ソルティはかた、かく語りき

首都圏に住まうオス猫ブロガー。 還暦まで生きて、もはやバケ猫化している。 本を読み、映画を観て、音楽を聴いて、神社仏閣に詣で、 旅に出て、山に登って、瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

●仏教

● 本:『仏教は科学なのか 私が仏教徒ではない理由』(エヴァン・トンプソン著)

2020年原著刊行
2024年Evolving(藤田一照+下西風澄・監訳、護山真也・訳)

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 本書は、欧米の仏教シーンで主流となっている仏教モダニズムに対する批判書である。
 仏教モダニズムとはなにか?

仏教モダニズムは特に西洋において支配的な仏教の流れで、伝統的なアジア仏教の形而上学的・儀式的要素を軽視する代わりに、個人的な瞑想体験を強調し、仏教がキリスト教、イスラーム、ヒンドゥー教など他の有神論的な宗教とは違って合理的で経験的なものだという考え方を喧伝しています。
 
 そのよくある指標として、たとえば、次のような特徴が上げられる。
  • 「仏教は科学と親和性が高い」、「仏教は心の科学」、「仏教は宗教というより哲学」といった仏教の“宗教性”を否定する言説。
  • 座禅やマインドフルネス瞑想の重視――これらが脳の働きを変えることは科学的に裏付けられており、その実践により、ストレスの軽減や集中力の向上をはじめとする様々な有益な効果が期待できる。
  • 仏教例外主義――仏教はほかの諸宗教より優れている。
 要は、前近代までの伝統的仏教から神秘的要素をできるだけ抜き去り、近現代の価値観に合致する形に変えて、多くの人に受け入れやすいものにした仏教ということである。
 なので、ここで批判されているのは伝統的仏教ではない。

 著者のエヴァン・トンプソンは1962年アメリカ生まれの哲学者で、認知科学、心の哲学、現象学、異文化哲学などを専門としている。
 本書には、著者が自らの生い立ちを語っている部分がある。
 エヴァンの父親ウィリアム・トンプソンは、一種の宗教的コミューンであるリンディスファーン協会の創設者であった。

リンディスファーン協会(1972–2012)は、文化史家ウィリアム・アーウィン・トンプソンによって組織された非営利財団であり、多様な知識人のグループで、「新しい惑星文化の研究と実現」を目的としていました。

リンディスファーン教義は創始者ウィリアム・トンプソンの教義と密接に関連しています。リンディスファーン思想の一部として言及されているのは、ヨガ、チベット仏教、中国伝統医学、ヘルメティシズム、ケルトアニミズム、グノーシス主義、カバラ、地相術、レイライン、ピタゴラス派、古代神秘宗教など、多くの精神的・秘教的伝統です。
(ウィキペディア「リンディスファーン協会」より抜粋)

 エヴァンがどのような環境の下で生育したか、想像する手がかりになろう。
 教育は自宅で受けていたため、同年齢の子供と付き合う機会は限られていたようだ。
 当時、協会では禅仏教や瞑想が流行っていた。
 エヴァンも自然と仏教に親しみを覚えるようになり、ナーガルジュナ(龍樹)ヴァスバンド(世親)、ダルマキールティ(法称)、ツォンガパなどの仏教哲学を学ぶようになり、大学の卒業論文には日本の哲学者・西谷啓治をテーマに選ぶ。 
 その後、認知科学者との出会いから、1991年に『身体化された心――仏教思想からのエナクティヴ・アプローチ』(工作舎)という本を共著で出版した。これは、仏教哲学や瞑想が、認知科学と関連することを明らかにした最初の学術書だそうである。
 2001年には「心と生命研究所」の仕事に携わり、ダライ・ラマと科学者・哲学者らとの対話の場を設けるなどしている。
 また、机上の学問だけでは飽き足らず、何年間も瞑想実践を積んだことが記されている。

 経歴から分かるのは、エヴァンが非常に仏教に詳しい人間であり、瞑想の実践者でもあること。そして、彼こそが欧米における仏教モダニズムの旗手の一人であったという事実である。
 つまり、本書はエヴァンによる自己批判の書であるとも解される。
 原題の Why I Am Not Buddhist 「なぜ私は仏教徒でないのか」には、そのようなニュアンスが含まれているのである。
「仏教徒あるいは仏教僧になっても全然おかしくないような道を自分はずっと歩んできた。でも、自分は最終的に仏教徒にはならなかった。その理由をここで告白するよ。」

琴弾八幡宮の黒猫

 本書で展開される仏教モダニズム批判の中味を完全に理解するのは、難しい。
 ソルティは2回読んだが、理解できたのは8割くらいで、残り2割はチンプンカンプンだった。
 というのも、ここでエヴァンが批判のツールとして用いている認知科学、現象学、伝統的な仏教哲学について、ソルティはあまりに疎いからである。
 エヴァンは、仏教モダニズムを象徴する典型的な本として、進化心理学の見地から仏教の正しさを説いたロバート・ライトの『なぜ今、仏教なのか』(原題:WHY BUDDISM IS TRUE)を取り上げて、容赦なく叩いている。
 その手さばきは快刀乱麻の如しなのだが、科学ジャーナリストのライトが書いた進化心理学の説明は理解するのにさほど苦労は要しないのに、哲学者であるエヴァンの書いた批判は難解で理解するのが難しい。

 それは単純に、ソルティの哲学・科学・仏教哲学に関する素養が欠けているためである。
 俗に「読書百遍、意おのずから通ず」と言うけれど、文中で用いられている言葉や概念に関する基本的知識がなければ、何度読み返そうが、あるレベル以上の理解は無理である。
 と言って、本書の内容を完全に理解するために、たとえば今から現象学について勉強するのも億劫なので、8割の理解で良しとするほかない。
 その8割の理解でエヴァンの言わんとしていることをソルティ流にまとめるならば、次のようになる。
  • 仏教モダニズムは科学とは言えない。それは、宗教と科学に関する誤解から成り立っている。
  • 人間の行動のすべてを脳の働きによって説明するのは間違いである。また、坐禅や瞑想が脳に作用し脳を変容させるという科学的根拠は疑わしい。
  • 仏教は涅槃や悟りに対する信仰であり、「超越的なものに対する感覚を育み、日常的経験を超えたものへの感性を醸成する」という点で宗教にほかならない。キリスト教やイスラム教など他の宗教にくらべて、例外的に優れているわけではない。
  • コスモポリタニズム(あらゆる人間が宗教や民族にかかわらず単一の共同体に属しているという思想)に貢献するために、仏教例外主義は排されなければならない。
 エヴァンはこう語る。

なぜ私は仏教徒になれなかったのか。これまで何年にもわたる自分自身の経験をより大きな歴史的な視点からふりかえってみて、ようやく私はその理由にたどりついた。私はもとから伝統的なテーラワーダ仏教や禅仏教、チベット仏教の僧院に入る気持ちを持ち合わせていなかったため、自分が仏教徒になれるとすれば、仏教モダニストになる道しかなかった。だが、ふたを開けてみれば、仏教モダニズムには哲学的な問題が山積していたのである。

琴弾八幡宮の白猫

 本書は、Why I Am Not a Buddhist 「なぜ私は仏教徒にでないのか」という問いに対するエヴァンの個人的理由の提示であると書いた。
 それは自動的に、次のような問いをソルティに突きつけることになった。
 Why I Am a Buddhist 「なぜ私は仏教徒なのか」
 ソルティは、もう20年近くテーラワーダ仏教を学び、ヴィッパサナ瞑想を続けている。
 いったい、それはなぜなのか?

 実は、恥ずかしながら本書で初めて知ったのだが、仏教モダニズムの起源は、欧米ではなくアジアにあった。それも、ミャンマーやスリランカなどのテーラワーダ仏教国に端を発しているとされている。

仏教モダニズムは、19世紀、20世紀のアジアで、当時隆盛していた仏教の改革運動と、西洋伝来の宗教や科学、および政治的・軍事的な支配が遭遇するなかで誕生した。特にビルマ(ミャンマー)とセイロン(スリランカ)の仏教改革運動の担い手たちは、イギリスの植民地主義と宣教師たちが伝えるキリスト教に対抗すべく、国家宗教としての仏教を再度主張することを試みた。彼らの主要な戦略のひとつは、仏教を近代世界に適した唯一の科学的な宗教として提示することだった。仏教モダニズムは、自分たちの考えが仏教にもとからあった本質的なものだと示しているが、そのような形態の仏教を強力に形づくったのは、プロテスタントの価値観であり、ヨーロッパの啓蒙主義の価値観だったのである。

 ソルティは、主として日本テーラワーダ仏教協会のアルボムッレ・スマナサーラ長老から仏教を学び、ヴィッパサナ瞑想の指導を受けた。
 テーラワーダ仏教を奉じる他のお坊様の本(たとえばタイ出身のポー・オー・パユットの『仏法 テーラワーダ仏教の叡智』や、ミャンマー出身のウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』など)を読んだこともあれば、講話や瞑想指導に参加したこともある。
 が、根幹をなしているのは、スマナサーラ長老を通訳とするお釈迦様の教えである。
 スマナサーラ長老はスリランカ出身の僧侶である。
 ということは、仏教モダニズムの流れを汲んでいる可能性があるだろう。
 たしかに、ソルティが初めて読んで感銘を受け、渋谷区幡ヶ谷にあるゴーターミー精舎を訪れるきっかけをつくったスマナサーラ長老の本のタイトルは、ずばり、『仏教は心の科学』(宝島社)であった。
 ソルティもまた、仏教モダニズムに冒されているのだろうか?

 然り。その傾向は多分にある。
 当ブログの仏教タグに収録されている過去記事を見れば、それは明らかである。
 テーラワーダ仏教の科学性を称えたり、ヴィッパサナ瞑想が脳に及ぼす効果を喧伝したり、唯一神や魂の存在を説かない仏教の脱“迷信”性をもって他の宗教より優れていると匂わせたりしている。
 エヴァンから見たら、ソルティは“立派な”仏教モダニストであろう。
 ただ、誤解のないように言えば、これはスマナサーラ長老の教えの影響というより、テーラワーダ仏教と出会ったことで得られた喜びがあまりに大きかったので、「ひいきの引き倒し」のような現象が生じてしまったせいである。
 本来なら、テーラワーダ仏教を持ち上げるために、科学を持ち出す必要もなければ、他の宗教を貶める必要もない。 
 とりわけ、他の宗教を信仰する人とのコミュニケーションを阻害する「仏教例外主義」的言動は慎まなければならない。

 一方、これだけは言える。
 ソルティは仏教モダニズムにかぶれてテーラワーダ仏教を信仰しているわけでもなければ、ヴィッパサナ瞑想を実践し続けているわけでもない。
 Why I Am a Buddhist 「なぜ私は仏教徒なのか」
 それは、テーラワーダ仏教が、現世において、智慧を開発し、心の苦しみを失くすことに役立っているからである。
 それは自分の中で体験的に実証されているから、否定しようがない。

 瞑想を始めた頃は、「悟りたい」「特別な自分になりたい」という動機こそあったけれど、20年近く経った今では、「智慧を得ること。それによって日常生活で生じる苦しみを減らすこと」が一番の修行理由となっている。
 「悟りたい=悟れない」という苛立ちからようやく解放され、日々たんたんと瞑想を実践している。

 これから老いが進むにつれ、若い時にはわからなかった様々な苦しみの種が待ち受けているであろう。
 ブッダの教えとヴィッパサナ瞑想は、それと立ち向かう際の護符のようなものだと思っている。
 なので、現在自分が学んでいる仏教が「仏教モダニズム」なのかどうかは、どうだっていい。
 生きていく上で役に立つか、立たないかが、重要なのである。
 ただし、苦しみを失くすのに役立つ最強の武器が、神でもキリストでも阿弥陀信仰でも祈りでも聖書でも真言でも呪術でも滝行でもなくて、自らの瞑想修行によって獲得した智慧であるという点において、仏教もといテーラワーダ仏教は他の宗教とは一線を画しているとは思う。

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 さあ、これで再度、エヴァンに問いを投げ返すことができる。
 Why I Am Not a Buddhist 「なぜ私は仏教徒でないのか」
 エヴァンの問いは、つまるところ、「仏教がエヴァンにとって益するものがなかった」ということを裏書きしている。
 カリスマ的な父親のつくった宗教的コミューンにおける禅仏教との出会いも、大学での仏教哲学の学びも、ダライ・ラマとの対話も、何年間にもわたる瞑想実践も、エヴァンの役に立たなかった。少なくとも、人生を生きていく上での護符や杖とするほどの価値をそこに見い出すことはできなかった。
 そういうことだろう。
 エヴァンはそれを仏教モダニズムのせいにしているけれど、はたしてそれだけが理由なのだろうか?




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 都会のオアシス : 半蔵門ミュージアムで仏像三昧

 こんなにアクセスの良い場所に、こんなに快適で清潔な施設があって、こんなに素晴らしい仏像や仏画が並んでいて、心地よいシートで映像も観ることができて、落ち着いたラウンジで1杯150円でカフェも飲めて、仏像に関する良質の図書やポストカードも購入できて、スタッフはとても親切で・・・・。
 これで入場料無料って、なんだか狐につままれたような、狸に化かされたような、コックリに取り憑かれたような、ひょっとして異次元空間に迷い込んだか?・・・・と思うような、知る人ぞ知る都会のオアシス、それが半蔵門ミュージアムである。

 その秘密は宗教法人「真如苑」運営ってところにあると思うのだが、別に入会を勧められることもないし、受付で名前や連絡先を記載する必要もないし、真如苑の案内パンフを渡されることもない。
 ただ、仏像や仏画に対する敬愛と賛嘆の念がつのり、お釈迦様や仏教に対する親しみが一層深まり、清らかで穏やかな気持ちに満たされるのみである。
 ソルティはこれが2度目の見学だが、平日であれば混み合うこともなく、自分のペースでゆったりと鑑賞し、くつろぐことができる。

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 今回は3時間半滞在した

 ここの目玉は、なんと言っても、運慶作の大日如来坐像である。
 栃木県足利市の樺崎寺(現樺崎八幡宮)の下御堂(しもみどう)に納められていたもので、建久4年(1193)に造られたと推定されている。
 施主は足利義兼。源頼朝に仕え、北条政子の妹と結婚した武将で、足利尊氏の先祖にあたる。
 ガラスケースに入った金色に輝く大日如来坐像は、20代運慶の出世作である奈良・円成寺のそれと像容がよく似ている。こちらは40歳頃の作。
 運慶の仏像って、ミケランジェロの「ダビデ」や「ピエタ」や「モーゼ」の彫像を思わせるところがある。それは何かというと、「空間からいま切り出されました!」みたいなヴィーナス的“誕生感”。
 いつ見てもフレッシュで、生命力にあふれ、ドラマチックである。
 運慶仏をタダで見られるのは、東大寺南大門とここだけであろう。

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半蔵門ミュージアム公式パンフレットより

 運慶仏のほかにも素晴らしい仏像がある。
 平安時代(10世紀)の木造の如意輪観音菩薩坐像。
 これは京都・醍醐寺にあったものらしい。
 純潔と気品の漂う青年っぽい表情が絶品。
 6本ある腕は様々な動きをとってバランスよく配置されているが、その指の美しいことったら!
 折り曲げた右足と座面がつくる角度も絶妙。
 衣の襞の流れも自然かつ流麗で、台座から垂れたあたりは上質の絹の滑らかさを感じさせる。
 この美しさ、ソルティは、京都・宝菩提院願徳寺の菩薩半跏像を記憶から呼び起こしてしまうのだが、いずれの像においても、これだけ腕の立つ仏師の名が知られていないというのが不思議である。

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如意輪観音菩薩像

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 同じく醍醐寺にあったという17世紀の仏涅槃図も見逃せない。
 371.0cm×255.8cmのビッグサイズの絹に、お釈迦様の臨終場面が色鮮やかに描かれている。
 中央の寝台で側臥位をとるお釈迦様の周囲を、菩薩や四天王や護法神や、弟子たち、在家信者、さらには様々な空想上あるいは実在する動物や昆虫が取り囲み、その死に衝撃を受け、あるは泣き叫び、あるは天を仰ぎ、あるは地面にのたうち回り、あるは・・・・気絶している(アナンダ)。
 十人十色、いや百体百色の悲しみの表現が臨場感を醸し出す。
 動物や昆虫も精妙に描かれて、実に細やかに彩色されている。
 天からは白い曼荼羅華が降っている。
 現在、2階のマルチルームでは、お釈迦様の涅槃をめぐる物語を紹介し、涅槃図を部分ごとに拡大したパネルを掲示し、登場する主要な神や人物や動物を解説している。
 いろいろ発見があって面白い。(12月28日まで)

 ここには素晴らしいガンダーラ仏教彫刻もある。
 お釈迦様の前世、誕生、出家、悟り、最初の説法(初転法輪)、入滅を描いた、 いわゆる仏伝図を至近距離から観ることができる。
 ギリシャ・ローマ彫刻の影響がまざまざと知られる。

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初転法輪
お釈迦様の向かって左側で金剛杵を手にしているバジラバーニ(執金剛神=仁王様)

 12月28日まで、阿弥陀仏の特集展示をやっている。
 修理を終えたばかりの平安時代の阿弥陀如来立像はじめ、室町・江戸時代の絹本着色の阿弥陀仏の絵や曼荼羅が展示されている。
 ここで注目したいのが、阿弥陀聖衆来迎図。
 堂々たる阿弥陀如来が10人の菩薩を従えて、天から雲に乗って飛来する。
 蓮台をもつ観音菩薩、合掌する勢至菩薩、琵琶や横笛や鼓や花や幡をもつ菩薩たち。
 芳香漂い、妙なる調べが聞こえてくる。
 このデザインと構図、まさにジブリ映画『かぐや姫の物語』(高畑勲監督、2013年)のクライマックスを成すブッダ来迎シーンである。
 高畑監督、ここから着想を得たか!

天女来迎
原作の『竹取物語』ではもちろんブッダは登場しない
(京都・風俗博物館展示)
 
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皇居の内堀沿いに桜田門まで歩いた
google mapで見ると近いのだが、歩くと30分以上かかる
皇居=江戸城のデカさを実感

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桜田門






 

● 仁王像とポアロの共通点 本:『ガンダーラ美術にみる ブッダの生涯』(栗田功著)

2006年二玄社

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 昭和歌謡で育った人間にしてみれば、ガンダーラと言えば堺正章主演『西遊記』であり、ゴダイゴが歌った主題歌である。
 They say it was in India.(それはインドにあると言う)
という歌詞(山上路夫、奈良橋陽子作詞)の一部から、ずっとインドのどこかを指す地名と思っていたが、実際には現在のパキスタン北東部、インドとアフガニスタンの間あたりにあった古代王国である。
 Wikiによれば、「ガンダーラ王国は紀元前6世紀から11世紀に存続し、1世紀から5世紀には仏教を信奉したクシャーナ朝のもとで最盛期を迎えた」とある。
 このガンダーラを中心に、紀元前後から5世紀頃まで栄えた仏教美術をガンダーラ美術と呼ぶ。

 ガンダーラ美術の特徴は、東と西をつなぐ交通の要所という地理的特性そのままに、インド、ヘレニズム(ギリシア・ローマ)、シリア、ペルシャなど多様な文化が融合した独自のスタイルにある。
 紀元1世紀頃にこの地で仏像が誕生したとされるのも、アレクサンドロス大王(紀元前356-323)の東方遠征によってヘレニズム文化が当地に伝わり、ギリシア彫刻の素晴らしさが知れわたったからという。
 実際、ガンダーラの仏教彫刻は、ギリシア・ローマ彫刻と見まがうものが少なくない。
 西洋人っぽい彫の深い顔立ち、ヒラヒラしたドレープ付の薄手の衣装、肉体美の肯定、写実的な感情表現などである。
 場所がどこだったかは忘れたが――東京国立博物館だったか?――はじめて初期の仏像というものを見たとき、あまりに風貌がアジア人離れしている(鼻筋通り過ぎ!)ので驚いた記憶がある。
 ちなみに、仏像誕生の候補地はガンダーラ以外にもう一カ所、北インドのマトゥラーも上げられている。こちらの仏像は土着的要素が強く、インド人っぽい。
 元祖をめぐっての攻防はいまも続いている。

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東京国立博物館にあるガンダーラ・ブッダ

 仏像がつくられるようになると、ブッダの生涯を描いた浮彫り、いわゆる仏伝図もたくさんつくられるようになった。
 ありがたいことに石造であるため、かなりの数の作品が今に伝えられている。
 本書は、世界各地の美術館や個人が所蔵しているガンダーラ彫刻の仏伝図から代表的なものを選んで写真掲載しつつ、ブッダの生涯を辿ったものである。

 著者の栗田功は、1941年生まれの古美術愛好家。
 フランス電子機器メーカー東京支社に勤務していたとき、フランス出張帰りにパキスタンに寄り、ガンダーラ美術と出会ったことがきっかけで、この道にはまったらしい。
 もともと、美術評論家でも仏教学者でも仏像研究者でもない。
 それが趣味が高じて、全2巻セット50000円のガンダーラ美術の豪華本を出版し、ガンダーラ仏教美術と中国古美術の専門店「欧亜美術」を都内に開くまでに至ったというのだから、人生なにがあるか分からない。(店舗は現在は閉めたらしい)
 マーラー交響曲第2番『復活』に憑りつかれて、それを指揮するためにのみ30才過ぎてから指揮法を一から勉強し、40代でついにコンサートデビューし、レコードまで出してしまった実業家のギルバート・キャプランを思い出した。  
 こういう生き方はカッコいい。

 栗田がガンダーラ彫刻のどこにそれほど惹かれたのかは分からないが、掲載されている石造の群像彫刻(レリーフ)の写真を見ていると、登場人物の会話が聞こえてくるような錯覚にとらわれる。
 マンガのように、人物の横に吹き出しを書いてセリフを入れたい気がする。
 2次元(平面)と3次元(立体)のあわいにあることが、かえって、物質に生命力の吹きこまれる刹那を目撃しているような印象をもたらすのかもしれない。
 ちょうど、諸星大二郎のコミック『壁男』のように。

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四天王捧鉢(東京国立博物館)
悟ったばかりのブッダに食事を提供するため
四天王それぞれが鉢を差し出すの図

 それにしても面白いのは、ガンダーラを通過点かつ中継点として、ギリシア彫刻の影響が日本の仏像彫刻にも及んでいるという点である。
 奈良・中宮寺や京都・広隆寺の飛鳥時代の菩薩半跏像に見られるアルカイック・スマイルは有名だが、次のような「ギリシア⇒ガンダーラ⇒中国・日本」の神の変化(あるいは神の特徴の相続)を指摘する説もある。
  • ヘルメス ⇒ ファッロー神 ⇒ 多聞天(毘沙門天) 
  • ヘラクレス ⇒ バジラバーニ ⇒ 執金剛神(仁王様)
 東大寺南大門の仁王像の起源が、ギリシア神話の英雄ヘラクレスというのは実に面白い。(ヘラクレスは実は名探偵エルキュール・ポアロ〈Hercule Poirot〉の語源でもある)
 そうとは知らずに仁王像を見て、「ニッポン、凄い! 運慶、グレイト!」と目を丸くしているギリシア人観光客のなんと多いことか!

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東大寺南大門仁王像



おすすめ度 :★★★

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● To be or Not to be 映画:『ハムレット』(マイケル・アルメレイダ監督)

2000年アメリカ映画。
112分

ハムレット2000

 原作はもちろんシェークスピアの『ハムレット』。
 舞台が中世のデンマークから現代アメリカに置き換えられているのは、DVDパッケージの解説を読んで事前に知っていた。 
 人物関係やプロットは原作そのままに、設定やセリフを現代風にアレンジしているのだろうと思っていた。
 が、驚いたことに、セリフはほとんど原作まんま。
 シェークスピアの書いた初期近代英語を現代英語に変えただけである。

 そんなこと可能なのか?
 いろいろと意味的な不自然が生じてくるだろう?
 ――と思ったけれど、そこはうまく工夫している。
 たとえば、ハムレット王子の将来治めることになる“デンマーク”を、ハムレット青年が将来継ぐことになる大企業“DENMARKE”に変換している。
 だから、ハムレットが学友のローゼンクランツとギルデンスターンに向かって投げかける、「なぜ、君たちはデンマークに送られて来たんだ?」というセリフがそれなりに符合するという具合。
 まあ、英語のヒアリングが苦手なソルティは、日本語字幕をたよりに観るので、セリフの意味的な不自然さは気にならないのだが。(日本語字幕はそれなりに現代社会に合うよう脚色されているので)
 むしろ、単純に、シェークスピアの書いたセリフが持っている高貴さやリズムの面白さが、音楽でも聞くように味わえた。

 To be or not to be, that’s question.

 「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」から始まるハムレットの独白には、時代や地域に関係なく、一度でも自死を思ったことがある者なら誰にでも共感できる真理の響きがある。
 やっぱり、シェークスピアって凄い!

 役者が豪華メンバーかつ演技達者で驚いた。
 主演のイーサン・ホークは、『テスラ エジソンが恐れた天才』(2020)でもアルメレイダ監督と組んでいた。舞台もこなせる実力派である。
 ハムレットの叔父クローディアス役は、『ブルーベルベット』や『ツイン・ピークス』シリーズや『デスパレートな妻たち』で有名なカイル・マクラクラン。甘いマスクがカッコいい。
 ハムレットの亡き父親(亡霊)役は、劇作家にして名優のサム・シェパード。渋くてカッコいい。
 ポローニアス役はハリウッドが誇るコメディアンのビル・マーレイ。
 ハムレットの母親ガートルード役のダイアン・ヴェノーラ、オフィーリア役のジュリア・スタイルズも役にはまって良かった。
 シェークスピアの難しいセリフ回しを見事にこなせるのは、皆、舞台の基礎が身についているからなのだろう。

 ハムレットを、ファザコンの映像オタクで統合失調症患者的に解釈したアルメレイダ監督の演出と、スタイリッシュな映像も、見る価値あった。
 一番驚いたのは、ハムレットが自分の部屋でひねもす流している映像の中に、ティク・ナット・ハンが出てきたこと。
 ハンの有名な Interbeing(相互共存)の説法が突然流れてきて、思わず姿勢を正した。

 To be or not to be, that isn’t question.
 Just “interbeing”.

 在るのでも、無いのでもない。
 「共に在る」のです。

 ――という、監督の投げかけた禅問答だったのかな?

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おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 焼けた運慶仏 本:『運慶講義』(山本勉著)

2025年新潮社

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表紙は円成寺の大日如来像

 過去に足を運んだ高野山金剛峰寺、半蔵門ミュージアムに加えて、この一年間だけで、興福寺、東大寺、六波羅蜜寺、超国宝展(奈良国立博物館)、願成就院(伊豆)、瀧山寺(岡崎)、興福寺北円堂展(東京国立博物館)、浄楽寺(逗子)とめぐって、いま時点で運慶作と言われている国内の主要な仏像はほぼ踏破した。
 残っているのは、栃木・光得寺の大日如来坐像と神奈川・称名寺光明院の大威徳明王像だが、前者は現在東京国立博物館に保管されているようだし、後者は破損はなはだしく通常展示はされていないようなので、そのうち機会あれば拝観したい。
 今年はソルティにとって運慶元年とでも言える一年になった。
 これもそれも奈良大学歴史文化財学科の学生になったがゆえである。
 来年は快慶元年になりそうな予感・・・・。

 そんなタイミングで出会った本書は、まさに運慶仏の総復習にピッタリの充実内容であった。
 著者の山本勉(1953~ )は運慶研究の第一人者で、現在、半蔵門ミュージアムの館長、鎌倉国宝館長をされている。
 栃木・光得寺の大日如来像(1986年)も、半蔵門ミュージアムの大日如来像(2003年)も、たまたま像の存在を知った山本が現地調査に入って運慶作と判定し、その後の驚嘆すべき展開――クリスティーズのオークションで真如苑が約14億円!で落札――につながった経緯があり、いわば、埋もれていた2体の運慶仏を世に送り出した生みの親である。
 「運慶に選ばれた男」と言ってもあながちはずしてはいないだろう。

 本書は、山本の運慶研究の集大成であり、学者人生の総括といった趣きのある渾身作である。
 運慶の手がけた仏像が、時系列でくわしく説明されており、ひとりの偉大な芸術家の成熟が専門的見地からたどられていると同時に、古代から中世に転換する激動の時代を自由闊達に生きたひとりの男の生涯が浮き彫りにされている。
 研究書という側面もあるので、これから運慶や仏像を学ぼうというビギナーには難しいきらいもある。
 が、ひとつひとつの仏像について、造像の背景や技法上の工夫が解説され、あわせて山本の磨き抜かれた審美眼による批評がほどこされ、仏像鑑賞のポイントを学ぶに役に立つ、いわば、「運慶仏鑑賞ガイド決定版」として手元にあって損はない一冊である。

運慶
六波羅蜜寺の運慶肖像

 ときに、運慶仏について、ソルティはしばらく前から気になっていることがあった。
 水上勉著『金閣炎上』を読んで、昭和25年(1950)に修行僧林養賢の放火によって焼失した金閣寺舎利殿の中に、建立者である足利義満の肖像彫刻とともに、観音菩薩像、阿弥陀如来像、勢至菩薩像、地蔵尊像(いずれも木像)があり、そのうちの観音菩薩像は運慶作と伝えられていたと知った。
 仏像はすべて舎利殿とともに灰燼に帰したので、いまとなっては運慶作かどうか調べようがない。
 が、もしこれが本当に運慶がつくった仏像であったとしたら、一体いつどういう事情でつくられ、どういう経緯で金閣寺にやってきたのだろうか?
 実際に、運慶仏であった可能性はあるのだろうか?

 本書には、運慶が関わったことが文献史料で裏付けられている造仏の仕事の全容が漏らさず記されている。
 ありがたいことに巻末には「運慶年表」も掲載されている。
 年表には、「運慶に直接関係する事項」が、典拠の記載とともに、時系列で整理されている。
 さて、運慶の仕事履歴に観音菩薩像の造像はあるだろうか?

 二つあった!
 一つは、正治3年(1201)愛知県岡崎の瀧山寺の寛伝僧都からの依頼でつくった源頼朝追善のための聖観音。息子の湛慶とともに取り組んでいる。
 これは現在も瀧山寺に現物があるので、金閣寺のそれとは関係ない。
 いま一つは、承久3年(1221)北条政子が高野山金剛三昧院を建立した際、その本尊として納めた聖観音。
 本書によれば、

『帝王編年記』には、承久3年(1221)に北条政子が実朝のために高野山に金剛三昧院を建立し、その本尊は正観音(聖観音)で、御身に(身内)に実朝遺骨を籠めたことが記される。この観音像は鎌倉末期の『信堅院号帳』によれば「実朝大臣殿の御本尊」で雲慶つまり運慶の作だという。

 すなわち、孫の公暁によって暗殺された息子実朝を偲び、北条政子が金剛三昧院を建てた。その本尊として、生前実朝が運慶に作らせた観音像を祀ったということになる。(下記※参照)
 しかるに、現在の金剛三昧院の本尊は愛染明王であって、観音菩薩ではない。
 ネットで調べた限りでは、金剛三昧院にも、高野山にも、運慶作の観音菩薩像なるものは見当たらない。
 高野山の運慶仏として知られているのは、霊宝館にある八大童子像6体のみである。
 実朝の遺骨を籠めた観音像、“実朝観音”は何処に消えたのだろう?
 高野山の奥の院に絶対秘仏として隠されているのか?
 金剛三昧院が元徳2年(1330)に焼失したときに一緒に焼かれてしまったのか?
 明治の廃仏毀釈の折に、二束三文でどこかに売られてしまったのか?
 あるいは・・・・高野山から洛中に、金剛三昧院から金閣寺に、実朝観音が移された可能性はあるのだろうか?

金閣寺2

 金閣寺を建てた足利義満をはじめとする足利将軍家と高野山金剛三昧院に、なんらかの因縁はあったのか?
 ――これがあったのである!

室町時代になると足利尊氏が金剛三昧院の僧、実融に帰依したことを契機として室町幕府は高野山を保護するようになり、その後も各将軍の参詣が相次ぐ。中でも康応元年(1389)の三代将軍義満の高野参詣は、空前絶後の規模であったといわれる。(『高野町歴史的風致維持向上計画』より抜粋)

当院の本尊は愛染明王という仏様で、憤怒の相という、怒ったようなお顔をされています。・・・(中略)・・・愛染明王像は、源頼朝公の等身大の念持仏で、仏師・運慶の作であると伝えられています。本尊の脇には源頼朝公・北条政子、足利尊氏公、その弟の足利直義公のお位牌が安置されています。(『金剛三昧院ホームページ』より抜粋)

 愛染明王像が運慶作というのは、さすがに眉唾である。
 菩提を弔うのに愛欲の象徴である愛染明王がふさわしいかどうかという点はおいといても、金剛三昧院の愛染明王像は運慶の作風とは相容れない。本書で山本もまったく触れていない。
 一方、足利尊氏と直義の位牌があることは、足利家と金剛三昧院の関係の深さを十分物語る。
 さらに、

金剛三昧院所蔵の「六巻書」には、鎌倉幕府・室町幕府や、その有力者たちが金剛三昧院に宛てた文書が多数収められている。「六巻書」各巻は、足利尊氏や義満ら、歴代の足利将軍の花押が冒頭に据えられているのが特色で、足利将軍が、金剛三昧院に荘園支配の権利にかかわる文書の効力に“お墨付き”を与えたことになるという。(ラジオ関西トピックス「ラジトピ」ホームページ、2024年5月8日の記事より)

 寺領である荘園の権利を守るために、金剛三昧院が足利将軍の庇護を恃むのは無理からぬところである。
 片や、源頼朝と共通の先祖・源義家をもつ足利将軍家が、源氏の末裔としての血統を誇るべく、源頼朝や源実朝の菩提を弔った金剛三昧院を贔屓するのも然るべきところである。
 金剛三昧院と足利将軍家には深いつながりがあったのだ。

 もし、足利義満を崇敬する足利将軍の後継が、金閣寺舎利殿の義満像と並べて祀るために、大仏師運慶のつくった実朝観音を強く所望した場合、金剛三昧院はこれを断れるだろうか?
 それなりの好条件と引き換えに譲り渡すこともあり得るのではないか。
 たとえば、焼けた金剛三昧院の再建と引き換えに・・・。 

 昭和25年の夏、林養賢が舎利殿とともに焼却した観音菩薩像が、運慶作の実朝観音だったとしたら・・・・。
 実朝はまたしても出家に襲われた  
 妄想は膨らむばかり。
鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮(鎌倉)
実朝暗殺の舞台となった


※この引用文中の「実朝大臣殿の御本尊」についての解釈で、著者の山本勉氏より「誤読」とご指摘いただきました。ソルティは最初、「実朝の死後に政子が運慶につくらせた観音像」と解しそう記しました(10/29)が、そうではなくて、「実朝が生前運慶につくらせた観音像」を政子が金剛三昧院に祀ったとのこと。然るべく訂正いたしました(11/5)。謹んで山本勉氏に御礼申し上げます。

 


おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損













● 運慶独り占め :神奈川・浄楽寺に行く

 JR逗子駅からバスに乗って、三浦半島の西側を南下すること約30分。
 葉山御用邸、長者ヶ崎を過ぎて、右手に大きく迫る相模湾を見送って、三崎に向かう国道が少し内陸に入ったあたりに、浄楽寺はある。
 正式名称は金剛山勝長寿院大御堂浄楽寺。
 創建は明らかでないが、三浦一族の和田義盛が、奥州征伐の戦勝祈願のため文治5年(1189年)前後に創建したのではないかという説がある。
 であれば、北条時政が伊豆に建てた願成就院と同時期である。

 時政が運慶に本尊・阿弥陀三尊像、毘沙門天像、不動明王像、制吒迦童子(せいたかどうじ)像、矜羯羅童子(こんがらどうじ)像を依頼したのと同様、義盛もまた運慶に5体の彫像を頼んだ。
 それが、今も残る阿弥陀如来像、観音菩薩像、勢至菩薩像、不動明王像、毘沙門天像である。
 建暦3年(1213年)、源実朝や北条義時ら率いる幕府軍によって、和田一族が滅亡したことはよく知られる。(和田合戦)
 2022年放映のNHK『鎌倉殿の13人』では、横田栄司が髭もじゃの武骨で心やさしい義盛を好演していた。

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JR逗子駅
自宅から列車で2時間
4年前に仙元山に登ったとき以来である  

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浄土宗浄楽寺
今年8月に収蔵庫の改修工事が済み、9月1日より、これまで開帳日を設定しての予約制だった仏像の拝観が、常時予約なしでできるようになった。
しばらく前から、このときを待っていた。

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本堂
江戸時代の再建

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本堂の阿弥陀三尊像
内陣の周囲を「南無阿弥陀仏」と唱えながら右繞三匝(うにょうさんぞう、右回りに3周)すると、煩悩の根である三毒(欲・怒り・無知)が消滅するという。
指示通りにやってみたが、駄目だった模様。

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宝池
映画上映会、音楽コンサート、写経会、竹細工づくりのワークショップを催したりと、お寺の開放による地域活性化に取り組んでいる様子が伺える。
宿坊にも泊まれるようだ。

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収蔵庫
ここに運慶仏はおられる。
大人600円

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阿弥陀如来、観音菩薩(右)、勢至菩薩(左)
社務所でポストカードやクリアファイルなどを購入することができる。

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毘沙門天
宝塔を手にしているのに注目。

   見仏雑感    
静かで薄暗い堂内に、5体が寡黙な威厳のうちに居並んでいる。
阿弥陀三尊は、のちの時代に鍍金し直したものと思われる。
金色に輝いて美しい。
昭和34年(1959)に毘沙門天と不動明王の胎内から発見された木札により、運慶が小仏師10人を率いて造像したことが判明した。

阿弥陀如来坐像(像高141.8cm)
どっしりとふくよかな体と、広い胸と左右に開かれた両腕によって作りだされた空間が、像の前に立つ者をあたたかく包みこむ。
くっきりした切れ長の目とピンと張った頬は、興福寺国宝館にある運慶作の木像仏頭に似ている。
面差しは、円成寺大日如来より厳しいが、興福寺北円堂の弥勒如来ほどの諦観はなく、壮年期の男子のよう。
流れるような衣の襞が美しい。

観音菩薩立像・勢至菩薩立像(178.8cm、171.1cm)
抜群のプロポーションの良さに感嘆する。
薬師寺金堂の、あるいは福島会津若松の勝常寺の日光・月光菩薩を想起した。
この三尊は、阿弥陀如来のどっしり感といい、勝常寺の薬師三尊(平安前期作)の像容に近い。
なめらかな体の線はセクシーであるが、衣の襞はやや平板で、手を抜いている感がある。

不動明王立像(135.5cm)
かなり表面が傷んでしまって仏師の腕前を確認しにくいのは差し引いても、これは運慶の手は入っていないと思う。
全体に雑なつくりで、反対側の端を守る毘沙門天像との差は歴然としている。
弟子のだれかの手によるものか?

毘沙門天立像(140.5cm)
この像が一番出来が良い。
運慶らしい躍動感、迷いのない彫り跡。
願成就院の毘沙門天より、ひん剥いた玉眼や踏みつけられた邪鬼のなかば恍惚とした表情など、人間的でユーモラスな風がある。
いつまでも観ていられる。

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「日本の郵便の父」といわれる前島密(1835-1919)の墓があった。
浄楽寺境内に建てた如々山荘で晩年を送り、亡くなった。
墓のデザインはここから望める富士山をかたどっている。

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郵便事業の創業以外にも、漢字廃止の建議、江戸遷都を建言、鉄道敷設立案、新聞事業の育成、電話の開始、東京専門学校(のちの早稲田大学)の創立、訓盲院の創立など、日本の近代化のために様々なことをした。

前島密
偉人なのに1円切手は可哀想

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満州事変、支邦事変、大東亜戦争で亡くなった人たちを祀る忠魂碑
相模湾越しの富士山に面している
(昭和49年設立)

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帰りのバス待ち
約2時間の滞在だった。
60分以上、運慶独り占めの贅沢を味わえた。

葉山海岸
天気が良ければ、葉山海岸を歩いて富士山や江の島を見るのも楽し。
今日はあいにくの雨模様で寒かった。

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京急・逗子葉山駅構内にある蕎麦屋さん
前回来た時に見つけた。

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毎朝打ちたての生麵
鰹節・鯖節・宋田節を配合したまろやかで玄妙な出汁
大きなかき揚げ
美味しかった記憶は忘れないものである。


















● 毘沙門天の謎

 毘沙門天と聞くと、70年代に地元埼玉で悪名を轟かせた暴走族を思い出す。
 当時中学生のソルティは、学校近くを流れる川のコンクリートの橋げたや、田んぼの中に立っているボンカレーの看板に、毒々しい黒ペンキで「毘沙門天」と殴り書きされているのを見た。
 文金高島田のごときオールバックに剃り込みを入れた、校内一、二を争う札付きの不良たちは、「おれ、高校行ったら毘沙門天に入れてもらうんだ」と熱っぽく語ったものである。
 「毘沙門天=不良、おっかない、うるさい、シンナー、カツアゲ」というイメージがついてしまったものだから、その後、仏教の守護者としての毘沙門天を知ったとき、族イメージを払拭するのに手間取った。
 「おっかない」というイメージだけは、毘沙門天像の憤怒の面差しに通じるものであったが・・・。

暴走族

 仏像に興味をもつようになって、毘沙門天が、仏像の四区分(如来,菩薩,明王,天)のうち天部に属する神様で、東南西北(トン・ナン・シャー・ペイ)を護る四天王のひとりとして北を担当し、多聞天という別称を持つことを知った。
  • 東 持国天(ドゥリタルーシトラ)
  • 南 増長天(ヴィルーダカ)
  • 西 広目天(ヴィルーパクシャ)
  • 北 多聞天(バイシュラバナ)
 もともとはインド古来の神様だったが、お釈迦様の教えを聞いて真理に目覚め、仏教を守護する存在になったのだという。
 ちなみに、東南西北の順に「じ・ぞう・こう・た(地蔵乞うた)」と覚える。

 四天王は、普通、お寺の山門の中やお堂の本尊の周囲に、それぞれが守護する方角に合わせて置かれているので、名前の表示がなくとも方角さえ分かれば、どの像がどの神様なのか判明する。
 しかるに、博物館や宝物館などで横に4体並んで置かれていたり、方角の見当がつかないような場合、見分けるのに苦労する。
 というのも、それぞれの神様が手にもつアイテム(道具)や体のポーズが、明確にはこれと決まっていないからである。
 広目天は、国宝指定されている法隆寺金堂や東大寺戒壇堂の像に見られるように、筆と巻物を持っていることが多い。憤怒の表情と文系アイテムのギャップが面白い。
 だが、広目天が必ずしも筆と巻物を持っているとは限らない。
 現在東京国立博物館で開催されている『運慶 祈りの空間――興福寺北円堂』の広目天像は、先が3つに分かれた三叉戟(さんさげき)を左手に持ち、右手は腰に当てている。
 こうなるともはや、シャッフルされたら、誰が誰だか分からないってことになる。

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東大寺戒壇堂の広目天

 救いの手がひとつだけある。
 それは宝塔を捧げる手である。
 お釈迦様の教えの象徴である宝塔を持つことが許されているのは、四天王の中で多聞天だけである。
 間違っても、ほかの三神が手にすることはない。
 多聞天は、四天王のリーダー格であり、特別な存在なのである。
 であればこそ、毘沙門天という異名をもらって単体でも祀られるのであり、四天王の中でひとりだけ七福神の仲間入りして福の神らしからぬ物騒な戦闘服で違和感をかもし出しているのであり、埼玉の暴走族のチーム名に選ばれたのである。

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興福寺中金堂の四天王像
右下より時計回りに、持国天・増長天・広目天・多聞天

七福神
七福神
左手に宝塔を持っているのが毘沙門天

 田辺勝美著『毘沙門天像の誕生 シルクロードの東西交流』(吉川弘文館、1999年発行)によると、インドで四天王像の原型がつくられるようになったのは、紀元前2~1世紀で、仏塔――お釈迦様の象徴。お釈迦様そのものの姿は最初は造形化されなかった――を守護する神として、インド古来の民間信仰の神であるヤクシャ(夜叉)を東南西北に配した。
 ヤクシャは本来、樹神や樹精であったという。
 北方の神をクヴェーラと言った。
 当時建てられた石柱に残っている彫像を見ると、四天王はみな同じインド人王侯風の外観をしていて、とくにこれといったアイテムも持たず、クヴェーラを見分けるのは難しい。

 紀元前後に大乗仏教が起こると、お釈迦様の姿も造形化されるようになった。
 釈迦如来像の誕生である。
  
 西暦1~3世紀頃、大乗仏教はパキスタン北部ガンダーラ地方に広まった。
 ゾロアスター教から仏教に改宗したイラン系のクシャン族は、四天王のうち特に北方を守護する神を重視し、インド系のクヴェーラ神をイラン系のファッロー神に変え、四天王の筆頭とした。
 外観もまた、ファロー神の特徴――頭部の一対の鳥の翼、長袖の上着(チュニック)、ズボン、靴――に合わせて変身させた。
 これが毘沙門天像の原型となった。
 その後、毘沙門天はさらに出世し、釈迦が出家踰城(ゆじょう)したときの道案内の役を担い、闇を追い払う力を持つとされた弓矢をアイテムとして与えられたり、釈迦が悟りを開いたあと四天王を代表して食事の鉢を献上する役を仰せつかったりと、ほかの三神に差をつけていった。

四天王捧鉢
紀元3~4世紀ガンダーラ出土の仏像彫刻
釈迦如来を取り囲む四天王たち
釈迦の左にいるのが毘沙門天
1人だけカッコいい出で立ちである

 大乗仏教は中央アジアから中国へと広まった。
 大量の大乗教典が中国へと伝わり、その内容に即したさまざまな仏像がつくられるようになる。
 四天王像は、仏法と国家を守護する神として重視されていくにつれ、鎧を身に着け、さまざまな武器を具し、軍神化していった。 
 領土を守るとは、すなわち、東西南北の守りを固めることにほかならない。

 松浦正昭編著『日本の美術NO.315 毘沙門天像』(至文堂、1992年)によると、宝塔をもつ毘沙門天像は、インドにもガンダーラ地方にも見つかっていない。
 宝塔をもつ現存最古の毘沙門天像は中国にある。
 523年、南北朝時代の武帝統治下の梁(南朝)においてつくられた石造釈迦如来諸尊像の中に、うずくまる邪鬼の上に立ち、右手に大きな宝塔を捧げた毘沙門天像が刻まれている。
 宝塔を持つ毘沙門天像は、この時代の中国において生まれたと考えられている。
 宝塔を持たせた理由は分かっていない。
 が、それは釈迦の教えを象徴するものであるから、すでに四天王の中でゆるぎない地位を築いていた毘沙門天がその栄に浴したのは、不思議ではなかろう。

 日本における現存最古の毘沙門天像は、623年止利仏師によってつくられた法隆寺金堂釈迦三尊像の台座に描かれた四天王像である。
 ただし、この絵は剥落が激しく、持物や手勢など細部が不明で、どれが毘沙門天かわからない。
 が、日本の初期の仏像は中国の南朝の影響を受けているので、宝塔を手にしていたものと思われる。
 現存最古の宝塔を手にした毘沙門天像は、同じ法隆寺金堂の中にある木造の四天王像で、つくられたのは650年頃とみられる。
 以降、日本の毘沙門天像は宝塔を持つのがお約束となった。
 実に1400年間、その姿は変わっていない。
 宝塔を捧げている、あるいは宝塔を捧げていたような形跡がある。それが毘沙門天を見分けるポイントである。

毘沙門天像(奈良仏像館)
兜跋毘沙門天
奈良国立博物館所蔵

 最後に、なぜ毘沙門天を多聞天とも呼ぶのか?
 サンスクリット語の「バイシュラバナ」の音をそのまま漢字表記したのが「毘沙門」で、バイ(多く)+シュラヴァナ(聞く)を漢訳したのが「多聞」だからである。
 毘沙門天がお釈迦様の教えをよく聞いたという逸話からその名がついたと説明されることが多い。
 しかるに、上記書の中で田辺が指摘しているとおり、
 
 釈迦牟尼仏陀の説法を最も多く聴聞したのは仏弟子のアーナンダないしその化身ともいわれる執金剛神なのであって、決して毘沙門天ではないのである。
 
 ソルティは、むろん大乗経典、小乗教典(阿含経典)のすべてに目を通したわけではないが、少なくともこれまで15年以上仏教を学んできて知る限りでは、毘沙門天がお釈迦様の教えを聞く場面を説いたお経には出会ったことがない。
 なぜ、バイシュラヴァナ(多聞)と名づけられたのかはいまも謎であるけれど、少なくとも、多聞天という名前の暴走族はカッコよくない。
 
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● I & AI : 日本仏教讃仰会主催・佐々木閑講演『仏教と心理学』

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日時 2025年9月20日(土)13:00~15:00
会場 日本交通協会会議室(有楽町・新国際ビル9階)

 2023年11月に続く2度目の聴講。
 80名を超える参加(8割以上高齢者)は、前回の講演の評判が良かったからか。
 
 これまで月例講演に何度か参加しながらも、日本仏教讃仰会については何も知らなかった。
 講演に招かれる講師の陣容を見るに、特段どこかの宗派を背景にもっている組織ではないように思った。
 講師はおおむね僧侶であるが、真言宗、浄土宗、浄土真宗、曹洞宗、臨済宗、無宗派(善光寺など)など多岐にわたっている。
 会員制でもないので、仏教を広く学びたい人の為の有志運営による会とイメージしていた。
 今さっき検索かけたら、公式ホームページがあった。
 最近できたものだろう。
 一昨年あたり、それまで毎月郵便で届いていた講演案内がメールに替わったので、ついにここもITの波に乗ったかと、最後の砦が失われたような一抹の淋しさを覚えたものだ。
 ホームページによると、なんと1941年(昭和16)に浄土真宗大谷派法善寺住職・中山理々によって創設された組織で、80年以上の歴史がある!
 月例講演会(仏教セミナー)は、「特定の宗派にとらわれずに、幅広い著名な講師陣にそのときどきの社会的状況において、仏教がなしえる役割と歴史について」語ってもらう趣旨で開かれている。
 その意図や、良し。

 残念ながら、日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老が講師として招かれたという記録はないので、ここに越えられない壁があると思われる。
 つまり、仏教は仏教でも、大乗仏教による学びがメインなのである。

 ソルティ思うに、テーラワーダ仏教(かつては小乗仏教と呼ばれた)と大乗仏教との間にある溝は、大乗仏教とキリスト教やイスラム教との間にある溝より、ずっと深い。
 大乗仏教とキリスト教・イスラム教との共存(棲み分け)は可能であるが、大乗仏教とテーラワーダ仏教の共存は、釈迦という同じ祖を持ち、同じ仏教という範疇に入れられているだけに厄介なものがある。
 どうしたって、「どっちが正しいか?」、「どっちが釈迦のほんとうの教えなのか?」になってしまうからである。

 その意味で、今回の講師・佐々木閑こそ、日本仏教讃仰会が招くことのできるギリギリの“テーラワーダ的”人選なのではないかと思う。
 佐々木は、現役の僧侶ではないにしても浄土真宗の僧籍を持っているらしいし、仏教研究者・教育者・物書きとしてその名が知られている。
 佐々木の書くものは、明らかに大乗非仏説的、すなわちテーラワーダ仏教寄りなのだが、日本テーラワーダ仏教協会はじめ、どこかのテーラワーダ組織に所属しているわけでもない。
 大乗仏教にも詳しく、その存在価値を認める発言をしている。
 他の宗教や宗派をけなさずに、釈迦の教え(と自身が信じているもの)を語る技量を持っている。
 それに、佐々木が教鞭をとっている花園大学は臨済宗立であるから、あまりにテーラワーダ的言動が過ぎると、いろいろと面倒があるのかもしれない。
 講演の中で、「自分はお釈迦様の教えのスポークスパーソンであって、伝道師ではない」と言っていたが、そのバランス保持の器用さは綱渡りをする曲芸師を思わせる。(別に皮肉ではありません)

綱渡り

 講演の前半は、まさにテーラワーダ的展開。
 スマナサーラ長老の講演を聴いているのと、ほとんど変わりなかった。
 曰く、
  • 仏教は、キリスト教やイスラム教の「神」のような外部の超越的存在を認めない。
  • 自分を救えるのは自分だけ。
  • そのためには、苦しみを作る原因である自分の心を知り、心を変えていくのが基本。仏教が心理学にたとえられるのはそれゆえ。
  • 苦しみが生まれるのは、心がそもそも誤った物の見方(邪見)をし、その情報をもとに世界を構築するから。
  • 邪見の最たるものが「自我」
  • 「自我」は自己中心的な世界を構築し、「永遠の生命(魂)」「アートマン」「自分を救ってくれる絶対神」といった間違った概念を生み出す。
  • だが、現実の世界は「諸行無常」「諸法無我」なので、自我の望みは叶えられない。そこに苦しみが生まれる。
  • 「今より以上の幸せ」を望んでいる「私」こそが苦しみの元凶。
  • 仏教は「幸せ」を願わない宗教。「私」が錯覚であることを悟って、今ここにある苦しみを退治することを目的とする。
  • なので、万人に向かって説き広められる教えではない。それを必要とする者だけに向かって説くのが本分。
  • こんなことを外に出て新橋のサラリーマンに向かって言っても無視されるがいいところ。この場だから言える(笑)

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 個人的にショッキングだったのは後半。
 現在、AI(人工知能)の開発がもの凄い速さで進んでいるが、来たるべきAI社会において人間に何が起こるかに触れられた。
 高齢者ばかりの参加者の顔ぶれを思いやってか、AIの基本構造から話してくれた。
  • AIはプログラムを持っていない。
  • 全世界のすべての情報を数字に直して保持、活用することができる。
  • AIは人間の鏡像。人間の脳の働きを何万倍もの速度、正確さで行うことができる。
  • 人類は自分たちより優れた知的生命体に出会ってしまった。「万物の霊長」の座が奪われていく。
  • AIが今後人間からさまざまな仕事を奪っていく影響も大きいが、より重要(深刻)なのは、AIによって「自我」の概念が徹底的に崩壊する可能性。
  • 「無我」を実感する世界が到来する。
  • そのときに人間は変わりうるのか?
 ここで語られたことは、実は、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』に書かれていたことと同じであった。
 とくに後者の本の中で、ハラリは、生命工学とコンピューターテクノロジーの進歩によって人類の意識に何が起こるかを論じていた。
 ソルティは、ハラリの語る人類の未来像に衝撃は受けたけれど、多くの同世代(アラ還)以上の人と同様、「自分の生きている間には起こらない」と思っている。
 自動運転車くらいは数十年後に普通に街を走っていて、生きていれば自分もその恩恵に与っていると思うが、自己中心的に「私」の幸福(というより快楽)を求める人類の意識を変化させるようなドラスティックなパラダイム変化が、生きている間に生じるとは思えない。
 たとえそういう日が来ても、キリスト教徒やイスラム教徒やユダヤ教徒が「神」の非在を悟り、棄教あるいは改宗するとは思えない。
 否、だからこそ、AI社会が迫る現実との間に混乱が生じるのか。
 う~ん、どうなるんだろう?

 佐々木は、数学者である息子との共著で『仏教とAI』という本を近々刊行するらしい。
 読まなければ。


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GianlucaによるPixabayからの画像


P.S. 本記事の内容はソルティの主観による講演の感想にすぎません。実際の講演内容を必ずしも反映していません。あしからず。










● 2025年夏・みほとけまつり4 即成院、悲田院

 京都市内観光はレンタサイクルが便利。
 渋滞も駐車場探しも一方通行も待ち時間も関係なく、狭い路地でもスイスイ入っていける。
 東福寺駅そばのサイクルステーションで電動アシスト自転車を借りて、泉涌寺(せんにゅうじ)の2つの塔頭寺院をめぐった。

日時 2025年8月12日(火)曇り
行程
10:00 JR東福寺駅
10:15 即成院
11:15 悲田院
12:30 鳥戸野陵
13:00 東福寺駅
15:00 新幹線・京都駅発 

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即成院(そくじょういん)
藤原頼通の次男・橘俊綱による創建と伝わる
真言宗泉涌寺の塔頭の一つ

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本堂

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阿弥陀如来と二十五菩薩
最下段左隅の光輪を持たない如意輪観音をのぞいて25菩薩と数える
26体のうち、阿弥陀如来坐像を含む11体が平安時代作、残りの15体は江戸時代の補作(画像は受付でいただいたポストカード)

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この観音菩薩像が見たかった!
阿弥陀如来に向かって右隣に座す
手にもっているのは蓮台である
27体中、飛び抜けた美しさ。
定朝の孫の院助作とする説がある

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本堂から渡り通路を登っていくと・・・

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那須与一の墓
源平合戦屋島の戦いの際、敵(平家)の船上に掲げられた扇を一射で落としたことで知られる日本のウィリアム・テル。
即成院の阿弥陀仏への信仰篤く、晩年は当地に庵を結び、没したと伝えられている。

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泉桶寺総門
山内に9つの塔頭寺院をもつ広大な寺

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悲田院
悲田院と言えば、聖徳太子や光明皇后や鑑真がつくった福祉施設。平安京にも存在したが、当寺との関係は不明である。
拝観は予約が必要。

 ここの何よりの目玉は、快慶作の宝冠阿弥陀如来坐像。
 2009年の調査で頭部内より「アン(梵字)阿弥陀仏」の墨書が見つかり、快慶作と判明した。快慶がこの署名を使ったのは「法橋」という地位を授かる1203年までなので、それ以前の作と考えられている。
 醍醐寺の弥勒菩薩坐像に似た、左右対称性の強い、非常に洗練された像容。
 快慶仏の特徴の一つは、切れ長の目の美青年ってところにあると思う。
 たとえれば、昭和のアイドル沖田浩之。  
 衣もまた、昭和時代のアイドルがよく着ていた、スパンコールをあしらったドレープの波打つきらきらドレスを思わせるところがある。

 このお寺にはまた、土佐光起・土佐光成父子が描いた襖絵がある。
 これが素晴らしい。
 なんでも、長い間お寺の天井裏に丸められ捨て置かれていたものを、平成18年(2006)に京都市観光文化資源保護財団が修復し、3室34面の襖絵に仕立て上げたという。
 「松に猿」、「竹に鶴」、「紅葉に雁」、「蓮・梅・菊」、「滝を見る李白」、「ホトトギスを聴く杜甫」など、よくもまあ紙屑のような古紙からこれだけ修復したものと、保存科学技術の技に感心した。 
 繊細にして優美な筆致も見どころであるが、興味深いのは人物の左目がすべて潰されているところ。
 どういった謂れがあるのやら?
 ちょっと、ぞっとした。


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境内から北西方向に京都市街を望む
左端に京都タワーが見える

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東側に広がる鳥戸野陵と東山

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鳥戸野(とりべの)陵
平安時代以降、葬送の地として知られる
東の鳥辺野、西の化野(あだしの)、北の蓮台野が京の三大葬地

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ここに来たのにはわけがある

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清少納言『枕草子』の主人公である一条天皇妃・定子のお墓なのだ

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ほかにも、醍醐天皇妃・穏子、円融天皇女御・詮子、後朱雀天皇妃・禎子など王朝時代の6人の后が祀られている

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お経の代わりに朗読

春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫立ちたる雲の細くたなびきたる。

夏は夜。月の頃はさらなり。闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。

秋は夕暮れ。夕日の射して、山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへあはれなり。まいて、雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入りはてて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。

冬はつとめて。雪の降りたるは、言ふべきにもあらず。霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。昼なりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりて、わろし。

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陵墓から見える京都市街
清少納言との楽しき日々を思い出してくれただろうか

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カンカン照りではなかったけれど、奈良と京都の蒸し暑さは関東とはレベルが違う!
徒歩5分でシャツが背中に張り付いた。
でも、この湿気ゆえにお寺や仏像が守られてきたのかもしれないな。

いにしえの人々のいろいろな思いに浸った旅だった。
















● 2025年夏・みほとけまつり2 奈良市・元興寺

 奈良大学の3日間のスクーリングを終えた翌日、目覚ましをかけない朝寝坊を楽しみ、ホテルの食堂でゆっくりモーニング。
 荷物をフロントに預かってもらって、チェックアウト。
 本日は歩いて行ける仏閣・仏像めぐり。
 
日時 2025年8月11日(月)晴れのち曇り
行程
09:30 元興寺
12:00 猿沢池
     昼食
12:30 奈良国立博物館・仏像館
16:00 JR奈良駅
17:30 京都入り 

 元興寺は猿沢池から徒歩5分強の住宅街にある。
 あまり知られておらず、訪れる旅行客もさほど多くないのだが、実は長い長い歴史を誇る由緒ある寺である。
 なんと、日本で一番古い寺!なのである。

 いや、日本で一番古い寺は、蘇我馬子が596年に飛鳥の地に建てた法興寺(飛鳥寺)、鞍作止利のつくった金銅造の釈迦如来像がある別名・安居院だろう?
 そのとお~り。
 実は、飛鳥寺は平城遷都のときに当地に移され、元興寺と名を変えたのである。
 それゆえ、元興寺は「平城(なら)の飛鳥」と呼ばれたという。
 知らなかった。

 もとの飛鳥寺のほうはその後、元法興寺と呼ばれて平安時代頃まではそれなりに栄えていたらしい。
 が、室町時代には廃寺同然となり、釈迦如来像は吹きさらしに置かれていたという。現在の本堂は江戸時代に再建されたもの、釈迦如来像は顔の一部と右手の3本の指をのぞいてあとから作り直されたものなのである。

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飛鳥寺(安居院)

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飛鳥大仏(釈迦如来像)

 もし、平城京に移る際に釈迦如来像も一緒に移していたら、日本で一番古い仏像がもっとマシなかたちで残っていたかもしれない、と一瞬思う。
 が、平重衡による南都焼討ち(1180年)によって、興福寺・東大寺を含む現在の奈良市主要部の大半が焼け野原になったというから、やっぱり期待はできなかった。
 文化遺産の最大の敵は戦である。


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養老2年(718)、飛鳥より現在地に遷された
もとは猿沢池のほとりを北辺とする広大な寺所があった

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国宝・極楽堂(本殿)
本尊は、天平期に智光僧都がつくった曼荼羅(浄土変相図)
現在は模写が飾られている

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手入れが行き届いた気持ちいい空間
この寺を愛する地元民のこころを感じる

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極楽堂を裏手から見ると、飛鳥時代(創建当初)の瓦が見える
鎌倉時代にお堂が再建されたときに再利用された

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 ここの宝輪館の展示が実に面白い。
  • 奈良時代唯一の五重塔(高さ約5.5m)は、ずっと屋内に保管されていたため保存状態がとても良く、国宝指定されている。ただし、当初の色は失われている。2階に上って、塔の上層部を真横から見ることができるのは貴重。
  • 平安時代の阿弥陀如来像、鎌倉時代の毘沙門天像、桃山時代の閻魔大王像、江戸時代の弁財天像など、各時代の仏像が居並び、バラエティ豊か
  • 聖徳太子2歳像、16歳像、弘法大師坐像と揃っているのが民間信仰を感じさせる
  • 3階には、国家でも貴族でもなく地元庶民の篤い信仰によって支えられてきた寺の歴史を感じる資料がたくさん展示されている。鎌倉時代の女性が作った「DV夫との離婚を祈願する祭文」はじめ、中世の庶民信仰の様子をうかがえる第一級の資料の数々に感嘆した。国の庇護を受けた東大寺、藤原氏の氏寺である興福寺のそばに、奈良庶民の寺があった。
  • 卒塔婆など木製遺物の保存修復の実際など、文化財保存科学に関するわかりやすい展示もあって、テキストで勉強したことの復習ができた。

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境内に咲く桔梗に癒される

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かえる石
太閤秀吉により大阪城に召し出された奇石
淀君の霊がこもっていると言われ、城堀に身投げした人は必ずこの石の下に帰り着いたとか
いかなる縁からこの寺にたどり着いたのやら
毎年7月7日に供養しているとのこと

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春日山を借景とする緑豊かな境内は、市中とは思えない静かさ
落ち着いた時を過ごせる良い寺である

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興福寺の梵鐘を聴きながら、猿沢池のほとりで昼食
午後から仏像館へ。











 

 
 

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