スクーリング第2弾は「文化財学購読Ⅱ」。
寒気が緩み、3月初旬の春らしい日射しが注ぎ、心地よい外歩きが楽しめた。
50名余の参加者を2台に分乗した貸し切りバスは、大学のある平城山を出発し、奈良バイパスを一路南下、平城京跡、大和郡山市、天理市を抜けて、飛鳥の地に到着した。
目指すは藤原京跡である。
今回なによりショックだったのは、自分の無知というか、時代遅れを痛感したことである。
ソルティは大学受験の際に日本史を選択したくらいには日本史が好きで、結構勉強したほうであるが、藤原京についてはほとんど学ばなかった。
日本で最初の本格的な都は、唐の長安をモデルに創った平城京で、その始まりは「なんと(710)大きな平城京」と覚えた。元明天皇の御世である。
平城京の前に、藤原宮をはじめ、飛鳥宮や近江大津宮や飛鳥浄御原宮などいくつかの宮を転々とした記録はあるが、その頃は天皇(当時は大王と言った)が変わるたびに宮を遷すのが通例だったので、都と言えるほど大きなものではなく、政治・歴史的な重要度も高くないと思われていた。
試験の出題対象にならなかったので、年号なども覚える必要がなかった。
それから40年余。
いかに日本史や考古学から遠ざかった生活を送っていたことか。
知らない間に、古代史における藤原京の位置付けがまったく変わっていた!
1990年代の東西の京極大路の発見により、その規模は、5.3km(10里)四方、少なくとも25㎢はあり、平安京(23㎢)や平城京(24㎢)をしのぎ、日本で初めて条坊制――碁盤の目状に大路が交差する――を取り入れた、古代最大の都市であることがわかったのである。
今では日本最初の本格的な都は藤原京であり、その遷都は持統天皇の694年。
歴史教科書にしっかり記載され、試験にも出る。
「むくよ(694)柿の葉、藤原京」という語呂合わせまで出来ている。
歴史教科書にしっかり記載され、試験にも出る。
「むくよ(694)柿の葉、藤原京」という語呂合わせまで出来ている。
奈良の名産・たなかの柿の葉すし
この過程を知らなかった、あるいはニュースを見てもたいして気に留めず記憶に刻まれなかったものだから、今回、大和三山(香具山・畝傍山・耳成山)を見晴るかす広大な藤原京跡に立った時に、また、遺跡から発見された様々な文化財から復元された当時の都の姿を、奈良文化研究所・藤原京跡資料室でかいま見た時に、40年余のタイムラグをしたたか痛感したのであった。
もっとも、学問とは縁のない社会生活を送っていれば誰しも同じようなものとは思う。また、子育てしなかったソルティは子供の教科書を見るということもなかった。
もっとも、学問とは縁のない社会生活を送っていれば誰しも同じようなものとは思う。また、子育てしなかったソルティは子供の教科書を見るということもなかった。
40年間の放置でカビの生えた知識を一掃し、学び直し、更新する必要がある。
この気づきこそ、今回のスクーリングの一番の収穫かもしれない。
担当教師は深澤芳樹先生。
1952年山梨生まれで、奈良文化研究所に勤めて発掘調査などを数多く手がけられた。弥生時代を専門に研究されている。
教室での講義でも、バス移動の道中でも、施設を巡っている時でも、語り出したら止まらないあふれる知識と雑学と面白いエピソードの持ち主で、考古学というのは、文学・民俗学・植物学・建築学・化学・史学・神話学・美術・宗教学を総動員する学際的な学問で、加えてシャーロック・ホームズばりの想像力と推理力と洞察力が要求されるのだと、ご本人みずからの語りをもって証明し、伝えてくださった。
軒丸瓦の文様によって建物の造られた時代が分かるという話、相手の髪の毛を掴んでの喧嘩必勝法、聖武天皇と光明皇后が東大寺法華堂にかけた思い、鑑真和上は盲目でなかった説の論拠など、遺物や古文書から過去の人間の姿をよみがえらせる考古学の面白さは、出来のいいミステリーそのものと思った。
軒丸瓦の文様によって建物の造られた時代が分かるという話、相手の髪の毛を掴んでの喧嘩必勝法、聖武天皇と光明皇后が東大寺法華堂にかけた思い、鑑真和上は盲目でなかった説の論拠など、遺物や古文書から過去の人間の姿をよみがえらせる考古学の面白さは、出来のいいミステリーそのものと思った。
人あたりもたいへんマイルドで、受講生からの質問に丁寧に応じられていた。

藤原京跡から西に望む二上山
その向こうは大阪府太子町

香久山(かぐやま)
藤原宮の東を守る
「春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣ほしたり 天の香久山」
百人一首にも採られた持統天皇(645‐703)の歌で有名
藤原京への遷都と大宝律令の制定を行った彼女は、日本史上最大の女帝である

耳成山(みみなしやま)
藤原宮の北を守る

藤原宮の東を守る畝傍山(うねびやま)と大極殿跡
香具山は 畝火を惜しと
耳成と 相あらそひき
神代より 斯くにあるらし
いにしえも 然にあれこそ
うつせみも つまを あらそふらしき(現代語訳)香具山は、畝火山を愛して耳梨山と争った。神代からそうであったらしい。昔からそうであったのだから、今の世においても人々は妻を争うのだろう。
(『万葉集』巻1-13にある中大兄皇子=天智天皇の歌)

奈良文化財研究所・藤原京跡資料室
遺跡から出土した文化財を展示している

儀式の際に大極殿の前に立てられた飾り
東に青龍、西に白虎、南に朱雀、北に玄武の守護神が描かれている

三本足のカラス!
『アマテラスの暗号』にも出てきたヤタガラス(八咫烏)
神武天皇を熊野国から大和国に案内した神の使いとされる

「形式重視・事なかれ主義」のいかにも役人らしい顔つきは現代と変わらない

貴族の食事

下級役人の食事

庶民の食事

バスで大神神社に移動
どこに行っても目立つオジ&オバ軍団

拝殿
三輪山(467m)をご神体とする大神神社には本殿がない。
御祭神の大物主(おおものぬし)大神は記紀では蛇の姿で登場する。
今年は巳年なので、参拝客であふれていた。
ソルティは20代の初夏の旅で、境内のどこかで真っ裸で滝を浴びた記憶がある。
当時は参拝客が少なかったのだ。

天理参考館に移動
天理大学の施設である。
天理教を広めるために世界各地に派遣される信徒たちに、諸外国の生活習慣や歴史などの知識を身に着けてもらうために、国内外から民俗資料や考古資料を集めた。
そのコレクションは一見の価値がある!

アイヌ、朝鮮、中国、台湾、バリ、ボルネオ、インド、メキシコ、パプアニューギニア、そして昔の日本の文化財や美術品の数々に圧倒される。
と同時に、天理教信者の信仰の力をまざまざと感じた。

中国の傀儡劇のあやつり人形

パプアニューギニアの祭礼に使用された仮面

わが国最初の鉄道切符
横浜ー川崎間(明治5年)

古墳時代の布留の祭場
布留は奈良県天理市の地名。石上神宮がある場所。

三角縁神獣鏡
『魏志倭人伝』には魏の皇帝が卑弥呼に大量の鏡を送ったことが記されている。
これと同種のものではないかと言われている。

銅鐸も不思議が多い。
鐘として使われていたものがどんどん大きくなり、祭祀具となった。
3世紀(卑弥呼の時代)に入って突然造られなくなった理由も解明されていない。

この二人、野球拳をしているわけではないと思う。

ウルトラ怪獣ドドンゴのモデル?



メキシコの巨大顔面像
どうやってここまで運んだのやら???
この日は頭も体もさすがに疲れて、奈良市に向かう帰りのバスではコクリコクリしてしまった。
周囲も同様に。
思いは熱くとも持久力がないのが中高年集団(笑)

今回の宿泊は猿沢池そばのホテル。
静かな立地で落ち着けた。
朝食もおいしかった。

猿沢池
毎朝この池を見ながら通学するのは気分がいい

興福寺南円堂の裏を通って近鉄奈良駅へ

近鉄奈良駅
空海でも空也でもなく、行基である。
東大寺の大仏は、全国を巡り歩いて勧進につとめた行基がいなければ完成しなかった。

学食の日替わり定食(450円)
チキンソテーと野菜
授業以外の今回のスクーリングの大きな収穫は、最終日、奈良学友会(通信教育同窓会)が主宰する学習相談会に参加し、相談に乗ってもらったことである。
昼休みに相談室に飛び込んで、疑問に思っていることを卒業した先輩に聞き、今後の学習のための指針を得ることができた。
レポートや学科試験に合格するコツ、卒論までの計画の立て方、参考文献や資料の集め方など、経験に裏打ちされた話を聴くことができた。
立て板に水の関西弁も楽しく、話をしていたらなんだか気持ちが軽くなった。
一方、生半可な姿勢では、卒業論文に合格するのは難しいと分かった。
ソルティの40年前の卒論は、ゼミの先生がとても寛大で、何か書いて提出さえすれば素通り合格させてくれる、まったくゆるゆるの通過儀礼であった。
今回はかなりしっかり準備して取り組まないといけないようだ。
また、相談会を利用しよう。
持つべきは学友だ。