ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●仏教

● 映画:『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(ダニエル・クワン&ダニエル・シャイナート監督)

2022年アメリカ
140分

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 第95回米国アカデミー賞の作品賞、主演女優賞、助演男優賞、助演女優賞、監督賞、脚本賞、編集賞の7部門を受賞した話題作。
 ついでにソルティ創設の「ウミウシ映画」殿堂入りの栄誉を与えたい。

 とにかく今までに観たことのない類いの映画である。
 基本は、『マトリックス』風多次元SFで、そこに『スターウォーズ』風宇宙サイズ家族ドラマの味わい、ジャッキー・チェン風カンフーアクションの勢い、『ロード・オブ・ザ・リング』風な光と闇との戦い、フィリップ・ラショー的お下品コメディを加味し、ニヒリズム(虚無主義)の哲学モードを包含し、諸星大二郎『暗黒神話』的飛躍感はなはだしい。
 よくわからない、でしょ?
 140分と長尺であるが、展開が極めてスピーディーで、映像がマジカルにしてキッチュなので、最後まで飽きることがない。
 多人種多民族多文化の坩堝(るつぼ)だからこそ今までにないものを生み出すことができる、ハリウッド映画の多様性と冒険性を評価したい。

 本作をより楽しみ理解するには、最先端の理論物理学の「マルチバース理論」、およびニヒリズム(虚無主義)の最終形態である「実存的ニヒリズム」をちょこっと齧っておくといいかもしれない。

多元宇宙論またはマルチバースは、複数の宇宙の存在を仮定した理論物理学の説である。多元宇宙は、理論として可能性のある複数の宇宙の集合である。・・・・多元宇宙が含むそれぞれの宇宙は、並行宇宙(パラレルワールド)と呼ばれることもある。

実存的ニヒリズムとは、人間存在は無意味であり不条理である。例え何かの意味を見付けたとしても、最終的には死というもの自体は避けられないという考え方。

(以上、ウィキペディア『多次元宇宙論』、『ニヒリズム』を参照)

 実存的ニヒリズムは、実は仏教――それも大乗仏教ではなく、ブッダの教えに基づくテーラワーダ仏教(初期仏教)――に近似している。
 19世紀にテーラワーダ仏教の存在を知った西欧人が、それを「魂の消滅(アネアンテイスマン)を志向し、すべてを否定する宗教=虚無の信仰(ニヒリズム)」と怖れおののいたことが、ロジェ=ポル・ドロワの本に述べられている。
 この映画に出てくる“マルチバースの崩壊を導くブラックホール的ベーグル”は、あたかも初期仏教の比喩のようである。
 しかるに、ニヒリズム(虚無主義)とは、「主義を持つ個人(自我)」の存在を前提にした西洋近代的自我から生み出された概念なので、諸法無我=自我の存在を否定する初期仏教とは異なる。
 仏教は無主義なのである。

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 ちなみに、「ウミウシ映画」の定義は下記の通り。

観ているうちに「一体、なにこれ?」と頭の中が疑問符だらけになり、予想のしようもない明後日方向のシュールな展開にあぜんとし、見終えた後もなんと人に説明していいか分からない類いの、ジャンル分けを拒む映画。





おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 本:『秘仏探偵の鑑定紀行』(深津十一著)

2020年宝島社

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 秘仏とは、一般に、信仰上の理由により非公開とされ、厨子などの扉が閉じられたまま祀られている仏像のことを言う。
 有名な秘仏――という言い方もなんだか矛盾しているが――を挙げると、法隆寺夢殿の救世観音、東大寺法華堂の執金剛神像、東大寺二月堂の十一面観音立像、唐招提寺の鑑真和上坐像、浅草寺の聖観音像、長野善光寺の阿弥陀三尊像、吉野山金峯山寺の金剛蔵王大権現など、枚挙のいとまがない。
 これらの秘仏は、特定の日に限って公開されるものから、例年期間限定で公開されるもの、数年~数十年に一度だけ公開されるもの、そして公開されるあてのないものまで、御開帳の度合いもいろいろである。

 基本、ソルティは秘仏文化には反対である。
 仏教は本来顕教であるべき(ブッダに握拳なし)なので、秘匿するという思想は“邪見”もいいところだと思う。
 まあ、そもそも仏像をつくること自体、「諸行無常・諸法無我」、「自灯明・法灯明」を説いたブッダの教えとはそぐわないことなのであるが――実際、仏滅後500年ほどは仏像はつくられなかった――そこは今さら言っても仕方ない。
 非公開の理由として文化財保護の観点が上げられることも多い。が、保存科学の技術が進んだ現在、仏像を公開しながら保護する方法はいくらでもあるはず。
 仏像は人の目に触れて日々祈られてこそ、本来の用途をなす。
 「ちょっとだけよ、あんたも好きね」みたいなカト茶的“じらし”方はいい加減やめてほしいところである。

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東大寺三月堂の執金剛神像
(毎年12月16日のみ公開される)

 本書でいう秘仏は、しかし、上記の“じらし仏”とは違う。
 つくられた過程がよくわからない、謎に包まれた、その存在を人に知られていない、無名の仏像というほどの意味である。 
 仏師修行中の青年・織田真人は、R大学で仏教研究をしている八代准教授に見込まれて、20年前に出版された作者不明の小冊子『秘仏探訪』に登場する仏像の謎を解き明かすべく、共に旅に出る。
 が、“見込まれた”のは、織田の仏師としての技量ではなかった。
 織田には、仏像に手を触れると、制作者の思いや制作過程を追体験できる不思議な能力があったのである。
 京都伏見の古刹に江戸時代から伝わる地蔵菩薩像。
 修験道のメッカ奈良県大峰山に秘された虚空地蔵菩薩像。
 アイヌコタンの土産物屋の奥にしまい込まれた野性味あふれる木彫りの仏たち。
 仏像のつくられた背景が織田の脳裏にダウンロードされるとき、それが秘仏である理由も、制作者が仏像に込めた思いも明らかになる。
 そして、いにしえの人々が抱いていた信仰の深さに触れることになる。

 仏像好きにはたまらないミステリー。
 こういった秘仏こそ、ありがたい。
 
 

おすすめ度 :★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 牡丹のひとよ 本『平家慕情』(中津文彦著)

1999年実業之日本社

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 京都醍醐寺見学の折りに日野の平重衡の墓を参ったことから、本書につながった。
 平重衡の生涯を描いた歴史小説である。
 著者は1941年生まれで、『黄金流砂』で第28回江戸川乱歩賞をとっている。

 むろん、『平家物語』をベースとしており、東大寺の盧遮那大仏ふくむ南都焼討ち(1181年)という前代未聞の悪業を背負った悲劇的人物として、同情的まなざしで描かれている。
 三位の中将の位をもつ公家として品格教養あり、平清盛の血を引く平家の武将として勇猛果敢にして、敵方の源頼朝や義経にさえ一目置かれた潔さと思慮深さを備え、加えて、牡丹の花のごとき容色の持主で女性に優しい。
 光源氏のごとき、パーフェクトなキャラである。
 つまり、南都焼討ちというマイナスポイントがなければ、これ以上に近寄りがたい、理想的人物(凡夫からしたら嫌味な男)はいないわけである。
 一点の陰りをまとった人間のほうに魅力を感じるのは世の常なので、南都焼討ちこそが、平重衡を物語的に忘れ難いキャラに押し上げた要因とも言える。

 織田信長が比叡山延暦寺を焼討ちしたと聞いても、「あの神仏をも畏れぬ第六天魔王(サイコパス)ならやりかねん」とそこになんら驚きもなければ、実行者である信長に対して、心の葛藤や後悔や懺悔を期待するのは無駄と思うだけであるが、最期に法然上人に自ら受戒を請い願った重衡については、そこに罪悪感からくる様々な宗教的葛藤を想像できるぶん、仏教徒であるソルティとしては興味がひきつけられるのである。(――最近の考古学的考証では信長の比叡山焼討ちは相当誇張されているらしい)
 
平重衡
平重衡(安福寺所蔵)

 『平家物語』では、恨み骨粋に徹した南都衆徒の手に引き渡され処刑される直前、重衡は日野の地で妻の輔子と再会し、今生の別れをすることになっている。物語を聴く者、読む者の涙をそそる名場面である。
 本書では、輔子ではなく、重衡が源頼朝の捕虜下にあった鎌倉で出会った女人、千手の前との逢瀬に置き換えられている。
 『平家物語』にはいくつかのバージョンがあるというから、別バージョンからの採用なのだろうか?
 いずれにせよ、しっかりした構成と簡潔で抑制の効いた文章、タイトル通り、運つたなく散った者への慕情が横溢する歴史小説の佳品である。

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おすすめ度 :★★★

★★★★★
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● 本:『香薬師像の右手 失われたみほとけの行方』(貴田正子著)

2016年講談社

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 奈良の新薬師寺の香薬師如来像は、昭和18年(1943)3月に盗まれて以来、82年間、行方不明になっている。
 きっと、この白鳳時代の傑作彫刻が発見された日には、日本美術界も日本仏教界も文化庁も仏像マニアも、上を下への大騒ぎとなることだろう。
 たとえば、青息吐息の関西万博にこの像一つ投下したら、一気に盛り上がり、ミャクミャクも吉村洋文府知事も“男を上げる”に違いない。(ミャクミャクの性別は知らないが)
 その愛らしく高貴な表情と、いまにも空中浮遊しそうな軽みを感じさせる佇まいは、古来多くの人を魅了し、信仰と憧憬の的であり続けた。

 著者の貴田正子は、元産経新聞の記者。白鳳仏“推し”が高じて、香薬師像の捜索をライフワークにしている人である。
 同じ白鳳仏である東京深大寺の釈迦如来椅像の来歴を調べた『深大寺の白鳳仏』(講談社)という本も出していて、ソルティは先にそちらを読んだ。
 よくできたミステリーさながらのスリルと謎解きの快感、それに対象が国宝の仏像だけにスピリチュアルな要素も加わって、エキサイティングな読書体験であった。

 本書もまた、香薬師像をめぐる数々の謎に迫っていて、仏像ファンとしては興味をそそられずにはいられない。
 香薬師像が新薬師寺に祀られるまでの来歴、歌人で書家で美術史家の会津八一や文芸春秋元社長の佐々木茂索など仏像に魅せられた人たちの感動的エピソード、仏像が盗まれた時のくわしい状況(明治以降3度盗まれて2度戻ってきている)、各地に数躯存在するレプリカのつくられた経緯など、一つの仏像をめぐってこれだけの人が動き、様々な物語を生んでいることに感心する。たとえば、亡くなった妻の面影を香薬師像にダブらせた佐々木茂索は、大枚はたいての壊れた像の修復およびレプリカ制作を申し出たそうな。

 しかも本書は、ミステリーとして、ひとつの輝かしい解決を見て、幕を閉じている。
 昭和18年(1943)の3度目の盗難の際、現場には切り離された右手が残っていたのであるが、それがいつのまにか行方知れずになっていた。(戦時中とはいえ、ちょっと杜撰。関係者はあまりのショックで呆然自失していたのか?)
 今回(2015年)、貴田が中心となって香薬師像の右手を探し出し、実に72年ぶりに新薬師寺に帰還させたのである!
 その経緯はこれまたスピリチュアルな彩りに満ちている。
 GOOD JOB !!

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本書扉ページより

 白鳳期(飛鳥時代後期)につくられた身の丈約73センチの香薬師像は、もともとは聖武天皇の后である光明皇后の念侍仏だったという。当時の主要な仏像の例にもれず、銅製で表面に金メッキが施してあった。
 光明皇后は、春日大社の神体山である春日山の山中に香山寺を造り、その本尊としてこれを祀った。香薬師の名はそこから来ている。
 その後、聖武天皇の病気平癒を祈願して、天平19年(747)新薬師寺を造立した ときに、本尊の胎内仏として新薬師寺に遷されたらしい。
 宝亀11年(780)新薬師寺は火災に見舞われ、本尊は焼失。からくも救出された香薬師像は、以後、寺宝として守られてきた。

 現在、新薬師寺には、佐々木のお陰で造られた香薬師像のレプリカが祀られており、それをたよりに、うしなわれたほとけの麗姿を心に思い描くことができる。
 貴田らが見つけた本物の右手は、安全のため「奈良国立博物館」に預けてあるという。
 右手が何を語るのか。
 機会あれば観に行きたいものである。

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新薬師寺本堂



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 稀代のバチあたり

 今回もスクーリングに合わせて、奈良と京都の寺社&仏像めぐりをした。
 
 奈良・・・・新薬師寺、春日大社
 京都・・・・醍醐寺、一言寺

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JR奈良駅
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4時間借りて1500円

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新薬師寺前にある南都鏡神社
祭神は天照皇大神、藤原広嗣公、地主神
神仏習合時代は新薬師寺の鎮守であった
反乱の汚名を被って処刑された藤原広嗣の霊を鎮めるために建てられたという

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新薬師寺本堂(国宝)
平重衡の南都焼討ち(1180)はじめ、度重なる災禍をくぐり抜けた奈良時代の遺構。天平19年(747)に聖武天皇の病気平癒を祈願して、お后の光明皇后によって建てられた。堂内に入ると、1300歳の木の霊力をびんびん感じる。

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受付でもらったパンフレット
御本尊の薬師如来坐像(木造)の特徴は、なんと言っても、どんぐり眼。
聖武天皇の病気とは、藤原広嗣の祟りによって起こった眼病だったという説もあるが、この像がつくられたのは平安初期(聖武没後)なので時代的に合わない。量感豊かな像の様式を見ても、創建時の本尊ではないと思われる。

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新薬師寺パンフレットより
本尊をぐるりと取り巻く十二神将が頼もしい。こちらは奈良時代作。
ひとりひとりが見事にキャラ立ちしていて、見ていて飽きない。
平安時代以降は十二支信仰と結びつき、頭上に十二支の動物を乗っけるようになった(例:神護寺の十二神将)が、本像にはない。
それにつけても、東大寺戒壇堂の四天王像といい、興福寺国宝館の八部衆像といい、天平の彫刻ってほんと素晴らしい!

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手元にある『サライ』(2023年秋号)の表紙を飾る伐折羅(ばざら)大将

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ポストカードを購入。
もとの色彩をCGを使って復元するプロジェクトがなされた。
造像当時の伐折羅大将はこんなにカラフルで華やかだった。
金色に輝く薬師如来をこれらの像が取り巻く空間を想像してほしい。
So gorgeous !

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新薬師寺には白鳳時代の最高傑作と言われる薬師如来立像(通称:香薬師)があった。昭和18年(1943)に盗まれ、今なお行方不明である。その際に残された右手のみ、時々公開される。堂内にはレプリカが置いてある。   

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春日大社
神護景雲2年(768)称徳天皇の勅命により創建
御祭神は、タケミカヅチノミコト、フツヌシノミコト、アメノコヤネノミコト、ヒメガミの四神。藤原氏の氏神であり、神仏習合時代は興福寺と一体であった。

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背後に御蓋山(みかさやま)、境内に62社を擁する約30万坪の広大な社地を誇る。日本人より外国人観光客と鹿のほうが多かった。ここの鹿たちは、神の使いとしての自覚を持っているかのようだ。奈良公園の鹿よりプライドが高く、人に媚びない。

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社頭の大杉
関西に行くと、不思議と花粉症が治まる。

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中門・御廊 (ちゅうもん・おろう)
奥に本殿がある。春日大社の建物は、伊勢神宮同様、20年に一度の建替えや修復を行う。

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春日神社と言えば灯籠
境内には、約2000基の石灯籠、約1000基の釣灯籠がある。

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毎年2月の節分と8月のお盆の時期に、すべての灯籠に火を灯し、人々の諸願成就を祈る。その美しさを体験できる小屋があった。

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京都に移動
四条大橋から鴨川を望む

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夕食は京都発祥の衣笠丼(きぬがさどん)
油揚げと九条ネギをダシで煮て卵で閉じたもの
安価でヘルシーで美味しい庶民の定番メニュー

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翌朝、醍醐駅からバスに乗って醍醐寺

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貞観16年(874)理源大師が創建
醍醐・朱雀・村上天皇、白河上皇、足利尊氏、足利義満、豊臣秀吉・秀頼などの帰依を受け、69,420点の国宝、6,521点の重要文化財をもつ。
ソルティ、実は初めての参詣(と思う)

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総門を入ってすぐの三宝院
通常は非公開のエリアが特別公開されていた

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表書院
あでやかな襖絵に目を奪われる
長谷川等伯(1539‐1610)作

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石田幽汀(1721-1786)作

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豊臣秀吉自ら設計した庭園
日本中から石を集めたという

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京都の飛雲閣同様、舟で池を渡って橋の下や建物の下をくぐり、奥にある茶室に直接上がれるようになっている。秀吉が好きな趣向だったのだろう。紅葉時の絢爛が目に浮かぶ。

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藤戸石
「天下を治める者が所有する石」として室町時代から歴代の権力者の手を渡ってきたもの。庭園の中心に据えられている。

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三宝院本堂の快慶作の弥勒菩薩坐像
通常は非公開(醍醐寺ポスターより転載)
「安阿弥様」と呼ばれる、美しく整った絵画的な写実を特徴とする快慶の作風が見られる。同門の運慶の作風とはずいぶん異なる。

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唐門
慶長4年(1599)建立
菊の御紋は皇室、桐の御紋は皇室および秀吉を表わす
朝廷からの使者を迎える時だけ開いた

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仁王門
慶長10年(1605)、豊臣秀頼による再建

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五重塔(国宝)
醍醐天皇の冥福を祈るために、朱雀天皇が承平6年(936)に着工、村上天皇の天暦5年(951)に完成した。高さ約38メートル。てっぺんの相輪は塔の3分の1を占める。京都府下で最も古い木造建築物である。国内の五重塔としては、法隆寺、室生寺の次に古い。(薬師寺は三重塔)
美しいけど、五重塔とはストゥーパ、すなわちお墓なんだよね。

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金堂(国宝)
創建時の建物は応仁の乱で焼失。現在の建物は、豊臣秀吉が紀州に攻め入った時、当地の満願寺の本堂(12世紀後半建立)を移築したもの。シンメトリカルで晴れ晴れしい。中に安置されている薬師如来座像が醍醐寺の本尊。

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観音堂
西国三十三巡礼の第十一番札所になっている。
貴族的な醍醐寺のたたずまいの中で、ここだけは庶民風だった。

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弁天堂
紅葉時はどんなにか・・・・。
ここでデジャヴュー体験。やっぱり、来たことあるのか?

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池之端にあるお休み処で湯葉うどん定食を注文
やさしいお味

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国宝の薬師三尊像(平安時代)はじめ、約10万点以上に及ぶ寺宝を収蔵している霊宝館は修繕のため休館だった。また来よう。
空いた時間をどうしてくれようかと、醍醐駅で手に入れた町の散策MAPを広げてびっくり!
南都焼討ちの大悪人、日本仏教界&仏像マニア界隈の怨嗟の的、平重衡の墓があるではないか!
この町に葬られていたとは知らなかった。
行くっきゃない!

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一言寺
醍醐寺の塔頭寺院

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石段を登った先にある門からは、醍醐の街を一望できる。

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「ただたのめ 佛にうそは なきものぞ 二言といわぬ 一言寺かな」
武士ならぬ、仏に二言なし。御本尊の千手観音に一心に祈れば、あやまたず願いを叶えてくれるという。

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醍醐寺より徒歩30分
団地の中に大正時代に建てられた石碑が唐突に出現
「従三位平重衡御墓」と読める
ここで横道に入る

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あれかな?

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平重衡(1157‐1185)
平清盛の五男として源平合戦を戦い抜いた。
一ノ谷の合戦で捕らえられ、鎌倉の源頼朝のもとに送られるも、焼討ちの怒りおさまらぬ南都宗徒らに引き渡され、木津川畔にて斬首された。享年29。

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火葬後、この地に埋葬されたとある。
最期はどんな思いを抱いていたのか?
やはり、地獄行きを覚悟していたのか?
奇遇にも、墓所の近くには「善人なおもて往生を遂ぐ いわんや悪人をや」の親鸞聖人の生誕地がある。

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帰りの新幹線
富士山を過ぎる頃にやっと、過去から現在へ帰還した。















● 本:『科学化する仏教』(碧海寿広著)

2020年角川選書

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 副題は「瞑想と心身の近現代」
 明治期に西洋から入って来た近代科学を、日本の仏教界がどのように咀嚼して活用したか、あるいは脅威を感じ距離を置いたか、とりわけ禅における修行の要である瞑想がどのように科学化され実用化されていったか、が検証される。
 著者は1981年生まれの宗教学者。「おうみとしひろ」と読む。

 仏教に限らず、宗教と科学は相性が良くない。
 旧約・新約聖書にせよ、仏典にせよ、コーランにせよ、近代科学の目からすればナンセンスな記述が少なくない。
 仏教では、念仏すれば極楽往生できるとか、加持祈祷すれば病気が治り怨霊退治できるとか、瞑想して悟りに達すれば輪廻転生から抜けられるとか、長く信じられてきたけれど、近代科学教育を受けた現代人からすれば、なんの証拠もない世迷言に過ぎない。
 仏教界にとっては、明治初めの神仏分離令を端とする廃仏毀釈の波もきびしかったが、大局的に見たら、近代科学の登場のほうが打撃であったろう。
 そんな中で生き残りをかけて、各仏教宗派は科学との折り合える道を探っていったわけである。

 西洋心理学の普及教育を通して、人々を一段と高い仏教の真理へと導くことができると信じた井上円了。
 催眠術中に起こる超常現象から仏典にある神通力を説明できるとし、念写実験をおこなった福来友吉。
 明治天皇の病を空海爾来の加持祈祷によって治すことができず、釈明に追われた真言密教宗派。
 坐禅する修行僧の脳にアルファ波が出ていることが判明したのを機に始まった、ビジネスや健康や能力開発など、瞑想の現世利益的活用の流行。
 心理学による宗教解釈に一定の理解を示しながらも、「悟り」は科学できないという見解を貫いた禅の大家鈴木大拙。
 東洋思想や神秘主義と、科学の融合が目指された70年代ニューサイエンスの活況が、95年のオウム真理教事件で命脈絶たれるまで。
 そして、現代世界中で流行っている初期仏教のヴィッパサナー瞑想をもとにしたマインドフルネスの展開。
 興味深いトピックが次から次へと取り上げられ、あっという間に読み終えてしまった。

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Pete LinforthによるPixabayからの画像

 人間の心や言動はまったく合理的ではないので、科学だけではとれえられない、解決できない部分は残る。
 たとえば、科学的に合成されたどんなに良く効く薬でも、薬単体で病気を治すことはできない。治すのは自然治癒力である。
 試験に合格するためには対策を立てて勉強するしかないと分かっていても、人は神社に足を運んで合格祈願してしまう。
 ソルティ自身、こんなことがあった。
 仕事帰りに最寄り駅構内のスーパーで買い物し、家に帰って、財布を落としたことに気づいた。
 現金はともかく、クレジットカード2枚、銀行のキャッシュカード2枚、健康保険証、運転免許証、奈良大学の学生証が痛かった。
 利用停止や再発行の手続きを考えるだけで、気が重くなった。
 自分が通った道を辿り返し、買い物した店に確認をとったが、なかった。
 諦めるしかないと思いつつ、駄目もとで駅の改札の窓口に尋ねた。
 「どんな財布ですか?」
 「黒革の小さな財布です」
 「これですか?」
 ・・・・あった。
 カード一式のみならず、お札も小銭もそのまま入っていた。
 神仏に感謝した。
 合理的に考えれば、拾って届けてくれた人(名前を残さなかった)が善人だったわけで、第一に感謝すべきはその人であることは分かっている。
 また、日本だからこそあり得る話である。
 だが、なぜか、先日巡った奈良や京都の仏像たちの姿が、目の前に浮かんできたのであった。

 合理ではどうにもおさまりつかない部分に、芸術や宗教は入り込んでくる。
 その部分の面積がだんだんと減少していったのが、人間の歴史なのだと思う。
 ただ、科学がどんなに進んでも、人間がどんなにデジタル化しても、その部分が無くなることはないのではないかと思う。
 人間の心や言動のすべてが合理で解明できるとき、おそらく人間は尊厳を失ってしまうからだ。 





おすすめ度 :★★★

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● なんなら、奈良8(奈良大学通信教育日乗) 仏像は生きている

 3科目めの美術史概論(4単位)に取り組んでいるところ。
 テキストは『日本仏像史』(水野敬三郎監修、美術出版社)。
 詳細な解説に加え、各時代の有名な仏像のカラー写真が豊富に(240点近く)載っている。
 観仏マニア必携の素晴らしい本である。

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 本文の文字が小さい(8ポイント程度)うえに小口が結構ぶ厚い(約200ページ)ので、読み通すのが大変と思っていたのであるが、写真スペースを除いた文章部分は100ページに満たない。
 意外にすいすい読み進めている。
 もっともソルティは観仏マニアの一人なので、多大なる興味を持って読めるってのが大きい。

 実際、国宝に指定されているような各時代の代表的な仏像は、大半は実物を観ている。
 中学・高校時代の修学旅行に始まり、たびたびの京都・奈良旅行、鎌倉周遊、東北&関東の国宝仏をめぐる旅、そして東京国立博物館をはじめとする特別展出演のために上京された仏さまとの出会いの数々。
 旧友たちとの再会といった感覚で学習できるのは楽しい。
 気がつけば、地元の受験生らと一緒に、一日図書館で机に向かっていたなんて日も・・・。
 好きに勝るものはなし。

勝常寺の国宝
勝常寺(福島県湯川村)の国宝

 普段の観仏は、心を静めて手を合わせて拝み、仏像の種類(如来、菩薩、天部、明王、その他)を確認した後は、美的見地(美しいか否か)あるいはスピリチュアル的見地(癒されるか否か、パワーを感じるか否か)において、目の前の像を査定するのがならいであった。
 仏像が造られた歴史的・文化的・宗教的背景なり、時代ごとの様式の違いなり、材料や造仏技法といった点は、たいして気に留めなかった。
 仏師についても、法隆寺の釈迦如来三尊像をつくった鞍作止利、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像をつくった定朝、東大寺南大門の金剛力士立像をつくった運慶・快慶くらいしか名前が出てこない。

 今回、仏像が日本でつくられ始めた飛鳥時代からはじまって、天武天皇の詔により各地に寺院や仏像がつくられた白鳳時代、造仏が国家事業となった天平時代、空海のもたらした密教の影響を受けた貞観時代、国風文化と末法思想の興った藤原時代、そして武家政権の鎌倉時代・・・・と時代を追いながら、各時代の世相や仏教の様相や造仏技術や仏像の様式、あるいは個々の仏像のつくられた背景(注文主、制作の動機、作り手など)を知ることで、旧友たちのプロフィールをより深く知ることができた。
 「そうか。君はこんなライフヒストリーを持っていたのか。こういった時代の流行や制約や人々の願望を背負っていたのか」

 平成27年に国宝指定を受けた東京・深大寺の釈迦如来倚像について、その謎の来歴を調査した貴田正子著『深大寺の白鳳仏』(春秋社)に見るように、ひとつひとつの仏像には波乱万丈の物語がある。
 有名な興福寺の阿修羅像なんて、明治維新の廃仏毀釈の折りには、警官たちが暖を取るためにあやうく火にくべられそうになったそうな。
 同じ仏像を見る目も、時代によって変遷してきたのである。 

深大寺釈迦如来像
深大寺の釈迦如来倚像(東京都三鷹市)

 科学の進歩や新たな資料の発見等で、仏像の由来に関するこれまでの定説が書き換えられることもある。
 たとえば、東大寺南大門の金剛力士像について、ソルティは高校時代、「阿形は快慶、吽形は運慶」と習った。が、平成の解体修理の際に像内で発見された文書から、「阿形は運慶と快慶、吽形は定覚と湛慶」が担当したことが判明している。運慶が総監督だったのだろう。(明治時代の案内人は、「右は運慶、左は快慶、共に左甚五郎の作」と語っていたとかいないとか)
 一昨年の春に会いに行った京都・蟹満寺の金銅丈六の釈迦如来坐像も、白鳳時代の作とばかり思っていたが、本テキストでは天平期の可能性が示唆されている。
 仏像研究は現在進行形で動いているんだなあ。

 これからの観仏の旅がいよいよ楽しみになった。










● 牛歩の神たち

1月5日(日)晴れ
恒例の高尾山薬王院、初詣。
暗い中、5時過ぎに家を出る。
熟れた柿のような朝焼けが、中央線の後方の空を染める。
7時に京王高尾山口駅に到着。
友人と合流する。

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京王高尾山口駅
周辺がすっかり広くきれいになった

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ケーブルカー麓駅
行きはケーブル、帰りはリフトがおすすめ
いずれも大人片道450円

山頂駅に着くと、きりりとした早朝の空気に身が引き締まる。
さすがにまだ外国人観光客の姿はない。
薬王院へ向かう参道からは、黄金色にけぶる大都会が望めた。

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薬王院本堂
中に入って護摩法要を受ける。
コーチに率いられた地元の少年野球チームのユニフォームが目立っていた。
こんなふうにして、日本人は幼いころから、神仏に祈って験をかつぐことを学んでいくのだ。

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本尊は飯縄大権現(いづなだいごんげん)
不動明王の化身とされる

高尾お札
終了時に拝受した3000円の御護摩札
奉納金額によってサイズが変わる

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高尾山頂(600m)

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正月の富士山はひときわ神々しい

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新宿ビル街、横浜ランドマークタワー、相模湾、江の島が一望の下

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同じ標高のスカイツリーも地平線上におぼろに佇立
チマチマした人間界を天狗の高みから鳥瞰できる高尾初詣の良さ
明日からまたそこで働く

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おみくじは「吉」
七福神が牛に乗って来るという

七福神

今年も健康で安穏に暮らせますように
生きとし生けるものが幸福でありますように


















● スゲェー男だ 本:『チベット旅行記』(河口慧海著)

1904年(明治37)博文館刊行
2004年白水社(長沢和俊・編)

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写真左はダライ・ラマ13世、右は河口慧海

 世界の秘境と言われるチベットに初めて入国した日本人しかも僧侶として、河口慧海のことは気になっていた。
 『チベット旅行記』あるのも知っていた。
 が、なにせ明治時代に書かれた書物であるし、著者が仏教僧ともなると、表現面でも内容面でもなかなか取っ付きにくいのではないかと、これまで敬遠していた。
 9月初旬、世田谷にある九品仏浄真寺に行ったとき、境内の一角に大きな石碑があるのに気づいた。
 近寄って碑文を読んでみたら、河口慧海の記念碑だった。
 1945年(昭和20)2月4日に慧海は80年の生涯を終えたが、晩年を過ごしたのが世田谷区代田だったのである。(跡地は現在「子どもの遊び場」になっている)
 記念碑は、近親者や弟子たちが慧海の十三回忌にあたって建てたものだった。
 「もしやこれは、九品仏のあるいは本尊釈迦如来仏のお導きか?」
 そう思って、『チベット旅行記』に挑戦してみる気になった。
 読んで間もない石川勇一著『ブッダの瞑想修行』、石川コフィ著『筋肉坊主のアフリカ仏教化計画』が後押ししたのかもしれない。
 ソルティは、古くは『西遊記』の三蔵法師や遣唐使船に乗った最澄・空海、あるいは齢60にしてインド行きを志した高丘親王、新しいところでは龍樹菩薩のお告げを受け南インドで布教活動を始めた佐々井秀嶺や禅に惹かれてドイツから日本にやって来て僧侶となったネルケ無方など、真の仏法を求めて遠い異国に飛び込む男の話を聞くと、わけもなく感激するタチなのだ。
  
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浄真寺にある河口慧海記念碑

 河口慧海は1866年(慶応2)大阪の堺生まれ。
 10代の時に読んだ『釈迦一代記』に感銘を受け、仏道を志す。
 23歳で上京、井上円了の哲学館(東洋大学の前身)で哲学・宗教を学ぶ。
 25歳で当時本所にあった五百羅漢寺の住職から得度を受け、慧海の名を授かる。その後、同寺の住職を務める。(ソルティが昨年9月に訪れた目黒のらかんさんである。ここにも縁があった!)
 32歳の時、「大乗経の仏典を原書(サンスクリット経典)にもっとも近いと言われるチベット経典によって学びたい」という思いが高じて、当時厳しい鎖国政策を取っていたチベットに行く一大決心をする。
 1897年(明治30)6月、日本を船出し、カルカッタに入る。
 ダージリンで1年半ほどチベット語を学んだのち、ネパールのツァーランでチベット仏教と文学を1年ほど学ぶ。
 1900年3月、ツァーランを出立、関所のないヒマラヤの間道を越えてチベット入国。丸一年かけてチベット南部の雪原を西から東へと横断、1901年3月に首都ラサに到着。
 ラサでは、チベット人と偽って仏教大学に入るとともに、チベット仏典を収集。ひょんなことから医師としての評判が高まり、ダライ・ラマ13世謁見の栄誉を得る。
 1902年5月、日本人であること、密入国したことが露見。捕縛、処刑の危険が身に迫り、急遽ラサを離れ、チベット出国。
 1903年5月、帰国。

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河口慧海の旅程
(本書の付録より)

 本書は上下巻から成る。
 博文館から出た原著を、編者の長沢和俊が現代文風に改稿し、下巻については適宜要約している。
 なので、断然読みやすく、サクサクと進んだ。
 こんな面白い本と知っていたら、もっと早く手を付けるんだった。

 上巻は日本を出発してからラサに到着するまでの旅行記――というか、八甲田山ならぬヒマラヤ“死の彷徨”であり、難行苦行のサバイバル記録である。
 水難、雪難、砂難、風難、凍難、食難、渇難、病難、呼吸難、盗難、賊難、女難、遭難、犬難・・・ありとあらゆる災難苦難が次から次へとやって来て、「もはやこれまで」と死を覚悟すること数回、信じ難いような煉獄めぐり。
 あたかも太平洋戦争末期の日本兵の行軍体験を読んでいるようで、違うのは、慧海がその旅程のほとんどを文字通り孤軍奮闘した(荷物を運ぶロバやヤクや馬は別として)ことと、召集令状や上官の命令によってではなくて自らの意志と信念でこれを遂行したことである。
 道中出会ったチベット人の数々の親切や、神仏が棲まうヒマラヤの壮麗な光景に助けられたとはいえ、慧海の頑健な肉体と強靭な精神、お釈迦様への揺るぎない信心、そして奇跡のような運の良さには驚嘆せずにはいられない。
 ネパールのツァーランからラサまでの丸一年、十分な装備も資金も地図も持たない約4000キロの慧海の歩き旅にくらべると、ソルティのやった四国歩き遍路(約2か月で1400キロ)はまったくの大名旅行である。

 下巻はラサでの生活からチベット脱出までが記されている。
 今から120年前のチベットとくにラサの様子が率直な筆致で描かれ、興味をそそる。
 風土、気候、産業、人民、文化、風習、宗教、政治、祭礼、食、結婚制度・・・・。
 江戸時代の日本のような鎖国をしていたがゆえに、前近代がそのまま残っている、何百年も続いてきた文化や風習がガラパゴス的に保持されているチベットの姿にたまげるばかり。
 もともと大らかな性格のうえ釈尊の教えにしたがって慈悲を実践している慧海は、日本人から見てどれほど奇異に見える風習や伝統も、一方的に批判したり忌避したりすることなく、ありのままに受け入れようとしている。
 が、生まれてから一度も体を洗ったことがなく、着替えもせず、街路に平気で便を垂れ流し、そのあと尻を拭かないチベット人の不潔さにだけは閉口したようだ。

 まず嫁を取るときに、娘はどういう顔をしているかというと、垢で埋もれてまっ黒になっていて、白いところは目だけ、手先でもどこでも、垢で黒光りに光っている。それに着物というと垢とバターのために黒くうるしのごとく光っている。これが娘の福相を現わしていることになるのである。もし娘が白い顔をしているとか、手先や顔でも洗っているということを聞くと、そんな娘は福が洗い落とされているから、お断りということになってしまう。

 薬と言えばチベットには奇妙な薬がある。その本体を知った者はおそらくチベット人を除いては誰も飲むことができぬだろうと思われる。それは法王とか第二の法王などの高等のラマの大便を乾かして、それにツァ・チェン・ノルブー(宝玉)という奇態な名をつけ、薬として用いるのである。それはけっして売り出すのではなく、よいつてがあればお金をたくさんあげてようやくもらうことができるといったもので、非常な大病になったとか、臨終の場合にそれを一つ飲むのである。

 どこまで本当のことなのか、あるいは慧海の観察し記した通りだとしても現在も変わらないままなのか、まったく知るところではないが、ともかく風変わりで面白い逸話ばかりである。

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ラサのポタラ宮殿
nrxflyによるPixabayからの画像

 肝心のチベット仏教についてもまた奇天烈このうえない。
 慧海によれば、チベット仏教は大別して古教派(赤帽派)と新教派(黄帽派)の二種類がある。もちろんいずれも、日本仏教と同じく北伝の大乗仏教に属する。
 古教派を開いたのはロポン・ペットマ・チュンネというインド人。

 この人は僧侶でありながら肉食、妻帯、飲酒などを励行しただけでなく、仏教の主義に自分の肉欲主義を結びつけて、巧みに仏教を解釈し、成仏の唯一の手段、最上秘密の方法として、僧侶たる者は女を持ち、肉を食い、酒を飲み、踊りかつ歌うということが最も必要である。この方法こそ五濁の悪世において、その場で成仏解脱を遂げうる甚深微妙の方法である、と教えたのである。

 まるで日本にかつてあった真言立川流のよう。
 古教派は500年くらい前までは盛んだったが、腐敗を極め、チベットの倫理の乱れを促進したので、新教派が起こったという。
 新教派の開祖はジェ・ゾンカーワというチベット人で、「戒律がなくては僧侶とは言えない。僧侶が女を持てば俗人と変わらない。仏法を滅する悪魔である」と言い、仏教の清浄化(正常化)を図った。
 これは日本仏教においても事情は似たり寄ったりで、僧侶の破戒と戒律運動の勃興は、いたちごっこのごとであった。
 もっとも、日本の寺院の場合、明治までは女色より男色のほうがはびこっていたし、明治以降は僧侶の妻帯が許されたので、現代の日本の僧侶はほとんどチベットの古教派と変わるところがない。
 慧海自身は、酒を飲まず、肉食をせず、一日一食のみ午前中にとり、生涯独身を貫いた。チベットでも現地の女性から言い寄られるのを巧みにかわしている。
 しっかりと戒を守る清僧だったのだ。
 そんな慧海の目から見たとき、苦難の末に到達したラサにおいて、他ならぬダライ・ラマのお膝元で修行する幸運に恵まれた何千という僧たちの姿は、失望以外のなにものでもなかったろう。
 本書ではそのあたりの心情が記されていないが、推して知るべし。

 いったい僧侶や学者が理想として、自分がかくなりたいと希望しているのは、たいていはこの閉ざされた国において、名声を高めたいということと、財産をたくさん得たいというのが目的で、衆生済度のために仏教を修行するのではない。この世も安楽に、未来も安楽に行けるようにというのはまだよいほうで、未来はどうでも、その学問を利用して、社会に名を上げ、そしてたくさんの財を得て安楽に暮らせばよいというのが、1000人の中999人までの傾向である。

 普通人民の下に最下族というのがある。それは漁師、船頭、鍛冶屋、屠者の四つである。鍛冶屋はなぜ最下族の中にはいっているかと言うと、これはインドと同じで、鍛冶屋は屠者が動物を殺すその刀や出刃包丁をこしらえるところから、罪ある者としているからである。この普通人民と最下族の二種類は政府の学校にはいることができない。ことに最下族の者は、遠方に行って自分が最下族であるということを隠さないかぎり、僧侶になることも許されないのである。

 つまるところ、日本でも中国でもチベットでも、大乗仏教がもともとのお釈迦様の教えからぐんぐん離れていき、サンガ(出家者)が俗化していったことは、令和の我々から見れば明らかなのであるが、明治時代の慧海には知りようがなかった。
 本書で知ってびっくりしたことに、慧海は日本を出発する前に、インドを研究するために釈興然のもとで教えを受けている。
 釈興然(1849-1924)は、セイロン(いまのスリランカ)に留学し、日本で初めてテーラワーダ仏教の出家者となった僧侶であった。
 つまり、「真の仏法=お釈迦様の教え」を真摯に求めていた慧海は、命の危険をおかしてインドやネパールやチベットに行かずとも、日本にいて釈興然のもとそれを学ぶことができたのである!

 釈興然が熱心に説かれたことは、「そんな大乗教などを信じてチベットへ行くなどという雲をつかむような話より、ここに一つ確実なことがある。それはまずセイロンに行って、真実の仏教を学ぶことである。学べば仏教の本旨がわかるから、大乗教云々など言ってはいられない。私の弟子として行きさえすれば船賃も出るし、また修学の入費もできるわけだから、そういうふうにして行くがよかろう。(略)」と言ってしきりに勧められた。

 しかるに、当時の日本の仏教界の風潮に感化されて、大乗仏教こそ真実の釈迦の教えと確信し、テーラワーダ仏教を“小乗仏教”と見下していた慧海は、釈興然と袂を分かってしまう。
 これは日本の近代仏教史において、看過できない決定的瞬間の一つと言っていいだろう。
 もし、慧海がここで釈興然の勧めにしたがってチベットでなくスリランカに旅していたら、慧海がそこでパーリ経典を学びヴィッパサナ瞑想を修していたら、俗世間から離れて厳しい戒律を守りながら修行するサンガに出会っていたら、そして悟り(預流果)を得た慧海が日本に帰国し、その抜群の行動力と多大なる影響力とでテーラワーダ仏教を広めていたら、その後の日本の宗教界の構図は大きく変わっていたかもしれない。
 いや、社会的なことはともかく、慧海自身が人生の目的を成し遂げた達成感のうちに来世に旅立てたかもしれない。(禅定の達人であった慧海なら、ヴィッパサナ瞑想によって悟るのは時間の問題だったろう)
 詳しい事情は知らないが、慧海が50代半ばになって還俗しその後は「在家仏教」を提唱したことを思うと、その心情をいろいろ想像せざるを得ない。
 これもまた因縁のなせるわざなのだろうが。

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ヒマラヤ鳥瞰
Inkrise
によるPixabayからの画像

 信仰上のことはともかくとして、河口慧海が稀なる超人であり、才人であり、偉人であり、人間的魅力あふれるスゲェー男であったのは間違いない。
 意志堅固、勇猛果敢、大胆にして機敏、高い志操、明晰な頭脳、高い語学力、ダライ・ラマの侍従医に推挙されるほどの医術の腕、度量の広さ、誠実さ、欲の無さ、友誼の厚さ、天を味方につける運の良さ。
 これほどの男の事績を埋もれさせてしてしまうのは過誤である。
 これほど面白い旅行記が読まれないのは勿体ない。
 チベット探検記では、オーストリアの登山家ハインリヒ・ハラーの手記を原作とし、ジャン=ジャック・アノー監督×ブラッド・ピッド主演で映画化された『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(1997)が有名である。 
 もし本書が同監督によって映画化されていたら、それをはるかにしのぐ娯楽冒険スピリチュアル大作になっていたのは間違いあるまい。 
 慧海役は、そうねえ~、『八甲田山死の彷徨』に出演した北大路欣也なんかどうだろう?
 「天は我々を見放した!」 




  



おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 本:『筋肉坊主のアフリカ仏教化計画』(石川コフィ著)

2024年春秋社

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 お坊さんがアフリカに仏教を広める話?
 インドで仏教を広めている佐々井秀嶺師みたいな、型破り坊主の一代記?
 興味を惹かれて購入した。

 読んでみたら、タイトルは偽りとは言えないまでも、かなり内容とずれていた。
 が、「騙された!」と騒ぎ立てるのも拙速。
 背表紙や表紙には、副題として小さな文字でこう書かれていた。
 「そして、まともな職歴もない高卒ほぼ無職の僕が一流商社の支社長代行として危険な軍事独裁政権末期のナイジェリアに赴任した2年間の話」
 仏教の話ではなく、ナイジェリア駐在記だったのである。

 多少の肩透かしは喰らったものの、不満や怒りは湧かなかった。
 というのも、とても面白かったのだ。
 1967年生まれの著者が、1998年春から2000年夏までの間にナイジェリアで経験した、奇想天外な出来事がユーモラスに語られていて、世界の広さや文化の多様さ、人間という種の奇天烈さに感嘆するばかりであった。

 ソルティはアフリカに行ったことはなく、ナイジェリアについて何も知らなかった。
 2000年代にNGOの仕事でJICA(青年海外協力隊)の研修事業に関わったことがあり、エイズ対策でアフリカに派遣される多くの若者たちと出会った。
 が、彼らの派遣先にナイジェリアはなかった。
 海千山千の商社の男たちでさえ、社命であろうと行くのを拒むような危険地帯だったのである。
 まともな職歴もない著者の石川が“幸運にも”選ばれたのは、ほかに手を挙げる人がいなかったからなのだ。

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ナイジェリア
Ayo AdamsによるPixabayからの画像

 実際、ここに描かれているナイジェリアの様相は、現代日本とはまったく別世界。
 良識どころか常識も通じない無軌道、無茶苦茶ぶりである。
 治安については地獄そのもの。
 主要道路の中央分離帯やバーが立ち並ぶ海岸べりに、ふつうに死体が転がっていて、だれもそれにかまわないという、戦時下か平安時代の鴨川岸のような日常風景。
 商社が用意してくれた豪華な、しかし厳重警備の屋敷を一歩出れば、猛禽どもが牙をむき舌なめずりをする弱肉強食のジャングルである。
 そこで2年間も生き延びた著者のメンタルや体力の強靭さには感心しかない。(現在は荻窪でアフリカン・バー「トライブス」を経営しているらしい)

 やっぱり、若いって怖いもの知らずだよなあ。
 エネルギーが有り余っているからこそ、未知なるものに挑戦できるんだよなあ。
 ――と、還暦を過ぎた自分の保守化や引きこもり傾向を顧みたのであるが、それは言い訳に過ぎないことを本書は教えてくれもした。
 それがタイトルの筋肉坊主である。
 石川は、この坊さんとの出会いがきっかけとなってナイジェリアに行くことになったのである。

 本文中に名前は記されていないが、日蓮宗系のお坊さんで、2000年時点で73歳。
 保険会社で働いていたある夜、枕元にお釈迦様が立ったのをきっかけに出家。
 葉山御用邸の近くのお寺の住職となった。
 来日中のナイジェリア大統領オバサンジョと縁ができて、イスラム教徒とキリスト教徒の反目激しくクーデターを繰り返すナイジェリアの状況を知り、平和をもたらすべく仏教を広める決心をし、単身ナイジェリアに飛んだ。

このお坊さんが普通でないのは筋肉だけでなく、実は度胸や体力も並大抵ではない。
この、強盗多発内戦頻発熱帯病勢揃いのナイジェリアを、野宿とお布施だけで、一銭も使わず行脚する。これができるのは、世界中でこの人だけだろう。宿は使わず、食事は頂きものだけ! テントや寝袋も使わない。

一銭も使わず(持たず)数か月に亘って国中を歩き回る。俗人的持ち物はお太鼓とバチ。着替えも少しだけ。財布もなし。ただ仏教心と強靭な肉体。この人、実はX-MENかもしれない。

 こんな男が、こんな日本人がいるとは驚きである。(今は帰国して宮城県あたりにいるらしい。生きていれば90代である!)
 本書の最初と最後に、このお坊さんは唐突に登場する。
 どちらの登場エピソードも場面的には短い(文量的には少ない)ものであるにかかわらず、印象は強烈であり、石川同様、読む者をノックアウトする過激さにあふれている。
 ナイジェリア元大統領を文字通り締め上げるお坊さんのキャラの濃さは、まさにナイジェリアの奇天烈さと拮抗している。
 それゆえ、読み終えたときには、本書のメインタイトルが『筋肉坊主の~』であることにまったく違和感なくなっている。

 まことに世界は広い。
 人間はたくましい。
 信仰は強い。




おすすめ度 :★★★★

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 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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