2022年集英社新書
全共闘世代(1947~49年生まれ)である小説家の笠井潔と文芸評論家の絓秀実が、“1968年”をテーマに語り合った対談本。
外山恒一(とやまこういち)という1970年生まれの政治活動家が聞き手をつとめている。
この人については知らなかったが、なかなか過激な男のようだ。
絓秀実をこれまで数十年間、「けい・ひでみ」と解してきた。
「すが・ひでみ」である。
絓という字は、音読みで「カイ」、訓読みで「しけ」。
その意味は「繭の上皮。粗悪な絹糸・真綿の材料となる」(小学館『大辞泉』)。
どこから「すが」が出てくるのか?
Wordの漢字変換でも出てこない。
LoggaWigglerによるPixabayからの画像
全共闘世代にとって、1968年という年は特別なものであるらしい。
そのことの意味がソルティにはよく分かっていなかった。
だいたいソルティが常々不思議に思っていたのは、1960年と1970年の二つの安保闘争がマスメディア等で語られる際に、60年安保の象徴というかハイライトがまさに1960年6月19日の日米安全保障条約承認の周辺、すなわち唐牛健太郎が活躍した6月10日の羽田空港のハガチー事件、あるいは樺美智子が圧死した6月15日の国会前デモに当てられるのに対し、70年安保のそれは1970年6月22日の安保条約自動延長決定の周辺ではなくて、1968年10月の新左翼による新宿騒擾事件であるとか、1969年1月の東大安田講堂事件であるとか、1972年2月の連合赤軍あさま山荘事件に当てられる点である。
どれも安保とは直接関係ない。
いずれも日本中を騒然とさせた大事件であったし、ビジュアル的なインパクトからマスメディアが繰り返し取り上げたがる理由も分からないでもない。
が、それによって70年安保が、日本の平和と自立を求める市民運動というより、暴力的かつ反社会的かつ陰惨な結末で終焉した若者たちのあやまちといった偏ったイメージでしかとらえられなくなってしまった感は否めない。
同じ安保闘争と言っても、60年安保と70年安保は質的にずいぶん異なるように思われる。
60年安保が日米安全保障条約の撤廃や岸信介首相退陣を求めることに焦点が置かれた、わかりやすい社会運動であるのにくらべ、70年安保はそれ以外の付帯物があまりに多い。
全共闘をリーダーとする学園紛争であるとか、ベトナム戦争反対運動であるとか、沖縄返還問題であるとか、三里塚闘争であるとか、セクト化した新左翼の内ゲバであるとか、三島由紀夫と全共闘の対決であるとか・・・。
焦点がどこにあるのかよくわからない。
安保問題はむしろ後景に退いてしまったかのように思える。
おそらく、その謎を解くのが“1968年”なのだろう。
東大安田講堂
青年活動家として当時を生きた笠井と絓の対論は、左翼用語はもちろんのこと、ソルティが聞いたことない事件や活動家や団体の名前が次から次へと飛び出し、内輪話的なものや小難しい思想談義もあり、外山や編集サイドの注釈をもってしてもすべてを理解するのは難しい。
池上彰と佐藤優の『日本左翼史』シリーズを読んでいなかったら、まったくのチンプンカンプンだったろう。
三人の発言からいくつか拾う。
笠井 日本に限らず“68年”の最も重要なポイントは“大衆蜂起”・・・・笠井 戦後民主主義の国民運動だった60年安保を、学生や市民の群衆運動としての“68年”が乗り越えた・・・・外山 “68年”の最重要のスローガンは“戦後民主主義批判”・・・・絓 “68年”のメインのスローガンの一つだった“大学解体”が、全共闘学生たちの闘争とは無関係に、すでに実質的に始まっていたということでもあると思います。逆に、“60年”の学生たちは、“大学解体”なんて夢にも思わなかったでしょう。笠井 “68年”が画期的だったのは、「失われた30年」の間に生まれ育った若者には想像もつかないだろうけれども、“豊かな社会”を拒否する叛乱だった・・・・笠井 “68年”とは一体何だったのか、その後もずっと考え続けて、やがて閃いたのは、1848年の革命がそうであったのと同じような意味で、“68年”も“世界革命”だったということ・・・・
強引にまとめると、1968年とは、「戦後民主主義を批判する大衆レベルの革命の機運が最高度に高まった年」ということになろう。
その延長線上に70年安保を位置づけるならば、たしかに60年安保と70年安保の意味はまったく異なってくる。
いや、“68年革命”を、60年にせよ70年にせよ安保闘争の枠組みに入れて論じること自体が誤っているのかもしれない。
安保条約の撤廃を求めて声を上げデモに行った(全共闘世代以外の)国民の多くは、さすがに戦後民主主義を否定することまでは考えていなかったであろうから。(戦後ずっと自民党政権が続いていたことが示すように)
いったい、なぜ全共闘あるいは新左翼の若者たちは戦後民主主義を批判し、革命を望んだのか?
笠井はこう記す。
今風に言えば“承認”をめぐる不全感や飢餓感が、日本の“68年”を駆動させていたことは確かですね。それが敗北していった果てに、政治性を一切脱色したアイデンティティ探究が青年たちの間に広がって、それが“自分探し”と呼ばれるようになる。つまり、“自分探し”自体が、“68年”の敗北の一形態なんだ・・・平和で繫栄する戦後社会の頽落に耐え難いものを感じ、黙示録的な破局と世界の一新を渇望していた青年たちが、その果てに「戦争とか火の海の世界が一瞬見えた気がした」、「戦争なんだ」と一瞬だけにしても信じた。その「妄想」の帰結を、連合赤軍の大量「総括」死として否応なく突きつけられたとき、足許が崩れ落ちていくような衝撃に見舞われ、暗澹たる精神状態に陥っていく。
これはまさに笠井潔の『哲学者の密室』の主題そのものである。
哲学者パルバッハ(ハイデガーがモデル)の説く「死の哲学」に魅せられた気概ある若者は、ヒトラーの説く理想国家「第三帝国」の建設に共鳴しナチスを支持するが、やがてホロコーストという大量「総括」死を否応なく突きつけられ、信仰とアイデンティティの瓦解をみる。
であるのならば、“1968年”とは笠井にとって、「死の哲学」を信じ充実感をもって生きられた“至福の時間”だったということになるであろうし、同時に、決して繰り返してはいけない“魔の時”ということにもなるはず。
そうしたアンヴィバレントな思いが笠井の発言からは感じとれる。
一方、絓にとっての“1968年”はそこまでの実存的意味合いはなかったようで、同じ全共闘世代でも受け取り方はさまざまであることが察しられる。(当たり前の話だが)
一方、絓にとっての“1968年”はそこまでの実存的意味合いはなかったようで、同じ全共闘世代でも受け取り方はさまざまであることが察しられる。(当たり前の話だが)
革命を夢見る権利はだれにでもある。
政治運動に身を捧ぐ自由もだれにでもある。
さらには、理想に燃えていた青春時代を反芻するのも個人の勝手である。
だが、自らの個人的な疎外感や空虚を埋めるために、「平和で繁栄する戦後民主主義社会」に満足してそれなりに幸福を感じて生きている大衆を下に見て、戦争や革命を志向するのはハタ迷惑な行為であろう。
それこそ90年代にオウム真理教の幹部たちがやったことだ。
政治運動に身を捧ぐ自由もだれにでもある。
さらには、理想に燃えていた青春時代を反芻するのも個人の勝手である。
だが、自らの個人的な疎外感や空虚を埋めるために、「平和で繁栄する戦後民主主義社会」に満足してそれなりに幸福を感じて生きている大衆を下に見て、戦争や革命を志向するのはハタ迷惑な行為であろう。
それこそ90年代にオウム真理教の幹部たちがやったことだ。
「生」の強度がほしいのなら、ウクライナでもガザ地区でもアフガニスタンでもロッククライミングでも山口組でもSMクラブでもハプニングバーでも、受け入れ皿はいくらでもあろう。
「1968年」論は、国内だけでなく世界の動向も含めて、いろいろな人が書いている。
遅ればせながら、少しずつ追っていこうかな。「1968年」論は、国内だけでなく世界の動向も含めて、いろいろな人が書いている。
おすすめ度 :★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損
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