ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

老い・介護

● 本:『毒の恋 7500万円を奪われた「実録・国際ロマンス詐欺」』(井出智香恵著)

2022年双葉社

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 んまあ面白い!!
 詐欺の被害者の手記を「面白い!」と言ったら語弊があるかもしれないが、著者は有名な漫画家すなわちプロのクリエイターなので、この場合の「面白い!」は最大の誉め言葉となろう。

 井出智香恵と言っても、男性諸氏は知らない人が多いと思う。
 1948年生まれ。もとは『りぼん』などの少女マンガ誌でお目々キラキラの少女マンガを描いていた。(代表作『ビバ! バレーボール』)
 80年代にバブルと共に巻き起こったレディスコミックブームで大ブレイク。「レディコミの女王」と呼ばれ、最盛期は年収1億を超える超売れっ子となった。
 彼女の描いたレディコミ作品でもっとも有名なのは、大映制作でTVドラマ化された『羅刹の家』(1998年テレビ朝日系列)である。
 きつい姑を演じた山本陽子の鬼気迫る演技、意地悪な義理の姉を演じた伊藤かずえのはまりぶり、ワラ人形を手に牛の刻参りにひた走る加藤紀子の勘違いな熱演、そして、忘れちゃいけない来宮良子のおどろおどろしいナレーション。
 大映ドラマ屈指の怪作と思う。
 
 人の心の表も裏も知り尽くしたような作品を数々発表してきた井出智香恵が、70歳になった2018年、ネットを使った国際ロマンス詐欺に引っかかり、約3年5ヶ月もの間、言われるがままに相手の男にお金を送り続け、結果的に7500万円を失ったというのだから、これが面白くないわけがない。
 しかも、相手の男が世界的に有名なハリウッドスターのマーク・ラファロ(現在55歳)に成りすまし、井出はそれを本物と信じ込んでしまい、甘い言葉にだまされて結婚の約束を交わし、15歳も年下の男に貢いでしまったというのだから、これが面白くないわけがない。
 有名マンガ家、ハリウッドスター、老いらくの恋、年下の男、国際恋愛、ネット詐欺、ブラックな匂いのする黒服の男たち、スーツケースいっぱいの黒塗りの紙幣、電子送金の罠、雨後の筍のごと続々と登場するわけのわからぬ仲介者たち、雪だるま式に膨らむ借金、差し押さえ警告・・・・。
 よくもまあ、こうまで劇画的な展開が続くものよ。
 よくもまあ、こうも徹底的に騙されたものよ。

マーク・ラファロ
マーク・ラファロ
 
 7500万円という被害額の大きさに我ら庶民は驚くが、年収1億を超えたことがある井出の金銭感覚は、庶民とはちょっと違っているかもしれない。
 たださすがに、息子や娘(次女)に何百万も借金させての金策、公共料金やアシスタントの給料を未払いにしての偽マークへのたび重なる送金は、非常識というか、頭のネジが抜けていたというほかない。
 「恋は盲目」と言うけれど、家族を含め周囲の誰も暴走する本人を止められなかった、周囲の誰の言葉も本人はまともに聞こうとしなかったのは、井出自身のワンマンで頑固な性格もあったようだ。
 もちろん、40歳でDV夫とやっと離婚したあと、ずっと子育てと仕事一筋で生きてきた井出が、70の声を聞いて、「失われた時間」を取り戻したい、最初の結婚で得られなかった「女としての幸福」を味わいたいと思ったのも無理はない。
 そこに目をつけて、井出の性格や懐具合も見抜いて、あの手この手で金の無心する輩の手口の巧みさよ。
 孤独癖あるソルティもまかり間違えば同じ目に遭うやもしれない。
 (まあ、金のない相手に目をつける愚かな詐欺師もおるまいが)

 最終的に井出は、容赦なく物を言うのでそれまで借金するのを遠慮していた長女にも借金を願い出る羽目になる。
 そこから長女の詮索と追及が始まって、ようやっと自らが騙されていたことに気づく。
 目が覚める。
 失恋と詐欺被害の二重ショック。
 ズタズタになったプライド。
 失われた信頼。
 70歳にしてこの痛みは耐え難かっただろう。

 しかし、そこからがプロ表現者の本領である。
 自らの痛い経験が世のため人のためになる、かつ面白い作品となることに気づき、この手記を発表し、NHKのドキュメンタリーに出演し、マンガ化をはかる。
 すべての体験がマンガに活かされ、作品として昇華できる幸せ。
 それを可能ならしめる技術と才能と経験値。
 雷は落ちるべきところに落ちる。

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マンガ版『毒の恋』

 別記事で、役者としての吉永小百合の残念さについて書いたが、本作を映画化するなら、ぜひ吉永小百合に井出役をやってもらいたい。
 年齢的にもぴったりだ。(吉永は井出より3つ年上)
 自ら(と周囲)が作り上げた美しい幻想に破れ、過酷な老いの現実に向き合うプロットこそ、サユリストという牢番を蹴散らし、吉永小百合をメルヘンという檻から救い出す最後のチャンスになるんじゃないか。
 偽マーク役は、本物のマーク・ラファロに頼んだら最高の話題作りになる。
 監督は、小百合の魔力が通じない女性監督かゲイの監督がよい。
 伊藤かずえを長女役で。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損












● 年金ホームレスという生き方 本:『ルポ 路上生活』(國友光司著)

2021年KADOKAWA

 令和現在のホームレスの現状(主に東京の)はどんなもんだろう?
 ――と思って読んでみた。
 著者の國友は1992年栃木県生まれのフリーライター。『ルポ西成 75日間ドヤ街生活』という既刊本がある。

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 國友が約2ヶ月間ホームレスとして過ごしたのは、東京都庁下、新宿駅西口地下、上野駅前、上野公園、隅田川高架下、荒川河川敷の6箇所。
 いずれもホームレスのメッカである。
 欲を言えばネットカフェも入れてほしかった。
 
 「ホームレス=悲惨、飢餓、凍死、貧困、無職、失業者、転落者、福祉の欠如・・・」といった前世紀からの紋切り型イメージがソルティの中にもあるわけだが、本書を読む限りでは、ずいぶんと状況は変わったようだ。
 
 まず、東京のホームレスは食い物には困らない。
 飲食店やコンビニから出る大量のゴミがあるから、ではない。
 毎日のように都心のどこかで、NPOや宗教関係者による炊き出しが行われているからである。
 國友も先輩ホームレスに連れられて一日七食の炊き出し巡りをし、さすがに腹が苦しくなったと書いている。
 肥満や糖尿病のホームレスも少なくないようだ。
 
 次に、東京のホームレスにとって凍死の心配はない。
 つらいのは冬より夏だという。
 毎年寒くなると、やはりボランティアたちが毛布や寝袋を配ってくれるからだ。
 それと段ボールを組み合わせることで、寒さはしのげる。
 92年生まれの著者は実感ないだろうが、そもそも温暖化の影響で日本の冬は暖かくなった。
 昔は関東圏でも10月にはコタツを出したものである。
 
 また、ひと昔前に比べると、生活保護がもらいやすくなった。
 かつては、行政窓口でのシャットアウト攻勢が、越え難き関所のように語られていた。
 が、2008年のリーマンショック後は対応が変わってきたとのこと。
 著者が書いているように、行政書士や弁護士が申請者本人に同行することが増えたということもあろう。
 が、ソルティ思うに、2009年8月に民主党政権に切り替わり、ホームレスや低所得者への対策が一気に進んだことが大きかったのではないか。
 むろん、2011年3月には東日本大震災があり、被災者対策は急務であった。
 2015年施行の生活困窮者自立支援法は、民主党政権下に提出されたものだ。
 自己責任を唱える自民党や石原慎太郎都知事の下では、まったく進む気配がなかった。
 公共スペースにおける悪名高きホームレス“排除アート”も、石原都知事時代に登場した覚えがある。
 本書にはそうした政治的背景への言及が欠けているのがいささか残念ではあるが、好奇心と諧謔精神に満ち、偏見から自由な著者の筆致は、冒険小説でも読んでいるようで楽しい。
 
新宿排除アート (2)
排除アート
 
 令和現在、ホームレスの人がNPOの力を借りて生活保護を受け、無料低額宿泊所に入所し、就労やアパート暮らしを目指すことは不可能ではない。
 その意味では、いま残っているホームレスの多くは、本書で著者が交流をもったような「自発的ホームレス」なのかもしれない。
 そこには、「行政のお世話になりたくない」、「生活保護なんてプライドが許さない」、「家賃を払う金があったら酒や賭け事に使いたい」、「更生施設での集団生活や管理される生活が苦手」、「貧困ビジネスに引っかかってトラウマになった」、「そもそも鬱やなんらかの精神障害やなんらかの依存症があって他人とのコミュニケーションや社会生活が困難」・・・・といった様々な理由があるのだろう。
 本書で著者が親しくなってホームレス道を教わった、You Tuber志望の「黒綿棒」や児童養護施設で育った「ター坊」など、言動を見る限りでは精神障害の印象を受けた。
 また、上野公園のトイレで、仲の良い男と心中した女装姿のホームレスの話もあったが、セクシュアルマイノリティの比率も高いと思う。
 
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 四国遍路していたときに出会った80代の男は、退職後に家を処分してホームレスとなり、それから四国を回り続けていると言っていた。
 いわゆる乞食遍路と違うのは、彼には預金口座もあれば年金もあること。
 基本は野宿して、数日に一回は宿に泊まり、体を洗い、洗濯している。
 月にいくら貰っているか聞かなかったが、年金が余るくらいで十分回れるという。
 たしかに、食べ物や宿など、土地の人にお接待されることも多い。
 住所がないと年金受けとれないんじゃないのかと尋ねたら、「年に一回、年金事務所に顔を出しておけば大丈夫」と言う。(本書に書いてある“現況届け”のことだ)
 四国の大自然と親切な土地の人々とお大師様の見守りの中、毎日何万歩も歩いているおかげで、健康この上なし。70歳くらいに見えた。
 野垂れ死ぬなら遍路の上。
 こういう老後、こういう最期も悪くないなあ~と思った。




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● ここには悪意がない 映画:『ミッドサマー』(アリ・アスター監督)

2019年141分
アメリカ、スウェーデン

 ミッドサマー(夏至)を祝うという習慣は日本では聞かれないが、キリスト教国とくに北欧では一般的らしい。
 長くひと際寒い冬のある国にとって、夏の訪れは格別なものなのだろう。
 この時期は白夜が続くので、遊ぶのにも祭りをするのにも、もってこい。
 ベルイマンの映画『夏の夜は三たび微笑む』に見るとおり。
 
 スウェーデンの秘境にある古い共同体の夏至祭に招かれたアメリカの大学生たち。
 はじめのうちは、美しくのどかな風景の中、素朴な村人との交流や珍しい風習を楽しんでいた。
 が、明るい光に満ちた神聖な祭りが始まるや、様子がおかしいことに気づく。
 一人、また一人、学生たちの姿は消えていく・・・・
 
 尋常でないグロと狂気に、ルカ・グァダニーノ監督の怪作『サスペリア』を想起した。
 が、あちらが「暗」「闇」だとすると、こちらは「明」「光」。
 白夜の明るさ、緑あふれる美しい村落、近代以前の簡素な暮らしぶり、白い衣装を身に着けた村人たちの清潔で敬虔なふるまい・・・・一見、楽園かと思えるような共同体だけに、一皮むいた真実の姿が恐ろしい。
 なにより怖いのは、ここにはまったく悪意がない。
 描かれるのはグロと狂気なのに、映像はあくまで美しい。
 犠牲者にとっての悲劇が、村人たちにとっては真面目なお祭り。
 このアンバランスがなんとも奇妙な味わいをもたらす。
 夜9時を過ぎても明るい白夜さながらに。

 ヴィスコンティ監督『ベニスに死す』で永遠の美少年タッジオに扮し、老いていく者(ダーク・ボガード)の無惨を観る者に突きつけたビョルン・アンドレセンが、半世紀を経た今、衝撃の老いの始末を見せてくれる。
 感慨深い。 

 141分が短く感じられた。
 アリ・アスターは才能ある監督には間違いない。


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スウェーデンの夏至祭風景
endlessboggieによるPixabayからの画像

 

おすすめ度 :★★★

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● R65-(65歳以上、鑑賞注意) 映画:『パーフェクト・ケア』(J・ブレイクソン監督)

2020年アメリカ
118分

 介護業界の闇をテーマにしたクライムサスペンス。
 原題は I Care a Lot 「ケアにかかりきり」ってところか。
 
 医師によって認知症の診断を下された独り暮らしの高齢女性ジェニファーが、高級老人ホームに無理矢理閉じ込められて、家や車や財産など一切合切を悪徳後見人マーラに巻き上げられてしまうまでが前半。
 ジェニファーの息子ローマンは実は裏社会のボスであることが判明し、母親を取り戻そうとするローマン一味とそれに抗うジェニファーとが死闘を繰り広げるのが後半。

 女だてらに(と言うと男女差別の叱りを受けそうだが)元ロシアンマフィアのボスに逆らい、瀕死の目にあわされながらも驚異的なガッツでサバイバルし、あまつさえボスに復讐を企てるマーラの闘志とパワーがとにかく凄い。
 アクション満載の後半は、最後までどう決着するか読めないスリリングな展開で、映像から目が離せない。
 マーラを演じるロザムンド・パイクは、デヴィッド・フィンチャー監督『ゴーン・ガール』でも、目的の為なら手段を選ばぬソシオパス(反社会性人格障害)の妻を好演していた。
 かつてジェーン・オースティンの名作『プライドと偏見』(ジョー・ライト監督2005年)で純粋でお人好しのお嬢様ジェーン・ベネットを演じていたのと同じ人間と思えない、女優としてのたしかな成長ぶり。
 しかも、ここでパイクが演じるマーラはレズビアンという設定で、恋人女性とのラブシーンもある。
 生きるのに男を必要としない女性2人が、男尊女卑の父権社会に敢然と立ち向かい、自力でのし上がっていくフェミニズムな物語と読むこともできる。
 その意味で、リドリー・スコット監督『テルマ&ルイーズ』(1991)を想起した。

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Victoria_WatercolorによるPixabayからの画像

 しかしながら、本作の最も独創的でゾッとするところは、淡々とした前半である。
 認知症高齢者の身上保護や財産管理を後見する人間が、もし悪徳で強欲だった場合、何が起こりうるかを描いて、この上なく恐ろしい。

 ジェニファー・ピーターソン(往年の名女優ダイアン・ウィースト演ず)は、一人暮らしなれども何不自由ない快適な老後を送っていた。
 ある日突然、後見人を名乗る女が戸口に現れて、「あなたは認知症のため、医師と裁判所の指示により医療保護のもとに置かれることになりました。私があなたの後見人です」と告げる。
 誰かに連絡とる暇も与えられず、警官付き添いで車に乗せられ老人ホームに連れていかれ、そのまま一室に閉じ込められる。
 安全とプライバシーの名のもと、外に出ることも電話をかけることも叶わない。
 その間に、財産は整理され、車と家は売却され、銀行の個人金庫は空にされる。
 以上すべてが、正式な医師の診断書と裁判所の公式な手続きのもとに遂行されていく。

 ジェニファーは実際には認知症ではなかった。
 マーラと手を組んだ悪徳医師が偽の診断書を作成し、マーラの息のかかった高級老人ホームに“合法的に”送致されたのであった。つまり、グルなのだ。
 知らないうちに認知症にさせられ、それを否認する言葉を周囲の誰も信じてくれないという恐怖。(なぜなら、「認知症患者の多くは自らが認知症だとは認めない」というのは通説になっているから)
 本人にしてみれば、カフカの小説の主人公が味わうような悪夢であろう。
 実際にありそうな話だから怖い。

 しかしながら、当人が本当に認知症であったとしても、一方的に診断を受け、無理矢理施設に入れられる理不尽と恐怖は同じようなものだろう。
 自分を認知症と思っていない本人は、全然納得していないのだから。
 ソルティが介護施設に務めていた時、ベッド脇のナースコールをマイクのように握りしめて、「もしもし、すぐに110番してください。わたしは誘拐されてここに閉じ込められています。助けに来てください」と日々繰り返していた80代の女性がいた。
 戦争も貧苦も乗り越えて80過ぎまで生きてきて、最後にこんな目に遭わされるなんて!
 彼女の目には、介護者であるソルティもまた、恐ろしく冷酷な牢番に映っていたであろう。

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Gerd AltmannによるPixabayからの画像

 日本でも認知症、知的障害、精神障害など判断能力が十分でない人の権利と財産を守るための成年後見制度というものがある。
 たいていは、妻や夫や娘息子など家族が後見人になるのだが、身寄りのない人や家族が適任でないとみなされた場合は、弁護士や行政書士などが選任される。
 後見人がこの映画のマーラーのような人物だったら、当人はそれこそ尻の毛まで抜かれてしまうだろう。
 また、後見人でなくとも、悪徳老人ホームの理事長が認知症入居者の財産を掠め取っていたという話はしばしばニュースにのぼる。
 財産ってのは、あればあるでトラブルが絶えないものだ。(負け惜しみ)

 お金持ちの65歳以上の人は余計な不安が募ると思うので、本作の鑑賞をお勧めしない。




おすすめ度 :★★★★

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● ほすぴたる記その後 最終回(事故後丸3年)

 気づかないうちに、12月5日の骨折3周年記念日が終わっていた。
 日常生活でもはや左足患部を意識することがなくなったせいだ。
 歩くのも、自転車乗るのも、階段を昇り降りするのも、水泳するときも、骨折前と動きはほとんど変わらない。
 正座もできるようになった。あぐらを組んでの瞑想も1時間以上こなせる。
 左足一本でつま先立ちもできる。
 連続4時間を超えて歩くと、左足首の外側に痛みが走り、びっこを引くようになるけれど、その痛みもハイキングを重ねるうちにだんだんと薄れてきて、回復も早くなった。
 骨折直後のリハビリ目標の一つであった秩父の武甲山(1304m)に今年5月末に登頂した。
 あとは同じ秩父の両神山(1723m)であるが、これは来年の初夏に挑戦しよう。

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秩父盆地と両神山
 
 骨折した直後に踵から五寸釘のようなビスを入れる手術した時は、治療後も外から目立つような障害が残ることを覚悟した。
 自分も障害者の仲間入りだなと思った。
 これが40代くらいまでなら原状復帰も可能だろうが、アラ還では難しかろう。
 山登りも自転車旅行も四国遍路2巡目もあきらめなければなるまいと思っていた。
 それがここまで回復するとは・・・・!
 人間の回復力、肉体のもつ自然治癒力に驚くばかり。
 
 もっとも、100%完治は望めない。
 今後も長時間歩行はある程度制限されると思うし、歳をとればとるほど、筋力が落ちれば落ちるほど、関節が硬くなればなるほど、後遺症が顕在化していくと予想される。
 現状を維持するためには、持続的な運動とケアが必要だろう。
 体重増加による足への負担にも注意しなければなるまい。

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 ギプスをして松葉杖をついていた頃のことをたまに振り返る。
 二本足でスタスタ歩けるってのがどんなに有難いことか、両手が使えるってどんなに便利なことか、いつでも好きな時に好きなところに行けるのがどんなに自由で素晴らしいことか、できなくなってはじめて痛感した。
 また、ゆっくり一歩一歩注意を払いながら、時間をかけて家の周囲を歩くことで、日々どれほどの発見があったことか。
 道端の草花、よく陽のあたる公園のベンチ、店員のちょっとした親切、同居の家族がいることが、どれほどの幸福か実感した。
 普段、時間に追われて気にも留めないあたりまえのことの中に、貴重なものがあった。
 「いま、ここ」という感覚がその入口だった。

 骨折をしおに介護の現場の仕事を離れて、身体的には楽な相談や調整の仕事に移った。社会福祉士の資格を取っておいたのが効いた。
 すると、自分が「骨折して、救急搬送されて、入院して、手術して、リハビリして、在宅復帰して」という一連の流れを経験したことが、高齢者やその家族から相談を受ける際に役に立つのに気づいた。
 病院での手続きや病棟の雰囲気、医師や看護師や相談員を前にした患者の気持ち、手術前の不安と緊張、患部の痛みとの闘い、リハビリの困難、病院食への不満、費用の心配、社会復帰への不安・・・・等々。
 自分がこの身で経験したからこそ、相談者の気持ちが理解できるし、寄り添える。
 それなりのアドバイスもできる。

 なんだか今の仕事のために、あの日の転落事故はあったという気さえするほど。
 四国遍路で出会ったお坊さんが言っていた言葉、「人生で起こることに無駄なものはない」ってのは本当かもしれない。


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四国遍路別格第18番 海岸寺付近
弘法大師空海の生まれ故郷







● オフィーリア最後の願い 本:『80歳の壁』(和田秀樹著)

2022年幻冬舎新書

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 今年一番のベストセラーである。
 ソルティも夏頃買い求めて、両親に渡した。
 内容も著者のこともよく知らず・・・。
 ただ、裏表紙の内容紹介に「(80歳を過ぎたら)嫌なことを我慢せず、好きなことだけすること」とあったので、悪い本ではなかろうと思った。
 両親が順に読み終えて(感想は聞いてない)、やっと自分の番が来た。

 著者の和田秀樹は、1960年大阪生まれの精神科医。
 高齢者専門の精神科医として30年以上の経験を持ち、著書も多い。
 テレビ出演などもこなしているようだ。
 関係ない話だが、この世代の「秀樹」は1949年にノーベル賞をとった物理学者・湯川秀樹から名前をもらっているのだろうか?
 1972年デビューの西城秀樹でないことは確かだ。

 和田は、東京世田谷の高齢者医療を専門とする浴風会病院に勤めていたことがあり、本書の内容も和田クリニック院長としての豊富な臨床経験だけでなく、浴風会病院で長年蓄積されてきた高齢医学のデータがもとになっている。(病院の設立は関東大震災がきっかけとのこと)
 つまり、科学的エビデンスに則っているということだ。
 たとえば、85歳以上の患者の遺体を解剖したら、ほとんどの人に(本人が知らなかった)ガンが見つかった、ほぼ全員の脳にアルツハイマー型認知症のような病変が見つかった、血管には多かれ少なかれ動脈硬化が確認できたとか、糖尿病そのものでなく糖尿病の治療(薬やインシュリン)が認知症を促進するとか、少し太っている人のほうが長生きするとか・・・・。
 一般に目指される「手術や薬で治す、患部を取る、数値を良くする」治療方法が、高齢者(和田は「幸齢者」という語を使っている)には必ずしも適切でないことが説かれている。
 
 私が80歳を迎えるような幸齢者にお勧めしたいのは、闘病ではなく「共病」という考え方です。病気と闘うのではなく、病気を受け入れ、共に生きることです。
 ガン化した細胞を薬で攻撃したり、手術で取り除いたりするのではなく、それを「手なずけながら生きていく」という選択です。

 80歳を過ぎた幸齢者は、老化に抗うのではなく、老いを受け入れて生きるほうが幸せではないか、と私は考えています。

 このようなポリシーにもとづき、本書では80歳を過ぎた人が残りの人生を自分らしく幸せに生きるためのヒントがたくさん盛り込まれている。
  • 食べたいものを食べよう
  • 我慢して薬を飲む必要はない
  • 血圧・血糖値は下げなくていい
  • 運転免許は返納しなくていい
  • 嫌な人とはつきあうな
  • 肉を食べよう
  • 眠れなかったら寝なくていい
  • 健康診断は受けなくていい
  • タバコ、お酒は止めなくていい
  • エロスを否定するな
 e.t.c.

 だいぶ前に、樹木希林がジョン・エヴァレット・ミレーの絵画『オフィーリア』に扮して川に流されながら、「最後くらい好きにさせてよ」と呟く広告があった。
 ソルティは通勤列車内でそれを見て「もっともだ」と頷く一方、医療保険および介護保険という国の制度を利用せざるをえない当事者にとって、あるいは、いろいろと複雑な思いを抱える家族をもつ当事者にとって、それ(=最後くらい好きにする)がどのくらい可能なのか、危ぶんだ。
 そして、当時高齢者介護施設で働いていた自身もまた、当事者本人の希望と、制度の縛りや家族の思いとの間で板挟み感を抱えていた。
 本書で書かれているようなことが、社会的・世間的に「あたりまえ」になれば、もっと医療・介護現場からギスギス感がなくなると思うし、当事者も大らかに残りの人生を楽しめると思う。

オフィーリア
J.E.ミレー作『オフィーリア』

 和田秀樹がどんな人か知らずに本書を購入したと書いた。
 最後に、人となりを示す一節を引用する。

 でも、過去のことを忘れて総合的な判断ができないのは、認知症の人だけではないでしょう。日本人はほぼ全員ができていない。なぜなら、政治家や役人が数々の悪事を働いても、簡単に忘れてしまうわけですから。
 コロナに関しても、自粛することのメリットとデメリットを考えずに素直に自粛要請に従ってしまう。さらには、30年景気が悪くて実質賃金も減っているのに、それでも自民党に票を入れ続ける。総合的な判断ができていないわけです。

 日本にはいま1000兆円の借金があり、福祉のせいで財政が厳しくなったなんて言われ方をしていることにも怒っていい。借金は高齢者が使ったからではありません。政治家が必要以上に地方の公共事業にばらまくからです。それをなんとなく、福祉という聞こえのいい言葉で高齢者の責任にすり替えている。
 介護保険もそうです。この制度ができて、毎月年金から介護保険料を引かれる代わりに、要介護状態になったら介護を受ける権利が与えられた。それなのに特別養護老人ホームの入所待ちが40万人もいるわけです。・・・・・・高齢者も本当は、「特養落ちた日本死ね」と大声を上げていいのだと思います。

 ソルティ、「推しの人」である。






おすすめ度 :★★★

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● 小津監督の遺作 映画:『秋刀魚の味』(小津安二郎監督)

1962年松竹
113分、カラー

 「秋刀魚の味」というタイトルが示すのは「庶民の哀歓」といったほどの意味だろうか。
 作中、東野英次郎演じる元教師が元生徒たちにご馳走されて泣いてよろこぶ鱧(ハモ)は出てくるが、サンマは出てこない。

 かつて原節子が演じた年頃の未婚の娘を、21歳の岩下志麻が演じている。
 岩下の小津作品出演は『秋日和』(1960)が最初だが、そのときは端役であった。
 2作目にしてヒロイン抜擢。凛とした美しさと原節子にはなかった快活感が光っている。
 岩下にとっては世界的大監督との貴重な共演機会となったわけであるが、後年の岩下の演技派女優としての活躍ぶりを思うと、俳優を型にはめ込む小津演出では岩下の真価は発揮できなかったであろうし、岩下自身もそのうち飽き足らなく感じたであろう。
 本作で小津演出に嵌まり込んで上手くいったのは、志麻サマが新人女優だったゆえ。
 その意味でも貴重な邂逅と言える。
 
 一方、父親役の笠智衆はこのとき58歳。
 若い頃から老け役を演じてきたが、ついに実際の年齢が役に追いついた。
 年相応の哀感あふれる演技は年輪を感じさせる。
 やっぱり実際に歳をとらないと出てこない味や風格、老けメイクではどうにもならないものがあることをフィルムは証明している。
 本作の笠の演技は、数多い出演作の中でも高評価に値しよう。
 それにしても、昭和の58歳は令和の70歳くらいの感覚だ。

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笠智衆58歳

 中村伸郎、東野英治郎、杉村春子、高橋とよ、三宅邦子ら小津作品のお馴染みは、それぞれに手堅い演技のうちに個性が醸し出されて楽しい。
 岸田今日子が珍しい。小津作品はこれ一作のみではなかろうか。
 翌年の文学座脱退騒動で仲違いした杉村春子との数少ない最後の映画共演作ということになる。(出番は重ならないが)

 娘のような若い嫁をもらって夜毎に励み、友人の平山(笠智衆)から「不潔!」と非難されてしまう男を北竜二という役者が演じている。
 これまで注目したことのない役者であるが、渋くて端正で、いい味出している。
 しかし「不潔!」はあんまりじゃないか・・・・。

 『晩春』(1949)で確立された小津スタイルが踏襲され、妻を亡くした男と婚期の娘、あるいは家族を失って孤独になった老境の男、すなわち家族の崩壊や老いというテーマもこれまで通り。
 ただ、どうにも気になるのは、本作は『晩春』や『東京物語』などとくらべて全般暗い。
 話の暗さや照明の暗さではない。
 原節子が出ていないからでもない。
 零落した元教師を演じる東野英次郎の演技が、あまりに真に迫っているからでもない。
 画面全体を厭世観のようなものが覆っている感があるのだ。
 この暗さはなにゆえだろう? 
 同じ年の初めに、小津が最愛の母親を亡くしたせいだろうか。
 体調の異変で死を予感していたのだろうか。
 『晩春』や『東京物語』の時とは違って、小津監督はもはや自らが撮っている世界を信じていない、愛していない。
 そんな気配が濃厚なのである。
 その暗さの中で唯一光を放っていた娘(志麻サマ)が家を出ていって、小津作品は幕を閉じる。

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嫁ぐ娘を演じる岩下志麻




おすすめ度 :★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 本:『断薬記 私がうつ病の薬をやめた理由』(上原善広著)

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2020年新潮新書

 高齢者介護施設で働き始めたときにソルティが驚きあきれたことの一つは、入居者が日々飲んでいる薬の多さであった。
 毎食後10錠、一日20~30錠はあたりまえで、「こんなにいろんな薬をいっぺんに体に入れて大丈夫なのか?」と不審に思いながら服薬介助を行なっていた。
 介助拒否ある認知症の人に薬を飲んでもらうのは実にたいへんで、なだめすかしたり、機嫌がよくなるまで待ったり、甘味のついたゼリーに包めて口に運んだり、(推奨できないことではあるが)錠剤をつぶして食事に混ぜ込んだり、苦労したものである。

 介護施設にいる高齢者は複数の病気を持っている人がほとんどで、薬もそれぞれの病気や症状に対応したものが複数処方されている。それぞれの薬には多かれ少なかれ副作用があるので、副作用を抑えるための薬も処方される。そのうえに、多くの人に下剤がついている。
 大小さまざまのカラフルな薬が入った透明な袋がフロアの人数分、服薬ケースにびっしり収まっているのを見ると、「これだけの服薬介助を食事時間が終了するまでに、ひとつの誤薬も落薬もなくやらなくちゃいけないのか・・・」と毎回緊張したものである。
 それぞれの薬についての副作用はわかっていても、複数の異なった薬を併用することによる心身への影響はどうなのだろう?――そう思いながらも一介の介護職が医師や看護師に意見できるものではない。
 かくして、薬漬けの老人たちを作り出して製薬会社の売り上げに貢献していた。

 ソルティの知り合いでホスピスに入所している95歳のA子さんが、ちょっと前に危篤に近いところまでいった。
 数日間寝たきりで食欲もなく、意識が低迷し、看病していたスタッフから「もう危ないかもしれない」と連絡が入った。
 これが最後の機会になると思い、A子さんの好きなイチゴを買って会いに出かけた。
 やせ細って気力をすっかり失ったA子さんは会話するのも億劫らしく、こちらの問いかけに小さく頷くのがやっと。元気に好きな演歌を歌っていた頃の面影もない。
 それでもイチゴを見せると「食べたい」という仕草を示した。
 砂糖と牛乳をかけてスプーンですりつぶしたイチゴを口元に持っていくと、美味しそうに数口食べてくれた。
 (A子さん、さようなら)と心の中でつぶやいて、部屋をあとにした。
 数日後、様子を聞くため施設に電話を入れた。
 「あれから復活して、すっかり元気になってバリバリ歌ってますよ」とスタッフ。
 思わず、「ええっ! 死ななかったの!?」
 スタッフは笑いながら教えてくれた。
 「どうせもう最期だからって、飲んでいた薬をすべてストップしたら元気になっちゃったのよ」

薬の袋

 上原善広は2010年に双極性障害いわゆる躁うつ病と診断され、医師に言われるまま多量の薬を飲み始めた。
 が、執筆意欲の減退や記憶の欠落、勃起障害などの副作用に苦しめられたあげく、三度の自殺未遂を起こす。
 ここに至って薬の効果に疑問を持ち始め、減薬に挑み、断薬を目指す決心をする。
 すると今度は、断酒中のアルコール依存症患者やシャブ抜きする覚醒剤常用者が経験するのと同じような苦しい離脱症状(禁断症状)に見舞われる。
 すっかり向精神薬や睡眠薬の依存症になっていたのだ。
 減薬を提唱する専門医師の協力のもと、四国遍路したりSNSを止めたり草津温泉で湯治したり、「三歩進んで二歩下がる」試行錯誤をしながら完全な断薬に至るまでの経緯が、赤裸々に記されている。

 これはそのまま、上原個人の体験談として読むのが良かろう。
 向精神薬や睡眠薬のおかげで、なんとか日常生活が保たれている患者も少なくないであろうから、参考にはできても一般化することはできまい。
 上原自身も書いているとおり、薬の影響については個人差は無視できない。
 大切なのは、安易に薬に頼る薬信仰は捨てて、「自分の身は医師や薬が守ってくれるのではなく、基本的には自分自身で守っていくしかない」と自覚することなのだ。

 むしろソルティが興味深く読んだのは、本書に垣間見られる上原自身と周囲の人間(特に女性)との関係性である。 
 「ずいぶん周りを振り回す人だなあ」と思った。
 自殺未遂などその最たるもので、死ぬなら自分一人で静かに死んでいけばいいものを、わざわざ夜中に昔の女に電話して「これから死ぬ」と宣言してから連絡を絶ち、相手を不安にさせて巻き込むようなことをやっている。
 境界性パーソナリティ障害の事例を読んでいるような印象を受けた。
 『今日もあの子が机にいない』を読めば、上原が暴力的な家庭で育ったこと、被虐待児であったことは明らかである。精神的な安定を育むのは難しかったろう。
 子供の頃に親に振り回されたうっぷんを、大人になったいま、周囲を振り回すことで晴らしているかのように見える。
 あるいは、周囲がどこまで「こんな自分」についてきてくれるかで、自分に対する周囲の愛情を試しているかのように見える。
 上原自身もそこに気づいているのだろう。

 振り返れば、自分が薬を飲み始めた経緯と、取材した結果を照らし合わせてみると、やはり第一に、自分の性格と生き方、生活環境に問題があったのだと思わざるを得ない。

 「しんどい人生を背負ったなあ」と思いはするが、一方で彼の場合、その「しんどさ」がノンフィクション作家としてのメリット(売り)にも活力源にもなっているのは間違いない。
 読み手をぐいぐい引っ張る筆力はここでも健在であった。

 



おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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● 老いらくの恋はよしなさい? オペラDVD :ドニゼッティ作曲『ドン・パスクワーレ』


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収録日 2002年2月13日
会場  カリアリ歌劇場(サルジニア島、イタリア)
管弦楽 同劇場管弦楽団
指揮  ジェラール・コルステン
演出  ステファノ・ヴィツィオーリ
キャスト
 ノリーナ :エヴァ・メイ(ソプラノ)
 ドン・パスクワーレ :アレッサンドロ・コルベッリ(バリトン)
 エルネスト :アントニーノ・シラグーザ(テノール)
 マラテスタ:ロベルト・デ・カンディア(バリトン)

 ガエタノ・ドニゼッティ(1797-1848)が作曲したオペラ・ブッファ(喜劇)の中で、『愛の妙薬』と並んでもっとも有名で音楽的評価の高い作品である。 
 が、『愛の妙薬』にくらべ上演される機会が少ない。
 その理由を推測するに、これが「高齢者虐待」の話だからではないかと思う。
 金持ちの老人ドン・パスクワーレを、甥っ子エルネストの婚約者ノリーナと、ノリーナの兄でパスクワーレの主治医であるマラテスタがつるんで罠にかけ、さんざんな目に合わせる話なのである。

 ノリーナときたら、パスクワーレと偽りの結婚をして彼の財産を浪費するわ(経済的虐待)、悪しざまにののしるわ(心理的虐待)、暴力を振るうわ(身体的虐待)とやりたい放題。
 劇の最後でノリーナによって高らかに歌われる“この話の教訓”は、「老いらくの恋はよしなさい。鐘を鳴らして退屈と苦悩を探しに行くようなもの。愚かなだけよ」というもの。
 主役であるにもかかわらず、パスクワーレは若者たちに「老いぼれ」と馬鹿にされ、右に左にいいように玩ばされ、なんとも哀れなのである。
 高齢世代の観客が多数を占める昨今の歌劇場で、到底あたたかく歓迎される作品ではない。
 しかも、パスクワーレ、まだ70歳に過ぎない。

 本作の初演は1843年。
 ヨーロッパの平均寿命は40歳くらいであった。
 その一番の理由は乳幼児の死亡率が高かったからであるが、戦前までの我が国同様、「人生50年」であった。
 当時70歳と言ったら文字通りの古稀(古来稀なる)、現代の感覚からすれば100歳越えと言った感じではなかろうか。
 そのお年寄りが何十歳も年下の花嫁をもらうことに決め、可愛がっていた甥エルネストを遺産相続から外して無一文で屋敷から追い出そうとしたのが、ことのきっかけであった。
 マラテスタとノリーナの兄妹は、エルネストを窮地から救い、ノリーナとの結婚を成就させるためにタッグを組んでパスクワーレを罠に嵌めたのである。

 当時の観客(当然40代以下がほとんどだったろう)からすれば、70歳の老いぼれが金に飽かして若く美しい嫁をもらおうとし、将来ある若者たちの恋路を邪魔するなんて、「厚顔無恥、失笑千万、言語道断」と思ったであろうし、兄妹の仕掛ける罠にはまってすっかり面目を失ったパスクワーレの惨めな姿に、「ほら見たことか」と快哉の叫びを上げもしただろう。

 時代は変わった。
 いまや70歳と言ったら青春真っただ中!――というのは言いすぎだけれど、競馬で言えば第3コーナーを回ったあたりではなかろうか。
 定年を迎え、待ちに待った年金生活に入り、これからが『人生の楽園』。
 実際、趣味に旅行にボランティアに野菜作りに蕎麦打ちに・・・・と自由な時間を気の合った仲間たちとエンジョイしている人は少なくない。
 人生何度目かの恋をして結婚する人だって珍しくなかろう。
 恋やエロこそ最高の若返りの秘薬、老いらくの恋の何が悪い!
 そう言えば、そんな元気なシルバーたちが登場し、あざやかな“どんでん返し”が話題を呼んだミステリーがあったっけ。

葉桜の季節に君を思う


 そういうわけで、このオペラは現代の風潮からも人権感覚からも高齢者のQOL(人生の質)という観点からも、観客の不興を買う恐れがあり、上演が忌避される傾向にあるのかもしれない。
 つまり、ポリコレ(Political Correctness)失格である。
 真偽のほどは分からぬが、そう考えるのでもなければ、これほど素晴らしい音楽が詰まっているオペラがなかなか上演されない理由が検討つかないのである。
 
 『愛の妙薬』に勝るとも劣らない、美しくロマンティックで親しみやすいアリアがソプラノにもテノールにも用意され、イタリア語の語感を存分に生かしたロッシーニ風のスピード感ある重唱や合唱も楽しく、聴きどころが多い。
 ドニゼッティには珍しく、すっきりとして無駄のない筋の運びは、オペラ初心者にも勧められること請け合い。
 なにより、滑稽や悲嘆や憐れみや優しさや優美やコケットリーなど、さまざまな感情や表情を色彩豊かに表現するオーケストレーションは、贅沢の極み。
 職人ドニゼッティが晩年に達した域の高さがうかがえる。
 (ただし、ストーリーの他愛無さとご都合主義はイタリン・ブッフォそのものである)
 
 出演者では、ノリーナ役のエヴァ・メイが素晴らしい。
 華やかで色っぽく意志の強そうなルックスは、ノリーナにぴったり。
 その声は美しく豊潤で伸びがあって、コロラトゥーラ技術も文句ない。
 タイトルロール(主役)のアレッサンドロ・コルベッリは、どこかで見た覚えがあると思ったら、チェチリア・バルトリの代表作『チェネンレトラ』のDVD(1996年DECCA)で従者ダンディーニを歌っていたバリトンであった。
 役者として決して華があるとは言えないけれど、歌唱技術は比類ない。弾丸のような早口言葉を見せてくれる。
 マラテスタ役のロベルト・デ・カンディアは喜劇センスに優れ、音楽に合った体の動きや表情が見ていて楽しい。
 エルネスト役のアントニーノ・シラグーザの輝かしく明るい伸びやかな声は、ディ・ステファノやパヴァロッティの衣鉢を継ぐ正統イタリアンテノール。第3幕のセレナータ『4月の風はなんて甘美なんだろう!』は、まさに甘美さにうっとりさせられる。
 このライブ公演は記録に残して大正解だった。 

 『ドン・パスクワーレ』を発表した時のドニゼッティは46歳、その4年後に亡くなった。
 梅毒が原因だったという。
 「老いらくの恋はよしなさい」は、後悔を込めた自戒だったのか・・・・。

ドニゼッティ
ドニゼッティ




● 床下45センチ CBT初体験(福祉住環境コーディネーター検定試験2級)

 先日、上記の資格試験を受けた。

 もともと昨年12月初旬の試験を受ける心積もりで秋口から勉強を開始したが、結局12月の試験は受けなかった。
 というのも、コロナ禍で密を避けるべく、受験者の多い2級と3級の試験はこれまでの会場一斉試験ではなくなって、自宅や会社など各自のパソコンを利用したインターネット方式の試験= IBT(Internet Based Test)になってしまったからである。
 受験者数が少なく筆記が課せられる高難度の1級のみ、これまで通りの会場方式で実施される。
 ――ということに気づいたのは、受験申込みしようと主催者である東京商工会議所のホームページを確認した11月中旬であった。 

 ソルティ宅のインターネット環境はいま一つ信用が置けない。ここを試験会場にするのは不安大である。
 しかも、主催者からはいくつかの条件が課せられている。
  • 推奨するブラウザはGoogle Chrome最新版 (⇒ソルティはInternet Explorerを使用)
  • 上り下りともに2Mps以上の速度 (⇒意味がわからん。上り下り? 隅田川?)
  • 待機開始から試験終了までの間、カメラに他の人が映り込まない、かつ、マイクに他の人の声が入らないように間隔や空間を確保すること (⇒隣の部屋で80代の父親が観ている時代劇の音声が絶対入る)
  • カメラで試験中の映像(受験者の上半身、身分証明書、背景映像など)を録画し、マイクで音声を録音することから、他者のプライバシーを侵害する可能性がある物などが録画、録音されないようにすること (⇒受験生自身のプライバシーはどうなの?) e.t.c.
 なんだかメンドクサイのである。
 カンニング防止のための処置であることは重々承知しているけれど、試験中の自分の姿や周囲の物音が録音・録画されるというのは気分よろしくない。
 また、昭和アナログ人間であるソルティにしてみれば、パソコンを使ったインターネット方式の試験というのもなんだか怖い。
 (キー操作を誤って、試験途中で“全回答削除”とかやってしまいそう)
 (モニターに映し出される細かい問題文を読むのに骨が折れそう)
 (途中でデータが重すぎてフリーズしたり、シャットダウンしたりするかも)
 (試験途中に家人がヘアドライヤーを使って“ヒューズが飛んだら”どうしよう←昭和)

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 「受けるのよそうかなあ」と思っていたら、救いの手があった。
 「IBT への移行に伴う経過措置として、使用機器や受験環境等のご用意が困難な方を対象に、2021年度~2023 年度に限りCBT を実施」とあった。
 CBT(Computer Based Testing)とは、IBTと同じようにパソコンを使う試験ではあるものの、テストセンターと呼ばれる試験会場に受験者が赴いて、そこに用意されたパソコンを使って試験を受ける方式である。(インターネットにはつながってはいないと思うが、よくわからん)
 必要な機器はテストセンターに揃っているので身ひとつ(と身分証明証)で会場入りすれば良いのでラクである。
 全国47都道府県の300以上あるテストセンターから好きな会場を選ぶことができる。(テストセンターに指定されているのは、おおむね各地にある民間のパソコン教室のようだ)
 受験日時もまた、指定された期間(約3週間)から自分の都合の良い日と時間帯を選べる。
 これなら受けられそうだ。

 福祉住環境コーディネーター2級のCBTは、令和4年の1/24~2/14であった。
 というわけで、当初昨年12月に受けるつもりだったものが、この2月初めに延びたのである。
 資格取得よりも勉強すること自体が目的だったので、なんの影響もなかったけれど、さすがに気持ち的にはダレた。

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昔なつかしペーパー試験

 仕事が休みの平日の午前11時スタートの時間帯を選んで、自宅から一番近いテストセンターを予約した。
 10分ほど電車に揺られた駅の近くにあるパソコン教室である。
 当日、開始20分前に会場に着いて中に入ると、さして広くないスペースにパーティ―ションで区切られた個人用ブースが20個くらいあって、ブース内にはパソコンの乗った机と椅子と荷物置きだけがあった。
 すでに10時スタート組や10時半スタート組が各々のブースの中でモニターに向かい問題に取り組んでいて、緊張した空気が漂っている。
 ソルティも試験官(たぶんパソコン教室の先生?)に空いているブースを案内され、運転免許証で本人確認を行い、渡された注意書きを読んだ。
 トイレをお借りした。 
 本番前に、実際にパソコンを使ったシミュレーションがあった。
 「次の問いへの進み方」とか「前の問いへの戻り方」とか「残り時間の確認方法」とか「回答欄の表示方法」とか、表示されているボタンをクリックするだけの容易な操作で、銀行のATM操作ができれば問題ないくらいの簡単さ。
 モニターに表示される文字も大きくて、読みやすい。
 これならなんとかなる!

 スタートボタンをクリック、本番に突入した。(クリックした瞬間からコンピューターが自動的に時間を計測するので、一斉スタートの必要がない。早く着いて用意が整った人から順次開始できる)
 過去のペーパー試験では約70問に対し制限時間120分だったが、今回は計70問に対し90分。
 試験時間が30分短くなった。
 が、問題自体はかなり易しくなっていたので時間的には十分余裕があった。
 たとえば、ペーパー試験では選択肢に上げられた4つのかなり長い文章から「適切なものを一つ選べ」あるいは「不適切なものを一つ選べ」という形式が多く、文章を読むのも大変なら正解を選ぶのも難しかった。
 が、今回は提示された一つの文章について「〇×」を問う形式が多かった。いわゆる一問一答式。
 問題自体も、介護保険制度や福祉用具に関する基本を問うもの、過去問に出てきたものが多かった。 
 制限時間の半分(45分)で第70問まで回答し終え、15分間見直して、終了ボタンをクリックした。

 吃驚したのはここからである。
 クリックしたとたん、画面が変わり、すぐに結果が表示された。
 91点という点数と、その上に赤い文字で合格とあった。(合格ラインは70点以上)
 IBTだかCBTだかBCGだか知らないが、これぞパソコン試験ならではの凄さ!
 テスト終了後わずか0.5秒で結果が判明し、合否がわかる。
 画面の下に表示されている「印刷」というボタンをクリックしたら、試験官のいる席のあたりからプリントアウトされる音がした。
 試験官がブースまで結果用紙を運んでくる。
 「お疲れまでした。これで終了です」

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 合否をドキドキしながら数日待つことに慣れている昭和アナログ人間としては、なんかあまりにあっけなく勿体ぶらない幕切れに、せっかくの合格の喜びも3割くらい減少した。
 一方、このやり方で不合格を目にした場合、ものすごいガクッと来そう。
 思わずモニターにパンチしてしまいそう? 

 ちなみに、2級の合格率は2020年度までのペーパー試験においては平均40%くらいであった。回によっては13%という難関の時もあった。
 IBT/CBT方式になった2021年度は、85%を超えている。
 倍以上の合格率だ。(ちなみにソルティは2020年度までの過去問は平均78点だった)
 これもコロナのおかげ。
 受けるなら今だ!

 合否はともかく、3~4ヶ月勉強したおかげで福祉用具や住宅改修に関する知識がそこそこ身についたので、要介護高齢者に説明する際の自信の足しにはなった。
 たとえば、建築基準法では一階の床面は直下の地面から最低45㎝上げなければならないとか、半世紀以上この国に生きていて知らなかった。(湿気を防ぐためです)

縁側







 

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