ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●イベント(講演・集会等)

● お口くちゅくちゅ : 初期仏教月例講演会(講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時  2024年1月14日(日)13:30~16:30
場所  学術総合センター内・一橋講堂(東京都千代田区)
演題  「新たな一年を生きる」~日々是好日の生き方~
主催  日本テーラワーダ仏教協会
 
 月例講演会に参加したのは実に6年ぶり。
 その間、体調不良があったり、2度の転職があったり、四国遍路に行ったり、引っ越しがあったり、足の骨折があったり、コロナ禍があったり・・・e.t.c.
 その時々の環境に左右されて、仏道修行への意欲や熱意もずいぶん波があった。
 が、スマナ節から6年も離れていたとは!
 ほんとに時が経つのは「あっ!」という間である。
 地球の自転が速まっているのではないか?
 
 6年ぶりに参加しようと思った理由は、やはり、能登半島地震が大きい。
 被災して、家を失い、家族や友人を失い、仕事を失い、寒さにふるえながら避難所で身を寄せ合っている人々の姿に、今こそ慈悲の瞑想を実践したいという思いが生じた。
 破壊され尽くした街や続々と増えていく死者数の報道を見聞きするにつけ、諸行無常の感が強まり、「我が身にだって、いつ何が起こるのかわからない」という焦燥感に似た思いが高まった。

 ほんとうはいつだって、どの瞬間だって、この世も、我々の生も、「無常」の凄まじい流れの中にあるのに、我々の命は砂時計の砂のように止めどなくこぼれ落ちているのに、愚にもつかない妄想におおわれ、「貪・瞋・痴」に振り回され、闇雲に走り回っている。
 過去に囚われ、未来を心配し、「今ここ」という瞬間を取り逃がし続けている。
 いつの間にか人類が陥ってしまったこの罠を、いったい誰が仕組んだのだろう?
 神?
 悪魔?
 遺伝子?
 宇宙人?
 宇宙意識?

 自らの深刻な病気や不幸、近しい人との死別、あるいは今回の震災のような“日常の裂け目”に遭ってはじめて、“無常”という真実に目を向けられるとは、なんという逆説だろう!
 とはいえ、ブッダが説いた四聖諦にあるように、あるいは『仏弟子の告白(テーラガータ)』や『尼僧の告白(テーリーガータ)』に見るように、悟りの入口は「苦」なのだ。

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一橋講堂がある学術総合センタービル

 講演の内容自体は、これまで何度も聴いたり読んだりしていることなので、新たな気づきというほどのものはなかった。
 講演後の質疑応答がなかなか面白かった。
 『ペットを飼っていることについて厳しく指導してください』という会場からの問いに、スマナ長老が『飼わないことです』と一刀両断したのには(質問者には酷ながら)笑った。
 『このままだと(自民党案による)改憲が実現してしまう。どうすればよいのか』といった問いには、憂慮を同じくするソルティも笑ってはいられなかった。
 スマナ長老は、「こうしなさい」「ああしなさい」と明確には答えられなかったが、「自由や人権を害するようなことは良くない」「憂慮というネガティヴな思いが、大切な時もある」と言われていたことから、答えは自ずから明らかであろう。
 自分にできることを、気づきと慈悲をもってやるしかない。
 
 久しぶりにスマナサーラ長老の確たる存在感に触れ、スマナ節を耳にし、同じ仏道を歩む仲間たちの気に触れて、仏教愛と修行意欲が高まった。

過去を追いゆくことなく
また未来を願いゆくことなし
過去はすでに過ぎ去りしもの
未来は未だ来ぬものゆえに

現に存在している現象を
その場その場で観察し
揺らぐことなく動じることなく
智者はそを修するがよい

今日こそ努め励むべきなり
誰が明日の死を知ろう
されば死の大軍に
我ら煩うことなし

昼夜怠ることなく かように住み、励む
こはまさに「日々是好日」と
寂静者なる牟尼は説く

『日々是好日』経

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神田橋を望む外堀通り
10年以上前に職場があった付近
まさに諸行無常を感じる変わりようであった

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帰りはJR神田駅まで歩いた
この駅の山手線発車メロディーは「お口くちゅくちゅ、モンダミン




● 仏教セミナー: 佐々木閑氏講演『これからの時代のためのブッダの教え』

日時 2023年11月18日(土)
会場 日本交通協会会議室(有楽町・新国際ビル内)
主催 日本仏教鑚仰会

 8年前中野サンプラザで聴けなかった佐々木氏の話。
 ようやく目の前で聴くことができた。
 『科学するブッダ 犀の角たち』、『仏教は宇宙をどう見たか』など、氏の本には啓発されるところ大である。

 会場の新国際ビルには初めて来たが、有楽町のこのあたりの変わりように驚いた。
 ソルティの記憶の中では灰色のビルディングの並ぶ殺風景なイメージしかなかったのだが、街路樹の続くレンガ敷きの路上にテーブルが置かれ、休日を思い思いに楽しむ人々が往来する様子は、まるでカルチェラタンのよう。カルチェラタン行ったことないのだが。
 あっ、岸恵子!(ウソ)

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左の建物が会場となった新国際ビル

 冒頭一番、佐々木氏は「これからの時代」を「今日よりも明日が悪くなる時代」と断言した。
 改めて言われるまでもなく、多くの日本人が感じていることだろう。
 少子高齢化、慢性化した不景気、広がるばかりの所得格差、国際競争力の低下、値上げラッシュ、地方の衰退、軍備増強、無縁社会に孤立する人々・・・。
 外を見れば、ウクライナ×ロシア戦争、イスラエル×ハマス戦争、気候変動による災害、ナショナリズムの興隆、分断する国際社会・・・。
 戦後日本人が享受してきた「豊かさと安全」が崩れようとしている。

 一方、世界的な潮流として価値観の大きな変容が見られる。
 「より多くの物を手に入れることが幸福」という資本主義イデオロギーの不毛に気づき、商業主義の洗脳から目覚めた人々は、新たな価値観のもと、これまでの生き方を変えようとしている。
 そんな時代にますます重要度を増すのが仏教である、と佐々木氏は説く。

 世間における幸福とは「欲求の充足、夢の実現」。これは私たちが生物として持っている本能的思考。「虹の向こうの夢を追い求める気持ち」が人類を発展させ、そして多くの人を苦しめてきた。(当日講師配布資料より抜粋、以下同)
 
 「欲」を三毒――三つの悪しきもの、残り二つは「怒り」と「無知」――の一つとし、すべてを捨て去っての出家をすすめたブッダの教えが、資本主義と相反するものであるのは間違いない。
 大乗仏教宗派や仏教まがいの新興宗教の中には、この根本が崩れて、お布施という名の集金活動に熱心なところも見受けられるが、本来の仏教は「欲望の充足でなく、欲望を持たない状態を目指す」。
 そして、人の抱く究極の欲望が「永遠の命」である。
 仏教が、キリスト教やユダヤ教やイスラム教と決定的に異なるところは、後者3つが来世信仰すなわち「天国で永遠の幸福のうちに生き続ける私」という、自我(あるいは魂)の存続を最高到達点とするのにくらべ、仏教は(少なくとも原始仏教は)「この世であろうと、あの世であろうと、生き続けることは苦しみであるから、二度とどこにも生まれ変わらないようにしよう」という涅槃寂静をゴールとする。
 また、神や教会などの外部に救いを求めず、あくまで修行によって「自分の力で自分を変える」。
 仏教がいかに既存のほかの宗教と異なることか!
 もっとも、佐々木氏は言う。

 欲求を追い求める人生と追い求めない人生には、優劣も善悪もない。
 どちらの人生を選ぶかは、人それぞれの状況が選択の基準になる。
 ただし、欲求を追い求める人生には、「快楽」と「苦」とがつきまとう。

 佐々木氏の講義(=説教)は、基本的にテーラワーダ仏教のスマナサーラ長老の説くところと同じ。つまり、原始仏教そのもの。
 阿弥陀様の本願とか、弥勒菩薩の救済とか、称名念仏による極楽往生とかを信じる人々にとっては、梯子をはずされて谷底に突き落とされるようなショッキングな内容である。
 以前、日蓮宗のお寺がスマナ長老を迎えて法話を開催したことがあったが、そのときの会場の凍り付いた空気をソルティはよく覚えている。
 本来の仏教は、身も蓋もないほど、人々の抱く生ぬるい幻想をひっぱがす鋭利な刃物なのである。
 ただ、大学教員である佐々木氏の語りは流暢でユーモアがあり、表情や仕草も多彩で、穏やかな雰囲気を発していた。
 時折、鋭い眼光を放つ瞬間もあり、世間向けの仏教伝道者としての顔と、深い学識と思想を湛えた研究者としての顔と、使い分けているのだろうと察しられた。
  
 休憩時、70歳以上が9割がた占める会場を見やりながら、ふと思った。
 こういった話を佐々木氏の教え子である(サトリ世代と言われる)令和の若者たちは、どんなふうに聴くのだろう?
 経済成長と所有資産の拡大こそが幸福と疑わない多くの昭和世代とは、また違った受け取り方をするのだろうか?
 日本におけるテーラワーダ仏教の今後はどうなっていくのだろう?
 
 休憩後、スマホを確認していた佐々木氏から、池田大作の死を教えられた。

(仏教は)社会を変えることで人を救うのではなく、人を救えない社会で苦しむ人たちを受け入れる受け皿、その目的は、社会の片隅で永く存続すること。


※本記事は実際の講義内容のソルティ流解釈に過ぎません。あしからず。



● 関東大震災朝鮮人・中国人虐殺100年犠牲者追悼大会


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日時 2023年8月31日(木)18:15~
会場 文京シビック大ホール(東京都文京区)

 高麗博物館で開催中の特別展『関東大震災100年 隠蔽された朝鮮人虐殺』を見に行き、四谷区民ホールでの講演会『関東大震災から100年の今を問う』を聴きに行き、ついに犠牲者追悼会に参加する運びとなった。

 思えば、渡辺延志著『関東大震災「虐殺否定」の真相』(2021年ちくま新書)を読んでからというもの、ここ2年ばかり、このテーマを追ってきた。
 やはり関東大震災時に千葉県福田村で起きた、香川の被差別部落から来た行商一行虐殺事件とともに。(こちらは現在、森達也監督の映画『福田村事件』上映中である)
 本を読んで、現地に行って、絵巻を見て、講演を聴いて、虐殺事件のあらましは頭に入ったけれど、知識を身につけるだけでは意味がない。
 亡くなった人たちを追悼するとともに、このような残虐な事件が起こった原因を探り、同じようなことが二度と起こらないようにするという決意がなければ、知識にはなんの価値もない。
 そう思って、満月の夜の集会に参加した。

 シビックホールは後楽園ドームの近くにあり、大ホールの席数は1800あまり。
 ざっと見たところ、1200~1300人くらいの参加があった。
 長らく地域で犠牲者追悼の活動をしてきた人、最近知って興味を抱いた人、共産党や社民党の政治家たち・・・・100年経った今も、この問題に関心を持つ人がこんなにたくさんいるという事実に、なにか心強いものを感じた。

 舞台の上も、客席も、非常に熱い感情に満ちていた。
 それは、虐殺された朝鮮人・中国人犠牲者の遺族(孫など)による怒りと慟哭と告発の叫びであり、その叫びを言葉の壁を越えて受け止めた日本人参加者たちの恥と共感の波であり、ヘイトスピーチやネット上のコメントに見るようにいまなお続く在日朝鮮人・中国人への差別や恫喝に対する当事者の怯えと救いを求める声であり、なにより、虐殺事件をあたかもなかったことのように扱おうとする昨今の日本政府や東京都に対する全会場の怒りと闘いへの連帯意志であった。
 義憤にかられ声を上げる日本人同志がこれだけいることに感動した。
 と同時に、100年経ってもこれだけの抗議集会を開催せざるを得なくしてしまった日本という国の厚顔無恥ぶりに暗澹たる思いを持った。
 1923年9月初めに数千人規模の虐殺があったのは事実であり、その虐殺を政府が扇動したのも事実である。公式な記録に残っている。
 事実を事実として認め、反省や謝罪や償いができない国家が、他国から尊敬を受けられるべくもない。
 国民同士の信頼に基づいた国家間の友好関係を築けるはずもない。
 安部元首相が語った「世界に誇れる美しい国、日本」の内実とは、こんなものなのである。

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李政美氏と紫金草合唱団のみなさん
 
 プログラムには、在日韓国人3世のピアニストである崔善愛(チェ・ソンエ)氏によるショパンの『革命』と『別れの歌』、アリランの演奏があった。
 また、やはり在日韓国人2世の歌手である李政美(イ・ジョンミ)氏と紫金草合唱団による関東大震災時の虐殺をテーマにした歌曲なども披露された。
 魂のこもった演奏や歌声は、人種や国籍や言葉の壁を超える力がある。
 「我々は同じ人間なのだ」と、あたりまえの原点に立ち返らせてくれる。

 本集会実行委員会の共同代表をつとめた田中宏氏(一橋大学名誉教授)の発言にあったのだが、関東大震災のあと、東京帝国大学に学ぶ朝鮮人留学生は『帝国大学新聞』にこう寄稿したという。
 「日本の教育は、人間となるよりもまづ国民になれと云ふ。・・・朝鮮人を殺すことを以て、日本国家に対する大いなる功績と思って居たやうに見える」

 人間たることを止めたとき、人は狼にも鬼にもなりうるのだ。

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Peace,love,happinessによるPixabayからの画像



 

● 虐待の連鎖 講演会:『関東大震災から100年の今を問う』(四谷区民ホール)


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日時 2023年7月31日(月)18:30~
会場 四谷区民ホール(新宿区)
プログラム
  1. 新井勝紘氏(高麗博物館前館長):「関東大震災 描かれた朝鮮人虐殺を読み解く」
  2. 徐京植氏(高麗博物館理事、東京経済大学名誉教授):「韓国現代アーティストの映像作品に見る 『ルワンダ虐殺の記憶』」
主催 高麗博物館

 高麗博物館で開催中の『関東大震災100年 隠蔽された朝鮮人虐殺』に行って、この講演会あるを知った。
 四谷区民ホールは新宿御苑のそばなので、早めに行って御苑の木陰で昼寝でもしようと思ったら、月曜定休であった。仕事を早退までして来たのに残念。
 開場時間まで、区民ホール9階のラウンジでクリームパン食べながら読書した。

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四谷区民ホール

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9階ラウンジからの景色
新宿御苑、明治神宮をはさんで渋谷のビル街が見える

 プログラム1では、2021年に新井氏がヤフオクで見つけて9万6千円で競り落とした湛谷(きこく)作『関東大震災絵巻』を中心に、朝鮮人虐殺を目撃した人が描いたいろいろな絵画作品をパワーポイントを使って紹介、解説された。
 視覚芸術は、文章以上に直截的でインパクトがある。
 刀や鳶口で襲われた朝鮮人の流した血の色が毒々しい。
 中には小学生が描いた絵もあった。
 震災被害だけでも相当なショックだろうに、日本の大人たちが寄ってたかって朝鮮人を虐殺している現場を目撃させられた子供は、どれだけのトラウマを背負ったことだろう? その後の人生にどう影響したことだろう?
 新井氏は繰り返し言った。
 「こんなものを子供たちに見せちゃいけない」
 まったくその通りだ。
 と言って、隠してもいけない。
 
 プログラム2では、このような悲惨な虐殺事件を後世の人々にどう伝え、どう自分事として受け止めてもらい、「省慮(かえりみてよく考えること)」を呼び起こすか、というテーマであった。
 リアルタイムで現場を見ている証言者が少なくなったとき、事件は風化され、忘却される可能性がある。つまり、繰り返される危険がある。
 もちろん、「被害者〇名、いつ誰がどこで」といったデータは残るかもしれない。
 証言集や小説や映画といった形で、2次的に事件に触れることもできるかもしれない。
 しかし、事件を直接知らない後世の人や他国の人は、そうした事実に触れる機会を持っても、「ふ~ん、そんなことがあったんだ」で終わってしまう可能性がある。
 朝鮮人虐殺についても、「100年も昔の話だろう。民主主義の進んだ現在とは関係ない」とか、「こういったパニックは災害時にはよくあること。日本人だけが特別じゃない」とか、「きっと朝鮮人のほうにも何らかの落ち度があったんだろう」とか、ひどいのになると、「朝鮮人虐殺は反日左翼が作ったデマ。デマを教科書に載せて子供たちに教える必要はない」などと言う始末。
 徐京植氏は、「重要なのは想像力。当事者の立場に身を置いて、状況や気持ちを想像できること」と語り、それを考える鍵として、1994年の『ルワンダ虐殺』をテーマにしたジョン・ヨンドゥ氏の映像作品を紹介した。

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 ソルティはエイズNPOで働いていた時、学校に講演に行くことが多かった。
 HIV/AIDSという病気の基礎知識や予防方法を伝えるだけでなく、感染者に対する差別の事例を話し、人権や共生について考えてもらう。
 そのときにいつも使っていたのが、メモリアルキルトという畳一帖ほどの布であった。
 AIDSで亡くなった人の家族や友人らが、故人の思い出を語りながら、その人らしいデザインを考え、遺品を縫い付けたり、イニシアルを縫い込んだりする。
 行政が発表するAIDS死者〇名という統計数字ではなく、そこに「愛する人や物に囲まれ、喜怒哀楽をもって暮らしていた人間がいた」ことの証明である。
 メモリアルキルトの説明を通じて、生徒たちにHIVと共に生きた人の生を想像してもらい、数字や“怖い”イメージばかりが先行していたAIDS患者もまた、自分たちと同じ一人の生活者であることや、実名でなくイニシアルであることの意味を考えてもらった。
 うまく伝わったのかどうか、生徒たちの想像力を喚起できたのかどうか・・・・。
 ただ、伝えるという経験を通して思ったのは、「自らが一人の人間として大切に扱われてはじめて、他の人も大切に扱えるようになる。他の人の苦しみや悲しみを想像し、共感できるようになる」ということであった。
 自分に与えられていないものを他人に施せというのは、どだい無理な話である。
 ソルティが話した生徒たちの中には、普段親から虐待を受けている子供も少なくなかっただろう。
 彼らの心にどう響いたかは、いまでも気になるところである。

 その意味で、ソルティは朝鮮人虐待の加害者となった者たち――警察、軍人、自警団の男たち――のパーソナリティがどのように作られたかが気になるのである。
 子供の頃に親や教師や周囲の大人たちから、どのような扱いを受けたかが気になるのである。
 ナチス時代のドイツ国民が、幼少の頃、体罰当然の厳格で暴力的な教育を受けていたこと。それが成人してのち、ある種の“意趣返し”として、ユダヤ人らに向けられたこと。すなはち、“虐待の連鎖”がそこにあることを指摘したのは、『魂の殺人』で有名なアリス・ミラーである。
 戦前の軍国主義教育は、子供たちに「これこれの行為は良い」「これこれの行為は悪い」と一方的に教え込む(洗脳する)ものであって、「自らの頭で是非を考える」「他人の置かれた立場を想像する」ようなものではなかった。体罰も当たり前にあった。
 令和現在の教育現場で起きている戦前回帰的兆候を思うとき、朝鮮人虐殺を昔の話にはできないと強く思う。

 約400席の会場は満席だったけれど、高齢者が圧倒的であった。
 平日ではあるが、18:30からの開始なので仕事帰りの人だって来られるはずである。
 学生だって夏休み中だろう。
 正直、団塊の世代亡き後の日本が心配だ。






● 仏教セミナー『坐禅に学ぶ身心の調い』(藤田一照×細川晋輔対談)


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芝増上寺と東京タワー

日時 2022年9月24日(土)14:00~15:30
会場 大本山増上寺 慈雲閣ホール
講師 藤田一照(曹洞宗僧侶)、細川晋輔(臨済宗僧侶)
主催 一般社団法人 日本仏教讃仰会

 首都圏に長いこと暮らしながら、芝増上寺には一度も行ったことがなかった。
 NHK『ゆく年くる年』でよく登場するお寺である。
 有名人の葬儀が行われる場所としても知られていて、最近ではむろん、安倍元首相が7月12日に弔われた。
 ここで日本仏教讃仰会主催のセミナーが2年ぶりに開かれる、しかも講師の一人は機会あったら話を聞きたいと思っていた藤田一照氏。
 台風通過後の不安定な空模様であったが、行ってみた。

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増上寺大門

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三解脱門
三つの煩悩(貪・瞋・痴)を解脱する門の意


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本殿
本尊は阿弥陀如来像

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法然上人
増上寺は浄土宗の七大本山の一つ

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本殿から見た浜松町

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会場となった慈雲閣

 広い境内の一角にある慈雲閣1階ホールが会場。
 参加者は50~60名であった。
 藤田一照氏は1954年生まれの68歳、細川晋輔氏は1979年生まれの42歳。
 親子ほど違う年齢差、禅僧としての経験の違い、あるいは知名度なんかもあって、対談とは言え、全般的には藤田氏の坐禅観を細川氏が合の手を入れながら引き出して展開する、といった流れであった。

 実際、藤田氏は話上手で、知識はもちろん米国での長い布教生活など話の引き出しが多く、話しぶりにもアメリカンな率直さを感じた。
 細川氏によれば、藤田氏の坐禅観は伝統的なそれとは大分異なっていて、「いま禅業界(?)に革命を起こしている」のだという。
 
 タイトルにある「身心の調い」というところから話は始まった。
 この「調い」は、「整い」とは違って、英語で言えばharmonize あるいは balance に近い。
 身心を制御(control, regulate)して自己をあるべき理想に近づけようとするのではなく、身心と周りとの関係の調和をはかる営為だという。
 悟りを求めて一心不乱に修行するのが伝統的な坐禅イメージとするなら、「あらゆるものとの関係性の中にある自分の身心に気づく」といったイメージになろうか。
 
 続いて、「健康」とはなにかという話。
 細川氏によると、「“けんこう”はもともと“堅剛”と書いた。それに“健康”という字を最初に当てたのは白隠禅師」とのこと。
 その振りを受けた藤田氏は、「健」「康」という漢字が、「手に筆をまっすぐ持っている」さまを表した象形文字から生まれたと解説し、健康を「本来の働きがしっかり現れている体と心」と定義した。
 坐禅とは、身心を調えて健康になること、すなわち、本来の働きをしっかり有らしめることなのだ。

 次に、藤田氏が今の坐禅観にたどりつくようになった経緯が語られた。
 野口体操や鍼灸や漢方との出会い、アメリカ生活で実践したボディワークやマインドフルネス。
 東洋と西洋の身体観、身心観がバックボーンとなったとのこと。
 なるほど、藤田氏はマインドフルネスの唱導者ティク・ナット・ハンの本を訳している。
 
 最後に、坐禅によって調えるべき3つについてまとめられた。
  1.  調身・・・・大地とのつながりの調和の探究
  2.  調息・・・・大気とのつながりの調和の探究
  3.  調心・・・・六感(眼耳鼻舌身意=視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・心に触れるもの)とのつながりの調和の探究
 坐禅は自己と周囲との「関係の調律」なのであるが、言うまでもなく、自己も周囲も一瞬一瞬変動している(諸行無常である)。
 つまり、一坐一坐が毎回、未知の探究になる。
 だから、坐禅は標準化もマニュアル化もできない。

 話を聴きながら思い起こしたのは、カルロ・ロヴェッリ著『世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論』(2021年NHK出版)であった。
 量子の奇妙な振る舞いの説明として「関係論的解釈」を唱えた画期的な書であるが、その中で著者は、関係論的解釈と古代インドの仏教学者ナーガルジュナ(龍樹)の「空の思想」を結び付けていた。

一つ一つの対象物は、その相互作用のありようそのものである。ほかといっさい相互作用を行なわない対象物、何にも影響を及ぼさず、光も発せず、何も引きつけず、何もはねつけず、何にも触れず、匂いもしない対象物があったとしたら・・・・・その対象物は存在しないに等しい。(中略) わたしたちが知っているこの世界、わたしたちと関係があってわたしたちの興味をそそる世界、わたしたちが「現実」と呼んでいるものは、互いに作用し合う存在の広大な網なのである。そこにはわたしたちも含まれていて、それらの存在は、互いに作用し合うことによって立ち現れる。わたしたちは、この網について論じているのだ。(『世界は「関係」でできている』より)

何ものもそれ自体では存在しないとすると、あらゆるものは別の何かに依存する形で、別の何かとの関係においてのみ存在することになる。ナーガルジュナは、独立した存在があり得ないということを、「空」(シューニャター)という専門用語で表している。
(小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』の「龍樹」項より)

 「互いに作用し合う存在の広大な網=空」の中に自己投棄する――それが坐禅の極意ということか。


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本堂内部


※本記事は講座を聴いたソルティの主観的解釈に過ぎません。実際の講座の主旨とは異なる可能性大。あしからず。

















● 9.27安倍元首相国葬反対デモ@国会議事堂

 国葬モドキが行われている武道館から、およそ2キロ離れた国会議事堂前に13:40に到着。
 すでに正門に続く両並木の歩道は人でいっぱい。
 通り道をつくるため歩道の幅が半分に区切られて、参加者スペースが狭くされているのがもどかしい。
 ソルティは、8.31デモの時と同じ、議事堂の左翼側の最前列に場所を取った。

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 開始を待っていると、様々なプラカードや幟を掲げた人が目の前を通り過ぎていく。
 やはり手作りの物には味がある。

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 14時スタート。
 野党代表や憲法学者、従軍慰安婦の支援者、在日ミャンマー人の活動家、浄土真宗僧侶、カトリックの作家、演劇人、田中優子法政大学前総長等々、今回も多方面からの色々なスピーチが続いた。
 このスピーカーの多様性が意味するものは、ただ一つ。
 ここ数年の安倍元首相の民主主義を無視した強権政治に、みんな怒っていたのだ!

 一番びっくりしたのは、伝説的フォーク歌手・小室等の登壇。
 詩人の谷川俊太郎『死んだ男の残したものは』や中原中也『サーカス』の詩に曲をつけた歌など、何曲かギター片手に歌ってくれた。
 かなりのお歳だと思うが、しっかりした声と息で、朗々と歌いあげた。さすがプロ!
 中で、「あれ?この歌はたしか往年の人気時代劇『木枯し紋次郎』のテーマソングでは・・・?」と、思わず懐かしさが込み上げてくる歌があった。
 スマホで調べてみると、上条恒彦が歌った『だれかが風の中で』は、作詞が市川崑監督夫人で脚本家の和田夏十、作曲が小室等であった。
 知らなかった。
 この人の登場で、なんか空気は一気に70年安保に戻ったような感があった。(と言ってソルティは当時まだ小学生だったが・・・)

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 その間も参加者はどんどん増えていき、最終的には15,000人に膨れ上がった。
 8.31のデモの時の3倍以上だ。
 中高年ばかりでなく、学生など若い人の姿も見られた。
 世代を超えた輪が広がっている感触がある。
 ソルティはデモというものに参加するようになって四半世紀以上経つが、今回のデモに最も雰囲気が近いと思ったのは、90年代半ばに日本中でうねりが起こった薬害エイズ訴訟支援である。
 あのときは本当に、老若男女が、右と左の立場も超えて、一丸となって国に対して怒りの声を上げた。(デモの群衆の中には、小林よしのりや櫻井よしこの姿もあった)

 国葬が終わったからと言って、問題が解決したわけではない。
 統一協会との癒着、2020東京オリンピックを巡る汚職、追及すべきことは沢山ある。
 どうやら政治の季節がまた到来したようだ。
 

 
 

● 市民憲法講座:『憲法と国葬について考える』を聴く


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日時 2022年9月24日(土)18:30~20:30
会場 文京区民センター(東京都文京区)
講師 石村修(専修大学名誉教授・憲法ネット103)
主催 許すな!憲法改悪・市民連絡会

 ソルティが安倍元首相の国葬に反対する一番の理由は、「国葬するにふさわしい人と思えない」に尽きる。
 統一協会と、自民党安倍派を筆頭とする国会議員たちとの癒着を推し進めた親玉だったのだから、国を挙げて国税を丸々使って葬儀するなんて、とんでもないことである。
 それがなくとも、「モリ・カケ・サクラ」の疑惑は払拭されないままだ。
 安倍さんが日本のために他にどんないいことをしていたとしても、差し引きすればマイナスだろう。
 大平首相の亡くなった時のように、自民党と内閣で送れば十分だと思う。

 決定過程にも大きな問題がある。
 日本国憲法下では日本国の象徴である天皇だけに認められている国葬を、長期政権を維持した首相とは言え、法的には我々と同じ一国民に過ぎない人間に適用するにあたって、閣議決定のみで決めるというのはあまりにおかしい。
 それなら、日本国民の誰でも――山口組組長でも山上徹也容疑者でも志位和夫共産党委員長でも森喜朗元首相でも――閣議決定だけで国葬できることになってしまうではないか。
 岸田首相は、内閣府設置法4条を盾に「法的根拠がある」としたいようだが、そこまでの権限を内閣に与えたつもりはない。
 その人が「国葬にふさわしいかどうか」を決めるのはあくまでも国民であるべきだ。
 であるなら、民意の代表である国会にかけるのが自明の理。
 内閣は民意の代表ではない。
 現在与党が過半数を占める国会にかけたら、「安倍元首相の国葬」は賛成多数で可決されるかもしれないが、その場合、こうまで国民の反対の声が大きくなることはなかったであろう。
 民主主義尊重の手続きを怠ったところは容認できない。

 しかしながら、対象が安倍元首相ではなく、ソルティが個人的に「国葬するにふさわしい」と思える人――たとえば中村哲医師(2019年12月4日逝去)とか緒形貞子(2019年12月22日逝去)とか――であった場合を想定したとき、決定過程の不自然さを今回のように追及するかと訊かれたら、正直のところそうでもないかもしれない。(こうしたダブルスタンダードは本来よろしくない)
 つまり、ソルティの反対理由の最たるものは、やはり、「安倍元首相は国葬にふさわしい人物ではない」という点にあるのだ。
 で、こんな人物評定みたいなことをしなくちゃならないのは、安倍昭恵さんはじめ悲しみにくれている遺族のことを思うと、ほんとは嫌なんである。
 故人の悪口なんか大っぴらに言いたくない。
 多くの国民がそうせずにはいられないような状況を作ってしまった点で、現内閣は大いなる失策をしたと同時に、安倍元首相及び遺族を無用に傷つけてしまったと言うべきだろう。

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 いくぶんに主観的な安倍元首相の人物評・政治家評はともかく、客観的な法的根拠については、実際のところどうなんだろう?
 それが気になって、物凄い雷雨の中、本講座を聴きに行った。
 文京区民センターは、地下鉄春日駅・後楽園駅のすぐ近く。
 参加者は30名弱であった。

 国葬の定義(「国家が主催して、国家がすべての費用を支払う葬儀」)から始まって、明治維新以降の国葬の歴史、大正15年に制定された「国葬令」の中味、日本国憲法施行以降の国葬の事例、そして法的根拠の如何などが、配布資料をもとに語られた。
 初めて知って驚いたのが、大久保利通(明治11年)、岩倉具視(明治16年)、明治天皇(大正元年)、昭憲皇太后(大正3年)らに並んで、大正8年に李太王、大正15年に李王の元韓国皇帝2人が国葬されていたことである!
 これは、当時朝鮮半島が日本の植民地になっていて、2人の国王が日本政府の傀儡だったことによる。朝鮮半島支配に利するべく、国葬を悪用したわけである。
 この史実、日本はもとより韓国の歴史教科書にも載っていないそうだ。

 さて、法的根拠を議論する上でポイントとなるのは、1947年日本国憲法施行とともにそれまであった「国葬令」は効力を失ったのだが、その際、新たに法律を作らなかった点である。
 ここで「国葬に関する法律」というのを作って、「誰を対象とするか、どうやって決定するか」など委細決めておけば、その後の混乱は生じなかった。
 その法律を制定しなかったので、その後、皇室典範が適用される昭和天皇崩御(1989年)の場合を除く貞明皇后(大正天皇后)・吉田茂元首相・香淳皇后(昭和天皇妃)の逝去に際して、法的根拠を曖昧にしたまま「準国葬」とか「国葬の儀」といったネーミングでごまかした「国葬モドキ」が実施されたのである。
 もっとも重要なことを曖昧にして(棚上げして)おいて、いざとなったらあたふたとし、場当たり的な対応でごまかす――これは日本人の悪い癖であろう。
 いずれにせよ、答えは明らか。
 明確な、万人が納得できる法的根拠は存在しない。

 加えて石村氏は、9/27の安倍元首相の国葬が「実体的憲法違反」になる可能性に関して、以下の5つを指摘した。(配布資料より抜粋)
  1. 平等原則違反(憲法14条)・・・国葬の実施は、人の死に価値順列をつけることにより、国民を等しく扱うものではない。
  2. 財政立憲主義違反(同83条)・・・国葬の実施は、金額が多いこと、緊急性が薄いこと、法令に根拠がないことを考慮して、国会の審議・議決を必要とする。
  3. 国民の内心の自由の侵害(同19条)・・・国葬が実施されることに伴い、行政機関、地方自治体、私的団体によって、国民に一定の強制行為が促されるおそれがある。この行為がなされた場合には、思想・良心の侵害があったとして、損害賠償の請求が求められる。
  4. 政教分離違反(同20条3項)・・・国葬の実施と絡んでなんらかの宗教的な要素が介在した場合には、国民の信教の自由が侵害され、国家が特定の宗教を助長したものとして、政教分離違反になるおそれがある。 
  5. 国葬への反対行動への規制(同21条)・・・国葬当日、会場周辺にて反対行動を行うことが制限された場合、特定の内容の危険性のない行為まで根拠なく制限することは、表現の自由侵害となりうる。

 最後に、石村氏は次のように聴衆に投げかけた。
「そもそも、国家が先頭に立って何かをするというやり方は、いい加減止めた方がいいのではないでしょうか? その最たるものが戦争ではないでしょうか?」

 故人が国葬にふさわしいか否かを問うのでもなく、国葬の決定に法的根拠があるか否かを如何するのでもなく、大喪の礼を含めた国葬そのものの是非を問うという視点。
 ソルティは、そこまでは突き詰めていなかったな・・・・・。

 9月27日は半休取って、国会議事堂前に詰めるつもりでいる。

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● 9.19大集会「さようなら戦争 さようなら原発」デモに行く

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 関東地方にも台風が接近中。
 午前中は地元も都内も大雨だったので、行くか止めるか迷ったが、正午すぎたら雨が止んで空が明るくなってきた。
 急いで身支度をして、家を出た。

 JR山手線を原宿駅で降りると、明治神宮前から集会場所の代々木公園野外ステージまで続く長い列ができていた。
 到着すると、ステージではプレコンサートが始まっていた。

 会場を埋め尽くす人、人、人。
 風にはためくカラフルな幟(のぼり)、思い思いのメッセージが書かれたプラカード。
 主催者発表では13,000人参加とのこと。
 やはり、安倍元首相の国葬問題がオールド左翼たちの心に火をつけた模様。

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 13:30から始まった集会は、
  • 野党各党の国会議員
  • 作家の落合恵子
  • 改憲問題対策に取り組む弁護士
  • 国葬反対を訴える若者グループ代表
  • 労組関係者
  • 福島原発反対運動の代表
  • 辺野古基地反対運動の代表
  • ルポライターの鎌田慧  
 など、15名くらいがスピーチした。
 聞いていて「上手いな」と思うスピーチのポイントは、「簡潔な言葉、声の強弱と抑揚の変化、聴衆を引き込む“間”の活用、結論を先に言う」であると思った。
 その間、雨は降ったり止んだりしていたが、強く降ることも、長く続くことも、なかった。
 直前までの大雨を思うと、お天道様が味方してくれているような気がした。

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ソルティお手製「国葬反対アンブレラ」

 15:00から待ちに待ったデモ行進。
 原宿コースと渋谷コースに分かれた。
 ソルティはLGBTパレードで勝手知ったる渋谷コースを選んだ。
 公園通り→渋谷ハチ公前→明治通り→神宮通り公園前、と歩く。 
 NHKホールの脇で出発を待っていると、狐の嫁入り(天気雨)となった。
 我々の本気度を試しているのか、お天道様よ!?

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デモの出発を待つ参加者たち

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 歩き始めるや雨はすっかり上がって、渋谷の街に若者があふれ出した。
 中高年ばかりのデモ行進を奇異な目で見ている様子。
 LGBTパレードの時は、手を振って笑顔で応援してくれたものだが・・・。
 でもね、戦争に取られるのはわしらジジババではない、君たちなんだ!

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 「原発反対!」
 「戦争反対!」
 「国葬反対!」
 「憲法改悪、絶対反対!」
 「原発は原爆だ!」
 「子どもを守れ!」

 シュプレヒコールがビルの谷間にこだました。

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● トランス波、襲来!? 『装いの力 異性装の日本史』展(松濤美術館)


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 コロナ世になってはじめての渋谷。
 ミキ・デザキのドキュメンタリー映画『主戦場』を見に行って以来だから、3年ぶりか。
 あれから日本の政治状況はずいぶん変わったが、渋谷駅周辺の変わりようにもぶったまげる。
 来るたびに新しい高層ビルが増えていく。
 渋谷交差点の四方八方から押し寄せる人波と、波をかき分けて進む船の舳先のような109ビルのたたずまいは、相変わらずであった。

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渋谷駅ハチ公口

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渋谷交差点と109ビル

 109の右側の坂を上がって東急デパートの左手の道を10分ほど歩けば、渋谷区立松濤(しょうとう)美術館に着く。
 今日は、9/3から開催されている上記の展示が目的。
 ちょうど三橋順子『歴史の中の多様な「性」』を読んだばかりで、グッドタイミングであった。
 今回の展示は「多様な性」の中でも、とくにトランスジェンダーに焦点を当てたものと言うことができる。
 新しい奇抜なモードの発祥地であり、LGBTパレードが毎年開かれる渋谷という街に、まさにピッタリの催し。
 土日は予約が必要なほど混みあうらしいが、ソルティが行ったのは平日の昼間だったので、存分に見学することができた。
 が、それでも館内の人の列は途絶えることなかった。
 トランス波、来てる~!


 闘いにあたって女装したヤマトタケルや武装した神功皇后の逸話がある神代の昔から始まって、王朝時代の男女入替え譚である『とりかえばや物語』やお寺の稚児さん、木曽義仲の愛妾にして女武士・巴御前、江戸時代の若衆(陰間)や歌舞伎の女形、村の祭礼における男装女装の習俗、そして文明開化から現代までのトランスジェンダーの歴史が、絵巻物のように紐解かれる。
 絵画あり、古文書あり、写真あり、武具や衣装あり、マンガや動画あり、オブジェありのバラエティ豊かな展示であった。

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2階フロアのオブジェ
現代のトランスジェンダーたち

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 マンガの例としては、手塚治虫『リボンの騎士』のサファイア、池田理代子『ベルサイユのばら』のオスカル、江口寿史『ストップ‼ ひばりくん ! 』が挙げられていた。
 どれもTVアニメ化されるほどの人気を得た。
 自分が幼い頃から異性装アニメを普通に観て育ってきたことに、今さらながら気づかされる。(付け加えるなら『マジンガーZ』のアシュラ男爵・・・)
 それはなるほど我が国の庶民レベルでのトランスジェンダー“表現”に対する寛容度を示すものに違いない。
 が同時に、日常空間におけるジェンダー規定の厳格さをも意味しているのだと思う。
 つまり、男と女の差がきっぱりと分かれている社会だからこそ、そこを越境する主人公の非日常的振る舞いが視聴者を惹きつけるドラマになり、感動を呼び得るのである。

 非日常を許容する日常、あるいは非日常(ハレ)によって刷新される日常(ケ)――みたいなものが日本文化の伝統として、また社会維持の仕掛けとして、存在したんじゃないか。トランスジェンダー的なものはその触媒として働いたんじゃないか、と思う。
 
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おすすめ度 :★★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 
 

● 8.31 国葬反対デモに行く

 久しぶりにデモに行った。
 コロナ世になってからはじめてである。
 感染力の高いオミクロンが爆発している中、都心に行って人混みに雑じるのは避けたいところだけれど、このデモばかりは行かなくては、と思った。
 4回目のワクチンは打った。
 マスクをして、その上から眼鏡タイプのフェイスシールドをして、人と喋らないようにしよう。
 人の密集していないところで静かにデモに参加しよう。
 そう考えて、18時に国会議事堂に足を運んだ。

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国会議事堂の左翼側に場所をとる

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道路の反対側(右翼側)にステージ

 さすがに8月も終わり。
 日中こそ残暑厳しかったが、夕刻になると都心にも涼しい風が吹き、暑くもなく寒くもなく、外の集会にはおあつらえ向きであった。
 あちこちからやって来た個人や団体で議事堂前の並木道はまたたく間に埋まった。
 主催者発表によると4000人の参加。
 パッと見、50代以上がほとんどのようだった。

 反原発デモの時はもっと若い世代が多かった。
 やはり桜田淳子を知っている世代と知らない世代とでは旧・統一協会に対するイメージが違うのだろうか。
 考えてみれば、今の20代――下手すると30代も――は95年にあったオウム真理教事件すら記憶にないわけで、宗教カルトの怖ろしさがピンとこないのかもしれない。
 もっとも今日は平日。休日ならばもっと若い世代や家族連れの参加もあるかもしれない。
 
 参加者の士気を高めるちょっとしたギターコンサートのあとに、集会は始まった。
  • シュプレヒコール・・・「国葬反対」「モリカケサクラを忘れるな」「歴史の改竄、許さない」「統一協会、癒着を許すな」等々
  • 日本共産党・小池晃のスピーチ
  • 社民党・福島みずほのスピーチ
  • 立憲民主党・阿部知子のスピーチ
  • NPO法人「mネット 民法改正情報ネットワーク」スタッフのスピーチ
  • NPO法人「アジア女性資料センター」スタッフのスピーチ 
  • 上智大学の政治学者・中野晃一のスピーチ
 小池、福島両氏のスピ―チはさすがに上手かった。簡潔にして迫力がある。
 二つのNPO法人が訴えたのは奇しくも同じテーマで、ずばり「ジェンダーとセクシュアリティ」。
 選択的夫婦別姓制度、同性婚法制化、学校における性教育・・・・これらの政策が、旧・統一協会の教義と結びつくような形で自民党とりわけ安倍派によって否定され、推進を阻まれてきた経緯が語られた。
 そうなのだ。旧・統一協会の自民党への浸透が深まるほどに、性教育バッシングは強くなった。
 当時HIV関連のNPOで働いていて、学校にエイズ教育の講師として行くことの多かったソルティは、それを肌で感じていた。
 小学校でエイズの話をするとき、「エイズは輸血や母子感染によってうつります」以外の感染経路の話はしてくれるな、というところが多かった。

 アジア女性資料センターのスピーチで傾聴すべきは、「たとえ旧・統一協会の影響がなかったとしても、これらの政策を日本で推進するのは難しい。それは、我が国にはいまだに男性上位の異性愛者中心社会という枠が根強くあるからで、ジェンダーやセクシュアリティについての認識が大きく変貌しようとしている現在、保守層をはじめ不安を感じている人が多くいる」との発言。
 デモに参加していた男たちは神妙に聞いていた様子。
 中には「国葬の是非とは関係ないじゃないか」と思った人もいたかもしれない。

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配布されていたポスター

 こうした左派のデモにおいて、様々な反権力的活動をしている団体が「ここぞとばかり」にそれぞれの活動情報や近々開催するイベントのチラシを参加者に配布するのは、いつものことである。(クラシックコンサートの入場時を想起する)
 ソルティも有楽町線・永田町駅から国会議事堂前に行くまでの数百メートルで、20枚以上のチラシを渡されるがままに受け取った。
 沖縄問題、ウクライナ問題、憲法9条問題、「日の丸・君が代」問題、講演会『江戸から見た人権』チラシ(講師は『カムイ外伝講義』の田中優子氏)、福島原発による放射線被害の問題、革マル派(まだやってる!)のアジビラ・・・・等々。
 面白かったのは、「レイバーネット日本川柳班」という団体が配布していた「世直し川柳かわら版」。
 秀逸なのをいくつか紹介する。

 カネと票掴み壺から手が抜けぬ
 国葬は国を葬ることなんか
 信じる者救われなかった夏の空

 最後にもう一度みんなでシュプレヒコールをして19時過ぎに解散した。
 9月27日まで国葬反対デモが続く。
 でき得る限り参加したい。


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月(MOON)の光に浸る国会議事堂

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皇居の外堀と日比谷のビル





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