ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

反戦・脱原発

● 市民憲法講座:『憲法と国葬について考える』を聴く


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日時 2022年9月24日(土)18:30~20:30
会場 文京区民センター(東京都文京区)
講師 石村修(専修大学名誉教授・憲法ネット103)
主催 許すな!憲法改悪・市民連絡会

 ソルティが安倍元首相の国葬に反対する一番の理由は、「国葬するにふさわしい人と思えない」に尽きる。
 統一協会と、自民党安倍派を筆頭とする国会議員たちとの癒着を推し進めた親玉だったのだから、国を挙げて国税を丸々使って葬儀するなんて、とんでもないことである。
 それがなくとも、「モリ・カケ・サクラ」の疑惑は払拭されないままだ。
 安倍さんが日本のために他にどんないいことをしていたとしても、差し引きすればマイナスだろう。
 大平首相の亡くなった時のように、自民党と内閣で送れば十分だと思う。

 決定過程にも大きな問題がある。
 日本国憲法下では日本国の象徴である天皇だけに認められている国葬を、長期政権を維持した首相とは言え、法的には我々と同じ一国民に過ぎない人間に適用するにあたって、閣議決定のみで決めるというのはあまりにおかしい。
 それなら、日本国民の誰でも――山口組組長でも山上徹也容疑者でも志位和夫共産党委員長でも森喜朗元首相でも――閣議決定だけで国葬できることになってしまうではないか。
 岸田首相は、内閣府設置法4条を盾に「法的根拠がある」としたいようだが、そこまでの権限を内閣に与えたつもりはない。
 その人が「国葬にふさわしいかどうか」を決めるのはあくまでも国民であるべきだ。
 であるなら、民意の代表である国会にかけるのが自明の理。
 内閣は民意の代表ではない。
 現在与党が過半数を占める国会にかけたら、「安倍元首相の国葬」は賛成多数で可決されるかもしれないが、その場合、こうまで国民の反対の声が大きくなることはなかったであろう。
 民主主義尊重の手続きを怠ったところは容認できない。

 しかしながら、対象が安倍元首相ではなく、ソルティが個人的に「国葬するにふさわしい」と思える人――たとえば中村哲医師(2019年12月4日逝去)とか緒形貞子(2019年12月22日逝去)とか――であった場合を想定したとき、決定過程の不自然さを今回のように追及するかと訊かれたら、正直のところそうでもないかもしれない。(こうしたダブルスタンダードは本来よろしくない)
 つまり、ソルティの反対理由の最たるものは、やはり、「安倍元首相は国葬にふさわしい人物ではない」という点にあるのだ。
 で、こんな人物評定みたいなことをしなくちゃならないのは、安倍昭恵さんはじめ悲しみにくれている遺族のことを思うと、ほんとは嫌なんである。
 故人の悪口なんか大っぴらに言いたくない。
 多くの国民がそうせずにはいられないような状況を作ってしまった点で、現内閣は大いなる失策をしたと同時に、安倍元首相及び遺族を無用に傷つけてしまったと言うべきだろう。

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 いくぶんに主観的な安倍元首相の人物評・政治家評はともかく、客観的な法的根拠については、実際のところどうなんだろう?
 それが気になって、物凄い雷雨の中、本講座を聴きに行った。
 文京区民センターは、地下鉄春日駅・後楽園駅のすぐ近く。
 参加者は30名弱であった。

 国葬の定義(「国家が主催して、国家がすべての費用を支払う葬儀」)から始まって、明治維新以降の国葬の歴史、大正15年に制定された「国葬令」の中味、日本国憲法施行以降の国葬の事例、そして法的根拠の如何などが、配布資料をもとに語られた。
 初めて知って驚いたのが、大久保利通(明治11年)、岩倉具視(明治16年)、明治天皇(大正元年)、昭憲皇太后(大正3年)らに並んで、大正8年に李太王、大正15年に李王の元韓国皇帝2人が国葬されていたことである!
 これは、当時朝鮮半島が日本の植民地になっていて、2人の国王が日本政府の傀儡だったことによる。朝鮮半島支配に利するべく、国葬を悪用したわけである。
 この史実、日本はもとより韓国の歴史教科書にも載っていないそうだ。

 さて、法的根拠を議論する上でポイントとなるのは、1947年日本国憲法施行とともにそれまであった「国葬令」は効力を失ったのだが、その際、新たに法律を作らなかった点である。
 ここで「国葬に関する法律」というのを作って、「誰を対象とするか、どうやって決定するか」など委細決めておけば、その後の混乱は生じなかった。
 その法律を制定しなかったので、その後、皇室典範が適用される昭和天皇崩御(1989年)の場合を除く貞明皇后(大正天皇后)・吉田茂元首相・香淳皇后(昭和天皇妃)の逝去に際して、法的根拠を曖昧にしたまま「準国葬」とか「国葬の儀」といったネーミングでごまかした「国葬モドキ」が実施されたのである。
 もっとも重要なことを曖昧にして(棚上げして)おいて、いざとなったらあたふたとし、場当たり的な対応でごまかす――これは日本人の悪い癖であろう。
 いずれにせよ、答えは明らか。
 明確な、万人が納得できる法的根拠は存在しない。

 加えて石村氏は、9/27の安倍元首相の国葬が「実体的憲法違反」になる可能性に関して、以下の5つを指摘した。(配布資料より抜粋)
  1. 平等原則違反(憲法14条)・・・国葬の実施は、人の死に価値順列をつけることにより、国民を等しく扱うものではない。
  2. 財政立憲主義違反(同83条)・・・国葬の実施は、金額が多いこと、緊急性が薄いこと、法令に根拠がないことを考慮して、国会の審議・議決を必要とする。
  3. 国民の内心の自由の侵害(同19条)・・・国葬が実施されることに伴い、行政機関、地方自治体、私的団体によって、国民に一定の強制行為が促されるおそれがある。この行為がなされた場合には、思想・良心の侵害があったとして、損害賠償の請求が求められる。
  4. 政教分離違反(同20条3項)・・・国葬の実施と絡んでなんらかの宗教的な要素が介在した場合には、国民の信教の自由が侵害され、国家が特定の宗教を助長したものとして、政教分離違反になるおそれがある。 
  5. 国葬への反対行動への規制(同21条)・・・国葬当日、会場周辺にて反対行動を行うことが制限された場合、特定の内容の危険性のない行為まで根拠なく制限することは、表現の自由侵害となりうる。

 最後に、石村氏は次のように聴衆に投げかけた。
「そもそも、国家が先頭に立って何かをするというやり方は、いい加減止めた方がいいのではないでしょうか? その最たるものが戦争ではないでしょうか?」

 故人が国葬にふさわしいか否かを問うのでもなく、国葬の決定に法的根拠があるか否かを如何するのでもなく、大喪の礼を含めた国葬そのものの是非を問うという視点。
 ソルティは、そこまでは突き詰めていなかったな・・・・・。

 9月27日は半休取って、国会議事堂前に詰めるつもりでいる。

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● ドキュメンタリー映画:『沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』(太田隆文監督)

2019年青空映画舎、浄土真宗本願寺派
105分
ナレーション:宝田明、斉藤とも子

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 戦死者20万656人。日本で唯一の地上戦が行われ、県民の4人に1人が死亡した沖縄戦。
 それはどのように始まり、どのように終わったのか。
 どれほどの悲惨と残虐と苦しみがあったのか。
 これほど多くの民間人が犠牲になった背景にはいったい何があったのか。
 沖縄戦体験者12人の証言と専門家8人による解説、そして米軍が撮影した記録映像を用いて、時系列でわかりやすく克明に描いている。

 下手な解説やコメントはすまい。
 これはぜひ観てほしい。
 国家というものがいかに狂気なシステムになりうるか、ファシズム下の学校教育がどれだけのことを成し遂げるか、人間がどれほど無明に閉ざされているか、嫌というほど実感させられる。

 ソルティはこれまでに仕事で1度、観光で2度、沖縄に行っている。
 しかし、沖縄戦の関連施設を訪ねることはなかった。
 ひめゆりの塔、対馬丸記念館、沖縄陸軍病院跡、佐喜眞美術館・・・・。
 一度は行っておくのが、沖縄を本土決戦のための時間稼ぎの防波堤として利用した「やまとんちゅう(本土の人)」の義務だろう。

 ナレーションをつとめた宝田明(2022年3月逝去)は、ハンサムでダンディな俳優として知られたが、戦後満州で11歳まで過ごし、自身もソ連兵の銃弾で瀕死の重傷を負った過去があるという。
「なぜに子供たちは、親を奪われねばならなかったのか」
「なぜに子供たちは、実の親の手で殺されなければならなかったのか」
 ラストシーンの慟哭そのものの語りはそれゆえであったか。

 懼れるべきは、他国に攻撃される可能性なのか?
 それとも、自国がファッショ化し、自国に心を殺される「今ここにある危機」なのか?


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多くの子供達が本土疎開のために乗った対馬丸は
アメリカの潜水艦によって撃沈された





おすすめ度 :★★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 映画:『ひめゆりの塔』(今井正監督)

1953年東映
130分、モノクロ

 ドキュメンタリー映画の俊英、今井正監督による本作は、吉永小百合主演による1968年版(舛田利雄監督)とくらべると、やはりドキュメンタリー色が強く、全編リアリズムにあふれている。
 それはドラマ性が弱い、すなわちエンターテインメントとしてはいま一つということでもあるが、いったいに、「ひめゆり学徒隊の史実をエンターテインメントで語ることが許されるか!」という思いもある。
 物語の背景や人物関係がわかりやすく、随所に感動シーンがあり、映画として楽しめるのは68年舛田版。一方、豪雨の中での担架を抱えた部隊移動シーンや米軍による無差別爆撃シーンなど、「超」がつくくらいの写実主義に圧倒され、戦争の怖ろしさや悲惨さに言葉を失うほどの衝撃を受けるのが53年今井版である。

 出演者もまた、スター役者を揃えた舛田版にくらべると、本作でソルティがそれと名指しできる役者は、先生役の津島恵子と生徒役の香川京子以外は、藤田進と加藤嘉くらいしかいなかった。
 クレジットによると、渡辺美佐子、穂積隆信も出ているらしいが、気づかなかった。
 脚本は水木洋子、音楽は古関裕而である。
 当時、沖縄はまだ返還されていなかったので、東映の撮影所の野外セットと千葉県銚子市の海岸ロケで撮影されたという。(ウィキペディア『ひめゆりの塔』より)

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生徒たちと川遊びに興じる先生役の津島恵子
 
 すでに島の上空も海上も米軍にすっかり埋め尽くされているというのに、「大日本帝国は総攻撃により敵を撃退する。勝利は近い」と最後の最後まで国民をだまし続け、もはや敗戦が隠せなくなるや、「捕虜になるよりは国のために潔く死ね」と、国民を突き放す大本営。
 統一協会との癒着を隠し続け、安倍元首相の国葬を断行する今の自民党と、どこが違うのか!




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 
 
 
 
 

● 9.19大集会「さようなら戦争 さようなら原発」デモに行く

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 関東地方にも台風が接近中。
 午前中は地元も都内も大雨だったので、行くか止めるか迷ったが、正午すぎたら雨が止んで空が明るくなってきた。
 急いで身支度をして、家を出た。

 JR山手線を原宿駅で降りると、明治神宮前から集会場所の代々木公園野外ステージまで続く長い列ができていた。
 到着すると、ステージではプレコンサートが始まっていた。

 会場を埋め尽くす人、人、人。
 風にはためくカラフルな幟(のぼり)、思い思いのメッセージが書かれたプラカード。
 主催者発表では13,000人参加とのこと。
 やはり、安倍元首相の国葬問題がオールド左翼たちの心に火をつけた模様。

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 13:30から始まった集会は、
  • 野党各党の国会議員
  • 作家の落合恵子
  • 改憲問題対策に取り組む弁護士
  • 国葬反対を訴える若者グループ代表
  • 労組関係者
  • 福島原発反対運動の代表
  • 辺野古基地反対運動の代表
  • ルポライターの鎌田慧  
 など、15名くらいがスピーチした。
 聞いていて「上手いな」と思うスピーチのポイントは、「簡潔な言葉、声の強弱と抑揚の変化、聴衆を引き込む“間”の活用、結論を先に言う」であると思った。
 その間、雨は降ったり止んだりしていたが、強く降ることも、長く続くことも、なかった。
 直前までの大雨を思うと、お天道様が味方してくれているような気がした。

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ソルティお手製「国葬反対アンブレラ」

 15:00から待ちに待ったデモ行進。
 原宿コースと渋谷コースに分かれた。
 ソルティはLGBTパレードで勝手知ったる渋谷コースを選んだ。
 公園通り→渋谷ハチ公前→明治通り→神宮通り公園前、と歩く。 
 NHKホールの脇で出発を待っていると、狐の嫁入り(天気雨)となった。
 我々の本気度を試しているのか、お天道様よ!?

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デモの出発を待つ参加者たち

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 歩き始めるや雨はすっかり上がって、渋谷の街に若者があふれ出した。
 中高年ばかりのデモ行進を奇異な目で見ている様子。
 LGBTパレードの時は、手を振って笑顔で応援してくれたものだが・・・。
 でもね、戦争に取られるのはわしらジジババではない、君たちなんだ!

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 「原発反対!」
 「戦争反対!」
 「国葬反対!」
 「憲法改悪、絶対反対!」
 「原発は原爆だ!」
 「子どもを守れ!」

 シュプレヒコールがビルの谷間にこだました。

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● 映画:『あゝひめゆりの塔』(舛田利雄監督)

1968年日活
125分、白黒

 太平洋戦争終結間際の沖縄でのひめゆり学徒隊の悲劇を描いたドラマ。
 石原裕次郎主演の日活映画や『二百三高地』、『零戦燃ゆ』などの戦争大作、アニメ『宇宙戦艦ヤマト』シリーズなどで知られるヒットメーカー舛田利雄監督の手堅く迫力ある演出が際立つ。
 戦争ノンフィクションと人間ドラマとエンターテインメントの見事な融合である。

 主演の吉永小百合はじめ、浜田光夫、和泉雅子、二谷英明、渡哲也、乙羽信子、東野英治郎、中村翫右衛門などスター役者が揃って、1971年にロマンポルノに移行する前の日活最後の輝きといった趣きがある。
 藤竜也や音無美紀子や梶芽衣子(当時の芸名は太田雅子)もどこかに出ているらしいが気づかなかった。

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ひめゆり学徒隊に扮する吉永小百合(左)と和泉雅子(右)

 物語後半からは、B29による米軍の凄まじいじゅうたん爆撃に圧倒される。
 観ていて、日本軍相手ならまだしも民間人を容赦なく攻撃する米軍に対する憤りは当然感じるものの、それ以上に強いのは、このように民間人に多数の死者を出しても戦争をやめようとしない軍部に対する怒り、日本という国家に対する怒りである。
 サイパンを取られた時点で(本当はもっと前から)日本の敗戦は誰の目にも明らかだったのに、なぜそこで停戦講和に持ち込まなかったのか?
 本土決戦など言葉だけのきれいごとで、実際には本土蹂躙に等しかった。
 沖縄戦はじめ、本土爆撃、広島・長崎原爆投下・・・・どれだけの民間人の命が犠牲になったことか!

 昨年のコロナ禍での2020東京オリンピックでも、このたびの安部元首相国葬でも、日本という国は一度始めたことを止めることができない。
 その遂行がすでに無意味と分かってからも、益より害が大きいことが明らかになっても、国民の大多数が反対しても、政府は「聞く耳をもたない」。
 それは単純に、決めた予算の執行にかかわる問題とか関連企業の儲けとか政治家たちにわたる賄賂やリベートとか、そういった金銭的理由だけではない気がする。
 もっと根本的なところで、方向転換して改める力を欠いている。
 過ちを認められないエリートたちの宿痾なのか。
 それとも、合意形成の段階での曖昧な手続きが、いざ事態がまずくなったときに責任を引き受ける者の不在を招くのか。

 いずれにせよ、支配層の過ちのツケを払うのはいつも庶民であり、支配層は都合が悪くなるとコソコソと逃げ隠れる。
 ソルティが、戦争映画を観ていつも感じるのは、支配層に対する怒りである。
 敵対する国民――たとえばこの映画においてはアメリカ兵――に対する怒りではない。
 今回のロシア×ウクライナ戦争でも、各国の支配層と結びついたどれだけの軍需産業が儲けをふところにほくそ笑んでいるかと思うと、虫唾が走る。

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 吉永小百合は、日焼けも泥まみれや汗まみれも、ボロ着も歪んだ泣き顔も辞さない体当たりの熱演。
 沖縄の歌や踊りもそつなくこなしている。
 この役をたとえば十代の大竹しのぶがやったら、ずっとリアリティある圧巻演技になったろうなあ~と思うが、ひめゆりの名にふさわしく華があるのは小百合である。
 
 作家・石野径一郎による同名の原作は、1953年と1982年に今井正監督によって、1995年に神山征二郎監督によっても映画化されている。
 機会があったら見較べたい。





おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● 8.31 国葬反対デモに行く

 久しぶりにデモに行った。
 コロナ世になってからはじめてである。
 感染力の高いオミクロンが爆発している中、都心に行って人混みに雑じるのは避けたいところだけれど、このデモばかりは行かなくては、と思った。
 4回目のワクチンは打った。
 マスクをして、その上から眼鏡タイプのフェイスシールドをして、人と喋らないようにしよう。
 人の密集していないところで静かにデモに参加しよう。
 そう考えて、18時に国会議事堂に足を運んだ。

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国会議事堂の左翼側に場所をとる

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道路の反対側(右翼側)にステージ

 さすがに8月も終わり。
 日中こそ残暑厳しかったが、夕刻になると都心にも涼しい風が吹き、暑くもなく寒くもなく、外の集会にはおあつらえ向きであった。
 あちこちからやって来た個人や団体で議事堂前の並木道はまたたく間に埋まった。
 主催者発表によると4000人の参加。
 パッと見、50代以上がほとんどのようだった。

 反原発デモの時はもっと若い世代が多かった。
 やはり桜田淳子を知っている世代と知らない世代とでは旧・統一協会に対するイメージが違うのだろうか。
 考えてみれば、今の20代――下手すると30代も――は95年にあったオウム真理教事件すら記憶にないわけで、宗教カルトの怖ろしさがピンとこないのかもしれない。
 もっとも今日は平日。休日ならばもっと若い世代や家族連れの参加もあるかもしれない。
 
 参加者の士気を高めるちょっとしたギターコンサートのあとに、集会は始まった。
  • シュプレヒコール・・・「国葬反対」「モリカケサクラを忘れるな」「歴史の改竄、許さない」「統一協会、癒着を許すな」等々
  • 日本共産党・小池晃のスピーチ
  • 社民党・福島みずほのスピーチ
  • 立憲民主党・阿部知子のスピーチ
  • NPO法人「mネット 民法改正情報ネットワーク」スタッフのスピーチ
  • NPO法人「アジア女性資料センター」スタッフのスピーチ 
  • 上智大学の政治学者・中野晃一のスピーチ
 小池、福島両氏のスピ―チはさすがに上手かった。簡潔にして迫力がある。
 二つのNPO法人が訴えたのは奇しくも同じテーマで、ずばり「ジェンダーとセクシュアリティ」。
 選択的夫婦別姓制度、同性婚法制化、学校における性教育・・・・これらの政策が、旧・統一協会の教義と結びつくような形で自民党とりわけ安倍派によって否定され、推進を阻まれてきた経緯が語られた。
 そうなのだ。旧・統一協会の自民党への浸透が深まるほどに、性教育バッシングは強くなった。
 当時HIV関連のNPOで働いていて、学校にエイズ教育の講師として行くことの多かったソルティは、それを肌で感じていた。
 小学校でエイズの話をするとき、「エイズは輸血や母子感染によってうつります」以外の感染経路の話はしてくれるな、というところが多かった。

 アジア女性資料センターのスピーチで傾聴すべきは、「たとえ旧・統一協会の影響がなかったとしても、これらの政策を日本で推進するのは難しい。それは、我が国にはいまだに男性上位の異性愛者中心社会という枠が根強くあるからで、ジェンダーやセクシュアリティについての認識が大きく変貌しようとしている現在、保守層をはじめ不安を感じている人が多くいる」との発言。
 デモに参加していた男たちは神妙に聞いていた様子。
 中には「国葬の是非とは関係ないじゃないか」と思った人もいたかもしれない。

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配布されていたポスター

 こうした左派のデモにおいて、様々な反権力的活動をしている団体が「ここぞとばかり」にそれぞれの活動情報や近々開催するイベントのチラシを参加者に配布するのは、いつものことである。(クラシックコンサートの入場時を想起する)
 ソルティも有楽町線・永田町駅から国会議事堂前に行くまでの数百メートルで、20枚以上のチラシを渡されるがままに受け取った。
 沖縄問題、ウクライナ問題、憲法9条問題、「日の丸・君が代」問題、講演会『江戸から見た人権』チラシ(講師は『カムイ外伝講義』の田中優子氏)、福島原発による放射線被害の問題、革マル派(まだやってる!)のアジビラ・・・・等々。
 面白かったのは、「レイバーネット日本川柳班」という団体が配布していた「世直し川柳かわら版」。
 秀逸なのをいくつか紹介する。

 カネと票掴み壺から手が抜けぬ
 国葬は国を葬ることなんか
 信じる者救われなかった夏の空

 最後にもう一度みんなでシュプレヒコールをして19時過ぎに解散した。
 9月27日まで国葬反対デモが続く。
 でき得る限り参加したい。


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月(MOON)の光に浸る国会議事堂

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皇居の外堀と日比谷のビル





● ブーメランのごとく 本:『永遠の0』(百田尚樹著)

2006年太田出版
2009年講談社文庫

 ある人物がどういった人かを知るには、その愛読書を知るに如くはない。
 もっともその人が活字を読む人間であることが前提であるが。

 本書は、安部元首相の愛読書だったという。
 会う人ごとに薦めていたとも聞かれる。
 そういうわけで、安倍晋三がどういう人物であったか推測しようと思い、そうでもなければまず手に取ることはなかったであろう百田尚樹の本を読んでみた。
 ソルティの中での百田のイメージは、「頑迷で自己顕示欲の強い保守親爺」「安倍晋三びいきの歴史修正主義者」というものである。

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 ベストセラーとなり岡田准一主演で映画にもなった本書は、第二次世界大戦時の日本軍による特別攻撃隊、いわゆる零戦によるカミカゼ特攻をテーマとしている。
 終戦間際にカミカゼ特攻で亡くなった祖父・宮部久蔵の真の姿を探るため、孫である姉弟が生前の祖父を知る元兵士たちを訪問して話を聞くというプロットである。
 「臆病者だった」「熟練のパイロットだった」「あくまで命を大切にする男だった」「卑怯な奴だった」「家族思いの人間だった」・・・・複数の証言者によって語られる祖父の様々な姿。それとともにあぶり出される太平洋戦争の推移と英雄とも言えるパイロットたちの活躍、そして戦略なき日本軍の醜態につぐ醜態。

 一人の人間の真実を複数の他者の口を借りて描き出すというミステリー仕立ての構成は、有吉佐和子の『悪女について』を思わせ、読み手の好奇心を煽る。
 真珠湾から始まる怒濤の進撃で一気に波に乗るも、ミッドウェー、ガダルカナル、ラバウル、サイパン、レイテ、沖縄、原爆投下と敗退していく太平洋戦争の推移も、敗因の推測とともに非常にわかりやすく描き出されていて、下手な歴史書を読むよりずっと理解に役立つ。
 当然のことながら、軍艦や戦闘機などの機能の説明や米軍とのスリル満点のリアルな戦闘シーンなどミリタリーオタクが喜びそうな描写もたくさんある。が、ソルティのようなミリタリーに興味のない読者にとっても、わかりやすく端的に説明されている。
 姉弟が日本の各地で出会うかつての祖父の同僚たちも、リアリティ豊かにキャラ分けされ、出会いの一つ一つがドラマを生み、それによって内面の変化を遂げていく姉弟それぞれの心理描写もうまい。
 そして、最後にやって来る大どんでん返しと、人が人を思いやる気持ちが生み出す熱い感動は、ミステリーと人間ドラマの見事な融合となって読む者の心を打つ。
 小説としての出来は素晴らしい。
 これが百田のデビュー作というのだから文才はたいしたものである。

零戦

 ソルティはネットなどで見る百田の言説から推測して、本作を「国や天皇のために喜んで身を捧げた男たちへの讃美」すなわち国粋主義的英雄観がテーマかと思っていた。
 しかし、そうではなかった。
 これは「国のためでも天皇のためでも、ましてや軍のためでもなく、愛する者のために生き延びようとし、愛する者のために死を覚悟した男への讃歌」だったのである。
 ナショナリズム掲揚、天皇陛下万歳といった話ではない。
 戦略らしい戦略もなしに無謀でやけっぱちな戦闘をくり返す国家や軍への批判、配下の命など微塵も顧みず保身と出世に汲々とするエリート仕官たちへの憤り、そして米軍によってバカボン(baka bomb馬鹿爆弾)と揶揄されたカミカゼ特攻という悪魔的な愚行に対する否定を、百田はしっかりと書いている。ここでは作者は庶民の側にいる。
 百田とは政治的・思想的にまったく反対の立場にいるソルティにも、十分受け入れられる内容であった。

 それだけに、なぜ百田が安倍元首相の信者となったのか、なぜ安倍晋三が本書を愛読したのか、不思議な気がする。
 想像するに、安倍晋三は「愛する者を守るために、不当な批判や攻撃も恐れず、強い意志でもって自らを貫き通し、一身を捧げる」主人公・宮部久蔵の姿に、憲法改正に命を懸ける自身を重ねたのだろう。
 しかるに、宮部久蔵と安倍晋三とでは立場が違う。
 安倍晋三は断じて庶民ではなかった。
 生まれついてのエリートであり、国民の上に立つ為政者となるべく育てられ、国政や自衛隊を操ることのできる最高権力者であった。たとえ日本が戦争に巻き込まれても、戦場に赴くことなど決してない上級国民である。
 まさに彼こそはカミカゼ特攻のような愚かな作戦を生み出し行使できる立場にいた中心人物だったのであり、それはアベノマスクという baka bomb が証明しているではないか!
 その上に、反日教義に彩られた悪名高きカルト教団の広告塔に自ら進んでなり、天皇を象徴として戴く国体を脅かそうとした男である。
 これを愛国者という名で呼びうるだろうか?
 
  本作中で百田は朝日新聞記者を思わせる男を登場させ、戦後経済界の大物になった武田という名の元兵士の口を借りて、徹底的に左翼ジャーナリズム批判を繰り広げている。
 いわく、戦前は世論を煽って軍部に力を与え、戦時中は忠心愛国を訴え戦意高揚の徒となり、戦争に負けるや手の平を返すように正義者面して反戦と自虐史観を説く。
 確かに当たっているところもある。 
 今回の旧統一協会に関する報道においても、ジャーナリズム(とくにNHKと朝日)の姿勢には首を捻らざるを得ないところが多い。
 社会の木鐸としての使命感と、正々堂々と自己批判できる自浄能力を失っているのではないかと心配になる。
 武田の口を借りて、百田は左を撃つ。
「今日、この国ほど、自らの国を軽蔑し、近隣諸国におもねる売国奴的な政治家や文化人を生み出した国はない」
  
 まったくその通りだ。
 いまやブーメランは零戦のように空中旋回し、右に突き刺さっている。




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 本:『ケストナーの終戦日記』(エーリッヒ・ケストナー著)

1961年原著刊行
1985年駸々堂出版(高橋健二訳)

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 エーリッヒ・ケストナー(1899-1974)はドイツの詩人・小説家。
 『エミールと探偵たち』、『飛ぶ教室』、『二人のロッテ』など児童文学作家としても名高い。
 劇団四季によってミュージカル化された『ふたりのロッテ』のポスターを、駅構内や列車内で見かけたことのある人は多いだろう。

ふたりのロッテ
劇団四季『ふたりのロッテ』ポスター

 本作はその名の通り、1945年2月から8月にかけて、すなわちベルリン陥落前から広島・長崎原爆投下にかけてのケストナーの日記である。
 年譜によれば、次のようになる。
  • 2月 ヤルタ会談・・・・ルーズベルト(米)・チャーチル(英)・スターリン(ソ)によるドイツの戦後処理についての協定。
  • 4月7日 ソ連軍がウィーン占領
  • 4月20日 ソ連軍がベルリン包囲
  • 4月27日 オーストリア臨時政府、独立宣言
  • 4月30日 ヒトラー自殺、アメリカ軍がミュンヘン占領
  • 5月8日 ドイツ無条件降伏
  • 7月17日 ポツダム宣言・・・・日本の戦後処理についての宣言
  • 8月6日 広島に原爆投下
  • 8月9日 長崎に原爆投下
  • 8月15日 日本無条件降伏
 ケストナーはこの期間、パートナーのロッテと共に、ベルリン(のちの東独)~マイヤーホーフェン(オーストリアの山岳地帯)~バイエルン(のちの西独)~シュリーア湖(西独)と、食と安全を求めて転々とした。
 というのも、連合国軍の攻撃を受けドイツ敗北がすでに決定的となっていたにもかかわらず、ドイツおよび占領されたオーストリア国内では依然としてナチス・ドイツによる支配が続いており、党員や軍人による市民に対する目にあまる横暴があったからである。
 ケストナーはファシズムを非難したため当局から目をつけられ、秘密警察に二度逮捕され、執筆を禁じられ、目の前で著書を焼かれるなど、いつ捕らえられて処刑されてもおかしくない立場にあった。
 ドイツ降伏後は逮捕される心配こそなくなったが、あいかわらず窮乏生活が続き、友人・知人を頼るほかなかった。

 そのような忍耐と不安と空腹の強いられる中で、速記文字でこっそりとつけられたのがこの日記である。
 戦時下の庶民の日常がどんなものであったか、終戦間際のナチス・ドイツの混乱がいかなるものであったか、戦争が終結した喜びがどれほど大きかったか、そしてモラルの崩壊した非日常的空間において人間がいかに奇矯な振る舞いをなし得るか、具体的なエピソードでもって語られている。
 ソルティはケストナーを読むのはこれが初めてであるが、皮肉というかブラックユーモアに長けた人である。
 もっとも周囲の状況を考えれば、どんなユーモアもブッラクにならざるを得ないだろう。
 本来なら明るいユーモアを得意とする作家なのだろう。でなければ世界中で愛される児童文学など書けるものではない。

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アウシュビッツ収容所 

 読んでいると、日本の敗戦間際の状況と酷似するところが多い。
 敗戦時にはいずれの国でも同じような現象が起こるのか、あるいは日本人とドイツ人に共通したメンタリティによるものなのか。
  • もはや敗北が明らかなのに戦闘にこだわり続け、多くの国民を無駄死にさせた点。
  • マスメディアを操作し、負けているのに勝っていると国民を最後までだましつづけた点。
  • 下っ端の若い兵士に爆弾を身につけさせ敵の戦車に体当たりさせる、まるで「神風特攻隊」のようなグロテスク。
  • ラジオでは降伏について語っているというのに、子供たちに軍服を着せて武装させ、第一線に送り続ける玉砕作戦! 
 ケストナーは、ファシズムを可能にし、結果としてこういった理不尽な行動につながる背景となったドイツ的性格の欠点について、次のように述べている。

 「すべての人、上にある権威に従うべし!」という聖書の一句をわたしたちは他の諸民族よりも言葉どおりに受けとる。わたしたちの反抗をさまたげるものは、鎖だけではない。わたしたちを無力にするものは、あらわな恐怖だけではない。わたしたちは数十万人たばになって死ぬ用意がある。いつでも上からの命令があれば、悪事のためにでも死ぬ用意がある。わたしたちは集団で、号令のままに自己を犠牲にする。わたしたちは暗殺者ではない。もっとも崇高な目的のためであっても、いや、そのためにこそ、暗殺者にはならない。わたしたちの暗殺は失敗する。それは性格に結びついている。わたしたちは政治的に従属的人間なのだ。わたしたちは国家に虐待されて喜ぶマゾヒストだ。

 なんだか日本人のことを言われているような気がした。

 いま、日本の民主主義は危機的状況にあると思う。
 選挙権を手にしてから一度も自民党に入れたことのないソルティにとって何よりやるかたないのは、こうした状況を招いたのが、戦前の軍部の独走や戦後のGHQによる支配、あるいはメディアによる言論統制といった他律的な要因によるものではなく、選挙という民主的な手段、すなわち民意によって“自発的に”このようになってしまった――という点である。

 あきらめずに声を上げるしかない。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 大人は判ってくれない 本:『連合赤軍少年A』(加藤倫教著)

2003年新潮社

 1972年2月に起きた連合赤軍事件の当事者による手記。
 加藤倫教(のりみち)は兄弟3人で連合赤軍に加わり、兄を山岳アジトにおける集団リンチで失う。
 その後、警察に追われて山中を逃げ回ったあげく、弟を含む他の4人と共にあさま山荘に人質を取って立て籠もった。
 
連合赤軍事件
 大学闘争の後、武装した左翼グループが栃木県真岡市で猟銃を強奪。72年2月、山岳アジトを移動して長野県の「あさま山荘」に立てこもり、警察と銃撃戦を繰り広げた。「総括」と称して群馬県内で仲間12人をリンチ殺人、遺体を山中に埋めた。
 (出典 朝日新聞掲載「キーワード」)

 9日間の攻防ののち、機動隊突入によって山荘は破壊され、全員逮捕。
 当時19歳の加藤は懲役13年の刑を受けて服役、1987年1月に仮釈放された。
 16歳の弟は少年院に送られ、2年間の収容生活を送った。
 本書は事件発生30年後に書かれたものである。

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 この事件の概要を知るには、若松孝二監督『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2007)が最適であろう。
 左翼運動隆盛の世相、連合赤軍が誕生するまでの経緯、榛名山の山岳ベース(手作りの小屋)における異様な合宿生活、「総括」という名の集団リンチ殺人、遺体遺棄、山中逃亡からあさま山荘立て籠もり、機動隊との数日におよぶ攻防、そして逮捕に至るまで、一連の流れを警察や機動隊やマスコミや世間一般の視点ではなく、連合赤軍内部の視点で描いている。
 山岳ベースでのリンチの模様などは背筋が凍るほど怖い。

 先に映画の方を観ていたこともあって、本書の衝撃はそれほど強くなかった。
 何が起きたかは先刻承知であり、特異な思想に侵された閉鎖集団で起こる異常な人間関係やそこに醸し出される異様な空気もまた、若松によって見事に映像化されている。
 ビジュアルと活字のインパクトの差も大きい。
 活字がビジュアルに勝つには、冷静な人間観察をもとにした緻密な心理描写や人間関係の洞察、起きたことへの筆者なりの解釈が必要と思う。
 残念ながら、その部分が本書は弱いのである。
 全般、物足りない感じがする。
 これはおそらく、加藤が当時まだ十代で社会経験に乏しかったこと、組織の中では一番下にいて主要な決定の場には列していなかったこと、事実のみの記述に気を配り他人の思考や心理については憶測で書かないように注意しているらしいこと、それに「思想云々より行動」を尊ぶ加藤自身の資質などが関係しているんじゃないかと推測する。

 私や多くの仲間が武装闘争に参加しようと思ったのは、アメリカのベトナム侵略に日本が荷担することによってベトナム戦争が中国にまで拡大し、アジア全体を巻き込んで、ひいては世界大戦になりかねないという流れを何が何でも食い止めねばならない、と思ったからだった。
 幼稚な言い方になるが、私は「正義の味方」になりたかった。
 もちろん、その頃ヒーローに憧れた少年すべてが革命を夢見たわけではない。連合赤軍に入ってきた人間に共通していたのは、「思い込んだら、どこまでも突っ走るタイプ」ということだった。 
 あの時代、学生運動に参加する若者は大勢いた。だが、そのほとんどは「ファッション」として活動していたと思う。みな周囲の人間に歩調を合わせて活動に加わり、やがて自然に離れて社会に溶け込んでいった。
 しかし、私たちはそんな形で「妥協」することが許せなかった。一旦やり始めた以上、中途半端なところで終わらせたくない。革命のためなら、自分が捨て石になっても構わない。そんな気質の持ち主が集まって生まれたのが、「過激派」と呼ばれるグループだった。

 そういう自己犠牲精神をもった面々の集まりにおいて、
  • なぜ暴力による「総括」が発生したのか
  • なぜ誰もそれを「おかしい」と思わなかったのか
  • なぜそれを止められなかったのか
  • なぜ抵抗も逃走もできなかったのか(逃走した仲間をどう思ったのか)
  • どのように自らの中でリンチを正当化していったのか
  • 首謀者の永田洋子や森恒夫や坂口弘はどんな人間だったのか
  • 彼らの(特に永田の)振り回すおかしな理屈をなぜ鵜呑みにしたのか
  • 組織の中の相関図(派閥、対立、嫉妬、服従e.t.c.)はどのようなものだったのか
 内部を知る人間であれば、そういったあたり、すなわちグループダイナミックスの様相をもっと突っ込んで書いてほしかった。
 もっとも、事件は30年前のことで、加藤自身が「異常な意識状態」におかれていたであろうから、はっきりと覚えていないのが当然かもしれない。
 それを考慮すると、本書における加藤の記憶の細やかさは大変なものである。
 ソルティは30年前にあったことで、自分にとって大きなイベントを詳細に書けと言われても、日記でもつけていない限り、ここまで細かくは書けない。

 グループダイナミックス云々はともかく、加藤は自分自身が関わった動機についてはその後もずっと問い続けてきた。
 結局、自分たち三兄弟が求めていたものは何だったのか。

父の生き方に対する反発、それにオーバーラップする物質的な経済の発展と欲望充足に奔走する戦後日本社会への反発、そしてベトナム戦争に反対する気持ち――それは三人が共通して抱いていた思いだった。
 絶対的な価値観をもって目の前に存在した父の対極にあると感じられたのが、共産主義という価値観だった。共産主義者になるということで、私たちは自らの「居場所」を得ようとしていたのだと思う。
 しかし、何かを絶対視して信じることは、楽で気持ちのよいものであるが、必ず自らの思考の放棄を伴ってしまう。しかもあの時あの山の中で、最も決定的な局面において、自らの頭で考えるのではなく、絶対的なものと見えるものの方に擦り寄っていってしまった。その悔いは一生、私の心から離れることはないだろう。

 自身全共闘世代であった作家の橋本治は、全共闘の本質を「大人は判ってくれない」と喝破していた。
 片や、戦前教育を丸々受けたほとんど最後の世代(昭和ヒトケタ)。
 片や、改定された教科書で一から戦後教育を受けた世代(昭和20年以降の生まれ) 
 全共闘世代の根底にあって彼らを突き動かしていたのは、親と子の世代間ギャップだったのだろうか。
  
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おすすめ度 :★★★

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● もっともだあ! 本:『天皇陛下の味方です 国体としての天皇リベラリズム』(鈴木邦男著)

2017年(株)バジリコ

 『右翼は言論の敵か』を読んで鈴木邦男という男に興味をもった。
 現在出ているもっとも新しい著書を読んでみた。

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 本書は鈴木邦男の天皇論であり、明治から大正、昭和、平成に至る近代天皇たちのスケッチであり、天皇への熱烈なるラブレターである。
 と同時に、「愛国」「尊皇」を掲げながら現実の天皇陛下の思いや志しを無下にする言動を繰り返す反天皇主義者たちへの告発、いやいや怒りの鉄拳である。
 読みやすく、日中戦争や太平洋戦争を含む日本近代史の復習にもなり、共感・共鳴できるところが多かった。
 というより、書かれていることの9割がたは「そうだ、そうだ、もっともだあ!」と叫びたくなるものばかりで、「ソルティよ、お前はいつの間に右翼になったのか?」と思ったほどだった。
 
 鈴木の天皇論の核にあるのは次のような思いである。

 天皇とは、古来の日本人の価値観と信仰、すなわち神々への畏敬と祖霊崇拝を体現された存在です。その意味でこそ、天皇は日本の象徴なのです。いうまでもなく、日本の神とは欧米やアラブの神とは異なります。日本人にとって神とは自然そのものであり、神々(自然)によって生かされているという生活感覚が畏敬に繋がっているのです。また、祖霊信仰とは祖先があってその延長線上に現在の自分が生きている、というシンプルな原理に対する感謝の念だということができます。そして、そうした古来の価値観を祈りという行為によって表象しているのが天皇なのだ、そのように私は考えています。

 鈴木は、
  1. 象徴天皇制(立憲君主制)の維持
  2. 女性天皇および女系天皇の容認
  3. 退位や皇位継承における天皇の裁量権
を唱えている。
 これまた「もっともだあ!」と思う。
 現実問題として、天皇制をこれからも維持したいのならば、上の2.と3.は避けられないであろう。
 加えてソルティは、一般国民とまったく同程度ではないにせよ、皇室の人々にも人権を保障すべきと思っている。
 今の状態は籠の中の鳥か、国軍に幽閉されたアウンサンスーチーみたいなもので、とても幸福なものとは言えない。
 人身御供のような制度は改めるべきだ。
 
 とはいえ、ソルティは鈴木とは違って、天皇制自体は「いつか自然消滅したらそれも仕方ない」と思っている。
 それがなければ生きていけない、日本を愛せない、とは思っていない。
 1400年以上の歴史がある法隆寺が消失したら「寂しいなあ、もったいないなあ、残念だなあ」と思うのと同じように、天皇制が無くなったら「寂しいなあ、もったいないなあ、残念だなあ」ときっと思うだろうけれど、天皇制がなくとも日本は日本でいられると思うし、自分のアイデンティティを天皇制に仮託してはいない。
 もちろん、積極的に天皇制反対を唱える気はない。
 「天皇制」という物語を必要としている人がいるのは理解している。
 他人が大切とする物語を壊す気などみじんもない。(その物語がソルティの基本的人権を侵さない限りにおいて)
 いずれにせよ、ソルティが生きている間は天皇制は存在するだろうから、遠い未来の世代が決めることである。

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法隆寺
nsmaibunによるPixabayからの画像


 以下、「もっともだあ!」と共感至極なところを引用する。

 歴史から学ぶことができるとすれば個々の現象からではなく、何ひとつ変わることのない人間の本性を知るということです。その上で、現在を考えればいい。
   もっともだあ

 国際貢献をいうなら、他国に出向いて戦争をやるより難民を大量に受け入れた方がよほど世界から尊敬されるはずです。
   もっともだあ

 自民党(憲法)案第24条では、新たに家族の基本原則を定めています。家族を社会の基本単位として尊重し、かつ家族は助け合わなければならない、と規定されています。
 一言で申せば、大きなお世話です。そんなことまで国から教えを受け、強制されたくはありません。世の中の家族は人間存在の複雑さに見合って多様であり、憲法で決められるようなことではないでしょう。(カッコ内ソルティ補足)
   もっともだあ

 現在、共産党を含めて自衛隊の存在を本当に否定する国民はいないはずです。だとすれば、自衛隊を憲法の中できちんと位置付けなければまずいでしょう。堂々と自衛隊が存在する意義を宣言すればいい。その上で、徴兵はしない、海外派兵はしない、核武装はしない、という歯止め条項を明記すればいいのです。
   もっともだあ

 真の民族主義者は他国や他地域の民族主義を尊重するということです。にも関わらず、日本が一番エライ、他国は劣っているとか言いたがるエセ民族主義者がいっぱいいるんですね、今の日本には。でも、そんなのは民族主義でもなんでもない。ただの排外主義です。
   もっともだあ

 「自虐」と「内省」はまったく異なります。事実を事実として認識するということは、自虐でも何でもありません。私たちがこれからの日本のかたちを構想する時、避けて通れない内的作業であり、通過儀礼です。自国が犯した過ちについて知らないふりをしたり、忘れたふりをしちゃだめです。
   もっともだあ

 共産主義は全然ダメなシステム論だと考えているのも変わりません。どうしてそう考えるかというと、共産主義は生身の人間の在り方を想定していないからです。現実に生きる人間が有する様々な自由(欲望)への希求は無視され、机上の理論に合わないものはすべて排除される。その結果、必然的に言論は統制され、官僚によって管理された全体主義国家とならざるを得ないのです。それは、現実の社会主義国家が証明しています。
   もっともだあ

 特定秘密保護法案、安保関連法案、マイナンバー制導入、共謀罪法案の成立は、すべて線として繋がったものであり、安倍政権の感性が色濃く出ています。マスコミへの恫喝、沖縄への対応も安倍政権独自のものです。また、この政権の閣僚は問題発言を連発し、あまつさえ平気で嘘を吐き、嘘がバレても開き直ります。「森友学園」や「加計学園」の問題は実につまらない問題ではありますが、それに対する安倍政権の対応は信じられないような強弁と開き直りでした。・・・・本当に無茶苦茶な政権であり、これまで見たことがない戦後最悪の政権だといえるでしょう。その無茶苦茶さに、国民が慣れつつあることを私は危惧していました。 
   もっともだあ
 

 正直、こんなに自分の言いたいことを代弁してくれている本との出会いは珍しい。
 いつのまに自分は「一水会」信者になったのか?
 いやいや、そうではない。
 鈴木邦男が変わったのだ。
 転向について、こう述べている。 

 自分が信じ行動していたことを自ら否定するという内的作業は、思いのほか辛いものではありました。右翼の仲間は離れていくし、批判もされる。しかし、その一方で左右を問わず様々な人々と出会い、触発され視野が広がったことは楽しいことでもありました。凝り固まっていた思念が氷解し、自由に活動できるようになった解放感は格別です。その結果、過激派右翼だった頃を思うと、私はずいぶん遠くへやってきたように思います。何より、自分と考えが異なるだけで、しかも丸腰の相手を脅したり殺傷したりするという行為は本当に卑怯な行為だと思うようになりました。そんな当たり前のことが、若い頃の愚かな私にはわかっていませんでした。また、言論の自由は何にもまして重要であると確信するようにもなりました。

 なんと、潔い真摯な男だろう!
 惚れるね。

 現在、79歳の鈴木邦男は病気療養中であるらしく、活動を休止している。
 自民党(安倍政権)と旧統一協会の長年の癒着が表沙汰になった今こそ、関連のあった議員らが追究からコソコソと逃げ回ろうとする今こそ、彼の鍛えられた思想と鋭い言説がほしい。
 早く元気になっていただけたらと祈るばかり。
 

 
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● 人の世に熱あれ、人間に光あれ 本:『西光万吉』(師岡佑行著)


1992年清水書院

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 現在、島崎藤村『破戒』の3度目の映画化作品が公開されているが、今年2022年は部落解放同盟の母体である全国水平社創立100周年なのである。
 水平社設立の発起人の一人であり、日本初の人権宣言とも言われる『水平社創立宣言』の起草者が、西光万吉である。
 本書は、西光万吉(1895-1970)の生涯と思想をたどった評伝。
 著者の師岡(1928-2006)は神戸生まれの日本史学者で、部落問題に関する著書が多い。

 西光万吉(本名:清原一隆)は、奈良県南葛城郡の被差別部落内の浄土真宗本願寺派西光寺の長男として生まれた。
 若い頃から周囲の差別に非常に苦しみ、画家を目指して上京するも心を病んで帰郷、一時は自殺を考えるほど追い込まれた。
 それが日本共産党初代委員長の佐野学の『特殊部落民解放論』に衝撃を受けて、一躍覚醒し、親友の阪本清一郎、南梅吉らと共に水平社を立ち上げる(1922年3月3日)。
 1927年日本共産党に入党するも、翌年、治安維持法違反により逮捕される。
 奈良刑務所での5年間の服役中に転向を表明し、離党。
 出所後、天皇中心の「高天原(タカマノハラ)思想」を説き、国家社会主義運動に参加。
 戦時中は、侵略戦争を肯定し、帝国主義・軍国主義の旗振り役を担った。
 敗戦後、自らの戦争協力を強く反省し、日本国憲法堅持を唱え、世界平和と共栄のための和栄政策を訴え続けた。

 人物評価が難しいのは、「被差別部落解放を目指して水平社を立ち上げた」「生涯を通じて貧しい農民の味方であった」という点では、左翼の英雄に祭り上げられても全然おかしくないのであるが、一方、天皇崇拝とか軍国主義の推進という点ではまぎれもない右翼であり、獄中の転向によって「初心を忘れた」「堕落した」「体制側に寝返った」と見られても仕方ないと思えるからである。
 そういう人物が、戦後一転して「世界平和と共栄」を唱えても、「なんだかなあ~」と周囲が遠巻きに見てしまうのは無理ないところであろう。
 日和見主義者の烙印さえ押されかねない。
 そしてまた、帝国主義や軍国主義とはきっぱり決別したもの、「タカマノハラ思想」だけは死ぬまで持ち続けた。
 タカマノハラとはもちろん、『古事記』に出てくる神々の住む世界であり、天照大神(アマテラスオオミカミ)を中心とした理想郷のことである。

 西光は「タカマノハラ」に理想の社会をみた。それは「資本主義経済組織の世の中と云って、金持や地主が土地や資本を一個人でイクラでも所有して、それによって土地や資本をもたぬ多くの同胞を勝手気ままに働かせて、自分等だけが楽な生活をするために都合よく組み立てた世の中」、つまり目の前の社会とは全くちがった「神の国」であって、「天照大神を中心に、皆がみんな赤ん坊として真実に同胞として楽しく生活していたような国」なのである。

 資本主義社会において個人が土地や資本を所有して、権勢をふるうのとはちがって、「タカマノハラ」では生産が「マツリゴト」によってなされたからこそ「古代人はすべての生産物は神の物と信じていた」とみる。

 言葉を変えていえば、ソ連や中国のような“神のいない”共産主義とはちがって、天皇(という神)の赤子である国民すべてが、平等に勤労奉仕し財を分け合う共産社会――といったところであろう。
 戦前の水平社宣言なにものかは、戦後の天皇の人間宣言なにものかは、西光万吉が最初から最後まで決して捨てることなく貫き通したのは、天皇中心の国体だったのである。

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 西光万吉をモデルとした人物が登場する住井すゑの『橋のない川』を読むと、部落解放運動の推進と天皇制の否定は両輪であることが察しられる。
 解放運動家の巨星・松本治一郎(1887-1966)の「貴あれば賤あり」という言葉にみるように、天皇を頂点とする身分制あるゆえに被差別民が生みだされるという理屈である。
 また、階級社会の打倒と貧困の廃絶を唱えた共産主義の大波が、1917年ロシア革命実現のニュースに伴って日本にも押し寄せ、部落解放運動に身を投じる人々の思想的基盤とも力の源泉ともなったことが察しられる。
 部落解放運動=天皇制否定=共産主義、は切っても切れない3つの輪のように思える。(少なくとも戦前は)
 
 しかしながら、本書によれば、上記の「松本の言葉の原型があらわれるのは1930年代であって、水平社が発足した頃には西光をふくめて幹部たちは天皇に親近感を抱いていた」という。
 
 西光の場合、天皇への崇敬は、なによりも部落を部落として刻印した穢多という身分を設けた徳川封建体制を明治維新によって打ちくだき、改革をすすめ、近代国家をつくりあげ、解放令を発布し、法のうえ、制度として賤民をなくした大事業のシンボルとしての明治天皇に対する敬愛からきている。これは南や阪本もかわらなかった。 

 また、共産主義についても、「西光はマルクス主義に大きな影響を受けているが、マルクス主義を絶対化せず、相対的にとらえていた」。
 天皇崇敬が根本にあるのであってみれば、天皇制廃止を掲げる共産主義とはいずれどこかで袂を分かつのも当然であって、獄中における転向も、筋金入りの共産党員が精神的・肉体的拷問に堪えかねて離党を口にするのとはわけが違う。
 ましてや入党して1年も経っていなかった。
 西光にとって転向はそれほど大きな決断でも敗北でも屈辱でもなかったのだろう。

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 本書を読むと、ひとりの人間の複雑さというか、一個の人格を形作っているアイデンティティの多層性というものを考えざるを得ない。
 西光万吉は非常に有能で多才な人間であった。
 宗教家(僧侶)であると同時に、画家であり、作家であり、思想家であった。
 被差別部落出身の解放運動の闘士であり、慈悲深い農民運動家であり、熱心な平和活動家でもあった。
 一時は左翼の共産党員であり、戦時は右翼の国粋主義者とみなされ、「左からはファッショ、右からはアカ」と呼ばれていた。
 戦後も右翼的な思想を説きながら日本国憲法を強く支持し、おのれの行動の原理とした。
 周囲からは矛盾の塊のように思われたのではなかろうか。
 だが、こういった様々なアイデンティティの根底に変わらずあったのは、天皇への崇敬であり「国民は天皇の赤子」という信念だったのである。
 
 ひとりの人間の中にはいくつものアイデンティティが存在し、それは年齢によって、状況によって、他者との出会いによって、遭遇した経験によって、学習や信仰によって、成長によって、体力や気力の衰えによって、主役を交替して然るべきものなのではなかろうか。
 ひとつのアイデンティティなり思想なりを身に着け、それを生涯貫く人も立派であるとは思うが、「人は変わる」という可能性を信じるからこそ、我々は文を書いたり演説したりツイッターしたりデモしたり討論したり政治活動したりソーシャルワークしたりしているのであろう。
 それが自律的・主体的なものであるかぎりにおいて、転向は悪いことでも恥ずかしいことでもないし、周りが非難すべきことでもないと思う。
 ある意味、人生は、自分にとってなにが最も重要なアイデンティティかを探る旅をしているようなものかもしれない。 
 人ぞれぞれの道があり、人それぞれの時宜がある。

 真に恐れるべき、阻止すべきは、転向でなくて洗脳である。 





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● 英雄と死の舞踏 :西東京フィルハーモニーオーケストラ 第32回定期演奏会


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日時: 2022年7月10日(日)
会場: 保谷こもれびホール(東京都保谷市)
曲目:
  • サン=サーンス: 死の舞踏
  • グラズノフ: 組曲「中世より」
  • シューマン: 交響曲第2番
  • (アンコール)エルガー: エニグマ変奏曲より第9変奏「ニムロッド」
指揮: 和田一樹

 久しぶりの和田一樹。
 コロナ渦のフェルマータ(一時休止)にあって、もっとも再会を待ち望んでいた指揮者であった。

 ソルティが普段、休日に行くクラシック演奏会を選択するのに利用しているのは、i-amabile(アマービレ)というサイトである。
 それによれば和田一樹は、9日(土)にも北区王子の北とぴあで Ensemble Musica Sincera 第1回演奏会の指揮台に立ち、ベートーヴェン揃いのプログラムを振ることになっていた。
 和田のベートーヴェン、非常に聴きたかった。
 が、メインプログラムが交響曲3番「英雄」とあるのを見て、冷めるものがあった。
 というのも、最近非業の死を遂げた元首相が、あたかも「英雄」のように祭り上げられている現状にやり切れないものを感じるからである。
 北とぴあで第3番「英雄」を耳にする聴衆が、ナポレオンをモチーフにしたというこの曲に、亡くなった政治家の姿を重ねる可能性の低くはないことが想像され、その場に身を置くことは避けたかった。

 当然ソルティも故人の冥福を祈るし、暴力には反対である。
 死者を冒瀆する気はない。
 が、あまりに行き過ぎた美化はいただけない。
 安倍さんが「民主主義の護り手だった」とでも言うかのような言説には、正直驚きあきれるほかない。

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保谷こもれびホール

 というわけで、Ensemble Musica Sincera の旗揚げに後ろ髪ひかれつつ、10日の演奏会を選択した。
 会場は西武池袋線の保谷駅よりバスで10分の保谷こもれびホール、西東京フィルは2回目となる。

 配布されたプログラムによれば、グラズノフの組曲『中世より』は「めったに演奏されません」とあり、シューマン交響曲第2番はシューマンの4つの交響曲の中で「もっとも演奏回数が少ない」とある。レアなプログラムなのだ。
 ソルティもはじめて聴く。

 サン=サーンスの『死の舞踏』は、浅田真央のライバルと言われた韓国のフィギュアクイーンことキム・ヨナが、2008-9年のシーズンのショートプログラムに選んだ曲として記憶に残っている。
 キム・ヨナの滑ったプログラムの中で一番完成度が高く芸術性も高かったのは、『死の舞踏』だったと自分は思う。
 サン=サーンスの作った不気味で奇抜で、それでいてどことなく滑稽で躍動感に満ちた音楽を、キム・ヨナは見事な滑りと振り付けと表情とで表現し切っていた。
 
 和田の『死の舞踏』もまたキム・ヨナに劣らず、精彩を放っていた。
 タイトルとは裏腹に、音楽に「生」の力が漲って、瞬く間に聴衆を引き込む。
 「つかみはバッチリ」というこの指揮者の特性を再確認した。
 オケのメンバーひとりひとりに生き生きと演奏させて、ひとつひとつの音符に生命を吹き込み、生きた音楽を紡ぎ出すのはこの人の天性だろう。
 プロオケの正確無比な死んだ音楽より、アマオケの雑音混じりの生きた音楽のほうが、10倍いい!

 二曲目の『中世より』の途中から気持ちの良い忘我に引きずり込まれてしまった。
 最近は、「ちゃんと耳で聴いていなくても、体は音(の波動)を感じているのだから、音楽の効果は得られる。眠っても良し」という催眠療法まがいの身勝手な理屈を採用している。

 三曲目のシューマンはどうも曲自体が、地中で方向性を見失ったモグラのような、優柔不断というか暗中模索というか堂々巡りというか、方向性ある精神の軌跡を感じることができず、聴いていてすっきりしなかった。
 シューマンは自分には合わないようだ・・・・。

 やっぱり昨日のベートーヴェンを選ぶべきだったかな?――と帰り道で一瞬思った。
 が、その夜の選挙速報で、死の上で舞踏するかのような自民党の圧倒的勝利を見て、「やっぱり英雄視は行き過ぎだろう!」と独りごちた。

 2019年にアフガニスタンでペシャワール会の中村哲医師が銃弾に斃れたときと、かくもマスコミや世間の扱いが違うのには、不審を通り越して憤りを感じざるを得ない。
 中村医師こそは平和と民主主義の護り手であり、真の英雄であった!
 
 安倍晋三氏の冥福を祈る。


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● 本:『右翼は言論の敵か』(鈴木邦男著)  

2009年ちくま新書

 最寄り駅に街宣車がやって来た。
 一時間近く、大音量で檄を飛ばし、「9条廃止」「赤旗せん滅」と繰り返し唱和し、軍歌を流していた。
 現行憲法で保障されている言論・表現の自由があるので、どういった思想であれ、公共の場で喧伝する権利を認めるにやぶさかでないが、鼓膜を破るほどの大音量は騒音公害以外の何物でもない。
 演説場所から300mほど離れている我が家に居て、窓をぴったり閉めてさえ、うるさくて読書に集中できないほどだった。
 すぐそばの家や店の住人たちはたまらなかったろう。
 市民から「嫌われよう、憎まれよう」としているとしか思えない。
 ひょっとしたら、右翼の仮面をかぶった反保守・反自民組織による、逆効果を狙った戦略だったのかもしれない。
 ならば、とても成功したと思う。
 ソルティはその一時間でかなり左傾化した(笑)
 
騒音公害

 池上彰、佐藤優共著『真説 日本左翼史』(講談社現代新書)を皮切りにこのところ左翼に関する本を読み続けてきたが、やはり一方だけ学ぶのは片手落ちであろう。
 右翼についても少し齧ってみようと思った。
 とは言え、ここ数十年の右翼の思想家兼活動家としてソルティが名前を挙げられるのは、「在日特権を許さない市民の会」初代会長の桜井誠と、「一水会」現顧問の鈴木邦男くらいである。前者は到底許容できる範囲にはいない。
 鈴木邦男と一水会の名は『朝まで生テレビ』で右翼特集が組まれた90年代初頭から知っており、「これまでの右翼とはちょっと違う人」という印象は持っていた。
 何がどう違うかはよく分からなかったけれど、凝り固まった思想を持つ問答無用タイプの右翼とは違い、まともに議論できる理知の人というイメージをもった。
 本書の目次をざっと見たところ、戦前・戦後の代表的な右翼の大物についても紹介して、その生き様や言説を記している。
 右翼デビュー本としては手頃なのではないかと思った。
 
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 街宣車、軍歌、特攻服、旭日旗、ヤクザ(暴力団)、威嚇、改憲推進、天皇制護持、靖国賛美、北方領土問題、反共、三島由紀夫と楯の会、児玉誉士夫、笹川良一、日本会議、在特会、ヘイトスピーチ、権力(自民党、資本家)の番犬、ネトウヨ・・・・・。

 現在、大方の人が持つ右翼イメージはこんなところだろう。
 が、これらの多くは戦後の右翼に特徴的なものであって、戦前の右翼と共通するのは、天皇制護持と反共くらいのようだ。
 街宣車を発明したのは大日本愛国党の赤尾敏(1899-1990)で、昭和30年から平成2年まで続けていた銀座・数寄屋橋での街宣に端を発するらしい。
 社会人になったばかりのソルティは銀座で飲んだり映画を観に行ったりするたびに目の端にとらえていた。あのお爺ちゃんは銀座の日常風景と化していた。
 また、ヤクザと右翼が結託するようになったのは、戦後政財界の黒幕であった児玉誉士夫が、表と裏の世界をつなぐフィクサーとして君臨したことによると言う。

 右翼としての児玉がその実力をいかんなく発揮したのが岸政権下の60年安保のときだった。左翼運動の高揚に「左翼による革命前夜」と危機感を強めた右翼陣営は、政財界だけでなく裏社会にも顔の利く児玉を頼った。そこで児玉は、全国の親分衆に、「(任侠社会での)抗争を廃してお国旗のもとへ結集せよ」と呼びかけた。

 アイゼンハワー米大統領訪日反対運動の高まりに対抗して、警察力の不足を補うために、ヤクザやテキヤの大量動員が計画された。このとき、自民党幹部からの要請で、全国のヤクザに顔が利く大物親分を動かしたのが、児玉だった。

 いわば、ヤクザと右翼が一体化して時の政権に奉公するという動きがこのときから始まったのだ。それも体制側のお墨付きによってだ。

 なるほどそうだったのか・・・と納得がいったが、国家や巨大資本家といった体制側が組合や民衆運動をつぶすためにヤクザを利用すること自体は戦前にもあった。
 夏目雅子主演の映画『鬼龍院花子の生涯』や住井すゑ著『橋のない川』にも、そうした場面が描かれている。白土三平の『カムイ伝』に如実に描かれているように、社会から疎外されている者・忌み嫌われている者を手なずけて自らの番犬として使役することは、昔から権力がよく用いる手なのである。
 児玉はそれを組織的・全国的・徹底的に行ったのであろう。
 かくして、右翼=ヤクザ=自民党・資本家の犬、というイメージが刻印されてしまった。

 戦前の右翼思想家はみな資本主義体制に批判的だった。右翼は決して「資本家の犬」でないと、痛烈に資本家を批判する。そこが戦後の右翼との大きな違いだ。

 右翼は「反共」だというイメージがある。それは間違いないが、正確にいうと、マルクス・レーニン主義、ソ連・中国型の共産主義(体制)に対する「反共」であり「反社会主義」であって、広い意味でとらえると、すべての右翼が経済制度としての社会主義に反対していたわけではない。とくに戦前の右翼はそうだった。

 戦前の右翼運動は「国家革新運動」といわれたように、世直しの思想を持っていた。国家社会主義や農本主義の潮流が右翼のなかに存在した。

 戦前と戦後で右翼はずいぶん変貌したようだ。
 鈴木邦男と一水会が「新右翼」として話題をさらったのは、まさに児玉誉士夫や笹川良一に代表されるような戦後の堕落した右翼に檄を入れようと、右翼の右翼たる原点に回帰しようとしたからであろう。
 ようやっと、一水会の位置づけが分かった。

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 さて、鈴木はこう書いている。

 もともと右翼は左翼との論争を嫌う。左翼は論理で迫るが、右翼は、天皇論、日本文化論などは日本人として当然の考え、常識と思っているし、それ以上に信仰的な確信をもっている。だから、左翼とははじめから相容れない。論争など無用と思っている。「言挙げ」を嫌うのだ。憂いや憤怒は和歌をつくって表現すればよい。(ゴチックはソルティ付す)


 右翼というものが上記の通りの存在であるなら、なにも左翼だけでなく誰であろうと、右翼と対話することは不可能である。言葉が通じない。
 キリスト教原理主義者やイスラム教原理主義者の例を見るまでもなく、自らの思想を絶対視して決して枉げない相手とは議論するだけ徒労である。
 自分が正しいと思い込んでいるのだから。

 ところが、右翼であるはずの鈴木邦男は議論上手で、左右問わず、どんな相手とも対談してきた。
 テロを無くすには言論の場を確保すればいい、とさえ主張している。
 言葉の力を、対話の価値を信じているのだ。
 つまりそれは「人が変わる」可能性を信じているってことである。

 最近の鈴木邦男についてネットで調べて驚いた。
 憲法改正に「待った!」をかけている。
 死刑廃止に賛同している。
 外国人参政権を支持している。
 反韓デモを批判している。
 立憲民主党の応援演説に立っている。
 もはや左の人と言ってもいいくらいではないか!
 なんていう面白い人だ!(新書のプロフィールに自らの住所と電話番号を載せているのも含めて)
 
 右翼は言論の敵か?
 鈴木の“転向?”ぶりから察するに、言論こそが右翼の敵なのだ。
 街宣車のあの切れ間のない大音量の主張攻勢は、他者との対話を阻もうとする必死の抵抗なのだろう。


おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損








● Remember 映画:『手紙は憶えている』(アトム・エゴヤン監督)

2015年カナダ、ドイツ
95分

 ナチスのアウシュビッツ大量虐殺をテーマにしたミステリーサスペンス。
 原題は Remember
 過去の記憶が欠落した認知症の老人ゼヴ・グッドマンを主役に据えた点に、この物語のポイントがある。
 彼の腕にはアウシュビッツにいた時に刻まれた囚人番号があるのだが、その時の記憶も、死ぬ前に仇を取りたいドイツ人看守の顔も思い出すことができない。 
 まさに「想い出せ!」なのだ。
 
 昨年2月に91歳で亡くなったクリストファー・プラマー(出演作『サウンド・オブ・ミュージック』『スタートレック』『名探偵ホームズ・黒馬車の影』『カールじいさんの空飛ぶ家』他)、2019年に没したブルーノ・ガンツ(『ベルリン・天使の詩』『ヒトラー~最期の12日間~』『バルトの楽園』他)、2017年に没したマーティン・ランドー(『北北西に進路を取れ』『スパイ大作戦』『エド・ウッド』他)など、今は亡きベテラン男優たちが芸の蓄積を感じさせる深みある演技を披露している。
 特にゼヴを演じるプラマーの認知症患者の演技は、多くの認知症高齢者を介護してきたソルティから見ても真に迫っており、見事の一言。『ふるさと』の加藤嘉に迫るレベルだ。
 複雑な筋書きを95分にまとめた脚本もすばらしい。
 
 DVDパッケージの解説には「最後の5分でビックリ仰天」みたいなことが書いてあった。
 が、サスペンス慣れしている人なら、ソルティ同様、途中で結末を悟るであろう。
 想い出さないほうが幸せなこともあるってか。

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おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損

 

● マルタン・デュ・ガール著『チボー家の人々』を読む 6

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第12、13巻『エピローグ』(1940年発表)
1952年白水社より邦訳刊行
1984年白水Uブックス

 ついに全巻踏破!
 二か月くらいはかかると思っていたら、一ヶ月で達成した。
 ゴールデンウィーク中の乗りテツ読書が効いたとは思うが、なにより小説自体が面白くて、ぐいぐいページが進んだ。
 第一次世界大戦が背景となる第8巻からは、ウクライナとロシアをめぐる2022年現在の世界情勢や国内事情と重なる部分が多く、はんぱない臨場感と危機感を持って読まざるを得なかった。
 まさに今、この書を読むことの意義をびんびん感じた。
 本との出会いにも、然るべきタイミングがあるのだ。

 第12巻では、前巻のジャックの壮絶なる死から4年後(1918年)の主要人物たちの現状が描かれる。視点はチボー家の長男アントワーヌである。
 世界大戦は泥沼化し、フランスにも多くの死者・負傷者が出ている。
 アントワーヌはドイツ軍の毒ガス攻撃に肺をやられ、戦場を離れて入院療養中。会話するのも苦しいほどの重症である。
 ダニエルは太腿を撃たれて片足切断。メーゾン・ラフィットの家に戻って無為徒食の生活を送っている。自堕落の原因は実は性機能喪失にあった。
 ダニエルの母フォンタナン夫人は、チボー家の別荘を借りて戦時病院に改装し、責任者として切り盛りしている。生来の奉仕的資質と固い信仰が十全に発揮される場、すなわち生きがいをついに見出した。
 その病院で、アントワーヌの血のつながらない妹ジゼールは看護婦としてばりばり働いている。
 ジェンニーは、ジャックとの愛の結晶でありジャックそっくりな息子ジャン・ポールを立派に育てあげることに日々腐心している。

 総じて、男たちは失意や絶望や惨めさの中に置かれ、女たちは溌剌たる充実の中に生きている。「戦後女が強くなった」の言葉通り。
 だが、闘いはまだ続いておりフランスは敗けたわけじゃない。勝利の日は近い。
 国家が戦に勝とうが敗けようが、死や負傷や貧困という形でもっとも被害を受けるのは庶民にほかならない。戦場に行かない上つ方は、痛くも痒くもない。
 戦争に勝ち負けはない。それは人類すべての敗北である。

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 最終巻はほぼ甥のジャン・ポールに向けられたアントワーヌの遺書であり、フランスを含む連合国側の勝利と国際連盟設立の近いなか、アントワーヌは自らの手で安楽死を決行する。
 こうして、チボー家の父と二人の息子は亡くなり、フォンタナン家の一人息子は子供を持つことができなくなり、未来への希望は両家の血を受け継いだジャン・ポールに引き継がれるところで、物語は終わる。
 アントワーヌは日記にこう書く。

 《なんのために生き、なんのためにはたらき、なんのために最善をつくすか?》 おまえ(ソルティ注:ジャン・ポール)のいだくであろうこうした問題には、もう少し積極的な答えができるのだ。
 なんのために? それは過去と将来のためなのだ。父や子供たちのためなのだ。自分自身がその一環をなしているくさりのためなのだ・・・・連続を確保するため・・・・みずからの受けたものを、後に来る者へわたすため――それをもっと良いものにし、さらに豊かなものにしてわたすためなのだ。

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 前回の記事でソルティは、「『チボー家』にはチボー(希望)がない」と書いたが、やはりこの大河小説から希望の光を見つけるのは難しいと思う。
 死を前にしたアントワーヌは、戦争の終結およびアメリカのウィルソン大統領が提唱した国際連盟に希望を託しているが、これを書いている時点(1936年)のデュ・ガールは、むろん国際連盟が当のアメリカの不参加や日本・ドイツの脱退などで有名無実化していることを知っていた。ドイツのヒトラー出現とナチス独裁を知っていた。第二次大戦のせまる足音をその耳にとらえていた。
 ジャックそっくりのジャン・ポールが、第二次大戦にあたって父親同様の行動=良心的兵役拒否をとることは容易に想像される。ジャック同様の最期が待ち受けているだろう。(実際、フランスで2003年に制作されたドラマ版ではジャン・ポールはレジスタンス活動により処刑されるらしい。チボー家の血は絶たれたのだ)
 アントワーヌの希望が裏切られることをデュ・ガールは知っていたし、当時の読者も知っていた。
 現在の読者である我々はさらに、アウシュビッツ、広島・長崎原爆投下、ソ連や中国に見る共産主義の失敗、ベトナム戦争、湾岸戦争、ロシアのウクライナ侵攻、国際連合の無力なども知っている。
 とりわけ、プロレタリア革命による共産主義社会を夢見たジャックの希望が、文字通り夢でしかなかったことを知っている。
 どこにチボー(希望)があると言うのか?
 
 20世紀初頭のあるフランス人家族の物語あるいは3人の青年の青春群像で始まった本書は、途中から深遠なる戦争文学に発展し、最終的に不条理文学あるいは『平家物語』ばりの無常絵巻へ落着する。
 おそらく、発表当時の読者よりも2022年の読者のほうが、この小説を自らの近くに引き寄せて味読できるであろうし、デュ・ガールの世界観を深く理解・共感できると思う。
 100年寝かされて、いま飲み頃になったフランスワインのように。

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Kim BlomqvistによるPixabayからの画像



おすすめ度 :★★★★★


★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 墨の下の日本 映画:『教育と愛国』(斉加尚代監督)


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2022年日本
107分

 この映画のもとになったのは、2017年に大阪・毎日放送(MBS)で放送されたドキュメンタリー番組『教育と愛国~教科書でいま何が起きているのか~』。
 2017年にギャラクシー賞テレビ部門大賞を受賞するなど大きな反響を呼び、2019年に書籍化、その後、追加取材と再構成を行い映画版が誕生した。
 監督の斉加尚代は、MBSで20年以上にわたって教育現場を取材してきたそうだ。

 漫画家の小林よしのりらによる「新しい歴史教科書をつくる会」の結成が1996年、国旗国歌法の制定が1999年、扶桑社から市販本『新しい歴史教科書』『新しい公民教科書』が発刊されベストセラーとなったのが2001年。
 ソルティも扶桑社の教科書を買って読み、「現場はどう判断するのだろう?」と推移を見守った。
 蓋を開けてみたら、採択率が思ったほどでないのでホっとした。
 教育現場の良識も捨てたもんじゃないと思った。
 その後、つくる会が仲間割れしたというニュースもあって、教科書問題について関心が遠のいていた。
 ソルティに子供や孫がいないことも一つの理由であろう。
 その間に、安倍晋三政権が生まれ、教育基本法の改定(2006年)があり、「美しい国」キャンペーンが日本中を覆った。
 
 2022年現在、教科書問題は、教育現場は、どうなっているのだろう?
 ――という懸念から久しぶりに若者人気ナンバーワンの吉祥寺に出向いた。
 パルコ地下にあるUPLINK吉祥寺という映画館である。
 硬いテーマだし、平日の午後でもあるし、場内はガラ空きかと思ったのだが、老若男女で6割くらい埋まった。
 注目を浴びてる作品なのは確かなようだ。

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JR中央線・吉祥寺駅南口


 従軍慰安婦問題を扱ったミキ・デザキ監督の『主戦場』(2019)に匹敵すべき戦慄の内容であった。
 ここ十数年の間に教育現場はとんでもないことになっていた。
 政治が教育に介入し、検定に合格するか否かが死活問題の各教科書会社は文科省の顔色窺いと忖度に追われ、教育現場からは教員たちの主体性が奪われ、結果として、生徒たちが国家の望む臣民たるべく育てられる方向に進んでいる。美しい国に奉仕する臣民へと。

 インタビューに応じる保守の政治家や学者が好んで用いる用語が「自虐史観」。
 戦後の歴史教育が戦時中の日本国あるいは日本軍の加害者性ばかり強調するから、自らの国に誇りを持てない、自らの国を守ろうとしない民を生んだのだ、という理屈。
 戦後数十年の自虐史観を跳ね返すためには、専門家によって確かめられている史実を無視したり、歪曲したり、忘却してもかまわない、という確信犯的詐術が繰り広げられている。
 「そういうことをする国だから誇りが持てないのだ」ということが彼らにはなぜか通じない。
 右と左で、プライド(誇り)の定義が180度違っているかのよう。
 それこそ各々が受けてきたしつけや教育の影響か?

 ロシアによるウクライナ侵攻が今後の国政や教育行政に与える影響には測り知れないものがある。
 教育現場の“戦前化”はいよいよ進むのだろうか?
 いつの日か墨で塗りつぶした文字が復活する日が来るのだろうか?
 日本は核と軍隊と徴兵制をもつ“一人前の国家”へと脱皮するのだろうか? 

 自分自身や友人が、あるいは自分の子供や孫が、兵隊にとられ戦場に送られる可能性あるを知りながら、それを推進する政党に進んで投票する行為こそ、自虐の最たるものではなかろうか。 
 こんな映画を吉祥寺で観る日が来るとは30年前には毛ほども思わなかった。



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 



 

● マルタン・デュ・ガール著『チボー家の人々』を読む 5


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第11巻『1914年夏Ⅳ』(1936年発表)
1952年白水社より邦訳刊行
1984年白水Uブックス

 ジャックが死んでしまった!!
 墜落事故により重傷を負い、戦場を《こわれもの》として担架で運ばれる苦痛と屈辱の末、一兵卒の手で銃殺されてしまった!

 もとより、社会主義者の反戦活動家にして良心的兵役拒否を誓うジャックが死ぬことは分かっていた。
 兄アントワーヌや親友ダニエルより早く、物語の途中で亡くなるであろうことは予想していた。
 しかし、これほど無残にして無意味、非英雄的な死を遂げようとは思っていなかった。
 なんだか作者に裏切られたような気さえした。
 このジャックの死に様によって、『チボー家の人々』という小説の意味合いや作者デュ・ガールに対する印象が一変してしまった。
 こういう小説とは思わなかった。

 フランス動員一日目、ジャックは恋人ジャンニーやアントワーヌに別れを告げ、偽造した身分証明書を用いてスイス・ジュネーブに戻る。潜伏しているメネストレルの助けを借りて、たったひとりの反戦行動を遂行するために。
 それは、フランス軍とドイツ軍が今まさに戦っているアルザスの戦場を滑空し、上空から両軍の兵士たちに向けて戦争反対のアジビラをまき散らすというものであった。
 曰く、「フランス人よ、ドイツ人よ、諸君はだまされている!」
 元パイロットであるメネストレルはこの提案に乗り、いっさいの手配を引き受けるのみならず、自ら飛行機の操縦を買って出る。
 
 これが命を賭した無謀な作戦であることは明らかである。
 2人の乗る飛行機を敵機と勘違いしたフランス軍あるいはドイツ軍により撃墜される可能性がある。
 無事使命を果たしたとしても、着陸後に待っている軍法会議による処刑は避けられない。
 そもそも命と引き換えにしてやるだけの効果ある作戦かと言えば、おそらく「否」である。

 兵役拒否を貫きたいが自分だけ安全な場所に逃げたくはない、他の社会主義者たちが次々と戦争支持へと転向していくなか「インターナショナル」の闘いを最後まで諦めたくない――そんなジャックに残された道は、日の丸特攻隊のような一か八かの英雄的行為のほかなかったのである。
 たとえそれが実を結ばず自己満足に終わろうとも、少なくとも、狂気に陥った社会に対して一矢を報い、個人の良心と正義はまっとうされる・・・・。
 ジャックはジャックでありながら生を全うできる。
 
 作者は残酷である。
 ジャックとメネストレルを乗せた飛行機は戦場に到着する前に墜落炎上し、何百万枚のアジビラは一瞬にして灰と化してしまう。メネストレルは即死。
 ジャックの野望は頓挫し、計画は徒労に終わり、あとに待っていたのは恩寵も栄光もひとかけらもない犬死であった。
 人間の尊厳をあざ笑うかのようなこの結末は、カミュやカフカあるいは安倍公房の小説を想起させる。すなわち、不条理、ニヒリズム、ペシミズム・・・。
 ここにあるのはもはや悲劇ですらない。オセロやマクベスやリア王に与えられた尊厳のかけらにさえも、ジャックは預かることができない。
 若者群像を描いた青春小説であり「青春の一冊」と呼び声の高い『チボー家』には、チボ―(希望)がなかったのである。(まだあと2冊残されているが)
 4巻の途中まで読んだ『麦秋』の謙吉(二本柳寛)は、最後まで読んで、如何なる感想を紀子(原節子)に語ったのであろう?
 
 作者デュ・ガールは厭世的で人間不信な人だったのだろうか?
 ウィキによれば、第一次大戦時に自動車輸送班員として従軍しているようなので、戦地で非人間的(人間的?)な行為の数々を嫌というほど見てきたのかもしれない。ジャックが死ぬ間際の戦地の描写は作者自身の実体験がもとになっているのかもしれない。
 次のジャックのセリフを見ても、人間性というものに対する不信の念が根底にありそうだ。
 
 ぼくは、戦争というものが、感情問題ではなく、単に経済的競争の運命的な衝突にすぎないと信じていた。そしてそのことを幾度となくくりかえして言ってきた。ところがだ、こうした国家主義的狂乱が、今日、社会のあらゆる階級の中から、いかにも自然に、なんのけじめもなくわきあがっているのを見ると、ぼくにはどうやら・・・・・戦争というものが、何かはっきりしない、おさえようにもおさえきれない人間の感情の、衝突の結果であり、それにたいしては、利害関係騒ぎのごとき、単にひとつの機会であり、口実にあるにすぎないように考えられてくるんだ・・・
 
 それに、何より人をばかにしているのは、彼ら自身、何か弁解するどころか、戦争を受諾することを、さも理にかなった、さらには自由意思から出たものででもあるように吹聴していることだ! 

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ThePixelmanによるPixabayからの画像


 本書は、とくに「1914年夏」は、ひとつの戦争論といった読み方も十分可能である。
 国家間の戦争がどのように始まるか、戦争に賛成する人も反対する人も個人がどのように社会(国家)に洗脳され脅かされ順応していくか、ナショナリズムがどれだけ強い権力と魅力を持っているか、人間がどれだけ愚かなのか・・・・。
 悪魔の笑い声が聴こえてくるような展開なのだが、その意味で言えば、ジャックを死に追いやった男メネストレル――社会主義者の仮面をかぶった虚無主義者――の名の響きには、ゲーテ『ファウスト』に登場するメフィストフェレスに通じるものを感じる。
 しかるに、ファウストが終幕の死にあってメフィストフェレスの「魔の手」から逃れ天使たちによって天界に上げられたようには、ジャックには救いの手が差し伸べられなかった。
 当然である。
 神はとうに死んでいた。
 死ぬ間際のジャックの思考には神の「か」の字もない。 







 






● 鮮烈なる工藤夕貴 映画:『ヒマラヤ杉に降る雪』(スコット・ヒックス監督)

1999年アメリカ
127分

 工藤夕貴(1973- )は好きなアイドルの一人であった。
 ハウス食品のラーメンCM 「お湯をかける少女」で一躍人気者になり、『野性時代』で歌手デビューを果たし、石井聰互監督『逆噴射家族』、相米慎二監督『台風クラブ』の鮮烈な演技で女優としての可能性を見せつけ、ジム・ジャームッシュ監督『ミステリー・トレイン』(1989)で国際女優として歩みだした。
 向かうところ敵なしといった破竹の勢いであった。
 その“野性時代”のひとつの頂点が本作であろう。
 工藤夕貴28歳。

 原作はデイヴィッド・グターソンのミステリー小説 Snow Falling on Cedars(邦訳『殺人容疑』講談社刊)。
 舞台はアメリカ西海岸の最北端に位置するワシントン州のサン・ピエトロ島。
 太平洋戦争勃発後の日本人移民に対する偏見や迫害がもとで起きた冤罪事件を主軸に、地元の青年(イーサン・ホーク)と日本の娘(工藤夕貴)の結ばれなかった恋を描く。

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イーサン・ホークと工藤夕貴
 
 錚々たる共演陣である。
 『ライトスタッフ』『フール・フォア・ラブ』のサム・シェパード、巨匠ベルイマン作品の常連だったマックス・フォン・シドー(『第七の封印』の騎士アントニウスほか)、名脇役としてならしたリチャード・ジェンキンス、ジェームズ・クロムウェル。
 ぽっと出の新人なら緊張で固まっても仕方ないようなベテランの演技派オヤジたちの間にあって、しかも母国語でない英語だけのセリフというハンディの中で、まったく引けを取らない、むしろ周囲を食ってしまうほどの鮮烈な輝きを見せる工藤夕貴の傍若無人ぶりが印象的である。
 デビュー当時、七光りと言われるのを嫌い、往年の人気歌手・井沢八郎の娘であることを隠していたエピソードは有名だが、親譲りの才能はむろんのこと、強い意志と努力の人なのだろう。
 いまや井沢八郎こそ、工藤夕貴の逆七光り。(この関係は藤圭子と宇多田ヒカルに似ている?)

 スコット・ヒックス監督は、実在のピアニスト、デイヴィッド・ヘルフゴットの半生を描いた映画『シャイン』で一躍有名になった。
 ソルティは未見だが、本作を観ると西洋絵画のあれこれを想起させる絵作りの巧さが特徴的である。煽らない丁寧な語りも好ましい。
 思いがけない掘り出し物といった体の傑作であった。

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おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損







● マルタン・デュ・ガール著『チボー家の人々』を読む 4

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第10巻『1914年夏Ⅲ』(1936年発表)
1952年白水社より邦訳刊行
1984年白水Uブックス

 物語もいよいよ佳境に入った。
 第10巻は、オーストリアがセルビアに宣戦布告した1914年7月28日から、オーストリア支援のドイツが、セルビア支援のロシアが、それぞれ動員を開始し、ドイツとは長年の敵対関係にありロシアとは同盟関係にあるフランスも内外からの参戦の慫慂を受けてついに動員令を発布する8月1日直前まで、を描いている。
 各国が急速に戦時体制に移行しナショナリズムが高揚する中、国を越えた第2インターナショナル(社会主義者たち)の反戦運動は弾圧され、抑圧され、はたまた内部分裂し、勢いを失っていく。
 フランスでは、第2インターナショナルフランス支部の中心人物で反戦の旗手だったジョン・ジョーレスが、7月31日愛国青年の手で暗殺されることで反戦運動の息の根が止められる(史実である)。

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ジャン・ジョーレス(1859-1914)

 堰を切るように、一挙に戦時体制へとなだれ込んでいく日常風景の描写が実にリアルで、おそろしい。 
 ある一点を越えたらもう引き返せない、もう誰にも止められない、全体主義への道を突き進む国家という巨大な歯車。
 メディアを支配し、世論を操り、祖国愛と敵愾心を焚きつけることで国民を扇動し、「戦争が必然」と思わせていく国家の遣り口。
 これは100年前の異国の話ではない。
 まさに今この瞬間に、ロシアで中国で北朝鮮で起こっていること、NATO各国でフィンランドで英国で日本で起こり得ることなのだ。

 《愛国主義者》たちの一味は、おどろくべき速度でその数を増し、いまや闘争は不可能なように思われていた。新聞記者、教授、作家、インテリの面々は、みんな、われおくれじとその批評的独立性を放棄し、口々に新しい十字軍を謳歌し、宿敵にたいする憎悪をかき立て、受動的服従を説き、愚劣な犠牲を準備することにいそがしかった。さらには左翼の新聞も、民衆のすぐれた指導者たちまで、――そうした彼らは、ついきのうまで、その権威をふりかざし、このヨーロッパ諸国間のこの恐るべき紛争こそ、階級闘争の国際的地盤における拡大であり、利益、競争、所有の本能の最後の帰結であると抗議していたではなかったか――いまやこぞって、その力を政府ご用に役だたせようとしているらしかった。

 登場人物の一人はこう叫ぶ。

「国家の名誉!」と、彼はうなるように言った。「良心を眠らせるために、すでにありとあらゆるぎょうさんな言葉が動員されている!・・・・すべての愚かしさを糊塗し、良識が顔をだすのをさまたげなければならないんだから! 名誉! 祖国! 権利! 文明!・・・・ところで、これらひばり釣りの鏡のような言葉のかげに、いったい何がひそんでいると思う? いわく、工業上の利益、商品市場の競争、政治家と実業家とのなれあい、すべての国の支配階級のあくことを知らぬ欲望だ! 愚だ!・・・」

 今日明日の動員令発布を前に、久しぶりに会ったアントワーヌとジャックは意見を闘わせる。
 たとえ心に添わなくとも祖国を守るために従軍するのは当然と言うアントワーヌと、「絶対に従軍しない」すなわち良心的兵役拒否を誓うジャック。
 同じチボー家の息子として何不自由なく育った2人、一緒に父親の安楽死を手伝うほどに強い絆で結ばれた2人が、ここにきてまったく別の道を選ぶことになる。
 いや、当初から野心家で体制順応的なアントワーヌと、体制による束縛を嫌い心の自由を求めるジャックは、対照的な性格および生き方であった。
 が、戦争という大きな事態を前にして、2人の資質の違いは生死を左右する決定的な選択の別となって浮き出されたのである。
 アントワーヌは言う。

 われらがおなじ共同体の一員として生まれたという事実によって、われらはすべてそこにひとつの地位を持ち、その地位によって、われらのおのおのは毎日利益を得ているんだ。その利益の反対給付として、社会契約の遵奉ということが生まれてくる。ところで、その契約の最大の条項のひとつは、われらが共同体のおきてを尊重するということ、たとい個人として自由に考えてみた場合、そうしたおきてが常に必ずしも正しくないように考えられるときでも、なおかつそれに従わなければならないということなんだ。・・・・」

 まるで国家による処刑に粛々としたがったソクラテスのよう。
 ジャックは反論する。

 ぼくには、政府が、ぼく自身罪悪と考え、真理、正義、人間連帯を裏切るものと考えているようなことをやらせようとするのがぜったいがまんできないんだ・・・ぼくにとって、ヒロイズムとは、(中略)銃を手にして戦線に駆けつけることではない! それは戦争を拒否すること、悪事の片棒をかつぐかわりに、むしろすすんで刑場にひっ立てられていくことなんだ!

 国があってはじめて、国民が、個人が、存在しうるというアントワーヌ。
 個人の存在は――少なくとも個人の良心は、国を超えたところにあるというジャック。
 2人の対決はしかし、議論のための議論、相手を言い負かすための議論ではない。
 アントワーヌは、体制に従わないジャックの行く末を、心底心配しているのである。

 ああ、どうなるジャック‼
 どうなる日本‼ 





 
 

● マルタン・デュ・ガール著『チボー家の人々』を読む 3


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第8巻『1914年夏Ⅰ』(1936年発表)
第9巻『1914年夏Ⅱ』(1936年)
1952年白水社より邦訳刊行
1984年白水Uブックス

 この小説を読み始める前は、「今さらチボー家を読むなんて周回遅れもいいところ」といった思いであった。
 100年近く前に書かれた異国の小説で、邦訳が刊行されてからもすでに70年経っている。
 新書サイズの白水Uブックスに装いあらたに収録されて書店に並んだのが1984年。しばらくの間こそ読書界の話題となり、町の小さな書店で見かけることもあった。
 が、やはり「ノーベル文学賞受賞のフランスの古典で大長編」といったら、なかなか忙しい現代人やスマホ文化に侵された若者たちが気軽に手に取って読める代物ではない。
 今回も図書館で借りるのに、わざわざ書庫から探してきてもらう必要があった。
 自分の暇かげんと酔狂ぶりを証明しているようなものだなあと思いながら読み始めた。

 なんとまあビックリ!
 こんなにタイムリーでビビッドな小説だとは思わなかった。
 というのも、第7巻『父の死』までは、主人公の若者たちの青春群像を描いた大河ロマン小説の色合い濃く、親子の断絶や失恋や近親の死などの悲劇的エピソードはあれど、全般に牧歌的な雰囲気が漂っていたのであるが、第8巻からガラリと様相が変わり「風雲急を告げる」展開が待っていたのである。

 第8巻と第9巻は、タイトルが示す通り、1914年6月28日から7月27日までのことが描かれている。
 これはサラエボ訪問中のオーストリアの皇太子がセルビアの一青年に暗殺された日(6/28)から、オーストリアがセルビアに宣戦布告する前日(7/27)までのこと、すなわち第1次世界大戦直前の話なのである。
 世界大戦前夜。
 なんと現在の世界状況に似通っていることか!
 100年前の小説が一気にリアルタイムなノンフィクションに変貌していく。
 『チボー家の人々』はまさに今こそ、読みなおされて然るべき作品だったのである。
 
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MediamodifierによるPixabayからの画像画像:ロシアv.s.ウクライナ

 第8巻前半のいきなりの政治論議に戸惑う読者は多いと思う。それも、ジュネーヴに集まる各国の社会主義者たち、つまり第2インターナショナルの活動の様子が描かれる。
 そう、当時はプロレタリア革命による資本主義打倒および自由と平等の共産主義社会建設の気運が、これ以上なく高まっていた。

第2インターナショナル
1889年パリで開かれた社会主義者・労働者の国際大会で創立。マルクス主義を支配的潮流とするドイツ社会民主党が中心で,欧米・アジア諸国社会主義政党の連合機関だった。第1次世界大戦開始に伴い,戦争支持派,平和派,革命派などに分裂して実質的に崩壊。
(出典:平凡社百科事典マイペディアより抜粋)

 チボー家の反逆児である我らがジャックは、いつのまにかマルクス主義を身に着け、インターナショナルの活動に加わっている。まあ、なるべくしてなったというところか。
 この8巻前半は登場人物――実在する政治家や左翼活動家も登場――がいきなり増え、こむずかしい政治談議も多く、当時のヨーロッパの政治状況に不案内な人は読むのに苦労するかもしれない。
 ソルティもちょっと退屈し、読むスピードが落ちた。
 が、よくしたもので、このところ左翼に関する本を読み続けてきたので理解は難しくなかった。

 読者はジャックの活動や思考を追いながら、当時のヨーロッパの国際状況すなわち植民地拡大に虎視眈々たる列強の帝国資本主義のさまを知らされる。
 厄介なのは、列強が同盟やら協定やらを結んでいて関係が錯綜しているところ。フランス・英国・ロシアは三国協商(連合)を結び、ドイツ・オーストリア・オスマン帝国は三国同盟を結んでいる。そしてロシアはセルビアを支援していた。
 一触即発の緊張をはらんだところに投げ込まれたのが、サラエボの暗殺事件だったのである。
 オーストリアがセルビアに攻め入れば、ロシアがセルビア支援に動き、ドイツはオーストリアの、フランスはロシアの味方につき・・・・・。
 ブルジョア家庭に育ちながら資本主義の弊害に憤るジャックは、プロレタリア革命に共感を持ちながらも、暴力や戦争には反対の立場をとる。

 8巻の後半ではダニエルとジェンニーの父親ジェロームがまさかの自殺。
 それをきっかけに、ジャックとジェンニーは久しぶりに再会する。大切な人の死が新たな恋のきっかけになるという人生の皮肉。
 よく似た者同士でお互い強く惹かれ合っているのに素直になれず、なかなか結ばれない2人がじれったい。なにいい歳して街中で追っかけっこなんかしているのか⁉
 世の中には息するようにたやすく恋ができる者(ジェローム、ダニエル、アントワーヌら)のいる一方で、その敷居が高い者(ジャック、ジェンニーら)がいる。

恋の追いかけっこ

 第9巻はジャックが主人公。
 戦争阻止のためインターナショナルの活動にのめり込んでいくジャック。
 一方、互いに疑心暗鬼になって戦闘準備することによって、さらに開戦へと加速する悪循環に嵌まり込んだヨーロッパ各国。
 動乱の世の中を背景に、やっと結ばれたジャックとジェンニーの純粋な恋。
 なんたるドラマチック!
 このあたりの構成とストリーテリングの巧さは、さすがノーベル賞作家という賛辞惜しまず。

 第8巻におけるアントワーヌとジャックの兄弟対話が奥深い。
 プロレタリア革命の意義について滔々と語るジャックに対して、必ずしもガチガチの保守の愛国主義者ではないものの、現在の自身のブルジョア的境遇になんら不満や疑問を持たないアントワーヌはこう反論する。
 
「ドイツでだったら、立て直し騒ぎもけっこうだが!」と、アントワーヌは、ひやかすようなちょうしで言った。そして言葉をつづけながら「だが」と、まじめに言った。
「おれの知りたいと思うのは、その新しい社会を打ち立てるにあたっての問題だ。おれはけっきょくむだぼね折りに終わるだろうと思っている。というわけは、再建にあたっては、つねにおなじ基礎的要素が存立する。そして、そうした本質的な要素には変わりがない。すなわち、人の本性がそれなのだ!」
 ジャックは、さっと顔色をかえた。彼は、心の動揺をさとられまいとして顔をそむけた。
 ・・・・・・・・・・・・
 彼(ジャック)は、人間にたいして無限の同情を持っていた。人間にたいして、心をこめての愛さえ捧げていた。だが、いかにつとめてみても、いかにあがき、いかに熱烈な確信をこめて、主義のお題目をくり返してみても、人間の精神面における可能性については依然懐疑的たらざるを得なかった。そして、心の底には、いつも一つの悲痛な拒否が横たわっていた。彼は、人類の精神的進歩という断定に誤りのないということを信じることができなかった。

 社会主義体制や共産主義体制になっても、基礎となる人間の本性は変わらない。
 新しいものを作っても中味が変わらないのであれば、腐敗は避けられない。
 まさに、かつてのソ連や現在の中国のありようはそれを証明している。

 デュ・ガールが本作を書いたのは1936年。
 執筆時点では、ロシア革命(1917年)によって建てられた史上初の社会主義国家に対する期待と希望は健在であった。(デュ・ガールの敬愛する先輩作家アンドレ・ジッドがソビエトを訪れて共産主義の失敗を知ったのは1936年の夏だった)

 なんという慧眼!

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