずまず満足させてくれるレベルの贋作であり、謎解きとしても一定の水準をキープしている。
 原作にくらべて全般に、ホームズの推理の冴えや勘が鈍いのと、助手であり親友であり事件の記録者であるワトスンが有能である印象は受ける。
 つまり、2人の差が縮まっている感がある。
 だが、個性的な天才ホームズと忠実で信頼の置けるワトスンの篤い友情は原作そのままで、2人のやりとりから、ベーガー街221Bの薄暗いが居心地の良い部屋が眼前に浮かんでくる。
 20年以上前にイギリスに行ったとき、もちろんソルティは、221Bに建てられたシャーロック・ホームズ博物館に足を運び、至福の時を過ごしたものである。

sherlock-2640292_1920
Justin VogtによるPixabayからの画像画像

 本作には、7つの短編と付録『ふたり目のワトスン夫人の身元に関する仮説』が収録されている。
 もっとも興味深くかつ鮮やかな推理が展開されているのは、本編より付録であるのはご愛嬌。
 が、知られる限り2度の結婚歴のあるワトスン博士の、語られることなき2番目の奥さん――最初の奥さんメアリー・モーンスタンはいくつかの小説に登場する――に関する探索は、関心を持たざるを得ない。
 ワトスン博士、実はモテるのである。

 かく言うソルティも、若い頃はシャーロック・ホームズ“神推し”であったけれど、年をとるにつれてワトスン博士に惹かれるようになった。
 ワトスンという、地に足の着いた信頼すべきパートナーがそばにいるからこそ、奇態なところ多いホームズはまっとうな社会生活が送られたんじゃないかという気がする。
 恋人にするならシャーロック、結婚するならワトスン・・・・といったところか。





おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● その火を飛び越して来い 映画:『潮騒』(森永健次郎監督)

1964年日活
82分、カラー

 三島由紀夫原作のこの有名なロマンスはこれまでに5回映画化されている。
  • 1954年(昭和29年) 監督:谷口千吉 主演:青山京子&久保明
  • 1964年(昭和39年) 監督:森永健次郎 主演:吉永小百合&浜田光夫
  • 1971年(昭和46年) 監督:森谷司郎 主演:小野里みどり&朝比奈逸人
  • 1975年(昭和50年) 監督:西河克己 主演:山口百恵&三浦友和
  • 1985年(昭和60年) 監督:小谷承靖 主演:堀ちえみ&鶴見辰吾
 ソルティ世代(60年代前半生まれ)は、百友コンビの1975年版に思い入れが深い。
 団塊の世代なら、当然、小百合サマ主演の本作であろう。
 同時上映が、石原裕次郎&浅丘ルリ子の『夕陽の丘』(松尾昭典監督)だったというから、今思えば最高に贅沢なプログラムである。
 他にも、個性的な風貌とたしかな演技力で気を吐いた石山健二郎、清川虹子、高橋とよ等ベテランが脇を固めており、伊勢湾にある神島の美しい風景や中林淳誠による抒情的なギターBGMと相俟って、質の良い映画に仕上がっている。
 半世紀以上前の日本の小島の漁村文化の風景は、記録としても興味深い。
 (神島に行ってみたいな)

神島
ウィキペディア「神島」より

 原作者である三島は第1作の1954年版を気に入っていたらしいが、本作はどう評価したのだろうか?
 気になるところである。
 とりわけ、主役の漁師久保新治を演じた浜田光夫をどう思っただろう?
 ソルティの受けた感じでは、浜田は演技は悪くないが、都会的な匂いが多分にあり(潮の匂いというより地下鉄の匂い)、漁師としての肉体的逞しさにも欠けるように思う。
 ふんどしも似合わないだろう。(有名な「その火を飛び越して来い」のシーンではふんどし姿にならない)
 個人的には過去5作の新治役の中では鶴見辰吾が一番イメージ的にしっくりくるが、まあ全作観ていないので何とも言えない。

IMG_20230115_132400
有名な「火越え」シーン
原作の書かれた50年代には神島にジーンズは入ってなかったろう

 小百合サマはあいかわらず可愛らしく華がある。
 美少女には間違いないけれど、角度によっては意外と芋っぽく見える瞬間があり、島の長者の娘初江として、それほど場違いな感じはしない。
 なにより溌剌としたオーラーが若さを発散して惹きつける。
 
 島の海女たちのリーダーおはる(高橋とよ)が、初江(小百合)が生娘かどうか確かめるため、仕事を終えた仲間と語らう浜辺で、初江の乳房を観察するシーンがある。
 80年代までなら上映に際して別になんら問題の生じなかったシーンであるけれど、令和の現在はなんらかの脚色(=取り繕い)が必要になって来よう。
 この小説が、85年を最後に映画化されていないのは、そのあたりの事情もあるのかな?
 昭和文学ってのは、ジェンダー視点からはかなり悪者になってしまった。
 
IMG_20230115_140855
小百合の乳房を確認する高橋とよ
このあと「おらのは古漬けだ」というセリフが来る






おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






記事検索
最新記事
月別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文