ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●性にまつわるあれやこれ

● 本:『薔薇の女 〈アンドロギュヌス〉殺人事件』(笠井潔著)

1983年角川書店

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 求道者探偵・矢吹駆シリーズ『バイバイ、エンジェル』、『サマー・アポカリプス』に継ぐ3作目。
 これでやっと、第4作にしてシリーズ随一の傑作かつ難解作と言われる『哲学者の密室』を読むことができる。(殺人ウイルスを扱った第5作『オイディプス症候群』はコロナ騒ぎに触発されて先読みしてしまった)
 もっとも、このシリーズを完全に理解したいのなら、前作や笠井のほかの著作を読む前に、哲学や思想史の勉強をしたほうがよいのかもしれない。
 というのも、このシリーズは本格推理小説+哲学批評のようなスタイルをとっているからだ。
 『哲学者の密室』にはマルティン・ハイデッガー批判が出てくると聞くし、本作『薔薇の女』ではエロティシズム論で知られるジョルジュ・バタイユを彷彿とする人物が出てきて、矢吹駆と討論する場面がある。
 哲学の基本的な教養を欠いているソルティは、第一義としてフーダニット(Who done it ?)あるいはハウダニット(How done it ?)の本格推理小説として楽しんでいるのであるが、ちょっと賢くなったような気にさせてくれる難解な哲学的部分もまた、ワイダニット(Why done it ?)すなわち「人生とはなんぞや?」「社会とはなんぞや?」というなかなか解けないミステリーを毎回提示して刺激を与えてくれるので、読み甲斐がある。

 今回はまたアンドロギュヌス(両性具有者)という題材をモチーフにしている。
 遠い昔、「オカマ」「男女」と馬鹿にされたことのあるLGBTの一人として、興味深く読んだ。
 アンドロギュヌスは現在ならLGBTのT(トランスジェンダー)に含まれる。
 トランスジェンダーの多くを占める「心と体の“性別”が異なる人々」とは違って、外見上だけを問題とした場合の概念、つまり体において男性と女性の両方の特徴を示している人を言う。
 端的に言えば、胸に二つの乳房があり股間に陰茎(と睾丸)がある人だ。
 逆のパターン、つまり胸が男のように平らで股間に女性器がついている場合も論理的には該当するはずであるが、見た目のわかりやすさや衝撃のためか、アンドロギュヌスと言えば〈乳房+ペニス〉というのが古来からの通念である。

 本書刊行当時、まだLGBTの存在や人権問題が社会で顕在化していなかった。
 そのため、見た目でそれと知られてしまうトランスジェンダーとりわけ両性具有の人たちに対する差別や偏見には、今以上にきびしいものがあった。 
 両性具有者は「半陰陽」、「ふたなり」、「シーメール(shemale)」などと呼ばれ、文学や絵画など芸術において非日常的存在として神秘化され祀り上げられる一方で、日常生活ではキワモノ扱いされていたことは否定できない。(草彅剛がトランスジェンダーを演じた『ミッドナイト・スワン』では、服を破かれ乳房を晒された草彅が「化け物」とののしられるシーンがある)

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 ともあれ。
 本作におけるアンドロギュヌスのモチーフは、それほど深いものではない。
 両性具有者が登場するわけでもなければ、性別適合手術を望む男性なり女性なりが殺人事件にからむわけでもない。
 複数の死体(4人の女性と1人の男性の死体の一部づつ)を組み合わせて“アンドロギュヌス人形”を作らんとする異常な人間の犯行およびその解決を描いたものである。
 両性具有者が殺人の首謀者であったり、両性具有者を狙った連続殺人が描かれたりしているわけでないので、LGBT諸君は安堵されたし。

 考えてみたら、笠井潔作品は残虐な殺人シーンが多く出て来る割には、性的リビドーに彩られた陰惨なサイコミステリーとは一線を画している。
 ある意味、健全なのである。
 そんなところも、クリスティやカータ-・ディクスンやエラリー・クイーンなど本格推理小説の古典のスタイルを汲む、王道を行っていると思う。

 
 

 
おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 本:『ハタチになったら死のうと思ってた AV女優19人の告白』(中村淳彦著)

2018年ミリオン出版

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 毀れている。
 ――というのが本書を読んでの何よりの感想だ。

 若い女性たちが毀れている。
 家族が毀れている。
 AV業界が毀れている。
 社会が毀れている。

 本書は、『職業としてのAV女優』を書いた中村淳彦による現役AV女優19人へのインタビュー集である。
 「あとがき」によれば、これまで数多くのAV女優インタビューを行ってきた中村は、「なにが正しくてなにが間違っているのか」わからなくなり、「グチャグチャに」なった。
 苦渋ののち辿りついた結論が、「情報を掴むために必要な最低限の質問以外、ほとんど自分からは喋らない。ただただ聞くだけ」に徹するということだそうで、それが本書を貫く基本スタイルとなっている。
 なので読者は、中村自身の価値観によって評価・判断されることを免れた、19人のAV女優たちのナマの声に出会うことができる。

 AV女優をやっている若い女性たちが毀れている。
 ただし、自らの性を売っているから“毀れている”というのではない。
 それなら、かつて女郎部屋に身売りされた貧農の娘や、家族を養うため或いは男に貢ぐため性風俗で働く女性は昔からいた。
 女が「金のため」「家族や男のため」に性を売る(性を売ることを強要される)というのは、よくある話だ。
 一方、本書に登場する女性たちの多くがAV女優となった理由として上げるのは、「他人から承認されたい」である。
 承認欲求――。
 それは、人間の行動を引き起こす3つの動機の1つ――あとの2つは欲望と理性――とフランシス・フクヤマが書いていた。その通りなのかもしれない。
 他人から承認されるためなら、裏社会とつながる性風俗業界にあえて飛び込み、自らの“痴態”がネットで世界中に発信されデジタルタトゥとして半永久的に残ることにも怖じない。
 自らを危険にさらしてまでも他人から承認されたい。
 この闇雲な承認欲求のあり方が、“毀れている”と感じさせるのである。
 それは、本書に登場するAV女優のみならず、現代日本の若い世代の女性に共通した心的傾向なのではないかとも思われる。
(一方、承認欲求のために戦争をする男たちが、“毀れている”のは言うまでもない)

 若い女性たちが毀れているのは、なにより家庭が毀れているからである。
 あえて選んだわけでもあるまいに、本書に登場するAV女優たちの生育環境の悲惨なこと! いびつなこと!
 実の母親が実の息子(語り手の弟)と近親相姦していたり、小学校の先生に毎日のように“悪戯”されるのを親には黙っていたり、失踪した母親が愛人の家で自殺したり、統合失調症の兄が家庭内暴力を起こしたり、子供の時にAVマニアの父親のオナニーを目撃したり・・・・。
 機能不全家庭のオンパレードである。
 そもそも親たちが他者からの承認に飢えているので、とうてい子供(語り手)をしかるべく承認することができない。
 そうした家庭内の負の連鎖をここから読み取るのは難しくない。

 表社会に馴染むことができずグレーゾーンで生きている男たちがつくるAV業界が毀れているのは、いまさら言うまでもない。
 著者はそれを“異界”と呼んでいる。

 そこは、まさに異界である。その空間の異常さを一般社会側から糾弾しているのが強要問題(ソルティ注:暴力や脅しによってAV出演を女性に強要すること)で、自分たちの社会が生んだ異界という理解がないまま、一方的に責め立てるのでさらなる分断に陥っている。本文でも書いている通り、異界に一般的なルールを求めて「非を認めて」「足並みを揃えて」「改善」させるのは困難であり、無理難題だ。みんな一般社会から弾かれて漂流しているので、居心地のいい異界しか知らない。自浄能力はない。

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 個人や家庭が毀れているのは、社会が毀れているからである。
 これまでの日本社会の通念や常識というものが、いたるところで通用しなくなっていることは、昭和育ちの人間なら日々感じているところだろう。
 仏教や儒教や神道で養われた日本人の宗教観や倫理観、稲作や漁業で培われた共同体のルールや人間関係のあり方、そして欧米仕込みの戦後民主主義の価値観。
 これらの共同幻想の微妙なバランスの上に成り立ってきたのが、戦後の日本社会、日本文化だった。
 それがここに来てドラスティックに変容している。
 その主因は、インターネットを嚆矢とするIT時代の到来と、個々人の欲望の達成を第一原理とする新自由主義の浸透ではないかと思う。
 力を持たない個人を守ってきた共同幻想という砦が崩壊してしまい、個々人は各々のアカウントのみを持った孤独な戦士として、弱肉強食の戦場におっぽり出されてしまった。
 社会が毀れたとは、つまり共同幻想が毀れたということである。

 もちろん、共同幻想が毀れたことで救われたこと、良くなったこともたくさんある。
 たとえば、男尊女卑の文化など、その最たるものであろう。
 昭和時代には誰もなんとも思わず楽しんでいた芸人のジョークや流行歌の歌詞などが、令和のいまでは「とんでもない!」とうつるのは、もう日常茶飯のことになっている。(例として、さだまさしの『関白宣言』やおニャン子クラブの『セーラー服を脱がさないで』)
 セクハラ(セクシュアル・ハラスメント)という言葉が「新語・流行語大賞」に選ばれたのは1989年(平成元年)であった。
 まさに、昭和から平成になってパラダイムが変わったのであり、それに合わせてバージョンアップできない昭和育ちの男たちがいまだに墓穴を掘り続けているのは、日々のニュースに見るとおりである。

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 そう。もっとも変わった共同幻想の一つは、性に関する意識である。
 男尊女卑的な性文化が糾弾され、人権的見地から改善されていく一方で、性そのものの敷居が低くなった。
 いわゆる、性がオープンになった。
 隠すべきこと、うしろ暗いこと、猥らなこと、恥ずかしいこと、悪いこと、大っぴらに語ってはいけないこと――つまりはタブーであった性が、誰の目にも見える陽の当たるところに出てきて、ある程度自由に語れるようになった。
 それは、ヒッピー文化であったり、エイズの出現であったり、フェミニズムであったり、ゲイリブであったり、昭和バブルの高揚感・軽佻浮薄であったり、アニメ文化の興隆であったり、性教育を推進する人たちの運動であったり、インターネットが登場したり・・・・いろいろな要因が積み重なっての“いま”であろう。
 元ジャニーズ事務所のジャニー喜多川がタレントの卵である少年たちに性虐待を行っていたことがやっと表沙汰になったが、マスメディアによる長年の犯罪放置の底にあるのは、売れっ子タレントを抱える巨大芸能事務所への忖度という以上に、同性愛を大っぴらに語ること、それも成人男性と未成年男子のセックスについて語ることが、日本社会の(というより男社会の)タブー中のタブーだったことが大きいと思う。
 昭和育ちの多くの人間たちが性に関して抱えている鬱屈というものを、平成育ちの若い世代が理解するのは難しかろう。
 本書に登場するAV女優(インタヴュー時23歳)はこう語る。

 昭和って性に対して悪いような感覚がありますよね。はしたないみたいな。ファッションもそうだし、感覚もそう。古き良き時代に過ごしてきた人たちと、私たちは全然感覚が違いますよね。だから親はもちろん知らないけど、バレても理解してもらおうとか、思ってないです。

 彼女にとってAVの仕事は、「お金になるし、なにより面白い。人と違った経験ができて牛丼店より割がいい、いい仕事」であり、「将来的にAV女優の経験が人生の足を引っ張る」とも思っていない。
 これが、いまどきの若い子なのだ。

 性がオープンになったことは、性風俗の仕事に対する世間の価値観が変わり、敷居が低くなることにつながった。
 うしろ暗いこと、隠すべきこと、恥ずべきこと、食いつめた女性の最後の手段、表社会からの転落・・・・といったイメージが希薄となり、数ある職業のひとつ――とまではいかなくとも、率のいいアルバイトという感覚はすでに若い女性たちの間で一般化している。(ハローワークに登録されるのも時間の問題?)
 性のカジュアル化がすすみ、玄人と素人の境が無くなった。
 人権意識はダブルバインドで、性風俗で働く女性に対する暴力や搾取をきびしく咎める一方、個々人の自己決定と職業選択の自由を侵すことができない。
 大のオトナが自分の意志で性を売ることについて、AV女優はじめ性風俗の仕事を自分の意志で選ぶことについて、反対する理屈を持たない。
 下手に咎めたら、「おまえは職業差別するのか!」、「私の人生は私が決める!」、「それとも、あんたが私の生活を保障してくれるのか!」、「私とつきあって、私を承認してくれるのか!」、「偏見に凝り固まった昭和オヤジは引っ込んでいなさい!」と言い返されるがオチである。
 すると、結局、あたら不幸になることが目に見えているのに、そうした仕事を率先して選ぶ――昭和オヤジから見ると“転落していく"――若い女性たちを、ただ傍観するしかすべはなくなる。

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 性というタブーが無くなり、性をオープンに語れるようになること。
 それはソルティも若い頃から望んでいたことであった。
 であればこそ、80年代半ばに日本に入ってきたエイズという病に惹きつけられ、ボランティアをするようになったのである。
 エイズという病が、「死」と「性」という人間の二大タブーに打ち込まれた楔のように思われたのだ。
 そこには、タブーを嫌い打破したがる若者の特有の血気もあったし、社会が性を語れるようになることが、ゲイというセクシャルマイノリティである自分が「自由になる」ための前提であると思ったからである。
 いまのLGBTをめぐる状況に見るように、それはかなりの程度、当事者にとって明るい方向に進んだ。
 タブーであった「性」が、日常的な話題の一つになるまでカジュアル化した。
 しかるに、本書に見るようなカタチでの「性のカジュアル化」を自分が望んでいたかと言えば、首をひねらざるを得ない。
 中村が「グチャグチャに」なったと言うのも頷ける。





おすすめ度 :★★★★

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もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 実資、焦る  本:『かぐや姫の結婚』(繁田信一著)

2008年PHP研究所

 NHK大河ドラマ『光る君へ』で藤原実資(さねすけ)を演じているロバート秋山こと秋山竜次が話題になっている。
 なるほど平安貴族っぽいふっくらした顔立ち、金満家らしいでっぷりと貫禄ある体型、そして大まかに見えて実は几帳面なキャラは、藤原道長・頼通全盛期にあってなお、右大臣にまで登りつめた実資にふさわしい。
 とは思うものの、それでも、「あのガングロ(顔黒)はないだろ!」と観るたびに呟くのである。

 賢人右府と呼ばれ、宮廷儀式や政務に詳しく、道長や頼通でさえ一目も二目も置かざるを得なかったこの大人物はまた、ドラマの中で家人に揶揄されている通り、記録魔であった。
 実資が60年以上書き綴った日記『小右記』あればこそ、歴史学者や古典文学研究者は平安時代の貴族の暮らしぶりや宮中や洛中の出来事を知ることができるのであり、ソルティのような平安王朝ファンは失われたセレブの日常に思いを馳せることが叶うのである。

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 本書は副題そのままに、『日記が語る平安姫君の縁談事情』を描いたものである。
 ここで「日記」というのがほかならぬ藤原実資の『小右記』であり、「平安姫君」というのが実資55歳のときに授かった女子、藤原千古(ちふる)である。
 年をとってからできた娘だからというだけでなく、それ以前に二人の娘を幼くして亡くしていた実資にとって、千古はそれこそ掌中の珠、鼻の穴に入れても痛くない宝物であった。
 清少納言が『枕草子』の中で褒めたたえた小野宮第という洛中随一の豪邸で、千古はなに不自由なく、実資を筆頭とする家人すべてに甘やかされて育った。
 世間が彼女を「かぐや姫」と呼んだことからも、それは察しられよう。

 本書は、繁田信一のほかの著書同様、平安王朝時代に材をとった歴史書・研究書ではあるけれど、同時に藤原千古という上流貴族のお姫様の生涯を辿った伝記でもあり、娘を愛する父親のいつの世も変わらぬ涙ぐましい親馬鹿ぶりを描いた家族愛の物語でもある。
 だから、とっても感情を揺さぶられる。
 これまでに読んだ繁田の本の中では一番面白かったし、心なしか繁田の筆も乗っているようである。

黄色いアイリス

 「かぐや姫」というニックネームがまさに言いえて妙なのは、千古は――というより実資は、娘の結婚相手を選ぶのにとても悩み苦労したからである。
 莫大な富をもつ上流貴族の娘の嫁ぎ先としてもっとも望ましいのは、言うまでもなく、皇室入りして妃となることである。
 右大臣の娘ともなれば、天皇や皇太子に入内し、世継ぎを産み、将来の国母となるのも夢ではない。
 実資ほどの財と地位と信頼があれば、それは万人が納得する選択であった。

 しかし、ときは道長の絶頂期、「この世をば」の頃である。
 道長の娘以外が皇室入りすることは事実上あり得なかった。
 たとえ、強引に入内させたとしても、後宮で道長側の嫌がらせを受けるのは目に見えている。
 それは、道長の兄・藤原道隆の娘で一条天皇の后となった定子(演・高畑充希)が、父親亡き後たどった悲劇を見れば、この時代のだれもが暗黙のうち了解していた。
 老い先短い実資にしてみれば、自らが亡くなったあとのことを考えれば、可愛い娘を下手に皇室に入れて針の筵に置くよりも、将来が約束されている公達にめあわせたい――そう考えるのが道理である。

 となると、選択肢は狭まる。
 最高権力者である道長の息子、あるいは次の権力者であることが約束されている頼通の息子で、いまだ正妻を持っていない貴公子から選ぶに如くはない。
 また、道長側にとっても、「目の上のたんこぶ」のような実資と縁談という手段で手を組むのは悪い話でなかった。
 なんといっても、千古には実資から相続した莫大な財産がついている。

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(本書17ページより転載)

 そんなわけで、「かぐや姫」の最初の縁談は、藤原頼通の息子(といっても養子である)の源師房(もろふさ)との間に持ち上がった。
 師房は、頼通の正妻の弟で16歳だった。
 だが、これがどういう事情からかはっきり判明しないのだが(実資日記には書かれていない)うまくいかなかった。(繁田は千古と幼馴染の男との恋が原因と推測している)
 師房は結局、千古を振って、道長と第二夫人源明子の間に生まれた隆子と結婚してしまう。
 このとき千古はまだ13歳。
 焦ることもなかった。

 次の縁談が持ちあがったのは2年後、千古15歳のとき。
 お相手は道長の実の息子長家(明子腹)である。
 将来有望な21歳で、年齢的にもちょうど良い。
 この縁談には、道長も実資も最初から大乗り気であった。
 何ら障害となるものは無かったのに、2年待たされた挙句、結局この話も流れてしまう。
 実は、長家は初婚ではなく、すでに二人の正妻を見送っていた寡夫であった。
 二人目の妻を亡くしたショックから立ち直れない長家は、父である道長や母である明子に催促されながらも、千古との結婚に踏み切れなかったのである。
 2年間、蛇の生殺し状態におかれ、実資も「これは縁が無かった」と諦めることになる。
 (なんとなく、あくまでも千古の入内を阻むための道長と正妻倫子の策略のような気がするのはソルティだけか)

 そうこうするうちに19歳になってしまった千古。
 当時ならそろそろ“婚期を逸する”年齢である。
 実資もようやく焦り始めた。
 3番目の縁談相手は、道長の孫にあたる兼頼で、千古より3つ年下の16歳であった。
 道長と明子の長男頼宗の息子である。
 妾妻とはいえ、政略に役立つ息子や娘をたくさん産み育てた明子は、それだけでも道長にとって実にいい細君だったのである。

 年貢の納め時というわけでもあるまいが、ついにこのあたりで実資も手を打たなければならなかった。
 頼通の息子である師房、道長の息子である長家にくらべれば、道長の妾腹の孫に過ぎない頼宗は将来の展望という点では劣るけれど、これを逃したら千古はほんとうに行き遅れてしまう。
 実資が死んだら、娘を後見して財産を守り、生涯の安寧を保障してくれる男がいなくなる。
 長元2年(1029)11月26日、千古と頼宗は結婚した。
 実資は70歳を過ぎていた。
 
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 千古が“お年頃”になってから無事結婚するまでの実資の心情を思うと、とりわけロバート秋山を実資に見立てて右往左往する様を想像すると、なんとも滑稽にして憐れなばかりである。
 だが、娘が結婚できず売れ残りになってしまうことは、つい最近まで(昭和バブルくらいまでか?)体裁の悪いことだった。
 オールドミスとかクリスマスケーキ(25までしか売れない)なんて、ひどいセクハラチックな言葉も日常的に飛び交っていた。
 女性が就職するのは婿探しのため、結婚したら仕事を辞めて家庭に入るのが当たり前という時代、つまり女性の職業的自立が難しかった時代、一家の父親は愛する娘をそれなりに安定した収入ある堅実な男にもらってほしかった。
 女が一人で生きていくことは、令和の今では考えられないほど大変だったのである。

 これが王朝時代の貴族階級ともなると、現実はもっと過酷である。
 後見してくれる力と財のある夫や親兄弟を亡くした女性は、そのときから浮舟のように世間の荒波に押し流されるほかなかった。
 本書では、道長・頼通全盛時代に後ろ楯となる父親や夫を失った貴族の姫君が落ちぶれていく様子が描かれている。

 たとえば、『光る君へ』に登場する藤原伊周(これちか)は叔父である道長との政争に破れ、一気に転落していくのだが、伊周亡くなったあと残された娘の一人は、なんと道長の娘で一条帝の中宮となった彰子の女房として仕えさせられたのである。
 つまり、紫式部や和泉式部と一緒に後宮で働かされたということだ。
 叔母である定子皇后を貶め、父親である伊周を蹴落とした憎き道長。その娘に奉公しなければならなくなった彼女の心情はいかばかりであったろうか。
 しかも、大宰府に流され大宰権帥(だざいのごんのそち)となった伊周の官名をもじって「帥殿(そちどの)の御方」と呼称されたというから残酷である。

 また、道長の実兄で急逝したため「七日関白」と言われた藤原道兼(演・玉置玲央)の娘もまた、道長と倫子の娘で後一条天皇の后となった威子(たけこ)のもとに出仕させられている。
 「二条殿の御方」と呼ばれ自らに仕える十人の女房とともに出仕した道兼の娘は、まだ伊周の娘と比べれば待遇的にはマシだったのかもしれない。
 それでも、押しも押されもせぬ上流階級の姫君で、将来は皇室入りを前提に、いわゆる「后がね」として大切に育てられたはずの女性が、血のつながった親戚の女子(いとこである!)のもとに奉公しなければならない屈辱は相当なものだったはず。
 これだけ見ても、藤原道長や道長の姉である詮子(演・吉田羊)がいかに横暴であったかが分かろうものである。(あるいは、寄る辺を失ったかつての仇敵の娘の暮らしを保障する温情だったのか?)
 ほかにも、藤原兼家(演・段田安則)の謀略にかかって出家を余儀なくされた花山法皇の実の娘、つまり正真正銘の皇女が、やはり彰子の女房になったエピソードも語られている。

 いやはや、後ろ楯のない貴族の女性にはほんとうに生き難い時代だったのだ。
 さればこそ、そうした周囲の女性たちの不運や不如意を見続けた紫式部は、『源氏物語』を書こうと思ったのだろう。
 男という流れにまかせて漂うばかりの女のさだめを疎んじた浮舟は、出家するほかなかったのである。
 
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● 本:『職業としてのAV女優』(中村淳彦著)

2012年幻冬舎新書

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 ゲイである自分にとってAV女優は意識の蚊帳の外の存在。
 その名を聞いたことがあるのは、小向美奈子と蒼井そらとANRI(坂口杏里)と小松千春くらい。
 島田陽子や飯島愛や元WINKの鈴木早智子をAV女優と言っていいのかどうか・・・・。
 むろん、ヘテロ男子向けのアダルトビデオを買ったこともなければ、AV業界のこともてんで知らない。

 自分のまったく知らない業界の裏事情を知るのは、社会勉強になるという点は別として、面白いものである。
 とりわけ、「3K」と言われる労働環境の厳しい仕事や、性風俗のような世間一般的にアンダーグラウンドとみなされている仕事に、ソルティの興味は向く。
 業界独特の慣習やシステム、専門用語に出会うと、人間のユニークな創造力に感心する。
 たとえば、ソルティが介護業界で働き始めて出会った言葉に、「アケ」「送り」「不穏」「脱健着患」「傾眠」「離被架」「DM」なんてものがあったが、職場の先輩同士が話しているのを横で聞いていてもまるで外国語みたいで、なんのことやらわからなかった。
 そのうち仕事を覚えて、こうした用語を自在に使えるようになって、一人前の介護士に、つまりは業界の人間になっていくのである。 

 当事者が語る業界内幕エッセイとしては、三五館シンシャ発行&フォレスト出版発売の『××日記シリーズ』が昨今売れていて、ソルティも愛読者の一人。
 だが、さすがにAV業界は扱わないのではないかと思う。
 それとも、『AV男優、本日もバコバコ日記』とか出すのだろうか?

 本書は、AV女優という仕事やAV業界について、多岐にわたって述べられている。
 AV女優の発掘方法、AV女優になった経緯や志望理由、労働条件、「単体」「企画単体」「企画」という3段階の格付けによる収入や扱いの違い、撮影現場の様子、プロダクションとクライエントとの関係、労使トラブルの実際、商品セールスや流通の背景、仕事上のさまざまなリスク、女優引退後の生活など。
 著者は1972年生まれのフリーライター。
 AV女優たちの衝撃的な生と性を記録した「名前のない女たち」シリーズが評判となった。
 具体的で説得力ある語りは、長期にわたって現場をよく見てきた人間だからこそ書ける特権。
 とりわけ興味深かったのは、性風俗の仕事に対する世間の意識の変化や、インターネットの普及、長引く不況による女性の貧困化がもたらした、AV女優という仕事の社会的価値の転換である。

 1990年代までAV女優という職業は、社会の底辺の一つとして認知されていた。女性の最後の手段を売るセーフティネットであった。人並みレベルのルックスとスタイルを持って覚悟を決めれば、どこかにある程度のお金になる仕事は転がっていて、さまざまな事情によってAV女優になる覚悟をした女性たちは、親や友人たちにバレることを恐れながら、カメラの前で脱ぎ、セックスをして収入を得ていた。

 これが90年代後半あたりから大きく変わったという。
 かつては街頭でのスカウト中心であったものがネットによる応募中心となり、業界不況と供給過多のため「人並みレベルのルックスやスタイル」ではもはや採用困難となり、一部の売れっ子を除けば得られる収入もどんどん減っていき、プロダクション登録していても仕事がもらえない女性が相当数いるという。
 また、親や恋人の了解のもと「あっけらかん」とAVの仕事をしている女性も増え、バレることを恐れるよりも、仕事が続けられなくなることを恐れている。
 さらには、かつては多重債務者や精神疾患のある女性、風俗を転々としている女性、繁華街で遊んでいる派手な女性などで占められていた業界が、有名大卒、一流企業OLはじめ高学歴化が進み、応募の動機も経済的なものだけでなく、「セックスが好きだから」「人生はじめてのアウトサイダー経験を楽しむため」など主体的なものが増えている。
 反社組織とつながりを持つ労働基準法無視の危険な業界というイメージが強いのだが、それは一昔前の話で、法令や警察の目が厳しくなった昨今では、労働環境も現場の安全度も格段に良くなったという。
 いまだに昭和の性風俗業界のイメージが刻印されているソルティの脳内データを、上書き・更新する必要を感じた。

 が、そうは言っても依然としてリスキーな仕事には変わりない。
 本書には、ハードSMの撮影で全治一か月以上の大けがを負った女優のインタビューや、出演女優にクスリを飲ませた上で肛門に危惧を挿入し内臓を破損させたスタッフらが逮捕された“バッキー事件”のあらましが載っている。
 より刺激的なものを求める購入者の要望に突き動かされて、密室の撮影現場において、女優本人の意志を無視した暴力行為が起こる可能性は、今後も否定できない。
 さらには、HIVなどの感染症のリスク、身バレしたときの人間関係の破綻、デジタルタトゥーによる仕事を辞めたあとの人生への影響、一般社会との感覚のずれなども無視できない。
 ソルティ思うに、もっとも困難なのは、性を売ることによって満たすことを覚えてしまった当人の承認欲求――私を認めてほしい、受け入れてほしい――を、仕事をやめた後、どう処理していくかではなかろうか。

 AV女優はスタッフやカメラの前であらゆる性行為をする仕事である。撮影現場では裸だけでなく結合部や陰部の状態まで丸見えとなる。私はAVの撮影現場を何百と見てきて慣れてしまったが、隠すべきものをすべて晒すその光景はいつの時代でも異様といえる。現在AV女優のほとんどは仕事を「刺激があって楽しい」と言う。その言葉に嘘はないが、そんな異様な刺激がなくては生きていけないカラダになってしまったら、その先の人生を普通に生きていくことができないかもしれない。個人的に、生涯AVや風俗に関わることがない人生の方が幸せであると思う。

 コロナ禍により雇用環境が悪化した折、ナインティナインの岡村が自ら反面教師の役を買って出て、「貧困女性の受け皿としての性風俗」の存在価値を世間に周知してくれた。
 まったくそのとおりで、女性たちがAVや風俗に関わらなくても十分生活していけるだけの雇用環境や育児環境がないってのが、一番の問題である。
 
 著者の中村は、高齢者デイサービスセンターを運営しているという。
 老後に行き場を失った元AV女優や元風俗嬢たちの安住の場を提供してくれるのだろうか。

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おすすめ度 :★★★

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● 驚異のVFX 映画:『バーフバリ』 (S・S・ラージャマウリ監督)

バーフバリ

インド映画
第1部『伝説誕生』2015年、138分
第2部『王の凱旋』2017年、141分

 世界中で大ヒットしたボリウッド発の叙事詩的ヒーロアクション。
 古代インドの大国マヒシュマティ王国を舞台に、王位をめぐる2人の王子バーフバリ(父)とバラーラデーヴァの従兄弟同士の対決、および、奸計によって国王の座をもぎとったバラーラディーヴァを倒し、捕えられた母を救うバーフバリ(息子)の激動の半生を、最新のVFX技術を駆使して描く。
 父バーフバリ―と息子バーフバリ―を、南インド出身の俳優プラバース(1979年生まれ)が一人二役で演じている。

 『RRR』同様、とにかく頭をからっぽにして楽しめる映画。
 国籍や民族や地域や時代を超えて、人類の遺伝子に書き込まれた普遍的な「物語」の強さというものを、ひしひしと感じさせられる。
 それが神話の力というものなのだろう。
 人の心の奥に潜む情動を揺り動かすので、悪用されると恐ろしい。

 観ていて思ったが、インド映画にもっとも近いのはイタリアオペラではなかろうか。
 わかりやすいご都合主義の物語。
 歌と音楽(と踊り)の目覚ましい効果。
 色彩の氾濫。
 愛と闘い。
 エロティックなくすぐり。
 エグいまでの残虐性。
 自由を求める大衆の声。
 インド映画に会ってイタオペにないものの筆頭は、野性の動物たちの愛敬だろう。
 
 そうそう、普遍的な「物語」と言ったが、本作で特徴的なのは、女性の登場人物たちの強さである。
 バーフバリ親子に関わる女性たち(マヒシュマティ王国の女王シヴァガミ、父バーフバリの妃デーヴァセーナ、息子バーフバリ―の恋人アヴァンティカ)が、そろって男勝りの自立した女性として描かれている。
 このあたりは、フェミニズムに目覚めた現代の女性観客を意識してのことと思われる。
 一方、男勝りの鼻っ柱の強い女性の固い鎧を脱がして一人の恋する“おんな”にしてしまう、バーフバリ―の男性的魅力をさらに爆上げする手段、とも解される。
 暑苦しいヒゲ面と筋肉隆々の中年男子こそ、インドのイケメン。
 日本では都会のジムに行かないとお目にかかれない。(結構の確率でゲイだったりする)  





おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 芹明香という奇跡 映画:『㊙ 色情めす市場』(田中登監督)

1974年日活
83分、パートカラー
R指定

 神保町シアターに初めて行った。
 小学館運営とは知らなかった。
 昭和の古い映画を中心にプログラムを組んでいる劇場で、2/23まで『女優魂――忘れられない「この1本」』という特集をやっていた。
 その一本が、芹明香(せりめいか)主演の本作であった。

 本作は2022年に、第78回ベネチア国際映画祭クラシック部門に選出された。
 もともと日活ロマンポルノの最高傑作と評判高かったが、国際的にも認められたわけだ。
 ソルティは未見であった。
 ピンク映画を神保町で観る、しかも小学館運営の劇場で――という、なかなかクールなふるまいに心は踊った。
 平日夕方5時からの鑑賞は、99席のうち半分くらい埋まった。
 女性観客もチラホラ見受けられた。
 
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神保町シアター

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地下にホールがある
 
 とにかく凄い映画である。
 凄い、としか言いようがない。 
 フィクションには違いないけれど、70年代の大阪釜ヶ崎のドヤ街の様子がありのままに写し撮られている。
 行政上、「あいりん地区」と呼ばれる一画だ。
 日雇い労働者、路上生活者、暴力団、娼婦、女衒、ポン引き、アル中、ラリ中、指名手配された犯罪者など、社会の底辺をさまよう者たちが、戦後日本の高度経済成長から零れ落ちるように、その日暮らしの生活をしている。
 この街で娼婦をしている若い女性トメ(芹明香)が主人公である。

 同じ釜ヶ崎を舞台とする大島渚の『太陽の墓場』(1960)や、戦後の佐世保を舞台とする熊井啓の『地の群れ』(1970)同様の、戦後日本の暗部をえぐった作品と言うことができる。
 だが、本作はあくまでポルノ映画。
 しっかりと男性観客を興奮させるに十分な濡れ場が用意され、内容が重すぎて“OTOKO”がタたなくならない程度に、脚本も演出も演技も適度にコミカライズされている。
 社会派映画としてマジで撮ったら、そりゃあもう、縮むわ。
 ・・・・・。 

 どうもセクハラチックな物言いになってしまうが、実際のところ、本作は令和コンプライアンス的には、とんでもない描写の連続である。
 テレビで放映できないのは当然だが、今現在、本作をそのままの脚本でリメイクして再映画化するのは、まず無理だろう。
 知的障害者の性と自死、姉と弟の近親相姦、母から娘に乗り換えようとするヤクザのヒモ、動物虐待・・・・・。
 成人指定のポルノ映画とは言え、「よくまあ、こういう映画が撮れたなあ」と、昭和時代の表現の自由の寛容度には驚くほかない。
 バリバリのフェミニストやガチガチの人権派やコチコチの性風俗反対派が、本作を観たら、怒り心頭に発するのではなかろうか。
 ソルティは自分を、平均的な男に比べれば「人権派のフェミニスト」と思っているけれど、こと芸術表現に関しては、「実際に“ある”ものを描くぶんには、表現規制するのはよくない」と思っている。
 たとえば、実際に“ある”差別を覆い隠して、きれいごとを描くのは、偽善であるばかりか、かえって当事者の声や存在を無視する非・人権的行為と思う。
 どんな人間にも、どんな社会にも、暗部はある。
 本作で描き出されているのは、暗部を逞しく生きる、ありのままの人間の「生」であり、「性」なのだ。
 それを否認するところから生まれるのは、宗教的独善だけであろう。

 芹明香演じる娼婦トメは、どこか投げやりで人生すてているふうでいて、“自分”をちゃんともっている。他人の手づるで客を斡旋されることを拒否し、一匹狼となって、街頭で客を引く。
 「セックスは商売」と割り切るドライな一面を持つ一方、菩薩のようなやさしさを覗かせる。
 とりたてて美人でも肉感的でも演技派でもベッドシーンに長けているわけでもない女優だが、あとにも先にも、この一作でその名が長く記憶されるに十分なインパクトを放つ。
 共演者も素晴らしい。
 『四畳半襖の裏張り』でも魅せた宮下順子のただならぬエロスの奔流、トメの母親・よねを演じる花柳幻舟のケツまくった熱演、トメの知的障害の弟・実夫(さねお)を演じる夢村四郎の凄絶な演技、ヤクザのヒモを演じる高橋明のふてぶてしいリアリティ。
 フィルムから放射されるボルテージの高さは、はんぱない。
 
 知的障害の弟・実夫は、姉トメとの初体験を成し遂げた後、雄鶏を連れて通天閣のてっぺんまで上り、その後、首を吊る。
 その深みが分からないうちは、人権派を自称するには早かろう。
 
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神保町と言えば『ボンディ』のカレー

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ビーフカレー(1600円)
雨夜にかかわらず、客がひっきりなしだった





おすすめ度 :★★★★★

★★★★★ 
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★★    いい退屈しのぎになった
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● ミーハーの語源 映画:『雪之丞変化』(市川崑監督)

1963年大映
109分

 これは市川崑の最高傑作と言っていい。
 ソルティ的には、「市川崑の一本を選べ」と言われたら、市川雷蔵主演の『炎上』、『破戒』でもなく、岸恵子主演の『おとうと』、『黒い十人の女』でもなく、大ヒットした『ビルマの竪琴』、『犬神家の一族』、『細雪』でもなく、本作を推したい。(『東京オリンピック』は未見)
 舶来好きスタイリッシュな映像作家としての市川の個性が爆発している。

 時代劇らしからぬ西洋芝居的な構図や演出。
 「これぞ市川印!」の細かく素早いカット割り。(一人二役の演出に役立っているのが面白い)
 光と闇の画家カラヴァッジョを思わせるライティングの冴え。
 細君である和田夏十の脚本とセリフの見事さ。
 もちろん、長谷川一夫300本記念映画に参集した大映スターの錚々たる顔触れ。
 山本富士子、若尾文子、市川雷蔵、勝新太郎、船越英二、八代目市川中車、二代目中村鴈治郎。
 完成度の高さは、大映の映画史上10本の指に入るのではあるまいか。
 市川崑の評価がこれ一作で爆上がりした。

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 本作は、長谷川にとって2度目の『雪之丞変化』。
 衣笠貞之助監督による1度目は、女形出身の美形役者だった20代後半の長谷川(当時の芸名は林長二郎)を押しも押されもせぬトップスターに押し上げた。
 つまり、当たり役である。
 「ミーハー」の語源は、当時の女性が熱狂した二つのもの――「つまめ」と「やし」――の頭文字をとったというのだから、人気のほどが知られよう。
 本作公開後、長谷川はあと一作出演して映画界を去った。
 つまり、花道を飾った作品と言える。
 
 舞台と違ってアップやバストショットの多い映画では、55歳という年齢はさすがに隠しようないものの、観ているうちにそれを忘れさせるのは、ほかでもない、長谷川の芸の高さ。 
 所作の美しさ、眼差しの艶っぽさ、立ち居振る舞いの優雅さ、セリフ回しの気品。
 しかも、女形と盗賊の一人二役を完璧に演じ分けている。(途中までソルティは別々の役者だと思っていた。市川の演出が上手すぎ!)
 女形役者では美輪明宏といい勝負である。(美輪サマも1970年にテレビで雪之丞を演じている。なんとか観たいものだ)
 雷さまも、勝新も、山本富士子も、若尾文子も、脇に回してしまう貫禄とオーラは、不世出の天才と言うにふさわしい。
 ただ一人、存在感で拮抗しているのは、憎々しい敵役に扮する二代目鴈治郎
 やっぱり、この人も天下の名優だ。

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雪之丞と闇太郎の二役を演じる長谷川一夫
おそらく中央の柱でフィルムをつないでいるのだろう
 
 それにつけても、不思議なるは日本の性愛文化
 長谷川一夫演じる雪之丞と若尾文子演じるお初は、恋い慕う間柄になる。
 女を演じる男(女形)と、その女形に恋する女。
 二人のラブシーンは、形の上ではレズビアンとしか見えない。
 外国人とくに西洋人がこれを理解できるのだろうか?
 こうした倒錯をなんてことなく楽しめる日本人って、すごいんじゃない?
 
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思いを打ち明けるお初(若尾文子)と雪之丞(長谷川一夫)



 
おすすめ度 :★★★★★

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● 元祖リベンジポルノ 本:『ユダの窓』(カーター・ディクスン著)

1938年原著刊行
2015年創元推理文庫(訳・高沢 治)

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 『三つの棺』『火刑法廷』など、このところカーター・ディクスンまたはジョン・ディクスン・カーの代表作をさらっている。
 いまのところ文句なしのベストワンはこの『ユダの窓』である。
 トリックの巧みさといい、謎解きの妙といい、サスペンスといい、物語の面白さといい、探偵の魅力といい、伏線の仕込みと回収といい、緊密な構成といい、オールマイティの出来栄え。
 これほどの傑作を読んでいなかったのが不思議。
 つくづくカーとは縁がなかった。

 ジェームズ・アンズウェル青年は、ある晩、婚約者の父親エイヴォリーにはじめて会うため、ロンドンに出かけた。二人の婚約はエイヴォリーに祝福されていた。
 しかし、緊張しつつ通された書斎で、ジェームズはエイヴォリーの敵対的な対応を受け、面食らう。
 「お嬢さんを僕にください」
 意を決して口にし、供されたウイスキーソーダに口をつけた途端、ジェームズの意識は朦朧としていく。
 気がつけば、目の前には胸に矢がつき刺さったエイヴォリーの死体があり、窓もドアも内側から鍵の掛かった完全な密室に、ジェイムズと死体だけが取り残されていた。
 誰がどう考えても犯人はジェイムズしかいない。
 ジェイムズの無実を信じる法廷弁護士メルヴィル卿が立ち上がる。

 密室殺人物として巧くできていて、奇抜なトリックにはそれなりの(試してみたくなる)リアリティがある。圧倒的に不利な状況のもと殺人容疑で捕らえられた男をめぐっての検察側と弁護側の息詰まるやりとりが、読む者をとりこにして離さない。
 ソルティは、仕事が休みの日に、JR一筆書き関東大回りをして本書を読み上げたのだが、本書に夢中になるあまり、今自分が何県のどこらあたりを走っているのか分からなくなった。
 カーやクリスティの筆力や発想力に比べられ得る本邦の推理作家は、結局、江戸川乱歩、横溝正史、松本清張だけなんじゃないかなあ。
 単発では素晴らしい作品を書く人はいるが、何十作も続けてある程度の水準で、しかも亡くなったあとも人気が衰えず・・・・となると、なかなかいないように思う。
 特に、人間を生き生きと書く力ってのは天賦の才であろう。

 ユダの窓とは、独房のドアに付いている四角い覗き窓のことじゃ。蓋があって、看守が自分の姿を見られずに囚人を観察できるようになっておる。(本書中の探偵ヘンリ・メルヴェール卿のセリフ)

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Frank BeckerによるPixabayからの画像

 “ユダの窓”を使った密室トリックも画期的で面白いし、ジェイムズ青年が陥った死刑必至の危機的状況――気がつけば密室の中に死体と2人きり――を作り出すプロットの精緻さもすごい。
 が、ソルティがなにより感心した(見抜けなかった)のは、名前を利用したトリックであった。
 詳しい説明はしないでおく。

 ときに、犯罪動機に絡んで、ある未婚女性が別れた恋人から恐喝される話が出てくる。
 恐喝のネタは、つき合っている間に撮影した女性のヌード写真。
 いわゆるネットで話題のリベンジポルノ。
 そんなことが20世紀初頭のカーの時代からあったわけだ。
 というより、1826年に世界最初の写真が生まれてからというもの、写真の歴史はそのままヌード写真の歴史であった。リベンジポルノという犯罪もそのとき産声を上げたのである。
 一度は愛し合い、信じ合い、一糸まとわぬ裸体をさらけ出し、写真撮影まで許した男に、別れた後で仕返しされる。
 裏切ったのは男か女か・・・・。
 ユダの窓とは、カメラのファインダーの謂いなのかもしれない。
 
 
 
おすすめ度 :★★★★★

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● 「ウミウシ映画」殿堂入り :『MEN 同じ顔の男たち』(アレックス・ガーランド監督)

2022年イギリス
100分

 観ているうちに「一体、なにこれ?」と頭の中が疑問符だらけになり、予想のしようもない明後日方向のシュールな展開にあぜんとし、見終えた後もなんと人に説明していいか分からない類いの、ジャンル分けを拒む映画――それがウミウシ映画である。

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Kevin Mc LoughlinによるPixabayからの画像

 本作も、英国の瀟洒なカントリーハウスと美しい森を舞台にした、オーガニックでナチュラルでヒーリング系な映像(と音楽)から始まるので、スローフードやSDGS志向の女性観客をターゲットにした、傷ついた女性の心の回復物語と思っていた。
 たしかに、主人公の女性(ジェシー・バックリー)は恋人に別れ話を切り出し、言い争いの末に男は女を殴り、女は男に最後通牒を突きつけ、絶望と怒りから男は女の目の前で飛び降り自殺し、女は自らを責め苛むことになった。
 孤独と静寂と美しい自然とが、彼女の心を癒し、新しい出会い&人生が始まるのだろう。

 と思いきや、チン×ンぶらぶらの裸の男の出現を機に、物語はサスペンスホラーへと突入する。
 人里離れた森の邸にたった一人で住む若い女性を、男たちは放っておかない。
 どこかオタクっぽい家主の男、ストーカーまがいの裸の男、精神不安定な若者、下心みえみえの神父、男尊女卑丸出しの警官。
 おかしなことに、彼らはみな同じ顔をしている。
 そのあたりからストーリーは現実を離れ、悪夢かSFか、さもなくば主人公の妄想?――のオカルトファンタジー領域に入っていく。
 深夜の邸に一人、家を取り囲む男たちの気配に怯え、包丁を握りしめる主人公。
 やはり最後はスプラッタホラーになるのか?

 と思いきや、裸の男がギリシア神話のサテュロスのような恰好をして現れたとたん、物語は完全に「ウミウシ」領域に飛躍する。
 一体、なにこれ?
 予想すらしなかった展開にあぜんとしつつ、本来なら神聖であるべき営みのグロテスク映像に観る者の思考は麻痺させられる。

 すべては主人公のトラウマが生んだ妄想なのか?
 それともMEN(男たち)は実在したのか?
 この映画をどう解釈したらよいのか?

 ・・・・ウミウシとしか言いようがない。
 
 あえて言うなら、ソルティはジェンダーバイアス・ホラーとでも言いたい気がした。
 女にとって、理解できないMEN(男たち)の行動は十分ホラーになり得るという。
 
 一人五役でMEN(男たち)を演じ分けるロリー・キニアという役者が凄い!
 途中まで、それぞれ別の役者が演じているのかと思っていた。
 英国舞台出身俳優の実力をまざまざと知る。
 


おすすめ度 :★★★

★★★★★
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● 砂上の楼閣 映画:『ドント・ウォーリー・ダーリン』(オリヴィア・ワイルド監督)

2022年アメリカ
122分

 サスペンスホラーSF。
 砂漠の中にあるヴィクトリーという街に、夫ジャックと暮らす専業主婦アリス。
 美しく立派な家、ハンサムで優しい夫、仲の良い女友達、パーティやお稽古事や買い物に追われ・・・・すべてが完璧で絵にかいたような幸福な日々。
 街の男たちは、毎朝高級車に乗って、砂漠の中にある会社に出かけていく。
 そこは社員以外の住民は立ち入り禁止であった。
 夫は、いったいなんの仕事をしているのだろう?
 ヴィクトリー計画とはなんのことか?
 「心配するな、ダーリン」
 ジャックは何も教えてくれない。

 センスのいいスタイリッシュな映像と隠された真相への興味で、最後まで飽きさせない。
 ネタばらしはしないでおくが、ある有名なSF映画のアイデアを彷彿とさせる。
 一見ユートピア、実はディストピアという、ジャ×ーズ帝国のような物語。

 「砂上の楼閣」という言葉は中国の故事から来ているものと思っていたが、そうではなく、聖書の「マタイによる福音書」の中のイエスの次の言葉が由来らしい。

 わたしの言葉を聞いて実践する者は、岩の上に家を建てた賢い男のようなものだ。
 雨が降り、川があふれ、風が吹きつけようとも、その家はびくともしなかった。
 岩の上に建てられたからだ。
 
 わたしの言葉を聞いて実践しない者は、砂の上に家を建てた愚かな男のようなものだ。
 雨が降り、川があふれ、風が吹きつけると、その家は倒れて崩壊した。 

 英語では a house built on sand となる。
 ヴィクトリーという街はまさに砂上の楼閣であった。

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Paul BrennanによるPixabayからの画像

 ここに描かれる幸福像は、夫が働き妻は家事と育児をするという(トランプ元大統領の熱狂的サポーターが求める)50年代アメリカの典型的理想の家庭である。
 その後ウーマンリブが来て、フェミニズムが来て、世の男女関係も夫婦関係も一変したけれど、結局男たちの夢は50年代の「古き良きアメリカ」「パパはなんでも知っている」にあるのだろうか。
 女性監督であるオリヴィア・ワイルドはそう揶揄っているようだ。
 
 
 
おすすめ度 :★★

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