ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

老い・介護

● 映画:『月』(石井裕也監督)

2023年日本
144分

 とにかく暗い、とにかく重い、とにかく気が滅入る。
 スペインのホラー映画のようなこの暗さはただごとではない。
 実際、藪の中をうごめく蛇がでてきたり、雷鳴とどしゃぶりが不穏な空気をあおったり、暗闇を懐中電灯の光が跳ねたりと、ホラー映画の常套手段がそこかしこに使われている。
 いったい知的障害者施設の虐待の実態を描くのになぜホラー仕立てにするのか・・・という疑問と不快がつきまとう。
 愛児を失った夫婦(宮沢りえとオダギリジョー)、障害者施設で働く職員(磯村勇斗、二階堂ふみ、モロ師岡ほか)、職員の家族(鶴見辰吾、原日出子)、マンションの管理人など、登場する人間がみな病んでいる者ばかりで、交わされる会話も異様に毒々しく、施設に収容されている障害者のほうがまともに見える。
 出だしからずっと陰々滅々で、「これが現実です。現実から目を背けるな。」という正論を盾に、知的障害者施設とそこで働く職員のイメージを悪化させようと過剰な演出であおっているとしか思えない。 
 高齢者の介護施設で働いていたソルティ、不快感から途中退席しようかと思ったが、主演の宮沢りえとオダギリジョーの演技の深みに惹かれて、そのまま見続けた。

 磯村勇人演じる職員のサト君が、思いつめた表情で、「生産性のない人間は生きている資格がない」と呟いた瞬間、「ああ、これはそういう話だったのか!」と遅まきながら気がついた。
 ソルティは、宮沢りえ主演の障害者ストーリーで制作が困難を極めた、という事前知識だけをもって、スクリーンの前に座ったのである。
 むろん、辺見庸が2017年に発表した同名の原作も知らなかった。
 なるほど、この暗さも、重さも、陰々滅々も、あの事件の衝撃と悲惨を思えばわからなくもない。
 本作は、2016年7月26日に相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた入所者大量殺傷事件に取材したもので、サト君のモデルこそは植松聖だったのである。

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Oscar Chavez MendozaによるPixabayからの画像

 生産性のない人間、人と会話することのできない(心を持たない)人間、社会のお荷物になるだけの人間に生きる意味はあるのか?
 生かしておくだけ可哀想ではないか?

 その問いにはっきりと、「いや、違う。生きていること自体に意味がある。生産性で人の価値は測れない。」と、この社会が断言できないのは、出生前診断で胎児になんらかの障害が見つかったとき、90%近いカップルが中絶を選択しているという現実があるからだ。
 宮沢りえとオダギリジョー演じる夫婦が、第2子の妊娠を知った時に出産するかどうか思い悩むのも、欠陥を持って生まれ、3年間でこの世を去った第1子のことを思うからである。
 高齢出産の妻は思う。「生まれてくる子供が障害を持っていたら、当人も自分もあまりに辛いから、中絶しよう。」
 90%の人間がやっていること。その選択を責めることは誰にもできない。
 しかし、妻は知的障害者施設でサト君と一緒に働いている。
 「生産性のない人間に生きる資格はない」というサト君の言葉を、妻は必死に否定するが、自らの中のダブルスタンダード(矛盾)と向き合わざるを得なくなる。

 宮沢りえ、オダギリジョー、磯村勇斗が素晴らしい。
 この三人で主演、助演賞総なめしてもおかしくはないほどの渾身の演技。
 宮沢りえの内面を深く掘り下げて表出する芝居は、若い頃の十朱幸代を彷彿とさせる。
 今や、この人を美人女優というのはかえって失礼だろう。
 芸はルックスを超越している。(ああ、吉永小百合!)

 オダギリジョーは表情が素晴らしい。
 生活力のない芸術家肌のやさしい夫という役を、絶妙な表情によって肉体化している。
 妻の妊娠および中絶の意向を思いがけず他人から知らされる場面(家飲みシーン)の表情には、どきっとした。

 磯村勇斗という役者のことは知らなかった。
 仮面ライダーシリーズの出身らしく、なかなかのイケメンである。
 神木隆之介にちょっと似ているなあと思いながら観ていたが、ひょっとして演技力は神木以上かもしれない。
 タイトルの『月』とはルナティックすなわち「狂気」のことであろうが、磯村はサト君がだんだんと狂気にはまっていく過程をリアリティもって演じている。
 一見、人あたりのいい真面目で優しい青年が内に抱える強い自己否定――それが次第に膨れ上がり、周囲が気づくほど外に姿を現し、反転して社会否定となり、一線を超えて暴発する。
 実在の人物をモデルとした難役にこれだけの説得力を与え得る力量は、磯村が今後相当な役者になり得る可能性を示唆してあまりない。

 チョイ役だが、入所している障害者の母親役で出ている高畑淳子はさすがに上手い。

 平成史に残る凶悪事件を描いているので後味が良くないのはある面仕方ないと思うのだが、そればかりでなく、本作がどうも釈然としないのは、テーマが分散しているからと思う。
 前半の知的障害者施設の虐待実態と、後半の狂気の大量虐殺事件と、どっちが書きたいのか、どっちを訴えたいのか?
 この接続の仕方だと、サト君は、「障害者の命を奪って、酷い境遇から解放してあげました」というある種のヒーローのような持ち上げ方を許してしまう。
 一部の知的障害者施設で実際に起こっている(かもしれない)虐待の実態および職員の精神的危機と、サト君=植松聖の異常なパーソナリティは分けて考えるべきこと、少なくとも一つの作品の中で両者を同時に語るのは無謀と、ソルティは思う。(現実とフィクションの区別のつかない幼稚な鑑賞者が、「やまゆり園は入所者に虐待を行っていた」と勘違いしてしまうリスクは抜きにしても)
 
 施設の中では、職員と入所者の間の心安らぐ交流や楽しい時間はあるはずだし、本人がどんな状態であろうと、たまに見舞いに来る家族(高泉淳子演じる母親のような)にとって「子供は宝」であることは、日頃近くで見聞きしている職員なら知りえたはずである。
 そのような光景に意味を見出せないサト君(植松聖)の心の荒廃あるいは空虚、そして生産性のない人間は自分が始末してもいいとする誤った全能感、それこそが問題にされるべきであろう。
 つまり、遠藤周作の『海と毒薬』のように、最初から加害者のパーソナリティや半生に焦点を当てた作品にすべきではなかったか。
 
 本年一番の問題作であり、病者や障害者のケアに関わる者なら観ておきたい作品であることは間違いない。

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池袋シネマ・ロサで鑑賞
上映期間は短そう


  
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 杉村春子に「ババア!」と言った男 映画:『午後の遺言状』(新藤兼人監督)

1995年日本
112分
脚本 新藤兼人

 杉村春子(撮影時88歳)、乙羽信子(70歳)の最後の映画出演作であり、老いをテーマにした代表的な邦画の一つである。
 作中で3人の老人が自死(うち2人は心中)するわりには、重くも暗くもなく、鑑賞後はどこかほのぼのした味わいが残るところが不思議。

 理由を考えるに、一つには物語の主たる舞台が信州の山間の別荘なので、夏の森の美しさや渓流の輝きがさわやかで明るい印象をもたらすところにある。

 また、新藤監督ならではのコミカルな演出も効いている。
 留置場からの脱走犯(木場勝己)が別荘に押し入るシーンなどは、リアリティを崩さないぎりぎりの線で、とぼけた風味の滑稽さを生み出すのに成功している。役柄の上とは言え、大先輩である杉村春子に向かって、「ババア」を連呼した木場。勇気が要ったことだろう。

 フラワー・メグの“オールシーン”・ヌードが衝撃的な『鉄輪』で極められた、新藤にとっての主要テーマである「生=性」。
 本作でも、若いカップル(瀬尾智美と松重豊!)をめぐる性愛や中高年カップル(乙羽信子と津川雅彦)のやむにやまれぬ不倫を描き、エロの生命力を老いや死と対置させている。

 この「老いと死」v.s.「性と生」の綱引きにおいて、最終的に後者の勝利で物語をしめくくらせる立役者は、杉村春子である。
 独居老人の首つり自殺も、認知症の妻(朝霧鏡子)とそれを介護する夫(観世栄夫)の入水心中も、杉村春子および彼女が演じる新劇大女優・森本蓉子(杉村の分身と言っていい)の圧倒的存在感の前では、「わたし、ほんとにがっくりしちゃったのよ」の一言と涙の数滴で片付けられる、芝居の傍筋の一つに過ぎないように思えてくる。それこそまさに、小津安二郎監督『晩春』、『東京物語』、『麦秋』で強く刻印された杉村春子という役者のイメージにして本質。すなわち寸分の懐疑も揺らぎもない「生きること(演じること)への飽くなき意欲と全面肯定」である。
 このしっかりした核があればこそ、本作は悲観的にも虚無的にも刹那的にもなることなく、多くの観客、とくに老いの最中にある者たちを力づけるのだろう。
 本作のテーマは「杉村春子」で、杉村春子は「杉村春子」を演じているのだ。

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杉村春子、70年に及ぶ女優人生のラストショット

 認知症の妻を演じる朝霧鏡子は、テレビのない時代の銀幕スターで、本作が45年ぶりの出演となった。
 介護施設で8年間働いたソルティの目からして、彼女の認知症の演技は実に見事である。顔つきからして、レビー小体型認知症でも脳血管性認知症でもなく、アルツハイマー型認知症と分かるのが凄い。
 共演の杉村や乙羽が本作でいろんな女優賞をもらっているのにひきくらべ、朝霧があまり評価されなかったようなのは、当時の映画関係者が認知症をよく知らなかったからとしか思えない。
 



おすすめ度 :★★★★

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● セルフ・ネグレクトと愚行権 本:『ルポ ゴミ屋敷に棲む人々』(岸恵美子著)

2012年幻冬舎新書

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 家から7~8分歩いたところにゴミ屋敷がある。
 建物の周囲はもちろん、2階のベランダや1階の屋根の上までさまざまな物で埋まっている。
 家の中を覗いたことはないが、推して知るべし。
 高齢男性が一人住まいしているようだ。
 隣り近所に住んでいる人の不安や苦労が思いやられる。
 なんと言っても悪臭。
 ゴミなだれの危険。
 火事の延焼リスク。
 ねずみや蠅やゴキブリなど害虫の被害。
 当人が誰とも、どこともつながっていない場合、孤立死からの死体放置もあるやもしれない。

 ゴミ屋敷が珍しいものでなくなってから久しい。
 外からは分からなくても、家の中がゴミだらけという例も多い。
 厄介なのは、周りにとってはゴミでも、本人にとっては宝だったりするので、誰かが勇を鼓して本人に注意したところで、容易には解決できない点である。
 そのあたりを描いたのが橋本治の『巡礼』(新潮社)であった。

 本作はゴミ屋敷をメインにしたルポではない。
 主要テーマは、副題の『孤立死を呼ぶ「セルフ・ネグレクト」の実態』にある。
 ゴミ屋敷問題とは、セルフ・ネグレクトの一つなのである。
 著者は、1960年生まれの看護師、保健師、地域看護や公衆衛生を専門とする研究者。
 現場をよく知る人と言える。

 セルフ・ネグレクトとは何か。
 甲南女子大学の津村智恵子氏によると、

 高齢者が通常一人の人として、生活において当然行うべき行為を行わない、あるいは行う能力がないことから、自己の心身の安全や健康が脅かされる状態に陥ること。

 セルフ・ネグレクトの特徴として、次の8つが挙げられている。
  1.  身体が極端に不衛生(何日も入浴しない、同じ服を着続けるなど)
  2.  失禁や排泄物の放置
  3.  住環境が極端に不衛生(ゴミ屋敷、猫屋敷など)
  4.  通常と異なって見える生活状況(たとえば、夏なのに厚着、冬なのに下着一枚など)
  5.  生命を脅かす治療やケアの放置(服薬しない、食事制限を守らないなど)
  6.  必要な医療・サービスの拒否(福祉制度や介護保険を利用したがらないなど)
  7.  不適当な金銭・財産管理
  8.  地域の中での孤立
 セルフ・ネグレクトの研究が始まったのは1950年代のアメリカだという。
 イギリスでは、1975年に「ディオゲネス・シンドローム」という名で、論文が発表されたそうな。
 ディオゲネスと言えば、古代ギリシアの哲学者。世俗を疎んじ、何も持たず樽の中で生活したことで知られる。
 噂を耳にしたアレキサンダー大王が大勢の供を連れて本人に会いに来た。
 大王が問う。「なにか欲しいものはないか?」
 ディオゲネスは答えた。「そこに立たれると日陰になるからどいてください」

 もちろん、ディオゲネスのような自己哲学と信念をもつ人間をセルフ・ネグレクトというのは間違っている。
 彼はまた市民に愛されたらしく、住み家にしている樽(甕とも)が何者かによって破壊された時、市民が代わりの樽を与えたという。

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ディオゲネスとアレキサンダー大王
Clker-Free-Vector-ImagesによるPixabayからの画像

 本書では、人がセルフ・ネグレクトに陥る要因をいくつかリストアップしている。
 認知症や精神疾患など病気によるものをのぞけば、「社会的孤立」と「生きがいの喪失」が二大要因と言っていいのではないかと思う。
 分かりやすい例が仕事一筋に生きてきたサラリーマンの場合。
 定年を迎え、やっとゆっくり老後を楽しめると思ったら、妻が病死する、あるいは妻から離婚を言いわたされる。
 娘や息子は遠い地でそれぞれの仕事や家族のことで手一杯。
 会社関係以外に親しい人もおらず、地域のつき合いもなく、趣味らしい趣味もなく、家事もできない。
 この年齢では新しいことを一から始めるのも億劫。
 すると、社会的孤立と生きがいの喪失が一挙に襲いかかる。
 「生きている意味なんかない」
 そう思ったら、すでにセルフ・ネグレクトの入口にいる。

 セルフ・ネグレクトは、当事者を支援する側にとっても、壁が立ちはだかっている。
 一つは、プライバシーの問題。個人情報保護の制約が、本人を支援するために欠かせない情報を、関連機関で交換したり共有したりするのを難しくしている。
 しかし、これは例外規定による緩和もある。
 今一つがより厄介である。
 セルフ・ネグレクトしている本人が外からの支援を望まない場合、他者に害を与えたり、法律に反していない限り、本人の行動に干渉できないという点である。
 これを愚行権という。

 人は「健康に悪い」とわかっていても、それをあえて行う「自由」が認められています。それは「愚行権」という権利です。愚行権とは、たとえ他人から愚かな行為だと評価・判断されても、個人の領域に関する限り、邪魔されない自由のことです。
 生命や身体など、自己の所有に帰するものは、他者への危害を引き起こさない限り、たとえその決定の内容が理性的に見て愚行と見なされようとも、対応能力を持つ成人の自己決定に委ねられるべきである、とするものです。

 そこで、多くの専門家は「本人に拒否があるとき、どこまで介入するか」迷い、手を差し伸べるか否かジレンマに陥るわけである。
 個人主義の強いアメリカの場合、本人が意図して“セルフ・ネグレクト状態”になっているのであれば、支援の対象から外すという。

 その理由は、そういう人に対して、保護したり介入するのは、「個人の自由」や「自己決定の尊重」の侵害になるという考え方からです。命に関わる問題だとしても、あくまで当事者が自分の生き方を決めることを尊重しているのです。ただし、意図的と判断するためには、専門医が診察するというプロセスが必要です。

 つまり、生きるも死ぬも本人が好きで選んでいることだから介入するな、ということだ。
 この考え方の延長上に、安楽死肯定の思想が出てくるのは言うまでもない。
 上記の津村氏や著者の岸は、しかし、日本の高齢者の場合、セルフ・ネグレクトを権利として認め、そのまま見過ごすのは問題ありと言う。

 日本において、セルフ・ネグレクトを「本人の意思」で行っていると決定づけるのは、とても難しいことです
 それは津村氏らが述べているように、日本人は「自己主張をせず、人に合わせること」を美徳とする国民であり、まして現在の高齢者は、多くは戦争体験によりきびしい時代を生き抜いてきた人たちです。少しでも贅沢をしたり、物を要求したり、人の世話になったり、人の迷惑になることを避けようとする世代なのです。

 その通りだろう。
 ただ、それが単に世代的な問題なのか、それとも国民性の問題なのか、定かではない。
 本書の発行からすでに10年以上経ち、介護を必要とする高齢者の中に戦後生まれの団塊の世代が入ってきている。
 世代的な要因が大きいのなら、安楽死の可否含め、日本社会の自己決定に関するパラダイムも変わってくるかもしれない。

 と、ここまで他人事のように書いてきたが、肝心の自分もまたセルフ・ネグレクト予備軍と自覚している。
 いまは同居の親がいて、仕事があるから、社会生活を無難に営めている。
 けれど、この先何年かして、両親が亡くなり、仕事も失うことになったら、友人が少なく、パートナーも子供もいないソルティは、社会的孤立と生きがいの喪失に直面するかもしれない。
 そのうえ、健康を害したら、生きているのはつらいであろう。

 そのときに最後の支えになるのは・・・・やはり仏教か。
 ディオゲネス的出家を目指すか・・・。

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おすすめ度 :★★★

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● 無 映画:『生きてはみたけれど』(井上和男監督)

1983年松竹
123分

 小津安二郎監督没後20年に公開された伝記ドキュメンタリー。
 『大学は出たけれど』『一人息子』『父ありき』『戸田家の兄妹』『風の中のめんどり』『晩春』『麦秋』『東京物語』『早春』『秋刀魚の味』等々、無声映画からトーキーを経てカラー作品に至る小津作品の名場面の数々や、小津とゆかりのあった役者、映画監督、スタッフ、文化人らへのインタビューをつなぎながら、60年の生涯を城達也のナレーションでたどる。
 没後60年にあたる今年は回顧展が催された。
 
 小津とのエピソードを語る出演者の顔触れがとにかく豪華。
 笠智衆、岸恵子、司葉子、有馬稲子、淡島千景、岡田茉莉子、杉村春子、岸田今日子、岩下志麻、東野英治郎、中村伸郎、木下恵介、今村昌平、新藤兼人、山田洋次、厚田雄春、川喜多かしこ、ドナルド・リチー、佐藤忠男、中井貴恵、山内静男(里見弴の四男)、小津新一(実兄)、小津信三(実弟)、山下とく(実妹)等々。
 戦後の銀幕を彩った大女優たちの中年期の美貌と風格が圧巻である。(杉村春子はちょっと別枠だが・・・)
 小津安二郎の実兄と笠智衆の風貌や雰囲気がなんとなく似ており、もしかしたら小津監督は笠智衆に自らの父親を見ていたのかもしれないと思った。
 笠さんはほんと、老いていい顔している。

 役者たちは一様に、撮影現場で何十回と繰り返されたテストの話をする。
 セリフから、動きから、表情から、視線から、タイミングから、小津監督が前もって決めた通りに演じなければOKが出なかった。
 役者を一つの型にはめる演出は、家族ドラマという古くてマンネリなテーマと共に、評価が分かれるところであるが、今観ると、それぞれの役者の個性や良さはちゃんと引き出されている。
 笠智衆と原節子がその典型だろう。
 つまり、小津監督がそれぞれの役者の本質を見抜き、キャスティングしていたことを示している。
 現場ではもはや余計な演技をする必要がなかったのだ。

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 鎌倉円覚寺にある小津安二郎の墓には「無」の一字が刻まれている。
 そこに托した思いを本作では「無常観」と解していたが、そもそもなぜ小津が無常観を抱くようになったかについては深掘りされていなかった。
 ソルティはやはり、従軍体験が大きかったのではないかと思う。

 京橋の国立映画アーカイブにて鑑賞。
 客席は高齢男性“おひとりさま”が圧倒的に多かった。
 年を取れば取るほど、小津の描いた世界が切に感じられてくるのだろう。
 超高齢化時代、小津人気は今後も高止まりを続けるのは間違いない。
 隣席の男が上映中しきりに鼻を啜っていた。
 
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国立映画アーカイブ



おすすめ度 :★★★

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● 本:『毒の恋 7500万円を奪われた「実録・国際ロマンス詐欺」』(井出智香恵著)

2022年双葉社

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 んまあ面白い!!
 詐欺の被害者の手記を「面白い!」と言ったら語弊があるかもしれないが、著者は有名な漫画家すなわちプロのクリエイターなので、この場合の「面白い!」は最大の誉め言葉となろう。

 井出智香恵と言っても、男性諸氏は知らない人が多いと思う。
 1948年生まれ。もとは『りぼん』などの少女マンガ誌でお目々キラキラの少女マンガを描いていた。(代表作『ビバ! バレーボール』)
 80年代にバブルと共に巻き起こったレディスコミックブームで大ブレイク。「レディコミの女王」と呼ばれ、最盛期は年収1億を超える超売れっ子となった。
 彼女の描いたレディコミ作品でもっとも有名なのは、大映制作でTVドラマ化された『羅刹の家』(1998年テレビ朝日系列)である。
 きつい姑を演じた山本陽子の鬼気迫る演技、意地悪な義理の姉を演じた伊藤かずえのはまりぶり、ワラ人形を手に牛の刻参りにひた走る加藤紀子の勘違いな熱演、そして、忘れちゃいけない来宮良子のおどろおどろしいナレーション。
 大映ドラマ屈指の怪作と思う。
 
 人の心の表も裏も知り尽くしたような作品を数々発表してきた井出智香恵が、70歳になった2018年、ネットを使った国際ロマンス詐欺に引っかかり、約3年5ヶ月もの間、言われるがままに相手の男にお金を送り続け、結果的に7500万円を失ったというのだから、これが面白くないわけがない。
 しかも、相手の男が世界的に有名なハリウッドスターのマーク・ラファロ(現在55歳)に成りすまし、井出はそれを本物と信じ込んでしまい、甘い言葉にだまされて結婚の約束を交わし、15歳も年下の男に貢いでしまったというのだから、これが面白くないわけがない。
 有名マンガ家、ハリウッドスター、老いらくの恋、年下の男、国際恋愛、ネット詐欺、ブラックな匂いのする黒服の男たち、スーツケースいっぱいの黒塗りの紙幣、電子送金の罠、雨後の筍のごと続々と登場するわけのわからぬ仲介者たち、雪だるま式に膨らむ借金、差し押さえ警告・・・・。
 よくもまあ、こうまで劇画的な展開が続くものよ。
 よくもまあ、こうも徹底的に騙されたものよ。

マーク・ラファロ
マーク・ラファロ
 
 7500万円という被害額の大きさに我ら庶民は驚くが、年収1億を超えたことがある井出の金銭感覚は、庶民とはちょっと違っているかもしれない。
 たださすがに、息子や娘(次女)に何百万も借金させての金策、公共料金やアシスタントの給料を未払いにしての偽マークへのたび重なる送金は、非常識というか、頭のネジが抜けていたというほかない。
 「恋は盲目」と言うけれど、家族を含め周囲の誰も暴走する本人を止められなかった、周囲の誰の言葉も本人はまともに聞こうとしなかったのは、井出自身のワンマンで頑固な性格もあったようだ。
 もちろん、40歳でDV夫とやっと離婚したあと、ずっと子育てと仕事一筋で生きてきた井出が、70の声を聞いて、「失われた時間」を取り戻したい、最初の結婚で得られなかった「女としての幸福」を味わいたいと思ったのも無理はない。
 そこに目をつけて、井出の性格や懐具合も見抜いて、あの手この手で金の無心する輩の手口の巧みさよ。
 孤独癖あるソルティもまかり間違えば同じ目に遭うやもしれない。
 (まあ、金のない相手に目をつける愚かな詐欺師もおるまいが)

 最終的に井出は、容赦なく物を言うのでそれまで借金するのを遠慮していた長女にも借金を願い出る羽目になる。
 そこから長女の詮索と追及が始まって、ようやっと自らが騙されていたことに気づく。
 目が覚める。
 失恋と詐欺被害の二重ショック。
 ズタズタになったプライド。
 失われた信頼。
 70歳にしてこの痛みは耐え難かっただろう。

 しかし、そこからがプロ表現者の本領である。
 自らの痛い経験が世のため人のためになる、かつ面白い作品となることに気づき、この手記を発表し、NHKのドキュメンタリーに出演し、マンガ化をはかる。
 すべての体験がマンガに活かされ、作品として昇華できる幸せ。
 それを可能ならしめる技術と才能と経験値。
 雷は落ちるべきところに落ちる。

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マンガ版『毒の恋』

 別記事で、役者としての吉永小百合の残念さについて書いたが、本作を映画化するなら、ぜひ吉永小百合に井出役をやってもらいたい。
 年齢的にもぴったりだ。(吉永は井出より3つ年上)
 自ら(と周囲)が作り上げた美しい幻想に破れ、過酷な老いの現実に向き合うプロットこそ、サユリストという牢番を蹴散らし、吉永小百合をメルヘンという檻から救い出す最後のチャンスになるんじゃないか。
 偽マーク役は、本物のマーク・ラファロに頼んだら最高の話題作りになる。
 監督は、小百合の魔力が通じない女性監督かゲイの監督がよい。
 伊藤かずえを長女役で。




おすすめ度 :★★★★

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● 年金ホームレスという生き方 本:『ルポ 路上生活』(國友光司著)

2021年KADOKAWA

 令和現在のホームレスの現状(主に東京の)はどんなもんだろう?
 ――と思って読んでみた。
 著者の國友は1992年栃木県生まれのフリーライター。『ルポ西成 75日間ドヤ街生活』という既刊本がある。

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 國友が約2ヶ月間ホームレスとして過ごしたのは、東京都庁下、新宿駅西口地下、上野駅前、上野公園、隅田川高架下、荒川河川敷の6箇所。
 いずれもホームレスのメッカである。
 欲を言えばネットカフェも入れてほしかった。
 
 「ホームレス=悲惨、飢餓、凍死、貧困、無職、失業者、転落者、福祉の欠如・・・」といった前世紀からの紋切り型イメージがソルティの中にもあるわけだが、本書を読む限りでは、ずいぶんと状況は変わったようだ。
 
 まず、東京のホームレスは食い物には困らない。
 飲食店やコンビニから出る大量のゴミがあるから、ではない。
 毎日のように都心のどこかで、NPOや宗教関係者による炊き出しが行われているからである。
 國友も先輩ホームレスに連れられて一日七食の炊き出し巡りをし、さすがに腹が苦しくなったと書いている。
 肥満や糖尿病のホームレスも少なくないようだ。
 
 次に、東京のホームレスにとって凍死の心配はない。
 つらいのは冬より夏だという。
 毎年寒くなると、やはりボランティアたちが毛布や寝袋を配ってくれるからだ。
 それと段ボールを組み合わせることで、寒さはしのげる。
 92年生まれの著者は実感ないだろうが、そもそも温暖化の影響で日本の冬は暖かくなった。
 昔は関東圏でも10月にはコタツを出したものである。
 
 また、ひと昔前に比べると、生活保護がもらいやすくなった。
 かつては、行政窓口でのシャットアウト攻勢が、越え難き関所のように語られていた。
 が、2008年のリーマンショック後は対応が変わってきたとのこと。
 著者が書いているように、行政書士や弁護士が申請者本人に同行することが増えたということもあろう。
 が、ソルティ思うに、2009年8月に民主党政権に切り替わり、ホームレスや低所得者への対策が一気に進んだことが大きかったのではないか。
 むろん、2011年3月には東日本大震災があり、被災者対策は急務であった。
 2015年施行の生活困窮者自立支援法は、民主党政権下に提出されたものだ。
 自己責任を唱える自民党や石原慎太郎都知事の下では、まったく進む気配がなかった。
 公共スペースにおける悪名高きホームレス“排除アート”も、石原都知事時代に登場した覚えがある。
 本書にはそうした政治的背景への言及が欠けているのがいささか残念ではあるが、好奇心と諧謔精神に満ち、偏見から自由な著者の筆致は、冒険小説でも読んでいるようで楽しい。
 
新宿排除アート (2)
排除アート
 
 令和現在、ホームレスの人がNPOの力を借りて生活保護を受け、無料低額宿泊所に入所し、就労やアパート暮らしを目指すことは不可能ではない。
 その意味では、いま残っているホームレスの多くは、本書で著者が交流をもったような「自発的ホームレス」なのかもしれない。
 そこには、「行政のお世話になりたくない」、「生活保護なんてプライドが許さない」、「家賃を払う金があったら酒や賭け事に使いたい」、「更生施設での集団生活や管理される生活が苦手」、「貧困ビジネスに引っかかってトラウマになった」、「そもそも鬱やなんらかの精神障害やなんらかの依存症があって他人とのコミュニケーションや社会生活が困難」・・・・といった様々な理由があるのだろう。
 本書で著者が親しくなってホームレス道を教わった、You Tuber志望の「黒綿棒」や児童養護施設で育った「ター坊」など、言動を見る限りでは精神障害の印象を受けた。
 また、上野公園のトイレで、仲の良い男と心中した女装姿のホームレスの話もあったが、セクシュアルマイノリティの比率も高いと思う。
 
四国遍路1 2879

 四国遍路していたときに出会った80代の男は、退職後に家を処分してホームレスとなり、それから四国を回り続けていると言っていた。
 いわゆる乞食遍路と違うのは、彼には預金口座もあれば年金もあること。
 基本は野宿して、数日に一回は宿に泊まり、体を洗い、洗濯している。
 月にいくら貰っているか聞かなかったが、年金が余るくらいで十分回れるという。
 たしかに、食べ物や宿など、土地の人にお接待されることも多い。
 住所がないと年金受けとれないんじゃないのかと尋ねたら、「年に一回、年金事務所に顔を出しておけば大丈夫」と言う。(本書に書いてある“現況届け”のことだ)
 四国の大自然と親切な土地の人々とお大師様の見守りの中、毎日何万歩も歩いているおかげで、健康この上なし。70歳くらいに見えた。
 野垂れ死ぬなら遍路の上。
 こういう老後、こういう最期も悪くないなあ~と思った。




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● ここには悪意がない 映画:『ミッドサマー』(アリ・アスター監督)

2019年141分
アメリカ、スウェーデン

 ミッドサマー(夏至)を祝うという習慣は日本では聞かれないが、キリスト教国とくに北欧では一般的らしい。
 長くひと際寒い冬のある国にとって、夏の訪れは格別なものなのだろう。
 この時期は白夜が続くので、遊ぶのにも祭りをするのにも、もってこい。
 ベルイマンの映画『夏の夜は三たび微笑む』に見るとおり。
 
 スウェーデンの秘境にある古い共同体の夏至祭に招かれたアメリカの大学生たち。
 はじめのうちは、美しくのどかな風景の中、素朴な村人との交流や珍しい風習を楽しんでいた。
 が、明るい光に満ちた神聖な祭りが始まるや、様子がおかしいことに気づく。
 一人、また一人、学生たちの姿は消えていく・・・・
 
 尋常でないグロと狂気に、ルカ・グァダニーノ監督の怪作『サスペリア』を想起した。
 が、あちらが「暗」「闇」だとすると、こちらは「明」「光」。
 白夜の明るさ、緑あふれる美しい村落、近代以前の簡素な暮らしぶり、白い衣装を身に着けた村人たちの清潔で敬虔なふるまい・・・・一見、楽園かと思えるような共同体だけに、一皮むいた真実の姿が恐ろしい。
 なにより怖いのは、ここにはまったく悪意がない。
 描かれるのはグロと狂気なのに、映像はあくまで美しい。
 犠牲者にとっての悲劇が、村人たちにとっては真面目なお祭り。
 このアンバランスがなんとも奇妙な味わいをもたらす。
 夜9時を過ぎても明るい白夜さながらに。

 ヴィスコンティ監督『ベニスに死す』で永遠の美少年タッジオに扮し、老いていく者(ダーク・ボガード)の無惨を観る者に突きつけたビョルン・アンドレセンが、半世紀を経た今、衝撃の老いの始末を見せてくれる。
 感慨深い。 

 141分が短く感じられた。
 アリ・アスターは才能ある監督には間違いない。


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スウェーデンの夏至祭風景
endlessboggieによるPixabayからの画像

 

おすすめ度 :★★★

★★★★★
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● R65-(65歳以上、鑑賞注意) 映画:『パーフェクト・ケア』(J・ブレイクソン監督)

2020年アメリカ
118分

 介護業界の闇をテーマにしたクライムサスペンス。
 原題は I Care a Lot 「ケアにかかりきり」ってところか。
 
 医師によって認知症の診断を下された独り暮らしの高齢女性ジェニファーが、高級老人ホームに無理矢理閉じ込められて、家や車や財産など一切合切を悪徳後見人マーラに巻き上げられてしまうまでが前半。
 ジェニファーの息子ローマンは実は裏社会のボスであることが判明し、母親を取り戻そうとするローマン一味とそれに抗うジェニファーとが死闘を繰り広げるのが後半。

 女だてらに(と言うと男女差別の叱りを受けそうだが)元ロシアンマフィアのボスに逆らい、瀕死の目にあわされながらも驚異的なガッツでサバイバルし、あまつさえボスに復讐を企てるマーラの闘志とパワーがとにかく凄い。
 アクション満載の後半は、最後までどう決着するか読めないスリリングな展開で、映像から目が離せない。
 マーラを演じるロザムンド・パイクは、デヴィッド・フィンチャー監督『ゴーン・ガール』でも、目的の為なら手段を選ばぬソシオパス(反社会性人格障害)の妻を好演していた。
 かつてジェーン・オースティンの名作『プライドと偏見』(ジョー・ライト監督2005年)で純粋でお人好しのお嬢様ジェーン・ベネットを演じていたのと同じ人間と思えない、女優としてのたしかな成長ぶり。
 しかも、ここでパイクが演じるマーラはレズビアンという設定で、恋人女性とのラブシーンもある。
 生きるのに男を必要としない女性2人が、男尊女卑の父権社会に敢然と立ち向かい、自力でのし上がっていくフェミニズムな物語と読むこともできる。
 その意味で、リドリー・スコット監督『テルマ&ルイーズ』(1991)を想起した。

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Victoria_WatercolorによるPixabayからの画像

 しかしながら、本作の最も独創的でゾッとするところは、淡々とした前半である。
 認知症高齢者の身上保護や財産管理を後見する人間が、もし悪徳で強欲だった場合、何が起こりうるかを描いて、この上なく恐ろしい。

 ジェニファー・ピーターソン(往年の名女優ダイアン・ウィースト演ず)は、一人暮らしなれども何不自由ない快適な老後を送っていた。
 ある日突然、後見人を名乗る女が戸口に現れて、「あなたは認知症のため、医師と裁判所の指示により医療保護のもとに置かれることになりました。私があなたの後見人です」と告げる。
 誰かに連絡とる暇も与えられず、警官付き添いで車に乗せられ老人ホームに連れていかれ、そのまま一室に閉じ込められる。
 安全とプライバシーの名のもと、外に出ることも電話をかけることも叶わない。
 その間に、財産は整理され、車と家は売却され、銀行の個人金庫は空にされる。
 以上すべてが、正式な医師の診断書と裁判所の公式な手続きのもとに遂行されていく。

 ジェニファーは実際には認知症ではなかった。
 マーラと手を組んだ悪徳医師が偽の診断書を作成し、マーラの息のかかった高級老人ホームに“合法的に”送致されたのであった。つまり、グルなのだ。
 知らないうちに認知症にさせられ、それを否認する言葉を周囲の誰も信じてくれないという恐怖。(なぜなら、「認知症患者の多くは自らが認知症だとは認めない」というのは通説になっているから)
 本人にしてみれば、カフカの小説の主人公が味わうような悪夢であろう。
 実際にありそうな話だから怖い。

 しかしながら、当人が本当に認知症であったとしても、一方的に診断を受け、無理矢理施設に入れられる理不尽と恐怖は同じようなものだろう。
 自分を認知症と思っていない本人は、全然納得していないのだから。
 ソルティが介護施設に務めていた時、ベッド脇のナースコールをマイクのように握りしめて、「もしもし、すぐに110番してください。わたしは誘拐されてここに閉じ込められています。助けに来てください」と日々繰り返していた80代の女性がいた。
 戦争も貧苦も乗り越えて80過ぎまで生きてきて、最後にこんな目に遭わされるなんて!
 彼女の目には、介護者であるソルティもまた、恐ろしく冷酷な牢番に映っていたであろう。

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Gerd AltmannによるPixabayからの画像

 日本でも認知症、知的障害、精神障害など判断能力が十分でない人の権利と財産を守るための成年後見制度というものがある。
 たいていは、妻や夫や娘息子など家族が後見人になるのだが、身寄りのない人や家族が適任でないとみなされた場合は、弁護士や行政書士などが選任される。
 後見人がこの映画のマーラーのような人物だったら、当人はそれこそ尻の毛まで抜かれてしまうだろう。
 また、後見人でなくとも、悪徳老人ホームの理事長が認知症入居者の財産を掠め取っていたという話はしばしばニュースにのぼる。
 財産ってのは、あればあるでトラブルが絶えないものだ。(負け惜しみ)

 お金持ちの65歳以上の人は余計な不安が募ると思うので、本作の鑑賞をお勧めしない。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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● ほすぴたる記その後 最終回(事故後丸3年)

 気づかないうちに、12月5日の骨折3周年記念日が終わっていた。
 日常生活でもはや左足患部を意識することがなくなったせいだ。
 歩くのも、自転車乗るのも、階段を昇り降りするのも、水泳するときも、骨折前と動きはほとんど変わらない。
 正座もできるようになった。あぐらを組んでの瞑想も1時間以上こなせる。
 左足一本でつま先立ちもできる。
 連続4時間を超えて歩くと、左足首の外側に痛みが走り、びっこを引くようになるけれど、その痛みもハイキングを重ねるうちにだんだんと薄れてきて、回復も早くなった。
 骨折直後のリハビリ目標の一つであった秩父の武甲山(1304m)に今年5月末に登頂した。
 あとは同じ秩父の両神山(1723m)であるが、これは来年の初夏に挑戦しよう。

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秩父盆地と両神山
 
 骨折した直後に踵から五寸釘のようなビスを入れる手術した時は、治療後も外から目立つような障害が残ることを覚悟した。
 自分も障害者の仲間入りだなと思った。
 これが40代くらいまでなら原状復帰も可能だろうが、アラ還では難しかろう。
 山登りも自転車旅行も四国遍路2巡目もあきらめなければなるまいと思っていた。
 それがここまで回復するとは・・・・!
 人間の回復力、肉体のもつ自然治癒力に驚くばかり。
 
 もっとも、100%完治は望めない。
 今後も長時間歩行はある程度制限されると思うし、歳をとればとるほど、筋力が落ちれば落ちるほど、関節が硬くなればなるほど、後遺症が顕在化していくと予想される。
 現状を維持するためには、持続的な運動とケアが必要だろう。
 体重増加による足への負担にも注意しなければなるまい。

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 ギプスをして松葉杖をついていた頃のことをたまに振り返る。
 二本足でスタスタ歩けるってのがどんなに有難いことか、両手が使えるってどんなに便利なことか、いつでも好きな時に好きなところに行けるのがどんなに自由で素晴らしいことか、できなくなってはじめて痛感した。
 また、ゆっくり一歩一歩注意を払いながら、時間をかけて家の周囲を歩くことで、日々どれほどの発見があったことか。
 道端の草花、よく陽のあたる公園のベンチ、店員のちょっとした親切、同居の家族がいることが、どれほどの幸福か実感した。
 普段、時間に追われて気にも留めないあたりまえのことの中に、貴重なものがあった。
 「いま、ここ」という感覚がその入口だった。

 骨折をしおに介護の現場の仕事を離れて、身体的には楽な相談や調整の仕事に移った。社会福祉士の資格を取っておいたのが効いた。
 すると、自分が「骨折して、救急搬送されて、入院して、手術して、リハビリして、在宅復帰して」という一連の流れを経験したことが、高齢者やその家族から相談を受ける際に役に立つのに気づいた。
 病院での手続きや病棟の雰囲気、医師や看護師や相談員を前にした患者の気持ち、手術前の不安と緊張、患部の痛みとの闘い、リハビリの困難、病院食への不満、費用の心配、社会復帰への不安・・・・等々。
 自分がこの身で経験したからこそ、相談者の気持ちが理解できるし、寄り添える。
 それなりのアドバイスもできる。

 なんだか今の仕事のために、あの日の転落事故はあったという気さえするほど。
 四国遍路で出会ったお坊さんが言っていた言葉、「人生で起こることに無駄なものはない」ってのは本当かもしれない。


四国遍路2 114
四国遍路別格第18番 海岸寺付近
弘法大師空海の生まれ故郷







● オフィーリア最後の願い 本:『80歳の壁』(和田秀樹著)

2022年幻冬舎新書

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 今年一番のベストセラーである。
 ソルティも夏頃買い求めて、両親に渡した。
 内容も著者のこともよく知らず・・・。
 ただ、裏表紙の内容紹介に「(80歳を過ぎたら)嫌なことを我慢せず、好きなことだけすること」とあったので、悪い本ではなかろうと思った。
 両親が順に読み終えて(感想は聞いてない)、やっと自分の番が来た。

 著者の和田秀樹は、1960年大阪生まれの精神科医。
 高齢者専門の精神科医として30年以上の経験を持ち、著書も多い。
 テレビ出演などもこなしているようだ。
 関係ない話だが、この世代の「秀樹」は1949年にノーベル賞をとった物理学者・湯川秀樹から名前をもらっているのだろうか?
 1972年デビューの西城秀樹でないことは確かだ。

 和田は、東京世田谷の高齢者医療を専門とする浴風会病院に勤めていたことがあり、本書の内容も和田クリニック院長としての豊富な臨床経験だけでなく、浴風会病院で長年蓄積されてきた高齢医学のデータがもとになっている。(病院の設立は関東大震災がきっかけとのこと)
 つまり、科学的エビデンスに則っているということだ。
 たとえば、85歳以上の患者の遺体を解剖したら、ほとんどの人に(本人が知らなかった)ガンが見つかった、ほぼ全員の脳にアルツハイマー型認知症のような病変が見つかった、血管には多かれ少なかれ動脈硬化が確認できたとか、糖尿病そのものでなく糖尿病の治療(薬やインシュリン)が認知症を促進するとか、少し太っている人のほうが長生きするとか・・・・。
 一般に目指される「手術や薬で治す、患部を取る、数値を良くする」治療方法が、高齢者(和田は「幸齢者」という語を使っている)には必ずしも適切でないことが説かれている。
 
 私が80歳を迎えるような幸齢者にお勧めしたいのは、闘病ではなく「共病」という考え方です。病気と闘うのではなく、病気を受け入れ、共に生きることです。
 ガン化した細胞を薬で攻撃したり、手術で取り除いたりするのではなく、それを「手なずけながら生きていく」という選択です。

 80歳を過ぎた幸齢者は、老化に抗うのではなく、老いを受け入れて生きるほうが幸せではないか、と私は考えています。

 このようなポリシーにもとづき、本書では80歳を過ぎた人が残りの人生を自分らしく幸せに生きるためのヒントがたくさん盛り込まれている。
  • 食べたいものを食べよう
  • 我慢して薬を飲む必要はない
  • 血圧・血糖値は下げなくていい
  • 運転免許は返納しなくていい
  • 嫌な人とはつきあうな
  • 肉を食べよう
  • 眠れなかったら寝なくていい
  • 健康診断は受けなくていい
  • タバコ、お酒は止めなくていい
  • エロスを否定するな
 e.t.c.

 だいぶ前に、樹木希林がジョン・エヴァレット・ミレーの絵画『オフィーリア』に扮して川に流されながら、「最後くらい好きにさせてよ」と呟く広告があった。
 ソルティは通勤列車内でそれを見て「もっともだ」と頷く一方、医療保険および介護保険という国の制度を利用せざるをえない当事者にとって、あるいは、いろいろと複雑な思いを抱える家族をもつ当事者にとって、それ(=最後くらい好きにする)がどのくらい可能なのか、危ぶんだ。
 そして、当時高齢者介護施設で働いていた自身もまた、当事者本人の希望と、制度の縛りや家族の思いとの間で板挟み感を抱えていた。
 本書で書かれているようなことが、社会的・世間的に「あたりまえ」になれば、もっと医療・介護現場からギスギス感がなくなると思うし、当事者も大らかに残りの人生を楽しめると思う。

オフィーリア
J.E.ミレー作『オフィーリア』

 和田秀樹がどんな人か知らずに本書を購入したと書いた。
 最後に、人となりを示す一節を引用する。

 でも、過去のことを忘れて総合的な判断ができないのは、認知症の人だけではないでしょう。日本人はほぼ全員ができていない。なぜなら、政治家や役人が数々の悪事を働いても、簡単に忘れてしまうわけですから。
 コロナに関しても、自粛することのメリットとデメリットを考えずに素直に自粛要請に従ってしまう。さらには、30年景気が悪くて実質賃金も減っているのに、それでも自民党に票を入れ続ける。総合的な判断ができていないわけです。

 日本にはいま1000兆円の借金があり、福祉のせいで財政が厳しくなったなんて言われ方をしていることにも怒っていい。借金は高齢者が使ったからではありません。政治家が必要以上に地方の公共事業にばらまくからです。それをなんとなく、福祉という聞こえのいい言葉で高齢者の責任にすり替えている。
 介護保険もそうです。この制度ができて、毎月年金から介護保険料を引かれる代わりに、要介護状態になったら介護を受ける権利が与えられた。それなのに特別養護老人ホームの入所待ちが40万人もいるわけです。・・・・・・高齢者も本当は、「特養落ちた日本死ね」と大声を上げていいのだと思います。

 ソルティ、「推しの人」である。






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