ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●反戦・脱原発

● 本:『歴史の終わり』(フランシス・フクヤマ著)

1992年原著刊行
1992三笠書房より邦訳(訳・渡部昇一)
2020三笠書房より新版刊行

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 この本が出版された時の社会の衝撃と反響には大変なものがあった。
 書店の店頭に上下巻が山積みに置かれていた光景と、日本と世界の名だたる言論人を巻き込んで起こった議論の沸騰を覚えている。
 それはまさに、本書のもととなった論文がアメリカの外交専門誌『ナショナル・インタレスト』に発表された1989年という年に始まった、ベルリンの壁崩壊に象徴される東ヨーロッパ諸国の一連の反共産主義革命が、ついには1991年12月のソ連崩壊に逢着し、戦後長く続いた東西冷戦が終焉を迎えた――その激動のドラマを、本書のタイトルが端的かつ挑発的に表現していたからであったし、少なくとも1989年の時点で、アメリカの政治経済学者であるフランシス・フクヤマがその後起こることを正確に予言していたように見えたからであった。

 当時30歳目前だったソルティも本書を読もうと手にしたのであるが、数ページ読んであきらめた。
 難しくて手に負えなかった。
 歴史や哲学や世界情勢に関する知識不足、読解力の欠如、政治経済に対する苦手意識に加え、いつも読むのは文芸書ばかりでこういった本を読み慣れていないことも大きかった。
 おのれの頭の悪さを嘆いた。
 が、本書の内容を噛み砕いてレクチャーしてくれる週刊誌や月刊誌などの特集記事を読んで、主旨は大方わかった(気がした)。
 「ああ、歴史の終わり(The End of History)とは、資本主義&民主主義の勝利宣言なんだな」
 邦訳刊行後の世間一般の反応としては、資本主義の勝利宣言に疑念をはさむ空気はなかったように思う。
 92年当時、日本はまだバブル崩壊の影響が深刻化する前であったし、なんといっても、ルーマニアやハンガリーなど旧社会主義国の悲惨な内情が目の前で次々と露わにされていったから、「冷戦に決着がついた」という判定が自然に受け止められた。
 
 あれから32年――。
 本書にふたたびチャレンジしようと思い立ったのは、むろん、日本でも世界でも民主主義の危機が叫ばれ、格差社会という形で資本主義の弊害がますます露わになっている現状を憂えるからである。
 自由主義経済と国民主権を楯の両面とする「リベラルな民主主義」は、ほんとうの勝利者だったのだろうか?
 「89年の精神」はいまも通用するのだろうか?
 「歴史は終わった」と言っていいのだろうか? 

ベルリンの壁
ベルリンの壁 

 30年という歳月は偉大である。
 なんとまあ、今回はそれほど困難を感じることなく、全編読めた!
 それも面白く!
 とくにこの30年、政治経済や歴史や哲学を勉強した覚えはないのだが、読書の幅が文芸書以外に広がったことと、このブログを書いてきたことが、読解力アップにつながったようだ。
 書評を書くためには、本をある程度深く読み込まなければならないし、自分が本から受けた印象や感想を文章に表すには、自らの考えを整理整頓しなければならない。調べるべきことは調べなければならない。
 そういう地道な作業が読書の進化(深化)には大切なのだと、還暦にして思い知った。(遅い!)

 して、ついに本書を読んで、「ああ、そうだったのか」と意外な感に打たれたことが二つあった。
 一つは、「歴史の終わり」という概念が、別に著者であるフランシス・フクヤマの発明でも専売特許でもなかった点。
 それは、カント、ヘーゲル、コジェーブ、マルクス、ニーチェといった西洋の偉大な哲学者らが、「人間社会の進化には終点があるのか」という問いの前に思考を積み重ねてきた、哲学上の主要なテーマの一つだったのである。
 この思想史的文脈を受けてフクヤマは、「リベラルな民主主義こそ終点と言い得る」と本書で述べたのだ。
 その正否は結局、それこそ“歴史自身”が証明するのを待つしかないのだが、ある意味これは、多元主義・文化相対主義の逆を行く自文化中心主義――欧米や日本などの資本主義の民主国家をそうでない国々の上位に置く、いわばWEIRD優越思想――という見方もできよう。
 フクヤマは、リベラルな民主主義を達成した国々を「脱歴史世界」、そうでない国々を「歴史世界」と定義し、今後、世界は大きく二極に分かれていくと予言している。

 脱歴史世界では、経済が国家間の相互作用の主軸となり、武力外交の古くさい規範は今日的な意義を失っていくだろう。

 その反対に歴史世界では、そこに関与している国々に武力外交の古い規範が依然として適用されるため、特定の国の発展段階に応じて起こる多種多様な宗教的、民族的、そしてイデオロギー的衝突によって世界は相変わらず引き裂かれたままに残るはずだ。

 言うまでもなく、歴史世界の代表格は、ロシアであり、北朝鮮であり、中国であり、イスラム教国であり、ミャンマーであり、アフガニスタンである。
 フクヤマは、二つの世界が「並存状態を続けながらも別々の道を歩み、あまりかかわりあいもなくなっていくだろう」と予言しているが、そこが92年刊行時点において抱くことが可能だった楽観的見解と思われる。
 むしろ、ソルティは、歴史世界と脱歴史世界との新たな「冷戦」(ひょっとしたら世界最終戦争に至る)が始まるのではないかと危惧している。

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HUNG QUACHによるPixabayからの画像

 今一つの意外は、本書の原題が、The End of History and The Last Man、すなわち、『歴史の終わりと最後の人間』だった点である。
 邦題は、原題の前半部分しか訳されていない。
 だから、ソルティは、リベラルな民主主義を最終到達点とする「歴史の終わり」についての本とのみ、理解していた。
 しかし、むしろ本書で重要なのは、著者が読者に投げかけたかったテーマは、後半部分の The Last Man「最後の人間」のほうにあったのではないか。
 そう思ったのである。
 少なくともソルティの関心はそこに惹きつけられた。
 「最後の人間」とはなにか?

 「歴史の終わり」とは、戦争や血なまぐさい革命の終わりを意味することになるだろう。目的において合意した人間には、戦うべき大義はなくなるだろう。人間は経済活動を通じて自分の欲求を満たすが、もはや戦いにみずからの生命を賭ける必要はなくなる。言い換えれば人間は、歴史の始点となった血なまぐさい戦い以前のように、ふたたび動物になるのだ。

 「最後の人間」の人生とはまさに西欧の政治家が有権者に好んで与える公約そのもの、つまり肉体的安全と物質的豊かさである。これがほんとうに過去数千年にわたる人類の物語の「一部始終」なのだろうか? もはや人間をやめ、ホモサピエンス属の動物となりはてた自分たちの状況に、幸福かつ満足を感じていることをわれわれは恐れるべきではないのか? 

 「最後の人間」とは、いわば、現状に満足しきった家畜小屋の豚である。
 なぜ、「最後の人間」が生み出されることになるのか。
 ざっと以下のような論旨である。
  •  人間をして行動を起こさせるのは、欲望理性気概の3つである。このうち、気概とは承認欲求または自尊心のことであり、優越願望(その他大勢より上に立ちたい)と対等願望(他の人と同じ程度に認められたい)がある。
  •  歴史は方向性をもつ。累積的かつ方向性を持つ近代自然科学は、それを利用する国に軍事的優位と経済的優位をもたらす。人間の持つ欲望理性は、ほうっておけば、成長する市場経済すなわち自由主義経済を求めることになる。ここに、社会主義や共産主義に対する資本主義の優位がある。
  •  しかし、資本主義は必ずしも民主主義を必要条件としない。民主主義へのベクトルを生むのは、人間の持つ気概である。強い優越願望を持つ一人の主人(主君)が大勢の奴隷(臣民)を従えた奴隷制や封建制から、互いが互いを認め合って「対等願望」を満たし合う民主主義に移行したのは、歴史の必然である。
 リベラルな民主主義を選び取った場合に問題となるのは、それがわれわれに自由に金儲けをさせ、魂のなかの欲望の部分を満たしてくれるという点だけではない。さらに重要で、最終的にいっそうの満足を与えてくれることは、この社会がわれわれの尊厳を認めてくれるという点なのだ。リベラルな民主主義社会はすばらしい物質的繁栄をもたらす可能性を秘めているが、それはまた各人の自由を認め合うという、まったく精神的な目標実現にいたる道をも指し示してくれる。・・・・・このようにして。われわれの魂のなかの欲望の部分と「気概」の部分は、ともに満足を見出すのである。
  •  かくしてリベラルな民主主義は、人間社会における政治形態として最終的な解となりうる。が、もちろん弱点もある。たとえば、「冷酷で頑固な独裁国から自分の身を守れない」(北朝鮮やロシアや中国の脅威を見よ)、「資本主義社会は不平等をもたらすので、結局のところ、承認の平等は得られない」(格差問題を見よ)、「民族主義や宗教的原理主義との衝突」(難民問題を見よ)・・・・等々。
  •  もっとも看過できない問題が、気概の喪失である。
 リベラルな民主主義社会というのは「対等願望」の社会である。お互いにお互いの権利を認め合う。そして、その権利が認められている国家では、個人の生命が守られているかぎり、自由に財産を増やすようなその部分に国権がなるべく立ち入ってはならないということで成り立つ。これが「対等願望」の世界である。
 ところが、ここに哲学的かつ論理的な矛盾があるわけである。すなわち、みんな平等でいいというのならば、そこには偉大なる芸術も偉大なる学問もないことになってしまう。みんなと同じでいいというのならば、ほかに優越しようという気がなくなった社会である。ニーチェの言葉を使えば、奴隷の社会と同じなのである(奴隷というのは、「気概」を失ったために降参した人たちの社会なのである)。すなわちリベラルな民主主義社会というのは、お互いの権利を認めているようでありながら、究極的には奴隷の社会を志向するという危険を本質的に備えているわけである。

 このようにして、「最後の人間」が生み出されていく次第となる。
 もっと砕いた表現で言えば、「安全と物質的欲望と承認欲求が適度に満たされた平和な世界で、命を懸けるほどの対象もなく、魂を燃やすほどの生き甲斐もなく、人間は生きていけるのか?」、「永遠に続く退屈と付き合っていけるのか?」という意味になろう。
 90年代に社会学者の宮台真司がよく口にしていた「終わりなき日常をどう生きるか」というテーマと符合する。
 フクヤマは、「対等願望だけの世界=気概の喪失」に耐えられない人々が、ふたたび戦争や革命といった、気概が十全に発揮される世界を求めて反逆する可能性を示唆している。
 たしかに、民主主義から独裁主義に戻った感のあるロシアの現在、スーチー女史を再び軟禁し軍事政権に舞い戻ってしまったミャンマー、アメリカのトランプ支持者ら、大日本帝国化を企む元安倍派や日本会議の面々・・・・。優越願望あるいは気概という概念を通してこれらをみれば、「なるほど」と頷けるところもある。
 そこでは、「終わった」と思った歴史が逆流するのだ。
 敵がいないとつまらない、戦いこそ生きがい、より多くの人の上に立ちたい、なにものかに自己投棄してこその人生、生ぬるい「生」よりは激しく英雄的な「死」を・・・・という性向は、とりわけ「男♂」という種族には、多かれ少なかれ、ある。
 リベラルな民主主義がこの先ずっと継続するためには、抑圧された気概をどう解消するか、どうやって社会に役立つ方向へ昇華していくか、マチョイズムをどう克服するか、という点にかかっているのかもしれない。

 面白いのは、「歴史の終わり」を生きる人間の賢明なふるまい方のヒントとして、フクヤマは、アレクサンドル・コジェーブ(1902-1968)の言を紹介し、日本の江戸時代――鎖国下の天下泰平な日常――に触れている点である。

 コジェーブによれば、日本は「16世紀における太閤秀吉のあと数百年にわたって」国の内外ともに平和な状態を経験したが、それはヘーゲルが仮定した歴史の終末と酷似しているという。そこでは上流階級も下層階級も互いに争うことなく、過酷な労働の必要もなかった。だが日本人は、若い動物のごとく本能的に性愛や遊戯を追い求める代わりに――換言すれば「最後の人間」の社会に移行する代わりに――能楽や茶道、華道など永遠に満たされることのない形式的な芸術を考案し、それによって、人が人間のままにとどまっていられることを証明した、というわけだ。

 江戸時代がはたして「歴史の終わり」を一足早く体現していたのか、そしてまた、能楽や茶道や華道(あるいは歌舞伎や武道や武士道)が「終わりなき日常」を倦むことなく生きるための手立てとして有益なのかどうかはおいといて、せっかく日本に注目してくれるのなら、むしろ、「禅」こそが最適解に近いのではないかと、ソルティは考える。
 行住坐臥すべからく禅、過去と未来を捨て去って「いま、ここ」に在ることを善とする精神こそ、歴史の終焉後の世界を生きる人間のクールかつ美しい身の処し方なのではないだろうか。

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● 本:『社会はなぜ左と右にわかれるのか』(ジョナサン・ハイト著)

2012年原著刊行
2014年紀伊國屋書店(訳・高橋洋)

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 SNSにおける「ネトウヨ V.S. パヨク」の中傷合戦に象徴されるように、右翼(保守)と左翼(革新)の分断と対立が、国内でも国外でも先鋭化しているように思われる。
 アメリカの場合とくに顕著で、共和党陣営と民主党陣営の二極化は、国を分断し、民主主義の危機が叫ばれるまでになっている。
 いったい、人はなぜ右翼になったり、左翼になったりするのか?
 両者の違いはどこにあるのか?
 対立は乗り超えられないものなのか?
 
 そうした疑問に答えんとするのが、「対立を超えるための道徳心理学」という副題をもつ本書である。
 原題は、The Righteous Mind――Why Good People Are Divided by Politics and Religion  『正義心――なぜ善良な人々が政治と宗教によって分断するのか』
 著者のジョナサン・ハイトは、1963年アメリカ生まれの社会心理学者でユダヤ人。
 もともとはガチガチの民主党支持のリベラル(左翼)だったのだが、アメリカとはまったく異なる文化を持つインドで数年暮らしたり、心理人類学者で多元主義者のリチャード・シュウィーダーや歴史学者のジェリー・ミュラーの影響を受けたり、道徳に関する様々な調査研究を重ねたりするうちに、自らがWEIRD社会のマトリックス(枠組み)に囚われていたことに気づき、自らを相対化するのに成功し、それまで理解するのが困難だった保守側の主張にも耳を傾けられるようになったのだという。
 WEIRDというのは、Western(欧米の)、Educated(啓蒙され)、Industrialized(産業化され)、Rich(裕福で)、Democratic(民主主義的な)人々、という意味である。
 WEIRD文化に属するのは、世界でも限られた人々であり、そこでのものの考え方や世界の見方を世界標準とするのは、当然片寄っている。

 WEIRD文化の特異性の一つは、「WEIRDであればあるほど、世界を関係の網の目でなく、個々の物の集まりとして見るようになる」という単純な一般化によってうまく説明できる。これまで長いあいだ、欧米人は東アジア人に比べて、自己をより自立的で独立した存在と見なすとされてきた。たとえば、「私は・・・」で始まる文を20あげさせると、アメリカ人は自己の内面の状態を表現しようとする(「幸せだ」「社交的だ」「ジャズに興味がある」など)。それに対し、東アジア人は役割や関係をあげようとする(「一人息子だ」「妻帯者だ」「富士通の社員だ」など)。

 日本人はもちろん東アジア人であるけれど、戦後GHQによる民主化政策を受け、資本主義陣営に取り込まれて以来、WEIRDの一員になったと自負(錯覚?)しているところがある。
 東アジア的心性とWEIRD的心性のあいだで分裂しているのが、現代日本人なのかもしれない。

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 本書は、読みやすく、わかりやすく、面白い。
 論旨が明確で、文章は簡潔にして平易。
 著者が仲間たちとおこなった道徳に関するユニークなアンケート調査の数々が紹介されていて、その結果分析には興味をそそられる。
 論述の一つ一つは、可能なかぎり科学的な裏付けが施されているので、説得力がある。(科学妄信もまたWEIRDの“悪い”癖なのかもしれないが)
 各章の末尾には「まとめ」があり、全部を読むのがめんどくさい人は、「まとめ」ページだけ拾って読めば、本書の要点を理解できるようになっている。
 「左・右」どちらの立場の読者も引き込み、最後まで飽きさせず、知らぬ間に著者の説を受け入れさせる叙述テクニックは、さすが多元主義の心理学者だなあと思った。

 内容に入る前に、右翼(保守)と左翼(革新)の定義を確認しておきたい。
 言葉の起源が、フランス革命時の国民議会における保守派と革新派の座席の位置関係にあることはよく知られている。
 右翼席に陣取った保守派が国王(ルイ16世)や貴族に寛容な姿勢をとったのに対し、左翼席の革新派は不寛容であった。
 そこから、

 右翼=保守、伝統や権威を尊重、急な変革を嫌う、体制維持
 左翼=革新、伝統や権威を重視せず、変革を好む、反体制


という性格付けが生じた。(ここで留意したいのは、アンシャンレジーム〈絶対王政〉打倒という点では、どちらもすこぶる“革新”だったという点である)
 しかるに、今では西洋資本主義社会の多くの人が、「左翼=社会主義、共産主義」というイメージを持っていて、元来の語義に訂正が必要となっている。
 というのも、旧ソ連や今の中国のような共産主義国家においては、右翼(保守)であることはすなわち共産主義体制維持を意味し、左翼(革新)であることは「欧米化」を意味するからだ。
 現代日本においてもそれは言えることで、79年間続いてきた日本国憲法下における戦後民主主義体制はもはや「日本の伝統」「正統な体制」と言ってもよく、それを変えて「大日本帝国」化を目指さんとする自民党をはじめとする改憲勢力こそが、「革新」すなわち左翼なのではないかとすら、ソルティは思うのである。(大日本帝国の寿命は78年)
 そんなわけで、右翼と左翼の定義は混乱している。
 〈右翼―左翼〉二元論にとって代わる、現代世界の政治思想を説明する、多くの人が納得できるマトリックスはないものか?
 ソルティがもっともすんなり受け入れられる説明は、アメリカの政治家であるデイヴィッド・フレイザー・ノーラン(1943-2010)が考案した下図のノーランチャートである。

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 これは、「思想や行動の自由度」と「経済活動の自由度」の二つの側面から、個人と国家の関係を分類したものと言える。
 上に行くほど、右に行くほど、個人(民間)に対する国家の統制や束縛が弱まる。自由が増加する。
 このチャートに則れば、日本や欧米の資本主義国における“伝統的”右翼は下半分の「権威主義から保守」に入り、“伝統的”左翼は上半分の「リベラルからリバタリアン」に含まれる。
 現代アメリカの政治思想状況を取り上げている本書における右翼と左翼の定義も、これに準じている。(本書では、右翼を「保守」と、左翼を「リベラル」と表記している)
 また、国際的視点をとれば、日本や欧米の国々は「リベラルからリバタリアン」に、ロシアや中国や北朝鮮やイスラム教国は「権威主義から保守」に入るだろう。

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 さて、The Righteous Mind (正義心)とは何か?
 著者はそれを The Moral Mind(道徳心)と区別している。
 後者が「普遍的な正義を求める心」だとすれば、前者は「道学的、批判的、判断的な本性を持つ心」であり、しいて言えば「偏狭な正義感」である。
 この「偏狭な正義感」=「正義心」が、人類には普遍的かつ生得的に備わっているということが、本書の基盤となる命題である。  
 論理はざっと以下のように展開する。
  1.  人間は〈理性〉より〈直観〉によって動く。→換言すれば、〈意識〉よりも〈無意識〉によってコントロールされているということで、「自由意志」の存在を否定する最近の遺伝生物学や脳科学の知見に依っている。
  2.  生存競争に打ち勝ち現代まで生き残ってきた人類(ホモ・サピエンス)の遺伝子や脳内には、生き残りに役立った道徳が植え付けられている。それが「正義心」であり、人類の〈直観〉を成している。→ここでは、進化生物学や進化心理学、とくに集団選択(集団レベルで作用する自然選択)の理論などが援用されている。
  3. 「正義心」は5つの基盤から成る。それは、〈ケア〉、〈公正〉、〈忠誠〉、〈権威〉、〈神聖〉である。(道徳基盤理論)→のちに補修され、6つに増えている。
  4. 5つの基盤のうち何を重視するかが、その人の思想傾向(保守的or革新的)に影響を及ぼす。→生育環境や人生上の体験によって、比重は変わり得る。
  5. 左翼(革新)の人は5つの基盤のうち、〈ケア〉、〈公正〉の2つだけを重視する。対して、右翼(保守)の人は5つの基盤すべてを平等に重視する。→したがって、有権者により多くアピールできるのは、右翼(保守)のほうである。 
  6. 人類史において、自集団の生き残りに役立ってきた「正義心」は、必然的に自集団中心の郷党的なものにならざるを得ない。→かくして、「正義心」は人々を結びつけると同時に盲目にする。
 5つの基盤について簡単にまとめると、
  • 〈ケア〉・・・・人を害から守りケアすることへの関心。キーワード「介護、親切」
  • 〈公正〉・・・・双方向の協力関係の恩恵を得る。キーワード「公正、正義、信頼性」
  • 〈忠誠〉・・・・結束力の強い連合体を形成する。キーワード「忠誠、愛国心、自己犠牲」
  • 〈権威〉・・・・階層制のもとで有益な関係を結ぶ。キーワード「服従、敬意」
  • 〈神聖〉・・・・汚染を避ける。キーワード「節制、貞節、敬虔、清潔さ」
 また、極右(非常に保守的)から極左(非常にリベラル)まで、それぞれの政治思想を持つ人が、5つの基盤のうち、どれにどのくらい重点を置いたかを示すグラフが以下である。

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(本書256ページより転載)

 なるほど、明らかに保守のほうがまんべんなく基盤を押さえている。つまり、人々の「直観」に訴えかけるスイッチを持っている。
 ただ、5つの道徳基盤すべてに重点を置いている保守の集票的有利を語ることで、著者が右翼の味方をしていると思った人がいるなら、それは誤解である。
 著者は今でもリベラルには違いないようで、民主党を応援するために民主党支部に出かけて、本書の内容をレクチャーしている。
 また、5つの道徳基盤は、左右問わず誰の脳内にも組み込まれているものであり、どれがどれより重要だということもなく、時と場合により比重が入れ替わることを著者は示唆している。
 たとえば、同じ一つの国でも、戦時には〈権威〉や〈忠誠〉がほかの要素よりクローズアップされ、自然災害後や不況時には〈ケア〉や〈公正〉が求められてくるであろうことは、想像に難くない。同じ一人の人でも、若くて独身のときは〈権威〉や〈忠誠〉を嫌って〈自由〉や〈公正〉を求める闘士たらんとハッスルし、結婚して守るべき家庭を持ち会社で重い立場を与えられたら、自然と〈権威〉や〈忠誠〉に重きを置くようになるだろう。子供や孫を持てば、あるいは自らの老化が進行すれば、〈ケア〉の価値に目覚めることにもなろう。
 さらに言えば、著者が記しているように、「遺伝子の進化が過去5万年のあいだに著しく加速していた」ことが事実ならば、今後その加速度がさらに高まり、5つの道徳基盤が数世代のうちに変貌する可能性も想定されよう。

 本書の一番の価値は、5つの道徳基盤とそれが形成された人類史的背景を知ることによって、読者が自らの道徳マトリックスに気づき、さらに、それが形成された個人史的背景を顧みることによって、著者がやったように自らを相対化し、多元的視野のもとに、対立陣営に属する人たちと向き合うことを提言しているところにある。

 本書では、なぜ人々は政治や宗教をめぐって対立するのかを考察してきた。その答えは、「善人と悪人がいるから」というマニ教的なものではなく、「私たちの心は、自集団に資する正義を志向するよう設計されているから」である。直観が戦略的な思考を衝き動かす。これが私たち人間の本性だ。この事実は、自分たちとは異なる道徳マトリックス(それは通常6つの道徳基盤の異なる組み合わせで構成されている)のもとで生きている人々と理解し合うことを、不可能とは言わずとも恐ろしく困難にしている。
 したがって、異なる道徳マトリックスを持つ人と出会ったなら、次のことを心がけるようにしよう。即断してはならない。いくつかの共通点を見つけるか、あるいはそれ以外の方法でわずかでも信頼関係を築けるようになるまでは、道徳の話を持ち出さないようにしよう。また、持ち出すときには、相手に対する称賛の気持ちや誠実な関心の表明を忘れないようにしよう。

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Nino Souza NinoによるPixabayからの画像

 著者グループが10万を超える人々を対象に実施した「道徳に関するネットアンケート」は現在も継続中であり、以下のアドレスから参加することができる。

 ソルティもアカウント登録してアンケートに回答した。
 結果は正直びっくりするものであった。

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注:2024年現在、5つの道徳基盤の中の〈公正〉が、〈平等〉と〈比例配分〉の2つに分かれ、
全部で6つの道徳基盤となっている。〈比例配分〉とは「各自の努力に見合った報酬を
手に入れるべき」という「正義心」のことで、結果の平等を重視する〈平等〉と異なる。

 傾向としては間違いなく「リベラル」な人間であるが、〈ケア〉をのぞくすべての要素において、平均値を下回っていた。
 〈忠誠〉や〈権威〉をたいして重視していないのは若い頃から自覚していたが、〈平等〉がこんなに低いとは・・・・!
 また、30歳くらいから福祉関係の仕事やボランティアをしていたので、〈ケア〉がもっと高い点を採ると思っていた。世界標準からすると「まだまだ」なのね~。
 すべての点数が低いのは、非社会的人間ということなのか、それとも遺伝子のコントロールから比較的逃れていることを意味しているのか・・・・。
 やってみて図らずも自覚したのだが、いままでずっと自分を「左翼(リベラル)」と思っていたけれど、思想的にはもはや「左」でも「右」でもなく、単なる「仏教徒」なのだ。
 ソルティが「守らなければ」と思っている道徳は、八正道なのである。 






おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


● ドキュメンタリー映画:『なぜ君は総理大臣になれないのか』(大島新監督)

2020年
119分

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 『日本改革原案2050』の政治家・小川淳也の32歳からの17年間を追ったドキュメンタリー。
 最初の新型コロナ緊急事態宣言が解除された直後の2020年6月に都内2館で公開され、ツイッター(現・X)を中心とするクチコミで火がつき、全国に上映館が広がり、6ヶ月のロングランとなった。

 噂に違わず、とても面白く、観る者を熱くさせる、感動的な120分。
 香川県という一地方の選挙戦の様子であるとか、旧態依然とした日本の選挙システムの問題点であるとか、政党政治や派閥政治の限界であるとか、党利党略やしがらみに縛られ振り回される一国会議員の葛藤であるとか、2003年から2020年までの政局の変遷であるとか・・・・そういった、一政治家の奮闘の記録を通して露わにされる「日本の政治および政治家」批評という観点でも興味深い作品なのであるが、それを大きく超えた感動がある。
 いったい自分はこのフィルムの何に感動したんだろう?
 何で感動したんだろう?

 一つは、小川淳也の政治信条がソルティのそれに近いからである。
 右すぎず、左すぎず、中道の庶民派。
 この映画の主人公が、自民党や共産党や公明党のような強い組織力のある政党の人間であったとしたら、あるいは、百田新党や日本維新の会や国民新党のようなマッチョな匂いのする政党の一員であったなら、ソルティはこれほど感動しなかったであろう。
 高松市で美容店を営む主人公の父親は言う。

 政治家が国民に本当のことを言って、この国の大変さと将来の大変さをちゃんと伝えて、土下座してでも、「こういうことやから」と言える政治家が出て来んと、もうこの国は駄目や、と思っているんですよ。それができるのは、ひょっとしたら淳也しかおらんのかなあ。

 この父にしてこの子あり。

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 一つは、主人公のイケメン力である。
 イケメン力とは、顔の造型やスタイルの良さだけを言うのではない。
 清廉さ、明るさ、我欲の無さ、正直、謙虚、熱意、ひたむきさ、率直さ、知性といった資質によって造られる顔立ちであり、人柄であり、オーラである。
 安倍晋三びいきで立場的には政敵とも言える田崎史郎すらをも惹きつけるのは、このイケメン力であろう。
 とくに、スイッチが入ったときの弁舌の磁力は、天下国家を語る維新志士が憑依しているかのごとく。

 一つは、この主人公が持っている“純なるもの”が、台風の目のように周囲の人々を巻き込み、次第に渦が大きくなっていく過程を見せつけられるからである。ドキュメンタリーならではの台本のないドラマと臨場感にワクワクする。
 魑魅魍魎の跳梁跋扈する政治の世界に、お花畑のような理想を掲げ、“小池百合子的したたかさ“とは真逆の正攻法で貫き通そうとする“おバカな”人間がここにいる!
 それが地元香川の市民たちの共感を得て、「地バン、カバン、看バン」揃った自民党公認の平井卓也議員に選挙で勝ってしまうという奇跡。
 現実にはウルトラマンが怪獣に敗けていくこの絶望的な世の中にあって、正義が果たされていく稀なるヒロイック・ファンタジーがここにある。

 一つは、本作が主人公とその家族を登場人物とするホームドラマになっている点である。
 主人公の両親、かつて同級生だった妻、二人の娘。
 官僚としてエリート街道まっしぐらだったはずの主人公の唐突な決断によって、人生を一変せられ、嵐の只中に巻き込まれ、さまざまな犠牲を強いられ、それでも主人公を支え続ける家族たち。
 通学している小学校の前に父親のポスターがデカデカと貼られているのを見て、あまりのきまり悪さに家に逃げ帰って号泣したという娘たちが、十年後には、「娘です」と大きく書かれたタスキを胸にかけて、父親のあとをついて堂々と選挙応援している姿には、これまで父親というものになったことのないソルティも、落涙を禁じえなかった。
 安倍自民党や統一教会が唱えていた“美しい家族”像が、どんだけハリボテな、欺瞞に満ちたものであるかが、よくわかる。
 強制された家族愛など偽りでしかない。

 一つは、やはりこれも家族の絆。父と息子の物語である。 
 ソルティは大島新監督についてなにも知らなかった。
 本作を観終わった後、ネットで検索して、あの大島渚の息子であることを知った。
 その途端、大島渚の撮った『日本の夜と霧』(1960)のラストシーンが浮かんできたのである。
 あれは、1950年代の共産党の右顧左眄と硬直した組織体制を批判し、新左翼の登場を描いた映画であった。
 国家権力を嫌った大島渚は、当然、反自民であったが、共産党シンパでもなかった。
 右でも左でもなく中道。しいて言えば、グローバルな視野を持つ自由主義者。
 それが大島渚であった。
 よくは知らないのだが、大島渚は新左翼に期待するところ大だったのではないか。
 しかるに、『日本の夜と霧』における新左翼の青年(津川雅彦)の華々しい登場は、自民党や共産党の組織的腐敗を打ち破るものにはなり得ず、連合赤軍事件という惨憺たる結果に終わった。テロでは社会は変えられない。
 大島渚は、71年の『儀式』を最後に、政治的映画から離れていった。
 その後、ソ連の崩壊などあって左翼運動が弱体化し、自民党一強時代が長く続いている。
 本作で小川が述べている通り、民主党政権の数年間(2009-2012)のていたらくは、逆に、その後に続く第二次安倍政権の長期化&盤石化を用意してしまった。
 もはや、日本は自民党独裁と右傾化から逃れられないのか?

 そんな絶望のときに、大島渚の息子によって制作されたのが、ほかならぬ本作なのであった。
 この巡り合わせに、ソルティは感動を覚えざるを得なかった。
 むろん、親譲りの芸術性ゆえか、作品としての出来も素晴らしい。
 なにより、2003年時点で、海の者とも山の者ともつかぬ地方の新人候補者をカメラに収めておこうという、勘の良さというか、出会いの才能に驚嘆する。
 あの父にしてこの子あり。

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選挙活動中の小川淳也
丘と畑の連なる風景が讃岐(香川)の遍路を思い出させる

 2020年の公開時にソルティが本作を観られなかったのは、コロナ禍のためもあったが、足を骨折して外出がままならなかったせいだ。
 本作の成功を受けて、大島新は2021年10月に行われた衆議院議員総選挙に焦点を当てた『香川一区』というドキュメンタリーを撮っている。
 香川一区は、小川淳也と平井卓也の選挙区である。
 ソルティはこれも観ていない。
 正直に言えば、安倍政権の専横とそれを許してしまう日本国民に対する絶望感に襲われて、ある種の諦念に陥っていたところもある。(いまもそれは変わりないのであるが)

 しかし、世の中はわからない。
 本作の意味合いは、2022年7月8日を契機に大きく変わってしまった。
 本作中、不透明な政局を前にした小川が、「5年後どうなっているかわからない」とスタッフに呟くシーンがある。2019年9月の収録シーンだ。
 たしかに、未来のことなど予測できないのは分かっている。
 しかし、いくらなんでも、「5年後」のこの2024年の日本の姿は、小川やスタッフや田崎史郎はもとより、日本人の誰ひとりも想像できなかっただろう。
 本作を公開時でなく、「いま」観ることの最大の面白さは、悩み逡巡し苛立ち奮闘し壁にぶつかり、それでもくじけず頑張る映画の中の主人公に向かって、「5年後は状況がまったく違っているから、あきらめるなよ」と、声をかけたくなる点である。
 希望が無くなるのは、自らそれを捨てた時なのだ。 

 小川淳也が総理大臣になれる日は来るのか?
 可能性は低いと思う。
 だが、5年前より確実に高まっている。


壇ノ浦
源平合戦のあった壇之浦(香川県高松市)




おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 本:『日本改革原案2050 競争力ある福祉国家へ』(小川淳也著)

2014年光文社
2023年河出書房新社(改訂版)

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 著者は1971年香川県生まれの立憲民主党の国会議員。2020年に公開されたドキュメンタリー映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』(大島新監督)で広くその存在を知られるようになった。
 ソルティは、タイミングが合わなくて『なぜ君~』を見逃したが、気になっていた男であった。
 アベノクライシス後の日本の望ましいあり方を考えてみたいと思い、本屋の政治関係の棚を見ていて本書を発見。
 2014年に発行され、その後絶版となっていたが、支援者からの要望もあり昨年再出版に至ったという。
 東大法学部卒業、元自治省の官僚という堂々のエリートコースを辿ってきた小川淳也という政治家が、どんな日本の未来像を描いているか。

 まず感心したことに、日本の現状を数値データをもとに客観的に分析し、課題を現実的にとらえている。
 今後の日本の行く先を考える上で、いちばんの問題がどこにあるか、避けては通れない不都合な真実が何なのか、しっかり押さえている。
 すなわち、
  1.  人口構造の激変(少子高齢化)
  2.  人口減少の加速(2100年には日本の総人口は半減!)
  3.  エネルギー環境問題(エネルギーの枯渇や地球温暖化)
  4.  超国家問題に対する国際政治の遅れ(一国だけで解決できない問題の増加)
 ありていに言えば、もはや、「成長・拡大の時代は終わった」ということである。
 60年代高度経済成長期のような右肩上がりの好景気も、70年代の一億総中流社会の栄光も、80年代バブル期のイケイケドンドン消費天国も、今後日本では望めないという冷徹な事実である。
 これが飲み込めていない大人が多いからこそ、アベノミクスみたいな幻想に踊らされてしまうのだ。
 環境問題一つとっても、もはや大量生産・大量消費・大量廃棄はありえない。
 日本のみならず国際社会全体が「持続可能性ある社会」へと舵を切らなければならない。
 「豊かさ」の意味合いを今一度問い直す必要があるのだ。

 この現状認識をもとに、小川は取り組むべき国家戦略を4つ挙げる。
  1.  生涯現役
  2.  列島解放
  3.  環境革命
  4.  国際社会の変革
 そして、目指すべき将来の国家像を次のように語る。

 私は「競争力ある福祉国家」を創りたい。まず最初に目指すべきは「福祉国家」だ。「福祉国家」がもたらす安心感が、やがては国民の様々な挑戦やチャレンジを後押しし、国家と社会の競争力へとつながる。そんなイメージだ。そして福祉国家の建設を進めるには、国民の政治への信頼が不可欠である。政治への信頼は、国民の高い政治参画意欲によってのみもたらされる。すなわち、「投票率90%」だ。「投票率90%の競争力ある福祉国家」を創るのだ。

 賛成である。
 どうやら小川が描いているのは、フィンランドデンマークのような北欧型の高福祉国家らしい。
 そのためには当然、高い税金が必須となる。
 「福祉や医療や教育という形でちゃんと還元されるのであれば、高い税金を払うことも厭わない」
 「とつぜん職を失っても、離婚してシングルマザーになっても、起業に失敗して破産しても、ケガや病気や老衰で働けなくなっても、路頭に迷うことなく衣食住が保障され、新しい人生に向かって何度もチャレンジできるのならば、消費税25%だってかまわない」
 フィンランドやデンマークの人々がそのように語れるのは、税の使途に対する信用がある、すなわち政治家への信頼があるからにほかならない。
 ひるがえって、裏金作りに精を出す自民党の国会議員たちのていたらくを見よ。
 まともに税金を払うとバカを見る気になるではないか!
 その国の政治家の質は、国民の質の反映である。
 やっぱり、有権者がもっと賢くならなければならない。

 日本の教育に決定的に不足しているのが、社会の当事者となるべき、市民教育だ。どのような職業に従事するにせよ、社会の一員としての責任感覚を呼び覚まさなければ、その健全な担い手として期待できない。
 善も悪も混在する社会において、犯罪や非行、詐欺や暴力などから自分の身を守り、成人すれば、自立した社会の構成単位として、人によっては家族生活を営み、職業に従事し、政治参加、地域づくりを担う。そうした基本的態度や素養を身に付ける教育が必要である。

選挙
 
 さて、小川は上記の4つの戦略それぞれについて、具体的な政策(各論)を述べていく。
 本書タイトルが示すように、そのゴール設定を2050年としているのは、2050年に高齢化率40%(国民5人に2人が65歳以上)に達し、そこから横ばいになるからという。それまでに、持続可能性ある社会に向けて変革を進めていくべきと語る。
 根拠ある具体的な期限を設定して、政策を立案していくあたりは、さすが官僚出身者。
 
 具体策をいくつかピックアップすると、

 生涯現役を実現するために
  • 定年制の廃止
  • 年功賃金から能力別賃金へ
  • 社会保障を統合し、年齢区分を廃止(ベーシック・インカム導入についても検討)
  • 人生を終えるに際し、自らが受け取った社会保障給付費と支払った保険料の差額を社会に還元(遺産の多い人に限る)
 列島解放を実現するために
  • 世界の国々からの訪日のハードルを引き下げる
  • 国際空港・港湾の利用料の引き下げる
  • 法人減税による国内企業の競争力強化と外国企業の誘致
  • 希望するすべての中学生~大学生の国費による海外留学(国際感覚を身に付けさせる)
 環境革命を実現するために
  • 環境税引き上げを財源とする再生エネルギーの導入促進
  • 原発の縮小化と核融合エネルギーの利活用に向けての研究開発

 実現性はともかく、基本的ビジョンがしっかりあって、根拠も明確である。
 耳に心地良い話ばかりでなく、改革によって国民が負わなければならない痛みについても率直に述べている。
 そう、改革が抜本的であるほど、既得権益ある層の反発を受けるのは必至である。
 政治家はその抵抗を超えて、未来を生きる国民のために、現在の有権者を説得しなければならない。
 本書を読んだ限りの小川の印象として、東大法学部出身の頭の良さは当然ながら、正直な人、真面目な人、公正を心がけている人という感を持った。
 自民党の悪口をぐだぐだ並べていないところ、アベノミクスの良かった点もそれなりに評価している点もなかなかの人格者と見た。
 
 読んでいて、ちょっとここは弱いかなあ、追及されるだろうなあと思ったのは、やはり国防についてであろうか。(経済についてはソルティはまったくチンプンカンプンなので、コメントしようもない)

 尖閣・竹島・北方領土問題を始めとした困難な外交問題が、軍事力によって直ちに解決される時代とは思えない。国際社会からの信頼に勝る安全保障政策はなく、こうした理想主義は、未来に向けてはある種のリアリズムでもある。その意味で現政権の防衛費の倍増、敵基地攻撃能力の保持など勇ましい国防論議には逆に観念的で危険な臭いを感じている。 

 ソルティもまったく同意見であるが、たとえば櫻井よしこあたりの保守論客から、
「では、中国や北朝鮮のミサイルが日本に落ちたら、小川さん、どうなさるの?」
なんて突かれた時、答えに窮するのではないか?
 これはなにも小川一人の問題ではなく、立憲民主党が党として有事対策を考え、国民に表明し合意を取り付けるべきことと思うが・・・・・。

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 最後に――。
 つまるところ、民主国家の政治は国民を幸福にするためにある。政治家の仕事は国民に幸福を感じてもらうところにある。
 その意味で、「何をもって幸福とするか」という問いに対する回答こそ、問われた政治家の質を見極め、国民が票を投じるか否かを判断する上での重要なバロメーターとなろう。
 小川淳也は次のように語っている。

 人の幸せは100%主観的なもの。誰かがあなたの幸せをこうだと決めつけるようなものではありません。だから大切なことは、あなたが幸せと思える生き方を自由に選べる広い選択の幅、そしてお互いがそれを認め、尊重し合える懐の深い価値観、この二つが満たされる社会にしていく必要があると思うのです。
 
 今後も引き続き注目していきたい政治家の一人である。


 
 
おすすめ度 :★★★★

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● 本年ベストワン 映画:『異端の鳥』(ヴァーツラフ・マルホウル監督)

2019年チェコ、スロヴァキア、ウクライナ
169分、白黒
言語 インタースラーヴィク、ドイツ語、ロシア語

 2023年もあと少しで終わる。
 例年のように、今年観た映画のベスト10を選定する頃だなあと思いつつ、見納めの一本を借りたところ、これが本年ベストワンだった。
 映画の神様は、映画を愛する者を見捨てない。

 ソルティは観終わるまで『異端の島(しま)』と勘違いしていた。
 原作はポーランド出身のイェジー・コシンスキ(1933-1991)の小説 『ペインテッドバード』( The Painted Bird)。 『異端の鳥(とり)』である。
 タイトルの由来は、羽根にペンキを塗られて空に返された鳥が、仲間たちに一斉攻撃されて殺されるシーンから来ているのだろう。
 つまり、異端者に対する差別や暴力がテーマなのであった。
 てっきり「島(しま)」だと思っていたソルティは、砂に首まで埋められた子供をカラスが狙っているDVDパッケージの写真を見て、『悪霊島』や『イニシェリン島の精霊』のような因習深い離れ小島を舞台にした、村人たちによる児童虐待の話かと思っていた。

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 時代はいつで、ここはどこなのか。
 まったくわからないまま物語は始まる。
 電気もなく、水道もなく、車も走っていない貧しい村の様子から、中世ヨーロッパのように見える。
 村人が話している言葉もどこの国の言葉なのか見当つかない。(それもそのはず、インタースラーヴィクという人工言語が使われていた)
 「吸血鬼」「悪魔の子」といった字幕の断片や、怪しげな呪文と粉薬で病人を癒す老婆の存在は、白黒映画であることも手伝って、イングマール・ベルイマン監督『第七の封印』を想起させる。
 つまり、ペスト流行時代のヨーロッパの片田舎の話。

 ベルイマンを想起させるのは舞台背景だけではない。
 映像がまさにベルイマン的に凄いのだ!
 空を突き刺す裸の樹木、万華鏡のような木漏れ日のきらめき、なめらかな水面に立つさざ波の皺、風に波打つ麦の穂、白黒映像を生かし黒々と浮かび上がる人物の影、ロングショットの構図の見事さ、移動ショットの巧緻と衝撃、そして物語をセリフでなくショットで紡いでいく節約性・・・・・。
 これが映画でなくてなんだろうか?

 ヴァーツラフ・マルホウル監督は、チェコ共和国出身らしい。
 長編第3作となる本作が本邦初公開。
 おそらく、将来、ベルイマン、溝口健二、ジャン・ルノワール、黒澤明、ヒッチコック、タルコフスキー、フリッツ・ラングなどと並び称される可能性の高い、半世紀に一人の映像の天才である。
 3時間に近い長尺であるが、息をのむような映像の連続に圧倒され、時間を忘れた。
 これは映画館の大スクリーンで再び観たい。

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 名前も出自も背景も分からぬ少年が、行く先々で大人たちから酷い虐待を受けては逃げのびる。
 村から村へ、村から町へ。女主人から女主人へ。女主人から男主人へ。
「いったい、彼は何者なんだろう? なぜ、大人たちは彼をいじめるんだろう?」
 少年は行く先々で、大人たちの醜さ、残酷さ、隠された欲望を身をもって知り、世界の残酷さを嫌でも学ばされる。
 まるで、ダンテ『神曲』のような地獄めぐり。
 イノセントであった少年は、大人たちに感化され、次第に悪を覚えていく。

 主役の少年を演じているペトル・コトラールは、役者ではなく、監督が見つけてきた素人という。
 少女と見まがうほど傷つきやすい心を持った優しい少年が、煉獄めぐりを経て、しまいには鉄面皮のサイコパスのようになっていく過程を、驚くべき直感で演じている。
 その瞳の力強さは、観終わった後もなお、鑑賞者の胸を刺し続ける。 
 
 少年の「悪」が育つのと並行して、周囲の大人たちの「悪」も強度を増していく。
 いや、逆だ。
 大人たちの「悪」の描写が、個人的な悪徳から集団的な狂気に転じていくに従い、それに付き合わせられる少年の「悪」も取り返しのつかないものになっていく。
 物語の半分くらいで、軍人が登場する。
 このあたりから、時代背景が明らかになってくる。
 ネタばらしはしないでおくが、ここでようやくタイトルの意味が飲み込めた。
 そうだったのか!!
 これはホモ・サピエンスという種が宿命的に有する「悪」の物語である。

 石井裕也監督『』や昨年ベストテン入りした『アンテベラム』(ジェラルド・ブッシュ&クリストファー・レンツ監督)のときも思ったが、事前知識なしで映画を観るって大事だ。  

 映像において、内容において、本作の衝撃はまぎれもなく本年ベストワン。
 ガザ地区をめぐる現状を誰もどうすることもできない2023年末、本作を観ることをソルティに選ばせた映画の神は、容赦ない。

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ガザ地区の少年
hosny salahによるPixabayからの画像




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● 本:『十七歳の硫黄島』(秋草鶴次著)

2006年文藝春秋新書

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 著者は昭和2年(1927)群馬県山田郡矢場川村(現・栃木県足利市)生まれ。数え17歳(満15歳)のとき自ら志願して従軍。昭和19年7月、海軍通信兵として硫黄島に派遣された。
 本書は、クリント・イーストウッド監督『硫黄島からの手紙』、『父親たちの星条旗』で鮮烈に描かれた、およそ3ヶ月間にわたる日米硫黄島決戦の模様を、重傷を負いながら辛くも生き残った一兵士が記した体験記である。
 硫黄島では、21,000人余の日本兵のうち、祖国に生還できたのは20人に1人であった。

 映画を先に観ていたので、大洋に囲まれた硫黄島の地形や摺鉢山を最大標高とする岩だらけの地表の風景、地下に張り巡らされた日本軍の基地や塹壕の様相、死体が累々と積み重なる凄まじい戦闘の光景を思い浮かべながら、読むことができた。
 まさに生き地獄である。

 著者は巻末の「謝辞」にこう記している。

 地下壕の中での生活は、人間界の極限に挑戦しており、いかなる文字を並べてもその実情に迫ることは不可能である。生還者の手記をすべて合わせても描写しきれないだろう。

 戦況の解説や被害状況の概要なぞ、無駄に挙げる必要はない。
 本書はただ読んで、実際は、ここに書かれていることの数十倍も数百倍も凄惨だったのだと思うよりない。

 二つだけ印象に残ったことを述べる。
 一つは、日本とアメリカの圧倒的な軍事力の差、つまり国力の差。
 戦艦や戦車や航空機や爆弾や銃といった兵器の問題だけではない。投入できる兵士の数、食糧や建築材など輸送できる物資の量が半端ない。
 日本軍を蹴散らして上陸した浜辺に、船から運び出したブルドーザーと資材でわずか数日のうちに兵士が寝泊まりできる小屋を建ててしまう機動力。
 その格差のさまは『硫黄島からの手紙』でも、日本軍が立て籠もる島を幾重にもとり囲み、そのまま水平線まで連なるような軍艦の列という形で、視覚的に表現されていた。
 あたかも、幼稚園児がプラスチック製のおもちゃの刀を持って、暴力団事務所に殴り込みをかけるみたいな話で、「なんでこんな無益で無茶な闘いを・・・」とため息を漏らさずにはいられない。

 もう一つ、やはり「謝辞」の中の文。

 死を覚悟して敵前に身をさらし、爆弾や鉄砲弾による直撃弾などで戦死する者の多くは「天皇陛下万歳!」と一声上げて果てた。重傷を負った後、自決、あるいは他決で死んでいくものは「おっかさん」と絶叫した。負傷や病で苦しみ抜いて死んだ者はからは「バカヤロー!」という叫びをよく聞いた。「こんな戦争、だれが始めた」と怒鳴る者もいた。

 以前、ホスピスでボランティアしていた時のこと。
 日中戦争で満州に派遣され、その後ロシア軍の捕虜となって戦後までシベリア抑留されていた男性がいた。
 90歳のHさん、視力を失っていた。
 部屋に訪れるたびに、ツバキを飛ばしながら、シベリア時代の話をよくしてくれたが、いつも必ず言うセリフがあった。
『だけどさ。みんな、死ぬときは『天皇陛下万歳!』なんて言う奴ャ、一人もいなかったよ。みんな、最後に「おかあさーん」って言って死んでいったよ』
 玉砕覚悟で敵前に身をさらす者は、気をひき立てるために、あるいは自らの死に少しでも意義を見出すために、「天皇陛下万歳!」と叫んだのだろう。
 Hさんのいた抑留地では、もはや玉砕しようがなかった。
 だからみんな、「おかあさーん」だったのだ。
 
 Hさんも、著者の秋草氏も、よく生き残ったと思う。(シベリア抑留では、約57万5千人の日本人捕虜の10人に1人が亡くなっている)
 2人の話に共通すると思われるものは、「生きたい」という強い意志、周囲の状況を素早く見抜いて行動する賢さ、そして運の良さ。

 Hさんは2018年に亡くなった。
 秋草氏もまた同じ年に90歳で世を去った。


 
おすすめ度 :★★★★

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● アベノクライシスを超えて 本:『国家民営化論』(笠井潔著)

1995年光文社刊行
2000年文庫化

 現在の政局、3年前には想像つかなかった。
 いや、昨年7月に安倍元首相が暗殺された直後ですら、ここまで元安倍派(清和会)や自民党が危機的状況(=ABE NO CRISIS)に陥ることになるとは思わなかった。
 世の中は分からないものである。
 希望を失ってはいけない。
 これが一発の銃弾からでなく、一票の力によるものだったら、良かったのに・・・・。

 安倍晋三のやってきたことを一言で言えば、「戦後民主主義の破壊」である。
 それを確信犯的におこなった。
 集団的自衛権容認による「戦争のできる国」への移行だけでなく、大日本帝国のような全体主義国家体制への道を開こうとしていた。
 少なからぬ日本人がそれに賛同し、安倍政権を支持していることに、ソルティは絶望しか感じなかった。
 2013年からの10年間の日本はソルティにとって暗黒の時代であったが、旧統一教会との癒着やこのたびの組織主導による裏金づくりの暴露を通じて、ついに安倍派の正体が白日の下に晒され、民主国家に生きる誰にとっても暗黒の10年であったことが証明されようとしている。
 もちろん、安倍元首相の国葬が憲政史上の汚点であったことも・・・・。
 
 一方、安倍晋三が自らの信じる「日本の進むべき姿(国家像)」をどの政治家よりも明確に描き、国民に提唱し、その実現に向かって行動していたのは確かであろう。
 迷いのないその姿勢と実行力、そして人を味方につける魅力は、政治家として評価すべき点かもしれない。
 田中角栄、中曽根康弘、小泉純一郎をのぞけば、日本の歴代の首相になかなか見られないカリスマ性に、心酔する人も多かったのだろう。
 あたかも、自分たちがどんなところに連れて行かれるか分からぬままに、心地良い笛の調べに乗せられて、得体の知れない男のあとをついていく、おとぎ話の子供たちのように。

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WikiImagesによるPixabayからの画像

 元安倍派の崩壊が現実味を増しているいま、早急に求められるべきは安倍晋三が説いたのとは異なる、多くの国民が賛同できる「日本の進むべき姿(国家像)」の創出であろう。
 それを打ち出せないと、第2、第3の安倍晋三が現れて、大日本帝国へと続く同じ道に国民を引きずり込むだけである。
 日本会議や神社本庁や創価学会や保守系マスメディアなど、安倍政権を支えた反動系ステークホルダーが再び集結し、倒れた神輿を立て直し、同じ曳き回しを繰り返すばかりである。
 
 自分はどんな国に住みたいのか。
 刻々と移り変わる先の見えない世界情勢の中で、所与の条件を踏まえながら、日本はどう振舞うべきか。
 この二つの問いの最適の共通解となるような新しい国家像を考えなければならない。

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 本書はその意味で、新しい社会のあり方を自分なりに考えようとする者にとって、固定観念を打ち破り、思考の枠を広げ、想像力と創造力を励起し、自由な発想を可能ならしめるブレインストーミングの役割を果たすような、一つの国家論の提起である。
 いや、正確には国家論ではない。脱・国家論である。
 国家民営化の意味するところは、国家の仕事をすべて市場に解消し、最終的には国家を解体してしまおうというのだから。

 社会主義の崩壊以後の時代であるからこそ、新しい社会批判の原理を探究することが、切実に求められているのではないか。

 リベラリズムでも新保守主義でも、社会民主主義の新形態としての「第三の道」でもない、独立生産者の自由な連合という方向で、人類の21世紀社会を展望すること。グローバル経済の潜勢力を歴史的前提に、可能なかぎり国民国家の敷居を低くすることから出発し、今後数世紀という時間的射程で、世界国家の君臨なき世界社会の形成をめざすこと。

 笠井はそれを「ラディカルな自由社会」と名付けている。
 2022年刊行の『新・戦争論 「世界内戦」の時代』(言視舎)において、笠井が目指しているものが「世界国家なき世界社会」であること、そしてそれを実現する手段は「自治・自律・自己権力を有する無数の集団を下から組織し、近代的な主権国家を解体していくこと」であると説かれていた。
 ソルティが知らなかっただけで、ソ連崩壊(1991年)直後から、笠井はすでに自分なりの理想の社会像を追究し、描き出し、唱えていたのである。

 どんな国を作るか――ではなくて、国は要らない。当然、国民もいない。
 社会主義でも共産主義でも保守主義でも権威主義でも全体主義でもない。
 左でも右でもない。
 重要なのは、国のような権力(=暴力装置)による支配から個人を解放すること。
 経済的にも思想的にも個人の自由を最大限保障すること。
 アナキズム(無政府主義)と言っていいだろう。

 笠井の構想する「ラディカルな自由社会」とは、具体的にどのようなものなのか。
 国家民営化の意味するところはなにか。
 以下のような具体案が挙げられている。
  • 遺産相続の廃止と家制度の解体
  • 育児費用の社会負担
  • 教育の民営化
  • 売春の自由化
  • 安楽死、自殺の権利
  • 警察、刑務所の民営化
  • 裁判の民営化
  • 死刑の廃止
  • 企業寿命制の導入
  • 天皇制の民営化(宗教組織にする)
  • 個人的武装自衛権と決闘権の保障
  • 市民軍の結成
e.t.c.

 上記の内、いくつか補足する。

 ●教育について
 むろん、文部省は廃止される。教科書の検定などは不要である。教育サーヴィスを提供する企業は、どんな教科書を利用しようと、どんな教え方をしようと自由である。ただし社会は、その教育企業が生徒に、最低限度の教育サーヴィスを提供しているかどうか、なんらかのかたちで確認しなければならない。そのためには社会が生徒に、定期的に簡単なテストを実施すればよい。しかし、その場合でも、テストされるのは生徒ではないことに注意する必要がある。テストの対象は、企業が提供している教育サーヴィスの質なのである。

 ●売春について
 組織的な強制労働が根絶され、女性から多様な就業機会を奪う社会的差別のシステムが解体されたとき、売春は消滅するだろうか。消滅してもかまわないが、自由な意思で性サーヴィス労働を選択する女性が存在する場合には、売春の権利は擁護されなければならない。

 ●安楽死と自殺について
 ラディカルな自由主義は、安楽死の権利を、ひいては自殺の権利を主張する。人間には自殺する権利がある。自殺するために、より肉体的に苦痛の少ない方法を求める権利がある。国家の究極的な犯罪性は、ハイエクやフリードマンが考えたように、個人の経済的自由を侵害するところにあるのではない。生および死の自己決定の権利を侵害するところに、国家というリヴァイアサンの最大の抑圧性がある。

 ●天皇制について
 天皇制は民営化され、市場化されなければならない。そのうち打倒される運命の君主や、改選されるのが原則の元首などを曖昧に擬態しないで、宗教的主体として自己徹底化するのがよい。どのような「新しい神」と競争をしても、「日本最古」の神が宗教市場で最終的な勝利をおさめうると確信する以上は。

 ――といった調子である。
 ずっと読んでいると、“過激(ラディカル)”というより、“トンデモ”本、あるいはSF小説のアイデア帳のような気がしてくる。 
 やはり、プロの小説家の想像力&創作力ってすごい。

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Emmanuel CATEAUによるPixabayからの画像

 ソルティはこれまで真面目にアナキズム(無政府主義)について考えたことがない。その必要性を思ったこともない。
 生まれた時から日本という国はあって、インフラも法律も制度もある程度整っていて、衣食住に困ることなく、大過なく60年を過ごしてきたからである。
 靖国神社に行くような愛国主義者ではないが、日本国民であることに満足している。
 これだけ物質的に豊かで安全で平和な国はないと思う。
 ひょっとしたら、「戦後80年間の日本は世界人類史におけるプライムタイムであった」と、後年の歴史学者が記す日が来るやもしれない。
 
 国家というものが、たとえ、対外戦争や死刑制度にみるように「暴力装置」であるとしても、それは必要悪なのではないか。
 国家のような上位権力のないところで、人と人とが必要な物を分け合って平和裡に暮らしていけるだろうか。
 トマス・ホッブズの言う「万人の万人に対する闘争」になるだけではないか。
 弱肉強食のキリングフィールドが待っているだけではないか。
 富の偏在を調整する機能も、集約して配分する機能もなかったら、「持てる者(勝ち組)」と「持てない者(負け組)」の差は広がる一方で、最終的には古代バビロニアの奴隷制のような社会に戻るだけではないか。
 勝ち組同士が、より多くの利得、より多くの権力を求めてシノギを削る、群雄割拠の戦国時代が現出するだけではないか。

 アナキズムを唱える人は、性善説に立っている“オメデタイ”人なのだろうと、ソルティは思ってしまうのだ。  
 悲観主義? 現実主義?
 そう、仏教徒であるソルティは、人類が「欲、怒り、無知」の三毒から卒業することはないと思っている。
 ある朝、人類がいっせいに悟りでもしない限り。

 本書の価値は、「おまえにとって国とは何か?」「日本とは何か?」という問いを、読者ひとりひとりに突きつけるところにあると思う。

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国破れてサンガあり



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 


● あの頃の生き方を 本:『転生の魔』(笠井潔著)

2017年講談社
2022年文庫化

 主人公はアメリカ帰りの70代の私立探偵飛鳥井ナントカ(下の名前は不明)。
 シリーズ4冊目となる本作で初めて接した。
 タイトルに惹かれたのだが、残念ながら輪廻転生がテーマではなかった。

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 ミステリー作家としての笠井潔の力量は、名探偵矢吹駆シリーズの『サマー・アポカリプス』、『オイディプス症候群』で確認済みであったし、社会評論家および思想家としてのスタンスや彫りの深さは『8・15と3・11 戦後史の死角』、『新・戦争論 「世界内戦」の時代』で織り込み済みであった。
 ソルティは、“遅れてきた”キヨシファンを自認している。

 昔から本格ミステリーとペダントリー(衒学趣味、蘊蓄がたり)は相性が良い。
 黄金時代のヴァン・ダインとか世界的ベストセラーになったウンベルト・エコー著『薔薇の名前』とか、本邦なら小栗虫太郎や中井英夫や京極夏彦など、ペダントリー型ミステリーは枚挙にいとまない。
 その中にあって、笠井潔のペダントリーはユニークさにおいて突出している。
 笠井の場合のそれは、圧倒的な教養や学識のひけらかしによって探偵あるいは作家の優秀性を読者に知らしめるためだけでもなく、物語の主筋から読者の目をそらすことでトリックを覆い隠すためだけでもなく、マニアックな専門用語やオカルトなど非日常的言説の奔流によって雰囲気を醸して物語的効果を高めるためだけでもなく、たんに枚数を稼ぐためだけでもない。
 そのペダントリーの本質は、団塊の世代の社会運動家のちには思想家としての笠井潔自身の、人生をかけた凄まじい思想闘争の過程で産み落とされた月足らずの胎児たちである。
 つまり、笠井潔の思想の破片が物語のあちこちに散らばっている。
 逆に言えば、自らの思想を簡潔かつ効果的に表現し読者に伝達したいがために、ミステリーという形式を選んだという気さえする。
 これは笠井のライフワークと言われる矢吹駆シリーズにおいて特に顕著な特徴であろうが、本シリーズも例外ではない。
 「解説にかえて――笠井潔入門、一歩前」で批評家の杉田俊介が書いているように、飛鳥井シリーズの特徴は、本格探偵小説と政治・社会思想とハードボイルドが「モザイクのように組み合わさっている」ところにある。
 その政治・社会思想こそが笠井ミステリーにおける“血肉を伴った”ペダントリーなのである。

 その意味で、伝奇ロマンである『ヴァンパイヤー戦争』シリーズこそ未読なので分からないが、少なくとも笠井ミステリーは、読者を選ぶ。
 おそらく、ヴァン・ダインや中井英夫や京極夏彦よりずっと厳しく、読者を選別する。
 本格推理小説ファンの中でも、政治思潮や社会改革とくに戦後の内外の左翼運動に関心があり、国家権力に抵抗するためデモや署名活動などに参加したことのあるような読者こそ、選ばれた“キヨシ推し”であろう。
 って、ソルティではないか!

 60代の女性山科三奈子から飛鳥井が受けた依頼は、人探しであった。2015年7月15日国会議事堂前で行われた安保関連法案反対デモの動画を見た山科は、参加者の中に43年前に行方不明になった友人の昔のままに若い姿を発見したという。彼女は転生者なのか?
 半信半疑で依頼を引き受けた飛鳥井は、左翼活動盛んなりし43年前のクリスマスに、とある大学構内で起きた女子学生蒸発事件の真相を探る羽目になる。
 飛鳥井は、いまや高齢者となったかつての活動家たちをひとりひとり訪ね歩き、過去の事件の再構成を試みる。

 『サマー・アポカリプス』や『オイディプス症候群』同様、本作も単純に推理小説として読めば、それほど高いレベルにあるわけではない。
 トリックも特段凝っているわけでなく、真犯人や動機も意外性に富んでいるわけでもなく、探偵の推理が卓抜なわけでもない。(謎の出し方のうまさは抜群だ)
 ソルティをページに釘付けにし、下りるべき駅を乗り過ごしてしまったり、コーヒー一杯で暗くなるまでマクドナルドに留め置いたり、朝刊配達のバイクの音に我に返り慌てて本を閉じ枕に頭を落としたりと、強烈な磁力を発揮したのは、やはり笠井潔の思想性である。
 それすなわち、若い頃に革命を夢見て徒党を組んで闘った「左」の若者たちが、連合赤軍あさま山荘事件に象徴される決定的誤謬と挫折を経て、自分をどう“総括”し、どう社会と折り合いをつけ、どうその後の人生を展開してきたか。80年代のバブル景気、90年代のソ連崩壊やオウム真理教事件、2000年代の9.11同時多発テロやアフガニスタン紛争、2010年代の東日本大震災や安倍政権の横暴とどう向き合ってきたか。さらには、分断と凋落の進む現在の日本をどう見ているか。――ということへの関心である。
 いまだに革マル派を名乗り、赤いビラを配っている団塊世代。
 事あるたびに国会議事堂前に足を運び、シュプレヒコールを上げる団塊世代。
 就職を機に転向し、企業戦士として働き、退職して暇をもてあます団塊世代。
 若い時マルクスにかぶれたものの、マイホームをもって自民党支持になった団塊世代。
 政治運動から足を洗い、新興宗教に入信した団塊世代。
 そして、ラディカリストを自認し、「世界国家なき世界社会」を唱える笠井潔。 
 変わってしまった者と、変わらないままの者。
 その違いはどこにあるのだろう?
 解明すべきミステリーはそこにある。

 あの頃の生き方を あなたは忘れないで
 (荒井由実『卒業写真』)

 この小説の面白さは、老境を迎えた団塊の世代の一つのスケッチになっているところにある。

国会議事堂




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★     読み損、観て損、聴き損



● 戦争という名のオセロ名人 映画:『戦場のピアニスト』(ロマン・ポランスキー監督)

2002年フランス、ドイツ、イギリス、ポーランド
150分
 
 ナチスドイツの行ったホロコーストの生き残りであるユダヤ系ポーランド人ピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマン(1911-2000)の体験記をもとに作られた作品。
 カンヌグランプリや米国アカデミー賞の監督賞、主演男優賞(エイドリアン・ブロディ)を獲っている。
 ポランスキー監督の父親もまたユダヤ系ポーランド人であり、一家はゲットーに押し込められたのち、強制収容所送りとなった。
 父親の機敏な計らいで、ポランスキー少年だけが強制収容所送りを免れたが、母親はアウシュビッツで殺された。
 つまり、本作品の主人公の半生は、ポランスキー監督自身のそれと見事に重なる。
 ポランスキーが生涯かけてどうしても撮りたかった映画であったことは間違いない。
 それだけに渾身の出来栄えとなっている。
 
 事前知識のなかったソルティは、本作を、反戦メッセージあふれる一人の芸術家の伝記映画と想像していた。反戦映画には違いないが、フィクションを織り交ぜたスピルバーグ風の感動エンターテインメントだろうと。
 が、実際にはこれはドキュメンタリー(記録映画)に近い。
 ナチスドイツ時代にポーランドに住むユダヤ人が体験した地獄の日々をありのままに追ったもので、観る者の感情をいたずらに揺り動かすような作為的な演出はほとんど見られない。

 ひとたび戦争が始まるや、日常が非日常に変わるのは、あっという間。
 それまで堅固に思えていた常識や法や倫理が崩れ、非常識や理不尽や暴力に取って代わるのは、瞬時のこと。
 戦時にあっては、法も人権も正義も権利もSDGsも市民運動もSNSによる抗議もヒューマニズムも、最早なんの役にも立たない絵空事と化し、ただただ暴力を後ろ盾にした権力が大手を振るう。
 パワハラやセクハラやジェンダー差別や環境問題や表現の自由を訴えられるような“贅沢”は許されない。
 映画の最初の方で、ナチスドイツがユダヤ人が持てる資産について制限を加えるシーンがある。一家族2000グロッシュまでと。(正確な単位は覚えてません)
 シュピルマン一家は余分の紙幣を家の中のどこに隠すかで口論する。
 このとき彼らは、二度と家に帰れなくなることも、家自体が破壊されてなくなることも、一同が集まって顔を合わす日が二度とやって来ないことも、想像していなかったのである。
 戦争は、いかなるオセロ名人よりも素早く、白を黒に引っくり返していく。
 現在、日本人の日常を支える平和と安全と権利が、どれだけ薄氷の上に築かれていることか!
 
 主演のエイドリアン・ブロディは確かに素晴らしい。
 大きな手と長い指、ユダヤ系の顔立ち、それに感受性豊かな表情が、迫害されたピアニストとしてのリアリティを生んでいる。オスカーも当然のはまり役。
 助演男優(女優?)賞を与えるべきは、やはりピアノである。
 戦火においてシュピルマンの演奏するピアノ曲は、役者より雄弁に様々なことを物語る。
 とりわけ、爆撃された廃墟に響くショパンのバラード1番が効いている。
 音楽の持つ力をありありと感じるが、比喩でなく実際に、シュピルマンの命を救ったのはピアニストとしての名声と人気と腕前であった。

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Manlio MiglioliによるPixabayからの画像 

 第2次大戦終戦から80年近く経つ。
 シュピルマンは2000年に亡くなった。
 ポランスキーは90歳になった。
 ホロコーストの証言者はどんどん減っていく。
 本作は歴史上の事実としての記録的価値があると同時に、人類がどこまで愚かに、残虐に、悪魔的になれるかを物語ってあまりない。
 ただ救いがあるとすれば、廃墟の屋根裏に隠れるシュピルマンを見逃したドイツ将校の存在と、本作の制作にドイツが関わっている点であろう。



おすすめ度 :★★★

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● 勝新の魅力全開 映画:『兵隊やくざ』(増村保造監督)

1965年大映
102分、白黒

 日中戦争のさなか、満州の陸軍部隊に送られたタイプの全く異なる2人の兵隊の友情と、軍隊生活でのさまざまな理不尽な体験が描かれる。
 若尾文子が従軍看護師を演じた『赤い天使』同様、増村監督らしいエグイまでのリアリズムが貫かれている。
 往復ビンタする、殴る、蹴る、腕を捻りあげる、足で踏みつける、竹刀で叩く、腹をパンチする、熱湯をかける、短刀で切りつけ合う・・・・。
 徹頭徹尾、軍隊生活における暴力が描き出される。
 イジメや身体的虐待なんていう生易しいものではない。
 本作は、現在なら間違いなく「R15+」指定(15歳未満鑑賞禁止)がつくだろう。

 きびしい上下関係を基盤とする威嚇と暴力と恐怖によって集団の規律を整え、個人の精神を鍛えるという、今なお高校の運動部や大学の体育会系サークル、あるいはワンマン経営のブラック企業で連綿と受け継がれている大日本帝国的精神論。
 どこの国でも軍隊は同じようなものなのか?
 ソルティは海外の軍隊についてはその国の戦争映画でしか知らないので明言できないが、やはり大日本帝国の軍隊はとくに暴力的だったのではないかという気がする。
 上官からの理不尽な暴力に日々耐えることで兵士それぞれの内部に鬱積した怒りが、いったん敵に向かったときに暴発した。
 それゆえ、戦時中の日本兵はあれだけ残酷なことができたのではあるまいか。
 無闇な戦線拡大と重なる敗北によって兵隊不足に陥ったにもかかわらず、今いる兵士を粗略に扱う。
 これで勝てるわけがない。
  
 ともあれ、主人公の“兵隊やくざ”大宮貴三郎はよく殴られるし、よく殴る。
 破天荒で豪放磊落、肝っ玉が太い。
 人情味があって恩義に厚い。
 演じている勝新その人のよう。

 その上官で教育係をまかされた有田上等兵は、暴力と曲がったことの嫌いなインテリ眼鏡。
 演じるは田村三兄弟の長男、田村高廣。
 気障な二枚目でならした弟の田村正和にくらべると、地味で真面目な印象がある。

 役の上でも、役者としての資質の上でも、また役を離れた私生活の上でも、まったくタイプの異なる、一見相性の良くなさそうな二人だが、演技がうまいのか、演出が巧みなのか、勝新と田村は互いに惹かれ合うところがあったのか、ルパン3世と次元大介のような良いコンビとなっている。
 案の定、『兵隊やくざ』はこのあとシリーズ化し、9作まで作られた。

 将校御用達の女郎屋の一番人気を誇る音丸を演じている淡路恵子。
 これまであまり注目してこなかったが、味のある上手い女優である。
 “へそ酒”(「R18+」指定)なんて芸当をやってのける思い切りの良さに感心した。

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左から、田村高廣、勝新太郎、淡路恵子




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