ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●反戦・脱原発

● ここにはドラマがある : NHK制作『大地の子』(山崎豊子原作)

大地の子

TV放送 1995年11月11日~1996年3月20日(計11回)
DVD 全6枚(11時間14分)
制作 NHKエンタープライズ21
原作 山崎豊子
脚本 岡崎栄

 山崎豊子の原作が『月刊 文藝春秋』に連載されたのは、1987年(昭和62年)5月~1991年(平成3年)4月。
 戦後40年以上経って本作は書かれ、50年経ってテレビドラマ化された。
 多くの人命が失われるような大きな悲劇的出来事があってからそれがドラマ化されるまで、ある程度の月日を要するのは無理からぬことだが、ことにテーマが中国残留孤児の苦難の生涯ということもあって、1972年9月の田中角栄首相による日中国交正常化までは「知られざる物語」だったのである。
 ソルティが10~20代の頃(1980年代)、毎年のように中国残留孤児の団体が肉親を探しに日本にやって来て、テレビでは感動の再会シーンを繰り返し流していたものである。
 当時は昔のことにあまり関心がなかったし、顔も名前もさだかでない肉親を探す(成人した)孤児たちの気持ちもよく理解できなかった。
 ただ、日本鬼子(リーベンクイズ)と綽名されたほど残虐なふるまいをした日本兵への恨みもものかは、大陸に残された日本人孤児たちを拾い養った中国人の寛容さが心に残った。
 同じことを日本人は他国の孤児に対してできるだろうか?

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コーリャン畑
Karl Egger
によるPixabayからの画像

 昭和・平成のテレビドラマが、ここまで感情を揺り動かす力があったことに驚いた。
 ソルティは物語後半、ほぼ毎回号泣していた。
 年取って涙もろくなったことも確かにあるが、そればかりでない。
 ここには、強烈なドラマを成り立たせるに十分な時代状況があり、制作者側にとってはその状況を描くことで視聴者にぜひとも伝えたいテーマがあり、視聴者側にとってはその状況を理解できるだけの記憶と登場人物たちに共感できるだけの感情体験があった。
 状況とはアジア・太平洋戦争の敗北である。

 戦争そして敗戦という、日常を破壊し、多くの人命を奪い、親しい者たちを離れ離れにし、苦痛と困窮の極みに庶民を追いやり、人間性のあらゆる面が暴露される極限状況において、かえって家族愛や兄弟姉妹愛や友情や恋愛や正義や信頼や献身や犠牲的精神や慈悲などの崇高さが輝きわたる。
 戦争という人類にとっての最大の悲劇が、「物語」を輝かせる。
 ドラマツルギー的に言えば、強固な「枷」や逆境が存在するほど、読者や視聴者の感情は波打ち、ドラマは面白くなる。

 80年代バブル以降の日本で失われた最大のものの一つは、ドラマ(=物語の力)であろう。
 80年代トレンディドラマの軽佻浮薄がもてはやされて以降、日本人はドラマを喪った。
 国民がこぞって観て、感動を共にできるようなドラマがなくなった。
 率直に言えば、ドラマがつまらなくなった。
 だが、それが戦争のような国民共通の悲劇が無くなったことによる感情鈍麻のせいであるのなら、それは平和の証であるから、批難すべきことではないのかもしれない。
 それとも、共同幻想が破れて「物語」の力自体が失われた結果なのか?
 あるいは、もっと単純に、リアリティある骨太のドラマを作る体力や経済力を喪失した、つまり国力の低下が原因なのか?
 頬を伝う滂沱の涙の一方で、そんなことを考えた。
 本作を観た令和の若者は、どのような感想を持つだろう?

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 中国残留孤児の主人公・陸一心(日本名:松本勝男)を当時無名の上川隆也が演じている。
 素晴らしい演技で瞠目させられた。
 上川隆也がこれほど演技達者とは知らなかった。
 原作者の山崎は、一心役に本木雅弘を考えており、脚本・演出総指揮を務めた岡崎栄は竹野内豊を想定していたという。
 しかしこれは、上川隆也で正解だった。
 本木や竹野内ではこれほどリアリティある素朴な演技は望めなかったろう。

 幼い頃に別れた松本勝男の実父を、昨年11月に亡くなった仲代達矢が演じている。
 今さら述べるまでもない好演である。
 仲代は20代の時、小林正樹監督『人間の條件』の主役に抜擢され、戦中戦後に大陸で彷徨する日本人敗残兵を演じて、一躍名を知らしめた。
 亡くなる最後まで反戦を貫いた人だったから、戦争の悲劇を伝える本作の出演も思うところ大であったろう。

 だが、本作の最優秀演技賞を付与するなら、陸一心(上川隆也)の中国の父親・陸徳志を演じた朱旭(チュウ・シュイ、1930-2018)を措いてほかにない。
 主役の上川はもとより、ここまで仲代達矢が食われた例を見た記憶がない。
 日本では本作以外ほとんど知られていない役者であるが、戦後中国で「小日本鬼子」と言われ差別され続けた中国残留孤児を拾い、養父を引き受けた男の苦悩と情愛のすべてをあますところなく演じきった一世一代の名演である。
 この演技を観るだけでも、本作を観る価値がある。

 キャンディーズのスーちゃんこと田中好子も、陸一心=松本勝男の母親に扮して鮮烈である。
 スーちゃんの「地」である人の良さが役にオーバーラップしている。

 本作は中国人残留孤児となった日本人の苦闘の生涯を描くことがメインなので、これだけ観ていると、残留孤児を差別・虐待する中国人の残酷さや一党独裁の中国共産党の横暴が目立って映るかもしれない。
 しかるに、中国残留孤児が苦難の生涯を舐めることになったそもそもの原因は大日本帝国の中国侵略にあった。
 本作を観る人は、その前提を忘れてはならない。
 本作が刊行あるいは放映された当時、ほとんどの日本人はそのことを前提として了解していた。
 が、ある世代以下の日本人はそこが理解できず、「中国はやっぱり酷い国」と印象づけられて見終えてしまうかもしれない。

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mkarasch0によるPixabayからの画像

 通算128日間という長期にわたる中国での大規模ロケは、90年代の日本のメディアに残っていた体力のあらわれであると同時に、日本と中国当局の関係の良好を語ってあまりない。
 現在ではまったく無理な話である。
 戦後50年、田中角栄をはじめとする先人が築いてきた日中関係をすっかり反故にしてしまった高市政権の方針がはたして善策なのかどうか、政治音痴のソルティには分からない。
 ただ、歴史を学ばない人間は傲慢になる。
 そのことは確かだと思う。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 本:『人類学者K ロスト・イン・ザ・フォレスト』(奥野克巳著)

2023年亜紀書房

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 こんな人がいたんだあ~。
 ――というのが一番の感想。

 Kこと奥野克巳は1962年生まれというから、ソルティとほぼ同世代である。
 プロフィールによると、20歳の時にメキシコの先住民テペワノの村に滞在、バングラディッシュで上座部仏教の僧侶になり、トルコやインドネシアを放浪した後に、人類学を専攻。1994年東南アジア・ボルネオ島の焼畑民カリスのシャーマニズムと呪術を調査研究、2006年以降は同島の狩猟民プナンのフィールドワークを開始。現在、立教大学異文化コミュニケーション学部の教授である。

 なんてユニークな経歴だろう!
 自分がずっと日本にいて、就職して会社員になったり、バブルに浮かれたり、仕事を辞めてプー太郎になったり、フリーターになったり、引っ越ししたり、また就職したり、鬱になったり、転職したり・・・・些細なことに悩みつまづきながら、チマチマと生きてきた時に、こんなアドベンチャラスな人生を送っていたのか・・・・。
 こういう経歴の人が見る日本や日本文化や日本人は、あるいは欧米諸国をはじめとする現代文明は、ソルティのような“カタギの(笑)”一般的日本人とはまた異なって見えるに違いない。
 よく言われるように、「日本の常識は世界の非常識、世界の常識は日本の非常識」である。
 しかもこの人のよく知る“世界”は、非文明世界――という言葉が適切なのかどうかは分からないが――なのだから。

 本書は、奥野がフィールドワークした、というより共に暮らしたボルネオ島のジャングルに生きる狩猟民プナンの日常が描かれている。
 彼らは、未来や過去の観念を持たず、死者のあらゆる痕跡を消し去り、反省や謝罪をせず、欲を捨て、現在だけに生きている。
 日本人を含む近代西欧文明にどっぷり漬かった現代人とは、まったく違った世界観や人生観や宗教観や価値観がそこにはある。
 いや、過去や未来の観念がないのだから、そもそも人生観などないのかもしれない。
 
 プナンのフィールドワークに入った初めの頃、Kは、プナンの子どもたちに尋ねていた。
「将来の夢は何?」
「将来、何になりたいの?」
 子どもたちは、Kのその問いが、何のことを言っているのかさっぱり分からないという顔をしていた。誰一人として、それに答えるものはいなかった。恥ずかしくて答えなかったのではなく、単純に答えられなかったのだ。

 本書を読むと、人間という生き物の可塑性について思わざるを得ない。
 人間が作り得る文明は一つの型には決してはまらないし、どれか一つの文明(世界線)だけが、その住人が有する価値観だけが“正しい”――ということはあり得ないと知らされる。
 もっと人間は自由であるはずだ。
 同じ人類学者であるデヴィッド・グレーバー(2020年9月逝去)と考古学者デヴィッド・ウェングロウが書いた『万物の黎明』が訴えていたのは、まさにそこである。
 近代西洋文明の行き止まりが露わになって世界の破綻の予感がみなぎっている現在、また、多様性という言葉が上滑りし、保守勢力による価値観統制が進行し、視野が狭くなる一方の令和日本において、これとは別の“世界線”、別の生き方の可能性を伝えてくれる奥野の言葉はカンフルとなってくれよう。

 奥野個人の若き日の失恋潭など、回想モノローグを随所にはさんだエッセイ風スタイルなので、読みやすく、親しみやすい。



 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損







● 火星人襲来! 映画:『宇宙戦争 次の世紀』(ピョトル・シュルキン監督)

1981年ポーランド
97分

 ソルティの映画鑑賞歴も40年以上になるが、この監督の名前はついぞ聞いたことなかった。
 ピョトル・シュルキン(1950-2018)は、1970年代末~80年代にかけて社会主義体制下のポーランドで映画を撮っていた監督である。
 彼の作品は本国では一時上映禁止となり、商業的にはポーランド国外に知られることなく、当然、西側諸国で上映されることもなかった。
 今回の渋谷のイメージフォーラムでのSF《文明の終焉4部作》の上映が、日本劇場初公開だという。
 《文明の終焉4部作》
 『ゴーレム』(1979)
 『宇宙戦争 次の世紀』(1981)
 『オビ・オバ 文明の終わり』(1985)
 『ガガ 英雄たちに栄光あれ』(1986)

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イメージフォーラム

 4部作の一つを観て、「こんな監督がいたんだ!」、「こんな怖ろしい作品が、日本中がバブルに浮かれていた頃に撮られていたんだ!」という衝撃に襲われた。
 4部作を連続で観ることもできたのだが、あまりの衝撃の重さにとても消化しきれず、1本だけ観て渋谷の街をあとにした。(残り3本はおいおい観たい)

 難しい映画ではない。
 陳腐と言えるほどオーソドックスなSF映画である。
 地球にやって来た火星人が、友好の顔を見せながら、人類を支配下に置き、洗脳していくさまが描かれる。
 当然、CGやVFXなんてないし、ハリウッドSF大作のように金をかけているわけもない。
 しかし、観ている間じゅう背筋が凍るようなリアリティと怖ろしさとで、場内の暖房がいつの間にか冷房に切り替わったのではないかと思うほどだった。

 怖ろしさのもとは、火星人ではない。
 白いもこもこしたダウンジャケットを着たゴムまりのような体型の“平たい顔族”の火星人は、バブルの頃の日本人をモデルにしたんじゃないかと一瞬思ったが、自己卑下が過ぎるかもしれない。
 彼らは、人類をはるかに超越した知能と技術で人間たちを意のままに操っていく。
 あくまでも表面上は、人間側が火星人への友情を示すために“進んで”火星人に協力している、という自己決定の形を装いながら。(GHQに進んで協力した戦後日本人のように)
 怖ろしさの源は、最高権力者である火星人に忖度して、自ら支配機構の従順な番犬や羊になり下がっていく地球人の姿である。
 独裁体制が成立するのは、カリスマ的な独裁者の力のみならず、さまざまな動機からそれを陰に陽に支えていく民衆あってのことなのである。

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 むろん、この映画が揶揄しているのは、すなわちシュルキン監督が火星人侵略に仮託して描き出そうとしたのは、ソ連の番犬となったポーランド社会主義&全体主義国家の現実であった。
 であればこそ、この作品は上映禁止になったのだろうし、国外にフィルムが流れることもなかったのである。
 しかるに、ソルティが観ていて感じた怖ろしさは、80年代のポーランドをはじめとするかつての社会主義国家の全体主義の様相だけではなかった。
 トランプのアメリカが今まさに“火星人侵略”の過程にあり、それに追随する日本もまた、この作品で描かれている不条理を現実化しようとしている。
 その予感に震えたのである。
 作品中で、シュルキン監督が主人公の男の口を借りて語るポーランド人の国民性、すなわち、「従順で受動的で他者に迷惑をかけないことを美徳とする」は、まさに日本人のことではないか。
 45年以上前のポーランド映画が、こんなにも現代日本に重ねられる日が来るとは!
 こんなに怖ろしい映画体験は滅多ない。




おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 本:『「あの戦争」は何だったのか』(辻田真佐憲著)

2025年講談社現代新書

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 著者は1984年生まれの評論家・近現代史研究家。
 今年42歳だ。

 自分より年下の人間が、ITや競馬について語っていたり、ファッションや映画について蘊蓄を垂れていたり、古代史や仏教史について本を書いていたとしても、別に何とも思わないのに、昭和史とくに“あの戦争”について語っていると、「お前に何が分かる?」というエラソーな気持ちになってしまうのは不思議なものである。
 ソルティだって、十分、“戦争を知らない子供たち”の一人であるのに。
 それこそ著者は、「戦争を知らない子供たち」ですら知らない子供たちである。

 おそらく、「実際に昭和を生きてきた」、「“あの戦争”を戦った人々のナマの声をずっと聞かされていた」、「昭和天皇を知っていた」という年の功(功なのか?)による身体記憶が、そういう上から目線を形づくるのであろう。
 ソルティの祖父世代(大正生まれ)は従軍経験者、父母世代は疎開体験者であり、折に触れ、戦時中の話を聞かされた。
 昭和時代には“あの戦争”に関連したドラマやドキュメンタリーが数多く作られた。
 街に出ると、傷痍軍人もとい戦傷病者の姿をたまに見かけたものである。

 84年(昭和59年)生まれだと、親世代は完全に戦後生まれ、祖父母世代は幼児記憶として戦争を知っているあたりであろう。
 昭和天皇崩御時はまだ4歳。
 戦争のようなheavyな話題が思いっきり避けられたバブル期に生を受けた世代で、選挙権をもつ頃(2004年)の首相は小泉純一郎、もっとも長く知っている首相は安倍晋三である。

 言いたいのは、“あの戦争”との距離感がソルティ以上の世代とはかなり違うということである。

 それは年の経過という当たり前の現象であって、平成生まれだろうがミレニアム世代だろうが、だれであれ、“あの戦争”を自由に語る権利がある。
 ソルティもたびたび当ブログ内で“あの戦争”について取り上げているが、ひょっとしたら、それを目にした年長者がネットの向こうで、「お前に何が分かる?」とつぶやいているかもしれない。
 “あの戦争”と日本人との距離は、どんどん遠ざかっていく一方なのである。

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沖縄本島南部のギーザパンダ(慶座集落の崖)
米軍からスーサイドクリフ(自殺の崖)と呼ばれた

 そのことは、現内閣周辺に見られる好戦的気運の高まりという危険な兆候をもたらす一因となっているのは間違いない。
 「日本は核を持つべき」などという、昭和時代だったらその一言で公職辞職に追い込まれるような発言を、官邸幹部高官がオフレコとはいえ平気でするようになったのも、台湾有事などという世界情勢の変化以上に、“あの戦争”との距離感の広がりがもたらしたものである。
 米ソの対立が激しかった“冷たい戦争”の頃だって、有事は常にあったのだから。
 
 一方、“あの戦争”を史実や史料をもとに、より客観的・国際的・長期的な視点から分析し語ることのできるスタンスが得られるようになったのも、距離感の広がりゆえであろう。
 距離感の近い人は、どうしても個人的記憶というバイアスに影響されてしまうので、主観的・狭量的・短期的な物語を形成しやすいからである。

 1984年生まれの著者が書いた本書の意義は、その点に集約されよう。
 つまり、戦後左翼の好むGHQ(戦勝国)視点の物語(右翼言うところの“自虐史観”)でもなく、戦後右翼の好む大東亜共栄圏という物語(左翼言うところの歴史修正主義あるいはオヤジ慰撫史観)でもない、脱“昭和”世代の近現代史すなわち「われわれの物語」を提出しているのである。
 左右の不毛な対立にいい加減うんざりした若い世代が、まったく新しい「物語」を自分たちの未来のために作り出そうとする試みは、推奨して然るべきと思う。

 米国をはじめとする他国の歴史展示――ソルティ注:著者は海外の歴史博物館などを取材し一章を当てて紹介している――を手がかりにするならば、われわれが日本の歴史を語る際にも、「100点か0点か」といった極端な発想にとらわれる必要はない、という視点が重要になる。
 日本では、右派と左派がしばしばそうした二項対立に陥ることで、歴史論争が硬直し、建設的な対話が困難になってきた、しかし、近代日本の歩みを、欧米列強に抗った正義の歴史として全面的に肯定する必要もなければ、逆にアジアを侵略した暗黒の歴史として一方的に断罪する必要もない。・・・・中略・・・・

・・・いま求められるのは、あの戦争を孤立したできごととして語るのではなく、幕末・明治維新以来の近代史全体のなかに位置づけ直すことだろう。
それは、日本の過ちばかりを糾弾することでも、日本の過去を無条件に称賛することでもない。過ちを率直に認めながら、そこに潜んでいた“正しさの可能性”を掘り起こして現在につなげる、言い換えれば「小さく否定し、大きく肯定する」語りを試みることである。それこそが、われわれの未来につながる歴史叙述ではないだろうか。

 この著者の試みが上手くいっているかどうかは、読者それぞれが読んで確認してほしいところである。
 ソルティ自身は、日本の近代史の「どの部分をどう否定し、どこをどう肯定するか」についての記述が具体性に欠けていると思ったけれど、それは本書が試論あるいは提言という性格のものであるため、あるいは紙幅の都合によるのかもしれない。
 今後、著者や後続の史家の中でさらに研究され、議論され、具体化され、熟していき、「われわれ(脱昭和世代)の物語」として形成されていくのだろう。
 平和の意志、反戦思想だけは強く持して、それをやっていただけたらと願っている。

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平和祈念公園にある平和の灯

 ときに、歴史叙述とはまた別のところで、ソルティが“あの戦争”から学ぶ大きなものがある。
 日本人の国民性である。
 戦争という非常事態、命にかかわる緊急事態だからこそ、国民性の根幹が露わになる。
 平和な時には曖昧にぼやかされている、あるいは美点として指摘されるような、“集団としての日本人の特質”が、先鋭化されて発現する。
 それは日本だけでなく、他の国でも同様である。
 ドイツ人の国民性はナチスドイツ時代において最も露わにされたし、アメリカ人の国民性は9・11直後において最も端的に世界に伝わった。

 そうした観点から“あの戦争”を振り返った時、日本人の国民性としてしばしば指摘されるのが、著者も本書で言及している「司令塔の不在」すなわち「リーダー欠如の無責任体質」であり、もっとも重要なことを「空気で決める」非合理性であり、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」「寄らば大樹の陰」の同調圧力に弱い集団主義である。
 ミステリー作家としても有名な笠井潔は、それを厳しく批判し、ニッポン・イデオロギーと名づけた。
 
 残念ながら――というか致し方ないことではあるが、この体質=国民性は“あの戦争”の時も、あれから80年経った今も、少しも変わっていないと思う。
 むしろ、昨今の排外主義の高揚や多様性に対する無理解の言説をみるに、あるいはLINEやSNSなどスマホ依存にはまった若い世代をみるに、令和の日本人のほうがニッポン・イデオロギー度が高まっているんじゃないかとソルティは危惧している。
 つまり、戦争になったら、日本人はまた同じことを繰り返すだろうと――。

 “あの戦争”を肌身で知っていた昭和の先輩たちは、そのことをよくわかっていた。
 だからこそ、たとえ“自虐史観”と揶揄されようが、声を大にして、非戦・護憲を訴えていたのだと思う。
 “あの戦争”の物語を新たにつくっていく脱昭和世代の心に留めておいてほしいのは、そのことである。
 

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おすすめ度 :★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● ウクライナ国立歌劇場管弦楽団・合唱団『第九&運命』

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日時: 2025年12月29日(月)13:30~
会場: 東京オペラシティ コンサートホール
ソリスト:
 ソプラノ   テチアナ・ガニナ
 メゾソプラノ アンジェリーナ・シ ヴィチカ
 テノール   ドミトロ・クジミン
 バス     セルゲイ・マゲラ
指揮: ミコラ・ジャジューラ

 ベートーヴェンの「運命」と「第九」のカップリングという贅沢きわまりないプログラムで、今年の音楽シーンを締めくくった。
 しかも、1834年の誕生から2世紀近い歴史と伝統を誇るウクライナの名門オケ&合唱団で。
 チャイコフスキー、リムスキー=コルサコフ、ラフマニノフ、グラズノフ、ショスタコーヴィチなども、このオケを指揮したという。
 むろん、1922~91年までの約70年間は、ウクライナはソビエト連邦の一部であった。

 2022年2月のロシアのウクライナ侵攻によって始まった戦争もなかなか終結が見えないが、その間、たびたびこのオケは来日し、各地で演奏を重ねている。
 今回もウクライナ国立バレエ団の『ドン・キホーテ』『雪の女王』『ジゼル』を演奏したほか、1月にはオペラ『アイーダ』『トゥーランドット』上演を予定している。
 ソルティは初めて聴いた。

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 会場の東京オペラシティも初めてであった。
 ソルティはアマオケを中心にクラシックを聴いているのだが、アマオケは滅多にここを使わないからである。
 会場費が高いせい?
 たしかに立派で美しいフォルムである。 
 ただ、アクセス(新宿)やホールの音響効果はいいのかもしれないが、客席の設計はとても褒められたもんじゃない。
 ソルティは、ホール後ろ寄りの3階バルコニーの最前列に座ったが、ここからだと舞台が半分しか見えなかった。
 もっと舞台寄りの席だと、舞台の2/3は隠れてしまうんじゃないか?
 管弦楽はまだしも、オペラなどまったく楽しめたもんじゃない。
 高い料金に見合わない。

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 さらに酷いのは、座席と手すりとの間のスペースが狭い上に、手すりの高さが腰位置くらいなので、身を乗り出すと1階席に転落する危険がある。
 開演前に先に座っている人の前を通って自分の席に着こうとする人は、手すりから上半身を外に傾けるようにして移動しなければならず、子どもやお年寄りなどの場合、はたで観ていても非常に怖い。
 手にしているバッグやスマホを落として、1階席に座っている人の頭に当たったら、大ケガする危険がある。
 しかも、手すりの下部を成す木の台座が水平ではなく、外側(座席と反対側)に向って傾斜している。滑り台そのものである。
 スマホを落としたら、そのまま台座を滑って、1階席に落ちて行くのは間違いない。
 なんてアホな設計をしたのだろう!
 もし、子どもが3階席から転落したり、落としたスマホが1階席の人に当たって大ケガした場合、オペラシティは訴えられても文句言えないと思う。(アメリカなら相当な賠償金を課せられるだろう)
 山登りが趣味のソルティは、これまで数百の山に登って危険な崖道に数多く出会ってきたが、ここはそれらに匹敵する危険地帯である。
 観客のことを全然考えていない人が設計したとしか思えない。
 JR京都駅を思い出してしまった。

 ホールの管理者もそのことを悟ったらしく、台座に注意書きが貼ってあった。
 また、演奏の始まる前に複数の女性スタッフが客席を回って、手に持ったパネルを示しながら、「手すりから身を乗り出さないでください」と注意喚起していた。
 アホな設計のせいで無駄な仕事を増やしたのである。

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3階バルコニー席の最前列 
1階客席に向かって台座が傾斜している

 そんなこんなで、演奏が始まる前から苛立たしさを覚えたが、ひとたび演奏が始まるやいなや、苛立ちなど吹っ飛んでしまった。
 やっぱりプロは凄い。
 やっぱり本場の音は深い。
 技術が高いのは当然と言えば当然だが、なにより一つ一つの音がすっきりして美しい。
 指揮者の求める音色、自分の出したい音色を自在に出せるのは、楽器を完璧に操ることができればこそ。
 CDでも聴いているような完成度と安定性であるが、それでいて機械的でなく、人間的な情感に満ちている。

 んん~、プロだからというよりも、苦難と向き合う者だから出せる音なのかもしれない。
 日本のプロオケの優等生的で洗練された響きとは違う。
 たぶん、苦難を知る者だけがベートーヴェンと出会うことができるのだろう。
 優等生的で洗練されたベートーヴェンが平和の証拠なのであれば、それはそれで祝福すべきことなのかもしれない。

 『第九』第4楽章のソリストと合唱も、日本人の歌い手では聞けないたぐいだった。
 なんと言っても、声量。
 3階後方までしっかり届く各ソリストの朗々たる声と力強さ。
 それぞれのメロディラインがくっきりと際立って、ソプラノ・メゾソプラノ・テノール・バスの掛け合い漫才のような四重唱の面白さが、はじめて了解できた。

 合唱団は総勢で50名ほどか。
 ステージに登場し並んだときは、「こんな少なくて大丈夫?」と思ったのだが、まったく杞憂であった。
 日本人100名集めたくらいの迫力があった。
 オケに負けていない。
 男性陣は20名(テノール、バス各10名)ばかりであったが、女性陣にまったく負けず、しっかりと存在感を示した。
 いつもは四声が入り乱れてごった煮のように聞こえる第4楽章中間部の二重フーガの部分も、各パートのメロディが明瞭に聴こえたので、曲の構造が把握できて愉快であった。
 やっぱり、ガタイの違いは大きいなあ。

 途中からはもう、オケやソリストや合唱団や指揮者の凄さより、ベートーヴェンの偉大さに驚嘆し、楽聖への感謝しか頭にのぼらなかった。

 人間は、こんな奇跡のように美しい音楽が作れるほど進化しているのに、なぜ互いに戦うのだろう?

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P.S. 東京オペラシティの公式ホームページによると、2026年1月1日~6月30日まで、コンサートホール他は設備改修のため休館するとの由。改善されることを願う。







 

 

● ドキュメンタリー映画:『日本鬼子 リーベンクイズ』(松井稔監督)

2000年日本
160分
副題:日中15年戦争・元皇軍兵士の告白

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 映画館 Strangerの黒沢清特集に行ったとき、ロビーに置いてあったチラシで本作の上映を知った。
 前から気になっていた作品であるが、観る機会がなかった。
 上映されたのは渋谷のイメージフォーラム
 1週間限定の、しかも午前中1回きりの上映。
 はたしてどれだけの人が来るかと思ったら、平日で20名くらいだった。

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イメージフォーラム

 本作は、1932年(昭和7)の満州事変から始まり1945年8月15日に終わった日本の中国侵略において、現地に派遣された大日本帝国軍の兵士らが、捕虜にした中国兵や中国人民に対して、どういった加害行為をしたのかを、加害者自らが証言したフィルムである。
 それ以上でもそれ以下でもない。
 当時の新聞記事や映像を使用しての大まかな戦争の経緯を説明するナレーションは入るものの、それは客観的な事実関係のみにしぼった高校の日本史教科書かNHKのニュース報道レベルの淡々とした解説であり、取りたてて、作り手の思想や主張が匂うものではない。
 それ以外は、制作当時70歳をゆうに過ぎていた元日本兵たち14人の証言だけで成り立っている。
 AIはもちろん、CGもない。
 BGMもない。
 気の利いた演出も装置もない。
 俳優たちを使った再現映像もない。
 ひたすら証言のみ。
 正直、もっと効果的な演出をしてくれてもいいんじゃないの?――と思うほどのシンプル過ぎる作りである。
 このテーマに関心のない人なら、単調さに飽いて、とても160分も観続けられまい。
 実際、どういう理由からかは確かめようがないが、途中退席する人が数名いた。

 このシンプルさはもちろん、客観性を保つためであろう。
 余計な演出をつけると、そのことによって作り手の主観(思想性)が入ってしまい、観る者が公正な判断をする際のバイアスになってしまうからである。
 証言になにかしら第三者の色が付いてしまうからである。
 当然、松井監督には彼なりの考えも主張もあるには違いないが、ここではあえてそれを抑えて、実際の証言のみをありのままに提示することに終始し、解釈や判断は観る者の自由にまかせている。
 それが証言の信憑性を高めることにつながっている。

監督の松井稔が14名の証言者に依頼したことは、「誰かから聞いた、或いは他の人がやっていたという話ではなく『自分が何をしたのか』だけを話してもらいたい」そして「今、振り返ってみてこう思うではなく、出征前、そして戦地で、まさにその時どう感じたのかを、曖昧な言葉でなく語ってもらう」というものだった。(チラシの映画紹介より抜粋)

 生い立ち、学歴、職業、軍隊での経歴や地位など、多岐にわたる14人の証言者。
 彼らの口から語られたのは、拷問、大量処刑、生体解剖、細菌実験、強姦、人肉食など、生々しい加害の実態である。

 ひょっとしたら、このように言う人がいるかもしれない。
 「どうせ役者を使って、中国に都合のいいことを言わせたんだろう?」
 「たしかに証言者は実際に日中戦争で戦った元兵士なのかもしれない。だが、彼らは戦後、中国で拘留されている。そのときに徹底的に洗脳されたに違いない」
 「帰国した後、“アカ”になった人たちばかり集めたんだろう?」
 「中国が制作のバックについているんじゃない?」

 観る前にソルティも、そのような可能性もなきにしもあらずと思っていた。
 が、そうした可能性は否定せざるを得なかった。
 どんな名役者であろうと――たとえば、滝沢修や加藤嘉や森繁久彌や三國連太郎のような――本作に出てくる証言者が示しているほどのリアリティは演じられまい。
 彼らは加害者本人に間違いなく、多少の思い違いはあるかもしれないが、証言の内容は明らかに彼らにとって正真正銘の事実である。
 また、組織などに洗脳された人間の喋り方には、ある決まった風がある。
 だれかに教えられた文句をただ話しているのであれば、ものの10分も聞けば、大概の者は見抜くことができよう。
 ソルティは相談の仕事を15年近くやっているが、そのおかげで身についた聴覚や嗅覚を使わなくとも、彼らの発する言葉が洗脳された者のそれでないことは分かる。
 だいたい、人生も終わりに近づいて、それなりに安楽な老後を送っていて、妻や娘や息子や孫などもいるというのに、自らの過去の悪事をわざわざでっち上げなければならない理由がない。
 社会に向けて赤裸々に告白することで、どれほどの弊害があることか。
 自らばかりでなく、愛する家族もまた非難を受ける可能性だってあるのに。

 彼らの証言を否定することはできない。
 皇軍兵士は確かに大陸で非道の限りを尽くした。
 なんの先入観ももたずに本作を観た人間は、それを事実として受け入れるほかないだろう。

 そこを前提として、ソルティが思った点をいくつか。
 まず、戦時に犯した罪に時効はあるのだろうか?
 もう――というか「まだ」というか分からぬが――戦後80年が経つ。
 当時の被害者も加害者も残り少ない。
 本作の14人の証言者で現在生きている人(100歳以上)は多分いない。(いたらスミマセン)
 加害者も被害者もすべてこの世を去った暁には、時効が成立するのだろうか?
 戦後生まれで戦争を知らない我々は、「80年以上前のことだから“関係ない”」と言っていいのだろうか?

 次に、証言者が共通して口にしている言葉があった。
 「国の為、天皇の為だからやるしかなかった」
 「上官の命令に逆らうことはできなかった」
 「軍隊では自らの勇気や優秀さを周りに示す必要があった」
 「当時罪悪感はなかった。なぜなら相手は人間以下のチャンコロだから」
 日本人の罪の意識の欠如をテーマにした遠藤周作『海と毒薬』を想起した。

 本作は、公開当時に海外でいくつかの賞をもらっている。
 英訳され海外で定期的に上映され、DVDも発売されている。
 これを観た海外の人々は、まずこれらの証言を事実と受け取るだろう。
 そこに日本人の国民性を感得するだろう。
 ナチスによるホロコーストの残虐を知った我々が、そこにドイツ人の国民性を見るように。
 そして、そのような過去の罪悪を、ドイツとは違って、否定したがる一方の日本という国を信頼できない国と思うだろう。
 高市内閣を支持する人たちは、そこのところが分かっているのだろうか?

 14人の元兵士たち、よくぞ証言してくれたと思う。
 彼らが、終戦後中国で刑に服し、日本に帰国してからの数十年、どういった思いを抱えて生きてきたのか、本作はそこまでは追求していない。
 上記の引用にあるように、そこを描くのは本作の目的ではなかった。
 それに、どうにかこうにか折り合いをつけながら、戦後55年を生き抜いてきた彼らの心の闇に踏み込むのは、聞き手によっぽどの覚悟と胆力がないとできないことである。

 観終わってソルティは思った。
 これだけの残虐行為の、被害者となって死ぬより、加害者として生き残るほうが、よっぽどきつい。

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渋谷駅前



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● なんなら、奈良23(奈良大学通信教育日乗) 再提出2発目  

 高市内閣が成立してからというもの、ソルティは鬱っぽい。
 むろん、戦前(大日本帝国)の日本にどんどん逆戻りしていく気配が増して、軍靴の響きが近づいていると感じるからである。
 高市早苗がああいう人なのは先刻承知なので今さら驚く話でもない。 
 ショックなのは、自民党議員が決選投票で彼女を選んでしまったという事実、そして(ホントかどうか怪しいと思うが)70%とかいう国民の支持率の高さである。
 昭和時代にはまったく考えられないことである。
 「自民党も日本国民もすっかり変わってしまった! 世代が代わるというのはこういうことなのか!」と暗澹たる思いがする。
 田中角栄元首相が、新人議員にいつも言っていた言葉が思い起こされる。

戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。だが、戦争を知らない世代が政治の中枢となったときはとても危ない。 

田中角栄
田中角栄元首相

 そんな鬱っぽい状態にあって届いた考古学概論レポート「再提出」の知らせは、黒い縁取りがありました♪――じゃなくて、ソルティを2日間ほど落ち込ませた。
 テキストはもちろん、多くの本やネット記事を読みこみ、千葉の国立歴史民俗博物館まで足を運び、1ヵ月半かけて作成した渾身のレポート(のつもり)だったので、徒労感がはなはだしかった。
 「この1ヵ月半を返してくれよォ~!」
 合格を前提に立てた今後の勉強計画も作り直さなければならなくなった。
 トホホ・・・・

 まあしかし、「もしかしたら蹴られるかも・・・」という予感はしないでもなかった。
 というのも、考古学概論のレポート設題に、「考古学とはどのような学問であるのか、自由に論じなさい」とあったので、ソルティはかなり“自由に”論じてしまったのである。
 おおむね、指定された6400字+αのうち、テキストとサブテキストに沿った部分は1/3(2200字+α)で、残り2/3(4400字+α)はテキストにないことばかり書いた。
 ソルティのつもりでは、考古学と関係あるテーマを複数取り上げ、「考古学とはどういう学問か」を自分なりの視点から論じたのだが、先生からの講評には、「あまりにも考古学と直接関係のない内容が多すぎます」とあった。
 結局、テキスト内容をふくらませたレベルの“自由度”が求められていたらしい。

 実はソルティ、そのあたりの注意ポイントは先刻承知であった。
 昨年12月に奈良学友会関東支部による学習相談会(東京会場)に参加したときに、卒業されたOB/OGからそのへんの秘訣は授けられていたし、ネットに掲載されている卒業生の体験談からも「“自由に”という文句につられてはいけない」という教訓を得ていた。
 分かっていたのにやってもうた。
 まるでオレオレ詐欺に引っ掛かった高齢者のよう・・・・。

オレオレ詐欺

 しかし、今回ソルティは“自由に”書かずにはいられなかった。
 というのも、考古学概論についてのレポートを書くために、人生ではじめて考古学関係の本をあれこれ読んだり、千葉くんだりまで遠足したりしているうちに、考古学の面白さを発見すると同時に、現在、考古学がたいへんな転換点に置かれていると思ったからである。
 その背景の一つが、考古学におけるAI技術を含む自然科学的方法の驚異的な成果である。
 たとえば、ナスカの地上絵の発見率が、AIの利用によって、これまでの16倍高まったとか、古代ゲノム(遺伝情報)研究によって、日本人の起源が「縄文人+弥生期渡来人+古墳期渡来人」の三重構造と判明した、とか凄すぎるではないか!
 もう一つが、『万物の黎明』という本の刊行(2021年)である。
 この本は、『負債論』『ブルシット・ジョブ』などの著書がある人類学者デヴィッド・グレーバー(2020年9月逝去)と考古学者デヴィッド・ウェングロウの共著で、邦訳は酒井隆史訳で2023年9月に光文社から刊行された。
 ソルティは、邦訳発行時に書店の平棚で見かけ、タイトルからスピリチュアル本と思って手に取った。
 が、違った。
 考古学か人類学の本で、難しそうで、しかも分厚い。
 すぐ棚に戻したのであった。
 それがこうして、奈良大学の学生になり、考古学を学ぶことになったおかげで、再び手に取ることになったのである。
 そして、この本がかなり衝撃的な、人類の歴史認識を揺るがせるような、パラダイム変化をもたらす可能性を秘めた爆弾であると察した。
 実際、世界でも日本でも、多くの人類学者や考古学者や歴史学者が、本書に衝撃を受け、影響されて、自らの研究の見直しを始めている。
 現在NHK教育テレビでやっている『3か月でマスターする古代文明』という番組も、間違いなく『万物の黎明』を下敷きにしている。
 すでに影響は広範囲に及んでいるのである。
 (個人的にも、高市内閣由来の“鬱っぽさ”を解消してくれる薬になった)

万物の黎明

 ソルティは、今回レポートを書くにあたり、どうしても上記2点を指摘せざるをえなかった。
 たとえ、設題の趣旨からはずれていようとも、書かずにはいられなかった。
 このたびの学びの最大の成果はそこにあったからである。
 よろしい。「再提出」も甘んじて受けましょう。

 今は、間近に迫る書誌学の試験の勉強(というより暗記)に追われている。
 本来ブログ記事をのんびり書いている余裕はない。
 とり急ぎ、現在奈良大学通信教育学部で学んでいる学友諸兄(姉)の参考になればと思い、一筆啓上申し上げた次第。

P.S. 卒業した暁には、「奈良大学通信教育・再提出レポート&不合格答案集」を記事に上げようと思っています。原稿が溜まりますように(笑)












● あの鐘を鳴らすのは誰? : クラースヌイ・フィルハーモニー管弦楽団 第7回定期演奏会

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日時: 2025年10月19日(日)14:00~
会場: 和光市民文化センターサンアゼリア 大ホール
曲目:
  • チャイコフスキー: 序曲『1812年』
  • ヤナーチェク: 『シンフォニエッタ』
  • ハチャトゥリアン: 交響曲第2番『鐘』
指揮: 山上 紘生

 家を出るのが遅れて、2曲目から会場入り。
 ヤナーチェク(1854-1928)ははじめて知った。
 ドヴォルザークと同じチェコの作曲家で、13歳年下である。
 曲の冒頭から、金管楽器と打楽器チームによる勇ましいファンファーレ。
 度肝を抜かれた。

 クラースヌイ・フィルは100名を超える大所帯。
 迫力がすごかった。
 思えば、ソルティがショスタコーヴィチの真価に目覚め、指揮者山上紘生の才能を知ったのは、クラースヌイとの出会いのお陰であった。 
 山上による指導はこれが最後だという。 
 感謝!

 ハチャトゥリアンについては、『剣の舞』と『仮面舞踏会』しか知らない。
 〈1903-1978〉というその人生は、同じソビエトの作曲家ショスタコーヴィチ〈1906-1975〉とほぼ重なる。
 であれば、独裁者スターリンの恐怖政治と粛清の嵐を経験しているはずである。
 ショスタコーヴィチが共産党からの批判を恐れて、自らの個性と才能を犠牲にして、党=スターリンの求める「社会主義リアリズム」の曲を作らざるをえなかったのと同様に、ハチャトゥリアンも葛藤に苦しんだのだろうか。
 そこが聴きどころである。

 交響曲第2番『鐘』がつくられたのは1943年。
 ソ連はナチスドイツとの戦い、いわゆる「大祖国戦争」の真っ只中で、1941年発表のショスタコーヴィチ交響曲第7番で知られる「レニングラード包囲戦」が続いていた。
 多くの芸術家は、好むと好まざると、戦意高揚に役立つ作品をつくることが求められた。敵の非道や残虐を訴え、国民の士気を高め、亡くなった者を追悼し、戦場の兵士を力づけ、最終的な勝利に寄与する作品である。
 それは、アジア・太平洋戦争中の日本も同じことで、木下惠介監督は『陸軍』を撮らされたし、火野葦平は『麦と兵隊』『土と兵隊』を書いた。
 国家総動員とはそのようなものである。
 ハチャトゥリアンもまた、前線の兵士を慰問し、ラジオ放送のための音楽や愛国的な行進曲を多く作曲したという。 
 この交響曲のテーマは、まさに戦争なのである。

宇宙人襲来

 第1楽章は、郷愁をそそる民族的なタッチのもの哀しい主旋律に、聴く者を落ち着かなくさせる不穏な動機がからむ。平和な街に軍靴の響きが近づいて来る。
 敵の攻撃をもって戦いの火ぶたが切られる。
 日常生活は断ち切られ、世界は一変する。

 第2楽章は、戦場そのもの。
 凄まじい爆撃と破壊、恐怖と混乱、大量の死と絶望。

 第3楽章は、レクイエム。
 葬送行進曲が流れ、死者を追悼する人々の嘆きは頂点に達す。
 敵への怒りと深い悲しみ、相反する感情に引裂かれた心は崩壊寸前。
 喪失感は尋常でない。

 第4楽章、人々は再び立ち上がる。
 いつまでも悲しみに浸ってはいられない。国を守るために、愛する家族を守るために、最後の闘いに挑まなければならない。
 やがて、黒雲に蔽われた空から光が差し込み、勝利の兆しが見えてくる。
 やはり、正義は勝つ。
 スターリンと共産党は常に正しい。
 鐘を打ち鳴らして、祖国の勝利を讃えよう!

 構成的には、ショスタコーヴィチの『レニングラード』とよく似ている。
 社会主義リアリズムの枠組みでは、そうならざるを得ないのだろう。
 ただ、ショスタコの第7番が、ナチスドイツの恐怖とそれとの戦いおよび最終的勝利を描いたのみならず、その裏に、スターリンと共産党への批判を隠し入れたと解されるようには、ハチャトゥリアンの『鐘』は政治的隠喩を含んでいないように思われる。
 警告的な響きを伴ったショスタコの第4楽章の凱歌にくらべると、勝利の喜びがストレートに打ち出されているように感じた。
 ハチャトゥリアンは、ショスタコより“体制より(保守的)”だったのかもしれない。

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和光市文化センター・サンアゼリア

 なんだか、時代はどんどんショスタコーヴィチ・モードになっている。
 世界的にナショナリズムが高揚し、欧米でも日本でも排外主義が激化し、保守の台頭が顕著である。
 自国ファーストの掛け声かまびすしい中、強大な権力を持つ独裁者の登場が待望され、歓迎されているように見える。
 人類が数万年の血みどろの試行錯誤の末にやっと手に入れた民主主義と人権が、いまや風前の灯。
 トランプもネタニヤフもルカシェンコも、習近平も金正恩もプーチンも、スターリンの子供たちって点で、右も左も関係なく共通している。
 実際、今のアメリカの状況には、目を覆うばかり。
 これが、自由と希望の国、アメリカなのか! 
 このままだと、自由の女神が倒壊し、砂の中に埋もれるのも時間の問題だ。
 日本も危ない。

猿の惑星







● 映画:『宝島 HERO'S ISLAND』(大友啓史監督)

2025年日本
191分
宝島ポスター
 
 原作は第160回直木賞を受賞した真藤順丈の同名小説。
 太平洋戦争後の米統治下の沖縄を舞台に、島の若者たちの熱く激しい青春が描かれる。
 『国宝』の175分を超える191分という上映時間にちょっと怖じけたが、始まってみたら、スクリーンいっぱいにたぎる半端ない熱量に圧倒され、最後まで集中して観ることができた。
 もっとも、前立腺治療の薬のおかげで、排尿周期が長くなったおかげが大きい。
 高齢者は観に行きたくとも、この尺の長さにはビビるだろう。
 制作・上映サイドは、超高齢社会を迎えた我が国の観客のことをもっと考えてほしい。
 だいたい、本編前の予告編だけで15分も使っているのがおかしい。
 本編を第1部と第2部に分けて、間に15分の休憩時間を入れ、そこで予告編を流せないものか。
 あるいは、入口でオムツを配布するとか・・・。
 ソルティは30年以上前イタリアに行ったときローマのポルノ映画館に入ったが、彼の地ではポルノ映画ですら“intermezzo(休憩)”があった。

 ソルティがこの映画の熱をビンビンと感じることができたのは、やはり、『ひめゆりの塔』に象徴される沖縄戦の悲劇や、1972年沖縄返還まで米国の支配下にあって朝鮮戦争やベトナム戦争の出撃・後方支援基地として使われた沖縄の事情や、島民たちの悲惨な生活実態を学んでいたからである。
 太田隆文監督によるドキュメンタリー『沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』、大江健三郎の『沖縄ノート』、沖縄随一の売春街であった真栄原社交場を描いた藤井誠二の『沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち』、沖縄返還交渉をめぐる日米間の密約問題をテーマにした山崎豊子の『運命の人』、台湾有事に揺れる現在の沖縄を描いた三上智恵監督によるドキュメンタリー『標的の島 風かたか』、もちろん、真藤順丈の原作も読んだ。
 本土返還50周年にあたる2022年には、3泊4日の沖縄戦跡めぐりをした。
 ゆえに、この映画を観るのにまったく解説を必要としなかった。
 原作を読んでいない、沖縄戦をよく知らない、沖縄返還もはじめて耳にした、レジャー&スピリチュアルスポット以外の沖縄文化に触れたことのない人々が、本作を観て、どれくらい内容を理解できるのか、どれくらいウチナンチュー(島民)の思いに心を寄せることができるのか、ソルティにはわからない。
 ただ、その断絶の前には、「登場人物たちが話す沖縄方言がわからない」なんてのは些末な事柄に過ぎない。

 まったく前提知識が無いまま鑑賞しても、ストーリーを理解し映像を楽しむことができるのが、映画という娯楽の必要条件とするならば、もしかしたら、この映画は成功していないのかもしれない。
 しかし、たかだか191分!で、沖縄の人々がこの80年間体験し感じてきたことを理解するなど、そもそも絶望的に不可能なのである。
 ならば、戦後生まれのヤマトンチュー(島民以外の日本人)にできるのは、スクリーンにたぎる熱量をそのまま全身に受け止め、言葉を失くすことだけであろう。
 その熱は観る者の血管に浸透し、体中をめぐり、エイサーの太鼓の響きのごと鼓動を鳴らすに違いない。
 理解できないことに醒めた態度をとる人間の卑小さを気づかせるに違いない。
 何があったか調べるのは、そのあとからで遅くない。

魂魄の塔
魂魄の塔
沖縄戦で犠牲になった35,000人の遺骨が埋まっている

 熱量の源となっている役者たちの演技が素晴らしい。
 グスクを演じる妻夫木聡の本気度。『ウォーターボーイズ』の少年がここまで到達したことに目を瞠った。大人のエレベータを着実に昇った。
 ヤマコを演じる広瀬すず。本作で女優として明らかに一皮むけた。少し前に吉永小百合と共演し、小百合に気に入れられ、「わたしの演じる役の娘時代はすずちゃんにお願いしたい」と言われていたのを見て、嫌な予感がよぎった。
 が、杞憂であった。吉永小百合路線でなく、宮沢りえ路線に進んだことが証明されている。
 レイを演じる窪田正孝。こんなに存在感ある役者とは知らなかった。おみそれした。助演男優賞に値する熱演。
 オンを演じる永山瑛太。出番は多くないが、この物語のキー・パーソンである。オンの「非在」が物語を駆動する。それだけのカリスマ性がなければならない。永山は無頼なアニキの風格を見事に醸し出している。
 個人的に一番惹かれたのは、グスクとペアを組む初老の警官役の男優。
 なんとも味がある。
 この役者、だれ?
 ――と思ったら、ラストクレジットで塚本晋也と知った。
 『野火』や『ほかげ』など監督として一級であるが、役者としても実に魅力あふれる。

 米兵がたむろする夜の売春街や暴動勃発のゴザの街など、時代考証を尽くしたロケセットも見ごたえある。
 筋が複雑で、内容が重厚で、構成バランスが必ずしも良いとは言えない原作を、尊重しながらも適確に剪定した大友監督の手腕は十分称賛に値する。
 惜しむらくは、ゴザ暴動まで保ってきた緊張の糸が、そのすぐあとの米軍基地内のシーンで途切れてしまう。
 武装した米軍兵士たちの前で、主人公たちがいきなり“青春漫才”をおっぱじめる。
 いささか興冷めした。
 ここは映像によって語らせたかった。

シーサー

 現在上映中の本作への評価は二分しているようで、興行的に苦しんでいる模様。
 だが、日本人とくにヤマトンチューは観ておくべき映画と思う。
 左も右も関係なく。(だいたい排外主義を唱える連中が米軍基地撤退を唱えない不可思議。本物の保守はどこに行った!?)
 この映画をヒットさせられない現代日本の文化状況の貧しさ、令和日本人の政治意識・歴史認識の欠落が哀しい。
 少なくとも、『国宝』と『宝島』が同じ年に公開された日本映画界の奇跡を、劇場に足を運んで目撃することは、十分な意義がある。

普天間飛行場
普天間飛行場に並ぶオスプレイ

P.S. 上映終了後、白杖をついた男がいるのに気づいた。191分を“聴いて”、脳内スクリーンに沖縄の風景を描いていたのか! やはり映画は「見る」ものでなく、「観る」ものなのだ。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 映画:『モガディシュ 脱出までの14日間』(リュ・スンワン監督)

2021年韓国
121分
 冷戦の終結とともに始まったソマリア内戦。
 独裁的なバーレ政権の打倒を目指す反政府軍は各地を制圧していく。
 1991年1月、ついに反政府軍はソマリアの首都モガディシュに攻め入る。
 反政府軍と政府軍は激しい銃撃戦を街中で展開し、首都は混乱を極める。
 攻撃の先は各国大使館にも向かい、関係者には一刻も早い国外退去が迫られる。
 暴徒に大使館を打ち壊され、行き場を失った北朝鮮の大使館員とその家族たちが、最後の砦として助けを求めたのは、韓国大使館であった。

 当時ソマリアの韓国大使館に勤務していたカン・シンソン大使が引退後に書いた小説『脱出』の映画化、つまり実話がもとだと言うから驚く。
 北朝鮮と韓国。
 簡単には解きほぐせない複雑な因縁ある両国が、ソマリアから脱出するために協力し合ったというのだから。
 事実は小説より奇なり。
 ――というか、現実世界のどうしようもない悲惨さと不条理、人類が抜け出せない無明の底知れなさを痛感する。

 もっとも、映画のスタイル自体は、事実を淡々と描くドキュメンタリータッチとはほど遠く、バイオレンス&アクション&パニック・サスペンス&人間ドラマとして楽しめる娯楽作品仕立てになっている。
 相当な脚色がほどこされていると思われる。
 ラストシーン近くの街中でのカーチェースやイタリア大使館前でのすさまじい銃撃戦など、漫画チックあるいはテレビゲームチックですらある。
 そのぶん、手に汗握る興奮度。
 韓国映画界のパワーを感じざるを得ない。

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OpenClipart-VectorsによるPixabayからの画像

 本作で描かれる韓国人と北朝鮮人の関係を見ていると、自然と、1994年のルワンダ虐殺を描いた『ホテル・ルワンダ』(テリー・ジョージ監督)を想起する。
 ルワンダ虐殺は、フツ族過激派によって引き起こされた120万人以上のツチ族虐殺。世界史上もっとも残酷な民族紛争であった。
 が、民族紛争という名が正しいのかどうかは疑問である。
 フツとツチは同じ人種に属し、同じ宗教、同じ言語を共有し、文化的にも似通っている。2つの集団の違いは民族性の違いというより、政治的・人工的につくられたものなのである。
 朝鮮戦争の結果、38度線を境に北と南に分けられた北朝鮮と韓国の状況もそれによく似ている。

 映画の中で、韓国大使館に逃げ込んだ北朝鮮大使館一行と、ためらいつつも彼らを保護した韓国大使館一行とが、ひとつの食卓を囲むシーンがある。
 同じ顔立ち、同じ背格好、同じ言語、同じ食文化、同じルーツをもつ人々が、敵と味方に別れて反目し争わなければならない不条理。
 実際、主要キャラ以外は、どっちがどっちの大使館関係者なのか最後まで区別がつかない。
 世界中の誰よりも近いところにいて、誰よりも理解し合えるはずの二つの民が分断されている現実。
 その原因の一端が日本にあることを知らずに、この映画を見ることは許されまい。

 子供が銃を持つのが日常風景の国がある一方で、里に下りた熊を駆除するかどうかの議論で炎上している日本の平和に乾杯。

teddy-1980209_1280
dorisによるPixabayからの画像



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