ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●反戦・脱原発

● あの鐘を鳴らすのは誰? : クラースヌイ・フィルハーモニー管弦楽団 第7回定期演奏会

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日時: 2025年10月19日(日)14:00~
会場: 和光市民文化センターサンアゼリア 大ホール
曲目:
  • チャイコフスキー: 序曲『1812年』
  • ヤナーチェク: 『シンフォニエッタ』
  • ハチャトゥリアン: 交響曲第2番『鐘』
指揮: 山上 紘生

 家を出るのが遅れて、2曲目から会場入り。
 ヤナーチェク(1854-1928)ははじめて知った。
 ドヴォルザークと同じチェコの作曲家で、13歳年下である。
 曲の冒頭から、金管楽器と打楽器チームによる勇ましいファンファーレ。
 度肝を抜かれた。

 クラースヌイ・フィルは100名を超える大所帯。
 迫力がすごかった。
 思えば、ソルティがショスタコーヴィチの真価に目覚め、指揮者山上紘生の才能を知ったのは、クラースヌイとの出会いのお陰であった。 
 山上による指導はこれが最後だという。 
 感謝!

 ハチャトゥリアンについては、『剣の舞』と『仮面舞踏会』しか知らない。
 〈1903-1978〉というその人生は、同じソビエトの作曲家ショスタコーヴィチ〈1906-1975〉とほぼ重なる。
 であれば、独裁者スターリンの恐怖政治と粛清の嵐を経験しているはずである。
 ショスタコーヴィチが共産党からの批判を恐れて、自らの個性と才能を犠牲にして、党=スターリンの求める「社会主義リアリズム」の曲を作らざるをえなかったのと同様に、ハチャトゥリアンも葛藤に苦しんだのだろうか。
 そこが聴きどころである。

 交響曲第2番『鐘』がつくられたのは1943年。
 ソ連はナチスドイツとの戦い、いわゆる「大祖国戦争」の真っ只中で、1941年発表のショスタコーヴィチ交響曲第7番で知られる「レニングラード包囲戦」が続いていた。
 多くの芸術家は、好むと好まざると、戦意高揚に役立つ作品をつくることが求められた。敵の非道や残虐を訴え、国民の士気を高め、亡くなった者を追悼し、戦場の兵士を力づけ、最終的な勝利に寄与する作品である。
 それは、アジア・太平洋戦争中の日本も同じことで、木下惠介監督は『陸軍』を撮らされたし、火野葦平は『麦と兵隊』『土と兵隊』を書いた。
 国家総動員とはそのようなものである。
 ハチャトゥリアンもまた、前線の兵士を慰問し、ラジオ放送のための音楽や愛国的な行進曲を多く作曲したという。 
 この交響曲のテーマは、まさに戦争なのである。

宇宙人襲来

 第1楽章は、郷愁をそそる民族的なタッチのもの哀しい主旋律に、聴く者を落ち着かなくさせる不穏な動機がからむ。平和な街に軍靴の響きが近づいて来る。
 敵の攻撃をもって戦いの火ぶたが切られる。
 日常生活は断ち切られ、世界は一変する。

 第2楽章は、戦場そのもの。
 凄まじい爆撃と破壊、恐怖と混乱、大量の死と絶望。

 第3楽章は、レクイエム。
 葬送行進曲が流れ、死者を追悼する人々の嘆きは頂点に達す。
 敵への怒りと深い悲しみ、相反する感情に引裂かれた心は崩壊寸前。
 喪失感は尋常でない。

 第4楽章、人々は再び立ち上がる。
 いつまでも悲しみに浸ってはいられない。国を守るために、愛する家族を守るために、最後の闘いに挑まなければならない。
 やがて、黒雲に蔽われた空から光が差し込み、勝利の兆しが見えてくる。
 やはり、正義は勝つ。
 スターリンと共産党は常に正しい。
 鐘を打ち鳴らして、祖国の勝利を讃えよう!

 構成的には、ショスタコーヴィチの『レニングラード』とよく似ている。
 社会主義リアリズムの枠組みでは、そうならざるを得ないのだろう。
 ただ、ショスタコの第7番が、ナチスドイツの恐怖とそれとの戦いおよび最終的勝利を描いたのみならず、その裏に、スターリンと共産党への批判を隠し入れたと解されるようには、ハチャトゥリアンの『鐘』は政治的隠喩を含んでいないように思われる。
 警告的な響きを伴ったショスタコの第4楽章の凱歌にくらべると、勝利の喜びがストレートに打ち出されているように感じた。
 ハチャトゥリアンは、ショスタコより“体制より(保守的)”だったのかもしれない。

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和光市文化センター・サンアゼリア

 なんだか、時代はどんどんショスタコーヴィチ・モードになっている。
 世界的にナショナリズムが高揚し、欧米でも日本でも排外主義が激化し、保守の台頭が顕著である。
 自国ファーストの掛け声かまびすしい中、強大な権力を持つ独裁者の登場が待望され、歓迎されているように見える。
 人類が数万年の血みどろの試行錯誤の末にやっと手に入れた民主主義と人権が、いまや風前の灯。
 トランプもネタニヤフもルカシェンコも、習近平も金正恩もプーチンも、スターリンの子供たちって点で、右も左も関係なく共通している。
 実際、今のアメリカの状況には、目を覆うばかり。
 これが、自由と希望の国、アメリカなのか! 
 このままだと、自由の女神が倒壊し、砂の中に埋もれるのも時間の問題だ。
 日本も危ない。

猿の惑星







● 映画:『宝島 HERO'S ISLAND』(大友啓史監督)

2025年日本
191分
宝島ポスター
 
 原作は第160回直木賞を受賞した真藤順丈の同名小説。
 太平洋戦争後の米統治下の沖縄を舞台に、島の若者たちの熱く激しい青春が描かれる。
 『国宝』の175分を超える191分という上映時間にちょっと怖じけたが、始まってみたら、スクリーンいっぱいにたぎる半端ない熱量に圧倒され、最後まで集中して観ることができた。
 もっとも、前立腺治療の薬のおかげで、排尿周期が長くなったおかげが大きい。
 高齢者は観に行きたくとも、この尺の長さにはビビるだろう。
 制作・上映サイドは、超高齢社会を迎えた我が国の観客のことをもっと考えてほしい。
 だいたい、本編前の予告編だけで15分も使っているのがおかしい。
 本編を第1部と第2部に分けて、間に15分の休憩時間を入れ、そこで予告編を流せないものか。
 あるいは、入口でオムツを配布するとか・・・。
 ソルティは30年以上前イタリアに行ったときローマのポルノ映画館に入ったが、彼の地ではポルノ映画ですら“intermezzo(休憩)”があった。

 ソルティがこの映画の熱をビンビンと感じることができたのは、やはり、『ひめゆりの塔』に象徴される沖縄戦の悲劇や、1972年沖縄返還まで米国の支配下にあって朝鮮戦争やベトナム戦争の出撃・後方支援基地として使われた沖縄の事情や、島民たちの悲惨な生活実態を学んでいたからである。
 太田隆文監督によるドキュメンタリー『沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』、大江健三郎の『沖縄ノート』、沖縄随一の売春街であった真栄原社交場を描いた藤井誠二の『沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち』、沖縄返還交渉をめぐる日米間の密約問題をテーマにした山崎豊子の『運命の人』、台湾有事に揺れる現在の沖縄を描いた三上智恵監督によるドキュメンタリー『標的の島 風かたか』、もちろん、真藤順丈の原作も読んだ。
 本土返還50周年にあたる2022年には、3泊4日の沖縄戦跡めぐりをした。
 ゆえに、この映画を観るのにまったく解説を必要としなかった。
 原作を読んでいない、沖縄戦をよく知らない、沖縄返還もはじめて耳にした、レジャー&スピリチュアルスポット以外の沖縄文化に触れたことのない人々が、本作を観て、どれくらい内容を理解できるのか、どれくらいウチナンチュー(島民)の思いに心を寄せることができるのか、ソルティにはわからない。
 ただ、その断絶の前には、「登場人物たちが話す沖縄方言がわからない」なんてのは些末な事柄に過ぎない。

 まったく前提知識が無いまま鑑賞しても、ストーリーを理解し映像を楽しむことができるのが、映画という娯楽の必要条件とするならば、もしかしたら、この映画は成功していないのかもしれない。
 しかし、たかだか191分!で、沖縄の人々がこの80年間体験し感じてきたことを理解するなど、そもそも絶望的に不可能なのである。
 ならば、戦後生まれのヤマトンチュー(島民以外の日本人)にできるのは、スクリーンにたぎる熱量をそのまま全身に受け止め、言葉を失くすことだけであろう。
 その熱は観る者の血管に浸透し、体中をめぐり、エイサーの太鼓の響きのごと鼓動を鳴らすに違いない。
 理解できないことに醒めた態度をとる人間の卑小さを気づかせるに違いない。
 何があったか調べるのは、そのあとからで遅くない。

魂魄の塔
魂魄の塔
沖縄戦で犠牲になった35,000人の遺骨が埋まっている

 熱量の源となっている役者たちの演技が素晴らしい。
 グスクを演じる妻夫木聡の本気度。『ウォーターボーイズ』の少年がここまで到達したことに目を瞠った。大人のエレベータを着実に昇った。
 ヤマコを演じる広瀬すず。本作で女優として明らかに一皮むけた。少し前に吉永小百合と共演し、小百合に気に入れられ、「わたしの演じる役の娘時代はすずちゃんにお願いしたい」と言われていたのを見て、嫌な予感がよぎった。
 が、杞憂であった。吉永小百合路線でなく、宮沢りえ路線に進んだことが証明されている。
 レイを演じる窪田正孝。こんなに存在感ある役者とは知らなかった。おみそれした。助演男優賞に値する熱演。
 オンを演じる永山瑛太。出番は多くないが、この物語のキー・パーソンである。オンの「非在」が物語を駆動する。それだけのカリスマ性がなければならない。永山は無頼なアニキの風格を見事に醸し出している。
 個人的に一番惹かれたのは、グスクとペアを組む初老の警官役の男優。
 なんとも味がある。
 この役者、だれ?
 ――と思ったら、ラストクレジットで塚本晋也と知った。
 『野火』や『ほかげ』など監督として一級であるが、役者としても実に魅力あふれる。

 米兵がたむろする夜の売春街や暴動勃発のゴザの街など、時代考証を尽くしたロケセットも見ごたえある。
 筋が複雑で、内容が重厚で、構成バランスが必ずしも良いとは言えない原作を、尊重しながらも適確に剪定した大友監督の手腕は十分称賛に値する。
 惜しむらくは、ゴザ暴動まで保ってきた緊張の糸が、そのすぐあとの米軍基地内のシーンで途切れてしまう。
 武装した米軍兵士たちの前で、主人公たちがいきなり“青春漫才”をおっぱじめる。
 いささか興冷めした。
 ここは映像によって語らせたかった。

シーサー

 現在上映中の本作への評価は二分しているようで、興行的に苦しんでいる模様。
 だが、日本人とくにヤマトンチューは観ておくべき映画と思う。
 左も右も関係なく。(だいたい排外主義を唱える連中が米軍基地撤退を唱えない不可思議。本物の保守はどこに行った!?)
 この映画をヒットさせられない現代日本の文化状況の貧しさ、令和日本人の政治意識・歴史認識の欠落が哀しい。
 少なくとも、『国宝』と『宝島』が同じ年に公開された日本映画界の奇跡を、劇場に足を運んで目撃することは、十分な意義がある。

普天間飛行場
普天間飛行場に並ぶオスプレイ

P.S. 上映終了後、白杖をついた男がいるのに気づいた。191分を“聴いて”、脳内スクリーンに沖縄の風景を描いていたのか! やはり映画は「見る」ものでなく、「観る」ものなのだ。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損












● 映画:『モガディシュ 脱出までの14日間』(リュ・スンワン監督)

2021年韓国
121分
 冷戦の終結とともに始まったソマリア内戦。
 独裁的なバーレ政権の打倒を目指す反政府軍は各地を制圧していく。
 1991年1月、ついに反政府軍はソマリアの首都モガディシュに攻め入る。
 反政府軍と政府軍は激しい銃撃戦を街中で展開し、首都は混乱を極める。
 攻撃の先は各国大使館にも向かい、関係者には一刻も早い国外退去が迫られる。
 暴徒に大使館を打ち壊され、行き場を失った北朝鮮の大使館員とその家族たちが、最後の砦として助けを求めたのは、韓国大使館であった。

 当時ソマリアの韓国大使館に勤務していたカン・シンソン大使が引退後に書いた小説『脱出』の映画化、つまり実話がもとだと言うから驚く。
 北朝鮮と韓国。
 簡単には解きほぐせない複雑な因縁ある両国が、ソマリアから脱出するために協力し合ったというのだから。
 事実は小説より奇なり。
 ――というか、現実世界のどうしようもない悲惨さと不条理、人類が抜け出せない無明の底知れなさを痛感する。

 もっとも、映画のスタイル自体は、事実を淡々と描くドキュメンタリータッチとはほど遠く、バイオレンス&アクション&パニック・サスペンス&人間ドラマとして楽しめる娯楽作品仕立てになっている。
 相当な脚色がほどこされていると思われる。
 ラストシーン近くの街中でのカーチェースやイタリア大使館前でのすさまじい銃撃戦など、漫画チックあるいはテレビゲームチックですらある。
 そのぶん、手に汗握る興奮度。
 韓国映画界のパワーを感じざるを得ない。

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 本作で描かれる韓国人と北朝鮮人の関係を見ていると、自然と、1994年のルワンダ虐殺を描いた『ホテル・ルワンダ』(テリー・ジョージ監督)を想起する。
 ルワンダ虐殺は、フツ族過激派によって引き起こされた120万人以上のツチ族虐殺。世界史上もっとも残酷な民族紛争であった。
 が、民族紛争という名が正しいのかどうかは疑問である。
 フツとツチは同じ人種に属し、同じ宗教、同じ言語を共有し、文化的にも似通っている。2つの集団の違いは民族性の違いというより、政治的・人工的につくられたものなのである。
 朝鮮戦争の結果、38度線を境に北と南に分けられた北朝鮮と韓国の状況もそれによく似ている。

 映画の中で、韓国大使館に逃げ込んだ北朝鮮大使館一行と、ためらいつつも彼らを保護した韓国大使館一行とが、ひとつの食卓を囲むシーンがある。
 同じ顔立ち、同じ背格好、同じ言語、同じ食文化、同じルーツをもつ人々が、敵と味方に別れて反目し争わなければならない不条理。
 実際、主要キャラ以外は、どっちがどっちの大使館関係者なのか最後まで区別がつかない。
 世界中の誰よりも近いところにいて、誰よりも理解し合えるはずの二つの民が分断されている現実。
 その原因の一端が日本にあることを知らずに、この映画を見ることは許されまい。

 子供が銃を持つのが日常風景の国がある一方で、里に下りた熊を駆除するかどうかの議論で炎上している日本の平和に乾杯。

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おすすめ度 :★★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 新しい世界線 本:『「日本会議」史観の乗り越え方(松竹伸幸著)

2016年かもがわ出版

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 本書が刊行された2016年は、安倍晋三政権が勢いに乗っていた頃である。
 連戦連勝の選挙結果に物を言わせ、特定秘密保護法(2013年12月)・集団的自衛権行使容認(2014年7月)・安保関連法(2015年9月)を成立させ、それまで水面下に亀のごとく潜んでいた日本会議が表舞台に浮上し、憲法改正に向かって突き進んでいた。
 その勢いはコロナ感染爆発により一時停滞したものの、2022年7月10日の参院選での与党の圧倒的勝利で、もはや誰にも止められないものになると思われた。
 そのとき、誰が2025年8月現在の日本の政治状況を予想できただろうか?

 安倍元首相が暗殺され、安倍派が瓦解するとは!
 2024年10月の衆議院選挙でも、2025年7月の参議院選挙でも自民党が票を失い、与党が過半数割れするとは!
 日本の右派がかくも混乱を極めるとは!

 いまの政治状況は、本書が書かれた時とはまったく違っている。
 かと言って、本書の内容が古くなって、時代遅れになったかと言えば、そんなことはない。
 日本会議は自民党の凋落とは別に巌として存在し、「誇りある国づくり」を合言葉に、憲法改正を目して活動を続けているからである。
 「日本会議」史観を軸として、現在分散・迷走している右派が“ポスト安倍”のもと再結集される可能性は常にある。
 
 「日本会議」史観とはなにか?
 
 日本会議は、歴史的に見ると、その前身となる二団体も含め、歴史観を結集の軸としてきました。戦後の日本で主流となった歴史観を自虐史観、東京裁判史観と批判し、明治以降の日本の歴史を全体として「栄光の歴史」として描くところに、その歴史観の特徴があります。なお、自虐史観という用語は特定の価値判断を含んでいますので、引用箇所でない限り、今後は「罪責史観」と呼びます、日本会議に代表される歴史観はよく「歴史修正主義」と名づけられますが、これも決めつけ的な色合いが強いので、「栄光史観」とするか単に「日本会議」史観とします。(本書より、以下同)

 日本会議が誕生したのは、平成9年(1997)のことである。
 それ以降、日本の政治や言論や市民運動の場において、「日本会議」史観と罪責史観の争いが繰り広げられてきたことは周知のとおり。
 著者の定義にしたがえば、おおむね、次のように二項対立されよう。
  • 「日本会議」史観=栄光史観=歴史修正主義=憲法9条改正=2015年安倍談話=右派
  • 罪責史観=自虐史観=東京裁判史観=護憲=1995年村山談話=左派
 さらに言えば、左派は「日本会議」史観を「オヤジ慰撫史観」と嘲笑し、右派は「罪責史観」を「反日思想」と批判した。

 ソルティの記憶では、民主党が政権にいた2010年初め頃までは、罪責史観が「日本会議」史観を圧倒していた。
 が、東日本大震災が起こり、民主党政権がにっちもさっちもいかなくなって失墜し、第2次安倍政権に取って代わられてから、「日本会議」史観が次第に優勢になっていった。
 2015年の安倍談話の中の「先の世代の子供たちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」は、まさに国として「罪責史観を払拭する」という決意のように聞こえた。
 もちろん、その背景には日本の右傾化――右派にしてみれば「行き過ぎた左傾化からの正常化」――がある。

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ElisaによるPixabayからの画像
 
 本書は、「日本会議」史観を批判する目的で書かれている。
 著者の松竹伸幸について、ソルティはどんな人物か知らなかった。
 本書のプロフィールには「ジャーナリスト、編集者、日本平和学会会員」としか書かれていないので、左派寄りのライターなのかと思っていた。
 読み終えてから、ネットで検索して、驚いた。
 松竹は、生粋の日本共産党員だった!のである。
 「だった」というのには曰くがあって、2023年に松竹が書いた『シン・日本共産党宣言』において、「党首公選制導入、自衛隊合憲・日米安保条約堅持」を主張したことが党首脳部から分派活動とみなされ、党の規定を踏みにじる重大な規律違反とされ、除名処分を受けたのである。その後、松竹は、除名処分は違法だとして党を相手に裁判を起こした。
 そういうニュースが巷を騒がせたことはうっすらと覚えていたが、当人の名前までチェックしていなかった。
 本書執筆時の2016年はもちろん、松竹は共産党員だったわけで、極めつけの左派と言っていい。
 ただし、上記の主張やその後の顛末に見られるように、左派には違いないが、周囲に流されずに自分なりの意見をもち、かつ堂々と主張できる気骨ある男なのだろう。
 「日本会議」史観に対する本書の批判も、これまで左派がやってきたような“罪責史観の上に立って栄光史観の誤りや驕りを糾弾する”という方法をとらず、二項対立を超えたところに第三の道を探ろうとしている。
 それが本書の題名の由来であり、ソルティが本書を読もうと思った理由であった。
 もしプロフィールに「共産党員」と書いてあったら、中身は読むまでもないと先入観で断じ、手に取らなかったかもしれない。自戒、自戒。

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 松竹は、以下の5つの論点について、「日本会議」史観の正否を吟味し、批判している。
  1. 植民地をめぐる問題
    「日本会議」史観 ⇒ 日本が朝鮮半島を植民地にしたのは、内容的にも法律的根拠においても正当なものであった。謝罪の必要はない。
  2. 侵略をめぐる問題
    「日本会議」史観 ⇒ 先の大戦は自衛のための戦争であり、侵略ではない。我が国のみが一方的に断罪されるいわれはない。
  3. アジア解放という名分をめぐる問題
    「日本会議」史観 ⇒ 大東亜戦争は、欧米列強の支配からアジア諸国を解放することを目的とした。感謝されこそすれ、謝罪の必要はない。
  4. 東京裁判(極東軍事裁判)の評価をめぐる問題
    「日本会議」史観 ⇒ 東京裁判は「イカサマな手続き」で行われた「勝者の裁き」であり、不当なものであった。
  5. 戦争責任と個人賠償の問題
    「日本会議」史観 ⇒ 日本はすでに戦争責任を果たし終えており、個人賠償の必要も、これ以上の謝罪の必要もない。
 特記すべきは、松竹は上記の「日本会議」史観を必ずしも否定していない点である。
 つまり、
  1. 日本の植民地支配は、当時の国際法の概念に照らし合わせて、有効であった。
  2. 「侵略」という概念が国際的に定義されたのは戦後になってからである。日本の対中戦争、対米戦争を、現時点から遡って「侵略」と定義するのはおかしい。
  3. 日本のアジア進出がアジア諸国独立の契機となった。
  4. 東京裁判は「勝者の裁判」であり、恣意的で一方的な断罪である。
  5. 日本は法的には戦争責任を果たし終えている。
 といった点について、日本会議の言い分を是認している。
 そこを厳密な歴史考証によりYesと認めたうえで、「日本会議」史観の批判を展開しているのである。「罪責史観」派の批判とは一味も二味も違っている。
 詳しい内容は本書を読んでほしいところだが、たとえば、2の「侵略」の定義をめぐる問題について、こう述べている。

 侵略の定義が、それを犯罪として裁くだけのものとして最終的に確定するのは、やはり2010年です。しかし、その定義の内容は、1974年の国連総会決議で決まったものとほぼ同じで、早くから国際社会では常識となっていたわけです。同時に、その定義の核心部分は、日本との戦争がまだ続いている最中に開催されたサンフランシスコ会議において、日本やドイツの侵略政策の再現を許さない決意のもとで、国際社会で合意されたということです。   
 そういう経過で侵略の定義ができたのですから、日本会議の面々が、満州事変にはじまる対中戦争、41年からの対米戦争が侵略戦争であることに異議を差し挟むのは、構造的に無理なのです。日本がやった軍事行動を侵略と定義したようなものですから、動かしようがありません。

 つまり、そもそも現在の「侵略」の定義――他国の主権、領土保全または、政治的独立に対する一国による武力の行使――をつくるきっかけをつくった大本は日本なのだから、その日本が「日本の軍事行動は侵略ではなかった」といまさら言っても通用しない、ということである。
 たしかに、「法令の効力はその法の施行時以前には遡って適用されない」という法の不遡及の原理はある。「法律なくして刑罰なし」である。
 だが、その行為があらたな法律や刑罰を生むきっかけとなるほど、被害が甚大で、人々に衝撃を与え、社会的な影響力も深甚なものであるとき、行為者がなんらかの形で裁かれることは免れ得ないであろう。
 少なくとも、「その時はまだそれを罪とする法律がなかったのだから、自分はその罪名に当たらない」と当人が主張するのは、盗人猛々しいとしか思われまい。

日本の戦争というのは、いわば、人類の認識を飛躍させる跳躍台のような役割を果たしたということなのではないでしょうか。量から質への転化の起爆剤となったと表現すればいいでしょうか。少しずつ侵略を犯罪として捉える方向に変わっていくなかで、日本とドイツの侵略によって世界で5000万人が犠牲となる現実を目にした人類が、「ここがロドスだ、ここで跳べ!」として、法律と実態の乖離を一挙に乗り越えたわけです。そして、人類の飛躍が刻印されたものとして国連憲章51条で侵略が定義され、東京裁判をすることになった。

 これはソルティが「これまで考えたことのない視点」であり、侵略か否かの不毛な二項対立を相対化するひとつの世界線(パラダイム)を提供してくれるものであった。
 アメリカでも日本でも、SNSを中心に右派v.s.左派という対立が激化し、国が分断されるリスクが高まっている現在、そして、消滅した安倍派(自民党右派)に替わり、どの政党が日本会議と結びつくことになるのか気がかりな現在、新たな世界線を切り開く言説の提示は、その有効性の評価は別にしても、意義あることと思う。
 元共産党員という固定観念をはずして、読むべき価値がある。

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おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● シオニズムの行方 本:『ユダヤ人の歴史』(鶴見太郎著)

2025年中公新書

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 『柳田国男入門』という本を書いた鶴見太郎(鶴見俊輔の息子)とは、同姓同名の別人。
 民俗学だけではなく、ユダヤ史もやるのかと驚いてしまった。
 (本人プロフによると、まれに印税の誤振り込みがあるという)

 副題の通り、「古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで」の、3000年に及ぶユダヤ人の歴史が要領よくまとめられている。
 労作であることは間違いない。

 読みながら二つのことを思った。

 一つは、たとえば、鶴見と同じ43歳のユダヤ人の学者が、『日本人の歴史』なる本を書いたと想像したとき、われわれ日本人はそれを読んでどう思うだろうか、ということである。
 少なくともソルティの場合、「なんとまあ無謀なことにチャレンジしたものよ」と著者の酔狂ぶりに感心し、「ちょっと見当違いのことが書いてあるなあ」と思い、「やっぱり、歴史的な事実は並べられても、日本人の心すなわち歴史を動かした大物たちの動機や群衆心理まではなかなか理解が届かないものだ」といった感想を抱くことだろう。
 それは、日本人のユニークネスを守りたい顕示欲のなせるわざである。どこの国民にも多かれ少なかれ、そういったナショナリズム・バイアスはあると思う。
 一方で、外国人という他者から見た日本や日本人が如何に見えるかを知る面白さも、そこにはあることだろう。
 自分が思いもよらなかった日本の良さや難点、当たり前に思っていた日本人の行動を他文化によって相対化したときの奇態さに、視野が開かれる愉しさを味わうことだろう。

 もう一つは、「それでもなお、日本人の歴史を書くことは、外国人の学者にとって、さほど難しいことではないかもしれない」ということである。
 というのも、日本の歴史とはほとんど国内史だからである。
 外国に征服されたこともなければ、民族構成が大きく入れ替わったこともなく、国体が崩れたこともない。
 一本の線のように単調で、わかりやすいのだ。
 刀伊の入寇や蒙古襲来、あるいは白村江の戦いや秀吉による朝鮮出兵など、外国との小競り合いはあったけれど、他国を併合したり他国に占領されたりの大きな動乱があったのは、神話・伝承の時代を含めても、韓国併合(1910年)からサンフランシスコ条約締結(1951年)までのたかだか40年においてのみである。
 我が国に真の民族的・国家的危機が迫ったのは、(2011年3月の福島原発メルトダウンを除けば)太平洋戦争敗北時のみである。
 なんだかんだ言って、世界史的に見れば、日本は平和な、恵まれた国なのである。(それゆえに、国際政治が下手なのだろう)

 そのことをつくづく感じさせてくれるのが、ユダヤ人の歴史である。
 ユダヤ人ほど波乱万丈な歴史を歩んだ民はいない。
 『旧約聖書』における神とアブラハムとの契約から始まって、モーゼの脱エジプトと十戒、バビロン捕囚、ローマ帝国による神殿破壊とディアスポラ(民族離散)、中世の十字軍による迫害やヨーロッパ各地において勃発した他民族による集団暴力(ポグロム)、ナチスによるホロコースト、そしてイスラエル建国からのアラブ諸国との戦争。
 まさに迫害と受難の歴史である。
 同じ一つの土地で、ほぼ同じ民族が、天皇制という国体を2000年近く保ち続けてこられた日本人と、何世紀ものあいだ故国を持たずに世界中をさまよい続け迫害されてきたユダヤ人は、まったく真逆の座標に位置する。
 日本人の歴史の単調さは、ユダヤ人の歴史書に置いてみれば、注釈で触れるくらいの軽い扱いで済むレベルであろう。

 それだけに、戦後生まれの日本人の学者がユダヤ人の歴史を書くということの無謀さ、というか不敵な精神を思うのである。
 鶴見自身も「あとがき」で、自らの“不遜さ”を認めている。
 不遜、大いに結構。
 新しい視点は、不遜なる若手から生まれる。

 出来栄えについては、正直、歴史オタクでないソルティには判断できない。
 ただ、著者が「まえがき」に書いている執筆方針、すなわち、「世界史やユダヤ教に関する予備知識なしでも通読できる」、「世界史を今まさに学んでいる高校生や世界史を復習したい読者にもなじみやすい」という部分は、素直に頷けない。
 内容はかなり高度で、初心者向けとは言えない。

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 さて、ユダヤ人とはユダヤ教を信仰する人の謂いなので、彼らのアイデンティティの核となるのは、「神との契約によるカナンの地の占有権」、「選民思想」、「メシア待望」、「律法遵守」といったあたりにあろう。これがいわゆるシオニズムである。
 で、ソルティ思うに、上記に加え、3000年の受難の歴史そのものもアイデンティティになっているのではなかろうか。
 つまり、「世界から忌み嫌われ、いじめられ、民族絶滅の危機に至るほどの迫害を受け、それでもなお、神を信じ耐え抜く我等」が、いまやユダヤ人の重要なアイデンティティを形成しているのではないか。
 あたかも、昭和時代の演歌に登場する「不幸に耐えながら、春を待つことが生き甲斐になった女」のように。
 あるいは、「周囲に構ってもらうために、わざとイジメられるようなことをしでかすイジメられっ子」のように。
 あるいは、被害者あるいはマイノリティであることに馴れ切ってしまった挙句、自らに不利な状況をすべて「差別、虐待」と捉え、客観的な判断ができなくなってしまった被害者あるいはマイノリティ団体のように。
 そうなると、たとえ運が巡って幸福が手に入ったとしても、それを素直に享受できなくなる。幸福になること=アイデンティティ崩壊の危機、なので。
 わざわざ世界を敵に回したがっているかのような今のイスラエルの振る舞いを見るにつけ、そんなことを思うのである。

 以下、本書より印象に残ったフレーズを紹介する。

反ユダヤ主義は、反ユダヤ的なキリスト教徒とユダヤ人が対峙する単純な構図から生まれ、暴力に発展するのではない。ユダヤ人を金づるとして利用する権力者と、それを腐敗と捉える庶民のあいだにユダヤ人が挟まれるという三者関係こそが、一定期間秩序を維持しながらも庶民の反ユダヤ感情を蓄積していく。政変や不況などでこの権力者のタガが外れたとき、民衆の怨念は一気にユダヤ人に向かうことになった。

ユダヤ人自身では変えられない状況のなかで生まれた差異をめぐってユダヤ人同士が対立することは、その後の歴史でも珍しいことではなかった。マイノリティは結束するものと勝手に考えがちだが、マイノリティだからこそ分断が生まれることは、ユダヤ人に限らず珍しいことではない。初期条件が不利なのがマイノリティだからだ。

マージナル・マンは、二つの社会のあいだで引き裂かれ、自己が不安定化しやすい反面で、それぞれの社会を、それぞれの中心にいる人びととは異なる視点で眺める目を持つので、より客観的に、さまざまなことを吸収する傾向にあるという。マージナル・マンの頭のなかにこそ、文明化や社会の進歩の過程の縮図があるというパーク(ソルティ注:アメリカの社会学者ロバート・パーク)は指摘する。ユダヤ人が文化・芸術方面で活躍するのはこのためなのかもしれないのだ。

ユダヤ人差別というと、ユダヤ人を蔑む方向性ばかりに注目が集まりがちだが、差別とは必ずしも蔑むことだけを意味するのではない。あるカテゴリーの人びとが一様に同じ性質を持つことを、当事者一人ひとりの固有性を無視して決めつけることに差別の基礎がある。そこに蔑みを込めれば典型的な差別になる。しかし、褒めたつもりでも、社会のなかで選択肢が限られた者に対して、特定の役割に押し込める方向で勝手な決めつけを行うのであれば、典型的な差別と本質は変わらないことになる。例えば、ある人が女性だからというだけで子育てに長けているとか料理がうまいと決めつけることが差別とみなされるのは、このためである。

イスラエルの社会心理学者ダニエル・バルタルによると、現在のイスラエルでは、アラブ人・アラブ諸国からの攻撃や非難を、おしなべてホロコーストのアナロジーで理解する傾向がある。・・・(中略)・・・この結果、シオニストの加害行為への応報さえも不当な被害として理解する思考が常態化してしまっている。




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損





● “現代音楽”としてのショスタコーヴィチ :新交響楽団 第269回演奏会

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日時: 2025年4月19日(土)18時~
会場: サントリーホール 大ホール
曲目:
  • 芥川 也寸志: オルガンとオーケストラのための「響」
     オルガン: 石丸 由佳
  • シチェドリン: ピアノ協奏曲第2番
     ピアノ: 松田 華音
  • 〈アンコール〉シチェドリン:バッソ・オスティナート(『2つのポリフォニックな小品』より)
  • ショスタコーヴィチ: 交響曲第4番
指揮: 坂入 健司郎

 今年は芥川也寸志生誕100年だという。
 ということは、三島由紀夫と同年生まれだ。
 父親の芥川龍之介は也寸志が生まれた2年後に自害しているから、龍之介と三島は面識がなかったのである。
 芥川也寸志の音楽を自分はほとんど知らないと思っていたのだが、実は映画音楽を結構つくっている。
 『地獄門』(1953年)、『戦艦大和』(1953年)、『猫と庄造と二人のをんな』(1956年)、『拝啓天皇陛下様』(1963年)、『八甲田山』(1977年)、『八つ墓村』(1977年)、『鬼畜』(1978年)。
 観たことあるものばかり。
 『砂の器』では音楽監督をつとめているが、あの印象的な主題曲をつくったのは、弟子の菅野光亮である。

 芥川也寸志は1954年にソ連に密入国し、半年間滞在した。
 その際に、ショスタコーヴィチに会って自作を見てもらっている。
 その縁もあって、1986年にショスタコーヴィチ交響曲第4番の日本初演を指揮した。
 そのときのオケが新交響楽団だったので、タコ4はこの楽団にとって名誉あるプログラムなのである。

 ロディオン・シチェドリン(1932-)はソ連生まれの現存する作曲家で、日本にも何度か来ている。
 入口でもらったプログラムによると、1988年にホリプロ(!)からの依頼で青山劇場のミュージカル『12月のニーナ 森は生きている』の作曲をするために、2ケ月間、真夏の伊豆の旅館に滞在したという。
 きっと浴衣うちわで曲作りに励んだのだろう。 
 奥さんは世界的に有名なバレリーナであるマイヤ・プリセツカヤである。
 当然、母国の大先輩であるショスタコーヴィチとは深いかかわりがあり、音楽的な影響も受けている。
 今回の曲目選定は、ショスタコつながりというわけだ。

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サントリーホール

 この渋くて難解なラインアップにもかかわらず、サントリーホール(約2000席)を9割がた埋める新交響楽団の人気はすごい。
 創立70周年近い歴史により積み重ねられた安定した実力と知名度、固定ファンの多さによるのだろう。
 これといった瑕疵も見当たらず、安心して聴いていられる。
 ホールの音響効果とあいまった迫力ある重厚な響き、空間を切り裂くような鋭い打楽器、共演のパイプオルガン(石丸由佳)とピアノ(松田華音)も見事なテクニックを披露し、日本アマオケ界のレベルの高さをつくづく感じた。

 しかし、残念なことに、前半は眠くて仕方なかった。
 実を言えば、半分寝てしまった。
 これは主として聴く側(ソルティ)に原因がある。
 まず、「メロディ・リズム・ハーモニー」が疎外された現代音楽が苦手である。
 美しさを感じることができず、心は宙にさまよう。
 次に、週末のアマオケ演奏会は午後2時開演が多いが、今回は午後6時開演だった。
 日中、都内の図書館で奈良大学のレポート提出のため、5時間ぶっ続けで勉強して、頭が疲れていた。
 さらに、桜が散った頃からヒノキ花粉症の兆候が現れた。
 ここ数日、のどの違和感と鼻づまり、倦怠感が続いている。
 音楽を聴くには、良い状態とは到底言えなかったのである。
 (3曲中せめて1曲は馴染みやすい曲を入れてほしかった)

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JoggieによるPixabayからの画像

 ショスタコーヴィチは活動年代的には現代音楽の人なのだが、作った曲はマーラーなど後期ロマン派の香りが強い。
 これは、スターリニズムによる芸術家への抑圧――社会主義リアリズムの勝利を表現する内容と形式の強要――ゆえに強いられた、反動的創作姿勢の結果なのかもしれない。
 そのおかげでショスタコーヴィチの作品が、現在も、ベートーヴェンやブラームスやマーラーと並んで演奏・録音される機会が多いのだとしたら、皮肉と言うほかない。
 もし、全体主義独裁国家で作曲するという抑圧が無かったら、ショスタコもまた、大衆にしてみれば「よくわからない、つまらない」現代音楽を量産していたのかもしれない。
 案の定、コンサート後半は覚醒した。
 
 第4番を聴くのははじめて。
 第3楽章までしかないのは未完成のためなのかと思ったが、全曲60分もあり、最後はチェレスタのもの悲しい響きで余韻を残しながら終わるので、これが完成形なのだろう。
 全体に面白い曲である。
 マーラーへのオマージュといった感じ。
 第2楽章は、マーラー交響曲第4番第2楽章の諧謔的な皮相「死神は演奏する」のパロディのように思われたし、第3楽章は、ビゼーの『カルメン』序曲っぽいフレーズも飛び出すものの、全般、さまざまな音楽の“ごった煮”のようなマーラーの絢爛たる世界を忠実になぞっているように感じられた。
 『マーラー交響曲』と名付けてもいい。

 ただ、マーラーの音楽が、どちらかと言えば、作曲家個人の精神遍歴の表現、つまり近代的自我の苦悩と喜びの表出とすれば、ショスタコの音楽は、自身が生きている環境の狂気と不条理の表現に聴こえる。
 20世紀初頭にマーラーが個人的に体験した“狂気と崩壊”が、「わたしの時代が来る」の予言通りに、ショスタコの生きたソ連において国家的に現実化してしまった――そんな因縁を想像させる。
 一方、スターリンの亡くなったあと(1953年)から作曲家としての活動を開始したシチェドリンの音楽からは、体制による抑圧や矯正の匂いが感じられない。
 “普通に”現代音楽である。
 比較的自由な時代の芸術家なのだ。

 いまのロシアはどうだろう?
 ウクライナ侵攻に反対した芸術家に禁固7年の実刑が下ったというニュースを見たが、スターリン時代に舞い戻ってしまったのではなかろうか。
 ロシアだけでなく、ミャンマーでも、イスラエルでも、中国でも、アメリカでも、全体主義の恐怖が募っている。
 ショスタコーヴィチこそが「現代音楽」だと思うゆえんである。

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● ハリウッド2大名優の最初で最後の共演 映画:『タクシードライバー』(マーティン・スコセッシ監督)

1976年アメリカ
114分

 大都会の孤独なタクシードライバーが次第に狂気に陥っていくさまを描いた物語。終盤の凄まじい殺戮シーンが公開当時話題になった。

 本作で、ロバート・デ・ニーロは世界的に名を知られるようになった。
 33歳のデ・ニーロは細面のイケメンで、何より驚くのは肌の白さである。
 こんな色白だったのか!
 『ゴッドファーザー』や『アンタッチャブル』などマフィアの役が強烈だったせいかイタリア系のイメージがあったが、彼は生粋のニューヨーク生まれで、両親は北欧系なのである。

 たしかに巧い。
 完全にひとりの人格を作り上げている。
 じょじょに狂気に陥っていくさまも、緻密な演技設計と鍛錬の成果を感じる。
 何によっても癒しようのない孤独と空虚にとらわれた青年像が見事に造形化されている。
 70年代ニューヨークの夜の街の雰囲気も興味深い。 

 本作の難点は、脚本だろう。
 タクシードライバーの青年がなぜこのような孤独と空虚にとらわれているのか、なぜそこから逃避する手段として、普通よくあるように、酒や麻薬や女にはまっていないのか、全然説明されないのである。
 深夜勤務を終えた後ひとりポルノ映画を観に行くかわりに、なぜ女と遊ばないのか、なぜ酒を飲んで気を紛らわせないのか、なぜ不眠症にかかっているのか、観る者はなにも理解できないままに、彼が狂気にはまっていく姿を追うことになるので、「???」となる。
 生まれた家が属していた禁欲を旨とする宗教的バックボーンのせいかと想像しながら観ていたが、それだとポルノ映画だけOKなのが説明できない。
 この青年の抱える闇の正体はなんだろう?
 単なるサイコパスなのか?

 ――と奇妙に思いながら観終わって、ネットでいくつかの映画評を読んで、「ああ、そうか」と腑に落ちた。
 これはベトナム戦争の後遺症に悩むアメリカと一帰還兵の姿を描いた映画と解せるのであった。

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Jens JungeによるPixabayからの画像

 1976年と言えば、まさにベトナム戦争直後。
 それまで世界の勝ち組であり続けたアメリカがはじめて戦争に敗退、失意と不況が全米に広がった。
 ベトナム帰還兵の精神障害が問題となり、PTSD(心的外傷後ストレス障害)という言葉が生まれた。
 デ・ニーロ演じるタクシードライバーがベトナム帰還兵であることは、映画冒頭の採用面接シーンで言及されていた。
 それを鍵に、物語を読み解いていくべきなのであった。
 であれば、彼が酒や麻薬に手を出さない理由も理解し得る。
 酒や麻薬で廃人となった戦友をたくさん見てきたのだろう。
 女性とのコミュニケーションの年齢に釣り合わないつたなさも、レイプされる対象としての女性しか現地で見てこなかったためかもしれない。
 そして、癒しようのない孤独と空虚の原因は、生死のかかった非日常をアドレナリン・フル状態で生き抜いた人間が、ゆるい日常に戻ったときに感じる虚脱感、周囲との隔絶感のためと思えば納得がいく。もちろん、不眠症の原因も。
 不浄な街に対する彼の怒りは、「こんなアメリカを守るために俺たちは命を投げ出したのか!」というやりきれなさが高じてのものだろう。

 本作をリアルタイムで、少なくともベトナム戦争映画が盛んにつくられていた80年代くらいまでに観ていれば、すぐにそこに思い当たったであろう。
 だが、公開から半世紀がたった2025年。
 なんら前提知識のない人間が本作を観て、この物語の背景にあるものを推察するのは困難である。
 ベトナム戦争を知らない人間にしてみれば、ある一人のタクシードライバーが女に振られて狂気に陥り、少女売春をゆるす不浄な街に怒りを感じ、ランボーのごとく武装して悪者を成敗した物語、つまり、一人の宗教的サイコパスの話としか受け取れない。
 逆に、デ・ニーロがメルリ・ストリープ、クリストファー・ウォーケンと共演したマイケル・チミノ監督『ディア・ハンター』(1978)は、ベトナム戦争の壮絶な現場が、戦前のアメリカの平和な日常風景と対比的に描かれており、前提知識のない人が観ても、人間を心身ともに破壊する戦争の恐ろしさが伝わるはずである。

 本作でデ・ニーロと並んで高い評価を得たのが、当時13歳のジョディ・フォスター。
 大変な美少女ぶりに驚かされるが、それ以上に驚異的なのは演技の上手さ。
 この年齢でこの演技!
 二人の名優が共演したのは、本作が最初で最後だったのではなかろうか?
 その点で、映画ファンにとっては見逃せない一本であるのは間違いない。





おすすめ度 :★★★

★★★★★
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● 本:『戦争宗教学序説 信仰と平和のジレンマ』(石川明人著)

2024年角川選書

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 戦争宗教学って言葉、初めて聞いた。
 著者は1974年生まれの宗教学者。キリスト教の家庭に生まれ育ち、幼い頃から戦争映画や戦闘機の模型や銃の玩具に夢中になったという。
 自然、宗教と戦争の結びつきに関心を抱くことになったわけである。
 本書は、戦争・軍事と宗教の関係をさまざまな角度から考察したものである。
 はじめて知ったことが結構あり、面白く読んだ。
 著者は「はじめに」でこう記している。

 本書は、いわゆる宗教戦争の歴史をまんべんなく網羅するものではない。また、一定の方法論から宗教と戦争の関係を体系的に分析するものでもない。ここで目指しているのは、宗教的な軍事や軍事的な宗教を観察しながら、私たち人間の、理想と本音、限界と矛盾、正気と狂気、愛とエゴイズムなど、良くも悪くも人間的としか言いようのない部分を直視して、それが私たちの現実なのだと受け入れることである。

 第1章「軍事のなかの宗教的なもの」では、武器や武具にみられる宗教的要素について紹介している。
 たとえば、アメリカ製の自動小銃の照準器に聖書の一節を示す略号(JN8:12=ヨハネによる福音書8章の12節)が刻まれていたとか、日本の戦国時代の武将の兜の立物に「南無妙法蓮華経」の文字が象られていたとか、戦艦大和には奈良県天理の大和(おおやまと)神社から分祠された神棚が祀られていたとか、大日本帝国の軍旗が「天皇の分身」として奉戴されていたとか、洋の東西問わず、そうした例は枚挙のいとまない。
 また、戦場におもむく兵士たちが、おみくじやお守りや占星術や験かつぎの小物など宗教的・呪術的な力を頼りにした例が挙げられている。日本の場合、千人針や五銭硬貨(四銭=死線を超える)や十銭硬貨(九銭=苦戦を免れる)がよく知られている。
 面白いところでは、第1次大戦中の西洋では、赤ん坊が生まれた時に胎盤とともに出てくる卵膜が海難除けのお守りとして海軍の兵士たちにもてはやされたという。

千人針
千人針
 第2章「戦場で活動する宗教家たち」では、西洋の従軍チャプレン、日本の室町・戦国時代に活躍した陣僧、大日本帝国軍で戦地に派遣された従軍僧について取り上げられている。
 第2次大戦中、グリーンランドの米軍基地に向かっていたアメリカ陸軍の輸送船が、ドイツの潜水艦による魚雷を受けて沈没した。このとき、自らの命を犠牲にして乗組員を最後まで励まし助けた4人のチャプレンは、いまでも「永遠のチャプレン」として聖人のごとく語り継がれており、切手のデザインにもなっているという。
 一遍上人を宗祖とする時宗の僧侶が多かったという陣僧のことや、戦地で葬儀・布教・慰問をおこなった従軍僧のことなど、その実態をほとんど知らなかったので興味深く読んだ。

 第3章「軍人に求められる精神」、続く第4章「宗教的服従を説いた軍隊」では、しばしば軍事のなかで重視される「精神」や「士気」に着目し、極端な精神主義に傾いた大日本帝国軍の実態とその背景にあったものを推察している。 
 ここが本書の白眉と言える。

 宗教には社会や集団の団結を強化する機能がある、というのは古くから指摘されていることだが、実際問題として、士気を高め、結束を強めるために、軍隊において広義の「宗教」はなくてはならないものだったのだ。宗教を真剣に、切実に必要としていたのは、実は聖職者よりも軍人だったと言っても過言ではないかもしれない。文字通り、生き残るために必要だったのである。

 宗教は戦争に大いに“役立つ”。国家レベルで然り、個人レベルで然り。
 それは、洋の東西や時代の違いを問わない人類の普遍的現象である。
 だが、戦前の日本においては、とくに国家レベルで宗教(神道)が戦争のために活用され、精神主義的傾向が顕著であった。
 たとえば、日の丸特攻隊無駄な行軍による犬死に、退却を嫌いあくまで前進・攻撃にこだわる無謀な戦略、「生きて捕虜となる辱めを受けず」、一億玉砕、「〽みごと散りましょ、国のため」・・・・。
 そこには、科学的合理的なものが何もなかった。
 そもそも、猪瀬直樹著『昭和16年夏の敗戦』で暴かれたたように、敗けると分かっていた日米戦を始めた段階で、合理性はどこかにうっちゃられた。
 あたかも日本人は、元寇の際に生まれた神風神話を信じ、江戸時代の武士道を貫いて、アメリカに向かっていったようである。
 その理由を著者は次のようにまとめている。

 日本軍の精神主義的傾向の背後にあったのは、すでに見てきた通り、「天皇の軍隊」という位置付け、風紀・軍紀を維持せねばならないという課題、そして日露戦争の経験など、さまざまなものがあった。だが1920年代半ばから30年代にかけて、軍人は自分たちの軍隊を理想通りに改造することができない現実を突きつけられたため、なおさら精神論的な文句をならべて気勢を張るようになってしまったのである。

 すなわち、
  1. 大日本帝国軍がそもそも天皇の軍隊いわゆる皇軍(神の軍隊)として組織された。
  2. 長い鎖国の江戸時代からやって来た民衆によって近代的な軍隊をつくるには、道徳的教育から始めなければならなかった。
  3. 主要会戦が一日で決した日清戦争に対し、長期化し戦死者数も跳ね上がった日露戦争においては、戦場の指揮や部隊の統制が困難になる傾向が見られた。兵士ひとりひとりの戦闘意志、士気や攻撃精神を高めなければならなかった。
  4. 大正デモクラシーの時代、社会に反戦ムードが広がり、軍人は疎まれ、軍事予算が縮小された。ときは第一次大戦直後で、軍の近代化を推し進めることが必須であったのにもかかわらず、それが叶わなかった。結果として、近代兵器以外の要素=精神力に依存せざるを得なくなった。
 1~3の理由は納得するのに困難はないが、4のような理由が存在し得るとは思わなかった。
 これは言ってみれば、国民の求める平和主義が、必要な軍備強化を妨害したため、軍事力の弱点を精神力でカバーせざるを得なかった、ということである。
 「武器がなくとも気合で勝て!」みたいな・・・。
 この4の理由が妥当なのかどうかソルティには即答できない。
 が、ここから著者が示唆しようとしているのは、過去の日本のことでなく、現代の日本のことであろう。
 左翼の平和主義や反戦思想が、憲法改正や自衛隊の日本軍への格上げや軍備増強や徴兵制や核の保有を妨害するから、日本は心許ない日米安保に頼らざるをえず、かえって国として弱体化し平和が危険にさらされている、と暗に言いたいのだろう。
 次のように述べている。

 戦争が終わると、人々はもうかつてのように「必勝への信念」は叫ばなくなった。しかし、その代わりに今度は「平和への信念」を叫ぶようになった。そして、かつての拠り所であった「大和魂」の代わりに、今度は別の魂として「憲法九条」があらわれた。つまり「戦争」に対する姿勢がそのまま「平和」に対する姿勢にスライドしただけで、結局は信念や信条や心意気のようなものでどうにかしようとする傾向はそのまま受け継がれてしまっているように見えるのである。・・・(中略)・・・軍国主義から平和主義に「回心」したつもりだけれども、単に服を着替えただけで、中身の人間は実はまだ同じような目つきをしているのではなかろうか。

 先の大戦において「大和魂」で日本を守れなかったように、「憲法九条」では日本を守れない。だから科学的合理的に世界状況を分析し戦略を練って軍備増強をはかれ、ということである。
 物心つく頃より戦争映画や武器が好きだった著者らしい言明だなあと思う。

 隣人への愛を説き、「右の頬を殴られたら左の頬を差し出しなさい」と言ったキリストの教えと、隣人を憎み大量に殺戮する行為である戦争は、原理的には相容れない。
 だから、キリスト教家庭に育った著者の心中に「信仰と平和のジレンマ」が生じているのだろうと推察される。
 なんとかしてその矛盾を受け入れ、ジレンマを解消したいという思いが、本書の行間から滲み出ている。

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 最後に、ソルティが一番驚いた文章を挙げる。
 
 宗教は「平和」を祈り求めるものだが、戦争・軍事も最終的には「平和」を目指している。少なくとも関係者はそのように自覚している。

 えっ! そうなの!?
 それが世間一般の常識なの?
 軍事関係者、宗教関係者、政治家、学者たちの自覚なの?

 ソルティは生まれてこの方、そんなこと一度たりとも思ったことがない。
 ソルティにとって戦争とは、単に欲望の追求であり、男のマウンティング合戦である。
 平和が目的だなんて1ミリも考えたことはない。
 ソルティにとって宗教とは、ひとりひとりの信者においては「心の安心(あんじん)」の杖であり、組織の長においては権力の源泉であり、国家においては人民をコントロールする道具でしかない。
 「平和が目的」と言えるのは、せいぜい個人の心のレベルにおいてのみと思っている。

 戦争も宗教も、ソルティの中では人類の発明した「愚行」としか思っていないので、両者間にはなんの齟齬も対立も生じず、ジレンマもない。(ソルティ自身はテーラワーダ仏教の徒ではあるが、実のところそれを一般的な意味での宗教とも信仰とも思っていない)

 ソルティは戦争と宗教について誤った見方をしているのだろうか?
 あまりに人間不信が過ぎ、ひねくれているのだろうか?
 平和主義者の看板を下ろさなければならないのか?

原爆ドーム



おすすめ度 :★★★

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● 映画:『オッペンハイマー』(クリストファー・ノーラン監督)

2023年アメリカ
180分

オッペンハイマー

 原爆開発を目的とするマンハッタン計画の主導者にして「原爆の父」と呼ばれたJ.ロバート・オッペンハイマー(1904-1967)の半生を描いた伝記映画。
 第96回アカデミー賞において、作品賞、監督賞、主演男優賞、助演男優賞などを受賞した。

 多くの人にとっては、難しすぎる映画と思う。
 主たる時間軸が3つあり、以下の3つの物語が入れ替わり立ち替わり語られるので、話が錯綜して分かりにくい。
  1. オッペンハイマーの半生を振り返る物語・・・・病的な学生時代~著名な物理学者らとの出会い~理論物理学者として有名になる~マンハッタン計画に参加~広島・長崎原爆投下~罪悪感に襲われる
  2. 1954年オッペンハイマー事件・・・・赤狩り時代、政治家ルイス・ストローズの策謀によりソ連のスパイと疑われ、聴聞会にかけられ、公職追放となる。
  3. 1959年の連邦議会の公聴会・・・・ルイス・ストローズが閣僚として適正か否かを審議する公聴会が開かれ、結果不適格とされる。
 2番目の物語はひと昔前の家庭用ビデオのような粗い画質のカラー映像、3番目の物語はモノクロ映像と、画質に違いがあるので、注意深く見れば異なる時代の異なる物語が並行して語られているのだと気づくことはできる。
 が、ある程度の事前知識がないと、2と3の場面は何をやっているのか見当がつかない。
 アメリカ人の知識層なら、2のオッペンハイマー事件や3の公聴会の制度について知る人も多いのだろうが、そうでなければ話についていくのは難しい。
 そのほかにも、この映画を十分に理解するにはかなりの知識が要る。
 現代物理学史や有名な物理学者のプロフィール(アインシュタイン、ハイゼンベルク、ニールス・ボーアが登場)。
 第二次世界大戦の推移(とくに日米戦)。
 マンハッタン計画と広島・長崎原爆投下。  
 米ソ冷戦と核開発競争。
 赤狩り、FBI、アメリカの政治制度。
 
 ソルティは2回見てやっと全体像を理解することができた。
 悪い映画ではないが、これがアカデミー作品賞受賞ってどうなんだろう?
 あまりに大衆から離れ過ぎていやしないか?
 アメリカの観客の何%が、この映画を一度見ただけで理解できたのか、気になるところである。
 評価の高さの背景として、ロシア×ウクライナ戦争とイスラエル×ハマス戦争の勃発が、核戦争に対する全米の危機感を煽ったことが大きかったのではなかろうか。 
  
 もちろん、質は高い。
 クリストファー・ノーランの映像はいつもながら美しい。
 役者の演技も一級である。
 オッペンハイマー役のキリアン・マーフィーは、アカデミー主演男優賞も納得の繊細な演技。広島・長崎原爆投下の被害状況を知ってから、がらりと顔つきを変えている。
 野心に満ちた成り上がり者ルイス・ストローズを演じるロバート・ダウニー・Jr.も、助演男優賞納得の好演。オッペンハイマーV.S.ストローズは、いわば、モーツァルトv.s.サリエリみたいな関係だろうか。凡庸な人間が天才に抱く賞賛の念と嫉妬と劣等感が表現されている。
 ほかにも、マット・デイモン、ジョシュ・ハートネット、ラミ・マレック、トム・コンティ(アインシュタイン役)、ケネス・ブラナー(ニールス・ボーア役)、ゲイリー・オールドマン(トルーマン大統領役)など、主演級のベテラン役者が出演している。
 これらの役者の凄いところは、それぞれが演じている人物になりきって、役者自身の地が目立たないところである。
 高度のメーキャップ技術のせいもあろうとは思うが、マット・デイモンやケネス・ブラナーやトム・コンティやゲイリー・オールドマンなどは、最後まで本人と気づかなかった。
 日本の俳優は、「なにをやっても〇〇〇(名前が入る)」という人が結構多い。石原裕次郎とか吉永小百合とか笠智衆とか木村拓哉とか。
 海外の俳優はどれだけスターになって顔が売れても、いったん芝居となるとスター性を引っ込めて役になりきるところがプロってる。(トム・クルーズやブラッド・ピットは例外か)

 「原爆の父」となったオッペンハイマーはのちに罪悪感に苦しめられたらしい。
 だが、オッペンハイマーがやらなければ、誰か別の科学者が原爆を開発したのは間違いない。
 アメリカがやらなければ、どこか別の国(ソ連か?)が原爆をどこかの国に投下し、その効果を確かめたであろう。
 また、日本がポツダム宣言受諾を拒否し続けたことで、みずから原爆の悲惨を招いてしまったことも否定しようのない事実である。
 日本人にとっての悲劇は、唯一の被爆国となったという歴史的事実について、単純にアメリカばかりを責められないという点にある。
 
原爆ドーム





おすすめ度 :★★★

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● 武器でなく楽器 本:『戦場のタクト』(柳澤寿男著)

2012年実業之日本社

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 昨年末に聴いた板橋の「第九」の指揮者の自叙伝。
 読みやすく、面白く、感動的だった。
 これまでも、歌手や指揮者など音楽家の自叙伝を何冊か読んだが、彼らに共通して言えるのは、みんなとっても「感動屋」で「直感的」で「行動派」。
 子供のころから実に感動しやすく、よく泣き、よく驚き、よく共感し、感受性豊か。
 いったんなにか閃いたら、余計なことを考えず、すぐ行動にうつす。
 人のふところに入るのが上手い。
 典型的な右能人間なのだと思う。
 音楽は右能優位と言われるのと相関しているのかもしれない。

 小澤征爾に憧れて指揮者を目指し、佐渡裕に飛び込みで弟子入りし、大野和士や井上道義に可愛がられ引き立てられ・・・・と、指揮者を志す日本の若者なら誰もが羨むような経歴。
 その成功の要因は、もとからの音楽的天分や、異国の貧乏アパートで蛍雪の灯りで楽譜の勉強をする努力家であることもさりながら、人との縁に恵まれ、その縁を“自分の為でなく、他人の為、社会の為、音楽の為”に生かそうとするところにあるのだと、本書を読んで理解した。
 平和ボケしぬるま湯につかった極東の国の片田舎に生まれ育った一青年が、なにを好んで“ヨーロッパの火薬庫”たるバルカン半島に孤軍飛び込み、民族紛争の荒波に直面し、民族共栄のための音楽活動に従事することになったのか。
 人の運命というのは不思議なものだとつくづく思う。 
 そして、異なった言語、異なった宗教、異なった文化、異なった慣習をもつ多民族の心を、ひとつにまとめる音楽の力は実に偉大と思う。
 武器でなく楽器、武装でなく女装。 

ブレーメンの音楽隊

 平和ボケしぬるま湯につかった日本人は、ヨーロッパ各国やアメリカが日々直面している民族問題を、これからしこたま経験することになるのだろう。
 これまでもアイヌ民族や在日コリアンの人権問題が唱えられてはきたものの、大半の日本人にとっては「自らの生活に累を及ぼさない」レベルの“無視できる”問題だった。
 日本人の労働人口が増えない限り、そして日本人が今現在の生活レベルを維持したいと願う限り、今後、多様な民族の入国を押しとどめるのは難しいだろう。
 日本各地で、他民族との衝突の起こる可能性がある。
 埼玉県川口市のクルド難民問題など、すでに前哨戦は始まっている。
 我々がバルカン半島の歴史や柳澤の経験から学ぶことは大きい。




おすすめ度 :★★★★

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もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




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