ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

仏教

● 21世紀の仏教経典 本:『ホモ・デウス』(ユヴァル・ノア・ハラリ著)

2015年原著刊行
2018年河出書房新社より邦訳発行(柴田裕之訳)

 『サピエンス全史』は、人類の過去から現在までを俯瞰し、とりわけ3~7万年前に起きた認知革命によって人類が虚構(物語)を共有できるようになったことが、人と他の動物を分かつ決定的な進化(退化?)につながったことが説かれていた。
 続編となる本書では、人類の過去の歩みと傾向、および現在飛躍的な進歩を遂げている科学と IT 分野の現状を踏まえ、人類の行く末を予測している。
 前著同様、ユヴァルの博覧強記と具体的でわかりやすい事例を挙げて解説・論証する説得力、そしてブラックジョーク風ユーモア満載の語り口に圧倒される。


IMG_20210610_195454


 ホモ・デウス=ホモ(人間)+デウス(神)=神人――というのが、ホモ・サピエンス(賢い人間)たる我々が今後目標とするであろう存在のあり方だ、というのがユヴァルの予測である。
 人類は何万年以上もの間、「飢餓・疫病・戦争」の3つに苦しめられてきたが、21世紀を迎えてようやくそれらを克服できるようになった。(コロナワクチン開発の速さと高い効果を見よ!)
 次に人類が目指すべきは次の3つ――「不死・至福・神性」であり、それこそはまさに数千年の昔から神の属性と考えられてきたものである。
 これに到達するために最大限活かされるツールが、遺伝子工学や脳科学を中心とする生命工学(バイオテクノロジー)であり、膨大なデータを瞬時に解析・処理・記憶・応用できる I T(コンピュータ―テクノロジー)である。

 21世紀初頭の今、進歩の列車は再び駅を出ようとしている。そしてこれはおそらく、ホモ・サピエンスと呼ばれる駅を離れる最後の列車となるだろう。これに乗りそこねた人には、二度とチャンスは巡ってこない。この列車に席を確保するためには、21世紀のテクノロジー、それもとくにバイオテクノロジーとコンピューターアルゴリズムの力を理解する必要がある。これらの力は蒸気や電信の力とは比べ物にならないほど強大で、食糧や織物、武器の生産にだけ使われるわけではない。21世紀の主要な製品は、体と脳と心で、体と脳の設計の仕方を知っている人と知らない人との間の格差は、ディケンズのイギリスとマフディーのスーダンの間の隔たりよりも大幅に拡がる。それどころか、サピエンスとネアンデルタールの間の隔たりさえ凌ぐだろう。21世紀には、進歩の列車に乗る人は神のような創造と破壊の力を獲得する一方、後に取り残される人は絶滅の憂き目に遭いそうだ。

 ソルティは早々に絶滅しそうです(笑)
 ちなみに、アルゴリズムとは

計算や問題解決の手順のこと。定められた手続に従って計算していけばいつかは答えが得られ、それが正解であることが保証されている手続である。
(小学館『日本大百科全書 ニッポニカ』より抜粋)

 クローン人間の創造とかIDの付いたコンピュータチップを体内に埋め込むとかには眉を顰める自分であるけれど、たとえば、近眼と老眼に悩んでいる目、数十年付きあってきて今後確実に悪化の一途をたどるであろう腰痛、地肌が透けて見える頭髪の過疎化を、安価で完璧に治してくれる再生医療があったとしたら、あるいは、行きたいところにはどこでも安全に快適に最速で連れていってくれる自動運転車があったとしたら、やっぱりそれを利用したいではないか。
 人間の欲望と資本主義経済を基盤とする、ユヴァル言うところの“自由主義的人間至上主義”は、実現可能なことで利益を生むものならなんだって実現していく道を選ぶ。
 もちろん、そこには倫理という壁が立ちはだかるが、残念なことに神は数世紀前に死んでしまった。

 本書では、最先端の生命工学やコンピューターテクノロジーを活用したビジネス(主としてアメリカで起こっていること)の事例が紹介される。
 30年前ならSF小説かトンデモ科学の本の中にしかお目にかかれなかったような荒唐無稽・奇想天外なアイデアが、すでに実用化されつつあることに驚きと慄きを覚えざるを得ない。
 キアヌ・リーブス主演『マトリックス』は88年の映画だが、あそこで描かれていたヴァーチャル・リアリティの技術――脳を電極に繋がれた人間たちが透明ポッドの中で仮想世界を現実と思いながら生きる――は、もう手の届くところまで来ているのだ。

 映画では主人公ネオはその欺瞞に気づき、カプセルから脱出してコンピュータと闘う。
 その姿に鑑賞者は共感し応援するけれど、カプセルの中と外と、いったいどちらが幸せなのかは保証の限りではない。
 というのも、コンピュータは人間の感じる幸福感の正体をビッグデータを通じて解析し、それを生み出すような脳への電気刺激や薬物を適宜与えることができるからだ。
 ネオの奮闘によりカプセルから抜け出した群衆が、助けてくれたネオに集団で襲いかかり殺戮する可能性だってある。
「なんで、起こしたんだ!?」


バーチャルリアリティ


 ユヴァルは示唆する。
 生命工学と IT の進歩は人間を神のごとき万能な存在に近づけるかもしれない。
 が、一方、人間の存在価値を剥奪してしまうかもしれない。
 一つには、自由意志や自己の幻想性を徹底的に知らしめることで。
 一つには、コンピュータの能力が人間のそれをはるかに凌駕し、人間から仕事を奪うことで。
 と同時に、「私」以上に「私」のことをよく知っているコンピュータが、「私」に変わって常に最適な答えを提供してくれるようになるがゆえに。

 18世紀には、ホモ・サピエンスは謎めいたブラックボックスさながらで、内部の仕組みは人間の理解を超えていた。だから、ある人がなぜナイフを抜いて別の人を刺し殺したのかと学者が尋ねると、次のような答えが受け容れられた。「なぜなら、そうすることを選んだからだ。自分の自由意志を使って殺人を選んだ。したがって、その人は自分の犯罪の全責任を負っている」。ところが20世紀に科学者がサピエンスのブラックボックスを開けると、魂も自由意志も「自己」も見つからず、遺伝子とホルモンとニューロンがあるばかりで、それらはその他の現実の現象を支配するのと同じ物理と化学の法則に従っていた。

 生き物はアルゴリズムで、キリンもトマトも人間もたんに異なるデータ処理の方法にすぎないという考えに同意できない人もいるかもしれない。だが、これが現在の科学界の定説であり、それが私たちの世界を一変させつつあることは知っておくべきだ。

 昨今のニコラ・テスラ再評価の理由がこれで理解できよう。
 二コラは人間がアルゴリズムであることをいち早く見抜いていたのだ。
 (現在、イーサン・ホーク主演の伝記映画が公開中である!)
 
 ユヴァルは、神の死とともに始まった近現代の人間至上主義が、人間を含むすべての生物をデータというフラットなものに還元するデータ至上主義に変わっていく未来を予測している。

 データ至上主義は、人間の経験をデータのパターンと同等と見なすことによって、私たちの権威や意味の主要な源泉を切り崩し、18世紀以来見られなかったような、途方もない規模の宗教革命の到来を告げる。ロックやヒュームやヴォルテールの時代に、人間至上主義者は「神は人間の想像力の産物だ」と主張した。今度はデータ至上主義者が人間至上主義者に向かって同じようなことを言う。「そうです。神は人間の想像力の産物ですが、人間の想像力そのものは、生化学的なアルゴリズムの産物にすぎません。」 18世紀には、人間至上主義が世界観を神中心から人間中心に変えることで、神を主役から外した。21世紀には、データ至上主義者が世界観を人間中心からデータ中心に変えることで、人間を主役から外すかもしれない。

 これは、人類の過去と現在とを十分に研究・検討したうえでの未来予測である。
 ノストラダムスの大予言のような根拠のない言説とは違い、蓋然性の高い未来図と言えるだろう。
 むろん、まったく予期しない第三項が生じるかもしれない(たとえば世界同時多発発電所破壊テロとか)。あるいは、ユヴァルがこういった予測を立てて全世界に向けて発表したこと自体が予測を変貌させる結果につながるかもしれない。(観察すること自体が結果に影響を与える量子力学の観察者バイアスのように)
 コロナウイルスの発生同様、なにが起こるか分からないのがこの世の中だ。
 
バタフライ効果



 本書は内容自体が衝撃的と言っていいものであるが、実はソルティがなにより衝撃を食らったのは、上巻の扉を開いて目次のあとに来る献辞ページを見た瞬間であった。
 こう書かれていた。

 重要なことを愛情をもって教えてくれた恩師、S・N・ゴエンカ(1924~2013)に 

 ゴエンカってまさか、あのゴエンカ?
 下巻の巻末にある謝辞を見ると、こう書かれていた。

 ヴィッパサナー瞑想の技法を手ほどきしてくれた恩師サティア・ナラヤン・ゴエンカ。この技法はこれまでずっと、私があるがままに見て取り、心とこの世界を前よりよく知るのに役立ってきた。過去15年にわたってヴィッパサナー瞑想を実践することから得られた集中力と心の平穏と洞察力なしには、本書は書けなかっただろう。

 間違いない。
 瞑想業界で有名なあのゴエンカ師である。
 ユヴァルは、ヴィッパサナー瞑想(俗にマインドフル瞑想と呼ばれる)の実践者だったのである!
 それも15年以上もの!(ソルティより長い)
 つまり、仏教徒かどうかは知らないが、かなり深く仏教を学び理解しているのは間違いない。
 ブッダの重要な教えであるところの「諸行無常、諸法無我、一切皆苦、縁起、輪廻」を言葉の上の知識としてではなく、智慧として掴んでいる可能性が高い。上記の「ヴィッパサナー瞑想を実践することから得られた洞察力」とは、そういう意味に違いあるまい。
 だとしたら、自由意志や自己が幻想であることも、アルゴリズム(=「これあるゆえにそれがある。これなきゆえにそれがない」)とはすなわち「縁起」や「輪廻」の別称であることも、科学や IT の勉強を通してではなく坐禅によって悟っているのかもしれない。
 本書や『サピエンス全史』が、仏教の智慧を有するイスラエル在住のユダヤ人のゲイの学者によって書かれた意味は大きい。

以下、引用。

 歴史を学ぶ目的は、私たちを押さえつける過去の手から逃れることにある。歴史を学べば、私たちはあちらへ、こちらへと顔を向け、祖先には想像できなかった可能性や祖先が私たちに想像してほしくなかった可能性に気づき始める。私たちをここまで導いてきた偶然の出来事の連鎖を目にすれば、自分が抱いている考えや夢がどのように形を取ったかに気づき、違う考えや夢を抱けるようになる。歴史を学んでも、何を選ぶべきかはわからないだろうが、少なくとも、選択肢は増える。

 虚構は悪くない。不可欠だ。お金や国家や協力などについて、広く受け容れられている物語がなければ、複雑な人間社会は一つとして機能しえない。人が定めた同一のルールを誰もが信じていないかぎりサッカーはできないし、それと似通った想像上の物語なしでは市場や法廷の恩恵を受けることはできない。
 だが、物語は道具にすぎない。だから、物語を目標や基準にすべきではない。私たちは物語がただの虚構であることを忘れたら、現実を見失ってしまう。すると、「企業に莫大な収益をもたらすため」、あるいは「国益を守るため」に戦争を始めてしまう。

 国家や神や貨幣と同様、自己もまた想像上の物語であることが見て取れる。私たちのそれぞれが手の込んだシステムを持っており、自分の経験の大半を捨てて少数の選り抜きのサンプルだけ取っておき、自分の観た映画や、読んだ小説、耳にした演説、耽った白昼夢と混ぜ合わせ、その寄せ集めの中から、自分が何者で、どこから来て、どこへ行くのかにまつわる筋の通った物語を織り上げる。この物語が私に、何を好み、誰を憎み、自分をどうするかを命じる。私が自分の命を犠牲にすることを物語の筋が求めるなら、それさえこの物語は私にやらせる。私たちは誰もが自分のジャンルを持っている。悲劇を生きる人もいれば、果てしない宗教的ドラマの中で暮らす人もいるし、まるでアクション映画であるかのように人生に取り組む人もいれば、喜劇に出演しているかのように振舞う人も少なからずいる。だがけっきょく、それはすべてただの物語にすぎない。


 現代科学が我々に見せるありのままのこの世の風景は、きわめて仏教的である。
 本書では触れられていないけれど、人間至上主義の先に待っているのはデータ至上主義(この世のすべては現象の生起消滅に過ぎない)であると同時に、人類がホモ・デウスならぬホモ・ブッダとなる一縷の可能性なのかもしれない。




おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 行為は意志に先立つ? 本:『マインド・タイム 脳と意識の時間』(ベンジャミン・リベット著)

2004年原著刊行
2005年岩波書店より邦訳発行
2021年岩波現代文庫(訳・下條信輔、安納令奈)

 ベンジャミン・リベット(1916-2007)はアメリカの生理学者、医師。
 彼の主著である本書には、パラダイムを一新し、我々の世界観・人間観を根底から覆すような衝撃の科学的発見が記されている。
 邦訳発行からしばらくの間は、彼の名前やその発見内容がメディアに取り上げられ、かなり話題になったのを覚えているが、ここ最近はあまり見聞きしなくなった。
 といって、彼の発見が事実として世間に認められ、常識として定着したからではあるまい。
 いまだにリベットの名は科学や哲学に関心ある人の間ではともかく、世間的には知られていないと思うし、その発見の意味するところを他人に語れる人も多くないと思われる。

 察するに、リベットの発見した内容があまりに突飛すぎて、我々の実感とそぐわないものであることが一因としてあるのだろう。

「単なる仮説だろう?」
「トンデモ科学者の発言なんじゃないの?」
「実験そのものにおかしなところがあるに決まっている!」

 そしてまた、その発見内容が人類にとって好ましくないもの・聞きたくないもの(いわゆる「不都合な真実」)であり、まかり間違えば倫理を破壊しかねないものであるところも、話題に乗りにくい原因なのではあるまいか。
 実際、リベットが本書で記している発見とそれが引き出す究極の結論を鵜呑みにした人は「モラルに反する行動をとりやすい」――ということを示した実験結果もあるそうだ。

 究極の結論とは、我々の自由意志の全否定であり、運命決定論である。


IMG_20210418_173705

 この本でリベットは、大きく分けて三つの画期的なことを述べています。
 その第一は、感覚が脳で「知覚」されるのに時間がかかるということ、にもかかわらずその遅れを遡り、補うメカニズムを脳が備えているということです。
 第二は、自由で自発的な意志決定といえども、それに先立つ脳神経活動があるということ。このことは一見決定論に加担し人間の自由を奪うようにみえます。そこでリベットは、みずからの発見から自由意志を救い出すためにかなりの紙幅を割いています。
 そして最後が、脳神経活動の空間的な場(リベットがCMFと呼ぶもの)が意識を紡ぎ出しているという仮説でした。(「訳者あとがき」より引用)


 我々が何かに「気づく(アウェアネスがある)」とは、四六時中無意識に受けている膨大な情報の中から特定のものが意識に上がることを言うわけだが、意識に上がるためにはある条件があって、それは「脳内で一定の条件を満たした神経活動が約0.5秒間続かなければならない」――というのが第一の発見である。
 つまり、感覚で何らかの情報を受け取った時点からそれを自覚するまで、少なくとも0.5秒の遅延が生じる。

 自覚したものごとは、それに先立つおよそ0.5秒前にすでに起きたことなのです。私たち人間は、実際の今、この瞬間を意識していません。いつも、少しだけ遅れるのです。

 精神世界でよく「今、ここ」に意識を置いて生きることの大切さが唱えられるけれど、実を言えば、意識のある限り、我々は「今」に生きることができない、常に0.5秒後の世界を生きているのだ。

 でもまあ、これは今さら驚くほどのことではない。
 たとえば、「今」夜空に見えている星が地球から8億光年離れているとしたら、我々が実際に見ているのはその星が8億年前に発した光である。
 もしかしたら、その星は4億年前に消滅して、「今」はないのかもしれない。
 それと同じ類いの話である。


星の爆発

 
 重要なのは二つ目の発見である。
 S・M・コスリンによる「序文」から引用する。

 リベットは人々に、彼らが選んだ任意の時間に手首を動かすことを求めた。実験の参加者は、時間を動かす点をみて、手首を曲げようとした正確な瞬間(に点がどこにあったか)を心に留めておくように求められた。彼らは実際に運動を始める約200ミリ秒前に意図を持ったと報告した。リベットはまた、脳内の「準備電位」を計測している。これは(運動の制御にかかわる)補足運動野からの活動記録によって明らかにされた。この準備電位は実際の行為の開始におよそ550ミリ秒も先立って生じる。したがって、運動を生み出す脳内現象は、実験の参加者当人が決定を下したことに気づくよりも約330ミリ秒前には起こっているということになる。

 すなわち、ふつう我々は、「①まず意志決定があって、②それから行為につながる脳内の段取りがいろいろあって、③最後に脳からの指令によって行為が現れる」と何の疑いもなく思っているけれど、実験結果が示したのはそれとは違って、「①脳内の段取りがスタートし、②その次に意志決定し、③最後に行為が現れる」というものであったのだ。
 行為は意志に先立つ。
 別の言い方をすれば、我々は無意識が決定した行為を、「自分の意志で行った」と勘違いしながら生きている。

 本書には、実験の詳細な方法や過程、結果とそれについての評価、結果から引き出されるリベット自身の解釈、そしてリベットの発表に対して湧き起こった様々な反論についての反駁が記されている。(このあたりの記述は文系のソルティには正直理解が難しかった)
 リベットは言う。

 自発的に活動しようとする意図または願望に被験者自身が気づくよりもずっと前に、脳は自発的なプロセスを無意識に始動します。この結果は、自由意志の性質をどのように考えるかについてと、個人が追う責任と罪にまつわる問題に、まぎれもなく深い影響を与えます。

 すべての行為が無意識の決定によるというのなら、我々は事前にプラグラミングされた通りに動くロボットのようなものである。
 生まれたときから運命はすでに決まっている。
 であるのなら、この世で罪を犯すことも事前にプログラムに書かれているのだから、それについて責任を問われるのは理不尽ということになる。
 これが、この発見が倫理上の問題を引き起こしかねないという意味合いである。


ロボット



 リベットの発見は、運命決定論者や「心的現象はすべて脳神経の問題に還元できる」という決定論的唯物主義者にとって力強い論拠となり、その持論や研究を後押しする流れを作ったことが、訳者の下條信輔による解説で触れられている。(当ブログでも取り上げた前野隆司の受動意識仮説はその流れの一つであろう)
 世間的には一見忘れ去られているように見えても、脳科学や意識研究の先端においては今や本流となっている知見(作業仮設)なのであった。
 生物学、生物工学を専門とする下條自身もまた、こう言っている。

 私自身の立場は「自由意志は、真正のイリュージョン」というものだ。この「真正」にポイントがあり、「自由意志はリアルで実体がある。ただし、他の知覚・認知と同等の身分で」というのと、ほぼ同じ主張だ。


 ただし、本家本元たるリベット自身は最初の引用に見るように、「みずからの発見から自由意志を救い出す」方向性を選び取った。
 究極の運命決定論に与さなかったのである。

 意識を伴う自由意志は、人間の自由で自発的な行為を起動しません。ですが、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御できます。行為を(実行に至るまで)推し進めることもできるし、行為が起こらないよう拒否もできます。

 すなわち、「①脳内の段取りがスタートし(0.5秒前)、②その次に意志決定し(0.2秒前)、③最後に行為が現れる(0秒時点)」という流れにおいて、無意識の領分である①の段階には介入できないが、意識の領分である②の段階において「拒否権」を発動できる。
 無意識が決定したことにNOを言うのが、我々の自由意志の主たる役割という。
 究極の運命決定論との違いは、プログラムは事前に決定されてはいるものの、それに従わないことを選択できる0.5秒内の自由裁量が与えられているってことだろう。
 そこを逃したら、我々はロボットのように自動的に生きるほかない。

 ただし、リベットの“良心的な”救い出しの理論は、不整合が指摘されている。
 無意識が決定したことにNOを言う、すなわち「拒否する」という意志自体もまた、先行する無意識の決定に0.5秒遅れて発動されている可能性があるではないか?――というものだ。
 つまり、「拒否する」こと自体を0.7秒前に無意識が決めているのではないか?
 であれば、結局、決定論と変わりない。
 リベットは、「意識を伴う拒否には、先行する無意識プロセスは必要ないし、あるいはその直接的な結果でもない」と言っているが、それは実験による検証を経た事実ではなく、希望的観測に近いとみなされている。

脳みそ


 
 ソルティのなによりの関心は、リベットの発見と見解が原始仏教の言説と重なるところである。
 無意識による行為の決定と運命支配の様相は、あたかも業(カルマ)や因縁について語っているように思われる。
 つまり、原因と条件があって結果が生じる。私の意志もまた原因と条件があって勝手に生じている。すべては起こるべくして起こっている
 また、リベットがここで言う自由意志とは原始仏教の五蘊(色・受・想・行・識)の中の「行」(サンカーラ)に相当すると思うのだが、ブッダはまさに五蘊は無常であり無我であり、自由意志は幻想(イリュージョン)に過ぎないと説いたのであった。
 無明から始まる十二因縁がただ連続して生起消滅し、果てしない過去から果てしない未来へと苦の連鎖すなわち輪廻転生が続いているのが我々の生(と死)であって、その流れのどこにも「私」と言えるものは実体として存在しない。
 そこに気づかないから輪廻転生は終わらない、欲望と衝動に突き動かされてありのままの真実を見ないから無明から抜けられない、そう説いたのである。
 そして、輪廻の苦しみから抜け出る唯一の方法は、「気づき(念)」すなわちアウェアネスを育てて輪廻の輪に楔を打ち込むことであり、それがヴィパッサナ瞑想である。
 気づきによって無意識の罠(=プログラミングされた生)から抜けること、それが解脱であろう。


知恵の輪


 最終章でリベットは、ルネ・デカルトとの架空対談を設定している。
 デカルトは言うまでもなく、「心と体は別物」という二元論説の生みの親にして、「我思う、ゆえに我あり」の近代的自我の発見者と目されている。
 この対談によって、リベットの発見や見解が近代哲学においてどう位置づけられるかが措定されるとともに、「自己や魂や自由意志のいかなる感情もイリュージョンである」とする決定論的唯物主義者とは微妙に距離を置くリベット自身の世界観(あるいは宗教観)も明らかにされる。
 面白い趣向である。

 だが、リベットはここでブッダとこそ対談すべきであった。
 おそらくリベットは原始仏教を知らなかったのだろう。知っていたらデカルトでなくブッダを対談相手に選んだはずである。
 さすれば、おのれが発見し辿りついた見解が、2000年以上も前にすでにブッダによって明らかにされ理路整然と説かれていることに驚愕し、即座に三宝帰依したに違いない。

 現代の脳科学者や意識研究者たる者、原始仏教の経典を紐解かずに研究し発言することは、恥をかきたくないのならば、控えたいところである。


サードゥ、サードゥ、サードゥ


PA080271



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 春の秩父リトリート 後編

 今回のリトリートの目的の一つに、秩父美術館があった。
 ここは個人(故人)の収集品をもとに作られた私立美術館なのだが、中で興味深いのは仏教資料館が併設されている点である。
 日本のみならずアジア各地の珍しい仏像や仏具、古い経典などが展示されていて、ソルティの素人目にはその真偽のほどや歴史的あるいは美術的価値のほどは分からぬが、面白い展示ばかりであるのは間違いない。秘宝館とでも言いたいような・・・・。

DSCN4343
秩父鉄道・秩父駅から徒歩20分

DSCN4357
2階に仏教資料館がある

DSCN4362
種々雑多な仏教資料が所狭しと並んでいる

DSCN4365
桃山時代の厨子入りキリシタン仏(大日如来像)
十字架は取り外しできる

DSCN4348
マリア観音
ご光背の裏に十字架が刻まれている

DSCN4346
江戸時代の踏み絵
踏まれた部分が白い

DSCN4349
インドで見つかった貝葉(ばいよう)経の原典
樹木の葉っぱに鳥の骨などでサンスクリット文字を刻んだもの
世界最初の経文と言われるが、はたして・・・・・?


DSCN4351
カラフルな延命地蔵(室町時代)

DSCN4352
ヒンズー教の神ブラフマー

DSCN4354
秘仏中の秘仏と言われる聖天様
二頭の象神(ガネーシャ)が抱き合っている

DSCN4363
江戸時代の産泰神(さんたいしん)
「さんたいさま」「こやすさま」「うぶがみさま」と呼ばれ、
産婦と新生児の守護神


DSCN4364
チベットの金剛杵
密教の秘具である

DSCN4366
庭に飾れた石像の神様

DSCN4367
昔懐かし民俗資料館も併設されている

DSCN4368
秩父事件の際に柱に切り付けられた刀傷とか・・・


 実に面白い収蔵品の数々。
 もちろん、幕末の水墨画や現代絵画も多く展示されている。
 別館に骨董掘り出し長屋もあり、収蔵品のバラエティに驚かされる。
 仏像および骨董品に関心ある人はぜひ一度足を運ばれたし。


DSCN4294
こちらは秩父の街の某所に見つけた弘法大師像
よく見ると・・・・

DSCN4295
なんとお化粧をしている!
お女装大師だ
 

DSCN4300
風にはためく仏教旗


 ところで、リトリートの主目的たる肝心の瞑想について。
 ちょっと腑に落ちたことがあった。
 ソルティはこれまで瞑想することによって、苦しみや迷いを消して精神的な安定を図りたいとか、「悟り」のような何らかの境地に達したいとか、日常を突破する何らかの神秘現象を体験してみたいとか、何らかの智慧を獲得したいとか、心身の状態を良くしてなるべくハッピーに浮世を暮らしたいとか・・・・まぁ、いろいろな動機に突き動かされていたわけである。
 しかるにここ最近、瞑想の目的とは「今ここにいること」であって、「今ここにいること」が瞑想そのものであると思うようになった。それ以上に期待する必要などない。
 なぜなら、どんな境地に達しようが、仙人だろうが阿羅漢だろうが聖者だろうが、「今ここにいること」以上のまっとうな生き方はこの世ではできないからである。
 瞑想することによって何か特別なものを獲得しようと心のうちに抱くこと、そのベクトルが「今ここ」から意識を反らし、すでに瞑想から外れている。
 「今ここにいる」を時々刻々更新していくこと、それが瞑想の出発点にしてゴールなのだ。
 

DSCN4393


 リトリートのお開きは、お隣の横瀬町にある武甲温泉。
 ちょうど名物の「横瀬川鯉のぼり祭り」が開催中で、温泉の前の河原には180匹のカラフルな鯉たちが薫風に泳いでいた。

DSCN4396
武甲温泉
西武秩父鉄道・横瀬駅から徒歩15分

DSCN4398


DSCN4395


DSCN4400





● 春の秩父リトリート 前編

 三泊四日の秩父リトリートを行なった。
 一日のスケジュールはおおむね前回通り。9時間の瞑想、4時間のウォーキングである。

 ウォーキングは気晴らし&骨折した足のリハビリが主目的であるが、長時間の瞑想の余波を受けて、ウォーキングの最中も自然と瞑想モードな意識状態が続くようになる。
 すなわち、「今、ここ」に注意が向けられ、過去や未来へと意識が勝手にさまよう傾向がほとんどなくなる。
 すると、春たけなわの秩父を完全に味わうことができる。
 うららかに良く晴れて、暑くも寒くもなく、行き交う人も車も少なく、素晴らしいウォーキングが楽しめた。


★百花繚乱

DSCN4311
山躑躅

DSCN4314
水仙

DSCN4328
鈴蘭

DSCN4313
染井吉野

DSCN4333
枝垂れ桜

DSCN4371
寒緋桜?

DSCN4373
花桃?

DSCN4376
秩父札所20番岩之上堂より武甲山を望む


DSCN4375
お堂の屋根、新緑、色とりどりの花の配合が実に美しい!

DSCN4378
紅白の桃の向こうに武甲山

DSCN4381
秩父名物・芝桜

 
★盆地展望

 秩父は四方を山に囲まれた盆地であるが、それがかえって広々とした空間を感じさせるから不思議である。
 とくに、いまや街のシンボルたる秩父公園橋の巨大な三角ケーブルをくぐって、荒川の上から街を振り返ると、気宇壮大という表現がぴったりな風景に胸が広がる思いがする。


DSCN4380
秩父公園橋の三角ケーブル
形状から秩父ハープ橋とも呼ばれている

DSCN4338
荒川の向こうの山上に見えるモニュメントがずっと気になっていた

DSCN4339


DSCN4342
秩父公園橋を渡って山登り

DSCN4372
荒川

DSCN4302
秩父公園橋から見る武甲山と秩父市街

DSCN4310
到着!
樹海から天に向かってこぎだす船をイメージしているとのこと。
ステージを船首、塔をマストに見立てている。

DSCN4309
ステージ側 

DSCN4307
展望は言わんかたない

DSCN4308
秩父公園橋が目立つ


秩父盆地展望
秩父盆地全景










● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 8

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 今日では多くの人々が、とくに西洋では、あなたが忙しくしていないと、何か問題があるんじゃないかと言ってきます。
 彼らの考えるところでは、
「なんと、君は何もしていないのか? 週末には何をしてるんだい?」
「いやいや! 何もしていないよ。ただ家にいるだけさ」
「ええ! 何もしなかっただって? ただ家にいた? 何か問題があったんだね」
 何の問題もありません。
 彼らはただ狂ったようにあちらこちらへと走り回っていて、あなたはそうでないというだけです。
 あなたは正気で、彼らが狂っているのですが、彼らはあなたが狂っていると思うのです。


 ご多分に漏れず、コロナ禍になってから “おうち”時間が増えたソルティであるが、じゃあ“おうち”で一体何をしているのか?――と言えば、ほぼ読書と映画鑑賞とブログ執筆とプールと散歩と瞑想である。
 コロナ前より減ったのは、クラシックコンサートや落語や美術館に行くこと、山登り、ボランティア、友人との会食あたりだろうか。ボランティアは人と関わるものなので、感染予防の観点からNGである。
 こうやって対外的活動が縮小され一年以上たって思うのは、「行かなきゃ行かないで別にどうってことない」ってことだ。失った娯楽や活動に対して欲求不満が高じるなんてことはなかった。

 若い頃は休日に家にいるなんて我慢ならなかった。晴れた日はとくに。用を作っては、あるいは用がなくても、街に出かけたものだ。
 五十を超えた今では、街に行くのが億劫に感じる。コロナ感染のリスクがなくても、人混みや喧騒には足を踏み入れたくない。体力や精力の減退が一つの因であるのは間違いなかろう。ちなみにソルティにとっての「街」とは、都内のことである。
 月2回は行っていた山登りもまた、今やそれほどの熱を身内に感じない。一昨年に四国歩き遍路を結願してから、憑き物が落ちたようにアウトドア志向あるいは徘徊癖が希薄になった。もっとも、足の骨折の影響も大きいが・・・。
 
 仕事以外の多くの娯楽や活動は、つまるところ、「やりたくてやっている」、「やらずにはいられない」というよりは、「時間をつぶすため」あるいは「気晴らしのため」にやっているのだ。
 自分にとって、それがないと本当に参ってしまうのは、おそらく、読書と瞑想と何らかの運動だけであろう。(ソルティは“塀の中”を快適に過ごせるかもしれない。独房に限るが・・・)

 若い頃は外の世界に「何か」を求めていて、そしてその「何か」が手に入らなくて焦燥に駆られていたものだが、だんだんと外の世界には本当に“自分”が満足できるものはないんだと思うようになった。
 というより、“自分”というものは決して満足しないシステムなんだと知るようになった。

 歳を取ること、そして今回のコロナ禍、いずれも真に必要なものを明らかにしてくれるチャンスである。


water-lily-2432055_1920
S. Hermann & F. RichterによるPixabayからの画像




● ズームイン仏教 本:『脳と瞑想』(プラユキ・ナラテボー&篠浦伸禎著)

2014年(株)サンガ
2016年サンガ新書

 副題が長い。
 「最先端脳外科医とタイの瞑想指導者が解き明かす苦しみをなくす脳と心の科学」

 脳外科医とあるのが1958年生まれで都立駒込病院脳神経外科部長をつとめる篠浦伸禎で、一方、瞑想指導者とあるのが1962年生まれで88年タイで出家したテーラワーダ僧侶のプラユキ・ナラテボー師である。

IMG_20210328_202411


 第一部では、プラユキ師によるタイで実践されている代表的な三つの瞑想法の伝授と、篠浦が現場で実践している脳の覚醒下手術の説明とそこから判明した脳の部位による働きの違いに関する知見が記されている。
 第二部は二人の対談である。

 最先端脳科学と仏教あるいは瞑想との関係を説いた本はいまなおブームであり、当ブログでもいくつか取り上げてきた。
 中でも、『瞑想脳を拓く』(井上ウィマラ、有田秀穂共著)、『なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』(ロバート・ライト著)、『科学するブッダ 犀の角たち』(佐々木閑著、角川文庫)、『奇跡の脳』(ジル・ボルト・テイラー著、新潮社)などはお勧めである。
 また一冊、脳の覚醒下手術による知見という新たなアプローチがここに加わったわけである。

 脳の腫瘍摘出などで開頭手術を行う場合、これまでは全身麻酔が普通であった。
 が、近年、これに変わって実施されるようになり治療効果の高さや副作用の少なさから注目を浴びているのが、覚醒下手術である。
 篠浦によると、

 全身麻酔の手術では、患者さんののどに管を入れて、麻酔薬で患者さんを完全に眠らせ、最後まで意識のない状態で手術を行います。一方、覚醒下手術は、基本的には、局所麻酔と静脈からの麻酔薬で痛みを取り、腫瘍を摘出するところでは完全に麻酔薬を切って行います。つまり、手術中に患者さんに起きていただき、症状が悪化しないかチェックしながら手術ができるため、全身麻酔の手術に比べて極めて安全な手術になります。

 一瞬びっくりするような話であるが、こういったことが可能なのは、脳自体にはもともと痛みを感じる神経がないことと、局所麻酔による痛み止めの技術が近年格段に進歩したゆえである。(ソルティも足の骨折手術時にお世話になった)
 覚醒下手術だと、脳の術部周辺に電極を当て刺激を与えつつ、手術台の上の患者さんの意識や認知機能の変化を本人に直接確認することで、安全に手術続行できるかどうかチェックできるわけである。これが全身麻酔だと、摘出手術が終わり患者さんが覚醒したときに言語障害や麻痺や認知機能の損壊といった思わぬ副作用が見つかったとしても、もはや取り返しがつかない。
 医学の進歩はすごいもんだ。

 覚醒下手術はまた副次効果が興味深い。
 てんかん患者を対象にした覚醒下手術&実験をもとに作られたペンフィールドのホムンクルス(下図)は、脳の運動野と感覚野が体のどの部位と対応しているかをマッピングしたものとして有名だが、患者が自らの意識経験をリアルタイムで証言できる覚醒下手術だと、脳のどの部位が、特定の意識や認知といった知的・精神機能と関与しているかが見えてくる。
 たとえば、ある部位に刺激を与えたら他人の恐怖の表情が読めなくなったとか、ある部位の腫瘍を摘出したら急に難しい数字の逆唱ができるようになったとか、人の脳の機能の解明と言う点で極めて意義深く、新たな地平を開くものがある。
 いずれ、認知症の原因解明と治療などに役立つ日が来るやもしれない。 
ホムンクルス

 
 第一部の最後には、篠浦がこれまで何百回と行った覚醒下手術から得た脳の働きに関する知見をもとに作った「脳のタイプチェック」が紹介されている。
 大まかに、4タイプに分かれている。
 脳優位スタイル検査というサイトでチェックテストをすれば、自分がどのタイプにもっとも当てはまるか知ることができる。
 本書のカバー裏には脳テストを受けるために必要な個別の ID とパスワードが貼ってあり、本書を購入した者はこの脳テストに参加し、自身のタイプを知り、アドバイスを受けられる仕組みになっている。
 面白い試みである。(ソルティは本書をブックオフで購入したので、IDとパスワードはすでに使用済みだった・・・・残念)
 
脳

 
 メインとなる第二部の対談では、やはり現役のテーラワーダ僧侶であり、日本での講演や瞑想指導でも人気を博しているプラユキ師の言葉が奥深い。
 ソルティはこれまで彼の法話に接したことがなく、本を読むのも初めてであるが、智慧と慈悲、仏法理解と実践とのバランスの取れた、柔和な性格の人という印象を受けた。

 以下、本書よりプラユキ師の言葉を紹介。

 瞑想の目的は智慧を得て、苦しみから自由になっていくことと、一切衆生への深い慈悲を育てていくことです。瞬間瞬間に気づいていくことはその手段です。もちろん瞑想によって心の安らぎや落ち着きが生じたり、あるいは歓喜の体験や三昧体験などさまざまな変容意識体験も生じてきますが、そういった境地を得ることが瞑想の最終目的ではありません。・・・・・智慧を得ていくためには、特定の心の境地へのとらわれからも自由になって、心をコントロールすることをやめ、あるがままの洞察に進んでいくことが大事です。

 まず、自分の意見や気持ちを相手に押しつけようとするのが自我的。それに対して、相手の意見も自分の意見も平等に尊重した視点から発言できるのが瞑想的
 それから、相手の表面に現れる言葉にすぐに反応しちゃうのが自我的。それに対して、相手の言葉をいったん受けとめて、その言葉の奥にある相手の思いや願いにまで思いを馳せられるのが瞑想的
 そして、問題が生じてきたとき、すぐに白黒をつけようとするのが自我的。それに対して、その問題を通していろいろ学んだりしながら、相手との関係をより良くしていこう、より良い解決法を見つけていこうと前向きに取り組むのが瞑想的な対応法です。

 悩み苦しみとは、よるべを失い、恣(ほしいまま)にさまよう心の作りだす空想物語の数々です。こうした理解を経て、思考やイメージの主になりえたとき、今度は逆に、今、目の前の困難な状態にある相手にまみえても、自由にイマジネーションの翼を広げて、その人の来し方、行く末のより良く変容した姿も思い描け、いたずらに相手の今の姿に落胆や狼狽することがなくなります。そして、思いやりと希望を持って、相手の良き縁とならせてもらうために、今ここで自分が何をさせてもらったらいいかなど、冷静に対応を吟味できるようになるのです。

 コロナが落ち着いたら、法話を聞きに・・・・いや、師のツイッターによれば、ZOOMで今も瞑想指導や個人面談をやっているらしい。
 時代はZOOMか・・・・。 



おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損



● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 7

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 たいていの人はさみしさを感じていますが、独りで生きているわけではありません。
 彼らはただすごくさみしく感じているだけで、独りで生きているわけではないのです。
 独りで生きていてもさみしくならないということが、あなたにはできる。
 これこそ瞑想者の学ぶべきことであり、またそれができるように学ぶことは、たいへん有益なことでもあります。
 「独りでいても、さみしくないこと」
(標題書 P.505より抜粋)


 18歳の秋に人生初めての一人旅をした。
 行先は京都であった。

 当時、東京駅23:30発の大垣行き普通夜行列車というのがあった。
 大垣駅に朝の7時頃に到着、乗り換えて京都には9時くらいに着いただろうか(朝の京都タワーがまぶしかった)。
 まだ青春18切符も、JR東海「そうだ京都、行こう。」キャンペーンもない時代で、紅葉時期にも関わらず京都は空いていたし、夜行列車も空いていた。
 青い布張りの向かい合わせのボックスシートを一人占めにし、缶コーヒー片手に東京駅のホームが後方に去っていくのを眺めた。
 初めての一人旅にワクワク、というより心細かった。
 さびしかった。

800px-Image-JNR_165-Ogaki-Night_train
大垣行き夜行列車
静岡駅で長い停車があり、駅弁や網入りミカンを買うことができた


 実家暮らしだったので、一人でいることに慣れていなかった。
 どこかに遊びに行くときは家族や友人と一緒だったので、一人で行動することにも慣れていなかった。
 京都の観光名所を巡っている時も、一人ぼっちの自分を意識してしまって、妙に落ち着かなかった。
 一人で食堂に入った時も、周囲の目が気になり、ゆっくり過ごすことができなかった。
 ふと見ると、隣のテーブルで中年の会社員らしき男がワイシャツの袖をまくり、煙草をくゆらしながら、新聞を読んでいた。 
 その泰然自若たる落ち着きぶりに憧れた。
 「自分もあんなふうに“一人でいても間が持てる男”になりたい」と思った。
 カッコよく言えば、孤独が似合う男になりたかった。
 いや、一人でいても孤独を感じない男になりたかった。
 英語で言うなら、Lonely でなく Alone だ。 

孤独な男


 あれから幾星霜。
 すっかり一人が板についたソルティ。
 一人旅を重ねること数十回、山登りの単独行数百回、一人映画、一人コンサート、一人落語、一人呑み、そして一人暮らし数十年(いまは実家住まい)。
 今もっともくつろぐ瞬間は、一人でお気に入りのレストランやカフェで本を読んでいるとき、そして瞑想中である。
 さびしいとか侘しいとか心細いといった思いはみじんもなく、周囲の目もまったく気にならない。
 おおむね安穏としている。 
 完璧に Lonely から Alone になった。
 18歳の秋に憧れていた男になった。

 しかるにまずったことに、逆に今は「誰かと一緒にいること」が不得手になってしまったようなのである。
 その誰かが、レストランの隣席にいるようなまったくの他人だったら問題はないのだが、ちょっとでも言葉を交わし見知っている人となると、どうにも 相手に気を遣ってしまって、自分の世界に閉じこもれなくなり、くつろげなくなる。
 一人上手を極めた結果なのかとも思うが、考えてみると一人でいる(=自分と過ごす)方が、誰かといる(=他人と過ごす)よりも気楽なのはあたりまえなのだ。
 ソルティはたぶん、ずっと前から、最近はやりのHSP(繊細さん)だったのであろう。

 人と会うことも、人と話すことも、人と遊ぶことも、決して嫌いではないのだが――であればこそ接客や対人支援の仕事ばかり就いてきたわけだ――それでもなお、一人でいることの魅力には及ばない。
 

キヨブタ











  



 

● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 6

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

まさに「いま・ここ」で、生を深く、ありのままに見つめてください。
いまとここそのものには、物語はありません。
まさしく「いま・ここ」で起こっている何かについて、物語を作ることができますか?
「いま・ここ」に、物語は存在しないのです。
存在するのは、ただ生成消滅する諸感覚だけであり、無媒介の感覚だけなのです。
(標題書p.499)

 ソルティは本を読むのと映画を見るのが好きである。
 若い頃からそうだった。
 物語に毒されているのだ。
 日本人の読書離れ、映画離れが言われて久しいけれど、「じゃあ、ソルティのようには読書や映画鑑賞をしない人々が、物語から解放されているのか?」と言えば、そんなことはまったくない。
 親のしつけや学校教育から始まって、テレビ、新聞、雑誌、漫画、ゲーム、流行歌、街じゅうに溢れる広告、ネット上のコメント・・・・・物語は無辺に広がって、それらを無自覚に受け入れる人々を洗脳しまくっている。
 世界は物語であふれている。

 これが現代情報社会の宿痾と必ずしも言えないのは、未開社会の部族にも、たとえば神話や掟や風習という形でそれなりに物語は存在し、内部の人々を良くも悪くも縛りつけているからだ。
 たとえば、遺伝的弊害を回避するインセスト・タブー(近親姦禁忌)は“良い”物語であろうし、女性器切除は“悪い”物語と言える。
 違うのは、現代社会では物語の種類と量が膨大になって、人々がそれに毒される時間が増えてしまったことだろう。
 未開社会の人々が大自然という厳しい現実と日々向かい合わざるを得ないのにくらべ、自然を克服しつつある文明社会の人は、一日のほとんどを物語の中に生きられる。


book-794978_1920
ComfreakによるPixabayからの画像


 物語とは何か?
 「いま・ここ」に存在しないファンタジーである。

 たとえば、恋愛ほど人が物語の毒にはまっているさまを示すものはなかろう。
 愛する人のちょっとした言葉やしぐさや眼差しを、いかに曲解し、大袈裟に受け取り、妄想たくましくして、一喜一憂することか。
 自分で勝手に相手との物語を作り上げ、浮かれたり、患ったり、有頂天になったり、思い悩んだり、落ち込んだりすることか。
 自分にとって都合の良い物語を信じ込んで相手に夢中になり、ふたを開けてみたらとんだ勘違い、事実とのグロテスクなまでの乖離に、「舌かんで死んじゃいたい!」と自らの愚かさを呪ったことのある人は、決して少なくないだろう。

 あるいは、男なら誰だって(と一括りにすると反発来そうだが)、マスターベーションにおける妄想を伴った快楽と、射精後に来る「いま・ここ」の現実(=3㏄の精液の処理)の落差を知らぬものはいないだろう。
 “賢者タイム”とはよく言ったものである。

 物語とは、別名、記憶であり、空想であり、妄想であり、追想であり、後悔であり、想像であり、幻想であり、解釈であり、予断であり、不安であり、忖度であり、ファンタジーであり・・・・・・。
 つまるところ、思考である。
 
 ある意味、人間と動物との違い、あるいは大人と幼児との違いは、「物語を持つか持たぬか」というところにある。
 動物は物語を持たない。常に「いま・ここ」に生きている。
 「いま・ここ」の感覚と本能に基づいて、食欲、生殖欲、睡眠欲、現実的な危険の回避に追われて生きている。
 幼児もまた物語を持たない。
 「泣いたカラスがすぐ笑った」という言葉が示す通り、瞬間瞬間の感覚と本能と気分だけにコントロールされて生きている。
 地球上に生息する何百万という生物の中で、幼児を除く人間だけが、「物語を持っている、その中を生きている」というのは、よく考えると空恐ろしいことである。

 いや、だから人間は素晴らしいのだ、万物の霊長なのだ。
 ――という意見もあろう。
 たしかに、物語には人を動機づけ、狩り立たせ、力づけ、勇気をあたえ、未知なるものへ挑戦させ、団結させ、感動させ、退屈を紛らわし、創造させ、生きる希望をもたらしてくれるパワーがある。オリンピックを例に挙げるまでもない。
 物語のない社会、物語のない人生ほど、無味乾燥なものはあるまい。
 一方、人と人とを切り離し、誤解させ、憎しみや恐れを生み、競わせ、差別や迫害や戦争のもとを生みだすのも物語である。
 宗教や主義や民族という物語が、どれだけ人類の歴史を残酷に彩ってきたことか!
 物語は諸刃の剣なのだ。

character-2068294_960_720


 人類が長い進化の時を経て物語を持てるようになったのは、「時間」を持ったことと関係していよう。
 記憶と想像、つまり過去と未来を手に入れて、はじめて物語が生まれたのだ。
 それはきっと、火や言語の獲得と同様、我々の遠い祖先が厳しい環境の中で生き残るのに役立ったからこそ、人類の性質として備わったのだろう。
 言語と物語の誕生によって、世代から世代への情報伝達が容易になり、生き残るための知識が蓄えられたことは想像にかたくない。

 元来、生き残るために獲得された性質の一つであるはずの物語(形成能力)が、いつのまにか、人が「いま・ここ」の現実を生きることを阻む方向に働くようになり、人は物語に取り込まれ、過去と未来の中を生きるようになった。
 それは、ネットゲームの主人公(アバター)の活躍するドラマを、自らの人生と勘違いしているゲーマー青年と、架空を生きているという点では何ら変わるところがない。

 過去は、過ぎ去って、今はない。
 未来は、未だ来たらず、ここにない。
 現実にあるのは「いま・ここ」だけなのだ。

 マインドフルネスとは、瞬間瞬間の感覚に意識を置きつづけることで「いま・ここ」にあり続ける実践である。
 物語からの解放なのだ。

dandelion-4568537_960_720


 ソルティ自身のスタンスを言えば、物語に毒されていることは重々承知しているものの、それを100%拒絶するのも阿呆らしいと思っている。
 そもそも遺伝的あるいは後天的に植え付けられた物語(形成能力)をゼロにするなどできるべくもなく、社会生活を送って他人とコミュニケートする以上、物語を無視するなど不可能である。(それができるのは完璧なサイコパスだけだろう)
 と言って、もういい加減、ありもしないファンタジーにかまけて「いま・ここ」の生を取り逃し続けるのはごめんこうむる。

 物語とは適当につきあうのが良い。
 ブログで本や映画について書くのは、襲いかかる物語に無防備に身をさらして蹂躙されないよう、物語に対して免疫をつけるためのワクチン接種のようなもの。
 ――と自己韜晦をはかっている(苦笑)











● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 5

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 私たちは求めているからそれを得ている。
 不幸を求めているからこそ、私たちは不幸なのです。
 しかし、私たちはそれを否認している。
 ただ幸せを求めているのだ、と私たちは言う。
 しかし、「幸せ」という言葉によって、言われているものは何でしょう?
 欲望を満たすこと?
 もし本当にそれを求めていなければ、私たちは自由なのです!
 (標題書P.417)

 不幸を求めているから不幸?
 そんな馬鹿な!

 ――と思う人も多いかもしれない。
 誰だって幸せを求めて生きているはずだ。
 マゾでもない限り、誰が好きこのんで自らの不幸を求めるだろうか?

 ウ・ジョーティカ師の言葉には重層的な意味合いがあるように思う。
 一つには、私たちが普通に考えかつ求めている幸せとは、「欲望の満足」であるという点である。
 お金がほしい、友だちがほしい、恋人がほしい、子供がほしい、仕事がほしい、持ち家がほしい、別荘がほしい、洋服がほしい、車がほしい、宝石がほしい、地位がほしい、名誉がほしい、権力がほしい、健康がほしい、美貌がほしい、若さがほしい、永遠の命がほしい・・・・。
 欲望の達成を「幸せ」と考えるならば、それを求めている間は当然「不幸せ」になる。
 達成したあかつきに得た「幸せ」は、一瞬の満足ののち、目減りし魅力を失っていく。
 獲得した物は変化し、いつかは壊れ、失われていく。
 そのうえ、「欲望を達成する」という行為自体が生き癖となってしまっているので、次の新たな獲物を作り出さないことには虚しさに襲われるばかり。
 すると、「幸せ」は永遠に先送りされる。
 欲望を満たすことは「幸せ」にはつながらない。

 今一つには、私たちは、表面的でわかりやすい上のような欲望とは別に、自らが無意識に欲しているもの(状況)というのがあって、いつか必ずそれを具現化してしまうというほどの意味合いである。
 これはなかなかわかりにくいところである。特に、欲望に向かってまっしぐらの、イケイケバンバンの若い頃は・・・・。
 たとえば、覚醒剤を隠れてやっていた有名人がついに警察に捕まったときに、「ホッとした」とか「いつかはこうなるんじゃないかと思っていた」と本音を漏らすことがある。
 そういうときに彼らの内面で働いているのは、一見不幸の極みに見えるようなそういう状況――逮捕され衆目にみじめな姿をさらし、家族や友人や仕事や名声や信用や財産やらを失うというような状況――を、心のどこかで望んでいたことに対する“気づき”ではないかと思うのである。
 つまり、覚醒剤に手を染めなければならないくらいまで無理のある生活、虚飾にみちた日常、上げ底の自分が、逮捕によってやっと破綻し“ありのまま”の自分に戻れたという思いが、「ホッとした」というセリフになるんじゃなかろうか。
 意識の上では華やかなスターの「自分」を目指して我武者羅に生きてきたけれど、無意識が望んでいたものはもっと別の「自分」であった。

 あるいは、何らかの事情で自分を卑下しているとき、人は手に入れた幸運や成功を素直に受け取れず、自分がそれにふさわしいと思えなくなる。
 「こんな自分が幸福であってよいはずがない」という罪悪感は、それにふさわしい状況をおのずから身の回りに作り出してしまう。
 スピリチュアルでよく言われるところの「思いは現実化する」。
 
 言いたいのはつまり、多くの人は本当に自分が望んでいるものを知らないで生きているのではないか――ということである。
 そこに気づかせてくれるきっかけが「不幸」や「逆境」であるとしたら、人は心のどこかでそれらの訪れを待っているとさえ言えるのではなかろうか。

 三島由紀夫がやはり天才だなと思うのは、彼が40歳のときに発表した『サド侯爵夫人』の中にこんなセリフがある。

いいえ、私が自分で望んでいたものが、この年になってだんだんわかってきました。ずっと若いころには、私もあなたと同じように、そんな二種類の思い出を望んでいるような気がしていました。・・・・ヴェニスと、仕合せと。・・・・でも私の思い出に残ったものは、私の琥珀の中に残った虫は、ヴェニスでもなければ仕合せでもない。ずっと怖ろしいもの、言うに言われないものでした。若い私が望むどころか、夢にさえ見なかったもの。でも、今では少しずつわかってきました。この世で一番自分の望まなかったものにぶつかるとき、それこそ実は自分がわれしらず一番望んでいたものなのです。
(新潮文庫『サド侯爵夫人』) 

 この戯曲を20代で読んだ時、ソルティはこの三島特有の典雅で才気に富んだ逆説に非常に感銘を受けた。
 が、その真に意味するところはまったく分かっていなかった。
 三島がこれを書いた年齢も、三島が自決した年齢もとうに越えた今、このセリフを非常にリアルなものに感じるのである。

IMG_20210205_154958

● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 4

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 私たちはみな、それぞれ異なった仕方で精神的に病んでいるのです。
 完全に健康な身体というのは存在しません。医者はそのことを知っています。
 完全に健康な精神さえ、存在はしないのです。
 しかし、それはあなたが狂っているという意味ではありません。あなたはただ正常、つまり正常に不健康なのです。
 あなたがこうした種類の、距離を取る洞察智をつければ、あなたの心はたいへん健康になります。
 本当に健康になるということは、本当に明晰な理解を得るということです。精神的に健康になるためには、他の道はありません。
(標題書P.263)


 最近、巷でよく聞く言葉に「HSP」というのがある。
 Highly Sensitive Person(ハイリ―・センシティブ・パーソン)の略で、非常に繊細で敏感な人のことをさす。俗に「繊細さん」と呼ばれている。
 アメリカの心理学者エイレン・アーロン博士が提唱した概念で、人口の15~20%が該当するそうだ。
 HSPは病気ではなくて生まれ持った気質で、次のような特性が挙げられている。
  1. (物事を)深く処理する
  2.  共感力が高い
  3.  過剰に刺激を受けやすい
  4.  ささいな刺激を感知する
 こうした特性ゆえ、非HSPの人にくらべて敏感に感じたり過剰に気づいたりするため、精神が疲れてしまい、生きづらさを感じることになる。

 「モロ自分やん!」と思ったそこのアナタ!
 正解です。
 「自分をHSPだと思っている日本人は53%に達する」というデータもありますから(笑)。
 むろんソルティもHSPです。

繊細さん

 何が言いたいのかというと、「学者先生め、またこうやって新しい“心の病”を作り出しやがって・・・・」というぼやきである。
 フロイト以降、どれだけ“心の病”が生み出されてきたことか!

更年期障害、 月経前症候群(PMS)、 アルコール依存症、 適応障害、 自律神経失調症、 摂食障害(過食症・拒食症)、 不眠症、 双極性障害(躁うつ病)、 うつ病、 認知症、 パーソナリティ障害、 統合失調症、 発達障害、 高次脳機能障害、 自閉症、 心的外傷後ストレス障害(PTSD)、 強迫性障害、 パニック障害、 睡眠時無呼吸症候群、 慢性疲労症候群、 ADHD(注意欠陥・多動性障害)、 アスペルガー症候群・・・・・e.t.c.

 こういった症状に悩み苦しんでいた当人にとっては、「自分が他の人と違っておかしかったのは病気のせいだったのだ。自分を責めなくてもいいんだ。病名がついて良かった!」という解放感と安心感を得て、それなりに開発され手順化された治療につながっていくのであろうし、それなりに治療効果もあるのだろう。
 が、一方、新たな“心の病”の誕生は、心理学者や精神科医ら“心の治療”にたずさわる人々の出番を増やし、飯のタネや利権の温床となることも否定できない。
 アルコール依存症なんて、昔は単なる“大酒のみ”で通っていたはずだ。
 HSPも“ナイーブな人”で通っていたはずだ。
 
 何が言いたいのかというと、こうまで“心の病”だらけになると、「いったい何らかの“心の病”に該当しない人間っているのだろうか?」という疑問が生じるのである。
 ここに100人の人間がいて、うちHSPが50%、更年期障害が30%、認知症が14%、うつ病が6%、統合失調症が1%、アルコール依存症が0.9%・・・・と数えていったら、すべての日本人(少なくとも大人)はなんらかの“心の病”にかかっていることになりはしないだろうか?
 逆に言えば、“健康な心”をもっている大人っているのだろうか?

 そもそも、何をもって“健康な心”と言うのだろう?
 厚労省の定義は以下のごとし。

 こころの健康とは、世界保健機関(WHO)の健康の定義を待つまでもなく、いきいきと自分らしく生きるための重要な条件である。
 具体的には、自分の感情に気づいて表現できること(情緒的健康)、状況に応じて適切に考え、現実的な問題解決ができること(知的健康)、他人や社会と建設的でよい関係を築けること(社会的健康)を意味している。人生の目的や意義を見出し、主体的に人生を選択すること(人間的健康)も大切な要素であり、こころの健康は「生活の質」に大きく影響するものである。
厚労省ホームページより抜粋)

 仏教の定義はもっと単純である。
 悟らない限り、人はみな精神的に病んでいる。
 最終的な悟りに達した阿羅漢だけが“健康な心”を備えている。
 なぜなら、阿羅漢には自我がないからである。
 自我こそが“心の病”の元凶である。

 なるほど、自我のない子供は心を病まない。
 成長して強固な自我を育てるほどに、人は精神的な病に陥りやすくなる。
 精神的な病の多くは、自我と社会との軋轢によって生じるからだ。
 
 なので、「私は病気である」と言うのは間違い。
 「私」が病気である。
 
 
 

● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 3

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 より能率的であることを学んでください。一つのことにおいてだけではなくて、あなたが行う全てのことにおいてです。 
 そして、能率的であるためのいちばんの方法は、落ち着いて安らいだ状態でいることです。
 もし急いでいて、落ち着きを失っていたら、何事を行うにもより多くの時間がかかることになります。

 通勤列車の中でシートに腰かけて、夢中になってミステリーを読んでいる。
 駅に到着し、ドアがプシューっと開く。
 「〇〇~、〇〇~」
 うわの空で聞いていたアナウンスが、数秒たって、意識に上がってくる。
 ハッと、そこが降車駅であることに気づく。
 焦って、しおりを本に挟み、ジッパーの空いているデイバッグに投げ入れ、肩ベルトを片一方の肩だけに掛けて、ドアへと急ぐ。
 そのとたん、口の空いたままのデイバッグから、ペットボトルが落ちて車内を転がってゆく。
 ほかの乗客の注視を浴びながら追いかけていると、今度は小物入れが落ちる。
 発車ベルの響く中、二つを拾い上げて、ドアの閉まる直前に降車する。
 セーフ!

 こういった間抜けな展開が意外に多いソルティ。
 ペットボトルや小物入れが落ちない時は、降車したしばらく後に、帽子を座席や帽子掛けに忘れてきたことに気づく。
 すべては焦るがゆえの失敗・・・。

忘れ物


 実際のところ、列車のドアの空いている時間(≒停車時間)は20~30秒である。
 結構長いんである。
 少なくとも、本をゆっくり閉じて、デイバックに納め、ジッパーをしっかり閉めて、肩ひもを両肩に掛けてデイバッグを背負い、それから立ち上がって、座席を振り返って忘れ物はないかを確認し、ゆっくり歩いて列車を降りてもまだ余裕があるほど、十分に長い。
 そのことをソルティは、足をケガして松葉杖で列車移動しているときに、はっきりと知った。
 鉄道会社は当然、足腰の悪い高齢者や障害者、ベビーカーを押す若いママ&パパたちが、焦らず安全に乗降者できるほどの時間は見ているのである。
 座席で上着と靴を脱いで弁当を広げているという行楽モードならともかく、通勤モードで焦る必要などまったくない。
 
 焦りは、人を失敗に導く大きな原因の一つである。
 大事な試験のとき、車を運転しているとき、期限までに書類を作成しなければならないとき、人との待ち合わせに遅れそうなとき、やることが一杯あって何から手をつけていいかわからないとき・・・・。
 誰もが思い当たることがあろう。
 重要な場面でこそ焦りは生じるものだが、その焦りが物事の能率を下げ、持っている能力の発揮を妨げるのだから厄介である。
 焦らなければ全然問題なく片づけられることが、焦って落ち着きをなくすゆえに失敗する。
 
 そんなときに「大きく深呼吸する」というのが昔からよく言われている手であるが、より効果の高い手が、マインドフルネス瞑想(ウィッパサナ瞑想)である。
 ウィッパサナ瞑想によって、今現在生じている感覚や動きや感情や思考を観察すると、その観察するという行為自体が、人を時間から解放し、「落ち着いて安らいだ状態」にする。
 その状態で物事にあたると、心と頭脳と体がコンピュータのように最適化されて、やるべきことが明瞭に見え、淡々と進められ、その時のその人の最高に近い能力が発揮される。
 これは知っていて損はない。

 ソルティ自身の経験で言えば、ウィッパサナ瞑想をするようになってからここ数年の間、3回の大きな資格試験を受けた。
 2回は国家試験(介護福祉士、社会福祉士)、1回はケアマネ(介護支援専門員)の試験である。
 いずれの場合も、試験当日、開始直前までウィッパサナ瞑想をやっていた。
 おかげで、まったく焦ることがなかった。
 緊張はしたが、それはアスリートがよく口にする「良い緊張」であった。
 いずれも無事一発合格することができたが、たとえ合格しなかったとしても後悔はなかったであろう。
 なぜなら、その時に自分が持っていた能力は最大限発揮したという思いがあったからである。
 試験終了後、「やれるだけはやった」と素直に思えた。
  
 まったく、ソルティのような緊張しやすく焦りやすい“小物”にとって、この瞑想は福音である。



● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 2

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 私たちは生きるために、生活するために、健康でいるために、たくさんのことを必要とします。
 しかし、満たされたと感じるために、出かけていって外側の事物を探し求めたりはしないでください。外的な事物は何も、あなたを満たされたと感じさせてはくれません。
 唯一、あなたを満たされたと感じさせてくれるのは、自身のスピリチュアルな本性に深くふれること。とても高貴で、とても美しい本性にふれることです。(標題書P.150)

 こういった言説は、スピリチュアル業界ではよく耳にするところである。
 我々が真に望んでいるものは、外の世界のどこか遠いところにはなく、身近なところにある。
 メーテルリンク『青い鳥』やジュディ・ガーランド主演『オズの魔法使』(1939)において象徴的に描かれているテーマである。
 ウ・ジョーティカ師は、「瞑想によってその内側の宝を見出しなさい」と言っているのである。

 とは言え、頭では分かっていてもなかなかできない。
 我々の外に広がる世界は、一見、あまりに豊かで、あまりに刺激的で、あまりに面白いからである。
 衣食住および安全といった、人が生きる上での不可欠な欲求が満たされるや否や、我々の関心と欲求は外の世界に向いてしまい、孤独と退屈を避けるべく、また、より多くの快楽と満足を得るべく、世界にかかりっきりになってしまう。
 ひねもすスマホをいじり続けている若者の姿は、まさにその象徴であろう。

 アメリカの心理学者アブラハム・マズロー(1908-1970)は、自己実現理論を唱え、人間の欲求を5段階の階層で説明した。
 以下のようなものである。

マズローの欲求段階説
『社会福祉士の合格教科書』(飯塚慶子著、医学評論社)より引用


 ウィキペディア「自己実現理論」の記述をもとに、下段から順に簡単に説明すると、
  • 生理的欲求 (Physiological needs)・・・生命を維持するための本能的な欲求で、食事・睡眠・排泄など。
  • 安全欲求 (Safety needs)・・・安全性、経済的安定性、良い健康状態の維持、良い暮らしの水準、事故の防止、保障の強固さなど、予測可能で秩序だった状態を得ようとする欲求。
  • 社会的欲求と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)・・・自分が社会に必要とされている、果たせる社会的役割があるという感覚。情緒的な人間関係についてや、他者に受け入れられている、どこかに所属しているという感覚。
  • 承認欲求 (Esteem)・・・自分が集団から価値ある存在と認められ、尊重されることを求める欲求。
  • 自己実現欲求 (Self-actualization)・・・自分の持つ能力や可能性を最大限発揮し、具現化して自分がなりえるものにならなければならないという欲求。
 マズローの説が妥当かどうかは検討の余地があろう――ソルティは「安全欲求」と「社会的欲求と愛の欲求」との間に「遊びと知識への欲求」というのがあると思う――けれど、とりあえずそのまま受け入れるとして、人が生きる上で最低限満たされるべき欲求は下の二つ、すなわち「生理的欲求」と「安全欲求」までではなかろうか。
 その上位に位置する二つ、「社会的欲求と愛の欲求」および「承認欲求」は、対人的・対社会的な文脈において生じるものであり、無人島や深山幽谷で独りきりで生きている人間が存在することを思えば、必しもすべての人間に不可欠とは言えまい。
 むろん、これは心理的な意味合いで言っている。
 食べ物や衣服や日用品を手に入れたり、交通機関やインフラを利用したりするために、誰しも他人や社会との関りは避けられないし、相互扶助は必要である。
 病気になったり介護が必要になったりすれば、他人の世話にならざるを得ないし、社会による共助や公助を求めざるを得ない。
 物質的には、他者や社会との関係はなくてはならないものである。
 
 ウ・ジョーティカ師が、「出かけていって外側の事物を探し求めたりはしないでください」という時に意味しているのは、マズローの説で言えば、下から3段目の「社会的欲求と愛の欲求」およびその“上位”に位置する欲求にのめりこむな、ということなのだろう。
 あるいは、2段目の「安全欲求」のうちでも、安全に健康的に生きるのに必要とされるぶん以上の金品を得ることにかまけるな、ということなのだろう。
 
 年を取って体が弱ると、仕事を始め、いろいろな活動から引退することを余儀なくされる。
 パートナーに先立たれ、活動範囲が狭まり、友人・知人が少なくなる。
 すると、「社会的欲求と愛の欲求」の危機がやってくる。
 地位や名声だけを誇りとも生きがいともして生きてきた人は、「承認の欲求」も最早得られない。
 老人ホームの食堂で、かつて有名企業の社長であったことを自慢しても空しい限りである。
 ソルティは、衣食住と安全が保障されている老人ホームで、多くの高齢者(とくに男たち)が“上位”の欲求を充足するすべを失い、抜け殻のようになって自分が保てなくなる様を見てきた。
 これが自分の行く末か・・・・と思わされた。

 それ以来、あまり仕事や組織や技能や人間関係に固執するのは得策ではないと思いつつ、瞑想実践するようになった。
 
 心がマインドフルな状態でない時、それは家のない人のように感じられる。
 とても不安で、とても不幸なのです。
 マインドフルでいる時、あなたは本当に在宅していると感じられる。
 ですから、「マインドフルネス(気づき)こそ我が家」なのです。 

青い鳥




● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 1

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 自尊心を失った時、私たちは自分を価値あるものと感じられません。自分を価値あるものと感じられなければ、どうなると思いますか? もし何かやったとしても、自分がそれに値すると思えなくて、誠心誠意やることができない。いい加減にやってしまうのですよ。自分に価値がないと感じる人は、本当に全力を出すことができないでしょう。彼らは自分が何かをやっているふりをするだけで、本当は違うのだと感じてしまう。何かに自分が値すると感じることは、とても重要なことなのです。愛に、自由に、平静に、深い智慧に、そして理解に値すると感じること。「あなたが至れるのは自己評価の高さまで」。このことはとても重要です。(標題書P.26、ゴチックはソルティ付与)

 この書を読むのは3回目である。
 前2回はウェブ上に『自由への旅~ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図~』のタイトルで無料公開されているものを、プリントアウトして読んだ。
 その後、思いがけずも新潮社から出版されて、ハードカバー500ページを超える大著3200円(税別)にもかかわらず、思いがけずも読まれているようである。
 タイトルの一部を「ウィパッサナー瞑想」から、流行りの「マインドフルネス瞑想」に変えたことが理由の一つであろう。

 コロナ禍の今は、ソルティのような瞑想実践者にとって得難き好機である。
 瞑想は、家で一人でできる金も手間もかからない暇つぶしで、体にも心にも良い。
 とくに、コロナに関する報道で不安を煽られたり、生活上の変化でストレスがたまったり、先の見えない状況に鬱っぽくなったりという昨今、心を落ち着かせる瞑想のありがたさは高まるばかりである。
 これが自由に外出できるとなると、ほかの娯楽や交流に惹かれて、家でじっと座ることが難しくなる。
 自粛生活を強いられる今こそ、瞑想が進むチャンスなのだ。
 マインドフルネス瞑想=ウィパッサナー瞑想を知り実践する人が少しでも増えるとしたら、それで人が仏教に触れるきっかけが生まれるとしたら、コロナ禍も決して悪いことばかりではない。
 
IMG_20210116_214255

 
 前回この書を紹介したとき、この書は「ウィパッサナー瞑想をやっている人にしか役に立たない」と書いた。
 それは決して嘘でも大げさでも極論でもない。
 本書の(著者ウ・ジョーティカ師の)目的は、ウィパッサナー瞑想を実践している人に対して、ウィパッサナー瞑想の概要を語り、瞑想をする上での具体的な注意点を伝え、瞑想が進むにつれ生じてくる智慧やスランプに関する見取り図を提供するところにある。 
 実際、本書のもとになったのは、オーストラリアのどこか静かな森の中で行われた瞑想合宿における講義録なのである。
 俗っぽく言えば、マニュアル本である。
 なので、将棋をやらない人にとって将棋のマニュアル本が役に立たないのと同様、ウィパッサナー瞑想をやらない人にとって本書は役に立たない。
 
 しかしながら、ウ・ジョーティカ師の語りには、瞑想実践者や仏教徒でなくとも通用し、生きるうえで役に立つであろう箴言がたくさんある。
 それは師が、瞑想と人生を深いところでリンクさせているからであり、その結びつきのありようを、指導を受ける者たちに包み隠さず呈示しているからである。
 そういうことができるくらいの哲学性と洞察力と人生経験と言語力と博学と、もちろん瞑想体験と指導力とを兼ね備えているのが、ウ・ジョーティカ師なのである。
 
 そういうわけで、3回目の通読となる今回は、本書を読んでソルティが感銘を受けた師の言葉の数々を紹介していきたいと思う。
 
trees-1587301_1280

 
 冒頭の引用は、瞑想実践に入る前に必要な心の準備について、師が語っているくだり。
 瞑想にそれなりの成果を望むなら、自尊心を持つことが大切だという趣旨である。
 これはしかし、師も触れているように、人生のあらゆる面について言えることである。
 自尊心の低い人は、何ごとにも満足いく結果を生み出すことができない。
 「あなたが至れるのは自己評価の高さまで」という文句はソルティの胸に強く響いた。

 ソルティは、ボランティアやNGOや介護の仕事などを通して、数十年来、対人支援の仕事に関わってきたが、つまるところ見えてきたのは、「人は自分を救えるレベルでしか他人を救えない」、「自分を癒せるレベルでしか他人を癒せない」、「自分を大切にするレベルでしか他人を大切にできない」という峻厳たる事実であった。
 自己に対する評価(愛、自信、優しさ、ゆるし、肯定、満足)の裏返しが、他人に対する評価(愛、自信、優しさ、ゆるし、肯定、満足)であり、それはまた社会に対する評価(愛、自信、優しさ、ゆるし、肯定、満足)につながる。
 他人や社会のために尽くすのは素晴らしいことだが、そこには自己に対する評価という壁(限界)が立ちはだかっていて、それを無理に超えて自己犠牲を払うことは、必ずしも良い結果を生まない。
 一時的にはうまくいったように見えて、助けた相手から感謝されることがあったとしても、長いスパンで見たとき、必ずしも援助された当人のためにならなかった、というケースを結構目撃してきた。(GOTOキャンペーンのよう?)

 それはおそらく、自分の壁を超えて無理をした分が、あとから揺り戻されるからだと思う。
 他人や社会のために何か良いことをしたいと思ったときに、その動機の中に自己否定的なもの(たとえばトラウマやコンプレックスや怒りや憎しみや欲求不満といった)が含まれていると、知らずその否定的なものは外側(他人や社会)に投影され、転写されてしまう。
 闘うべき相手を外側に作り出してしまう。
 それは自分が作り出した幻なので、永遠に打ち倒せない敵となる。(キリスト教における悪魔のよう?)
 また、自己否定がもとにある自己犠牲的支援は、その恩恵を受けた人の中に知らず罪悪感や負担や依存を生み出してしまうことになりかねない。
 わかりやすい例を挙げる。介護保険のいいところは、介助者に給料が払われる仕組みが、介護される高齢者の心理的負担を減らすことにある。
 家族でも恋人でもなく、なんの見返りもなさそうなのに、自分のうんちを処理してくれる相手に対し、あなたはどういう気持ちを抱くであろうか?

 自分の問題を棚上げにして、自分の問題から逃避して、他人や社会のことにかまけても、うまくいかない。
 まず隗より始めよ。
 幸福は自分から。
 ソルティは、それが、その昔インドで小乗仏教(とけなされた人たち)が発見した真理の一面だったのではないかと思うのである。

P.S. 補足するまでもないことだが、これは「人助けや社会運動はやるだけ無駄」という意味ではまったくない。




● セロトニンの秘密 本:『瞑想脳を拓く』(井上ウィマラ、有田秀穂共著)

2007年佼成出版社
 
 井上ウィマラは、曹洞宗とミャンマーのテーラワーダ仏教で出家し、瞑想を極めた(?)人。還俗して、現在は高野山大学スピリチュアルケア学科で教鞭をとっている。
 有田秀穂(ひでほ)は、東大医学部卒業後、脳神経の研究に従事してきた科学者。瞑想や坐禅が脳神経に及ぼす影響を科学的手法で検証している。
 有田の研究に興味を持った井上が、実験の被験者として参加したことから、二人の関係が始まったようである。
 本書は、二人の対談をメインに、副題の通り、「脳生理学があかすブッダのサイセンス」を追究している。

IMG_20201119_211252


 修行者が瞑想で得られる様々な(神秘)体験・境地・智慧を科学的に解明することに対して、あるいは、悟りを単なる生理学用語に還元してしまうことに対して、不快な思いを抱く人もいるかもしれない。
「悟りはそんな単純なもんじゃない」
「なんでもかんでも科学で解明できると思うのは、唯物論者の傲りにほかならない」
「人間はそんな機械的なものではない」
といった声が聞こえてくる(空耳?)

 ソルティはそんなことはない。
 瞑想で体験することに何らかの科学的根拠があるのは当然だと思うし、悟りや禅定はある程度まで脳内現象で説明できるはず、と思っている。
 そこに、神秘的な何か――たとえば、プレアデスからの光線とか、守護霊のお導きとか、阿弥陀仏の慈悲とか、アセンデッド・マスターの計略とか、別次元にいるソウルグループの援助とか――を持ち出すほうが、むしろ抵抗を感じる。  
 というのも、ソルティは「悟りは人類の次なる進化の段階」と思っているからだ。 
 
 つまるところ、地球上の生き物の進化とは、脳の進化にほかならないと思う。小さな脳から大きな脳へ、単純な脳から複雑な脳へ、一つの脳から複数の脳へ。
 あるいは遺伝子の進化といってもよいのだろうが、生き物の基本的機能をもっとも強く規定するのが脳および脳の出す指令であることは否定できまい。遺伝子はその脳の形成に関わっている。
 だから、人類の脳が地球上の生き物の中でもっとも緻密で複雑であるものと仮定して、まだ人類に進化する余地が残されているとしたなら、それは「脱人類」へ向かっての脳のさらなる進化に違いないだろう。
 それが「悟り」なんじゃないか。
 (逆に言えば、この進化をやり損なったら人類は早晩、滅亡するんじゃないか)


evolution-3885331_1920
 
 
 
 本書で、有田は脳内にある“心に関係する”神経として、次の3つを上げている。
  1.  ドーパミン神経 ・・・・・・「快」に反応する神経。
  2.  ノルアドレナリン神経 ・・・「ストレス」に反応する神経。
  3.  セロトニン神経 ・・・・・・上の両者を制御できる神経。
 ドーパミンは、美味しいものを食べたり、セックスしたりすると分泌される。個体が生存し、種が存続するのに必要な食欲と性欲とにかかわる。これが過剰に出ると、欲望が高じ、依存性をもたらす。
 ノルアドレナリンは、副腎髄質から分泌されるアドレナリンと共に、闘争あるいは逃避反応を生じさせる。怒りや攻撃性や不安や恐怖を呼び起こす。
 セロトニンは、食欲や性欲を抑制する働きをもち、外からのストレスに対して反応しないという。上の二つの物質をコントロールし、精神を安定させる。

 これがあたかも仏教で言う「貪(むさぼり)」、「瞋(いかり)」、「痴(無知)」に相応するところが興味深い。欲と怒りをコントロールするセロトニンの働きは、「智慧」や「中道」を意味しているように見える。
 あるいは、本書でも示唆されているように、釈迦国の王子時代のブッダ(ドーパミン過剰期)と、苦行時代のブッダ(ノルアドレナリン過剰期)、そして悟ったあとのブッダ(セロトニン充足期)を暗喩しているようで面白い。

有田:ドーパミン神経という快の神経と、ストレスの神経のノルアドレナリン神経と、その両者を制御できるセロトニン神経の三つが、心の模様をつくっていると思われますが、この三者を比べたとき、それぞれの役割の違いだけではなく、重要なのはその神経が果たして鍛えられるかどうかということです。おそらくセロトニン神経だけが鍛えられるという事実に、ブッダも気づいたと思うのです。

 もちろん、ブッダは脳科学など知らなかったし、セロトニンの存在も知らなかった。
 ただ、自らを実験台として、「どうすれば欲と怒りを抑制できて、中道の状態が持続できるか」を発見したのであろう。
 発見とは、すなわち道諦であり、八正道であり、ヴィパッサナー瞑想である。

ウィマラ:宗教の怖さの一つに、トランス状態にもっていったりとか、泣かせたり、涙を流させることでマインドコントロールして、ある信念体系のなかに入れてカルト教団をつくっていったという歴史が一部にあります。その宗教体験はほとんどの場合、神秘体験が鍵を握ります。
 一方、ブッダの瞑想の特徴は、このセロトニンを鍛えていくことに深くつながっている、と言えます。つまり、ブッダの気づきの瞑想の特徴は、涙を流すという感覚あるいは自己溶解体験にもあてはまらない、トランスとエクスタティックな状態にも留まらないということ。その体験を一時的なものとして通過し、その体験自体を見守る、ずっと見続けていられる安定したバランスのいい「見守り」を育ててくれるのです。

 有田によれば、セロトニン神経を活性化させるのは、腹筋を使った呼吸、咀嚼、歩行などのリズム運動を“意識的に”継続することだという。同じ歩行でも、雑念があったり周囲に気が散ったりするような散歩ではダメだという。
 「今ここ」で起こっていることに対する“気づき”が大切なのだ。
 一方、セロトニン神経には自己制御機能があって、ある程度の量が分泌されるとそれ以上は出ないように、自動的に抑制回路が働き出して分泌を減少させる。
 つまり、セロトニンによる効果は一時的である。
 この自己制御機能を鈍化させ、脳内回路を変えるためには、長期間の持続的かつ意識的なリズム運動が必要だという。
 それがセロトニン神経を鍛える、つまり修行の意味というわけだ。

 瞑想修行が精神を安定させ、ひとを幸福にすることの科学的根拠を示す本として、一読の価値がある。

  


おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 本:『徹底比較 ブッダとクリシュナムルティ そのあるがままの教え』(正田大観著)

2018年 コスモス・ライブラリー

 当ブログで紹介したJ.クリシュナムルティ著『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』(Can Humanity Change ? )の訳者の一人による、上記書の“続編”あるいは“補完編”といった趣きの本である。
 上記書はその邦題から、ブッダとクリシュナムルティの教えの相違が探究されている本かと期待して購入したのだが、フタを開けてみるとまったくそんなことはなく、肩透かしを食らった。
 とは言え、邦題をつけた者を単純に責められないのは、上記書の主要部分を成す、クリシュナムルティ(以下Kと記す)およびテーラワーダ仏教僧であるワルポラ・ラーフラをはじめとする複数の著名人の対話において、そもそも目論まれていたのはKの教えと仏教との相違の探究であったと思われるからである。
 対話の口火を切るのに、用意万端、ブッダの教えとKの教えの類似点を要領よく並べ上げて指摘し、Kの返答とそこから始まる両者の比較検討を期待していたであろうラーフラに返ってきたのは、「私とブッダを対比する必要がありますか?」という、Kのなんとも素っ気無い言葉であった。
 そこからは、まったく仏教とは関係ないところで話は展開していく。
 ラーフラおよび対話の企画者の目論み及び意気込みは、開始早々、あっさり棄却されてしまったのである。
 その「十倍返し」というわけでもあるまいが、本書において正田が試みたのが、まさに上記書で叶わなかったブッダとKの教えの比較なのである。

 本稿においては、おこがましくもラーフラ師になりかわって、ブッダとクリシュナムルティの教えを比較検討し、その共通点を提示し確認したく思うのである。簡単に言えば、「ブッダとクリシュナムルティの比較思想論」を試みるわけだ。

 ブッダとクリシュナムルティが同じことを言っているのであれば、それは、真理が一つであることを意味している。真理は一つであり、一つしかない真理を発見したので、言ってることが同じになった、という理解。・・・・(中略)・・・・この前提をもとに、クリシュナムルティの言葉を参照しつつ、ブッダの教えを再構成するのが、本書の進み行きとなる。

IMG_20201012_114304


 著者は、「無常、苦、無我、あるがまま、いまここ、からっぽ、貪欲、憤怒、迷妄、条件づけ、快楽、恐怖、二元性、思考、妄想、依存、見解、既知、無執着、気づき、智慧、解脱、遠離独存、涅槃寂静」の24のテーマについて、およびその他10の小テーマについて、両者の言説を引用し、比較検討している。
 引用の出典に選ばれたのは、ブッダの言葉については『阿含経典』の中でも最も古い教典とされている『スッタニパータ』と『ダンマパダ』であり、Kの言葉についてはその著書『四季の瞑想――クリシュナムルティの一日一話』(コスモス・ライブラリーより邦訳刊行)である。
 もちろん、単に両者の教えを比べて共通点を指摘して良しとするのみでなく、読む者にたびたび自己覚知をうながし、真理とは何かを一緒に探求することを呼びかけている。
 野心的な試みと言えよう。
 
金時山 041

 
 結論から言うと、ブッダとKの教えはほとんど同じであり、真理は一つであることが証明されている。
 予期していた通りではあるが、このように一つ一つテーマごとに徹底比較されると、両者は用いる言葉や表現さえ異なれど、呼応するように同じポイントをついていることが明らかとなる。
 たとえば、「思考」についての言説をみると、
 
ブッダ : 転倒した思考の人に、強き貪欲の者に、浄美の随観者に、渇愛(の思い)は、より一層、増え行く。この者は、まさに、結縛を堅固に作り為す。
 しかしながら、彼が、思考の寂止に喜びある者であり、不浄(の表象)(不浄想)を修める、常に気づきある者であるなら、この者は、まさに、(貪欲の)終焉を為すであろう。この者は、悪魔の結縛を断ち切るであろう。(ダンマパダ349~50)
 
K : 悲しみの終焉を理解したい人は、この思考する者と思考、経験する者と経験されるものという二分性を理解し、見出し、乗り超えていかねばなりません。つまり、観察する者と観察されるものの間に分裂があると、時間が起こり、故に悲しみは終わらない、ということです。(中略)観察する者、思考する者とは言うまでもなく、思考の産物であります。思考がまず最初に来るのです。観察する者や思考する者ではありません。思考がまったく存在しなければ、観察する者も思考する者も存在しないことでしょう。そうすると、完璧で全面的な注意だけが存在するのです。(『四季の瞑想』238ページ)

 正田が述べている通り、2500年前のブッダの簡略な言葉――当時は筆記文化がなかったので教えは暗誦できるように簡略化・韻文化せざるをえなかった――が、20世紀の英国で高等教育を受けたKの明晰かつ論理的な文章により、より説得力を持って深いレベルで解釈されつつ再構成される、という現象が起きている。
 あたかもKが、ブッダの教えを現代語に翻訳して解説してくれている、かのような印象を受ける。
 いささか残念なのは、比較に使用された『スッタニパータ』と『ダンマパダ』の和訳がわかりづらい。正田自身による訳のようだが、ここはたとえば岩波文庫の中村元の訳をそのまま使用したほうが良かったと思う。たとえば、上の文の「浄美の随観者」、「不浄想」ってなんぞや?


PA080288


 さて、ブッダとKの教えがほとんど同じなのは分かった。
 しかし、やはり気になるのは、むしろ両者の違いであり、その理由である。
 その意味で、本書で一番興味が引かれたのは、両者の違いについて触れている「あとがき」であった。
 正田は、ブッダとKの大きな違いとして、①組織をつくることの是非、②セックスに対するスタンス、の二つを挙げている。これに、③悟りへの道を説くことの是非、を加えれば完璧になると思う。
 
 言うまでもなく、ブッダは出家者の集まりであるサンガを作り、それを重視した。仏・法・僧(ブッダと仏法とサンガ)は仏教の三つの宝である。
 一方、Kは自らを長とする裕福な組織(星の教団)をその手で解散してしまったことからも分かるように、生涯、組織には反対だった。組織は必ず腐敗につながる、個人を真理へ導かないと言ってはばからなかった。
 この両者の違いを、2500年前と現代との「伝達手段」の違いの観点から考察した正田の意見がうがっている。
 オーディオ機器はもちろん筆記文化がなかった2500年前のインドでは教えを伝えるには、口承に頼るしかなかった。ゆえに組織が必要だった。一方、Kの教えは、組織に頼らずとも、本やテープレコーダーやラジオやテレビなどで記録保存され、後世に伝えられる。この違いは大きい。
 たしかに、サンガがなかったならば、仏滅後の結集がなかったならば、われわれが今ブッダの教えを学ぶことは不可能だったろう。組織あってこそ、である。
 
 次にセックスについて。
 ブッダの基本姿勢は「禁欲」であった。出家者はむろんセックスNG、オナニーNG、恋愛NGである。在家に対しても、五戒に見られるように、「みだらな性行為」を戒めた。この「みだらな性行為」の定義が難しいが、基本、結婚(あるいは婚約)している者同士のセックス以外はご法度ってところであろう。不倫などもってのほかである。(ただしブッダは不倫は良くないとしたが、不倫した在家者を責めたり裁いたりすることはなかったと思う)
 一方のKであるが、ソルティの(読書)記憶によれば、若い頃はセックスに対してブッダ同様の厳しい態度を見せていたように思う。途中から、態度が軟化し(?)、逆に禁欲主義を批判する言辞が現れるようになったのではなかったか? セックスすること自体はNGとせず、セックスを“問題”としてしまう「思考のありかた」を問題とみたのである。
 
 僧侶や聖職者の偽善的あり方に厳しかったKは、セックスの問題に関しても、同様の偽善を指摘する。抑圧的禁欲の愚かさとその矛盾。表と裏を使い分けて外見を取り繕うあり方は、たしかに、聖なるものとは言い難い。
 
 ブッダも、Kも、淫欲の害毒については、同じ認識を持っていたと言えるだろう。あくまでも心理的な遠離独存を説いたKにたいし、ブッダの場合、出家修行者に限ってではあるが、肉体的な禁欲を厳命したところが相違点となる。
 
 セックスの問題に対するKの答えは、愛とは非難が全く存在しない状態のこと、セックスがいいとか悪いとか、これはいいけれど他のものは悪いと言わない状態のことです、となる。問題を問題としない、全的なあり方。妄想に起因する矛盾が生じない、葛藤なき状態。情熱と鋭敏さ。そして、気づき。愛とは確かに情熱なのです、と喝破する、Kの言葉をかみしめたい。
 
 正田は、この件に関する両者の違いの様相については十分明らかにしているが、その理由については突っ込んでいない。
 問題が問題だけに――と「問題化」してしまうのが問題、とKなら言うところだろうが――簡単には論じることのできないテーマではある。
 さらに、正田も記している通り、Kには最近になって「不倫スキャンダル」が勃発した。親友で長年の仕事上のパートナーであった男(ラージャゴパル)の妻と、隠れて付き合っていた、しかも自分の子を二度も堕胎させていた――というものである。
 これがどこまで本当なのか、完全にでっち上げなのか、真相はいまのところ藪の中である。
 ソルティは、このニュースを聞いたときに、Kがセックスに対して途中から寛容になった背景はここにあったのかも・・・・・と率直に思った。自分が普段やっていることを、他人に「やるな」とは言えないだろう。
 が、不倫や堕胎はどうなのだろう? もし、この噂が本当なら、Kはまさに「偽善者」であり、「聖なるものとは言い難い」ように思えるが・・・・・。
 
 愚考をさらす。
 ブッダとKのセックスに関するスタンスの違いを作った原因の一つは、それこそ両者の若い時分の性愛体験の差にあるのではなかろうか?
 ブッダは、釈迦国の王子であった青年時代に「好きなだけヤリまくった」はずである。それこそ国中から選ばれし美女たちが宮中至るところに待ち構え、オナニーなんて覚える暇もなかったかもしれない。さまざまな恋も経験済みだったろう。いわば、釈迦国の光源氏。
 三十路で出家したときにはもう、「セックスも恋愛ももう十分です」の域に達していたのではなかろうか。性愛の「快」の底に潜む「苦」を徹底的に味わい尽くしていたのではなかろうか。人を無明の闇に突き落としてしまう愛欲の怖さを十二分に知り尽くしていたのではなかろうか。いや、その達観のさきにある虚しさが、出家を後押しした可能性も考えられなくはない。
 一方のKは、はじめて女性と関係を持ったのは三十路を過ぎてからという話で、そのときにはすでに
「悟りを開いた聖者」として周囲から遇され、その教えを広めていた。
  
 Kが言うところの、飛ぶ鳥が跡を残さないような「問題化」しないセックスならOK、と言えば聞こえはいいが、そんな簡単なものではなかろう。
 セックスにはどうしたって相手が必要だし、相手との関係が生じざるを得ないし、妊娠や性病をもらう可能性だってある。自分一人が悟っていたところで、悟っていない相手と深く関わればどうしたって問題は生じ得る。
 よもやKは「サクッと風俗」を勧めているわけではあるまい。
 
 性と宗教――このテーマは一筋縄ではいかないので、ここまでにしよう。
 
秩父巡礼4~5日 170
 
 
おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● オリジナル御詠歌でめぐる四国遍路108 エピローグ

 2ヶ月かけて巡ったネット上での四国遍路が終わった。
 自作の御詠歌と画像で振り返る四国の旅は、実に面白かった。
 とくに御詠歌を作る作業が楽しく、お寺の名前や特徴がうまく盛り込めた歌が生まれたときなど、心躍るものがあった。
 なんだかこの歌を作るために、前もって用意されたエピソードすらあった気がしたほどに。
 おかげで、別格20寺を含め、四国札所108の名前と順番と地図上の位置をすっかり覚えることができた。

 実際の遍路中も、また2018年12月初旬に結願してからも、遍路については当ブログでもたびたび書いてきたものの、中味が濃くて、なかなか消化しきれないでいた。
 旅はまだ終わっていないという感がずっとあった。 
 それが、今回の連載を終えて、「やっと、遍路が終わった!」という実感を持てた。


IMG_20200914_163516


 あらためて振り返ってみると、天候に恵まれていたなあ~と実感する。
 とくに海辺を歩いているときは快晴の記憶しかない。
 全行程にわたり、いい写真がいっぱい撮れたのは何よりであった。
 そして、あちこちで本当に土地の方の世話になった。
 いろんな形の「お接待」がなかったならば、旅はしんどいものになっていたに違いない。
 四国はいまや自分にとって第三の故郷となった。(第二は10年間住んだ仙台である)

 
 遍路をしている間は、ほとんどものを考えていなかった。
 過去のことを回想して愉しんだり後悔したりすることもなければ、未来のことを考えて妄想したり不安にかられたりすることもなかった。
 旅の先行きのこと、たとえば泊まる宿や取るルートや残り予算について思い迷うことはあったが、それも、香川に入ってからは消え失せた。
 そして、そのときそのときの様々なものとの出会いと別れを十分味わうことに心は集中するようになった。
 つまり、「いま、ここ」がすべてになった。


霊山参り(赤と黄色の花)


 遍路から日常生活に戻ると、またしても心は過去や未来にさまようようになった。
 あれこれと過去の失敗を思い出しては痛みをほじ繰り返し、もう二度とは訪れない快い追想に浸り、未来のことを想像しては浮かれたり、ブルーな気分に陥ったり・・・・。
 遍路から丸一年たった昨年12月に、駅の階段から落ちて骨を折ったのも、そのとき心が「いま、ここ」にいなかった何よりの証拠である。
 その後のコロナ騒動は、ご承知のように、未来についての不安をかき立てた。

 大体、人間は過去や未来について「考える」から問題を作り出すのであって、思考の入らない「いま、ここ」には問題も生じようがない。
 そのときそのときにやるべきことをやるだけだ。
 そしてまた、実際に存在するのは過去でも未来でもなく「いま、ここ」だけであり、我々が何とかできるのも「いま、ここ」だけである。

 過去や未来について「考え」て、その結果、幸せになるのならどんどん考えればいいと思うが、これまでの経験からも「考えることで幸せが手に入った」とは到底思われない。
 日が暮れるのも忘れて遊んでいる子どものように、「いま、ここ」にいる時が、間違いなく幸せである。

 遍路で体験した「いま、ここ」感覚を、日常生活で――せわしなく、マンネリにつながる繰り返しが多く、いろいろと結果を出すことが求められるような――日常生活で保持するのは難しい。
 大概が、過去や未来にとらわれて「いま、ここ」の価値を忘れ、そのうち煮詰まってくる。
 だから、人はまた四国に行きたくなるのであろう。
 ソルティも、連載している間に、「ああ、また行きたい!」と何度思ったことか。

 四国遍路で味わった「いま、ここ」感覚を、こちらの日常生活でも再現――いや、再現という言葉はふさわしくないな――顕現させることができたなら・・・・・。
 つまり、日常から逃避するために旅を求めるのでなく、日常がそのまま旅であるような生。

 同行二人はいまも続いている。


霊山寺境内(笠)
観るも自在 聞くも自在の 旅なれば のんびり往かん 今ここにあれ
(第40番観自在寺オリジナル御詠歌)



● ワープ解脱法? 本 : 『道元の考えたこと』(田上太秀著)

1985年講談社より『道元のいいたかったこと』の題名で刊行
2001年講談社学術文庫

 道元の教え=曹洞宗については気になっていた。
 「只管打坐」、「修証一如」という言葉からは、よけいな夾雑物を排したすっきりした信仰の形が察しられるし、坐禅=瞑想を重視するところはお釈迦様本来の教えと合致する。
 念仏や読経や祈願や苦行や儀式・典礼をもっぱらとする他の大乗仏教宗派とは位相が異なる感があった。

 おそらく、道元の教えを知るには徹底的に坐禅するに如くはあるまい。
 が、道元の達した境地なり真理なりに坐禅によって到達するのは在家では難しそうであるし、たとえ何らかの智慧や真理を会得したとしても、それが道元のそれと同じものなのかどうか分からない。
 となると、道元の主著である『正法眼蔵』を読むのがやはり最善の策であろう。

 ―――と思って図書館で借りてはみたものの、これがなかなか読みこなせる代物ではなかった。
 量の膨大さはともかく、言葉が、文章が、内容が、難しすぎる!
 高度と言いたいところだが、残念ながら、高度かどうか判断できるまで読み進めるのさえ困難である。 
 あきらめて返却し、次善の策によった。
 仏教研究者による解説本である。


IMG_20201005_180632

 
 田上太秀は同じ講談社から『仏陀のいいたかったこと』(1983年)という名著を出している。
 20年くらい前にソルティは、大乗仏教でぐちゃぐちゃにされたものでない、お釈迦様本来の教えを知りたいと思い本屋で見つけたのが、上記の田上の著書および宮本啓一著『ブッダ 伝統的釈迦像の虚構と真実』(光文社文庫、1998年発行)であった。


IMG_20201005_180445


 この2冊によってソルティのそれまで持っていた仏教観は大いに変わった。
 「どうやら生まれてからずっと自分が馴染んできた日本の仏教というものは、日本独特の特異なものらしい」と知ったのである。 
 その後、10年くらい前にテーラワーダ仏教を知って、最も古いお経の集成である『阿含経典』を基盤とするお釈迦様の教えを学ぶようになった。
 そのとき、田上の書いていたことが正確であったことを改めて知った。
 つまり、ソルティにとって信用のおける仏教研究者の一人である。
 そこで、田上の描いた道元を手掛かりとすることにした。

 まず、ソルティの持っていた道元のイメージであるが、「坐禅を極めた人」、「永平寺に見られるように規律に厳しいストイックな人」、「庶民派の親鸞とは真逆で、ブルジョアの人(実際に大臣家の生まれである)」、「映画『ZEN 禅』で道元を演じた中村勘太郎のような清僧」といったところであった。
 本書を読んで、イメージ崩壊というほどのものではないものの、ずいぶん想像していた人物とは違っていた。

 田上は、道元の教えの概要を語るのに、各章を「〇〇への信仰」と題し、道元が信仰していたものを順に並べあげ、『正法眼蔵』を中心とする道元の著作の記述をもとに各テーマについて考察し、解説している。
 坐禅への信仰、礼拝への信仰、滅罪の信仰、本願の信仰、宿善の信仰、出家至上の信仰、輪廻業報の信仰・・・・・というように。
 これらの信仰を持っていた一人の修行者にして導師――としての道元の姿が浮かび上がる構成になっている。
 いわば多角的に見た道元像である。
 「まえがき」でこう述べている。

 いままでの道元観は正面から見たものであったと思う。譬えていえば玄関から道元を訪問して、座敷で面会したといえよう。だが筆者は勝手口から訪ね、居間に邪魔して道元に面会し、本音を聞き出そうとつとめた。


 まず、最初の「坐禅への信仰」については、

 インドからわが国に伝わったのは坐仏が伝わったのであり、これこそ大事な要であり、あるいは命脈であると道元は力説する。坐禅のあるところには必ず仏法があり、仏法があるところには必ず坐禅があり、仏祖から仏祖へと受け継がれたのはただ一つ坐禅の宗旨であると断言した。

 ソルティのイメージ通りの道元であり、「坐禅によって何が得られるのか、何を悟るのか」は置いといて、目新しいことはない。
 が、袈裟や経典や嗣書(師から弟子への仏法の系譜の記録)などに対する礼拝への信仰や、5つの滅罪方法(洗浄、懺悔、袈裟功徳、帰依、霊場巡礼)に対する信仰などは、読んでいて形式的・迷信的という印象しかなく、「やっぱり道元も時代の制約からは逃れられなかったのか」と思わざるを得ない。
 しかも、これらの信仰こそが正伝、すなわち本来の正しい仏法であると明言するに至っては・・・・。

 袈裟を頂戴する作法こそ、礼拝の最高の作法である。道元は仏祖から正伝した仏法の一つに袈裟を挙げた。したがって袈裟に対する礼拝をきびしく弟子たちに教えた。

 (道元は)袈裟をつけないで解脱した人はいないと断言している。たとえ戯れて笑いながら、あるいは御利益があろうと思いながら袈裟を肩に掛けたとしても、かならず悟りを得る因縁となるという。

袈裟来た少女


 また、本願の信仰について、田上はこう指摘する。

 親鸞と道元のそれぞれの本願力信仰の違いは、本尊を阿弥陀仏にするか、釈迦牟尼仏にするかの違いであって、本質的には同じではないかと思う。ただ一つ相違点をあえて挙げると、すがろうとする私が自分自身を愚夫と自覚するか(ソルティ注:親鸞)、宿善根に導かれていると自覚するか(同:道元)の違いであろう。

 坐禅をほかにして仏道はない。坐禅すれば立ち所に仏道が成就するという信仰は、坐禅が釈尊の大本願力に助けられて行われるという信仰に裏付けられていると考えられる。


 ソルティは、道元(曹洞宗)の坐禅は、悟りを感得するための自力による修行だとばかり思っていた。
 別に他力が悪いとか、他力は自力に劣るとかまったく思っていないけれど、勘違いしていたらしい。

 本書を読んで、ソルティの道元像に幅がもたらされた。
 思ったよりも親鸞に近い。
 つまり、「信仰の人」という気がした。
 一方、本書を読んでも、残念ながら、坐禅によって道元の至った境地がわからなかった。
 そこは「不立文字」とするしかないのか。
 「不思量底を思量せよ」とか言われても何のことやら・・・・。

 道元もまた、空海や高丘親王日蓮ら我が国の錚々たる名僧たち同様、真の仏法のなんたるかを終生求め続けたと思われる。
 中国から伝えられたおびただしい数の大乗経典のうち、どれがお釈迦様の教えの核なのか、どうすれば悟りに近づけるのか、あるいは極楽往生できるのか、迷いあぐねたに違いない。
 『西遊記』の三蔵法師に象徴されるように、真の仏法を求める求道者たちの熱望と苦心惨憺たるさまは、ネット時代の我々の想像の及ぶところではない。

 『阿含経典』では、「諸行無常」、「諸法無我」、「一切行苦」という明らかなる真理(=仏法)が明示されている。「不立文字」と言う前に、語られるべき、語ることのできる真理はあると思う。
 また、「修証一如」や「不思量云々」に飛躍する前に、四諦や八正道や瞑想法などの方法論がお釈迦様によって懇切丁寧に説かれている。
 少なくとも本書を読む限りにおいては、これらのお釈迦様本来の教え(=仏法)が触れられていない。
 あたかも、道元は、「袈裟を着て坐禅したら釈迦牟尼仏の助けで自動的に涅槃へ至る」いわば“ワープ解脱”を期待していたかに見える。(それをこそ「本覚思想」というのだろうか?)

 道元の頭のなかは、本当はどれが正しい仏法であり、修行の作法であるかを見極めることに困惑したものと推察される。正伝の正法と力説するあまりに、その「正しい」と選択する基準をなにに求めればよいか、かれ自身、最後までわからなかったのではないか。

 たとえ、釈迦本来の教え(=正法)にぴったり適合しないものであったとしても、道元の教えが素晴らしければ、そして悟る機縁をもたらすのであれば、それはそれで問題ないと思う。
 ただ、『阿含経典』をもっとも古い、仏説に近いお経として知って学ぶことのできる現代日本人は、なんと幸せなのだろうか。

 別の書き手による、「勝手口」からではない「玄関」からの道元像にもあたってみよう。
 

道元
中村勘太郎にはまったく似ず



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● オリジナル御詠歌でめぐる四国遍路108 第20回(お礼参り)


 2018年9月下旬のある日、四国遍路88札所と別格20札所、あわせて108の霊場を歩いてめぐる旅に出た。これはその記録である。
 各札所には御詠歌と呼ばれる短歌がある。お寺の名前を歌の中に盛り込み、法の尊さや御仏のありがたさを説いたものが多い。
 ここでは、やはり寺の名前を盛り込みながら、道中の思い出や札所の印象などをオリジナル御詠歌にして詠んでみた。


【香川県】


霊山参り(大窪寺前の茶店)
88番大窪寺前に並ぶ店
熱いコーヒーで結願を静かに祝い、一路徳島へ


霊山参り(さらば女体山)
女体山よ、さらば


霊山参り(トラックの絵)
トラックのデコレも遍路デザイン


霊山参り(徳島県入り)
香川県から徳島県へ(県道377号)


【徳島県】


霊山参り(山の中の道)
山また山の道が続く


霊山参り(畑の中の立木)


霊山参り(地蔵の集会)


霊山参り(犬墓大師)
犬墓大師

霊山参り(犬墓大師2)
犬を友として山野を行脚する空海
微笑ましい光景だ


霊山参り(キャベツ畑)
さっきから、なんてことない景色がこの上なく美しく感じられるのはなぜ?


霊山参り(徳島自動車道)
徳島自動車道の支柱
これまた美しい

霊山参り(コスモスと学校)
阿波市立市場中学校


霊山参り(この店はいつか見た店)
この店はいつか見た店
ああそうだよ。10番に行く途中の店だよ


霊山参り(8~9番への道)
8番から9番へ行く道に立つ鳥居
なぜこんなところに?と不思議に思ったものだ


霊山参り(7番山門)
7番十楽寺山門
前回はもみじがあったことに気づかなかった



7番札所: 光明山 十楽寺 (こうみょうざん じゅうらくじ)

7番
 おへんろは 苦しきものと 言ふけれど
 十に八つは 楽と思へり

御本尊: 阿弥陀如来
本歌 : 人間の 八苦を早く 離れなば 至らん方は 九品十楽
コメント: これでやっと御朱印完成。7番をもらい忘れたのは、ある人にもう一度会うためでは?と思っていた相手に再会した。
振り返ってみれば、おへんろは歩いている最中はしんどいこともあったけれど、なにもしないで物見遊山することが歓迎される不思議な空間だった。ある程度のお金と時間と健康が揃って可能となる最高の贅沢である。俗世間のほうがよっぽど苦が多い。だから、人は「お四国病」になるのだ。

霊山参り(7番境内)
十楽寺境内
あの休憩所で一息ついたのが、御朱印をもらい忘れた原因だった


霊山参り(真念道しるべ)
第6番善楽寺近くの真念しるべ石
はじめてのお接待は豆パンだった(追憶しきり)


霊山参り(6番の多宝塔)
第6番善楽寺の多宝塔
紅葉するとこうも景色が変わるか


霊山参り(5~6番の道中)
功徳を積んでいるカフェ
このあたりは、別格1番を経由したゆえに通らなかった道


霊山参り(3番山門)
3番金泉寺
井戸に顔を探したっけ

霊山参り(2番山門)
2番極楽寺
ここで般若心経を読むのを止めたっけ


霊山参り(1番山門)
1番霊山寺



1番札所:竺和山 霊山寺(じくわさん りょうぜんじ)

1番
 霊山で 買いし大師の 杖のたけ
 減った分だけ 落ちよ煩悩

御本尊: 釈迦如来
本歌 : 霊山の 釈迦の御前にめぐり来て よろずの罪も 消え失せにけり
コメント: 2度目の御朱印を受ける。ここで2ヶ月前に購入した金剛杖。どれだけすり減ったかを真新しい杖と比べてみた。なんとまあ酷使したことか。三本目の足として頼っただけでなく、蜘蛛の巣をはらったり、邪魔な草や枝をなぎ倒したり、手拭いを干すのに使ったり、本当に世話になった。せめて減った分だけでも煩悩が落ちたのならよいのだが。


霊山寺境内
霊山寺境内


霊山寺境内(杖の長さくらべ)
たけくらべ


池谷駅
歩き遍路の出発地点についに戻ってきた(JR高徳線・池谷駅)


吉野川
吉野川を渡る


徳島駅2
徳島駅


旅館大鶴
四国最後の宿は大鶴旅館
親切で話好きの女将がいるきれいな宿だった
出がけにおむすびの接待もいただいた(これがまた旨い!)
また泊まりたい宿である


さらば四国
さらば、四国



【和歌山県】


真言宗総本山: 高野山 金剛峯寺(こんごうぶじ)

高野山1

 結願を 奥の院にて 報告す 
 こんごうぶじ(今後を無事)に 送れますよう


ご本尊: 薬師如来(弘法大師) 
本歌 : ありがたや 高野の山の 岩かげに 大師はいまだ おはしますなる

コメント: 徳島からフェリーで和歌山へ。南海電鉄で橋本駅へ。そこから代行バスで高野山に向かった。(ケーブルカーは修理中だった)
金剛杖を奉納したかったが、奥の院にいた若い僧に「杖は奉納するものではありません」と断られた。家まで持って帰ることにした。(今も部屋の鴨居にかけ渡してある)
バスの中で会った男の話が興味深かった。



高野山2
真言密教の象徴、根本大塔


高野山1
奥の院にまします弘法大師


金剛峰寺ご朱印

奥の院御朱印

 
【京都】

真言宗総本山: 東寺(とうじ) 

東寺
 身は高野 心は東寺 しかれども
 霊(たま)は四国を 巡リたまへり


ご本尊: 薬師如来(弘法大師)
本歌 : 身は高野 心は東寺に納めおく 大師の誓い あらたなりけり

コメント: 高野山にも東寺にも弘法大師の魂はいない。母の地ふるさと四国にいて、庶民や遍路を見守っておられる。これが四国遍路を体験した人の偽らざる実感であろう。


京都東寺3
東寺はJR京都駅八条口から歩いて15分


京都東寺2
国宝の大師堂(御影堂)は修復工事中だった
仮のお堂に上がって最後の読経を上げた
現在はもう工事は完了し観覧・参拝できるようだ


京都東寺1
もみじはこの世の曼荼羅か


四国の白地図第19回

CraftMAPの白地図を使用しています。より詳しい四国地図を見たい方は、こちら(地図蔵)を参照ください。  







   


● オリジナル御詠歌でめぐる四国遍路108 第19回(第86~88番)


 2018年9月下旬のある日、四国遍路88札所と別格20札所、あわせて108の霊場を歩いてめぐる旅に出た。これはその記録である。
 各札所には御詠歌と呼ばれる短歌がある。お寺の名前を歌の中に盛り込み、法の尊さや御仏のありがたさを説いたものが多い。
 ここでは、やはり寺の名前を盛り込みながら、道中の思い出や札所の印象などをオリジナル御詠歌にして詠んでみた。


【香川県】
 

志度の海
おだやかな志度の海、カキの養殖が盛ん
道の駅で食べたハマチ漬丼がうまかった

平賀源内1
平賀源内の生家
中は資料館や薬草園になっている
少し離れた場所に記念館もある


平賀源内2
平賀源内
こんな男、なかなかいない



 86番札所: 補陀洛山 志度寺 (ふだらくざん しどじ)

86番
 エレキテル 土用のうなぎ ふしどには
 陰間はべらす 異才の男

御本尊: 十一面観音菩薩
本歌 : いざさらば 今宵は ここに 志度の寺 いのりの声を 耳にふれつつ
コメント: 当地は江戸時代の万能の天才・平賀源内の生まれ故郷。生家は資料館になっている。源内は、発明家(エレキテル、土用のうなぎ等)であり、博物学者であり、文筆家であり、医者であり、男色家であり、人殺しであった。志度寺の境内に参り墓がある。(実際に葬られている墓は東京都台東区橋場にある)
【次の札所まで7.0㌔】


志度寺山門
山門


志度寺境内
境内は樹木に覆われ、ちょっとした迷路のよう


志度寺大師堂
大師堂


87への道(源内焼)
源内焼とは源内の指導によって当地で製作された三彩の陶磁器
こちらはもちろんお菓子である。黄身アンを包んだ焼き饅頭。



87への道(カラスのたかる家)
畑中の家にカラスがしきりにたかり騒いでいた
何かあったのだろうか?


87への道(マンホール)
長尾寺への道で見かけたマンホール



87番札所: 補陀洛山 長尾寺 (ふだらくざん ながおじ)

87番
 讃岐なる 長尾の里の 道におわす
 姫のいわれを だれか知るらん

御本尊: 聖観世音菩薩
本歌 : あしびきの 山鳥の尾の 長尾寺 秋の夜すがら み名をとなえよ
コメント: この札所は、源義経の愛妾であった静御前が出家したところなのだが、それよりも付近のマンホールに刻まれていた「かぐや姫のふる里長尾」というのが気になった。納経所の人に聞いてもいわれを知らなかった。『竹取物語』にはたしかに讃岐造(さぬきのみやつこ)と呼ばれる翁が登場する。そして長尾は竹細工で有名な地区だそうである。
【次の札所まで33.9㌔】
 

長尾寺境内
広々とした境内


88への道(道標)
ついにこの道しるべが現れた!


88への道(前山ダム2)
前山ダム
このあたりも池が多い


88への道(おへんろ交流サロン1)
前山おへんろ交流サロン
結願間近の遍路たちが休息し、遍路について学び、交流するところ
「遍路大使任命書」や記念バッジ、札所を映したDVDなどをいただいた
ここで83番一宮寺に行く途中で会った韓国人チュウさんと再会



88への道(おへんろ交流サロン2)
館内には、四国霊場のジオラマ、江戸時代の紀行本や古地図、
古い納め札や納経帳、曼荼羅掛け軸など、豊富な資料がある


88への道(韓国の男)
チュウさんは最後の難関、女体山(774m)を超えるルートを行く
さよなら、チュウさん。そして、ありがとう!


88への道(大窪寺との分岐)
女体山を迂回して88番へ行く道との分岐
別格打ちは真っすぐ進む


別格20への道(末広商店分岐)
香川県三木市と徳島県美馬市の境界
別格20番は二県の境界上にある


別格20への道(落合橋)
塩江温泉郷(香川県高松市)の落合橋
橋の向こうに見える立派なホテルは一年前(2017)に倒産


別格20への道(赤松旅館)
昔懐かしい風情の赤松旅館に宿をとった


別格20への道(赤松旅館2)
食堂もやっていて、自家製チャーシューを使ったチャー丼は絶品の味
とても仲の良いご夫婦で経営、二人とも良い人だったな


別格20への道(朝霧)
早朝の内場ダム付近
視界がきくのは3メートル先まで


別格20への道(六甲天満原林道1)
山道(六甲天満原林道)に入ったら霧が晴れてきた


別格20への道(六甲天満原林道2)
頂上の大瀧寺まで、なだらかな傾斜の舗装路が続くので
疲れることはない。が、山の上は結構寒かった。
思えば、もう11月も終わり。


別格20への道(西照神社)
西照神社
神仏分離前は大瀧寺と一体だった。
主祭神は月夜見大神(ツキヨミノミコト)、アマテラスの弟である。



別格20番札所: 福大山 大瀧寺(ふくだいさん おおたきじ)

20番
 塩の江の 霧の戒壇 めぐる朝
 お大師さまに おおたき(逢ふた気)がする
 

ご本尊: 西照大権現
本歌 : 霊峰の 岩間にひらく 法の道 厄をながして 衆生ぞすくわる
コメント: 標高910mは66番雲辺寺につぐ高さ。麓の塩江温泉に宿をとり、往復に一日かけた。早朝の内場ダム付近はまさに五里霧中で数メートル先も見えず。なのに不思議と怖くなかった。参拝を済ませた午後、登って来た山道を下ってゆくと、唖然とするほど見事な景色が目の前に広がった。このルートを勧めてくれた地元の方に感謝。
【次の札所まで18.5㌔】


別格20番大瀧寺境内
別格20札所を打ち、結願す
(西照神社ともに住所は徳島県美馬市)


別格20番大瀧寺下山道1
下山は景色を楽しみながらゆっくり気ままに
おかげで腸もルース


別格20番大瀧寺下山道2
途中にあるお墓の観音様


別格20番大瀧寺下山道3


別格20番大瀧寺下山道4
麓まで下りた所で出会った見事な景観!
内場川を堰き止めてできた内場湖


別格20番大瀧寺下山道5



別格20番大瀧寺内場ダム
内場ダム


別格20番大瀧寺内場ダム3


別格20番大瀧寺内場ダム2
今朝はこの美しく雄大な景色が周囲に広がっているのを
まったく知らずに歩いていた。
なんだか自分の人生を象徴するような・・・・・


塩江温泉郷
塩江温泉郷に帰還



塩江温泉(香東川)
香東川
塩江温泉は行基が開いたと言われる


別格20への道(赤松旅館3)
ただいま、赤松旅館
向かいのショッピングセンター「はすい」で買い物したら
店番のおばあちゃんのツヤツヤ肌にビックリ
塩江温泉は美容に良いらしい


88への道(別格帰り1)
翌朝午前6時に宿を発った
来た道を戻る。寒い。

88への道(別格帰り2)
88番大窪寺への分岐にある「多和産直 結願の郷」
  2012年3月閉校となった多和小学校の跡地を利用した施設


88への道(別格帰り3)
これが最後の遍路小屋
ゆっくりお茶を飲み、トイレも済ます


88への道(別格帰り5)
最後の道しるべ
あとは林の中の一本道


88への道(別格帰り4)
前方に女体山が見えてきた


88番大窪寺参道


88番大窪寺山門



88番札所: 医王山 大窪寺(いおうざん おおくぼじ)

88番
 はじまりは へんろ仲間も おおくぼじ
 終わりて今は 同行二人

御本尊: 薬師如来
本歌 : なむ薬師 諸病なかれと願いつつ 詣れる人は 大窪の寺
コメント: 朝暗いうちに塩江温泉を出発。外気温は1度だった。思えば、春夏秋冬すべての気候を体験するような遍路だった。はじめの頃たくさんいた遍路仲間も、高知・愛媛と進むごとに少なくなって、香川では一日に数名しか見なかった。最後はお大師様と同行二人。本堂の後ろの女体山がやさしく迎えてくれた。
【第7番札所まで26.5㌔】


88番大窪寺本堂
本堂
読経時はさすがに声が震えた


88番大窪寺境内
静かで落ち着いた境内


大窪寺境内2
境内を守る女体山


88番大窪寺山門2
結願は2018年11月30日(土)朝10時
1番を打ったのが9月27日(木)朝10時



四国の白地図第19回


CraftMAPの白地図を使用しています。より詳しい四国地図を見たい方は、こちら(地図蔵)を参照ください。  




次回最終回
ご朱印をもらい忘れた第7番参拝のあと、
第1番、高野山、東寺にお礼参りします




   



● TWO RIGHT HAND 両方右手

 出先の街の本屋に、木の立体パズルのコーナーがあった。
 スカイツリーやエッフェル塔、恐竜や動物、飛行船や機関車やクラシックカーなど、いろいろな種類が並んでいる。
 コロナでおウチ時間が長くなった影響の一つであろう。
 結構売れているらしい。


IMG_20201002_163744


 手先の不器用なソルティはジグゾーパズル派(平面派)なのだが、よくある精巧模型ほどに難しそうでもないし、なにより接着材やカッターを使わずに組み立てられるというのが良い。
 展示されている模型の木の風合いも素敵だ。
 一つチャレンジしてみようかと棚を見回していたら、五重塔があった。
 仏教愛がほとばしった。


IMG_20201002_163334


 275ピースで、完成サイズは160×160×320ミリ、対象年齢12歳以上。
 これなら TWO RIGHT HAND(両方右手)のソルティでもなんとか作れるかもしれない。
 ( TWO LEFT FOOT 「両方左足」は不器用という意の英語表現。なので、TWO LEFT HAND と洒落るところだが、ソルティは左利きなので「両方右手」となる)

 家に帰って箱を開けたら、部品が並んだ木のボード10枚と簡単な説明書が入っていた。
 静かな秋の夜、ワイン片手にじっくり作ってみようかな。


IMG_20201002_164847

70番本山寺五重塔
四国遍路第70番札所・本山寺の五重塔






記事検索
最新記事
月別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文