ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●仏教

● ジパング現象 : 初春の京都・寺めぐり 3

 3日目は土曜日だったので、街中を避けて郊外へ足を延ばした。
 栂尾(とがのお)に行くのは初めて。
 街中からバスでちょうど1時間、北山杉の林立する谷深い山中に入る。
 時折、桜吹雪と見まがうような雪が舞ったが、それもまた風情があった。

3月9日(土)曇り、一時雪
08:00 宿出発
08:37 四条烏丸バス停より市バス乗車
09:40 栂尾着
     高山寺
11:00 西明寺
12:00 神護寺
13:00 昼食
13:50 高雄バス停より市バス乗車
15:00 四条烏丸着
17:00 京都駅発

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栂尾バス停
市バスの終点である
市バスは一律料金なので、1時間乗っても大人230円
ずいぶんお得である

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高山寺
774年創建、光仁天皇の勅願と伝わる
国宝・石水院は、鎌倉時代に明恵上人が後鳥羽上皇より賜った建物
善財童子像の向こうに庭が見える

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今時分がいちばん殺風景な頃合いであろう

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欄間にかかる額『日出先照高山之寺』は後鳥羽上皇の筆による
寺名の由来となった

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座敷より山々を望む
紅葉の頃はさぞかし壮麗であろう
古都』執筆中の川端康成はここで長時間眺め過ごしたという

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明恵上人
『鎌倉殿の13人』北条泰時と同時代の人である
生涯にわたり夢日記をつけた人としても知られる

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国宝・鳥獣戯画(平安~鎌倉時代)
複数の作者によって段階的に描かれたとされる

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蛙とウサギの絵は有名だが、猫やネズミもいたのね

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明恵上人のお墓
高山寺はお茶の発祥地と言われている
明恵上人が中国から持ち帰った茶種を当地で栽培したのが始まり

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谷を流れる清滝川沿いに寺から寺へと歩くのが気持ちいい

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西明寺
弘法大師の弟子智泉によって神護寺の別院として開かれたのが始まり
この本堂は1700年に5代将軍綱吉の母・桂昌院の寄進により再建されたもの
千手・十一面観音菩薩像(平安時代)や愛染明王(鎌倉時代)など見事な仏像に時を忘れる

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苔庭の枯れた風情もまた良い
案内してくれた住職によると、「静かなのは今だけ。紅葉の頃は大変な人出」
最近は外国人参拝客も多いそうである
たしかに、「さすがにここでは会わないだろう」と思って来たのに、3組の外国人グループとすれ違った。

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聖天様が祀られていたのに驚いた
大根と巾着がなによりの標
元禄時代に聖天様を勧請し堂を建てたとのこと 

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3つのお寺はそれぞれ山の上にあるので、登って降りてを3回繰り返さなければならない
足が動くうちに行きたいところに行っておくことの大切さをひしひし感じる今日この頃である

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神護寺
ここから山門まで結構きつい

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平安京造営の最高責任者であった和気清麻呂による創建
824年に神護寺と命名された
広々とした境内は気宇壮大にしてエネルギーが満ちている

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大師堂
留学していた唐から京都に帰った弘法大師は、当地にしばらく住んだ
ここで恵果から学んだ密教の教えを広め始めた
つまり、真言宗誕生の地

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金堂(1623年再建)
本尊は国宝の薬師如来像
厳めしい表情と農婦のように逞しく肉厚な体つきが特徴的
左右に居並ぶ十二神像のダイナミックな動きにも目を奪われる
もう一つの目的であった国宝・五大虚空蔵菩薩像は期間限定の開帳(次は5/10~13)
今年7月には上野の国立博物館で神護寺展が開かれる
虚空蔵菩薩にも会えるといいのだが・・・

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素焼きの小皿を谷に向かって投げる「かわらけ投げ」という験担ぎがある
戦国時代、武将が出陣する際、必勝祈願で盃を地面に投げつけていたのが起源
神護寺が発祥地とされているそうで、ちゃんと投げる場所がある

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たしかに、何かを投げたくなるような絶景が広がる
神護寺に来たら、ここに来ない選択はない
1000年以上前、空海が見たまんまの景色である
京の都からこの深い山中まで、僧として最高位にいた最澄は密教の教えを請いに来た
最澄の謙虚さ、仏法への信心の篤さは見上げたものと思う

神護寺うどんやうどん屋
山腹にある茶屋でひとやすみ
客は3組ほど
小雪が舞っていた

神護寺もみじうどん
もみじうどん(900円)

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高雄バス停
清澄な空気の中、静かな谷歩きと名刹めぐりが満喫できた


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 今回の京都旅でつくづく感じたのは、外国人旅行客の多さであった。
 それも実に多国籍。
 京都タワーの周辺には民家を改造した旅籠(はたご)のような旅館がたくさんあって、洋風ホテルでなく和風の生活を楽しみたい外国客であふれていた。
 昔からある路地裏の個人経営の喫茶店や食堂にも外国人の姿が見られ、店の人の応対ももはや手慣れたものであった。
 今回ソルティが訪ねた中で外国人の姿を見かけなかったのは、一日目の風俗博物館と二日目の瑞泉寺だけであった。
 ソルティのような京都好きの日本人でさえ、なかなか訪ねていかないところまで入り込んでいる。
 インターネットとりわけSNSの力であることは言うまでもないが、それにしても、「なぜ、日本?」という不思議な思いは拭いえない。
 たしかに日本には素晴らしい自然や文化遺産や工芸品がいっぱいあるけれど、それは日本に限ったことではない。
 治安の良さや食べ物の旨いのは昔からだ。
 やっぱり、相対的な物価の安さが大きいのだろうか。
 一方、四国遍路にチャレンジする外国人の多さは、そればかりが理由ではないことを告げているような気もする。
 21世紀初頭の日本が、世界にとってまさに「ジパング」になっていることの意味を考えさせられた。

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これこそ「黄金の国ジパング」の象徴である






 



● 半蔵門ミュージアムでブッダに会う

 半蔵門ミュージアムは、仏教系教団『真如苑』が運営している仏教美術館。
 2018年4月にオープンしたのだが、存在を知ったのはつい最近である。
 なかなか貴重で珍しい展示があるようなので、訪れてみた。

半蔵門ミュージアムポスター

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 地下鉄半蔵門駅の真上、皇居まで徒歩3分という好立地。
 現代的で、美しくシンプルな建物。
 展示品の由来や見どころを、わかりやすく丁寧に伝えてくれるシアターホール。(座席シートが快適すぎて、上映時間の半分は寝ていた)
 コーヒーを飲みながら関連資料を閲覧できる居心地の良いラウンジ。(60分まで利用可)
 あたたかい笑顔と親切な応対が気持ちよい女性スタッフたち。
 そして、運慶作と推定される大日如来像(重要文化財)や京都醍醐寺伝来の如意輪観音菩薩坐像をはじめとする見応えある所蔵品の数々。
 これで入場料無料というのだから、『真如苑』の力のほどが察しられよう。
 スタッフの女性たちはおそらく信徒なのだろう。
 奉仕の精神が感じられた。

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ポスター右より、大日如来、如意輪観音、不動明王、こんがら童子&せいたか童子

 地下の静かな暗闇に浮かび上がる大日如来の毅然とした美しさ、片足を床におろした珍しいお姿の如意輪観音、子供のくせに典雅なたたずまいの二童子、下部に中将姫が描かれた當麻曼荼羅(写本)、見事な色彩で描かれた虚空蔵菩薩像の絹本・・・・等々。
 いずれも鑑賞者の目を喜ばせ、脳を活性化し、心を浄め、敬虔な気持ちを呼び覚ます。

 ソルティが最も惹かれたのは、仏像が作られ始めた紀元2~3世紀のガンダーラ美術。
 ヘレニズム文化すなわちギリシア彫刻の影響を帯びた顔格好の仏像や、石に彫られた仏伝が興味深かった。
 仏伝は、「前世、誕生、四門出遊(出家)、降魔成道(悟り)、梵天勧請、初転法輪(最初の説法)、アジャータサットゥ王の帰依、入滅」といったブッダの生涯を描いたもの。
 各場面におけるブッダを取り巻く人々(家族や弟子たち、世俗の人々、悪魔や神々など)の表情や動きが、当時としてはかなり写実的に表現されている。ルネサンスの端緒となった画家ジョットの『キリスト伝』を連想させた。
 別のフロアに場面ごとの詳しい解説があり、絵解きの面白さとともに、当時の人々の素朴な信仰のさまが伺える。

死せるキリスト
ジョット「死せるキリストへの哀悼」
(イタリア、スクロヴェーニ礼拝堂)

 平日だったので館内は空いていて、落ち着いた空間で心ゆくまで鑑賞できた。
 なんとまあ、4時間近くも滞在してしまった。
 ブッダ推し、仏像ファンなら、一度は行っておきたいオアシスである。
 (「真如苑」への勧誘行為はなかったよ)

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虚空菩薩坐像(ポストカード)
記憶力を増強する力があるとのことで、かの空海も念仏した。
認知症予防を期して購入。







● お口くちゅくちゅ : 初期仏教月例講演会(講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時  2024年1月14日(日)13:30~16:30
場所  学術総合センター内・一橋講堂(東京都千代田区)
演題  「新たな一年を生きる」~日々是好日の生き方~
主催  日本テーラワーダ仏教協会
 
 月例講演会に参加したのは実に6年ぶり。
 その間、体調不良があったり、2度の転職があったり、四国遍路に行ったり、引っ越しがあったり、足の骨折があったり、コロナ禍があったり・・・e.t.c.
 その時々の環境に左右されて、仏道修行への意欲や熱意もずいぶん波があった。
 が、スマナ節から6年も離れていたとは!
 ほんとに時が経つのは「あっ!」という間である。
 地球の自転が速まっているのではないか?
 
 6年ぶりに参加しようと思った理由は、やはり、能登半島地震が大きい。
 被災して、家を失い、家族や友人を失い、仕事を失い、寒さにふるえながら避難所で身を寄せ合っている人々の姿に、今こそ慈悲の瞑想を実践したいという思いが生じた。
 破壊され尽くした街や続々と増えていく死者数の報道を見聞きするにつけ、諸行無常の感が強まり、「我が身にだって、いつ何が起こるのかわからない」という焦燥感に似た思いが高まった。

 ほんとうはいつだって、どの瞬間だって、この世も、我々の生も、「無常」の凄まじい流れの中にあるのに、我々の命は砂時計の砂のように止めどなくこぼれ落ちているのに、愚にもつかない妄想におおわれ、「貪・瞋・痴」に振り回され、闇雲に走り回っている。
 過去に囚われ、未来を心配し、「今ここ」という瞬間を取り逃がし続けている。
 いつの間にか人類が陥ってしまったこの罠を、いったい誰が仕組んだのだろう?
 神?
 悪魔?
 遺伝子?
 宇宙人?
 宇宙意識?

 自らの深刻な病気や不幸、近しい人との死別、あるいは今回の震災のような“日常の裂け目”に遭ってはじめて、“無常”という真実に目を向けられるとは、なんという逆説だろう!
 とはいえ、ブッダが説いた四聖諦にあるように、あるいは『仏弟子の告白(テーラガータ)』や『尼僧の告白(テーリーガータ)』に見るように、悟りの入口は「苦」なのだ。

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一橋講堂がある学術総合センタービル

 講演の内容自体は、これまで何度も聴いたり読んだりしていることなので、新たな気づきというほどのものはなかった。
 講演後の質疑応答がなかなか面白かった。
 『ペットを飼っていることについて厳しく指導してください』という会場からの問いに、スマナ長老が『飼わないことです』と一刀両断したのには(質問者には酷ながら)笑った。
 『このままだと(自民党案による)改憲が実現してしまう。どうすればよいのか』といった問いには、憂慮を同じくするソルティも笑ってはいられなかった。
 スマナ長老は、「こうしなさい」「ああしなさい」と明確には答えられなかったが、「自由や人権を害するようなことは良くない」「憂慮というネガティヴな思いが、大切な時もある」と言われていたことから、答えは自ずから明らかであろう。
 自分にできることを、気づきと慈悲をもってやるしかない。
 
 久しぶりにスマナサーラ長老の確たる存在感に触れ、スマナ節を耳にし、同じ仏道を歩む仲間たちの気に触れて、仏教愛と修行意欲が高まった。

過去を追いゆくことなく
また未来を願いゆくことなし
過去はすでに過ぎ去りしもの
未来は未だ来ぬものゆえに

現に存在している現象を
その場その場で観察し
揺らぐことなく動じることなく
智者はそを修するがよい

今日こそ努め励むべきなり
誰が明日の死を知ろう
されば死の大軍に
我ら煩うことなし

昼夜怠ることなく かように住み、励む
こはまさに「日々是好日」と
寂静者なる牟尼は説く

『日々是好日』経

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神田橋を望む外堀通り
10年以上前に職場があった付近
まさに諸行無常を感じる変わりようであった

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帰りはJR神田駅まで歩いた
この駅の山手線発車メロディーは「お口くちゅくちゅ、モンダミン




● 難しいけど面白い 本:『〈わたし〉はどこにあるのか ガザニガ脳科学講義』(マイケル・S.ガザニガ著)

2011年原著刊行
2014年紀伊國屋書店(訳:藤井留美)

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 原題は、Who’s in Chage ?  Free Will and the Science of the Brain
 すなわち、「責任」と「自由意志」に関わる脳科学の話である。
 著者のガザニガは、1939年アメリカ生れの認知神経科学の第一人者。てんかん治療のため右脳と左脳をつなぐ脳梁を切断した分離脳患者を対象に、さまざまな実験を行い、脳の右半球と左半球の働きの違いについて、驚くような新事実を次々と発見したことで知られる。
 物書きとしての才能も高く、脳科学の最先端がどのようなものかを、難しい専門用語を並べることなく、一般読者にわかりやすくユーモアをもって伝えてくれる。
 ソルティのような科学オンチの文系にはありがたいことこの上ない。
 が、やっぱりそれでも難しい。
 難しいけど、面白い。

 第1章から第3章は、脳科学の誕生から語り起こし、それが生物学や人類学や物理学や精神医学など他の分野における新しい発見と関連し合って、凄まじい進歩を遂げてきた様子が描かれる。
 すべては20世紀に起きたことで、ほんの1世紀あまりで、最後の未開地と言われるヒトの脳が急速に解明され、人間の様々な機能や行動の背景をなす科学的要因が明らかになりつつある。
 動物と違うヒトの特異性が、科学的に裏付けられるようになったのである。

 遺伝子の強力な制御のもとでけたはずれに発達し、後天的要因(遺伝子に異なったふるまいをさせる遺伝以外の要因)と活動依存的学習で磨きをかけられた結果が、いまここにいる私たちである。行きあたりばったりとは対極の構造化された複雑な仕組みを持ち、高い自動処理能力と、制約付きながら優れた技能、それに広範囲に応用できる能力を発揮できる脳は、つまるところ自然淘汰のなせるわざなのだ。私たちが持つ無数の認知能力は、脳のなかでの担当領域がきっちり線引きされており、もちろん神経ネットワークや神経系も領域によって異なっている。そのいっぽうで、同時並行処理が行われる複数の神経系も脳のあちこちに配置されている。制御系は単一ではなく、複数あるということだ。自分が何者かという意味づけはそんな脳から生まれているのであって、外からの働きかけに脳が従っているのではない。(本書より引用、以下同)

 ね、難しいでしょ?
 難しいけど、面白そうでしょ?

 ソルティが面白いと思う最たる理由は、脳科学が進歩するにしたがって、脳が遺伝子に強く制御されていることが明らかになり、われわれ人間の感覚や感情や思考や行動のほとんどが、意識下において、“生化学的に、神経科学的に、物理学的に”コントロールされていることが自明の理となりつつあるからだ。
 つまり、人間はあらかじめプログラミングされたロボットに近く(というより、結局ヒトも本能で生きる動物と変わりなく)、自由意志は幻想だという不都合な真実。
 自由意志が幻想ならば、「わたし」という意志決定者もまた幻想なのか?
 この問いが、諸法無我を説く仏教と通じるものがあり、仏教徒であるソルティの好奇心を掻き立てるのである。

 さらに、脳科学の進歩によって、自由意志に対する懐疑とともに強く主張されるようになったのが、決定論(因果説)である。

 決定論とはそもそも哲学上の概念で、人間の認知、決定、行動も含めた現在と未来のすべてのできごとや活動が、自然界の法則に従った過去のできごとを原因として、必然的に発生しているというものだ。どんなできごとも活動も予定されているのなら、すべての変動要因がわかっていれば予測も可能になる。

 宇宙も世界も人間もアルゴリズムにしたがって動いているだけであって、「すべての出来事はあらかじめ決まっている」という、なんとも無味乾燥な、人間の努力や希望を嘲笑うかのような説(=運命論)である。
 決定論をYESとするなら、当然、自由意志や自己決定は存在する足場を持たない。
 意志決定する「わたし」は幻想である。
 相対性理論のアインシュタイン、「利己的な遺伝子」のリチャード・ドーキンス、哲学者のスピノザなどが、決定論者の代表格らしい。
 世界的ベストセラーとなった『サピエンス全史』や『ホモデウス』を書いたユヴァル・ノア・ハラリも、その一人に挙げられよう。

 しかしながら、本書によれば、現在ではむしろ、決定論は旗色が悪いという。
 というのも、決定論の後ろ楯となっているのは、〈1+1=2〉となるニュートン物理学の鉄壁の法則なのであるが、現代科学はもはや〈1+1=必ずしも2ならず〉を知ってしまったから。
 それが、カオス系であり、量子力学であり、創発である。
 創発とは、「個々の要素の総和では予測できない新しい性質を、システム全体が獲得する」こと。そこでは、1+1が10だったり100だったり10万だったりする。

 決定論が否定されるのなら、自由意志の存在も可能と主張できる。
 つまり、2つの立場がある。
 
 A 決定論NOならば、自由意志YES
   →「未来は決まっていない。なので、ヒトは自由に決定できる」
 B 決定論YESならば、自由意志NO
   →「未来は決まっている。だから、ヒトは自由に決定できない」

 決定論と自由意志については、『自由意志の向こう側』(木島泰三著)という本を別記事で取り上げたことがある。
 そこでは、現在、下記のいずれかの立場に拠って、研究者たちが議論を闘わせているとあった。
  1.  自由意志原理主義(リバタリアン)・・・・自由意志はある!
  2.  ハード決定論(因果的決定論)・・・・自由意志はない!
  3.  両立論・・・・1と2は両立できる
 1と2はそれぞれ上のAとBに該当する。理解は難しくない。
 しかるに、3の両立論とはなんぞや?
 と、ソルティは頭を悩ませたのであった。

 しかし、よく考えると、決定論と自由意志の有無は必ずしも連動しているわけではない。
 この世界が決定論で成り立っているか否かの問題と、ヒトの自由意志は幻想か否かの問題は、分けて考えることができる。
 つまり、

 C 決定論YESだけど、自由意志YES
   →「未来は決まっている。されど、ヒトは自由に決定できる」
 D 決定論NOだけど、自由意志NO
   →「未来は決まっていない。そして、ヒトは自由に決定できない」

という組み合わせも想定することができる。
 さすがに、Cの説を唱えるのは無理があるけれど、Dは選択肢としてあり得る。
 ガザニガはどうやら、Dの立場を取る「両立論者」のようだ。
 こう言っている。

 脳は自動的に機能していて、自然界の法則に従っている。この事実を知ると元気が出てくるし、もやが晴れたような気持ちになる。なぜ元気が出るかというと、自分たちは意思決定装置だと確信できるし、脳が頼りになる構造だとわかるからだ。そしてなぜもやが晴れるかというと、自由意志という不可解なものが見当違いの概念だとわかったからだ。それは人類史の特定の時代に支持されていた社会的、心理的信念から出てきたものであり、現代科学の知識が背景にないだけでなく、矛盾さえしている。(ゴチはソルティ付す)

 仏教語に翻訳するならこうだ。
 「諸法無我だが、因果は見抜けない」

タントラ

 本書の白眉は第4章である。
 ここでは、自由意志は幻想であるにも関わらず、「なぜ我々は、自由意志があると錯覚するのか?」を解説している。
 なんとその原因は、左脳にあるインタープリター・モジュールのせいなのだという。

 私たちは無数のモジュールから構成されているのに、自分が統一のとれた存在だと強烈に実感しているのはなぜか? 私たちが意識するのは経験というひとつのまとまりであって、各モジュールの騒がしいおしゃべりでない。意識は筋の通った一本の流れとして、この瞬間から次の瞬間へとよどみなく、自然に流れている。この心理的統一性は、「インタープリター」とよばれるシステムから生じる経験だ。インタープリターは、私たちの知覚と記憶と行動、およびそれらの関係について説明を考えだしている。それが個人のナラティブ(語り)につながり、意識的経験が持つ異なる相が整合性のあるまとまりへと統合されていく。混沌から秩序が生れるのだ。

 あなたという装置に亡霊は入っていないし、謎の部分もない。あなたが誇りに思っているあなた自身は、脳のインタープリター・モジュールが紡ぎだしたストーリーだ。インタープリターは組みこめる範囲内であなたの行動を説明してくれるが、そこからはずれたものは否定するか、合理的な解釈をこしらえる。

 インタープリターは、ずっと私たちを陥れてきた。自己という幻影をこしらえ、私たち人間は動作主体であり、自分の行動を「自由に」決定できるという感覚を吹きこんだ。それはいろいろな意味で、人間が持ちうる建設的かつ偉大な能力だ。知性が発達し、目前のことだけにとらわれず、その先に広がる関係を見ぬく能力が磨かれたヒトは、ほどなくして意味を問いかけるようになる――人生の意味とは何ぞや?

 インタープリター・モジュール――これが「わたし」の正体というのである!
 ここまで脳科学が進んでいるとは驚きである。
 この説が正しいのであれば、諸法無我を「悟る」とは、左脳の働きが一時的に停止する状態で起きた、右脳単独による世界認知をいうのではなかろうか?
 そう言えば、脳卒中で左脳の機能の大半を失った医師の手記(ジル・ボトル・テイラー著『奇跡の脳』)があったっけ。彼女はまさに「悟った」人であった。
 ソルティがやっている「悟りに至る瞑想」といわれるヴィパッサナー瞑想とは、ひょっとしたら、「いま、ここ」の現象を実況中継し続けることで左脳を疲れさせて、一時的にシャットダウンさせる裏技なのではなかろうか?
 それを忍耐強く続けること(=修行)によって、インタープリター・モジュールを黙らせる新しいモジュールを脳内に作り上げるテクニックなのではなかろうか?

チャクラと仏

 自由意志の有無の問題は、責任の所在の問題へとつながる。
 ヒトに自由意志がなくて、すべてが脳のアルゴリズムの結果であるのなら、個人が犯した罪を問うことはナンセンスじゃないか。犯罪者に責任を取らせるのは不合理だ。
 ――そういう議論が成り立つ。
 実際にその論拠をもとに、罪を犯した者に必要なのは「処罰でなくて更正」と提言しているデイヴィッド・イーグルマンのような研究者もいる。(別記事『あなたの知らない脳』参照)
 第6章では、この問題に対するガザニガの見解が述べられている。
 ヒトの社会というものが、単体の脳ではなく、複数の脳からできている事実を踏まえ、脳と脳との相互作用から生じる「創発」に着眼しているところが面白い。
 脳の働きを単体として見るのではなく、人類という「種」のレベルで、つまり、「人類の脳」という観点からとらえているわけだ。
 あたかも、ユングの集合意識あるいは唯識論の阿頼耶識みたいな話で、難しいけど面白い。

 本書の刊行は2011年。
 もう10年以上が過ぎた。
 その間も脳科学は進んでいるはず。
 今はどこらにいるのやら?




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● はつもうで @TAKAO-SAN

 年末年始は秩父でリトリート。
 スマホもテレビも新聞もアルコールも人との会話も遠ざけて、瞑想と散歩と読書の4日間を送った。
 元日の早朝に秩父神社に参拝し、生きとし生けるものの幸福を祈った。

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秩父神社

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社殿の東側に刻まれた「つなぎの龍」
今年は君の出番だ!

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最近、境内の西側に三峰神社も合祀された

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祭神は、ヤマトタケル、イザナギ、イザナミである

 2日の午後に禁を解いて、近場の温泉施設に出かけた。
 最寄駅からの送迎バスは自分一人。
 正月休みというのに、不思議なほど館内は空いていた。
 ゆっくり温泉に浸かったあと、休憩室のテレビを見て、はじめて能登半島地震を知った。
 たしかに、元旦の夕方の瞑想中、揺れを感じた。
 が、秩父は地盤が硬いので、瞑想を止めてニュースを見るほどの地震とは思わなかった。
 おそらく温泉が空いていたのも、ニュース映像を見て、「こんなときに温泉なんかに出かけて楽しんでよいものだろうか」と思った人々が、予定をキャンセルしたためではないか。
 避難所で寒さに震えながら、いまだ消息のわからない家族や知人の安否を心配している人々の姿を目にしながら、のんびり温泉に浸かって、あたたかい休憩室でビールを飲んでいる。
 そんな自分をうしろめたく感じないでいられるほど、ソルティも冷血漢ではない。
 とはいえ、では、今まさに苦しんでいるガザ地区やウクライナやミャンマーの人々についてはどうなのかと問われると、感情移入のラインをどこで引いたものか難しいものである。

 ともあれ、いま自分にできるのは、寄付と状況を知ることと祈りだろう。

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元日の秩父市

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武甲山

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秩父札所16番・西光寺にある大日如来

 
 1月7日には高尾山に初詣でに行った。 
 年始めの薬王院参りは、JR中央線沿線に住み始めた2004年以来の毎年の恒例行事だったのだが、足の骨折とコロナ禍のため、2019年1月7日を最後にストップしていた。
 実に5年ぶり。
 
 朝5時半に自宅を出て、7時に京王線・高尾山口駅着。
 友人と合流し、ケーブルカーで8合目にある高尾山駅へ。
 朝日が関東平野を黄金色に染める。
 早朝の高尾はやはり気持ちがいい。
 杉並木を歩くと、身も心も浄化されていくような気がする。
 おはよう、天狗さん!

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ケーブルカー麓の清滝駅

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高尾天狗


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薬王院

 薬王院本堂で行われる8時からの御護摩祈祷に参列し、般若心経を読経し、本尊である飯縄大権現に発毛と開運を祈願した。(コロナ感染で頭髪が抜けた!)
 そのあと、山頂まで登った。

 冬はつとめて(早朝)。
 澄んだ空気と葉を落とした木々が、見事な展望を実現する。
 スカイツリー、都心の高層ビル群、光り輝く相模湾、江の島、大島、青々した武蔵や丹沢の山並み、南アルプスの白嶺、そして・・・・神々しいまでに美しい、雪をかぶった富士山。
 自然と手が合わさった。

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高尾山頂広場

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生きとし生けるものが幸福でありますように






 
 
 

 

 

● ロザリオの秘密 本:『仏教の謎を解く』(宮元啓一著)

2005年すすき出版

 死者を「ほとけ」と呼ぶのはなぜ?
 釈迦は輪廻を否定したのか?
 みんなが解脱したらどうなる?
 五重塔でもっとも大切な部分は?
 懐石料理、精進料理の由来は?
 e.t.c.

 仏教に関する“知らないようで”知らない数々の疑問を解き明かす。
 仏教をほとんど知らない人より、仏教に興味があって、ある程度聞きかじっている人向けの本である。
 つまり、「死者をほとけと呼ぶ」、「釈迦は輪廻を説いた」といったことを事前知識として持っていればこそ、本書に書かれている真相が「なるほど」と腑に落ちる。
 はじめから仏教に興味ない人やこれから仏教を学ぼうという人には、そもそも、「なぜそれが謎として取り上げられるのか」が分からない。
 本書は入門書ではなく、初段者向けと言っていい。

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 著者の宮元はインド哲学・仏教研究者。
 『ブッダが考えたこと』、『インド哲学七つの難問』、『念処経 ブッダの瞑想法』など多くの著書がある。
 仏教に関しては、原始仏教経典(阿含経典)に説かれている釈迦の教えを尊重し、いわゆる大乗経典には批判的な立場のようである。
 したがって本書の記述もまた、多くの日本人のもつ「仏教イメージ」に見られる誤解や間違いを、テキスト研究によって見出された“真実に近い”釈迦の姿によって正していく、というスタイルになっている。
 また、自身、若い頃から様々な瞑想体験を重ねた実践者でもあるらしい。
 サマタ(集中)瞑想により禅定や三昧に至ったり神秘体験したりして「悟った」ような気になったところで、瞑想が終われば元の黙阿弥、煩悩にまみれた自分に戻るしかなかった――という本書に書かれている経験が、仏教学者としての著者の原点になっているように感じられた。

 以下、いくつかの謎の回答(とソルティのコメント)。

 わたくしたちは、死ぬと、大日如来と合一すると考えられたのです。大日如来と合一するというのは、仏になること、成仏することにほかなりません。そこで、日本では、死ぬことを成仏するといい、また、死者(死体)のことを仏と呼ぶようになりました。

 刑事ドラマのセリフに出てくる「ほとけさん」は、密教の最高存在である大日如来のことだったのだ。知らぬ間に、密教文化が日常に入り込んでいたのね。

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東大寺の廬舎那仏
もっとも有名な大日如来像


 生類がみんな解脱して彼岸に渡ってしまったら、どうなるのでしょうか。もはや結論は明らか、輪廻の六道(天、人、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄)という有情世間が消えてなくなるばかりか、生類の業の集合が形成してきた環境世界も消えてなくなります。

 生命が存在しなければ世界(環境)は存在しないとは、つまり、「認識」がなければ「存在」は成り立たない、ということである。認識と存在の不思議な関係
 そこで思い浮かぶのが仏典でもっとも有名なシーンである梵天勧請。悟ったばかりの釈迦が教えを説かずにいようと思ったのを知った梵天は、「世界が壊れてしまう!」と嘆いて、説法を懇願する。結果、釈迦は教えを説き始める。
 が、教えを説く=解脱者を生み出す、ことはかえって世界の消失を促進する結果になるのでは?


 五重塔でもっとも重要な部分は、美しい五層の建築物ではなく、その天辺に小さく載っている伏鉢なのです。実際の例は別として、そのなかに、仏舎利が納められるべきことになっているのです。
 もっとも、釈迦は巨大な恐竜のような体ではありませんでしたから、その本物の仏舎利が日本にまで持ち込まれることはありませんでした。ですから、伏鉢のなかに納められている仏舎利というのは、米粒ぐらいの小さな水晶のことをいいます。
 
 仏舎利とは釈迦の遺骨のこと。古い経典によれば84,000の寺に分けたという。
 五重塔って、つまり、釈迦のお墓なのだよ、明智君。 

法隆寺五重塔
奈良法隆寺の五重塔

 わたくしたちが用いる数珠と、キリスト教徒が用いるロザリオとがよく似ているのは当たり前で、もとは同じものだったのです。

 数珠の語源はサンスクリット語「ジャバ・マーラー(つぶやきの環)」。祈りをつぶやきながら、その回数を数えるのに珠をたぐっていたからである。
 これが9世紀前後にイスラム圏に入り込み、それを見たキリスト教徒が祈祷の用具として取り入れた。このとき「ジャバ」という言葉を、「ジャパー」という名の中国原産の薔薇と勘違いし、「薔薇の環」の意と解した。薔薇の環(ラテン語で rosarium )が転じてロザリオとなったとな。
 仏教とキリスト教の不思議な環である。

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starbrightによるPixabayからの画像




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 本:『気づきの瞑想実践ガイド』(チャンミェ・サヤド―著)

2010年原著刊行
2018年サンガ発行(訳:影山幸雄、影山奨)

気づきの瞑想実践ガイド

 悟りに至る瞑想と言われるヴィパッサナー瞑想に関するわかりやすく丁寧なガイドブック。
 マハーシ・サヤドー著『ミャンマーの瞑想 ウィパッサナー観法』(国際語学社1995年発行)、ウ・ジョーティカ著『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』(新潮社2006年発行)と並び賞されるべき、読みしたがうべき名著である。訳も適確で良い。
 著者のチャンミェ・サヤドーは、1928年ミャンマー生まれのテーラワーダ仏教僧。マハーシ・サヤドーから瞑想指導を受けたという。

 副題「ブルーマウンテン瞑想センターでの法話集」が示すように、本書は、1998年オーストラリアのブルーマウンテン洞察瞑想センターで行われたチャンミェ長老による瞑想指導において、一般の(出家者でない)参加者を前に語られた法話である。
 これから瞑想修行を始めていこうという初心者にとっても、すでに日々瞑想実践を行っていて様々な気づきや疑問が湧き上がっている中級者にとっても、瞑想習慣が長きにわたるも様々な理由から現在壁にぶつかっている人(ソルティだ)にとっても、非常に役に立ち、励みとなる書である。
 とくに、瞑想が深まるにつれて瞑想者が発見していく智慧について、かなり具体的に順を追って述べられている点が本書の美点と思う。

 思考は心の状態であり、永続せず、常に変化しています。思考は現れては消え去ります。しかし、時々思考が長時間続いていると考えてしまうことがあるかと思います。実際には、思考はひとつではなく、連続する思考のプロセスが、次から次へと現れては消えているだけです。これは思考のプロセスであり、ひとつの思考は1秒の100万分の1も続きません。生じたら、あっというまに消え去ります。そしてひとつ思考が消え去ると、もうひとつの思考が生じて、すぐに消え去ります。
 しかし私たちは思考のプロセスを細かく分けて識別することができません。ひとつの思考がずっと続いているかのように考えます。そのため、その思考を私、私の物、人、生命とみなします。考えるのは「私」、「私は何かを考えている」と考えます。こうして人ないし自分という誤った見方が生じます。(本書より)

 上記の一節を読んで、推理小説の生みの親であるエドガ・アラン・ポーの小説を思い出した。
 まさに、史上初の推理小説であり、名探偵第1号であるオーギュスト・デュパンが初登場する『モルグ街の殺人』である。

 物語の語り手である「私」はひょんなことからデュパンと知り合い、その天才に魅了されて同居することになる。
 ある晩、二人は連れ立ってパリの街を黙って歩いていた。
 すると突然、デュパンは、「私」がそのとき心の中で考えていたことをズバリと言い当ててみせる。
 驚愕する「私」に対し、デュパンは種明かしを披露する。
 デュパンは、ある瞬間からの「私」の思考の連想過程を、「私」の目線や表情や仕草から推理し、順次追っていたのであった。

 日常における我々の思考は、連想作用によって、Aという思考からBという思考に、Bという思考からCという思考に、鎖のようにつながっていく。
 たとえば、

 道路脇にラーメン店の看板を見た ➡昨日食べた「サッポロ一番」を思い出す ➡テレビで見た「札幌の雪まつり」のニュース ➡今年は雪が少ない ➡スキーに行けないかも ➡スキーと言えばアルペン ➡“冬の女王”広瀬香美 ➡離婚した相手は誰だっけ? ➡大沢なんとか ➡離婚と言えば羽生結弦はどうして・・・・以下続く。

 ――といった具合いに思考は、半ば無意識のうちに、無責任かつほぼ自動的に進行していく。
 その流れは私の経験や知識や性格やそのときの気分や体調に影響を受けるけれど、私(=意識)のコントロール下にはない。
 思考は勝手に無意識から材料を取り出して、おのがプロセスを進んでいくだけだ。
 私の意志とは関係なく・・・。

 そのとき、隣りを歩いていた友人から聞かれる。
 「いま何考えている?」
 「いや、羽生結弦の離婚についてだよ」
 ・・・なんて、いかにも時事ネタに聡いフリなんかしてみるけれど、本人はラーメン店の看板がそもそものきっかけだったことにまったく気づいていない。
 
 自らの思考をつぶさに観察してみると、思考というものが実にいい加減で、主体性も一貫性もなく、周囲の状況に左右されやすく、様々なものに条件づけられていることが分かる。
 思考だけではない。
 気分や感情も意志も記憶もまた同様である。
 
 自らの心――気分、気持ち、感情、思考、意志、信念、記憶――は「あてにならない」。あまり信用するな。いわんや感覚においてをや。
 それが、ヴィパッサナー瞑想がソルティに教えてくれたことの一つである。




おすすめ度 :★★★★

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● 仏教セミナー: 佐々木閑氏講演『これからの時代のためのブッダの教え』

日時 2023年11月18日(土)
会場 日本交通協会会議室(有楽町・新国際ビル内)
主催 日本仏教鑚仰会

 8年前中野サンプラザで聴けなかった佐々木氏の話。
 ようやく目の前で聴くことができた。
 『科学するブッダ 犀の角たち』、『仏教は宇宙をどう見たか』など、氏の本には啓発されるところ大である。

 会場の新国際ビルには初めて来たが、有楽町のこのあたりの変わりように驚いた。
 ソルティの記憶の中では灰色のビルディングの並ぶ殺風景なイメージしかなかったのだが、街路樹の続くレンガ敷きの路上にテーブルが置かれ、休日を思い思いに楽しむ人々が往来する様子は、まるでカルチェラタンのよう。カルチェラタン行ったことないのだが。
 あっ、岸恵子!(ウソ)

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左の建物が会場となった新国際ビル

 冒頭一番、佐々木氏は「これからの時代」を「今日よりも明日が悪くなる時代」と断言した。
 改めて言われるまでもなく、多くの日本人が感じていることだろう。
 少子高齢化、慢性化した不景気、広がるばかりの所得格差、国際競争力の低下、値上げラッシュ、地方の衰退、軍備増強、無縁社会に孤立する人々・・・。
 外を見れば、ウクライナ×ロシア戦争、イスラエル×ハマス戦争、気候変動による災害、ナショナリズムの興隆、分断する国際社会・・・。
 戦後日本人が享受してきた「豊かさと安全」が崩れようとしている。

 一方、世界的な潮流として価値観の大きな変容が見られる。
 「より多くの物を手に入れることが幸福」という資本主義イデオロギーの不毛に気づき、商業主義の洗脳から目覚めた人々は、新たな価値観のもと、これまでの生き方を変えようとしている。
 そんな時代にますます重要度を増すのが仏教である、と佐々木氏は説く。

 世間における幸福とは「欲求の充足、夢の実現」。これは私たちが生物として持っている本能的思考。「虹の向こうの夢を追い求める気持ち」が人類を発展させ、そして多くの人を苦しめてきた。(当日講師配布資料より抜粋、以下同)
 
 「欲」を三毒――三つの悪しきもの、残り二つは「怒り」と「無知」――の一つとし、すべてを捨て去っての出家をすすめたブッダの教えが、資本主義と相反するものであるのは間違いない。
 大乗仏教宗派や仏教まがいの新興宗教の中には、この根本が崩れて、お布施という名の集金活動に熱心なところも見受けられるが、本来の仏教は「欲望の充足でなく、欲望を持たない状態を目指す」。
 そして、人の抱く究極の欲望が「永遠の命」である。
 仏教が、キリスト教やユダヤ教やイスラム教と決定的に異なるところは、後者3つが来世信仰すなわち「天国で永遠の幸福のうちに生き続ける私」という、自我(あるいは魂)の存続を最高到達点とするのにくらべ、仏教は(少なくとも原始仏教は)「この世であろうと、あの世であろうと、生き続けることは苦しみであるから、二度とどこにも生まれ変わらないようにしよう」という涅槃寂静をゴールとする。
 また、神や教会などの外部に救いを求めず、あくまで修行によって「自分の力で自分を変える」。
 仏教がいかに既存のほかの宗教と異なることか!
 もっとも、佐々木氏は言う。

 欲求を追い求める人生と追い求めない人生には、優劣も善悪もない。
 どちらの人生を選ぶかは、人それぞれの状況が選択の基準になる。
 ただし、欲求を追い求める人生には、「快楽」と「苦」とがつきまとう。

 佐々木氏の講義(=説教)は、基本的にテーラワーダ仏教のスマナサーラ長老の説くところと同じ。つまり、原始仏教そのもの。
 阿弥陀様の本願とか、弥勒菩薩の救済とか、称名念仏による極楽往生とかを信じる人々にとっては、梯子をはずされて谷底に突き落とされるようなショッキングな内容である。
 以前、日蓮宗のお寺がスマナ長老を迎えて法話を開催したことがあったが、そのときの会場の凍り付いた空気をソルティはよく覚えている。
 本来の仏教は、身も蓋もないほど、人々の抱く生ぬるい幻想をひっぱがす鋭利な刃物なのである。
 ただ、大学教員である佐々木氏の語りは流暢でユーモアがあり、表情や仕草も多彩で、穏やかな雰囲気を発していた。
 時折、鋭い眼光を放つ瞬間もあり、世間向けの仏教伝道者としての顔と、深い学識と思想を湛えた研究者としての顔と、使い分けているのだろうと察しられた。
  
 休憩時、70歳以上が9割がた占める会場を見やりながら、ふと思った。
 こういった話を佐々木氏の教え子である(サトリ世代と言われる)令和の若者たちは、どんなふうに聴くのだろう?
 経済成長と所有資産の拡大こそが幸福と疑わない多くの昭和世代とは、また違った受け取り方をするのだろうか?
 日本におけるテーラワーダ仏教の今後はどうなっていくのだろう?
 
 休憩後、スマホを確認していた佐々木氏から、池田大作の死を教えられた。

(仏教は)社会を変えることで人を救うのではなく、人を救えない社会で苦しむ人たちを受け入れる受け皿、その目的は、社会の片隅で永く存続すること。


※本記事は実際の講義内容のソルティ流解釈に過ぎません。あしからず。



● 9分の1のご来迎 特別展『京都・南山城の仏像』(東京国立博物館)

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 行こう行こうと思いながら先送りになっていたこの催し。気がつけば会期終了目前だった。
 混んでいるかもしれないなと思いつつ、11/11(土)の午後に出かけた。

 南山城というのは、京都府南部、奈良県に接する一帯をいう。
 緩やかな丘陵地を木津川が流れる心安らぐ地である。
 宇治茶の産地としても知られる。 
 このあたりは由緒あるお寺や素晴らしい仏像がたくさんあるのだが、世界的観光名所の京都と奈良にはさまっているせいか、人が殺到していない。
 ソルティは、東日本大震災のあった2013年10月に、9体の金色阿弥陀仏で知られる浄瑠璃寺とその近くの岩船寺に行った。
 秋の里山歩きが実に気持ち良かった。
 今年3月には木津川市の畑中にある蟹満寺に行き、白鳳時代につくられた国宝・釈迦如来坐像に会ってきた。
 「こんな田舎に、こんな立派な仏像が、こんな無防備に、おわすのか!」と驚いた。

蟹満寺
白鳳時代の釈迦如来坐像がある蟹満寺

 今回の展示では、浄瑠璃寺・岩船寺のほか南山城地区の7つのお寺の仏像たち、計18体が招かれていた。
 平安時代(9~12世紀)のものが16体、残り2体が鎌倉初期である。
 メインとなるのは浄瑠璃寺の9体の阿弥陀仏像の中から選び出された1体。
 修理を終えたばかりの金色に輝く肌と、堂々たる風格、人の心のすみずみまで見通しつつもあくまで慈悲深い眼差し、会場を一際明るくするオーラ。同じ国宝の広目天と多聞天に左右を守られて、圧倒的存在感であった。
 浄瑠璃寺で拝観したときよりずっと間近で見ることができて、うれしかった。

 ほかに、海住山寺の十一面観音立像、浄瑠璃寺の地蔵菩薩立像のあまりの美しさにときめいた。
 少し前にあった根津美術館『救いのみほとけ展』でも思ったが、平安時代の地蔵菩薩像の洗練された美しさはもっと認識されて良いと思う。 
 内部は撮影禁止だったので、素晴らしい仏像の数々はここで紹介できない。
 京都南山城古寺の会『南山城の古寺巡礼』というホームページにその一部を見ることができる。

 最近ソルティは、有料の音声ガイドリストを進んで使うようになった。
 作品の横に掲示されている説明書きを読むのが老眼でわずらわしくなったのと、音声ガイドだと鑑賞ポイントを的確に教えてくれるから見落としがない。
 今回の音声ガイドには、仏像マニアとして知られるみうらじゅん氏といとうせいこう氏による対談風解説がついていた。
 テレビの副音声みたいで面白かった。浄瑠璃寺の本堂に居並ぶ阿弥陀如来を「ロイヤルストレートフラッシュ」と表現したのは至言。

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東京国立博物館
来場者は多かったが鑑賞の妨げになるほどではなかった。
 
 特別展のあと、本館1階の常設展の仏像コーナーに行った。
 前回(今年6月)観た時と微妙に展示が変わっていた。
 中で面白かったのは、鎌倉時代の康円作『文殊菩薩騎師像および侍者立像』。
 文殊菩薩が4人の侍者を伴って海を渡る姿を彫った群像である。
 4人の侍者の一人、善財童子がなんとも可愛かった。

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 左から、大聖老人、于闐王(うてんのう)、文殊菩薩、善財童子、仏陀波利三蔵
 仏師康円は運慶の孫。
(奈良興福寺)

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こんなフィギュアがほしい










● 本:『念処経 ブッダの瞑想法』(宮本啓一訳)

2022年花伝社

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 ソルティは、ブッダの瞑想法として知られるヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス瞑想)を初めて10年以上になるが、肝心の原典を読んでいなかった。
 本書は、『パーリ経典』(漢訳『阿含経典』)の経蔵中部に収録されている『念処経』(サティパターナ・スッタ)の全訳である。
 スッタは「経」の意である。サティパターナ・スッタを宮本はこう訳している。
 「対象を記憶に刻み込む集中力の発動を説く経」

 「はじめに」において、ブッダの開発した瞑想法をこう解説している。

 観と察とによって如実知見を目指す瞑想法で、その具体的な方法を順序立てて説いたものこそが、本書で和訳した『念処経』です。
 これは、身体の在り方、外界の認知受容の在り方、心的な在り方、それを冷静に観察することで得られる如実知見の真理、以上の四部門の一々に意識を集中せよと説きます。

 如実知見とは「ものごとをありのままに見ること」である。
 世界を、生命現象を、人間存在を、苦を、「ありのままに見る」ことができれば、それが「悟り」だということだろう。

 いろいろな原因や理由で、物事を「ありのままに見る」ことができなくなっているのが、人類一般である。
 たとえば、現在のイスラエル×パレスチナ問題。
 ユダヤ教徒でもイスラム教徒でもキリスト教徒でもない多くの日本人は、同じ神(エホバ、ヤハウェ、アドナイ、アッラー、エロヒム、主)を頂きながら、神の名のもとに何世紀も憎み合い戦い続ける彼らを「愚かである」と、「ありのままに見る」ことができよう。
 しかし、それぞれの信仰と長い伝統文化と異なった母語と過去の因縁をもつ当事者たちは、如実知見を失っている。
 では、日本人が彼らより賢いのかと言えば、そんなことはない。
 自分のことは自分ではなかなか見えないだけであって、イスラム教徒やキリスト教徒から見れば、神を祖先とする日本の天皇制は理解の外であり、その“ヒト”のために一億玉砕で戦って原爆を落とされた日本人は「愚か」としか思えないだろう。
 かほどに、如実知見は難しい。

 本書は、『念処経』のほか、道元禅師の『普勧坐禅儀』『現成公案』、瑩山禅師の『坐禅用心記』、パタンジャリ『ヨーガ・ストーラ』から、瞑想法に関する一節が取り上げられている。




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