ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、寺社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●反戦・脱原発

● 怒りのショスタコ :横浜国立大学管弦楽団 第122回定期演奏会

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日時: 2024年5月25日(土)
会場: 大田区民ホール・アプリコ 大ホール(蒲田)
曲目:
  • A.ボロディン: 交響詩「中央アジアの草原にて」
  • A.ボロディン: 歌劇「イーゴリ公」よりダッタン人の踊り
  • D.ショスタコーヴィチ: 交響曲第5番「革命」
  • (アンコール) エルガー: エニグマ第9変奏 「ニムロッド」
指揮: 和田 一樹

 和田一樹のショスタコーヴィッチははじめて聴く。
 これまであまり振っていないのではないか?
 どう見ても“陽キャ”の和田と、“陰キャ”の極みとしか思えないショスタコーヴィチは相性が良くないように思われるが、どうなのだろう?
 そんな好奇心を胸に蒲田に馳せ参じた。

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太田区民ホール・アプリコ

 ボロディン『ダッタン人の踊り』については前に書いたことがあるが、やはり、アルタードステイツすなわち意識の変容を引き起こすスピリチュアルな音楽と思う。
 一曲目の『中央アジアの草原にて』も同様で、知らないうちに瞑想状態、いや催眠状態に引き込まれた。
 ボロディンについてはほとんど知らないが、ソロモン・ヴォルコフ編『ショスタコーヴィッチの証言』(1979)によれば、博愛主義者でフェミニストだったという。
 そのあたりのスピリチュアル性が音楽に反映されているのかもしれない。

 ボロディンはまた優れた化学者でもあり(むしろ作曲は副業)、ボロディン反応(別名ハンスディーカー反応)という化学用語を残している。
 意識の変容を起こすこの特徴も「ボロディン反応」と名付けたいところだ。

ボロディン反応
ボロディン反応

 ショスタコーヴィチの第5番『革命』をライブで聴くのは2回目、前回は東京大学音楽部管弦楽団(三石精一指揮)によるものだった。
 その時感じたのは、『革命』という標題はまったく合ってないなあということと、最終楽章で表現される「暗から明へ」の転換はどうにも嘘くさいなあということであった。
 むしろ、第1楽章から第3楽章で表現される「不安・緊張・恐怖・悲愴・慟哭」が限界に達し精神が崩壊したために生じた“狂気”――という印象を持った。
 その後、ショスタコーヴィチの伝記を読んだり、他の交響曲を聴いたり、彼が生きた時代とくにスターリン独裁時代のソ連の内実などを知って、自らが受けた印象があながち間違っていなかったと思った。
 最終楽章は、体裁上は「暗から明」の流れをとって「ソビエト共産党の最終的勝利」、「スターリンの偉大さ」を讃えているように見える。
 が、それは二重言語であり、裏に巧妙に隠されたメッセージは、「ファシズムの狂気」、「独裁者の凱歌」、「強制された歓喜」なのである。
 マーラーに匹敵する天才と官能性を兼ね備えていたショスタコーヴィチが、自らのもって生まれた個性を自由自在に表現することを禁じられた、その“抑圧の証言”こそが、彼の音楽の個性とも特徴ともなってしまったのは、悲劇である。
 が、一方それはまた、「巨大権力による抑圧と迫害」という、ロシアやガザ地区やミャンマーをはじめ現在も世界各地で起こっていて、インターネットで世界中の人々に配信・共有されている“悪夢の現実”を、内側(被害者の視点)から表現しているわけである。
 もしかしたら、しばらく前から音楽的な時代の主役は、「マーラーからショスタコーヴィチに」移っているのかもしれない。


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ガザ地区
 hosny salahによるPixabayからの画像

 和田一樹の第5番を聴いて“革命”的と思ったのは、最終楽章である。
 大太鼓の皮が破れるのではないかと思うほどの爆音の連打にソルティは、「狂気」でもなく、「悪の凱歌」でもなく、「強制された歓喜」でもなく、ショスタコーヴィチの「怒り」を聴きとった。
 それは指揮者の怒りと共鳴しているのやもしれない。
 そうなのだ。
 人民は抑圧する権力者に対して、いろいろな態度を取りうる。
 諦めたり、悲しんだり、絶望したり、流されるままになったり、従順になったり、抑圧に手を貸す側に回ったり、内に引きこもったり、他国に逃避したり・・・・。
 ショスタコーヴィチが置かれた境遇のように、たとえ表立って抗議するのが困難な場合でも、少なくとも怒りは持ち続けることができる。
 怒りは忘れてはならない。
 怒りこそ「革命」の源なのだから。

 横浜国立大学の学生たちの若いエネルギーを怒りのパワーに転換させたのが、今回の第5番だったように思った。
 





● オペラと蛆虫 本:『傷魂~忘れられない従軍の体験』(宮澤縦一著)

1946年11月大阪新聞社東京出版局発行
2020年冨山房インターナショナル

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 図書館のドキュメンタリー文学コーナーで、タイトルに惹かれて手にとった。
 太平洋戦争中フィリピンに派遣され、地獄の戦場を生き抜き、生還した男の体験談である。
 著者名を見て、「あれ? なんとなく見たことあるような・・・」と思ってプロフィールを確認したら、まさに知っている人であった。
 と言って、親戚とか知り合いとか言うのではない。
 宮澤縦一(1908-2000)は音楽評論家とくにオペラ研究家として有名で、『名作オペラ』、『私がみたオペラ名歌手名場面』など多くのオペラ関係の本を書いている。
 オペラの魅力を知ったばかりの20代の頃、ソルティは宮澤の著書を通して多くのことを学び、また楽しませてもらったのであった。
 いわば、オペラという絢爛豪華な美の世界の案内人だった。
 その宮澤が、よもやこんな苛烈な体験をもっていたとは・・・・!

 一方は、着飾った紳士淑女が集い、華麗な歌声と管弦楽が響く豪華なオペラホール。
 一方は、飢餓と疲労と熱帯病で痩せこけた蛆だらけの兵士が、爆音と断末魔の呻きの中をさまよい歩く戦場。
 天国と地獄。
 相反する二つの世界が、宮澤の中で拮抗しつつ共存していたことを今初めて知った。

 ハンサムでダンディな俳優として人気を集めた宝田明(1934-2022)が、実は満州からの引き揚げ組であり、子供の頃ソ連兵の銃弾を受けて重傷を負ったことが、『沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』(太田隆文監督)の中で語られていた。
 一見、華やかに見える人間の中にも、他人には簡単に言えないような過去や癒やしがたい心の傷があるものなのだ。
 「傷魂」というタイトルはまさにそのことを示している。
 
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普天間飛行場近くの嘉数高台にある沖縄戦の弾痕

 終戦の前年(1944年5月)、赤紙をもらった宮澤は37歳。
 ほかの新兵とともに目黒で訓練を受け、北九州の門司から輸送船でフィリピンに向かう。
 途中、魚雷爆撃を受け、船は炎上。
 すんでのところ救出され、台湾漂着。武装を整えたあと、マニラからミンダナオ島へ。
 もはや敗戦は必至。 
 米軍の激しい空襲から逃れるため山中を逃げ惑う中、足を負傷し、動けなくなる。
 手榴弾による自決を試みるも、うまくいかず。
 1945年7月に米軍に発見され、収容所へ連れていかれる。
 
 経緯だけをざっと記すと上のようになる。
 それぞれの場面で実際に宮澤が体験したことの凄まじさには言葉を失う。
 終戦一年後に発行されていることからわかるように、記憶生々しいうちに書いたものなので、描写は具体的で非常にリアル。
 塚本晋也監督『野火』そのものの世界。

 赤紙一枚で駆り出され、生き地獄の戦地に連れていかれ、さんざん苦闘したあげく、傷ついたり、栄養失調やマラリヤ、赤痢、破傷風などのために動けなくなり、置き去りにされて野たれ死にしていった数多の兵隊達に、いったい何の罪があるのでしょう。
 
 こうした日本の下級兵たちの体験記を読むたびに感じるのは、敵であるはずの米軍以上に残酷なのは、味方であるはずの日本軍である――という“不都合な真実”だ。
 太平洋戦争(日中戦争含む)では、米軍による攻撃で亡くなった日本兵よりも、日本軍による無謀きわまりない戦略で亡くなった日本兵の方が多かった。
 とくに終戦間近になると、それは際立った。
 武器も装備も、十分な水や食料の補給の当てもない中での召集と戦地派遣。
 意味も目的もない何百キロの行軍で命を落とした若者のどれほどいたことか。
 
 宮澤もまた、米軍と闘う機会などついに訪れないまま、無駄に召集され、無駄に前線に送られ、無駄に飢餓地獄に落とされ、無駄に命を危険にさらしただけであった。
 あたかも死ぬためだけに派遣されたかのよう・・・。
 大方の日本人の真の敵は、アメリカでなく大日本帝国だったのだ。
 (あえて言えば、そのことに気づくのが遅すぎたことが大衆の罪である)
 
 ソルティが高齢者介護施設で働いていた10年前、戦時を生きた90代の女性たちが口々に言っていたのを思い出す。
 「日本はアメリカさんに負けて良かった」
 「もし勝っていたら、北朝鮮みたいなおかしな国になっていた」

 大日本帝国はアジア諸国を植民地支配から解放せんと闘った――いわゆる大東亜共栄圏構想をいまだに信じている人がいるけれど、正味のところ、アメリカこそが日本国民を今の北朝鮮のような独裁主義ファシズムから解放してくれたのである。
 残念ながら、それが歴史の真実だ。
 
 米軍の捕虜となった宮澤は、自分がいつ殺されるのか戦々恐々としていた。
 担架で連れていかれた先には赤十字の旗がひらめいていた。

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3282700によるPixabayからの画像



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 第77回日本アンデパンダン展に行く

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 ひさァ~しぶりのアンデパンダン展。
 友人の出品作を観るため、そして、3/23(土)に行われた北原恵氏(大阪大学名誉教授・美術史家)の講演『ジェンダーの視点から見た美術(史)』を聴くため。

 アンデパンダン(INDEPENDENT)展は、日本美術会が1947年から開催している自由出品・非審査の美術展で、「芸術に対する権威や制度的意識からの自主・独立・解放を目指す」ことを目的としている。
 いきおい、平和・自由・人権・反体制・反差別・多様性といった左派的な価値を大切にするアーティストたちが集うことになるが、展示作品自体は、プロパガンダ性の強い諷刺画から里山の自然といった風景画や人物画、抽象的な彫刻やインスタレーションアートまで、多彩である。
 ここ十数年は六本木にある国立新美術館で開催されている。
 
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国立新美術館
この会場になってから行くのは初めて

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若尾文子の夫だった黒川紀章の設計

 広い会場に何百点もの作品が飾られ、実に壮観。
 作品の素材も内容も形式も多様性に満ちて、面白かった。
 絵ごころのない、ぶきっちょなソルティは、絵の上手い人、手先の器用な人を見ると感心しきり。
 そのうえ、世界のあちこちで新たな紛争が勃発し、環境破壊の影響が日に日に深刻化し、民主主義の危機が叫ばれる不穏な時代に、自由と平和と民主的価値を守ろうと、自分なりに表現しているアーティストたちの作品に囲まれ、とても力づけられた。
 人間が多様であることは、ひとりひとりが自由に自分を表現することではじめて顕在化し、万人に知らしめられるのだと実感した。

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 昨年に続き特別展示された『高校生が描き・伝える「原爆の絵」』コーナーが衝撃的であった。
 これは、広島の高校生が実際の原爆被災者から体験談を聞き、その話をもとに当時の状況を再現した絵である。(広島平和記念資料館保管)
 戦争を知らない高校生――もちろんソルティ含め、いまや国民の9割が戦後生まれである――が、ここまで生々しく迫真力高い、観る者を震撼とさせる絵が描けることに驚いた。
 目の前にいる体験者からなまの言葉を聞くことの衝撃力、そして若い人たちの感性の柔らかさと想像力の豊かさを感じた。
 戦後80年、被爆体験の語り部がどんどん減っていくときに、文字だけでなく、このような絵によって体験が残され伝えられていく意義は大きい。

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 北原恵氏の講演も興味深かった。
 「ジェンダーの視点から美術および美術史を見る(批判する)」という、フェミニズムの流れを汲んだ運動は、70年代から始まったそうだ。
 北原氏は、この運動が国外および国内でどういった展開をしてきたか、どういった社会の反応を引き起こしてきたか、丁寧に解説してくれた。
 リンダ・ノックリン、イトー・ターリ、ゲリラ・ガールズ、闘う糸の会など運動の担い手となった(なっている)人々について、また、昭和天皇に対する不敬行為と非難された大浦信行『遠近を抱えて』事件など、はじめて知ることばかりで勉強になった。
 ソルティは、現代美術史にもフェミニズム史にもまったく無知。
 『西洋美術史』あたりは学んだ覚えがあるが、それはまさにルネサンスからピカソまでの偉大な男性芸術家(old masters)の系譜であった。
 美術に限らず、文学しかり、音楽しかり、演劇しかり、映画しかり、建築しかり、舞踊しかり、芸術というものは基本、男性というジェンダーに特異的に備わる資質――という思い込みが、自分の中にはある。
 芸術は、子供を産めない男性の代償行為であり、しかも戦争で闘うことのできない弱者男性の精一杯の示威行為というイメージ。
 自分の中に植え付けられている“マチョイズム”思考は結構根深い。
 
 話の中で思わず吹いたのは、ゲリラ・ガールズの活動および作品を紹介したくだり。
 『メトロポリタン美術館の現代美術部門に展示されている作品の制作者は95%以上が男性である。一方、展示されているヌード画の85%は女性』――というメッセージが入ったポスター。
 こうした統計的事実をメッセージにして、「匿名性・複製性・ユーモア」を武器に、作品として表現するのが、ゲリラ・ガールズのスタイルなのである。
 残りの15%は、デヴィッド・ホックニーやロバート・メイプルソープあたりのゲイのアーティストによる男性ヌードなのかなあと思ったら、北原氏の回答は違った。
 「残りは、十字架上のイエス・キリストです」

 講演後の質疑応答では、中高年男性が多く手を挙げ、発言した。
 戸惑いと葛藤の声が多かった。
 「自分たちは被告だ」という声も聞こえた。
 男たち(とくにヘテロの中高年)は、フェミニズムと聞くとどうしても、「自分たちが責められている」という気持ちになってしまうのである。
 北原氏は最後にこうまとめた。

ジェンダー視点から美術史を考えるとは、(これまでの男性中心の美術史に)「女を付け加える」のではなく、インターセクショナルな視点で美術史を書き換えること

 会場の中で、この意味が理解できた者がはたしてどれくらいいたのだろう?
 「女=原告、男=被告」という単純な二項対立のパラダイムの中にいる人にとって、「遠すぎる橋」のような結論と思った。

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帰りは道に迷って「東京ミッドタウン」の中を徘徊
『六本木心中』や『六本木純情』の時代は遠い










● 本:『「歴史の終わり」の後で』(フランシス・フクヤマ著、マチルデ・ファスティング編)

2021年原著刊行
2022年中央公論新社

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 ロシア大統領選でウラジーミル・プーチンが高い得票率で5選を決めた。
 予想していたとおりの結果なので驚きはないものの、民主主義の砦である自由選挙制度がこのように悪用されてしまった事実に、慨嘆せざるをえない。
 プーチンは、「正当で民主的な選挙によって多数の国民から信頼と支持を受けた」と世界に向かって豪語するであろうし、ウクライナ侵攻はじめ現在行っている政策を、国民の合意のもと今後もなに憚りなく行っていくことだろう。
 間違いなく、スターリン再来である。

 当初プーチンは、リベラルな民主主義を標榜する欧米諸国や日本における人気者だった。
 ロシア・ソ連政治史において、ペレストロイカを行ったゴルバチョフと並んで「民主化の英雄」に成り得る立場にいた。
 それが、あっというまの闇落ち。
 ダークサイドに引っ張られ、国民も道連れになった。
 ロシア人はいつになったら平和と幸福を手に入れられるのだろう?

 ――と思う一方、プーチンを本気で支持している国民も決して少なくない、という現実がある。
 おそらく彼らの胸で燃え盛っているのは、偉大なるソ連の記憶や誇り、かつての宿敵であった欧米諸国の末席につかなければならない屈辱、リベラルな民主主義の浸透によってロシアの伝統的文化が破壊されることへの苛立ちと不安――といったあたりなのだろう。
 という推測ができるのは、もちろん、この日本という国がまさに、1945年の敗戦後にアメリカ(GHQ)主導の民主化によって国体が変えられるほどの政治的・文化的変革を余儀なくされたからであり、長いこと「アメリカの犬」という屈辱に甘んじてきたからである。そして、戦後60年経って出現した安倍晋三政権こそ、アメリカに“押しつけられた”平和憲法と戦後民主主義を刷新して、戦前の強い日本に回帰しようと企む勢力の旗頭だったのであり、多くの国民が熱狂的に彼を支持していた事実があるからだ。
 安倍氏がよく口にしていた「日本を取り戻す」という標語がまさにその間の事情を表していた。

 プーチンのロシア、安倍政権下の日本、EUを離脱したイギリス、トランプ大統領再登板の悪夢が現実化しそうなアメリカ、ヨーロッパ各国で勢いを強めているナショナリズムと排外主義的ポピュリズム・・・・e.t.c.
 こうした「歴史の終わり」後の世界の動向が示しているのは何か?
 フランシス・フクヤマはこう語る。

 かつては左右のイデオロギー対立が存在し、20世紀の政治を特徴づける産業化された社会で、資本と労働者の相対的な経済力をめぐる諸問題への対処法によってふたつの陣営に分かれていた。しかし、いまではアイデンティティの問題を軸に政治的な立場がつくられるようになりつつあり、その多くは狭い意味での経済よりも文化によって決まる。(ソルティ、ゴチ付す。以下同)

 伝統的な社会民主党は、かつての最大の票田であった古い労働者階級とのつながりを失いはじめています。同じことが多くの左派政党でおしなべて起こっている。社会民主党は多くの国で弱体化して、それらの有権者の多数は右派のアイデンティティ政党に票を投じるようになりました。

 つまり、自由と平等と権利を標榜するリベラルな民主主義になんらかの意味で失望した人々が、宗教・民族・国家といったアイデンティティを重視する政治体制支持に回帰している、というのが現代の潮流なのだ。
 それがポピュリズムと結びつくとかなり危険な様相を帯びることは、前回の大統領選で、トランプ敗北を受け入れられなかった共和党支持者が連邦議会を襲撃した一件を、記憶から引っぱり出すまでもあるまい。
 
 ポピュリズムとは
 大衆からの人気を得ることを第一とする政治思想や活動を指す。本来は大衆の利益の側に立つ思想だが、大衆を扇動するような急進的・非現実的な政策を訴えることが多い。特定の人種など少数者への差別をあおる排外主義と結びつきやすく、対立する勢力に攻撃的になることもある。(『日本経済新聞』2022年4月26日記事より抜粋)

 フクヤマは語る。

 ポピュリスト運動の土台は貧困者ではないと思います。自分は中流階級だと思っていて、その地位を失いつつあると考えている人たちです。これは相対的なものです。

 ポピュリズムの真の危険は、ポピュリスト指導者の多くがみずからの正統性を利用して、決定的に重要な制度を破壊しようとする点にあります。法の支配、独立したメディア、非人格的な官僚制といったものです。彼らはこんなふうに言います。「こうしたいろいろな法律や憲法による制約は、ほんとうに必要なのか? 我々の取り組みの邪魔になっているのに。」

 日本においては、安倍晋三こそ、ポピュリスト指導者の最たるものであった。
 統一教会との癒着は言うに及ばず、日本の民主主義がどんだけ危険な領域にいたか。思い返しても慄然とする。
 もっとも、今もまだ、第2、第3の安倍晋三が登場しないとも限らない状況は続いている。

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 本書は、ノルウェーの経済学者であるマチルデ・ファスティングによるフクヤマへのインタビューをまとめたもので、タイトルどおり(原題『After the End of History』)、1992年にフクヤマが『歴史の終わり』を宣言した後に世界で起きた様々な政治的事件や大衆運動を取り上げ、「フクヤマが現在(2021年時点)の世界情勢をどう見るか」、「リベラルな民主主義こそ歴史の勝者(であるべき)というフクヤマの理論はいまも有効なのか?」を問うたもの、ということができる。
 インタビューの時期は、イスラエルによるガザ地区侵攻はもとより、ロシアによるウクライナ侵攻以前であったようで、フクヤマがウクライナを何度も訪れて、民主主義を推進するプログラムを主宰していることが語られている。
 また、フクヤマの生い立ちや学者としての経歴、影響を受けた本や人物などについても語られ、フランシス・フクヤマという人間をより深く理解するのに役立つ。
 『歴史の終わり』を読んだ限りでは、リベラルな民主主義を全面肯定してはいるものの、同性婚や妊娠中絶には反対の保守的な共和党支持者というイメージがあった。(渡部昇一という名うての頑迷保守オヤジが翻訳したせいもあるかもしれない。gayをホモと訳している)
 実際フクヤマは、ドナルド・レーガンやパパ・ブッシュの時代には、共和党政権の中枢で仕事をしていた。
 が、息子ブッシュのイラク侵攻やオバマ大統領誕生を機に起ったティーパーティー運動をきっかけに、民主党支持に鞍替えしたようで、オバマやヒラリー・クリントンやバイデンに投票したことを述べている。
 現在では、左派言論人の代表と言っても誤ってはいまい。
 本書のなによりの利点は、全編インタビュー形式なので難しくないところ。
 編者による適切な解説も付されているので、『歴史の終わり』を読んだ時のような苦労はなかった。
 
 以下、引用とコメント。

 共和党支持者の多くは、必ずしも共和党に非常に忠実というわけではないのですが、民主党支持者のイメージを嫌っています。彼らにとって民主党支持者はある種の人、つまりフェミニスト、ゲイ、政治的に正しい人(ポリティカリー・コレクト)、自分たちが嫌うありとあらゆる人なので、共和党候補者でさえあればその人に投票するわけです。近代経済学は、すべての人間は合理的に判断して自己の利益を追求するという仮説のうえに成り立っていますが、社会心理学の多くの文献によると、この仮説は正しくありません。人は一定のイデオロギー的あるいは文化的な見解から出発し、知力を総動員してそうした見解を正当化するのです。 

ソルティ:上記の「共和党」を「自民党」に、「民主党」を「左派野党」に変換すれば、見事に日本の状況に重なる。
 ジョナサン・ハイトが『社会はなぜ左と右に分かれるのか』で述べているように、人の行動を根底で支配するのは知識や理性ではなく、人類が生き残るために優位であった直観(=正義心)であり、それを基につくられた個々人の道徳パラダイム(=アイデンティティ)である。
 だから、思想的に対立する相手といくら言葉や理論を尽くして討論しても、相手を折伏することは難しい。
 店頭に老人を集めて健康器具や布団を販売する業者はそのことをよく知っていて、顧客の理性ではなく、感情や見栄に訴える。
 
 インターネットはこの新しいアイデンティティの政治にまさにぴったりの媒体で、そこで人びとはほかの人と話して意見を共有できるからです。自分たちと意見が異なる人の話は聞く必要がありません。インターネットは社会をさまざまなアイデンティティ集団に分割する動きを強める傾向にあって、共通の感覚や市民としての感覚をすべて弱めます。

ソルティ:自分がSNS利用に積極的でない理由の一つがこれである。

 わたしはずっと、世界秩序への最大の長期的脅威はロシアでもジハーディスト(聖戦士)でも中東でもなく中国だと感じてきました。中国はほかよりはるかに強力だからです。中国共産党は大きく豊かで強力な国を支配しています。・・・・大きな障害にぶち当たらなければ、中国は経済面でアメリカよりも大きな国になるでしょう。むこう10年のうちにそうなるはずです。

 わたしはアイデンティティに反感をもっているわけではありません。近代の人間が自分自身について考えるときに、そのあり方を根本から支えている概念なので、それから逃れることはできないのです。・・・・・・ほかの市民となにを共有しているのか、それについての一連の物語と理解がなければ、同胞と交流することはできません。意思疎通をはかれずに、物事も決められないのです。アイデンティティそのものが問題なのではありません。正しい種類のアイデンティティが必要で、現代の民主主義国ではそれは、人種や宗教や民族ではなく政治理念を中心に成立していなければならないとわたしは考えているわけです。

ソルティ:「戦争を放棄する日本国憲法を持っていることが、日本人の一番の誇りでありナショナル・アイデンティティの核である」 そう世界に向けて堂々と宣言できる政治家はいないものか。(なんなら天皇制を加えてくれてもかまわない)

 運よく民主主義国で暮らしていたら、ポピュリズムやさまざまな反民主主義勢力を打ち負かす方法は選挙で勝つことです。どうすればポピュリズムの台頭を防ぐことができるのかと、ほかの国でよくたずねられますが、答えは非常にシンプルです。投票することです。わたしたちの民主主義では、政治権力はいまも投票する人たちのもとにあります。自由主義的でひらかれた民主的秩序を支持したい人を結集させること、その人たちを選挙に行かせて政党を支えること、この種の自由民主主義をもつことが重要である理由をことばにして人びとに伝えられる指導者を得ること、これらができるかどうかにかかっているのです。 

 フランシス・フクヤマはいまも「リベラルの民主主義」の最強の擁護者である。


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Pete LinforthによるPixabayからの画像


おすすめ度 :
★★★


★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● 本:『歴史の終わり』(フランシス・フクヤマ著)

1992年原著刊行
1992三笠書房より邦訳(訳・渡部昇一)
2020三笠書房より新版刊行

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 この本が出版された時の社会の衝撃と反響には大変なものがあった。
 書店の店頭に上下巻が山積みに置かれていた光景と、日本と世界の名だたる言論人を巻き込んで起こった議論の沸騰を覚えている。
 それはまさに、本書のもととなった論文がアメリカの外交専門誌『ナショナル・インタレスト』に発表された1989年という年に始まった、ベルリンの壁崩壊に象徴される東ヨーロッパ諸国の一連の反共産主義革命が、ついには1991年12月のソ連崩壊に逢着し、戦後長く続いた東西冷戦が終焉を迎えた――その激動のドラマを、本書のタイトルが端的かつ挑発的に表現していたからであったし、少なくとも1989年の時点で、アメリカの政治経済学者であるフランシス・フクヤマがその後起こることを正確に予言していたように見えたからであった。

 当時30歳目前だったソルティも本書を読もうと手にしたのであるが、数ページ読んであきらめた。
 難しくて手に負えなかった。
 歴史や哲学や世界情勢に関する知識不足、読解力の欠如、政治経済に対する苦手意識に加え、いつも読むのは文芸書ばかりでこういった本を読み慣れていないことも大きかった。
 おのれの頭の悪さを嘆いた。
 が、本書の内容を噛み砕いてレクチャーしてくれる週刊誌や月刊誌などの特集記事を読んで、主旨は大方わかった(気がした)。
 「ああ、歴史の終わり(The End of History)とは、資本主義&民主主義の勝利宣言なんだな」
 邦訳刊行後の世間一般の反応としては、資本主義の勝利宣言に疑念をはさむ空気はなかったように思う。
 92年当時、日本はまだバブル崩壊の影響が深刻化する前であったし、なんといっても、ルーマニアやハンガリーなど旧社会主義国の悲惨な内情が目の前で次々と露わにされていったから、「冷戦に決着がついた」という判定が自然に受け止められた。
 
 あれから32年――。
 本書にふたたびチャレンジしようと思い立ったのは、むろん、日本でも世界でも民主主義の危機が叫ばれ、格差社会という形で資本主義の弊害がますます露わになっている現状を憂えるからである。
 自由主義経済と国民主権を楯の両面とする「リベラルな民主主義」は、ほんとうの勝利者だったのだろうか?
 「89年の精神」はいまも通用するのだろうか?
 「歴史は終わった」と言っていいのだろうか? 

ベルリンの壁
ベルリンの壁 

 30年という歳月は偉大である。
 なんとまあ、今回はそれほど困難を感じることなく、全編読めた!
 それも面白く!
 とくにこの30年、政治経済や歴史や哲学を勉強した覚えはないのだが、読書の幅が文芸書以外に広がったことと、このブログを書いてきたことが、読解力アップにつながったようだ。
 書評を書くためには、本をある程度深く読み込まなければならないし、自分が本から受けた印象や感想を文章に表すには、自らの考えを整理整頓しなければならない。調べるべきことは調べなければならない。
 そういう地道な作業が読書の進化(深化)には大切なのだと、還暦にして思い知った。(遅い!)

 して、ついに本書を読んで、「ああ、そうだったのか」と意外な感に打たれたことが二つあった。
 一つは、「歴史の終わり」という概念が、別に著者であるフランシス・フクヤマの発明でも専売特許でもなかった点。
 それは、カント、ヘーゲル、コジェーブ、マルクス、ニーチェといった西洋の偉大な哲学者らが、「人間社会の進化には終点があるのか」という問いの前に思考を積み重ねてきた、哲学上の主要なテーマの一つだったのである。
 この思想史的文脈を受けてフクヤマは、「リベラルな民主主義こそ終点と言い得る」と本書で述べたのだ。
 その正否は結局、それこそ“歴史自身”が証明するのを待つしかないのだが、ある意味これは、多元主義・文化相対主義の逆を行く自文化中心主義――欧米や日本などの資本主義の民主国家をそうでない国々の上位に置く、いわばWEIRD優越思想――という見方もできよう。
 フクヤマは、リベラルな民主主義を達成した国々を「脱歴史世界」、そうでない国々を「歴史世界」と定義し、今後、世界は大きく二極に分かれていくと予言している。

 脱歴史世界では、経済が国家間の相互作用の主軸となり、武力外交の古くさい規範は今日的な意義を失っていくだろう。

 その反対に歴史世界では、そこに関与している国々に武力外交の古い規範が依然として適用されるため、特定の国の発展段階に応じて起こる多種多様な宗教的、民族的、そしてイデオロギー的衝突によって世界は相変わらず引き裂かれたままに残るはずだ。

 言うまでもなく、歴史世界の代表格は、ロシアであり、北朝鮮であり、中国であり、イスラム教国であり、ミャンマーであり、アフガニスタンである。
 フクヤマは、二つの世界が「並存状態を続けながらも別々の道を歩み、あまりかかわりあいもなくなっていくだろう」と予言しているが、そこが92年刊行時点において抱くことが可能だった楽観的見解と思われる。
 むしろ、ソルティは、歴史世界と脱歴史世界との新たな「冷戦」(ひょっとしたら世界最終戦争に至る)が始まるのではないかと危惧している。

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 今一つの意外は、本書の原題が、The End of History and The Last Man、すなわち、『歴史の終わりと最後の人間』だった点である。
 邦題は、原題の前半部分しか訳されていない。
 だから、ソルティは、リベラルな民主主義を最終到達点とする「歴史の終わり」についての本とのみ、理解していた。
 しかし、むしろ本書で重要なのは、著者が読者に投げかけたかったテーマは、後半部分の The Last Man「最後の人間」のほうにあったのではないか。
 そう思ったのである。
 少なくともソルティの関心はそこに惹きつけられた。
 「最後の人間」とはなにか?

 「歴史の終わり」とは、戦争や血なまぐさい革命の終わりを意味することになるだろう。目的において合意した人間には、戦うべき大義はなくなるだろう。人間は経済活動を通じて自分の欲求を満たすが、もはや戦いにみずからの生命を賭ける必要はなくなる。言い換えれば人間は、歴史の始点となった血なまぐさい戦い以前のように、ふたたび動物になるのだ。

 「最後の人間」の人生とはまさに西欧の政治家が有権者に好んで与える公約そのもの、つまり肉体的安全と物質的豊かさである。これがほんとうに過去数千年にわたる人類の物語の「一部始終」なのだろうか? もはや人間をやめ、ホモサピエンス属の動物となりはてた自分たちの状況に、幸福かつ満足を感じていることをわれわれは恐れるべきではないのか? 

 「最後の人間」とは、いわば、現状に満足しきった家畜小屋の豚である。
 なぜ、「最後の人間」が生み出されることになるのか。
 ざっと以下のような論旨である。
  •  人間をして行動を起こさせるのは、欲望理性気概の3つである。このうち、気概とは承認欲求または自尊心のことであり、優越願望(その他大勢より上に立ちたい)と対等願望(他の人と同じ程度に認められたい)がある。
  •  歴史は方向性をもつ。累積的かつ方向性を持つ近代自然科学は、それを利用する国に軍事的優位と経済的優位をもたらす。人間の持つ欲望理性は、ほうっておけば、成長する市場経済すなわち自由主義経済を求めることになる。ここに、社会主義や共産主義に対する資本主義の優位がある。
  •  しかし、資本主義は必ずしも民主主義を必要条件としない。民主主義へのベクトルを生むのは、人間の持つ気概である。強い優越願望を持つ一人の主人(主君)が大勢の奴隷(臣民)を従えた奴隷制や封建制から、互いが互いを認め合って「対等願望」を満たし合う民主主義に移行したのは、歴史の必然である。
 リベラルな民主主義を選び取った場合に問題となるのは、それがわれわれに自由に金儲けをさせ、魂のなかの欲望の部分を満たしてくれるという点だけではない。さらに重要で、最終的にいっそうの満足を与えてくれることは、この社会がわれわれの尊厳を認めてくれるという点なのだ。リベラルな民主主義社会はすばらしい物質的繁栄をもたらす可能性を秘めているが、それはまた各人の自由を認め合うという、まったく精神的な目標実現にいたる道をも指し示してくれる。・・・・・このようにして。われわれの魂のなかの欲望の部分と「気概」の部分は、ともに満足を見出すのである。
  •  かくしてリベラルな民主主義は、人間社会における政治形態として最終的な解となりうる。が、もちろん弱点もある。たとえば、「冷酷で頑固な独裁国から自分の身を守れない」(北朝鮮やロシアや中国の脅威を見よ)、「資本主義社会は不平等をもたらすので、結局のところ、承認の平等は得られない」(格差問題を見よ)、「民族主義や宗教的原理主義との衝突」(難民問題を見よ)・・・・等々。
  •  もっとも看過できない問題が、気概の喪失である。
 リベラルな民主主義社会というのは「対等願望」の社会である。お互いにお互いの権利を認め合う。そして、その権利が認められている国家では、個人の生命が守られているかぎり、自由に財産を増やすようなその部分に国権がなるべく立ち入ってはならないということで成り立つ。これが「対等願望」の世界である。
 ところが、ここに哲学的かつ論理的な矛盾があるわけである。すなわち、みんな平等でいいというのならば、そこには偉大なる芸術も偉大なる学問もないことになってしまう。みんなと同じでいいというのならば、ほかに優越しようという気がなくなった社会である。ニーチェの言葉を使えば、奴隷の社会と同じなのである(奴隷というのは、「気概」を失ったために降参した人たちの社会なのである)。すなわちリベラルな民主主義社会というのは、お互いの権利を認めているようでありながら、究極的には奴隷の社会を志向するという危険を本質的に備えているわけである。

 このようにして、「最後の人間」が生み出されていく次第となる。
 もっと砕いた表現で言えば、「安全と物質的欲望と承認欲求が適度に満たされた平和な世界で、命を懸けるほどの対象もなく、魂を燃やすほどの生き甲斐もなく、人間は生きていけるのか?」、「永遠に続く退屈と付き合っていけるのか?」という意味になろう。
 90年代に社会学者の宮台真司がよく口にしていた「終わりなき日常をどう生きるか」というテーマと符合する。
 フクヤマは、「対等願望だけの世界=気概の喪失」に耐えられない人々が、ふたたび戦争や革命といった、気概が十全に発揮される世界を求めて反逆する可能性を示唆している。
 たしかに、民主主義から独裁主義に戻った感のあるロシアの現在、スーチー女史を再び軟禁し軍事政権に舞い戻ってしまったミャンマー、アメリカのトランプ支持者ら、大日本帝国化を企む元安倍派や日本会議の面々・・・・。優越願望あるいは気概という概念を通してこれらをみれば、「なるほど」と頷けるところもある。
 そこでは、「終わった」と思った歴史が逆流するのだ。
 敵がいないとつまらない、戦いこそ生きがい、より多くの人の上に立ちたい、なにものかに自己投棄してこその人生、生ぬるい「生」よりは激しく英雄的な「死」を・・・・という性向は、とりわけ「男♂」という種族には、多かれ少なかれ、ある。
 リベラルな民主主義がこの先ずっと継続するためには、抑圧された気概をどう解消するか、どうやって社会に役立つ方向へ昇華していくか、マチョイズムをどう克服するか、という点にかかっているのかもしれない。

 面白いのは、「歴史の終わり」を生きる人間の賢明なふるまい方のヒントとして、フクヤマは、アレクサンドル・コジェーブ(1902-1968)の言を紹介し、日本の江戸時代――鎖国下の天下泰平な日常――に触れている点である。

 コジェーブによれば、日本は「16世紀における太閤秀吉のあと数百年にわたって」国の内外ともに平和な状態を経験したが、それはヘーゲルが仮定した歴史の終末と酷似しているという。そこでは上流階級も下層階級も互いに争うことなく、過酷な労働の必要もなかった。だが日本人は、若い動物のごとく本能的に性愛や遊戯を追い求める代わりに――換言すれば「最後の人間」の社会に移行する代わりに――能楽や茶道、華道など永遠に満たされることのない形式的な芸術を考案し、それによって、人が人間のままにとどまっていられることを証明した、というわけだ。

 江戸時代がはたして「歴史の終わり」を一足早く体現していたのか、そしてまた、能楽や茶道や華道(あるいは歌舞伎や武道や武士道)が「終わりなき日常」を倦むことなく生きるための手立てとして有益なのかどうかはおいといて、せっかく日本に注目してくれるのなら、むしろ、「禅」こそが最適解に近いのではないかと、ソルティは考える。
 行住坐臥すべからく禅、過去と未来を捨て去って「いま、ここ」に在ることを善とする精神こそ、歴史の終焉後の世界を生きる人間のクールかつ美しい身の処し方なのではないだろうか。

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● 本:『社会はなぜ左と右にわかれるのか』(ジョナサン・ハイト著)

2012年原著刊行
2014年紀伊國屋書店(訳・高橋洋)

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 SNSにおける「ネトウヨ V.S. パヨク」の中傷合戦に象徴されるように、右翼(保守)と左翼(革新)の分断と対立が、国内でも国外でも先鋭化しているように思われる。
 アメリカの場合とくに顕著で、共和党陣営と民主党陣営の二極化は、国を分断し、民主主義の危機が叫ばれるまでになっている。
 いったい、人はなぜ右翼になったり、左翼になったりするのか?
 両者の違いはどこにあるのか?
 対立は乗り超えられないものなのか?
 
 そうした疑問に答えんとするのが、「対立を超えるための道徳心理学」という副題をもつ本書である。
 原題は、The Righteous Mind――Why Good People Are Divided by Politics and Religion  『正義心――なぜ善良な人々が政治と宗教によって分断するのか』
 著者のジョナサン・ハイトは、1963年アメリカ生まれの社会心理学者でユダヤ人。
 もともとはガチガチの民主党支持のリベラル(左翼)だったのだが、アメリカとはまったく異なる文化を持つインドで数年暮らしたり、心理人類学者で多元主義者のリチャード・シュウィーダーや歴史学者のジェリー・ミュラーの影響を受けたり、道徳に関する様々な調査研究を重ねたりするうちに、自らがWEIRD社会のマトリックス(枠組み)に囚われていたことに気づき、自らを相対化するのに成功し、それまで理解するのが困難だった保守側の主張にも耳を傾けられるようになったのだという。
 WEIRDというのは、Western(欧米の)、Educated(啓蒙され)、Industrialized(産業化され)、Rich(裕福で)、Democratic(民主主義的な)人々、という意味である。
 WEIRD文化に属するのは、世界でも限られた人々であり、そこでのものの考え方や世界の見方を世界標準とするのは、当然片寄っている。

 WEIRD文化の特異性の一つは、「WEIRDであればあるほど、世界を関係の網の目でなく、個々の物の集まりとして見るようになる」という単純な一般化によってうまく説明できる。これまで長いあいだ、欧米人は東アジア人に比べて、自己をより自立的で独立した存在と見なすとされてきた。たとえば、「私は・・・」で始まる文を20あげさせると、アメリカ人は自己の内面の状態を表現しようとする(「幸せだ」「社交的だ」「ジャズに興味がある」など)。それに対し、東アジア人は役割や関係をあげようとする(「一人息子だ」「妻帯者だ」「富士通の社員だ」など)。

 日本人はもちろん東アジア人であるけれど、戦後GHQによる民主化政策を受け、資本主義陣営に取り込まれて以来、WEIRDの一員になったと自負(錯覚?)しているところがある。
 東アジア的心性とWEIRD的心性のあいだで分裂しているのが、現代日本人なのかもしれない。

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 本書は、読みやすく、わかりやすく、面白い。
 論旨が明確で、文章は簡潔にして平易。
 著者が仲間たちとおこなった道徳に関するユニークなアンケート調査の数々が紹介されていて、その結果分析には興味をそそられる。
 論述の一つ一つは、可能なかぎり科学的な裏付けが施されているので、説得力がある。(科学妄信もまたWEIRDの“悪い”癖なのかもしれないが)
 各章の末尾には「まとめ」があり、全部を読むのがめんどくさい人は、「まとめ」ページだけ拾って読めば、本書の要点を理解できるようになっている。
 「左・右」どちらの立場の読者も引き込み、最後まで飽きさせず、知らぬ間に著者の説を受け入れさせる叙述テクニックは、さすが多元主義の心理学者だなあと思った。

 内容に入る前に、右翼(保守)と左翼(革新)の定義を確認しておきたい。
 言葉の起源が、フランス革命時の国民議会における保守派と革新派の座席の位置関係にあることはよく知られている。
 右翼席に陣取った保守派が国王(ルイ16世)や貴族に寛容な姿勢をとったのに対し、左翼席の革新派は不寛容であった。
 そこから、

 右翼=保守、伝統や権威を尊重、急な変革を嫌う、体制維持
 左翼=革新、伝統や権威を重視せず、変革を好む、反体制


という性格付けが生じた。(ここで留意したいのは、アンシャンレジーム〈絶対王政〉打倒という点では、どちらもすこぶる“革新”だったという点である)
 しかるに、今では西洋資本主義社会の多くの人が、「左翼=社会主義、共産主義」というイメージを持っていて、元来の語義に訂正が必要となっている。
 というのも、旧ソ連や今の中国のような共産主義国家においては、右翼(保守)であることはすなわち共産主義体制維持を意味し、左翼(革新)であることは「欧米化」を意味するからだ。
 現代日本においてもそれは言えることで、79年間続いてきた日本国憲法下における戦後民主主義体制はもはや「日本の伝統」「正統な体制」と言ってもよく、それを変えて「大日本帝国」化を目指さんとする自民党をはじめとする改憲勢力こそが、「革新」すなわち左翼なのではないかとすら、ソルティは思うのである。(大日本帝国の寿命は78年)
 そんなわけで、右翼と左翼の定義は混乱している。
 〈右翼―左翼〉二元論にとって代わる、現代世界の政治思想を説明する、多くの人が納得できるマトリックスはないものか?
 ソルティがもっともすんなり受け入れられる説明は、アメリカの政治家であるデイヴィッド・フレイザー・ノーラン(1943-2010)が考案した下図のノーランチャートである。

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 これは、「思想や行動の自由度」と「経済活動の自由度」の二つの側面から、個人と国家の関係を分類したものと言える。
 上に行くほど、右に行くほど、個人(民間)に対する国家の統制や束縛が弱まる。自由が増加する。
 このチャートに則れば、日本や欧米の資本主義国における“伝統的”右翼は下半分の「権威主義から保守」に入り、“伝統的”左翼は上半分の「リベラルからリバタリアン」に含まれる。
 現代アメリカの政治思想状況を取り上げている本書における右翼と左翼の定義も、これに準じている。(本書では、右翼を「保守」と、左翼を「リベラル」と表記している)
 また、国際的視点をとれば、日本や欧米の国々は「リベラルからリバタリアン」に、ロシアや中国や北朝鮮やイスラム教国は「権威主義から保守」に入るだろう。

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 さて、The Righteous Mind (正義心)とは何か?
 著者はそれを The Moral Mind(道徳心)と区別している。
 後者が「普遍的な正義を求める心」だとすれば、前者は「道学的、批判的、判断的な本性を持つ心」であり、しいて言えば「偏狭な正義感」である。
 この「偏狭な正義感」=「正義心」が、人類には普遍的かつ生得的に備わっているということが、本書の基盤となる命題である。  
 論理はざっと以下のように展開する。
  1.  人間は〈理性〉より〈直観〉によって動く。→換言すれば、〈意識〉よりも〈無意識〉によってコントロールされているということで、「自由意志」の存在を否定する最近の遺伝生物学や脳科学の知見に依っている。
  2.  生存競争に打ち勝ち現代まで生き残ってきた人類(ホモ・サピエンス)の遺伝子や脳内には、生き残りに役立った道徳が植え付けられている。それが「正義心」であり、人類の〈直観〉を成している。→ここでは、進化生物学や進化心理学、とくに集団選択(集団レベルで作用する自然選択)の理論などが援用されている。
  3. 「正義心」は5つの基盤から成る。それは、〈ケア〉、〈公正〉、〈忠誠〉、〈権威〉、〈神聖〉である。(道徳基盤理論)→のちに補修され、6つに増えている。
  4. 5つの基盤のうち何を重視するかが、その人の思想傾向(保守的or革新的)に影響を及ぼす。→生育環境や人生上の体験によって、比重は変わり得る。
  5. 左翼(革新)の人は5つの基盤のうち、〈ケア〉、〈公正〉の2つだけを重視する。対して、右翼(保守)の人は5つの基盤すべてを平等に重視する。→したがって、有権者により多くアピールできるのは、右翼(保守)のほうである。 
  6. 人類史において、自集団の生き残りに役立ってきた「正義心」は、必然的に自集団中心の郷党的なものにならざるを得ない。→かくして、「正義心」は人々を結びつけると同時に盲目にする。
 5つの基盤について簡単にまとめると、
  • 〈ケア〉・・・・人を害から守りケアすることへの関心。キーワード「介護、親切」
  • 〈公正〉・・・・双方向の協力関係の恩恵を得る。キーワード「公正、正義、信頼性」
  • 〈忠誠〉・・・・結束力の強い連合体を形成する。キーワード「忠誠、愛国心、自己犠牲」
  • 〈権威〉・・・・階層制のもとで有益な関係を結ぶ。キーワード「服従、敬意」
  • 〈神聖〉・・・・汚染を避ける。キーワード「節制、貞節、敬虔、清潔さ」
 また、極右(非常に保守的)から極左(非常にリベラル)まで、それぞれの政治思想を持つ人が、5つの基盤のうち、どれにどのくらい重点を置いたかを示すグラフが以下である。

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(本書256ページより転載)

 なるほど、明らかに保守のほうがまんべんなく基盤を押さえている。つまり、人々の「直観」に訴えかけるスイッチを持っている。
 ただ、5つの道徳基盤すべてに重点を置いている保守の集票的有利を語ることで、著者が右翼の味方をしていると思った人がいるなら、それは誤解である。
 著者は今でもリベラルには違いないようで、民主党を応援するために民主党支部に出かけて、本書の内容をレクチャーしている。
 また、5つの道徳基盤は、左右問わず誰の脳内にも組み込まれているものであり、どれがどれより重要だということもなく、時と場合により比重が入れ替わることを著者は示唆している。
 たとえば、同じ一つの国でも、戦時には〈権威〉や〈忠誠〉がほかの要素よりクローズアップされ、自然災害後や不況時には〈ケア〉や〈公正〉が求められてくるであろうことは、想像に難くない。同じ一人の人でも、若くて独身のときは〈権威〉や〈忠誠〉を嫌って〈自由〉や〈公正〉を求める闘士たらんとハッスルし、結婚して守るべき家庭を持ち会社で重い立場を与えられたら、自然と〈権威〉や〈忠誠〉に重きを置くようになるだろう。子供や孫を持てば、あるいは自らの老化が進行すれば、〈ケア〉の価値に目覚めることにもなろう。
 さらに言えば、著者が記しているように、「遺伝子の進化が過去5万年のあいだに著しく加速していた」ことが事実ならば、今後その加速度がさらに高まり、5つの道徳基盤が数世代のうちに変貌する可能性も想定されよう。

 本書の一番の価値は、5つの道徳基盤とそれが形成された人類史的背景を知ることによって、読者が自らの道徳マトリックスに気づき、さらに、それが形成された個人史的背景を顧みることによって、著者がやったように自らを相対化し、多元的視野のもとに、対立陣営に属する人たちと向き合うことを提言しているところにある。

 本書では、なぜ人々は政治や宗教をめぐって対立するのかを考察してきた。その答えは、「善人と悪人がいるから」というマニ教的なものではなく、「私たちの心は、自集団に資する正義を志向するよう設計されているから」である。直観が戦略的な思考を衝き動かす。これが私たち人間の本性だ。この事実は、自分たちとは異なる道徳マトリックス(それは通常6つの道徳基盤の異なる組み合わせで構成されている)のもとで生きている人々と理解し合うことを、不可能とは言わずとも恐ろしく困難にしている。
 したがって、異なる道徳マトリックスを持つ人と出会ったなら、次のことを心がけるようにしよう。即断してはならない。いくつかの共通点を見つけるか、あるいはそれ以外の方法でわずかでも信頼関係を築けるようになるまでは、道徳の話を持ち出さないようにしよう。また、持ち出すときには、相手に対する称賛の気持ちや誠実な関心の表明を忘れないようにしよう。

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Nino Souza NinoによるPixabayからの画像

 著者グループが10万を超える人々を対象に実施した「道徳に関するネットアンケート」は現在も継続中であり、以下のアドレスから参加することができる。

 ソルティもアカウント登録してアンケートに回答した。
 結果は正直びっくりするものであった。

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注:2024年現在、5つの道徳基盤の中の〈公正〉が、〈平等〉と〈比例配分〉の2つに分かれ、
全部で6つの道徳基盤となっている。〈比例配分〉とは「各自の努力に見合った報酬を
手に入れるべき」という「正義心」のことで、結果の平等を重視する〈平等〉と異なる。

 傾向としては間違いなく「リベラル」な人間であるが、〈ケア〉をのぞくすべての要素において、平均値を下回っていた。
 〈忠誠〉や〈権威〉をたいして重視していないのは若い頃から自覚していたが、〈平等〉がこんなに低いとは・・・・!
 また、30歳くらいから福祉関係の仕事やボランティアをしていたので、〈ケア〉がもっと高い点を採ると思っていた。世界標準からすると「まだまだ」なのね~。
 すべての点数が低いのは、非社会的人間ということなのか、それとも遺伝子のコントロールから比較的逃れていることを意味しているのか・・・・。
 やってみて図らずも自覚したのだが、いままでずっと自分を「左翼(リベラル)」と思っていたけれど、思想的にはもはや「左」でも「右」でもなく、単なる「仏教徒」なのだ。
 ソルティが「守らなければ」と思っている道徳は、八正道なのである。 






おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


● ドキュメンタリー映画:『なぜ君は総理大臣になれないのか』(大島新監督)

2020年
119分

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 『日本改革原案2050』の政治家・小川淳也の32歳からの17年間を追ったドキュメンタリー。
 最初の新型コロナ緊急事態宣言が解除された直後の2020年6月に都内2館で公開され、ツイッター(現・X)を中心とするクチコミで火がつき、全国に上映館が広がり、6ヶ月のロングランとなった。

 噂に違わず、とても面白く、観る者を熱くさせる、感動的な120分。
 香川県という一地方の選挙戦の様子であるとか、旧態依然とした日本の選挙システムの問題点であるとか、政党政治や派閥政治の限界であるとか、党利党略やしがらみに縛られ振り回される一国会議員の葛藤であるとか、2003年から2020年までの政局の変遷であるとか・・・・そういった、一政治家の奮闘の記録を通して露わにされる「日本の政治および政治家」批評という観点でも興味深い作品なのであるが、それを大きく超えた感動がある。
 いったい自分はこのフィルムの何に感動したんだろう?
 何で感動したんだろう?

 一つは、小川淳也の政治信条がソルティのそれに近いからである。
 右すぎず、左すぎず、中道の庶民派。
 この映画の主人公が、自民党や共産党や公明党のような強い組織力のある政党の人間であったとしたら、あるいは、百田新党や日本維新の会や国民新党のようなマッチョな匂いのする政党の一員であったなら、ソルティはこれほど感動しなかったであろう。
 高松市で美容店を営む主人公の父親は言う。

 政治家が国民に本当のことを言って、この国の大変さと将来の大変さをちゃんと伝えて、土下座してでも、「こういうことやから」と言える政治家が出て来んと、もうこの国は駄目や、と思っているんですよ。それができるのは、ひょっとしたら淳也しかおらんのかなあ。

 この父にしてこの子あり。

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 一つは、主人公のイケメン力である。
 イケメン力とは、顔の造型やスタイルの良さだけを言うのではない。
 清廉さ、明るさ、我欲の無さ、正直、謙虚、熱意、ひたむきさ、率直さ、知性といった資質によって造られる顔立ちであり、人柄であり、オーラである。
 安倍晋三びいきで立場的には政敵とも言える田崎史郎すらをも惹きつけるのは、このイケメン力であろう。
 とくに、スイッチが入ったときの弁舌の磁力は、天下国家を語る維新志士が憑依しているかのごとく。

 一つは、この主人公が持っている“純なるもの”が、台風の目のように周囲の人々を巻き込み、次第に渦が大きくなっていく過程を見せつけられるからである。ドキュメンタリーならではの台本のないドラマと臨場感にワクワクする。
 魑魅魍魎の跳梁跋扈する政治の世界に、お花畑のような理想を掲げ、“小池百合子的したたかさ“とは真逆の正攻法で貫き通そうとする“おバカな”人間がここにいる!
 それが地元香川の市民たちの共感を得て、「地バン、カバン、看バン」揃った自民党公認の平井卓也議員に選挙で勝ってしまうという奇跡。
 現実にはウルトラマンが怪獣に敗けていくこの絶望的な世の中にあって、正義が果たされていく稀なるヒロイック・ファンタジーがここにある。

 一つは、本作が主人公とその家族を登場人物とするホームドラマになっている点である。
 主人公の両親、かつて同級生だった妻、二人の娘。
 官僚としてエリート街道まっしぐらだったはずの主人公の唐突な決断によって、人生を一変せられ、嵐の只中に巻き込まれ、さまざまな犠牲を強いられ、それでも主人公を支え続ける家族たち。
 通学している小学校の前に父親のポスターがデカデカと貼られているのを見て、あまりのきまり悪さに家に逃げ帰って号泣したという娘たちが、十年後には、「娘です」と大きく書かれたタスキを胸にかけて、父親のあとをついて堂々と選挙応援している姿には、これまで父親というものになったことのないソルティも、落涙を禁じえなかった。
 安倍自民党や統一教会が唱えていた“美しい家族”像が、どんだけハリボテな、欺瞞に満ちたものであるかが、よくわかる。
 強制された家族愛など偽りでしかない。

 一つは、やはりこれも家族の絆。父と息子の物語である。 
 ソルティは大島新監督についてなにも知らなかった。
 本作を観終わった後、ネットで検索して、あの大島渚の息子であることを知った。
 その途端、大島渚の撮った『日本の夜と霧』(1960)のラストシーンが浮かんできたのである。
 あれは、1950年代の共産党の右顧左眄と硬直した組織体制を批判し、新左翼の登場を描いた映画であった。
 国家権力を嫌った大島渚は、当然、反自民であったが、共産党シンパでもなかった。
 右でも左でもなく中道。しいて言えば、グローバルな視野を持つ自由主義者。
 それが大島渚であった。
 よくは知らないのだが、大島渚は新左翼に期待するところ大だったのではないか。
 しかるに、『日本の夜と霧』における新左翼の青年(津川雅彦)の華々しい登場は、自民党や共産党の組織的腐敗を打ち破るものにはなり得ず、連合赤軍事件という惨憺たる結果に終わった。テロでは社会は変えられない。
 大島渚は、71年の『儀式』を最後に、政治的映画から離れていった。
 その後、ソ連の崩壊などあって左翼運動が弱体化し、自民党一強時代が長く続いている。
 本作で小川が述べている通り、民主党政権の数年間(2009-2012)のていたらくは、逆に、その後に続く第二次安倍政権の長期化&盤石化を用意してしまった。
 もはや、日本は自民党独裁と右傾化から逃れられないのか?

 そんな絶望のときに、大島渚の息子によって制作されたのが、ほかならぬ本作なのであった。
 この巡り合わせに、ソルティは感動を覚えざるを得なかった。
 むろん、親譲りの芸術性ゆえか、作品としての出来も素晴らしい。
 なにより、2003年時点で、海の者とも山の者ともつかぬ地方の新人候補者をカメラに収めておこうという、勘の良さというか、出会いの才能に驚嘆する。
 あの父にしてこの子あり。

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選挙活動中の小川淳也
丘と畑の連なる風景が讃岐(香川)の遍路を思い出させる

 2020年の公開時にソルティが本作を観られなかったのは、コロナ禍のためもあったが、足を骨折して外出がままならなかったせいだ。
 本作の成功を受けて、大島新は2021年10月に行われた衆議院議員総選挙に焦点を当てた『香川一区』というドキュメンタリーを撮っている。
 香川一区は、小川淳也と平井卓也の選挙区である。
 ソルティはこれも観ていない。
 正直に言えば、安倍政権の専横とそれを許してしまう日本国民に対する絶望感に襲われて、ある種の諦念に陥っていたところもある。(いまもそれは変わりないのであるが)

 しかし、世の中はわからない。
 本作の意味合いは、2022年7月8日を契機に大きく変わってしまった。
 本作中、不透明な政局を前にした小川が、「5年後どうなっているかわからない」とスタッフに呟くシーンがある。2019年9月の収録シーンだ。
 たしかに、未来のことなど予測できないのは分かっている。
 しかし、いくらなんでも、「5年後」のこの2024年の日本の姿は、小川やスタッフや田崎史郎はもとより、日本人の誰ひとりも想像できなかっただろう。
 本作を公開時でなく、「いま」観ることの最大の面白さは、悩み逡巡し苛立ち奮闘し壁にぶつかり、それでもくじけず頑張る映画の中の主人公に向かって、「5年後は状況がまったく違っているから、あきらめるなよ」と、声をかけたくなる点である。
 希望が無くなるのは、自らそれを捨てた時なのだ。 

 小川淳也が総理大臣になれる日は来るのか?
 可能性は低いと思う。
 だが、5年前より確実に高まっている。


壇ノ浦
源平合戦のあった壇之浦(香川県高松市)




おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 本:『日本改革原案2050 競争力ある福祉国家へ』(小川淳也著)

2014年光文社
2023年河出書房新社(改訂版)

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 著者は1971年香川県生まれの立憲民主党の国会議員。2020年に公開されたドキュメンタリー映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』(大島新監督)で広くその存在を知られるようになった。
 ソルティは、タイミングが合わなくて『なぜ君~』を見逃したが、気になっていた男であった。
 アベノクライシス後の日本の望ましいあり方を考えてみたいと思い、本屋の政治関係の棚を見ていて本書を発見。
 2014年に発行され、その後絶版となっていたが、支援者からの要望もあり昨年再出版に至ったという。
 東大法学部卒業、元自治省の官僚という堂々のエリートコースを辿ってきた小川淳也という政治家が、どんな日本の未来像を描いているか。

 まず感心したことに、日本の現状を数値データをもとに客観的に分析し、課題を現実的にとらえている。
 今後の日本の行く先を考える上で、いちばんの問題がどこにあるか、避けては通れない不都合な真実が何なのか、しっかり押さえている。
 すなわち、
  1.  人口構造の激変(少子高齢化)
  2.  人口減少の加速(2100年には日本の総人口は半減!)
  3.  エネルギー環境問題(エネルギーの枯渇や地球温暖化)
  4.  超国家問題に対する国際政治の遅れ(一国だけで解決できない問題の増加)
 ありていに言えば、もはや、「成長・拡大の時代は終わった」ということである。
 60年代高度経済成長期のような右肩上がりの好景気も、70年代の一億総中流社会の栄光も、80年代バブル期のイケイケドンドン消費天国も、今後日本では望めないという冷徹な事実である。
 これが飲み込めていない大人が多いからこそ、アベノミクスみたいな幻想に踊らされてしまうのだ。
 環境問題一つとっても、もはや大量生産・大量消費・大量廃棄はありえない。
 日本のみならず国際社会全体が「持続可能性ある社会」へと舵を切らなければならない。
 「豊かさ」の意味合いを今一度問い直す必要があるのだ。

 この現状認識をもとに、小川は取り組むべき国家戦略を4つ挙げる。
  1.  生涯現役
  2.  列島解放
  3.  環境革命
  4.  国際社会の変革
 そして、目指すべき将来の国家像を次のように語る。

 私は「競争力ある福祉国家」を創りたい。まず最初に目指すべきは「福祉国家」だ。「福祉国家」がもたらす安心感が、やがては国民の様々な挑戦やチャレンジを後押しし、国家と社会の競争力へとつながる。そんなイメージだ。そして福祉国家の建設を進めるには、国民の政治への信頼が不可欠である。政治への信頼は、国民の高い政治参画意欲によってのみもたらされる。すなわち、「投票率90%」だ。「投票率90%の競争力ある福祉国家」を創るのだ。

 賛成である。
 どうやら小川が描いているのは、フィンランドデンマークのような北欧型の高福祉国家らしい。
 そのためには当然、高い税金が必須となる。
 「福祉や医療や教育という形でちゃんと還元されるのであれば、高い税金を払うことも厭わない」
 「とつぜん職を失っても、離婚してシングルマザーになっても、起業に失敗して破産しても、ケガや病気や老衰で働けなくなっても、路頭に迷うことなく衣食住が保障され、新しい人生に向かって何度もチャレンジできるのならば、消費税25%だってかまわない」
 フィンランドやデンマークの人々がそのように語れるのは、税の使途に対する信用がある、すなわち政治家への信頼があるからにほかならない。
 ひるがえって、裏金作りに精を出す自民党の国会議員たちのていたらくを見よ。
 まともに税金を払うとバカを見る気になるではないか!
 その国の政治家の質は、国民の質の反映である。
 やっぱり、有権者がもっと賢くならなければならない。

 日本の教育に決定的に不足しているのが、社会の当事者となるべき、市民教育だ。どのような職業に従事するにせよ、社会の一員としての責任感覚を呼び覚まさなければ、その健全な担い手として期待できない。
 善も悪も混在する社会において、犯罪や非行、詐欺や暴力などから自分の身を守り、成人すれば、自立した社会の構成単位として、人によっては家族生活を営み、職業に従事し、政治参加、地域づくりを担う。そうした基本的態度や素養を身に付ける教育が必要である。

選挙
 
 さて、小川は上記の4つの戦略それぞれについて、具体的な政策(各論)を述べていく。
 本書タイトルが示すように、そのゴール設定を2050年としているのは、2050年に高齢化率40%(国民5人に2人が65歳以上)に達し、そこから横ばいになるからという。それまでに、持続可能性ある社会に向けて変革を進めていくべきと語る。
 根拠ある具体的な期限を設定して、政策を立案していくあたりは、さすが官僚出身者。
 
 具体策をいくつかピックアップすると、

 生涯現役を実現するために
  • 定年制の廃止
  • 年功賃金から能力別賃金へ
  • 社会保障を統合し、年齢区分を廃止(ベーシック・インカム導入についても検討)
  • 人生を終えるに際し、自らが受け取った社会保障給付費と支払った保険料の差額を社会に還元(遺産の多い人に限る)
 列島解放を実現するために
  • 世界の国々からの訪日のハードルを引き下げる
  • 国際空港・港湾の利用料の引き下げる
  • 法人減税による国内企業の競争力強化と外国企業の誘致
  • 希望するすべての中学生~大学生の国費による海外留学(国際感覚を身に付けさせる)
 環境革命を実現するために
  • 環境税引き上げを財源とする再生エネルギーの導入促進
  • 原発の縮小化と核融合エネルギーの利活用に向けての研究開発

 実現性はともかく、基本的ビジョンがしっかりあって、根拠も明確である。
 耳に心地良い話ばかりでなく、改革によって国民が負わなければならない痛みについても率直に述べている。
 そう、改革が抜本的であるほど、既得権益ある層の反発を受けるのは必至である。
 政治家はその抵抗を超えて、未来を生きる国民のために、現在の有権者を説得しなければならない。
 本書を読んだ限りの小川の印象として、東大法学部出身の頭の良さは当然ながら、正直な人、真面目な人、公正を心がけている人という感を持った。
 自民党の悪口をぐだぐだ並べていないところ、アベノミクスの良かった点もそれなりに評価している点もなかなかの人格者と見た。
 
 読んでいて、ちょっとここは弱いかなあ、追及されるだろうなあと思ったのは、やはり国防についてであろうか。(経済についてはソルティはまったくチンプンカンプンなので、コメントしようもない)

 尖閣・竹島・北方領土問題を始めとした困難な外交問題が、軍事力によって直ちに解決される時代とは思えない。国際社会からの信頼に勝る安全保障政策はなく、こうした理想主義は、未来に向けてはある種のリアリズムでもある。その意味で現政権の防衛費の倍増、敵基地攻撃能力の保持など勇ましい国防論議には逆に観念的で危険な臭いを感じている。 

 ソルティもまったく同意見であるが、たとえば櫻井よしこあたりの保守論客から、
「では、中国や北朝鮮のミサイルが日本に落ちたら、小川さん、どうなさるの?」
なんて突かれた時、答えに窮するのではないか?
 これはなにも小川一人の問題ではなく、立憲民主党が党として有事対策を考え、国民に表明し合意を取り付けるべきことと思うが・・・・・。

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 最後に――。
 つまるところ、民主国家の政治は国民を幸福にするためにある。政治家の仕事は国民に幸福を感じてもらうところにある。
 その意味で、「何をもって幸福とするか」という問いに対する回答こそ、問われた政治家の質を見極め、国民が票を投じるか否かを判断する上での重要なバロメーターとなろう。
 小川淳也は次のように語っている。

 人の幸せは100%主観的なもの。誰かがあなたの幸せをこうだと決めつけるようなものではありません。だから大切なことは、あなたが幸せと思える生き方を自由に選べる広い選択の幅、そしてお互いがそれを認め、尊重し合える懐の深い価値観、この二つが満たされる社会にしていく必要があると思うのです。
 
 今後も引き続き注目していきたい政治家の一人である。


 
 
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● 本年ベストワン 映画:『異端の鳥』(ヴァーツラフ・マルホウル監督)

2019年チェコ、スロヴァキア、ウクライナ
169分、白黒
言語 インタースラーヴィク、ドイツ語、ロシア語

 2023年もあと少しで終わる。
 例年のように、今年観た映画のベスト10を選定する頃だなあと思いつつ、見納めの一本を借りたところ、これが本年ベストワンだった。
 映画の神様は、映画を愛する者を見捨てない。

 ソルティは観終わるまで『異端の島(しま)』と勘違いしていた。
 原作はポーランド出身のイェジー・コシンスキ(1933-1991)の小説 『ペインテッドバード』( The Painted Bird)。 『異端の鳥(とり)』である。
 タイトルの由来は、羽根にペンキを塗られて空に返された鳥が、仲間たちに一斉攻撃されて殺されるシーンから来ているのだろう。
 つまり、異端者に対する差別や暴力がテーマなのであった。
 てっきり「島(しま)」だと思っていたソルティは、砂に首まで埋められた子供をカラスが狙っているDVDパッケージの写真を見て、『悪霊島』や『イニシェリン島の精霊』のような因習深い離れ小島を舞台にした、村人たちによる児童虐待の話かと思っていた。

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 時代はいつで、ここはどこなのか。
 まったくわからないまま物語は始まる。
 電気もなく、水道もなく、車も走っていない貧しい村の様子から、中世ヨーロッパのように見える。
 村人が話している言葉もどこの国の言葉なのか見当つかない。(それもそのはず、インタースラーヴィクという人工言語が使われていた)
 「吸血鬼」「悪魔の子」といった字幕の断片や、怪しげな呪文と粉薬で病人を癒す老婆の存在は、白黒映画であることも手伝って、イングマール・ベルイマン監督『第七の封印』を想起させる。
 つまり、ペスト流行時代のヨーロッパの片田舎の話。

 ベルイマンを想起させるのは舞台背景だけではない。
 映像がまさにベルイマン的に凄いのだ!
 空を突き刺す裸の樹木、万華鏡のような木漏れ日のきらめき、なめらかな水面に立つさざ波の皺、風に波打つ麦の穂、白黒映像を生かし黒々と浮かび上がる人物の影、ロングショットの構図の見事さ、移動ショットの巧緻と衝撃、そして物語をセリフでなくショットで紡いでいく節約性・・・・・。
 これが映画でなくてなんだろうか?

 ヴァーツラフ・マルホウル監督は、チェコ共和国出身らしい。
 長編第3作となる本作が本邦初公開。
 おそらく、将来、ベルイマン、溝口健二、ジャン・ルノワール、黒澤明、ヒッチコック、タルコフスキー、フリッツ・ラングなどと並び称される可能性の高い、半世紀に一人の映像の天才である。
 3時間に近い長尺であるが、息をのむような映像の連続に圧倒され、時間を忘れた。
 これは映画館の大スクリーンで再び観たい。

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 名前も出自も背景も分からぬ少年が、行く先々で大人たちから酷い虐待を受けては逃げのびる。
 村から村へ、村から町へ。女主人から女主人へ。女主人から男主人へ。
「いったい、彼は何者なんだろう? なぜ、大人たちは彼をいじめるんだろう?」
 少年は行く先々で、大人たちの醜さ、残酷さ、隠された欲望を身をもって知り、世界の残酷さを嫌でも学ばされる。
 まるで、ダンテ『神曲』のような地獄めぐり。
 イノセントであった少年は、大人たちに感化され、次第に悪を覚えていく。

 主役の少年を演じているペトル・コトラールは、役者ではなく、監督が見つけてきた素人という。
 少女と見まがうほど傷つきやすい心を持った優しい少年が、煉獄めぐりを経て、しまいには鉄面皮のサイコパスのようになっていく過程を、驚くべき直感で演じている。
 その瞳の力強さは、観終わった後もなお、鑑賞者の胸を刺し続ける。 
 
 少年の「悪」が育つのと並行して、周囲の大人たちの「悪」も強度を増していく。
 いや、逆だ。
 大人たちの「悪」の描写が、個人的な悪徳から集団的な狂気に転じていくに従い、それに付き合わせられる少年の「悪」も取り返しのつかないものになっていく。
 物語の半分くらいで、軍人が登場する。
 このあたりから、時代背景が明らかになってくる。
 ネタばらしはしないでおくが、ここでようやくタイトルの意味が飲み込めた。
 そうだったのか!!
 これはホモ・サピエンスという種が宿命的に有する「悪」の物語である。

 石井裕也監督『』や昨年ベストテン入りした『アンテベラム』(ジェラルド・ブッシュ&クリストファー・レンツ監督)のときも思ったが、事前知識なしで映画を観るって大事だ。  

 映像において、内容において、本作の衝撃はまぎれもなく本年ベストワン。
 ガザ地区をめぐる現状を誰もどうすることもできない2023年末、本作を観ることをソルティに選ばせた映画の神は、容赦ない。

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ガザ地区の少年
hosny salahによるPixabayからの画像




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● 本:『十七歳の硫黄島』(秋草鶴次著)

2006年文藝春秋新書

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 著者は昭和2年(1927)群馬県山田郡矢場川村(現・栃木県足利市)生まれ。数え17歳(満15歳)のとき自ら志願して従軍。昭和19年7月、海軍通信兵として硫黄島に派遣された。
 本書は、クリント・イーストウッド監督『硫黄島からの手紙』、『父親たちの星条旗』で鮮烈に描かれた、およそ3ヶ月間にわたる日米硫黄島決戦の模様を、重傷を負いながら辛くも生き残った一兵士が記した体験記である。
 硫黄島では、21,000人余の日本兵のうち、祖国に生還できたのは20人に1人であった。

 映画を先に観ていたので、大洋に囲まれた硫黄島の地形や摺鉢山を最大標高とする岩だらけの地表の風景、地下に張り巡らされた日本軍の基地や塹壕の様相、死体が累々と積み重なる凄まじい戦闘の光景を思い浮かべながら、読むことができた。
 まさに生き地獄である。

 著者は巻末の「謝辞」にこう記している。

 地下壕の中での生活は、人間界の極限に挑戦しており、いかなる文字を並べてもその実情に迫ることは不可能である。生還者の手記をすべて合わせても描写しきれないだろう。

 戦況の解説や被害状況の概要なぞ、無駄に挙げる必要はない。
 本書はただ読んで、実際は、ここに書かれていることの数十倍も数百倍も凄惨だったのだと思うよりない。

 二つだけ印象に残ったことを述べる。
 一つは、日本とアメリカの圧倒的な軍事力の差、つまり国力の差。
 戦艦や戦車や航空機や爆弾や銃といった兵器の問題だけではない。投入できる兵士の数、食糧や建築材など輸送できる物資の量が半端ない。
 日本軍を蹴散らして上陸した浜辺に、船から運び出したブルドーザーと資材でわずか数日のうちに兵士が寝泊まりできる小屋を建ててしまう機動力。
 その格差のさまは『硫黄島からの手紙』でも、日本軍が立て籠もる島を幾重にもとり囲み、そのまま水平線まで連なるような軍艦の列という形で、視覚的に表現されていた。
 あたかも、幼稚園児がプラスチック製のおもちゃの刀を持って、暴力団事務所に殴り込みをかけるみたいな話で、「なんでこんな無益で無茶な闘いを・・・」とため息を漏らさずにはいられない。

 もう一つ、やはり「謝辞」の中の文。

 死を覚悟して敵前に身をさらし、爆弾や鉄砲弾による直撃弾などで戦死する者の多くは「天皇陛下万歳!」と一声上げて果てた。重傷を負った後、自決、あるいは他決で死んでいくものは「おっかさん」と絶叫した。負傷や病で苦しみ抜いて死んだ者はからは「バカヤロー!」という叫びをよく聞いた。「こんな戦争、だれが始めた」と怒鳴る者もいた。

 以前、ホスピスでボランティアしていた時のこと。
 日中戦争で満州に派遣され、その後ロシア軍の捕虜となって戦後までシベリア抑留されていた男性がいた。
 90歳のHさん、視力を失っていた。
 部屋に訪れるたびに、ツバキを飛ばしながら、シベリア時代の話をよくしてくれたが、いつも必ず言うセリフがあった。
『だけどさ。みんな、死ぬときは『天皇陛下万歳!』なんて言う奴ャ、一人もいなかったよ。みんな、最後に「おかあさーん」って言って死んでいったよ』
 玉砕覚悟で敵前に身をさらす者は、気をひき立てるために、あるいは自らの死に少しでも意義を見出すために、「天皇陛下万歳!」と叫んだのだろう。
 Hさんのいた抑留地では、もはや玉砕しようがなかった。
 だからみんな、「おかあさーん」だったのだ。
 
 Hさんも、著者の秋草氏も、よく生き残ったと思う。(シベリア抑留では、約57万5千人の日本人捕虜の10人に1人が亡くなっている)
 2人の話に共通すると思われるものは、「生きたい」という強い意志、周囲の状況を素早く見抜いて行動する賢さ、そして運の良さ。

 Hさんは2018年に亡くなった。
 秋草氏もまた同じ年に90歳で世を去った。


 
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