ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●仏教

● 半蔵門ミュージアムでブッダに会う

 半蔵門ミュージアムは、仏教系教団『真如苑』が運営している仏教美術館。
 2018年4月にオープンしたのだが、存在を知ったのはつい最近である。
 なかなか貴重で珍しい展示があるようなので、訪れてみた。

半蔵門ミュージアムポスター

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 地下鉄半蔵門駅の真上、皇居まで徒歩3分という好立地。
 現代的で、美しくシンプルな建物。
 展示品の由来や見どころを、わかりやすく丁寧に伝えてくれるシアターホール。(座席シートが快適すぎて、上映時間の半分は寝ていた)
 コーヒーを飲みながら関連資料を閲覧できる居心地の良いラウンジ。(60分まで利用可)
 あたたかい笑顔と親切な応対が気持ちよい女性スタッフたち。
 そして、運慶作と推定される大日如来像(重要文化財)や京都醍醐寺伝来の如意輪観音菩薩坐像をはじめとする見応えある所蔵品の数々。
 これで入場料無料というのだから、『真如苑』の力のほどが察しられよう。
 スタッフの女性たちはおそらく信徒なのだろう。
 奉仕の精神が感じられた。

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ポスター右より、大日如来、如意輪観音、不動明王、こんがら童子&せいたか童子

 地下の静かな暗闇に浮かび上がる大日如来の毅然とした美しさ、片足を床におろした珍しいお姿の如意輪観音、子供のくせに典雅なたたずまいの二童子、下部に中将姫が描かれた當麻曼荼羅(写本)、見事な色彩で描かれた虚空蔵菩薩像の絹本・・・・等々。
 いずれも鑑賞者の目を喜ばせ、脳を活性化し、心を浄め、敬虔な気持ちを呼び覚ます。

 ソルティが最も惹かれたのは、仏像が作られ始めた紀元2~3世紀のガンダーラ美術。
 ヘレニズム文化すなわちギリシア彫刻の影響を帯びた顔格好の仏像や、石に彫られた仏伝が興味深かった。
 仏伝は、「前世、誕生、四門出遊(出家)、降魔成道(悟り)、梵天勧請、初転法輪(最初の説法)、アジャータサットゥ王の帰依、入滅」といったブッダの生涯を描いたもの。
 各場面におけるブッダを取り巻く人々(家族や弟子たち、世俗の人々、悪魔や神々など)の表情や動きが、当時としてはかなり写実的に表現されている。ルネサンスの端緒となった画家ジョットの『キリスト伝』を連想させた。
 別のフロアに場面ごとの詳しい解説があり、絵解きの面白さとともに、当時の人々の素朴な信仰のさまが伺える。

死せるキリスト
ジョット「死せるキリストへの哀悼」
(イタリア、スクロヴェーニ礼拝堂)

 平日だったので館内は空いていて、落ち着いた空間で心ゆくまで鑑賞できた。
 なんとまあ、4時間近くも滞在してしまった。
 ブッダ推し、仏像ファンなら、一度は行っておきたいオアシスである。
 (「真如苑」への勧誘行為はなかったよ)

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虚空菩薩坐像(ポストカード)
記憶力を増強する力があるとのことで、かの空海も念仏した。
認知症予防を期して購入。







● お口くちゅくちゅ : 初期仏教月例講演会(講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時  2024年1月14日(日)13:30~16:30
場所  学術総合センター内・一橋講堂(東京都千代田区)
演題  「新たな一年を生きる」~日々是好日の生き方~
主催  日本テーラワーダ仏教協会
 
 月例講演会に参加したのは実に6年ぶり。
 その間、体調不良があったり、2度の転職があったり、四国遍路に行ったり、引っ越しがあったり、足の骨折があったり、コロナ禍があったり・・・e.t.c.
 その時々の環境に左右されて、仏道修行への意欲や熱意もずいぶん波があった。
 が、スマナ節から6年も離れていたとは!
 ほんとに時が経つのは「あっ!」という間である。
 地球の自転が速まっているのではないか?
 
 6年ぶりに参加しようと思った理由は、やはり、能登半島地震が大きい。
 被災して、家を失い、家族や友人を失い、仕事を失い、寒さにふるえながら避難所で身を寄せ合っている人々の姿に、今こそ慈悲の瞑想を実践したいという思いが生じた。
 破壊され尽くした街や続々と増えていく死者数の報道を見聞きするにつけ、諸行無常の感が強まり、「我が身にだって、いつ何が起こるのかわからない」という焦燥感に似た思いが高まった。

 ほんとうはいつだって、どの瞬間だって、この世も、我々の生も、「無常」の凄まじい流れの中にあるのに、我々の命は砂時計の砂のように止めどなくこぼれ落ちているのに、愚にもつかない妄想におおわれ、「貪・瞋・痴」に振り回され、闇雲に走り回っている。
 過去に囚われ、未来を心配し、「今ここ」という瞬間を取り逃がし続けている。
 いつの間にか人類が陥ってしまったこの罠を、いったい誰が仕組んだのだろう?
 神?
 悪魔?
 遺伝子?
 宇宙人?
 宇宙意識?

 自らの深刻な病気や不幸、近しい人との死別、あるいは今回の震災のような“日常の裂け目”に遭ってはじめて、“無常”という真実に目を向けられるとは、なんという逆説だろう!
 とはいえ、ブッダが説いた四聖諦にあるように、あるいは『仏弟子の告白(テーラガータ)』や『尼僧の告白(テーリーガータ)』に見るように、悟りの入口は「苦」なのだ。

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一橋講堂がある学術総合センタービル

 講演の内容自体は、これまで何度も聴いたり読んだりしていることなので、新たな気づきというほどのものはなかった。
 講演後の質疑応答がなかなか面白かった。
 『ペットを飼っていることについて厳しく指導してください』という会場からの問いに、スマナ長老が『飼わないことです』と一刀両断したのには(質問者には酷ながら)笑った。
 『このままだと(自民党案による)改憲が実現してしまう。どうすればよいのか』といった問いには、憂慮を同じくするソルティも笑ってはいられなかった。
 スマナ長老は、「こうしなさい」「ああしなさい」と明確には答えられなかったが、「自由や人権を害するようなことは良くない」「憂慮というネガティヴな思いが、大切な時もある」と言われていたことから、答えは自ずから明らかであろう。
 自分にできることを、気づきと慈悲をもってやるしかない。
 
 久しぶりにスマナサーラ長老の確たる存在感に触れ、スマナ節を耳にし、同じ仏道を歩む仲間たちの気に触れて、仏教愛と修行意欲が高まった。

過去を追いゆくことなく
また未来を願いゆくことなし
過去はすでに過ぎ去りしもの
未来は未だ来ぬものゆえに

現に存在している現象を
その場その場で観察し
揺らぐことなく動じることなく
智者はそを修するがよい

今日こそ努め励むべきなり
誰が明日の死を知ろう
されば死の大軍に
我ら煩うことなし

昼夜怠ることなく かように住み、励む
こはまさに「日々是好日」と
寂静者なる牟尼は説く

『日々是好日』経

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神田橋を望む外堀通り
10年以上前に職場があった付近
まさに諸行無常を感じる変わりようであった

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帰りはJR神田駅まで歩いた
この駅の山手線発車メロディーは「お口くちゅくちゅ、モンダミン




● 難しいけど面白い 本:『〈わたし〉はどこにあるのか ガザニガ脳科学講義』(マイケル・S.ガザニガ著)

2011年原著刊行
2014年紀伊國屋書店(訳:藤井留美)

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 原題は、Who’s in Chage ?  Free Will and the Science of the Brain
 すなわち、「責任」と「自由意志」に関わる脳科学の話である。
 著者のガザニガは、1939年アメリカ生れの認知神経科学の第一人者。てんかん治療のため右脳と左脳をつなぐ脳梁を切断した分離脳患者を対象に、さまざまな実験を行い、脳の右半球と左半球の働きの違いについて、驚くような新事実を次々と発見したことで知られる。
 物書きとしての才能も高く、脳科学の最先端がどのようなものかを、難しい専門用語を並べることなく、一般読者にわかりやすくユーモアをもって伝えてくれる。
 ソルティのような科学オンチの文系にはありがたいことこの上ない。
 が、やっぱりそれでも難しい。
 難しいけど、面白い。

 第1章から第3章は、脳科学の誕生から語り起こし、それが生物学や人類学や物理学や精神医学など他の分野における新しい発見と関連し合って、凄まじい進歩を遂げてきた様子が描かれる。
 すべては20世紀に起きたことで、ほんの1世紀あまりで、最後の未開地と言われるヒトの脳が急速に解明され、人間の様々な機能や行動の背景をなす科学的要因が明らかになりつつある。
 動物と違うヒトの特異性が、科学的に裏付けられるようになったのである。

 遺伝子の強力な制御のもとでけたはずれに発達し、後天的要因(遺伝子に異なったふるまいをさせる遺伝以外の要因)と活動依存的学習で磨きをかけられた結果が、いまここにいる私たちである。行きあたりばったりとは対極の構造化された複雑な仕組みを持ち、高い自動処理能力と、制約付きながら優れた技能、それに広範囲に応用できる能力を発揮できる脳は、つまるところ自然淘汰のなせるわざなのだ。私たちが持つ無数の認知能力は、脳のなかでの担当領域がきっちり線引きされており、もちろん神経ネットワークや神経系も領域によって異なっている。そのいっぽうで、同時並行処理が行われる複数の神経系も脳のあちこちに配置されている。制御系は単一ではなく、複数あるということだ。自分が何者かという意味づけはそんな脳から生まれているのであって、外からの働きかけに脳が従っているのではない。(本書より引用、以下同)

 ね、難しいでしょ?
 難しいけど、面白そうでしょ?

 ソルティが面白いと思う最たる理由は、脳科学が進歩するにしたがって、脳が遺伝子に強く制御されていることが明らかになり、われわれ人間の感覚や感情や思考や行動のほとんどが、意識下において、“生化学的に、神経科学的に、物理学的に”コントロールされていることが自明の理となりつつあるからだ。
 つまり、人間はあらかじめプログラミングされたロボットに近く(というより、結局ヒトも本能で生きる動物と変わりなく)、自由意志は幻想だという不都合な真実。
 自由意志が幻想ならば、「わたし」という意志決定者もまた幻想なのか?
 この問いが、諸法無我を説く仏教と通じるものがあり、仏教徒であるソルティの好奇心を掻き立てるのである。

 さらに、脳科学の進歩によって、自由意志に対する懐疑とともに強く主張されるようになったのが、決定論(因果説)である。

 決定論とはそもそも哲学上の概念で、人間の認知、決定、行動も含めた現在と未来のすべてのできごとや活動が、自然界の法則に従った過去のできごとを原因として、必然的に発生しているというものだ。どんなできごとも活動も予定されているのなら、すべての変動要因がわかっていれば予測も可能になる。

 宇宙も世界も人間もアルゴリズムにしたがって動いているだけであって、「すべての出来事はあらかじめ決まっている」という、なんとも無味乾燥な、人間の努力や希望を嘲笑うかのような説(=運命論)である。
 決定論をYESとするなら、当然、自由意志や自己決定は存在する足場を持たない。
 意志決定する「わたし」は幻想である。
 相対性理論のアインシュタイン、「利己的な遺伝子」のリチャード・ドーキンス、哲学者のスピノザなどが、決定論者の代表格らしい。
 世界的ベストセラーとなった『サピエンス全史』や『ホモデウス』を書いたユヴァル・ノア・ハラリも、その一人に挙げられよう。

 しかしながら、本書によれば、現在ではむしろ、決定論は旗色が悪いという。
 というのも、決定論の後ろ楯となっているのは、〈1+1=2〉となるニュートン物理学の鉄壁の法則なのであるが、現代科学はもはや〈1+1=必ずしも2ならず〉を知ってしまったから。
 それが、カオス系であり、量子力学であり、創発である。
 創発とは、「個々の要素の総和では予測できない新しい性質を、システム全体が獲得する」こと。そこでは、1+1が10だったり100だったり10万だったりする。

 決定論が否定されるのなら、自由意志の存在も可能と主張できる。
 つまり、2つの立場がある。
 
 A 決定論NOならば、自由意志YES
   →「未来は決まっていない。なので、ヒトは自由に決定できる」
 B 決定論YESならば、自由意志NO
   →「未来は決まっている。だから、ヒトは自由に決定できない」

 決定論と自由意志については、『自由意志の向こう側』(木島泰三著)という本を別記事で取り上げたことがある。
 そこでは、現在、下記のいずれかの立場に拠って、研究者たちが議論を闘わせているとあった。
  1.  自由意志原理主義(リバタリアン)・・・・自由意志はある!
  2.  ハード決定論(因果的決定論)・・・・自由意志はない!
  3.  両立論・・・・1と2は両立できる
 1と2はそれぞれ上のAとBに該当する。理解は難しくない。
 しかるに、3の両立論とはなんぞや?
 と、ソルティは頭を悩ませたのであった。

 しかし、よく考えると、決定論と自由意志の有無は必ずしも連動しているわけではない。
 この世界が決定論で成り立っているか否かの問題と、ヒトの自由意志は幻想か否かの問題は、分けて考えることができる。
 つまり、

 C 決定論YESだけど、自由意志YES
   →「未来は決まっている。されど、ヒトは自由に決定できる」
 D 決定論NOだけど、自由意志NO
   →「未来は決まっていない。そして、ヒトは自由に決定できない」

という組み合わせも想定することができる。
 さすがに、Cの説を唱えるのは無理があるけれど、Dは選択肢としてあり得る。
 ガザニガはどうやら、Dの立場を取る「両立論者」のようだ。
 こう言っている。

 脳は自動的に機能していて、自然界の法則に従っている。この事実を知ると元気が出てくるし、もやが晴れたような気持ちになる。なぜ元気が出るかというと、自分たちは意思決定装置だと確信できるし、脳が頼りになる構造だとわかるからだ。そしてなぜもやが晴れるかというと、自由意志という不可解なものが見当違いの概念だとわかったからだ。それは人類史の特定の時代に支持されていた社会的、心理的信念から出てきたものであり、現代科学の知識が背景にないだけでなく、矛盾さえしている。(ゴチはソルティ付す)

 仏教語に翻訳するならこうだ。
 「諸法無我だが、因果は見抜けない」

タントラ

 本書の白眉は第4章である。
 ここでは、自由意志は幻想であるにも関わらず、「なぜ我々は、自由意志があると錯覚するのか?」を解説している。
 なんとその原因は、左脳にあるインタープリター・モジュールのせいなのだという。

 私たちは無数のモジュールから構成されているのに、自分が統一のとれた存在だと強烈に実感しているのはなぜか? 私たちが意識するのは経験というひとつのまとまりであって、各モジュールの騒がしいおしゃべりでない。意識は筋の通った一本の流れとして、この瞬間から次の瞬間へとよどみなく、自然に流れている。この心理的統一性は、「インタープリター」とよばれるシステムから生じる経験だ。インタープリターは、私たちの知覚と記憶と行動、およびそれらの関係について説明を考えだしている。それが個人のナラティブ(語り)につながり、意識的経験が持つ異なる相が整合性のあるまとまりへと統合されていく。混沌から秩序が生れるのだ。

 あなたという装置に亡霊は入っていないし、謎の部分もない。あなたが誇りに思っているあなた自身は、脳のインタープリター・モジュールが紡ぎだしたストーリーだ。インタープリターは組みこめる範囲内であなたの行動を説明してくれるが、そこからはずれたものは否定するか、合理的な解釈をこしらえる。

 インタープリターは、ずっと私たちを陥れてきた。自己という幻影をこしらえ、私たち人間は動作主体であり、自分の行動を「自由に」決定できるという感覚を吹きこんだ。それはいろいろな意味で、人間が持ちうる建設的かつ偉大な能力だ。知性が発達し、目前のことだけにとらわれず、その先に広がる関係を見ぬく能力が磨かれたヒトは、ほどなくして意味を問いかけるようになる――人生の意味とは何ぞや?

 インタープリター・モジュール――これが「わたし」の正体というのである!
 ここまで脳科学が進んでいるとは驚きである。
 この説が正しいのであれば、諸法無我を「悟る」とは、左脳の働きが一時的に停止する状態で起きた、右脳単独による世界認知をいうのではなかろうか?
 そう言えば、脳卒中で左脳の機能の大半を失った医師の手記(ジル・ボトル・テイラー著『奇跡の脳』)があったっけ。彼女はまさに「悟った」人であった。
 ソルティがやっている「悟りに至る瞑想」といわれるヴィパッサナー瞑想とは、ひょっとしたら、「いま、ここ」の現象を実況中継し続けることで左脳を疲れさせて、一時的にシャットダウンさせる裏技なのではなかろうか?
 それを忍耐強く続けること(=修行)によって、インタープリター・モジュールを黙らせる新しいモジュールを脳内に作り上げるテクニックなのではなかろうか?

チャクラと仏

 自由意志の有無の問題は、責任の所在の問題へとつながる。
 ヒトに自由意志がなくて、すべてが脳のアルゴリズムの結果であるのなら、個人が犯した罪を問うことはナンセンスじゃないか。犯罪者に責任を取らせるのは不合理だ。
 ――そういう議論が成り立つ。
 実際にその論拠をもとに、罪を犯した者に必要なのは「処罰でなくて更正」と提言しているデイヴィッド・イーグルマンのような研究者もいる。(別記事『あなたの知らない脳』参照)
 第6章では、この問題に対するガザニガの見解が述べられている。
 ヒトの社会というものが、単体の脳ではなく、複数の脳からできている事実を踏まえ、脳と脳との相互作用から生じる「創発」に着眼しているところが面白い。
 脳の働きを単体として見るのではなく、人類という「種」のレベルで、つまり、「人類の脳」という観点からとらえているわけだ。
 あたかも、ユングの集合意識あるいは唯識論の阿頼耶識みたいな話で、難しいけど面白い。

 本書の刊行は2011年。
 もう10年以上が過ぎた。
 その間も脳科学は進んでいるはず。
 今はどこらにいるのやら?




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● はつもうで @TAKAO-SAN

 年末年始は秩父でリトリート。
 スマホもテレビも新聞もアルコールも人との会話も遠ざけて、瞑想と散歩と読書の4日間を送った。
 元日の早朝に秩父神社に参拝し、生きとし生けるものの幸福を祈った。

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秩父神社

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社殿の東側に刻まれた「つなぎの龍」
今年は君の出番だ!

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最近、境内の西側に三峰神社も合祀された

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祭神は、ヤマトタケル、イザナギ、イザナミである

 2日の午後に禁を解いて、近場の温泉施設に出かけた。
 最寄駅からの送迎バスは自分一人。
 正月休みというのに、不思議なほど館内は空いていた。
 ゆっくり温泉に浸かったあと、休憩室のテレビを見て、はじめて能登半島地震を知った。
 たしかに、元旦の夕方の瞑想中、揺れを感じた。
 が、秩父は地盤が硬いので、瞑想を止めてニュースを見るほどの地震とは思わなかった。
 おそらく温泉が空いていたのも、ニュース映像を見て、「こんなときに温泉なんかに出かけて楽しんでよいものだろうか」と思った人々が、予定をキャンセルしたためではないか。
 避難所で寒さに震えながら、いまだ消息のわからない家族や知人の安否を心配している人々の姿を目にしながら、のんびり温泉に浸かって、あたたかい休憩室でビールを飲んでいる。
 そんな自分をうしろめたく感じないでいられるほど、ソルティも冷血漢ではない。
 とはいえ、では、今まさに苦しんでいるガザ地区やウクライナやミャンマーの人々についてはどうなのかと問われると、感情移入のラインをどこで引いたものか難しいものである。

 ともあれ、いま自分にできるのは、寄付と状況を知ることと祈りだろう。

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元日の秩父市

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武甲山

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秩父札所16番・西光寺にある大日如来

 
 1月7日には高尾山に初詣でに行った。 
 年始めの薬王院参りは、JR中央線沿線に住み始めた2004年以来の毎年の恒例行事だったのだが、足の骨折とコロナ禍のため、2019年1月7日を最後にストップしていた。
 実に5年ぶり。
 
 朝5時半に自宅を出て、7時に京王線・高尾山口駅着。
 友人と合流し、ケーブルカーで8合目にある高尾山駅へ。
 朝日が関東平野を黄金色に染める。
 早朝の高尾はやはり気持ちがいい。
 杉並木を歩くと、身も心も浄化されていくような気がする。
 おはよう、天狗さん!

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ケーブルカー麓の清滝駅

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高尾天狗


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薬王院

 薬王院本堂で行われる8時からの御護摩祈祷に参列し、般若心経を読経し、本尊である飯縄大権現に発毛と開運を祈願した。(コロナ感染で頭髪が抜けた!)
 そのあと、山頂まで登った。

 冬はつとめて(早朝)。
 澄んだ空気と葉を落とした木々が、見事な展望を実現する。
 スカイツリー、都心の高層ビル群、光り輝く相模湾、江の島、大島、青々した武蔵や丹沢の山並み、南アルプスの白嶺、そして・・・・神々しいまでに美しい、雪をかぶった富士山。
 自然と手が合わさった。

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高尾山頂広場

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生きとし生けるものが幸福でありますように






 
 
 

 

 

● ロザリオの秘密 本:『仏教の謎を解く』(宮元啓一著)

2005年すすき出版

 死者を「ほとけ」と呼ぶのはなぜ?
 釈迦は輪廻を否定したのか?
 みんなが解脱したらどうなる?
 五重塔でもっとも大切な部分は?
 懐石料理、精進料理の由来は?
 e.t.c.

 仏教に関する“知らないようで”知らない数々の疑問を解き明かす。
 仏教をほとんど知らない人より、仏教に興味があって、ある程度聞きかじっている人向けの本である。
 つまり、「死者をほとけと呼ぶ」、「釈迦は輪廻を説いた」といったことを事前知識として持っていればこそ、本書に書かれている真相が「なるほど」と腑に落ちる。
 はじめから仏教に興味ない人やこれから仏教を学ぼうという人には、そもそも、「なぜそれが謎として取り上げられるのか」が分からない。
 本書は入門書ではなく、初段者向けと言っていい。

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 著者の宮元はインド哲学・仏教研究者。
 『ブッダが考えたこと』、『インド哲学七つの難問』、『念処経 ブッダの瞑想法』など多くの著書がある。
 仏教に関しては、原始仏教経典(阿含経典)に説かれている釈迦の教えを尊重し、いわゆる大乗経典には批判的な立場のようである。
 したがって本書の記述もまた、多くの日本人のもつ「仏教イメージ」に見られる誤解や間違いを、テキスト研究によって見出された“真実に近い”釈迦の姿によって正していく、というスタイルになっている。
 また、自身、若い頃から様々な瞑想体験を重ねた実践者でもあるらしい。
 サマタ(集中)瞑想により禅定や三昧に至ったり神秘体験したりして「悟った」ような気になったところで、瞑想が終われば元の黙阿弥、煩悩にまみれた自分に戻るしかなかった――という本書に書かれている経験が、仏教学者としての著者の原点になっているように感じられた。

 以下、いくつかの謎の回答(とソルティのコメント)。

 わたくしたちは、死ぬと、大日如来と合一すると考えられたのです。大日如来と合一するというのは、仏になること、成仏することにほかなりません。そこで、日本では、死ぬことを成仏するといい、また、死者(死体)のことを仏と呼ぶようになりました。

 刑事ドラマのセリフに出てくる「ほとけさん」は、密教の最高存在である大日如来のことだったのだ。知らぬ間に、密教文化が日常に入り込んでいたのね。

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東大寺の廬舎那仏
もっとも有名な大日如来像


 生類がみんな解脱して彼岸に渡ってしまったら、どうなるのでしょうか。もはや結論は明らか、輪廻の六道(天、人、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄)という有情世間が消えてなくなるばかりか、生類の業の集合が形成してきた環境世界も消えてなくなります。

 生命が存在しなければ世界(環境)は存在しないとは、つまり、「認識」がなければ「存在」は成り立たない、ということである。認識と存在の不思議な関係
 そこで思い浮かぶのが仏典でもっとも有名なシーンである梵天勧請。悟ったばかりの釈迦が教えを説かずにいようと思ったのを知った梵天は、「世界が壊れてしまう!」と嘆いて、説法を懇願する。結果、釈迦は教えを説き始める。
 が、教えを説く=解脱者を生み出す、ことはかえって世界の消失を促進する結果になるのでは?


 五重塔でもっとも重要な部分は、美しい五層の建築物ではなく、その天辺に小さく載っている伏鉢なのです。実際の例は別として、そのなかに、仏舎利が納められるべきことになっているのです。
 もっとも、釈迦は巨大な恐竜のような体ではありませんでしたから、その本物の仏舎利が日本にまで持ち込まれることはありませんでした。ですから、伏鉢のなかに納められている仏舎利というのは、米粒ぐらいの小さな水晶のことをいいます。
 
 仏舎利とは釈迦の遺骨のこと。古い経典によれば84,000の寺に分けたという。
 五重塔って、つまり、釈迦のお墓なのだよ、明智君。 

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奈良法隆寺の五重塔

 わたくしたちが用いる数珠と、キリスト教徒が用いるロザリオとがよく似ているのは当たり前で、もとは同じものだったのです。

 数珠の語源はサンスクリット語「ジャバ・マーラー(つぶやきの環)」。祈りをつぶやきながら、その回数を数えるのに珠をたぐっていたからである。
 これが9世紀前後にイスラム圏に入り込み、それを見たキリスト教徒が祈祷の用具として取り入れた。このとき「ジャバ」という言葉を、「ジャパー」という名の中国原産の薔薇と勘違いし、「薔薇の環」の意と解した。薔薇の環(ラテン語で rosarium )が転じてロザリオとなったとな。
 仏教とキリスト教の不思議な環である。

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starbrightによるPixabayからの画像




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 本:『気づきの瞑想実践ガイド』(チャンミェ・サヤド―著)

2010年原著刊行
2018年サンガ発行(訳:影山幸雄、影山奨)

気づきの瞑想実践ガイド

 悟りに至る瞑想と言われるヴィパッサナー瞑想に関するわかりやすく丁寧なガイドブック。
 マハーシ・サヤドー著『ミャンマーの瞑想 ウィパッサナー観法』(国際語学社1995年発行)、ウ・ジョーティカ著『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』(新潮社2006年発行)と並び賞されるべき、読みしたがうべき名著である。訳も適確で良い。
 著者のチャンミェ・サヤドーは、1928年ミャンマー生まれのテーラワーダ仏教僧。マハーシ・サヤドーから瞑想指導を受けたという。

 副題「ブルーマウンテン瞑想センターでの法話集」が示すように、本書は、1998年オーストラリアのブルーマウンテン洞察瞑想センターで行われたチャンミェ長老による瞑想指導において、一般の(出家者でない)参加者を前に語られた法話である。
 これから瞑想修行を始めていこうという初心者にとっても、すでに日々瞑想実践を行っていて様々な気づきや疑問が湧き上がっている中級者にとっても、瞑想習慣が長きにわたるも様々な理由から現在壁にぶつかっている人(ソルティだ)にとっても、非常に役に立ち、励みとなる書である。
 とくに、瞑想が深まるにつれて瞑想者が発見していく智慧について、かなり具体的に順を追って述べられている点が本書の美点と思う。

 思考は心の状態であり、永続せず、常に変化しています。思考は現れては消え去ります。しかし、時々思考が長時間続いていると考えてしまうことがあるかと思います。実際には、思考はひとつではなく、連続する思考のプロセスが、次から次へと現れては消えているだけです。これは思考のプロセスであり、ひとつの思考は1秒の100万分の1も続きません。生じたら、あっというまに消え去ります。そしてひとつ思考が消え去ると、もうひとつの思考が生じて、すぐに消え去ります。
 しかし私たちは思考のプロセスを細かく分けて識別することができません。ひとつの思考がずっと続いているかのように考えます。そのため、その思考を私、私の物、人、生命とみなします。考えるのは「私」、「私は何かを考えている」と考えます。こうして人ないし自分という誤った見方が生じます。(本書より)

 上記の一節を読んで、推理小説の生みの親であるエドガ・アラン・ポーの小説を思い出した。
 まさに、史上初の推理小説であり、名探偵第1号であるオーギュスト・デュパンが初登場する『モルグ街の殺人』である。

 物語の語り手である「私」はひょんなことからデュパンと知り合い、その天才に魅了されて同居することになる。
 ある晩、二人は連れ立ってパリの街を黙って歩いていた。
 すると突然、デュパンは、「私」がそのとき心の中で考えていたことをズバリと言い当ててみせる。
 驚愕する「私」に対し、デュパンは種明かしを披露する。
 デュパンは、ある瞬間からの「私」の思考の連想過程を、「私」の目線や表情や仕草から推理し、順次追っていたのであった。

 日常における我々の思考は、連想作用によって、Aという思考からBという思考に、Bという思考からCという思考に、鎖のようにつながっていく。
 たとえば、

 道路脇にラーメン店の看板を見た ➡昨日食べた「サッポロ一番」を思い出す ➡テレビで見た「札幌の雪まつり」のニュース ➡今年は雪が少ない ➡スキーに行けないかも ➡スキーと言えばアルペン ➡“冬の女王”広瀬香美 ➡離婚した相手は誰だっけ? ➡大沢なんとか ➡離婚と言えば羽生結弦はどうして・・・・以下続く。

 ――といった具合いに思考は、半ば無意識のうちに、無責任かつほぼ自動的に進行していく。
 その流れは私の経験や知識や性格やそのときの気分や体調に影響を受けるけれど、私(=意識)のコントロール下にはない。
 思考は勝手に無意識から材料を取り出して、おのがプロセスを進んでいくだけだ。
 私の意志とは関係なく・・・。

 そのとき、隣りを歩いていた友人から聞かれる。
 「いま何考えている?」
 「いや、羽生結弦の離婚についてだよ」
 ・・・なんて、いかにも時事ネタに聡いフリなんかしてみるけれど、本人はラーメン店の看板がそもそものきっかけだったことにまったく気づいていない。
 
 自らの思考をつぶさに観察してみると、思考というものが実にいい加減で、主体性も一貫性もなく、周囲の状況に左右されやすく、様々なものに条件づけられていることが分かる。
 思考だけではない。
 気分や感情も意志も記憶もまた同様である。
 
 自らの心――気分、気持ち、感情、思考、意志、信念、記憶――は「あてにならない」。あまり信用するな。いわんや感覚においてをや。
 それが、ヴィパッサナー瞑想がソルティに教えてくれたことの一つである。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 仏教セミナー: 佐々木閑氏講演『これからの時代のためのブッダの教え』

日時 2023年11月18日(土)
会場 日本交通協会会議室(有楽町・新国際ビル内)
主催 日本仏教鑚仰会

 8年前中野サンプラザで聴けなかった佐々木氏の話。
 ようやく目の前で聴くことができた。
 『科学するブッダ 犀の角たち』、『仏教は宇宙をどう見たか』など、氏の本には啓発されるところ大である。

 会場の新国際ビルには初めて来たが、有楽町のこのあたりの変わりように驚いた。
 ソルティの記憶の中では灰色のビルディングの並ぶ殺風景なイメージしかなかったのだが、街路樹の続くレンガ敷きの路上にテーブルが置かれ、休日を思い思いに楽しむ人々が往来する様子は、まるでカルチェラタンのよう。カルチェラタン行ったことないのだが。
 あっ、岸恵子!(ウソ)

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左の建物が会場となった新国際ビル

 冒頭一番、佐々木氏は「これからの時代」を「今日よりも明日が悪くなる時代」と断言した。
 改めて言われるまでもなく、多くの日本人が感じていることだろう。
 少子高齢化、慢性化した不景気、広がるばかりの所得格差、国際競争力の低下、値上げラッシュ、地方の衰退、軍備増強、無縁社会に孤立する人々・・・。
 外を見れば、ウクライナ×ロシア戦争、イスラエル×ハマス戦争、気候変動による災害、ナショナリズムの興隆、分断する国際社会・・・。
 戦後日本人が享受してきた「豊かさと安全」が崩れようとしている。

 一方、世界的な潮流として価値観の大きな変容が見られる。
 「より多くの物を手に入れることが幸福」という資本主義イデオロギーの不毛に気づき、商業主義の洗脳から目覚めた人々は、新たな価値観のもと、これまでの生き方を変えようとしている。
 そんな時代にますます重要度を増すのが仏教である、と佐々木氏は説く。

 世間における幸福とは「欲求の充足、夢の実現」。これは私たちが生物として持っている本能的思考。「虹の向こうの夢を追い求める気持ち」が人類を発展させ、そして多くの人を苦しめてきた。(当日講師配布資料より抜粋、以下同)
 
 「欲」を三毒――三つの悪しきもの、残り二つは「怒り」と「無知」――の一つとし、すべてを捨て去っての出家をすすめたブッダの教えが、資本主義と相反するものであるのは間違いない。
 大乗仏教宗派や仏教まがいの新興宗教の中には、この根本が崩れて、お布施という名の集金活動に熱心なところも見受けられるが、本来の仏教は「欲望の充足でなく、欲望を持たない状態を目指す」。
 そして、人の抱く究極の欲望が「永遠の命」である。
 仏教が、キリスト教やユダヤ教やイスラム教と決定的に異なるところは、後者3つが来世信仰すなわち「天国で永遠の幸福のうちに生き続ける私」という、自我(あるいは魂)の存続を最高到達点とするのにくらべ、仏教は(少なくとも原始仏教は)「この世であろうと、あの世であろうと、生き続けることは苦しみであるから、二度とどこにも生まれ変わらないようにしよう」という涅槃寂静をゴールとする。
 また、神や教会などの外部に救いを求めず、あくまで修行によって「自分の力で自分を変える」。
 仏教がいかに既存のほかの宗教と異なることか!
 もっとも、佐々木氏は言う。

 欲求を追い求める人生と追い求めない人生には、優劣も善悪もない。
 どちらの人生を選ぶかは、人それぞれの状況が選択の基準になる。
 ただし、欲求を追い求める人生には、「快楽」と「苦」とがつきまとう。

 佐々木氏の講義(=説教)は、基本的にテーラワーダ仏教のスマナサーラ長老の説くところと同じ。つまり、原始仏教そのもの。
 阿弥陀様の本願とか、弥勒菩薩の救済とか、称名念仏による極楽往生とかを信じる人々にとっては、梯子をはずされて谷底に突き落とされるようなショッキングな内容である。
 以前、日蓮宗のお寺がスマナ長老を迎えて法話を開催したことがあったが、そのときの会場の凍り付いた空気をソルティはよく覚えている。
 本来の仏教は、身も蓋もないほど、人々の抱く生ぬるい幻想をひっぱがす鋭利な刃物なのである。
 ただ、大学教員である佐々木氏の語りは流暢でユーモアがあり、表情や仕草も多彩で、穏やかな雰囲気を発していた。
 時折、鋭い眼光を放つ瞬間もあり、世間向けの仏教伝道者としての顔と、深い学識と思想を湛えた研究者としての顔と、使い分けているのだろうと察しられた。
  
 休憩時、70歳以上が9割がた占める会場を見やりながら、ふと思った。
 こういった話を佐々木氏の教え子である(サトリ世代と言われる)令和の若者たちは、どんなふうに聴くのだろう?
 経済成長と所有資産の拡大こそが幸福と疑わない多くの昭和世代とは、また違った受け取り方をするのだろうか?
 日本におけるテーラワーダ仏教の今後はどうなっていくのだろう?
 
 休憩後、スマホを確認していた佐々木氏から、池田大作の死を教えられた。

(仏教は)社会を変えることで人を救うのではなく、人を救えない社会で苦しむ人たちを受け入れる受け皿、その目的は、社会の片隅で永く存続すること。


※本記事は実際の講義内容のソルティ流解釈に過ぎません。あしからず。



● 9分の1のご来迎 特別展『京都・南山城の仏像』(東京国立博物館)

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 行こう行こうと思いながら先送りになっていたこの催し。気がつけば会期終了目前だった。
 混んでいるかもしれないなと思いつつ、11/11(土)の午後に出かけた。

 南山城というのは、京都府南部、奈良県に接する一帯をいう。
 緩やかな丘陵地を木津川が流れる心安らぐ地である。
 宇治茶の産地としても知られる。 
 このあたりは由緒あるお寺や素晴らしい仏像がたくさんあるのだが、世界的観光名所の京都と奈良にはさまっているせいか、人が殺到していない。
 ソルティは、東日本大震災のあった2013年10月に、9体の金色阿弥陀仏で知られる浄瑠璃寺とその近くの岩船寺に行った。
 秋の里山歩きが実に気持ち良かった。
 今年3月には木津川市の畑中にある蟹満寺に行き、白鳳時代につくられた国宝・釈迦如来坐像に会ってきた。
 「こんな田舎に、こんな立派な仏像が、こんな無防備に、おわすのか!」と驚いた。

蟹満寺
白鳳時代の釈迦如来坐像がある蟹満寺

 今回の展示では、浄瑠璃寺・岩船寺のほか南山城地区の7つのお寺の仏像たち、計18体が招かれていた。
 平安時代(9~12世紀)のものが16体、残り2体が鎌倉初期である。
 メインとなるのは浄瑠璃寺の9体の阿弥陀仏像の中から選び出された1体。
 修理を終えたばかりの金色に輝く肌と、堂々たる風格、人の心のすみずみまで見通しつつもあくまで慈悲深い眼差し、会場を一際明るくするオーラ。同じ国宝の広目天と多聞天に左右を守られて、圧倒的存在感であった。
 浄瑠璃寺で拝観したときよりずっと間近で見ることができて、うれしかった。

 ほかに、海住山寺の十一面観音立像、浄瑠璃寺の地蔵菩薩立像のあまりの美しさにときめいた。
 少し前にあった根津美術館『救いのみほとけ展』でも思ったが、平安時代の地蔵菩薩像の洗練された美しさはもっと認識されて良いと思う。 
 内部は撮影禁止だったので、素晴らしい仏像の数々はここで紹介できない。
 京都南山城古寺の会『南山城の古寺巡礼』というホームページにその一部を見ることができる。

 最近ソルティは、有料の音声ガイドリストを進んで使うようになった。
 作品の横に掲示されている説明書きを読むのが老眼でわずらわしくなったのと、音声ガイドだと鑑賞ポイントを的確に教えてくれるから見落としがない。
 今回の音声ガイドには、仏像マニアとして知られるみうらじゅん氏といとうせいこう氏による対談風解説がついていた。
 テレビの副音声みたいで面白かった。浄瑠璃寺の本堂に居並ぶ阿弥陀如来を「ロイヤルストレートフラッシュ」と表現したのは至言。

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東京国立博物館
来場者は多かったが鑑賞の妨げになるほどではなかった。
 
 特別展のあと、本館1階の常設展の仏像コーナーに行った。
 前回(今年6月)観た時と微妙に展示が変わっていた。
 中で面白かったのは、鎌倉時代の康円作『文殊菩薩騎師像および侍者立像』。
 文殊菩薩が4人の侍者を伴って海を渡る姿を彫った群像である。
 4人の侍者の一人、善財童子がなんとも可愛かった。

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 左から、大聖老人、于闐王(うてんのう)、文殊菩薩、善財童子、仏陀波利三蔵
 仏師康円は運慶の孫。
(奈良興福寺)

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こんなフィギュアがほしい










● 本:『念処経 ブッダの瞑想法』(宮本啓一訳)

2022年花伝社

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 ソルティは、ブッダの瞑想法として知られるヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス瞑想)を初めて10年以上になるが、肝心の原典を読んでいなかった。
 本書は、『パーリ経典』(漢訳『阿含経典』)の経蔵中部に収録されている『念処経』(サティパターナ・スッタ)の全訳である。
 スッタは「経」の意である。サティパターナ・スッタを宮本はこう訳している。
 「対象を記憶に刻み込む集中力の発動を説く経」

 「はじめに」において、ブッダの開発した瞑想法をこう解説している。

 観と察とによって如実知見を目指す瞑想法で、その具体的な方法を順序立てて説いたものこそが、本書で和訳した『念処経』です。
 これは、身体の在り方、外界の認知受容の在り方、心的な在り方、それを冷静に観察することで得られる如実知見の真理、以上の四部門の一々に意識を集中せよと説きます。

 如実知見とは「ものごとをありのままに見ること」である。
 世界を、生命現象を、人間存在を、苦を、「ありのままに見る」ことができれば、それが「悟り」だということだろう。

 いろいろな原因や理由で、物事を「ありのままに見る」ことができなくなっているのが、人類一般である。
 たとえば、現在のイスラエル×パレスチナ問題。
 ユダヤ教徒でもイスラム教徒でもキリスト教徒でもない多くの日本人は、同じ神(エホバ、ヤハウェ、アドナイ、アッラー、エロヒム、主)を頂きながら、神の名のもとに何世紀も憎み合い戦い続ける彼らを「愚かである」と、「ありのままに見る」ことができよう。
 しかし、それぞれの信仰と長い伝統文化と異なった母語と過去の因縁をもつ当事者たちは、如実知見を失っている。
 では、日本人が彼らより賢いのかと言えば、そんなことはない。
 自分のことは自分ではなかなか見えないだけであって、イスラム教徒やキリスト教徒から見れば、神を祖先とする日本の天皇制は理解の外であり、その“ヒト”のために一億玉砕で戦って原爆を落とされた日本人は「愚か」としか思えないだろう。
 かほどに、如実知見は難しい。

 本書は、『念処経』のほか、道元禅師の『普勧坐禅儀』『現成公案』、瑩山禅師の『坐禅用心記』、パタンジャリ『ヨーガ・ストーラ』から、瞑想法に関する一節が取り上げられている。




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● らかんさんに呼ばれて

 「目黒のらかんさん」として知られる五百羅漢寺には行ったことがなかった。
 どうせなら、桜並木で有名な目黒川沿いを歩いて行こうと思い、東急東横線の中目黒駅で下車した。
 ここで降りたのは実に40年ぶりくらい。
 駅前のそば屋で軽く腹ごしらえし、東横線のガード下から品川方面に目黒川を下向した。
 炎天下で直射日光はきびしかったが、川沿いの道は木陰続きで、ときに風が抜けて、心地良かった。

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東急東横線・中目黒駅
学生時代、テニスのサークルでここで飲んで潰れたような記憶が・・・

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「吉そば中目黒」店の冷しかき揚げそば
かき揚げは大きく、そばは喉ごし良く、美味だった

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東急線ガード下より品川方向を見やる
目黒川は世田谷区三宿を起点とし、東京湾に注ぐ
全長およそ8km

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このようなベンチがところどころにあるのがうれしい。
超高齢化時代には欠かせない施設である。

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河岸には美術館や公園、モダンなマンションや小粋なレストランが並ぶ。
なかなかハイブロウな感じ。

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モダンでメタリックな外観にもどこか昭和クラシカルな風情が漂う。

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柊(ヒイラギ)庚申講
地域の古い信仰が垣間見られる
柊は古くから邪鬼の侵入を防ぐと信じられ、庭木に使われてきた。家の庭には表鬼門(北東)にヒイラギ、裏鬼門(南西)にナンテンの木を植えると良いとされている(鬼門除け)。また、節分の夜にはヒイラギの枝に鰯の頭を門戸に飾って邪鬼払いとする風習(柊鰯)が全国的に見られる。(ウィキペディア「柊」より抜粋)

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目黒区民センター
裏手に目黒美術館がある

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ふれあい橋より上流(渋谷方向)を振り返る
清掃工場の煙突がひときわ高い

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下流(品川方向)
桜の季節の賑わいが目に浮かぶ

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散歩やジョギングに恰好の道

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目黒の名を一躍有名にしたのは「さんま」と「エンペラー」
目黒エンペラーは1973年(昭和48年)12月創業のラブホテル
ラグジュアリーな装飾で一世を風靡した
このお城が見えれば目黒駅は近い
羅漢寺も近い

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天恩山五百羅漢寺
元禄8年(1695)建立、開基は松雲元慶(1648-1710)

 松雲は40歳の時に五百羅漢を彫ろうと発願し、江戸に出て托鉢により資金を集めた。
 時の将軍徳川綱吉などの援助を受けながら独力で彫像し、完成に近づいたところで、像を納めるために堂宇を建てた。
 当初は本所五ツ目(現在の東京都江東区大島)にあったのだが、明治41年(1908)に現在地に移転した。
 現在、305体が残っているという。(堂内は撮影禁止)

 五百羅漢とはその名の通り、五百人の阿羅漢(完全な悟りに達した人)の謂いである。
 お釈迦様が亡くなったあとその教えを守り伝えるために、500人の阿羅漢が集い、マハー・カッサパとアナンダが中心となって教えの確認作業を行った。
 いわゆる第一結集である。
 そこに参加した比丘たちを称え敬うことから、五百羅漢像が作られるようになった。
 ソルティもこれまでにいろんな場所で五百羅漢像を見てきたが、とくに印象に残っているのは、秩父の羅漢山と四国遍路第66番雲辺寺のそれである。
 概して、通常の仏像(如来や菩薩や明王など)が生真面目で厳かな顔、あるいは聖人らしい穏やかで慈悲深い顔をしているのにくらべ、五百羅漢は表情も姿恰好も持ち物も非常にヴァリエーションに富み、ユニークで人間らしく、見て面白いのが特徴である。
 それゆえ、庶民に親しまれやすいのだ。

羅漢山1
秩父の羅漢山の羅漢さん

羅漢山2
こんなのもある

雲辺寺羅漢1
四国66番札所雲辺寺の羅漢さん

 目黒五百羅漢寺の羅漢さまにはお一人お一人に名前(〇〇尊者)が付けられ、それぞれ教訓のような「おことば」が付与されていた。
 たとえば、
  • 仲良く睦みあう(衆和合尊者)
  • 道は山のごとく登ればますます高し(山頂竜衆尊者)
  • わけへだてのない心(心平等尊者)
  • 仏も昔は凡夫なり(没特伽尊者)
  • 苦しみから逃げると楽しみも遠ざかる(雷光尊者)
  • 仕事にうちこむ美しい顔(勇精進尊者)
 鑑賞する人は、たくさんの羅漢さんの中から自分が惹きつけられた顔や言葉と出会って、わが身を振り返ったり、心の拠り所にしたり、今後の人生の指針を得たりすることができよう。
 本堂には、羅漢さんのほかに釈迦如来と十代弟子、達磨大師、観音菩薩、地蔵菩薩などの像が所狭しと並んでいた。
 ほどよい室内の暗さ、インド音楽に合わせて流される住職の説法テープ、心を落ち着けたいときには恰好の空間である。
 まろやかでやさしいお顔のお釈迦様の左右に立つ、頭陀第一のマハー・カッサパと多聞第一のアナンダの表情や姿恰好の違いが対照的で面白い。
 カッサパは骨皮筋衛門に、アナンダは上品な美男子に彫られている。

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本堂
本堂に納まりきらない羅漢像は別に羅漢堂に納められている

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再起地蔵

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五百羅漢寺のパンフレットより
ここの羅漢さまは総じて真面目な顔、厳しい顔が多かった。
にしても、500体の修復は大変な仕事だ。

 羅漢寺から路地を通って、目黒不動尊に抜けることができる。
 大同3年(808)慈覚大師・円仁(天台座主第三祖)によって開かれた関東最古の不動霊場である。
 そもそも目黒という土地の名の由来がここであった。
 江戸五色不動と称され、江戸城を中心に5つの方角に5つの不動尊――目黄(東)・目赤(西)・目白(南)・目黒(北)・目青(中央)――があったのだが、現在地名として残っているのは目黒と目白だけである。
 
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目黒不動尊(天台宗 泰叡山 瀧泉寺)

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庶民のアイドル・水かけ不動尊
ヒシャクで狙い撃ちされた顔がすっかり美白化
鈴木その子みたいになっている(えッ、知らない?)

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本堂
円仁が彫ったという本尊の不動明王像は12年に一度、酉年に開帳される。

 帰りはJR目黒駅から列車に乗ろうと思い、目黒雅叙園の横の急な行人坂を登っていたら、途中にある寺にふと惹きつけられた。
 天台宗大円寺とあった。
 山門をくぐって境内に足を踏み入れたら、なんとびっくり、ここにも五百羅漢がいた。
 羅漢寺のヒノキ造りの(かつては金箔で覆われた)ご立派な尊者たちとは違い、野ざらしの石仏である。

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大円寺
寛永年間(1624-1644)湯殿山修験道の行者大海が創建したのに始まると伝えられる。
羅漢寺より開基は古い。
本尊の木造釈迦如来立像は特定の日にご開帳。

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五百羅漢像
明和9年(1772)江戸市中を焼く大火事があった。
そのとき火元と見られたのが大円寺であった。
五百羅漢像はこの火事で亡くなった人々を供養するために建てられたという。

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こちらの羅漢さんたちはユニークな表情で親しみやすい。

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釈迦如来像が手にしているのは背中を掻くツール――ではなくておそらく蓮の茎だろう。
周囲を菩薩、十大弟子らが囲んでいる配置は羅漢寺本堂と同様。

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マハー・カッサパ尊者
口元のしわが写実的

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大黒様を祀っている七福神のお寺でもある。

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境内にはちょっと変わった石仏があった。
胴体はどこにいったのだろう?

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道祖神
夕日を浴びて照れくさそうな2人。
「もうすぐ夜だね」
「そうね、あなた・・・」

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個人的にはこちらの五百羅漢のほうが「目黒のらかんさん」の愛称に添うような気がした。
説教臭くない、天衣無縫なたたずまいに癒された。

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目黒駅周辺もすっかり開発されたなあ~

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JR目黒駅到着
約4時間の散策、汗をしぼられた。
目黒という街は、古い庶民信仰の上に、昭和バブルの猥雑さと平成のソフィストケイトされた空間が積み重なっている、現代日本の都市の特徴がよく映し出されている。

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羅怙羅(らごら)尊者はお釈迦様の息子
世に言うラーフラである














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