日時 2022年9月24日(土)14:00~15:30
会場 大本山増上寺 慈雲閣ホール
講師 藤田一照(曹洞宗僧侶)、細川晋輔(臨済宗僧侶)
主催 一般社団法人 日本仏教讃仰会
首都圏に長いこと暮らしながら、芝増上寺には一度も行ったことがなかった。
NHK『ゆく年くる年』でよく登場するお寺である。
有名人の葬儀が行われる場所としても知られていて、最近ではむろん、安倍元首相が7月12日に弔われた。
ここで日本仏教讃仰会主催のセミナーが2年ぶりに開かれる、しかも講師の一人は機会あったら話を聞きたいと思っていた藤田一照氏。
台風通過後の不安定な空模様であったが、行ってみた。
広い境内の一角にある慈雲閣1階ホールが会場。
参加者は50~60名であった。
藤田一照氏は1954年生まれの68歳、細川晋輔氏は1979年生まれの42歳。
親子ほど違う年齢差、禅僧としての経験の違い、あるいは知名度なんかもあって、対談とは言え、全般的には藤田氏の坐禅観を細川氏が合の手を入れながら引き出して展開する、といった流れであった。
実際、藤田氏は話上手で、知識はもちろん米国での長い布教生活など話の引き出しが多く、話しぶりにもアメリカンな率直さを感じた。
細川氏によれば、藤田氏の坐禅観は伝統的なそれとは大分異なっていて、「いま禅業界(?)に革命を起こしている」のだという。
タイトルにある「身心の調い」というところから話は始まった。
この「調い」は、「整い」とは違って、英語で言えばharmonize あるいは balance に近い。
身心を制御(control, regulate)して自己をあるべき理想に近づけようとするのではなく、身心と周りとの関係の調和をはかる営為だという。
身心を制御(control, regulate)して自己をあるべき理想に近づけようとするのではなく、身心と周りとの関係の調和をはかる営為だという。
悟りを求めて一心不乱に修行するのが伝統的な坐禅イメージとするなら、「あらゆるものとの関係性の中にある自分の身心に気づく」といったイメージになろうか。
続いて、「健康」とはなにかという話。
細川氏によると、「“けんこう”はもともと“堅剛”と書いた。それに“健康”という字を最初に当てたのは白隠禅師」とのこと。
その振りを受けた藤田氏は、「健」「康」という漢字が、「手に筆をまっすぐ持っている」さまを表した象形文字から生まれたと解説し、健康を「本来の働きがしっかり現れている体と心」と定義した。
坐禅とは、身心を調えて健康になること、すなわち、本来の働きをしっかり有らしめることなのだ。
次に、藤田氏が今の坐禅観にたどりつくようになった経緯が語られた。
野口体操や鍼灸や漢方との出会い、アメリカ生活で実践したボディワークやマインドフルネス。
東洋と西洋の身体観、身心観がバックボーンとなったとのこと。
なるほど、藤田氏はマインドフルネスの唱導者ティク・ナット・ハンの本を訳している。
最後に、坐禅によって調えるべき3つについてまとめられた。
- 調身・・・・大地とのつながりの調和の探究
- 調息・・・・大気とのつながりの調和の探究
- 調心・・・・六感(眼耳鼻舌身意=視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・心に触れるもの)とのつながりの調和の探究
坐禅は自己と周囲との「関係の調律」なのであるが、言うまでもなく、自己も周囲も一瞬一瞬変動している(諸行無常である)。
つまり、一坐一坐が毎回、未知の探究になる。
だから、坐禅は標準化もマニュアル化もできない。
話を聴きながら思い起こしたのは、カルロ・ロヴェッリ著『世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論』(2021年NHK出版)であった。
つまり、一坐一坐が毎回、未知の探究になる。
だから、坐禅は標準化もマニュアル化もできない。
話を聴きながら思い起こしたのは、カルロ・ロヴェッリ著『世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論』(2021年NHK出版)であった。
量子の奇妙な振る舞いの説明として「関係論的解釈」を唱えた画期的な書であるが、その中で著者は、関係論的解釈と古代インドの仏教学者ナーガルジュナ(龍樹)の「空の思想」を結び付けていた。
一つ一つの対象物は、その相互作用のありようそのものである。ほかといっさい相互作用を行なわない対象物、何にも影響を及ぼさず、光も発せず、何も引きつけず、何もはねつけず、何にも触れず、匂いもしない対象物があったとしたら・・・・・その対象物は存在しないに等しい。(中略) わたしたちが知っているこの世界、わたしたちと関係があってわたしたちの興味をそそる世界、わたしたちが「現実」と呼んでいるものは、互いに作用し合う存在の広大な網なのである。そこにはわたしたちも含まれていて、それらの存在は、互いに作用し合うことによって立ち現れる。わたしたちは、この網について論じているのだ。(『世界は「関係」でできている』より)
何ものもそれ自体では存在しないとすると、あらゆるものは別の何かに依存する形で、別の何かとの関係においてのみ存在することになる。ナーガルジュナは、独立した存在があり得ないということを、「空」(シューニャター)という専門用語で表している。(小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』の「龍樹」項より)
「互いに作用し合う存在の広大な網=空」の中に自己投棄する――それが坐禅の極意ということか。
※本記事は講座を聴いたソルティの主観的解釈に過ぎません。実際の講座の主旨とは異なる可能性大。あしからず。