ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

イベント(講演・集会等)

● 仏教セミナー『坐禅に学ぶ身心の調い』(藤田一照×細川晋輔対談)


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芝増上寺と東京タワー

日時 2022年9月24日(土)14:00~15:30
会場 大本山増上寺 慈雲閣ホール
講師 藤田一照(曹洞宗僧侶)、細川晋輔(臨済宗僧侶)
主催 一般社団法人 日本仏教讃仰会

 首都圏に長いこと暮らしながら、芝増上寺には一度も行ったことがなかった。
 NHK『ゆく年くる年』でよく登場するお寺である。
 有名人の葬儀が行われる場所としても知られていて、最近ではむろん、安倍元首相が7月12日に弔われた。
 ここで日本仏教讃仰会主催のセミナーが2年ぶりに開かれる、しかも講師の一人は機会あったら話を聞きたいと思っていた藤田一照氏。
 台風通過後の不安定な空模様であったが、行ってみた。

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増上寺大門

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三解脱門
三つの煩悩(貪・瞋・痴)を解脱する門の意


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本殿
本尊は阿弥陀如来像

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法然上人
増上寺は浄土宗の七大本山の一つ

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本殿から見た浜松町

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会場となった慈雲閣

 広い境内の一角にある慈雲閣1階ホールが会場。
 参加者は50~60名であった。
 藤田一照氏は1954年生まれの68歳、細川晋輔氏は1979年生まれの42歳。
 親子ほど違う年齢差、禅僧としての経験の違い、あるいは知名度なんかもあって、対談とは言え、全般的には藤田氏の坐禅観を細川氏が合の手を入れながら引き出して展開する、といった流れであった。

 実際、藤田氏は話上手で、知識はもちろん米国での長い布教生活など話の引き出しが多く、話しぶりにもアメリカンな率直さを感じた。
 細川氏によれば、藤田氏の坐禅観は伝統的なそれとは大分異なっていて、「いま禅業界(?)に革命を起こしている」のだという。
 
 タイトルにある「身心の調い」というところから話は始まった。
 この「調い」は、「整い」とは違って、英語で言えばharmonize あるいは balance に近い。
 身心を制御(control, regulate)して自己をあるべき理想に近づけようとするのではなく、身心と周りとの関係の調和をはかる営為だという。
 悟りを求めて一心不乱に修行するのが伝統的な坐禅イメージとするなら、「あらゆるものとの関係性の中にある自分の身心に気づく」といったイメージになろうか。
 
 続いて、「健康」とはなにかという話。
 細川氏によると、「“けんこう”はもともと“堅剛”と書いた。それに“健康”という字を最初に当てたのは白隠禅師」とのこと。
 その振りを受けた藤田氏は、「健」「康」という漢字が、「手に筆をまっすぐ持っている」さまを表した象形文字から生まれたと解説し、健康を「本来の働きがしっかり現れている体と心」と定義した。
 坐禅とは、身心を調えて健康になること、すなわち、本来の働きをしっかり有らしめることなのだ。

 次に、藤田氏が今の坐禅観にたどりつくようになった経緯が語られた。
 野口体操や鍼灸や漢方との出会い、アメリカ生活で実践したボディワークやマインドフルネス。
 東洋と西洋の身体観、身心観がバックボーンとなったとのこと。
 なるほど、藤田氏はマインドフルネスの唱導者ティク・ナット・ハンの本を訳している。
 
 最後に、坐禅によって調えるべき3つについてまとめられた。
  1.  調身・・・・大地とのつながりの調和の探究
  2.  調息・・・・大気とのつながりの調和の探究
  3.  調心・・・・六感(眼耳鼻舌身意=視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・心に触れるもの)とのつながりの調和の探究
 坐禅は自己と周囲との「関係の調律」なのであるが、言うまでもなく、自己も周囲も一瞬一瞬変動している(諸行無常である)。
 つまり、一坐一坐が毎回、未知の探究になる。
 だから、坐禅は標準化もマニュアル化もできない。

 話を聴きながら思い起こしたのは、カルロ・ロヴェッリ著『世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論』(2021年NHK出版)であった。
 量子の奇妙な振る舞いの説明として「関係論的解釈」を唱えた画期的な書であるが、その中で著者は、関係論的解釈と古代インドの仏教学者ナーガルジュナ(龍樹)の「空の思想」を結び付けていた。

一つ一つの対象物は、その相互作用のありようそのものである。ほかといっさい相互作用を行なわない対象物、何にも影響を及ぼさず、光も発せず、何も引きつけず、何もはねつけず、何にも触れず、匂いもしない対象物があったとしたら・・・・・その対象物は存在しないに等しい。(中略) わたしたちが知っているこの世界、わたしたちと関係があってわたしたちの興味をそそる世界、わたしたちが「現実」と呼んでいるものは、互いに作用し合う存在の広大な網なのである。そこにはわたしたちも含まれていて、それらの存在は、互いに作用し合うことによって立ち現れる。わたしたちは、この網について論じているのだ。(『世界は「関係」でできている』より)

何ものもそれ自体では存在しないとすると、あらゆるものは別の何かに依存する形で、別の何かとの関係においてのみ存在することになる。ナーガルジュナは、独立した存在があり得ないということを、「空」(シューニャター)という専門用語で表している。
(小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』の「龍樹」項より)

 「互いに作用し合う存在の広大な網=空」の中に自己投棄する――それが坐禅の極意ということか。


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本堂内部


※本記事は講座を聴いたソルティの主観的解釈に過ぎません。実際の講座の主旨とは異なる可能性大。あしからず。

















● 9.27安倍元首相国葬反対デモ@国会議事堂

 国葬モドキが行われている武道館から、およそ2キロ離れた国会議事堂前に13:40に到着。
 すでに正門に続く両並木の歩道は人でいっぱい。
 通り道をつくるため歩道の幅が半分に区切られて、参加者スペースが狭くされているのがもどかしい。
 ソルティは、8.31デモの時と同じ、議事堂の左翼側の最前列に場所を取った。

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 開始を待っていると、様々なプラカードや幟を掲げた人が目の前を通り過ぎていく。
 やはり手作りの物には味がある。

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 14時スタート。
 野党代表や憲法学者、従軍慰安婦の支援者、在日ミャンマー人の活動家、浄土真宗僧侶、カトリックの作家、演劇人、田中優子法政大学前総長等々、今回も多方面からの色々なスピーチが続いた。
 このスピーカーの多様性が意味するものは、ただ一つ。
 ここ数年の安倍元首相の民主主義を無視した強権政治に、みんな怒っていたのだ!

 一番びっくりしたのは、伝説的フォーク歌手・小室等の登壇。
 詩人の谷川俊太郎『死んだ男の残したものは』や中原中也『サーカス』の詩に曲をつけた歌など、何曲かギター片手に歌ってくれた。
 かなりのお歳だと思うが、しっかりした声と息で、朗々と歌いあげた。さすがプロ!
 中で、「あれ?この歌はたしか往年の人気時代劇『木枯し紋次郎』のテーマソングでは・・・?」と、思わず懐かしさが込み上げてくる歌があった。
 スマホで調べてみると、上条恒彦が歌った『だれかが風の中で』は、作詞が市川崑監督夫人で脚本家の和田夏十、作曲が小室等であった。
 知らなかった。
 この人の登場で、なんか空気は一気に70年安保に戻ったような感があった。(と言ってソルティは当時まだ小学生だったが・・・)

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 その間も参加者はどんどん増えていき、最終的には15,000人に膨れ上がった。
 8.31のデモの時の3倍以上だ。
 中高年ばかりでなく、学生など若い人の姿も見られた。
 世代を超えた輪が広がっている感触がある。
 ソルティはデモというものに参加するようになって四半世紀以上経つが、今回のデモに最も雰囲気が近いと思ったのは、90年代半ばに日本中でうねりが起こった薬害エイズ訴訟支援である。
 あのときは本当に、老若男女が、右と左の立場も超えて、一丸となって国に対して怒りの声を上げた。(デモの群衆の中には、小林よしのりや櫻井よしこの姿もあった)

 国葬が終わったからと言って、問題が解決したわけではない。
 統一協会との癒着、2020東京オリンピックを巡る汚職、追及すべきことは沢山ある。
 どうやら政治の季節がまた到来したようだ。
 

 
 

● 市民憲法講座:『憲法と国葬について考える』を聴く


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日時 2022年9月24日(土)18:30~20:30
会場 文京区民センター(東京都文京区)
講師 石村修(専修大学名誉教授・憲法ネット103)
主催 許すな!憲法改悪・市民連絡会

 ソルティが安倍元首相の国葬に反対する一番の理由は、「国葬するにふさわしい人と思えない」に尽きる。
 統一協会と、自民党安倍派を筆頭とする国会議員たちとの癒着を推し進めた親玉だったのだから、国を挙げて国税を丸々使って葬儀するなんて、とんでもないことである。
 それがなくとも、「モリ・カケ・サクラ」の疑惑は払拭されないままだ。
 安倍さんが日本のために他にどんないいことをしていたとしても、差し引きすればマイナスだろう。
 大平首相の亡くなった時のように、自民党と内閣で送れば十分だと思う。

 決定過程にも大きな問題がある。
 日本国憲法下では日本国の象徴である天皇だけに認められている国葬を、長期政権を維持した首相とは言え、法的には我々と同じ一国民に過ぎない人間に適用するにあたって、閣議決定のみで決めるというのはあまりにおかしい。
 それなら、日本国民の誰でも――山口組組長でも山上徹也容疑者でも志位和夫共産党委員長でも森喜朗元首相でも――閣議決定だけで国葬できることになってしまうではないか。
 岸田首相は、内閣府設置法4条を盾に「法的根拠がある」としたいようだが、そこまでの権限を内閣に与えたつもりはない。
 その人が「国葬にふさわしいかどうか」を決めるのはあくまでも国民であるべきだ。
 であるなら、民意の代表である国会にかけるのが自明の理。
 内閣は民意の代表ではない。
 現在与党が過半数を占める国会にかけたら、「安倍元首相の国葬」は賛成多数で可決されるかもしれないが、その場合、こうまで国民の反対の声が大きくなることはなかったであろう。
 民主主義尊重の手続きを怠ったところは容認できない。

 しかしながら、対象が安倍元首相ではなく、ソルティが個人的に「国葬するにふさわしい」と思える人――たとえば中村哲医師(2019年12月4日逝去)とか緒形貞子(2019年12月22日逝去)とか――であった場合を想定したとき、決定過程の不自然さを今回のように追及するかと訊かれたら、正直のところそうでもないかもしれない。(こうしたダブルスタンダードは本来よろしくない)
 つまり、ソルティの反対理由の最たるものは、やはり、「安倍元首相は国葬にふさわしい人物ではない」という点にあるのだ。
 で、こんな人物評定みたいなことをしなくちゃならないのは、安倍昭恵さんはじめ悲しみにくれている遺族のことを思うと、ほんとは嫌なんである。
 故人の悪口なんか大っぴらに言いたくない。
 多くの国民がそうせずにはいられないような状況を作ってしまった点で、現内閣は大いなる失策をしたと同時に、安倍元首相及び遺族を無用に傷つけてしまったと言うべきだろう。

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 いくぶんに主観的な安倍元首相の人物評・政治家評はともかく、客観的な法的根拠については、実際のところどうなんだろう?
 それが気になって、物凄い雷雨の中、本講座を聴きに行った。
 文京区民センターは、地下鉄春日駅・後楽園駅のすぐ近く。
 参加者は30名弱であった。

 国葬の定義(「国家が主催して、国家がすべての費用を支払う葬儀」)から始まって、明治維新以降の国葬の歴史、大正15年に制定された「国葬令」の中味、日本国憲法施行以降の国葬の事例、そして法的根拠の如何などが、配布資料をもとに語られた。
 初めて知って驚いたのが、大久保利通(明治11年)、岩倉具視(明治16年)、明治天皇(大正元年)、昭憲皇太后(大正3年)らに並んで、大正8年に李太王、大正15年に李王の元韓国皇帝2人が国葬されていたことである!
 これは、当時朝鮮半島が日本の植民地になっていて、2人の国王が日本政府の傀儡だったことによる。朝鮮半島支配に利するべく、国葬を悪用したわけである。
 この史実、日本はもとより韓国の歴史教科書にも載っていないそうだ。

 さて、法的根拠を議論する上でポイントとなるのは、1947年日本国憲法施行とともにそれまであった「国葬令」は効力を失ったのだが、その際、新たに法律を作らなかった点である。
 ここで「国葬に関する法律」というのを作って、「誰を対象とするか、どうやって決定するか」など委細決めておけば、その後の混乱は生じなかった。
 その法律を制定しなかったので、その後、皇室典範が適用される昭和天皇崩御(1989年)の場合を除く貞明皇后(大正天皇后)・吉田茂元首相・香淳皇后(昭和天皇妃)の逝去に際して、法的根拠を曖昧にしたまま「準国葬」とか「国葬の儀」といったネーミングでごまかした「国葬モドキ」が実施されたのである。
 もっとも重要なことを曖昧にして(棚上げして)おいて、いざとなったらあたふたとし、場当たり的な対応でごまかす――これは日本人の悪い癖であろう。
 いずれにせよ、答えは明らか。
 明確な、万人が納得できる法的根拠は存在しない。

 加えて石村氏は、9/27の安倍元首相の国葬が「実体的憲法違反」になる可能性に関して、以下の5つを指摘した。(配布資料より抜粋)
  1. 平等原則違反(憲法14条)・・・国葬の実施は、人の死に価値順列をつけることにより、国民を等しく扱うものではない。
  2. 財政立憲主義違反(同83条)・・・国葬の実施は、金額が多いこと、緊急性が薄いこと、法令に根拠がないことを考慮して、国会の審議・議決を必要とする。
  3. 国民の内心の自由の侵害(同19条)・・・国葬が実施されることに伴い、行政機関、地方自治体、私的団体によって、国民に一定の強制行為が促されるおそれがある。この行為がなされた場合には、思想・良心の侵害があったとして、損害賠償の請求が求められる。
  4. 政教分離違反(同20条3項)・・・国葬の実施と絡んでなんらかの宗教的な要素が介在した場合には、国民の信教の自由が侵害され、国家が特定の宗教を助長したものとして、政教分離違反になるおそれがある。 
  5. 国葬への反対行動への規制(同21条)・・・国葬当日、会場周辺にて反対行動を行うことが制限された場合、特定の内容の危険性のない行為まで根拠なく制限することは、表現の自由侵害となりうる。

 最後に、石村氏は次のように聴衆に投げかけた。
「そもそも、国家が先頭に立って何かをするというやり方は、いい加減止めた方がいいのではないでしょうか? その最たるものが戦争ではないでしょうか?」

 故人が国葬にふさわしいか否かを問うのでもなく、国葬の決定に法的根拠があるか否かを如何するのでもなく、大喪の礼を含めた国葬そのものの是非を問うという視点。
 ソルティは、そこまでは突き詰めていなかったな・・・・・。

 9月27日は半休取って、国会議事堂前に詰めるつもりでいる。

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● 9.19大集会「さようなら戦争 さようなら原発」デモに行く

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 関東地方にも台風が接近中。
 午前中は地元も都内も大雨だったので、行くか止めるか迷ったが、正午すぎたら雨が止んで空が明るくなってきた。
 急いで身支度をして、家を出た。

 JR山手線を原宿駅で降りると、明治神宮前から集会場所の代々木公園野外ステージまで続く長い列ができていた。
 到着すると、ステージではプレコンサートが始まっていた。

 会場を埋め尽くす人、人、人。
 風にはためくカラフルな幟(のぼり)、思い思いのメッセージが書かれたプラカード。
 主催者発表では13,000人参加とのこと。
 やはり、安倍元首相の国葬問題がオールド左翼たちの心に火をつけた模様。

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 13:30から始まった集会は、
  • 野党各党の国会議員
  • 作家の落合恵子
  • 改憲問題対策に取り組む弁護士
  • 国葬反対を訴える若者グループ代表
  • 労組関係者
  • 福島原発反対運動の代表
  • 辺野古基地反対運動の代表
  • ルポライターの鎌田慧  
 など、15名くらいがスピーチした。
 聞いていて「上手いな」と思うスピーチのポイントは、「簡潔な言葉、声の強弱と抑揚の変化、聴衆を引き込む“間”の活用、結論を先に言う」であると思った。
 その間、雨は降ったり止んだりしていたが、強く降ることも、長く続くことも、なかった。
 直前までの大雨を思うと、お天道様が味方してくれているような気がした。

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ソルティお手製「国葬反対アンブレラ」

 15:00から待ちに待ったデモ行進。
 原宿コースと渋谷コースに分かれた。
 ソルティはLGBTパレードで勝手知ったる渋谷コースを選んだ。
 公園通り→渋谷ハチ公前→明治通り→神宮通り公園前、と歩く。 
 NHKホールの脇で出発を待っていると、狐の嫁入り(天気雨)となった。
 我々の本気度を試しているのか、お天道様よ!?

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デモの出発を待つ参加者たち

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 歩き始めるや雨はすっかり上がって、渋谷の街に若者があふれ出した。
 中高年ばかりのデモ行進を奇異な目で見ている様子。
 LGBTパレードの時は、手を振って笑顔で応援してくれたものだが・・・。
 でもね、戦争に取られるのはわしらジジババではない、君たちなんだ!

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 「原発反対!」
 「戦争反対!」
 「国葬反対!」
 「憲法改悪、絶対反対!」
 「原発は原爆だ!」
 「子どもを守れ!」

 シュプレヒコールがビルの谷間にこだました。

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● トランス波、襲来!? 『装いの力 異性装の日本史』展(松濤美術館)


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 コロナ世になってはじめての渋谷。
 ミキ・デザキのドキュメンタリー映画『主戦場』を見に行って以来だから、3年ぶりか。
 あれから日本の政治状況はずいぶん変わったが、渋谷駅周辺の変わりようにもぶったまげる。
 来るたびに新しい高層ビルが増えていく。
 渋谷交差点の四方八方から押し寄せる人波と、波をかき分けて進む船の舳先のような109ビルのたたずまいは、相変わらずであった。

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渋谷駅ハチ公口

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渋谷交差点と109ビル

 109の右側の坂を上がって東急デパートの左手の道を10分ほど歩けば、渋谷区立松濤(しょうとう)美術館に着く。
 今日は、9/3から開催されている上記の展示が目的。
 ちょうど三橋順子『歴史の中の多様な「性」』を読んだばかりで、グッドタイミングであった。
 今回の展示は「多様な性」の中でも、とくにトランスジェンダーに焦点を当てたものと言うことができる。
 新しい奇抜なモードの発祥地であり、LGBTパレードが毎年開かれる渋谷という街に、まさにピッタリの催し。
 土日は予約が必要なほど混みあうらしいが、ソルティが行ったのは平日の昼間だったので、存分に見学することができた。
 が、それでも館内の人の列は途絶えることなかった。
 トランス波、来てる~!


 闘いにあたって女装したヤマトタケルや武装した神功皇后の逸話がある神代の昔から始まって、王朝時代の男女入替え譚である『とりかえばや物語』やお寺の稚児さん、木曽義仲の愛妾にして女武士・巴御前、江戸時代の若衆(陰間)や歌舞伎の女形、村の祭礼における男装女装の習俗、そして文明開化から現代までのトランスジェンダーの歴史が、絵巻物のように紐解かれる。
 絵画あり、古文書あり、写真あり、武具や衣装あり、マンガや動画あり、オブジェありのバラエティ豊かな展示であった。

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2階フロアのオブジェ
現代のトランスジェンダーたち

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 マンガの例としては、手塚治虫『リボンの騎士』のサファイア、池田理代子『ベルサイユのばら』のオスカル、江口寿史『ストップ‼ ひばりくん ! 』が挙げられていた。
 どれもTVアニメ化されるほどの人気を得た。
 自分が幼い頃から異性装アニメを普通に観て育ってきたことに、今さらながら気づかされる。(付け加えるなら『マジンガーZ』のアシュラ男爵・・・)
 それはなるほど我が国の庶民レベルでのトランスジェンダー“表現”に対する寛容度を示すものに違いない。
 が同時に、日常空間におけるジェンダー規定の厳格さをも意味しているのだと思う。
 つまり、男と女の差がきっぱりと分かれている社会だからこそ、そこを越境する主人公の非日常的振る舞いが視聴者を惹きつけるドラマになり、感動を呼び得るのである。

 非日常を許容する日常、あるいは非日常(ハレ)によって刷新される日常(ケ)――みたいなものが日本文化の伝統として、また社会維持の仕掛けとして、存在したんじゃないか。トランスジェンダー的なものはその触媒として働いたんじゃないか、と思う。
 
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おすすめ度 :★★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 
 

● 8.31 国葬反対デモに行く

 久しぶりにデモに行った。
 コロナ世になってからはじめてである。
 感染力の高いオミクロンが爆発している中、都心に行って人混みに雑じるのは避けたいところだけれど、このデモばかりは行かなくては、と思った。
 4回目のワクチンは打った。
 マスクをして、その上から眼鏡タイプのフェイスシールドをして、人と喋らないようにしよう。
 人の密集していないところで静かにデモに参加しよう。
 そう考えて、18時に国会議事堂に足を運んだ。

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国会議事堂の左翼側に場所をとる

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道路の反対側(右翼側)にステージ

 さすがに8月も終わり。
 日中こそ残暑厳しかったが、夕刻になると都心にも涼しい風が吹き、暑くもなく寒くもなく、外の集会にはおあつらえ向きであった。
 あちこちからやって来た個人や団体で議事堂前の並木道はまたたく間に埋まった。
 主催者発表によると4000人の参加。
 パッと見、50代以上がほとんどのようだった。

 反原発デモの時はもっと若い世代が多かった。
 やはり桜田淳子を知っている世代と知らない世代とでは旧・統一協会に対するイメージが違うのだろうか。
 考えてみれば、今の20代――下手すると30代も――は95年にあったオウム真理教事件すら記憶にないわけで、宗教カルトの怖ろしさがピンとこないのかもしれない。
 もっとも今日は平日。休日ならばもっと若い世代や家族連れの参加もあるかもしれない。
 
 参加者の士気を高めるちょっとしたギターコンサートのあとに、集会は始まった。
  • シュプレヒコール・・・「国葬反対」「モリカケサクラを忘れるな」「歴史の改竄、許さない」「統一協会、癒着を許すな」等々
  • 日本共産党・小池晃のスピーチ
  • 社民党・福島みずほのスピーチ
  • 立憲民主党・阿部知子のスピーチ
  • NPO法人「mネット 民法改正情報ネットワーク」スタッフのスピーチ
  • NPO法人「アジア女性資料センター」スタッフのスピーチ 
  • 上智大学の政治学者・中野晃一のスピーチ
 小池、福島両氏のスピ―チはさすがに上手かった。簡潔にして迫力がある。
 二つのNPO法人が訴えたのは奇しくも同じテーマで、ずばり「ジェンダーとセクシュアリティ」。
 選択的夫婦別姓制度、同性婚法制化、学校における性教育・・・・これらの政策が、旧・統一協会の教義と結びつくような形で自民党とりわけ安倍派によって否定され、推進を阻まれてきた経緯が語られた。
 そうなのだ。旧・統一協会の自民党への浸透が深まるほどに、性教育バッシングは強くなった。
 当時HIV関連のNPOで働いていて、学校にエイズ教育の講師として行くことの多かったソルティは、それを肌で感じていた。
 小学校でエイズの話をするとき、「エイズは輸血や母子感染によってうつります」以外の感染経路の話はしてくれるな、というところが多かった。

 アジア女性資料センターのスピーチで傾聴すべきは、「たとえ旧・統一協会の影響がなかったとしても、これらの政策を日本で推進するのは難しい。それは、我が国にはいまだに男性上位の異性愛者中心社会という枠が根強くあるからで、ジェンダーやセクシュアリティについての認識が大きく変貌しようとしている現在、保守層をはじめ不安を感じている人が多くいる」との発言。
 デモに参加していた男たちは神妙に聞いていた様子。
 中には「国葬の是非とは関係ないじゃないか」と思った人もいたかもしれない。

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配布されていたポスター

 こうした左派のデモにおいて、様々な反権力的活動をしている団体が「ここぞとばかり」にそれぞれの活動情報や近々開催するイベントのチラシを参加者に配布するのは、いつものことである。(クラシックコンサートの入場時を想起する)
 ソルティも有楽町線・永田町駅から国会議事堂前に行くまでの数百メートルで、20枚以上のチラシを渡されるがままに受け取った。
 沖縄問題、ウクライナ問題、憲法9条問題、「日の丸・君が代」問題、講演会『江戸から見た人権』チラシ(講師は『カムイ外伝講義』の田中優子氏)、福島原発による放射線被害の問題、革マル派(まだやってる!)のアジビラ・・・・等々。
 面白かったのは、「レイバーネット日本川柳班」という団体が配布していた「世直し川柳かわら版」。
 秀逸なのをいくつか紹介する。

 カネと票掴み壺から手が抜けぬ
 国葬は国を葬ることなんか
 信じる者救われなかった夏の空

 最後にもう一度みんなでシュプレヒコールをして19時過ぎに解散した。
 9月27日まで国葬反対デモが続く。
 でき得る限り参加したい。


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月(MOON)の光に浸る国会議事堂

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皇居の外堀と日比谷のビル





● 東京レインボープライド2019

 2年ぶりにパレードに参加、曇りがちで肌寒い渋谷の街を歩いた。

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 何と言っても驚いたのが、参加企業の多さである。
 保険業界、航空業界、IT業界、旅行会社、メガバンク、外資系金融企業・・・。
 就活中の学生が見たら、思わず履歴書持ってブースを駆けずり回りたくなるであろうような、大手有名企業が軒並み出店している。そして、もっか10連休満喫中の社員たちが何十名という規模でパレードに参加している。家庭サービスを兼ねた子供連れ、愛犬連れも多い。

 仕事の為、代々木公園会場に遅れて到着したソルティは、パレードの出発地点で会場のどこかにいるはずの友人と連絡とり合いながら、幾多のフロート(登録グループの塊)が目の前を通過するのを眺めていた。延々と続く人波のおそらく3分の1くらいは企業参加者ではなかったか?
 ここ最近の産業界のLGBT支援ムーブメントは承知していたけれど、もはや事態は後戻りできないところまで来ていると実感した。保守派の一国会議員が「生産性」がどうのこうのとか文句をつけたところで、もうこの流れを押しとどめることはできまい。


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 正直、この勢いは一部当事者の予測すら超えたものになっているのではなかろうか?
 自己肯定するのに長くまどろっこしい時間と上がったり下がったり一進一退の労力を要し、今だって、たとえば同性婚について「人として当然の権利」と主張できるほどの気概と認識は持ちきれないでいる旧世代オヤジゲイにしてみれば、己の頭上を超えて突き進んでいく波のうねりに、嬉しい反面、面映ゆいような、不安なような、不思議な気持がするのであった。

ともあれ、Happy Pride !!


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● 映画:『地獄でなぜ悪い』(園子温監督)

2013年日本
130分

 一世一代の映画を撮ることを夢見ている熱血映画オタクがいる。
 夫を狙う敵対グループの若衆を惨殺し、ムショ入りした極妻がいる。
 母親の起こした事件のため女優の道を断たれた娘がいる。
 娘のスクリーンデビューを夢見る獄中の妻のために、映画製作を決意した組長がいる。
 四者の思いがからみあって、ヤクザの殴り込み現場を撮影する企画が生まれた。
 
 『愛のむきだし』(2009年)で驚嘆した園子温の才能と情熱は、ここでも溢れている。何よりも、國村隼、堤真一、渡辺哲、ミッキー・カーチスというベテラン役者に、ここまで本気の、ここまで自由な芝居をさせることができる人心掌握術に並々ならぬ監督性を感じる。役者を一皮剥かせることのできる演出家ということだ。國村隼はとくに素晴らしくて、ちょっとファンになった。

 ラストの殴り込みシーンの流血ぶりが凄まじい。
 

 直接関係ないが、この映画を見た翌日新宿駅西口を通ったら、刑務所作業製品の販売をやっていた。家具、食品、布製品、石鹸、アクセサリー、文具等々、各地の刑務所内で作られた様々な商品があって、人もそこそこ入っていた。

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ソルティ購入の布製ブックカバー
made in 函館刑務所


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百万円のおみこしも売っていた

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獄産でなぜ悪い?


評価:★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




● シングルベル 初期仏教講演会:『過去からの解放~なぜ「今」をしっかり歩けないのか?~』(演者:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時 2017年12月23日(土)13:30~
会場 なかのZERO小ホール
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 開演前の会場を見渡すと男ばかり。
 はて、なぜ?
 まさかクリスマス・イヴ・イヴの土曜日だからってわけじゃあるまい。仏教徒にクリスマスは関係ないよなあ~。それとも、仏教もキリスト教も関係なく、クリスマスはもはや女の決戦日か? 
 あるいは、本日のテーマのせいなのだろうか?
 「過去からの解放」って言うけれど、どちらかと言えば過去にとらわれがちなのは男のほうだ。別れた昔のパートナーに未練たらたらなのは大抵男のほうだ。つき合う相手の過去にこだわるのも男のほうだ。学歴や職歴や地位といった過去の経歴に執着するのも男のほうだ。そして、年齢を忘れたがるのは女のほうだ。男にくらべれば、女のほうが圧倒的に過去から自由である。とするなら、女にはあまり関心のないテーマなのかもしれない。

 さて、スマナ長老の話をかいつまんで紹介すると、

●過去には2種類ある。一つは、「人が生きてゆく流れ」のことで「何をやったか」という変えることのできない事実(=史実)である。本人だけでなく第三者が客観的に指摘できる類いのものだ。

●もう一つは、史実を貪・瞋・痴の感情で調理し捏造した主観的ストーリーである。人は、自分の過去の出来事を適当に選択して解釈・編集し、「自我」の栄養とも住処ともなる都合のいい物語をつくる。その物語に導かれて生きようとするので、失敗して不幸になる。なぜなら、それは第一の過去の定義である「史実」と一致しないフィクションだから。 

●なぜそういった物語が生まれてしまうのか。それは、我々の認識システムには生得的な欠陥(=無明)があるから。「眼・耳・鼻・舌・身・意」というレセプターに「色・声・香・味・触・法」という外的データが触れたとたん、「快・不快・どちらでもない」といったような好悪・判断が自動的に働いてしまう。

●「快」を求め執着し(=欲)、「不快」を厭い憎悪する(=怒)ことが繰り返されるうちに、一定の判断基準をもった「自我」が生まれる。「自我」はいつも「ありのままの事実」を感情で歪曲してしまう。

●過去とは、主観と感情で捏造した経験と判断の塊である。人は、過去に縛られて苦しむ羽目になる。つまり、自分が掘った苦しみの落とし穴に自分自身で落ちる。まさに自業自得。

●すべての経験は「わたし(自我)」という器に入れられているので、人はどんなに苦しくてもそれを捨てることができなくなっている。

●第一の過去(=史実)と第二の過去(=物語)を区別する方法はいたって簡単。「私は〇〇です」と覚えているすべての記憶は後者である。この幻覚の過去をこそ捨つるべき。
 例.(ソルティ創作)
  第一の過去 「××年前に交通事故にあって、下半身不随になりました」
  第二の過去 「私は交通事故の被害者です」

●第二の過去から解放される最速にして最良の方法は、上記の認識システムに介入し、物語をつくろうとする働きに即座に楔を打つこと。それがヴィパッサナー瞑想である。 

●ヴィパッサナー瞑想を、「人間のすべての行為にはゴール(=目的)が存在しない」という事実を発見して心が変わるまで、そして因果法則を発見するまで、徹底して行ってみることで解脱に達する。

 ・・・・・といった内容であった。


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 人間が、自ら作った「物語」に縛られてほかならぬ自分自身を苦しめている、というのは至極納得がいく。
 たとえば、「クリスマスは家族や恋人と一緒に過ごすのが幸福である」という、おおむねバブル期(80年代)に商業的に作られた物語がある。その物語に子供の頃から洗脳され、信じ込み、周囲とも物語を分かち合い、「クリスマスに独りで過ごす人間」を憐れんだりバカにしたりしていると、今度は自分が「クリスマスに独りで」過ごさざるをえなくなったとき、「クリスマスに独りで過ごす自分=不幸」という烙印を自分自身に適用することになる。
 自分を不幸にするのは自分の思考(=信念=過去)にほかならない。まさに墓穴を掘るというやつだ。

 いったい人はこうした「物語」をどれだけ身内に抱えていることか!
 物語の多くが「むかし、むかし・・・」で始まることが示すように、物語とはまさに過去そのものなのである。
 その意味で、「過去からの解放」とは「物語からの解放」にほかならないわけで、出だしに戻ると、物語に閉じ込められ閉塞しがちなのは――通常のイメージとは違って――女よりもむしろ男なのかもしれない。
 稲垣××のクリスマスソングを引き合いに出すまでもなく、ソルティの周囲を見ても、“シングル”ベルに身もだえるのは、昨今、独り身の女よりもむしろ独り身の男のような気がする。

 むろん、ソルティは今年もシングルベルを安楽に過ごしましたとさ。



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※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の主観的解釈に過ぎません。





● 講演:『福島の小児甲状腺がん 基礎から現状までを学ぶ』(講師:杉井吉彦)

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日時 2017年9月30日(土)18:30~
会場 阿佐ヶ谷地域区民センター(東京都杉並区)
主催 NAZEN東京、NAZEN杉並

 福島原発事故での放射線被爆により福島の子供たちに甲状腺がんが増えている!――というショッキングなテーマを描いたドキュメンタリー『A2-B-C』(イアン・トーマス・アッシュ監督、2013年)を見て、その後が気になっていた。
 アマオケのコンサートに行ったとき、会場ロビーに置かれていたチラシを見て、この講演会を知った。ケアマネ試験も近いので、「行くかどうかはその時の気分次第」と鷹揚に構えていたら、前日の夜(金曜)に大阪の友人から数年ぶりの電話をもらった。
 用件はどうでもいいのだが、彼の近況によれば、
「最近、古なった屋根の瓦を全部葺き直して、ついでにソーラーパネルを敷設したんよ。全部で800万くらい使(つこ)うたかな」
「800万!?」
「ソーラーパネルだけなら200万くらいやった」
「そーらー、高いね」
「ま、やっぱ自分は原発に反対やし、ちいとでも自分にできることはやっとこ思ってな・・・」
(以上、関西弁は適当)
 むろん、電話を切ったソルティは「これは明日の講演に行きなさい」という啓示と思ったのである。

 講師の杉井吉彦はプロフィールによると、
 
1950年、奈良県生まれ。
東京医科大学卒業後、武蔵野赤十字病院に勤務し、整形外科副部長を務める。
1992年、国分寺市に本町クリニックを開設、院長に就任。
2011年3・11原発事故をうけ、「ふくしま共同診療所」建設に尽力。2012年12月の開院以来、同診療所の医師として毎週福島市へ通い、診療を行っている。

 自己紹介の中で杉井氏は、1985年8月に起きた日航ジャンボ機123便墜落事故の現場に医療班として立ち会った時のエピソードを語った。そして、「今にして思えば、あの飛行機事故こそ、戦後日本が唱えてきた科学技術信仰による安全神話に対する最初の警告の一打だった。にもかかわらず、なんら検証も反省もすることもなく(墜落事故の真の原因はいまだに確定されていない)同じ道を突き進んだ結果、福島原発事故という未曽有の悲劇につながった」といったようなことを述べた。
 ソルティも日航ジャンボ機墜落事故と福島原発事故に強い類似を感じている。加えて薬害エイズ事件もしかり。
 利権をひたすら追い求める政・官・財の癒着や腐敗。そこに担ぎ上げられ太鼓持ちとなる御用学者連中。彼らは目の前にある現実のデータを無視して、自分たちに都合の良い言説を臆面もなく流布し続ける。金と権力と威信のためなら、国民の命なぞ、患者の命なぞ何とも思わない。
 またしても同じ過ちが繰り返されている。

 杉井氏は医師としての立場から、素人にも分かるように「甲状腺とは何か、どういう働きを司っているのか、甲状腺がんになるとどうなるのか」という点をまずレクチャーした。
  • 甲状腺は成長ホルモンを生涯産出する。もし切除したら甲状腺ホルモンを一生補充し続けなければならない。
  • 甲状腺は頸動脈のそばにあり、がんが転移しやすい。手術も難しい。
  • 小児甲状腺がんは100万人に1~3人と言われるほど、本来なら少ない。

 次に、検査で見つかった福島県の子供たちの甲状腺がんの状況を示した。
  • 原発事故以来、小児甲状腺がんの患者は増え続けている。2017年6月5日に公表された福島県民調査報告書によると、合計190人。(実に2000人に1人) 今後も増え続けるのはまず間違いない。
  • しかし、政府も福島県も、我が国の甲状腺疾患の権威・山下俊一(福島県放射線健康リスク管理アドバイザー)を擁する福島県立医大も、事故との因果関係を否定している。
  • どころか、安倍政権は今年に入って、チェルノブイリでは強制避難ゾーンとされた年間放射線量20ミリシーベルトの区域を「安全」とし、避難指示解除を行った。それに合わせて福島県は自主避難者への住宅支援を打ち切った。つまり、汚染地域に還らざるをえないよう仕向けている。
  • 子供だけでなく、大人の中でも今後、橋本病などの甲状腺疾患が増えると予測される。
 
 お隣り韓国では文在寅大統領が今が年6月に脱原発宣言をし、液化天然ガスや再生可能エネルギーによる発電を柱にする方針を発表した。杉井氏によると、韓国の原子力発電所の近くに長年住んでいて甲状腺がんを発症した人が、原発会社を相手に裁判を起こし、因果関係が認められて勝訴したとのこと。これはつまり、原発事故が発生しなくても、放射性物質を放出する原発は健康に危害を与えるという事実が法的に認められたのである。 
 なんでこんな重要なニュースが日本で報道されない!?

 明らかに何か‘おかしなこと’ ‘恐ろしいこと’が進行している。
 
 昨日67歳の誕生日を迎えたばかりという杉井氏のわかりやすく、熱く、人間味あふれる語りに会場の温度は上がった。80名を超える参加者の中には元自衛官や事故後に原発で働いた人などもいた。
 右も左も関係なく、これはまことに由々しき事態。

 ケアマネ試験が終わったら、もっと調べてみよう。


誓いの碑
薬害エイズ和解を受け厚労省内に建立された「誓いの碑」





● ただOSのみ :初期仏教月例講演会 『性格の完成~「ありのまま」は危ない!』 (講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時 2017年6月3日(土)14:00~
会場 日暮里サニーホール
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 今回のテーマは性格について。
 仏教では、性格を語る上では業についての理解が欠かせない。性格と業は切り離せないのである。

 業とは行為(身・口・意)でありカルマである。我々が毎瞬毎瞬、体・言葉・心で行っているあらゆる行為(=業)は、そのまま、それに応じた結果をもたらすポテンシャルエネルギー(潜在力)を形成する。それがカルマ(=業)である。カルマを理解しやすい一番の例は、食べ物と体との関係じゃなかろうか。良い物を食べれば健康になり、悪い物を食べれば病気になる。結果をもたらすまでに体内で起こっている一連の活動――咀嚼、消化、吸収、分解、各組織への運搬e.t.c.――が潜在力である。
 カルマは、一つの生の中である程度のタイムスパンを持って起きている。たとえば、煙草の吸い過ぎでガンになった、というように。一方、複数の生をまたいでも作用している。それが輪廻転生と言われるものだ。たとえば、今生でグルメの限りを尽くしたけれど食欲が満たされることなく肥満が原因で亡くなった⇒⇒⇒来世で豚に生まれ変わる、といったように。
 「因があって、業を形成し、果を生じる」というカルマシステム(=輪廻)は、秒刻みの短いスパンから、何世紀にもわたる長いスパンまでを包含する概念なのである。

 仏教では「生命は業から生まれ、業を相続する」とする。過去に作られた業ゆえに我々(生命)はこの世に生れ落ち、その業の内容に応じて一人一人の置かれている環境に違いが生じている。つまり、人が先天的に持っている資質や生まれつき与えられている環境は業の働きによる。本人には選ぶことのできない・変えることのできない部分である。
 性格もこの業の一つなのだと言う。

 各生命の個性は業が作ります。性格とは業が個人のために作ったOS(Operation System)です。(スマナ長老の言葉、以下同)

 なので、基本性格は生涯を通じて変わらない。自分や他人の性格を変えようと努力しても無駄ということだ。
 だが、性格をまったく変えられないかと言えばそうでもない。基本性格は変えられなくとも、そこに上乗せすることができる。

 OSの上に人は自由にアプリケーションソフトをインストールし、環境を管理することで、好みの性格に変えられます。 

 このときアプリケーションソフトとして使えるものが、「家族・育ち・教育・他人の影響・年齢・職業・住む場所等々」、いわゆる後天的要因である。これらが因となって業を形成することで、‘性格の変化’という果をもたらすわけである。先天的なものと後天的なもの――性格は「2段構え」と言うことができる。

 性格に良し悪しはありません。業なのでポテンシャル(潜在力)が合理的で正しい結果を出します。

 仏教では結局、新たな業を作らず、業の影響から逃れ、次の再生を遮断すること(=解脱)を最終目的としている。なので、優秀なアプリケーションソフトを搭載して世間的に「良い性格」と言われているものを身に着けたところで、「そんなことしても意味ないですよ。生まれ変わりますよ」ということなのだろう。
 仏教における性格の完成とは、「新たな業をつくらない」ことにある。

 性格を完成する道は、以下の通りです。
    • 戒・定・慧を身につける。
    • まず善行為から始める。
    • 五戒を守る。
    • 慈悲喜捨の実践や呼吸瞑想。
    • ヴィパッサナー瞑想。

 さて、上記の修行を積むことで、新たな業が形成されず、悟りに達し解脱したとする。仏道修行の最終目標である阿羅漢になったとする。
 阿羅漢には業がないのであろうか? 性格がないのであろうか?

 そうではない。
 阿羅漢といえども過去の業を消すことはできない。過去に自らが起こした行為の結果は、生きている限り、その身に受けなければならないのである。
 999人殺しの大悪人アングリマーラの逸話が有名である。ブッダに出会って改心し、仏弟子となって修行に励み阿羅漢になったけれど、アングリマーラ長老の身の上には不可解な事故がついて回った。托鉢している最中、農夫が鳥や犬を追い払うために投げた石や棒がなぜか長老の頭に当たって出血したり・・・。それを嘆くと、ブッダはこう言った。

「堪えなさい。あなたは、行為の結果として何十万年も地獄で受けるはずの結果を、現世で受けているのです」(中部86)
 何十万年も地獄で受けるはずのカルマが、棒が当たって頭が割れたくらいで済むはずがありません。来世以降に地獄で受けるはずの悪いカルマはなくなってしまったけれど、今生で受ける分のカルマはどうしても避けられず、受けてしまうということです。(藤本晃著『悟りの階梯』、サンガ発行)

 同じように、過去生の業の結果である今生の基本性格は、阿羅漢になっても消えることがない。OSである以上、生きている限りはずせない。
 別記事で阿羅漢の多様性(=個性)について考察し、クリシュナムルティの言を引用した。曰く、「最終的な悟りに至っても独自性(Individual Uniqueness)は残る」と。
 カルマシステムの観点からこの「独自性」を解き明かすことができるのである。

 我々修行者がやっていることは、後から搭載した「自己」という名前の数々のアプリケーションソフトを一つ一つはずしていって、最終的にOSだけの状態に立ち返ることなのであろう。 

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 最後にスマナ長老からの心が明るくなる一言。

人間なら皆、良い業を持っています。

 仏道修行のできる人間として生まれたことが途轍もない福音なのである(キリスト教的?)。



サードゥ、サードゥ、サードゥ



※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の主観的解釈に過ぎません。




● おトクな一日 :Happy Wesak Day 2017 (日本テーラワーダ仏教協会主催)

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 今年もブッダの誕生・成道・般涅槃を祝うウェーサーカ祭に参加した。
 普段のスマナサーラ長老の講演会や瞑想会の時とは違い、会場いっぱいに和やかであたたかい、あえて言えば女性らしい雰囲気があふれていて、そこにいるだけで癒される心地がする。ブッダとブッダの教えとサンガを愛する人びとの慈悲の気が満ちている。会場内に流れている音楽がまた良かった。

 今年もたくさんのお土産があった。

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  • 『Patipadaパティパダー』4月号・・・・・日本テーラワーダ仏教協会の機関誌。
  • 『「怠け」を克服する』・・・・・スマナサーラ長老の法話を起こした冊子。山口県下松市の誓教寺に新設された会館「仏教なんでもセンター」の落慶記念に発行されたそうである。この誓教寺の住職が『浄土真宗は仏教なのか?』、『日本仏教は仏教なのか?』(ともにサンガ発行)で日本仏教界を騒がせた藤本晃である。
  • 『ブッダと脳』・・・・・スマナサーラ長老が現代の脳科学者によって書かれたいくつかの本を読んで、「脳」という角度からブッダの道を説明することに挑戦してみたもの。その中には当ブログで取り上げた『ブッダの脳:心と脳を変え人生を変える実践的瞑想の科学』および『奇跡の脳:脳科学者の脳が壊れたとき』も挙げられている。会員の喜捨によって刊行された尊い冊子である。
  • 『Samgha JAPANサンガジャパン』26号・・・・・スマナサーラ長老の本を最も多く出している㈱サンガ発行の季刊誌。今号の特集は『無我―「わたし」とはなにか―』。このブログで著書を紹介した慶応義塾大学大学院教授の前野隆司とスマナサーラ長老の対談が載っているのを知って、購入した。 

 これだけでもすごくトクした気分になったのであるが、なんと、昨年に引き続き今年もお弁当&ペットボトルのお茶の無料サービスがついていた。テーラワーダ協会ってば、なんて気前がいい!なんて潤沢なんだろう! 
 ・・・と感心していたら、司会者からアナウンスがあった。
 なんとこのお弁当、さる一人の女性会員からのお布施だったのである。
 ざっと500人分のお弁当とお茶。いくらかかるかは、はしたないので計算すまい。
 なんて奇特な方のいることか。
 なんて嬉しい心づかいか。
 昼休みに最寄りの公園で謹んでいただきました。
 

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 彼女が幸福でありますように。
 彼女に悟りの光があらわれますように。
 生きとし生けるものが幸福でありますように。 


 「自分」が見ている・聞いている・感じている・考えている・受け取っている「世界」は、自分だけのものである。他人は、自分と同じようには見たり・聞いたり・感じたり・考えたり・受け取ったりしていない。これを理解するのは難しいことではなかろう。
 各人の体験している「世界」は実にその人だけのものである。「世界」=「自分」なのだ。
 ならば、全部が全部「自分のもの」である「世界」をどうして愛さないでいられるものだろうか? 「世界」のなにがしかを厭い、なにがしかに抵抗することは、「自分」の一部を厭い、一部に抵抗することにほかならない。(中野駅から会場に向かう途中で訪れた気づき)


サードゥ、サードゥ、サードゥ




● 市場価値 :東京レインボープライド2017

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 今年も東京レインボープライドに参加した。
 主催者発表によると、メインイベントである代々木公園でのパレード&フェスタには、約108,000人(5月6日35,000人、7日65,000人、パレード5,000人、ウィークイベント3,000人)が来場したとのこと。大盛況である。
 ソルティは7日(日)午後のパレードに参加したのみであるが、出発地点である代々木公園イベント広場はたいへんな賑わいであった。ぎっしり並んでいるブースを見ると、昨年以上に参加企業が増えている気がした。
 資本主義社会やな~。
 セクシャルマイノリティの権利や差別反対を声高に訴えるよりも、そこ(=セクシャルマイノリティ層)に多大な市場価値あるいは購買力があると社会に知らしめたほうが、手っ取り早くセクシャルマイノリティの顕在化と社会的包括につながるということである。たしかに、ゲイやレズビアンの社会人は子供をつくらない人が多いので資産を持っている傾向は否めないし、買い物や旅行やレジャーの好きな人も多いので関連企業が彼らの懐をねらうのも無理のない話である。
 また、欧米ほどには個人主義や人権思想が徹底していない日本では、表立って人権や差別反対を訴えられることに抵抗を感じる人が少なくないように思う。むしろ、「楽しそう」とか「儲かりそう」とかいうイメージの普及のほうが人は集まってきやすく賛同を得られやすいのかもしれない。いわば、‘関西のおばちゃん’気質である。
 ただ、市場価値に基づく社会的包括は、逆に市場価値が下がると平気で社会的排除に様変わりする可能性がある。「金の切れ目が縁の切れ目」だ。やっぱり、お祭りモードだけでなく、権利の主張や法的・政治的権利の獲得という社会運動モード、この両輪が必要なのであろう。

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 今回も友人と共に、TOKYO NO HATE のフロートに加わって渋谷の街を練り歩いた。
 五月晴れ(気温23度)でさわやかな風がビル街を通り抜ける。つくづくパレードの開催を8月から5月に変更したのは正解だと思う。(この変更には、昔の主催組織と今の主催組織の間のややこしい事情があったらしいのだが・・・)
 都内で行われるセクシャルマイノリティのパレードに90年代から参加しているソルティにしてみると、昔日のパレードからの様変わりにある種の感慨を持たざるを得ない。一番驚くのが参加者の多様性である。昔は参加者の姿を見るだけで、明らかにゲイ&レズビアンパレードと分かるものであった。レザーパンツ一枚の筋肉誇示のマッチョマン、お姫様女装のオネエ、水前寺清子のようなヘアスタイルのバリバリのダイク・・・。街を歩いていても周囲の通行人の好奇と驚きの視線を一様に感じたものである。
 今や、プラカードや旗を彩るレインボーカラーの意味を知る人でなければ、これがいったい何のパレードなのか即座に分かる通行人は少ないかもしれない。それくらい参加者の顔ぶれが豊かなのである。とくにここ数年、子連れのファミリー(ヘテロカップル)の参加が増えているのに隔世の感を抱く。両親に手を引かれながら可愛らしい天使の扮装をして歩いている幼女の姿を見ていると、彼らにとってはもはやゴールデンウイークのレジャーの一つ(ヴェネチアの仮面カーニバルみたいな)になっているのではないかと思えた。天使にとっては、マッチョもお姫様も仮装以上の意味はないのかもしれない。

 
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今年はレインボーカイトを上げてみました。


 パレードからイベント広場に帰還し、人だかりのブースを見回っている時に事件は起きた。一緒に行った友人のカバンからデジカメが盗まれたのである。開口部分にチャックのないショルダーバッグで、外から中身が覗けたのだ。ヨドバシで15000円で購入したものである。
 気がついてからすぐに通った道を後戻りして落ちていないか探し、総合受付に落し物として届いていないか確認した。見つからなかった。見つかった場合に連絡がもらえるように遺失物ノートに詳細を記載したところ、すでに何十名もの記載があった。
 そこで友人とは別れた。友人はその後、最寄りの交番に出向いて盗難届けを出そうとした。が、盗難の場合、書類を作成するのに数時間かかると言われて(ほんとうか?)、仕方なくあきらめたそうである。
 

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 翌日届いた友人からのメールの一部。

届出するほど大事なものを失くした人がそれだけいる。さらに、失くしたことにまだ気づいていない人、あきらめた人もいるだろうと推定すると、無料で参加できて、みな浮かれていて、結構金目の物を持っていることで、既にスリ・置き引きの‘穴場’として犯罪グループなんかに目をつけられているんじゃないかと思います。

 う~む。
 たしかにその可能性はある。しかも、友人のように警察にまで出向く人がどれだけいるだろう? 手間ひまということではなく、タフさという点で――。
 参加者の中には、「憧れの東京のパレード」に地方から泊りがけで出てきたクローゼットの若者だっていることだろう。主催団体の受付ならともかく、警察にまで出向いて被害を届ける勇気があるだろうか。いろいろと聞かれることだろう。「どこで失くしたの?」「そのフェスティバルって何?」「じゃあ、君はゲイなの?」「とりあえず住所と名前をここに書いて」・・・e.t.c. そうしたやりとりをたった一人で経験するのは、数多い沿道の賛同者にエールを送られながら、たくさんの仲間と一緒にパレードを歩くのとはまったく違った種類のタフさが要る。あきらめる、というか泣き寝入りする人も少なくないだろう。
 被害届を出される可能性が低い。そこまで読んでセクシャルマイノリティをカモにしている泥棒あるいは犯罪グループが実際にいるのかどうか分からないが、市場価値にはこういった側面もあったのである。
 
 奪われていいのは貞操くらいにしておきたいものである。

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 汝、盗むべからず。(カトリック関連のブースで売っていたティーシャツ)




 




 

● 命の価値 初期仏教月例講演会:「死に方入門」(講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時 2017年3月 12日 (日) 13:30 ~ 16:30
場所 一橋講堂(東京都千代田区)
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 月例講演会が一橋講堂で行われるのは初めてじゃないだろうか。
 事前に地図で確認して出かけたものの、地下鉄東西線・竹橋駅から地上に出て、同じような高層ビルが立ち並ぶ中、案の定、迷ってしまった。スマホを持っていないと、こういう時不便である。
 立派な会場(494席)で、休日午後いっぱい借りると22万3千円かかる。月例講演会でよく使われる中野ZEROは同条件で6万900円なので、ずいぶんと開きがある。なにか安く借りられるツテでもあるのか。余計な心配だが・・・。

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 今回のタイトルは「死に方入門」。
 仏教徒でない一般市民ならギョッとするかもしれない。スマナ長老自ら「まるで死ぬことを勧めているみたいじゃないですか」と苦笑いされていた(おそらく事務局がつけたのだろう)。
 このタイトルに別に何の違和感も不自然も感じなかった自分にちょっと驚く。ここ数年の仏道修行と介護の仕事で、いかに死が身近に(あたりまえのことに)なっているかを感じた。たしかに、働き始めた最初の頃は親しくなった利用者の死に際し悲しみや動揺を覚えたものだが、最近は淡々と見送っている。「死」に免疫ができるのは良くないことだろうか?

 講演内容は、「仏教は死をどうとらえているか、仏教徒は死とどう向き合うべきか」といったあたりで、別記事で紹介したスマナ長老の著書『老いと死について さわやかに生きる智慧』(大和書房)、『老いていく親が重荷ですか。』(河出書房新社)に連なるものであった。
 いつものように前半は座席で舟をこいでいた。神田川をそれこそ中野あたりまで遡ったかもしれない。いびきをかかないようにだけ注意。
 最近は眠かったら逆らわずに寝る。というのも、スマナ長老の話が世間モードから出世間モードに移って仏法の核心に近づくや、パッと目が覚め、瞬時に頭が冴えると分かったからである。よくできている。

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 以下、思わずメモをとったスマナ長老のコメント。

● 正しい花の咲き方、散り方というのはありません。どんな咲き方、散り方も自然のままです。同じように、正しい死に方はありません。死は常に正しいのです。一方、正しい生き方なら可能です。

 死は常に正しい。
 これは、広い意味で業論であろう。
 介護の仕事をしていると、人の様々な老い方、死に方を目撃することになる。
  • 心身を蝕む病いに苦しみ、入退院を繰り返し、最後は救急搬送で病院に運ばれ、死を迎える人がいる。
  • すべての不幸や不遇を周囲のせいにして、せっかく訪ねてくれた家族・友人に怒りをぶつけ、職員に八つ当たりし、食事や服薬や入浴を拒否し、施設のトラブルメーカーとなる人がいる。
  • 入所時以降、まったく顔を見せない息子を恨む一方で、半ば諦めている人がいる。
  • 認知が進み、ちゃんとトイレの始末ができないのに、プライドばかり高くて職員の介入を執拗に拒む人がいる(ほうっておくと、他の人の部屋で放尿・放便する)。
  • 子供や孫やひ孫たちがちょくちょく訪れては散歩に連れ出してもらい、楽しい一時を過ごす人がいる。
  • 職員とも周囲の利用者ともまったくコミュニケーションをとらず、自室に閉じこもっている人がいる。
  • 認知はあれど人の役に立つのが好きで、進んでコップ洗いを手伝ってくれる人がいる。
  • 家族に見守られながら、穏やかに息を引き取っていく人がいる。
 人の老い方、死に方は百人百様である。
 心あるスタッフなら、すべての利用者に、人生の最後の時間を穏やかに、安らかに、心地よく過ごしてもらいたいと思う。それはスタッフ自身の楽にもつながる。口癖のように「死にたい」「殺して」を繰り返し、しんどい思いをしている利用者に日々接するのは、スタッフにとっても辛いことである。医療従事者でないので身体的な痛みはどうにもできないけれど、せめて精神的な苦痛は少しでも和らげてあげたい。それに、トラブルメーカーが一人いるだけでフロアは混乱に陥り、スタッフは気力消耗し、バーンアウトの可能性が高まる。
 ソルティもしんどい思いをしている利用者を前に、「なんとか楽な気持ちにしてあげられないものか」、「もっと家族が訪問してくれればいいのに」と思う。あるいは、「いい加減、自分を苦しめるだけのつまらないプライドを捨てたらいいのに」、「こんな苦しみを最新医療によって引き伸ばすことに何の意味があるのだろう。これこそ虐待」と思ったりする。他人の苦しみを前に、何もできないことの無力感や苛立ちに襲われ、そのうち、いちいち感情的に反応するのが自分を苦しめるだけと思い、感情を抑えつけるのが習性となる。利用者のしんどさに鈍感になる。すると、業務が着々と滞りなく進むようになり、形だけはベテランになっていく。
 こういう落とし穴が介護の仕事にはある。
 いや、介護だけでなく、医療や保育や福祉相談など人のケアに関わる仕事には共通してある陥穽だろう。

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 感情をなくした鉄面皮にならずに、なんとか無力感や苛立ちと付き合う道はないものか・・・・と探ったところで、業論に至った。
 つまり、どのような老いを迎えるか、どのような死に方をするかは、言葉の真の意味で「自業自得」なのだと気づいた。
「このように生きてきたから、このような老いを迎えている」
「このように生きてきたから、このような死に方をする」
 すべては因果応報、因縁のルールに則っているのだ。
 たとえば、親を施設に入れたが最後、全然訪ねて来ない子供たち(もちろん立派な社会人である)について、ソルティは(ご利用者に代わって?)憤りを覚えることが多いのだが、そのような子供になった一番の原因はやはり親自身の育て方にあるのは間違いない。育てたように子は育つし、育てられたように親を看取る。親は結局、自分の蒔いた種を刈り取るほかないのである。現役時代、仕事や趣味にかまけて子供をほったらかしにしてた挙句、今度は自分がほったらかしにされる。
 そのような視点からすれば、人は誰もみな、正しく「老いて」、正しく「死んで」いる。
 もちろん、「自業自得だから苦しんでいる人をほうっておけ」ということにはならない。それだったら介護という仕事の意味がない。本人の心の苦しみは、純粋に本人の生き方(=思考パターン、妄想ループ)の結果に過ぎないので、他人が――それこそ人生の最後に介護を縁としてほんのちょっと知り合っただけの人間が――それを変えることは不可能に近い。けれど、少なくとも苦しみに寄り添うことはできる。それで十分なのだ。
 一時の感情に振り回されずに状況を正しく見て、ご利用者と適切な距離を持って関わる心の持ち方として、業論は役に立つ。
 思うに、ソルティが現在介護の仕事に携わっているのもそれなりの因縁を持つ「自業自得」に違いない。


● 慈悲喜捨、無常、苦、無我などの真理を学んで、観察して理解し、納得するならば、年老いてボケになって世の中のどうでもいいものは忘れてしまっても、心は無常に、苦に、慈悲喜捨に定着します。

 せっかく修行して真理を悟ったとしても、ボケたらどうなるのだろう? 全部無駄になってしまうのだろうか? ボケたら智慧は失われるのか? ボケたまま死んで輪廻転生して、来世は木瓜の花にでも生まれ変わるのだろうか?
 そんな疑問があった。
 この言説は大いなる安心をくれた。


● 安楽死とは、医者が殺人を犯すのを許すことです。命を助けるべき医者を殺しの専門家にしてはいけません。なぜなら、人の病に真剣にあたることができなくなるからです。

 これは納得。
 一度、安楽死に手を貸した医者が、命に対する敷居が低くなるのは想像に難くない(漫画『ブラックジャック』に登場するドクター・キリコを想起する)。一度人を殺した犯罪者が、次からはさして抵抗を感じずに人殺しできるのと同様、いったん「死」を肯定したら命は安くなる。
 一方、 


● 命は無常だから価値がありません。生きるとは、命とは、無常の流れに過ぎません。無価値の流れです。 

 これぞ出世間の智慧。
 多くの人には受け入れ難い言説であろう。命こそ最大の価値というのが、現代人の信念である。大乗仏教でも命に多大な価値を置く言説ばやりである。
 
 生きることに意味はなく、命にはなんの価値もない。

 この、ある意味‘悪魔的な’言説が本来の仏教である。
 これを認めて受け入れるのはどんなにか難しいことだろう!
 しかし、よくよく考えてみれば、命に価値があると人が思うのは、「自分が死にたくない!」からである。死んだら、いろいろな欲望が果たせなくなるからである。「自分は死にたくない」→「きっと他の人も(生命も)同じ思いだろう」→「命は大切だ」となる。つまり、命そのものに価値を見ているのではなく、欲望に価値を置いているのだ(←別にそれが悪いことだと言っているわけではない)。
 あるいは、「命が生まれるのは、天文学的な確率で起こる奇跡である」→「命は大切だ」となる。しかるに、天文学的な確率で起こることに‘価値がある’と考えるのも、きわめて打算的な発想である。ダイヤモンドに価値があると言うのと変わりない。
 価値とか、意義とか、目的とか、超越的な存在(神意)とかないところに、ただ生まれて、ただ死んでいくのが、生命である。
 (原始)仏教のこのスタンスは、下手すると‘命’の軽視につながりやすい。生命が輪廻転生するという考え方がさらにそれに拍車をかける。なぜなら、「どうせ生まれ変わるのだから、今ある命が消えてもたいしたことない」と結論付ける傾向を生んでしまうからである。ここまで来ると、ポア思想を現実化したオウム真理教と大差なくなってしまう。(むろん、これは‘邪見’の最たるものだ!)
 
 テーワラーダ仏教(原始仏教)における命の意味とはなんなのか。それと慈悲の関係はどうなっているのか。
 そのあたりを学ぶ(悟る?)必要を感じる。
 
 
サードゥ、サードゥ、サードゥ


※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の内容のソルティなりの解釈にすぎません。


 

● やれ打つな :初期仏教月例講演会『思いやりを育てる~相手の立場を理解するシュミレーション~』(スマナサーラ長老指導)

日時 12月 17日 (土) 14:00~
会場 日暮里サニーホール(荒川区)
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 ここ数日、ハエに悩まされていた。
 何の拍子で部屋に入り込んだかは知らぬが、ご飯を食べてたり、こうしてパソコンに向かっていると、頭や顔の近くをヴンヴンと飛び回り、うっとうしくて敵わない。寒気が入るのも仕方なく、部屋の窓をしばらく開け放しておいたが、いっこうに出てゆこうとしない。
 不思議なのは、こちらが寝ているときと瞑想しているときは羽音が止むのである。もっとも邪魔されたくないこの二つを尊重してくれているらしいので、しばらくほうっておいたのだが、ある晩ブログを書いていると、パソコンの画面やキーボードに止まったり、わざわざこちらの目の前をこれ見よがしに通過したりと、あまりに十二月蝿(うるさ)いので、退治しようと決意した。不殺生戒(=生き物を故意に殺してはならない)を破るのは本意ではないが、軽く叩いて意識を失わせて床に落ちたところをティッシュでつまんで外に追い出そう。――実際にはそんな上手い具合に力加減を緩めるのは難しいから、まかり間違って叩き殺してしまっても「殺すつもりはなかった」という言い訳を用意しておきたかったのだ。
 手近にあった大学ノートを丸めて筒を作った。
 そこから数分間のハエとの攻防が始まった。
 なんだか実に賢いというか「できる」ハエで、こちらが居場所を見つけてノートをゆっくり構えた瞬間に飛び逃げる。明らかにこちらの殺気か視線を敏感に察している。なるべく殺気を出さないよう平常心を保ち、直前まで明後日の方向を見ていたりするのだが、どうしても0.5秒遅れで逃げられてしまう。
 しまいには仏壇に入り込んだ。
 それは、ソルティが毎朝線香をあげ、経を読み、慈悲の瞑想を唱えている仏壇で、中にはミャンマーの友人からもらった小さなお釈迦様の像と、ポー・オー・パユットーの『仏法』の本と、スマナサーラ長老が編纂した『ブッダの日常読誦経典』(どちらもサンガ発行)と、塩を敷きつめた線香立てが置かれている。部屋の中で一等の聖なる空間でありパワースポットであり、ハエの立場からすれば最高のアジール(避難所)である。
 いくら無慈悲なソルティでも、そこに入り込んだハエを叩き殺すことはできない。あきらめるよりなかった。
 翌朝、顔の周りで唸るハエの羽音で目が覚めた。
「ちっ。寝ているときはほうっておいてくれるんじゃなかったの?」
 手で追い払って気持ちのいい惰眠を貪ろうとすると、またしてもやって来る。
「ったく、なんだよ、いったい」
 怒りモードで身を起こし、壁時計を見てハッとした。
「いかん。約束に遅れる!」
 人と会う大事な用件があったのに目覚ましをセットしていなかった。
 すぐに着替えて、朝飯もとらず家を出た。ぎりぎりの列車に間に合った。
 あとちょっと寝過ごしたら、約束に遅れるところだった。

ハエ

 
 今回の講話のテーマは、「どうしたら相手のことが理解できて、適切な関係を結べるか」というものだった。
 結論から言えば、①自分がして欲しくないことは相手に対してやらない、②慈悲の瞑想を行って相手の幸せを願う、といったごく当たり前のことになる。
 ここで‘相手’というのは人間に限らず、すべての生命についてである。
 
 生命は自分に対してプライドを持っています、対等に接してほしいと思っています。
 
 ハエもまた然り。
 その正体は、「ハエ」という形態と生態と名前をもった「生命」であって、それはソルティが「人間」という形態と生態と名前をもった「生命」であることと、まったく変わりはないのである。ハエもソルティも輪廻転生によって変幻してゆく一時的な被り物をしているだけなのだ。
 
生命の根源は慈悲喜捨です。ほとんどの場合、それは被り物の下に隠れて寝ています。
が、それはすべての生命に共通しているものなので、慈悲の瞑想をすると、究極的にはすべての生命とひとつになることができます。それが梵天の生き方です。

生命の木


 今回面白く聞いたのは、「相手を理解する方法」すなわち読心術である。

    1. すべての生命の生きる衝動は貪・瞋・痴(=欲・怒り・無知)です。まず自らの貪・瞋・痴の感情の働き方を観察します。(貪・瞋・痴は組み合わせの配合によって何千通りの姿になる)
    2. 完璧でなくとも自己観察を続けます。
    3. 相手の行為を観察して、その裏にある行為を引き起こしている感情をチェックします。
    4. また、善行為をすると、貪・瞋・痴の三つに加え、不貪・不瞋・不痴の三つの感情も理解できるようになります。これで尺度は六つになります。 
    5. 価値観を入れず、白黒に分けず、判断せず、ありのままに相手を観ることが必要です。
    6. これで相手の感情を理解することができるようになります。 
    7. 決して悪用しないでください

 自分の感情や欲望を理解することは、相手の感情や欲望を理解することにつながる。自分が善行為することは、相手の善意を理解することにつながる。 
 面白いのは、これが社会福祉や精神保健福祉の分野で対人援助の基本原則とされているものによく似ていることである。
 たとえば、バイスティックの7原則では、
  • 統制された情緒的関与の原則(=援助者は自分の感情を自覚して吟味する)
  • 受容の原則(=クライエントのあるがままの姿を受け止める)
  • 非審判的態度の原則(=クライエントを一方的に非難・判断しない)
が謳われている。また、ケースワーカーやカウンセラーの最も重要な資質は、「自己覚知」「受容・共感・傾聴」と言われる。

 こうした方法(原則)が正鵠を射ていることを、ソルティは日々、職場の老人ホームで認知症高齢者の介助をしながら実感している。
 認知症高齢者は、思考と言葉がトンチンカンである。自らの願望を口に出して正確に相手に伝えることが苦手である。(たとえば、便意を感じているのだが、口に出して言うのは「俺のメシがないんだよ~」) また、こちら(職員)の言葉や意図を理解するのも苦手である。(たとえば、「歯を磨いてください」と歯ブラシを差し出すと、それで髪の毛を梳かし始める) 言葉を介在したコミュニケーション、あるいは言葉の背後にある意図の理解が苦手である。
 慣れていない職員だと、なんとか相手に理解させようと言葉を繰り返し、語気を強め、理屈によって納得させようと頑張ってしまう。これがまず逆効果で、相手は「職員に怒られている、脅かされている、馬鹿にされている」と感じて、不穏(=精神的に不安定な状態)になってしまう。当然、介助はうまくいかない。
 認知症の人への介助のコツは、相手の言葉や行動ではなく、感情に焦点を当てることである。理屈や良識を振りかざして介助者の意図通りに相手を動かそうとするのではなく、表情や振る舞いから相手の感情を読みとり、不安ならば安心させ、怒っているなら宥めて、嬉しそうな様子ならば一緒に喜び、感謝には感謝を返し、その瞬間瞬間の「ありのままの」相手をいっさいの保留なしに受け入れてしまうことである。そのためには、瞬間瞬間、介助者が自身の内面に湧き上がる感情を観察・捕捉できなければならない。介助者が自らの感情なり欲望なりに振り回されていては、あるいはそれらのバイアスを自覚せずに相手に関わっているようでは、到底、相手の感情に客観的に向き合えないし、相手のプライドを尊重した対等の関係を結べないからである。
 
 もはや言うまでもなかろう。自己覚知・自己観察力を育てる最強にして最高の方法がヴィパッサナー瞑想であり、「ありのままの」相手を受け入れる器をつくる最強にして最高の方法が慈悲喜捨の瞑想である。

 つくづく、ブッダって人類史上最高のカウンセラー&ケースワーカーである。
 否、生命史上か。
 


サードゥ、サードゥ、サードゥ


※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の内容のソルティなりの解釈にすぎません。



 

● CMの効用 初期仏教月例講演会:『Vinnana(識)の理解』(講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時 2016年10月1日(土)18:30~
会場 代々木オリンピックセンター・カルチャー棟小ホール
内容 「識の理解~仏教とはこころの勉強と育成です~」
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 今回は、仏教の基本的事項を網羅したアビダンマ風の講演であった。メモをとった用語をざっと見るだけでも、
  • 名(ナーマ)と色(ルーパ)
  • 欲界(六道)、色界、無色界
  • 業(カルマ)、行(サンカーラ)、識(ヴィンニャーナ)
  • 五蘊(色・受・想・行・識)
  • 心と心所
  • サマーディ瞑想とヴィパッサナー瞑想 ・・・等々
 自分の知識や理解度を確かめるいい機会になった。同時に、仏法の基本の「き」だけでも、今一度体系的に学び直したいなあと思った。来年1月の社会福祉士国家試験が済んだら、ポー・オー・パユットーの『仏法』を読み直そう。

 さて、識とは「心」のことである。
 仏教では、「心」とは認識する働きのことを言う。何をどのように認識するかは問題ではない。「心」とは単純に外界なり内界なりを「知覚する機能」であって、そこに内容はない。生命であることの条件は、この「識=心=知覚する機能」を持っていることにある。
 人が、悲しくなったり、楽しくなったり、欲望でヒリヒリしたり、怒りでフツフツしたりするのは、「心」のせいではなくて、その都度その都度「心」に溶け込んでいる「心所」のせいであるとする。「悲しい」心所が「心」に溶ければ悲しくなるし、「怒り」の心所が「心」に溶ければ怒りとなる。心所とはいわば「心の成分」である。その数は54種類に分類されている。
 スマナサーラ長老は、心と心所の関係を、水と水に溶けている成分の関係にたとえられた。そもそもの水(H2O)には味も色もついていない。それが、たとえば水にコーヒーの粉が溶ければコーヒーになり、茶の成分が溶ければお茶になり、アルコールが溶ければ酒になる。すべてのドリンク(水溶液)は「水」という液体を溶媒とし、そこに何(溶質)が溶けているかによっていろいろな飲み物に分類される。
 ソルティは、テレビ受像機(心)とテレビ番組(心所)の関係にたとえて理解している。テレビ受像機は電波を受信して映像に変換する装置に過ぎない。そこに感情的要素はまったくない。文字通り‘機械的に’動いている。しかし、モニター(さすがにブラウン管はもうないだろう・・・)に映し出される番組の内容によって、視聴者は悲しくなったり、楽しくなったり、怒りにかられたり、物欲や性欲をたぎらせたりする。番組の映っていない砂嵐の画面なぞ面白くも何ともない。
 
 さて、巷でよく言う「心を知る」とはどういうことか。

 こころは認識機能なので、認識機能で認識機能を認識することはできません。
 
 つまり、「心を知る」ことなんて不可能である。

 心は、自らと同時に生起する心所を認識するのです。

 「心を知る」とは「心所を知る」ことにほかならない。
 「あっ、いま心の中に、悲しみがある、喜びがある、怒りがある、欲望がある・・・・e.t.c」とその場その場で心の様態を認識すること、すなわち「気づくこと」――これがサティ(念)である。

 「心を育てる」とはどういうことか。
 もうお分かりだろう。
 「心所を育てること」である。
 心所には54種類あると書いたが、これが善心所(24種類)、不善心所(12種類)、善悪どちらでもない無因心(18種類)に分けられる。むろん、育てるべきは善心所である。
 「怒り・欲・無知」に代表される不善心所を、「信や念や慈悲や智慧」に代表される善心所に変えていくことは、「心」の機能そのものを強化する。テレビの喩えで言えば、「良い番組をたくさん増やしていくことがテレビ受像機そのものの性能をアップさせる」といったところか。(現実にはあり得ない話だが・・・)
 善心所を育てて「心」の機能を強化することによって、

ありのままにものごとを認識することができて、真理を発見します。

 すなわち、「悟る」のである。

 そして、一番の善心所が何かといえば「サティ(念)=気づき」であり、サティを育てることで悟りに達せんとするのがヴィパッサナー瞑想というわけである。
 仕組みを聞いて、なんだか非常にすっきりした。
テレビと視聴者
 ここで面白いのは、というか気をつけなければいけないのは、瞑想によりサティの力が高まることが、「気づいている‘自分’がいる」という錯覚につながりやすいことである。「悲しみがある、喜びがある、怒りがある、欲がある」とある程度客観的に淡々と自分の心の中(心所)を観察できるようになると、観察者としての自分を立ち上げてしまうのだ。サティ(念)という心所が、ほかの53の心所から分離されて、あたかも「心所を24時間チェックしている自分がいます」という幻影を生み、マトリョーシカみたいに入れ子構造の「私s」がつくられる。

 しかし、それは間違いである。
 テレビ番組がニュース→天気予報→ホームドラマ→スポーツ番組→バラエティ・・・・・と時間帯で次から次へと変わっていくように、心に溶け込む心所もまた時々刻々移り変わっていく。喜び→物欲→怒り→悲しみ→無気力→性欲→賢者タイム→慈悲・・・というように。サティ(気づき)もまた、その流れの中に包含され繰り返し現れては消えていく心所の一つに過ぎないのである。
 サティをCM、それ以外の心所をテレビ番組と考えると分かりやすいかもしれない。
 視聴者は、たとえばサスペンスドラマを見てストーリーや役者の演技に心奪われ、恐怖や不安や興奮などの感情をかきたてられ、自らを登場人物のように感じて現実とフィクションの境界を忘れることがある。そんな瞬間、CMがやってきて視聴者をお茶の間の現実に引き戻す。「これはドラマだよ。フィクションだよ。少し頭を冷やしなさい」というふうに。サティとは、妄想からありのままの現実に人を連れ戻すCM――それもトイレに立ちたくなるような味気ない――みたいなものである。
 そして、朝から深夜までの放送時間中、CM枠をできるだけ多く入れていくことがヴィパッサナー瞑想の極意というわけだ。
 
 あまり適切な喩えでないかもしれない。が、少なくとも「気づいている自分、悟りに近い自分」という別のドラマを立ち上げてしまう牽制にはなろう。

Consciousness is not Self.
気づきもまた「私」ではありません。

 それゆえ、「私が瞑想をしている」という言い方は誤謬なのである。


サードゥ、サードゥ、サードゥ



※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の内容のソルティなりの解釈にすぎません。


 

● あとは野となれ山となれ 初期仏教月例講演会:『「承認欲求のトリセツ」~ひとは誰に認めてもらうべきなのか?~』(講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時 9月 10日 (土) 14:00~
会場 日暮里サニーホール(東京)
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 400名定員のホールはほぼ満席。
 近くの席の会話を聞いていたら、「泊り込みで関西から来ました」という参加者も。東京に住み、毎月のようにスマナ長老やマハーカルナー禅師の生の姿に触れ、生の声を聴き、じかに教えを受けられるのは幸運なことである。
 というのも、今日のスマナ長老のオーラ。
 凄かった。
 演席の背後に黒い幕が垂れていたせいもあり、長老の身体から放射状に広がる白い煙のような光背が客席からよく見えた。まるで繭の中で語っているかのようであった。
 長老から発する熱波は、珍しく前の方の席に座っていたソルティのところまで及び、全身が温かく微細な波動に包まれ、全細胞が喜びに打ち震えるかのように振動し、体内温度が上昇した。
 伺うところによると、ひと月ほど母国スリランカに帰られて、村の子どもたちと交流したらしい。日本で溜まった垢を落として、すっかりリフレッシュされたのだろうか。
 
 面白かったのは、長老が、「いま日本人に話しているのとまったく同じような話をスリランカで(むろん現地語で)したけれど、聴衆はまったく食いついてこなかった」と言われたこと。原始仏教のお家元であるスリランカのほうが、庶民レベルでより仏法への関心と理解が深く、悟りを目指して瞑想修行している在家の人も多いのかと思っていたけれど、そうでもないらしい。
 時々思うのだけれど、平成の世の日本人ってのが、世界で一番テーラワーダ仏教を理解できる素地(=波羅蜜)を持っているんじゃないだろうか。

虹をわたって 001


 今回のテーマは「承認欲求」。
 「他人に認められたい」「社会的な尊敬が欲しい」といった欲求である。
 アメリカの心理学者マズローの欲求段層説では、5段階のピラミッドの上から2番目に来る。下位3つの欲求がある程度満たされると、この「自尊と尊敬の欲求」とも言われる「承認欲求」が出現する。
 つまり、誰にでも備わっている。

マズローの五段階
2017社会福祉士の合格教科書』(飯塚慶子著、医学評論社)より引用
 
 スマナ長老は言う。
 
承認欲求は無始なる過去からあり、解脱に達するまではあり続けるものです。 
 
 つまり、阿羅漢になるまでは承認欲求から完全に自由になることはできない。『私』が存在する限り、承認欲求も存在するわけである。(阿羅漢には『私』が無い)
 人が承認欲求を持つのはなぜか。
 それは、「他人に認めてもらえないと自信が持てない」からである。他人の存在も社会の目もまったく関係なしに、一人で自信満々のうちに完結しているというのは(阿羅漢でない限り)ありえない。
 というのも、
 
客観的に物事を観察するならば、何に対しても自信が持てるはずはありません。なぜならば、すべては無常なので先が見えないからです。
 
 まさしく。
 ある一つのことで成功しても、その成功がこの先ずっと続くことはあり得ない。自分も変わるし、相手も変わるし、状況も変わる。かつてのミリオンセラー連発のヒットメイカーが、時代が変わるとまったく売れなくなるのを見ると、その事情は明らかだ。好きな相手への恋が成就しても、二人の関係が永遠にハッピーに続くことはお伽話でない限りあり得ない。「体力だけは自信があります!」と言う体育会系男子も、頭脳明晰を誇った東大卒エリートも、寄る年波には勝てない。自信が持てるのはせいぜい一時だけ。それも「現状が変わらない」と言う間違った認識(=思い込み)に支えられてのことである。
 大概、人は自信と自信喪失の間を行ったりきたりしながら、最後は自信喪失のままに生涯を終える。 

 一方、自信がまったく持てないのも困りものである。仕事も恋愛も人間関係も、ある程度の自信がないとうまくいかないのは明白である。常にオドオドし失敗におびえている人間は、お望みどおりの結果(=失敗)を呼び寄せてしまい、自信喪失の悪循環にはまり込んでしまう。
 どうしたらいいのだろうか。

ポイントは自信を確信に置き換えることです。

 これが今回の法話の肝であろう。
 ソルティも「なるほど。ウン、これは使える!」と心の中で唸った。
 ここで言う「確信」とは別の言葉にすると「確認」である。つまり、サティ(念)のことだ。流行の言葉で言えば「マインドフルネス」ということだ。

仕事、勉強、料理、洗濯など、すべての行為を確認しながら行うことが大切です。行うことに確信があれば十分です。自信は要りません。
 
 つまり、「いまここ」の目の前のやるべきことについて、しっかりと注意を向け、集中し、自分ができる最良のことをすれば、それで十分ということだ。仕事についても、対人関係においても。

 ソルティの従事している介護の仕事を例にとる。
 経験のない新人のうち、たとえば片麻痺のある高齢者を車椅子からトイレの便座へ移乗するのは神経を使うものである。安全に、介助する者の負担を最小にして、ご利用者に不快感やしんどさを与えないようできるだけ短時間で、移乗介助を一連の流れとしてスムーズに行えるようになるまで、半年くらいかかる。それまでは、流れをコマ切れにした一つ一つの作業――「車椅子のブレーキをかける」→「利用者に手すりを握ってもらう」→「利用者の足の位置を確認する」→「利用者を車椅子から立たせる」→「片手で利用者を支えながら片手で衣類を下ろす」→「汚れたパットを慎重に抜き取る」→「利用者の体の向きを変え便座に座らせる」等々――について、指差し確認するかのように、確実にクリアしていかなければならない。
 慣れてくると、一連の作業を特段考えることなく分割せずに行えるようになる。体が覚えてしまうのだ。「自分もできるようになってきたなあ~」などと思うのである。
 しかし、最も事故を起こしやすいのは、この慣れてきた局面(開始後半年~1年くらい)と言われる。
 新人のうちは、一つ一つの作業に全神経傾けているので、介助技術自体は未熟でも事故は起こりにくい。慣れてきて「自信がついてくる」と、一つ一つの作業への注意力が薄れ、確認がおろそかになって、かえって事故につながりやすい。「自信がつく」ことが、事故をまねくわけだ。
 介護の仕事について5年目となるソルティも、今では上記の介助をご利用者と雑談しながら、あるいは鼻歌まじりに行えるようになった。新人の頃には考えられないくらい熟達したと思う。一方、時々、思わぬミスも生じるのである。たとえば、「車椅子のブレーキをかけ忘れた」「利用者の足を車椅子のフットレストに乗っけたまま利用者を立ち上がらせた(車椅子ごと前に倒れる危険がある)」「パットを抜き取る際に失禁していた大便を床にぶちまけてしまった」等々・・・。自信がつくことは、「大丈夫だろう」という過信に容易につながりやすく、その結果初歩的なミスを招くのである。
 最近は新人の指導につくことも多くなったが、もたついているように見える新人の介助を見ていると、一つ一つの作業について丁寧な確認を行うことの大切さを逆に教えられる。結局それが一番大切なのだ。
 自信ではノーミスは保証できないけれど、確認作業ならノーミスは保証できる。

 対人関係についても、「あの人に嫌われているのでは?」とか「あいつは気に喰わない」とか「あの人とどうやって付き合ったらいいんだろう?」とか「こんなことしたら、人からどう思われるだろう?」など、いろいろ考え頭を悩ますよりは、いま目の前にいる相手に誠心誠意向き合えば、それで十分なのである。その積み重ねが‘関係’を作っていくのだから。
 
 ポイントは、「時間」というものを‘線’や‘面’でとらえないで、「いまここ」という‘点’でのみ、とらえることだと思う。「いまここ」に集中し、「あとは野となれ山となれ」と鷹揚にかまえる。
 その結果は、自信にはつながらないかもしれない。が、「あの人は信頼できる」という評価を得、他人や社会から認められることには益するだろう。なぜなら、失敗のない「いまここ」を重ねていけば、「失敗のない」人生をいやでも生み出してしまうからである。

自分の義務を果たすだけで人生は精一杯です。それ以上、妄想するものではありません。ある程度認められたら十分です。


 自分がヴィパッサナ瞑想修行をしている理由の一つは、意識を「いまここ」に定着させる訓練(=脳神経の回路形成)をしているのだろう。
 妄想のない人生は、そのまま幸福なのだ。
 

サードゥ、サードゥ、サードゥ。



※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の内容のソルティなりの解釈にすぎません。






 

● A は Avijja (無明)の A :初期仏教月例講演会(講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

テーマ 『ブッダの栄養学~こころの栄養管理をしてみませんか?~』
 
日時 7月2日(土)13:30~16:30
会場 なかのZERO小ホール 
講師 アルボムッレ・スマナサーラ長老
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 10時間近く寝たのに頭がすっきりしない。
 30度を超える蒸し暑さのせいで体も重い。
 更年期障害?
 早くも夏バテ?
 職場(老人ホーム)で何かに感染した?
 それとも単なる老化?
 
 冷房の効いたなかのZEROホールの固い座席に着くや、全身を襲う疲労と倦怠感に支配された。読経が終わってスマナサーラ長老の講義に入るや、頭はどこかに行ってしまった。仏教で言う五蓋(ごがい)――修行の妨げになる五つの障害――の一つである「眠気と沈鬱」に襲われたのである。
 厚い緞帳を隔てた遠くのほうでスマナ長老のいつもの快活な声が響いている。
 30分くらいそんな感じだったろうか・・・。

 
 「絶えず!」

 スマナ長老の言葉が厚い緞帳を突き破り、数光年の距離を越えて、いきなりこちらの脳天を直撃した。
 話の前後はわからない。
 だが、この短い言葉に籠められていた鋭く凄まじいエネルギーの波動が、自分の頭の中を覆っていた靄を一気に薙ぎ払い、眠気と沈鬱がさっぱり消えた。覚醒した。
 あたかもそれは、壇上のスマナ長老が、五蓋に捕まっている客席のソルティの情けない姿にあきれて、こちらの頭めがけて‘気’が充填された言葉の矢を放ったかのように思われた。(見ると、スマナ長老はまったく別の方角を向いて喋っていた。)
 
 心は一瞬にして変わる。
 以後の講義は覚醒状態にて参加した。
 
 以下、講義の概要。
 
生命を維持する栄養素は4つ。
 
1.食べ物(物質的な栄養)

 食事するときの注意点。
    •  肉体を維持するという目的のために食べる。
    •  感情で食べない。理性で食べる。
    •  一日に必要な量を理解する。(必ずしも3食必要ない)
    •  決して満腹にはならない程度にする。
    •  食べ物は生命である。慈しみの気持ちで食べる。
    •  体が常に壊れゆくこと、維持管理するのは大変であることなどに気づきながら食べる。

2.触(パッソ)

 触とは、六門(目、耳、鼻、舌、身、意)に六種類のデータ(色、音、香、味、触、法)が触れること。
 生きているとは、「触」機能によって、内外のデータを瞬間瞬間認識することである。触れて感じる機能を失ったら生命は直ちに死ぬ。
 
 
3.意志(チェータナ)
 
 意志とは、「何かをしたい」という衝動。
 生命は常に何かをやりたがっている。結果も気にかけず、何故やるのかも分からず、止めることも制御することもできず、ただ闇雲に何かをやって感情を引き起こし、存在欲(=渇愛)にフィードバックする。(感情の波を立てることで生きている実感を得る。)
 業(カルマ)を形成するのは意志である。どうせ何かするなら、意図的に善行為(善い意志からの行為)をするのがよい。善いカルマをつくるから。
 
 
4.識(ヴィンニャーナン)

 識とは、認識のことではなく、認識する以前の‘こころ’のこと。
 識は純粋な水のようなもの。この水にいろいろな感情が溶け込むことで、いわゆる‘心(=心所)’が生まれる。存在欲も執着も識の中に起こる。
 単なる物質の固まりである物体が「命」になるのは識が働いているから。(母体に宿った受精卵が数週間で細胞のかたまりになる。そこに‘識’が吹き込まれることで生命が誕生する) 
 この‘識’こそが、瞬間瞬間生滅し、データを更新しつつ、輪廻転生している真犯人である。 


 4つの栄養素の原因は存在欲(=渇愛)である。
 存在欲ある限り、栄養を得つつ生命は輪廻転生する。
 仏道修行とは、生命に栄養を施すのをストップし、存在欲を滅尽させる道程である。
 すなわち、生きながら死ぬこと。


 質疑応答の際に長老が発言した「すべての生命は無明から始まる」という言葉が面白かった。
 すべからく生命は、「無明」からスタートし、紆余曲折しながら、完全なる「智慧」に至って「解脱宣言(ゲームオーバー)」する、心の進化ゲームを大宇宙を舞台にやっているのであろうか。


サードゥ、サードゥ、サードゥ


※以上は、ソルティがスマナサーラ長老の講義を聞いて、独自の見解(=主観)でまとめたものです。文責はソルティにあります。




 


● 最大の逆説 :B.E.2560年 釈尊祝祭日ウェーサーカ

日時 5月15日(日)
会場 なかのZERO小ホール
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 仏教徒にとって一年で最も大切な日――それがウェーサーカ祭。
 お釈迦様の誕生・成道・般涅槃(はつねはん)の三大イベントは、いずれもインド暦の5月(ウェーサーカ)の満月の日に起こったとされている。この日をお坊様や仲間たちと祝い、ブッダへの親・仏法への信を篤くし、これからも仏教徒として生きることを自らに誓うのである。

20160515 004


 いつの間にやらソルティにとっても、この日は特別な一日になってしまった。元日やクリスマスや大みそかはもとより、自分や親しい人の誕生日よりも、20年来恒例となった年末のベートーヴェン《第九》コンサートの日よりも、ゲイパレードの日よりも、ボーナスの日よりも、自分の中では大切になっている。この日を軸に一年が回っているような気がするほどだ。
 諸法無我を生きる仏教徒にとって「アイデンティティ」という言葉はふさわしくないのだけれど、今やソルティの一番のアイデンティティは「仏教徒であること」になってしまった。そんな日が来るとは、若い頃のあるいは10年前の自分にはまったく想像つかなかった。人生わからないものである。
 
 だが、今にして思えば、「どうも最終的にここに到達して然るべき半生だったなあ」とも思うのである。高校時代に神社仏閣を見るのが趣味だったこととか、大学時代にはじめて出かけた海外旅行にインドを選んだこととか(お釈迦様が悟りを開いたブッダガヤとはじめて法を説いたサルナートを訪れている)、何の仕事をしても何の趣味に興じても「物足りない、落ち着かない」感覚にとらわれたこととか、孤独が好きだったこととか、精神世界に興味を持っていろいろ読み漁った(とくにクリシュナムルティ)こととか・・・・良いことも悪いことも、あれやこれや絡めて、あらかじめ仕組まれていた‘流れ’に気づかないうちに乗っかって、ここへと運ばれてきたような気がするのである。それこそ「因縁」なのかもしれない。
 この日、なかのZERO小ホールに集った人々もみな同じ思いを持っているのだろうか。「仏法」という同じ船に乗ることが決まっていた仲間だったのであろうか。

国の法律や政権はすぐに変わる、崩壊する。まったく当てになりません。
‘五戒’は私たちを、どこにいてもいつでも必ず守ってくれるガードです。
(スマナサーラ長老の法話より) 

 思うに、自分が長らく求めていたのは、心のしっかりした軸となる‘何か’であり、生きる上での指針となる‘何か’だったのだ。「この世に何一つ確かなものなどない」という教え(諸行無常)が、確かな‘何か’であったというのは、最大の逆説である。

サードゥ、サードゥ、サードゥ  

uesaka記念イラスト
 
 

● 結論ばかりが人生だ : 初期仏教講演会(講師:スマナサーラ長老)

日時:2016年4月9日(土)14時~
会場:日暮里サニーホール(東京都荒川区)
主催:日本テーラワーダ仏教協会 
テーマ:『「立ち止まらず、もう一歩前へ」~勇気を出して概念を手放せ~』

 心地よい春風が吹く行楽日和にも関わらず、定員400名ほどのホールはほぼ満席。マハーカルナー禅師の人気沸騰ぶりといい、初期仏教は一時的なブームを超えて、すっかり日本社会に根を下ろしたように思う。
 釈迦国の王子だったブッダがそうだったように、物質的豊かさと自我を満たしてくれる(ように見える)様々な‘物語’が崩壊した果てに訪れる「虚しさ」が否応なく辿り着くのは、ここでしかないのだろう。
 おそらく、今後日本における初期仏教の主役を張るのは、いわゆる「さとり世代」になるんじゃないかと予測する。

 あいかわらずのスマナ節炸裂。
 話が終わりに近づくにつれて、ぐんぐん核心に迫っていき、聴いているこちらの頭もぐんぐん覚醒していく。
 聴くことがそのまま瞑想体験になる。
 最後には脳細胞が痺れたようにジンジンと脈動しているのを感じた。
 
 思わず書き留めたスマナ語録。そのソルティ流解釈。

「結論ばかりの人生」
日本人はYES/NOをはっきり言わない、自分の意見を持たないと言われるが、それはウソ。みんな見解を持っている。対立を恐れて口にしないだけ。どんなことにも見解を持っている。結論ありきで生きている。
 巷を賑わすスキャンダラスなニュースに対するネット上の匿名コメントを見ていると、本当にそう思う。一億総評論家時代。しかも意地悪な・・・・。

「見解は戦い、勝敗を招く」
見解を持つとは、各々が「眼・耳・鼻・舌・身・心」を通して得た固有のデータをもとに概念を組み合わせ、固定した判断をすること。客観的な正しい見解などない。見解はすべからく邪見。各々が見解に執着するから戦いが起こる。

「知識は重い。智慧には重さがない」
知識は貯めること。智慧は反対に見解を捨てること。見解から自由になること。捨てることで現れる開放感・自由・安らぎ、これこそが幸福。

「あらゆる見解を捨てた境地が解脱」
仏道修行によって世間的な見解を一つ一つ捨てていったら、ブッダの言ったことが真実とわかる。「地球は丸い」と言うのと同じく立証された事実とわかる。が、それもまた一つの見解にすぎない。頭で「諸行無常・諸法無我・一切行苦」を理解しているうちは、それもまた見解。解脱とはそれさえ捨てること。

 つまり、こうなる。
 A.あらゆる見解は邪見である。 
ならば、
 B.「あらゆる見解は邪見である」という見解もまた邪見である。
この矛盾を解く第三の道は、
 C.見解のない世界(=ありのままの世界)



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